表紙に戻る
フレーム付き表紙へ




御 酒 の 話 49 



秋風起りて蟹を思ふ  自賛    甘党  燗と冷や  酒のなる木  仕事の分担  △製灰  しゅ-ぎょう[修業]  酒の字  ルバイ第三十九  米だけの酒  介入を成功させるには  ちよき[猪牙]  東西の味かげん  白鷹  南米では受けると思う  坂口記念館  増税  (七)むら田  若竹屋酒造場  盃の織部形  餅米酒之事  鰭酒  酒屋土倉  推はちがうた  石川弥八郎賞  いなだひめ【稲田姫】  梵妻  豆腐田楽  ワインのことわざ  日本の酒  れろれろ  三白酒-さんぱくしゅ  食物年表1700-1800  玉山已ニ倒レテ  花見 はなみ  ぬけ酒と収税さん  酒銘江戸一の始め  信州酒と注文のコツ  柳の酒  振り酒  定年書店  まんぢゆう【満仲】  久里浜病院  池田酒  詩酒徒  淡白を上  味わいのバリエーション  節度ある酒  宮城県名取郡秋保村  ムスタファ・ケマル  新夕刊新聞社  あてこすりの歌  家飲み  後撰夷曲集(10)  西国、猩々を獲  南都諸白  怪猫  酒の値  火の車、學校の肴  鯨 くじら  酒の飲み方  くつ石  酒造資本と酒造経営  技の受け継ぎ  冬はやっぱりイカ大根 やき屋(荻窪)  コカ・コーラ  アルコール性痴呆  どぜう飯田屋  居酒屋GPS!  67醴を勧む    晩年の父  勧酒と返杯  わかさぎの木の芽焼き  7日 湯豆腐  古文書から元禄の酒を再現  安飯屋、居酒屋  三分の酒二分の水  火落酸  眼前 一杯の酒  古酒の幅  しゃ-しん[写真]  △家言  宴席の伏兵  〇詩ヲ賦シテ志ヲ言フ  洒落言葉・隠語  日本酒を温める理由  玲瓏随筆  良寛の詩  【山梨県北杜市・山梨銘醸】  (六)しよがえぶし  酒飯論  新潟清酒研究会  花、果実、木質などの風味  日本盛  大酒の戒め  アルコール症者の子供  その方の父は毎年死んだか  ちやびん[茶瓶]  食物年表1600-1650  熱燗(燗酒)  酒屋名簿  小米酒之事  いなだ【稲田】  (増)盃事の式  上戸  寄鍋 よせなべ  狂言と擬音語・擬態語  ルバイヤート(抄)  清酒酒質の様変わり





秋風起りて蟹を思ふ
秋風がさやさや街をわたる頃になると、江南の喰いしん坊達は何よりも先づ蟹を思ふ。愈々蟹が市に上れば待ち兼ねたやうに、どこの酒家にも「右手に酒杯を持ち左手に蟹螯(かに)を持つ」今様畢卓(ひつたく)の居並ぶ風景を見る。その頃上海に遊ぶ人は、酒家の店頭に沢山の蟹が金網を伝つて上下する様を見るであらう。江南一帯殆ど此の無腸公子(かに)を産せざる処はなく、蘇州の羊腸蟹、常熟の金爪蟹は最も珍重せられるが、この種の蟹の名称は頗る多く、とても覚へきれない程である。蟹諺に「九月団臍、十月尖」といふのは、雌は九月が最も旨く、雄は十月が最も旨いといふ意味であつて、古人も蟹にうつつを脱(ぬ)かした人が相当多かつたのであらう。雌は腹甲が丸いから団臍と謂ひ、雄のは尖つて居るから尖と謂ふ。食単に「酔蝦(ツイシア)」を載せて「酔蟹(ツイシエ)」を無視したの片手落ではあるまいか、酔蟹は年中どこの食品店にもあり、且つ小菜として多くの狂嗜者さへある。その製法は、先づ小蟹の腹部に塩を摺り込み、脚を藁(わら)で括つて、酒若しくは酒と醤油の合せた液中に活きながら漬け込む。随分残酷な方法であるから、君子ならずとも現状を看ては惻隠の情を催すに違ひない。(「飲食雑記」 山田政平)


自賛(自贊)   一休宗純(いつきゆうそうじゆん)        
風狂(フウキヤウ)ノ狂客 狂風ヲ起シ               風狂狂客起狂風
来往ス婬坊(インバウ) 酒肆(シユシ)ノ中             来往婬坊酒肆中
具眼ノ「衤内」僧(ナフソウ) 誰ゾ一拶(イツサツ)スルハ     具眼「衤内」僧誰一拶
南ヲ画シ北ヲ画シ東西ヲ画ス                    畫南畫北畫東西
もの狂いの風流僧が、狂風を起し、女郎屋と酒屋とのあいだを徘徊(はいかい)している。見識めかした禅坊主が来て、問答を仕掛けてきたが、そんなことに答えられるものか。東か西か方角もないのに、わしは自分で決めて行くだけのこと。これが一休の面目の真骨頂(しんこつちよう)と言うべきか。(狂雲集)(「古典詞華集」 山本健吉)



居酒屋を経営している男がびっくりするほど大きな犬をつれて、家へ戻ってくる。それを見て、そんな犬をどこからつれてきたのかと、女房がたずねる。男は事の次第を話して聞かせる。「今日、おれたちの店の権利を延長してもらおうと思って、伯爵のところへ行ったんだ。すると、伯爵はべろんべろんに酔っぱらっていて、おれにこう言うんだ、もしこの犬にヘブライ語が話せるようにしたら、権利金はただにしてやる、だが、それができないなら-この場でおまえを撃ち殺す。そんなわけで、おれはとっさに考えたんだ、もうどうしようもないと。そこで、やっと、その犬を五年間預からせてください、その間にだんだんしゃべれるようにしてみましょう、ということで話をまとめてきたんだ。」女房は嘆きはじめる。「なんてことをしたの。気でも狂ったんじゃないの。五年間で何とかできると思ってるの。この犬がしゃべれるようになる前に、あんたがわんわん吠えはじめるわよ。」「まあ、落ちついてくれ」と、男は言う、「五年の間には、三つのことのどれかが起こることだろう、まず、この犬がくたばる、でなければ、伯爵が死ぬ、でなければ、おれがこの世におさらばする。」(「ユダヤの笑話と格言」 ザルチア・ラントマン編 三浦靱郎訳)


甘党
酒は酢の物の如[ごと]き類とよく調和して、菓子や団子と調和しにくい事は一般に知つてゐる所である。南瓜[かぼちや]、薩摩[さつま]芋、胡蘿蔔[にんじん]などは野菜中の最も甘味多き者であるので酒とは調和しにくいのであらう。酒飲みでも一旦[たん]酒を廃すると汁[しる]粉党に変る事がある。して見ると女は酒を飲まぬが為に南瓜などを好むのに違ひない。(病牀六尺)(「飲食事辞典」 白石大二) 「病牀六尺」は正岡子規の著書です。


燗と冷や
ところで最近は、燗にこだわる人が少なくなってきた。冷蔵庫の普及で日本酒を冷やして飲むことが長く続き、これまでの習慣にとらわれずに日本酒とつきあう人が増えてきたためである。かつて日本酒には、「燗上がり」のする酒(燗をすることにより酒が良く感じられる)と、「燗下がり」のする酒(燗をすることにより酒が不味に感じられる)とがあるといわれていたが、今日のように高い精米歩合と低温発酵で造った酒は、燗の有無にかかわらず常に安定した香味を発揮できるので、従来のようにそう燗にこだわる必要はない。むしろ吟醸酒のように上品な味と高い芳香を持った酒は、冷やしてすばらしい酒なのである。冷やでも燗でも、好みによって自由に日本酒とつき合って、そのすばらしさにふれてほしいものである。(「日本酒の世界」 小泉武夫)


酒のなる木
金のなる木があれば、いちばんいいのだが、さすがにこれは実在しない。しかし、酒飲みからすれば、金のなる木も同然の"酒のなる木"はほんとうにある。それは、アフリカ中部、ハシ川の流域に生育する「シロ」という木。この木の樹液は相当のアルコールをふくんでいて、集めて飲んでみると、味のほうもかなりいける。そこで、アフリカでは「ブララ酒」として市販されているという。「ブララ」とは、ハシ川流域の町の名だ。(「SAKE面白すぎる雑学知識」 博学こだわり倶楽部編)


仕事の分担
子産(しさん)が鄭の宰相のとき、簡公(かんこう)が子産にいった。「酒をのんでうまくなく、俎豆(そとう)(食事の器具)が大きくなく、鐘鼓竽瑟(しようこうしつ)(楽器)が鳴らぬのは、わしの罪だが、国が不安で民が治まらず、耕作や戦争に協力一致を欠くのは、お前の方の罪だ。お前にも仕事があるが、わしにも仕事がある。たがいにその仕事を守ろうではないか」子産は退出して、政務に励むこと五年。国には盗賊がいなくなり、路上のおとしものはだれも拾わず、道一杯になった桃やなつめもとる者がなく、錐のような小さなものを落として、三日たって行って見ても見付けることができるほどになった。こうして三年たって、民には飢えるものがいなくなった。 (外儲説左上)(「古代寓話文学集 韓非子篇」 高田淳訳)


△製灰(はいのせい)
豊後灰(ぶんごはい)四二壱斗に本石灰(ほんいしばい)四升五合入れよくもみぬき、壺へ入れ、さて、はじめふるいたる灰粕(はいかす)にて、たれ水(みず)をこしらえ、すまし灰のしめりにもちゆ。尤(もつとも)口伝あり。
△なおし灰
本石灰壱斗に豊後灰四升、鍋にていりてしめりを加え用ゆ。囲酒(かこいさけ)にひをいるるは入梅(つゆ)の前をよしとす。
四二 豊後灰 今の大分県地方は江戸時代以前は炭焼で各地に出稼する者が多く、、木炭を焼く際に出る木灰も多く生産されて染物の灰汁用、肥料用として船で瀬戸内海経由で積出された。これを国の名で呼んだので、必ずしも豊後産でないものもあったろう。(「日本山海名産図会」 木村孔恭 千葉徳爾註解)


しゅ-ぎょう[修業]
(名)①学問や技術・武芸などを練り磨くこと。②仏法を修め善行を積むこと。
 樽の中で修業しているウイスキー   吉川一郎
じゅん[順]
(名)①順位。順序。②順番
 杯の順日本の祝いごと  増井不二也
ジョーク
(名)冗談。しゃれ。
 ジョークだよ友もお酒も赦しあう   山倉洋子(「川柳表現辞典」 田口麦彦編著)


酒の字



露伴全集にある、幸田露伴が集めた酒の字の一部です。(「幸田露伴全集第40巻」)


ルバイ第三十九
盃より投げて地(つち)に吸はす
一雫(ひとしずく)だに、浸(し)み入りて、
遙か下、遠き昔、其処(そこ)に隠れし
或る眼(まなこ)の悩みの火をば消さぬは有らじ
[略義]酒は、現に地上に生きて居る我々の胸中に在る悩みの火を消すだけでは無い。我々が地上に濺(そそ)ぐ酒は、其の一滴たりとも、地中に浸(し)み入って、昔、しかも、土中深く、埋(うず)められた祖先の、今だに浮ばれぬ魂の悩みの火を、消さないものは無い。
[通解]ライベイション(libation灌酒(かんしゆ) と云って、神に酒を供える時、これを地上に灌(そそ)ぐ習慣が有るが、此の習慣にも、此のルバイに歌われて居る所の意味の含みが、満更(まんざら)、無いとは云えない。何となれば、死者の霊と神とは、密接な関係が有るから。此のルバイは”some Eye”「目」と云っている所が面白い。安らかに眠って居る事が出来ないから、目を開いて居るのだ。


米だけの酒
その日本酒造組合中央会はまたぞろ手前勝手なことをやろうとしてきています。皆さんももうご承知だと思いますが、先だって日本酒造組合中央会から各組合員と申しますか、各蔵元に通達が廻りまして、それを見た心ある蔵元は「何じゃこれ」と思ったようでございます。今日のお話のタイトルにもあります「純米酒要件の見直し」というのがその通達なのですが、その内容はといいますと、①純米酒の要件として「精米歩合七〇%」とあるが、その制限を撤廃する ②精米歩合の表示は義務付けることとするが、その表示については一〇%の幅による表示も可能とする。例六〇%~七〇% ③本醸造酒についても純米酒と同様の表示要件とする といったものです。これを見てまず感じたことは、「あっ、大手の『米だけの酒』を純米酒として売りたいのだな」ということです。-
まっ、このことに関しては後で確認したところによれば、「屑米、破砕米、米粉」を使用した場合は「純米、米だけの酒」などという表示は出来ないのだそうで少し安心したのですが…。-
しかし、これらの屑米、破砕米、米粉を使用した場合、原料表示として「米、米麹」がOKなんだそうです。オイ、オイの世界です。今まで、表示に「原料:米、米麹」とあったら純米酒だよと教えられてきた消費者が、これから原材料表示を見て、屑米や米糠利用のお酒でも純米酒と誤解することが目に見えていますよね。「わかりにくさ」是正のはずが、余計迷ってしまうではないでしょうか。(「ツウになるための日本酒毒本」 高瀬斉)


介入を成功させるには
まず、きっかけはだいたい近親者からの相談である。ひとりでやって来て「主人のことがとても心配なのです。けじめなく飲むようになりました。初めて私を殴ったのです」というような話をする。カウンセラーは問題の人物の生活に関わる主な人たちに事情を説明し、介入に参加してもらいなさい、と相談者に話す。参加者は事前に説明書を読み、カウンセラーからこの方法について精しく説明指導を受ける。さらに各自が、当人から受けたむごい仕打ちや困惑した最近の体験を三例挙げ、その日付け、時間、そして印象を書いてくるよう指示が与えられる。その後、皆がそのメモを持ち寄って話し合うのだが、介入のために自分たちのしていること、その意味と理由を全員が確実に理解するまで、何度も会合を開く。介入の会には、本人が出席するので、一同は緊張する。各参加者は、問題の当人が自分についてどう考えているのか、引き出そうと真剣である。そのために、前もって冷静な状態でメモを書いてもらう。こうすれば忘れない。時には緊張のあまり的確な応答ができない人がいるが、書いているうちに、その人はアルコール症者との苦い実体験を再確認するとともに、当人の振る舞いがアルコールによるのだということを納得して会に臨める。それがすべり出しで、家族の心は癒やされはじめる。だが家族が受けた傷の手当ては後回し。介入の最中に傷を開いたまま放置してはならない。家族の一人一人もこれに参加しながら、さらに自分で治す方法を探っていかなければならない。家族の全員が、アルコール症者の生活のかぎを握る人とされる。ただ座っているだけの五歳の子供でも、アルコール症者の生活を構成している存在であり、それを示す権利がある。雇い主なり上司の参加も、非常に重要である。呼ぶのをためらう人もいるが、本人の言い分はともかく、雇い主は社員に飲酒問題があることを知っている一人だからだ。聖職者が本人にとって重要な関わりをもっているなら、当然その人にも加わってもらう。親友は、まさに適任者である。酒飲みであってもよい。アルコール症者でも、自分が見えなくても他人は見えるもの。介入の妨げになる恐れのある人がグループにいれば、カウンセラーは理由を説明し、参加を控えさせる。酒のせいの振る舞いにすっかり腹を立てているような人は、むろん加われない。この判断は、カウンセラーの大切な役目の一つである。というのも、アルコール症者は非常に敏感で、その場の雰囲気を直ぐかぎ分ける。敵意を排し、愛情のこもった温かい雰囲気で迎えてやらなければならない。家族側が怒っていれば、カウンセラーが説いて会合を開けるムードづくりをする。介入が成功しなかった場合、つまり愛情をもって助けたい一心で接しても、当人が治療を拒んだ場合、参加者はこの先どうするつもりでいるかを、その場ではっきりと話す必要がある。ときには一時的な別居という深刻な提案も出てくる。相手は家や職場を離れ、飲んだくれて事故を起こし、命を落としかねない。いささか厳しい話だが、それでも介入には効果がある。介入のおかげで断酒している人も多い。ただし、この会を本人の家で開いてはいけない。陣地内では気楽になりすぎる。本人を治療センターに呼べる見込みがなければ、掛りつけの医者のところなど、双方にとって中立的な場所を選ぶのがよい。会合場所は、前もって打ち合わせ会でセラピストと相談し、決めておく。そして日時を決め、リハーサルを行なう。それには各自が用意した体験メモを使う。そして当人を本番に連れてくる。その前に、治療を受けさせる病院に予約しておき、入院のための荷造りもすませる。家に帰るすきを患者に与えてはいけない。また勤務先の上司に事情を説明して、同僚に仕事を代行してもらえるよう承諾を得ておく。これで準備は整い、当人に残された余地はぐっと狭まった。上司は彼を呼んで「よし、あの件のことは忘れろ、後を引き受ける人間を見つけてあるから」と言う。当人にしてみれば、愉快なお達しではないのだが、この際、いたしかたない。いよいよ介入の会が開かれる。問題の人、ビルが入ってくる。まず彼に言葉をかけるのはカウンセラー。「私たちが今日ここに集まったのは、皆あなたに話を聞いてもらいたいからです。皆が話し終わった後、あなたも質問していいのですが、相手の話を中断しないで、終わるのを待ってください。協力してくださいね」と釘を刺す。話の腰を折ろうとすれば、カウンセラーが注意する。「約束どおり、どんな正当な理由があっても、いらいらしても、全員の話が終わってから発言してください。話し合いはそれからです」前もって定められた順序で、一人一人がアルコール症者への愛情と心遣いをこめて本人との体験を話す。当人は「それで私にどうしてほしいのだ」と、たびたび食ってかかるだろう。このときカウンセラーは「私たちはあなたに〇○病院に三、四週間入院してほしいのです」と答える。承諾すれば、望みが達せられたも同然、介入は終わる。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー)


ちよき[猪牙]
舳の尖った快速の小舟で遊所通い専用、俗に薬研とも勘当舟などともいい、柳橋にこの船宿があつた。柳橋から山谷堀まで片道百四十八文で急ぎは百文増し。もと生魚の運送-長吉舟から思いついたもの。長吉舟を略してチヨキといつたので、船の形が猪の牙に似ているところから猪牙舟とこじつけたのだという。船宿を猪牙が大川へ出て、左に蔵屋敷の首尾松を見て行くのは吉原、右手に浜松河岸松浦家下屋敷の椎の木を見て行くのは深川櫓下へ向かうものである。-
⑫立たぬ約束で生酔を猪牙に乗せ (樽一八)(「古川柳辞典」 14世根岸川柳)


東西の味かげん
今世三都共ニ士民奢侈(しやし)ヲ旨(むね)トシ特ニ食類ニ至リテハ衣服等ト異ニシテ貴賤貧福ノ差別ナキガ如(ごと)シ。而(しかし)テ三都自ラ異ナル所アリ。京坂ハ美食ト雖(いえど)モ鰹節ノ煮ダシニシテ是(これ)ニ諸白(もろはく)酒ヲ加ヘ醤油ノ塩味ヲ加減スル也。故ニ淡薄ノ中ニ其(その)物ノ味アリテ是ヲ好(よし)トス。江戸ハ専ラ鰹節ダシニ味醂酒ヲ加ヘ或ハ砂糖ヲ以テ代之(これにかう)。醤油ヲ以テ塩味ヲ付ル也。故ニ口ニ甘ク甞カシト雖モ其物ノ味ヲ損スニ似タリ。然レトモ従来ノ習風トナリ今ハ味リン或ハサトウノ味ヲ加ヘザルヲ好マズ、必ラズ用之テ京坂ノ食類更ニ美ナラズト云。又京坂ノ人ハ江戸ニテ甘味ヲ用フヲ、タルシト云テ忌之テ美食トセズ。各互己レガ馴タルヲ善トシ、馴ザルヲ不善トスル而已(のみ)。 喜田川守貞『守貞謾稿』
さすがに上方人だけあって、上方料理の特質について、喜田川季壮守貞の解説は詳細である。しかし、上方の昆布出汁(だし)の利用について、一言も触れていないのはどうしたわけだろう。すでに『料理物語』(寛永二〇年・一六四三刊)にも、精進出汁の材料として、「干瓢、昆布、干蓼、干蕪、干大根」などが挙げられており、使用量において昆布が群を抜き、守貞も熟知しているはずなのに、片手落ちである。(「料理名言事典」 平野雅章編)


白鷹
白鷹の創業は文久二年(一八六二)で、明治元年の七年前です。初代の辰馬悦蔵以来、一貫して一流主義を通してきているところに脱帽すべき企業姿勢を発見できます。こういう話があります。品質をよくするために、手間がかかっても生酛(きもと)の一種であるすり酛方式を採用していること。しかも、創業以来の仕来たりとして、四斗だるに酒を詰める時、水でたるを洗わずに、白鷹の酒で洗っていたというのです。普通、水でたるを洗うと、終わりの徳利ニ、三十本は、酒の質が悪くなるようですが、白鷹に関しては、そんなことがありませんでした。酒で洗ったからだというのです。したがって、灘の代表銘柄が二円前後の時は、三円三十銭くらいしていたといいます。こういう酒に対する神経の使い方は、よい米を作るための農家への資金援助という行為にも表れましたし、たるの材料の杉にも、最高の部分を選んで出荷したのです。戦中、戦後、他の蔵元がある意味で酒質を犠牲にしたり、桶買いで、販売量を拡大した折りも、ここだけは頑固に品質を守り続けてきた、といいます。大正十三年六月、宮内省から伊勢神宮のご料酒の指名を受けて以来、今日でも毎朝神前に備えられているのです。もちろん、自醸酒100%は今でも守っていますので、大手の蔵からは、出荷量で随分遅れをとり、現在、出荷量50位以内には入っていません。知名人のファンは、昔から多いのですが、関西では、あまり強くなく、東京のほうで人気のある酒だと聞いていますが、自醸酒100%を守るために、問屋の要求に応えられずに、大阪を中心とする市場を失ったのだということです。しかし「桃李ものをいわず、下おのずから蹊を成す」を社訓として、頑として節をまげない姿勢は、敬服に値しますし、一方、昨年秋には、夙川右岸に「辰馬考古資料館」をオープンするなど(明治の異色画家富岡鉄斎とも、往来があったという)酒造りだけでなく、広く一流の物を人々に還元しようとする気風は、特筆したいところです。(「灘の酒」 中尾進彦) 昭和56年の出版です。


南米では受けると思う-アルゼンチンの男性
はじめに熟成酒を傾けて、「とっても旨い酒だね」と表情をゆるませ、「これが日本酒ねえ」と感慨深げなのだ。これまでは吟醸酒、熟成酒の順でテイスティングしてもらっていたのを、ここでは逆にやってみた。次に吟醸酒を飲んで、「おやっ、これはまた違うね。これも日本の酒?へーえ、驚きの味覚だ」と言葉を添えた。このブースのファイサール社は農業、畜産の企業だが、中でもキジは年間に数千羽を飼育しているとか。「うちのキジ料理にも合う味だよ、この二つのタイプの酒はどちらも好きだね。こういう酒は南米での受けはいいんじゃないの?チリやブラジルなんかでもどんどん広がると思うよ」と、同社専務のフェデリーコ・ステペルリンクさんは自信をもって推薦してくれた。今回のインタビューで最もうれしかったコメントである。なにしろはじめて口にした日本酒に対して、「わが地元の南米では受けるのではないか」というのがいいではないか。他所ではなく「地元でこそ受ける」というのがあちこちにひろがればいいのである。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)


坂口記念館
上越市頸城区に建つ坂口記念館は、同地出身の坂口謹一郎博士の功績をたたえ、頸城杜氏の酒造り文化を今に伝える施設である。正式名称は「香り高き樂縫庵(らくほうあん)と酒づくりの里 坂口記念館」。旧頸城村の大肝煎(おおきもいり)(庄屋・名主とも呼ばれる村の長)であった坂口家の堂々たる旧家の雰囲気を漂わせる「樂縫庵」には、坂口博士が好んだ囲炉裏(いろり)のある書斎が再現され座敷で清酒の試飲ができる。敷地内は、蔵人や地元文化人との交流の場として使われた「留春亭(りゆうしゆんてい)」や、百種類もの雪椿が植えられた「雪椿園」がある。坂口博士の業績を展示品やビデオ映像によって紹介する「酒杜(さかも)り館」には、博士が受賞した勲章や直筆の講義ノート、折に触れて詠んだ歌の数々と愛用の筆、硯(すずり)、落款(らつかん)などが展示されている。また、同館では、蔵人が酒造りの工程で歌った「酒造り唄」の保存・継承を目的に、かつての酒造り道具が多数展示され、酒造り道具を使った酒造り唄の実演が行われている。(「新潟清酒達人検定」 新潟清酒達人検定協会)


増税
酒税法に大きな変更が加えられたのは日清戦争後の一八九六年(明治二九)のことである。日清戦争には勝利し、賠償金も得られたものの、いわゆる「三国干渉」があり、政府は「臥薪嘗胆」のスローガンのもと、対ロシア戦を想定して軍備拡張を進めようとしていた。そしてその有力な財源として増税が計画され、酒はとくにねらい打ちの対象となった消費財であった。こうして一八九六年に酒造税法が制定された。この税制一つの特徴は、従来の免許税が廃止され、造石税一本となったことである。同時に税率は大幅に増税となった。さらに重要なことは、図10に示した通り、日露戦争、第一次大戦期まで、酒税は度々引き上げられた。増税のテンポという点では歴史上、最も早いものであった。また、一九〇一年(明治三四)には、麦酒税が初めて導入された。こうして、一八九九から一九〇三年には、酒税が地租を抜き、国税のトップとなった。なぜこの時代に酒に対する大増税が可能となったのか。当時の政策論争でも様々な議論がなされているが、酒税引き上げ論者の主張は次のようなものであった。(1)酒は奢侈品、嗜好品であり、一般消費者に苦痛を与えるところ少ない。(2)酒税は間接税ゆえ、消費者に転嫁され、酒造業者に負担を与えない。(3)速やかに多額の税収を期待できる。徴税コストが安い。(4)国民衛生上、課税によって酒消費を抑えることは望ましい。(5)奢侈品といえども、国民多数が消費する財であり、税負担が偏することはない。(6)消費に対する税で、資本蓄積を妨げるところ少ない。(「酒と経済」 宮本又郎)


(七)むら田
酒(さけ)はのん飲(の)みたし、のん飲(の)むことはなんならず、おさかおはんがはやしを見て、おとんど通る、おはりはおとこにお中の町、こずはこく町のはん恥(はぢ)しらず、やれこのほしたてよい此とのごでござる、ずんど恥をしらぬはあほうほう、むら田はんぴやうゑを見(み)たか、いかななんぼう夜(よ)も日(ひ)もなんぼうなんぼう/\、やれしりよはせをて、なんぼうかちで通(かよ)ふた〻いきおほのかけられおはやるかくしいなばを見(み)たかやまふしふきりやうねんななんぼうあいだになんぼう/\なんぼうやどのもめやい、なんぼう見られぬにくいつら、向ひ饅頭屋(まんぢうや)にもさ、半兵衛やれこりやぜいをつくとの、うそをつくとの、つく/\つくつ〻てんこじ、有(あ)ること無(な)い事(こと)ふんだいた、ありもせう無いにぢよらうくどくさ、それで人が悪(わる)くいふにさ、あのかぴたんめ茶屋のそうびやうゑ、誓文(せいもん)あき風(かぜ)が
このぼしたて-このぼうさての誤か しりよはせをて-尻はし折て(「若みどり」 藤井紫影校訂)


福岡県久留米市・若竹屋酒造場
1699年(元禄12年)から酒造りを手がけてきた若竹屋酒造場では、創業時のままの姿が残る蔵「元禄蔵」で唎き酒を楽しみつつ、日本酒造りの歴史をたどるタイムトリップのような体験を楽しんだ。元禄時代の古文書をもとに再現した琥珀色の「馥郁元禄之酒」は、甘やかな香りと奥行き深い旨味がふくらみつつ、後口は実に清々しい。室町時代の文献から製方をたどった純白の「博多練酒」は、見た目そのままにヨーグルトのような酸味となめらかな口当たりにここちよさを覚える。その昔は、お殿様や殿上人しか体験できなかった贅沢だ。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子)


(増)盃の織部形 日根野織部正高吉が好みにて製せしむる盃也
(増)盃の開眼 [俳諧藤の実]盃の開眼をはやけふの月之道
(増)盃影 月をいふ (増)酒盃にそへて月をいひ入たる也 酒盃すでにまた丸き物なればことによせ有べし
(増)盃二ツ重る 四季草云 盃二ッ重る事 今世年始なとに 何方にても 三方に二ッ盃をかさねて出す事あり 武家にてハ 甚いま/\事也 腹切るべき人に 酒すゝむるにハ 必二ッ重ね出して 二度つゝ二献のまする也 のみたる盃ハ ふせて置 又敵の大将の首取て 実検してかの首に酒を手向る時も 盃二ッ重ぬる也 されハ盃二ッ重ね置事 二献飲む事をいむ也 武家にて是を知らざるハ あさましき事也 又年始なとに人を、切腹人、首切られたる者と同じあつかひにする事甚無礼なる事ならずや(「俚言集覧」 村田了阿編輯)


餅米酒之事(7)
一、餅米沸強き物也。風味辛く薄口也。足弱くして火を早く乞、油断すれハ替る物也。勿論片白に造るへし。造り様以下粳米(うるしね)同前。但し、醒し切て造るへし。
もち米酒(7)
○もち米酒はわき方が強いものである。酒の風味は辛く、薄口である。日持ちがわるく、早く火入れを求め、油断していると変質するものである。もちろん片白で仕込む。造り方はうるち米の場合と同じであるが、蒸米を冷まし切ってから仕込むこと。
(7)餅米酒 ふつうのうるち米のかわりにもち米で造る酒。


鰭酒

ひれ酒やすこしみだれし女かな  朴亭
鰭酒や逢へば昔の物語  年尾
鰭酒も春待つ月も琥珀色  秋桜子
例句一の小糸朴亭(ぼくてい)(昭和五十三年没)の本名は小糸源太郎。上野の生家は有名な料亭「揚出し」。画家として芸術院会員で、久保田万太郎らの「いとう句会」の同人。「なあに、コップ一ぱいぐらい、どうってことはないさ」と勧められて、気軽に傾けた鰭酒の酔が発して、いつのまにか横座りになった女は、座持ちの芸妓の一人であろう。ちょっと色っぽいスナップ。例句二の高浜年尾(ちおしお)(昭和五十四年没)は高浜虚子の長男。昭和二十六年三月号から、病中の虚子に代って「ホトトギス」を主宰するようになった。久しぶりに旧友と逢って囲んだ河豚ちりの仕上げに飲んだ鰭酒が利いて、懐旧談に花が咲く。例句三の水原秋桜子(昭和五十六年没)は下戸だったと見えて、御自分の『現代俳句歳時記』(昭和五十三年)には「熱燗」も「鰭酒」も登録されていない。だが昭和二十七年に医業を廃して吟遊詩人となり、九州方面にも旅しているので、この句は河豚ちりの俳席での所見であろう。だから鰭酒の酔いを言わず、視覚的に抒情しているのである。(「酒の歳時記」 暉峻康隆編)


酒屋土倉
次に酒屋が酒屋営業により幾何の利潤を獲得し得たかに関しては、これを算出すべく商業帳簿の現存せざるため、不可能のことに属するのである。しかしながら、当時の日記を見るとき、「一献」「燕酔」等酒宴に関する記事が至るところに散見せる点よりして、当時の酒需要の程度が相当の額に上ったと考えられるから、酒屋の利潤もまた莫大なものであったと推定せられる。既にして室町時代に於ては、醸造酒屋の以外にも、これより酒を購入し、消費者への小売転売を目的とするいわゆる「下売所」「請酒屋」「小酒屋」なるものが発達し、酒屋の経営形態の上に多少の進展を見せるに至ったのである。(3)しかしながら、その営業によって蓄積せる資本を、商業資本として経営組織の上に大なる進展をもたらしめんがためには、当時の社会経済組織は、あまりにも多くの制約に満たされていた。すべての商業は立場即ち商品販売地域に於て、また商品販売種目に於て、いわゆる座法によって制限せられ、自由なる活動と発展とを阻止せられていた。酒屋はここに於てその資本を転用して、中世金融界へ進出し、当時に於ける金融界の覇者たるの地位に登ったのである。当時に於ける金融業者は、主として土倉の名称をもってよばれ、酒屋とは純粋の意義に於て別個の存在であったが、酒屋がその蓄積せる資本をもって、酒造業の傍ら、金融業を営むに至ったため、中世に於て一般に酒屋土倉と一連に呼称せられるように至ったのである。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣)


推はちがうた
○堺の港から、作城(いち)という座頭、讃岐に渡る。ころは霜月、寒夜の旅なのに、船の広間にうす衣で寝ることをいたわって、局の方から、酒の燗をいかにも熱くし、十一二の女房に持たせてやり、「これをふすまに着てお寝みなさい」と言ったが、作城は本当の夜着と思い、年がよっているから、起きふすのも大義なので、寝たまま、「ついでのことに、着せて下さい」と申したので、「はい」といって、直接頭へかけたとは。(「醒酔笑 推はちがうた」 安楽庵策伝 小高敏郎訳)


石川弥八郎賞
ところが平成五年の夏ごろ、電話がかかってきて「石川弥八郎賞を差し上げたいが受け取ってくれるか」という。醸造協会の表彰は三つの部門があって、この「市川弥八郎賞」というのは酒や酒造技術の専門以外の分野で表彰されるものだ。まずびっくりした。だがうぬぼれ心が素早く働いて、もしやこれまでやってきた酒蔵の設計に対して褒めてくれるというのかなと思った。「いったい何の理由で賞をくれるんですか」と聞いた。「篠田さんが吟醸酒についていろいろやってくれたことに関してですよ」という。吟醸酒で賞をもらえるのか、「それじゃかたじけなくいただくことにします」と答えた。せっかく賞をくれるというんだから、これを肴に飲むのもいいんじゃないか。そこで石川賞のこれまでの受賞者を調べてみた。コチコチの酒の専門的な功績ではなくみなユニークな功績ばかりだ。蒸し上がった米を強制的に冷やす機械の発明者、地酒ブームを巻き起こした酒問屋などもいる。それに比べると、私は酒を飲んで表彰されたのだと一人笑うしかなかった。(「「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎)


いなだひめ【稲田姫】
素戔嗚尊が簸川上で、八岐の大蛇を退治して得た奇稲田姫。手麾乳、脚麾乳(てなづち、あしなづち)と云ふ夫婦の女で、大蛇の生贄としてあはや生命を捧げんとした処を尊に助けられたのである。尊はこの時、大蛇の為に八塩折の酒を造り、八つの酒甕に入れて姫を其傍に置き、大蛇を釣出して遂にこれを退治したと伝へられる。
既の事 酒のさかなに 稲田姫   大蛇の酒の肴-
稲田姫 こはい中にも 酒鏡   水鏡と云ふ処を(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


梵妻
久しう檀那寺へゆかぬと参る道にて、寺の小野郎(こやろう)が重箱を風呂敷包にしたを提げて帰るに逢ひ「今そちへゆくが、その包んだ物は何だ」「これは大事の物。御目には掛けられませぬ」「ハテおれは格別懇(ねんごろ)な旦方(だんかた)、見せてもよい」「そんなら黙つてござりませ」と解いて見せれば、蒲鉾(かまぼこ)」、酢章魚(すだこ)、切身、その外色附旨(うま)いものだらけ。「よし/\、何もいふ事ではない。先へゆけ」さて墓詣して和尚に対面。おしきせの肴で盃の廻る時、「和尚様、この肴や吸物では飲めぬ。彼をお出しなされ」「寺にはこれより外の御馳走はない」「ハテ、見かぢった事もござる。余人とはちがひます。私にはおかくしには及びませぬ」「さうあれば出しませふ。コレ出てお近付きになりやれ」(飛談語・安永二・寺詣)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)


豆腐田楽
「江戸三白」という言葉がある。これは江戸っ子が大好きな三つの食材で、白飯と大根、豆腐のことだ。三白に加えられた豆腐の人気は、天明(てんめい)三年(一七八三)に『豆腐百珍』という本がベストセラーになったことでもわかる。この本を書いた祖谷学川(そだにがくせん)の本業は篆刻(てんごく)家で、料理家でない人の料理本である。百品の料理を「尋常品」や「奇品」など六つのカテゴリーに分けて紹介しているのが、一種の仕掛けになっている。もちろん、オカラ料理も出てくる。オカラを炒(い)って醤油で味を付け、それをふりかけにしたり、焼き魚にもかけて食べたりしていた。京都の八坂(やさか)神社の楼門と大鳥居の間に、西側に藤屋、東側に中村屋という茶店があった。京の水茶屋の起こりとされるこの「二軒茶屋」は、薄く切った豆腐を二本の竹串に刺し、軽く焼いて味噌をつけた豆腐田楽で知られていた。豆腐は中国帰りの留学僧が持ち帰ったもので、寺院の多い京都の方が豆腐作りには一日の長があったのだろう。江戸の豆腐は固く、京の物はやわらかく、味では京都が優っていた。享和(きようわ)二年(一八〇二)に滝沢馬琴(たきざわばきん)が二軒茶屋の豆腐田楽を食べており、京、大坂、、伊勢をめぐる旅の記録『羈旅漫録(きりよまんろく)』に「祇園(ぎおん)豆腐は真崎(まさき)の田楽に及ばず」と素気(そつけ)ない感想を記している。真崎とは、隅田川右岸の白鬚橋(しらひげばし)北の石浜(いしはま)神社内にある真崎稲荷のことで、境内に田楽茶屋が数軒あった。馬琴の食べた祇園豆腐は、豆腐を炙(あぶ)って白味噌の木の芽味噌を塗り、もう一度火にかけたもので、馬琴はその味噌が口に合わなかったらしく、「白味噌といふもの塩気うすく甘ッたるくしてくらふべからず。田楽へもこの白味噌をつけるゆえ江戸人の口には食ひがたし」とし、味が濃い赤味噌を好む江戸っ子の馬琴には物足りなかったのだろう。鎌倉河岸の豊島屋の田楽は、大きくて安いと評判だったが、旨いとされた真崎稲荷の田楽を食いながら「豊島屋の方が大きくていい」などという野暮な男もいたようで、江戸の庶民には値段と大きさから豊島屋の田楽が好まれたようだ。 (「江戸の居酒屋」 伊藤善資編著)


ワインのことわざ
49.燕麦で栄養をつけた馬、干し草を与えられた牛、そして葡萄酒で力を得た男は抵抗力がある
 葡萄酒は「百薬の長」。厳しい労働には不可欠の薬だ。 スイス
50.ワインは年寄りのおっぱいだ
 子どもに乳が必要であるように、ワインは年寄にとってなくてはならないものだ。 スイス
 乳とワインは吐き気をもよおさせる
 乳を飲みすぎた赤ん坊の様から、ワインの飲み過ぎをたしなめていることわざと思われるが、「水と油」のように相いれない二つのものを言ったものとも考えられる。 スイス
52.乳とワインはよい結末を生まない
 上のことわざと同じ戒めと思われるが、こんなに乳が用心されているここが不思議である。 スイス(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川)


日本の酒   草野心平
 去年私はミラノやポンペイで日本酒をのみ、今年はホノルルでその独特な味をたのしんだ。
大きなエイ型の北の島から。
開聞岳(かいもんだけ)の見える海辺の村まで。
ニッポン全土に。
ニッポンの酒はゆきわたる。
舌の上からまるまっておちる。
琥珀の液体の。
もやのような芳香と芳醇(ほうじゆん)と。
よき哉。
讃(たた)うべき哉。
古事記(こじき)の人々
その独自な発明の知恵。
その陶然(とうぜん)と浩然(こうぜん)と歌と踊りを。
現代の。そして未来の友よ。
賞(ほ)めたたえよ。
美しいニッポンの。
ニッポンの酒を。(「酒の詩集」 富士正晴編著)


れろれろ
ひどく酒に酔っていたり、緊張していたり、あるいは幼いために不慣れだったりして、言葉や態度が不明瞭である様子。「いかにもレロレロの酒酔い状態」(朝日新聞94・1・25)、「僕は、指輪を口に放り込み、舌の裏に潜ませてから、カメラの前に跳び出した。台詞がレロレロしているように聞こえたとしたら」(朝日新聞夕刊02・9・25)。なお、同じような意味で「ろれつが回らない」という表現もあるが、これは雅楽における音階名「呂律(りよりつ)」が不明瞭な様子からとされ、「れろれろ」とは無関係。◇参考 笛の形容として用いられた例もある。「横笛の声がれろれろ、ひーひゃらりと面白く聞こえて」(田山花袋『重右衛門の最期』) 江戸時代、幼児をあやす様子を、「れろれろ」と表すことがあったが、泣く子を黙らせるのに、「遼来遼来(りようらいりようらい)(=怖い魏の武人の遼が来るぞ)」と脅したのが訛って「れろれろ」となり、そこからきたという。また、室町末期の『日葡辞書(につぽじしよ)』には「れろれろ」に音の似た「ろりろり」という項があり、「恐怖などのためにおちつかないさま、またはうろたえるさま」という説明がなされている(高崎みどり)
❖田山花袋 小説家。江見水蔭に師事。明治三九年、博文館発行の『文章世界』の主筆となる。翌四〇年『蒲団』を発表、私小説の出発点となる。作品『重右衛門の最期』『田舎教師』など。(一八七一 一九三〇
❖日葡辞書 一七世紀初頭の、ポルトガル語で説明した日本語辞書。イエズス会の宣教師によって成る。室町末期の口語を中心に方言、文書語、歌語、女性語など、三万余語を収録。慶長八~九年(一六〇三~〇四)刊。)


三白酒-さんぱくしゅ
酛米・麹米・掛米の三者を精白して造った酒。原料米のすべてを精白して用いる点では、「三白」も「諸白」も同じである。別に、左掲のように「水白」を含めていうこともある。▼四部稿に三白酒ありて、米白、麹白、水白によりて名つく、我国の諸白も三白なれども、水を云わずして、諸白と云ふ-「昆陽漫録」◎『百家説林』(「日本の酒文化総合事典」 荻生待也編著)


食物年表1700-1800
1732・吉宗が曲水宴を再興する
1740・伊丹剣菱が将軍御膳酒に指定される
1782・甘藷焼酎が現れる
1785・諸国酒造実績の調査(天明稼高)、灘から江戸への移送量が36万樽となる
1788・密造酒厳禁を布告(「日本史分類年表 食物年表」 桑田忠親監修)


玉山已ニ倒レテ
その前夜、石川淳氏は、だいぶ酩酊の模様であった。かつてその人に贈った私の詩に、玉山已(スデ)ニ倒レテ猶オ杯ヲ挙グ、といい、酒裏ニ真有リ沈酔該(ウベ)ナリ、というような事態にあった。翌朝、東京の宿を出て、ある人のところへ立ち寄ると、さっき石川先生から電話をほしいとのことでしたと知らされ、ゆうべの沈酔についての御挨拶かと思って電話すると、それもあったが、それからねと、いつか書いた羅漢の言葉、自然に天地のへだたりあるごとく、「人ニモマタ君ハタットク、臣ハイヤシキゾ」、出所はわかったかと、問われた。いやまだだというと、小島祐馬先生の「中国の社会思想」、一〇四ページを見なさい、と教えられた。昨宵の沈酔にはふさわしからぬ話題として、今朝の親切な電話となったのであろう。(「帰林鳥語」 吉川幸次郎)


花見 はなみ
古い時代には花見といえば梅を指したが、平安時代以後は観桜になった。当時はもっぱら貴顕の行楽とされ、山野に酒肴を携え、詩歌を賦したものである。桜よりも酒興になった庶民の花見は元禄以降のもので、会社や近隣が誘い合わせて行楽として盛んなことは、日本の伝統的行楽の一つである。
花見酒隣の茣蓙が注ぎにくる  中庭卓也
からみ役とめ役もいる花見酒  松本舎人
さかずきにひとひら浮いた花の宴  佐々木芳正
値上げどうあろうと花に酒うまし  矢須岡 信
春風によき酒徒たらん花の下  高木柳風
中企業長屋の花見ほどの宴  新海照弘
お花見のあとは野となれゴミの山  佐々木れい女(「川柳歳時記」 奥田白虎編)


ぬけ酒と収税さん
とんとむかし 明治の頃のことよ。戦争のあと、政府は金に困って、酒にどっさり税をかけたそうな。そこで庶民は、税を飲むような酒が飲めるかとばかり、さかんにぬけ酒-つまり密造酒を作ったと。ところが、ぬけ酒を飲まれると政府は収入がはいらん。そこで収税さんと呼ばれる役人が、躍起(やつき)になって密造酒の摘発(てきはつ)にやってきたそうな。この収税さんとぬけ酒づくりの人たちの間で交わされた、面白いかけ引の話が県下のあちこちに残っておるが、今日は須崎と窪川の話をしてみようかのう。ある日、ある時のことよ。須崎の池の内のある農家へ、収税さんがやってきたそうな。ぼっちり留守番をしよったおばあさんは(ははーん。こりゃ収税じゃのと感づいたと。収税さんは、たいてい二、三人で連れだってくるき、じきにわかる。つかつかと、家の庭に入ってくると「ばあさんや、ここな辺に酒を作っちょる所をしらんかのう」と聞くと。お婆さんが「ああ、わたしんくも作っちょりますが」「どこへ作っちょるぜよ」「そりゃのうし、とっとの(はるか)奥のやぶの中ヘ作っちょりますらぁ」こう答えたそうな。収税さんは(こりゃ、まっこと正直なおばあさんじゃよ)と、めっそう感心して、精一杯、やさしげな声をだしていうたと。「ばあさんや。そこへわしらを連れていてくれんかや」「あいあい、よござす」お婆さんは、先に立ってひょこひょこ行きだしたき収税さんは、しめたと胸をわくわくさせながらついて行った。やがてお婆さんは「ここが、わしんくのやぶじゃがのうし」と、手をふりまわすと。ほんで収税さんが合点(がてん)いかんという顔できいた。「どこへ作っちょるぜよ」「どこち、このやぶはみんな私んくのがじゃけん、どれでもええがへ(のへ)、しるしをしてつかあされ」収税さんはたまげて、「ばあさんよ。おまさん、そりゃなんの事ぜよ」「なんのことち、おまさんら、竹を買いに来たのじゃろ」「竹じゃない。酒を作っちょりゃせんかと問うたに」「ありゃ、酒のことかのうし。わたしゃまた、竹というたかと思うて。こないだも二、三人つれこって(だって)竹買いがきたけん、また竹を買いにきたかと思うたわえ」と、まじめくさってお婆さんがいうと。ほんで収税さんは苦笑いして、怒ることもできんと、すごすごと引きあげてきたそうな。(「土佐の民話」 市原麟一郎編)


酒銘江戸一の始め
文政六七年の頃、新川(しんかわ)へ酒積み込みしところ、そのうち無銘の酒おびただしくありしかども、銘なければ買う人さらになし。ここに本郷追分に酒肆高島屋長右衛門と云えるもの、この酒を残らず買い入れて、この酒に銘を号(なづ)けんことを、予が生父理斎翁の友なる馬島氏に酒銘を撰びくれと乞いしかば、家翁馬島子に代りて筆をとって、 ○江戸一その文に ことし新製の酒あり、これが銘乞われけるにぞ、直様(じきさま)左のごとく記し送りぬ、さりとてはおこがましき名なりと云う人あり、これ己れを高うするところにあらず、また他と一二を争う心もあらず、またこの党ならぬ三国一の醴(うまざけ)、日本一の黍団子(きびだんご)に敵せんとにもあらず、古市、今市、四日市などの地名を慕うにもあらず、こは座頭の亀一鶴一などの唱えに擬するものなり、それをいかにと云うに、配当の一名より、勾当(こうとう)、検校(けんぎよう)、惣録(そうろく)にも至り、それ一つは万物の始めなり、これこの酒を売り始めてより、日にまし夜にまし月にまし、ますます売ります買いますとて、升のはかりも限りなく、酒の誉れも惣録にて、跡引き上戸(じようご)の長々と店繁盛は幾よろずようもう酒と祈るものなり。 猩々(しようじよう)も酒のうまみは江戸一と のめや唄えや汲めやくめくめ  この文によりて江戸一と号けて売りはじめしところ、存のほか評判宜し、そこでも江戸一、かしこにても江戸一江戸一と云う、今は酒のみならず醤油にも江戸一ありて高島屋の別製とはなりぬ。
新川 現中央区新川一丁目附近に運河あり新川と称す、河岸に酒問屋あつまりし事、第二次大戦前まで続く。 勾当 盲人の官名なり。検校に次げり。 惣録 盲官の名にして検校の上に立ち盲官を統括す。(「塵塚談 俗事百工起源」 小川顕道 宮川政運 神郡周校解説)


信州酒と注文のコツ
ここ二年ほど集中しているのは私の故郷、長野県の酒だ。昔はたいしたことはなかったが、「夜明け前」「佐久之花」あたりから信州酒ルネッサンスのように名酒が生まれ始め、今や新潟、福島、長野は新酒鑑評会不動のベストスリーとなった。私の姪の夫は大の日本酒好きで、送ってくれる酒から最近の信州酒の質の高さを知り、彼がなじみにしている上田の信州酒専門店「地酒屋 宮島酒店」に注文するようになった。一本取り寄せるだけでは送料がもったいないから「まとめて注文」するのがコツ。私はいつも一升瓶六本。届いた大きなダンボールを開けて六本が並んだ豪勢さ。さあしばらく楽しめるぞとわくわくする。(「家飲み大全」 太田和彦)


柳の酒
この"柳の酒"というのは、五条坊門西洞院の南西面に店をかまえた作り酒屋で、当時の室町幕府に将軍用として、毎月六十貫の美酒を献上していた。将軍義政などというのは、酒ばかり飲んで、いつも酔っぱらっていたというから、きっと、この六十貫の酒の中の大半を飲みくらしていたのであろう。江戸時代に将軍が飲んだ酒は、伊丹の"男山"と"剣菱"にきまっていたが、そのころは"柳の酒"であったのである。将軍などというものは、それほど舌が肥えているはずはない。自ら主体的に食べ比べ、あるいは飲みくらべて、そしてこれがよい、あれがよいと決めるのではないからだ。本当の食通とか酒通というやつは、如何なる労苦も惜しまないで、その美味を自ら探求する努力を惜しまない人間のあいだから出てくる。だから、将軍が愛用したといったところで大したことはないかも知れないが、しかし、御膳役というのがついており、一流の料理人がついている。これがえらぶのであるから、将軍家愛用といえば、いちおう信用はしていいだろう。さきの頼山陽も、伊丹の"剣菱"をもっぱら愛用したというから、将軍と同じ酒だった。だから、室町時代の後期は"柳の酒"の全盛時代で、値段も、普通の酒の二倍くらいはしたらしい。そのころ、新酒よりも古酒の方がいくらか値段が高かった。古酒といっても、百年ものとか三十年ものといったのではない。当時は、夏と冬との二回に醸造していたが、せいぜい一年か半年古いものが古酒だった。その古酒が、普通の酒屋で売っているのは価百文につき五杓、柳の酒はそれが三杓だったという。枡ではなくて、柄杓ではかって売るのである。新酒の方は、双方ともに百文につき一杓ずつふえる勘定になる。つまり、六杓と四杓。だから、当時の公家や上級侍のあいだでは、もっぱらこれが贈答品として珍重された。しかし、そうなれば偽物もまたまかり通るので、これが樽には、六星紋がえがかれ、それの盗用が禁止されたということである。"柳の酒"屋は、姓は中興、名は四郎衛門を名のっているが、この名の出所は、恐らく最初に売買に樽を使ったところからきたものであろう。そのころの酒は、陶製の壺のなかで醸造したもので、普通二石から、大きいのは三石入りくらいであった。(「京都故事物語」 奈良本辰也編)


振り酒
なんだかんだとわれわれが、得体の知れない実験を続けているのを聞きつけてか、各地からいろいろな振り酒情報が届くようになっていた。
・買った酒を、車の中にうっかりと置き忘れたまま、知らずに何日も走ってしまった。どうせ駄目だろうとあきらめ顔で飲んでみたが、驚いたのなんの、以来車のトランクは動く酒庫と化している。(セールスマン・京都)
・江戸時代に、灘(なだ)の酒が陸路より海路が好まれたという話はほんとうだと思う。自分の漁船にいつも酒を乗せておくが、やはり日にちが経ったほうがはるかにうまい。(漁師・気仙沼(けせんぬま))
・酒はよく振ったほうがうまいというのは事実であるジャズ喫茶を営業しているから、店のスピーカー-JBL-4043は格好の酒棚である。(ジャズ喫茶経営者・鎌倉(かまくら)市)
・フランスでも、連中がよくワインを振っているのを見かけた。(詩人・東京都)
・ヨーロッパではいまでも酒樽を船に乗せ、長く航海させては特別品として売っているようだ。(酒マニア・東京都)
等々、やはり蛇(じや)の道はなんとやら、生活の知恵というのはたいしたもので、振り酒実行者は各地に点在していたのである。(「うまい酒は、なぜうまい」 浅倉俊博)


定年書店
多少の知識は身についたとはいえ、実験を主とする自然科学の研究者にとっては、実験の場を追われることは、手足をもがれるようなもので、木から落ちた猿のたとえに等しい。しかし、そんなぜいたくより、まず一家の家計である。そこで考えついたのは、長年買いだめて置き場に困っている駄本のたぐいをもって、元勤務先の学校の付近に古本屋を開業しよう、というアイデアである。これについてはすでに、戦時中に知人の東大教授が範を示されたことがあった。枕頭に本をつみあげねば眠れぬ店主は、買い上げた本を催眠剤がわりに役立てたのち、店頭に並べる。店には学生や教師たちが寄って来るはずであるから、気が向けば後輩諸君の勉学の一端にも役立ってやることができる。時にはなつかしい連中がまいこんでこよう。コーヒーや酒がなくてはつまらない。そこで店の奥にはイスとテーブルを用意する。酒は長年の研究と関係深いのだから、寄贈も少なくなかろう。ささやかな恩給で餓死する心配はなさそうなので、おおもうけする必要はないのだから、客には注文をつける。「酒を飲んで放歌高談して他人に迷惑をかけることはいっさいいたしませぬ」という誓約書を印刷しておき、これに署名した者にのみ酒を出す。約束を守ってくれれば、何時までねばって飲んでいてもいっこうにかまわぬ。日々是好日ではなかろうか…。退官直後、ある新聞社から原稿を依頼されたので、さしあたっての心境としてこのようなことを書き送った。世間には親身になって考えてくださる人もあるもので、さっそくどこに適当なあき店舗があるから世話しようとか、開店のあかつきにはぜひ私を雇って下さい、などの手紙が舞いこんできた。ありがたい話である。それにもましてありがたかったことは、カルピスの三島海雲翁から、身の置き場所に困っているようだからおれの所の研究所の室を貸してやろうとか、生活に困るようだから浄財を寄付してやろうとか、親切な申し出をいただいたことである。おかげで、定年書店の開業が見送りになったばかりでなく、家内などは大学時代より暮しが楽になったと、ありがた涙にむせんでいる。お布施を受けているようなもので申しわけないが、やはり坊さんには縁があったのかもしれない。(「私の履歴書」 坂口謹一郎)


まんぢゆう【満仲】六孫王経基の長子、多田満仲。(ただのまんぢゆう参照)
 まんぢゆうの子が酒呑をぶっつぶし  頼光の鬼退治
まんどりあし【萬鳥足】千鳥足の甚だしいものゝ戯称。千鳥の十倍だから萬鳥だと云ふのである。
 づぶ七が萬鳥足になつて来る  づぶ六を越して
みかはざけ【三河酒】三州酒の事。(さんしうざけ参照)
 鷲津丸根は三河酒に酔つたやう  家康の武勲
 三河酒四天で擔(かつ)ぎ山へ行き  頼光大江山入り歟(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


久里浜病院
日本で唯一のアルコール専門病院・神奈川県にある国立久里浜病院も、一九六四年の東京オリンピックを契機につくられた。外国からのオリンピック観光客の眼に、酔っぱらいが街に溢れている光景は好ましくないものとして映るのではないかという危惧がその理由であったという。日本の経済が急カーブを描いて上昇するのと国民一人当たりのアルコール消費量の増大とが比例していくのだ。さらにその五年遅れぐらいでアルコール性肝硬変の受診者、死亡者が増えていく。(「依存症」 信田さよ子)


池田酒
現在の大阪府池田市産の酒も伊丹鴻池の酒と十七世紀の江戸市場を争っていた。池田史談会編『池田酒史』によれば、池田の衆が『大坂御陣之節 闇峠 御陣中へ池田名酒奉差上候』とあり、兵粮や軍資金も届けていたようで、その見返りとして慶長十九年(一六一四)十月、江戸へ酒を運んだときの上納金免除の特権をあたえた御朱印状が池田へ下付されている。それ以来『摂津名所図会』(一七九四~九八)に「朝の市 暮の市とて商家の賑わい特に酒造りの家多くありて 猪名川の流水を汲て造る味ひ美にして官家の調進とす これを世俗池田酒と賞して名産とす」とあるほどまでに発展した。寛永年間(一六二四~四三)になると、池田の満願寺屋はこれまで馬で運んでいた酒樽を菱垣廻船(図2)に積んで江戸へ運び、大量輸送の道を開いた。貞享五年(一六八八)井原西鶴は『日本永代蔵』で、大和龍田の酒造家が親戚の反対を押し切り、百両の金を元手に江戸呉服町で造り酒屋を開いたが「鴻の池 伊丹池田 南都 根づよき大木の杉のかおりに及びがたく」四斗樽の菰を被って故郷へ逃げ帰った話を採り上げているところからみても、当時の江戸でこの四産地の酒がいかにもてはやされていたかがわかる。元禄十年(一六九七)初版の『本朝食鑑』にも「和(大和)の南都および摂(摂州)の伊丹池田鴻池豊田等の処 諸白を造り難波(大坂)江都(江戸)に運転す 最も極上品也」とある。(「江戸の酒」 菅間誠之助)


詩酒徒
アルカイオスにはまた、  酒と、愛い酌童(こども)よ、それに真実は…  なる小さな断片があり、その意味するところをめぐって学者たちがあれこれと詮索し、議論を重ねている。密かに愚考するに、酒と真実とを併置させているところから推せば、この詞句は酒中にこそ人生の真実ありとする観念をあらわしたものかもしれない。とすればこれはおのずと「酒中有真」(陶淵明)、「酒中有全徳」(権徳輿)のごとき中国の詩人の一節を脳裏に喚び起こさずにはおかない。これに連なるもので、  酒はこれ人間の明鏡(かがみ)なれば…   というよく知られた断片がある。この詞句にもまた孟郊の「酒是古明鏡」に通じるものがある、と見るのは必ずしも酔人の僻目ではなかろう。いずれの国でも詩酒徒の考えることは同じらしく、詩酒を詠った東西の古詩に通い合うものがあるのは、興味深くまた嬉しい。(「讚酒詩話」 沓掛良彦)


淡白を上
一〇八八 酒は味の淡泊なのを上とする。辛口はその次で、甘口のものは最も下級である。清州従事(酒名)は以前に名声をほしいままにしたが、現在伝わっているのは、色も味もことのほか劣っていて、とても平原督郵(酒名)に及ばない。(1)しかし、従事という名は清州に斉郡があるのに因んで、借りて名としたのであって、いまはそのまま清州の酒にその名をあてているのであるが、おそらく作った人の本意ではあるまい。
(1)清州従事は… 『世説新語』「術解篇」にみえる桓温故事による。桓温の主簿に利き酒の名人がいて、酒が手に入ると、いつも味を見させることにしていた。よい酒のときは「清州の従事」であるといい、悪いときは「平原の督郵」ですといった。清州には斉郡があり、平原には鬲(かく)県があり、従事とは生(臍(へそ))まで届くという意味であり、督郵とは鬲(かく)(隔膜)で止まるという意味であったという。清州は今の山東省清州市のあたりに役所のおかれた州の名。従事は州の属官。あとの平原は今の山東省平原県の西南に役所のおかれた郡の名。督郵は郡の属官で、郡内の諸県の行政を監察した。(「五雑組」 謝肇淛 岩城秀夫訳注)


味わいのバリエーション
そこでさまざまなタイプの日本酒の香りや味わいの特徴を端的な単語で捉え、AからKまでの11のタイプで分類してみたのが口絵のチャートです。AからJまでの10タイプはその流れに沿って、若い酒質から熟成感を伴ったほうへ、また食前、食中、食後と飲み進めていくうえでの順序や、冷や、燗といった適切な温度帯との関連性も示しています。味覚には個人差があり、酒の飲み方も嗜好性の強いものではありますが、味や香りの特徴を分類してみるということは、それぞれに合わせた楽しみ方を整理するということにもつながると思います。では11のタイプについて、個別にその酒質の特徴や飲み方を探ってみることにしましょう。
A ライト(Light)タイプ  酸の存在に裏付けられたアルコールの低い軽いタイプ-
B フレッシュ(Fresh)タイプ  口あたりのみずみずしいフレッシュなタイプ-
C フルーティー(Fruity)タイプ  華やかな果実用の香りをまとったフルーティーなタイプ-
D ドライ(Dry)タイプ  すっきりとしてスマートな辛口タイプ-
E ソスト(Soft)タイプ  雑味の少ないソフトな甘辛中間型タイプ-
F メロウ(Mellow)タイプ  ふくよかな旨口タイプ-
G スウィート(Sweet)タイプ  濃厚な甘口タイプ-
H フルボディ(Full-bodied)タイプ  醇味にとんだコクのあるタイプ-
I リッチ(Rich)タイプ  酸味や苦味を沈ませた奥行きのあるタイプ-
J エイジド(Aged)タイプ  深い熟成感のあるタイプ-
K エクストラ(Extra)タイプ  どれにも属さない番外タイプ-(「日本酒のテキスト1」 松崎晴雄)


節度ある酒
医師の芝田祐祥は、「酒は素早く気血を廻らすので、これに過ぎたるものはない。血脈を通じ精神を盛にし、脾胃を温める。少しずつ飲むべし。多く飲むべからず。上戸は三、四、五盃、下戸は半盃に限るべし。こうすれば極上の良薬」となるが、酒を飲む場合は「夕飯、夜食の後少しずつ飲むべし。今の人、寝酒といって寝しなに酒を飲み、酔に乗じて熟睡するのは心神を傷(いた)める大毒」と主張している(『人養問答(じんようもんどう)』正徳五年)。酒の効用を認めながらも、寝酒を否定する意見もあった。 ○「長生の補薬寝酒に五夕づつ」(柳一五六 天保九~十一年) といった句も詠まれている。五夕(勺)は約九〇㏄である。(「晩酌の誕生」 飯野亮一)


宮城県名取郡秋保村
69酒盛の時にとくに定まった食法がありますか
盃はどういう順に廻しますか。酌は誰がしますか。食物はどういう順序に出されますか。廻されるものを各自が随意に取りますか、それとも一定の人が分配しますか。料理は特定の食器に盛られますか。
○座席は正面が一番上の人。左右と相互になって行く。
○盃は祝儀の時は順々に廻すがほかはやらぬ。
○酌は儀式の時は一定の人が出るが、ほかは不定。食物は膳をならべて坐る。分配は女がやる。
70酒盛の後でさらにアト祝イとかウチ祝イというようなことがありますか。それを何といいますか。残りものはどうしますか。
後祝いとは、御祝儀の後に、若い男女が入り交じってやるもの。大義(たいぎ)振舞などは、媒酌人・料理人その他活動した人たちを慰労する意味の振舞。
酒盛の時は二次会という。御祝儀の時は後見(あとみ)の祝儀という。
○御祝儀の時は、残り物は包んで各自に渡す。
71酒盛に参加する人はどういう人ですか。酒盛の性質によって違いますか。男ばかり、女ばかりという場合がありますか。それはどんな場合ですか。参加すべき人がしなかったらどうしますか。
酒盛には気持のあった者ばかり男女一同でする時と、集会の時やる場合とある。
○参加するべき人がしなくても、しない人の数より多い時はする。
72共同食事、酒盛の費用は誰が負担しますか。村、組ですか。各自の負担ですか。あるいは物を皆が持ち寄りますか。
酒盛は各自の負担。
88醸造業者でなく,濁酒が造られていましたか。それはどんな時に造られたでしょうか名称は何といいましたか。村祭りの時には今でも造りますか。どうしてつくりますか。芋酒、焼酎など造られましたか。これらの酒類は個人個人で造りましたか、村とか組とかが共同で造りましたか。女は関与しませんでしたか。
昔は造った。それをドブロクといった。
89一年のうち酒を飲む機会はどれくらいありますか。平均一戸当たりどれくらいの量を用いますか。どんな種類の酒ですか。毎日常用する人が何人くらいありますか。飲酒家と酒嫌いの比率はどれくらいですか。大酒家というのはどれくらい飲みますか。軽い程度の酒の肴には何を用いますか。
年に十五回ぐらい。普通の年では二、三斗。
○飲酒家と酒嫌いの比率は五分五分。
○大酒家は一升ぐらいから(一回につき)。
○軽い程度の酒の肴は漬物。。(「日本の食文化」 成城大学民俗学研究所編)


ムスタファ・ケマル
トルコ人は数百年前から「ラク」と呼ばれる蒸留酒を愛飲している。国民酒としての位置づけだ。薬草入りのブランデーの一種で、フランスの「アブサン」に近い。アルコール度数が五〇度もある強い酒だが、(ムスタファ・)ケマルは後に大統領になり、トルコ一忙しい男になっても、この酒を一日一本(七〇〇cc)は少なくとも飲み干した。強い酒を飲みまくり、睡眠時間は四、五時間、朝七時には起床して政務に励む。特に晩年は酒量は増し、ラクを毎晩二本以上飲み、昼飯は簡単な豆料理、夕食は前菜のようなものしか食べなかったというから、どう考えても身体に良いわけがない。一九三八年一〇月、臨時の大統領官邸としていたイスタンブールのドルマバフチェ宮殿で執務中に倒れる。病状は一時、奇跡的に回復に向かうが、一一月一〇日に臨終を迎える。享年は五七歳。当時としても早すぎた死だった。(「政治家の酒癖」 栗下直也)


新夕刊新聞社
まだ新橋から芝に掛けて一面に焼け野原の中に、闇マアケットが出来てゐた頃で、両側がやはり焼け野原の電車通りを新橋から浜松町の方に行くと、左側に一軒の焼けビルがあり、それが新夕刊新聞社だった。ビルの中も焼けたままで、それでも一階に輪転機があり、その脇の小さな部屋で林(房雄)さんに会つた。本の話はすぐに片付いて、それから林さんは、飲まうと言つた。まだ飲むといふことが決死的な行為でなければ、非常な贅沢だつた頃で、林さんが新聞社に持つて来てゐる酒が又、何でも入るやうになつた今日でも、滅多にない種類のものだつた。白乾児(パイカル)といふ高粱で作つた中国の強い酒に薔薇の花の匂ひを染み込ませたもので、それが甕に一杯入つていた。つまり、それからはこの酒が飲みたくなれば、新夕刊新聞社に行けばよかつたのである。林さんは素人の実業家が新聞を一つ手に入れて勝手が解らなくて困つてゐるので、手伝ひに頼まれて行つてゐたらしい。初めのうちは嘱託の形で、他にも林さんにくどかれて手伝ひに来てゐる文士や漫画家が多数ゐた。小林秀雄、永井龍男、今日出海、横山隆一、泰三、清水崑、田河水泡、さういふ諸氏が嘱託で来てゐて、林さんがどこかで嗅ぎつけて手に入れたその酒がある間は社に集まり、甕が空になつてからは、近所のに飲み屋に行つて飲んだ。(「世にも不思議な新聞社の話」 吉田健一)


あてこすりの歌(全二十五篇中より)
2
北の店の酒は
大杯でのんでも酔わぬ。
ジュンニー・ラマの(妹の)ムー・オヒンは
ただでくれても貰わぬよ。
南の店の酒は
半斤飲んでも酔わぬ。
若い小さなムー・オヒンは
ただでくれても貰わぬよ。
ぶちの馬があったとて
乗るに耐えるは少ないよ。
若い小さいムー・オヒンは
ただでくれても貰わぬよ。
何人もの殿(ノヨン*)がのぞんでも
かなったjことはなかったよ(原注一)
ウーシン殿(ノヨン)の大公爺(ダー・グン・イエ)が
貰うと言うたは本当よ。
若い小さなムー・オヒンを
ずいぶん皆がばかにした。
まんざらでもない公の殿(ダン・ノヨン)が(原注二)
ばかにもせずに貰ったよ。
薄鹿子馬(サーラル・モリ)(原注三)があったとて
一ヵ月行程の乗馬。
評判のよいグン・ノヨンに
ぐずぐずせずに稼ごうよ。
二人の人を仲にたて(原注四)
羊を殺して来た(原注五)のだよ。
二日の間話しあい
二つ返事(註一)で決まったよ。
-「ゆるゆるととのお話です(原注六)
-「つまらぬことをおっしゃって(原注七)
心のはやるムー・オヒンは
明日もまたず(原注八)に押しかけたよ。
原著者注 原注 一 …なたったよ これは皮肉である。 二 殿 公の称号を持つ高官。 三 薄鹿子馬 くわしくは、「灰色から明るい鹿子色までの地色で、尾とたてがみは灰色がかった黒、背骨にそって黒い筋がある馬」。 四 仲にたてて パイルジュール公(グン)がつかわした仲介人のこと。 五 …殺して来た 仲介人は婚約の際に娘の家に、しきたり通り、羊のシュース*を持って来る。 六 …とのお話です これは仲介人の言葉、「おいそぎになる必要はありません。公は婚礼はいずれそのうちにと言っておられます」の意。 七 …をおっしゃって 右の言葉に対してムー・オヒンが言ったとされている返事。 八 明日もまたずに 文字どおりには、「夜を過さずに」。
訳者注 一 二つ返事で 原文通りには、「たった二つの言葉で合意に達した」。(「あてこすりの歌 オルドス口碑集」 A・モスタールト著 磯野富士子訳)


家飲み

酒なら家で飲めるのに、わざわざお金を払って外で飲むのは「世間」に身をおくこと、他人の中に自分を放り込むことが目的だからだ。それゆえ、入った店に客は自分一人だったらつまらなく、ある程度混んでいる方がよい。人との「密」が必要だ。そこには自分が「人好き」の要素もある。注文した、家では食べられない料理もまた世間。酔っぱらうのが目的ではなく、「世間との絆(きずな)を確認する」ことでもある。家飲みはその真逆だ。「世間との関係を断って」一人で飲む。「密」ではない「個」の世界。酒も料理も注文できない、いつも同じもの。しているのは、世間の観察、世間との連帯ではなく、自分の観察、自分との連帯。普段は忘れている「自分との絆を確認する」営為(えいい)だ。コロナ禍(か)で居酒屋飲みができず「オンライン飲み会」というのが出現したが、すぐすたれたのは、公的な場でも私的な場でも、どちらでもない中途半端とわかったからだ。(「家飲み大全」 太田和彦)


後撰夷曲集(10)
寄酒述懐
世中は 何にたとへん 麻地酒 甘きやうにて 辛きいとなみ  宣就
酒屋 本歌
よき酒ぞ かひにもござれ 我宿は ならの町屋に 杉出せる門  久友
養性
膏梁の 食をつゝしみ 酒ひかへ 色遠ざかれ 病あるまじ  贈法印道三
三笑
三笑の 名はかくれぬや のむ酒に 酔てこけいの はしはづれ迄  清勝(「後撰夷曲集」)


三二西国(さいごく)、猩々(しやうじやう)を獲(う)
天保六年、三三猩々、西国より至る 豊前(ぶぜん)小浜村に出ず。謂(い)ひつべし、珍と。按ずるに、此の物古(いにし)へ未だ其の果(はた)してありや否(いな)やを詳(つまび)らかにせず。今安(いずく)んぞ其の真仮(しんか)を弁ぜん。但(ただ)し止(た)だ頭髪のみならず、眉毛(びもう)を連ねて皆(みな)赤し。真に異物、真に奇種。善(よ)く舞ひ善く歌ひ、善く言ひ善く飲みて、我が邦(くに)古へより瑞物(ずいぶつ)と為(な)すや、散楽中(さんがくちゆう)に猩々舞(しやうじやうまひ)あり。乃(すなは)ち賀筵慶席(がえんけいせき)、此(これ)を演じ之を祝(しゆく)す。於戯(ああ)、此の世にして此の物を出だす。我未だ其の真偽如何(いかん)を知らずと雖(いへ)ども、要するに亦(また)大平の祥(しやう)と為(な)して可なり。繁昌の瑞(ずい)と為して可なり。古語に云ふ、「猩々、猩々を笑ふ」と。静軒も亦静軒を笑ふ。笑つて筆を投ずと云ふ。
三二 春秋哀公十四年に、「春、西に狩して麟を獲たり」とあるのを踏まえる- 猩々は想像上の動物で猿の一種。人語を解し、酒を好むという。 三三 豊前小浜村の猟師の子供二人が赤い頭髪に生まれ付いたのを、山師が猩々と称して見世物に出した。「同年秋の末頃か、両国にて兄弟共に見世物にいたす。能の猩々にこしらへ、装束附けて少しばかり舞をいたせし由、評判もなかりし也」(巷街贅説・天保六年条) 一 能楽の「猩々」。猩々が孝行者に酒の尽きない壺を与え、酒の徳を称えて舞う。祝言曲。 二 共にめでたい席の意。 三 祥も瑞もめでたいしるし、の意。 四 未詳。諺「猿の尻笑い(猿が自分の尻の赤いのに気付かず、他の猿の尻の赤いのを笑う)」の漢訳か。(「江戸繁昌記」 寺門静軒 日野龍夫校注)


南都諸白
南都諸白の特徴については、『本朝食鑑』では、(1)米と水の精選を重視し、(2)のちの育酛の流儀によって前述の煮酛や水酛による速醸酒とは異なった酛立法を行ない、仕込みに際しては陀岐(だき)(いわゆる暖気《だき》樽のことで、『和漢三才図会』では湯婆《たんぽ》と書かれている)を使用し、(3)さらに酛仕込に続く掛仕込は初添・中添・留添の三段階になっており、(4)酒造用具がこれまでの中世的な壺・甕にかわって桶が使用されていた、などと指摘している。そして酛仕込の割合は、蒸米一斗に麹七升、それに水が一斗四升で酛をつくり、これにさらに蒸米一斗、麹六升、水八升を、初添・中添・留添の各段ごとに単純に三回かけている。できた醪(もろみ)量は、したがって、一石一斗五升で、量的にもまだそんなに大量生産されておらず、麹割合が六割、水の吸水率五・八水(米一石に対し水五斗八升)と、のちの伊丹諸白や灘酒にくらべると、いずれもまだ高い割合を示していた。(「酒造りの歴史」 柚木学)


怪猫
有馬猫騒動には種本がある。『想山著聞奇集』の中に、猫が人に化けて現れる話が出ている。屋根葺きを渡世とする男があった。この男は、生来律儀で、一人の老母に対して、大変な孝行者であった。貧民のことなので、老母を家に残しておいて、日々職に励み、そこかしこと稼いで歩いていた。老母はかなり酒好きであったので、男は、帰りには酒を二合ばかり、必ず土産にした。ところが、この孝行息子に対して、老母は、齢を重ねるにつれて、根性がいやしくなり、ひどくあしざまに罵りわめくようになった。男は、しかし、一言も口をかえさず、常に、穏かな態度を保って、いかに口ぎたなく罵られても、二合の酒の土産を絶やすようなことはなかった。ある時、何かの事があって、屋根葺き仲間が、この家に集まって、酒盛りする約束になった。そこで、男は、昼すぎから仕事を休んで、酒肴をととのえて、わが家へ戻って来た。ところが、さる大名屋敷にいそぎの用事ができ、仲間全部がそっちへ行ってしまい、酒盛りはお流れになった。手当てした酒も、そっくりのこってしまったが、男は、かえって、それを悦び、平常貧しさゆえに、母に充分酒を飲ませることができなかったが、さいわい、今日は、思うさますすめることができると、いそいそとすすめた。老母は、大悦びで、酒も肴もあまさずに、くらって、心地よげに、臥牀に入った。男も、いささかの酒で、睡魔にさそわれ、あと片づけもそのままに、臥した。そのうちに、老母の呻く声に、男は、目をさました。年寄があまり度をすごしたので、苦しがりはじめたのであろう、と心配して、戸ごしに声をかけたが、返辞はなく、呻き声だけがつづいた。-さては、毒に中ったか!と、男は、不安のつのるままに、夜は、絶対に開けてはならぬと禁じられている戸を開いてみることにした。老婆は、近年、明りをきらって、寝所はしんの暗闇であった。手さぐりでは何事も行きとどくまい、と思って、燭台をかかげて、戸を開いた。愕然となった。牀に臥していたのは、母ではなく、怪しく巨大な黒猫だった。深酒に酔い痴(し)れて、熟睡し、不覚にも正体をあらわして、高鼾をたてていたのである。きもをつぶした男は、しかし、元来沈着分別のある人間なので、胸をしずめるや、そっと、縄をもって来て、怪猫の四肢をしばりあげた。それから、近隣の人びとを呼び起こして、集めると、事情を説明して、老母の行方をさがしてもらった。老母は、怪猫に食われて、骨となって、囲炉裏の下の床下にころがっていた。男は、代官所へ訴え出て、怪猫の処置をうかがったところ、心まかせにすべしと下知があったので、小刀で、こなごなに斬りきざんで、村の入口、道の分れ角に瘞(う)め、猫俣城という石碑を建てた、という。これが種本になって、有馬猫騒動は、でっちあげられたものらしい。(「江戸八百八町」 柴田錬三郎)


酒の値  大田南畝著『金曾木』所掲
「酒の価 一升 百二十四文から百三十二文を定価としていた。低級は八十文、百文もあった。その後、百四十八文、百六十四文、二百文に至り、二百四十八文ともなってしまった。これは明和五年(一七六八)から南鐐・四文銭が出来て、銭相場賎(やす)く、物価が貴くなったからだ。」下り酒屋への入荷量は、元禄十五年(一七〇二)三月の記録『入津見区書上』によれば、上方から江戸新川の問屋へ到来した酒の量は、樽(四斗入り)数で、 元禄十年(一七〇二) およそ三十万駄程此樽六十万樽 元禄十四年 およそ十六万駄程此樽三十二万樽 (註)元禄六年(一六九三)の江戸の人口は純町民だけで三十五万三千五百八十八人という。このほかに武家の人口(ほぼ同数)と人別外の人口(非人等)があったというから総計では九十万前後と考えられる。寛政(一七八九-一八〇〇)ごろの九州方面の場合の一例は橘南谿著『西遊記』(寛政七年・一七九五)序の一節に「西国(九州方面)にて酒の売買一升、二升といわず、一ぱい二はいとて売ることなり。その一ぱいというもの大抵四合二、三勺ばかりなり。球磨郡などは酒下直(安値)にして、一杯の価銭八、九文より十二、三文ほどなり。此所は格別下直の地なり。薩摩は余程高直なり、一ぱい二はいの名は琉球までも皆かくのごとしとなり。」(「江戸物価事典」 小野武雄編著)


火の車、學校の肴
そもそも(草野)心平さんは、酒の肴をつくる天才だったと聞く。詩を書くだけでは家族を養うことができず、焼き鳥屋の屋台を引いたり居酒屋を開いたり、生涯にわたって飲食業で糊口をしのいだ。それはつまり、いかに安い材料を仕入れいかに貧しい酒飲みが喜ぶ肴に変身させるか、を研究する仕事でもあった。「心平さんの作品で好きなものをひとつ選べ」と言われたら、迷った挙げ句に、詩ではなく「火の車のメニュー」と答えるかもしれない。居酒屋「火の車」は、一九五〇年代に心平さんがやっていた店。言わば學校の前身だ。そのメニューを挙げると、 満月(卵の黄身の味噌漬け) 冬(豚のにこごり) 白夜(キャベツとベーコンが入った牛乳ベースのスープ) どろんこ(かつおの塩辛。柚子とパセリ) 五月(きゅうり、うど、玉ねぎの和え物、カレー味) 丸と角(カルパスとチーズ) 赤と黒(品川巻き) ぴい(ピーナツ) 天(特級酒) 耳(一級酒) 鬼(焼酎) 麦(ビール) 泉(ハイボール) 息(サイダー) あぁ、いいなぁ。日常の言葉たちが素顔のまま並んでいて、なのにこの豊穣。學校初期の頃は、これら火の車時代のメニューを出すこともあったらしい。もっとも、(井上)禮子さんにいわせると「満月なんか、今の人の口には合わないねぇ」。禮子さんが用意する肴の定番は、しらたきと玉ねぎと鶏肉を甘辛く炊いて卵でとじた「親子煮」、手羽先と里芋とこんにゃくを酒と醤油で炊いたもの。卵と練り物のおでん。そういうものを鍋にいっぱいつくっておいて、やってきた客ひとりひとりに、お母さんみたいに聞くのだ。「お腹は?」空腹の客にはたっぷりとよそってくれる。禮子さんはハイカラ好みなところもあって、中村屋のアグレッツィや、伊勢丹のクリームチーズなんかも常備していた。桃の節句には潮汁をつくり、土用の丑の日には「おうな」を出し、冬至にはかぼちゃを炊く。あるとき、「季節の行事を大事にするのは、心平さんの時代からなんですか」と尋ねたら「心平さんは、そんなことはあんまり気にしなかったわねぇ」という返事だった。郡山の商家で生まれた禮子さんは、十歳のときに秋田で鉱山経営をしていた養父母のところへもらわれていった。そこが季節ごとのしきたりをきちんとする家だったらしい。心平さんと禮子さんがこだわりの肴を出してきた歴史をまるで無視して、わたしが供するのはきゅうりと味噌である。お客さんたちはさぞがっかりしただろう。(「酒場學校の日々」 金井真紀)


鯨 くじら
くせのある酒でくじらの太刀をはき  拾十9
【語釈】○鯨の太刀=くじら身、鯨の歯に銀箔を塗って刀身にかえた刀。
【鑑賞】なにごとぞ花見る人の長がたな、と去来の句があるが、花見酒に酔って人切り庖丁を振回す危険があるので、くじら身の刀をさして行く。酒癖の悪さを自分で知っていてもどうにもならないらしい。
【類句】わるい癖のむとはつかへ手をかける  一三5
     生酔にあした切りゃれとおさめさせ  一三38(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)



酒の飲み方
私が酒をはじめたのは京都の高校へはいってからのことである。三高にはいって、一年間寮に入ることになっていたが、中寮に入寮したその夜、室長と先輩が、歓迎会を開いて、酒を飲ましてやると言い、熊野神社近くの小さいバーに新入生の私たちを連れて行き、テーブルについて、女の子の運んできたビールを飲みはじめたが、「よし、酒の飲み方を教えるよ、いいか、よく見るんだな」と言って、大コップを傾けはじめた中背の室長が、コップを半分も、飲みほさないうちに、顔青ざめ、椅子に背をつけ、呼吸の乱れを見せはじめたのを見て、私は嘆じないわけにはいかなかった。私は出来るだけ見て見ぬ振りをしていたが、室長はやがて、自分でも、だらしないと思ったのか、背を真直(まつすぐ)にのばし、コップを取り直し、再び、飲みはじめ、私を安心させた。しかし、それも、僅(わず)かの間のこと、今度は、ついに、力尽きたかのようにテーブルの上に上体を投じ、やがてその身をテーブルから、はずして、吐きはじめた。私は驚かないわけにはいかなかった。これが、「酒の飲み方を教えるよ、いいか、よく見るんだな」という言葉の意味だったのかと私は思い、その室長の背を撫(な)でながら、ビールを飲みほして、新入寮者連の手で室長を、かつぐようにして寮へ帰ったのである。私は高校一年の時、結核になりその後酒を飲むことは少なくなったが、酒に弱くなったわけではなく、兵隊になってから、酒にきたえられ、そのため、新橋の「蛇の神」の焼チュウ、バクダンなど、いかに飲みあかしても酔いつぶれるということにはならなかった。(「酒との出逢い 蛇の新」 野間宏)


くつ石(いし)

桶またはタンクは床面に直接置くと、呑口から酒を取り出すのに不便であり、またタンクの下部の腐食を防ぎ、庫内を清潔に保つ目的でタンクの底の周辺に沿って3~6個所に台を置きタンクを浮かせて据える.この台のことをくつ石またはくつという.古くは石や木の丸太を切ったものを使用したが、現在では木形の金型にコンクリートを流しこんで固めたものやブロックにコンクリートを詰めたものなどが使用されている.(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)


酒造資本と酒造経営
いま実際の酒造経営を考えてみると、一九世紀初頭でまず酒造蔵・酒造道具・酒造株一式を購入するのに銀一〇〇貫目の設備資金を必要とし、生産資本として充用される流動資本は一〇〇〇石造りで、やはり銀一〇〇貫目であった。このうち約六五%が酒造米購入費、一三%が酒樽で、賃金などは飯米・菜物(副食)を含めて七%にしかすぎない。この流動資本は一年を通じて分散して投入されるわけではなく、冬季仕込みの性格上、ほとんど一一、一二月に集中するため、一時に多額の資金を確保しなければならなかった。しかもこうした投下資本に対し、酒が仕込まれて清酒となり、江戸へ送られて酒問屋に売りさばかれたあと、酒荷代金が酒造家の元に回収されるのは、約一年のちとなる。つまり生産資本の投下より資本の環流まで最低一ヵ年を要することになり、ここに酒造経営における資本の回転が問題となってくるのである。一般に資本の回転期間は、生産期間と流通期間からなる。前者は生産資本の投入期間であり、後者は生産資本が市場において商品資本から貨幣資本に再転形して環流してくる期間である。この資本の回転が円滑にいって最低一ヵ年としても、現実に江戸酒問屋との取引き条件によって売掛金の回収が延長されたり、酒造米の購入時期と清酒の販売時期とでは相当の時差があり、その間の米価や酒価の変動を考えあわせると、酒造経営における利潤形成には、かなりの投機性と不安定性の要因がひそんでいた。この不安定な経営のもつ投機性を克服するために、酒造資本の一部は確実な利殖手段としての貸付資本に運用された。酒造資本が貸付機能と結合し、酒造経営のための生産資本部分と貸付資本部分とに分散投資されることが、じつは酒造収益の投機性を克服するための知恵でもあった。この分散の仕方(割合)が、江戸積み酒造業における経営を左右する重要な要因であった。江戸時代を生き続けた酒造家は、時の相場や商況をみてこうした資本の運用、回転でもって上手に景気を切り抜けてきた企業のらつ腕家であったといえよう。(「灘酒の歴史」 柚木学)


技の受け継ぎ
重光には分析を何年かやってもらった後、「麹室」を任せて、「酛場」を任せて、「次長」ということで「頭(かしら)」にした。だすけ、あのがんは、「洗米」や「釜場(かまば)」を任されたことがないままで、「次長(頭)」になり、「杜氏」になったわけですて、他の蔵も知らんし、やっぱり昔の杜氏とは違うわけですよ。だども、おらは心配はしてないんですて。まず蔵内に「物差し」がぴしっと通っていますからね。それに加えて、重光が他の蔵を知らないということも、むしろよかったんでないかね。酒造りの「さ」の字も知らないところから、おらとこの酒造りを覚えたわけで、真っ白なところから教えたすけ、重光は、余計なことを考えずに、おらとこの蔵の考え方や、やり方を覚えたわけさ。それこそ、「蔵癖(くらぐせ)」から何から、おらが知っていることは全部教えたわ。重光は生まれも育ちも六日町だが、実質は野積杜氏と言えるんでないかね。立派に野積杜氏の技を受け継いでいるわね。これが、よそから来た杜氏さんだったら、そうはいかんかったろう。よそから来た杜氏さんは、その杜氏さんなりの考え方もやり方もあるすけ、余計な心配もしなくてはならないわけさ。蔵の主人にしてみれば、一年や二年は夜もよく眠れないぐらいに心配になるんでないかね。せっかく積み上げた八海山の酒というものが、どんなふうに変わってしまうか。下手をすれば、たいへんなことになってしまうわ。だすけ、重光のように、自分のところの蔵で育った杜氏というのも悪くないんですて。安心して任すことができるすけね。蔵に初めて来た時から勘定(かんじよう)したら二五年の上も、おらのそばに置いて教えこんだんだすけ、おらの後は重光に任すと決めた時は、何の心配もしていなかったわ。(「杜氏千年の知恵」 高浜春男)


冬はやっぱりイカ大根 やき屋(荻窪)
黒光りするほど濃い飴色に煮込まれた大きな大根が二切れに、エンペラとゲソを添えて、最期にツユが入ります。どうです、このボリューム。今日び、おでんの大根だってひとつ三〇〇円も四〇〇円もしたりするのに、同じような大きさの大根が二個入って一五〇円ですよ!その大根の中に、よーく染み込んだイカの味がうまいなぁ。イカそのものを食べるよりイカらしい。-
新しく入って来たお客さんたちからイカなんこつ焼き(一五〇円)やウナギ肝焼き(一串一五〇円)などの注文が入ったので、私もイカしょうが棒(一五〇円)を焼いてもらうことにしました。イカしょうが棒は串に刺した棒天ぷらで、ゆっくりと時間をかけて炙ったものをおろし生姜といっしょに出してくれます。イカしょうが棒ができあがったタイミングで燗酒(二三〇円)もおかわりです。ん-。やっぱり練りものもいいですねぇ。できるだけチビチビと食べて長持ちさせようと思うのに、やめられない止まらない。あっという間に食べ終えて、次なるつまみはイカわた和え(一五〇円)。イカわた和えは、イカ下足を、その名のとおりイカわたで和えたもの。とはいうもののできあがったイカわた和えは、塩辛のような赤っぽい色ではなくて、黒いのです。しかも味はやわらかく甘い独特なもの。これが不思議と、どのお酒にも合うんですよねぇ。四五分ほどの立ち飲みタイムは九五六円。今年もおいしいイカ大根でした。(平成一九(二〇〇七)年一月一三日(土)の記録)(「ひとり呑み」 浜田信郎) やき屋 東京都杉並区上荻15-6


コカ・コーラ
一九世紀末、コーラ発祥の地、アメリカでは、客の注文に応じて、飲み薬を調合して提供するスタイルの薬局が流行した。薬剤師たちは、より効果のある万能薬の開発を競い合っていた。『コカ・コーラ』を開発した、ジョン・S・ベンバートン博士も、そんな一人であった。そしてそんな中、水と砂糖、コーラナッツエキスなどを配合し、頭痛や二日酔いの薬となる飲み物を開発したのだ。これはフレンチ・ワイン・コカといって、もともとは水で飲むシロップとして開発したものだった。しかしあるとき、店員がこのシロップを、水と間違えて炭酸水で割って客に出してしまう。これが美味だったために、評判はすぐさま広がり、『コカ・コーラ』として売り出されるようになったというわけ。(「二日酔いの特効薬」のウソ、ホント。」 中山健児監修)


アルコール性痴呆
アルコールによる中枢神経障害の終着駅は、アルコール性痴呆です。アルコール性痴呆は、早い人では四〇才くらいで出現します。単なる健忘症だけでなく、自分が何者であり何をしているのかもわからなくなり、奥さんを知らない人だといったり、ベッドをトイレと間違えてオシッコしたり、お箸で食事することを忘れて手づかみで食べたり、食事が済んだばかりなのに、まだ食事をもらっていないと怒ったりと、完全なボケ症状になるのです。治療によって日常生活は何とか出来るようには回復しますが、社会的活動が出来るまでに回復することは困難です。老人性痴呆とアルコール性痴呆との違いは、症状では区別出来ませんが、老人性痴呆はどんどん悪化したり、悪化したりよくなったりを繰り返すのと比較して、アルコール性痴呆は、お酒さえ飲まなければ進行はしないことです。痴呆においてはあらゆる知的機能が低下します。また脳のCT(コンピュータートモグラフィー)で脳の断層写真を撮れば、痴呆の脳は萎縮し、脳の皺が広がり、脳室も拡大して脳全体が縮んでいることがわかります。前頁の写真は、頭部のCT写真で、正常な人(四〇代)の脳とアルコール性痴呆(四〇代)の萎縮した脳とを比較しています。アルコール性痴呆の脳は皺が広がったため脳のまわりの空間が広がっていること、脳の中の空間である脳室が拡大していることなどが観察出来ますが、結局脳が萎縮していることがわかります。この知的機能の低下、つまり知能指数の低下や脳の萎縮は、アルコール依存症においては、痴呆に至らない人でも発生していることが多いことが知られています。大量飲酒を長年続けていると、知能障害や脳の萎縮が発生するわけです。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二)


どぜう飯田屋
明治三十年頃、初代三次郎が創業した飯田屋は、もともと甘味屋であった。すぐ奥に名刹(めいさつ)の二院があり、ちょうど参道に面していたから結構繁盛していたらしいが、女子供相手の甘味屋では酒が売れない。そこで三次郎は一膳飯屋に商売替えをし、川魚や蜆を肴に一杯やれる店にした。その中からだんだん「あそこのどぜうはうまい」と評判になり、いつの間にか名代のどぜう屋になった。関東大震災と戦災とで二度も焼けている飯田屋の現在(いま)の店は、戦後に建てられた和風の二階家で、ビルの谷間で「どぜう」の大看板が異彩を放っている。一階も二階も小部屋はなく、藤筵(とうむしろ)を敷きつめた広い入れこみで、飴色に艶(つや)が出た藤筵が老舗の歴史を物語る。(「うまいもの職人帖」 佐藤隆介) 西浅草3-3-2のどぜう屋です。


居酒屋GPS!
ある夕方、よく知らない町を友だちとふたりで歩いていた。その友だちが以前、知り合いに連れていってもらった居酒屋に案内したいと言ってくれたのはよいが、店名も場所も覚えていないという。ただ、駅の南口からそれほど遠くないということは記憶にある、と。普通なら、しばらく探し歩いて見つからなければ諦めるだろう。実際に十分ほど、ありそうなところを歩きまわったが、いっこうに埒が明かない。だが、友だちがちょうど諦めようとしたところで、私は「どんな店なのか、教えてくれる?」と頼んだ。「女性ひとりでやっている、落ち着いた小ぢんまりした店で、ちょっと小料理屋っぽい」と言うから、私は「もしかしたら、まっすぐ行って、あの角を左に曲がったらあるかもしれないから、行ってみないか」と提案した。もちろん、その辺りを歩いたこともなく、どんな場所なのかも知らない。でも、実際に行ってみたら、ずばりだった。これゾ、居酒屋GPS!-と自慢したいところだが、超能力でも偶然でもないと思う。店の輪郭と雰囲気を思い浮かべたら、街のどの辺りにありそうか見当がついただけだからだ。たとえば、大型チェーン店はだいたい駅周辺の大通りに面しているが、小ぢんまりした一戸建ての小料理屋は、呑み屋街のなかでも、ガヤガヤした店やスナックが並んでいる道ではなく、少し閑散とした小道にある場合が多い。それは、いままでの街歩きや居酒屋探訪の経験から知っていたし、私が当てられたのは、そこが何となくそういう雰囲気の小道だったから、というだけのことである。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)


67醴(あまざけ)を勧(すす)む  不風雅(ふふうが)
君(きみ)に勧(すす)む 三国一(さんごくいち)
甘酒(あまざけ) 辞(ぢ)することを須(もち)いず
胸焼(むねや)けて 皆迷惑(みなめいわく)
一〇先生(せんせい) 別儀(べつぎ)なし
○三国一醴 1浅草門跡前の名産なり。下戸飲之。2かん気をしのいでのむ時は、むね大にやける。されども3やけほこりなどといふて、まけおしみをいつて、せうもこりもなく又のむ気なり。4おたふくこれにゑふときは、けげんなかほをす。
七 酒ではなく甘酒を勧めるのでいう。 八 日本、唐土、天竺を通じて一番。特に甘酒屋が宣伝にこの語を用いた。 九 遠慮しなさんな。相手が迷惑がっているのを遠慮していると勘違いしての語。 一〇 勧める御本人は下戸なので沢山飲んでも平気。
1 浅草の東本願寺(準門跡寺院)門前に伊勢屋、大坂屋などの甘酒屋があり、それぞれ三国一を称した。 2 寒気を防ごうとして熱い甘酒を飲む。 3 焼け誇り。焼け太り。火事に逢った後、かえって以前よりも豊かになること。だから胸が焼けるのも結構という負け惜しみ。 4 「お多福」は醜女の意。この一文の意味未詳。(「通詩選笑知」 大田南畝 日野龍夫校注)



酒をあげて地に問ふ誰か悲歌(ひか)の友ぞ二十万年この酒冷えぬ
みなさけに涙こぼれぬさらば我師この子とこしへ酔へりとおぼせ
屠蘇すこしすぎぬと云ひてわがかけし羽織のしたの人うつくしし
酒のまへに酒の歌なき君ならば恋するなかれ市に入るなかれ
われにまづ毒味せよとは云ひ得たり許せさかづき二つに割らむ
人ならば酒をも強ひん杖がたなさびし幾とせ善き仇もあらず(「柴」 与謝野寛)


晩年の父
父は盗み飲みの時代からずっと日本酒党だった。一度胃を悪くして酒を控えたとき、ウイスキー紅茶にしたことがあったようだが、そのときを除いては、ずっと日本酒を貫いた。だいたい辛口が好きで、灘の白鹿や白鶴が好みだったようだが、私が知る晩年の晩酌には伏見の招徳というのを用いていた。これは伏見の酒にしては辛口だった。これを一日二合と決めて計量カップできっちりと量り、ガラス製の徳利と杯で飲んだ。杯はリキュールグラスの流用だったと思う。ガラス製だったのは酒の色が楽しめるし清潔でもあるからで、陳ねた焼物の徳利や猪口は、侘びとか寂びの茶人好みとして嫌った。そのガラス製の徳利を、左脇に据えた火鉢の鉄瓶で燗をし、ちびりちびりと手酌でやる。私も若い頃、父の真似をして日本酒を飲したが、少しだけ反抗して徳利と猪口は焼物にした。いろいろな焼物が楽しめるからである。しかしあるとき、一口含むと、何とも言えない嫌な味がした。で、酒を全部空けて見てみると、黒い点々としたものが混じっている。おそらく、ゴキブリの卵だか糞なのであろう。よくよく洗って使わなかったからと言われればそれまでだが、父のガラス製愛好を成る程と思い、以来、焼物は止めてガラス製にした。ガラス製もその当時は種類が少なく安物臭かったが、段々と良いものが出るようになって、洗練されたものが手に入るようになった。その後、私はダイエットのために、糖分の多い日本酒を避けてウイスキーの水割りにし、さらには酎ハイに、今は生ビールといった具合に、まことに一貫しない鬼っ子で、生涯日本酒を貫き通した父には、敬意を表する。(「中華飲酒詩選 思い出」 青木正児)


勧酒と返杯
唐の詩人、王翰が「葡萄の美酒」を「夜光杯」でどう飲んだか、李白が「詩百篇」を生み出した「一斗」の酒の飲み方はどうだったかについては諸説あるものの、清代あたりの酒席についての記録を見れば献杯と返盃、罰杯などが一般的だったことがわかる。前者は、めいめいが使っている盃とは別に、銀や錫で作った足つきの爵盃(しやくはい)を使って主人が客に酒を勧め、のみ終わったあとの同じ盃で客が主人に返杯する、といった方式で、日本流の「お流れ頂戴」は見当たらない。これと比べると、自分の盃だけを使う中国での今のやり方は、たぶんに様式化されている。(「北京そぞろある記」 田所竹彦)


わかさぎの木の芽焼き(ワカサギ、木の芽)
ワカサギは頭と尾をそろえて、串にさしておく。はじめは強火で、ワカサギに火がとおるまで焼き、弱火にして、はけでタレ(みりんと醤油同割ずつ混ぜたものを一割ほど煮つめる)を塗って、照りをつけながら焼きあげる。タレは1~2回つけると、きれいに仕上がる。器に盛ったら、粉サンショウを軽くふりかけ、木の芽をかざる。ワカサギは、身がやわらかいわりに、火を通すと身がしまり、型がくずれないのが特徴。みりんの照りと木の芽の青味のコントラストが美しい酒肴だ。ワカサギの淡泊な味が、タレでひきたち、日本酒の友としては最高。ブリやハマチの照り焼きとくらべ軽いので、いくらでも食べられる。(「酒肴(つまみ)のタネ本」 ホームライフセミナー編)


7日 湯豆腐
もう、二年前のことになる。昭和三十七年のきょうのことだ。久保田万太郎さんの誕生日のお祝いが銀座の辻留で、あった。そのとき久保田さんは京都の樽源さんに贈る俳句を用意して来られた。それが、 湯豆腐や。持薬の酒の一二杯  という句であった。花柳章太郎さんのすすめで、久保田さんはそのあとに「寒うおすな」と付け加え、小唄が出来上がった。同席しておられた山田抄太郎さんが、あいにく手をわるくしておられたので、芝小百合さんがかわりに三味線をとって、即席の「口述作曲」が始まり、たちまちにして、万太郎作詞、抄太郎作曲の、小唄「湯豆腐」が出来上がった。湯豆腐は元来上方のものだ。だから先生は京都弁で「寒うおすな」と付けた。そして山田さんは京都のあけぼのという手と壬生(みぶ)狂言の手をいれて曲をしたてた。楽しい思い出である。(「私の食物誌」 池田弥三郎)


古文書から元禄の酒を再現
先ほどの近藤勇の礼状ではありませんが、赤穂浪士が討ち入りした年の元禄十五年(一七〇二年)、今から三百四年前の古文書『酒永代覚帖』が残っています。それを紐解いて再現したのが、『復刻酒 江戸元禄の酒』であります。元禄時代の製法を再現した場合、どんなお酒ができるのか、二つの結果を予想していました。一つは、当時はまだ発酵技術が進んでいなかったので、やはりアルコール度数の低いお酒ができるのではないか。もう一つは、甘いお酒ができるのではないかと予想したのですが、結果は後者でありました。(「不易流行の革新経営をめざす!」 小西酒造株式会社代表取締役社長 小西新太郎)


安飯屋、居酒屋
問題はその下の安飯屋で、これらは不潔を極める。
第一目に立つのはその家にして、檐(のき)朽ち柱ゆがみて平長屋の板庇煤烟(いたびさしすすけむ)に舐(なめ)られて黒ずみ、…なかんづく厨房の溷雑(こんざつ)は実に伝染病の根源にして一面芥捨場(ごみすてば)を打拡げたるが如く…およそ世に不潔といへるほどの不潔は悉皆茲(しつかいここ)に集めたるが如く、蓮根・芋・筍子の皮・鰯・鯖・鮪等の敗肉(あら)は皆一所に掃溜めて数日間も厨房の片隅に寝かし、それより発する臭気、移り香、蒸発する厨婢の体臭、海苔のごとき着物を被(き)たる下男…酔漢(のんだくれ)、恫喝男(どうまごえ)、貪食者(くいつぶし)等を以て終日喧声涌(けんせいわく)が如きこの最下等飲食店は、浅草、芝辺の場末に最も多く三河町の界隈比々(かいわいひひ)皆これなり
こうした下等飯屋にあっては、材料費を安く上げるため、かなりの工夫がなされており、一食三銭以下の値段で満腹できたという。また彼らの食事内容については「朝餐には一汁一菜極めて淡薄(たんぱく)なれども、晩餐には間々濃味の鳥肉を呼びて口腹(こうふく)を肥やす。蛤蜊鍋(はまぐりなべ)、葱鮪(ねびま)等なり」という状態で、彼らはまた居酒屋での濁酒や焼酎をもっとも好んだ、としている。(「江戸の料理史」 原田信男) 引用は明治26年刊行の松原岩五郎の「最暗黒の東京」です。


三分の酒二分の水
牛肉を買ふの法を説いて「先づ宜しく各舗に定銭(手付金)を下(お)き、腿筋夾肉の処、無精不肥なるを湊(あつ)め取り、然る後家中に帯(も)ち回(かへ)れ」と料理法は「皮膜を剔去(てつきよ)し、三分の酒、二分の水を用(もつ)て清煨す。極爛なれば再び秋油(醤油)を加へて収湯せしむ。此れ太牢、独味孤行する者なり、別物の配搭を加ふべからず」と。肉は直股筋即ちシンタマと称する処であらうが、買入れる分量が何程か判らぬけれども、何軒かで買ひ集めよと謂ふからには一軒の店で間に合ふ程の大きな牛肉屋が無かつたからであらう。之れが清朝中頃に於ける南京の実情だつたのである。大切りの儘の肉を「三分の酒、二分の酒で充分軟らかになるまでゆつくり煮込み、そこへ上等の醤油を加へて、汁が無くなる迄煮る」とは相当贅沢な料理で、即席料理の及ばぬ滋味があらう「此れ太牢であつて独味孤すべき者だ」と、さもありなんであるが、牛肉など久しく見たこともない今(戦争末期)の私達には縁なき者、一場の夢物語に等しい。昔飲ん兵衛の汝陽王は道に麹車(きくしや)(酒を積んだ車)に逢ふて口に涎を流したといふが、私達は耐乏生活に馴れたとは謂へ、決して美味を忘れた訳ではない。美味に縁遠くなればなる程、凡下の浅ましさは愈々美味を憶(おも)ふ、浅ましくても恥かしくても憶(おも)はざる得ない。だから二三人集まれば必ず食べものの話が出る。そして最後には、昔旨かつた思出を並べるに堕ちる。けちな気休めではあるが、画餅でも口振舞でも、幾らかの慰めになる昨今では、汝陽王の涎もまことに他人ごとではない。(「飲食雑記」 山田政平)


火落酸
日本酒を腐敗に導く細菌として明治以来その道の学者に知られた火落菌という乳酸菌の一種がある。江戸時代から酒の腐ることを「ひおち」という。この菌には奇妙な性格があって、肉汁とか植物体の煮汁とか普通の細菌の好んで生える培養基には、決して生えない。酒に生えてこれを腐らせて困らせるくせに、研究室でこれを生やすのには大苦労をする。然るにこれらの培地に日本酒をちょっと一割くらい加えると、たちまち猛然として生えてくる。まるでその辺の我らの酒の友のような不思議な生理の持ち主である。これは不思議な現象であるから、ある時これを手掛りの研究がはじまり、まず第一にこの原因となる新物質は、麹菌という日本酒を造る時に使うカビが造ることがわかった。そうなると、これの分離の材料には、酒のような金のかかるものを使うよりは、この未知物質を沢山造る麹菌を選んで、それを造らせる方が、よほど効率的であることがわかった。これで大量の未知物質をたやすく入手できるようになった。それが研究の第一歩である。次にはその新物質を純粋に分離することに成功し、化学的に研究してみると、それは炭素原子六個から成る従来知られなかった新化合物であることがわかった。これを火落酸(ひとちさん)(のちにメバロン酸と命名)という名で発表した。一九五六年の春のことであった。この新物質は、始めに想像されたヴィタミンのような作用をする物質ではなくて、火落菌が自分で造ることができない栄養素の一種であることも判明した。この新物質メバロン酸が発表されると、これがたちまち世界の生化学界に伝わり、世界中でその研究がはじまり、忽ち第二次大戦後の全世界の生化学者の研究の寵児となって、各国で競って研究が進められた。前述のノーベル賞問題は、ここから出たのである。それらのうちで西ドイツのリネンは、メバロン酸の炭素数に着目して、それが三分子の酢酸(二炭素原子から成る)から生成する生理的な筋道を研究した。その後これと前後して米国のブロッホ兄弟が、更にメバロン酸からコレステロールのようなステロールの類いを生成する生理的筋道を照明して、いずれもその研究に対してノーベル賞が与えられたのである。その後、一九七五年にこれらの生成経路についての立体化学的解明がイギリスのコンフォースによって研究されて、これに対してもノーベル賞が出されることになったのである。以上が酒の研究からノーベル賞が三箇生まれたといういきさつである。研究の基礎になる物質の発見には、何の関心も払われずに、その発見のおかげで生まれた研究のみが賞の対象となるとは、一体いかなるものさしによる判断であるか、腑におちない。(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎)


眼前 一杯の酒、誰(たれ)か身後(しんご)の名を論ぜん。
<解釈>月の前に一杯の酒があれば、死後の名声など関係ない。
<出典>北周、庾信(ゆしん)(字(あざな)は子山(しざん) 五一三~五八一)の「詠懐(えいかい)」詩二七首<其の一一>の第一一・一二句。『庾子山集』巻三。『古詩源(こしげん)』巻一四は「擬詠懐」と題する。
<解説>庾信が南朝の梁(りよう)の使者として北朝の西魏(せいぎ)に滞在中、祖国の梁は、こともあろうに西魏の攻撃を受けて滅亡してしまう。「詠懐」詩は、異国に仕えることを余儀なくされた庾信が、亡国を恨み、自身の悲しみを詠じた長編の連作である。ここに挙げた二句のみを見れば、死後の名声など気にしない、快楽主義的で豪放な庾信像が浮かび上がるだろうが、実はそうではない。この二句は、「揺落、秋の気為(た)り、凄涼(せいりよう)、怨情多し、啼いて湘水(しようすい)の竹を枯らし、哭(こく)して杞梁(きりよう)の城を壊(やぶ)る」という、華北の秋の寂しげな情景描写から始まり、舜の二妃である娥皇(がこう)と女英(じよえい)が舜の死を悼んで竹に涙した故事、戦死した杞梁を妻が慟哭(どうこく)して悼んだ故事などを交えつつ、梁の亡国とそれによって悲劇を体験した自分を含む多くの人々の怨みを述べたあとの二句なのである。したがって、この詩には作者の深い絶望感が潜んでいる。確かにこの二句は張翰(ちようかん)の故事をふまえている(李白(りはく)「且(しばら)く楽しまん生前一杯の酒、何ぞ須(もち)いん身後千載(ぜんざい)に名」の「解説」参照)が、二人の酒の味は正反対のものであったに違いない。また、一説にこの句は、梁の皇帝と臣下が酒びたりで、国家の将来について思慮がなかったことを批判する意がこめられていると言うが、これこそ牽強付会というものであろう。(後藤秋正)


古酒の幅
呑嬉亭も出した冷奴の上に塩辛を乗せながら、「そういえば、同じ古酒でも、醤油みたいな色がついたものから、うっすら山吹色がついたものまでいろいろだよな」と切り出す。「うん、貯蔵するお酒の種類や、貯蔵温度で差が出てくるね。長期熟成酒研究会では、吟醸酒なんかを低温で熟成させて、あまり色のつかないものを『淡熟タイプ』、一定の温度(一〇~二〇℃)で熟成したものを『中間タイプ』、常温で熟成させたものを『濃熟タイプ』と分けているけどね。濃熟タイプが茶色くなるタイプさ。普通酒や純米酒なんかは色がつきやすいよね」酔「しかし、その『淡熟タイプ』と、『濃熟タイプ』じゃまるで別物だよな」「古酒とか長期熟成酒とか、一緒くたにするのもなんか違う感じがするけどな」呑嬉亭も古酒の現状に不満があるようだ。数年前、宮城県の気仙沼で「古酒の会」が開かれ、呼んでもらったことがあった。主催は地元で店を開く「おけい茶屋」という酒販店。「前日から入って、マンボウの刺身や、卵巣、真子、それに地元では『巨人の星』とよばれているモウカザメの心臓、ホヤなどの珍味を肴に一杯やって、翌日市内のホテルで古酒の会さ。古酒一つ一つ取ってみればそれぞれ個性があって美味しいんだけれど、宴会の最初から最後まで古酒で攻められるとちょっと疲れるというか…しんどいってことはあるね。料理の中の一部を古酒と合わす形の方がいいな」(「ツウになるための日本酒毒本」 高瀬斉)


しゃ-しん[写真]
師と語る写真のどれも酒の上  佐藤 正敏
しゅ-ぎょう[修業]
②仏法を修め善行を積むこと。
樽の中で修業しているウイスキー  吉川 一郎(「川柳表現辞典」 田口麦彦編著)


△家言(かげん)三九
杜氏(とうじ)四〇(酒工の長なり。又おやじとも云。周の時に杜氏の人ありて其後葉杜康という者、よく酒を醸するをもって名を得たり。故に擬(なぞら)えて号(なず)く)
衣紋(えもん)(麹工の長なり。花を作るの意をとるといへり。一説には、中華に麹をつくるは架の下に起臥して暫くも安眠なさざること七日、室口に勝るの意にて衣紋と云か。)
三九 家言 一家言。個人的見解。
四〇 杜氏 酒造技術者の長。同時に技術出稼グループの組織者、責任者でもアル。刀自すなわち古代の女性醸造時代の主婦の名称をうけつぐという見解もある。早く発生したのは丹波杜氏であるが、後に越後、広島、秋田等の出身者が増加した。

宴席の伏兵
費無極(ひむき)は楚の令尹の近臣であったが、郄宛(げきえん)というものが新たに令尹に仕え、令尹に大いに寵愛された。そこで、無極は令尹にいった。「宛をいたくご寵愛のご様子ですが、一度、宛の家で酒宴をお開きになられてはいかがです?」「それはよかろう」そこで、令尹は費無極を郄宛の家に酒宴の準備を命じていかせると、無極は宛に教えた。「令尹は剛腹で武事がおすきだから、謹んでその御意に沿うように。まず直ちに軍兵を座敷の外に配置し、門口まで居並ぶようにしておきなさい」宛はいわれたようにした。令尹は行ってみて驚いた。「これは何事だ」すると、無極がいう。「危険です。すぐお帰り下さい。どんなことになるか分りません」令尹は大いに怒り、兵をさし向けて郄宛の罪を責め、遂に殺してしまった。(内儲説下)(「中国古典文学全集 韓非子」 高田淳訳)


〇詩ヲ賦シテ志ヲ言フ
春秋列国ノ士大夫、会盟燕享ニ皆詩ヲ賦シテ其志ヲ言フ。実ニ殊勝ナル事、千載ノ下ヨリコレヲ想見スベシ。然スニ戦国ニ至リテハ、此事ナカリシト見エテ所見アル事ナシ。我幼カリシ時、先人ノ友ト飲宴スルニ、必ズ小謡アリ。多クハツハモノ、交リ頼アル中ノ酒宴哉、ナド云ヲ唱ヘテ、酒ヲ侑ム。今ハ其事ナシ。今ヨリ是ヲ想ヘバ、又殊勝ナル事ニテ、士風ヲ観ルニ足レリ。世ノ風俗移リ変ル事如此。戦国ノ詩ナキモ怪ムニ足ラザルナリ。(「諼草小言」 小宮山昌秀)


洒落言葉・隠語
・甘酒をなめさせる…譲歩すること
・大人のミルク…どぶろく
・五合徳利…つまらない人生
・むねはらい…胸の憂いを払ってくれるもの=酒
・待ち膏…宴会の前に少し酒を入れておくこと
・山芋を掘る…酔っぱらってくだを巻くこと
・霜消し…酒のこと(霜が消えるほどに温まるという意味)
・けずり友達…身代を削ってつきあう友達(飲み友達)
・スミマセン…どぶろくのこと(濁っているから)(「SAKE面白すぎる雑学知識」 雑学こだわり倶楽部編)


日本酒を温める理由
ところで日本酒をなぜ温めて飲むようになったのかは、明らかではない。ただ、中国では、寒い時には温酒、夏には冷酒で飲んだことが多くの書に記されている。たとえば白楽天は「薬銚夜傾残酒暖」「林間暖酒焼紅葉」とうたい、また趙循道(ちようじゆんどう)は「紅火炉温酒一盃」と詠み、そして元結(げんけつ)も「焼柴為温酒」という有名な詩の一節で、晩秋から冬にかけて酒を温めて飲む情景を詠んでいる。白楽天の「小盞吹醅嘗冷酒」にみられるように、春から夏にかけては冷酒を飲んでいた。李賀(りが)が「不暖酒色上来遅」といっているように、おそらく寒いときには、はやく体が温まるように酒を温め、夏に熱い酒はさらに暑さをよぶから冷酒にしたという単純な理由からだろう。日本での暖酒もはじめはこのような理由から行われだしたものと思われる。日本酒を温める第二の理由は、東洋的な医学思想を背景にした自然な食法、たとえば『養生訓(ようじょうくん)』などにもみる教えも根底にあったのだろう。貝原益軒は次のように戒める。「およそ酒は冷たくして飲んではよくないし、熱くしすぎて飲んでもよくない。生ぬるい酒を飲むのがよい。冷たい酒は痰を集め、胃をそこなう。丹渓(たんけい)は酒は冷飲に宜しといったが、多く飲む人が冷酒を飲むと脾臓をこわす。少し飲む人も、冷酒を飲むと食気をとどこおらせる。およそ酒を飲むのはその温かい気をかりて、陽気を補助し、食のとどこおったのをめぐらすためである。冷酒を飲むとこの二つの利益がない。ぬる酒は陽を助け気をめぐらすのに及ばない」。すなわち冷酒は身体によくないという考え方も、燗をする要因の一つになったのだろう。第三の理由は、客に対する温かいもてなしという心づかいから出た飲酒法であるということだ。燗をしてもてなすという習慣が一度出来上がると、「燗をした」という行為が、酒に手を加えてから客にさし上げるという礼儀として定着する。そうすると手を加えない冷酒を出すのは失礼であるという考えに結びつき、燗をする習慣が続いてきたのであろう。このほか、日本酒は麹を使った酒であり、冬造られたものが夏を越すと熟成して風格を増すところから、そういう酒を温めると、口当たりがまろやかでコクが乗るといった理由で燗を好んだ人もいたのだろう。さらに、燗をすると刺身や酢のもの、煮魚との相性が良くなるという人も少なくなかった。そして最後の理由は、飲む速さと酔いの速さを調整するためでもあったのではないか。「親の意見と冷酒(ひやざけ)は後からきく」の譬(たとえ)の如く、冷酒は喉(のど)ごしがよいからどんどん入っていって、後から急に酔いが来ることが多く、悪酔いの原因にもつながるが、熱い酒であると、味も香りもアルコール分もとても強く感じるので、チビリチビリとやることによって、酔い加減にバランスがとれるからである。(「日本酒の世界」 小泉武夫)


玲瓏随筆
酒後に紅柿[べにがき]を多く食すれば、はなはだ酔いて正儀を失うと。傍(かたえ)なる人曰[いわ]く、柿は酔[え]いを醒[さま]すとこそいえ、柿にて酔うとは心得ずといえり。曰く、諸楽ともにこれを用いるに時あり、時を得ざる時は、すなわち薬かえって毒と成る。その時を得る時は、すなわち毒も、またかえって薬と成る。寒は熱に勝つといえども、時を得ざる時は、すなわちかえって熱を助けて人をして熱殺せしむ。けだし酒を飲む事数盃[はい]にして、酒胃にありていまだ順ならざる時、柿を食する時数顆[か]なる時は、すなわちその酒を覆留して酒気順ならず、胃中に留[とど]まりて悶[もん]絶す。酒後紅柿を食えば、心痛するも、またこれに譬[たと]うるなり。酒ようやく半醒[はんせい]に至りて、喉[のど]口乾[かわ]きて湯を思う時、熟柿[じゅくし]を喫する時は、すなわち端的に醒め渇を治す。(玲瓏随筆)(「飲食事辞典」 白石大二)


良寛の詩
日々日々 又(マタ)日々         日〻日〻又日〻    良寛
閒(コノゴ)ロ児童ニ伴ツテ此身ヲ送ル   閒児伴児童送此身
袖裏(シウリ)ノ毬子(キウシ) 両三箇   袖裏毬子両三箇
無能ニシテ飽酔ス大平ノ春        無能飽酔大平春
毎日毎日、のんびりと童(わらべ)たちと一緒に、遊び暮らしている。袖(そで)の中には何時(いつ)も手毬(てまり)が二つ三つ。能無しで大平の春に堪能(たんのう)している。芭蕉の「能なしの寝(ねむ)たし我をぎやう/\し(行々子 ヨシキリ)」(嵯峨日記)にも似た心境がうかがわれるが、それよりも良寛自身の手毬唄、「つきて見よ一二三四五六七八九(ひふみよいむなやここ)の十十(とをとを)とをさめて又(また)始まるを」(二三六㌻)の無心の唄を、いっそう鮮やかに連想させる。(良寛詩集)(「古典詞華集」 山本健吉)


【山梨県北杜市・山梨銘醸】
同じ首都圏なら、山梨県北杜市、旧甲州街道沿いに建つ創業1750年(寛延3年)の山梨醸造も、多様な楽しみが待つ。まず直行すべきは、試飲コーナー。銘酒「七賢」はなめらかな喉ごしの純米吟醸「天鵞絨(びろーど)の味」やさらりとした裾捌きの純米大吟醸「絹の味」など、奥ゆかしい旨味のなかに名前に込められた個性を感じられる。さらには、仕込みに使われる水をたっぷり試飲できるのも、この蔵の魅力。酒の原材料を問われれば「米!」と答える方が多いと思うが、その8割は水。輪郭を描いたり、背骨となったりと、水は酒の味わいに大きく関係しているのだ。この蔵の仕込み水は、南アルプス甲斐駒ヶ岳の伏流水。ふんわりやわらかく、軽やかな余韻を舌に残して喉を過ぎる。酒と呑み比べてみれば、そのしなやかさと清々しさがしっかり生きているのがわかるだろう。敷地内には和食処「臺民(だいみん)」があり、「鮭の麹漬け」や「甲州豚の塩麹漬け焼き」といった、発酵の魔法で旨さを増した美味なる品々が揃う。「七賢」にぴたりと寄り添うのは、言うまでもない。すいすい呑んでしまうのだ.。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子)


(六)しよがえぶし
東坡(とうば)山谷(さんこく)淵明(えんめい)李白(りはく)晉(しん)の七賢(けん)白楽天(はくらくてん)も、ずんとてうじてあいせしといの、それはもろこし我朝(わがてう)にては心よし田の兼(けん)もじ様も、酒を飲めとてゆるされた、しよんがえ
てうじて-長じてにて、すぐれての意か  兼もじ-兼好をさす(「若みどり」 藤井紫影校訂)


酒飯論
さて酒と何かと対立させて上戸下戸の論争を面白く描こうとした試みは、どうやら『酒飯論』にはじまる。『酒飯論』の上戸、下戸、仲裁者のそれぞれが一向宗、日蓮宗、天台宗の立場を表明するので、三者が対立を深める一五二〇年代に『酒飯論』の成立をみる説もあるが、なお議論すべき余地はあろう。現存の『酒飯論』は十六世紀初期の成立としてよいが、その原形は十五世紀にさかのぼる可能性がある、いずれにしても十六世紀後半に成立する『酒茶論』よりはかなり早く、室町時代後期には誕生している。さて内容は、造酒正糟屋朝臣長持と称する大上戸と、飯室律師好飯という僧で、「こづけを好む最下戸」、さらに中左衛門大夫中原仲成といって酒も小漬も好む、名前からして仲裁役の三者である。まず造酒正長持は酒の徳を説明し、風流の酒、百薬の長たる酒、神に供える酒等を延べ、最後に念仏を誦して終わる。その中に出る「下戸のたてたる蔵もなし」というのは当時の俚諺(りげん)であったが、対句は「上戸はあはれ丸裸」というもので、貧福は生まれつきのもの、上戸は酒で身上を潰すことがあっても、下戸だからといって金持になれるわけではない、という。つづいて下戸の飯室律師は、まず酒の害を説き、それに対して飯のいろいろをあげて飯尽くしを述べ、茶会の面白さにふれる。最期は日蓮宗の妙号を唱えて終る。三番目の仲成は、文字通り中庸の酒を主張し、「飯をも酒をもよき程に、すへならべつゝのみくひて、一ごはかくてぞよかりける」という次第。面白いのは酒飯ばかりでなく、貧福も年齢も、姿かたちも役職も、官位も威勢も中位が一番よいものだという仲成の主張である。日本人の中産階層志向は室町時代からあったのか。この中庸の酒こそ、今日の酒の源流なのである。(「酒と社交」 熊倉功夫)


新潟清酒研究会
新潟清酒研究会(通称「酒研」)は、一九七三(昭和四十八)年、当時の新潟県醸造試験場長・島悌司(ていじ)氏の提案によって創立された。それまでは、大学で専門教育を受け、企業に雇用された酒造技術者は企業内で研鑽(けんさん)を積むことがもっぱらであったため、将来の新潟清酒を担う技術者を組織化して交流を活発化にし、企業横断的な情報交換の場を設けることが会創立の目的であった。同会は、県内各酒造会社に在籍する酒造技術者によって構成、運営され、若い技術者にできるだけ自由な発言と活動を保証しようと、規約には「正会員は五十歳以下」と明記されている。発足以来、同会はさまざまな研究プロジェクトや講演会などの活動を精力的に行い、主なものに、七七(昭和五十二)年に新潟県酒造組合から委託を受けた酒造好適米の新品種の醸造研究、八一(同五十六)年に新潟県技術賞を受賞した肉食に適する新しい清酒の開発プロジェクトなどがある。こうした目覚ましい成果を上げ、二〇〇三(平成十五)年には創立三十周年を迎え、県酒造業界の技術的基礎を担う重要な存在となっている。同会の運営は会員である酒造技術者個人の自主的な参加に負っているが、この背景には彼らが在籍する各酒造会社の理解と協力の上に成り立っている。技術者同士が互いに切磋琢磨を重ね、酒造技術の研鑽を積むことで新潟県酒道業界全体のレベルアップを図ろうという、一企業の利益だけにとらわれない懐の深さがうかがえる。(「新潟清酒達人検定公式テキストブック」 新潟日報事業者)


花、果実、木質などの風味-スペインの男性
「日本酒はこれまでに飲んだことはあるけど、喉から食道にかけてカ-ッとした感じだね。でもこれはスムーズで飲み易いな」飲んだ酒というのは熱燗で?ときけば、「燗の酒も常温の酒も」といい、吟醸酒の優しさは女性向きだという。熟成酒については「フィノのシェリーのような味がする。花や果実を思わせるところもいい。木質の風味も感じるし、スムーズで旨い。私はこちらのほうが好きだな」と、熟成酒がことのほか気に入った様子である。さらにその上、アペリティフとしても申し分ない、とつけ加えた。この人のブースはツナなどの加工食品を扱っているところだが、スペインのそのような食べものにもよく合うともいっていた。やはり、シェリーに馴れた味覚とすれば、それにより近い熟成酒のほうが親しみ易かったのだろう。花や果実を思わせるという表現が、吟醸酒ではなくて熟成酒のほうを指したのにも興味をひかれた。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)


日本盛
日本盛は、元禄の頃には「盛」という名で出ていたようで、日本盛となったのは、幕末の頃からといいます。今でも、酒屋さんの間では、サカリと呼ばれていて、その積極的な販売政策が、しばしばウワサにのぼります。とくに、白鶴との二位争いは、激しいので、よく知られるところですが「酒類食品統計月報」の調べでは、昭和52年度の出荷は第三位で、39万1千石でした。白鶴は40万5千6百石です。ちなみに、一位は伏見の月桂冠で、65万3千石でした。日本盛の製品では、ホームタイプの製品が、他の蔵にさきがけて、売り出された特色あるものの一つですが、山村聡を中心に、芸能人をたくさん使ったPRで、ブランド売り込みに熱心な点は、際立っています。最近は、屋外式の調合タンクが設置されましたので、蔵の感じも変わりました。(「灘の酒」 中尾進彦)


大酒の戒(いまし)め
貴丈常に大酒せられた候故(そうろうゆえ)、此(この)文句を写して大酒は無用に存候(ぞんじぞうろう)、仍(よつて)一句
朝かほにわれは飯食う男かな  芭蕉
この貴丈(相手の男性に対する尊称)というのは有名な其角(きかく)で、この文句云々と言っているのは、尊朝親王の御作と伝えられる飲酒一枚起請(きしよう)と言われるものが前に付してあるが、ここでは句だけを記すにとどめる。句意は、「自分は世人と全く変わらず、朝早く起き、小庭の朝顔を眺めて飯を食う平凡な男なのだ」ということで、俳句に託して、芭蕉が宝井其角の豪酒を戒めたものと、ふつう解釈されている。其角は性豪快、江戸に生まれ家業の医を学んだが、一四、五歳の頃、蕉門に入った。照降町に住んでいたころは、嵐雪(らんせつ)、破笠(はりつ)なども同居して、大いに飲み、かつ遊んだ。芭蕉はこれに対して色々心配したのだろうが、それで禁酒するような其角ではなく、その後もますます大酒したらしい。もっとも、芭蕉自身酒を飲まなかった人ではない。「宵のとし空の名残おしまむと、酒のみ夜ふかして、元日寝わすれたれば、 二日にもぬかりはせじな花の春」(元日は寝過ごして大しくじりをやったが、二日にはしくじらぬよう心懸けて、めでたい正月を祝いたいものよ)という句があるほどの酒呑みで、 呑明(のみあけ)て花生(はないけ)にせん二升樽(だる)(さあ皆の衆、この二升樽を余さず飲みあけて、ちょうど真盛りの桜を活(い)ける花活けにしよう)という句もあるくらいだ。これで見ると、大酒に見えるが、この詞書(ことばが)きに「尾張の人より濃酒一樽に木曽の独活茶一種を得られしを、ひろむるとて…」とあるから、いずれ、門人たちに振る舞ったのであろう。二升樽を飲み開けると言っても、もちろん芭蕉の酒量ではない。また、 花にうき世我が酒白く飯(めし)黒し(世間は花に浮かれて楽しむ春だが、貧しい自分にはむしろ心憂(う)い世の中だ。飲む酒は濁り酒、飯は玄米飯という暮しでは。)などという句もあり、世捨て人のわが身の境涯を嘆じている。当時の芭蕉の生活状況が眼に見えるようだ。(「料理名言辞典」 平野雅章編)


アルコール症者の子供
子供たちがベッドの下や押し入れの中に隠れる、という話をよく耳にする。子供たちは連れ立って屋根裏部屋に行き、父親の帰りを待つ。父親がどんな状態か見当もつかない。やさしくしてくれるだろうか、たたかれるだろうか。決まってそのどちらかで、そのような境遇では、子供たちは落ち着いた生活は送れない。しばしばこのような子供は、標準以上の成績をおさめる。人より優れていなくてはいけない、自分自身を強化するよりどころが必要なのだ。しばしば、そのエネルギーは、学校で一番になることに注がれる。グリー・クラブや、バンドに入り、学校新聞で活躍する。多くの活動にかかわって、並み以上の成績をおさめる。しかし、孤立しがちで、他の子供とうまく付き合えない。リーダーになるが、独りぼっちである。アルコール症者の子供は、友達を家に連れてこなくなる。境遇が不安定なので、家についたら何が起こるかわからない。それが恐ろしいし、恥ずかしくもあるので、どぎまぎするような立場にならないよう、極力努める。長期にわたって受ける影響は、男の子でも女の子でも、同じであろう。ほとんどの子供は、長じて異常な生活を送る。アルコール症となるケースも多い。アルコール症者と結婚する者も、かなりの数にのぼる。ほとんどの者は、逆境の生活を体験する。円満な人間とはならないのである。アルコール症の子供は、成人しても自己評価は低く、他人を信用できず、敵意、怒り、恐れ、恥、自責の念と対処しなければならない。すべてに対する自責の念は、まったく何の根拠もない。しばしば、両親のアルコール症をはじめ、すべての否定的なものに責任を感じる。結婚について歪んだ考えを抱き、満足な結びつきができず、現実にも想像上も、性的に常軌を逸しやすいという問題を抱えている。アルコール症者の子供はマイナスの見本を見て育つだけでなく,驚くほどの暴言、肉体的、また、しばしば性的陵辱を受けて成長する。子どもたちは誰にでも喜ばれようとする。異常な環境での成長は、異常な生活となる。それをのり越え、家を離れて初めて、他の人はそのような生活を送っていないことに気がつく。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー)


その方の父は毎年死んだか
義公(徳川光圀)はあるとき、誰であったか、ご前で酒を賜った。そしてお肴(さかな)も下さった。ところが某は、これをそばに置いたままで、箸をとらなかった。「なにゆえに食しないのか」とお尋ねがあった。某は待っていましたとばかりに、「きょうは亡父の忌日でございますので精進いたしております。」と申しあげた。すると義公は、「それなら、その方の父は毎年死んだものと見えるな。」と、おたわむれなさった。すると某は負けていず、「公には毎月二十九日ご精進あそばさせる。先君威公(徳川頼房)には毎月ご逝去なさったと見えまするが。」と申しあげたところ、公もお笑いなさったという。こういう義公のおたわむれのうちにも、やはり教訓があるのを見出せるのである。「其の方は父の忌日で精進だから肴は食わぬと言いながら、酒を飲んでいるではないか。その点で、その方の行為は矛盾している。これははたして、心からの精進と言えようか。儒教徒の多くがするような、虚偽の形式にとらわれたものではあるまいか。」と義公は申された。(「人間義公」 大内地山)


ちやびん[茶瓶]
花見や野掛などに弁当などと組みに持つて行く道具、引いては下僕、弁当持ちの下男をいう。-
⑤人同じからず 茶びんと 貧ぼう樽  (樽三八)
⑤唐の劉廷芝七言律、悲白頭中の一節、年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからずの文句取りであるが、茶瓶と貧乏樽とは似て非なるものだということ。-(「古川柳辞典」 十四世根岸川柳)


食物年表1600-1650
1608・呂宋王が将軍にいそぱにや酒を献上
1612・島津家久が将軍に琉球酒を献上
1619・堺商人が大坂から江戸へ油、酒、酢、醤油などを回送し、菱垣廻船がはじまる
1642・忍冬酒、延命酒を将軍に献上(「日本史分類年表 食物年表」 桑田忠親監修)


熱燗(燗酒)
江戸時代までは冷酒を原則としていたので、「熱燗」が季語となったのは幕末の『季寄新題集』(嘉永元年)で、冬之部・旧十月に、「あつ燗」とあるのが初見である。それを承けて、明治四十二年刊の『新修歳時記』が冬之部に、「熱燗。冬寒気を防がん為に、殊に燗の熱きを用ふるものあり」とあり、例句がないから、まだ公認されていなかったようだ。昭和二年刊の『新撰俳諧辞典』には、「熱燗・燗酒」の記載はないが、同五年刊の『最新俳句歳時記』と九年刊の虚子の『新歳時記』が十二月また三冬で取上げて、「酒うすしせめては燗を熱うせよ」という、つまらない自句を例句としている。その後山本の『季寄せ』が三冬で「熱燗。燗酒」とした。さらにその後、秋桜子の『現代俳句歳時記』は、秋桜子が下戸だったせいかこの二つの季語をカッとしているが、その他は冬の季語として定着している。
燗熱し獄を罵(のの)しる口ひらく  不死男
熱燗や男同士の労はりあふ  春一
熱燗や討入りおりた者同士  展宏
例句一の秋元不死男(ふじお)(昭和五二年没)は、新興俳句論者であったが、昭和十六年に俳句事件に連座して、二年間の獄生活を送った。終生庶民精神を貫いた。例句二の滝春一(しゆんいち)(平成八年没・九十四歳)は秋桜子門で、俳誌『暖流』の主宰者。同県人か、うだつの上がらない同士が愚痴をこぼし労り合うには、ボルテージの上がる熱燗が必要なのだ。例句三の川崎展宏(てんこう)は現役のぱりぱり。『寒雷』の同人で明治大学教授。朝日俳壇の選者である。ところで、この句を正直に解釈すると、元禄十五年十二月の払暁、赤穂浪士の大石良雄らが、本所の吉良邸に討入って本望を遂げた時、それぞれ退っ引きならぬ理由で脱藩した小山田庄左衛門、毛利小平太、田中貞四郎らが集まって黙々と熱燗を、という場面を想像するに違いない。だが、「熱燗」に限らず季語というものは、その句を詠んだ季節と時代(リアル・タイム)を保証するものだ、と私は考えている。だからこの句は一見、忠臣蔵の世界のようでも実は比喩句であって、老害の政治家や社長を諫止しようと決起した若手の議員や社員が、あと先を考えて中止した世の憂さ晴らしの熱燗、と私は解釈するのだが、私の勘繰りだったら、展宏さん御免なさい。
熱燗や屋台で飲めば雪となり  桐雨(「酒の歳時記」 暉峻康隆編)


酒屋名簿
而して当時に於ける洛中洛外の酒屋の全数が幾何であったかに関しては、奇跡的にも、応永三十二年、同三十三年の調査になる一巻の『酒屋名簿』が、『北野神社文書』中に保存せられている。この名簿によるとき、洛中を中心に、北は嵯峨谷、東は粟田口に亙る間に於て、三百四十七軒の酒屋が存在していた(国史学第十一号「北野麹座に就きて」参照)。この酒屋数は爾後応仁の乱に至るまでの約四十年間、さしたる増減を見ることなく存続したのでる。この三百有余の酒屋こそ、室町幕府の財源の一部を構成せる酒屋の全数に外ならなかったのである。ここでいわゆる酒屋とは、小売専門の小売酒屋ではなくして、「本酒屋」と時に称せらるるところの醸造酒屋である。(「日本産業発達史の研究」 小野晃嗣」)


小米酒(5)之事
一、小米勿論片白に造るへし。造り様諸事本米同前。但し小米ハ夥敷く沸く物也。大体より一限強く覚醒し切へし。当分呑口濃き様に候へとも、追日薄口に成、火を早く乞、足弱き物也。早く売払うへし。油断すれハ替る物也。
小米(こごめ)酒(5)
〇小米酒はもちろん片白で造ること。造り方はすべて粒米の酒と同じである。ただし、小米は非常に強くわくものであるから、ふつうの造りよりひときわ冷まし切るべきである。小米酒は、造りたては飲んで濃く感じられるが、やがて薄口になり、早く火入れを求め、日持ちしないものである。早く売り切ってしまうこと。油断すると変質するものである。
(5)小米(こごめ)酒 砕け米で造る酒。(「童蒙酒造記」 吉田元翻刻・現代語訳・注記・解題)


いなだ【稲田】
①鰤(ぶり)の異称。初期の称で、大きくなり鰤となるのである。
八杯の 酒でいなだの 生づくり  稲田姫に掛く
②稲田姫の略称。(いなだひめ参照)
八樽くらつて 稲田をも 呑む所  八岐大蛇(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


(増)盃事の式
[四季草]云 盃事と名付て 今世祝事にハ 親兄弟或ハ君臣盃をさして 乾魚なとを肴に挟み遣ハす 又 返盃して 右の如く 肴をはさむ事 是 甚略式也 本式にハ 先二三こんを出す 是にハ盃取かはしなしに 三献終て初献烹雑を出す、烹雑終て次に幾献も出す時 惣坐中酒宴になりて盃を取りかハし 肴をはさみ遣し 座中盃めくりて賑に興を催す 今世盃事と名づけてするハ 此酒宴の躰をかたばかりにまねてする也 今世ハこのまね事を 却て本法式生の事と思ふハあやまり也 是も戦国の頃世の中貧しくなりて 賑々しく真の酒宴の興を催す事もならずして そのかたばかりしたるハ伝りて 却て本式の如くなりいなるべし(「増補俚言集覧」 村田了阿編輯)


上戸
〇師走の十日ごろ、一条の辻に、大酒に酔い、ひどく寝こんでいる者がある。また、その日鳥羽から用をたしに上ってきた男がいた。これも少し酔っていたが、その男を見つけ、「お前の住居はどこ」と問うに、舌がまわらず、たわいもない声で、「あまがさき」と言うようである。気の毒だなあと車にのせ、鳥羽(京都の南郊)につれてゆき、便船をたずねて乗せてやった。この者を、ついてから、旅人の宿に舟からあげておく。酔がさめ、「これは何事か、私は京の六条の者で、あまがさき屋という者です」と、あっけにとられてたたずむ。ことのわけを語り聞かせると、肝をつぶし、どうにもならず、船賃、旅籠(はたご)の料金にと胴着を売り払い、みっともない姿で家にかえったのも一笑。(「江戸小説集 醒酔笑」 安楽庵策伝 小高敏郎訳)


寄鍋 よせなべ
魚貝・鶏肉・野菜など季節の材料を酒・味醂を加えた醤油汁で、煮ながら食う鍋料理。昔はたのしみ鍋ともいった。贅沢にも簡易にもできるのが特徴。
寄鍋や母にまいらす小盃  山本(「合本俳句歳時記新版」 角川書店編)


狂言と擬音語・擬態語
室町時代から栄えた狂言ほど、擬音語・擬態語の活躍する舞台芸術は見あたらない。なぜ、狂言では、溢れるばかりの擬音語・擬態語が用いられるのか?狂言は、滑稽感をかもし出して観客を笑わせくつろがせるために発達したセリフ劇。笑いをとるための王道の物まね。とぼけた梟の鳴き声と仕草のまねを見所にする狂言『梟山伏』は、言葉の通じぬ外国人でさえ笑わせることができる。梟をはじめ、蚊・烏・鳶・鶏・千鳥・犬・猿・狐・牛の鳴き声を写す擬音語が、狂言では、笑いをとるための必須アイテムなのである。さらに、狂言に擬音語・擬態語の多用される原因が、もう一つある。それは、擬音語・擬態語に状況説明の役割が負わされていることである。場面が良く変わるのに、狂言は大道具が全くない。家も、戸も、そんな舞台で、他人の家の玄関前にいることを観客に分かってもらうにはどうしたらいいのか?演者が、戸を開ける仕草をして「サラ サラ サラ サラ」と言うのである。これで、戸が開いた。(「擬音語・擬態語辞典」 山口仲美編)


ルバイヤート(抄) オマル・ハイヤーム 小川亮作(おがわりようさく)訳 
酒をのめ、土の下に友もなく、またつれもない、眠るばかりで、そこに一滴の酒もない。
気をつけて、気をつけて、この秘密、人には言うな-
チューリップひとたび萎(しぼ)めば開かない。(「酒の詩集」 富士正晴編著)


清酒酒質の様変わり
①揺籃期=甘酸混交 僧坊酒とくに奈良酒系を引いた清酒(すみさけ)は、甘口なわりに強い酸味を発揮した。アルコール分も比較的低く、清酒とはいえ醸造酒としての若さが目立った。②鴻池・池田・伊丹=辛口醇酒成長期の清酒で、酒精度が高く辛口の味わいが江戸などで歓迎された。剣菱・七つ梅など銘柄酒が席巻し、地酒は田舎酒として精彩を欠いた。③灘五郷時代=淡白上品 伊丹酒に変わり灘酒が台頭したのは天保期とみられている。水車の採用で米の精白度が格段に高まり、名醸水をも得て、磨き抜かれた上品(じようほん)酒がもてはやされた。④近代=芳醇吟醸 諸白から清酒へと名が変わり、甘くてコクがあり芳香の高い酒が好まれる。酒格も高級車から安酒まで層が厚くなり、格差の拡大が目立った。⑤昭和戦前期~終戦直後=酒質の凋落 物資の不足や統制経済の影響を受け、酒類の堕落が際だった時代。清酒も金魚酒や模造酒が巷に氾濫し、粗悪で危険な密造酒が出回るなど、酒質云々以前の状態にあった。⑥現代=百花繚乱 いま、清酒も個人嗜好による選択の時代に入った。酒造業界もハイテク時代に入り、あらゆる酒種・酒質・グレードの酒が出回り、すでに左党天国の時代を迎えている。(「日本の酒文化総合辞典」 萩生待也編著)