御酒の話(2)

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張献忠  夏菊  洋酒のスラング  マンハッタン島  ギリシア時代の酒の些話  鉄道唱歌  フランス人の酒量  蒸留酒の始まり  酒きらいになる薬  醒睡笑の「酒餅論」(3)  明治11年最初の酒造法の焼酎の定義  酒呑童子(しゅてんどうじ)  醒睡笑の酒話(2)  箴言  龍馬  八瀬の寺の禁酒(醒睡笑)  黒麹菌の復活  小岩・楊州飯店  「酒仙」 南條竹則  家持の酒を讃(ほ)むる歌  寛文年間「酒餅論」の酒類  「醒睡笑」の酒餅論(2)  酒に呑まれた頭(3)  吉田茂の飼い犬  勘助地蔵  「醒睡笑」の酒餅論(1)  話のような酒蔵の話  つまみ十傑  暖冬  馬鹿酒  ヤコマン酒  杜氏の昔話  「醒睡笑」の酒話(1)  日本霊異記にある酒の話  焼酎の製造技術  江戸時代の酒矯正方法  葡萄つくりのノア  滑稽  「奈良漬け」と、「痩(や)せ法師の酢ごのみ」の語源  「本朝食鑑」の竜眼酒  御酒頂戴(天盃頂戴)(2)   一休の「狂雲集」(3)  一休の「狂雲集」(2)  一休の「狂雲集」(1)  酒品  「三十さわぎ酒、四十しんみり酒、五十ごろり酒」  幻の歌手たち   変な酒亭  酒問屋  日本酒十二ヶ月  山廃香  キスをひく  含蓄のある言葉  アルコール度数の高い酒  葛西善蔵の酒  三浦樽明の墓(2)   御縹醪酒(ぎょひょうろうしゅ)  魚谷の手軽に出来る酒色々  椀酒  江戸末期の酒銘  蜀山人(2)  禁酒の小咄  本朝食鑑の梅酒  本朝食鑑の忍冬酒  小津安二郎の酒  清酒に向かって  ワインと料理の取り合わせ  つまみの「脯(ほじし、ほ)」  澤村  飲めない人・飲まない人  飲めない人の大変身  瓶盞病(へいさんびょう)  狂言とシェークスピア劇の酒  アルコールの実験  酒類の定義  坂口謹一郎の酒  「日本の酒」  山口瞳の語る高橋義孝  蜀山人  ブランデー伯  薄い酒  カッポ鶏  微弱超音波  酒林−寝言屋の説  今日出海の一周忌   新川  生涯「やけ酒」2回まで説  下物  高橋義孝の酔源郷  高橋義孝の肴  斉藤茂太の酒研究  斉藤茂吉の酒  隅田川  陰陽師の酒  高橋義孝の酒  水雑炊  酒のこぼれ話  王莽の酒制度  習俗の酒  藤本義一の上戸色々  清酒の発酵とビールの発酵  百薬の長  作家の二日酔い食  関東松尾神社  田中小実昌の酒  論語と酒(2)  天女の酒造り  論語と酒  酒の温度  料理とワインの組み合わせ  笹乃雪  風土記の酒の歌  論語の觚(こ)  孔子と酒  なんでも10傑(2)  なんでも10傑  フグの白子酒  日本山海名産図会   風土記の酒(3)  風土記の温泉  風土記の酒(2)  風土記の酒  風土記の酒殿  バーの老舗  酒に呑まれた頭(吉田健一)(2)  喫茶養生記(3)  アトピーに効くという酒粕入りの入浴剤  秋なす  酒語色々  コートドールのブドウ畑  樽詰め  清酒の諸団体  飲み方色々  酒関係の季語  旅が酒を飲む(吉田健一)  東京風俗史(下)  酒の擬態語  織田信長  上戸色々  酒類年表(明治屋食品辞典)  香露  「日本の名酒」 稲垣真美  牧水のうた(2)  明治屋食品辞典 酒類編  ルイス・フロイスの日欧比較(4)  マクベス(2)  マクベス  恐妻家  ルイス・フロイスの日欧比較(4)  雪中梅  ルイス・フロイスの日欧比較(3)  ルイス・フロイスの日欧比較(2)  酒の星  北条時頼の酒(2)  酒中花  子規の説  北条時頼の酒  ささゆ(笹湯)  ルイス・フロイスの日欧比較  徒然草の酒  消費生活モニター特別調査  江戸時代の火入れ  酒嚢飯袋(しゅのうはんたい)  酒の配給通帳  酒ずき  小山本家酒造  ココファーム  上戸は毒を知らず、下戸は薬を知らず  徒然草  象鼻盃(ぞうびはい)  9斗入る三つ重ね盃  「盃の底を捨てる」  甘い酒  蘭引(らんびき)  瓶製造の技術  稲穂と麹菌  喫茶養生記2  粉末酒の登場  酔心と横山大観  喫茶養生記  酒販売の例外  ディオニソスの誕生  大言海の「ささ」  絶対禁酒家と飲酒家の兄弟  病理的記憶喪失  本朝食鑑の鶏卵酒(たまござけ)  「胃にやさしい飲酒法」  吟醸香はなぜ出るのか  文化十二年酒戦のつまみ  「縄文人は飲んべえだった」  ギネスブック '01のアルコール関係  石川啄木の酒歌  県の研究所で開発された酵母  白酒の作り方  酒の回文  二日酔いにきくといわれるもの(3)  冷たい飲み物  豊嶋屋の白酒  麹かびの繁殖する条件  瓶の色  酒米生産の難しさ



張献忠
広くてしかも長い歴史を積み重ねてきた中国という国のもつ底知れない多様性の一つに、明末の殺人狂・張献忠という人物がいます。「蜀碧(しょくへき)」という書に描かれているのだそうですが、「酒に酔っている時はおとなしいが、醒めると凶暴となり、一日でも目の前に血があふれ流れるのを見ないと、気持ちがふさいでくる。」という人物だそうです。明王朝末期の混乱期に一方の反乱軍・李自成に対抗しつつ、もう一方の反乱軍の雄となった人物です。どこまで本当か知りませんが、知り合いを招いて徹夜で飲み明かし、山ほどの土産を持たせ、その帰りがけを襲わせて首を切ってもってこさせ、陣中、酒の相手が居なくて淋しいときにその首をずらりと並べ酌をして廻ったとか。征圧した蜀の人民を片端から殺してしまったと記されているそうです。この人物と比べると織田信長などはかすんで見えるようですね。(「酒池肉林」井波律子)


夏菊
堺の医者が客に「べく杯(底に穴のあいた盃、その穴を指でおさえていなければこぼれてしまい下に置けない。)」を出し、「盃名を、戯れに夏菊としました。その理由は、霜(下)に置けないからです。」といったところ、その座にいた人が大変感銘をうけ、外の酒席で、「べく杯を夏菊というのはもっともなことです。<した>に置くことが出来ないからです。」と言って失敗したという話が醒睡笑にあります。べく杯の別名に「夏菊」という風流な名前も是非加えておいて下さい。


洋酒のスラング
ウイスキー:ジャイアンツ・キラー、ゲイ・アンド・フリスキー(大ふざけ)、ファイヤー・ウオーター、ブルー・ピッグ(青い豚)、スネーク・メディスン、ホワイト・カフェ  ジン:ブルー・テープ、キャッツ・ウオーター、クリーム・オブ・ザ・バレー(谷間のクリーム)、ラフィング・スープ、アイ・ワッシュ・クカイ・ブルー、デッド・アイ、サテン(しゅす)  ブランディー:レッド・リボン、ビンゴ・ファイヤー、フレンチ・クリーム、コールド・ティー、アッパーカット  ワイン:バッカス、ビノ、ビーノ、コール・タール  シャンパン:エンゼル・フォーム(天使の泡)、バブル・ウオーター、バブルズ・バブリー、ミネハハ(笑い水)、カーム(昔の中央アジアの王族)(藤本義一「洋酒物語」)


マンハッタン島
マンハッタンの語源はインディアンの古語で、「酔っぱらい」という意味なのだそうです。マンハッタン島を含むニューヨークを、オランダ人ピーター・ミュニットが1626年にブルックリン・インディアンの酋長に酒を飲ませ、酔わせて売買契約書にサインさせて買ってしまったのだそうです。しかもその値段は60ギルダー(36ドル)。「オレはマンハッタン(泥酔)だったから、契約はパーだ。」と酋長は主張したものの時すでに遅かったということなのだそうです。シャレにしては凄すぎるように思いませんか。(藤本義一「洋酒物語」)


ギリシア時代の酒の些話
粗野:田舎の混合酒(ワイン、オートミール、燻製チーズ、蜂蜜、じゃこうの香料等のブレンド)をくらって民会へ出かけていく。
けち:アルテミスの神様には、会食者の誰よりも、一番少量のお神酒をささげる。
いやがらせ:人びとが祈りをささげてお神酒を供えていると、盃を落として(不吉なことでわざとした。)、なにか気のきいたことをしでかしたかのように笑う。
迷信:月のうち、四のつく日や七のつく日には、家人に言いつけて酒をあたためさせ、自分は外出して、てんにんかの小枝、、乳香、お供えの菓子を買ってきて、家に戻ると、ヘルマプロディテの像を、ひねもす花輪で飾りつづける。
不潔:酒を飲みながらげっぷをする。
貪欲:酒を売るような場合、友だちにさえ、酒を水で割ってわたす。
ギリシアの酒(ワイン)の雰囲気が何となく分かるような分からないような。(「人さまざま」テオプラストス 森進一訳)


鉄道唱歌
「汽笛一声新橋を」で始まる大和田建樹作詞の鉄道唱歌は、東海道に始まりますが延々と続き、全国各駅のある地を紹介する今でいうご当地ソングとして一世を風靡しました。作曲は多梅稚(おおの うめわか)で、あまり評判のよくなかった当時の大家の作った前の曲に次いで今に残る名曲を残しました。この歌の中に酒のことが出てきます。「神崎よりはのりかえて ゆあみにのぼる 有馬山 池田伊丹と名にききし 酒の産地もとおるなり」 学者であった大和田は、灘よりも池田伊丹という、いにしえからの産地を好んだのでしょうか。


フランス人の酒量
フランス人のアルコール消費量の多さがよく言われますが、確かに尋常の量ではなく、昭和30年頃の数字で、1日1人が1g以上のワインを飲んでいたことになるそうです。一人あたりの100%アルコール量で27g(1955年)だそうです。当時の日本は1.4gだったそうです。ほぼ20倍です。それが平成9年(1997年)はどうでしょう。フランスは10.9gに減っています。一方日本は6.6gに増加しています。この時は1.65倍にまでなっています。日本は40年間で4.7倍の消費量になっています。低アルコール飲料の普及や、女性の飲酒の増加等もそれに寄与しているのでしょうが、なだいなだは、「アルコーリズム」の中で、このような日本のアルコール消費の伸びを心配しています。


蒸留酒の始まり
メソポタミアでは、BC2000年の遺跡から花やスパイスを蒸留したらしい土器が発掘されており、ギリシアの哲学者アリストテレス(BC385-322)は、海水は蒸留でき、ワインなども蒸留することが出来るだろうと記しており、アリストテレスを師としたアレキサンドロス大王がBC332年に建都したアレキサンドリアには、ギリシア語で「アムビック」という錬金術用の蒸留器が登場したといいます。「アムビック」はアラビアでは「アランビック」と呼ばれた。−と、「稲垣真美の「現代焼酎考」にあります。アラビアの錬金術師が起源という説もあるようです。そうすると時代は大分新しくなります。


酒きらいになる薬
アンタブス(アンタビュス)という薬が世に出たときは、アルコール依存がなくなると歓迎されたそうですが、本人が自覚して飲み続けなけれならないので、そう簡単に依存状態から回復できるというものではなかったのだそうです。このアンタブスという薬は、アルコールを分解する過程で出来るアセトアルデヒドを分解する体内の酵素の働きを押さえるため、二日酔いのような症状が出て酒が飲めなくなってしまうのだそうです。この薬は、駆虫剤を作ろうとしていデンマークのヤコブセン教授が、その副作用を自分の体を使って調べていて発見したのだそうです。駆虫薬は今の日本にほとんど必要でないのに、「副作用」の方が薬として必要ということなのですね。(「アルコーリズム」なだいなだ)


醒睡笑の「酒餅論」(3)
上戸と下戸の「しゃべりば」である「酒餅論」の最後は、双方を立てる仲介者が現れて両者が納得するという形でおわります。上戸でも下戸でもないという禅門がそれで、「目出度やな下戸の立てたる倉も無し 上戸の倉も立ちはせねども」と中をとります。しかし、下戸の僧は「上戸にひいきがある。」と承知しません。そこで、次ぎに「世の中に酒飲む人は見てぞよき 得飲まぬ人もにくしとは見ず」とよんだところ、僧も矛を収め両者うまく納まったということです。中をとるのが禅門であるということも面白いですし、私などは一番目にひいきがあるのなら二番目もひいきがあるような気もしますが・・・・。


明治11年最初の酒造法の焼酎の定義
第一項 焼酎とは清酒粕を蒸留したものを謂(い)ふ
第二項 左に掲ぐる物品を原料として蒸留したものは焼酎と見做(みな)す
一、清酒 二、濁酒 三、味醂粕 四、米、麦、稗若しくは甘藷と麹及び水を原料として発酵せしめ又は酒酵母を加えて発酵したるもの
この条文では焼酎は酒粕から取るものが本来のものであり、それ以外のものは焼酎と「見做(みな)す」と考えられていたのだそうです。隔世の感がするとはこのことでしょう。稲垣真美「現代焼酎考」にあります。それがその頃の焼酎に対する常識だったということなのでしょう。


酒呑童子(しゅてんどうじ)
昔話の悪役・酒呑童子ですが、この正体は何なのでしょう。高橋昌明の「酒呑童子の誕生」によると、疫病(天然痘)を鬼という形で表したもので、天然痘が体を赤くかえるので「酒呑」といわれたのだとのことです。酒呑童子は、竜王(水神)、雷神の顔を持ち、また、初めに子供の姿で現れるので童子なのだそうです。この物語の源流である中国の「白猿伝」「失妻記」の悪役猿が「斉天大聖」を称し、この読み方「チィーティエン ダーション」が「酒呑童子」になったのではないかと記しています。酒のことがあまり話題になっていないのでびっくりしました。物語の持つ多様性がよく分かる本です。


醒睡笑の酒話(2)
酒を飲んで、「さてさて、よき『ごすい』だ。」とほめた人に、周囲が笑ったところ、「楊貴妃という謡曲に、『天上のごすい』とある。」と反論したという話が醒睡笑にあります。
「天上の五衰」を、「御酔」と解釈したというのが落ちなのだそうです。「五衰」も「御酔」も日常語でない私たちには解説付きでないと分からない笑いで、落語家のぼやきが分かるような気がします。沖縄・奄美では神酒をゴスイ(五水とも)と呼ぶという注が岩波文庫にはあります。


箴言
酒は恋を養うミルク(アリストパネス)
私は飲むとき考える。そして考えるとき飲む。(フランソワ・ラブレー)
神が水を創り、人が酒を醸す。(ヴィクトル・ユーゴー)
酔っぱらいは言う。しらふの者は何を考えているのかと。(スウェーデンの諺)
「君はなぜ、お酒を飲むの」と小さな王子はたずねました。「忘れるためさ」と酒飲みは答えました。(サン・テグジェペリ)
酒に害があるのではない。泥酔する人に罪があるの。(フランクリン)(「洋酒物語」藤本義一)


龍馬
新宿3丁目にある居酒屋です。かなり早い頃(昭和60年頃)から吟醸酒をおくようにしたのだそうですが、現在250種類以上の吟醸酒があり、ご主人自身もどこにあるか分からなくなるほどの品揃えです。蔵元から手に入れた貴重な酒も冷蔵庫の中で眠っているようですので、ご主人の記憶を呼び覚ますと、めったに楽しめない味に遭遇できるかもしれません。長崎のご出身だそうで、肥料になってしまうイワシにこだわって、イワシを素材にした数十種類のつまみがそろっていて、これだけイワシ料理をそろえた店はないでしょう。ご主人は三千盛りの純米吟醸がお好きなようです。03−3354−7956 すでに閉店してしまったようです。


八瀬の寺の禁酒(醒睡笑)
京都市左京区の八瀬にある青竜寺は禁酒でした。酒好きの僧がお経を入れる経箱のような酒を入れる漆塗りの箱を作り、上に「五部(五種)の大乗経」と書き付けて使っていました。いつも持っているので聞かれると、「京の町にこの経を信奉する檀家がありそこへ持っていくのだ」と答えていました。ある日、酒を詰めての帰りがけに、「それは何か」と聞かれて「お経」と答えたところ、「それではちといただかん」と取り上げられ、「誠にお経であろう。中で五部五部(ゴブゴブ)という音がする。」


黒麹菌の復活
「国やぶれて山河なし」といわれたという沖縄での戦いの後、首里の泡盛「咲元(さきもと)」の蔵元に、軍政府から造りを再開するように命令が出たのだそうですが、戦災で麹菌も焼失してしまい無かったのだそうです。酒造場の焼け跡を見ていた蔵元が、その焼け跡の灰土に埋まった燃え残りの「ニクブク」を見つけました。「ニクブク」とは、稲藁の茎の部分だけを取り出して編んだ、厚手のゴザのようなもので、麹を造るときに米をその上に広げ、黒麹菌を撒いたのだそうです。もしやと思った蔵元は蒸した米の上にその「ニクブク」をかざし、もみほぐすようにしました。24時間後黒麹菌は蒸し米に繁殖していたのだそうです。稲垣真美の「現代焼酎考」にあります。


小岩・楊州飯店
小説「酒仙」の一場面に描かれた楊州飯店へ行ってしまいました。小説の通り「腸詰・ビーフン・肉粽」と書かれた看板がありました。小食のため、腸詰め、魚漿茄子炒め、魚漿チャーハン、腐乳(紅豆富)しか食べられませんでした。中国ワイン、52度の焼酒を飲みましたが、竹葉酒が切れていたのは残念でした。老夫婦がきりもりして、いかにも「酒仙」の舞台になった雰囲気を漂わせた店で、壁にはこれも小説の通り、昔の雑誌コピーや色紙が無造作に張り付けてありました。何となく幸せになって、にこにこしながら店をあとにしました。


「酒仙」 南條竹則
自己破産して自殺を企てた旧家の御曹司が実は救世主で、それを発見した抱樽(ほうそん)大仙によって蘇生させられ、魔酒の徒に盗まれた聖徳利を取り返して「聖酒変化」を行わせるという、美酒美肴、波瀾万丈、荒唐無稽、博覧強記、引用無碍な、家畜人ヤプー的、魔法陣クルクル的、ラップ的小説です。悪役である魔酒の徒の、「山島業造」は、某大手メーカーのパロディーであることはすぐ分かるのですが主人公の暮葉左近の「暮葉(くれは)」が分かりません。バッカスが「馬鹿」に通じるので、「クレバー」の暮葉にしたのかなと思ったのですがどうでしょう。新潮文庫です。


家持の酒を讃(ほ)むる歌
中〃尓 人跡不有者 酒壷二 成而師鴨 酒二染嘗
これが万葉集にある有名な大伴家持の酒を讃むる歌13首の一つです。「なかなかに 人とあらずは 酒壷に 成りにてしかも 酒に染みなむ」です。なまじいに人でいるよりも酒壷になりたいものだ そうしたら酒に染みるていることができるだろうといった歌です。「成而師鴨 酒二染嘗師鴨 酒二染嘗」のところが面白く、「成而(なりて)」は普通の漢文ですが、「師鴨(しかも)」 「染嘗(しみなむ)」は今でいえば当て字で、漢字を日本語化する過程の使用法のようですが、今なら当然×になるところでしょう。


寛文年間(1661〜1673)「酒餅論」の酒類
さて国々の名酒には、わかさ(若狭)に「おばまもろはく(小浜諸白)」や、さつまに「あわもり・りうきう(琉球)酒」、はかた(博多)の「ねりざけ(練り酒)」、摂津には「いたみ(伊丹)」とんだ?に「し水ざけ(清水酒)」、伊豆の「江川」と「きくざけ」や、手いたき軍(いくさ)「あられ酒」、みかた(味方)のりうん(利運)になるならば、世にらくらくと「すみざけ(澄み酒)」と、「うるし酒」とはおもへ(思え)ども、すこし心は「にごり酒」・・・と進んでいきますが、これに続いて「白ざけ」「あげざけ」「あさぢざけ」「ぶどうしゅ」「にんどうしゅ」「みりんしゅ」「しゃうちゅう」「長君酒」「くすり酒」「あまざけ」がでてきます。青木正児「抱樽酒話」にありますが、分からないことの多い文章ですね。


「醒睡笑」の酒餅論(2)
仏様は酒を飲まなかったようで、「酒に三十六失あり」といっているようですが、仏典によっては必ずしも酒を全面禁止してはいないようです。醒睡笑によると、「未曾有(みぞう)因縁経」には、「飲めども修善ならん」と、酒がかえって功徳をもたらした話や、「終身飲酒せんに、何の悪か有らんや」と、飲酒以外に悪を行わなければよいという話があったり、「分別功徳論経」には、「酒を以て薬と為す」ことは「酒の功甚だし」いと書かれていたりするようです。仏典によって酒のニュアンスが色々あるようで、こうしたところも仏教の面白いところの一つなのでしょう。


酒に呑まれた頭(3)
この本を「ちくま文庫」で読んだのですが、昔読んだ新潮社版と何か違うなと思っていました。それが、藤本義一著の「洋酒物語」を最近読んで分かりました。「洋酒物語」が新潮社版で紹介している「酒宴」の話がちくま文庫版にはないのです。それはこんな話です。吉田健一が銀座裏の「よし田」で飲んでいたところ、一人の中年の男性との話が始まり、その人が灘の酒蔵の技師であり、清酒の級別審査のために東京へ来ていることを知る。技師の知る次の店で徹夜して飲みあかしたのだそうですが、その技師が一緒にこのまま灘の工場を見ませんかと誘ってくれたので、そのまま東京駅から「つばめ」で灘へ行って工場を見てまた飲んだ、という話なのですが。筑摩書房さん、この話は是非文庫版に入れて下さい!


吉田茂の飼い犬
昭和26年サンフランシスコで平和条約の調印を終えた吉田茂首相は、その記念にひとつがいの犬をサンフランシスコで買って日本に連れ帰り、吉田邸で育てたそうです。その名前は雄には「サン」、雌には「フラン」と名付けられたそうです。始めて生まれた子犬には当然ながら「シスコ」と名がつけられました。その後、3匹の子犬が生まれたそうですが、この3匹には、「ブランデー」、「ウィスキー」、「シェリー」という名前が付けられたそうです。(「雑学おもしろ百科 第五巻」小松左京・監修) 葉巻に洋酒の似合う吉田茂だけに、「清酒」という犬の名前は出てこなかったのでしょう。


勘助地蔵
港区愛宕に太田道灌の開基という青松寺という大寺があります。この寺の裏、愛宕山の続きが墓地になっており,その入り口に侍風の石像があります。これが勘助地蔵です。この人は本名蘆田義勝で岡山津山藩の松平家の家臣、大名行列の槍持ちだったのだそうです。その長い槍を扱う大変さを後進に継がせないようにと、江戸に着いたところで槍の柄を切って切腹したのだそうです。元禄14年のことだそうです。これが江戸っ子の話題となったのでしょう。一方、勘助は痔持ちだったそうで、そのため、この地蔵を拝むと痔が治るという民間信仰が生まれ、病の癒えた人は勘助の好きだった酒を竹筒に入れて奉納したのだそうです。私の行ったときもワンカップがお供えしてありました。


「醒睡笑」の酒餅論(1)
安楽庵策伝和尚の「醒睡笑」には、伝統の「酒餅論」(酒飲みと酒を飲まない人との論戦、酒を好む側と餅を好む側のお互いの「非難中傷」で、酒対茶の場合もあります。)があります。酒飲みの「俗」と、禁酒の「僧」の、それぞれの自己弁護というか、お互いのいいっぱなしが延々と続きます。そこで、それぞれの書かれている行数(岩波文庫)を数えてみました。そうすると、酒飲み派は141行、禁酒派はは90行で、はっきり結果が出ているようでした。多分和尚は酒が好きだったのでしょう。


話のような酒蔵の話
農大で品評会が行われていた頃、ダイヤモンド賞という最高賞を連続して受賞した長野県の酒蔵がありました。そこの技術畑の若い蔵元は、自分一人で醸造のすべてを行おうという大変な試みを行ない、その結果失敗してしまいました。その酒蔵を市場関係の仕事をしていた人が継ぎました。ちょうどその時、静岡県の銘醸蔵の杜氏が酒蔵に入った若い蔵元後継者とぶつかり、蔵人一同は退職してしまいました。その杜氏たちを引き取ったのが、その長野県の酒蔵でした。その酒蔵は今名酒を生みつつあるそうです。こんはお話のような酒蔵があります。その酒銘は天法といいます。


つまみ十傑
1位:塩辛  2位:タコぶつ  3位:冷奴  4位:丸干  5位:煮込み  6位:ネギぬた  7位:〆鯖  8位:マグロ納豆  9位:ギンナン  10位:クサヤ(太田和彦「居酒屋大全」) かなり著者の好みが反映されている十傑ですが、正統派呑兵衛には一応どれも納得のいくものでしょう。つまみは何もいらないという人はこれを見る資格はありません。ところで、この本で私がうなったのは、「今 軍手 脱ぎつつ 注ぎぬ 天狗舞」(七星)という、どちらから読んでも同じ句になる回文の俳句です。(勿論本論以外でです。)


暖冬
最近酒蔵を訪れる人が多くなってきたようです。日本の文化の一部分を形づくってきた酒蔵の持ち伝えてきている独特の雰囲気や歴史や味を体感してくるということは大変楽しいことであろうと思います。ただその時には、酔っぱらっていかないとか、味見の酒をがぶ飲みしないとか、あまり足繁く通わないといった、最低限のマナーは守らなければなりません。そうしたものの中で、言ってはいけない言葉として「今年の冬は暖かくてしのぎやすいですね」という挨拶があります。低温発酵させないとおいしい酒の出来ない酒造りには寒さが必要です。こうした点にもご配慮の程を。


馬鹿酒
ハムレット 今夜は国王が徹夜で大杯の乾杯を重ね通し、此頃流行の乱痴気さわぎに興じているのだ。そして、国王がラインの酒をのどへ流し込むたびに、らっぱや釜形太鼓が万歳をはやし立てているので。
ホレーシオ そういう習慣なのですか?
ハムレット いかさま、習慣さ。ぼくはこのこの国に生まれ、この風俗に慣らされているが、こいつは守るよりも破った方が名誉な習慣だ。あのように馬鹿酒をやるから、この国民が東西の外国人からとがめられ非難され、酔っ払いだの、豚だの云って汚名を着せられるのさ。(「ハムレット」市川、松浦訳)
そうするとわれらが一気飲みは・・・。


ヤコマン酒
最近居酒屋で流行りの酒を何種類か飲んでみると、必ずといって良いほどヤコマン入りの酒に出くわします。ヤコマンは酒自身から出たもので、別に人工的に作ったものではありませんから、そう問題のあるものではないとは思うのですが、飲むとすぐ分かってしまい、しかも酒の味をこわしてしまっているものが多くて残念でなりません。もちろんこうしたものは使用しない方がよいとは思うのですが、どうせ使うのならもっと上手に使ってもらいたいものです。吟醸香を求めすぎることにも問題があるように思います。清酒の香りは吟醸香ばかりではなくもっと多様なものがあると思います。


杜氏の昔話
以前ある酒蔵の杜氏さんからこんな話を聞きました。品評会に出すための吟醸酒を造り始めたところが、酒母が早湧きしてしまい、あわてて冷やしたのだそうですがそのまま発酵は進んでしまったそうです。仕方ないのでこれは失敗とあきらめて、そのまま蔵元には内緒にしていたのだそうです。ところが、この酒が品評会で金賞を受賞したのだそうです。この話から色々なことを思いました。既成の知識とは違う世界のあること。この時の酵母が保存されていたらということ。コンピューター制御ではまずこうしたことは起こらないだろうということ。杜氏が蔵元にそのことを話していたらどうなったろうかということ。等々。


「醒睡笑」の酒話(1)
住職が弟子に「客が来て手をひたいにかかげたら上の酒、胸をさすれば中の酒、膝をたたけば下の酒を出すように」と教えた。初めは兎も角、人の知るところとなり、住持の「酒を出しなさい」との言葉とともに膝をたたかれた旦那は、「どうせ酒を出してくださるなら、ひたいをなでて下さい」といった。 この話の載っている「醒睡笑」は、落語の話題の宝庫です。これを書いた安楽庵策伝和尚は京都所司代板倉重宗の求めに応じて書いたのだそうです。


日本霊異記にある酒の話
平安時代(822年頃)に成立した日本霊異記には、仏教説話が集められており、「寺の息利(いらしもの)を貸(借)り用いて、償わずして死にて、牛と作(な)りて役(つか)われ、債(もののかい)を償う縁」という酒に関する話があります。寺がその維持費を出すために酒を造り、それを貸して(今の感覚なら売って分割払いをさせるといったことなのでしょう。)利を出していたようです。牛になった理由は「寺から借りた酒二斗(1升瓶20本)分の代金を払わなかった」ことによります。こうした説話から平安時代には寺で酒が造られていたことがわかります。


焼酎の製造技術
最近の蒸留技術の上昇と共に焼酎は大変美味しいものとなってきています。その技術とは。基本的には蒸留器による何回かの蒸留なのですが、減圧蒸留というという技術が一般的になってきました。密閉した容器の中で減圧して蒸留すると、低温(60〜70℃)で醪が沸騰しますので、雑味のない焼酎が出来ます。これは、甲類焼酎を造る連続蒸留器というものとは違う蒸留技術です。また、イオン交換という濾過技術で雑味が一層とれます。これも新しい技術です。伝統と新しい技術。清酒よりも焼酎の方が色々な新しい問いかけを発しているように思います。


江戸時代の酒矯正方法
童蒙酒造記には悪くなった酒の直し方があります。山の草木を焼いた灰の灰汁(あく)を煮詰めたもの。石灰に熱湯をかけて一晩おいたもの。「三番」という実らしいものの荒皮を取って粉にしたもの。柿渋の搾りかすを黒焼きにしたもの。牡蠣、辛螺(にし、海産の巻き貝の一種)、しじみの黒焼き。杉の葉の灰。 といったもので、いずれもアルカリ性のもののようで、酸を中和させたわけです。これに、醪の矯正には、ショウガの葉や、セリや、炒った大豆を いれて悪臭を少なくしたようです。


葡萄つくりのノア
ノアの箱船で助かったノア一族(ノアとヤム、ハム、ヤテペの三人の子ども)は船から出ます。ノアは農夫として始めて葡萄を植え、それで作った葡萄酒を飲んで酔っぱらい、天幕の中で裸を出して寝ていました。カナン(父はハム)は、ノアの裸を見て外にいた二人の兄弟に告げ、セムとヤテペは着物をとって二人で肩にのせ、後ろ向きに歩いていって父の体を覆いました。ノアは酒の酔いから覚めて年下の子が彼になしたことを知った時、次のように言いました。「呪われよカナン−−」  このところは、親族関係に、二つの元話の融合による矛盾があるのだそうです。そして、ノアは洪水の後350年生き、950才で死んだとあります。(「旧約聖書創世記」岩波文庫)


滑稽
滑稽という言葉が酒に関係するのだそうです。史記に、滑稽は酒器のことで、それが転じて、酒を吐き止まないとなり、さらに「俳優」が口から次々に「章」や「詞」が出てくるので、「滑稽の酒を吐きて止まらざるが如し」となったとあるそうです。ここらから、滑稽が漏斗であるという説も出たようですが、「上戸」という言葉の出所もこのあたりにあるという説もあります。また、滑稽が酒樽であるという説もあるそうです。これを紹介している「和漢酒文献集」で著者の石橋四郎は、「この熟語が酒に大関係を持つ事が、聊(いささ)か閑却されて居るのに、多少の義憤を感じた」と記しています。


「奈良漬け」と、「痩(や)せ法師の酢ごのみ」の語源
安楽庵策伝「醒睡笑」の、「謂(い)へば謂はるる物の由来」という初めからこじつけであることを宣言した巻にあります。「奈良漬け」は、「かすが(粕香:春日=奈良)のあれはよい」からきたといいます。「痩せ法師の酢ごのみ」(酢は痩せるといわれているのに、痩せた者がかえって酢を好むといった意味。)は、八瀬(京都市左京区)の寺は昔から禁酒で酒を寺内に入れない、ところが、徳利を持ち込む僧がいて、問われると「酢にて候」といったということで、このことわざができたといいます。「醒睡笑」のこの部分には、ざくろ風呂の由来が、「かがみ(鏡)入る」という定説になっている語源説もありますので一笑にふすわけにもいかないかもしれません


「本朝食鑑」の竜眼酒
竜眼とは、ムクロジ科の常緑高木の果実で茶褐色、大きさは2〜3cmの球形、果肉には甘味があるそうです。果肉は生食したり干して食用や薬用とし、竜眼肉というそうです。味は茘枝(れいし)に似ており、実の形が竜の眼に似ていることが名前の語源だそうです。(大言海) 「心虚・脾弱」を補うと書かれています。皮と核を取り去った新しい竜眼肉を焼酎に浸し土中に100日埋めるのだそうです。酒の色が紅黒色でないと味は佳くないそうです。古酒で漬ける場合は数十日でよいそうです。逆のような気もするのですが。


御酒頂戴(天盃頂戴)(2)
明治元年天皇江戸入りの際、酒が配られました。新川の主だった問屋が新政府から呼ばれて依頼されたのだそうです。鹿島清兵衛、鹿島利右衛門、中井真右衛門、高崎長左衛門がそれぞれ750樽づつ、その代金は12,750両だったそうです。100軒以上の町には3樽づつ、50軒以上の中の町は2樽づつ、それ以下は1樽だったそうです。折から日枝神社の祭礼が維新のごたごたで取りやめになっていたため、これが実施されるときには、幟を立てたり、山車、手踊りなどを伴った大々的なお祭りとして行われました。御酒頂戴は、江戸っ子に新政府に対するよい印象をもたせるきっかけの一つとなったのだそうです。(「中央区区内散歩」中央区企画部)


一休の「狂雲集」(3)
住庵十日、意忙々 脚下の紅糸線、甚だ長し。
他日君来って 如し我を問わば、魚行、酒肆(しゅし)、又淫坊。
(如意庵に住んで、十日だが心は落ちつかず、下半身の赤い糸が、待ち切れんという。今後、ボクを尋ねてくれるなら、魚屋か酒屋か、あるいは女郎屋とおもってくれ。)(中公クラシックス 一休宗純「狂雲集」 柳田聖山訳) 一休禅師の面目躍如の酒詩ですが、その一生をもっとよく知ってみたくなりはしませんか。



一休の「狂雲集」(2)
余(われ)会裡(えり)の徒(と)に誡(いまし)めて曰(いわ)く、酒を喫(きっ)せば必須(すべから)く、濁醪(だくろう)を用うべし、肴は則ち其の糟(かす)而巳(のみ)。遂に之を名づけて、乾一酒(けんいつしゅ)と曰う。仍(よ)て偈(げ)を作って、以て自(みずか)ら咲(わら)うと云う。(一門の弟子を、ボクが戒めた言葉。酒をくらえば、にごりざけを選ぶべし、肴ならば、そのカスでよろしい。そこで、乾一酒(天下一品)と銘うち、偈をつくって、大笑いしたのである。)(中公クラシックス 一休宗純「狂雲集」 柳田聖山訳) これは、この後に続く漢詩の前書きの部分ですが、一休好みといったところでしょうか。


一休の「狂雲集」(1)
狂雲は真に是れ 大灯の孫 鬼窟、黒山、何ぞ尊(そん)と称せん。
憶う昔 簫歌(しょうか)、雲雨の夕 風流の年少、金樽をたおせしことを。
(狂雲(一休)はまぎれもない、大灯禅師の児孫である。悪鬼の洞窟や黒山地獄に、息をひそめている連中を尊者などとどうしていえよう。想い起すのは、雲雨の恨みを簫や歌ではらした夜、まだまだ花やかな年頃ゆえに、樽いっぱいの高貴な酒を、一気に呑み干したことだ。)(中公クラシックス 一休宗純「狂雲集」 柳田聖山訳) 自らを狂雲と称した一休禅師の「酒品」はどんなものだったのでしょう。


酒品
「酒品」 矢口純の「酒を愛する男の酒」にある言葉です。小泉武夫は「酒道」を語ります。昔の人でも、孔子は「乱に及ばず」と言い、吉田兼好は「下戸ならぬこそ男はよけれ」という一方「友とするに悪き者−酒を好む人」としています。多分それぞれに思うところは大体似たようなものなのでしょう。酔っても人に迷惑をかけない楽しい飲み方が大事であるということなのでしょう。
飲むほどに自分が出てきて、自己主張が強くなる。また、はめをはずしてさわがしくなる。これらを繰り返しているうちにさとりに至れば上記の境地に達するのでしょうが、われら衆生は繰り返しているだけで進まないなような気がしませんか。


「三十さわぎ酒、四十しんみり酒、五十ごろり酒」
「三十さわぎ酒、四十しんみり酒、五十ごろり酒」という言葉があるそうです。(「ジョーク雑学大百科」塩田丸男) 段々寂しくなるようで、もう少し何とかならないものかと考えてみました。「三十 さしみ、四十 ししゃも、五十 ごまめ」「三十 さんざん酒、四十 しっかり酒、五十 ごぶさた酒」「三十 三合、四十 四合、五十 五勺」「三十 サワー、四十 焼酎、五十 合成酒」 自分のことが頭にあるせいか、どれも霜枯れでうまくいきません。よいことわざがあったら是非教えて下さい。


幻の歌手たち
高見順ははにかんで「南国土佐を後にして」「星は何でも知っている」。安岡章太郎はシャンソン一本槍。滝田ゆうは「めんない千鳥」「お暇なら来てよね」。田中小実昌は玄人はだしで、なかなか歌わないがジーンとくる歌いっぷり。田辺茂一は「茂の季節」という「恋の季節」の替え歌を得意とする。三浦哲朗は、嫋々(じょうじょう)としてしかも清々しかった。阿川弘之は「広瀬中佐」をはじめとした海軍一点張り。水上勉は、並の芸人でない人を引き込むうまい歌芸人。山口瞳はどうしても歌わなければならなくなると「すみれの花ナ−」。 とは、矢口純の「酒を愛する男の酒」にあります。知らない歌ばかりですか?


変な酒亭
都内のある酒亭へ行きました。ワインと酒が並んでいましたので、今日の料理はどちらが合いますかと聞いたところ、自分はすべてに合う料理を造っているのだとの返事でした。生酒を選んで、これは生生ですかと聞いたらレッテルを見ればわかるだろうとの答えでした。飲んでみたところだめになっています。何度の冷蔵庫に入れているのですかと聞くと、5℃だとの答え。それでは生生はだめになってしまいますよと言ったら、酒のことはよく知らないとの答えでした。その後出てきたグレープフルーツを使ったサラダは別の生酒とは少しも合いませんでした。後から来た常連客にはテレビに出た話を盛んにしていました。結構有名な店のようでしたが、びっくりしました。


酒問屋
嘉永5年(1852)頃一応完成されたという「守貞漫稿(もりさだまんこう)」によると、新川・新堀・茅場町に数軒の巨戸の酒問屋が軒を並べているとあります。京阪では酒蔵が直接小売店に売ったので問屋はなかったともあります。その年出来た新酒の江戸への一番乗りを競う「番船競争」の到着舞台となったのもこの問屋街でした。大阪−東京間を最短5日で運んだそうです。今でも新川はその名残の酒問屋があり、かつての雰囲気をわずかに伝えています、「守貞漫稿」には、その当時、伊丹・池田にかわって、灘目(灘)の酒が最上と言われるようになったとも記されています。


日本酒十二ヶ月
一月:正月酒:お屠蘇  二月:雪見酒:フグひれ酒  三月:桃の酒:にごり酒  四月:花見酒:燗酒  五月:節句酒:冷や酒  六月:夏越しの酒:吟醸酒  七月:七夕酒:冷酒  八月:暑気払い酒:オンザロック  九月:月見酒:ぬる燗  十月:紅葉酒:カッポ酒  十一月:収穫の酒:新酒  十二月:冬至酒:熱燗  大晦日:年越し酒:人肌酒  (「完本・居酒屋大全」 太田和彦) 古酒や秋を迎えた生酒、お燗した吟醸酒、卵酒などはどこに入れたらよいでしょう。


山廃香
清酒にはその造り方によって色々な香りがあります。その一つに山廃香があります。山廃とは、「山卸し(物量を櫂−かい−ですりつぶす作業)」という作業を「廃止」した酒母の造り方なのですが、出来上がった清酒には焦げた?ような独特な香りがあります。これの全くない清酒が山廃といって売られていると何となくがっかりします。その一方、略式でこの香りを出す「山廃」もあるようです。ただ、そういう私自身、先日も「生もと酒」を飲んで雑味(香)を感じ、精米歩合が高いのかなと思ったこともあり、こうした香りをどのように考えるかということはむずかしいものように思われます。


キスをひく
高倉健の歌った「網走番外地」に「キスひけ」という言葉が出てくるのだそうです。「キス」は「好き」を逆さにした酒の隠語で、ビールは「にがキス」なのだそうです。そして「ひく」とはどういうことかというと、酒を「伊丹」ということからきているのだそうです。「伊丹」は「み」を省略して「いた」ともいうのだそうで、その「板」はノコギリで挽くので、酒を飲むことを「ひく」というのだそうです。塩田丸男の「ジョーク雑学大百科」にあります。


含蓄のある言葉
「亭酒」(ノンベー亭主)、「主乱」(酒乱の亭主)、「酒人」(ノンベー主人)、「焼昼」(昼間からの焼酎)、「酩亭」(酩酊亭主)と、「ジョーク雑学大百科」で塩田丸男が含蓄のある言葉として新語を紹介しています。最近は、女性の酒権も高まり、「酒婦」ですとか、「おかん」(お燗)といった平等酒会となってきたようです。またさらにすべてが低年齢化しており、焼酎学生といったものもあるようです。それだけに酒には酎意しましょう。後半が面白くなくて酒味ません。


アルコール度数の高い酒
世界中で一番アルコール度数の高い酒は、今はないそうですが、エストニアで売られていたもので98%あったそうです。現在市販されている酒の中で最もアルコール度数の高いものはポーランドで造られている「ポーリッシュ・ピュア・スピリッツ」で96%だそうです。日本で一番高いのは多分沖縄の泡盛「どなん」の60%でしょう。しかし、甲類焼酎原酒や、清酒用醸造用アルコールは100%弱あります。また、焼酎を醸造している蔵元と良い友だちになればおいしい70〜80%の焼酎原酒を味わうことができる可能性があります。ただし、胃は泣くでしょう。


葛西善蔵の酒
「自分はその狭い植え込みの中に、動く黒い姿を認めた。ゾウーとした感じにうたれた。…兎に角(とにかく)にさう云ふ黒い影が、毎晩のやうに私を脅かす。閉めておいた筈(はず)の雨戸が開放されてあり、閉めてゐた筈の障子(しょうじ)が開いてをつて、漠然(ばくぜん)とした黒い影が蚊帳(かや)の外に立たれるには敵(かな)はない…」(葛西善蔵「弱者」)これはまさにアルコール幻覚症の症状であるが、葛西善蔵は三○年におよぶ飲酒歴の結果、ここに至ったのである。彼の一日の酒量は一升といわれる。 (酒飲みののための科学」加藤伸勝) 代表作「子をつれて」や「椎の若葉」の作者、葛西は戒名は「藝術院善巧酒仙居士」 で享年は42歳だそうです 。


三浦樽明の墓(2)
山東京伝の「近世奇跡考」巻五などに、慶安年間に川崎太師河原の酒合戦の一方の領袖・地黄坊樽次(じおうぼうたるつぐ)の碑を、その門下の酒徒であった小石川戸崎町祥雲寺の住持が、寺内に建てたと記していると、青木正児の「抱樽酒話」にあります。「墓は已に文化頃失われていたというが、祥雲寺の碑はあるいは今遺っているかもしれぬ。」とも「抱樽酒話」にはありますが、現在豊島区に移っている祥雲寺にあるのは地黄坊樽次の配下、三浦樽明の碑です。酒合戦と山東京伝の時代差は約100年、京伝らが間違って伝えたとしても仕方のないことなのしょう。


御縹醪酒(ぎょひょうろうしゅ)
北魏の太宗(皇帝)ががかつて崔浩(さいこう)を召し、夜の更くるも忘れて国事を談じた折、これに御縹醪酒(ぎょひょうろうしゅ)十觚と水精戎塩(すいせいじゅうえん)一両とを賜うて、「朕にとって汝の言はこの塩酒の如き味がするので、汝とその旨味を共にしよう」といったという(「魏書」崔浩伝)。−「縹醪」とはいかなる酒か未詳であるが、その字義は淡青色のモロミ酒ということで、「御」は天子の飲料を意味する。「觚」はサカズキの名称で、相当の大盃であろう。これは、わが国の中国文学の大家で愛酒家だった青木正児の「酒の肴」の一節です。青い酒とつまみの良質な塩、飲んでみたいですね。


魚谷の手軽に出来る酒色々
玉子酒(玉子一つをよく撹拌し、1合の熱燗をかける)、菊酒(酒に菊を浮かべるだけ)、腸酒(わたさけ、コノワタ盃半分を包丁で叩き切り、熱燗をかける)、雲丹酒(ウニ盃1/4に熱燗をかける)、ぐじ酒(塩味の焼いたアマダイを蓋物に入れ、燗酒を入れて2-3分)、鯛酒(グジ酒と同じ)、骨酒(ほねざけ、タイのアラを酒と少々の塩で煮、これを丼に入れて熱燗をかけて2-3分)、鮭酒(新巻鮭を薄く切って焼き、熱燗をかける)、鰭酒(ひれざけ、フグの鰭を焦げない程度にあぶり熱燗をかける)、海老酒(車エビの皮を剥き腸を取り軽い塩をして強火で焼き、熱燗をかけて2-3分)、蟹酒(ゆでた蟹の外子と卵に熱燗をかける)、烏賊酒(するめに塩をふって強火で焼き、細く割いて熱燗をかける)、鰻酒(大串を丼に入れ熱燗を十分にかけて5−6分)。これなら誰にも出来そうですね。(「味覚法楽」魚谷常吉)


椀酒
古歌を一首ずつ挙げて、それにことよせて銘々異なった椀で飲もうという趣向の話です。
年老(た)けて又飲むべしと思いきや 命なりけり小夜(さよ)の中椀(本歌:中山) と、一人目が中椀で飲んだ。 紅葉せぬ常磐(ときわ)の山に住む鹿は、己(おのれ)啼(な)いてや秋をしる椀(本歌:知るらん) と、二人目が汁碗で飲んだ。 年の内に春は来にけり一年を、去年(こぞ)とやいひ椀(本歌:言はん)今年とやいひ椀(言はん) と三人目が飯椀で2杯飲んだ。 最後の人の勝ちですが、本歌が分かりますか。昔の人たちの教養は大したものだったということのなのでしょう。(「曽呂利狂歌咄」 青木正児「抱樽酒話」より)


江戸末期の酒銘
戦国末期の「酒茶論」を焼き直した、江戸末期の「酒茶問答」という本に当時の酒銘が列記されているそうです。「花洛(みやこ)の此花、尽ぬ泉、梅酒・菊酒・枸杞(くこ)・忍冬(にんどう)の銘酒より、難波の澤の鶴、南部の霰酒(あられざけ)、近江の桜川、美濃の養老、加賀の菊酒、東武の白酒、仙台の黄金露(こがねのつゆ)、薩摩の焼酎・柳蔭・泡盛・砂ごし・南蛮酒、崎陽(ながさき)の茴香(ういきょう)酒、備後の保命酒、灘の不二見、伊丹の剣びし・男山・老松・島台・玉緑・琥珀・しら雪・泉川より、上銘並銘のかずかず、亦は丹波の桑酒、鬼殺しまでを挙げて−」と、酒の酒類や銘柄が列記されています。どの位ご存じですか。(「抱樽酒話」青木正児)


蜀山人(2)
太田蜀山人、本名直次郎は、幕臣で、南畝(なんぽ)、四方赤良(よものあから)、寝惚(ねぼけ)先生、山手馬鹿人(やまてのばかひと)などの号をもった笑いの才人でした。四方赤良の狂名によって、天明狂歌の中心人物として多くの作を残しました。
生酔の礼者をみれば大道を 横すじかいに春は来にけり
世の中はさてもせわしき酒の燗 ちろりの袴(はかま)着たりぬいだり
百人一首のパロディー「狂歌百人一首」を作ったりしたそうです。(興津要「江戸食べ物誌」)


禁酒の小咄
「おぬしは、酒をやめたじゃアねえか」「さればよ。願立てをして、五年が間、禁酒をした」「そりやア不自由であらふ。なんと、十年の禁酒にして、夜ばかり飲んだらよかろう」「それもよかろうが、いつそ二十年の禁酒にして、昼夜飲むべいか」。(寛政頃刊「太郎花」 興津要「江戸食べもの誌」より) アキレスは亀に追いつけないという問題に似ているような気もしますが、面白い笑い話です。理屈で考えようと思うと、あれ?となりませんか。


本朝食鑑の梅酒
半熟の中位の大きさの梅を早稲草(わせわら)の灰汁(あく)に一晩つけ、取り出して紙で拭き、再び酒で洗ったものを2升用意する。これに好い古酒5升と白砂糖7斤を合わせて甕に入れ、20日を過ぎて飲むのだそうです。砂糖の貴重だった当時としては大量な使用量で、かなり甘いものだったのでしょうが、普通の人には高価すぎて簡単に出来るものではなかったのではないでしょうか。焼酎でなく古酒につけるというのも興味深いものがありますね。


本朝食鑑の忍冬酒
忍冬とはスイカズラというツル性の半常緑の木のことで、今でも扁桃炎や口内炎に煎じて使用するそうです。本朝食鑑で紹介されている忍冬酒は、紀州、伊勢、肥後、筑後等の藩の名産だったそうで、焼酎に忍冬などの薬草を浸した薬用酒だったようです。特に紀州徳川家のものが有名だったようで、「甚だ辛辣で、香りが烈しく、丁(ちょうじ)・桂(にっけい)の類をまぜて焼酒に造る。」(東洋文庫)とありますからあまり甘くないものだったようです。熟成させたものがよかったそうです。諸風・痛痺・湿腫等を治し、胸をくつろげ、腹中を温め、食欲を増し−と記されています。


小津安二郎の酒
小津安二郎がシナリオ作成のために、昭和31年以来長野県蓼科の別荘にシナリオライター野田高梧と共にこもって、二人で1本のシナリオ完成までに、近くの茅野市に酒蔵のあるダイヤ菊1升瓶100本をあけたそうです。その間、「東京暮色」から「秋刀魚の味」まで8本のシナリオを書きあげたのだそうです。ただし、空にした1升瓶に番号をつけて並べて仕事の進行の目安にしていたという話は、蓼科ではやらなかったそうです。(「小津安二郎と蓼科の酒」田中真澄) あの数々の名場面はダイヤ菊の酔いの中で生まれてきたといってよいようですね。


清酒に向かって
世界の国々に特産される酒類は、その国独自のものであり、国民はそれに無限の誇りとあこがれをもっていることは周知のとおりである。世界の先進国のうちで、何れの国が、自国の酒をいやしめて、他国の酒のみを尊ぶ国があるであろうか。わが日本は、もしそのようなことはおこるとすれば、それは一体どういうわけであろうか。酒を造るものは酒造家であるが、これを育てるのは国民大衆でなければならない。 いかにも坂口謹一郎らしい「日本の酒」の中の一文です。私たちは誇りを持って清酒を飲んでいましたっけ。


ワインと料理の取り合わせ
ワインの酸に注目して、ワインを20℃位がおいしい乳酸系、5℃位がおいしいリンゴ酸系、それにその中間系と分け、一方、料理を、乳酸に合う油の多いもの、リンゴ酸に合うグリコーゲンの多いさっぱりしたもの、中間系に合う中間のもの分けてそれらを組み合わせると、ワインと料理が「口の中でピタピタ合う」のだそうです。合わない部分がある場合はそれをマスキングしたり、不足の部分を足したりすれば良いのだそうです。よく分からない方は是非「ワイン常識ががらりと変わる本」をお読み下さい。清酒も学ぶべきことは多々あると思いますが、味と香りの個性を比較的出さない東洋的清酒は、料理との相性には鷹揚といったところなのでしょうか。


つまみの「脯(ほじし、ほ)」
孔子の「論語・郷党編」に、「沽(買)う酒と、市(買)う脯(ほじし)は食らわず」とあります。昔も酒のつまみは、「かわきもの」か、「しめりもの」があったようですが、前者は肉や魚の干した物、後者は果実のたぐいだったようです。この「脯(ほじし)」は、ほししし(乾肉)の約だそうで、薄くさいて干した肉です。今でいう鮭トバやビーフジャーキーで、これが、昔のつまみの主流だったようです。生ものの保存がむずかしかった昔、酒がもっとも手強い生ものだったと思います。


澤村
東京渋谷・道玄坂にある酒処です。酒蔵300以上を訪ねて集めたという酒が並んでいます。沢山の酒銘が箸袋の裏に印刷されているのも一興です。澤村さんの誠実さと熱意がそれを実現させたのでしょう。吟醸酒ばかりでなく、昭和50年代の達磨正宗古酒などというものまであります。「美味しんぼ」54巻には、「越の華」との出会いから日本酒に開眼した話などが載せられています。私は、香露、黒龍、達磨正宗を飲んできました。03−3464−8870


飲めない人・飲まない人
文芸春秋編の「酒との出逢い」93編の中には、飲めない人の文章も5つあります。赤木駿介(作家)、家田荘子(ジャーナリスト)、蜷川幸雄(演出家)、小沢昭一(俳優)、新藤兼人(映画監督)。何となく分かる人、そんな馬鹿なという人。こうしてみると飲めない人を捜すのは新鮮な驚きがあって面白いようですね。下戸の逸話事典でも、「新感覚派=ノン・アルコール派?」として片岡鉄兵、横光利一、今東光、川端康成という「へ?」と思う人たちを紹介しています。


飲めない人の大変身
文芸春秋編の「酒との出逢い」には、93人の酒とのなれそめが集められています。その中で、「飲めなかったのに飲めるようになった」という人が何人かいます。白石一郎(作家)、戸板康二(作家)、大沢在昌(作家)、灘本唯人(イラストレーター)、皆川博子(作家)の5人。もっとも、飲めないと思っていたという人もいるような気もしますが、大体は飲めない体質だったようです。それが下戸のトンネルを抜けたら酒の国だったという感じで、肝臓を心配しなければならない地平へ至っています。ひょっとすると、欠損酵素が治ってしまっているのかもしれません?


瓶盞病(へいさんびょう)
瓶は日本流には「ビン」ですが、本来は陶製のかめや、こしきの意味で酒を入れる器、盞はちいさな酒杯のことで、この二つは、酒器と杯で何の問題もありませんが、これに「病」という字ががつくといけません。この言葉は、宋の陶穀の「清異録」酒漿門にあるのだそうですが、それによると、唐時代の俗語なのだそうです。「朝となく晩となく、寒いにつけ、楽しいといっては酔い、愁いても酔う。閑だといっては酔い、忙しくても酔う。肴の有る無し、酒の善し悪し、一切構わず。」(青木正児)少し前までのアルコール中毒、現在のアルコール依存。瓶盞症とすれば今の学会でも通用するような気がしないでもありません。


狂言とシェークスピア劇の酒
狂言には酒にかかわるものがたくさんあります。有名な「棒縛り」(酒好きな二人を縛って飲めないようにしたのに二人は工夫して飲んでしまう)の外にも「河原太郎」、「伯母酒」、「木六駄」、「千鳥」等々。一方、シェークスピアの劇中、悲劇の中の喜劇部分(能の間の狂言のような部分)にも酒の話題がよく出てきますます。(ハムレットやマクベス等) こうした演劇においては、酒は憂いを払う箒(ほうき)役というよりは、笑いを創る、「創笑物」?という役割が与えられていたといったところでしょうか。


アルコールの実験
アルコールを投与したラット24匹と、与えないラット16匹を、0℃の部屋に30分放置した後、常温にもどしたところ、前者は全部元気に、後者は12匹が死んだ、という実験結果が、あるお医者さんの書いた酒の本にありました。私たち酒飲みにとってありがたいアルコールの効果の一つといえるのでしょうが、少し気になりました。アルコールは、1gが7kcalの高エネルギー食ですので、比較するのなら、同じブドウ糖などのエネルギー源をラットに摂取させて比較すべきだったのではないでしょうか。数字の面白さと怖さを感じます。


酒類の定義
酒税法は酒類を、清酒、合成清酒、しょうちゅう、みりん、ビール、果実酒類、ウィスキー類、スピリッツ類、リキュール類、雑種に10分類しています。合成清酒は鈴木梅太郎が考案した日本独特なもので、現在は清酒が多少混和されていまますので、三倍醸造の清酒とは量的な違いがあるだけといってよいでしょう。36度以上45度以下のブランディー、ウオッカはスピリッツ。45度を超えたそれらはスピリッツの中の原料用アルコールに分類され、泡盛のどなんなどはこれにはいりります。焼酎にエキス分が2度以上になる砂糖を加えた場合はリキュール。粉末酒、どぶろく(濁り酒)、肥後赤酒は雑酒になります。分かるでしょうか。


坂口謹一郎の酒
著書「日本の酒」を見ると何となく分かりますが、坂口謹一郎は、吟醸酒のようなきらびやかな酒よりも、古酒のような調熟の味を好んだようです。千葉県の古酒「古今」などはその薫陶から生まれたもののようです。若い頃結核を病んだ坂口は、酒を医者から止められていましたが、40才をすぎて、もうそろそろとよいだろうと飲んでみたところ、いくら飲んでも二日酔いにならなかったことから酒の神様の道を歩み始めたようです。酒の神様の命名は、年上の親友谷川徹三のようです。しゃんとした飲み方で、談論風発、時には歌が出て、その一方人によっては、いわゆる「こわい先生」でもあったようです。80歳を過ぎても1升近くは飲めたようです。


「日本の酒」
坂口謹一郎の「日本の酒」は、清酒を語る者にとってのバイブルのような本です。特に「古い文化は必ずうるわしい酒を持つ。すぐれた文化のみが、人間の感覚を洗練し、美化し、豊富にすることが出来るからである。それゆえ、すぐれた酒を持つ国民は進んだ文化の持ち主であるといっていい。」という巻頭の部分は私を含め、どの位引用されてきたことでしょう。麹研究の第一人者は、酒の神様でもあり、歌会始の召人とのなった歌人でした。 うまさけはうましともなく飲むうちに酔ひての後も口のさやけさ 岩波新書なのですが、これが絶版になっているということを何かで読みました。全集が完結しているようでしたら是非復刻して下さい。


山口瞳の語る高橋義孝
高橋義孝は酔っぱらうと電車に乗るとき切符を買わずワンワンと犬のまねをして改札口を通り抜けた。庭に向かってコップを投げる、したがって窓ガラスが割れる。何度もビールをかけられた、一度はラーメンをかけたれた。しかし、酔ったからといって卑劣な行為に及ぶことは絶対になく、からっとしていた。と山口瞳はオール讀物の「酒との出逢い」に描いています。本人の文章では知ることの出来ない貴重でほほえましいエピソードで、高橋義孝という人の酒が何となく分かってくるような話ですね。


蜀山人
世の中は色と酒とがかたきなり どふぞ敵(かたき)にめぐりあいたい
わが禁酒やぶれ衣となりにけり さしてもらおうついでもらおう
といった絶妙の作を残している江戸後期の狂歌、戯作で活躍した太田南畝(蜀山人)は、玉川治水などで名を残した幕吏だったそうです。この人の別号「四方赤良(よものあから)」は、四方久兵衛の酒舗からとったのだそうで、とにかく酒が好きだったようです。唐衣橘洲、朱楽菅江の三人で狂歌の三大家といわれているそうですが、酒の狂歌では第一人者といって良いでしょう。


ブランデー伯
伊藤博文は酒好きで、その方面の数々のエピソードを持っています。明治34年の議会の際、ブランデーを飲みすぎて壇上に上がり、「天皇は伊藤を御親任あそばされるぞ」と大見得を切ったり「切れるものなら切ってみろ」と叫んだということです。その結果たてまつられたあだ名がブランデー伯だそうです。深夜台所で酒をあさっていて泥棒と間違えられたとか、酒の話題には事欠かない人物だったようです。深夜の飲酒癖は、起きていて暗殺を免れるための行動だったという説もあるようです。


薄い酒

平安時代末から鎌倉時代に描かれたという地獄草紙には酒をうめて売った者は地獄に落ちると、くどいくらい描かれてています。鎌倉時代の沙石集には酒に水を加えると罪になることをさとされた酒屋の尼が水に酒を加えて売ったという笑い話があります。酒樽を運ぶ馬子が自分の飲んだ分を水で補ったという江戸時代の話や、近くは金魚酒などというものもあり、酒をうめることは批判の対象でした。それが今はどうでしょう。例えば、35度の焼酎が一番安いのにもかかわらず、水でうめた20度の焼酎が売れ、さらに果汁?などで薄めた10%以下のチューハイに人気があり、清酒でも原酒を薄めた13%位のものが売れます。時代の変化とは面白いものです。


カッポ鶏
青竹の節の中に酒を入れて、いろりに差し込んでお燗して飲むカッポ酒は有名ですが、カッポ鶏というものがあるのだそうです。これは、太い青竹の中へ地鶏の肉とタマネギを詰め込んで、焚き火の中へ放り込むのだそうです。そうすると青竹は黒こげになりますが、中は程良い蒸し焼き状態になるのだそうです。これにポン酢かショウガ醤油をかけて食べるのだそうですが、カッポ酒の恰好な肴になるのでしょう。宮崎県のものだそうです。(山川静夫「私の酒の旅」)


微弱超音波
酒を振ると味が良くなるという経験則から、酒に微弱超音波をあると、熟成効果がでておいしくなるということを朝倉俊博という人が発見したのだそうです。そういう処理をした酒は、分子集団の大きさが平均化して、分子運動が活発になり、それは酒の熟成したときのものなのだそうです。しかもそうした酒は、二日酔いにならないのだそうです。(朝倉俊博 「仰天 お酒を振ればうまくなる!?」) 遠赤外線をあてると味がマイルドになるとか、イオンインジェクターという装置でイオンを注入すると味が良くなるという話を聞いたことがありますが、これらもそうしたことなのでしょうか。


酒林−寝言屋の説
酒林は、三輪神社の御神木の杉からきたものということになっています。今の蜂の巣型の形の前はただ杉の枝を何本か縛って束ねたものだったようです。その同型のものが中国にあります。酒家の印としてかかげられていたもののようです。これは、掃愁箒(そうしゅうそう:憂いをはき去ってくれるほうき)と言われた酒を、ほうきの形にしたものなのでしょう。それが、日本に伝わって日本化されて、今のような杉の丸玉形になったのではないかというのが寝言屋の説です。


今日出海の一周忌
作家、今日出海の一周忌の宴の時、湿っぽい雰囲気で会が進んでいく中、作家で友人であった永井龍男が立ち上がり、「今さんに乾杯!僕は献杯とは言わない」と酒宴の音頭をとったため、宴の雰囲気が変わり、酒の好きで、にぎやかさを愛した今日出海らしい偲ぶ会となったということです。斉藤茂太の「男を磨く酒の本」にあります。


新川
江戸初期の酒問屋は茅場町や呉服町あたりに集中していたそうです。ところが、振り袖火事ともいわれた明暦の大火(1657)で、霊岸島から新川一帯にその中心が移ったのだそうです。その大火で巨利を博した豪商河村瑞賢が、酒樽を岸にあげるのに便利なように新川を切り開いたという話もあり、元禄以降、酒といえば新川ということになったようです。(「中央区区内散歩」等) 今でも新川には酒問屋がありますが、酒自身と問屋業の地盤沈下により情勢は変わってきているようです。お台場の東京みなと館にその模型があります。


生涯「やけ酒」2回まで説
斉藤茂太によると、「酒は楽しみのためにあるもので、やけ酒がいいものであるわけがない。しかし、どうにもならない現実や、取り返しのつかない過去を忘れるために酒を飲むこともある。ただしそれは人生で2回にとどめるべきであり、その1回は仕事の失敗、そしてもう1度は失恋。この2回を使い果たしたらもうやけ酒は飲むべきではない。」(「男を磨く酒の本」)だそうです。もう少しあってもよいような気はしますが、そんなところでしょうか。


下物
これは何でしょう。読み方は「かぶつ」です。中国から来た言葉のようですが、酒の肴だそうです。今私の使っているATOK11でも出てきませんので、ほとんど死語となっているのでしょう。なぜ、「下物」が酒の肴なのでしょうか。辞書では「酒を飲み下す物」であるとか、「酒と共に飲み下す物」という説明をしています。下酒物ともいうようですから、「酒を飲み下す物」という方がよいのかもしれません。これがなくても酒は飲み下すことができるような気はしますが、何となく風情のある言葉で、使ってみたくなりませんか。


高橋義孝の酔源郷
「東京で酒を飲むと、つい下を見る、足許を見る、地面を見てしまう。大阪で飲むと、人間の、相手の顔を見てしまう。そこで惚れっぽくなる。九州で飲むと、何と、空を見る、空行く雲を見る。この分じゃ沖縄あたりで飲んだら上を見すぎて、引くっくり返ってしまうかもしれない。しかし酒を飲み進めて行くと、まず土地が消え、次ぎに人が消え、最後に自分までもがどこかへ消え失せて、自他の別なき虚空のみが残る。酒は虚空への通い路か。」   トーマス・マン「魔の山」の訳者の酔いの世界は分かるような分からないような。(「酒客酔話」)


高橋義孝の肴
食パンにバターを塗ったもの、梅干しと鰹節のかいたのに熱湯をかけたもの、おからにレモンをかけたもの、グレープフルーツの実ををそのまま、チーズケーキ、細く刻んだ生のキャベツにヨジム・チンキ・ソースをかけたものと、いわゆる通人では絶対いわない肴が並んでいます。そして、さらに水も肴にいいといいます。一度やり出すとやめられなくなるといいます。飲み尽くした人だからこそいえる境地なのかもしれません。水を肴にというのはすごいなと思います。(高橋義孝「酒客酔話」)


斉藤茂太の酒研究
酒の好きな斉藤茂太は、酒の払底していた戦中、高山医学とアルコールを「無理やり」結びつけた、酒が飛行機乗りに及ぼす影響の研究を行いました。高度が上がるほど酒はよくまわるということを実験的に確かめ、それは学位論文の副論文としても役立ち、「アルコール様々」だったのだそうです。したがって、酒には恵まれて、戦中にもかかわらず酒に不自由することはなかったそうです。(斉藤茂太・「男を磨く酒の本」) 


斉藤茂吉の酒
「父・茂吉は、けっこう酒好きだったようで、大学の医局時代、酔っぱらってドブに落ちたなどという噂は私が長じてから知った。しかし、どうしたことかわが家で飲んでいる姿は一度も見たことがなかった。几帳面な性格であったので、酒は家の外で飲む、と自ら律していたこともあるだろう。しかし、本当のところは、養子という立場が、酔ったところを見せることをためらわせていたと私は思っている。」これは、斉藤茂吉の子供・茂太の「男を磨く酒の本」にあります。


隅田川
寛政の改革の頃、下り酒に対抗させて関東の酒を育成させる政策が幕府によって行われたのだそうです。そして関東での地回り酒の雄が隅田川だったのだそうです。「中汲みはよし濁るともすみたかわ(隅田川と澄むをかけた)」「角田川ありやなしやとふってみる(在原業平の都鳥のうた、「名にし負はば いざこと問はん都鳥 わがおもうひとは ありやなしやと」をもじったもの)」  「どちらかといえば安酒だったようだ」と「江戸 食の履歴書」(平野雅章)は書いています。隅田川も諸白だったようですが、灘の諸白の品質にはなかなか及ばなかったのでしょう。


陰陽師の酒
夢枕莫原作を岡野玲子がマンガ化した「陰陽師」では酒を飲む場面がよく出てきます。瓶子(へいし、御神酒徳利の様な形のもの)とかわらけを使って飲んでいるようです。この酒はどんなものだったのでしょうか。NHKTVの陰陽師を見ていましたら、瓶子から出てきたのは白酒のようなとろとろ状のにごり酒でした。当時の貴族はすでに澄んだ酒を飲んでいたように思うのですが、神に近い陰陽師は、黒酒・白酒の神事に使用するにごり酒を普段も飲んでいたのでしょうか。マンガでは飲むときにグビグビと書いてあり、澄み酒の感じをイメージしているようです。


高橋義孝の酒
酔っているところに来た加藤芳郎に、九州で入手した江戸時代の絵巻物を進呈。次ぎに九州で手に入れた同様の絵巻物を訪ねてきた近所の中村武志に、酔って「いいお土産がある」と言ったところ「ありがとう」と言って持って行かれてしまった。その話をまた九州へ行ったときにかの地の友人に話したところ、今度は新しい時代のものの同種のものがあるからともらってきた。この3番目も酔った話の結果、厄介になった別の知人に上げることになってしまった。「酒を飲むために酒を飲む」という酒豪の横綱審議会委員は気前がよかったようです。(「酒客酔話」高橋義孝)


水雑炊
二日酔いでものが口に入らない人に水雑炊はどうでしょう。忠臣蔵の大星由良之助が「喰らい酔ふた其の客に賀茂川で水雑炊を喰らはせい」といったとか、西鶴の「好色一代男」には「ざっと水雑炊をと好みしは下戸の知らぬ事なるべし」とあるとか、式亭三馬の「浮世風呂」では「ヤレ宿酔(もちこし)だの頭痛だのと…水雑炊を食ったりして」、また横井也有の「鶉衣(うずらごろも)」には「肴核すでに狼藉して水雑炊のやらしむる比(ころ)」と、平野雅章の「江戸食の履歴書」にあります。さらに、三馬によると水雑炊とは味噌仕立ての青菜の入ったものだそうです。


酒のこぼれ話
尾崎紅葉は酒に弱く、「三杯上戸」と自称していた。すぐ寝てしまうので友人は「酒内直寝(さけのうちすぐね)」と呼んだ。イギリス議会では蔵相は演説中何か飲むことが許されていた。蔵相時代のチャーチルは演説しながら酒杯をあげ「国民の歳入増加のために」といってぐいと傾けた。尾崎士郎は、若い頃机の前に1斗樽をおいてコップであおりながら原稿を書いた。その後禁酒を志したが、1日と続いたことはなかった。幸田露伴が死の床で「ビールを飲みたい」といいだし、吸い飲みで看護の人が飲ませたところ、「まるで牛の小便のよにとろとろと出てきやがら…」  といった話がたくさんあるのは、三浦一郎の「世界史こぼれ話」です。


王莽の酒制度
「百薬の長」という言葉の出典である王莽の詔書は、その有名な言葉だけでなく、官営か民営かということを述べている大事な書でもあったようです。「山林、沼沢、塩鉄、銭貨、布帛は国が統制しているが、酒の統制は現在行われていない、『詩経』の時代は酒造を政府が司っていた。酒を加えた6種類の品目を国が統制して違反者は最高刑死罪とする。」(「漢書食貨志」東洋文庫)という内容だったそうです。しかし、結果は悪い役人とずるがしこい民によってうまくいかなかったのだそうです。これが約2000年前のことなのです。


習俗の酒
わらじ酒 わらじをはいたまま飲むという意味の、わかれの酒盛り。
手洗い酒 死等のけがれに触れた人に出す清めの酒食。
庭酒(にわき) 収穫された新米で神様に供えるために醸造した酒。庭は新(にい)の意味という。
菊酒 重陽の節会(9月9日)に使われる、菊の花を浸した酒。節句の酒では桃の酒、菖蒲酒等もあり。
立酒(たちざけ) 出発の時(嫁が婚礼で実家を出るとき、葬式の列が出発するとき等)飲む酒。
出立酒(でたちざけ) 旅立ち、病気全快後はじめての歩行、出棺前等に際して飲む酒。
甕洗(かめあらい)酒 祝い事終了の後日、内々の人を招く酒宴とその時飲む酒。甕に残った酒でお礼の酒宴をするという意味。


藤本義一の上戸色々
笑い、泣きの代表的上戸の外に、藤本義一によると、浮かれ上戸、裸上戸、理屈上戸、助平上戸、怒り上戸、気宇壮大上戸、威張り上戸、外国語上戸、論外として眠り上戸があるといいます。これにからみ酒を加えてミニ小説にした、「からみ酒」という作品が、たる出版からでた「掌(てのひら)の酒」にあります。深夜に飲みながら書いた小説集だそうでが、上戸に関してはまだまだありそうですね。


清酒の発酵とビールの発酵
イギリスのビール醸造では上面発酵の泡を回収する装置があって、回収した酵母を使って次の発酵に使うということですが、日本でも下面発酵で何度も酵母を回収して使用することが出来るのだそうです。また、ビールの発酵温度は、6度から15度くらいで、モルツの場合、8度から10度だという事です。清酒は、開放発酵ですので、雑菌が入るせいなのでしょうか、現在酵母は1回しか使いません。発酵温度は普通酒で最高温度15度くらいで、10度くらいというと吟醸酒の発酵温度です。(ビールに関しては「サントリーの嗅覚」片山修)


百薬の長
「百薬の長」という言葉は誰が言ったのでしょう。これは、前漢の末期、政権を乗っ取り新を建国した22年間の覇者、王莽(おうもう)が発した詔書の中にある言葉で、「漢書」に記載されています。日本では平家物語の中で「漢の王莽、梁の朱い、唐の禄山,これらは皆、旧主先皇のまつりごとに従わず、いさめをも思い入れず」と平清盛に比せられた「反逆者」でした。この文書には、「それ塩は食肴の将、酒は百薬の長」とあり、酒の肴の王は塩で、薬の王が酒だというのですから、酒飲みには何よりありがたい言葉です。


作家の二日酔い食
野坂昭如の場合「炊き立ての熱いご飯に、卵の黄身を流し込む。カツブシかダシジャコ、それに海苔を加え、一旦蓋をして数秒おく。蓋をとって醤油をかけ、しっかりかきまぜる。宿酔の時でも食欲増進間違いなし」 藤本義一の場合「朝食は、焼魚、大根おろし等とめし、豚汁も好んで食べる。時にはビールを飲みながら、ハムやソーセージを食べることもあるし気分によっては朝からスキ焼きのこともある。宿酔の時は大根おろしを、それも大量にいく。」 これは、山本容郎の「作家の食卓」にあります。


関東松尾神社
東京都文京区の白山という地名の由来である白山神社の境内に関東松尾神社が祀られています。酒造家の間で最も信仰されているのが松尾神社です。江戸時代に京都嵐山の本社から分霊されたのだそうです。酒蔵札には、「奉祭祀 秦氏神松尾大明神 常磐堅盤 夜乃(の)守利(り) 日乃(の)護(まも)利(り) 幸賜」とあるそうです。11月にお祭りがあるそうです。アジサイがきれいなのでその頃行ってみるのもよいでしょう。


田中小実昌の酒
田中小実昌の酒は葡萄酒とジンに決まっていたそうです。家族の夕食のおかずをつまみにして4合ほどの葡萄酒を飲んでから大好きな風呂へはいるのだそうです。風呂から上がると卵料理をつまみにしてジンを飲むのがコースだったとのことです。葡萄酒は山梨の知人から送ってもらうのだそうですが、その単位は1升ビン100本だったそうです。これを紹介しているのは、山本容郎の「作家の食卓」です。その当人の山本は、盛んな頃は日本酒5合、ビール大瓶5本、ウイスキー水割り5杯、焼酎レモン割り5杯を一晩で飲んでいたそうです。


論語と酒(2)
子の曰く、出でては則(すなわ)ち公卿(こうけい)につかえ、入りては則ち父兄につかう。喪の事は敢(あ)えて勉めずんばあらず。酒の困(みだ)れをなさず。何か我れにあらんや。」(先生が言われた。「外では身分の高い人につかえ、内では父兄につかえる。葬式はできるだけつとめる。酒では乱れない。(それらは)私には大したことではない。」)ということだそうです。秩序を重んじる孔子は酒でも乱れることを嫌ったということなのでしょう。


天女の酒造り
風土記逸文の丹後国の話で、天女の酒造りの話があります。比治の里で、羽衣を老夫婦に隠された天女が、その子どもとして十余年ともに暮らし酒を造りました。この酒は万病を治したため、夫婦は豊かになった。すると、夫婦はこの天女を追い出した。人間界に長く住んだ天女は天に帰れず、「天の原 ふりさけ見れば 霞立ち 家路まどいて 行方知らずも」と歌った。この天女は奈具の村に至り住んだ。これが奈具の社に祀られている豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)である。ここでは、神としての女性による酒造り、薬としての酒が語られています。


論語と酒
「子の曰(のたま)わく、君子は争う所なし。必ずや射か。揖譲(ゆうじょう)して升(のぼ)り下り、而(しこう)して飲ましむ。」(先生曰く、君子は争わない。あるとすれば弓であろう。(しかし)譲り合って上り下りし、(勝敗が分かると勝った者が負けた者に酒を)飲ませる。)とあります。当時の弓の競技は、勝った者が負けた者に酒を飲ませるというルールがあったということのようですが、面白く感じます。貴族階層のマナーだったのでしょうが、今ならゴルフのホールインワンの時のようなものなのでしょう。


酒の温度
「ロスチャイルド家の上流マナーブック」にはワインの温度として白ワインは8度〜10度、こくのある白ワインは10〜12度、軽い赤ワインは14〜16度、こくのある赤ワインは16〜18度がよいとし、室温より2度くらい低いワインの方がグラスに入れたときちょうど良い温度になるといっています。清酒で冷やの場合はどうでしょう。最近生酒が普及してかなり低温で飲むことが多くなってきています。しかし、冷やで飲む場合、ビール並に冷やしてしまうと香りや味がよく分からなくなってしまうような気がします。生生の清酒はともかく、普通の酒は10度〜15度位が良いのではないでしょうか。


料理とワインの組み合わせ
ヤツメウナギのボルドー風味に強めの'85、'86のボルドーワイン、セープ(ナメコに似たキノコ)に'82、'83のメドック、サンテミリオン、子羊のもも肉に'82のメドック、または'59のラフィット、フォアグラのスープに'85のクラルク−−−。といったことが、「ロスチャイルド家の上流マナーブック」に書かれています。こうした料理と酒の「相性研究」はワインの場合特に発達しているようです。料理の個性に対して、ワインの味の幅の広さがこうした選択を可能にしたのでしょう。一方、清酒は今まで味や香りの点で中性であるために、どんなつまみとも合わせることができてきました。「水のようにさわりのない味」を追求してきた清酒にはそうした性質があります。ご飯がどんな料理とも組み合わせることができるように。これはすばらしいことだと思います。


笹乃雪
都内根岸にある創業が元禄4年(1691)という古い歴史をもつ豆腐料理店。これだけ古い飲食店は、都内でもそう多くはないでしょう。上野寛永寺の3代住職として京都から来た輪王寺宮にしたがって江戸へ来た玉屋忠兵衛が初代だそうです。肩肘を張らないで伝統の色々な豆腐の味を楽しみながら酒を飲める店です。酒は金盃。ブドウに豆腐を入れて発酵させたとかいう豆富和飲もあります。豆腐を豆富と書くのもこだわりなのでしょう。朝顔市の日は朝5時から開いているそうです。03-3873-1145


風土記の酒の歌
常陸の国風土記の中で占部(うらべ)氏の同族は、四月十日に集ってお祭りを行い、その後、酒宴を開いたのだそうです。日夜酒を飲んで歌舞を楽しむのだそうですが、その時歌う歌に、「あらさかの 神のみ酒を 飲(た)げと 言いけばかもよ 我が酔いにけむ」というものがあったそうです。大意は、「新たに醸した御神酒を飲めと言ったので私は酔ってしまった」といったところでしょう。この頃は、多分、神様の飲み残しである「お流れ」を無理矢理飲ませる「強(し)い酒」だったのでしょう。


論語の觚(こ)
「子(し)の曰(い)わく、觚(こ、儀礼用の酒器)、觚ならず。觚ならんや、觚ならんや。」という文があります。「飲酒の礼で觚の盃を使うのは、觚すなわち寡(すく)ない酒量のためであるのに、このごろは大酒になって觚は觚でなくなった。これでも觚であろうか。觚であろうか。」(岩波文庫)という意味だそうです。わが国も戦国時代大盃になったようですが、これも孔子の時代と似ていたということなのでしょうか。觚には2升はいるそうです。今の1升位のようですが、それにしても元々多かったように思えます。具体的に、どのように使ったのでしょう。


孔子と酒
論語の巻第五、郷党第十に有名な文章があります。「唯酒無量、不及乱、沽酒市脯不食」で、「唯(た)だ、酒は量無く、乱に及ばず。沽(買)う酒と市(買)う脯(ほじし:干し肉)は食らわず。」と読むのだそうで、孔子の食生活を描いたのだそうです。(岩波文庫)「酒は強いが乱れない」というところは有名ですが、その後の部分は余り出てきません。その部分は、今も昔も家庭の手作りを食べるべきであるということなのでしょうか。孔子のような階層では酒も自家製を大事にするという時代だったということなのでしょう。


なんでも10傑(2)(出荷量の多い甲類と乙類焼酎)
週刊ダイヤモンド別冊の、「ニッポン’91年版 なんでも10傑」によると、出荷量の多い乙類焼酎は、いいちこ28万石、さつま白波15万石、雲海、いいとも14万石、二階堂、吉四六9万石、天照、ひむかのくろうま6万石、白岳4万石、伊佐錦2万石、紅乙女2万石、小鶴、メローコヅル2万石。甲類は、宝酒造61万石、合同酒精25万石、協和発酵23万石、三楽18万石、キッコーマン9万石、札幌酒精6万石、東洋醸造5万石、本坊酒造3万石、森永酒造3万石、中国醸造3万石。乙類の健闘が光っています。


なんでも10傑(出荷量の多い日本酒、出荷量の多い”地酒”)
少し古いのですが、週刊ダイヤモンド別冊の、「ニッポン’91年版 なんでも10傑」によると、出荷量の多い清酒は、月桂冠46万石、白鶴35万石、日本盛34万石、大関34万石、黄桜25万石、松竹梅24万石、白雪22万石、菊正宗22万石、白鹿15万石、剣菱14万石。出荷量の多い”地酒”は、世界鷹グループ9万石、高清水8万石、千福7万石、爛漫7万石、多聞7万石、賀茂鶴6万石、白牡丹5万石、会津ほまれ6万石、清洲桜5万石、富貴5万石。(ともに’89日刊経済通信社)”地酒”は低価格路線と、そうでないものが混じっています。この少し前から低価格酒の大幅な伸びが見られるようになりました。


フグの白子酒
「河豚の鰭(ひれ)を焼いて熱い酒に入れると、ヒレ酒になつて独特の香味が出るが、シラコをとかして砂糖をまぜ、これに熱い酒を入れるのも風雅である。もっともタマゴ酒みたいになって婦人向きになるが。」と、火野葦平の「河豚自慢」にあります。それが何だか分からない雑誌社から来た若い女性編集者に飲ませて、後で白子酒であることを教えて、「まあ意地がわるいわと赤くなって私を睨んだ。」と楽しんでいます。昭和31年の文章ですが、今ならどうでしょう。


日本山海名産図会
昔の酒造りの絵というと必ずといっていいくらいこの書のものが使われます。この書の絵とは知らずに多くの人が見ていることでしょう。この書は寛政11年(1799)に出版され、何版か版を重ねたようですから、ベストセラーの一つだったのでしょう。多くの物産の絵入り解説書で今見ても大変楽しめます。この書を書いたのは木村兼葭堂(けんかどう)孔恭、大阪の人で、造り酒屋だそうです。それで、酒造りに関しては大変詳しい解説と、絵が付いているのですね。


風土記の酒(3)
父親の分からない子の父を見つける方法として、「盟酒(うけい)」ということが行われたのでしょうか、そうした話が風土記には2つあります。1つは播磨国風土記、もう1つは山城国風土記逸文です。ともに、生まれた子に、醸もした酒を父にささげるようにいって、そのささげた相手を父親とするものです。どちらも父親が神であったという話ですが、この当時の民俗を描いたようにも思われます。色々なことを想像させる話のように思われます。


風土記の温泉
出雲国風土記に温泉と酒の話があります。玉造川のほとりの温泉には、男も女も、老いも若きもが、市がたったように入り乱れて酒宴を楽しんでいる。温泉で洗えば姿は立派になり、もう一度湯につかると万病は治る。神の湯といっている。と、8世紀の風土記の描かれています。多分今とほとんど変わらない温泉風景で、生活習慣の変わりにくいことをつくづく感じます。


風土記の酒(2)
風土記は途中で放棄されてしまった全国の地誌で、今に断片として伝えられているのだそうです。13世紀に書かれた、「塵袋」に風土記に記されたものとして、「因幡の白兎」の話などとともに、大隅国の、「口噛みの酒」の話があります。1軒の家で水と米を備えて村中に告げると、男女が集まり、米を噛んでさかふねに吐き入れる。その後、酒の香りが出てきた頃、噛んだ人たちがそれを飲むといったものです。風土記には、「醸す」の語源と言われている、「かび」と、「噛む」の両方が記されているわけで、興味深く思われます。


風土記の酒
播磨国の庭音(にわと)の村(元の名前は庭酒−にわき−)の話として、「神にささげた米がぬれてかびが生えた。そこで、酒をかもして庭酒として神にたてまつり、酒宴を開いた。」というものがあります。米が湿って、そこに麹菌が繁殖して麹となり、それを原料として酒を造ったということなのでしょうが、多分日本で一番古い、かびを利用して酒を造ったことを記した文献であり、「かもす」という言葉が、「かびす」からきたといわれる基礎資料なのでしょう。これだけ見ても、風土記の「逸文」がもっと出てこないかなと思います。庭酒の庭は、神様のいる場所か、神事を行う所ということなのでしょう。


風土記の酒殿
「播磨国風土記」賀古の郡の「酒屋の村」は酒殿を作ったから、揖保郡の「佐々山」は酒殿を作ったから、「酒井野」は井戸を切り開いて酒殿を造り建てたから、「酒田」は酒殿を作った、賀茂郡の「酒屋谷」も酒屋を作った。「出雲国風土記」楯縫の郡の「佐香の郷」には御厨を建て酒を醸したから、また、「肥前国風土記」には「酒殿の泉」があるとあります。こうしたものを見ていると神社の祭事の際には、酒殿を建てていたものかと思われます。播磨国風土記の筆者は酒が好きだったのか、たくさん記述がありますが、多分昔は各地にたくさんあったものなのでしょう。


バーの老舗
清酒のカクテルが頼めるかどうか知りませんが、バーの創業年代別ランキングが光文社発行の「味の老舗」(芦辺洋子&なんでもランキング審議会)にあります。(1)神谷バー(明治13年)、(2)カメリア(大正4年)、(3)帝国ホテル(大正13年)、(4)ルパン(昭和3年)、(5)サン ルーシー といった具合に続きます。神谷伝兵衛が開設した神谷バーの電気ブランはニッカが製造して、いまだに生き続けています。


酒に呑まれた頭(吉田健一)(2)
吉田の酒観によると、穀物でできる酒は一般的に粗末なものですが、ただその中での例外は老酒と清酒である。そしてこの二つの中では清酒の方が果実酒、あるいはその中の葡萄酒に近い。果実酒の中では葡萄酒が問題なく優れているので、東西の横綱はフランスの葡萄酒と日本の清酒であろうと結論づけています。(「酒」) 実は、この本にはほかに話題性があります。ネス湖の怪獣を見た話が載っているということです。しかも、吉田とともに、福原麟太郎、河上徹太郎という当時の日本を代表するインテリが一緒に見ているのだそうです。


喫茶養生記(3)
栄西の書いた喫茶養生記には茶のことばかりでなく、桑の実のことも書かれています。実が熟したときに採取して乾かして粉末にし、蜂蜜で桐の実の大きさに丸めて、毎日空腹のとき酒で40粒飲むのだそうです。長く飲むと体が軽快になって病気にならないそうです。ただし、日本の桑の効力は中国と比べるとわずかだそうです。(岩波文庫) 品種が違うのか、地味や気候の違いにより微量成分に違いが出るのでしょうか。酒で飲むというのが面白く思われます。


アトピーに効くという酒粕入りの入浴剤
ステロイド剤をやめたとたんにくる「リバウンド」の沈静や、アトピーを再発させないために酒粕入りの入浴剤を使ったところ、結果が大変よかったそうです。坂戸内科医院千田院長の文にありましたが、どこのメーカーの製品かは紹介されていませんでした。酒粕入り入浴剤は、アトピーの「リバウンド」に効果があるばかりでなく、美肌効果もあるそうです。


秋なす
「秋なすは嫁に食わすな」ということわざは、「夫木集」にある、「秋なすびわささの粕につきまぜて 嫁にはくれじ 棚におくとも」といううたからできたものだそうです。うまい秋なすを嫁には食わせないという嫁いびりだとか、鼠のことを「嫁が君」というので、嫁は鼠のことだとか色々いわれているようです。しかし結論は、なすが体が冷える食べ物なので嫁を気遣ったうたということなのだそうです。このうたの「わささ」はしぼったばかりの火入れをしていない新酒のことですが、新酒の粕よりは寝かせた粕で漬けた方がずっとおいしいと思うのですが。


酒語色々
名酒(なざけ、改名して披露するときふるまう酒)、抜酒(ぬけざけ、アルコールの抜けた酒または、密造酒)、薄酒(はくしゅ、薄い酒または、自分の勧めるのをへりくだっていう酒)、卯酒(ぼうしゅ、卯時−午前六時頃−に飲む酒)、手酒(自分で造った酒)、長酒(おさざけ、座長がその座員にふるまう酒)、初酒(はつざけ、できたばかりの酒)、拳酒(けんざけ、拳で負けた人が飲む酒) いくつ分かりましたか。


コートドールのブドウ畑
均分相続の徹底しているフランス、コートドール地方は相続のたびにブドウ畑は細分化されていき、ブドウ栽培農家はブドウの木の数列しか持たないようなところも多いとのことです。ある地域ではブドウ畑所有者数が1946年に9,633であったものが、1950年には19,079になったといいます。プイィ・フュッセは454町歩が350のブドウ園に共通なものなのだそうです。日本の水田も人ごとではなくなるのでしょうか。明治屋食品辞典のバーガンデーの項目です。


樽詰め
樽に酒を詰める時には前処理が必要です。新樽はそのまま酒を詰めると「あく」がでて味が落ちますので、熱湯を入れてその「あく」抜きをします。少なくとも数時間から1日そのままにした方がよいそうです。また、これによって、樽内の殺菌ができて火落ちがしにくくなります。こうして酒を詰めますが、新樽の場合、そのまま1週間もおくと木香が付きすぎてかえって飲みにくくなってしまいます。こうしたときはコーヒーフィルターに炭素(炭でも可)を入れて濾過すると過剰な木香がとれます。


清酒の諸団体
清酒の団体がいくつかあります。純米酒にこだわりそれに磨きをかける16社が参加している「純粋日本酒協会」、先見の明があった酒問屋岡永主導型の「日本名門酒会」、フランスのAOCに触発された「日本産清酒原産地呼称認定委員会」(「原産地呼称日本酒」、「伝統的原産地呼称日本酒」があり、この2つは原則的には現在の地名と昔の国名や地名の差のようですが、微妙に違うようです)、利き酒師制度や、食と酒の関係をパターン化させた「日本酒サービス研究会・酒匠研究会」。もっと色々できると面白いと思うのですが・・・。


飲み方色々
日酒(ひざけ、毎日酒を飲む)、引酒(ひきざけ、ただで飲む)、空酒(からざけ、肴無しに飲む)、小酒(こさけ、少し飲む)、気色酒(けしきざけ、相手の機嫌を損ねないように無理して飲む)、長酒(ながざけ、長時間続けて飲む)、追酒(おいざけ、飲んだうえにさらに飲む)、無理酒(むりざけ、飲みたくない酒を飲む)、てんぽ酒(やけくそになって飲む)、意地酒(意地になって無理に飲む)、浮気酒(浮かれて飲む)、我酒(がざけ、無理に飲む)、天狗酒(大酒家が無茶に飲む) 何となく分かるような分からないような。


酒関係の季語
新年 年酒 椒酒 雉酒
春  桃の酒 白酒
夏  菖蒲酒 ひや酒 梅酒 浅茅酒 甘酒 奈良漬 曲水の宴
秋  にごり酒 猿酒 菊水 あらばしり 古酒
冬  生薑酒 みぞれ酒 燗酒 たまご酒
案外夏の季語が多いのに驚きます。甘酒が夏というのも面白く感じます。冷やして呑んだのではないでしょうか。


旅が酒を飲む
「汽車の中で飲み出して飲み続けて夜を明し、翌日は京都について、出版社が紹介してくれた宿屋で早速ビールを又一本飲んで眠って目を醒ますと、外に出て所々飲んで歩き、晩に帰って来て本格的に飲み始めた。宿屋には出版社から何か言ってあったようで旨い酒を幾らでも持って来るので、その晩は一升ばかり飲んだ。翌日目を醒まして、又ビールを頼み、という風にして、何日か過ぎた。」といった、旅と酒を愛した作家吉田健一は、「新編 酒に呑まれた頭」で書いています。これを吉田は、「旅が酒を飲む」と表現しています。戦後グルメ本の元祖のようなこの本は、今流グルメを笑っているかのようです。


東京風俗史(下)(明治35年刊)
酒屋は酒を店頭では飲ませないが、縄のれん、煮しめ屋、一膳めし屋などが、飲食を提供している。下層の労働者が、明き樽を椅子にして鯨飲馬食し、一日の労賃を費やし、家で妻子の待つのを忘れている。樽に腰掛けるので一名矢大臣という。明治30年12月の調査によると、東京都下の料理店は478軒、飲食店4470軒、嗜茶店143軒、銘酒店476軒ある。といった内容が、あらゆる分野にわたって、いかにも明治期の啓蒙主義的といった文体で描かれています。この本は、挿絵が大変興味深いものです。(ちくま学芸文庫)


酒の擬態語
「よよ」、「ほっとり」、「れろれろ」、「とっちり」。どうでしょう分かりますか。「よよ」は、「ぐいぐい」といった感じの、こぼしながら勢いよく飲む様子だそうです。「ほっとり」は、酒に酔って我を忘れたといった様子。「れろれろ」は、酔いで舌がもつれて何を言っているのか分からない状態。「とっちり」は、酒を十分に飲んだ様子と、「ぐてんぐてん」になった様子なのだそうです。そう言われてみればそんな感じもするといったところでしょうか。


織田信長
織田信長は酒を飲まなかったそうです。従って、信長にまつわる髑髏杯等の話は皆ウソということになります。18回以上信長に会い、そのつど長時間にわたって話し、食事をともにしたルイス・フロイスが、信長は酒を飲まないと書き送っているのだそうです。髑髏杯は首級を漆で塗り固め、金泥などで彩色したものを宴席に持ち出したということなのだそうです。明智光秀に酒を無理じいしてそれが本能寺の遠因になったという話も、出典があやしいのだそうです。(下戸の逸話辞典 鈴木眞哉)歴史のウソにはだまされないようにしましょう。


上戸色々
三人上戸(これが笑い、怒り、泣きの上戸の三態)が代表ですが、似たものや、そのほかのものに色々あります。青み上戸(顔色が青くなる)、後引上戸(際限なく次々と飲む)、赤み上戸、色上戸(赤くなる)、色み上戸(赤くなる)、いじり上戸(意地汚い)、隠者上戸(気がふさいでいく)、渇き上戸(一息に大酒を飲む)、機嫌上戸(機嫌がよくなる)、底抜上戸、空(そら)上戸(顔に出ない)、盗人上戸(両刀使い、または、顔にでない人)、腹立上戸、遊行(ゆぎょう)上戸(あちこちさまよい歩く)、呑口(のみくち)上戸(理屈をこねる、樽や桶の「呑み」はひねって締める)、ねじ上戸(理屈をこねて人にからむ)。平家上戸(平曲を好む)これは酒飲みではありませんが言い得て妙。今ならばうんちく上戸。


酒類年表(明治屋食品辞典)
清酒のところだけひろってみました。
1837(天保 8)西宮にウロコ井戸発見
1840(天保11)西宮に宮水発見
1884(明治17)商標条例施行、「正宗」は普通名詞と審決
1903(明治36)「月桂冠」の商標使用のはじめ
1911(明治44)「月桂冠」絶対防腐剤含まずの封緘使用
1934(昭和 9)不正競争防止法制定
1939(昭和14)清酒に公定価格施行
1940(昭和15)酒税法施行、合成清酒登場
1949(昭和24)酒類自由販売復活
辞典本文からの抜粋でつくった年表だそうですが、大変個性的で面白く思いました。ちなみに、大正8年に明治屋はコカコーラを初輸入したのだそうです。


香露
明治42年に熊本の酒造組合が吟醸の神様といわれた野白金一を迎えて創設した研究所、「熊本県酒造研究所」で造られたのだそうです。大蔵省の熊本での鑑定官だった野白が兼務したようですから当時はおおらかだったということなのでしょう。その後、大正6年広島鑑定部長に栄転したところ、熊本の酒造組合は、「野白先生辞職嘆願書」を提出、こうしたこともあって、野白は官吏を辞職して、株式会社化した研究所の技師長から社長となったのだそうです。香露の名称は公募して決めたのだそうです。9号酵母の発祥地でもあります。(「日本の名酒」稲垣真美)


「日本の名酒」 稲垣真美
「仏陀をにないて街頭へ」等、時流に抗して生きた人々を書き続け、大好きな酒の世界でも時流に抗して吟醸酒、純米酒を造ってきた酒蔵を、その歴史と蔵元と杜氏の個性という視点から紹介している良書です。酒通を自認する人は是非一読することをおすすめします。越の寒梅、梅錦、栄光富士、西の関、白真弓、白鷹、月桂冠、香露、花泉等々。それにしても、吟醸酒や純米酒を造ることが時流に抗することだと思われるような清酒の業界はやはりおかしかったのでしょう。(新潮選書)


牧水のうた(2)
酒聖牧水のうたとしてこれはどうでしょう。25才の時の作、「酔いはてて 世に憎きもの一も無し ほとほとわれも またありやなし」 酔っぱらいのうたの典型でしょう。若い頃の徹底した酔態をうったているように思います。代表的なうたではありませんが、こうした若い頃のものには、若い頃ならではの面白さがあるように思います。


明治屋食品辞典 酒類編
問屋の明治屋は酒類の辞典を昭和33年から発行しています。例えばその中で、アルコールを、「アラビア語から出た名。もとは金属の微粉(アンチモニーともゆう)であって「まぶた」を黒くそめるのにもちいたものであった。聖書のエゼキエルの第23章40節に典拠がある。そののち錬金術時代の化学上の用語で、すべての微粉末をさすことになった。さらに転じて液体についてももちいられ、蒸留によってえた「エッセンス」すなわち「スピリット」をさすことになった。・・・」(1963版)といった、学術的すぎないわかりやすい説明をしています。企業文化はギネスブックばかりではありません。


ルイス・フロイスの日欧比較(4)
「日本人はほとんどが食事が終わったころになって、酒を飲み始める。」「日本では大いに尊敬されている市民が、それ(酒)を売ったり、自分の手で計ったりする。」「日本ではこのような時(夜の集いや、劇や、悲劇の際)、酒と肴を欠くことができない。」「日本人はその酒を大きな口の壷に入れ、封をせず、その口まで地中に埋めておく。」「日本人は手中に酒をとり、それで(額を爽快に)する。」などと、酒に関する比較が沢山あります。欧州はその反対ということですが、分かるものもあり分からないものもありといったところでしょうか。(岩波文庫)


マクベス(2)
マクベスがスコットランド王ダンカンを魔女の予言の通り殺害しておきながら、しらをきって言う場面です。「溢(あふ)れる生命の酒は汲みつくされて、何を誇ろうにも、この円天井の下に残されているのはただ滓(かす)だけだ。」滓の残るのはスコッチではなくワイン系です。スコットランドの話ならウィスキーでないのかと思われます。ところが、この場面は11世紀のスコットランド、まだウィスキーの製法は入ってきていないようです。しかも、シェイクスピアによってマクベスの書かれた17世紀はじめには、それほどイングランドにスコッチは入っていなかったようで、そうだとすると、シェイクスピアは間違った記述はしていなかったといえるのでしょうか。(岩波文庫)


マクベス
マクダフ(スコットランドの貴族)「三つのことを酒が特別にけしかけるというほは何だ?」 門番「何だって旦那、赤っ鼻と眠気とそしてしょんべんさ。助平のほうはだね、旦那、けしかけられたり消されたりだ。やるきだけはけしかけやがって、やろうとするとお取り上げよ。だから大酒は助平にとっちゃは二枚舌ってとこだね。やろうとさせてやらせねえ。頑張れの次にゃお控えなすってだ。・・・」と有名な場面があります。これは、はじめにでてくる魔女の「マクベスよりは小さいが大きい」「ふしあわせだが、ずっとしあわせ」といった予言に対比させています。また、こうした劇中の笑いの部分は、日本でいえば能の間の狂言部分なのでしょう。(岩波文庫)


恐妻家
ある恐妻家の士人、ある人から、「酒を飲んで酔っぱらい、気が大きくなったところで家に帰り、何かきっかけをつかまえて、うんと奥さんをたたきなさい。きっとあなたを恐がるようになります」・・奥さんを殴りつけると、果して奥さんは恐がった。・・酒が醒めてから夫人「・・どうして急にひどいことをなさったの?」士人、「酔っ払っていて、おぼえていない」夫人はまた元のように殴りかかると、士人、「・・何某君から教わったのだ」夫人、「・・あなたは、お役人でありながら、すぐそんな人のいうことを聞くなんて、殴られるのが当然です」(懼内) これは中国明時代のの応諧録にあるそうです。(東洋文庫「中国笑話選」)


ルイス・フロイスの日欧比較(4)
キリスト教宣教師と坊主Bonzosとの比較でも酒が良く登場します。宣教師は「人の罪の償いをして、救霊を得るために修道会に入る。坊主らは、逸楽と休養の中に暮らし、労苦から逃れるために教団に入る。」に始まる仏教批判には、「坊主らは禁じられているにも拘わらず、道路で酩酊している−」「葬儀の後で、坊主や会葬者に対して酒宴を催す。」とあり、ザビエルの書簡の中にも「僧侶も尼僧も公然として酒を飲み、蔭にまわっては魚を食べ、巧みに嘘をいう。」とあるそうです。(岩波文庫)例によってキリスト教側からの仏教批判は厳しいものがあります。


雪中梅
新潟の三梅の一つで、「闇価格」は越の寒梅を抜いていました。稲垣真美の書いた、「酒中死美人の謎」?とかいう小説中で、作者がその存在を知らないで雪中梅という酒銘を使い、後にそのうまさを特選街などで紹介したことも有名になった一因だったとも聞きました。社長が3代にわたって早世し、3代の未亡人が蔵をみているという話も聞きました。やわらかい味ですがふくらみのある酒だと思いました。


ルイス・フロイスの日欧比較(3)
女性の比較の章には、「われわれの間では女性は水のコップを右手に持ち、その手から飲む。日本の女性は酒の盃を左手でとって、右手で飲む。」とあります。飲食の比較の章には、「われわれ(男性)は片手で飲む。彼らはいつも両手をつかって飲む。」と記しています。女性は必ずしも左手で飲むのではないようですが、片手で飲んだらしいことが、岩波文庫に書かれています。両手で飲むというのは盃が大きかったことによるような気がしますし、左手で飲むというのは、酒飲みを左ということとの関係が頭に浮かんできます。古い記録は読むほどに面白いものです。


ルイス・フロイスの日欧比較(2)
女性の比較の章には、「ヨーロッパでは女性が葡萄酒を飲むことは礼を失するものと考えられている。日本ではそれはごく普通のことで、祭りの時はしばしば酔払うまで飲む。」と記されています。ここでは、日本の女性は「耳朶に穴をあけないし、耳飾りもつけない。」「夫が後、妻が前を歩く。」「(財産は夫婦が別々に)所有している。時には妻が夫に高利で貸付ける。」「しばしば妻が夫を離別する。」「夫に知らせず好きな所へ行く自由をもっている。」(岩波文庫)ということです。16世紀の日本はフロイスにとって女性の強い国に見えたのでしょうか。欧州の男性が強かったのでしょうか。


酒の星
星座というとてんびん座とか乙女座といった欧米流の名称がまず頭に浮かんできます。なぜか星座はほとんどが西洋流の呼び名になっていることは残念です。東洋にも当然のことながら星座の名称はあります。その中に中国では酒の文字の入ったものがあります。一つは、酒桝星(さかますぼし)で、これはオリオン座の有名な三連星を含む部分で、農耕の星と考えられ、日本では唐鋤星(からすきぼし)といわれたそうです。もう一つは酒星(しゅせい)で、獅子座の右下にある三つの星だそうで、酒を司るということです。ギリシャ神話とは違う星の世界をもっと見直してもよいのではないでしょうか。


北条時頼の酒(2)
執権時頼が残り物の味噌を肴にしたという徒然草の段の次にある216段にある話です。時頼が、立ち寄るとの使いを事前に遣わして、足利義氏の家を訪問したときの逸話です。「一献に打ち鮑(あわび)、二献に海老、三献にかいもち(岩波文庫ではそばがきだそうです。)にて止みぬ。」ということで、帰りにはおねだりして染め物30匹(60反)を小袖に仕立てさせて後からもらったのだそうです。兼好法師は味噌の話と対比して書いているわけで、これを見ても鎌倉武士が質素だったという証拠にはならないのではないでしょうか。でも、そばがきでは贅沢とはいえませんか。


酒中花(しゅちゅうか)
あんどんの灯は昔は普通、菜の花の油に山吹の茎の芯を浸してその先に火をつけましたが、その山吹などの髄芯を使った酒興の一つがあります。山吹などの茎の髄を花や鳥の形に作って押し縮めておきます。これを、盃に入れておいて酒を注ぐと、酒を吸って開くという趣向です。遊び心をたっぷり持った江戸人の考えそうなことですが、今私たちが粋がって行うほとんどのことは、100年以上前にすでに行われていたといって良いように思われます。


子規の説
新聞「日本」に掲載された「病牀六尺」で、子規は女性が酒好きかどうか考察しています。明治35年7月7日に付けですが、女性で酒を飲むものは少ない。甘いものを嫌うものは酒好きが多い。女性は甘いものが好きだ。して見ると、女性は酒を飲まないのだろう−という結論です。この約2月後の9月19日子規は逝去しました。


北条時頼の酒
執権時頼(ときより)に、夜自宅に呼ばれた平宣時(たいらののぶとき)が、何かつまみを探せといわれて、台所の棚にあった皿に付いた味噌を持っていったところ、「事足りなん(これでじゅうぶんだ)」とそれをさかなに酒を飲んだいう鎌倉武士の質素を伝えるといわれる話が徒然草215段にあります。20才で執権となり、「沽酒の禁制」を敷き、30才で出家した時頼らしい話とも思えますし、明治の伊藤博文が、深夜台所をあさって酒を飲んだという話や、最近では土光さんのめざしの話もありますので、別に鎌倉武士に特殊な話であるともいえないような気もします。


ささゆ(笹湯)
以前は天然痘、一般に言う疱瘡(ほうそう)は、法定伝染病で、予防接種が立法化されていました。(現在は予防接種は任意になっています。)あばたといわれる顔貌はその治った後の傷跡で、仏教語(サンスクリット語)のアルブタ(はれもの、おでき)からきたものだそうです。あばたという言葉は「あばたもえくぼ」ということわざにかろうじて残っています。その疱瘡が治ったときに湯に酒を入れたもので湯浴みさせるのだそうで、それを笹湯というのだそうです。(わかした米のとぎ汁に酒を入れて、その湯につけて絞った手ぬぐいで患部を拭うという説もあるようです。)ささは酒の女房言葉なので、本来は酒湯だったのでしょう。


ルイス・フロイスの日欧比較
私たち日本人の大好きな海外との比較の先駆的な本として天正13年(1581)にポルトガル人宣教師ルイス・フロイスによって書かれた「ヨーロッパ文化と日本文化」がありあます。日本では、「暖める」「しつこくすすめる」「椀をあけて飲む」「食後に飲む」「前後不覚に陥る」「一滴も残さず飲みほし」と、日本の飲酒習慣を描きます。この逆がヨーロッパです。この「食事と飲酒」の部分で面白いのは、「われわれはすべてものを手をつかって食べる。日本人は…二本の棒を使って食べる」と記しているところです。


徒然草の酒
「うるわしき人も、たちまちに狂人となり」、「大事の病者となりて、前後も知らず 倒れ伏す」、「酔ひ泣きし」、「罵(ののし)り合ひ、争(いさか)ひて」、「大路をよろぼひ行き」、「聞えぬ事ども言ひつつよろめき」と、酔態を吉田兼好は描いています。(175段) 吉田兼好は乱れない酔いを好んだようです。現代の酔いと何ら違わない様子なのですが、中世の酒でこれだけ酔えるということは、当時の酒はどういう味だったのだろうかと思います。甘すぎたり、酸っぱかったりすると、沢山は飲めないのではないかとも思われますが、酔いの魅力は味を超越していたのでしょうか。


消費生活モニター特別調査
東京都のある区の調査で、酒類の価格が掲載されています。(2001.03.01)
           一般小売店(平均)    ディスカウントストア(平均)
ビール633ML      330円            311.7円
発泡酒350ML    148.2円            140.1円
清酒1.8L      1816.6円            1695.7円
清酒は、価格にばらつきがあるので、何とも言えませんが、ビールは比較できそうです。約20円の価格差は多きといって良いのでしょう。もっとも、一般小売店でも最低で295円という店もあります。発泡酒の価格のあまり違わないのも目を引きます。ビールは小売利益率が20%、卸利益が10%。リベートはそう大きなものではありませんので、酒類ディスカウント店の経営は大変なはずです。


江戸時代の火入れ
「童蒙酒造記」では、鴻池の江戸へ出荷する酒の火入れを記しています。今の4月頃に行ったそうです。酒を鉄製の和釜に入れて「煮る」のですが、釜の上の方の酒の中に手を入れて3回まわし、熱くて手を引き上げるくらいの温度にするのだそうです。これを「手引き燗」というのだそうです。「酒を煮る」という言葉は、今は俳句に使われないようで、歳時記にのっていませんが、かつては夏の季語だったそうです。
酒を煮る男も弟子の発句つくり 鬼貫   


酒嚢飯袋(しゅのうはんたい)
これは何のことでしょう。「嚢」も「袋」もふくろのことですので、言葉の意味は酒の袋と飯の袋ということですが、四字熟語としては、酒や飯を食うだけで何の役にも立たない人のことだそうです。でも考えてみれば、われら衆生は、皆がそういうものなのでしょう。これをさらに強くいったのが一休和尚で、「くそ袋」と人間を喝破しています。結婚式でよくいわれる三つの袋の話よりも、このほうがずっと面白くはないでしょうか。


酒の配給通帳
第二次大戦末期、あらゆるものが不足して色々な配給通帳が作られました。米穀通帳は現在も生きているのだそうで、持っていなければ違反のようですが、見たことのない人がほとんどでしょう。酒は昭和18年に配給制となり、通帳が発行されました。この通帳には、「酒ハ此ノ通帳ニヨラナケレバ購入スルコトハデキマセン」「程よく飲め 銃後の護(まも)り」「造るな濁酒 励めよ家業」「仕事をはげめば福がくる 濁酒をつくれば罰がくる」と印刷されています。(小泉武夫 日本酒ルネッサンス)密造は食料米を減らし、酒税を減らすからです。


酒ずき
酒好きの男、あまり長っ尻をするので、しもべが家に連れ帰ろうと思い、空がくもっていたので、「雨になりそうです」というと、「雨になりそうならゆけやしないじゃないか」 やがて雨がふりだし、大分たって、ようやく止んだので、しもべ、「さあ止みました」というと、「雨が止んだら、なにも心配することはないじゃないか」  中国明末の17世紀はじめに書かれた「笑賛」にある話です。江戸小咄や落語の源流であるこうした話が東洋文庫「中国笑話選」に沢山載せられています。


小山本家酒造
埼玉県にある、低価格酒を中心に大きくなった蔵元です。その一方で、鑑評会での受賞の常連で、これを一種の宣伝に利用してきました。新潟や秋田の蔵元を吸収して、吟醸や、純米の蔵として分業化を図ったり、多くの商標を取得し、同じ地域の問屋には別のブランドで販売して競合を避けたりといったユニークな商法が特徴です。純米酒をもう少し研究したらと思いますが、一般的には販売価格に納得できる味は出しているように思います。


ココファーム
足利市のワインメーカー、ココファームのワインを飲めるレストランを見つけました。オークバレルというワインの赤白を飲んでみましたが、特に赤(メルロー、ベリーA等)は日本のワインもここまで来たんだなという思いを強くもちました。沖縄サミットに出されたワインで、こころみ学園という知的障害者施設で醸造されているのだそうです。その醸造者は、出版社の草思社にいた人で、カリフォルニアでワイン醸造を勉強したということでした。レストランはブルトンといいます。03−5775−3457


上戸は毒を知らず、下戸は薬を知らず
ノン兵衛は酒の怖さを知らず、飲まない人は酒の薬としての良さを知らないということで、中庸を得たことわざだなあと思います。ただ、考えてみると、上戸は毒であることを、下戸は薬であることを十分に知っているはずです。それなのに、上戸は酒を毒にしてしまい、下戸は薬にすることが出来ないということが現実です。そうだとするとこのことわざは、「上戸は薬に出来ず下戸も薬に出来ず」か「上戸にも下戸にも毒」というのがあたっているといったところでしょうか。


徒然草
「下戸ならぬこそ、男(おのこ)はよけれ。」(1段)、「万(よろず)の病は酒よりこそ起れ。」(175段)、「近づきまほしき(近づきになりたい)人の、上戸にて(なので)、ひしひしと馴れぬる(親しくなる)、またうれし。」(175段)、「「(北条時頼が)台所の棚に、小土器(こかわらけ)に味噌の少し付きたるを見出て、−『事足りなん(これで十分だ)。』とて、心よく数献に及びて、興に入られ侍りき。」(215段)といった酒の話題には落とすことのできない話が沢山あります。これらの話を読むと、著者吉田兼好が酒好きだったことはよくわかります。


象鼻盃(ぞうびはい)
この言葉から何を連想するでしょう。どんな盃かと思いますが、これが何と蓮の葉なのです。蓮の葉の表面に酒を注ぐと、茎から気管を通って酒が流れてきて飲めるというもので、茎が象の鼻のようなので、このように呼ばれたのだそうです。古代中国で行われていた飲み方だそうです。遊びの奥義は古代中国にありといったところでしょうか。


9斗入る三つ重ね盃
東京青梅市の御獄(みたけ)神社宝物殿には大きな三方(さんぽう)にのった、大きな三重ね盃があります。三代将軍徳川家光の代におこった天草の乱が鎮圧された際に使用されたということです。一段目の盃の直径は3尺、2段目は2尺7寸、3段目は2尺4寸というもので、この三つの合計で9斗の酒が入るのだそうです。どのように使用されたのかしれませんが、保存状態も良く、一見に値します。


「盃の底を捨てる」
「盃の底に残った酒を捨てることだろう」といったところ、「魚道である。流れを残して、口のついたところをすすぐのだ。」と答えたという。要するに自分の飲んだ盃を人に差し出す時に、底に残った酒を流し出して洗って清めるということのようです。魚が同じ所を泳ぐので、今まで飲んでいたところを酒を流して洗うということで、魚道というようですが、献杯とか、返盃とかいった盃のやりとりが古くからあることが分かります。これは、徒然草の158段にあります。


甘い酒
奈良平安の貴族層の酒は、マイナスの20とか30とかいった、極甘のものだったようです。今のような甘味のなかった時代の味覚趣味でもあったのでしょうし、酸味を目立たせないということや、アルコール発酵のためにも良かったのでしょう。そして時代は流れて、昭和15年の商工・大蔵省告示の特等酒は、酒度−13.5(並等酒は−1)、昭和18年の大蔵省告示の第1級酒は酒度−8(第4級酒は−1.5)です。(「酔い」のうつろい 麻井宇介) 現在のプラスに変化した酒度をみると、味覚の変化の大きさを思わざるを得ません。


蘭引(らんびき)
骨董店で時々見られる、陶器の焼酎蒸留器です。二段になっていて、下段にもろみを入れて沸騰させてアルコールを蒸発させ、上段は天井の上に水を流し、蒸発したアルコールをその冷却された天井に当てて液化させて生成します。ただ、この陶器は趣味の物のようで、何回も使うには絶えられないようです。語源はポルトガル語のアランビクで、さらにさかのぼると、アラビア語のアルコールのアルと、ギリシャ語の茶碗を意味するアンビクスの合成語だということです。


瓶製造の技術
瓶を大量生産する技術は、大正時代の日本には難しいものだったそうです。それを乗り越える技術が日本に入ってきたきっかけは、アメリカの禁酒法だったということを聞いたことがあります。禁酒法施行により瓶生産が減少したアメリカのメーカーが、延命のためにその技術を輸出したのだそうで、それまで、貴重品だった瓶は蔵元に広まっていったようです。それでも瓶は大切なものでしたから昭和30年代くらいまでは、瓶を持って「はかりうり」に来る人が多くいました。


稲穂と麹菌
酒を語る第一人者である小泉武夫の「日本酒ルネッサンス」に、「収穫したばかりの麦穂からカビの分離を試みたところ、−麦穂100mg当たりクモノスカビの胞子が平均二万個であるのに対し、麹カビはたったの二○個と、実に一○○○倍」で、「稲の穂で同じ様な実験を行ってみると、そこには非常に多くの麹カビが生息していたが、クモノスカビはほとんど検出されないことが判明した。」 米を原料とする清酒醸造に、麹カビが使われる大きな理由の一つで、なるほどと思います。麦と稲の実験結果で、後者に数字が出ていないのは担当の学生が失敗したのかなと思いました。


喫茶養生記2
喫茶養生記、巻の下には、桑が酒にきくことが記されており、これはあまり知られていないようです。「桑粥」は、中国宋の医師の話として桑の木を細かく裂き、黒豆一握りと水3升を入れて煮、桑を取り除いて米を加え、小半日煮て、これを空腹時に服用するのだそうです。そうすると酒を飲んでも酔うことがないそうです。酒を飲んだ後、桑の湯を飲むと良いともあります。ただ、外のところ(桑の実の効用)で、「日本の桑の力微なるのみ」という記述があります。これが桑の話が今に伝わらなかった理由なのかもしれません。


粉末酒の登場
アルコールをデキストリンでくるんで粉末化してしまうという「粉の酒」が登場したとき、多分大蔵省は困ったことと思います。これをどう酒税法で取り扱うのかと思っていましたところ、「溶解してアルコール分1度以上の飲料とすることができる」という定義で乗り切ってしまいました。でも「溶解した後のものについてアルコール分が1度以上とならないものであっても、エキス分のアルコール分に対する比が7程度以下のものは、飲用できる程度まで水等で溶解したときのアルコール分が1度以上となることが多いことに留意する」のだそうです。例外を法律に取り込むということは難しいことのようです。


酔心と横山大観
酒が主食であったにもかかわらず、90才の天寿を全うした横山大観。戦中の「戦争協力」で、レオナルド藤田などと同様、戦後の評価に多少の変動がありましたが、藤田よりずっと早く復権しました。大観は本来はあまり酒の飲めないたちだったそうですが、師である酒豪岡倉天心にはっぱをかけられ、飲んでは吐くことをくり返し、「体質改善」に成功し、晩年でも1日7合は飲んでいたそうです。昭和の初め、大観からの手紙で酔心の愛好家であることを知った蔵元は、その後は酒を贈り続けたのだそうです。


喫茶養生記
臨済宗を日本に伝えた栄西は、お茶の効用を説く「喫茶養生記」も伝えました。その中で、広雅(こうが)という書からの引用で「酒を醒まし、人をして眠らざらしむ」というものと、白氏、首夏(はくし、しゅか)の詩で「酒渇、春深し一盃の茶」(酒を飲めば則ち喉乾きて飲を引く。其の時唯茶を喫すべし)ということを記しています。源実朝が二日酔いになったときに栄西がこのことを教え、それが幸いにも効果を現した結果、この挿話が「吾妻鏡」に記され、今の我々の話題にのぼるようになったわけですから面白いものです。


酒販売の例外
たとえアルコール飲料であっても、薬用酒とされたものは、酒類販売の免許はいりません。(ただし、薬局でなければ販売できません。最近、ドリンク剤が薬局以外で売ることができるようになりましたが、アルコールの入っているものがあり、それがどうなったかは知りません。酒に弱い人がドリンク剤で自動車事故を起こしたなどということがあるようですのでドリンク剤を飲むときは注意が必要です。)また、塩を入れた料理酒も同様の扱いです。さらに、酒類の商品券はどこでも売ることができます。


ディオニソスの誕生
ギリシア神話での酒神ディオニソス誕生はかなりかなり衝撃的なものです。主神ゼウスが人間のテーバイの女王セメレを愛しますが、ゼウスの妻ヘラが嫉妬し、雷神であるゼウスの本当の姿を見たいとセメレにいわせ、その結果ゼウス本来の姿を見たセメレはその雷力で焼死してしまいます。ゼウスは燃え残ったセメレの子宮を自分の股に縫いつけ、その結果生まれたのがディオニソスだそうです。人間くさいといわれるギリシアの神々の神話の一挿話ですが、この出自は酒の神としてのディオニソスの何を象徴しているのでしょう。


大言海の「ささ」
酒のことを昔は「ささ」といったようです。大言海の著者大月文彦の見解は、鳥のことを「とと」というように、酒のことを「ささ」といった幼児語が、いわゆる女房言葉(女性言葉)となって一般化したということのようです。「かもじ(文字)」が髪、「ねもじ」がネギなどといういわゆる女房言葉で、「さもじ」が酒だと面白いのですが、「さもじ」はサバと肴のようです。肴があるのだから良いというべきでしょうか。


絶対禁酒家と飲酒家の兄弟
ジョンズ・ホプキンス大学の生物統計学者のレイモンド・パール博士が、一方が絶対禁酒家、一方が飲酒家という94組の兄弟に対して長期間にわたる調査をしたそうです。この結果分かったことは、飲酒家の方が長生きするということだったそうです。この調査は酒を飲まない方が全員死亡してしまい打ち切られたそうです。(これも 「アルコール健康法」 J・アダムス です)何となくのんべいに都合の良い結論のような気がします。双子の兄弟ではなかったようですし、米国で全く飲まないというのは、宗教とか道徳の結果で、飲めないからではないのでしょうから、それによるストレス等もあったのでは?


病理的記憶喪失
ある若い警官が、見ず知らずの女と結婚して、カリブ海のあるホテルに投宿した。ところがその警官の最後の記憶といえば、それより一週間以上も前に、ニューヨークのクイーンズ区のバーに、ビールを二、三本飲みに出かけたことだった。という記事が、ニューヨーク市のアル中警察官たちのことを書いたニューヨークマガジン誌にあるそうです。本当かなとも思いますが、事実は小説より奇なりということの一つなのでしょうか。(「アルコール健康法」 J・アダムス)


本朝食鑑の鶏卵酒(たまござけ)
精をまし、気を壮にして、脾胃を整える。水5杯、麹1杯、砂糖半杯をかきまぜて沸騰させ、別に新鮮な卵を黄身を入れてよくかき混ぜて暖かいうちに飲む。酒の好きな人は、卵を煎り酒に入れて箸でよくかきまぜ、暖かいうちに飲む。とあります。ここには、現在第一にいわれる風邪に効くということが書かれてありません。当たり前なので書かなかったのでしょうか。



「胃にやさしい飲酒法」
カッパブックスの当たったものの一つに、J・アダムスによる「アルコール健康法」という、酒飲みの著者によって著された本があります。初版が昭和52年ですが、この頃既にアメリカは、栄養薬だ、機能性食品だといった今の日本の栄養に対する考え方に至っていたことが分かります。その本のはじめに、アルコールの浣腸の話があります。直腸からアルコールはすぐに吸収されますので、すぐにアルコールはその効き目をあらわし、比較的少量で泥酔するそうです。胃には負担にならないでしょうが、余りおすすめできない「飲酒法」です。ところでこの著者はまだ生きているのでしょうか。


吟醸香はなぜ出るのか
吟醸酒は穀物である米が原料なのに、果物の香りがなぜ出てくるのか不思議に思われるものです。昔の鑑評会には、実際の果物の汁を入れて出品された酒まであったということです。発酵の際、酵母を、麹菌を蒸し米の内部に深く食い込ませた「突き破精」という麹で、ゆっくりと糖化させながら、10度くらい大変悪い低温環境におくと、酵母は細胞膜内にある芳香エステル生成系の酵素を使って生活活動をするようになるので、その際に香りが出るだそうです。「酵母菌いじめれば出す吟醸香」


文化十二年酒戦のつまみ
検分役に、谷文晁や亀田鵬斎がついた有名な酒戦に出されたつまみをみてみると、台には「からすみ」、「花塩」、「さざれ梅」、「蟹と鶉のやいたもの」、あつものは、「鯉」と「はた子」だったとあります。からすみは今でも最上のつまみ。花塩は花の形につくった焼き塩だそうで、通好みのようですし、蟹も鶉もうまそうです。江戸時代は鯉が最高の魚でしたからこれも上品。さざれ梅と、はた子が分かりませんが、いずれにせよ、なかなかつまみにもこった戦いだったようです。それにしても酒の味がどんなだったかぜひ知りたいものです。


「縄文人は飲んべえだった」
アジア大陸では南方から各地に広がった旧モンゴロイドの先住地に、北方から新種のモンゴロイドが大移動して現在の民俗分布となったということです。日本列島では、縄文人が旧モンゴロイド、弥生人が新モンゴロイドではないかといわれているのだそうです。そして、酒に弱いのは新モンゴロイドなのだそうで、その弱い弥生人が稲作と共に清酒の醸造を持ち込んだということのようです。縄文人は、果実系の酒か、雑穀の口噛み酒を飲んでいたのではというのが著者の推理です。(「縄文人は飲んべえだった」岩田一平)


ギネスブック '01のアルコール関係
<高価な蒸留酒> は、ウイスキー。 <高価なワイン> は、ボルドーワイン。<強いアルコール>は、ジャガイモからとったアルコール。<強いビール> は英国の物。 それに<最大の乾杯>が取り上げられていました。
飲み物の所でアルコールの項目はこれだけでした。ビールメーカーにしては禁欲的なところに感心しました。


石川啄木の酒歌

田も畑も 売りて酒のみ ほろびゆく ふるさと人に 心寄する日
こころざし 得ぬ人々の あつまりて 酒のむ場所が 我が家なりしか
酒のめば 鬼のごとくに 青かりき 大いなる顔よ かなしき顔よ
舞へといへば 立ちて舞ひにき おのずから 悪酒の酔ひに たふるるまでも
いつも来る この酒肆の かなしさよ ゆふ日赤赤と 酒に射し入る
今日よりは 我も酒など 呷らむと 思へる日より 秋の風吹く
しつかりと 酒のかをりに ひたりたる 脳の重みを 感じて帰る
悲しい歌ばかりです。しかもはじめは、他人の酔態を詠み、次第に自分を対象にしていくといった感じがします。


県の研究所で開発された酵母
ほとんどの清酒の発酵のもととなる、きょうかい酵母という名称で販売されている酵母は、国税庁によって発見された酵母群です。それに対して、最近県の行政レベルの研究機関で発見されたり作られた酵母が、個性的な酒(特に吟醸酒)を造るようになってきています。静岡酵母、長野酵母(アルプス酵母)、秋田酵母、山形酵母、佐賀酵母(ヒミコ酵母)といったもので、今までの銘醸地図を塗り替えそうな勢いです。こうした開発競争は大賛成です。


白酒の作り方
上質の精米もち米1斗を蒸し、人肌程度にし、地酒2斗に混ぜ合わせ、密閉した桶で7日寝かせ、石臼でひいた後、もう7日桶に入れて密閉して寝かせるとできあがる。別の方法として、上質の精白もち米6升5合を蒸し、こしきから熱いまま直接、桶の中の麹1升5合、地酒1斗に加える。これを包み、翌朝撹拌し、その後、1日2回撹拌し7日目にできあがる。これは、江戸時代、貞享4年(1687)ころの「童蒙酒造記」に記された白酒の製法です。ここでは、焼酎が使われていません。まだ、この書の書かれた関西では一般化していなかったのでしょうか。


酒の回文
回文とは前後どちらから読んでも同じものとなる短文です。
伊丹の酒 今朝飲みたい (いたみのさけ けさのみたい)
冷に今朝 飲むかやかんの 酒に酔い(ひやにけさ のむかやかんの さけによい)(ことばの遊び辞典より)
そこで一句作ってみました。
伊豫の酒 徹夜でやって 今朝の酔い(いよのさけ てつやでやつて けさのよい) 駄作


二日酔いにきくといわれるもの(3)
(果物・野菜等系)桜湯、キャベツ、アロエ、朝顔、小豆、ざくろ、ごま、紅花の若芽、菊花(細末とする)、生葛根の煎じ汁、柚、西瓜、蓮の実、菱の実、銀杏、柚、けんぽ梨、丁子  (魚貝系)蠣(かき)、マダラ、田螺と納豆と葱の煮汁、どじょう、たら  (その他)麝香、木酢エキス、牛乳粥、砂糖、水のがぶ飲み、吐くこと、寝ること  あれこれ見ていくと、それぞれの紹介者の我田引水なのでしょうか、とにかく沢山あるようです。こうしたものは、まずは自分にきくか試してみるということでしょう。ただし、結果の責任は負いません。


冷たい飲み物
アテナイオスの「食卓の賢人」で、「あったかい酒を飲みたいなんて 思うやつは一人もいない。それどころか反対に、井戸で冷やすか雪を混ぜるかするだろう。」、「思うにだね、親父は俺を井戸の中に入れたんだな。夏の酒みたいにさ。」、「ドリス、酒を冷やしておけ。」と、沢山の古典を引用してワインは冷やして飲むものとしています。紀元前のギリシアではワインはアルコール分の低い飲みものだったのでビールのように冷やしてして飲んだ方がおいしかったのでしょう。その点清酒のおかんは珍しいとよくいわれますが、ホットワイン、ホットウイスキーという飲み方もありますし、中国でも老酒や火酒を暖めることもありますので、おかんをあまり特殊なものと考えないでもよいのではないでしょうか。


豊嶋屋の白酒
企業が数百年続くということは大変なことです。その一つの豊嶋屋は、江戸初期から鎌倉河岸に創業して今に続く酒屋です。江戸名所図会などに描かれた、とろりとした白酒(米麹と焼酎を仕込み熟成させてすりつぶしたもの。)がこの会社の看板です。「二月十八日より十九日の朝までに鎌倉町なる豊嶋屋が店にて白酒千四百樽うりし」(千とせの門)とあるそうで、約100kl(千石酒屋の半年分)もの量を2日で売っていたようです。甘味の貴重であった時代の、多分最長の行列のできた店だったのだと思います。「金婚正宗」の蔵元でもあります。


麹かびの繁殖する条件
たいた米と、ふかした米と、焼いた米の3種類を室内に放置したところ、たいた米は1週間後にバクテリアが繁殖してクリーム状の薄い膜を造って異臭を放ち、ふかした米は3日後に表面に麹かびが繁殖してほのかに甘い香りがし、焼いた米は何の変化もなかったそうです。(「日本酒ルネッサンス」小泉武夫)こうした日常体験から日本では麹かびによる酒の醸造が行われるようになったそうですが、「始まり」ということの不思議さを考えずにはおれません。


瓶の色
最近は、瓶の色も形も種類が多くなり、そうしたことを楽しむことができるようになりました。しかしその一方で、ゴミや資源問題を考えると、規格瓶にした方が良いわけで、これも業界に考えてもらわなければならない重大な問題であろうと思います。さてその色ですが、以前は薄青色ないわるる透明なものが主流でしたが、現在は茶が主流で、高級酒はエメラルドグリーンが多いようです。茶瓶となった理由は酒が日光を嫌うからです。茶瓶とエメラルドグリーン瓶を比べると茶瓶の方が光を通しにくくて容器としては適しています。エメラルドグリーンはイメージから使われているといってよいでしょう。


酒米生産の難しさ
酒米は、大粒なので、穂が重くて倒れやすく、収穫時には機械が使いにくくなることがまずあります。反当たり収量が低いのも酒米の特徴です。さらに病気になりやすいという特徴もあります。つまり農家にとって大変育てにくい米なのだそうです。そうした酒米が飯米の何倍にも売れればよいのですがそうはいきません。確か、現在は俵当たり2万円の前半だったと思います。これでは、飯米のコシヒカリを作る方がよさそうです。そうした次第で酒蔵の酒米必要量は全く満たされないのが現状です。