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御 酒 の 話 49 



家飲み  後撰夷曲集(10)  西国、猩々を獲  南都諸白  怪猫  酒の値  火の車、學校の肴  鯨 くじら  酒の飲み方  くつ石  酒造資本と酒造経営  技の受け継ぎ  冬はやっぱりイカ大根 やき屋(荻窪)  コカ・コーラ  アルコール性痴呆  どぜう飯田屋  居酒屋GPS!  67醴を勧む    晩年の父  勧酒と返杯  わかさぎの木の芽焼き  7日 湯豆腐  古文書から元禄の酒を再現  安飯屋、居酒屋  三分の酒二分の水  火落酸  眼前 一杯の酒  古酒の幅  しゃ-しん[写真]  △家言  宴席の伏兵  〇詩ヲ賦シテ志ヲ言フ  洒落言葉・隠語  日本酒を温める理由  玲瓏随筆  良寛の詩  【山梨県北杜市・山梨銘醸】  (六)しよがえぶし  酒飯論  新潟清酒研究会  花、果実、木質などの風味  日本盛  大酒の戒め  アルコール症者の子供  その方の父は毎年死んだか  ちやびん[茶瓶]  食物年表1600-1650  熱燗(燗酒)  酒屋名簿  小米酒之事  いなだ【稲田】  (増)盃事の式  上戸  寄鍋 よせなべ  狂言と擬音語・擬態語  ルバイヤート(抄)  清酒酒質の様変わり



家飲み
酒なら家で飲めるのに、わざわざお金を払って外で飲むのは「世間」に身をおくこと、他人の中に自分を放り込むことが目的だからだ。それゆえ、入った店に客は自分一人だったらつまらなく、ある程度混んでいる方がよい。人との「密」が必要だ。そこには自分が「人好き」の要素もある。注文した、家では食べられない料理もまた世間。酔っぱらうのが目的ではなく、「世間との絆(きずな)を確認する」ことでもある。家飲みはその真逆だ。「世間との関係を断って」一人で飲む。「密」ではない「個」の世界。酒も料理も注文できない、いつも同じもの。しているのは、世間の観察、世間との連帯ではなく、自分の観察、自分との連帯。普段は忘れている「自分との絆を確認する」営為(えいい)だ。コロナ禍(か)で居酒屋飲みができず「オンライン飲み会」というのが出現したが、すぐすたれたのは、公的な場でも私的な場でも、どちらでもない中途半端とわかったからだ。(「家飲み大全」 太田和彦)


後撰夷曲集(10)
寄酒述懐
世中は 何にたとへん 麻地酒 甘きやうにて 辛きいとなみ  宣就
酒屋 本歌
よき酒ぞ かひにもござれ 我宿は ならの町屋に 杉出せる門  久友
養性
膏梁の 食をつゝしみ 酒ひかへ 色遠ざかれ 病あるまじ  贈法印道三
三笑
三笑の 名はかくれぬや のむ酒に 酔てこけいの はしはづれ迄  清勝(「後撰夷曲集」)


三二西国(さいごく)、猩々(しやうじやう)を獲(う)
天保六年、三三猩々、西国より至る 豊前(ぶぜん)小浜村に出ず。謂(い)ひつべし、珍と。按ずるに、此の物古(いにし)へ未だ其の果(はた)してありや否(いな)やを詳(つまび)らかにせず。今安(いずく)んぞ其の真仮(しんか)を弁ぜん。但(ただ)し止(た)だ頭髪のみならず、眉毛(びもう)を連ねて皆(みな)赤し。真に異物、真に奇種。善(よ)く舞ひ善く歌ひ、善く言ひ善く飲みて、我が邦(くに)古へより瑞物(ずいぶつ)と為(な)すや、散楽中(さんがくちゆう)に猩々舞(しやうじやうまひ)あり。乃(すなは)ち賀筵慶席(がえんけいせき)、此(これ)を演じ之を祝(しゆく)す。於戯(ああ)、此の世にして此の物を出だす。我未だ其の真偽如何(いかん)を知らずと雖(いへ)ども、要するに亦(また)大平の祥(しやう)と為(な)して可なり。繁昌の瑞(ずい)と為して可なり。古語に云ふ、「猩々、猩々を笑ふ」と。静軒も亦静軒を笑ふ。笑つて筆を投ずと云ふ。
三二 春秋哀公十四年に、「春、西に狩して麟を獲たり」とあるのを踏まえる- 猩々は想像上の動物で猿の一種。人語を解し、酒を好むという。 三三 豊前小浜村の猟師の子供二人が赤い頭髪に生まれ付いたのを、山師が猩々と称して見世物に出した。「同年秋の末頃か、両国にて兄弟共に見世物にいたす。能の猩々にこしらへ、装束附けて少しばかり舞をいたせし由、評判もなかりし也」(巷街贅説・天保六年条) 一 能楽の「猩々」。猩々が孝行者に酒の尽きない壺を与え、酒の徳を称えて舞う。祝言曲。 二 共にめでたい席の意。 三 祥も瑞もめでたいしるし、の意。 四 未詳。諺「猿の尻笑い(猿が自分の尻の赤いのに気付かず、他の猿の尻の赤いのを笑う)」の漢訳か。(「江戸繁昌記」 寺門静軒 日野龍夫校注)


南都諸白
南都諸白の特徴については、『本朝食鑑』では、(1)米と水の精選を重視し、(2)のちの育酛の流儀によって前述の煮酛や水酛による速醸酒とは異なった酛立法を行ない、仕込みに際しては陀岐(だき)(いわゆる暖気《だき》樽のことで、『和漢三才図会』では湯婆《たんぽ》と書かれている)を使用し、(3)さらに酛仕込に続く掛仕込は初添・中添・留添の三段階になっており、(4)酒造用具がこれまでの中世的な壺・甕にかわって桶が使用されていた、などと指摘している。そして酛仕込の割合は、蒸米一斗に麹七升、それに水が一斗四升で酛をつくり、これにさらに蒸米一斗、麹六升、水八升を、初添・中添・留添の各段ごとに単純に三回かけている。できた醪(もろみ)量は、したがって、一石一斗五升で、量的にもまだそんなに大量生産されておらず、麹割合が六割、水の吸水率五・八水(米一石に対し水五斗八升)と、のちの伊丹諸白や灘酒にくらべると、いずれもまだ高い割合を示していた。(「酒造りの歴史」 柚木学)


怪猫
有馬猫騒動には種本がある。『想山著聞奇集』の中に、猫が人に化けて現れる話が出ている。屋根葺きを渡世とする男があった。この男は、生来律儀で、一人の老母に対して、大変な孝行者であった。貧民のことなので、老母を家に残しておいて、日々職に励み、そこかしこと稼いで歩いていた。老母はかなり酒好きであったので、男は、帰りには酒を二合ばかり、必ず土産にした。ところが、この孝行息子に対して、老母は、齢を重ねるにつれて、根性がいやしくなり、ひどくあしざまに罵りわめくようになった。男は、しかし、一言も口をかえさず、常に、穏かな態度を保って、いかに口ぎたなく罵られても、二合の酒の土産を絶やすようなことはなかった。ある時、何かの事があって、屋根葺き仲間が、この家に集まって、酒盛りする約束になった。そこで、男は、昼すぎから仕事を休んで、酒肴をととのえて、わが家へ戻って来た。ところが、さる大名屋敷にいそぎの用事ができ、仲間全部がそっちへ行ってしまい、酒盛りはお流れになった。手当てした酒も、そっくりのこってしまったが、男は、かえって、それを悦び、平常貧しさゆえに、母に充分酒を飲ませることができなかったが、さいわい、今日は、思うさますすめることができると、いそいそとすすめた。老母は、大悦びで、酒も肴もあまさずに、くらって、心地よげに、臥牀に入った。男も、いささかの酒で、睡魔にさそわれ、あと片づけもそのままに、臥した。そのうちに、老母の呻く声に、男は、目をさました。年寄があまり度をすごしたので、苦しがりはじめたのであろう、と心配して、戸ごしに声をかけたが、返辞はなく、呻き声だけがつづいた。-さては、毒に中ったか!と、男は、不安のつのるままに、夜は、絶対に開けてはならぬと禁じられている戸を開いてみることにした。老婆は、近年、明りをきらって、寝所はしんの暗闇であった。手さぐりでは何事も行きとどくまい、と思って、燭台をかかげて、戸を開いた。愕然となった。牀に臥していたのは、母ではなく、怪しく巨大な黒猫だった。深酒に酔い痴(し)れて、熟睡し、不覚にも正体をあらわして、高鼾をたてていたのである。きもをつぶした男は、しかし、元来沈着分別のある人間なので、胸をしずめるや、そっと、縄をもって来て、怪猫の四肢をしばりあげた。それから、近隣の人びとを呼び起こして、集めると、事情を説明して、老母の行方をさがしてもらった。老母は、怪猫に食われて、骨となって、囲炉裏の下の床下にころがっていた。男は、代官所へ訴え出て、怪猫の処置をうかがったところ、心まかせにすべしと下知があったので、小刀で、こなごなに斬りきざんで、村の入口、道の分れ角に瘞(う)め、猫俣城という石碑を建てた、という。これが種本になって、有馬猫騒動は、でっちあげられたものらしい。(「江戸八百八町」 柴田錬三郎)


酒の値  大田南畝著『金曾木』所掲
「酒の価 一升 百二十四文から百三十二文を定価としていた。低級は八十文、百文もあった。その後、百四十八文、百六十四文、二百文に至り、二百四十八文ともなってしまった。これは明和五年(一七六八)から南鐐・四文銭が出来て、銭相場賎(やす)く、物価が貴くなったからだ。」下り酒屋への入荷量は、元禄十五年(一七〇二)三月の記録『入津見区書上』によれば、上方から江戸新川の問屋へ到来した酒の量は、樽(四斗入り)数で、 元禄十年(一七〇二) およそ三十万駄程此樽六十万樽 元禄十四年 およそ十六万駄程此樽三十二万樽 (註)元禄六年(一六九三)の江戸の人口は純町民だけで三十五万三千五百八十八人という。このほかに武家の人口(ほぼ同数)と人別外の人口(非人等)があったというから総計では九十万前後と考えられる。寛政(一七八九-一八〇〇)ごろの九州方面の場合の一例は橘南谿著『西遊記』(寛政七年・一七九五)序の一節に「西国(九州方面)にて酒の売買一升、二升といわず、一ぱい二はいとて売ることなり。その一ぱいというもの大抵四合二、三勺ばかりなり。球磨郡などは酒下直(安値)にして、一杯の価銭八、九文より十二、三文ほどなり。此所は格別下直の地なり。薩摩は余程高直なり、一ぱい二はいの名は琉球までも皆かくのごとしとなり。」(「江戸物価事典」 小野武雄編著)


火の車、學校の肴
そもそも(草野)心平さんは、酒の肴をつくる天才だったと聞く。詩を書くだけでは家族を養うことができず、焼き鳥屋の屋台を引いたり居酒屋を開いたり、生涯にわたって飲食業で糊口をしのいだ。それはつまり、いかに安い材料を仕入れいかに貧しい酒飲みが喜ぶ肴に変身させるか、を研究する仕事でもあった。「心平さんの作品で好きなものをひとつ選べ」と言われたら、迷った挙げ句に、詩ではなく「火の車のメニュー」と答えるかもしれない。居酒屋「火の車」は、一九五〇年代に心平さんがやっていた店。言わば學校の前身だ。そのメニューを挙げると、 満月(卵の黄身の味噌漬け) 冬(豚のにこごり) 白夜(キャベツとベーコンが入った牛乳ベースのスープ) どろんこ(かつおの塩辛。柚子とパセリ) 五月(きゅうり、うど、玉ねぎの和え物、カレー味) 丸と角(カルパスとチーズ) 赤と黒(品川巻き) ぴい(ピーナツ) 天(特級酒) 耳(一級酒) 鬼(焼酎) 麦(ビール) 泉(ハイボール) 息(サイダー) あぁ、いいなぁ。日常の言葉たちが素顔のまま並んでいて、なのにこの豊穣。學校初期の頃は、これら火の車時代のメニューを出すこともあったらしい。もっとも、(井上)禮子さんにいわせると「満月なんか、今の人の口には合わないねぇ」。禮子さんが用意する肴の定番は、しらたきと玉ねぎと鶏肉を甘辛く炊いて卵でとじた「親子煮」、手羽先と里芋とこんにゃくを酒と醤油で炊いたもの。卵と練り物のおでん。そういうものを鍋にいっぱいつくっておいて、やってきた客ひとりひとりに、お母さんみたいに聞くのだ。「お腹は?」空腹の客にはたっぷりとよそってくれる。禮子さんはハイカラ好みなところもあって、中村屋のアグレッツィや、伊勢丹のクリームチーズなんかも常備していた。桃の節句には潮汁をつくり、土用の丑の日には「おうな」を出し、冬至にはかぼちゃを炊く。あるとき、「季節の行事を大事にするのは、心平さんの時代からなんですか」と尋ねたら「心平さんは、そんなことはあんまり気にしなかったわねぇ」という返事だった。郡山の商家で生まれた禮子さんは、十歳のときに秋田で鉱山経営をしていた養父母のところへもらわれていった。そこが季節ごとのしきたりをきちんとする家だったらしい。心平さんと禮子さんがこだわりの肴を出してきた歴史をまるで無視して、わたしが供するのはきゅうりと味噌である。お客さんたちはさぞがっかりしただろう。(「酒場學校の日々」 金井真紀)


鯨 くじら
くせのある酒でくじらの太刀をはき  拾十9
【語釈】○鯨の太刀=くじら身、鯨の歯に銀箔を塗って刀身にかえた刀。
【鑑賞】なにごとぞ花見る人の長がたな、と去来の句があるが、花見酒に酔って人切り庖丁を振回す危険があるので、くじら身の刀をさして行く。酒癖の悪さを自分で知っていてもどうにもならないらしい。
【類句】わるい癖のむとはつかへ手をかける  一三5
     生酔にあした切りゃれとおさめさせ  一三38(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)



酒の飲み方
私が酒をはじめたのは京都の高校へはいってからのことである。三高にはいって、一年間寮に入ることになっていたが、中寮に入寮したその夜、室長と先輩が、歓迎会を開いて、酒を飲ましてやると言い、熊野神社近くの小さいバーに新入生の私たちを連れて行き、テーブルについて、女の子の運んできたビールを飲みはじめたが、「よし、酒の飲み方を教えるよ、いいか、よく見るんだな」と言って、大コップを傾けはじめた中背の室長が、コップを半分も、飲みほさないうちに、顔青ざめ、椅子に背をつけ、呼吸の乱れを見せはじめたのを見て、私は嘆じないわけにはいかなかった。私は出来るだけ見て見ぬ振りをしていたが、室長はやがて、自分でも、だらしないと思ったのか、背を真直(まつすぐ)にのばし、コップを取り直し、再び、飲みはじめ、私を安心させた。しかし、それも、僅(わず)かの間のこと、今度は、ついに、力尽きたかのようにテーブルの上に上体を投じ、やがてその身をテーブルから、はずして、吐きはじめた。私は驚かないわけにはいかなかった。これが、「酒の飲み方を教えるよ、いいか、よく見るんだな」という言葉の意味だったのかと私は思い、その室長の背を撫(な)でながら、ビールを飲みほして、新入寮者連の手で室長を、かつぐようにして寮へ帰ったのである。私は高校一年の時、結核になりその後酒を飲むことは少なくなったが、酒に弱くなったわけではなく、兵隊になってから、酒にきたえられ、そのため、新橋の「蛇の神」の焼チュウ、バクダンなど、いかに飲みあかしても酔いつぶれるということにはならなかった。(「酒との出逢い 蛇の新」 野間宏)


くつ石(いし)

桶またはタンクは床面に直接置くと、呑口から酒を取り出すのに不便であり、またタンクの下部の腐食を防ぎ、庫内を清潔に保つ目的でタンクの底の周辺に沿って3~6個所に台を置きタンクを浮かせて据える.この台のことをくつ石またはくつという.古くは石や木の丸太を切ったものを使用したが、現在では木形の金型にコンクリートを流しこんで固めたものやブロックにコンクリートを詰めたものなどが使用されている.(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)


酒造資本と酒造経営
いま実際の酒造経営を考えてみると、一九世紀初頭でまず酒造蔵・酒造道具・酒造株一式を購入するのに銀一〇〇貫目の設備資金を必要とし、生産資本として充用される流動資本は一〇〇〇石造りで、やはり銀一〇〇貫目であった。このうち約六五%が酒造米購入費、一三%が酒樽で、賃金などは飯米・菜物(副食)を含めて七%にしかすぎない。この流動資本は一年を通じて分散して投入されるわけではなく、冬季仕込みの性格上、ほとんど一一、一二月に集中するため、一時に多額の資金を確保しなければならなかった。しかもこうした投下資本に対し、酒が仕込まれて清酒となり、江戸へ送られて酒問屋に売りさばかれたあと、酒荷代金が酒造家の元に回収されるのは、約一年のちとなる。つまり生産資本の投下より資本の環流まで最低一ヵ年を要することになり、ここに酒造経営における資本の回転が問題となってくるのである。一般に資本の回転期間は、生産期間と流通期間からなる。前者は生産資本の投入期間であり、後者は生産資本が市場において商品資本から貨幣資本に再転形して環流してくる期間である。この資本の回転が円滑にいって最低一ヵ年としても、現実に江戸酒問屋との取引き条件によって売掛金の回収が延長されたり、酒造米の購入時期と清酒の販売時期とでは相当の時差があり、その間の米価や酒価の変動を考えあわせると、酒造経営における利潤形成には、かなりの投機性と不安定性の要因がひそんでいた。この不安定な経営のもつ投機性を克服するために、酒造資本の一部は確実な利殖手段としての貸付資本に運用された。酒造資本が貸付機能と結合し、酒造経営のための生産資本部分と貸付資本部分とに分散投資されることが、じつは酒造収益の投機性を克服するための知恵でもあった。この分散の仕方(割合)が、江戸積み酒造業における経営を左右する重要な要因であった。江戸時代を生き続けた酒造家は、時の相場や商況をみてこうした資本の運用、回転でもって上手に景気を切り抜けてきた企業のらつ腕家であったといえよう。(「灘酒の歴史」 柚木学)


技の受け継ぎ
重光には分析を何年かやってもらった後、「麹室」を任せて、「酛場」を任せて、「次長」ということで「頭(かしら)」にした。だすけ、あのがんは、「洗米」や「釜場(かまば)」を任されたことがないままで、「次長(頭)」になり、「杜氏」になったわけですて、他の蔵も知らんし、やっぱり昔の杜氏とは違うわけですよ。だども、おらは心配はしてないんですて。まず蔵内に「物差し」がぴしっと通っていますからね。それに加えて、重光が他の蔵を知らないということも、むしろよかったんでないかね。酒造りの「さ」の字も知らないところから、おらとこの酒造りを覚えたわけで、真っ白なところから教えたすけ、重光は、余計なことを考えずに、おらとこの蔵の考え方や、やり方を覚えたわけさ。それこそ、「蔵癖(くらぐせ)」から何から、おらが知っていることは全部教えたわ。重光は生まれも育ちも六日町だが、実質は野積杜氏と言えるんでないかね。立派に野積杜氏の技を受け継いでいるわね。これが、よそから来た杜氏さんだったら、そうはいかんかったろう。よそから来た杜氏さんは、その杜氏さんなりの考え方もやり方もあるすけ、余計な心配もしなくてはならないわけさ。蔵の主人にしてみれば、一年や二年は夜もよく眠れないぐらいに心配になるんでないかね。せっかく積み上げた八海山の酒というものが、どんなふうに変わってしまうか。下手をすれば、たいへんなことになってしまうわ。だすけ、重光のように、自分のところの蔵で育った杜氏というのも悪くないんですて。安心して任すことができるすけね。蔵に初めて来た時から勘定(かんじよう)したら二五年の上も、おらのそばに置いて教えこんだんだすけ、おらの後は重光に任すと決めた時は、何の心配もしていなかったわ。(「杜氏千年の知恵」 高浜春男)


冬はやっぱりイカ大根 やき屋(荻窪)
黒光りするほど濃い飴色に煮込まれた大きな大根が二切れに、エンペラとゲソを添えて、最期にツユが入ります。どうです、このボリューム。今日び、おでんの大根だってひとつ三〇〇円も四〇〇円もしたりするのに、同じような大きさの大根が二個入って一五〇円ですよ!その大根の中に、よーく染み込んだイカの味がうまいなぁ。イカそのものを食べるよりイカらしい。-
新しく入って来たお客さんたちからイカなんこつ焼き(一五〇円)やウナギ肝焼き(一串一五〇円)などの注文が入ったので、私もイカしょうが棒(一五〇円)を焼いてもらうことにしました。イカしょうが棒は串に刺した棒天ぷらで、ゆっくりと時間をかけて炙ったものをおろし生姜といっしょに出してくれます。イカしょうが棒ができあがったタイミングで燗酒(二三〇円)もおかわりです。ん-。やっぱり練りものもいいですねぇ。できるだけチビチビと食べて長持ちさせようと思うのに、やめられない止まらない。あっという間に食べ終えて、次なるつまみはイカわた和え(一五〇円)。イカわた和えは、イカ下足を、その名のとおりイカわたで和えたもの。とはいうもののできあがったイカわた和えは、塩辛のような赤っぽい色ではなくて、黒いのです。しかも味はやわらかく甘い独特なもの。これが不思議と、どのお酒にも合うんですよねぇ。四五分ほどの立ち飲みタイムは九五六円。今年もおいしいイカ大根でした。(平成一九(二〇〇七)年一月一三日(土)の記録)(「ひとり呑み」 浜田信郎) やき屋 東京都杉並区上荻15-6


コカ・コーラ
一九世紀末、コーラ発祥の地、アメリカでは、客の注文に応じて、飲み薬を調合して提供するスタイルの薬局が流行した。薬剤師たちは、より効果のある万能薬の開発を競い合っていた。『コカ・コーラ』を開発した、ジョン・S・ベンバートン博士も、そんな一人であった。そしてそんな中、水と砂糖、コーラナッツエキスなどを配合し、頭痛や二日酔いの薬となる飲み物を開発したのだ。これはフレンチ・ワイン・コカといって、もともとは水で飲むシロップとして開発したものだった。しかしあるとき、店員がこのシロップを、水と間違えて炭酸水で割って客に出してしまう。これが美味だったために、評判はすぐさま広がり、『コカ・コーラ』として売り出されるようになったというわけ。(「二日酔いの特効薬」のウソ、ホント。」 中山健児監修)


アルコール性痴呆
アルコールによる中枢神経障害の終着駅は、アルコール性痴呆です。アルコール性痴呆は、早い人では四〇才くらいで出現します。単なる健忘症だけでなく、自分が何者であり何をしているのかもわからなくなり、奥さんを知らない人だといったり、ベッドをトイレと間違えてオシッコしたり、お箸で食事することを忘れて手づかみで食べたり、食事が済んだばかりなのに、まだ食事をもらっていないと怒ったりと、完全なボケ症状になるのです。治療によって日常生活は何とか出来るようには回復しますが、社会的活動が出来るまでに回復することは困難です。老人性痴呆とアルコール性痴呆との違いは、症状では区別出来ませんが、老人性痴呆はどんどん悪化したり、悪化したりよくなったりを繰り返すのと比較して、アルコール性痴呆は、お酒さえ飲まなければ進行はしないことです。痴呆においてはあらゆる知的機能が低下します。また脳のCT(コンピュータートモグラフィー)で脳の断層写真を撮れば、痴呆の脳は萎縮し、脳の皺が広がり、脳室も拡大して脳全体が縮んでいることがわかります。前頁の写真は、頭部のCT写真で、正常な人(四〇代)の脳とアルコール性痴呆(四〇代)の萎縮した脳とを比較しています。アルコール性痴呆の脳は皺が広がったため脳のまわりの空間が広がっていること、脳の中の空間である脳室が拡大していることなどが観察出来ますが、結局脳が萎縮していることがわかります。この知的機能の低下、つまり知能指数の低下や脳の萎縮は、アルコール依存症においては、痴呆に至らない人でも発生していることが多いことが知られています。大量飲酒を長年続けていると、知能障害や脳の萎縮が発生するわけです。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二)


どぜう飯田屋
明治三十年頃、初代三次郎が創業した飯田屋は、もともと甘味屋であった。すぐ奥に名刹(めいさつ)の二院があり、ちょうど参道に面していたから結構繁盛していたらしいが、女子供相手の甘味屋では酒が売れない。そこで三次郎は一膳飯屋に商売替えをし、川魚や蜆を肴に一杯やれる店にした。その中からだんだん「あそこのどぜうはうまい」と評判になり、いつの間にか名代のどぜう屋になった。関東大震災と戦災とで二度も焼けている飯田屋の現在(いま)の店は、戦後に建てられた和風の二階家で、ビルの谷間で「どぜう」の大看板が異彩を放っている。一階も二階も小部屋はなく、藤筵(とうむしろ)を敷きつめた広い入れこみで、飴色に艶(つや)が出た藤筵が老舗の歴史を物語る。(「うまいもの職人帖」 佐藤隆介) 西浅草3-3-2のどぜう屋です。


居酒屋GPS!
ある夕方、よく知らない町を友だちとふたりで歩いていた。その友だちが以前、知り合いに連れていってもらった居酒屋に案内したいと言ってくれたのはよいが、店名も場所も覚えていないという。ただ、駅の南口からそれほど遠くないということは記憶にある、と。普通なら、しばらく探し歩いて見つからなければ諦めるだろう。実際に十分ほど、ありそうなところを歩きまわったが、いっこうに埒が明かない。だが、友だちがちょうど諦めようとしたところで、私は「どんな店なのか、教えてくれる?」と頼んだ。「女性ひとりでやっている、落ち着いた小ぢんまりした店で、ちょっと小料理屋っぽい」と言うから、私は「もしかしたら、まっすぐ行って、あの角を左に曲がったらあるかもしれないから、行ってみないか」と提案した。もちろん、その辺りを歩いたこともなく、どんな場所なのかも知らない。でも、実際に行ってみたら、ずばりだった。これゾ、居酒屋GPS!-と自慢したいところだが、超能力でも偶然でもないと思う。店の輪郭と雰囲気を思い浮かべたら、街のどの辺りにありそうか見当がついただけだからだ。たとえば、大型チェーン店はだいたい駅周辺の大通りに面しているが、小ぢんまりした一戸建ての小料理屋は、呑み屋街のなかでも、ガヤガヤした店やスナックが並んでいる道ではなく、少し閑散とした小道にある場合が多い。それは、いままでの街歩きや居酒屋探訪の経験から知っていたし、私が当てられたのは、そこが何となくそういう雰囲気の小道だったから、というだけのことである。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)


67醴(あまざけ)を勧(すす)む  不風雅(ふふうが)
君(きみ)に勧(すす)む 三国一(さんごくいち)
甘酒(あまざけ) 辞(ぢ)することを須(もち)いず
胸焼(むねや)けて 皆迷惑(みなめいわく)
一〇先生(せんせい) 別儀(べつぎ)なし
○三国一醴 1浅草門跡前の名産なり。下戸飲之。2かん気をしのいでのむ時は、むね大にやける。されども3やけほこりなどといふて、まけおしみをいつて、せうもこりもなく又のむ気なり。4おたふくこれにゑふときは、けげんなかほをす。
七 酒ではなく甘酒を勧めるのでいう。 八 日本、唐土、天竺を通じて一番。特に甘酒屋が宣伝にこの語を用いた。 九 遠慮しなさんな。相手が迷惑がっているのを遠慮していると勘違いしての語。 一〇 勧める御本人は下戸なので沢山飲んでも平気。
1 浅草の東本願寺(準門跡寺院)門前に伊勢屋、大坂屋などの甘酒屋があり、それぞれ三国一を称した。 2 寒気を防ごうとして熱い甘酒を飲む。 3 焼け誇り。焼け太り。火事に逢った後、かえって以前よりも豊かになること。だから胸が焼けるのも結構という負け惜しみ。 4 「お多福」は醜女の意。この一文の意味未詳。(「通詩選笑知」 大田南畝 日野龍夫校注)



酒をあげて地に問ふ誰か悲歌(ひか)の友ぞ二十万年この酒冷えぬ
みなさけに涙こぼれぬさらば我師この子とこしへ酔へりとおぼせ
屠蘇すこしすぎぬと云ひてわがかけし羽織のしたの人うつくしし
酒のまへに酒の歌なき君ならば恋するなかれ市に入るなかれ
われにまづ毒味せよとは云ひ得たり許せさかづき二つに割らむ
人ならば酒をも強ひん杖がたなさびし幾とせ善き仇もあらず(「柴」 与謝野寛)


晩年の父
父は盗み飲みの時代からずっと日本酒党だった。一度胃を悪くして酒を控えたとき、ウイスキー紅茶にしたことがあったようだが、そのときを除いては、ずっと日本酒を貫いた。だいたい辛口が好きで、灘の白鹿や白鶴が好みだったようだが、私が知る晩年の晩酌には伏見の招徳というのを用いていた。これは伏見の酒にしては辛口だった。これを一日二合と決めて計量カップできっちりと量り、ガラス製の徳利と杯で飲んだ。杯はリキュールグラスの流用だったと思う。ガラス製だったのは酒の色が楽しめるし清潔でもあるからで、陳ねた焼物の徳利や猪口は、侘びとか寂びの茶人好みとして嫌った。そのガラス製の徳利を、左脇に据えた火鉢の鉄瓶で燗をし、ちびりちびりと手酌でやる。私も若い頃、父の真似をして日本酒を飲したが、少しだけ反抗して徳利と猪口は焼物にした。いろいろな焼物が楽しめるからである。しかしあるとき、一口含むと、何とも言えない嫌な味がした。で、酒を全部空けて見てみると、黒い点々としたものが混じっている。おそらく、ゴキブリの卵だか糞なのであろう。よくよく洗って使わなかったからと言われればそれまでだが、父のガラス製愛好を成る程と思い、以来、焼物は止めてガラス製にした。ガラス製もその当時は種類が少なく安物臭かったが、段々と良いものが出るようになって、洗練されたものが手に入るようになった。その後、私はダイエットのために、糖分の多い日本酒を避けてウイスキーの水割りにし、さらには酎ハイに、今は生ビールといった具合に、まことに一貫しない鬼っ子で、生涯日本酒を貫き通した父には、敬意を表する。(「中華飲酒詩選 思い出」 青木正児)


勧酒と返杯
唐の詩人、王翰が「葡萄の美酒」を「夜光杯」でどう飲んだか、李白が「詩百篇」を生み出した「一斗」の酒の飲み方はどうだったかについては諸説あるものの、清代あたりの酒席についての記録を見れば献杯と返盃、罰杯などが一般的だったことがわかる。前者は、めいめいが使っている盃とは別に、銀や錫で作った足つきの爵盃(しやくはい)を使って主人が客に酒を勧め、のみ終わったあとの同じ盃で客が主人に返杯する、といった方式で、日本流の「お流れ頂戴」は見当たらない。これと比べると、自分の盃だけを使う中国での今のやり方は、たぶんに様式化されている。(「北京そぞろある記」 田所竹彦)


わかさぎの木の芽焼き(ワカサギ、木の芽)
ワカサギは頭と尾をそろえて、串にさしておく。はじめは強火で、ワカサギに火がとおるまで焼き、弱火にして、はけでタレ(みりんと醤油同割ずつ混ぜたものを一割ほど煮つめる)を塗って、照りをつけながら焼きあげる。タレは1~2回つけると、きれいに仕上がる。器に盛ったら、粉サンショウを軽くふりかけ、木の芽をかざる。ワカサギは、身がやわらかいわりに、火を通すと身がしまり、型がくずれないのが特徴。みりんの照りと木の芽の青味のコントラストが美しい酒肴だ。ワカサギの淡泊な味が、タレでひきたち、日本酒の友としては最高。ブリやハマチの照り焼きとくらべ軽いので、いくらでも食べられる。(「酒肴(つまみ)のタネ本」 ホームライフセミナー編)


7日 湯豆腐
もう、二年前のことになる。昭和三十七年のきょうのことだ。久保田万太郎さんの誕生日のお祝いが銀座の辻留で、あった。そのとき久保田さんは京都の樽源さんに贈る俳句を用意して来られた。それが、 湯豆腐や。持薬の酒の一二杯  という句であった。花柳章太郎さんのすすめで、久保田さんはそのあとに「寒うおすな」と付け加え、小唄が出来上がった。同席しておられた山田抄太郎さんが、あいにく手をわるくしておられたので、芝小百合さんがかわりに三味線をとって、即席の「口述作曲」が始まり、たちまちにして、万太郎作詞、抄太郎作曲の、小唄「湯豆腐」が出来上がった。湯豆腐は元来上方のものだ。だから先生は京都弁で「寒うおすな」と付けた。そして山田さんは京都のあけぼのという手と壬生(みぶ)狂言の手をいれて曲をしたてた。楽しい思い出である。(「私の食物誌」 池田弥三郎)


古文書から元禄の酒を再現
先ほどの近藤勇の礼状ではありませんが、赤穂浪士が討ち入りした年の元禄十五年(一七〇二年)、今から三百四年前の古文書『酒永代覚帖』が残っています。それを紐解いて再現したのが、『復刻酒 江戸元禄の酒』であります。元禄時代の製法を再現した場合、どんなお酒ができるのか、二つの結果を予想していました。一つは、当時はまだ発酵技術が進んでいなかったので、やはりアルコール度数の低いお酒ができるのではないか。もう一つは、甘いお酒ができるのではないかと予想したのですが、結果は後者でありました。(「不易流行の革新経営をめざす!」 小西酒造株式会社代表取締役社長 小西新太郎)


安飯屋、居酒屋
問題はその下の安飯屋で、これらは不潔を極める。
第一目に立つのはその家にして、檐(のき)朽ち柱ゆがみて平長屋の板庇煤烟(いたびさしすすけむ)に舐(なめ)られて黒ずみ、…なかんづく厨房の溷雑(こんざつ)は実に伝染病の根源にして一面芥捨場(ごみすてば)を打拡げたるが如く…およそ世に不潔といへるほどの不潔は悉皆茲(しつかいここ)に集めたるが如く、蓮根・芋・筍子の皮・鰯・鯖・鮪等の敗肉(あら)は皆一所に掃溜めて数日間も厨房の片隅に寝かし、それより発する臭気、移り香、蒸発する厨婢の体臭、海苔のごとき着物を被(き)たる下男…酔漢(のんだくれ)、恫喝男(どうまごえ)、貪食者(くいつぶし)等を以て終日喧声涌(けんせいわく)が如きこの最下等飲食店は、浅草、芝辺の場末に最も多く三河町の界隈比々(かいわいひひ)皆これなり
こうした下等飯屋にあっては、材料費を安く上げるため、かなりの工夫がなされており、一食三銭以下の値段で満腹できたという。また彼らの食事内容については「朝餐には一汁一菜極めて淡薄(たんぱく)なれども、晩餐には間々濃味の鳥肉を呼びて口腹(こうふく)を肥やす。蛤蜊鍋(はまぐりなべ)、葱鮪(ねびま)等なり」という状態で、彼らはまた居酒屋での濁酒や焼酎をもっとも好んだ、としている。(「江戸の料理史」 原田信男) 引用は明治26年刊行の松原岩五郎の「最暗黒の東京」です。


三分の酒二分の水
牛肉を買ふの法を説いて「先づ宜しく各舗に定銭(手付金)を下(お)き、腿筋夾肉の処、無精不肥なるを湊(あつ)め取り、然る後家中に帯(も)ち回(かへ)れ」と料理法は「皮膜を剔去(てつきよ)し、三分の酒、二分の水を用(もつ)て清煨す。極爛なれば再び秋油(醤油)を加へて収湯せしむ。此れ太牢、独味孤行する者なり、別物の配搭を加ふべからず」と。肉は直股筋即ちシンタマと称する処であらうが、買入れる分量が何程か判らぬけれども、何軒かで買ひ集めよと謂ふからには一軒の店で間に合ふ程の大きな牛肉屋が無かつたからであらう。之れが清朝中頃に於ける南京の実情だつたのである。大切りの儘の肉を「三分の酒、二分の酒で充分軟らかになるまでゆつくり煮込み、そこへ上等の醤油を加へて、汁が無くなる迄煮る」とは相当贅沢な料理で、即席料理の及ばぬ滋味があらう「此れ太牢であつて独味孤すべき者だ」と、さもありなんであるが、牛肉など久しく見たこともない今(戦争末期)の私達には縁なき者、一場の夢物語に等しい。昔飲ん兵衛の汝陽王は道に麹車(きくしや)(酒を積んだ車)に逢ふて口に涎を流したといふが、私達は耐乏生活に馴れたとは謂へ、決して美味を忘れた訳ではない。美味に縁遠くなればなる程、凡下の浅ましさは愈々美味を憶(おも)ふ、浅ましくても恥かしくても憶(おも)はざる得ない。だから二三人集まれば必ず食べものの話が出る。そして最後には、昔旨かつた思出を並べるに堕ちる。けちな気休めではあるが、画餅でも口振舞でも、幾らかの慰めになる昨今では、汝陽王の涎もまことに他人ごとではない。(「飲食雑記」 山田政平)


火落酸
日本酒を腐敗に導く細菌として明治以来その道の学者に知られた火落菌という乳酸菌の一種がある。江戸時代から酒の腐ることを「ひおち」という。この菌には奇妙な性格があって、肉汁とか植物体の煮汁とか普通の細菌の好んで生える培養基には、決して生えない。酒に生えてこれを腐らせて困らせるくせに、研究室でこれを生やすのには大苦労をする。然るにこれらの培地に日本酒をちょっと一割くらい加えると、たちまち猛然として生えてくる。まるでその辺の我らの酒の友のような不思議な生理の持ち主である。これは不思議な現象であるから、ある時これを手掛りの研究がはじまり、まず第一にこの原因となる新物質は、麹菌という日本酒を造る時に使うカビが造ることがわかった。そうなると、これの分離の材料には、酒のような金のかかるものを使うよりは、この未知物質を沢山造る麹菌を選んで、それを造らせる方が、よほど効率的であることがわかった。これで大量の未知物質をたやすく入手できるようになった。それが研究の第一歩である。次にはその新物質を純粋に分離することに成功し、化学的に研究してみると、それは炭素原子六個から成る従来知られなかった新化合物であることがわかった。これを火落酸(ひとちさん)(のちにメバロン酸と命名)という名で発表した。一九五六年の春のことであった。この新物質は、始めに想像されたヴィタミンのような作用をする物質ではなくて、火落菌が自分で造ることができない栄養素の一種であることも判明した。この新物質メバロン酸が発表されると、これがたちまち世界の生化学界に伝わり、世界中でその研究がはじまり、忽ち第二次大戦後の全世界の生化学者の研究の寵児となって、各国で競って研究が進められた。前述のノーベル賞問題は、ここから出たのである。それらのうちで西ドイツのリネンは、メバロン酸の炭素数に着目して、それが三分子の酢酸(二炭素原子から成る)から生成する生理的な筋道を研究した。その後これと前後して米国のブロッホ兄弟が、更にメバロン酸からコレステロールのようなステロールの類いを生成する生理的筋道を照明して、いずれもその研究に対してノーベル賞が与えられたのである。その後、一九七五年にこれらの生成経路についての立体化学的解明がイギリスのコンフォースによって研究されて、これに対してもノーベル賞が出されることになったのである。以上が酒の研究からノーベル賞が三箇生まれたといういきさつである。研究の基礎になる物質の発見には、何の関心も払われずに、その発見のおかげで生まれた研究のみが賞の対象となるとは、一体いかなるものさしによる判断であるか、腑におちない。(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎)


眼前 一杯の酒、誰(たれ)か身後(しんご)の名を論ぜん。
<解釈>月の前に一杯の酒があれば、死後の名声など関係ない。
<出典>北周、庾信(ゆしん)(字(あざな)は子山(しざん) 五一三~五八一)の「詠懐(えいかい)」詩二七首<其の一一>の第一一・一二句。『庾子山集』巻三。『古詩源(こしげん)』巻一四は「擬詠懐」と題する。
<解説>庾信が南朝の梁(りよう)の使者として北朝の西魏(せいぎ)に滞在中、祖国の梁は、こともあろうに西魏の攻撃を受けて滅亡してしまう。「詠懐」詩は、異国に仕えることを余儀なくされた庾信が、亡国を恨み、自身の悲しみを詠じた長編の連作である。ここに挙げた二句のみを見れば、死後の名声など気にしない、快楽主義的で豪放な庾信像が浮かび上がるだろうが、実はそうではない。この二句は、「揺落、秋の気為(た)り、凄涼(せいりよう)、怨情多し、啼いて湘水(しようすい)の竹を枯らし、哭(こく)して杞梁(きりよう)の城を壊(やぶ)る」という、華北の秋の寂しげな情景描写から始まり、舜の二妃である娥皇(がこう)と女英(じよえい)が舜の死を悼んで竹に涙した故事、戦死した杞梁を妻が慟哭(どうこく)して悼んだ故事などを交えつつ、梁の亡国とそれによって悲劇を体験した自分を含む多くの人々の怨みを述べたあとの二句なのである。したがって、この詩には作者の深い絶望感が潜んでいる。確かにこの二句は張翰(ちようかん)の故事をふまえている(李白(りはく)「且(しばら)く楽しまん生前一杯の酒、何ぞ須(もち)いん身後千載(ぜんざい)に名」の「解説」参照)が、二人の酒の味は正反対のものであったに違いない。また、一説にこの句は、梁の皇帝と臣下が酒びたりで、国家の将来について思慮がなかったことを批判する意がこめられていると言うが、これこそ牽強付会というものであろう。(後藤秋正)


古酒の幅
呑嬉亭も出した冷奴の上に塩辛を乗せながら、「そういえば、同じ古酒でも、醤油みたいな色がついたものから、うっすら山吹色がついたものまでいろいろだよな」と切り出す。「うん、貯蔵するお酒の種類や、貯蔵温度で差が出てくるね。長期熟成酒研究会では、吟醸酒なんかを低温で熟成させて、あまり色のつかないものを『淡熟タイプ』、一定の温度(一〇~二〇℃)で熟成したものを『中間タイプ』、常温で熟成させたものを『濃熟タイプ』と分けているけどね。濃熟タイプが茶色くなるタイプさ。普通酒や純米酒なんかは色がつきやすいよね」酔「しかし、その『淡熟タイプ』と、『濃熟タイプ』じゃまるで別物だよな」「古酒とか長期熟成酒とか、一緒くたにするのもなんか違う感じがするけどな」呑嬉亭も古酒の現状に不満があるようだ。数年前、宮城県の気仙沼で「古酒の会」が開かれ、呼んでもらったことがあった。主催は地元で店を開く「おけい茶屋」という酒販店。「前日から入って、マンボウの刺身や、卵巣、真子、それに地元では『巨人の星』とよばれているモウカザメの心臓、ホヤなどの珍味を肴に一杯やって、翌日市内のホテルで古酒の会さ。古酒一つ一つ取ってみればそれぞれ個性があって美味しいんだけれど、宴会の最初から最後まで古酒で攻められるとちょっと疲れるというか…しんどいってことはあるね。料理の中の一部を古酒と合わす形の方がいいな」(「ツウになるための日本酒毒本」 高瀬斉)


しゃ-しん[写真]
師と語る写真のどれも酒の上  佐藤 正敏
しゅ-ぎょう[修業]
②仏法を修め善行を積むこと。
樽の中で修業しているウイスキー  吉川 一郎(「川柳表現辞典」 田口麦彦編著)


△家言(かげん)三九
杜氏(とうじ)四〇(酒工の長なり。又おやじとも云。周の時に杜氏の人ありて其後葉杜康という者、よく酒を醸するをもって名を得たり。故に擬(なぞら)えて号(なず)く)
衣紋(えもん)(麹工の長なり。花を作るの意をとるといへり。一説には、中華に麹をつくるは架の下に起臥して暫くも安眠なさざること七日、室口に勝るの意にて衣紋と云か。)
三九 家言 一家言。個人的見解。
四〇 杜氏 酒造技術者の長。同時に技術出稼グループの組織者、責任者でもアル。刀自すなわち古代の女性醸造時代の主婦の名称をうけつぐという見解もある。早く発生したのは丹波杜氏であるが、後に越後、広島、秋田等の出身者が増加した。

宴席の伏兵
費無極(ひむき)は楚の令尹の近臣であったが、郄宛(げきえん)というものが新たに令尹に仕え、令尹に大いに寵愛された。そこで、無極は令尹にいった。「宛をいたくご寵愛のご様子ですが、一度、宛の家で酒宴をお開きになられてはいかがです?」「それはよかろう」そこで、令尹は費無極を郄宛の家に酒宴の準備を命じていかせると、無極は宛に教えた。「令尹は剛腹で武事がおすきだから、謹んでその御意に沿うように。まず直ちに軍兵を座敷の外に配置し、門口まで居並ぶようにしておきなさい」宛はいわれたようにした。令尹は行ってみて驚いた。「これは何事だ」すると、無極がいう。「危険です。すぐお帰り下さい。どんなことになるか分りません」令尹は大いに怒り、兵をさし向けて郄宛の罪を責め、遂に殺してしまった。(内儲説下)(「中国古典文学全集 韓非子」 高田淳訳)


〇詩ヲ賦シテ志ヲ言フ
春秋列国ノ士大夫、会盟燕享ニ皆詩ヲ賦シテ其志ヲ言フ。実ニ殊勝ナル事、千載ノ下ヨリコレヲ想見スベシ。然スニ戦国ニ至リテハ、此事ナカリシト見エテ所見アル事ナシ。我幼カリシ時、先人ノ友ト飲宴スルニ、必ズ小謡アリ。多クハツハモノ、交リ頼アル中ノ酒宴哉、ナド云ヲ唱ヘテ、酒ヲ侑ム。今ハ其事ナシ。今ヨリ是ヲ想ヘバ、又殊勝ナル事ニテ、士風ヲ観ルニ足レリ。世ノ風俗移リ変ル事如此。戦国ノ詩ナキモ怪ムニ足ラザルナリ。(「諼草小言」 小宮山昌秀)


洒落言葉・隠語
・甘酒をなめさせる…譲歩すること
・大人のミルク…どぶろく
・五合徳利…つまらない人生
・むねはらい…胸の憂いを払ってくれるもの=酒
・待ち膏…宴会の前に少し酒を入れておくこと
・山芋を掘る…酔っぱらってくだを巻くこと
・霜消し…酒のこと(霜が消えるほどに温まるという意味)
・けずり友達…身代を削ってつきあう友達(飲み友達)
・スミマセン…どぶろくのこと(濁っているから)(「SAKE面白すぎる雑学知識」 雑学こだわり倶楽部編)


日本酒を温める理由
ところで日本酒をなぜ温めて飲むようになったのかは、明らかではない。ただ、中国では、寒い時には温酒、夏には冷酒で飲んだことが多くの書に記されている。たとえば白楽天は「薬銚夜傾残酒暖」「林間暖酒焼紅葉」とうたい、また趙循道(ちようじゆんどう)は「紅火炉温酒一盃」と詠み、そして元結(げんけつ)も「焼柴為温酒」という有名な詩の一節で、晩秋から冬にかけて酒を温めて飲む情景を詠んでいる。白楽天の「小盞吹醅嘗冷酒」にみられるように、春から夏にかけては冷酒を飲んでいた。李賀(りが)が「不暖酒色上来遅」といっているように、おそらく寒いときには、はやく体が温まるように酒を温め、夏に熱い酒はさらに暑さをよぶから冷酒にしたという単純な理由からだろう。日本での暖酒もはじめはこのような理由から行われだしたものと思われる。日本酒を温める第二の理由は、東洋的な医学思想を背景にした自然な食法、たとえば『養生訓(ようじょうくん)』などにもみる教えも根底にあったのだろう。貝原益軒は次のように戒める。「およそ酒は冷たくして飲んではよくないし、熱くしすぎて飲んでもよくない。生ぬるい酒を飲むのがよい。冷たい酒は痰を集め、胃をそこなう。丹渓(たんけい)は酒は冷飲に宜しといったが、多く飲む人が冷酒を飲むと脾臓をこわす。少し飲む人も、冷酒を飲むと食気をとどこおらせる。およそ酒を飲むのはその温かい気をかりて、陽気を補助し、食のとどこおったのをめぐらすためである。冷酒を飲むとこの二つの利益がない。ぬる酒は陽を助け気をめぐらすのに及ばない」。すなわち冷酒は身体によくないという考え方も、燗をする要因の一つになったのだろう。第三の理由は、客に対する温かいもてなしという心づかいから出た飲酒法であるということだ。燗をしてもてなすという習慣が一度出来上がると、「燗をした」という行為が、酒に手を加えてから客にさし上げるという礼儀として定着する。そうすると手を加えない冷酒を出すのは失礼であるという考えに結びつき、燗をする習慣が続いてきたのであろう。このほか、日本酒は麹を使った酒であり、冬造られたものが夏を越すと熟成して風格を増すところから、そういう酒を温めると、口当たりがまろやかでコクが乗るといった理由で燗を好んだ人もいたのだろう。さらに、燗をすると刺身や酢のもの、煮魚との相性が良くなるという人も少なくなかった。そして最後の理由は、飲む速さと酔いの速さを調整するためでもあったのではないか。「親の意見と冷酒(ひやざけ)は後からきく」の譬(たとえ)の如く、冷酒は喉(のど)ごしがよいからどんどん入っていって、後から急に酔いが来ることが多く、悪酔いの原因にもつながるが、熱い酒であると、味も香りもアルコール分もとても強く感じるので、チビリチビリとやることによって、酔い加減にバランスがとれるからである。(「日本酒の世界」 小泉武夫)


玲瓏随筆
酒後に紅柿[べにがき]を多く食すれば、はなはだ酔いて正儀を失うと。傍(かたえ)なる人曰[いわ]く、柿は酔[え]いを醒[さま]すとこそいえ、柿にて酔うとは心得ずといえり。曰く、諸楽ともにこれを用いるに時あり、時を得ざる時は、すなわち薬かえって毒と成る。その時を得る時は、すなわち毒も、またかえって薬と成る。寒は熱に勝つといえども、時を得ざる時は、すなわちかえって熱を助けて人をして熱殺せしむ。けだし酒を飲む事数盃[はい]にして、酒胃にありていまだ順ならざる時、柿を食する時数顆[か]なる時は、すなわちその酒を覆留して酒気順ならず、胃中に留[とど]まりて悶[もん]絶す。酒後紅柿を食えば、心痛するも、またこれに譬[たと]うるなり。酒ようやく半醒[はんせい]に至りて、喉[のど]口乾[かわ]きて湯を思う時、熟柿[じゅくし]を喫する時は、すなわち端的に醒め渇を治す。(玲瓏随筆)(「飲食事辞典」 白石大二)


良寛の詩
日々日々 又(マタ)日々         日〻日〻又日〻    良寛
閒(コノゴ)ロ児童ニ伴ツテ此身ヲ送ル   閒児伴児童送此身
袖裏(シウリ)ノ毬子(キウシ) 両三箇   袖裏毬子両三箇
無能ニシテ飽酔ス大平ノ春        無能飽酔大平春
毎日毎日、のんびりと童(わらべ)たちと一緒に、遊び暮らしている。袖(そで)の中には何時(いつ)も手毬(てまり)が二つ三つ。能無しで大平の春に堪能(たんのう)している。芭蕉の「能なしの寝(ねむ)たし我をぎやう/\し(行々子 ヨシキリ)」(嵯峨日記)にも似た心境がうかがわれるが、それよりも良寛自身の手毬唄、「つきて見よ一二三四五六七八九(ひふみよいむなやここ)の十十(とをとを)とをさめて又(また)始まるを」(二三六㌻)の無心の唄を、いっそう鮮やかに連想させる。(良寛詩集)(「古典詞華集」 山本健吉)


【山梨県北杜市・山梨銘醸】
同じ首都圏なら、山梨県北杜市、旧甲州街道沿いに建つ創業1750年(寛延3年)の山梨醸造も、多様な楽しみが待つ。まず直行すべきは、試飲コーナー。銘酒「七賢」はなめらかな喉ごしの純米吟醸「天鵞絨(びろーど)の味」やさらりとした裾捌きの純米大吟醸「絹の味」など、奥ゆかしい旨味のなかに名前に込められた個性を感じられる。さらには、仕込みに使われる水をたっぷり試飲できるのも、この蔵の魅力。酒の原材料を問われれば「米!」と答える方が多いと思うが、その8割は水。輪郭を描いたり、背骨となったりと、水は酒の味わいに大きく関係しているのだ。この蔵の仕込み水は、南アルプス甲斐駒ヶ岳の伏流水。ふんわりやわらかく、軽やかな余韻を舌に残して喉を過ぎる。酒と呑み比べてみれば、そのしなやかさと清々しさがしっかり生きているのがわかるだろう。敷地内には和食処「臺民(だいみん)」があり、「鮭の麹漬け」や「甲州豚の塩麹漬け焼き」といった、発酵の魔法で旨さを増した美味なる品々が揃う。「七賢」にぴたりと寄り添うのは、言うまでもない。すいすい呑んでしまうのだ.。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子)


(六)しよがえぶし
東坡(とうば)山谷(さんこく)淵明(えんめい)李白(りはく)晉(しん)の七賢(けん)白楽天(はくらくてん)も、ずんとてうじてあいせしといの、それはもろこし我朝(わがてう)にては心よし田の兼(けん)もじ様も、酒を飲めとてゆるされた、しよんがえ
てうじて-長じてにて、すぐれての意か  兼もじ-兼好をさす(「若みどり」 藤井紫影校訂)


酒飯論
さて酒と何かと対立させて上戸下戸の論争を面白く描こうとした試みは、どうやら『酒飯論』にはじまる。『酒飯論』の上戸、下戸、仲裁者のそれぞれが一向宗、日蓮宗、天台宗の立場を表明するので、三者が対立を深める一五二〇年代に『酒飯論』の成立をみる説もあるが、なお議論すべき余地はあろう。現存の『酒飯論』は十六世紀初期の成立としてよいが、その原形は十五世紀にさかのぼる可能性がある、いずれにしても十六世紀後半に成立する『酒茶論』よりはかなり早く、室町時代後期には誕生している。さて内容は、造酒正糟屋朝臣長持と称する大上戸と、飯室律師好飯という僧で、「こづけを好む最下戸」、さらに中左衛門大夫中原仲成といって酒も小漬も好む、名前からして仲裁役の三者である。まず造酒正長持は酒の徳を説明し、風流の酒、百薬の長たる酒、神に供える酒等を延べ、最後に念仏を誦して終わる。その中に出る「下戸のたてたる蔵もなし」というのは当時の俚諺(りげん)であったが、対句は「上戸はあはれ丸裸」というもので、貧福は生まれつきのもの、上戸は酒で身上を潰すことがあっても、下戸だからといって金持になれるわけではない、という。つづいて下戸の飯室律師は、まず酒の害を説き、それに対して飯のいろいろをあげて飯尽くしを述べ、茶会の面白さにふれる。最期は日蓮宗の妙号を唱えて終る。三番目の仲成は、文字通り中庸の酒を主張し、「飯をも酒をもよき程に、すへならべつゝのみくひて、一ごはかくてぞよかりける」という次第。面白いのは酒飯ばかりでなく、貧福も年齢も、姿かたちも役職も、官位も威勢も中位が一番よいものだという仲成の主張である。日本人の中産階層志向は室町時代からあったのか。この中庸の酒こそ、今日の酒の源流なのである。(「酒と社交」 熊倉功夫)


新潟清酒研究会
新潟清酒研究会(通称「酒研」)は、一九七三(昭和四十八)年、当時の新潟県醸造試験場長・島悌司(ていじ)氏の提案によって創立された。それまでは、大学で専門教育を受け、企業に雇用された酒造技術者は企業内で研鑽(けんさん)を積むことがもっぱらであったため、将来の新潟清酒を担う技術者を組織化して交流を活発化にし、企業横断的な情報交換の場を設けることが会創立の目的であった。同会は、県内各酒造会社に在籍する酒造技術者によって構成、運営され、若い技術者にできるだけ自由な発言と活動を保証しようと、規約には「正会員は五十歳以下」と明記されている。発足以来、同会はさまざまな研究プロジェクトや講演会などの活動を精力的に行い、主なものに、七七(昭和五十二)年に新潟県酒造組合から委託を受けた酒造好適米の新品種の醸造研究、八一(同五十六)年に新潟県技術賞を受賞した肉食に適する新しい清酒の開発プロジェクトなどがある。こうした目覚ましい成果を上げ、二〇〇三(平成十五)年には創立三十周年を迎え、県酒造業界の技術的基礎を担う重要な存在となっている。同会の運営は会員である酒造技術者個人の自主的な参加に負っているが、この背景には彼らが在籍する各酒造会社の理解と協力の上に成り立っている。技術者同士が互いに切磋琢磨を重ね、酒造技術の研鑽を積むことで新潟県酒道業界全体のレベルアップを図ろうという、一企業の利益だけにとらわれない懐の深さがうかがえる。(「新潟清酒達人検定公式テキストブック」 新潟日報事業者)


花、果実、木質などの風味-スペインの男性
「日本酒はこれまでに飲んだことはあるけど、喉から食道にかけてカ-ッとした感じだね。でもこれはスムーズで飲み易いな」飲んだ酒というのは熱燗で?ときけば、「燗の酒も常温の酒も」といい、吟醸酒の優しさは女性向きだという。熟成酒については「フィノのシェリーのような味がする。花や果実を思わせるところもいい。木質の風味も感じるし、スムーズで旨い。私はこちらのほうが好きだな」と、熟成酒がことのほか気に入った様子である。さらにその上、アペリティフとしても申し分ない、とつけ加えた。この人のブースはツナなどの加工食品を扱っているところだが、スペインのそのような食べものにもよく合うともいっていた。やはり、シェリーに馴れた味覚とすれば、それにより近い熟成酒のほうが親しみ易かったのだろう。花や果実を思わせるという表現が、吟醸酒ではなくて熟成酒のほうを指したのにも興味をひかれた。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)


日本盛
日本盛は、元禄の頃には「盛」という名で出ていたようで、日本盛となったのは、幕末の頃からといいます。今でも、酒屋さんの間では、サカリと呼ばれていて、その積極的な販売政策が、しばしばウワサにのぼります。とくに、白鶴との二位争いは、激しいので、よく知られるところですが「酒類食品統計月報」の調べでは、昭和52年度の出荷は第三位で、39万1千石でした。白鶴は40万5千6百石です。ちなみに、一位は伏見の月桂冠で、65万3千石でした。日本盛の製品では、ホームタイプの製品が、他の蔵にさきがけて、売り出された特色あるものの一つですが、山村聡を中心に、芸能人をたくさん使ったPRで、ブランド売り込みに熱心な点は、際立っています。最近は、屋外式の調合タンクが設置されましたので、蔵の感じも変わりました。(「灘の酒」 中尾進彦)


大酒の戒(いまし)め
貴丈常に大酒せられた候故(そうろうゆえ)、此(この)文句を写して大酒は無用に存候(ぞんじぞうろう)、仍(よつて)一句
朝かほにわれは飯食う男かな  芭蕉
この貴丈(相手の男性に対する尊称)というのは有名な其角(きかく)で、この文句云々と言っているのは、尊朝親王の御作と伝えられる飲酒一枚起請(きしよう)と言われるものが前に付してあるが、ここでは句だけを記すにとどめる。句意は、「自分は世人と全く変わらず、朝早く起き、小庭の朝顔を眺めて飯を食う平凡な男なのだ」ということで、俳句に託して、芭蕉が宝井其角の豪酒を戒めたものと、ふつう解釈されている。其角は性豪快、江戸に生まれ家業の医を学んだが、一四、五歳の頃、蕉門に入った。照降町に住んでいたころは、嵐雪(らんせつ)、破笠(はりつ)なども同居して、大いに飲み、かつ遊んだ。芭蕉はこれに対して色々心配したのだろうが、それで禁酒するような其角ではなく、その後もますます大酒したらしい。もっとも、芭蕉自身酒を飲まなかった人ではない。「宵のとし空の名残おしまむと、酒のみ夜ふかして、元日寝わすれたれば、 二日にもぬかりはせじな花の春」(元日は寝過ごして大しくじりをやったが、二日にはしくじらぬよう心懸けて、めでたい正月を祝いたいものよ)という句があるほどの酒呑みで、 呑明(のみあけ)て花生(はないけ)にせん二升樽(だる)(さあ皆の衆、この二升樽を余さず飲みあけて、ちょうど真盛りの桜を活(い)ける花活けにしよう)という句もあるくらいだ。これで見ると、大酒に見えるが、この詞書(ことばが)きに「尾張の人より濃酒一樽に木曽の独活茶一種を得られしを、ひろむるとて…」とあるから、いずれ、門人たちに振る舞ったのであろう。二升樽を飲み開けると言っても、もちろん芭蕉の酒量ではない。また、 花にうき世我が酒白く飯(めし)黒し(世間は花に浮かれて楽しむ春だが、貧しい自分にはむしろ心憂(う)い世の中だ。飲む酒は濁り酒、飯は玄米飯という暮しでは。)などという句もあり、世捨て人のわが身の境涯を嘆じている。当時の芭蕉の生活状況が眼に見えるようだ。(「料理名言辞典」 平野雅章編)


アルコール症者の子供
子供たちがベッドの下や押し入れの中に隠れる、という話をよく耳にする。子供たちは連れ立って屋根裏部屋に行き、父親の帰りを待つ。父親がどんな状態か見当もつかない。やさしくしてくれるだろうか、たたかれるだろうか。決まってそのどちらかで、そのような境遇では、子供たちは落ち着いた生活は送れない。しばしばこのような子供は、標準以上の成績をおさめる。人より優れていなくてはいけない、自分自身を強化するよりどころが必要なのだ。しばしば、そのエネルギーは、学校で一番になることに注がれる。グリー・クラブや、バンドに入り、学校新聞で活躍する。多くの活動にかかわって、並み以上の成績をおさめる。しかし、孤立しがちで、他の子供とうまく付き合えない。リーダーになるが、独りぼっちである。アルコール症者の子供は、友達を家に連れてこなくなる。境遇が不安定なので、家についたら何が起こるかわからない。それが恐ろしいし、恥ずかしくもあるので、どぎまぎするような立場にならないよう、極力努める。長期にわたって受ける影響は、男の子でも女の子でも、同じであろう。ほとんどの子供は、長じて異常な生活を送る。アルコール症となるケースも多い。アルコール症者と結婚する者も、かなりの数にのぼる。ほとんどの者は、逆境の生活を体験する。円満な人間とはならないのである。アルコール症の子供は、成人しても自己評価は低く、他人を信用できず、敵意、怒り、恐れ、恥、自責の念と対処しなければならない。すべてに対する自責の念は、まったく何の根拠もない。しばしば、両親のアルコール症をはじめ、すべての否定的なものに責任を感じる。結婚について歪んだ考えを抱き、満足な結びつきができず、現実にも想像上も、性的に常軌を逸しやすいという問題を抱えている。アルコール症者の子供はマイナスの見本を見て育つだけでなく,驚くほどの暴言、肉体的、また、しばしば性的陵辱を受けて成長する。子どもたちは誰にでも喜ばれようとする。異常な環境での成長は、異常な生活となる。それをのり越え、家を離れて初めて、他の人はそのような生活を送っていないことに気がつく。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー)


その方の父は毎年死んだか
義公(徳川光圀)はあるとき、誰であったか、ご前で酒を賜った。そしてお肴(さかな)も下さった。ところが某は、これをそばに置いたままで、箸をとらなかった。「なにゆえに食しないのか」とお尋ねがあった。某は待っていましたとばかりに、「きょうは亡父の忌日でございますので精進いたしております。」と申しあげた。すると義公は、「それなら、その方の父は毎年死んだものと見えるな。」と、おたわむれなさった。すると某は負けていず、「公には毎月二十九日ご精進あそばさせる。先君威公(徳川頼房)には毎月ご逝去なさったと見えまするが。」と申しあげたところ、公もお笑いなさったという。こういう義公のおたわむれのうちにも、やはり教訓があるのを見出せるのである。「其の方は父の忌日で精進だから肴は食わぬと言いながら、酒を飲んでいるではないか。その点で、その方の行為は矛盾している。これははたして、心からの精進と言えようか。儒教徒の多くがするような、虚偽の形式にとらわれたものではあるまいか。」と義公は申された。(「人間義公」 大内地山)


ちやびん[茶瓶]
花見や野掛などに弁当などと組みに持つて行く道具、引いては下僕、弁当持ちの下男をいう。-
⑤人同じからず 茶びんと 貧ぼう樽  (樽三八)
⑤唐の劉廷芝七言律、悲白頭中の一節、年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからずの文句取りであるが、茶瓶と貧乏樽とは似て非なるものだということ。-(「古川柳辞典」 十四世根岸川柳)


食物年表1600-1650
1608・呂宋王が将軍にいそぱにや酒を献上
1612・島津家久が将軍に琉球酒を献上
1619・堺商人が大坂から江戸へ油、酒、酢、醤油などを回送し、菱垣廻船がはじまる
1642・忍冬酒、延命酒を将軍に献上(「日本史分類年表 食物年表」 桑田忠親監修)


熱燗(燗酒)
江戸時代までは冷酒を原則としていたので、「熱燗」が季語となったのは幕末の『季寄新題集』(嘉永元年)で、冬之部・旧十月に、「あつ燗」とあるのが初見である。それを承けて、明治四十二年刊の『新修歳時記』が冬之部に、「熱燗。冬寒気を防がん為に、殊に燗の熱きを用ふるものあり」とあり、例句がないから、まだ公認されていなかったようだ。昭和二年刊の『新撰俳諧辞典』には、「熱燗・燗酒」の記載はないが、同五年刊の『最新俳句歳時記』と九年刊の虚子の『新歳時記』が十二月また三冬で取上げて、「酒うすしせめては燗を熱うせよ」という、つまらない自句を例句としている。その後山本の『季寄せ』が三冬で「熱燗。燗酒」とした。さらにその後、秋桜子の『現代俳句歳時記』は、秋桜子が下戸だったせいかこの二つの季語をカッとしているが、その他は冬の季語として定着している。
燗熱し獄を罵(のの)しる口ひらく  不死男
熱燗や男同士の労はりあふ  春一
熱燗や討入りおりた者同士  展宏
例句一の秋元不死男(ふじお)(昭和五二年没)は、新興俳句論者であったが、昭和十六年に俳句事件に連座して、二年間の獄生活を送った。終生庶民精神を貫いた。例句二の滝春一(しゆんいち)(平成八年没・九十四歳)は秋桜子門で、俳誌『暖流』の主宰者。同県人か、うだつの上がらない同士が愚痴をこぼし労り合うには、ボルテージの上がる熱燗が必要なのだ。例句三の川崎展宏(てんこう)は現役のぱりぱり。『寒雷』の同人で明治大学教授。朝日俳壇の選者である。ところで、この句を正直に解釈すると、元禄十五年十二月の払暁、赤穂浪士の大石良雄らが、本所の吉良邸に討入って本望を遂げた時、それぞれ退っ引きならぬ理由で脱藩した小山田庄左衛門、毛利小平太、田中貞四郎らが集まって黙々と熱燗を、という場面を想像するに違いない。だが、「熱燗」に限らず季語というものは、その句を詠んだ季節と時代(リアル・タイム)を保証するものだ、と私は考えている。だからこの句は一見、忠臣蔵の世界のようでも実は比喩句であって、老害の政治家や社長を諫止しようと決起した若手の議員や社員が、あと先を考えて中止した世の憂さ晴らしの熱燗、と私は解釈するのだが、私の勘繰りだったら、展宏さん御免なさい。
熱燗や屋台で飲めば雪となり  桐雨(「酒の歳時記」 暉峻康隆編)


酒屋名簿
而して当時に於ける洛中洛外の酒屋の全数が幾何であったかに関しては、奇跡的にも、応永三十二年、同三十三年の調査になる一巻の『酒屋名簿』が、『北野神社文書』中に保存せられている。この名簿によるとき、洛中を中心に、北は嵯峨谷、東は粟田口に亙る間に於て、三百四十七軒の酒屋が存在していた(国史学第十一号「北野麹座に就きて」参照)。この酒屋数は爾後応仁の乱に至るまでの約四十年間、さしたる増減を見ることなく存続したのでる。この三百有余の酒屋こそ、室町幕府の財源の一部を構成せる酒屋の全数に外ならなかったのである。ここでいわゆる酒屋とは、小売専門の小売酒屋ではなくして、「本酒屋」と時に称せらるるところの醸造酒屋である。(「日本産業発達史の研究」 小野晃嗣」)


小米酒(5)之事
一、小米勿論片白に造るへし。造り様諸事本米同前。但し小米ハ夥敷く沸く物也。大体より一限強く覚醒し切へし。当分呑口濃き様に候へとも、追日薄口に成、火を早く乞、足弱き物也。早く売払うへし。油断すれハ替る物也。
小米(こごめ)酒(5)
〇小米酒はもちろん片白で造ること。造り方はすべて粒米の酒と同じである。ただし、小米は非常に強くわくものであるから、ふつうの造りよりひときわ冷まし切るべきである。小米酒は、造りたては飲んで濃く感じられるが、やがて薄口になり、早く火入れを求め、日持ちしないものである。早く売り切ってしまうこと。油断すると変質するものである。
(5)小米(こごめ)酒 砕け米で造る酒。(「童蒙酒造記」 吉田元翻刻・現代語訳・注記・解題)


いなだ【稲田】
①鰤(ぶり)の異称。初期の称で、大きくなり鰤となるのである。
八杯の 酒でいなだの 生づくり  稲田姫に掛く
②稲田姫の略称。(いなだひめ参照)
八樽くらつて 稲田をも 呑む所  八岐大蛇(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


(増)盃事の式
[四季草]云 盃事と名付て 今世祝事にハ 親兄弟或ハ君臣盃をさして 乾魚なとを肴に挟み遣ハす 又 返盃して 右の如く 肴をはさむ事 是 甚略式也 本式にハ 先二三こんを出す 是にハ盃取かはしなしに 三献終て初献烹雑を出す、烹雑終て次に幾献も出す時 惣坐中酒宴になりて盃を取りかハし 肴をはさみ遣し 座中盃めくりて賑に興を催す 今世盃事と名づけてするハ 此酒宴の躰をかたばかりにまねてする也 今世ハこのまね事を 却て本法式生の事と思ふハあやまり也 是も戦国の頃世の中貧しくなりて 賑々しく真の酒宴の興を催す事もならずして そのかたばかりしたるハ伝りて 却て本式の如くなりいなるべし(「増補俚言集覧」 村田了阿編輯)


上戸
〇師走の十日ごろ、一条の辻に、大酒に酔い、ひどく寝こんでいる者がある。また、その日鳥羽から用をたしに上ってきた男がいた。これも少し酔っていたが、その男を見つけ、「お前の住居はどこ」と問うに、舌がまわらず、たわいもない声で、「あまがさき」と言うようである。気の毒だなあと車にのせ、鳥羽(京都の南郊)につれてゆき、便船をたずねて乗せてやった。この者を、ついてから、旅人の宿に舟からあげておく。酔がさめ、「これは何事か、私は京の六条の者で、あまがさき屋という者です」と、あっけにとられてたたずむ。ことのわけを語り聞かせると、肝をつぶし、どうにもならず、船賃、旅籠(はたご)の料金にと胴着を売り払い、みっともない姿で家にかえったのも一笑。(「江戸小説集 醒酔笑」 安楽庵策伝 小高敏郎訳)


寄鍋 よせなべ
魚貝・鶏肉・野菜など季節の材料を酒・味醂を加えた醤油汁で、煮ながら食う鍋料理。昔はたのしみ鍋ともいった。贅沢にも簡易にもできるのが特徴。
寄鍋や母にまいらす小盃  山本(「合本俳句歳時記新版」 角川書店編)


狂言と擬音語・擬態語
室町時代から栄えた狂言ほど、擬音語・擬態語の活躍する舞台芸術は見あたらない。なぜ、狂言では、溢れるばかりの擬音語・擬態語が用いられるのか?狂言は、滑稽感をかもし出して観客を笑わせくつろがせるために発達したセリフ劇。笑いをとるための王道の物まね。とぼけた梟の鳴き声と仕草のまねを見所にする狂言『梟山伏』は、言葉の通じぬ外国人でさえ笑わせることができる。梟をはじめ、蚊・烏・鳶・鶏・千鳥・犬・猿・狐・牛の鳴き声を写す擬音語が、狂言では、笑いをとるための必須アイテムなのである。さらに、狂言に擬音語・擬態語の多用される原因が、もう一つある。それは、擬音語・擬態語に状況説明の役割が負わされていることである。場面が良く変わるのに、狂言は大道具が全くない。家も、戸も、そんな舞台で、他人の家の玄関前にいることを観客に分かってもらうにはどうしたらいいのか?演者が、戸を開ける仕草をして「サラ サラ サラ サラ」と言うのである。これで、戸が開いた。(「擬音語・擬態語辞典」 山口仲美編)


ルバイヤート(抄) オマル・ハイヤーム 小川亮作(おがわりようさく)訳 
酒をのめ、土の下に友もなく、またつれもない、眠るばかりで、そこに一滴の酒もない。
気をつけて、気をつけて、この秘密、人には言うな-
チューリップひとたび萎(しぼ)めば開かない。(「酒の詩集」 富士正晴編著)


清酒酒質の様変わり
①揺籃期=甘酸混交 僧坊酒とくに奈良酒系を引いた清酒(すみさけ)は、甘口なわりに強い酸味を発揮した。アルコール分も比較的低く、清酒とはいえ醸造酒としての若さが目立った。②鴻池・池田・伊丹=辛口醇酒成長期の清酒で、酒精度が高く辛口の味わいが江戸などで歓迎された。剣菱・七つ梅など銘柄酒が席巻し、地酒は田舎酒として精彩を欠いた。③灘五郷時代=淡白上品 伊丹酒に変わり灘酒が台頭したのは天保期とみられている。水車の採用で米の精白度が格段に高まり、名醸水をも得て、磨き抜かれた上品(じようほん)酒がもてはやされた。④近代=芳醇吟醸 諸白から清酒へと名が変わり、甘くてコクがあり芳香の高い酒が好まれる。酒格も高級車から安酒まで層が厚くなり、格差の拡大が目立った。⑤昭和戦前期~終戦直後=酒質の凋落 物資の不足や統制経済の影響を受け、酒類の堕落が際だった時代。清酒も金魚酒や模造酒が巷に氾濫し、粗悪で危険な密造酒が出回るなど、酒質云々以前の状態にあった。⑥現代=百花繚乱 いま、清酒も個人嗜好による選択の時代に入った。酒造業界もハイテク時代に入り、あらゆる酒種・酒質・グレードの酒が出回り、すでに左党天国の時代を迎えている。(「日本の酒文化総合辞典」 萩生待也編著)