酒三行、演劇、福引 忠男 「酛」のお守り 痛飲朝まで 477たしかな証拠 桶屋おけや 諸道具悪香取事 きょうかい5号酵母 闇市の疑似体験 はくてう[白鳥] 一茶の酒句(6) 稼ぎ 慶喜とワイン シロ、どろがゆ 土紋 四いけだ 浮浪少年 あかつきのへど【暁の反吐】 某月某日 酒だけだよ 板前割烹「花菱」 無泡制天下 酔語 オレはなぁ、駕籠(かご)かきでなんでぃ! 高麗神社詣で みんなで飲む酒 「酒」を基語とする熟語 ちりめんジャコのさんしょう煮 ぼったくりバー 鶉うずら 476分かったか drink 清陽俳句手帖より(2) 麹蓋 酒の温度 盃流し 神酒徳利 伊勢物語 三十三間堂を再建 ジャガイモ 常温ですでに香りも旨味も完璧 日本酒四合瓶(びん)を三本 いい酒 飲酒とシンナー (六)石原市正の早足(巻五七) 甘酒もち 酒を売る家(2) 失はれた美酒 ビックリ酒 〇曲水宴 松竹梅 早苗饗焼酎 酒を売る家(1) フランシスコ・ザビエル 酒の飲み方 中酒 醸し人九平次 安永邪正録 あなたの問題はアルコールです 万紫千紅(4) 老鼠酒 酒を飲む衆はあれども酒盛りをよくする人なし 酒友に 昔の酒宴献酬 古今夷曲集(3) 斉民要術 ふとくしん【不得心】 戦地と銃後 そういうもんですよ ぬる燗 いのちをあほり 合成酒 ギャンブリングライフ 酔いと興奮が同居 あかさか【赤坂】 出張 サケのおぼろ煮 一茶の酒句(5) 三損のみだ のめるやつ[飲める奴] きょうかい2号酵母 杉新道具之事 含宙軒師匠 (卅四)さかづき 西田酒造店の喜久泉 陣鍋 松尾大社 闇市由来の呑み屋 徳川綱吉 475わが部屋 べろべろ[形動] 甘酒あまざけ 貧富下戸上戸 びんぼだる【貧乏樽】 一茶の酒句(4) あのとき酒を覚えなかったら 越の寒梅 古今夷曲集(2) 荊楚歳時記 良酒あらば飲むべし 酒を過ごし美食を多くするものは 万紫千紅(3) 王禄おうろく 酒渇愛江青 福小町 柚子味噌 夢中 路を識らず 沢ガニの空揚げ 【第三三回 昭和五五年七月四日】 飲めば地獄行き? 酒盛りの歌 デザート 甘酒 盃争い 酒の黴 過食症患者はアルコール依存症になり易い 辛い思いの末に、したたか飲む 酒の哲学どおりの酒宴 牡蠣、酒盗、サザエの肝 ムチン 豊島屋 酔泣き、空酔い (6)山形酵母(やまがたこうぼ) 白井雨山 酒の地口 こころよき酔余の舌にこはだ鮨 のまほしと 思へど酒も ノミスギー海賊団の怪しい言い訳 アルコールから抜け出すことが先決 朝顔の盃 麹造り 清陽俳句手帖より 白滝の湯葉巻き 燗酒 西の関 イワシのてっぽう和え 井口家家訓 ビッグ1と松竹梅 のきばのすぎ[軒端の杉] 472閉め出し 屋台の味わい 笑いは良薬 和んでほっとする感 (十五)春日野 西荻随筆 酒十年概の事 神田 味の笛 店先で日暮まで寝ていた 入院するさ ばくだん(爆弾) 小実さんの夜 現女房と前女房 どんな料理の持ち味も飲みこんでしまう酒 酒の肴のこと あいさつ あかおに【赤鬼】 菊正酵母 寒鮃 頭中将の酔泣き うまさけ(3) 三百円は酒代 一茶の酒句(3) ひだり【左】 死んで千杯より生前の一杯 赤酒と瑞鷹酒造㈱ こんにゃくの梅肉和え 特A地区との交渉 会心の対手 青をおびた、銀色の光 ほとんどを飲んでしまった 思ひ出ぐさ お料理は本物、お酒はにせ物 【第三一回 昭和五五年五月二一日】 スクーターとスクーターの間 田辺家の食卓 ホトトギス 大地真央 無関心の親と社会的偏見 (九)出口の妻の頓才(巻二九) 宮崎のイノシシ チカダイ、アマダイ 福小町 対酒贈友人 一白水成 万紫千紅(2) 酒は上下向の間断酒 ひとり酒 禁酒令 古今夷曲集 加藤清正家臣、坂川忠兵衛の大酒 鰯ぬた はまひるがほ 出征軍人の言葉 燈を恋うる蛾(袁宏道) ひけらかす 名酒居酒屋 一茶の酒句(2) 彼らはよく飲んだ うまさけ(2) 紫式部日記 干かます酒の肴に求めたり 室づかれ 離別の酒宴 趣味 日曜日だけ着替えに帰って 谷保村の酒 ぱいいち(杯一) 大学、大学卒業後 渾名あだな 斎藤酒場 酒造に得失勘への事 御酒之日記(ごしゅのにっき) カストリ二千円 当世こうた揃 醤油、漬け物 身のほどを思い知る朝しじみ汁 神楽坂の異空間 471お見事 ぬりだる[塗り樽] 出野家家訓 イワシの香り揚げ 醒めて生くるなし 高田馬場「もり」 杜甫の酒 (一)根津権現の由来(巻四) 九月九日に 酒の合わせ 急性アルコール中毒 一升ビンも軽く 飲んで、飲んだ ビール、日本酒、ウイスキーを毎晩一とおり 鮒寿司の飯 桃林で 酒粕天ぷら 六朝 約二〇〇~六〇〇頃 おれの女房はくたばった 万紫千紅 天の戸 半酔 飛良泉 天下の三珍 球磨焼酎の飲み方 NHKのスタジオで飲む 吟醸清酒に就て 石原慎太郎の「酔」 盃や一年三百六十日 饗庭篁村 釜を割る 飛騨豆腐 司牡丹 香の物で酒を飲むと貧乏する
酒三行、演劇、福引
天心が支那漫遊から帰朝すると、数ヶ月後に日清戦争が勃発した。そして、戦が酣(たけなわ)となつた頃、何の祝ひであつたか、中根岸四番地の邸宅に園遊会を催したことがあつた。来賓としては、美術学校の教授連を初め、美術に関係ある大家、中家の数十名並びに文壇に名ある幾十の人々が招待されてゐた。酒三行にして余興が始められたが、何でも寺内銀次郎の連れて来た職人達が猥雑な踊りを踊つて、天心の一喝を食つたと覚えてゐる。それに続いて、私や米山や、剣持忠四郎などが、即席の思ひ立ちで、日清戦争の一場面を演じたことがあつた。役々の中で、剣持の扮した支那の隊長が圧巻であつたと思ふ。福引もあつたが私は岡不崩が『張良』といふ題を説明して、「他日此処に来てくれ、汝に与ふるものあり」と、何も景品を出さずに澄まし返つて引き下がつたことを記憶してゐる。それから、恐ろしく酒を蒙つて酔ひしれてゐた竹内久遠が、偶々その席に連なつてゐた坪内逍遙博士を捉へ、「小説家では春廼家先生、彫刻家では憚りながら天下の竹内だ。」と怪気炎を挙げてゐたのが、はつきりと私の印象に残つてゐる。
忠男
その頃は、今よりももっと、東と西では酒の味が違った。だから私など、たまに東京へ出かける時、菊正、白鶴を二本、三本くくり合せて手土産にしたものだ。又、これが頗る喜ばれた。中にも、桜正宗の徳醸で、四合壜というのがあった。これは宮内省御用のもので、酒屋にはあらわれない。が、時として出会う事があり、この旨さは、今でも忘れられない。四合壜の宮内省御用は、他にもあったそうだが、私は接していないので-。当時、それ等の銘柄は、菊正、白鶴が一升小売値一円六十銭、他はそれぞれ十銭、二十銭方廉(やす)かったと思う。その頃、私は貧乏していて(今でも)、ある日、今は亡き妻が一升壜をかかえて、世にも嬉しうそうな顔をして帰ってきて言う事に、「あんた、忠勇が八十銭…五十銭も廉いのを見つけた…」とふるえる手で風呂敷包みをとき、その壜をつきつけたのを覚えている。私も「…」ドキッと、唾をのんだ。早速、一銚子をつけて飲んでみると、まづ今の二級酒といったシロモノ。よくもこんな酒を忠勇だなんてと、レッテルを見た。よくよく見ると、それは忠勇でなく忠男(ちゆうだん)なのである。その男の字の頭を必要以上にもり上がらせてあるのだ。遠見には忠勇、手にとれば忠男…。考えたものである。ナニ、妻が悪いのではない。私だって飲むまで分からなかったのだから…。(「味の芸談」 長谷川幸延)
「酛」のお守り
一〇度ちょっとの冷たい水で仕込んで、五、六時間したら最初の「櫂入(かい)いれ」をする。櫂は棒の先に小さな板がついているんだんが、大吟の酛は品物が少ないから、櫂も小さい。最初の「荒櫂(あらかい)」の後は仕込んで一日置いて、、三日目に最初の「暖気操作(だきそうさ)」をする。「暖気操作」は、酛の品温をあげてやって、酵母が増えるのが活発になるようにするのが目的だ。細長いステンレスの樽(たる)にお湯を入れたものを、酛に差し込んで温度を上げてやる。この樽は「暖気樽(だきだる)」という名前だ。だども、急に温度を上げすぎると、力の強い「酵母」ができないわけさ。徐々に徐々に品温をあげていって、低温長期発酵の最後のほうになっても、力を失わないような粘り強い酵母にしんば駄目なんだ。それには品温をあげていくだけでは駄目で、八日目ぐらいで最高温度になるようにして、その後は品温を下げてやる。だすけ、冷温器を使うこともあるし、酛を仕込んだタンクの下に電熱ヒーターをおいてやることもある。冷温器というのは、やはり細長いステンレス樽で、氷水を入れて使う。櫂入れも毎日のようにしんばならん。酛を作る仕事は、大きく分けて前半と後半があるんだ。まず、前半は純粋な酵母を大量に増やしてやる。そのために最初の何日間は温度を上げてやるわけさ。その後、後半では低温に強い酵母に仕立てるため、温度を下げていく。これを「低温耐性(たいせい)」をつけると言って、長期低温発酵のもろみの最後まで、酵母が弱くならないようにするんだいね。だすけ、まったくあの手この手で、酛のお守りをするんだわ。そうやって最後には品温が五度ぐらいになるようにするわけだ。酛ができあがるまでに、一五日ぐらいかかるわね。(「杜氏千年の知恵」 高浜春男)
痛飲朝まで
福丸 私が先生にお会いした時かナモ…昭和十一年頃だと思います。先代の新美さん(註新美千三氏)のお伴をして東京に数日滞在したことがあつてナモ…その時にナモ、新美さんが私に珍客さんだからうまい御馳走をしようかと言われてナモ。浜町の某料亭に行きましたところ黒野先生もいらしてナモ。花岡先生を電話で呼び出したゼイ。お美味しい御馳走だと言われたので、どんな御馳走かと思つていました。あの立派な座敷で、秋刀魚をボウボウと焼いて大根下しをつけて食べたり飲んだりしているところへ、先生が入つて来られてナモ、その初対面の言葉が変つてゐるゼイモ。「この人が救世軍の名付親か、こんな名をつけるんだから余程の婆かと思つたらなんと君は美人だナア、しかしS先生を救世軍とは言い得て妙、うまいもんだ」と花岡先生に一本やられましてナモ。それから新橋の「梅干」へ行つてナモ、痛飲朝まででしたゼイモ。それからずっと御贔屓にして頂いております。
榊原 その時は酒の品評会で、先生も新美さんも審査員でしたか。
新美 そうです。先生は当時秋田県の試験場長でした。
伊東郁二 品評会華やかなりしころでしたね。
榊原 その頃先生は飲まれたんですか」。
福丸 ハー相当なもんでしたナモ。然し朝まで飲まれる鹿又先生-テケテケテケとくると三日位続いた-よりは下でしたナモ。(「花岡先生を偲ぶ」 藤井益二編) 昭和28年7月2日に名古屋福丸孔雀荘で行われた、花岡先生を偲ぶ座談会です。
477たしかな証拠
すっかり酔っ払った男が大きな鍵束を持ってドアの前でガチャガチャやっていた。夜廻りの警官が見とがめて訊問した。「これは本当に貴方のお宅ですか?」「きまってらア」酔っ払いは怒って答えた、「一寸待ってな、今見せてやるから」酔っ払いはついに鍵穴を探し当ててドアを開けた。そして、警官を呼び込んだ。「ほら、これが俺の家さ、すっかり見せてやるから」酔っ払いは、よたよたしながらも、家中を歩き廻って電灯を点けた。「ほら、これが居間だ。これが応接間だ。これが台所だ。みんな俺の物さ。今度は上へ行って見よう」警官は面白がって酔っ払いと一緒に階段を上った。酔っ払いは寝室のドアを開けて言った。「ほら、これが寝室だぜ。あのベッドに女が居るだろう。あれが俺の家内さ。それからベッドで一緒に寝ている男がいるだろう、あれが俺なんだよ!」(「ユーモア辞典」 秋田實編)
桶屋おけや
②まはりどを(回り遠)な箱屋の親父、風の吹くを喜び「かゝ、商売がはやるぞ。酒かふてこい」といへば「それはどうして急がしいぞ」と問へば「はて、この風で人の目へほこりが入ると、目を患ふので三味線を買ふによつて、三味線の筥(はこ)が大分売れる」といはれた。(絵本軽口福笑ひ上巻・明和五、無題)-
【鑑賞】「風吹いて桶屋儲かる」の俗諺を話にしたもの。(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)
諸道具悪香(わるか)取事
一、悪臭(わるくさき)桶ハ釜の上に俯臥(うつふせ)て蒸、扨(さて)、庭へ出し、又俯臥て土気を受、夜露を当候へハ、悪香除く也。又、袋(7)其外諸道具悪香有之ハ(これあらば)、生姜葉を煎して洗ふへし。何程の悪香も除く物なり。
道具の悪臭のとり方
〇悪臭がする桶は、釜の上にうつ伏せにして蒸し、それから庭に出し、またうつ伏せにして土の気を受け、夜露を当てれば悪臭を取り除ける。また、酒袋(7)その他の道具に悪臭があるなら、しょうがの葉を煎じて洗うとよい。どのような悪臭でも取り除ける。
(7)袋 醪を入れる酒袋。柿渋で加工した三〇センチ✕八〇センチくらいの木綿の袋で、容量約四升。これを酒船にかける。(「童蒙酒造記」 翻刻・現代語訳・注記・解題 吉田元)
きょうかい5号酵母(ごうこうぼ)
広島の賀茂鶴の酒母および新酒から大正12年頃に分離された.形態は長楕円形の細胞が多く、他の酵母とよく区別することができる。醸造用の特徴は発酵力が旺盛で、泡がよく粘る.香気がとくに優良で果実様芳香のでることが多い.中温、低温に適する.大正14年から昭和11年頃まで頒布された.(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)
闇市の疑似体験
都心ではないが、東京近辺で闇市を疑似体験したければ溝口(みぞのくち)に出かけるとよい。神奈川県川崎市高津区のJR南武線武蔵溝ノ口駅、または東急田園都市線溝の口駅付近の西口商店街は、見る人によっては、単に小さなさびれた、汚い商店街にしか映らないだろう。ところが、戦後初期の雰囲気が色濃く残っている街に絶妙な美学を感じる人なら、この商店街に足を踏み入れるだけでワクワクするにちがいない。西口商店街で見られるのは、お流行りの演出された「レトロ風」の新しい店ではなく(そういう居酒屋も少し現れはじめているが)、実際に戦後初期の闇市に由来する飲み屋である。いまの商店街は昭和三十年前後から残っており(「取り残された」と言った方がよいかもしれない)、なかには「*かとりや」と「*いろは」という年季の入った痛快な立ち飲み屋が二軒ある。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)
はくてう[白鳥] 白丁徳利をいう。
①白鳥をのんだで千鳥足になり (樽三二)
②白鳥は羽がへの下へひねり込み (同)
③白鳥を廊下のとんびがさらつてく (同)
①白鳥と千鳥との対語仕立て。 ②脇に下へすねることで、羽交(はがい)の懸り結び。 ③白鳥とトンビの縁語仕立て。(「古川柳辞典」 根岸川柳)
一茶の酒句(6)
1900 寝酒(ねざけ)いざとし[が]行(ゆく)まいと (文政句帖)0
1900 同句帖(政8)は「酒後」と前書し、「手枕や年が暮よとくれまいと」
1995 酒臭(くさ)き黄昏(たそがれ)ごろや菊の花 (嘉永版句集)(「新訂一茶俳句集」 丸山一彦校注)
稼ぎ
給料の三番搾(しぼ)りをやっと飲め 百円亭主
酒の席
芸出せど本音は出すな酒の席 さかさホタル
おひらきは課長の酒ぐせ出たとたん ヨシベエ
接待
赤ちょうちん接待あとの愚痴(ぐち)の花 広ちゃん
太っ腹
太っ腹酔いがさめれば小市民 紫夏雪(「平成サラリーマン川柳傑作選①一番風呂・二匹目」 山藤章二・尾藤三柳・第一生命選済 )
慶喜とワイン
日本人は縄文時代には豚を食べていたらしいが、江戸時代にも沖縄では豚(ワア)を食べていた。それに影響されてか薩摩でも豚汁があった。しかし、西洋風のポークピカタなどを食べたのは支配層では誰よりも先に慶喜で、彼はそのために「豚一様(豚好きの一橋様)」と呼ばれている。ワインを嗜んだのも彼が先駆者で、それも味がわかり、フランス・ワインの銘柄も飲みわけられ、単に外交の際の社交でというのみでないワイン通であった。彼が幕府の滅亡、尊皇・佐幕の騒動に踊った志士や権力者たちが次々に倒れていくのを見届けて生き延びたのもフレンチ・パラドックスといわれる「赤ワインの効用」であったかもしれない。(「慶喜とワイン」 小田晋)
シロ、どろがゆ
ところで「野焼」(新橋)のシロを食した時、あまりの旨さゆえ、その食感の表現に戸惑った。特に弾力のある噛(か)みごたえと、ツルツルでミルキーな舌触りは喩(たと)ようがなかった。ところが、最近ひょんなことでベルギー産の生チョコレートを口中に放り込み、それが溶け始めた途端、「野焼き」のシロの食感が蘇った。味覚の優劣の決定に、食感は大きな決め手となっていそうな気がする。モツ肉料理は、ほぼ大衆酒場の定番メニューに入っている。とはいえ、モツ肉の部位にまで精通している飲兵衛はそれほど多くない。まして、店や地域によっても部位の呼び名は異なる。以前、僕も牛モツ料理の専門店で、メニュー表記の意味する部位が分からずに注文を躊躇(ちゆうちよ)したことがある。ふくよかでまろやかな食感と出汁(だし)味に、感極まった経験がある。高知市内にあった酒場の名店「とんちゃん」にて供してもらった"どろがゆ"という一品だ。粥(かゆ)に山芋のような根菜類をすりおろしてとろみを加えたものだろうが、詳しいレシピは知らない。ただ、そこはかとない懐かしさと、真綿で包まれたような温もりが込み上げてくる。啜(すす)り終えた粥碗(かゆわん)を置いて、吹き抜けの天井を見上げた。開け放たれた天窓の真ん中に、煌々と輝く満月が浮かんでいる。(「酒は人の上に人を造らず」 吉田類)
土紋
わたくしのまわりには、弘前への旅を切望している友人が多数いる。なぜならそこには、居酒屋『土紋(どもん)』があるからだ。一度この店を訪れた人は皆、とりこになり、再訪をこい願う。未訪の人は、土産話に妄想をふくらませて悶々となる。『土紋』で出される日本酒は、ご主人の工藤清隆さんと女将の賀津子さんが惚れに惚れた地元弘前市の蔵、三浦酒造の銘柄のみ。その代表格は、全国区でもファンが増えている「豊盃(ほうはい)」だ。兄弟の杜氏が醸し、家族が中心となって営む小さな酒蔵であるのに加え、人気の高まりにより、最近は地元でもなかなか手に入らないとの噂も聞くが、この『土紋』の冷蔵庫には一升瓶がずらりぎっしり。蔵元さんが「うちの蔵より揃っている」と冗談めかして笑うほどの充実ぶりなのだ。-
全般的に三浦酒造の酒は、エッジが立たず、微笑みに似たやさしい甘みを感じるのが特徴だが、たとえば同じ「豊盃」の純米吟醸でも、仕込みに使う米の違いで、表情が多少なりとも変わってくる。(「ニッポン「酒」の旅」 山口史子) 土紋の住所は弘前市代官町99です。
四いけだ
池田(いけだ)伊丹(いたみ)の六尺達(ろくしやくたち)は、昼(ひる)は縄(なは)おび縄襷(なはだすき)、夜(よる)は綸子(りんず)の八重(やへ)まはり
六尺達-こゝにては酒造男をいふなるべし(「松の葉」)
浮浪少年 ウィリアム・ブレイク 寿岳文章(じゆがくぶんしよう)訳
お母さん お母さん 教会はつめたい
しかし 居酒屋(いざかや)は健康で たのしく 暖かい
ほかにもぼくは よくもてる場所を知っている
天国では 決して通用しないもてかたではあるが
しかし 教会でも ぼくらにお酒をふるまい
楽しい火で ぼくらの心をほかほか暖めてくれたら
ぼくらは 一日じゅう 歌い 祈り
教会から逃げ出そうなんて ゆめ思うまい
そうなれば牧師も 説教する 飲む 歌う
そしてぼくらも 春の小鳥のように しあわせだろう
教会にいつもいる 謙遜(けんそん)をよそおう偽善婆さんも
子供をひねくれさせず 断食(だんじき) 鞭(むち)の必要もない
そして神さまは 自分の子供らが 神さま同様
楽しく しあわせなのを見て喜ぶ 父のよう
悪魔や酒樽(さかだる)相手の けんかはやめて
悪魔に口づけし 酒や着物を悪魔におやりなさろう(「酒の詩集」 富士正晴編著)
あかつきのへど【暁の反吐】
宝井其角の句に詠まれた反吐。句は『暁の 反吐は隣か ほとゝぎす』と云ふのである。「類柑子集」にも『剡渓の雪に徘、待乳山の時雨に徊りて心ありげなるを、妻なく子なかりし時の楽とせしかば、閨中の力としたる燗さましこそ、胸いたかりし』としてこの句が見える。
暁の 反吐を経師屋 丸あらひ 企劃の句短冊
暁の 反吐に其角の 名の高さ 反吐まで高名(「川柳大辞典」 大曲駒村)
某月某日
奈良漬を食べただけで酔っぱらうという言葉があるけれど、私のは奈良漬屋の前を横切っただけでフラフラになるというほどの下戸(げこ)だった。しかるになんとなんと、いまや私は下戸もアル中とのボーダーラインをうろうろするほどに大変貌してしまい、人生行路まことに意外性に富むのをうたた痛感しているところ。ことの起りは、いつも新聞小説のはじまる前にあらわれる顕著な症状、それはイライラ、不眠、動悸、強迫感になやまされ、毎日毎日精神安定剤をあおり続け、しかしさすがにこれは不安で、精神医の加賀乙彦さんに相談を持ちかけ、寝酒をすすめられたのがきっかけである。いや、五十余年生きてきたあいだには、いく度かアルコールへの挑戦は試みており、たとえばバーのカクテルメニューの上から下まで順番に征服する悲願を立て、まず(一)のミリオンダラーに見参、グラスを上げてそのピンクの酒をぐいと飲んだとたんに全身の汗が吹き出し、手足は冷え、心音はかすかになって瀕死の状態、とうとう救急車のお世話になって蘇生(そせい)したのが私の三十代前半だった。酒の国土佐に生まれ育っているのに、どうも私の体質は家系らしく、父も兄も一滴もいけないし、それに生来心臓の弱いことがどうもアルコールに対して異常に敏感な不安を呼びおこすらしい。しかし、冒険を好む女の三十代はこんなことでは懲(こ)りず、ミリオンダラーはおろか、マダムキラーからルシアン、最後にサイドカーまできっと飲んでみせると意気だけは盛だったが、ついには何もなし得ず、酒席ではビールをほんのちょっぴり嘗(な)めるだけ、という状況をずっとこんにちまで持ち越していたのである。加賀先生のおん申し付けをいまやっと拳々服膺(けんけんふくよう)できるようになったのは、昨年夏から医者の指示で心臓の薬をずっと常用しているせいかと思われるが、それにしてもこの大変化、私にとっては生涯の十大事件のトップにするつもり。で、この頃は定量決って晩酌に白ワインをグラス一杯、寝酒に一杯。一日計二杯なのだけれど、これがなくては夜も日も明けぬという焦(こ)がれようだから、悪くするとほんとにアル中に転落するおそれあり、ご用心というところ。(「酒中日記」 宮尾登美子)
酒だけだよ
北方(謙三) オッちゃん、何が好きなの。
船戸(与一) 酒だけだよ(笑)。
北方 酒好きなヤツはゴマンといるじゃんか。ほかに、女は?女は好きだけど…。
船戸 めんどくさい(笑)。冒険作家クラブの中で、やっぱりオレが一番グータラだな、どう考えても。-
北方 オレはね。やりたいことやってんだからさ、小説を書くのもそのひとつだから。
船戸 マメだねえ。海に行って、帰って、普通なら酒飲んで寝たいところじゃない(笑)。
北方 やりたいことがいっぱいあるから仕事せざるをえないのよ。オレは遊び好きだもん。遊ぶためには少々苦労してもいいと思ってるからさ。船なんて持ってみりゃわかるけどね、いいなあって思うのは一〇時間のうち三時間ぐらいで、その三時間が欲しくてあとの七時間をやってるわけさ。
船戸 オレがそういう立場なら、帰って酒飲んでゴロゴロしていようという気になるね(笑)。
北方 そのへんがオレはね…。
船戸 遊びにも勤勉なんだ。
北方 そうじゃなくて、それがオッちゃんの遊びだと思うんだよな。一番ぜいたくだと思うよ。時間をムダに使う。酒を飲んでゴロンと寝てる。これ、なかなかできないよ。
船戸 オレの郷里には山頭火というモデルがおるんだよ(笑)。一生ゴロンとして生きたヤツが。
北方 ゴロンと行き倒れて死ぬ?
船戸 山頭火の墓になんて書いてあるか。「酔死」って書いてある。これだと思ったね(笑)。(「諸士乱想」 船戸与一)
板前割烹「花菱」
さわらのたたきといたちめばるのお椀だけいただいたわけでは、もちろんない。白魚のつくだ煮、あわびのみそ漬け、はぜのすり身の揚げ物、さわらの西京焼、塩辛三種(白身、いわし、あわびのつの)などをいただき、魚のうまさとともに、料理人の仕事ぶりを堪能(たんのう)させてもらった。最後は、前回と同じく、おこぜのみそ汁とうにごはんで締めくくった。酒は佐賀の「天山(てんざん)」で、甘口が多い九州の酒のなかでは辛口で、大分の名酒「西(にし)の関(せき)」に負けぬのどごしのうまさであった。(「食卓のプラネタリウム」 山本益博) 花菱は、唐津市魚屋町2031です。
無泡制天下
昭和58年10月1日付だった。早いものでこの時から二十年の歳月が流れた。廃業、転業を思いながら踏みきれずにいる蔵元は、あれからさらに増えている。秋山酒造店の右の挨拶では、「現状のままの品質を保持した上で量を増やすということは全く不可能…」という点にこそ蔵元の姿勢が凝縮された趣がある。客からの需要に応えようとする時、量産に走るあまり品質を落としてまで造ることはしたくない。それをするくらいなら、過去の銘酒の評価を残したままいさぎよく散ってゆく、ということである。秋山酒造店では、「最後の造りの記念です」と、二本の酒を送ってくださった。故・坂口謹一郎氏の揮毫になる「無泡制天下」の中から「制」の一字を酒袋の布地のまん中に大きくクローズアップさせている。瓶はグリーンである。その上に酒袋のこげ茶色をラベルとしてのせ、中に金箔で「制」の文字が光っているから鮮やかに目立つ。内容はいうまでもなく、泡無し酵母によって醸されたもので、吟醸辛口仕立てだった。酒通の読者なら、この秋山酒造店こそ元醸造試験所長の秋山裕一氏の実家であり、泡無し酵母の本家であることはご存じのはずだ。普通の酒母は、初めのうちは甘くて、発酵するにつれて酸っぱくなっていくものだが、これは初めから酸っぱい。粘着性がなくてさらさらの酒母である。-
それから三年たった春先に、広島県の酒造家の数人が日本酒センターでの酒まつりの夜後、銀座で会食したのに招ばれた。手土産がわりに「制」の酒(実際には制の左下にごく小さく天下の文字が入っているから「制天下」)の常温のほうを持参した。熟成もごく品のいい香気をともなって味はぐんと練れていた。その味の深みが老(ひ)ねなぞ寄せつけないのである。参会した一同もうなった。みごとな熟成酒になっていた。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)
酔語
エドモンド・ウィルソンは、禁酒法時代にアメリカで使われた酩酊状態を表す100の言葉を並べたてたことがあった。それはlitやoiledに始まり、jinglesやburn
with a low blue flameという言葉まで、酔っぱらう程度の強さによって順番に並べられた。ベンジャミン・フランクリンにいたっては、なんと200語以上も並べた!「ほどほどに」飲酒するという意向が出てきたのは、アメリカではかなり最近のことのように思える。開拓者達の酒場は酔いつぶれる場所であって、「ビール1杯飲む場所」ではなかった。禁酒法時代のもぐりの酒場も酔っぱらう場所であった。同業者の集まりは、現代に入ってからもそうであったが、酔っぱらう必要があった(そしておそらく今日でもそうであろう)。(「アルコールと作家たち」 ドナルド・W・グッドウィン)
オレはなぁ、駕籠(かご)かきでなんでぃ!だから、どんなに酔っていたって、お前を送る!! 三鷹のタクシー運転手さん
先生が、そろそろ、失礼しようかと切り出した。そこで、眼光鋭いお父さんがスックと立ち上がる。いや、実際には、かなり足にきていて、スッとは立ち上がれないのだが、先生を家まで送る、と言う。「いやいや、私はすぐそこ、歩いてすぐですから」先生はそう言い残して、辞去する。では私らも帰ろうかということになったわけだが、お父さんはふらふらなのに、再び、送っていくと言ってきかない。しばらくの押し問答をするうちに、その家の娘(筆者らの同級生の女の子)が迎えに来た。父親の酒癖をよく知っていて、家もすぐそばだから、そろそろ潮時と見はからって来たものと思われたが、父親のほうはそれでかえって意固地になった。それで出たのが、冒頭のひと言。どれほど酔っていたって、この青年たちを送り届けるのが、おいらの役割じゃねえか。お前、そんなこともわからねえのか!呂律(ろれつ)も怪しいから正確なところは不明であるが、そんなことも言ったような気がする。運転は無理ですよ。いや、送る。だいたいまともに歩けないでしょ。いや、送る。警察につかまるよ。いや送るといったら送る。警察がなんだ…。もう、べろべろ。気を利かせたこの家のお母さんが、じゃもう少し飲もうよ、ととりなして、もう一杯、ウイスキーのロックをつくって飲ませたら、運転手のお父さん、ここが限界だった。娘の肩にしがみつくようにして立ち、なんと言ったかさっぱりわからぬ辞去の挨拶を述べて出て行った。一緒に飲んでいた人が一人帰り、またひとり帰る。それでは場がどんどん寂しくなるから、せめて「送る」とごねたお父さんの気持ち。その切なさは、あれから三十五年を経た今も、記憶にしっかりと残っている。(「酔っぱらいに贈る言葉」 大竹聡)
高麗神社詣で
戦前では、これが最後の「阿佐ヶ谷会」であったように思う。ついでに、そのときの案内状もあるので、ここに示しておこう 阿佐ヶ谷会錬成忘年会 師走十六日朝九時、中野駅北口参集、石神井までバス、武蔵野鉄道にて飯能駅(又は高麗駅)下車、バスにて高麗神社へ詣る。御弁当持参のこと、但し一汁一菜の用意あり、鉄道のバスあり、雨天(又はひどい曇天)の際は翌日、是非ご参加下さい。 十二月十二日 井伏(鱒二)、上林(暁)、安成(二郎) 戦争の最中に選りに選って、なぜ高麗神社などへ出かけたのだろうか。これは素朴な疑問である。会はこれまで、たいていピノチオで開かれていた。それをわざわざ高麗神社としたのは、それなりのわけがあったのだろうか。昭和十八年の暮れといえば、もう食糧難の時代である。酒は昭和十七年一月から配給となっている。バーやカフェーなどの閉鎖命令はまだ出てなかったが、好きなだけ酒を飲ましてくれる店はなかった。まして数人の会合を引き受ける飲み屋は、阿佐ヶ谷界隈のどこにもなかった。そこで趣向を変えて、高麗神社詣でとなったらしい。といえば、「阿佐ヶ谷会」の文士たちは信仰ぶかそうに見えるだろう。それを建前として、実は酒の飲みに行ったのだという。なんでも安成は、高麗神社奉賛会員のひとりで、高麗神社の造営のときは力を貸した。安成の口ききなら、精進料理のふるまいを、してもらえるというのであった。ならば行ってみよう、ということになったらしい。案内状にある十二月十六日は雨で行けなかった。そこで日を延ばして、二十三日に出かけたのである。太宰はいつでも時刻に遅れないが、集合時間が早すぎる、とブツブツぼやいていたという。とにかく名簿にある六人は、朝九時に中野駅に集まって、ピクニックに出かけた。(「文壇資料 阿佐ヶ谷界隈」 村上護)
みんなで飲む酒
婚礼とか旅立ち・旅帰りの祝宴とかに、いまでもまだ厳重にその古い作法を守っている土地はいくらもある。我々の毎日の飲み方と最もちがう点は、簡単にいうならば酒盃のうんと大きかったことである。その大盃が三つ組五つ組になっていたのは、つまりはその一々の同じ盃で、一座の人が順々に飲みまわすためで、三つ組の一巡が三献、それを三回くり返すのが三三九度で、もとは決して夫婦の盃に限っていなかった。大きな一座になると盃の廻って来るのを待っているのが容易なことではない。最初は順流れまたは御通しとも称して、正座から左右へ互いちがいに下って行き、後には登り盃とも上げ酌などとも謂って、末座の人を始めにして、上へ向ってまわるようにして変化を求めたが、いずれにしてもその大盃の来るまでの間、上戸は咽を鳴らし唾を呑んで、待遠しがっていたことは同じである。この一定数の巡盃が終ると、是でまず本式の酒盛りは完成したのであるが、弱い人ならそれで参ってしまうとともに、こんなことでは足りない人も中には居る。それらの酒豪連をも十分に酔わせるために、後にはいろいろの習慣が始まった。お肴と称して歌をうたい舞を舞わせ、または意外な引出物を贈ることを言明して、その興奮によってもう一杯飲み乾させるなどということもあった。亭主方は勿論強いるのをもって款待の表示としておって、勧め方が下手だと客が不満を抱く。だから接待役にはできるだけ大酒飲みが選抜せられ、彼等の技能が高く評価せられる。酒が強くて話の面白い男が客の前へ出て、「おあえ」と称してそこにも爰(ここ)にも、小規模な飲合いが始まる。或いは客どうしで「せり盃」などと称して、あなたが飲むなら私も飲むという申し合せの競技をしたり、または「かみなり盃」と謂ってどこにおちるかわからなぬという盃を持ちまわって、その実予(かね)て知っている飲み手に持って行ったり、また或いは「思いざし」などと謂って、やや遠慮をしている人に飲ませようとしたりした。(「酒の文化、酒場の文化」 鷲田清一)
「酒」を基語とする熟語
酒暈シユウン 酒を飲んで顔が赤らむこと。[蘇軾「紅梅詩」]
酒翁シユオウ ①酒杜氏[「唐書」段秀実伝] ②酒好きの老人。[白居易「銭湖州云々詩」]
酒戒シユカイ 飲酒の戒め。[李伯玉「雑詩」]
酒酣シユカン 酒宴の盛り[左思「詠史詩」]
酒教シユキヨウ こうじの別称。[「事物異名録」飲食・酒]
酒虎シユコ 大酒飲み。[鄭清之「詩」]
酒胡シユコ 酒席で余興に遊ぶ玩具。[劉筠「大酺賦」](「日本の酒文化総合辞典」 荻生待也)
ちりめんジャコのさんしょう煮
作り方 ①ジャコはサッと熱湯に通して塩抜きし、ザルに上げてよく水けを切る。 ②鍋にさんしょうの実とだし汁、酒、砂糖、しょうゆ、みりんを入れて、煮たてる。 ③①のジャコを入れ、時々鍋を返しながら、焦がさないように煮詰める。 ④ほとんど汁けがなくなったら、天板に広げ、80~90℃に熱したオーブンに入れ、30分かけてほどよく乾燥させる。
材料(4人分) ジャコ…150g 市販のさんしょうの実のつくだ煮…大さじ2 だし汁…カップ1/4 酒…1/3カップ 砂糖…大さじ1/2 しょうゆ…大さじ1 みりん…大さじ1
このつまみに、この一本 刈穂(かりほ) 山廃純米超辛口/宮城 日本酒度…+12 酸度…1.4 価格…2524円(1.8L) ●「これさえあれば」の一品つまみ。さんしょうは小粒でピリッと辛い、秋田酵母は元気がいい。やんちゃ酵母が言うこと聞かず糖分おいしいと食べ尽くす。旨味も十分、面白い酒。(来会楽)(「新・日本酒の愉しみ 酒のつまみは魚にかぎる」)
ぼったくりバー
[名]法外な値段を取る悪質なバー。◆『闇呪』第二章・1(2000年)<谷恒生>「歌舞伎町分室にはボッタクリバーで身ぐるみ剥がれた被害者が一晩に四、五十人も駆けこんでくる」◆『すっぴんスチュワーデス 人生は合コンだ!』三章(2001年)<静月透子>「歌舞伎町ではぼったくりバーへ行かないようにする注意点と同じだわ」◆『寿司屋のかみさんお客さま控帳』バブルの頃の危ない人たち・その後(2002年)<佐川芳枝>「ちなみに、ぼったくりバーというのは、どういう種類のバーか聞いてみると、客引きが五千円ぽっきりなどと言って引っ張ってきた客から、法外な料金を取る店だという」(「日本俗語大辞典」 米川明彦編)
鶉うずら
鶉好かせ給ふお大名、承り伝へ聞きにまいる者へは、御料理など下され、甚だ悦(よろこ)ばせ給ふよし。お出入の宗匠衆を頼み、私もきつい鶉好きと申入れて、暁起きし行(い)た所、さすがお大名の御手の廻つた事、朝つぱらからいろ/\のむまごと、酒たらふく下さり、のみくらひして居るうち、チゝツクワイとの一声、肝をつぶして「あれはなんでござります」(鹿子餅・明和九) 【類語】うづらかご(軽口わかゑびる巻二・寛保二)知らずば問へ(機嫌嚢巻四・享保十三)『絵本御代春』(宝暦十一)鶯讃客(一粒撰噺種本・享和二 【語釈】〇むまごと=うまごと。うまいご馳走づくめ。 【鑑賞】鶉好きとはいったものの、敵は本能寺で、御馳走がお目あて。それにしても肝心の鶉の鳴き声さえ知らないとは、厚かますぎた。(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編))
476分かったか
ある一人の細君が、呑ン平の夫を一晩中掛って酒場から酒場を探して廻っていた。真夜中になって、やっとある酒場のスタンドの前に坐っている夫を見附けた。そっと歩み寄って、その杯の酒を口に含んでみた。「ペッペッ!」細君は杯を床に投げつけた。「何てまずいもんなんでしょう!」すると、夫はそれを見て言った。「分かったかい?それなのに、お前は、この俺が良いことばかりしていると思っているんだからね!}(「ユーモア辞典」 秋田實編)
drink
まずは日本語の「のむ」(飲、呑む、嚥、喫など)という動詞は、いったいどのような条件の下で使われるものかを考えてみる。「のむ」という行為の対象になるものは、まず水、酒、茶、コーヒーのような液体がくる。しかし薬ものむものであり、これは必ずしも水薬とは限らない。粉薬でも錠剤でものめる。タバコものむと言う。しかしこの時は、明らかに煙を吸うわけである。このような分析から、第一段階として、日本語の「のむ」は、対象の様態については、ひどく制限がゆるいと言える。つまり液体、固体、気体のどれについても「のむ」と言えるということだ。ここで、「のむ」と正に対応すると考えられている英語のdrinkについて同じように使用条件を調べてみよう。drinkできるものには、水、茶、コーヒー、酒などがあることは疑いない。ある種のスープにもdrinkが使える。固形物の食物には当然drinkは用いない。また粉薬や丸薬をdrinkするとは言えないし、タバコを「のむ」は、smokeであっdrinkではない。そこでdrinkとは、対象が液体の場合にだけ用いられることばということがまず分かる。しかしそれだけでは充分な条件ではない。というのも、液体ならば、どんなものでもdrinkを用いてよいかと言えば、そうでないからだ。たとえば液体の薬、つまり水薬はdrinkと言わずtakeと言う。また本来のみものでない液体、たとえばライター・オイルとか、金属の銹(さび)落し液のような、家庭で使用するものには有毒なものが多く、子供が間違ってのめば命にかかわるようなものである。このような液体を入れた容器の外側に、アメリカでは、fatal,if
swallowedという表示がしてあるのが普通だ。fatal,if drunkとは言わないのである。つまり通常の飲料でないものや、薬や毒物は、たとえ液体であってもdrinkは使わないのである。このような観察を、一般的な表現にまとめてみて、英語のdrinkとは「人の体を維持するに役立つような液体を、口を通して取り入れる行為」を言うとでもすれば、すべての正しいdrinkの使い方を、あます所なく押さえることができる。そして同時に、これはdrinkと、takeやawallowなどのような、同じく、口を通して何かを体内に摂取する行為に関する一群の動詞との構造的な相違を浮き彫りにすることにもなる。(「ことばと文化」 鈴木孝夫)
清陽俳句手帖より(2)
御酒造る 男と生まれ 御世の春
袋洗ふ 造り仕舞や 水温(ぬる)む
春山や 杣(そま)に秘めたる 酒のあり
春愁(しゅんしゅう)や 酒にまかせて 泣くことも
精米機 真白く出づる 米寒き(「花岡先生を偲ぶ」 藤井益二編) 花岡正庸の追悼本です。
麹蓋
麹蓋もうまくできているんだわ。昔の人はまったくよく考えたものだと思うわね。見たところは蓋もない平らな木の箱だ。だども、これがただの箱でないんだ。底に張ってある二枚の杉板は、何百年もたった大きな杉の木から取った杉板だ。この板は「柾目」になっている。しかもカンナはかけてない。木を割って板にしたものだ。また、少しザラザラしている方が空気が通って乾燥しやすい。麹蓋は何度も洗うものだから、だんだん、柾目の柔らかいところが磨(す)り減ってきて、目がたってくる。目と目の間が微妙にへこんでくるわけだ。麹を入れた麹蓋を振ると、そのへこんだところに米粒がひっかかって、ちょうどいい具合に米粒をあおれるわけだいね。また、底板(そこいた)の下に入っている桟(さん)は、上に膨(ふく)らむような形になっていて、底板が上に反(そ)るようにしてある。だすけ、盛った麹が自然に膨らむようになっているわけさ。「盛り」は大事なんだ。盛りのやり方によって麹の出来具合もちがってくるというぐらいで、ただ、盛ればいいというものではないんだわ。びっちり隙間(すきま)なく盛るのは、一番よくないわ。米粒と米粒の間に空気がはいるように盛るのが肝心(かんじん)なんだわ。盛った後は目標通りの麹になるように、次の朝まで、温度の上昇具合や乾燥具合を見ながら、麹の菌糸を育てていく。(「杜氏千年の知恵」 高浜春男)
酒の温度
酒は人肌 という。いい言葉だが、人肌というても人それぞれの体温がちがうし、ピッタリしない。それより、酒は、肴(アテ)によってちがうのではないか。スキ焼きでのむ酒はやや熱燗に、刺身をアテにのむ酒は、いわゆる人肌ではあるまいか。もちろん、鰒のヒレ酒となれば、手のふれられぬくらいにまで熱くてよい。酒は、のむスピードにもよること、もちろんである。ぬるい燗の、冷えたのなど、のめたものではない。あま口の酒は、ぬるくてものめるが、から口の酒のぬるいのは、うまくない。それでいて、冷酒(ひや)でのむなら、から口の方がうまい。面白いものである。-もっともこれは、あくまで私の舌を主にしての話である。(「味の芸談」 長谷川幸延)
盃流し
その(明治)二十五年の秋のことであつたと覚えてゐるが、米国から、シカゴ博覧会の準備委員としてガワードといふ人が、日本政府に、協賛に対する感謝と、出品の打合せのために来朝した。天心は、例の派手好みの気質から、何か奇抜な催しをしてガワードを歓迎しようと、今泉雄作その他と相謀り、舟を隅田の流れに泛べて、盃流しの宴を開かうといふ計画をたてた。これは、元禄の昔、紀文が催した故智に倣つたもので、風流且つ豪華な催しであつた。当時、美術学校漆工科の教授の中には、小川勝珉の如き、生粋の江戸児の道楽者が存在してゐたから、このお祭騒ぎは、無条件で彼等の受け容れるところとなつた。勝珉等は自ら急先鋒となり、東京市の漆器店から無地朱塗の盃を買ひ集め、内側に富嶽を、そして、外側には日米の国旗を、急に金蒔絵をして準備を整へてゐた。談だけでは何だか除隊祝ひに配る盃模様のやうにも聞えるが、実物は美校の教授連が腕に撚りをかけて蒔いたものだけに、頗る品の高い芸術品であつた。伝へられる元禄時代の豪商紀文の催しでは、河下に舟を泛べ、或ひは橋の欄干に椅つて見物が紀文の舟を今か/\と待ち構へてゐると、一向それらしき姿は見えず、船も橋も悉くが待ちくたびれてゐた黄昏頃、上流から巨大の盃が唯一つ夕潮に引かれて、プカリ/\と流れて来て、数千の観衆を驚かしたと伝へられてゐる。天心の催しは、その行方とは全然異なつてゐた。その日は天候に恵まれずして、薄ら寒い、雨中の船上の酒宴となつてしまつたが、予め上手に待機してゐた荷足りから、件の朱塗りの金蒔絵の記念盃を薄濁りの河水に流し、下流に碇泊(とま)つた本船が、それを小網で掬ひとり、日米親善の酒を酌み交はす予定だけは辛うじて成功してゐた。併し、もと/\軍資金が予めあつた企てではなかつたので、後腹は相当にやめたらしい。余儀なく片棒を担いだ今泉雄作は、その『漫談明治初年』に、『盃流しをやつたところは頗る好趣考で、大賞讃を博したが、勘定したら五百円近くかゝつた。あとでその借金が祟つて、少なからず閉口した。何しても、岡倉といふ男は、奇抜なことを考へる男であつた。その当時こんな事を一緒にやつた連中は、皆死んでしまひ、生きてゐるのは高村(光雲)ぐらゐのものである。』(「父天心」 岡倉一雄)
神酒徳利(みきとくり)
酒(さけ)をのむのが一徳(いつとく)といふハちがいなし。此間(このあいだ)、太神宮(だいじんぐう)さまへお神酒(みき)をあげて、それからさげていたゞかうとおもつて、お神酒(みき)どつくりから明(あけ)て見ると、徳(とく)/\/\といつた(十オ下)(「しんさくおとしばなし」 武藤禎夫・編)
伊勢物語
狩はねむごろにもせで、酒をのみ飲みつゝ、やまと歌にかゝれりけり。いま狩する交野(かたの)の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、上中下みな歌よみけり。馬頭なりける人のよめる。 世中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし となむよみたりける。又人の歌、 散ければこそ いとゞ桜は めでたけれ うき世になにか 久しかるべき とて、その木のもとは立ちてかへるに、日ぐれになりぬ(八十二段)(「酒の歌、酒席の歌」 久保田淳)
三十三間堂を再建
江戸時代には、酒を売っている店と酒を飲ませる店の両方を「酒屋」としているのでわかりにくい。酒を飲ますことがメーンの居酒屋が出現するのは、寛延(かんえん)年間(一七四八~五一)のことだとされる。深川(ふかがわ)の富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)の東側に、京都の三十三間堂を模した「江戸三十三間堂」があり、享保十五年(一七三〇)八月の風雨で倒壊し、再建されないままになっていた。寛延二年(一七四九)に、二人の人物が堂の周りに煮売茶屋、居酒屋などを建て、その収益金で三十三間堂を再建したいと町奉行所に願い出て許可された。江戸の町触を集成した「正宝事録(しようほうじろく)」の宝暦(ほうれき)二年(一七五二)の記事に、三十三間堂が完成したとあり、この時代には庶民に居酒屋が認識されていたことがわかる。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資)
ジャガイモ
ジャガイモは、ビタミンCの含有率がみかん並みに高い野菜(だったらみかんを食べればいいだろうと思う方もいらっしゃるかもしれないが、みかんは季節商品で、基本的に一年中食べられるわけではない)。もちろん、葉菜類の中には、ビタミンCの含有率がジャガイモ以上のものもいくつかある。しかし、常識的に摂取できる量を考えたら、ジャガイモを食べる方がずっと現実的なのだ(例えば、ジャガイモ一〇〇グラムは普通に食べられても、パセリ一〇〇グラムを食べるのは、ほとんどの人にとって相当困難なはずだ)。さらにジャガイモには、利尿作用もあるカリウムもたくさん含まれている。つまり、体内に残っているアルコールの排出にも有効なのだ。そのジャガイモを吸収のよい生汁で飲めば、二日酔い対策としてかなりの即効性が期待できる、というわけ。とはいうものの、すりおろしたジャガイモは、残念ながらかなり土くさい。実際にやってみれば分かるが、いくら二日酔いに効くといわれても、これをそのまま飲むのは、ちょっと厳しいかもしれない。というより、むしろ避けたい気分になるだろう。そこで、「おばあちゃんの知恵」にもう一工夫。飲みやすくなるように、塩コショウで軽く味をつけたり、柑橘系の絞り汁を混ぜてにおいを消すなどしてみてほしい。それでもまだきついようであれば、ジャガイモを加熱してしまっても構わない。幸いなことに、一般的にビタミンCは熱に弱いといわれるが、ジャガイモに含まれるビタミンCに限っては、熱に強く、加熱しても壊れることがないそうだ。すりおろしたジャガイモを、水とコンソメで薄く溶いてスープにしてもいいし、小麦粉を混ぜて、お好み焼きのように焼いて食べてもおいしい。すりおろすのすら面倒だというのであれば、ジャガイモを丸ごと煮て、そのまま食べるのも悪くない(ただこの際は、アルコールで弱った胃のことを考えて、少量ずつ食べること)。いずれにせよ、二日酔いの胃に何か効果的なものを入れようと思うのなら、まずは第一候補としてジャガイモ。(「二日酔いの特効薬のウソ、ホント。」 中山健児)
常温ですでに香りも旨味も完璧
そんな人気の十四代を飲む会が、東京大塚の居酒屋『串駒』でときどき催されている。なんと蔵元直送のいろいろなタイプの十四代を、思い切り飲み倒せるのである。だから、それなりの会費ではあるのだが、募集するとすぐに定員が埋まってしまう。その会に参加したとき、十四代の美味しさにあらためて驚いたのであるが、またぞろいつものクセがでて、燗をつけたのも飲みたくなった。十四代は「本丸」という燗に向いた本醸造酒があるのだが、せっかくだから吟醸系のタイプも燗して飲みたい。そこで、あまり気が進まなそうな『串駒』の酒担当のテツローさんにたのみこんで、「龍月(りゆうげつ)」という純米大吟醸をぬる燗にしてもらった。早速、わくわくしながら飲んだ。ところが、吟醸香を損なうことなく上手に燗がつけられていたにもかかわらず、燗をつける前より少しも美味しくなっていないではないか。これまでの経験では、燗をつけることによって、ほぼ皆新たな香りや旨味が花開くのだが、今回は違った。十四代の吟醸系は、常温ですでに香りも旨味も完璧に開き切っているのだ。というわけで、「すべての日本酒は燗すべし」という私の持論はもろくも崩れ去ったのであった。(「晩酌パラダイス」 ラズウェル細木)
日本酒四合瓶(びん)を三本
開高さんが東京・杉並の自宅の外に、この地に家を造り、そこを仕事場にしはじめてから、かれこれ半年ぐらいになる。家が出来た頃には開高さんが急にスマートになったという噂(うわさ)が伝わってきたりした。「どうしてだか、食が細くなって、やっと一人前になったわ。前は三人前やったのに」電話で牧羊子さんがそう言っていたのを今でも私は覚えている。その記憶があるせいか、久し振りに見る開高さんは、思っていたよりスマートに見える。「この頃食欲は…」と聞きかけたら、牧さんが言った。「それが、あなた…」先日などは、汽車で福井から京都へ行く間に、カマボコ八本、羽二重餅(はぶたえもち)一折、サバずしを二人前以上、それに日本酒四合瓶(びん)を三本、一人で平らげたのだそうである。(「作家の食談」 山本容朗)
いい酒
永六輔ってひとは全く飲まないひとで、早々とホテルに引きあげたが、私とおスミは六十度の泡盛をしたたか飲んだ。当然の結果だが、どんな手順で、どのようにホテルの部屋に帰ったのか、ほとんど記憶もなく、翌日の昼過ぎまで前後不覚だったのである。
台風はその夜ひと晩荒れ狂ったが、翌日も台風一過とはいかなかった。余波はなお激しく吹き荒れて、那覇空港発の全便が欠航。前日の朝、沖縄に着いたひとびとは、ホテルにチェックインしたものの、出発する予定だった観光客は昨日の午後からの欠航で、全員がホテルに足どめ。部屋もなくホテルのロビーにあふれている始末。その夜も足どめ状態のままなのである。私たちのホテル以外のホテルもみんな似たような状態。気の毒なんてものじゃないが、金を使い果たしていた若いひとたちなど、食事もできない有様なのである。永さんってひとは奇才といわれるだけに、なかなかのアイディアマンで、台風でとじこめられ、時間をもてあましているひとたちのために、「チャリティーショーをやろう」といい出した。ホテルと折衝して宴会場を開放してもらい私たち三人が舞台に立つ、入場料は「お気に召すまま」だが、すべて沖縄県庁に台風見舞いに寄付しよう…というのである。ホテル側は大喜びで、早速、宴会場に椅子を並べる。永さんはたちまち筆をふるってポスターを書き、近所のホテルのロビーにまで貼り、館内放送のマイクで「今夜七時からチャリティーショーをやります。坂本スミ子が歌います。加藤康一がここだけの話をします」と叫んだのである。退屈しきっていた観光客はドッと集まった。近所のホテルからも、やっと小降りになった雨をついてお客さんがやってきて、宴会場は超満員となった。おスミさんも熱唱、お客さんは大満足で、会場に設けた募金箱には予想以上のお金が集まった。会場にお呼びした県庁の観光課のおじさんは眼に涙をためて見舞金を受けとってくれたが、永六輔がみんなに訴えたように、「台風に出っ喰わしたから、みんなのいい思い出ができた、ね、そうでしょ」は、誰もが納得できるセリフだったのである。その夜、普段は飲まない永さんが、私たちと盃を交わした。感動の余韻が泡盛を一段とうまくした。そういう酒はほんとに心にしみた。いい酒ってのはそういう酒なのである。(「いい酒 いい友 いい人生」 加藤康一)
飲酒とシンナー
最初の頃は幻聴や妄想は、シンナーを吸った後に何時間か続くだけでした。それでもその数時間は怖くてたまりませんでした。この時、彼はシンナーをやめる潮時だったともいえます。彼はその幻覚・妄想が、シンナー中毒の症状だと先輩から聞いていたからです。しかし彼は、そこでシンナーをやめる気持ちにはなれませんでした。なぜなら、幻覚・妄想が出てくる頃には、シンナーへの強い依存が形成されているために、シンナーを吸うと怖いという気持ちと共にシンナーを吸いたい気持ちも強烈に強くなっていたからです。彼はそこで解決の一つの方法を見つけました。お酒を飲んで酔っ払うと幻覚・妄想が消えるということを発見したのです。中学時代から時々お酒はこっそり飲んでいましたが、幻覚・妄想が出てからは酔っ払うまで飲むようになりました。その解決法は長くは続きませんでした。シンナーによる幻覚・妄想は、だんだんシンナーを吸わなくても続くようになり、それと共にアルコールの量はどんどん増えてきたからです。彼は毎日シンナーを吸っているかアルコールで酔っ払っているかの生活になってしまい、ただ幻覚・妄想におびえる生活になってしまったのです。それまで彼は家族の注意には反抗ばかりしていました。シンナーやお酒を買うためのお金は、母親を脅したり殴ったりして手に入れていました。しかし今や彼は家族に反抗するパワーも失せて、母親に連れられて病院にやって来ました。病院に来た時の彼は、髪はボサボサで、顔は青白くむくんでおり、洋服の所々には接着剤のついた跡があり、体中からシンナーと酒の臭いが混ざったような臭いが吹き出しており、それでいて目だけは凄惨な光ガあり、絶えずビクビクしながら周囲に目を走らせていました。この高校生はシンナー乱用からシンナー依存に陥り、シンナー精神病が出現したため、幻覚・妄想から逃れようとして大量飲酒に走り、急速にアルコール依存に陥ったものです。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二)
(六)石原市正の早足(巻五七)
石原市正は郷中の神職である。きわめて足の早い男で、つねに京都から大坂の友人の所に往き来するのに、まるで近村を経めぐるような具合である。京都から日帰りで伊勢参宮をしたことがあるという。あるとき、用事があって山道を通ったときに、山賊二、三人がいて酒手(さかて)をねだった。「ここだ」と思って懐に手を入れ、「さあ、酒代をくれよう。わしについて来い」と言って、ずいぶん早い足どりで歩いた。そうでなくてさえ早足の男が、さらに急いだものだから、どうしてこれに続くことができよう。山賊も一、二町(二百メートル余)の間は追いかけたが、「あれは天狗じゃないか」とわめく声が、かすかに後で聞こえたきりで、追っかけるのをやめた。そのときにかぶっていた菅笠の菅が、風を受けてしぜんに抜けたと、本人が話していた。-
いつも石原が言ったことは、「世間の人は、足ばかりで歩行するからくたびれるのだ。私は、あるときは足で歩み、またあるときは腹で歩み、今度は手だとか、腰だとか、歩き所をかえるのだ。それで足が休まってくたびれることがないのだ」と言った。そもそも一事に達した人は、何かいいところがあって、(一)楠木正成の"泣き男"でさえも功を立てた。まして早足などは、武道としては言うに及ばず、常の利益がどれほど大きいことであろうか。
(一)楠木正成(?~一三三六)が律宗の僧二、三十人を京へ送りこみ、「新田・北畠・楠といった七人の武将がなくなられた」と泣かせ足利方の目をあざむいたという話(太平記第十五)。(「翁草」 神沢貞幹原著 浮橋康彦訳)
甘酒もち
朝日酒造 藤井浩さんのお勧め
子供からお年寄りまで食べられるデザートです。
●材料 板粕/もち/砂糖
●作り方 ①板粕を千切り、同量の水に1時間ほど漬けて溶かす。 ②溶かした板粕に好みの量の砂糖を入れ、煮る。 ③ここに焼いた餅を入れて、お汁粉の感覚で食べる。
◆ここに牛乳を少し入れると、洋風になります。焼いたもちを入れた後は煮すぎないようにしましょう。(「酒粕の凄い特効」 滝澤行雄監修)
酒を売る家(2)
主人 歎息す 官よ 来ること晩(おそ)しと
酴醿(とび)の一架(いつか) 花は謝(ち)り了(お)えぬと
鴉が鳴くのを見て、不吉を思える時と、馬鹿にされているように思える時とがある。この劉克荘の七言絶句「出城」(城を出る)の場合、まさに後者である。右の二句を見るなら、そのあたりの事情がはっきりするだろう。散歩の途中、居酒屋に寄って、ちょっと一杯ひっかける、という思惑がひっくりかえされたとわかるからだ。こんな時、鴉の泣き声はつらい居酒屋のオヤジは、わざと大きな溜息をついて、椅子に座っている劉克荘にいう。旦那さん(官)、やって来るのが、ちょっと遅すぎますよ、と。いい酒(酴醿)がどっさり入っていたんですが、あいにく、もうみな売り切れ(花謝)てしまいましたぜ、と。酒にうるさいほうだったかどうか、よくわからぬが、いい酒が品切れになったときいて、がっかりしたのは、まちがいない。しかし、居酒屋なのだから、この日、まったく酒を口にできなかった、というわけでもあるまい。そこで、鴉である。お利口をもってなるカラスである。劉克荘は、その鴉の啼き声に、不吉を感じるより、馬鹿にされたと思ったにちがいないが、その姿が見えぬだけに、まだ救われているといえるか。おそらく彼は著述のためか金欠のためか、長い間、家に閉じこもって散歩にも出ず、この居酒屋にも、ずいぶんご無沙汰していた。だからこそこの日、いい酒を飲みたかったにちがいないが、「旦那さん、やって来るのが、ちょっと遅すぎますよ」という事情を知らぬオヤジの言葉には、皮肉のトゲがありすぎるのである。あまつさえカラスが、彼のうかぬ心をみすかすように啼くのである。(「酒を売る家」 草森紳一)
失はれた美酒 ポール・ヴァレリイ 堀口大学(ほりぐちだいがく)訳
一(ひと)日(ひ)われ海を旅して
(いづこの空の下なりけん、今は覚えず)
美酒(びしゆ)少し海へ流しぬ
「虚無」に捧ぐる供物(くもつ)にと。
おお酒よ、誰(たれ)が汝(な)が消失を欲したる?
或るはわれ易占(えきうら)に従ひたるか?
或はまた酒流しつつ血を思ふ
わが胸の秘密のためにせしなるか?
つかのまは薔薇(ばら)いろの煙たちしが
たちまちに常の如(ごと)すきとほり
清らかに海はのこりぬ…。
この酒を空(むな)しと云ふや?…波は酔ひたり!
われは見き潮風(しおかぜ)のうちにさかまく
いと深きものの姿を!(「酒の詩集」 富士正晴編著)
ビックリ酒
酒を飲むと頭が悪くなると固く信じていた。盃に日本酒二、三杯で頭は上気し、四、五杯でこめかみに動悸(どうき)が打ちはじめる。六、七杯も飲むと頭痛がはじまり、銚子一本をあけると吐き気をもようしてトイレに駆けこみ、吐いたあとは真っ青になって寝込む。この間の所要時間はせいぜい二、三時間。-
その後が不思議である。開眼したというか、苦しみの関門をすぎて荒野へ出たという感じである。徐々に酒が好きになり、本当に好きになり、好きでたまらなくなり、今や君子豹変!頭がわるくなろうと何のその、酒席と聞けば風雨を衝(つ)いて駈けつけ、酒のない席では何やら虐待されたように悄然となる。ウイスキー一本が三日ともたない有様。誰やらが、私の話を聞いていった、「ああ、それはビックリ酒だよ」「ビックリ酒?」「そんな人がいるんだ。アルコール中毒に気をつけろよ」人間、変れば変るものである。(「酒との出逢い ビックリ酒」 白石一郎)
〇曲水宴、『万葉集』一九、「天平勝宝二年三月三日ノ宴ニ、中納言家持 から(唐)人も船をうかべてあそぶとふ今日ぞ我せこ花かつらせよ」。『六百番歌合』、「後京極摂政 ちる花をけふのまどゐの光にて浪間にめぐる春のさかづき」。已下(いか)略。(「嬉遊笑覧」 喜多村筠庭 長谷川等校訂)
松竹梅
この酒は凄みのある吟醸酒であった。昭和の初めごろ、同社の宣伝文句のように「松竹梅」は高値でかつ人気があったというが、はたしてこのような吟醸品質であったかどうかはわからない。それにしても「松竹梅」は凄い吟醸をつくれるものだと感心していた。かつ、二リットル二万円という値段ではたしてまだ吟醸品質を知らない市場はそれを認めていたのかと思っていた。いつかはその酒を「幻の日本酒を飲む会」のテーブルに載せようと思っていたら、市販は取りやめのなり、王冠に付された当たりくじの商品になってしまった。その案内を読むと、市販酒五〇〇本に一本が当たりだという。こうなっては手に入れる方法はない。その時、頭をかすめたのが昭和の初め一本五円であったという宣伝文句である。我が家に武内宿禰の十円札があったのを思い出した。金化ママ兌換券でイノシシと呼ばれたやつである。それと同時代の五円札もあった。今日の商品でないものを購うのに、昭和初期の商品だから昭和初期の貨幣でわけてくれといってみよう。「松竹梅」の宝酒造に、「幻の日本酒を飲む会」のいいさつを書き、金十五円で酒を二本分けてもらえまいかと手紙を出した。しばらく音沙汰がないのでこの洒落は効かなかったかとあきらめかけたころ、東京支店から「酒を取りに来い」と連絡があった。やっと通じたとばかり受け取りに出かけた。対応してくれたのは酒蔵に添加用アルコールを売っている顔見知りの担当で、迷惑そうに品物を渡してくれた。これさえ手に入ればいい。持つべきものは先祖だと仏に感謝したもんだ。(「「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎)
早苗饗焼酎
福岡の粕取焼酎は、夏期の腐敗もなく、貯蔵すれば品質が高まることなどから、農民を中心に大衆酒として発展し、農村文化の担い手のひとつになっていた。江戸末期には小農で三駄(駄とは馬一頭に重量で三六貫、つまり約一二〇キロを一駄の重さとした)、大農で七駄の酒粕を仕入れて焼酎を煎じ、下肥肥料の製造を続けてきたとの記録もあり、その生産量は非常に大きいものであった。大農七駄で九四五キロの酒粕になり、酒粕のアルコール含有量から逆算すると、二五度のアルコールを持つ焼酎が二〇〇リットル(一升ビンにして約一〇本)も造っていたことがわかる。後述するが、粕取り焼酎はこの筑前筑後から発して全国に伝播していき、早苗饗(さなぶり)焼酎として根をおろしていく。「早苗饗」は「早上(さのぼり)」であり、「サ」は稲の意で、つまり田植えが済んだ祝いのことである。したがって、その頃に飲む焼酎だから早苗饗焼酎といったが、別の重要な意味としては、下粕を水田の肥料とすると多収穫になるというので、豊作を約束する焼酎ということからもこの名がある。(「銘酒誕生」 小泉武夫)
酒(さけ)を売(う)る家(いえ)(劉克荘)(1)
南宋末の詩人劉克荘(りゆうかつそう)(一一八七-一二六九)。八十三歳と長生きする。もとより進士出身だが、文名(「江湖派」と呼ばれる一派の首領格である)があまり高いので、皇帝の命令によって特別の資格があたえられたという。多作家だが、官職を辞してからの詩を私は好む。乞食が門前に立つと、今は俺だって金がないんだ、といって追いかえしたりする詩もある。読んでいて、思わずおかしくなる。こんな詩もある。
小憩(しようけい)す 城の西 酒を売る店
緑陰 深き処に 啼く鴉(からす)あり
恐らく散歩に出たのだろう。方向としては、城(まち)から西の方角である。ぶらぶら散歩といえ、今日は、東西南北、どちらへ行こうかと迷うものである。それが散歩の楽しみの一つでもあるが、この日は西へ向かった。歩きだした時から、気持ちのすみっこに居酒屋(売酒家)のイメージがあったにちがいない。昼間から店を開いているのだろうか。日暮れになる、すこし前に着いたのか、そのあたりはっきりしないが、そのお目当ての居酒屋に入ってめでたく一服する。店の中から外を見やると、鴉の啼き声がする。どうやら緑陰深き樹林の中に隠れているらしく、その姿は見えない。(「酒を売る家」 草森紳一)
フランシスコ・ザビエル
キリスト教を日本に伝えた彼は、ワインをキリストの象徴として紹介したのだろうが、反対に、このザビエル、日本酒をはじめて飲んだ西洋人だったとも考えられている。約二年間の日本滞在中、日本の風習や文化に大いに接したザビエルは、日本の酒にも興味を示していた。たとえば、インドのゴアにあったイエズス会本部へ、こんな手紙を送っている。「食物は麦もあり、野菜もあり、その他あまり力のない食物があるけれども、主食物としては米しかない。米から酒をつくる。酒は少なくて高価だ」いくら酒が高価だといっても、ザビエルは、当時の日本人がはじめて見たヨーロッパ人だ。日本人はザビエルに「さあさ、まあ一杯」と酒ぐらいすすめたろう。また、観察眼が鋭く、好奇心にも富んでいたザビエルは、日本酒を飲んでいたはずだと考えられるのである。(「酒のこだわり話」 博学こだわり倶楽部編)
酒の飲み方
本県の酒はどれもおいしいが、何人かの酒造家に聞いたお酒の飲み方を紹介しよう。まず、酒の良しあしの見分け方。大館市の北鹿酒類製造の石田徳太郎社長は「燗した酒がやや醒めてから飲んでみて、うまさが変わらない酒」という。燗冷ましはまずいものだが、中にはそれほど味の落ちない酒もある。ただし、超アツ燗にすれば、やはりどんな酒もだめになるようだ。「酔ってきたらコップ酒に切り替える」と、常識の逆を行くのは八森町の「白瀑」社長、山本万悦氏。ただし、お湯を加えて酒を薄めるのだそうだ。最近、アルコール度を低くした酒が出回ってきて女性に人気があるそうだが、つまり薄めた酒のこと。こうしてもうまさに変わりがない酒なら上質だという。(「あきた雑学ノート」 読売新聞秋田支局編)
中酒 酒にあたる 韋荘
南隣 酒(さけ)熟ス 愛シテ相ヒ招ク 南隣(みなみどなり)の酒が熟(な)れたとて親切に招いてくれて
甲ヲ蘸(ひた)シテ傾ケ来リ 緑 瓢ニ満ツ。 こぼれるほど なみなみと瓢に緑酒を傾(つい)で来た。
一酔シテ知ラ不 三日ノ事 一ぺんに酔うてしまつて三日仕事を惰(なま)け
他(か)ノ童穉(どうち)ガ漁樵ヲ作スニ任(まか)ス。 漁(すなど)りも樵(きこ)りも子供らに任せきり(「中華飲酒選」 青木正児)
醸し人九平次 かもしびとくへいじ 久野九平次さん 萬乗醸造(愛知県名古屋市)15代目蔵元
昭和40(1965)年、14代目の長男として生まれる。東京でファッションモデルとして活躍。俳優の勉強をしながらパリなどでオーディションを受ける生活を送るが、表現者になれる舞台は家業だと気づき25歳で生家に戻る。高校の同級生の佐藤彰洋さんをスカウトして、先代杜氏や「東一」(佐賀県)勝木部長に学び、平成8年に新銘柄を立ち上げた。醸造や火入れなどのあらゆる面で改善に努め、国内外で評価される有名銘柄に。 ●語録 「ナチュラルをキーワードに、熟れた果実味、気品、優しさ、懐かしさを感じて頂ける味わいをめざす」「輸入牛を鉄人が料理しても和牛にはならない。日本酒も同じ。技術でできることには限界がある。これからはもっと米に目をむけていきたい」 ♠最も自分らしい酒 純米吟醸 別誂「醸し人九平次」 山田錦 精米歩合35% 著者コメント シルキーなタッチ、ゴーシャスな旨味が弾けて、爽やかな果実のような余韻が長く漂う。あでやかさと気品を備える世界品質。 ♥著者の視点 186cmの長身に、精悍なマスク、大きな身振り、手振りで話すスケールのデッカイ男、家業を立て直してトップブランドに育てると同時に、国酒としての日本酒を見直してもらおうと、「日本酒の日」に銀座を行進するイベントをしかけたり、フランスへ酒を持参してシェフに味を確かめてもらう活動を続ける。現在は山田錦の、自社栽培にも挑戦。名詞には「醸造家」とある。(「目指せ!日本酒の達人」 山同敦子)
安永邪正録
今日は桃林の「安永邪正録」というものを小一時間ばかり詠んでみた。この講釈は明治二十七年の『百花園』に連載されている。一ト昔前に私はこれを通読したのだが、こうして漫然と読んでみてもなかなか面白い。読んでゆくうちにこんなところがあった。 「日傭取りの勘五郎という者が、真ッ黒になりまして、仕事場から帰ってきまして女房がわかしておいた釜の湯を一杯、盥(たらい)の中ヘ打ちこぼして、汗を洗いおとし、垢と脂で湯の色も変わった盥を、落間におき、一枚の戸は戸揚げにのせ、一枚は門口へ横にいたし、真ッぱだかで、ふんどしも締めず、大あぐらをぶッかいて、箱膳を前に引きよせ、厚焼きの徳利へ燗をした酒をおのれの前へ引きつけ、きゅうりのとうの立って種沢山のをぬかみそにつけ、切りもしないで小口から丸ッかじりにし、欠けた茶碗で酒をガブガブ飲んでおります。女房はふんどし一つで『なにがし命』と入れぼくろをした腕の刺青を自慢げにあらわしたるは、わが夫の姓名とみえました。はばかるところもなく、今戸焼の火鉢で、長火箸を横に渡し、鰯(いわし)を焼いておりまする。その煙がボーッとおもてへ出まするは、さながら焼場にひとしく、折りしも門口へ、「勘五郎さん、おうちかへ」…」(「心にのこるさまざまな話」 宇野信夫)
あなたの問題はアルコールです
その晩、私はせっぱつまった思いで家族や友人に次つぎと電話をかけた。精神的にも経済的にも、支えがほしかった。入院しようと決心した。さもなくば回転木馬から降りられない。私には休息が必要だ。酒をやめなければならない。だが、夜がくると飲まずにいられない。とうとうボーン・クイン神父に電話した。神父はデトロイトの聖心更生センターを経営しており、私はテレビでインタビューしたことがある。翌日午後会う約束をした。クイン神父とは三時間も話し合った。つつみかくさず、私の生活のすべてをさらけ出した。淋しさ、憂うつ、怒り、人とのつまずき、仕事の挫折、自殺への思い、恐怖。神父は一言も口をはさまずに聞いていたが、私の話が終わると間髪を入れず、静かにしかし力をこめて言われた。「あなたの問題はアルコールです」。そのとおりだ。クイン神父はさらに、断酒しているアルコール症の友だちの話をして私に会うように言われた。この友人たちが私の断酒に手を貸してくれた。私ひとりの力ではできなかった。神父は同時に、心理学者ジャック・グレゴリー氏に協力を頼んだ。ジャックはすばらしい人で、これまでに多数のアルコール症患者を扱っている。酒と一緒にベイリウムをやめなければいけないことを、ついに私に納得させた。ジャックの熱意があればこそ、私は時間をかけて服用量を少しずつ減らし、やめることができた。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー) ベイリウムは精神安定剤のようです。
万紫千紅(4)
何がしの君のみたち[欄外。江戸見坂、土岐城州]に参りけるに、あるじ、暮るともかへしはせじな稀人(まれびと)のたづねくるまの轄(くさび)かくして、ときこえさせ給ひしかば
生酔の まはりかねたる 口ぐるま うちいでぬべき くさびなければ
菊
酒をのむ 陶淵明が ものずきに かなふさかなの 御料理菊
周信(ちかのぶ)のゑに猩々雪を盃にうけもちたるかたかきたるに
酔ざめに いざひとさしと 盃も ゆきをめぐらす 猩々の舞(「万紫千紅 大田南畝全集」 浜田義一郎編集委員代表)
老鼠酒-ネズミ酒
せっかく授かった子供が難産だったりすると、神仏に捧げたお線香の燃えかすを、お湯でといて妊婦に飲ませたりする古い習慣が、いまだに残っていたりするようです。口うるさい親族のいる一族に嫁に行った人は、男の子を動じても生まなければならないという、理不尽な圧力に耐えなければなりません。彼女たちは、必死なのです。医者や薬や神仏や迷信や、男の子を産むためには何にでもすがりたいのです。男の子を産み分ける方法が古くから考えられてきて、漢方の処方や、願いを叶えてくれる観音様や、名医が現れては消えています。それは今も綿々と続いているのです。めでたく子供が生まれたら、母親は体が弱くなっているので、体力を補うために「糖醋姜(トンツオウキヨ)」をつくってたべます。これは黒醋に小さな若い生姜とブタの手足や皮、ニワトリの足を入れたものです。ニワトリの腹の中にある殻のできていないタマゴにお酒を加え、半熟タマゴにして、体を温めるようにもします。日本の養命酒のような薬草を漬け込んで作った赤い「砵酒(ブツチヤウ)」というお酒も産後の婦人酒として売られています。そんな中で、最も良いとされているのが「老鼠酒(ロースチヤウ)」というお酒です。生まれたばかりの、まだ目の見えないネズミの子を漬けたお酒です。家を掃除していてネズミの子を見つけたら、生きたままお酒でよく洗い、蒸留酒に漬けて、ねかしておき、出産がある時に備えるのです。ネズミを捕まえるのが容易でなくなり、今はとても高いお酒になっています。ですから、ネズミの子を見つけると、すぐお酒に漬けておいて、高価で買ってくれる人を探すようです。(「雲を呑む 龍を食す」 島尾伸三) 平成12年出版の本です。
酒を飲む衆はあれども酒盛りをよくする人なし
酒を飲む者はいるが、酒宴をじょうずにする人はいない。酒宴・酒盛りは公けの場であるから、なおさら注意するべきである。『葉隠(はがくれ)』に、<欠伸(あくび)は見苦しきものなり。欠伸・くさめはするまじきと思えば一生せぬものなり。気の抜けたる所にて出るなり。ふと欠伸出(いで)候(そうろ)わば口を隠すべし。くさめは額を押さゆると止(と)まるものなり。又酒を飲む衆はあれども、酒盛りをよくする人なし。公界物(くがいもの)なり。気を付くべき事なり。かようの事ども、奉公人の嗜(たしなみ)、若き内に一一しつけたき事なり。>『葉隠』は山本常朝(つねとも(一七一九年)の口述。(「飲食事辞典」 白石大二)
酒友に
つかのまを生きるこの世の旅人を心やすらに泊めまするかな
ごくらくにさぞやお酒はなかるらむ君よ待ちませ三途あたりで
障(さは)りなく水の如くに咽喉(のど)を越す酒にも似たるわが歌もがな
逗子に帰る友を留めて
逗子行の荷札をつけてまゐらせむ君すごしませ酔ひ痴(し)るるまで
さめやらぬ夕べの酔ひのまなこには若葉の庭はまぶしかりけり
うま酒は低き温度にぞかむべしとうまず教へし人はいまさず(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎)
昔の酒宴献酬
〇昔の酒宴献酬は、漢土の酒もりに似て、今世のさまとことたがひたり。先(まず)我のみて、扨酒づきに酒をひとつうけて、是を持て対の人の前に置てまいらす。この時、歌詩或は今様・朗詠などうたひて、肴にせしなり。さりながら、京都将軍の時、もはや今世のごとくなりとぞ。(「嬉遊笑覧」 喜多村筠庭 長谷川外校訂)
古今夷曲集(3)
さん五の十五ほさんとぞ思ふ 紅葉狩の山辺にて人々酔りといふをきゝて 春房
まつかいに 酔ぬる顔は 紅葉見に 林間をして 酒すごすゆゑ
題しらす 一圃
本歌 只たのめ しめじひとつの 取さかな 座しきに酒の あらん限りは
久清
鳥と共に うとふ酒宴の肴にと 料る玉子の ふは/\の関
ひさきよ
謡ひまふ 袖はかへさも しら波の うてる鼓の 瀧呑の酒(「古今夷曲集」)
斉民要術
(北魏)大宝元頃 五五〇頃 『斉民要術』刊。撰者賈思勰(かしきょう)は、山東高陽郡(現在の山東省高蜜県近く)の太守。完全な農書としては、中国最古最大のもので、耕作の部、果樹栽培、特用作物、養畜鳥、農産加工(料理を含む)と最後の第一〇巻は非中国物産として主として南方系植物を説明している。『斉民要術』は、要術以前から以後の唐代までの諸書に比し記述が具体的なこと、採録事項の多いこと、家政書としても十分な内容を持っていることなどで内外で評価の非常に高い本である。能代幸雄、西山武一先生のすぐれた日本語訳(アジア経済出版会)(一九五七-一九五九)がある。-
酒、『要術』以前にも酒の記事は多いが、麹を用いた醸造法が具体的に見られるのは要術の四二例が初出である。麹用の穀物は、煮または蒸、あるいは蒸、煎、生を三分の一ずつ用いており、酒の加熱殺菌(火入れ)はしていない。(「一衣帯水」 田中静一)
ふとくしん【不得心】
承知しない事。「源平盛衰記」に『伊豆守は我だにも猶(なお)見飽かず、不得心なりと思ひて、猶もなしと答へければ、大将は負けじと云々』とある。
盃に 埃(ほこり)の溜まる 不得心 口説かれてる芸者(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)
戦地と銃後
マレーに向かった井伏(鱒二)や中村(地平)は、どうしたろうか。彼らはすでに船中で、太平洋戦争のはじまったことを知っていた。その後、日本軍は着々とマレーの要所を占領していった。ついに昭和十七年二月十五日には、シンガポールも陥落させた。こうした快進撃の後方について、マレー方面の文士組はシンガポールに入ることが出来た。そこでやらされた仕事というのは、軍司令部が接収した新聞社の運営だった。井伏に与えられたポストは、英字新聞「昭南タイムズ」の社長という肩書きだった。中村地平は英字新聞から翻訳して出す印度語新聞を担当した。他に中国語、マレー語の新聞があったらしい。それらはすべて同じ社屋にあったから、井伏と中村はここでも一緒だった。井伏はボール紙で将棋の駒をつくり、さっそく中村を誘ったという。戦地に来ても、井伏は悠々としたものであった。運もよかった。配属された部隊の隊長は、三好達治と無二の親友だった。幼年学校、士官学校とも同期で、卒業するまでベッドもずっと隣り合っていたというのだ。そんなことで親密になり、隊長は消灯後に井伏のところにウィスキーを持って来た。二人でよく飲んだという。-
ところで、戦地でなく阿佐ヶ谷に残っている文士たちはどうしていただろうか。まさか「阿佐ヶ谷会」など開いてのんびりしておれなかったろう。と思いながら調べてみると、彼らは昭和十七年二月五日に、御嶽へ悠々ピクニックに出かけている。同行者は上林暁、太宰治、青柳瑞穂、浜野修、安成二郎、木山捷平、それに案内者の林宗三(名取書店)の七人であった。御嶽は、中央線立川駅から青梅線に乗りかえて行ける、当時は終点の駅である。その駅の近くに玉川屋というそば屋があった。そこにそばを食いに行くのが、「阿佐ヶ谷会」の目的であった。そのときの記念写真がある。それを見ると、上林は洋服だが、太宰などは相変わらず着流しである。彼ら一行は、終点の一つ手前の沢井駅で下車し、御嶽までぶらぶら歩いた。途中、寒山寺に立ち寄って鐘をついたり、河原で弁当を食べた。玉川屋では恒例の将棋会を催した。酒も飲んだ。肴には蕗のトウや鯉のあらい、鮠(かい)の焼いたのなどがあり、みんな喜んだ。最後にそばが出たが、一人で五杯食べた人もあったという。こうした楽しい会の途中も、話題になるのは、南方戦線に従軍している井伏や小田(嶽夫)のことだった。そこで激励の意味をこめて、二人のために寄せ書きをしたためた。こうして彼らは夜の九時二十六分、御嶽山から家路に着いた。(「文壇資料 阿佐ヶ谷界隈」 村上護)
そういうもんですよ
なぎら健壱さんといえば、筆者を、「酒呑み」ならぬ「酒呑まれ」と命名してくださった恩人であります。実は、我々が仲間とつくった『酒とつまみ』という雑誌のことも、たいへん応援してくださっている。ゲストで来ていただいていたり、神保町ブックフェスのワゴンセールを覗きにきてくださったり、古くは「タモリ倶楽部」出演時にも目をかけていただいた。さらに言えば、実はなぎらさん、「酒とつまみ」を私と一緒に創刊し、その後編集発行人となったW君が代表の「酒とつまみ社」の、社歌を作詞作曲しているのです。冒頭の一行は、こうです。 酒の海から朝日が昇る すごい、デロデロに酔った挙句の朝帰り、見上げた空に朝日が昇る、その荘厳なまでの美しさよ。すごいぞ。アタシの朝だ、と、歌詞を知らされたとき、筆者は感涙にむせぶという状態になったのです。そして、この歌の収録の日。スタジオでお会いしたなぎらさんは筆者に最近どうですかと声をかけてくれた。それに対して筆者は、「五十も過ぎたってのに、最近、余計に酒が長くなっていまして…」と言いよどんだところで、なぎらさん、筆者の顔をじっとみて、一秒ほどの無言ののちのひと言。「そういうもんですよ」染みたねえ、気を付けろ、なんて言わないんだ。いいですよね。(「酔っぱらいに贈る言葉」 大竹聡)
ぬる燗
日本酒の香味の最もまとまりのいいのが三五度というのはほぼ体温に近いわけで、この紹興酒の燗付けでは温度が上がったとしても三五度くらいがいいところではあるまいか。紹興の老舗レストラン・紹興飯店では、その長い歴史の中で燗付けをするのはこれが一番いいやり方と割り出しているのだ。こうしてみれば、日本酒、紹興酒とも内容のいいものであれば、このようなぬる燗こそがベストということになる。佐々木久子氏の『酒』が五百一号をもって休刊となり、その慰労パーティーが二十名ほどの内輪で開かれた。その時は越乃寒梅や賀茂鶴などの大吟醸が並んだが、当の佐々木久子氏や元醸造試験所長の大塚謙一氏、それに私も含めた多くはぬる燗で傾けた。吟醸といえば冷やすもの、というワンパターンのドリンカーも中にはあったが、多くの酒通はぬる燗の旨味を熟知していたのである。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎) 紹興飯店では、「湯の中に錫製の酒器を入れて燗をつける」そうです。
いのちあほり
酒あほりいのちをあほり
旅を行き旅に逐(お)はれて
檀一雄『さみだれ挽歌』の一節。太宰が入水した時に送った詩だ。赤塚の酒は、まさに「いのちをあほり」という飲み方だった。スッパリ自殺する勇気がないから、酒の力を借りて、緩慢な自殺を計っているように見えた。赤塚は、この頃を回想して言っている。平成六年から始まった週刊プレイボーイ『赤塚不二夫の「これでいいのだ」人生相談』の回答から再録する。 漫画描いてて、いつも今迄やった事もない新しい挑戦するのって大変だろ。特に10年前くらいかな、50を超えたあたりで体力もガクッと衰えた頃が一番シンドかった。だから、なるべく描きやすいテーマで、絵も描きやすいようにして漫画をスタートさせちゃう。人物も少なく、人間関係も単純で背景の絵も簡単になってく。ストーリーだって、昔描いてたものの焼き直しさ。楽に楽に漫画を描こうとしているうちに、ちっとも描いてるのが楽しくなくなる。で、人気もどんどん落ちる。そうなったらジタバタしてもしょうがないんだ。(「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」 武居俊樹)
合成酒
ところで、篠原(次郎)さんに呼ばれた唎き酒の会のあと、おくればせながら、日本酒の勉強をはじめて、日本酒の実情を知り。、驚くことがいくつもあった。その最たるものが、いまや、清酒と呼ばれるもののほとんどが、米と米麹(こめこうじ)と水だけを原料にしていないということであった。ということは、醸造用アルコールを加えている。これ自体は悪いことではないらしい。現に、名酒「越乃寒梅」の蔵元でも、いい酒をつくるために必要であると言っている。ところが、多量につかうと、味が辛口になりすぎるため、軌道修正に、さまざまな糖類を添加するのである。これが、日本酒をまずくする原因のひとつなのだ。昔ながらの、米と米麹と水だけを原料にしてつくった酒を清酒と呼ぶなら、明らかに、これらは合成酒である。それなのに、どちらも清酒を名のることが許されているのが現状で、昔ながらの原料、古式にのっとったつくり方で出来上がった清酒を純米酒と呼ばなければならないとは、情けない話である。(「食卓のプラネタリウム」 山本益博)
ギャンブリングライフ
船戸(与一) 対局前に大酒呑(の)む棋士はいないですか。
森(鶏二) いまは少ないですね。終わってからは大酒呑みますけど。
船戸 二日酔いで指すという人はいないですか(笑)。
森 いないわけじゃない。わたしが一番多いかもしれない(笑)。相手にもよるんですよ。明日の相手は二日酔いでも勝てるだろうと思うと、呑んじゃったりね(笑)。そうすると油断するから思わぬところで負けちゃったりする。(「ギャンブリングライフ」 森鶏二)
酔いと興奮が同居
七時四十余分、電話のベルが鳴り、受話器を取れば聞き覚えのない声。かねてより"知り合いの編集者ならば、落選の通知"と知らされていたので"もしや"と思う。次の瞬間、機械の中の声は「日本文学振興会ですが、あなたの作品集が直木三十五賞受賞と決定しました。お受け下さいますか」「はい、喜んで」と答えたとき、三氏より拍手。ビールで乾盃。直ちに新橋第一ホテルへ赴き記者会見など。その後、銀座の"絲"へ行き、各社編集者諸氏のお祝いを受ける。"まり花"へ廻れば、今夜同じく直木賞を受けられた田中小実昌さんが色川武大さんと一緒に見えておられる。吉行淳之介さんもいらして、ここでも乾盃。再び"糸"へ戻り、編集者諸氏と、"スリー賀川"へ。明朝のテレビに出なければいけないので、アルコールの量を若干ひかえたせいもあるのだろうが、いっこうに心地よい酩酊(めいてい)がやってこない。頭の中に酔いと興奮が同居しているみたい。アドルムとヒロポンを一緒に飲んだら、こんな気分だろうか。(「酒中日記 祝い酒の日々」 阿刀田高)
あかさか【赤坂】
③麻布の北に隣つた一地域。赤坂目付を承り、青山に至る表町の南北の総称で、総州大山街道の衝に当つて居た。徳川家入部の際、東海道赤坂駅の若者の江戸に出て諸家に奴僕として仕へた為めに賜ふた地なので、赤坂の称があると伝へられる。
下戸の礼 四谷赤坂 麹町 長居をせず廻る(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)
出張
自由席 乗って差額で 缶ビール 川柳取締役
飲む女
飲み会が 嫌いと言いつつ 厚化粧 タマブラ婦人
飲みすぎの 吐(は)き気つわりと まちがわれ 新妻
第一生命創立九十周年記念 ピカ一どじょう
酔うと出る 俺が出世を しない理由(わけ) 二級酒党
晩酌に 毎日通う 販売機 五十路(「平成サラリーマン川柳傑作選①一番風呂・二匹目」)
サケのおぼろ煮 とろりとした昆布がからまって旨い
作り方 ①サケは1切れを3~4等分のそぎ切りにする。 ②サケにおぼろ昆布をグルグルと巻きつける。 ③鍋に調味料を煮立て、①のサケを加えてから弱火にして10分ほど煮て仕上げる。
材料(2人前) サケ…2切 おぼろ昆布…20g だし…1カップ しょうゆ…大さじ1 酒…大さじ2
このつまみに、この一本
秋鹿 純米吟醸にごり生酒/大坂 日本酒度…+5 酸度…1.8 価格…1650円(720ml) ●オボロ昆布のとろりとしたつまみにはやはりとろりとした舌触りの酒を合わせたい。適度な刺激のこの酒は米から酒造りをする蔵ならでは。そのコストパフォーマンスもありがたい。(来会楽)(「新・日本酒の愉しみ 酒のつまみは魚にかぎる」)
一茶の酒句(5)
1608酒尽(つき)て 真(しん)の座に付(つく) 月見哉 (八番日記)
1608真の座-ほんとうに月を賞する座。
1662曲水(ごくすい)や どたり寝ころぶ 其角組(きかくぐみ) (八番日記)
1662曲水-三月三日の曲水の宴。 其角組-俳人其角のグループ。酒呑みで放埒な連中と見立てた想像句。
1755とふ(う)ふ屋と 酒屋の間(あい)を 冬籠(ごもり) (八番日記)
1861上下(かみしも)の 酔倒(よひだふれ)あり 花の陰(かげ) (文政句帖)
1861上下-礼服姿の武士か。(「新訂一茶俳句集」 丸山一彦校注)
三損のみだ
一、禁呪(まじない)は少彦名(スクナビコナ)の尊(ミコト)より御初(ハジ)め給ひて人の病(ヤマ)へをなおし被レ遊(アソバサル)。然(シカ)る処(トコロ)、人多くなりて気遣(きづか)ひ多き故に、禁呪ひ斗(ばか)りでは病へも治(ぢ)し兼ぬる故に、酉(さけ)を御造りなされて用(モチ)えさせて病(ヤマイ)をなをしたる。ところが益々(マスマス)人が多くなる故(ゆい)に、心支(ココロヅカエ)も増て病気いゑ(癒)兼る故に、御考(オカンガ)へあつて豆(マ)めふじの根をほ(掘)り取て、酉(さけ)に浸(ヒタ)して葛根湯(カツコントウ)と名付て用(モチ)え、今七味調合(シチミチヨウゴウ)の葛根湯也。後世(コウセ)ひに及(オヨビ)常に酒を呑む故に、水をのべるに附てサン(サン)づいを付(ツケ)て酒と読む。依て、酒は百薬の長也。如レ此(カクノゴトキ)有難ぎ(ママ)御思召(オボシメシ)も存(ゾン)ぜづ大酒を呑(ノミ)気違になる程呑(ノム)は、恐入(オソレイル)ことでござると平田の大人(ウシ)の御咄(オハナシ)でござる。右の酒につひて一つの御咄し有り。三損のみだあり。其みだと言ふは大酒呑(ノ)みだ、一に銭損、二に手間損、三にわ命ち損、是ぞ三損のみだ也。此みだは信ずべからず。(「家訓集 吉茂遺訓」 山本眞功編註)
のめるやつ[飲める奴]鰹をいう
①兼好は何と云つても飲めるやつ (樽四四)
①徒然草百十九段に、兼好は鎌倉の海でとれる鰹という魚がいま非常にもてはやされているが自分の若い時分は下等な魚にすぎなかった、それが末の世になるとこんなに珍重されるという意味のことをいっているけれど、初鰹は酒を美味く飲める初夏の肴だとの句意。(「古川柳辞典」 根岸川柳)
きょうかい2号酵母(ごうこうぼ)
きょうかい2号酵母は明治末期に月桂冠の新酒より分離された.形態は小さな真円形の細胞である..顕微鏡下で一見して他の酵母と区別することができる.生理的にも他のきょうかい酵母と著しく異なり染色率が高く,醸造的特徴としては,初めは発酵緩慢のようであるが,後に発酵が旺盛となり,低温に適してかつ泡が軽く,香気も優良であった.大正6年から昭和14年まで頒布された.(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)
杉新道具之事
一、杉新道具ハ、底裏ににかりを引へし。蛀(むしくひ)なし。外輪(9)に渋(10)を引へし。酒気染(しミ)不申候。扨、始てつかふ時、熱湯にて洗ふへし。
杉でつくった新しい酒造用道具
〇杉でつくった新しい酒造用の道具は、底面の裏に苦汁(にごり)を引くこと。そうすれば虫食いにならない。たがには渋(10)を引くこと。そうすれば酒の気がしみつかない。さらに、はじめて道具を使用するときは熱湯で洗うこと。
新樽之事
一、熊野(11)木取ハ、木香(が)強し。故に湯ふりして、又、水ふりして、水気を乾かせ酒を詰へし。又、すぽん樽(12)ハ木香(が)弱し。依之、其儘詰へし。
新しい樽
〇熊野(11)産の木を使用した樽は木の香りが強いから湯を入れて振り、次に水を入れて振り、そうして水分を乾かしてから酒を詰めること。すほん樽(12)は木の香りが弱いから、そのまま詰めてよい。
(9)外輪 桶を締める輪。たが。 (10)渋 柿渋。渋柿の実からとった液体で、補強や防腐のために塗料として用いる。 (11)熊野 熊野地方。現和歌山県西牟婁(むろ)郡から三重県北牟婁郡にかけての森林地帯で、良質の杉を産した。 (12)すほん樽 未詳。(「童蒙酒造記」 吉田元
校注・執筆)
含宙軒師匠
一朝一夕で訓練できないのは話の泉で、堀内敬三先生の如きは、まさしく戦後派新人の明星であろう。よくまあ御存じになっている。あのメンバーは、日本歴史はあまり御存知ないが、西洋歴史をよく御存知なのには呆れかえるばかりである。専門とは云え、音楽もよく御存知である。しかし、あそこに、徳川夢声先生という珍優が一枚加わると、千鈞の重みとはこのことである。彼は含宙軒博士となり、含宙軒先生となり、含宙軒探偵となり、変装自在の特技者であるが、彼自身は本業を俳優と云い、文章のたぐいは副業であると称している。しかし、私の見るところでは、副業の文章が本職の文士以上にうまいが、俳優の方は、ややダイコンである。なんと云っても、彼の修練はクラヤミに於ける声の表現で、表情や身の動きは中年からの年期であるから、宙を含むの天分ありとはいえ、年期の遅きをいかんせん。表情はいささかテレくさく、手の置き場所にもいささか困っていらっしゃる。彼の映画は見ている方が辛いのである。ところが、表情や動きのいらないラジオとなると、さすがに違う。彼の天分は堂を圧してしまう。アア夢声は天才ナリと思う。そして、彼の声の登場するところ、春風タイトウとして、人心を和らげ、心底から解放を与えてくれる又と得がたい声の俳優と申すべきであろう。しかし、近頃はメッタに登場せず、登場してもいささか精彩に欠けているが、これは含宙軒師匠が禁酒しているせいだろうと思われる。我々文士が酒をのんでは、小説も書けないばかりで一向役にも立たないが、含宙軒師匠が酒をのむと、全国の皆様を春風タイトウとさせるのだから、ここは身命を投げうって酒をのむところかも知れない。(「戦後新人論」 坂口安吾)
(卅四)さかづき
玉(たま)の盃(さかづき)底(そこ)なきとても、とても契(ちぎ)らば二世(にせ)と結(むす)ばん、二世(にせ)と結(むす)ばん常陸帯(ひたちおび)、さてよい中(なか)(「松の葉」)
西田酒造店の喜久泉
西田酒造店にはまだ旨し酒がある。そのひとつが、明治期から継がれてきた銘柄、「喜久泉(きくいずみ)」だ。主に地元向けに出荷されてきたため、全国区ではほとんど知られていない。「田酒」が純米酒であるのに対し、こちらは吟醸酒や大吟醸。とはいえ香りは控えめで、すっきりとした飲み口の、倍賞千恵子さん(不幸な過去を背負ってない役のとき)の笑顔を彷彿とさせる味わいである。この「喜久泉」、ことに「吟冠 吟醸造」(青いラベルが目印)は、一升瓶で2000円というお手軽な金額ながら、魚貝類との融合性が極めて高いスグレモノ。ご家庭でゆるり楽しむ用の土産としてもおすすめなのだ。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子)
陣鍋
同八年よりは毎年二月十二日、自ら甲冑を著して東照宮の遺物を拝し、了りて藩士一同戎装して主君の前に出で、ともに泰平を祝することゝ定め、之を小石川の後楽園に行ふ。此日は階下に陣鍋を設けて酒を温め、近侍の臣をして紅白の母衣(ぼろ)を著け、長柄の銚子をもて之を酌みて諸士に賜はしめ、肴の如きも打鮑(うちあわび)・勝栗(かちぐり)を用ゐたるなど、全く戦陣の法に習ひ、治に居て乱を忘れざるの盛意を示さる。此式を始め行へる後数日にして、大塩平八郎暴発の警報府下に喧伝せしかば、人皆烈公が先見の明に服せり、(「徳川慶喜公伝」 渋沢栄一) 江戸にある水戸徳川邸での徳川斉昭です。
松尾大社
松尾大社には、昭和初期の作庭家・重森三玲(しげもりみれい)のデザインによる庭園が三ヵ所ある。徳島県吉野川(よしのがわ)産の"青石"が大胆に配置されていた。この奇抜な造園、見る人にいかに評価されるだろう。境内を流れる小川に沿ってヤマブキが植えられている。花の咲く季節(四月から五月初め)は社殿からの眺めが華やぐという。すみれさんのオススメだ。「ちょっと見んうちに、べっぴんさんになったなあ」宮司長らしき男性が声をかけて通り過ぎた。境内のあちこちに、神様の乗物とされる亀(かめ)と鯉(こい)の石像が点在する。亀の背でゆっくりと進み、急がば鯉に乗る。神様の奔放な発想を象徴しているらしい。また、裏山から流れ落ちる"霊亀(れいき)の滝"に近づけば冷風が吹き下ろし、"亀の井"なる霊水が湧(わ)く。その霊水を酒造りの仕込み水に混ぜれば旨酒となる。この"亀の井"の傍らに、"旨酒"を詠んだ句碑があった。松尾大社、なんとも遊び心満載ではないか。(「酒は人の上に人を造らず」 吉田類)
闇市由来の呑み屋
東京では、有楽町や新橋のガード下や、新宿西口の通称「しょんべん横丁」(思い出横丁)、上野のアメ横から御徒町駅までの一帯、そして吉祥寺のハモニカ横丁などが闇市由来の一角として有名であり、それぞれ独特の雰囲気がある。中央線西荻窪駅南口の焼き鳥屋「夷(えびす)」の周辺や、武蔵小山駅周辺の雑然とした路地の呑み屋街などにも闇市の匂いがまだ漂っており、横浜の野毛周辺にはさらに匂いの濃いところがある。(「日本の居酒屋」 マイク・モラスキー)
徳川綱吉
忠臣蔵の赤穂浪士サイドには、この由良之助でも、義士外伝で、「徳利の別れ」をした赤垣源蔵でも、一杯ひっかけて高田馬場の決闘に駆けつける堀部安兵衛でも、「いける口」の登場人物が多い。しかし、彼等と彼等の主君を最も厳酷に処分した将軍綱吉は、同時に嫌酒論者であって、野間光辰氏は「病的酒嫌い」とレッテルを貼る(『西鶴年譜考証』)。(「慶喜とワイン」 小田晋)
475わが部屋
A「君、夜遅く酔って帰った時なんか、団地生活で、部屋を間違えやしないかね?」
B「それが大丈夫なんだ。というのは、出鱈目にドアを開けて行って、箒でいきなり殴られた部屋が墓くんとこに決まってるからね」(「ユーモア辞典」 秋田實編)
べろべろ[形動]
ひどく酒に酔って正体をなくすさま。<類義語>ぐでんぐでん・へべれけ・べろんべろん◇『春泥』冬至・二(1928年)<久保田万太郎>「いくら酔つても正体をなくすといふことはなかつた。-どんなにべろ/\になつても行きつくところまでは必ず行きついた」◇「野孤」(1949年)<田中英光>「桂子は、ベロベロに酔つて」
べろよい(べろ酔い)[名]
べろべろに酔うこと。正体をなくすほど酔うこと。◇『古川ロッパ昭和日記』(1939年12月9日)「ベロ酔ひなので」
べろんべろん[副]
「ベロベロ」に同じ。◇『緑に匂う花』幸福の予感・一(1952~53年)<源氏鶏太>「次郎は、安酒にべろんべろんに酔っぱらっていた」◇『ハルさんちの母子ケンカ日記』第3章(1996年)<下田治美>「べろんべろんに泥酔していたことも」(「日本俗語大辞典」 米川明彦編)
甘酒あまざけ
夜ふけて外を、あまァざけ/\とよんでとをる。「甘酒よ。一ぱいくれろ」「アイ、今夜はうりきつて、もふなし。あまり寒いによつて、呼ばつてばかりいくのさ。あしたあげよふ」「ヲゝそんなら、おらも飲んだ気でいよふ。ぞろ/\/\、ヲゝあつたかい」(富来話有智・安永三(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)
貧富下戸上戸 ★世はさまざまの謂(いい)。
下手な大工でのみ一丁 ★飲むばかりでほかに芸がない、の洒落。
ぼちぼち三升 ★ゆっくりと少量ずつ,長時間かけて大酒を飲むこと。「ぼちぼち参上」との同音異義にかけた洒落。
焼味噌で夕酒 →112にあるように、貧中の贅。
焼石が飛び出る ★酒飲みの欲を抑えることは難しい、を遠回しに言っている。→渇酒
焼石に熱湯をかけるよう ★酒徒が酒にありつき、盛んに飲みしれるさま。
酔いの間違い、醒めての分別(ふんべつ) ★サマにならなかった酔っ払いも、醒めてしまえば道理をわきまえた人に戻る。
牢番の盗み酌 ★取り締まる側が悪事を働くことのたとえ。(「日本の酒文化総合辞典」 荻生待也)
びんぼだる【貧乏樽】
粗製の白木の樽。其の多くは五合入か、一升入であるが、硝子壜の無かった時代には、之れが専用されたのである。
人同じからず 薬瓶と びんぼ樽 花見の酒と茶(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)
一茶の酒句(4)
1061下戸(げこ)村やしんかんとして梅の花(成美評句稿)
1334名月や芒(すすき)に坐(座)とる居酒呑(いざけのみ)(七番日記)
1334希杖本は「さらしな山」と前書し、中七「芒の陰の」。七番日記(化8)には中七「女だてらの」
1403梅咲くや現金酒の通帳(かよひちやう)(七番日記)
1430朝不二(ふじ)やトソノテウシ(屠蘇の銚子)の口の先(七番日記)
1430不二-富士山。 トソ-屠蘇。同日記(政1)に「御関やトソの銚子の不二へむく」
1476野ゝ(の)宮の神酒陶(みきどくり)から出(でる)か哉(七番日記)
1476野の宮-斎宮または斎院になる皇女が潔斎生活をする宮。京都郊外の嵯峨や紫野にあり、簡素な造りの仮宮。 か-蚊(「一茶俳句集」 丸山一彦校注)
あのとき酒を覚えなかったら
井伏(鱒二)に亀井(勝一郎)を近づけたのは、太宰(治)であった。太宰は三鷹に移り住んでからは、亀井とよく酒を飲んだ。というより、太宰が行きつけの飲み屋に行くには、亀井の家の前を通らなければならなかった。すると亀井も外出して、その飲み屋に行くのであった。亀井はコップ一杯のビールさえ、半分は残すほどだったという。だが太宰と付き合うようになってからは、とみに腕をあげた。のちにはウィスキーの角瓶を、一晩であけることもあったというから、大変な成長である。亀井夫人はそのことにふれて、『回想の人亀井勝一郎』の中で、「私は今はっきりいうが、彼を酒へいざなってくれた太宰治に感謝したいのである。あのとき酒を覚えなかったら彼は五十九歳までさえ行き得なかったかも知れない。神経をしびれさせ憂さを晴らしてくれる妙薬と才気あるよき友あったればこそ、彼はあの危機を過し得たのだと思う」と印象的に書いている。酒にしても釣りにしても、亀井の場合は、ただちに効用があったわけだ。(「文壇資料阿佐ヶ谷界隈」 村上護)
越(こし)の寒梅
のど越しの 水に似しとや この酒を 越しの寒梅とは げにや名つけし
旅先にて『越の寒梅』を送られて
名にし負ふ 豪雪衝きて 急便は 越の寒梅(うまさけ) 運びけるはや
このとしの み造りやすけしと うま粕の 香りも味も 我に告けめる
たべ酔ひて 小夜の寝覚めも あやしきに なおひとつきと 冷やのまにまに(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎)
古今夷曲集(2)
或座頭関東より上りに(一本京へのぼるとて)上戸が原といへる所にとまりしをいたはれる大名より酒にそへ給へる歌
行暮れて 上戸が原を 宿とせば 酒やこよひの あるじならまし
或処にて酒宴なかはにくわゐ(慈姑)としいたけ(椎茸)を肴に出し今ひとつとすゝめけるをいなび(否み)けれは亭主のよめる
肴には 是をくわゐ(慈姑と食え)と たてまつり 今一つとそ 酒をしいたけ(椎茸と強いた)
悪敷(あしき)酒をつよくしゐ(強い)けれは打笑ひて
この酒は 夏のかりねの 床なれや か(香と蚊)はうるさくて のみ(飲みと蚤)憎きなり(「古今夷曲集」)
荊楚歳時記
(梁) 六世紀中頃 『荊楚(けいそ)歳時記』刊。宗懍(約四九八~五六一)撰。日本の食物関係年中行事(屠蘇、七草粥、灌仏会、端午、七夕など)はこの歳時記に起因するものが多い。(「一衣帯水」 田中静一)
良酒あらば飲むべし
友来たらば飲むべし
のど、渇きたらば飲むべし
もしくは、乾くおそれあらば飲むべし
もしくは、いかなる理由ありといえども飲むべし
ヘンリー・オールドリッチ
田村隆一『ボトルの方へ 酒神讃歌』(河出文庫)
ヘンリー・オールドリッチ 一六四七-一七一〇年、イギリスの神学者、哲学者、作曲家。オックスフォード大学クライスト・チャーチ学寮長(「酔っぱらいに贈る言葉」 大竹聡)
酒を過ごし美食を多くするものは痔(じ)の腫(は)れ物が出る
いつも酒を多く飲み、味のいい食物をたくさん食べる者は、痔疾の腫れ物ができる。沢庵和尚(たくあんおしよう)の細川光尚に贈る書に、<先々御腫れ物殊(こと)の外痛く候処(そうろうところ)、今程(ほど)御快気の旨(むね)、何より以(もつ)て珍重存じ候。常に酒を過ごし、美食多く参り候衆に、左様の所の腫れ物出(い)で候。然(しか)れども御手前は御酒参らず、又悪食(あくじき)も成されず、美物も多くは参らざる由内々承り候。今度の御腫れ物不思義(議)に存じ候。弥(いよいよ)肉の物どもは、常に参るまじく候。牛・鹿(しか)・狸(たぬき)、その外の獣等は、魚類より強く候。魚類も数多(あまた)物にて候間、熱物強き物を避けられ、味の能(よ)く候うて、毒に成らざる物の浅きを参るべく候。>という。(「飲食事辞典」 白石大二)
万紫千紅(3)
寺前紅風[欄外 楓]
てらまへで 酒のませんと もみぢ見の 地口まじりの 顔の夕ばへ
江村飛雪
酒かひに ゆきの中里 ひとつぢに おもひ入江の 江戸川の末
何がし君のみたち[欄外。江戸見坂土岐城州]に参りけるに、あるじ、暮るとも かへしはせじな 稀人の たづねくるまの 轄(くさび)かくして、ときこえさせ給ひしかば
生酔の まはりかねたる 口ぐるま うちいでぬべき くさびなければ(「万紫千紅 大田南畝全集」)
王禄おうろく 石原丈径(たけみち)さん 王禄酒造(島根県松江市) 6代目蔵元・杜氏
昭和40(1966)年、5代目長男として生まれる。関西大学工学部(制御工学)大学院修了。酒問屋で2年間働き、平成2年家業に就く。普通酒を中心に地元で販売してきた。大阪の「山中酒の店」に酒を持参するが、ほかの酒を飲んで、自分の酒の不味さに衝撃を受ける。自ら造ることを決め、広島県工業技術センターで学び、平成7年造りはじめた。24年に6代目に就任。愛読する雑誌は『Wewton』、趣味はバイク(ハーレー乗り)。 ●語録「この程度でいい、なんていう態度は物造りではあってはならない。人間が酒にしてやれることなんてわずかなことしかない。我々はそれをつきつめていくしかないんだ」「機械のできることには限界がある。機械では対応できないことを凌駕できるのが、人間の力なんだ」 ♠最も自分らしい酒 「王禄 丈径」 山田錦(東出雲町産)精米歩合55% 著者コメント:濃密な旨味と弾ける酸、疾走感と躍動感の抜きんでた王禄らしい酒。ミネラルのニュアンスが食欲を刺激する。鯖、とんトロなどをシンプルに調理して食べたら至福。 ♥著者の視点 強烈な存在感と凜々しさに一口飲んで虜になった。その味は、冬の間、外の世界と交渉を断ち、酒蔵に籠って造りに専念することで産み出される。理論を突き詰める工学修士であり、滾る熱い思いを胸に抱くアーティストでもあり、人にとことん惚れぬく丈径さん。酒は、造る人物の投影である。(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子)
酒渇愛江青 酔醒めの水に川の清きを愛する
酒渇 何ノ方カ療ス 酒後の渇きを止める妙薬は
江波 一掬 清シ。 小波(さざなみ)の清き流れの一掬(ひとすく)ひである。
甌(オウ)ニ瀉(そそ)ゲバ練色ノ如ク 碗に瀉(そそ)げば練絹(ねりぎぬ)の色の如く
歯ヲ漱(すす)ゲバ泉声ヲ作ス。 歯を漱(すす)げば泉の声がする。
味ハ帯ブ他山ノ雪 他山の雪の味を帯び
光ハ含ム白露ノ精。 白露の精の光を含む。
只応(ただまさ)ニ千古ノ後 恐らく千代も変らず
長ク伯倫ノ情ニ称フベシ。 長く酒豪の気に入るであらう。
〇酒渇 酒を飲んで咽の渇(かは)くこと。 〇方 薬の処方。 〇甌 茶碗のたぐひ。 〇他山 「他山之石」と云ふ語が「詩経」に有るので、何げなく用ゐたまでであらう。 〇伯倫 酒豪として名高い晋の劉伶の字(あざな)。(「中華飲酒詩選」 青木正児)
福小町
明治十四年、天皇の巡幸のお供で湯沢の木村酒造店に一泊した徳大寺実則公が、出された酒に「福娘」と名付けた。大正中期、「福娘」が東京に進出すると、灘の大手メーカー「富久娘」から類似商標だと文句がついた。しばらく商標登録問題で争ったが、結局、小野小町にあやかって「福小町」と名前を変えることに落ち着いた。(「あきた雑学ノート」 読売新聞秋田支局編) 湯沢市田町2-1-11にある酒蔵です。
柚子味噌
ところで、京都は山科(やましな)で遊興三昧した遊び人、ともいわれる大石内蔵助。赤穂義士の頭領であり、忠臣蔵の立役者であったことが知られるが、実際の彼は、我々が抱くイメージを裏切るような、やせた小男だったという。しかも、風貌は梅干しのよう、豪快な色男からはほど遠いというのが実像だ。実生活でも質素に徹(てつ)していたようだが、それが大望成就につながったとみる人もいる。彼がいかに質素な暮らしをしていたかを物語るものとして、彼が日常的に酒の肴にしていた一品があげられる、その一品とは、柚子味噌。ふろふき大根や田楽(でんがく)に用いられるあれだが、柚子をきざんで味噌と合わせたものに柿の肉を加えてつくられる。柚子の香りとほんのりした甘みが漂い、彼はこれをなめては、酒を飲んでいたらしい。(「酒場で盛りあがる酒のこだわり話」 博学こだわり倶楽部編)
夢中 路を識らず
言う勿れ 一樽(いつそん)の酒と
明日 重(かさ)ねて待ち難(がた)し
夢中 路を識らず
何を以てか相思(おもい)を慰(なぐさ)めん
逢っている時、さあ一杯、どうだなどと気楽に酒をすすめたりしないでくれと、沈約は言う。なぜというに明日の日にも、かさねて酒を酌み交わせるという保証がお互いにないのだから、つらくてたまらぬからだと。この詩人、老いてすこし神経質になりすぎている。といえなくもないが、その気持ち、わからなくもない。神経質になっている老詩人沈約(しんやく)はなおも言う。なあに、明日逢えないといっても夢の中なら逢えるさ、などと気軽に言わないでくれと。「夢中、路を識らず」。夢の中で道に迷いでもしたなら、俺たちは逢えないんだぞ、夢の中で逢うのもいいが、もしそうなったらお互いの思いのたけを語りあって、慰めあうのさえ、もうできないではないかと。官僚としては成功者であった沈約も、「死」にはおびえている。(「酒を売る家」 草森紳一)
沢ガニの空揚げ
ある時、湯布院に行って焼酎を飲もうということになり、焼酎に合う肴を数品前もって頼んでおいた。いざ宿に着いたところ、「山家(やまが)料理」というのだそうで、イノシシ鍋や川魚、山鳥などの料理が出てきた。中でも一番麦焼酎に合ったのは沢ガニの空揚げで、酒と肴の双方ともドライな感触で絶妙だった。
(「銘酒誕生」 小泉武夫)
【第三三回 昭和五五年七月四日】
この夜は二人のゲストが来られた。一人娘㈱山中酒造店社長山中直次郎さんと鏡山酒造㈱社長竹内孝也さんである。山中さんは茨城県石下町、竹内さんは埼玉県川越市の蔵元である。ともに関信国税局の管轄で、品質を競った仲だ。私は別々の縁で知己をいただいていた。その夜、二人とも行ってもいいかと問い合わせてきた。二人が見えられていることを告げると「それならなおのこと」と気色ばんで来られた感じであった。酒が入って席は二人のトークショーのような形で進んだ。山中さんは戦中派、竹内さんは戦後派である。山中さんは鏡山の水にあこがれて川越の蔵に通ったという。川越の町は川が大きくくびれたところにあり、町はその昔の川の上にあるのではといわれるところ。そして酒質は新潟タイプのスッキリしたものである。「お父さんにはいろいろ教わりましたよ」という山中さんに対して、竹内さんは「一人娘のあの辛口にあこがれました」と応じる。たしかに一人娘は酒銘のイメージと離れた辛口酒で有名だった。「どうして軟水であのような辛口酒ができるのか、ずいぶん通わせていただきましたが遂にわかりませんでした」「たしかに私の蔵は表面水のような浅い伏流水で軟水です。ずいぶん苦心した結果なんです」と山中さんは先輩の余裕。こんな議論を肴にその夜は更けた。「一人娘」は相変わらず切れがよく、芳香の立った吟醸酒をつくり続けている。いまの粘っこいような風味と違ってさらりとしているところがいい。「鏡山」は吟醸酒はすべて古酒にして出荷していたのではなかろうか。貯蔵は一・八リットル瓶に、出荷直前にそれを七二〇ミリリットル瓶に移す。レッテルは竹内さんが手書きしていた。残念なことに逝去され、造りも止められた。(「「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎)
飲めば地獄行き?
母の教えによれば、酒とセックスで、もう地獄へ向かっているから、これでたばこを吸い始めたら兄夫婦は完全にアウトだ。心配に堪え兼ねて、兄に、「地獄へ行く覚悟は出来ているか?」と聞いた。「いや。どうして?」といささか妙な顔。母と同じ口調で、地獄行きの三大ツミについて説明し始めたが、酒のことを話しただけで兄は突然、「そんなのウソだ」と吹き出した。「お母さんはウソをつくの?」「いや、お母さんは本当だと思っているけど、まァ、ウソというより間違いだな。飲みすぎなかったら、お酒なんか、全然悪くないよ」兄にそう言われてから、私は安心して冷蔵庫にあったシェリー酒を毎日、密(ひそ)かにチビリチビリ飲むようになった。母のところへ帰る前の日、兄夫婦が台所で用事していた時に、お姉さんはシェリー酒の瓶を取り出して、不思議そうに、「飲まないのにドンドンなくなっちゃうよ、これ」と兄に見せた。「やっぱり、アイツに、飲めば地獄行きだと、もう少し思わしといた方がよかったのかな?」という会話を立ち聞きした覚えがある。(「飲めば地獄行き?」 イーデス・ハンソン) 5年生の夏だそうです。
酒盛りの歌 陸機(りくき) 一海知義(いつかいともよし)訳
おもての座敷に酒を用意し
悲しみの歌吟(くちずさ)みつつ盃(さかずき)をとる
人の寿命(いのち)は いかほどか
すみやかさ 朝(あした)の霜に似る
季節には年に二度の繰り返しなく
一年(ひととせ)に花もふたたび開きはせぬ
浮き草は 春にこそかがやき
蘭の花は 秋にこそ香を放つ
のこる日々は きわめて短く
過ぎた日々は 何とも長い
今にして楽しまなければ
年はやがて暮れてしまおう
楽しさは集(つど)いによってきわだつ
心にしみる思いはあるが
君によって憂(うれ)いは忘れた
わが家の酒はその味うまく
わが家の肴(さかな)もなかなかに良い
短い歌をうたいあって
長い夜を荒(すさ)まずすごそう(「酒の詩集」 富士正晴編著)
デザート 甘酒
小澤酒造 斉藤さん他のお勧め
実際に作ったことはなくても、誰でも知っているのが甘酒ではないでしょうか。作り方に多少の差はあっても、一度は作ってみたいものです。
●材料(5人分) 酒粕 200グラム/お湯 1リットル/砂糖 150グラム/塩 少々
●作り方 ①酒粕は細かく刻んで、少量のお湯を入れながらすり鉢でよく溶かす。 ②お湯を煮立てて、砂糖、塩で味つけし、溶いた酒粕を入れて温める。
◆沸騰させると香りが逃げてしまうので、沸騰させないよう注意して暖めましょう。
◆仕上げに生姜汁を絞ってもおいしくなります。砂糖の量は好みで調節しましょう。またすり鉢でするのが面倒なら、水に酒粕を入れて溶きながら暖めてもいいでしょう。好みで板粕でも、踏み粕でも使ってください。(「酒粕の凄い特効」 滝澤行雄監修)
(三)毛利の臣古志清左衛門・有地九郎左衛門の盃争い(巻二七)
朝鮮役(一)から帰陣のとき、毛利宰相秀元(二)は かの地で功のあった家中の諸士を呼び出し、盃を賜った。そのとき、左席の第一の座は吉川駿河守広家、右席の第一の座は宍戸(ししど)備前守隆家であった。一の盃は三口谷監物(みくちやけんもつ)孝和であった。二の盃のとき、古志(こし)清左衛門が進み出て、「今度は私の番でございます」と言って、盃を取ろうとした。有地(ありち)九郎左衛門は、古志の左の手をとらえて、自分の膝の下に引き敷き、盃を取って飲もうとする。古志は、左の手は有地に取り敷かれながら、右手で脇差を抜き、秀元に向かって、「お許しくだされましょうか」と断った。秀元はそのまま立ってきて、これをおさえ、両人に一度に盃を賜った。主人の前であるから、古志がお断り申し上げたことを、人々はほめたたえたということである。
(一)秀吉が文禄元年(一五九二)に朝鮮に進攻し、秀吉没後、慶長三年(一五九八)の撤兵に終わった。 (二)一五七九~一六五〇。元就(もとなり)(一四九七~一五七一)の第六子である、元清(一五五一~九七)の子。大坂夏の陣で功あり。(「翁草」 神沢貞幹原著 浮橋康彦訳)
酒の黴
酒屋男は罰被(か)ぶらんか不思議、よいよい、足で米といで手で流す、ホンニサイバ、手で流す、ヨイヨオイ。
1
金(きん)の酒をつくるは
かなしき父のおもひで、
するどき歌をつくるは
その児の赤き哀歓(あいくわん)
金(きん)の酒つくるも、
するどき歌をつくるも、
よしや、また、わかき娘の
父(てて)知らぬ子供産むとも…
2
からしの花の実になる
春のすゑのさみしさや。
酒をしぼる男の
肌さへもひとしほ。
3
酒袋(さかぶくろ)を干すとて
ぺんぺん草をちらした。
散らしてもよかろ
その実(み)となるもせんなし。
4
酛(もと)すり唄のこころは
わかき男の手にあり。
櫂(かい)をそろへてやんさの
そなた恋しと鳴らせる。(「白秋詩集」 大木敦夫編) 25まであります。
過食症患者はアルコール依存症になり易い
過食症は拒食症と並んで、今や思春期・青年期の女性における最も頻度の高い情緒障害と考えられます。過食症は思春期・青年期の女性の一〇〇人に二~三人存在します。軽いタイプを含めると一〇〇人中に五~六人存在すると考えられています。男性には少なくて三〇〇人に一人です。拒食症はよく知られている割には少なくて、一〇〇〇人に一人くらいで、軽いタイプを含めても一〇〇〇人に三人くらいです。過食症と拒食症は互いに兄弟の関係にあり、二つ合わせて摂食障害と呼んでいます。今まで思春期の情緒障害の代表は、登校拒否でした。この二〇年間は、登校拒否の子供たちに対してどう援助するのかということが、思春期問題に関係した専門家の間で、一番大きな課題でした。しかしその登校拒否の頻度は、中学生で二〇〇人に一人の頻度で、軽いタイプを含めてやっと一〇〇人中二~三人というところです。登校拒否は男女差はありません。登校拒否と比較すると、過食症がいかに多いかおわかりになるでしょう。過食症という病気は比較的新しく、一つの病気として認められたのは一五年前くらいです。つまりニュータイプの病気というわけです。過食症が一つの病気として認められた頃から、過食症にアルコール乱用や薬物乱用が、多く合併していることは注目されていました。過食症には、三〇%にアルコール乱用が共存していると報告されています。久里浜病院においても、三〇才以下の若い女性のアルコール依存症では、実に七〇%が過食症を合併していることがわかっていますし、特にティーンエイジャーの女性のアルコール依存症は、全員が過食症といっていいと思います。私達の調査では、高校生の過食症にアルコール乱用があるかどうか調べましたが、やはり過食症の女子高校生は多く飲酒をしていることが確かめられましたし、男子高校生においても同じ傾向が存在しました。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二)
辛い思いの末に、したたか飲む
十五歳で大映に連れてこられて"青い性"のヒロインと騒がれた関根恵子も屈辱にみちた幼き日を経ていた。大映倒産とともに男たちとの愛と別れをくりかえしていた恵子を、「男なんてどうってもんじゃないよ」と励ましたのは太地喜和子である。喜和子とともにしたたか飲んだ恵子は、そのまま喜和子の部屋で眠ってしまうことも一度や二度じゃなかった。辛い思いの末に、したたか飲むってことをくりかえしていた当時の関根恵子は、酔いしれては、喜和子のマンションを訪れ、崩れるように眠り込んでもいた。「私の部屋で、パッパッと洋服脱いで、素っ裸でベッドに入ってくるのよね。可愛い子だった」喜和子は心の傷に苦しむ関根恵子を、痛々しく見守りながら、後輩を懸命にかばっていた。(「いい酒いい友いい人生」 加藤康一)
酒の哲学どおりの酒宴
良い肴を前に、西平ックァを飲みつづければ、勿論、酩酊する。少なくとも私は酩酊した。そして…。「酒というものは、つまり酩酊ということは、夢まぼろしの世界をつくることである。(中略)酒を飲んだら、おしゃべりになり、陽気になり、歌をうたいたくなり、自慢したくなり、また人に対しても寛容になって、おべんちゃらがいいたくなり、ほめたくなり、世の中の人は善人と美男美女、天才秀才にみちみちていると思うようになるべきなのだ」(『言うたらなんやけど』)という、田辺さんの酒の哲学どおりの酒宴が、深更までつづき、ついに西平ックァの一升瓶(びん)はあらかた空になるにいたるのである。「人生劇場」から「瀬戸の花嫁」と、カモカのおっちゃんの太く男らしい歌声、田辺さんの"鈴の鳴るような歌声"が交錯し、果てはダンスが始まる…しかし、残念ながらその"夢まぼろしの世界"は私の筆では到底再現出来そうにない。(「作家の食談」 山本容朗) 西平ックァは、奄美・西平酒造の黒糖焼酎です。
牡蠣、酒盗、サザエの肝
実は私は牡蠣に中ったことがある。とある安居酒屋の酢牡蠣にやられて、三日ほど寝込んだのだが、今まで生きてきた中で一番お腹(なか)が痛かった。なんたって、胃の内壁をキリでグサグサ突き刺されるような痛みなのだ。牡蠣に中ると悲惨だとよくいわれるが、まさしくざんざんな目にあった。しかし、こんな思いをしても、その後、牡蠣が嫌いにはならなかった。ちなみに、小さな丼一杯カツオの酒盗を食べて二日酔いになって、一日中酒盗のゲップが出続けるといった経験をしても、やはり酒盗が嫌いにならなかった。さらに、サザエの肝をいっぺんに十個分食べて、一晩中うなされたことがあったが、サザエの肝はいまだに好物である。(「晩酌パラダイス」 ラズウェル細木)
【酒ニ酔ウタ時蘇鉄ニモタレルト醒メル】俗説
【酒ハ肴、肴ハ気取】酒には肴を要し、肴には気取りたるがよし。 御酒の話12
【酒ハ飲ミマセンガ御酒(ゴシユ)ナラ頂戴致シマス】同事異語の喩。
【酒ハ飲ンデモ勤メル所ハ屹度勤メル】忠臣蔵の師直の台詞。
【酒ヲ使フ】酒によりて気を使ひ怒ること。[漢書]灌布伝、夫為レ人剛直使レ酒(「諺語大辞典」 藤井乙男)
ムチン
そもそもムチンとは、糖とタンパク質からなる粘質物質の総称で、人の唾液中にも多く含まれている。そして唾液の重要な働きのひとつが、消化器官の粘膜を保護すること。つまり、そのムチンを「ネバネバ」食品で食べることによって体内に取り入れれば、アルコールの通り道である胃や腸の粘膜を保護してやることができるのである。ベストなのは、お酒を飲みはじめる前にあらかじめこれらの食材を摂っておくことだが、実際はなかなかそうもいかないだろう。そこで、せめてお酒のおつまみで、「ネバネバ」食材を積極的に選んでやるようにしたい。よくある居酒屋のメニューとしては、マグロのぶつ切りにすりおろした長いもをかけた「山かけ」などが挙げられるが、それだけではちょっと心もとない。そこでオススメしたいのが、先に挙げた食材同様「ネバネバ」の代表格ともいえる、もずくである。そして、もずくといえば何といっても「もずく酢」。これを一人一杯、お酒を飲みながらズルッとやるだけで、翌朝の二日酔いの苦しみがグンと軽減されること請け合いである。(「二日酔いの特効薬のウソ、ホント」 中山健児監修)
豊島屋
酒を小売りする店の請酒屋は、すでに元禄時代から繁盛していたが、なかには酒を売るだけではなく店頭で酒を飲ませる店もあった。-
請酒屋は、酒問屋から仲買人を介して酒を買って樽(たる)売りもしたが、枡で量り売りをしたことで枡酒屋(ますざかや)とも呼ばれ、「通い徳利」を貸し出した。こうした酒屋にもランクがあり、最上級は幕府御用達の四軒だ。御前御酒所(ごぜんごしゆどころ)の正法院八左衛門(しようほういんはちざえもん)と茶屋治左衛門(ちややじざえもん)、御酒屋(おさかや)の高島弥兵衛(たかしまやへえ)、木津屋理兵衛(きづやりへえ)だ。一般庶民には雲の上の存在だっただろう。庶民に人気を得ていたのが、日本橋新和泉町(しんいずみちよう)で、池田の下り酒「瀧水(たきみず)」が売りもので大評判だ。ほかに外神田の昌平橋(しようへいばし)外に内田酒店もあった。しかし、なんといっても超のつく人気を誇ったのが鎌倉河岸(かまくらがし)(現・神田美土代(みとしろ)町)の豊島屋(としまや)酒店だ。慶長元年(一五九六)から、鎌倉河岸で職人たち相手の酒屋を開業した田村十右衛門(たむらじゆうえもん)は、客に店先で酒を味見させて気にいれば金を払ってもらい、下り酒をどこよりも安い一合八文というほとんど元値で酒を売った。しかも豪勢になみなみと注いでくれるので、馬方(うまかた)、駕籠(かご)かき、日傭取(ひようと)りという労働者などが押しかけ、棒手振りも荷を下ろして居酒をしたので、豊島屋に行けば野菜や魚などを買うことができたという。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資編著)
酔泣き、空酔い
光源氏と柏木が互いの存在を賭けてにらみ合う若葉巻の有名な宴の場合でも、とどめられない「酔い」が対立する両者を呑みこんでいく過程が描き出される。女三宮との密事発覚を知って、恐れのあまり光源氏の前には顔も出せなくなった柏木が無理強いに六条院に呼び出されたのは朱雀院の五十賀の試楽(予行演習)の日であった.。朱雀院のために六条院で開催される御賀の試楽の「拍子取り」(指揮者)として強く出席を要請されたのである。ただでさえ不安にうち震える柏木は、光源氏の酔いに紛らわしてのからみ、そのまなざしの険しさに身をすくませ、そのまま恐れと怯えに押し流される。 主の院、「過ぐる齢にそへては、酔泣きこそとどめがたきわざなりけれ。衛門督心とどめてほほ笑まるる、いと心恥づかしや。さりとも、いましばしならん。さかさまに行かぬ年月よ。老は、えのがれぬわざなり」とて、うち見やりたまふに、人よりけにまめだち屈じて、まことに心地もいと悩ましければ、いみじき事も目もとまらぬ心地する人をしも、さし分きて空酔をしつつかくのたまふ。 ここでも藤裏葉巻の頭中将の場合と同じく、「空酔ひ」と「酔泣き」が光源氏を特徴づけているが、酔ったふりをしつつ柏木にからむ光源氏の言葉は、やがて涙脆さの中からの居直りにも似たぐち、そして嫌味に発展する。「戯れ」るように繰り返される柏木への言葉による牽制は、その盃の強制と相乗して柏木を追い詰める。 けしきばかりにてもて紛らはすを御覧じとがめて、持たせながらたびたび強ひたまへば、はしたなくてもわずらふさま、なべての人に似ずをかし。 呑んだふりもできないように、盃を持たせたまま、たびたび酒を勧める光源氏のしつこいからみは、頭痛に悩まされ、目を合わすこともできないほどの恐れに震え続ける柏木をあやしい「酔のまどい」に追いやるものであった。(「源氏物語の酔い」 三田村雅子)
(6)山形酵母(やまがたこうぼ)
醸造場のもろみから分離した吟醸用酵母Y-1(YAMAGATA-1)株は昭和61年より、またソフト化清酒用酵母として開発したYK-0107とYK-2911株の2種は平成3年より、合計3種の酵母が県内酒造メーカーに頒布されている.ソフト化清酒用酵母は県内酒造場から分離した株に変異処理し造成したものであり、エステル生成量が高く、酸生成量がやや多い目となる特徴を持っている.(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)
白井雨山
水鳥記の酒戦に倣つたわけでもなかろうが、当時の東京美術学校では、新春の祝日に一升入りの、冷酒の大杯を飲み廻はす行事は行われてゐた。この朱塗りの大盃は呑め螫(さ)さうを表徴した、蜂と竜とを蒔いた水鳥記のそれとは、勿論趣を異にしてゐたらうが、学校の漆工科教授の中にあつた一流の道楽者小川勝珉が、案を練つただけに、それは然る可き構図を蒔いたものであつたらう。その大盃になみ/\酌いた芳醇を、天心の校長を魁に、副校長格の今泉、教授の橋本、川端、高村、黒川等の面々が順次に飲み廻して、八分通り残つた酒を、生徒総代が飲み乾すのである。従つて。この総代の役は余程の酒豪でないと勤め兼ねる所であつた。ところが、初代の生徒総代に選抜され、引続いて三年間、美事この大任を果したのは、当時、彫刻科の学生であつた雨山白井保次郎であつた。彼の彫刻の技術も、酒同様に相当手強く、学校卒業後は、新海竹太郎と並んで、木彫界新進作家の双璧と謳はれ、文展の審査員にも選任されてゐたが、豪酒の祟りか初老になるやならずに物故してしまつた。白井といふ人は、丈高い、無髯な大男で、学生時代からよく私の家へも出入してゐた。
酒の地口
下戸めのつまむ茶菓子もとめむ(乙女(おとめ)の姿しばしとゞめむ)
『地口絵手本』初編
茶に大酒の席は許さじ(世に逢坂の関は許さじ)
『地口絵手本』弐編
梅亭樵父(ばいていしようふ)(金鵞?) 百人一首の下句を地口にしたもの。(「日本語のしゃれ」 鈴木棠三)
こころよき酔余の舌にこはだ鮨 勇一
コノシロはすしだねに欠かせない。すし屋仲間では、サバ、サヨリ、コノシロなどを「光もの」と呼ぶ。体の表面が光っているところからの命名なのだろうが、この種の魚は、俗に「足が早い」と言い、鮮度が落ちやすいので酢でしめる。すし種のほか、コハダの粟漬けとか、ワサビを巻き込んだコハダは、正月料理には欠かせないものである。日本の中部以南の、泥深い浅海の海底近くを住処(すみか)とする銀色の魚コノシロは、イワシやニシンに近い種類の魚で、体は左右に平たい。体側の中央より背部にかけて、各ウロコに濃褐色の斑点があることから、東京辺では若魚のことを「粉肌(こはだ)」の意で呼んだ。小骨が多く、焼くと死人を焼いた匂いがする(『和漢三才図会』)と言うので、賤魚とされ、幕府お抱え医師であった小川顕道の『塵塚談』によると、フグ同様、「鰶魚(このしろ)、われら若年の頃は、武家は決して食せざりしものなり。鰶魚は此城(このしろ)を食うというひびきを忌みてなり」というありさまで、武士は建前として食べてはならぬことになっているものの、「この鰶魚は今世も士人以上は喰わざれども魚鮓(すし)にして士人も婦人も賞翫しくらう」(上掲書)というとで、やはり、すしだねとしてのコノシロ(コハダ)の美味には抗しかね、どうもこっそり食べていたというのが、本音らしい。(「にっぽん食物誌」 平野雅章)
のまほしと 思へど酒も なき跡は しるしの杉の 樽ばかりなり 続松ひで近
きのふ見し 人はひと夜に あま酒の あまりはかなと すゝりあげつゝ 浜辺黒人
婆阿五十の賀に酒によする祝といふことを
又もみん 栄華の夢の 五十年 粟餅くはず 酒をのみ/\ 四方赤良
寄酒恋
とつくりと 語る間も まつの夜に はやさんずゐの とりぞ鳴くなる 柳直成上毛
あま酒の すくなるほどに なれそめし 二人が中は かたづくりかも 太田人成(「徳和歌後万載集」 野崎左文校訂)
ノミスギー海賊団の怪しい言い訳
酒はほどほどなら体にいいんだよ ショーリョー・グットマン
これまで、確かに少量の飲酒がよいとされる研究もありましたが、2018年に発表された195の国や地域の人を対象とした飲酒と健康に関する最新の分析論文では、ついに「健康のためにはまったく飲まないのがベスト」という信頼性の高い結論が報告されました。お酒好きには悲報ですが、少量でもやはり「酒は百薬の長」ではなさそうです。
眠れないときは寝酒が一番よ ネルマエ・ノムネ
寝しなに飲むお酒(寝酒)は、寝つきをよくする作用はあるものの、眠りを浅くし、睡眠の量と質の両方に悪影響を及ぼすため、眠れないときの対策としてはお勧めできません。寝酒が習慣化するとお酒への依存度が次第に高くなり、眠るために飲んでいるお酒のせいでアルコール依存症になることも。
ボクはお酒強いからさ~ ホントー・ワ・ゲコ
アルコールが体内で分解されて生じる「アセトアルデヒド」は毒性物質で、これをさらに無害な物質に分解する力の有無で「お酒に強い・弱い」が決まります。実は日本人の約4割は分解する力がまったくないか弱い人(=飲んで顔は赤くなる人)。毒性物質が体内にとどまりやすいため、よりお酒の害を受けやすいと言えます。
30年も飲んでるけど、ボクは病気とは無縁だよ? ヤマイ・ムエンダー
お酒はがんや認知症など、実に200以上の病気やケガと関連しており、たとえば肝硬変は、生涯で摂取した酒量(エタノール)が約1トンに至ると発症することや、女性ではお酒を1滴でも飲むことが乳がんのリスクを高めることなどが明らかにされています。
無縁そうにみえても、躰は静かにお酒の影響を受けているのです。
アル中?!あたしにはぜんっぜん関係ないよ~ テユーカ・イゾンデ
お酒好きな人でも、アルコール依存症(旧称:慢性アルコール中毒(アル中))と自分は無関係だと思っている人は少なくありません。けれども、アルコールへの依存性が生じるお酒の量には個人差があり、飲酒習慣がある人であれば、老若男女問わず、誰にでも発症のリスクがある、実は身近な病気なのです。
健康診断でひっかかったことないぞ ケンシン・マンシン
お酒好きにとって気になる健康診断(血液検査)の値に「γGTP」(肝機能を示す値)がありますが、実はお酒のせいで肝機能が低下していても、そのうち約10%の人はγGTP値が上昇しないことが知られています。つまり、健診で正常値でも油断は禁物。また、正常値内でも年々値が上がっている場合は特に要注意です。(「ヘルス・グラフィックマガジン第42号」)
アルコールから抜け出すことが先決
黒木香にはもうひとり別の恋人がいた。アルコールという名の恋人が。村西監督がハワイで逮捕されたのをきっかけに酒と煙草をぷっつりと断ったように、デビューのころサイン会に酒臭い息をして現れるほどよく飲んでいた彼女もまた酒を断とうとした時期があった。しかしふたたび飲酒がはじまり、社屋の一室をあてがわれていた彼女の部屋には酒屋が開けるくらいウイスキーやブランディの空瓶が転がっていた。中野の安ホテルの二階から飛び降りたというよりも転がってしまったあの事件も、アルコール依存症に特有の捨て鉢の感情から引き起こされたものであろう。あれほどの才能のある人物がここで朽ちてしまうとは思えない。彼女がTという本名の女性にもどるのもよし、また黒木香で復活するもよし、どちらにしてもアルコールから抜け出すことが先決だろう。ジョン・レノンが亡くなってもオノ・ヨーコは相変わらずたくましく生きているように女たちはいつの時代でもタフだ。杉並の実家に引きこもった黒木香はいま、何を思っているのだろうか。(「にくいあんちくしょう 異端カリスマ列伝」 本橋信宏)
朝顔の盃
焼酎に味醂(みりん)を割ったのを、私たちはやなぎかげとして、昔から愛用して来ているのである。私などは五つ六つの頃から、祖母のお相手をして、まづこの焼酎の味醂ワリの洗礼をうけたのである。祖母は、夏の夕べ、狭い庭に打水し、縁側にお膳を出し、おもむろに愛用の盃を私にさし「一つ、お相手(あい)をしなはれ…」という。私の、酒との悪縁はここにはじまる。愛用の盃というのは、グラスの中に朝顔の花が仕込んであって、酒を注ぐと、酒中花のように浮び上がるというものであった。祖母はその道の通(つう)で「酒屋のやなぎかげは、甘くて不可(いか)ん」と、焼酎をふやして、度(ど)を改めるという行き方であった。それにしても、東京では「直し」「本(ほん)直し」などというのを、大阪では柳かげ、やなぎかげ…なんという趣きのある名であろう。心にくいばかりである。(「味の芸談」 長谷川幸延)
麹造り
たとえば、種麹の量で言うと、「初添え」と「酛」に使う麹は、米一〇〇キロに対して麹が四〇グラム、「仲添え」用の麹は三〇グラム、「留添え」用の麹は二〇グラムというような具合になる。だすけ、これも、たとえばの話で、蒸米(むしまい)の具合、種麹の具合によって、杜氏が調整するから、いつもいつも、この割合ということではないんだ。しかも、機械で計算して決めることもできないから、すべて杜氏の経験とカンが頼りさね。どういう蒸米にはどういう種麹をどれだけの量まくかなんていうことは、機械にはとてもわからないわ。やっぱり人間の技とカンだわ。だすけ、おらとこの蔵では普通酒の麹からして、できるだけ機械任せにしないようにしているのさね。なんていったって、酒造りは一に麹だすけ。まして大吟だもの。麹の菌糸のまわし方にしてもさね、「酛」用の麹と「初添え」用の麹ならば、「糖化力」の強い麹が欲しいから、菌糸が米粒の表面によくまわるようにしたい。これが、仲添え、留添え用の麹になると、また別になるわけだ。(「杜氏千年の知恵」 高浜春男)
清陽俳句手帖より
甑(こしき)より 立つ大湯気や ひねり餅
行春や 丹波に帰る 酒屋者
酒桶を 干場に出すや 草紅葉
美酒の国 羽後に住みけり 今朝の春
元日や ほがらに唄う 酒屋者(「花岡先生を偲ぶ」 藤井益二編) 花岡正庸の追悼本です。
白滝の湯葉巻き(シラタキ、モヤシ、生ユバ、シイタケ)
①シラタキ、モヤシ、シイタケを油で炒め、しょう油をからめておく しらたき 湯通ししてザクザク切る モヤシ 頭と尾をとりのぞく シイタケ 水にもどし千切り
②巻きすに生湯葉を広げ具を巻く
③直径3~4cmくらい
④フライパンに油をしき、ころがしながら焦げ目がつくまで焼く
⑤適当な大きさに切りダイコンおろしとポン酢で
*生湯葉は普段手に入れにくいが、物産展や旅で手に入ったなら、必ず作ってみるべき酒肴。かくし味に使うしょう油が野菜の味を引きしめる(「酒肴<つまみ>のネタ本」 ホームライフセミナー編)
燗酒
燗のつけかたによって酒が一段と旨く感じられるものを「燗上がり」といい、反対に燗することでかえって不味くなったと思われるものを「燗下がり」という。燗下がりした時には、それが燗ざめするまで待ってもいいが、燗下がりするような酒では再び冷ましても、燗する前より味が劣ることはわかっている。そんな時には逆にグラグラ燗付けして、味を熱さでごまかして飲むのも手だ。酒の温度計というものもあって私も持っているが、実際に使うことはほとんどない。というのも、長年の経験から自分で付けるぶんには勘で察知できるからであり、おおかたの愛飲家がそうだと思う。燗酒が冷や酒に比べていい点は、寒い時とか燗上がりの旨さを楽しめるばかりではない。冷や酒に比べて燗酒はセーブか利くことで、ある定量を越えると燗の臭いが鼻についてくる感じがある。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)
西の関
「西の関」を醸しだす萱島家は、四百年来大友藩の豪ママ士として国東町綱井に住み、江戸時代は米作りで生計を立てる農家であったが、明治六年(一八七三)初代荒吉が酒造りをはじめた。明治二十年代、その頃人気の高かった灘の生一本「大関」、秋田というより東北一の銘酒といわれた「両関」の名声にあやかるべく、二代目米三郎が「西の関」と名づけた。現在の「西の関」は、西の横綱といわれるほどの人気を博しており、入手困難な美酒となっているが、当時は、地方の地酒にすぎなかった。「西の関」とつけた以上は、大関、両関をしのぐ品質のよいものを造らなければならない。情熱と意欲に燃えた二代目は、伝統の技をもつ当時と共に研鑽努力を重ね、ついに明治四十年、第一回全国品評会に入賞する。以後、各種の品評会で、全国の一流酒に伍して優秀な成績をおさめてきた。そのかげには、柳川杜氏中村千代吉氏の不眠不休の努力があった。中村千代吉杜氏は、酒の神様といわれた熊本県酒造研究所の野白金一氏に、麹造りのノウハウを叩き込まれた杜氏で、最高の技をもっていた。(「酒の旅人」 佐々木久子)
辛し味噌が酒を誘う イワシのてっぽう和え
作り方 ①三枚おろしにしたイワシを盆ざるに並べ、塩を多めにふり、30分置く。 ②わけぎは根を切り落としてたっぷりの熱湯に白い茎のほうから葉先へ向けてくぐらせ、ザルにとり冷ましておく。 ③ ②の葉先を切り落とし、庖丁の背でしごいてぬめりを取り、3cm長さに切る。 ④わかめはさっと熱湯に通して水に放し、水けをきって芯を取り除き、3cm長さに切る。 ⑤ ①のイワシを酢洗いして、皮を頭のほうから引き、細切りにする。 ⑥白味噌に砂糖、酒を加えて火にかけて練り、火からおろして冷まし、溶きがらしと酢を混ぜ合わせてからし味噌を作る。イワシ、わけぎ、わかめをあえて器に盛り、白髪ねぎを盛る。
このつまみに、この一本
月桂冠 笠置屋 吟醸大吟醸/岐阜 日本酒度…+5 酸度…1.3 価格…10000円(1.8l) ●まろやかで奥深い味わい、香りもふくよかな酒。大手酒造メーカーのプライドと自信が現れている一本。庶民の魚、イワシともしっくりとなじみ、旨味を高めてくれる。(三献)(「酒のつまみは魚にかぎる 新・日本酒の愉しみ」 堀部泰憲編集人) 2002年の出版です。
井口家家訓
一、毎月三ん日(サンノヒ) 明神(ミヨウジン)え神酒(みき)備へ可レ致二参詣一(サンケイイタスベキ)事。-
一、御公儀御役人御用向(ゴヨウムキ)にて御一宿(ゴイツシユク)被レ成(ナラレ)候砌(みぎり)、追従(ツイシヨウ)幷(ならびに)御馳走ケ間敷(ゴチソウガマシキ)事決て不レ致、勿論(モチロン)料理等は一汁香之物共に三菜可レ限(かぎるべく)候。酒之儀は相伺差上(アイウカガイサシアゲ)不レ申事。亭主罷出(マカリイデ)数献(スウコン)差上候儀は決て無用候事。御客之御勝手に可レ致。都(すべ)て 御公儀御役人え対し御用之外(ホカ)取持躰(トリモチテイ)は誠(マコトニ)追従(ついしょう)に当る也。可二相慎一事。(9)-
一、婚礼葬礼之砌客来(キヤクライ)之節も、食事等一汁三菜可二相限一(アイカギルベク)候。酒も三献(コンニ)可レ限(カギルベシ)。其身分大酒を好み、又は小酒を好(コノミ)候仁(ジン)えは大小器物にて取計(トリハカライ)、数献に不レ及様(オヨバザルヨウ)に可レ致事。
(9)「追従」は人に媚びへつらうこと。この条は「御役人」が宿泊する場合を例として、「ごこうぎ」「御公儀 御役人」への対応の仕方を教えている。(「家訓集」 山本眞功編註) 天明4年に書かれた46ヶ条の家督相続のさせ方を中心にした、細かい内容の家訓です。
ビッグ1と松竹梅
テレビでは制作費を切りつめるため、よくタイアップをする。ドラマを見ていて、画面に大きくホテルの玄関が出て、はっきりとホテルの名がうつったら、出演者とスタッフはそのホテルに泊まっていて、宿泊費は無料になったと考えていい。-
石原裕次郎は日本酒の『松竹梅』とスコッチウイスキーの『ビッグ1』のCMに出ていて、そのせいか、棚にならんだ酒は『ビッグ1』と『松竹梅』ばかり。「この酒は飲みほうだいですよ」と、にわかバーテンダーになった裕次郎は『大都会』のセットでご機嫌だった。(「テレビ雑学事典」 毎日新聞社編) 昭和58年の出版です。
のきばのすぎ[軒端の杉]
酒ばやし。杉の葉を丸く束にした古風な酒屋の看板。杉の葉を見よ。
①軒端の 杉で丸くする 村けんか(逸)
①酒屋で仲直り。丸い杉の束に、丸く収めるを掛けた狂句。
②村酒屋 軒へ天狗の 巣をつるし(樽四六)
②杉を天狗の巣とする句案。天狗の巣を見よ。(「」古川柳辞典) 根岸川柳
472閉め出し
酒好きの男が、自分の別荘へ土曜から日曜にかけて泊り掛けで遊びに来た友達に、別荘内を案内して廻った。すると友達は、裏木戸の所に大きな犬小屋のあるのに目を附けて、友達「やあ、君はバカに犬好きになったじゃないか。犬の先生はどこにいるんだい?」酒好きの男「犬なんかいないんだ」友達「えっ?犬なんていないって?じゃ、この大きな犬小屋はどうしたんだい?」酒好きの男「ううん、なに、なんだ、その…実は、いつも十二時までに家に帰らないと、女房のやつ、締め出しを喰わしやがるんでね」
屋台の味わい
たとえば屋台は、店の<内>と<外>が普通の飲食店ほど自明ではない。具体的に店内がどこで終わり、店外がどこから始まるのか定かではないし、またそのこと自体が、一種の開放感を客たちに与える。言い換えれば、<店>と<街>を隔てる壁もドアも窓もないから、常連客が通りすがりに、足を止めて店主や顔見知りの常連客とちょっと会話を交わすことがある。普通の居酒屋の場合、表を通った人が店内の知人に気がついても、手を振るかもしれないが、注文するつもりもないのに店内に入って立ち話をするようなことは考えにくいだろう。ところが、屋台のオープンな構造が、そのような気楽な交流を可能にしているだけでなく、むしろ誘発しているようにも思える。また、五感で味わうのが居酒屋ならば、そのことをいっそう痛感させられるのが屋台だと言える。(博多)天神の「宗}は、渡辺通沿いの屋台である。私が入ったのは夜の十一時過ぎ。腰を下ろすと、わずか二、三メートルのところにある車道をびゅんびゅん飛ばしていく。背後からは歩行者たちの会話や、油に飢えているかのような自転車のギアのカチャカチャという音が聞こえてくる。見上げると満月が柔らかい光を夜空に放っている。しばらくその光景に引き込まれていたら、隣の客に出されたラーメンの匂いで我に返り、焼酎でふたたび喉を潤す。横に目をやると、ベンチの端っこに座っている客の数十センチばかり後ろに一本の木が立っていることに気づく。コンクリートのビルが林立しているなかで、その木が屋台専用の借景のように映る-。このように屋台は、「店内」と「店外」-言い換えれば<店>と<街>、そして<自然>-を隔てる壁がないゆえに、いくつもの違う次元の世界を結びつけてくれる。どんなに旨い博多ラーメンが出されても、この味わいにはかなわないだろう。(「日本の居酒屋」 マイク・モラスキー)
笑いは良薬
余裕のない旅程の続くなか、酒飲みに欠かせない水分補給を怠ったのが原因。新潟市内のホテルへチェックインした直後、四〇度の高熱のため救急隊のお世話になった。テレビニュースでは連日"熱中症"への注意を呼びかけていたころだ。どの位の時間が経(た)ったのか、運び込まれた病院の個室で目覚めたのは深夜だった。病棟は消灯中。高熱で朦朧(もうろう)とした意識は幻覚を呼ぶ。傍らのガラス窓に死神や亡者の姿が映って見える。その中の一つは点滴を施しに来た看護師さんの影だった。やがて、窓の外が白々と明け始め、あたりはモノクロの世界へと移ろう。テラスの柵(さく)へ止まった一羽の鴉(からす)が目に入った。ようやく熱が三七度台へ下がったのは、入院から四~五日を経てからだ。病室からの眺望が良く、佐渡(さど)へ渡る連絡フェリーや、小樽(おたる)からの大型連絡船も見える。折しも、新潟まつり花火大会の開催時期と重なっていた。窓から望む遠花火は、いくぶん侘(わび)しくもある。点滴のチェックに来た看護師さんの一人が言う。「早くおうちに帰りたいでしょう」僕は、曖昧(あいまい)に頷(うなず)いた。「旅に病んで」しまった入院生活を多少なりとも楽しんでいたからだ。見舞の来客は心底嬉(うれ)しい。新潟でのアクシデントを知った仲間たちが集ってくれた。手土産(てみやげ)にはノンアルコールの缶もある。新潟在住の夫婦が差し入れてくれたおぼろ豆腐を肴(さかな)に「カンパ~イ}とやった。ちょうどそのタイミングで、担当の女医先生がお出ましになられ、僕らを見て仰天。顔をひきつらせた。「これ、全部ノンアルコールですから」慌てて誰かが、缶の表示を指して説明する。みんなの緊張もゆるんで、病室が笑いに包まれた。一緒になって吹き出したら、腹部に鈍痛を覚えた。激しく咳き込んでいたらしく、その後遺症のようだ。僕には、たとえ風邪(かぜ)の咳でも運動に代えてしまおうとする癖があった。尾崎放哉(おざきほうさい)の自由律俳句「咳をしても一人」をもじって一句。「咳をしても"腹筋"」。ま、笑いは良薬でしょう。(「酒は人の上に人を造らず」 吉田類)
和んでほっとする感
わたくしがこの酒に出会ったのは、おそらく発売直後のことだと思われる。そう気づいたのは、20歳を過ぎてからのこと。夏休みの帰省の折、幼い頃から家族で利用していた飲食店で、「旨いっ」と思ったのが、東京で酒好きの先輩たちが噂していた「田酒」だったのだ。聞けば、当初からうちの父親は頼んでいたという。横から手を出して、その酒をちびちびやっていたわたくしは、極めて早い時期から美酒に馴染んでいたワケで。つまりは、酒に関しては早期英才教育を受けた、といっても過言ではない(諸々問題がある発言ですが、既に時効ということでどうぞお許しください)。全国各地の美酒を多々知った現在「一番好きな酒は?」との質問には返事に窮するが、我が身に一番しっくりくるなあと思うのは、やはり「田酒」。呑めばなんとはなしに、和んでほっとする感がある。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子)
(十五)春日野(かすがの)
三下リ春日野((かすがの)のわか紫(むらさき)の摺衣(すりごろも)アヒノテおく露(つゆ)のしづ心(こころ)なき秋風(あきかぜ)に、うつろふ人(ひと)の濃(こ)むらさき、花紫(はなむらさき)の萩(はぎ)がえに、乱(みだ)れみだる〻心(こころ)のつらさアヒノテ本テウシその繰言(くりごと)のまたの夜(よ)に、君(きみ)ならでよんよん余所(よそ)にはさあへ、色(いろ)にはうつさじさあへ、むらさきの色(いろ)に心(こころ)はあらねども、深(ふか)くぞ人(ひと)をおもひ染(そ)め、かひも渚(なぎさ)に我袖(わがそで)しほる、人目人目(ひとめひとめ)忍(しの)ぶの其通路(そのかよひぢ)の、舟(ふね)にうち乗(の)りお敵達(てきたち)はこぬかの、うちのせよせつ、幾度(いくたび)思(おも)ふ宿(やど)の首尾(しゆび)、とは思(おも)へども只(ただ)ひと筋(すじ)に、この訳知(わけし)らぬ人(ひと)ならば、たとひ万(よろづ)にいみじきとても、玉(たま)の盃(さかづき)手(て)に触(ふ)れよアヒノテしやんとさせ、底(そこ)はいよ/\知(し)られぬが、君(きみ)に逢(あ)ふ夜(よ)はまつ乳山(ちやま)アヒノテ二上リ手(て)にふれてアヒノテいつしかも見(み)ぬ紫(むらさき)の、ねに通(かよ)ひゆく転寝(うた〻ね)のアヒノテ君(きみ)の/\濡(ぬれ)こそアヒノテじつとは見(み)えね、しんぞ此身(このみ)は涙脆(なみだもろ)うて、憂(う)いぞつらいぞ、枕(まくら)もうくばかりへアヒノテわけの/\宵(よひ)にはアヒノテいよ絆(ほだ)さる〻へ、しんぞ此身(このみ)は/\涙脆(なみだもろ)うて、ういぞつらいぞ枕(まくら)も浮(う)くばかりへ(「松の葉」 塚本哲三編輯)
西荻随筆
西荻窪のTという未知の人から手紙がきた。開いてみると、約束の日にいらっしゃいませんでしたが、至急都合をつけて来て下さい、という意味の文面で、日蝕パレス(仮名)女給一堂より、となっている。-
灯ともし頃になり、豪傑どもが、三三五五カストリ街へ現れるのを待つばかり。ところが生憎なもので、谷丹三の店と、マコの店を、行ったり来たり、豪傑の訪れを待っているのにこういう時に限って、一人も豪傑が現れない。谷崎精二先生のような温厚な君子人が現れるばかり、ままならぬものである。両店を往復しているうちに、私はメイテイしてしまった。灯ともし頃もすぎ、パンパンの数も少なくなり、いつまで待っても仕方がないから、一人で、でかけた。-
大きな奥深い店に客の姿がなく、バーテンと女給が一人いるだけなのであるが、どこに伏勢があるとも分らぬ昨今の情勢であるから、敬々しく一礼して、こちらへ坂口アンゴ氏が参りますそうで、とたずねる。ええ、ええ、よく、いらっしゃいます、と女給がはずむように景気よく答えた。実は、私が、坂口安吾そのものズバリでありまして、と、声がふるえた。まったく恐縮するのは、こっちの方で、西荻のアンゴ氏は、僕と違って、威風堂々地を払っているに相違ない。このニセモノめ、と襟首つかまえられれば、もうホンモノはダメなのである。けれども、バーテンも案に相違、好人物の中年男で、今に女給が帰ってきますから、と僕をかけさせて、コーヒーを持ってきた。そこへドヤドヤと女給の一群が戻ってきた。そうだろうさ、手紙にも、女給一堂より、と書いてあったのだからネ。女給の中から、代表が現れて、進みでた。この女給が、手紙を書いた女給であった。二階でビールを一本のんで、この女給から、アンゴ氏の話をきいた。アンゴ氏は四十二三の小男で、メガネをかけていたそうだ。似ていますかと聞いたら、いいえ、全然。アンゴ氏は、大へんお金持だったそうで、やっぱり偉いのである。去年の六月から現れた。つまり、太宰事件の直後らしい。情痴作家という噂もなかった太宰でもあれくらいだから、悪名高いアンゴは大いにやるべきである。西荻のアンゴ氏がこう判断した心境も分らないことはない。西荻のアンゴ氏は、ビール一本の三分の一ぐらいで赤い顔になる少量の酒のみで、それ以上は飲まず、常にもっぱら女を口説いたそうである。-
西荻アンゴ氏は少量の酒のみであるから、店に借金はないのであるが、多くの女給をやたらと口説いて、泊って、女に金をやらなかったり、女から金を借りたり、つまり日蝕パレスは被害をうけずに、「女給一堂より」せしめていたのである。このへんも、手腕の妙であろう。(「西荻随筆」 坂口安吾)
酒十年概の事
一、同六午年暮、江戸積諸白拾駄ニ付金九両一分位。但し、地売両ニ八斗位、片白壱石壱斗、末程下り申候。売立惣利壱割程有。
〇同六年午年の暮れは、江戸へ出荷する諸白は一〇駄につき金九両一分くらいであった。地元販売分は金一両につき八斗くらい、片白は一石一斗で、あとになるほど値下がりした。販売の総利益は一割ほどあった。
一、同七未年暮、江戸積諸白拾駄ニ付金十一、弐両位、地売諸白両ニ七斗壱升位、片白九斗五升ゟ(より)段々一、二割も上ケ、(14)酒御法度御触以後ハ、江戸も拾六、七両迄。但し秋前之直(値)段也。右之直段にも上酒払底也。売立惣利三割余。
〇同七年未年の暮れは、江戸へ出荷する諸白は一〇駄につき金十一、二両くらい、地元販売の諸白は金一両につき七斗一升くらい、片白は九斗五升からしだいに一、二割も値上りし、(14)酒御法度(さけごはつと)の御触れ以後は、江戸出荷分も十六、七両まで値上りした。ただし、これは秋前の値段である。右の値段でも上質の酒はすべて売り切れてしまった。販売の総利益は三割余もあった。
(11)江戸積 江戸へ出荷する酒。 (12)拾駄 一駄は四斗樽(酒約三斗五升入り)二個。一〇駄では七石となる。 (13)片白 蒸米だけ精白米を使い、麹は玄米でつくる、諸白よりも安い酒。 (14)酒御法度御触(さけごはつとのおふれ) 延宝八(一六八〇)年の九月と十一月に、寒造りを前年の半分とし、新酒造りを禁止するお触れが出されている。したがってこの記述は延宝八年のことである。(「童蒙酒造記」 吉田元
校注・執筆)
神田 味の笛
まだ17時前なのに店内はポツポツサラリーマンが 皆さんもう終業で…? 19時にもなると店の外までいっぱいになるよ 1人率高い
いいね!テレビ見ながらまったり飲むってのも… ね- でも私昔はさ-
テレビのある酒場ってあんまり好きじゃなかったのよね- 「認めていなかった」というかさ- 大相撲9月場所
でも一人で飲むときに店にあると助かるんだよね- 手持ちぶさたになんなくて!
はっ そういや私も…独身の時一人で飲みに行ってた店はテレビあるとこばっかだったな- お店の人や他のお客さんとしゃべってない時は何とはなしにテレビ…間が持つ
お客さん同士の共通項があるとそれを話題にしなくても なんとなく店に一体感があっていいんだよね… お- よくやった! よし
一人飲みんときはテレビの有無を店選びの基準にしてもい-かもね! ま…今や一人飲みなんざめったにできる身分じゃありませんがね…へへ… ヨユ-のある新婚 2人の子持ち あの日に帰りたい…
よし! ベコ
ポイ プラスチック容器は返却せずごみ箱へ 次は日本酒にいくか!!
珍しいね この店日本酒が豊富なのよ!
緑川 北雪 天と地辛口 たしかに立ち飲み屋では見かけないラインナップだわ…
!あこれい-んじゃない? 私も飲み比べしてみたい… 越後の銘酒セット1200円 鶴の友 八海山 朝日山 和楽互尊 緑川 久保田 北雪-
「銘酒3点お選び下さい」だって! おまかせしゃ-す!! あっあとサンマも頼んで-!! よろちく-っ♥(「女2人の東京ワイルド酒場ツア-」 漫画・カツヤマケイコ コラム・さくらいよしえ)
味の笛:東京都千代田区鍛冶町2丁目13
店先で日暮まで寝ていた
昔、あったじもな。旦那衆(侍)の下男がおがみ様がら江戸の旦那様の所さ使にやられるど、その往来にいづでも寄って酒を飲む茶屋があって、飲んでは酔ったくれで店先で日暮まで寝ていた。茶屋の嬶様に、「さあ遅ぐなたから起きて行げ」といわれて急いで帰るのであった。ある日、その下男はいつもの通り、酔ったぐれで店先ぎさ寝ていると、近所の和子(侍の子)たちが五、六人づれで茶屋さ来て、柿を食いながら寝でいる下男の禿頭さ柿の種をびたびたと付けたども、下男はそれを知らないで起されで帰って行った。ところが下男の禿頭さ柿の木がおえで、いつの間にか柿が生って赤ぐうんだから下男はこれをよいことにして茶屋さ来て、「嬶様し、俺の頭がら柿をとって、それあだい飲ませでけろ」とて、酒を飲んで酔だくれで、また日暮まで寝で行った。それを見だ和子たちは、その下男が店先で寝でいる間に、鋸で頭の柿を根元から伐りとると、下男はそれとも知らないで、嬶様に起されで帰ったが、いつの間にか、今度は柿の木の伐株さわかい(ひらだけ)が沢山おいだので、下男はまた茶屋さ来て、嬶様にそのわかいを取ってもらって、それを酒代にして酔たぐれで店先ぎさ寝でいた。すると和子たちが来て見で、その伐株を木割で掘りとって頭さ穴さあげでやるど、下男はそれを知らないで帰ったが、雨の降る時など何もかぶらないで、外さ出て歩ぐど、その穴さ水は溜って、いつの間にか鰌がぢっぱり(一ぱい)ふえた。それを下男はよいことにしてまた茶屋さ来て、嬶様に鰌をとってもらい、酒代にして酒を飲み酔たぐれで店先ぎさ寝でいたら、和子たちは手をあまして、それがあらかは(からかう)ながったどさ。どっとはらひ。(日本昔話集成四五六・額に柿の木) 岩手県柴波郡煙山町採集の話です。
入院するさ
一九七〇年代の初めのある晩、友人のジーン・バイスに電話して、これから入院したいと言った。彼は、二、三杯飲みながら待っていてくれ、病院までついて行こう、と言う。間もなく私たちはニューヨーク市の聖ビンセント病院へ出かけた。彼は歩き、私はよろよろしていた。土曜の夜のニューヨーク市営病院の救急医療室ときたら、行ってみた人でないとわからない。私は五〇番目ぐらいだったが、あたりには、腕をだらりとさげた人、顔から血を流している人、さまざまな人がひしめいていた。簡易ベッドでは人びとがうめいている。ごったがえしているが、誰も手をつける人がいない。アルコール症者である私の人格の中枢にあるのは、言うまでもなく強い「自分」意識である。私が五〇番目なら、入院手続きには大変な時間がかかる。私は頬から血を流している女性に近づき、「どうしたんです」とたずねた。「ボーイフレンドに切られたのよ」。私は振り向いてどなった。「誰かすぐ来てくれ。このご婦人がたいへんなんだ」。誰カがやってきた。私は次の男のところへ行ってたずねた。「何時間ここで待っているんです」。「三時間だよ」。私はどなった。「看護婦さん、この人に手を貸してくれ、今すぐだ」。友人のジーンにとっては、早送りの映画を見るような気がしたに違いない。いきなり看護婦がとんできては出て行き、担架がきては人が運ばれて行った。レントゲンがとられ、包帯がまかれた。重傷者は入院し、軽い者は、ばんそうこうをはられて家に帰された。数時間後、気がつくと、私はジーンと二人きりで立っていた。ジーンがたずねた。「さて、どうするんだい」。「入院するさ、そのために来たんだ」。「なにを言っているんだい。みんなは君が病院の経営者だと思っているぜ、君のおかげで、みんな診てもらえたんだからな」(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー)
ばくだん(爆弾)
[名]メチルアルコールの悪酒。終戦後に流行し、飲むと胃が爆発する感じがした。◇『自由学校』その道に入る(1950年)<獅子文六>「バクダンというものを注文した。これを二ハイ飲むと、地球がヒックリかえるという」◇『愚連隊列伝モロッコの辰』モロッコの辰・6(1990年)<山平重樹>「終戦直後、横浜でも、野毛の闇市あたりに出まわって流行したものに、バクダンと呼ばれるアルコールがあった。とはいっても、メチルアルコールに夏みかんの皮を混ぜただけの代物である。その名のいわれは、飲めば胃がジリジリと破裂するような感じになったからだが、飲みすぎれば目がつぶれた。◇『突破者』上・1(1996年)<宮崎学>「カストリ、バクダンがゆきかい」◇『むかし噺うきよ噺』第四部(1998年)<小沢昭一>「当時のこととてバクダンというマッチで火のつく焼酎を飲まされました」(「日本俗語大辞典」 米川明彦編)
小実さんの夜
今夜は芥川・直木賞の発表の日で、敬愛する田中小実昌さんや、中山千夏ちゃん、立松和平くん、友人たちが候補にあがっている。自分のときは、まわりの大騒ぎをむしろ有難迷惑のように思っていたくせに、他人のことになると、そわそわして居ても立ってもいられない。発表は七時半か八時であろう。浅草の先人たちの会には失礼して、界隈で呑んで待つことにする。カミさんを連れたまま、スタンドバーの"きらら"に行くと、ママが酒の肴を造っている。まだ六時すぎで客は一人も居ない。呑んで待つほどに、七時半になり、八時になっても入電がない。待ちきれなくなって、"まり花"に電話すると、今定(き)まったところで、直木賞は田中小実昌、阿刀田高のご両人だという。こうしてはいられない。といって、どうすれば役に立つというわけではないけれど、とりあえず、記者会見の場である新橋第一ホテルに走っていく。当人よりはたが昂奮するということがよくわかる。阿刀田さんがいつもの朗々とした声で、記者たちの質問に応じている。嬉しそうである。小実さんが心持ち固い表情で入ってくる。記者会見の一問一答、そばできいていたが、「まだよくわからない」「そんなことはありません」「べつに、なにも意識していません」の連発。座がやや白けたり、笑声が洩れたりする。しかしよく考えてみると、いずれも正確な返事なのである。普通は、記者たちへのサービスが混じって、もっと返答に筋道や味をつけたくなるが、小実さんという人は、どんなときでもうわずったことをいわない人なのだ。"エスポアール"で水上勉さんが待っているという。私まで図々しく、親戚代表のような顔つきでお邪魔する。水上さんは、七八年前、"自動巻き時計の一日"という小説で小実さんが候補にのぼったときから彼を買っていた人である。小実さんの夜の根拠地である新宿"まえだ"に電話を入れる。よかったね、というと、ママ曰く、ありがとう。我が身のように感じている様子がよく声音に出ている。"まり花"でまた阿刀田さん一行とおちあい、そこへ吉行淳之介さんが見え、新宿に凱旋するのが遅くなってしまう。"まえだ"のせまい店の中に、水上勉さんをはじめ、野坂昭如さん、殿山泰司さん、中山あい子さんなど大勢が待ちかねている。野坂さんは、ゴールデン街の入口に大アーチを造り、歓迎・田中小実昌直木賞辞退と大書しよう、と叫んでいる。野坂流のはしゃぎである。大酔した水上さんがカウンターの中に入り、ひたすら、小実昌万歳、を叫んでいる。中山さんは泣いているようだ。シャンペンが次々に抜かれる。際限なく、おめでとう、を連発。ゴールデン街のママやマスターたちが祝いの酒など持って次々に現れる。浅草から"かいば屋"主人クマさんも巨体を揺すって現れている。誰かが小実さんと私を眺めて、「直木賞ってのはハゲの賞かァ」「それじゃ、この次は殿山泰司の番だな」合いの手に、コップをつかんで、おめでとう、乾杯-。世間の人が見たら、たかが直木賞で、と思うだろう。また、田中小実昌はもうずっと前からスゴい作家で、今さら新人賞なんて人じゃない、という人も居るだろう。ここに集まった人も頭のどこかでそう思っている。でも嬉しいのだ。限りなく嬉しいのだ。何であろうと、小実さんが世間から拍手されるというそのことが大慶すべきことだ。わァわァと"まえだ"を流れ出し、ゴールデン街を歩くと、方々の店から女の人やゲイボーイや客が出てきて、おめでとう-。小実さんはややキビしい表情で、いつものキンコロキンと口伴奏がつく唄が出ない。きっと底なしに照れているのであろう。--(「酒中日記」 色川武大 吉行淳之介編)
現女房と前女房
赤塚は、この頃からアルコール依存症になる。平成一一年に集英社から『人生これでいいのだ!!』という文庫本が出版されたが、その巻末で、赤塚の現女房と前女房が対談している。赤塚がアルコール依存症になった経緯を、二人が語る。
現女房 根が小心の人だから、どうしてもお酒飲まないとやってられないんですね。ただでさえ飲む量が多かったのに、14~15年くらい前に、どんどん仕事がなくなっていったでしょ。あれからまた、量がますます増えていった。
前女房 なまじ肝臓が強いから、ますます量が増えてアル中になっちゃう。肝臓が弱いと、まず肝臓病になるのに。
現女房 お酒が好きなわけじゃないのよ。酔わないと心に残っているストレスを解消できなくなっているのよ。
赤塚は、朝から酒びたりになっている。この頃は、まだ籍は入っていないが、眞知子が献身的に面倒を見ている。赤塚用のボトルが用意されていた。ウイスキーをほんの少し入れた、ほとんど水に近い水割りが入っている。赤塚の酒の量を減らしたい、眞知子の工夫だった。ほとんど物を食わなくなった赤塚は、そのボトルから栄養をとるだけだ。それでも反省して、たまに東京ディズニーランドへ行く。アルコールを売っていないから、つかの間の酒断ちになるのだ。だが、やがて赤塚は幻覚を見るようになり、日大病院へ入院した。以下は、前女房の登茂子の証言。「ホント、あの時の眞知子さんには感心しました。入院した二ヶ月間、ずっとつきっきりで看病していました。赤塚のベットの横の床に、布団を敷いて寝てたの。あんなこと、他の人には出来ませんよ。その時の赤塚は、金があるわけじゃなし、ただのアル中で、落ち目のオジサンでしょ。そんな赤塚に欲得なしでつきあって、どうにか更生させたんですから。私、それ見ていて、赤塚に婚姻届け持っていって、『あんたには、この人が必要よ。さっさとサインしなさい』って言ったの。赤塚は、眞知子さんと結婚したかったんだけれど、私や娘に遠慮してたのよ」赤塚の、前婦人と現夫人は仲がいい。世間ではあまりないケースだ。翌、昭和六一年、一四歳年下の眞知子と、五一歳の赤塚は、鳳啓助の立ち会いで結婚した。昭和六三年には、前夫人・登茂子も再婚し、幸せに暮らしている。(「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」 武居俊樹)
どんな料理の持ち味も飲みこんでしまう酒
フランス料理とワインのように、味の相乗効果はないにしても、料理は酒の、酒は料理の、といった具合に、たがいが相手の持ち味の輪郭をくっきりとさせる役割をし、それぞれの個性を引き立てあう。日本料理と清酒の関係は、これがもっとも幸福なのではないだろうか。ところが、うますぎる吟醸酒は、どんな料理の持ち味も個性も飲みこんでしまうような気がしてならない。吟醸酒で気になることがもうひとつ、米を磨きに磨くわけだから、当然コストが高くつくので、売りに出すのは一升ビンでなく、四合ビンである。でも、この四合ビンのかたちが気に入らない。そのほとんどが、ブランデーやウイスキーのボトルを模したビンに詰めてあるのだ。清酒は、やはり一升ビンがよく似合う。手間をかけたのはよくわかるが、それだからといって、高級ブランデーそっくりのビンに日本酒を詰めることはないのではないか。(「食卓のプラネタリウム」 山本益博)
酒の肴のこと
料理研究家のなかで、私の酒飲みは有名らしく、あわせて酒の肴の仕事もよくいただく。というのも、酒の飲めない人には、どうしても酒飲みの気分がわからず、おつまみになにがむいているのかなかなかわからない、ということが多いためらしい。これはちょうど給食を食べて育った主婦がいざ子どもの弁当をつくるときに悩まされるのとよくにている。なにもむずかしいことではないのだが、感じがつかめないということであろうか。私自身、さあいっぱいやろうかしらとおもうとき、まず待たされるのがつらい。なにはともあれお酒とちょっとしたつき出しがとんとんと出ると、これはうれしい。その後、少々料理が手間どっても、これで十分幸せな気分になれるのが酒飲みである。こうしたことから考えると、一合の酒のかんのつく間につくれる肴を知ってさえおけば、家庭も円満ということになるのではないだろうか。 煮干しで 煮干し片手半分(約20尾)の頭とはらわたをとり、小さければそのまま、大きければさいて油大さじ1と1/2をを熱した中に入れていため、味噌大さじ2、酒大さじ1で味をつけ、せん切りショウガを混ぜる。これは家中で一番小さな小鉢、たとえば刺身のしょうゆ皿などに盛り、ネギの薄切りを天盛りに。 タクアンで 市販のタクアン5センチ余りを細いせん切りにして、ふきんに包み、水の中でもみ、けずりガツオ、おろしショウガをそえる。青ジソやネギのせん切りを天盛りにするとよい。 納豆があれば 半包み分を庖丁でこまかくたたき、塩少々をまぜ、豆腐半丁を二つに切り、その上にのせてしょうゆで。なお、納豆とシソとタクアンをあえ混ぜてしょうゆで食べれば納豆タクアンに。イカのゲソなどをゆがいて加えれば納豆イカとして美味。 油アゲで 油アゲををよく洗った魚焼き網の上で4~5回返しながら、あまり焦がさないようにパリッと焼き、食べよく切ってから焼きたてを大根おろしとしょうゆで。もう少し時間があるときは、巻き上げに。油アゲの四方を切って二枚にし、裏側(豆腐のほう)にみそを少し塗ってからシソの葉をのせ、くるくると巻いてようじで止め、熱した油でカラリと揚げる。ようじをはずして2センチぐらいの輪切りにし、切り口を見せて盛る。日本酒、洋酒、ビールとどんな酒にもよく合う肴である。(「ちょっと味みて」 村上昭子)
あいさつ
かんぱいのグラス持たされ三十分 早く飲みたい人
赤ら顔
むかえ酒むかえるつもりがむかえられ 玉の助三郎
深酒を叱(しか)る上司も赤ら顔 年末男
隠し芸
昼あんどん忘年会ではシャンデリア 玉三郎
勘定
オアイソの気配感じて酔いつぶれ 勘定知らず(「平成サラリーマン川柳傑作選1一番風呂・二匹目」 山藤章二・尾藤三柳・第一生命)
あかおに【赤鬼】
①地獄に居ると云ふ鬼の一種。全身真赤な為めこの名がある。これに対し、青いを青鬼と云ふた。-
赤鬼は一杯過ぎて白くなり 酔ふて白くなる(「川柳大辞典」 大曲駒村)
菊正酵母(きくまさこうぼ)
昭和28年および昭和43年に菊正宗酒造㈱において分離された酵母で、Scch.sake(Kikumasamune)としてATCC(American
Type Culture Collection No.32694、No.32696)にそれぞれ登録されている.TTC染色は赤色または濃桃色で、パントテン酸を必須に要求しない.もろみにおいては高泡を形成し、発酵力の強い酵母で、もろみ末期に地蓋(じぶた)を形成する.
五橋酵母(ごきょうこうぼ)
岩国の酒井酒造(銘柄は五橋)で分離された酵母であるが、現在酒井酒造では菌株およびこれに関する資料は保存されていない.ただ非常に香りのよい酵母であったといわれている.(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)
寒鮃
このようなヒラメも「寒鮃(かんびらめ)」ともなれば、脂がのり身が締まってとりわけうまく、刺し身はもちろん、煮てよし、焼いてよし、洋風料理、また、冷めては「煮こごり」などにして賞味される。わけても、刺し身にして食べると、ねっとりした歯ざわりは、なにものにも代えがたいうまさ。
刺身うまし 平目地酒の 杯重ね 三郎
ヒラメの成熟は生後三年と言われ、産卵に関係のない二年子は、夏に向かっても味が落ちない。東京ではこの小柄なヒラメをソゲと言って珍重する。春から夏にかけての産卵期には、浅いところに集まり、産卵期のヒラメは豊漁になり、店頭にも多く出回るものの、脂肪が抜けて、肉に締まりがなく、「三月ビラメは犬も食わない」と言ったあしらいを受ける。
酒三寸 舌にとびつく 寒鮃 小満ん(「にっぽん食物誌」 平野雅章)
頭中将の酔泣き
そかし、頭中将(とうのちゅうじょう)が光源氏の息子夕霧を長年の対立の末許して娘雲居雁(くもいのかり)の婿とする場面では、酒は本質的な解決にはなっていない。むしろ本質から目をそらせるかのように、互いの酔う演技が施されているのである。娘弘徽殿女御(こきでんのにょうご)の立后を阻んだ光源氏への意趣返しもあって、頭中将の幼なじみであり、恋仲であった夕霧と雲井雁の関係を引き裂いて、六年が経過していた。今さら自分の方から頭を下げて夕霧を婿取らねばならないところに追い込まれたことが癪に触る頭中将は、酒宴の場の「酔泣き」の中に、この結婚を許している。
大臣、ほどなく空酔をしたまひて、乱りがはしく強ひ酔はしたまふを、さる心していたうすまひ悩めり。
「空酔ひ」と「酔泣き」とによって、自己防衛を解き、自分の弱さをさらけだしたかたちの頭中将のぐちによって、夕霧は過去のわだかまりを解くことを求められる。一座の者はこの居心地の悪い事態の終息をひたすら「酔ひ乱れ」ることで誤魔化し、さらに夕霧に呑ませることで、気まずい雰囲気を曖昧化しようと企むが、夕霧は酔ったふり(「そら悩み」)をして酔いを偽装してこれをやりすごす。通過儀礼にも似たこの盃責めの挙げ句に頭中将が「酔ひすすみ」(どんどん酔ってしまい)、「酔ひにかこちて」(酔ったことを口実として)、退場してしまうと、夕霧は晴れて雲居雁のもとに入ることを許されたのである。(「源氏物語の酔い」 三田村雅子)
うまさけ(3)
たのしみは 何かと問はば うまさけを あるにまかせて 飲みくらすこと
うまさけは まことこの身に 百薬の長 いのちのみずと あしたゆふべに
うつりゆく 世相横目に この余生 いかに生きなむと 盃に対する
わが友の 造りし酒ぞ つつしみて かんのつけ過ぎ なせそわぎもこ
こくありて すがすがしかる 引込みは いかなるくしき みわざにかよる(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎)
三百円は酒代
井伏鱒二は直木賞をもらった夜、銀座や新宿を飲み歩いた。賞金の五百円のうち、三百円は酒代に使うつもりであった。あとの二百円は女房に渡すのである。そんな話を、三宅正太郎が『作家の裏窓』の中で伝えている。受賞決定は、昭和十三年二月であった。そのとき芥川賞の方は、火野葦平であった。(「阿佐ヶ谷界隈」 村上護)
一茶の酒句(3)
655蕗(ふき)の葉に酒飯(さかめし)くるむ時雨哉 (七番日記)
酒飯-酒造米を蒸して強飯にしたもの。
729婆々どのが酒呑みに行く月よ哉 (七番日記)
850老(おい)たりな瓢(ふくべ)と我(われ)が影法師 (七番日記)
864はつ時[雨](しぐれ)酒屋の唄(うた)に実(み)が入(いり)ぬ (七番日記)
892菴(いほ)の猫玉の盃(さかずき)そこなきぞ 七番日記)(「新訂一茶俳句集」 丸山一彦校注)
ひだり【左】
②酒の異称。盃は左手に持つのが常則だと云ふので、俗に酒好きを『左党』と云ひ、又『左利き』と云はれる。
飲みに出た筈さ左の細工なり 左甚五郎に掛く
甚五郎左が利いてけづるなり 削るは飲む事
不忍へ左が利いて呑みに出る 左甚五郎の龍
能因は右の手李白左の手 能因餅で雨乞
皆左備へに九十三騎寄り 和田一家皆酒豪
玉の盃-徒然草第三段「万にいみじくとも、色このまざらん男は、いとさうざうしく、玉の巵の底なきこゝちぞすべき」。男女間の情味がわからないような人間は、殺風景で役に立たないの意。(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)
死んで千杯より生前の一杯
★死後の供え酒に千杯を得るよりは、生きている今、一杯飲ませてくれろ。前句と同様、本句も酒飲みのこころざすところを言ってのけた。
台所酒によい付合いはできぬ
★中途半端な酒飲みに堕ちるな、との戒め。
根深雑炊、生姜酒
★冬期に体が温まる飲食物。根深=長ネギ。
杯杓に(た)えず
★酒宴などで、相手の酌を辞退する場合の社交辞令。
独身者(ひとりもの)のごっくり飲み
★独身独酌のわびしさをさす。(「日本の酒文化総合辞典」 荻生待也)
赤酒と瑞鷹酒造㈱
「瑞鷹」を醸す吉村家は、海と山をつないだ町といわれる熊本市川尻町にあり、もともと細川侯御用達の廻船問屋として、熊本-大坂間を千石船で往来していた商家である。熊本は、肥後五十四万石細川侯の城下町で、明治二年版籍を奉還するまでの二百数十年の間、大大名として君臨してきた。細川侯は、肥後では清酒を造らせず、肥後の国酒は赤酒と決めていた。どうしてなのだろうか。代々の藩主細川侯の意向であったのか重役陣の意向であったのか定かではないが、非常に珍しい例である。江戸時代はあちこちで飢饉が相ついだ、貴重なお米を原料にしてお酒にするなど、もっての他というわけであったと推測する。赤酒はみりんのように甘口である。甘いものは大量には飲めないから、酔っぱらって生活が乱れるということはない。そんな熊本にあって常助氏の祖父吉村太八は、慶応三年酒造りを創業し、いち早く製造をはじめた。が、造りの技術が未熟でどうにもならない。そこへ降ってわいたように西南の役が起こった。明治十年である。西郷軍を攻める大久保軍の殆どは、清酒しか飲んだことのない男たちで、甘ったるい赤い色の酒など飲めるものか、というわけで、福岡県城島地方の酒がどっとばかり入り込み、飛ぶように売れた。福岡県瀬高町の「園乃蝶」醸造元の大坪氏は、西南の役で酒と梅干しを売りまくって大金を儲け、それを元手に酒造株を買い取ったと語っておられたが、今、やっとその謎が解けた思いである。清酒は造らせない、という細川侯の政策で他県の酒屋は大いに潤ったというわけである。戦争に酒はつきものというけれど、西南の役が起きたおかげで、熊本の酒屋に夜明けが来たのである。因みに瑞鷹酒造の斜め向かいに西郷軍の大本営址がある。明治二十年、初代は丹波杜氏を招いて灘流の清酒醸造に着手、数十年にわたって研究と改良を重ねて、やっとこれはという酒ができるようになった。そこで酒名も変えたいと考えていたところ、明治二十二年の元旦、どこからともなく一羽の鷹が、雀を追って勇ましい羽搏きと共に酒蔵の中に舞い込んで来た。正月の夢は、一富士、二鷹、三なすびという吉兆のものである。元旦の鷹とは、この上もないめでたい瑞兆と大よろこびをし、以来「瑞鷹」を酒銘にしたという。(「酒の旅人」 佐々木久子)
こんにゃくの梅肉和え(コンニャク、梅肉)
あえ物のベースとして梅肉は度々登場するが、コンニャクとの組み合わせは珍しいのではないだろうか。無味のコンニャクも、梅肉というよきパートナーを得て、シコシコとした歯ごたえがいき、願ってもない酒の友になる。コンニャクを好みの形、四角、長方形、ねじりなどに切り、しばらく熱湯を通してから、よく水気をきっておく。梅肉の種をとりのぞき、裏ごしして、酒、みりん、化学調味料を加えて、味を調える。タレはゆるすぎないように注意することが大切。多少化学調味料が多目でも、梅との相性のよさで気にならない。タレにコンニャクを入れてよくあえ、器に盛って、大葉をきざんで天盛りにする。(「酒肴<つまみ>のタネ本」 ホームライフセミナー編)
特A地区との交渉
山田錦は兵庫県だけで造っているわけではないんだども、やっぱりいいのは兵庫県。それも三木(みき)農協管内(かんない)の特A地区のものが一番だな。おらとこの蔵ではその特A地区の山田錦一〇〇パーセントで、大吟を造っているわけだ。この山田錦の値段は、普通の酒米の三倍はしろうね。この米は日本中の酒蔵がほしがる米だし、数量に限りもあるから、注文すればすぐに手に入るという米ではないんだ。おらとこの蔵でもなかなか思うように取れなかった。それでも辛抱(しんぼう)して、毎年、交渉してさ、十何年か前からやっと三木農協の特A地区の山田錦が来るようになって、最近はまず不自由しなくなった。そうなるまでの交渉がたいへんだったんですて。(「杜氏千年の知恵」 高浜春男)
会心の対手
天心は、文党根岸派の酒徒と、よく飲み、よく談じてゐた他にも、会心の対手がないではなかつた。職業上の縁から自然近づきとなつてゐた人物で、日本橋室町の大通りに堂々たる店舗を構へてゐた漆器店木屋の主人林久兵衛の如きは、顔に似合はぬ豪酒家として、天心の飲み対手であつた。彼は無髯の、物腰低い商人風のノッペリした漢子(おとこ)であつたが、酒にかけては無二の豪の者であつた。ひと年(とせ)天心と紅葉館に落合つて、人混ぜもせず酒戦を交へたが、その時は、二人で百本を飲み乾さうといふ約束で献酬を始めたさうである。然るに、どうしたはずみか、四十九本目に徳利が毀れて、決勝の機なく、物別れに陣を引いてしまつたといふ談が残つてゐる。大方、天心の、この中根岸時代のことであらう。(「父天心」 岡倉一雄)
青をおびた、銀色の光
もっとも私は、もう酒で一度は死んだといっていい人間なのである。あとは、よし酒で斃(たお)れても、文句はいえない。いわば、神のめぐみの余生である。二十二、三のころ、小織(こおり)や喜多村など新派の、演出にあたる仕事をしていたので、九州巡業について行った。その夜行列車でのこと、私は一升壜(びん)を二本たずさえ、三等車の団体にいる連中をねぎらうために出かけた。夜汽車の進行中に大勢で飲む酒は意外にまわり、私のほうがすっかり酔った。「そんなら明日は、しっかり頼むで」というような意味の事をいって、私は半分のこった一升壜を掴んで、自分の座席へグングン歩いた。が、進行中の、ことに夜汽車は、ともすれば進行方向が分からなくなる。しかし此方は酔っている。二等車は、ずっと前方にある。私はグングン歩いた。が、実は私は、汽車の走るのとは逆に、後尾へ向って、我れを忘れて進んでいたのだ。車両の向うには車両が走っている、と思いこんでいる私が、次の車へサッと片足をふみこんだ瞬間である。そこにはもう車両はなく、扉はあけっ放しになっていた。もちろん私の右足の下には何もない。ただ、右手に酒の壜があるだけだ。「……」眼の前に、月に光って二本のレールが、遠く長く伸びていた。私の軀は、大きくゆれた。右手の壜は音たてて線路に破れ、その音が遠ざかる。瞬間あやうくその手が把手を握っていたのだ。壜を大事にして、左足が離れていたらそれきりであった。私は今でも、あの時の銀色のレールの冴えを忘れない。凄惨とした青をおびた、銀色の光であった。(「味の芸談」 長谷川幸延)
ほとんどを飲んでしまった
仙台での北(杜夫)の学生時代、いっときは毎晩飲みに出かけたというから、これでは金欠(ゲルピン)の青年にとってはたいへんなことだ。時としては教科書の入ったままのカバンを入質してまで飲んだこともあれば、デパートの試飲会などへ出かけて無料の酒にあずかるといった具合で、まことに涙ぐましい努力?である。しかし、これほど酒にガツガツしていながら、ほかでは贅沢をしなかったというのだから、いかに飲んだかうかがえよう。北氏はそんな過去を、「要するに下宿代とわずかな本代を除き、ほとんどを飲んでしまったといってよい。しかし、だらしなく酔って歩いているうち、私はこれまで知らなかったさまざまな人間模様をも見ることができた。しかし、風俗のことは覚えたが、酔っぱらいというものは有体にいってつまらぬもので、わずかに優秀な人間が酔っぱらってふだん話さぬことをしゃべるときだけが勉強になるものだ」とふり返っている。さすがに、意気がってバカ酒をあおっていたばかりではない。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎) 「どくとるマンボウ青春期」からです。
思ひ出ぐさ 八田欣
お酒を頂いて、メートルを上げる、私の性格とか、気性が気に入つたのか、酒屋さんは宴会のある度毎に、必ず私を呼んで下さいました。そして、酒の先生で有る花岡先生は必ず酒屋さんの宴会に居られるので、いつも先生とお顔が合ふ事に成りました。先生は宴席の雰囲気を、和ごやかにする色々な諧謔にとんだお話をなさる方でありました。時々皮肉も入るが、後味のわるくないお話上手な、多弁な方でありました。元来、私もおやべりでありますので、自づと他の芸者さんより、多く先生のお相手をするようになつたのであります。そして、次第にお親しくなりました。お料理屋さんも、よくそれを心得て居られまして、花岡先生のお名前の席でありますと、私をかけて下さると云ふ事であります。花岡先生は、余りお酒がおつよくなかつたので、お酒のつよい、お客さんの相手になられる時はコツプ酒でグイ/\あほつたと云ふ私の相棒のお蝶さんと二人がよく呼ばれたものです。秋田倶楽部での宴会に行つて居る時は、他の料理屋さんから「おもらひ」等かゝつても、めつたに行かれぬ様な、見識を倶楽部で持って居たものでありますがそれが、「花岡先生の居られる席からのおもらいならだと、花岡先生だから仕方ないしべ」と云ふ事で、私共はその家に行かれたものです。先生の料理屋方面に対する権勢もたいしたものでございました。(「花岡先生を偲ぶ」 藤井益二編) 花岡正庸の追悼集です。
お料理は本物、お酒はにせ物
食事の場面に出る料理は、ほとんどがつくりものでなく本物だが、反対につくりもの、まがいものなのは酒。こればかりはよほどの例外を除いて全部がまがいものである。本物の酒を使って役者が酔っぱらってしまったら困る。冗談ではなく、本当にそんな例があったのだ。だから本物はまず使わない。では酒の代わりに何を使うのか。日本酒は水である。色をつける必要があれば少しお茶を入れる。これでよし。お酒をお茶けとはよく言ったものだ。ウイスキーやブランデーは大体が紅茶。紅茶を布でこして使う。ワインはそれらしい色の清涼飲料水を使えばいい。ビールはちゃんと芝居で使う本物そっくりなのがある。黄金色で白い泡も出る。見ためには区別がつかない。テレビでもこのビールを飲む。「アルコールが全くないから、がぶがぶ飲むと腹が張っていけねえ」なんてビール党の役者はこぼす。役者のうちでも、酒豪はこのまがいものが気に入らない。酒好きで有名な勝新太郎が、NHK総合テレビの『この人を』に夫人の中村玉緒と出たとき、ショーの終わり近く、勝新太郎と親しい太地喜和子、池波志乃といった女優たちがブランデーを飲みながら彼と語り合う場面があった。テーブルの上には、ブランデーのボトルとグラス。太地喜和子がグラスを満たし、勝新太郎にすすめる。ご機嫌で一口飲んだ勝新、とたんに顔をしかめ、「なんだ。紅茶じゃないか」とかたわらの中村玉緒を見る。「打ち合わせの時、本番では本物といったじゃないか」と口をとがらせた勝新。「いけませんか」と未練がましい。「いけませんか」「いけません」と、この夫婦のやりとりのおかしさ。勝新は昔、関西テレビの番組に出演中、酒でしくじったことがあるのだった。(「テレビ雑学事典」 毎日新聞社)
【第三一回 昭和五五年五月二一日】
誠鏡中尾醸造㈱社長・中尾義孝さん
この蔵が吟醸酒を世に広めた功績は大きい。前社長は熱心な研究家で、リンゴから酵母を取り出し、香り高い吟醸酒を醸した。その品質を義孝さんは「幻」という商標で商品化した。それが「イレブンPM」というテレビ番組の中で紹介され、あっという間に市場で「幻」になってしまう。そのテレビ番組は作家の藤本義一さんがホストの洒落たものだった。スポンサーはサントリーだったと思う。いわば義孝さんは、敵地で名乗りを上げたようなものだ。製法も定かでないモルトなるものの混入率を上げれば高級ウイスキーになるという酒よりも、心を込め技を尽くした酒の方がうまいに決まっているのだ。リンゴから取れたというl酵母がその特徴の香気の高さをフルに発揮できるよう、高温糖化法という酒母づくりもこの蔵で開発されている。(「「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎) 平成14年の出版です。
スクーターとスクーターの間
ところで、記憶の抜け方にもさまざまなタイプがある。翌朝、思い返してある時点から完璧にすっ飛んでいる場合もあれば、憶えている部分と記憶が飛んでいる部分がとびとびになっているような場合もある。また、寝て起きてからではなく、その夜のうちに、一時的に記憶のない時間帯があることに気がつくこともある。そのケースで一番驚いたのは、ハッと我に返ったら、宅配ピザ屋の前のスクーターの間に挟まっていたときだ。それは、まだ、行きつけの店に自転車で通っている頃のこと。深夜、飲み終えて、いつもの道を家に向かって走り出した。ところが、ほどなく道路工事で回り道を余儀なくされ、その迂回路を走っている途中で記憶が停止…、気がついたら、スクーターとスクーターの間に挟まっていたというわけ。そのピザ屋のあるエリアは、帰り道とはまったく見当外れの方角。なぜここにいるのか?そして乗っていた自転車はどこにいったのか?まさに狐に化かされたような気持ちであたりを捜索すると、数十メートル離れた歩道にわが自転車がポツンと停まっていた。そこは、ゆるやかな坂になっているので、もしかして登りがしんどくなって降りたのかもしれない…とそこまでは推測できる。しかし、その後、歩いて行ってなぜスクーターの間に挟まったのか、今もってまったく理解がわからない。なお、自転車の飲酒運転は、まことに危険きわまりない重大な交通違反である。私は、その後もしばしば自転車で飲みに出かけていたが、ある時、転倒~骨折という天罰がくだって、それ以来、自転車で飲みに出かけるのはキッパリやめた。(「晩酌パラダイス」 ラズウェル細木)
田辺家の食卓
品数は多いが、殊更なものは何もない。全体に味つけは適度に品がよい。田辺家の食卓の特徴を一つあげるなら、どれをとっても酒の肴によろしいものばかり、ということであろう。その酒だが、まずビールを少量、次いで日本酒というのが、いつものコース。この夜はそれに加えて特別に焼酎(しようちゆう)が出た。焼酎といっても、黒砂糖と上質米からつくられた仲々品の良い逸品である。"せとのなだ"といって、カモカのおっちゃんの故郷である奄美の、土地の人たちがこよなく愛している酒だという。奄美の人は酒造会社の名をとって、この酒を西平(にしひら)ックァというのは愛(いと)しいものにつける接尾語で、例えば、、子供の「まり」(排泄物のことだが、子供は可愛らしい場合もある)を「まりックァ」と、そういう具合に使うのだそうである。ただし、焼酎であるから、アルコール度も四十度と高く、田辺家では飲む時は、奄美の流儀にならってお湯で割る。(「作家の食談」 山本容朗)
ホトトギス
吹上では、時にホトトギスが鳴く。都心のここで、この鳥が聞けるのは、不思議なようでもあるが、「ホトトギス心のままに聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里」の狂歌、あれをよくよく味わってみれば、ここで、この鳥を聞くことができるのは、当たりまえともいえよう。なぜといって、ここで、酒を買おう、豆腐が欲しいといったって、ちょっとやそっとでは手に入らない。酒は丸ビルの明治屋が近いか。豆腐は、神田なら神保町か、それとも麹町の奥深くまで行かなくちゃあ、ありゃしない。ホトトギスも鳴こうというもの。(「余丁町停留所」 入江相政)
大地真央
宝塚出身のスターでは、ベスト3に入る飲みっぷりで知られる大地真央(だいちまお)も、花園を離れてオトナの世界にとび込んだとたんに、まず圧倒されたのは太地喜和子の艶然たる飲みっぷりだったという。「あのときは、太地(喜和子)さんと池波志乃さん、江波杏子さんの三人に囲まれて、私はもう呆然よ。もうすごい迫力だったもの」そうだろう、喜和子は並みの男たちが平伏するほどの豪快な酒飲みである上に、酔うほどに陶然と色っぽく挑むひと。池波志乃は典型的な鉄火肌の江戸ッ児で、酒の強さでは亭主の中尾彬も太刀打ちできないほどで、酔いがまわればポンポンと怪気炎。江波杏子はかつて大映の"お銀さん"シリーズで鳴らした女優だが、年齢を重ねて凄みが増した妖しさ。アルコールがまわるとジプシーの女ボスって雰囲気である。この三人に囲まれて「飲みなさあい、アンタも。私のお酌じゃ飲めないの!」などと啖呵をきられたら"ヅカの異端児"といわれたほど向こう気が強く、天衣無縫といわれた大地真央もたじたじだったにちがいない。その洗礼をうけて以降の大地真央の飲みっぷりはまた見事なもので、日本酒、ワイン、ブランデー、焼酎、紹興酒、ビールと何でもグイグイ。「なぜかウイスキーにはヨワイのよね」という話だが、「今日は飲むぞォ」と決めたら、いくら飲んでもつぶれることはないというのだから凄い。(「いい酒 いい友 いい人生」 加東康一)
無関心の親と社会的偏見
親が子どもの飲酒に対してこのように黙認的なあいまいな態度をとるのは、親を含めた社会全体が、子どもの飲酒に対して、どのような態度をとることが望ましいのかわからなくなっていることが原因と考えられます。戦後日本の年々変化する社会は、従来からの社会規範を全く無効にしてしまい、我々親の世代は、自分の子ども時代の思い出やその頃の教訓が、全く役に立たない時代を生きているからです。この調査でもう一つおもしろいのは、親達が高校生の男子を大人扱いしており、男の飲酒は社会的に許され、「酒が飲めることは男の甲斐性」と考えており、逆に女の子に対しては、「女が飲むのははしたない」「女は人前で飲んではならない」などの、従来の男尊女卑の価値観にとらわれているらしいことです。それでも女の子の飲酒に親が厳しいのは、一つの大事な意味が含まれています。セクシャルハラスメントに代表されるような、男性から女性への性的強制は、男が酔った場面で発生することが多いからです。その意味で、酔っ払ったら自分を守れなくなることを、女の子はぜひ頭にたたき込んでおかなければなりません。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二)
(九)出口の妻の頓才(巻二九)
小松(石川県)の城主、丹羽長重(にわながしげ)の軍将江口三郎右衛門の従者に、出口という者があった。たびたび手柄をあらわしたが、生まれつきわがまま者で、人はこの者を用いない。江口からは禄高二百石を与えておかれた。関が原合戦の前、金沢(石川県)の前田利家が大軍をもって、山口玄蕃允がたてこもっていた大聖寺(石川県)の城を攻め落として、引き上げようとするとき、丹羽長重がそのあとを追った。出口は真っ先に進んで敵の首を取ったけれども、彼は六十四歳の老武者であるから、さすがに力疲れ息あえいで、しばらく休んでいた。そこへ、だれとも知らず、十四、五人の者が走って来て、その首を奪い去った。出口は大いに怒ったが、仕方なくぼう然としているところに、出口の妻が、半白の髪を頭上に結(ゆ)い上げ、自分が織った麻布を着て、腰に短刀をさし、片手に酒ひょうたんをたずさえて、江口の陣所のほうへ行く。これを見つけて、出口は、「敵中を通り、女の身としてここまで来たのは、浅からぬ志じゃ。手にもっておるのは、さだめてわしの好物の酒であろう。わしに飲ませようというわけじゃな。さらば一杯くんでのどをうるおし、また首を取ろうぞ」と、心の中に喜んで妻を招き、「出口はここにいるぞ」と呼ばわった。だが妻は見向きもせずに行き過ぎる。そのあたりに居合わせた仲間たちが、このことをその女に知らせたところが、その老女が言うには、「あれは、私の夫でございます。殿は山の上にいらっしゃるのでしょう。よしんば首を一つばかり取ったといっても、昼寝している者に飲ませる酒はございませんよ。あなた方も命限りの働きをして、手柄をお立てなされ」と言いすてて、浅井山によじ登った。そして、「酒迎(さかむか)え(四)に参りました。それぞれおつぎくだされ」というと、出口もよろこび、南部武右衛門という猛者と二人して、一ひさごの酒を飲み尽くした。出口は妻に恥ずかしめられて「いざ,それならば」とばかり、また敵中にかけ入った。そして首一つ取って手に下げ、浅井山に登って、「ばばあ、こりゃどうじゃ」という。すると妻は笑って、「その首は、おまえさまの手柄ではありませぬ。この酒が取ったのじゃ」と、空になったひょうたんを傾けて見せたので、出口は、「この古ばばにだまされて、むだ骨を折ったことよ」と、くやんだので、江口も南部も大いにおもしろがったという。
(四)遠い旅をして帰る者を出迎えて酒宴すること。ここでは、戦の苦労をねぎらうための酒盛りの意。(「翁草」 神沢貞幹原著 浮橋康彦訳)
宮崎のイノシシ
イノシシは冬期に狩猟され、昔は塩蔵されたのを「ツボジシ」といい、後日、焼酎宴の時に出された。とにかくすべてを上手に食べてしまうのが日向樵夫(しようふ)の伝統で、捕ったばかりのものは背骨についた霜降り肉を刺身にし、耳、鼻先、尾などは熱湯を通して皮を取ってから醤油に漬け込んで焼くと、特有のコリコリ感とうま味に、焼酎の味もぐっと引きたった。脳味噌は血管を抜いてから蒸焼きに、臓物はすべて味噌鍋で煮て焼酎の肴にと、捨てるところは全くなかった。だから、焼酎を持参して、山の幸に感謝する猪祭という奇祭も行われていた。山之神の前で肝臓はそのまま刺身にして盛り、心臓は熱湯を通した後七つに切り分けて串に刺し、焼酎とともに捧げて感謝の礼拝を行ったという。(「銘酒誕生」 小泉武夫)
チカダイ、アマダイ
タイのほうは、チカダイ、アマダイと呼ばれるものが、タイと称して売られていることが多いが、これも本物のタイとは別物だ。チカダイは熱帯魚の一種でアフリカが原産、日本に入ってきて以来、盛んに養殖され、本来は黒っぽい表面も、タイのように赤く変色させる技術が開発されたという。アマダイは関西でグジと呼ばれる魚のことで、味はいいが、形はタイとちがって細長く、おでこが出っ張っている。どちらも日本酒で一杯やりながら味わうとイケる魚だ。それにしても、どうせ本物よりは安く売るのだから、わざわざウソをついて売ることもないだろうに。本名を名のらないのは、消費者がブランドに弱い日本人のこと、ワケのわからん名前の魚なんぞ、食えないんだなア。これが。実際は、食ってるのだが…。(「酒場で盛りあがる酒のこだわり話」 博学こだわり倶楽部編)
福小町
明治十四年、天皇の巡幸のお供で湯沢の木村酒造店に一泊した徳大寺実則公が、出された酒に「福娘」と名付けた。大正中期、「福娘」が東京に進出すると、灘の大手メーカー「富久娘」から類似商標だと文句がついた。しばらく商標登録問題で争ったが、結局、小野小町にあやかって「福小町」と名前を変えることに落ち着いた。(「あきた雑学ノート」 読売新聞秋田支局編) 木村酒造は、湯沢市田町2-1-11にあります。
対酒贈友人 酒に対して友人に贈る 韋荘 -
多病 仍(よつ)テ多感 多病にして多感
君ノ心ハ自(おのづ)カラ我ガ心 君の心は もちろん僕の心。
浮世ハ都(すべ)テ是レ夢 浮世は すべて夢だ
浩(カウ)歎ハ吟ズルニ如カ不(ず)。 歎ずるより吟ずるが ましだ。
白雪 篇篇 麗(うるは)シク 傑作は幾篇でも出来る
清酤(コ) 盞(サン)盞 深シ。 清酒は何杯でも有るさ。
乱離 倶ニ老大 お互に乱世の老書生
強酔シテ襟(キン)ヲ霑(うるほ)ス莫レ。 やけ酒でも飲まう、めそめそするなよ。(「中華飲酒詩選」 青木正児)
一白水成 いっぱくすいせい
渡邉康衛(こうえい)さん 福禄寿酒造(秋田県南秋田郡五城目町)16代目蔵元
昭和54(1979)年生まれ。東京農業大学卒業。平成18年、従来の「福禄寿」とは別に、「白」い米と「水」から「成」る「一」番旨い酒を意味する純米造りの原酒シリーズ「一白水成」を発表。平成21年社長に就任。野球で鍛えたしなやかな肢体の持ち主。愛読書はイチロー関係の著書。
●語録「飲む人が心からエンジョイできるような"愉しい"お酒を目指す」「同世代にとって、もっと日本酒が身近な存在になるよう、魅力を伝えていきたい」
♠最も自分らしい酒 「一白水成」特別純米 麹米・吟の精 精米歩合55% 掛米・秋田酒こまち精米歩合58%
著者コメント:白桃のような華やかな香り、果汁のような心地よい酸味と、ふっくらとした米の甘みのバランスが秀逸だ。懐かしさと都会的な洗練を併せ持つ、現代を代表するモダンタイプの美酒。ぎゅっとスダチを搾った鶏つくねと合わせたら、悶絶必至。
♥創業元禄元年(1688)の老舗蔵で継承した若ぎみ。秋田県5社の若手蔵元グループ「NEXT5」のなかでも最も若手だが、年々減少していた売り上げを立て直すため、製造から管理、流通まで大変革を断行するなど意欲的に取り組む。新銘柄「一白水成」は、ジューシーでエレガントな美酒として全国で人気になり、「美酒王国秋田」復権にも大きく貢献している。今後は若手を牽引するリーダーとしての活躍が期待される。(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子)
万紫千紅(2)
居風呂(すゑぶろ)の形したる燗風呂に書きつけゝる
嘉肴冷酒燗無レ極
此ちろり 外へはやらじ 湯加減も あるじの側に 居(すゑ)ふろの燗-
同じく伝通院の花を見て
花やちる らんに及ばず 木のもとに のみつる酒も はかりなき(無量)山-
傾城と樽酒と河豚(ふぐ)とを画たる扇に
こがれゆく 猪牙(ちよき)の塩さい ふぐと汁 ひとたるものを やぶる剣びし
入舟は いかゞとあんじ わづらひし 憂をはらふ 剣菱の酒(「万紫千紅 大田南畝全集」)
酒は上下向(じようげこう)の間断酒(だんじゆ(しゆ))
酒は、道中の間、禁酒。『義経記』に、<(弁慶)「酒は上下向の間断酒にて候(そうろう)。」とて、長吏のもとへぞ返しける。「希有(けう)なる山伏達(やまぶしたち)にてありけるよ。」とて、急ぎ僧膳(ぜん)仕立て、御(み)堂へ送りけり。>とある。(「飲食事辞典」 白石大二)
ひとり酒
ただ放心状態で飲んでいる。その状態がいちばん疲れなくて、それには一人がいちばんいい。そしてほろっとして、あと黙々と寝入ってしまえば目的は達せられるので、酒でもビールでもウイスキーでも、何ならシューチューでもちっともかまわない。 山田風太郎 『風山坊風呂焚き歌』(ちくま文庫)所収「ひとり酒」より(「酔っぱらいに贈る言葉」 大竹聡)
禁酒令
南北朝 (北魏)大安四 (西暦)四五八 禁酒令公布。四六六年、文帝即位により禁酒令廃止。以後も禁酒令は度々出ているが永続していない。(「一衣帯水」 田中静一)
古今夷曲集
氏神の祭りの日みき(神酒)いたゝくとてよめる 満永
信あれは 徳利にいるゝ このみきを いたゝく度に 手もあらひよね
出雲と讃岐へ使僧つかはす門出に 信海
機嫌よく 旅にいづもの 門出に さすがに祝ふ 酒のさんしう
熱田にて 正成
舟の上 ゑ(酔)はぬほどしも のむ酒の かんもあつたの 浦に着ぬる(「古今夷曲集」)
加藤清正家臣、坂川忠兵衛の大酒
加藤清正は、士卒(武士)が酒を飲むことがお嫌いだというので、家中の者は酒好きであることを隠していた。坂川忠兵衛は、きわめて上戸(酒好き)であったが、「一滴もいただきません」と偽っていた。あるとき、家中の上下にご城中で料理を賜ることがあった。坂川の右隣に、玉庵という医者が並んで座っていたが、これが上戸で、酒を大杯にたぶたぶと受けて、膳の脇に置いた。そこへ清正公が回って来られて、酒をお勧めなさる。玉庵がそばに置いていた杯を清正公が見て、「その酒を干して、もう一杯どうじゃ」とおっしゃった。坂川は、つい自分の杯と心得て、これを取って一息につっと飲んで、あとで他人の杯であることを知り、ひどく赤面した。清正公は、あきれてとかくのことばも出なかった。(「翁草」 神沢貞幹 浮橋康彦訳)
鰯ぬた
吉田酒造店 高田さんのお勧め
酒蔵でおいしいと評判の、鰯と長葱のぬたです。
●材料 鰯の刺身/長葱/味噌/酢/砂糖/板粕
●作り方 ①鰯は刺身にして酢洗いし、さっと湯をかけて冷ましておく。 ②長葱は2センチに切り、しんなりするまで茹で、酢洗いする。 ③味噌対板粕対酢対砂糖を10対6対6~8対3の割合ですり混ぜる。 ④鰯、長葱とこの酢みそを和える。
◆板粕の量は好みで調整してみてください。(「酒粕の凄い特効」 滝澤行雄監修)
はまひるがほ 三好達治(みよしたつじ)
ああこの花は日の昼に
はまひりがほは浜風に
いろもほのかにもろげなる
みな酒づきをかたむけて
わかれの酒を艸(くさ)の葉に
紫紺(しこん)の海の砂の上に
そそぎしたみてすず風の
たつをもまたでしをれける
そは夏の日の旅をゆき
ゆくへもしらぬ日の夢か
あとなしごととをしまじな
ゆかしきものはみなはかな(「酒の詩集」 富士正晴)
出征軍人の言葉
その時、赤ら顔のおじさんがあたしを見て、笑いながら、「オイ坊主、お前も一杯飲め」と盃を出した。出征軍人は、心配そうな顔をしてあたしを見ている。あたしは、「いただきます」とスーと飲んだ。何しろ離乳食の時よりなじんで驚きはしない。ワアワア騒いでいた大人達が、いっせいにこちらを見た。出征軍人の母は、「およしなさい、駄目ですヨ」と、とめる。ほかの酔った大人達は、「オイオイ飲め、飲め、日本男児じゃないか」あたしは平気でだまって飲みほした。まわりの人達は一瞬の間シーンとなったが、いっせいに拍手をし、「その意気だ、その意気だ、もっとついでやれ」あたしの前には、また盃が来た。あたしは飲んだ。そしてまた来た。それも飲んだ。あたしは見えるものが全部ゆがんでいくので心細くなり、立ちあがろうとして、たおれた。「バンザーイ、バンザーイ」と言う声に、あたしは目をさました。頭は割れる様にいたい。吐き気がする。まわりには、誰もいない。ぬれた手拭がひたいにのっている。あたしは夢中になって外へ出た。出征軍人を送っていく行列にたどりついた。昨夜あたしに酒をすすめたおじさんが、かけよって来て、「オイ、大丈夫か、悪かったナ」とあたしの背中をなでてくれた。あたしは、余計気持が悪くなり、黄色い水をはいた。そしてこんなものを考え出したヤツをうらんだ。出征軍人とその母は、心配そうにあたしを見ていたが、「バカな事をするんじゃあない。酒なんていうものは二度と飲むんじゃあないぞ」と出征軍人は言った。その人の母も大きくうなずいて、あたしを見た。「ハイ、二度と飲みません」と言いながら私は目を廻してしまった。これがあたしの記憶にある酒に酔った最初である。その時は、酒をにくんだ。のろった。こんなものをこしらえるヤツを生かしておけない、と、心にちかった。それが今では、もし酒がこの世になかったら、と思っただけでゾッとする。(「出征軍人の言葉」 金原亭馬生) 小学6年生の時の話だそうです。父は古今亭志ん生です。
燈(とう)を恋(こ)うる蛾(が)(袁宏道)
たとえば袁宏道は酒で身をもち崩した友人の方子公を死ぬまで見棄てずにめんどうを見た。それは、たとえ彼が世に受け入れられなくとも、その魂に純粋さがあり、それをよしと考えたためである。政治よりも、まず「魂」である。魂の純粋は、彼の「性霊説」にかなう。
夢来たる 母を牽(ひ)いて泣く
この句は、袁宏道の「子公貧病口占乞笑」(子公貧にして病む、口占(こうせん)して笑いを乞う)の中にある。「口占」とは、即興の意味である。詩を作って貧乏な病床の友人をからかい、すこしでも彼の気持ちを慰めようとした時の作である。あらゆる治療をこころみてみたが、ついに万策尽きて、今や瀕死の床にある友人を宏道が見舞った時、いまちょうど夢を見ていたところだと子公はいう。その夢では、母の手に彼がすがりついて泣き叫んでいるのだという。俗にいうように、亡き母が彼を「お迎え」にきていたのだろうか。まだ死ぬのはいやだ、といって方子公はだだをこねていたのだろうか。かつて彼は、酒で死ぬのは本望だ、しらふで生きていてもなんの意味があろう、と叫んだものだ。だが、酒の飲みすぎがたたって、病となる。
悔ゆ 燈を恋うる蛾と作(な)りしを
もはや友人の方子公は酒をあおるだけの力もない。それでも酒を飲ませてくれ、酒がほしい、となお宏道に向かっていいつづけていたのか。「お前さんは、灯(あか)りを恋うて火に近づき、ついにわが身を焼きこがしてやまぬ蛾と同じだよ、すこしは後悔しないのかね」袁宏道は、まもなく死ぬだろう友人をかく優しくからかうものの、酒を与える勇気まであったかどうか、それはわからない。(「漢詩賞遊 酒を売る家」 草森紳一) 醒めて生くるなし
ひけらかす【ひけらかす】
自慢げに見せびらかすといふ意の語。「浮世親仁形気」に『後世も渡世も忘れはてゝ、娘をつれてひけらかす事を、又もなき楽みにして』とあり、また「東海道中膝栗毛」に『五大力のかんざし(中略)自慢らしく、内中の者にひけらかすから」とある。』
嫁の生酔 御守殿を ひけらかし 昔の身分に鼻を掛く(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)
名酒居酒屋
名酒居酒屋を専門に取り上げた居酒屋ガイドブックのさきがけと思われる『東京 美酒名酒の飲める本物の店』(穂積忠彦(ほづみただひこ)・水沢渓(みずさわけい)著、一九八四年)には、池袋の名酒店酒屋として、「あけぼ乃(の)」「三春駒(みはるこま)」「傳魚坊(でんぎよぼう)」「味里(みさと)」「笹周」の五店が取り上げられている。「あけぼ乃」はバブル期に店を大幅に拡張し、これが良くなかったのか、まもなく閉店した。「三春駒」は、私が日本酒の味を覚えた店だが、二〇一四年まで続いてから閉店した。(図5・2)。「傳魚坊」は四谷(よつや)に移転したのち、やはり最近になって閉店した。「味里」は高田馬場に移り、別の店名で続いている。「笹周」は前述のように、数年前に閉店した。いろいろ変転はあったが、その後も池袋では名酒居酒屋の開店が相次ぎ、現在も活況を呈している。店が日本酒の味の分かる客を育て、その客が新しい店を育てる。こうして「笹周」から始まる名酒居酒屋のDNA、もしくは地霊のようなものが根づいたのだろう。しかも副都心とはいっても地価が比較的安い場所だから、どの店もリーズナブルだ。日本最高の、名酒居酒屋のメッカといっていい。(「居酒屋の戦後史」 橋本健二)
一茶の酒句(2)
240 川縁(かはべり)や 巨(炬)燵(こたつ)の酔(よひ)を さます人 (享和句帳) 240同句帖に「川縁に巨燵をさまゆふべ哉」と併記。
378 酒冷(ひや)す ちよろ/\川の 槿(むくげ)哉 (文化句帖)
408 古(ふる)利根(利根)や 鴨の鳴(なく)夜の 酒の味 (文化句帖)
其角(きかく)百年忌
427 春の風 艸(くさ)にも酒を 呑(のま)すべき (文化句帖) 427其角-江戸の蕉門俳人。酒豪として知られた。宝永四年没。(「一茶俳句集」 丸山一彦校中)
彼らはよく飲んだ
前略御免下さい。偶然の話から時々親しい者同士が集まって文学懇話会をやってはどうかといふことになりました。で、その第一回を来る六日午後五時頃から「ピノチオ」で催すことになりましたので御賛成下され是非出席をお願ひいたします。中央沿線のものの外に坪田譲治氏、浅見淵氏、真杉静枝氏等を加へて十二、三人の予定です。(会費二円)十二月二日。田畑修一郎、中村地平、小田嶽夫 会は昭和十五年十二月六日に、予定どおり開かれた。出席者は、ハガキに書いてある発起人のほか、井伏鱒二、外村繁、中屋孝雄、亀井勝一郎、太宰治、上林暁、木山捷平らが集まった。その他、阿佐ヶ谷界隈の文士たちは、会がなくてもピノチオあたりに集まって、文学談義することも多かった。ピノチオの主人はその文士たちのことを、ろくに金もつかわんのにうるさい人たちだ、と語っていたこともあったという。ピノチオは、いずれにしても気さくな支那料理店であった。それに安いのが魅力であった。だから貧乏文士たちが、多く集まって来たのだろう。線路をへだてた駅の南側には、「ノア」という酒場もあった。美人のママと、その娘がやっていたが、そこは少々高かった。「ノア」で飲むと後の払いに苦労したという。その他、「おけいちゃん」の店とか「双葉」という店、名なしの屋台などで彼らはよく飲んだ。(「文壇資料 阿佐ヶ谷界隈」 村上護)
うまさけ(2)
これのよを たのしくせむと うまさけの 究めのみちに いのちかけさす
うまさけの きわめのみちゆ 生(あ)れいでし ミクロの学は いやさかえなむ
うまさけは かむべかりけり ひとすじの 究めの道を たどるまにまに
うるはしき ものを見つむる 心より まことの智恵も あれいずるらむ(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎)
紫式部日記
紫式部が酒の接待が嫌いで、酔っぱらいにからまれるのに閉口して、酒の場を逃げ出して主人藤原道長に見つかってしまい、さぼりを許される代わりに歌一首を詠まされた話は『紫式部日記』にあるが、紫式部もまた宴席にあって、結構したたかに酔っ払いを観察し、比較・対照・批評しているのである。当時の酒は濁り酒であったからアルコール度は低く、大量に飲まなければ酔えないが、一旦大量に飲んで酔ってしまうと、不純物が多いため、悪酔いしやすく、吐くことも多かった。酔っ払った右大臣が女房の衣を引っ張って破ってしまった話や、やはり泥酔したその右大臣が、大切な儀式の場の机を引っ繰り返したり、吐いてしまって満座にしらけを呼んでしまった話(「見る人の身さへ冷えはべりしか」)など、『紫式部日記』には酒の上の失敗の話は枚挙に暇がないほど書き記されている。(「源氏物語の酔い」 三田村雅子)
干かます酒の肴に求めたり 清子-
総じてカマスは水っぽい魚なので、生で食べるよりは一日くらい干したほうがうまく、さらに時が経つにつれてうまくなり、アジと同じように塩干魚とするには、もってこいの肴。ただ肉質がやわらかいのが難点だが、白身で味があっさりしているので、たいていの料理に使える。ひと塩をして焼くのが一番。焼いたら熱いうちに食べるのが、うまく食べるコツ。小さめのものはフライかてんぷらに。さっぱりした白身に脂肪が合うからだ。カマスの干ものを焼くときは、まず皮目から火にかざし、身の方で焼き上げ、キツネ色にこんがり焼き目がつくくらいの頃合いが食べ頃。
干しかますビールを山と満たしけり 小満ん(「にっぽん食物誌」 平野雅章)
室づくり
こうじ室を長期間使用したため湿気が多くなり使いにくくなった場合を室疲れという.断熱材として藁(わら)を用いた場合は早く室づかれを起こしてこうじが乾燥しにくくなり香りも悪くなる.籾殻(もみがら)を用いた時は室づかれが少なく、合成断熱材を用いた場合はほとんど起こらない.こうじ室の大きさに対し引込量の多い時、湿度を高く保った時は室づかれしやすい.(「灘の酒用語集」 灘酒研究会)
離別の酒宴
昭和二十年八月十七日、つまり終戦の翌々日のことだ。部隊の解散が決定し、分駐している小隊単位で離別の酒宴を張ることとなった。酒宴といっても、ブタの刺身をサカナに、航空用燃料のガソリンを飲むわけである。それも飯盒の中盒で…。炎天下、ガソリンを飲まされ、私はたちまちバタンキュー、夏草に埋もれてうつらうつらしていると、誰かが私のそばにやってきて、耳許でブツブツ何かいいだした。見ると、小隊の古参軍曹である。「オイ!小隊長、起きろ!小隊長、お前さんは、わが中隊の、小隊長のなかでは一番いいひとじゃ。しかし、戦争ちゅうもんわな、いいひとでは勝てんのじゃ。鬼が勝つんじゃ。実戦となってタマが飛んでくると、日ごろ鬼のように怖れられ、嫌われている奴が頼りになるんじゃ。お分かりかな、学生さん!」いいひとでは戦争に勝てない。勝つためには鬼になれ!私はこの古参軍曹のことばが胸に刺さり、刺さったまま復員し、現在に至っているわけだが、未だに時々このことばが生き生きと胸に甦ってくるのである。(「置酒歓語」 楠本憲吉)
趣味
酒好きの 上司持つ部下 家庭不和 上戸下戸
二次会
二次会の 上司の面倒 あみだくじ 幹事
二次会費 寝ていただけで 頭わり 朝がえり
二次会で 妻に出会った 共稼ぎ 二次会男
酔いざめ
ゲイバーで 妻とそっくり 酔いがさめ スケベ亭主
玄関の 女房の影に 酔いがさめ 早起き蜂(「平成サラリーマン川柳傑作選 一番風呂・二匹目」 山藤章二・尾藤三柳・第一生命選)
日曜日だけ着替えに帰って
その最終巻に、赤塚は、あとがきを書いている。勿論、赤塚の話を編集者がまとめたものだ。赤塚が自作を語ったのは珍しい。途中から採録してみる。-
漫画にも武居記者として出てくるけど、少年サンデーの武居って編集者と、二人で「よーし、もうどうだっていいよ。連載辞めてもいいや」って一緒にアイデアを考えはじめた。あいつも昔はものすごくやんちゃなヤツでさ、これをやってる時は、二人でノッてたんだな。毎晩飲みに行って、武居は月曜から土曜日迄ずっとフジオ・プロにいた。日曜日だけ着替えに帰って。やっぱり漫画家でも、作家でも、編集者のどんな奴と組むかによって作家の体質が変わっていくんだよ。だんだんノッてきて、「伊豆の踊子」のあたりから本格的におかしくなっていったんだよな。このあたりから、「読者がなんて言おうが関係ない。何描いてもいいや」って感じで、二人とも完全に開き直った。とにかく脈絡がない。メチャクチャな漫画。だから当時-これは何年前かな、二十年ぐらい前だよな-このセンスがわかる読者というのはあまりいなかった。その時の、「少年サンデー」は、今の「少年サンデー」よりも読者層が若かったしね。でも、こっちはウケようがウケなかろうが何でもいいから描こうっていって描いちゃった。だから、今頃読んでもらったほうが、時代的にはちょうどいいんじゃないかと思うよ。ともかく、人気なんかもまったく度外視して描いたんだ。これで漫画辞めてもいいやって思ってた。」だから全然受けなかったよ。ぜんぜん人気でなかった。(「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」 武居俊樹)
谷保村の酒
いったん『繁寿司』へ集合し、みんなぞろぞろ谷保村の『文蔵』へ歩いてゆく。これで三日連続だ。出版社から電話があり、女房が今『文蔵』にいると言うと、『群像』の出張校正ですかと訊かれるという。あるいは、へえ、『群像』では酒を出すんですかと言う人もあるそうだ。『文蔵』は満席で路地に人工芝を敷きボール箱を卓にして飲む。日本リース社長の井上猛博氏が店の中にいたので、社長、遠慮なくご馳走になりますと言ったら、井上さんは本当に金を払って帰ってしまったことが後でわかった。幼稚園園長の小沢孝造氏から電話があり『パリ』で待っているという。コンクリート会社社長の半ちゃんもいるそうだ。半ちゃんの趣味は流しのギターである。中上(健次)さんが、そこにはマイクがあるかと訊く。あるというと、とたんに浮足立つ感じになった。『パリ』まで、またしても歩く。疲労困憊(こんぱい)、フランスはあまりに遠し。中上さん、おれの歌は野坂昭如氏よりうまいという。どっちとも言わないが、中上さんは邦楽で言う「量(りょ)がある」という声だ。『湖沼学入門』の担当者で、朝から手伝ってくれた福チャンこと福沢晴夫氏もノド自慢である。滝田ゆうさんについては言うまでもない、谷保村の演歌師である。それでマイクの奪いあいになり、ついに私も『君恋し』を歌った。「ミダルルゥ、ココロニィ…」という歌詞がぴったりだと思った。(「酒中日記 谷保蔵の酒」 山口瞳)
ぱいいち(杯一)
[名]酒を飲むこと。テキヤ・不良の言葉。◇『安愚楽鍋』三編上(1871~72年)<仮名垣魯文>「夜席の出がけなんぞにやア牛で杯一しめたうへ」◇『隠語輯覧』(1915年)<富田愛次郎>「ぱいいち[杯一]飲酒」◇『かくし言葉の字引』(1929年)<宮本光玄>「ぱいいち 杯一犯 一杯酒を飲むことをいふ。例によつて一杯を逆にいつただけである」◇『明治の東京語』(1935年)<鏑木清方>「パイ一。一杯を逆さにしたのだが、下層社会の用語。『どうだパイ一やらねエか』など」◇『如何なる星の下に』第四回(1940年)<高見順>「倉橋君、パイ一やらんですか」◇『特報社会部記者』猫と指輪(1991年)<島田一男>「帰りに新宿あたりでチクとパイ一やるに手ごろですなあ」
大学、大学卒業後
二年生のとき、牧師の友人が、治療代をもつから精神科医にみてもらったらどうか、と言ってくれた。私の感情の起伏が極端に激しいというのだ。医院と家庭とでテストを重ねた後、精神科医はすぐ治療を始めるように勧めた。彼の診断によると、私は自殺するかもしれないというのだ。誇張に聞こえるかもしれないが、私はそう記憶している。大学では酒をひどく飲んでいた。大学卒業後、治療を続けるために、二年間高校の教師になった。あるとき生徒に、先生として私をどう思うかについて匿名で点数をつけさせた。あの頃は二〇歳か二一歳だったと思う。生徒は月曜日を除いてよい点をくれた。月曜日にはいつも二日酔いだった。いつどこへ行っても、私は飲み友だちをみつけた。飲むのが好きだった。二〇代のときは、すぐに回復した。アルコール症者は、翌日になればすぐエンジンがかかる。これこそアルコール症の明らかなしるしである。普通の酒飲みは、飲みすぎのときは二日間休み、その後三ヵ月はアルコールから離れていられる。アルコール症は、夜酔っ払って翌日起きると、すぐソフトボールする。パーティはどこまでも続くのだ。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー)
渾名あだな
「これ、おれが事を酒徳利だと人がいふが、なぜ酒徳利だといふの」「ハテ、一年中酒くさいによつて、それで酒徳利といふは」「イヤ、そんなら違つた。おらあ醤油徳利だものを」「ソリヤまた、なぜに」「ハテ、一年中のどがかわくはさ」(嗚呼笑・安永十)
【鑑賞】渾名は即意即妙なものが多く、駕籠かきを「かゝねば喰はれぬから、かつを節」など、小咄には極めて多く出ている。(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)
斎藤酒場
私の好きな作家中島らも そのらもさんが愛したという憧れの「斎藤酒場」へついに出陣!! 昭和3年創業の超老舗酒場である お待たせ! 飲みに誘えば98%の確立で付き合ってくれる貴重な友達イラストレーターのなとみみわ(以下なとみん) 5時なのに…すでに満席だね… さすが老舗… しかし皆長居をしないせいかすぐに座れた ちょっとキンチョーするね… うん… お
このテーブル天然木だ いいね~ 見ると他の席も一枚板のテーブルがどーんどーんと置かれている ゆえに 相席必須 まずは冷しビールを… 「冷し」ってわざわざついてるんだね! 昭和っぽーい -って清酒170円!?安!! あとポテトサラダとカレーコロッケみょうが入りきゅうりもみを… めちゃくちゃ安いね-まぐろブツ切りなんて250円だよ… トン はいどーぞ お通しは年中落花生 よし!めっちゃ飲もう!! 飲もう!! ここにらもさんが来てたのか~ じーん 店内はほぼおじさまたちで 満席なのだが 独特の静かさがある(「女2人の東京ワイルド酒場ツアー」 漫画・カツヤマケイコ コラム・さくらいよしえ)
酒造に得失勘への事 酒造りの損得の計算
一、米抽て下直成年ハ、元付き安き故、古酒にして囲(かこい)ても浮雲(あぶなげ)なし。 〇米がとりわけ安値の年は原料の仕入れ値が安いため、古酒にして貯蔵しておいても損をする危険がない。
一、世間酒にて損立る翌年ハ、世間に酒少き物故、造りて浮雲なし。 〇世の中が酒で損をした翌年は、世の中に酒が少ししか出回っていないため、造っても危険がない。
一、米抽て高直成年ハ、世間自ら酒少き物也。依之、粕、米粃(こぬか)以下迄高直成物也。故に、思ひの外造りて能事有物也。 〇米がとりわけ高値の年は、世の中には当然のこと酒が少ないものである。したがって、酒粕や米ぬかなどまでも高値になるものである。ゆえに、酒を多く造れば意外によいことがあるものである。
右如此の年ハ、大概多く造りてよろしかるへし。但し、一概に定めかたし。 右のような年はだいたい酒を造ってよいだろう。しかし、一概には決めにくい。(「童蒙酒造記」 吉田元校注・執筆)
御酒之日記(ごしゅのにっき)
江戸時代に秋田藩主だった佐竹家に、常陸国佐竹郷にあった時代から伝えられる古文書{佐竹文書」の中から発見された。わが国最初の酒造技術書とされる。成立年は定かではなく、文和四年(1355)説と長享二年(1489)説の二説があるが、いずれにせよ、南北朝から室町時代初期にかけての酒造りの有り様を知ることができる、貴重な文献である。
多門院日記(たもんいんにっき)
奈良興福寺の塔頭・多門院において文明十年(1478)から元和四年(1618)まで、僧英俊をはじめ三代の記述者によって書き継がれた日誌。その記述によると、中世末の僧坊で、今日の日本酒にかなり近い酒(諸白)が造られていたことが分かる。(「日本酒百味百題」 小泉武夫監修)
カストリ二千円
新聞によると、太宰の月収二十万円、毎日カストリ二千円飲み、五十円の借家にすんで、雨漏りを直さず。カストリ二千円は生理的に飲めない。太宰はカストリは飲まないようであった。一年ほど前、カストリを飲んだことがないというから、新橋のカストリ屋へつれて行った。もう酔っていたから、一杯ぐらいしか飲まなかったが、その後も太宰はカストリは飲まないようであった。武田麟太郎がメチルで死んだ。あのときから、私も悪酒をつつしむ気風になったが、おかげでウイスキー屋の借金がかさんで苦しんだものである。街で酒をのむと、同勢がふえる。そうなると、二千円や三千円でおさまるものではない。ゼイタクな食べ物など、何ひとつとらなくとも、当節の酒代は痛快千万なものである。(「太宰治情死考」 坂口安吾)
当世こうた揃 新なげぶし
▲さんやどてぶし(土手節)
「つひにのがれぬ、無常の世界、死なんさきより焼かる〻此身、胸のけぶりは山谷(さんや)の野辺の、鳥ともろとも歌はば歌へ、さ〻んせ盃のも酒を(「当世こうた揃」 塚本哲三編輯)
醤油、漬け物
さて、いよいよ心を決めて、扉を開けよう。ここでも、またまた情報収集、酒や料理に関してわからないことがあれば、遠慮なく店の人に聞くのが至福を得る最大の技だ。酒が複数あるなら、まずはおすすめに従うのも良し。その際には、「〇○から来たんです」と最初に旅人である自分の立場を表明した方が話が早い。良心的な店ではより詳しい説明があるだろうし、カウンターなら店主や臨席との会話の緒が生まれるはず。運ばれてきた酒が心に響けば、あとは安心して夜を楽しむだけだ。甘い、辛い、重い、なんとなく物足りないなど、酒が自分の好みと合わなくても、その土地ならではの料理と合わせるまで判断は待っていただきたい。とはいえ、特別ななにかを頼む必要はない。魚自慢の町なら、刺身でお試しを。酒との距離を縮めてくれるのは、カウンターやテーブルに置かれた醤油だ。日本人の味覚の基軸ともいうべき存在だが、甘かったり、辛かったり、淡かったりと、地域によってその特徴は大きく異なる。最近では全国ブランドと地元の醤油の2種類を用意している店もあるので、確認の上であえて、地元の方を選択する。醤油の旨味をまとった刺身を酒が受けとめる、愉快な融合を体感できるはずだ。山間部なら、漬け物をぜひ。その土地ならではの塩加減や漬かり具合は、酒の味わい同様、長い歳月を経て培われてきたもの。絶妙な相性の良さなのだ。酒と食とが見せる見事な調和の発見は、旅して良かったとしみじみ思える最高の喜びである。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子)
身のほどを思い知る朝しじみ汁
東京へ戻って、久々に高尾山に登った。もう一度、足腰を鍛え直そう。"天狗出没注意"の札が掲げてある人目の少ないコースを選んだ。奥高尾からの帰路は巻き道を辿って、ひたすら歩く。「類さ~ん、一休みしませんか」日当たりのいい草の上で見知らぬ三人の男たちが酒宴の真っ最中。僕もふらりと座に加わった。ワイン、日本酒、焼酎(しようちゆう)割り、何でもござれで肴(さかな)も各自手作り。胡瓜(きゆうり)の酢のものを、一匹の蟻がちゃっかりとお相伴(しようばん)にあずかっている。「この蟻、お酢が好きなんだよねえ」僕もそっと箸を使って酢のものをつまんだ。男らは長年の登山仲間らしい。スマホを挟んだスピーカーからバッハのミサ曲が流れる。山の話でもう一杯、また一杯、帰りはリフトで下りる予定だったので乗り場へ急いだものの、一足違いで運行は終了。てくてく下りる外ない。これじゃあ、翌朝が思いやられる。「身のほどを思い知る朝しじみ汁」誰かの作った川柳が浮かぶ。(「酒は人の上に人を造らず」 吉田類)
神楽坂の異空間
東京で京都の雰囲気を少しでも彷彿させる街並みを探すなら、神楽坂がもっとも近いだろう。神楽坂も<和>・<洋>を問わず、洗練された高級志向の飲食店が密集しており、裏道に入れば風情ある建物も多少残っている。だから神楽坂に「加賀屋」があると聞いたとき、何となく意外に感じられた。そして実際に行ってみたら、やはり神楽坂のイメージとは別世界であった。概して言えば、「加賀屋」は<大衆酒場>の部類に入る-普通の赤提灯よりも安く、店内は広く、ホッピーや煮込みをはじめ、酒もつまみも大衆酒場の定番メニューがおおよそ揃っている。東京に数十店舗もあるからチェーン店だと思われがちだが、神楽坂店の店主によると、神楽坂店は個人経営であり、店主の両親が経営している早稲田の「加賀屋」も、都内の同名の居酒屋の約半分も、同じく個人経営だという。チェーン店やフランチャイズというよりも、「のれん分け」の個人経営の大衆酒場と見なせるだろう。神楽坂店は、駅からやや離れた裏道にあるという立地条件もよいが、何よりも店内の雰囲気と客層の幅広さに感心した。カウンターよりもテーブル席が中心だが、入口のそばに、主にひとり客用の小さなカウンターがあり、開店の夕方五時過ぎには常連客の姿が見られる。ステレオタイプの神楽坂のイメージを思い浮かべながら、カウンターに居並ぶオジサンたちを見ていると、「タイムスリップ」ではなく「場違い」のように感じる-ここは神楽坂ではなく、船橋か川崎の競馬場近くの呑み屋ではないか、と錯覚を覚えるほど「人種」が違うというわけだ。それでもこの店は魅力になっている。たまには「神楽坂らしい」渋くて美味の店に入るのもよいが、神楽坂の「加賀屋」のごとく、<店>と<街>のイメージ(=ステレオタイプ?)が見事にズレる体験もなかなか味わい深い。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)
471お見事
ひどく傾いて、その自動車は街角を突っ切り、電柱にドシンと突き当たった。そして、かなり酔っ払った六人もの男が、その中から這い出して来て、馬鹿のようにそれを見つめていた。警官がやって来て詳細を訊ねると、代表者が出て来て、警官に言った。「誰も悪くないんです。誰も、ええヒック、誰も悪くないんです。だって、僕達はみんな、うしろの座席に座っていたんですからね」(「」ユーモア辞典) 秋田實編
ぬりだる[塗り樽]
酒を入れて持ち歩く柄の長い樽。柄樽、又は家樽ともいい、柄の部分が赤く他は黒塗りとする。
①塗り樽を庚申塚で又おろし (樽六)
②塗り樽を下戸不承知な坊主持ち (樽一九)
③塗り樽をふくべのよける野掛道 (樽二八)
④えんま様ぬり樽といふ頭つき (拾一〇)
⑤塗樽にするめがたちで二度目来る (傍二)
⑥塗樽と花を片手に瞽女(ごぜ)を連れ (逸)
①飛鳥山へ花見に行く連中と見える。庚申塚でまた一ぱいやつたか。 ②下戸は酒に興味はないから坊主持ちなどは賛成できない、飲む奴がかついで行けばいい。 ③塗樽持参は酒飲みで、ふくべ持参は、隠居のたのしみ。 ④えんま大王の冠は朱塗りで、左右に角のような突起物があり塗樽形ともいえる。 ⑤未考。 ⑥花見客の酔狂。(「古川柳辞典」 14世根岸川柳)
出野家家訓
一、嫡子たりとも大酒をこのみ、博奕抔(ナド)致候ものには決て譲り申間鋪(モウスマジク)候。次男三男たりとも其もの之器量を見立(ミタテ)家督相続致させ可レ申(モウスベク)候。実子何人有レ之(コレアリ)候共、前書(マエガキ)にふそく(不足)致(イタス)人柄不相応(フソウオウ)之ものには譲り申間鋪、其節は別家之内より能人(よきひと)を襟(え)り出し(2)家督譲り可レ申候。
(2)「襟り出し」は撰り出しの当て字。(「家訓集」 山本眞功編註)
イワシの香り揚げ
作り方 ①イワシは手開きか三枚おろしで半身ずつにする。 ②衣を作る。小麦粉を水で溶き、しょうがのみじん切りと万能ねぎの小口切り、黒ごまを加えて混ぜる。 ③ ①のイワシを②の衣にくぐらせて、170℃の油でカラリと揚げる。仕上げに塩をふる。
材料(2人分) イワシ…4尾 <衣>小麦粉…2/3カップ 水…1/2カップ 生姜…10g 万能ねぎ…4本 黒ごま…大さじ1 塩…少々
このつまみに、この1本 梅錦(うめにしき) つうの酒 本醸造/愛媛 日本酒度…+5 酸度…1.4 価格…2136円(1.8l) ●さらりとした辛口に漂う、ほのかな香りと程よい酸味のバランスは、その名の通り「つう好み」。揚げ物との相性も良く、黒ごまの豊かな香りを、より克明に感じさせてくれる。(船木亭)(「酒のつまみは魚にかぎる 新・日本酒の愉しみ」 堀部泰憲編集) 2002年1月の発行です。
醒(さ)めて生(い)くるなし(袁宏道)
至れる哉(かな) 酒の人 天下楽しき
酔うて死すことありとも 醒めて生くるなし
酒に狂うは、この世の最高!ああ、天下太平なるかな!たとえ酔って死んだとしても、醒めたまま(しらふ)おめおめ生きてたまるものか。
明の爛熟期、万暦年間を生きた袁宏道(一五六八~一六一〇)の詩「方子公に和す」の終二行である。兄の宗道、弟の中道みな詩人として名高く、世は「三袁」といい、このグループを「公安派」と呼んだ。自己の霊性(スピリチュアリティ)を重んずべしというのが、この一派の主張であった。さて詩題にある方子公とは、彼の友人である。袁宏道は、二十五歳で科挙に合格したが同郷の友人方子公は失敗を繰り返し、ついに受験をあきらめ、地方の軍閥の幕客になる。が、これまた率直な性格と酒乱がたたって、うまくゆかない。すこしでも金が入ると、方子公はすぐに友だちを集めて酒を飲み、たちまち散在してしまう。いつも貧乏だ。その性格を愛している袁宏道は、いつも迷惑をかけられているが、憎みきれない。ただ方子公は深酒がたたって、しだいにからだをこわしていく。かくて「不遇-泥酔-病い」という悪循環を生きはじめる。酒は薬である。飲み過ぎれば「狂薬」となる。友人たちは、ほどほどにせよというが、効果がない。はじめは、わかったと忠告に従い、慎重に飲んでいるが、しだいにピッチが増して、ついに「狂える猩々(しようじよう)の如く」となる。
帽を脱ぎて天擲(な)げ 石に呼(むか)いて語る
蒼旻(てん)高からず 海深からずと
この詩句は、方子公が完全に泥酔して、意識不明になっている状態を示している。帽子を空に投げあげるのはまだしも、石にむかってブツブツ呟(つぶや)くのは、もはや平常心を失っている証拠である。だが、その呟きの内容は、不遜にして危険きわまりない。人間を支配しているという天帝に対して不公平をなじっているからだ。この世の至高は、高い天でも深い海でもない。天下の逸楽を一身にひきうけている酒人(しゆうじん)、酔っぱらいこそ、至高の存在だと、平常心を失った彼は言う。酒で死んでもよい。醒めたまま、このしんどい世の中を生きていくつもりなどサラサラないさと宣言しているも同様である。袁宏道は、こうした友人の生きかたを、痛ましい思いで見つめながらも、彼の主張を否定しきれない。中庸を目指したほどほどの生きかたなど、スピリチュアルな宏道にとって、すこしもよいと思っていないためである。(「酒を売る家」 草森紳一)
高田馬場「もり」
僅か五坪の店内には蕎麦の打ち場のスペースはないので森さんは自宅で早朝に蕎麦を打ち、生舟数個に入れてスクーターで店まで持ってくる。逆に、釜が必要な汁は自宅では大量生産できないので、店の休み時間に作るという忙しさである。早朝に起きて夜中に店を閉めて片付けると一日の睡眠時間は四~五時間しかとれないという。地酒の品揃えは、森さんが日本酒好きということもあり、センスを感じさせる。特に生原酒主体のところは、筆者の好みと全く一致している。酒肴も酒飲みの心をくすぐるものばかりだ。まずそば味噌にあずまみね純米吟醸生を合わせる。ねちっと濃い味のそば味噌で酒がスムースに入る。次は酒肴盛り合わせ。玉子の味噌漬け、板わさ、鴨の味噌漬け、チーズの塩辛あえ、牡蠣のオイル漬け、馬刺しなど様々な味と酒を合わせるのが楽しい。チーズと塩辛は意外に合うし、馬刺しは脂がとろけるようで旨い。ネギとしめじが付いている鴨焼きに、三重錦の平成三年醸造の古酒を合わせる。三重錦は伊賀上野の辺りの小さい蔵だ。蕎麦の前にめかぶとろろ。とろろに鶉の卵ともずくと炒った抜きが合わさり、面白い食感だ。しめに三色蕎麦を選択。その日は柚子きり、せいろ、田舎の組み合わせ。森さん自身、変わり蕎麦が大好きだという。柚子きりは上品な柚子の香りと喉越しを楽しめる。せいろは蕎麦の味わい、香り、腰のバランスのとれたもので、最後のしめにふさわしい。田舎そばは、甘みが強いが上品さは失われていない。もりは、少人数で気軽に立ち寄って、気軽に飲むのに適している。森さんの蕎麦と酒に向き合う真摯な姿勢に対して、いつかは神様がご褒美をくれるに違いない。(「蕎麦屋酒」 古川修)
杜甫の酒
しかしこれらの詩を一つ一つ別々に読まずに、「杜少陵集」の全詩のあいだに、杜甫の全生活の編み出す唐代模様の一紋一片として見るとき、熟酒の香とともに雑然たる臭気が漂いはじめ、緑酒の色の外には人間汗血にまみれた色彩が眼を打ち、酔歌はたちまちきびしい意味をもって迫り来るのである。詩人には、唐代社会に於ける自分の位置、混沌世界の中に占める自分の一点が明確に意識されている。「哀王孫」をつくり、「哀江頭」をつくり、「潼関吏」「石壕吏」「新婚別」をつくって虐政戦乱の悲惨を歌ったその筆は、かつて「飲中八仙歌」をつくった筆である。都をはるかにはなれた僻村に垣をへだてて隣翁と酒くみかわす人は、中央の政治の毒気悪煙は充分嗅ぎなれた人である。九月九日、盃に入れられたはじかみの実に仔細にながめ入っているのは、にごり酒の妙理をきわめ、物理の秘を探るともいえようが、同時に数十年にわたり蓄積した体験がしずかにその日の感慨になっているのである。手かせ足かせ物々しげに並べられた場所の背後では笛や太鼓の音がきこえ、談笑しつつ殺戮は行われ、血は音もなく街を流れ、鬼妾や鬼馬が出歩くあたりには夜ともなれば風雨の声のほかに異様な呼号の声を耳にするとか。安禄山の戦乱はおさまっても、平和なはずの農村は暴動と反逆にみちみちている。そのとき「ただ覚ゆ高歌して鬼神有るを。いづくんぞ知らん餓死せるもの溝壑(こうがく)を填(み)たすを」と詠んだのはこの不安定な世界を自覚しての上である。この自覚を抱いて清夜沈々として春酌を動かしていた。「銭を得れば相もとめ、酒を買ひてまた疑はず」と言い切れば、溝に重なる餓死者を知らぬと言い切らねばならぬ。その間の事情は寸時も忘れていない。それを言い切れるだけの決心は老成した経験人の胸に生れ、それにつれて詠嘆ではすまさない堅固な詩情が新酒の如くいつか醸されていたと見てよい。時間と空間を引裂くような強い詩形と、「国破れて山河あり、城春にして草木深し」と詠みすてられる気魄を保持しつづけた詩人は、歴史を記録するような正確沈着なその掌に、日常の酒杯を載せていたのである。(「杜甫の酒」 武田泰淳)
(一)根津権現の由来(巻四)
甲府(一)宰相綱重(さいしようつなしげ)卿の近習(きんじゆう)(お側つき)の侍に根津何某[一説に宇右衛門]という者があった。ところで、綱重卿が大酒をお好みになるのを、根津は心苦しく思い、たびたびおいさめ申し上げたところ、殿はお酒の上で大いにお怒りになって、根津はその席でお手討ちとなった。その後、お酒の席に、かならず亡き根津が裃(かみしも)を着(ちやく)して顕(あら)れて主君を守護するようになった。いつもこのようなことが続いたので、そのためにご酒興もさめ果てた。綱重卿がつらつら思い給うにはかれは一命をとられた恨みこそあるべきところなのに、そうはなくて、つねにはかりそめにも目の前にあらわれず、酒さえ飲むとたちまちに顕れ出て自分を守護する。その志は、まことに希代の忠臣である。かかる志の者を手討ちにしたとは、何という情けない自分であったか」と、お悔やみになり、これから酒を禁じたもうた。その上、かれを一社の神として勧請(かんじよう)なされて、根津権現(二)と称号をおつけになった。
(一)一六四四~一六七八。三代将軍家光の子、四代御将軍家綱の弟。甲府徳川家の祖。 (二)現在、東京都文京区根津須賀町に鎮座(家宣の邸跡)。もと、駒込千駄木にあったもの。(「翁草」 神沢貞幹 浮橋康彦訳)
九月九日に 種好
君が代に すんでとくりの 菊の酒 くめば珍重 陽てうれしき
本歌 正定
いにしへの ならのみやけの 菊の酒 けふ九日の いはひにぞのむ
酒のまず 餅をもつかぬ みともには 年の一つ も御免あれかし(「古今夷曲集」)
酒の合わせ
酒を飲む時いっしょに食べる物。酒のさかな。木の実にもいう。藤井高尚(ふじいたかなお)(一八四〇年)の『伊勢(いせ)物語新釈』に、<女あすじにかはらけとらせよ、さらずばのまじといひければ、かはらけとりて出(いだ)しけるに、さかななりけるたちばなをとりて、>の注で、<「さかな」の「さか」は酒也(なり)。「な」は采・魚ともに「な」といえば、酒のあわせに酒菜などしたるをさかというがもとに、菓をもしかいうなり。>という。「たちばな(橘)」は、たちばなの実を指す。(「飲食辞典」 白石大二)
急性アルコール中毒
一般的には、五合の日本酒を三〇分以内に飲むと、急性アルコール中毒が発生するといわれていますが、これは個人差が非常に大きいのです。今述べたことは、救急車で扱った急性アルコール中毒についての調査でも明らかです。東京消防庁の調査によれば、急性アルコール中毒のため救急車で運ばれた人の四割は二〇代で、二割が未成年者だったそうです。東京消防庁の調査では、さらに興味深いことが出ています。急性アルコール中毒による救急車で運ばれた人は年々増加しており、中でも女性の増加が著しいこと、ピークは一九~二〇才であること、死亡例や重篤なケースは変わらないが、軽症者が増えていること、季節では四月と一二月が多いこと、曜日では金土日が多いことなどです。この調査から、若者の飲酒が増加して急性アルコール中毒が増加していることがわかります。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二)
一升ビンも軽く
「ひとは見かけによらんもんで、あれで、大変な酒豪。おそらく五木(ひろし)クンは太刀打ちできんでしょうよ、きっと」秋十月に史上空前の盛大な結婚式・披露宴が予定されていた五木ひろしと和由布子は、典型的な大和撫子(やまとなでしこ)、しとやかで清潔な令嬢と、五木軍団とも呼ばれるファンのおばさまたちにもすこぶる評判がよろしい。その和由布子が、しかし、うれしいことには大の酒好き。それも並大抵の飲みてではないのである。日本酒、焼酎、バーボン、ジン、なんでもござれ。一升ビンも軽くあけてしまう酒豪ぶりは、あのしとやかな雰囲気からは想像もできない。酔うほどに、めっぽう陽気になり、周りにいる男たちの肩や腕をパンパン叩く。ほんのり桜色に染まった頬と、いささかトロンとした眼元で、この叩きにあうと、男どもは、「ひょっとしたら、オレに気があるんじゃないか」って早とちりしがちなのだ。(「いい酒 いい友 いい人生」 加東康一)
飲んで、飲んだ
こんなことを書いたのが井崎一夫さんの目にふれたとみえて、漫画読本に「宮内官などというのは、もう少ししかつめらしいかと思ったが、なんともたわいないもの」というように書かれた。井崎さんは未知の人だったが、「よく読んでくださった」という礼とともに「もしよければ、宮内官のくだらなさをいくらか掘り下げようから、いらっしゃらないか」と誘った。折しも夏の盛り、そうは書かなかったが、私は「秋風でも吹いたら」くらいの気持ちだった。ところが井崎さんから手紙で「早く会いたい」ときた。坂下門に出迎え、明治宮殿の焼けあとなど案内してから、当時住んでいた江戸城本丸の官舎で飲んだ。おもしろいと思ってくださったとみえて、秋には、杉浦幸雄、小川哲男、永井保、松下井知夫、それに東道役の井崎さん。こんな顔ぶれで、絵島生島の恋の舞台になった大奥のあとで、われかえるさわぎで飲んで、飲んだ。漫画家とのつきあいは、このようにしてはじまり、このようにつづき、だんだんこまやかになって、とうとう漫画集団の忘年会に出席するまでになってしまった。毎年箱根塔の沢の環翠楼でおこなわれるにきまっていたこの会では、飲んで、歌って福引。日曜、月曜かけての行事で、うそ寒い年の瀬に、いくぶんふつか酔い気味のさえない頭をかかえて還ってくるまでなのだが、こんな会に出席できたのは、侍従の頃も一度だけ、侍従次長になり、侍従長になっては、泊まりがけで東京を離れることもしにくくなった。(「余丁町停留所」 入江相政)
ビール、日本酒、ウイスキーを毎晩一とおり
食堂に隣接した日本座敷で、吉村さんはすでにビールを飲みはじめていた。「夕方になると、仕事を切りあげて、ここでやっているんです」と微笑を浮かべながら、ビールをついでくれる。ビール、日本酒、ウイスキーを毎晩一とおり飲むのが吉村さんの晩酌の流儀で、やはり、かなりの酒豪と言わねばなるまい。そして微醺(びくん)を帯びたその顔が実にいい顔である。それは柔和な笑顔で、酒量が増えても変らない。いい酒なのである。酒の肴はなにかというと、「あり合わせで何でも。芋なんかも肴になる」のだそうだ。この夜は、ワカメの酢の物、ナメコおろし、貝柱等々が食卓に並べられていた。(「作家の食談」 山本容朗)
鮒寿司の飯
一般的に、鮒寿司の飯は、鮒を醗酵させるためのもので、食べないで捨てるということになっているが、私にしてみるとお宝をドブに捨てるようなもの。鮒寿司の飯は、実は珍味中の珍味で、酒肴にもってこいなのである。チョビッと箸先でつまんで口に入れると、ちょっとクセのあるチーズのような醗酵の香りと鮒の旨味が合体して口中に広がる。クリーミーな中に溶けきらずに残る飯のツブツブ感もいい。だもんだから、また酒がどんどんすすんで困っちゃう。私は個人的に、この鮒寿司の飯こそ、三大珍味の上に位置する珍味の帝王であると思っている。(「晩酌パラダイス」 ラズウェル細木)
桃林で 太田浩(おおたひろし)
地卵など売ってる店で
おれは一升瓶(びん)を買い
桃林のなかへ入っていった
一杯二杯三杯四杯
桃林のおくから
姿をあらわす乙女あり
だれ?
よくみると
むかし爆弾で死んでしまった妹だ
いつまでたっても十七の彼女は答えず
白っぽいなみだをながすのだ
風にちる花びらさながら…
にぶい日がうす紅(あか)く低く
おれは桃林からよろけて立った
空の一升瓶(びん)のまくらから(「酒の詩集」 富士正晴編著)
酒粕天ぷら
柴田合名 柴田和宏さんのお勧め
醤油をつければ、おつまみにもお勧めです。
●材料 板粕/天ぷら粉/塩/揚げ油
●作り方 ①板粕を短冊状に切る。 ②天ぷらの衣に塩を混ぜる。 ③板粕に衣をつけて、固めに揚げる。
◆食べるときに、のりを巻いてもいいでしょう。(「酒粕の凄い特効」 滝澤行雄監修)
六朝 約二〇〇~六〇〇頃
料理書の刊行活発。隋書『経籍志』によると六朝時代には食経(料理書)の刊行が盛んで、以下二三種類あるが、全部散佚して現在一書も伝わっていない。これらの食経類の中の数首が当時日本に移入され、日本の古医書『医心法』(丹波康頼。九八四年)、古字書『倭名類聚抄』(九三四年頃)に引用されたものが部分的に残っている。また『斉民要術』にも数種引用されている。-
以上のほか、酒関係の本がある。『四時酒要法』一巻、『雑蔵醸法』一巻、『酒並飲食法』一巻など。(「一衣帯水」 田中静一)
おれの女房はくたばった、おれは自由だ!
これでいよいよ飲み放題というものだ。
文(もん)なしで帰って来ると、
奴(やつ)の叫び声が骨身にしみたが。 シャルル・ボードレール 『悪の華』堀口大學約(新潮文庫)所収「人殺しの酒」より -
『悪の華』所収の「人殺しの酒」の冒頭だ。女房が死んで、もう文句を言う人もいなくなったので、飲み放題だぜ、俺は。というインパクトの強い書き出しの詩です。ボードレールの酒がらみの言葉として、ネット検索などしてもたびたび目にする一節なのですが、口うるさい女房がいなくなって気兼ねせずに飲みたいだけ飲めるよという気軽な詩ではない。女房に惚れぬいた酒飲みの錯乱の末の叫びと言える文言で、略年譜を見るかぎり、ボードレールが女房を殺したということは出てこないから、ご自身のことではないようです。詩の末尾では、今宵は死ぬほど酔いつぶれ、地べたにごろりと寝転んで、貨物車の車輪に頭を潰されてもかまわぬ、と絶叫する。(「酔っぱらいに贈る言葉」 大竹聡)
万紫千紅
うたひめお勝が扇に[欄外。駿河町芸者]
酒もりの 第一ばんの うたあはせ いつもひだりを もつて勝とす
豊島屋のあるじがうたに、十˥(カギジフ)の家内の外は世の人の下戸ならぬこそをのこはよけれ、とかきて慾山人とたはれ名書けるに
しろざけの うれる間は 世の人の 下戸ならぬこそ をのこはあしけれ
三幅対の画讃 右 月に滝あり
月見酒 とう/\たらり たら/\と なるは滝すい 落る山/\(「太田蜀山人全集」 浜田義一郎編集委員代表)
天の戸 あまのと 浅舞酒造(秋田県横手市)杜氏
昭和32(1957)年生まれ。山形大学農学部を卒業、農業を継ぐ。農閑期の冬場の仕事を求めていたところ、高校の同級生であった先代の4代目蔵元柿崎秀衛さんから声をかけられ、昭和56年に蔵に入り、8年後に杜氏。平成24年に杜氏兼製造部長に就任した。『夏田冬蔵』(無明舎出版)の著者でもある。好きな作家は、塩野米松、荻原浩、音楽家は忌野清志郎、エルトン・ジョン。 ●「日本酒は、”なにぬねの"のお酒。なごむ、にこやか、ぬくもり、ねむる、のんびり。お燗にして、家族団らんのときに飲むお酒が一番」「毎朝、田んぼへ行って稲の顔を見る。朝、人が歩く音で稲は育つんです」「気心の知れた友人のように、それはよかったねと一緒に喜んでくれる。いつまでもくよくよするなと励ましてくれる。楽しいことが倍になり、つらいことが半分になるお酒」 ♠最も自分らしい酒 純米大吟醸「夏田冬蔵」生酛 美山錦 精米歩合40% 著者コメント:夏は田んぼで米を、冬は蔵で酒を造る「夏田冬蔵」こと森谷さん。美山錦らしい柔らかさと、生酛特有の深み。常温かぬる燗で、地鶏鍋をつつけばほっこりと幸せ。 ♥著者の視点 日本酒は米からできていることを、「天の戸」を飲むと実感する。使う米は酒蔵から半径5km以内の「JR秋田ふるさと・平鹿酒米研究会」の田んぼだけ。料理上手な森谷さんの造る酒は、炊き立てのご飯のようにしみじみ旨くて、あったかい。(「目指せ!日本酒の達人」 山同敦子)
半酔 ほろよひ 韓偓 -
(一)水ハ東ニ向ツテ流レテ竟(つひ)ニ廻(かへ)ラ不(ズ) 水が東に向かつて流れて再び還らぬ如く
紅顔 白髪 逓(たがひ)ニ相ヒ催(うなが)ス。 紅顔は白髪に迫られて遂に老いゆく。
壮心 暗ニ 高歌ヲ逐ウテ尽キ 壮大な心も いつしか高歌の終ると共に消え
往事 空シク半酔ニ因ツテ来ル。 既往の追憶が空しく半酔(ほろよひ)に因つて胸に浮んで来(く)る。」
飛良泉
仁賀保町の「飛良泉」は、五百年以上の歴史があるというから、県内でも最も古い酒屋さんだろう。現当主の斎藤昭一郎氏は二十五代目。この「飛良泉」という名も風変わりだ。奥州藤原氏の都、岩手県の飛良泉とは全く関係ない。仁賀保の三林というところに、越後の良寛和尚と親交のある久木という絵師がいた。ある時、良寛が久木の画室を訪れた。久木が地酒を出すと良寛が「うまい、何という酒だ」という。ところがこの酒に名前がない。そこで久木が「飛良泉」といろりの灰に書くと、良寛が「なるほど。飛びきり良い、白い水か」と喜んだ。こんな伝説があるが、「仁賀保町平沢の泉」という意味もあるとか。(「あきた雑学ノート」 読売新聞秋田巣局編)
天下の三珍
江戸時代、酒の肴の珍味"天下の三珍"として、広く知れわたっていたのが以下の三品。まずは肥前(ひぜん)のカラスミ。ボラの卵巣(らんそう)を取り出して塩漬けにし、陰干ししたものだ。形が中国の墨に似ていることから、唐墨(カラスミ)と呼ばれるようになったといわれ、味はチーズと明太子をミックスしたような、とでもいえばいいだろうか。今でもめったに口にすることのできない珍品である。つぎは越前のウニ。交通事情の悪い江戸時代には、新鮮なウニを食べることのできる人は、ごく限られた人だった。それから尾張のコノワタ。ナマコの内臓を塩漬けにしたもので、一尾からわずかな量しかとれない内臓は、塩漬けにすると、これまた水分がなくなってほんのわずかな量になってしまう。だから、これも手に入れることがむずかしい珍品だった。しかし"天下の三珍"とはいえ、姿形はいずれも不気味なものばかり。しかも、大して栄養があるわけでもなく、普通のオカズとして食卓にのぼってもあまりありがたいとはいえない。(「酒場で盛りあがる酒のこだわり話」 博学こだわり倶楽部編)
球磨焼酎の飲み方
球磨の人たちには面白い飲酒慣例が古くからあった。酒盛りをする時、まず一番最初の一杯は決してそのまま口に持っていくことはしないで、囲炉裏端で飲む時はその隅に、座敷で飲む場合は床の間の隅に、床の間のない部屋では畳の角に、野外での酒宴の場合は座っている場所のどこか適当な所に、必ずチョクに注がれた焼酎の一滴を落としてから口に運ぶのが、古い習慣であった。その意味するところは、まず酒は神様にささげてからいただくのだという、御神酒(おみき)信仰からのものである。また、盃の献酬に面白い流儀がある。チョクを相手に渡したら、必ず「重ねて」といって、一杯では許さないのが球磨流である。さらにチョクをいただく時も、片手で相手のチョクを取ってはならず、相手の手の下に自分の手を据えて、チョクを落としてもらうようにしなければならないという。ただし、気の合った仲間同士では自由であるが、このあたりも独自の酒道を持った薩摩と似ている。また、焼酎のつきものの座興に「球磨拳(くまけん)」というのがある。じゃんけんを複雑にしたもので、負けた方が焼酎を飲まなければならない。(「銘酒誕生」 小泉武夫)
NHKのスタジオで飲む
知る限りの情報を整理して六〇銘柄を選びNHK宛に贈ってくれるようにお願いした。これがなかなかうまくいかなかった。いくつかの銘柄は一本だけを遠隔地に送るということをやったことがないのである。寸前までひやひやさせられた。宅急便でどこの地酒でも送ってくれるようになったいま、嘘のような話だが本当のことである。私の足元の床に描かれた日本地図、それに北から南まで産地に瓶が林立、それをテレビカメラがゆっくりパンした。これは聞くまでもなくNHKテレビ開局以来初めてのことだそうだ。そのあと番組は、一から八までの番号の入った一・八リットル瓶の並ぶテーブルを囲んで酒を飲んだ。こちらは瓶のラベルは写されなかった。撮影は実は前日の昼だったのでそのまま別れ、私は夜行で秋田県湯沢市の「爛漫」の現場にいく。当日朝、何十人もの蔵の人と一緒に朝食をとりながら放映の画面を見た。帰京してから「朝っぱらから酒を飲みやがって」と悪友、学友から電話が相次いだ。多くの人が視たらしい。番組名は「明るい農村」で「日本産物考」シリーズの「日本酒」というもの。NHKから電話が来た。地酒六〇選の酒を引き取ってくれというのだ。それを引き取る車はなし、引き取ってもどうしようもない。困ったと「集」にいうと、「ただならもらっちゃいましょう」となった。それから作戦を立て、代金見当の金額を歳末助け合いに納めた。年が替わって一月、二週に分けてそれを飲む例会を開いた。二回続きの入場券を作り、たくさんの人々と押し合いをしながらよりどり見どりで酒を飲む。どれだけがんばっても一回に一・八リットル瓶を三〇本は飲みきれない。残ったものは酒の液面の高さで値段を決め、持ち帰ってもらった。たとえ有料であっても、おみやげ付きというのはコレが初めてである。(「「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎)
吟醸清酒に就て
吟醸酒とは何ぞや、と云う問題であるが、一口に云えば、芳香醇味である酒の事である。別の言葉で云えば、吟醸香が強く高くあり、吟醸味が豊かに含まれて居る。之を飲めば爽やかで旨く、飲めば飲むほど飲心をそゝられ、いやが上にも飲みたくなつて、ほがらかに酔うものを云うのである。原料の粋をつくし技術の最高を以てして、はじめて出来る最高級の醇良酒である。世間には、技術者の中にも、吟醸酒を造る事には絶対反対だと云う人も相当にある。技術者の反対としての言い分は、吟醸酒は成程良いには良いが、元来酒を飲む場合に、はじめの二、三杯は吟醸香も喜ばれるが、少し飲むと香気が鼻に慣れてそれほど感ぜられず、主として味の良否によって飲心が左右される。だから苦心して吟香を出すには及ばない。味に重きを置くべきだと。此主張も一応尤だが、此人達は、強く高く含まれたる吟香に伴う、吟味というものを忘れて居るからこんなことを平気で言えるのである。飲めば飲むほど旨くなつて飲心をそゝらるるのがこの吟味である。(「花岡先生を偲ぶ」 藤井益二編) 花岡正庸が昭和27年10月に醸造工学雑誌第30巻第10号に発表した文章です。
石原慎太郎の「酔」
石原氏は酒を飲むことは好きでも、その中にめろめろに没入してしまうタイプの酒飲みには縁遠い。石原氏は、「僕は情けないことに、僕自身の酒癖という奴が余りなくて、尤も酒は誰よりも好きだから一人で酔っ払ってるぐらいは出来るが、癖のないお陰で大体他人の酒癖にはつき合いがいい。女癖、喧嘩壁、口論、みんなつき合う」(「酒は飲むべし乱れるべし」)といっている。石原氏に「酔」のムードが漂っていることについては、処女作以来一貫して作品の底を流れるものである。『太陽の季節』をはじめ、青春のまっただ中に酔っている登場人物の数々。「酔」のムードは作品のどの部分を切っても、真っ赤な血潮のようにふき出してくる。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)
盃や一年三百六十日
若山牧水の、秋の夜の歌をここに引くまでもなく、酒はただ体力や、勢いにまかしてのむものではない。分っていながら、切り上げのむつかしいのが酒である。先夜、この道の先輩徳川夢声のいったことに「まあ胃潰瘍の三遍もやって、血も吐いて、命が惜しくなってからでなくっちゃァ、やめられるもんじゃありません…」又、ついで「どの位おのみになる?毎晩三合から五合…?ははあ、その程度なら、おやめにならん方が身のためでしょう…」といった。その程度の、というのは、酒の中には入らないのかもしれない。安心もしたり、ガッカリもした。もう私には、そう毎晩五合以上の酒を飲みつづけることは出来ないからである。思えば十五の時から酒にしたしみ、四十五年になる。もっとも、盃を口にするようになったのは六つくらいからで、祖母が芝居の棚(前出)や、打水をした庭に向って、私に一杯つき合わせたからである。それがいつか 盃や一年三百六十日 盃やある夜は妻に奪われし という事になったのだから、うたた今昔の感なきを得ないわけなのである。(「味の芸談」 長谷川幸延)
饗庭篁村
一度などは天心が彼(饗庭篁村)を品川沖の潮干狩りに招待したことがあったその時は、藤田隆三郎一家、鈴木得知一家、並びに私ども一家が一緒であつた。両国の船宿を発して、新大橋を潜るか潜らない中に酒が始まり、下戸の連中や、私たち子どもたちは、もう握りずしを頬張つてゐた。月島のはづれまで来る頃には、己が酒量を超して献酬を重ねてゐた篁村は、余程まゐつてゐたものらしく、受けた杯の酒を海中にこぼしながら、「まづ一杯を海龍王に献じよう」とか、「重ねて龍王に捧げる」とか言つては、次の献酬を遁れてゐた。台場付近の干潟近くまで来ると、一行の悉くは船を下りて、貝漁りに夢中になつていたが、その時、篁村の姿はそこに見出されなかつた。恐らく、彼は船に居残つて、寝込んでゐたに相違ない。潮が満ちてから、一同は再び乗船して、船宿へ引返すことになつたが、航程が一里余もあるので、また酒が始められた。篁村はまた帰りの船中でもシタタカきこし召し、大虎になつて、船宿の二階へ上ると、引潮で干上つてゐた泥川岸を指さし、「あ、大きな蛤がゐる」「アレあすこだ、こゝだ」と満寿雄や私を泥の中を這ひ回らせて、自分は階上で手を拍いて喜んでゐた。大方、船で盛りつぶされた復讐でもあつたらう。言ふが、趣味-恐らく酒の趣味を以て聚まつてゐた根岸派は、交りは淡如として水の如く、少しも互ひの間に蟠りといふものは見出されなかつた。(「父天心」 岡倉一雄)
釜を割る
連続蒸米(じようまい)機が出てくるまでは、米は甑(こしき)で蒸していたもんだったわ。甑を担当する人間を「釜屋(かまや)」と言うんだんが、釜屋というものは一度や二度は、釜の底を割るぐらいになれば一人前と言われていたんだわ。なぜかというと、いい蒸米(むしまい)を造るには乾燥した熱い蒸気がいるからだ。釜には水が入っている。それを下からどんどん加熱して蒸気を出すわけだんが、最後のほうになると、中の水が蒸発してきて、釜肌(かまはだ)が出てくる。そこで、さらに加熱すると、ただでさえ熱い蒸気が焼けた釜肌で熱せられて、もっと熱くて乾燥した蒸気になる。それがいい蒸米を造るわけだ。-だしけ、水が蒸発してしまえば、釜が熱くなって割れてしまう。毎度、毎度、釜が割れるようでは話にならないが、釜が割れるか割れないか、ぎりぎりのところまで釜を熱くするようなのが、腕のいい釜屋とされていたわけだ。そういうこんで、一度も釜を割ったことがないなんていうことは自慢にならないことで、一度や二度は釜を割ったことがあるぐらいの釜屋がいいということなんだわ。(「杜氏千年の知恵」 高浜春男)
飛騨豆腐(豆腐、卵、けずりぶし)
①豆腐は2つに切り水きりしておく→②豆腐に片栗粉をまぶしといた卵白にくぐらせる→④ ③のけずりぶしをつける→
↑③けずりぶし(なるべく良質のもの)をから煎りする
⑤中火から強火の油でゆっくり揚げる→器に盛り、つゆ(しょう油1 みりん1 だし汁4)をはりダイコンおろしときざんだアサツキをそえる(「酒肴のネタ本」 ホームライフセミナー編)
司牡丹
なにしろ「司牡丹」を醸しつづけてきた黒金屋竹村家の先祖は、関ヶ原の戦いで武功のあった山内一豊が、遠州掛川六万石から一挙に二十四万石の加増をうけ土佐藩となった慶長八年(一六〇三)にはじまる。その山内侯の筆頭家老深尾和泉守重良が、一万石で佐川領に入り町を開くが、深尾氏に従って佐川へ来た酒屋が黒金屋の先祖であったというから、悠に三百九十年の歴史をもっているのである。佐川町からは佐川勤王党といわれる数多くの勤王の志士も出ているが、なかでも宮内大臣をつとめた田中光顕は、大正四年、佐川に青山文庫を設立、明治天皇の御下賜品や坂本竜馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、山岡鉄舟などの遺品約八百五十点、蔵書一万数千冊を寄贈している。田中光顕は、これらおびただしい貴重な私蔵品を町に寄附するとき「情婦と別れるの心地する」ともらしたという。田中光顕はふるさと佐川の酒をこよなく愛し「天下の芳醇也なり、今後は酒の王たるべし」と激励し、酒銘を「司牡丹」と命名した。「牡丹は花の王者、さらに牡丹の中の司たるべし」という意味であるという。白足袋宰相吉田茂氏もこの「司牡丹」を愛飲された。(「酒の旅人」 佐々木久子)
香(こう)の物で酒を飲むと貧乏する
★二極の解釈があり、①香の物は酒の肴には合わない ②(塩か生味噌が庶民の肴の時代に)香の物などの肴で飲むと酒も進み、飲み代がかさむ。
杯(さかずき)と真言(しんごん)は繰るほど良い
★酒宴の席では杯を大いに回すべし、が真意。
杯の沼
★杯中の酒を飲まずに置いておくこと。-
酒神は軍神より多くの人を殺す
★飲酒への警告。(「日本の酒文化総合辞典」 荻生待也)