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御 酒 の 話 23



焼酎醪の酸度  黒いブーム  公ハ酒を飲給ひし  開店時間  あこがれ  二人だけで三升  酒の上であやまち  三上戸  めんどうを見てくだされ  譲渡申酒造株一札之事  米一升を二つがけにすれば酒一升  勢いに乗じて飲む酒  顔が焼け火箸  唐伯虎、フランシス・カルコ  おもや、うれる  土筆の粕漬け  日清戦争の影響  「漱石と酒」  ようとほえる  予行演習  酒代(上酒)四升  遺伝学者  奶酒  ネパールのビール  段蔵  グレートファイア被災ワイン  酒の俳諧  鈍智・貧福・下戸上戸・貧者有徳者・苦者楽者  再び親子の盃  文化五年戊辰六月閏  二高時代  ヨンゴー  正宗を二三杯  酒・めし・雪隠  幻の日本酒を飲む会の会是  酒は和歌会の始と終りに出すのみ  飯鮓  1927年  トマトの和風サラダ カツオのタタキ風  計八時間  安部氏の飲みっぷり  企業の謀略?  常の盃にて酒飲み様の事  おそめさんだけ  あかのれん  ワイン禁制、居酒屋禁制  英世  さら川(9)  そのころ凝っていた小鼓  熱食  若い税務署長  白バイと貞淑な妻  谷底か山頂か  酒が強い  酒二樽、米一俵  その後のことは知らぬ  水鱶  道人と道台  河童と路考  城崎温泉にて  売渡し申酒道具之事  米は十銭する  昼間っから盛大に  池田の酒  スコットランド人とユダヤ人  虎と酔っぱらい  カキを漬けた焼酎  どれだけ飲んだの?  茶めし  一匙のブドウ酒  妻の談話筆記  乾雲丹と雲丹松露  鈴木市十郎  酔っ払い指揮  吟醸酒ってなぁに  常陸山  十本であれだから  食ライフスタイルと飲酒習慣  カワハギのキモたたき  ゴドウィン・マタツ  「どくろ杯だよ」  サンマの肝のしょうゆ焼き  不思議な酒  酔ひしれて  たかじやう  十五夜  祝言  飲めや唄へ  酒は祭のためのもの  さら川(8)  マンボウの胃袋  樽源  世間と晴の日と酒  虎に変わる術  saka,sakë  たくさん飲むための工夫  酒一升でトレード  ベタベタと甘くて  木盃一杯の酒  羽化して登仙  めったに深酒をしない  田楽酒・諸白酒  盃をどう持つか  「酔狂者の独白」  眠れない時は眠らない  第十五料理酒之部3  末期の酒  三種類の通(2)  こぞ 卯のとし  スティーブン・フォスター  二種類の下町酒場  三種類の通(1)  ボラのへそ  原稿はニセ札で、人生は酒  土曜日の晩  聖と俗の分離  幻影と酒  薄切りにした鮑  言問の某亭に一酌  百年歌(六)  救民妙薬のクコ酒  ムルソーの蔵にて  枸杞の会会長  自壊  大きな盃のかんばん  裕次郎の飲みっぷり  リビング・ドリンカー  平和バー  「道歌」  摂生の注意  牧水の逸話  悪魔の酒  <仮説4>  烏帽子と直垂  エビ雲丹  空瓶  鰺釣り  「中原中也の酒」  それが面白うて  ○神嘗祭  痛飲するのにもってこいだ  百年歌(四)  禁酒禁煙禁珈琲  <仮説3>  言茂源  酔っ払って唄う  紀州熟鮨  既酔  利屈上戸  沿道の村々で酒宴  あおっきり  酒屋『ザ・ドッグ』  寒天の味噌漬け  五月晦日  百年歌(二)  <仮説2>  いちばん奥  小半治  世話千字文  酒の箴言  神さまの正体  豚肉の粕汁  酔へばあさましく  萬年雪  酒問屋  【メルボルン発】(2)  泉燗  <仮説1>  まァだ、しずまずやア  麻酔の段階  早稲田大学卒業証書  今日一日  吟醸酒の効用  人口一万の町に、一二〇軒の居酒屋  本居宣長記念館にて  朝まで花見  親分  一高の自治  雲丹  キスの風干し  広瀬山小森谷出土の皮鯨のぐいのみ  姿勢の正しい人  煙草と酒  酔前子の訳と酔後子の"改訳"  贋造紙幣  ウイスキーの句  くいな聞く夜の酒の味  たうえんめい  大山さんが酔っぱらった  海舟回顧  マトメ酒屋  樽酒仙  酔いどれの過失  関雪  酒場と公共の場  アル中のワッペン  昭和三十五年新年号西の正横綱  枝豆ウニ和え  小瓶を二本  きく  司馬相如  こなから坂  味噌と酒粕四分六の漬込み  朝酒はじれの元  嫁取言入  ひたすら試飲  味噌と酒粕四分六  朝酒はじれの元  粕まんじゅう  怒り酒  山盛  雑音  尾崎さん  中臣の寿詞  さら川(7)  フォークナー  くさや  アルコール中毒者自主治療協会の設立  二瓶の酒  小アジとカタクチイワシの刺身  小半、かんなべ  第十五料理酒之部(2)    さけせん(2)  高濃度アルコール生成の秘密-プロテオリピド  鱧しゃぶ  お祭り  豪遊  ハモニカ横丁  色々な清酒  女性の依存症  ヒトラーが残した二大遺産  甘くない焼き味噌  武家流酒道  下り酒問屋  わたしの酒歴  しっかり1升飲んだ  【メルボルン発】  おじさん、やるな~!  キリスト教文化  須磨の浦  味ノマチダヤ  いも酒  第十五料理酒之部1  文化四年丁卯  旗を立て、酒を置いて  高見順、十返肇  ロンドンのバス  そのはづのことそのはづのこと



焼酎醪の酸度
できあがった一時醪のアルコール度数は一三~一五度、そして酸度は何と二〇~二五ミリリットルにも達する。-
そのメカニズムは、一時仕込みの原料である焼酎麹に含まれている多量のクエン酸の防腐効果に関係しているのである。焼酎用麹菌は、世界中でこの日本の焼酎製造にしか見られない特殊な性質を持っていて、蒸した米に繁殖して米麹をつくる際、多量のクエン酸を生産し、それを米麹に置いていくのである。-
一時仕込みの際、容器に水と米麹を入れると、麹中からクエン酸が溶出してきて酸度が二〇~二〇ミリリットルにもなり、ph(水素指数)も三・一~三・三という強い酸性状態を示す。ところが、自然界に生息していて空気中を浮遊している有害な腐敗菌は、phが四・〇以下になると増殖が困難となり、生育できない。その上、都合のいいことに焼酎酵母は、そんな低いph領域でも純粋・健強に生育することができる特性を持つので、雑菌侵入の心配もなく、アルコール発酵を営む焼酎酵母だけを純粋に発酵させることができるのである。(「酒に謎あり」 小泉武夫) 


黒いブーム
"黒いブーム"というキャッチフレーズによって、歌とともに水原弘というスターもブレイクし、次々と"黒のムード"をかもし出した。「黒い花びら」は、第一回日本レコード大賞も受賞して、水原弘はいっぺんに歌謡曲の頂点に登りつめたという感じだった。だが、そこから水原弘はいったん水の底へ沈み込んでいった。歌は文句ないのだが、ヒット曲に恵まれなかったのだ。酒、遊び、借金といろいろ取沙汰されたが、とにかく水原弘がファンの視界から消えてしまったという印象を与えたのは事実だった。そして、その水底から水原弘は"奇跡のカムバック"を成り立たせる。「君こそわが命」によるミリオン・セラーの実現だった。-
そして、そのあと水原弘はまたもや同じ筋道を辿り、借金、遊びをくり返したあげく、病魔にもみまわれ、旅先で血を吹き上げたあげく、四十二歳の若さでこの世を去った。この人生を、私は不孝という額縁でとらえることができない。死の直前まで、あくまで水原弘らしくあり、自分の歌を歌いつづけた水原弘の一生は、歌とのめくるめくような道行であったというのが、それをたどり直したあげくの私なりの結論だった。(「河童の屁」 松村友視) 


公ハ酒を飲給ひし
御酒を好て被召上。御在江戸にてハ、諸大名・麾下(きか)衆・京家者ども毎日の御客に、天下の大戸(上戸)に出合給ひて、恢量(かいりょう 心のひろく大きな事)の御名を極め給へり。西山(隠居後の山荘)にてハ御老年の上なれバ、御壮年の時程ハ不レ被召上。殊に江戸にてハ、御客衆しゐ(強い)被申ニ付、痛飲をも被遊し。西山にては、御家来、御領内僧衆など御相手になりけれバ、しゐ申事も得仕ず(えつかまつらず)、御心ままにめし上られ候。されども、普通の大戸ども皆沈酔、公ハ儼然としておはセシ也。山中御慰事とてもなし、御酒に托して御閑寂を消(けさ)セられし也。但必(ただしかならず)夜に限りて被召上たり。雨中にはたまたま昼めし上られし事もあり。さなき時はいつとても御夜飲也。御座中者皆昏沈正体なく、あすになりてハ、昨夜は何を申セしも誰覚へたる者はなきに、いつとても公ハ始中終の事、少もわすれ給ふ事なし。座中に陪飲するもの幾許(いくばく)ありとても、一人一人の盃数を覚へ給ひて、誰ハ今宵幾盃給(た)べたり、足ぬべし。誰ハ幾盃給たり、今一ツ給べしなど、御指図あるに相違有事なし。誰指上しを誰に被下、次に誰が盃をあがりて、誰に被下たりといふ事、幾人と取かハし被遊ても、御失念ある事さらになし。いかほどの大盞(おおさかずき)にても、一息にのミ尽し給ひて、つゐに半(なかば)にためらひ給ひたる事なし。いかほど大酒になりても、納て可然(しかるべし)と思召(おぼしめす)時ハ有御意て、頓而(やがて)おさめさセらる。終に機会を失給ふ事なし。まことに人は酒に飲れ、公ハ酒を飲給ひしといふものなるべし。(「水戸黄門の食卓」 小菅桂子) 光圀の侍医・井上玄桐の『玄桐筆記』にあるそうです。 


開店時間
或る場末の酒場の主人が店を閉めて自宅に帰り、いい気持ちで寝入っている暁方の三時に突然、電話か掛かって来た。酔っぱらった声が、「君の酒場は何時に開くんだ?」と怒鳴った。「十一時でがすよ」と、主人はぷりぷりしながら、受話器を切った。一分も経たない内に、またベルが鳴った。同じ声で「何時に酒場は開く…っていったっけね」かんかんになった主人が怒鳴った。「十一時っていったら、十一時だ。一分だって早く入れてやるもんか」「誰が入りたいっていったヨ?」不機嫌な声が返って来た。「おれは出たいんだ」(「笑談事典」 ベネット・サーフ) 


あこがれ
三十年になんなんとする酒のキャリアを誇るわたくしが、文筆を業とする身になったとき、「酒」の文壇酒徒番附に一度でいいから名をつらねてみたい、と心ひそかにあこがれたことは疑いようがない。自分でいうのだから真実である。わたくしの編集者時代、尊敬し、担当していた多くの作家、評論家たのはなばなしい番附上の活躍を思い起こせば、その驥尾に付して自分も…とあこがれるのは、人情の自然というものであったろう。しかし人生というものは皮肉なもので、わたくしのばあいは、酒とひきかえに、つまり酒徒番附に載る可能性を喪失することで作家のパスポートをもらったような恰好になってしまった。酒をやめること自体はたいしてつらくはなかったが、番附に載ってみたいという<あこがれ>への道をせきとめられた生活環境が、なによりも淋しかった。ゴルフも麻雀もたしなまないわたくしが、文壇とのつきあいとえば酒を媒介とするしかないわけで、しかも酒の上というならいささか年期も入っていて割合にのびのびとつきあいもできる自信がないわけではなかったが、そのなかだちを失っては世界がはなはだ蕭殺の気を帯びてみえたことはいうまでもなかった。ところが昨年(昭和四十八年)度の文壇酒徒番附にわたくしの名が載っていたのである。これはたいへん嬉しかった。番附審議座談会を読むと編集者時代のわたくしの実績から、<不気味なところ>へ置こうという一審議委員の意見で前頭のビリにランクし、しかも努力賞まで授かるという、花も実もあるはからいであった。かつて番附審議会委員をしたことのあるわたくしへの纒頭(はな)の意味でもあるのであろうが、わたくしは有難くお受けした。(「歴史と人生と」 綱淵謙錠) 


二人だけで三升
その島田(正吾)と一度だけ、二人だけで三升に近い酒をのんだことがある。もう二十何年も前のことで、大阪の新歌舞伎座に出演中の新国劇へ私の脚本の稽古に出かけた折に、「ちょいと、おもしろいところへ行きましょう」と、曾根崎の小さな酒亭へさそわれた。いまも、その[ひとり亭]という酒亭は商売をしているだろうか…。酒の肴は、すりおろしたワサビのみで、老女がひとりきりで商売をしており、当夜は私たち二人きりの客だったから、ねちねちともみつづけ、夜が明けたら一升びんが、たしかに三本空になっていたのをおぼえている。それでいて翌日、島田は立派に舞台をつとめ、私は脚本を書きながら稽古をしたのだから、私の酒も強くないことはないのだろう。そのほかに大酒したのは、太平洋戦争中に、私の出征がせまり、これも名古屋で、何年かぶりで父と会い、大須の宿屋の二階で、やはり三升ほどのんだことがある。酒は、父が工面してきてくれた。(「日曜日の万年筆」 池波正太郎) 


酒の上であやまち
江戸留学のとき一年しかゐなかつたのは、酒の上であやまちを犯したらしい。酒癖がいいほうぢやなかつたといふ噂がある。徳永洋さんの『横井小楠』(新潮新書)によりますと、会津藩士某(ぼう)および公儀御徒(おかち)某と、忘年会の帰り道に口論になり(泥酔してゐた)、公儀御徒を手で三回ほど殴つた。この話を熊本藩の者で小楠と不仲だつた某が小耳にはさみ、上層部に密告したため、問題になつたのださうです。でもこのあとで謹慎中に猛烈に勉強して、進境いちじるしいものがあつたのですから、これはこれでよかつたとするか。もつとも謹慎中の小楠は、勉学に励んだのはいいけれど、堅く誓つた禁酒のことは守らなかつた。家の神棚のお神酒徳利の酒が毎晩なくなる。それを兄嫁は毎朝補充してくれた。当然のことながら、謹慎が終るとまた元通り大いに飲んださうです。これも徳永さんの本で知つた話。(「春嶽と小楠」 丸谷才一) 横井小楠 


三上戸笑い上戸に泣き上戸腹立て上戸
この外、酒に癖色々あり。寝上戸は可なり。中にも、抜け上戸はなはだ悪しきなり。色上戸は外照り、西瓜上戸は内照りなり。(譬喩尽)
居浸(びた)れ上戸盃取り納めんとするにこれからが酒じゃという客なり(譬喩尽)
大食上戸餅(もち)喰らい(尾張いろは)(「飲食事辞典」 白石大二) 


めんどうを見てくだされと嫁へさし そのはづのことそのはづのこと
三々九度の後、親子盃に移り、姑が嫁へ盃をさして、「どうか末永く面倒を見て下され」などと挨拶をする。この言葉通りの殊勝さが続けば、世の姑と嫁の仲は、すべてうまく行くはずなのだが…。実態は「末永くいびる盃姑さし」(拾初)というあたりであろう。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎-監修) 


[三五]宝暦十年十月(酒造株譲渡しにつき一札)(状)
譲渡申酒造株一札之事
一 元右五拾八石 先規「より」酒造高
 内拾弐石也、此度相分ケ譲リ渡候分
一 四尺桶 弐本
一 冓台桶 弐本
一 半切 拾弐枚

右者先規「より」仕来リ酒造致候処、此度貴殿望ニ付 株式 諸道具代金 慥(たしか)ニ請取 譲リ渡申候所実正(じっしょう)也、為後日仍而如件(ごじつのためによってくだんのごとし) 宝暦十年辰十月 猿山村 譲人 四郎兵衛㊞ 滑川村 宇右衛門殿 (青柳義郎家文書一五四三) (「下総町史 近世編 資料集Ⅱ」) 


米一升を二つがけにすれば酒一升
二銭銅貨一枚あれば銭湯へもゆけるし、うどんそばでもかけかもりなら食べられ、十銭銀貨一枚持つて銭湯へゆき一日の汗を流し、かへりにそば屋へ腰かけて、もり一枚たぐりこみ、それでも銭があまるから、一本あつくしてつけておくんなといふのが、江戸つ子を売りものの職人やかしらたちのたのしみだつた。一体、そばなり、うどんなりのかけもり一杯の値段と銭湯とは同額でなければならぬとしてあつた。もりかけの値と銭湯を合せたものが米一升の値段で、米一升を二つがけにすれば酒一升買へるといふ。さうした釣合がくずれさへしなければ、天下は太平で、万民何のわづらひもなく、鼻唄まじりにめいめいの職をたのしむことが出来るんだと、その頃の老人たちは云つてゐた。(「東京おぼえ帳」 平山蘆江) 日露戦争以前のことのようです。 


勢いに乗じて飲む酒
大体、私の酒は、昔ながらの書生酒で、大抵の場合、勢いに乗じて飲む酒だから、心しずかに楽しみながら味わうということは甚だ稀である。私の酒癖は、一ト月前、「小説新潮」に発表した。「三途の川岸」の中にあるがごとく、心理と肉体とに分離作用を生じ、無意識の中にあつて意識的な行動をしているところに次元の世界を築き上げる。心理はぐいぐいと飛躍して、いつのまにか魂が天外に飛んでいるのに、肉体の意識は、ぴったりと地についている。客観的には、飲むにつれて次第に理論が整然としてくる上に、態度が乱れないので酔つているというかんじをあたえないのである。しかし、これは自分が、あとから人の話を綜合して、つくりあげた結論なのだから、果して、そのとおりになつているかどうかハッキリした自信はない。高橋義孝さんが、酒興に乗じてつくつた酒豪番付によると私は横綱になつているので、私のことをたいへんな大酒飲みのように思つている人もいるが、私の酒の適量は、一人で飲むときは二、三合、勢いに乗じた最高のレコードが、せいぜい一升五合、ビールだったら、やつと一ダースくらいのところだから大したものではない。この頃では、朝起きて必らずコップに一杯もしくは二杯。昼一杯。夜になると、臨機応変ということになるから、一日の時間の大半は酒を飲むよりも、むしろ酒に飲まれていることになるかも知れぬ。(「人間随筆」 尾崎士郎) 尾崎士郎の酒 


顔が焼け火箸
「酒をもう一杯飲もう」と杯を出す。「今夜はなかなかあがるのね。もうだいぶ赤くなっていらっしゃいますよ」「飲むとも。-お前世界でいちばん長い字を知ってるか」「ええ、前(さき)の関白太政大臣でしょう」「それは名前だ。長い字を知ってるか」「字って横文字ですか」「うん」「知らないわ、-お酒は、もういいでしょう、これで御飯になさいな、ねえ」「いや、まだ飲む。いちばん長い字を教えてやろうか」「ええ。そすいたら御飯ですよ」「Archaiomelesidonophrunicherata* という字だ」「でたらめでしょう」「でたらめなものか、ギリシャ語だ」「なんという字なの、日本語にすれば」「意味は知らん。ただ綴りだけ知ってるんだ。長く書くと六寸三分ぐらいにかける」他人なら酒の上で言うべき事を、正気で言っているところがすこぶる奇観である。もっとも今夜に限って酒をむやみにのむ。平生なら猪口に二杯ときめているのを、もう四杯飲んだ。二杯でもずいぶん赤くなるところを倍飲んだのだから顔が焼け火箸のようにほてって、さも苦しそうだ。それでもまだやめない。「もう一杯」と出す。細君はあまりの事に、「もうおよしになったら、いいでしょう、苦しいばかりですわ」と苦々しい顔をする。「なに苦しくってもこれから少しけいこするんだ。大町桂月が飲めと言った」「桂月ってなんです」さすがの桂月も細君に会っては一文の価値もない。「桂月は現今一番の批評家だ。それが飲めと言うのだからいいにきまっているさ」「ばかをおっしゃい。桂月だって、梅月だって、苦しい思いをして酒を飲めなんて、よけいな事ですわ」
* アリストファーネスの喜劇『蜂』二二〇行にある言葉で、[フェニキアの町]シドンの[人]フリューニコス[詩人の名]の昔の歌[のごとく]愛らしきの意。(「吾輩は猫である」 夏目漱石) 


唐伯虎、フランシス・カルコ
風流人達がある山に登って酒をくみ、詩を作って楽しんでいた。そこへ乞食のような風体の男が来て、紙を所望し「一上一上又一上」と書き、つづけてまた「一上」と書いた。人びとは笑ったが、やがて立派な登山の詩を書きあげた。それも道理、彼は文人画家の唐伯虎だった。
フランシス・カルコは酔いつぶれて二日二晩ねて眼が覚めると、片耳がいたい。手をやってみると折りたたんだ紙切れがつっこんであった。それにはある女の手で「他の女がとるといけないので、お金はとっておきました。取りにおいでになれば、すぐお渡しします」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


おもや、うれる
おもや2[母屋]御馳走の時酒の出ること。[←いんきょ](強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)
うじ・の・あいさつ[宇治の挨拶](名詞)句 ばかにしていること。茶化していること。[←茶にしている。あいさつ=喧嘩の仲裁=酒を飲むのが普通だが、茶所の宇治だから茶にする→茶化している](洒落言葉)(江戸)
うれる[熟れる](動詞)酒に酔う。(強盗・窃盗犯罪者用語、香具師・やし・てきや用語)(大正)
うんすけ[雲助]焼酎。[←うんすけ=焼酎を入れる壺](強盗・窃盗犯罪者用語)(昭和)(「隠語辞典」 楳垣実編) 


土筆の粕漬け
さほひめの筆かと見るつくつくち雪かきわくる春のけしきは 為家
筆頭菜と優しい名をつけられた土筆(つくし)は、俗に呼ぶ袴(はかま)をむき取り、さっと茹でてザルにあけ、ガーゼに挟んで粕漬けにすると、乙な味わいは酒客を喜ばせます。(「味覚三昧」 辻嘉一) 


日清戦争の影響
○清酒は洫兵(じゅっぺい)部へ献品に成りしもの今日までにて既に四万樽の多きに及び其内幾分かは既に戦地へ輸送したので勢ほひ価格に大影響を及ぼし十駄(二十樽)につき百十円以内のものは百廿二円五十銭に騰貴し(即ち一樽につき一円廿五銭の騰貴)又十駄につき百十円以上百五六十円までのものは概して廿円方騰貴せり(即ち一樽に付一円以上の騰貴)去らでも昨今は追々需要者の増て来る季節なれば問屋は弥(いよい)よ鼻ッ張強く小売商は値の高くなるに当惑し一同殆ど青息吐息-=明27.9.11(「朝日新聞の記事にみる 奇談珍談巷談[明治]」 朝日新聞社編) 


「漱石と酒」
明治二十八年の俳句に、「霽月(せいげつ)に酒の賛を乞われたる」とき「一句ぬき玉へとて遣はす五句」の初めのは、「飲む事一斗白菊折つて舞はん」飯一斗ママ  というのである。その五句はいずれも余りうまいとはいえぬ。おなじ年のものに、「新酒売る家ありて茸の名所哉」と詠んでいる。この取り合わせはよい。-「送子規」として詠んだものに「御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花」というのがある。正岡子規は、松山で、漱石の下宿にいた。十月十七日、料亭花廼舎(はなのや 松山市二番町三番地[現三番])で、送別会があった。そのときのもであろう。新酒を詠んだものは幾つかある。「御名残の新酒とならば戴かん」(明治二十九年)「ある時は新酒に酔いて悔多き」(明治三十年)「落ち合ひて新酒の酔に托すべき」(明治三十一年)「憂あり新酒の酔に托すべく」(明治三十一年)「頓首して新酒門内許されず」(明治三十二年)「酔過ぎて新酒の色や虚子の顔」(年月不詳)新酒の句は、酒を詠んだものでは意外に多い。新酒は、その年に醸造された酒で、火入れはしていない。漱石がなぜ新酒に関心を抱いたかと云うと、漢詩などの影響もあったかと思われる。(「『酒』と作家たち」 浦西和彦編 「漱石と酒」 新正人) 


ようとほえる
「悪い御家人と争っても勝ち目はない」玄磧はあきらめて、よそへ引っ越したから、重蔵は豪邸を取りもどし、これを売り払って目黒に冨士塚を造った。そのころ江戸で大流行していたミニチュア富士である。ところが、共同出資者だった隣家の農民と、重蔵は儲けをめぐって争いを起こし、この一家を惨殺する。しかし罪を、息子の富蔵に背負わせ、自身は単に「監督不行とどき」の咎で近江の大溝藩にお預けとなったあげく、まんまと幽閉場所を脱走-。敦賀港から船に乗り、どうやらシベリアへへ逃げたらしい。太田蜀山人は、各界名士『役者見立て』の中で、「近藤重蔵、しつはロシアの廻し者、ようとほえる」と書いている。はからずもその戯言は的中し、霧深い海上を重蔵は北へ去って、消息は、ついに不明のまま終わった。殺人を犯して獄死した平賀源内の末路に似ている。才能ある異端児を社会的規矩からはみ出させ「酔うと吠える」だけの自棄酒吞みにしてのけたのは、体制の責任か、それとも彼自身、持って生まれた性格によるものだろうか。(「はみ出し人間の系譜」 杉本苑子) 近藤重蔵は、蝦夷地の探検家だった人物だそうです。 


あげ出し
上野の池の端に「あげ出し」があった。小絲源太郎画伯の生家ときいていた。「あげ出し」は通称であるかも知れない。ここの平たく切った豆腐のあげたのへ大根おろしをかけたものが名物になっていた。不忍池のあたりが今のように騒々しくならぬ前で、座敷から見えるので、蓮の花が咲く頃は、朝早くから客があった。風呂が朝から入れるようになっていた。昔、吉原帰りが、朝風呂に入った名残りときいた。或る年暮れ近く、長野から夜行で来た兄を早朝上野駅に迎えに行って、あげ出しに寄り、湯に入り、一杯やり出した。二人とも酒好きであったから、ひる近くまで飲んでしまった。それから何食わぬ顔で勤めに出たつもりだったが、たちまち岩波茂雄に見抜かれて叱られた。久保田万太郎の句を一つ。 湯どうふやいのちのはてのうすあかり(「厨に近く」 小林勇) 


酒代(上酒)四升
明治三十二年四月頃の、尾崎紅葉の家計簿がある。尾崎紅葉といえば、当時の文学者としては第一人者であり、金銭にも十分にめぐまれた人である。 四月分家計費総額 金八十九円六十二銭也 内訳 家賃(二軒あり)十一円と七円 米代 十五円 魚類 五円 鮮菜 七円 酒代(上酒)四升 二円三十二銭 タバコ 十円 車代 十円 薪炭代 八円 醤油代 二円八十銭 味りん代 九十銭 油代 一円五十銭 女中(三人) 四円四十銭 湯銭 二円 床屋 三十五銭 切手代 一円 牛乳代 一円三十五銭 六十円の月給取りだったら、四、五人の家族を養えるといった時代である。当時、紅葉は日就社という出版社のゾクを食(は)む、年収千二百円のお身分であった。かけだしの文士が三十銭、一人前になって七十銭がよいところといのだから、小説稼業じゃあピイピイである。紅葉の所得税は八円四十銭であった。では、実業家はというと、、大倉喜八郎が千六百三十七円三十一銭、外務大臣大隈重信が百四十円七十九銭といった風景である。(「めぐる杯」 北村孟徳) 


遺伝学者
漱石は酒には体質的に弱かった。父親の夏目小兵衛(直克)も、祖父も、人並みには飲んでいた。祖父は雑司ヶ谷の料理屋で酒を飲んでいるときに急死した。長兄大一も、次兄栄之助も、恐らくは三兄直矩(なおのり)もおなじであったらしい。伸一も、伸六も、父親とは異なり、酒は飲める。だが、漱石が十五歳のときに死んだ母親ちゑ(千枝)はどうであったろうか。漱石には、異母姉のさわ(佐和)とふさ(房)がいた。彼女たちはどうであったろうか。この点も興味を惹く。漱石は、家系の中で、酒の飲めぬという点では全く孤立している。遺伝学者は、これをどう解釈するのであろうか。(「『酒』と作家たち」 浦西和彦編 「漱石と酒」 新正人) 


奶酒
その草原で飲んだ酒が[81]の乳酒を蒸溜した「奶酒(ナイチユウ)」という酒で、アルコール分は三〇%ぐらいのものです。乳の酒は通常は馬乳で造るのですが、この酒は牛乳で造っているのが特徴的です。もっともこの草原には、そう多くの馬はいませんので、やっぱり牛の乳の酒ということになります。哺乳動物の乳には乳糖という糖分があります。人間の母乳には約七%、馬の乳には五%、牛や山羊の乳には四・五%ぐらい含まれているのです。ところが一般にアルコール発酵を行う酵母は乳糖に作用してアルコールをつくることができません。といいますのは、乳糖(ラクトース)はガラクトースという糖と、ブドウ糖とが結合した糖であるからで、その結合を切ってブドウ糖を独立させてやれば、そのブドウ糖にアルコール発酵を行う酵母(自然界に多い)が作用して、アルコールを生成します。そのため、この結合を切る酵素(ラクターゼ)を持った酵母がいれば、アルコール発酵を行いますから、酒が出来る訳です。ところが、やっぱり草原というところは牛乳文化の色濃いところですから、そのような特殊な酵母もいるのですねぇ。だから牛乳で酒ができるのです。(「中国怪食紀行」 小泉武夫) 内蒙古自治区満州里市から四〇キロほど行ったところだそうです。 


ネパールのビール
-次の日の昼すぎ、撮影現場の見物にやってきたチェトリ君が「きょうはビールは要らないのか」ときく。前夜のあの冷えたビールの味がよみがえる。「要らないことはないけど、大変じゃないか」「だいじょぶ。きょうは土曜でもう学校はないし、あしたは休みだし、イスタルをたくさん買ってきてあげる」STARというラベルのネパールのビールを、現地の人びとは「イスタル」と発言する。嬉しくなって、きのうより大きなザックと一ダースぶん以上ビールを買えるお金を渡した。チュトリ君は、きのう以上に張りきってとび出して行った。ところが夜になっても帰ってこないのである。夜なかちかくになっても音沙汰ない。事故ではないだろうか、と村人に相談すると「そんな大金をあずけたのなら逃げたのだ」と口をそろえて言うのである。それだけの金があったら、親のところへ帰ってから首都のカトマンズへだって行ける。きっとそうしたのだ、と。-
そのチェトリが、帰ってこないのである。あくる日も帰ってこない。その翌日の月曜日になっても帰ってこない。-
-歯ぎしりするほど後悔した。ついうっかり日本の感覚で、ネパールの子どもにとっては信じられない大金を渡してしまった。そしてあんないい子の一生を狂わした。しかし、そうだったら、最悪なのである。いても立ってもいられない気もちで過ごした三日目の深夜、宿舎の戸が激しくノックされた。すわ、最悪の凶報か、と戸をあけるとそこにチェトリが立っていたのである。泥まみれでヨレヨレの格好であった。三本しかチャリコットにビールがなかったので、山を四つも越した別の峠まで行ったという。合計十本買ったのだけど、ころんで三本割ってしまった、とべそをかきながらその破片をぜんぶ出してみせ、そして釣銭を出した。彼の肩を抱いて、私は泣いた。ちかごろあんなに泣いたことはない。そしてあんなに深く、いろいろ反省したこともない。(「ネパールのビール」 吉田直哉) 


段蔵
戦国時代でもっとも有能な忍者として知られている。しかし、(加藤)段蔵はあまりに忍者として優れすぎていたため、警戒した(上杉)謙信から暗殺を謀られることに。そこで段蔵は、謙信のもとから姿を消して、武田信玄のもとを訪れる。ところが、信玄も謙信同様、その優れすぎている段蔵に警戒心を持ち始めてしまった。段蔵を油断させるため、その場ではその腕前を褒めちぎる信玄。そんな信玄の様子を見て、段蔵は自分の力を認められたのだと思い、祝杯と称してご機嫌で酒を飲んでベロベロに…。そして信玄は、その泥酔して油断しているところを狙い、家臣を使って暗殺した。(「酔った私のはずかし~話」 別冊宝島編集部編) 


グレートファイア被災ワイン
二日目の朝、ピープスはバッテン夫人の回してくれた荷車で、「金と銀器全部と上等の品」を郊外の知人の家に疎開する。「街路も街道も人で混み合っている。走る者もあれば、馬に乗っている者もいる。とにかく何とか家財道具を運び出すために、荷車を手に入れようとしているのだ。」三日目の朝、ピープスは残りの品を艀(はしけ)で運び出す。「サー・W・バッテンはワインの疎開方法に窮して、庭に穴を掘って埋めた。わたしもそれに便乗して、片づけ残った役所の書類を全部そこに入れた。そして夕方になった、サー・W・ペンと二人でもう一つ穴を掘り、われわれのワインを埋めた。わたしはワインやその他二、三の品といっしょに、パルメザン・チーズも入れた。」(「ピープス氏の秘められた日記」 臼田昭)1666年におこったロンドン大火の日記だそうです。その前年に日記には「神様の思召しで、なんという身になったことか。今という今、わたしはクラレット赤ワイン八斗入り二樽-カナリア島産白ワイン八斗樽二つに、辛口白ワイン小樽一個-甘口赤ワイン一樽、マラガ産白ワイン一樽、そのほか白ワインもう一樽を全部揃えて酒蔵にもっている-思うに、現存するピープス家の人間として、一時にこれだけをわが物にした人間は誰もいないだろう。」と記しているそうです。 


酒の俳諧
雲丹嘗めて一壺の酒を尽くしけり 子角
白魚の酢加減ききつ酒をゆぐ 千枝女
湯豆腐と酒に腸(はらわた)焼きにけり 竹門
田楽や瓢の酒をつぎこぼす 九麓
田楽や風にさめゆく酒の酔 九麓(「俳諧 たべもの歳時記」 四方山径) 


鈍智・貧福・下戸上戸・貧者有徳者・苦者楽者
かくして現代における世間とじぶんとの関係は、まことに個的な孤独なものになり果(おお)せてしまい、ヨコへの連帯も近隣との相互扶助も断ち切られた現実になっていることが判る。しょせん私たちの生きている浮世は、どうみたところで、"鈍智・貧福・下戸上戸・貧者有徳者・苦者楽者"でしかあり得ない。この諺でしかし一つ救われることは、この諺に「落ちこぼれ」というような意味の語がふくまれていない点であろう。(「ことわざの世界」 檜谷昭彦) 


再び親子の盃
その愛妻はまを行年四十七で、大正二年(一九一三)三月三十一日に失ったわけだが、天下を制し、入道を名乗った桃中軒雲右衛門も、このところますます高まる名声に比して、肝腎のご内緒のほうは不如意の状態(ありさま)がつづいているようで、興行上の問題などでしばしば紛争(もめごと)を生じている。妻はまに先立たれる少し前の二月、横浜(はま)の侠客(おやぶん)で雲右衛門の面倒を見ていた澤野美之助を些細なことから怒らせている。「二六新報」社長で代議士の秋田清ら数名を浅草の草津に招いて会食していた澤野美之助が、その席に雲右衛門も招こうと直接(じかに)電話したのに、雲右衛門がけんもほろろに断ったことに、「顔をけがされた」と腹を立てた澤野は、親子の盃を返してしまったのである。事態をさとった雲右衛門は再三にわたって詫びを入れ、結局横浜座座主轟由次郎、喜楽座座主染之丞、吉田奈良丸会幹事中田某が仲裁人(なかだち)となって、再び親子の盃をすることになり、横浜消防組頭(ひけしぐみがしら)三門常吉が澤野の代理人に立ち、四月になってなんとか東京での手打にこぎつけた。(「大正百話」 矢野誠一) 


文化五年[一八〇八]戊辰六月閏
○七月二十五日、昼九ツ時より南大風雨、家屋を損じ怪我人多し。豆州猟船七十余艘(そう)覆(くつが)える。又酒船入津(にゅうしん)絶えて市中酒なし。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


二高時代
二高時代はよく遊びよく学び、ほんとうにのびのびしたカレッジ・ライフを楽しんだ。旧制高校は寮制だったので、私は入学すると寮にはいった。寮は自治制だった。私たちの明善寮には、消防隊があって、いざというときは市内の火事にも馳せつけて活躍した。寮には表彰状が掲げられていた。一夜、近所が火事だというので、明善寮と書かれた弓張提灯を先頭にハリキッて出動したが、息が切れてしまった。塀に突き当たったので、とにかく破壊消防だと塀をこわしはじめたら、そこの親爺から、「馬鹿、火事は一丁も先だ」と怒鳴られた。一同コンパの酒がたたっていたからである。「二高の学生さんだから仕方がない」と親爺さんはこらえてくれたが、嘘のようなほんとうの話である。(「あゝ玉杯に花うけて」 扇谷正造編 「我れ人生の朝ぼらけ」 北島織衛) 


ヨンゴー
これ(にっぱち 景気の悪い月)に、最近は、ヨンゴー(四五)という言葉が加わった。…かどうか私は知らない。これは私の造語である。多分そうだろうと考えていることがある。酒場の客は、三十五歳から五十五歳までと考えていいだろう。つまり、酒場の客は、中年から初老までである。経済的なユトリができ、公私ともに交際がふえ、また、飲める盛りということになる。なかでも四十代というのが盛りの年齢である。その真ん中の四十五歳という年齢を考えてみよう。四十五歳の男に、十七歳の長男、十四歳の長女、十一歳の次男がいても不思議ではない。長男が大学に入学する。長女が高校に、次男が中学に進学する。この入学金で中年の父親は参ってしまうのである。私立の中学であると入学金だけで三十万円、一年分の授業料その他で十五万円というのは珍しくない。三月に入学金を払う。入学祝いをする。四月、五月は、父親はショックで意気阻喪している。ショックどころか、借金の返済で頭が痛い。酒場なんかへ行っていられない。酒場が不景気になる。というのが、私のヨンゴー説である。こう考えてくると、酒場の経営も楽でないことがわかる。(「酒場についての知恵」 山口瞳) 


正宗を二三杯
主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかもしれないが、われら猫属に至ると行住坐臥、行屎送尿(こうしそうにょう)ことごとく真正の日記であるから、別段そんなめんどうな手数をして、おのれの真面目保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら縁側に寝ているまでの事さ。
 神田の某亭で晩餐を食う。久しぶりで正宗を二三杯飲んだら、けさは胃の具合がたいへんいい。胃弱には晩酌が一番だと思う。タカジャスターゼは無論いかん。だれがなんと言ってもだめだ。どうしたってきかないものはきかないのだ。
むやみにタカジャスターゼを攻撃する。ひとりでけんかをしているようだ。(「吾輩は猫である」 夏目漱石) 


酒・めし・雪隠
"酒・めし・雪隠"という諺の有した意味が、こんにちにおいても生き生きとした実感でよみがえってくるように考えられる。この諺は、客をもてなす三つの秘訣を告げたもので、パーティにおける主婦の心得は、第一によい酒の供応(外国ではワインの選定はホストの役目になっている)、第二に良い料理を作ること、そして第三にトイレットに入念の心得をもてという意味である。この諺は『比喩尽(ひゆづくし)』によれば、「茶の湯せば亭主に三つの馳走あり、酒飯雪隠気をば付くべし」という和歌の形で用いられていて、茶の湯の心得になっているが、茶の湯の道だけにこの諺を限ってしまうのはもったいない。(「ことわざの世界」 檜谷昭彦) 


幻の日本酒を飲む会の会是
思い返せば、酒飲みの会ほどつくりやすいものはない。そして長持ちしないもののようだ。それなのに、幻の日本酒を飲む会が10年も継続できた理由を考えて見るのも興味があることだ。-
ただ酒を飲むな、きき酒能力問うな、あの酒うまかったと極め付けるな、は旭川美酒の会で大受けだったそうで、以来、幻の日本酒を飲む会の会是にしている。(「幻の日本酒を求めて」 篠田次郎) 


酒は和歌会の始と終りに出すのみ
[天明五]明のとし 巳のとし 武げい等のせわきびしければ、みなみなせい出したり。-
月に一度づゝ和歌の会をなす。短冊などものべ紙(延紙)をきりたる也。懐紙ものべがみを用ゆ。歌よみ終れば、はぎもち・だんご又は湯どうふなどやるなり。酒は和歌会の始と終りに出すのみ。風流にも質素にせよと教しゆる微意なり。服部丹後・そう(奏)者なんどにやはらをおしゆ。月に三度づゝなり。関秋風・大学講義などをつくる。こぞ仙台にて餓死したる人、四十万にみてり。津軽も二三十万人死せり。その余右のごとし。予が領国は死せるものなしといえり。されど餓死せざれども、食物あしくて死せるものはありけんかと思[ふ]へば、いまも物くるし。(うげのひとこと)」 松平定信 松平定光校訂) 子孫で老中になった者が読むものであり、他見はあってはならないとの封書が付けられているそうです。 


飯鮓
寛永年間に刊行された毛吹草には、山城の名産に六條の飯鮓(いずし)、大和には奈良飯鮓が出て居る。「雍川府志」に依ると「精飯を長さ三寸許(ばかり)、四囲一寸程物相(もっそう)に盛り、乾魚の皮一片を貼りて、堅密に之を圧し出だす。再び桶に盛り、別の飯を以て之を酢蔵し、石を以て圧す、これを飯鮓といふ。或は月夜と号く、其色の白きを以てなり。熟した後、磁器に盛り、冷酒を灌(そそ)ぎ、生蓼(たで)の葉を加へて食す。是また夏日の珍味なり」と書いてある。(「食味の神髄」 多田鉄之助) 


1927年
出席すると、ソーテルヌという白ブドウ酒が目についた。見ると、一九二七年(昭和二年)に醸造されたものだ。シャトー・イッケムでなかったので、私は手を出さずにいた。すると、池島信平氏がそばへやってきて、「このブドウ酒はうまいから、ぜひ一ト口でも飲んでごらんなさい」そう言って、無理に私にグラスを持たせて、グラスに半分ほどついでくれた。こわごわなめて見ると、なるほど、うまい。舌ざわりと言い、香りと言い、コクと言い、甘みと言い、どこにも作為がなく、天然自然の味だった。グラス半分といえば、猪口に直せば五六杯にはなるだろう。日本酒だったら、もう苦くなってノドで突き返して来る量だ。それが苦くもナラズ、ノドで突き返すようなこともなく、私としては例のないこと、食事の終るまでグラスを手から放さず、半分づつ三度お代わりをした。その晩の食事もうまかったが、しかし、私にとってその晩第一の美味は、この白ブドウ酒だった。これが病みつきになって、明治屋へ行ってソーテルヌを買って来るようになった。しかし、一九二七年なんという古酒はありっこない。古酒でなくっても、結構うまい。(「舌の散歩」 小島政二郎) '70年の出版です。 


トマトの和風サラダ カツオのタタキ風
「まずはやや硬めの大ぶりのトマトを用意します」「そしてトマトのヘタのところのフォークを突き刺して」「ガスの直火(じかび)であぶります」「こうすると皮がはじけて」「湯むきと同じようにつるりと皮がむけるんです」「ヘタをくり抜いたら」「タテ半分に切ってからスライスします」「フライパンを火にかけて薄く油をひき」「スライスしたトマトを並べて両面をサッと焼いたら」「大きな皿にきれいに並べて盛りつけます」「そしたら次は薬味です」「玉ネギ ミョウガ 青ジソ ニンニク ショウガを薄くまたは細かく刻んで大皿のトマトにまんべんなくまぶして」「その上から『ポン酢しょうゆ』もしくは『麺つゆとレモン汁』たっぷりかけ回せば」「『トマトの和風サラダ カツオのタタキ風』の完成です!」(「風流つまみ道場」 ラズウェル細木) 


計八時間
作家・牧野信一の取材に訪れた編集者の訪問記によると-。葛西宅の格子戸のガラスは破れ、新聞紙を差し込んである。居間のタタミは縁がはがれ、フスマの半分はビリビリに裂かれているというひどさ。部屋には机だけがポツンとあった。初対面なのに、すぐ徳利と酒杯が出た。「まあ、少し酔ってから話すよ、もう少し待って…」と手が震えていた。三時間たって、ずでに徳利は何本も空になっていた。「牧野のことか、困ったなァ、広津や宇野のことなら、困ったなァ…」と言いながら、「もう少し酔ったら、大丈夫話すよ」とロレツが回らない。「じゃ、題だけでも『牧野君のこと一、二…』」と言いながら、便所に立ったが、よろめいて倒れそうになった。すでに五時間。帰ってきた葛西は「君、腹は空いていないか、ソバでもとろうか、ぼくは酒を飲んでいるからいいが…」「話しは三、四時間かかるよ」外はすでに暗くなっていた。話は三時間かかり、筆記した原稿がやっと四枚できた。「意味は通るか…原稿になっているか。大丈夫か…。何枚書いたか…」と何度か、葛西は念を押した。結局、わずかな談話原稿に計八時間かかり、葛西は酔ってぶっ倒れてしまい、編集者もクタクタになった。(「ニッポン偉人奇行録」 前坂俊之) 


安部氏の飲みっぷり
運転をはじめる前の、安部(公房)氏の趣味の座のトップは酒であったらしい。銀座と新宿に店があるGという酒場でよく見かけた。強い、どんない酔っていても、所謂、酔っている風のなかった人とお見受けした。私は、どうしてか、この人が一人で飲んでいる時ばかり、目撃している。安部氏の話といえば、ある年の文壇酒豪番付の会議で、奥野健男氏が「よく飲んでいる」といって、張出し前頭から、前頭中位にあがったことがあった。それ以前は、つまり安部氏の飲みっぷりは知られていないので、暫く実力にふさわしくない位置であった。(「ここだけの話」 山本容朗) 


企業の謀略?
これはフランス人に聞いた話です。企業の工夫というのでしょうか、企業の謀略というのでしょうか…ここのところ、日本がワインのソムリエで世界一という評判をとりました。ワインを飲んで育ったフランス人をおしのけて日本のソムリエが優勝するというのは、たいへんなことです。わたしは、まァ、立派だなあと思うのですが、これには別の見方がある。日本にワインを売りこむために、とくに女性に売り込むためにどうしたらいいか、という作戦があって、その作戦の一環だというんですね。つまり、ソムリエ世界一を日本にわたす、そうすると、それが日本のマスコミで紹介される、紹介されればワインのPRになる、それが女性に対してのワインの売り込みにつながっていく、そんな話だというんです。これを聞いたときに、われわれはほんとに表面しか見ていないのだなァ、という気がしましたし、嘘にちがいなとも思いました。(「商人(あきんど)」 永六輔) 


常の盃にて酒飲み様の事
左の膝を敷き、右の膝を重ねて、左へ寄りかゝり、左の手をつき、右の手にて盃をとり、そと戴きてさしうつむき、のみ給ふべし。肴は手にうけて、鼻紙をおりながら取いだし、その中へ入、脇におき、立ときに持てたつべし。わがのみたる盃を、台の上へのすべからず。台の右の脇畳の上におき給ふべし。酌人取て台の上にのせ、さきへもちゆくべし。酒を強い給ふにもそばにゐる女郎衆にむきて、御参り候様にとの給ふべし。女中客の心やすきは、直(ぢき)にの給ひてもよし。肴を挟み給ふには、何にても手のよごれぬ物すこしばかり挟み進ぜ、箸をむかふの方へなをしおくべし。わが方へ直しおくまじく候。(「女重宝記・男重宝記 元禄若者心得集」 長友千代治校注) 


おそめさんだけ
昭和十年代の半ば、京都大学の学生であった武智(鉄二)たちは徒党を組んで茶屋に遊んだという。しかし、茶屋に上がっても芸妓のことはお酌するロボットとしか思わず、彼女たちの人格を無視して皆で銘々、勝手な議論をするのが常だった。そんな学生たちの宴席は芸妓たちに好かれるわけもなく、早々に彼女たちは引き上げてしまう。「そんなとき、唯ひとり、じっと坐って、退屈なお酌をくりかえし、たまにはさされる盃を干して、いつまでもつきあってくれるのは、おそめさんだけだった。おそめさんは名うての酒豪であるが、そのころから酒は強かった。くだらない学生大ぜいの面倒を見て、夜明けまで付き合って、膝もくずさない酒豪ぶりは、あざやかなたたずまいであった」 「(筆者注・おそめは)物静かな態度で、勧められれば絶対に断らないサービス精神を発揮して、ひきうけひきうけ、杯を干して行く。(中略)夜明けの五時になって、お銚子をとりに下へ降りたまま、座敷に入ってこない。どうしたのかと思って、廊下へ出てみると、階段を上りきったところで、お酒の入ったお銚子を右手にささげ、左手をひたいのところにしなよく当てて横坐りをして居眠りしている。おそめさんが横坐りしたのを見たのは、あとにも先にもこのときだけであった」祇園芸妓おそめの人となりと、座敷での勤めぶりが伝わってくる。秀は実際、見世出しと同時に売れっ妓になった。(「おそめ」 石井妙子) それが面白うて 


あかのれん[赤暖簾] 安い飲食店。[←赤い暖簾をかけていたのが多かった](俗語)(大正)
あくきりゆう[悪気流] 酒ぐせの悪い男。(俗語)(昭和)
あて3[当て] ①副食物。菜。(操り人形師楽屋言葉)(江戸) ②酒宴の席での料理。(香具師・やし・てきや用語)(大正) 
いんきょ[隠居] ②御馳走に酒の出ないこと。→おもや[←隠居では金銭が思うようにならないので酒も出せない](強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)(「隠語辞典」 楳垣実編) 


ワイン禁制、居酒屋禁制
バイヤーによれば、フランスでは、修道院と世俗の領主がこぞってワイン禁制を布(し)いた。領主と農民は、自分の醸造所でつくったワインを購入するよう強制することが多かった。たとえば、メッスの修道院は、修道院所有の居酒屋から、一定量のワインを農民に強制的に買い取らせた。そのほか、ワイン禁制は、一般の居酒屋が領主の居酒屋から毎年一定量のワインを買い取らねばならなかったり、居酒屋は領主の醸造所のみからしかワインを買うことができなかったり、自由売買が歳の市期間にかぎられたりなど、多様に存在した。居酒屋禁制を免れて営業できた場合でも、領主に一定の手数料を支払わなくてはならなかった。(バイヤー『異人歓待の歴史』、一三三~一三四頁)都市の場合は、都市自身が居酒屋禁制や醸造禁制の権利をもっている場合が多かった(同 一四〇頁)。都市でも農村でも、居酒屋禁制がなくなるのは、地域によっても異なるが、一八世紀になってからであった。そして醸造・販売・購入の自由は、フランス革命後一九世紀になってから完全に実現するが、それでも酒の製造や販売は国家による統制を受けつづけた。(「居酒屋の世界史」 下田淳) 


英世
(野口)英世は金銭面では、かなりルーズだったようである。方々に借金をしている。酒や遊びに用いたようだ。妙に気前が良くて、せっかく集めた渡米費用全額を、見送りの友人たちと飲んでスッカラカンにしている。遊びもしたが、勉強も怠らなかった。これは「城母」(実母シカをこういっていたようです)が手本らしい。シカは発奮して、助産婦の免許を取るべく猛勉強した。その姿を幼時の英世は見ている。そしてついに免許をえた。(「行蔵は我にあり」 出久根達郎) 


さら川(9)
人情と地酒嬉(うれ)しい左遷の地 強一
不況風肝臓完治医者いらず 強がり
ネオン街社長でいられる六十分 万年平社員
赤提灯そこまで言うか平社員 詠(よ)み人知らず
今小町競馬カラオケ赤提灯 オジン
もう一軒行くぞと叫ぶ女子社員 昼行灯(ひるあんどん)(「平成サラリーマン川柳傑作選」 山藤+尾藤+第一生命=選) 


そのころ凝っていた小鼓
妻が出て行ったあと、コガネという猫をはべらして部屋に寝ころがり、ヴァイオリン協奏曲のレコードを聴きながら、何やらむずかしい書物を読んでいる伊丹さんはまことによく似合っていた。そんな伊丹さんのところへ、私は何度もおしかけて行った。なぐさめる…というのではなく、家庭の匂いを除いた伊丹さんとの会話が、私にとっては贅沢な時間だったのだ。「さて、湯豆腐でもやりますか…」伊丹さんは、そのころ凝っていた丹波の小鼓の一升瓶から、茶碗に酒を注ぎながら、同意を求めるような上目遣いをつくる。小鼓のラベルは高浜虚子の書によるもので、その酒を好むのも、やはり伊丹さんに似合っていた。高価なぐい「上:夭、下:口 の」みでなく茶碗というのも伊丹さんらしかった。小さな土鍋の底に昆布を敷いて水を入れ、湯が沸くのを待つあいだ、卓の上に湯豆腐のぐを並べる。ネギ、ゴマ、鰹節、ノリ、醤油、柚子胡椒、金山寺味噌、ショウガ…これらを並べ終ると、釣師のように土鍋の水の沸きぐあいに目を凝らす。頃合いを見計らって四角く切った豆腐を湯の中に沈める。そしてまた、釣師が水面を見る目になる。(「河童の屁」 村松友視) 


熱食
八島五岳は、さらにこうも付言する。「また好んで熱酒を飲む人あり。鼻の先、頬(ほお)げて赤くなりて見ぐるしきものなり。石榴鼻(ざくろばな)というものになるも、熱燗の仕わざなり。たとえ、それらの事なくとも、腹中に病を生ずること疑いなし。鳥獣のたぐいは、常に冷食すれば病なく、歯を磨きし事なけれども、冷食すれば歯の色白し」なるほど、歯ブラシでゴシゴシやる猿、焚火(たきび)で肉を焼いて食べる虎など、見たことはないし、人間なみに加熱したものを与えられているペットたちのほうが、野生動物より虚弱といえなくもないけれど、ま、なにごとも過ぎたるは及ばざるがごとし。冷熱ともにほどほどなのが、本当の健康管理ではなかろうか。(「はみ出し人間の系譜」 杉本苑子) 八島五岳は、天保六年の序がある「百家琦行伝」の編者だそうです。 

若い税務署長
当時の大蔵省は若い学士を採用後二三年たつと、中都市に税務署長として送りこむことになっていた。その目的は、一つには大蔵省の唯一の出先機関である税務署の第一線を通して、国民のふところの実態を知ることと、一つには税務署員の使いかたを修練させて、将来大蔵省の幹部になる修行をさせることにあるといわれていたが、実際には、一つには大蔵省と関係の深い、酒を飲む修練をすること、一つには粋な遊びも覚えさせて、やぼったい大学の秀才のねりなおしをやって、将来困らぬようにしてやろうという親心もあったのであろう。(「政治家のつれづれ草」 前尾繁三郎) 


白バイと貞淑な妻
白バイが猛烈な勢いで、ジャックの運転する車に追い付き、ハンドルにしがみついているジャックに怒鳴りつけた。「本官は君を次の四つの理由により、逮捕する。第一、君は中央通りで、信号無視運転をし、第二に、三番街では一方通行に違反し、第三に市内の速度制限地域を五十マイル以上の速度で走り抜け、しかも、第四に、本官の警笛を無視して、十丁も走りつづけた…」その時、ジャックの貞淑な妻はよりそうように、亭主の顔を覗き込み、こぼれるような微笑で警官に抗議した。「うちの人にかまっちゃ駄目よ。主人はぐでんぐでんに酔っ払っているんですから」(「笑談事典」 ベネット・サーフ) 


谷底か山頂か
源氏(鶏太)は洋酒党といったほうがいいかも知れない。ところが、久し振りで会った友達と飲むには、日本酒に限るような気がする、と日本酒の差しつ差されつの人間交流のムードを認め、「日本酒の持っているあの独特な香気が先ず心を酔わせてしまうのであろうか」(「日本酒の余徳」)といっている。そして、井伏鱒二のいった「日本酒と洋酒とでは酔い方が違う」という話にうなずいている。井伏によれば、洋酒の酔いが単純に深くなっていくのに対して、日本酒の酔いにはいろんな過程があるというのだ。初めのうちはせせらぎではじまり、次第に大きな川になっていく。ふと気がつくと深谷底にいたり、おや、と思えばいつの間にか山の頂上に立っている-そういうくり返しが日本酒の上等な酔いかただと井伏がいっていることを考え合わせ、源氏は「私は日本酒を飲んでいて、ふっと、今自分がいるのは谷底であろうか、それとも見晴らしのよい山の上であろうか、と思ったりすることがある。そのことが日本酒を飲むときの愉しみの一つになっている。日本酒の余徳である」(前出と同じ)と、自分流の日本酒の酔いを愉しんでいる。これはいうまでもなく飲酒における気持ちのゆとりのあらわれであり、飲めばつねに谷底を徘徊しなければ気のすまぬ自滅型の大酒飲みには、うかがい知れない境地であろう。(「作家と酒」 山本祥一郎) 


酒が強い
<酒が強い>と言い、<酒が弱い>と言う。(どういうわけか、<酒に強い><酒に弱い>とはあまり言わない。)<酒が強い>人とは、酒が好きでもあり、体質的に大量の酒を飲むことのできる人のことである。<酒が弱い>人はその反対。ここで<強い><弱い>という言葉が用いられているために、強者が幅をきかす男の世界では、酒も強い方が、何となく人間として、男として強い存在である、立派であるというようなニュウアンスが漂っている。「強いなあ、いけるなあ」と言われたいために若い人がムリに飲んで(また、)ムリに飲ませる人もいて 苦しくなったり、急性中毒を起こしたりする。また、酒の弱い人は宴会などで羽振りがきかず遠慮がちに隅の方にいたりする。これはおかしなことである。飲酒可能量の多寡は人の体質と嗜好にかかわること、それだけのことであって、酒が弱いからといって、人間そのものが弱いわけでは決してない。<強い><弱い>という対句表現を採用しているわれわれの言語に多少の問題がある。英語では<酒が強い>などとは言わない。単に、heavy drinker<大量飲酒者>と言う。heavyには<強い>という形容が含むようなグッド・イメージは何もない。むじろ、重苦しい、しつこい、うっとうしい、苛酷な…といった、あまりよくないニュウアンスがつきまとっている。heavy drinkerの反対はsmall drinkerである。<少量飲む人>であって、<弱い>と侮っているわけではない。(「朝の独学」 森村稔) 


酒二樽、米一俵
この時期、宣教師アルメイダが九州の五島列島で布教していた一五六六年、キリシタンになった島主が大病をし、回復後世話になったアルメイダに肉類を主とした贈り物をしている。それは「野猪一頭、雉二羽、鴨二羽、大型の鮮魚五匹、酒二樽、米一俵」と記録されている。(「食文化・民俗・歴史散歩」 横田肇) 


その後のことは知らぬ
ある老人の下男は大酒のみであったが、何かの祝い事のあった夜、酒三、四升をのんでしまい、血を吐いて倒れた。「おもうさまに、のんでみたいが、貧乏なので、そのおもいを果したことがない」と予(かね)てから下男がいうのをきいていた老人が、その祝い事の夜に、「今夜はおもうさまのめ」と、酒をあたえられたからである。この下男も大酒がたたって数日後に死亡してしまったが、下男の妻は、いたくこれを悲しみ、人づてにきいて巫女(みこ)をたのみ、亡夫の霊を呼び出してもらうことにした。いわゆる[霊媒]というやつだ。やがて…。亡き夫の霊が巫女に乗り移った。巫女が酒のみの下男になって、「うれしいぞ、うれしいぞ」と、いう。「あれほどに沢山酒をのめて、生涯におもいのこすことはないわい」そこで妻が、「うれしくあの世へ旅立たれたのはよいが、その後はどうしておじゃるに」問いかけると、下男の霊が、「酒のんで血を吐き、そこへ打ち倒れたまでは知っているが、その後のことは知らぬ」と、こたえたそうな。このはなしをのせてある[耳袋]という古い書物は、「…口よせなどをする巫女の類、信ずべきにあらねど、好むところの酒に犯されては、活きていても前後を忘じ、うつつなき人多し。いわんや死して後の事は、さもあるべき事といいしが、可笑しきことなり」と、結んでいる。(「戦国と幕末」 池波正太郎) 


水鱶
水鱶(ふか)は、エソなどの小魚とともに蒲鉾の原料になるが、一部はこまかく刻まれた切身となり、湯掻(ゆが)かれて売られる。それを辛子(からし)味噌につけて食べると、涙がでるほど辛いのだが、なんともいえない単純な味わいが食欲をそそる。茹でられて、まっしろにはじけた鱶の切身は、それ自体あるかなきかの淡白な味で、それが、辛子味噌の強烈な刺激によって、かえってひきたつ。いや、あれは味で食べるよりも、ひきしまりざらつく舌ざわりを楽しむ食べものかもしれない。いまでは年中売っているが、むかしは夏しか食べられなかった。酒、ビール、焼酎などの肴に鱶の湯掻きを食べ、鼻をおさえている男たちの姿がみられたのは、むしあつい凪の宵であった。(「男の流儀」 津本陽) 


道人と道台
ある日、道台は客たちと酒を飲んでいた。道台の家にはもともと上等な酒をたくわえていたが、いつも一斗だけを限度として客に出し、それ以上はむやみに飲まさなかった。その日の客は、あまりその酒がうまいので、もっと飲ましてもらいたいとねだったが、道台はもうすっかりなくなったといって聞き入れない。その場にいた道人が笑って客にいった。「あなたがどうしても存分に飲みたいのなら、拙者におっしゃれば差しあげましょう」客は出してもらいたいといった。すると道人は徳利を袖の中に入れ、しばらくして出し、一座の人たちにみんな注いで廻ったが、道台のところにたくわえている酒とちっとも変わらない味で、人々はみんな歓を尽くすまで飲んだ。道台が疑問に思って、奥へはいって自家の酒瓶(さけがめ)を見てみると、封はもとのままキチンとしてあったが、中身はからっぽになっていた。(「聊斎志異(りょうさいしい)」 蒲松齢 増田、松枝、常石訳) 道台とは「省の管轄下にある若干の府県の一般政務を管理する者」だそうです。 


河童と路考
向ふよりは思ふことのいとふかく、我もまた此人ならではと、思ふ心のおもはゆく、詞(ことば)はなくて一五銚子取(り)つゝ、盃をさし寄(す)れば、彼男(かのおとこ)一六丁(ちやう)と請(け)て、つゝと一七干(し)て路考にさす。「上:夭、下:口 の」(ん)ではさしさしてはのみ、一八合も一九おさへも二人なれば、数々二〇めぐり逢ふことも、結の神の引合わせ、-
注 一五 酒をつぐ器。 一六 盃を銚子にあてて、ちゃんと。 一七 のみあけて。  一八 間。盃のやりとりの間に、第三者がのむこと。 一九 さされた盃を受けないで、おしもどすこと。 二〇 盃が度々廻ってくることと、くしくも相逢うたの意をかねる。 (「根南志具佐」 平賀源内 中村幸彦校注) 彼男は、閻魔の命を受けて路考をさらいに来た河童だそうです。 


城崎温泉にて
サテ翌朝は十一時開きの日曜日の二回公演で、前夜に浴びるが如く飲んだバクダンとかドブロクの効き目は素晴らしく、遂に時間が来ても宿の一室で私はダウンしたまま。小堀君は若い。でもかなりフラフラで楽屋入りしたそうだが、私は迎えの若い者が来ても死んだ様に眠りコケていて楽屋中が大騒ぎとなった。勝東治さんはじめお囃子の面々が来て、私によく効く注射を打った。当時大流行のヒロポンだ。私はムックと起き上がり、何事か声にならぬ声で叫びながら楽屋へ一目散…どうやってメークアップしたのか、いまだに不思議なほどの速さで二枚目が出来上がった。お白粉は半分だけ塗って摩訶不思議なチンドン屋にもあまり見ない、ウドン粉のお化けの様な二枚目が出来上がった。座長にはこの醜態は見せられない。とにかく、楽屋で隠れる様に出を待った。その間、呆然として一点をうつろな目で見続けていた。幕が開いて舟唄が入って来た。私の出だ。恋人役の長谷川裕見子(長谷川座長の姪で現船越英治夫人)さんの第一声「新さん、お前さん!!」の台詞を受けて「ナァー」までは声がカスカに出たが後が出て来ない。サァ、えらい事になった。喉を絞っても全然声が出ない。どうしても出ない。腋の下から汗が流れ出る。アー、ウーの叫びだけで、しゃべれbない。楽屋は大騒ぎ、下手の小堀君がヤカンに水を入れて手招きしている。私は下手へ駆け込んでヤカンの水をゴクリゴクリ、そして本舞台に引き返したが手振り手真似のアー、ウーが続く。両袖は座員総出で、ただオロオロ。客席からは「どうした小林!!」と罵声が飛んで来る。満員の客席は騒然となった。さすがに清川支配人がたまりかねて「幕だ、幕だ」と怒鳴っている。私は舞台でパントマイムだ。裕見子さんもオロオロするばかり…遂に幕が降りた。伊那の勘太郎の第一幕、第一場はメチャメチャになってしまった。私は楽屋へ下がって鏡台前で呆然としているのみで、声はさっぱり出ない。汗がとめどもなく流れる。アルコールに対するヒロポンの反応の恐ろしさを味わったのだ。(「女 酒ぐれ 泥役者」 小林重四郎) 長谷川一夫の演技座に加わった際のエピソードだそうです。 


[三三]宝永二年十月(酒道具売渡しにつき一札)(状)
売渡し申酒道具之事
一 酒道具 諸色ともニ 代金子(だいきんす)八両 売渡し申所(もうすところ)実正(じっしょう)ニ御座候(ござそうろう)、 尤(もっとも)此道具ニ分「より」かまい無御座候(ござなくそうろう)、我等(われら)年々作り来り申(もうす)道具ニ紛無之(まぎれこれなく)候、若(もし)重而(かさねて)分合「より」何様之義御座候とも拙者罷出(まかりいで)急度(きっと)持(ママ)明可申(もうすべく)候、為後日(ごじつのために)一札 仍而件如(よってくだんのごとし) 森戸村 宝永弐年酉ノ十月十四日 売主 四郎兵衛 印 高村孫兵衛様(石田精孝家文書一)(「下総町史 近世編 資料集Ⅱ」)  酒道具を八両で売り、買った側が、その道具を分売する時は、その説明に売った側が出向くことを約束しているようですね。 


米は十銭する
日清戦争が終ったのは、七十年ばかり前のコトだが、米が一升十二銭になった。「米は十銭するヤッコラサノサ」という唄が、全国に流行したのだから、大変だったのだろう。それまでは、そばかうどんとかの「かけ」や「もり」と銭湯の値段をあわせたものが、米一升の相場だというのが通念だった。成程、計算してみると、大体、そういうわけだ。(「めぐる杯」 北村孟徳) 


昼間っから盛大に
東大新聞のアルバイトの後、学校出てから渋谷で日本語学校の教師をやってたんだ。道玄坂下は、まだ恋文横丁の闇市が立っていてね。「玉秀」という、ちょっと美味いものを食わせる魚屋があって、そこでよく昼飯を食った。チョンマゲを結ったオヤジの店で、二階では越路吹雪が、後のダンナやバンドのメンバーなんかと、昼間っらか盛大にやっていた。いや、あの女は飲むねえ(笑)。(「雨の日はソファで散歩」 種村季弘) 


池田の酒
その後、酒の江戸送りなどのことも考えられて、造り酒屋の多くはこの山間の町から出て灘に移ったが、それまでは銘酒といえば池田郷のものとされた。要するに、灘の酒のふるさとというべき町である。秀吉や桃山城下の諸大名たちも、おそらく池田の酒を盃に満たして酒宴をしていたのではあるまいか。という頃より、さらに池田の酒はふるいらしい。江戸のころ、「池田酒造の儀は、往古(おうこ)鎌倉時代より以前の儀にて」と、酒年寄が幕府の勘定奉行に上申している。文書にいう、「鎌倉御時代は廻船道も無之(これなく)、鎌倉へ相廻し候酒の儀は、池田より鎌倉まで陸路馬付にて差下し候に付、いまもって酒に樽を一駄と唱え…(後略)」この文書のいうとおりならば、源頼朝も池田の酒をのんでいたことになるが、陸路はるばると鎌倉へ送るについては、防腐のことはどうしていたのであろう。これについては、二樽を一駄とよばれることで想像できる。しかし鎌倉へ酒を送ったといっても、鎌倉の府の武士どもの需要をまかなうほどに大量は送らず、おそらく頼朝だが飲む献上酒であったのであろう。とすれば鎌倉で静御前の舞を見物したあの日の酒も、あるいは池田の酒であったかもしれない。池田の酒郷が、天下の酒造地にぬきんでた名声を得たのは、水のよさ、醸造法のよさ、その北部の丹波杜氏の腕のよさによるかもしれないが、ひとつには以上によってもわかるように宣伝上手によるものである。(「酒郷側面誌」 司馬遼太郎) 


スコットランド人とユダヤ人
いわゆるスコッチ・ジョオクと称せられるものが世界中でどの位製造されるかちょっと想像もできないほど多い。ことほど左様に蘇格蘭(スコットランド)人はケチンボウらしい。そしてこれと好一対をなすものにユダヤ人がある。スコットランド人とユダヤ人が泥酔罪で警察に挙げられた。ところが両人共、断じて泥酔していなかったと否定してしまった。そこで、裁判官(両人を捕らえてきた刑事に)「君はどういう理由で此の両人が泥酔しておったというのかね?」刑事「スコットランド人の方は財布の金をそこら中にまき散らしており…」「ウン、で、もう一人の方は?」「はい、そのまき散らされた金を拾っては投げ返していたのであります」(「洋酒天国」 開髙健監修) 


虎と酔っぱらい
思うに、虎が人を食う時には、必ず、先ず、相手をこわがらせてからなのだ。こわがらないような奴は、テンで、手のほどこしようがないだろう。虎は酔っぱらいを、決して食わない。じっと見守っていて、酔がさめるのを待っていると世間ではいう。酔がさめるのを待っているのではない。酔がさめて、恐怖が生まれるのを待っているのであるンである。(「めぐる杯」 北村孟徳) 著者は小田急の取締役だった人だそうです。 


カキを漬けた焼酎
小柳(輝一) 全国的に流布している御所ガキというやつは、奈良県の御所(ごせ)村から出たんですよ。
渡辺(文雄) だけど、このごろは昔ほどカキを食べなくなりましたな。カキの持っている味わいというのは今日的ではないのかな。
古山(高麗雄) メロンだとかパパイヤなんていうのを食べてばかりいるからかな(笑い)。
渡辺 御所で食べたんですが、カチカチになったカキを焼酎に漬けておくんです。要するに梅酒みたいなもの。その漬けたカキと、甘味の出た焼酎をごちそうになったけれど、これはなかなかうまいものだったですね。(「あの味 この味 ふる里 隠れ味」 渡辺文雄編) 


どれだけ飲んだの?
酒豪女性芸能人として真っ先に名前が挙がるのは、女優の安田美沙子。『アッコにおまかせ!』(TBS系)にレギュラー出演している彼女、その強さは和田アキ子にお墨つきをもらっているほど。本人も「お酒が大好き!」と公言しており、仕事終わりに新幹線で飲むビールは欠かせないらしい。酒豪のイメージを決定づけたのは、『世界ウルルン滞在記』(TBS系)。同番組に出演じた彼女が、滞在先の中国・雲南省の村人全員と40~50度の酒を酌み交わす姿に、度肝を抜かれた視聴者も多かったはず(テレビを見ていた知人からは、「どれだけ飲んだの?」と苦笑されたらしい)。(「酔った私のはずかし~話」 別冊宝島編集部編) 


茶めし
茶めしというのは、本来、上等の茶を煎じた汁で炊いた飯だった。やがて、それだけではうまみに欠けるというので、茶の汁に醤油で味をつけるようになり、それを桜茶めしと呼んだりした。最近では、水に酒と醤油を加えて飯を炊き、それを茶めしというようになった。(「本当は教えたくない味」 森須滋郞) 


一匙のブドウ酒
その後は、唯大腿部に打たれる注射と、殆ど咽喉をうるおすにも足らぬブドウ酒一匙が、(夏目)漱石の摂取しうる唯一の滋養物となった。(大正五年)十二月九日、漱石は絶望となり、親戚知己が、既に枕頭に集り、医者は唯、見守るばかりだったが、そこへ遅ればせながら馳せつけた宮本博士が、たとえ絶望にせよ、医者は患者の息がある間は、最後の努力を払うべきだと他の同僚を叱咤し、再び食塩注射がはじまった。その注射の効果か、漱石は、ふと眼をあけた。「何か食いたい」と言った。医者のはからいで、一匙のブドウ酒が与えられた。「うまい」これが漱石の最後の言葉であった。その日夕方六時五十分、短い冬の日が、もうとっぷりと暮れた頃、漱石は息を引きとった。五十歳であった。それはあたかも明治の残影が消えて行くかのようであった。(「物語大正文壇史」 巖谷大四) 


妻の談話筆記
ところが、これにつづいて、彼女の談話は徐々に具体性を加えてくる。「先ず夕飯のおかず。これには主人の好物のうち消化よく身体の温まるものをそろえる。例えば、うどんと肉の煮込み、野菜のスープ、ちゃんこ鍋式のもの(骨つきのトリ、白身の魚、野菜なぞのおつゆをたっぷり入れて煮る)など。主人の一番の好物はお酒で、徹夜をしないときは、もちろん、徹夜のときでも、これは欠かさない。お酒でといたヤマトイモ(とろろ)を飲んで勢力をつけることもある」まったく、この筆記を読むと、女房の心づかいは至れり尽せりである。(「人間随筆」 尾崎士郎) 日経に載った尾崎の妻の談話筆記だそうです。 


乾雲丹と雲丹松露
思い起こすことは木瓜堂の乾雲丹(ほしうに)や雲丹松露(うにしょうろ)のうまかった事である。原料雲丹は対州(対馬)と天草の逸品、これを塩煮して乾燥したのが乾雲丹で、酒によし、麦「食留」(ビール)にももちろんよろしい。ことに雲丹松露は木瓜堂の自慢もの、戦前は中華民国にも沢山の華客を持っていた由来付きの珍品である。原料は乾燥した雲丹の粉末、これに調味料を加えて、乳ボール状に焼いたもので、いくらでも食べられて飽くことを知らぬ珍味とて、食通酒客にはかなり知れ渡っている。(「俳諧 たべもの歳時記」 四方山径) 


鈴木市十郎
(吉原)大門のなかからは三絃のさんざめき…それに反してあたりはまるで人払いでもしたかのような静寂さ、光圀にとっては理解の範疇を越えたできごとであった。「なにごとならん!」と問うて見れば、これこれしかじかの由(紅花の商いで豪商となった水戸領額賀村の鈴木市十郎が吉原を買いきりにしたこと)。今宵のお大尽は?と問えば、あろうことか水戸領内額田村のものという。光圀おさまるはずがない。一方、廓のほうとて光圀は元吉原時代からの馴染みである。それも並の馴染み客とはわけが違う。いくら忍びとはいえ、光圀が水戸家の若殿であることは廓中が承知してのこと、しかも節季がくれば払いは家老が責任をもって届けてくれる。こんなにいい客はそうそうあるものではない。その光圀にお引き取り願ったのでは廓としても顔がたたない。そこで仲介する者があって、あろうことか光圀は市十郎の席へ合流して一夜を明かすことになった。この廓遊びで、庶民派光圀は市十郎とすっかり意気投合し、のちに二人は姻戚関係をもつことになったという。(「水戸黄門の食卓」 小菅桂子) 万姫を市十郎に嫁がせたのだそうです。
ちなみに万姫が誕生したのは延宝年間(一六七三~八一)で、光圀が「御治世の時にや、御隠居の御時にや、まん妃といへる婦人を市十郎は妻に被レ下」(『西山遺事俚老雑話』)-しかも光圀が、市十郎をわが子の嫁入り先に選んだ理由として、「是ハ諸士へ嫁し候より、市十郎が妻となりなば、生涯を楽クに終へなん迚(とて)、被下置し由」と記している。このまん姫が光圀の娘であることは、「此まん姫を公、ほまち娘ほまち娘と御意在りしなど申伝へぬれバ、御落子にてや有りなん」(同前)とあり、この話は水戸では事実として語られており、鈴木家も存続している。(「水戸黄門の食卓」 小菅桂子) 


酔っ払い指揮
一九六四年にN響とメルボルンにきたが。そのときここのオーケストラに見こまれたらしく、常任指揮者になってくれという電報や手紙が何度もきた。オーケストラなんて地の果てのように思っていたが、あまり熱心なので気の毒になり、一九七三年に、ゲストとしてメルボルン交響楽団を指揮しにきた。着いた日の夕方、ラジオ・オーストラリアのインタビューがあった。日本語の短波放送で、その後インタビュアーと食事をし、話がはずんでその人の家にいって飲みつづけた。NHKから出向していたアナウンサーさんである。初対面で気があって飲みつづけたのはいいが、窓の外が明るくなったのでびっくりした。十時間以上飲んでいたことになる。メルボルンのオーケストラとの初練習では天上がグルグル回って見えた。棒を大きく振るとひっくり返りそうなので、用心して手は小さく動かした。ロレツが回らない恐れもあり、口数もうんと少なくした。これがまたおごそかに見えたのか、余計ほれられたらしく、常任指揮者の件をまた口説かれ、酒の負い目もあってOKしてしまっった。以来十年、毎年合計十週間ここにきているが、なによりこの街の人々の気心がいい。あれからは酔っ払い指揮はやってない。(83.5.13)(「棒ふり旅がらす」 岩城宏之) 


吟醸酒ってなぁに
幻の日本酒を飲む会をつくって以来、私の頭を悩ませていることがある。それは幻の日本酒を飲む会って何なの? 越乃寒梅のような手に入らない地酒を飲ませてくれるのですか、という質問である。残念ながら私はこの質問には答えきれず、ただニヤニヤするだけだ。いまになってしまえば、吟醸酒という言葉が通用するようになったので、吟醸酒を飲む会ですと答えればよいのだが、会を始めた当時は、吟醸酒ってなぁに、の時代だった。(「幻の日本酒を求めて」 篠田次郎) 第1回会合は昭和50年12月3日だったそうです。 


常陸山
常陸の弟子に小常陸といふ剽悍な弟子がゐた、小常陸が幕内に入つた頃はこれこそ常陸の二代目をつぎ得る関取だと属目されたものだが、三役に入りかける頃から身も心も思ひ上つた振舞が多くなり、ともすれば花柳界などで傍若無人にのさばつたりした。やはり地方巡業の時のこと、例によつて小常陸が天下の力士小常陸さまを知らないかと十幾人もの芸者をあつめて威張りちらしてゐるところへ常陸山が通りあはせた、場所は大きな料理屋である。廊下外で小常陸のどなり声を聞くと、常陸山は障子をがらりとあけ、小常陸の前へのつそりと立つた。酔ぱらつた目にも師匠の顔は見えた、たつた今までの勢ひもどこへやら小常陸はちぢみ上つて了つた。「かへれ」只一言睨みつけてゐる。「ヘイ」「かへれ」小常陸はこそこそと着物を着なほし、さしもの酔ひも一度にさめて座敷を出て行つた。あとに残つた常陸山はその家の女将をよび小常陸が飲みちらかしたあと始末をしてやり其場に居あはせた芸者たちにも一々丁寧な言葉づかひで、迷惑かけました、若いものの事ですからどうぞ堪忍してやつて下さいと詫びをいふと共にそれぞれに心付けをしてやつたといふ。(「東京おぼえ帳」 平山蘆江) 


十本であれだから
私は『小説・吉野秀雄先生』という小説を書いた。それから後の草野さんは、会うたびに、きみはいいものを書いてくれたと言って涙を流すのが常だった。私は自分のためよりも、吉野先生のために嬉しかった。そういう経緯があるだけで、草野さんと二人で酒を飲む機会は無かった。草野さんはすぐに酔ってしまった。『繁寿司』のオヤジさんは「先生も弱くなったねえ、お銚子は十本ですよ。十本であれだから」と言った。まあ、ふつうなら、一升飲めば酔っぱらってもいい。昔のことは、推して知るべし。(「男性自身 生き残り」 山口瞳) 


食ライフスタイルと飲酒習慣
東京では、料理グルメ型は、お酒にもこだわっており、種類、銘柄まで指定して飲んでいる。また、ビールや日本酒をよく飲む日本人が多い中、彼らは他の人よりもワイン、ウイスキーを好んでいる。一方、料理健全タイプには、全く飲まない人が多い。飲む時は、食事をおいしくするという目的で、ワインやビールをたしなんでいる。ニューヨークでは、しっかりママさんの料理好き型は、飲酒頻度は低めで、たまに自宅でワインを飲む程度である。グルメ型は、グルメらしく、酒の味を楽しむために、飲む酒は銘柄まで指定している。ワイン、ビールを飲むアメリカ人が多い中、カクテルを好んでいるところが、新しもの好きのグルメ型らしい。パリでは、酒嗜好料理型は、もともと酒嗜好が強いだけあってよく飲んでいる。ただし、食事をおいしくするためという理由が大きい。田舎料理型は、やはりまじめで、飲む頻度は低く、全く飲まない人も多い。地味で堅実な食生活を営んでいる。一方、酒嗜好グルメ型は、他の都市のグルメタイプとよく似ていて、銘柄にもこだわって酒の味を楽しんでいる。また、パリには断然ワイン派が多いのだが、酒嗜好グルメ型はビールもよく飲んでいるところが、いかにもグルメ型らしい。グルメ派の人たちは、食べ物に対してもお酒に対しても、「他の人とはちょっと違う」ということを自負する人たちなのであろう。健康グルメ型は、健康を意識してお酒は控えているのか、カクテルなどを食前に軽く一杯、おつきあいに飲む程度である。(「食文化の国際比較」 飽戸弘 東京ガス都市生活研究所編) '92の出版です。 


カワハギのキモたたき
白いカワハギの身は透けている。そいつを斜めに細く糸ずくり。たっぷり白身にたっぷりのキモを乗っけて一緒に和(あ)えるのだ。ふつうこれを「キモ和え」というのだが、河津の漁師たちはは即物的にキモたたきといっている。とろりとしたコクのあるキモに和えられた白い身は、シコッと腰があって実によく似合っているのだ。冷やの吟醸酒はさながら白ワインの味で、これまたキモたたきにはぴったり。スイ、スイとのどを滑って行く。(「食いしん坊のかくし味」 盛川宏) 


ゴドウィン・マタツ
ゴドウィン・マタツというジンバブエ人記者がいた。南部アフリカの「ヲー・コレスポンデント」(戦争取材を得意とする記者)として、右に出るものはいなかった。-
一九四二年生まれ。英オクスフォード大学に留学した。しかし帰国しても、解放前のジンバブエ(当時ローデシア)で、黒人にろくな職は無かった。彼は、自分の腕一本で生きるジャーナリストの道を選んだ。南部アフリカの独立闘争にはすべて従軍し、すぐれたルポで名を上げ、英『ガーディアン』紙の特約通信員となった。ゲリラ指導者のほとんどと、友人同様のつきあいだった。ごま塩頭で、いつもにこにこしていた。ただ、大変なアル中で、安ウイスキーのポケットびんをどこにでも持ち歩き、つねに酒くさかった。能力があっても黒人は評価されない社会で、ストレス解消をアルコールに求めたのであろう。解放後は解放後で、ムガベ政権の報道への圧力が増し、彼のアル中はむしろ進行した。-
私がナイロビを離れてカイロに移ったころ、マタツ記者は肝硬変と診断された。そして、南アのマンデラ大統領を見ずに死んだ。(「アフリカを食べる」 松本仁一) 


「どくろ杯だよ
秋田は、支那服の袖で額を一こすりして、「こういうものがあるんだよ。誰かが買いそうな心当たりはないか」風呂敷に包んだ桐箱入りのものをとり出して、砂糖黍や、麦の実の飴煮の乗っている円卓の上に置いた。「どくろ杯だよ」秋田の掌のうえには、椰子の実を二つ割にしたような黒光りした器がのっている。「蒙古で手に入れた。人間のどくろを酒器にしたものだ」内側は銀が張ってあって、黒ずんでうす光りがしている。彼女は手にとろうともせず、気味わるそうにのぞきこんでいる。「男を知らない処女の頭蓋骨だ。蒙古では貴重なものだが、まず、これを金にして足代をかせがなければね」私は、手にのせたどくろ杯を撫で廻しながら、病死した女の頭を取ったのか、杯をつくるために女を殺したのかが気にかかったが、それについて秋田は、なにも知らなかった。蒙古の部落の酋長が、それで、馬の乳か、高粱の酒をのむのだろうが、万一、愛していた娘が、心によその若者をおもってなびかないのを憤って、首を切らせ、その首でつくった杯を手にしたのだったらそのときはどんなおもいがするだろうなどと考えて、私の御座敷用のヒュウマニズムがぐらぐらするのをおぼえた。同時にそんなものを玩賞用に需める骨董愛好者のざらざらした神経にもついてゆけなかった。妻は、私の腕をつついて、はやく箱にしまって欲しがったが、それよりもっと直接な理由からで、自分の頭の皮を剥がされる痛さに実感があるらしかった。(「どくろ杯」 金子光晴) 


サンマの肝のしょうゆ焼き
サンマのエラの下から肛門まで切りひらいて→肝をとり出し→腹の中を洗って水気をふく→ふたつに切って薄く塩をしておく→しょうゆと肝をとき、酒、みりんを加える(しょうゆ 大さじ3 酒 小さじ1 みりん 小さじ1)→何回か表面に塗りながら裏表を焼く(「風流つまみ道場」 ラズウェル細木) 


不思議な酒
三島伝説は、これこそ限りがない。さて、酒に関する小ばなしを一つ。三島さんは、バー嫌いで、酔うのが嫌いだったが、酒は飲んだ。親しい人たちと談合するのが、好きだったのだろう。コップに水のように、ウイスキーをついで、グイ、グイ、これも水のように飲んでしまうのである。その後は、「寝る」といって横になると、グウグウといびきをかいて眠ってしまう。一時間ぐらいすると、目を覚して、「帰ろう」ということになる。まったく不思議な酒であった。(「ここだけの話」 山本容朗) 


酔ひしれて
安房上総くまなくはれて鰯ひく 洗亭
洗亭(せんてい)こと戸板康二氏が、わが「やなぎ句会」の月例会にゲストとしてはじめておはこびなされたときの作だが、房総半島の潮風が肺の中を吹き抜けていくような爽快な名句である。そのときの私の句。
酔ひしれてぐらりと鰯むしりけり 滋酔郎
いわしは大好物だが、お酒はもっと好きで、だからひとりでにうかんだ句だけれど、見れば見るほど、飲み助のいぎたなさがよく出たお行儀の悪い句であるなあ、と反省しながら気にいっていないこともない。(「江國滋俳句館」 江國滋) 


たかじやう【鷹匠】
①鷹狩に使用する鷹を飼育する職。云ふまでもなく、主人が鷹野に行く時は、鷹を小手にして従ふのである。狂言「禁野」に『鷹匠に仰せ付けられ、逸物の鷹を合はせけれども』などある。
鷹匠は左の腕で扶持を取り 左腕に鷹を据ゑる
鷹匠は勝手を悪るく酒を飲み 盃を右手にして(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


十五夜
また、『酒餅論』という古書もあり、蜀山人は次のように洒落た狂歌を残しております。
これほどに酒の飲まれる十五夜を誰(た)がもちづきと名づけそめけん(「味覚三昧」 辻嘉一) 


祝言
一、祝言 盃の事、式三献の三方、嫁と聟とに座(すわ)るべし。そのとき銚子、提子(ひさげ)をもちいで、座敷に飾りたる瓶子(へいじ)をとつて、女蝶の瓶子の酒を銚子に入、男蝶の瓶子の酒を提子に入べし。瓶子の男蝶はうつぶけておく。女蝶は仰(あをの)けておくべし。さて口をさし、式三献(しきさんごん)にて加へて三献のむなり。さて盃台(さかづきだい)の盃にて、まづ嫁のみはじむるなり。その盃を男のむなり。みな加へて三度づゝなり。二度めの盃は聟のみはじめて嫁にさすなり。これも加へて三度づゝなり。三度めの盃は、嫁のみはじめて聟のみおさむるなり。これも三度づゝなり。以上、三々九度なり。さて銚子、提子は末座に控ゆべし。此次に雑煮出づる。雑煮は待女郎(まちぢよらう)局(つぼね)にも据ゆるなり。此とき女郎たがひに盃取りかはすなり。雑煮のときは、聟その座に有べからず。 (「女重宝記・男重宝記 元禄若者心得集」 長友千代治校注) 


飲めや唄へ
憚(はば)かりながら謙退(けんたい)ながら昨日までの治三公市公とは位が違ふヘン今日からは勲八等白色桐葉章車夫向畑治三郎北賀市市太郎君だから以来鄭重に取扱つて貰ふと頗(すこ)ぶる横柄に威張りちらし予(かね)て治三郎が馴染の娼妓勇菊(十九)市太郎が馴染の君鶴(二十)を側に引着けいつもより多く酒肴を命じ飲めや唄へと大愉快を極め翌十八日の正午頃まで宿にも帰らず大浮れに浮れ居る模様なりと同地よりの通信なるが尚ほ両人へは露国皇太子より当座の御褒美として金二千五百円づゝを賜はり其の上終身年金千円づゝを賜りといへば扨(さて)これからは人力車の轅棒(かじぼう)を金無垢にでも製(こし)らへるやも知れず兎にも角にも両人の大栄誉その歓喜はいかにぞや=明24.5.20(「朝日新聞の記事にみる 奇談珍談巷談[明治]」 朝日新聞社編) 露西亜皇太子遭難の際、御召車の後押しをしていた二人が、犯人津田三蔵逮捕に尽力したことで賞された後の出来事だそうです。その後、「品行方正なれ 大臣、知事から懇諭」、「有勲車夫告発さる」、「不品行に呆れ保護解除」といった風に進んだようです。 


酒は祭のためのもの
同じ東北でも南部の福島県南会津の館村では、もとは正月や祭に飲む酒は村桶とよぶ大きな桶につくって、村中の人が集まって飲む宿を酒のトウといい、祭日以外にはあまり酒を飲むことはなかったといっている。ここのように酒はふだんの日にめいめい勝手に飲むものではなく、祭のためにかもして神に供え、衆人相饗するものであったという昔の気持ちを記憶している村も少なくない。田植も祭の一つではあるが大いに飲んでいるうちに、ふだんも飲むようになったのである。九州や瀬戸内海地方で、祭のすんだ翌日あたりの酒宴をツボゾコノミといい(鹿児島県)、カメコカシ(徳島県)・ザンシュ(石川県)・タルフルイ(石川県)というように、酒は祭が終わると同時に飲み切ってしまう筈のものであったことも、古くは酒は祭のためのものであったことを語るものである。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 


さら川(8)
宴会場無礼講でも席決まり いちOL
誰一人羽目を外さぬ無礼講 豚父
父帰り娘出かける忘年会 選手交替
二次会はいつも上司をゆずり合い 日本ビール党
万障を繰りあわせるほどの宴でなし グランドキャニオン(「平成サラリーマン川柳傑作選」 山藤+尾藤+第一生命=選) 


マンボウの胃袋
マンボウの胃袋を細目のぶつ切りにしたものはシャブシャブにすると珍味だというので、それをいただいて帰り、家で湯にさっとくぐらせ、モミジ卸しと分葱(わけぎ)を薬味にポン酢で食ったらば、本当に素晴らしい珍味だった。シコシコとしたかみごたえと淡白な味は、純米酒の熱燗にピッタリだった。そのうちに舌も心も大いに躍って「ヘイヘイマンボ、ヘイマンボ、私の心はヘイマンボ」なんて古い歌を口ずさんだのだった。(「食あれば楽あり」 小泉武夫) 


樽源
湯豆腐で静かに一杯飲もうと思う時、目の前の鍋の湯がたちまち熱くなり、豆腐を吹きながら食ったのでは、慌ただし過ぎる。(木製の)樽源でやれば、湯はいつまでも一定の温度を保っているので、豆腐の温度も変らない。ゆっくり、気の向いただけ、好きな薬味で食うことが出来る。独りで本を読んだり、考えごとをしたりしながら杯を口に運ぶ時の食物としては最高だ。(「厨に近く」 小林勇) 


世間と晴の日と酒
「酒は三献に限る」「酒は気違い水」という類(たぐい)と、「酒は天の美禄」「酒に十の徳あり」式の類が共存している。-
この情報は基底に諺(ことわざ)を受け取る側の人間にたいする明確な前提条件があることを忘れてはならない。それは、先にも言った「酒を飲む資格を与えられた人間」に向かって説く知恵・教訓が<ことわざ>であるということである。受け取る各個人は、世間から許容された酒飲みの資格者である。だからその飲みようは各自の自己責任で管理せよというのだ。世間では、晴の日はそういう成人を酔いつぶすほどに酒を強要する。これは酒飲みの儀礼なのである。そのとき、強要を避けてはいけない。テッテイテキに飲みしたたかに酔い、そしてなお、本心を忘れるな、と言うのである。諺の両義にわたる本旨はそこにある。そんなムチャな、とおもうだろうし事実これは不可能だ。そうと知ってなお敢然とつきあうことがむかしの日本人の世間への対応のありようだったのである。もし「酒極まって乱となる」ことが出来(しゅったい)したらどうなる。自己がいさぎよく責任を負えということだ。そうすれば世間はその人間を認めてくれるのである。日本人の、世間と晴の日と酒の関係はこのようにして成り立っていた。(「ことわざの世界」 檜谷昭彦) 


虎に変わる術
人虎奇談の例として『捜神後記』にはこんな話がある。魏の時代に尋陽県の山中に蛮人がいて人間を虎にするとのことであった。周眕という人の召使が妻と妹と共に薪伐りに山へ入ったが、召使は二人を樹に上っているように命じて、草の中に分け入った。ところが、やがて一頭の大虎が現れて吼え猛りながら駈け廻った。そうして暫くすると、虎は草の中に没して再び人間になって還って来た。召使はそれを秘密にしていたが、いつしか周眕の耳に入ったので、芳醇な酒を飲ませて熟酔させ、召使の衣を解いて体中を調べたところ、頭髪の間に、一枚の紙が隠してあり、それには大きな虎が描かれて、その側に符が添えてあった。そうして目が覚めると山中の蛮人から虎に変わる術を教わったことを白状したというのである。(「政治家のつれづれ草」 前尾繁三郎) 


saka,sakë
アメノシタというのは天下という中国語の翻訳後である。アメヒトも、天人の翻訳後である。してみると、アメツチというのも天地の訳語であるかもしれない。アメカナバタはカナバタという新しい文物に対して用いられた新しい言葉であろう。これらによればアメ…という熟語は新しいのである。(天)アマ-アメ、(酒)サカ-サケ、(竹) タカ-タケ、(爪)ツマ-ツメ 、(苗)ナハ-ナヘなど二つの対立形があるとき、エ列の方はすべて乙類であるが、母音調和の観点からいえば、ama, saka, taka, tuma, nafa, という形の方が、amë, sakë, takë, tumë, nafë などの形よりも完全である。したがって、前者の一群の方が後者の一群より古い形であると推定される。奈良時代でも、アマとアメとは併存しており、アマは後には熟語形にしか残らなかったところを見ると、古形であり、アメは新形とみなしうる。(「万葉集」 高木、五味、大野校注) 大野晋の説のようです。 


たくさん飲むための工夫
ではなぜ、古代ギリシア以来、ローマ人もイスパニア人もワインに水を割ることをしてきたのであろう。酔いを避けるため、という説明は単純すぎる。プラトンがえがいた『饗宴』の人物たちは、混酒器で割ったうすいワインを飲みすぎて二日酔に悩まされ「自分でもあまり深く飲もうとは思わないし、また他人にそれを勧める気にもなれない」と告白している。清冽な泉の水を飲料としていたポリスの住民にとって、水割りワインは、むしろたくさん飲むための工夫であったのではなかろうか。酔いに到達するまでの享楽の時間を、より長く保たせる方法として「割る」という振舞いが発声したと考えたい。(「ブドウ畑と食卓のあいだ」 麻井宇介) 


酒一升でトレード
夢楽は海軍将校の着るような黒っぽい外套を着ていて、あれはいったいいつのことだったろうと聞いてみたら昭和二四年の三月だったそうだ。落語家の弟子になろうというなら粋なところもありそうなものだのに、五叟の連れて来た渋谷滉と名乗る青年は体ばかりがっしりといかつくて、むしろ講釈師になら向いていそうだなと、そんなことを考えながら部屋の隅に坐って黙って話を聞いていると、正岡(容)は今輔という人が弟子の育て方にも新しい考え方を持っていて、それを実行するだけの力もあるからとすすめて、夢楽の渋谷青年は今輔の弟子になった。が、二年ばかり(古今亭)今輔のところにいて、(三笑亭)夢楽はやはり古典落語をやりたいと言い出した。当時芸術協会にいた古典派の落語家というと、柳好、三木助、可楽で、柳好、三木助の弟子になりたいといえば今輔の機嫌が悪くなると察して夢楽は可楽を選んだ。今輔は酒を一升携えて可楽をたずね、「うちの今夫をお宅で面倒をみてやってもらえまいか」と、たのんだ。可楽のところはそのころ弟子はいまの笑三が春楽という名でいただけだったから、可楽はおなじく酒を一升買って今輔の家へ届け、「たしかに今夫は私がひきうけました」と今輔に言った。一升瓶のやりとりがいかにも今輔と可楽らしい律儀さで、いい話だねとぼくが夢楽に言ったら、「つまり私は酒一升でトレードされたようなもんで…」と、夢楽は笑った。(「落語無頼語録」 大西信行) 


ベタベタと甘くて
ずいぶん以前に灘の檀那衆の一人から、飲んで飲みあきしない酒のことを"うま口"というのだと教えられて感心したことがございますが、そういう酒品のある銘柄に思いがけず出会うというよろこび、または期待というものを、とっくに私は放棄してしまいました。この県はダメだがとなりの県には××があるとか、そのまたとなりの県の山よりの町には○○があるとか、海よりへ行ったら△△があるというような期待もありませんし、知識もありません。知識を持とうという気力がそもそも湧いてこないのです。それでも私は宿に入るときっと夜は飲まずにいられませんから女中さんに全国的銘柄ではなくて土地出来の辛口を持ってきてちょうだい。"うま口"といっても女中さんにはわかってもらえませんから、無難なところで、"辛口"とたとむのですが、めったに出会えたタメシがないですナ。どいつもこいつもベタベタと甘くて、ダラシがなくて、ネバネバしていて、オチョコを持ちあげたついでに食卓までついてあがりそうなものばかり。(「罵る」 開髙健) 


木盃一杯の酒
伏見城にいる豊臣秀吉のごきげんうかがいをすました堀尾忠氏が、城の大手門を出て来ると、一足さきに出ていた福島正則が待ちうけていて、「このたびは、お国もとから松田左近どのを召しつれませぬか?」「いや、召しつれてまいりましたが、大阪にて病いにかかり、臥せっております」「それは、いけませんな」その、松田左近が泊っている大阪の旅宿をきくや、正則は、尾張・清洲二十四万石の大名でありながら、供もつれずに只一人、馬を飛ばして大阪へ駈けつけた。このあたりは、江戸時代の大名に見られぬ戦国の世の大名の仕様をしのばせるではないか。「病いときいたが、大事はないのか?」と、大阪の旅館へ駈けつけてくれた正則の友情のあつさに、松田左近は感動の泪をうかべ、「かたじけのうござる」「なんの、して病いは?」「殿の御供をして、こちらへ出てまいる途中、足をくじきました。不覚のいたりでござる」「では、怪我か…」「はい」「では、酒をのめるな?」「はい。のめまする」「のもうではないか」「はい」と、松田左近は自分の家来をよびつけ、ふところから金を出し、「清州侍従さまへのおもてなしじゃ。酒をもとめてまいれ」「はっ」「侍従さまとわしとは、いつも、こうして、先ず一こん。それから、また一こんと…」と、いつも二人でくみかわす酒の量をはかりながら、酒代の金を数えている松田左近をうれしげにながめていた福島正則が、「もてなしは受けようが…そのように、たくさんのんでは、おとこの足の傷にも悪いではないか」「いや、かまいませぬ。せっかくにお見舞い下されまいたおこころざしに対しても、たくさんにのまねば…」「いや、そのようにもったいないことをしてはならぬ。躰にわるい酒を買うては金がもったいない」と、押しとどめ、「二人して、なみなみ一杯ずつ、それでよろしいではないか。それならば、こころうれしゅう御馳走になろう」と、いった。「それでは…」というので、二人は木盃の一杯の酒をたのしみつつ語りあかしたのである。(「戦国と幕末」 池波正太郎) 


羽化して登仙
さて、次は実際に吉田さんと酒席を共にした話。声ももちろん印象的だが、それにも劣らぬ感銘を与へるのが酒量である。じつによく飲む。着々と飲みつづける。そして、いつまでもいつまでも終らない。いつぞや新潮クラブ(吉田さんのお宅からわりに近い)で対談をおこなつたときなど、まづビール、対談中は日本酒、対談が終ると、「もう一本だけ飲んで引上げませう。なに、すぐそこですから、ぶらぶら歩いてゆけば、ケツケツケツ」といふその一本が果てしなくつづいて、心理的にはまるで数百本であつたやうな記憶がある。そして最後はウィスキー。(本当はブランデーになるのだが、これは新潮クラブに買いおきがなかつたせい。)これもまたエンエンとつづく。肴にはほとんど箸をつけない。ただむやみに飲む。かいうふ場合、料理が要らないのではない。要る。たくさんの皿数が並んでゐるのを、眼で楽しみ、しかも箸をつけないのだ。それに、談笑するのに忙しいといふ事情がある。あるいは酒を論じ、あるいは文学を語る。俗な話はいつさい避け、合間合間に英仏の詩を暗誦し、ふはふはと身をねづり…羽化して登仙する。怪鳥が仙人になつちやふのである。(「低空飛行」 丸谷才一) 

めったに深酒をしない
私は、三十五・六歳のとき、しばらく極端にアルコールに弱くなり、ビール一本で酔う時期が続いたが、同人雑誌「VIKING」に入ってから、また酒量がふえてきた。五年ほど前までは、日本酒で二升、水割りで二十五、六杯までであれば、全然意識朦朧とせず、キョロキョロと辺りを観察していたものである。二日酔いは、経験したことがない。これは、別段体質がいいからというわけではない。めったに深酒をしないからであると思う。(「地蔵の首」 津本陽 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


田楽酒・諸白酒
「ソリヤ花火」といふ程こそあれ、八三流星其処に居て、見物是に向ふの河岸から、橋の上まで人なだれを打(つ)てどよめき、川中にも煮売の声声、田楽酒・諸白酒、汝陽が涎(よだれ)・李白が吐(へど)、劉伯倫は巾着(きんちやく)の底をたゝき、猩々は焼石を吐(き)出す。
注 八三 花火の一種。 二 呼び声。 三 唐の李璡。譲皇帝憲の子、汝陽王となる。杜甫の飲中八仙歌「汝陽三斗始メテ天ニ朝ス、道ニ麹車ニ逢ヒテ口涎ヲ流シ」。 四 唐代の詩人李太白。飲中八仙歌「李白一斗詩百篇、長安市上酒家ニ眠ル」。 五 晋の劉伶。酒徳頌を作った愛酒家。 六 持金全部を酒に投げ出す。 七 謡曲猩々にある、潯陽江の酒ずきの怪。 八 腹中にあって、酒を吸込むという酒吸石。 (「根南志具佐」 平賀源内 高木・西尾・久松・麻生・時枝監修)


盃をどう持つか
正しい答えを教えよう。まず、盃を持ってくれたまえ。無意識でいい。そうだ。誰でも、ヒトサシユビとオヤユビで盃を持つだろう。ナカユビを盃の下部に軽く添える人もいるかもしれない。それでいい。この際、ヒトサシユビとオヤユビは、盃の円の直径を指し示す形になる。これも自然にそうなるはずである。そうでないと盃は落ちてしまうし、落ちないまでも不安定で、余分な力を必要とすることになる。そうやって盃を持ったら、これを唇に近づける。そうして、ヒトサシユビとオヤユビの中間のところから飲むのである。この際に、舐めるようにではなく、盃の中の酒を口の中に放りこむようにして飲む。これは見た目のキレイな酒の飲み方である。こうやって飲むと、向かいあっている相手から盃がかくれるようになる。芝居なら、観客から盃と唇がかくれるようになる。実際にやってみてくれたまえ。(「酒の飲み方」 山口瞳) 


「酔狂者の独白
その二月時分には、まだ、X雑誌社の記者が来て呉れて、非常な好意から、自分に小説の原稿を書かせようとして、日日鞭撻して呉れてゐたのである。自分は、発熱、疼痛、倦怠-さういつた状態で、そのX雑誌記者の好意から、十二三枚の小品を二つ書いた。X雑誌記者の鞭撻にも拘らず、実際に、自分には、書けなくなつて来てゐるのである。おせいなんかが、騒げば騒ぐ程、自分の神経は、萎縮してしまふ。自分が、たゞ、酒を飲むために、それで出来ないのだとおせいは思ひ込んで、自分に喰つてかゝるのである。トモ子までが、そんな気持ちからか、X雑誌記者の帰つたあとで、発作的のやうに狂ひ出す自分を、おせいと一しよになつては、掛布団で自分を抑へるやうなことをした。毎晩のやうに、そんなことがつゞくやうになつた。明け方近く眼を醒し、ユミ子の背負帯や、自分のヘコ帯で、掛布団でグルグル巻きにされた自分を見出し、口惜しいとも、なさけないとも、さうした瞭(はつき)りした気持ちからではなく-恐らくは、また、昨夜も一枚も出来なかつたのかな?そんな気持ちなども手伝つて、理由もなく涙が流れて来るのであつた。(「酔狂者の独白」 葛西善蔵) 


眠れない時は眠らない
よく眠れない時は、お酒がよいと言われる。お酒は、眠くなるほど飲むには、日本酒で二合、焼酎六・四のお湯割りで三ばい、ウイスキーでダブル二はいというのが私の標準だけれど、日本酒の場合は、あくる朝、頭が重くなり、他のお酒も何となく頭がすっきりしないので、あくる日、大した用のない限りは、眠れるためのお酒は飲まないようにしている。殊に山登りの前夜には決して飲まない。睡眠不足よりも、お酒の飲みすぎの方が、山登りにははるかに辛いというのが私の経験である。いつか大分の傾山(かたむきやま)に登った時、前夜に焼酎とお湯の五分五分のを六ぱい飲んだら、急坂で全く息絶えだえであった。山にいった時は下ってから飲む。しかし疲れすぎていると、チュウハイ二はいぐらいで酔ってしまうので、これも程々にしている。眠れない時は、眠らないでいるのが一番時間的に無駄がない。眠りはそのあとで自然にやってくる。じたばたすることはない。(「眠れない時は眠らない」 田中澄江) 


第十五料理酒之部3

ねりざけ 玉子に白ざたう(砂糖)を入。冷酒にてよくよくねりあはせ。かんをいたし出し候也。
生姜酒 みそにしやうがをおろしすりつけいりて。さけを入かんをいたし候。しやうがばかりも入る也。みそざけは味噌ばかりいるゝ也。
甘酒はやづくり 道明寺一升をゆにてあらひあげをき。こうじ一升を水一升五合入。すりばちにてよくする。すいのうにてこし。右三色(三種類)なべに入。とろとろとねり候へば。時のまによくなり申候。白ざたう入候もよし。
つりん酒 くろまめ一升いりさまし。よきさけ一升五合いれつけ置候。まめやはらかにほとびたる時のみてよし。(「料理物語」 「続群書類従」収録) 


末期の酒
牧水は亡くなる三週間前から、四六時中酒気を帯びていないと、何ごとも手につかない状態におちいり、胃重、下痢、不眠、食欲不振を訴えた。医者の診断では完全なアル中による胃腸障害、肝臓肥大、神経衰弱であった。四日前。三九度八分の高熱と全身に赤い湿疹が出たため、静岡県沼津市の有名な病院で診てもらった。手が震え、まったく元気がなかったが、強心剤の注射をする前に、常備薬(!?)の日本酒をコップに一杯(一五〇cc)を飲ませると、たちまち回復した。三日前。熱も下がり、気分もよくなった牧水は「主治医から絶対控えるように言われている日本酒だが、飲まずにはいられない」と嘆息しながら、この日も一日中飲んだ。朝一〇〇cc 、夜中一五〇cc。一日前、昏睡状態に入ったが、時々、酒を飲んでは元気をつける。しかし、昨日までは「飲まないと酒の味がしない」と、制止も聞かずに上半身起き上がったが、この日はそんな体力もなく、床にふせたまま。亡くなった日、酸素吸入をしながらも、日本酒を催促するため、医者もしいて止めず、二口三口と吸い飲みで飲ませる。午前六時半、意識が明瞭になり、朝食として日本酒を一〇〇ccを与える。ところが、一時間ほどして急に容態が悪化、昏睡状態におちいり、末期の水にかわって、日本酒で唇を湿らせて永眠した。(「ニッポン偉人奇行録」 前坂俊之) 


三種類の通(2)
「さて「通」う人になって色んな店へ行き、自分の舌でその違いを判定できるようになり、自分の贔屓の店に戻ってくると、もっと微妙な事にも気付くようになるだろう。」「その店のそばや汁の味には毎日少しずつ変化がある。そば粉も、汁の材料の鰹節も、醤油と砂糖を合わせた「かえし」も、自然物だから毎日変化している。」「その微妙な変化まで判定できるようになれば「通」じている人と言えるだろうな。」「店の主人がその変化を客に悟られないよう、微調整してる事もわかるようになっているだろう。」「しかし「通」はそんな事はいちいちいあげつらったりしない。よくできている時だけ褒め、普段はすべてを受け入れ、むしろ野暮ったくしている。」「これが「通」の一つの例だ」「な…なんかかっこいいですねぇ!」「むしろ野暮ったくてのがいいなぁ。」「お前はただの野暮だ!」「しかし、これでさえその人の「好み」を鍛え上げたものだから、唯一無二の絶対的基準じゃない。「当然、他の「通人」の基準もありうる。」「一方、作る側も己の情熱と技術を傾けその店ごとのそばを客に提供している。」「そうしてある一定レベル以上の基準を持った客と、同じく高い完成度に達したそばが出会った結果、お客から、自家製粉、粗挽きといった風に製法の違いとして区分けされて支持されたり、あるいは更科、砂場、藪などの暖簾の味として愛好されるようになる。」「それがそばの多様性というものだ。」 (「そばもん」 山本おさむ 監修:藤村和夫) 


こぞ 卯のとし
(天明三)こぞ 卯のとし。 施行せし町在のものの門へ感札をあたふ。そのほどほど酒を以て称美す。万雑帳二冊。一冊は庄屋がもとにてしたて、一冊は長百姓にてしたて、庄屋よりのは郷使へ出し、長百姓は次横目(目付)へ出さす。村ごとに市女(巫女)をよびて年に一度づゝ口よせをさせ候事申付る。 右によつて子をかへしたるものなどあれば、其子おのづから出てはぢたりとぞ。せきわく(関和久)のあたりにては、その子の為ににはかにやしろなどたてしとはいふ。 この国女少なければ越後よりよびよせて百姓にあたふ。町在へ桑・楮(こうぞ)・からむしなどをうへさす。ぬしをよびてなさしむ。鍬かじをよびてなさしむ。城下あやつり願出たればゆるしぬ。しかるに家中おさなきものまで、武士はゆかぬ所ぞとて、行もの一人もなかりしぞ。風義は少しはよくも成りたるやなんどきこゆ。家中酒のむものも、酒宴等なす事もなし。番入等ふるまひ、又はべんとうふるまう事もなし。(「宇下人言(うげのひとこと)」 松平定信 松平定光校訂) 後の文を読むと、市女を招いたのは、堕胎の悪を知らせるためのものだったようにも思えます。 


スティーブン・フォスター(一八二六・七・四~六四・一・一三)
身元不明の死
ところが彼はいつも稼いだ以上に使い、結婚生活もうまくいかなかった。年を経るにしたがって作る曲は少なくなり、ついに一八六〇年には妻と娘のもとを去ってニューヨーク市に移った。なんとか現金を得たいとの思いから、フォスターは生涯の最後の三年半で、実に全作品の半分以上にあたる一〇五曲もの曲を作った。そしてそのほとんどはすぐ忘れられた。以前は作るそばから儲かっていたのが、今ではわずか二五ドルの現金と引替えに歌を売りとばすまでになっていた。作曲家は深酒に溺れ、また結核を患っていたことから、次第に世を拗ね、独り安宿を転転とするようになった。(「有名人のご臨終さまざま」 マルコム・フォブス、ジェフ・ブロック 安次嶺佳子訳) 


二種類の下町酒場
下町酒場にはざっと二種類ある。一つはご近所の衆の社交場としての酒場で、相客がほとんど顔見知りだ。もう一つは黙ってひとりで飲んでいても誰も干渉しないタイプのお店。下町酒場にかぎらずこれが酒場というものの常識だろう。一定の時刻に一定量の酒を、できることなら一定の席で一定の時間内に飲んでさっと引き上げる。だらだらねばらない。これは現場で仕事をしている職人、職工の飲み方だ。段取りがきっちとしている。そういう職人、職工は、概して下町、といっても戦中に激増した東京周縁の中小工場地帯に住んでいる。千住、赤羽、田端、西へきて大井町、京浜蒲田。そこで以上のような下町酒場の気質が形成された。個人営業の職人がいるからかならずしも社交場として酒場を使う必要がない。ひとりで飲みにくる。そしてspiritsと、すなわち酒精(スピリット)、精神(スピリット)と対話し修行する。万一修行が過ぎたら、酒場の亭主や女将という導師(グル)がいて、「今日はそのくらいにしときなよ。」(「雨の日はソファで散歩」 種村季弘) 


三種類の通(1)
「「通」には三種類ある。「通(とお)」る人、「通(かよ)」う人、そして「通(つう)」じてる人だ。」「まず最初は「通」る人になる事だ。」「色々な店の暖簾を通って自分の気に入った店を探す。これが「通」る人だ。」「できるだけ数をこなし自分の好みに合った店を選定したら、しばらくはその店に通ってみる。」「最初は気に入った店でも、何回も通っていると飽きがきたり鼻についたりする事もある。」「そしたらその店に通うのを辞め、また振り出しに戻る。」「そして何回通っても飽きがこない落ちつける店に腰を据える。ここまでが「通」る人だ。」「そして次からは二番目の「通」う人になる。」「選定した贔屓の店に通って、その店の味をしっかり舌に覚えさせる。それは今までのぼんやりとした「好み」ではなくその人の「基準」になっていくはずだ。」「そうやって舌ができてから改めて他の店にも行ってみる。」「すると自分の舌に基準ができてるからその店と自分の贔屓の店との違いがはっきりとわかるようになる。」「そばの特徴、汁の特徴が、感覚としてわかり、そこに良し悪しの判断も出てくるだろう」「ここまでが「通」う人だ。」「この段階になったら、そばに関する本に目を通してみるのもいい。そばや汁の製法に関する知識や能書きに触れ、自分が感覚的に感じていた事を理屈としても理解できるようになる。」「自分の舌に基準ができないうちに色んな知識や情報を入れすぎると、そばを口ではなく、頭で食うようになってしまう。」「手打ちだから旨い、自家製粉だから旨い、老舗だから、有名店だから旨いと思い込むのがそれだ。そしてあやふやな知識を仕入れてきて天ぷらは揚げたてでなきゃだめだの、もりそばに酒をかけて食うのが「通」だなどと言い出す。」「これを「半可通」と言う。」「通人ぶる事、よく知らずに知っているように振るまう人のことだ。」(「そばもん」 山本おさむ 監修:藤村和夫) 


ボラのへそ
そのボラにはへそがある。魚博士によれば、肛門にあたるのだそうだが、形はへそにそっくりで、煮ると、しこしこした歯ごたえがよく、かつ一種の泥くささと苦味とがあって、酒の肴には最適だろう。数年まえ名古屋の居酒屋大甚で、溜り醤油でからく煮しめたボラのへそが肴の棚に並んでいたが、さすがに大甚だと思った。しかしその後は大甚でも見たことがない。いかにも田舎くさいごちそうである。(「カワハギの肝」 杉浦民平) 


原稿はニセ札で、人生は酒
大正から昭和初期の流行作家、三上於菟吉は『日輪』『雪之丞変化』などの大衆小説で人気があった。大変な売れっ子で、原稿用紙は四〇〇字詰で、一枚一〇円。文壇では大御所といわれた菊池寛と並び称されており、所得番付でも菊池とトップ争いをしていた。「原稿はニセ札で、人生は酒」というのが三上の人生観で、料亭を書斎代わりに使い、次々に料亭をかえ、所在をくらまし、編集者を泣かせた。目の前に芸者のアデ姿を四・五人並べて、ふざけたり、冗談を言いながら、ヒザ枕をさせ、せっせと"ニセ札づくり"に励んだ。三上は待合では、たいがい編集者のとりまきと酒宴を開いており、豪快に酒をすすめる。相手が断ろうものならサア大変、口を割ってムリヤリ飲ませた。アルコール中毒で、飲むと気分がいっぺんにかわり、笑っているかと思うと、急に怒り出したり、相手のメガネや帽子を便所に捨てたり、ワイシャツをビリーッと引き裂いたりした。大変なさびしがり屋で、相手が席を立つと「帰るな!」といつも引き止めた。(「ニッポン偉人奇行録」 前坂俊之) 


土曜日の晩
このごろ、ニューヨークの少壮実業家は、近在の町に住居をかまえ、列車で市内の事務所へ通勤するようになっていった。ジョン君もそうした少壮実業家の一人だが、自宅が終着駅にあるせいもあって、いまでは通勤列車の車掌とすっかり仲良しになっている。ある月曜日の朝、ジョン君が通勤列車の乗りこむと、車掌が心配そうな顔をして、かれのところにやってきた。「おはようございます。土曜日の晩は無事にお帰りになれましたか」と、車掌は、たずねた。「もちろん帰れたよ。土曜日の晩、なにかあったのかい」「いいえ、別になにもなかったです。ただ、あなたがお立ちになってご婦人に席をゆずられたとき、この車に乗っていたのはあなた一人だったものですから」(「洋酒天国」 開髙健監修) 


聖と俗の分離
佐藤(清隆)によれば、イギリスの場合、居酒屋の経営者は、都市でも、農村でも下層階級が多かった。しかも居酒屋だけでは食えないので、毛織物業者や皮革業者などが副業として営む場合も多かった。(「エリザベス朝・初期スチュアート朝イングランドの酒場の世界」、八二~八五頁 佐藤清隆)。イギリスでエールハウス開店の認可(免許)が必要になったのは、一五五二年のことである。つまりそれまでは誰でも居酒屋を開店できたということである。また、この法令以後は闇(もぐり)居酒屋が多くなったことも意味した。イギリスでは大陸と異なり王権が強かったから、居酒屋の許可権は王家が掌握しつづけた。免許制になったのは、居酒屋での風紀が乱れているという理由であった(Kümin(eds.),The World of the Tavern,p.66-67)エールハウスの、一六世紀から一七世紀にかけて激増した。激増の理由は、宗教改革前後から、教会で宴会をして酒を飲むことが瀆神行為として批判されるようになったからである。中世後期では、共同体の演劇、踊り、音楽、娯楽、そして飲酒などの場は、教会とその境内であった。要するに、教会は礼拝の場であるとともに、共同体のコミュニティセンターであったのだ。聖と俗が混交していた。それが非難の対象となり、俗の部分が居酒屋に移った。だから居酒屋が多くつくられたのだ。(「居酒屋の世界史」 下田淳) 


幻影と酒
だから、書き終わった時には、心も体もヘトヘトだ。その上困ることに、書き終わったからと言って、「もう用ないよ」と言っても、幻影の方で素直に消えてくれない。作者が灼熱したら灼熱したほど長く色濃く幻影が踊っている。だから、寝ても容易に眠れない。自分の育て上げた幻影に、今度は逆にさいなまれるのだ。「こんなことを繰り返していたら、気違いになる」横光利一は、そう言って酒を飲みはじめた。この幻影を払いのけるためには、酒に酔いしれるか、よっぽどバカ遊びでもするしかない。小説家なんて、よくよく不思議な商売で、書き初めには必要な幻影を掻き立てるために、バルザックのごときは夜中に起きて、コーヒーを二十杯も飲んだそうだ。ところで、書き終わると、今度はその幻影を消すために、前後不覚になるまで酒を飲む。その上、小説家は、自分一人で社長から小使いに致までの仕事を全部しなければならないのだから因果な商売だ。近ごろでは、村松梢風が酒を飲み始めた。初めはコップに半分ほどの酒を持て余していたが、半年ほどするうちにメキメキ腕を上げて、きょうこのごろでは、一ト晩にブランデーの壜を半分ぐらいあけるほどになった。そのお蔭で、熟睡するそうだ。酒の飲めない小説家は、大抵睡眠薬を飲む。が、私は睡眠薬を飲んでも、幻影があばれていて二三時間は眠れない。広津和郎はどんなに眠れなくっても、睡眠薬を飲まずに、眠れるまでじっと横になっている。私も、その流儀だ。(「舌の散歩」 小島政二郎) 


薄切りにした鮑
薄切りにした鮑を器に盛りつけ、ひたひたまで水を注ぐ。夏場ならここへ氷を加えるのもよい。このとき、少々の塩を振っておくと浸透圧だか何だかのせいで、鮑の味が一段と生きてくる。尾崎の蒸し鮑にはそのための塩がちゃんと付いている。-
さて、水を注いで十五分か二十分たつと、鮑の身がやわらぎ、浸していた水にも鮑の風味がなじみ、"極上の冷製鮑の吸物"というべき一品が完成する。薄切りを一枚口にして一盃、また一枚口にして一盃…こうして淡麗辛口の吟醸を酌んでいると、もう止まらない。鮑の味がたっぷり出た冷たい汁は、むろん一滴も残さずに全部飲む。これがまた滅法うまい。器を空にし、酒瓶を空にしたあとに思うのは、「これで五千円なら、いまどきこんな安い贅沢はないなあ…」(「うまいもの職人帖」 佐藤隆介) 輪島朝市の「ととらく」の蒸し鮑だそうです。 


言問の某亭に一酌
五日の午後、馬場(孤蝶)君来訪。二日の夜には、(戸川)秋骨、(平田)禿木をさそひて訪ひしに、君(一葉)は留守におはしけりとて、少し物むつかしげ也。あの日、(川上)眉山(一葉の)御もとを訪ひしよしといふに、いかにして夫(そ)れを知らせ給ふやと聞けば、三日の午後より、川上は我がもとを問ひて、洒竹(しゃちく)、禿木など呼集め、四人にて箕輪に(島崎)藤村を訪ひしが、同人あらねば口をしく、これより帰らんも興味索然(きょうみさくぜん)たればとて、今戸のわたしをこえて向島に三昧(さんまい)をとはんと成しが、衆議又かはりて言問(こととひ)の某亭に一酌を催し、帰路雨にあうてはふはふに帰りしといふ。そは御さかん成しとて笑ふ。今宵は馬場君さのみかたらでかへる。
注八 大野豊太。医学士で俳人。 九 宮崎璋蔵。小説家。時代小説の大家として、露伴、浪六と併称された時代があつた。(「一葉恋愛日記」 和田芳恵編註) 明治28年6月のことだそうです。 


百年歌 人一代の歌 晋 陸機
(六)六十時。
年モ亦タ耆艾(キカイ) 業も亦タ隆シ。  年も老いたし功業も隆い。
驂駕 四牡(ボ)                紫宮ニ入ル 三頭立て四頭立ての馬車で宮廷に入り
軒冕(ベン) 婀那(アダ)タリ翠雲ノ中。  車服美々しく雲の上を馳する。
子孫 昌盛ニシテ家道豊カナリ。     子孫は繁昌、家産は豊か。
清酒 漿炙 楽ミヲ奈何(いかん)セン   清酒に炙肉(やきにく)、此の楽しさを何とせう
清酒 漿炙 楽ミヲ奈何(いかん)セン   清酒に炙肉(やきにく)、此の楽しさを何とせう。(「中華飲酒選」 青木正児訳著) 


救民妙薬のクコ酒
クコ酒は漢方薬としても利用されている。光圀が中心になってまとめた『救民妙薬』という本がある。これは山村僻地に住む者、あるいは零細貧窮の人々を対象に、手近な材料で簡単にできる治療法を説いた領民のための家庭医学書である。そのなかで光圀は補薬(おぎないぐすり)として、クコ酒は「肝労(かんろう)面目青口(あおくち)苦(にがく)精神ほれぼれとなり、物をぢなどしてひとりふすことならず、或目不明(めあきらかならざる)者などにあたへてよし」とすすめている。クコ酒は「クコ一升、酒二升をよく煮てしぼり、其酒を用」いるとある。補薬というのは「漢方で体力を養ふを主眼として用ゐる薬」とあるから、さしずめ栄養剤の一種であろう。クコは若芽ばかりでなく、秋になると果実を、冬は根を採る。こちらは強壮・解熱の薬効ありとして大昔から知られている。(「水戸黄門の食卓」 小菅桂子) 


ムルソーの蔵にて
観賞用でないカーヴは樽がゴロゴロしている。もちろん壜詰棚もある。いたるところの交叉路に実用一点ばりの名ばかりの試飲台があり、グラスが置いてある。あれも飲め、これも試してみろとすすめる。気付くとこの元気な若者はすでにワイン漬けみたいな状態にあったのだ。吐く息がプーンとにおう。おや、おや。けれども青い目はアルコールが廻っても青いままなんだなあ。変なことに感心して、あらためて眺め直してみれば、このファン・ファン・ド・チューリップ坊や(戦後しばらくして日本で封切られた仏フィルム邦訳名"花咲ける騎士道"のオリジナル・ネイム、主役ヂェラール・フィリップとジーナ・ロロブリジーダ)、早くも筋肉労働にきたえられた逞しい骨格を仄(ほの)みせており、酔っている上に試飲と称しては滅多やたらにあちこちの樽の栓を抜いてグラスに注いで廻るものだから、さすがに額と頬と頚は肉トマト色を呈しはじめている。大丈夫かなあ、といささか不安になり、こちらが注文を出して指定する。グラン・ダネのこと、ムルソーの生一本について。坊やはどうも自分がブレンドしたムルソー名だけの並品だが、いっぱし腕をふるってというべきか、自分の鼻と口でもって責任を果たした仕事の出来ばえを評価してもらおうと張りきっているらしい。それはそれで結構だが、惚れた酒に会いにきているのだ。そこへおやじさんのロピトー氏がやりかけだった仕事のケリをつけて駈けつけてきた。やってくるなりこのムッシューもその辺のグラスの酒をまったく無造作とみえる手つきで口に含む。こちらは毛すじほども色には出さねど、やはり朝から相当蓄積されていたご様子。いや朝どころか、ゆうべから、その日の昼、朝と遡って昨日も一昨日もその前日も、もう数十年来、毎日が何事でもないようにこんな風にワインとぴったり合体して働いてきたのだろう。いまやおじさんの方が修行が出来ていて、こゆるぎもすることではないのだ。つまりテル・ペール・テル・フィス、この父にしてこの息子ありを継ぐべく、坊や君は頑張っていらっしゃるのだ。期せずしてムルソーの名ある蔵の一つ、創立一八四八年という老舗の父子相伝の現場、連獅子の舞いに立ち合った感銘はワインとの出会い以上に貴重であった。(「味をつくる人たちの歌」 牧羊子) 


枸杞の会会長
ところが、北川(冬彦)さんも兄たりがたく弟たりがたく、宣伝するところ痔の注射ばかりでない。いつのころからか枸杞(クコ)の薬学的効用を信じはじめ、庭にはいっぱい枸杞を植え、出す茶も枸杞なら、飯も枸杞、書くことも詩を忘れたるがごとく枸杞ばかりで、酒もまた枸杞である。あまつさえ、北川さんは枸杞の会会長になったと喜んでいるが、酒も枸杞など入れられたんじゃ、ぼくにはもはや酒ではないのである。(「文壇意外史」 森敦) 


自壊
だから、それからはもうアル中みたいになったことは一度もないよ。隠れて飲んだりとかしないからね。地方なんかでもホテルなんかで酒飲ましてくれることは飲ましてくれるけど、ちょっとしか飲めねえしね。もう寝てくださいって言われて。外遊びに行くと怒られるし。それに、それほど飲みたくもないからね。そういう意味じゃ、本当は酒なんか好きじゃないかもしれないよ。ただ、自分を壊すのが楽しいときがあるんだよ。自分自身を「ブッ壊してやれ、こいつ」とかいう感じでさ。自分の身体を自分でわざと痛めつけてやるっていうか。そういうの、わりかし好きなんだよね。(「孤独」 北野武) 


大きな盃のかんばん
その苦しみを十貳年か辛抱し通して、どうやら、人力車に乗せてもらへる番頭までつとめ上げ、やがてあと取りといふところまで来た時、先代千葉勝五郎が病気になつた。ある日浅草へ貸付けの話をつけに行つてゐるところへ、主人危篤の電話があつた、早速差し曳きの人力車を雇ふ、五郎兵衛町へと急がせる道すがら、うきういきするほどうれしくつて独り笑ひの出るのが車の上でとめ切れなかつたといふ。「今度は死ぬだらう、あの因業親父が死んだら、あそこの身上はそつくりおれのものだ。占めた占めたぞ、葬式さへすましたら、仕たい放題だ。酒も飲み放題、着物も着放題。栄耀栄華に堪納して贅沢を仕つくしてやるんだ。うれしいなうれしいな」そんなことをぼそぼそと独り言にいいつづけた。今日といふ日まで誰にも出来ぬ辛抱を仕つづけた酬いが、やつと来たのだと思ひつづけた。丁度浅草瓦町まで来た時、不図見ると瀬戸物屋があり、屋根に大きな盃のかんばんが上つてゐた。これは大震災まであつたかんばんで、東京の人にはなじみの深い目じるしである。「あのくらゐの盃一杯に銘酒を満たして、芸者や太鼓持をあつめ、飲み放題に飲めと云つたら、どんなにびつくりするだらう」と、馬鹿々々しいことを考へるのと、「いや待てよ」と思案するのが殆んど同時だつたさうだ。「親父が目をつぶれば千葉勝の身上はおれのものになる、おれのものなら、何も、さう急いで使いすてることはない。ゆつくり使ひませう」かう思案がきまると共に今までのニヤニヤ笑いがなくなり、落着いて五郎兵衛町の家へ車のかぢ棒が下りえうと共に、家の中から線香の匂ひが流れ出るのを感じ、それと同時に先代勝五郎に輪をかけるほど金利の勘定の上手な金貸になつたろいふ。それほどのしつかりした分別を持つてゐなければ、東京のお芝居相手に金貸は出来なかつたのだ。(「東京おぼえ帳」 平山蘆江) 千葉勝二代目で、養子だった人だそうです。 


裕次郎の飲みっぷり
若い頃の酒の飲み方など今から思えば気恥ずかしいほどのものです。その最たるものは亡き弟裕次郎の飲みっぷりだった。弟が無類の酒好きなのは有名なことですがそれを明かす挿話にはこと欠かない。とにかく冷やの日本酒を一人で四升飲んでしまうような強兵(つわもの)だった。いつかも家の近くのロケ宿で弟が泥酔し、周りでは手に負えず助けて欲しいという連絡がきて出かけていったら、床柱を背にしてロケ隊の幹部に弟が酒を強いている。杯は床の間にあった生け花の水盤の花と剣山をとって捨て、それになみなみ注(つ)いでは一気飲みを強制していました。監督や出演俳優たちは二度三度と強いられていて縁側まで這っていって吐いている。当人は新しい犠牲者を捉えると、縁側から胃の中の酒を鯨の潮吹きみたいに勢いよく吐き出し、その後お茶でうがいして新しい酒を注いでまず自分で飲み干しその後相手に強制している。私が顔を見せたらにやっと笑って、「おう兄貴きたな、そろそろくると思ってたよ」いうので、「馬鹿者っ、もうさっさと寝ろ」怒鳴ったら案外そのままうなずいて手枕(てまくら)で鼾(いびき)をかいて寝てしまったものだった。(「老いてこそ人生」 石原慎太郎)」


リビング・ドリンカー
かつてはキッチンだけが女性のお城だった。しかしキッチンに閉じこもる必要はなくなり、後ろめたさを感じながらこっそり飲む必要もなくなった今、キッチン・ドリンカーとは違う典型パターンが生まれているはずだ。私はそれを「リビング・ドリンカー」と名付けてみた。なぜリビングなのか。結婚観の変化も背景にある。二〇代のうちに結婚するのが当然だった時代には、女性の一人暮らしは、本来の居場所が見つかるまでの仮住まいだった。結婚相手を見つけるまでのアタック・キャンプだった「一人暮らしの部屋」は、結婚すべしというプレッシャーが薄らぐうちに、ベース・キャンプとして機能するようになった。ペットやマンション購入がブームになり、「ここが私の居場所」と思い定めて、長く続くかもしれない一人暮らしを快適に過ごそうと、リビングを好みのインテリアで作り上げる。さらに、女性を取り巻くさまざまな「二重の価値基準」が、リビングでの一人の酒宴に向かわせる。-男性と同じように働けと要求されつつ、アンチエイジングしろ、ダイエットしろ、かわいらしく笑え、結婚したければ料理上手になれというプレッシャーも与えられる。外にいる限り、女性は二重の価値観から自由になれない。化粧を落としてジャージ姿になり、素の自分に戻ってから飲むお酒はおいしい。酔いつぶれたら、寝室まで這って行けばよい。廊下も、寝室も、おかわりを取りに行くキッチンも、すべてが「私のお城」なのだ。(「今日も飲み続けた私」 衿野未矢) 


平和バー
「平和バー」という看板のある一軒に入ってみた。昼だというのに、十人ほどの難民客がすでに一杯始めている。ザイール産の市販ビールも置いてあるが、先客が飲んでいるのは白く濁った液体だった。先客は「これ? バナナビール」と笑った。キャンプ地周辺の山には、バナナはいくらでも自生している。熟れたバナナをとってきて、二、三日寝かしておく。べとべとするようになったところで実をこねつぶし、ソルガムという雑穀を麹がわりにまぜ、ビニールにくるんで土の中に埋める。三日ほどで発酵するので、それをしぼって飲むのである。アルコール分は一〇パーセント前後と、けっこう強い。さっそくそれを注文した。ビールの空きびんに入って、一本が約七十五円だ。店のすみに、ビニールでふたをした石油缶がいくつか置いてあり、それが酒ガメがわりだった。店のお兄さんが、その石油缶から酒をすくい、じょうごで空きびんに移す。そのびんに細い竹のストローを差し込み、私の前まで持ってくると、彼はストローをくわえ、自分で一口飲んでから渡してよこした。ルワンダでは、飲み物は必ず客の目の前で栓を抜くか、主がまず毒味してから客に渡す習慣があるからだという。喫茶店やレストランでもそうだ。ツチとフツという二大部族の対立が昔からあった。それが植民地支配に利用されて激化し、暗殺や毒殺が繰り返された結果だ。その対立が五十万人という大量虐殺を引き起こし、その報復を恐れた三百万人が難民化した。恐怖と不信、警戒が生活習慣にまでなってしまった社会-。そんな簡単に片づく問題ではないなと思った。ぬるぬるしたストローをくわえ、おそるおそる吸い込んだ。意外にさっぱりした甘酸っぱさが口の中に広がった。炭酸などが入っていないはずなのに、なぜか舌にぴりっとくる刺激もある。これはいける。一本はたちまち空になり、おかわりを頼んだ。(「アフリカを食べる」 松本仁一) ザイール・ゴマのルワンダ難民キャンプでのことだそうです。 


「道歌」
商人の 芸は下手こそ 上手なれ 上手になれば 家はつぶれる
ぶらぶらと 暮らすようでも 瓢箪は 胸のあたりに しめくくりあり
楽しみは 後ろに柱 前に酒 左右におなご ふところに金(「商人(あきんど)」 永六輔) 


摂生の注意
凡そ諸卒は一時半働き、一時半休むを適宜とす。かつ摂生において注意すべきは 新鮮良善の食料。衣服寒暖適宜せる。諸事適宜を得て分に過ぎざる。歩行。力芸運動。遊惰(ゆうだ)ならざる。雨湿。また汗に濡れる衣を着るなかれ。必ず速かに着替ゆべし。 日々体を洗う事、肝要なる事とす。 陣営中は時々掃除して、潔(いさぎよ)くし、汚穢(おわい)を積み置くなかるべし。 夜中風露に冒接すれば、必ず害生ず。夜気はその害少し。 日用の飲水はもっとも撰(えら)むべく、汚水、不潔なるものを用ゆるなかれ。寒冷に強酒を過飲するなかれ。魚肉を大食するなかれ。新らしき野菜は摂生に良なり。大樹中に夜中止まるなかれ。時として死に至る事あり。湿地、或いは雨天には強酒少しずつ用ゆるを良とす。(「解難録」 勝海舟) 阿部豊後守正外が行軍について語ったことの大要だそうです。 


牧水の逸話
相棒たちは、私をつれていってそこで無駄話をする。彼らは、東京での私の噂はなにもきいていない。私も、彼らにそんな話をしたくはない。彼らの話は、新聞のつづきものの小説のことや、昔、ピナテールという貿易商の派遣員のフランス人が、丸山の遊女に馴染んで帰るのを忘れ、日本で客死したあわれな話、年に一度、諸国を巡ってやってくる若山牧水のために、あらかじめ知らせがくると高山の家で色紙や、短冊などの希望者をあつめておき、牧水が二三日逗留して、日に一升酒をのんで書きとばし、次の土地にうつるまでの支度をしておくのが恒例になっている話などをした。(「どくろ杯」 金子光晴) 


悪魔の酒
「ほほ~これですか」Sさんと同じように、トールグラスにいれられて眼の前に置かれたカクテルは、赤いキレイな色をしている。強い酒と聞いたが、味のほうは甘味があって口当たりがいい。「もう一杯ちょうだい」「えっ、もう飲んじゃったんですか。ダメです。一杯って約束なんですから」「そこをなんとかもう一杯。このとおり」あたしが頭を深々と下げると、マスターは「もう~」と言いながらも、二杯目のカクテルを出してくれた。「本当にこれだけですよ。飲み口に騙されちゃダメですからね」なんだい、二杯飲んでもなんてことないじゃないか-。「ここはどこ?」ハッと我に返った。あたしはどこかに寝ている。見ると家の近所の歩道に大の字になっている。というか、直立不動のまま前に倒れたような格好で立ち上がることもままならない。あのわけの分からないカクテルを、二杯飲んだのまでは覚えている。それがなんでこんなところに?まるで記憶がない。それはいいのだが、どうしても立ち上がることができない。しかも猛烈に気持ちが悪い。その後、少しずつ匍匐前進をしながら、息も絶え絶えに家に帰り着いたのは、夜がすっかり明けた頃だった。(「酒にまじわれば」 なぎら健壱) 三杯飲んでいたのだそうです。 


<仮説4>"酔っていい気分になるため"に、
お酒を飲むというのは日本だけで、フランス、アメリカでは、酔うために飲む人は少ない。-
仮説4の"よっぱらう"ということに関しては、仮説どおり"酔って愉快な気分になるため"お酒を飲むという者は、パリの四%、ニューヨークの八%に対して、東京人では一五%と、ずば抜けて高い。おおらかな日本人の酔っ払い観と、欧米人の厳しいキリスト教文化の影響が見られて、興味深い。(「食文化の国際比較」 飽戸弘 東京ガス都市生活研究所編)'92の出版です。 


烏帽子と直垂
天心はエピソードの多い人である。東京美術学校の制服を、烏帽子(えぼし)と直垂(ひたたれ)という、およそ時代離れしたものに定めた。彫刻教授の高村光雲が閉口した。本人はこの姿で馬にまたがって登校した。料亭に学生を集め、昼間から百目蝋燭をつけ、長夜の宴を張った。大酒飲みであったが、若い時は全く飲めなかったという。文雅の士で酒を知らぬを恥じとし、苦痛を忍んで口にしているうちに鯨飲の人になった。学校の学年始めには、生徒たちに大盃による回し飲みを強いた。(「行蔵は我にあり」 出久根達郎) 


エビ雲丹
通人が秘して教えないエビのミソのエビ雲丹という珍味があります。頭のミソを毛ずいのうえにのせて汁気を切り、薄く塩をふりかけておき、揉み海苔を用意して、さて、おろし山葵を醤油でどろりとなるぐらいにとき、山葵をきかせてミソとエビを混ぜ合わせるのです。(「味覚三昧」 辻嘉一) 


空瓶
高校に行くようになって、公民の授業時間に第一次大戦後のドイツにおける悪性インフレの話をきかされた。兄弟がいた。兄貴の方は倹約をしてせっせと貯金したが、弟の方は大酒飲みで、稼いだ金は全部、飲んでしまい、ビールや酒の空瓶を裏庭に積みあげておいた。敗戦後、猛烈なインフレが襲い、兄貴が一生かかって貯めた金は、弟が投げ捨てておいた空瓶代にもならなかった、というのである。私は自分の家の裏庭の空瓶の山をすぐに連想した。私の父と父の兄貴の関係によく似ていると思った。私の伯父は真面目で、倹約家で、一所懸命働いたが、商才がなかったと見えて、いつも貧乏していた。私の父は、割合にお金儲けが上手で、収入もよかったが、酒と食事に惜し気もなく金を使った。その頃はまだ悪性インフレのきざしはなかったが、いつか猛烈なインフレになって空瓶の方が貯金の額をオーバーする時代があるのではないか、とひそかに空想した。そして、本当にその時が来た。(「食べて儲けて考えて」 邱永漢) 


鰺釣り
六月、七月の鰺釣りに僕は家からかならず味噌と酢を持って行く。朝から昼までに釣った鰺を、船頭はナタみたいな包丁で、コマセという撒き餌をつくる俎の上で、親骨を取っただけのやつを、不器用にトントコ細かに叩く。これへ野菜といってもヤクミのようなねぎを入れて酢味噌にして食べる。また釣った鰺を三枚に下して皮をむき、持って行った味噌を酢でだんだんにうすめて辛子を入れて、これにつけて生の鰺を食う。酒によし、ビールによし、熱いご飯によし、お茶漬によしである。(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) 


「中原中也の酒」
大岡昇平が中原とはじめて会ったのは昭和三年のはじめのことで、大岡が十八、中原が二十歳のときだった。大岡はその頃の中原の酒について、「まあ、味噌っかすに近かった」と思い返している。「一合ぐらいで、あの小さな体にアルコールが行きわたつて来るのが、透けて見えるやうな具合だつた。色はまあ白い方だし、薄い皮膚がすぐ桜色に染まって行く、と書くとひどくいい男みたいな描写になるが、眼はとつくに据わつてるし、口から悪口雑言が出はじめてゐるので、全然女にもてる酒ぢやなかつた。こつちはなるべく逆らはないやうにしてながら、飲むほかはない。おでん屋なら、となりのテーブルの見も知らぬ強さうなのに、喧嘩を吹つかけないやうに、気を配つてゐなければならないので、結局安原喜弘のやうな大人しい献身な男でなければ、交際(つきあ)ひ切れたものではなかつた」(「中原中也の酒」)というのだから、これはかなり酒品の悪いほうである。(「作家と酒」 山本祥一郎) 


それが面白うて
また、この頃(新橋の置屋にいた時代)から秀は早くも酒の味を覚えている。はじめからいける口だったのは遺伝であろう。角田の父も祖父も木屋町の檀那衆の集まる猩々会で番付一番になるほどだった。また、母のよしゑは、角田の家を出るまで一滴も口にしたことがなかったにもかかわらず、やはり一升は軽いという酒豪であった。どの血を継いでもいい目が出るはずである。秀は子ども時分から酒に縁の深い花街でも、周囲に驚かれるほど強かった。置屋から歩いてすぐのところに酒屋があり、ぐい「上:夭、下:口 の」みで店先でも飲ませてくれた。秀はひょいと立ち寄っては、景気よく一杯あおった。芸者は飲めぬでは勤まらない。秀の飲みっぷりはますます家の女たちを喜ばせた。鹿の子の振袖を翻して秀は酒屋に飛び込んでは、子どもが駄菓子を買う調子で、ひっかけた。少女の飲みっぷりに店にいる男たちが驚いて目を丸くする。「それが面白うて」と、秀は今でも目を細めて思い出を語る。(「おそめ」 石井妙子) 銀座にあった「おそめ」のマダム・上羽秀(うえばひで)15歳頃のエピソードだそうです。 


○神嘗祭
(木村正辞作歌、辻高節作曲)
五十鈴(いすず)の宮の大前に。今年の秋の懸税(かけぢから)。神酒御帛(みきみてぐら)をたてまつり。祝ふあしたの朝日かげ。磨く御旗もかゞやきて。賑(にぎは)ふ御代こそめでたけれ。-=明26.8.13(「朝日新聞の記事にみる 奇談珍談巷談[明治]」 朝日新聞社編) 大祭祝日小学校唱歌の一つだそうです。 


痛飲するのにもってこいだ
それから八、九年たって、汪は用事で湖南(洞庭湖の南方の地)まで出かけ、夜、洞庭湖に舟をもやった。おりふし、望月が東にのぼり、澄んだ江(かわ)は練(ねりぎぬ)のようだった。いましも眺(なが)めわたしていると、たちまち湖中から五人の者があらわれた。大きな敷き物をたずさえていて、それを水面に敷いた。かれこれ半畝(はんぽ)ほどもあった。そして、ごたごた酒や食べ物をならべた。食べ物の器がこすれて音をたてたが、その音はおだやかで、陶器(せともと)や土器(かわらけ)のようではなかった。そのうちに、三人の者が敷き物を踏んで腰をおろし、二人の者がわきに控えて飲みだした。腰をおろしているのは、一人は黄衣、二人は白衣で、いただいている頭巾(ずきん)はそろって黒く、高々とそびえて下の方は肩や背に垂れ下がり、おそろしく古風な様式だったが、月光が淡く、あまりよくは見わけられなかった。控えているのは、どちらも粗衣で、一人は童(こども)らしく、もう一人は叟(としより)らしかった。すると黄衣の者がいうのが聞こえた。「今夜は月がすばらしい、痛飲するのにもってこいだ」白衣の者がいった、「今宵の風景(ながめ)は、広利(こうり)王が梨花(りか)島で宴したときにそっくりだな」三人はたがいにすすめあって、満を引いて浮白を競った。(注三)ただはなし声がおおむね小さくて、汪の舟では聞きとれなかった。(「聊斎志異(りょうさいしい)」 蒲松齢 増田、松枝、常石訳) 三 浮白を競った 浮白は、「乾杯(カンペイ)」といって杯をあげたとき、乾杯せずに飲み残してしまったものを罰するために飲ませる杯。ここは罰杯を競った、ということ。 


百年歌 人一代の歌 晋 陸機
(四)四十ノ時。
体力克(よ)ク壮ニシテ志方(まさ)ニ剛ナリ。 体力壮健にして意志は豪毅な盛り。
州ヲ跨ゲ郡ヲ越エテ帝郷ニ還リ        州郡の長官を歴任して帝都に還り
承明ニ出入シテ大「王當」ヲ擁ス。       大「王當」を抱いて後宮の承明門を出入す。
清酒 漿炙 楽ミヲ奈何(いかん)セン     清酒に炙肉(やきにく)、此の楽しさを何とせう
清酒 漿炙 楽ミヲ奈何(いかん)セン     清酒に炙肉(やきにく)、此の楽しさを何とせう。(「中華飲酒選」 青木正児訳著) 


禁酒禁煙禁珈琲
小説家は、乱暴な話だが、勢いで書く人とそうでない人の二種類にわかれると思っている。私は勢いで書くほうに所属する。うんと若いときは、鉢巻きをしてウイスキイを生(き)でがぶ「上:夭、下:口 の」みして書いたものだ。その後も、あと三枚あと二枚というときに、やはりウイスキイをストレートで飲んだ。それは実にうまかったけれど、そのときに次の小説のアイディアを得られるのが有難かった。飲むと閃(ひらめく)くのである。昭和四十五年の初め、糖尿病の検査のために友人の勤めている京都の病院へ長期入院した。その結果、典型的な糖尿病のパターンがあらわれていると知らされていた。その頃、体重は五十三キロ(現在は七十キロぐらい)に落ち、下帯で隠れるあたりにやたらに腫物(しゅもつ)が出来た。禁酒禁煙禁珈琲を言い渡された。むろん、禁甘味だ。糖衣錠は服(の)んでもいいかと医者に質問したくらいだから、私のショックは相当なものだった。病気は仕方がないけれど、小説が書けなくなると思った。そのとき、私は死んだ。禁酒禁煙禁珈琲はすぐ破られたが、昔の感じを取り戻すことは出来なくなった。あの、飲んでいるときでも書いているときでも、ふわっと浮きあがって別世界に連れて行かれる感じが戻ってこない。そこで出版社に無理を言って紀行文ばかり書かせてもらうことになる。私の作家生命は終わった。(「江分利満氏の優雅なさよなら」 山口瞳) 


<仮説3>お酒の飲み方についても、同様に、
アメリカ人は食前酒が多いが、個性が強いので、飲むお酒の種類も銘柄も指定する。
フランス人は、食中(食前、食後も)に飲み、味にこだわるので、飲むお酒の種類も銘柄も指定する。
日本人は、食前または、食中に飲み、銘柄も指定しない。-
仮説3の、お酒の飲み方では、パリは食中、東京は食中と食前、ニューヨークは食前という予想であったが、ニューヨークが予想以上に食中が多く、東京とほとんど変わらないという結果であった。-
また仮説3の種類や銘柄の指定については、図4-5のように、パリとニューヨークで、指定する率が五三-五五%と高く、東京では二〇%ときわめて低く、仮説どおりの結果であった。
(「食文化の国際比較」 飽戸弘 東京ガス都市生活研究所編) '92の出版です。 


言茂源
その晩、内山(完造)は開明書店の人と一緒に私を招待してくれた。私は宴が始まって酒杯を口にした時、思わず「うまい。中国へ来てからこんなうまい酒をのんだのは、はじめてだ」といった。その酒は章(雪村 開明書店の総支配人)氏が携えて来たものであった。章氏は紹興の出身であるという。酔った私は明日もこんなうまい酒を飲みたいというと、章氏は喜んでよい酒家を紹介する。汚い家だが酒はうまい。魯迅がよくいった処だという。翌日章、夏氏が私を連れて行ったのが、四馬路の言茂源という、なるほど小さい古びた、しかし活気の溢れた酒家であった。章氏は同郷だというそこの主人を私に紹介して、この人には自分と同様一番よい酒を出してくれとたのんだ。その酒家の客は全部中国人で、日本人はいついってもいなかった。上海の秋は日ごとに深まっていた。私はほとんど毎日、夕方になると言茂源に入り、ひとり酒を飲んだ。丁度江南の蟹が出盛る頃であった。店先に生きている蟹をふちのある台の上にたくさん置いて売っている男がいた。酒家の客はそこで自分の気に入った蟹を選んでボーイに渡す。酒家のボーイはそれの足を細いみご縄で胴体にむすびつけて客に確認させ、しばらくすると縄をはずして持ってくる。蟹はゆでるのでなく蒸すのだという。湯の中には紹興酒を少し入れてあるときいた記憶がある。ともかく蟹の肉は水っぽくなく無類にうまかった。(「厨に近く」 小林勇) 


酔っ払って唄う
テイチクレコ-ド主宰のレコード祭が、東京劇場で華やかに幕を開けた。東海林太郎、徳山蓮(たまき)、藤山一郎、ディックミネ、林伊佐緒、小野巡、灰田勝彦、杉狂児、小林重四郎、ペティ稲田、美ち奴、小唄勝太郎、市丸、双葉あき子、渡辺はま子、淡谷のり子等々の出演で、各社を代表した歌手の競演だった。私と杉狂児は役者の唄い手なので、出番は一番最後の東海林太郎先輩の前だった。昼のリハーサルが済んで、夜の出演時間まで相当長い間控室で待っていなくてはならなかった。杉狂児が「重さん、大分間があるから一杯軽く行きましょう」と誘った。楽屋を出て銀座辺りの飲み屋で、出番の一時間前まで飲んだ。二人共完全に出来上がった。楽屋に帰ると杉狂児はすぐに寝込んでしまった。出番の報らせで二人ともフラフラで舞台に出た。私は"国定忠治の唄"で、歌詞の一番と二番の間に台詞を入れるのだが、それが出て来ない。とにかく、それらしい台詞を入れてマアマアで引っ込んで来た。杉君はまるでベロベロ。"二人は若い"の前奏からバンプに入った途端に下手の袖まで引き返して来て、ズボンからハンカチを取り出してそこへ小間物を広げて、そのまま附き人に渡してまた舞台に帰って行ったが、唄なんてもんでは無い。彼独特のゼスチャーを入れて、そして唄って引っ込んで来た。お客様は有り難いもの、ヤンヤの受け方で、酔っ払って唄う役者の歌手を笑いながら応援してくれた。これも私の酔虎伝の一つに入る話だろう。(「女 酒ぐれ 泥役者」 小林重四郎) 


紀州熟鮨
和歌山県新宮市に、「東宝茶屋」という歴史のある料理屋があって、ご亭主の松原郁生さんは紀州熟鮨(なれずし)造りの大家であります。そしてこの店には、他には真似のできない格段の名物があって、それは何と三〇年間も発酵、熟成させた秋刀魚の熟鮨であります。とにかく、気の遠くなるほど長い年月、じっくりと醸してきたためにさすがの秋刀魚も形や色さえ失って、それでもって飯の方も形を全くなくして、ただただ琥珀色になりかけながら、ドロドロとした粘液状の様相を呈しているのです。これがまた、酒の肴にどんぴしゃりであるものだから、年に何回かは小さな壺に入れたものを送ってもらっています。この熟鮨には、柚子一個と七味唐辛子の小袋が付いていて、壺から皿に取り出した三〇年ものの熟鮨の上に柚子の果汁を搾り落とし、その上にパラパラパラと七味唐辛子を撒いてから、それを少量、箸で取って口に入れ、嘗めるようにして酒の肴にするのであります。深くして濃厚な味わいと、余るほどに熟したものだけから放たれる古風(いにしえぶり)な発酵香は、さすがに年季を感じさせて絶佳であります。ついつい飲んでいた燗酒の味も、あれよ、という間にぐっと引き立って、この場合の肴と酒の関係は夫婦合(めおとあい)ともいおうか、吸気と呼気とでもいうのか、とにかく只事ならない阿吽(あうん)の間柄なのであります。(「中国怪食紀行」 小泉武夫) 


既酔
既酔は其の首章に
既に酔ふに酒を以てし 既に飽くに徳を以てす
君子萬年 爾(なんじ)の景福をおほいにせん
第二章に
既に酔ふに酒を以てし 爾の「肴殳」(さかな)既におこなふ
君子萬年 爾の昭明をおほひにせん
とある。共に宴席に於て其の主人を祝福する意味の文句である。(「詩経随筆」 安藤圓秀) 詩経大雅にあるそうです。 


利屈上戸
アゝ能(いゝ)酒だ。清(すめ)るは登(のぼつ)て上酒となり、一〇新酒はのぼせて頭痛となり、濁(にごり)は下つて中汲みとなる。やつぱり神代(かみよ)の事が離れませぬ。
註 九 -『日本書紀』の本文に続いて「その清陽すみあきらかなるものは薄靡たなびきて天と為り、重濁にごれるもの淹滞とどこほりて地つちとなるに及いたりて」とある。これに基づいてこのように洒落たもの。- 一〇 新酒は飲めば二日酔いになりやすいという。(「酩酊気質 利屈上戸」 式亭三馬 神保五彌校注) 

沿道の村々で酒宴
近藤勇という人は上昇気流に乗っているときは、京都での活躍のように無類の能力を発揮するが、ひとたび気流からはずれると、ただの下凡になってしまう型のひとだったかもしれず、その証拠に、江戸を出発して甲州街道を西へ甲州にむかうときのかれの行装は、大名行列そのままであった。名も大久保大和とあらため、服装も大名風にし、戦争というのに長棒のついた塗り駕籠に乗り、沿道の村々で酒宴を催しながら進んだ。甲州街道ぞいの武州の村々はかれの故郷だけに、いわば故郷に錦をかざったつもりであったろうが、官軍はすでに京を出発して東進しつつある現実を、どれほど認識していたのであろうか。行軍はその酒宴のために、遅々として進まなかった。隊名は、甲陽鎮撫(ちんぶ)軍とあらためている。隊士は旧新撰組の者は、幹部をのぞくほかほとんどおらず、多くは江戸や武州で徴募した町人百姓の子弟で、訓練などはかいもくされていなかった、みちみち近藤は、「百万石の大名になるのだ」と、いっていたらしい。その幹部に対しても、誰は十万石、誰は五万石が相当だろうなどといい、そういうことで隊の士気をあげていたらしかったが、文久三年からずっと京都に駐留し、時勢の沸騰のまっただなかにいた者にしては、おそろしいばかりの固陋(ころう)な時代感覚であった。(「葛飾の野」 司馬遼太郎) 


あおっきり(青っ切り) 湯「上:夭、下:口 の」み茶椀に口までいっぱい酒を注ぐこと[←茶碗の外側の上部に青い線がついていた](花柳)(江戸)
あたぴん 安物の酒。[←頭へぴんと来る](俗)(大正)
いた・お・けずる[板を削る] 酒を飲む
いた・お・ひく[板を挽く] 酒を飲む[←いた=板。だから、飲む=削る・挽く](香具・盗)(明治)(「隠語辞典」 楳垣実編) 


酒屋『ザ・ドッグ』
そして正念場の(1968年)三月五日の朝がくる。「大いに悩みながらも、妻とこういう話をしたことで少し気が楽になって、起床し、役所へ行った。書記たちも出勤していた。それから大急ぎ、やれる限りで、今日の演説の覚え書をさらにいくつか作って、九時頃…ウェストミンスターへ出かけた…だが、今日の結果を思うと心配で、気を落ちつけるために酒屋の『犬(ザ・ドッグ)』へ行き、白ワインを熱燗で半パイントひっかけ、会館の中のハウレットのおかみの店でブランデーを一口やると、腹が暖まり、度胸のほうも本調子になった…一一時と一二時の間に呼ばれて入ってみると、議場は満員、われわれの弁明やいかにと待ち構え、偏見に満ちみちた様子だった。議長が議員の不満とするところを述べ、委員会の報告を読み上げた。その後わたしは実に分かりやすく、なめらかに弁論を始め、言い淀みも詰まりもせず、滔々と、まるで自分の食卓にいる時のように、上がりもぜずに話し続け、午後の三時にいたった。その間議長から口をはさまれることもなしで、われわれは退出した。外へ出てみると、同僚たち皆、そして聞いていた人たち皆、お祝いの言葉を述べ、私の演説をこれまで聞いた中で一番立派なものだと褒めてくれた」(「ピープス氏の秘められた日記」 臼田昭) オランダとの闘いに敗れたイギリスで、その原因を海軍省に押しつけようとしていた議会に召還された、省の要職にいたピープスが、弁解の演説をした時のことだそうです。 


寒天の味噌漬け
渡辺(文雄) ゲテモノといえば、寒天の味噌漬けを茅野で発見しました。
熊井(明子) エーッ!それは初耳だわ(笑い)。
臼井(吉見) 聞いたことないなあ。
渡辺 寒天を味噌に漬けてある。だいたいあの辺は寒天の産地でしょう。正確にいうとところ天の味噌漬けです。ブヨンブヨンしたやつをそのまま、味噌に漬けたもの。
熊井 お茶漬けに?
渡辺 というより、酒の肴でしょう。ただ時期がありましてね、冬でなきゃ駄目です。(「あの味 この味 ふる里 隠れ味」 渡辺文雄編) 


五月晦日
○[「上:たけかんむり、下:均」補]「安斎随筆」、安永七年五月晦日、江戸にて大晦日と称し、節分の如く豆を打ち、厄払ひの乞食出で、六月朔日を元日と称して門松を立て雑煮を食し、屠蘇をのみ鏡餅を設け、町家にては商ひをやめ、戸を立てよせ簾(のれん)をかけ、買人来たれば雑煮を出し酒を進む。宝船の画を売る者も出たり。江戸中此くの如くしたるには非ざれども、此の事をなすもの多し。もと若狭よりはやり出て諸国に伝へけるとぞ。彼の国の土民山中にて異人に逢ひしが、此の如くすれば疫病を除くと教へし故、行ひ始めたりといふとあり。此の正月を学ぶ事は、古くは寛文七年にあり。夫より後は宝暦九年にもあり。「喜遊笑覧」に云へり。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 武江年表を、喜遊笑覧の著者・喜多村「上:たけかんむり、下:均」庭が増補した部分です。 


百年歌 人一代の歌 晋 陸機
(二)二十ノ時。 二十代は
膚体 彩沢 人理 成ル           皮膚の色沢(いろつや)も大人びて
美目 淑貌 灼トシテ栄有リ。        美しい目、淑(しとや)かな容貌、血色も良い。
被服 冠帯 麗ニシテ且ツ清シ       身なりも綺麗さつぱりとして
光車 駿馬 都城ニ遊ビ           光車駿馬を馳せて都城に遊び
高談 雅歩 何ゾ盈盈タル。         話ぶりも歩きかたも誠に おつとりしている。
清酒 漿炙 楽ミヲ奈何(いかん)セン   清酒に炙肉(やきにく)、此の楽しさを何とせう
清酒 漿炙 楽ミヲ奈何(いかん)セン   清酒に炙肉(やきにく)、此の楽しさを何とせう。
(「中華飲酒選」 青木正児訳著) 


<仮説2>したがって、飲むものも、
フランス人は、味にこだわって、ワイン。飲酒頻度も、最も高い。
アメリカ人は、健康志向で、強い酒は好まず、ビールか、せいぜいワイン。飲酒の頻度は、あまり高くない。
日本人は、日本酒、ウイスキーなど、比較的強いお酒を好んで飲む。飲酒頻度も、結構高い。-
飲酒頻度については、仮説どおり、アメリカ人が最も低く、ほとんど飲まない者が四〇%。ほとんど毎日飲むという者は六%と、日本人、フランス人に比べて少ない。日本人とフランス人の間の差は予想したほど大きくなく、ともに、飲まない者約三割、ほとんど毎日飲む者約二割という結果だ。わずかにフランス人の方がよく飲む、という程度だった。-
フランス人のワイン、アメリカ人のビールとワイン、そして日本人の日本酒、ウイスキーというのは仮説どおりであったが、しかし日本人が予想以上にビールが多いのが注目される。ニューヨーク、パリでワインを飲む分、日本人はビールかウイスキーを飲んでいるということであろう。(「食文化の国際比較」 飽戸弘 東京ガス都市生活研究所編) '92の出版です。 


いちばん奥
とくにいちばん奥はよく空いている。壁に接していて、窮屈な感じがするせいだろう。店の人も強いてすすめない。どうかすると荷物置き場にあてられていて、椅子の上にカバンやコートがつまれていたりする。たしかにいささか窮屈である。壁にカレンダーが下がっていて、上が神棚になっており、招き猫やダルマさんがのっている。すぐうしろがトイレの入口で、背中でドアが開いたり閉まったり。店の人がすすめないのももっともである。だが、店の死角といった位置にあって、これはこれで捨てがたい利点があるものだ。とりわけ一人の場合だが、ほかの人の邪魔にならずにいられる。グループの人はすぐわきに見知らぬ顔があると、うさんくさげにチラチラ目をやったりするが、荷物置き場の人なら、ほとんど視野に入らない。また店の主人にとって、自分の分をこころえたようにめだたぬ隅を選んでくれる客は、うれしい心くばりというものだ。いや、そんなこと以上に奥の死角には積極的なメリットがある。客をサカナにして酒を飲むことができるのだ。(「今夜もひとり居酒屋」 池内紀) 


小半治
上野の鈴本の楽屋で(柳家)小半治が、林家正蔵に酒が飲みたいから飲ましてくれとねだった。正蔵の家は浅草の稲荷町で鈴本から近い。ありがてェてんで小半治は正蔵の家へ行き、おかみさんに正蔵の手紙を見せて酒の御馳走になって、その上二百円もらってすっかり嬉しくなった。いい気持ちで地下鉄の駅へ行く途中に乞食がいた。小半治は正蔵のおかみさんにもらった二百円を気前よく乞食に恵んでやってしまった。おありがとうございますという乞食の声を背中に聞いて、地下鉄の駅の階段をおりようとして、小半治はハッと足を停めた。電車賃がないのだ。小半治はくるりとあとへ戻ってさっきの乞食のところへ来ると、「あァ、おい、済まねェけれど、さっきの二百円の中から電車賃に二十円だけ、つりをくれねェか」乞食からつり銭をもらったというのは小半治くらいのものだろう。(「落語無頼語録」 大西信行) 


世話千字文
いつぞやわたしは、巻菱湖(まきりようこ)とその弟子が真行草隷四体で書いた『世話千字文』といふのを話題にした。『世話千字文』といふのは往来物に分類される江戸の俗書で、作者は不明だが、例の「天地玄光」ではじまる本当の『千字文』の向うを張った一種のパロディである。もちろん下世話に砕いたところが趣向になつてゐて、「晝夜振舞。会席優長。(中略)酒宴遊興。斟酌酩酊。権柄僭上(けんぺいせんじょう)。漫語馬鹿。(中略)仮初(かりそめ)口論。喧嘩騒動。周章「眞頁」顚倒(てんとう)」などといふくだりはおもしろいし、それにかういふふざけた文句がきちんとした字、殊に隷書なんかで書いてあるところがすこぶる笑はせる。(「低空飛行」 丸谷才一) 


酒の箴言
演劇という芸術が真実を引き出そうとするのは井戸の中からではない。それは酒の中からである。(ルイ・ジューヴェ)。
居酒屋の椅子は人生の幸福の玉座である(イギリス十七世紀)。
酒盛りは基本的には地獄に一番近い状態で行われるような感じである(キルケゴール)。
バッカス(酒神)はネプチューン(海神)よりもずっと人間を溺死させた(ガリバルジー)
「酔っぱらうとロレツが廻らなくなるのは何故か」-などなどアリストテレスは飲酒と酩酊に関する諸問題として三十五程丁寧にあげ大真面目にその功罪を考察している。(「飲んだくれてふる里」 小宮山昭一) 


神さまの正体
ともあれ、このギギウオをぶらさげて田中丘隅(きゅうぐ)、すたすた山中にさしかかると、なんと草むらに、狩人の仕かけた罠があり、雉子(きじ)が一羽かかっているではないか。「姑(かか)さまへのみやげには、こちらのほうが上等だ。しめしめ」雉子をはずして、代わりにギギウオを置き、なにくわぬ顔で立ち去ってしまった。見廻りに来た狩人は、びっくり仰天…。「水に棲む肴が、山ン中の罠にかかっとる。こりゃ、不思議。解(げ)せねえぞ」麓へ走って村人たちに告げたため、たちまち大さわぎとなった。「ただごとじゃあんめえ。占ってもらうべえ」巫女(みこ)が呼ばれ、御幣(ごへい)を振り立てて祈ったあげく、ものものしい託宣がくだった。「大雨が降り山崩れがおこって、村々一円水びたしとなり、人種の絶える前兆なるぞ」「ひゃァ、大変(てえへん)じゃァ」いそいで祠(ほこら)を建て注連(しめ)を張り、ギギを壺におさめて神に祀った。丸太で小さな鳥居まで造り、神酒を供えて、「南無ギギウオ大明神さま、なにとぞお怒りをお鎮めたまえ」泣きさけんでいるところへ、姑の見舞いを終えた丘隅が、ふたたび通りかかった。「いったい、どうしたんです。え?ギギウオの祟(たた)り?それならわたしにまかせなさい」祠や鳥居を打ちこわして焚火をたき、お神酒の肴にギギを焙って、ぱくぱく食べてしまったから、村方一統、慄(ふる)えおののいていたけれど、もとより大雨は降らず、山崩れもおこるはずはなかった。(「はみだし人間の系譜」 杉本苑子) 丘隅は川崎宿立て直しに尽力した本陣、田中家の当主だった人だそうです。ギギはナマズ科の魚のようです。 


豚肉の粕汁
しかし過剰なほどの旨味に慣れてしまった今の人の舌には、どう感じるだろうか。訊ねるまでもなく、生臭い、旨味が不足、というに相違ない。それなら、対策は簡単。塩鮭や塩鰤にかえて豚肉を用いればよい。当然のこと、コンニャクと油揚げは無用となる。豚肉はたっぷりとついた肋肉(バラ肉)を撰び、厚さ約五ミリにスライスしたのを端から細めにぶつぶつ切る。野菜類は、大根、人参、葱の三種は欠かせないが、ほかに生椎茸などを加えてもよかろう。薄く切った豚肉なら、さほど煮込む必要もない。鍋に水を張って沸かし、出しの素を振りこんで旨味をつけ、豚肉と野菜を同時に入れてホンの一煮し、塩だけで調味、ドロドロの酒粕を溶き込んで仕上げる。(「本当は教えたくない味」 森須滋郞) 


酔へばあさましく酔はねばさびしく
昭和十二年(一九二七、五十六歳)十二月十一日の句。この年の七月七日、蘆溝橋で日中両軍が衝突し、此が日中戦争の発端となった。山頭火は、七月十日のところに「北支那の形勢不穏、私は人知れず憂慮する」と書いていて、戦争の拡大に敏感になっている様子が見える。そして、翌十三年の七月七日には「日支事変一周年、正午のサイレンと共に黙祷、あゝ…あゝ…」などと書いたりするのである。この句は、戦争ということに、また、戦争の拡大に伴って変わってゆく世相(その世相は当然のこと山頭火のような寄食者に厳しくなる)に、敏感に反応している句と受けとる。「酔へばあさましく」という言い方、つまり「あさましく」という言葉遣いは、それまではほとんどしていないのである。というのも、自分で自分を見ている言葉というよりは、世間から見られている自分を意識している言葉、裏がえせば、世間に対してあさましいという気持から出ている言葉だからである。しかし、酒なくしては「さびし」いのだ。「さびしく」などと平坦に言うところも、時勢・世間への神経の動きが見える。(「放浪行乞 山頭火百二十句」 金子兜太) 


萬年雪
千里十里庵(ちりとりあん)のその夜の献立。 鱧(はも)湯引き味噌和え 虎魚(おこぜ)生肝(いきぎも) 焼きままかり酢漬け 鴨 鯛の昆布じめ 鶉卵。占地(しめじ)。穴子の燻製 虎魚・平目の刺身 鮹ぶつぎり 虎魚空揚げ 土瓶蒸し 特大蛤(はまぐり)・松茸・豆腐味噌仕立て椀 虎魚の刺身と空揚げは私の好物中の好物。蛤は自慢するだけあって本当に大きい。松茸は苦心して手に入れた上物。酒は萬年雪。この萬年雪醸造元の森田経子夫人は美人で気さくな方である。工場は倉敷大原邸の裏にあり、その隣に主として食料品の土産物店を経営しておられ、これがどれも絶品(私は鰺の一夜干しを買った)だから、倉敷へ行ったらぜひ立ち寄られたい。(「行きつけの店」 山口瞳) 


酒問屋
 新川・新堀・茅場町、数戸軒を連ね、また各巨戸なる物なり。けだし昔は摂伊丹を酒の最上とし、今も酒造家多しといへども、近年は灘目の酒を最上とす。灘目と云ふは大坂西方の近き海湾を云ふ。池田も昔は伊丹に次げり。今ははなはだ衰へたり。しかれども伊丹・池田・灘等を専らとし、尾参(尾張・三河)等を中国物と云ひ、これに次ぐ。その他の国製を下品とす。京坂は伊丹・池田・灘目ともに隣国・隣邑なるを、別して特に問屋を置かず、酒造家より直に小売酒店に売るなり。京坂小売酒店を板看板(いたかんばん)酒屋と云ふ。江戸にて升酒屋(ますざかや)と云ふなり。
酒問屋(誤り重出)
 京阪も伊丹・池田・灘、以上三所の産を上品とし専用とすれども、また各その他にてもこれを造る。しかし伊丹以下、ともに近きをもつて、小売店も直買する故に、京阪には酒の問屋これなし。因(ちな)みに云ふ。京坂酒小売店を、異名のごとく板看板と云ふ。いたかんばんと訓ず。また江戸の小売店を、ますさかやと云ふ。桝酒屋なり。また桝酒屋の内看板に、上酒樽割と書きたるあり。升売りも樽売りに准じて廉価に鬻(ひさ)ぐの意なり。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 


【メルボルン発】(2)
仕事のあと五人のサラリーマンがパブに行くとする。まず一人がビールを買い、グラスを五つまとめて運んで来る。グラスはあまり大きくなく、手がデカイから可能なのだが、とりあえず乾杯となる。すぐになくなって次の男が買いに行く。それもあっという間に飲んでしまい、第三、第四の男が持って来る。五人がそれぞれオゴリあい、これで一巡というわけだ。そして二巡目が始まる。一巡で五杯飲むことになるが、それが二巡、三巡と続くのだから、大きくないグラスにしても、かなり大変だ。一人ずつワリカンで自分の酒量に見合う分だけ買って来ればよさそうなものだが、オゴリッコは絶対的なルールらしい。オーストラリア人たちとパブへ行くと、グループの人数掛けるいくつを飲むことになり、いつも苦労する。十人で行けば、最低十杯の義務がある。(83.4.29)(「棒ふり旅がらす」 岩城宏之) 


泉燗
日本酒が大好きだが、これまた変わっている。日本酒を熱燗にし、それも熱燗を通りこして沸騰してグラグラ煮立っている、煮燗を好んだ。周りのものは、特に"泉燗"と命名。グラグラ煮立っているナベの徳利、とても普通の人では持てないようなものを、指先でつまむように持ち、あわてて、右の耳をつまんで冷やしながら、「熱いほうなら、いくら熱くても平気」と機嫌よく飲んでいた。食べものにはあれこれうるさい鏡花も、こと酒になると、この「泉燗」を晩酌に毎晩飲んでいた。(「ニッポン偉人奇行録」 前坂俊之) 


<仮説1>フランス人がお酒を飲むのは、「味を楽しむため」である。
アメリカ人がお酒を飲むのは、「食欲増進のため」である。
日本人がお酒を飲むのは、「酔って、知人との親交を深める」ためである。-
以下こうした点について、調査けっかをふまえて検討しよう。-
"親交を深めるため"にお酒を飲むという者は、東京が三五%と、ニューヨーク、パリの二〇%台に比してずば抜けて高く、この点は仮説どおりであった。しかし、その他の点では、あまり顕著な差は見られず、ニューヨークで"食欲増進"がわずかに多く、またパリでは、"味を楽しむため"が日本よりずっと多いが、しかしニューヨークと同じ程度という結果であった。(「食文化の国際比較」 飽戸弘 東京ガス都市生活研究所編) '92の出版です。 


まァだ、しずまずやア
「そもそも、今晩のこの会合は。目出度いというのが前提のようであるが、何が目出度いかということを考えてみますに、この私(内田百閒)が、また、今以て生きている、死ンでいないということにある如くであります。しかし、今夕の皆様、並びに諸君の中の特に若い人達は、生きているということは、ちっともお目出度くも何ともない。然るに、私が生きていればお目出度いというのは、どういう差別がありましょうか。諸君が生きているのは普通であって、私が生きているのは変態で滑稽で、奇妙であって不思議であって、それがお目出度いというのが今晩のお目出度いの所以なのであるなら、それならば、ソレでヨロシイ」これが、大先生のゴ挨拶なのであるから、タイヘンである。よろしい、ソンナ魂胆でまかりいられるならといった顔で、しばらくは、満を持していたカッパ連中が、やがて、ざわめきだしたと思うと、あッという間に何がナンだかわからなくなってしまった。もう、座敷の向うの方からは、勇ましい軍歌のどよめきが湧いている。大先生のおこのみの、日清戦争は黄海大海戦である。煙モミエズ雲モナク-から始まって、マダ沈マズヤ定遠ハ-という所まできたら、それがデアル-  まァだ、しずまずやア 百閒はア  まアだ、しずまずやア 百閒はッ  マあダ、死ナナイカあ 百閒ワッ  マあダ、死ナナイカあ 百閒ワア ワッワッ いや、もう、黄海一面は波濤万丈の大乱戦と相なって、海と空との差別がわからなくなってしまった。「まあだかい(摩阿陀会)」という名は、その時から始まったのである。(「めぐる杯」 北村孟徳) 著者は小田急の取締役だった人だそうです。 


麻酔の段階
麻酔の段階には第一期(痛覚低下期)、第二期(興奮期)、第三期(外科麻酔期)、第四期(延髄麻痺期)の順があります。外科手術では第一期・第二期が短く、第三期の持続が長いものが要求されますが、アルコールは第一から第二期の持続時間が非常に長く、第三期が短いという麻酔作用を示します。(「酒博士の本」 布川彌太郎) 


早稲田大学卒業証書
「人生劇場」を書いた尾崎士郎は酒豪で、ひとたび酔えば、明治の書生のような志を語り、詩を朗々と吟誦した。尾崎は生来のドモリで、緊張するといっそうヒドくなった。が、ひとたび酒が入ると、それはまったく姿を消して雄弁そのものとなった。酒を片時も手離さなかったのはこのせいであった。尾崎は気前がよく、酔うとますます気が大きくなって何でも人に与えた。ある時、尾崎は酔って友人に、自分は早稲田大学卒業証書を、ほうびとして与えた、「みろ、大隈重信が署名しているだろう。字はほかの人が書いたものだ。大隈は悪筆だから、生涯書かなかった」と得々として説明した。その後、この友人宅にフラッと現れた尾崎は、自分の証書が立派に表装され、飾ってあるのに驚いて、「これどうしたんだ。おれのじゃないか」「ハイ、先日、先生からいただいたものです」「オイ、おれはやった覚えはないぞ。いくらおれがものをやるクセがあるとはいえ、手前の免状をやるほどモウロクはしておらん。返せ」と即座に取り返した。ところが、その後、また、この友人が尾崎を訪ねると、「オイ、この前の免状は貴様が持っていてくれ。おれのところにあると、また、人にやってしまうかもしれん。おまえのところにあれば、いつでもみられて安心だ」(「ニッポン偉人奇行録」 前坂俊之) 


今日一日
「今まで僕は、今日飲んじゃっても、明日から飲まなければいいやと思っていたんだ。でもそれは大きな間違いであって、今日一日いかにして飲まないでいられるかが大切なんで、明日のことなんか考えない方がいいんだよね。いってみれば、明日飲んじゃってもいいから今日一日飲まないでいようってことですよ。これはAAで学んだことだけどね」恢復に向かいつつある人間の言葉がずっしいと僕の胸に響いた。(「修羅場のサイコロジー」 本橋信宏) 


吟醸酒の効用
減塩食とはいったものの、3度3度、家で飯を食う生活ならうまくいくのだろうが、3度3度、外で飯を食う生活だから調味の塩分を減らすのは難しい。外食を続け、酒を飲み続けているのに、不思議なことに血圧はすこしずつ下がってきた。最近は130を割るような状態。2週間に1度見てくださっている近所のお医者さんは、生活ぶりをほめてくれるのだが、何も摂生(せっせい)らしいことはやっていないし、血圧と関係のある体重も減っていない。一体私の体に何が起きたのだろうか。ここ10年、それ以前の生活と違っているのは酒だけだ。それまでは一般の酒、ウィスキー、ビールだったが、幻の日本酒を飲む会をつくってからはずっと吟醸酒を飲んでいる。吟醸酒のさかなは塩味の薄いものがいい。吟醸酒を飲むことによって減塩生活をしてしまったのだ。以前の酒を飲む形は、あのアルコール味と甘味と雑味が口の中で弾けると、シオカラで口の中を掻き回すようにする。今度はしょっぱくなった口中に酒を流し込む。それに漬物をほうり込むという具合だった。塩味の濃いものをさかなにしたのでは吟醸酒の味わいをしっかり確かめることができない。(「幻の日本酒を求めて」 篠田次郎) 著者は高血圧の家系だそうです。 


人口一万の町に、一二〇軒の居酒屋
西暦七九年に火山の噴火で埋没した有名なポンペイでは人口一万の町に、一二〇軒の居酒屋があったという。居酒屋と売春宿の境界線は曖昧であった。居酒屋の二階で女給が客をとった。ポンペイの居酒屋の開店は夕方四時か五時。祭りの際は深夜営業であった。日没とともに香が焚(た)かれ、客の気分をリラックスさせた(バタワース『ポンペイ』、三〇三頁)。ポンペイはローマの諸都市の居酒屋の風景を代表していた。(「居酒屋の世界史」 下田淳) 


本居宣長記念館にて
肖像は、どちらかというと村夫子然としていて、特異な風貌ではないが、やはりどこかに強い精神力を秘めている。そのほかにもいろいろ貴重な資料があるらしいが、国学の方は、椿より更に無学な私には、猫に小判である。ただ一つだけ気になったものがある。それは彼が京都に遊学中に、母から送られた手紙である。その中に、酒を飲みすぎるなということが、繰り返し注意してある。してみると、宣長という人も、我が党の士だったのだろうか。彼の著書で読んだものといえば、高校受験の準備のための「玉勝間」が唯一のもので、それも大半忘れてしまったので、とても彼の飲振りはわからない。どなたか、宣長研究者の御教示を得たいものである。お母さんは「三つまで」で止めろと書いているが、これは一体どれ位の量なのであろうか。(「逸遊雑記」 山内恭彦) 


朝まで花見
友人たちと東京・四ツ谷のお堀端で花見をしたときのことです。桜の花も満開。きれいにライトアップされ、ビール、日本酒も進んで、みんな歌ったり、踊ったりでマヌケ全開でした。そんなマヌケな私たちは、すっかり忘れていたのです。前日の雨で地面がぬかるんでいて、滑りやすくなっていたことを。そして案の定、まるでマンガのひとコマのように、「キャー」という叫び声とともに、みんなで斜面を滑り落ちていったのです。すんでのところで、お堀に落ちてしまったのを免れていた私。でも数人は、見事にお堀の中へドボンと落ちてしまいました。自力で這い上がれたとはいえ、警戒中のおまわりさんに見つかり、しっかりとお説教をいただきました。しかし、マヌケな私たちは酒の勢いもあり、お堀に落ちたことでさらに盛り上がり、頭も顔もドロだらけのままヘラヘラと飲み続けたのでした。今思えば、私たちの周りだけ人がいなかったような。通り過ぎる人の視線もどこか冷たかった気がします。もう終電もなくなり、そろそろ帰ろうとタクシーを拾うと、明らかに怪訝そうな運転手さん。乗り込もうとした瞬間、バタンとドアを閉め、走り去っていきました。それもその一台だけでなく、そのあとに拾ったタクシーの運転手さんからも同じように乗車拒否されたのです。ふだんなら怒り爆発のところですが、陽気なおマヌケさんたちは、「じゃ服が乾くまで飲もう」と、さらに飲み続けることに。そして明け方、服を裏返して着たり、ブルーシートに身を包んだりと、とんでもない格好で電車に乗り込み、家に帰ったのでした。(「酔った私の恥ずかし~話」 別冊宝島編集部編) 


親分
遊人の三太郎が飲み屋に入ってきて、ただで吞ませろという。亭主がことわると、「よし、おれにタダで「上:夭、下:口 の」ませねえというなら、親分のしたようにやってやるから見ていろ」と呶鳴りたてる。「いいか、今、親分のやったようにして見せるから、みんな見ていろ」ほかの客の手前もあり、亭主は仕様ことなしに言う通りに「上:夭、下:口 の」ませてから、「うかがいますがね、親分のやった通り、というが、親分はどんなことをやらかしたんだね」「親分は、銭を払わずに、うちへ帰(けえ)って寝ちまったのよ」(「笑いのタネ本」 宇野信夫) 


一高の自治
「正面以外より出入りしたる者は、これを撲殺す」「このところに立ち小便をしたる者は、これを撲殺す」式の立ち札や貼り紙がいたるところにある。といって、たとえ門限を過ぎても、正面以外より出入りしなければいいのである。巷をさまよい、吉原に遊び、門限が切れても閉ざされた正門を乗り越えればなんのことはない。酔ってはい登れないやつには、正門前に立ち交番があってそこの巡査が尻まで押して手伝ってくれる。すなわち、このタワイもない脱法が、一高の「自治」における「自由」であったのだ。立ち小便といえどもむろん同様で、「このところ」と指示されたところで、立ち小便をしなければいいのであるから、ほんに向陵不思議なところ 月があるのに雨が降る と、歌まであるように、寮雨といって寮の二階から平気で放尿する。(「文壇意外史」 森敦) 


雲丹
老人(木瓜堂)なかなか愛想がよい。「永い戦争でしたからな。雲丹(うに)の味なんかすっかり忘れかけそうでしたよ。 雲丹呼ぶや酒座はててなほ妓(おんな)あり 青七星 などは感慨無量の句ですな。」「あなたはお若いから-失礼ですけれど-雲丹-酒座-芸妓-という方程式をすぐお考えになりますけれども、手前どものように老耄(おいぼれ)てしまいますと、 塩雲丹に寝酒味よし冬籠 濤声 という感じの方が濃厚ですな。全く。色気がありませんから…。アハゝゝゝゝ」久し振りだというので、秘蔵の茶さえ煎じていただき、意外の長座をしての帰り、「鳴門名産 新うに」の一壺が私のポケットに秘められていたのはもちろんである。木瓜堂さんの雲丹は、俗に粒雲丹と称するもので、採集した海胆の卵巣、すなわち生雲丹をなるたけ形の損ぜぬように、薄塩を加えたものである。名産若布の幼な葉をこよなき食餌として鳴門の潮に揉まれて育った雲丹は、蓋し早春味覚の王者といってよい。さすが木瓜堂の吟味品だけあって、老主がいくら自慢してもその甲斐がある。その夜の麦「食留」酒(ウイスキー)の味はまた格別、思わず過ごすカップの数に名残りは尽きるせなかった。 新うにに名残の酒のうまさ哉 陳川 (「俳諧 たべもの歳時記」 四方山径(よもさんけい)) 


キスの風干し
釣れたシロギスの頭を落としてちょうどてんぷらのタネのように開き、二十分ほど塩水に沈めておいた。キスの白身は最初の青みがかったそれよりも白濁していた。針にはナイロンの釣り糸が通っている。こうして三十尾のキスを縫いあげた。興味しんしんという目で見つめている人々の視線を尻目に、ずらりと縫い通しにされたキスを船上で洗濯もののように干してみたのである。「あっ、キスの酒干しだ」とだれかがいった。別名キスの風干しともいう。かざぼし、実に風流ないい呼び方ではないか。風に吹かれてキスはすぐ硬くなった。なま干しのそれをそっとしまい込み、包んで丁寧に持ち帰ったのである。網に乗っけて軽くあぶるだけでよかった。ひと口かじると酒の芳香にまざって甘いキスの身がじわっと押し返してくるのだった。(「食いしん坊のかくし味」 盛川宏) 


広瀬山小森谷出土の皮鯨のぐいのみ
上の陶片を掘ったのは唐津焼発掘の名人で唐津の窯跡をこの人ぐらいよく知りつくしている人はいない。二十何年の発掘歴があり、暇さえあれば窯跡の発掘にいっている。西岡悟さんといい唐津で唐津焼を焼いている人だが、私はこの人が中里太郎右衛門さんのところで職員として働いていた時から知っている。この人は窯跡にゆく時はいつもひとりきりで多年の経験でどこに陶片が埋まっているか匂いでわかるそうである。あたりを見て誰もいないとなると掘りはじめる。この人は陶片だけでなく完器も随分掘りだしている。私も唐津を十数点この人から譲りうけて愛蔵している。藤の川内出土の朝鮮唐津の花生と茶碗、中野原の黒唐津徳利、今年になって発掘した牛石の黒唐津沓形茶碗、広瀬山小森谷出土の皮鯨のぐいのみは、これでのむと酒がおいしいので特に愛している。(「やきもの紀行」 小山冨士夫) 


姿勢の正しい人
津本氏は姿勢の正しい人だった。いつも背骨を伸ばしている。突然、変わった質問をしたくなる。「お酒はどうですか?」「七、八年前は二本飲みました」二合ですかと問いなおすと、「いや、二升です」と答えが返ってきた。「しかし、今は一本です。家で飲むのはもっぱらビールです」(「ここだけの話」 山本容朗) 


煙草と酒
煙草は個人性の強い嗜好品であり、酒は社会性の色濃い嗜好品である。だから(と言っていいのだろう)、酒を飲むことを意味する言葉はたくさんあるのに、煙草のそれはきわめて少ない。「いっぱいやる」「盃を干す」「お手合わせをする」「グラスを傾ける」「おつき合いする」「喉をうるおす」「お銚子をあげる」「(二、三軒)梯子する」…などから、たんに「飲む」「やる」「きこしめす」まで酒飲み用語は数多い。それに対し、煙草は文字どおり「」煙草を吸うくらい。酒は人を多弁にし、煙草は人を寡黙にする-と言えるのではなかろうか。(「朝の独学」 森村稔) 


酔前子の訳と酔後子の"改訳"
つまり、そのような知的グレードが高いヴァレリーの詩を掲載できるようなPR誌になったという核心が生まれたからでもあった。ヴァレリーの詩の原文は省くが、ここで開髙健のいう酔前子の訳と酔後子の"改訳"を紹介しよう。
失せし酒 ポール・ヴァレリー
酔前子 試訳             酔後子 改訳
いつの日か われ大洋に      いつだったっけ 大海に
(今知らぬ 旅の下なり)      (どこの空やら 忘れたが)
供えもの 「虚無」に捧げ      お供えものを 「無」にすると
奇しき酒 ほのかに濯ぐ。      ちょっぴりこぼした 赤ェ酒
誰そ棄てし おお美酒よ。      誰がおめェを 棄てたのか
予言者の 言のまにまに      売卜爺の 口に乗り
わが心の 鬱のまにまに      胸のむしゃくしゃ 晴らそうと
血を思い 酒をそそぎしか。     血でも出す気で 酒撒いた。

きよらなる 見なれしさまを     透けて明るい 常の態
(虹のよどみは消えて)       (薄紅ほんのり それも夢)
澄むままに とりもどす海      きれいにもどした 海の色

失せし酒 酔いたる波か       なくなった酒 酔った波
眼におどる 苦き息吹に       苦ェ潮風 眼に浸みりやァ
いと深き 貌、貌そ。         深ェも深ェ…面ばかり。(「『洋酒天国』とその時代」 小玉武) 酔前子は、河野与一だそうです。 


贋造紙幣
贋札事件の早いところは明治十二年頃にあつて、三本足の蜻蛉がどうとかいふ話だが、委(くわ)しいことは知らない。この前後のことであらう。三浦梧楼が井上馨に連れられて柳橋に遊びに行つた。井上には御馴染みがあつて、浅酌低唱といふわけだから、三浦はさつぱり面白くない。井上が酔つて寝たのを見すまし、芸者の耳に口を寄せて、この人は贋金使ひだから、札を貰ふと掛り合ひになるぜ、とささやいた。藤田組の噂ぐらゐは芸者の耳にも入つてゐるので、へえ、人は見かけによらないものですねえ、贋金使ひつて…と云ひかけると、寝てゐると思つた井上が忽ち起き上つて芸者の胸倉を捉へた。三浦は事面倒と見て直ぐ帰つてしまつたが、五六日たつとその芸者が、綱曳の人力車で、大きな菓子箱を持つて三浦の屋敷へやつて来た。三浦も大いに困つたけれど、とにかく逢つて見ると、井上の御前が貴様のような奴をそのまゝ芸者にして置くと、いろいろの事を方々へ触れ廻すからつて身請けして下さいました、まことに御陰さまで、と恭しく礼を述べたといふ話がある。(「明治の話題」 柴田宵曲) 


ウイスキーの句
「ウイスキー」というのは季語でもなんでもない。だから、句をさがすのがひと苦労である。それに、日本酒の句はいくらでも見つかるのだけれど、ウイスキーの句はめったにない。洋酒は俳句になりにくいのである。
春色やオールドパーの半ばほど  万太郎
酒好きに酒の佳句なしどぜう汁  不死男
べつに魂胆あって並べたわけではない。でも、並べてみると、おもしろくないこともない。 
(「江國滋俳句館」 江國滋)


くいな聞く夜の酒の味
私が酒を飲むに理想とするのは吉井勇の有名な小唄の境地です。
だまされているのが、遊び、
なかなかに、だますお前の手の旨さ、
くいな聞く夜の酒の味
これはもう何をいって挟む余地もない見事な心境。この余裕、この粋(いき)さ加減、この境地で味わう酒の味というのはどこかほろ苦いに違いない。これは若僧にはわからぬ、またわかりたくもない境地でしょう。この酒の味わいはやはり年をとった男にしかわかりはしない。(「老いてこそ人生」 石原慎太郎) 


たうえんめい【陶淵明】
東晋から南北朝時代の碩学。(えんめい参照)
初松魚陶淵明に食はせたし  愛酒家の棟梁故
十日には陶淵明も紫金錠  酒の酔覚しを飲む(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)  


大山さんが酔っぱらった
王将戦を前にして、大山さんは酒をやめ、ゴルフをはじめた。このことに関する言葉がまた面白い。「一つやれば一つやめる。マージャンはやめると相手が困るので酒にした。宴会のときはつらいですが体重が減って調子がすごくいい」(「毎日新聞」二月二十一日)このように、単純明快である。プラス1マイナス1はイコール0という考えである。ふつうの人はそういう発想にはならない。健康のためを考えて酒をやめた。同じような考えをさらに進めてゴルフをはじめた。1プラス1は2となって、すこぶる調子がいいとなるところだろう。マージャンと酒を同列に考えるのも面白い。また、私は、ひそかに、マージャンをやめて困るのは相手ではなく大山さん御自身ではないかとも考えるのである。内藤国雄さんと王位戦を戦っているときに、『陣屋旅館』で大山さんが酔っぱらったという噂を聞いた。大山さんが、普通の酔っぱらいと同じように酔ったというので廻りの人が驚いたのである。ナミの人ではないのである。(「男性自身 生き残り」 山口瞳) 内藤九段 


海舟回顧
お客がいらっしゃるまでは、横になって居られ、お客がお出になると、またお起きになります。時とすると、ツギツギのお客に、ひっきりなしに起きていらっしゃいます。クジラの枕で。酒は初めから上がりませんでした。- 増田糸子
先生の来客と接せる、長談倦むことなし。時刻に至れば食を共にす。酒を出さず。余もしばしばかようの所にはさまりしが、一度も先生のあくびを見しことなし。気力充満するがごとし。- 富田鉄之助(「海舟回顧」 岩本善治聞き書き) 


マトメ酒屋
東北地方は一般に飲酒の風が盛んであるが、例を秋田にみると、農民の自給自足の線に添ってはじめは農家の手造りであった。十九世紀はじめ藩では村々の麹屋をつぶして、地域毎の地主層にマトメ酒屋を許可したということである。地酒が商品として流通するようになったのである。明治に入ると酒造税の重圧で経営困難の者も出て、マトメ酒屋の株が移動したが、酒造業は最も有利な職業であったのでますます発展し、大正末年頃からは「酒は爛漫」などという標語を掲げて秋田の銘酒が中央市場に進出するようになった。明治三十二年には酒の私造が禁止されたのであったが、それで農家の手づくりの酒が忘れられたわけではなかった。旧藩時代のマトメ酒屋や今日のつくり酒屋で直接醸造に従事している杜氏は、まわりの農村男子の副業的出稼で、古くは「南部杜氏秘伝の巻物」などというものを持っている者もあったそうで、田舎人の手づくりの酒の技術がマトメ酒屋に伝わったことを示している(工藤吉治郎氏、酒造業の展開過程の地理的意義)(「食生活の歴史」 瀬川清子) 


樽酒仙
十七世紀中頃、英国のニウキヤスル・オン・タイン(Newcastle-on-Tyne)では、泥酔者や酒癖のよくない者に、『酩酊者の着物』又は『ニウキヤスル・クローク』("Drunkard's Cloak,"or"Newcastle Cloak")といふ珍しい古い型の懲罰を課することが流行した。この着物は、何のことはないビールの大樽を図のやうな恰好に着せたもので、これを着せて市中を引き回して見物衆の見せしめにした。後世のサンドイッチマンの発明者は、そのアイディアを、こんなものから採つたものであらう。云々。(Bickerdyke,p.116.及Humour,p.98) (「酒の書物」 山本千代喜) 


酔いどれの過失
江戸中屋敷の小十人組の藩士が宿直(とのい)のとき、ひそかに酒を「上:夭、下:口 の」んで酔狂に及んだ。彼はあろうことか刀を抜き、居間の襖障子を切り破る狼藉をはたらき、同僚たちに取りおさえられた。小十人組とは、藩中歴々の士分の二、三男をそろえ、御行列外出にあたっては美しいいでたちで警護にあたる、旗本の士であった。そのような役儀の者の不届きな行いに、組頭はおどろき事実を吉宗に報告した。前藩主の世であれば、一議に及ばず切腹を申しつけられる大失態であった。吉宗は沈思したのち、苦笑しつつ処置を申し渡した。「酒は儂(わし)も好物じゃ。酔いどれは誰も過失あるは慣いなり。こののちつつしむべきことを戒めよ。さてその切り破りし障子だが、つくろわず、そのままにしておけ」酔いのさめた当人はもとより、同僚たちまで吉宗の処置を、思いお咎めよりなおおそろしくきびしいものと知った。(「男の流儀」 津本陽) 徳川吉宗が紀州藩主だった頃の逸話だそうです。 


関雪
大酒家、乱酔者としても知られていた。本人に言わせれば、誤伝か、大仰に伝えられている。何しろ人ぎらいであるから、人を相手に酒を酌むことはない。酒席の(橋本)関雪を知るはずがないのである。いや、何人か、いる。戦時中、某新聞の特派員として、吉川英治と共に南方の島々をまわった。飛行機に便乗した漫画家の横山隆一が、各地の軍司令部主催歓迎会での関雪を記憶している。隆一が宴席で酒をどんどん注ぐ。関雪は酔うに従い勇ましくなり、軍人なぞ屁とも思わないようになった。つきそいの人が隆一の酌を止める始末。軍人から揮毫を頼まれても、絶対に書かなかった。しかし日本から来て働いている女中さんには、絵でも書でも二つ返事で書いて、惜し気もなく与えた。(「行蔵は我にあり」 出久根達郎) 


酒場と公共の場
うっすらと秘密が漂う酒場の中というものと対極にあるのが、知る権利を要求できる"公共の場"である。酒場には秘密の私生活(プライバシー)があり、公共の場にはそういうものがない。まずそれを切り捨ててからでなければ出むけないのが公共の場所だからである。そこは酔うところではないのだから。酔う場所があって、酔ってはいけない場所がある-ということは「多くの人間には酔わざるをえない必然性がある」ということである。この必然性をめぐってさまざまのことが派生する。酔わざるをえない必然性が理解できない人間だっている。この人達は"真面目で健全な大衆"になるしかない。健全な世論を盾にしてとんでもない暴走を演じるのはこういう人達だ。人が酔わざるをえない必然性を理解しても、そうそう酔ってばかりいることが出来ない人達もいる。酒を飲むのには金がかかるし、その金があまりない人間だって勿論いる。だから、これと関連して出て来るのが、酒場というもののランクづけだ。人が酔うということは、酔って秘密をうっすらと漂わせたい-即ち、秘密を誰かに容認されたいからである。だからこそ、酒を飲む時には、それを受け容れてくれる相手が必要になる。酔って大声で叫び出すということは、その瞬間もう誰も自分の話を聞いてはくれないということを、酔った当人が知るからである。(「酒場の事件」 橋本治 「日本の名随筆 酒場」) 


アル中のワッペン
同じ飲み助でも、カラッとしたドライなのがワッペンをつけた連中。「わたしはアル中です。もしぶっ倒れていたら、ビール一杯を飲ましてやって下さい」と書いたのを旨につけて歩こうというもの。一九六三年ごろからアメリカで流行りだしたやつ。むろん、ぬけめがないというよりも、ユーモアをふりまくためのものであろうか。これに「○○ビールをいっぱい…」となれば、ぬけめのない新手のサンドイッチマンだ。このごろは、ワッペンでなくシャツに大きく書いている。(「珍々発明」 中山ビーチャム) 


昭和三十五年新年号西の正横綱
その火野の亡くなった年の(昭和)三十五年新年号に当時の吉例文壇酒徒番付で、東の山本周五郎の向こうをはって、西の正横綱に火野が選ばれた。この番付はジャーナリストの何人かが集まってその前年の一年間の酒量、酒品、さらには仕事面での業績も加味してつくったものだが、酒の面での火野の横綱というのは、雑誌そのものの営業政策もだいぶ入っているのじゃないかといわれたものであった。火野は、同誌が営業面では火の車で満足な稿料など出ないのもものかは、三十一年九月以来、自分で描いたさし絵まで入れて、せっせと酒の原稿を寄せていたのである。番付編成会議の意向としては、病ながら果敢によく土俵をつとめたこと、それも小手先の技に走らず、ビール一本槍の押しに撤したこと。長編の『革命前後』の完結をはじめ、幾多の作品の発表や全集の刊行をみたことの、仕事の業績があったことなどによるもの、との評で一致したものであった。火野はお遊び企画ながらも、この『酒』の横綱に選ばれたことを非常に喜んだ。同誌を何十冊かとり寄せておいて、客があるたびにそのことを話題にした。三十四年の暮から三十五年の年頭にかけてである。火野はその一月の二十三日の夜、来客とビールを飲んだあと、二階の書斎へあがったまま不帰の人となった。このときは、医師の診断が高血圧による心筋梗塞ということだったが、それから十二年後の四十七年三月、火野の遺児らによって、火野の死は睡眠薬による服毒自殺であることが明らかにされたのであった。(「作家と酒」 山本祥一郎) 


枝豆ウニ和え
ゆでた枝豆をさやから出す→ビン詰めのウニを小さじ1杯程度の酒またはみりんでのばす→ウニと枝豆を和えて→きざみ海苔をかけて完成!!(「風流つまみ道場」 ラズウェル細木) 

小瓶を二本
村上 私が若い頃、フランスのホテル・リッツで勉強した時の話なんですが、朝、行きますと一番最初にタブレという前掛けとトルションというつかみ、クラバットという襟布といっしょに、ワインの小瓶を二本、昼と夜用にもらうんです。なぜなら、その頃の料理長アンリ・ルジュールが、彼はエスコフィエ(伝統的にフランス料理を集大成し、近代フランス料理を確立した神様的存在)の直弟子でもあったんですが、お客様は必ずワインを飲み、料理を食べ、またワインをお飲みになっているのだから、ワインを飲んだ舌で味付けしたのが一番正しいのだという信念を持っていたんです。水を飲みながら食事はしないだろうと。ですから調理場で水を飲ませてもらえるのは体の悪い人だけで、それ以外はみんなブドウ酒。仕事をしている間は伝票さえ書けばワインはいくらでも出してくれました。
小泉 すごい習慣の違いですね。(「発酵する夜」 小泉武夫) 帝国ホテルの総料理長だった村上信夫との対談です。 


きく
技量においてすぐれることを「利き」という。その意味あいは、「腕利き」、「目利き」、「左利き」、と並べればおのずから察しがつく。この「利き」が「聞き」に代わって「利き酒」となったのはいつ頃であろうか。初出はあきらかでないが、石橋四郎氏の労作『和漢酒文献類聚』には、江戸の酒問屋で下り酒の取引きに「買人をが蔵へ伴い、望に応じて利酒させ」(『萬金産業袋』)とある。ここでは「利き酒」によって値踏みが行われている。おそらく、「聞き」から「利き」に変化するのは、「きき酒」の目的が判別より評価に重きをおくと意識されるようになってからであろう。「「口利」く」は、口に含む動作を表意した造語であって、言葉としては最も新しい。それでも、もしやと思って明治四四年刊行の沢村眞著『実用食品辞典』をひいたところ、項目に「「口利 きき」酒」を見つけた。(「ブドウ畑と食卓のあいだ」 麻井宇介) 


司馬相如(しょうじょ)
蜀郡の成都(せいと 四川省)の人。資産を献納して郎官(宮中の宿衛に当たる官)となり、前漢の景帝につかえて武騎常侍(狩猟に扈従(こじゅう)する官)となり、景帝が辞賦をこのまぬところから、前途にみきりをつけて辞職し、文学を愛した梁の孝王のもとに遊んで庇護をうけ、前期の傑作「子虚賦」を制した。が、孝王の卒去とともに庇護者を失い、一旦帰省したものの、食いつめて、県令王吉(おうきつ)をたより、七〇キロほど西南にある臨「工+おおざと」(りんきょう 四川省「工+おおざと」「山来」(きょうらい)県)におもむいた。王吉は相如としめしあわせ、臨「工+おおざと」の富豪卓王孫(たくおうそん)と程鄭(ていてい)とに二人を宴に招じさせた。その席上、相如は琴を弾じて、卓氏の娘文君(ぶんくん)の気を引いた。かくて、文君は相如を恋い、二人は成都へかけおちしたが、赤貧で食いかね、臨「工+おおざと」へまいもどると、車馬を売りはらって居酒屋を開業し、相如はふんどし一つで、文君は食器洗いに、夫婦して店へ出て働いた。体裁(ていさい)が悪いのに閉口して卓王孫が、相当の金品を文君に与えたので、成都へもどって、豊かな暮らしができるようになった。その後、「子虚賦」を読んで感嘆した武帝に登用され、中郎将(宿衛に当たる官の長)を経て孝文園令(文帝の陵園を管理する官の長)にまでなった。前漢を代表する辞賦の名手。「上林賦」「長門賦」「大人賦」等の作がある。(『史記』の「司馬相如伝」)。(「聊斎志異(りょうさいしい)」 蒲松齢 増田、松枝、常石訳) 


こなから坂
九段には九段坂・九段中坂・冬青木(もちのき)坂と、唯一の北向きの坂の二合半(にごうはん)坂などの急坂が多い。二合半坂は昭和初めまでは「こなから坂」と呼んでいた。一升のなから(半分)が五合、そのさらに半分が小なからで二合半だという。それはわかるが、なぜこの坂が二合半坂なのかは所説あって、結局は不得要領なまま。それより日光が見えるから日光坂転じて二合半坂という説明の方が腑に落ちた記憶がある。(「江戸っ子歳時記」 鈴木理生) 


味噌と酒粕四分六の漬込み
サラリーマン諸氏が昼弁当に愛用なさるに相違ない牛丼四百五十円も一人前、注文して試食する。すなわちピンからキリまで徹底的米沢牛探訪である。駅弁の米沢名物牛肉弁当五百円、弘済会売の米沢名産牛肉すみれ漬け二千円も試験済み。だから当店の牛丼は廉くてうまいとわかったし、当店自慢の"トキワ漬"はもう絶品と判定して、みやげに包んでもらった。味噌と酒粕四分六の漬込みの苦心の名品は、味にやかましい家の宿六がうむと唸って、三枚ペロリと平らげ、たちまち、U誌のS君と何やら企む気配。五月は山菜と牛肉が食べられるぞお。(「味をつくる人たちの歌」 牧羊子) 米沢市の"登起波"だそうです。 


朝酒はじれの元
「じれ」は悪口雑言のこと。朝から酒を飲んでいると、悪口雑言をはき、争いの元となる。
五合の酒は余るが一升の酒では足らぬ
少ない量だと大事にするもので長持ちするが、多いと安心して手をつけるので不足をきたすというたとえ。
刀上の蜜、酒中の鴆
「鴆」は中国の毒鳥。蜜は甘いが刀の上にある蜜をなめると舌を切る恐れがあり、酒はうまいが鴆を浸した酒を飲めば人は死ぬ。表面穏やかそうあるが、内に害意を含んでいることのたとえ。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


嫁取言入(よめとりいひいれ)
縁組み首尾して、男の方より女の方へ言入遣(いひいれつかわ)す事、俗にこれを頼みをつかはしといふ。小袖二つ、内一つは裏 表は白く、一つは表紅に、裏はなに色にても、いづれも一端(たん)づゝにして杉原二枚にて包み、中を水引にて結ぶべし。裏、表ともに四つなり。熨斗(のし)、鰹そへべし。樽は五荷(か)五種、あるひは三荷三種なり。樽は斗樽、二斗樽。肴は昆布、鯣(するめ)、鯛。五荷のときは鮑、鰹節をそへて五種とす。(「女重宝記・男重宝記 元禄若者心得集」 長友千代治校注) 上流の儀礼のようですね。 


ひたすら試飲
ときには佐治敬三氏と二人で毎日朝から約一ヵ月ぶつづけにヨーロッパをただひたすら飲んで歩くという旅をしたことがあった。毎日毎日、朝十時頃にホテルを出て、ときには夜十時頃まで、ひたすら試飲して歩くのである。主としてビールであって、これは無数のブランドを飲んだが、ほかにアクヴァヴィット、チェリーヘリング、シュナップス、ミード、コニャック、ウイスキー、ジン、ぶどう酒、手あたり次第、眼にふれるまま、だされるままに飲んだ。そのうち自分が一本の透明なガラスの螺旋管と化したのではないかと思われだし、酒がぐるぐるまわりながら体内をおりていくのがすけて見えるような気持ちになってきた。(「すわる」 開髙健) 


味噌と酒粕四分六
サラリーマン諸氏が昼弁当に愛用なさるに相違ない牛丼四百五十円も一人前、注文して試食する。すなわちピンからキリまで徹底的米沢牛探訪である。駅弁の米沢名物牛肉弁当五百円、弘済会売の米沢名産牛肉すみれ漬け二千円も試験済み。だから当店の牛丼は廉くてうまいとわかったし、当店自慢の"トキワ漬"はもう絶品と判定して、みやげに包んでもらった。味噌と酒粕四分六の漬込みの苦心の名品は、味にやかましい家の宿六がうむと唸って、三枚ペロリと平らげ、たちまち、U誌のS君と何やら企む気配。五月は山菜と牛肉が食べられるぞお。(「味をつくる人たちの歌」 牧羊子) 米沢市の"登起波"だそうです。 


朝酒はじれの元
「じれ」は悪口雑言のこと。朝から酒を飲んでいると、悪口雑言をはき、争いの元となる。
五合の酒は余るが一升の酒では足らぬ
少ない量だと大事にするもので長持ちするが、多いと安心して手をつけるので不足をきたすというたとえ。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


粕まんじゅう
その頃の酒粕は板のように固くてしっかりしていた。これを水屋から盗みだし、ザラメの砂糖を入れてくるみ、マンジュウにして網にのせ、それを火にかけると、やがて焦げてくる。砂糖がとけてジュウジュウ音をたてて泡だちはじめる。芳烈な、「さんずい+発」剌(はつらつ)とした酒の香りがたってきて部屋いっぱいにひろがり、たちまちとろんとなる。粕まんじゅうはその頃は女や子供のオヤツだったけれど、結構、酔えた。コクのあり、後味もよく、二日酔や、精神的悪酔でノタうちまわることもなく、それでいてとろりフワフワと漂えるので、外界と内界にけじめのない幼年は、三日にあげずこの上なく愉しかった。酔って部屋のなかをころげて歩き、それを見て、母、叔母、妹などが笑いころげるのを見るのがまた愉しく、わざと壁にぶつかったり、柱にぶつかったりしたものだ。(「誰や、こんな坊ンに飲まして」 開髙健 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


怒り酒
学生の頃、また大学を出てぶらぶらしている頃、詩人の中原中也がよく遊びに来た。中原と面と向き合って話もなくなり退屈すると彼は散歩に誘うのだった。少しでも酒が入るか、他人が混じると、中原は突如として腹を立てる。腹を立てると自分で始末が出来なくなり面倒な事態を惹き起こすことがあるので、私は彼とあまり連れ立って歩くことを好まなかった。(「私の人物案内」 今日出海) 


山盛
年の暮れのこと、門松のことまで、S老人は心配して呉れて、そして、玄関の二畳には『山盛』といふ酒の四斗樽をつけて呉れた。自分の永い放浪生活の間にも、珍しいことだつた。やはり、S屋で持つて来て呉れた一升枡にドクンドクンと「上:夭、下:口 のみ」口から入れて、それを燗徳利に移して飲むのが、楽しみだつた。外に何うといつた楽しみ、望みがあるといつたわけでなし、この冬を越したくない-越したいと思つても越すことの出来ないやうになつてゐるのだから-だから、自分は、S爺さんの酒ばかし飲んでゐたのだ。この冬を越せるか越せないか、もう一度血を喀いたら死ぬか死なないか、また、血を喀くものか喀かないものか、そんなことは誰だつて分りはしないと思ふ。俺は、何よりも、自分の気違いになることは恐れてゐる。それは、抵抗しがたいものである。例へば、監獄所があるやうに気狂病院がある。同じやうに精神的な欠陥から来てゐるものと看ていゝと思ふ。だが、それにしても、自分の頭脳のだんだん錯乱しかけて行くのを看てゐるのは、寂しい気のものだ。(「酔狂者の独白」 葛西善蔵) 葛西善蔵 酔狂者の独白 


雑音
益田晴雄監督の"彦左と太助"では山本礼三郎兄が大久保彦左衛門で、私が太助役だった。伊勢の一身田への泊まりのロケーションで、夕刻到着して翌朝からクランクに入るので、その夜は礼三郎兄と監督とカメラマンと製作と助監督のチーフ六人で宿で飲み出した。益田監督は若手の生きの良い監督で「明日は雨になりそうだ」と話しながら飲むほどに、外で雨音は聞こえてきた。一時過ぎまで飲んでお開きになったが、礼三郎兄と二人部屋なので三時過ぎまで痛飲した。朝になった。曇ってはいたが仕事が始まった。礼三郎兄のカットが一時間以上かかるので、私は街の外れの旧家の軒先で横になっていた。巧い具合に大八車の上に筵(むしろ)が敷いてあったので、その上にゴロリと天を仰いで横になった。そして私が白河夜船の御機嫌で寝ている数メートル手前まで撮影隊が移動してきた。山本兄のカットで本番になり、監督のシュートの声がかかると、何処からともなく不思議な雑音が入って来る。録音技師がその原因を探せと助監督三名に命じたところが、なんと録音部のマイクが私の寝ている軒の下にぶら下がっていて、ロングから槍を持って駆けつける大久保彦左の声をキャッチしていたのだが、ナントその雑音は私の、つまり一心太助の鼾だった。(「女 酒ぐれ 泥役者」 小林重四郎) 


尾崎さん
その夜、男ばかりで酒になった。尾崎(士郎)さんは酒品としてはもはや神仙の境にあり、微醺(びくん)を帯びたこの人はもはや人間そのものが芸術品であった。京都に来る途中、岐阜のむこうの関ヶ原を通り、車窓から古戦場を見、「その風景なるものは」と、杯をとめ、絶句し、涙をにじませた。尾崎さんは「あの風景のなかで歴史はまだ死んでいない。生きて、粛々といのちを吹き鳴らしている」といったふうのことをいった。さらに尾崎さんより年下の源氏(鶏太)氏のほうを礼譲のある微笑でかえりみて「源氏さん、私、歌をうたっていいですか」と許しを得た。そのうたは、このひとの若いころからの愛唱歌であるらしい商船学校のうたであった。(「京の翠紅館」 司馬遼太郎) 


中臣の寿詞(なかとみのよごと)
一五かく依さしまつりしまにまに聞(きこ)しめす斎庭(ゆには)の瑞穂(みずほ)を、一六四国(よこく)の一七卜部等(うらべども)、太兆(ふとまに)の卜事(うらごと)をもちて仕へまつりて、一八悠紀(ゆき)に近江(あふみ)の国の一九野洲(やす)、主基(すき)に丹波(たには)の国の二〇氷上(ひがみ)を斎(いは)ひ定めて、二一物部(もののべ)の人等(ひとども)・二二酒造児(さかつこ)・二三酒波(さかなみ)・二四粉走(こばしり)・二五灰焼(はいやき)・二六薪採り(かまぎこ)り・二七相作(あひづく)り・二八稲(いな)の実の公等(きみら)、二九大嘗会(おほにへ)の斎場に三〇持ち斎(ゆま)はり参(ま)ゐ来て、今年の十一月(しもつき)の中つ卯の日に、ゆしり・いつしりもち、恐(かしこ)み恐みも清(きよ)まはり、月の内に日時(ひとき)を撰(えら)び定めて、献(たてまつ)る悠紀・主基の黒酒・白酒(くろき・しろき)の大御酒(おほみき)を、大倭根子天皇(おおやまとねこすめらみこと)が天(あま)つ御膳(みけ)の長御膳の遠御膳と、汁にも実にも、赤丹(あかに)のほにも聞しめして、豊の明りに明り御坐(おま)しまして、天(あま)つ神の寿詞(よごと)を、天つ社・国つ社と称辞(たたへごと)定めまつる皇神等(すめがみたち)も、千秋の五百秋(いほあき)の相嘗(あひにへ)にあひうづのひまつり、堅磐(かきは)に常磐(ときは)に斎(いは)ひまつりて、茂(いか)し御代に栄へしめまつり、康治(かふぢ)の元(はじめの)年より始めて、天地(あめつち)月日と共に照らし明らし御坐(おほま)しまさむ事に、本末(もとすゑ)傾かず茂(いか)し槍(ほこ)の中執(と)り持ちて仕えまつる、中臣の祭主正四(いはいぬしおほきよ)つの位の上(かみ)にして一〇神祇(かみづかさ)の大副(おほきすけ)を行ふ一一大中臣の朝臣(あそみ)清親(きよちか)、寿詞(よごと)を称辞(たたへごと)定めまつらく」と申す。
注 一五 このように神ろき・神ろみの命のお授けになったままにおあがりになる祭の場のよいイネの穂を。 一六 伊豆、壱岐、対馬の上県・下県のうらないをする人たち。 一七 うらない事 一八 大嘗祭に新穀を出す国郡としてうらない定めた国。 一九 滋賀県野洲郡。 二〇 京都府氷上郡。 二一 新穀を出す田の耕作に従事する人々。 二二 酒を造る女子。その郡長の女の未婚のものをあてる。 二三 酒を造る手つだいの女。 二四 粉をふるう役の女。 二五 酒にまぜるための灰を作る役の男。 二六 たき木を取る役の男。 二七 酒を造る下ばたらきの女。 二八 飯のためのイネの穂をぬく役の男。 二九 新穀をもって祭を行う式場。 三〇 潔斎して出て来て。 一 ユは、潔斎。イツは厳粛。シリは不明。 二 悠紀・主基の二国から出した新穀で造った酒で、シロキは、普通の酒、クロキはクサギの灰をまぜて作った酒。クサギは、クマツヅラ科の落葉灌木。 三 飲食を共にすること。 四 賞美し申しあげて。 五 近衛天皇の大嘗祭の行われた年。 六 上下を傾けないで。 七 枕詞。 八 中臣氏である祭をする主。 九 位の名称。 一〇 神事をつかさどる役所である神祇官の第二番目の役。 一一 中臣氏のうち、神事に奉仕する氏の名を大中臣という。(「古事記 祝詞」 倉野憲司・武田祐吉校注) 


さら川(7)
百薬の長の目もりのむつかしさ アル中
ワイン飲む手つきやっぱりコップ酒 屋台キング
二日酔つわりの妻と床並べ 未来のパパ
忘年会給料順に並ばされ Qちゃん
晩酌は塾のお迎え終わったら 九時から男(「平成サラリーマン川柳傑作選」 山藤+尾藤+第一生命=選) 


フォークナー(一八九七・九・二五~一九六二・七・六)
創作よりも愛した乗馬と酒が命取り
こうした作家としての成功にもかかわらず、フォークナーは、自分がもっとも愛するのは小説を書くことではないと言った。彼がそれ以上に愛したこと、それは乗馬だった-「馬に乗って柵を跳び越す時には、何ともいえない快感がある。たぶんこの快感は、危険とか賭博といったものがもつ性質のものだろう。それこそが私の求めているものだ」。何年もの間、危険を冒す快感に身をゆだねた結果、フォークナーは何回も落馬を経験した。一九五二年、五十五歳のフォークナーの脊椎には二ヵ所のひびが入り、このため慢性的な痛みに悩まされ、ますます深酒をするようになった。五九年、落馬して鎖骨を折った三十分後にも、腕を吊ってもうバーボンを飲んでいる。-「なに逆「むけ」(さかむけ)くらいのものさ」と南部訛りで言った。-
フォークナーが勝誇っていられたのも、短い間だけだった。背中の傷のせいで、座るのも横になるのもひどく辛くなってきた。杖で体を支えながら町の郵便局まで行ったりもしたが、次第に弱り、顔色も悪くなった。そしてふたたび酒を大量に飲みはじめた。(一九六二年)七月五日の夜、容態が目に見えて悪化したフォークナーは病院へ運ばれた。翌午前一時三十分、フォークナーは、起き上がってベッドの端に腰かけたところを心臓麻痺に襲われ、崩れ落ちた。医者は蘇生術を試みたが、四十五分後に死亡を宣告した。(「有名人のご臨終さまざま」 マルコム・フォブス、ジェフ・ブロック 安次嶺佳子訳) 


くさや
富永(一朗) 八丈といえば、トビウオのくさやがうまい。
渡辺(文雄) ぼくも大好きだなあ。
富永 最初、東京ってのは下品だなあ、あんな腐った魚を食ってやがると思ってね(笑い)。
渡辺 くさやは、お酒で漬けておくとにおわないんですよ。
富永 それから焼くわけですか。
渡辺 いや、前に焼いておいてほぐすんです。それで薄いお酒と醤油に漬けておく。
野村(芳太郎) それを今度、茶漬けにする。上から熱いお茶をかけてね。おいしいですよ。(「あの味 この味 ふる里 隠れ味」 渡辺文雄編) 


アルコール中毒者自主治療協会の設立 一九三五
アルコール中毒者自主治療協会(A・A)は、ニューヨークの株式仲買人ビル・Wがドクター・ボブという名の医者に飲酒をやめさせたときに設立された。ビルはかつてアル中だったが心霊体験で飲酒をやめていた。ビルはオハイオ州アクロンへ出張中にドクター・ボブに出会い、アル中としての自身の体験を話して、立ち直る方法を教えた。ドクター・ボブが最後の酒杯を空けたのは、一九三五年六月一〇日のことで、翌日、二人は一緒にアルコール中毒者自主治療協会を設立した。以来、ビルは一九七一年に死ぬまで、ドクター・ボブも同じく一九五〇年に死ぬまで、一滴も酒を口にしなかった。同協会はアル中がほかのアル中を助けるという主旨のもとに成り立っており、現在では一〇〇万人を越えるメンバーがいる。(「世界おもしろ雑科2」 ウォーレス、ワルチンスキー他) 


二瓶の酒
あの天下分目の関ヶ原合戦の後に、信州・上田の城主・真田昌幸と幸村の父子は西軍に味方したため、東軍の総帥たる徳川家康の命によって、紀州・高野山へながされ、蟄居(ちっきょ)の身となった。ところが昌幸の長男・真田信幸は徳川家康の養女を妻にして、これは東軍へ参加をしていた。戦後になって、「さぞ、父上も弟も、酒に不自由していることだろう」というので、信幸は徳川家康の許可を得た上で、衣服などと共に二瓶(ふたびん)の酒を、そのころは紀州の九度山で貧乏ぐらしをしている昌幸と幸村へ送りとどけた。そのとき、真田昌幸老人は、この酒の香を嗅(か)いで泪(なみだ)をながし、一口のんでみて、「孝行とは、かくのごときものなり」と、いい、さらに、「憎い憎い家康めの首を討つ夢も、忘れてしもうたわい」といったそうだ。(「戦国と幕末」 池波正太郎) 


小アジとカタクチイワシの刺身
しかしわたしが、このごろ、もっともよく酒の肴に用いるのは、じつに小アジとカタクチイワシの刺身なのである。どちらももっとも安く、もっとも手に入りやすいのもつごうがいい。-
しかし八月の十センチそこそこの小アジは脂も多く骨もやわらかで、焼けば頭から骨ごと食べられる。だから料理は味噌田楽にするか青紫蘇の葉タデをそえて酢のものにするのが大部分だろう。-小さいからつくりにくい。そしてカレイの洗いのようにこりこりと身がしまっているわけでなく、やわらかく、そしてちょっと生臭い。がその生臭さはおろしジョウガで消せばいい。その甘味はタイよりもマグロよりも今のわたしの舌をよろこばせるようだ。カタクチイワシは、煮干しの原料で、マイワシ、ウルメイワシとくらべて、小型で、せいぜい少年の人差指の大きさしかない。-七八月のカタクチイワシは脂が強すぎて、煮干にしても脂がにじみ出て上等の品にはならないけれど、生で食べるには、いちばんうまい。この魚は、古くなれば、だらだらして手のつけようもないが、新しいのなら、出刃で腹をひらいたうえ、指で尾の方から骨を剥がしていって、頭をちぎればいい。-これは小アジよりもっと生臭いから、ショウガをたっぷり醤油に加えなくてはならぬ。ほんの一尾が一口にも足らぬけれど、甘い油がショウガの辛さとまじって口腔にひろがってゆくのは、最高の美食というような気がする。(「カワハギの肝」 杉浦民平) 


小半、かんなべ
『-もし若殿でも産(うん)で見やしやれ、こなた衆は国取の祖父(ぢい)様・祖母(ばあ)さまなれば、十人扶持や二十人ぶちは、棚に置た物取(とる)よりはやすい事。いよいよ(大名の妾に)やらしやる合点(がてん)か』といへば、夫婦はよろこび、『イヤモ、御深切なおせわの段々、どれかゝ、五六小半(こなから)買ふて来ふ』と、仏壇の下戸棚から、はした銭とり出し、かんなべさげて足も空、どぶ板ふみぬきながら、裾をまくつて走り行。
五六 一升の四半分で、二合半。少しの酒。 一 酒を暖める鍋風の器。これを用いて酒の酌をするのは卑賤の風習(和漢三才図会) (「根南志具佐」 平賀源内 中村幸彦校注) 


第十五料理酒之部(2)
鳩ざけ はとをよくたゝき。酒にてとき。みそをすこしなべに入。きつねいろにいりつけて。鳩もさけも入よし。山椒のこ(粉)かこせう(胡椒)のこか。わさびなどすこし入よし。しやうゆう(醤油)にてもいり付候也。
はふし(羽節)酒 きじのは(羽)の中のふしよりさきをこまかにたゝき。塩すこし酒すこし入いりて。右のからみ(辛み)何にても入。さけをよきかんにして出し候也。身をくひ申時はしやうゆう少くはへ(加え)よし。
つかみ酒 雉子のわたをこきみそを少しくはへ。よくたゝきあはせ候て。一足のあしに一本づゝにくしをさし。かのたゝきたる物をゆびの中へいれあぶり候へば。よくにきり申候中も。からりとあぶれたると見え候時。ゆびのきはよりきりて又よくたゝき。又すこしいりて酒を入。間をして出し候。(「料理物語」 「続群書類従」収録) 



氷は、寒気によって池が氷結したものを伐りだした。従って、暖冬では氷結不足となるため、良質な結氷を願って池ごとに風神が祀られた。暖冬の年には、「薄きぬ・米・酒・海藻(め)・魚を供えて祝詞をあげる」と『延喜式』に定められている。(「食の万葉集」 廣野卓) 


さけせん(2)
終電車どうでもいいやが座る寝る 加藤太美治 肝入り
 終電車は各駅から酔っぱらいを拾い集めて走る。うれしい酒かなしい酒、ギリ酒にヤケ酒、それぞれの事情があるにせよ端(はた)から見れば、自分を見失ったアルコールの漬物。それらをひとまとめにして「どうでもいいや」と表現した言語感覚、お見事。(「ぼけせん川柳 喜怒哀ら句」 山藤章二) 


高濃度アルコール生成の秘密-プロテオリピド
この合成もろみにいろいろの効果物質を加えて試験するのであるが、黄麹菌の培養から分離抽出したプロテオリピドを〇・五~一パーセント加えることにより、一五日間くらいで一九~二〇パーセントのアルコールが楽々と生成することを証した。このプロテオリピドはリン脂質約五八パーセント(フォスファチジルコリンが主)たんぱく質二七パーセント、灰分五パーセントからできている。これを加えると酵母細胞膜の構成脂質に変換が起こり、低温で酸素のない状態でも酵母の増殖をよく促進し、アルコール耐性の獲得に効果があるなど、もろみの初期から末期までのあらゆる状態での酵母の生理に有効である。こういう結果から、日本酒もろみにおける高濃度アルコールの生成は、低温発酵の効果として糖化と発酵のバランスがよく保たれ、蒸米は徐々に糖化されて、濃糖による酵母への悪影響をなくしている。フーゼル油成分などによる酵母への阻害は、米のオリゼニンたんぱく質が吸着して除いてくれる。プロテオリピドには酵母を低温でもよく増殖させる効果があり、低温発酵に効果を示している。プロテオリピドはもろみの初期には電子受容体になり、後期の還元的環境では発酵能の保護に効果をもつ。この因子は細胞膜構成成分としても重要な働きをしており、酵母生理を活性化させ、増殖にも、またアルコール耐性の増強保持にも効果を持つ。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


鱧しゃぶ
魚津屋の主(あるじ)は「鱧(はも)は鍋に限る」といい、福森雅武の黒い土鍋を客の眼前に据え、熱々の鱧しゃぶとして供する。特製の土佐酢が自慢で、これに大根おろしと梅肉を加えて供するのが魚津屋流だ。淡白なようでいて舌にねっとりとまつわりつくような濃厚さを秘めた鱧だが、こうすると一人一尾はアッという間に平らげてしまう。二尾あってもいいくらいだ。鱧の肝と白子と、それに「鱧の笛」と呼ばれる浮きぶくろを淡味(うすあじ)に炊いた一品で立山の吟醸を飲っていると、次は鱧しゃぶの出しで鍋もそのまま豆腐をさっと煮て食べさせる。豆腐は口の中でとろける朧(おぼろ)豆腐で、鱧のうまみをたっぷり吸い込んだそのうまさといったらない。これは何という料理かと尋ねると、主は首を振って「名前なんかない。こうして豆腐を食べたらさぞうまかろうなァと思って、まだ始めたばかりだから…」(「うまいもの職人帖」 佐藤隆介) 魚津屋は京都中京区だそうです。 


お祭り
そんな地方でありながら、収穫の喜びは、実に神聖で、また、盛大だった。日本人が先祖代々、伝承してきた喜びの儀式が、あまり崩されないで、私の前に展がった。秋祭りというのを、東京流に、神社の賑わう日だと思っていたが、参詣に行く人は少く、その代りに、町をあげて、祝い狂うのである。もっとも、その日、神様は神社にいないで、ミコシに乗って、町を巡廻するからかも知れない。東京のオミコシとちがって、面白半分に担ぐ連中は、一人もいず、エボシに白衣の姿で、町を駆ける。その声を聞くと、各戸の人が家の前に飛び出して、拍手し、合掌し、賽銭のオヒネリを投げる。そして、獅子舞い、鹿踊り、ハヤシ屋台、歌舞と称する技芸者、牛鬼という南伊予特有の巨大な怪物なぞが、絶え間なく、町を巡る。音曲と騒音が、平素は静かな町を、沸騰の状態にする。そして、各戸ともに、酒肴の用意をして、立ち寄った何人をも、「まア、一ぱい、やんなせや、お祭りじゃけん…」と、座敷へ上げる。土佐の皿鉢(さはち)料理と同型だが、ちょっと趣きがちがって、ここでは鉢盛料理と、名も変わる。数個の大皿に、サシミや、スノモノや、口取りや、焼き魚、煮魚、巻き鮨、煮ウドンの類まで、盛り込まれるが、秋祭りには、菊の花が一輪、食べ物の中心に、挿してある。終戦から二年目の頃だったが、物資豊富の土地で、カマボコも、卵焼も、皿を飾っていた。私も、もの珍しさに、町の友人の家を、午前から、数軒歩いたのだが、どこへ寄っても"一ぱい、やんなせ"で、午頃には、すっかり酔ってしまった。(「食味歳時記」 獅子文六) 現在の宇和島市に疎開したのだそうです。 


豪遊
でも、まあレミー・マルタンっていうのは、ちょっと美味かったね。飲んだことない酒だから。ああ、いい酒ってのはこういう味なんだって。それで、もう一回、今度は日本酒飲みなおしたの。そしたら、昔、日本酒ってマズイ思い出しかなかったんだけど、ほんとに美味しいのあるんだって。冷や酒なのに「これ美味いよ」って言われて飲んでみると、確かに美味いの。ああ美味いんだ、日本酒っていうのはって、それで気付いっちゃって。そっからウイスキーもブランデーも、みんなもう一回やりなおしちゃったの。だから、高価なやつはほんとに美味いっての、よく分かったっていう。あと結局、酒がよくなると同時に、つまみがよくなってんだよね、料理屋とか行くようになると。そうすっと、今までの柿の種とか、かっぱえびせんみたいので酒飲んでたのがさ、急に「穴子のなんとかです」って出されるわけじゃない?そりゃあ酒も美味いと思うに決まってんだよね。合わせ技になっちゃってるから。で、こりゃいいって酒ばっかり飲んじゃったんだよね。(「孤独」 北野武) 


ハモニカ横丁
山本 なんかよく新宿のバラックでお見掛けしましたよ。佐々木さんを。
佐々木 そう、毎晩ね。ハモニカ横丁に入りびたりです。あの頃皆さん、作家も文芸評論家もジャーナリストも一体になって、今よりもっとこう信頼感というか、心の交流がありましたね。ワイワイ一緒になって飲んで…。
山本 熱気があった。
佐々木 そう、熱気というか、こみ上げるように熱いものがあふれて、肩を組んで飲み歩いて…。それでもう、織田作之助さんの奥さまのいらした『ととや』なんかには、有名高名な作家がたむろして…。
山本 誰がお金を払うか、全然判らない。あの頃池島信平さんは、月にハモニカ横丁に一万円払っていたって、あとで聞いたけれど、この一万円も相当な額です。
佐々木 『よし田』という店でおカミさんは帰っていないのに、河上徹太郎さんに吉田健一さんに私、それからもう一人誰だったか覚えていないけれど、ずーっと飲んでるんですよ。とうとう三日三晩飲み続けたことがあります。で、もう吉田健一さんなんか、何が何だか判んない。河上先生も同じ。ただ時たまケケケケ、ケケケケって吉田健一さんがお笑いになると、屋台がぐらぐら揺らぐ感じなの、笑い声で…。(「酒徒恋うる話」 山本容朗VS佐々木久子) 


色々な清酒
ひそかに夢見ているのだが、居酒屋の棚に味、香り、色もとりどりの清酒の瓶が並んでいる。上段には三年物、五年物の古酒のとっておき。たずねると主人の口から、それぞれの特色が披露される。男性・中程度の上戸・女性づれ・二次会の帰り道-そんな条件の客には、デザート・ワインのようにあと口のさわやかな食後酒がおすすめ。ワイン業界では当然のようにそれをして、そしてめざましく愛飲家をふやしてきた。われわれのナショナルブランドが指をくわえて見ている手はないだろう。(「今夜もひとり居酒屋」 池内紀) 


女性の依存症
いったんお酒に依存すると、実は女性のほうが依存症におちいりやすい。女性は男性よりも多く脂肪組織があり、体内の水分量が少ないので、アルコールの吸収が速く酩酊しやすい。女性ホルモンのエストロゲン値の上下による気分の変動もアルコールの影響を強める。心理的な側面の影響も見逃せない。男性は「お酒を飲むのが習慣化するうちに、耐性ができて飲む量が増え、結果としてアルコール依存症におちいる」が、女性は「飲まずにはいられない状況」がまずあり、救いを求めてお酒に手を出す。だから無茶な飲み方になりやすく、連続飲酒発作も起きやすい。(「今日も飲み続けた私」 衿野未矢) 


ヒトラーが残した二大遺産
アドルフ・ヒトラーは好んでビアホールで演説をした。そのヒトラー時代の一九三九年に「ビール法」が成立して主成分が定まった。以来、モルトを主体とするドイツ・ビールが天下をとった。ビールはアウトバーンとともにヒトラーが残した二大遺産といっていい。高速道路と大衆的アルコールというおそろしく折り合いの悪い二つの悪い二つを残したところが、矛盾だらけの独裁者にふさわしいらしいのだ。(「今夜もひとり居酒屋」 池内紀) 


甘くない焼き味噌
その趣向を借りて、甘くない焼き味噌を作ってみようと思い立った。味噌は、塩からい田舎味噌なら、特に種類を問わない。塩気が強過ぎると思えば、摺鉢に入れて砂糖か味醂を加えて擂りまぜる。その中の葱のみじん切りと細かく削った鰹節を多めに加えてまぜ、杓文字の片面に薄くのばして塗りつけ、包丁の背で格子状に切り目を入れ、ガスの弱火にかざして杓文字が焦げないように注意しながら焼く。味噌に焼き色がつけば出来上がり。(「本当は教えたくない味」 森須滋郞) 


武家流酒道
次に武家流である。まず「二人盃(ににんはい)」という二人の武士による酒道であるが、これを張るのは、互いが何事かを誓い合ったり、約束したり、物を貸したり、初対面の時であったり、逆に別れ酒といった場合に多かったようである。仲人という役者(やくもの)が酌手(しゃくしゅ)になって二人の間を取り持つわけなのだが、この酒席において大切なのは、二人の武士の心が一つになることであるから、互いは仲人を真ん中にはさみながら、膳を前にして向面する格好で着座し、目と目が真正面にくるようにする。そして、二人で動作は常に同じであるが、一方が一呼吸置いて追随するかで動き、たとえば、仲人が両人に酌をすると二人は同じタイミングで盃を口に運び、早くもなく遅くもなく、息を合わせていっしょに飲むわけである。二人の盃のやりとりは仲人が定まった流儀に則って進めるが、時には双盃(もろはい)などというまことにもって珍しい盃も登場したりするから、ますます妙なのである。この盃は二つの盃が一つの盃台の上に載せられた格好をしていて、これに酒が注がれると、盃は盃台に固定されているので、どうしても二人の武士が左右別々の盃に、同時に口を付けて飲まざるを得ないという仕掛物なのである。(「酒に謎あり」 小泉武夫) 


下り酒問屋
上方から。あるいは駄馬を連ね、あるいは廻船に積まれ江戸入りした諸白を取り扱ったのが下り酒問屋である。一六九四(元禄七)年、下り酒問屋は江戸の諸問屋の荷主連合である江戸十組問屋に参加し、その酒店組に属していた。ところが、廻船の海難の際の損害分担について、他業種の荷主との間で紛争が絶えないなどの事情ばかりか、酒荷専門の樽廻船が就航して酒荷が激増したので、一七三〇(享保一五)年、ついに江戸十組問屋から脱退した。下り酒問屋は、初め日本橋茅場町を中心に店を構えていたが、元文年間(一七三六~一七四一)新川へ移転した。 新川は上戸の建た蔵ばかり 品川湊や佃島沖に碇泊した廻船から艀(はしけ)に積み替えられた酒樽は、いったん新堀、新川の下り酒問屋の倉に収納された。その数量は、江戸下り問屋の「入津見区書上(にゅうしんけんくかきあげ)」を見ると、一六九八(元禄一一)年には「凡そ三十万駄程、此樽六十万樽」とある、樽一丁の実実を三斗五升とすれば、実に二一万石(三万七八〇〇キロリットル)になる。また、一七二四~一七三〇(享保九~一五)年に、大坂からの江戸入津諸白量は年間二六万五〇〇〇~一七万八〇〇〇樽(一万六七〇〇~一万一二〇〇キロリットル)とある。そのうえ、諸国からの、また関東地廻り酒を加えると、江戸での消費量がいかに膨大な量であったかが想像されよう。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


わたしの酒歴
ところが、卒業すると幸か不幸か酒とは最も縁の深い大蔵省に入ったのである。昭和九年和歌山の税務署長に赴任したが、管内の酒屋さんとの交際や大阪での同僚との会合で飲む日が続く。毎晩晩酌二、三本は欠かさぬ下宿の主人が、あなたは家では飲まぬが、ずいぶん酒が強いとの町の噂、一度一緒に飲みませんかという。ちょうど雪の降る日曜の朝、二人で雪見酒としゃれた。夕方までさしつ、さされつ、すっかり酔うた挙句は二人で待合に行ったが、主人はもう動けぬ。私は芸者相手にしばらく飲んで主人を介抱して帰った。翌日奥様にずいぶん飲んだでしょうと聞くと、六本空きましたとのこと。時間をかければ斗酒とは行かぬが、三、四升はいけるのかなと思った。これがわたしの大酒の記録。しかしそれ以来宿の主人は一緒に飲もうとは言わなくなってしまったし、私もそれほど馬鹿飲みしたこともない。(「政治家のつれづれ草」 前尾繁三郎) 酒飲みの赤牛などと呼んだ人もいるそうです。 


しっかり1升飲んだ
野田首相は3日、経済産業省で開かれた中小企業経営者らとの意見交換会であいさつし、「お酒を昨日久しぶりにしっかり一升(約1.8㍑)飲んだ」と笑顔で語り、底なしの酒豪であることをアピールした。首相は2日夜、都内の日本料理店で手塚仁雄首相補佐官、連坊民主党参院議員と会食しており、以前から親しい議員を相手に、思わず酒が進んだようだ。最近、元気がないと言われることが多いだけに、意気軒高ぶりを示す狙いもあったとみられる。(読売新聞 2012.3.4) 


【メルボルン発】
初めてこの街に来てから、もう二十年経った。最初はN響との講演旅行である。そのときは、アルコール類が買いにくいところという印象だった。なんでも、週のうち何日かは酒を売ってはならず、売る日でも時間にきびしい制限があったように思う。ご不自由でしょうからと、日本総領事館が五人に一本ぐらいのわりで、ウイスキーを差し入れてくれたのを思い出す。-
ところが今はどうだろう。静かな住宅地は別として、ちょっとにぎやかな場所なら、街の角にはどこでもパブがある。日曜を除き、朝から夜おそくまでいつもにぎわっている。-
ところがこの国のバーときたら、ひたすら飲むだけのためで、ホステスとか、食い物、カラオケのような余計なものは一切ない。酒の道からいえば、日本は邪道だろう。ここのは満員電車のように込んでいて、立ったままの男たちがそれぞれグラスを手に、ガヤガヤ、ワイワイしゃべり合っている。ビール、ワイン、ウイスキー、ジン…アルコールだけの世界である。-(83.4.29)(「棒ふり旅がらす」 岩城宏之) 


おじさん、やるな~!
寄せ鍋だろうか、車内にいい匂いが立ち込め始めた頃、案の定車掌さんが飛んできた。「車内で火気使用は禁止されております」車掌さんは憮然とした顔で注意する。その言葉におじさんたちは口を尖らせながら、「ええ~ダメなのかよ。折角用意してきたのによぉ」と車掌に詰めよる。「ええダメです。すぐに片付けて下さい」「なんだかな~」ブツブツ言いながらも、おじさんたちは用意した鍋をしまい始めた。「あんだよな~、折角ふぐチリを楽しみにしていたのによぉ~」-おいおい、ふぐチリだったのかよ!「それじゃ仕方ねえ、刺身でもやるか」ひとりのオジさんがみんなに同意を促す。「そうだな、刺身やるっぺ」見ていると今度はカバンの中から、刺身の盛り合わせが乗っている大皿を取り出した。一体、どうやってカバンの中に収まっていたの?次ぎにグラスを出し(紙コップにあらず)、カチ氷(キューブアイスに非ず)を入れ、ウィスキーの水割りを作り始めた。カバンをテーブル代わりにして、おじさんたちの酒盛りが始まった。車中の人たちはみな唖然とした顔をしながら、斜めにその光景をながめている。おじさんたちはご機嫌に酒盛りを続ける。(「酒にまじわれば」 なぎら健壱) 


キリスト教文化
一方、キリスト教文化のもとでは、"酒は飲んでもよいが、しかし酔ってはいけない"。だから、ビールかワインぐらいが適当で、あまり強い酒は好まない。とりわけ、酔っぱらってしまうということは、大変なマイナスとなる。酒豪またはヘビー・ドリンカーという言葉は、かなりネガティブなニュアンスが含まれている。かつて筆者も失敗したことがある。知人の奥さんがかなりお酒が強いので、尊敬の意味を込めて「あなたはなかなかお酒が強い」と言ったら、その奥さんは、次ぎに会ったとき、一滴もお酒を口にしなかった。後で一生懸命、日本の酒カルチャーの説明をして、やっと奥さんとも一緒にお酒が飲めるようになった。これなども食文化の重要な差異であろう。(「食文化の国際比較」 飽戸弘 東京ガス都市生活研究所編)'92の出版です。 


須磨の浦
「上:夭、下:口 の」まねば須磨(すま)の浦淋(うらさび)し 酒好みの言。艶道図鑑に出。
酒恋 胸はいたみ(伊丹)袖はいけだ(池田)となりにけりまたあう事も涙もろはく(諸白)狂歌
五合の酒は余るが一升の酒では足らぬ(譬喩尽)(「飲食事辞典」 白石大二) 


味ノマチダヤ
こんなカップ酒の仕掛け人ともいえる酒販店が、東京・中野の住宅地にある。「味ノマチダヤ」という酒屋で、古今東西の珍酒や数量限定品なども、この店だと手に入る可能性が高い。平日でも夕刻になると、一般客や業者などでレジに長い行列ができる。どうしてこんなに品揃えが豊富なのか、店主に聞くことができた。日本酒の消費は昭和末期以降、どんどん低迷していた。マチダヤではそんな時期、全国の造り酒屋に「カップ酒をつくってブームを巻き起こそう」と説得して回った。そうやって出来た七〇以上のカップ酒一つひとつが、店と造り酒屋の汗の結晶なのである。そんなマチダヤには、日本中からカップ酒がどんどん届く。海外からの客をマチダヤに連れて行くと、大変喜ばれる。凝った造りの徳利などに入った酒が、居並ぶ様子が物珍しいのだろう。ちなみに一九六四年に登場したカップ酒の元祖「ワンカップ」は、大関株式会社(兵庫県西宮市)の登録商標である。(「酒場を愉しむ作法」 自由酒場倶楽部 吉田類監修) 


いも酒
いも酒はいろいろな料理書にある。「山芋のいかにも白いものを細かにおろして、これも冷酒でよく溶いてのばし、塩を少し入れて、燗のよくなるまでかきまわす」(『料理物語』)。「山の芋の皮を取り、厚さ、中程に刻み、いかき(ざる)へ入れ、鍋に湯を沸かし、いかきごと湯に漬け、熱茶三ぷく食べ候間程置き、そのままあげ、しずくを垂らし、すり鉢にてよくよく摺り、冷(ひ)え候程冷(さ)め候時酒を入れ、ねり酒のようにのべ、徳利に入れ置き、用の度々燗を致し候。五日程も耐え申候」(食名録)-作り方はさまざまだ。(「水戸黄門の食卓」 小菅桂子) 


第十五料理酒之部(1)
玉子酒 玉子をあけ。ひや酒をすこしづゝ入。よくときて塩をすこし入。かんをして出候也。たまご一つにさけをの[な歟(か)]べに三盃入よし。
いもざけ 山のいものいかにも白きをこまかにおろして。是もひやざけにてよくよくときのべ。塩すこし入。間(燗)のよきまでかきまはしてよし。(「料理物語」 「続群書類従」収録) 


文化四年[一八〇七]丁卯(ひのとう)
○四月朔日より、湯島社地にて、大塚大慈寺見耕庵火防造酒地蔵尊開帳。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


旗を立て、酒を置いて
各地に於ける凱旋兵士歓迎の事については随分面白き珍談があるが、第二師団附を以て台湾に出征したる奧洲一の浜近村の一兵士此程凱旋したるを村中の人々知らずに打過ぎけるを、二、三日過ぎて初めて兵士の帰村したるを聞き、こは一大事こそ出来(しゅったい)したれと、村中のおも立ちたる者顔色を青くして集会、協議の末名誉ある凱旋兵士を歓迎せざりしこと、国民の本分を欠きたる罪は免れずとて、急使を以て右の兵士に詫びをいれ、更に三里余の村外(むらはず)れまで退却せしめ置き、ここに凱旋の支度を整へ、旗を立て、酒を置いて、其無事凱旋を祝し、再び帰家せしめたりといふ。一笑話にすぎざれども其質朴よみすべき。<明二九・四・二七、奥羽日日新聞>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


高見順、十返肇
高見順は梯子酒をつき合った知人を、その自宅まで送って行った。知人の赤ん坊は夜中の客に驚いて、泣いた。すると高見も「君には赤ん坊がいる!僕の子は赤ん坊の時死んでしまった!」と大声で泣くのだった。
十返肇(とがえりはじめ)が酔った時のくせは葬式のまねだった。「故人はいい人でありました」とか「では御遺族の方から御焼香を…」などと繰返していうのだった。そして皮肉な顔をして「死んでから、今さららしくほめたって…」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


ロンドンのバス
ロンドンのバスは、二層造りであることが特徴。ある日のこと、一杯機嫌の男がロンドンのバスに乗った。葉巻をくゆらせていたので、車掌は「喫煙なさる方は、上へあがって下さい」と、その男に注意した。男は千鳥足でかなり歩行困難の模様であったが、それでもいわれた通り、上にのぼっていった。しかし、あがったかと思うと、すぐ、転がり落ちるようにしておりてきてしまった。「だんな」と車掌はいった。「下におりてきちゃ困りますね。いうことをきいてくれないと、バスからおりてもらいますよ」「そんなこといっても、きみ、上は、あぶないんだ。運転手がいないんだからね」と、男は、逆襲した。(「洋酒天国」 開髙健監修) 


初がつほこれも左のみゝで聞(きき) そのはづのことそのはづのこと
初鰹で一杯やるのを、こたえられないと考えている酒呑みは、左利きなどと言われるから、きっと初鰹の売り声も、左の耳で聞きつけるに違いない。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎-監修)