月見酒 桐正宗 牧水、シャーウッド・アンダーソン 卯時酒 酒とかけて何ととく 梅崎さんの本領 秋色桜おまえもか 芸者の作法 河上徹太郎の快気祝 狂歌の楽しみ シングル・モルト 樽廻船 岩吉の三升酒 漱石の三三九度 シンポジューム、金箔 十一代目團十郎 決め酒、お立ち酒、敷居酒 名医 バーテンダーの役割 酒の語源 お嬢さまのお酌 サロンかホールか 春の肴 吉丸一昌 酒飲みの探検家 奥村政雄の”酒” 酒は貴重品 大文字 きじと酒 月下独酌の一 髪切 鳴神の盃事 奇妙なアッシリアの法律 班長の酒盛り 村山しげる 八代目可楽のらくだ 徴兵拒否工作 桓公、吉宗、シンクレア・ルーイス 一千九十五滴の礼 お燗の根拠 卯波 ウナギ酒 晩酌 酒となる蚊帳 白子酒 「奉写一切経所告朔解」 鑵詰体質について 尾崎士郎の酒量 飛脚泣かせ パンの会の歌 飲酒様々 組合葬 ずぶ酔ひ 日本酒の肴 シャトーの購入 酒屋のサービス 詩経の酒歌 怪力ともよ 昭和二〇年一月一日の酒 ジャズ・エイジの酒場 惣花 楠本いね 居酒屋の正論 大酒の飲める法 鰍沢 運ぶ役目 最上柿 パッション・ワイン 生 芭蕉と其角 お花見役者 酒蟲 南方熊楠の手紙 今様 野坂昭如の結婚案内 杯の破棄 お酒ににおいをつけて 吉井勇の晩年 コミさんの飲み方 藤村の個性 モンティーリャ 飲む名言 遠大な考え 居酒屋の至福 富士の白酒 斉藤実、金田一春彦 医者と病人 近藤重蔵の食事 辣腕の報酬 「無名人 名語録」(2) 漱石と子規 美しき五月となれば… わが生 酔うて醒めざるを 空き樽は音が高い おでこパチパチ 村山槐多の田端での生活 盃洗 キョーフの臭才感覚 歸 高麗史による清酒と法酒 富久 海軍の話 春風亭柳橋 ゴッドイズグッド 資生堂 パイプカット 手間とお金をかけない肴の作り方 今川義元の産業振興 天廣丸の狂歌 好酒院杓盃猩々居士 星の王子さま 通貨となったウイスキー 害虫問題 江戸の酒 伊勢屋作兵衛 長期熟成酒 家族混線曲 河上徹太郎の酒 将軍の夕食 濁かん酒屋 五石散(2) 必ず飲ます町方の年始 寝声 トコリ 最後のひと花を町長選挙で 石原裕次郎の酒量 高校生の酒 【からむ(絡む)】 酔いはない酒 捕らぬスズメの味算用 カール・マルクス、斉藤茂吉、葛西善蔵 千鳥足 ベンチュリー ビールと日本酒の使用酵母量 大盃の新聞記事(2) 大盃の新聞記事(1) 秘密の樽 酒の肴としての餅 信濃で酒を売る方法 二十四、五の吉行淳之介 護持院隆光 本由は人の噂で「酒も飲み」 金馬の「居酒屋」 横井小楠 横溝正史 「うしなわれた混合酒」 笠智衆と東野英治郎 ルイ十五世、辰野隆、小林秀雄 士族の商法 薬喰 銘酒屋(2) 和漢三才絵図の酒 酒のことわざ(9) 周恩来の乾杯 佐々木信綱の酒量 紅顔会 江川酒 下戸の屁理屈 二升半たれ 賓之初筵 新酒道樹立試案 入鼻 南無酒如来 想像力の小旅行へ 洲崎高楼と北一輝 「配達」と「出前」 高島屋 「定量以上に飲む必要」 紅テントの打ち上げ会 シャンペンと日本酒 かなりのドリンカー 十返舎一九 ラタフィア 【いきかえる】 蚊 梨 主君の御前の人食らい犬 僕の日本回帰 珍中の珍味 日月譚 <2号> 「理想的」な塾 熊楠の三三九度 こぶとり爺さん 鬼の酒盛り のろ 遠花火 田中小実昌の二日酔い 食卓の名言 高橋是清の禁酒 陳舜臣の飲み方とサカナ 小島政二郎、中村汀女 ノシアワビ 或る女と<大酒呑みの>男 銘酒屋 「無名人 名語録」 ロシア的性格 狂歌による吉原の一日 蛇酒 安兵衛の五合升 青野季吉の癇癖 赤きは酒の咎 日本酒二本 星新一の公式第二作 吸筒 うけひ オトコのロマンは便器の陰で自家発酵 清酒の名の初出 リットル表示とグラム表示 阿川弘之の最初の酒 下戸の酔っ払い役 パンツェントレーゲリン 椿説弓張月の猿酒 初代中村仲蔵 酒場法 酒のことわざ(8) 十斜抱月シ偏之酉 「柿」 酵母HD−1、NEW−5 酒取れん 松に酒 アルコール中毒米作家 正宗白鳥 東郷平八郎、水上勉 深川方面 「ビール15年戦争」の切り抜き(2) 五石散 藤岡屋日記 白馬会 すわ警官酔ったふりしてプロレスごっこ 楡家の人 立原正秋の酒 笠の下 泡汁 水上、寒山拾得 旧仮名遣いの町 菊の酒 開高健の嗅覚 エカテリナ一世、グラント 糖化酵素 口笛吹きながら一杯やるのは難しい 中原中也の酒 ニッフル家 やくざアルバイト 明治の算術教科書 深夜の酒場 朱塗りの椀 雀を取る方法 口移して泥酔させ、カネ奪い、河原へポイ 鼾(いびき) 造醸(2) 造醸
月見酒
@盆 月見酒はお膳ではなくて、お盆を直接床に置いて楽しみましょう。 A一輪差し ススキ・リンドウ・キキョウ・キクなど秋の草花が本格的 ツユクサやアカノマンマやノギク・エノコログサなどの路傍の雑草でもフンイキがでるものです。 B肴 シオカラ・コノワタ・ウニ・ノリのツクダニetc お猪口に2、3盛り付ける 「秋の酒は虫の声に耳を傾けながら、ゆっくり味わいたいものですね」 リーン リーン チリチリ コロコロ リーン 「風流な香り酒 銚子の中に菊の花を浮かべると、ほど良く香りが移ります」(「一日江戸人」 杉浦日向子)
マンガの部分です。戻
桐正宗
ただし、上方の酒はうまいので、大阪へ来た時だけは二三杯楽しむことにしている。で、この時も、注されるままに、一ト口含むと、何とも言えぬ芳醇だった。思わず、「うまい」と口走ったが、席には小林秀雄という酒の上の大家がいるので、恐る恐る顔色を窺うと、私の目に答えて頷いてくれた。そうして、「この酒は結構ですよ」そう言って、私の賞讃を裏書きしてくれた。ところが、永井龍男が納まらない。「小島さんに酒まで論じられては立つ瀬がない」この一ト言で、一座哄笑した。菊正とも味が違うし、賀茂鶴でもなし、「一体何という酒ですか」と聞くと、「桐正宗です」という答え、酒のことは知らないが、それにしても、聞いたことのない名だ。が、とにかく気に入った。私は一合ぐらい飲んだろう。純粋なだけに口当たりがよく、喉や舌に来るものもなく、酔い心地も頗るいゝ。などと思ったりした。アメリカでは、寝酒のことはナイト・キャップ(寝る時かぶる帽子)という意味が分かったような気がした。そういえば、二年ほど前から、今まで一滴も飲まなかった村松梢風が寝酒を二合ぐらいやるようになり、彼のところへ行くと、いつでも「酔心」を欠かさず取り寄せてある。変われば変わるものだ。横光利一も、徹夜をして執筆して、しらじら明けになって床にはいって、頭には、いろんな空想が渦巻いて、容易に眠れない。「こんなことを続けていたら,気違いになる」そう言って、やっぱり一滴も飲めなかった彼が、ビールをナイト・キャップに用いるようになった。同じ意味で、私も、出来るなら、この桐正宗を取り寄せてナイト・キャップに用いようかと思ったりした。(「食いしん坊」 小島政二郎) 池田の酒のようですが、残念ながらもうないようです。戻
牧水、シャーウッド・アンダーソン
明治四十四年若山牧水は「やまと新聞」の記者になったが、その頃彼には「電留朝臣(でんとめあそん)」というアダ名がついた。酔って線路にねて電車をとめたためだった。またある夜は、酔って外濠にとびこみ、泳いだこともあった。この時は巡査にみつけられて叱られた。幸い他の酔っぱらいが巡査を説いて、許してもらった。この男は牧水を家につれていって、また痛飲した。牧水はそのままねてしまったが、夜半ふと目をさまし、すっかりはずかしくなり、その家をそっと逃げ出して帰った。
シャーウッド・アンダーソンがパリに来たときいて、アーネスト・ヘミングウェイは彼の宿舎に出かけて行った。その結果をヘミングウェイは「二人は楽しい時を過ごした」と知人にいい、アンダーソンは、「アーネストはやって来て、『酒を飲みに行こう』と誘ってくれたが、二、三分話しているうちに、急に帰って行ったよ。きっと彼は考えごとにふけっていたんだろう」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎)戻
卯時酒
卯時(明六即ち午前六時前後)に酒を飲めば薬となるといわれている。『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』に「卯酒(ぼうしゅ)、大鏡に兼通(かねみち)のことを云ひて、後夜にめす(召す)ばうす(坊主)のおさかな云々。ばうす卯酒なり。されば夜中のむにはあらず。卯時に飲むを云ふ。朗詠(和漢朗詠集)の註にもあり、唐人の詩に往々見ゆ」とあり、卯時酒(ぼうじのさけ)は卯飲(ういん)ともいわれた。平成元年七月二十四日午後十一時四十五分放送の朝日テレビに出演して卯時酒のことを話したが、江戸の下町では卯酒と呼び、吉原帰りの酔客が料亭により飲んだそうである。(「日本酒のフォークロア」 川口謙三) 「卯時酒」という白居易の詩があるそうです。卯酒 戻
酒とかけて何ととく
千葉の港ととく その心は 釣詩鈎(ちょうしこう=銚子港)
大雪ととく その心は 過ぎると歩けなくなります
クレジット その心は カップ(割賦)が多くなっています
美しい花にとまった蝶 その心は 百薬の長(芍薬の蝶)
池に散った枯れ葉 その心は ただ酔うのみ(漂うのみ)戻
梅崎さんの本領
梅崎(春生)さんの奥さんと私はそのときが初対面であったが、経済的にもしっかりしていそうな奥さんだから、梅崎さんは自分の内面生活と、社会人としての常識のバランスをとるのに苦悩していたのではないか。もちろん立ち入ったことは私にはわからないが、シラフで人と話すことが難儀らしく、酒という船に乗り込んで、酒にいつも身を委ねているような感じである。私の家に見えたときも、たちまち酔いつぶれて、ちょうど私の隣家に住む北海道の弁護士の奥さんが色紙を持ってきて何か書いて下さいと頼んだら、「羊踏破菜園」と書くつもりが、「羊」という字を「美」と書いてしまった。本人はすぐに気がついて、「やあ。しまった。羊が股をひらいてしまったから、こりゃメスの羊ということにしよう」とそのままあとをつづけて書きあげてしまった。おそらくこの色紙はいまも北海道の知人の家に愛蔵されていると思うが、私はこういうところに梅崎さんの本領が覗き見られるような気がして、ユーモアを感ずると同時に心温まる思いがした。「羊踏破菜園」とは、私が当時ずっと『あまカラ』誌に連載していた「食は広州にあり」の中の一篇のタイトルである。(「邱飯店のメニュー」 邱永漢)戻
秋色桜おまえもか
上野といえば、寛永寺の桜。その桜といえば、女流俳人秋色の句を、誰しも思い浮べる。 井戸ばたの桜あぶなし酒の酔 そしてこの句に詠まれた桜を、誰いうとなく人々は秋色桜と呼んだ。これが当時から評判となり、のちのちまで語り伝えられた。だが不審なことに、いまのところ江戸期に出版された俳諧集には、なぜか見当たらないという。この句が最初に見えるのは、享保十七年(一七三二)に刊行された地誌『江戸砂子』だとされている。−
文政九年(一八二六)刊行の考証随筆『還魂紙料(しきかえし)』の中で、柳亭種彦がおそらくはじめて、秋色桜とその句に疑問を呈した。それには二つの理由をあげている。第一の理由は、当時の古図をいくつか集めて丹念に調べた結果、かつての清水観音堂は元禄十一年(一六九八)に移されていること。つまり移転後の清水観音堂わきの桜と、秋色の詠んだとされる桜とは別である、と種彦はいいたいようだ。もう一つの理由は、句調が当時の作風と違うという。その作風とはいわゆる談林風で、斬新な着想や奔放な表現が流行した。以上の理由から、「かの桜あぶなしの句は、延宝の調にあらず。今の地に観音もたたせ給わず。おそらくは後人、この句をつくりて、付会の説をまうけたるなるべし」とつまり何者かが、秋色を偶像視する意図で作りあげた、と種彦は結論づけた。(「江戸諷詠散歩」 秋山忠彌) 朝顔につるべとられてもらい水、信濃では月と仏とおらがそば と仲間だったのですね。ただし、著者は断言してはいません。 お秋の酒句 戻
芸者の作法
いつも芸者は美しく、世間の苦労を知らない優雅な顔をしていることが理想なのです。だから芸者は、お客様の前でものを食べることをタブーとしています。どんなにお腹が空いていても、いくらすすめられても、芸者の慎みとして食べてはいけません。また、お客様にさされても、それを受けてご返盃するのはいいけれど、自分から「一杯いただきたいわ」なんて、呑ませてほしい様子をするのはいやしいこととして止められていました。うわばみという仇名を自他ともに許す芸者が呑ん兵衛のお客様と呑みくらべをするなんて例外もありますが、これは珍しいことで、あたしの長い経験でも、二、三回、しかも二次会か三次会の、ごく親しいお客様のだけのときに限られていました。(「江戸っ子芸者中村喜春一代記 青春編」 中村喜春)戻
河上徹太郎の快気祝
河上君は何か一つオツマミとギネス一本だけで切揚げて、立ち上がりさま、テーブルの上から私のぐい呑みをさっと取り、さっと飲んでテーブルに戻ると、「日本酒は、うまいなあ」と大きな声で云った。靴は独りで履いた。富永女史が車を見つけに行き、岡女史に腋から支えられて帰っていた。それから半月ばかりして、銀座一番館の階上にあるソフィアで河上徹太郎の快気祝をするという通知を受けた。何だかきまぐれな案内のような気持がした。−
河上は快気祝いの会がすんだ後も、最後まで病院に入っていた。当人は初めからその計劃で、終焉の送別会を快気祝の体裁に仕組んだに違いない。豪気な詩人のやりそうなことである。(「終焉の会」 井伏鱒二)戻
狂歌の楽しみ
日本文学の重要な一形式として狂歌というものがある。いや、あつたと言うべきか。鎌倉時代に興り、明治維新と共に滅んだからである。と言つても、鎌倉のころの狂歌は面白いものではない。 盃のかたぶきながら秋の夜のながながしくも飲む上戸かな などは、何しろ明和八年刊『暁月坊酒百首』が本当に藤原為守のちの暁月坊の作を伝へるものなのかどうかあやしいけれど、別に大したことはないやうな気がする。江戸にはいつってからも、 借銭も病ひもたんとあるものをもの持たぬ身と誰かいふらん 松永貞徳 などは大味でいけない。狂歌の全盛はやはり天明、名人は蜀山人である。たとえば、 鎌倉の海よりいでしはつ鰹みなむさし野のはらにこそ入れ − いづれも傑作中の傑作で、ただただ嘆賞するしかない。(「男のポケット」 丸谷才一) 生酔の礼者を見れば大道を横筋違に春は来にけり はここにはのっていませんでした。戻
シングル・モルト
シングル・モルトは、蒸留所ごとにきわ立った個性を持っている。アイラ島のラフロイグは特に好き嫌いがはっきりとわかれるモルトだ。ピートにヘザーだけでなく海草が含まれ、潮風で乾燥するので、海の香りがするからとかとか、ジャック・ダニエルなどテネシー産のバーボン・ウイスキーの樽で熟成されるからとか、いろいろ理由はある。レストランで飲んだラフロイグが、どうも偽物らしいという疑惑から、大きな密造事件に結びつくのが、ディック・フランシスの推理小説『証拠』(ハヤカワ・ミステリ文庫)だ。(「利き酒入門」 重金敦之) タリスカなども、海草のにおいのするウイスキーとして有名ですね。それはともかく、清酒の世界でも蔵ごとに違う本当の個性を期待します。戻
樽廻船
寛文元年(一六六一)になると、摂津の酒問屋三軒と大坂の酒樽問屋二軒が組合を新たに作り、酒を江戸に出しはじめた。最初は酒だけであったが後には酢、醤油から塗物、紙、木綿、金物、畳表まで品数に加えて、菱垣廻船業者と張り合った。この方は樽問屋が主体だったので、樽廻船と呼ばれた。すると上方ばかりに利益をあげさせる手はないと、各地からの廻船も江戸に物資を運び込んでくるようになる。また江戸の船も上方に行った戻りに物資を積んで戻ってくるというふうで、享保十一年(一七二六)の調べでは、諸国から江戸に入ったこういった船の数は合わせて七千四百二十四艘(但し、武家の船は別)で、米八十六万千八百九十三俵、味噌二千八百二十八樽、酒七十九万五千八百五十六樽に達した。夥しい物資が江戸に送られたわけで、このころは船問屋も百六十三軒に増加している。(「江戸城」 戸川幸夫)戻
岩吉の三升酒
勝蔵が来た。野郎っ、次郎長は、思わず腰が浮いた。勝蔵は片目っかちだ。少し肥って色は白い。と途端に、にこっとして、ちょっと頭を下げて会釈して行った。肩の錦布れに、きらっと陽が当った。文吉の子分の岩吉というのが、かねて、親分の申しつけで、多勢の宿の人たちに交じって、大竹屋の横の柳の木の蔭で官軍を見ていた。というよりは、次郎長の動きに、ちらっちらっと油断ない鋭い目を走らせている。もし次郎長がばたりとでもすれば、只事では済まない。岩吉は元江戸の友綱部屋の相撲取で、岩の里といった。これが柔(やわら)の上手で、大きなからだに似ない敏捷でもあり、文吉に命を助けられて仏様のように思っている男だ。清水の者たちも知っている顔なのだが、いつの間に来たのか、自分たちは官軍の行列ばかり気をとられていてわからなかった。みんな通り過ぎて、街道ががらんとして、はじめて次郎長が気がついた。「岩さんにかかっちゃあ、おれも一たまりもねえだろうね」と笑った。「飛んでもござんせんよ。とにかくまあ、波風が立たなくて何よりのお日和(ひより)でした」と岩吉も笑う。これから次郎長が、どうしてもというので、岩吉は清水港へつれて行かれ、鶏を五羽、酒を三升、息もつかずに一人で飲んで、それで酔った顔もせずに悠々と帰ったという。さすがの次郎長身内のあばれ者たちも余っ程肝を潰したとみえて、いまだに清水港の古老たちの間には、この話が残っている。(「よろず覚え帖」 子母澤寛) 勝蔵は官軍に加わって東海道を下った次郎長の敵役の甲州黒駒の親分、文吉は次郎長に無用な混乱を避けるよう清水に説得に来た駿府の首つぎ親分と言われた人物だそうです。戻
漱石の三三九度
新郎はフロック・コート、私は東京からもっていった一張羅の夏の振り袖、これだけはまあどうやらいいですが、父はとみれば普段の背広服、雄蝶(おちょう)も雌蝶(めちょう)もあったものではなく、一切合切仲人やらお酌やらを一人でするのが東京から連れて行った年とった女中、このほかに婆やと俥夫とが台所もとで働いたり客になったりというわけですから、どうも嫁に行くというふうなごたいそうな気持にならなければ、晴の結婚式だという情も移りません。そうこうしているうちに女中が新郎新婦の間に盃を回します。三三九度の盃なのですが、どうしたものか三ツ組みの盃の上か下かが一つ足りません。しかし新郎はいっこう平気なものでまじめくさって盃を受けています。盃事が終わっても、無粋な父には謡い一つうなることもできず、はなはだあっけない結びの式の幕は閉じられたわけですが、それを待ちかねて、父は起ち上がって、「おお暑い、おお暑くてたまらない」と自分でありたけの障子をはずしました。それから上着もぬいでもまだ暑いといって、今度は夏目の飛白(かすり)の浴衣(ゆかた)を借りて着て、とうとうどっかりくつろいでしまいました。新郎も冬のフロック・コートを着てすわっているのですから、これまた一倍暑いに違いありません。父が丸裸になって着かえをするので、こちらも晴れての無礼講とあって、私服に着かえて、それでも新調とみえる羽織を引っかけてでてまいりました。ともかくその時の熊本の暑さにまったく父も私も驚いてしまいました。酒といっては男二人とも不調法なので、なにかと四方山の雑談をして、父はいいかげんに宿に引きとりました。後で仕出し屋の勘定書の来たのをみますと俥夫や女中にまでふるまって総経費しめて七円五十銭。これが私どもの結婚式の費用でありました。(「漱石の思い出」 夏目鏡子述) これが漱石の結婚式だそうです。戻
シンポジューム、金箔
「シンポジュームってのに行ったら『コーディネーターが、プレゼンターのプレゼンテイションをパネラーに…』なんて言い出すから帰ってきちゃった。口惜しいからシンポジュームっての辞書でひいたら、ギリシア語でさ、『酒を酌み交わし、女をはべらせて語りあう』って書いてあるんだよ。あれは、シンポジュームじゃなかったってわけ」
「金箔屋の畳といのは古畳の目の中にこぼれている金粉で、新しい畳と替えられたものなんです。古来、金粉というのは身体にいいというので、殿様とか、大地主は飲んだものなんです。で、そのウンコから、また、金を取り出す仕事があったくらいです」(「無名人名語録」 永六輔) 金箔酒は…。戻
十一代目團十郎
金太郎−高麗蔵(こまぞう)−十一代目團十郎と名前をかえて五十六年の生涯に演じた役々は、三十年後の今も、いささかも色あせることはない。その謙虚な人柄は團十郎襲名の時の句を見てもわかる。「名を負ふて名に価せぬ名取草」
”おじぎの金ちゃん”と仇名されるほど、金太郎時代から腰が低く、色が真黒で目ばかりギョロギョロさせて、人づきあいは下手だったが、礼儀正しさは無類であった。戦後まもなく北海道で夏巡業をしたとき、風呂上がりの暑さに、みんな褌一つで酒になったが、團十郎だけは浴衣をきちんと着ている。そのうち酒がきいてきて、ますます暑くなってくる。すると、團十郎は「ちょっと失礼」とあwざわざことわってまsず片肌をぬいだ。更に酒がすすむと、また「ちょっと失礼「といって両肌ぬぎになり、いよいよ酔ってくると「ちょっと失礼」と、褌一つになったという。いかにも團十郎らしい几帳面な性格がよく出た話だ。(「天衣無縫の人々」 山川静夫)戻
決め酒、お立ち酒、敷居酒
一般に多い嫁入り婚の場合、恋愛結婚の以外はまず見合いから始まり、たいがいは本人や双方の親が、配偶者として迎えてもよい相手であると承知した段階で見合いとなった。そしてなるべく早い吉日に「決め酒」と称する婚約成立の儀式を行う。その実質的仲介者が仲人で、決め酒には仲人が立ち会った。とにかく、この婚約成立で交わされる手締めの酒についての呼び方は全国的に非常に多く、口合わせの酒、決まり酒、定め酒、釘酒、根切り酒、手打ち酒など二十を超す。そして花嫁が育った家をいよいよ後にする時には、再び家に戻らないようにとそれまで愛用していた茶碗や皿を割ったりした後、お立ち酒の盃事をすることころも多かった。また夫方の家に入る時には、台所口から入ったり、しりをみなから軽く打たれたりした後、門盃とか、敷居盃と呼ばれる盃事が執り行われたりした。(「食に知恵あり」 小泉武夫)戻
名医
十八世紀英国の有名な医者サミュエル・ガースは、酒に目がなかった。ある日、ガースがお気に入りのクラブで夜遅くまで酒を飲んでいると、知り合いのおせっかいな男が忠告した。「おい、ガース、いいかげんに飲むのを切りあげて、患者のところへ行ってやらなきゃダメじゃないか」「いや、今夜、おれが診(み)るか診ないかってことは、大したことじゃないんだ」とガースは機嫌よく答えた。「患者のうち九人は、もともと体力がなくって、世界中の医者がみんな集まったって助からんのさ。残りの六人の患者は、立派な体力があるから、世界中の医者が寄ってたかっても殺せやせんよ」(「ポケット・ジョーク」 植松黎 編・訳)戻
バーテンダーの役割
店のガードマンや、いわゆる”塔を守る護衛兵”の役目を負わされる夜もある。神経をずぶとくして、客の注文を断らなければならない。客は判で押したように「酔ってない、ほんとうだ、だいじょうぶだって!」と反論する。うまくあしらおうとする努力もむなしく、お定まりの口論へと発展し、ついには暗い路上へ放り出すことになり、客が無事に帰りつくことを祈る。客の財布から住所を探しだして、身銭を切ってタクシーに乗せたこともあった。マネージャーは決まって手がふさがっている。用心棒役はいつもきらいな仕事だった。たいていの夜は警官の役割もこなす。「ミドリサワーくれる?」という言葉をきいたとたん、身分証明書を見せてもらいたくなる。未成年の若者たちは決まってできるだけ甘い飲み物を注文する。(「酒場の奇人たち」 タイ・ウェンゼル) 著者は女性。アメリカは大変なのですね。そのほかに、バーテンダーは、カウンセラー、エンターテイナーなどでなければならないそうです。戻
酒の語源
酒を飲むと、笑(え)み栄え楽しむから、そのサカエがサケとなったともいう。また、サカミズ(栄水)の水が略されてサカとなり、やがてサケとなったという説などがあるが、感心しない。−
中国で酒の異名を竹葉というが、竹葉から笹(ささ)となり酒となったなどのこじつけもある。−
「汁食」(しるけ)からサケとなったとの説もある。酒は「さくる」で、風寒邪気をさくるものである。−
酒はおもに神饌(しんせん)とする目的でつくるからサケ(栄饌)であるとか、また、サケ(早饌)の義であるとか、スミキ(澄酒)の義だという。三献を和訓してサケといったものだとか、サラリと気持ちが良くなるところから、サラリ気がサケとなったという説もある。いずれも面白くない。酒の名は、奇し(クシ)からクシをつめてキとよび、、キの一音ではよびにくいので、発語のサをつけて、サキ・サカからサケとなったものである。(「たべもの語源辞典」 清水桂一編)戻
お嬢さまのお酌
「はい、ただいま…お嬢さま、なにかと思いましたが、なんにもございませんので、あのう、お芝居から持ってまいりましたお煮しめで、ちょっと召しあがっていただこうと思うのでございますが」
「へっ?なんでござんす…お酒を?そんなあなた、ご心配をかけちゃあすみませんでござんす。へえ、なにを…いえいえ、いただかねえってこともねえんですが、ええ、酒は好きには好きなんでござんすがなあ、へえ、ちょいとやるほうで…なに、いえいえ、肴なんざあもう、いつでも塩をなめてちょいとやってるんでがすから…さいですか?じゃ、お酌して…へ、へ、どうもありがとう存じます。へ、どうも…いいお酒でござんすねえ、これあ安かあねえでがしょうなあ、これくらいの酒じゃあ、へええ…−−」「あのう、もうひとつ…まあよろしいではございませんの…お嬢さま、さ、あなたが今度はお酌をあそばして…」「それァいけませんよ、お嬢さまにお酌だなんて、とんでもねえこって、それじゃあばちが当たりますから…いえ、困ったなあどうも…さいですか?へ、へ、じゃ、せっかくですから、じゃひとつちょうだいをいたします」(「なめる」 六代目三遊亭圓生) 落語での酒誉めのパターンは大体一緒のようですね。戻
サロンかホールか
日本最初のビアホールは、一八九九(明治三二)年八月四日に新橋につくられた。樽ビールを氷室に貯え、つめたいビールを半リットル十銭、という値段で売り、開店日には二二五リットルの売上げがあったが、盛夏のことでもあり、大繁昌で、一週間後には一○○○リットルを売る日もあった。このビアホールという命名だが、最初青山学院のJ・リバーなる宣教師に相談したところ、サロンがよかろうというので、いったんそれに決定したのだが、あるイギリス人が、サロンというといかがわしい場所を連想させるから、ホールにしたらどうか、と提案した。そこで名称はビアホールとなり、その後、ミルクホールその他のわが国の「ホール」は、これにならって命名されることになった。(「一年諸事雑記帳」 加藤秀俊)戻
春の肴
子供を連れて、午後の暖かな光の中に、裏山の斜面に登っていった。この間迄、蕗の薹(ふきのとう)が寒々と枯れ葉の中から覗いているだけだった斜面には、何時の間にか、繁縷(はこべ)の柔らかな緑と、赤味がかった嫁菜の若芽が萌え始めていて、畦には、土筆(つくし)が沢山顔を出していた。子供と、はかまを取るのにママちゃんが苦労するね、気の毒だけれどね、などと言いながら、土筆を摘んだ。そして、持って来た根掘りの小さなシャベルで、畦の隅で見付けた野蒜(のびる)を掘った。春らしい土の匂いの中から、白い玉が輝きながら沢山獲れた。序(つい)でに、油炒めにするために、畑の崖に生えていた接骨木(にわとこ)の若芽を摘んだ。これだけあれば、春の肴として十分だ。僕達は獲物を入れたビニール袋を下げて家に帰ってきた。夕食の膳に、土筆の佃煮と、野蒜の味噌あえと、接骨木の油炒めが並んだ事は言う迄もない。そして、僕は、友人から貰った原酒の瓶を開けて、久し振りにお酒の香を楽しんだ。原酒と称するだけに、kのお酒は美味しくて、春の香りの立ち昇る肴とよく合った。(「舌の上の散歩道」 團伊玖磨) 昭和54年の出版ですが、この頃は原酒が珍しかったのですね。戻
吉丸一昌
「故郷を離るゝ歌」は大正二(一九一三)年六月十九日、音楽学校奏楽堂の土曜演奏会で発表され、吉丸一昌『新作唱歌』第五集に収められて全国で愛唱された。ちなみに土曜演奏会は昭和四年に日比谷公会堂ができるまで、洋楽のメッカであり、大使館の外国人たちも通い、聴衆の少ない日は音楽学校の小使いさんが入口で呼び込みをしたという。さてこう書いてくると、吉丸は謹直一途の人だったように思えるが、たしかに「曲がったことは大嫌い」であったにしても、酒を好み、人生を楽しむことを知っていた。 恋になき歌にも泣きて折々は 酒にくだまく酔ひしれをとこ 木のはしの世の歌人を火にやきて わが呑む酒をあたためんかも ロマンチストといってもよいかもしれない。飲み仲間にはピアニストで作曲家の北村季晴(すえはる)がいる。江戸時代の国学者・季吟の子孫である。 歌ひては読みてはものやおもふらん 酒やくむらん我が友季晴 本居長世や「春が来た」の作曲者島崎赤太郎ともよく飲み、酔うと吉丸は独特の「ヒユラ踊り」とやらを踊った。(「明治東京畸人傳」 森まゆみ) 「早春賦」も作詞した人だそうです。戻
酒飲みの探検家
「でも地理学者なんでしょ!」「そのとおり」と地理学者は言った。「しかし私は探検家ではない。この星には探検家が徹底的に不足しているのだ。町や河や山や海や、大洋や砂漠を数えるのは地理学者ではない。地理学者は大事な仕事をしているから、あちこと歩き回る暇などない。書斎を離れることなく、逆に探検家を書斎に迎えるのだ。質問をして、探検家が思い出すことをノートに取る。彼らの話の中に興味深いものが見つかれば、今度は地理学者はその探検家の道義心を調べる」「どうして?」「どうしてって、探検家が嘘つきならば、地理の本はとんでもないことになってしまうからだよ。酒飲みの探検家もだめだ」「それはなぜ?」と王子さまは尋ねた。「酩酊した目にはものが二重に見えるから。1つしか山がないところに山は2つあると地理学者が書いてしまう」「探検家失格って感じの人を一人知っています」「と王子さまは言った。「そんなのもいるだろう。探検家が品行方正らしいとわかってはじめて、発見についての調査が始まる」(「星の王子さま「 池澤夏樹・新訳)戻
奥村政雄の”酒”
白状するが、実は私の若い頃は、本当に斗酒尚辞せずであった。東京帝大を卒えて、三菱からの入社勧誘を受け、重役諸公の面談然るべくあって、更に社長岩崎久弥男が引見された。そして色々質問に答えたが、最後に突然、”お前は酒を飲むか”と聞かれたので”呑みます” ”どの位呑む” ”分りません”と答えたら、久弥男が励声一番”自分の飲む酒量が判らぬ様な奴は三菱にはいらぬ”と言われた。”まだ一度も酔ったことがありませんから分らぬと、正直にお答えしたのがなぜ悪いのでしょう”と答えて引き下がったが、彼奴面白い奴、うんと飲まして見たい、と言われたとかで、当時に於ける私は、酒に就いても味わい方に就いても、相当の自信を持ち、研究もしていた。ところが入社後十年程して、血管硬化症にかかり、七年間禁酒の結果、昔日の面影全くなく、最大限僅か一合五勺の余勢を存するに過ぎない者となった。但し私は此七年間を、無駄には過ごさなかった。酒を口にする代りに、文献による酒の研究を始めた。(「酒飲みで日本代表」 奥村政雄) 奥村は、大蔵省から三菱本社にうつり、昭和10年に日本カーバイト工業を創業した人だそうです。戻
酒は貴重品
戦国時代には、酒というのは一年の決まった日にしか飲ませてもらえない、それぐらい貴重なものだった。大名でさえそうだったんだからね。福島政則がさ、盗み酒をして奥方に追い回され、城門のところまで逃げて謝ったという話があるでしょう。酒は全部、細君が管理していたわけだ。江戸時代も梅安の頃になれば、戦国時代のようなことはないけれども、それでも酒は高い。一杯飲むということは大変なことなんだ。冠婚葬祭だけではないにせよ、一般の人は、何かちょっと金が入ったときに、きょうは金が入ったから一杯やろうじゃないか、と。そういうことだったろうね。男の三大道楽を「飲む、打つ、買う」というだろう。つまり、酒と博奕と女遊び。だけど、いまは酒飲むだけで身上つぶすようなことは、まあないだろう。当時は毎日酒を飲んでたら本当に身上をつぶしちゃうんだよ。酒を飲むということは、それだけ特別のことだったわけだ、いまと違ってね。(「池波正太郎・梅安を語る」)戻
大文字
楠本 昔の船場は汚く儲けてきれいに使えというんで、日頃のケの日は質素倹約でガンガンやられて、魚は骨までしゃぶって、さらに猫にやる。しかしハレの日は実に贅沢ですね。全力投球をしてお金を儲けて、そのお金を持って、京都の大文字の火が入った時、先斗町へ行ってパーッと…。大文字の大という字が杯に映る場所が何カ所かあるんですよ。グリーン席ですね。そこへ行って、芸者衆を侍らして、なみなみと杯に注いでもらって、グーッと飲むのが男の花道だと。その時に歌う歌がある。”幸せは、背に床柱、前に酒、左右に女、懐に金”というんだ。(笑)
荻 あまりにも正論で。(笑)(「快食快談」 荻昌弘編) 船場生まれの楠本憲吉と、荻昌弘の雑煮談義の一節です。戻
きじと酒
暖国産のものには臭気は強いけれど、寒国産のものには殆どないとされ、猟鳥中の代表として古くから高貴の盛饌に上り、一般にも美味第一に推された。魚肉を醤油につけ焼いてキジヤキといい、また精進料理で角切の豆腐に塩をつけて焼き、熱い酒をかけてキジヤキ豆腐というのも、キジの美味を立証した擬装料理である。キジの料理に酒を用いることは、古くからの例であつたらしく、キジの翼を取つて中節から先を細かに叩き、塩と酒を少しづつ加えて炒り、好みの辛料を加へて酒に入れ、程よく燗をしてすゝめたという「羽節(はぶし)酒」、またキジの腸をこいて汚物を去り、少量の味噌を加えて丹念に叩き混ぜ、それを足指の股に塗ってよく火に炒り、指際から切落として更に叩き、炒酒に入れて燗をしたという「キジの爪酒」などというのが見え、また「宗五五大草子」(一五二八)には「羽節和へといふは、雉子の羽節をこまかに叩きて、酢をかへらかし、さて後にワサビを入れて参らするなり」とあり、『料理物語』(一六四三)には「キジを丸煮にしてむしり、山椒味噌酢をつけて食す」ともある。(「荻舟食談」 本山荻舟)) きじ酒の再現と試飲結果 きじ酒 きじ酒(2) 戻
月下独酌の一
花間一壺酒(花間一壺ノ酒)(咲きにおう花影に酒徳利を持ち出したが)
獨酌無相親(独酌相親:あいしたし ム無シ)(相伴してくれる友達もいない)
擧盃邀名月(盃ヲ挙ゲテ名月を邀:むか エ)(そこで杯をあげて名月を招き)
對影成三人(影ニ対シテ三人ト成ル)(わが身の影と合わせて三人の仲間ができた)
(「中国酒食春秋」 尾崎秀樹) 李白の詩だそうです。李白の現存する詩は1050首あり、そのうち170首が酒に関するものだそうです。さすが酒仙の名に恥じずといったところでしょうか。戻
髪切
貧乏人の女房には惜しき貞女なものにて「おらが亭主は飯より酒が好きだに、それを買う銭がないとはよくよく貧乏な事だ。どふぞ買うて進ぜたいもの」と思案をして、かもじ屋へ髪をきつて売り、その銭で酒を買い、亭主にのませば、悦び「これはどふして買つた」と問へば「わしが髪を切つて売り、その銭で買いました」「手前は亭主思ひの心ざし、死んでも忘れぬ。どれ、どのよふに切つた。見せやれ」と見て「よしよし、まだ明日の分ほど残つてある」(さとすゞめ・安永六)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) かもじ屋は、日本髪に添え加える髪の毛を商う店だそうです。戻
鳴神の盃事
絶間 そこで盃事をしたいものじゃ。 鳴神 盃しょうしょう。酒もある。 絶間 えゝ。 鳴神 盃もある(ト思い入れ) (ト壇の脇より樽と大盃を出す) あの弟子坊主めらが、大ていの粋ではないか。おれが目を抜きおったを(目をくらましておいたのを)、ちらりと見ておいて、禍(わざわい)も三年酒、五年酒の御念を入れられて、隠して置きおったを、今用に立てるじゃて。 絶間 それは幸い。さア、お前始めさんせ、 鳴神 いや、俗家(ぞくけ)で聞いたことがある。夫婦(みょうと)の盃は女子(おなご)の方から飲んで、夫へさすものじゃとと言うぞ。 絶間 ても巧者な事かな。(うまいことをおっしゃる) 鳴神 さア、飲んでさしゃ。 絶間 さらばめでとう飲んで上げましょう。 鳴神 酌をいたそう。 (ト鳴神注ぐ。絶間受けて) 絶間 えゝ、もうわしゃたんとはいけませぬ。さア、これが二世までの盃じゃぞえ。 (ト絶間さす。鳴神いただいて) 鳴神 オットゝゝゝ。 絶間 こりゃどうじゃいの。 鳴神 酒一滴もならぬ。奈良漬けさえ嫌いじゃ。 絶間 サア、今までは下戸であろうけれど、女房持たんすからは酒(ささ)もあがったがよいわいな。 鳴神 でも、飲めぬものを。 絶間 わしが飲ましゃんせと言うに、飲ましゃんねぬか。 鳴神 飲もう。(「鳴神」 歌舞伎オンステージ 部幸雄編著) たえま姫の色香に迷い、下戸の鳴神上人、このあと、龍神開封の秘密を姫に教えてしまいます。戻
奇妙なアッシリアの法律
居酒屋に対する主な反対理由は、酔っ払った人々がよく喧嘩することだった。ヤンガーはBC二千年ごろからの奇妙なアッシリアの法律を記録しているが、それは、喧嘩をして男の睾丸をつぶしてしまった女は、自分の指を失うべし、また、睾丸を両方ともつぶした女は両乳首を失うべし、という意味ののもである。一国が、そのような法律を通さざるをえなかったのというのは奇異に思えるが、それは、睾丸をひねることがごく普通の攻撃法であり、女も男と同じように喧嘩にまきこまれていたことを意味するウヨウにようにも考えられる。このことからただちに、BC二千年ごろのエジプトやバビロニアのビールハウスの鮮明な絵が連想される。それはなんとなく頚裂きジャックの怪奇小説に似て、半ば飢え、歯もない娼婦が人の懐中物をすりとる機会をねらっている感じである。男が当時、腰布やスモックを着けていたのは、彼らの最も傷つけられやすい部分を守るためだったのだろうか…。(「わが酒の讃歌」 コリン・ウィルソン) 「殺人百科」などを書いているコリン・ウィルソンらしいタッチですね。戻
班長の酒盛り
だが、海軍の報道班員をやっていたので、戦地での体験もあり、B29の偵察がはじまるようになってから、班内の人たちへは、早い時期から老人や子どもの疎開をすすめた。わたしもひとり暮しで、警防団の服にゲートルを巻いたまま寝た。しばらくB29がやって来ないので、ある日、酒屋をやっていた班長が、酒を都合してくれ、これも班長仲間のお寺の住職さんが庫裏を提供し、昼間から内々で班長仲間だけの酒盛りがはじまった。久しく盛大に酒をのんでいないので、みんな忽ち酔っ払ってしまい、小唄自慢の班長が唄う、わたしが立って踊り出す、というところへ、警戒警報が鳴りひびいた。すわ鎌倉、と思ったものの、満足に歩ける者が少ない。それでも、お住職と紙会社の重役、わたしの三人が、やっとこさで班長詰所へ千鳥足で駆けつけた。人員の報告に走ってくる班長たちも妙な顔をしていたが、ほかの班長はこれこれしかじかで、と言訳もならず、うろうろしているうちに、空襲警報が鳴りはじめた。よく晴れた空にB29の編隊が見え、遠くから高射砲砲弾の炸裂音が聞こえはじめた。それが、第一回目の立川爆撃だった。班長の酒盛りの一件は、内聞にしてもらったが、それからは昼も夜も防空班長の方が忙しくなり、わたしも本業が副業のようになってしまった。(「六本木随筆」 村上元三) ないといってもどこからか出てくるのなのですね。戻
村山しげる
村山しげるとか、横井福次郎といった優秀な人が、当時若くして死んで、小生は二人とも葬式に行っている。
村山しげるという人は、三十ぐらいで死んだと思うが、いつも憮然(ぶぜん)とした顔をしていた印象が残っていて、職人気質のところが強かった。「ライト君とレフト君」という四コマのサイレント漫画は、今でも名作だと思っている。死因は心臓麻痺だったと記憶していたが、横山泰三さんに聞いてみると、メチル・アルコールだという。世の中がある程度落ち着いても、輪タク屋にうさんくさい場所に連れていかれて飲むのが好きな人で、そういう店でメチルの入った酒を飲んで、死んだということだった。(「悪友のすすめ」 吉行淳之介) 吉行の、漫画家との交遊を書いた一節です。戻
八代目可楽のらくだ
可楽の得意な演題がいくつかあるなかで、わたしは「らくだ」が一番と思っています。はじめ小身でおとなしかった屑屋が、茶わんの冷や酒を何杯か重ねていくうちに、しだいに酒乱の本性を表すくだりがあります。「酒飲みって奴は変なもんだねえ。はんちくな飲み方をするとまた今度飲みたくなるからついでにずーっと飲んじゃいていからな、おいもういっぺえ注いでくれよ…」この「はんちく」は、下町の年輩者なら、ひょっとすると今でも使っているのではないでしょうか。「はんちくな野郎だ」といえば、まとまった仕事ができないハンパ野郎という悪態になります。中途半端、いい加減です。東京の方言です。あるいは「今日ははんちくだからお昼まで遊んで来ていいよ」というふうに閑散の意味にも使われます。ところで可楽自身、大変な酒豪で落語会の三本の指に数え上げられたと言います。−八代目三笑亭可楽(一八九八〜一九六四)(「かがやく日本語の悪態」 川崎洋)戻
徴兵拒否工作
戦争中のこと、兵隊になりたくない輩(やから)にはこんな徴兵拒否の方法があった。石炭ガラや酢を飲むというやり方もあったが、一番効果的なのは、入営する数日前から食事の制限をしたうえで、検査の当日に、酒を一気に飲んでいくという方法である。すきっ腹にぐっと酒を入れておき、さらに家から兵営のある門まで駆け足をする。これだ、かなり動悸も高まっているはずだ。さらに、上をむいて太陽をにらみつけ、とどめは目を閉じ、首を左右に振ってみる。これでバッタリ倒れることまちがいなし。倒れれば、検査をしてもらえる。ただの貧血とはちがい、絶食のうえ酒が入り、おまけに駆け足である。血沈が異常値を示すため、「即日帰郷、翌年まわし」という軍医のお墨付きがもらえるという手はずになる。ところが、この方法にはひとつだけ弱点がある。太陽が出ていなければ、倒れない。倒れなければ検査もなく、絶食も酒も駆け足も意味がなくなってしまう。雨か晴れか、イチかバチかの、賭けのような方法だったのである。(「笑 酔っぱらい毒本」 青春出版社) これはいかにも嘘っぽい話ですね。戻
桓公、吉宗、シンクレア・ルーイス
斉の桓公がよっぱらって冠をなくした。彼はこれを恥じて三日間朝廷に立たなかった。「善政をして名誉をとりかえされるがよい」と管仲がいさめた。桓公はさっそく貧民に穀物を施し、軽い罪人を許した。すると流行歌ができて「おとのさま。また冠をなくして下さいな」
将軍吉宗の家来の某が宿直の晩に禁じられている酒をのんであばれ、刀をぬいでふすまをやぶった。他の家来達がとりおさえて処置をうかがうと吉宗は、「酒の上だから許せ。ふすまはそのままにせよ」と命じた。某はやぶれふすまを見るたびに先夜のあやまちを恥じ、その後酒をやめてしまった。
アメリカでは一九一九年から三三年までは禁酒法が通用していた。秘密酒場はあってもめったな人はなかなか入れなかった。一九三○年シンクレア・ルーイスはアメリカ作家として最初にノーベル賞をもらったが「ノーベル賞をもらうより、酒場に入るほうがよっぽどむずかしい」(「ユーモア人生抄」 三浦一郎)戻
一千九十五滴の礼
明治十八年(一八八五)六月のこと。牛込に住んでいたある男が、某氏の推薦で大蔵省づとめをするようになった。多年の望みかなって大喜び、何かと礼をしたいものと恩人のもとへ出かけ、ひそかに女中に主人の好みを問いただしたところ、山だしの女中のくせとて、大声で、「うちの御主人はこんなものが好き、いやあれも好き」とまくし立てた。庭に出ていた主人はそれを聞きつけ、「くわしいことはあれにて承った。好物は女中よりも拙者の方がよく存じておりますゆえ、御厚意にまかせてお話申しましょう。そもそも拙者の大好物は、酒を一日にただ一滴ずつなめること。それもただ一滴にかぎることであれば、多くはもとより好ましからず、あなたもそれほどの御厚意があるなら、御在職中毎日一滴ずつの酒を恵まれよ。しからば快くお受けいたしましょう」驚いたが、断るわけにもいかず、翌日から約束どおりただ一滴ずつ贈りはじめた。主人の方は冗談のつもりでいたところ、相手が本気なのでツイ気の毒になり、「毎日賜るるも御足労なり。これより三ヵ年分を贈り給わらぬか」「心得ましてございます」と返事して翌日一樽の酒を運び込んだ。主人、それを見て、「三年分にはチト多すぎはせぬかな」と言うと、「それはこちらも抜け目なく心得てございます。目のあたりに量ってお目にかけましょう」と急須のようなものに酒を入れ、ポタポタとおとしたのを数えると、さてもよく数えたり、一年三百六十五日、三年一千九十五日と積もって一日一滴、すなわち一千零九十五滴の酒がピタリ入っていたので主人すかっり関心。「いやあさすがは職掌がら、よくこれだけ計算を誤らなかった」と賞讃した。一日がかりで量った方も、それを眺めていた方もヒマ人。のんきな時代であった。「明治風俗故事物語」 紀田順一郎)戻
お燗の根拠
「お酒は、水とアルコールで、エキス分は糖分とアミノ酸、そして有機酸です。有機酸の中には、温めた方がおいしいと感じる酸(温旨酸系)と、冷やした方がおいしく感じる酸(冷旨酸系)と、そのどちらでもない酸があります。先ず、酒石酸、ワインを長くおくとボトルの底に結晶ができます。これは冷やそうが温めようが、あまり感じません。リンゴ酸、リンゴに含まれている酸で、冷やすとさわやかでノドごしがよくなります。温めると逆にボケてきます。クエン酸、柑橘類(ミカンやオレンジなど)の主成分で冷やすとさわやかです。酢酸、食酢の主成分で酢のものやおすしに使われ、冷やすとさわやかで旨味がでますが、温めると、さわやかさが薄れます。さて、日本酒には乳酸とコハク酸があります。乳酸もコハク酸も、冷やすと渋く苦味がへばりつくように感じられ、温めるとまろやかになります。日本酒には、乳酸が一、コハク酸が三の割合で含まれていて、バランスは一定しています。以上のことからいっても、日本酒は冷やすよりも温める方がおいしくなる、ことの根拠であります。そして『アンプリチュード』です。これについては、香りや味の微妙なところを数値で表すことが不可能ですが、お燗することにより、おいしさが増幅されるというわけです」(「今夜も美酒を」 佐々木久子) 広島の女子大で教鞭を執っている、酒蔵小泉本店社長のお燗の話だそうです。アンプリチュードは、”増幅性”、”増幅度”という言葉に近いそうです。戻
卯波
卯波(うなみ)で魚を注文すると、店の女性がひとっ走りという感じで外にでていく。隣の魚屋にいくのだ。たとえ隣であっても電話するのではなく、走っていくのが気持ちよい。おっつけ玄関のガラス戸が開いて、魚屋の店員が皿を持ってくる。「魚屋が締まりますから、最後のご注文になります」八時だか九時だか忘れたが、こんなふうにいわれるときがある。あわててアジのたたきを注文したりする。ほかの店が開いたりとしたり閉じたりするのに影響されるところがおもしろい。銀座ではとうに消えたと思われている下町の雰囲気が残っている。もちろん肴は魚屋から取り寄せるものばかりではないので、酒盛りはそれからもつづけられる。酒が進むにしたがって、酒飲みは肴を食べなくなるものである。「私は明治三十九年十一月二十四日の生まれですから、八十四歳です。ここで三十三年間商売をしているます。地上げでまわりの灯がどんどん消えていきましたが、私が元気なうちは卯波の灯は消すもんですか」店主鈴木真砂女は、別に力むでもなくこういう。カウンターも店のつくりも、小さな修繕はしたにせよ、三十三年間まったく変わらないのだという。見事な店である。この店のもうひとつの御馳走は、店主の俳句だ。マッチ箱には何種類かの俳句が印刷されていて、箱をひっくり返しつつ句を味わうのも楽しい。(「貧乏仲間」 立松和平) 代が変わって、この店はまだあるようです。戻
ウナギ酒
小松 鰻の刺身というのがあるね。
石毛 そうそう。九州にもあるし、ぼくは犬山で食べた。犬山に安い川魚料理屋があって、そこでどうやって食おうかと相談したら、一匹だったらうまい食い方を教えようという。それで半分を刺身にして半分をかば焼きにしてくれた。だいたいウナギの皮のヌルヌルには毒があるという話があるから、そこは刺身にはしなかった。
小松 血にも毒があるの。血のなかにイヒチオトキシンという血液毒があって、それはフグほどではないけれど、水洗いすると出る。それからもう一つは加熱すると、四五度ぐらいで分解する。ウナギ酒というのはかば焼きを燗酒に入れて飲むのだが、生をアルコールに入れて飲むと猛毒らしい。(「にっぽん料理大全」 小松左京・石毛直道) 加熱すればよいようですから、一般的な食べ方をするのなら問題はないのでしょう。私の場合はなんといわれようが食べてしまいますが。戻
晩酌
夕食の膳では酒を飲む。酒も決して外の時間には口にしない。間でお行儀の悪い事をすると、折角の晩の酒の味が滅茶苦茶になるからである。酒は月桂冠の罎詰(びんづめ)、麦酒は恵比寿麦酒である。銀座辺りで飲ませる独逸麦酒はうまいと思つた事もなく、麒麟麦酒には味があつて常用には適しない。平生の口と味の変はるのがいけないのだから、特にうまい酒はうまいと云ふ点で私の嗜好に合はなくなる。いつか灘の白鷹の生詰を飛行機で持つて来てくれたので飲んで見ると、罎詰の月桂冠より遥かに香りが高くてうまかつた。利き酒としての話なら褒め上げるに吝(やぶさ)かでないが、私の食膳には常用の味とは違ふと云う点でその銘酒は失格した。一二杯飲んだだけで、その儘下げて酒塩にしてしまつた。罎詰ばかり飲むのは味が大体一定してゐるからである。近所の酒屋で水加減をせられては、いくら樽の香が移ってゐても台なしである。罎詰の月桂冠も去年の暮あたりから少し甘味が利いた様に思はれ出した。醸造元でさう云ふ味を試みたのか或は私の舌の迷ひか解らないが、仮りに変はつたとしても罎詰は変はつたら変はつたなりで又一定するから我慢しやすい。(「御馳走帖」 内田百閨j戻
酒となる蚊帳
この蚊帳(かや)も酒とやならん暮の秋
これはお雪が住む家の茶の間に、或夜蚊帳が吊(つ)
ってあったのを見て、ふと思出した旧作の句である。半ばは亡友唖々(ああ)君が深川長慶寺裏の親の許さぬ恋人と隠れ住んでいたのを、その折々尋ねて行った時よんだもので、明治四十三、四年のころのものであったろう。(「『シ墨』東綺譚」 永井荷風) 夏が過ぎれば、蚊帳は不要、質屋へ入って持ち主の役に立つということなのでしょう。戻
白子酒
谷川さんは、白子酒がほしいと。間もなく、牛乳かカルピスを思わせる、白子酒が来た。これを口にするのは今宵がはじめて。甘酒みたいな、その色のせいか、ほんおり甘味をおぼえる。もっとも、考えてみれば、ひれ酒だって、ただの酒よりは、いくらか甘みがあるもの。これらの甘さは、ひょっとすると、フグの持ち味でもあろうか。哲学やドイツ文学を下敷きにして、美術、工芸、ことに日本のそれらの万般に通暁する谷川さんのような人はめもずらしい。−
ちりが出てきた。谷川さんは所望しただけあって、ほかの人よりずっと多く、白子酒をやっておられる。(「(味のぐるり」 入江相政) 谷川徹三は晩年まで、ダンディさと、かなりの酒量をたもっていたようです。谷川俊太郎の父といった方が今は分かりやすいですね。戻
「奉写一切経所告朔解」
桓武天皇の宝亀二(七七一)年にできた『奉写一切経所告朔解』に「醤四斗二升をとるのに大豆五升を使っている」と出ています。そしてそこから汁を得ている。これを女子食品学者尹瑞石氏が実験してみて、全く同様な結果を得たと報告しています。大豆五升から醤油四斗二升とれるというこの数値が、いまの韓国でもつくられている、味噌から醤油をとる材料比とほとんど同一数値であるということです。高句麗でも同様に発達していたようです。酒のことも出ています。米一石、麹四斗、水九升から酒八斗をとっているということです。そして熟酒は米一石、麹四斗、水一石一斗七升から熟酒一石四斗をとる。これも実験で同じ結果が出るそうです。こういうことで、四、五世紀ごろには主食・副食分化ということが相当はっきりしてきます。現在漢民族の食文化で、有名なキムチの祖型ともいえる、唐辛子伝来以前におけるキムチの祖型も、当時すでにできあがっていたようです。たとえば百済の酒づくり須須許理(すすほり)が、日本に伝えたといわれている須々許理漬というものも、このキムチのようなものでしょう。(「漢民族の食文化」 金宅圭)戻
鑵詰体質について
この鑵詰病(かんづめびょう)の症状は次の四つに大別される。最初に来るのが異常な昂奮を伴った躁(そう)症状で、患者は、「こんど書くのは傑作で」「わたしのライフワークで」「きっと売れます」などと触れ歩くから、素人にも見分けがつく。締切日が更に接近すると、中期の症状、すなわち異常な睡眠をむさぼる期間がやってくる。患者は、寝てなどいるものか、作物の結構や筋立てを考えているのだと訴えるが、そのじつ仕事部屋やホテルの一室でたいてい大口をあいて眠っている。更に締切日が切迫すると、異常なほどの放浪癖が目立つようになる。家族や編集者の目を盗んで盛り場をうろつく。要りもせぬものを買い込む。映画やストリップを見てまわる。酒場で白ら白ら明けを迎える。これが第三期患者の特徴である。さて、締切日がくると、患者は自信喪失の極に達し、たいてい編集者に、「次号廻しにしてください」「殺してください」なだと申し出る。編集者のほとんどがこの場合「どうぞ」とか「では殺(や)ってあげますか」とはいわぬようだ。これは賢明なことである。なぜかというに、この病気はとにかく書かなければ治らないからである。編集者たちは、自信喪失という末期症状をする患者を病院ならぬホテルや自社の会議室へ収容するが、ここに於て、じつに奇妙なことは起る。ほとんどの患者が自力で立ち直るのだ。してみると、これは一種の幼児性に属するのかもしれぬ。(「さまざまな自画像」 井上ひさし)戻
尾崎士郎の酒量
大体、私の酒は、昔ながらの書生酒で、大抵の場合、勢いに乗じて飲む酒だから、心しずかに楽しみながら味わうということははなはだ稀である。私の酒癖は、いつぞや「小説新潮」に発表した「三途の川岸」の中にあるごとく、心理と肉体とに分離作用を生じ、無意識の中にあって意識的な行動をしているところに次元の世界を築きあげる。心理はぐいぐいと飛躍して、いつのまにか魂が天外に飛んでいるのに、肉体の意識は、ぴったりと地についている。客観的には、のむにつれて次第に理論が整然としてくる上に、態度が乱れないので酔っているという感じをあたえないのである。しかし、これは自分が、あとから人の話を総合して、つくりあげた結論なのだから、果して、そのとおりになっているかどうかハッキリした自信はない。高橋義孝さんが、酒興に乗じてつくった酒豪番付によると私は横綱になっているので、私のことを大へんな大酒のみのように思っている人もあるが、私の酒量は、一人で飲む時は二、三合、勢いに乗じた最高のレコードが、せいぜい一升五合、ビールだったら、やっと一ダースくらいのところだから大したものではない。このごろでは、朝起きて必ずコップに一杯もしくは二杯。昼一杯。夜になると、臨機応変ということになるから、一日の時間の大半は酒を飲むよりも、むしろ酒に飲まれているということになるかも知れぬ。(「酒についての思い出の数々」 尾崎士郎)戻
飛脚泣かせ
志賀之介は晴の三番勝負で、見事仁大夫を投げたから、寺町の大通灰屋紹益(はいやしょうえき)、感涙にむせんで志賀之介、夢の市郎兵衛、正作の一行を丸太屋に招待して、正作には初瀬大夫という気品の高い女を紹介(ひきあ)せた。紹益はその頃、本阿弥光悦の門に入り、頭をまるめて臨池の技(習字のこと)に夢中だったが、若い美しい男と女を接近させておいて、なくなった吉野大夫の追憶(おもいで)話を、その二人に聞いてもらおうとする、気の永い道楽がまだやまなかった。江戸の高尾とはるかに嬌名を争った吉野大夫は、紹益が三郎左衛門重孝と、真四角に名乗った頃から深い仲になり、ついに千三百両という、モルガンお雪以上の大金で、紹益に請出された。しかも当時の京童(きょうわらんべ)は、身代金の噂よりも、吉野大夫については、「都帰りの盃」の方を言い囃した。仙台侯がある時、いつもの「サンサスグレカカヨノノヤメカ(さんさ時雨か菅野の雨か)」も唄い飽きた座興として、盃の中へ竹に雀の席画を描いて、高尾に与えたのを、高尾ははるばる京の六条三筋町の吉野大夫へ献(さ)した。吉野大夫はそれを受けてかえし、高尾はまた二度目を献して吉野が納めたという、飛脚泣かせの大々的献酬が、当時の通人どもをアッといわせた。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 盃の殿様 灰屋紹益 江戸時代は、作り話も含めて、大変面白いものがたくさんあったようですね。戻
パンの会の歌
「霧の夜の七人」は行儀が悪い。節度などまったくなく、持て来い、持て来いと、杯を重ねる。急速に酔いを発して談論風発を通り越し、放歌高唱、乱痴気乱舞。「おい、あいつにラブ・レターを出そう。」と友人の誰彼へ寄せ書きをしたためる。芸者のあがきという順番表の裏に、割り箸に醤油をつけて、勝手放題な文章や絵をかく。封筒に切手などはらない。左角に一寸ほどの正方形を描き、「切手先払」と書く。不足料金は受けとる者が払うのである。歌をうたえば、北原白秋全集−「雨は降る降る城ヶ島の磯に」から「行こかもどろかオロラの下を」「苦しき恋よ花うばら」「煙草のめのめ照る日も煙(いぶ)せ」「にくいあん畜生はおしゃれな女子(おなご)」など、はてしもなくつづき、最後にはパンの会の合唱となる。 ころがせころがせビール樽 赤い夕日のなだら坂 とめてもとまらぬものならば ころがせころがせビール樽 以下三十ほど。まだ失明前の北原白秋先生が柳川に来られたとき、私たち酒童(しゅっぱ)あつまって歓迎宴を張った。白秋先生も名だたる酒童だから、われわれとともに大いに飲んで、大いに歌ったが、私たちがパンの会の歌を次から次に合唱しはじめると、おどろいた顔つきで、「君たちはよく覚えとるなあ。僕は忘れてしまったのに。」といわれた。(「酒童伝」 火野葦平) 酒童とは、河童好きの火野が、河童がいるなら酒童もいるはずだとつけた名前だそうです。「霧の夜の七人」とは、火野の文学と酒の友人のようです。光文社カッパブックスの一冊です。戻
飲酒様々
アメリカ人は(大部分のアメリカ人は、という意味である。例外も多い。念のため)たてつづけにドライ・マティーニを飲む。アメリカ人は、なにごとによらず迅速に結果に到達することを考える。飲むことに関していえば、かれらは、できるだけすみやかに酩酊状態に達することに専念するのである。イギリス人の飲みかたは違う。他のすべての領域においてそうであるように、かれらにとって飲酒とは、ひとつの伝統の問題であり、慣習の問題である。かれらが酒を飲むのは先祖代々、そういうしきたりになっているからにほかならない。じっさい、午後七時以降には、イギリス人の半数は酒気を帯びている。しかし、見ただけではその事実はいっこうにわからない。かれらはふだんとおなじように、歩いたり、しゃべったりしている。わたしは、このイギリスで数十年にわたって生活してきたが、いまだに、しらふのイギリス人と、酔ったイギリス人とを見わけることができないのである。いっぽう、フランス人の場合は大分様子がちがう。まず第一に、かれらはもっぱらワインを飲む。そしてかれらにとって、ワイン抜きの食事などというのは、演説抜きの政治集会、キス抜きの新婚旅行のごとく、およそ想像することさえできない性質のものなのだ。ところで、東洋を訪れるヨーロッパ人は、(1)日本酒というものは弱くて無害であり、(2)日本人はすぐに酔っぱらってしまうものだというふたつのことを信じている。しかし、わたしは、これら誇り高きヨーロッパ人が、日本で数盃の酒を飲んだだけでひっくりかえり、反面、同席している温厚かつ沈着なる日本人のほうが平然としている、という風景になんべんもおめにかかったのである。(「酒飲み俗物学」 ジョージ・ミケシュ) ミケシュはイギリスに帰化したハンガリー人だそうです。戻
組合葬
その翌日、葬式だというのに、会葬者が角のパブのところに集まり、葬儀車が来るまで中で一杯やろう、と互いに誘いあった。一同はパブのバーのある部屋にあるピアノに合わせてジグを踊りながら、しばらく待ち時間を過した。そのあとの時間は、ばか騒ぎをしたり、喧嘩をしたりして過した。亡くなったのは組合の仕事をしている二十五ぐらいの若い男で、前日ダールング川のビラボングでなん頭かの馬を泳がせて渡そうとしているうちに溺れ死んだのだった。その男は町ではほとんど見ず知らずの人間だったが、組合員であることから葬式ということになったのである。警察は男の荷物の中から組合関係の書類を見付けて総労働者組合の事務所に行って問い合わせた。それでわしらも知ったわけだ。組合の書記はその男についてはほとんど情報を持ち合わせていなかった。亡くなった男はローマカトリックだったが、町の大半の人たちはそうではなかった。−しかし、労働組合主義は宗派よりも強い。酒は、しかし、労働組合主義より強い。というわけで、しばらくして葬儀車が到着したときには、会葬者の三分の二以上があとについて行けなくなっていた。酔っぱらい過ぎていたのである。葬列は十五人、つまり、十四人の魂を持った人間が一人の魂のぬけがらについて行ったのだが、おそらく、十四人のうち、なきがら同様魂のぬけがらでないものはひとりもいなかったろう−だが、そんなことはどうでもいい。(「ローソン短編集」 伊澤龍雄編訳) 1890年代、ナショナリズム高揚期のオーストラリアを舞台とした、ヘンリー・ローソンの小説の一節です。戻
ずぶ酔ひ
日本語では、物が水にぶつかる音をz-b-によつて表現する傾向がある、といふことです。「ズブ」もこのz-b-ですね。「ズブ」はまず頭から水に濡れるさま、物の全体を水につけるさまなどを表す。普通、「と」をつけて用ゐました。「ずぶと水に濡れた」なんて調子です。これが接頭語になると、「ずぶ濡れ」がある。秋田県および福島県の方言に「ずぶくぐり」があつて、これは水にもぐること。さらに「ずぶ酔ひ」といふ古語はしたたか酒に酔ふこと、その状態にある者の擬人名語として、「ずぶ六」および「ずぶ七」がありますが、もちろん両者とも古語。一つには酒も液体だから、こんな造語がされたのでせうね。(「丸谷才一の日本語相談」 丸谷才一) 大言海を見ると、「づぶろく」は、擬人語で、溷六(どぶろく)の転か、とあります。戻
日本酒の肴
椎名 日本酒の場合は?
東海林 日本酒はですね、鍋物はせわしなくて駄目なんです。スキ焼きもね。
椎名 東海林さんの漫画にも出てくるけど、争奪戦のもとになるという…。
東海林 そう、やはり刺身とか、貝ね。あとモツ煮込みとかね。
椎名 ウン、あれはいいですね。
東海林 七味唐辛子とネギたっぷり。
椎名 モツ煮込みは本当にうまいモツ煮込みを食べさせるところは、美味しいですね(笑)。
東海林 毎日もうずっと煮込んでいてね。ドロドロになって…。多少ミソがはいる。それから焼き鳥もいい。塩辛は甘口のやつね。(「男たちの真剣おもしろ話」 椎名誠×東海林さだお)戻
シャトーの購入
フランス人は日本企業の進出を必ずしも快く思っておらず、この間もロマネ・コンティの株の一部を高島屋が買おうとしたら、フランス政府がいちゃもんをつけた。しかし、ボルドーでは既に三楽オーシャンとサントリーと、もう一社マンション屋の東高ハウスがシャトーを持っている。東高ハウスの場合は観光事業の一環として、敷地の広いシャトーを手に入れたそうだが、あとの二社は洋酒屋だから本業としての許可をもらったのであろう。値段をきいて見ると、第一級にランクされるシャトーでも百億円くらい、もっとランクの低いところは何十億円で手に入るそうだから、日本の人ならそんなに手の届かない値段でもない。だからこそフランスでは日本人に買い占められることを警戒して審査をきびしくしているのであろう。(「旅が好き、食べることはもっと好き」 邱永漢) 世界規模の成り上がり企業が世界でのシェアアップのために、他国の大手同業を買収してみたり、小規模な世界的名門企業を買収してみたりと、舞台は世界規模になってきているということなのでしょうね。日本もぼつぼつそれに再び参加することになるのでしょう。戻
酒屋のサービス
配達といえば驚異的なのは日本の酒屋さんである。来日当初、何気なくビールの配達を近くの酒屋さんに頼んで驚いた。私は罐ビールを頼んだつもりだが、配達されたのは例の大びん二四本入りのケースである。「この人は重量挙げの選手か何かですか」と私は真顔でお手伝いさんに尋ねてたいそう笑われた。これはとうてい、人間業ではない。オリンピックの砲丸投げや重量挙げの選手予備軍として実に貴重な存在だと思った。しかも、日本の酒屋さんは空びんを持ち帰るのである。こんなサービスが世界のどこにあるだろう。(「不思議の国ニッポンVol.3」 ポール・ボネ) 問屋や業務店の社員なら、ビール箱の3つ位は重ねて平気で運びます。こうした酒屋の業務も、日本のなつかしい風景の一つとなっていってしまうのでしょうか。それにしても、この話は少々大げさですね。戻
詩経の酒歌
是(こ)レ 曰(ここ)ニ 既ニ酔ヒ、其ノ郵(あやまち)ヲ 知ラ不(ず)
弁(かんむり)ヲ 側(かたむ)クル 之(こ)レ 俄(が)トシテ(傾くるさま)、屡々(しばしば) 舞ウテ「イ差」「イ差」(ささ)タリ(止めず) (小雅)
但(ただ)しかう云ふのは外の篇には見えてゐないから、まず大体乱に及ばない飲酒であつたであらう。此に注目すべき事実は、此の類の詩は「小雅」即ち主として周の臣下及び官吏の生活に関する詩の部に最も多く、「大雅」即ち周の王室及び国家の公事に関する詩の部にも多少有り、「国風」即ち諸国の民謡の部には極めて少ないのである。つまり其れは庶民の生活の恵まれなかつた世相の反映で、−(「酒中録」 青木正児) 周は紀元前に中国にあった王朝で、小雅等はその周でつくられた「詩経」の分類の一つだそうです。戻
怪力ともよ
両国広小路には「怪力ともよ」という、怪力芸で人気を呼んだ若い女もいた。彼女は越後高田で生まれたが、安政七年(一七七八)十九歳のとき、あまりの貧しさに江戸本郷の岡場所に遊女として売られてきた。色白で、気だてもよかったが、なにしろ身の丈が六尺(約一・八メートル)もあった。彼女を一目見るなり、抱え主は困惑げな顔をした。当時の江戸では、瓜実顔(うりざねがお)の小柄な女が好まれていたからである。しかし、客のなかにはもの好きもいるから、店に出してみなければわからない。抱え主は、さっそくともよを店に出したが、さすがのもの好きな客も彼女のあまりの大きさに恐れをなし、しり込みしてしまう。抱え主は、さっぱり客が付かない彼女の処遇に頭を抱えた。だが、まもなく彼女に転機が訪れる。ある雨の日、配達に来た酒屋は酒樽を積んだ大八車が店の前の泥濘(ぬかるみ)に沈み、動けなくなったので舌打ちした。車が傾いているから、早くなんとかしなければならない。だが、酒屋が懸命に引っぱっても車は泥濘から抜けなかった。それを見たともよは、急いで大八車に走り寄ると、「危ないよ、酒樽が落っこちてしまう」というなり、片手で酒樽をつかみあげ、店の台所へ運んでいった。四斗樽だから、男だって持ち上げるのは容易でない。抱え主はその光景を見ておどろいたが、ふと「見世物に出したほうがともよのためになるのではないか「と思いつく。さっそく両国広小路の見世物小屋へ出かけ、話をつけてきた。こうしてともよは芸人に転身したのである。(「大江戸<奇人変人>かわら版」 中江克己) 酒入り四斗樽は約80kgで、米俵以上の重量があります。戻
昭和二〇年一月一日の酒
皮肉なことに、日本製のウィスキーにはじめてお目にかかったのは、敗戦の年の一月一日、琵琶湖畔にあった海軍練習航空隊の食堂であって、錨のマークのついた白ラベルのポケット瓶が一本ずつ、テーブルの上に立っていて、ぼくらは、そのウィスキーで新年を祝ったものだ。敗戦後は、カストリ焼酎、アルコールを水にわっただけのバクダン、それにブラックマーケットで醸造(?)された怪しげなウィスキーをこわごわと飲み、やがてビール、日本酒と進化して行くのだが、外貨のない日本では、庶民にとって、スコッチなどは夢の中でだってお目にかかれるものではなかった。メチルアルコールで目がつぶれなかっただけでも、ぼくは神に感謝しなければなるまい。(「スコッチと銭湯」 田村隆一) よく聞く話ですが、海軍とはヘンなところだったようですね。戻
ジャズ・エイジの酒場
ヴィクトリア朝のパブは、十九世紀の六〇年代をピークとして、それ以後は減りはじめた。二〇世紀に入ると、パブの人気がなくなり、もっと明るい、モダンなカフェやバーが増えてくる。さらに急激な都市化によって、建物が改築される時に、パブがこわされた。なぜなら、自動車が普及して、都市交通のために道路が拡張されたので、古くから、たいてい街角にあったパブがどかなければならなかったからである。さらに、十九世紀には、実に多くの種類のビールがあり、小さな醸造所がそれぞれ直営のパブを出していたが、それらの醸造所が統合され、いくつかのメーカーがまとめられた。そしてビールその他の種類も少なくなり、直営のパブの数も減らされたのである。パブにかわって、一九二○年代には、モダンなインテリアの酒場が登場する。ジャズとカクテルと、アール・デコの家具のクロームメッキとクリスタル・ガラス輝きといったジャズ・エイジの酒場の舞台装置がそろうのである。(「酒場の文化史」 海野弘) 日南の見た熊楠の酒 戻
惣花
皇太子殿下の御成婚の際、雅子さまに「納采(のうさい)の儀」の前に贈られる納采酒としてとして選ばれたのが、日本盛の「惣花(そうばな)」であった。これは、「納采の儀」にかかわるニュースとして、新聞などでも報道されていた。「惣花」は、大正天皇、昭和天皇の即位式の際に御用酒として、納入の名誉を賜っている。皇后陛下の「納采の儀」の際にの納采酒に選ばれており、二代続けての名誉となった。これは、宮内庁が買い上げたこと、つまり宮内庁御用達であることが報道された、珍しい例である。(「宮内庁御用達」 鮫島敦・松葉仁)戻
楠本いね
楠本いね−父はオランダ商館付医官シーボルト、母は丸山の遊女たき。
父は国外追放になったが、鳴滝のシーボルト塾には日本の優秀な人材が集まっていた。それらの人たちの影響で、いねは近代医学を身につけた外科医、産科医となる。
明治二年(一八六九)、京都で刺客に襲われた維新信の英傑・大村益次郎を看護したのは、いねである。益次郎は、一時、酒に頼って酒乱状態になったいねを、正常に戻してくれた恩人でもあった。(「江戸風流『酔っぱらい』ばなし」 堀和久)戻
居酒屋の正論
いまやマスメディアで報じられた見解は、リアルタイムに世界じゅうに流され、他国の神経を逆撫(さかな)でするような内容の発言は、大きく政治問題化するだけに、どうしても当たらずさわらずの発言に止まる。要するにそういうどっちつかずの発言というものは、わざと激越を装って声高にしゃべっても、ドラマのセリフとあまり違わない、ということに一人前の大人なら気づきそうなものだが、彼らは事前に軛(くびき)のかかった作りもののセリフを真に受ける。つまりそれがいまの”世論”とやらいうものなのだ。マスコミは自分たちが誘導することによって出来上がった”世論”を、次は世論調査という手段で”民意”にまで格上げしてそれを報じる。何やらいかがわしい手口だが、それが民主主義だと、マスコミは嘯(うそぶ)く。だが、それは私の言う「居酒屋の正論」ではない、居酒屋の正論とは酒の上の与太噺(よたばなし)である。何を言おうと勝手。かくたる証拠もないのに伝聞と類推だけで、権力者や有名人を思うさまこき下ろして誰も咎め立てしない。いわば”落首”の世界であるべきなのだ。ところが、いまは一億総論説委員気取りなのである。(「居酒屋の正論」 諸井薫)戻
大酒の飲める法
「どうすれば、山本さんのように酒に強くなれますか?」−そんなときには、ためらわずにこう答えることにしている。「なあに”雨ニモ負けず、風ニモ負ケズ”ですよ」… これは、かの酒豪を自負した吉田健一氏が、「飲みすぎては吐き、吐いてはまた飲み、とくりかえしているうちに、雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズの丈夫な胃袋になりましてね」といったのを、なぞっている次第である。雨にも風にも負けないドリンカーというのも、これまた、涙ぐましい努力のたまものなのである。−
ところがもっと手っ取り早く酒に強くなる方法をというときには、これは正統派ドリンカーから見れば邪道?ながら、薬を事前に飲んでおくことである。利尿剤の種類のものを酒の前に飲んでおけば、ちっとも酔わない内に、アルコールは小便でどんどん排泄されてしまう。(「酒まんだら」 山本祥一朗) でもトイレとの往復の間に飲むのでは楽しさは半減では…。戻
鰍沢(かじかざわ)
お熊のすすめる玉子酒をのんで、旅人は隣の部屋へ。雪の中、お熊が酒を買いたしに出たあとに戻ってきたのは、亭主で熊の膏薬売りの伝三郎。玉子酒の残りを飲むと、にわかに苦しみ出す。そこへ帰ってきたお熊のいうには、旅人の金を盗まんがため、玉子酒にしびれ薬を入れた…。隣できいていた旅人がおどろいた。既にきかなくなっている身体を無理に動かして、ころがるように外に出て、小室山でいただいてきた毒消しの護符を飲むと、いくらか身体が自由になってきた。一目散に逃げる雪のなか。いっぽう気配に気づいたお熊は、亭主の鉄砲をもって旅人を追いかけた。懸命に逃げる旅人。行きついたところは、東海道は岩淵へ流す鰍沢(かじかざわ)の流れ、四、五日降りつづいた雪で水勢が増したものか、がらがらがらがら、ずわっ…という急流、きっそいだような崖、ところも名代の鎌ヶ淵。下にもやってある山筏(やまいかだ)の上にとびおりたが、筏はくずれ、とうとう一本の材木だけ。追ってきたお熊は鉄砲のねらいをさだめるが、髷(まげ)っぷしをかすめて岩角へかちん…。「南無妙法蓮華経、ああ、この大難をのがれたのも御利益、お材木(題目)で助かった」(「落語長屋の四季の味」 矢野誠一)戻
運ぶ役目
ある大酒呑みが、やはり酒に関して評判のよろしくないある紳士を知っているかとたずねられた。
「知っているかだって!」と大酒呑みは答えた。「知ってるなてもんじゃないよ。いつかの晩、奴(やつ)と一緒になったんだが、あいつはさっさと酔いつぶれてしまってね。おかげで、ホテルのポーターが三人がかりでおれをベッドに運ぶはめになったんだ。奴は自分の役目をすっかり忘れちまったんだな」(「ポケット・ジョーク 酔っぱらい」 植松黎・訳)戻
最上柿
私は、果物王国の中心といわれる岡山の北郊、横井で生まれ、六高を卒業するまで岡山にいたので、うまい果物は、あきるほど喰べている。子供のころ、これ以上のものはない、と思ったのは、最上柿だ。酒樽に新藁(しんわら)を敷き、湯を通して渋を抜くのだが、ほのかな新藁の香と、あるかないかの酒の味とがついて、甘さ加減は、えもいわれない。渋を抜いてから長く保(も)たないので、他の土地に運ぶ訳にはゆかないのが玉にきずだ。おそらく今日、誰が喰べても、果物の王というに違いない。(「酒のさかな」 林逸郎) 極東裁判などで弁護士として活躍した著者は、酒でも食でも有名だったそうです。戻
パッション・ワイン
今年は、マンゴーと時計草の当たり年だったので、新鮮なそれらを僕たち一家は楽しんだが、殊に、時計草は、採っても採っても実を着けて、食べる方が採る方に間に合わなかった。そこで、家内は、この甘酸っぱい美味しい果物を保存するために、焼酎に漬けることを考え付いて、それを実行した。果物時計草は、通常はパッションフルーツと言われ、この木の花が十二枚の花弁を持ち、その真中の蕊(しべ)がキリストの茨の冠に似ているところから、キリストと十二使徒の受難に見立てて、受難−パッション−の名が付いたのである。このお酒を作って、来客に出すと、どの方も、皆、珍しい味と匂いのお酒ですね、これは一体何ですか、と訊くので、家内が、はあ、これは、宅でこしらえましたパッション・ワインでございます、と答えると、殆どの方々は、へえ、情熱のお酒ですか、これに酔うと情熱的になりますか、へえ、成る程、團さんは何時も何時もお元気そうで、何が秘訣かと思っていましたが、成る程、御家庭でこんな情熱酒を呑んで居られたとは知りませんでした。ははあ、成る程、などと勝手に頷(うなず)くのである。(「舌の上の散歩道」 團伊玖磨)戻
生
日本酒の斜陽を証明するのがこの字である。この字を見て、反射的に「キ」という音を思いうかべる人がほんとにいなくなった。アナウンサーでさえ「生一本」を「ナマ一本」と読むんだから。オカマのストリップじゃあるまいし…。「純生」「瓶生」などは中学生でもちゃんと「純ナマ」「瓶ナマ」と正確に読む。げに宣伝の力はおそろしい。(「ジョーク雑学大百科」 塩田丸男) 「生そば」も同様ですね。もっとも、時代は変わり、清酒も「ナマ」一辺倒になってしまい、著者もびっくりしていることでしょう。私は、ナマでない、火入れしてしっかり寝かしたボディのしっかりした清酒が好きなのですが、なかなか出会えなくて残念に思っています。戻
芭蕉と其角
芭蕉の門人は、十人十色で、芭蕉が放任もせず、干渉もせぬ間に、筍(たけのこ)ののびるようにスクスく延びて、各自の個性を発揮した。了見のせまい師匠が、同じ型で餡を打ちぬくようなつくり方とは、門人の作りかたが違っていた。そのうちでも豪放磊落な其角は、飲中八仙の随一を気どって、昼も夜も酒をかぶっていた。芭蕉はある時、尊朝(たかとも)親王の、飲酒一枚起請というものを、其角に送って、その大酒を戒めた。「ある人のもとに、御真筆にて、掛物にして、床にかかりこれあり候。あまり面白き御作ゆゑ、チヨと写しきたり候。貴丈常に大酒をせられて候故、御文句を写して、大酒は無用に存じ候。よつて一句」として、 朝顔に我は飯食う男かな というすがすがしい句を書きしたため、「如何、委(くは)しきことは、やがて御目にかかり、万々申のぶべく候」ととめてある。「如何」がいかにもふるっている。すると其角は頭を掻(か)き掻き、芭蕉庵へやってきて、「これから気をつけます」といって、腰から瓢箪を出して、手酌で飲んでみせた。芭蕉は苦笑してそれを見ていたが、心のうちでは、「からだをこわさなければよいが」とそれを念じていた。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲)
耳得が編集した芙蓉文集にあるそうです。戻
お花見役者
又さんが、役者らしく、派手に見得をきるのは、毎年春の、お花見のときだけらしい。桜が咲く頃になると、急にソワソワしだして、頭が痛いの、おなかがどうしたの、と言っては舞台をやすみ、町内の仮装行列に夢中になるのである。当日、又さんの扮(ふん)する大石内蔵之助や、お祭り佐七が、素人の若い衆の中でとびぬけて立派なのは当たり前である。そのために衣裳、床山にたっぷり身銭を切っている。第一、なんといっても長年の役者。タンカランときまれば、花見客には大受けだし、町内の人たちも鼻が高いから、又さん、又さん7とよくもてる。「それにしたって、商売人が、ど素人にまじって…」と、父はにがにがしげに舌打ちするけれど、母はかげで私に、「…しんそこ気が小さいから、たらふくお酒を飲まなけりゃ、芝居ができないんだよあの人は…。あんなに気が弱いくせに。役者が好きでやめられないなんて−因果なことさねえ…」と、同情していた。翌日、又さんは舞台の隅で相変わらず、伏眼がちで、モソモソと台詞(せりふ)を言っていた。もちろん−素面(しらふ)である。(「私の浅草」 沢村貞子)戻
酒蟲(しゅちゅう)
すると、はげしい眩暈(めまい)が、つづいて、二三度起つた。頭痛はさつきから、しつきりなしにしてゐる。劉(りゅう)は、心の中(うち)で愈(いよいよ)、蠻僧を恨めしく思つた。それから又何故、自分ともあるものが、あんな人間の口車に乗つて、こんな莫迦(ばか)げた苦しみをするのだらうとも思つた。そのうちに、喉(のど)は、益々、渇いて来る。胸は妙にむかついて来る。もう我慢にも、ぢつとしてはゐられない。そこで劉はとうとう思切つて、枕もとの蠻僧に、療治の中止を申込むつもりで、喘ぎながら、口を開いた。−すると、その途端である。劉は、何とも知れない塊(かたまり)が、少しづゝ胸から喉へ這い上つて来るのを感じ出した。それが或いは蚯蚓(みみず)のやうに、蠕動(ぜんどう)してゐるかと思ふと、或は守宮(やもり)のやうに、少しづゝ居ざつてゐるやうでもある。兎も角柔いものが、柔いなりに、むずりむづりと、食道を上へせり上つて来るのである。さうしてとうとうしまひに、それが、喉仏の下を、無理にすりぬけたと思ふと、今度はいきなり、鰌(どぜう)か何かのようにぬるりと暗い所をぬけ出して、勢よく外へとんで出た。と、その拍子に、例の素焼の瓶の方で、ぽちやると、何か酒に中へ落ちるやうな音がした。すると、蠻僧が、急に落ちつけてゐた尻を持ち上げて、劉の体にかゝつてゐる、細引きを解きはじめた。もう、酒蟲が出たから、安心しろと云ふのである。「出ましたかな。」劉は、呻くやうにかい云つて、ふらふらする頭を起こしながら、物珍しさの余り、、喉の渇いたのも忘れて、裸のまま、瓶の側へ這ひよつた。それと見ると、孫先生も、白羽扇で日をよけながら、急いで、二人の方へやつて来る。さて、三人揃つて瓶の中を覗きこむと、肉の色が朱泥に似た、小さな山椒魚のやうなものが、酒の中を泳いでゐる。長さは、三寸ばかりであらう。口もあれば、眼もある。どうやら、泳ぎながら、酒を飲んでゐるらしい。劉はこれを見ると、急に胸が悪くなつた。…(「酒蟲」 芥川龍之介) 大酒飲みの劉がそれを直すために行なった西域の僧による療治の様です。「しつきりなし」とは江戸っ子ですね。戻
南方熊楠の手紙
客月(八月)二十五日出 松枝宛(あて)書簡に、小生に酒をつつしめ云々と有之(これあり)。小生は親や兄弟が言うても酒をつつしまず。又、たとえ慎むべしと約束した処(ところ)が、酒をつつしむ男に無之(これなく)候。今回大山神社のことにて、十八日間未決に拘禁され、今に片付かず、責付中なるも、弟常楠よりは、少しも酒慎めとは申し来らず候。小生、従来名を挙(あ)げ事を 成(なし)たるは、みな酒の被護(ひご)にて候。其許(そこもと)等は、人に向て何を慎め、何をやめよというべき人間に非ず。百万円やるから酒も慎めとか、五年間酒を慎め大臣にしてやるとかいわば其理由は聞え居り候。以後斯様(かよう)の不埒なことを親類なればとて、小生は勿論常楠其他へ言いに来ること勿(なか)れ。(「縛られた巨人 南方熊楠の生涯」 神坂次郎) 松枝は、熊楠の妻、この手紙の宛先は、酒を慎めと熊楠の妻に手紙をよこした、いとこの古田幸吉で、熊楠の理解者です。神社合祀反対で、県主催の林業夏期講習会に酔っぱらって乱入して拘束された際の話です。戻
今様
最近オープンした表参道ヒルズの酒屋へいってみました。一つは、ワインのビスティーズ。ICカードをはじめ2000円で購入し、20cc、50ccといった量で飲める自動販売機で買って飲むというスタイル。カードはその後もチャージ可能。ただし、ワインは高いので、はじめの2000円では利き酒程度しか飲めません。むしろ、清酒でこれをやったら面白いと思いました。次は、はせがわ酒店。180ccビンを中心とした清酒の酒屋。ワンカップでないところがみそなのでしょうか。ここでも利き酒程度の立ち飲みが可能のようでした。どちらも女性ばかり。その後、ラフォーレ隣、龍の子の加飯の紹興酒と四川料理。酒の甘味と、料理の辛さをマッチさせようとしているようでした。それぞれに一度試してみるのも面白いかと思いました。戻
野坂昭如の結婚案内
披露宴案内に、「新郎に酒、新婦に花を賜りますれば幸い」と記した、祝儀に気を遣わせないつもり。沢山の酒瓶、花束が会場に届いた。戦後四年目に建て、十三年経た陋屋(ろうおく)、本の重みで三畳が傾き、電機メーカー生コマーシャルに出て、一式拝領したのはいいが、冷房装置は壁が弱く上に取り付けられない。そこへ、酒瓶と花をホテルから運びこんだから足の踏み場もない、高級スコッチと絢爛たるバラの花束の間の一万円札を拾うぼくに、妻なおいいつのる。「宝塚の娘(こ)ぉ、一人暮らしやろ。若いうちに炊事洗濯料理みな自分でせんならん、そらええ嫁さんならはる」のは、ぼくが神戸にいた戦前の話だった。(「文壇」 野坂昭如)戻
杯の破棄
酒器、とくに杯は、一回使ったら破棄するものだった。これは、杯がまだ素焼きの土器(かわらけ)だった頃の風習である。釉(うわぐすり)をかけない素焼の土器は、吸水率が高く、一回酒を入れると、杯に酒が染みこんで、洗ったくらいでは落ちない。時間がたつとそれが変質して、二度と使えない。だから、一回ごとに新しいものを使うのである。平城京跡から発見された落書きのある杯も、一回限りで捨てられることがわかっているから、落書きもできるのである。また、平城京の大膳職跡付近から、何千組もの宴会用セットが出土しているが、それも一回ごとに新しいものに取りかえられたことを物語っているといえよう。今でも神社などでは、神に御神酒を捧げるのに、素焼きの土器を使うことが多いが、それもやはり一回限りの使用で破棄するのが通例である。(「食物と日本人」 樋口清之)戻
お酒ににおいをつけて
五月の節句には、チマキのほかに、厄払いのためにお酒を飲みます。男というものは、なにかにつけて、口実をつくってはお酒を飲むものです。今も昔も変わりありませんねえ。ただし、五月五日の節句には、悪魔のきらいなもの、つまり厄払いに効果のあるお酒でなければなりません。そこで、お酒にいろんなにおいをするものをひたして、それを飲むのです。菖蒲酒日本では菖蒲をお風呂に入れるのですが、中国ではお酒に漬けます。 雄黄酒−雄黄、すなわち硫黄の粉末をお酒に漬けたものです。 じっさいには、菖蒲の根の粉末と硫黄の粉末を一しょに入れます。硫黄が多ければ雄黄酒、菖蒲が多ければ菖蒲酒といっているようです。五月の節句といっても、ほんとうは旧暦ですから、もう夏にかかっています。硫黄の臭いは、虫よけになりますが、虫がよけられるなら、厄もよけられるだろうという発想から出たのでしょう。菖蒲や雄黄酒は、大人の胃袋に入れてしまいますが、子供はアルコールをいただいてないけません。そこで額や鼻や耳などに、そのお酒を塗ります。そうすると、一と夏、虫にさあsれないおマジナイになるのです。額に「王」の字を塗れば、効果一そうてきめんというのですが、さてどうでしょうか。−五月五日の午時(ひるどき)、菖蒲、雄黄酒を飲み、百病を禁除し、百虫を避遠す。 と、モノの本に書いてあります。(「美味方丈記」 陳舜臣・錦「土敦」)戻
吉井勇の晩年
先生に初めてお目にかかったのは昭和二十四年の初夏だと記憶します。洛南、石清水八幡宮から一休寺への街道を十五、六町もいった宝青庵というお寺においでの時で、茶道の井口海仙先生のお供で参上いたしましたが、お天気は上々の午後でした。早速「何もございませんが…」と奥様のお手料理で、まず一献ということになりました。物資不足というより何もかも無いものづくしのおりからに「おやっ」と驚くほど、お加減のよいのに感心しました。細かくおろした大根を軽くしぼり、食酢と醤油、それに清酒で酸味をやわらげ、なめ茸がまぶしてあったのですが、その中庸を得たおいしさに、先生はお幸せな方だと直感しました。三度の食事のお加減に愛情がこめられていることは、なんとすばらしい晩年ではないでしょうか。その後、西陣へ居を移され、最晩年は銀閣寺畔にお家ができましたが、先生は大病をなさってからは、豪酒家であったのを、けろりと忘れたように禁酒をなさり、宴会での最初の一献を受けられるだけになさいました。この一杯だけを守るのは至難なことだと思うと、酒豪の里見ク先生も感心なさったと伺いました。(「包丁余話」 辻嘉一)戻
コミさんの飲み方
コミさんの酒の飲み方はこんなふうだ。はじめにビールで喉(のど)をうるおして、それから白ワインへいく。白ワインを飲みながら、出された料理をチョコチョコッとつまむ。そしてジンにいく。コミさんは小食であった。メニューはほとんど見ない。出されたものを食べる。食事と言っても、たいていは店のカウンターで飲み食いして終わってしまう。ときには海外在住のニホン人から招待されて、最高級のレストランにいくこともあった。真っ白なテーブルクロスに、ロウソクがゆらゆら揺れて、最高級の酒と最高の食事のもてなしを受ける。そんなときでもコミさんは、出された料理をちょっと試食するかのように、フォークで突っつくだけであった。(「世界酔いどれ紀行 ふらふら」 田中小実昌 の「よせがき」 田家正子) 田中の旅のコーディネーター兼カメラマンとして同行した人の後書きです。戻
藤村の個性
藤村は非常に個性の強い人で、自分の好みによる独自の世界というふうなものを、おのずから自分の周囲に作り上げていた。衣食住のすみずみまでもその独特な好みが行きわたっていたであろう。酒粕に漬けた茄子が好きだというので、冬のうちから、到来物の酒粕をめべりして、台所の片隅に貯えておき、茄子の出る夏を楽しみに待ち受ける、というような、こまかい神経のくばり方が、種々雑多な食物の上に及んでいたばかりでなく、着物や道具についてもそれぞれに細かい好みがあった。そうしてまたそういう好みを実に丹念に守り通していた。(「埋もれた日本」 和辻哲郎) 藤村は、酒はチビチビと飲むタイプだったそうで、強いというほどではないものの、時間をかけて割合飲んだという話を何かで見た記憶があります。戻
モンティーリャ
ところで私の昼食のモンティーリャも、メリメの言う通り”いみじき一品”だった。私は新しい一ビンをぶら下げて車に戻り、その夜はグラナダに一泊した。翌日はマドリッドへ。スペイン国鉄自慢のタルゴ特急はグラナダ−マドリッド間約五百キロを六時間十分かけて走る大変な鈍足特急だ。私は車窓から、銀色の葉裏を見せて風に騒ぐオリーブの果てしないつらなりを眺めているうち、東京まで持ち帰るつもりの秘蔵のモンティーリャをいつのまにか飲んでしまった。マドリッドで酒屋を探しまわったが、遂に手に入らず仕舞だった。まだ流通機構が日本のように、はしっこくないらしい。(「味に想う」 角田房子)「モンティーリャはアンダルシア地方の特産として世界に知られるシェリー酒に似た酒」だそうです。メリメの「カルメン」の中に、「いみじき逸品」のこの酒がえがかれているそうです。角田房子は強そうですね。それとも旦那さんと一緒だったのでしょうか。戻
飲む名言
−ワインというのは、いわば食事の知的な部分だ。肉や魚は、その物質的な部分にすぎない。(アレクサンドル・デュマ)
−酒に酔った人はまた醒める。しかし、富に酔ったひとはなかなか醒めない。(スワヒリ族)
−キャンティを飲まずにイタリア料理を食べるのは、太陽の照らない一日のような物。(イタリア)
−酒が考えだすものは何もない。しゃべりちらすだけだ。(シラー)
−酒は口を軽快にする。だが酒はさらに心をうち明けさせる。こうして酒は一つの道徳的性質、つまり、心の率直さを運ぶ物質となる。(カント)(「食べものちょっといい話」 やまがたゆきひろ)戻
遠大な考え
八月二十一日の日曜日には前約によって、サンタロサの長沢葡萄園に長沢氏を訪ねた。この時長沢氏その他の話を聞いて大いに感心するところがあった。即ち長沢氏は、「私がこちらで作る葡萄酒やシャンペンは、すべてヨオロッパへ出す方針を取っている。そうして他の醸造家の仲間には入らずに経営している。アメリカ人の事業の経営ぶりを見ると、自分の一代ではとても完成しないような大仕事に着手し、その成功は自分の息子か孫などの時代に期待するというような遠大な考えをもって事業を起すものが多い、これに反して日本人はどうも遠大な抱負経綸なく、己れ一代の内に出来上がる事業でなければ仕事をしようとしない。これが日米両国人の気風の違うところで、また事業の上に差等の起ってくる所以である」というような話があり、大いに耳を傾けて聞いた。高橋是清が、正金銀行副頭取時代の明治31年にアメリカを視察した際の話です。このあと、フルベッキの未亡人が生活難に陥っている様子が語られています。戻
居酒屋の至福
さてどこに入るか。これで案外いい居酒屋というのは少ない。まずチェーン店は避ける。アルバイトの学生がいるような店にはいい店はない。カラオケがあるところは問題外。水商売っぽい女がいてビールのことを「おビール」というような店も避ける。消去法で消していく。残るのは家族でやっている小体(こてい)な店。従業員の顔ぶれが何年も変わらない店。なじみ客がいばっていない店。なんといっても肴が豊富でひと工夫されている店。客に無駄な愛想をふりむかない、いい意味でぶっきらぼうな男っぽい店。ビール一、二本でうるさい注文をするなと怒られそうだが、一日の終りのささやかな至福のときを大事にしたいからこそ慎重にいい居酒屋を選びたいのだ。そしていい居酒屋にはひそやかに何度も通う。といって決してなじみにはならない。ただ淡々と何度も何度も通う。(「東京つれづれ草」 川本三郎)戻
富士の白酒
白酒はもともと雛祭りとは関係なく存在していた。九州筑前の博多の「名酒練貫酒(ねりぬきざけ)」という名物がすでに中世にはあって、これが白酒のもとである。白い練絹のような色をしているので「白練酒」ともいわれた。江戸時代には、京都油小路出水通北と衣棚三条北の二軒の酒屋から「白練酒」として売り出された。貞享年間というから、元禄以前の話である。寛政年間には、本所表町の金屋長兵衛の、「山川白酒」、浅草の「冨士の白酒」が有名であった。浅草には浅間神社があり、通称「お冨士さん」と呼ばれているから、「冨士の白酒」はそこからきたのか知れない。「助六」の白酒売も、むろん新吉原だからこの浅草の「冨士に白酒」である。「助六」のなかの白酒の言い立ては次のようである。 そもそも冨士の白酒といっぱ、昔駿州三保の浦に、白龍といふ漁夫、天人と夫婦になり、その天人の乳房より、流れて落つる色を見て、造りはじめし酒なれば、第一寿命を延ばし…(「芝居の食卓」 渡辺保)戻
斉藤実、金田一春彦
斉藤実は大の酒豪だったが、昭和七年に軽い脳溢血をわずらい、フッツリ酒をやめた。禁を破ってはと自戒して、揮毫を依頼されると、「禁酒興国」と書いている。「わしは今、この四字をできるだけ書くことにしている」と人に話したので、相手が「私にもぜひ書いて下さい」といった。書き上がったものを見て、目を丸くして、その人がいった。「禁酒広告ではなかったのですか」
金田一春彦は、酒はそんなに飲めない。しかし、旅先で宴席に招かれることがある。ある時、九州で招かれ、幸いに献酬もないので、杯を適当にのむようなふりをして長くいたが、周囲の人たちは、大いに飲み、みんな大いに酔ってしまった。当然金田一はケロリとしている。よろよろと近づいてきた老人が言った。「まったく、先生はおつよいんですな」(「最後のちょっといい話」 戸板康二)戻
医者と病人
或る医者が病人を治療していました。しかし病人が死にましたので、医者はお葬いの人々に言いました。「この人は、もし酒をやめて洗滌器を用いていたら、死んでいなかったでしょうがね。」と、そこに居合せた人々の一人が答えて言いました。「大先生、何のたしにもならない今そんなことをおっしゃらずに、むしろそれを用いることのできる時に、お勧めになればよろしゅうございましたのに。」この物語は、友人が困っているちょうどその時に助けてやらなければならない、そして物事が駄目になってしまった後でとやかく言い繕うべきものではない、ということを明らかにしています。(「イソップ寓話集」 山本光雄訳)戻
近藤重蔵の食事
「預」というのは、未決囚の場合にそういうのだが、実際上、刑罰の一つでもあった。近江の大溝藩はわずか二万石の小大名である。藩主は分部家で、代々左京亮を称した。重蔵が預けられたときの当主は、腰痛の上に脚がわるく、歩行が困難だった。参覲交代の長旅が無理な上に、江戸城に登城して詰間に詰めるのが、苦しくて仕方がなかった。藩主にとって、重蔵を預かったことでうれしかったのは、幕府が参覲交代を免除してくれたことであった。そのかわり、ずいぶん物入りだった。まず獄舎を新築しなければならなかった。獄舎は、藩主が住む陣屋のなかに建てた。東西十二間半、南北八間半という小さからぬ建物で、高塀でかこみ、さらに竹矢来でかこんでいる。西側に獄吏の詰所がある。「御預」だから、罪人の重蔵を丁寧にあつかわなければならない。なにしろ重蔵は、小身ながらも旗本なのである。将軍直参という点では、大名と同階級になる。このため、近藤重蔵の食事は、藩主とおなじものがととのえられた。朝は、一汁一菜である。昼は一汁二菜、それに昼の七ツどき(午後四時)に、お酒が二合だ出た。それに肴三種がついた、夕食は一汁二菜であった。(「本郷界隈」 司馬遼太郎) 北方探検家の近藤重蔵は最晩年、幕府の忌避に触れて獄中にあったのだそうです。戻
辣腕の報酬
久しぶりで町にやってきた百姓男が、つい羽根をのばし、飲みすぎてしまった。夜道を帰るのは危険でもあり、億劫でもあったので、男は場末のホテルに一泊することにした。懐中に牛を売った代金が百ドル札で五枚入っていることに気がつき、帳場に預けた。翌朝、百姓は預けた五百ドルを返してくれと帳場の男に要求したが、帳場はそんな金など知らない、夢でも見て寝呆けているのではないか、と答えた。百姓が怒ってさらに金を返せと言い張ると、帳場の男は逆に尋ねた。「預かり証はお持ちですか?お客さん」「そんなものは持っとらん。したどもおらはたしかにおめえに百ドル札を五枚渡し、おめえはそれを封筒に入れたでねえか」「申し訳ありませんな。そんなことはなさらなかったですよ」かんかんに怒った百姓は、辣腕という評判の弁護士に相談した。弁護士は百姓の話を黙って聞き終ると、すぐにこうアドバイスした。「いいかね、そのホテルにもう一度泊まりたまえ。そして、その帳場の男にまた五百ドル預けるんだ。ただ、今度は友達をひとり連れて行く。預けて二、三時間したら、今度は、一人で行って預けた金を返せって言いなさい。帳場の奴は金で返すよ。あんたが預けたのを知っている証人がいるからね。それからまたしばらくして、今度はさっきの友人といっしょに行って、『さっき預けた五百ドルを返してくれ』って言うんだ。それで帳場の男はいっいはめられたって気がつくわけだが、前に盗んだ五百ドルを返してくれるはずだ」(「ポケットジョーク」 植松黎 編・訳) 結局、弁護士の報酬は五百ドルだったというオチです。戻
「無名人 名語録」(2)
◎「個人で酒を作ると、酒税法違反になるんでしょう。これは憲法違反だって戦っている三里塚のおじいさんがいますよね。国税庁は、堂々と違反するから起訴したっていうんだけれど、コソコソ違反してりゃいいってことなんですね。みんなでコソコソやれば、それは堂々ってことになりませんかね」
◎「幻の酒とか、幻の布とか『幻』って言葉に弱いと思わない?『まぼろし』って言われるだけで、なんだかとても良いものに思えちゃうのよね。『幻の愛人』なんていいと思わない?」(「無名人 名語録」 永六輔)戻
漱石と子規
で子規さんの部屋で毎晩のように運座が始まってもめったに下りてくるでなし、たまさか呼ばれて座につらなっても、ほとんどいっしょになって句を作るということがなかったそうです。子規さんとちょっと何か言葉を交わして、それなりにまた二階へ上がってしまうというだったらしく、当時子規さんのもとへお集まりになった俳人方でさえ、夏目が子規さんの送別の句会の席上で、(中ノ川の蓮福寺における) おたちやるか おたちやれ 新酒 菊の花 という送別の句をよんだぐらいの記憶しかないらしゅうございます。(「漱石の思いで」 夏目鏡子)戻
美しき五月となれば…
五月なら端午の節句。しかし、端午の節句というやつ、さつっぱり人気がないね。−
最大の理由は、端午の節句用の酒がないことだとわたしは信ずる。じつに鋭い洞察であり、名論卓説であると思ふがどうだらう。もちろん、シヨウブ酒やあやめ酒はあつた。シヨョウブの根を取って、こまかに切り、酒にひたしておく、これを五月五日に飲めば諸毒を去る、といふわけで、江戸後期までおこなはれてゐたことは、 相伴(しょうばん)に蚊も騒ぎけり菖蒲酒 一茶 によつても判るが、明治維新以後、いつこうはやらなくなつた。これがいけなかつたね。−
しかるにショウブ酒の衰頽と消滅がもたらしたものは何であつたか。(どうも文章に力がこもつてきたね。)それは端午の節句には酒が飲めないといふ風俗にほかならない。言うまでもなく、強引に飲まうとすれば飲めるのである。国法をもつて、五月五日が禁酒の日と定められたわけでは決してない。が、鯉のぼりの影が庭に動くのを見ながら、柏餅を食べたあとでは、どうも、うまいキツカケがなくて酒に移りにくいのもまた事実であらう。(「男のポケツト」 丸谷才一)戻
わが生 酔うて醒めざるを
解(と)かんと欲す 劉伶(りゅうれい)五斗の酲(よ)い
江頭(こうとう) 遥(はるか)に指す 一旗亭
遅々たる 暖日(だんじつ) 煙(もや)を含んで白く
楚々たる新松(しんしょう) 水に映じて青し
鸚鵡盃(おうむはい)中 北海を浮べ
大鵬 天外 南溟(なんめい)を撃つ
春風面(おもて)を吹いて 晴光好(よ)し
遮莫れ(さもあればあれ) 吾(わ)が生(せい) 酔うて醒(さ)めざるを
大の酒好きとして知られる晋の劉伶は、二日酔いを酲ますために、五斗およそ十八リットルの迎え酒をしたという。南畝もまた愛酒家であった。酲はふつうの酔いでなく、二日酔いをいう。この詩の結びに、「ままよ、自分の一生は、ずっと酔いが酲めないままであっても構うもんか」と、酔いの勢いとはいえ豪気なものである。(「江戸諷詠散歩」 秋山忠彌) 深川・望汰欄(ぼうだら)という料亭で接待されたときの詩だそうです。昔の中国の五斗は、今の1/10位だったようです。戻
空き樽は音が高い
他人の言うことを封じようとして、無闇矢鱈(むやみやたら)に大きな声を出す人がいる。そういう人の反論は、えてして内容のないことが多い。サラリーマン時代に、なにかをいうと、「それでも貴様は社員か!」と言う男がいた。会議などで、ちょっと会社の非に触れると、とたんに居丈高になって、テーブルを叩いたりするのである。「社員かどうか、人事部に行って聞いてこい」ときには腹に据えかね、からかってやることもある。こういう人は、フシギに自分がからかわれることについては敏感だから、ますます声が大きくなる。「空樽は音が高い」ということわざは、なんにも詰まっていない樽を叩くと高い音が出るところから、無意味なことをエラそうに喋ったりする人間のことをあてこすっている。考えてみたら、彼は、会議で一度も自分の意見を発表したことがなかった。(「ことわざ雨彦流」 青木雨彦)戻
おでこパチパチ
三田 どんなイヤなことでも私はいい方向に取るところがあるみたいです。
遠藤 怒りっぽいけど、人を決してワルく見ないから。
三田 (笑って)怒りっぽいって、先生さっきから何度も…。いやねえ。
遠藤 だんだん思い出してきたんですよ。菊田一夫さんという人はよく周りの人をなめまわったというけど、あなたは惚れるとぼくのおでこをパチパチ叩いた。
三田 偉い人ほど叩きたくなっちゃうの。
遠藤 僕は偉くない。
三田 偉いンです。その偉い人のオデコを叩く気持ちのよさですよ。それになぜだか可愛くなっちゃうの。酔っぱらうと私。可愛く見えたの。(と首すじをハンカチで扇ぎ)ああ暑いですねえ。扇風機もっと強くして。(「快女・快男・怪話」 遠藤周作 狐狸庵対談) 三田は、三田佳子だそうです。戻
村山槐多の田端での生活
山本鼎は槐多を「この悍馬(かんば)は君なら御せるかもしれない」と田端に住む小杉未醒(みせい)(のちの放庵)に託した。大正三年七月五日から五年春まで、北豊島郡滝野川村田端百五十番地に、槐多は画友水木伸一と暮らす。「二人同居の家は小杉の借家で、六畳三畳二畳の三室を無料で住み、米を時々一斗くらいを貰って居た。だが食えぬので、肉屋、魚屋、八百屋、酒屋から借りて回わる、下駄屋まで借金する。近所の店からもう借りられぬので、遠くの店から借りるが、いずれも一度だけで後は持って来ない」(共同生活者水木伸一氏回想)生活に困って焼絵工場でアルバイトした。勉強のために上野図書館にも通った。毎日四、五人、時には十人も友達が来た。槐多の朗読はうまかった。雑煮餅を二十八個も平らげて、小杉未醒夫人にあきれられた。酒は1斗位は欲しいらしかった。壁は残らず壁画となった。障子紙や唐紙はことごとく便所で使ってしまった。「俺はアニマリスムになった」というので、友人がたずねてみるとアニマルそのものになっていた。これが槐多の田端の生活であった。(「明治東京畸人伝」 森まゆみ) 「火の玉槐多」と言われたという早世の画家村山槐多の生活だそうです。戻
盃洗
『寛至天見聞随筆』の中では、盃洗は”盃洗い”として登場する。このあたり、少々借用してみよう。「予幼少の頃は、酒の器は鉄銚子、塗盃に限りたる様なりしを、いつの頃よりか銚子は染付の陶器と成り、盃は猪口と変じ、酒は土器でなければ呑めぬなどといひ、盃あらひとて丼に水を入、猪口数多浮めて詠(なが)め楽しみ…」どうやら登場のはじめは、盃を浮かべて楽しむ−まずは座興のものだったようだ。いま一つの『守貞漫稿』。これには嘉永七年に売り出された”昔ながらのものと新流行を比べた番付”に顔を出す。いわく”盃すましの丼”。新流行の仲間には、正札つきのちり紙、留飲という病気、蘭方医者、酒やうなぎの進物切手、くさやの干物などが顔を並べている。(「道具が証言する江戸の暮らし」 前川久太郎)戻
キョーフの臭才感覚
●たとえば、ワインとか、飲み物だってね、古くなればカビ臭くなるんですよね。そういう意味では、ワインなんかは…。○ワインなんかは、その年によって違うんじゃないですか。●あのね、ものが悪いとカビ臭くなるんですよね。○ほら、何年ものってよく言うでしょう。●ちゃんと保存した場合は、いいですけれども、そうじゃない場合はダメなわけですよね。酸化臭っていうんです。○酸化臭が入っては、いけないわけね。●そうです。○ウィスキーなんかどうですか。サントリーオールドなんかの場合、あれはモルトより原料用アルコールのほうが多いという噂がありますね。キリンで、ほら、ロバートブラウンはちゃんとしたモルトだってよくコマーシャルで喧嘩を仕掛けているでしょう。●していますね。○ああいうのって、わかるもんですかね。●メーカーの名前は言えませんが、はっきり言って、モルトが少ないと、すぐわかりますね。○あー、そー、わかりますか。●はい、結局原料用アルコールにそういうモルトとできるだけ似た香料を添加しているんだと思いまけれど。香料だとか、味だとか、ピュアーモルトのやつとね、そうでないのとは、それとわかりますね。(「日本凡人伝」 猪瀬直樹) ○は猪瀬、●は資生堂の香料研究室主任研究員上野山だそうです。プロ(酒に関してはアマですが)とアマの差がよく分かりますね。戻
歸
軍事が終わって凱旋するとき、またこの祭肉を奉じて帰り、これを祖廟や軍社にに報告する儀礼を行なう。祭肉は「月辰」(しん)とよばれるもので、これを帰「月辰」(きしん)の礼という。出行のときに受けて出た祭肉を、また奉納するのである。このとき廟中は、束茅(そくぼう)とよばれる帚(ほうき)の形のものに酒をふりそそいで祭壇を清め、「阜−十(下の十を取る:し)」肉(しにく:廟や軍社に奉じる肉)を安置した。この帰「月辰」(きしん)の礼が本義である歸(帰)は「阜−十(下の十を取る:し)」と帚とから成り、のちに止が加えられた。それに帰嫁の意が生じたのは、なおのちのことであろう。(「漢字百話」 白川静)戻
高麗史による清酒と法酒
高麗史によると、文宗(ムンジョン)(在位一○四六〜一○八三)のとき、王が飲む酒は醸○署(ヤンオンソ)というところでつくられており、酒には清酒(チョンジュ)と法酒(ポジュ)の二種類があった。いずれも素焼きの瓶に入れ、絹織物で口を封じて貯蔵したという。この清酒は、上澄みまたはそれに水を加えた澄んだ酒のことである。法酒は、麹・仕込み水・初醸米に一定の規定のある酒のことで、給水量が少なく麹が多い濃厚な酒であったという。やはり「清酒」は朝鮮半島にあった。清酒が韓国で薬酒(ヤクチュ)といわれるのは、李朝時代の十七世紀になってからである。徐有(ソユグ)という実学派の人が、たいそう巧みに清酒をつくり、世間の評判となった。徐有の号を薬峰といったからとも、住まいが薬「山見」だったからともいわれるが、薬酒という名称ができた。韓国では「薬」は上等と同義語であるから、これも美酒と言ったのと変わるところはない。(「酒と日本人」 井手敏博)戻
富久
あたくし一と人ねェ、飲(や)るッてのァどうも、へへ(左=上手に置いてある徳利を取って酒をつぎ)まこと…左様(さい)ですか、すいません、じゃァあたくし一と人…(飲み)あァきゅうッと、へへへ(また酒をつぎ)…へェ…ッどうも、あゝ、どうもあいすみませんでござんす、加賀屋さんでござんす…加賀屋さんでござんす(帳面に付けて)…ェェ、もう一杯頂戴いたします。へッ、いえもう沢山(たんと)は戴きません、へッ、あいすみません、へえ、では(飲み)…どうも、ああどうも、ありがとう存じます。ェェ、+フ(かねじゅう)さん、+フさん(付けて)へッへッ、これで(飲み)…へえどうもありがとう存じます、ェェ近江屋さんで、近江屋さん(付ける)…へえもう一杯頂戴いたします、ええ…もうそうは戴きません。へへ(飲み)…へえ、どうもありがとう存じます。山田屋さんでござんす、山田屋さん(付けて)…へえ、あッ(飲み)…ああ、どうも、まことにどうも…(むせながら)「なんだなどうも、おいおい、飲むとかしゃべるとかどっちかにしろ」(「古典落語 文楽集」 飯島友治)火事見舞いに行き、見舞客の帳面付けをいいつかったものの、飲み過ぎて高鼾。その間に自分の家も焼けてしまったものの、運び出してもらった神宮のなかに入れてあったおみくじが当たって、「ご近所のお支払い(お祓い)をいたします」でおち。戻
海軍の話
海軍にも酒豪がいた。アメリカ海軍は艦内での飲酒、今も昔も原則として一切禁止だが、負けた日本のほうはすこぶる寛大で、酒にまつわる逸話綺談が一杯残っている。諸事英国流というか、艦長室や士官室にはウィスキーが置いてあるけれど、くつろいでたっぷり飲むとなれば、やはり日本酒であった。「それをそんなに飲まないと、海軍では出世の道が開けんのか」一族の長老から、いい加減にしなさいと言わんばかりの苦言を呈されて、「そんなことはありませんがね、酒は私の好物で、好物をたしなんでいれば自然気持が和んで、人間関係がうまくいくんですよ」と答えた艦長さんもあるし、「酒の上の失敗は、時々やって、人に隙を見せた方がいい。そうすれば部下が、ほんとうに信服してついて来る」と、酒飲み独特の処世訓を披露した司令官もいる。狂言の「棒しばり」ではないが、飲める口に飲むなといっても、何とか飲む方法を案出するのは、士官も水兵も変わりなかった。次の航海、日数が少し長くなるというので、「菊正宗」と「白鷹」の菰かぶりを沢山積み込ませ、通路に並べて、盗み飲みされないように番兵をつけたことがある。それが一週間後、樽の中の酒量、ひどく減っているのが分かった。「封印もして、二十四時間交替で番兵を立てておるのに、何故減るか」「分かりません。気候が乾燥しておる為、蒸発するのではありませんでしょうか」見廻りの甲板士官と当直士官のやりとりを聞いていた年輩の掌帆長が、にやにやしながら口をはさんだ。「泥棒に泥棒の番をさせて安心したって駄目ですよ。夜中に番兵が、錐で穴をあけて、仲間と廻し飲みしたあと、割箸の削ったのを穴へ差し込んで置くのです。いくらでも減りますよ」(「食味風々録」 阿川弘之)戻
春風亭柳橋
春風亭柳橋さんは、落語の中で酔っ払いが歌を歌う場面を入れた。たとえば、「時そば」のようなはなしの時に歌う歌は、いつも調子はずれだった。それで、音痴のくせに歌なんか歌わない方がいいと、忠告する人もいた。じつは、柳橋さんは、少年時代に、三越の音楽隊の一員であった。
春風亭柳橋さんが、酒のCMに出ていたことがある。ベルクラブの忘年会で会った時、師匠に、「あの酒、おいしいんですか」と訊いた。すると困ったような顔をして、「あのね、私、飲めないんです」(「新ちょっといい話」 戸板康二)戻
ゴッドイズグッド
麦汁の用意がでできたら、煮沸の工程だ。ふつうならここで苦味をつけるためのホップ入れて煮るところだが、あいにくホップがない。かわりに香料でも入れたいが、コロンブスだって香料を求めてインドを目指した結果、意外にもアメリカ大陸を「発見」したというのに、ロビンソンはこの方面にはいたって無関心で、『ロビンソンクルーソー』にはナツメグもシナモンも胡椒も出てこない。仕方がないから、ホップがわりは諦めることにしよう。一時間位煮ると、ほどよく煮つまり、殺菌もでき、いやな臭いも抜け出ることだろう。最後の十分くらいのところで、本来なら香りづけのホップを入れるが、ジャテッツもハラタウも、そしてロビンソンの生国イギリスを代表するホップのケント・ゴールディングスも、今は手が届かない。つぎはいよいよ糖をアルコールに変える一次醗酵(主発酵ともいう)である。雑菌が繁殖しないようにできるだけ早く冷やして、酵母を入れる。しかし、ロビンソンには酵母もないから、自然発酵である。よい酵母が降ってくることを祈ろう。あるいは、酵母がくっついていそうな葉っぱで蓋をしておくのがよいかもしれない。ときかく成功を祈るしかない。昔、イギリスでは、正体が明らかでなかったものの酒の作り主であるらしい酵母のことを「ゴッドイズグッド」(神は善なり)という名でよんでいた。(「ビール大全」 渡辺純) 「ロビンソンクルーソー」では、酵母(イースト)がないということがビールのできなかった理由の一つとしてあげられているそうです。戻
資生堂
始終ではもとよりないが、だからたまさか銀座の資生堂でお酒を飲む。酒といってもビールでは「酒を飲む」感じが出ない。日本酒か白葡萄酒である。ついこの間も、席がなく、階下の(どういうものか、ぼくは資生堂の二階回廊の席に坐る気が起こらない。下の方がいい)真中のテーブルに陣取ることになって、友人とふたりでオードブルを肴に日本酒を飲んだ。日本酒はむろん普通の銚子に入れて持ってくる。さすがに盃は出さない。リキュールグラスのようなものを持ってくる。資生堂ではどういう銘柄の日本酒を使っているのか知らないが、酒は大変いい。まわりでコーヒーを飲んだりアイスクリームや菓子を食べたりしているのを見ながら、銚子を傾けるのは、少しきざで悪趣味であろうが、酒に一寸面白い味がつく。まわりの客がけげんな顔をしてこっちを見る。中にはくすくす笑い合っている客もある。どこの田舎者だろう、というような顔をする人もいる。とにかく、資生堂の西洋料理で日本酒を一杯やるのはなかなか乙なことであるから、試みられてみるといい。少し勇気が要るけれども。(「言いたいことばかり」 高橋義孝) 前の資生堂ビルでしょうが、今はどうなのでしょう。日本なのですから、当然なことだと思うのですが。以前行ったときは、こんなことは思いもしませんでした。戻
パイプカット
取材のついでに自分もパイプカットするのが、私の年来の軽率さであった。「ほんとうは、奥さんの同意書が必要ですが、それはなくていいでしょう。何かと都合がいいですからね」私の手術は、数分で済んだ。ミイラ取りがミイラになってしまった。自分がすすめておきながら、こんなパイプカットの患者ははじめてだと院長先生は笑った。「三日間は、お風呂にはいらないで下さい。あれもおやめになることです。お酒は飲んでも結構です「院長先生に、丁寧にお礼をいって、私たちは、少し早いが銀座へ出た。パイプカットのお祝いをすることになった。バアはあくのがまだだから、ひとまずビヤホールで乾盃した。「パイプカットおめでとうございます」私たちは、ジョッキを高く上げて、カチッと音をたて、いっきに半分ほど飲み干した。隣のテーブルのお客さんが、”パイプカット”と、こちらに聞こえるように呟いて、いぶかしげな顔をした。バアを二、三軒まわった。(「目白三平随筆 愛しき遺髪よ」 中村武志) 結果は目白三平随筆をお読み下さい。戻
手間とお金をかけない肴の作り方
ただの大根おろしでも大丈夫。しょう油は不要。
大根の千切りを梅肉で和える。
(煮干し)生でかじるより、苦味のある腸や頭の部分を外して、ちょっとあぶるのがおいしく食べるコツだ。
だし昆布を適当な大きさに切り、焼き網にで少し焼く。
味噌は生のままでもいいが、焼いたほうが香ばしくてうまい。
焼いた梅干しは適度に酸味が抜けて、酒の肴になる。
油揚げの両面を軽く焦げ目がつく程度に焼き、しょう油をかける。大根おろしをそえると、なおけっこう。(「お酒を美味しく飲む裏ワザ・隠しワザ」 河出書房新社夢文庫)戻
今川義元の産業振興
西上途中、尾張の桶狭間で織田信長の奇襲をうけ、落命したとき、義元は髪を公卿(くぎょう)ふうな茶せんにむすび、薄化粧し、お歯ぐろをつけていたという。そんな、外見上のみやびから、いくじなしの、惰弱な人柄がひき出されがちだし、たしかに一面、義元には、公達(きんだち)志向の傾向はあったけれど、けっして馬上より輿(こし)に乗っての采配を好むといった面だけが、彼のすべてではない。太原雪斎(だいげんせっさい)和尚をはじめ、よきブレーンにめぐまれてはいたが、義元は、たとえば武田氏相手では懐柔、北条氏相手では牽制といった戦国の権謀を、ぞんぶんに駆使して、その領土的野心を満たしているし、造酒業者への保護対策、皮革の領外への売りさばきの禁止、あるいは楽市、楽座の設置、商業の振興、道路網の整備、金山銀山の開発など、民政にも先代、先々代の政策を継承、発展させて、すこぶる意欲的な動きをみせている。(「江戸を生きる」 杉本苑子)戻
天廣丸の狂歌
<表> くむ酒は これ風流の 眼(まなこ)なり 月を見るにも 花を見るにも 天廣丸(あめのひろまる)
<裏> 宝暦六 鎌倉出生 別号 酔亀亭
(解説)○天廣丸(あまのひろまる)=(一七五六〜一八二八)江戸中期の狂歌師。通称磯崎廣吉、別号酔亀亭。宝暦六年、鎌倉在今泉に生まれる。江戸に出て、初め本所石原のち四谷に住した。生涯、酒好きで、所々の自作の歌碑、墓碑、位牌にも、酒を表す標記(酒の印篆の一か)を用いている。また、酒にまつわる逸話も多く、その著『狂歌酒百首』(文化元年刊)は彼の面目を躍如たらしめている。「くむ酒はこれ風流の眼なり」は、その第一首を飾るものであり、こよなく愛したとみえ、彼の出生地、鎌倉市今泉 白山神社(今泉三丁目)参道入口にも、自筆のこの狂歌碑(文化元年銘)がある。−(「墨田区文化財調査報告書) 「標記」とあるのは、下の写真中央の徳利様(酒という字を図案化したものなのでしょう)のもののことです。この碑は、東向島の白髭神社にあります。戻
好酒院杓盃猩々居士
当寺の石碑は数にして四十ほどあり、歌碑、俳句碑、狂歌碑、筆塚及び漢文体で書かれた人物碑等が主である。雑然と置かれ、いたんでいるが多くは和文で書かれ、見事な草書体をなすので判読しにくい碑もあろう。碑面に記された名前には笑いを誘うようなとぼけたものもある。丹頂斉一声とか、現在庵露心、他に、盃の形をした碑面には 好酒院杓盃猩々居士 とあり、隣に 好色院道楽宝梅居士(男根の形)と記された珍しい碑もある。(向島 長命寺のしおり) きっとユーモアの分かる住職がかつていたのでしょう。好酒院の盃型の墓には辞世があるのですが、「われもまた つゆとなるみぞ」までは読めましたがあとは分かりませんでした。どなたか読める方がおいででしたら、ご教示下さい。ここには、名犬六助の碑もあります。戻
星の王子さま
次の星には酒飲みがいた。王子さまはこの惑星にほんの少しの間しかいなかったけれど、それでも彼はとても憂鬱な気分になった。「ここで何をしているの?」とたくさんの空の瓶とたくさんの酒の入った瓶を前に黙って坐っている酒飲みに向かって、王子さまは尋ねた。「飲んでいるんだ」と酒飲みは暗い声で答えた。「なぜ飲むの?」と王子さまは聞いた。「忘れるため」と酒飲みは答える。「何を忘れるため?」と王子さまは、なんかこの男がかわいそうになってきて、尋ねた。「恥ずかしいことを忘れるんだ」と酒飲みは下を向いて打ち明けた。「何が恥ずかしいの?」と、できれば手を貸したいと思いながら、王子さまは重ねて聞いた。「酒を飲むことが!」それだけ言うともう酒飲みはまたかたくなに沈黙の中に籠もってしまった。王子さまは頭が混乱したまま、その星を出た。大人というのは確かにとても変わった人たちだ、という思いをますます深めながら、王子さまは旅を続けた。(「星の王子さま」 テグジェペリ 訳者池澤夏樹) 「星の王子さま」の文庫本が出ているのですね。戻
通貨となったウイスキー
アブラハム・リンカーンは、よく知られているように、中西部の農村の出身で、かれの父はまだ荒野にちかかったインディアナに入植した開拓者であった。この入植時の記録をみて興味をそそられるのは、「二○ドルの現金と一○樽のウイスキーというのはかなりの量だが、べつだん、かれがアル中だったというわけではない。当時の西部では、ウイスキーが通貨として流通していたからなのである。じっさい、この基本財産は、リンカーンの父が、ケンタッキーの農場を売り払ったときの「代金」だったのであり、このウイスキーにより、かれはインディアナの土地を買ったのであった。じっさい、ウイスキーの通貨価値はひじょうに高く、たとえば一ガロンのウイスキーをもってゆけばインディアンから大鹿の毛皮を一頭ぶん買うことができた。(「一年諸事雑記帳」 加藤秀俊」戻
害虫問題
害虫問題を解決するのはほぼ不可能だ。数を減らすことはできても、絶滅させることはできない。<マリオンズ>に定期的にやってくる害虫駆除業者と友達になったが、彼は来るたびに、粘着剤がついた害虫捕り器を大量に置いていった。これは毒より残酷で、唯一効き目のある方法だった。ゴキブリや鼠は、大好物のバナナやピーナッツバターのにおいに誘われてはいってくる。駆除業者が帰るとかならず、毒にやられた鼠がぞろぞろ出てきてレストランを歩きまわり、食事客を怖がらせる。数日間は鼠を階段や外に追いだすことに忙しい−たいしてうまくいかないけれど。食事客が気づいていないときに鼠を見つけたりするとたいへんだ。ほうきを持ってこっそり歩きまわり、割れたグラスでもあるようなふりをする。もしくは、懐中電灯を片手に、このあたりに財布を忘れたというお電話があったので、と言い訳しながら、テーブルの下をのぞきこむ。(「酒場の奇人たち」 タイ・ウェンゼル) 私も、机の上をゴキブリが散歩しているといった同様の経験を時々しますが、虫に対する武士の情け、しらんふりすることにしています。戻
江戸の酒
『本朝食鑑』に従って当時の酒を仕込んでみた。今の仕込み配合と異なり、当時の酒造りは原料の蒸米と麹が多く水が極端に少ない仕込であったから、出来上がった酒は驚くべき濃厚な味の酒となった。現代の日本酒がアルコール度数一六パーセント、酸度一・五ミリリットル、アミノ酸度一・二ミリリットル、糖分四パーセントであるのに対し、江戸時代の酒はアルコール度数一七パーセント、酸度七ミリリットル、アミノ酸度六ミリリットル、糖分一六パーセントと、みりんのようにとろりとした酒であった。こんな味の濃い酒を何升も飲めるはずはなく、むしろなぞは深まってしまったのである。ところが、全く偶然に、その江戸の酒を水で薄めて飲んでみて驚いた。何と酒に三倍の水を加えても水っぽくならないのだ。今の日本酒では少し水を加えただけでは少し水を加えただけで水っぽくなり、飲めなくなってしまうのに全く不思議である。−
造り酒屋や問屋、小売屋、料理屋の各段階で酒に水が加えられれば、アルコール度数は下がるが量は増え、水と加えた者はもうかる。どうやら鯉屋利兵衛は、相当アルコール度数の低い酒を飲んでいたようだ。(「食に知恵あり」 小泉武夫)戻
伊勢屋作兵衛(いせやさくべい)
最初、町づくりをするとき町人たちの希望にまかせて土地を割りつけ、揚げ土を与えて家屋敷を構えることを家康は許したが、土地を整備するにしても一人の力では出来ないので、町人たちは仲間を呼び集めて町づくりをした。そうすると、自然に有力者が上に立つことになる。こうした者が住民をさらに殖やしてゆき、町々を支配するようになった。これが名主(なぬし)で、開発にあずかった名主を草分名主と呼び、名主たちの中でも重く扱われた。このような名主を行政の末端組織にして、名主の上に、名主たちを統括して江戸総町を支配する町年寄(まちどしより)なる者を置いた。この町年寄の上に、町奉行を置いて市政全般を監督させた。町奉行は幕府直属の役人で武士であるが、町年寄以下は町人で、今日で言うなら町年寄は都知事というところであろうか。とすると、名主は区長や町長に当たる。初期の頃、町年寄に任命された者に、樽屋藤左衛門、奈良屋市衛門、喜多村弥兵衛などの名が見える。このほか職人たちの間から鉄砲御用達の胝(あかがり)惣八郎、桶大工頭の細井藤十郎、野々山弥兵衛、土器大工の松井弥右衛門、酒屋御用達の伊勢屋作兵衛なども町年寄に選ばれたが、これらはいずれも家康の旧領から家康を慕って江戸に移ってきた者たちであった。(「江戸城」 戸川幸夫)戻
長期熟成酒
長い年月がかかることで、なかなか結果を予測することはむずかしいが、吟醸酒を低温か常温で、五年近く瓶詰めの状態で保存する淡熟タイプと純米酒を常温で十年以上熟成させる濃熟タイプの二つがある。仕込むときの麹の使用量を倍にして、まろやかさを出すとか、十年後に変わるであろう酒質を予見できるようになってきた。達磨正宗の白木善次社長は、かつてボルドーへ視察に出かけたことがある。「世界で最も高価なワインだが、決して高くない」といわれる甘口白ワインの王者、シャトー・ディケムの蔵を訪ねたとき、「この樽に、自分のところの日本酒を詰めてみたら、どうなるだろう」と考えた。並みの人には、なかなか思いつかない発想だ。実際にボルドーから輸入した新樽で、二ヶ月ほど熟成させたところ、ほのかなカスタードクリームのような香りのする酒に仕上がった。(「利き酒入門」 重金敦之)戻
家族混線曲
往年の漫才師、中田ダイマル・ラケットの十八番『家族混線曲』というのが面白くて、聞いていると頭がおかしくなる。「何が原因でそないもめとんのや」「孫ができてね」「誰にや?」「ぼくに」その孫の父親(娘の婿)が酒乱で、夜になると「酒こうてこい」とどなるし、「買いにいかな、はり倒しよる」実は、その娘の婿というのは、「長年、ぼくをこれまでにしてくれたぼくのお父さんやねん、親父と娘がいっしょになりよって、おもろいやっちゃ」お父さんと娘がいっしょいなるということは、おじいさんと孫がいっしょになることだ。「きょうびはいとこ同士が結婚してでもね、血が濃いからいかんというねん、おまけに孫とおじいさんがいしょになってみい、いとこ以上に血が濃いねん」孫と言っているのは「僕の嫁はんのつれ子や、うちの女房はね、ぼくんとこくるまでに結婚しとって、ほいで子どもがでけた。ほいで亭主に死なれて、その子をつれてこっちへきた」その子と親父が結婚して女の子が生まれた。(「散語拾語」 安野光雅) 池内紀の「地球の上に朝がくる」にあるそうです。今なら漫才ではなくて、充分ありそうな感じでは?戻
河上徹太郎の酒
お母さんは私たちに夕食の御馳走して下さった。三人ともずいぶん酒を飲んだ。私はもうこれで限度だと何度か思った。ところが、それでもまだ銚子が空になると、お母さんが「徹っちゃん、飲む?」と聞き、「うん」と河上君が答えるので、お母さんが女中の手を煩わさないで自ら燗をつける。その銚子が空になると、またしても「徹っちゃん、飲む?」「うん」である。お母さんは黙々として燗をつけられる。かつて河上君が東京の酒場で黙々と飲んでいた習慣は、この物静かな団欒のうちから生まれたものではなかったろうか。「徹っちゃん、飲む?」「うん」は夜ふけまで繰返された。(「井伏鱒二文集」 ちくま文庫) この三人は、井伏鱒二、河上徹太郎、三好達治だそうです。戻
将軍の夕食
浴後夕食。ちょっとした煮物や焼き魚が加わる程度。飯は水洗いした米を湯で煮上げ、笊(ざる)で掬(すく)って蒸したパサパサしたオカラ状のもの。魚類も入念に水洗いして脂(あぶら)を抜き去ったデガラシ状のもの。酒は将軍専用の御前酒という赤くて臭気のある古酒。その上、将軍家には代々血縁の忌日(きにち)が多く、月の大半は精進日で魚介酒類はダメ。蛋白質、脂肪分の極端に少ない低カロリー低栄養素の食事となる。好き嫌いは厳禁。食べ残すと医者が飛んで来たり料理役人が叱責されたりする。食後、政務が残っていれば処理する。学者から課題が出されていれば徹夜にもなる。ふだんは自室で就眠。大奥泊まりは忌日以外の数日のみ。側(そば)には二十四時間離れず二〜三人小姓が付く。小姓は二時間(一時間とも)交替なので、気があっても長く過ごせない。前夜の就眠時間にかかわらず、翌朝は六時起床。将軍の「ア・ハード・デイズ・ナイト」である。(「一日江戸人」 杉浦日向子)戻
濁かん酒屋
強力に天保改革を推進した水野忠邦は一度は老中を退いたが、再び翌弘化元年(一八四四)六月に返り咲いた。しかしその年の十一月末には、早くも両国に夜鷹と呼ばれる私娼が出た。改革後初めてのことであったため市中では大評判となった。二年の八、九月ごろからは東両国広小路に三人、木挽町采女(うねめ)ケ原に三人というように方々に出没し始めた。十月には深川にも出た。このとき取締りの各関係者に贈った賄賂は、合計一○○両に達したという評判であったが、わずか三日で追い払われてしまった。しかし、天保改革で岡場所・私娼は一掃され、きびしい市中取締りが続いたあとであったから、「貴賤に限らず見物大群衆」した。これをあてこんだ夜鷹そば、茶めし、あんかけ豆腐、鮓(すし)、おでん、濁かん酒屋などが出て大繁盛となった。(「江戸 巨大都市考」 北島・南) 江戸っ子の物見高さがよくわかります。「濁かん酒屋」(にごり燗酒屋)などというものがあったのも面白いですね。戻
五石散(2)
「散発」のときは、腹をへらしてはいけないので、冷たいものを食う。しかも、いそいで食わなければいけない。時間にかまわず、一日に何回も食います。その影響で晋代には「喪(も)に居て礼を無(な)みず」−もともと、魏晋のころは、父母にたいする礼法が非常に面倒でした。−
晋の礼法では、服喪中は肥ってはいけないし、飯をあまり食ってはいけないし、酒を飲んでもいけない。しかし、薬を飲んだあとは、命にかかわるから、そんなことを気にしていられません。大いに食わなければいけない。ですから「喪に居て礼を無みす」という風に変わりました。服喪中に酒を飲み、肉を食らうことは、金持ちや名士連からはじまって、猫も杓子もまねするようになったのです。そのため、世間から名士派という尊称を奉られたのです。(「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」 魯迅)「散発」は五石散の作用が出てきたときにしなければならなかった、体を動かすなどの行為です。この薬を飲むと皮膚がむけて痛いのでだぶだぶの服を着たり、サンダルを履いたそうです。当然精神にも大きな影響があったことでしょう。 五石散 戻
必ず飲ます町方の年始
生酔(なまよい)は 御慶(ぎょけい)に 節をつけていひ
で、もう酒が入っているから、挨拶にも調子がある。「礼帳に 名までよろける いい機嫌(きげん)」、「年始帳 供(とも)にかかせる 気の毒さ」。どこでも年始の者の名を書く礼帳が出ている。酔いすぎて供をつれた手代や鳶(とび)の頭(かしら)に書かせる。
残る筈 酒の廻った 年始なり
二三軒よろよろすると日が暮れる
年始にいくと、必ずあげて飲ますのが習慣になっていた。(「江戸風物詩」 川崎房五郎)戻
寝声(ねごえ)
▲アド して、都では、何処(どこどこ)々々を見物した。珍しい事はなかつたか。 ▲シテ 別に珍しい事もござらぬが、都には面白い小謡(こうたい)がはやりました。覚えて参りました。 ▲アド それは出かした。聞かう程に、謡(うた)うて聞かせい。 ▲シテ 畏(かしこ)まつてござる。さりながら、私の謡ひますには、酒をたべませねば、声が出ませぬ。一つたべて、謡ひませう。 ▲アド それなら、酒を飲うでなりとも、謡うて聞かせ。 ▲シテ 一つくだされませうか。 ▲アド さあさあ、これで飲め。 ▲シテ これは大盃(おおさかづき)でござります。お酌慮外でござる。 ▲アド 苦しうない、飲め。(「寝声」 狂言記) アドは主、シテはその召使いの太郎冠者です。勝手に都(京都)見物に行ってきた太郎冠者を怒ったものの、都の話を聞きたい主は、まんまと太郎冠者に酒を飲まれてしまいます。しかも自分の膝を枕にして、謡わせることになりましが、太郎冠者は少し謡ったまま高いびきという結末となりました。戻
トコリ
上野公園に土古里(03-5807-2255)という韓国料理レストランがあります。食後、帰りがけに、トコリって何のことですかと聞いたら、蒸留器との答でしたので、さっそく見せてもらいました。それが下の写真です。新しいもので、観賞用なのでしょうが、たぶん韓国の伝統的な形なのでしょう。蒸留を行う原理な構造は同じなのですが、日本のものとは少々形の違うことも面白く感じました。街を歩いていると時々こういう”発見”があって楽しいものですね。戻
最後のひと花を町長選挙で
北海道留萌支庁天塩町で食料品店を営む峰村信慶氏(八七)が、「最後に死に花を咲かせたい」と、パッと思いつき、無競争と思われていた町長選挙へ立候補することを決意したのは、四月十六日、告示の前日であった。翌日、氏が選管を訪れたころには、町中がこの噂でもちきりで、氏の妻子はおろか、ひ孫までが、「いい年をして、おじいちゃん、なんてことをしてくれるの」と、氏の行方を捜索するという大騒ぎになっていた。が、書類上の不備と供託金十二万円の未払いにより、この日は受け付けをしてもらえず、氏は老骨にムチ打ち、七十五キロも離れた稚内法務支局までタクシーを飛ばして手続きをすませ、トンボ返りで選管に戻ったが、タッチの差で受付時間に間に合わなかった。翌朝、町中がかたずを飲むなか、氏は再び選管を訪れるべく、枕元にあった袋を見ると、中にあった書類がない。家族の誰かが隠したのだ。必死に探し回ること丸一日。ついに、時間切れとなり、かくて、全国町長選挙史上最高齢と思われる立候補はついえてしまった。この夜、氏は家族一同から慰めの代わりに、お酒一本つけてもらい、また、無競争当選を果たした現町長陣営からも、祝い酒の誘いの電話があったが、こちらは、「そんなところへ行けるかっ」と辞退した。(「デキゴトロジー」 週刊朝日風俗リサーチ特別局編著)戻
石原裕次郎の酒量
剛毅果断、の男であった。日本酒一升五合を平気で飲んだ。酒のうまさを知ったのは幼稚園児の時である。きっかけは、歯痛だった。父親が爪楊枝の先に脱脂綿を巻きつけ、これにウイスキーをしみこませると、虫歯の穴に押し込みくわえさせた。それで酒の味を覚えた。歯が痛い、痛いと訴えては、父親にねだった。この父親が高校時代に急死、ショックで、荒れだした。新宿でやくざ者五、六人を叩きのめし、留置場入り。喧嘩はよくやったが、負けたことがない。喧嘩のコツは、体力とテクニック、と語っている。裕次郎には、これもスポーツの一種だった。(「百貌百言」 出久根達郎)戻
高校生の酒
私は飲ん兵衛である。そうそう人にひけをとらぬと自負している。高校生の時、三年生になって、学校の自治会の委員の先輩と交代するとき、先生二人と車座になって、弓道場の囲炉裏をかこんで飲みながら話をした。そこには日本酒がだされていた。その頃の私たちの飲むアルコールは、ドブロクがほとんどで、日本酒はたいへん貴重なものであった。私はそれをかたじけなく飲み、話なんてそっちのけであった。ふと気づくと、パトスと綽名(あだな)のある今度卒業してゆく男が、しきりと先生たちと議論している。彼は高校生の自治を主張し、先生たちは、それは行きすぎになる恐れもあるからと言ってなだめている様子なのだ。それまでにずいぶん飲んでいた私は、すでにすっかり酩酊していた。突如、私の頭にこういう思念が閃(ひらめ)いた。高校は、あくまで生徒によって自治してゆくべき場所である。それなのに先生たちは、けしからんことに、それを妨害せんとしているではないか。次の瞬間、私の手は自分でも気づかぬうちにあがっていて、二人の先生の顔を、ポカリ、ポカリと殴っていた。(「マンボウ人間博物館」 北杜夫) 北杜夫の通っていた、松本深志高校の生徒による自治の気風は、初代校長によって性格づけられたと読んだことがあります。戻
【からむ(絡む)】
とにかく我々の時代からは、文士の遊興は原則的におでんや中心になつたらしい。だから遊ぶといふよりも、議論をする、からむ、といふのが酒の上の最上の芸であつた。自然、小林秀雄がわれらの花形となつた訳だ。このからむといふ遊技は、一般の場合のような酒の上のあくどいいひがかりといつたものとは少し違つてゐて、もつと心理的な揚足取りの部類に属するものを含んでゐた。(河上徹太郎「河上徹太郎全集」)−
酒宴と「からむ」とは古今、浅からぬ縁があるようだ。とくにかつての文士は「からみ酒」を得意芸(?)としていたフシがある。当時の文士らがよく訪れ、井伏鱒二の詩にも歌われた新橋の吉野屋も「からむ」遊技がよく行われていた、いわば「サロン」の一つであった。作家の永井龍男は、小林秀雄のからみ酒に関し「精密な歯車の組合せを、一つ一つほぐして酒で洗ったかと思うと、それをまた組み立てるような、云わば独り遊びをしながら」酒を飲む、と言っている。(「『酒のよろこび』ことば辞典」 TaKaRa生活文化研究所編)戻
酔いはない酒
ジィちゃんが武原はんさんと結婚したのもその頃のことで、夕方になると皆でいっしょに待合へ出かけたという。おはんさんは、御承知の通りきちんとした人であるから、家の鍵を帯の間にしまいながら、鍵をもっていると気になって、「あんじょう酔えしまへんねん」というと、ジィちゃんは間髪を入れずいった。「鍵は道連れ、酔いはない酒(世は情)」 おはんさんとの結婚については、嘘かほんとか知らないが、お見合いの席から二人で駆落ちしたというという話がある。それほど惚れあった仲であったが、長つづきしなかったのは、やはりジィちゃんの生活が放埒(ほうらつ)すぎたのであろう。お客は毎日きりなく来たし、夕方になると勢ぞろいして呑みにでかける。それらは皆ジィちゃんの奢(おご)りだったから、たまったものではない。おはんさんが、姑(しゅうとめ)のところへお金を借りに行くこともしばしばあったと聞いている。(「いまなぜ青山二郎なのか」 白洲正子) 戻
捕らぬスズメの味算用
スズメと言えば中学生のころのいたずらを思い出す。ラジオの落語で聞いたのだが、酒を吸わせた米をまいておくと、スズメたちがついばみに来る。酒に弱いスズメはその場で酔ってよろけて飛べなくなるので、わけなく捕らえられるという話だ。よし、やってみようということになり、酒蔵から粕取焼酎を一升かすめ取ってきて、丼に入れ、米を浸して一日置いた。翌日、しばらく風に当てて表面のアルコールを飛ばし、その米を持って、スズメが朝から晩まで大騒ぎしている竹やぶに行った。米をまいてスズメの来るのを隠れて見ていたらば、スズメたちはすぐに隊列を組んでやってきて、ついばみ始めたのである。「落語の話は本当なのだな」と心臓をドキドキさせながらスズメたちが酔うのを待ったが、いくらたっても酔ってふらつくスズメなど一羽もいない。せめて千鳥足、いやスズメなのだからスズメ足でよろけてくれてもいいものを、やっぱり見当たらない。そこで突然大声を出して突撃していったところ、あっという間にスズメは一斉に飛び立って逃げて行ってしまった。すずめがあんなに酒に強いとは思わなかった。(「食あれば楽あり」 小泉武夫)戻
カール・マルクス、斉藤茂吉、葛西善蔵
ボンの大学生だったマルクスの修業証書には「夜中泥酔して人びとの安眠を妨害する喧噪行為ありしため、一日の禁足令に処せられた」と附記してあり、借金をして、父親を困らせたこともあった。
ウィーン留学中の茂吉が、ある夕方散歩していると、接吻している男女があった。かれは気になって、木陰に入ってそれを見ていた。一時間たっても男女は離れぬ。茂吉は「長いな長いな」と嘆息し、飲み屋に入ってビールを傾けてようやく気を落ちつけた。
葛西善蔵は年中酒びたりといえるほど酒好きだった。ある人が「酒を飲み過ぎて、胃を悪くしたから」というと、葛西「胃の悪いのを、酒のせいにしてはいかん。弱い胃を持ってまことにあいすみませんときみは酒にあやまらなくてはいかん」(「世界にこぼれ話」 三浦一郎)戻
千鳥足
酒に酔っぱらった人の歩き方を形容する「千鳥足」という言葉があるが、この「千鳥足」という言葉の語源は、江戸時代の辞書『和訓栞(わくんのしおり)』に「千鳥の足は三岐(みつまた)にてあとの爪なくて、左右相違へて走り、歩みの乱れるものなれば人にも比していへり。ちどりがけもこの類なるべし。」と出ている。その説に従うのが普通だった。ところが、蟻川英夫氏は『野鳥』の昭和十四年六月号に新説を提唱され、「千鳥というものは、ある距離をツツツーとまっすぐ歩いたかと思うと立止まり、また方向を変えて、ツツツーと歩く。すなわち大きく/\/というようにジグザグに歩く。これを言うのだろう」と言われた。(「ことばの歳時記」 金田一春彦)戻
ベンチュリー
アル中の男を扱った映画「失われた週末」のバーは、セットである。ニューヨーク三番街のとそっくりのを、ハリウッドに再現した。酒びんの並びまで同じ。
ある一週間、出演者でもないのに、夕方になると一杯のバーボンを飲みに来る常連ができた。ニューヨーク好きの作家、ベンチュリーだった。(「アシモフの雑学コレクション」 星新一編訳)戻
ビールと日本酒の使用酵母量
ホップを添加し煮沸した麦汁を無菌的に摂氏七〜八度に冷却し、これに酵母を加え醗酵を行わせる。この時麦汁に加える酵母の量は他の酒類にくらべきわめて大量である。加えられた大量の酵母で一気に大量の麦汁を発酵してしまう。添加された大量の酵母による圧倒的支配を実現し、他の雑菌類の浸入・増殖の余地(スキ)を与えないのである。日本酒の場合、少量の酵母を徐々に増殖して規模拡大を計ってゆくが、思想は同じで酵母の量に見合う醪の量をきちっと守って無理をせず、雑菌類の増殖を許さない手法である。酵母の純粋培養の技術は十九世紀、パスツール、ハンゼンにより確立されるが、その遥か以前から微生物の本体を知らぬままにこのような知恵を発揮してきた(しかも東西同様に)ことは驚くべきことである。(「酒の科学」 野尾正昭)戻
大盃の新聞記事(2)
も一つの方は、栃木県益子町の祇園祭の、一斗余の酒をたちまち飲みとる古式豊かなお神酒頂戴の報道で、これは数百年来伝わる五穀豊穣家内安全祈願の儀式のよし。さて盃は直径一尺二寸五分の朱塗りの逸物、これに三升六合五勺(三百六十五日に因む)の熱燗の酒を湛(たた)え、先ず今年の祭当番連中が紋付羽織袴姿で二杯飲み、ついで来年当番の代表十名がやはり同じ出立(いでたち)で三杯(一斗九合五勺)飲む。もし飲みきれなかったら、祭引継ができぬとあって、各々ゆで蛸(だこ)となって大奮闘、云々。(「凡人の酒」吉野秀雄) 一人で一升以上を飲むのですからたいへんなお祭りですね。戻
大盃の新聞記事(1)
最近の新聞記事に大盃の咄が偶然二度出ていた。一つは、雲州松江の藩主松平直正公が愛用したと称せられる六升五合入りの超大盃が、松江市黒田町小林滋子さん四十三歳方から発見されたというもので、その盃は朱塗りに金で縁取り、直径は五十四センチ、周囲は一メートル七十七センチ(少し計算がおかしいが、多分ゆがんでいるのだろう)高さは二十二センチ、古老の談によると、「出陣の盃」といわれ、藩主から家老の朝日丹後の手に移り、明治になって後、嘗(かつ)て庄屋だった小林さんの先祖が大枚一円五十銭で買い取ったのだとやら。この大盃に酒をなみなみと満たすと目方凡(およ)そ三貫五百匁、これを直正公お抱えの力士雷電為右衛門が軽々と手にうけ、悠々と飲み干したといういい伝えもあるよし。(「凡人の酒」吉野秀雄) どうみても、不昧公(松平治郷)のことのようですが、直正ともいっいたのでしょうか。戻
秘密の樽
ぼくらはがっかりした。部屋には何もなかった。骸骨も、ナチから隠した秘密の数々も、何ひとつそこにはなかった。ただ、木の棚の上に、樽が二個、横向きに置かれているだけだ。セルジュはそのうちの一個をこぶしでたたいた。「ドン! ドン!」空っぽだ。二個目をたたいてみる。「トック!トック!」入ってる! セルジュはぼくの小刀で、樽のトップにある栓をこじ開けると、かがんで臭いをかいだ。「ワインだ! ニック! ワインだぞ!」彼はそこらを手探りして、ほこりのたまったガラスの管みたいなものを探してきた。片側に取っ手がついている。着ていたシャツでそいつをぬぐうと、彼はそれを樽の中に差し込んだ。あとになってぼくは、この管がその名も『ワイン泥棒』と呼ばれ、味見のために樽からワインを汲み出すのに使うものだということを知った。セルジュは取り出したガラス管を口に入れると、歓声をあげた。ぼくらの見つけたのは、樽いっぱいの最高級白ワインであった。明らかに、ドイツ軍が城を占拠する前に、詰めて、隠しておいたのだ! 凄い宝じゃないか! ぼくは、セルジュが汲んでくれたガラス管を口に含み、そのワインを味わった。まさに、素晴らしい味だった!(「ニコルの青春記」 C・W・ニコル) 15歳の時、交換学生としてフランスに渡り、引受先の家の息子セルジュと一緒に、廃城の隠された地下室でワインを発見した思い出話です。彼らはワインを買いにいくとき、白ワインはそれで間に合わせ、小遣いをかせいだそうです。戻
酒の肴としての餅
東京のが餅以外には菜つ葉位しか入らないのであるからそれよりも具が少ない雑煮はあり得ないとも考へられる。−
東京の雑煮をちやんと作つたのは旨いものである。それに使ふ餅は東京のは勿論話にならないが餅はどこのでも今は手に入つてその中で新潟の餅が飛び切り上等であるということは既に書いた。そして不思議にかういふやり方では一緒に入れる小松菜が何かも生きて来てこれが菜つ葉だといふ味がするのみならず気のせゐか、その緑も冴えて見える。それに純白に焦げ目が付いた餅で汁が光り、傍に味醂でなくて酒に屠蘇散を浸したお屠蘇があって正月が間違ひなく正月になる。この他にも餅の食べ方は色々あつてもかうした東京風に作つた雑煮が一番餅の味を引き立てるやうで、これが確かなことに思はれるのはかうする以外に餅が酒の肴になるといふことが考えられない。或はかうして始めて餅のやうなものも酒の肴になるので、これは東京風の作り方を工夫した人間、或はこの仕来りが出来た江戸の人間全体が酒飲みだつたことを示すものでなければならない。(「旨いものはうまい」 吉田健一)戻
信濃で酒を売る方法
信濃の国はひどく寒い国で、冬の内は酒屋で酒樽の呑み口を抜くと、流れ出る酒がそのまま凍って棒になってしまう。それを山刀でぽきぽきと打ち折り、それを縄で五本十本とたばねて置くと、客は一連二連と買いに来て、火でとかして呑む。あるとき、万八がまちがえて、小便の凍ったのを酒だとおもって拾って帰り、それを呑んで胸を悪くし、へどを吐いたらそれがまた凍って困ったという。(「話のたね」 池田弥三郎) 黄表紙「虚言八百万八伝(うそはっぴゃくまんぱちでん)」にある話だそうです。たしかに場所によって信州は寒いようで、風呂から出て、濡れたてぬぐいをぐるぐる振り回すと凍ってしまうという話を聞いたことがあります。戻
二十四、五の吉行淳之介
有楽町の駅のすぐ前に食い物横町みたいな一劃(かく)があって、その中に一軒の天ぷら屋があった。牧野社長は四十前後で、小生は二十四、五の生意気盛り。特別気に入られたという感じもなかったけれど、まあこっちは結構仕事はできたから、何となく友達みたいな気持で、よく二、三人で一緒に飲み回った。その天ぷら屋へも、会社の帰りに二、三人で、ほとんど毎晩寄っては、それぞれコップ酒を六、七杯飲むという時期があって、それが何か月も続いた。最初の何回かは、ちゃんと金を払っていたのだが、そのうち払えなくなって、勘定をまったく払わない。小生は、元々、バーも含めて酒の勘定とバクチの勘定だけは、いかなる苦労をしてもきれいにしなければ気の済まないタイの人間である。その種の金をきれいに払わないのは、潔くしないということなのである。(「悪友のすすめ」 吉行淳之介) 結局この借金は支払ったそうです。戻
護持院隆光
元禄八年九月十八日、綱吉が護持院に参詣した日のことも詳しく記されている。綱吉から白銀百枚と屏風二双を頂いたのち、書院に移って隆光が「守灌経」を講じる。その後代って、綱吉が論語の「仁者楽山、智者楽水之段」を講じ、そのあと黒田豊前守が同じく論語を講じた。終わると、御殿に移って料理を出す。綱吉のお膳は隆光がっさげ持って登場し、隆光も相伴にあづかる。酒杯のやりとりは、次のようである。まず、綱吉が土器(かわらけ)を台から取り上げて二杯飲んだところで、肴をすすめる。綱吉はまた一杯飲む。この杯を隆光にまわす。柳沢吉保が中間に居てこれを取りつぐ。隆光が一杯飲むと綱吉が肴をすすめる。肴をすすめられ、また一杯飲む。そこで綱吉に献杯する。綱吉は一杯飲んで、かわりの肴をつまんで、また一杯飲む。隆光に盃が渡る。一杯飲み、肴に手をつけ、また一杯頂いて、これで終る。ここおまでが儀式なのであろうが、それにしても念が入っている。(「江戸奇人稀才事典」 祖田浩一) 5代将軍綱吉に近づいた護持院隆光との盃のやりとしだそうです。戻
本由(ほんよし)は人の噂で「酒も飲み」
「−折柄黒船騒ぎとなったので、本由(ほんよし)の商売はいよいよ繁昌となった。大々名でもあれば何人も使者を出して早飛脚といふ手もあるが、貧乏大名となるとさうはいかない。そこでこの本由通信社に頼らねばならなかった訳である。九十六文を倍にしてもよいからといふことになり、自然特種料などといふこともできたらしい。おかげで本由はすっかり身代を作り上げてしまったとある。さう聞くと大変にいい商売のやうだが、儲かれば儲かるほど忙しく、一日中店の机に坐りっきりで、傍へ酒を入れた土瓶と灸点の道具を置き、疲れるとその土瓶でぐいとやり、いい気持になり過ぎると今度は灸点でぐいと締める。通信社ともあれば年中無休でもあったらうし、大抵ではなかったといふが、それはさうだろう。」(「江戸の情報屋」 吉原健一郎) 路傍で古書を商いつつ情報を商売にし、江戸末から明治にかけて生きた須藤由蔵(本を商った由蔵→本由)の挿話で、高田保の著作にあるものが、「江戸の情報屋」に紹介されていました。本来の川柳は「人の噂で飯を食い」です。 「藤岡屋日記」 戻
金馬の「居酒屋」
金馬といえば「居酒屋」、「居酒屋」といえば金馬というくらい金馬十八番の噺のまくらで、「居酒屋」がこのごろ少なくなったと言い、「なくなったのかと思ったら、バー、と名前替いをしました。たいした違いではございません。縄のれんも古いからッてんで取ッ払っちゃってガラス戸にしました。いつまで醤油ゥ樽でもないッてんでェ、学校の払い下げの椅子かなんか並べちまって、羽目板が汚くなったッてんでェ、ペンキか防腐剤で一ト刷毛塗ると、どん…な居酒屋でも一躍、バー、と早変わりをします。居酒屋も一ト刷毛塗ればバーとなり」 昭和三十年代、わたしが二十代のころ、よく出入りしたトリスバーの中にも、「一ト刷毛塗った」元居酒屋があったかもしれません。Tハイというハイボールが主流でした。雑種三級のトリスウイスキーのハイボールです。ブランデーを頼むとブランデーグラスに一滴垂らして、マッチで火をつけました。グラスを暖めるためでした。今じゃそんなことしません。飲んで外へ出ると、電柱の陰で傷痍軍人がアコーデオンで軍歌を歌っていましたっけ。−三代目三遊亭金馬(一八九四〜一九六四)(「かがやく日本語の悪態」 川崎洋)戻
横井小楠
天保十年(一八三九)春、小楠は江戸の人となった。三十一だった。上府は塾からの追放処分だが、官費留学は「モットモ学士ノ栄誉トナストコロ」でもあった。周囲は、彼にちゃんとやってきてもらいたい。そこで、禁酒を勧告した。彼は励行を謹んで誓った。よくよくの鼻つまみ酒だった、と察しがつく。監物は手紙で、「酒ノホウハ、イカホドニ候ヤ。イヨイヨモッテ厳禁ヲ祈リ申シ候。コノ儀ノミハ深ク御気遣イ申シ候」ひりひり心配している。「かんで、ふくめる」とは、まさしくこのことだろう。本人も、みんなの懸念を充分に承知していた。だもんで、「酒ハ別シテ大切ニテ、イッサイ禁制ツカマツリ」わざわざ、兄貴に強調している。まるで、勉強より禁酒のほうが一大事みたいではないか。ところが小楠先生、ほんとは元気に飲んでいた。”つい、もとにもどっちゃった”なんて段じゃない。東上の道中で、早くも杯を手にする。禁酒はおろか減酒するつもりさえ、はじめからイッサイなかった。江戸では、「アルイハ朋友と会シ 議論シテ肝膈(かんかく)披(ひら)ク 慨然(がいぜん)タリ天下ノ事 悲歌コモゴモ巵(さかずき)ヲ把(と)ル 淋漓(りんり)トシテ意気揚(あが)リ 酔語四隣(しりん)馳(は)ス」 なんのことはない。時習館時代より、むしろ意気アガっている。(「幕末酒徒列伝」 村島健一)戻
横溝正史
『八ツ墓村』や『本陣殺人事件』など、金田一耕助モノで有名な作家の横溝正史(せいし)は、飛行機どころか、汽車にも乗れない、激しい「乗り物恐怖症」だったという。彼の場合、汽車に乗ると、なんともいえない恐怖に襲われるそうで、恐怖と孤独でじっと座っていることができない。彼にこの症状がはじめて出たのは昭和八年。東京駅から汽車に乗っていた彼は、千葉まできたとき、いきなり恐怖を感じて、突然、降りてしまった。しかたがないので、旅館でひと休みして、日本酒をラッパ飲み。後はもう酒を飲みつづけてベロベロに酔っぱらって、怖いものなどなにもないという心境に達したところで、ふたたび汽車に乗り、やっとのことで家にたどり着いたのである。彼は、それ以降、絶対にシラフで汽車や電車に乗ることはなく、どうしても乗らなければならないときは、水筒に日本酒をたっぷり入れて、いつも肩からぶらさげていたそうである。(「酔っぱらい毒本」 ユーモア人間倶楽部編)戻
「うしなわれた混合酒」
「『お前さんたちに話すのを忘れていたが、先月からニカラガでは、壜詰めの商品には、どんなものにも申告価格の四十八パーセントの輸入税をかけることになったんだ。大統領が、壜入りのシンシナティ製ヘアー・トニックを、うっかりタバスコ・ソースと間違えたもんだから、そのしっぺがえしというわけでね。樽詰めなら全部無税なんだがね』「『もっと早く、それを言ってくれりゃよかったのに』と、おれたちは言った。とにかく四十二ガロン入りの樽を二本、船長から譲ってもらって、手持ちの酒壜を片っ端から開けて、中身をみんな樽の中へぶちこんでしまったんだ。−
「ところで、もう一本の樽だ!なあ、バーテンさん、おまえさんは、黄色いリボンを巻いた麦藁帽をかぶり、八百万ドルばかりごっそりポケットにつめこんで、可愛い女の子と軽気球に乗ったことがあるかね?この樽から二十滴も飲めば、ざっとそんな気分になれようという寸法さ。−」(「うしなわれた混合酒」 O・ヘンリ) せっかくの「霊験あらたかな蒸留酒」でしたが、むやみにまぜたために、レシピがわからず、復元に苦労したものの…といった短編です。戻
笠智衆と東野英治郎
『晩春』といえば、撮影中に、とんだ失敗をしてしまったことがあります。娘の友達役の月丘夢路さんと、小料理屋でビールを飲む場面があったんですが、本物のビールを使ったので、酒を飲めない僕が真っ赤にになってしまい、撮影が中断してしまったのです。小津先生の映画には、酒を飲む場面が多い。たぶん、ご本人が大酒飲みだからでしょう。それ以降、僕は、ビールの代わりにに麦茶を使ってもらうようにしました。色が似ているんで、観てる人は気付かんはず。麦茶で酔っ払うというのも、なかなかオツなもんです。酔っ払いで思い出すのは、昭和二十八年の『東京物語』です。東野英治郎さんと飲み屋でしたたか酒を飲み、ベロベロに酔っ払う場面がありました。東野さんは、後年、テレビの水戸黄門様で活躍されましたが、そりゃもう上手な俳優さんで、舞台・映画・テレビと、いろいろやられた方です。確か、東野さんもあまりお酒をやられなかったはず。飲めないもの同士が酔っ払って、その場面が好評をいただくとは、おかしなもんですな。(「大船日記 小津安二郎先生の思い出」 笠智衆)戻
ルイ十五世、辰野隆、小林秀雄
ルイ十五世にある臣下がたずねた。「同時に大勢の婦人を愛せるものでございましょうか」酒好きの王は答えた。「もちろんのことじゃ、わたしたちはボルドー酒もブルゴーニュ酒も同時に同じように愛しているではないか」
辰野隆の母堂は息子に意見していった。「わたしの眼の黒い中は飛行機にはのらないでおくれ。フグも食べるんじゃないよ。お酒をのむ時は杯の上にお箸を二本のせてのんでおくれ。ニホンバシの下は水だから」
小林秀雄は少し酔うと人物評論をはじめる。ところがそれが「あいつはきちがいだ」と「あいつは正気だ」の二大分類しかないのだった。もっとも「お前はバカだ」というのもあって、三大分類だとの説もある。(「ユーモア人生抄」 三浦一郎)
戻
士族の商法
上級士族街の変わりゆく姿は、子供の目をさえ驚かした。家屋敷はこわされるか、半分切って売りに出し、門も塀もない草ぼうぼうたる中に、病人でもあるとみえ、絹夜具のそでが昼も障子のかげに洩れた。名門の顔よき娘たちが夜陰、茶屋の酒席に出るという評判がたってきた。やがてある武勇の家の門に「一寸一盃(ちょっといっぱい)」と記した行燈(あんどん)がかかり、玄関前に浅黄のなわのれんが垂れ、姉妹の娘が客席に出るというようなことが公然と行われるようになった。かくて士族の娘といえば、すぐ売笑婦と見くだすような世間の傾向になってしまった。−以上は木下尚江の『神・人間・自由』の一節である。明治初年の士族の困窮がよく描かれていると言ってよい。(「明治風俗故事物語」 紀田順一郎)戻
薬喰(くすりくい)
私の家は造り酒屋だったので、酒倉が穢(けが)れると云って、子供の時は牛肉を食はして貰へなかつた。四脚(よつあし)の食べ物は、一切家に入れなかつたのである。だから本当の味は知らないけれども、大変うまいものだと云う話は、学校の友達などから度度聞いて居り、又たまに夕方など、人の家の前を通り過ぎる拍子に、何とも云はれないうまさうな、温かい匂(におい)が風に乗って流れて来ると、ひとりでに鼻の穴の内側が、一ぱいに拡がる様な気持がした。田舎の町外れに、叔母さんの家があつて、古風な藁屋根で、入口には障子戸が嵌(は)まつてゐた。私があんまり丈夫でないから、薬喰に牛肉を食べさせようと云う内緒話が、そこの叔母さんと私の母との間にあつたらしく、ある日の夕方、私は母と一緒に、俥(くるま)に乗つて叔母さんの家に出かけた。(「御馳走帖」 内田百閨j戻
銘酒屋(2)
大正七、八年の頃観音堂(浅草観音)裏手の境内が狭められ、広い道路が開かれるに際して、むかしからその辺に櫛比(しっぴ)していた洋弓場(ようきゅうば)銘酒屋(めいしゅや)のたぐいが悉(ことごと)く取払いを命ぜられ、現在(いま)でも京成バスの往復している大正道路の両側に処(ところ)定めず店を移した。つづいて伝法院の横手や江川玉乗りの裏あたりからも追われて来るものが引きも切らず、大正道路は殆(ほとん)ど軒並み銘酒屋になってしまい、通行人は白昼でも袖を引かれ帽子を奪われるようになったので、警察署の取締りが厳しくなり、車の通る表通から路地の内へと引込ませられた。浅草の旧地では凌雲閣(りょううんかく)の裏手から公園の北側千束町(せんぞくまち)の路地にあったものが、手を尽して居残りの策を講じていたが、それも大正十二年の震災のために中絶し、一時悉くこの方面へ逃げてきた。市街再建の後西見番(けんばん)と称する芸者組合をつくり転業したものもあったが、この土地の繁栄はますます盛になり遂に今日の如き半ば永久的な状況を呈するに至った。(「『シ墨』東綺譚」 永井荷風) にごりえ 銘酒屋 戻
和漢三才絵図の酒
ながらく飲みつづけると精神を傷(そこな)い寿命をちぢめる。多飲すると身体はつかれ、精神は混迷する。これは毒があるからである。少し飲むと血を和(なご)め、気を行(めぐら)し、精神を壮(さかん)にし、寒を禦(ふせ)ぎ愁(うれい)を消す。酒に鹹(かん:塩辛さ)を加えると解するのは、水が火を制するという(五行相克の)理からである。大寒には海でもこおるのに、酒がこおらないのは、その性が熱で他物よりはげしいからである。枳「木具」(けんぽなし)、葛の花・小豆の花・緑豆(ぶんどう)の粉を畏(おそ)れるのは、寒が熱に勝つからである。酔い寝て風に当ると癜風(なまず:慢性皮膚病の一種)になる。酔って冷水を浴びると痛痺(つうひ)になる。また祭酒(おみき)の自然に減ったものは飲んではいけない。(「和漢三才絵図」 東洋文庫) 塩は水、酒は火ということのようで、酒に塩を加えると酔いが醒めるということなのでしょう。戻
酒のことわざ(9)
酒入れば舌出ず(酒を飲むと口数が多くなる。)
酒が言わする悪口雑言
酒買って尻切られる(人に酒をごちそうしたのがあだになって、乱暴される。)
酒買って乱となる(酒を飲めるだけ飲むと、次には酔っぱらいのけんかが起る。)
酒飲みは半人足(酒飲みは酒をのんでいる時はもちろん、飲んでいない時も一人まえには適用しない。)(「故事ことわざ辞典」 鈴木・広田編)戻
周恩来の乾杯
茅台酒のような強い酒ができたのは元の時代です。これはアラビア語でいうアラキだと思うのです。透明な焼酎です。それに水を加えると白濁するような、ああいう激烈なものは蒙古人の血が入った元のあたりからと思うのです。それが山西省に産する汾酒になったり、茅台酒になったりしたのであって、非常に歴史は浅いのです。醸造の紹興酒という線がだいたい中国の酒の主流であったと思います。中国人はよくお酒を飲むといわれて私は迷惑するのですが、かつて、周恩来がよく茅台酒で乾杯していました。あれはどうも水でやっていたようです。お供の人が茅台酒の瓶を持っておりまして、周恩来に注ぎまして乾杯するのですが、日本人はそれを見て周恩来は強いなと思うのですが、これは一つの礼儀でございます。あまり中国では根づいていないお酒のような気がします。(「中国の食物史」 陳舜臣)戻
佐々木信綱の酒量
蕎麦がいいから、蕎麦湯もいい。私はこれで、蕎麦焼酎の蕎麦湯割りを楽しむことにしている。この飲み方は、短歌の師である佐々木幸綱先生に教えてもらった。蕎麦焼酎の香りが、いそう濃厚に、甘味をともなって迫ってくるのだ。お蕎麦屋さんでも、この注文に応じてくれるところは、結構ある。先生は、短歌界の酒飲み番付を作ったら、必ず横綱だろう。読むだけで、お酒を飲みたくなるような名歌も多い。ちなみに、先日お目に掛かった、「最近は年をとったから、一升で充分だよ」と言っておられた。(「百人一酒」 俵万智)戻
紅顔会
せっかく私が「紅顔会」と名づけたのに、人あってこれを「赤面会」と呼ぶ。なにも恥じ入って赤面する必要はない。「紅顔」ならば、「可憐の美少年」とつづくことでもあるし。今は亡き愛知揆一氏、あれだけの人だから、長逝後、日のたった今日でも、まだ世人の記憶に新たである。大蔵省銀行局長、官房長官、法相、蔵相を歴任、世の愛惜に包まれて、故人となった。愛知さんとは、同時代人としての親しさもあるし、時々いっしょに飲むことがあった。私などよりはるかに酒豪だったが、二人の酒は、一つの共通点にめぐまれた。飲むとすぐ赤くなったりするのは、なんとなく修学旅行の学生の盗み酒めいて恥ずかしいことであるが、愛知さんも私も、いい年だし、何べん酒盃を手にしたかわからないくせに、どういうものか二人とも、ちょっとでもアルコールがはいれば、満面朱を注ぐ。ただ中学生と異なるのは、気持ちがわるくなることもなく、ねむくなることもなく、盃を置くこともない。真紅の顔を二つヒタと向き合わせつつ、いつまでも飲み進むことのものすごさ。(「味のぐるり」 入江相政)戻
江川酒(えがわざけ)
静岡県伊豆国の大川で、代官江川長左衛門が醸造して江戸幕府に献上した美酒で、広く美酒を江川酒ともいった。『渡辺幸庵対話』に、「江川酒の事、文字はこの如くにてはこれ無く候。豆州の内大川と申す処これ有候。すなわち大の字を書きてヱと読み申し候。鎮守は大川大明神なり。ここにあり、水にて造り出し申す酒にて、昔江川酒と名付け申す事、小川(大川−おかわ?)をヱツと読み申し候。江川には鱒鮭これなきものに候故、ます酒(まずい酒?)なきと称美の詞(ことば)にて、ヱ川酒と申し候。処の名とは唱(よび)は同じ事ながら、文字替はり申し候。小川長左衛門殿と申す仁(じん)、大番より此処(ここ)の御代官に仰付られ、御収納米にて此酒を造らせ献上に候。代々長左衛門殿は二百石取り申され候」とある。(「日本酒のフォークロア
」川口健二)戻
下戸の屁理屈
某月某日 酒が嫌いなら嫌い、飲めないでいいものを、何事にも下手な小理屈やら屁理屈をこねないでは済まぬ悪癖があって、そこでまたひと理屈こねあげると、第一に、身に染みこんだ貧乏性が、酒から私を遠ざけているようだ。いくら貧乏性の屁理屈屋であっても、酒を体内に流し込めば人並みに愉快になる。じつはこの愉快が怖い。この愉快な気分、爽快な心持ちに足を取られ心も奪られ、そのうちに酒が好きになり、やがて酒なしでは日が暮れず夜も明けず、ついにはアルコールなしでは生きられぬ程になったらどうしようかと、愉快な気分になった途端にそう考え出し、不安になってくるのである。貧乏性といえば聞こえはいいがいいがじつは臆病なのだろう。第二に、私は酒飲みが怖い。(「さまざまな自画像」 井上ひさし) と本人は書いていますが、結構飲める体質のように思いませんか…。戻
二升半たれ
ある曹洞宗の僧侶で、わたしよりはすこし若く、若い時分には一升酒を平気であおったのが、三十台で胃潰瘍にかかり、以来やむをえず禁酒したのだから、みずから落伍者の称に甘んじていたが、むろん壺中の趣味は解している。ある時(昭和四五年頃)久しぶりに会ったので、「近頃酒はどうです」ときくと、「ええふっつりとやりません、あなたは?」「相変わらず飲み過ぎて困ります」「それはいけませんね、年をとってから大酒をやると、健康を害することは明かなので、酒豪の多い禅家でも、たいていは三十台でよします、近頃では新井石禅老師が四十過ぎまで大酒をされたので、ついに長寿が保てませんでした」というから、「ちょっと待ってください」短命だったという新井師は、たしか七十余歳まで生きられたはずだというと、いかにも七十二歳で遷化されたが、禅家では七十台は長寿の内に数えられいという話から、当時現在の禅林各派中で最も酒豪といわれるのは、黄檗の前管長で七十八歳、酒量のことをその社会では一升たれ、二升たれまたは二升半たれなどというが、黄檗の隠居はその二升半たれだという。「たれ」というのはどういう意味か、多分酒造工程中、搾れば垂れるからの意だろうと思われたが、後で物識りにきいたところによると、いかにも酒量のことにちがいないが、かならずしも極量ではない。ちょっと尾籠な話だが、酒を飲むと誰でも小便が近くなる、飲み始めてから最初に便所へ立つまでの量だというのだから、なお飲みつづけるとしたら、その後の量は含まれていないことになる。(「荻舟食談」 本山荻舟)戻
賓之初筵(客が初めて席につく)
賓(ひん)ノ初メテ筵(えん)スル (客が初めて席につくや)
左右ニ秩秩(ちつちつ)タリ (左右に順序よく列ぶ)
邊(+竹カンムリ)豆(へんとう)楚(そ)タル有リ (食品を盛る器は清潔で)
「肴殳」核(こうかく)維(こ)レ旅(おお)シ (酒の肴は数々ある)
酒既ニ和旨 (酒はもとより和らかで旨く)
酒ヲ飲ムコト孔(はなは)ダ偕(ととの)ウ (飲むものははなはだ行儀がよい)
鐘鼓(しょうこ)既ニ設ケ (鐘や太鼓も適当な位置にすえられ)
「酉壽」(しゅう)ヲ挙(あ)グル逸逸(いついつ)タリ (杯も順序よくかわされる)(「中国酒食春秋」 尾崎秀樹)
朝廷で臣下のものが宴を賜い痛飲する様が詠われている小雅の一つだそうです。戻
新酒道樹立試案
一、四拾歳未満者の禁酒
二、祭事、祭礼の場合の祭酒を本義とすること
三、敬虔独酌の公認
四、薬剤的使用除外
五、粗悪酒撲滅
六、婦人子供への強要禁止(「酒とやまと魂」 山本蘆葉) 昭和16年発行のかなり変わった酒本の一節です。戻
入鼻(いればな)
時節もあれば、ある鼻欠け、赤坂の江戸一人へ行き、鼻を入れてもらい、戻りに友達の所へ立ちよれば「これは貴様はよい面体(めんてい)になりやつた。それはどうだ」「されば、かの赤坂へ行きて入鼻をしてきた」「さりとは、ちつともきわも見へぬ。妙だ」とほめる。袂(たもと)から紙につゝんだものを出して「これを見やれ」「なんだ」と広げてみれば、赤い鼻なり。「これはどうだ」「それか、それは酒に酔つた時の」(友達ばなし・明和七) 江戸一人は未詳だそうです。酒を飲んだ時の鼻まで用意してあるとは秀逸ですね。戻
南無酒如来(なむさかにょらい)
白雲 乞食坊主め。破戒無慚の悪僧め。かかる師の坊の行法の中に、飲酒戒(おんじゅかい)を破る上は、このままには差し置かれぬ。おのれ見いよ。(と身づくろいして行こうとする。黒雲坊立ちふさがり、止める)
黒雲 拝む拝む。
白雲 拝むとは、おのれ。
黒雲 あやまって改むるに憚(はばか)ることなかれ。大あやまりじゃ。それほどこなたが腹を立つならば、よいわ、樽を岩へ打ちつけて砕いてしまおう。如是畜生発菩提心(にょぜちくしょうほつぼだいしん)。(ト樽をぶつけようとする)
白雲 あゝら勿体(もったい)なや、一粒万倍一粒万倍。酒はもと菩薩をもってこしらえたものじゃ。酒になった所が即ち仏。南無酒如来南無酒如来。あまりの勿体なさに、よいわ、一杯飲んでやろう。
黒雲 飲んでもよいかや。
白雲 そこが臨機応変というものじゃ。ソリャ、一杯注げ。(「勧進帳」 服部幸雄 編)
薬だと言って酒を勧められた白雲ははじめ怒りますが…。歌舞伎十八番の「鳴神」の始まりの部分です。戻
想像力の小旅行へ
もしクリスマスのため、ワイン・ソサエティから買った詰め合わせの木箱の中に、シノンの一びんがあったら、私は、ロアールの赤ブドウ酒と書かれているそのラベルの説明より、もっと多くのことが知りたくなるだろう。そこでロアールのワインがボージョレイやローヌ、あるいはコート・ドールなどのワインとどう違うのか、そしてそれはなぜか、など知りたくなり、まずアレクシス・リシーヌの『ワインと酒の百科事典』で調べて、さらにアンドレ・シモンや、P・モートン・シャンド、そしてヒュー・ジョンソンたちが、それについてどう言っているかを探す。わずか七十五ペンスのワインの一びんのために大騒ぎをしているように見えるかもしれない。しかし、ただボトルを開けて飲むだけなら、ボージョレイよりほんの少し香りのいいこと以外、シノンについてはなにも気がつかないかもしれないではないか、それより、ワインと同じように良き書物の助けをかりて、私は想像力の小旅行に出かけ、休日から得られるような爽快な気分で帰ってこよう。(「わが酒の讃歌」コリン・ウィルソン)戻
洲崎高楼と北一輝
高木君と私(尾崎士郎)は、ある朝、洲崎にある娼楼の二階で目をさました。ほかに誰かいたようであるが記憶はハッキリしない。夜来の興の残るにまかせて、私たちはふところ具合なぞを勘定に入れることなしに、私の相娼(あいかた)君ケ代(そういう名前だった)の部屋で酒を呷(あお)った。番頭がやってきて勘定書をつきつけたのはいつのころであったか覚えてはいない。とうてい支払いのできる金額ではなかった。 −私は橋本の紹介で以前に北一輝を訪ねたことがあった。北一輝は学生時代の私たちの哲学の先生である北ヤ吉の兄貴である。私たちは彼の筆に成る「支那革命外史」を読んで感激していた。その跋文の最後の一節にある、「これをいうものは北一輝にして言わしむるものは天なり」という言葉に心酔した、何のはばかるところもなく、酔いにまかせて一輝先生に借金の申入れをしたのである。代々木原頭にあった猶存社が一輝先生の家だ。私は相娼君ケ代から巻紙を借り、一気に長い手紙を書いた。(「酒」 奥野信太郎 編) あとから届けるという北の返事だったそうですが、尾崎らは無罪放免になったようです。戻
「配達」と「出前」
[問]酒屋を営んでおりますが、最近、お客様のなかに、「出前お願いします」と言われる方が多く、困惑しています。そば屋ではありまえんから「出前」でなく、「配達」と言うべきだと思いますが、先日、「音楽の出前」というのを耳にしました。「酒の出前」でもおかしくないのでしょうか。(広島県・高畠文子)
−注文された料理を注文主のところへ持ってゆく、あるいは料理に添えて酒を持ってゆくのが「仕出」あるいは「出前」なのですから、酒屋に酒を頼んで「出前」と言うのはをかしい。つまり、あなたの説は正しい。酒屋に配達を頼む、あるいは届けてくれと頼むのが本式の言い方でせう。(「丸谷才一の日本語相談」 朝日文芸文庫) こんな言い方をする人がいることをはじめて知りました。戻
高島屋
最近、かの有名な幻のワイン、ロマネ・コンティのオーナーである女主人が販売会社の株を一部、高島屋に譲る話が出て、フランスのジャーナリズムが騒ぎ立てた。フランスの外資審議会は申請に対してイエスか、ノーかの返事すらせず、世論もロマネ・コンティが日本人の手におちることは反対だと言う。それならちゃんと経営する人を見つけるか、フランスの国内でロマネ・コンティを買収してちゃんと経営して行けるワイン業者が名乗り出て然(しか)るべきであろう。私も一回だけ辻静雄さんに招待されて、ロマネ・コンティをご馳走になったことがあるが、私の舌と喉ではとても一瓶何十万円に値いするワインとは思えなかった。(「旅が好き、食べることはもっと好き」 邱永漢) こういう時代は、もう一回ぐらいは来るのでしょう。このワインは、私も1回だけ飲んだことがありますが、全く同様な感想でした。戻
「定量以上に飲む必要」
わたしはときどき、定量以上に飲む必要を感じる。そうすればあの、「灯火管制」とでも名づけるしかないようなもの、つまり知覚の中断、心のわずらわしさの解放を味わうことができ、そのあとで一眠りして回復へとおもくくことができるのだ。目が覚めたとき、わたしはひどく自由で、くつろいだ気分になり、小説を書くという大騒動にもういちど直面することができるのだ。それから、普通の生活に直面することも。「ビールと酒」というのはイギリスの酒場とホテルの外に力強くかかげてある、咽喉の渇きを引き起こす看板の文句だが、その「ビールと酒」の全音域、全スペクトルを、わたしは今まで味わってきた。私は酒を飲むことを、文明化する力として考えたい。それはわれわれを普通以上に正常にし、自分が何であるかを知るように導き、本来の自分でない何かに逸脱するのを妨げてくれる。わたしの小説に出て来る人物はみな酒を飲む。そうでなければ、彼らは、人物を小説に適合させ、あるいは人生に適合させる、人間的な資質を持たないことになるだろう。(「おれは大酒のみではない」 アラン・シリトー 丸谷才一 訳)戻
紅テントの打ち上げ会
そういえば、唐さんのところの打ち上げもものすごいよ。まず、大久保鷹が来るのね。「トクちゃん、久しぶりに花園神社で紅テントをやるんだけれど、唐がトクちゃんの池林房で打ち上げをやろうって言ってるんだけど」「大歓迎だよ、ぜひやってよ」「百人くらいなんだけど」なんて言って、大久保は俺の目を見るんだよ。これは金の話だなとわかるから、俺も一応は覚悟するわけよ。一人で三千円で百人なら、合計で三十万円くらいかなと頭の中でソロバンをはじいてね。そうするとしばらく無言で、大久保はあのいつものわけのわからない顔で「十万でやってくれないか−」ボソッと言うのさ。ええ、それじゃあ一人千円かあ、まあ花園神社の紅テントも久しぶりだから仕方ないか、と思って、「いいよ。お祝いだからこっちも頑張るよ」。ところが、話はそれで終わらない。そのパーティーの三日前に大久保鷹が「トクちゃん話があるんだけど」ってやってきて、また来たな、と思って身構えると、「唐がね、五万でやってくれないかって−」って言うんだよね。もう人の手配もしたし、仕込の段取りもしたし、いまさらキャンセルもできないんだよ。仕方ないから、「いいよ、大久保との長年のつき合いだから、五万でもやるよ」って、つい言っちゃう。百人で五万だなんて、どうやっても大赤字なんだけど、もうここまでくると仕方ないよね。で、当日は大盛況。唐さんも「トクちゃん、いつも悪いねえ」と上機嫌。ところが、最後に大久保が俺のところへ来て、じっと目を見るわけ。まただな、と身構えると、「支払いなんだけど−これで」って袋を出すんだよ。俺は中を改めるつもりはないから「わかった」って受け取ると「いや、これで」って言うのさ。へンだなと思って袋の中身を取り出すと、出てきたのは、なんとビール券三万円分。俺、もう驚かなかったね。一週間後に大久保が現金二万円持ってきたけどね。唐十郎はホント、すごいよ。また打ち上げをやってほしいよ。(「新宿池林房物語」 太田篤哉)戻
シャンペンと日本酒
この国では、料理は残すものなのである。宴会の主催者は、客の胃袋の許容量などお構いなしに、一品でも多く料理を出すことが美徳だと考えている。シャンペンと日本酒が客の胃袋の中で衝突事故を起こそうとも、一種類でも多く並べることが、度量の大きさにつながるのである。客は客で、翌日の昼食がたちまちザルソバひとつか、ライスカレー一皿に転落しようと、その夜の果てしない料理の登場に満足する。なるほど立派なご披露宴だ、という風に…。私たちのように、パンでソースをなめてしまうような国から来た人間には、何から何までが、目くるめくような体験である。私は、食事の度ごとに、料理を残してはいけないと、しかった母親の顔を思い出す。ビュフェ式のパーティーで、ロースト・ビーフを頬張った後に、模擬店のすし屋の屋台に立ってという奇妙な体験も、このごろの私には、さして奇妙ではなくなった。私は、ヨーロッパにいるのではなく、シャンペンと日本酒の国にいるのである。この国は、文化にせよ、文明にせよ、カクテルすることの名人の国である。なに、シャンペンと日本酒も、シェーカーの中でカクテルにするか、胃の中でカクテルにするか、ささいな順序の違いにすぎない。(「不思議の国ニッポンVol.3 在日フランス人の眼」 ポール・ボネ) 昭和53年の出版のようです。今は食物の1/3を捨てているそうですね。戻
かなりのドリンカー
酒の評論原稿を注文されることの多い私なぞ、来る日も来る日も酒杯と縁が切れない。当然、いろんな人と酒を飲む。人によっては、「うらやましいお仕事ですなあ」といわれることもあるが、実際の仕事の厳しさがわかると、「そんなに注意深く酒を飲んどられると、酒を真から愉しむことは少ないでしょう」といわれたりする。取材や評論がらみということになれば、確かに酒の中にどっぷりと浸りきっていては仕事にならない。酔いながらも、さめていなければならないことは多い。そして、いつも客観視できる距離を保っていなければならない。そんな仕事も、駆け出しの頃には、かなり苦痛な思いもした。ところが、ベテランのビジネスマンの話ではないがこの途も馴れてくると、やはり私は私なりにそんな酒を愉しむコツを独自に体得してきた。−
やはり人間たるもの、何らかの制約、規約、あるていどの桎梏がある中で生きている動物である以上は、酒のとつき合いも、「殺して」とはいわぬまでも、一方でほどほどのワクは頭に入れて飲んだほうがいいのではないかと思われる。そのワクとは、時であり、場所であり、量であり、相手である。−このようなごく当たり前の話に深い意味を見出せるようであるなら、いろんな意味でのかなりのドリンカーであるといえる。(「酒まんだら」 山本祥一朗)戻
十返舎一九
滑稽本『東海道中膝栗毛』のヒットで、流行作家となった十返舎一九は、明和二年(一七六五)、駿府(静岡市)で生まれた。本名は重田貞一(しげたさだかず)といい、父の与八郎は駿府の町同心だった。一九は武士の子だったわけである。若いころ、江戸に出て小田切土佐守(とさのかみ)に仕えたが、土佐守が大坂町奉行になると、彼にしたがって大坂へ赴いた。しかし、一九は武士に向いていなかったらしく、まもなく職を辞して、大坂の材木屋に婿入りした。ところが、一九は並はずれた大酒飲みのうえ、諸芸能に打ち込んで商売をおろそかにするものだから、まもなく離縁されてしまった。それでも大坂にとどまり、近松余七の名で浄瑠璃の台本を書いたりしたのである。一九は若いころから、好奇心が旺盛で、多才だった。(「大江戸<奇人変人>かわら版」 中江克己)戻
ラタフィア
十八世紀は、通とか好みとか、流行などが重要になりだした頃であった。パレ・ロワイヤルを出たカザノヴァは、パリの町で聞いた次のような話を伝えている。「王さまが狩りに出かけられて、ヌイイの橋にさしかかられた時に果物酒(ラタフィア)を飲みたくなられた。そして居酒屋に立ち寄られて一杯所望なさったところ、全くの偶然の幸せというか、その貧しい居酒屋にラタフィアが一本あったのです。王さまは、ぐっと一杯召し上がると、ふと取りまきの連中に、この酒は素晴らしいとほめる気になり、もう一杯所望なさいました。この居酒屋の主人にひと財産つくってやるのに、それ以上のことは必要ありません。一日たたぬうちに、全宮廷、全市の人たちがヌイイのラタフィアはヨーロッパ一番と認めてしまいました。何しろ王さまがそうおっしゃったんですからね。それからは、最も高貴なお方たちも、深夜にヌイイに押しかけてラタフィアを飲むようになったのです。」(「酒場の文化史」 海野弘)戻
【いきかえる】
「松に酒というのは昔からよういいます。わしも何べんかやってみたけれど、効果のあったもんどす。かんざましはあきまへん。冷酒にかぎりまっせ」という。二升もやるのは無茶で、いくら何でも松が酔っぱらってしまう。せいぜい三合くらいおのませやすということであった。私はもう頭がこんがらかってしまった。要するに、口伝めいたこういう説は何の根拠もないけれど経験によれば、それで松が生きかえることもあるらしいというところか。私はある夕方、スコップで赤松と五葉の松の根方を掘り、焼酎をどくどくとそそいでやった。一升を両方にのませた。その結果は、何と翌日から見ちがえるように松が元気になったのである。今日あたり、私はまたあと一升ずつ、松に焼酎をのませてやろうと思う。庵主にまけず、うちの松は酒に強い。(瀬戸内寂聴・雑誌「酒」掲載)(「『酒のよろこび』ことば辞典 TaKaRa酒文化研究所:編)戻
蚊
蚊屋をもたない若い男、寝る前に一思案。「蚊は酒が好きと聞く。壁に酒を吹いておけば、みな壁へとまって、こっちへは来ぬだろう」と壁に酒を吹いている。一匹もこちらへ来ずに、安眠できた。明るくなって起きてみれば、蚊どもは壁にしがみついて、真赤になっている。「もっけの幸い。このまま、戸板で押し殺してしまおう」男が戸板を持って近づけば、朝酒をまだすすっている一匹の蚊が言うには、「どうも、大いに酔いました。この上、それで押さえられますと、みんなつぶれます」(「江戸風流『酔っぱらい』ばなし」 堀和久) 「千年草」(天明八)の「蚊屋きらひ」だそうです。 戻
梨
総歌数四百四十六首、とりあげられた食品目六百余種に及ぶ『食品国歌』というのがある。「国歌」は「やまとうた」と読み、一七八七年(天明七)の刊で、長生院法印大津賀仲安が医家の立場から食品の能毒をやまとうた風に詠みあらわしたものだという。無論、どこの図書館の蔵書か知る由もなく、名著山本荻舟『飲食事典』によっているのだが、わが「ありの実」も、
梨の実は肺をうるほし渇をとめ、痰咳(たんせき)を治し酒毒消する
と、記載されているそうだ。「酒毒消する」とあるからには、二日酔いの妙薬なのかもしれない。本山荻舟は、「俗に梨を囓ると歯が悪くなるというのは過食と濫食(らんしょく)の戒めであろう」といっているのだが、虫歯治療の願いに「ありの実」を川に流す風習の古くからある割に、この果実が暮らしにはいってきたのは新しい。急速な改良が進んだためで、おなじみの「二十世紀」など、名の示すとおり明治も中期以降の品種なのである。(「落語長屋の四季の味」 矢野誠一)戻
主君の御前の人食らい犬
昔、ある人の言うに、若狭の国小浜でのことであるが、一軒の造り酒屋があった。ある年、この家の酒が、他の店に比べ、いちだんと美味に出来上がったことがあった。店の主人は素直な人がらで、金銭にあくせくすることもなく、清潔な器具で、なみなみと量って売る人であった。それゆえ、好評をはくするものと思っていたところ、案に相違して、客が一人もこず、酒庫や店頭の樽の中で、酒はむなしく変質して、甘酸っぱくなってしまって、いよいよ買手もなく、ついに売りものにもならなくなって、大損をし、破産のうき目にあった。あまりに不可解な出来ごとなので、近所の人にたずねてみると、「あそこの店の酒が売れなくて腐らせることになったのは、店頭に狂犬がいて、客があると、ほえたり、食いついたりしたのが原因でしょう」と教えてくれた。(「可笑記」 如儡子 渡辺守邦訳) この狂犬は、君側の悪臣ということだそうですが、たとえ話としては少々無理がありますね。戻
僕の日本回帰
長かった海外の旅から帰った時、僕を最も惹き付けた食べ物は、今考えても不思議で仕方が無いのだが、海老(えび)の鬼がら焼きだった。丁度、最後の長旅で、歯を患い、ロンドンで大手術を受けて、堅牢な義歯を拵らえた結果、戦争中から食べられなかった固い物が食べられるようになった嬉しさも手伝ったのだが、兎も角、車海老のてり焼きが美味(うま)くて美味くて何(ど)うにもならず、銀座の並木通りの「銀八」という飲み屋に通っては、何よりも、海老の鬼がら焼きを、頭から尾までばりばりと食い、鶉(うずら)の焼き物を脚まで良く焼いて貰って、ぱりぱりと頬張り、そういう物を好むようになったために、日本酒党になり、まさに、これこそ日本の味わいだと感嘆し、自分が日本に帰って来た事を嬉しく体感するのだった。僕の、味の上での日本回帰は、であるから、海老の鬼がら焼きからだった。(「舌の上の散歩道」 團伊玖磨) 日本の酒情報館に清酒の殿堂室をつくり、こうした人達をたたえる必要があるのでは?戻
珍中の珍味
酒仙と呼ばれた老先輩が、酒の肴の日本一は何だと思う、と訊かれたので、即座に佐賀の蟹漬(がんづき)です、と答えたところ、満点だ、酒の味がヤッと判ってきた喃(のう)、と褒められたことがある。蟹漬は、佐賀の北、神崎あたりの小川に棲(す)む蟹を、姿のままで塩と唐辛子で漬け込み、掻(か)きまわしたもので、デパートなどでも売ってはいるが、百姓のお婆さんが、親ゆずりの製法で拵(こしら)えたものが最もよろしい。甲羅(こうら)や鋏(はさみ)(はさみ)が、その侭(まま)に残っており、いかにもグロテスクである。お茶漬けにすれば、鼻風邪などは一遍に吹っ飛ぶ。けれども、酒の肴とした方が一層よい。(「酒のさかな」 林逸郎)戻
日月譚
フラニガンとハリハンがしたたかに酔っぱらって酒場から出てきた。ふたりは舗道に腰を下ろしてダブリンの空を眺めた。「きれいなお月さんじゃねえか?」とフラニガンが叫んだ。「アホ、ありゃお日さんじゃい!」とハリマンが言った。「アホはおまえじゃ、ありゃお月さんに決まっとるわ!」「ナニぬかす!ありゃお日さんじゃ!」そのとき、もうひとりの酔っぱらいが上機嫌で通りをふらふら歩いて来た。「ああ、そこの旦那」とふたりは叫んだ。「ありゃ、お日さんですかい、それともお月さんのほうで?」酔っぱらいは、ふたりをじっとみつめて答えた。「おらに分かるもんかネ。おらはこの土地のもんじゃねえんだ」(「ポケット・ジョーク」 植松黎 編・訳)戻
<2号>
本妻が1号だからお妾さんが2号なのだろう、なんていうのは幼稚な解釈である。一升(生)連れ添う本妻には及びもつかない。私はたったの2合(号)なのです、と卑下しているのである。(「ジョーク雑学大百科」 塩田丸男)戻
「理想的」な塾
柳北の家は代々幕府の儒官で、柳原の北に生まれ、かつまた柳々州に私淑していたために、柳北と号した。十八の歳から出仕して、家定、家茂(いえもち)二公の侍講を補助したが、つとに洋学の必要を感じ、戯詩をつくって、当路者の因循を嘲ったから、たちまち首になった。そこで自宅へ英学先生を聘(へい)し、ア、ベ、チェ、デ(というのは、今日のエー、ビー、シーデーのこと)の稽古をはじめた。「幕府の儒官が、夷学の前に兜をぬぐのは、御威光にもかかわる仕儀」といって、門人どもいきまいたが、柳北は笑って相手にせず、リーダの一課を終わるごとに、祝賀会と称し、柳橋の芸妓を呼んでどんちゃん騒ぎをした。どう考えても、英語の勉強に芸妓を呼ぶ必要はないから、これには妻子眷属あっけにとられたが、柳北はさらに家事を顧みず、ますます英語と芸妓に没頭した。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 成島柳北は、維新以後、「無用の人」として、明治を批評したり、「柳橋新誌」を執筆したそうです。戻
熊楠の三三九度
やがて挙式。すでに両家の家族と親族の長(おさ)、男蝶女蝶(おちょうめちょう)とよばれる少年少女の酌人が席についている。その前を仲人の喜多幅武三郎、しん夫妻に導かれた花嫁花婿がしずしずと、床飾り、蓬莱台をすえ、瓶子(へいし)、提子(ひさげ)、銚子一対を供え、熨斗(のし)三方をしつらえた金屏風の前にすわり、初対面の礼をし、三三九度の夫婦の盃となった。この結盃(むすびさかずき)は、終始、無言のうちにとり行われるものだが、このころになると熊楠は、どうにもむずむずしてきた。生来、人いちばいの含羞漢(はにかみや)である。さっきまでのながい沈黙と、鹿爪(しかつめ)らしい顔つきをして坐っているのが照れ臭くなったのか、三三九度の盃をついでもらいながら、「そんなにちびちびつがずに、もっと沢山(ガイ)に注いでやらンかい」と声をだしてしまった。声の大きさに、酌人はふるえあがった。と、そのとき、「熊ぁ!なにを云うちょんのなら!」親がわりに列席していた姉に叱りつけられて、熊楠は竦(すく)みあがった。日ごろは鼻っ柱のつよい熊楠も、この姉、垣内くまに一喝されては一たまりもない。(「縛られた巨人 南方熊楠の生涯」 神坂次郎)戻
こぶとり爺さん 鬼の酒盛り
赤き色には(赤い色の鬼は)青き物をき(着)、黒き色には赤き物をたうさきにかき(褌をしてつけ)、大かた、目一(ひとつ)ある物あり、口なき物など、大かた、いかにもいふべきにあらぬ(いいようもない)物など、百人斗(ばかり)、ひしめき集まりて、火をてんのめ(太陽)のごとくにともして、我(わが=翁が)居たるうつほ木(空洞のある木)の前に居まはりぬ(輪になって坐った)。大かた、いとど物おぼえず。むねと(首領)あると見ゆる鬼、横座(上座)に居たり。うらうへに二ならびに(左右二列に)居なみたる鬼、数をしらず。その姿、おのおのいひつくしがたし。酒まいらせ、あそぶ有様(酒をさしあげ宴会する様子)、この世の人のする定(ぢゃう=同じ)なり。たびたびかはらけ(盃のやりとり)はじまりて、むねとの鬼、ことのほかに酔いたるさまなり。末よりわかき鬼、一人立て、折敷(おしき=食器をのせる角盆)をかざして、なにといふにか、くどき、くせゝる事をいひて、横座の鬼の前にねりいでて(ゆっくり出ていって)、くどくめり。横座の鬼、盃を左の手に持ちて、えみこだれたるさま(笑いころげるさま)、たゞ、この世の人のごとし。(若い鬼は)舞て入ぬ。(「宇治拾遺物語」 新日本古典文学大系) この頃は鬼も色々な姿が考えられていたようですね。また、かわらけ、左手の盃、下座から芸をする等は、色々参考になりますね。戻
のろ
古代の人々は、こうした(酒による)一種の興奮状態を不思議に思った。そして、それは、きっと神のなせる業に違いないと考えた。シャーマニズムにおいて、巫女(みこ)が神がかりになるときも、同じような様相を呈する。これを、神の力が働いた結果だと理解していた。したがって、酒を飲んだときに起こる酩酊状態を、神と結びつけて考えたのも、当然かもしれない。このようにして、酒が神と結合し、神祭りに際しては、酒は欠かせないものとなったのである。沖縄の祝女(のろ)は、神を祭るとき、酒を飲んで、陶酔状態を呼び起こし、その異常な精神状態から幻覚や幻聴を生んで、いわゆる神がかりの境地にはいっていく。人々はそれを神のなせる業と思い、そこに神が出現すると考えた。シベリアから朝鮮、日本、沖縄にかけて分布する北方系シャーマニズムにおいては、酒を媒体にして神を招来するという形態がよく見受けられる。(「食物と日本人」 樋口清之)戻
遠花火
丁度両国の川開きの夕方、亡くなられた内田百關謳カのお宅に招かれてお酒を頂戴していた。どういうわけか、七月だというのに障子がぴたりと締めてある。話の合間に主客ともに一言も発しない沈黙の間がはさまる。そのわずかな間を狙ったかのように、トントントトーンと両国の花火の音が聞こえてきた。目に見えない、音だけの遠花火というものは実に趣の深いものだということをその時知った。郊外の畑の向うの、はるかかなたの夜空に、ぱっと拡がる花火も味のあるものだ。これは、音は聞こえないが目には見える遠花火である。花火というものは、見えないけれども音は聞こえる遠花火、見えるけれども音は聞えない遠花火に限るようだ。(「叱言 たわごと 独り言」 高橋義孝)戻
田中小実昌の二日酔い
大昔から、二日酔いでなやんでるぼくは、これ(迎い酒)もこころみてみたが、迎い酒は一時的には気分はよくても、二日酔をさきにくりのべしてるにすぎないことがわかった。迎い酒でまた酔っぱらい、それが醒めるころには、また二日酔ってわけだ。それに、ほんとに二日酔でくるしいときには、迎い酒など飲めたものではない。迎い酒など、ノンキなことを言っているのは、ほんとにくるしい二日酔を知らない人だ。東京でも、ひどい二日酔のときは、ぼくは朝から夕方まで、ただ涙とヨダレをながして寝ていて、夜になると、自分をだますように、そっと、アサヒ・シードルなどを飲んだものだ。シードルはサイダーのフランス語で、うんとまえから、サイダー(シードル)は二日酔いにいいとわかっていたんだなあ。こんど、ロンドンにいって、またサイダーを飲むクセがついてしまった。(「世界酔いどれ紀行 ふらふら」 田中小実昌) 田中は「迎え酒」でなく「迎い酒」といっているようですね。戻
食卓の名言
−この世では、食べて飲んで、陽気にやれ。事情がよくなるなどとは、考えるな。(ドイツ)
−友人には年寄りを。ベーコンと酒は年をとりすぎたものを。(スペイン)
−娘のいっぱいいる家は、すっぱいビールのつまった穴蔵だ。(オランダ)
−ビールと乙女には、幸運がたくさんある。ひとは喉が渇かなくとも、ビールを飲み、乙女は何となく結婚をする。(フィンランド)
(「食べものちょっといいはなし」 やまがたひろゆき)戻
高橋是清の禁酒
明治三十六年の十月十六日の夕刻、かねて懇意にしている耶蘇教(やそきょう)信者の竹内という夫人がやって来て、「妾(わたし)の一生のお願いをしたいからどうかあらかじめ御承諾を得たい」と突然いい出した。「まずその願いとは何か、いってご覧なさい」というと、「決して貴方に出来ないことではありませんから、あらかじめ御承諾を願います」というので、「それは酒を止めよというのだろう」というと、「その通りです」との返事である。かついうには、「妾はあんたの身の上のことを心配して、どうか飲酒をお止めになって、身体の健康を保たれるようにと、朝夕神様に祈っています、どうか止めて下さい」と真心をこめていってくれるので、私も自分のために、そうまで祈ってくれるのかと、いたくその親切に感激して「よろしい今後飲酒は止める」とキッパリといい放った。夫人は非常に喜んで、すぐその場で私のために祈祷してくれた。それから私は、日露戦争のためにロンドンに派遣せられるまでの間というものは、一切盃を手にしなかった。(「高橋是清自伝」 上塚司編) 期限付きの禁酒だったようですが、その後は少なくとも自伝にはかつての武勇伝はみあたらなくなっているようです。戻
陳舜臣の飲み方とサカナ
酒好きの夫は、仕事が一段落した晩など、延々と遅くまで飲みつづけます。それも、ひたすら飲むほうではなく、かなり頻繁にサカナをつまみます。つまむのが、お酒のたのしみの、かなり大きな部分を占めるのだ、という持論です。夫のお気に入りの酒のサカナのなかで、豚の話が出たついでに、豚肉関係できわめて一般的なのと、きわめて特殊なものとを、一つずつ挙げておきましょう。特殊なものは、「干しキモ」です。−次に夫の好きな一般的なおつまみは、ハムやソーセージのたぐいであります。−ハムに関するかぎり、中国のものは西洋ものにまさること数等です。(「美味方丈記」 陳舜臣・錦「土敦」)戻
小島政二郎、中村汀女
小島政二郎は下戸なので、酒の味を知らなかったが、ある時「三田文学」の会で、二十六歳の小島がめずらしく飲んで、したたかに酔った。その時、外に出たら、地面がヨウカン色に見え、頬っぺたをそこにつけたい衝動に駆られたという。『食いしん坊』で小島は、この時のことを書き、「ヨウカン色に見えたとは、いかにも私らしい」
中村汀女が、パリに行った時、健康を害して、短期間入院した。フランスにいる俳句の女弟子が病室をとる時に、「この先生は、芸術院会員です」といった。アカデミィ・ジャポネーズというわけだ。すると、院長がわざわざ、勲章をつけて、挨拶に来たというのだから、手あつい待遇というほかない。その時、院長がうやうやしく汀女さんに質問した。「食事の時のワインは赤にしましょうか、白にしましょうか」(「最後のちょっといい話」 戸板康二)戻
ノシアワビ
以前から表紙ページで提供をお願いしていたノシアワビ情報が、サイトをリンクさせていただいている方から寄せられました。 ノシアワビを取り扱っているのは、オンリーワン商品と海女による地域活性をキーワードとした伊勢志摩の兵吉屋(ひょうきちや)さんです。アワビは、縄文時代の貝塚からも出てくるそうですし、奈良時代には万葉集でうたわれたり、公租の「調」として乾燥させたものが朝廷に運ばれていたようです。武士の時代には、出陣の際、必勝を願って栗と昆布とともに、三献の儀の中で使用されたそうです。敵に打ち(打ちアワビ)勝ち(勝ちグリ)よろこぶ(コブ)の意味だそうです。貴重でおめでたいということからでしょう、贈答の際使用され、それが、贈り物に付けられる「のし」の起源となったようです。少し前までは酒肴として珍味屋さんで売られていたようですが、最近は完全に市場から姿を消してしまったようです。兵吉屋さんは、老齢化している海女さんたちに仕事を提供することにより伝統を保存しようとしたり、海外の人にも見てもらったりしているそうです。ノシアワビ復活に心から拍手を送りたいと思います。なお、ノシアワビの料理については、中華料理の分野の方の協力があれば面白いと思うのですが。戻
或る女と<大酒呑みの>男
或る女が大酒呑みの夫を持っていました。彼女は夫のこの癖をやめさせようと思って次のような工夫をいたしました。彼女は夫が酔っぱらって正体を失くして死人のように何も感じない折を見て、肩にかついで墓場へ運んで行き、そこへ下ろして帰って来たのです。そして夫の酔いがもう醒めている頃を見はからって、彼女は再びそこへいって墓場の戸を叩いたのです。夫が「誰だ、戸を叩いているのは。」と言いましたので、妻は「私は死人に食物を運んでまいった者でございます。」と答えました。すると夫は「私には食べるものよりも、親切なお方、飲むものを持ってきて下さい、飲むことじゃなくて、食べることを思い出させるなんて、人いじめですよ。」と言いました。彼女は胸を打って「何と私は不幸な女だろう!折角智恵を絞ったのに、何の役もたたなかった。お前さん、あんたは善くならなかったばかりか、先(せん)のお前さんよりいっそう悪くなっている。だってお前さんの癖ときたら骨身に沁みこんでいるんだから。」と言いました。この物語は悪い行いをやって時を過ごしてはならない、ということを明らかにしています。というのは人間には、たとい欲しなくとも、習慣のつくときがあるものだからです。(「イソップ寓話集」 山本光雄訳) ひょっとしてこの夫は水をほしがっていたのでは?戻
銘酒屋
銘酒屋については、小学館の『日本国語大辞典』のその項の二番目の語義として、「銘酒を売っているという看板をあげて、ひそかに売春をさせた下等な遊女屋。明治時代から大正時代にかけて見られた」とある。銘酒屋という通称は、東京や関東だけのことばだったのではないか。江戸時代の江戸の地酒は、わるかった。上方から樽廻船などで運ばれてくる灘の酒にありつけるのは懐(ふところ)ぐあいのいい人達だけだけで、大工の若い下職などはわるい酒で我慢するしかなく、明治になって酒が大量に運ばれるようになってからすこしはかわったものの、依然として”銘酒”は、ひとを魅きつけることばだったかと思われる。そういう事情があっての”銘酒屋”である。その上、女が酌をしてくれる。値段も、花魁などという格式めいた女のいる場所とちがい、ごく安かったはずである。(「本郷界隈 街道をゆく37」 司馬遼太郎) 銘酒店 戻
「無名人 名語録」
◎「女郎とか杜氏(とじ)っていうのは、みんな貧しさが前提なんですね。出稼ぎで都会に来たり、産地へ行ったりするわけですよ。だからこそ昔はいい女郎も、いい杜氏も育ったわけなんですね。世の中だ豊かになって、ソープ・ランド嬢はいてもむかしのような女郎はいませんね。同じことなんです。酒を作る現場も、技術は落ちていますよ」
◎「なんといっても、世の中で一番うまいものは水ですよ。いい水が喉を通ってゆくときの心地良さ、これにまさるものはありませんね。これに負けない酒が作りたい。水っぽい酒じゃやありませんよ。水のような酒ができればというのが夢なんですがねェ」(「無名人 名語録」 永六輔)戻
ロシア的性格
ソビエトの学校で教師が生徒にアメリカについて質問した。生徒は起立して、アメリカでは失業者が充満し、労働者は常に飢えていること、アメリカ南部では黒人に対するリンチが毎日のように横行していること、犯罪が多発し、社会生活は危険がいっぱいで、酔っ払いや麻薬常習者やギャングが昼日中から街なかをうろうろし、好戦主義者がのさばりかえって戦争だ、戦争だと吠えたてている、と答えた。「よろしい」教師が言った。「それではこんどはわが国がとなえ実行しているスローガンを言ってみたまえ」「ハイ」生徒が答えた。「アメリカに追いつき、追いこせ、であります」(「ポケットジョーク ブラックユーモア」 植松黎 編・訳)
昭和56年出版です。社会主義破綻後でしたら、ソ連的性格と訳されたでしょう。戻
狂歌による吉原の一日
卯の時(六つ時、午前六時ころ) わかれ酒 此(この)盃で 四つ五つ 六つをかぎりに 帰る客人
辰の時(五つ時、午前八時ころ) 吉原の 雪の朝酒 あたためて 又引かくる 居つづけの夜著(よぎ)
申の時(七つ時、午後四時ころ) 昼見世は 過ぎぬ夜見世は まだはやし 中の丁なる 酒もりの客
酉の時(六つ時、午後六時ころ) 暮れ六つの 鐘(かね)に廓の 夜は明けて うかれ烏の 騒ぐ見世先
亥の時(四つ時、午後十時ころ) 踊りたる 座敷はひけて 掛声の やつとことつて 寝さす客人(「江戸諷詠散歩」 秋山忠彌) 沢山ある狂歌と説明の中から、酒がからんだ一部のみをひろいました。戻
蛇酒
そこで私、「そ、そうかい、そうかい、じゃ俺にもその蛇酒を一杯くんな」と申しまして、小さな酒杯に一杯いただきました。それがね、口に入れて飲み込んだとたん、口の中が尋常ではないほど蛇の生臭さに襲われましてね。そりゃひどいもんでした。生臭いというか、青臭いというか。とにかく蛇そのもののにおいなのです。まるで生卵の。あの生臭い匂いが何十倍も強いものでした。私はおやじに「ウワー蛇臭い!」と、少々オーバーに閉口した顔で訴えましたらば、おやじ、「ウフフフフフフフ、そうかい、そうかい。それよ、それが効くのよ」とうそぶいておりました。とにかく蛇も酒も共に嬉しく飲む。まことに大らかな素晴らしい民族です。で、その蛇酒の効能はどうだったかと申しますと、それがねえお父さん、次の日の朝、目が覚めたらば、久しぶりに精神的、肉体的に快活であったことは、やっぱり効いたのかなあ…。(「アジア怪食紀行」 小泉武夫) 広州市での話だそうです。戻
安兵衛の五合升
安兵衛の腰かけの松、なるものも長いこと言い伝えられている。走り疲れたあげく、この木の下でとまり、ひと息いれたというのだが、これも真偽のほどは定かでない。有名なのはもうひとつ、決闘場を目前に、安兵衛が馬場下の酒場で、升ごと、酒をひっかけ、その勢いで坂をあがっていき、バッタ、バッタ…との伝説がある。そのとき安兵衛が使ったという五合升が、馬場下の酒屋「小倉屋」にに残る。江戸時代からずっとこの地で商売をしている老舗で、すぐ隣に住んだ夏目漱石の作品の中にも出てくる。くだんの五合升は、サワラの木を組みあげたらしいが、現在はすっかり黒ずみ、表面には虫食いが走る。火事の際はいの一番に安兵衛の升を外に持ちだす。家宝としてそう言い伝えられているが、ふだんは銀行の貸金庫の奥にふくさに包まれて納まる。(「神田川」 朝日新聞社会部)戻
青野季吉の癇癖
ところで、客の中にただひとり、志保さんが特別扱いする人がいた。それは青野季吉氏だった。青野氏といえば、その癇癖はあまりに有名だった。氏の知り合いで氏にどなられなかったのは中島健蔵君だけだ、というのが定説である。青野氏は急に興奮してどなりだすので、相手はなんのことやらさっぱり分らずに面喰らってしまった。私も被害者のひとりで、「秋田」では二度ほどどなられた。どなられるのはまだどうにか我慢できるが、困るのは、青野氏を怒らすと、志保さんが頑として酒を飲ませてくれないことである。正直なところ、志保さんの青野氏崇拝はちょっと盲目的だった。(「わたしの酒亭・新宿「秋田」 神成志保 の新庄嘉章による序文の一節です) 新宿にあった居酒屋「秋田」を開業するときの恩人だった青野に対する、明治33年生まれの女性・神成志保の逸話です。大坂志郎の母親だそうです。戻
赤きは酒の咎(とが)
「顔の赤いのは、酒のせいで、飲んだ私のせいではありません」といった意味である。ま、酒の上の軽口−減らず口だね。これが、酒飲みの言いわけに使われるようなると、あぶない。転じて、自分の過ちを認めず、責任のがれをすることに言う。「子供が道で転んだのは、そこに石があったからだ」「学校が面白くないのは、先生が若いからだ」「うちの子がグレたのは、友達に誘われたからだ」昔は 電信柱が高いのも 郵便ポストが赤いのも みんな あたしが悪いのよ と歌ったものだ。いまは、生活が苦しいのも、夫(あるいは妻)が浮気に走るのも、ヘンな病気が流行(はや)るのも「みんな、政治が悪い」ということになっている。それもこれも、飲んで赤くなるのを、酒のせいにしたため?(「ことわざ雨彦流」 青木雨彦)戻
日本酒二本
北 目的の一つはチョット秘密なのでここでは言えまちぇん。もうひとつはね、週刊誌や新聞にときどき「新製品プレゼント。×名様に」というのがあるでしょう。それにぼくの「万能ハガキ」で申込まちゅ。
遠藤 (読者に)万能ハガキというのは北さんの作った何にでも使えるというハガキです。賀春、暑中、季節の変わり目、寒中お見舞いとか文字が印刷されていて、用途に応じてマルをつける。
北 そうです。御成婚、御離婚、合格、落第なんてのもあるのでちゅ。それにマルをしてサインして出せば時間の節約になるのでちゅ。
遠藤 あれは大発明です。
北 そのハガキにぼくの名前を書いて応募すると、不思議に当たっちゃうでちゅ。もはや獲得した景品は、日本酒二本、靴の底に敷くとムレなくなるのが何枚か、会社のマークがついたシャツが七枚、それからなんだか分からない薬とか、メダルもありました。(「遠藤周作 狐狸庵対談 快女・快男・怪話」) 「北」はもちろん北杜夫です。戻
星新一の公式第二作
そのご父が死亡し、借金だらけの仕事をひきつぎ、身辺騒然。小説どころのさわぎではなくなったが、ある時ふと発想が浮び、短編をひとつ書きあげ、某雑誌の投稿欄に送ってみたが、みごと没。世の中そう甘くないと思い知らされた。それは控えがとってあり、のちに作家となり締め切りが迫って困った時、それを書き直して雑誌社に渡したら、掲載して原稿料を送ってくれた。「小さな十字架の話」という作品で、私の「ようこそ地球さん」という短編集に収録してある。私の作品群の中でこれだけが異色、首をかしげる読者もいるだろうが、以上のごとき事情のせいである。公式的に私の処女作は「セキストラ」である。これが「宝石」にのり、私の作家としての道がひらけた。それにつづいて書いたのが「ボッコちゃん」という、酒のみの美人ロボットの話。これは自分でも気に入っており、そのごのショート・ショートの原型でもある。自己にふさわしい作風を発見した。自分はこの作を、すべての出発点だと思っている。私の今日あるのは「ボッコちゃん」のおかげである。(「きまぐれ博物誌・続」 星新一)戻
吸筒(すいづつ)
日露戦争の陸軍陣中衛生心得。「出発の際(とき)は必ず水筒(すいづつ)を充すべし。これには可成(なるべく)煮沸水(ゆざまし)若(もし)くは茶を盛るべし」。ご丁寧に振り仮名付きだが、このときはたしかに水筒(すいづつ)と読ませている。だからどうやらその後に水筒(すいとう)とう言葉が生まれたらしい。江戸時代、たいていは”吸筒”、まれに”水筒”とも書いているが、読みの方はすべて”スイヅツ”である。水筒(すいとう)なら音訓組み合わせのいわゆる重箱読み、やはり本来は吸筒(すいづつ)なのだろう。言葉は目まぐるしく変わっても、この道具の使い方は今も変わりはない。ただ、昔は水やお茶入れというよりも、むしろ酒に使われることが多かった。この日本、幸いなことにどこでもきれいな飲み水に恵まれていたからである。(「道具が証言する江戸の暮らし」 前川久太郎)戻
うけひ
うけひは神に対する行為であり、神霊の前で行われた。盟は明と血より成る。この明を声符とする説もあるが、明は月明の差し入る窓である。半穴下形式の家に住んでいた時代には、その光りを受けるところが神明のいますところであった。従って、盟とは、その神明のあるところに盤をそなえ、うけひをする意であろう。『日本霊異記』下に「天皇うけひのみ酒飲ましめ誓はしめて」といい、斎部広成(いんべのひろなり)の『古語拾遺』にも岩窟戸(いわやど)の前に誓槽(うけふね)をおいて誓う話がみえ、審判神(さにわ)には酒食を供したものである。(「漢字百話」 白川静) 中国の文物習慣が大変多く日本に入っていたということなのですね。戻
オトコのロマンは便器の陰で自家発酵
東京・小菅の東京拘置所の未決囚の間では代々、密造酒と闇タバコの製造法が引き継がれている。密造酒の材料は、食事に出る食パンと、差し入れの干しブドウ。これらと水を一定の割合でこね合わせ、食堂からくすねてきたソースやしょうゆ容器にいれて発酵させる。夏場で一週間以内、冬場でも二週間ほどでドブロクができ上がる。ただ、冬の場合は寒くてなかなか発酵しないため、仲間が交代で一晩ずつ湯たんぽを提供し、看守から死角になっているトイレの陰に容器を隠して暖める。「ウイスキーにワインの香りを漂わせたようなもの。シャバでは飲んだことない」というほどの美酒である。(「デキゴトロシー」 週刊朝日風俗リサーチ特別局 編著)戻
清酒の名の初出
清酒の名の初出は、古代中国の周の事績を記録した『周礼』に現れる。天官・酒正の条に、
三酒の物を弁ず。一に曰く事酒、二に曰く昔酒、三に曰く清酒(朱世英ほか編 『中国酒文化辞典』)。
とある。鄭玄の注によれば、
事酒は事ありて飲み、昔酒は事なくして飲む、清酒は祭祀の酒なり。
という。事とは冠婚葬祭のような行事をいうのであろうから、そういった時々に醸造して飲んだ酒のことである。昔酒は、長い期間をかけて醸造し貯蔵したからその名があった。濃厚な味が楽しまれた酒なのであろう。清酒は祭祀の酒であるが、
いま中山の冬に醸して、夏に接して成る。
とも記されているところから、昔酒よりさらに長い間の醸造期間がある。夏までにおりが沈殿して、澄明な酒であったのだろう。神に捧げるとなると、酒も念入りにつくられ、人々が祭りの後を楽しんだことは間違いない。(「酒と日本人」 井手敏博)戻
リットル表示とグラム表示
缶ビールや缶チューハイの容量は、「リットル」や「ミリリットル」で表示されている。一方、同じ缶入り飲料でも、コーヒーやお茶の容量は「グラム」表示だ。このように表示方法が異なるのは、単なる業界の慣習ではない。ちゃんとした理由がある。グラムで表示されている缶入り飲料は、九○度前後に加熱されて缶につめられるため、その時点では中身が高温で膨張している。容量はリットルなど体積で表示すると、冷めたときに「表示より実際の中身が少ない」という現象が起きてしまうのだ。それでは消費者からクレームがつきかねない。その点、重量なら、熱くても冷たくても変化しない。それで「グラム」で表示しているのだ。一方、ビールやチューハイ、炭酸飲料などは一○度以下の状態で缶につめられるため、あとで容量が変化することがない。それで「リットル」や「ミリリットル」で表示しているのだ。つまり、表示を見れば、その飲料の製造工程がわかるのである。(「どうにもヘンな疑問」 青春出版社) 清酒の場合、瓶詰めするとき60度強の加熱をしますので、常温になって表示容量になるように計量しているようです。戻
阿川弘之の最初の酒
(大伴)旅人が死んで千百八十九年後、安芸の国広島に私が生まれた。西暦一九二○年、「猿にかも似る」姿で此の世へあらわれ出た自分が、いつ何を飲んで人なみに酒の味を覚えたか、これははっきり分かっている。小学校四年生か五年生の時であった。六十過ぎの父親が、老後の収入を考えたのか、末っ子の将来の為にと思ったのか、貸家を一軒建てることにした。心行寺という寺の隣の空き地へ、神主がやって来て、地鎮祭が行われる。祝詞お祓いのあと、簡単な盃事になり、「お前も一杯頂戴せえ」父がすすめるので、素焼きの盃に六分目ほど注がれた冷や酒を、一礼してぐっと飲み乾したら、五臓六腑にしみわたると言いたいほど旨かった。それ以来、早く大人になって、こんな旨いものを、好きなだけ飲んでみたいと、酒に対する憧憬が生じた。(「食味風々録」 阿川弘之)戻
下戸の酔っ払い役
友田恭助という俳優は、ほとんど酒がのめなかったが、築地座の「小暴君」「大寺学校」などの芝居で、酔っ払う役がじつにうまかった。河合武雄(新派)、市川猿翁(歌舞伎)も飲めないのに、酔っ払いが上手だった。かえって、客観的に観察できるからだろう。それを立証する話が、友田の場合にある。久保田万太郎さんが、「飲めないくせに、どうして、そんなにうまく、舞台で酔っ払えるんだろう」と感心したら、こういった。「何いってるんですか。ぼくは先生のマネをしているんですよ」(「新ちょっといい話」 戸板康二)戻
パンツェントレーゲリン
アルプス地方の人たちはバンド行進が大好きだ。どんな町にも村にもバンドがあり、祭りなどのときには民族衣装に身を固め、軽快な音楽を演奏しながら颯爽と行進する。バンド行進の先頭左右には必ずパンツェントレーゲリン(酒樽娘)がつく。酒樽娘がつかないことには行進は始まらないという感じだ。彼女たちはたいていその町や村で一、二を争う美人揃い。肩から掛けた平べったい小樽には伝統の薬草酒が入っており、ときどきバンドのメンバーに飲ませては意気を奮い立たせる。祭りのときにはバンドのメンバー以外の者にも有料でこの薬草酒を飲ませ、祭りの費用の一部にあてることがある。もちろんわれわれ旅行者も飲ませてもらうことができる。その場合は、美しい民族衣装の酒樽娘たちと一緒に記念撮影をすることも忘れないで。パンツェンとはこのように携帯に便利なように造られた平ぺったい小樽のこと。昔は祭りのときばかりではなく、ふだんの山仕事のときなどにも使われた。トレーゲリンとはそれを「持ち運ぶ女」という意味。(「ユーロッパものしり紀行」 紅山雪夫)戻
椿説弓張月の猿酒
滝沢馬琴(一七六七−一八四八)の『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』の主人公である源為朝(みなもとのためとも)は、伊豆大島に流されて、ある日、島の女の持ってきた魚を食うと、それがはなはだうまい。「こはよくも漬けたる鮓(すし)かな」とほめると、女はそれが「みさごずし」であることを説明する。すると為朝は、昔、豊後の国(今の大分県)の山奥で猿酒を飲んだことがある、と言い、「猿酒『舟鳥(一字、みさご)』鮓は、世に山海一対の珍味と称す。さてもわれながら、口には果報あるけり」とうち笑うのであった。(「ビール大全} 渡辺純)戻
初代中村仲蔵
とりわけ、仲蔵の美少年ぶりに夢中になったのは、日本橋本町で大きな造酒問屋をいとなむ吉川なにがしという金持ちの旦那である。仲蔵が十五歳に達して、子形から若衆形に進んだのを機会に、吉川は芝居をやめさせ、人形町に一軒、りっぱな酒店を新築して、そこの支配をまかせてくれた。一介の河原者から、押しも押されもしない町屋の若主人に、一躍、出世したのだ。辛抱して、だから、店の経営にはげめばよいものを、仲蔵はパトロンの期待をうらぎって吉原に入りびたり、あずかった仕入れ金にまで手をつける乱脈ぶりを発揮した。「だめだ。とてもめんどう見きれぬ」吉川も、しまいには腹をたてて、絶縁を言い渡した。「手切れ金のかわりに店はやる。そのかわりもう、あとはいっさいかまわないぞ」(「泣き笑い人生 中村仲蔵」 杉本苑子) 全体は本文を読んでください。戻
酒場法
「いいから、へぼビールをくれ。なんでもいい」まだ笑っている。「世界が滅びるんだ。だからべぼビールだ!」「悪く思わないでね。ただ、面倒はいやなのよ」わたしは青年の気持ちをなだめようとした。経験のおかげで、わたしの奇人測定器はかなりの進歩を遂げていたので、ここは男を興奮させないのがいちばんだと判断した。目的は男を<マリオンズ>から退場させることのみ。その言い訳として”酒場法”を持ちだすのはうまい手だと思った。アメリカの半分以上の州には、酒を売った未成年や酔っぱらいが引き起こした傷害や損害に対して、酒類販売業者が賠償を請求されるという法律がある。いくつかの州では、パーティーのホストやバーテンダー役のような商業目的でない者にまでも、この法律を適用している。「すでに酔ってたり、他人や自分を傷つける恐れがあると思われる人にお酒を出すことは違法なの。気を悪くしないで。だからお願い、家に帰って休んで」彼はすわったまま、ひとり言のように、だが、わたしに聞こえるこらいの低い声で、卑猥な言葉をつぶやいたが、結局、立ちあがってバックパックをつかみ、笑みを浮かべながらぶらぶら出ていった。(「酒場の奇人たち」 タイ・ウェンゼル)戻
酒のことわざ(8)
酒蔵あれども餅蔵なし(「下戸の建てた蔵はない」)
酒外(さかはず)れはせぬもの(酒の仲間からはずれるのはわるい。ちょっとだけでも飲め。)
酒戻(さかもど)しはせぬもの(酒をさされたり、人から贈られたら、辞退するものではない。快く受けるのが礼儀である。)
酒屋三代女郎屋一代(酒屋と女郎屋は人を泣かせる職業であるから、長くは続かない。)
酒屋の酒持って来い(酒屋が自家で酒宴をする際には、酒を持って来いと言うのが、遠くから買ってくるような感じを与えて、矛盾を感じさせるという意)(「故事ことわざ辞典」 鈴木、広田編)戻
十斜抱月シ偏之酉
「十斜めにして(十斜) 月をいだく(抱月) シ偏のトリ(シ偏之酉) 二人木に登りて(二人登木) 天下の口(天下之口)」
という手紙に対して
「林下に示す(示林下) シ偏のトリ(シ偏之酉) 天下の口(天下之口) 草木の間に人あり(有人草木之間)」
との返事がきたそうです。
昔、多分、金田一春彦の本で紹介されていたものですが、昔の人はすごいなあと思った記憶があります。何と読むのでしょう。戻
「柿」
「柿」という字が酒屋の奉公人の異称となったのは、柿は八年で実をつけるといわれ、酒屋奉公も八年目にしてやっと一人前になるということにかけてある。川柳に「八年の年季で柿の仕着せなり」がある。(「食に知恵あり」 小泉武夫) 語源に関しては、こういう説もあるのでしょうが、「柿」を柿衣(かきそ)のこととし、柿衣を「渋染めの柿色の布子。江戸時代、酒屋の奉公人の仕着せ」としてある、広辞苑の方がよいような気がします。柿渋を使う酒屋の特徴的な着物だったのでしょう。引用の川柳も、お仕着せ着物をいっているようです。このほかに、樽拾い、御用、御用聞きなどともいわれたそうです。酒袋、柿渋 戻
酵母HD−1、NEW−5
酒のお国ぶりというものはおもしろいもので、突如として鑑評会に大挙入賞し、一躍銘醸県になるところもある。静岡県の酒が昭和六十一年の全国新酒鑑評会で、金賞十、銀賞七(出品点数二十一)という素晴らしい成績をあげ、一躍脚光を浴びたことがあった。その功労者は、当時、静岡県工業技術センター主任研究員だった河村伝兵衛氏といわれる。HD−1、NEW−5といった新しい酵母を開発して、現在の新酵母開発競争の火つけ役となった。焼津市の磯自慢(磯自慢酒造)の大吟醸はHD−1酵母だし、島田市の若竹(大村屋酒造場)の純米、鬼ころしはNEW−5を使用している。大東町の開運(土井酒造場)も、この静岡県産の酵母を使っている。全般的にいえば静岡県の酒はスマートな飲み口で、やさしさのなかにも男性的なパンチ力を感じさせる酒が多い。(「利き酒入門」 重金敦之)戻
酒取れん
昭和六○(一九八五)年二月一七日、感動のうちに無事演奏をなしとげた「すみだ五○○○人の『第九』」も特筆されているが、その中に料亭「桜茶ヤ」の雨宮スミ子の姿もあった。わたしはテレビで観た。ドイツ語は初めて、という人のほうが圧倒的に多かったため、雨宮スミ子の孫にあたる吉井実奈子(当時、上智大学文学部ドイツ文学科の学生だった)がおばあちゃんのために翻案・音訳した名作があり、これはこれで評判になった。その作品を紹介したい。−
台寝(ダイネ) 津合うベル(ツアウベル) ビン出ん(ビンデン) 微出る(ヴィーデル) バス出い(ヴァスデイ) 詣で(モウデ) 酒取れん(シュトウレン) 下駄いると(ゲタイルト) ああ冷(アーレイ) 麺支援(メンシエン) ベルでん(ヴェルデン) 鰤うでる(ヴリューゲル) 暴大ん(ヴォーダイン) 残ふげる(ザンフテル) 風流げる(フリューゲル) 場いると(ヴアイルト)(「散語拾語」 安野光雅)戻
松に酒
「松に酒というのは昔からよういいます。わしも何べんかやってみたけど、効果のあったもんどす。かんざましはあきまへん。冷酒にかぎりまっせ」という。二升もやるのは無茶で、いくら何でも松が酔っぱらってしまう。せいぜい三合くらいのませやすということであった。私はもう頭がこんがらがってしまった。要するに、口伝めいたこういう説は何の根拠もないけれど経験によれば、それで松が生きかえることもあるらしいというところか。私はある夕方、スコップで赤松と五葉の松の根方を掘り、焼酎をどくどくとそそいでやった。一升を両方にのませた。その結果は、何と翌日から見ちがえるように松が元気になったのである。今日あたり、私はまたあと一升ずつ、松に焼酎を飲ませてやろうと思う。庵主にまけず、うちの松は酒に強い。(瀬戸内寂聴・雑誌「酒」掲載)(「『酒のよろこび』ことば辞典 TAKARA酒文化研究所:編)戻
アルコール中毒米作家
ノーベル文学賞を授与された生粋のアメリカ人七人のうちの五人はアルコール中毒であった。同じ苦しみを持った二十世紀のアメリカ作家のリストは、きわめて長いものになる。割愛できる大物はごくわずかにすぎない。五人のノーベル文学賞受賞者とはシンクレア・ルイス、ユージン・オニール、ウィリアム・フォークナー、アーネスト・ヘミングウェイ、ジョン・スタインベックであり、それに加えて、リストには次の作家が含まれるのである。すなわち、エドワード・アーリントン・ロビンスン、ジャック・ロンドン、エドナ・セント・ヴィンセント・ミレー、F・スコット・フィッツジェラルド、ハート・クレイン、コンラッド・エイキン、トマス・ウルフ、ダシール・ハメット、ドロシー・パーカー、リング・ラードナー、デュナ・バーンズ、ジョン・オハラ、ジェイムズ・グールド・カズンズ、テネシー・ウィリアムズ、ジョン・ベリマン、カースン・マッカラーズ、ジェイムズ・ジョーンズ、ジョン・チーヴァー、ジーン・スタッフォード、トルーマン・カポーティ、レイモンド・カーヴァー、ロバート・ローウェル、ジェイムズ・エイジーである。これほど多数のわが国の有名作家にこの病気が見られるのは、アルコール中毒がアメリカ作家の業病であることを明確に物語るものである。(「詩神は渇く」 トム・ダーディス)戻
正宗白鳥
「このごろの人は、酒をよく飲むようだね」と正宗さんが云った。「昨日、中野好夫君と阿部知二君と座談会をしたが、あの人たち、よく飲むね。よほど強いんだろうね」「はあ、強いらしいようです」「そうかね。酒を飲むと、あくる日、頭がクリーヤーになるのかね。」私は返辞につまった。私が酒を飲むのを顰蹙(ひんしゅく)しているのではなかろうかと思った。一方、この大先輩の話の間の置き方は絶妙であると思った。正宗さんは永井君に、小林秀雄君の話をして、「小林君も飲むね」と云った。小林君のことがすむと、今度は私に、「君は芸術院の受賞者候補にあげられているね」と云った。「はあ、新聞で見ました」と答えると、「君の作品が挙げられているね、長いのと短編と。どっちが君自身は気に入っているのかね」と云った。「いえ、二つともつまらないんです」と私は答えた。「どちらも駄目なんです。」「そうかね。どっちがいいのかね」と正宗さんは、大人が子供を賺(すか)すような調子で云った。「どっちかね、短編の方と長編と。僕は選考委員の小説審査の主任だがね。二つのうち、どっちがいいのかね。」私は返辞を繰返さないで黙っていた。正宗さんの話しぶりは、大人が子供に玩具をくれるとき、「どっちがいいかね」と訊くような口のききかたであった。この会食が終るまでに酒を杯に三ばいしか飲まなかった。人に聞くと、正宗さんとしてはよく飲んだ方であるそうだ。(「正宗さんのこと」 井伏鱒二)戻
東郷平八郎、水上勉
東郷元帥は国賓としてアメリカを訪問した。晩餐会が催され、シャンパンの乾杯は国務長官のブライアンが音頭をとる役だった。しかし彼は禁酒主義者なので、水の杯をとりあげていった。「あなたは水の上で勝利を手に入れられたのだから、水の杯を乾しましょう。次にシャンパンの上で勝利をえられた時には、シャンパンの杯を乾しましょう。
田中英光に誘われて、水上勉は新橋の屋台に飲みに行った。その頃妻に去られた水上は子供をおぶっていた。彼が背中の子をどこかに置き忘れた話は有名だが、彼は「いや、子供好きのママさんにあずけたのだ」と打ち消している。しかしとにかく、そのママの屋台がどこにあるかを忘れたことは確かで、子供をさがし出すのはなかなか大変だった。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎)戻
深川方面
きゝ酒の きげん 一ト切 あそぶなり
きゝ酒の きげん やぐらへ こけるなり
新川あたりの番頭もよい客であった。
線香を たてゝ 酒宴の いそがしさ
線香の 時斗(ばかり)で遊ぶ 世話しなさ
深川の遊びは時間制で、その時間を計るのは線香を使った。(「江戸巨大都市考」 南和男)戻
「ビール15年戦争」の切り抜き(2)
従来のビールの製法では、仕込み工程で麦芽もスターチも混ぜているが、この方法だと麦芽の量が少ないため、麦汁の糖化が十分にできず、雑味が残ってしまう。次の工程で酵母を加えても、酵母は喜んで食べてくれず、発酵がうまくできない心配もある。そこで、最初から一緒に混ぜる工程を改め、麦汁は麦芽だけで濾過させてつくり、煮沸段階で初めて開発した糖化スターチを加える形にした。これにより清澄な麦汁ができ、さらに豊富な栄養の糖化スターチの採用で、発酵度の高い発泡酒をつくることができた。(サントリー 中谷)
サントリーは二○○一年に上海とその周辺で二二万キロリットルを販売。このうち上海市内に限定すると約二○万キロリットルを販売して、シェアは四割を超えトップ。プレミアムも一部生産しているが、構成比がもっとも高い大衆分野で七割のシェアをもっていて、大消費地の上海に特化し、さらにボリュームゾーンの大衆品にターゲットを置いた戦略である。
サントリーは五年以内に国内でM&Aを行使する可能性がある。その場合の対象はキリンビールとなるだろう。必要な資金はサントリーの上場により賄っていく。(佐治)(「ビール15年戦争」 永井隆)戻
五石散
「五石散」というのは、一種の毒薬でありまして、その服用は何晏(かあん)が元祖です。漢代には、まだ飲もうとする人はいなかった。何晏は、あるいは少し処方を変えて、飲みはじめたのかもしれません。五石散のもとは、石鍾乳(せきしょうにゅう)、石硫黄(せきいおう)、白石英はくせきえい)、紫石英(しせきえい)、赤石脂(せきせきし)の五種で、そのほかに何か少し混ぜたかもしれません。しかし、いまそれを詳しく研究する必要はないでしょう。たぶん皆さんは、その薬を飲みたくはないでしょうから。−
歩いたあとは、全身が発熱してくる。、発熱のあとは、今度は悪寒がしてくる。普通の悪寒なら、着るものをたくさん重ねて、熱いものを食べればいいのですが、この薬の場合は、それと正反対でなければならない。着るものを薄くし、冷いものを食い、冷い水で行水するのです。もし服をたくさん着たり、熱いものを食ったりすると、かならず死んでしまいます。ですから、五石散は一名、寒食散ともいいます。ひとつだけ、冷たくなくてもいいものがある。それは酒であります。薬を飲んだあとでは、服をぬいで、冷い水で行水して、冷いものを食って、熱い酒を飲むのです。(「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」 魯迅)戻
藤岡屋日記
繁昌は いつもかわらぬ 御成道 亀屋の跡が 又も万せひ(清) 御成道(おなりみち)角(かど) 鴻池又三郎は 当所に百余年住居致せし居酒屋にて、鯉のこくせう(濃汁)名代にて 此辺の番所帰りには 是非共当家の鯉こくを出さねば 地走(馳走)にならぬ様に 思ひしとなり。然る処 近年おとろへて、当秋は天麩羅屋へ 五十七両三歩に売物に 成也(藤岡屋日記)
お記録本屋 外神田御成道の入口なる広場に筵を敷きて、古書籍を陳ねて商う本屋の老爺あり。この書商をお記録本屋と呼びしは、この老爺、前へ塵劫記・商売往来・都路往来・今川古状揃なんど破れたるか。、または表紙もよごれたるものを陳ねたる。片脇には素麺箱を横に置きて机となし、瀬戸焼の墨壺に禿(きれ)筆を染めて、その頃廉価なる黄半紙といいし紙を横折りにして、終日何か認めて居たりしかば、人呼びてお記録本屋といいしなり(菊池貴一郎)(「江戸の情報屋」吉原健一郎) 幕末、情報を商売にする人がいて、幕府のお目こぼしになっていたということのようです。戻
白馬会
明治29年6月、黒田は久米桂一郎・山本芳翠・藤島武二・岡田三郎助・和田英作らと白馬会(はくばかい)を結成する。(「白馬」とは酒の名前であった)。この年の第1回白馬会展には今泉秀太郎(一瓢)と長原孝太郎が狂画を出品している。かの有名な白馬会は漫画も受け入れるほど自由な団体だったのである。(「近代日本漫画百選」 清水勲編) ちなみにこの部分は、岡本一平の「東京美術学校西洋画科授業風景」に描かれた黒田清輝のところに書かれていた解説の一部です。「白馬」とは、どぶろくのことですが、平民的といった意味をもたせていたようです。画家たちの飲んだ「白馬」の味はどんなものだったのでしょう。ただし、どぶろくは、「しろうま」というのが一般的のようです。戻
すわ警官酔ったふりしてプロレスごっこ
東京の京王線八幡山駅近くに住むアルバイト暮らしのI君(二七)は、自他共に認めるプロレス好きである。近頃、神田で友人と痛飲し、友人によれば、「『じゃ、サイナラ』と、スキップしながら帰っていった」とかであるが、I君が気づいたときは、見知らぬ畑道を自転車で走っていた。あとでわかったが、、方向違いの狛江駅周辺であった。途中の記憶がなく、「この自転車、盗んだのか」と不安にかられつつ乗っていくうちに、酔って何度も転げ落ち、血だらけになってしまった。運悪く、前方から警察官が来た。「キミ、ちょっと止まりなさい」やばい、と思ったI君、酔いの回った頭を即座に回転させ、「よし、ここは酔ったふりをするしかない」と決意し、「なんだァー、山田かァー。どーしたァー、お前ッ」と叫ぶやいなや、思いっきり警官にぶつかっていったのである。一七五センチ、七○キロのI君の一撃に、中年の警官は畑の中に転げ落ちた。そして、警官が畑から這い出てくると、今度は、「どーした、山田、元気ねーぞ」と、友人に対するごとく、気安くしなだれかかった。「やめろ、オレはお前の知り合いじゃない」警官がどなると、再び、「なんだァー、山田ッ、やんのかァー」と、ヘッドロック、ベアハッグなどのプロレスの得意技を駆使し、またもや警官を畑の中に放り投げてしまった。応援でも呼ぶつもりなのか、警官が走り去ったすきに、I君は、「今がチャンス」と自転車を捨て、一目散に遁走し、途中でタクシーを拾って帰ってきたが、現在、現場に置き忘れてきた「週刊ファイト」の指紋から足がつかないかと、不安な日々を送っている。(「デキゴトロジー」 週刊朝日風俗リサーチ特別局編著) かわいそうなおまわりさんです。戻
楡家の人
私の祖先にはやくざ者がいたらしい。父は山形の上山に近い農村に生まれたが、そのおやじの親類には、やくざ者といってはなんだが、とにかく刀をふりまわしたりして、剣術の稽古をしたりした男がいたようだ。父の弟、今は亡くなったが四郎兵衛という私のおじさんは、今でもある山城屋旅館の主人であった。この人は大酒のみで、「塩なめてまず一升」という酒豪であった。私の「楡家の人々」の中にモデルとして登場しており、いろいろと滑稽なことを演ずる役となっている。殊に、祖父の作った宮殿のような病院の、珊瑚の間という仰々しい部屋にはじめて上京して招かれる場面では、その東北弁を発揮して道化役を演ずる。このように私はならず者の血を引いている。斎藤家は決して家柄のよい家ではなく、ドン百姓の出である。その先祖でいちばん裕福であった家もせいぜい中くらいの庄屋であって、竜宮城とゴチック建築をまぜあわせた帝国脳病院、後の青山脳病科病院をぶったてた祖父は、まったくの成上がり者であった。(「マンボウ人間博物館」 北杜夫)戻
立原正秋の酒
立原正秋が芥川賞を受賞した三十代の頃は、なんでも朝は十一時に目覚めてビールを飲んでからウイスキーに切換え、ぐいぐい飲みながら原稿を書いた。そして夕方の六時頃まで原稿を書いているうちにやがてボトルは空になる。ボトルが空になったところで眠りについて、目が覚めるのは夜の十一時である。そこでやおら日本酒となるのだが、立原は一升瓶をかかえて風呂に入る。湯の温度で適度の燗がついたものを、こんどは湯上がりにコップでキュッキュッとやりながら再び原稿を書く。そして朝の六時になる頃には一升瓶は空になっている。そして床につく−という生活のサイクルだったといい伝えられている。つまり、立原の丸一日の飲酒量は、ビール四本に、ウイスキー、日本酒、各一本ボトルごと、というわけである。これほどの大酒家の立原も肝臓の病には勝てず、五十一年の秋に医者に禁酒を申し渡された。それでも一日に一升酒を空けていたのを二合におしとどめただけなのだが、その二合に制限した三日目の夜には、自分の脳髄が乾燥していることを自覚したというのだから、まさしく鬼気迫る感じではないか。(「酒まんだら」 山本祥一朗)戻
笠の下
▲扨(さて)も扨も、御坊(ごぼう)は面白い人ぢゃ。夜と共に話しませう。 ▲僧 扨も扨も、辱(かたじけの)うござる。 ▲宿 なうなう御坊、酒を一つ参らぬか。 ▲辱うはござるが、私は五戒を保ちまする。取り分け御酒戒(おんじゅかい)とて、殊(こと)の外酒を戒めてござる。下された同然でござる。辱うこそござれ。 ▲扨々尊い御出家かな。是非に及ばぬ。某(それがし)ばかり寝酒たべませう。御坊一つ参らぬの。 ▲僧 念もない事念もない事。なう御亭(ごてい)様、その肴は何でござろ。 ▲宿 ろくしやう、若布(わかめ)でござる。 ▲僧 さらばその酒を、この若布にかけて下されい。 ▲僧 御坊は、禁酒にてはござらぬか。 ▲僧 いや、酒醤(さかしお)とて苦しからぬ。一つ盛らつしやれい。 ▲宿 これは酒醤過ぎませう。 ▲僧 なう御亭様、こなたもところの法度を破り、宿を貸さつやれた。私も五戒破りて、一つ食べませう ▲宿 一段のこと。夜と共酒盛して遊びませう。(「笠の下」 狂言記) 一人出家に宿を貸すこと禁止と、宿りを断られた僧が、頭にかぶった笠を座敷に置かせてくれと家主に頼み、身も笠の内と上がり込んでからの話です。最後は、「二十四杯飲みければ、麹の花(=酒)が目にあがり、左の方へよろよろ、右の方へよろよろ」と歌って踊ります。これは特に面白い狂言ですね。戻
泡汁
酒のもろみが盛んに炭酸ガスをわき上げて発酵している時、高さにして約八十センチぐらいの泡を立てる。そのままだと桶や琺瑯タンクから泡と共にもろみがあふれてしまうので、泡が立ち始めると蔵人たちはその桶や琺瑯タンクの頭部の周囲を丸く板囲いする。ちょうど傘をかけたようなその板を泡傘板といった。立ち昇ってきた泡はこの板に沿って昇るが、板の高さが一メートルぐらいあるので、越すことはなく、粘り気のある泡は板の上部の方まで行って止まる。数日して泡の勢いも弱り泡が引くと、泡傘板の全面には二センチぐらいの厚さで泡の本体が真っ白い層となって残る。成分は溶けた米の糊精(こせい)のようなものと酵母が主体で、コンデンスミルクを少し固めにしたようなものだ。その泡の精を板からへらでかき集めて泡汁をつくるのだ。塩ブリや塩ザケの頭やヒレなどの粗(あら)をぶつ切りにして深鍋にたっぷりと張った水を入れ、中火で気長に煮出している間、大根、ニンジンの半月切りを作り、また手むしりコンニャク、刻み油揚げなども用意する。粗から十分にだしが出たころに大根やコンニャクなどを入れる。そこに泡の精を、少し多めになるくらい入れると、真っ白い雪鍋のようなものになる。塩魚を使った時は魚からのだしと待ち塩とで他の調味料は不要だが、白菜やニンジンなどの野菜だけでの時は少々の味噌と塩で調味する。出来上がった泡汁にネギの五分切りを加え、お椀に盛り、熱いうちに食べるのだ。(「食あれば楽あり」 小泉武夫)戻
水上、寒山拾得
水上滝太郎は犬と酒が好きだったので、飼犬の牡(おす)をウィスキー、牝(めす)をジンと名付け、仔犬が生まれたら、ワイン、シェリー、キュンメル等と命名しようと思っていた。しかしいつもウィスキー、ジン一代で終りで、犬は仔を生まないで死んでしまうのだった。
ある人が、寒山と拾得を宴席の給仕に頼んだ。ところが客人たちが酒を飲み、肉を食べて、楽しみはじめると、この二人がむやみに笑いころげたので、みな興冷めしてしまった。怒った主人は、二人の師の豊干(ぶかん)禅師にいいつけた。師が二人を呼んで、「なにごとだ」とたしなめると、二人は答えた。「とんでもございません。笑うどころか、みなさんが輪廻(りんね)を知らず、親御(おやご)さんの肉を楽しげに食べていられるのを見て、二人して声をあげて泣いたのです。笑ったと見えたのは、わたくしたちの顔がまずいためでございましょう」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎)戻
旧仮名遣いの町
三人で鶴岡へ行った。浜中を過ぎて庄内平野が広がっていった。真っ平らで実に豊かな感じがする。私たちが訪ねたのは栄光冨士の冨士酒造株式会社である。酒蔵を案内していただいて屋上にあがった。冨士酒造の隣が芭蕉が泊ったという丸谷味噌であって、これは丸谷才一さんの本家である。何百年か前に建てられたという奥座敷でキキ酒になった。吟醸酒、純米酒、特級、一級、二級。「庄内の空は曇ろう曇ろうとしているんです。東京は晴れよう晴れようとしています」当主の加藤清正の子孫であるという加藤有倫さんの言は、まことに言い得て妙というほかはない。「静かなところですね」「ええ、酒田は活気がありますが、ここは静かは静かです。」酒田に活気があると言われて驚いた。私は寂れていると思ったのに。この町は、何か秩序整然と沈んでいるという印象があった。これでは旧仮名遣いで通すより仕方がない。(「酔いどれ紀行」 山口瞳) 栄光冨士もいい酒ですね。丸谷才一の本家が味噌屋さんというのははじめて知りました。戻
菊の酒
草の戸に日暮れてくれし菊の酒 芭蕉 歌舞伎の『俊寛』(近松作『平家女護島』)で鬼界が島に流された丹波の少将が海人(あま)の千鳥を恋して、これを俊寛に打ちあけるところがある。酒盛りをしたくても酒がない。千鳥が水を出して代用することになるが、このとき「七百年生きる仙人の薬の酒とは菊水のながれ、それをかたどり筒につめたもこの島の山水、酒ぞと思う心が酒」と言う。千鳥が「きょうから娘と思ってかわいがってくれ」と言うと「おのおのうち笑い、げにもっともと菊の酒盛」になる。ここには「聞く」と「菊」のかけことばがある。これはもと中国から出たことで、菊は延年のものとし、九月九日重陽(ちょうよう)の節句に菊花を酒杯に浮かべて飲むと長生きできるというのである。慈童(じどう)という人は菊の葉からしたたる露で霊薬となった谷の水を飲んだところ、七百年たっても少年のままの姿だったという伝説による。「菊水」という名の酒があるのもこの故事によるもので、楠木正成とは無関係である。(「ことばの歳時記」 金田一春彦)戻
開高健の嗅覚
開高さんの飲み方を拝見していると、ことワインに関しては、脱帽しなければならないくらい、感覚的に鋭い。一口飲んで、うまいとおっしゃるのはけっこうだが、どのくらいうまいのだという、そのワインを数多くのワインの中での位置づけをするのには、まだまだこれから磨きをかけていかれるのだろうが、ワインがもつ不思議な魅力と、どんな状態のワインがだめなのだ、そしてこれならよいといえる判断を、非凡な嗅覚をもって開高さんは下す。いつだったか、ロマネ・コンティとムートン・ロッチルドの、すこぶるつきの年代物を開けた折に、並居る他のお客さんたちは、おおいに感銘を受けたのだが、私と開高さんは、目を見張った。食事が終り、二人が隣り合わせに座ることになったとき、開高さんは、「さっきのね」といって私の目をじっと見た。「そうでしたね」と私は言った。(「料理人の休日」 辻静雄)戻
エカテリナ一世、グラント
ロシアの女帝エカテリナ一世の治世の時(一七二五−二七)、パーティーでは、紳士は九時前に酔っぱらってはいけない。淑女は決して酔っぱらってはいけないとされた。エカテリナの娘エリザベス王女、その仲間たちは、男装の舞踏会を開き、酒を飲んだ。
一八五○年代グラントは、酒のみのため陸軍をやめさせられた。農業や商店の事務をやったが、戦争の時は北軍の将軍をつとめ、勝利をもたらした。(「アシモフの雑学コレクション」 星新一編)戻
糖化酵素
糖化酵素はグルコ−スの結合した高分子の澱粉(アミロース、アミロペクチン)をその構成分子であるグルコース、二糖類であるマルトース、より低分子のアミロース等に分解(切断)する働きをする酵素である。1−4結合を手当たり次第に(ランダムに)切断してゆく酵素をα−アミラーゼ、グルコース二個がつながった分子(マルトース)に順序正しく切断してゆく酵素をβ−アミラーゼ、グルコース1個ずつ丹念に切断する酵素をβ−グルコアミラーゼと呼んで区別している。1−6結合を切断する糖化酵素ももちろん存在している。α−アミラーゼを「液化酵素」、β−アミラーゼを「糖化酵素」と呼ぶこともある。(「酒の科学」 野尾正昭) 吟醸酒造りにグルコアミラーゼが使われるということを聞いたことがあります。グルコースはブドウ糖のこと、1−4とか1−6というのはグルコースが結合する場所のことだそうです。麹と酵母 戻
口笛吹きながら一杯やるのは難しい
プラウトゥス『幽霊屋敷』791(第三幕2.105)(岩屋智訳)
口八丁手八丁の奴隷が言うせりふ.ことわざだと言っている.古今亭志ん生がよく使ったくすぐりに、「あくびしながら物ォ噛もうったって、そうは行かねぇ」というのがあった.スイスにハインツ・ホリガーというオーボエの名手がいて、この人はほかの演奏家にはまねができないほど長いフレーズを一息で演奏することができた.息を吸い込みながらでも演奏する方法を編み出したのだという評判だった。(「ギリシア・ローマ名言集」 柳沼重剛)戻
中原中也の酒
僕が中原にはじめて会ったのは、昭和三年の二月か三月だから、三十年以上前になる。僕は成城高校の二年の三学期、今の勘定で行くと、十八歳の終わり頃、中原は二十歳の終りだった。二人とももう酒を飲みはじめていたが、中原はまあ味噌っかすに近かった。一合ぐらいで、あの小さな体にアルコールが行きわたって来るのが、透けて見えるような工合だった。色はまあ白い方だし、薄い皮膚がすぐ桜色に染まって行く、と書くとひどくいい男みたいな描写になるが、眼はとっくに据わっているし、口から悪口雑言が出はじめているので、全然女にもてる酒じゃなかった。、こっちはなるべく逆らわないようにしながら、飲むほかない。おでん屋なら、となりのテーブルの見も知らぬ強そうなのに、喧嘩をふっかけないように、気を配っていなければならないので、結局安原喜弘のような大人しい献身的な男でなければ交際しきれたものではなかった。(「中原中也の酒」 大岡昇平)戻
ニッフル家
ニッフル家では毎晩ワインが出た。赤と白の両方だ。セルジュは十歳の時からワインを飲んでいた。着いた最初の晩、夕食のテーブルに着くと、セルジュのおやじさんがぼくのグラスにワインをついでくれた。ぼくは嬉(うれ)しさのあまり口もきけないほどだった。「ワイン嫌いなの、ニック?」セルジュのお袋さんがたずねた。「好き、好きです!」ぼくは大声を出すと、グラスをとり、いかにも十歳の時から飲み慣れているというふうに装った。お袋さんがぼくのワインに水を注ぎに来た。ほかの子と同じように、ワインと水を半々にするのだ。ぼくは注ぐのをやめてくれと頼んだ。「あら、でもだめよ、ワインは水と混ぜて飲まなくちゃ」ぼくは別のグラスを持ちあげた。「水はきっと飲みますから、ワインを水を別々に入れてもらって、お腹(なか)の中で混ぜるってわけにいけませんか?」セルジュのおやじさんは大声でゲラゲラ笑うと、よしと言った。(「ニコルの青春記」 C・W・ニコル) ニコルが、交換学生として15歳で南仏にいたときの思い出だそうです。戻
やくざアルバイト
上野の易段所に移ってから、私は千駄ヶ谷にある古木親分の事務所(オフィスの意に非ず。親分の居る所)に寝泊まりするようになった。商売の方は自惚れでなく一人前のヤー公ロクマになったから、今度は人間としてのヤー公の訓練である。箸の上げ下しから日常の言葉使いまで、まるで日本陸軍の内務班のような馬鹿々々しい(つまり最大限に頭の悪い者を対象とした)戒律を覚え込み実行しなくてはならない。たとえば猿、蛇等の言葉忌み、商売(バイ)前のブッカケ飯、すなわち朝食時にお茶漬、丼物、カレー又はいわゆるワンチャブの類はきつい御法度(はっと)である。その他酒をのむ場での規律も多く、自分の飲みかけのコップをさし出したりすることから喧嘩になったことも再三見た。こんな場合には二つのコップに二三度移して混合し等分にするならばタブーから免れる、ただし目下の者に盃をさす場合は構わない。親分子分のズキサカ(盃)、仲直りのヅキサカの場での席順等はなかなかやかましく余程慣れた者でないと因縁がつき易い。その他商売(バイ)に関しては実に無数と言っていい程あるがもっとも重要とされて居ることを憲法?化したものがあるので次に記して置く。 一 親分の命令には絶対服従 二 バイナマ(商売の金)をごまかすな 三 他人のバシタ(女房)をギル(取る)な (「やくざアルバイト」 土田玄太=田中小実昌・作家)戻
明治の算術教科書
30 英國の林檎酒(りんごしゅ)一「カルロン」は我(わが)二升八勺五才とす 今四分の一「カルロン」の價(価 あたい)三十八銭なるときは我一升の價 幾許(いくばく)
107 或(あ)る人 一樽の酒を有す 然るに甲 先に來らは(来 きたらば) 其三分の一を與へ(与え) 乙 先に來らは 其四分の一を與へ 丙 先に來らは 其五分の一を與へんとす 若し(もし) 三名同時に來らは 各幾許を 與ふべきや(『数学三千題』尾関正求(明治十三年)岐阜三浦源助出版)
(百十一) 上戸あり 酒 若干(じゃっかん) 樽を貯へ 毎日三合づゝ飲みしに 七十五日に於て(おいて) 飲み盡(尽)せり 今此の人毎日五合づゝを飲みしならば 幾何日にて盡くるや(『初等小学算顆算教授書』千葉公胤(明治十五年)東京不朽舎蔵版)(「算私語録」 安野光雅) 明治の教科書には大変個性があったようですね。戻
深夜の酒場
三十年間で印象に残るお客さん、変わったお客さんねえ。そういえば、「モッサン」時代からのお客さんで、今でも店に来ている人なんだけどさ、お箸を持って飲みに来る人がいるんだよ。ちゃんと箸箱に入れてね、飲み屋に来ても「割り箸いらないよ」って、自分の箸を使うわけさ。一時期、マイ箸を持ち歩くのが流行ってたじゃない、エコロジーの関係でさ。今はもう残り少ないんだけれで、そのころは何人かいたんだよ。その人は出版社に勤めている人で、この前「犀門」に来たら、まだお箸を持っていた。かれこれ二十五、六年持ち歩いているんじゃないかなぁ。すごいよねえ。もう年輩っていうか、俺よりちょっと年上じゃないかなぁ、すごいよね。(「新宿池林房物語」 太田篤哉) ちょっと違いますが、月の桂の蔵元は、銀の箸を背広の内ポケットに入れていて、仏蘭西料理でも何でもそれですませているとかで、それを出すときの恰好が何ともいえなかったと聞いたことがあります。戻
朱塗りの椀
冷酒がいいといふのでは勿論ないので、飲んでゐる間は旨(うま)くても、冷酒は後で足が取られさうで何となく気が許せない。併(しか)し時代が付いた朱塗りの椀で冷酒を飲むのは、言はば、無駄なものがそこにかなりあつて、確かに酒を飲むならばガラスのコップでも、朱塗りの椀でも、別に違ひはなささうに思へる。それにこの朱塗りの入れものは金沢の造り酒屋にしかないので、さういふ風に考えて行くと、酒を飲むといふことそのものが既に相当な手間ではないかといふ感じがしてくる。アルコホル分で大脳を麻痺させるのが目的ならば、注射だけですむ筈であつて、飲むにしても、もつと合理的に酔はせて後で頭が重くなつたりしない薬品が実際に作られてゐるのではないだらうか。そしてそのやうに注射をしたり、薬を飲んだりしていい気持ちになることが出来れば、それは構はないかと言ふと、その結果がどんなものであつても、それは酒を飲んだことにはならない。もつとそこには無駄なものがなければならないのである。(「酒と人生」 吉田健一) 加賀の酒屋で、朱塗りの取っ手付きの一合入り刳りぬき椀に入った冷酒を飲みながら考えたことだそうです。戻
雀を取る方法
雀を取る方法 庭のくぼみに酒をこぼし、また庭のうちに、酒をひたした米飯を沢山まいておく。雀が集まり酒めしを食い、のどがかわくから、酒を水かと思ってのむのでだんだん酔いがまわる。そこへかやの実、なつめの実をばらばらとまく。雀は枕だとおもって気持ちよく眠ってしまう。そのいびきを合図に、高箒ではき寄せて「籠の中へ、ばらばらばら」(「話のたね 池田弥三郎) 江戸時代の黄表紙で作者・四方屋(よもや)本太郎正直(実名不詳)の「虚言八百万八伝(うそはっぴゃく まんぱち でん)」にある話だそうです。江戸時代は、こうして取った雀をどう食べていたのでしょう。戻
口移して泥酔させ、カネ奪い、河原へポイ(昭和62年2月13日 朝日)
東京・新宿のスナックが無許可で客の接待をしたうえ、無理やり酒を飲ませて前後不覚にさせ、背広などから金を抜き取り、マイクロバスで河原や公園へ運んでほうり出すという乱暴な商売をしていたことが分かり、警視庁保安一課と新宿署は十二日までに、経営者と従業員ら四人を風俗営業適正化法(新風俗法)違反の疑いで逮捕した。盗みの疑いでも追及する。新風俗法が施行され十三日日で二周年、警視庁は取締りを強めていた。捕まったのは新宿パブ ギャルソン」の経営者○(三八)ら、直接の容疑は、風俗営業の許可を受けずに、ホステス数人に客の接待をさせた疑い。(「B級ニュース図鑑」 泉麻人)戻
鼾(いびき)
並木あたりまでヤアハアとかけ声いさぎよく、雷門へ入るとそろそろ棒組へ話ししかけるを、駕籠の内からせき払いして「アゝ、きのふ乗つた駕籠かきどもは、すいなくせに大気な者どもで、こゝらでは一杯買はずばなるない、旦那もあがれと、いやといふものを、無理に酒をふるまふた。昨日のやうな駕籠の者は又あるまい。今日の駕籠も野暮ではなさゝそふな」と独語(ひとりごと)いへば、駕籠かきは歩きながら「ごうごう」(「聞童子・安永四・ねだり)当時の吉原行きは駕を利用することが多く「四ツ手かご 行くのの道で ねだられる」(六・9)の川柳のように初めの約束以外の酒手をねだるのが常例だったので、大方は寝たふりで、からいびきをかき黙殺した。この咄は客が先手をとり、その逆をいったもの。(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)戻
造醸(2)
是(これ)又 古来 久しきことにはあらず。元(もと)は 文録(禄)慶長の頃より起(おこり)て、江府(こうふ:江戸)に売始めしは 伊丹隣郷(りんごう)鴻池(こうのいけ)山村氏の人なり。其(その)起る時は、纔(わずか)五斗一石を醸(かも)して 担(にな)い売(うり)とし、 或(あるい)は 二拾石三十石にも及びし時は、 近国にだに売あま(余)りたるによりて 、馬に負(おわ)せて はるばる江府に鬻(ひさ:売る)ぎ、不図(はからず)も 多くの利を得て、其の価(あたい)を 又 馬に乗せ帰りしに、 江府ますます繁盛に髓(隨 したが)い、 石高も限りなくなり、 冨巨萬をなせり。継(ついで)起る者 猪名寺屋(いなでらや)升屋(ますや)と云(いい)て 是は伊丹に居住す。 舩積(ふなづみ)運送のことは 池田満願寺屋(まんがんじや)を始めとす。うち継(つい)で醸家(さかや)多くなりて、今は伊丹、池田、其外 同国西宮、兵庫、灘、今津などに造り出せる物また佳品なり。(「日本山海名産図会」 木邨孔恭:蒹葭堂) 前項の続きで、有名な部分で、鴻池財閥の発祥譚だそうです。戻
造醸
是(これ)より造酒の法 精細と成(なり)て 今 天下日本の酒に及ぶ物なし。是 穀気(こくき)最上(さいじょう)の御国(みくに)なればなり。それが中に、摂州(せっしゅう)伊丹(いたみ)に醸(かも)せるもの 尤(もっと)も 醇雄(じゅんゆう)なりとて、 普(あまね)く 舟車(しゅうしゃ)に 載(のせ)て 台命(たいめい)にも応ぜり。 依(よっ)て御免(ごめん)の焼印を許さる。今も遠国(えんこく)にては諸白(もろはく)をさして伊丹とのみ称し呼べり。されば伊丹は日本上酒の始とも云べし。(「日本山海名産図会」 千葉徳爾註解) 寛政年間に出版された書物のようですが、この酒の部が冒頭に掲げられています。やはり、著者が、酒屋を営んでいた木村蒹葭堂(けんかどう)だからなのでしょう。台命は、徳川将軍の命令のことです。戻
答
「十斜めにして(十斜)月をいだく(抱月)」は、「斜めの十+月」で「有」
「シ偏のトリ(シ偏之酉)」は、「シ+酉」で「酒」
「二人木に登りて(二人登木)」は、「人+人+木」で、「來」
「天下の口(天下之口)」は、「天+口」で「呑」
合わせて、「有酒 来呑」(酒有り 来たりて 呑まん)
「林下に示す(示林下)」は、「林+示」で「禁」
「シ偏のトリ(シ偏之酉)」は、「シ+酉」で「酒」
「天下の口(天下之口)」は、「天+口」で「呑」
「草木の間に人あり(有人草木之間)」は、「くさかんむり+人+木」で「茶」
合わせて、「禁酒 呑茶」(禁酒 茶を呑まん)戻