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御 酒 の 話 15



当方の独断  いじわるノート  かぶらずし  浪人夫婦今に呑むなり  身体をあたためよう  殺して飲む  マンダレーラム  うまい酒がいっぱい  夜の闇の深さ  十一月八日  薬酒  畸人内田百閒君  寒国は寿  牡蠣とワイン  柳の佐和利  炉盞四戒  一七 仏の教。  人間の心  酒と大根  出発前の儀式  青山二郎の日記  施物  火事と味噌  「酒」  酒開  ネズミとネコ  飲酒 其七  道徳的スリル  忍者の携帯食  豆かん  隣の先生  吉四六さん  忠勤  生産統制  満を引き白を挙ぐ  大船すみます  酒屋の前に三年立っても  旨い酒・苦い酒  一升の髑髏盃  十月廿五日  "乾杯"の儀  何か強い酒飲みたいな  両国与兵衛  十月の肴(3)  一万円拾ったら  エドワード・ラッセル公  米の三分の一  カツフヱー  こういう生活  むかし  千鳥の盃  嗜好品  酒樽賛  おっかさん  末廣  夢占い  えびす講  飛良泉  前に二足後に三足  ティモン、カインツ  十月の肴(2)  解散します  どぶろくひあげ  からみ酒  サンドイッチは侮辱  ビールの計り売り  五百万石  小早川秀秋  樽ころばし  しょっつる貝焼き  酔っぱらい蛸  ミシシッピ州  八木家  バルザム  酒を愛する  鯛のこつ酒  夷講  お積り  治病の珍  48時間で2,000倍  三献を過ごさず  春浪さん  十月の肴  「遊仙窟」(2)  むしかえしのアルコール  王莽の時代(続)  王莽の時代  上方と関東   連尺  おかたい順番  昼九夜八船六  勝率  髙関堂日記  モエ・エ・シャンドンのハーフボトル  奉加帳  ホーム・パーティー  勇心酒造  カッパドキアの醸造場  紅葉漬け  サンプル品  胡姫好き  六時間  食べ合わせ  酒は大杯にて己が量だけ一度に飲む  果実酒の生命  九月十九日(草津)  くそうず  オールド・パアの墓  D・C・Lの力  開化とは三鞭酒  清水崑  グラッドストーンの改革  三原酒  ビールの発売広告  遊鬼  硯友社の梁山泊  和名類聚抄の酒  一○万の亡霊  正一合徳利型ガラス壜  山茶花究  岸朝子  一本の白乾児  九月十五日(東京)  三〇・二パーセント  煎り酒の作り方  冷酒と親の意見は後薬  うばい  それは無理  二二は四  日本式パーティー  年齢をとる  禁酒村村長の集い  麹の渡来  九月  シッポク料理  興亜奉公日  お当渡し  御神酒上げ神事  バーテンダー  酒と煙草は飲んで通る  ミュージカル・ジャグ  大瀧祭  明治十六年  酒かすパックのつくり方  幻の名酒  アルコール発酵のメカニズム  「ザムザ氏の散歩」  若松名物  八月朔日  箕作阮甫  油やき海苔  「兎糞録」の酒句  中国漢字  酒に弱くなった  化粧水  第七騎兵隊  壁の穴  木村省三  【を】  やーし小の酒  あまり油のよくない串揚げ  此方を呑め  包丁の故実の廃れたる事  わが酒  八月十一日  湯漬の事  カティ・サーク  芥川賞賞金の前借り  お燗ビール  わが齢ゆずりてん  さかな  真砂遺跡  薬好き  定珍老  オモチャの叩き売り  酒と魚は専売制  郵便配達  新酒をば  福正宗  風俗文選  伊勢神宮の神酒(2)  百礼之会非酒不行  柄樽  酒をあたたむる事  豆かん  初代川柳の酒句(2)  大日本神社仏閣御領  西の張出小結  大文字焼き  芽米から米バラ麹へ  酒問屋寄合  神谷バー、花村の息子  酸橘酒  太地の死  舳倉島の奥津姫神社  失敗だらけだった開局当時のテレビ  アンコウのトモズ  アンユージュアル・カクテル  泉先生  鈴木三重吉  太郎兵衛歩びやれ  岡本綾子  悪太郎  詩あきんど  酒の川柳  一合酒  見舞い  カストリ雑誌  酒炙  胡椒をかむ  小酌、大酌、満酌  泥酔  平野金華  うまいビール  秋風や酒肆に詩うたふ  使  宇下人言  君帰りたまえ  汁講  一升瓶に二升は入らぬ  へらず口  旭鷲山  黒澤組  ビールがいちばん売れた日  土びんを三つ  厚生省  酒の資料館  肝酒  ブースビーとシンウェル  あたらずといえども  七月十四日  泣きながら  モン・アサクサ  浅草、上野のカフェー  浅草の「銘酒屋」  下戸と化け物  磊塊  土佐の女性  光妙寺三郎  麻生葭乃  願酒(がんし)  ビール牛  金魚  梅雨酒  胡姫  五勺の酒  よしかわ杜氏の里  置きつぎ



当方の独断
店内はもうもうと焼き鳥の煙がうず巻き、威勢のいい店の人々んお掛け声がとびかう。高級店でも大衆店でも、焼き鳥屋とはこういうところである。皮焼き、手羽、レバー、正肉、サビ焼き、ネギ間、そしてつくね。タレでも塩でも、お好み次第だ。ここで、当方の独断を書く。それは醤油の味付け、つまりタレには日本酒が、そして塩焼きには焼酎でというマッチングである。やはり日本人には醤油味のタレで、だからこれには日本酒がぴったりと思いつつ、塩味だけで炭で焼き、鳥本来のうまみを強調する時には無機的な味の焼酎がいいと思う。(「酒場正統派宣言」 馬場啓一) 


いじわるノート
私はオリンピック資料を集めているうち、同調するマスコミと批判的でつめたいマスコミの両面があるのをおもしろいと思い、なにかとケチをつける記事を集めてみた。私はこのノートをいじわるノートと命名した。-
水戸では酔っ払いが聖火リレーのじゃまをしたといってつかまり、京葉道路では聖火見物の自動車事故。松江では聖火でたばこの火をつけたというので大問題になった。(「フクちゃん随筆」 横山隆一) 


かぶらずし
輪切りにした青かぶらで、寒ブリを挟んだ麹漬け。ブリの脂(あぶら)とかぶらの甘みが熟してなれて、山海の幸の滋味(じみ)が醸(かも)しだされる。山廃純米の古酒をぬる燗にし、手吹きガラスのぐい呑みで味わう。グラスのふちが、まろやかに唇に触れる。かぶらずしの、内からふくらんでくる寡黙な酸味が、やや重厚な酒をあたたかく包み込む。ひとばんが、ずっしり柔らかく実っていく。(「ごくらくちんみ」 杉浦日向子) 


浪人夫婦今に呑むなり
仕官している時から夫婦で酒をのんでいたのだろうか。浪人してからのことらしい気がする。裕福とも思われないが、くよくよせず、金がありさえすれば酒を楽しんでいるのだろう。この酒はやめそうもない。だから貧乏からはぬけ出せまいが、それも承知の上だろう。(「『武玉川』を楽しむ」 神田忙人) 


身体をあたためよう
「で、あんたたち、いくらほしいの?」「えー、三千…五百円ぐらいのところで」「高い高い、あんたら相場知らんね」「そうでしょうか」「今ね、二千三、四百円だよ」なんだ、それじゃ、おろし値じゃないか、お前の兄貴もひどいよ、と二人は考えこんでしまった。すると、「二千五百円で買ってやるよ」と切り出してきた。もうこれ以上こんなものを持ち歩くもくたびれるし、厭気もさして来たので、「いいでしょう」と五千円の札束を握った。損したような得したような、それでも何となくほのあたたかさがこみあげて来て、原価の四千四百円を紙につつんで、二人はもうけの六百円を二つに分けた。「帰るかい?」と友達は聞く。「うむ、このまま帰ればいい亭主なんだが」「そこが浮世の哀しさで-」「ごもっとも、じゃ百円ずつ二百円だけ、身体をあたためよう」忘れもしない今のピカデリー劇場の前、橋のたもとの屋台で、上カストリを飲んだ。その一杯が命とりみないなもんで、翌日二人が眼を覚ましたところは、新丸子の汚い一室であった。ポケットのあちこちをさがしたら、まだ千二百円ほどはあったが、「もうこうなりゃ五十歩百歩だ、家には帰れぬ、迎い酒でもやろう」と云う友をうながして我が家に帰って来た。そして母屋の叔父貴にその話をしたら、箱根登山自動車の重役をやっていた叔父が、「馬鹿な奴らだな、俺のところへ持って来て見ろ、一本、四千五百円で買ってやったのに-」と。あとの祭りであった。(「森繁自伝」 森繁久彌) 戦後の闇市時代の思い出話だそうです。 


殺して飲む
学生時代は、金が無くてあまり酒を飲むチャンスがなかったが、出版社へ入ったのをきっかけによく飲むようになった。貧乏な独身時代だから、タダ酒にありついたりすると見境がなくなって盃をかさね、吐くわ戻すわ宿酔するわで、翌日はひどい目にあったものだった。この頃は、たしかに飲む量は多かったが、飲んで騒いで丘に登れば…そのあとクナシリの白夜は見えずただダウンするというコースが決まっており、このありさまをもって”酒が強い”と言うのはいささか無理だろう。やがて、文芸雑誌の編集者となり、作家と飲み歩くケースが多くなると、私の酒の飲み方が変わった。つまり、主役は自分ではなく相手であるのだから”殺して飲む”といったスタイルになった。この言い方も強者ふうだが、殺して飲むことができるからといって酒に強いわけではない。私の場合などそれに当たるのだろうが、殺して飲むスタイルが自分の軀(からだ)に合っているということがあり、無理に酒を殺して飲んでいるわけでもないことに、やがて気づいたりするのだ。(「酒の上の話」 村松友視) 


マンダレーラム
ビルマの状況は少し違う。ここにはマンダレーラムという有名なラムがあるのだ。これはイギリス統治時代に造られたラムで、癖のある味わいにファンも多いという。ラムというからにはサトウキビから造られているはずである。ことごとく米から酒を造ってしまうのが東南アジアの得意技だから、このラムにも不安が残らないわけではないが、まあ、アジアではその種の問題を詮索しないことである。僕もこれはサトウキビから造られたものと信じている。十年ほど前、はじめてラングーンを訪れたときは、街のあちこちでこのマンダレーラムを飲むことができたが、その後、年を経るごとに街から姿を消していってしまった。当時ビルマ人は、「軍事政権は少人数でも集会を開くことを禁じているんです。酒を禁じているわけではないけど、ビルマ人は何人も集まって酒を飲むから、政府が街から酒を隠してしまったという噂です。本当かどうかわからないけど、今の政府ならやりかねないこと」と説明してくれたものである。そんな状況が前述したビルマの闇酒市場を生んだのかもしれないが、しばらくはマンダレーラムをビルマで飲めない時代が続いたのである。しかし最近になって、この状況もいくぶん緩和されてきたようだ。街には多くはないがマンダレーラムの壜をみうけるようになってきたのだ。そうなると利にさとい中国系のビルマ人の眉毛がピクピク動く。最近のラングーンには、新しいマンダレーラムが登場してきた。(「アジア漂流紀行」 下川裕治) '97の出版です。 


うまい酒がいっぱい
オペラ座からチュイルリ公園への美しい通り、その中間にあるヴァンドーム広場に面した、<ホテル・リッツ>は、世界の高級ホテルのひとつである。作家として名をなした後のヘミングウェイの定宿であり、シャネルも住んでいたこのホテル。パリ解放の日に、アーネスト・ヘミングウェイひきいる混成部隊が、軍令を無視して、まっさきに解放してしまったのがここである。そのためにヘミングウェイはあやうく軍法会議で罰せられそうになった。従軍カメラマンのロバート・キャパがリッツに行くと、ヘミングウェイ部隊のアーチー・ペルキーという兵隊が「パパがこのホテルを解放したんだ、うまい酒でいっぱいだ、まあやっていきなよ!」とキャパに言ったとか。ヘミングウェイを訪ねたもう一人の兵士はサリンジャーである。彼は文豪に自分の小説を見てもらおうとおずおずとやって来たのであった。(「都市探検家の雑記帳」 松山猛) 


夜の闇の深さ
まさに人災…現代の人間たちがあやつる科学とマシンと錯覚による破壊である。私ども、時代小説を書く者が、何かにつけて京都や金沢へ出かけるのは、むかしをなつかしむこともないではないが、自分の仕事の上にも、いまのうちにできるだけ、江戸のイメージをかためておきたいからなのだ。たとえば、いま…。京都の千本出水のすっぽん料理の[大市]へ行き、元禄年間の創業とつたえられる、この店の黒光りした古びた、しかも清らかな座敷で酒を酌み、すっぽん鍋をたのしみ、下長者町通りから松屋町通りなどを経て、西陣あたりまで、夜ふけの道を歩いてみると、その夜の闇の深さにおどろく。そういっても、江戸時代の夜と同じではないが、戦前の東京の下町の夜ふけを、じゅうぶんに偲ばせてくれる。まだまだ、古い旧家の瓦屋根の残る、このあたりの町すじの冬の夜の闇は、江戸の夜を偲ばせてくれるのだ。(「散歩のとき何か食べたくなって」 池上正太郎) 


十一月八日-
独りで江ノ島へ行く。形容する言葉もない好天気。谷を通り、丘を越えて三時間、あるいは徒歩で、あるいは人力車で、六百年のむかし頼朝のもとにこの国の首都であった鎌倉へ。首都の面影は、もう何一つとして残っていない。ただ有名な八幡の社だけが今なお、その美しい松林の中に立っているが、それも昔のものではない。そこから二キロのところに名高い大仏、すなわち青銅の仏の座像がある。美しく上品な顔立ち。十年前に日本政府は、日本のもつ最も立派なこの青銅像を、地金の値段で外人に売り払うという、とんでもない考えを起こしたのであった!それほどまでに、信心と国粋にたいする理解が全く失われていたのである。幸い、取引の話はさたなしで済んだ。今日では大仏は、一種の名物扱いをうけている。ある若い僧が、随意にこれを撮影する権利を獲得した。そして外人や日本人が大仏を訪れると、その手や、ひざの上にのって写真をとらせる慣例になっている。けしからん冒涜行為だ、ことにそれが僧侶の発案であるだけに、なおさらよくない!白状するが、自分も一度、一杯きげんでそんな写真をとらせたことがある。(「ベルツの日記」 菅沼竜太郎訳)明治13年です。 


薬酒
日本語・中国語には「医食同源」ということばがありますが、韓国語では「薬食同源」といいます。それは、すべての食べ物は薬であるという考え方によるものです。薬の字を使う食品としては「薬飯(ヤクパプ)」「薬果(ヤクタワ)」「薬酒(ヤクチュ)」などはありますが、同じ薬の字であっても二つに分けて考えられます。すなわち、薬飯・薬果は、蜂蜜を多く入れて作る食べ物です。この場合、蜂蜜が薬用になるからといって「薬」という字をつけてその名称にしたものです。「薬酒」というのは清酒のことです。いつ頃からそのように呼ばれたか定かではありませんが、朝鮮王朝時代は旱天(ひでり)でいくたびか禁酒令が下りたことがあります。そこで特権階級がこの禁酒令にそむいて酒を飲むとき、それを酒としてではなく、薬として飲むという口実の下で「薬酒」と呼んだという説があります。また、徐濱(号・薬峰)の母が薬峴で酒を造ったというので「薬酒」といったという俗節もあります。ともかく、韓国では現在、清く澄んだ酒を一般に「薬酒」といいます。「薬」という字のつくものには「薬水(ヤクス)」「薬念(ヤクニュム)」もあります。薬水というのは薬になる泉水のことで、薬念は薬味のことです。(「韓国歳時記」 金渙) 


畸人内田百閒君
読後の感想「百鬼園随筆を読む」の文尾のところで室生犀星は-十年前、芥川龍之介在世の時分、とく内田百閒の名前をくちから聞いていた。「多少の奇行があつたやうに噂されてゐたが云々…」と書いている。-「多少の奇行」というので思い出すのは、森田草平が内田百閒のことを「奇智縦横、岡山県人らしく才はじけて、しかもどこか抜けた所のある…畸人傳中の一人」として書いた「六文人の横顔」という噂ばなしである。『百鬼園随筆』以前、(昭和)七年九月号文藝春秋に載った。「どうも近頃の君の眼つきを見ると、恐い。それに山高帽子にツメ襟の服を着ているのも妙だ」と芥川龍之介がしきりに内田百閒の来訪をこわがったという。「二重橋から直訴の奉書を持つて駆け込むのは、たいてい山高帽子を被つているからネ」…また、わずか十円の金を借りるために、カマクラの森田草平の家まで二等の汽車に乗って、駅からクルマで乗りつける。主人と一緒に酒を飲んでその晩は泊まり、明日、十円持って帰って行く。大半は汽車賃・クルマ代に消えているのだ。「どうも娯(たの)しみに借金しているのだとしか思はれない」「が、要するに内田君はアナクロニズムの存在だ。彼はその文章で分る通り凝り性である。あれだけの奇智と才を持ちながら、惜しいことにジャナリステックの天分がない。従つて一文の金にもならない。一生貧乏するやうに出来てゐる」(六文人の横顔ノ内畸人内田百閒君)(「続百鬼園随筆雑記」 平山三郎) 


寒国は寿
淮南子(えなんじ)に、『寒国は寿(じゅ 長生き)多く熱国は夭(よう 若死に)多し』といへり。是大体(てい)の説にして、今委(くわ)しく考ふるに一偏にいひがたし。南天竺、莫臥爾(もうる)国は煖国(だんこく)にして長命なる国なり。百歳を起(こえ)たる者珍しとせず。其人質素(しつそ)の風俗ありて、静に噪(さわが)しからず。鶏は食すといへ共、猪(ぶた)肉をば食する事を禁ず。按ずるに寿夭は国の寒熱による事なし。人の質素養生によれり。文華の風俗にて大酒肉食の大過に依て夭死するが故也。然(しか)れ共寒国の人は酒肉に傷(やぶ)らるゝ事すくなし。煖国の人夭死(ようし)多き事は、酒肉の湿熱大過に依りてなり。美酒牛羊猪鹿皆大湿熱の食、地気の暖熱に合せて元気を消するが故なるべし。紅毛(おらんだ)人其本国は北方寒国なりといへ共、咬𠺕吧(じゃがたら)国の大熱国に居住し本国の酒肉を大寒地の如くに食するがゆへに、紅毛人寿命五十歳に及べる者なし。多くは三四十才にて夭死す。本国は長命の国なりとかや。此外琉球台湾等の煖国の人短命多き事は、皆酒肉に依るてなり。莫臥爾国の長命なるをもつて察すべし。(「町人囊」 西川如見) 


牡蠣とワイン
また、1983年2月にベルギーのブリュッセルで開かれた世界ソムリエ・コンクールの時に、フランスとベルギーのソムリエ専門誌『バッカス』『ソムリエ』が合併号で、有名レストランに"お薦めの料理とワインの組み合わせ"をアンケートしたことがある。その中で、パリの魚料理で有名なレストラン・プルニエの答えが面白い。それによると、マレンヌの生牡蠣(かき)には1925年頃までは甘口のソーテルヌやアンジューを飲むのが普通であった。37年になると辛口のサンセール(ロアールのソーヴィニヨン・ブランから造られた辛口白ワイン)が流行となり、45年頃にはヴーヴレ(ロアールのシュナン・ブランから造られた白でやや甘みのあるのもが多いが、ごく辛口もある)やボルドーの白などが流行した。54年になるとブルゴーニュのシャブリに流行は移り、64年にはロアールのミュスカデ、72年からコート・シャンプノア(シャンパン地方のスティル・ワインで74年からAOCに昇格)が人気になった、としている。いずれも辛口の白ワインで、個性はそれぞれに異なるが、どのタイプでなければならないうことはないことを示しているといえるだろう。(「ワイン入門講座」 鴨川晴比古) 


柳の佐和利
ほの青い雪のふる夜に
電車みちを、
酔つて、酔つて、酔つぱらつてさ、ひよろひよろと、
ふらふらと、凭(もた)れかかれば、硝子戸に。
Yōi!…Yōi!…Yōitona!

ほの青い雪はふり、
店の中ではしんみりと柳の佐和利(さわり)
酔つて、酔つて、酔つぱらつてさ、ふらふらと、
ひよろひよろと首をふれば太棹(ふとざお)が…
Yōi!…Yōi!…Yōitona!

ほの青い雪の夜の
蓄音機とは知つたれど、きけばこの身が泣かるる。
酔つて、酔つて、酔つぱらつてさ、ひよろひよろと、
ふらふらと投げてかかれば、その咽喉(のど)が…
Yōi!…Yōi!…Yōitona!

ほの青い雪のふる
人ひとり通らぬこの雪に、まあなんとした、
酔つて、酔つて、酔つぱらつてさ、ふらふらと、
ひよろひろよと、しやくりあぐれば誰やらが、
Yōi!…Yōi!…Yōitona! (「白秋詩抄」 北原白秋) 


炉盞四戒
天江サンの店は、仙台二三局〇三一六番で、「炉盞(さん さかずき)四戒」として、「席外問答」「他座献酬」「高声歌唱」「乱酔暴論」という文字が掲げてある。つまり、静かに酒の飲める場所なのだが、僕のように酒を飲まない人間には、亭主の天江サンが、その豊富な話題で相手をしてくれるわけである。(「奇人変人御老人」 永六輔) 仙台の「炉ばた」という有名な居酒屋のご主人だそうで、児童文学史をまとめたり、童話絵本を出版したり、道祖神や男根のについての粋な話に詳しいという通人だそうです。 


一七 仏の教。
わが欲を、欲もてふせ(防)がんとするはいとかたし(むずかしい)。「けふ(今日)盃にひとつ酒の(飲)まんよりは、あすはこゝろにまかせてのますべし」といふがごとし。「この世はかり(仮)のよ(世)なり、かの国には、よきね(音)の鳥、よき色か(香)の花よりして」などと教ゆるは、その国のおろかなる民ぐさ(民衆)のはかなきほどもしられぬ。「かりのよと此よ(この世)をいはば君と親のめぐみはなにとひと(人)にこた(答)へん」とか よみしもありとかや。(「花月草紙」 松平定信 西尾実・松平定光 校訂) 


人間の心
人間の心は動物の世界の中で唯一悪い心だ。人間は心に悪意、執念深さ、復讐の思い、憎悪、我欲、を抱くことのできる唯一の動物であり、酒酔を好む唯一の動物であり、身体の不潔さ、汚らしい習慣を我慢していることのできるほとんど唯一の動物であり、心の中に「愛国心」という卑しい本能を十分に発達させることのできる唯一の動物であり、自分にごく近い種族の者から強奪し、その種族の者を虐げ、迫害し、殺害する唯一の動物であり、いかなる種族の者からも盗み、その者を奴隷にする唯一の動物なのだ。(「また・ちょっと面白い話」 マーク・トウェイン) 


酒と大根
奥山の紅葉ふみわけことさらに来ませる君をいかにせむわが
君は定珍である。定珍の館ではいつも大御馳走になるのだから、なにか出さねばならない。ああそうだ、そうだ、大根がまだあったというわけで、この日も、(亀田)鵬斎を迎えた時と同様に、かれは定珍に大根をすすめている。
あしひきの国上(くがみ)の山の山畑に蒔(ま)きし大根(おほね)ぞあさず食(を)せ君
「あさず」はあまさずの意である。定珍は山の紅葉を見物しながら二人で盃を傾けようとと思い、酒は壺に用意して持参したが、さかなのことをうっかり失念していた。良寛のこの饗応を見て、苦笑しながら、「陶物(すゑもの)に酒を携へあしひきの山の大根(おほね)を食(を)しに来しわれ」と応じている。真蹟を見ると二人の歌は仲よく一枚の紙の上に書かれており、定珍の原稿が、「ひとつきの」を軽く消して、「すゑものに」と改まっているのは、おそらく後者を良寛がよしとしたからだろう。(「新修 良寛」 東郷豊治) 


出発前の儀式
このようにぼくの仕事は天候に左右されるのだ。太陽の尊顔を拝してはじめていい仕事ができる。だから、ぼくにとって太陽は絶対神であり、仕事上欠くことのできない存在なのである。こうしたことから成田空港における出発前の儀式は毎回欠かさずおこなわれている。儀式とはこうだ。成田空港第一ターミナルに「サントリー」というレストランがある。かの有名洋酒メーカーと関係があるかどうかはわからないが、周辺の店のしゃれた雰囲気とはまるで異なる、いわば食堂といった感じの店だ。この店を訪れる客層も地味で、空港で働く人たち、あるいは、経済観念のしっかりした外国からの旅行者たちに多く利用されているようだ。空港には珍しい庶民的な食堂だといえる。ぼくたちはいつも、ここで出発前の儀式を取りおこなうのだ。儀式は焼きうどんに生ビールでおこなう。この「焼きうどん」が重要なのである。以前、レストランにとっては中途半端な時間帯で、焼きうどんができないことがあった…。結果は、現地は曇りつづきで、いい仕事ができなかったという苦い経験がある。(「世界美味美酒文化雑考」 映像ディレクター冨田勝弘) 


青山二郎の日記
為になる話で一杯やるか
と言はれて機げんな日もござる
ほがらかに飲み明しませうよ あーサン
と言はれてゲロはく日もござる
やれやれたまには独りで飲まう
と言つて哀しい日もござる
酒にするのが一日早いやうだ
と帰つて疲れる日もござる
それもこれも度重つてまあ一杯
と言つて今夜も飲みました(「いまなぜ青山二郎なのか 青山二郎の日記 」白洲正子) 


施物
終りに、庇護者たちからもらった施物を、かれの書翰の面から拾い出して分類すると、まず食糧品としては、米、白麦、餅、ちまき、豆、味噌豆、煮豆、納豆、茄子、人参、牛蒡、山芋、大根、芹、ちょう菜、あをさ、唐辛、茗荷、山葵、干瓢、葛粉、百合根、りんご、海苔、昆布、南蛮漬、茄子漬、菊の味噌漬、油揚、砂糖、菓子、羊羹、高田粟飴、などの名が見られる。嗜好物としては、酒の礼状が圧倒的に多く、濁酒、泡盛と明記してものもあり、煙草、茶もある。被服類では、ふとん、円座、絹地、綿子、足袋、手拭、枕かけなど、日用品では、燭、香、茶器、手毬、燈油、炭、疵薬、痰の薬など、文房具として、筆、墨、朱墨、そのほか、銭の類がある。むろん、手毬をもらった礼状もある。(「新修 良寛」 東郷豊治) 


火事と味噌
桶田 龍土水(りゅうどすい)から馬がひっぱる蒸気ポンプになって…。これが、湯を沸かして蒸気の力で水を吸いあげるんだけど、なかなか湯が沸かない。馬が走ると風車が動いて、石炭の火力を強くする仕掛なんだ。だから火事場のまわりを馬の野郎が走りまわる。火より馬の方がこわかった。(笑)蔵なんてのは火事だってェと味噌をつかう。味噌が火にあぶられて、いい匂いがするのをはがして、酒の肴に一杯やったりね。(笑)
永 屋根で女の腰巻きを振るっていう話を聞いたことがありますけど。
桶田 あれはね、火事の野郎が腰巻きを見て、もう火がついて燃えていると思っちゃう。(笑)オッチョコチョイは火だね。安心して別の方へ行くってェ話だ。(笑)(「奇人・変人・御老人」 花川戸ち組の頭・桶田弥三郎と永六輔です。) 


「酒」
大島(渚)さんがウィスキーをドボドボ音を立ててぼくのグラスに注ぐ。呑む。苦しくなる。もどしそうになる。でもそんな素振りは少しも見せず駄洒落で座を沸かせておいてトイレに立ち、ノドに指を差し込んで、アルコールを吐き出す。席に戻る。また注がれている。また吐く-。そんな繰り返しを何ヶ月か続けているうち何時しか人並みの、いやそれ以上の、みんなが持て余す程の一端(いっぱし)の酒呑みになっていたのには当の本人が一番びっくりした。好きで始めた酒ではないから、晩酌の趣味はない。三日でも一週間でも呑まなくても一向に痛痒(つうよう)は感じない。その代り呑むときは徹底的に呑まないと気が済まない。パーティーの流れの時などは二次会・三次会ではおさまらず、途中でさよならを言うのも言われるのも嫌で朝まで飲み続けてしまう癖(へき)がついてしまった。それだけ長時間呑んでいると翌日眼が覚めた時、前夜(?)の後半二、三時間の記憶がいくら思い出そうとしてもスッポリ空白になっていて、おそろしい。そして頭の中には自己嫌悪の塊が出来て、自殺してしまいたい程のウツ状態に落ち込んでゆく。(「酒」 佐藤慶) 三十を過ぎるまで、まるでのめなかったそうです。 


酒開
『滋賀県に疎開することにしましたよ』『そりゃ、羨ましいですな』こんな会話が、当時-昭和十九年二月ごろ、ひそひそと諧謔的に交されたものである。これだけ聞くと、滋賀県に疎開できるご身分が羨ましい…というふうにとれようが、さにあらずそのころ酒好き同志の間で話題となっていた。これは"滋賀県酒開(しゅかい)"をいっているのであった。"酒開"とは、もちろん"疎開"の語呂をもじったもので、当時、滋賀県では、酒の配給が一ト月に、 常飲者三升 稀飲者一升 普通飲者五合 女世帯または飲まぬ者に"神棚用"として一合という捌き方であった。『福井県でも、滋賀県に倣って四月から、差等配給をやるそうですよ』『じゃァ、私は福井県にしますか…酒開をね』じじつ、東京のように、均一配給をやっているところは、酒好きにとってはツライことであったのである。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


ネズミとネコ
ワインの醸造所に住むネズミがいた。ワインの大桶を駆けのぼり、駈け降り、桶から桶へと駆けまわるのが、彼の毎日だった。ある日、ネズミは、足を滑らせてワインで一杯の桶の中に転落してしまったのだった。彼は、なんとかして桶の縁に上ろうとしたが、とても無理だった。そこでワインの海を泳ぎながら、必死で叫んだのだった。「助けて!助けてくれ!」ネコが、その叫びを聞いた。桶の縁にあがって、ネズミがじたばたしているのを見た。「頼む!ネコさん、助けてくれ!溺れてしまう!」ネズミが哀願した。「ふん」ネコが言った。「助けてやったら、オレに何をくれるね?」「何でもやるよ!」ネズミがせっぱつまった声で言った。「助けてください」「よし」ネコが言った。「助けてやるかわりに、お前を喰ってしまうぞ」「いいとも、いいとも!」ネズミが言った。「何でもあんたの好きなことをすればいい」ネコは脚を伸ばして爪にネズミを引っかけ、無事に助けあげた。ネズミは、身体を振って水滴をはじき落とすと、たちまち身をひるがえして、自分の巣穴に一目散に駆け込んでしまったのだった。「ネズミ君よ、そりゃあ約束が違うじゃないか!猫が怒鳴った。「お前は、オレに喰われてもいいて言ったんだぞ!」「ネコさん、そんなこと本気にしてたのかい?」ネズミが言い返した。「あのときは、わたしゃ酔っ払っていたんですぜ」(「ポケットジョーク」 植松黎編・訳) 


飲酒 其七 陶淵明
秋菊 佳色有リ(秋菊が佳い色に咲いてゐる)
露ニ裛(イフ)シテ其ノ英ヲ掇(ト)ル。(露に湿れつつ其の花房を採り、)
此ノ忘憂ノ物ニ汎(ウカ)ベ(此の憂を忘るる霊薬に浮べ飲んで)
我が遺世ノ情ヲ遠クス。(我が世を遺(わす)るるの情を更に遠くする。)
一觴 独リ進ムト雖モ(一つの杯で独り酒を進めて相手はないが)
杯(ハイ)尽キテ壺(コ)自(オノズカ)ラ傾ク。(杯が空になれば壺(とくり)が自と傾く。) (中国飲酒詩選 青木正児) 


道徳的スリル
こういうことというものは、やっぱりどこか悪徳じみた感じがあった方が魅力的なもので、酒を呑んだって道徳的にスリルがなけりゃァ、あまり執着が起きないのではないか。近頃の若い人も、似たようなことがいえると思う。もうこの頃は悪徳というものが、この世にあまり無くなってしまった。すると、魅力的なこともすくなくなったのであろう。若い人がかわいそうだ。私より以前の酔っぱらいを眺めていると、昔は酒というものが、充分悪徳になっていた時代であったことがわかる。そういうスリルがあったからこそ、酒を呑んで、ストレスを発散したりする。近頃は、グデングデンになっている酔っ払いが居なくなった。ときたま居るとすると、浮浪者然とした男だ。普通の暮しをしている者は、そんなふうには酒を呑まない。テレビや、スキーや、ゴルフと同じように、皆が所有している娯楽で、だから適当に、行儀よくたしなむ。ストレスは発散できない。(「無芸大食大睡眠」 阿佐田哲也) 


忍者の携帯食
ちなみに知切光歳『仙人の研究』をひもときて、忍者の携帯食のくだりを当るに、飢渇丸、忍者丸、兵糧丸等あり。その成分を以下にメモす。
飢渇丸 人参四〇、蕎麦粉八〇、山芋八〇、耳草(ハコベ)四、慧以仁(よくいじん ハト麦)四〇、糯米(もちごめ)八〇。(以上を粉末にして酒の中にひたし三年間熟醸したものを、桃の実位の団子にする。一日三個) 忍術丸 干鮑(ほしあわび)三〇、大麦三〇、茯苓(ぶくりょう)一五、干鯉(ほしごい)三〇、白玉粉三〇、鰻白干三〇、梅肉六、松甘皮三〇、氷砂糖二〇、小葉麦門冬(ばくもんとう 蛇の髭)六、大葉麦門冬(藪蘭)六。(以上を粉末にして、煮つめて丸薬にする) 兵糧丸A 麦粉三〇、糯米三〇、人参一〇。(以上を粉末にして、蜂蜜と上酒を加えて、とろ火で煮つめ、丸薬にして乾かす。一日三十粒服用) 兵糧丸B 人参二、餅粉一〇、麦粉二、甘草(かんぞう)三、生薑(しょうが)一、卵黄身一〇。(以上を粉末にして梅焼酎で煮固め、丸薬にする)(「食物漫遊記」 種村季弘) 


豆かん
名前のとおり、サイの目に切った寒天の上に、えんどう豆を柔らかくゆでたものが分厚く乗っていて、それに黒蜜をかけて喰うというだけの変哲のない喰べ物で、蜜豆の親戚のようなものであるが、といっても微妙にちがうので、蜜豆とはやっぱる区別したい。その証拠に、蜜豆は、酒を呑んだあとに喰べるものではないが、豆かんは、酔ってから喰べてうまい。私は酒呑みで、大飯喰らいで、こういうタイプは、まず甘い物は口にしないものだが、大福を喰いながら酒を呑もうという男である。三拍子揃っているわけでまァ要するに、口に入るものでうまいものならばなんでもよろしい。さらにいえば、仕事以外はすべて好きだ。浅草花柳界のそばに「梅むら」という小さな店があり、ここの豆かんがとりわけおいしい。(「無芸大食大睡眠」 阿佐田哲也) 


隣の先生
また隣の先生が酔払つてゐると云つて、私の店の者は面白がつた。西島先生は、隣の煎餅屋の二階に下宿してゐて、私の家で造つた酒を買つて飲み、毎晩あばれ出すのである。晩になつてから、何度でも隣から酒を買ひに来て、西島先生に飲ました。酔ふときつと酔狂するらしいのである。あんまりひどくあばれて困る時には、いつでもきまつてやつて来る学生があつて、その学生の云ふ事だけは、西島先生がおとなしく聞くのださうである。西島先生が隣の二階に移つて来る前には、花畑にゐて、その当時の西島先生の事を知つてゐる者が私の家に来て話したのを聞くと、何でも横綴ぢの帳面に今まで貰つた奥さんの名前が、ずらりと書きならべてあつて、その数が十幾人とかあると云ふのである。西島先生は、何か面白くない事があつて酒を飲まれたらしい。しかも私の家で造つた酒を無闇に飲んで、段段酒乱に陥られたのである。私の家は造り酒屋だつたので、屋敷が広く、凹字の形になつて、上の辺が往来に面してゐた。さうして、真中のへこんだ所に、隣の煎餅屋があつた。だから、隣で少し大きな声をすれば、一一手に取る様に聞こえたのである。西島先生は、少し御機嫌がよくなると、初めに必ず謡(うたい)をうたつた。それから段段呂律(ろれつ)が乱れて来て、しまいには、何を云つてゐるのだか、解らなくなり、がたんぴしやん物の毀(こは)れる音ばかりがはつきり聞こえる。-
西島先生は、もう亡くなられた。先生は無闇にお酒を飲み、そのうちの何年間かは、私の家の酒を飲んで、逸(すぐ)れた材を枯らしてしまはれたのである。若い時の事だから、先生がどう云ふ憂悶を懐(いだ)いてゐられたのか、考えて見た事もなかつた。この頃になつて、西島先生のお酒の味が解るやうな気がする。(「続百鬼園随筆 或高等学校由来記」 内田百閒) 


吉四六さん
吉四六(きっちょむ)は、大分県に実在した人物である。酒とは縁が深い。家が酒造をやっていたし、本人も大変な酒好きだった。本名を広田吉右衛門といい、吉四六は、吉右衛門の愛称"きっちょむ"の当て字だ。大分県大野郡野津(のつ)村に、吉四六屋敷や墓がある。顕彰碑に、「きっちょむさんは本名を広田吉右衛門という 寛永五年(一六二八)に野津の荘市村、今の野津町野津市の農家に生れ正徳五年(一七一五)十二月八十八才で死んだ…遺品はないが…生涯は頓知妙智とその奇行の純真さで終結しておる。それは大人にも子供にもほれぼれする泥臭い話として正に天下一品である…」とある。"ほれぼれとする泥臭い話"という表現が秀逸だ。かれの生涯をよくとらえている。かれの父は武将で、帰農し、大分の市(いち)村(のちの野津市(のついち)村)に住んだ。父は、やがて村の実力者になり、寛永五年、吉右衛門(初代)が生れた。これが"きっちょむさん"である。以後、広田家の当主は、吉右衛門を名乗る。名字、帯刀、村役人、それに酒造の免許も代々の特権として与えられている。それなりの処世をしたのだろう、吉四六家は相当の生活巧者とみるべきである。そしてこれが私の解釈するかれの"泥臭さ"の根源だ。(「焼酎"どっとん"」 童門冬二) 


忠勤
なるほど、世間には宴会でその値打ちを認められた、という例もあるだろう。が、そういう認められ方は底が浅いし、その逆の場合の方が、遙かに多い筈である。自分の値打ちを認めて貰いたかったら、仕事の上で認めて貰うことである。実力の上で、そういうチャンスを掴むべきであって、酒席においてまで、そういう野心を持つことは、邪道である。第一、それでは、せっかくの酒がうまくない。酒は、天真爛漫に飲んでこそうまいのであって、それ以外の目的をいだいていては、見た目にも感心しない。近頃の上役は、それほどのことは、すぐ、見破る筈だし、また、その眼力を養っているべきである。私は、こういう酒を知っている。宴会が終って、重役が帰ることになった。その重役にお気に入りの芸者があって、これから二人で、どこかへ出かけるのである。数人の社員が、その重役と芸者を、料亭の玄関まで、送って出た。ところが、一人の社員が、さっと、玄関から飛び降りて、重役の靴を揃えたのである。ばかりか、ついでに、芸者の下駄までも、揃えてしまった。とたんに、重役が、「バカ者!」と怒鳴りつけた。いやしくも、社員たる者が、重役の靴はともかくとして、芸者の下駄までを揃えるとは何事か、という意味であった。その社員の方は、ちょうど、下足番がいなかったので、何気なく、あるいは、忠勤を励むのは今だ、という気持ちからしたことであろう。(「新サラリーマン読本」 源氏鶏太) 


生産統制
自主的という談合の生産統制はすでにあったが、法律の裏付けのある生産統制が始まったのは昭和十二酒造年度からである。十五年度からは原料米統制に移行し、価格統制・配給統制もあって、酒は統制経済にからめとられた。酒造組合は強制加入となり、組合が大蔵省と談合して統制することとなった。これは十一年度の生産量を基礎として「基準石数」というものを配分し、固定化するものであった。基準石数は組合の承認を得て譲渡することも可能だったから。権利として売買の対象になり、金融機関への担保としても有効だった。十一年度の生産量は、戦後も基準指数、さらに原規制数量と名前を変えて。なんと一九七三(昭和四十八)年まで延命した。別の表現をすれば、三十七年間も「売り手市場」が続いたのである。 (「酒と日本人」 井出敏博) 


満(まん)を引き白(はく)を挙ぐ
【意味】酒をなみなみとついだ杯をとって飲む。【出典】超李諸侍中皆引レ満挙レ白〔漢書  叙伝〕 (「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


大船すみます
「でもない大船(だいせん)だ大船だ 「(一二)大船すみます おひとりさま 四文一合コリヤ又ちがつた。 ○大船一艘。ヲゝ。一艘馬鹿らしい
(一二)代銭済みます…といふ居酒屋などの呼び声を洒落る。(「浮世床」 式亭三馬 中西善三校註) 


酒屋の前に三年立っても
石の上にも三年 というのがあります。石のような、固い、冷たいものでも、そこに三年すわっていれば暖まる、ということでしょうが、この諺が普及して使われている場合には、「三年」という年月が、長い方の年月の、ある限度、ある区切りに使われているわけで、「三年の辛抱」・「せめて三年のがまん」というような使い方で、「三年」という時の長さが、日本人に考えられていることがわかります。がまの油の売り立ての文句に、 酒屋の前に三年立っても、 飲まぬ酒に酔わぬが道理 とあるのも、飲まない酒には、たとえ酒屋の前に三年立っていたにしても、という、時間のひと区切りを、どういうわけか、「三年」という数にしています。(「ことばの中の暮らし」 池田弥三郎) 


旨い酒・苦い酒
さて当日の夜、総勢六人で何軒かはしごをしてから「水車」に腰をすえた。この店でKの壮行会をかつてやってから十年が経過している。その間、ぼくは退社してしまったが、Kのようの働き蜂は、すっかり重宝がられてヒューストンに五年、アトランタに五年と米国本土での転勤の繰り返しで、日本に腰を落ち着けることのない日々の連続だが、酒が入れば、十年の歳月が消し飛んでしまう。Kはとても懐かしがって、ぼくの手を握りしめて放さない。その夜おそく、酔いざましに銀座の裏通りを歩いていて、ぼくはへまをやってしまった。Kが、蕎麦屋の店先に出ている屋台を眺めて、何気なく呟(つぶや)いた。「ああ、日本には良いものがあるなあ、家にも欲しいや」その科白(せりふ)を耳にした途端、ぼくは縁台を肩にかかえて歩き出してしまったのだ。運悪く、正面からパトロール中の警官がやって来るし、さらに背後から蕎麦屋のおばさんが追っかけてきたものだから、ぼくは交番に連行されてしまった。始末書をとられている間、Kはぼくを助け出そうと暴れ狂って、「なんだ、こんなボックス、こわしちまえ」と涙ながらに喚(わめ)きちらしていたらしい。久し振りの旧友に、すまないことをしてしまった。(「また酒中日記」樋口修吉 吉行淳之介編) 


一升の髑髏盃
天下の副将軍徳川光圀は一升も入る髑髏盃を愛用して酒を呑み、酔えば必ず唄った。
蓮の葉にやどれる露は 釈迦の涙か有難や
そのとき蛙(かわず)とんで出て それは己(おいら)が小便じゃ (「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


十月廿五日
(略)黒田之天神え行道田中(中田)町にてけち連に逢、また別天神え参詣その前にてどぜうぶた鍋にて酒弐合呑、その所出、それより一ツ木のうなぎ屋へ這入り、うなぎ二躰にて酒弐合呑、早飯を得不喰、大に酔て帰り、うなぎ一切れつつと焼芋と土産を遣りくた巻候(略)
十月一日
-さて朔日の事ゆえ中七に酒壱合買、今日は魚類これなく、漸焼とふ婦(焼き豆腐)また買置の鮭にて呑候(略)夜四ツ時頃予昼の飯のこげにて粥を焚皆々夜食いたし申候(「下級武士の食日記」 青木直己) 


"乾杯"の儀
黄河の源流をたどる取材から、過日もどった。三ヵ月以上の長旅であったが、この間、一滴のアルコールも口にしなかった。なかったわけではない。求めようと思えば、土地の地酒は、いくらでも手に入った。もちろん、ビールもだ。特に、ビールは、中国の内陸やエジプトのような乾燥地帯では、水がわりになる欠かせないアルコールだ。炎天下の仕事後に飲むビールは、多少飲んだところで、酔いもなく、ほとんど水分となってしまう。その水がわりのビールさえも、黄河では、あえて避けてしまった。理由は簡単だ。中国流、酒のすすめ、"乾杯"の儀がおそろしかったからだ。避ける動機となった"乾杯"には、シルクロード取材の体験がある。天山山脈を越えることに成功して、互いの健闘をたたえ、労をねぎらう小さな宴がもたれた。が、そこで繰り返された「主人の盃を借りて、乾杯!」という言葉には、ほとほとまいった。彼らの流儀によると、乾杯は、本当に飲み干すことだ。互いのグラスの底を見せ合うことである。その酒たるや、コウリャンなどでつくった蒸留酒が多く、もとよりアルコール度が、六十パーセントぐらいあり、火がつく。こんな強い酒を、一気に飲むのだから、たまったものじゃない。好意はかるが、これから逃れるのはただ一つ、初めから、一滴も飲まないことだ。そのことを知ったのは、帰国間際であった。(「アジア食文化の旅」 大村次郷) 


何か強い酒飲みたいな
「椎名さん、何か注文を」「オレ? オレ何でもいいや。じゃ、厚あげ」こうして居酒屋で会うのは久しぶりだ。「昔おすまいだった克美荘からここへは歩いて」「うん。でも月に一度もなかった。ハレの日、金の入った日ね。我々の実力で来れるのはここしかなかったよ」「酒は強かったですか」同行者が尋ねた。「オレは強い。一升飲めたから。木村と互いに一升瓶抱いて飲み較べして勝ったもんな。その後ウイスキーで負けたけどな」私は算えきれぬほど一緒に酒を飲んでいるが確かに強く、ウイスキーのストレートを好みぐいぐい飲む。居酒屋あたりでたらたらやっている時「何か強い酒飲みたいな」という台詞(せりふ)を何度も聞いた。泥酔した姿を見たことがなく、酔いはじめるとキャンプはテントへ、町であれば「帰る」とスッと消えてゆく。不毛な話をだらだら続けるのは最も嫌いなようだ。「誰かさんと随分違いますね!」同行者が皮肉げに私を見た。「ハハハ」椎名さんが笑い、私は面白くなくなりビールを燗酒にかえた。(「居酒屋道楽」 太田和彦) 椎名誠と太田和彦です。 

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両国与兵衛
それから、私たちは級友のUを訪ねたのだが、その家は、掘留あたりで、大きな金物問屋だった。奧へ入ると、私の勉強部屋なぞと、まるでちがったシャレた座敷があり、そこに、Uが待っていたが、驚いたことに、シマの着物をきて、白足袋をはいていた。学校で見るUとは、別人だった。それでも、話をするうちに、彼も、若旦那から学生に還元したが、夕飯時になると、これから、ちょいと、外へ食いに行こうという。そして、行先を「婆さん」(同級生のあだ名で、日本橋花村の息子)と相談していたが、やがて、連れていかれたのは、両国の与兵衛だった。与兵衛はスシ屋だが、両国橋のタモトにあり、純然たる料理屋の構えだった。私たちは、二階の一間(ひとま)へ上がると、お椀だの、サシミだのが出た。チャンとした姐(ねえ)さんが、お銚子を運んできた。私は、まだ、牛鍋にさえ、大人に連れられない限り、上がったことがなかったので、少年ばかりで、そんな食事をするのは、気がひけた。しかし、Uも「婆さん」も、いかにも物慣れた態度で、また、与兵衛の店の者も、得意客らしい、鄭重な扱いを示していた。恐らく、Uの家から、電話でもかけて、席をとらせたのだろう。その晩、私が酔っぱらって、大森の家に帰るのに、足許があやしかったのか、彼等は、人力車を呼んで、与兵衛から新橋駅まで、私を送らせた。汐留に新橋駅があった頃で、新橋に着く時分には、私の酔いもさめ、英国式の、石造の駅の建物の上に、まん丸な月が出ていたのを、車上から望んだ。明治の東京絵図の一構図で、忘れられない景色である。しかし、年を算えてみれば、三人とも、数え年十七歳-よく、そんなナマイキな芸ができたものである。(「町ッ子」 獅子文六 「東京百話 地の巻」 種村季弘編) 


十月の肴(3)
葱サラダ
秋も深くなると、葱も太くて白い柔らかいものだ出回る。この葱一本を七、八センチに切り、湯で柔らかく茹でる。水気を切って、甘酢かフレンチドレッシング(サラダ油)二、酢一に塩、胡椒を和わせる)に漬けこむ。-(「新・口八丁手包丁」 金子信雄) 


一万円拾ったら
こんなたとえ話がある。四国四県の人がそれぞれ一万円を拾ったとする。愛媛の人はそれを商売に回す。香川の人は、それで借金を払う。徳島の人は貯金をする。そしてわが高知県人は、友達を呼んで、それにもう一万円を足して飲む、のだそうだ。高知というのは、大漁で祝いの酒盛り、時化で漁に出られないときも、しょうがないから酒盛り、というような土地柄であるし、おまけに旨い肴と旨い酒がそろっているから、酒飲みの割合が他の県より高いことは確かだろう。(「今夜もハシゴ酒」 はらたいら) 


エドワード・ラッセル公
ときどき奇抜なことをやってロンドンっ子をあっといわせた、イギリスの貴族エドワード・ラッセル公は、六千名の客を自邸に招き一大パーティーを催したが、酒器の代わりに庭の噴水池を用い、きれいに掃除したうえで、その中に二四○リットル入りのブランデーの大樽二五本をあけ、砂糖五九○キログラム、レモン二万五千個を加えてコクテールをつくり、六千名の客に振る舞った。鯨飲した客は一人のこらず酔いつぶれたという。一七九九年一○月二五日、イギリス帝国はなやかなりしころの話。(「奇談 千夜一夜」 庄司浅水 編著) 


米の三分の一
すでに近世初頭には、今日的な飲酒の習慣が定着していたとされている。その消費に関して、一七世紀中葉に日本社会を詳細に観察したロドリゲスの『日本教会史』上は、「日本では国土の産出する米の三分の一以上が造酒に用いられていると断言できる。そのことが民衆の日常の食糧として十分な米がない理由となっている」と記している。この三分の一という数字の根拠は不明であるが、江戸時代に入る頃には、かなり大量に酒が消費されていたことがうかがわれる。(「江戸の食生活」 原田信男) 


カツフヱー
そもそも僕が初めて都下にカツフヱーといふものゝある事を知つたのは、明治四十三年の暮春洋画家の松山さんが銀座の裏通りなる日吉町にカツフヱーを創設し、パレツト形の招牌を掲げてプランタンといふ屋号をつけた際であつた。僕は開店と言はずして創設といふ語を用ひた。如何となれば巴里風のカツフヱーが東京市中に開かれたのは実に松山画伯のAU PRINTEMPS を以て嚆矢となすが故である。当時都下に洋食と洋酒とを鬻ぐ店舗はいくらもあつた。又カウンターに倚かゝつて火酒を立飲する亜米利加風の飲食店も浅草公園などには早くから在つたやうであるが、然し之をカツフヱーの名を以てしたものは一軒もなかつた。カツフヱーの名の行はれる以前、この種類の飲食店は皆ビーヤホールと呼ばれてゐた。されば松山画伯の飲食店は其の実に於ては或は創設の功を擔はしめるには足りないかも知れぬが、其の名に於ては確に流布の功があつた。当時都中の中にはカツフヱーの義の何たるかを知らず、又これを呼ぼうとしても正確にFの音を発することのできない者も鮮(すくな)くなかつた。(昭和二年十月記)(「申訳」 永井荷風) 

こういう生活
結局、一年中、休まず机の前に坐ってセッセと書きつづけていられるのは、夜は飲むためにある、ときめているからではないだろうか。とにかく七時にはペンをおいて飲んでしまう。夜は一切仕事をしない。飲んで眠る。どうしても急ぐときは午前三時ごろに起きて書いたり読んだりする。こういう生活が六、七年つづいている。-それにしても、この頃ふと考えたのだが、「こういう生活」をつづけてこられたのはオサケのほかに、私の人生が、三本の柱で出来てるからではないか、ということ。一本はいうまでもなく仕事で、一本は家事雑役。あとの一本は、夫の顔色を見るという力業で、これが中々、大ごとである。「男性を取材観察しているということですか」といわれるが、そんな余裕はない、ひたすらテキの顔色を見て暮らしている。向うは向うでそう思っているかもしれないが、大のオトナが二人、暮らしていくという仕事は、いや全く、全集を出すより大事業である。大熱戦、大深謀、大死闘の連続で、あんがいこれが活力源かもしれない。(「性分でんねん」 田辺聖子) 


むかし
むかし堯帝(ぎやうてい)酒を飲で。千觴(ちもゝのさかづき)を累(かさね)しより。その仁(じん)万古の今に溢(あふ)れ。孔子も百盃を引かけて。その徳四海の外に聞(きこ)ふ。儀狄(ぎてき)酒を醸すれば。禹王(うわう)賞(ほめ)て妙といひ。杜康酒を造りしとき。武帝歌ふて憂(うさ)をはらす。又高宗は殷の中興。夢に麹糵(きくせつ)を得給ひぬ。亦(また)仁徳帝のおん時に。曽保利(そほり)・曽々保利(そそほり)といひし兄弟(はらから)。酒を造る才ありて。則(すなわち)神酒を造らし給ひ。酒看郎子(さかみついらつこ)の号(な)を賜ひしかば。子孫酒部公(さかべのきみ)を氏(うじ)とす。吉野の国栖酒(くずざけ)。応神にはじまり。室山の桜花酒(さくらさけ)。履中に起る。(「胡蝶物語」 曲亭馬琴) 


千鳥の盃
箸洗い(食事に使った箸先を洗うといった意味で、八寸の前に出される簡単な吸物)で口中をさっぱり清めたあと、八寸(主客献酬の際、酒の肴にするもので、八寸の杉木地の盆に盛ったもの)が持ち出され、亭主と客の間で一期一会のよろこびをこめた盃のやりとり(主客献酬)が行われます。杉木地の八寸角の器に、動物性と植物性の二種の料理が余白を生かして盛りつけられ、青竹の中節箸(なかぶしばし)を添えて持ち出されます。まず、正客が引盃に亭主からお酒をついでもらい、箸洗いの蓋に海の幸をとりわけてもらいます。亭主は末客まで順にお酒をつぎ、八寸の海の幸をとってすすめます。一巡したら、八寸と銚子を持って再び正客の前に戻り、「千鳥の盃」と呼ばれる主客献酬が行われます。亭主は正客に、こんどは八寸の山の幸を箸洗いの蓋にとってすすめ、「お流れを」と乞います。正客は自分の盃を懐紙で清めて亭主に渡すと、次客がそれへ酒をつぎ亭主が飲みます。亭主は次客へ山の幸と盃をすすめ、次客が飲み干したら、それへ三客が酒をつぎ亭主が飲むというぐあいにして、末客までまわります。一巡して三たび正客のところへ亭主が戻ってきて盃を返したら、献酬ののち、「どうぞご納杯を」と挨拶して終ります。(「和食のいただき方」 塩月弥栄子) 


嗜好品
嗜好品の定義をめぐっては、さまざまな立場があろうが、人間の"心"にとっても、身体の栄養素にあたるような食べ物とする、文化人類学者吉田集而氏の見解がもっともふさわしいように思われる。過重な身体労働や複雑な人間関係など、精神的な緊張によって惹き起こされる"心"の不安定な状態、もしくは果てしなく繰り返される日常への倦怠に対し、適量な酒もしくは一服の茶やタバコは、多くの人々の"心"に大きな安らぎを与えてきた。もともと嗜好品は、薬として用いられはじめることが多いが、これらに共通する要素である覚醒と沈酔作用をもつナルコティックスには、きわめて有効な精神の解放効果があった。それゆえ、酒・茶・タバコなどの嗜好品は、祭りなど非日常の際に好んで用いられ、儀式などに採り入れられるようにもなった。嗜好品に関して、比較的プリミティブな形を残す蝦夷と琉球の事例でいえば、やや新しい時代に酒を知ったアイヌの人々が酒を造るのは、祭りの時に限られていたということからも[林・一九六九a]、酒と祭りとが非常に密接な関係にあることがうかがえる。(「江戸の食生活」 原田信男) 


酒樽賛
楽志(し)みは 花の下より 鼻の下
出光美術館の仙厓展にあった仙厓の五七五です。「鼻の下」はもちろん口のことです。 


おっかさん
「おっかさんがお光様の信者だった頃私も信者になったことがある。おっかさんが亡くなってお通夜の晩、蝋燭を買いに近所の店に出かけた。ところが店に行く途中、いつも顔馴染のよくなついている犬が、私に向かって無闇に吠えるのだ。不思議に思っていると、道で遊んでいた子供達が私の方を向いて、アッ人魂だ、と叫んで逃げ出した。私には人魂は見えないのである。これはおっかさんが私と一緒について来たに違いない、と思った」このことは小林さん自身から聞いた話だ。また、終戦後間もなく、お茶の水駅近くの高い橋から酔っぱらって、酒瓶を抱いたまま下の空き地に落ちた時も、おっかさんがそばについていたので石の上にも落ちずに命が助かったんだよ、と話されたこともある。「お化けを信じないやつは本当のリアリストではないよ」これは小林さんが時々いってられる言葉である。(「わが酒中交遊記」 那須良輔) 小林秀雄です。 


末廣
この地で百三十余年、六代にわたって酒造りをしている家がある。初代新城猪之吉がが酒造りをはじめたのは嘉永三年といわれている。戊辰戦争があり、第二次世界大戦があっても、代々猪之吉が襲名され、家業はかわっていない。「いのきっさま」とまわりではいわれている。威風堂々たる蔵がいくつもならび、木造三階建ての大きな家は、戊辰戦争で焼かれた後にてんびん棒をかついで商売に励んで建てたのを「新城の大火」と呼ばれる火事でもう一度焼いてしまい、明治三十六年に建築したものだ。どの土地でも白い土蔵は営々と積み重ねてきた家業の成功の象徴である。入口に「上善若水」と名付けられた水が樋から流れている。杓でくんで口に含むと、軽い粘りが口に残る。磐梯山麓の猪苗代湖の水が背炙山(せぶりやま)に濾過され、会津若松で地下水となる。この鉱水こそ硬すぎず軟らかすぎず、酒造りには最上なのだ。末廣酒造内に七つある井戸もそれぞれに質が違う。水は米とともに日本酒の命である。「上善若水」 の傍に、映画館の切符売場のような酒売場がある。町人も下級武士も上級武士も、店の者に顔を見られずに酒を買えるようにしたのだ。酒はひそかな楽しみを与えてくれる贅沢だった。玄関の敷居は車が出入りできるように取りはずし式になっている。家に一歩踏込むと、甘やかなもろみの香りがする。いまは仕込みの季節ではないのだが、明治三十六年より八十年来の香りが壁や柱にしみついている。酒好きにはたまらないにおいだ。(「ヤポネシアの旅」 立松和平) 


夢占い
地震で大地がゆれている夢
 落ちぶれたり、住居が変わったりする変事にあう。
墓地で寝ている夢
 金運あり。財運にも恵まれる最良の吉夢。
知人から物をもらった夢
 ソンをすることがある。そのために当分苦労する。
酒を飲んで酔っぱらった夢
 人から損害をこうむる。イヤな目にあわされる。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


えびす講
「コウコウ、おめへ、ゆふべは大酒屋か」「アゝ。おめへは」「わたしは夷子講(ゑべすかう)の座敷さ。丁度八ツに帰(けへ)つたはな」 『浮世風呂』二編巻之上でのおばちとおさみの対話である。「えびす講」は、商家などで、商売繁盛を祈って、えびす神をまつる行事。祭日は地方により一様でないが、江戸では旧暦十月二十日に行われ、なまって「えべす講」ともいう。人々に鯛を振る舞い、みんなで大いに飲み食いする。『柳多留』十一編、「ゑびす講上戸も下戸もうごけ得ず」 同十八編「ゑびす講傘を返しに来るやつさ」借りた傘を返しに来てあがりこみ、振る舞いにありつこうというのである。(「江戸ことば 東京ことば辞典」 村松明) 


飛良泉
名酒と近頃評判の高い飛良泉の酒蔵は、海辺からほど近いところにある。もともとは泉屋と号した廻船問屋で、江戸深川和泉屋や泉州和泉屋と結び、大名にも千両単位で金を貸したほどの大店であった。創業五百年といわれ、先々代まで代々斎藤市兵衛を襲名し、現当主は二十五代目、秋田では最古の酒屋である。-
山廃がわかりにくいのなら、こう説明すれば理解しやすいと、飛良泉斎藤氏は笑う。「山廃酛は明治の母です。速醸酛は戦前の母、酒母なし酵母仕込みは試験管ベイビー、明治の母は見た目はよくないが、芯があってしつけが厳しく、愛情が細やかです。だから娘はよく育つ。逆境に強く、環境の変化にも安定する。暖めてもよく冷やしてもよいこしの強い酒になる。絞った糟まで肌ざわりも色艶も味も違うものです。秋田で最後の山廃蔵になりましたが、ここには鳥海山から湧く最適の仕込み水があります」(「ヤポネシアの旅」 立松和平) 


前に二足後に三足
【意味】いっこう前進しないで、むしろあとにさがること。酔っ払いの歩き方にもいう。一歩前進二歩後退。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


ティモン、カインツ
 人間嫌いで知られたアテネのティモンのところに、同じように人間嫌いで知られたアペマントスが来て、ふたりで楽しく酒をのんだ。アペマントスが、「愉快な夜だね」というとティモン「もし君がいなければね」
 オーストリアの俳優ヨーゼフ・カインツがある時のどをつぶした。医者にみてもらうと、「酒もタバコもいけません」といわれた。幸いのどはすぐなおった。ある人が「よく早くなおりましたね」と感心するとカインツ、「なに、酒もタバコもやめなかったせいさ」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


十月の肴(2)
茄子の紫漬(小茄子は茶筅に切り塩がよくゆきわたるように軽くもむ。醤油と日本酒大さじ一杯、味醂小さじ一杯に針生姜を入れてタレを作る。塩でしんなりした茄子を水で洗い、しぼって水気をよく拭いたら、タレに二時間くらい漬けて完成。
秋茄子の煮物
秋茄子五個はヘタを取り、頭に小さく十字の切れ目を入れ、胡麻油大さじ一杯で中弱火でゆっくり炒める。柔らかくなったら火を弱くし、醤油と日本酒大さじ一杯を入れ汁がなくなるまで煮つける。針生姜を添えて出す。(「新・口八丁手包丁」 金子信雄) 


解散します
京都のクラブの仕事で、一回目は無事終了。一時間半後、二回目のステージにやすしは酔って現れた。ニンニクがにおう。ロレツも少しあやうい。「二回目は酔って上機嫌のお客さんが多い。そこでうけてこそ値打ちがあり、踏ん張りどころだったんです。」怒っても仕方がない。辛抱して、ステージでは一人でたくさんしゃべった。夜十時すぎ、阪急四条大宮駅へ歩くうち怒りが爆発。四条大橋の上だった。「バーンと、僕から手を出しました」やすしも酔いがさけかかっていた。「何をすんねん!」。服のボタンは飛び散って二人ともひどい格好だ。たくさんの人が見ていた。「もう別れよ!」コンビを組んで、息と間が合うようになるまでにはもったいないがどれだけ稽古をし、時間を費やしたか。それを、一時の感情でふいにするのはもったいないが「行きがかり上、ごめんな、自分が悪かった、とお互い言い出せなかった」。翌朝九時半に出社して、「解散します」。林正之助社長(当時)がいった。「わかった。別れたいなら別れろ。ただ、劇場、テレビ、営業のスケジュールがこれだけ入っとる。劇場は吉本でなんとかするが、テレビ局には迷惑をかけ、先輩、後輩たちの信頼を失うことになる。新たに仕事は取らんから、入ってるのはやってもらいたい」頭を下げて聞きながら、三カ月先も仕事をしていたら、いつ別れられるのかと思った。ゆうべ喧嘩をしてカーッとなっているが、すぐ冷めると社長は見切っていたのだろう。案の定、仕事を続けるうちに、喧嘩のことは忘れてしまった。(「わたしの失敗」 産経新聞文化部編) 西川きよしです。 


どぶろくひあげ
小樽に注ぎ口がつき取手のついた器を、地方では「どぶろくひあげ」とよんでいる。どぶろく(濁酒)を四斗樽(こが)で造った場合、その樽から別の器にくに上げる時に使用する、くみ杓の役目の民具である。酒の容器には古くは柳材が使用されていたが、近世に入って杉材が良いとされた。ひあげは手頃の丸材をくり抜き、外側に黒漆、内側に朱を塗った木製漆器のである。注口部分に朱や黄色の漆で少し模様を描いたもので、片口とも言われ、陶器では久慈焼、悪戸焼の片口が知られている。ひあげは酒宴に欠かせぬ道具で、提子(ひさげ)などと同じ用途のものであるが、どぶろくひあげは酒宴用ではなく、日常用具として使ったものである。農作業を終えて「オイ、酒コ持ってこい」という時に、とママぶろく樽(こが)から酒をくみ上げる容器である。(「みちのく民俗散歩」 田中忠三郎) 


からみ酒
内田裕也というタレントをご存じだろう。自分で企画した「コミック雑誌なんかいらない」や「十階のモスキート」などで知られる才人ながら、女優の間ではあまり好感をもって迎えられていないタレントの一人に算えられている。この男、しらふのときには実に礼儀正しく、むしろ内気なくらいで、マスコミ取材などにも折り目正しく応じる紳士なのだが、いったん酒が入ると様子がおかしくなる。日本酒なら五合以上になると歯どめがきかなくなり、まるでがらりと人柄が変わったようになる。からみ酒なのだ。「便所のガラスが俺を笑っている」といってガラスに腕を突っ込んだこともあった。出刃包丁をもってある音楽事務所に押しかけたかと思うと、自分で一一〇番して自首したりしている。このときも泥酔状態だった。(「酒飲み仕事好きが読む本」 山本祥一郎) 


サンドイッチは侮辱
イギリスのパブは、フランスのバーやドイツのビールハウスとはまったく異なる、奇妙な建物である。欧州大陸では、飲むことは、通常、食べることと結びついている。一方、イギリスでは現在でも、あなたがサンドイッチをを注文すると侮辱だと見なすようなパブが何千とある。しかし、地方の普通のパブは十中八九まで、仕事から家に帰り、お茶を飲んでから(ディナーは昼にすませているので)外へ出かけ、二時間ぐらい一杯やったり、槍投げゲームに興ずるような人に食事を出している。が、たとえ空腹を感じても、せいぜい一袋のポテト・フライか、味つきピーナツで我慢しなければならない。私が少年のころ、レスター(イギリス中部の都市)にある何軒かのパブでも、また、牛や豚の足(両方とも酢で食べる)や、豚肉のこま切れで作られたもので、歯の間でポリポリかんで食べるスクラッチングという名の、うまくて腹の足しになるものを売っていた。しかし、これは特別の場合、たとえば槍投げチームが来たお祝いとか、日曜日以外の銀行休日(バンクホリデー)などだけであった。イギリス人は自分の行きつけのパブを、部族の会議室に相当するものと見なしていることは疑いない。だから、そこでものを食べることは、パブの地位をおとしめることになる。(「わが酒の讃歌」 コリン・ウィルソン) 


ビールの計り売り
三年前にミャンマーの首都であるヤンゴン市に行ったとき、ビールの計り売り屋が市内のあちこちにあるのを見てびっくり仰天したことがある。これは今でもヤンゴンでは当たり前に見られる風景で、紐の付いたビニール袋に計り売りで買ったビールを入れ、ぶら下げて街を歩いているおっちゃんをどこでも見ることができる。これは面白いなあと思って俺も買ってみた。一リットルを注文すると、店員は樽から汲み出し器で一リットルのビールをビニール袋に入れて渡してくれた。一リットル二〇〇チャット(一USドル=二五〇チャット)であった。ここで俺が最も注目したのは、一体泡の部分は一リットルの中に入るのかどうか、ビールの液体部分が一リットルなのかどうかということであった。これは買う方にしてみれば大問題なのだけれども、売る方にしても利益率に係わることであるから、互いに鍔競り合いをするところなのである。で、その結論はというと、大したもんですなあ。ちゃんと泡の下の液(ビール)のところを以て計るのであった。ビールを買いに来た者は、泡が治まって泡とビールとの間にできた区画線のところで一リットルを確認、そうしたら安心してビールをビニール袋に詰めてもらって、二〇〇チャット払うという次第である。計り売りビール屋の前に結構人が並んで順番を待っているのは、前の人のビールの泡がなかなか落ちなくて、ビールが一リットルの区画線まで達するのに時間がかかるからであった。俺の番が来て、一リットルのビールを袋に入れてもらうのに五分はかかったが、それでも早く泡が落ちたほうで、さっそくそのビニール袋のビールを飲んでみることにした。袋にはちゃんとストローが一本ていねいにも付いていて、それでチュウチュウとビールを吸う。あれには気分でなかったなあ。やっぱりビールはチュウチュウじゃなくてグビグビと飲むものだからである。おまけに、生ぬるいときているからよけい不味であった。(「不味い!」 小泉武夫) 


五百万石
コシヒカリは節間が伸びやすいといったが、五百万石とて放置すれば節間が伸びて倒伏する。市村さんの経験によれば、五月の連休前後に植えた稲が、七月一日~三日に青々としている状態だと、節間が伸びて倒伏の危険度が高いそうだ。この時期は田植えから二ヵ月、逆に出穂前二五~三〇日のころで、そのころに肥料切れを起こさせ青々とした稲を弱らせる必要があるという。そのため田に溝を切って水はけをよくし、田を干す作業をやる。そうすると、穂が二~三ミリのときに稲は黄色くなり、弱まって節間の伸びを防ぐことができる。(逆にそのとき青々としていると節間が伸びる)。ところが、最後の実りの時期には水がたっぷり要るので、田を干したあと干ばつが続いて水が切れると万事休すというのだからややこしい。私どもにとっては気の遠くなるような話だ。もうひとつ酒米として重要なことは、低タンパクの米を育てることだ。米のタンパクは食べて美味しく、また栄養源となるが、酒造りでは麹や酵母の活動を活発にして酒の色や香りに影響を与えたり、雑菌を育てて酒の雑味の原因となる。この米のタンパク質は脂肪や灰分などとともに外周部に多いので、よい酒を造るときには極力削り、中心部だけで造ることになるが、それでもタンパクが少ないほど酒は造りやすい。玄米には通常八%程度のタンパク質が含まれているが、これをコンマ一%でも二%でも減らすようにつとめる。このタンパクの量は肥料の量に左右される。一反から九~一〇俵の収穫を上げようとすると、肥料を多くやることとなり米にタンパクがつく。蔵元からは一反七俵ぐらいのよい酒米を希望されるが、農家としてはなんとか八俵は上げて採算をとろうとする。(「高校生が酒を造る町」 首藤和弘) 


小早川秀秋(一五八二~一六○二)
前の天下人・豊臣秀吉の甥である。すなわち、正室ねね(北政所)の兄・木下家定の第五子。三歳のときから、子に恵まれない秀吉・ねね夫婦の養子となり、一時は、秀吉の後継者と目された。秀吉の側室・茶々(淀殿)から子が生まれると、秀秋は、黒田孝高(よしたか 如水)の周旋で、中国地方の雄・小早川隆景(たかかげ)の後嗣として送り込まれた。隆景は、毛利元就の三男である。秀吉の病死から二年目、いわゆる西軍から、家康率いる東軍へ寝返り、家康の天下樹立を容易にしたのが小早川秀秋であった。当時、十九歳の若者にすぎない。功により、備前・美作(みまさか)五十万石を与えられ、岡山城主となった。が、西軍を裏切った自責もあってか、酒量が増え、一日中大盃を離さなかったと伝わる。二年後の慶長七年(一六○二)十月十八日、岡山城で狂死したという。二十一歳であった。子が無かったので、名門小早川家は廃絶となった。(江戸風流『酔っぱらい』ばなし 堀和久) 


樽ころばし
かつて津軽・南部両藩の境、野辺地地方に結婚の祝いの席で、樽ころばしという習俗があった。私の叔父に大の酒好きがいた。私が十二歳の時、叔父の指示と命令で樽ころばしなるものを初めてやった。祝いの家の玄関はもちろんのこと、裏口からも入らず、流し場か、便所の窓から忍びこみ、家人には絶対に姿を見せてはいけない。樽ころばしの役は顔に墨を塗り、風呂敷か布で覆面をしており、どこの誰であるか、聞くことも、言うこともタブーである。祝いの席に入ったら、新郎新婦の席の前に行って「今日はおめでとうございます」と声高らかに挨拶をして、空樽を席にころばしてやる。投げ転ばされた空樽には、親族か家族の方が「今日はご苦労様でございました」と丁重に挨拶して、空樽に酒をつめて返してよこすのである。(「みちのく民俗散歩」 田中忠三郎) 


しょっつる貝焼き
ところで、しょっつるといえば「臭い」というイメージが強いが…。「とんでもない。出来上がったしょっつるには嫌な臭いなどありません」と秋田市で岸料理教室を主宰する岸和子さんは間違いを正す。臭うのは発酵過程のみ。家庭で作る場合は蔵の中に入れておき、臭いが外に漏れないようにしたという。熟成したどろどろのものを砂利や炭などを使ってろ過し、澄んだ琥珀(こはく)色の液体にすると、もう嫌な臭いなど消え失せている。醤油とはかなり異なる、濃厚で芳醇な香りはするが、いわゆる魚臭さではない。このしょっつるを使った料理の代表が、貝焼(かや)きである。年輩の人は「おかやき」とも言う。直径十四、五センチほどのホタテの貝殻を鍋に見立てて、ハタハタを煮て食べるのである。味付けは酒としょっつるのみ。ハタハタの淡泊な味に、しょっつるの奥行きのある深いコクがよく合う。じんわり舌に染み入るようで、滋味あふれる味わいとはまさにこのこと。(「日本全国奇天烈グルメ」 話題の達人倶楽部[編]) 


酔っぱらい蛸
蛸は、あちらでは、「悪魔の魚」だとか、「お化け」だとかいわれ、大層嫌われている(そうな)。ところが、まったく食べないのかと思っていると、そうでもない。もっとも、アングロ・サクソン系の連中のあいだでは、イカ同様嫌われている(ようだ)。フランス語ではpoulpe(プールプ)。poulpe au vin rouge(プールプ・オー・ヴァン・ルージュ)という料理がある。つまり、タコの赤ブドウ酒煮である。結構、ゆでただけでも赤くなるはずだが、それを赤ワインで煮るというのだから、凄い。つくり方は、じつに簡単。タコの足をぶつ切りにして、皮をむく。つぎに、ニンニク、トマトを加え、塩、胡椒をして、それから赤ブドウ酒を入れて、四、五時間、グツグツと煮る。場合によっては、タコの墨を入れることもある。さしずめ、「酔っぱらい蛸」というところだろうか。(「美味大全」 やまがたひろゆき) 


ミシシッピ州
禁酒といったようなものが受け入れられる土壌がアメリカ社会そのものに深く存在していたということさえできる。たとえばこの長い歴史の間に典型的な第三政党ともいわれる禁酒党(Prohibition Party)が結成され、一八七二年以来第二次世界大戦後にいたるまで、常に大統領選挙戦に候補者をたててきたが、それほどに根強い基盤をもっているわけである。現在アメリカには、全国的なレベルではもとより、いずれの州においても完全な形では禁酒法は存在していない。しかし一九五九年というごく最近にいたるまで、オクラホマ州とミシシッピ州では禁酒法が実施されていた。この年にオクラホマ州は禁酒法を廃止したが、最後に残ったミシシッピ州において禁酒法が廃止されたのは一九六六年になってからのことであった。とにかくアメリカの一部において、一〇年足らず前まで禁酒法が存在していたのである。(「禁酒法-アメリカ における試みと挫折-」 新川健三郎) 


八木家
同史料(『吉川町史資料集 第三集-酒造』)によれば、元禄四年(一六九一年)二月一〇日、田中村八木惣左衛門が、高津郷小稲村の佐五兵衛から、作高八石三斗の「酒札」を三両で買い取った、という記録がある。酒札を買い取った八木惣左衛門は、ただちに代官に酒造開業の認可を申し出るが、代官の交替期にあたるなどしてなかなか認められず、元禄六年、代官馬渡九左衛門よりようやく認可を取得した(前掲資料集一七六頁)。現存する史料からは、これが吉川町酒造りの始まりと推定される。八木惣左衛門は、高田藩の知行地である田中村など一五村の大肝煎(おおきもいり 名主、庄屋などの異名)であったようで、そのような力で酒造に乗りだしたのであろう。ところが大肝煎などという仕事もけっしてよいことばかりではなく、領主のあくなき御用金や先納金の命令、融通金の依頼など、莫大な経済的負担を強いられ、その苦しさからやがて酒造も縮小せざるを得なくなった。さすがの八木家も、柿崎の伝左衛門に二斗、同じく林右衛門に五斗の酒株譲渡などをせざるを得ず、開業百年を前にした天明二年(一七八二年)ついに休株(酒造廃業)となった。(同二一〇~二一一頁)。もちろん当時のこと、やめたと言いながら少々は造っていたようで、たびたびお上のお咎めを受け、寛政一一年(一七九九年)六月には「隠酒造しない旨の請書」を提出したりしているところが面白い(同二一三頁)。(「高校生が酒を造る町」 首藤和弘) その後、「酒造勝手造り令」がでて、復活するものの、幕末から明治にかけての激動期に酒造業は縮小に向かったそうです。 


バルザム
グラスの中を見て、驚いた。真っ黒である。物好きな私は早速、一本注文してみたがグラスに入った黒酒は、重そうにどろり、どろいとうねっている。からり強いな、と見たが、度数は二十五度くらいという話であった。土地の特産の薬草からとるので、名前をバルザムという。(ラトビア共和国の首都リガ)(「世界を食べ歩く」 豊田穣) 


酒を愛する
まず第一席は酒の原論から始めよう。酒は愛すべきものでたたかうものではない。少なくとも私の五十年の経験では("五十年"に一寸注が要る。"十五から酒のみそめてけふの月"などという古句があるが、私の場合十五といえば中学の何年生か、ひとりむすこの私が、そんな時分甘党の父の傍で酒をなめた覚えはないわけだから、私の"のみそめ"は多分京都の三高時代であろうか。そうすると概算五十年という勘定になる)酒を愛しては来たが酒と戦った覚えはない。私にとって酒は永遠の恋人であるが、親のかたきなどではない。よく世間では酒は飲むべし飲まれるなというが、あのお説教めくいいぐさは実は不賛成だ。酒にのまれまいぞなどと身まがえをしてのむ酒がうまかろうはずはないからだ。酒席で人はよく酒量をききたがる。そして量が多いほどお強いですナなどとほめちぎる。私の酒量も最近御馳走になったお宅の某夫人の的確な計算で一升近く飲むことが分かって、実は冷汗を流して恥ずかしく思っているところだが、酒に強いということは酒を向うへまわして戦って仲々敗けないという事でしかない。人生には闘争しなくてはならない相手はいくらでもある。しかしどこに酒と闘争しなくてはならない必要があろう。もっとも酒というものは一合や二合ではほんとうの味は分らない。一升も飲めばやっと少しばかり分って来るなどというものなら格別だが、ほんとうに酒の味が分るのはそれこそ一、二合で、とりわけ最初にふくむ杯の味こそ無類なのだ。(「詩酒おぼえ書き」 高木市之助) 


鯛のこつ酒
どうも鰯のことになると取り乱し気味になっていけないが、こういうものがあってこそ人間は歯と舌と胃を持って生まれたのだと思いたくなるのが金沢の鰯で、それを塩焼きにした真子の所は味も、舌触りも極上の豆腐だった。鰯と鯛が一番安い魚なのは前にも書いた通りで、大友楼で飲んだ酒のこつ酒も泥鰌や鰯とともに印象に残った。鯛の塩焼きをそのまま大きな皿に入れて酒を掛け、これに一度火を付けてから、又その上に酒を注いで飲むのである。鯛で取った酒のスウプが出来る訳で、それが酒なのだから、ただ旨いだけではすまされない。河豚の鰭酒よりももっと広々とした感じもので、はっきり海を思わせる。その日の酒が、これも金沢の日栄という銘酒だったということもここで書いて置く必要がある。これは鯛のこつ酒に使うのにどっしりとした酒で、併し、金沢の酒だから勿論、重いということはない。(「味のある城下町・金沢」 吉田健一) 


夷講
昔の記録によると、日本橋、京橋辺の古い商家では、(十月)二十日の夷講(えびすこう)の日は店を早仕舞いして、夕方から親類縁者などを招いて盛んな酒宴を開く習慣だったようで、恵比寿とともに大黒も飾り、べったら市で買った懸鯛(かけだい)や魚河岸からとりよせた鯛を供え、ありあわせの皿や小鉢などで、かりに千両とか万両とかいう値をつけて、千両で買いましょう、万両で売りましょうなど、家族親類などで景気のいい売り買いのまね事をやったものだとのことだが、明治以後こんなことをやる商店はほとんどなくなってしまったようである。(「江戸風物詩」 川崎房五郎) 


お積り
「なになに、わたしも大酔ひさ。もうこれでお積りとして、また今度、緩(ゆつく)りと来てやりやせう」『縁結娯色(えんむすびごしき)の糸』四編巻の下での常五郎のことば。そのさかずき限りで終わりとすることを「おつもり」という。これは「つもり」の丁寧語。その語源について、「大言海」には、「つもるは盃の数かさなる義にて、つもりつもりて終はる意なるか、或は、つまり(詰)の転か」とある。上方語では、元禄ごろすでに、動詞「積もる」を、盃を納めて、酒宴を終りとする意に用いている。したがって、その動詞の連用形「つもり」が名詞化したものである。(「江戸ことば 東京ことば辞典」 村松明) 


治病の珍
弘法大師(こうぼうだいし 空海)は、真言宗の開祖である。唐(中国)へ渡って、厳しい修行を経て、密教の秘法を授けられたと伝わる。帰国後、高野山に金剛峯寺を創立、東寺を嵯峨天皇から下賜され、弘仁元年(八一○)、東大寺別当職(最高責任者)に任じられた。弘法大師は、こう述べている。
「酒は、これ治病の珍、風徐の宝なり。治病の中には塩酒を許す」
塩酒は塩を肴にして飲む酒である。高野山では、酒の中に、塩や梅干しを入れて飲む伝統があるという。 (江戸風流『酔っぱらい』ばなし 堀和久) 


48時間で2,000倍
今、ここに熟して甘くておいしいブドウの実がある。これを皮付きのまま潰して容器に囲っておくと、一五時間ほどするとブツブツと炭酸ガスを吹き上げてアルコール発酵が開始される。それはブドウの皮に付着していたり、空気中に浮遊していた醗酵力強い酵母が侵入してきて、そこでひき起こす醗酵現象である。醗酵直前、このブドウの果皮にはその一グラム中におよそ十万個ほど酵母がいたのに、醗酵が起こって二四時間目には四〇〇〇万個(約四〇〇倍)、そして四八時間目には二億個(約二〇〇〇倍)に増える。微生物は格好の生育環境下に入った時、一挙にその数を天文学的に増やしていくことが、このブドウ酒の発酵の例から理解されたと思う。(「醗酵」 小泉武夫) 


三献を過ごさず
『徳川実記』の付録によると、家斉の酒好きかつ上戸ぶりも並ならぬものがあった。かれは、
 御壮年のころより酒を御嗜ありて、常々めし上られ、花紅葉の折にふれては、御過酒もおはしましし・左様の時も、常に替らせるる御容子は、曽(かつ)てあらせられざりしかど、御齢たけさせ玉ひては、殊更(ことさら)御身の為宜しかるまじと、一橋邸(家斉は一橋家治済(はるさだ)の実子)よりひそかに御諫言ありしとなむ、夫(それ)より後は三献の外は召上がられざりき。
とある。自省して節酒につとめたと称揚されている。鷹狩に近郊に出ていったさい、風雪はげしく寒気がきびしいので、供の連中に酒をたっぷり与えて身体を暖めさせた。近侍の武士が家斉にたいし、今日ばかりは少々お過ごしになっても、寒さしのぎのためだからよいでしょうにと、飲みたげな家斉の意を迎えたけれど「そこを呑まぬが男なり」と戯れごとを言い、やはり三献でとどめた。さすがは大御所様と、周囲のものは感嘆したという。この史料が史料だけに、誇張して名君ぶりをたたえたきらいも感じられるが、意地を強く張る性質の家斉ではあったようである。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎) 


春浪さん
カツフヱープランタンの創設せられた当初、僕は一夕生田葵山井上啞々と共に、有楽座の女優と新橋の妓とを伴って其のカツフヱーに立寄つた。入口に近いテーブルに冒険小説家の(押川)春浪さんが数人の男と酒を飲んでゐたのを見たが、僕等は女連れであつたから、別に挨拶もせずに、そのまゝ楼上に上つた。僕等三人は春浪さんがまだ早稲田に学んでゐた頃から知合つてゐた間柄なので、挨拶もせずに二階へ上つたことを失礼だとは思つてゐなかつた。就中(なかんづく)僕は西洋から帰つてまだ間もない頃であつたから、女連のある場合、男の友達へは挨拶をすぬのが当然だと思つていゐた。ところが春浪さんは僕等の見知らぬ男を引連れ、づかづか二階へ上つて来て、まづ啞々さんに喧嘩を売りはじめた。僕は学校の教師見たやうな事をしてゐた頃なので、女優と芸者とに耳打ちして、さり気なく帽子を取り、逸早く外へ逃げ出した。後になつて当夜の事をきいて見ると、春浪さんは僕等三人が芸者をつれて茶亭に引上げたものと思ひ、それと推測した茶屋に乱入して戸障子を蹴破り女中に手傷を負はせ、遂に三十間堀の警察署に拘引せられたといふ事であつた。これを聞いて、僕は春浪さんとは断乎として交を絶つたのみならず、カツフヱープランタンにも再び出入しなかつた。尾張町の四辻にカツフヱーライオンの開店したのも当時のことであつたが、僕はプランタンの遭遇以来銀座辺の酒肆には一切足を踏み入れないやうにしてゐた。-(昭和二年十月記)(「申訳」 永井荷風) 


十月の肴
茗荷と味噌の炒め和え(茗荷三個は縦に八つ割りにし、サラダ油大さじ一杯で手早く炒め、そこへ味噌大さじ一杯に砂糖小さじ二杯、日本酒大さじ一杯を入れて溶いたものを加え、炒め合わせる。)
鱈子の山葵漬和え(鱈子一切れを縦に包丁を入れ、包丁の背で皮から中身をこそぎ出しておく。これを山葵漬大さじ一杯と和え、醤油と化学調味料で味を調え、そのままか、レモンの輪切りの上にのせる。)(「新・口八丁手包丁」 金子信雄) 


「遊仙窟」(2)
少時にして、桂心下酒物(さけつさかな)を将(も)ち来れり(二三八)。東海の鯔(なよし)(三三九 ボラならん)の條(すはやり)(三四〇 魚肉を細く切りて乾したるもの)・西山の鳳の脯(ほじし 乾肉)・鹿尾鹿舌・乾せる魚(な)炙(あぶ)れる魚(うを)・鴈(かり)の醢(ししびしほ)(三四二 塩辛と見て善からん)荇(あさざ)(三四三)の「くさかんむり+俎」(にらぎ)(三四四 酢漬・塩漬等の漬物)・鶉のあつもの(三四五)桂の糝(こながき)(三四六)・熊掌兎髀(ユウシヤウトヒ)(三四七 兎髀は兎のももにく)・雉膵(三四八 雉の尾上の肉 解し難し)豺脣(サイシン)(三四九)あり、百味五辛(三五〇)あり、之を談るも尽くすこと能はず、之を説くとも窮むる能わず。(「遊仙窟」 張文成 漆山又四郎訳注 昭和二十二年) 


むしかえしのアルコール
あまりにも哀れで、しみったれてはいたが、酒の味というものを真に楽しんだのは、案外、戦争中だったかも知れない。配給の酒はもちろん、ビールをさえ、サカズキでチビリチビリ時間をかけてやったものだ。そのころ、大学生の息子が、学校で化学の実験をしていたので、その使い残りの古アルコールを、もう一度蒸溜して、こっちに回してもらい、それを番茶やハブ茶で調合したり、今にしてみれば懐かしの思い出だ。もうたいていの酒のみ友だちは疎開していたが、それでも、ここ阿佐ヶ谷には、戸村繁君、上林暁君が残っていたし、吉祥寺には亀井勝一郎君がいたので、時たま、私は彼らを招待したものだ。酒宴なんか張るほどの量があるはずもないので、茶会ということにして、そのころも売っていた抹茶でしずかに茶を楽しんでから、さて、そのむしかえしのアルコールがでる。それでもみんな神妙そうに、いささかこわごわそうにやりながら、「うん、これはいい」とか、「まるでウィスキーですな」などと、まんざらお世辞でもないらしく、酔ったことだけは事実のようだった。そして、戦国の武士よろしく、鐵カブトに警防服のいでたちで退散するのであった。(「わが酒歴」 青柳瑞穂) 


王莽の時代(続)
義和は命士を配置して五均や六斡を監督させた。郡ごとに数人おかれ、すべて大商人が任命された。洛陽の薛子仲(せつしちゆう)、張長叔、臨淄の性偉らは駅伝を利用して利益を追い求め、全国を走りまわった。彼らは地方官と悪事を謀り、帳簿に不正が多かったので国庫に充たされず、民はいよいよ疲弊した。王莽は民が苦しんでいることを知り、ふたたび詔を下して言った。「そもそも塩は食べ物の将であり、酒は百薬の長、めでたいあつまりの席になくてはならぬものである。鉄は農業のもとであり、山林湖沼は資源の宝庫、五均・賖貸(しゃたい)は、物価を安定し、民に供給して日常生活を保証するものである。貨幣を鋳造するのは有るものと無いものを融通して、民のもとめに備えるためのものである。これら六つのものは、一般国民がそれぞれの家でつくることは不可能で、必ず市場にあおがなければならず、値段が数倍になっても、買わないわけにはいかない。そのために豪民や富裕な商人が貧しくて弱い者を脅かすことになる。古の聖人はそうなることを知っていたから、これらを統制したのである。六種類の統制それぞれについて不正をふせぎ、違反した者は最高死罪とする」。悪い役人とずるがしこい民がいずれも庶民を侵害し、庶民はみな安心して生活できなかった。(「漢書食貨・地理・溝洫志」 班固 永田・梅原訳注) 王莽の酒制度  


王莽の時代
(王莽の時代)義和(ぎか 国家財政官)の魯匡(ろきょう)が言った。「山林・沼沢・塩鉄・布帛と五均・賖貸(しゃたい)は、すべて国が統制していますが、ただ酒の醸造売買だけは統制しておりません。酒は天の美禄であり、帝王が天下をいつくしみ、はぐくまれるためのものです。神をまつり福(しあわせ)を祈るにも、老人をたすけ病人を養うにも、さまざまな儀式の集りにも、酒がなくては行われません。だから『詩経』(小雅・伐木)に「酒が無いときは、私のために買え」といい、『論語』(郷党)には「買った酒は飲まない」とあります。二つのことばは、あい反するものではありません。『詩経』の方は、太平のつづく世のおかげで、酒を作ることはおかみが司り、その調和した美味は民の嗜好にあい、互にすすめ合うことができたのです。『論語』の法は、孔子は周の衰乱の時期にあたり、酒をつくることが民にまかされて品質不良でした。それで疑って飲まなかったのです。いま国中の酒をなくしてしまえば、儀式を行ったり、民を養ったりすることはできませんし、放置し何の制限も加えなければ、財貨を浪費させ、民を傷つけることになります。どうかむかしを手本にして官に酒を作りさせられますよう。二千五百石を一均とし、一均をおおむね一つの販売所を開設して売り、五十醸を基準に売り出されますよう。一醸には、麤(そ 鹿×3 あらい)米二斛(こく 三八・八リットル)と、こうじ一斛(一九・四リットル)を用いて酒六斛六斗が得られます。それぞれ、その市場の毎月一日(ついたち)の米とこうじ合わせて三斛の価格を計算し、それを三分して、その一を酒一斛の標準価格といたします。米とこうじの原価を除きその利益を計算してこれを十分し、その七を官へ納入し、残り十分の三と酒かすや酢および灰や炭は、醸造の用具や燃料の費用に充当させます」。(「漢書食貨・地理・溝洫志」 班固 永田・梅原訳注) 


上方と関東
酒のサカナに限らず、料理の味つけが上方と関東、とくに江戸とでは、かなり異なるのも酒に由来するといわれている。江戸では灘の酒を口にするには、西宮の港を船出した樽廻船が、品川沖で小さな船に積み直して新川の酒問屋まで届くには、一五、六日を要した。この運送の日数が問題で、半月近く樽に入ってゆられてくると、どうしても木香が強くつく。江戸風料理が、こってりとして味が濃厚なのは、酒の味と香りのせいだった、というわけである。これにひきかえ、上方は瀬戸内や日本海産の新鮮な魚介類が手に入り、木香のそれほど強くない新しい酒を口にすることができたために、料理も淡白なのだ-というわけである。(「食の文化考」 平野雅章) 


連尺
▲目代(もくだい) この所の目代、この所御富貴(ふつき)につき、新市を立ていとの御事故、高札(たかふだ)を上ぐる。これを打ちまうせう。 ▲女 わらはは此辺にひとりずまひして、酒を売る者ぢや。この所御富貴ゆゑ、新市が立ち申する。一の棚を領じたらば、すゑずゑまで、つけて下されうとおほせらるゝ。妾(わらは)一の棚を持ちませうと思うて、まだ夜の中に出た。参る程に市場ぢや、これが一の棚ぢや。これに居ませう。夜があけぬ。ちとねむりませう。 ▲商人 これはこの辺にすむ商人(あきうど)でござる。この所御富貴について新市が立つ。高札に、何なりとも一の棚についた者を、すゑずゑまでおつけなされませうとの事ぢや。早う参り、一の棚についておきませう。今こそこの体なりとも、子どもの代には、綾錦を売りませうも知らぬ。これはさて、女が早う来て、一の棚についてゐる。(「狂言記」)あとから来た商人は嘘を言って一の棚を横取りしようとしますが、勝負で決しようという目代の采配によるすもうに負けてしまい、「今一番とれ今一番とれ」。 連尺は荷物を付けて負う道具だそうです。ここでも、酒屋は女性ですね。 


おかたい順番
まえに「姫」の旅行で熱海かどこかへ行ったとき、かなり全員乱れて旅館中かけずりまわっていたので、係の女中さんにおわびかたがた、「ひどいでしょう。ごめんなさいね。こんな宴会はじめてじゃない」ときいてみたら、「とんでもない。こんなの序の口ですわ。いつもいちばんひどいのは学校の先生方の宴会で、次にお役所関係とか税理士さん、お医者さまに弁護士会、とにかくふだんおかたい順番に大変です」となぐさめられた。なるほど日ごろ抑制している人間ほど、酒が入ると"さあ行くぞ!"みたいな感じであばれちゃうんだな。つまり多くの日本人にとって、酒はことの始まりではなくてうっぷんと愚痴のはけどころ、事後処理用飲料であるにすぎない。んな貧しい酒の飲みかたは、実に酒を冒涜していると同時に、時間のムダであり自分も大損している飲みかたである。酒は楽しく飲むべかりけり。(「ところで、もう一杯②」 山口洋子) 


昼九夜八船六
【意味】杯に酒をつぐのに、昼は九分目、夜は八分目、船の中では六分目が適当である。 【参考】ちゅう(昼)九や(夜)八せん(船)六  ○昼九夜八船七馬六(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


勝率
地酒とは本来、その土地で造られ、その土地で飲まれる日本酒のことだ。灘や伏見の全国ブランドではなく、その土地でしか飲めない清酒や焼酎という意味であり、いまやどこでも飲める八海山や久保田のような有名ブランド酒を地酒と呼んでいいのかという疑問を感じている。しかし、いまでも大半が地元で消費される地酒は立派に存在する。ほとんど他の地方では知られていない銘酒もまだまだある。旅先で「そんな銘柄は聞いたことないなあ」といって、飲まずに帰るのはもったいない。私は輪島で若緑という酒に出会って以来、「知らないからこそ飲むのだ。これは勝負だ!」と思って飲んでいる。勝率はそう高くないけれど。(「旅のらくがき」 千石涼太郎) 


髙関堂日記
まず天保一三(一八四二)年九月一一日の藩主脇坂安薫(やすただ)来訪時の献立から見ていただこう(図22)。卸身の鯛に口柚を加えた袱紗味噌の吸物をはじめ、組み肴を盛る硯蓋(すずりぶた)には小串魚・春山蒲鉾・割海老・蒸玉子・九年母(蜜柑の一種)・蓮根・茸、そして有平糖の御菓子に西王母という御前酒、さらに御膳が平(皿)に高麗焼鯛・花海老・長茸・松芋・水菜と湿地(しめじ)の汁、これに飯と香の物、という次第であった。これは藩主の茸狩りの際に、昼の弁当を用いた後のものである。いかに裕福な在郷家臣とはいえ、藩主を正式な食事に招くことはできず、あくまでも立ち寄りの膳という形をとらねばならなかった。(図23)。(「江戸の食生活」 原田信男) 播磨国龍野藩の大庄屋以上の在方御流格という身分の永富家の『髙関堂(たかせきどう)日記』にあるそうです。 


モエ・エ・シャンドンのハーフボトル
この時期のいちばんうれしかった思い出は、アメリカ国民が敬愛する大悲劇女優サラ・ベルナールとニューヨークで再会したことであった。私はサラが宿泊している「マリー・アントワネット・ホテル」で医者を伴った彼女と何度も食事を共にする光栄に浴した。ある日の彼女との昼食時に、あなたの旺盛な気力の秘密は何か、それをあなたは少女時代から今も変らず持ち続けてみんなの称賛の的となっているがと、尋ねたことがあった。「エスコフィエフさんは詮索家ですわ。女と共に死ぬ秘密もございますのよ」と、サラは答えた。「しかし、あなたのお気持ちの中には、その秘密を大切に守ろうとするエゴイズムが若干あるのではないでしょうか」「そうでもあるし、そうでもないんですよ。もし生まれながら若干の才能に恵まれているなら、『私はこうしたい』と表現するだけの意志を持たなければなりません。また起こり得るあらゆる障害を果敢に乗り越えなければなりません。来週の日曜日の昼食にお待ちいたしておりますわ。そのとき私の小さな秘密を公開いたしたいと思います」次の日曜日、私はちょうど手に入ったストラスブール産のすばらしいフォア・グラのパテを携えてサラに会った。このフランス食品の逸品を賞味しながら、愛想のよい女性の中でも特に模範的なサラは、例の秘密を打ち明けてくれた。それはしごく単純なものであった。肝心なことは意志であり、それはシャンパンによって支えられていた。サラ・ベルナールは食事のたびにモエ・エ・シャンドンのハーフボトルを欠かさず飲んでいた。彼女によれば、シャンパンの泡が驚くべき効果を持っているとのことだった。(「エスコフィエ自伝」 オーギュスト・エスコフィエ) 


奉加帳
さる在所に、所の惣堂破損に及び、念仏講中の取持ちにて奉加帳をこしらへ、講中すゝめに歩きにける。なにが百姓の事なれば、声高に「そなたは二百文つき給へ」といふ。亭主聞きて「御存じの通り、百姓の事なれば」といふを、隣の酒屋へ奉加にゆきし者ども、これを聞き「あれ聞給へ。隣にさへ百しやう(升)とおしやるに、こなたには五百なされませ」といふた。(百登瓢箪巻三・元禄十四)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


ホーム・パーティー
私も三年ほど前に、ワシントンでこうしたホーム・パーティーに、招かれたことがある。「例の"水割りとスナック"のパーティーだな」と思い、多少の腹ごしらえをして出かけたが、行ってみると、話はもう一段進んで、出されたのは、なんとペリエ(ミネラル・ウォーター)とピーナツであった。ウィスキーもあることにはあるが、客はあまり手を出さない。パッカードの本から二〇年たつうちに、アメリカ人の健康志向はさらに極まって、アルコールは悪徳になったというわけだ。それどころか、タバコを吸うのも御法度である。ある場所にあった貼り紙には、こう書いてあった。「タバコは吸ってもかまわない。それはあなたの権利である。しかし、タバコの煙を吐いてはならない」…「ナルホド、マイッタ」と思ったが、ともかく知的でありたいと望む人は酒もダメ、タバコもダメ、太るのもダメ、大声で騒ぐのもダメである。しかも、パーティーでは素面(しらふ)でジョークを飛ばして、一座を魅了しなくてはならないし、こちらも水を飲んで笑わないといけないのはたいへんだ。そして、ホストやホステスは客の間を行き来して、出席者をたがいに紹介してやる。これこそが、このパーティーで出されるメイン・ディッシュであり、アントレなのだ。パーティーに招かれた人が、あとで「あの人のパーティーに出たら、すごい人と知りあいになれたよ」と言って喜んでもらえるか否かが、パーティーの出来・不出来を決める。(「食卓からの経済学」 日下公人) 平成1年の出版です。 

勇心酒造
創業百五十余年のここ勇心酒造の五代目当主・徳山孝さんも、造り酒屋の主(あるじ)らしくない。名詞に「社長」の二文字はなく、「代表取締役農学博士」(傍点は筆者)とある。白衣に眼鏡の外見も、小声の口調も、話の理詰めな中身も、研究者そのものなのである。経営者に多い口八丁手八丁のタイプとは正反対で、僕の見当違いの質問にも、しばしば沈思黙考の末、「どない言うたらええんでしょうか」心底もどかしげに答えてくださる。「どない言うたらええんでしょうか…。私が研究に没頭するあまり、二十五年間も赤字続きで、平成十四年(二〇〇二年)に『アトピスマイル』を出してから、やっと黒字になりました」この「アトピスマイル」、アトピー性皮膚炎の子供を持つ母親たちのあいだでは、おおげさではなく"救世主"並みの人気を集めている。徳島大学医学部の臨床試験でも、アトピー性皮膚炎患者の実に八十八パーセントに症状改善が認められた。おまけに、ステロイド剤の長期使用で問題化した薬の副作用がまったくない。その秘訣は製造法にある。いや「醸造法」と呼ぶべきであろう。アトピスマイルは、清酒と同じく、米を醗酵させたエキスが原料の「オールゴ・バイオテクノロジー」の産物なのである。徳山さんは、「日本型バイオテクノロジー」と呼ぶ。-
かくして、いまでは、ライスパワーエキスから生まれた商品が、売り上げの九十九パーセントを占めている。清酒はわずか一パーセント程度にすぎない。勇心酒造は、造り酒屋から日本型バイオのメーカーへと劇的な変身を遂げたのだった。(「千年働いてきました-老舗企業大国ニッポン」 野村進) 


カッパドキアの醸造場
インド・ヨーロッパ系といわれるヒッタイト人が、先住の民族を駆逐して、中央アナトリアに王朝を建てたのは、紀元前千八百年ごろといわれている。ヒッタイト王朝の中心部がこのカッパドキアであったというから、ここは枢要の地として、その後も、民族や部族の抗争のたびに、軍隊が往来したにちがいない。平和に田畑を耕していた住民たちは、外来の軍隊が近づいたとき、全員、地下に潜って生活したとおもわれる。部屋と部屋のあいだには、車輪状の大きな石で区切られていた。醸造場や製粉場のあとも認められた。岩間からもれる雨水をあつめる方法も講じられたが、地下生活者の渇きをいやしたのは、おもに地下醸造場でつくられたワインであったようだ。(「雨過天青」 陳舜臣) 


紅葉漬け
この「紅葉漬け」なる逸品は、酒井佐和子先生著『漬けもの小百科』にくわしい。鮭の筋子を買ってきなされ。斜めにきりおとした大根をヘラにつかって、その粒々をほぐしとる。つまりイクラである。それをブツにきったマグロの赤身にまぶし、少量の醤油に漬けて一夜おくのである。快絶である。三日目からは辛くなりすぎるのが難だが、これは上下戸ともにヨキです。もったいなくて、ジャリには食わせられぬほどの味。(「男のだいどこ」 荻昌弘) 


サンプル品
椎名 一番最初に飲んだ酒というのは覚えていますか。
佐治 あんまり覚えとらんなぁ。ずいぶん小さいときね、うちの親父のつくっておりましたぶどう酒で甘いぶどう酒があったんです。岡山にアレキサンドリアマスカットというぶどうがあるでしょう。それでつくった非常に甘い酒で、小さな瓶に入ったサンプル品が家にありましてね。それを飲んだのがいっとう最初じゃなかったかという気がしますがね。
椎名 そのときはお年はいくつですか。
佐治 ウ~ン、何ぼぐらいやろな。小学生でしたね。
椎名 それで酔いましたか。
佐治 それがあんまり酔わなかったんです。私はそんなに酒は強いほうじゃないけど、そんなに早く酔うほうでもないんですね。(「喰寝飲泄」 椎名誠) 佐治敬三と椎名誠の対談です。 


胡姫好き
胡姫(こき)は酒場のなかで、酌をしたり、歌をうたっていただけではない。客の入りがよくないと、表に出て、積極的に客引きもしていたようである。李白が裴図南(はいとなん)を見送ったときにつくった詩は、
何処(いずこ)か別れを為す可き
長安 青綺(せいき)門
胡姫 素手もて招き
客を延(ひ)いて金樽(きんそん)に酔う
と、はじまっている。どこで別れようか?長安の青綺門がよい。客をひきいれて金の酒樽で酔わせてくれる。送別の宴は、やはり胡姫の酒場がよいという意味である。李白はよほど胡姫の店が好きだったとみえる。「前有樽酒行(ぜんゆうそんしゅこう)」という詩は、
胡姫の貌(かお)は花の如く
壚(ろ)に当たって春風に笑う
春風に笑い
羅衣(らい)を舞う
君今酔わずして将(まさ)に安(いず)くに帰らんとする
と、結ばれている。壚に当たるとは、前に述べたように、カウンターのむこうに立って、酒場の店番をすることだが、客に酒をつぐくらいのサービスはしたであろう。そのときのようすが、花のような美貌で、春風に笑うようであったというのだ。(「西域余聞」 陳舜臣)  


六時間
食後、書棚に狩野近雄『好食一代』を探す。故檀一雄へのインタヴュー記事を読み返すためなり。該当箇所をメモす。「(酒のサカナは)夜通し、自分でつくってるわけです。夕方から飲みはじめて夜中まで飲んでいて、昔は女房が午前二時か三時ごろまでつき合っていて、食いものずくりを手伝ったりしてましたけれど、いまは子供なみになったから、十一時から十二時にバッタリ寝てしまう。だからそれから自分だけでつくって(中略)…それでも、六時間は、自分でサカナを作っちゃ飲んでます。」(「食物漫遊記」 種村季弘) 


食べ合わせ
焼酎とトウフ(近頃の一杯屋では、夏場よくこれをやっているが、いっこうに中毒しやた人をきかぬ。こっけいとより言いようなし)
シャコと焼酎(これも焼酎党はよく試みるのではないか)(「舌」 秋山徳三)
外に、ソバとタニシ、タコと梅、アサリと松茸、ナマズとコンニャク、フナとタケノコ等々が列挙されています。 


酒は大杯にて己(おのれ)が量だけ一度に飲む
酒は、大きな杯で、自分の定量だけ、一度に続けて飲む。べんべんだらりと飲んではいけない。菅茶山(かんさざん 一八二七年)の『筆のすさび』に、<すべて酒は小杯にて一日飲むは、覚えず量を過ごし積もりては病をなす、大杯にて己が量だけ一度に飲むものは、酒の力一時に出尽くすゆえに害なし、これは予が数十年見及びし人皆しかり。されども量を過ごせば、大杯にて一度に飲むの害は、小杯にて長く飲みしにまさると見えたり。>という。(「飲食事辞典」 白石大二) 


果実酒の生命
ブドウをつけこめば少しはブドウ酒に似た酒ができるかもしれぬ(もっとも、これだけは、今でも御禁制である)、とか、あとでふりかえれば小児的すぎた試行もくりかえしたが、これらはすべて半年後、想像力の錯誤であることがはっきりした。当時、以外にイケたのが紅茶酒であった。氷砂糖を入れた焼酎の中へティー・バックを一コつるす。三日で美しい茶色が浸出するから、バックをとりだしてしまう。三ヶ月後、ほろにがい香りの甘い酒がうまれたのには御機嫌となったものだったが、あとの大半は正直、舌にのるものじゃなかった。ところが、年うつって、先日、あるテレビ局員がたずねてき、久方ぶりに私のこの果実酒道楽をほじくりはじめた夜、こちらもツイ話に興がのって、「こりゃァそのころのシクジリの一例ですがね」と、ガラナ酒、青ジソ酒、といった、当時、ナマナマしすぎてのむ気にもなれなかった失敗品をもちだし、再び一口あじわってみたところ-これはおどろいた。滝が養老の酒にかわったみたいなものだった。瓶の中身が、まったりとコクのある意外な美酒へ変質していたことに気がついたのである。かつて故三角寛氏に、驚倒的なうまさの梅酒をよばれたことがある。二十年間の貯蔵品だとおききして、果実酒の生命も時間にあることはキモに銘じてたつもりなのだが、わが家で同じ現象が生起するのをみては自然の秩序の厳粛さ、あっとうならざるをえなかった。(「男のだいどこ」 荻昌弘) 


九月十九日(草津)
夜、草津の家主一同により、茶屋へ招待された。町長が演説をやり、自分に歓迎の辞を述べて、同地のために助言を請うた。もちろん、ふんだんに酒とゲイシャだ。飲めば飲むほど、日本人は皆、いよいよ陽気になった。おしまいには、これら町の名士連は、ほとんど誰もが、怪しい踊りをやったり、おかしい歌をうたったりした。またもや自分は、おどけたり茶化したりする才能を、いかに豊富にこの国民が持ち合わせているかを見せられた。しかし、おかしいことをいったり、したりする連中がたいていそうであるように、かれらはいささか軽々しい。この人たちは、心底から不景気の年を迎えて、たいていは借金を背負い込んでいるのだが、この場所では、まるで子供のように打興じている。これらの朗らかな人々を見ていると、これが、いったん祖国のためとあれば、断固としていかなる努力、いかなる危険をも辞せざる国民の一分子であるとは、ほとんど想像もつかない。(「ベルツの日記」 トク・ベルツ編 菅沼竜太郎訳) 明治三十七年です。 


くそうず(臭水)
越後七不思議の一つとして、石油がにじみでるところから、天然ガスも吹き出た。元禄年間の頃といわれる。新津柄目木に丈七なる者が家の中にこもる臭気をとって火をつけたら一尺ほどの炎が上がった。それでそれへ竹筒をさしこみ火を点じて明(あか)りとした。竹筒の先から青白い炎がメラメラとゆれているのを近所の人びとが驚いたそうである。「土火(どび)」といった。天然ガス発見の話である。大体臭いので下層階級の人が我慢して灯火にした。そこの土を酒屋が焼酌(ママ)釜で熱して精製する元祖となった。(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 解説の部分です。 


オールド・パアの墓
ロンドンでもう一つの収穫は、オールド・パアの墓である。ご存じのことだと思うが、トーマス・パアは一四八三年生まれで、百五十二歳の長寿で有名だが、なかなか精力的で、百二十歳のとき再婚したり、牢にも何度かはいったり、話題の人物で晩年は皇帝の知遇を得た。もちろん長寿であったというだけの理由である。したがってオールド・パアなる酒の名も、長寿の名声から生まれたものだが、現在では酒のほうが有名になり、世界の人々が飲んでいる。ところで、あのオールド・パアの墓はたしかウエストミンスターにあったように思ったので、間違えてもたいした恥にはなるまいと思って、現地の案内人にオ0ルド・パアの墓はあるかときいた。すると案内人はわが意を得たり、よくぞお聞きくだすったという態度を示し、私たちを案内した。そこは別々にお祈りをする小祭壇の通路に当たるところで、ウエストミンスター寺院の墓の中では宰相、元帥の大通りと違った横丁とおぼしきところだが、女王戴冠式の大祭壇には割りに近いところで、オールド・パアらしき永住の地であった。他の墓とくらべものにならない小さな墓標を上から覗きこみながら、漫画集団の酒徒連は「パアさん、こんにちわ」と特別の親しさを示した。案内人は墓碑銘を細巻きのかさの先で示しながら「この寺院で、このひつぎだけは横に埋葬しないで、縦に埋めてあります」という。私たちは「どうして」ときいた。すると案内人はニヤリとして「飲みかけのお酒のびんは横にできない」といった。(「フクちゃん随筆」 横山隆一) 


D・C・Lの力
D・C・L(1877年六大グレーン・ウィスキー業者が合同して成立したディスティラーズ・コンバイン株式会社)はかくのごとく有名なスコッチのブランドを数多く手中にあつめ(ヘイグ、ジョニ・ウォーカー、ブキャナン、ホワイト・ホース等)、ウィスキーの生産力においては六〇パーセントを独占していると考えられるがそれでもなおスコッチの生産量を自由に増減したり、価格を上下するに足る支配力をもっているとは考えられていない。スコッチ・ウィスキー連合会のメンバーは一二〇名余あり、一九五〇年にはスコットランドで操業中のウィスキー製造工場は大小合して確実に九四以上(モルト・ウィスキー工場は八五、グレイン・ウィスキー工場九)あった。そのうちD・C・Lに所属しているものは四一(うちグレイン五工場、モルト三六工場)である。いわゆる独立生産者のうちには製造設備、ブレンド設備、販売機関をもつ大きな綜合製造業者たとえばウィリアム・ティーチャー父子商会(「ハイランド・クリーム」)(『ロンドン・タイムズ』「ティーチャーズ」特集号一九六二年二二日)のごときものやヒル・グリムサン(「ハドソン・ベイ」「クイン・アン」)、マクドナルド・クリンリース商会(「オールド・パー」、エジンバラの外港リースでできるこの「オールド・パー」が日本人に有名になったのは戦前ロンドン駐在の一大使がイギリス外務省の高官から親類のつくっているもので、軟らかく病人用に適していると病気見舞いに贈られて覚え、愛用していたというだけである。しかし強い酒に弱い日本人には適しているのだろう)のごときものや、さらに全くの個人事業であるアイラ島の前述のイアン・ハンターやグレン・リヴェットのウィリアム・スミス・グランドのごときものがある。これらの独立生産者はそれぞれ多年売りこんだ独自のブランドをもって、イギリスおよび海外に一定の地盤をもち、D・C・Lといえども容易に侵略ができない。(「趣味の価値」 脇村義太郎) 


開化とは三鞭酒
ロンドン新聞の抄録に曰く、日本において開化の字義新たに出たり。それは近頃のことなるが、ある日本人横浜の英館に来訪するものあり、よつてシャンペン酒を飲ましめしに三杯目の大盞をのみほし、側におくと見えしが、忽然(こつぜん)大声を発して曰く私は開化大好物でござりますと。主人は彼のいう開化とは何のことなるや一向に会せず。さらにその字義を問いければ答えて曰く開化とはそのシャンペン酒を飲むことでござりますといへりとぞ。<明一一、評論三五>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


清水崑
清水崑君は私にとってはもっとも古く、そしてかけがいのない友人である。崑は天才だし、崑の大成を願う私は、彼が画業の上でもたもたしていた時代にも、なに一つおせっかいな助言はしなかった。崑は若いときは酒びたりであった。鎌倉へ下宿したとき、いつも遅いので下宿のおやじが文句をいったら、崑は気がねして、駅前の宿へ泊まることがあった。「横山、ゆうべはひどい目にあった」というので聞いてみると、その宿屋で寝酒を呑んで寝たが、よせばよかったのに最後の一滴がおしくなって、おちょうしの底をポンとたたくと、大きなゴキブリがさかずきに落ちたという、気持ちがわるくなって、寝られなかったそうだ。私はその話より、崑が宿屋へ文句もいわず、笑いながら頭をかいているのを見て感心した。たいがいの人は宿にいちゃもんをつけるだろうし、悪いやつだったら、宿賃棒引きか、ゆすりのたねにするところだ。(「フクちゃん随筆」 横山隆一) 


グラッドストーンの改革
十九世紀前半においてはイギリス人は葡萄酒の基本的条件は、赤いことと、甘いことであると考えるようになっていた。上流階級は甘いシャンペンにたいしては依然として強い需要をもっていたが、ドイツのホックやフランスのクラレットにたいしては限られた需要しか示さなくなった。一八三一年フランスの葡萄酒にたいするメシュイン条約(ポルトガルがイギリスの毛織物の輸入を他国のものと同様に取扱うことを条件に、フランスの葡萄酒の三分の二以下の関税でポルトガルの葡萄酒の輸入をみとめた。リスボンで交渉を行ったのがメシュイン公使で、その名で条約はよばれている)以来のながい間の差別関税を撤廃したが、需要の上には大きな影響をもたない位まで人々の嗜好は固定してしまった。この状態に急激なる変化をもたらしたのは一八六〇年代のグラッドストーンの自由貿易的な諸政策であって、彼は葡萄酒の貿易に大革命をひきおこした。一八六〇年二月をはじめとして、数次の改革でグラッドストーンは葡萄酒の関税を徹底的に引き下げ、最後には普通品は一ガロン一シリング、アルコール含有量二六度以上のものは二シリング六ペンスときめた。フランスは新通商条約で最恵国国民待遇をみとめられた。さらにグラッドストーンは貿易の自由化と平行して国内における葡萄酒の販売を思い切って自由にした。これらの政策はその後約六〇年間持続された。この六〇年間の試練を経たグラッドストーンの政策にたいしても、かつてのメシュイン条約と同じように、イギリスの葡萄酒貿易に及ぼした影響については、今日は公正な評価を下すことができるはずである。一八六〇年から七六年にいたる間にイギリスの保税倉庫から引き出された葡萄酒の量は年々九〇〇ガロンから一八〇〇ガロンへと確実に増加した。フランスの葡萄酒がこの著しい増加の最大の割合を受けたのである。(「趣味の価値」 脇村義太郎) 


三原酒
福嶋政則(ふくしままさのり)備後国を下されし後、同国三島の酒を献上する迚(とて)、回船に積て海路を遣(つかは)しける。その船豆州八丈嶋のあたりを過るとき、人の如(ごと)きもの、壁巌(へきげん)の上より手をあげて招くゆゑ、船を岸に寄(よせ)たれば、其人(そのひと)髪を被り弊衣(へいい)して殆(ほと)んど乞食の如し。且(かつ)曰(いわく)。積める物は三原酒に非(あら)ずや、冀(ねがは)くは予(よ)に与へよ。船人これを上乗の士に告ぐ。士因(より)て云ふ。汝は何者ぞ。答て曰。我は浮田秀家(宇喜多 うきたひでいえ)なり。久しく此嶋(このしま)に在(あり)て故郷の消息なし。今思はずその船を見れば三原酒をつめり。俄(にわか)に旧国を懐(おも)ふの情切(せつ)にして、又久しくこれを飲まざれば乞(こふ)なり。士聞て曰。これは主人献上のものなり。然(しかれ)ども君の言を聞けば余義(よぎ)なきことなり。即(すなわち)進(しん)ぜ申(もうす)べし。然(しかれ)どもその證(あかし)なくんば帰りて主人に云訳(いひわけ)なく候と云(いひ)ければ、秀家乃(すなわち)一首の歌を自書して与(あたへ)たり。士因て酒を秀家に与へ、かの書を持還つて具(つぶさ)にこのことを正則に達す。正則、汝の為す所よしとて悦(よろこび)しとなり。(「甲子夜話」 松浦静山) 有名な話ですね。 


ビールの発売広告
ビール発売広告-本月十月より、私醸造ビール左の所にて発売仕候(つかまつりそうろう)間多少に不限(かぎらず)御用向仰(おお)せつけられ度(たく)ねがひ奉り候也。山梨県下甲府柳町醸造所野口正章、発売所東京西河岸八番地山形昇<明治八・三・一六、東日>《解説》広告は江戸時代にあった振り売りの口上(こうじょう)が印刷術の進歩で、引札(ひきふだ)へと進歩した。口上を洒落て口帖と書き、口演、報条、告条、稟告、御披露(ごしろう)、お披露目(じろめ)、いろいろあった。今でもお披露目屋とかチンドンやという名がのこっている。慶応三年の「海外新聞」に日本で最初の新聞広告がのこっている。これには「引札」とある。(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


遊鬼
さて鹿島清兵衛の「遊鬼」ぶりであるが、それはまことに徹底したものであった。彼の生まれは大阪で、四歳の時、東京の同族へ養子に入り、家付娘の乃婦(のぶ)の許嫁(いいなずけ)として育てられた。(断っておくが、これは現在の鹿島建設の鹿島家と関係がない。)乃婦は疱瘡(ほうそう)を患い、あばた面の醜い女であったが、結婚して一男三女をもうける。が、この結婚ははじめから不幸だったらしい。二十そこそこで八代目鹿島屋を継いだ清兵衛は、商売の酒造業に打ちこみ、忽(たちま)ちのうちに財をなしたが、当家の家訓は、「もうけなくてもいいから、へらすな」の事勿(ことなか)れ主義で、あまり商売熱心な若主人に、親類縁者は危惧を感じ、しきりに道楽を勧めるようになる。先ず手をつけたのが漆芸で、数年の間に専門家も及ばぬ程の腕前になり、注文する人が絶えなかったが、金は使うばかりで、貰うことは絶対にしなかった。ちなみに、彼が晩年、大切にしていた笛(笛の筒か)には、自作のみごとな蒔絵(まきえ)がほどこしてあったという。(「遊鬼」 白洲正子) 三遊亭円右の「鹿島大尽栄華噺」という落語にまでなったという清兵衛は豪遊の結果、莫大な財産を蕩尽し尽くしたそうです。 御酒頂戴(天盃頂戴)(2)  


硯友社の梁山泊
梁山泊(牛込横寺町にあった尾崎紅葉の家の離れ)には鏡花さんの外に、小栗風葉さん、柳川春葉さんと云うような一騎当千の士も住んでいたらしい。徳田秋声さんも一と頃はここにいたことがあるらしいが、子供の時分には私は秋声さんのことは何も知らなかった。風葉、春葉諸氏もたまには私の家にみえたことはあったが、鏡花さんのようには私の頭に残っていない。何でもうちの書生の話によると、風葉さんは酒が強く、ウイスキーだか焼酎だかを飲み過ぎたので、酔いをさまさせるために、庭の地面の上にほうり出されていたというようなこともあったようである。それがどう誤ったのか「小栗がコレラになって、地面の上に寝かされている」という噂になって伝わって来たりした。(「年月の足音」 広津和郎) 牛込矢来町に生まれた広津和郎の家の近くに紅葉の家があり、父、柳浪のところへ硯友社のメンバーが時々訪ねたそうです。 


和名類聚抄の酒
[和名類聚抄 十六 酒醴(しゅれい さけとあまざけ)] 酒 食療経云(しょくりょうきょういわく)、 酒 和名 佐介(さけ) 五穀之華(ごこくのはな)、味之至也(あじのいたりなり)、 故 能益人(ゆえによくひとをえきし) 亦(また) 能損人(よくひとをそこなう) (「古事類苑」) 


一○万の亡霊
この奇妙な大宴会の主催者はポンペイ州(インド)プーナの統治者バジラブ二世その人だった。バジラブ二世の治世は、二一年間(一七九六-一八一七)つづいたが、その間、バジラブ二世はうす気味の悪い想い出になやまされつづけた。それは彼の両親が犯した殺人についてだった。治世の二一年目、殺された男ナラヤンラブの亡霊が、バジラブ二世の夢枕に立ち、「自分を殺した両親の罪の償いをしたいならば、すでになくなったバラモン教徒(インド4階級の中の最高級に属する僧侶たち)一○万人の霊魂を、亡霊の谷から大宴会に招き、あたかも血肉をそなえた現世の客のように酒食を供してもてなせ」ということだった。バジラブ二世は、さっそくその申し出をうけいれ、多数の使者を亡霊の谷や、亡霊の集合していると思われる聖なる河や聖地に派遣し、鳴物入りで招待の趣きを大声で知らせた。一八一六年一二月一六日、プーナに近い大荒原では、かつて催されたことのない、まことに奇妙な無人の大饗宴がくりひろげられた。生きている出席者はバジラブ二世ただひとり、彼は大きな食卓の上座にすわり、主催者を代表して、見えざる一○万の亡霊に挨拶をし、一万人にのぼる給仕人が、姿なき客人に接待した。このときの料理代は全部で五〇万ドル、手のつけられぬまま、とりさげられた山海の珍味は、そのまま、生きている多数の住民にささげられた。この宴会がきいたのか、その後、バジラブ二世はナラヤンラブの亡霊に悩まされることはなかったという。 (「奇談 千夜一夜」 庄司浅水 編著) 


正一合徳利型ガラス壜
正一合入りの徳利形型のガラス壜が登場したのは昭和二十八年である。当時は価格統制がすでに撤廃されていた果実酒と雑酒以外のすべての酒に、まだ公定価格が定められていた。それは、規定されていた容量の容器と中身を一体のものとしていた。そこで新一合壜は、灘の大手一〇社が公定価格制度の「例外価格許可申請」を提出して、その認可とともに新発売したものであった。六月には伏見の二社が加わった。それは予想外の売れ行きとなって全国に波及する勢いとなった。(「酒・戦後・青春」 麻井宇介) 打栓してあるので、飲み屋で水や合成酒などを混ぜてはおらず、しかも正一合詰めであるという信頼感があったのだそうです。例外価格の許可というのは、多分、一合を一升の公定価格の1/10以上の値段で売るから必要だったのでしょう。そういえば、今はなくなってしまったようですが、10年以上前、大手が900ml定型ビン入り清酒を売り出した時は、一升の半値ということを宣伝文句にしていたようです。 


山茶花究
山茶花(さざんか)とは、昭和十三年、初めてロッパ一座で一緒になった。何となくこの無口な男とウマが合い、莫逆(ばくぎゃく)の友となるカタメの盃を交わすことになった。とはいえ、一夜彼の行きつけの屋台のような飲み屋に行っただけであるが。心得た主人は、私には銚子と盃、彼にはコップになみなみと酒を注いで出した。私がオチョコに酒を注いで口に運んだその時、彼はコップを口に当て、息もつかずに一気にあおっていた。「なかなかイケるね」と山茶花の方を向いたら、彼は目をつむり口をだらりと開け、ヨダレをたらし、奇態な声でうなっているではないか。そしてやおら十分位たって初めて口を開いた。「すまんが最初の一杯をキューッとあおっている時は、黙っていてほしいンや。酒が五臓六腑にしみわたり、熱い血が全身を走る瞬間があるやろ。あの時が酒の醍醐味やからナ、その時話しかけられても返事は出来んから、おぼえておいてくれ!」その昭和十三年から四十六年まで、腹を割って話し合い、共に慰め、共に泣き、共に苦しんだ仲であった。本名は山茶花究(三三が九)などといういい加減な名前ではなく、末広峯夫という、扇の要(かなめ)みたいなレッキとした大阪の古い商家の中ボンである。ただ、酒におぼれて死を早めた。或る時舞台へ一緒に出ていて、フワーッと私の方へ倒れてくるではないか。いたし方なく抱き止めて、彼の分まで私がしゃべり、ようやく幕にしたこともある。最後はアキレタボーイズ時代の美声も遂に出ぬようになって入院したが、寂しがって始終私を呼んだ。何しろ両肺とも全部ダメ、ほんの僅かしか健康な肺のない身体なので、本もテレビも頭を使うから見せると酸素が足りなくなっていけないと医者から厳禁された。(「時は巡り 友は去り」 森繁久彌) 


岸朝子
エネルギーを供給するこれらの食べ物が健康長寿をかなえる「四つの食品群」の第四群だが、その仲間に日本酒やビール、ウイスキー、焼酎などのアルコール飲料も含まれることを知っておきたい。私はここ15年ほど日本酒にして4合(720ミリリットル)のお酒を飲む。ワインだと約1本になるが、お酒はエネルギー源であることを、しっかり頭に入れてある。ビール大びん1本ならご飯茶わんに1杯分のカロリーとか、日本酒の冷酒1瓶300ミリリットルなら1杯半を目安にしてある。もっともお酒は料理をおいしく味わうためのものとしているので、食べてから飲む、飲みながら食べるようにしているため、肝臓を傷めることもない。(「怪食対談 あれも食ったこれも食った」 小泉武夫) 岸朝子の「老いしゅうございます」よりの抜粋だそうです。 


一本の白乾児
そのよい例が-、街中どこへ行っても恐ろしくなく、自由になったので、長い間食べなかった餃子を久しぶりに腹一杯たべようと、城内へ入った。一軒の汚ない、しかし美味で有名な店は、そこにまだあり、大変な繁昌をしていた。私たちはコワゴワ暖簾をくぐって餃子を注文したが、その店の隅っこに、赤ら顔の六尺豊かな正規軍の一人が、うつろな眼を宙に向けて坐っていた。満人の客たちは何となく敬遠して、声も小さめに己の料理を待っていたが、やがてその軍人の前に、山盛りの肉マンが運ばれた。ところがいっこう手を出さず、無表情にまだ宙を見ている。私たちも、何だか気押されて、外へ出ようかとささやき合ったが、やがて一本の白乾児(パイカル)酒と盃が来るや、その大きな軍人は、ヌッと立ち上がり、盃を持ってテーブルを廻りはじめ、「皆さんと一口ずつ飲みましょう」と酒をついで廻った。私たちもその恩恵に浴したが、私は勇を鼓して、「人民解放軍、長春入城おめでとう」と日本語で挨拶したら、これまた、ヌッと私の倍ぐらいある手が出て、私の青白い手を力一杯にぎりしめた。一わたり酒をついで廻ったその勇者は、静かに自分の席にもどり、マントウを口につけた。山のようにつんだマントウがペロリと胃袋に入ったのだから、どんなにか腹もすいていたのだろう。約一ヵ月の進撃のあとの唯一の御馳走であったのだ。私は心を打たれ、見惚れていた。彼は食べ終わると時計を見て立ち上がった。そしてお金を払うと、その場のみんなに「私たちに協力して下さい」というような意味のことを云って静かに立ち去った。私は、そのすばらしい中京軍の腰に、朱房の拳銃があるのを見のがさなかった。彼は将校であったのだ。(「森繁自伝」 森繁久彌) 


九月十五日(東京)
早朝、も一度伊藤侯のところへ。今回は、旅行による休養が侯の健康のためによいということを、自分の口から証言させるためだ。これは、侯が飲む方を注意して、おとなしく旅行する場合にあてはまることだ。だがしかし、侯はその通り守るかしら?侯の政敵は、侯が政治上の理由で出かけるのだと主張している。いずれにせよ、侯が折も折、自身の樹立した政党、政友会が危機に当面している現在、外遊するというのは奇妙だ。今回はいつもと違った、いささか心もとない印象を侯から受ける。(「ベルツの日記」 菅沼竜太郎訳) 明治33年です。 


三〇・二パーセント
飢えが日常化していた昭和二十一年、酒の課税移出数量は戦前(昭和元年~十五年度の平均)の三分の一まで落ち込んだ。密造はこの供給不足に乗じたものであった。それが、昭和二十七年度には戦前の九割を超えるところまで回復して、焼酎甲類では乱売合戦まで始まった。ここに至って、飲みたくても飲む酒のなかった時代の密造酒は、確かに存在する根拠を失った。それにもかかわらず、驚くほど大量の密造酒が、当時、依然として横行していたといわれている。密造酒は、その実態を把握するのが困難であるが、『酒販ニュース』に連載された「概説-酒類業界の昭和史」によれば、酒類消費量に占める密造酒の割合は、昭和二十三年度が最悪で、実に六六・二パーセント、数量にして五八万六〇〇〇キロリットル。昭和二十七年度でも、依然三〇・二パーセント、四〇万キロリットルに達していたとと推定されている。バクダンもカストリも影をひそめたあと、なおヤミの中にこれほど多量の酒があるとは!それは一体なにか。ドブロクをおいてほかにない。その生産と消費の実態は、おそらくGさんが私に振る舞ってくれたような邪気のない、それ故に犯則の意識も希薄な行為だったからこそ、堂々とまかり通ったのだ。(「酒・戦後・青春」 麻井宇介) 


煎り酒の作り方
小泉 今ここにあるこれ、「煎り酒」というんです。江戸時代は粋(いき)な人たちが多くいて、白身の刺し身を食べるときに、醤油をつけると汚れちまうってんで煎り酒にさっとつけて食べたそうです。白身の刺し身は、あっ、これこれ、テーブルにあるホシガレイ。それにタイ、サヨリ、コチなんかそうですね。煎り酒のつくり方は、まず酒一升を土鍋(どなべ)にドボドボあけて五合まで飛ばす。そのとき、削ったかつお節をひとつかみ酒にぽーんと入れる。それから梅干し十個くらいをぽんぽーんと放り込む。そうしますと、一升の酒が五合までになるときに梅干しの酸味とかつお節のうま味が酒のエキスの中に入ってきて、アルコールが全部飛んじゃうんです。(「怪食対談 あれも食ったこれも食った」 小泉武夫) 


冷酒と親の意見は後薬
親の意見と冷酒は後できく(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


うばい
「おかーさん、なんだろコレ」「それ、うばいだわ」烏梅(うばい)。煤をまぶして蒸し焼きにした梅干。振るとカラカラ音がする。つまんだ指先が黒くなる。「トモコおなかこわすと煎じて飲ませられたでしょ。あれよ」焚火(たきび)臭さと酸っぱい味。それでも鮮烈な梅の香りに、凝縮されたいのちのちからを感じた。煎じたあとの実を祖父がしゃぶり、種をペンチで割って天神様をくれた。「船に乗るときかならず持ってったけ。お守りね」トモコの赤ん坊のころ、祖父は捕鯨船に乗っていた。鯨を追い、南半球を駆け巡った。アルゼンチンで、貝殻の帆船のへさきに、くるくる舞うバレリーナのついたオルゴールをトモコの土産に買った。祖父は、烏梅をかじりながら、幾度かの大時化(しけ)をやりすごしたらしい。陸(おか)にあがってからも、毎年初冬に、この小包が届いていた。陸では、へんてこな晩酌をした。甘口の酒をぐらぐらの熱燗にし、湯飲みへ、ひとくちの飯を落としこんでまぜ、合間に烏梅を噛んだ。(「ごくらくちんみ」 杉浦日向子) ノンベイの珍味百科事典です。 


それは無理
男と女、結婚したいと教会を訪れた。ところがこの花婿、ぐでんぐでんに酔っているので坊さんは顔をしかめ、「こう酔っておられては式は挙げられん。明日来なされ」花嫁はがっかり、詫びもそこそこに帰って行った。さてその翌日、ふたりはまたも教会に現れたが、花婿の様子は昨日とすこしも違わぬ。坊さん呆れかえり、「花婿さんの酔っていないときに来るわけにはゆきませぬかな」と問えば、花嫁いわく、「でも…この人、酔っていないと…結婚しようとはいわないんですもの!」 (「ふらんす小咄大全」 河盛好蔵訳編) 


二二は四
父親が、はじめて息子とバーへ行き、カクテルを飲んだ。父親はもとよりいける口で、二杯が三杯、三杯が四杯となり、息子に雄弁をふるい出した。「いいか、酔っ払うということは慎まねばならん。むろんこのように、カクテルの一杯や二杯ならかまわんが、われを忘れて酔っ払い、人まえで恥をかくようなことがあってはならん」「では父さん、酔っ払うとは、いったいどうなることなの」「酔っ払うと眼がくもる。物がはっきり見えなくなる。しまいには物が二つに見えるようになる。…ほら、いまバーテンがふたりいるだろう。あれが四人に見え出したら飲むのをやめろ。酔っ払った証拠だから」「でも父さん、バーテンはひとりしかいませんよ」 (「ふらんす小咄大全」 河盛好蔵訳編) 


日本式パーティー
ある日本企業びいきのアメリカ人経営者が、日本式パーティー(おそらく忘年会だろう)にまねかれて、いたく感激し、それを翌年自分の会社で採用した。パーティーは盛り上がり、社長自ら酒を注いでまわったりして、やれ日本人の社会に学ぼうとけんめいにやった。パーティーは成功したかにみえたが、みんなが興奮からさめて、翌週顔をあわせたら、あいつはアル中じゃないの?とか、あの女はやはり欲求不満だったんだとかのささやき声で会社は一杯になった。悲喜劇である。やはりアメリカ式のカクテル・パーティーの、少々は生真面目をよそおい、正装して行うパーティーが彼らには似合っているのだろう。日本式パーティーの阿鼻叫喚、呼吸をこころえた暴言、手かげんされた下心およびその発露である助平さの奥義というのは、日本の美しい伝統と呼ばなければならぬのだ。(「都市探検家の雑記帳」 松山猛) 


年齢をとる
物を書いて暮らせるようになる前の、日中は勤めに出て夕景帰宅し、夕飯のときにのむ酒の酔いを借りて三時間ほどねむり、夜半から明け方まで原稿紙に向かっていた習慣が、もう、身についてしまったのだ。それでも、五、六年ほど前までは、料理屋や酒場で相当の酒をのんで帰宅した夜ふけでも、二時間ほどやすめば、すぐ仕事に取りかかれたものだった。が、もう、いけない。酒はおそくとも夜の七時までに切りあげてしまわぬと、仕事にかかるときの頭や躰に酒が残るようになってしまった。そういうわけで、不本意ながら、ちかごろは夜の銀座からも足が遠退(の)くばかりなのである。それだけ私も年齢(とし)をとったのだろうか…。けれども、昼の銀座には一週間に何度も出かけて行く。各社の、映画の試写室の、大半が銀座に近い。したがって、外でのむ酒は私の場合、まだ日が落ちぬうちにはじめることになる。そして、酔って赤くなった顔が、それほどはずかしくなくなってくる夕暮れどき、帰途につくことになる。となると、のむ場所は、やはり、蕎麦やということになる。時には、まだホステスが出勤して来ないなじみの酒場へ行き、バーテンを相手に軽くのむこともあるが…。(「散歩のとき何か食べたくなって」 池波正太郎) 


禁酒村村長の集い
九月一日の関東震災記念日を期して農村の自立更生を計るため、東京府下二十村(全部で五十ヶ村のうち)の村長は上京中の禁酒村長を午後七時より明治神宮外苑日本青年館に招き高島米峰氏司会の下に「村長禁酒懇談会」を開いた。村長が列席した禁酒村は十ヶ村、(カッコ内は禁酒をはじめてからの年数)青森県三好村(二年目)茨城県高村(七年目)神奈川県大沢村(二年目)石川県河合谷村(八年目)同県笠谷村(二年目)富山県南谷村(三年目)愛媛県日振島村(八年目)香川県栗井村(三年目)岐阜県間瀬村(七年目)長野県三穂村(二年目) 右のうち石川県河合谷村は禁酒村の草分けであるから村長森山忠省氏に「禁酒の方法及び其効能をきく演説会」の感があった。河合谷村は現今は財政的にも豊かな模範村であるが森山村長によると「もとは貧乏な炭焼村で、学校の建設費もなかったので、大正十五年四月一日に其建築費を集めるために、思ひ立つたのが村ぐるみ禁酒の断行です。即ち酒をのむための金を税金として収めさせ四万五千円になつたので学校を建てた。それが動機で禁酒をつゞけてゐるのである」禁酒はそればかりでなく、その他にもこのような好成績をあげている。 一、病人が五割減つた。二、殆んどなかつた貯金が最近五ヶ年間に三万円もできた。三、全村三百戸の中二割近く即ち五十戸が改築された。四、伝染病が皆無となつた。五、訴訟喧嘩がなくなつた。六、犯罪が全然なくなつた、など。 河合谷村の如き寒村ですら右の通りであるから、物資の豊かな町村で禁酒を実行すれば驚くべき結果を得るでああろうとの印象を与へて九時解散した。<昭八・九・二、東日>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


麹の渡来
なお江南の「水田農耕文化が完成したその文化セットをそのままわが国にもち込んだ」とする佐々木(佐々木高明「照葉樹林文化の道」)の所説をそのまま肯定すれば、つぎのことが考えられる。①江南から北九州への稲作農耕文化の渡来は紀元前二、三世紀であったから、原初的な米のバラ麹利用の酒づくり方式がそのまま日本へもち込まれた公算が大きい。②華北でのモチ麹の出現は紀元前一、二世紀であったから、日本列島への稲作農耕文化の渡来当時、まだ江南ではモチ麹は利用されていなかったと思われる。③米の調理法が蒸すか煮炊きであれば、クモノスカビより麹菌の方が優位的に繁殖する。といって、麹菌単一株利用の米のバラ麹方式が日本へもたらされたとは考えられない。とすれば、カビの種類まではわからない。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


九月
菊を愛する人、庭に大菊おびたゞ敷(しく)つくり立て、客来たて(ママ)菊見物所望のよし。亭主さっそく庭へ通し見せ、酒など出し、馳走をなし、客よろこび、一礼のべて帰りかけに、「何とぞ菊少しもらひ度(たき)」よし、ひたすらの願ひにて、亭主せう事なしに、菊の花切ってやりければ「上も望みじゃ(二)
(二)ここでは酒の馳走は座敷へ招じての事であるので、上の座敷。酒は上という意味にして、花も欲しい酒も欲しいとの無心である。(「江戸小咄集」 宮尾しげを 編注 「好文木」) 


シッポク料理
十八世紀後半に活躍した医師であり、文人として名をはせた橘南谿は、上方でのシッポク料理を食べてきた感想を「一つ器に飲食をもりて、主客数人みずから箸をつけて、遠慮なく食する事なり。誠に隔(きゃく)意なく打和(かわ)し、奔走給仕の煩わしき事もなく簡約にて、酒も献酬のむつかしき事なく各盞にひかえて心任せにのみ食うこと、風流の宴会にて面白き事なり」(注4)と、一応は評価しているが、日常の食事の風習としてこのような食べかたをすることには、「此事常に成りてはいとみだりがわしき事なるべし」と、強い抵抗をしめしている。そして現代、われわれはダイニング・テーブルで「いとみだりがわしき」食事をするようになっている。(「食事の文明論」 石毛直道) 


興亜奉公日
興亜奉公日。(昭和)14年9月1日から毎月1日を興亜奉公日とし、戦地の将兵に感謝し銃後の守りを固めて"新東亜建設"に力をつくす日とされ、料飲店での飲酒は禁じられた。太平洋戦争が始まってからは開戦の8日が大詔奉戴日となる。(「入江相政日記」 註) 


お当渡し
次に、古当組から新当組に振舞い酒がだされる。神社でのお当(とう)渡しのときと同じ。古当組の面々が立ちあがる。一列ごとに杯を配る役、各人ごとに肴の神馬藻(ホンダワラ)を配る役、そして銚子で酒を注ぎまわる役と、誰が指示するわけでもないが、手際よくそれぞれにこなしてゆく。盃が一巡する。が、ここでは、それで終わりとはならない。それから、本格的に酒がふるまわれるのである。径が八寸(約二五センチ)の朱塗りの大盃がだされる。全部で五枚。さすが漆器どころの輪島だなあ。最初の一枚が新当代表の前にだされる。古当代表が、どうぞ、と右手を前にうながす。「しっかり飲んでもらわんと。まだ、お当神様が渡ったわけやないから」という酌人のひとりごとに、座が少しなごむ。銚子いっぱいが注ぎこまれる。まあ五合(ごんごう)だろうな、と、私の後方で見ていた誰かがつぶやいた。新当代表が、ぐいっと一口。そこで、ちょっと一休み。が、「そこで止めたら縁起悪いぞ」と古当組の幹部の一人が、両手を前にあおる。もうひとりの幹部が、「ゆっくりでええから、それはのみ干さんとあかんで」。ついに飲み干した。すかさずそこへ、もう一献を、と酌人が注ぎ足す。あほやな、さっさと盃置かんかいな、と見物人の誰かがつぶやく。手に持っている以上、飲まないかんが、とまたつぶやく。まわりの誰もが苦笑、しかし笑い声はたてない。新当代表が、今度は一気に飲み干し、左手で酌人をさえぎって素早く盃を置いた。「ありがたく、十分にちょうだいいたしました」と懐から手拭いをだして口まわりをぬぐう。肩が大きく波打っている。それから、副代表以下の幹部たちに大盃がまわる。座は、だんだんとざわめき、乱れてくる。すすめられると、むげに断れない。ひとまず盃を受ける。飲み干せない人もいる。すると、後の列から何人かがするすると出てくる。「代わりにちょうだいします」、と相なる。それについては、古当組の酌人たちもとがめない。代人の飲み手が認められているのである。あとでたしかめたところでは、新当組では代人を六人用意していた。代表、副代表二人、幹事(補佐を含む)一〇人の合計一三人に対して六人の代人が用意されていたのである。代表は、よほどのことがないかぎり代人が認められない。というか、いちばんに盃がまわるので面子をかけても自分で飲み干さざるをえないのか。見れば、新当組代表は、大盃を二度も飲み干したのち、顔を赤くして正座ももじもじと崩しながら体をぐらぐらとゆらしているのである。副代表、幹事たちに大盃が一巡。飲める人は、自分で飲み干す。飲めない人も、さすがに上手に代人を立てる。無事に盃がまわった。と、古当組の進行役から後の別の何人かが呼びだされる。代人にはなってないがお前らは飲めるのだから盃をやろう、ということらしい。むろん、彼らも断らずに盃を干すのである。こうなると、いうところの「余興盃」だ。最後に、代表にもう一度盃が戻る。もう無理や、止めときな、と私のまわりがざわつく。代人も脇に寄って、いつでもどうぞ。が、しかし、代表はそれを手で制し、正座をし直して盃を手にしたのだ。さすがに、今度は酌人も手かげんをしたようで、盃は軽い。それを新当組が飲み干したところで、振舞い酒という盃事が納まったのである。(「三三九度」 神崎宣武) 輪島・重蔵神社如月祭での「お当渡し」(新旧当番の交替行事)の盃事だそうです。 


御神酒上げ神事
埼玉県本庄市中央3-4にある阿夫利天(あふりてん)神社で9月3日に行われる祭りで、神楽の後、水を恵む神に感謝して、御神酒を奉納するのだそうです。 


バーテンダー
デトロイトのある居酒屋に、安物づくめの男がはいって来ると、スコッチをダブルで注文し、一息で飲み干すや、五ドル紙幣をカウンターの上にぽんと放り出し、一言もいわずに出て行ってしまった。バーテンダーは、五ドル紙幣を注意深く折りたたみ、ポケットにしまい込んで、さて、そこらを飛びまわっているハエに向かっていった。「お前等、あんなインチキ野郎に出くわしたこっとてあるかい?ダブル・スコッチを飲み干しやがって、五ドルのチップを置きやがってからに、代は払わずに逃げちまいやがった」(「ポケット笑談事典」 ベネット・サーフ) 


酒と煙草は飲んで通る
酒とたばことは、飲んでも、それで貧乏をするということもなく、一生を送る、一生が送れる。禁酒・禁煙しても、かくべつ金がたまるわけではない。松葉軒東井(しょうようけんとうせい)の『譬喩尽(たとえづくし)』(一七八六年)に、<酒と煙草は、飲んで通る。不レ飲(のまぬ)とて、銀(かね)が延びもせず。>とある。(「飲食事辞典」 白石大二) 


ミュージカル・ジャグ
楽器が買えなきゃつくればいい!彼らにもまたビューティフルな天啓がひらめいた。誰かが酒場の裏庭にほうり出されていた大小の陶器の酒瓶-ジャグを拾いに走った。日本で、誰かが、酒瓶(通い徳利)の円い胴体に取っ手と足をつければ「湯たんぽ」になる!そう思いついたのとちょうど同じころ、アメリカでは酒瓶から楽器をつくろうと思いついたやつがいたのである。それは直径が二〇センチもある取っ手付きのガロン瓶(一ガロン=三・八リットル)だったヨーロッパ生まれの優雅な金管楽器とは似ても似つかぬ姿だったが、瓶の口から息を吹き込めば「ブォッ・ブォッ・ブォォッ!」かなりそれらしい音が響く。中には一パイント半(約〇・七リットル)のウイスキー瓶もあった。細い口に息を吹き込むと鋭く高い擦過音(さっかおん)がする。二ガロンクラスの巨大なジャグもあった。大きな酒瓶の深い低音はあたりの空気を震わせた。彼らはすっかり気に入った。それは、レディ・メイドの楽器にはなかった力強く新鮮なサウンドだったのである。【酒瓶楽器=ミュージカル・ジャグ】が誕生したのだ。(「おまるから始まる道具学」 村瀬春樹) 


大瀧祭
京都府宇治田原町湯屋谷大滝にある落差が60mくらいの大瀧(おおたき)で毎年9月1日に行われる雨乞いの神事で、滝の中ほどにある不動明王の使者であるといわれるウナギ3匹に酒を飲ませて滝壺に放流すると雨が降るというものだそうです。 宇治田原町のホームページで、観光情報サイト→行事→大瀧祭にあります。 


明治十六年
 三重県の酒造会社。経営不振のため、葬式をあげた。社名を書いた紙を棺に入れて川に流し、廃業(郵便報知)。
 三菱会社は、民権派、政府系をとわず、新聞記者や演説家へ金銭をくばり、酒食のもてなしもする(自由新聞)。
 神田で酒ののみくらべ大会。一斗八升(約三十二リットル)の人が優勝(東京毎日)。
 広告。酒と女を避けていたが、方針変更。今後は、酒や遊郭へおさそい下さい。訪問の時には、お酒を。中条町、村山(新潟日報)。(「夜明けあと」 星新一) 


酒かすパックのつくり方
1.約15cm四方の板がす(板状に形づくられた酒かすのことで、家庭用として市販されているのはこのタイプ)を3枚ほど用意し、表面を軽く火であぶり、アルコールを飛ばします。
2.すり鉢に入れ、粒々がなくなるまでゆっくりすります。なめらかになったら、酒かすの量の10分の1程度の水を加え、再びすります。小麦粉を少々加え、さらにすって仕上げます。(ここで日本酒を少し加えてもOK)。小麦粉は顔に塗って流れ落ちない程度のとろみが付いたらできあがり。
3.酒かすパックを顔全体に塗り、10~15分置いてから、ぬるま湯で優しく洗い流します。先にパッチテストしてから始めましょう。
※保存するときは、密封容器に入れて冷蔵庫に。1週間くらいで使い切るようにしましょう。
※使用前にはパッチテストを行って下さい。また使用中に肌に赤みやかゆみなど異常を感じた場合はすぐに使用を中止し、皮膚科にご相談ください
。(「美しくなる日本酒」 滝澤行雄) 


幻の名酒
この小さな町の小さな村に、かつて『竹翠』と呼ばれた地酒があった。五年ほど前、当主の竹綱氏が五十四歳という若さで他界され、一族に継承されず酒蔵は閉鎖された。さまざまな事情があって廃業されたようで、赤の他人のわたしには知るよしもないが、実に惜しい酒蔵であった。氏が亡くなる最後のシーズン、絶品ともいえる吟醸酒と純米酒を醸され、はからずも遺作を残られたような事態になってしまった。竹綱氏との付き合いは、わずか足掛け三年にしかすぎなかったが、氏から受けた知識の数々のほか、有形、無形の多くの財産を、遺産のようにいただいている。わたしにとって、師とも恩人とも言える人であった。-竹綱氏の最後の作品は、今考えても完璧に近い出来ばえではなかったかと思う。氏の理想の九分以上は醸し出されていたように思えるし、その最後の作品を三年後に封を開けてのんだとき、氏の言っていたように、新酒のときよりよほど美味しい味になっていたことは、わたしと同席したすべての人の認めるところであった。その三年後の吟醸酒を、氏は味わうことができなかった。(「異見 文化酒類学」 桜木廂夫) 大阪府河南町にあった蔵だそうです。 


アルコール発酵のメカニズム
ぶどう糖や果糖が微生物の酵母の働きでエチルアルコールと炭酸ガスに分解する反応をアルコール発酵と呼ぶ。糖が分解するとほぼ同じ量のエチルアルコールと炭酸ガスになることは18世紀末にフランスの大化学者ラボアジェによって発表されたが、1860年頃、同じフランスのパスツールが、この反応に微生物が関係していることを証明した。しかし、さらによく調べるうちに、この反応はなかなか複雑であることが判ってきた。誰にでも判りやすいように、酵母がぶどう糖を食べてアルコールを造るとよく言われるが、それは正確ではない。ぶどう糖に酵母を加え酸素を補給し続ければ、酵母はぶどう糖を栄養にしてどんどん増える。しかし、アルコール発酵を行なうときは酸素を絶って発生する炭酸ガスの気流中で反応を進める。詳しく調べるとこの反応は12の段階を経てエチルアルコールになり、酵母が直接働くのではなく、酵母が産みだす沢山の酵素が反応に関係していることが判った。酵素は複雑な構造を持つ蛋白質で、それ自体は変化せずに反応を進める触媒作用を持つ物質の総称である。多くの種類があるが、それぞれの酵素が一つの段階の反応だけに関係するで"鍵と鍵穴"にたとえられる。したがって酵母の選択や反応の条件が適当でないと横道にそれる副反応が盛んになり、望ましくない風味が出たり収量が落ちたりする。(「ワイン入門講座」 鴨川晴比古) 


「ザムザ氏の散歩」
斎藤 -ついでですけれども、アルコール中毒で、一番多い幻覚は虫です。虫がいっぱい這っているのが、一番重い病気であります。中には象が出てきたり鯨が出てきたりする人もいるけれども、一番多いのは虫でございます。だいたいアルコール中毒者を入院させますと、一週間か十日ぐらいは、床にはいつくばって、こんなことをやっています。ははあ、いま虫が見えているなと、われわれは思っているのですけれども。-
梅原 私の友人に、八木一夫という天才的な陶芸家がいるのです。日本に前衛陶芸をもたらした最初の人ですけれども、それがまた酒が好きで、もう毎日毎日、京都の飲み屋を十軒ぐらいははしごしたのですよ。六十歳ぐらいで亡くなりましたけれども、その出世作が「ザムザ氏の散歩」、虫なんですよ。カフカが、人間の変身した虫を書いたんですね。陶芸の世界にカフカを入れてこられるというのは大変な前衛的な試みですけれども、先生の今の虫の話を聞いていると、そのときからもうアルコール中毒が出ていたのかと思いました。(「斎藤茂太VS梅原猛 旅・酒・文化のシンポジウム」) 


若松名物
明治二十四年八月三十日、若松にはじめて汽車が着いた。現在の筑豊線であるが、当時は私鉄で、筑豊興業鉄道株式会社が施設したものだった。この陸蒸気開通に、ドテラ婆さんは大きな寄与をした。たくさんの子分を指揮して、難工事にしたがったのである。-
鉄道技師が、酒を飲んで危険な仕事に従事してはいけないと注意すると、女親分は、たくましい顔を、アゴを先にして突きだして言った。「旦那さん、わたしの顔を見ちおくれ。」「君の顔はあらためて見らんでも、よう知っとる。見あいた。」「それでも、なお、よう見ちおくれ。赤い顔をしとるな?」「陽やけしとるなア。」「陽にやけとるんじゃないばい。酒飲んどるんじゃ。それでも、足元も手元も狂やせん。素面のときよりゃ、よっぽど、よう仕事ができる。」「そりゃア、すこしなら、飲んだ方がええかもしれんが…」「そうよ、少し飲まんと、馬力が出らんけ、朝、ちびッと飲んだんじゃ。」「一合かね?三合かね?」「四斗樽二本じゃ。」「なんてや?それ、何人で飲んだとかい?」「子分百人ほどで、朝、鏡を抜いて、ヒシャクでたいらげた。」「そうすると、一人、なんぼになる?」「なんぼになるか、あんたの方で計算してつかアさい。数字のことはあんたらが専門じゃ。こっちは、数のことはサッパリわからんけ。」技師は、目ノ子算用して、「四斗樽は二本で八斗か。百人で飲んだら、一人八合-ありゃりゃ、大方、一升近くをみんなが飲んどる勘定じゃ。それにしちゃ誰も酔うとるふうはないが…。」「あんまり飲めん者もおるけ、一人まア五合平均じゃろ。」「そんなら、五斗あったらええじゃないか。四斗樽が二本空になるはずがない。それじゃア、計算が合わん。」「ちゃんと合うとも、残りは、わたしが一人で飲んだとじゃけ」(「酒童伝」 火野葦平)「若松名所節」に、「若松名所を知らない人に 若松名物知らせたい おんな侠客ドテラ姿 高塔山までふるわせて 樽の高下駄ゴロン、ゴロン」とあるそうです。 


八月朔日
(略)豊吉また来り、民助よりの伝言、ただ今鰹到来いたし候あいだ、酒を予に調(ととのえ)置候よう申くれる、早速豊吉坂下行所にて岩見屋へ伝言頼む、早速酒醤油酢持来る、それより予返礼寿し長門屋へ買行候、五郎右衛門も来り民助鰹片身持参、それより五ツ時過、予料理いたし皆々喰(略)少々鰹にあたり候と見へ、叔父様直助夜通し代り代り雪隠え行(略)(「下級武士の食日記」 青木直己) 


箕作阮甫
酒は好きで、酔えば冗談もいったが、酒量は多くなく、コップに三杯か四杯、一合程度であった。もっともそのコップは、今ある葡萄酒用の足つきコップと同じ形で、あれよりも大きい。そんなものは、ほかには見当たらなかった。酒の値段はその頃一升天保銭二枚であった。阮甫はよく、「酒がこんな安くてはいけない。酒の価が一升百匹もして、港には外国船が十ぱいも碇泊してるようにならなければ…」と嘆じていた。 (「江戸から東京へ」 矢田挿雲)幕末の蘭医だった箕作阮甫(みつくりげんぽ)のことだそうです。 


油やき海苔
浅草海苔の大判を二枚ならべてひろげ、片面だけに良質の植物油を刷毛でまんべんなく塗りつけます。そして油を塗った面を中にあわせて一枚にし、金網の上で火取ります。金網を使わずに直接火にあてると、端がこげるおそれがありますので、かならず金網を火の上にのせてください。最初は四隅から、段々中央へと火取るのですが、火力を調節して全体を同じように火取ります。日にかざして透かしてみて、もし黒い部分が残っていれば、もう一度、そこを火取りなおしてください。きれいな緑色に全体が火取れたら、すぐに二枚にはがします。そして油を塗った面に食卓塩をふりかけ、も一度重ねあわせて庖丁を入れます。包丁は引いて切ると海苔が破れますから、押さえるようにして切ります。色紙、短冊、鱗、褄形など、食べよい大きさに切って、早く召しあがってください。ビールや御酒のお相手に、また朝食の一菜にも適します。(「辻留・料理のコツ」 辻嘉一) 


「兎糞録」の酒句
山鳥は尾を引き上戸は後をひき
剣菱をひつかけやうと乞食洒落(しゃ)れ
借のある前では雨が横に降る(「兎糞録」 和田垣謙三) 


中国漢字
サントリー 三得利
ジョニー・ウォーカー 尊尼荻(火→犬)加
ギネス 健力士啤酒
麒麟ビール 麒麟啤酒
サッポロビール 三宝乐啤酒
朝日ビール 朝日啤酒
オールドパー 老百威
スーパードライ 舒波乐啤酒
ハイネケン 喜力啤酒
バドワイザー 百威啤酒
ヘネシー 軒尼詩
ボジョレ 博若菜
ボルドー 波尓多(「漢字ル世界 食飲見聞録」 やまぐちヨウジ) 


酒に弱くなった
さて、小座敷で呑みはじめた。ひとりはビールしか呑まないので、私と、いまひとりが樽酒を口に運ぶ。ひさあしぶりにきてみると、やはり料理は旨い。腹のふくれない量であるのが、ほどよく食欲をさそう。私は酒を呑むと、よくしゃべる。ふだんは机にむかっているか、ぼんやりしている時間が多いせいか、すこし酔ってしゃべるととまらない。この辺りが限界だぞ、と自分にいい聞かせているうちに、いってはいけないと考えている事柄について、しゃべりたくてたまらなくなってくる。それで、ついにいってしまう。いいだすと、「あ、いかん」と思いつつ口がうごく。これは母の遺伝のように思える。母は何もかくしごとのできない人であった。心配ごとなどあれば、誰にでもうちあけてしまった。そのような前後の思慮のなさというものが、私にもある。ただ、私はいくら呑んでもわれを忘れることが、いままでになかった。どれほど呑んでも自分のしゃべったこととか周囲の状況を、いやになるほど精細におぼえている。十数年まえになるが、大阪府茨木市の故・富士正晴氏宅で二升呑んで、和歌山まで電車を乗り継いで帰り、家でカレーライスを食って寝た。だから、私は酒を呑んでいるあいだは、すべての状況をおぼえているつもりであった。それが違った。「はちまき岡田」を出て、つぎにバーに寄ったとき、私は友人のひとりに耳うちされた。「あんまり呑むんじゃない。あんたはもう、一升ちかく呑んでいる」ほんまか、と私は愕然とした。二人で銚子を五、六本あけただけだと思っていたためである。十七、八本も呑んだという友人の言葉が真実であれば、私には意識の欠落があったことになる。「やっぱり年齢(とし)やなあ」私は思わず肩をおとした。(「また酒中日記」 吉行淳之介編) 津本陽です。 


化粧水
日本酒を口にしなかったヨーロッパ滞在の二十日間で私の肌はざらざらに荒れてしまった。荒れた顔を鏡にうつしながら、私は、日本に生まれた事の幸せをかみしめていた。日本酒を飲めば私の肌は、もとに還るのである。お米のスープであるお酒は、肌にしっとりとした艶をだしてくれる。また、お酒三合にレモンを一個、まるのまま入れ、三ヶ月密封しておくと、実に素晴らしい化粧水になる。江戸時代、吉原の太夫は、白粉(おしろい)をお酒でといて肌にぬったという。やがて太夫の目許(めもと)はほんのりと桜色に染まり、一段とあでやかで女ぶりも上がったと伝えられている。(「酒と旅と人生と」 佐々木久子) 


第七騎兵隊
西部劇でおなじみのカスター将軍のひきいる第七騎兵隊の全滅も酔っぱらいと関係している。すなわち、この騎兵隊の副官M・レノ大佐はアル中で、つねに半ガロン入りのウイスキーのびんを携行していた。勇将のもとに弱卒なし、のたとえのとおり、この部隊の兵士たちも酒好き。戦闘のおこなわれる四日まえに、折から付近の河でウイスキーを満載した船を見つけ、したたかに飲みつづけた。そのあげくの戦闘であったから、戦場にはアルコールのにおいが立ちこめ、兵士たちのかたわらには、ウイスキーの入った水筒が散乱していた。(「一年諸事雑記帳」 加藤秀俊) 


壁の穴
そういえば、同じくパリが革命のまっただ中にあった一八四八年二月二三日、カピュシヌ通り二三番地にある建物の管理人室を、一発の砲弾がぶち抜いた。部屋の壁には無惨な穴があいたが、管理人は危機一髪で命拾い。商魂たくましいこの男は、大きな穴を何かに利用できないかと考えた。まもなく開店したのが、「カフェ・デュ・トルー・ダン・ル・ミュール(壁の穴)」。はじめのうちは、近所の酒飲みを相手にしたちっぽけな居酒屋にすぎなかったが、「壁の穴」が面白かったのか、店主の商売根性がウケたのか、口コミで人気が広まり、多くの市民が訪れるようになった。やがて一九世紀になると、この店は、パリでも初めてのイギリスふう酒場、パブに改装された。一説によると、フランスのカフェならどこでも見かける有名な「クロック・ムッシュー」が初めてフランスでお目見えしたのは、この「カフェ壁の穴」だったそうだ。薄切りハムとグリュイエールチーズをのせたホットサンドは、いまではフランスの名物スナック。でも、これがもとはイギリスの料理だったという話は、あまり知られていないようだ。(「やんごとなき姫君たちの食卓」 桐生操) 


木村省三
木村省三・慶応三年 「私の祖父です。酒豪で三日三晩一睡もせず酒を飲み、酔っても杯の酒を一滴もこぼさなかったそうです。教育者として生き明治29年に亡くなりました。」(山口県・木村寛一さん)(「日本百年写真館」 朝日新聞社 編) 



【を】
お客三杯亭主八杯
「亭主三杯客一杯」とも言います。解釈は二通りあります。「酒好きのお客にかこつけて、ぐいぐい飲み、客より多く盃を重ねてしまうこと」というのはノンベの亭主をからかった解釈ですが、「客は遠慮するものだから、客に三杯飲ませるためには亭主が率先して八杯も飲まなければならない。ご苦労なことだ」と亭主をねぎらった解釈もあります。どちらだ正解でしょうか。(「食べる日本語」 塩田丸男) 


やーし小の酒
嘉手刈 やーし小の酒や かたんちる中ら ねらんちる姉小(うみぐあ) 飲まんあるい
金城 椰子(やし)の酒を傾けて、酒が出てこないからといって、酒がないわけじゃありません、もっと出てくるから飲みましょう。
永 こういう歌を、その場でつくって歌いあうわけですか。
金城 そう。歌ったり、踊ったりして気が合ったら草むらに行くの。それから昼間働いているとき約束しておいたりね。
永 食べ物は?
金城 毛遊び(もあしび)に行くのは、男は椰子の実のトックリに泡盛をいれて、腰にぶらさげて行くの。女は竹のザルに芭蕉の葉を敷いて、オニギリ並べて持ってくるの。このオニギリも女のお米って、苗代から苗をとった後に、またモミをまいてその二番目に出来たのは女のお米なの。それで野原のいい場所で三味線で歌って…。(「奇人・変人・御老人」 沖縄の金城睦松・嘉手刈林昌と永六輔です。) 


あまり油のよくない串揚げ
東京の闇市の焼き鳥もそうだが、大阪の串揚げも、多く食べる連中はひそかに亭主のすきをうかがって串を下に落とし、知らん顔をして勘定を少しでも安くしようとした。当時、東京では安い酒というと焼酎の梅割が全盛だったが、大阪南部の安直な盛り場では、安酒はドブロクが主で、飲み屋によってはドブロクしかなく、「ビール」というとビール壜にドブロク、サイダーというとサイダー壜にドブロクが出た。しかし、あまり油のよくない串揚げには、ドブロクよりは梅割焼酎のほうが合った。(「銀座の酒場 銀座の飲り方」 森下賢一) 


此方を呑め
明智光秀は、まったくの酒嫌いだった。そのしたり顔が嫌いだというので、織田信長は槍で脅したり、脇差しを抜いたりして酒を強いた。あるときは、七杯入りの大盃をつきつけて、これが呑めぬなら、此方(こっち)を呑めと、刀のさやを払って、目の前に突きつけた。 (「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


一【包丁の故実の廃れたる事】
いにしえは殿中を始め諸家にても、酒宴の時、庖丁人出て魚鳥を切りて御目に懸くる事有り。その切り様、包丁方の作法あり。まな板持参し様の法も旧記に有り。その比(ころ)は包丁を習う人も多かりしなり。今は包丁の法知りたる人少なし。包丁の故実世にすたれたる故、食物も古法を知りたる人少なき故、調味のしかたも新しき事のみ多く、あらぬ事ども多し。(「貞丈雑記」 伊勢貞丈) 


わが酒
いへば翁はせゝら笑ひ。わが酒は第七祖。婆須密(ばしゆみつ)どの。右手(めて)に酒壺(さかつぼ)引抱(かかへ)て。六祖を酒曇(しゆどん)といふ。或(あるひ)は芭蕉泉禅師は。杖に酒瓢(すひづゝ)引かけて。山中を往来せり。馬祖に浮和尚。黄檗に。噇酒糟(とうしゆそう)あるをしらずや。或は曹山白家(そうさんはくか)の酒。或は青峯葡萄の酒。色をも香をも飲むものぞ。しる粉餅には故事もなし。(陶淵明は大酔漢。みな第一の達磨と呼ぶ。しかるを客人これを憎み。天下を失ひ身を亡すも。みな是酒の為行(わざ)也とて。茶を賞るこそこゝろえねと。)(「胡蝶物語」 曲亭馬琴) 


八月十一日
-七ツ時頃中七と申 酒醤油酢魚煮付物拵商売いたし候者、是に酒壱合 間摘菜したし物 きらす(おから)など買候、さて四日程已前より大便通しこれなく色々喰物抔(など)用心いたし候えども、矢張(やはり)通しはこれなくゆえ、酒壱盃呑申候、また此程より相模屋に頼置候 摺鉢(すりばち) 摺小木(すりこぎ) 味噌持来り、早速(さっそく)夫(それ)へ根深(ねぎ)を入 雑炊をいたし、皆々うまかりしたたか喰申候(略)誠久し振にて少し通しこれあり大に快事(「下級武士の食日記」 青木直己) 


湯漬の事
一【湯漬の事】湯漬(ゆづけ)は、東山殿<慈照院義政公>御酒に酔わせられしにより供御(ぐご 飯)に湯をかけて参りしより始まりしなり。これに依(よ)り湯漬の時は先ず盃を出して、扨(さて)湯漬を出すなり。『御成の記』に「湯漬は慈照院殿御時、御一献にて御食に御手のつかず、湯につけられあがり候はんずる由(よし)被仰(おおされ)候つる。御相伴衆まで湯に漬けられ参り、是より湯漬世上に一段はやり候由一説也。故に湯漬の御汁並御まわりまで、こしらへ様供御に<めしのことなり>無相違(そういなき)よし也云々」。『酌並記』に云う、「湯漬の時は、必先(かならずまず)盃出る。めしの時はめしはてて盃出るなり。扨(さて)酒はてて、銚子とり湯出るなり。湯漬の時も、必後に湯出べし。当世出ぬといふ沙汰あれども、必出し候はで不叶(かなわざる)也云々」(「貞丈雑記」 伊勢貞丈) 


カティ・サーク
カティ・サークといえば、スコッチ・ウイスキーで知られていますが、その名前はビンのラベルに描かれた帆船カティー・サーク号からとられています。このカティー・サークの本来の意味は、女性が身につける膝までの長さしかないシュミーズのこと。それがなぜ、帆船の名前につけられたかということはあまり知られていません。同船の船首には、スコットランドの美しい妖精ナニーがつけられています。このナニーは、カティー・サークを身につけていた妖精と伝えられていたことから、それが同船の名前になったようです。それにしても、立派な帆船の名前が女性の下着からとられていたとは…。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


芥川賞賞金の前借り
中山義秀と石川達三に清水昆、横井福次郎などの漫画家が加わって、志賀高原、草津温泉に遊んだ。金のことも考えず飛び出した旅だったが、中山が芥川賞をもらった知らせが入り、一行は草津でハデにどんちゃんさわぎをした。そのため払いができなくなったが、「どうにかなるだろう」と中山を残してみな帰京してしまった。中山は止むを得ず、芥川賞の賞金の前借りをたのんで送金してもらい、やっと宿をたった。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


お燗ビール
世界には、もっと熱々にして飲むビールもあります。そのひとつが、ベルギーの「グリュークリーク」です。千種類を軽く超えるといわれる多彩なベルギービールの中でも「クリーク」は、ベルギーらしい独特の製法と味わいで人気があります。まずはベルギー独特の野生酵母を使用した伝統的なビール「ランビック」を造ります。最後に一年以上の熟成期間が必要なのですが、その途中からチェリーを漬け込んで数ヶ月寝かせたのが、クリーク。苦味より酸味が強く、チェリーの甘い香りが特徴的なビールです。このクリークを温めて飲むのがグリュークリークなのですが、お好みでシナモンなどのスパイスを加えるのがポイントです。温めて飲むために、最初からスパイスを加えて製品化されたものもあり、ちゃんとグリュークリークという名前で販売されています。(「もっと美味しくビールが飲みたい!」 端田晶) 


わが齢(よはひ)ゆずりてん
老ぼれたるものこそ、いといたうあさましけれ。かほの色もくろみもて行に、雨ぐも(雲)のむらむらみゆるやうなる物さへみえて、さゞ波のしは(皺)よりくるに、こし(腰)もうちかゞめてひざ(膝)なむる(舐むる)さま(様)し、しはぶきがちに涙おし(押し)のごいひつゝ、老舌いだひてこゑ(声)もわなゝきつゝ、耳はかの時しらぬ蝉の声に、もののね(音)もうとうとしく、おのが耳にいらねば人もきかじとや、いと声高にのゝしり、ものくふにも目うちしぼめて、かほは大なゐ(地震)ふるやうに打うごかし、はてははな(鼻)をさへうちかみつゝゐるぞ浅ましき。かくては、人にもさ(避)けてこそ有べきに、若うどにうちまじりて、ひとより先にいざり出つゝ、老たるものよとみづからゆるして、人の厭ふをもいとはず、盃(さかずき)人にさして、「わが齢ゆずりてん」など、ぼうぞく(放俗)にいふも、かたはらいたし。(「花月草紙」 松平定信 西尾実・松平定光校訂)  


さかな
林笠翁(りゅうおう 一七六七年)の『仙台間語』の「肴」の項に、<肴、さかなと訓ず。(略)仮名書(ふみ)に土佐日記、伊勢物語等、さかなという、皆これなり。伊勢物語に、さかななりける橘(たちばな)をとりてと書けり。しかるを東都の人は、酒肴の外は、魚肉ならではさかなといわず。人に贈るに御(お おん)肴と称す。公私皆しかり。魚ばかりをさかなというさえあるに、御の字を加う。我が贈り物も贈れば、人の物になるゆえなるべし。諺(ことわざ)にいう、鳥り越し問答なり。今時の御の字この類多し。田舎人は鳥獣をもさかなという。この山には肴がない。この川には肴があるなどというあり。活きたるを肴というべき。江戸人は活きたるをばいわず。古今語の変このごとし。>という。酒のさかなは魚肉のほかの物にもいうが、一般には魚肉でなくては「さかな」とはいわない。なお、自分の贈り物にも、「おさか」「御さかな」などというが、贈れば、人の物となるからである。いなかの人は、生きている鳥や獣にも、「この山にはさかな[獣]がない。」「この川にはさかな[魚]がある。」などという。生きているものを「さかな」というだろうか。江戸の人は、生きているものにはいわない。(「飲食事辞典」 白石大二) 


真砂遺跡 文京区本郷4-8-3
文京区男女平等センターの建っているこの地に、江戸時代の宝永元年(1704)から安政5年(1858)までのおよそ150年間唐津(佐賀県)藩主・小笠原氏の中屋敷、そして幕末まで上田(長野県)藩主・松平氏の中屋敷があった。現在の建物を建築するにあたり、昭和59年発掘し調査した結果、数々の遺構と遺物を検出し、当時の武家屋敷とそこで働く人々の生活を知る貴重な資料を得ることができたこの遺跡をもとの町名にちなんで「真砂遺跡」と命名した。出土品で最も多かったのは、生活用具としての陶磁器であったが、文京区内では非常に珍しい1万8千年位前に使われたと思われる黒曜石の矢じり、18世紀にオランダでつくられた土製のクレイパイプなどが発見された。遺構としては、火災の時の荷物の避難場所、あるいは酒やみその醗酵場所と考えられる40に及ぶ地下室、千川上水を引き込んだ上水道跡等が発掘され、多大な成果を収めた。 郷土愛をはぐくむ 文化財  東京都文京区教育委員会 平成元年3月  


薬好き
そういえば薬好きっていうのは、江戸時代はお酒好きのことだという話を聞いたことを思い出した。貝原益軒の『養生訓』で、江戸の人たちの間に健康志向が広がり、健康は自ら守るのだ!という意欲のもと、生薬を酒に漬け込んだ薬種が広まったのだそうだ。薬の立場から見ると、みんなに嫌われる薬も、酒と一緒にすれば積極的に飲んでくれるだろうという期待が感じられる。一方、酒の立場から見ると、薬酒なら酒好きが飲み過ぎて健康を害することはなくなるだろうという抑制効果が期待されたのかもしれない。薬の立場からの期待は、どうも見事に外れたようなのだ。当時の川柳でこんなのがあるそうだ。「薬好き つい飲み過ぎて 酔いつぶれ」(「斗酒空拳」 吉永みち子) 


定珍老 良寛 (裏面)
今日酒肴贈被下(おくりくだされ)辱存奉(かたじけなくぞんじたてまつり)候。重而(かさねて)永日御面談上申上度(もうしあげたく)。今日日も夕暮になり△(脱字)使もいそぎ候間。早々 以上 正月三日。 良寛(「新修 良寛」 東郷豊治) お正月に酒肴をもらった礼状だそうです。定珍老は村の大旦那だそうです。 


オモチャの叩き売り
夜、十時ごろ、東京の渋谷や新宿の広場を通りすぎたことがありますか。ああいう所には、こんな時刻に必ずオモチャの叩き売り屋が出ているものである。これはねえ、父親相手の商売なのさ。亭主族相手に売っているのさ。大道商人は学者先生たちよりはよく亭主の何ものなるかを知っておるよ。うそだと思ったら現場に行ってごらん。いるよ。亭主族が。みんなじっと、懸命に大道商人の声に耳をかたむけているよ。「この鉄腕アトムはね、たんに手足が動くというんじゃないよ。ほれ、このリモート・コントロールを使えば両足そろえて空中を泳ぐんだからね。アメリカに輸出した時は目の青い向うの子供がワンダフルと叫んで、たちまち売り切れになったんだよ。向うの父親はえらいよね。ちゃんとよいオモチャを買って子供に与えるんだから。だが日本の父親はどうだ。デクの棒のように突っ立って買おうか買うまいか考えてござる。手前(てめえ)はしたたか酒をのんだくせに、可愛い子供の土産の一つも持っていかない気かね」この最後の言葉が周りのをかこんだ亭主たちの胸にぐさりと突きささる。本当にオレはいけない奴だなあと思う。オレは今日、会社の帰り、この渋谷でとも角酒をのみ、ホルモン焼きを食ったのだ。自分は家族を放ったらかしてたのしんだ。申しわけない。オレは悪い奴だなあ。「だからさあ、このオモチャぶらさげて家に戻ってごらんよ。角出したカミさんの機嫌も急によくなるし、それから明日の朝、目をさました坊やが泣いて喜ぶよ。うちの父ちゃん、いい父ちゃんって」(「ぐうたら人間学」 遠藤周作) 


酒と魚は専売制
有田皿山の中では、酒と魚は許可を得た商人だけが販売できる専売制になっていました。皿山の外から持ち込む酒は「脇酒(わきざけ)」「隠酒(かくしざけ)」といわれ、商売するのは勿論のこと、自分用であっても持ち込み禁止でした。しかし酒を密売・密造する人は後を絶たなかったようで、「旧記」には、たびたび隠酒の記録が出てきます。
 右の者(上幸平山 久右ヱ門)借宅へ召し置き候清右ヱ門、当七月皿山へ酒持ち入り候こと顕然に付て、今度清右ヱ門を召し呼び相改め候処、右久右ヱ門申す談、兼ねて隠酒商売致し候趣申し出候。右の者釜焼渡世仕る者の由相聞候に付て、相調え候処、いよいよ其の通り相違これ無く、かたがた手形の趣長門殿御聞届け、皿山の儀は酒請よりほか脇酒取扱い候儀きびしく御法度仰せ付け置かれ候処、御法相背き、殊に酒請の者より釜焼けどもへは年々合力銀等を差出し候を取り納め致しながら、かたがた御法度を相背き候心底、御上を軽しめ不届き者に候。此の節きっと其の締り仰せ付けられる筈に候えども、御憐愍をもつて科銀弐壱百目相懸けられ候。
寛延3年(1750年)、久右ヱ門の借宅に住んでいた清右ヱ門という人物が酒を密売していたのが見つかり取り調べられた記録です。科銀(罰金)が支払われていますが、隠酒は本人の他、五人組や庄屋にも連帯責任が問われました。(戸栗美術館 2009年度解説シート通し番号4) 


郵便配達
とはいえ、私は林檎の花の咲くこの牧歌的な村で大いに楽しい観察をすることができた。巴里やリオンではみられぬ、仏蘭西の農民の気質や純朴さに触れえたからである。村で一番、えらいお方は昔の日本の村と同じように村長さんと教会の司祭だった。教会の司祭はこの村の出身だったから、顔も姿も全く農村出身の雰囲気があり、毎日、オートバイで何処かへ行っていた。村には一日一回、郵便配達が来たが、この中年のチョビ髭をはやした男は、郵便物をわたしては、その家で話しこみ、葡萄酒を御馳走になっては、隣の家に行き、同じことをくりかえすので、夕暮まで村のなかをウロウロといている始末だった。午後、林檎の花の下ですっかり酔っぱらった彼が配達用の自転車を放り出したまま、叢(くさむら)で眠りこけているのを見たことが二、三度あった。通りがかった爺さまが彼をゆさぶり起こすと、大きなアクビをして自転車にのる。そして夕方、ようやく配達を終えて村を去っていくのが私には非常に印象的で、こんなのどかな村に育てば良かったろうにと思うほどだった。この村では日本人が来たのは始めてだったろう。(「ぐうたら人間学」 遠藤周作) フランス留学時代、スイス国境近い村に春休みを利用してアルバイトにいったときの話だそうです。 


新酒をば御用が出るとふって見る
旧暦の八月末から九月頃、その年の米で醸した新しい酒が江戸に着く。所々の酒屋は、早速に御得意様へ二、三合ずつ、これを配った。酒屋の御用聞きが新酒を置いて帰ったあと、さて今年の酒はいかがかなと楽しみにして、徳利をちょっとふってみる。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎-監修) 


福正宗
この晩の酒は福正宗で、これもただ上等だけではすまない酒である。甘口だと聞かせれていたが、例えば酒田の初孫という銘酒は甘口だと聞かされて、今でもそれを信じかねているのと同じ種類のこれは甘口である。つまり、口に突き当たるものがないということなので、その点でこれは菊正や千福に匹敵し、その他に何と形容したらいいのか、丁度、ここまで来る途中で汽車が新潟県から富山県に入り、石川県に近づくに従って沿線に雑木林が多くなり、それが夕映えしているのが何とも鮮明に落ち着いた眺めだったのを、この酒を飲んで思い出した。恐らく最高の文明は田園に都会人が生活することを許すものなので、この酒にはそれがある。併し興はまだこの酒で尽きなかった。(「味のある城下町・金沢」 吉田健一) 


風俗文選
芭蕉をはじめ蕉門の人々の文を集めた「風俗文選」は森川許六が編んだものであるが、その中に酒に関係がある三篇を紹介する。
 「(前略)古人生前一瓢の楽は、身の後の金よりは勝(ま)したりといへり。草刈は云く、其楽といっぱ、上戸の情也。瓢の形を云はん。腹便々(べんべん)と肥えふとりて、口せまきは何ぞや。せまくて餅の入らざるは、下戸の嘆きなりと大笑して、歌って云く、滄浪の水、澄めらばつけて泳ぐべし、濁らば鯰(なまず)を押ふべしといひて、去って共に物いはず」(瓢の辞・許六)
 「(前略)餅は心地よき物、酒は嬉しき物、茶は淋しき者、餅食ひは酒を飲まず、酒好(さけずき)は饅頭を食わず。是(これ)天の自然か。たまたま上戸に、嫌(きらひ)なき生まれつきあるは、牙あるものゝ角をいたゞきたる類とや云はむ(後略)「(飲食色欲ノ箴・許六)
 「伯倫酒徳の頌作る。其徳挙げて数へがたし。さる徳ありて、内損脾虚の病を愁へ、酒毒悪腫の痛を生じ、身をやぶり、徳を失ひ、なま酔の号をとりて、朋友の交りを断ち、破戒の過(とが)を蒙りては、仏の道に背く。されば盗跖にも徳ありて、伯夷にも損あり。これ其用ゐる人によりて、其理のとりあやまりなるべし。我れ今酒の徳を見るに、京奈良の酒店、伊丹鴻の池の酒蔵、日々身を潤し、月々に屋を潤す。綾羅錦繍に目を見出し、五味八珍に腹を肥す。ある時は吉原島原の揚屋に遊び、大臣とあふがれ、作善供養の場に連りては、大檀那の号をとる。是みな酒袋のしぼり粕なるべし。昨日までは下部の藤次と云へるものも、今日は何がし町の名主、宿老の列に連り、小売請酒の細望姓(ほそもとで)も、白壁を並べ、大釜の煙絶ゆる時なし。これ世に上戸と云ふ者ありて、酒の徳は顕れたり。さもあらば下戸は、普く富めるものにやと云へど、昔より下戸の建てたる蔵もなしとは、皆飲み抜けの金銀にて、三つ葉四つ葉の酒蔵とはなるなり。是も又理のとりあやまりなるべし。其徳孤ならむや孤ならむや」(酒徳の頌・朱廸)(「日本酒物語」 二戸儚秋) 


伊勢神宮の神酒(2)
鎌倉時代初期の年中行事記には、白酒は忌火屋殿で清酒作物忌が、黒酒は五十鈴川の北岸、現在の御贄調舎の豊受大神をまつる石畳の西方で酒作物忌がつくったとあり、両宮の酒殿で作業したのであろう。これに用いた稲はもちろん御料田の抜穂(ぬきほ)の稲で、御稲御倉(みしねのみくら)から祭ごとに奉下したものである。
外宮では大物忌父が抜穂田の稲で火无浄酒をつくり、大宮司の供進する庸米で火向神酒をつくったという。火向神酒は現在の醴酒であろうが、火无浄酒は米を水に淅(か)して砕いたシトギ(粢)に御井(みい)の御水(おんみず)を加えた糀(こうじ)を使わない酒だったらしい。このほかにも諸国の神戸(かんべ)から貢進された多くの神酒が供えられ、神嘗祭に限っては根倉物忌(ねぐらのものいみ)という職員が根倉も新田の新稲で醸す神酒を両正宮に供えたと『儀式帳』にみえる。(「伊勢神宮の衣食住」 矢野憲一) 


百礼(ひゃくれい)の会 酒に非ざれば行われず
【意味】各種の儀式に関する会合は、すべて酒がつき物で、これが伴わぬものはない。【出典】酒者天之美禄。帝王所以頤養天下、享祀祈福、扶衰養疾。百礼之会、非酒不行〔漢書 食貨志〕(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


柄樽
 判じている うちに柄樽の 主がくる
 遠方のみやげ 近所の 柄樽なり
客方は、訪問先の近くの酒屋に寄って、前もって柄樽を届けさせる。誰かな、と判じているうちに、送り主が現れるというわけであった。柄樽は、大方は貸し樽である。ころあいに、酒屋が柄樽を回収に来る。ところが、
 五六日 柄樽の空かぬ きつい下戸
無駄足の酒屋は、人知れず、舌打ちをして帰ったことであろう。(江戸風流『酔っぱらい』ばなし 堀和久) 


酒をあたたむる事
酒をあたたむる事饗応の最も第一にして、よく其(その)法に協(かな)えば、美酒はますます美にして、悪酒といえども、頗(すこぶる)美酒に隣るべし。<解釈>酒を温めて出すことは、客を招いてもてなすのに一番大切なことで、燗のほどよさがともなえば、美酒はますますおいしく、悪酒でも美酒に近づいてくるであろう。<出典>江戸、杉野駁華(ばくか)(生没年不詳)『新撰庖丁梯(しんせんほうちょうのかけはし)』-(橋爪修)(「食の名言辞典」 平野・田中・服部・森谷 編) 


豆かん
名前のとおり、サイの目に切った寒天の上に、えんどう豆を柔らかくゆでたものが分厚く乗っていて、それに黒蜜をかけて喰うというだけの変哲もない喰べ物で、蜜豆の親戚のようなものであるが、といっても微妙にちがうので、蜜豆とはやっぱり区別したい。その証拠に、蜜豆は、酒を呑んだあとに喰べるものではないが、豆かんは、酔ってから喰べてうまい。私は酒呑みで、大飯喰らいで、こういうタイプは、まず甘い物は口にしないものだが、大福を食いながら酒を呑もうという男である。三拍子揃っているわけでまァ要するに、口に入るものでうまいものならばなんでもよろしい。さらにいえば、仕事以外はすべて好きだ。浅草花柳界のそばに「梅むら」という小さな店があり、ここの豆かんだとりわけおいしい。(「無芸大食大睡眠」 阿佐田哲也) 


初代川柳の酒句(2)
藁をうつ音で生酔目を覚し 亀遊
そろそろ引(びき)に生酔を涼台 泉河
貴様は酔ぬおれが酔たとだまし 鼠弓
突ツぱつたすだれの内でのんで居る 眠狐
爰(ここ)でのんだらとハけちな花見也 眠狐
米や酒やつへし欠(ママ)る俄雨 岸口(初代川柳選句集上 千葉治校訂) 


大日本神社仏閣御領
神社の一位は春日社(春日神社)の二万二千石。仏閣の一位が興福寺の二万千百十九石。ただし、行司役の位置には両皇太神宮(伊勢神社)が、内宮四万二千石、外宮八百石余とあります。酒関係では。枩(松)尾社が九百二十石ヨ、正暦寺(菩提泉を醸造した寺)が三百石です。(「大江戸番付事情」より 石川英輔) 


西の張出小結
年を長ずるに及んで、と言ってもまだ二十も半ばに満たない若僧だが、ぼくも相当の大酒飲みになった。酒に関しては権威(?)ある雑誌の正月号に載った文壇酒徒番付によると今年は一躍西の張出し小結となっている。悪い気がしないでもないが、どうも名誉とも言いかねる。もっともこの番付はそれぞれ腕に自慢の諸力士から苦情続出で、とくにぼくの昇進なんどは、だいぶ方方でうらまれているようだが、いざそう言われて見ると、改めて腕には自信がある。番付に関するアンケートにも、地位確保のためには希みあらば一戦を辞せず、なで切りの自信十二分と書いた。文壇の半ばモーロクしかかった爺サマ相手だったら、まず自信がある。がしかし、そんな飲みくらべをやってみたところで、芸のない話だし、およそ味気の無いものだろうと思う。酒とはそうしたものだ。と言っても、ぼくはまだ風格のある飲みっぷりなどと言うようなものはそなわっていない。しかし、若さにかまけてがぶのみするような仲間に比べると、ぼくのほうが酒の味は知っていると思うし、第一、ぼくはほんとうに酒が好きだ。(「酒が「好き」ということ」 石原慎太郎) 


大文字焼き
”信仰の火”だった「大文字」も、近年すっかり”観光の火”になってしまっているが、五山の火を守る土地の人びとはこの一夜の行事のために多大の犠牲をはらって奉仕をつづけている。それぞれの火床をうけもった家では、燃え方が悪いと家に不幸がつづくというので、風向からマッチのすり方までこまかに気を配り、それこそ家中が総出でつきっきりになるのである。茄子に穴をあけて大文字を見ると目をわずらわないとか、燃えさかる大文字の火影を、盃にうつして飲み干すと中風にかからないとか、また、大文字の消炭や灰が、中風や痔の薬になるとか、さまざまな俗信が今ものこっている。(「京都故事物語」 奈良本辰也編) 大文字  


芽米から米バラ麹へ
すなわち、紀元前三世紀頃までの醴酒(一夜酒)は縄文人、弥生人による口噛み酒であって、紀元三、四世紀、百済などから来日が盛んな時代になってから、醴酒(一夜酒)を糵(芽米)を糖化剤にしたものにかわっていったと思われる。ところが、紀元八五九年頃に書かれた、日本の酒づくりの古典ともいえる『令集解(りょうしゅうのげ)』の「造酒司」の項には、 正一人。醴。謂醴甜酒。…古記云。醴甘酒。多麹少米作。一宿熟也。 とあって、この場合の麹は明らかに米バラ麹である。なぜなら、すでに述べたように、この麹が餅麹なら、その中に繁殖している酵母やカビがアルコール発酵するので、麹の量が多くなればなるほど、甘みの少ない、アルコール濃度の高い、辛い酒になるはずである。ところが、ここには「麹が多いと甘くなる」とあるので、この麹は中国系の米餅麹ではなく、米バラ麹である。それゆえ、紀元三、四世紀からの渡来人によって、糵(芽米)による醴や餅麹によるカビ酒(麹酒)の技術が導入されたと仮定すると、紀元九世紀までの間に、糵の意味が芽米から米バラ麹へかわった可能性が考えられる。(「日本酒の起源」 上田誠之助) 


酒問屋寄合
江戸で仲間組合を組織した一番古い問屋は酒問屋であったようである。延宝三年(一六七五)に仲間組合を設け、同八年には酒問屋寄合と称し、天和三年(一六八三)には瀬戸物町・中橋・呉服町・青物町に当番をおいて荷主との往復や問屋間の連絡に当たらせた。これを四町当番と称した。これが江戸の問屋組合の先駆で、やがてこれにならって元禄七年(一六九四)江戸中の諸問屋が連合して十組問屋を結成した。この当時江戸の酒問屋はすでに七十四軒に達していたという。しかし主として産地の蔵元の出店問屋で灘一帯はいう迄もなく、伏見尾張、美濃三河方面の酒が下り酒として江戸に入っていたが、元禄十五年の記録では下り酒問屋七十九人、出店問屋四十七人計百二十六人とある。この出店問屋というのは荷主のおく支店で、店支配人は荷主を代表して営業のことに腕を振った。(「江戸風物詩」 川崎房五郎) 


神谷バー、花村の息子
浅草の神谷バーの息子も、同級の寄宿生だった。当時、バーの名はなかったろうが、酒場の"実"はあった。そして、ブドウ酒の製造元でもあった。そこの息子が、まだ十か、十一なのに、伝兵衛さんという名で、幼稚舎生なのだが、一端の実業家のように、赤ら顔で、デップリしていた。しかし、一向にハバはきかなかった。彼が、少しナマイキなことでもいえば、仲間が、すぐ、からかうのである。「塩辛、一マーイ!」すると、彼は、一度にしょげてしまう。神谷バーでは、酒の肴に、塩辛を売っていたらしく、伝兵衛さんを店へ訪ねて行った仲間が、その声を耳にして、巧みに真似た。金馬の「居酒屋」の営業形態が、ソックリの時代で、声の主も、少店員だったろう。それから、日本橋の「花村」の息子。「花村」は丸花ともいい、東京の明治人の記憶に懐かしいが、要するに縄ノレンである。気取った料理は出ないが、サシミとハンペンの味噌汁で、ご飯でも食べてくれば、大変安くて、うまい店だった。その繁盛振りも、大変なもので、入れ込みの畳の上に、寸席をさがすのに、骨が折れた。(「東京百話 地の巻」 種村季弘編 「町ッ子」 獅子文六) 


酸橘(すだち)酒
薄く輪切りにして紅茶に入れると、ライムともレモンともつかずの風味がある。ジン、ウイスキーにもよろしい。一級酒を熱燗にしてコップに入れ、酸橘(すだち)を半分に切って半個分は酒の中にしぼり入れ、残り半分はコップに浮かす。酸橘酒といい徳島人は愛飲する。多飲しても二日酔いにならない。特級酒より一級酒のほうがうまい。(「新・口八丁手包丁」 金子信雄) 


太地の死
テレビのチャンネルをひねる。いやリモコンを押す。あッと息を呑んだ。太地喜和子の事故死を報じている。伊東の桟橋で車が海へ転落し、乗っていた四人のうち三人は助かって、太地君だけが死んだ。四十四歳。なんということだ。公演を了えてスナックで飲んで、太地君が海を見たいということで、マダムが運転する車で桟橋へ行った。海中に転落した車から座員二人とマダムは脱出したが、太地君はできなかったという。したたか飲んでいたのだろう。太地君はわたしの「藪の中の黒猫」(音羽信子、中村吉右衛門、太地喜和子共演、昭和四三)に出演してくれて、以後二本の作品に協力してもらった。少年のようなしなやかな脚をしていた。文学座では杉村春子の後継者といわれていたが残念なことだ。(「うわっ、八十歳」 新藤兼人) 


舳倉島の奥津姫神社
九〇年八月一日、能登半島の北方の日本海に浮かぶ舳倉島(へくらじま)の奥津姫(おくつひめ)神社の祭礼に、宮司の中村裕氏のご好意で参加することができた。氏子総代たちの乗る祭りの船は朝六時に輪島港を出発、途中七ツ島の社でも祈りと清掃、舳倉島では島中の社で祈願と清掃をしたあと、奥津姫神社の社殿前の広場にはムシロを敷いて直会(なおらい)が始まった。それにしても海の人たちは開放的で豪快、酒がつがれアワビの刺身とタイのミソ汁が次々にくばられる。最後にアワビの切り身をたくさん使ったオウビメシ(アワビメシ)が炊きあがった。舳倉の海女のとりたてのアワビをふんだんにいれ、二〇~三〇人分を一度に炊いたので、これはわが生涯のうまいものの筆頭だった。料理は一緒に船で来た輪島の料理屋の主人が一人でこなしていた。(「食の体験文化史」 森浩一) 


失敗だらけだった開局当時のテレビ
日本でテレビ放送が本格的にはじまったのは昭和二十八年二月一日のこと(NHK)。初期のテレビ局は、スタッフも俳優も馴れないせいか、いろいろ珍妙な失敗がありました。そのうちの傑作を、いくつかあげてみましょう。まず、酔っ払った女優が本番中のカメラのレンズをのぞき込んだことがあります。故早川雪洲氏は、ドラマ「ジギルとハイド」をやっているうちに区別がつかなくなり、ジギルの格好をしてハイドを演じるという失敗をしています。ある時代劇では、盗まれたはずの仏像が、小道具係の手ちがいにより、そこに置いたままになっていたため、役者があわてて座布団の下にかくして、芝居を続けたということもありました。当時はまだVTRがなく、すべてナマ放送でしたので、これらのシーンはすべてお茶の間の人々の目に入ってしまったのでした。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


アンコウのトモズ
ウラウラと陽のさしこむ座敷に、やがてナベ二つと、大皿に盛ったアンコウの、はじけてちぢれた白い肉が運ばれてきた。一つはチリ、一つはナベで、後者は煮汁にダシが入っている点が違う。別に小皿にすり流した味噌をそえ、内臓や皮や肉を美しく茹であげて盛ったものが出されたが、これこそ水戸の名物中の名物アンコウのトモズであった。地元の酒「一品」を傾けながら、さっそくつついてみる。ナベやチリは、正直に言って、東京で喰うのとさして違いはなかったが、トモズが絶品だった。この味噌はアンコウのキモをすりこみ、板にぬりつけ、炭火であぶり、香ばしくしたものだという。これに皮だの胃袋だの卵巣だのをつけて喰うのだが、タレの濃厚さと身の淡白さが、口のなかでしだいにまざりあい、ひろがってゆく味覚には、得もいわれぬものがあったのである。何よりすばらしいのは、この料理の舌ざわりというか、口腔に与える感触の快適さである。あるいはフワフワし、あるいはプリプリし、場所に応じてベロッとしたり、デレデレしたり、シャキシャキしたりのほとんどありとあらゆる柔らかい感触のハーモニーが口中で楽しめる。一品食べるごとに「一品」で舌を洗いながら、朝から何も喰わないででてきた空きっ腹がこうした美味でしだいに満たされてゆく幸福感に、ぼくは陶然となった。(「美味めぐり」 宇能鴻一郎) 水戸で、本格的の中では一番安い山翠という店だそうです。 


アンユージュアル・カクテル
これは余談であるが、国連の酒場(バー)では、国連名物と銘うって、アンユージュアル(unusual)・カクテルというものを飲ましていた。これが少しもうまくない。いつだったか、私はバァテンの目を盗んで、unusualをU.N.usualと修正しておいた。これを見て手を拍(う)って喜んだのがフランス大使のアルフォン君で、それ以来、国連代表はみな、『U.N.ユージュアルを一杯』というようになった。アメリカの酒は、だいたいにおいてまずい。オートメイションで非人間的に製造するからである。酒は芸術品でなくてはならぬ。オートメイションからは芸術品は生まれない。(「外交官の酒」 加瀬俊一) 

泉先生
一流の小刻みな足取りで、先きに入った久保田(万太郎)さんが、とっさの中折れ帽を脱(と)るなり、つかつかと寄って行った卓がある。二言三言言葉を交わしているうちに、すすめられて久保田さんは、その椅子に腰を下した。もじもじしている私を「これは文藝春秋社員で」と、久保田さんが卓の主に仲介される。その先客は泉鏡花であった。生酔の若僧には、これは重荷であった。先生と呼ぶべき久保田さんが、泉先生、先生と鄭重な扱いである。軽い酔いを、細面に浮かべた鏡花は、眼鏡越しに口もとに微笑をたやさず、嫌味のない腰の低さで、久保田さんに対応している。大先生と先生の間に挟まれて、どうにも動きにとれない私に、久保田さんがしきりと杯を差してくるという訳で、この晩ほど苦しかったことはない。なぜそんな古いことを覚えているかと云えば、私は酒を呑み出してから今日まで、ほとんど粗相をしたことはない。平たく云えば、吐いたという経験は一度二度と算えられるほどしかないので、四十年近い昔をはっきり思い出せるのだが、その晩はおかざきの便所で平伏し、そのまま裏口から逃げてしまった。(「カレンダーの余白」 永井龍男) 


鈴木三重吉
しかし、自分の口に合つた酒の味にこだはるのも、程度を越せば窮屈である。なくなられた鈴木三重吉さんなどは、それが特に八釜(やかま)しくて、いつぞや東北地方のどこかへ旅行された時は、平生愛用してゐる酒を一升壜に幾本も詰めて、それを同行した赤い鳥社の社員に提げさしたと云ふ話を聞いた事がある。口の違つた酒は飲めないと云ふ酒飲みの意地も、そこまで行くと却つて厄介である。(「酒光漫筆」 内田百閒) 


太郎兵衛歩びやれ
松「それぢア(一三)太郎兵衛歩(ゑへ)びやれだ
註(一三)彼と是とは結局同じだの意。太郎兵衛なる者が泥酔して駕籠に乗つたが底が抜けてしまつたので、結局歩かなければならなかつた。上のことからもと通り或はどつちも同じといふ意味に用ゐられ流行語となつた。(「浮世床」 式亭三馬 中西善三校註) 


岡本綾子
さて、岡本綾子さんです。これはかねてより酒豪として名を馳せておられますから、私は興味津々でお話を伺いました。綾子さんは広島県豊田郡安芸津町の生まれですから、私と同じ郷里です。妙に心やすい感じで、いろいろと話は弾みました。「スポーツとお酒は相性はよくない、といいつづけているので、どうも、大賞(日本酒大賞)をもらうことは面映ゆいですけど、疲れをとるには、なんといってもお酒が一番です」とおっしゃるのです。”我が意を得たり”というところです。飲みすぎれば?(「身区」 からだ)によくないのは当たり前です。噂によれば綾子さんは、アメリカツアーで好成績をおさめられたのも、日本酒を七合から八合くらい飲んで熟睡してプレーすることによって優勝されたといいます。その話をぶつけましたところ、「飲みすぎたら駄目ですけれど、体質的に飲めるのでお酒の功徳をいただきました」とにっこりしておられました。(「今宵も美酒を」 佐々木久子) 


悪太郎
▲あく太郎 酒に酔ひて出るあく坊のごとく、(元来割注にすべき語なるべし) をぢご内(うち)におぢやるか。 ▲をぢ また悪太郎がきた。 ▲太郎 お見舞申しまうする。 ▲をぢ そのやうに酒に酔ひて、気の毒ぢや。酒をとまれ。 ▲太郎 御意見かたぢけない。とまりませう。 ▲をぢ よい合点ぢや。すきと(きれいさっぱりと)とまれ。 ▲太郎 明日からとまりませう。酒の暇乞(いとまごひ)に、一盃下されい。 ▲をぢ 暇乞ぢや程に、ふるまひ申さう。 いろいろ云うて五六ぱい飲む。 ▲太郎 もはや、さらばさらば。 また酔ひて帰る。 ▲をぢ さいぜん悪太郎が酒にゑうて去(い)んだ。道にがな寝まうせう。見に参らう。されば余念もなく寝てゐる。仕様がある。坊主にしておきませう。悪坊の如く坊主にして、そちが名を南無阿弥陀仏とつける。さやうに心得心得。 太郎目をさまして肝をつぶし、 ▲これはいかなこと。この様に釈迦如来のしておかしられたものであらう。(「狂言記」) このあと悪太郎は、南無阿弥陀仏と読経する僧に、名を呼ばれたと思って返事をして、その縁で仏道に入ってめでたしめでたし。 


詩あきんど年を貪(むさぼ)る酒債かな
はじめは頭をかかえた。詩あきんどとは?其角は大名やら旗本やら大金持ちやら、ほうぼうに出入りして、俳諧で生活費を稼いでいる、まさに詩の「あきんど」か。されど酒債すなわち酒の借金で大晦日には首もまわらぬ。それだけの意味なのか。あえて採り上げるほどの面白さはない。が、前書を読んだとき仰天した。「詩債尋常住処有人生七十古来稀」いわゆる「古稀」の出典といわれている中国は唐の大詩人・杜甫の詩を踏まえて、其角が大いに奮発している作なのである。さっそく杜甫「曲江二首」を繙(ひもと)いてみる。 朝回日日典春衣(朝より回りて日日春衣を展じ) 毎日江頭尽酔帰(毎日江頭 酔を尽くして帰る) 酒債尋常行処有(酒債尋常 行く処に有り) 人生七十古来稀(人生七十 古来稀なり)フム、と唸りがてら、それならと、これを井伏鱒二の「サヨナラダケガ人生ダ」式に、我流に訳してみる-。 キルモノモチモノ ミナ質ニイレ 墨田ノホトリデ ドンチャン騒ギ ドチラ様ニモ 借金バカリ 人生七十 古来マレなり(「其角俳句と江戸の春」 半藤一利) 古稀   


酒の川柳
盃に膳の八そう飛びをさせ(遠い席への献盃の句)
薬代(やくだい)を酒屋へ払う無病もの(薬代のかわりに百薬の長である酒を飲んで酒屋に払い自分の健康を誇る酒呑謳歌の句)
起きて居て寝たふり酒屋上手なり(太祇の句に「起きていておもう寝たという寒さかな」があり、この句をもじったもの)
肌寒く行灯燗のわかれ酒(夜ふけて火も尽き行灯で燗をしたぬるい酒で別れるというわびしい句)
線香が消えてしまえば一人酒(芸者や陰間をあげる時間は線香で計った。後には揚げ台を線香代というようになった)
生酔に明日切りやれとおさめさせ(悪酔いして刀を抜いた男に、あした切ればよいと刀を納めさせたというという句)(「日本酒のフォークロア」 川口謙二) 


一合酒
いちごさけもうした なべのそこがーらがら(一合酒申した 鍋の底がーらがら)
新潟では、昔話のおしまいにこういう地方もあるそうです。NHK小さな旅で放映していました。 


見舞い
浅井の叔父は、その頃大分酒を飲み、父の枕頭でもちびりちびりと盃をあげるほどの、ちょっと変わった気分であるし、父の病も快方に向って安心していたろうから、酔うとよく吟じたのは李白の『両人対酌山花開、一杯一杯復一杯、我酔欲眠卿且去、明朝有意抱琴来。』を繰返し繰返し吟じたのは、今も私の耳に残っている。父もやかましいと思って困ったようではあったが、止めることもしなかった。この叔父は多少詩も作りまた漢字の素養もあったので、親子兄弟三人で随分そんな話もしたのであった。(「鳴雪自叙伝」 内藤鳴雪) 


カストリ雑誌
先ごろの戦争が終わった後、まだ物資がなかったころ、カストリという酒が売られていました。悪い酒で、めっぽう強く、誰も三合飲むと酔いつぶれてしまいました。そのことから、創刊して、間もなくつぶれてしまう、はかない月刊雑誌を、「カストリ雑誌」といいました。それは「三号(三合)でつぶれる」という洒落でした。(「ことばの中の暮らし」 池田弥三郎) 


酒炙
さて其れが少し贅沢になると、「炙」即ち焼肉が之に代つて普通に用ゐられることになつたらしい。そこで「酒炙」と曰ふ熟語が慣用されるに至つた。「漢書」韓延寿伝に、延寿が罪に問はれて刑場に赴く途中、其の徳を慕ふ吏民が数千人之を送り、老小が車を取りまいて争うて「酒炙」を進めたと有る。「三国志」王粲伝の註に引く所の「魏略」に、曹操の子曹植が文人邯鄲淳との初対面に於て、古今の史学文学政治を講論し、乃ち膳部方に命じて「酒炙」を盛んに出させたと有る。唐の杜甫の「奉韋左丞丈」詩に身の不遇をかこちて「朝ニハ富児ノ門ヲ扣キ、暮ニハ肥馬ノ塵ニ随ヒ、残杯ト冷炙ト、到ル処潜(ひそか)ニ悲辛ス」と曰ふも「酒炙」の意である。無論「炙」ばかりが肴ではないが、其れが代表的なものなのである。(「酒中趣」 青木正児) 


胡椒をかむ
こしょうをかんで、辛味をよく味わう。今大路道三(どうさん)(一五六〇?年)の『道三翁養生物語』に、<寒暑ともに外より帰りたらば、まず熱湯を飲むべし。さて飯を食うべし。寒暑厳しき時は、胡椒をかみ、熱湯か又は酒をかんして分量ほど飲み、しばらくして常飯を食うべし。>という。(「飲食事辞典」 白石大二) 


小酌、大酌、満酌
彼は明治四年、日本陸軍の創設に参加、弱冠二十二歳で陸軍少佐に任官するという異例の抜擢によって、東京鎮台付きの武官となる。さらに名古屋鎮台武官を経て、明治七年には陸軍最高の権力者であった長州出身の陸軍卿(大臣)山県有朋の副官となる。この時期、二十前半から後半にかけて、血気壮んな若い少佐殿であった乃木は、文字どおり"酒色"に耽溺したのである。「まさか-」と思われる昔気質の方は、乃木自身が記した山県有朋の伝令使(副官)であった明治八年の日記をごらん頂きたい。この一月の部分を見ると、 一月三日朝 小酌、(のち)閑酌 一月四日朝 小酌 一月五日朝 小酌 一月六日朝 小酌、入浴、(のち)満酌 一月八日昼 小酌 一月九日 小酌 一月十日 大酌 一月十一日 妓(をあぐ) (中略 この間も朝酒、朝湯、昼夜酒また酒) 一月二十日 水心亭(料理屋の名である)に乗馬行く。妓は才吉、お玉、糸棋らの九人。梅ヶ谷、荒虎(力士の名)を招き、大酔異変あり(注、芸者と何かあったということ) -ざっとこんなあんばいで、前年暮れの中にも柳橋その他の料亭に入りびたり何人もの芸妓をはべらせて大酔、満酔。そして"酔うては伏す美人の枕"の連続なのである。(「酒・千夜一夜」 稲上真美) 乃木希典のことだそうです。 


泥酔
遅れて源三郎がやってきた時には酒はあらかたなくなっていた。源三郎は、酒がなければ焼酎をもってこいといい、茶碗に五つ六つ続けざまに飲みほした。一同は大酔してしまった。軍三は源三郎に、もう充分飲んだから、少し涼もうと屋外に連れ出した。そこへ玉之江村百姓三作が、これも酔っていて、小便をしながら歩いてきた。酔いのまわっている軍三が三作を見て、「横着千万」と咎め、源三郎も「不届き」と叱りつけた。三作は、「私がなぜ横着なのか」とくち答えをして、二人をふり切って立ち去ろうとした。源三郎は腹を立てて、やにわに脇差を鞘ごと抜いて、三作の頭を殴りつけた。殴った拍子に鞘が飛んで、刀身がむきだしになってしまった。三作は倒れ、あわてた軍三が源三郎を後から抱きとめた時、転んだ三作の跳ねあげた足に刀身があたり、脛を斬りつけた。-
どのような折衝があったのか不明であるが、示談が七月一〇日に成立した。源三郎が銭三〇〇目と米一俵を三作に渡し、別に薬代として一〇〇目を支払うことになった。一札をとりかわして、会所で確認がなされた。-
七月二九日四つ時(午前一〇時頃)刃傷事件の裁許が申し渡された。
船山の野間屋岩八宅にて、佐伯源三郎が玉之江村百姓三作へ、手傷を負わせ候一件
一、永の御暇下され、御給米はすべて上納申しつける 足軽 佐伯源三郎
一、厳しく叱り申しつける 足軽 佐伯市二
一、前同様 足軽 日野軍三-(「伊予小松藩会所日記」 増川宏一、原典解説:北村六合光) 


平野金華
元禄元辰年-享保十七年七月二十三日(一六八八-一七三二)。江戸中期の儒学者。陸奥三春(現福島県田村郡)生れ。幼くして孤児となり、身寄りの者が医者にしようと江戸に出した。医を学んでいたが、やがて儒者を志し、荻生徂徠に入門した。才気煥発で豪放磊落、そして酒好きで激情家。これを狂者扱いする者もいたが、共感するところもあってか、師の徂徠から愛されていた。二十二歳のとき、朝鮮通信使の接待役として、詩文の応酬をしたことから、その文名がますます高くなった。三河刈谷藩に仕官したが、晩年は陸奥守山藩に仕えた。(「江戸諷詠散歩」 秋山忠彌) 


うまいビール
そうしてこの日、ついつい「うまいビール」にシビれてしまい、何杯かおかわりした。そうしてもうサンドイッチもいらなくなって、結局ビールだけでゲートをくぐった。ビールを飲む前にカゼグスリを飲んだのが効いてしまったようだ。ぼくは飛行機の席に座るのと殆ど同時に気を失うようにして睡ってしまった。そのまま深く深く睡りこみ、結局着陸して目がさめず、スチュワーデスに起こされる始末である。断っておくが、ぼくはかなり酒に強い方だ。ビールを飲むとあれは飲んですぐに瞬間的にフワッと酔うが、あとは大瓶半ダース飲んでも酔いはしない。途中であきてしまうくらいだ。(「南国かつおまぐろ旅」 椎名誠) 


秋風や酒肆(しゅし)に詩(し)うたふ漁者(ぎょしゃ)樵者(しょうしゃ)
街道筋の居酒屋などに見る、場末風景の侘(わび)しげな秋思である。これらの句で、蕪村は特に「酒肆」とか「詩」とかの言葉を用い、漢詩風に意匠することを好んでいる。しかしその意図は、支那の風物をイメージさせるためではなくして、或る気品の高い純粋詩感を、意識的に力強く出すためである。例えばこの句の場合で、「酒屋」とか「謡(うた)」とかいう言葉を使えば、句の情趣が現実的の写生になって、句のモチーフである秋風落莫(らくばく)の強い詩的感銘が弱って来る。この句は「酒肆に詩うたふ」によって、如何(いか)にも秋風に長嘯(ちょうしょう)するような感じをあたえ、詩としての純粋感銘をもち得るのである。子規一派の俳人が解した如く、蕪村は決して写生主義者ではないのである。(「郷愁の詩人 与謝蕪村」 萩原朔太郎) 


使
出入(一)の御屋敷から御用有て、奴(やっこ)殿(二)が御使に来る「是は是はよふこそ御出被成(なされ)ました、それ御酒を一ツあげ申せ。アゝなんにもないの、豆腐を買(かう)てな」 と云ながら、奴の顔を見て「ナニサ。豆腐のしたし物(三)
(一)武家屋敷御用商人の所へ (二)屋敷の下級使用人 (三)豆腐のしたし物というのはない。醤油かけはあるが、料理としては低廉なものである。実は豆腐の冷奴を出そうとしたが、奴と冷奴の語呂が似ているので遠慮した (「江戸小咄集」 宮尾しげを編注) 


宇下人言
江戸幕府八代将軍徳川吉宗の孫にして、国学・有職故実・歌学に一家を成した田安宗武の子として宝暦八年(一七五八)に生まれ、安永三年(一七七四)に奥州白川城主松平越中守定邦の養子となった松平定信は、天明七年(一七八七)老中に就任し寛政の改革を行った。寛政五年(一七九三)老中を免ぜられ、その後自叙伝『宇下人言(うげのひとごと)』を著した。自叙伝名は「定信」の文字から由来している。そして、定信は文政一二年(一八二九)に亡くなった。自叙伝の中に、次の文言がある。
また酒てう(ちょう)ものはことに近世多くなりたり。元禄のつくり高をいまにては株高といふ。そのまへ三分一などには減りけるが、米下直(安値)なりければ、その株高の内は勝手につくるべしと被仰出(おおせいだされ)しを、株は名目にて、たゞいかほどもつくるべきことゝ思ひたがへしよりして、いまはつくり高と株とは二ツに分かれて、十石之株より百石つくるもあり、万石つくるもあり。これによって酉年(とりどし)のころより諸国の酒造をたゞしたるに、元禄のつくり高よりも今の三分一のつくり高は一倍之余も多き(二倍以上)也。西国辺より江戸へ入る(り)来る酒はいかほどともしれず。これが為に金銀東より西へうつるはいかほどといふ事をしらず。これによって或は浦賀中川にて酒樽を改めなんといふ御制度は出しなり。これ又東西の勢を位よくせん之術にして、ただ米の潰れなんとていとふ(厭う)のみにはあらず侍(はべ)る也。関東にて酒をつくり出すべき旨被仰出候も、是また関西之酒を改めなば酒価騰貴せんが為なりけり。ことに酒てふものは高ければのむことも少なく、安ければのむこと多し。日用之品之物価平かなるをねがふ類とはひとしか(ら)ざれば、多く入来れば多くつゐへ、少なければ少なし。(「麹」 一島英治) 


君帰りたまえ
「周五郎の酒はいかがでしたか」「よく飲みましたが、乱れるのは大嫌いでしたね」横浜に移ってからは横浜日本橋の料亭「やなぎ」(昼間さがしたけれどマンションになっていた)を定席にし、芸者や出版社の担当を交えて酒をのんだ。酒乱を嫌い、その様子が見えると「君は帰りたまえ」とハイヤーを呼んだという。「清遊です。太田さんもそうでしょう」「あ、ハイ」冷汗を感じる。同行者は皮肉げに私を一瞥し、話を継いだ。「では高歌放吟はご法度ですか」「そんな事はありません。自らシャンソンを歌い、芸者に民謡を北から順に歌わせ、出てこないと自分が歌ったり、長唄もよくしました。しかし歌謡曲と浪花節、これはご法度。調子にのって流行歌をうたうと、即座に帰りたまえと言いましたね」酔った私が一番好きなのは古い歌謡曲だ。「周五郎の一日はどんなでしたか」「四時半頃起き十時まで仕事。それから散歩に出て昼食。蕎麦とか洋食ですね。その後映画を見て帰り、夕食をして晩酌。時々やなぎへ行く。こんな風でした」(「居酒屋道楽」 太田和彦) 山本周五郎研究の木村久邇典に太田和彦が聞いています。 


汁講
公卿や武士が来客の面前で鯉を調理する鯉庖丁が当時盛んで、資直来宅の折、言継が朝飯に鯉を命じたが、資直卿自ら庖丁を握って調理し言継父子が相伴したこと、また大永八(一五二八)年にも鯉庖丁、湯漬けで酒を飲んだ記録がある。祖父言国の時代はそれほどでもなかったが、言継の時代は汁講が盛んだった。大抵は朝食で、主人が汁を用意し、招かれた客は飯を持参する習わしだった。多くの場合食後さらに酒が出、汁講の案内はその前日使いに招待状を持たせた。汁の内容は狸、鯨、雉、鱈など。大変珍しいところで狐汁というのが唯一回だけ登場するので紹介しておこう。天文十八(一五四九)年一〇月二十二日の昼頃、二匹の犬が言継邸の簀(すのこ)縁の下で一匹の狐を食い殺した。言継は狐を犬から取り上げたのだろう。三日後、明朝狐汁を振舞うから朝飯を持って来るようにと方々友人たちに触れまわらせた。しかし残念ながらその味については一言も感想を述べていない。この時代の料理書にも狐料理はないが、恐らく臭気が強くて美味しいものではなかったろう。当時は大都市の真ん中にも狐が住んでいたわけで、大変興味深い。(「日本の食と酒」 吉田元) 


一升瓶(ひとますかめ)に二升(にしょう)は入らぬ
一升入るふくべは海へ行っても一升 【出典】一人して二人の物を如何で持つべきぞ、一升瓶に二升は入るや〔枕草子〕(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


へらず口
さる町内に、東山へ遊山に行かれた。そのうちに親子連れにて帰り、かの親父、酒に酔ひ、小歌節にて帰りけるが、わが町内にまり、わが家も行過ぎけり。息子「これこれ、こちの家はこゝなるに といひければ、親父さらぬ体に行き「今はいれば、小歌があまる といはれた。(露新軽口ばなし巻三・元禄十一・親父の頓作) (「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


旭鷲山
阿川 先場所は、曙関とも対戦されて。
旭鷲山 横綱と当たるの初めてだったから緊張して、心臓がドキドキ。それで、ちょっとウォッカを飲んだ。
阿川 リラックスしました?
旭鷲山 全然、変わらなかった(笑)。飲んだとき、ちょっと熱くなって、「よしッ、今なら負けない」と思ったけど、土俵下で待ってるうちにだんだん(緊張が)戻って、余計気持ち悪くなった(笑)。
阿川 アハハハハハ。
旭鷲山 酒臭いかなって気になるし、横綱怖くなってくるし、土俵狭く感じるし…。(「阿川佐和子のアハハのハ 旭鷲山」 阿川佐和子) 


黒澤組
阿川 食べ物にはうるさい?
黒澤 ええ。うちの組は食費が大変なんですよ。まずいもん食わせたらいけないの。お昼だって、お弁当はダメ。ちゃんとつくったものを食べさせないと。うちの母親が生きている頃は、毎日メインディッシュの分、二十人前ぐらいつくって渡してましたよ。
阿川 元女優のお母様が?
黒澤 そう、『乱』の撮影現場には、四百人前のステーキ肉を送りましたよ。スタッフの隅から隅まで、みんなでステーキ食べろと。
阿川 ある女優さんの話じゃ、毎晩フルコースの食事が三時間ぐらい続いて撮影より大変だったと。
黒澤 まったくそうだと思うよ。気の弱い人はそのその席から抜けられない(笑)。いつも楽しく食事して、飲んで、騒いで、次の日、また仕事するというのが好きだったんだね。阿川 監督はお酒もずいぶん飲まれたんですか。
黒澤 強いですよ。あの人が酔っぱらったは見たことはないですね。(「阿川佐和子のアハハのハ 黒澤久雄」 阿川佐和子) 


ビールがいちばん売れた日
一年間でビールがいちばん売れるのはいつでしょう?都内の大量消費店に昭和六十一年の実績を聞いてみると… ●サッポロライオン銀座七丁目店 「五月一日のメーデーの日。大ジョッキに換算して、三百七十杯の売り上げ」 ●後楽園球場 「六月三日、巨人対阪神の試合で四対三で巨人が勝った日。缶ビールの大サイズで、七千二百三十本」 ●東京駅 「八月十三日、月遅れのお盆の帰省ラッシュ初日。缶ビール中サイズ三万四千本」なるほど、所変われば売れ方も変わるようです。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


土びんを三つ
「おいおい、そこに酔いたおれているのはだれだい?…なんだ、熊さんじゃないか…おい、おい、熊さん、熊さん」「ええっ、なんだ?…熊さん、熊さんて、おれをゆすぶるなあだれだ?」「だれじゃないよ。そんなに酔っぱらってうたた寝していると、かぜひくよ」「なーんだ、伊勢屋のご隠居さんですか…あーあ、すっかり眠っちまって…」「ずいぶんとおまえさん、酔ってるな」「えー、なにしろ、あっしは出入りの職人ですからね、寺の台所(でえどころ)ではたらいていたんですがね、のどがかわくもんだから、茶を飲もうとおもって、土びんがあったから、茶わんについでぐーっと飲むと、これが茶じゃねえ、般若湯てえやつだ。あっしゃあうれしくなっちゃってね、土びんを三つばかりひっくりけえした。そのうちに、お通夜のつかれもあったんだねえ。ねむくなってきゃがったから、肘を枕にうとうとしているうちに寝ちまったんだ。どっかで坊さんのお経が聞こえてくるようだったが、あいつあ子守唄みてえで、いい心持ちで寝られるねえ」「なにをのんきなことをいってるんだよ。さあ、そろそろひきあげなくっちゃあ…」「ひきあげるって、葬えははねたのかい? 「芝居じゃあるまいし、はねたてえのがあるかい…熊さん、おまえさん、きょうは手つだいでなくて、寝にきたようなもんじゃあないか」「まあ、はやくいやあね」「おそくいったっておんなじだよ(「古典落語 子別れ」 興津要編) 


厚生省
初場所で十九歳の貴花田が優勝した。厚生省から相撲協会に電話がはいって、「祝杯はお酒でなく」といって来たそうだ。ご親切な話である。(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


酒の資料館
男山酒造り資料館(北海道旭川市) 石鳥谷町立歴史民俗資料館(岩手県稗貫郡石鳥谷町) 南部杜氏伝承館(岩手県稗貫郡石鳥谷町) 東光の酒蔵・酒造資料館(山形県米沢市) 古澤酒造資料館(山形県寒河江市) 財団法人到道博物館(山形県鶴岡市) 会津酒造歴史館(宮泉酒造・福島県会津若松市) 会津酒造博物館(此花酒造・福島県会津若松市) 会州一蔵品館(福島県会津若松市) 釜屋資料館(埼玉県北埼玉郡騎西町) 千代鶴酒造り資料館(東京都あきる野市) 澤之井小澤酒造(東京都青梅市) 酒造コレクション(長野県埴科郡戸倉町) 大澤酒造民俗資料館(長野県佐久市) 酒の博物館(長野県大町市) 國盛酒の文化館(愛知県半田市) 温古伝承館(和歌山県海南市) 月桂冠大倉記念館(京都府京都市) 菊正宗酒造記念館(兵庫県神戸市) 白鶴酒造資料館(兵庫県神戸市) 白鹿記念酒造博物館(兵庫県西宮市) 昔の酒蔵・沢の鶴資料館(兵庫県神戸市) 川鶴資料館(香川県観音寺市) 太平庵酒造資料館(佐賀県多久市)(「酔っぱらい大全」 たる味会編)  


肝酒
蛇料理に満腹して、卓をはなれようとすると、「肝酒は如何でしょう?」と呉さんが提案する。ここまできたら、なんでも敵に後をみせることができよう。今日は蛇に徹する覚悟できたのである。「一杯やってみたいものです」と応じると、呉さんは、「それでは、まず肝を取ってごらんにいれましょう」といって、やにわに針金でつくった籠から、錦脚帯を一匹つかみ出す。そして、左足で蛇の頭をそっと踏み、右足で尾を踏み、左手で蛇の下腹をなで、肝の在りかをたしかめると、す早く右手の小がたなで皮を少しばかり切り開いて、手ぎわよく肝を取り出した。肝は人差し指の先ぐらいの大きさである。肝酒には、三種類の蛇の肝を要するので、呉さんはさらに、眼鏡蛇と、三索線を一匹ずつつかみ出して、これに同じ外科手術をほどこした。そして、三つの肝を持って、一つ一つ小がたなでちょっと傷をつけては、胆汁を小盃の茅台酒(マオタイシュ)に注ぎこんだ。茅台酒はたちまちほのかな翡翠(ひすい)色を呈した。蛇の肝酒の味は、「甘涼(ガンリアン)と形容されている由だが、この小盃を一口飲んで、わたしはなんとなく、秋のさわやかさを覚えた。(「中国グルメ紀行」 西園寺公一) 広州の蛇王満という店だそうです。 


ブースビーとシンウェル
飾りを何も必要としない清らかでまっすぐな酒、それがシングル・モルトなのだから。またこれは体によいともされている。むろん公式見解では決してないが、消化不良にならず、夜ぐっすりと眠れて、いつまでも健康を保ちつつ長生きするにはどうしたらよいかとスコットランド人の医者に訊けば、「モルトを毎日少しずつ飲りなさい」という答えが返ってくる確率はかなり高い。この酒に薫染されたイギリス人たちも同様の考えで、それが証拠に上院ではこの件に関する学術的議論がたびたびくりかえされてきた。ブースビー上院議員はスコッチにかかる税金を下げるべきだと主張し、その理由を次のように述べた。「この現代社会で人々に常に確実に安らぎをもたらしてくれるものは、スコッチ・ウイスキーをおいてほかにはない」彼に同調したのは、政敵であるはずのシンウェル上院議員である。(彼はかつて国民保険の枠内でスコッチが買えるよう改革を試みたことがある。)シンウェル議員はさらに、上院内では公費でスコッチが飲めるようにすべきだとも主張した。"上院議員たちは大いにこの液体の世話になっている、飲まずにはやっていけないという議員も大勢いる、これはれっきとした薬にほかならない"というのがその理由。シンウェル議員は当時、九十九歳であった。(「贅沢の探求」 ピーター・メイル) 


あたらずといえども
学生時代、有名な笑い話があった。学生が、郷里の親もとに、カネヲクレタノムと電報を送った。金送れ頼むと打ったつもりだったが、電報を受けとった親のほうは、金をくれた、飲むと誤読し、折り返し、アマリノムナという電報を打ち返した。電報時代らしい笑い話だけれども、その電報を打った学生の真意は、金を送ってくれたら飲むということであったのかもしれない。その意味では、あまり飲むなと打った親のほうは、息子の本音を見抜いていたことになる。(「あたらずといえども」 小林久三) 


七月十四日
僕がラベルの字を書いた「一筆啓上」という酒が福井県丸岡町の久保田酒造から発売、これでまた酒をのむ口実がふえた。 (「食の体験文化史」 森浩一) 1994年だそうです。 


泣きながら
「変なおじさん」の読者カードに書き込まれている感想は、読んでいて楽しかった。-
感想で多かったのが、「意外にまじめな人なので驚きました」というものだ。でも物事はなんでも、まじめというか、真剣にやらなきゃできない。お笑いの道にしても、大の大人が一生懸命やるわけだから、生半可な気持ちじゃ世間の常識人間を笑わせることはできない。だから妙な言い方だけど、大まじめに変なことを考えている。僕だけじゃなくて、今ちゃんとお笑いをやっている人はみなそうだ。昔の芸人だって、すごく遊んだとか、おもしろおかしく言われてるけど、あれはわざとハメを外して、自分のまわりでとんでもないことが起こるようにして、なにかを吸収しようとしてたんじゃないのかな。きっと根は、というか1人になった時は、涙を流したり、泣きながら酒を飲んだりしたと思う。(「変なおじさん 完全版」 志村けん) 


モン・アサクサ
戦争中の浅草は、ともかく、私の輸血路であった。つまり、酒が飲めたのである。「染太郎」というオコノミ焼が根城であったが、今銀座に越している「さんとも」というフグ料理、これは大井広介のオトクイの家、それから吉原へのして、「菊屋」と「串平」、酔いつぶれて帰れなくなると、吉原へ泊まるという、あのころは便利であった。あのころ「現代文学」の同人会は染太郎でやるのが例で、ともかく、戦禍で浅草が焼ける半年前ぐらいまでは、なんとか酔えた。そのうちに三軒廻って一軒しか酒がなかったり、何軒廻っても一滴もありつけないようなことになり、そのうち、焼けてしまった。串平は一家全滅したそうだ。この店では、久保田万太郎氏や武田麟太郎氏なぞがよく飲んでいた。飲むためにはずいぶん通い、終戦後も染太郎が復活したので飲みにでかけることはあったが、もっぱら飲む一方で、そのほかの浅草を殆ど知らないのである。昭和十九年の新春から、森川信一座が東京旗揚げ興行で大阪から上京し、国際劇場へでた。私は彼がドサ廻りのころから好きで、この一座が上京すると、私も酒のほかに浅草の芸人と交渉がはじまるようになったが、然(しかし)、芝居を見たということは殆(ほとん)どない。泥酔のあげく酒をブラ下げて女優部屋へ遊びに行って、クダをまいたりするようなことは時々やらかしたが、ともかく、まァ男優部屋へ遊びに行ったタメシがなかった、ということで純粋性を持続しているようなグアイであった。(「東京百話 地の巻」 種村季弘編 「モン・アサクサ」 坂口安吾) 


浅草、上野のカフェー
浅草で一番大きなカフエーは、雷門にあるカフエ・オリエントだ。タイガーと同店であるが、浅草的な雑音が多少混つてゐて女給も先づ粒が揃つてゐる。以前程の陽気な面白さはなくなつたが、なんといつても浅草では一流である。観音劇場の前にある広洋軒も、店は小さいが美人揃ひで気持ちがよく、始めて行つてはそれ程でもないが、群小カフエーに比べると、上品な点に中々棄て難いところがある。上野では、公園前にあるカフエー菊屋と世界と三橋が相対立して、それぞれ人気を呼んでゐる。何れも構へは堂々としてゐて、銀座に出しても一流の名に恥ぢぬが、何処か女給たちに「シ発」剌(はつらつ)とした元気のないのが、人の眼に多少不満を与へるだらう。(「新版大東京案内」 今和次郎編著) 昭和4年出版の「大東京案内」の新版だそうです。 


浅草の「銘酒(めいし)屋」
小沢 そうすると、いちばん最初が楊弓場のようなものがあって、それから銘酒屋になって…。
松蔭夫人 いや、新聞縦覧所になって、それから銘酒屋だよ。
老人 いやいや、それはあんたの錯覚だよ。
松蔭夫人 ええ?
老人 銘酒屋ってのが先。そのうちに別に、三社さまの裏か、日本館の裏か、新聞縦覧所と書いてはじめたうちがあるわけだよ。ところが、縦覧所のほうが名前がいいんで、だんだん、縦覧所になったと思うよ。ぼくはよく知らないけど。
小沢 はし、その説と、それから松陰さんの説は?
松蔭夫人 いや、あたしがおぼえたときには、新聞縦覧所というものはなかったんだから。だから、その前とあたしは思うの。で、あたしがおぼえてからは、ちょっとした窓を各自にこしらえてね、出窓みないな。それで棚こしらえて、お酒のビンだのビールのビンだの、サイダーのビンだのへ水を入れてならべて、それで銘酒屋っていってたわけよ。(「雑談にっぽん色里誌 仕掛人編」 小沢昭一) 銘酒屋  


下戸と化け物はないものじゃ
酒の飲めない者とお化けとは、この世の中にないものである。下戸も、酒を飲むし、飲めるようになる。本居宣長(もとおりのりなが)(一八〇一年)の『言彦鈔(げんげんしょう)』に掲げ、「ない」に<世間にない>と傍書する。
下戸の干(ひ)吸い酒とて思いの外酒の減るもの
酒のきらいな下戸のくしゃみをしながら吸うようにして飲む酒といって(の例で)、意外に酒が減るものである。松葉軒東井(しょうようけんとうせい)の『譬喩尽(たとえづくし)』に掲げる。(「飲食事辞典」 白石大二) 


磊塊(らいかい)
日記のなかには井伏鱒二という名前がときどき現れる。田中(貢太郎)さんは事実に即して冷静に記録してゐるのだが、折々それを読み辿る私は毎度ながら田中さんのうちの人たちに迷惑かけてゐたことを思い出した。田中さんは飲めと云ふから飲むとは云へ、飲む方も飲む方だし、飲ます方も飲ます方である。ほどほどにして置くべきであつた。田中さんは人と話すとき酒盃がなくては落ち着きがない。人が訪ねて行くと、たいてい茶の間へ入れて酒を出す。「今日は禁酒します」と云ふと「酒を飲まない男は俗物ぢやよ」と云ふ。田中さんの説によると、男の胸のなかには婦女子にわからない磊塊(らいかい)といふものがあり、酒はこの磊塊にそそぐものである。酒を飲む場所は道場と思へと云ふ。だから田中さんのうちの茶の間には、柔道場や昔の村塾のやうに縁無しの畳が敷いてある。茶の間に続く台所には、いつも青竹のたがをはめた酒の四斗樽が置いてある。樽が空になると近所の特定の酒屋から取寄せるが、勘定が超過しなくてもしなくても、毎月一度、一定の金額しか払はない。酒屋はそれでも上顧客だと云つてゐたさうだ。茶の間で酒のとき、田中さんは客が空の銚子を自分で取換へに立つて行くのをひどく嫌つた。これは台所が片づいてゐないのを見られるからでなくて、土佐の大先輩の田岡嶺雲に教わつた酒客の作法によるものである。若いころ嶺雲の宅で酒を出されたとき、気をきかしたつもりで銚子を取換へに立たうとすると、火の出るほど叱られて「そんな、はしたないことをする青年は、本当の人間にはなれない」と諭されたそうである。(「文士の風貌」 井伏鱒二) 


土佐の女性
土佐の女ほど、惚れっぽい女はないという。そして、全身をもって、男に打ち込む。いくらでも、男に入れ上げる。男が薄情だったり、裏切ったりした場合、激怒して、離れる。その離れ方に、全然、”待て暫(しば)し”がない。反省も、未練も残さず、キレイサッパリ、別れる。従って、高知県の離婚率は、全国一であるという。私は、土佐女の気持ちを、大変面白いと思った。よほど、純情な気質なのだろう。-
それに、土佐の女は、酒も強いそうである。一升ぐらいは、平気な女が、珍しくないそうである。高知県は離婚率ばかりでなく、飲酒の方も、全国第一の消費量を示しているそうで、祭りの時は、知人未知人を問わず、酒を振舞う慣例があるらしい。祭りには、女でも大いに飲むので、すっかり、酒が強くなる。酒が弱くては、座持ちもできず、主婦の資格を欠くから、まだ、娘時代から飲み慣うというが、考えようによれば、それも、美風である。(「続飲み食い書く」 獅子文六) 


光妙寺三郎
余巴里(パリ)に遊学せし時、一夕、星旗楼に飲す。先に一客あり。釵光燭影杯盤狼藉、余はその光妙寺三郎なるを知れども、未だ親近の人たらざる時なれば、知らぬ様して堂の一隅に座を占めて独酌す。既にして彼の視線は数々余の方に向いしが、突然起て余の前に来り曰く、如何なるこれ風流と、余声に応じて曰く、執拗これ風流と。余の意、実は諷する処ありしなり。彼哄然大笑して余の手を執て曰く、真に知己なり、乞う今より交を訂せんと。これ余が彼と友たるの初めなりき。今を距ること三十年に近し。そして三郎の墓木もまた已(すで)に拱す。そして余の意は猶昨日の如し。(「陶庵随筆」 西園寺公望) 


飲んでほし、止めてもほしい酒をつぎ(麻生葭乃)
葭乃(よしの)さんは麻生路郎氏夫人、早くから作句をはじめ、路郎氏と結婚して半世紀、ともに川柳の道を歩んでこられた女流柳人(りゅうじん) 。明治末の女性としては珍しく自由主義的な教育を受けられた方で、ミッションスクール英文科の才媛だった。のんびりしたお嬢さんだった夫人が、川柳に一生を賭けると決心した路郎氏に嫁いで四男五女の母となり、さぞ大変な人生だったろうと思われるが、夫人は一言も愚痴を洩らさず、金銭に執着なく、口数少なく、肝太き、外柔内剛の人となりであらわれたという。そのくせ、<行末はハムとなる声ののどかにて><改札を出るも先駆者たらんとす>などとおかしい句もものされる。路郎氏に<不平を云わぬ妻だ長生きするならん>という句があるが、その通り、金婚過ぎまで路郎氏と添いとげられたのはめでたい。昭和五十六年、八十九歳で亡くならられた。路郎氏に酒の佳吟があるのは前に紹介したが、酒好きの夫につぐ酒は、妻としてはまことに飲んでももらいたいし、そうかといっていわれるままについでは体のためにも悪い、そのへんでやめてほしいが、またいかにも美味しそうな、上機嫌なさまを見れば、とても「もうお止しになったら」などといえない、喜ばせてあげたいと思うから、機嫌よくもう一本つけたくなる…という、これはいかにもやさしい女心の矛盾を衝いた句。葭乃夫人の代表作でもあり、酒好きの夫を持つ妻の思いを代弁する句でもある。葭乃夫人ご自身もお酒をたしなまれたそうで、それだけによけい、酒飲みの心がわかる、というところなのであろう。(「川柳でんでん太鼓」 田辺聖子) 


願酒(がんし)
いさ「そりやア二文二○も承知だがの。一体(いつてえ)酒が悪いはな。斯(かう)云(いつ)て可愛(かはい)さうに酒に咎(とが)をなするンぢやアねへが。つい一斤二一きめると。野郎めヱ。浮て来るもんだから。楷(はしご)二二とならアス。ソレ翌(あく)る日は天窓(あたま)が重てえとかお頭痛が遊ばすとか云てぶん流す二三か。ノ。よしか。己(うぬ)が内でも敷居二四が高くなるといふもんだから。能(いゝ)は一寸(いつすん)切られるも二寸斬られると云た奴が。そつちこち三寸となるやつだアな。アゝモウつまらねへぜ。酒は翌(あした)ツから願酒(がんし)だ」 びん「ひさしいものよ」 いき「よく罰もあたらねへぜなア。金比羅さまも成田さまも幾度もだましたかしれねへ」  びん「そりやア其筈(そのはず)よ。神仏は見通しだ。又だましにうせたなト。発(あたま)で請(うは)ねへから罰もあてねへのさ」
(二〇)百も承知といふのを壊していつた。(二一)酒一升のこと。(二二)はしご酒。次々と呑み歩く。(二三)そのまま居続けをする。(二四)家へ這入りにくくなる。(一)少ししかられるももつと強く怒られるも工合の悪いことは同じだと肚を決めてかかるから、被害は一層大きくなる。(二)神仏に誓って酒を断つ。(三)毎度願酒をしながらその禁を破るくせに、よく神仏の罰もあたらぬものだ。-(四)やって来た。(五)はじめから受けつけぬ。(「浮世床」 式亭三馬 中西善三校註) 勇(いさ)が吉原での居続けを酒のせいにしています。「びん」が浮世床の亭主です。 


ビール牛
「ビール牛」には二種類ある。一つはいうまでもなく松坂牛で、ビールを飲ませてそだてるというので「ビア・ドリンキング・カウ」として世界的に名前を知られている。『ライフ』誌に写真が紹介されたこともある。ビールを飲ませた上に、全身に焼酎を吹きかけてマッサージする。特に和田金牧場のが本命で「ワダキン・ビーフ」といえば世界一うまい肉だということになっている。もう一つの「ビール牛」は、お安いのが取柄という代物。サッポロビールが数年前から開発したビールかすをもとにしてつくる発酵飼料で育てた牛である。「酵母牛」の一種である。ビールのかすはほかにもいろんな産業廃棄物を原料として酵母エサをつくり、それで牛を育てる実験が進められおり、「ビール牛」はその中でも成功したものの一つなのである。(「言葉の雑学事典」 塩田丸男) 


金魚
釣りに出たが、二尺ばかりの金魚をつりあげた。「これは珍しい と大事に持つて帰り、出してみたれば、ふぐさ。ふぐ「けふは竜宮の夷講(えびすこう)で、コレ大きに下された」(口拍子)・安永二・金魚)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 鰒(ふぐ)が酒に酔って真赤になり金魚に見えた。  


梅雨酒
貧乏学者にとって酒を忘れることはできないが、特に忘れられないのは近ごろの梅雨酒である。つゆざけというのは、じめじめとやりきれない梅雨の季節に抵抗してくれる晩酌につけた私の愛称である。よく人が私が晩酌を欠かさないなどというと、一瞬ぜいたくなといった表情をするが、酒の本質をぜいたくなどと批判されるいわれは絶対にない。少しからむようだが、貧乏学者なればこそ私はこうしたみみっちくも晩酌のサカズキを手にしながら原稿を書く癖がついたので、私がもっと富裕な身分にでもいようものなら、この悪癖だけはつかずにすんだのによとよく顧みられるのである。(「詩酒おぼえ書」 高木市之助) 


胡姫
笑って入る胡姫の酒肆(しゅし)の中
これは李白の「少年行」という詩である。-
人もなげな笑い声をあげて、胡姫のいる酒場にはいって行く。-流行の最先端を行く、当時のブルジョアの若者たちの風俗をよんだ詩である。その道具立てとして欠かせなかったのは、五稜や金市という地名であり、銀鞍白馬であり、そして胡姫の酒場だったのである。胡姫は外国の女性のことだが、おもにイラン系の美女をさしたようだ。彼女たちは歌も踊りも上手であった。お酌のサービスもしたであろう。ペルシャの詩-たとえばオマル・ハイヤムの『ルバイヤート』(四行詩集)には、よく「サーキー」ということばが出てくる。これは酌をする人という意味である。しかし、ペルシャの詩のなかのサーキーは男性であり、「酌童」とでも訳すべきものらしい。それは、人びとによろこびを与える者、という意味にもなる。イギリスの短編小説の名手で、ペンネームにこのことばを用いた者がいた。ふつう短くサキと呼ばれている。-
長安の酒場のサーキーは、女性だったのである。当時の酒場が、どのような構造になっていたのか、よくわからない。そこまでくわしく描写した文章がないのである。(「西域余聞」 陳舜臣) 少年行 



五勺の酒
しかし無論、未練は未練だ。どうぞして未練から解放されたい。僕は決心する決心をした。そこで君に相談しよう、議論しようというので訪ねたわけだ。今夜は憲法特配の残りを五尺飲んだ。そして酔つた。もともと僕は酒好きではなかった。学生時代君らと飲んでも格別うまいとも思わず、酒が飲みたいともさほど思わなかつた。いまは飲みたい。じつに酒が飲みたい。「破戒」に出てくるよぼよぼのやくざ教師、あれが酒の香をかぐというところがあつてわからなかつたが今やシンパシーでわかる。銚子の口の上へんを迷うすぐ消える湯気みたようなもの。あれを鼻で吸うと、微粒子のようなのが粘膜へくる。それがしびれるほど誘惑的だ。全くよぼよぼのやくざ教師だ。このやくざ教師は按摩の味を覚えた。按摩がないときは末の子供に背なかを踏ませる。それで足りぬで灸をすえようと思うことさえある。酒を飲むとも飲まれるなというのと反対、飲まれたいという欲望だ。教師生活、戦争生活、最初の妻の死、再婚、大きくなる子供たち、玉木の死と、よし子の、出もどりでなく、何というか、肩も腰も石をみたようになり、そして一ぱいの酒が飲みたい。訴えようのない、年齢からくる全く日常的散文的いぶせさ、とかく一ぱい飲んで、とかく寝てしまいたい。酒飲みには別の飲み方があるかも知れぬが、僕はそうだ。(「五尺の酒」 中野重治) 


よしかわ杜氏の里
このような経過をたどって、吉川町はついに酒蔵建設に踏みきることとなった。しかもたんに行政指導型ではなく、民間活力を生かす第三セクター方式(行政部門と民間部門の共同出資方式)とすることとした。これは農産物、特産物の生産・販路拡大を通じ、町の産業振興、雇用の確保、新たな商業振興と町の活性化を図ることをねらったからであった。その会社内容は以下のとおり。 ・社名 株式会社よしかわ杜氏の里(さと)(電話〇二五五-四八-二三三一) ・資本金 三千八百万円(七六〇株) ・株主構成 吉川町 一六六株 吉川農業協同組合 二三四株 吉川商工会 二〇株 吉川酒造研究会 二株 吉川町小売酒販組合 二株 一般募集 三三六株 ・会社設立 平成一一年三月二一日 ・開業 平成一二年秋 ・場所 吉川町長峰地区インフォメーションセンター(総面積二万四八三三㎡) 地区内の「長峰温泉ゆったりの郷」(建物面積三四〇〇㎡)隣接地 ・設備 酒蔵(酒製造工場及び販売施設)設備 延面積 一一九七㎡ 乳製品加工施設及び販売施設 延面積 一五三㎡ その他、特産品販売施設、文化施設(展示館など)なども予定(「高校生が酒を造る町」 首藤和弘) 


置きつぎ
「知れた事さ。酒は愁への玉箒(たまははき)、花を見るにも月をみるにもだアね。野暮を言ひなさんな。ソレ、置き注(つ)ぎだよ」 これは『愁色絞(しゆうしよくしぼりの)朝顔』初編巻之上での幇間(たいこ)医者藪井竹斎のことば。おまさけに酒をすすめているところで、酒をつぐのに、「ソレ、置き注ぎだよ」とことわっている。杯を手に持たず、下に置いたままで、それに酒を注ぐことが「置きつぎ」。この語の意味や成立については説明を要しないであろうが、こういう語が江戸でつくられたところに、当時の風習が知られる。(「江戸ことば 東京ことば辞典」 村松明)