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御 酒 の 話 47  



新潟の水  初代川柳の酒句(22)  木製の結桶  うか・ぶ[浮かぶ]  陶淵明詩片々(2)  〇十分盃  喧嘩の前夜酒  やながわ  酒豪と下戸の男兄弟  (一)ことぶき  ぐい呑み  山の芋  伊丹から灘へ  いざこととはん【いざ言問はん】  うなぎ串焼き  〇卯酒卅二  酒のくにの仙人八氏の歌  火の端の胡座あぶなし酒の酔  私と灘 どなん花酒  近藤勇礼状  たるひろひ[樽拾ひ](1)  厚味の過食  酒きさゝ  泡盛  酒宴と約束  大田南畝  白子ポン酢  水車精米  質的管理  ヒシ  ガンブク酒  膵臓病-膵炎・糖尿病  文化の酒と文明の酒  16貧困台  生酒之事  「Kさん」(東京)  こもかぶり  梁園吟  飲んですぐ横になると二日酔いにならない  871検閲  江戸の高級酒  「彼のため」を脱却するまで  酒色に溺れる教養人  一〇万本  酒は人をつくった  右手(めて)  ぐびぐび  かんせぬ人はなかりけり  モッズ・ルック  醒人独り味を知る  東西南北  風軒偶記  飲酒という自殺行為  日本酒    日本酒(に)  踊突歌  誹風柳多留の酒句  萍にのせてゆられむ酔心  食物年表(日本)(1)  生ぬるい日本酒  昭和初期・全国食事習俗の記録(1)  海棠  莫迦踊  鼎かなえ  始めての日本酒  造酒司條  物議を醸した文壇酒徒番附  二升の祝い酒  後撰夷曲集(4)  青山量太郎へ  市販酒審査  暖気樽  精米歩合  ひとだま【人魂】  【第一九三回 平成三年一一月一五日】  「酔」を基語とする熟語  837グッド・バイ  左が利く  間酒、寒前酒、寒酒、ボダイ  お茶屋・桔梗家  ▲道灌山  好色王と弁舌の士  かぱかぱ  鹿児島の醤油  いったいどうなることやら  社会貢献  たるだい[樽代]  吝太郎  蒲焼きの長命術  飲酒(その十三)  小料理/酒亭  初代川柳の酒句(21)  のういん【能因】  四方赤良  風呂上りの唄    痩せ法師の酢好み ランパブ  二月十六日月曜日  襄陽歌  酒の秋田はタクシ-の国  徳利いろいろ  (三九)かんふうらん替り  うらおもて  上司の悪口  18日 箸が持てる  酒の一升くらい平気なのだ  内田頑石  お酒を旨くする器械  〇酒箒廿九  慶長年代の伊丹、灘等  〇御前酒  播州米  藤田東湖へ宛てた徳川斉昭からの手紙  一、垂之事。  酒泉等の話(2)  連続飲酒発作  一露飲み、一文字飲み  現代川柳の酒句  イクラのしょうゆづけ  カフェバー  女性アルコール症  声色  陶淵明詩片々    笑話補遺  初代川柳の酒句(20)  蒲生秀行  早朝、夜明かし営業  二日酔い対策の手指をつかったテクニック  諸白酒  BGM  「小さな」徳利  銅脈先生  友をおもう  銘柄ハンターになることなかれ  年の功  ▲亀塚  鄙願  杖突の酔はれた所は盛直し  【第一八〇回平成二年一二月二一日】*越乃寒梅  ほろ酔いきげん  れんちゃん(連ちゃん)  幕の内  いけだ【池田】  灘の留仕込み唄  医者の薬瓶  二つに分離  オータケさん…。あかんやん  三四 さけはさかや  25日 酔いざめの牛乳  東京の大衆酒場  樽次[たるつぐ]  大村博士  白雪賛詩を残した頼山陽  酒は裏切り者である。最初は友で次は敵だ。  平賀源内  ぐでんぐでん  寓言(2)  酔狂犬  初代川柳の酒句(19)  811坊主憎けりゃ  △酘(そえ)  ヱビスが先か、恵比寿が先か?  飲むに減らで吸うに減る  酒を基語とする熟語(10)  ぶんじ  思い出  声明文  鰭酒 ひれざけ  後撰夷曲集(3)  どっちかというとオクテ  河童 かつぱ  吸物八寸  ほんなほし【本直】  トクリ(2)    大酒仕儀停止候  水で割ったらアメリカン  古酒新酒  酔っぱらいの主張(2)  酘法と酎法  タラコの花煮  タバコ灸  (八四)梅の木踊  アラック  徳川秀忠  初代川柳の酒句(18)  伝統的な飲酒文化の崩壊  酒泉等の話(1)  寒造之事 酛米  愛酒楽酔  居酒屋の客    上戸の火燵  酒をすすむ 白楽天  甘酒 あまざけ  福神  すべて空ッポ  料亭こそ政治の場  鉢巻き、半纏、前掛け  コの字  遊円山二首  年ごろ酒のみ過したるが  酒は関西  樽酒[たるざけ]  一人飲みの、酒場での過ごし方五ヶ条  人生観の劇的変化  6日 冷やしあまざけ  ㈱鈴木酒造店  リチャード・A・メイ  全国清酒品評会黎明期  山卸唄  あをつきり【青切】  日本演劇社  くまBAR  竹隈の東湖先生  (18)ある随筆から  ◎十一月事宜  奉公人の禁物大酒・自慢・奢  葡萄月  もとすり歌  温泉場  初代川柳の酒句(17)  二律背反  笑福亭笑瓶さん(レポーター)の主張  おじさん、もう一杯  酒を基語とする熟語(9)  密造酒  酔生夢死  志ん生と双葉山  さる・こま  よいよい[名]  椿  品評会をやめた中国紹興酒の場合  557流石は…  掛り人 かかりうど  中酒  『青鞜』と飲酒  後撰夷曲集(2)  中村憲吉の酒歌  舞台で本物の酒を飲むと…  水で割ったら  トクリ  ほとけ【仏】  清茶と濁酒  寓言  醸酒「酉胎」




新潟の水
清酒の成分の八〇パーセント以上を水が占めることからも分かるように、水は清酒造りにおいて欠かすことのできない、酒の質を左右する重要なものである。各酒蔵が使うそれぞれの水の質の違いが、清酒の味わいにも大きくかかわってくる。水の質を表す数値に硬度があり、ミネラル分を多く含む水を硬水(こうすい)、少ないものを軟水(なんすい)と呼ぶ。全国有数の豪雪地帯として知られる新潟県では、冬に降り積もった雪が清らかな雪解け水となって大地に染み込み、伏流水となって信濃川や大小さまざまな河川に集まるが、その水のほとんどは軟水である。新潟清酒の大多数は軟水が仕込水として使われ、また、市販酒の規格に合わせて目的のアルコール度数になるように加える「割水(わりみず)」にも軟水が使われている。(「新潟清酒達人検定公式テキストブック」 新潟日報事業者)


初代川柳の酒句(22)
とんだ事 鼎の中で 酔がさめ  猪牙
そんなら ばくちにせうと 母をおどし  高砂
そりや出たと 迯(にげ)る酒屋の 人だかり  高砂
月のさす 所へ盃 もちあるき  串柿
隙(ひま)な居酒屋 つらりと ちろりをかけ  雨譚(「初代川柳選句集」 千葉治校訂)


木製の結桶
この醸造量の変化に促されて、甕にかわってあらわれたのが木製の結桶であった。この移行は既に中世末葉にその端を見出し得る。これは永禄九年の『御酒之日記』にも窺い得るところであり、『多門院日記』天正十年五月三日の条に「手作ノ桶酒上了、大略也、二斗ほとも在之」とある如く、天正頃に於ては、かつては壺を使用していた多門院も桶を採用している。しかし桶の容量もその初期に於ては比較的少量のようであった。(「日本産業発達史の研究」 小野晃嗣)


うか・ぶ[浮かぶ](自動)①浮かぶ。浮き上がる。 ②表面に現れる。 ③思いつく。
単身赴任 酒に浮かんで 来る妻子  岡部八目(「川柳表現辞典」 田口麦彦編著)


陶淵明詩片々(2)
 試酌百情遠 重 觴忽忘天
世の憂さも 遠く忘れて そぞろ酌む しずけき酒の 酔ひここちかな
 漉我新熟酒 隻雞招近局 日入室中闇
 荊薪代明燭 歓来苦夕短 已復至天旭
新酒祝(ほ)ぐ さかもりつきず 日も暮れて いろり明かりに はや明けの色
 春醪独撫 良朋悠邈
いざ酔はむ 友やいづくぞ かんばしき 春のどぶろく 手のうちにあり(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎)


〇十分盃
桜陰秘事 一ノ七に、「昔都の寺町通に、十分盃を和朝にて初めて工夫の細工人あり。唐土の偃師がからくりにも劣るまじき者と云へり。」と云ひ、俗つれづれ、三ノ四に、「むかし唐人の細工に十分盃とて、人の心をつもり物にして之を渡しぬ。」といふ。大矢数、四。「さま/\の智慧を集めて水手桶。十分盃はいつの比より。」十分盃のことは誰かの随筆にもあつたが、いま思ひ出せぬ。益軒の諺草、十分は覆(こぼ)るの條に、「俗に十分盃と云物あり。是十分は覆るの喩なり。」とて、家語の三恕編、孔子魯桓公之廟に詣りて欹器を見るの條を掲げてゐるが、十分盃そのものの説明はない。越後長岡の藩主牧野忠辰(延宝二年就封)十分盃を製して座右に置き、常に戒慎の資となしたといふ話が長岡市史に出てゐる。実物は今も同子爵家に保存せられてゐるといふ。「忠辰は十分盃といふ物を作らせて、自らを警め又臣下をも戒めた。盃は径二寸三四分で、中央に木幹に擬して細い円管が立つて、小孔が盃の内外に通じてゐる。酒を注いでも八分目位で止めれば濡れぬが、それを越えると、小孔を通じて注いだ酒の全部が漏れ出て仕舞ふ。一種の玩具とも見るべきものだが、盈れば虧くるを寓し、処世の道を諷したのである。忠辰は盃銘及序を撰んで臣下に示した。 或以十分盃示予。夫惟十分盃之為器。其以分則不溢、盈即皆漏。此諸人之身志、亦然焉。位高即必有悔。心不敬即必有過。故易曰。天道虧盈。亢龍有悔。之斯謂乎矣。位高易傲。意肆悔来。物理皆再。観十分盃 丁卯孟冬 櫟軒悦咲子。」(「西鶴語彙考証」 真山青果)


喧嘩(けんか)の前夜酒
私が最初に飲んだ酒は、母が作った梅酒である。梅酒は身体に良い、というので、父母とも時々飲んでいたようだ。好奇心の強かった小学生時代、両親の留守に梅酒を飲み、泥酔して押入の中で眠ってしまったことがある。母に酷(ひど)く叱られたが、こういう体験を味わった人は多いのではないか。私が初めて日本酒を飲んだのは、中学校に入ってからである。このことは何度もエッセイで書いたが、私は大阪の旧制中学校の入試に落ち、奈良県宇陀郡の宇陀中学校に入学した。一年生の時は寮生活だったが、二年生になって、松山町(大宇陀町)に下宿した。その後下宿を転々とし、三年生の時、長谷寺のある初瀬に移った。私をその下宿に紹介したM君は酒屋の息子だった。電車で通学している間に、私は他校の不良生徒と付合うようになっていた。仲間の一人が、桜井の不良と揉(も)め、大勢で喧嘩(けんか)をすることになった。日頃付合っているので、私も仲間に加わらねばならない。その前の晩、私はM君と酒を飲んだ。日本酒を本格的に飲んだのは、その時が初めてだった。恐怖心を忘れるためと、少年らしい見栄で、私は如何にも飲み慣れているように飲んだ。おそらく三合ぐらい飲んだのではないか。便所に立った時、気分が悪くなり吐気をもよおした。吐いた後、私は這(は)うようにして、M君の家の後ろを流れている初瀬川に出た。当時の初瀬川は今と異なり、水は澄んでいたし、水量も多かった。胸のむかつきは吐いた後も消えない。私は何度も初瀬川に頭を突っ込み、水を飲んだ。初めての嘔吐なので、その苦しさは体験した者でなければ分からないだろう。ただ私は、その苦しさのおかげで、明日の喧嘩に対する恐怖心を完全に忘れ去ることが出来た。喧嘩なんかどうなっても良い、何とかこの苦しさが消えますように、と念じるのがせい一杯だった。私の後を追ってやって来たM君も吐き、二人は間もなく初瀬川の岸の草叢(くさむら)で眠ってしまった。気がついた時は、もう夜明けだった。幸い熟睡したせいか、初瀬川の水が効いたのか、余り二日酔いはなかった。私とM君は初瀬川の水で顔を洗い、思い切り川水を飲んだ。胃の隅々まで染み込むようなおいしい水だった。私は川岸でM君が運んで来てくれた熱い飯を食べた。そして下宿に戻らず、M君と二人、仲間と待ち合わせていた桜井駅に行ったのである。その日の喧嘩はグループの決闘にならず、揉め事を起した二人が闘い、一人が鼻血を出したところで中止になった。ただ私は、下宿していた家のおかみに睨(にら)まれており、下宿に戻った途端、出て行って欲しい、といわれた。中学生なのに酒を飲み、外泊するような不良生徒は、家に下宿させておくことは出来ない、という理由からであった。(「酒との出逢い 喧嘩の前夜酒」 黒岩重吾)


やながわ
暑さのぶり返したある日、遠来の友人を案内して、銀座の[はちまき岡田]に行った。樽の菊正が飲みたいという友人の注文があったからだ。いつもこんでいる店で、すげなく追い返されることがよくあるのだが、伊藤熹朔さんがひとりで飲んでおられた席に、わりこんで、席につくことができた。伊藤さんは「もうすぐあきますよ」と言われて、「やながわ」をたべておられた。伊藤さんが立っていかれて、あとかたづけがすむと、平林たい子さんを思い出させる、岡田の老主人が、経木の品がきを持って、注文を聞きにきた。わたしが、「やながわ」と言うと、二人の友人も口をそろえておれも、と言った。そして三人顔を見合わせて笑った。伊藤さんがたべておられるのを見て、三人とも、[やながわ]が食べたくなったのだ。大正生まれの大正育ちの三人は、どじょうと、そして伊藤さんのために乾杯した。(「私の食物誌」 池田弥三郎)


酒豪と下戸の男兄弟
アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学のレイモンド・パ-ル博士が、こんな調査をしている。彼は、一人が酒豪、一人がまったくの下戸という組み合わせの男兄弟を九四組も探しだし、どちらが長生きするかを調査。その結果は、酒豪のほうが長寿ぞろいで、下戸のほうが全員死亡した段階で、調査は打ち切られたという。酒飲みとしては、百万の味方をえたような調査結果だが、酒豪の兄弟が、はたしてどれくらいの酒飲みだったかはわかっていない。そういえば、一時期、日本の最高齢記録を保持していた徳之島の泉重千代(いずみしげちよ)さんは、焼酎のお湯割りを毎日一杯だけ飲んでいたとか。酒を飲んで長生きできるかどうかは、やはり程度問題だと思うのだが。(「酒 面白すぎる雑学知識」 博学こだわり倶楽部編)


(一)ことぶき
はつ春のそらものどかにいづる日の、したつみくにのかど/\に、よそほひしるく立(た)ちならぶ松(まつ)と竹(たけ)との色(いろ)いつまでも、わかの浦(うら)わのかたをなみ、あしべをわたるひなづるの、ちとせのえにしを結(むす)ぶなる、にひさかづきの曲水(きよくすい)、君(きみ)がめぐみのうるほひ深く、けさわけいりし蓬莱(ほうらい)の、みねの霞(かすみ)を汲みそめて、つくせぬ御代(みよ)のかみかぜや、伊勢えびほだはらたちばなの、かをりゆたかに民(たみ)もなほ、ほながに栄えすみよしの、波(なみ)もしづかになる枝(えだ)の、かややかちぐりかず/\の、いつの世(よ)よりかことぶきそめて、春(はる)ごとにたえずめでたき屠蘇(とそ)のさけ、梅(うめ)の花(はな)がき八重がさね、きつれてござれいつもながらの清水(きよみつ)まうで、祇園八坂(ぎをんやさか)の花(はな)の色(いろ)、これやよしの〻花(はな)よりも紅葉(もみぢ)よりも、こひしき人(ひと)は見たいもの、とがをばわれにおふせて、花(はな)のころはござれの、伊勢(いせ)さんぐ/\、息災延命長久(そくさいえんめいちやうきう)とさかえさかふる千代(ちよ)の春(はる)(「若みどり」 静雲閣主人編)


ぐい呑み
猪口よりは少し遅れて「ぐい呑(のみ)」が現れる。最初は和えものや蕎麦汁(そばつゆ)の容器に使われていた器がやや小型化して、酒盃に転用されたものである。『守貞謾稿』には「猪口にはあへものどももる」とあって、今でも蕎麦屋では汁を入れる器を「蕎麦猪口(そばちよこ)」というのはその名残である。また古伊万里の酒盃の中の「なずな手」は、まさに中国大陸、朝鮮半島渡来の茶碗そのものであるが、それを踏襲して酒盃に転用させぐい呑となった。さらに古瀬戸のぐい呑み、美濃の志野酒盃、備前、唐津の酒盃など名品として賞美される盃も、日本料理を見事に演出する向付(むこうづけ)(会席料理品目の一つで膳部の向側に配する一品料理を盛る器)として利用されるから美麗に出来上がっているのである。(「日本酒の世界」 小泉武夫)


山の芋
軽口耳祓(かるくちみみはらい)の『口拍子』に、<鰻 心やすい旦方(だんぼう)「お寺様、お見舞い申します。」和尚(おしよう)「これはようこそ。今日(きよう)は納豆配りで、納所(なつしよ)も男も留守で寂しかったところへ、ようぞおいで。一酒こしらえ、精進酒一つ進じょ。この釜(かま)の下、たいて下され。おれは裏の畑で菜を取って来よう。」「心得ました」と、火をたきながら、竃(へつい)の脇(わき)にある桶(おけ)の蓋(ふた)取ってみれば、大それた鰻。和尚(おしよう)は帰る裏口から、ちらと見付けて、「南無三(なむさん)、それは山の芋のはずじゃが。」うなぎ、山の芋に変ずるものなり>とある。-
「旦方」は、檀(だん)家・檀那。「納所」は納所坊主。「男」は、在俗の下男。「大それた」は、とんでもない。「南無三」は、これはしまった。さあ大変だ。
(「飲食事辞典」 白石大二)


伊丹から灘へ
伊丹酒は、文禄・慶長の頃から酒造業が盛んになり、池田とともに、享保年間に全盛時代を迎えました。江戸の市場を支配していたのも、この頃です。享保九年(一七二四)の記録では、伊丹に五十四軒の酒造場がありました。「日本山海名産図会」には「伊丹は日本上酒のはじめと云ふべし、是亦古来久しきにあらず、元は文禄慶長の頃よりおこりて、江府(江戸)に売始めしは、伊丹隣郷鴻池村山中氏の人なり…継いで起る者猪名寺屋、升屋といって是は伊丹に居住す云々」とあります。西鶴も「織留」の中で、池田、伊丹の酒は「水より改め米の吟味糀を惜まず」とほめていますし、頼山陽が剣菱を愛したことは、人の知るところです。さて本題に戻ります。このように隆盛を極めた伊丹の酒が、灘にとって代わられたのは、いろいろ理由がありましょうが、荷駄で東海道を陸路酒を運んだ伊丹酒と、海上を船で運搬した灘目の酒の違いであったろうと思われます。(「灘の酒」 中尾進彦)


いざこととはん【いざ言問はん】
在原業平が歌の句。歌は、『名にしおはゞいざ言とはん都鳥、わが思ふ人はありや無しやと』と云ふのである。
いざこと問はん一升はいくらする  隅田川諸白の価-
酒盛りのいざこと問わん都鳥  隅田川諸白の酒盛り(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


うなぎ串焼き
もつ焼きや焼き鳥と同じく串物ですが、うなぎの各部分を串に刺して焼く、うなぎの串焼きも酒との相性が抜群です。うなぎの身の部分は、四角く一口大に切って短冊として串に刺したり、細長く切ったものをくねくねと捩らせながら串を打って、くりから焼きにしていただきますが、実はうなぎ串焼きの真骨頂は身の部分以外にあります。カブトとかエリなどと呼ばれる頭の部分は、魚のカブト蒸しなどがおいしいのと同じように、骨の周りについた肉のうまさが味わえる部分。バラと呼ばれる腹あたりの小骨付きの肉や、ヒレなども、それぞれ骨周りならではのおいしさで、小骨の存在なんて感じられないほどです。動物の肉だって肋骨についている肉はおいしいのですからね。そしてもちろん、うなぎの内臓も忘れてはなりません。ちょっとほろ苦い内臓をタレ焼きでいただくと、もうお酒が進んで進んで仕方がない。中野の「川二郎」や、その流れをくむ荻窪の「川勢」、そして新宿・思い出横丁にある「カブト」などでは「ひと通り」という注文の仕方をするのが一般的で、前述した各部位のすべてを千数百円で味わうことができます。大井町の「むら上」では、焼き上がったうなぎ串焼きが目の前のタレ入りのバットにどんどん出されます。この中から自分の好きなものを好きなだけ食べて、お勘定は食べたあとの串で清算する仕組み。他にも自由が丘の「ほさか」や、青物横丁の「丸富」などもうなぎの串焼きが楽しめる専門店です。(「ひとりのみ」 浜田信郎)


〇卯酒卅二
大鏡云、この殿兼通公には、後夜にめすばうすの御さかなには、只今ころしたるきじをぞまゐらせおけるに、もてまゐりあふべきならねば、よひよりぞまうけておかれける。」ばうすを、一本には卯酒と書り。後夜は、雲図抄裡書に、後夜自子之刻。至丑二刻半とあり。されば夜中より卯の時まで飲む酒の意と聞えたり。然れども、卯酒は夜中より飲む事にあらず。朗詠集私注に、卯時飲酒。謂之卯酒とある説是なり。白居易が詩に多き語なり。中州集に、宋九嘉が卯酒詩に、臘蟻初浮社甕蒭。宿酲正渇卯時投。酔郷几几陶陶裡。底(ナニ)事形骸底(ナニ)事ヲカヘン。東坡集。蘇軾が午窓座睡詩に、体適劇卯酒。李厚が注に、白楽天詩。未カ二卯時。神速効力倍センニ。これらを見てさとるべし。(「梅園日記」 北静廬)


酒のくにの仙人八氏の歌  杜甫(とほ)  吉川幸次郎(よしかわこうじろう)訳
賀知章(がちしうよう)の馬のこなしは 舟に乗るよう
目がまい 井戸に落ち 水中でねむる
汝陽(じよよう)王殿下 三斗やってから御所に出仕
行きあったこうじの車 たれるよだれ
酒泉(しゆせん)の守(かみ)に国がえできぬが ざんねん
左大臣 毎日の酒代十万円
川という川 すくいつくす大鯨
杯をくわえて聖人をしたい 賢人はいやだ
崔宗之(さいそうし) いきな美青年
杯ささげ 白いまなこで 青ぞらをにらむ
まぶしさ 風の前の 硬玉の木
蘇晋(そしん) 刺繍(ししゆう)の仏の前での長精進
酔っぱらっての毎度の趣味は かくれ座禅
李白(りはく) 一斗で百篇の詩
長安(ちようあん)のまちなか 居酒屋でねむる
天子が呼んでも舟に乗らず
やつがれは酒のくにの仙人とうそむく
張旭(ちようきよく) 三杯やって草書の極意を伝え
おえら方の前でぬぎすてるベレー まるだしのはげあたま
ふりあげた筆 紙におとせば 雲わき霞(かすみ)たなびく
焦遂(しようすい) 五斗でやっとしっかり
気焔のにじに 一座たじろぐ(「酒の詩集」 富士正晴編著)


火の端の胡座あぶなし酒の酔
「五月雨(さみだれ)や或(ある)夜ひそかに松の月」の句では、「或夜ひそかに」の部分に食指が動いたものであろうが、 走らねば買ふも気乗らじ鰹売(かつおうり) としたのでは、関西の口合(くちあい)に近い感じである。この句なら、初鰹を走りながら威勢よく売り歩く肴屋(さかなや)のすがたを詠んだ句として、あえて地口にしなくても、という感がする。しかし、これだけ「原作」を変えられれば、地口の腕前としてはたしかなものである。ここまで行けないものが多い。「井の端(はた)の桜あぶなし酒の酔い」を 火の端の胡座(あぐら)あぶなし酒の酔 としたのでは、ダジャレの域を出ない。(「日本語のしゃれ」 鈴木棠三)


私と灘 楠本憲吉(俳人)
この元山小学校を出て、私は灘中(現灘校)に入った。学校の誕生は昭和二年十月二十四日という比較的若い学校である。この学校の生誕の事情は、一般教育者曽我豊吉の熱意にこたえて、"灘の生一本"の名門、「白鶴」の嘉納治兵衛、「菊正宗」の嘉納治郎右衛門、「桜正宗」の山邑太左衛門らが、灘育英会という財団を結成し、一族の一人、元東京高師校長嘉納治五郎を顧問として発足したものである。そして学校の運営一切は、四十代の若い校長真田範衛(のりえ)に一任されたのであった。私は、この灘中学校へ第八回生として入学した。この学校を選んだ理由は、家から歩いて通学できる距離にあったのと、私の小学校の成績が丁度この学校に適うものであるということに基づいた。さて灘中に入学した私はカーキ色の制服、制帽に兵隊靴、それに巻脚絆(まききゃはん)という、いかにも軍国調丸出しの外見がいやで仕方がなかった。それにこの学校には、学業成績順にABCDとクラスわけするシビアなシステムがあった。AB組とCD組では教師の質が違うという制度すらとっていたのであった。私の同級生に遠藤周作がいた。彼の兄の故遠藤正介は六回生であったが、灘中始まって以来の秀才で、四年から一高を受け、難なくパスするという学校の誇りの生徒であった。それに引き換え、遠藤周作は…私同様、一年のときはA組であったが、二年以後、CD組に転落、お互いに痩(や)せて、眼鏡(めがね)をかけた、全く冴(さ)えない生徒であった。遠藤、楠憲の仇名(あだな)でよびあって五年間の屈辱の学生生活を送ったが、彼は奇行を以て鳴るユニークな少年であった。中学一年のとき、彼は私に、将来、必ず小説家になると宣言した。その意志の強さ、決定の早さに私は今なお一目置いているのである。人間の才能というのは意志の別名であって、才能は強固な意志のあとにフォローするものであることを、彼は身を以て私に教えてくれたのであった。私たちの国語の教師は清水実というひとで、真田初代校長急逝後、二代目の校長に就任し、灘中の今日ある礎を築いた名校長となったひとであった。先に述べたように、CD組の劣等生扱いされた私は、灘中に対して批判的な気持ちは今なお持つものだが、この清水実先生の薫育(くんいく)に対しては、いかに感謝しても感謝しすぎることはないと思っているのである。(「灘の酒博物館」 講談社編集)


どなん花酒
島一番の飲んべェと鳴り響く石底友吉(いしぞこともきち)は明治四十四年生まれの八十歳で、いまだに眼鏡なしで本を読み、健康にいいからとつねに裸足で歩く。さすがに最近は飲んでいないよといったが、若い頃から六〇度のどなん花酒一本槍で、それも必ずストレートで飲み、最高は五合じゃとこともなげにのたもうた。そして「水は絶対に入れちゃいかん」といい、「花酒を毎日飲んでいれば長生きできるよ」とつけ加えた。酒徒の鑑(かがみ)ともいうべきこの爺さまの言によれば、酒ぐせには牛酒(けんか酒)、馬酒(はしご酒)、豚酒(酔ったらすぐに寝る)の三種があり、爺さま自身は豚酒だそうである。それなら私も完全な豚酒派だ。(「うまいもの職人帖」 佐藤隆介)


近藤勇礼状
また、新撰組の近藤勇が小西新右衛門に宛てた礼状が遺されています。何と書いてあるかと言いますと、「尽忠報国のために五十両を受け取りました。幾久しく受納つかまつります。文久三年(一八六三年)十月、局長 近藤勇」とあります。その当時の五十両というのは、凄い金額ではないかと思うわけですけれど、酒造業をやりながらこういう応援もしていたことが分かります。これ以外にも、江戸時代には大名貸しなどもやっておりまして、そんな証文もいっぱい残っておりますし、後ほど紹介いたしますが、お酒造りの古文書なんかもあります。(「不易流行の革新経営を目指す!」 小西酒造株式会社代表取締役社長 小西新太郎)


たるひろひ[樽拾ひ](1)
酒屋醤油屋酢屋などの空樽集めにお得意をまわる小僧で御用聞きもする。
①樽拾ひ あやうい恋の じゃまをする (樽初
②樽拾ひ とある小陰で はごをしよい (同))
③樽拾ひ 目合(まあ)イを見ては 凧を上ゲ (同)
④樽拾ひ くすねはじめは 土にうめ (樽三)
⑤藪入りの 注進にくる 樽拾ひ (同)
⑥樽拾ひ さしもの乳母を 云ひまかし (同)
⑦髪結の 吸イ付て剃る 樽拾ひ (樽九)
⑧樽拾ひ やうじをつかひ 叱られる (樽一二)-
①裏口で店員と下女が密会しているのを見つけた。類句-いはふかと 下女をいたぶる 樽拾ひ(拾一一)。天に口なし 樽拾ひ ふれ歩き(樽一五)。色文を 拾つて御用 百になり(樽一〇)。何申しやせうと 百にぎり(樽一三)。 ②正月も休めない樽拾ひ、女共の突く追羽根の羽子が背に落ちた。 ③これも正月、いそがしい間合いを見て凧上げの子供らにまじるだけ。 ④くすねた銭は怖くて使えない、人が見たなら蛙になれよと空き地の隅に埋めて置く。類句-雪隠で ぶどう一トふさ 御用喰ひ(樽七)。 ⑤お前さんとこのがきがきれいな着物を着て来たよ、と藪入りを知らせて馳せて来る。 ⑥口かしこさではお乳母などに負けてはいけない ⑦髪結床へ行つても安く扱われる。類句-髪結床 御用 勧進帳を読み(拾一二)。 ⑧小僧のくせになまいきだとこづかれる。類句-あつい茶を のんでて御用 叱られる(樽一一)(「古川柳辞典」 根岸川柳)


厚味の過食(かしよく)
餅(もち)・酒・肉の三種、必ず過食(かしよく)すべからず。過食するときは滞(とどこお)りて疾(やまい)となる。此(こ)の三種、毒のある物にあらず、厚味あるもの故(ゆえ)少く食へば補益あり、多ければ疾(やまい)となる也(なり)。手島堵庵(てしまとあん)の歌に、  百薬の長といはるゝ其(そ)の酒を毒になるほどのむは身しらず 『養生訓』-
この三種の食品は、毒成分を含んでいるものではないが、なにせ栄養価の高いものだけに、程よく摂取すれば、健康を保つのに役立ち、多ければ疾の元となることは必定。厚味の過食は控えなければならない。酒などは、とりわけ、自分の飲める適量を知って、決して無理をしないことが、酒を「百毒の長」にしないコツと言えそうだ。(「料理名言辞典」 平野雅章編)


酒きさゝ [倭名鈔]酒蟻、文選注、浮蟻(師説佐加岐散々)酒蟻在上、汎汎然如萍也
(増)さけさかな 酒肴、蘇轍詩に時節饋醪肉とありさかなハ蘭肴ともいふ蘭肴陳綺席といふ(「増補俚言集覧」 村田了阿編輯)


泡盛
古酒に加え、県内全47蔵の泡盛がすべて揃う『うりずん』では、呑み比べも楽しい。メジャー系では、宮古島の「菊之露」は、香ばしさが立つタイプ。那覇の「久米仙」は、あっさりすっきり、よりインパクトのある出会いを求めるなら、本島・池原酒造所の「白百合」を。土の香りとでも表現したい独特の風味に好みは分かれるが、その分、はまるとクセになる。わたくしが贔屓にしているのは、宮古島は池間酒造の「ニコニコ太郎」。笑顔で呑んでほしいという願いが込められたと聞いたが、言霊の力なのか、「ニコニコ太郎!」と注文するたびに、なんとなくいい気分になれる泡盛である。やわらかさのなかに甘い風味が潜んだ味わいにもまた、ニコニコと。呑み方は水割りやロックが主流だが、酸味が強い沖縄産の柑橘「シークヮーサー」の果汁を合わせると、1杯目に喉を潤すのにもちょうどいい。オリオンビールとどちらにしようか、いつも迷う。沖縄とて肌寒い日もあるが、そんなときにはお湯割りもいい。数ある銘柄のなかでもっとも映えるのは、那覇にある宮里酒造の「春雨」だ。しっとりと唇にふれる質感のある味わいが加えたお湯の熱によりさらにふくらみ、たまらない快感を覚える。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子) うりずんは那覇市安里388-5にある居酒屋です。


酒宴と約束
文(ぶん)公は狩猟官(王侯の狩猟場の管理者)と猟の約束をした。その日は酒宴があって楽しかったし天気は雨だった。文公が出かけようとするので、おそばのものが、「今日は酒宴が楽しいしそれに天気も雨ですのに、公はどちらにお出向きになるのですか?」というと、文公は、「わしは狩猟官と約束してある。楽しくったって、一応は約束のところに行って出会わねば」と答え、自分で出かけていって、約束を取り消して来た。こうしてこその魏の強さなのである。(魏 上)(「古代寓話文学集 戦国策篇」 西順蔵訳)


大田南畝
江戸文学の先達平賀源内が成果のあがらぬ事業に疲れて文筆も衰えた今、南畝はおのずから文芸界の中心におし上げられた形だった。そして安永六年には、当時の江戸俳壇屈指の巨匠大島蓼太(りようた)が、家集『蓼太句集』に漢文序の執筆を乞うた時に、酒一陶に添えてつぎの狂歌一首を呈したという(『奴凧(第十巻所収)』)。 高き名のひゞきは四方にわき出て赤良々々と子どもまで知る 江戸生え抜きの若い直参武士という親しみもあろうが、乞われるままに天性の才気あふれる頓知狂歌でやんやと言わせるのが市民の人気を集めて、いわゆる児童走卒までも二十九歳の彼の名を知り、狂歌を記憶したのであろう。狂歌ばかりでなく、安永四年からは戯作を始め、洒落本を書いて『甲駅新話』(第七巻所収)をはじめ好評の作が多い。但し、誨淫の書とされる洒落本には、四方の狂名さえ用いず、その時々の仮号で書いている。このあたり理知的な幕臣秀才気質(かたぎ)をうかがわせる。同じ幕臣でも彼に追随して戯作を始めた朱楽菅江(あけらかんこう)は菅江の名で洒落本を書き、それが却って狂歌と戯作の一体感を強調した觀がある。狂歌は現代文学の一翼だという主張は、安永八年八月の高田馬場看月宴からもうかがわれる。十三夜から十七夜までの連続の月見は『四方のあか』中の「月見の説」で述べているが、早稲田大学図書館蔵の写本『月露草』によってさらに精しく知り得た。五夜に来た「通計六十六人」の中には、狂歌や詩を作る幕臣が多く、朱楽菅江などは「口上」の文に「御揃なされて御出の程偏に願上たてまつる」と主催者のような書き方をしている。木室卯雲は十五夜に来て、平秩東作(へづつとうさく)や赤良と発句を作り、俳人では蓼太が(飯島)吐月ら七人と来て「高田八景」の句をよんでいる。東作の「万葉体狂歌」の長歌に「大あぐらかきてぞ騒ぐ、大はだをぬぎてぞ呼ばふ」とあって馬場の茶見世にふさわしいぞんざいな会合だけに、酒の肴は僅かに「雪華菜(きらず)もみ大根のみ」という赤良の狂歌もある。赤良には陳奮翰の名で狂詩三首がある中の一首を引いて置こう。 人ハ道フ曹司谷 風車ヲ酒樽ニ挟メ 相携ヘテ屋舗(ヤシキ)者 酔ひ臥ス高田ノ原 疾風怒濤というに近い若さが赤良にあるし、声に応じて集まる人々にも新興の時代が感じられるのである。(「大田南畝全集第一巻解説」 濱田義一郎)


白子ポン酢
シラコの下ごしらえ ①ボウルに水を入れ、シラコをほぐしながら洗う。 ②キッチンペーパーに取り出し、上からさらにペーパーで軽く押さえる。 ③食べやすい大きさに切る。 ④シラコポン酢の場合、沸騰した湯に酒を加え、さっと湯通しする。 ⑤シラコをつぶさないように、すぐに氷水にとり、冷ます。
とろけるやわらかさが美味 白子ポン酢
作り方 ①ゆずはせん切りにする。 ②下ごしらえをしたシラコを器に盛り、ゆずのせん切りをたっぷり添える。 ③ポン酢を周りに注ぐ。
材料 シラコ…400g ゆず…適宜 ポン酢…大さじ4
このつまみに、この一本 米鶴(よねつママ) 盗み吟醸・五右衛門/山形 日本酒度…+4 酸度…1.3 価格…3620円(1.8ℓ) ●蔵元の門外不出の酒をこっそりと呑んだことに由来した、キレと清涼感のある酒。ふくよかな香りと素直なやわらかさが特徴。複雑な白子の味わいを、この酒がよみとき、豊かなものに変えてくれる。(「今夜は我が家が酒処 新・日本酒の愉しみ」 編集人・堀部泰憲)


水車精米
『(日本山海名産)図絵』がかかれた寛政一一年ごろにおいても、伊丹では精米工程はまだ臼つきに依存していた。酛は一人一日に四臼(一臼は約三斗三升五合)、掛米は一人一日五臼で、上酒の場合はとくに精白度を高めるために四臼としている。また碓屋の主要な道具は杵であり、その木質は柔らかいものがよく、尾張の五葉松の木を最良とした。木口がくぼむと米を損じるから、古杵になるとこれをとりかえた。また家々によって相違はあるが、杵のはけなげは四寸ぐらい、棹(さお)は七寸ぐらいがよく、一つ仕舞で、から臼一七、八ほどとしている。このように臼つきによる精米では、一日一軒で六石前後の精米能力しかなく、しかもその精白度はせいぜい八分つきにすぎなかった。それに対して、水車による臼一本は一日四斗の精白が可能であり、一つの水車に四〇本もの臼が備えられていたとすれば、水車ば一ヵ所で一日一六石の精米が可能であった。しかも精白度の点では、ふつうで一割づき前後、幕末期には一割五分づきから二割五分づきが可能となった。このように水車精米は、足踏み精米にくらべて、精白しうる米量と精白度において、数段のすぐれた技術改良であった。(「酒造りの歴史」 柚木学)


質的管理
宣伝部といえば、誰もがクリエーターのことを直ちに頭に浮かべる。確かにクリエーターは中心的な存在には違いないが、宣伝部に必要な人間はそれだけではない。社会の変化は激しく、ウイスキーやビールなどの嗜好傾向も、まるでその象徴のようにかなり変わってきている。といって、宣伝広告がその社会の変化を追うようでは、話題にもならずに葬り去られる運命にある。そのため、稲見部長は、常に「〇・三歩先を見詰めて考えろ」と指示しているし、佐治社長は「宣伝広告には新しい価値を生み出す力がある」という画期的とも受けとれる考えを披瀝したのだ。でも、クリエーターがそれに対応できるような作品を、自由な環境を保持しながら作り出すということは、宣伝部としてのあらかじめ決められた年間予算があり、なおかつ媒体別の予算も決められていることから、けっして容易ではない。そこでクローズアップされてきたのが管理部門の充実だ。そこにサントリーはいちはやく目をつけていた。和田を宣伝部に異動させたのは、明らかにそうした今日を見越していたためといえる。すでに丸三年を宣伝部ですごしているだけに、和田もこんな抱負を持つまでに成長している。「いずれやらなければならないのは、質的な管理ですね。いろいろな角度から見なければならないだけに、作品の効果測定は難しいですが、ハード的なデータは残っているので、それを積み上げて過去、現在の社会情勢もふまえて検討を加え、一つの尺度を作り出すわけです。要するにクリエーティブの領域にまで足を踏み入れ、こういうコンセプトでこんな展開をすれば、この程度の効果はのぞめる、という宣伝モデルを作るわけです。さらに、優れた作品の場合、当初よりこれだけ予算をふやして露出度をませば、売り上げも確実にここまでアップできるといった、内容の予測管理にまで、ぜひ手を伸ばしたいですね」いまは、製品別の宣伝広告活動に、媒体別をクロスさせて年間、月間の推移を検討し、その実績をマーケティング室に報告するにとどまっているらしい。「しかし、もはや質的管理への流れにあるんです。宣伝広告がそれぞれの商品の売り上げに、どう結びついているのかを見極めるのが重要なんです。でも、尺度は一つでなく、それぞれの商品で異なりますし、それにたとえ年間予算のわく内とはいえ、クリエーターを締めつけないで従来通り自由にやってもらわねばならぬという要素もからんできますのでね」(「サントリー宣伝部」 塩沢茂)


ヒシ
菱。四斗樽の鏡をぬき、其中に蝋燭立の如きものを作り、それに松明を立て燃すものなり。此樽の底に鐶をもつけ、又は縄をも輪にして出し、碇綱を結びつけて碇を入れ捨て置き通る。跡舟のもの来りて之を見、其筋を疑ひ無く通行す。
ミヅ
水。飲水。桶底に赤土を敷きて天水を貯ふれば、何時迄も水の損することなし。四斗樽に至極の熱湯を八分目入れ、其上二分目に冷水を湛へつめ蓋を堅くして持ち、下よりだぼそろにて取る時は、此湯三四日を経るもさめず、これ阿州椿泊にて鯨をとる舟の用意なり。(「水上語彙」 幸田露伴)


ガンブク酒
貞享の初年迄は榎樹門戸の間に散在し其家屋の構造も芦簀、菰にて作りたるもの多く入口は概ね芦簾、筵を掛け今の荒木町の入口を広小路と称し一箇の土橋ありて其側にガンブク酒と称し酒嚢の洗汁を売る者ありたり是れ実に水戸の銀座と称する泉町二百年前の光景なり。(「水戸」 伊藤利男)


膵臓病-膵炎・糖尿病
アルコールは、膵臓に対しても破壊的な作用を持っています。それは膵炎と糖尿病です。膵炎のなかの半数はアルコールに関連しています。膵炎は、膵臓から分泌される消化液によって膵臓自体が侵され溶けていく病気です。急性膵炎は発熱、嘔吐、激しい腹痛などの症状が出現する重い病気です。膵臓は、血糖をコントロールするインシュリンというホルモンを分泌しています。アルコール依存症の中には、三〇%に血糖値の異常が存在します。その半数は、アルコールによる血糖値の異常で残りの半数が糖尿病です。アルコールによる糖尿病は、膵炎の繰り返しによって膵臓が破壊されるために、膵臓からのインシュリンの分泌が出来なくなるために発生します。アルコールによる糖尿病は、肝硬変と同じくらいに寿命を縮めます。少量のお酒は、全身の循環をよくすることはよく知られています。しかし多量で長期の飲酒は、心臓や循環系に大きな障害をもたらします。動脈硬化の促進、動脈硬化による狭心症、心筋梗塞、高血圧、不整脈などたくさんあります。動脈硬化による脳の血管障害である脳梗塞、脳出血なども重大です。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二)


文化の酒と文明の酒
「それで思い出したけど、この間亡くなった麻井宇介さんの言葉に、ワインは文化の酒でビールや日本酒は文明の酒だというのがあるんだ」「何のこっちゃ」Yが薩摩揚げを手掴みで口に入れながら呟く。「ワインは原料のブドウ畑の良し悪しでその出来が左右されるよな。だから、農業生産品の延長線上にあって、大量生産技術に馴染まないものがあるから文化の酒、ビールのほうは大麦の産地から遠く離れての工場立地も可能だろ。大量生産の技術も生まれて工業製品としての性質が強く、技術主導型ということで文明の酒、ということらしいんだ」「じゃ、日本酒は何で文明の酒なんだ?」この時期としては珍しい暑さにTシャツ一枚になってお酒を飲んでいたOが質問してくる。「この由利正宗の三石仕込みたいに、大量生産に馴染まない美味しいお酒だっていっぱいあるんじゃないか」「まっ、そうだけど、今、日本で売られている大半のお酒は大手メーカーの大量生産酒だから、ビールと同じ文明のお酒ということになるんだろうな」「何だか民主主義の論理みたいだな」、「多数決ってやつさ。多ければそっちが勝ちってやつ。」「日本酒の僅か一割しかない本物の醸造酒が文化の酒で、後は文明の酒ってことだな」、「某大手メーカーのお偉いさんがいう、製法を合理化し産業として生き残るためのお酒が文明の酒ってことか」といった声がそこここから上がる。「はっきりいえば、それって液化仕込みのお酒だろ」と小生。「我々からすれば手抜きの酒ってことだよな」とY。-
「大手を代表とする文明の酒と、我々が飲んで止まない美味しいお酒を代表とする文化の酒をはっきり別物とするべきだよ」島根県の「開春・亀五郎」を箱から取り出し、「これいいね」と顔を崩しながらIがいう。(「ツウになるための日本酒毒本」 高瀬斉)


16一〇貧困台(ひんこうだい)   一一王維坐(わういざ)
連立(つれだ)つて屋台(やたい)に臨(のぼ)る
一三散散(さん/"\)酔(ゑ)つて何(なん)ぞ回(かへ)らん
一四小言(こごと) 客衆(きやくしゆ)起(おこ)り
一五若(わか)い者(もの) 呼(よ)べども来(き)たらず
一〇 貧乏たらしい下等な娼家。 一一 大いざ。「大いざこざ」の略。大もめ。 一二 遊女屋をいう。 一三 ひどく酔っぱらって、今夜はもう帰らない。 一四 「起り」は「怒り」。遊女のサービスが悪かったのか、客が小言をいって怒る。 一五 若い者(遊女屋の雑用係)を呼ぶが、来もしない。(「通詩選笑知」 大田南畝 日野龍夫校注)


生酒之事      生酒の造り方
一、寒三十日の内に造る也。能米を一限白くして、造り様大体寒造り同前。別に口伝なし。但し成程辛口に造るへし。足強き物也。
〇寒の三〇日の間に造るものである。玄米をひときわ白くなるまで精白し、寒造りとだいたい同じ造り方である。別に口伝はない。しかし、なるべく辛口になるよう造ること。日持ちがよいものである。
一、挙前三十日以上、四十日より内なるへし。挙前延候ヘハ、足弱き物也。
〇上槽は、掛留から三〇日以上、四〇日以内に行なう。 上槽が遅れると、日持ちがわるくなる。
一、泥の引様之事、大体同前。一番泥より弐番泥迄ハ古桶に入置なり。
〇おり引き方法はだいたい前に同じである。一番おりから二番おりを引くまでは古い桶に入れておく。
一、三番泥、五月節中の頃引て、新桶に入へし。
〇三番おりは五月前半の中ころに引き、それから新しい桶に入れる。
一、四番泥、秋の彼岸の頃引て右の新桶に入置候へハ、何ヶ年にても替る事無之候。
〇四番おりは秋の彼岸ころに引き、右の新桶に入れておけば、酒は何年でも変質することがない。(「童蒙酒造記」 吉田元翻刻・現代語訳・注記・解題)


「Kさん」(東京)
「Kさんはどうしたの?しばらく見ていないけど」「体の調子がよくなくて、ずっと休んでいるよ」「やはり、そうか。大丈夫かね?」「まだ、よく分からない。正直に言えば」「そうか、心配だね」「そうかなんだよ。皆が心配しているんだ」 以上は東京の小さな焼き鳥屋で、私と従業員との間で交わされた会話である。大した話ではないように思われるかもしれないが、私はこのやり取りに居酒屋のもっとも重要な機能を見出せると思っている。すなわち、客であろうと店主や従業員であろうと、一個人として大切にされているところが再確認できるという機能である。まず、状況を説明しよう。「Kさん」とは、その焼き鳥屋の店長を長年務めてきた五十代半ばの男である。地元のチェーン店居酒屋とは言え、その店舗自体は約半世紀、その町に根付いている。店内外にはまったく飾り気がなく、あえて言えばやや汚い店である。つまり、誰が見ても通常のチェーン店居酒屋とは思えない。また、「Kさん」も、常連客も、店に対する所有意識(=「ここはオレの店だぜ!」)が非常に強く、客にとって「Kさん」は店主同様の存在である。-
「Kさん」の貫禄が客たちに微妙な安堵(あんど)感を与えていたようにも思われる。荒波が寄せてこようと、必ず向こう岸まで無事に送ってくれる船頭のような存在だった。だからKさんが突然、店に姿を現さなくなったとき、常連客は彼のことを心配すると同時に、自分自身の生活のバランスが急に揺るがされてしまったような不安に駆られた-それまで安心して乗っていた渡し船がいきなり激しく揺れはじめたのに、頼りにしていた船頭の姿はどこにもない。その後、「Kさん」の代わりに別の従業員が焼き台に立つことになった。だが、いくら串を上手に焼き、そして同じ酒を出してくれても、以前ほどおいしく感じられない。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)


こもかぶり
杉の割りばし、ぐいのみ、一合マスなど、小さな木工品に杉製品が多いのも、杉の木の良香のためだ。その中で、最も特徴的な製品は酒樽(だる)。かつて能代市などには何百という樽丸業者がいて、良質の酒樽を作っていた。今はほうろうびきのタンクに取って代わられてしまったが、秋田杉の心材だけを使った、ぜいたくな酒の醸造樽が、県内の造り酒屋にごろごろしていたものだ。今も「こもかぶり」には人気があるが、最近は「木の香が鼻について」と敬遠する若者が増えている。そこで、酒造会社も苦労している。まず納品の二日前に樽一杯にぬるま湯を入れ、翌日取り替え、納品直前に酒を詰める。これで杉の強烈な芳香はだいぶ薄らぎ、同時に樽の板の継ぎ目をなくすという効果もある。会社によってやり方は少しずつ違うようだが、鏡割りなどには、少なくても三日以上前に注文しなければならない。なお、鏡割り用には、フタを木のくぎで止めて割りやすいよう細工がしてあるので、ちゃんと言わないと、本番でなかなか割れない、てなことになるので、ご用心を。(「あきた雑学ノート」 読売新聞秋田支局編)


梁園吟  梁園の歌  (李太白)
(五)
玉盤ノ楊梅 君ガ為ニ設クト
呉塩 花の如ク皓(しろ)キコト白雪。
塩ヲ持チ酒ヲ把(と)ツテ但ダ之ヲ飲ミ
夷斉ヲ学ンデ高潔ヲ事トスル莫(なか)ラン。

玉(ぎよく)の盤(はち)の楊梅(やまもも)は別誂(べつあつら)へ
呉塩は花の如く皓(しろ)きこと雪の如し。
塩を抓み酒を把(と)つて ひたすら飲まう
伯夷・叔斉を学んで高潔な まねなどすまい。』
〇玉盤 玉(ぎよく)で造つた平鉢。 〇楊梅 ヤマモモ。 〇君ガ為ニ設ク」 是は奴子が言ふ詞で「お客様に楊梅を特別に用意しました」と云ふほどのことか。現今でも主として酒を飲ます店の下物は簡単なツマミ物程度である。此店の下物は塩が普通であるらしい。 〇呉塩 今の江蘇省の海岸で製した塩。 〇夷斉 殷代の人伯夷と叔斉の兄弟のこと。彼らは周の武王が殷の紂王を伐たんとするを諌めて聴かれず、周の粟を食まずと、首陽山に隠れて餓死した。(「中華飲酒詩選」 青木正児著)


飲んですぐ横になると二日酔いにならない
そこで大事なのが、お酒を飲んだらとにかくゴロリと横になることなのだ。たとえ眠らなくても、二、三時間体を横たえるだけで、肝臓への血液はぐっとよくなり、アルコールの分解は進むことになる。ちなみに、アルコールの分解を促進させるためには、肝臓のある体の右側を下にして横になると効果的だ。さらに、足の指をグー・パーのように閉じたり開いたりしてやると、より血行もスムーズになる。飲んでいる最中から、意識的にときどき足の指を動かしてやるのもいいだろう。(「二日酔いの特効薬」のウソ、ホント。」 中山健児監修)


871検閲
「お向かいの奥さんは本当に旦那様と仲がいいのね」と、夕食の後で細君が羨ましそうに亭主に言った。「どうして?」「だって、いつも旦那様が会社から戻ると、まず玄関で必ず接吻しているわ」「あれはね」と、亭主は事もなげに答えた。「奴が飲んできたかどうかを調べているんだよ」(「ユーモア辞典」 秋田實編)


江戸の高級酒
江戸時代の文政(ぶんせい)年間(一八一八~三〇)頃に、富裕な人の間で飲まれた。「九年酒」という銘柄が代表格で、「大和屋又(やまとやまた)商店」が醸造した九年古酒は最高級で、一升が銀十匁(八百文~千文)もしたことが『江戸買物独(ひとり)案内』に記されている。こうなると、江戸の庶民が高級酒として飲んだ「瀧水(たきみず)」は、一升で三百文だから安い酒に分類されてしまう。鎌倉河岸の豊島屋のように、居酒を安く飲ませる店があった一方で、銘酒をそろえて居酒をさせる、少々気取った居酒屋もあった。『絵本江戸土産(みやげ)』には「両国橋の納涼」と題して両国橋西詰の広小路の様子が描かれており、店内に菰被(こもかぶ)りの酒樽を積んだ酒屋がある。入口に「やき肴」の札が下がっているので請酒屋(うけざかや)ではなく居酒屋とわかる。店前の行灯看板には「生諸白(きもろはく) 伊丹(いたみ)」の文字が見え、当時の高級ブランドの伊丹産の生諸白を売り物にしている。生諸白は、最高級の清酒を意味した。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資)


「彼のため」を脱却するまで  S・カーター
<コメント>シビル・カーターの言葉を引用すると、「私はぎりぎりまで追いつめられました。しなくてはならないと思ったことは、すべてしました。最高の妻だと思っていました」。シビルは、夫ビリーが吐くと後始末をし、転べば起こしてやり、嘘をついてまでかばってやった。その間ずっと、自分や子供たちのことを、ビリーは気づかっていないと思っていた。治療のためにロングビーチ海軍病院へ入るまで、シビルはアルコール症を病気とは考えず、ビリーにさえその気があれば、酒はやめられると思っていた。シビル・カーターは、その赤裸々な話のなかで、治療を受けている間に、彼女の世界が完全にひっくり返され、どんなに間違ったことをしてきたかを思い知ったと言っている。
▽ビリー・カーターは、アルコール症である。元大統領ジミー・カーターの弟で、スコット・ハウジング・システムズのマーケティング部門の副社長である。妻シビルと、末の二人の子供と一緒にジョージア州に住んでいる。-
私は、「配達婦」とでも申しましょうか。ロングビーチに着いて、彼を車から降ろし、すぐに帰ろうとしました。「帰ってはいけません」。ジョー・パーシ先生が言います。「私は帰ります。酔っぱらいは夫の方です。彼を治療して下さい。私は子供の面倒を見なくてはなりませんので帰ります。用事が山ほどあるのです」「いけません」「どうしてここにいなければいけないのですか」「あなたは病気なのですよ」-
「帰ります」。私は最後に言いました。「あなたも一緒に回復しようという気持ちがないならば、ビリーもおそらくここに長くいないでしょう」と医者は言いました。-
しかし、ついにわかったのです。私は私自身の権利を持った人間であり、ビリーのドアマットになるために地上に存在するのではないということ。このことを、みんなは私に気づかせようとしていたのです。そのとおり、私はビリーのドアマットでした。本当に苦しんだ結果、このことがわかったのです。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー サイマル・アカデミー翻訳科訳)


酒色に溺れる教養人
(弘前藩3代藩主・津軽)信義は、酒が入ると人格が変わった。些細(ささい)な粗相(そそう)に立腹してしばしば家臣らを手討ちにした。幼くして母と死別し、杖とも柱とも頼む守役を失った孤独を酒に紛らわしたものだが、剛腹の臣の直言には耳を傾けた。正室富子(とみこ)との間に子はなかったが、側妾十八人に三十九人の子供を生ませた。しかし耽溺(たんでき)はおさまらない。弟為盛(ためもり)の妻を城中に軟禁して帰宅を許さず、悲憤のあまりに為盛が子を殺して切腹する事件が起きた。正保五年(一六四八)、信義の目に余る乱行は、重臣らによる弟信英(のぶふさ)(後の初代黒石藩主)を後嗣に画策する事件に発展した(正保の変)。これは弟信隆(のぶたか)の説得で未然に防がれた。一方で信義は幕府の課役は忠実に果たし、二度の朝鮮通信使の接待役もこなしている。国元では新田開発、十三湊口(とさみなとぐち)の切り替え工事、尾太(おっぷ)鉱山(銀・銅)の開発などに力を尽し、中興の英主四代信政(のぶまさ)(信義の長男)治政五十年の基盤をつくった。江戸で中院通茂(なかのいんみちしげ)に師事し、和歌詠みに秀でて『愚詠和歌集』を残し、書も能くした。明暦元年(一六五五)十一月二十五日、江戸藩邸で愛妾お与曽(よそ)の方(かた)(久祥院)に見守られて死去。在職二十五年、行年三十七歳。毒殺説も流れたが病死だった。 春の花 秋の紅葉もいかでかは 終(つい)のあらしに あわではつべき の辞世を詠み、「子らのうち仏心ある者は出家させよ」と遺言した。法号は桂光院殿雪峯宗瑞大居士。墓は初め江戸上野の津梁院に建てられ、のち弘前の法恩寺に移された。御側頭別浦政次(べつうらまさつぐ)ら四人の殉死者の石塔が両脇に並んで建てられている。
津軽信義(一六一九~一六五五)陸奥弘前藩十万石津軽家第三代当主。第二代当主信枚(のぶひら)の長子として生まれ、寛永八年(一六三一)襲封。二度の御家騒動を厳罰によって律し、藩制の確立を図る。津軽新田の開拓や尾太銅山などの開鉱などの治績を挙げた。(「意外に知らないあの江戸大名の晩年と最後」 『歴史読本』編集部編)


一〇万本
江戸時代後半になって、美濃高田で製造されていた貧乏徳利が年間一〇万本であったという。これは酒を飲む消費者が自分用の徳利をそれぞれ持ち、これをもって酒屋へ酒を買いにいったためだが、この五合入り、一升入りの徳利の需要は、江戸市中におけるような大量の日常の酒消費が普及して、はじめて生じたものである。(「酒と社交」 熊倉功夫)


酒は人をつくった。人は酒をつくった。
<出典>フランス、ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo 一八〇二-八二)『瓢箪記(ひょうたんき)』-(山本博)(「食の名言辞典」 平野雅章外編著)


右手(めて)
これはすでに『醒酔笑』巻五に、
酒半ばに亭主出で「御返しをば右手(めて)より候はん」といふ。「ともかくも」とて飯器に受くる時「それは左ではをりないか」「なか/\。こなたからは左、そなたからは右なり。亭主よりの指図なれば、客は仰せのまゝに受くる」と。(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)


ぐびぐび
①のどを鳴らして、勢いよく酒などを飲む様子。「朝から酒ばかりぐびぐび飲んでおりますると…」(三遊亭円朝『業平文治漂流奇談』)「ぐびぐび」は、古く「くびくび」とも言った。歌舞伎の『独道中五十三駅(ひとりたびごじゆうさんつぎ)』には「くびくびと浴びるほど、のんだ」とある。なお、茨城県の方言には一気に飲む様子を「くびくび」と言うところがある。 ②のどを動かす様子。「痩(や)せてしまった夜鷹(よたか)やほととぎすなどが、…残念そうに咽喉(のど)をぐびぐびさせている」(宮沢賢治『双子の星』)❖類義語「ぐびりぐびり」「ごくごく」「ぐいぐい」「がぶがぶ」 すべて①の類義語。「ぐびぐび」と「ぐびりぐびり」と「ごくごく」は、のどを鳴らす点で共通するが、「ぐびぐび」は飲み方のテンポが速いのに対して、「ぐびりぐびり」は味を楽しみながらゆっくり飲み、「ごくごく」は勢いよく飲み込む点に特色がある。「ぐいぐい」は速くて力強い飲み方、「がぶがぶ」は大口を開けて大量に飲むところに特徴がある。❖参考 「グビッ酎」(メルシャン㈱)という商品名の果汁入りのチューハイがある。(間宮厚司)
ぐびり
のどを鳴らして味わいながら酒などをゆっくりと飲む様子。「盃をあげて、ちょっと中の様子を見て、ぐびり飲んだ」(国木田独歩『恋を恋する人』) ❖類義語「ぐびりぐびり」 「ぐびり」が一口だけ飲む様子を表すのに対して、「ぐびりぐびり」は何口も続けてたくさん飲む様子を表す。なお、方言には「ぐびらぐびら」「ぐぴらぐぴら」「ぐびりぐびり」(山形県)「くびりくびり」(茨城県)などの言い方がある。(間宮厚司)
❖三遊亭円朝 幕末から明治時代の落語家。話芸と創作力にすぐれ、人情噺や怪談噺を創作、口演。落語界中興の祖。作品『牡丹灯籠』『鰍沢』など。(一八三九 一九〇〇) ❖独道中五十三駅 江戸時代の歌舞伎。鶴屋南北作。文政一〇年(一八二七)初演。 ❖宮沢賢治 →P.140(詩人・童話作家。岩手県の花巻で、農業指導のかたわら詩や童話を創作。大正一三年、詩集『春と修羅』と童話『注文の多い料理店』を自費出版。作品『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』など。(一八九六 一九三三)) ❖国木田独歩 小説家・詩人。明治二七年、国民新聞記者として日清戦争に従軍。その後、浪漫主義的な詩や小説を発表。作品『叙情詩』(共著詩集)、『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』など。(一八七一 一九〇八)(「擬音語・擬態語辞典」 山口仲美編)


かんせぬ人はなかりけり
〇夏の振舞い(饗応)に、燗をした酒と冷(ひや)酒とを出し、「いずれなりとも」と酌をする者が言った。席上にきちんとすわっていた長老が言われるには、「今時はあたりまえのこととして、酒を冷(ひや)でのむ人がいる。昔は大名小名おしなべて、燗をしてのまぬ者はなかったものだ」と、尤(もつと)もらしく言いながら酌を受けられたのを、下座から、「なにか、書物に出ていますか」と尋ねたら、「そうじゃとも、静(しずか)の舞いに『臣も君も此舞いを、かんせぬ(感ぜぬ と 燗せぬ)人はなかりけり』」。(「醒酔笑 江戸小説集」 小高敏郎訳)


モッズ・ルック
九月半ばに大京町の前田外科分院(現・林外科)へ行くと、野坂氏がいた。前夜、六本木で喧嘩をし、手が腫れて、骨折のおそれありという。「三島由紀夫と対談をした。向うはモッズ・ルックできた。かーっとなって、なにを喋ったかわからない」ぶつん、ぶつん、と切るように喋る。「三島由紀夫といえば、仰ぎ見ていた存在です。それがモッズ・ルックでこられちゃたまらない」雑談のすえ、「『エロ事師たち』が、芥川賞はおろか、直木賞の候補にもならなかったのはおかしいんじゃないですか」私が言うと、氏は、「私も、そう思っております」とユーモラスに答えた。怪我と、三島由紀夫の因果関係は、あとで、「日本読書新聞」にのった氏の<日録>を読んでわかった 三島由紀夫氏と対談。対談後、自己厭悪ママにかられて乱酔、ハイティーン二人を相手に喧嘩をする(中略)三時間余り待たされ、診察室へ通れば、医師、わが手を冷ややかにながめ「あ、これはいかれとる」という。外科医の大阪弁はなんとなく冷酷な印象なり…  「エロ事師たち」によって、というわけではないが-とはいえ関係がないわけでもない-精神的にじわじわと追いつめられ、左門町から撤退せざるをえなくなった値上げされた家賃を払いきれないという現実的な理由もあった。(「私説東京繁盛記」 小林信彦 荒木経惟)


醒人独り味を知る
戒縦酒に「事の是非は惟(たゞ)醒人のみ能(よ)く之を知る。味の美悪も亦惟(たゞ)醒人のみ能く之を知る。伊尹曰く。味の精微なるは口言ふこと能はずと。口且つ言ふ能はず、豈(あに)呼呶酗酒(こどきやうしゆ)の人能く味を知る者有らんや。往往拇戦(ぼせん)の徒を見るに、佳菜を啖(くら)ふこと木屑を啖(くら)ふが如く、心焉(ここ)に存(あ)らず。所謂(いわゆる)唯(ただ)酒是れ務む。焉(なん)ぞ其の余を知らんや。而して治味の道地を払ふ。万已(や)むを得ざれば正席の菜の味を嘗むる先だち(些しく飲み)、撤席に後れて酒の能(のう)を逞ふせば、其れ両(ふたつ)ながら可なるに庶(ちか)からんか」と。「微妙な味は唯醒人にしか解らない、酔つぱらつて喚き立てたり、拳に夢中になつて、佳菜を木屑でも食ふやうに、啖(くら)ふ輩(やから)に味の解る筈はない」とは至極尤もであるが。「已むなくば主要料理を味ふ前に些(すこ)しく飲み、席を撤してから大いに飲んだら、食欲倶(とも)に可いではないか」との提案は至極穏健で、合理的らしいが、果たして左派の同意を得るか何うか、之は頗る疑はしい。酒を嗜む人に、肴を前に盃を封じて飲むなとは、聊か気が強い、いつそ始めから終りまで、酒抜きなれば反つて話も理解り易い、人情の機微は理屈だけでは律しきれない。それに随園としては珍しくも妥協的な考へ方で、頗る不徹底である。(「飲食雑記」 山田政平)


東西南北
諸友と、京城の南山亭に飲みて、席上大木書記生と賦す。
琵琶をとれ。我れ新体の、歌なりぬ。かの益荒男に、酒はすすめよ。(「東西南北」 与謝野寛)


風軒偶記
(水戸藩では)濁酒ヲ用ユ。故ニ濁酒屋(ニゴリザカヤ)処々ニアリ。コレニ清酒ヲ和シタルヲ、四分一ト呼ブ。予ガ父ナド友ト飲ム。必コノ物ナリ。肴ハ鰹ノキラズスシナド上品ナリ。鵜殿平太衛門[割註]留守頭。」冷濁酒(ヒヤニゴリサケ)肴ハラツキヤウノ酢ヅケナドヲ用ユ。常曰、陣中ニテ温酒ハ得ガタシ。故ニ冷酒可ナリ。(「風軒偶記」 小宮山風軒昌秀)


飲酒という自殺行為
お酒は人を憂鬱にさせる化学物質であり、強力な毒です。人間の心と体を蝕(むしば)み五感を麻痺させるだけでなく、生き物の本能を鈍らせ、生きることの楽しみを奪います。自殺願望のもと、とも言えるでしょう。そうです、
飲酒とはゆっくりと苦しみながら進行する自殺行為なのです!
お酒の量が増えれば増えるほど、体に対する影響は大きくなります。「普通のドリンカーが飲んだらこうなるが、アルコール依存者が飲めばああなる」というものではありません。お酒の本質はすでに理解できたとと思います。ですから、「どうしてもお酒の罠にはまる人とそうでない人がいるか」という議論で堂々巡りの言い訳探しをするのはやめましょう。飲酒の原因はお酒の本質そのものにあるのです。飲酒をやめることの本当の意味は、「恐ろしい病気から突然開放される」ということです。「普通に飲む」という楽しみを奪われたと信じて渇望感を感じることではありません。でも「『普通のドリンカー』と『アルコール依存者』の間に先天的な違いはない。病気の進行具合の問題なのだ」という事実を受け入れるためには、まず「普通のドリンカー」も同じ病気にかかっていると認めなくてはなりません。ところが、世間には、「飲酒は楽しいこと/心の支え、だから人はお酒を飲む」という先入観があります。また、成人の九十パーセントがお酒を飲み、そのほとんどが自分で飲酒をコントロールできると思っています。そこで、食事時にワインをグラス一杯たしなむ程度の、普通のドリンカーにこう言ったとしましょう。「あなたはワインが好きからではなく、お酒という薬物にコントロールされているから飲んでいるのですよ」。でも、本人はそれを認めようとはしないでしょう。自分の飲酒問題を認めていない人とこの問題を話し合っても時間の無駄です。それは私の経験から言えることです。あなたのように、「自分に問題があるのでは?」と考え、その答えを探している人にだけ、私は手を差し伸べられるのです。私がお願いすることは、心を開いて、事実を見つめて、常識を使う。ただそれだけです。(「禁酒セラピー」 アレン・カー 坂本章子訳)


日本酒 格安パック酒で肝硬変かアルコール中毒へ一直線
このようなお酒(三増酒)では、誰にも笑顔が出てこない。飲むほどにストレスがたまり、つい深酒になってしまう。安いからといって、いつも買っていると肝硬変かアルコール中毒へ一直線だ。量と値段とを考えつつ、余計な添加物の入っていない日本酒の中から自分の舌に合うものを選ぶのが良い。酔い心地もいいはずである。もうひとつ気をつけなければならないのが、容器である。手軽な紙パックやプラスチック製容器のものもあるが、おいしく飲もうと思うなら、これらは問題外だ。内部をコーティングしている素材が溶け出しているし、酸素が透過するので、酸化による酒の劣化が避けられない。うまい酒はビンに入っていなければならない。防腐剤の使用は三〇年も前に禁止されている。これについては心配ない。-
日本酒=安い=酔っ払い、というような図式は過去のものにしたい。これからは、おいしい日本酒を適量だけ味わいながら飲むようにしよう。格安のものに比べれば多少高いかもしれないが、それ以上に精神衛生上も、肝臓にも体にもよい。
日本酒の選び方 ①紙パックなどは選ばず、ビンものを選ぶようにする。 ②原材料表示をよく見て、添加物の入っていないものを選ぶ。 ③一升二〇〇〇円以上の酒を選ぶ。(「食べるな 危険!」 日本子孫寄金) 2002年の出版物です。


 5画 (禮) 18画 レイ・ライ れいぎ・うやまう
(解説)形成。もとの字は禮に作り、音符は豊(れい)。豊は醴(れい)のもとの字で、醴は[説文]十四下に「酒の一宿にして孰(じゆく)(熟)せるものなり」とあり、あまざけの類をいう。儀礼のときには醴酒を用いることが多く、醴酒を使用して行う儀礼を禮といい、「れいぎ、いや(礼儀)、うやまう」の意味に用いる。(「常用字解」 白川静)


日本酒(に)

年号 上等酒  中等酒   並等酒
一九四七(昭22)年   五五〇円  五〇〇円 
一九五〇(昭25)年  一一七五円 九五〇円  六四五円 
 一九五一(昭26)年  九八〇円 七七五円  四八五円 
 一九五二(昭27)年  一〇九〇円 八七五円  五六五円 
 一九五三(昭28)年  九八五円 七八五円  四八五円 
 一九五四(昭29)年  一〇七五円 八三五円  五〇五円 
 一九五八(昭33)年  一〇七五円 八三五円  四九〇円 
 一九六〇(昭35)年  一〇九五円 八三五円
*六五〇円 
四九〇円 
 一九六一(昭36)年)  一一二五円 八五五円
*六七〇円 
五一〇円 
 一九六二(昭37)年  八九五円 六一〇円  四六〇円 
 一九六三(昭38)年  九四〇円 六四五円  四八五円 
 一九六五(昭40)年  九九〇円 七一〇円  五一〇円 
 一九六七(昭42)年  一〇五〇円 七五〇円 五五〇円 
 一九六八(昭43)年  一一六〇円 八三〇円  六〇〇円 
 一九七〇(昭45)年  一二五〇円 八九〇円  六六〇円 
 一九七三(昭48)年  一三五〇円 九九〇円  七五〇円 
 一九七四(昭49)年  一五七〇円 一一八〇円  九三〇円 
 一九七五(昭50)年  一六八〇円 一二八〇円   一〇二〇円
 一九七六(昭51)年  一七九五円 一三二七円  一〇二〇円 
 一九七七(昭52)年  一九〇〇円 一四三〇円  一一〇〇円 
 一九七八(昭53)年  二〇一〇円 一四五五円  一一〇〇円 
 一九八〇(昭55)年  二二〇〇円 一六〇〇円  一二〇〇円 
 一九八一(昭56)年  二三九〇円 一六六〇円   一二二〇円
 一九八三(昭58)年)  二五五〇円 一八〇〇円  一三五〇円 
 一九八四(昭59)年  二七三〇円 一八七〇円  一三八〇円 
 一九八七(昭62)年  二七三〇円 一八七〇円  一三八〇円 
 一九八八(昭63)年  二七三〇円 一八七〇円  一三八〇円 
 一九八九(平1)年  二〇五〇円 一七五〇円  一四五〇円 
 一九九〇(平2)年  二二〇〇円 一八七〇円  一五三〇円 
 一九九一(平3)年  二二〇〇円 一八七〇円  一五三〇円 
 一九九二(平4)年  二一〇〇円 一七八〇円  一五六〇円 
 一九九三(平5)年  二一〇〇円 一七八〇円   一五六〇円
 一九九四(平6)年(三月)  二二二〇円  一八八〇円 一六四〇円 
 (五月)  二二三〇円 一八九〇円  一六五〇円 


(注)全国を1.8ℓ当たりの小売標準価格で、特定地加算額は含んでいない。*は準一級。1989年4月、酒造法改正による級別が廃止されたが、1992年3月31日まで経過措置として1級、2級の従量税が適用された。
資料提供 国税庁酒税課、西宮酒造㈱(「戦後値段史年表」 週刊朝日編)

踊突歌
モトに更に蒸米、麹、水を加へてモロミを造り、之を櫂で突くのを踊突歌といふ。それに川越地方では番櫂(ばんかい)、ころ突きがある。番櫂は、「伊勢の本社は八棟づくり」返し「御台所はこけらぶき」等、内宮外宮の歌が多い。ころ突きは、「揃た揃ひました、一ころ二ころ三ころ突きが揃た」、返し「なかに二三本もよく揃た」。岡山ではモロミ櫂入れ歌と云ひ、「魚はヨー瀬戸から、酒は玉島でヤレ、うんとつけこむヨー帆前舟」。モロミ仕込歌とも云ふ土地がある。岩手では、「さアよんせ/\/\,揃たナーハイ揃たとや、若イ衆が揃たエ、秋のナーハイ出穂よりや、なほ揃た」と歌ふ。ころ突きに対して、「三ころ歌」が越後にある。「揃ふた揃へましたノーヤ、一ころ二ころ三ころつきそろた、中に二三本もノーヤよくそろた」。(「日本民謡辞典 酒造りの歌」 小寺融吉)


誹風柳多留の酒句
唐土に 無イ夢を見て 神酒を上  柳水、石斧
生酔に 沢山かけて しかられる  旭、露蝶
ゑびす講 上戸も下戸も う(い(万))こけへず  安元・一一・
智を持ツて 生酔に成ル 大三十日  安元・信1ウ一三 ×
あの衆へ 酒でもと取ル ほうし針  安二・満1ウ 一九 なひき社すれ/\
下戸の礼 炭けしつぼを ふちまける
足音に てうしをかくす けちな酒(「誹風柳多留」 山澤英雄校訂)


萍(うきくさ)に のせてゆられむ 酔心(よひごころ)     夏目成美(なつめ せいび)
夏が来ると、池沼、水田などの水面を覆うほど盛んに繁茂する水草である。「能因歌枕」には「うきくさとは、あだに浮きたる事にたとふ」と出ている。この萍(うきくさ)は喩(たとえ)ではなくて、池に生える浮草である。自分の乗る舟にまつわり、浮草に乗せられ、ともに揺られることによって、いっそう酒に酔う心持が深まってくる、その楽しさを味わう。     (句藻手ならひ)(「日本の古典 古典詞華集」 山本健吉)


食物年表(日本)(1)
縄文時代 B・C2000 〇山ブドウ酒(中部地方)の試飲 〇雑穀酒をヒエ、アワなどからつくる
弥生時代 B・C400 〇神酒、現れる(記紀)
弥生時代 0 〇天甜酒(あまのたむさけ)を醸す 〇酒宴をはじめる
大和時代 300 〇神社のサカビト現れる
大和時代 350 〇紀(紀伊)、讃岐に酒造りが伝わる 〇針間(播磨)に井戸を掘り、酒殿をつくる 〇清酒で手足を洗う 〇高志深江(越後辺)に酒部と酒人を設置
大和時代 450 ・河内で旨酒を販売 ・大和朝廷の下級官人に「酒人」称あり
大和時代 646 ・農民の魚酒を禁ず
奈良時代 717 ・美濃国の醴泉で醴酒をつくる
奈良時代 730 ・諸国正税帳に清酒、古酒、酒粕の名称あり。その他、浄酒、濁酒、新酒、粉酒、白酒、辛酒あり
奈良時代 758 ・民間の飲酒を禁ずる
奈良時代 765 ・酒の濃度高まる ・奈良漬けがつくられる
奈良時代 780 ・水割り酒の販売(「日本分類年表」 桑原忠親監修)


生ぬるい日本酒
そのご、まもなく、東京で有名なお茶屋のひとつ「イセゲンコ」で芸者手踊りを見物する機会に恵まれた。芸者手踊りはあの宗教的な雅楽や能の舞いのいわば世俗的な対置物となっている。主催者はドイツ語が堪能で愛想のよい丹羽(にわ)式部官であった。芸者たちの身のこなしはいとも軽やかで、扇のめまぐるしい動き、目のさめるような色とりどりの長い振袖の美しさが、舞踊にいっそう魅力を与えた。小松さんという美しい芸者はぼんやりしたロウソクの光に照らされながらわたしたちに見事な舞を披露した。見物中に陶器のおちょこに注がれた生ぬるい日本酒は、わたしたちのたのしみをあまり盛りあげてくれなかった。それに畳の上に座るという慣れない動作もわたしたちヨーロッパ人には不愉快であった。それにもかかわらずこの宴会に独特の魅力がなかったわけではなかった。そのご、しばしば繰り返され、とりわけ光陽館(こうようかん)クラブで、日本人の友人の世話で何度も開催されたこうした宴会に出たほか、わたしたちは再三、新富座見物に出かける機会に恵まれた。もちろん宮中の人々は、新富座での観劇などを極力避けていた。日本では俳優は民衆の中でも社会的地位は最低であり、宮中の人人がしばしば劇場に出かけることは不謹慎だとされた。しかし外国人であるわたしたちは、こうした日本人固有の偏見に与(くみ)する必要はなかった。(「ドイツ貴族の明治宮廷記」 O・v・モール 金森誠也訳)


昭和初期・全国食事習俗の記録(1)
1北海道斜里郡斜里町 採集者 渡辺侃 採集期日 昭和十七年三月 話者 斜里町上斜里 関口峯二-
68(村、組、一族間などの共同食事、酒盛はどんな場合に行われますか特定の料理が作られますか。年にどれくらい催されますか。)
組の共同食事は、新年会・豊年祈願祭(春)・収穫感謝祭(秋)などの際に行われる。一族間などの共同食事・酒盛などは一般的に行われていない。共同食事の際の料理も一定していない。
69(酒盛の時にはとくに定まった食法がありますか。)
酒盛りの座席はあるいは長老を上座(日本間ならば床柱を背にした位置)にし、それに次いで両側に年齢・部落における身分・地位・役職に応じ順次坐る。盃は上席から始めて下席に廻す。酌は未婚婦人の場合が多いがその他の婦人の場合もあり、男子が酌をする場合も少なくない。
〇食べ物はまず酒の肴になるもの(例えばなます・刺身・魚・野菜など)が先に出され、酒宴最中に吸物が出され、宴の終わるころ飯または飯に代わるものが出される。
〇廻される食べものは各自随意に取る。一定の人が分配するとは決まっていない。
〇料理はだいたい特定の食器に盛られるようである。
70(酒盛の後でさらにアト祝イとかウチ祝イというようなことがありますか。それを何といいますか。)
酒盛の後でさらにアト祝イのようなものが行われることもある。あまり一般的ではない。したがって別段の呼称もないが、ノミナオシという人もある。
〇残りものは近隣へ分配するか、手伝人たちが食べていくようである。
71(酒盛に参加する人はどういう人ですか。酒盛の性質によって違いますか。)
酒盛に参加する人は酒盛の性質によって違うが、男ばかり、女ばかりという場合もあるものの、それは酒盛りの種類によって集まる人がそのようになっただけで、とくに女を禁じ、男を禁じるということは少ない(山の神の祭だけは男だけである)
72(共同食事、酒盛の費用は誰が負担しますか。)
共同食事・酒盛の費用は各自の負担が多い。村・組で負担する場合もあり、物を皆が持ち寄る場合もある。後者は少数の組員が酒盛または共同食事する場合に多い。(「日本の食文化-昭和初期・全国食事習俗の記録-」 成城大学民俗学研究所)


海棠 かいだう 花海棠 睡花 ねむれる花
海棠にはハマカイドウ(垂糸海棠)とミカイドウ(西府海棠)の二種があって、後者は果実がなり、植物学上ではこれが正しい。俳句に詠(よ)まれるのは前者ハナカイドウで、主として庭木に植えられ、その花はすこぶる優艶で、雨に濡れたものは女性の艶姿にたとえられる。異名睡花は、楊貴妃の故事にもとづく。-
海棠や旅籠の名さへ元酒屋  水原秋桜子-
 せり 根白草 根芹 田芹 芹摘む
いたるところの水田、湿地に自生し、また食用のため栽培する多年草で、数条の長い匍枝を出して繁殖する。早春新苗を出し、茎・葉ともに特殊の香気があり、そのわか葉、わかい根茎を摘んで食用とする。ビタミンABCを含み栄養価も高い。春の七草の一つ。-
やはらかき芹の畦踏み酒買ひに  沢木欣一-(「合本俳句歳時記新版」 角川書店編)


莫迦踊
平吉は、円顔の、頭の少し禿げた、眼尻に小皺のよつてゐる、何処かへうきんな所のある男で、誰にでも腰が低い。道楽は飲む一方で、酒の上はどちらかと云ふと、まづいい方である。唯、酔ふと、必、莫迦踊をする癖があるが、之は当人に云はせると、昔、浜町の豊田の女将が、巫女舞を習つた時分に稽古をしたので、その頃は、新橋でも芳町でも、お神楽が大流行だつたと云ふ事である。しかし、踊は勿論、当人が味噌を上げる程のものではない。悪く云へば、出たらめで、善く云へば喜撰でも踊られるより、嫌味がないと云ふ丈である。尤も之は、当人も心得てゐると見えて、しらふの時には、お神楽のおの字も口へ出した事はない。「山村さん、何かお出しなさいな」などゝ、すゝめられても、冗談に紛らせて逃げてしまふ、それでゐて、少しお神酒がまはると、すぐに手拭をかぶつて、口で笛と太鼓の調子を一つにとりながら、腰を据ゑて、肩を揺(ゆす)つて、塩吹面舞(ひよつとこまひ)と云ふのをやりたがる。さうして、一度踊り出したら、何時までも図にのつて、踊つてゐる。はたで三味線を弾いてゐやうが、謡をうたつてゐやうが、そんな事にはかまはない。所が、その酒が祟つて、卒中のやうに倒れたなり、気の遠くなつてしまつた事が、二度ばかりある。一度は町内の洗湯で、上り湯を使ひながら、セメントの流しの上へ倒れた。その時は腰を打つただけで、十分とたゝない内に気がついたが、二度目に自家の蔵の中で仆れた時には、医者を呼んで、やつと正気にかへして貰ふまで、彼是三十分ばかりも手間どつた。平吉はその度に、医者から酒を禁じられるが、殊勝らしく、赤い顔をしずにゐるのはほんのその当座だけで、何時でも「一合位は」からだん/\枡数がふえて、半月とたゝない中に、いつの間にか又元の杢阿弥になつてしまふ。それでも、当人は平気なもので「矢張飲まずにゐますと、反つて体にいけませんやうで」などゝ勝手な事を云つてすましてゐる。-
平吉が町内のお花見の船の中で、お囃子の連中にひよつとこの面を借りて、舷(ふなばた)へ上つたのも、矢張何時もの一杯機嫌でやつたのである。それから踊つてゐる内に、船の中へころげ落ちて、死んだ事は、前に書いている。(「ひよつとこ」 芥川龍之介)


鼎かなえ
外科へ行く 鼎は犬に とりまかれ  七三37
【語釈】〇鼎=金属製の三本脚の鉢。仁和寺←の僧が酒席でこれをかぶって踊り、やんやの喝采を受けたが、抜けなくなった話が「徒然草」五十三段にある。
【観賞】青くなって手を引かれて外科医へ行くとき、異様な姿を見つけた犬どもが、集まって吠えたてただろうという想像。
【類句】
とんだ事 鼎の中で 酔がさめ  筥四13-(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)


始めての日本酒
酒を飲み始めたのが昭和六、七年辺りで、その頃、吉野屋といふ、新橋駅の近くのおでん屋によく行った。井伏鱒二氏がその「厄除詩集」でそこの主人に、春さん蛸のぶつ切りをくれえと言つて、われら万障くりあはせて独り酒をのむことになつてゐるその吉野屋である。最初に連れて行つて下さつたのは河上徹太郎氏であつて、もつと正確には、その時ここで始めて日本酒といふものを飲んだ。吉野家でその頃出してゐたのは何といふ酒だつたか、もう忘れたが、二十歳になつて飲み出したのだから、それが白鷹だらうと、菊正だらうと、直ぐに旨くなつたりする筈がなくて、日本酒といふのは水のやうなものを一晩中、或はまだ外が明るいうちから飲み続けて、真夜中過ぎると気持が悪くなるものだと思つていた。大体、青春などといふものが本当にあるのかどうか、医学上の問題を離れれば全く疑しいと言はなければならない。子供は無邪気だと考へたりするのと同じことである。併し兎に角、その青春に相当する期間は酒と付き合つているうちに過ぎたやうに思ふ。それでもう一度、吉野屋の話に戻る.。何でもかでも飲んでゐれば酒の味は解らなくても眠くなることはなくて、頭も冴えてゐるのか、興奮してゐるのか見分けが付かない状態になるのが面白くて、吉野家にも散々通つた。(「酒と議論の明け暮れ」 吉田健一)


造酒司條
造酒司
正一人、ル二シレ。醴。謂。醴甜酒。ヲ一。佑一人。令史一人。酒部六十人。ルレスル⏋ヲ二行「左:酉 右:場-土」ニ一使部十二人。直丁一人。酒戸。([令義解 職員令])


物議を醸した文壇酒徒番附
私が趣味の雑誌「酒」の編集者になったのは昭和三十年(一九五五)の四月でした。当時の東京は、まだ焼野原も多く誰もが貧しい時代でしたが、文壇の先生方は、夜な夜な銀座、新宿、池袋など飲み歩いておられたものです。とくに新宿の東口にあった屋台に毛が生えたような小さな飲み屋は文士と出版社の社員との溜り場でした。この処場をめぐって、やくざ、暴力団、てきやが入り乱れて争っていたものです。私は尾崎士郎、火野葦平、檀一雄、江戸川乱歩といった錚々たる先生方のお伴をしてコップ酒を呷っていましたが、なんとまあ、文士というものは、よくお酒を飲むものだ…と内々呆れ返ってもいました。そして生まれたのが昭和三十一年(一九五六)新年号の「文壇酒徒番附」でした。東の横綱・青野季吉、西の横綱・井伏鱒二、取締に久保田万太郎、吉井勇という名も見えます。大関・尾崎士郎、内田百閒、関脇・吉田健一、火野葦平とあり、壇一雄は小結でした。この番附が出たとたんに、あちこちから異議が出て、どういう基準で選んだのか、あいつが俺より上とは怪しからんなどなど収拾がつかないほどでした。そこで基準を明示しました。 〇酒、ビール、洋酒を問わず、その量、風格、盃歴等を勘案し、過去の戦績、将来性をも参酌して編成する。 〇関ヶ原を境として、出身地、本籍地等により、東西に分つ。石川、富山、福井の北陸三県は便宜上西方とする。 というものです。三十二年(一九五七)は休みとして三十三年新年号以降は各出版社、新聞社などの作家担当の記者諸氏を審議委員におねがいしての大評定となりました。(「物議を醸した文壇酒徒番附」 佐々木久子)


二升の祝い酒
もともと人のいい(部下に騙され、かなりの借金を肩代わりするような…)呑ん兵衛の父に、刑事畑の仕事は向いてなかったのかもしれない。「わしらが若い頃は、親友が栄転したおりなど、二升の祝い酒を二人差し向かいで昼間からペロリ呑みほしたものよ。それが当直の日で、夕方出署したら賭博の現行犯が挙げられておって、のう。翌朝、書類送致の必要があって、そのためとうとう徹夜したことがあった。一升酒くろうても、おつとめはちゃんと果たしたものぞ」晩酌のときなど、猪吉のむかし話は、そんなふうに酒がらみのたわいないものになった。話を聞いている三十二、三の息子は、勤め先の高校の気の合う同僚と意味もなく遅くまで飲みまわり、翌日はきまって宿酔で欠勤、というだらしなさだったから、父の自慢話は嫌味にきこえた。(「手錠のある風景」 嶋岡晨)


後撰夷曲集(4)
こしほそありの浦にて
いたむとも さいつさゝれよ 盃を こしほそよりも ありの浦迄  よみ人しらず
忍恋
我恋は 青み上戸の のみさかり 色にも出じ とりもみださず  貞徳
寄酒恋
本歌 情あらば とくりと閨に ねもしなん 肴物とは 千話をしつゝも  正盛
付ざしは 薬種とぞ 申べき 恋の病の かろくなりつゝ  知義(「後撰夷曲集」)


青山量太郎へ
「豊田(天功)儀、生牛乳好み候故、遣わしおき候所、このたび伜(小太郎)の話聞き候えば、酒はやはり多く用い候由の所、何ほど牛乳用い候ても歩行も致さず、机にのみ寄り居り候ては、必らず俗にいうよいよい病をひき出し申し候えば、宅に居り候て弘道館まで通い候よう申すべく候。遠くより歩行候えば、道に費(つい)え候ようには候えども、一所に居り候てもよいよい病などひき出し候えば死候故、遠くより通い候よりは事は出来申すまじく候。豊田ぐらいの者もまたとは得難く候えば、歩行致さざるは甚だ宜(よろ)しからざることに候。この雲丹海胆到来故二箱遣わし申候。一つは会沢(正志斎)へ伝え申すべく候。酒の節口取(くちとり)には然るべく、会沢は養生家故、呑(の)みすぎ申すまじき所、量太郎(青山杏所)は安心致さず候。何分多く用いず、養生のみ用い候ようにと存じ候。 青山量太郎へ」(「覚書幕末の水戸藩」 山川菊栄) 9代水戸藩主徳川斉昭から、臣下の青山杏所宛の手紙です。


市販酒審査
主催者(酒類総合研究所)側は以前、「酒造家の技術向上のため」というだけを主旨として打出していた。ところが現在では、「本酒造年度生産清酒を全国的に調査研究することにより、製造技術と酒質の品質向上に資するとともに、国民の清酒に対する認識を高めることを目的とします」と変った。-
「国民の清酒に対する認識を高める…」などというのは、いささかとってつけた感じがしないでもないが、独立法人となってから少しは気を使ってくれているのだろうか。もし気を使っているのであれば、国民にとっては最も身近な一般の市販酒の審査をこれまでの小規模だったものから、この際大々的にやったらどうなのか。蔵元から出品させるのではなく、主催者側が抜き打ち的に市場から購入した酒(ラベルの製造年月は同一のもの)を審査するのである。もっとも「予算がない」という名目で出品料を受付けている当局だけに「市販酒を買ってまで審査する予算はない」といいかねないが…。それにしても国民の多くがめったに飲めない酒を審査することで、それがどれほど「国民の清酒に対する認識を高める」ことになるかは大いに疑問である。ただ、蔵元の技術研修のために特別の酒を審査したければ、一般公開なんぞしないで内部でひっそりとやればいいのではないか。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)


暖気樽(だきだる)
杉材製の樽型の容器で中に適当な温度の湯を詰めて酒母の加温に使用する用具である.大きさは酒母タンクの容量によって異なるが、普通18ℓ容で上部に把手(とって)と湯を詰め出しする呑口(のみくち)がある.呑口の数は1つが多いが2つのものもある.加温に際して温度がゆるやかに伝わり、温度の保持も良い利点はあるが、長期間使用するといわゆる暖気疲れ(雑菌の汚染や異臭の発生)を起こしやすい.ステンレスやアルマイトなど金属製のものもあるが、温度が急激に伝導するので暖気操作を加減する必要がある.(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)


精米歩合
やっぱり「精米歩合(せいまいぶあい)」だわね。とくに五〇パーセントを超えたら、五一パーセント、五二パーセントと一パーセント刻みで酒が変わってくるのがわかるというほどのものだでね。たとえばさ、六〇パーセントぐらいの精米歩合にして長期低温発酵(はっこう)で、純米酒らしくない純米酒を造ろうといても、いくら「酵母(こうぼ)」を変えようが、「もろみ」の温度をちっとばかり高くしようが駄目だ。温度を高くして無理に米を溶かすと、今度は「雑味(ざつみ)」が出て、呑(の)みにくい酒になってしまうやっぱり吟醸酒(ぎんじようしゆ)並みに五〇パーセントの精米でないと、おらたちが考えているような純米酒はできないんだわ。その精米にしても、米粒の温度が上がり過ぎないように、時間をかけて低温でゆっくりと摺(す)ってやるというのが基本だんが、あんまりゆっくりすぎると、米粒にはへこんだところがあるすけ、そこに「糠(ぬか)」がついてしまって、なかなか落ちないという問題が出て来るわけさ。そこで、おらとこの蔵では、精米の初めのほうだけは、ちょっと早めに摺ってやるという工夫もしているんですて。(「杜氏千年の知恵」 高浜春男)


ひとだま【人魂】-
②芝居の人魂。襤褸(ぼろ)に浸した焼酎を燃して陰火を作り、ドロン/\と云ふ太鼓の音で宙を飛ぶのである。-
役者の人魂焼酎臭く飛び  焼酎火ゆえ-
人魂の残り飲んでる楽屋者  焼酎の残り-
まうねんのひ【妄念の火】
人魂の事。-
まう念の火に酔つてゐる楽屋番  芝居の人魂は焼酎(「川柳大辞典」 大曲駒村)


【第一九三回 平成三年一一月一五日】
*太冠(山梨) *会場 中野「大将」
甲府市若松町の大沢酒造さんは私が設計した蔵の中でひときわ印象深い蔵だ。理由は二つある。問い合わせは電話で来た。『日本の酒づくり』を読んで、「この方に設計していただこうと決心して電話を差し上げました」これがおつきあいの第一声である。本を書いた本人としてこんな嬉しいことはない。喜んで出かけた。場所は甲府市のほぼ中央。商店街、官庁街、それに続く住宅地である。市内の最高住宅地といっていい。ここに戦災後に建てた蔵があった。これを都市計画に合わせて改造しようというのだ。いくらなんでもロケーションが良すぎる。そこで酒蔵の敷地にマンションをオプションとしてはめ込んだ。叱られた。大沢美弘社長は、「私は酒屋をやり続ける決心をしたから設計をお願いしたんです」といった。改めて設計した酒蔵は、都市計画にふさわしいと表彰を受けた。そこの息子の大沢慶暢君は、大学では工学部で航空力学をやっていた。いったんはその関連に勤めたが、家に戻って酒屋をやることになった。それをお祝いしよう。酒友で漫画家の高瀬斉さんが中野の「大将」と親しい。お祝いする蔵は甲府だから、少しでも西寄りの方がいいだろうと「大将」でお祝いの例会を開いた(「「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎)


「酔」を基語とする熟語
酔暈(スイクン) 目がくらむほど酒に酔う。[龍因「沙溝二詠」]
酔翁(スイオウ) 酒に飢(かつ)え、酔いたがる老人[鄭谷「倦客詩」]
酔憶(スイオク) 酒に酔っての思い。[劉兼「偶聞官吏挙請云々詩」]
酔歌(スイカ) 酒機嫌で詩歌を口ずさむ。[王維「送孟六帰襄陽詩」]
酔渇(スイカツ) 酒酔いでのどが渇くこと。[徐夤「茘枝詩」](「日本の酒文化総合辞典」 荻生待也)


837グッド・バイ
彼女 「まあ、私と結婚したいと仰有るなら、第一、煙草とお酒をおやめにならなけりゃ、…それにクラブの出入りも…」
彼氏「ふん、ふん」
彼女「そればかりじゃないわ。貴方御自身だって、これはやめなければならないと、考え附きなさることがあるでしょう?」
彼氏「そりゃ、ないこともない」
彼女「どんなこと?」
彼氏「貴女と結婚しようなんて、考えをさ!」(「ユーモア辞典」 秋田實編)


左が利(き)く
(A)酒に強いこと (B)器用なこと
これは、江戸時代の金鉱の鉱夫たちが使っていた言葉からきたことわざだといわれている。鉱夫は左手に鑿(のみ)、右手に槌(つち)を持って働いていた。左手は鑿を持つ手=飲み手ということで、「左利き」というと酒飲みのこと、「左が利く」は酒に強いという意味で、Aが正解。ちなみに「左が上がる」は酒量が増えること、「左が過ぎる」は飲み過ぎることだ。(「どちらが正しい?ことわざ2000」 井口樹生監修)


間酒、寒前酒、寒酒、ボダイ
間酒(あいしゆ)は米の増方(ましかた)、むかしは新酒同前に三斗増なれども、いつの比例(ころ)よりか一「酉胎」(もと)の酘(そえ)、五升増、中の味(み)一斗増、仕廻(しまい)の増壱斗五升増たるを佳方(かほう)とす。寒前、寒酒、共に是に准(じゆん)ずべし。間酒(あいしゆ)はもと入より四十余日、寒前は七十余日、寒酒(かんしゆ)八九十日にして酒をあくるなり。尤年の寒暖によりて増減駈引(かけひき)日数(かず)の考あること専用(せんよう)なりとぞ。但し昔は新(しん)酒の前にボダイ三〇という製(せい)ありてこれを新酒とも云(いい)たり。今に山家(やまか)三一は此製而已(のみ)なり。大坂などにてもむかしは上酒は賤民(せんみん)の飲物にあらず。たまたま嗜(たしな)むものは、其家にかのボダイ酒を醸(あも)せしことにありしを、今治政二百年に及んで纔(わずか)其日限(ひかぎり)に暮す者とても飽(あく)まで飲楽(いんらく)して陋巷(ろうこう)に手を撃(う)ち萬歳(ばんせい)を唱(となう)。今其時にあいぬる有難さを、おもわずんばあるべからず。
三〇 ボダイ 奈良興福寺の菩提山寺でつくられた:諸白酒が、当時としてもっとも良質の酒として「菩提」と呼ばれた。元禄年間の著作『本朝食鑑』は奈良の酒を最上としている。それが百年後の『山海名産図会』の時代には、山家づくりの田舎酒となったのであり、そのちがいは、澱粉の糖化作用が進みすぎると麹の発酵がおさえられ、風味が悪くなるボダイの製法を、米と麹を三回に分けて順次添加し発酵を抑制しないように改めたことにあった。 三一 山家 丹波何鹿郡の小藩に山家があるが、ここでは摂津の平坦部からみた山間部の意と思われる。(「日本山海名産図会」 木村孔恭 千葉徳爾註解説)


お茶屋・桔梗家
京の祇園は富永町縄手東入ルに「桔梗家」という小さいが由緒あるお茶屋がある。高名な料理屋の隣りで、人ひとりが通るのがやっとの狭い「一軒路地(ろうじ)」の奥深くに隠れているので、それと知らない旅人は前を通っても気がつくまい。そもそもは島原にあった最も古い鑑札を持つお茶屋で、明治十七年に発行された「京都よろず人気番付」には、島原の欄にトップ五軒の一つとして選ばれている。「蛤御門の変」で、長州藩・久坂玄瑞を匿(かくま)ったのは他でもない、この桔梗家だった。-
数人の客なら、席のしつらい、舞妓を呼ぶ段取り、仕出しの手配で一応ことは済むが、大宴会ともなれば然るべき料理屋の手配が必要になる。ここでもお茶屋のおかあさんの存在がものをいう。「お茶屋の紹介といったら、先方の御料理屋さんの信用・扱い・出るものが違います。何回か行って、もうそろそろいいだろうとお客さんがじかに予約した場合は、全然扱いが違うのが京都です」と犬塚依里は笑いながら打ち明けた。しかし、その目は笑っていなかった。さらに、お母さんは宿の手配をする。観光の手配をする。一般には縦覧謝絶の特別の寺社の門が、おかあさんの一声で開かれる。むろん、それは日頃からのおかあさんの"伏せ込み"の賜物である。都をどりを観たいと客がいえば面子をかけて最上席の切符を手配してみせる。おかあさんはまた、おみやげの手配もする。観光ガイドもつとめる。常照皇寺の桜が観たい、大津の桜が観たい、と客がいえば、舞妓も酒も料理もきっちりととのえて現地へ案内し、見事にツアーガイドの大役を果たす。それだけの教養と見識を絶えず磨いているのである。(「うまいもの職人帖」 佐藤隆介)


▲道灌山 一名城山(しろやま)といふ。
太田道灌、江戸城にありし頃、出張の砦の址なりともいふ。但し関道観坊といへるものゝ宅地とも、この辺都(すべ)て薬草多く採薬の輩常にこゝに来る、広々たる原野にして草木繁茂し、月雪の眺め絶景なり、殊に秋の夜、虫の声を賞し、都下の遊人酒肴を携へ、こゝに一夜の興を催ふすもの多し。(「江都近郊名勝一覧」 松亭金水)


好色王と弁舌の士
張儀(ちようぎ)は楚(そ)にいっていて貧乏だったので、従僕が腹を立てて帰ってしまおうとした。張儀は、「おまえが、ぼろ着物がいやでどうしても帰りたいというならば、わしがおまえのために楚王にお目にかかってからにしろ」といった。当時、楚では、南后(なんこう)(楚の懐王の皇后)と鄭袖(ていしゆう)(鄭の生れの舞姫のことで、それが呼び名となっている寵姫)が権勢があったのである。さて張子(張儀)は楚王にお目にかかったが、楚王は不機嫌であった。張子は言った。「わたくしは、あなたのお役には立ちませんので、北にいって晋(しん)の君にお目にかかろうとおもいます」「そうか」「あなたは、何か晋から欲しいものがございませんか?」「楚には、黄金も真珠も象牙・犀角も出る。わしは晋からなにもほしいものはない」「あなたは美女はお好みではないようでございますな」「どういう意味だ?」「あちらの鄭や周の女(楚は南、晋は北の国で、張儀は晋への途中、鄭・周をとおる)は、おしろいをつけ眉墨をして街角に立つと、知らずに見るものには神女かと見えます」「楚は未開辺疆の国で、そんなに美しい中華の女には会ったことがない。会えれば、わしとて美人がきらいというわけではないのだ」といって、もとでとして真珠や玉を与えた。南后と鄭袖はそれを聞いて大恐慌で、南后は人を張子のところにやり、「わたくしは、将軍が晋国においきになると聞きました。ちょうど、金が千斤(きん)ございますので、飼馬の料として、お手もとにおとどけいたします」といい、鄭袖も金を五百斤とどけた。張子が楚王に暇乞いして、「天下は関所関所が閉じられて通行不自由です。いつお目にかかれるかもわかりません。なにとぞ盃を頂戴いたしとうございます」というと、王は、「よろしい」といって、盃をあげた。張子は飲んでいる途中で再拝して、「ここには他人がいるわけではございません。あなたのご寵愛の方をお呼びになって盃をあげて下さいますように」と申し出たところ、王は、「よろしい」といって、そこで南后と鄭袖を呼んで盃をあげる。張子は再拝して、「わたしはあなたに大へん悪いことをいたしました」と申し出る。王が、「何のことだ?」とたずねると、張子はいった。「わたくしは、天下中を歩きまわりましたが、こんなに美しい方々にお会いしたことはございません。ですのにわたくしは美人を手に入れますと申したので、これはあなたをだましたことになるのです」王はいった。「気にかけるな。おれももともと天下にこの二人にまさるようなものはいない、とおもっていたのだ」(楚)(「古代古典文学全集 戦国策篇」 西順蔵訳)


かぱかぱ
①靴などが大きすぎる様子。「靴が大きすぎるとカパカパするから」(朝日新聞00.4.4)
②多量の液体をコップなどで次々に飲む様子。「かぱかぱとビールを飲む」
◇もとは「ひからびた血で薄絹地はかぱかぱになっていた」(岡田三郎『血』)のように、干からびてこわばった様子を表したが、「がばがば」と音が類似しているためか、最近では①②の意味で用いるようになった。(小柳智一)(「擬音語・擬態語辞典」 山口仲美編)


鹿児島の醤油
焼酎のお湯割りとともに頼んだのは、ソースと醤油のハーフ&ハーフ。東京で食べた醤油味のお好み焼きを懐かしく思い出してのセレクトだったが、口にした瞬間にぱっきり目が覚めた。避けていた、あの甘い醤油がたっぷり塗ってある!ところが、焼酎を口にして、とまどいは至福へと大きく方向転換。互いの甘味が寄り添い、気持ち良くふくらんだ。なんて旨いんだろうと思う間に、グラスは空っぽ。「お湯割り、お替わりください!」あの夜がなければ、そのままずっと、鹿児島での幸せを逃していたかもしれない。翌日、焼酎とともに真っ先にきびなごの刺身を注文し、醤油をしっかりつけて食べてみたところ、ああ、やっぱり旨い。鹿児島の醤油に対して偏見を抱いていた自分を後悔しまくまった。(「ニッポン「酒」の旅」 山口史子)


いったいどうなることやら、まったく見当のつかない場合が二つある。一つは男がはじめて酒を飲むとき、。いま一つは、女性が最後の酒を飲むとき。
<出典>アメリカ、オー・ヘンリー(O.Henry 一八六二-一九一〇)の言葉。
<解説>男が、というより少年が、始めて未知の行為を行うときは、ある種の勇気がいるものだ。まして、それが大人の世界へ無理して越えていくときはなおさらだ。まず、だれもが経験する安易な行為は、たばこだ、父のポケットのたばこケースから一本抜きとり、吸う。だが、その一服は、少年に大打撃を与える。クラクラ、バッタリ。次の冒険は、酒だ。だが、結果は、悲惨なものだ。吐き、この世とも思えない状況に身を投げ込むことになる。が、最初の酒は、悲惨であっても、しだいに酒の味を覚え、生活になくてはならない伴侶になる。ある者は、アルコールにおぼれ、ある者は、酒をうまく飼いならす。だが、女性が最後に酒を飲むときは、いかなる状況なのか、その種のことに疎いものにはめったに目にすることはない。だが、女性にとって、最後の酒と言ったオー・ヘンリーは何を指したのだろう。男との恋愛に疲れ、あるいは男と別れるときに飲む酒なのだろうか。ならば、男とてつらい酒を飲むことはあろう。男にとって恋は、生きていく過程のある大きな行為であっても最後のものではない。だが、女性にとって最後と思える恋もあろう。別れた夜に飲む酒の悲惨な思いは男にもわかる。カウンターにもたれ、涙を流し男の名前を口ずさんでいるのを目撃したことがある。壮絶な暗さがそのまわりにあった。(西川治)(「食の名言辞典」 平野・田中・服部・森谷編)


社会貢献
最近では、こちらの大学もそうだと思うのですが、経済人も全てそうなんですけれど、最終的にあるところまで行くと、何に一番力を入れるかと言うと「人材育成」なんですね。そういうことで、兵庫県の方はご存知でしょうけれども、灘高校とか甲陽学院高校とかは皆、酒造メーカーがつくった学校であります。私どもも伊丹ですので、明治六年(一八七三年)には、市立伊丹小学校の開設に非常に尽力いたしました。また、明治三十二年(一八九九年)には、代表設立発起人となって阪鶴鉄道、今でいうJR宝塚線の尼崎-福知山間を開通させました。鉄道の充実という面でも、非常に力を入れております。そういう近代に対する貢献もやってきたということであります。その当時は、よく儲かったのだと思いますが、今はなかなかお酒を売るだけではそんなにたくさん儲かりません。しかし、そのように社会貢献ということを、ずっとやらせていただいています。(「トップが語る現代経営」 小西酒造株式会社 小西新太郎代表取締役社長)


たるだい[樽代]
進物の酒の代りに贈る金一封。〇今俗樽代といへるは枡代といふべし、飯尾宅御成記に折十合枡代二千疋と見えたり枡樽の代という心地なり云々(松屋筆記)
①樽代がすむと無用の礼を張り(樽三)
②樽代を二度むだにする賢女なり(逸)
①借主がきまつた家。借家が決まると大家へ樽代を贈る習慣になつていた。②孟子の母は墓地の付近に住んでいたとき幼い孟子が葬式ごっこをするのでこれは教育上よろしくないと思い市街地へ移つた。するとこんどは商人のまねをして遊ぶので学校の近所へ移転したら、学校の礼法の真似をするようになつたという孟母三遷の故事のひねりで、二度の樽代は移転をほのめかす。類句-樽代を二度損をして徳に入り(逸)。機(はた)道具車に三度孟母つみ(樽一〇〇)。迷子札孟母は三度書き直し(同)。なお、ぢやらんぼんを見よ。
③樽代で大家白酒などを買ひ(逸)
③下戸の大家。寝酒などは買わない。(「古川柳辞典」 十四世根岸川柳)


吝(びん)太郎(けちんぼ)
〇雨のふる日のさびしさに、ゆかりある人のもとに行き、上戸二人が集まり、いろいろ話をして時がすぎたが、全然盃のうわささえ出ないので、客はこの様子を見かぎって、「あなたの所の酒でも、私の酒でもなくて、大酒をのんで遊びたいものだね」と。(「江戸小説集 醒酔笑」 安楽庵策伝 小高敏郎他訳)


蒲焼きの長命術
-うなぎの蒲焼きをおみやげにもって帰る、どうもあのふっくりとしたところが乾いていて、しぜんかたくなってうまくない。何んとかもとの味の調子をそのままに食べるうまい方法はあるまいかと思っていろいろきいてみたら、昔よく贅沢な役者などがやったというのがあった。やって見るといかにも結構である。土鍋へいい酒をいれて、強い火の上へかけて、はしでどんどんかき廻している。熱くなるに従ってアルコール分がたって来るのを待ち、それへマッチで手早くさっと火をつける。青い火がめらめらと燃えるが、またぱっと消える。それを幾度も繰返しているうちに、いくらマッチをつけても火が出ぬようになる。この前後が約三分から五分位。その熱いところへ蒲焼きを入れて約一分。引き上げたら、静かにたれをかけて食べる。あたたかく、やわらかく、なかなかうまい。ただ、これをやると、うなぎの味が少し軽くなる。私のようなやや淡泊な味の好きなものはこれが一層結構であるが、味の濃いのを好むものは、中ぐしを食いたいなら大ぐしをこうした方がよろしい。これによると、午前中にもって来たものを午後にたべても、少しも変わりはない。(「味覚極楽」 子母澤寛)


飲酒(その十三)  陶淵明  富士正晴訳
ひとがいて いつも一緒に住んでいた
やることなすこと てんで別々
一人はいつも独り酔い
一人は年中しらふなり
しらふと 酔ったが 笑いあう
言うこと どっちも理解せず
まじめにくさるは何とアホ
傍若無人(ぼうじやくぶじん)がまだましか
言うことあるよ 酔いの人
日が沈んだら 燭(ひ)をとぼせ(「酒の詩集」 富士正晴編著)


小料理/酒亭-「お馴染み」の磁場
店主ひとり、もしくはその奥さんなどが加わって一~二名で切り盛りする、カウンター中心の客席一五席以下程度の居酒屋が、小料理/酒亭です。小料理屋と酒亭との違いはあまりなく、強いて言えば、同じ規模の店でも料理に力が入っているようであれば小料理屋、料理もあるけれどやって来るお客たちはあまりあれこれと注文することもなく、どちらかというと飲んでしゃべっているほうが好きそうなのが酒亭、くらいの違いでしょうか。このタイプのお店は、客席数が少ないだけに、ほぼ常連さんたちで占められてしまうことが多いのです。だから最初は非常に敷居が高くて入りにくい。入口引き戸をガラリと開けると、店内の常連さんたちの目が、いっせいにこちらを向きますからね!しかしこれも常連さんが多い店ならでは。今入って来たお客が、知り合いの常連さんじゃないかどうかを確認するための行為なのです。「いらっしゃいませ」とお店の人が迎えてくれたら、臆することなく店の奥へと進みます。いつも常連さんたちでにぎわっていて、しかもその状況が何年も続いているのであれば、それこそ、その店が名店である何よりの証拠。短い期間のうち三回ほど通えば、すっかり常連さんの仲間入りです。そうやってお馴染みさんになるのが早いのも、小規模な小料理/酒亭ならではですね。ここで注意が必要なのがお店との距離感です。利害関係のない、お酒の上だけでの付き合いは楽しいことばかり。ついついのめり込んでしまって、アルコール依存ならぬ、その店や、常連のお客さんたちへの依存症になりやすいのが、この小料理/酒亭タイプのお店です。美人女将がひとりで切り盛りするような店であったら、なおさらです。小料理/酒亭では、お客さんが少なく、回転も悪い分、客単価は高めになります。一般的に二~五〇〇〇円くらいで、いいお酒、いい料理を置いている店だと八〇〇〇円くらいになることもあります。経済的な面からも、どっぷりとはまり込んでしまわないように気をつける必要がありそうです。(「ひとり呑み」 浜田信郎)


初代川柳の酒句(21)
盃を 宿なしにして 娵(よめ)は立チ   五楽
安倍川で 上戸手を出し しかられる  素鳥
いじらしい 事ハ盃 斗(ばか)りさせ   蔦故
付ケざしで 禁酒をやぶる はしたなさ  素見
下戸御座れ 上戸ござれと 雛の酒   玉簾(「初代川柳選句集」 千葉治校訂)


のういん【能因】
平安時代の歌人。-伊予で雨乞の歌を詠んで雨を降らし、地方の人から餅を報いられた事も人の知る処である。
雨を降らせて 能因は 胸が焼け   餅を食はされ
能因は右の手 李白 左の手   左の手は酒(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」という和歌だそうです。


四方赤良
学問は宝暦十三(一七六三)年牛込加賀屋敷の内山賀邸に入門し、明和三(一七六六)年篠山藩の儒臣松崎観海に入門した。漢学による立身を期したのだが、翌四年に賀邸同門の平秩東作(へづつとうさく)を介して平賀源内を知り、序文を得て『寝惚先生文集』が出版され、十九歳で一躍、狂詩に名を轟かした。さらに同六年、内山賀邸同門の小島源之助(狂名唐衣橘洲(からごろもきっしゅう))に誘われて、四方赤人の名で狂歌をはじめた。赤人の狂名は安永二(一七七三)年の『江都二色』序(一九三頁参照)でも使っていたが、翌三年からは赤良と変え、寝惚先生赤良の名は一世を風靡するに至る。この狂名は当時の童幼向の草双紙によくあらわれる「鯉の味噌ずに四方のあか、一杯のみかけ山の寒がらす云々」の言葉遊びのもじりで、日本橋新和泉町の四方酒店の銘酒滝水(たきすい)が名高く、それを僧侶の隠語で酒をあかというのに掛けて「四方のあか」とし、それに人を付け、さらにあから顔のあからを付けたのである。なお四方の商標「扇に三つ巴」を赤良は書き判として用いている。(「大田南畝全集 解説 南畝の狂歌・狂文」 浜田義一郎)


風呂上りの唄
午後八時、「風呂上りの唄」を歌いながら、初添、仲添の櫂入れを行ないます。
いつも御嘉例の お風呂の上り
いつも心が などやかに
酒にようたようた 五勺(はます)の酒に
一合飲んだら 由良の助
一合飲む酒 五勺ときめて
世帯する気に なりなされ
世帯するのか わしのよな者と
わしもお前さんの よな人と(「灘の酒」 中尾進彦)



[三愛記] 酒はもろこし唐南蛮の味ひをこゝろみ 九州のねりぬき 加賀の菊酒 天野の出群などを求め (増) [物類称呼] 酒 出羽にてイサミと云 和州大峰にてゴマノハイと云 今按(あんずる)にいさみというハ羽州羽黒山などの行者の隠語なるべしを俗人もそれに倣(なら)ひて専ラいさみといふ事にや成けん ごまのはいといへるも是に於(お)なじかるべし 又畿内の番匠詞に間水といふ 今ハけづりともいふ 江戸にても番匠ハケヅりと云 かゝるたぐひの隠し詞を東国にてセンボウと云 士農の上にハなくして巧ママ商或ハ游女野郎の類ひ馬士竹輿舁(たけかごかき)に至まて符帳詞あり 今爰(ここ)に略す 又西国にてケンズヰと云ハ灸治する節 酒食を饗するをいふ 江戸にて参州酒などの味辛クつよき酒を鬼コロシと云 如此の類を美作にてヤレイタ酒と云 野州日光にて鬼ゴノミといふ 又駿河辺にてハテッペンといふなり(「増補 俚言集覧」 太田全斎著 井上頼国、近藤瓶城増補)


痩(や)せ法師の酢好み
やせた人は、酢が好きだ。酢を飲むと、骨が柔らかくなるという。やせっぽちには、よくない。害・不利のあることを好んでする者のたとえ。『醒酔笑(せいすいしよう)』には、「謂(い)えば謂わるる物の由来」に、八瀬(やせ)の寺の僧の話として、その成立を説く。八瀬の寺は、昔から禁酒の寺で、酒を入れなかった。その寺の僧の中に酒好きがいて、常に徳利に入れて出入りし、人に聞かれると酢だといった。それで、八瀬の法師の酢ごのみといった。それを、痩せ法師としたのである。(「飲食事辞典」 白石大二)


ランパブ[名]
(『ランジェリーパブ』の略)。刺激的な下着姿の若い女性が男性客の酒の相手をする酒場。◇『一生、遊んで暮らしたい』友達よ、これが私の一週間です(1998年)<中場利一>「日頃思っているランパブの困ったところをU子に言った」(「日本俗語大辞典」 米川明彦編)


二月十六日月曜日
執筆二時で中止。東京会館へ。ペンクラブ理事会。例会もあり。解散後新宿へ行く。「野菊」へ顔を出すといきなりママが泣きだした。あいにく客は一人もなし。バーテンの吉田が帰って来ている。八年札幌へ行っていて先月戻ったのだという。ますみの思い出ばなしばかり。いくら飲んでも酔えない。女も古いし男も古い。もちろん婆ぁも古いにきまっている。俺も古くなっちまったみたいだ。錆(さ)びついて、やっと浮かんでるって感じ。まだそんな筈(はず)ないのになあ。「野菊」の婆さんが嫌なことを言いやがった。「みんな物凄い勢いであの世へ行っちゃうよ。馬鹿は長生きするってのは嘘だねえ。みんな馬鹿なのに早死しちゃうもの。あんた長生きだよ」だって。冗談言うねえ、俺だってまだ立派な馬鹿だぞ。香川のやつ、来なかった。帰ったらどっと酔いが出て、一人きりの半分居で随分たくさん独りごとを言ってたみたいだ。独りごとを言うようになっちゃあ…。(「酒中日記 酔って独りごと」 半村良)


襄陽歌    襄陽の歌 (李太白) -
(二)
鸕「茲鳥」ノ杓、鸚鵡ノ盃、                 鵜(う)の首形(くびがた)の杓と鸚鵡貝の盃で
百年 三万六千日                      一生を百年として三万六千日
一日須(スベカ)ラク三百盃ヲ傾クベシ。           毎日三百盃づつ傾けるべきである
遙カニ看ル漢水ノ鴨頭緑(アフトウリヨク)           遙かに見える漢水の色は鴨頭緑
恰モ似タリ葡萄ノ初メテ醗醅(ハツバイ)スルニ。       恰度(やうど)葡萄酒の諸味(もろみ)に添へを したばかりのやうだ。
此ノ江若(も)シ変ジテ春酒ト作(な)ラバ            此の川が若し変じて春酒となるならば
塁麹便(すなは)チ築カン糟丘台。               麹を積み累ねて糟邱台を築かうものを。』(「中華飲酒詩選」 青木正児著)


酒の秋田はタクシ-の国
運転免許の即日交付が始まって、県民皆免許時代の到来を思わせる昨今。だが、マイカーで出勤なさったダンナ様方は、なぜかタクシーで御帰還となる。もちろんアルコールのにおいをプンプンさせて。お隣の山形に比べ秋田にタクシーが多いのも、この「酒好き」と関係があるようで、かくして「酒の秋田はタクシ-の国」となる。(「あきた雑学ノート」 読売新聞秋田支局) 昭和58年の出版です。


徳利いろいろ
その後徳利は、用途や形の違いによって次のようなさまざまな変り徳利まで誕生した。「船徳利(ふなどつくり)」(底部が広く重くできていて安定感があり、揺れる船上で使用されたという)、「傘徳利(かさどつくり)」(ロングスカートをはいたように底部が広がっている安定感のある徳利)、「浮徳利(うきどつくり)」(肉厚の陶器で底が広く重くて倒れにくい)、「らっきょ徳利」(ふっくらとした姿から名が付けられた。小形のものは懐石などでの「お預け徳利」として趣味人に愛好される)、「ろうそく徳利」(丹波焼の和ろうそく形の徳利)、「こま徳利」(和ごまのような形の徳利)、「えへん徳利」(徳利の酒が底をついたとき、「えへん!」と咳払いをして今一度酒を注げば、再び数滴がたらたらと垂れてくるという有難い細工徳利)、うぐいす徳利(酒をつつぐとうぐいすの鳴き声が聞こえる)、「へそ徳利」(胴の部分がへそのようにくぼんでいる徳利)、「鴨徳利」または「鳩徳利」(野鴨や鳩のような形をした徳利で、囲炉裏の灰の近くに置き酒を温める)、「いぎり」(徳利の底が尖っていて、酒を入れてから火鉢や囲炉裏の熱灰に首のあたりまで突き刺して温めるもの。灰にいぎり込むのでこの名が付いた)。ほかに花見や川遊び、月見や雪見といった野外での酒宴用として「遊山徳利(ゆさんどつくり)」もあった。錫や厚目の陶器で造った熱の逃げにくい徳利に酒を入れ、綿や木枠で包み、把手のついた保温箱に入れて酒を保温した。(「日本酒の世界」 小泉武夫)


(三九)かんふうらん替り
二上り大酒乱(たいしゆらん)、冷酒(ひやざけ)飲(の)んでみや、長酒(ながざけ)のみ、じらけも一(ひと)つ飲(の)んでみや、たんたらふく二日ゑひ、後悔(こうくわい)くすりに金盥(かなだらひ)
じらけ-地酒の誤か(「松の落葉」)


うらおもて
茶は冷也。酒は温也。酒は気をのぼせ、茶は気を下す。酒に酔へばねむり、茶をのめばねむりさむ。其性うらおもて也。(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂)


上司の悪口
会社での帰り、赤ちょうちんで一杯やりながら、上司の悪口をいう。サラリーマンのストレス解消手段としては、もっともポピュラーなものだが、このやり方では、ストレスが解消するどころかよけいにたまってしまうという説がある。アルコールが体にはいると、血中の血糖値は急激に上昇する。これによって、たしかに元気がでてくるような気がするのだが、大脳はそうは受け取らない。血糖値が急に上昇すると、大脳はストレスによる肝臓のグリコーゲンの発散だと錯覚し、ストレス反応をさらに強めてしまうというのだ。その結果、呼吸ははやくなり、血圧が上昇、消化器官は逆に貧血状態になって潰瘍(かいよう)ができやすくなる。さらに、急に上昇した血糖値は短時間で減り、逆に低血糖状態になる。低血糖は疲労をひき起こし、最後はストレスをさらに増加させてしまう。なるほど、上司の悪口をいったところで、そうかんたんにはスカッとしないはずである。(「SAKE面白すぎる雑学知識」 博学こだわり倶楽部編)


18日 箸が持てる
箸が持てる、ということばは、単に、正しく二本の箸が持てる、ということではなくて、料理屋の特殊用語である。客のたべ残したものを、客の目の前で、折りに詰めていって、いわゆるおみおりをつくる。それができるかできないかが、箸を持てる、持てないである。戦争前頃には、宴会の料理の残りを、各自が折りに詰めて持って帰るということもなくなっていたが、それでもまだことばとしては、あそこのうちの女中は箸が持てない、などと、時には耳にしたものだ。帰り道で狐にばかされる、というのも、酔って、片手におみおりをぶら下げて帰るから、狐がそれを欲しさにうかがいよるわけなのだろう。うちへ帰って来たら、ひもだけぶら下げていた、などという話がよくあった。ひどい客になると、おわんのつゆだけすすって、そのみまで、折りに詰めさせたのがいたという。(「私の食物誌」 池田弥三郎)


酒の一升くらい平気なのだ
はじめてお酒を一升飲んだのは、もう東京に出て二十歳を過ぎたころだった。もう胃袋を三分の二切取ったあとだったと思う。十二指腸潰瘍(かいよう)だったのだけど、その手術をしてからかえってゆっくりと飲めるようになったのだ。そのときは友人と三人だった。その一人のアパートだ。最初一升買って来て飲んでいるうちに話が面白くなり、また一升買って来て、それからまた一升買って来た。別に騒ぎもせずに、そんなにふらふらになったわけでもない。三人同じペースで飲みながら一升ビンを三本飲んだ。まだ飲めそうだったけど、いちおう一人一升ずつ飲んだのだということで、ギネスブック的に満足した。一升飲んだということは、相当な自信になった。俺は酒の一升くらい平気なのだと、それから胃も落着いて丈夫になってきたのだろうと思う。(「ウイスキーにたどりつくまで」 尾辻克彦)


内田頑石
ところがかれは、頑固に結婚を拒み、また官に仕えることを辞し続け、他人から拘束されるような生活を絶対によしとしなかった。そして、むやみに酒を飲み、飲むほどに酔うほどに、世俗のみにくさ、卑しさを笑いとばして脱俗者として撤していった。『先哲叢談続編』に載る伝記によると、身近には酒の諸道具が必ずあり、「朝と無く、暮れと無く、常に酒臭を帯ぶ」というありさまだった。かれは、酒の味は、これを飲むところの風土と、そこに住む人の気性に応じて異なるべきだと考えていた。かつて摂津の伊丹の醸造家にたのんで「醇粋の酒」をつくらせ、取りよせた。「その気味、清酸辛苦で、それ以前の苦甘軟淡」なのと趣を異にするものだったので、これこそ「憂を消し鬱を散じ黄泉に透徹する」かっこうの酒だとして、まさに関東人に似合いだとたたえた。そしてこの種の酒をつくることを、江戸十里四方にすすめ、「泉川」と号銘してひろめたといわれる。「黄泉に透徹し、山川に暢潤する」よい酒だというわけで「泉川」と名づけたそうである。要するに辛口のきつい酒を称揚し、関東に標準の酒を自身それを求めたのみならず、これを広めたのである。『先哲叢談』では、「七十年来の飲客、泉川を愛せざるもの無し」とその評判の高かったことを認めている。頑石は、寛政の改革の進行期、晩年になっても、いよいよ酒量がふえるばかりで、周囲からいさめられたりしたが、頑固にこれをはねのけ、自分の身のことを思うものは「壺を持し、樽を抱えて来れ」とうそぶくのみであった。そして自ら「酔郷の太守、或は酣薬の都督」と号したというほどの徹底ぶりであった。おれは酔っぱらいの元締めだぞとという自覚をもっていたのである。寛政八(一七九六)年に六十歳で死んだ。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎)


お酒を旨くする器械
「昔、安酒飲む時は、最初に瓶をよく振って飲むとお酒がまろやかになっていったもんですけど、それも同じ理屈なんでしょうか。」三ツ矢のの鴨志田社長も目尻を下げて話に乗ってくる。「昔で思い出したんだけれど、水差しの一回り大きいくらいの入れ物で、お酒を入れて電気を入れると超磁波が出てお酒が旨くなる器械知ってる?」「なーにそれ?」若い女性の生徒さんも話に乗ってくる。「貴女のお父さんあたり、お酒のお燗器使っていなかった?」「ああ、そういえば丸いガラスの花瓶みたいなのにお酒入れて、スイッチ入れて…」「そう、それに似た形態なんだけど、こっちはお酒が熱くなるんじゃなくて、出てくる電子波でアルコールのクラスターが小さくなって、お酒が美味しくなるってふれ込みだったけどね」「センセーの所には、その器械あるんですか?」「何故かあるんだ。というのも、俺の幼馴染のHは勤めている日本医大のグループが、電磁波でお酒が美味しくなるかどうかの実験をしたんだ。写真家の浅倉俊博という人が提案してきたらしいんだけれどね。それでHがおれのところにその器械を持ってきたってわけさ。こういう実験はこの時が最初じゃないんだよね」「結構以前からやってるんですか?」「うんたまたま、東電学園の先生で利き酒名人でもある柴田眞喜雄さんと飲みながら話してたら、昭和二七、八年頃すでにそういった研究をやっていたっていうんだな」「つーことは、もう五〇年も前じゃないですか」「戦後間もない、まだ不味いお酒しか出回っていない時期だから、そのお酒をいかに美味しく飲むかという願望は呑ん兵衛に取っちゃ切実だったと思うよ」「その時の研究は実を結ばなかったんですか?」「いや、研究そのものは成功して、アルコール分子を細分化して飲みやすくするという結果は出たんだ。ただ一時的にアルコール分子を細分化出来ても、半永久的な形で細分化するには相当なエネルギーが必要だったらしく、当時の科学ではちょっと大変だったようだよ」「センセーはその器械使ってどうでした」「Hには悪いけど、もらって使わずにそのまま納戸のどっかに仕舞い込んであるよ」(「ツウになるための日本酒毒本」 高瀬斉)


〇酒箒廿九
篠の葉、杉葉を、酒はやしといふと、季吟法印の山之井にあり。ふるくは酒箒といへり。奇異雑談集、[割註]客僧、女に成し事の条」に、二僧同道して、他所にゆく。路次の小家に酒箒あり。二人よりて濁醪をのむ。」と見えたり。箒を出せるは、下学集に、掃愁帚異名也。とあるに拠たるにや。唐土の酒店にても、箒を出せるは、宋の洪邁が容斎続筆に、今都城与ノ二郡県。酒務及゙鬻ルレ之肆。皆掲ゲ二大帘於外ニ一。以青白布数幅ヲ一ルレ。徴者随フ二其高卑小大ニ一。村店或ケ二瓶瓢ヲ一。標ス二箒[禾千」ヲ一。楼鑰が北行日録に、十二月十六日丁酉。[割註]按に乾道五年なり。」宿ス二臨「氵名」鎮ニ一。道傍数処。売ルニレ。皆掘ル˥レ深濶可三四尺。累テ二上風ニ一以禦クレ。一瓶貯ヘレ。苕箒カンバント。石炭数塊。以フ二暖盪カンスルニ一。水滸伝[割註]魯智深大閙五台山条。」に、市梢尽頭マチハヅレノ一家挑ケ二-箇ヒトツノ草帚児ヲ一来。智深走リ二那里カシコニ一時。却是箇イツケンノ傍村小酒店。また見ル下籬笆中。挑著一箇草箒児ヲ一。在ルヲ中露天裏ニ上。清嘉録に、呉「兪欠」云。冬醸フユツクリ名高十月白サケノナ。請コフ柴帚挂リテ 当ルヲレ。一時佐酒サカナズルニ二風味ヲ一。不セ二団臍ヲ一只愛スレ。などと見えたり。酒の異名を掃愁箒といへるは、東坡集の洞庭春色詩に、応ベシブ二ルレ一。亦号ス二フレト一。集註に、李後主中酒詩。莫レレフ˥二滋味悪シト一。一篲掃フ二閑愁ヲ一。とあるを出処とすべし。(「梅園日記」 北慎言)


慶長年代の伊丹、灘等
以上我々は主として慶長の末年に至る迄の近世酒造業地の台頭について考察したのであった。近世酒造業史否本邦酒造業史を論述せんと欲するものにとって、伊丹・鴻池・池田並に灘五郷酒造業の成立発展を看過することは許されない。しかも我々は前述の中に於て触れなかった所以のものは、我々の論述の範囲に於ては、この方面の酒造家は未だ重要な意義を持たなかったからである。勿論郷土愛に燃ゆる史家は或はその起源を鎌倉時代に置いているが、(池田酒史)、その論拠が後世の史料である限り信憑し難い。たとい『尺素往来』に「西宮之旨酒」との記載が見えることによって、この方面の酒造業の拠って来たるところの古きを知るに於ても、中世並に近世初頭に於ては、奈良の諸白を初めとし、江川・三原・道後・博多等の酒が盛んに貴顕の贈答品として珍重されていたのに拘わらず、この方面の酒名を文献に全然見出し得ない点より見て、この時代には田舎酒として未だ名酒の地位を獲ていなかったのであろう。しかし名酒の地位を獲得してはいなかったにもしろ、慶長年代に於ては、この方面の酒造業自体は相当の発展を遂げていたことは、『時慶卿記』によって伺うことが出来る。(「日本産業発達史の研究」 小野晃嗣)


〇御前酒
俗つれ/"\、三ノ一に、「大宮人の御前酒、爰(ここ)に住めばこそ地下人の口にも合へり」とある。これは、高貴の人の飲料となる特製の酒をいふ。元禄文学辞典に、貴人の前で飲む酒といふは誤りであらう。摂陽奇観巻二に、「御前酒-将軍家の御前酒は、満願寺屋九右衛門より造り出す。米は熊野田村米を元来とし水を清め、道具を改めて造れり。」と云つてゐる。或説には、御膳所台所御用の略なりともいふ。(御膳所台所は将軍の膳部を調理せし所。)(「西鶴語彙考 第一」 真山青果)


播州米
世間では、灘の酒はあの有名な「宮水(みやみず)」のせいだと申します。江戸時代の昔によくあれだけの科学の精神を発揮して「宮水」の良さを発見した櫻正宗の祖先には全く頭が下がる思いがします。しかし米の方は、どこからでも酒に良い米を持って来られるではないかと思っていたら、灘酒研究会の技師のお話によりますと、灘では、江戸時代から酒造に適する播州(ばんしゆう)(兵庫県)米を長年に亘(わた)り、周辺の農村に橋をかけてやったり、お寺へ寄進したりして、手厚い保護を加えて育て上げて来たのであるとのこと、こうなると米さえも灘の酒に特有であったことになり、伝統というものの容易でない根の深いことがしのばれるのであります。(「讃・灘の酒」 坂口謹一郎)


藤田東湖へ宛てた徳川斉昭からの手紙
重臣(川瀬七郎衛門)を失って寂しくもなったのだろう。酒好きの側近で御用調役の藤田東湖に宛てて、次のような意味の手紙を書いている。「ちょっと耳に入れるが、藩医の西村や松延らに聞くところによると、近く江戸へ廻ってくる酒は、石灰が多く入っているので、余り呑むと脾臓(ひぞう)を悪くして中風(ちゅうき)の気のある者は発病するとのこと、用心してほしい。川瀬が病死したうえに、お前が病身になったら困ってしまう。国家のために用心してほしい」東湖時に三十三歳だった。斗酒なお辞せずの東湖も、これには参って、暫らくは節酒したらしい。(「茨城地方史余話」  瀬谷義彦)


一、垂之事。寒造り諸白七斗弐升水、九分余垂り申候。但し垂りハ、麹・米ともに造酒何程と算用して見申候。
〇垂り 寒造りの諸白は、七斗二升水の仕込みなら、酒が九割ほど得られる。この垂りは、麹米と蒸米を合計していくらぐらいと計算した割合である。(「童蒙酒造記」 吉田元 翻訳・現代語訳・注記・解題)


酒泉等の話(2)
年来これらのことを心得ながら何の訳とも知らず過ぎおったところ、去年七月拙宅の裏なる苦竹(まだけ)の藪辺にシャンペンとサイダーを合わせたような香気鼻を衝き、酒嫌いな拙妻などはその藪に入るを嫌うほどだったので、よく視ると、前年切った竹株から第二図のごとく葛を煮たような淡乳白色無定形の半流動体がおびただしく湧き出で、最初その勢凄かったと見えて、小団塊が四辺へ散乱して卵の半熟せるを地に抛げ付けた状を呈し、竹の切口内には蟹が沫吐くごとくまだブクブクと噴いておった。数本の竹からでたのはみな白かったが、ただ一本より吐いたは図中(イ)に示すごとくその一部分菫色すこぶる艶美で清浄な紫水晶のようだった。当時予の眼すこぶる悪かったので精査し得ず、またプレパラートをも作り置かなんだが、白色の所をちょっと鏡検すると、図中(ロ)のごとく微細の菌糸と円き胞子ごときものとそれよりずっと微細な黴菌より成り、さらに廓大すると、(ハ)に示すごとくだったが、菫色の部分は黴菌のみより成り立ちおった。バクテリウム・ヴィオラケウスやバクテリウム・ヤンチヌスなど菫紫色の黴菌ありと承りおるが、この竹に生じたものはそれらと同異如何、只今知る由なきも、乾かした標本は現に座右にあって黯紫色を現じており、多量に手に入らば染料になりそうだ。さて、白い部分の酒気はおびただしかったが、不幸にも予の眼がすこぶる悪かったので記念のため乾燥して今に保存してあるのみ、何たる精査を做し得ず、また星野氏から贈られた霊酒母のように飯や砂糖に加えて試験し得なんだ。しかしながら、友人の説にこの物は決して稀有ならず、当町に近き一村の竹林に毎年生ずとのことで、自宅の藪にもたぶん来夏も生ずべければ、今年は必ず多少明らむるところあらんと期しおる。とにかくこのものを見だした一得は、予が多年抱きおった何故に和漢とも竹を酒に縁ありとするかの疑いを解き得た一事である。しかして杉や竹を酒に縁ありというのも、酒仙醴泉の譚も、共に古人が実地に実物を観察して得た知識と思想を述べたもので、決して言語の誤解や教訓の譬喩に基づいてできたものではない。(「酒泉等の話」 南方熊楠)


連続飲酒発作
アルコール依存が進むと、飲酒によるさまざまな失敗が発生し、二日酔いで休むことも増え、体も悪くなったりで、周囲からお酒を止めるか控えるように、プレッシャーがかかってきます。本人も自分の行動に罪悪感を持ち、何とかお酒を止めようと努力を始めます。数日から数週間の禁酒も始めたりします。しかしこの時、彼らは自分の中の強い飲酒欲求や渇望感にさいなまれることになります。頭の中は常に「飲むべきか飲まざるべきか」と、お酒のことばかりが駆けめぐるようになるのです。罪悪感と渇望感の狭間で苦しみが始まるのです。この時に最も簡単な解決方法は一杯飲むことです。そうすると罪悪感と渇望感との葛藤は姿を消し、ほっとすると同時にもっと飲みたいという簡単な気持ちに変化するのです。これが依存性薬物であるアルコールの持つ魔力といわれるものなのです。コントロール喪失飲酒の究極の形は、連続飲酒発作と呼ばれています。これは夜昼問わず、日本酒とか焼酎とかウィスキーとかを、二~三杯飲んでは数時間眠り、目が覚めてはまた二~三杯飲んでまた眠るという、酔って朦朧とした陶酔の時間を続ける飲み方です。自分の部屋でする人もいますが、車でどこかにでかけるとかホテルにこもって誰からも文句のいわれないところで行う人もいます。これを数日から数週間にわたり、体力の続くかぎり、あるいはお金の続くかぎり延々と行います。アルコール依存症の人が口を揃えて語りますが、「最初は体に悪いと考えて何か食べながら連続飲酒を始めますが、しだいに食べると吐くようになり、さらに水を飲んでも吐くようになりますが、そんな時でも不思議とお酒だけはすーとのどに入っていくのです。それでついにお酒を飲んでは寝るという生活になって行き、最後にお酒を吐くようになって何も口に入らなくなって病院に駆け込むのです」という経過をたどります。これをお酒の極楽道というか、地獄道と呼ぶのが適当なのかは難しいところです。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二)


一露飲み、一文字飲み
盃のほし方に、「一露飲み」「一文字飲み」がある。一気のみの一種であろう。一滴だけ盃に残すのが約束であった。「一露とは、酒をすきとのみて、したを捨て候に一露たるを申し候」(『擁書随筆』)とある。すっと飲み切って一滴だけ残し、これを捨てるので、その時、一滴も残っていなかったら一露飲みにならず、また二滴でもいけない。「一文字飲み」も同様で、残したしずくで一文字が引ける量でなければならない。「是もしたにて一文字を引候に、したおほく候へばならず候」というわけである。この「した」というのは飲み残しであるが、またそれを「魚道」といった。この飲み残しを呑み口をすすぐようにして捨てる作法を含めて、魚道ともいった。魚道は文字通り魚の道で、魚は水中を自由におよいでいるように見えるが、実は同じ道を往来しているという意味で、呑み口に同じ場所を一露ですすぐのである。これは次に盃に口をつける人への遠慮で、魚道をすすぐと盃を手にしたままおや指で拭い、盃をいただく恰好をしてから盃を台に戻すことになる。今であれば盃洗で洗って戻すわけだが、盃洗の出現するのは十七世紀の後半。それまでは杯台にしずくをたらしたり、そっと畳の縁にしみこませたという。『酒飯論』のなかに「ぎやうだう(魚道)なしのふりかつぎ」という言葉がある。おそらく魚道をしたたらせることをしない乱行の酒のことであろう。これほどに魚道が問題になるのは、盃には口を付ける場所がある程度きまっていて、同じ場所に口を付けることに意味があったことを語っている。連想されるのは茶の湯における濃茶のまわし飲みである。これは一つの茶碗に数人分の茶をたてて客一同でそれをまわし飲みする作法であるが、これは酒の巡盃の模倣であろう。そのときも、飲み口が客によっていろいろになってはいけないので、一定の場所に口を付ける。魚道とは、飲み口をすすぐ意もあるが、飲み口をいつも同じくすることも意味しているのである。(「酒と社交」 熊倉功夫)


現代川柳の酒句
あきない[商い] 商談をまとめる酒を注いでいる  松田順久
あす[明日] あしたはあした今はお酒を飲む時間  新家完司
あせり[焦り] 盃の底から焦り見つめられ  片方栄方
あめ[飴] 酒も飴もと男の傘寿賎しかり  板木継生
あんしん[安心] 酒二合ぼくの安心立命だ  阿部平(「川柳表現辞典」 田口麦彦編著)


イクラのしょうゆづけ
作り方 ①ボウルに酒、みりん、薄口しょうゆを合わせる。 ②ほぐして、水けをきった生イクラを①に入れ、冷蔵庫で2~3時間おく。
イクラの下ごしらえ ①脂が固まらない程度の湯に入れて、、粒をつぶさないようにほぐす。 ②卵巣の薄い膜と卵の間に指を入れて、はがすようにすると取りやすい。③冷水に放して、汚れをとる。ザルにキッチンペーパーを敷いて、つぶさないように移し水けをきる。 ④密閉容器に入れて漬け込む。
材料 生スジコ…200g 酒…大さじ1 みりん…小さじ1 薄口しょうゆ…大さじ2
このつまみに、この1本 窓の梅 大吟醸・香梅/佐賀 日本酒度…+6 酸度…1.3 価格…3000円(720㎖) ●山田錦を精米歩合35%に磨いて仕込んだ大吟醸酒。大吟醸ならではの華麗な香りとキレのある味わいが特徴。5~10度に冷やして呑めば、酒の豊かさをさらに満喫できる。(三献)(「新・日本酒の愉しみ 酒のつまみは魚にかぎる」 編集人・堀部泰憲)


カフェバー
(河野浩子が)雑誌担当になったのは、(昭和)五十七年九月からで、トワイライト・キャンペーンを始めるための準備に入った時期と、それは一致する。今やどの企業も、コンピューターを中心とするオフィスオートメーションが進み、それをこなす女性たちはストレスがたまる一方だ。帰宅の途次、ふと立ち寄る喫茶店もコーヒー、紅茶だけではあまりにもあじけなく、物足りなかった。そんな女性の気持ちをまるでみすかしたように出現したのがパブでもない、喫茶店でもないというカフェバーだった。鹿島建設の設計マンが脱サラで、東京・渋谷に開いた店の成功がきっかけで、同じような店が各地に広がっていった。トワイライトキャンペーンは、そうしたカフェバーのバドワイザー、ワイン、ペリエ、マイタイなどの消費を大いに拡大させようというものだ。もっとも、河野にまず課せられた仕事は、商品を売ることよりも、そのカフェバーという"せせらぎ"を、いかにすれば全国規模の"大河"にできるかのノウハウを女性なりにさぐることであった。当然、繰り返し"せせらぎ"調べに出かけた。夕方、カフェバーに入る客は勤め帰りのOLがほとんどであることを知って驚き、全く酒を受けつけない女性でもサラダやケーキで、けっこう楽しいひとときをすごしている状景にもしばしばぶつかり、感心したようだ。が、河野はつわものたちがひしめくサントリー宣伝部の部員、それも女性らしく、やはり、目のつけどころが違っていた。マーケティング室との共同作業で飲みやすいグラスとメニューを作り出したのだ。とくに幹部を「なるほど」とうならせたのはメニューであった。色を重視してファッション感覚を満足させるような飲みものを主体にしていたためである。河野はいった。「飲みものとしての量は多い方がいい。でも、客の大半はOLや女子大生なので、アルコール分はむしろ少ないほうがいいと判断したんです。ファッション感覚を満足させることは、雰囲気を大事にする意識も満足させることになりますし…。私も学生時代は、よくイタリア料理店で好きなスパゲティを食べたあと、カンパリソーダやジントニックを飲み、そうした色について話し合いました。そんな過去の経験も生かせたということです」"せせらぎ"は"大河"になった。トワイライト・キャンペーン開始時には、東京都内でせいぜい二百軒だったカフェバーが、またたく間に二千軒を超え、横浜や大阪、京都、札幌、仙台などにも広がった。コーヒー、紅茶だけの喫茶店も様変わりを始めた。(「」サントリー宣伝部) 塩沢茂」


女性アルコール症
男が外に出て酔っぱらっても、それは当然と受けとられる。女はそうはいかない。だからアルコール依存症の汚名は大きい。たいていの女性アルコール症者は、飲酒に対し深い罪の意識をもち、女性の多くは「子供たちを傷つけているのではないかしら」と気づかう。とりわけ女性のアルコール症者は、生活全体に気を使い、つきまとう低次元の不安をなくそうとあれこれ努力をしている、と報告している。女性のアルコール症者は、飲むと「正常」に感じるらしい。同じアルコール症でも、男性にくらべ、女性に対する理解は少ないようだ。生理的違いに加えて、多くの場合、女性はアルコール症となる以前から、鬱病だったり、性的な、あるいはその他の暴行の被害を受けた経歴がある。さらに、妻はアルコール症の夫やその飲酒問題に耐えるが、夫は妻の飲酒に腹をたてる。今日の治療センターには、女性のための特別治療プログラムがあり、女性のために特別の訓練を受けたカウンセラーが置かれるようになった。ますます多くの女性が適切な治療に関心をもち、女性アルコール症者を助ける新しい方法を編みだす努力をしている。アルコール症の女性は罪の意識を持ち、低い自己評価しかできないので、アルコール症を慢性的、進行性の病と認め、自らの責任で病気になっているのではないと理解することがいっそう重要である。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー)


声色
②悪性な友達どし、途中にてあひけるが「さて/\此中はかつて出会わぬが、何としられた」「されば/\、この程はやぢが厳しうて、どうも出られぬ。それに付けて、貴様が恋しかつた。頼みたい事があるが聞いてくれふか」「はて何が」「さてうれしや/\。しからば晩ほど、おれが遊びに行きたい。おのしこちへきて、おれが寝床に寝てくれられい。やぢが二、三度ほどおれに物いひかけらるゝとき、貴様が得ものの声色で、おれが返事をしてくれると、ゆるりと遊ぶ。この恩は忘れまい」といひければ、友達聞届け、かのわろと入り変つて寝て居たりければ、夜中時分に、おやぢが息子をおこす時、ムゝとにごらし居ければ、おやぢいはるゝよう「あまり寒さに酒のかんさした。われもおきて一つ飲め」といはれし時、こゝこそ大事と、むすこが声色にて「私は風邪をひきました。御ゆるさせませ」といへば「はてさて、そのやうな時は飲んだがよい」といふて寝所へわせければもはやたまらず、かの友達「こは不調法」といふて逃げた。(軽口花咲顔巻五・延享四・物まねと入替り)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)


陶淵明詩片々
丹波の山奥に名のある酒造家から、家蔵の小川芋銭画陶淵明像の写しを送って来た。その賛に淵明先生の詩があったので、京大鈴木虎雄教授釈『陶淵明詩解』を出して見たら飲酒の詩が至る所にある。よほど酒好きなご老体であったのであろう
成年不重来 一日難再晨
及時当勉励 歳月不待人
うまさけを いさや酌みませ 若人よ このたのしみを 老いは待つべき
わかき日に またもあはめやも うまさけに 酔ひたのしませ 時過きぬ間に
生けるうち 飲めるうちこそ いのちなれ あしたありとは なおもひそや(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎)


 8画 ハイ さかずき
解説 形声。音符は不(ふ)。不に胚(はい)(はらむ)の音がある。不は花の萼(がく)(うてな)の形で、小さくまるいものの意味がある。小さな「さかずき」を杯といい、のち盃(はい)の字を用いる。杯を交わして仲直りすることを杯酒解怨(はいしゆかいえん)という。 用例 杯酒 さかずきに酌んだ酒。また、酒宴。/金杯(きんぱい) 金製または金めっきのさかずき。金盃。/酒杯 さかずき。酒盃。/祝杯 祝のさかずき。祝盃。(「常用字解」 白石静)


笑話補遺
活達豪邁の気象より空拳を揮(ふる)つて巨万の富を致したる何某(なにがし)といふ男、おひ/\老(と)る年の事とて世を伜に譲りて、おのれは慰みに当世に聞えたる大先生の弟子となりて畫(え)を描き習ひ、段〻に上達して終(つひ)に手本の無くても畫けるやうになりければ、嬉しさの余り、大きなる絹などに墨畫の筆勢凄まじく龍、虎、寒山、拾得、山水などを認(したゝ)めては出入(でいり)の者に与へて、追従云はるゝを此上無く面白がり居たりしに、これも年久しき出入りの大工、初孫(うひまご)をまうけて、その初(はつ)の節句に幟(のぼり)をこしらへんとて、大(おおき)なる絹を持来り、半分は世辞の意(こころ)にて、何卒鍾馗大臣を御描(おか)き下さるやうにと頼めば、隠居大機嫌にて酒など出し、今即座に描いて遣るゆゑ汝(きさま)墨を磨れ、絹も幟にするに此品(これ)ではいかぬ、これはたゞの絵絹なれば薄くて宜(よ)くない、幸いひ精好織(せいごう)が有り合はせたから其絹(それ)に畫いて遣らう、まあ緩(ゆる)りと飲みながら墨を磨るが宜い、力を入れて忙てゝ磨つては墨が細密(こまか)におりぬから悪い、などと天狗を云ひ/\、はずみにかゝつて飲み、墨の磨れたる時分は大分酔の廻りし様子なり。御隠居様、御酒(ごしゆ)が過ぎましたやうでござりますが宜しうございまするか、と云ふに猶更勢(いきほひ)を做(な)して、大丈夫、大丈夫、酔へばいよ/\面白く畫(か)けるぞ、さあさあ畫いて遣るは、と大層な勢にて絹を延べさせ、太筆に墨を含ませ、驟雨(ゆふだち)でも降るやうな調子にさつさと描いて仕舞つて、何様(どう)だと筆を投げ出す。成る程恐れ入りました、豪的な鍾馗大臣、素的でございます、と職人言葉で心から褒めれば、反身(そりみ)になつて大盃(たいはい)を手にし、何さ、畫は拙(まづ)いが畫で飯など食つて居るケチな奴には此意気込はあるまいテ、と大気焔なり。其の中(うち)大工はつく/"\と絵を見居たりしが、恐る/\口を開(き)きて、此の鍾馗大臣が普通(なみ)の図とは違つて、両手で鬼を握(つか)み拉(ひし)いで居らつしやるのは一ト風変つて居て宜しうございますが、腰にも剣の無いのは何と無く淋しうございますから、御筆ついでに剣を御畫きなすつて、といふ。南無三、剣を忘れたとは思へども、剛情な隠居冷笑(あざわら)つて、イヤこゝが趣向だて、これから畫くものがあるのだ、と云ひながら急に描き添(そへ)るものを何かと見れば、小帳面。ハテ此はと云へば、悟りの悪い奴だナ、質(しち)の通ひサ。(明治三十八年四月)(「笑話補遺」 幸田露伴)


初代川柳の酒句(20)
さう飲まれてハ合ぬから寝せに来る  未青
きん玉と徳利のならぶ牛車  鼠弓
舌もまハらぬ大口に娵(よめ)こまり  五扇
下戸へ愛相硯ふた強(し)いるなり  五扇
大口が来ましたと下女娵へつけ  仝(巴水)
徳利へ火を打かけるざつな事  五扇(「初代川柳選句集」 千葉治校訂)


蒲生秀行
しかし秀吉は、小暗い風説とは関わりなく、氏郷の跡を十三歳の嫡男鶴千代(つるちよ)(秀行)に継がせ、上杉・佐竹・最上・伊達ら近隣の諸大名に庇護協力を命じており、元服した秀行に、徳川家康の三女振姫を媒酌結婚させている。が、新婚生活も一年余にして、突如、秀行は下野宇都宮十八万石へと転封させられた。氏郷時代に会津は九十二万石になっていたから思いもよらぬ大幅な減封だが、これは重臣間の抗争を、若年の秀行が統制できなかった責任を問われたためとされる。-
振姫との間に二男一女をもうけた秀行の人生は、もはや穏やかに過ぎ去るかと思われたが、相変わらず重臣らの抗争が絶えなかったのは、転封のたびに家中に譜代と新参が入り混じった、戦国大名の宿命というべきか。慶長十四年(一六〇九)三月には、三春(みはる)城代蒲生源左衛門と猪苗代(いなわしろ)城代関一利(かずとし)が、そろって会津蒲生家を出奔、家臣もそれに続くという事態が発生した。しかも慶長十六年八月二十一日、会津地方を襲った大地震で、父が築いた七重の天守閣が傾くなど領内が大被害をうけ、病弱な秀行の心身に致命傷を与えた。秀行は災厄から逃れるように深酒の日々を過ごした果て、翌十七年の春から病み、五月十四日、まるで亡父氏郷の強烈な白光の陰に姿を消し去るかのように、病没した。享年三十歳であった。
蒲生秀行(一五八三~一六一二)父氏郷の死で遺領の会津九十二万石を継ぐ。豊臣秀吉の命で徳川家康の三女振姫を妻とするが、秀吉と家康の関係が緊迫し、下野宇都宮十八万石に左遷される。しかし関が原合戦で東軍に与し会津四十二万石に復帰した。(「あの江戸大名の晩年と最後」 「歴史読本」編集部編)


早朝、夜明かし営業
居酒屋は早朝から営業していた。人は夜明けとともに働いたので、飯屋なども早くから開けられ、独身者や遊び帰りの者には便利な存在で、朝からでも酒が出された。また、亭主が仕事に出た職人の女房などは、昼食を作るのも面倒と、椀を持って居酒屋に行き、八文の湯豆腐を買ってくることもある。さらに、亭主の留守を幸いに、同じ長屋の女房同士が寄り集まって、居酒屋から酒と肴の出前を取り、昼間から酒盛りを開くことも多かったという。吉原や岡場所の遊里の近くには、帰り客を当て込んで夜通し営業する「夜明かし」店もあった。こういう店では「から汁」を出した。から汁とは、豆腐のオカラの味噌汁で、二日酔いに効果があると信じられていた。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資編著)


二日酔い対策の手指をつかったテクニック
日本指圧専門学校副校長の波越満都子氏が提案する、「腹部指圧」というのがそれ。(ちなみに、この日本指圧専門学校の創設者は、「指圧の心は母心。押せば命の泉わく」の名台詞を残した、故・浪越徳治郎氏)。この「腹部指圧」の目的は、腹部の血液循環を整えて、肝臓の疲れを解消することにある。ちょっと聞くと大仰な感じだが、実際の方法はきわえてシンプルだ。親指以外の両手の指を直角に曲げ、指の甲同士を合わせ、指先を自分に向ける。そして、その指先で肋骨の下あたりを押す。この付近に肝臓があるからだ。この時のポイントは、息を吐き出しながら、クックックッと三回に分けて押すこと。必要以上に余計な力を入れて、グイグイと押す必要はない。一回あたり三~五秒程度、これを朝晩三セットずつ行うことで、肝臓の働きが格段に高まってくるという。(「二日酔いの特効薬のウソ、ホント。」 中山健児監修)


諸白酒
今日では"奈良漬"といった言葉が、一般に広く流布しているが、かつてはそのもとになる酒が有名であった。この奈良酒も、市中で醸造されるものよりは、正暦寺・中川寺などの寺院で仕込まれた僧坊酒が有名で、なかでも菩提山正暦寺の秘法たる「菩提酛」は、諸白酒の元祖で、この流儀は山家で受けつがれ、江戸時代に伝承されていった。この諸白酒とは、『本朝食鑑』では、白米と白麹とをもって仕込んだ酒のことで、「近代絶美なる酒」と賞讃している。『本朝食鑑』は元禄八年(一六九五)に宇都宮の人見必大が著述したものであるが、さらにつづけて、和州南都の諸白が諸国の銘酒中の第一で、伊丹・池田・冨田など摂津の酒がこれについでいると記述している。そしてかつて中世の銘酒として著名であった京都の酒は、「和摂に近接していて、米・、水もきわめて良好であるが、できた酒は甘すぎる」と評しているのである。(「酒造りの歴史」 柚木学)


BGM
注意して耳を傾けると、貫禄溢れる大衆酒場でも、渋い老舗の名居酒屋でも、音楽にせよテレビやラジオにせよ、BGMが一切流れていない店が意外に多いことに気づく。東京では前記の「斎藤酒場」と「まるます家」のほかに、根岸の「鍵屋」、神楽坂の「伊勢藤」、湯島の「岩手屋」、木場の「*河本」、大塚の「江戸一」、三ノ輪の「中ざと」および「遠太(えんた)」、王子の「山田屋」、横浜市では野毛の「武蔵屋」などが挙げられる。また、国立の「*まっちゃん」のように、中央線沿線にも、BGMなしの年季の入った渋い居酒屋がたくさんあり、京都にも少なからずある。仙台の「源氏」もそうである。百年の歴史をもつ名古屋の「大甚(だいじん)」は、BGMはないものの、テレビが無音のままついていることが意外に感じられた。言うまでもなく、ある程度年季の入った店は、テレビや有線放送の普及以前から営業しており、店の伝統を大事にする意味でBGMを導入していない場合もあろう。また、「まるます家」のような賑やかな大衆酒場の場合、すでに店内の音量がかなり上がっているため、BGMが流れていたとしても聞こえないはずだから、何の効果もないだろう。だが私は、この時代にあえてBGMを導入しない居酒屋は、<貫禄>と<けじめ>があるゆえにそれができる、と考える。つまり「うちは人間のいる場所だ。機械の雑音など要らない」といわんばかりの潔さと自信が感じられるのだ。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)


「小さな」徳利
江戸期が下るにつれて、焼物の技術、とりわけ磁器の一般化に伴って、小物を大量に焼く技術や、模様の絵付けなどが進歩したおかげで、徳利も次第に小さくなった。一合入り、二合入りといったものが現れると、それに酒を入れ、徳利ごと湯を張った鍋や鉄瓶に入れて燗付けが行われだした。湯の加減さえ調整すれば、飲む酒の燗具合いは自在であるから、これが大いに流行って酒席に登場し、燗徳利として定着した。(「日本酒の世界」 小泉武夫)


銅脈先生
寂僧レテレ誘サソワレ 看ル花ヲ東ニ一而不ル˥ 一睡至ルレ都有詩次     銅脈先生
日偶/\テレレ二狗賓ニ一 酔テレル二 却是遊ブカト二ニ一 目マカリレバ 家内嗔イカル(「二大家風雅」 太田蜀山人)


友をおもう     良寛(りようかん) 富士正晴訳
銭(ゼニ)コが運好(うんよ)く財布に在るわ
さっそく 先生(せんせい)に会いに来たのに
せっかく 一杯やる気なのにね
銭(ゼニ)ある時には お留守とはまあ!(「酒の詩集」 富士正晴編著)


銘柄ハンターになることなかれ
薩摩っ子の焼酎愛は深いが、好んで呑むのは馴染みの近隣の銘柄だ。また、空港をはじめ県内全域約110蔵の焼酎を揃えた店はあるものの、多くの場合は種類が限られているか、もしくは単一銘柄。皆、妙なこだわりをもたずに、そこにある焼酎を呑む。「てげてげでよかが~(てきとうでいい)」地元にならってゆるり過ごす方が、銘柄ハンターとなるよりも鹿児島を空気を満喫できるような気がするのだ。「鹿児島よりむしろ、東京の方が、多様な銘柄を楽しめると思いますよ」そう言われた経験もあるが、まさしく、レア物を求めるなら首都圏の焼酎バーを訪れる方が話が早いのもわかってきた。それでもなお、鹿児島で焼酎が呑みたくなる。お気に入りもお手軽価格の銘柄も、いつも以上にすこぶるおいしく感じる。なぜなら、そこに鹿児島の醤油があるからだ。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子)


年の功
杜氏というのは因果(いんが)な商売での。毎年、毎年、酒を造っていても、現役の間は、ああ、今年はいい酒を造ったなと、そんげに思うようなことは一度もないんだわ。何もおらだけではないわね。杜氏ならば誰でもそうでないかね。おらぐらいの年になってから、何かの拍子に、自分がやってきたことを振り返ってみて、やっと、あの年の酒は良かったなと、そんげに思うものぐらいでさ。これは酒の「利(き)き方(かた)」とも関係があるのかの。ワインなんかは「加点法」で評価するが、日本酒は「減点法」なんだわ。日本酒の利き酒では、どこが悪い、ここが足りないと点を引いていくんだいね。そうすると、おらたちも、いつもそういう目で酒を見るようになるわけだ。だすけ、日本酒の世界では、満点の酒というのはなかなかないという理屈になるんだわ。だども、おらたちぐらいの年になれば、満点の酒ということはないにしても、その中でもいい酒というのは言えるようになるわいね。こういうのも年(とし)の功(こう)と言うんかいの。(「杜氏千年の知恵」 高浜春男)


▲亀塚 済海寺の北に隣る。
むかしは同所竹柴寺の境内にありしを、今は隠岐家別荘の地になりし也。
往昔竹柴の衛士(えじ)の宅地と酒壺有、その傍に住ける霊亀あり、土人是を祀りけり、一夜(あるひ)風雨ありて、かの酒壺一堆の土に化せりといふ、奇とすべし。(「江戸年中行事」 三田村鳶魚編、朝倉治彦校訂) 亀塚公園(東京都港区三田4-17-20)内に今もあるようです。


鄙願
年頭の賀膳に先立ってもう一度、家長の訓示があるが、お歳夜のそれとは違ってここでは(平田)大六(大洋酒造㈱常務取締役製造部長)が一年のいわば"開会宣言"をするだけである。そのあとにこの地方独特の「お歳とり」の儀式があって、神前に家族が順繰りに正座し、家長が鏡餅をのせた三方で頭をトントンとたたく。屠蘇ではなく生酒で新春を寿ぐのは造り酒屋なればこそか。雑煮は昆布出しの清(すま)し仕立てで、越後では餅は切り餅と相場が決まっているのに、平田家の場合は関西風の丸餅。やはり伊勢平氏の末裔だからである。雑煮の具にはかまぼこ、刻み柚子(ゆず)、それに鮭のはららこ(イクラ)が入るのが特徴だ。-
しかし、平田家では二月初めにもまた正月が来る。これは「女正月」といってちゃんと神棚も飾り、お歳夜の祝いごとも同様にする。しかし、大六さんはよく女正月を忘れてカツイに叱られる。このころから酒造りは「寒造り」の正念場を迎える。この年の越後大吟「鄙願(ひがん)」がどういう酒になるかは、まさにこの時季の平田大六にかかっているのだ。鄙願は「淡麗、水の如し」という酒境に達した稀代の名酒である。名実共に日本一の酒、と私は思っている。(「うまいもの職人帖」 佐藤隆介)


杖突の酔はれた所は盛直し
『誹風柳多留』初編に、 杖突の酔はれた所は盛(もり)直し と言う川柳がある。「杖突き」とか「盛直し」の解釈を、これまでの註解は適切には説いていない。これは農村に出張して土地丈量をする検地役人に、酒を飲ませる弊風があったことを諷しているのだ。杖突の杖とは検地竿を杖のように突くから言ったものだろう。将軍綱吉のころは、封建制を支える農村の生産上昇に躍起になったときのである。租米を十分に確保することが、支配者として最も緊要なことだったからである。それで、このころから新田開発も非常に進み、その検地役人の入村も繁くなった。かれらの測量の手加減で、農民の貢納量はどうにでもなる。田畑の地積がこの役人によってきまり、それに土地柄のいかんで上、中、下等の田品(でんぴん)がきめられて、ここの一反の田からは幾ばくの収穫があるはずと、石盛(こくもり)を押しつけられる。石盛十五といわれれば、摺り米(すりまい)にして一石五斗とれる上田だというわけで、それが五公五民制ならば、一反の耕作で、七斗五升の盛(もり)を貢納せねばならなくなる。そこで実際には一反二、三歩くらいのところを一反と登記するとか、上田を中田とみておいてくれれば、ずっと負担が軽くなる。農民は懸命になって、役人の手加減を求めたものだ。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎)


【第一八〇回平成二年一二月二一日】*越乃寒梅
暮れも押し迫った二一日、寒い日だった。「集」に着いた酒を見たら吟醸酒が一〇本と非売品の大吟が六本あった。例会の出足はいい。常連たちがにこにこして集まってきた。いうまでもなくこの会は午後七時きっかりにならなければ始まらない。人数は五〇人を数えていた。飲み始めてもまだ参加者がやってくる。「どうする。もう入れないよ」。仕方なしにエレベーターホールにテーブルを出した。いつものお世話役に「飲む酒を替えよう」と声をかけた。酒が足りなくなっては申し訳ない。われわれは「集」に余っていた酒を飲み出す。-数日過ぎて伴江さんから電話が来た。声がうわずっている。「お酒の請求書が来たんですが三万円ちょっとなんです。先方さまに電話をしてまちがっていませんかと念を押しましたら運賃もいただいていますというんです。一〇本分しか請求がないんであとの六本はと聞いたら、あれは売り物でありませんからといわれて…」。私はなんともいえない。「ご請求通りにお支払いしたら」といった。「でもー、越乃寒梅って、安いんですね」。「そうだよ」。「そうしたらー、今回は儲かっちゃいます」。「うーん、世の中にはサンタクロースもいるのさ」と答えた。(「「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎)


ほろ酔いきげん
子供の私は茶の間へ逃げ込んだ。酔った正月の客たちは、振袖(ふりそで)を着ている私を膝(ひざ)にのせたり、両手でたかだかとさしあげたりする。もうそれはいやだと思った。逃げこんだ私は、妹にその役をゆずりたいと母にうったえた。茶の間と座敷とをいそがしく行き来している母が、かわいいっていってくださるのにグズグズいうもんじゃありません、さ、はやくこれを持って行って、と、おかんのついたとっくりの盆を持たせた。妹はまだ幼くて、おとなしく客の膝にいる。わたしはとっくりを置いて、そそくさと逃げる。酔客たちが、南洋じゃ美人の歌をうたってよろよろしながら、やあ和ちゃんも踊ろう、なんぞと寄ってくるのをすりぬけるこつ、あれは六つ七つのころに覚えた。逃げながら、客に不快感をのこさないことが大事、と感じていた。盃に酒を注(つ)いでまわる役もそのころから身についた。そしてちょくちょく茶の間にとってかえし、酒のかんをみつつ、少し味わってみた。母も気づかなかった。なるほど酒はおいしいものだ、と、酔っている客たちに同情して、座敷へ出ていったのを覚えている。(「酒との出逢い ほろ酔いきげん」 森崎和江)


れんちゃん(連ちゃん)
[名](麻雀用語から)授業・コンパ・飲み会など連続してあること。「3連チャン」のようにも使う。◇『笑解 現代楽屋ことば』(1978年)<中田昌秀>「れんちゃん、麻雀用語の連荘から来た。親がつづけて上ることから転じて、続けてすることをいう。『ここ三日間トルコの連荘でね』」◇『下町のオキテ』第八条(1997年)<畠山健二>「フィーバー連チャンに挑戦しながら」◇『こんな男じゃ結婚できない!』お見合い達人委員会座談会(2003年)<白河桃子・岡林みかん>「三日間、連チャンということもあるらしい」(「日本俗語大辞典」 米川明彦編)


幕の内
江戸時代後期、江戸で、芝居見物の折昼食に食べた弁当。岡本綺堂(おかもときどう 一九三九年)の『明治の演劇』に、<少しく下卑た話であるが、そのときに私が劇場の中で食はされた物をかんがへて見ると、先づ餅(もち)菓子のやうなものが出た。それから口取物に酒が出た。午(ひる)飯は幕の内弁当であつた。午後になつてから鮨(すし)を持つて来た。ゆふ飯は茶屋へ行つて、うま煮のやうな物と刺身と椀(わん)盛で普通の飯を食つた。興業時間が長いために、どうしても二度は劇場内で飯を食はなければならないのであつた。夜になつて氷菓子を持つて来た。要するに食物の種類は今日と殆(ほとん)ど変らないが、たゞ変はつてゐるのは幕の内だけである。これは江戸時代からの習慣で、劇場内の弁当は幕の内と決まつてゐた。->とある。(「飲食事辞典」 白石大二)


いけだ【池田】
①摂州に於ける有名な酒造地。猪名川の東岸に在り、南方の伊丹と相対して居る。永禄中、池田勝政の城地であったが、後に荒木村重の領地となつた。
俄雨池田いたみへ足が生へ  酒菰冠る人の形容
農民の汗を伊丹で又しぼり  汗の米をしぼりて酒
俳人も池田伊丹は一本木  鬼貫は伊丹の酒造家(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


灘の留(とめ)仕込み唄
起きていなんせ 東窓明るい
館やかたの 鶏が鳴く

館やかたの 鶏が鳴いて仕舞や
仕舞やお寺の とりがなるママ
(中略)
天満寺町 花屋の婆々が
花を売らずに 娘売る

娘髪結うて 花の木の下に
どれが花やら 娘やら

娘島田にゃ 喋々がとまる
止まる筈じゃよ 花じゃもの

花と見られて 咲かねば無用
咲けば実がなる 恥ずかしや
まだまだ続きます。歌詞がわかりやすいように書きましたが、実際には
(音頭)おきてナー いなんせヨー 東窓明るい
(合唱)ヤレやかたナー やかたの鶏が鳴く
というように歌われます。(「灘の酒」 中尾進彦)


医者の薬瓶(くすりびん)  里見弴(作家)
酒との出逢いひ、つまり初対面だね、それがバカに早いんだ。嘘(うそ)みたいな話だけど、小学校二、三年ごろ、出入りの酒屋の小僧さんに紹介されたのさ。なアに、そいつだつてせいぜい三つか四つ年上だつたんだらうがね。お医者のくれる薬瓶、胴ツ腹に六回分の仕切り線のついているやつさ…なに、知らなくつたつていいよ、そいつを渡して言ふには「おうちの方には内緒(ないしよ)で飲んでごらん。すてきにうまいんだから」つてね。見ると、無色透明の水さ。舐めてみたら、舌がピリツとしたけど、甘くておいしいんだ。あとでわかつたんだけど、薩摩ツぽうのうちの父爺(おやじ)が大好きで、バケツ一杯ぐらゐ平げる冷素麺(ひやそうめん)の相の手に欠かせない、琉球の泡盛つてやつだつたんだとさ。そいつを、だアれも見てないとこで、瓶の口からチビリ/\やりだして、二日目だつたかに、いきなり目をまはしてぶつ倒れちやつたんだとさ。残つてゐた液体から足がついて、うちの注文を途中で失敬した小僧さんは勿論のこと、私だつて目のくり玉が飛び出るほど叱られちやつたよ。それで懲(こ)りたわけでもなく、初対面からすぐの絶交状態が、…さうさなア、中学卒業くらゐまで続いたらうか。そのうち、寄席(よせ)や芝居なんかが火もとでだん/\放蕩(ほうとう)、…つてほどのもんじやアない、その時分には、なんでもない町家(ちようか)のなかに、四、五軒から十軒ほど、若い女のごろツちやらかしてるうちがあつちこつちにあつて、たしか「をか場所」とか言つたね、芝公園手前の左手とか、向ふ柳原の裏通りとか…あ、いけねえ、これは、酒との出逢ひ話だつたツけ。だけど、酒なんて、出逢ひのそも/\から、うまい、まずいだの、好き嫌いだのが、さうはつきりわかるもんぢやないぜ。(「医者の薬瓶」 里見弴)


二つに分離
(昭和)二十二年の夏、公正取引課長にウエルシュ氏がやってきて、過度経済力集中排除法の指定を受けて分離するということになった。簡単に公平な二分割ができる方法である。社員は同じ学歴、同じ能力のカップル(一対)の組合せをつくって双方に分れさせる。二人が同じ会社でなければならない場合は、二人単位のカップルをつくって、これに見合う二人を別の会社に配属する。工場も全国的に平均し、生産能力も販売地盤も均衡のとれた理想的な二分割案をつくり、この案を示したところ、ウエルシェ氏は非常に喜んでくれた。こうして二十三年一月に指定をうけて朝日麦酒、日本麦酒の二つに分離することになったのだが、会社の内部事情で分離の実行が二十四年九月一日まで延びてしまった。ちょうど、各種の統制撤廃の時期で、二十四年七月一日に酒類公団が解散して自由競争に切替わるときだった。公団の解散前もう少し早く分離しておれば、得意先の分割など自由競争体制に対する準備もできたのだが、分離が公団解散後になったために販売面がテンヤワンヤになってしまうという痛手を受けた。ここに、朝日、日本の両社が今日苦しんでいる立遅れの大きい原因が伏在する。(「私の履歴書」 山本為三郎)


オータケさん…。あかんやん  関西在住の某編集者
関西在住の某編集者。仕事のできる女性編集者で、筆者(大竹)などにも目を配り、声をかけてくれる、心根のやさしい人。-
しかしながら、三日前くらいから、どうにも歩けなくなってしまったのだ。私は痛風持ちである。風が吹いても痛い、というほどになったことはないのだが、足首だとか、甲だとかが、足を地に着くたび痛む、という症状は何回か経験したきた。初めてのときは、内科医の診断を受けて、薬ももらった。痛みは和らいだが、下痢もしたし、そもそも尿酸値は高くなかった。痛風ではないのかもしれないと、その医師が呟いたくらいだから、私も甘く見たというところがある。けれど、それから後も、何度か、歩けないぞ、という状況には見舞われてきたのだ。それを顧みることなく不摂生をつづけてきたわけだから、大事な関西出張を前に、あらららら?歩けないんじゃないの、という過酷な状況になったのは自業自得というものだった。前日になっても、自宅でトイレに行くのに悶絶するありさま。けれど、取材のアポイントは整っている。全部チャラにして、なんてことが成立するわけはない。幸い左足である。車の運転に支障はないし、義母から借りた杖をうまく突けば、ヨタヨタであるが移動はできる。そこで決心した。私の住む東京は多摩地区から新横浜まで自ら運転し、駅になるべく近いところに駐車して新幹線まで這ってでもたどり着く。そうすれば、新大阪からはカメラマンの車に同乗させてもらいながらの取材だからなんとかなる。立っているだけならなんとかなる。その晩、泊まって、明日はまた明日の風が吹くさ。こうして、某月某日、午前十一時。新大阪駅へ着いた私は、編集の彼女が待つ、中央改札口へ向かって杖を突き突き脂汗。改札の向こうに、迎えにきてくれた編集女史の姿が見えた。よかった。来られないという最悪の事態を避けることができた。私は、できるかぎり、なんでもないふうを装って改札を出て、声をかけた。「おはようございます!」彼女は、杖を突く私の姿をじっと見て、ひと言、言った。「…オータケさん、…あかんやん?」そう、あかんのよ。でも、やってきたからには、行かねばならぬ。杖突いて、立ち飲み四軒、ハシゴ酒-。取材を終えたとき、安心と疲労と痛みで、私の意識は、かなり薄くなっていたのです。(「酔っぱらいに贈る言葉」 大竹聡)


三四 さけはさかや
二上リ酒(さけ)は酒屋(さかや)に茶は茶屋(ちやや)に、ぢよろは木辻(きつじ)の鴨川に「ないそな〻いそ五月にや戻(もど)る、おそて六月中頃(なかごろ)に
ないそな〻いそ-泣きそな泣きそ おそて-おそくても(「松の落葉」 塚本哲三編輯)


25日 酔いざめの牛乳
少し飲みすぎたかなと思ったら、宴会の席をそっとはずして、がぶがぶ水を飲んでしまうといいと、お酒飲みの叔母が、むかし教えてくれた。これは今でもケンケンふくようしている。酔いざめの水のかわりに、プレンソーダを飲むのが、一時、くせになっていたが、それを聞いた、新橋のレストラン「園(その)」のご主人-と書くとあらたまるがわれわれはいつも、エイチャンと呼んでいる-が、それは胃によくない、牛乳がいい、と教えてくれた。エイチャンからのまた聞きによると、それは九朗右衛門君がアメリカで覚えて来たのだそうで、強い酒でただれかかった胃壁には、牛乳の脂肪がうすい膜をはって、しごくいいのだという。科学的な感じなので、わたしもさっそくそれにした。つめたいから、もとより酔いざめの水の第一目的をはたす上に、栄養があって、あれた胃の腑を保護してくれるのだから、まさに一石三鳥だ。(「私の食物誌」 池田弥三郎)


東京の大衆酒場
古くから続く町だと、大衆酒場の一軒や二軒はすぐに見つけられると思いますが、数として多いのは、旧街道沿いだったり、鉄道のターミナル駅だったりという、いわゆる交通の要所。戦後、闇市が盛んだったのも、こういった交通の要所だったそうですので、人が集まるところに酒場があり、なんですね。十条の「斎藤酒場」や、北千住の「大はし」、大井町の「大山酒場」などが、旧街道近くの老舗大衆酒場です。都心部、特に山手線内の店では、暖簾(のれん)や提灯に「大衆酒場」と書いてあり、店の雰囲気や、出てくる酒や肴も大衆酒場と同じながら、値段がやや高い店も多いようです。そんな中、池袋に二軒ある「ふくろ」や、虎ノ門の「升本」、御徒町の「佐原屋」、渋谷の「細雪」、新宿の「番番」などは、値段的にも正しき大衆酒場と言えるでしょう。(「ひとり呑み」 浜田信郎)


樽次[たるつぐ]
地黄坊樽次。大塚雑司が谷に住み、本名を茨木春朔と云い元酒井家の扶持人。慶安二年春川崎大師河原の庄屋池上大蛇丸底深と三日三晩に亘る酒戦をしたことが水鳥記にあつて有名。辞世に曰く、南無三宝あまたの樽を呑みほして身は空樽にかへるふる里。墓は豊島区池袋祥雲寺にある。
①李白が来ると樽次が出るところ  (逸)
②樽次臨終升でのむ末期酒  (同)
①白楽天が来たのを洋上に迎えてやり込めたのは住吉大神だった。もし酒豪が来たのならという意味。片そぎの社、白楽天等を見よ。 ②大酒家だ、末期の水だつて酒にしてがぶがぶ。
③大根では呑めぬ/\と地黄坊  (逸)
④地黄坊わざと三日三切喰ひ  (同)
④ナナ地黄は強精剤で大根を食べて効力を失うとされていた。そのひねり。 ④上戸だから餅はにが手。でも正月だからというのでホンのおしるしに。(「古川柳辞典」 十四世根岸川柳) 祥雲寺の墓は間違い。


大村博士
今の新橋駅前の新富ずしが、その頃は今のところから少し西へ寄った細い路地のとばッ口に、屋台の差掛けのような構えで立食いでやっていた。毎日三時頃からはじまった。おやじさんが少し風変りで、「吾人の鮨は-」とか何んとか言って握っている。「ね、お前さんは出世をするよ。鮨を食う人間はみんな頭がよくなる。会社でも何んでも一番出世の早いのは、大抵ふだん吾人のところの鮨を食っている人だよ」などといった。-
この屋台の左手に小さな丸い卓があって、椅子を一つ二つ置いた狭いところがある。大村博士はここへ陣取って、鮨のさし身でよくお酒をのんでいる。ひどく脂(とろ)のところが好きなようであった。あまり大酒家ではないが、長い時間ちびりちびりとやっている。これがほとんど毎日であったのではないかな。私は用事があると、ここへ行って逢った。ついでに自分も鮨を食う。新富は高い高いとはいわれたが、三円あれば満腹した。「味覚極楽」が終ってからも、よく博士と逢ったというのは、博士が大倉喜八郎翁の主治医だったからで、すでに家督を喜七郎さんに譲って隠居はしていたが、九十一歳の実業界の巨人大倉翁の死ということは、新聞記者としては見逃がすことの出来ない一つである。(「梅干しの禅味境<医学博士 大村正夫氏の話>」 子母澤寛)


白雪賛詩を残した頼山陽
また、これはとても面白いんじゃないかと思って紹介させていただくのですが、白雪の歴史の中には「やっかい長屋」という言葉が残っています。厄介者の「やっかい」という言葉は、「ごやっかいになる」という意味の「やっかい」ということで、昔は、先ほどの俳諧とか剣道の達人が伊丹に来られた時には寄っていただき、ここに泊まっていただいて教えを乞うたのです。武術家や文人墨客が逗留した所であります。皆さんの中に広島出身の方いらっしゃいますか?広島で頼山陽と言ったら有名な儒学者で、広島だけでなく全国でも有名ですけれど、この方は凄いお酒好きで、広島と大阪の辺りを行ったり来たりされて、通られるたびに酒蔵に寄ったことで有名なんです。私どもにも寄っていただいて、今も商品に使っている『白雪』という文字は、頼山陽が文政四年(一八二一年)に書かれた文字であります。また、ラベルに「一杯白雪/酹黄泉/千「火禾」歓酌/芙蓉霞」という白雪賛詩が書いてあるのですが、これも頼山陽から贈っていただいたものであります。(「トップが語る現代経営」 小西酒造株式会社 小西新太郎代表取締役社長)


酒は裏切り者である。最初は友で次は敵だ。
<出典>イギリス、トーマス・フラー(Tomas Fuller 一六〇八-六一)
<解説>この管理社会という、複雑な人間関係の社会では、酒ほど、その悩みを率直に受け入れてくれる友は、他に見あたらないかもしれない。よく、ストレスには、良性ストレスと悪性ストレスがあると言われる。良性とは、例えば、結婚式の新郎新婦が受ける緊張を想像すればよい。確かに、当人たちはストレスを受けるが、このストレスはむしろ心地よい。悪性のストレスは、枚挙にいとまがないほどある。職場のトラブル、男女間の心の葛藤などすべて、心に大きな負担をかける。酒は、気分をリラックスさせ、ストレスを解消するという、大脳皮質を麻痺(まひ)させる作用から生ずる効用によって、われわれの精神状態のリフレッシュにどれだけ役立っているかわからない。また、適量の酒には、HDL(善玉コレステロール)を増やし、動脈硬化を防ぐというはたらきもあって、狭心症や心筋梗塞(こうそく)などの予防にもひと役買っている。まさに、良き友である。だが、つき合い方を間違えると、心もからだも酒におぼれて、最大の敵になりかねない。WHO(世界保健機構)の見解によれば、毎日アルコール量で一五〇グラム以上を飲むドリンカーを、アルコール中毒予備軍と呼ぶ。この量をお酒に直すと、ビールなら六本、日本酒なら五合四勺(しやく)という量になる。ストレスを解消してくれる良き友を、人生を破滅させる難敵にしないようにしたいものだ。(志賀貢)(「食の名言辞典」 平野・田中・服部・森谷編)


平賀源内
(平賀)源内は、学者が学者らしくしているのは、味噌の味噌くさいのと同様にいただけないと言っていたと『一話一言』に見える。かつて同学の士であった高松の藩士菊池某に、江戸の町でばったり出会ったとき、学者らしく進退する菊池を料亭に連れていき、大いに飲んだ。そこへある豪商からの使者と称するものが源内を訪ねて来た。用件はその豪商が入手した一奇物を見てほしいとのことだった。名前も産地もわからないものだが何だろうという。源内は一見するなり、ああこれは西洋のどこで産する、しかじかというもの、と即座に答えてやった。客は大いに喜び、その場で鑑定料を出して礼として立ち去った。この大金はあればもっと飲める、どんどん飲んでくれとすすめられ、菊池は大いに感激し源内の博識をほめた。源内は「いや、あんな誰にもわからぬものが、拙者にわかるわけはない。英雄たるものはああして人をだますものだ」とうそぶいた。双方はますます愉快になり、心ゆくまで酒を飲んでは、その類の気焔をあげたそうである。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎)


ぐでんぐでん
ひどく酒に酔って、正体がなくなる様子。「酒のきらいな木之助を居酒屋へつれこみ、自分一人で飲んで、ついにはぐでんぐでんに酔ってしまい」(新見南吉『最後の胡弓ひき』) 類義語「ぐでぐで」「べろんべろん」「ふらふら」「よろよろ」  「ぐでんぐでん」が、のたうち回るような大きな動きを伴う印象が強いのに対して、「ぐでぐで」の方は、「客は急にぐでぐでに酔った風を装って(細井和喜蔵『女給』)の例のように、それほど体の動きが感じられない酔いを表す。これは「ごろんごろん」と「ごろごろ」の関係と同様で、弾むような印象を与える「ん」の有無による差。また、ひどく酔った状態を表す「べろんべろん」は、ろれつが回らないところに視点がある。「ふらふら」はきちんとした姿勢でいられない不安定な様子を表し、「よろよろ」は足下がおぼつかず容易に倒れそうな様子を表すところに特徴がある。 参考 江戸時代には「ぐでんになる」の形で泥酔して正気のない様子を表した。(間宮厚司)
新美南吉 児童文学者。童謡や童話を「赤い鳥」に投稿。民話風の話を、善意にもとづきユーモラスに描く作品『ごん狐』『おぢいさんのランプ』など。(一九一三~四三) 細井和喜蔵 小説家。工場の労働者として働き、労働運動に参加。大正一四年、そのときの体験をつづった記録文学『女工哀史』を出版。作品『工場』『奴隷』など。(一八九七~一九二五)(「擬音語・擬態語辞典」 山中仲美編)


寓言(2)
立派な清酒も、もとは鋤鍬(穀物の生産)である。立派な模様織も、もとは杼(ひ)と軸(てまき)(織る道具)である。(説林君)(「淮南子 寓言二百九則」 後藤基巳訳者代表)


酔狂犬
風呂のあと、パジャマをひっかけ、彼は茶の間に坐る。日本酒をコップで流しこむ。萎えた植木がたっぷり水を吸ったぐあいに、神経の末端まで潤い、半日歩きまわった疲れも、当てにしていた化粧品の広告が取れなかった憂さも、消えていく。いつものように、途中でウイスキーの水割りに切りかえる。-
「ちょっと遊んでやるだけだ。すぐ下ろすよ」彼は不快さを抑えて言った。ジュンは抜け毛のひどい状態ではない。神経質すぎる…。「だめよ、気がつかない間にとんでもないといころまで飛んで、くっつくんだもの。ジュン、こら、だめ。降りて降りて」妻は大声で犬を叱った。「いいから、ジュン、ここにいろ」耳を伏せ尾を垂れ、すごすごと外に出る犬を、彼は呼び返す。犬はまた敷居を越えようとしては、妻の叱正で縁に退り、困ったような顔つきをしてうろうろと回る。何か残り物をのせた皿を手に、妻はすばやく庭に降り、犬を小屋につなぐ。酔いの底から不意に、自分でも一瞬いぶかしく思える激しさで、栓を全開した噴水めいて噴き上げるものを、彼は抑えきれなかった。餌につられた犬の卑屈さに似かよう自分の嫌な部分を、その奇妙な怒りが押し拡げるのを意識しながら、「何だ、このやろう!」彼は喚き、手に触れる物をつぎつぎに庭に投げた。せまい庭の土をえぐって、灰皿やコップが跳ね、海堂の根方の石やコンクリートの塀にぶつかって、砕けた。犬は小屋の奥に身をちぢめ、妻は、と振り向くともうそのへんには居ない。気狂いじみて別人の顔になっている自分がわかり、その自分をもてあまし、彼は二階へ駆け上がった。着替えて、どこかへ行くつもりだった。彼の部屋に手早く蒲団を敷く妻のそばに、首に包帯を巻いた娘が、ぽかんと立っていた。妻は彼の腕をとり、なだめ声で言った。「ね、もう寝て下さい。そんなに酔っぱらってるとは思わなかったから…」「不愉快だ。人がせっかくいい気分で飲んでいるのに、何だ、あれは。ほんのいっとき、おれがおれの犬をかわいがることも、できんのか」息を荒らげ、体の中いっぱいに膨れ上がる熱い得体の知れないものを、一気に露出させるふうに、彼はパジャマを剥いだ。「悪かったわ。それで気がすむなら、あたしを殴って」背の高い彼にぶらさがる感じで妻はしがみつき、まるい小さな顔が挑むように迫り上がった。殴れないことを知っていて、と彼は思った。よけい腹が立った。「馬鹿にしやがって」唸りながら、一時間ばかり前脱いだズボンに足をつっこんだ。「あたしの喉のせいで、すみません」と妻の背後で娘が、いつになくしおらしいことを言った。軽蔑をかくした、憐れむような表情だった。しかし彼は、娘をいじらしく思った。「おまえのせいじゃないさ」服を着替え、階下に降りる彼に、はやくも後悔がからみついている。いい歳をしてあんな真似をしてしまった自分が口惜しかった。台所を通るとき、俎板の上の庖丁と白い粉をまぶした鰈が、目に入った。彼は手に庖丁をつかみ、二、三度、鰈に叩きつけていた。それも子どもじみた愚かしいふるまいだと気づきながら、そんなことをせずにはいられなかった。(「酔狂犬」 嶋岡晨)


初代川柳の酒句(19)
大黒前を見さいなと和尚酔う  仝(雨譚)
菊酒も飲ミ落厂(らくがん)も好キなやつ  雨譚
鬼殺し頼光時分からの酒  高麗
駕の有ル所(とこ)まで下戸(げこ)の大難儀  雨譚
すりこ木二本持て出る下戸の礼  雨譚(「初代川柳選句集」 千葉治校訂)


811坊主憎けりゃ
A「君はどうして酒も煙草も止めたのか?」
B「実は、僕の愛している煙草屋の娘が酒屋の息子と結婚したんでね。…」(「ユーモア辞典秋田實編」 秋田實編)


△酘(そえ)(右「酉胎」の上へ米麹水をそえかけるをいうなり。是をかけ米入味ともいう)
右の「酉胎」(もと)を不残(のこらず)三尺桶(おけ)へ集収(あつめおさ)め、其上(そのうえ)へ白米八斗六升五合の蒸飯(むしはん)、白米二斗六升五合の麹(こうじ)に、水七斗二升を加う。是を一「酉胎」(ひともと)というなり。同(おなじ)く昼夜一時拌(かき)にして三日目を中という。此時(このとき)是を三尺桶二本にわけて其上(そのうえ)へ白米一石七斗二升五合の蒸飯(むしはん)、白米五斗二升五合の麹(こうじ)に水一石二斗八升を加えて一時拌(かき)にして、翌日此半(このなかば)をわけて桶二本とす。是を大頒(おおわけ)と云なり。同じく一時拌(かき)にして、翌日又白米三石四斗四升の蒸飯、白米一石六斗の麹に水一石九斗二升を加う(八升ぼんぶり二四という。桶にて二十五杯なり)。是を仕廻(しまい)という。都合(つごう)米麹(こめこうじ)とも八石五斗水四石四斗となる。是より二三日四日を経て、氳(うん)気二五を生ずるを待て、又拌(かき)そむる程を候伺(うかがう)に、其機発(そのきはつ)の時(ときに)あうを以て大事とす。又一時拌として次第に冷(さま)し、冷め終るに至ては一日二度拌ともなる時を酒の成熟とはするなり。是を三尺桶四本となして、凡八九日経てあげ桶にてあげて、袋へ入て醡(ふね)二六に満(みた)しむる事三百余より五百迄を度とし、男柱(おとこばしら)に数〻(かずかず)の石をうちて次第に絞り、出(いず)る所清酒(ところせいしゆ)なり。是を七寸という澄しの大桶に入て四五日を経て其名をあらおり、又あらばしりと云。是を四斗樽につめて出(いだ)すに、七斗五升を一駄(いちだ)として樽二つなり。凡十一二駄(だ)となれり。右の法(ほう)は伊丹郷中(ごうちゆう)一家の法二七をあらわす而已(のみ)なり。此余(このよ)は家〻(いえいえ)の秘事(ひじ)ありて石数分量等各(こくすうぶんりようとうおのおの)大同少(小)異あり。尤百年以前は八石位より八石四五斗の仕込(しこみ)にて、四五十年前は精米八石八斗を極上とす。今極上と云は九石余十石にも及べり。古今変遷是又云つくしがたし。
二四 ぼんぶり 「酉胎」おろしの図の左方、階段を上る男たちが手にしている小さい取っ手のついた桶  二五 氳気 むんむんと気が盛んにたちのぼるさま。 二六 醡 音サ、又はサイ。酒をしぼること。またその道具。図六を見よ。右下と左上の箱形のものがそれ。 二七 一家の方特定の其家の製法をいうたとえばここで米八斗六升五合、二斗六升五合の麹と記した酘は、『和漢三才図会』では米一石二斗、麹三斗六升と記されている。各醸造家がめいめい自分の家伝の法をもっていたのである。(「日本山海名産名物図絵」 千葉徳爾註解)


ヱビスが先か、恵比寿が先か?
東京は山の手線の「恵比寿駅」。駅周辺の地名も「恵比寿」だが、この地名にはこんな由来がある。明治二〇年ごろ、いまの「恵比寿」の正式な名称は、東京都下荏原郡三田村。この地名から察せられるように、当時の「恵比寿」は田舎もいいところだったのだが、そこに、ある日、日本麦酒醸造株式会社が、ビール工場を建設。恵比寿様のマークの「ヱビスビール」の生産を開始してから状況がかわった。ビールの需要が増えるにつれて、工場の生産は急上昇。近くにどうしても出荷用の駅が必要になった。それでできたのが「恵比寿駅」。つまりは、地下鉄の「三越前」みたいなものである。(「SAKE面白すぎる雑学知識面白すぎる雑学知識」 博学こだわり倶楽部編)


飲むに減らで吸うに減る
(A)飲酒より喫煙の方が寿命を縮める
(B)煙草(たばこ)代のような小さな出費が財産を減らす
ときおり飲む酒で財産が減ることはない。しかし、毎日吸う煙草は積もり積もって大きな額になる。だから、小さな出費に心をくばれということで、Bが正解。だが、「酒と煙草は飲んで通る」ということわざもある。飲んでも吸ってもなんとかやっていけるというものだということ。これに対してかたぶつを「五十煙草(ごじゆうたばこ)に百酒(ひやくざけ)」という。五十になるまで煙草を吸わず、百まで酒も飲まない、つまり一生禁酒禁煙というわけだ。(「どちらが正しい?ことわざ2000」 井口樹生監修)


酒を基語とする熟語(10)
酒家保 シユカホ 酒杜氏。(「後漢書」杜根伝)
酒胡子 シユコシ 酒席で使う起き上がり小坊師。(盧汪「酒胡子詩」)
酒仙翁 シユセンノウ 唐の李白の号。
酒大工 シユタイコウ 酒杜氏。(「直語補証」)
酒中趣 シユチユウシユ 飲酒がもたらす趣き。(孟浩然「洗然弟竹亭詩」)


ぶんじ
蒸米を甑(こしき)内から掘出す際に使用するスコップ状の道具で、一般には堅い材質の樫(かし)、欅(けやき)などの一枚板で作られているが、近年ステンレス製のものも使用されている.米が蒸し上がった時、検蒸(けんじょう)といって蒸米をこねていわゆるひねり餅を作り、米の蒸し加減をみるがその際ぶんじの上で蒸米をこねて餅にする.ぶんじは他にこうじ室でこうじの切返し作業にも使用するが、こうじ用のぶんじは甑用のものより小型につくられている.(「改訂 灘の酒用語集」 灘酒研究会)


思い出  中村喬
私が父の酒を盗み飲みしたのは、大学も卒業に近い歳になってからのことであったが、父がその父の酒を盗み飲みしたのは、小学生のときだったというから、その酒嗜みは根性骨入りで、これには降参するしかない。まことに左様に酒を嗜好した父だったから、学生時代から好んで読んだのは酒の詩だったという。その当時からすでに李白が好きで、「酒を飲むには李白の詩にかぎる」てなことを言っていた。そして、その李白好きは生涯変わることがなく、父の最後の原稿となったのも、李白の訳注だった(『李白』集英社、一九六五)。父はその日、李白の訳注を脱稿し、その原稿を出版社に送るよう自分で荷造りをし、郵送するよう家人に託して大学に出講、講義を終えてのち教室の外で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。 李白に始まり李白で終わる、これも因縁だったのであろう。李白と反対に、生涯嫌いだったのが杜甫の詩である。「あれは、めそめそしていて、いかぬ」と。(「中華飲酒詩選」 青木正児)


声明文
昨今、清酒の新酒鑑評会は大蔵当局のご努力もあって年年盛況をみせ、一般消費者の入場制限をせざるを得ない状況である。一方、生産者にあたってはブランドイメージアップの為、全国新酒鑑評会の金賞受賞を目指して特定の銘柄米を選び、且つ極端な高度精白と長期発酵で対処していて、原料効率と生産性の悪さの為に一部よりマイナスの批判も受けている。これも醸造技術の向上進歩の為には必要と理解しているが、残念ながら現状の鑑評会のあり方は清酒全般の為には功罪相半ばすると考えられる。即ち- ①現状は、新酒の時期の香味のみが強調され、夏を越した本来の日本酒の香味での評価が殆ど無視されている。 ②清酒は本来、食文化の一端を担うものである。南北3000キロメートルに及ぶ日本の住民の食味に対する嗜好が地域で異なる事は当然のことであり、それにリンクする清酒も地域の嗜好の上に成立している。これを全国一律の基準で評価することには問題があり、再び清酒の均一化をもたらし、多様化した消費需要に対応できない。 ③清酒には、特定名称酒なる一群が法定されたが、歴史的にみても消費者の心情からみても、清酒の本来の姿は米、麹と水が原料との認識がある。またアル添すれば、本来の発酵による成分は希薄されて、一見、水のごとく感じ易いことは自明の理であり、多数を審査する審査員がそれにひかれて、上位の賞を与えることには疑問がある。 以上の観点から鑑評会を、次のごとく改善されることを提言する。 ①全国鑑評会を廃止し、地方局主催のみとする。 ②地方局主催の鑑評会は、春と秋に同規模且つ同等の比重で各一回催す事とする。 ③審査は純米酒(1号)とアル添(ロ号)とを区別し鑑評し表彰する。 ④各地方での上位入賞酒は、日本酒センター等に於いて一堂に集め一般公開する。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎) 「平成5年8月10日、純粋日本酒協会=代表幹事(当時)本田勝太郎氏によって関係方面へ配布された声明文の全文である」とあります。


鰭酒 ひれざけ 身酒(みざけ)
河豚の生きているうちに切り落とした鰭を強い炭火であぶって焦がし、これをコップに入れてこれに熱燗の酒を加えたもの。これをのむのが通人といわれる。鰭の代わりにさしみの一片を入れたのを身酒という。
鰭酒も春待つ月も琥珀色  水原秋桜子
鰭酒や意地で飲まざるにもあらず  下村梅子
鰭酒や逢へば昔の物語  高浜年尾
ひれ酒や世迷い言も言へば言ふ  冨田妙(「合本 俳句歳時記 新版」 角川書店編)


後撰夷曲集(3)
重陽宴
千代までも 一家一門 くるま座に くるりとまはせ 菊の盃  相宥
不老不死の 薬ときくの 酒なれば かさね/"\も のみまする哉  信安
題不知
本歌 淡路島 かよふ千鳥を 肴にて いくよね酒の すまの関守  一圃
題不知
花に酒 月に芋くふ 春秋も 冬にはいかで 杉焼の鯛  行重(「後撰夷曲集」)


どっちかというとオクテ
酒に関しては草野心平は、「どっちかというとオクテ」だったという。随筆の一つ「わが正月の酒」(昭和49年)に自分でそう書いているのだが、中国広州の嶺南大学に入学した十八歳の後半ぐらいからだったらしい。大学生になれば酒も大っぴらにというのは昔も今も変わらないが、大正十年ごろの十八歳というのは、たしかにオクテのほうかもしれない。酒を抜きにしては語れないような後年のこの詩人の印象からすると、少々意外な気もするが、人が大酒飲みになるかどうかは、何歳で飲み始めたかには関係ないということなのだろう。(「」草野心平の酒) 渋沢孝輔


河童 かつぱ
【参考】河童を皿へ居酒屋の三杯酢  一六〇29
(胡瓜の異名をカッパという。きうりもみ)(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)


吸物八寸
およそ時代離れした酒の飲みかたのようであるが、実は、これが茶会では今もおこなわれていて、「吸物八寸」という。食事がほぼ終るころに、亭主は吸物を運ぶ。今はごく淡白な味つけで、梅干しの一片と松の実といったほんのわずかな実の入った吸物で、箸洗いとも呼ぶ。次に亭主は片手に燗鍋をもち、片手に八寸(白木の八寸角の折敷)に海のものと山のもの二品の酒肴を盛ったものをもってでて、亭主から盃をもらう。盃を客に戻して肴一種をつけて次客へ移る。次客と盃を交わし三客へ。これで一巡すると再び正客へ戻り、同じように盃を交わし二品目の肴をつける。というわけで亭主と客の間で盃が行きつ戻りつする姿を形容して、千鳥の盃という。まさに中酒の変形ではないか。吸物、八寸が済むと道具を片付け、湯桶をもちだす。ただし、白湯ではなく、飯炊きのときにできる「おこげ」に湯をさした独特の香ばしい湯であるところが茶の湯の特徴であろう。(「酒と社交」 熊倉功夫)


ほんなほし【本直】
焼酎十石と、糯白米二斗八升と、麦麹一石二斗との割合で醸した酒。風味は焼酎に似て稍や甘かつた。酒屋で売り出す時、『本直し』と書いた板札を柱に掛けた。
見世先の柱かくしは本直し  柱に掛けた看板(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


トクリ(2)
瓶子は神饌具としてだけでなく、酒のみならず醤油、油、酢などの容器にも使用され、酒宴や食生活とも密着していた。室町末期から江戸中期に入って徳利が普及すると、瓶子はいつの間にか「御神酒徳利(おみきどつくり)」と呼ばれるようになって、再び神棚に座るようになり、酒を燗する徳利のほうは 「酒徳利(さかどつくり)」「燗徳利(かんどつくり)」あるいは単に「徳利」と呼ばれて酒席専門になった。ただ、「燗」という字の初見は江戸初期の噺本『醒酔笑(せいすいしよう)』とされており、徳利が最初に出た室町後期よりも後であることを考えれば、必ずしも徳利は燗をつけるだけのものでなく、万能の容器と考えたほうがよいのかもしれない。その証拠に、室町期に現れた徳利は、江戸期のものあるいは現代のものに比べると非常に大きく、一升から三升入りという大徳利であった。これではとても燗などできないから、酒や醤油のような液体や穀物を入れる容器としての「トクリ」であったのだろう。(「日本酒の世界」 小泉武夫)



[孟子離婁]注、戦国策曰儀狄作酒(ぎてき酒を作る)、禹飲而甘之曰(う飲みて之をうましとして曰く)、後世必有以酒亡其国者(後世必ず酒を以て国を亡ぼす者有らんと)、遂疏儀狄而(ついに儀狄をうとんじて)絶旨酒(うまざけを絶やす)、〇杜康作酒箬葉露酒の事也(「増補 俚言集覧」 太田全斎著 井上頼国、近藤瓶城増補)


大酒仕儀停止候
酒宴、寄合酒が盛んになれば、乱痴気さわぎもおこるし、酒に呑まれて興奮するものもある。「酒好き」ということが、この時期から、たびたび為政者の問題になってもきた。元禄九(一六九六)年八月に、幕府は、 一、酒に酔、心ならず、不届仕候もの粗有之候、兼而より大酒仕儀停止候得共、弥(いよいよ)以酒給(たべ)候儀、人々慎可申候事 一、客等有之候而も、酒強(しい)候儀無用ニ候事、附、酒狂之もの有之候はゞ、酒給(たべ)させ候ものも、可越度(おちど)事 というふうに令した。最後に見える、酒を提供したところから酒乱に至らしめたものも、やはり成敗すべきものだということが、今日の、酔っぱらい運転を導いたほどに酒を供したものを罪にする、との考え方に通じているようだ。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎)


水で割ったらアメリカン

稲見部長は「半歩先、いや〇・三歩先を見詰めた宣伝広告の展開でなければ」大衆の関心を呼ぶこと、ひいては生活の一部に食い込むことは不可能と判断してる。でも、それをどう見定めるかは、「経験をふまえた直感が主で、各種の市場調査もむげにできない」という。そうした判断から三年間もおあずけを食わせたわけだが、そのおかげで結果的に「ブランデー、水で割ったらアメリカンは」大ヒットした。実はこの成功によって稲見部長の心の中にもちょっとしたスキが芽吹いたに違いなく、鈴木からの「ワインをソーダで割るキャンペーンはどうでしょう」という提案を、簡単に認めてしまった。五十五年三月のことである。これは完全に失敗だった。しかし、稲見部長は、しょげた鈴木にただひとこと、こういったにすぎなかった。「飲みものとしてうまなくないし、一歩も一歩半も早すぎた生活提案のように思えたね」失敗を責めたのではない。反省を基盤に、今後がんばってほしいとの励ましだった。(「サントリー宣伝部」 塩沢茂)


古酒新酒
さなり、こゝに一盞の冷酒ありこれ、もとより貧しき我が家の新たに供へたる屠蘇にあらず、また到来の壜詰の口切たる芳醪(ほうらう)にあらず。人々が飲みかたむけたる古き盃の底の一滴二滴、また新たに注がんとする樽の下洩りの三露四露、我が硯を盃にかへて聚めたるもの、こゝにこの「古酒新酒」なり。だた一盞の冷酒、これをもて人々よく酔はせむとの意にはあらず、況んやまた故(ふる)きを温(たづ)ねて新しきを知るなどの意をや。-
古酒新酒、盃未だつきざるに、約束の紙数既に越ゆ、記者足下、願くば之を許せ。擱筆するに当りて更に二三の新問題を提起す。曰く、今後の一ヶ年は同胞の最も注意して活動すべき時期也。曰く、吾人は次期の戦争として日独の干戈を予想しうべき幾多の理由を有す。曰く,求めて倦まずんば遂に与へらるる時あらむ。曰く、我起つべき時は漸やく迫り来れり。以上、早々頓首。(明治三十九年一月)(「感想 古酒新酒」 石川啄木)


酔っぱらいの主張(2) フジテレビ深夜不定期
製作者の主張
「強力45」という、若手のディレクターばっかりで制作する45分間のワクが、深夜にあったんです。その年末・年始のスペシャル版を、オムニバス形式で、一回を五分もの七本で作ろう、ということになった。僕は、「夕焼けニャンニャン」をやってた頃から、酔っぱらいで何か撮ってみたら面白いんじゃないかとは思ってたんです。それなら今度はミニ企画だからいい機会だし、年末だから酔っぱらいもいっぱいいる。はずすと思いっきりはずれるだろけど、当たれば面白いよ、試しにやるのはいいんじゃないって、カルーいノリで決めたんです。で、ロケに出たら、いきなり最初にあの茅ヶ崎のお父さんが撮れた。あ、これ一人だけで十分もつ、と思って、それを年末に5分だけ放送したんですけど、けっこう感触がよくて。年が明けて一月半ばに、その「強力45」のワクが一本空いているっていう。じゃあオレにやらせてくれっていうことで、急拠、また二日ぐらいロケに出て、最初に撮った茅ヶ崎のお父さんのをメインにして、45分ワクを作ったんです。(その後60分バージョンに再構成して再放送)視聴率そのものは、1.5パーセントとかそんなもんです。ただ、一部に面白がってくれる人たちがいて。糸井重里さんなんか、川崎さん経由でビデオを五本プリントしてくれって言ってきた。友達にバラまきたいからって。それがタモリさんの耳に入って、で、「笑っていいとも」に笑福亭笑瓶さんがゲストのとき、15分ぐらいその話をしてたり。-
まあ、とりあえず"人間"を描写したかった。別に世の中の現象とか、「酔っぱらいが面白い」とかいうことを表現したいわけではなくて、「このおじさんが面白い」ということを言いたかったんです。一人を延々写したのも、長くやらないとその人が出てこないからです。60分バージョンのアタマに「これはヒューマンドキュメントなのである」というナレーションを入れたんですが、あの番組の狙いは、この言葉に集約されてると思いますね。<フジテレビ編成局第二制作部・水口正彦氏談>(「広告批評 1987-7」 天野祐吉発行人) 酔っぱらいの主張(2) フジテレビ深夜不定期


酘法と酎法
なお清酒仕込法において、酵母菌はまた、特にビタミンMの十分な補給がないかぎり、一定容積中の菌体数があるリミットを超過しなければ繁殖することができない、という特性をもっている。そのために大量に酒造を行ない、また酒精の濃度を高めるためには、酛のなかに原料米を何回かにわけて投入するか、またはいったん搾った薄い酒を汲水として、再び麹を仕込んでゆくか、いずれかの方法をとらなければならなかった。前者は中国の『斉民要術』にいう「酘(そえ)」法であり、後者は『詩経』などにいう「酎」法である。この酘法によったのが上風流の三段掛(初添・仲添・留添)で、すでに室町末期には『多門院日記』にみられるように三段掛法が試みられ、これが三段掛に定着するのは、南都諸白から伊丹諸白にかけてであった。他方、酎法は『本朝食鑑』では「古酒造り」としてのべており、今の味醂の醸造法は、この方法によっているのである。(「酒造りの歴史」 柚木学)


タラコの花煮
タラコの下ごしらえ ①真子は薄い塩水でぬめりや汚れをとる。 ②ザルにキッチンペーパーを敷き真子を並べて水気をきる。 ③食べやすい大きさ(3~4cm)に切る。
作り方 ①真子は写真を参照に下ごしらえする。 ②煮汁を煮立て、真子を入れて紙ぶたをして中火で煮汁がなくなるまで煮込む。途中何度かアクを取り除く。 ③わかめは適宜に切り、分量の煮汁でサッと煮る。 ④器に真子とわかめを盛りつける。
材料(2人分) タラコの真子…200g だし汁…カップ1/2 酒、みりん…各大さじ1 砂糖…大さじ1½ 薄口しょうゆ…2/3   わかめ…60g だし汁…カップ2 酒…大さじ1½ みりん…大さじ1 薄口しょうゆ…大さじ2
このつまみに、この一本 尾瀬(おぜ)の雪どけ 吟醸 日本酒度…+3 酸度…1.5 価格…2500円(1.8ℓ) ●蔵元の穏やかな風貌がそのまま酒にも現れている「尾瀬の雪どけ」は、さわやかで軽快な味わいを持つ。名前の通り、雪どけ水のようなほんのりときめ細やかな味わい。(花ふぶき)(「新・日本酒の愉しみ 酒のつまみは魚にかぎる」 編集人・堀部泰憲)


タバコ灸
もっとも、普通の家庭にそうそう都合よくもぐさがあるとは思えないので、ここではタバコをもぐさの代用品にする、「タバコ灸」を紹介したいと思う。やり方はカンタン。火のついたタバコを、該当するツボに近づけたり離したりするだけだ。-
<やり方>ツボのあたりに、五ミリくらいまでタバコの火を近づけ、熱いと感じたらさっと離す。これを七、八回繰り返す。ちなみにタバコを吸わない人であれば、線香やドライヤーの熱などでも代用できる。
<おススメのツボ> 「築賓(ちくひん)」うちくるぶしの後縁から約一五センチ上方。毒物の解毒作用がある。 「大敦(たいとん)」足の親指の爪の下、二ミリくらいのところにある。肝機能を向上させる。 「肝穴(かんけつ)」薬指第二関節の手の平側中央にある。吐き気に効果。 「内関(ないかん)」手首の下、指の横幅三本分のところで、こぶしを握ったときに盛り上がる二本の筋の間にある。消化器系の症状、特に吐き気に強力な効果。 「足の三里」ひざ下、外側寄り約一〇センチの部分。胃腸の調子を整える。吐き気や胃もたれに効果的。(「二日酔いの特効薬のウソ、ホント。」 中山健児監修) 


(八四)梅の木踊
二上がり昔(むかし)より売(う)りはじめそろ、梅の木村の和中散(わちうさん)、君(きみ)の病(やまひ)は思(おも)ひか恋(こひ)か、よその薬(くすり)はじよさいでござる。こちの家ではじよさいとてはござらぬ、じんじやくむねこしこはり腹(はら)、酒の二日ゑひ(二日酔い)にはよねや若衆の、やと〻んとん/\寝顔(ねがほ)でのまんせの、のまんせの/\、よろづの虫(むし)に第一の薬ぢや
じよさい云々-和中散を常斎薬ともいふより言ひかけたる也(「松の落葉」 塚本哲三編輯)


アラック
そのアラックと筆者とのファースト・コンタクトは、一九六八年の春、若い文化人類学者たちと一緒に西北部ネパールの民俗・文化調査のために、ヒマラヤ南麓の山岳地帯に入った時のことである。帰途にドウナイというところにある政庁に寄って、知事さんの求めに応じて、その辺りの患者さんの診察をした。ハンセン病を含む難病がけっこう多かった。その後で、コイララ知事と一緒に酒を飲んだ。このコイララ氏は、ネパール国民議会派の指導者で、王室と対立して解任されたコイララ元首相の甥であった。「いずれネパールにも議会政治が回復することを祈って乾杯!」と、やたらに飲み、飲み過ぎて気を失った。コイララ氏は二十年もかかって首都カトマンズに帰り、首相になった。その時に琺瑯びきのコップ(知事さんだって、島流し同然なので、そんなものしかなかったのである)で飲んだアラック(蒸留酒)のうまかったこと。かすかに柑橘系の香りがついていて、それまで半年くらいヒマラヤ山地のチベット人部落で、たまにチャン(チベットの濁酒)にありつくだけだったから、まるでギリシャ神話に出てくる天国の酒であるアンプロキアかネクターかという思いがした。(「慶喜とワイン」 小田晋)


徳川秀忠
父秀忠によって、叔父たちに匹敵する大名に取り立てられ、異例の昇進をとげた忠長であったが、秀忠の病状の悪化にともない、その境遇は急変する。忠長は、寛永八年(一六三一)四月、凶暴・殺害等を理由に甲斐に蟄居(ちつきよ)させられるが、秀忠存生中は改易されることはなかった。しかし、秀忠が翌九年一月に死去すると同年十月、兄家光によって早くも改易されてしまう。彼は、馬一匹、持ち槍一本とわずかな近習の士を従えただけで上野国高崎城主安藤重長(しげなが)に預けられ、幽閉の身となった。事態はこれだけでは収まらなかった。幽閉された忠長の行状がなおも改まらないということで、家光は寛永十年十月に阿部重次を高崎に遣わし、重長の内々のはからいで忠長を自殺させるように伝えたという。これを聞いた重長は、事の重大性に驚き、家光直々の文書を戴いた上で実行したいと述べ、重次は直ちに江戸に立ち帰って家光のお墨付きを申し受けて重長に渡している。そして十二月六日の朝、重長は忠長の幽居を厳重な鹿垣(ししがき)で囲った。これを見た忠長は、何故(なにゆえ)このようなことをするのか、と警護の武士に尋ねたところ、「これは江戸よりの上意によるものでしょうが、詳しいことはわかりません」と答えた。そこで忠長は、障子を閉じて中に入り、その後は縁にも出なかった。日も暮れたので、近侍の女房をも下がらせ、女の童二人だけを側におき、一人の童に酒を温めてくるように命じて一、二盃口にし、もう少し温めてくるようにさらに命じた。そしてもう一人の女童にも肴(さかな)を持ってくるようにいって室外に出した。二人の女童が酒肴を持って部屋に戻ると、忠長は白小袖の上に黒の紋を付けた衣類を掛けて臥せていたが、その小袖は朱(あけ)に染まり、すでに絶命していた。これを見た女童は、驚き叫び回ったので配所の供の武士が駆けつけてみると、忠長は喉の半ばを貫いて俯(うつぶ)せに倒れていた。忠長はこれより数日前から宝物などを長持(ながもち)に入れさせ、つれづれの慰みに書いた反古(ほご)紙と一緒に焼き捨てていたという。彼は、幼い頃からライバルであった兄家光の意図を早くから察して、身の回りを整理し、来たるべきときに備えていたのであろう。まさに覚悟の自殺であった。(小山誉城)(「意外に知らないあの江戸大名の晩年と最後」 「歴史読本」編集部編)


初代川柳の酒句(18)
胴がへしの笠をかふる樽ひろい  巴水
生酔(なまえい)か取つてハほふる放し亀  魚交
下戸の連(つれ)ないと生酔立のまゝ  五扇
長い鬮(くじ)取て生酔送ッてく  菁莪
戻る猪牙(ちよき)酒手を出して聟は乗り  魚交(「初代川柳句集」 千葉治校訂)


伝統的な飲酒文化の崩壊
伝統的な飲酒文化とは、お祭りにおける大人も子どもも一緒にお酒を楽しむ行事、宴会と呼ばれる大人の男達の社交的飲酒、そして大人の男に限られる晩酌でした。社会変動の中で、お祭りは急速に姿を消し、お祭り行事もその豊かな内容を消失しました。これはたとえばお祭りの時しか食べられなかった「御馳走」という言葉が変質し、日本人は、いつでもお金のかかった食事=御馳走を食べるようになったことにも現れています。女性の社会進出と共に、宴会は男だけの特権ではなくなりました。家族の中での家父長制が崩れ、むしろ父親の存在が家族の中で小さくなってからは、晩酌も父親の特権ではなくなりました。伝統的な飲酒文化が崩壊した時、みんなが楽しむために飲むという社交的飲酒と、いつでも飲みたい時に飲むという個人的飲酒が残りました。この時「子どもはお祭りの時以外は飲んではならない」という社会規範も失われたのでした。そこで、家庭の団欒の時に、家族で一緒に飲むことも極めて自然な形になりましたし、子ども同士が集まった時に、楽しく飲むのも当然の形になったのです。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二) 平成7年の出版です。


酒泉等の話(1)
川上漸氏が『郷土研究』に寄せた一書を読んで予思い当たることあり、さっそく書を飛ばして同氏を介し星野氏に杉より出た霊酒の現品を贈られんことを求めたのが一月十八日で、二月二日と十一日に星野氏よりフォーマリン液を点和したのと、杉より出たまま何物をも加えぬものと、件の霊酒を二小罎に入れたのを受け取った。その添状と川上氏の寄書に引かれた長岡市の『北越新聞』等の記事を参看して、この霊酒の湧出状況を察するを得た。いわく、越後国北魚沼郡城川(しろかわ)村大字千谷川(小千谷町に隣接す)の酒造家星野忠吉氏宅は小丘上にあり、三面みな六尺乃至一丈廻りで高さ数丈の老杉もて囲まる。いずれも今より二百四年前、正徳三年、その宅新築の際生垣として植えたが盛長したのだ。そのうち一本周囲約六尺の杉の幹、地上二間ほどの処より、二、三分置きにプープーと音を立ててジュージューと濁って白き酒様の液体を湧き出す。十一月二十六日雇人がその杉を距る四尺ばかりなる酒倉の雪囲いをなさんとして見出した。嘗め試みると甘渋く(一にいわく甘酸く)、付近は醇なる芳香漾(ただよ)う。発見せし節は、その液流れて白く、また一部一部に青かび生じ美観を呈し、虻蜂の属盛んに飛び来たり吸うた。噴き出しの箇所より下二間は酒花で白く浮き上がりおり、十二月初めごろは十時間に二合ほどの割合で噴き出した。一月末には零下二度くらいの酷寒なれど、五分に一回ばかりジュージュープープーと音立ち噴き出し、たちまち凝って鏡のごとく光り、氷柱となって垂れ下がるは秋末よりも一層美わし。発見の当時、不思議の感に打たれ来たり観る者一日に二千五百人、五日間開場して五、六千人、いずれも嘗め試みて祥瑞と称えざるなく、当時一日に四合瓶一本ほど迸出したが、最初より一月末までおよそ一升五合は得たるやらん、云々。(「酒泉等の話」 南方熊楠) 川上氏の言


寒造之事 酛米
一、元米(酛米)性米(精米)、一限白く搗(つく)へし。淅(かしよね)の洗ひも一入(ひとしお)念を入へし。古実ニ曰 元米黒く或ハ洗ひ等麤相(そそう)なれハ、酒の風味賤敷(いやしく)、足弱く候。
〇酛米は質のよい米をひときわ白くなるまで搗(つ)くこと。米の洗い方にもとくに念を入れる。故実には、酛米が黒かったり、あるいは洗い方がいいかげんだったりすると、酒の風味がいやしく、日持ちがわるくなるものだ、とある。(「童蒙酒造記」 吉田元 翻刻・現代語訳・注記・解題)


愛酒楽酔
いざ友よ からすみはみて ひと時の 富めるうたげと 酔ひしれめやは
 同軽井沢ウイスキー工場にて
火の山の 水もて醸みし うまさけは ほむらとなりて 身のうちに燃ゆ
 マンズワイン社小諸工場にて善応寺葡萄(浅間葡萄、信州葡萄、川上品種未詳一号、中国葡萄竜眼ともいう)のワイン試醸をみて
大寺の 名を追ふえびの うまさけの 試醸のはしりは 味も香もよき
さてわれは 日々になまけて なすこともなきは酔生夢死とやせんか(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎)


居酒屋の客
居酒屋には、お店者(たなもの)や小商人(こあきんど)、棒手振(ぼてふり)や職人、駕籠(かご)かきや車引き、武家奉公人の中間(ちゆうげん)や小者(こもの)などが主な客層である。江戸に居住する大名や旗本には、もともとには譜代の奉公人がいたが、中間や小者、駕籠かきの陸尺(ろくしやく)といった者を常雇いにしている余裕はなくなり、登城時や参勤交代の荷物持ちには人宿(ひとやど 口入れ屋)から、一定期間契約の出替(でがわり)奉公人として斡旋(あつせん)してもらった。武士は、庶民に混じって外食することを卑しいこととされていたが、懐の寂しい下級武士には屋台の鮨や天ぷらは魅力的で、安酒が飲める居酒屋もよく利用していた。しかし、頬被りなどをして顔を隠していることも多かった。なかには中間を連れて入る武士もいたが、とても中間にも酒を飲ませることまではしていない。出替奉公の仮の主従でも、飲食を共にすることは、身分制からも世間体からも許されなかったのである。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資)


 20画 (釀) 24画  ジョウ(ヂャウ) かもす
解説 形声。もとの字は釀に作り、音符は襄(じよう)。襄は死者の衣の胸(むな)もとに、二つの∀(原書は∀の下が丸い、Uの中頃に横棒 読み方:さい)(神への祈りの文である祝詞(のりと)を入れる器の形)と呪具(じゆぐ)の工を四個(工を上下二つずつ並べて「てん」と読む)置く形で、胸もとが盛りあがり、ふくらむの意味となる。酉(ゆう)は酒樽(さかだる)の形。酵母がふくらみ熟することを醸といい、「酒をかもす、かもす」の意味がある。(「常用字解」 白石静)


上戸の火燵
③ある上戸ども四、五人寄りひて「今宵は夜寒なに、火燵(こたつ)に火を入れられよ」といふ。亭主「まだ火燵はきらぬ」といふ。一人が申しけるは「火燵より酒一升買ひあれ。打寄りたべ、我らが懐へ足御さしあれ」と申す。「この義よからう」とて酒取寄せ、いづれも飲みて、かの人の懐へ足ふみ入れ、そろ/\寝られた。ひといき寝て目をさまし、いづれも申しける「さてもこれは冷火燵じゃ」といへば、一人の申すは「今五合かきさがいたらよかろう」というた。(露新軽口ばなし巻二・元禄十一・上戸の火燵)

酒をすすむ   白楽天(はくらくてん)  青木正児(あおきまさる)訳
君に一盃勧める、君よ辞退したまふな
君に二盃勧める、君よ何も気にしないでよろしい。
君に三盃勧めると君は始めて気付くであらう
面相は今日が昨日よりも老(ふ)け
心中は酔うた時が醒めた時に勝(まさ)ることを。
天地は永遠にして長久であり
月と日とは追つかけあつて走り過ぎる。
死後に黄金を積んで北斗星を突張(つつぱ)るは
生前に一樽(たる)の酒を酌(く)むに及ばぬ。
君よ見たまへ、春明(しゆんめい)門外 夜の明けるころ
わい/\歌うたり哭(な)いたり死と生とが半々で
遊人が馬を駐(とど)め路を塞いでゐて門から出られない
喪儀の輿(こし)や車は路を争うて行くではないか。
我家に帰らう、頭は もう白い
質(しち)で工面して酒でも買つて飲むとしよう。(「酒の詩集」 富士正晴編著)


甘酒 あまざけ 一夜酒(ひとよざけ)
麹に飯または粥を加え、あたためて甘味を出した酒精分を含まない飲物。沸騰させて飲む。一夜酒ともいう。今では真鍮の釜を据えた荷箱をになって町中を売り歩く甘酒売も見られなくなり、壜詰のものを売るようになった。
禅寺の甘酒のどにゆきて酸し 加藤知世子
甘酒啜る一時代をば過去となし 原子公平
乳母の顔浮ぶ祭の甘酒飲む 伊丹三樹彦
ひとりすする甘酒はかなしきもの 清水径子(「新版 俳句歳時記 夏の部」 角川書店編)



福神
如何に福神(ふくじん)なればとて遊んでばかり居るも勿体無し、といふところより、弁天さま先づ一番に酒屋の店を出して、いろ娘といふ名の酒を売り弘め玉ひしに、大流行(おおはや)りに流行りければ、福禄寿も其真似をして福娘といふ酒を売り出し玉ひ、これも大当りに当り、それに続いて寿老人も負けぬ気になり白鹿といふを売り出し玉ひけるが、是また大(おほき)に世に行はれ、とう/\いづれも皆立派な株に仕て仕舞ひたまへり。ほかの福神達はさう/\同じ商売を始めるも面白くなし、第一自然商売上の競争でも為(す)るやうなハメになりでも仕た日には詰らぬ話なり、さりとて福神ともあらうものが葉茶屋や生薬屋(きぐすりや)の店も出せまい、と皆遠慮して何もせずに歳月(としつき)を過ごし玉ひけるが、其中御維新となりて時世(じせい)の態(さま)ことごとく変りければこゝで一ツ新規な思ひつきも有らう、と恵比寿様は麦酒(ビール)を製して売り出したまへるに、恵比寿麦酒恵比寿麦酒との大評判なり。それではおれもと大黒様は甲斐産葡萄酒を売り出したまひけるに、これも中〻の上景気なれば、左様(さう)いふ訳なら乃公(おれ)も何か仕て見やうと、毘沙門様までがカブト麦酒(ビール)といふを製(せい)して売りたまひしが、是(これ)も劣らず売れる様子にて贔屓の評判もちらほら聞ゆ。あとへ残りしは布袋様ばかりとなりたまひしが、皆が左様いふことをするなら、どれ/\、おれも、と遅まきながら商売を始める気になり玉ひ、急に瓶詰(びんづめ)をこしらへて唐子共(からこども)に持つて行(ある)かせ、六人の福神達の店で売り弘めて呉れと頼み玉へば、ほかならぬ布袋殿の御頼み、委細心得ました、と六軒で受合ひ込みて売りしが、買つて行きしものども頓(やが)て皆大怒(おほおこ)りに怒つて、ひどいものを売りつけたナ、どこに此様(こん)な酒があるものか、と云つて来る故、六人の福神達、これは迷惑の事と打揃つて布袋の許(もと)に至り、一体全体どういふ醸造法でこしらへた何様(どう)いふものを仕込んだのぢや、と問ひ糺(ただ)せば、布袋様は清ました顔にて、イヤ醸造も何も為るものか、ハテわしがことぢやもの、中身(なかみ)はたゞの水ばかり。(「春の山」 幸田露伴)


すべて空ッポ
昔は、ご飯を食べる場面はすべて綿を用いたもので、米の飯など食べなかった。綿を茶碗にもり、それを食べる風をして実感を出したものである。酒でも茶でも、すべて空(から)ッポである。そして、そこに歌舞伎の味というものがあったのである。「先代萩」ではこのあと、栄御前(さかえごぜん)の持ってきた毒薬入りの菓子を、千松が鶴千代に代わって食べて死ぬ件(くだり)がある。それは、「かしこくも、頼朝公より下さる御菓子…」であるのに、千松に蹴散らかされて飛びちるのが、紅や白のいかにもまずそうな干(ひ)菓子なので、、子供の時分から、あれはもう少し上等のものにすべきだと思っていたが、そのままである。(「味の芸談」 長谷川幸延)


料亭こそ政治の場
明治も四十年を過ぎると、川反は料理屋や芸者の置き屋の立ち並ぶ繁華街、いや昔風に風情のある言い方をすれば、"紅灯絃歌(こうとうげんか)"の町となった。しだれ柳に吹く風、川反芸者の三味の音、イチョウ返しのおネエさんが行き来する川反の黄金時代である。時あたかも憲政会と政友会の二大政党華やかなりしころ。政治意識の高まりとともに、川反も二派に分かれたというからおもしろい。ここの料亭は憲政会、あの売れっこ芸者は政友会、そこの人力車夫もやっぱり政友会だよ-てな調子で色分けされた。そして政友会総裁の伊藤博文が明治四十二年八月に秋田を訪れる。芸者十数人がサービスしたとか、太郎という芸者が伊藤博文のお気に入りになった…なんて話も伝わっている。ま、昔から政界と花柳界は切っても切れぬところだったらしく、明治の秋田では、料亭こそ政治の場であり、芸者衆はそれに添える"花"といったところか。(「あきた雑学ノート」 読売新聞秋田支局編)


鉢巻き、半纏、前掛け
昔の「鉢巻き、半纏、前掛け」にも理由があったんだわ。鉢巻きにしても半纏のしても、すぐに体から離せるろ。前掛けもそうだいね。これがいいんだ。蔵内で体を動かしていれば、何かの拍子(ひようし)に桶(おけ)に体があたることがあるわけさ。それが呑口(のみくち)なら、栓(せん)がはずれて酒が流れ出すかもしれん。だすけ、栓がはずれたとしても、鉢巻きや前掛けを絞(しぼ)って呑口に突っ込んでやれば、酒を止められるわけだいね。また、酒蔵では熱いお湯も使う。間違って体に熱湯がかかっても、すぐに脱げる半纏や前掛けなら都合がいいいわけさ。(「杜氏 千年の夢」 高浜春男)


コの字
どんな形のカウンターでも、客同士による共同体意識がそれなりに生まれる可能性はあるが、とりわけ「コの字」の場合、ほぼ全員からほかの客の顔が見え、逆に自分の顔も周囲の客に見られているという特徴が挙げられる。これも<共有意識>を高めると言えよう。-見ようと思えば、ほぼ全員の客が目に入り、耳を澄ませば会話も聞こえる。逆に、自分の言動も周囲に共有されているおかげで、各自の言動が自然に抑制される効果もある-みんなに見られていることを認識しているなら、あまり乱れた言動はしないだろう。けっきょく「コの字」は、客一人ひとりに自制する気持ちを植え付ける機能もあるわけだ。同じ「コの字」型カウンターの牛丼屋と違い、大衆酒場はのんびりできるし、店内の雰囲気も軽快である。客たちは単に飲み食いするために来ているのでなく、楽しみたい気持ちもあるがゆえに居酒屋を選んでいるはずだ(同じ店でも、客によって楽しみ方はいろいろあることは言うまでもないが)。ましてや酒も介在しているだけに、少し時間が経って肩の力が抜けてくると、隣の客と軽い会話を交わしたり、あるいは私が大阪の「とらや」で体験したように、「コの字」の反対側にいる客の愉快な話を耳にしながら楽しんだりすることも、カウンターの構造、そして大衆酒場の<共有原理>によって可能になる。他人の愉快な会話に思わずニタッとする瞬間は、まさに自我忘却状態にある。間接的ながら他者とつながっているがゆえに、自己を忘れることができるのだろう。このような何気ない瞬間こそ<幸福>の原点かもしれない、とも考えたくなる。もちろん、それがすべて「コの字」のおかげだとは思わない。「まるます家」の場合、店を切り盛りしているお姐(ねえ)さんたちのはきはきした話し方や、周囲の客たちの幸せそうな表情なども店内全体の雰囲気に貢献している。しかし、同じ店内でどんなに楽しく呑んでいても、壁に沿ったブース席や二階の座敷の客たちは、「コの字」を囲んでいる(他者同士の)客たちの間に湧いてくる淡い共同体意識とは、根源的に違う空間を占めていることになる。酒場には、「コの字」ならではの味わいが格別である。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)


ブ二円-山ニ一二首
酒-肉雑ヘ二音楽ヲ一 興-酣ニシテ 夜譟サハイデ-還 初-知 生ナガラ 作ルコトヲレ 安-養即茲(ここ)
其二
坐-酣ニシテ 客不サハガ 歌-静節愈/\-濃 酔ニス二仲-居ヲ一 時-聞御-忌鐘(「二大家風雅」 西 銅脈先生 東 寝惚先生)


年ごろ酒のみ過したるが
(七)またある人、年ごろ酒のみ過したるが、その毒にて、や(病)めるありけり。くすしみて、「此薬の(飲)みなば、年月つもらばい(癒)ゑぬべし」といふをききて、「さ斗(ばかり)長く薬のむことならば、いゆるともなにかせん」といふを、くすしききて、「酒のみ給ふも三十とせ斗になりなん。その毒の凝りたるをとかんに、みそとせへ(経)なばといふもことはりなしとはいはじ。毒を久しく用ひたるを、くすりいさゝかのみていやさんと思ふはいかにぞや」といひけり。[松平家蔵初稿本六ノ第十一段(「花月草紙 拾遺」 松平定信著 西尾実・松平定光校訂)]


酒は関西
酒は関西。大阪の「たこ梅」というおでん屋で出す菊正宗、西の宮の「角屋」でのませる日本盛、いずれもすてきである。いつぞや谷崎(潤一郎氏)と一緒に大阪中を飲んで廻ったことがあるが、酒だけは銘だけで一般的にほめたり、けなしたりは出来ない。一に出して飲ませる家による。「角屋」へ二度目にいった時に日本盛りを注文したら、「生憎(あいにく)樽底すがよろしゅうございますか」と聞いた。樽底の酒はちょっと困るので断って戻ったが、酒をのませる家にはどこでもこれ位の親切はほしいものである。谷崎がこの日本盛を小樽に入れて東京へやって来る。(「味覚極楽」 子母澤寛 の 「梅干しの禅味境」 医学博士大村正雄氏の話)


樽酒[たるざけ]
樽詰の酒。俗に菰冠(こもかぶ)りともいう。
①たる酒をとう/\内儀やめさせる  (樽 七)
②たる酒であるのに女房出す気なし  (樽 二二)
③たる酒が徳じやと思ふたわけ者  (樽 三〇)
①樽酒ではどうしても飲みすぎるので。類句-樽酒の利害女房は不のみこみ(拾八) ②樽酒で買つてあるのに女房は気前よく出してくれない。 ③結局不経済。(「古川柳辞典」 十四世根岸川柳)


一人飲みの、酒場での過ごし方五ヶ条
一人でのむときの過ごし方についてですが、もちろん明文化されたルールがあるわけではありません。何人かで飲む場合も同じですが、極端に言えば、他人に迷惑をかけなければ、どんな過ごし方をしてもいいのです。
①お邪魔しますの気持ちで臨む
②のんびりと楽しむ
③酒や肴そのものを楽しむ
④酔いを自覚する
⑤自分の責任で飲む
というのが、私の考える五ヶ条です。(「ひとり呑み」 浜田信郎) 



人生観の劇的変化  作家・俳優 T・トライアン
今いるのは、すっかり更生した私である。仕事も変えていない。今の方がよくなったかどうかはわからないが、悪くなっていない。そしてぐっすり眠れる。ここまで来るのに長くかかったのはなぜか、と自問することがある。友人たちにも冗談で「どうして僕に忠告してくれなかったの」と聞くと、「どんなことになるかわかるだろう。誰も言えやしないよ」と口をそろえて言った。だが言ってやってよいのだ。今の私なら、酒の問題を抱えていて私と同じ道を求めている人に出会ったときほどうれしいことはない。過去の私を知っていて、今では縁が切れた人たちに、現在の私を見てもらいたい。私の別の姿を知って欲しい。私は相当な自己修練型である。よい作品をものにできたのも、修練の賜物だ。才能に恵まれているのかもしれない。ただ昔から持っていたのに気がつかなかったのだ。飲酒が私の生活の儀式的な部分を占めていた。一九五五年に移ってきたカリフォルニアでは、周囲は皆アルコール症だった。連中はすでに世を去ったか、いまだにアルコール症で苦しんでいるかのいずれかである。今は恐ろしい嵐から逃げおおせたという実感を味わってる。あのままでいると永久に嵐の中に閉じ込められていただろう。いい表せないほどのあの狂気は、すべて自分の心から出たものである。あの状態は、いずれも恐れの気持ちに帰するものだ。もはや何も恐れてはいない。かつては他人を気にして、一生懸命気に入られるよう、よい印象を与えて好かれようと努めたものだ。今では他人に好かれなくともかまわない、自分で自分を気に入っているのだから。私はナイス・ガイだ、そう思っている。自分が真実と見た自画像が、やはり現在のありのままの私であることを発見した時の喜び。どうして一つの問題の解決にこれほど長くかかったのだろう。大勢の人がこの病気で亡くなったのを、つらい気持ちで見てきた。私が回復できたのは天の恵みといえよう。ついに断酒ができた。酒から離れても問題はなくなった。もう飲みたいとも思わない。人は「飲んでもいいかい」とわざわざ私にたずねる。いいとも、どうぞ君の好きなだけ飲みたまえ、私は全然気にならないから。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー サイマル・アカデミー翻訳科訳)


6日 冷やしあまざけ
久保田万太郎さんの『浅草風土記』の中に「冷やしあまざけ」という一文がある。発表は昭和十四年十一月で、浅草を歩いていて、冷やしあまざけという看板をみつけた、というのである。あまざけは、ふうふうふきながらのくらいにあつくて、しかも暑い夏の飲物だ。こんなのがある。
-あまざけや、あついか。
-へえ、おあつうございます。
-あつけりゃ、日かげを歩きな
それなのに、つめたいあまざけが、戦争前のしかも浅草に、現実に売られていたということは、久保田さんならずともびっくりする。久保田さんがその話をしたら、鏑木清方さんが、いまにホットみつ豆なんてものもできるかもしれませんよ、と言われたという。ホットみつ豆は、さすがにだれも奇想天外と思うだろうが、冷やしあまざけが同じようにトンチンカンなことだとは、もう感じる人が少ないかもしれぬ。(「私の食物誌」 池田弥三郎) 平成7年の出版です。。


㈱鈴木酒造店
実は、浪江町の蔵で醸していた山廃造りの酒の酒母(しゆぼ)が、福島県の技術研究所に預けられていた。わずかばかりの酒母から酵母を分離・培養することに成功すれば、浪江町の蔵にあった蔵付酵母を、生物学的に継承した酒を造ることができる。鈴木さんは、その作業に没頭し、成功した。私がお会いしたとき、鈴木さんは酵母を生かせたことに表情を和ませてもいた。震災からわずかに三月(みつき)。これからいかにして生きていくか。そのことだけでも問題は山積していたはずだから、週刊誌の取材記者として訪ねた身にはたいへん意外で、同時に、なんという強い精神の持ち主なのだろうと感服させられもした。このとき、鈴木さんの手元には、被害に遭わなかった「常磐壽」の一升瓶もあった。取引先の小売店の店頭に残った一本を、その小売店では、これは売りたくないと、鈴木さんの手元に返して来たのだという。鈴木さんもまた、その酒の栓を抜かない。鈴木さんはそのとき、小学校へ上がったばかりくらいの、男のお子さんがいた。  息子が(酒造りを)やると言うときまで、取っておきます。そのときになったら、これが浪江で造ってきた、代々のうちの酒だと、言って、飲ませます。  このときから二年近く経った、二〇一三年の二月。再び鈴木さんを訪ねた先は、山形県長井市だった。鈴木さんは、鈴木酒造の長井蔵をここに設け、少しずつ、着実に復興の歩みを始めていた。人手も設備も足りないが、それでも、充実した酒造りは可能だ…。鈴木さんの言葉は自信にあふれているようだった。(「酔っぱらいに贈る言葉」 大竹聡) 東日本大震災で被災した福島県浪江町・㈱鈴木酒造店の話だそうです。


リチャード・A・メイ
主税局長池田勇人氏がGHQに呼ばれ『酒はすべてストップ。原料は全部供出しろ』という指令を受けた。ビール受難の一幕である。軍の圧迫が終戦とともに解消したかと思うと、今度は占領軍の圧迫だ。これは困ったものだと思ったが、実は、それより十日ほど前に、GHQの経済科学局の最高顧問になっていたリチャード・A・メイという友人が私をたずねてきた。この人は大正末期から日本に来ていたゼネラル・モータースの四代目の日本代表者であった。彼は私の会社を訪問して『日本のビールはどうなるのかね』という。『さよう、最高百七十万石までになったのだが、現状では残念ながら五十万石前後しかできていない。麦が二十万石あれば、これからも、なんとか続けていけるのだが…』と率直に話した。三、四日したら、彼はまた会社へやってきた。『この間の問題がマッカーサーのところで論議されましてね、酒類の生産はやめさせてはどうかという話があったよ。その時私はこう説明した-日本の食糧生産は戦争のため昨二十年が最低記録で米は四千五百万石、雑穀は千五百万石しかできない。総計六千万石である。ところでビールの製造を続けるのには麦が二十万石あればよろしい。六千万石の三百分の一である。いわば、たった一日分の食糧ではないか。つまり食糧配給を一日ずらせば日本人にビールが飲ませられるのだ。こういうことを考えてやるのが米国の占領政策ではなかろうか』彼がGHQの高官の前でこのように説明してくれたことは、私にとって終生忘れ得ぬ感動であった。また、その説明の手際のうまいことにも非常に感心させられたのである。そして、私の感心の仕方とは違うかもしれぬが、彼の説明によってGHQの人たちもなっとくしたという。私は礼をいって別れた。それからしばらくしてワシントンと東京の行違いも分り、一部だけ原料を供出することで片付いたが、それはともかく、メイさんの名説明のお蔭で仕事が続けられるようになり、しかもビールだけでなく酒類全部が助かったわけである。彼はビールだけしか飲まないので、酒のことは念頭になかったらしいが、とにかく酒類全般に余慶が及んだことになる。大体、米国は一九二〇年(大正九年)から十三年間も続けた禁酒法を、自然の勢いに抗しかねて解かなければならなかったにがい経験を持っているので、占領地においても、これは強行すべきでないと考えて助けてくれたのだろう。私はこういう点が、外国と日本の違いだと思う。(「私の履歴書」 山本為三郎)


全国清酒品評会黎明期
吟醸酒を生んだ全国清酒品評会黎明期に活躍した銘醸の酒は?この辺でそれらを系統立てて飲んでみようと思った。それが昭和から平成に移る数ヵ月の例会であった。酒を集めるのに、吟醸酒を醸していない蔵もあった。なぜ当社の酒を?と聞かれ、説明してもわからない相手もあった。酒づくりをやめているところもあった。その中で「先祖から当時の名誉の話を聞いております」と涙ながらの感謝をされたところもある。【第一五三回 昭和六三年一二月一六日】*龍勢(広島)・冨の寿(福岡) 【第一五四回 平成元年一月一九日】*賀茂鶴(広島)・白鷹(兵庫) 【第一五五回 平成元年二月一七日】*月桂冠(京都)・両関(秋田)  【第一五六回 平成元年三月一七日】*キンシ政宗(京都)・山丹正宗(愛媛) 【第一五八回 平成元年四月二一日】*白牡丹(広島)・寿海(兵庫) 【第一六二回 平成元年八月一八日】*三谷春(広島) この間、思い立って明治四〇年の第一位、第二位の「龍勢」「三谷春」の蔵へ行って来た。この全国清酒品評会初期の銘醸について、ただ記録に残すだけでは忍びないと思った。見たこと、聞いたこと、調べたことをベースにして例会でお話しした。それだけではない。講演記録を作ったら、これを発表できまいかと欲をかく。月刊誌の酒情報誌「びくん」に「吟醸酒ロード」という題でノンフィクションふうな小説の連載を始める。やがてそれは実業之日本社から『吟醸酒誕生』と『吟醸酒の来た道』の上下巻となりさらに中公文庫に収まるという光栄に預かることになる。(「「幻の日本酒」酔いどれノーと」 篠田次郎)


山卸唄
色で身を売る 西瓜でさえも
中に苦労(黒)の 種子がある

色でまよわせ 味では辛い
ほんにお前は 唐辛子

色は白でも うどんはいやじゃ
わたしゃあなたの そばがよい

これは「山卸(やまおろし)」の唄です。荒櫂の唄なのですが、普通は
目出度目出度の 若松様よ
枝も栄えて 葉も茂る
と歌われて、近頃では、酒造り唄としてよく歌われているものです。歌詞が沢山ある中で、その一部を抜き出してみたものです。(「灘の酒」 中尾進彦)


あをつきり【青切】
湯吞茶碗の外部上部に引き廻はした青色の線までなみなみと酒を注ぐ事。廓語の一で「吾嬬那萬里(あずまなまり)」に『馴染(なじみ)のつけ差、居つゞけのむかへ酒、口舌の宵の青ッきりまで、下戸ならぬこそ男はよけれ』とあり、「儒者の肝つぶし」に『じれて茶碗で青つきりの燗ざまし』とある。『癪ざんす青つ筋までつぎなんし』はその例句。
さゝいな親実引つたくる青つ切  無理酒は止せと
青つ切ぐつとひん呑みついと逃げ  無理強ひされて
青つ切襟へ半分首を入れ  所謂思案酒
青つ切用ゐて癪を押し通し  捨て身の勧め
蛾眉をひそめて疳癪の青つ切  所謂やけ酒(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)



日本演劇社
大学生時代、酒はまったく飲めなかった。勤め人になってからでも、一向に進歩はなく、戦争中に配給される酒は、父親に届けていた。だから国民酒場に行列した経験もない。そんな男が酒の味を知ったのは、昭和二十五年までいた日本演劇社という雑誌社が、久保田万太郎(社長)、渥美清太郎(編集部長)という愛酒家ぞろいだったためで、会議はたまたま酒が手にはいった時という、ふしぎな職場だった。つまり、ぼくは編集会議をしながら、酒量がすこしずつ殖えて行ったわけだ。久保田さんは、会議のあと、ぼくをつれて、銀座や新橋を二三軒歩く。それからぼくを誘って鎌倉まで帰り、駅前でもう一軒寄って、家に着く。杯をグイと飲み干して、さす癖のある社長だから、すこしずつでも、通計すればかなり飲んでいるので、送り届けたからといって、もう東京には帰れない。そのまま、泊まり込む。社をやめるまで、これを続けた。(「酒との出逢い よき飲み友達」 戸板康二)


くまBAR
ビルの巨大な装飾から油揚げのような生活に関わる品まで、そこかしこにくまモンがあふれている。その様子になかば圧倒されながら熊本市内の繁華街のアーケードを歩いていたとある夜、赤い看板が視界に入った。「くまもとの酒文化発信処 くまBAR」の文字の横には、微笑むくまモンの絵。ドアを開ければそこには、見覚えがある黒くて大きな背中。カウンターの椅子に腰かけているのは、まさしくあのくまモンである。店内には、目が釘づけになるほど身軽に動いてダンスを踊る映像が流されている…。今、この瞬間、もしかしたら多くの方はいわゆるオンナコドモ的な、くまモンランドのごとき店を想像しているかも知れない。わたくしも、最初はそう思った。しかしながらここは、熊本県の全蔵の日本酒や球磨焼酎を呑める、素晴らしき一軒だったのだ。酒造組合にも協力を得ており、レアな銘柄も揃う。なのに熊本のPRを目的としているため、お値段は基本1杯ワンコインの500円とたいそうお手頃。熊本の美酒を徹底して味わいたい、のんべえこそが行かなければならない店である。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子) くまBAR 熊本市中央区下通1-7-14 パラミビル2階 TEL096-227-6959 2015年3月発行の本です。


竹隈の東湖先生
東湖先生が竹隈に居た時は己(おいら)の家と近いから、度々遊びに行たが、二人でいつも酒を飲む先生は貧乏で家内は八人暮し、それにいつも居候が居る、酒を飲むと云て鰯の「ぬた」位が常式で「やつこ豆腐」極く上等で松魚の刺身位、先生は箸を以て刺身を一枚ツゝ喰ふのではない、皿を手に持ちペロ/\と刺身を嘗(なめ)こんで仕舞ふ、酔ふと腕角力、枕引き、のちには長押へ両手をかけ足を縮めて長押渡りをする、面白い人で、其ころは三丁目に何とやら云た烟草屋、三浦屋だ、この爺が毎日先生の処へ来て焼芋屋の看版だの、蕎麦屋の看板だの書てもろふ、石塔を多く書たが石塔一本が四百文、粟野屋の甕(みか)の月と云銘酒が好物で、其酒が一升四百文であつたから一本一升と相場を極めたと云ことを先生が笑ひなから話された。酒の徳利を本函へ入れて置て、李白集と書てあつた、己(おいら)がゆくと本函の戸を外して其下の引出しから盃を取出すと云調子、-(遠山虚口舟話)(「水戸史談」 高瀬真卿)


(18)ある随筆から[76・11 70~71]
先輩が若い後輩を一ぱい飲みにさそったら「キャン、キャン」と答えた。どういう意味かと聞くと「犬がよろこんでついていくとき、キャン、キャンとなくでしょう」(「毎日新聞」76年9月22日夕7「視点」欄 松岡英夫)(「ことばのくずかご」 見坊豪紀)


◎十一月事宜
しら雪の紛々とふり出でゝ、山野市街倏然(しゆうママぜん)として白銀世界と化するは、誠に造物主の無尽蔵とやいふべき、あるひは軽舟に乗じて隅田三つ叉のながれに棹(さおさ)し、或は草鞋を着て湯台東叡の景を詠るも、遊人の逸興にや、もし其寒風身を砭(へん)し、吹雪の面を撲(うつ)をいとふときは、炉を擁し戸を閉て、独三盃を酌み、湯どうふに禅味を楽しむも、太平閑人の逸楽とやすべし、是月や酉の市あり。子の祭あり、空晴れ日暖なれば、三冬の遊観もまた少しとせず。(「武江遊観志略」) (「江戸年中行事」 三田村鳶魚編 朝倉治彦校訂)


奉公人の禁物大酒・自慢・奢(おごり)
武士として主君に仕える者にとって好ましくないものは、酒を飲み過ぎること、自らをりっぱだと思うこと、分に過ぎたことをすることである。不仕合わせの時は心配ないが、少し順調な時はこの三つにおちいる危険がある。『葉隠(はがくれ)』に、<「奉公人の禁物は、何事にて候(そうら)わんや。」と尋ね候えば、「大酒・自慢・奢なるべし。不仕合わせの時は、気遣(づか)いなし。ちと仕合わせよき時分、この三箇条あぶなきものなり。(略)」>と。『葉隠』は、山本常朝(つねとも 一七一九年)の口述。


葡萄月
行動 美しい日々 恐ろしい眠り
植物 結合 永遠の音楽
運動 敬愛 神聖な苦悩
たがいに似 そしてぼくらに似ているもろもろの世界よ
ぼくはきみらを飲みそして渇(かわ)きがとまらなかった

だがそのとき以来ぼくは知ったのだ 宇宙の味を

ぼくは世界全体を飲んで酔っている
彼は流れ 河舟の眠るのを見ていた河岸(かし)の上で

ききたまえ ぼくはパリの喉だ
そしてぼくは気に入れば もっともっと宇宙を飲むだろう

ききたまえ ぼくの宇宙的 酔の歌を

そして九月の夜はゆっくりと終わっていった
橋々の赤い灯はセーヌのうちに消えていった
星は死に 昼がやっと生まれようとしていた(「葡萄月」 アポリネール 滝田文彦訳) 最終部分です。


もとすり歌
次にモトを小桶に移し櫂でかき廻し、もとすり歌を歌ふ。西條の歌、「鶯が梅のヨーホイ、小枝にヨーホイ、一寸ひる寝してヨーホイ、花のヨーホイ、ちるとこのヨーホイ、夢を見たヨイ、ヤレサノセ、シヨーガエ」。東北には、「酒屋モトすり始まる時はヘラも杓子も手につかぬ」、「宵にモトすり、夜中にこして、朝の夜明に酒つくる」。千葉の利根川べりでは、「とろり/\と今するモトは、酒に造りて江戸へ出す」といふ。土地に依り種々の名称もある。灘で朝の歌といふのは午前四時頃、醪(モロミ)に櫂を入れる時に歌ひ、一人が、「起きてナー、いにやしやれ東が赤い」、他が和して、「やかた/\の鳥が鳴く」。一人、「やかたナー、やかたの鳥が鳴いてしまや」、他が和して、「明けりやお寺の鐘が鳴る」と云ふ。同所のモトすり歌には臼すり、山おろしの二種があり、前者は本来丹波の臼すり歌であつたといふ。一人が、「やわた八幡(まん)さんはなぜ川の下(しも)」と云へば、他が、「水の流れぢや是非もない」と和し、参宮道中の長篇がある。山おろしは、一人が、「めでた/\のヨイナ」と云へば、他が、「よい/\」、また、「若松様よナ」と一人で云へば、他が、「枝も栄えるヨイナ葉もしげる」と云ふ。山おろしの意味は不明だが、前の西條にもある。「あなた川上、わしや川下よ、書いて流しやれ恋の文」、「書いて流すはいと易けれど、濡れて破れて読まりやせぬ」、終りに、「ヨヤレヨイヨイヨイ」と囃す。山おろし小ずりの唄といふのは、「酒はよいもの気を勇ましてヨー、飲めばお顔が桜色ヨーホイヨイ/\/\」。(「日本民謡辞典 酒造りの歌」 小寺融吉)


温泉場
船宿が衰えて待合が栄えるまでの中間に温泉宿がある。この温泉宿は今日もその俤(おもかげ)を、根津の草津温泉、鴬渓の伊香保(いかほ)等に留めている。最初は幕末に仮宅で繁昌を極めた深川に温泉場が開かれた。明治二年の火事で仲町が焼け、江戸の名残の娼家料理屋の建物をことごとく失い、その上に新築の許可がない。人情本で知られた辰巳の春色も、蓬々とした草原ではお話になるまい。その局面転換というので温泉場が考案された。市内の銭湯よりも大規模で清潔な浴室を付属とした妓楼のような形式で、料理も出来れば芸者もいる。幾日でも逗留し好いように楼上に数多い部屋があり、飲んで騒いで寝てゆける。船宿で遊んだ模様だ。早くいえば連れ込みなのだが、後には昔の出合茶屋のようにもなった。そうして温泉場の数はだんだんに増加し、市内各所にあるようになった。料理屋の遊びは隣座敷へ遠慮があり、長座をすれば後客(あときやく)の邪魔になり、酔っても寝てはゆけない。特に芸者との交渉に便宜が乏しい。船宿の二階で飲むのはカクレンボ模様ではあるが、料理屋でのような心遣いはない。ここの気味合いを折衷したのが温泉場である。何故か知らないが温泉場は衰えて、待合の景気は盛んになってゆく。(「江戸芸者の研究」 三田村鳶魚)


初代川柳の酒句(17)
何を喰たらよからふと二日酔  雨譚
塩辛をこわ/"\下戸ハなめて見る  仝(玉簾)
道なかで二三分下戸にかせといゝ  山耕
いざゝらバ花見にのめる所まで  仝(雨譚)
生酔にミんな売切ルはなし鳥  石斧(「初代川柳選句集」 千葉治校訂)


二律背反
そしてさらにやっかいなことに、第一段階の糖化に際しては、これに用いられる麹菌のアミラーゼは至適温度が摂氏三七度で、できた糖分を酒精化する酵母の活動の至適温度は三〇~三二度という点である。したがってこの点だけからすると、清酒醸造の最適期は、なるべく暑い時期、つまり夏季ということになる。実際に室町末期には旧二月に「夏酒」が仕込まれたことは、既述の『多門院日記』にも述べられている通りである-。またごく最近まで出雲で行われていた地伝酒も、夏の土用にかけてつくるのがよいといわれていた。しかしながら、夏季の高温の時季に仕込むと、酵母の働きが活発なだけでなく、腐敗菌や酢酸菌も同時に盛んに活動する。したがって、酒は早くできるが、できた酒はとかく酸味をおびた。すっぱい酒ができることになる。昔からこの二律背反を解決するために、いろいろな工夫が試みられ、そこに醸造技術の進歩がなされてきたといえよう。(「酒造りの歴史」 柚木学)


笑福亭笑瓶さん(レポーター)の主張
最初は「お父さん、もう帰らはるんですか?」なんてとこから入って、「なんだあ?」「いや、テレビなんですけど、ちょっとお話聞かせてもらっていいですか?」「おう、いいぞ」ってことになったら、ディレクターの水口さんの判断で、パッとライトつけてカメラ回し始めるわけです。で、あうんの呼吸で、用意した演台をすーっと出す。「ま、これ一応、主張ということなんで用意させてもらいましたけど」「お、そうか、よし」って、バンッと演台を叩いてノっちゃう。もう向こうの疑いをなくしながら、徐々に気をほぐして、一番面白いところを引き出していくんですね。普通の人に対するより、それはずいぶん気ィ使いますよ。なにしろ酔っぱらっているんで、発想があっち行ったりこっち行ったりする。向こうの言うことにこっちもはまりながら、またつかんで、話があっちに飛べばついていってまたつかんで…そのくり返しです。あの番組は、結局、僕と酔っぱらいとの漫才になってるんですけど、それがドキュメントの間(ま)というか、ナマの間(ま)なんですよ、ネタの間(ま)じゃなくて、酔っぱらい自ら生み出す、酔っぱらった間(ま)。狙ってできるもんじゃない。だから何回見ても同じところでおかしいんやね、中毒みたいに。来るぞ来るぞとわかっていて、来たーっと笑ってしまう。それは言っていることの中身の面白さではなくて、人間の面白さなんです。だから、やっぱりお父さんが多くなる。若い子はうすっぺらなんです。お酒を飲んで素(す)になって、子供のような感覚に戻ったとき、どういう不満をいま持っているかを聞きながら、人間のあったかいものを見せていく-それで番組を見ている人たちに「なるほど」と思わせるには、会社に行きゃ部長かそれ以上、ある程度人生の機微を知ってる人の話じゃないと、納得してもらえないですもんね。(「広告批評 1987-7」 天野祐吉発行人) 酔っぱらいの主張


おじさん、もう一杯
少年時代から還暦を過ぎた今まで、私は酒とは縁が切れたことがない。ほぼ毎日のごとく酒を飲んできた。ビール、ワイン、日本酒、焼酎、ウィスキー、ジンとなんでもアルコール分を含有していれば体が喜ぶので口にしてきた。酒は飲みすぎなければ一生裏切ることのない友である。記憶は美化されるというが、思い出の酒はいつもうまかった。学生時代は週末になると椎名誠の住む小岩のアパートで酒盛りをしていた。一升瓶をコタツの上にのせ、ニボシを肴(さかな)に朝方までプロレス談義に明け暮れていた。湯呑みで飲んだ安い合成酒がどうしてあんなにうまく、体にしみわたったのだろう。あるいは木枯らしが吹く冬の夜に、中野駅前の屋台のオデン屋で背を丸めて飲んだ熱燗のコップ酒が忘れられない。「おじさん、もう一杯」赤提灯が風で揺れている。オデンの温かな湯気と匂いに包まれる。「ツミレにガンモによく煮たダイコンをください」と椎名は言い、手元の財布を開き、しきりに計算している。こちらはアルバイトで入った大金を持っている。「心配するなよ」小さな声で言い、彼の体を肘でつつく。「ではではおじさん、熱燗」椎名はとたんに元気な声を出す。升に置かれたコップから湯気をたてた酒が溢れ出る。あの時の酒も忘れることができないほどうまかった。(「地球の裏のマヨネーズ 椎名誠 解説」 沢野ひとし)


酒を基語とする熟語(9)
属酒(ゾクシユ) 酌をする[袁皓「詩」]
崇酒(ソウシユ) 杯に酒を満たす。[「儀礼」郷飲酒礼]
被酒(ヒシユ) 酒をあびるほど飲む。[「後漢書」劉寛伝]
楽酒(ラクシユ) 楽しみながら酒を飲む。[「孟子」 梁恵王・下]
酒家胡(シユカコ) 酒宴の余興に使う玩具。[辛延年「雨林郎詩」](「日本の酒文化総合事典」 荻生待也)


密造酒
斜め向かいの腰掛で、若布(わかめ)でも垂らしたような長髪の蔭からじっと音吉を見ている、色の黒い、瞳の大きい青年がいた。その面魂に見おぼえがある。前年の二月なかば、まだ経済調査官だった音吉は、その日午前五時ごろから、管区警察の協力のもと土佐山田の密造酒検挙にあたり、午后一時までおよそ二〇〇石を摘発した。そのおり違反者の一人が、濁酒の甕をかくした横穴壕の前で、噛みつくような激しい口調で抗議した。「食うためには密造もやむをえませんろうが。密造がいかん言うなら、その前にわしら貧乏人への生活保護をやってくれにゃいきませんろうが」そりゃそうじゃ、わしも民事部の毛唐らの言いなりになりとうはないが、これが勤めじゃきに、と言いたかったが、音吉は黙っていた。競輪場のおでん屋で偶然再会したのは、その青年-西岡だった。「今日はおしのびですか」と薄笑いして西岡は言った。音吉がとうのむかし調査官を辞め、その後、市の商水課長も辞めたことなど、全然知らない風だ。「稼いだかよ」くすぐったい懐かしげな気分から、音吉は訊いた。「いきません。わしら小百姓は何せ元手が乏しいきに、ふとい事は出来ませなあ。-だんだんええ酒が出廻ってくるとドブロクも売れん、学歴がないきに、まともな会社には雇うてもらえん、バクチも向かん、何をしてもいきませんなあ」骨太い体つきに似合わず気弱いことを、しかし陽気に歌うような口調で答える。いつかの牙を剥いた激しさがなく、音吉がつい、ふところ淋しいのを忘れて一杯奢る気になったのは、取っ組みあいの喧嘩のあとぐったりした辰彦の顔が、ゆらりと西岡の顔の下から浮かび出たからか。(「みぞれ酒」 嶋岡晨)


酔生夢死
(A)なすところなく一生を送ること
(B)この世を楽しんで幸せな一生を送ること
酒に酔っているかのように生き、夢見心地(ゆめみごこち)で一生を終わる。何をするということもなく一生を過ごすということで、正解はA。何の苦労もない幸せな人生のことではない。(「どちらが正しい?ことわざ2000」 井口樹生監修)


志ん生と双葉山
しかし、この(古今亭)志ん生が飲みっくらを挑(いど)んで、あっさり破れた人物がいる。その人の名は双葉山。不滅の記録・六九連勝の大横綱である。最初はコップ酒で調子よく飲んでいた志ん生は二升(三・六リットル)でダウン。横綱は平然と飲みつづけていたといいう。(「酒 面白すぎる雑学知識」 博学こだわり倶楽部編) お酒


さる・こま
こまは甑(こしき)穴の上に置いて、釜から上ってくる蒸気を均等に分散させるための小道具で、灘ではさると称している.これはこまが猿の伏した形に似ているところから、あるいはこまの材質が欅(けやき)で赤味を帯びており尻の赤い猿を連想してとの説もある.こまの形は円形、四角形、六角形、八角形など種々のものがあり、これに放射線状に溝が切っててある.大きさは甑の底径の約1/5~1/6である.こまは通常一枚の厚板を彫って作られているが、箱状に組立てられたものもあり、これを箱ざるといっている。(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)


よいよい[名]
手足が麻痺したり、口がもつれたりする症状。脳卒中やアルコール中毒などで起きる。(江戸) ◇『滑稽新聞』第54号(1903年)「よい/\ 泥酔者、腎虚人」◇『東京語辞典』(1917年)<小峰大羽>「よいよい(中風) 中風症をいふ。全身或は半身或は一局部の麻痺して感覚を失へる病気、又其人。ちゆうき、ちゆうふう」◇『悉皆屋幸吉』巻の五・五章(1941~45年)<船橋聖一>「ヨイヨイみていな恰好で、物も云えなきゃ、立居も出来ねえ」(「日本俗語大辞典」 米川明彦編)


椿 つばき 玉椿 山椿 藪椿 白椿 紅椿 乙女椿 八重椿 つらつら椿 散椿 落椿
椿は山茶(つばき)と書くのが本当で、北海道を除き全国いたるところに、野生または栽植されている常緑樹である。鮮紅・淡紅・白色等色はさまざまだが、八重よりは一重の方が精美である。京都の椿寺、伊豆大島が椿の名所で、概して暖地に咲くものがすぐれているようである。なお日本での少ない鳥媒花の一つである。-
ひとつ咲く 酒中花はわが恋椿  石田波郷 (「合本俳句歳時記新版」 角川書店編 )


品評会をやめた中国紹興酒の場合
平成5年の2月に、私は中国浙江省の紹興を12年ぶりに訪ねた。その時、紹興酒の審査会、品評会のようなものはどうなっているかと聞いてみたところ、そんな酒のコンテストのようなものは2年前に取りやめてしまったというではないか。紹興酒の審査項目の中には、色、香り、味のほかに「風格」というのがあって、審査によってはこれが評価全体のうちの10%とか15%を占めたりする。わが国の新酒鑑評会のプロファイルカードに平成3酒造年度から設けられた「個性的」よりもさらに印象批評の色合いの濃い、「風格」の評価基準がなされていたのである。そんな審査会を止めるに至った理由については次のような話だった。「人間の官能による審査というのは絶対的なものじゃありません。しかもその審査が注目されるものであればなおのこと、審査にまつわる感情的なしこりが残ったりします。」(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)


557流石は…
二人のスコットランド人が酒場で飲んでいた。さて、勘定の段になって、二人とも出したくないので、銅貨を投げて、その表裏でどちらが払うかを決めようということになった。一人が「表」と叫んで、銅貨を投げた。そして、表が出た。それを見ると、もう一人の方が、間髪を入れず「火事だ!」と、大声で叫んで、やにわに酒場から飛び出して行った。(「ユーモア辞典」 秋田實編)


掛り人 かかりうど
三ばいめ こわさうに出す かかり人  明四桜5
【語釈】〇掛り人=寄食者、居候と初めは区別があったが、後に同じに使われた。
【観賞】周知の「居候三ばいめにはそっと出し」の原型であろう。-
かかり人 屋根から落ちて 酒にゑひ  拾九16
【観賞】屋根の修理に上って墜落、気付薬に貰った酒の久しぶりのうまさよ、また落ちようか。川上三太郎推賞句。(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)


中酒
社交の酒は食事と密接な関係がある。そもそも正式の宴会では食事に酒は飲まなかった。酒と飯とははっきり区別されていた。したがって、のちに食事中に飲む酒を「中酒」とよぶのだが、桃山時代までの中酒の意味は異なっていて、食事の終わりに出す酒が中酒であった。まず食事の終り方であるが、客の方から食事について三度まで礼を述べよと、貝原益軒は「食礼」のなかに記している。その一文を現代語に直しておこう。  饗応のなかで、初、中、後と三回のお礼の言葉が入る。初めは料理がはなはだ立派であるのに礼をいい、中間には、料理がとても丁寧であることを謝し、最後には、すべてにわたって亭主の心配りが念入りであることをいうべきである。このほか遠方からとり寄せた名産のものを、それぞれ気をつけて感謝の言葉を述べるものである。  最後の挨拶は食事の終了を意味するのだが、ここで酒がふるまわれた。これを古くは中酒といった。伊勢貞丈の『各々聞書貞丈抄』に、「中酒とは、飯の湯をまだ飲まない前に酒を飲むことである」と記されている。つまり、料理を食べ終ると最後に白湯が出て器をあらためて食事が終了するわけだが、この白湯を出す前に盃を出して、客を引き止めるのが中酒であった。(「酒と社交」 熊倉功夫)


『青鞜』と飲酒
そして次号にいよいよ「五色につぎ分けたお酒」(『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会)を、紅吉(尾竹紅吉、のちの富本一枝)が書く。青いムギワラの管で飲みながら、と。文士や画家に人気のあったレストラン兼バーの、メイゾン鴻の巣へ、『青鞜』へ載せる広告を取りにゆき、比重によって色分けするカクテルを見せられて、美しさに心を奪われたのだった。紅吉はそれを、やはりさらけ出す勇気として書いたのかも知れない。だがたったそれだけの、たあいもない記述が、同じころ起きた吉原登楼事件と共に、うってつけの三面記事となり、世間の非難を呼び起こして、『青鞜』を窮地へ追う中傷の火蓋が切られる。ただこの場合注意すべきなのは、世間の非難者が男のみに止まらず、女にもいたこと、社内にも批判者がいたことである。青鞜社員の飲酒は事実であり、周囲の批難があればあるほど、ありのままを記すことを勇気としたとも解せよう。だが、何がそれほど悪かったのか。「男子も三舎を避ける」と三面記事がいっているように、批難のロジックは、男のすることをする、というところにあった。男の側からは侵犯者と見られたのであろう。だが男のすること、の本当の意味は何だろう。酌をする立場でもなく、婚礼などの行事でもなく、女だけで公然と飲んだのが悪いとなれば、主体としての飲酒が許し難いことになりはすまいか。本来、日本の酒は女との因縁が深かった。女が米を噛んでかもし、各家の刀自が管理したといわれている。紅吉のあっけらかんとした行動は、彼女自身は意識せずとも、その"非因習的"な性格ゆえに、因習を超えて遠い本来性を喚起する力をもち、それだけに非難者たちを刺激し、嘲りながらも、苛立たせたのではないだろうか。彼女の提出した五色の酒は、青鞜社員の飲酒を代表する言葉となり、『青鞜』攻撃の悪名の一つとなった『青鞜』はいわば、淫祠邪教として扱われ、戦後も長く復権しなかった。そこにはいつも五色の酒などの悪名がつきまとい、復権しないことの真の理由-フェミニズム等の思想的内容を、覆い隠す役割をはたした。『青鞜』より原阿佐緒の酒の歌一首- ひと吸いの 酒に頬の染む かなしみを 忘るゝまでを 酔はゞ死ぬべき  ちなみにらいてうは、終生日本酒をたしなんだという。(「『青鞜』と飲酒」 堀場清子)


後撰夷曲集(2)
紫の 藤の花見に のむ酒は 顔の赤きを うはへとぞ思ふ  友和

まつかひに おのれが色の 成ぬるは 酒より外に 何のみの虫  如風尼
たがひちがひ 天のかはらけ 取々に 酌たる酒や ほし合のそら  政長
百首歌の中に

月見には ちゝと酒こそ のみたけれ 我身一つも なるにはあらねど  貞富(「後撰夷曲集」)


中村憲吉の酒歌

高尾遊草 楓林世態
酒宴人(うたげひと) しぐれに濡れて 興つきじ 楓林(ふうりん)のなかに 三絃唄(しやみうた)のこゑ
暁霜
寝寐(いね)がたき 夜(よる)をなやみぬ 吾がくせの 寝酒(ねざけ)をやめし 寂しさのみならず
魚群閃躍
漁(れふ)あみに 祝樽酒(いはひたるざけ )なげ入れて 樽のしたびに 魚はしるみゆ(「中村憲吉歌集」)


舞台で本物の酒を飲むと…
役者は演技するのが商売。酔っぱらった芝居とて同じで、本物の酒を飲み、それで迫真の演技を見せようとするのは、邪道というものだ。一八七〇年、それがいかに愚かでバカげたことであるかということを証明するような芝居が上演された。イギリスはロンドンでのできごとである。芝居のタイトルは『エカルト』。この脚本を書いたニューリ卿は、ピクニックの場面で真に迫った効果をだすために、一流レストランの料理が満載されたバスケットを用意し、シャンペンも飲み放題として、本物のピクニックの様子を舞台の上で再現するように役者たちに求めた。ところが、豪華版の料理に舌鼓(したつづみ)を打ちながら、思う存分に飲みまくった主役のミス・ニータ・ニコティナは、セリフが出てここなくなってしまった。そこで、観客に向かって愛想笑い。それを他の役者たちがからかうようにしてゲラゲラ笑いだし、舞台装置にもたれたりよりかかったりで、舞台の上は、地震でも起こったかのように大道具、小道具がグラグラと揺れはじめた。最後は、もう一人の主役の男性が全部のセリフを怒鳴り散らしたかと思うと、コテンと舞台の上で眠りこけてしまったから、芝居にカネを払っている客のほうはたまらない。とうとう、弥次と怒号(どごう)が劇場を包み、芝居は途中で中止せざるをえないハメになってしまった。(「酒場で盛りあがる酒のこだわり話」 博学こだわり倶楽部編)


水で割ったら
営業で身につけた、歩いて情報を入手する方法は、宣伝部に移っても役だった。銀座の高級クラブで、ブランデーを水割りで飲むぜいたくな客がふえていることを、鈴木が知ったのも、実はそのおかげといえる。薄めのコーヒーをアメリカンと呼ぶことは、すでに一般的になっていた。さっそく、それとブランデーの水割り愛飲化現象を結びつけ、新しいライフスタイルとして宣伝しようと提案した。が、稲見部長からは「まだ早い」と、おあずけを食らった。それも、なんと三年間もだ。やっとゴーサインが出て、「ブランデー、水で割ったらアメリカン」のコピーが生まれたのは五十三年八月である。流行語にまでなった。当然のことながらブランデーの売り上げは倍増した。鈴木が提案したライフスタイルは定着したのである。(「サントリー宣伝部」 塩沢茂)


トクリ
壺状の器の頭に細長や口広の注ぎ口をつけたこの容器を「トクル」(トックリ)と呼ぶ所見は、室町後期に連歌師飯尾宗祇の高弟、宗長が記した『宗長日記』の享禄四年(一五三一年)八月一五日の条といわれ、そこには「おりしも範甫老人、まめに徳裏をそへもたせ送らる」とある。その「トクル」の語源は朝鮮だとされ、『朝鮮陶磁器名考』によれば朝鮮語の甕(かめ)である「トク」か「やや硬質の土器」の意味の「トックウル」から由来したとされている。また、江戸後期の『松屋筆記』(小山田与清著)には「陶口より酒のトクリトクリと出るよりトクリといへる也」とあるが、果たしてトクリの語源は何からきたのか今でも意見の分かれるところである。「トクリ」の呼称が使われはじめたころは「徳裏」「陶」「土工李」「罌」などの字があてられていたが、そのうちに「徳利」と書かれるようになった。(「日本酒の世界」 小泉武夫)


ほとけ【仏】
⑥大仏餅の略称。(だいぶつもち参照)
浅草で下戸は仏を買って食ひ  浅草名物の一つ
だいぶつもち【大仏餅】浅草名物の一。並木町両国屋清左衛門が其の根元であるが、大元は京都方広寺大仏殿の前にあつたもので、それに倣つたものと云ふ事である。-(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


清茶と濁酒
謹厳無比の司馬温公が嘗(かつ)て或人の庵に題して曰(い)ふ(魚陰叢話前集廿八)
清茶 淡話 難 逢 友(清茶 淡話ハ友ニ逢ヒ難ク)
濁酒 狂歌 易 得 朋(濁酒 狂歌ハ朋(とも)ヲ得 易(やす)シ)
軍配は果して孰れに揚げられてゐるのであらうか。(「中華飲酒詩選」 青木正児)


寓言
酒屋がもうけるとて買わないでいると、(酒が)欠乏する。車夫がもうけるとて雇わないでいると、(目的地に)行けない。火をにぎって人に投げつければ、自分がさきに熱いのである。(説林訓)(「淮南子 寓言二百九則」 後藤基巳訳者代表)


醸酒「酉胎」(さけのもと)(米五斗を一「酉胎」という。一つ仕廻というは一日一めぐり片付行をいうなり。其余供/\は酒造家の分限に応ず)
定日三日前に米を出(いだ)し、翌朝洗いて漬(ひた)し置き、翌朝飯に蒸て筵(むしろ)へあげてよく冷やし、半切(はんぎり)二二八枚に配(わか)ち入るゝ(寒酒なれば六枚なり)。米五斗に麹(こうじ)壱斗七升水四斗八升を加う(増減家々の法なり)。半日ばかり水の引(ひく)を期(ご)として、手をもってかきまわす。是(これ)を手元(てもと)と云(いう)。夜に入(いつ)て械(かい)にて摧(くだ)く。是をやまおろしという。それより昼夜一時に一度拌(かき)まわす(是を仯ともいう)。三日を経て二石入の桶へ不残集(のこらずあつ)め、三日を経(ふ)れば泡を盛上(もりあぐ)る。是(これ)をあがりとも吹切(ふききり)とも云(いう)なり(此機を候うこと丹鉛二三の妙ありてここを大事とす)。これを復(また)、「酉胎」(もと)をすしの半切二枚にわけて二石入の桶ともに三ツとなし、二時ありて筵(むしろ)につつみ、凡(およそ)六時許(ばかり)には其内(そのうち)自然の温気(うんき)を生ずる(寒酒はあたため桶に湯を入てもろみの中ヘさし入おく)を候(うかが)いて械(かい)をもって拌冷(かきさます)こと二三日の間、是一時拌(かき)なり。是までを「酉胎」(もと)と云(いう)。
二二 半切 はんぎり、またはぎり桶ともいう。たらいのように、深桶を半分から切断した浅い桶。「酉胎」おろしの図に並んでいるのがそれ 二三 丹鉛 丹は丹砂で赤色、鉛は白粉(酸化鉛)で白色、古代中国で文書を校訂し文字を書き改めるに用いた。これから転じて校訂修正することを意味する。(「日本山海名産名物図絵」 千葉徳爾註解)