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御 酒 の 話 46  



旅の疲れ取り  (六五)世継踊  酒婬  西瓜糖、西瓜茶  「酒屋」(2)  おけいちゃん    初代川柳の酒句(16)  一、寒造リ之事生酒之事  川上氏の言  カキの殻蒸し  漢学  (3)ハイジャックは空賊にあらず  へえ、大けに檀那はん  通夜の酒  甘酒  酒場  居酒屋に色気なし 下戸 げこ  飲12画  だらすけ[陀羅助]  個人的飲酒(2)  酒、人肌の燗  一一二花を蓄こと。  右 花-川-戸  糊気  エピローグ  ソメイヨシノ  秋山先生と熊谷先生  山本為三郎(朝日麦酒社長)  とても比べものにならない  酒の味わいのなかにゆるりと溶けこんでいく  17日 夏の酒  二品と二杯  あられ【霰】  仕込水数え歌  自我忘却  ルバイヤート  鉄火場の酒  懐石料理最悪説  ソムリエ戦略  荘園領主体制から戦国時代へ  十度飲  酔っぱらいの主張  ビールだけで七年間  酒を基語とする熟語(8)  乾杯には日本酒をもって答えた  火落菌(ひおちきん)  酒は飲むべしのむべからず  やだいじんをきめる  義士祭  「酒屋」  初代川柳の酒句(15)  酒書の部  この音を聞きたくなかったのは私なのだ  グニャ、ベチャ  水尾  大日本麦酒会社  さらばいとしの日本酒  11日梅酒  碓屋  川反歓楽街  酒場浴  ひばりちゃん  早く飲まないと  昭和五〇年代  品温と面  (2)「ハッパフミフミ」満開  差し入れのワンカップ  贈看花書生  トウモロコシ、メスカル、リュウゼツラン  のれん  九九 老農のこと。   酔 11画  宮水  個人的飲酒  馳走いなせや  あらひごひ【洗鯉】  菩提性、煮元、水元  サカナがほしい  指、ボキッと鳴った  たぼ[髱]  価値観を生み出す  酒だけのんでいる  冷酒 れいしゆ  ふきんしゆ【不亀手】  禁酒  飲むと熊になる  油燈(2)  梨花  平成15年金賞酒  市の成立  ヘルムの賢人  止酒  554 負けた!  先生来社  花の下に酔ふ  暗闇で飲むと  四八 繁昌之市踊  △麹糵(もやし)  三組盃  サザエの磯焼き  <肝臓を強くするツボ>  内田叔明  巡盃  夷講 えびすこう  人の身を持ち損うは酒に増したる物はなし  無頼  きん酒  バー・ユウロップ  鍋島閑叟とカッテンディーケ  10日 梅ぼし  馮時化『酒史』  たべる[食べる]  勇み肌  第三回目  三井の寿  死骸のアルコール漬  484やっと安心  回礼  酒の中に真あり  白酒 しろざけ  矢内原総長より  もっきり(盛っ切り)  秋落ち・秋晴れ  平成十三年の全国新酒鑑評会  ダルマ、ニッカ、サントリー  酒を基語とする熟語(7)  四十過ぎて  【第一一九回 昭和六一年四月一八日】  手造酒法  何んだ、汚ねえ部屋だな  いい酒  ひとり呑み  トロリとした粘稠性がある濃醇酒  戦後の阿佐ヶ谷会  六号酵母  荒れ狂った禁断症状  (21)日本語と酒のおかげです  宴杖頭銭 巡盃  ものはとりよう  アワビの刺身  モーノマン[名詞]  使い捨てカイロ、ドライヤー  上野尼御前御返事  居酒屋風景  御酒を賜わる  奈良漬  代り目  人の心の表裏は  日高見  梅見  晩酌の開始  酒造りの歌(3)  中国の酒茶論  鑑評会  利剣の悲哀  飲膳正要  活性炭(かっせいたん)  だいこく[大黒]  北島三立  宣伝部に期待  小せん  五花茶  あまざけや【甘酒屋】  483 月か太陽か  11日 うつり香  中歌  朝酒  長崎出島  酒迎  ドブロク  梅酒  滓下げ  七二 禍をうながす。  (卅七)髪結小五郎踊  若取者笞五十  アルコール氾濫社会  油燈  川合俊一  農家のたのしみ  初代川柳の酒句(14)  赤味噌  新酒、間酒、寒前酒、寒酒    化物屋敷  道具名之事(3)  酒ばなれ  どっちらも好きで  後撰夷曲集(1)  ちろり  北米インディアン  鈴徳利  微妙に形が違う提灯  ぼうだら【棒鱈】  六〇 神人のこと  酒 10画  雷かみなり  岸本水府(龍郎)  新粕  あつ過ぎる  李白の詩  斑雪  南部美人  初鰹家内残らず見たばかり  十九日 出営。  たいこ[幇間]  茶椀酒   三軒長屋  現世の享楽 その一   蒸留酒と醸造酒  無礼講  酒銘記、酒爾雅、酒譜  飯店と酒家  徳和歌後万載集(3)  482最悪の事態  渋(しぶ)  あまざけのかんばん  着ながしのちろり  酒屋もんの仕事は眠いもん  白みりん  「竹むきが記」の酒宴記事  眉間にセロハンテープ  酔うほどに詩作百篇  永久夜泊  (5)百年たつうちにまるで変わった意味  ラインの夜  イカのあぶり焼き  メートルがさがる  新技術の公開  大スターの息子の挫折感  阿佐ヶ谷会の変質  お母さん、昔はね  甕覗  カストリ、早苗饗焼酎  芥川比呂志の痛飲  飲み残し  カナカウィスキー  酒を基語とする熟語(6)  大食会の興行  明月記  古今夷曲集(7)  柄樽えだる  工面がいい  道具之事(2)  伊丹隣郷鴻池村山中氏  平和列車  泥酔の思い出(2)  いせ源







旅の疲れ取り
弥次炉兵衛が風呂に入って留守で、喜多八が一服していると、、酒売りの商人が、酒をかついで売りに来る。「ハイ、焼酎は入りませぬか、白酒(しろさけ)あがりませぬか」とふれて歩くのを、喜多八が止めて、「『ヲツトそのしやうちうを少しくんなヲトトトトトよしよし』トちやわんにつがせて、ぜにをはらひ、かのしやうちうをあしにふきかけ、『よしよしこれでくたびれが休まるだろふ、どなたも御めんなさい、ヤアゑいとこな』ト、よこにねかける」とある。この描写は大変に面白い。どうということのない江戸の町人、喜多八が、旅の疲れ取りに焼酎を足にかけているのである。このことから推察されるのは、当時は焼酎がかなり普遍的に普及していたこと、さらに焼酎は疲れを取るということがかなり一般大衆にまで広まっていたことである。さらに田舎者と喜多八との焼酎をめぐるトラブルが続く。「北八『はてわつちは酒をのみやせぬが、此足がなま酔だから』 田舎『ナニ、足が酒を飲むもんか、ばかアつくさつせるな』 北八『おめへ大分(でえぶ)あつくなるの、あしが酔たといふは、さつき焼酎をふきかけたから、それに此あしめが酔くさつて、ソレ御ろうじろ、ひよろりひよろり。アレまだおめへのあたまに、からかをふとする、コリヤコリヤコリヤ』 田舎『ほんに、こなさんの足はわるい酒じや』」(「銘酒誕生」 小泉武夫) 十返舎一九の東海道中膝栗毛の一節です。


(六五)世継踊
二上リお江戸がよひに世継(よつぎ)が出来(でき)た、やっとうお名(な)は加賀(かが)に菊酒(きくざけ)、お江戸(えど)のまん鉢ずんど飲(の)めばよござんす、吉六酌(しやく)とれ、がつてんだ、金銀(きんぎん)の盃(さかずき)におさへた、まつかせ/\、つぎめぢや/\よつつぎ/\/\、よつぎつぎめはめでたいな、顔(かほ)に色(いろ)ますこれはんじやう/\え(「松の落葉」)


酒婬
酒婬[しゅいん]の二つは命を鋸[のこぎり]挽[び]き(比喩尽)
婬・酒の二つは一時の偕楽に百年の定命を縮めるなり(「飲食事辞典」 白石大二)


西瓜糖、西瓜茶
そこで、そんなワガママな酒飲みたちにオススメしたいのが、健康食品などとしても売られている「西瓜糖」だ。西瓜を種や皮ごと煮つめ、ジャムのようにペースト状にしたもので、そのまま舐めてもよし、お茶やヨーグルトなどに溶かし込んで食べてもよし。もちろん肝心の利尿作用も変わらず存在し、おまけに甘みは西瓜そのものよりも控えめ。これなら、甘ったるいものが苦手な酒飲みのおじさんたちでも、季節を問わず安心して二日酔い対策に使用することができる。他にも、西瓜の漬け物に、中国で昔から二日酔いの妙薬として酒飲みたちに愛されてきたという西瓜茶など、探せば結構、西瓜効果を年中実感できる商品があるものだ。(「二日酔いの特効薬のウソ、ホント」 中山健児監修)


「酒屋」(2)
また露伴翁は荷兮(かけい)の句の「酒屋」(有明の主水(もんど)に酒屋つくらせて)を「ここは造り酒屋と見るべし」といわれているが、私はむしろ酒を売る店屋とするのも無難ではないかと思う。その理由はこの句につけている重五という人の句に、
かしらの露をふるふあかむま(赤馬)  重五
とある。江戸時代、大阪灘地方から運ばれた「下り酒」は馬に二樽を振分け積んで一駄としたということである。大酒屋の前などには荷をおろしたこれらの馬があるいは群れをなして居たかもしれないと思われるからである。『冬の日』の連句としての句法の上から考えて、あるいはこのように解するのがよいのではあるまいか。専門の俳人諸君の御参考までにメモを残しておく次第である。(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎) 「酒屋」


おけいちゃん
昭和七年、早稲田高等学院の教師になった頃、私(小田嶽夫)は西荻窪の叔父の家に厄介になっていた。その頃の西荻窪は今とちがって実に淋しく、ろくな飲屋もなかった。で、夜散歩に出ると、足は自然阿佐ヶ谷に向かいがちだった。阿佐ヶ谷は作家や画家が相当住んでいる関係で、ややましな飲屋が幾軒かあった。といっても、私はカフェーやバーに通ったわけではない。私の行きつけは、駅の北口を真直ぐ北にはいった法仙庵横の、おでんの屋台店だった。おけいちゃんという、もとモデルだった美しい女性がやっていた。(中略)おけいちゃんの店には、いろんな知名の士が顔を見せていた。当時売り出しの作家A氏もその一人だった。ある夕方、ひょっこり阿佐ヶ谷駅の近くで氏に出会った。その頃は、駅の近所にまだ竹やぶが残っていて、ちょうど竹の子が生えていた。竹の子を一本二本取ったところで、どなりつけられるようなせちがらい世の中ではなかったので、二人は尻はしょりで手頃なのを一本ほりだして、それをおけいちゃんの店に持って行った。おけいちゃんはちょうど、屋台の横で炭火をばたばたおこしているところだった。A氏は例のひょうきんな調子で、これをゆがいといてくれ、一廻りしてくるからとおっしゃる。それから二人は、時間つぶしに近所のA氏の友人宅に寄ったが、ここでおいしい支那料理をご馳走になり、つい二人は長尻となった。帰りにおけいちゃんの店に寄った時は、二人はへべれけに酔っていたので、竹の子は果たしてどうなったか、全然記憶がない。
いささか長くなったが、かつての阿佐ヶ谷界隈の文士たちは、こんな調子であったらしい。文中A氏とあるのはどうも井伏鱒二のことである。そして支那料理を食べたのは、永井二郎経営のピノチオではなかったろうか。(「阿佐ヶ谷界隈」 村上護)



水炊きなら、福岡城址のある大濠公園近く『橙』へと。鍋に張られたスープはたいてい白濁しているが、骨髄を取り除いて仕込むこの店のは澄んでおり、さらりとした旨さが胃にしみる。が、これで終わるワケではない。ぶつ切りの鶏の胸肉やもも肉が、続いてふんわりつくねが、そして野菜が…と、具材を迎え入れるうちに、スープは次第に濃厚さを増していくのだ。この成長が、実に面白い。鶏肉と野菜によって次第に育まれる最初の段階は、すっきり系の自然派白ワインと合わせると、互いの軽快なおいしさが引き立つ。ボトルが空になったら、地元福岡県の日本酒、若波酒造の「若波」を。酒のほど良い厚みが、スープの旨味を受けとめる。というわけで、締めの雑炊やそうめんまで、呑みっぱなしになるだろう。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子) 


初代川柳の酒句(16)
大風に包まれて行(ゆく)樽ひろい  春松
中直りはあ/\おもふ酒を出し  雀芝
生酔(なまえい)をひよつとおさへてもてあまし  春松
鋪居(しきい)を越スと生酔(なまえい)を嫁笑らひ  春松
門番ハ縄をゆるめて酒をのミ  未青(「初代川柳選句集」 千葉治校訂)


一、寒造リ之事生酒之事

夫レ寒造リ者寒中者勿論 寒前自二(1)中冬ノ節一、寒後及二立春節一、前後都合九十日与寒造云。仕掛太(大)体同然、風味大形等シ。然ル則ハ強ク仕掛而可レ沸ス。古今沸過様未タレ聞。依レ之、自然弱仕掛ル則ハ沸兼、米気残、必過チ可レ有レ之者也。故ニ渡シヲ為二相手一、造桶無レ数用而手強ニ可レ造。但寒前後時節、随二温暖一可レ有二勘弁一。定法掛三也。元米造米与三日漬也。元ハ枯シ也。
序文
寒造りとは、寒中はもちろんのこと、寒前の十一月から寒後の立春に及ぶまでの前後合計九〇日の期間に造るものをいう。造り方はだいたい巻二に同じで、酒の風味もだいたい同じである。であるから、強く仕掛けてわかすこと。昔からわきすぎたということはいまだ聞かない。したがって、もし弱く仕掛けると、わきにくく、米の気が残り、必ず失敗するものである。ゆえに大桶を使用し、造り桶は少なくし、強い仕込みで造ること。しかし、寒前後の寒い季節であるから、寒暖に応じて判断するように。定法では掛は三回である。酛米、掛米ともに三日間水につける。酛は枯し酛を使用する。
(1)中冬 仲冬。」冬の三か月のうち、中の月の意。陰暦十一月。(「童蒙酒造記」 吉田元 翻刻・現代語訳・注記・解題)


川上氏の言
例の『郷土研究』四巻に、川村杳樹の「孝子泉の話」が二回続き、いわゆる酒泉、醴泉は、美質の水が涌き出でたので好酒を作り富を致したのを大層に言い立てたとか、その泉が古え尸童(よりまし)を立て神祭を営んだ霊場の址で、特にこの清水を用いて神に捧ぐべき酒を醸す習いであったがために、泉水変じて酒となるという伝説を生じたものと見ねばなるまい、と言われた。すなわち醴泉という物の実在を信ぜず、ただの水の美味なるを大層にも醇酒佳醴に比した誇張か、もしくはむかし神酒を作るに用いた泉水を、水がおのずから酒に変じていわゆる酒泉たりと訛伝したかより生じた虚構じゃ、と言うたのだ。ところが越後の生れで京都大学出で只今熊本医学専門学校に奉職する川上漸氏が、川村氏の説を読んで同誌に一書を寄せた。件の「孝子泉の話」の中に川村氏いわく、「顕昭の『古今集註』に、むかし孝子あり、食物の初穂を亡親(なきおや)に手向くるとて木の股に置きけるが、いつとなく佳き酒になり、それによって家富み栄えたという故事を挙げ、その木の股三股(みつまた)にてありけるにより、酒を三木(みき)とはいえり、云々、と述べている。酒をキと読んだ古語がこの時代にはや忘却せられていたというは意外である。ただしこの説の只の出鱈目でなかったことを思わしむるは、大和率川(いさがわ)社の四月の祭に三枝の花をもって酒樽を飾るの式あり、よってその祭を三枝祭と名づけたことで、三枝とは百合のことだという説も久しく存してはいるが、神酒にこの物を取り付けた理由に至っては今にこれという説明もないので、自分のごときは右の誤ったる三木伝説から推測して、ことによると大むかし大木の股に溜まった水を霊酒と信じ、これを用いて一夜酒(ひとよざけ)を醸した名残ではないかと思うておる、云々」。(以上川村氏の言、ただし文の前後を見合わすに、木の股に溜まった水で一夜酒を醸した例少しもなく、全く氏一己の臆断なり。)川村氏のこの言に対し、川上氏はその姉婿なる越後在住星野忠吉氏の宅辺の老杉幹より当時(去年[大正五年]十二月)盛んに酒を噴出しおる実況を報じ、かくのごとき現前の実例を見ると、木の股や空洞から酒が湧いたという昔物語のごときも必ずしも根拠のないものでいかも知れぬ。後世万一にも川村君のごとき人々によって伝説扱いにされてしまっては困るから永久に伝え置きたい、と述べたのだ。図[写真不鮮明のため省略]は十二月六日の撮影で、注連張れる老杉幹より湧き出る霊酒を硝子(ガラス)罎に受けおるを示す。ここの講釈はちょっと手間取るから次回に延ばし、とにかく麒鳳亀鶴と双んで大瑞の列に立つ醴泉の写真を『日本及日本人』のこのお芽出た号[新春拡大号]に出すべく忙いで発送に往き、ついでに上述の錦城館に寄り、お富の顔見ちゃ一分でけえられぬ。(大正六年四月一日『日本及日本人』七〇二号)(「酒泉等の話」 南方熊楠)


カキの殻蒸し  殻はついたままでレンジへ
作り方 ①カキは殻をよくこすり洗いする。 ②耐熱の器に下記ママを並べ、ラップをせずに約5分加熱し、少し開いた部分をきっかけに殻をはずす。 ③大根おろしをのせ、しょうゆかポン酢しょうゆをすこしかける。
材料(2人分) カキ殻つき…4個 大根おろし…大さじ2 しょうゆ、またはポン酢しょうゆ…適量
このつまみに、この一本 天界(てんかい) 吟醸/島根 日本酒度…+5 酸度…1.6 価格」…2800円(1.8ℓ)
●カキなどの、ややクセのある素材の味を引き出すには、口当たりやわらかで軽快なタイプの酒がよい。島根の銘酒「天界」はふくよかな味わいと豊かな香りが魅力。(花ふぶき)(「新・日本酒の愉しみ 酒のつまみは魚にかぎる」 編集人 堀部泰憲)


漢学
漢学者洋学者打交(うちまじ)りて雑談する折ふし、一人の洋学者巻煙草の灰を払ひながら、イヤ先日あるところで此頃流行(はや)るラム酒(しゆ)といふを勧められて、わたしは酒客では無いが一杯飲んでみたところ、余り美味でも無かつたのみならず非常に酔つて仕舞つて大苦みを仕ました、実にラムには懲り/\しました、と云へば、漢学者はそれ見たことかといふやうな顔をして、デござるから漢籍もチト御読みなされ申すのです、日本酒は兎に角、ラムは飲(や)らぬが先づ宜しいテ、既に、酒は量(はかり)無しラム(乱)に及ばずといふ本文がござる。(「笑話 春の山」 幸田露伴)


(3)ハイジャックは空賊にあらず[70.8 82]
Dictionary of American Slang とThe-American The-saurus of Slangによると、hijack はアメリカ禁酒法施行時代に現れた俗語で、密造酒を積んだトラックを襲った強盗が運転手にピストルを突きつけて、"High Jack!"と言ったのがそもそもの起こりだったという。これは「手をあげろ、あんちゃん!」という意味で、初めはhighjackと綴ったものであって、後にhijackと略されたのである。従って飛行機乗っとりはairplane hijackingまたはaerial hijackingといわなければならない。(「時事英語研究」70年6月号17「ハイジャックとスカイジャック」(P))


へえ、大けに檀那はん
同じような話で、私が子供の時に目撃し、さすがにアッといって、今でも覚えている光景がある。同じ中座で「沼津」が上演された時の事である。「沼津」とは、東海道の沼津の街道、川柳に 花道へ東海道の布をしき 水府 という名句さえある。ここに年老いた雲助の平作が、旅人伊豆屋重兵衛の荷をかついで、舞台から上手のカリ花道へ来かかり、客席の中にあるアユミという板を横切って、本花道へかかる頃、舞台がまわって道具が変わっているという面白い演出である。この時の平作が、名人といわれた先々代片岡仁左衛門。非常な奇人で、カリ花道のまん中まで来ると「ドッコイショ。一休みしまひよ」と、荷をおいて汗を入れる。それが又、満場の拍手である。ちょうど桟敷の前である。その時、桟敷で、さきに述べた棚で一パイのんでいたお客が、その仁左衛門に「仁左衛門(まつしまや)。一つ行こ」と、盃をさした。私は子供ながらも、どうなることかと思って見ていると、仁左衛門はすこしも騒がず「へえ、大けに檀那はん…」と、雲助の平作のままのイキで、その盃を貰ってのみ、ちょっと手拭で盃をふいて「ご返盃を…」といって、二つ三つ差しつ差されつ。傍に重兵衛の役で立っていた延若(先代)が、それを促すのに「おお、そろそろ日も西にまわる。道はまだ遠い。ボチボチ行こやないか」といった。平作も「そんなら、又この次までおあずけ申しておきます。ごっつおはんで…」と、立上がって行った。満場は又、大喝采であった。(「味の芸談」 長谷川幸延)


通夜の酒
酒といえば、佃多は酒豪であった。彼の最も好きなのは通夜の酒で、通夜の通知がくると機嫌よく出かける。「どうもとんだことで」「おいそがしいところを恐れ入ります」一ト通りの挨拶がすむと、「供養のためにどうぞお一ツ」ということになる。いろんな料理が出る。佃多にいわせると、通夜の料理でその家(うち)の財産(しんしよう)がわかる。残った料理を折(お)りにつめさせてもって帰る。その気分が何ともいえない。どんな通夜にでも佃多は出かけた。仲間は蔭で、「お通夜の多ァちゃん」といっていた。(「心に残る言葉」 宇野信夫)


甘酒 あまざけ 一夜酒
麹に飯または粥を加え、あたためて甘味を出した酒精分を含まない飲物。沸騰させて飲む。一夜酒ともいう。今では真鍮の釜を据えた荷箱をになって町中を売り歩く甘酒売も見られなくなり、壜詰のものを売るようになった。
禅寺の甘酒のどにゆきて酸し 加藤知世子
甘酒啜る一時代をば過去となし 原子公平
乳母の顔浮ぶ祭の甘酒飲む 伊丹三樹彦
ひとりすする甘酒はかなしきもの 清水径子(「新版俳句歳時記夏の部」 角川書店編)


酒場   室生犀星(むろうさいせい)
酒場にゆけば月が出る
犬のやうに悲しげに吼(ほ)えてのむ
酒場にゆけば月が出る
酒にただれて魂もころげ出す(「酒の詩集」 富士正晴編著)


居酒屋に色気なし
幕末江戸の侠客(きようかく)の新門辰五郎(しんもんのたつごろう)が「酒は燗(かん)、魚は刺身、酌(しやく)は髱(たぼ)(女性の襟足(えりあし)にそって張り出した髷(まげ))」と言ったとされ、刺身を肴にして美人の酌で飲む酒は最高であるのは、誰でもが認めるところだろう。ところが、実際の居酒屋に色気はなく、毎夜酒をひっかけに来る常連の集(つど)いの場だった。夫婦だけで営業する店では、女房も手伝っているが、男だけで切り盛りしているのが大半だった。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資)


下戸 げこ
酒屋の前を通つても、むか/\してくるやふな大の下戸あり。つら/\思ふに「おらほどの下戸も又とあるまい」と思ふていたるに、上方からこのごろ隣町(となりてう)へ越して来た大下戸(だいげこ)があると聞いて「それはどれほどの下戸だやら、行つてくらべてこふ」と、かの上方下戸の所へ尋ねてゆき「私は江戸の下戸でござるが、お前のお噂承り及んで参つた」といへば「コレハよふこそお出で。お前のことも聞いておりました。そふしてお前の下戸はどの位でござる」「サレバ、まあ聞いて下され。先日も樽ぬきの柿を給(たべ)てぼうだらになり、私は覚へませぬが、すつぱぬきなど致したげにございます。さめてから承り面目(めんぼく)を失ひました。マアこの位の義でござります」と咄す内より、亭主の顔が真赤に。(聞上手二篇・安永二・大上戸)
【語釈】〇ぼうだら=棒鱈。酒に酔った人。泥酔。
【観賞】この下戸くらべ、上方者の勝ち。今日でも落語のマクラに振られる咄。(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)


飲12画 飮13画 イン のむ
[解説]会意。もとの字は「酓欠」(いん)に作り、酓(いん)と欠(けん)とを組み合わせた形。酓は蓋(ふた)(今)をした酒樽(さかだる)(酉(ゆう))。欠は人が口を開いて飲む形。「酓欠」は酒樽の中の物を飲む形で、「のむ」の意味となる。食-は蓋(上:人、下:一)をした食器の形であるから、その中の物は飲むものではないが、のち、「酓欠」に代わって飲が「のむ」の意味の字として使われる。(「常用字解」 白川静)


だらすけ[陀羅助]
キワダ、センブリ、その他の薬草を煎じ詰めた黒い脂みたいな苦い薬で、木曽のお百草と同じ質のもの。胃腸の救急薬で吉野大峯の名物。もと僧が陀羅尼経を読むとき、眠気ざましに飲んだのがその起りだという。
②だらすけをねだられていゐる四天王  (樽五四)-
②飲みすぎた大江山の酒呑童子。(「古川柳辞典」 十四世根岸川柳)


個人的飲酒(2)
こうして我々は「祭りの酒」「社交的飲酒」「個人的飲酒」という三つの飲酒パターンを持っているわけですが、大衆消費社会が始まり、社会変動によって、アルコールがどんどん溢れてくるにしたがって、個人的な酩酊が増加する社会になっていると考えられます。これは先程述べましたように、人とお酒の節度ある関係が消失しているわけであり、お酒がいつでも手に入り、いつでも飲める社会がアルコール依存症を増加させ、未成年者の飲酒をも増加させているわけです。この個人的な酩酊を求める心は、実は薬物依存とほとんど変わらない心理です。アルコールと並んで、他の依存性薬物の乱用は深刻な問題です。違法な薬物であるヘロイン、コカイン、マリファナ、シンナーなどにふける心理は、アルコールによる個人的な酩酊と同じと考えられています。つまり、現実から逃避して酔いに逃避することでは共通しているわけです。青少年においては、アルコール乱用よりも薬物乱用の方が問題になってきた歴史があります。アルコール氾濫社会とは、薬物氾濫社会でもあるわけです。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二) 個人的飲酒


酒、人肌の燗<元鉄道大臣 小松謙次郎氏の話>
新橋へ来て「江戸銀」、日本橋へ行って「灘屋」。この灘屋は酒がうまいので、若槻君(礼次郎氏)などもよく出掛けて行く。金釜、菊正宗、大関と、菰(こも)冠りの樽をずらりと並べておくところが気に入った。「くじらの酢味噌」を自慢にしているが、まず自慢だけはある。それにこのうちのお酒の燗が素敵で、つまりいう「人肌の燗」というやつ、熱からずぬるからず、舌の上へすうーッとあま味の走るところは格別である。一と口に酒のお燗と言って、ただ熱くすればいいように思っている者があるが、これは酒客としては、酒その物の吟味と共に大切なことは、御承知の通り。熱い湯をその温度から下げぬように、また上げぬようにしておいて、それで燗をする。酒が入っているのに、湯がどんどん煮え立ってくるのなどはいけない。錫の徳利は良いが、どうも上の方だけ上燗になって、下の方と燗が違うので、これもいけない。通常の徳利も、燗がぴんぴん利いていけないし、誰か、いいものを考えそうなものだと思っている。(「味覚極楽」 子母澤寛)


一一二花を蓄こと。
桜のはなをしほ(塩)にし、壺にたくはへ、ふん(封)つけてをきけり。まれ人のおはするころなどと思ひ置たり。夏のころ、まれびとおはしけれど、酒もくみ給はねば、かゝるおり出さんも、*玉のさかづきのなにとかいはんこゝちすればとて、いださず。またこと君き給ひしには、酒このみ給へど、みやび好み給はぬものに、いかでとふん(封)きらず。秋の末つかたになりにければ、このごろかへり咲とて、こゝかしこの枝に、はかなけれども、さくこともあれば、これをもそれと思はんは、いとうらみあればとて出さず。しはすのころ、例の草木うるかたには、桜はさらなり、藤なんどもさかせてうりひさぐといふをきけば、いかゞはせむ、それとひとしからむもいと口おし、こん春もはやちかし、さればとて、たくはへ置きしはなを、むげになすべくもあらずとおもへど、まれ人にもおはせねば、せんかたなく、只酒のむ人の来りぬるとき、ふん(封)きりて花をとり出したれば、まらうど打みし斗にて、やがてくひさしながら、「これはしほけあるはななり。このごろさるかたにて酒のみしとき、盆にうへたる桜を出したまひしかば、盃にうけてのみぬ。花はしほけなくいこそよかりけれ」といひしをききて、なみだおとしてくひけるとかや。(「花月草紙」 松平定信 西尾実・松平定光校訂)


右 花-川-戸
歓-喜 竜-山
下-観 織-殿
一-花 雖モレトレ
テレ 暫-時(「二大家風雅」 太田蜀山人)


糊気
酛味の他に、「糊気(のりけ)」というのもあるんだ。酛は糊のような味も出ないと、酒の香というものが出てこない。だすけ、おらとこの蔵では酛を仕込んだ後、櫂を入れる時には米をよくつぶすようにしているんだわ。酒造りの教科書には「櫂でつぶすな、麹(こうじ)で溶かせ」と書いてあるし、おらも若い頃はそんげに習ったが、実際には櫂でつぶしたほうがいいようなんだわ。だすけ、「麹」のほうも、「蒸米(むしまい)」のほうも、それに合わせたものにしているわいね。おらとこの蔵にはそれが合っているということかもしらんが、これも教科書と実地の違いのひとつだいね。「酒造(さけづく)り万流(ばんりゆう)」さね。(「杜氏 千年の知恵」 高浜春男)


エピローグ
「酒で昭和史を綴ってみようか」という話は、大阪で酒の専門誌として頑張っている"たる"の編集長・高山恵太郎さんとの間でまとまった。三年余も前の話である。この一冊は、三年余にわたって、その"たる"に連載したものに、多少手を加えたものである。お読みいただいておわかりのように、私は実によく飲んだ。酒を通じて友を知り、酒をかりて仕事もした。それこそ"よい酒"を心ゆくまで飲んだ一人だろうと自認している。その意味では悔いることはないが、昭和が終わったとともに、体調の異常に気付き、それが舌ガンだと知ってからも、仕事の場を放れず、、痛みをこらえて乾杯の盃をあげもした。「阿呆とちがうか」と思われるだろうが、私にはそれ以外の対応のありようがなく、いよいよ「もうこれまで」というところで、病院に馳けこんだ。その結果、私は命とひきかえに声を失った。覚悟の上のことだが、いわゆる還暦を目の前に、これまでとは全く別の生き方を求められるとは、われながら、なんと律儀なことだろうと思う。そしていま、私と酒席をともにして下さった多くのひとびとの顔が浮かぶ。私はいい友に恵まれ、いい時代を生きたといましみじみと実感している。(「いい酒いい友いい人生」 加藤康一)


ソメイヨシノ
美しいばかりでなく、他にも人の役に立つ。サクラの女王ソメイヨシノが薬用植物の一つに数えられている。といえば、意外な気がする読者も多いことだろう。しかし、ソメイヨシノの根や樹皮からとった薬は、セキ止めによく用いられるという。仙北郡西木村の植物学者、佐藤政一氏の『秋田の薬用植物』(五十一年刊)によると、その製法、用法は次の通り。「樹脂が自然ににじみ出たものを採取し、これを自然乾燥して、アルコール十-二十c.c.に溶けるだけ溶かし、それに水を加えて二百c.c.にし、砂糖かハチミツを混ぜ、少しずつ服用すると、のどを潤し、たんが楽に切れるようになる」と。これは伊沢凡人という医学博士の説だそうである。(「あきた雑学ノート」 読売新聞秋田支局編) 


秋山先生と熊谷先生
秋山(裕一)先生は山梨県増穂町にあった「富水」という銘醸家の跡継ぎで、酒造技術を研究され、醸造試験所の所長をされた。先生の研究で私が憶えているのは、酒の酵母の中から何億何十億に一つあるかないかの泡を出さない酵母を探し出した話、酒をつくる米は蒸すのだが、どれほど時間をかければむせるのか実証などわれわれにもおもしろいものがある。熊谷(知栄子)先生は醸造試験所初の女性技術者、それだけで話題になったお人だ。それが名人杜氏でなければ取れないといわれた鑑評会で、試験所から初の金賞を獲得したという吟醸づくりの名人でもある。酒づくりの腕の方だけではない。酒米を洗うと多量に水を吸ってしまうのを止める方法を発明した。どうしてあんな奇妙な方法を考えついたのか、頭の中がどうなっているのだろう。この敬愛する両先輩が吟醸酒の本を書いた。中身は造りの技術の話でとても難しい。マニアックに吟醸酒を論じるならご一読をお勧めする。これを読破できれば吟醸杜氏になれるのではないだろうか。(「「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎) 熊谷流吟醸造り


山本為三郎(朝日麦酒社長)
ところが終戦の年、昭和二十年五月二十三日、ときの大蔵省主税局長池田勇人氏に呼ばれた。私は重い足をお役所の会議室へ運んだ。 7 会議室には池田勇人氏のほかに陸軍の糧秣廠長と海軍の軍需局長がいた。『もうわれわれは安閑としてビールを飲んでいられるときではない一部の工場を軍へ渡してもらう。その工場で、居抜きのままの設備と原料を使って発酵(はつこう)をやり、それから液体燃料を造って航空用にする』もちろん、はじめから命令だった。漸次全工場に及ぶが、とりあえず目黒の工場とキリンの広島工場を渡せといわれた。目黒は吹田につぐ大工場なので、吾妻橋の工場にしてもらいたいと頼んだが聞き入れられなかった。翌二十四日の朝、目黒工場を見に来られたが、皮肉なことに、前夜の空襲で工場は本館を除き全焼し、すでに眼前には焼け跡と化していた。私どもはこう主張した。『ビールは軍需品に近いもので、これを供給して軍に協力しているではないか。山本五十六元帥は横山中佐をビール会社へ送って、ビールは爆弾よりも必要だ。空中戦をやるときにはどうしてもビールがなければならない-というのは機上では炭酸ガスが不足するので、ビールと一緒に、中に含まれている多量の炭酸ガスを飲んで耐久時間を長くする-ということもいわれたことがある。だからわれわれはビールをつくることも一つの国策ではないか』『いや、直接、航空燃料を作らなければならない。情勢が違うのだ』とにかく、工場を二つと、手持ちの原料をみな出せということだった。これではビール会社は完全にお手あげである。われわれはたくさんの人を抱え、ともかく七十年近く続いたビール業の幕をここで閉じるのかと思うと、実に感慨無量だった。(「私の履歴書」 山本為三郎)


とても比べものにならない 元大リーガー D・ニューカム
最後には、ビリーのおかげで酒をやめた。それしか方法がなかった。一八年前には、AAについてまったく知識がなかった。自分がアルコール依存症だと認めるつもりもなかった。私は飲み過ぎ、そのためにありとあらゆる問題に巻き込まれたが、ただうすぎたないアル中ではなかった。決してそんなことはない。今はビリーのおかげで立ち直った。ビリーは私のそばを離れなかった。離婚はしなかった。家具もなく買うカネもなかったので、二人で床に寝た。食べ物もなかった。私はワールドシリーズの記念の指輪をしていたが、競馬に通いつめたあげく、それも質入れしてしまった。それでもビリーは私のそばにいた。「もう一度あなたを愛してみるわ。今は嫌いでも、お酒を飲まないなら、もう一度好きになってみるわ。飲んだら出て行きます」。一九六六年に酒をやめてから七年かかった。七年後に、ビリーは私を愛していると言ってくれた。ビリーの傷はそれほど深かったのだ。酒をやめてから現在までの生活と、二〇年前とは、とうてい比べものにならない。一番大きいのは妻がそばにいて、子供たちに尊敬されていることだ。子供たちは、二一歳、一九歳、一八歳で、皆大学生だ。息子のドンとトニー、娘のケリー。二人がハワード大、一人がスタンフォードの学生だ。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー)


酒の味わいのなかにゆるりと溶けこんでいく
<ゆるやかに居酒屋の時間が始まる>のを、その流れに身をゆだねながら観察する。人がひとり来る。ふたり来る。店が次第に、密度を増していく。
 けれど、ほんわり宿っているのは、ひとが醸し出す熱のようなもの。すでに、さきごろのすがすがしさとはちがう情感が流れはじめている。その変化に肌で触れることができるのは、早々に暖簾をくぐった果報だ。そうこうするうちに、いつのまにか居酒屋の時間のなかにまぎれ、酒の味わいのなかにゆるりと溶けこんでいく。(「もうしわけない味」 平松洋子)
夕方というにはまだ早い時刻から酒を飲み始めることが好きな人なら先刻承知でしょうが、暮れてゆくわずかな時間に飲む酒は、ことのほか、うまい。外は徐々にではあるが刻々と暮れていき、酒場は逆に、着実に賑わいを増してくる。最初の徳利はなくなり、二本目になり、刺身か小芋の煮付けなんかほしくなる頃には、ゆらりと血がめぐり、かすかな酔いも兆(きざ)す。そのわずかな変化もまた、夕刻の酒の醍醐味だ。(「酔っぱらいに贈る言葉」 大竹聡)


17日 夏の酒
しょうちゅうは、俳句の方では夏の季題になっている。あのカッとするような、強烈なアルコールの強さが、暑気払いというわけで、夏の季題となっているのだろう。だから、その一種であるあわもりも、夏の季語だが、梅酒ほどには、夏の季感が刺激(しげき)されない。ビールも夏の季語である。しかしこれも、季節を超越して、生活の中にはいっている。生ビールさえも、このごろではビンづめがゆきわたって、必ずしも、「夏」を感じさせなくなった。ビールはむしろ冬、カッと燃えたストーブのそばで、グッと飲みたいように思う。そういう気分的な好悪を言えば、冷房のよくきいた料亭のざしきで飲む酒よりも、冷房のない、それこそ、じっとしていても汗の出るようなところで、ややあつめの日本酒が飲みたい。しかし日本酒には、醸造関係以外、季題がない。あるいは新しい歳時記には、新製品の「冷酒」などが加えられているかもしれぬ。(「私の食物誌」 池田弥三郎) 1965年に刊行されたそうです。


二品と二杯
ところで、帰宅途中にふらりと酒場浴、といった感じの飲み方をする場合の基本は「二品と二杯」でしょう。つまり肴を二品くらい注文して、酒を二杯(二単位)くらい飲んで、一時間ほどゆっくりしたら、スッと帰る。単身赴任の方などで、夕食も兼ねて酒場に行っている場合は、「二品と二杯」のあと、最後におにぎりか、お茶漬けなどの炭水化物をもらってしめるのもいいですね。食べ過ぎないようにするためには肴を一品で抑えておいて、「一品と二杯」にシメの炭水化物でもいいと思います。お酒を飲んでいると、どうしても食が進みがちになるので、料理のほうも、飲み物と同じく「ゆっくりと少なめに」と自分に言い聞かせながらいただいて、ちょうどいいくらいです。(「ひとち呑み」 浜田信郎)


あられ【霰】
②霰小紋の略称。霰のやうな小粒を染めた染模様の名称で上下(かみしも)など、多くはこの霰小紋を用ゐた。-
嫁雪を 取れば霰を 聟が取り   雪は綿帽子
丸綿の 雪が霰へ 飲んでさし   同上


仕込水数え歌
頭(かしら)が五升入りのゴンブリ枡桶で仕込水を量りながら、初添、仲添、留添の三段仕込のそれぞれの桶に、入れます。この時、数量を間違えないために、数取り音頭で、気勢をあげます。 一に始まった鶏の一穴 二で日光は天下の宮 三本松は伊丹の遊女 四方殿は但馬守 ごそごそするのは藪いたち 六甲山は灘の禿山 七面鳥は唐の庭鳥 八ちん棒は蛸の足 九郎判官源義経 東照権現家康公 十一誉田屋 十二薬師 十三法華 十四の春から独りは寝られぬ 十五の夜あけ 十六羅漢は働かん 十七観音 十八番茶も出花 十九は愛宕 二十は恵比寿 ちょっと訳のわかりかねる文句もありますが、脱線しかかっては、まともになる調子がなかなかユーモラスですし、なかなかこれで調子づいたのでしょう。(「灘の酒」 中尾進彦)


自我忘却
ずいぶん逆説的な言い方ではあるが、<客>としてのれんをくぐるとは言え、しばらく経つうちに<客>であることを忘れさせてくれる居酒屋こそ「いい店」だと私は考える。つまり、<顧客>よりも<一個人>、少なくとも<人間>という気持ちで過ごせる時間は、品書きにこそ記されていないが、居酒屋が提供するすべてのモノの中で、もっとも貴重だと主張したい。さらにいえば、 <顧客>→<個人>→<自我忘却> という過程に誘導してくれる居酒屋なら、まさに至福の時間を過ごしたことになると思う。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)


ルバイヤート
その少し後、東西の結節点をなすペルシアでも現世主義的な享楽主義者で、天文学、数学に通じた科学者でもある詩人、オマル・ハイヤーム(一〇四八~一一三一)が、「ルバイヤート」(四行詩集)で、酒、女、歌の賛歌を歌い上げている。十九世紀の世紀末の風潮に乗って、「ルバイヤート」はイギリスの文人、エドワード・フィッツジェラルドによって英訳されて愛唱された。
噫(ああ)さかづきを満たせ、かこつとも、かこつとも
甲斐なくて
時は我等が足もとをすべりゆくなり
逝きし昨日を、又いまだ生まれぬ明日を憂ふ
をやめよ
今日の日の楽しくあらば
河の水際(みぎわ)に薔薇の花いま咲くほどは
いざカイヤム(ハイヤーム)と紅の葡萄の酒を
酌みたまへ
死の御使、烏羽玉(うばたま)の葡萄の美酒(うまき)もちて寄り来とも
その日汝(なれ)そを口に受けたぢぐろなゆめ(森亮訳)
ハイヤームは科学者だったから、酒が寿命を縮めることがあることを知っていて、やっぱり酒は止められないと言っているのだろう。こんな考えは、アラーの神とコーランの教えに対する大いなる挑戦で、「ルバイヤート」が秘密文書のように読みつがれたのも当然である(篠田氏、前掲書)。「コーラン」でのマハンムドママの禁酒論には、禁酒・節酒の両義的な解釈を許すところがあって、イスラーム社会での禁酒の戒律の寛厳は、時代と地域によってかなり揺れている。(「慶喜とワイン」 小田晋)


鉄火場の酒
その頃、私は不良少年であって鉄火場に出入りしていた。花札で徹夜になり、空が明るくなるころ茶碗酒が出る。もっとも、飲もうと思えばいつでも飲めるのであるが、飲んでしまっては仕事にならない。朝、冷やで茶碗酒を一杯か二杯飲む。その酒は苦いばかりで、うまいと思ったことはないが、家へ帰ると、十五、六時間もぶっ通しで眠ることができた。そんなに眠れるという体力も、もう戻ってこない。ヤクザ者には性的不能者が多いのを知ったのも、その頃のことである。(81・2)(「酒との出逢い 二人の先生」 山口瞳)


懐石料理最悪説
一般企業でいう定年の歳にはまだ間があるものの、この頃自分は随分変わってきたなあ、と思うことがある。たとえば最近、地方都市でなにかの仕事があると、帰りの飛行機や電車があるうちは半ば強引にその日のうちに帰ってきてしまうことが多くなった。以前だったらその仕事の後に地元の人がセッチングしてくれる酒の席など結構楽しみに顔を出し、地元の人と親しく話しては適当に酔い、ゆっくり近くの温泉宿なんかに一泊してくる、なんてことがあったが、この頃はその一連の手続きが面倒くさくて、東京でまだ仕事がありますから、などと嘘を言って強引に帰ってきてしまうことが多くなった。地元で招待してくれる人はなんらかの偉い立場の人が多く、呼ばれる店も結構地元でも有名な料亭だったりするのが一番今はヨワイ。料亭の料理というのははっきりいってそんなに美味しくない、と思うのだ。どんな所でも一応のしきたりみたいな会食の段取りがあって、退屈な挨拶や名刺交換をへて地元の名物の食べ物などが出てくると必ずその講釈があるし、ぼんやりしているとそんな料理が次々に出てきて、そのうち酔った招待者の周辺の誰かが地元の自慢話をすると、他の関係者もどっとその話に加わって盛り上がり、やがてホトケ様にあげるような小さなお茶碗にご飯が盛られてきてオシンコなど添えられ、じわじわとおひらき、ということになる。実はこういうのが近頃ぜんぜんつまらなくなってしまった。(「地球の裏のマヨネーズ」 椎名誠)


ソムリエ戦略
ここのところ、日本がワインのソムリエで世界一という評判をとりました。ワインを飲んで育ったフランス人をおしのけて日本のソムリエが優勝するというのは、たいへんなことです。私は、まァ、立派だなあと思うのですが、これには別の見方がある。日本にワインを売り込むために、とくに女性に売り込むためにどうしたらいいか、という作戦があって、その作戦の一環だというんですね。つまり、ソムリエ世界一を日本にわたす、そうすると、それが日本のマスコミで紹介される。紹介されればワインのPRになる、それが女性に対してのワインの売り込みにつながっていく、そんな話だというんです。これを聞いたときに、われわれはほんとに表面しか見ていないのだなァ、という気がしましたし、嘘にちがいないとも思いました。そしていま、女性を中心に、本当にワインブームの再来です。よくできた話だなァ、と思っているほうが心おだやかではあります。(「商人」 永六輔)


荘園領主体制から戦国時代へ
以上のように、これら中世における酒造の銘醸地は、いずれも室町期の貴族的貨幣経済を中心に、荘園領主の支配と庇護のもとに繁栄した。しかるに、戦国時代にはいり、とくに南北朝の争乱と応仁の乱(一四六六-七七)を契機として、従来の荘園領主体制は大きく動揺をきたした。荘園領主体制のもとで発展した以上の銘醸地も、必然的にその支柱を失って没落していった。またすでに酒造技術の点からみても、中世の僧坊酒のなかで、近世清酒醸造技術の原型が、ほぼ一六世紀後半にはできあがっていたということができよう。(「酒造りの歴史」 柚木学)


十度飲
酒合戦には、もうひとつ早飲み合戦というものがあった。古くは宮中で儀礼に従って行われたものであり、『親長卿記(ちかながきようき)』(室町時代)には「十度飲(じゆうどのみ)」という競技が記されている。この競技は参加人数二〇人で左右一〇人ずつに分け、左方、右方から交互に進み出て五杯ずつを早く飲んだほうが勝ちという競技であった。親長卿もこれに参加している。この日は宿直の番だったが酔って無理となり早々に宮中から退出したと付記している。(「日本酒の世界」 小泉武夫)


酔っぱらいの主張 フジテレビ・深夜不定期
一部マニアのあいだでは、いまや"幻の" "伝説の"とさえささやかれているのが、この「酔っぱらいの主張」である。今年の1月21日(45分もの)と2月19日(60分ものに再構成したほとんど同じ内容のもの)、たった二度放送されただけの単発企画だが、その"究極の面白さ"に、たまたま見てしまった人たちのあいだから評判になり、ひそかにビデオが走っているという噂も聞く。番組自体は実にシンプル。笑福亭笑瓶をリポーターに、深夜の東京の街にくり出したテレビカメラが、たまたま出食わした酔っぱらい氏にインタビュー、「世の中に対する主張をテレビに向かって」してもらうわけだが、これが、「酔っぱらい」だけに、実にハチャメチャ、きわどくもおかしい人間ドキュメントになっていて、いま、第二弾を待ち望む声が高まっている。その貴重な一部をここに紹介する。-
笑瓶 昨年の暮れに放送しました「酔っぱらいの主張」、今回は新宿にやって参りました。たっぷりご覧いただきいたと思います。 ●まずは新宿・しょんべん横丁の安酒場での若者。自営の建築業で父親と仕事をしているが、基本給からいろいろひかれて手取りが少ない。「お父さん、もっと給料上げて」と泣きを入れる。 ●足をのばして、新宿二町目の路上。グデングデンに酔いつぶれた女の子二人連れ。一人はかろうじて意識を保ってはいるが、好き放題に歩き回ったり倒れたりするもう一人にふり回されて、ハタ目にもはっきりアブナイ。笑瓶、心配そうに声をかけるが、「大丈夫」とフラフラ歩き続け、とうとう下着もあらわに道に寝ころんでしまった。 ●同じく、新宿二丁目の酒屋の前。夕方六時から夜中二時まで飲んでいたという小柄なおじさん。「やめてよ」「おだまり」と、独特な言葉使い。おまけに目つきがなんだかつやっぽい。ふと見ると、マイクを遠ざけようとする手が、笑瓶の手を握ったまま。「お酒は好きなんですか?」の問に、「…男も好き…」と大胆発言が」…!(「広告批評 1987-7」 天野祐吉発行人)


ビールだけで七年間生きた男が日本にいた!
昭和九年三月九日、青森県水上署に変な男が逮捕された。その人はT氏。この男、なにを思ったのか、朝飯にビールを要求した。そして、米の飯は全然食べられないといいはじめた。水上署では、逮捕容疑の詐欺の取り調べは後回しにして、まずビールのほうの事情をきくことにした。すると、この男、過去七年間、ビール以外のものは口にしていないという。その理由は、七年前、胃腸カタルにかかり、医者にもサジをなげられたことが事の発端。どうせ死ぬならと、ヤケ酒にビールを毎日飲み暮らしていたら、なぜか胃腸の調子がよくなってしまった。それから七年間、米は一粒も口にせず、毎日ビールだけで暮らしてきたという。確かに、ビールは高カロリー食品だが七年間というと-もしこの男の"自供"がほんとうだったとしたら、おそらくギネスブック・クラスの記録だろう。(「SAKE面白すぎる雑学知識」 博学こだわり倶楽部編)


酒を基語とする熟語(8)
佐酒(サシユ) 宴席での酌。[枚乗「」七発]
使酒(シシユ) 酒にかこつけた勝手な古舞い。[「史記」李布伝]
縦酒(ジユウシユ) 気ままに飲む酒。(「史記」 田但伝)
食酒(シヨクシユ) 食らうがごとく大酒を飲む。(「漢書」 于定国伝)
貰酒(セイシユ) 酒をツケで飲む。(「史記」 高祖紀)(「日本の酒文化総合辞典」 荻生待也)

乾杯には日本酒をもって答えた
我々はこの(肥前藩の)防護施設の視察を終えた後、幕府および肥前藩の士官をはじめ、大勢の生徒たちと一緒に、食事についたが、大そう賑やかなものであった。食事はヨーロッパ風の料理に葡萄酒などを揃えて出したが、その葡萄酒の味ときたらとても不味(まず)くて、何遍も何遍も繰り返される乾杯には、むしろ日本酒をもって答えたくらいであった。日本人は一度始めるときりがない。私はその折、日本酒も此処のように良いものならば、ずいぶん多量に飲んでも、決して害がないことを経験した。いやしくも正直なヨーロッパ商人なるかぎり、どうしてあのような葡萄酒を、日本人に売り付けられようか。私には全くの謎である。しかもそればかりではない。彼等ヨーロッパ商人は、日本人がサン・ジュリアンとかカンタメアルなどという葡萄酒よりも、日本酒のほうを好む理由が解(げ)せないとさえ、日本人に向かって言っているのだから、ただ驚くの外ない。将来、日本の対外貿易が盛んになれば、こうした事態にも、必ずや変化がもたらされるであろう。そうして以前のように、もはや一人の特許人が、この国民を欺き毒する独占的権利を有するようなことがなくなれば、誠に幸いと言うべきである。(「長崎海軍伝習所の日々」 カッティンディーケ 水田信利訳)


火落菌(ひおちきん)
大多数の市販酒はアルコール分が15%程度で、このようなアルコール濃度中では一般の細菌は生育できない.しかし火落菌はアルコール耐性が強く清酒中で容易に増殖し得る特殊な乳酸菌で、その生育最適温度は28~30℃である.火落菌は発酵形式によりヘテロ型とホモ型に分けられ、さらに生育時にメバロン酸の要求性の有無により真性火落菌(しんせいひおちきん)と火落性乳酸菌(ひおちせいにゆうさんきん)とに分類されていたが、その後ホモ型真性火落菌の中にメバロン酸非要求の菌株が見出された.そこで現在では火落性乳酸菌は生育最適pHは中性付近にあり、アルコールによる生育促進効果がないもの、真性火落菌はpH5.5以上の培地で生育せず、アルコールによる生育促進効果が認められ、かつ、ホモ型はグルコース、マンノース、ヘテロ型はグルコース、フラクトースに対し強い資化性を示すのが特徴とされている.アルコール耐性の順位は、①ホモ型真性火落菌、②ヘテロ型真性火落菌、③火落性乳酸菌である.(「改訂 灘の酒 用語集」 灘酒研究会)


酒は飲むべしのむべからず (A)酒は飲んでも飲まなくてもいい (B)酒はほどほどに飲め
酒は飲んでもいいが飲みすぎてはいけないということ。Bが正しい。「酒は三献(さんこん)に限る」ということわざもある。三献とは中世からの接待マナーで、一献は酒を三杯すすめることで、これを三回繰り返す。飲み過ぎで乱れないようにという戒(いまし)めである。 [類句]酒は飲むとも飲まるるな [外国]酔うて狂言、醒(さ)めて後悔(ドイツ) 酒盛りが長引くと命が縮む(フランス)(「どちらが正しい?ことわざ2000」 井口樹生監修)


やだいじんをきめる(矢大臣をきめる)
[句](「矢大臣」は神社の随身門に安置されている向かって左の守護神像の俗称)居酒屋などに腰かけて酒を飲む。 ◇『東京語辞典』(1917年)<小峰大羽>「やだいじん(矢大臣) 居酒屋にて酒を飲むこと。随神ものなどの酒を飲む場所。随神もの(随身門)洒落て-といふ。『-をきめる』」 ◇『へのへのもへじ』ハッタリ記念撮影・二(1952年)<林二九太>「先ず茂平次君はドッカと矢大臣をきめこんだ」(「日本俗語大辞典」 米川明彦編)


義士祭 ぎしさい ぎしまつり
四月一日から十日まで、東京都港区高輪の泉岳寺で行なう赤穂義士祭り。期間中に遺品の展観や講演があり、季候もよいのでにぎわう。大石良雄以下四十六人が討ち入りした日は陰暦十二月十四日であるが、その日は赤穂の大石神社で忌を修す。泉岳寺でも夜どおし篝火を焚き、参詣人が多い。
義士祭の 酒浴びる墓 一基あり    柴 三多男(「合本俳句歳時記新版」 角川書店編) 赤垣源蔵でしょうか、堀部安兵衛でしょうか。どちらも下戸だったそうですが。


「酒屋」
その他今次の重病で、冬を熱海で過ごすこととなり、家から持参した書物のうちに幸田露伴の『評釈冬の日』(昭和十九年九月、岩波書店)があって、久しぶりに読みかえして見て、興味を感じたことどもをメモついでに述べさせていただくことにする。本書は大正十三年(一九二四)に完成出版された後、露伴翁が特に興味をもたれ、第二次大戦の戦火の中を御臨終近くに至るまで校訂を続けられたもので有名である。これは芭蕉が尾張衆と持った『冬の日』という歌仙である。『冬の日』は芭蕉の初めて蕉風宣揚の第一声をあげた大切な句集とされているらしい。その歌仙のはじめの木枯しの巻表六句の第三句目に次のような句がある。
有明の主水に酒屋つくらせて
この「有明の主水」や「酒屋」について古来俳人の間にいろいろの説があるらしい。私が酒の専門というのでその道の人たちからよくきかれたことがある。この「酒屋」について露伴翁は大きな造り酒屋と解しておられる。主水という人物のせんさくなどはその必要がないといわれる。私の『日本の酒』(本集成1)の中には一言に酒屋といっても、酒を造る造り酒屋、酒を売る酒屋、また直接客に酒を出す縄のれんのような酒屋の三種があると書いておいた。ところが今度そのほかにも江戸時代に酒屋というものがあったことを発見したのである。それは水戸家の家臣鵜飼信興によって元文元年に書かれた後楽園の記事である。それによるとこの宏大なるお庭の中には北の方に大松原があって、その中にお茶屋とともに「酒屋」も造られていて、それは「風流なる」「草堂」のようなもので、そこで酒など飲んだらしいのである。当時(元禄)の大名や金持ちのお庭にはそんな「酒屋」もあったらしいのである。それにつけても思い出されるのは、昔戦前に桂離宮に出た折に、書院に対して池をへだてた小山の上のお茶屋の軒に赤い提灯がつるしてあったので案内のお役人にきいたら「花のお茶屋」とかいわれたような記憶があるが、後楽園のこの「酒屋」もあるいは似たようなものであったのではなかろうか、と思われる。(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎) 後楽園


初代川柳の酒句(15)
下戸を見こんで 此文を 頼ミんす    魚交
恥な事 茶屋盃も 出さぬなり   五楽
さかつきを 娘苦にして 母へさし   雀芝
見ともなさ 鑓(やり)を持たせて 酔ッはらい   春松
後の月 さかつきのない てうし也   泉河 (二九・5ウ七、不酔)(「初代川柳選句集」 千葉治校訂)

酒書の部

 書名 著者及び生卒年  発行年   朝代
 酒経 王績  七世紀中期  唐 
 青蓮觴咏 李白 七〇一-七六二   〃 
 酒録 一巻 竇常 七四九-八二五   
 酔郷日月 三巻 皇甫松 八五九前後在世  
 続酒譜 鄭遨 八六六-九三九   
 麹本草 田錫 九四〇-一〇〇三   
 酒爾雅 何剡 仁宗時代    〃 
 觥記注 鄭獬 一〇二二-一〇七二    〃 
 東坡酒経 蘇軾 一〇三六-一一〇一    〃 
 北山酒経 三巻 朱翼中  一一一七 〃  
 桂海酒史 范成史 一一二六-一一九三   
 酒名記 張能臣    〃 
 新豊酒法 林洪 一三世紀中期  〃 
 酒譜 竇苹(子野)    〃 
 続北山酒経 三巻 李保    〃 
安雅堂酒令 曹紹   
 酒小史 宋伯仁  一二三五前後   〃 
 酒譜 王璡    〃 
 小酒令 田芸蘅 一五七〇前後    明 
酔郷律令  田芸蘅 一五七〇前後     〃 
 鰑政 袁宏道 一六〇二前後    〃  
 酒概 四巻 沈沈    〃 
 酒史 六巻 馮時化    〃 
 文字飲 屠本畯   〃 
 酒令叢鈔 兪敦培   一八七七 清 

(「一衣帯水」 田中静一)



この音を聞きたくなかったのは私なのだ
(AAの)会合に参加して私がすべきことは、参加者の話を聞き自分が依存症者であると認めることであった。私は最初の会合でこれを認めた。「私はオランダ人です。アルコール中毒です」と発言した。しかし、私はまだ、自分が依存症者であることを表面的に認めたにすぎず、心の底から容認はしていなかった。しばらくの間、かなりいい線をいっていたが、二ヵ月目ぐらいに脱線した。依存症を心から容認するまでには二年以上かかった。飲酒癖にとりつかれるのが恐ろしくて、私は逃げ出した。まずモロッコのマラケシに行き、そこでショーン・コネリー、マイケル・ケインと映画について話し合った。彼らは『王になろうとした男』を撮っていた。プロデューサーのジョージ・フォアマンが、映画のプロットについて検討するために二人のところに私を連れていったのである。二人に会うまでの一週間、ホテルのラウンジで飲み続けた。帰国の途中パリに立ち寄り、また飲んだ。二、三ヵ月後、私のシナリオを映画化する話が持ちあがって、イスラエルへ行ったが、話はうまくゆかなかった。しかしプロデューサーはこの費用を出してくれたし、イスラエルを見るよい機会であった。飛行機に乗ると、すぐ飲み始めた。テルアビブでも飲んだ。ホテルのラウンジ以外には、まともな酒場は市内に二軒しかなかった。私の飲酒をあおるような人がどこにもいない国を選んだのだ。私は書き物の調査のために、たびたびイスラエルへもどり、そしてますます飲んだ。私は自分自身に対しても、飲酒を隠そうとした。仕事は事務所でした。事務所には三部屋あり、表口のすぐの部屋には冷蔵庫があり、次の部屋にはラウンジのような空間があった。テーブルにはシェリーの瓶と、小さなグラスがいくつかおいてあった。私はそこへ入り、デカンターからシェリーをグラスに注ぐと、さらにもう一杯干す。飲み終わると、飲んだことを隠すために、飲む前に入っていた分量のところまでデカンターに瓶からシェリー酒を注ぐ。それから、冷えた白ワインの瓶を冷蔵庫からもってきて机の引き出しに隠した。事務所には誰もいないのに、音を立てないように静かに引き出しを開けてワインを出し、一口大きくぐいぐいと飲み干し、そっと引き出しに戻す。近くには誰もいなかった。この音を聞きたくなかったのは私なのだ。(「自分の殻から飛び出る」  作家 E・レナード(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー))


グニャ、ベチャ
江國滋さんは俳号を滋酔郎といいます。略して「ジス」なんて、みんな陰で呼びます。滋酔郎の酔は、もちろんお酒好きだからの酔でありまして、句会の時はいつも飲んでいます。吟行に出れば朝から夜中までビールが絶えません。酒がまわると、ジスさんは飄々(ひようひよう)としてきますな。ふだんは英国紳士風、あるいは文人墨客(ぼつかく)風で、居(い)ずまいの正しい方ですが、お酒が入ると肩の線がくずれて少々グニャッとなります。このグニャつき具合が飄々でもあるし、ヒョロヒョロでもあるのです。私はそうなった頃合いのジス氏の味わいが、熟達枯淡のピエロのようで大好きです。私だけじゃありませんで、仲間はみんな少々グニャつき加減のジス氏を愛しておりまして、彼をひやかしたりからかったりするとすれば、このあたりがチャンス、愉快な反応があります。もっとも、このごろジス氏もだんだん酒に弱くなって、このいい塩梅(あんばい)のグニャの時間が少しずつ短くなっているようで、そのあとはベチャッとなってしまいます。グニャならいいのですがベチャまでいくとお身体(からだ)にもさわるでしょうし、どうか御身ご大切に、と申しあげたいのです。([「日本語八ツ当たり 江國滋」解説」 小沢昭一)


水尾
水尾 みずお 田中隆太さん 田中屋酒造店(長野県飯山市) 6代目蔵元
昭和40(1965)年、5代目の長男として生まれる。青山学院大学経済学部を卒業し、国税庁醸造試験場で戸塚昭氏に指導を受け、平成2年に家業に就く。より良い酒を造りたいと水を求め、水尾山の麓から湧き出る水に出会う。平成6年に、それまでの銘柄「養老」に加えて、「水尾」を発表。現在は主力銘柄に育っている。平成18年に代表取締役に就任。趣味はギターと歌。 ●語録「奥信濃で暮らす人々が一番飲みたい味を大切に。ナチュラルで飽きが来ない、それでいて深さを持つ味わいが理想」「足知。吾唯足るを知るが田中家の家訓」 ♠最も自分らしい酒 「水尾」特別純米酒 金紋錦仕込 著者コメント:希少な地元木島平産の米、金紋錦を使った酒。透明感のある味わいだが、さっぱり淡麗ではなく、丸みのある旨味が伸びていき、すっきりと綺麗に消える。冷酒から燗まで幅広い温度帯で楽しめて、どんな料理にも合う万能タイプ。 ♥著者の視点 いつも笑顔の田中さんだが、良い地酒とは何かを問い続ける熱血漢でもある。先代社長の父に反対されても水尾山へ水を汲みに行き、杜氏と喧嘩しながらも理想とする酒造りへの改革を断行。鑑評会で賞を取ったことをきっかけに、蔵の中の雰囲気が変わり、「良い酒は和を醸し、和がまた良い酒を醸す。これぞ『和醸良酒の心』」と感じたと言う。ひとごこちやしらかば錦、金紋錦など長野県の酒造好適米で、飯山杜氏により箱麹で仕込む。豪雪地帯から"奥信濃"を発信し続けている。(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子)


大日本麦酒会社
ビールは明治初年にサッポロビールが世に出たのが日本における事始めである。しばらくは揺籃期(ようらんき)がつづき、明治二十年過ぎに、エビスビールが東京目黒で名乗りをあげ、アサヒビールが大阪郊外の吹田に誕生してようやく活況を呈するようになった。さらに明治三十三、四年になって、サッポロビールが東京吾妻橋に分工場を作り、これと前後して加富登ビールができ、このころからビールが時代の脚光を浴びるようになり、小さいながら産業としての形態を整えてきたのである。次第に競争も激しくなり、エビスビールが大阪へ乗りこみ、同時にサッポロビールも大阪に進出した。大阪側も黙っておらず、アサヒビールの東京進出を図るという状態で、日本全国が一種の混乱状態となった。これでは共倒れのほかないというので、時の農商務大臣清浦奎吾伯が、日本、札幌、朝日、麒麟、加富登の五社大合同をすすめ、あっせんの労をとられた。これに対し、キリンは三菱関係で不参加を宣言し、加富登は根津嘉一郎さんと福沢桃介氏の相談で脱退し、残る三会社が合同して大日本麦酒会社が創立され、これが日露戦争後のできごとであり、しばらくたって第一次欧州大戦のころになると日本のビールもどんどん海外に市場を持つようになり、各ビール会社はいずれもすばらしい成績をおさめるようになった。ひところ経営困難を伝えられた加富登ビールでさえも、一割四分の配当ができるようになったのである。(「私の履歴書」 山本為三郎)


さらばいとしの日本酒
「さらばいとしの日本酒」は種麹メーカーの秋田今野商店が年一回出している学術誌「温故知新」に載せてもらった中編である。二〇XX年、そのころ、日本からは日本酒が消えてしまっているという話で、最後の一本を飲みながら、二〇世紀の終盤、なにが起こり日本酒が消えることになったのかを回想する物語だ。これを読んだ某地酒蔵元から血を吐くような感想文が寄せられた。作者としてはこんな嬉しいことはない。だが、今野商店さんからはお礼の言葉がない。二年ほどして、「あれはいかがでしたか?」と聞いたら、「実はたいへんなことになりまして」と口ごもる。私はどんなことがあったかを知りたかった。今野さんの話では、ある大手の酒蔵に「二一世紀に日本から日本酒がなくなるような文を載せるようなメーカーからは物を買わない」といわれたという。私は愕然とした。パロディふうとはいえ、ある種の警告の書だという自負があった。ある地酒産地に講演にいったとき、質問で「われわれの業界は「さらばいとしの日本酒」に書いてあるように進んでいると思うのですが、いかが思われますか?」と質問された。私は、「あれはこれからどうなるかという脚本の一つです。道は無限にあり、どんな道でも選べるのです。あなた方が私の書いた道を選んでくださっているようで、著者としては光栄です」と答え、大笑いになった。こうやればこうなると書いた脚本に真実味があるとしたら、その真実を思わせる条件を研究し回避すればいいのだ。「おまえのところから物を買わない」といった人には残念ながら付ける薬もない。(「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎)


11日梅酒
入梅の日から三日目のきょう、うちでは梅の実をとる。そして梅ぼしと梅酒づくりが始まる。母のたのしみである。ふつう、梅酒は梅の実一升にしょうちゅうが一升、それに氷砂糖一斤というのが標準であると、ものの本にあるが、うちでは子どもたちまでが、梅酒の梅の実を好んでたべるので、氷砂糖は標準の倍近くにしている。その氷砂糖が、しょうちゅうの中にとけきるのには、十ヵ月から一年近くかかるようだ。梅の実をそのままいれると、実がしょうちゅうの中でしなびてしまうので、母はことしから、針かようじで梅の実をつついて皮に小さい穴をつけるつもりだと言っている。そうすれば、しょうちゅうが早くしみこむから、形がくずれないだろうというのである。一昨年までは一升ずつだったが、去年は二升、ことしは三升つくる予定だというから、母と家内とのおたのしみも、結構、手間ひまがかかることだろう。(「私の食物誌」 池田彌三郎)


碓屋(うすや)
碓屋の組織は「碓頭(うすがしら)」「米踏(こめふみ)」「上人・中人・下人」「飯屋(めいしや)」に分かれ、昼夜交替で精米作業に従事していた。待遇は蔵人に準じ、賃金は日給ではなく、請負または搗高(つきだか)払いによって支給されることが多かった。碓屋は、毎日毎日足踏み式の碓で米を搗くという単純ではあるがきわめて重労働であったので、蔵人とほぼ同数を必要とした。諸白造りに使役された労務者数は『童蒙酒造記』に「酒千石ニ働キ人十人、但麹師右之外也、但百石ニ一人ニテ手廻シ難成、少シモ多キ程手廻シ能候」とあるように、千石酒屋においては蔵人一三-一八人、碓屋まで加えると三〇-四〇人程度であったとみられる。碓屋はその後、精搗への水車の導入によって一気に消滅、近代になって精米機が導入されてからは、蔵人の組織の中に「精米屋」が新たに加わって今日に至っている。(「日本酒の世界」 小泉武夫)


川反(かわばた)歓楽街
現在の川反歓楽街の歴史は、明治十九年四月に発生した大火に始まる。世に「俵屋火事」と呼ばれるこの火災は同年四月三十日深夜、川反四丁目(現大町四丁目)の占い師「俵屋」こと田原吉之助方から出火、折からの強い東風にあおられてみるみる燃え広がった。『秋田市史』(昭和二十六年刊)によれば、焼失家屋三千五百五十四戸、死者十七人、けが人百八十六人。外町(とまち)と呼ばれた藩政時代からの町人の町一帯を焼き尽くした。それまでの秋田市の歓楽街といえば米町(現在の大町一丁目付近)で、遊郭、芸者屋、料理店が集まっていたものだが、この火災ですべて焼失。このため、遊郭は南鉄砲町(現旭北栄町)、芸者屋と料理店が川反四丁目へと移転を始めた。これが川反歓楽街の歴史の始まりだ。(「あきた雑学ノート」 読売新聞秋田支局編)


酒場浴
さぁ飲もうと思い立って、ひとりでふらりと店に到着すると、今度は「混んでいても、スッと入れることが多い」という恩恵を被ります。店頭に何組かグループ客が待っている場合にも、「おひとりさん?じゃ、こちらにどうぞ」と、かろうじて空いているカウンターの一席に通してくれたりするのです。そして注文。飲み物だって、食べ物だって、だれに気兼ねすることなく、自分の好きなものを、好きなだけ注文することができます。しかも、出てきた料理は、完全に独り占めです!自分の好きなものを、独り占めにして全部食べる、こんな幸せなことがあるでしょうか。ちびりちびりと飲んでいるうちに、心地好い酔いの世界に入っていきます。ひとり呑みの場合は、この酔いの心地好さを思いっきり満喫することができるのです。ふたり以上で酒場に行くときには、どうしても「連れの仲間たちと会話をすること」そのものが、酒場での過ごし方の主体になってしまいがちです。そうなると、せっかくの心地好い酔いも、「気がついたら、すっかり酔っぱらっていた」といった、どちらかといえば受身的な酔い方になってしまいます。ひとりで、じわりじわりとやって来る「酔い」の快感をしっかりと受けとめて、その楽しさをたっぷりと享受する。「今日はもうちょっと酔おうかな」と、むしろ能動的に「酔い」をコントロールしながら、ざわめく酒場の雰囲気の中にどっぷりとつかっていく。これぞまさに酒場浴です。(「」ひとり呑み) 浜田信郎


ひばりちゃん
「残念ながら中止ってことに…」TBSの関係者は、ほとほと困ったという表情で語った。東京ドームを上回る広さの横浜アリーナで予定した美空ひばり特別コンサートが中止のやむなきに至ったからである。股関節の骨がボロボロの上に、肝機能も不全であると、九州福岡で入院し、再起不能かと語られた女王・ひばりが"不死鳥"と呼ぶにふさわしい復活をみせたのが、東京ドームでのワンマンショーだったが、私は正直なところ痛々しい思いでステージを見守った。満面の笑みを浮かべ、元気を強調すればするほど、女王の意地を賭けた無理が伝わってきて辛かったのである。思えば、若き日のひばりちゃんとも、よく盃を交わした。母堂・喜美枝さんをはじめ、"お嬢"を囲む一党とともに、京の祇園や、東京・青山で盛りあがったことも一再ではなかった。淋しがり屋のひばりちゃんは、周囲が大はしゃぎする姿を見ているのが大好きで、当時東京・青山の表参道あたりにあったゲイ・ボーイ"うさぎ"の店によく繰り込んだ。源氏名"うさぎ"の彼は、島田のかつらで芸者姿に変身すると、今売れッ子の"下町の玉三郎"にそっくりな美女で、ひばりちゃんのご贔屓だった。ここにやってくると女王は、ことの他、解放されるようで、痛快ってほどのピッチで飲んだ。酔うほどにキャッキャッと少女にもどり無邪気だったのは、昭和も三十年代である。あれから、女王・美空ひばりにはいろいろありすぎた。酒の飲み方にも現実の苦悩が重なって、それこそ<悲しい酒>であったりもした。無名時代から、ひばりを可愛がりささえてきた、神戸・山口組三代目組長の田岡一雄が世を去り、まるで後を追うように、一卵性母子とまでいわれた母・喜美枝さんも逝ってしまった。ひばりを育てあげ、支えつづけてきた二人の死は、彼女にとって痛恨の現実だったが、大坂・梅田コマ劇場での公演を訪れたとき、例によって元気一杯を演じてみせながら、「こうして化粧直していると、すぐうしろにママがいるみたいな錯覚を起こして、ママって口に出しちゃってから、ああ、もういないんだ-って」と笑いながら語るひばりちゃんが、痛ましく悲しかった。(「いい酒 いい友 いい人生」 加藤康一)


早く飲まないと
おい、ちょっと急ごうよ。早く飲まないと、酔いが醒めちまうよ  ある酒豪の兄弟
ある酒豪の兄弟 筆者が、この人は強いなあ、と思う人がいて、その人と、そのお兄様。-
それが冒頭の言葉の兄弟の、弟さんのほうで、私はこの人を知っている。あるとき旅に一緒に出て、朝方まで、相当に飲んだ。翌朝は七時にはホテルの食堂で朝飯。いちおう朝食会場まで行ったけれど、食えない。味噌汁をすすってため息をつく。そのとき、前夜私より飲んでいたその人は、いいテンポで飯を喰い、お代わりし、私に言った。「どうした?ため息ばかりついて」参りましたね。で、この人から聞いたのだが、飲んでいる最中に、お兄さんから言われたというのが、冒頭のひと言なのだ。せっかくふわりと酔ったのに、ぼさっとしていたら醒めちまう…。すごいですね。大酒飲みには、こういう苦労もあるのです。南極大陸で皇帝ペンギンと酒を酌み交わすときには、ごく自然な会話なのかもしれませません。(「酔っぱらいに贈る言葉」 大竹聡)


昭和五〇年代
ところが昭和五〇年代に入ると、焼酎は突然といってよいぐらいに再興してくる。乙類焼酎は素朴なものへの郷愁や都会人の持つ郷土回帰の意識といった要素で売れ続けた。アメリカのいわゆる「白色革命(ホワイトレボルーシヨン)」(ウイスキーやブランデーのような色のあるリカーから無色透明な酒に人気が集まった現象)の日本版ともいわれ、若人層の価値観の変化にもマッチして、甲類焼酎もまた大発展した。ちょうどその頃から街に新しいタイプの居酒屋やパブといったものが次から次にオープンして、若者は焼酎をさまざまなもので割って飲むことになり、ここに「焼酎新時代」が形成されたのである。(「銘酒誕生」 小泉武夫)


品温と面
たとえば、酛を仕込んで五日目なら、「品温」と「面(つら)」が合っているかどうかよく見て、手を入れて米のつぶれ具合をみたり、自分の舌で嘗めてみたりしたんだわ。面というのは仕込んだ「酛(もと)」や「もろみ」の様子のことだいね。表面の泡の大きさ、形、色。それが面だわ。酛なら酵母(こうぼ)が盛んになっているか、味が来ているか、それを見るわけさね。「甘味(あまみ)」が出ないまま、「もろみ」に仕込むと、薄いもろみになってしまうわけさ。反対に甘味が出すぎていると、今度は、もろみになってからキレがわるくなるわけだいね。(「杜氏千年の知恵」 高浜春男)


(2)「ハッパフミフミ」満開[69・5 79]
「みじかめのスカート見れば」 「すぎちょびれ」 「のみのみべろの はっぱふみふみ - わかるかな」(「朝日新聞」69年3月13日夕9「フジ三太郎」サトウサンペイ)(「ことばのくずかご」 見坊豪紀)


差し入れのワンカップ
いつか入院していたとき、息子の嫁さんをおどして酒の差し入れをしてもらった。他の家族は病院の規則をふりかざして取り合ってくれない。こんなときこそ姑の権力を発揮するときだと思って、缶ビールを持ってきなさい」と命令した。嫁さんから差し入れられたのはワンカップだった。私はベッドの中でじっとそれを抱き続け、人肌ほどに燗(かん)がついた一級酒を、消灯後に毛布をかぶってぐびりぐびりと飲んだ。なにしろ女ばかり六人の大部屋である。消灯後にも眠れない神経質な患者が多くて、枕許のブザーを鳴らして看護婦を呼んでは睡眠剤をもらったりする。私は足音がする度に毛布を鼻のところまで引き上げ、眼だけを出して眠ったふりをする。「あなたたち重兼さんを見習いなさい。睡眠剤なしで静かに眠ってるでしょ」なにも知らない同室の患者たちの尊敬の眼は私に集った。嫁さんは看護婦さんの眼を盗んで、泣きそうな顔をしながら、毎日さっと毛布の中にワンカップを差し入れた。あのときの借りがあるから、私が寝たきり老人になっておむつをするようになっても、決して嫁さんを困らせないつもりだ。すぐに禁酒して饅頭(まんじゆう)とお茶に切り替え、静かに安らかに往生しようと思っている。(80・8)(「酒との出逢い 差し入れのワンカップ」 重兼芳子)


ル二ルレ花書生ニ一
花雅-人_共 行/\ム二懐-中ヲ一 無フタメレ幕草ムシロト 有リレナベスレゴトクト 水_交マジル三-升酒 蠅_集片_身魚 陳¯奮詩_成後 一-盃食又_嘘(「二大家風雅」 太田南畝)


トウモロコシ、メスカル、リュウゼツラン
トウモロコシ文化との接触が、白人の側にもバーボン・ウイスキーを生み出した。新旧両大陸の酒の文化の接触は、とりわけ中南米で独特のアルコール文化を生み出した。新大陸からの輸出はトウモロコシ、メスカル、リュウゼツランなどの素材である。白人側は蒸留酒製造の技術を持ち込み、その接点でテキーラも、バーボンも生まれたのである。メキシコのアベワン族やタクウマル族、ツワイオ族などの民族ではトウモロコシの茎から液を搾り、酒を造っていた。アベワン族の場合は、新鮮なトウモロコシの茎を叩いて液を集め、漉してから水を加え、四時間煮る。これを土鍋あるいはくりぬいた木製の横長の容器に入れ、グアバ、パイナップル、ナシ、ブラックベリーなどを加えて発酵させる。中南米独特といってもいい原料はリュウゼツランである。ブルケは、最も古いメキシコの酒で、アステカ帝国の時代よりもさらに古くから飲まれていたことがわかっている。リュウゼツランの花茎を切り、茎の中心部を取り除き、叩いて樹液を採取する。吉田集而氏(「海を渡った蒸留器~メキシコの蒸留酒」玉村豊男編『焼酎東回り西回り』紀伊国屋書店)によると、これは心臓(茎の中心部)を取り去った胸に、祭司が管を差し込み、その血(液)を吸い取るというアステカ族の人身御供の儀式のやり方を象徴しているのだという。こうして採取したブルケ・シロップを、以前はアココナと呼ばれるヒョウタン製(今日では金属やプラスチック製)の容器に入れたり、発酵用の樽に入れて発酵させていたのである。後になると、ブルケを薄めて糖蜜を加え、発酵させ、それを蒸留したのをチングリートというそうである。メスカルもリュウゼツランから造られる。しかし、液は花茎からではなく、茎の付け根の部分を材料にする。メスカルとは、リュウゼツランを指すメトルという語と、「料理した」という意味のイスカリという語からなり、「料理されたリュウゼツラン」という意味である。メスカルは甘い植物で、住民たちの食物であって、これを加熱すると多糖類の粘液が蔗糖に変わる。醸造酒としての酒は穴で石蒸しにし、岩の上で叩いて蒸し、土鍋に入れ、水を加えて数時間煮る。これを漉して八日くらい置くと酒になる。テキーラはリュウゼツランから造られた蒸留酒で、茎の茎節の部分を加熱して、破砕器にかけ、圧縮し、搾った液に砂糖液を加え、四日間発酵させ、二度蒸留したものがテキーラである。どうもスペイン人が渡航して来て植民地化するまでは、蒸留酒はなく、それは外来の酒文化だったらしい。テキーラは北米に輸出されてマルガリータやテキーラ・サンライズ、テキーラ・サンセットなどのカクテル・ベースになる。しかし、トウモロコシでもリュウゼツランでも一度蒸留酒になると、そういうものに耐性がなかった原住民の衰滅をもたらす一因になってしまう。(「慶喜とワイン」 小田晋)


のれん
さて、居酒屋にも<内>と<外>を隔てる境界線が複数ある。ただし、営業中の飲食店である以上、個人宅ほど仕切は厳重ではない。たとえば、高級な割烹や高級バーなどのように一見客お断りのしるしがない限り、だいたい誰でも許可なく店内に入れるだろう。とは言え、屋台や闇市由来の飲み屋のようなオープンな構造の店でない限り、通常は「店内」と「店外」を隔てる境界線がはっきり示されている。それはのれんである。玄関から個人宅に上がるときほど、謙虚な姿勢を要求されないものの、のれんをかき分けて入るとき、必然的に頭を少し下げることになる-突っ立ったままでは入店できない構造になっていることも、注目に値すると思う。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)


九九 老農のこと。
ある日、あまの子などよびつめて、「むかしわがわかき時は、めかりしほやくことも、なれらがやうにはなかりしぞかし。いまはたゞそらのみあふぎつゝ『よくふる雨かな、かくてはいつかしほはやかなん』とのみいふ。もとよりしほくむわざには、雨ほどつらき物はなけれど、はや晴ぬ、いそぎてくむかとみれば、『このはれしも時のまなるべし。よししほくみても、夜のまにふり出なば、おしながして、ゑうなき事になりなん』とて、夕日のかゞやくにも、たゞうらわを徒に打めぐりてゐるを、いかにとおどろかせば、『あのむかひの島のちかうみゆれば、また夜半にはふり出なん』など、いつしかくちがしこきことばをばおぼえてけり。又あけの日もはれぬれば、はやく出るかとみれば、ひるつかたやう/\出てしほくむが、それもいさゝかしてはやかへりぬ。その怠をとがむれば、出て行けしきなり。いづこの神の祭などといへば、しほやきすてて出くめり。つゐには林の木々も人にきらせぬれば、いとゞいほはよりこぬまゝに、あみもよそのものとなしぬ。おいいほのよりくるとききても、人のとるをみありくのみなり。いまは『髪ゆひ候』といふ所さへ出きぬ。むかしはわらもてつかね、なへたるゑぼしひきいれてゐしが、今は都ぶりとやらん、みもせぬふりにし、ぞうりかさねたるを、音たててきそひあるくなり。わが若きころは、酒のむこともなかりしが、この村里にも、はやさけつくるところ多く出来てげり。それらが為に、ときついやし、ざえ(財)ついやして、みつぎ物のさまたげとはなるなり。このやにも久しくすみ得んことはかたかるべし」など、さま/"\いふうちに、ききゐしと思ひしが、ふとみれば、いつかねにけり。翁もあまりのことにあきれて、がま(降魔)のさう(相)もやめてげり。
注 一〇〇 いまは『髪ゆひ候』と云々 物価論(山下幸内なるもの将軍吉宗に上書せるものを定信写してかく名付く)「…其外農家等とても今は多く米をくひ、酒も濁酒は好まず。且村毎に髪結床なども備り、余業をなして世に送る事を計るなり。…」(「花月草紙」 松平定信 西尾実・松平定光校訂)


酔 11画 (醉) 15画 スイ よう
解説 形声。もとの字は醉に作り、音符は卒(そつ)。卒に萃(すい)(あつめる)・瘁(すい)(やむ)の音がある。酉(ゆう)は酒樽(さかだる)の形。音符が卒(そつ)の字に碎(砕。くだく)・蔡(さい)(くさむら)など、散乱するの意味があり、酔は酒によって心が乱れることをいい、「よう」の意味となる。心酔(ある事にに心を奪われ、夢中になること)のように、「心うばわれる、ふける」の意味にも用いる。(「常用字解」 白石静)


宮水
昭和9年の室戸台風の時、高潮によって、また昭和20年8月の空襲の時、その灰成分によって、宮水は使用不能となった時期がありましたが、不死鳥のように甦りました。それは、この宮水が夙川の伏流水で、六甲や宝塚、あるいは武庫川等からの種々の表層伏流水(地下4~5㍍)を集めて、西宮神社の東南部一帯で、酒を発酵させるのに、まことに都合のよい成分となっている自然流水だったからでしょう。一応、宮水地帯と呼ばれる地域は東西500㍍、南北約1キロメートル四方の一角といえます。そして、その地域をはずれますと、酒造りに具合の悪い成分が含まれている、というのですから、やはり天工の妙としかいいようがありません。(「灘の酒」 中尾進彦)


個人的飲酒
時代が下り、市民階級が勃興すると共に、祭りと共にあった飲酒はその神聖さを失い、社交の道具として登場しました。つまりパーティーや社交の場における、潤滑油としての飲酒です。確かに、飲酒すると知らない人同士でもたちまち親しくなれますし、話も弾むということがあるわけです。産業革命以降、新しい飲酒の形が登場しました。個人的な酩酊という飲酒の形です。これは安いお酒であるジンが大量に出回ったためです。人が長くつき合ってきたのは、穀物や果実を醸造したお酒です。蒸留の技術はアラビアで発明され、一二世紀にはヨーロッパに渡ってウィスキーが作られ始めたといわれていますが、さまざまな蒸留酒が多量に出回り始めたのは、産業革命による技術の進歩によるものです。同時に産業革命の時代は、大きな社会変動の時代でもありました。農村から都市へ膨大な人口の移動があり、都市には貧しいルンペンプロレタリアートがあふれ、彼らが安いジンに群がり、ジンの消費の担い手になりました。「ジン狂」という言葉が登場し、都市にはいつも酔っ払っている人々の群れが見られるようになったのでした。ジン狂に代表されるような個人的な酩酊は、それまでのお酒の文化であった「神との交歓」や「社会的飲酒」とはまったく違い、ただ酩酊を求めるためにのみ飲酒するもので、場所や時間やお金のあるなしと関係ない飲酒なのです。一七五一年にはイギリスで、アルコールに対する初めての法律である「ジン法」が作られています。こうして我々は「祭りの酒」「社交的飲酒」「個人的飲酒」という三つの飲酒パターンを持っているわけですが、大量消費社会が始まり、社会変動によって、アルコールがどんどん溢れてくるにしたがって、個人的な酩酊が増加する社会になっていると考えられます。これは先程述べましたように、人とお酒の節度ある関係が消失しているわけであり、お酒がいつでも手に入り、いつでも飲める社会がアルコール依存症を増加させ、未成年者の飲酒をも増加させているわけです。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二)


馳走いなせや
地元京都の酒は、水のやわらかさが立つものが多い。増田徳兵衛商店「月の桂」のように、程よく心地よい旨味をたたえている。。同じ京都でも日本海側、京丹後の木下酒造「玉川」はフルボディ。へしこのような濃厚なつまみと合う。意外なところでは、ブルーチーズとも好相性だ。英国オックスフォード大学を卒業したイギリス人、フィリップ・ハーバーさんが杜氏を務めているという背景にも興味をそそれられるのではないだろうか。奈良は、味にしっかりとした深みあり。とはいえここ数年、日本酒通が熱い眼差しを注ぐ油長酒造「風の森」のように、最初の一杯を清々しく彩る銘柄も。滋賀は、多彩。琵琶湖をぐるりと巡れば、湖東、喜多酒造「喜楽長」は煌めきを感じ、一方で畑酒造「大治郎」なら力強い旨さでぐっと迫る。北東の冨田酒造「七本槍」は米のふくよかさが立ち、湖西の上原酒造「不老泉」や福井弥平商店「萩乃露」はしっかりした旨口。ああ、いずれも大好きな銘柄だけに、こうやって連ねるうちに唾がわいてくる。『馳走いなせや』は酒肴から刺身、炊きものまで料理も多様に揃うが、板前さんの手によるものだけに、京都にいる幸せをしみじみ思える。眼福に与れる美しさがある。さらに見逃せないのは、メインメニューの「鶏すき」だ。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子) 馳走いなせや(京都市中京区油屋町93)で飲める酒のようです。


あらひごひ【洗鯉】
市川団十郎の異称。三枡を定紋としたが替紋の中に三筋立の鯉があつたので、この称がある。
酒座の大詰千両の洗鯉  御馳走最後に鯉の生作(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


菩提性、煮元、水元
菩提性(6)之事 一、菩提性ハ笊籬(いかき)元とも云也。立秋の頃より七、八月残暑甚敷時節造りて、浮雲なく調法成流也。自然又勝手次第、九、十月迄も造るへし。惣菩提性ハ掛二也。泡沸稀成物也。風味ハ古酒に似て小味少き物也。-
菩提性(ぼだいしよう)(6)仕込みの方法
〇「菩提性」(6)は笊籬(いかき)とも呼ばれるものである。立秋のころから七、八月の残暑のひどい季節に造っても、危な気がなく、便利な方法である。あるいはまた好みに応じ、九、十月までつくってもよい。概して菩提性仕込みでは掛は二回である。泡がわくことはまれである。その風味は古酒に似て、微妙な味わいは少ないものである。-
(6)菩提性(ぼだいしよう) 菩提酛に同じ。あらかじめ蒸米をざるに入れて水につけ、乳酸発酵させる仕込み方。乳酸酸性下で夏季でも安全に酛づくりができる。乳酸発酵の進み具合は「馴れる」と表現する。-
煮元(1)之事 一、煮元ハ中秋の比より季秋の比迄八、九月時分、水元(2)早立して難成時節、造好風也。自然勝手次第、十月迄も造るへし。末沸過る故、掛二ツ也。大体仕損る事少き物也。若、添か留にて、案の外に雪泡一、弐尺迄も高く出る事有とも驚くへからす。不苦物也。由来、煮元ハ酒に小味有て風味宜敷物なり。-
煮元(1)仕込みの方法 〇「煮酛」は、中秋のころから秋の末ころまで行なう。八、九月ころ、水酛(2)が早立ちしてむずかしい季節に造りやすい方法である。あるいは十月までも好みに合わせて造るとよい。最後になってわきすぎるため、掛は二回である。だいたい、失敗することは少ない。もし添か留の段階で雪泡が一、二尺まで思いがけず高く出ることがあっても、驚くことはない。さしつかえないものである。もともと、煮酛は酒に微妙な味わいがあり、風味のよいものである。-
(1)煮元(にもと) 酛を加熱して糖化を促進させる方法。現在の高温糖化法に相当する。 (2)水元(みずもと) 菩提性、煮酛に対するふつうの酛。現在の生酛(きもと)のこと。-
水元之事 一、水元ハ立冬の節ゟ(より)九、十月霜下り冷気満、人の口息見ゆる時節用ゆへし。九月中ハ掛二ツ、十月ゟハ掛三ツも不苦。但し新酒ハ沸過る物故、日をおゐて不可飛。此元、添泡掛、下り掛、半枯しに不過。其中専ら下り掛けを用ゆへし。十月末寒三十日前ゟ寒気至て、本枯したるへし。可時宜。風味ハ小味有て、洒(しやん)と為る物也。-
水酛仕込みの方法 〇「水酛」は立秋の季節から、九、十月の霜が降りて冷気が満ち、人の口に白い息が見える季節に使用する。九月中は掛は二回、十月からは掛三回でもかまわない。しかし、新酒はわきすぎるものであるから、日を置いて掛を休んではいけない。この酛では添は泡掛、下がり掛で、半枯しまで延ばしてはならない。もっぱら下がり掛の方法をとる。十月末、寒の三〇日前から寒気がやってきたら本枯しにする。それも頃合によること。風味ハ微妙な味わいがあり、しゃんとするものである。(「童蒙酒造記」 吉田元 翻刻・現代語訳・注記・解題)


サカナがほしい
-酒樽を積んだ舟が、川を上ってくる中に、その一つが川に落ち、タガがはずれ、酒はそのまま水の中に流れた。さあ、魚たちは大喜び、のめや唄えの大さわぎ。その中に魚たちは酔っぱらって「ああ、何かサカナがほしいナ」といった。(「味の芸談」 長谷川幸延)


指、ボキッと鳴った
ここまで書いてきて、私は新庄嘉章と木山捷平の相克を、書いたものかどうか迷っている。この間、新庄氏を訪ねたとき、「指の話もありますがね」と、言われたのを思い出した。これは秘密のことではない。公表されたものだけを、ここに書きとめておこう。事件の発端については、木山の『酔いざめ日記』をまず参考にする。昭和三十九年二月二十四日付のところを、一部抜き出してみよう。
第三回、留園雅集(芝公園)初出席。女人(歯科医夫人)と白で敗。尾崎一雄と六目で中押勝。尾崎氏と車で中野「ほととぎす」に行く。竹の会。尾崎一雄芸術院祝賀と、鈴木、村上両氏の海外留学の歓送会を併せての会。会費一七〇〇円。幹事、横田瑞穂、小沼丹両氏。井上友一郎氏新入会員として来る。この会のあと、新庄嘉章泥酔して握手セリ、指、ボキッと鳴った。この音浅見君もきいたといっていた。ひどい痛みを感じて帰宅。(「阿佐ヶ谷界隈」 村上護)


たぼ[髱]
女の髱から転じて女の異称となった俗語。〇いゝたぼでもあつたらこの息子を出しぬくめえよ酌はたぼにかぎらあ云々(東海道中膝栗毛)-
⑤たぼのみか 酒とはおろち うますぎる (樽九八)-
⑤娘稲田姫の外八ツの瓶に満たした酒を手摩乳・脚摩乳(てなづち・あしなづち)夫妻に強要した、簸の川上に住んでいたという八岐(やまた)の大蛇(おろち)。類句-どつちも好きで おろちは してやられ(拾一二)。神代にも だますは酒と 女なり(樽初)(樽四七)(樽一三一)(「古川柳辞典」 十四世根岸川柳)


価値観を生み出す
宣伝広報活動に、その意識をどう反映させるかが問題だ。基本理念について聞かなければならなくなった。「サントリーという企業の性格から、お酒のある暮らしを、いかに多くのひとに知ってもらい、それを豊かにするかを第一にあげるべきでしょうね。次に忘れてはならないのは、宣伝広告が、きわめて人間臭いものになったことです。物質でなく情報であり、もっと人間的に、人間に対する興味を人間が作り、訴え、共感を呼ぶようにしないといけませんね。美しさ、愛、よろこびを常に提供していく情報活動といっても、けっしてオーバーではありません。常にテーマがほしいんです。好奇心がなくなったら、これに対応できませんね」だが、せんじ詰めればウイスキーやビールを売る補助手段にすぎない、とみている向きは多い。「いやそれでは困るんです。別のテーマを持って訴求しようとする姿勢がないと…。ただ単に商品のメリットを売るのでなく、はやりことばでいえばソフトノミックスなんですね。現実に、ソフトサービスの面で広告宣伝は社会を変えてきているではないですか。たとえば車です。物を運ぶという機能では、もうどれも大差ないんです。その本来の機能とは違ったことで価値観が生まれていますでしょう。宣伝広告の役割は、いまやその価値観を生み出すことにあるんです」(「サントリー宣伝部」 塩沢茂)


酒だけのんでいる
そばへ行って、「檀那は元気?」と声をかけると、「檀那はさっき死にました」(ママ)きっと檀那が知らせてくれたんです。それにしても、不思議です-。そういって、とよ次は電話をきった。佃多は死んだか。この、一、二年、おかしい程慾が深くなったが、やっぱりあれは死慾(しによく)というものだったか-。そのときは、その位しか思わなかったけれども、日がたつにつれて、なんだか淋しくてやりきれない。佃多とは年齢(とし)も稼業も違うけれど、三十年来のつきあいである。この一、二年、性格が変わって、昔のように電話もかけてこず、二夕月(ママ)に一どの会合にも顔を見せたことがない。会の幹事が、「佃多もいいが、会の日を知らせると、会費は、ときくから、いくらいくらだというと、きまって、私ァ歯が悪くって-会費をきいてから、ことわりをいうのは、イヤな感じだ」そんなことをいうから、佃多に電話をかけて、「歯が悪くっても、昔馴染みと顔をあわせて下さいよ」というと、「私の歯には、救急車がかかっている。どの歯医者へ行っても、そういわれる。第一、人が物をくってるのに、こっちはなんにもくわずに酒だけのんでいる。気がきかねえったらありゃしねえ。私ァあの会には、きまった会費より余計出しているんです」と、また例のホラをふきはじめる。佃多はよくホラをふく。それが近年ひどくなった。それに決して会費より余計に出す人ではない。(「こころに残る言葉」 宇野信夫)


冷酒 れいしゆ ひやざけ
日本酒は燗をして飲むものだが、口あたりがよいので、夏は冷で飲む人が多い。特に冷酒用に醸した酒もある。
冷やし酒 夕明界と なりはじむ  石田波郷
冷やし酒 世に躓きし 膝撫ぜて  小林康治
冷凍酒 旅にしあれば 妻ものむ  森川暁水
教師づら 失せ痩身に 冷酒飲む  山下率賓子(「新版 俳句歳時記 夏の部」 角川書店編)


ふきんしゆ【不亀手】厳冬に手足に塗って暖を取つた薬。支那から渡来したものであつた。
 不亀手の薬にまさる一ト徳利  体内を温む
ぶた【豚】羊と共に、唐人の常食物と見られた家畜。
 長安のしけ塩豚で李白飲み  魚類が来ず(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


禁酒
酒好きの男、何に感じてか金毘羅様へ禁酒の誓文(せいもん)を立てけるが、一週間ばかりして或る寄り合の席上にて、朋友(ともだち)四五人の美味(うま)さうに飲みあふを見るより、飲みたしとおもふ心矢も楯もたまらずなり、オイ自分達ばかりで飲まずと、おれにも一盃(ぱい)くれねえか、と云へば、皆〻肝(きも)を潰して、飛んでも無い事だ、おめへは金毘羅様へ誓文して禁酒したといふでは無いか、飲むのは可(い)いが罰(ばち)が当らうぜ、と意見すれども一向聴かず、ナアニそこは神様のことだから、彼(あれ)の禁酒は末遂げめえと初手(しよて)から御見通しになつていらしつたに相違無え、禁酒したには違ひ無いが実はありやアほんの出来心(できごゝろ)さ。(「笑話(春の山)」 幸田露伴)


飲むと熊になる
酒好きで「飲むと熊になる」と仲間からいわれるのは、元シャネルズのメンバーで、最近はバラエティ番組で活躍しているタレントの桑野信義。「熊」といっても獰猛(どうもう)になって暴れるという意味ではなく、いったん飲みはじめると、もはや誰にも止められないほど迫力があるということらしい。最後は水でも飲むように、ゴクゴクとイケちゃうんだという。さて、その彼がシャネルズ時代に福岡にいったときのこと。コンサートを終え、メンバーの一人と中州(なかす)の天神といった繁華街に繰り出した。三、四軒ハシゴしたのち、ベロベロに酔ってカウンターで寝込んでしまったが、突然ガバッと起き上がって店を出た彼は、タクシーを拾って「蒲田(かまた)へいってくれ!」。福岡で飲んでいることをすっかり忘れ、「地元のくせに蒲田もわからないのか!」と、とまどう運転手に食ってかかったという。仕方なく、運転手は車を走らせ、福岡から少し離れた場所にあるカマタという場所に連れていこうとしたが、外の風景がちがうことに気づいた桑野は、そこではじめて自分が福岡にいることを思いだしたのである。それからがたいへん、ホテルに帰ろうとしたけれど、今度は自分がホテルの名前も場所もわからない。さんざんバカにした運転手に、頭を下げてグルグルと走りまわってもらい、やっとホテルにたどり着いたという。(「酒場で盛りあがる酒のこだわり話」 博学こだわり倶楽部編)


油燈(2)
湧(わ)き鈍(にぶ)き 大六尺桶(おおろくしやく)に 手(て)をつけて 温(ぬる)きもろみを 洋盃(こつぷ)に汲(く)むも
燈(ひ)のかげに 胴(はら)ふとくならぶ 桶(をけ)の醪(もろみ) 彼方(をち)こちに湧(わ)きて 音(おと)のしづけさ
含(ふく)み唎(き)く もろみの粒(つぶ)は 酸(す)くなりぬ 土間(どま)にし吐(は)けば 白(しろ)くおつる音(おと)
人影(ひとかげ)の 大きくうごく 倉(くら)の燈(ひ)に 酸敗酒(さんぱいしゆ)の処置(しよち)を 秘(ひそ)かにはかる
牡蠣灰(かきばひ)を もろみの桶(おけ)に おろさせぬ 人(ひと)ら夜(よ)ぶかき 桶(をけ)にのぼるも(「中村憲吉歌集」 斎藤茂吉・土屋文明選) 火落ちした酒を詠んだ歌です。 油燈


梨花
人毎に さけとねか(願)へる 花なれば 下戸とばけ物 なしの木にこそ
三月三日
草の餅 花の盃 とり/"\に とり合てや 節会なるらん  行風
桃の酒 蓬の餅で いはふこそ 上戸と下戸の とり合(あわせ)なれ  昌恵
をりてみよ 笑ひ上戸は 花の名の もゝのこひある 目もと口元  貞富
詩の韻も ふみ分かたく せかれけり 盃は とくすくる(疾く過ぐる)曲水  忠直(「後撰夷曲集」)



平成15年金賞酒
この平成十五年(平成十四年酒造年度)の金賞酒一覧をみて、例えば53ページで売上げベスト13の清洲桜が金賞に入っている一方で、35位の一ノ蔵は選に漏れている。清洲桜はご存知紙パックの安酒だけでささえた13位であり、一方の一ノ蔵は前述の通り、全製品が特定名称酒を打出す優良銘柄である。このような場合、金賞の当落で銘柄の優劣を云々することができないのは明白ではないか。正直な話、特定名称酒にほとんど力を入れない蔵元の金賞ときいても関心がないから、試す気になれない。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)


市の成立
万葉の時代、日本のあちこちにはすでに「市(いち)」が立っていた。市の文献の初見は、倭国(日本)の様子を記した『三国志』の『魏志倭人伝』で「国々ニ市アリテ有無ヲ交易ス」とある。これだけでは市の形が漠然としているが、『日本書紀』の巻一五弘計王(おけのみこ)(顕宗(けんぞう)天皇)の室寿歌(むろほぎのうた)に、「旨酒 餌香(えか)の市に 直(あたい)以て買はぬ」(餌香の市に出された酒は、あまりの美酒のために値段がつけられないほどだった)と、市の酒の品質にふれた記述が出てくる。餌香とは今の大阪府藤井寺市であるが、この地は河内、大和、伊勢を結ぶ重要地点の一つで、五世紀の後半には、すでに市に旨酒が出まわっていたことを示し、酒文化史に詳しいか加藤百一博士もこれがわが国における酒類取引の初見であろうとしている。(「日本酒の世界」 小泉武夫)


ヘルムの賢人
そこでしつこく長老会議、「うほん。タルに酒をいっぱい入れて、シナゴーグのそばに置く。月が酒を飲んどるスキに、ぶ厚いふたをおっかぶせるんじゃ」と相成りました。ヘルムの人々は行動派。真夜中のこと、何も知らないまぬけな月は、いつもの軌道をのそーり、のそーり、(時おりクシャミしながら?)やってきました。ヘルムの男たちは酒ダルの後ろ、じっと身をひそめていました。酒の上に月の姿が映るとやおらワッ!と麻袋をかぶせ、ぶ厚いふたをのせ、石をのせ、タルごとシナゴーグの中ヘハイそれまでよ、これで安心、これからは、ユダヤの仲間が押すな押すなのヘルムの町だ!一月後、ある男がやってきて「近くの町でだがな、ユダヤ人たちが三日月のお祈りをしているのを見たよ」と言った。ヘルムの連中ムカッときて、その男を袋だたきのコテンパン、へん!見えすいたウソをつくたァ、ふてえ野郎だ!月は酒ダルの中だよー、ということになりました。まもなく、町の外へ旅行に行ってた人たちが、やっぱり同じ話を持って帰ってきましたが、ヘルムの人々は誰も信じられませんでした。でも、時が過ぎれば少しはわかる、「ユダヤの仲間はいっこうに現われないじゃないか」ヘルムの人々は、とうとうタルのふたを開けて、中に月がないのを知ってしまい、残念無念と思うと同時に、肩をがくりと落としたのでした。「あんなにきつく縛っておいたのに。やっぱり月がないとコソ泥は助かるな。月を盗むのに、月のない真っ暗な時を利用しおったわい!」(「ユダヤジョーク」 ジャック・ハルペン)


止酒
此のやうな状態で三箇月くらゐ止酒したらうか。いや、一箇月くらゐだつた、と老妻はいふ。とかくして、やゝ胃の具合が落ち着いて来たので、まづウヰスキイを紅茶に少し滴らして飲むことから始めた。是は医者なる父が胃病で永らく止酒した時、日本酒を廃してウヰスキイを船小屋(ふなごや)の炭素水に落として飲んでゐたのに倣つたのである。船小屋温泉は筑前(?)に在り、炭酸水で胃病に効くと云ひ、父も湯治に行つてゐたことが有る。其処で製した炭酸水が関門間では市販されてゐた。さて私のホツトウヰスキイ飲用が、どのくらゐ続いたか、とても此のやうな物で辛棒できるはずはない。とにかく日本酒でなくては。その頃述懐の腰折れに「一杯は薬、二杯は害あらじ、三杯四杯いつか酔ひぬる」とある。こんな不摂生では到底治癒は望めない。大正十一年三月江南の春を尋ね、五月長江を遡った時も、胃痛の為に廬山から引返し、遂に北京を廻る予定を断念して帰国したのである。嘗て小島君の語る所によると、其の厳君も若い時分は常に胃病に苦しまれたが、老年に至つて忘れたやうに癒つた、ただ甚だ小食であると。私は之を聴いて聊か自ら慰めて希望を失はなかつた。果たせるかな、大正十五年仙台に移つてから、いつとはなしに胸やけ・胃の痛みなどが少くなつた。それは一つには酒友が居なくなつたことと、東北の米は粘りけが少なく、消化し易い為ではなからうかと思つた。仙台の風土は胸の病には悪いが、胃腸には善いといふ話も聞いた。(「中華飲酒詩選」 青木正児)


554 負けた!
マックは非常にビールが飲みたかったが、一ペニーしか持合わせがなかった。思案しながら歩いていたが、彼はついに居酒屋へ入って行った。そこには丁度大コップ一杯のビールを注文した客が坐っていた。彼はその客に、「君が気付かない間にそのビールを僕が飲んでしまえるかどうか、一ペニー賭けないかね?」というと、「よし、やろう」と答えた。そこでマックは、そのコップを取り上げ、ぐっと一息に飲み乾した。「おい、君の飲むのを、僕は見たよ…」その男が言うと、すかさずマック、「やあ、負けたね。そら、賭け金の一ペニーを渡しとくよ」(「ユーモア辞典」 秋田實編


先生来社
三月六日の『牟婁新報』に次の記事ありて、さっそく『和歌山』その他の新紙に転載された。いわく、 南方先生の発見、竹の切り株から好物の酒。昨日午後二時過ぎ、久々にて先生来社、子分二人随行、先生上機嫌で語っていわく、「むかしから孝子の徳に感じて酒泉が湧き出たと聞く。親のあるうちの孝行は仕難いようで仕易いが、乃公のように親が死んでから長々と五十にして慕う孝行は、仕易いようで実は仕難いのだ。その仕難い孝行を絶えずしておるによって、今度裏庭の竹の切株から紫の酒を発見と来た。それこれを見よと、博多氏に持たせある風呂敷包みを解くを見れば、中に三瓶あり。栓を抜いて齅(か)ぐと甘酒の匂いがプンとする。先生いわく、今より一千二百年前、元正天皇の御宇、孝子の徳に感じて美濃国に霊泉が湧き出た。よって養老の滝と名づけ、改元して養老元年と号したのは、貴公も承りおるだろう。これを柳田氏などは訛伝じゃと言うが、必ずしも左様(そう)したものでない。近来越後の小千谷辺で杉の木から醴泉を見出でたと聞き、さっそくその村の大金持の何某というに頼み現品を送って貰うたが、乃公の宅で見出でたのと少しも異(かわ)らぬじゃ。それこれが発酵菌じゃ。分かったか。他人に遠慮なく自分で命名してサッカロミセス・ミナカタエと尊号を奉るはどうだ。追い追い酒にして見せるのだが、こればかりではなかなか不足だから前祝いに軽少ながら五升ばかり飲んだ。これみな孝行の徳じゃ、恐れ入ったか。何が可笑(おか)しい。酒屋の子息が父の業を不断改良して顧客の交誼に背かぬよう日夜試験のため飲むのじゃ。ちょっと錦城館のお富を電話口まで呼んでくれ。「わが金は丸刃にとげる腰がたな、世に使はれぬ身とぞなりける」、今なお心変りがせぬか聞いて見てくれ。面白い面白い、毎日毎夜思い続けて思うておるというか、ちょっと行ってくるぞ、この通り新聞へ出して置いてくれよ」と無性に上機嫌の体なりき。  件の新紙を家内が読んで変な顔をしておるので、何ごとか知らず、新報社へ往って子細を正し、なぜそんなことを出したかと詰ると、御自分が押し返しこの通り出してくれと言ったじゃないかと反駁されて一言もなかった。-
ただし間違いは間違いながらそれぞれ必ず所拠因由ありて、その前数日、在ワシントン田中長三郎氏から、余の発見した多くの菌類は、かの地で調査命名は日本でするより逈(はる)か容易ゆえ、なるべく図録を多く纏めて送り越せと言って来た縁で、みずから命名などと喋舌り、またその直ぐ前日、隣の百万長者と竹垣越しにかの醴泉のことを話すと、その人小千谷の何とかいう大金持と面識ある由語られたによって、自分がその大金持ちから現品を送って貰うたよう言うたと見える。一口に虚言とか誇張とか排斥し了ればそれまでながら、虚言や誇張の生じ来たる道筋を研究せんと欲せば、酒に酔うた時の話を筆記させ、醒めたのち自心について何の臆するところもなく精査研究して大いに得るところあるだろう、と始めて気が付いたことである。(「酒泉等の話」 南方熊楠)


花の下に酔ふ  李商隠(りしよういん) 青木正児(あおきまさる)訳
花を尋ね、覚えず過ごして美酒(うまざけ)に酔ひ
樹に倚(よ)りかかつて眠り込んで日は已(すで)に傾く。
客は去り酒は醒めた深夜の後
更に紅燭(こうしよく)を持つて残花を賞(め)でる。(「酒の詩集」 富士正晴編著)


暗闇で飲むと
暗闇で飲むとどうしても酒をこぼすもし自然に水平にもてる(盃が)ということなら、いかなる愚者にもあやまちはあるまい。(「淮南子 寓言二百九則」 西順蔵訳)


四八 繁昌之市踊
二上リめでたいな、あ〻めでたいな、われがすみかは都(みやこ)の辰巳稲荷山(たつみいなりやま)、こぼれか〻れる玉あられ、是の殿御(とのご)に逢(あ)ひとて見(み)とて、あの山こえて此山こえて、えいさんさ、さあさえいさんさ/\、君を思へば音羽の瀧(たき)の、瀧(たき)の白糸(しらいと)いとし、いと/\いとしよの、いとしよの、いとしよの/\、いとしけりやこそはんじよな市(いち)で、此酒(このさけ)に酔うたとさ、こん/\こん/\の盃(さかづき)は、千秋楽(せんしうらく)/\萬歳楽(ばんざいらく)と祝(いは)ひ納(おさ)めた(「松の落葉」 扇徳・編)


△麹糵(もやし)
かならず古米を用ゆ。蒸して飯(めし)とし、一升に欅灰(けやきはい)二〇二合許(ばかり)を合せ筵幾重(むしろいくえ)にも包て、室(むろ)の棚へあげおく事十日許(ばかり)にして、毛醭(け)二一を生ずるをみて、是を麹盆(こうじふた)の真中(まんなか)へつんぼりと盛りて後蓋(のちふた)一はいに掻(かき)ならすこと二度許にして成るなり。
二〇 欅灰 欅又はこれに類する脂の少ない木の灰。これを水に溶くとアルカリ性の液となる。 二一 毛醭 酒こうじの胞芽が毛のように生えているもの。けかび。(「日本山海名産名物図絵」 千葉徳爾註解)



三組盃
「ねえ、お由や、昔話はそれとして、今日わざわざ尋ねて来たについては、少しお頼みしたいことがあるのだが、聞きとどけておくれでないか?」「改まったそのお言葉、たとえおそばは離れていても、お母さんに変わりはない。なんのまア、親子の仲で、頼むのなんのと水臭い」「さア、それにしても、この三組(みつぐみ)の一番上の小さなのは、里子に出す時、後日の証拠としてお米にやってある。大和町の藤兵衛さん御夫婦には、もう二十年からも御恩をうけ、義理とは言え藤兵衛さんの母にあたるわたし、自分のお腹(なか)を痛めたお前さんとお米とが、いくらお互いに知らぬこととは言いながら、藤さんのお世話になっているというのは…。あの方も、少しも御存知ないことだし、ほんとにわたしひとりッきりで、人知れぬ気苦労が絶えません。大旦那が亡くなられて、もう八、九年にもなるけれど、ちっとも以前と変らず、実の妹と思ツていると、」親切に言ってくださる御本妻(おかみ)さん、他所目(よそめ)には何の不足もないようだけれども、たったひとつの御苦労は藤さんのお身持ちで、いまだに御縁談がないのも、やれ唐琴屋だ、それ和歌町(わかちよう)だ、まだその上にお前さんまで、あっちこっちで浮名を流しておいでゆえと聞くにつけ、私は身も世もあられぬ想いだよ。それだけに、ひとしお母御様(ははごさま)の御苦労も思いやられるのだけれど、なんの因果で親子三人、千葉のお宅(たく)に御迷惑をかけるのか。お前と言い、お米と言い、またわたしとしても、いっそなんにも知らなければ、それでも済む話だけれど、そこが親子の情合で案じ暮らす月日のうちには、いつ誰からともなくだん/\に、知れて来た今となっては、どうまアほって置かれましょう。ここの道理を汲みわけてたとえしばらくの間でも藤さんのお腰が落ち着くよう、…これはお前の仕向け次第でどうにもなること、ほんとにお願いしますよ。わたしは、これからお米に逢いに行き、姉さんがこう/\だと話したなら、あの子だって得心(とくしん)しないはずはあるまい。どうやらこの節、唐琴屋へは少し足が遠のいているとのこと、お米は大そうな繁昌と聞くから、そう/\お目にかかれはしまい。となると、自然おみ足の向くのはこっちの方角。無理でもあろうが、わたしの頼みを聞きわけて、愛想づかしを言うほどでもないまでも、あんまりちやほや待遇(もてな)さずみ、だん/\遠のくように仕向けておくれでないか?」と、手を合わさんばかりに頼まれてお由は、「はい」というのもやっとの泣き嗚咽(おえつ)…。この盃は、親子三人が離別に際し、後日の証拠にせしもの。因(ちなみ)に織部形とは、すべて道具は小ぶりなるを珍重された古田氏の好みにより、この小盃をも織部形というとか。古い椀久の唄に、〽思いざしなら武蔵野でなりと 何じゃ織部の小盃 と言ってある。武蔵野というのは大盃であって、飲み尽くせないという謎(謎)だそうな。(「江戸小説集 春色梅児誉美」 為永春水 里見弴訳) 写真の盃 上:米八が所持 きみはいま 中:お由が所持 駒形あたり 母の所持:ほととぎす


磯辺の香りを再現 サザエの磯焼き
作り方 ①サザエは電子レンジに約3分、ラップをせずにかけ、ふたを開かせ、身を取り出す。 ②サザエは食べやすくコロコロに切る。 ③生のりにしょうゆと酒を合わせて、①を和える。 ④ ②をサザエの殻にもどし入れ、オーブントースターで香りが立つまで5分ほど焼く。
材料 サザエ…2個 生のり…1/4カップ しょうゆ…大さじ1/2 酒…大さじ1/2 生のりはのりの佃煮を使っても。
このつまみに、この1本 蓬莱泉 和(ほうらいせん わ) 熟成生酒/愛知 日本酒度…-4 酸度…1.55 価格…3000円(1.8ℓ) ●「和醸良酒」をラベルに掲げるこの酒は、熟酒とも生酒ともつかない、やわらかな酒質で、サザエから香る磯の風味を上品に引き立たせてくれる。(来会楽)(「新・日本酒の愉しみ 酒のつまみは魚にかぎる」 編集人 堀部泰憲)


<肝臓を強くするツボ>
「肝愈(かんゆ)」 背中にあるツボなので、誰かに協力してもらうといい。場所は、左右の肩甲骨の下はしを結んだ直線上にある背骨の出っ張り(第七胸椎)から、二つ下の出っ張り(第九胸椎)へ下がり、その左右外側へ指二本分くらい行ったところ。「肝」の文字が入っているだけに、肝臓には非常に効果的なツボだ。慣れるまでは、見つけるのがタイヘンかもしれないが…。
「太衝」 足の甲の、親趾の根本の骨(中足骨)と第二趾根本の骨がくっつくところ。比較的見つけやすいだろう。もし正確に分からなくても、その周辺を押していればよい。(「二日酔いの特効薬のウソ、ホント。」 中山健児監修) 


内田叔明
この内田叔明を評して、しかし耽酒の一事に触れぬものはない。「性甚酒嗜にて、隠居して唯酒のみ友とせられし」(釈雲室『雲室随筆』)、「婚宦(結婚と仕官)を屑しとせず、酷はだ麹蘖(酒)を嗜み、頽然として自放す」(菊池五山『五山堂詩話』巻十、原漢文)、「朝となく暮となく常に酒臭を帯ぶ」(『先哲叢談続編』、原漢文)等々。なぜ娶らざるかと聞く人に対して「一身の外、亦た復た何ぞもちいん」(生きていくにはこの身一つで充分だ)、「婦有れば、吾恐らくは劉伶の酒を捐て器を毀つを見るがごとくならん」(細君なんぞいたら、自由に酒も飲めるまいよ)(以上墓碑銘による)と答えるほどであれば、およそ辺幅を飾らない上戸である。一説では、その執心が昂じて、自分の嗜好する味の酒を作らせることに至った。ずっと後のことだが、頼山陽は伊丹の醸造主大塚与右衛門(号鳩斎)が没した際に墓碑銘を書いており(文政十二年、『山陽遺稿』所収)、その中で「伊丹の酒、醇醲(じゆんじよう)を主とせしも、一変して清淡峻洌と為るは鳩斎翁に昉(はじ)まる」(原漢文)とする。かく伊丹酒を「一変」させたほどの新製品が泉川と銘打たれた酒で、特に江戸でもてはやされる。長唄「世々の賑ひ」に〽花の江戸一流れも清き泉川と歌われるあの銘柄であった。そして『先哲叢談』に拠れば、この酒の味を決定したのが、だれあろう内田叔明だったというのである。いわく「嘗て摂津伊丹の造醸家某をして醇粋の酒を製らしむ。其の気味清酸にして辛苦。是より先の苦甘柔淡なるに似ず。自ら之が銘を題して云ふ、『消憂散鬱、透徹黄泉、百薬之長、暢潤山川』と」。残存の商標や番付類からみて、泉川を製造搬出していたのは綛屋(加勢屋)与右衛門で、その綛屋が大塚屋であろう。『先哲叢談』は当話に続けて、関西よりも関東人の辛口を好むのは「土地の肥痩」「人気の強弱」の相違によるという東西比較論を付け加えているが、これは東条琴台個人の意見。伊丹酒の辛口なることは古くからいわれる(『童蒙酒造記』など)ことで、泉川の新味特色とは、山陽のいう「清淡峻冽」つまり淡白な辛口に存したということか。しかしこの逸事、管見では『先哲』の他に伝なく、虚実の判定にはかなり注意を要する。叔明が関わったよすれば、新川あたりの綛屋の江戸店ということになるが、そもそも一介の貧乏儒者が、下り酒の風味にまで注文をつけられるものか。求められ、韻字に新酒「泉川」の二字を置いた賛をしたことから派生した余談とも思えるが、伊丹造酒史ではいかに跡付けられているのか、泉下の岡田利兵衛翁にでも伺ってみたい気がする。(「儒者の酒-内田叔明のこと」 宮崎修多)


巡盃
ロドリゲスは『日本教会史』のなかで、その台は三本足で高さが二二センチぐらい、上等の檜の板でつくられ、「切りこまれた海岸に似せてあって、海岸の入江と岬のように見せてあり、それを空色か水色かの一色で塗り、花と主に小松をいろいろに細工して、海に沿ったところに飾りつけ…」と詳しく説明しているが、要は洲浜台のことで、洲浜形の板に鼎型に足をつけ、板に彩色して飾りつけた台が、さきの金銀に塗られた土器の盃の台となったのである。このような大盃をすえ、金属製の銚子で給仕が酒をそそぎ、盃が一同を巡る間にさまざまな芸能が披露されるという仕組みである。もちろん、巡盃の盃がみな大杯であったわけではない。酒宴では十七献とか十九献というほどの回数で巡るので、大杯ではたちまち酔いつぶれてしまうだろう。径一五センチ程度の盃が多かったようだ。給仕についてもロドリゲスは日本と中国を比較して、中国では身分の低い者が給仕となり、飾りのない黒い木綿の服を着て、粗末な接待をするのは、中国の偉大な文化の一大欠点であるとしている。それに対して日本の給仕はいやしいものとはされず、その役をつとめる美しい小姓は「教養ある貴い身分の人々であり、その多くは貴族なり武将なりの息子」の役であったという。(「酒と社交」 熊倉功夫)


夷講 えびすこう
ゑびすこう 信濃はめしの 二日酔  安九義3
【語釈】〇夷講=十月二十日に商家でおこなう行事。呉服店は特にさかんで、人々に鯛を振舞い、牛飲馬食する。 〇信濃=信濃←から来た出稼人。大食で知られる。 【観賞】えびす講にハメを外して酒を飲むのは珍しくないが、ここを先途と飯を食って、二日酔い同然に翌日もぼんやりしているのは、信濃ならではの特技である。 【類句】-とらまへて酒をのませるゑびす講 天四満2(忠臣蔵七段目の文句取、客を無理矢理に接待する) ゑびす講上戸も下戸もうごけ得ず 一一6(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)


人の身を持ち損(そこな)うは酒に増したる物はなし
人が自分を正しく保つのに失敗するのは、酒にまさっている物はない。酒がいちばん自分を正しく保つことをできなくさせる物だ。江島其磧(えじまきせき 一七三六年)の『世間子息気質(せけんむすこかたぎ)』に、<若い時から始末の二字を忘れず、人の身を持ち損なうは、酒に増したる者はなしと、三十年来禁酒にて我(わ)が内には燗鍋(かんなべ)・ちろりはいうに及ばず、壺(つぼ)・平皿(ひらさら)の蓋(ふた)も盃(さかずき)に似たる物とて置かれず。念仏講の同行の中に、酒屋があって付き合うが迷惑と断りいうて、講を逃(のが)れしくらいなれば、五節句朔日(ついたち)廿(にじゆう)八日氏神の祭り、えびす講にも神の棚(たな)へ御酒(みき)さえ供えられず、子どもが寺から上がって手習い師匠に習うた通り、猩々(しようじよう)の謡(うたい)うたうさえ神鳴りぎらいの稲光り見るごとく、そのまま両耳ふさいでお念仏申していらるるほどなれば、ねんごろして来る人々も心得て、酒の咄(はなし)は随分除(よ)けてせぬようにしたりしが、>とある。「ちろり」は、酒のかんをする銅・しんちゅう製の容器。「猩々」は、揚子(ようす)の市に出て酒を造って売り富貴の家となった高風(こうふう)と、酒を飲んで杯はめぐっても面色の変わることのない童子で、潯陽(じんよう)の江(え)に住む猩々と名のる者とが出てくる謡曲。(「飲食事辞典」 白石大二)


無頼
(江戸の)居酒屋の客には無頼(ぶらい)の者もいて、店は強請(ゆす)られることも多かった。代表的な無頼に町火消(まちびけし)と別に組織された幕府直属の定火消(じょうびけし)の火消人足たちがいた。臥煙(がえん)と呼ばれて全身に彫り物(刺青(いれずみ))を入れた強面(こわもて)たちは、内職で作った銭緡(ぜにさし 一文銭を穴に通してまとめる紐)を、一束百文で押し売りしていた。とくに新規開店の居酒屋が狙われ、町奉行も町役人に情報を得たら知らせるように通達している。『職人尽絵詞(しょくにんづくしえことば)』に描かれた四方(よも)酒店の奥で、男が刺青をちらつかせて「金がないから明日にしてくれと言っているんだ。聞けないならどうとでもしてくれ」と凄(すご)んでいる。居酒屋は現金商売の魅力があったが、無頼の者から何かと集(たか)られるデメリットもあり、近年でもバーやスナックに、地元暴力団が「みかじめ料」を要求していたのと同じだ。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資編著)


きん酒
「聞きやれ。おれもこのごろきん酒した」「よくあるやつ。久しいものだ。きん酒のきんの字は近いといふ字か」「イヤ近いは古いによつて、勤めるのだ」(出頬題・安永二・禁酒)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)


バー・ユウロップ
演奏会当夜、いちばん問題になったのは服装の点だった。上野の連中の燕尾(えんび)は問題ないし、軍楽隊は軍服で文句はないのだが、三越少年音楽隊となると、燕尾は芝居の貸衣装で間にあったが、子供用のパンプスはなかった。結局、燕尾に黒の地下タビを履(は)かせて間に合わせた。演奏会も目睫(もくしよう)に迫ったある日の午後、私は綱ひきの車を馳せて、特殊楽器を手に入れる交渉に走りまわっていた。私の車がそのころは警視庁だった今の第一生命の前を、帝劇へ横切ろうとした時だ。重いきしるような、轟音とともに私の左肩に三田行のボギー車がぶつかったのだ。私は二間ほど飛ばされて地上にたたきつけられた。私はよく車の上で読書する癖がある。その時もゲエテ詩集を読みふけっていたのだ。危いッと叫んだ時すでに遅く、激突していた。私は苦しさのあまり地面をのたうち回った。誰かが飛んできて私の腹部を切取ってくれればいい、と思ったほど、内臓が腹のなかでデングリかえっているような感じがした。地面に両手をつきながら前方を見ると、往き来の人々が、ぼう然と私を見ているのだ。人間という者は存外不親切なものだと思った。そのうち、私の眼前に警官が立ちはだかり、いきなり『住所氏名は?』というのだ。人が生死の境でうめいているのに、なんたるヤツだと思うと、私の身内にいきどおりの血が燃えさかり、思わず『馬鹿」ッ!』と大喝(たいかつ)してしまった。見ると、それは日比谷の交差点にいる「狒々(ひひ)」と渾名(あだな)されたヒゲつらの巡査だった。私はその怒りに気を取りもどしてようやく立ち上がり、ふらつきながらいまの三信ビルのところにあったバー・ユウロップにたどりついたのである。顔見知りのボーイに抱えられて、その店に入るなり、私は、立てつづけに何杯かのウィスキーをあおった。やっと私の面上に生色が見えたので、すぐ新しい車を雇入れて、上野に飛ばし、所要をはたして丸ノ内の三菱へ戻ったのは夕方に近かった。私の遭難が夕刊に出たとかで、岩崎男はじめ協会の人々は額をあつめて心配していた。その晩から高熱を発して苦しんだが、演奏会は無事につとめおおせた。(「私の履歴書」 山田耕筰)


鍋島閑叟とカッテンディーケ
藩侯(佐賀藩主鍋島閑叟)の別墅は、長崎湾中、すこぶる景勝の地を占めている。屋敷に赴くと侯は前とうって変わった別人の感があり、先刻の不愉快さを、我々にすっかり忘れさせようと努めているようであった。私を自分の右に坐らせた侯は、私にしきりに酒を勧め、自身もしたたか飲んだようである。侯は西洋の芸術、科学に非常な関心をもち、自分の領内においては、極力その保護の方法を講じている、いろいろ事情にも明るく、種々なる新発見をのことを聞き、また一度オランダへも行き旧地のファビュス氏(一八〇六-八八。クルチウスとともに幕府の軍艦購入、海軍建設を斡旋し、自らも長崎及び佐賀藩士に伝習。のち西・東インド艦隊司令官を歴任)や私の宅をも訪ねてみたいと思っているとも告げた。-我々が藩侯と一緒に食事をとった時、その食堂は開け放しであったが、その隣室は、機関将校と二人のオランダ人職人の食堂に当てられた。この二人の職人は、アムステルダムから来た者であるが、その時この二人の顔に刻まれた表情といったら忘れようとて忘れられないものであった。彼等は夢にも貴顕の食卓に陪席しようなどとは想像していなかったから、その驚きも大きかったのであろう。その食卓は山海の珍味と芳醇な酒で埋められてあったが、純朴な二人は、それに手を触れようともしなかった。そこを藩の重役や家来どもは、しきりに取り持って、酒を注いでは、主人のせっかくの好意を無駄にしないようにと勧めている。職人の一人は、おどおどして気も落ち着かない風であったので、何か失敗しはしないかと暗に気遣ったが、幸い何の事もなく済みホットした。そして、この見て楽しかった食事が終わってから、穴穿け機や平削機は運転を始めた。(「長崎海軍伝習所の日々」 カッテンディーケ 水田信利訳)


10日 梅ぼし
梅ぼしは、血液の酸性をうすくすると聞いて来て、母は、腎臓に結石のできるわたしに、毎朝一つずつ、梅ぼしをたべるようにとすすめた。わたしは親孝行のつもりで、言いなりになっていたが、こんどは心臓が少しわるくなって、医者から、塩気のものをさけるようにと言い渡され、それを機会にこれさいわいにとやめてしまった。まるごと梅ぼしをたべるのは、どうも苦手である。梅ぼしの肉をほぐして、それに大根おろし、わさび、かつおぶし、のり、ねぎのみじん切りをまぜ、しょうゆをかけたものを、いつからか始めた。こうすれば、梅ぼしもたべやすい。たべやすいどころか、これは、酒のさかなにもいいし、朝ごはんのおかずにももってこいである。どこかでたべたものからくふうしたのに違いないが、少量のかつおぶしがまざるところが、ちょっとした味である。(「私の食物誌」 池田弥三郎)


馮時化『酒史』
清 康煕六頃 一六七〇頃 馮時化『酒史』を著す。系統的な酒の歴史ではなく、伝記、酒名などが出ている。(「一衣帯水」 田中静一)


たべる[食べる]
飲酒を酒をたべるという。
①御酒はたべてもたべィでも 先御慶(樽九五)
②十人が十人初会たべんせん(拾一四)
①仮名手本忠臣蔵三段目の高師直(こうのもろなお)のセリフ-何時盛らしやつたイヤ何時飲みました、御酒下されても飲まいでも、勤めるところはきツと勤める云々の文句取り。類句-酒は呑んでも呑まいでもまた弐朱(樽一五四)。②初会の花魁(おいらん)の無愛想。類句-禿(かむろ)までたべんせんとはぬかしたり(拾一四)(「古川柳辞典」 根岸川柳)


勇み肌
斉(せい)に勇み肌のものがいた。一人は東のはずれに、一人は西のはずれにすんでいた。道でふと出会った。「一杯やろうか」といって、しばらく盃をやりとりした。「肉をとろうか」というと、一人が、「おまえは肉だし、おれも肉だ。何も別に肉をとることはないね。ここにしたじがありさえすればすむ」という。そこで刀をぬいて食いあい、おしまいに死んだ。(仲冬紀 当務)(「古代寓話文学集 呂氏春秋集」 監修 奥野信太郎外)


第三回目
第三回目が大変である。是より先き、大正五年に吾々の間に麗沢(リタク)社が起つた。それは各自作った漢文を持ち寄り、狩野君山・内藤湖南両先生に添削を乞ひ、後で晩餐を共にする会なのである。大坂にも西村天囚先生を中心とする景社が有つて、両者は時として連合の会を開いた。あれは多分大正十年のことであつたと思ふが、此の連合会が席を宇治の一寺院に借りて開かれたことが有る。散会後、有志は更に席を旗亭に移して二次会を催した。私は大酔して小島・本多等の諸君と帰途に就き、電車を伏見の中書島で乗換へる為に向側に渡らうとして、高下駄か利久の歯が線路に挟まつたはずみに、ころりと仰向けに転んだ。電車が這入つて来ては大変、起上らうとして身をもがいたが、運動神経が麻痺してゐて動けない。諸君は笑つてゐるばかりで、起こしてくれない。是も皆酔つてゐて起こせないのである。絶体絶命。するとプラツトホームから一人の青年士官が飛び降りて来て起してくれた。あゝ助かつた、とほつとして笑ひながら礼を言つた。間もなく電車が這入つてきたので、ぞつとした。あの時ぐらゐ恐怖を感じたことは生涯に二度と無かつた。(「中華飲酒詩選」 青木正児) 思い出せる3回の酒で転んだ体験の3回目だそうです。あとの2回は転んだとも言えない程度の事だったようです。


三井の寿 みいのことぶき 井上宰継(ただつぐ)さん (福岡県大刀洗町) 4代目蔵元・杜氏
昭和45(1970)年、3代目の長男として生まれる。簿記の専門学校を卒業後、ハーゲンダッツジャパン入社。平成9年、27歳で家業に就き、経営に携わる。その前年、杜氏が病に倒れ、「菊姫」(石川県)にいた杜氏を迎え、山廃など基本を学ぶ。だがかつての蔵の味とは異なると指摘され、全国の酒蔵を回って研究。福岡の気候にあった酒造りを提案するが、杜氏の流派とは異なっていた。そこで平成14年、井上さんが製造責任者に就任し、弟の康二郎さんと共に醸している。愛読書は『酒学集成』坂口謹一郎著。 ●「酒造りは、化学とセンスと情熱だ!」「地元に根ざした『ローカリティー』、高い醸造技術で『クオリティー』、三井の寿にしかできない『オリジナリティー』がテーマ」「料理をする発想で、常識にとらわれない新しい味の日本酒を造っていきたい」 ♠最も自分らしい酒 純米吟醸「三井の寿」芳吟(ほうぎん) 山田錦(糸島産) 精米歩合55% 著者コメント:「香り・味ともに造りで指針となる酒」と井上さん。ほんのりと品が良い香り、繊細な中に深みのある味わい。地元の山田錦の力を生かした過不足のない安心感ある美酒。 ♥著者の視点 すべての酒が特定名称酒であり、酵母の自家培養にも熱心。どれを飲んでも精度が高い。ワイン酵母で醸した酒も、酸を生かした調和のとれた味で、新奇さを狙ったのではないことが伝わる逸品だ。料理好きと知って納得。(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子)


死骸のアルコール漬
「死骸のアルコール漬」(無署名)参照(『日本及日本人』七八四号五三頁)
『傾城反魂香』より十二年後れて享保二年に出た其磧の『明朝太平記』六の一に、万礼その舅鄭芝竜の首を主君阿克商へ遣わすに、「はるばるの道なれば首の損ぜぬように酒につけて遣わし給う」。『東鑑』に、秀衡、義経を攻め殺し、その首を酒に漬けて頼朝に送ったとあったと思うが、只今座右にないから聢(しか)と言えぬ。(大正九年六月十五日『日本及日本人』七八五号)
【追記】 『東鑑』巻九を見ると、果たして文治五年六月十三日、「泰衡の使者なる新田冠者高衡、予州(義経)の首を腰越浦に持参す、云々。件(くだん)の首は黒き漆の櫃に納め、美酒に浸す、云々」とある。これがまず本邦でアルコール漬の前駆として記録に留められた最古の例か。(大正九年八月十五日『日本及日本人』七八九号)(「死骸のアルコール漬」(日本及日本人) 南方熊楠)


484やっと安心
酔っ払いが、片足を歩道に片足を溝の中に入れて、歩いていた。一、二百メートル後をつけていた巡査、「君、行こう、家へ連れてってやろう。君は酔っている。」「やれやれ、わしはまたビッコニなったのかと思っていたところだよ」(「ユーモア辞典」 秋田實編)


回礼
日本人はお正月には、しこたま祝い酒を呑んで方々回礼をする。なかには出島の我々の館までやって来る者もあって非常に困った。この回礼は一般の慣習で、身分の卑しい階級の者にいたるまで怠らない。そんな具合だから大そう時間を潰し、私の許にいる日本人の馬丁は、その朋友全部に回礼を済ますのに、まる二日を要したと言っていた。以前長崎および島原では、お正月の五日には、例の有名な踏み絵が行なわれた。この両地は、日本におけるキリスト教信者の最後の隠れ場所であったのだ。今では条約によって踏み絵は廃止せられている。それで住民は大そう喜んでいる。何となれば、以前彼等は、役人が十字架にかけられたイエスの像を刻み付けた銅板を持って家々を回り、その家族たちにその銅板を踏まして信者でないことの実証を見届けに来るのを待つため、二日間も他所へ行けず、家の内に足止めをくったからである。(「長崎海軍伝習所の日々」 カッテンディーゲ 水田信利訳)


酒の中に真(まこと)あり(A)
酒の中に真なし(B)
酔っぱらいの言葉なんて、そうそう信用できるものじゃない。「酒に酔うて虎の首」ということわざもある。酔っぱらって虎の首をとったような大言壮語(たいげんそうご)を吐くという意味だ。そこから正解はBだと考えたら間違い。酒に酔うと、その人の本性が現れるという意味で、正解はAなのである。酔っぱらってセクハラに及ぼうとする上司には、「酒の中に真ありと言いますよ」と牽制するとよい。「酒は本心を現す」ともいう。(「どちらが正しい?ことわざ2000」 井口樹生監修)


白酒 しろざけ
雛に供える白酒は甘くて女子供にも飲める。糯米(もちごめ)を蒸して冷やしたものを槽に入れ味醂(みりん)を混ぜ、半月ぐらいたってから、ひき臼ですりつぶし醸す。いまは瓶詰めとして売られているが、昔は派手な衣装をして桶に入れ売り歩いた。その風俗は今も歌舞伎、舞踊にのこっている。→雛
白酒の 紐の如くに つがれたり  高浜虚子
大風に しめし障子や お白酒  原月舟
白酒の 酔ほのめきぬ 長睫毛  富安風生
白酒や 妻とほろ酔ひ 税滞めて  岸田稚魚(「合本 俳句歳時記 新版」 角川書店編)


矢内原総長より「からすみ」と愛媛産干貝を贈られて
酒好む 人のたのしみも 知りませる 酒を好まぬ 人のゆかしき
珍しき さかなたばひぬ この宵の 夕げの酒の 待たれぬるかな
みな人の 得がてにすなる からすみの いをたばひけり 友よ酌まなむ
いざ友よ からすみはみて ひと時の 富めるうたげと 酔ひしれめはや(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎)


もっきり(盛っ切り)
[名](「もりきり」の変化した形)①一度盛ったきりで、おかわりがないこと。 ②茶碗やコップに盛って飲む酒。もりきりざけ。(「日本俗語大辞典」 米川明彦編)


秋落(あきお)ち・秋晴(あきば)れ
一般の酒造工場では、新酒は大体4月中には火入れも終わり、それ以後、気温の上昇とともに熟成する.火入時期の遅れ、貯蔵条件の不良などの原因により、秋になって味がダレたり、過熟に陥ったりする場合がある.このことを秋落ちするといい、その他新酒でアミノ酸の多い酒、phの高い酒は熟成が早くて秋落ちしやすく、軟水で仕込まれた淡麗酒も秋落ちしやすいといわれている.逆に秋になって、香味が整い味もまるくなって酒質が向上してくることを秋上(あきあ)がりするとか秋晴れするという.硬水、クロールの多い水で仕込まれ、強い健全発酵をした酒は、新酒時に多少風味のあらい酒であっても秋上がりするといわれている.(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)


平成十三年の全国新酒鑑評会
ところで制度の変わった平成十三年では、その審査に参加した蔵元によれば、当日の室温があまりにも暖かく高かったと感じた、という声を複数の人たちから耳にした。私もその一般公開には列席し入賞酒の多くを試してみたのだが、審査時点での右のようなこともあってか、<こんな酒がよく金賞を取れたなあ>と疑問に思える一方で、<この酒がどうして落ちたのか>など、これまでの一般公開に感じた以上に多かったのである。そこで記者会見の席で、私は審査時の品温についてどんな様子だったのかを質問したが、はっきりとした答えはなかった。<審査が結審しされてから一般公開されるまでには日数を経過しているから品質が変化するのは仕方なかろうが、このような温度管理の様子が続くようなら参考にならないなあ。>私はそれまでの長年にわたる一般公開への参加を平成十四年に初めて欠席した。するとどうだ。平成十四年の審査に参加した二、三の蔵元から、「今回は品温管理の点など申し分なかった」というのを耳にした。さきの記者会見での私の具申が少しはきいたのかと思えば気持ちもおさまる。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)


ダルマ、ニッカ、サントリー
慣例といえば、毎年、国家予算成立のたびに予算総金額の語呂(ごろ)合わせをとくとくとして発表するほうもするほうだが、あんなくだらない駄洒落(だじやれ)をおもしろがって紹介するほうも紹介するほうである。解散の命名にしても、予算の語呂合わせにしても、あれは一種のユーモアであって、日本の政治にはユーモアが欠けている。イギリスの議会を見ろ、という反論が返ってきそうだが、あんなものをユーモアだといわれては、ユーモアがかわいそうである。イギリスの議会における応酬ぶりを仄聞(そくぶん)するに、高級な精神作用としてのユーモアが、議論の潤滑油の役割を果たしている。一国の政権政党の総裁を選出する選挙に、やれ「ダルマ」だの「ニッカ」だの「サントリー」だのと、ばらまかれた金額をウィスキーになぞらえてみせたりするのが、ユーモアなんかであってたまるものか。政界特有のきたない疑似ユーモアを、おもしろがって書きたてることは、政治家に対するお追従(ついしよう)であり、もっと極端なことをいえば、ニッカだ、ダルマだ、と書くことによって、不浄の金を洗うことに一役買うような結果になっている。程度の低い"政界ユーモア語"を、いっさい無視するのがマスコミの見識というものではないのか。無視するということは、事実に目をつぶることを意味しない。くどいようだが、政治家のことばを、かたぎのことばに翻訳した上で、事実を正確に伝えてこそ報道の名に値する。(「日本語八ツ当り」 江國滋)


酒を基語とする熟語(7)
酒竜(シユリヨウ) 大酒飲み[陸亀蒙「自遺詩」]
酒帘(シユレン) 酒屋の目じるしの旗。[李中「江辺吟詩」]
酒盌(シユエン) 酒を盛るわん。[「南史」王琨伝]
傾酒(ケイシユ) 酒を飲むこと。[李白「贈崔秋浦詩」]
呼酒(コシユ) 酒の催促。[宋伯仁「詩」](「日本の酒文化総合辞典」 荻生待也)


四十過ぎて
四十四、五歳を過ぎたある日、突然に飲めるようになって、おれも人並になったと思った。酒の味はいっこうにわからないけれど、お酒のおかげで、もう一つの、天国と地獄が共存する世界がひらけたようである。そこは別世界であり、お勘定をとらない酒場がたくさんある異次元の世界みたいで、そういう店をぐるぐるまわっているうちに、はっと気がついたときは、地下の酒場の、鼻は少々低いが美しい女から、「もうイヤ、帰ンなさい」とつまみだされていたりする。そうして、四、五年前とは似ても似つかぬわが身に愕然(がくぜん)とするのであるが、それは一瞬のことであり、しかも夜は長いし、誰かに連れられて、こんどはひっそりした二階の酒場で、水割りなんかを一杯いただいたあと、タクシーを拾い、つぎに気がついたときは、運転手に、帰りの高速代を取っておいてなんて、シラフのときはけっして言わないことを言っちゃって、勘定を払い、翌朝、目がさめたときは、猛烈な宿酔(ふつかよい)と後悔に悩んでいる。金曜日の夜は、まあ、いつもこんな調子で。あいつは四十過ぎて、酒を飲みはじめたんで、飲み方を知らないんだよ、と私に半ば呆れ、半ば同情して言った人がいる。まったくそのとおりで、ほんとにいい年齢をして、と実は酒を飲む前からもう反省しております。(「酒との出逢い 衝撃的な出逢い」 常盤新平)


【第一一九回 昭和六一年四月一八日】
*出羽桜(山形)特集 *ゲスト 出羽桜酒造㈱取締役 仲野益美さん
この酒とは突然巡り会い、その香気の高さとリーズナブルな値段に驚かされた。前社長仲野醇一さんは「できるだけ安く吟醸酒を飲んでもらいたい。だからウチの商品は標準瓶を使い意匠も簡単にしている」と語っていたのが印象に残る。吟醸市場は都市部からしか燃え上がらないと思っていたのに、山形からそれを興した経緯は称賛に値する。この蔵の常務仲野恭一さんがマンツーマンで吟醸ファンを拡げていったのではないかと思っている。そのお人柄、努力には見習うものが多い。たしかこの年大学を出たばかりの仲野益美さん(現社長)と醇一さん、長野の真澄の宮坂和宏・直孝さんとの座談会を密かに開き、その記録を持っているのだが未発表のままである。(「「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎)


手造酒法
十返舎一九は『手造酒法』という本を書いているが、そこに菊の花や焼酎を使った薬用酒の造り方が見える。「一、白夏菊花五升 一、上白餅米五升 一、白糀(麹)八升 一、しやうちう一斗二升 右米を常の如く蒸して酒ともみ合せ桶の底に一重置き、その上に菊をひとえおき、だんだん右の如くして押付け、焼酒を入れ桶のふたすかぬやうによく張、三十日程過ぎてよくこしてよし」とある。(「銘酒誕生」 小泉武夫)


何んだ、汚ねえ部屋だな、座敷はないのか。座敷は、と卓袱台の前に坐って、はじめて女中さんの顔を見たが、どんな顔をしていたか覚えていない。 小林秀雄 『栗の木』(講談社文芸文庫)所収「失敗」より-
で、とある晩のこと。東京から遅い列車で帰って来て、さらに小料理で飲んで、さて、店を出たのは、午前二時くらいのことか。連れ合いは従弟、この人もへべれけである。そこで、オレにまかせろと、覚えのある待合へ向かうが、起きないし、いつも超えている門を超える勇気も出ないほど酔っているので、また別の店もあろうかと、どこぞの勝手口をどんどん叩いて、木戸が開いたらすぐさまその家へ上がり込んだ。それがどうやら、茶の間らしいのだが、なにしろ酔っていて、よくわからない。と、ここで、出たのが冒頭の言葉。汚ねえ部屋だな、は、いくらなんでもなご挨拶だ。しかしながら、酔漢ふたりはお構いなしで、遅くなってすまねえ、つまみなんざ要らねえから酒を頼むよ、かなんか言って、まだ飲むというのだから、なかなかの酒豪ぶり。けれど、あれ、おかしいぞ、と、思いつく。女中と書生と思っていたふたりが、さて、本当にそうか、と思えてくる。
 念の為に、こゝは待合さんなんだろうねときくと、冗談じゃない、私達は別荘の留守をしているのだと言う。これには驚いた。
驚いたのは、深夜二時過ぎにたたき起こされ、怒鳴られて酒まで出した、お留守番のふたりのほうだ。さすがに酔漢もここは素直に謝ることにしたらしい。そうして、翌日改めてお詫びに伺うつもりでいたが、さて、どこだったかが、わからない。どうやって家に着いたか、それも定かでないほどで、酔って、思いつくまま勝手口を叩いたという記憶があるだけで、どの家であったか、辿りなおすことできない。相手はその後も、狭い土地の行き来の中で、自分を見ているかもしれないが、こっちでは、どこの家だか、手がかりがない。さて、どうしたか。すぱっと諦めたのである。いわく、
 致し方ない事である。
恥ずかしいとか申し訳ないとか、言わないところが、またシブい。(「酔っぱらいに贈る言葉」 大竹聡)


いい酒
いま私たちにとって、入手困難なんて酒はめったにない。ほしいものはなんでも手に入り、胃の腑に流し込める。心配なのはコレステロールだったり、血糖値だったりする。思えば贅沢になったものだと思う。だが、そのかわりに酒への感動も喜びも減少したのではあるまいか。酒を楽しむ心が摩滅しかけていはしないか。いい酒とは、銘柄ではなしに、やはり酒の心だと、いましみじみ実感するのである。(「いい酒 いい友 いい人生」 加藤康一)


ひとり呑み
最初のうちは、ひとりでの飲み方にも慣れていないので、なにしろ間が持たない。ひたすら飲んだり食べたりする他はすることもなくて、とても楽しむなんて心の余裕はありません。そんなことを何度か繰り返しているうちに、あるとき「そうか。何もしなければいいんだ」という、あたり前のような簡単なことに気がついた。まさに温泉につかるのと同じで、どっぷりと酒場の雰囲気につかればいいのです。気づいてからは、酒にも料理にも、時どき手を伸ばしながら、のーんびりと時を過ごすことができるようになってきました。そうやって心に余裕ができてくると、他のお客さんたちの会話も心地よく耳に響いてきたり、カウンターの中で調理が進んでいる様子を見ているだけでも楽しかったり、壁にずらりと並んだメニューをながめながら「いったいどんな料理なんだろうなぁ」と想像してみたりと、ますますのーんびりと過ごすことができるようになってきたのです。まさに「くつろぎの好循環スパイラル」といった感じです。(「ひとり呑み」 原田信郎)


トロリとした粘稠性がある濃醇酒
さてここまで述べた飛鳥、奈良、平安時代の酒の最大の特徴は、甘味が強く、トロリとした粘稠性がある濃醇酒であったことで、今の日本酒とは大きく性状と風味を異にするものであった-
そのような濃醇な酒が、上流階級が嗜んだとはいえ、液体発酵というよりはむしろ固体発酵に近い酒造りであったのは一体何故だったのだろうか。-
まず、当時は「液体としての酒」と「固体としての酒」(粕)の両方を「酒」として位置づけていたということである。今日では、酒粕は酒税法でも酒類の範疇に入れていないが、当時は粕(糟)とて米から生まれた酒であり、手に持つことのできる酒であった。だからこそ、多くの酒を造り分けている中で、糟という字の入った酒があったのではなかったか.。粕も酒であったから酒化率など問題ではなく、濾して澄酒を飲み、残った粕はそのまま食べたり、または軽く焙(あぶ)って間食にしたり、湯に溶かして甘酒のようにして飲んでいたのだろう。見方によっては「飲む酒」と「食べる酒」があったともいえ、まことに面白いことだ。当時、酒は官位や職階によって造り分けられていたので、必然的に濃厚な酒、液体の酒は上位に、粕主体の固体の酒は下位に配られなければならなかったのだろう。すなわち階級制が一つの理由であったのかもしれない。濃醇な酒が必要であった第二の理由は、酒を造っている間および出来上がって飲まれるまでの間に、大切な酒が腐ってしまってはどうしようもないので、その対策のためではなかったのだろうか、ということである。-
第三の理由として考えられるのは、日常生活において、酒が糖材の一部として使われていたのではないかという点である。(「日本酒の世界」 小泉武夫)


戦後の阿佐ヶ谷会
火野葦平は昭和二十七年六月に入会している。そのときは大田区池上に住んでいたが、翌年三月には阿佐ヶ谷に家を建て移り住んだ。その挨拶もかねて、ぜひ火野邸で「阿佐ヶ谷会」を開かせてくれと申し出たという。これまではいつも青柳邸だったわけだが、その一回だけは火野の鈍魚庵で催された。とにかく派手ずきの火野である。フグを九州から取り寄せ、料理人つきで大盤ぶるまいをした。が、フグ料理が怖かったか、井伏鱒二、伊藤整、上林暁は定刻より三十分ほど遅れて来たという。火野において怪訝だったのは、会がなんとも静かなことであった。九州ではみんな騒いで飲むのに、この会はどうしてこんなに静かなのだろう、としきりに言っていたという。そして一人で蛮声を張りあげ、お得意の「ころがせころがせビール樽」などを歌っていた。しかし、「阿佐ヶ谷会」は火野の好みのようにはならず、やはり静かな飲み会であった。会場も以後は青柳邸にもどされて、いわば古陶で酒を楽しむ会となった。といって、座興がまったくなかったわけではない。火野が歌えば、それにつられて巖谷大四は、「ポクポク仔馬の肥っちょさん」とうたったという。それに調子を合わせて、外村繁が「よう、ポン、ポン」と、頬を膨らまして鼓代わりにたたいた。中野好夫や河盛好蔵らも流行歌などをうたう、といった肩のこらない会であった。(「阿佐ヶ谷界隈」 村上護)


六号酵母
秋田市の新政酒造といえば、嘉永五年(一八五二)の創業というから県内でも古い方だ。四代目佐藤卯兵衛氏の時に世に知られるようになったが、そのきっかけは、大正十三年の第九回全国清酒品評会での一等入賞。「新政」の独特の芳香が審査員の注目を集めた。四代目卯兵衛は大坂高工醸造科卒。酒造りのすべてを指揮した人だ。卯兵衛は、その秘密が新政酒造の蔵に自然にある酵母のためではないかと考えた。そして昭和五年、醸造試験場の小穴富雄技師が、もろみの中から"新政酵母"の培養に成功した。これが同十年、日本醸造協会から「六号酵母」として売り出されると全国の酒造業者が争って買い求め、「品評会に出すには、六郷酵母でなければ」とまでいわれた。(「あきた雑学ノート」 読売新聞秋田支局編)


荒れ狂った禁断症状  作家・俳優 G・チャップマン
クリスマスの翌日は酒をいっさい飲まず、じっとベッドに寝ていた。前夜もいつもほどは飲まなかったから、すぐに禁断症状が出て、三日間続いた。私の全人生のなかで最もつらい経験だった。苦痛もひどかったが、それ以上に自分の体が思うようにならないのがひどくこたえた。震えが激しく、何者かが襲いかかってくるような、真に迫った幻覚や幻聴にみまわれた。私が動くと、目の前にあるものも動いて突進してくる。あらゆるものが私に敵意をみせて飛び上がっては殴りかかってくるかようだ。眠っていたのか、眠ったまま夢を見ているのかもはっきりしなかった。眠りこんでしまえば、多分まわりのこの恐ろしいありさまから逃れられるだろう。それともこれは夢なのか。なにもかもわからなくなっていた。冷や汗をかき、体中を蟻が這いまわっているみたいに皮膚がぞくぞくした。病院へ行って治そうと考えたこともあった。以前にも二、三度禁酒したが、そのときは酒をやめやすいよう薬を処方してもらった。禁酒が続かなかったのは簡単にやめられたからだと、心のどこかで考えていたようだ。今度は薬を使うつもりはまったくなかった。この方法をとったのは、ずっと以前ヘロイン中毒だった友人を持ったせいだと思う。私は彼の中毒を治そうとした。だが結局、私にできたのは正しい注射の仕方を教え、清潔な注射針と使い捨て注射器を与えることだった。ところがドイツへ出張したとき、雇い主は彼の中毒に気づき、一定期間、彼を隔離してまったくヘロインを与えなかった。この治療法は効果をあげ、以後彼は立ち直ったのである。この友人はイギリスでごくありふれた治療を受け、メタドンをかわりに使っていたのだが、結局やめきれなかった。治療といったって、その程度だ。だから今回は手助けはいっさいなし、おかげで私の体がどうなっていたのか、しっかりこの目で見きわめられた。禁断症状が荒れ狂った三日間の物すごさは、私の予想をはるかに超えていた。なかでも精神状態が混乱する、見当識障害という症状が一番つらかった。生まれて初めての経験である。耐え抜かなければならないと、わかってはいたのだが、それでも怖かった。三日目に、やっと心身ともにすっきりして目がさめた。震えもおさまっている。服もちゃんと着られた。なにしろこの三日間、なんであれ身につけると思っただけで、ぞっとしたのだ。起き上がって服装をきちんと整えると、まるで世界を征服したような気分になった。とうとうやったのだ。さっそく友人を何人か招んだ。お祝いに一杯おごろう、もちろん自分はトニックウォーターを飲む。その後なにが起こったのか、いまだにはっきりしないが、おぼろげな記憶では、皆に飲み物を注いでいるときに暖炉の上のクリスマスカードをひっくりかえしてしまい、それを直そうとしていたとき、また震えがきた。私は必死になって、この単純な作業に集中しようとした。友人たちが生まれ変わったグレアムにじっと注目していたからである。突然私はひきつけを起こし、卒倒した。軽いてんかんの発作だった。キースも以前起こしたことがある。失禁もしたらしい。気がついたときは、救急車の中だった。三日間なにも食べなかったこともあって、血糖値が下がり、血液中のグリコース異常減少症による軽い発作が起きたのだ。一見びっくりするできごとではあったが、禁断症状の予後としては、むしろよい兆候だともいえた。私は震えあがり、二度とふたたび酒には近づくまいという決意を新たにした。本当に怖かった。頭のなかを「俺は死ぬんだ」という思いがよぎった。そうじゃないわかったときには、心の底からほっとした。「もう少しで」死ぬところだったと思った。実際にはそれほどでもなかったのだが、この事件は私を死ぬほど震えあがらせた。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー サイマル・アカデミー翻訳科訳)


(21)日本語と酒のおかげです-臼井吉見氏-[74.11 73]
「わたしが生き残れたのは、日本語と酒のおかげです」というのは-。戦争末期に、陸軍少尉として応召、ある日、将校の宴会で、したたか酔い、連隊の指針である「積極的任務の遂行」という字句に対して、「こんな日本語あるか」連隊長いわく「いいにくいことをよくいってくれた」。そして翌日「任務の積極的遂行」に訂正。気に入られて側近に、そしてサイパンゆきを免れた。(「朝日新聞」74年9月25日朝3「ひと」欄(克))(「ことばのくずかご」 見坊豪紀)


杖頭銭(じやうとうのせんにゑんす)  百の銭をいふ。其磧(絵本譬草)一升樽と百の銭に手が附ばその儘みなになることはやし。(雑文穿袋)一杖頭は百文なり。二杖頭は二百文なり。委は儒者の(小遣帳)に出。
一升匏有一升貧(いつしようのふくべはいつしようのひんあり) 百貫裸無百貫人(ひやくくはんのはだかにひやくくはんのひとなし) 能向店前幾回酔(よくみせさきにむかつていくたびかゑはん) 先沽古酒新(まづこしゆをかつてしんをじすることなかれ)
(諺草)一升いるふくべは一升いる。 (又)男は裸百貫と云々。 古酒と新酒に七分三分の割やうありと折助が口伝なり。(万葉集)大宰帥大伴が歌に、しるしなき物を思はずはひとつきの濁れる酒を飲べくあらしといへるも此詩と同腹中なり。(「通詩選諺解」 大田南畝)


巡盃
式三献にみられるような一つの盃が巡る作法が、前近代における儀礼的な酒の飲み方であった。その目的はいろいろある。桃山時代のロドリゲスの『日本教会史』の記事を引用しよう。ロドリゲスは日本人でないがために、かえって当時の人びとからみれば当たり前のことを省略せずに記録してくれているところがありがたい。曰く、  日本人の間で、第一のしかも主要な礼法であり、内心の愛情と友情のしるしとなるのは盃の事である。それはたがいの心を一つに結びつけるしるしであり、また二つの魂を一つにするしるしとして、同じ盃でたがいに飲み交わすものである。  とあり、巡盃の目的を五つにわけて説明している。第一は礼法と友情のしるしである。したがって、相手が飲んだ盃が巡ってきたとき、これを受けなければ、それは敵意をもっているとか、交際したくない気持ちの表現として受け取られる。逆に仇どうしが巡盃すれば、それは和解の意味となる。第二の目的は仲間どうしで陰謀をたくらんだり、同盟を結んだり、忠誠をたがいに誓う場合で、指を刺して取った血を数滴加えた酒を巡盃して飲む。第三は祝事における喜びの表現である。第四は別れの盃で、遠方へ旅だつ人と盃を巡らせる。第五は死に際した盃。ことに非業の死の場合は、親族・友人と別れの盃をかわして挨拶とする。そしてロドリゲスはまとめとして次のように述べた。「最後には、あらゆる円満解決と人間の結束には必ず酒が用いられる」。この酒の機能は儀礼としてのそれか、社交としての機能か分けることはできない。儀礼の上でそうした機能をもつが故に、社交においても同様の機能が酒に期待されるのであろう。(「酒と社交」 熊倉功夫)


ものはとりよう
この物語は唐の明皇(めいこう)の時代に起こったことで、唐代の高懌(こうえき 注三三)の『群居解頤(ぐんきよかいい)』に、次のように述べている。 秘書監の賀知章(がちしよう 注三四)は、引退して呉の国に帰ることになった。明皇は賀知章を重んじてつねに優遇していた。賀知章は、明皇にいとまごいをする時、涙を流して泣いた。明皇は「何か欲しいものがあるか?」とたずねた。賀知章は「わたしにはひとり息子がおりますが、まだ定まった名前がありません。陛下が名前をおつけ下されば非常な光栄で、郷里へのなによりの土産(みやげ)です」と答えた。明皇は言った。「道を行なう要訣は信に及ぶものはない。孚(ふ(まこと))は信である。信を実行するには考え方が素直でなくてはいけない。そなたの子は必ず信順の人であろう。孚と名付けるのが適当であろう」賀知章は再拝してその名前を頂戴した。しばらくたってから人に語って言うには「陛下はなんという意地の悪い冗談をおっしゃるのだろう。わしは呉人で、孚という字は瓜の下に子という字を書く、これではわしの息子を瓜子(かし 西瓜の種)と呼んでいるようなものじゃないか?」と。賀知章のようなインテリでありながら、これではあまりに疑い深い。みずからを"四明狂客"と号したこの大文学者は、生活にしまりがなく、しばしば大酒を飲んで楽しみ、急に歌いだしたり、急に泣き出したりして、当時"飲中の八仙"の一人に数えられていた。おそらくかれは、平常酒を飲みすぎてアルコール中毒になり、精神が少し正常でなかったので、性質がひねくれて、疑い深くなっていたのであろう。
三三 高懌(一〇〇頁) 宋の人。経史百科に通じ、招かれて京兆府学に講義し、聴講者常に数百に達したという。仁宗の時、安素処士の号を賜った。 三四 賀知章(一〇〇頁) 唐の詩人(六五九-七四四年)。飄逸放胆、自ら四明狂客と号し、杜甫の飲中八仙詩の第一に歌われている。文辞と草隷書に巧みであった。(「燕山夜話」 鄧拓 毎日新聞社訳編)


アワビの刺身
アワビの下ごしらえ ①アワビの身にたっぷり塩をふりかけ、口の部分に庖丁を入れる。 ②殻のとがったほうに口がある。V字型に切り目を入れる。口の部分を庖丁の先で引き出す。 ③たわしでこすって汚れやぬめりを取る。 ④ヒラヒラした黒い部分の下も、たわしでていねいにこする。 ⑤殻の薄いほうから、殻と身の間に、おろし金の柄を差し込む。 ⑥差し込んで、すくい上げるようにして力を入れ、一気にはずす。 ⑦手で殻の際をなぞるようにして、殻とキモをはずす。 ⑧周りのヒラヒラした黒い部分を切り取る。 ⑨身の裏側についているワタを取り除く。
作り方 ①写真のようにして取り出したアワビを薄切りにする。 ②アワビの殻につまをあしらい、アワビを盛りつける。
材料 アワビ…1個 つま各種…適量 わさび…適量
このつまみに、この一本 清泉きよいずみ 特別純米/新潟 日本酒度…+4 酸度…1.6 価格…2621(1.8ℓ)
●アワビの刺身には、透明感と旨味のある酒「清泉」。主役のあわびを出しぬくことなく、脇役として、抜群のさえをみせる。漫画「夏子の酒」のモデルとなった蔵元の作。(花ふぶき)(「新・日本酒の愉しみ」 堀部泰憲編集人)


モーノマン[名詞]
禁酒。禁煙。もう飲まんと誓うから。英語もどきにした遊びのことば。◇『モダン語漫画辞典』(1931年)<中山由五郎>「モーノマン 『禁酒』。もう今後一切飲まん」◇『社会ユーモア・モダン語辞典』(1932年)<社会ユーモア研究会>「モーノマン 禁酒のこと」


使い捨てカイロ、ドライヤー
そんな使い捨てカイロが、実は二日酔いを防ぐためのスペシャルアイテムとしても、素晴らしい効力を発揮する、といううわさが存在する。お酒を飲んでいる最中、あるいは飲んで帰宅するまでの間に、使い捨てカイロを当てて肝臓のあたりを温めてやると、肝機能が高まって、翌朝二日酔いにならなくなるというのだ。果たしてこれは本当なのだろうか?結論から先にいってしまうと、これが意外や意外、本当なのである。東洋医学では、体のあちこちに存在する経穴を温める目的で「お灸」という治療が行われるが、まさにこの「お灸」と同じ効果を、使い捨てカイロによってもたらすことができるのである。ただし、温めるのは経穴であって、肝臓そのものではないのでご注意を。肝機能を高めるための経穴は、期門(きもん)、日月(じつげつ)、章門(しょうもん)などといって、いずれも肋骨の下あたりに存在する。素人にはなかなか正確な位置をつかむことは難しいが、それも使い捨てカイロならば問題ない。「だいたいこの辺かな」という当たりを付けて、おへその横の部分全体を覆うようにして当ててやればよいのだ。ちなみに、温めることさえできれば、道具は何も使い捨てカイロでなくてもかまわない。例えば飲みすぎた次の日の朝、まだアルコールが体に残っているなと感じたら、髪をセットしたついでに、二、三分間、ツボのあたりにドライヤーを当ててみる。あまりやりすぎるとやけどをしてしまうことになりかねないが、ほどよく行えば、これでも充分に確かな効果が実感できるのだとか。(「二日酔いの特効薬のウソ、ホント。」 中山健児監修)


上野尼御前御返事
後者(上野尼御前御返事)には、   去文永十一年六月十七日、この山(身延山)に入候て今年十二月八日にいたるまで、此の山、出る事一歩も候はず。ただし八年が間、やせやまい(痩病)と申し、とし(齢)と申し、としどし(年年)に身ゆわ(弱)く、心をぼ(耄)れ候つるほどに、今年は春よりこのやまいをこりて、秋すぎ冬にいたるまで、日々にをとろへ、夜々にまさり候つるが、この十余日は、すでに食もほとをど(殆)とどまりて候上、ゆき(雪)はかさなり、かん(寒)はせめ候。身のひゆる事石のごとし、胸のつめたき事氷のごとし。しかるにこのさけ(酒)はたたか(温)にさしわかして、かつかうをはたとくい(喰)切て、一度のみて候へば、火を胸にたくがごとし、ゆ(湯)に入ににたり。汗(あせ)にあか(垢)あらい、しづく(雫)に足をすゝぐ。此御志ざしはいかんせんとうれしくをもひ候   と、飲酒によって食欲をとりもどし寒気を防ぎ得た喜びが綴(つづ)られている。(「日蓮と飲酒」 今成元昭) 日蓮60歳の時の手紙です。


居酒屋風景
酒を量り売りする酒屋の店先で、枡(ます)で立ち飲みするときは、空き樽(あきだる)があれば腰を下ろす程度であったが、煮売り居酒屋などでは、店内に空樽の上に板を渡しただけの簡単な腰掛か、長椅子のような床几(しょうぎ)があり、客はそこに斜めに腰をおろし、片足だけを胡座(あぐら)をかくようにした。その姿が、神社の随身門(ずいじんもん)のなかで矢大臣(やだいじん)の格好に似ているため、こういう客を矢大臣と呼ぶようになり、やがて居酒屋自体を矢大臣と呼ぶようになる。居酒屋での料理は、脚のないお盆状の折敷(おしき)で供され、その酒肴(しゅこう)を横に置いて一杯やる。これが江戸っ子の粋な姿として定着していった。小上がりの入れ込み座敷で胡座を組んで飲む客もいるが、折敷は膝の前に置き、座布団はない。テレビ時代劇の居酒屋では、現在の蕎麦屋にあるような木製テーブルがあり、腰掛にかけて飲食しているが、居酒屋の土間にテーブルを置き、酒樽に腰かけるようになるのは明治時代に入ってからである。酒場で椅子が一般的になったのは大正時代のカフェの登場まで待たねばならない。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資編著)


御酒を賜わる
(文久四年正月)●三日-
[上欄]此夜、御陸行申上し各々、又、議論して云う。御船行甚だ危し、速かに御陸行然るべしと。御側衆、大いに困却せらる。勢甚だ、盛んなり。終に 上聞に達す。(徳川家茂)仰せに云う。今更陸行すべからず、且、海上の事は海軍艦奉行(勝海舟)あり。我も又その者の意に任かす。他決して異議あるべからずと。此一言にて衆議悉く止む。小臣(勝)涕泣して 上意の忝きに感激す。-
仰せに云う。決して今日出帆すべし、如何、汝(勝)が決に随うべしと。臣 英慮断然たるに驚喜す。直ちに火を燃して蒸気を試ましむ。五時抜錨して去る。夕、六時迄、風起なし。此時、尾張内海よりして雨雲四起、風随って起る甚だしく、船頭安乗(あのり 志摩市)の篝(かがり)を見る。臣大桅上に登ってその方向を案ず。雨風船後にあり遠洋暗黒、浪高く海上浪の光を見る。もし、英断遅々せば危うからむ。臣も又如何とも成すべからず。安乗よりは紀海に沿て航す。此機に乗じ、夜中航せば如何の 上意あり。衆幷(なら)びに乗組士官も又此機を云う者喋々たり。終に 御前にて此旨 仰せあり。臣謹んで云う。遠洋、異なく御渡海済ませられしは、上の御英断あらざれば、臣此機に乗ずる事能わず。夜中の航海、万々危険の恐れなしといえども、諸士皆今日の御無異、安静を悦び、大いに胆落の気味あり。願わく[は]明早朝を待って航すべくか。利を得て飽かざる時は、害不測に生ぜん。まげて微臣の懇願に任かせられむ事をと。 上意、頗る御喜悦の旨なり。御酒を賜わる。衆人安眠中、紀海に到らむという者、猶頗る多し。我かつて動ぜず。これ等の事ども 上意明察にあらざれば、御採用もっとも難き処なり。英明仰ぐべき事共なり。(「海舟日記」 勝海舟 勝部真長等編)


奈良漬
九重の みけに供へし うま酒の 粕に漬けたる 瓜ぞたふとき
漬物の 瓜の緑に 吟醸の 粕のかをりぞ ただよひにける
はぎれよき 瓜の漬物 わがをせば 酒のまずとも 酔ひ心地すれ
吟醸の 香りにわれは むせびけり 心つくしの 漬物をせば(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎)


代り目 かわりめ
「コウ吉や、鰹を一本貰つたから、一気にひきみんたんとくらはした。アノシタガ、冷であをるも冴えねえやつだ。そばやへでも持つて行つて、ちよびと燗をして来やな、冬ならば徳利の尻をすぐに焼かうといふ場だ、いめへましい、いゝ畜生だぜ」ともくろんでいる表へ「京都烏丸本家枇杷葉湯、第一に暑気払、頭痛と眩暈、霍乱(かくらん)」などと呼んでくると「オイ/\枇杷公/\一寸来さつし」「ハイ/\煎湯を差し上げますかな」「インニヤ、おらア薬はいやだ。その七輪の湯の中へこのちろりを突込んで燗をしてくんねえ。一生の頼みだ」といはれて薬売も肝をつぶし、どうか中ツ腹でもきめさうな男だから、よんどころなく燗をして足早に過ぎると、吉が女房、八百屋から帰つて来て「オヤお前、酒の燗をどこでしなすつた」「ウゝ今の枇杷葉湯を頼んでしてもたつたア。ナント、よつぽど気の利いたもんだらう」「オヤ/\お前もマアとんだ気の毒なことをしなさる。そして薬でも買ひなすつたか」「インニヤ」「ヤレ/\気の毒な、薬を買ひなさりやアいゝに。ドレ、おれが呼戻して買つてやらう。オイ/\枇杷葉湯よ/\、コレサ薬屋さん/\」と息を切つて呼べども、薬売はさらぬ顔をしてサツ/\と行くゆへ、通りの人が気の毒がつて「コレ薬屋どん、後で呼ぶぜえ。聾か、たゞしは売らねえのか」といはれて、よんどころなく振返り「いめへましい、又銚子の代り目だらう」(福三笑・文化九・枇杷葉湯) 【類話】乗合船(違ひなし巻四・寛政九) 【語釈】〇ひきみんたん=引取るの通言。 〇枇杷葉湯=枇杷の葉に肉桂や甘茶などの細切りをまぜ合わせた煎汁。 【観賞】落語「代り目」の原話で、いかにも商人泣かせの飲み助の気性がよく出ている。実際の笑話かもしれない。-(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)

人の心の表裏は付け焼きの油揚げより見分からぬもの
人の心はどれが本心(裏)でどれが見せかけ(表)か見ただけでは分からないものであるが、その程度は、しょう油などを付けて焼いた、豆腐の揚げたのよりもはなはだしい。『饗庭篁村(あえばこうそん)集』の「面目玉」に、<人の心の表裏は付焼の油揚より見分からぬものなり。(略)飲酒の毒を説くもの、泥酔家(のたまく)にして、衛生がる人、存外に不潔不養生をなし、>とある。(「飲食事辞典」 白石大二)


日高見 ひたかみ 平井孝浩さん 平孝酒造(宮城県石巻市) 5代目蔵元
昭和37(1962)年、4代目長男として生まれる。東北学院大学経済学部卒業後、東京の食品総合問屋に勤めたのち家業に就くが、売り上げは減少。(独)種類総合研究所で学んだ上で、現場に入り、平成2年に「新関」に加え、「日高見」を立ち上げた。平成15年に社長に就任。経営と製造を統括する自称"ゼネラルマネージャー"。 ●語録「日本酒造りは日本が誇る伝統であり、酒蔵は地域産業と文化の象徴です。なにがあっても酒蔵の明かりは消してはならない」「町の歴史を語り継ぐのは蔵元の務め」 ♠最も自分らしい酒 「日高見 純米吟醸 芳醇辛口 弥助」 蔵の華 精米歩合50% 著者コメント:弥助は歌舞木に由来する寿司の隠語。寿司との究極の相性をめざし3年かけて開発したきりりと締まった端正な新製品。超辛口純米酒のぬる燗が抜群なだけに、平井さんの思いを受け止め、今後さらに期待。 ♥著者の視点 "寿司王子"として知られるお洒落な男前。廃業の危機と大震災を乗り越えてきた不屈の精神の持ち主だ。寿司との相性をつきとめようと全国の著名寿司店を行脚。酒質と人柄を認められ、超辛純米酒を常備する店がクチコミで増えていったころ、東日本大震災で津波の被害にあう。生き残った酒に「絶対負けない石巻 希望の光」と名付け、売り上げの一部を地元に寄付。全面改装して、より上質な酒をめざす姿勢を支持するファンの輪が広がっている。(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子)


梅見 うめみ 観梅
一、二月ごろ百花にさきがけて開く梅は、古くから観賞用として栽培され、高い香気が賞美せられる。種類・土地によって、開花期を異にするが、開きはじめてから満開までの期間が長く、梅の名所は観梅客で賑う。関東では二月末から三月上旬までが見ごろなので、観梅臨時列車も運転される。-
脂粉なく 父をねぎらふ 梅見酒  伊藤利恵子-
曲水 きょくすい 曲水(きよくすい)の宴(えん) 曲水(ごくすい) 流觴(りうしやう) 盃流(さかづきなが)し
三月三日に、庭園内の小さな流れに杯を浮かべて、上から杯が流れてくるまでに詩を賦し、もし詩が出来なければ罰杯を飲むという。中世の宮廷、貴族階級の間の風流の行事。その後廃絶して久しくたったが、現在では観光化されて行われているところがある。
曲水や 草に置きたる 小盃  高浜虚子
はしり書する 曲水の 懐紙かな  松瀬青々
流觴の 鳥ともならず 行方かな  飯田蛇笏
曲水の 遊びもありし あととのみ  阿部小壺(「合本俳句歳時記新版」 角川書店編)


晩酌の開始
私が自分で晩酌を始めたのは、大学卒業の翌年から結婚まで、一年余り下宿した洛北田中村の農家の老婆に勧められたからである。私は学生時代、酒を飲むことを下宿の人に知られるのがいやで、空罎なんかも、こつそり藪の中に捨てた。外で飲んでも、家の前まで来ると、務めて平静にして、さりげなく自室に這入つた。ところが此農家の離座敷を借りてから、私も既に一人前の文学士であり、それに此家の老婆が飲める口なので、酒飲みの心理を解してゐたらしく、私に勧めて小さい樽を据ゑさせ、毎夕二本を度として燗を付けてくれた。時に私は数へ年の二十六歳であつたから、それから今日まで指折り数へて見れば四十八年間、名のつく病気の時以外は、曾て一夕も之を廃したことなく飲み続けてきたのである。(「中華飲酒詩選」 青木正児著)


酒造りの歌(3)
モトを造るのを武州川越ではモト取りといふ。「お江戸出てから板橋越えて」、返し「戸田の渡しを朝の間に」、「戸田の渡しで今朝見た島田」、返し「男泣かせの投島田」等の道中歌がある。兵庫の御影ではモト造りと云ふ。「めでた/\の若松様よ、枝も栄えて葉もしげる」、「めでた/\の重なる時は、鶴が御門に巣をかける」、「鶴は御門に巣をかけ遊ぶ、鶴はお庭で舞を舞ふ」。倉の中で櫂でかき廻しつゝ歌ふ。(「日本民謡辞典 酒造りの歌」 小寺融吉)


中国の酒茶論
酒が生活のなかで占める位置は時代とともにかわってきた。愛酒家のふるまいが時代をこえてかわらない不易なら、酒の社会的機能の変化は流行である。その変化を中世の「酒飯論」、桃山時代の「酒茶論」、近世の「酒餅論」の三態の中に見ることができる。この三つの論は、いずれも上戸と下戸の論争であり、場合によっては酒と茶あるいは餅との異類合戦譚である。日本の三態の前に、中国に『酒茶論』があった。晩唐の十世紀頃の戯文で、擬人化された茶と酒が争い、それをそばで聞いていた水が仲裁し、茶も酒も水なしにはできないことを述べて争いをおさめる、という話である。しかしその発見は二十世紀に入ってからで、敦煌からあらわれた資料の一部であるあるから、中国の影響で日本の酒茶論などが誕生したとはいえないので、今は除外しておく。(「酒と社交」 熊倉功夫)


鑑評会
この鑑評会を主催してきた国税庁醸造試験所は東京から広島へと移ったのを機に、国税庁醸造研究所と名称を変え、さらにその後、独立法人・酒類総合研究所と改称した。そして平成十三年(平成十二酒造年度)からはそれまで出品は許可制で無料だったものが、一点につき一万五七五〇円(税込み)を出せば自由に出品できることとなった。さらにその審査員の中に酒造業者、民間人も参加するようになった経緯がある。これまで鑑評会は権威あるものとされながらも、はじめから出品に背を向ける蔵元もないではなかった。灘の菊正宗や剣菱などは伝統的?に鑑評会拒否の姿勢であり、制度が変わってからは石川県の菊姫のように出品をやめたところや、十五年には同じ県の福正宗なども出品していない。ちなみに、後述する平成十五年(平成十四酒造年度)では、出品資格のある醸造所のうちの52%が出品していない。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)


利剣の悲哀
「きみは、このうえなく(父を殺した)黒卵を恨んでいるが、黒卵はきみをすっかりばかにしきっている。なにかいい考えでもあるのかい?」来丹は涙を流しながらこういった。「きみ、どうか僕に智慧を貸してはくれまいか」すると申他はこういうのだった。「衛(えい)の国の孔周という人の先祖は、殷(いん)の皇帝の宝剣を手に入れたという話だ。その剣というのは、ひとりの子供がそれを腰につければ、三軍の兵卒をも追いかえすということだ。なんでそれを借りに行かないのだ」とどのつまり、来丹は衛(えい)の国へ行って孔周に会い、下僕か御者の礼をとり、まず妻子を人質として受けとってもらってから、願いのすじを話した。すると孔周はこういうのであった。「わたしのところには剣が三ふりあります。あなたのお好きなのをお持ちください。もっとも、みな人を殺すことはできないのですよ。とにかく、まずその具合を説明しましょう。一つは含光(がんこう)という名前です。それは見ても見えず、振りまわしても、そこにあるのがわかりません。物に切りつけても全く手ごたえがなく、切られた物のほうでも、気がつかないというわけです。二番目は承影(しようえい)という名前です。夜が明けようとするときや、夕暮のほの暗いときに、北にむけてすかして見ると、ぼうっとして何か物があるように見えるのですが、その形はわかりません。物に切りつけると、かすかに音がするのですが、切られた物のほうでは痛くもかゆくもないのです。三番目は宵練(しようれん)といいます。昼間は影は見えますが光は見えず、夜は光は見えますが形は見えません。物に切りつけると、ばさっと音がして刃が通りすぎますが、通りすぎたあとはぴったりくっついております。痛みは感じますが、刃に血はつきません。この三つの宝物は十三代のあいだ伝わってきましたが、ものの役にたたないので、箱に入れてしまいこんだまま、まだ封を切ったこともないのですよ」すると来丹は、「おことばではございますが、ぜひ一番あとの剣をお貸しくださいまし」といった。そこで孔周はその妻子を返してやって、七日のあいだいっしょに斎戒し、夜の闇のなかで、ひざまずいてその一番あとの剣を授けてやった。来丹は再拝してそれを受けとって帰っていった。来丹はいよいよ剣をとって、黒卵をつけねらいはじめた。そして黒卵が酒に酔って窓の下に寝ていたときに、頸から腰までを三つに斬った。黒卵は目をさまさなかった。来丹は、黒卵は死んだと思って、走りでてきたところが、門のところで黒卵の子に出会った。そこで三べん斬りつけたが、まるで空を斬るような調子だった。すると黒卵の子は笑いながら、「お前はなにをふざけて、三度もおれにおいでおいでをするんだ?」といった。そこで来丹はその剣でひとを殺せないということがわかったので、嘆きながら帰っていった。やがて黒卵は目をさますと、その妻にむかって怒鳴りつけた。「おれが酔っているというのに、何もかけてくれもしないで!のどはへんになるし、腰はやたらずきずきするし!」すると、その子供もこういうのだった。「さっき来丹がやってきて、おれと門のところでぶっつかり、おれに三度おいでおいでをしやがったんだが、おれもやっぱりからだがへんになって、手足が利かん。さては、あいつ、おれにまじないをかけやがったな」(湯問篇)(「古代寓話文学集 列子篇」 後藤基巳訳者代表)


飲膳正要
元 天暦三 一三三〇 飲膳大医忽思慧『飲膳正要』を著す。
蒙古人の書いた唯一の食養生書で料理の記事は少ないが、全巻絵入りで、特に第三巻の食品の部では、採録食品全部に絵が入っており、当時の食品の理解に有用である。犬の絵は、蒙古犬の特長をよく出しており、沙吉木兒は絵があるのでカブと分かる。焼酒は阿刺吉(あらき)酒と出ており、これが焼酒の起源として長い間信じられてきた。『本草綱目』もこれを引用している。新中国では焼酒の起源に唐代説をとっているが、まだ定説ではない。例えば白楽天(七七二~八四六)の詩に「焼酒初めて開き、琥珀香ばし」、雍陶(八六四前後)の詩に「成都に到れば焼酒熟し」などの文学作品が唐代起源説の理由とされている。(「一衣帯水」 田中静一)


活性炭(かっせいたん)
活性炭は原料から分類すると、植物炭(鋸屑(のこくず)、木材、やしがら等)と動物炭(骨炭、血炭等)とに分けられるが、清酒に使用されるのは一般的に植物炭である.活性炭は色々な物質を吸着することから、酒類の脱色、香味の調整など清酒の生成および酒質の矯正に使用される.原料を炭化したまっ黒な粉末は、ほとんど純粋な炭素でそのままでは吸着力が小さいので、これを賦活(ふかつ)し多孔質で吸着力の大きな活性炭とする.賦活法にはガスによるものと、薬品によるものの二つがある.ガス賦活法の代表的なものは水蒸気法であり、薬品賦活法の代表的なものは塩化亜鉛法である.いずれの賦活法による場合でも、洗浄によって不純物を除去した炭素を乾燥させてから粉砕するが、粉末になるまで砕いたものが粉末活性炭(ふんまつかっせいたん)であり、粉末に至るまでの粒状にとどめたものや一旦粉末にしたものに造粒剤を加えて適当な大きさに造粒したものが粒状活性炭(りゅうじょうかっせいたん)である.活性炭はその原料の違いばかりでなく、活性化方法の違いや大きさ、形状の差によって脱色脱臭などの性能に大きな差を生じる.酒造用活性炭は、1)色戻りさせないために重金属類とくに鉄の含量が少ないこと.2)脱色力が強いこと.3)沈降性とろ過性がよいこと.4)炭臭が移らないことが要求される.(「改訂 灘の酒 用語集」 灘酒研究会)


だいこく[大黒](一)梵妻とも書き僧侶の妻を云ふ。
④お寺のは 大根(だいこ)や神酒で すまぬなり (樽一三)
 ④大黒天ならば二股大根と酒を供えれば済むけれど。
たちばな[橘]日本橋橘町の略。踊子と称し、振袖姿の町芸者が住み、芸よりもころぶ方で有名。-
④酒池肉林へ 橘を 交ぜるなり (逸)
 ④酒宴の席へ踊手を呼び寄せる。橘を調味らしく扱つた句。(「古川柳辞典」 十四世根岸川柳)


北島三立
そのころ、肥後の細川家に仕えていた北島三立というものがいた。雪山人と号した。仕えていたころには食禄五百石だったが、ゆえあって肥後を去り、肥前長崎に行き、中国の書道を学んで会得してから、やがて江戸に来て青山の海蔵寺に寓したという。さらに浮世小路に出て、民間人に書を教えたけれども弟子らしい弟子もつかず、僅かに細い広沢(こうたく)がその弟子としては有名な人間である。天性放縦で、しまりがなかったからだという。それは、たいへんな酒好きだったゆえとされている。この雪山が、貧乏のどん底にいたかれだったが、世人は格別悪く言わなかったそうである。酒好きの性いよいよその度を強めていたが、当然買う力が無い。そこで字を書いて、これを酒屋にまわした。酒屋では文字の数、字幅の格好に応じて適宜の酒を雪山のところにとどけた。何しろ雪山先生の書は、唐船に送ると高価でひきとられるので、酒屋は損をしなかったのだといわれている。中国人に感心される書を書いたのだから、相当の芸だったに違いない。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎)


宣伝部に期待
さらに挨拶は続いた。実はこの部分が佐治社長の宣伝広告に対する新しい考えの披露だったのである。「ウイスキーも、たとえばリザーブは前年比一三四パーセントを記録しました。また樹氷もよく売れています。もっとも、なぜ、田中裕子が"タコがさあ…"というと、樹氷がよく売れるようになったのか、さっぱりわかりませんけれども、どうやら宣伝広告には、新しい価値を生み出す力があるんじゃないかと…。そのため、今後はこれまで以上に宣伝部に期待を持とうということになったんです」後日、佐治社長は、この「宣伝広告=新しい価値創造」論について、総合広告電通賞の贈呈式で水野重雄広告電通賞審議会長や河口静雄同理事長らの祝辞を聞いていて、ふと浮かんだ考えといったが、宣伝部に詳しい関係者はまったく異質の見方をする。「反対だったテレビCMが大ヒットして、その商品の売り上げにも貢献していることを知り、おそらく佐治さんなりに反省した結果なんでしょう」佐治社長は、確かにローヤルのランボーには反対だった。でも、放映することは許した、というよりは黙殺した。ここにサントリーの、他社にみられない特徴があるのだが、佐治社長によると「黙殺といっても、放映継続に対する黙殺で…」となる。出張かなにかの都合で、ランボーの試写当日は留主にしたため、それが放映されていることもしばらくの間は知らなかった。新聞に紹介されているのを読んでその存在を知った。初めて見た。直感で、これは賛成できないなあと思った。これまでのCMとは、あまりに違っていたことが、抵抗感をあおったのだ。(「サントリー宣伝部」 塩沢茂)


小せん
初日がきて、『俳諧亭句楽の死』の幕があいた。開幕三十分も前から客席に陣どっていた小せんは、見えぬ眼を、舞台の方へやった。そこには自分が出ている。三津五郎が、自分と同じ盲目で、コップで酒をのんだり、小唄をうたったりしている。そして、馬生(ばしょう)を写した六代目の焉馬(えんば)が、自分に話しかけている-小せんの閉じたままの眼から、ひとりでに涙がにじんできた。幕が下りてから、弟子におぶさって六代目の楽屋へ行くと、「どうだね、馬生に似ているかね」と、六代目はいった。「結構ですとも。だが、酔っ払い方が、少し弱いようですから、もう少し酔っ払って下さい」というと、「そうかなあ。随分酔っ払っているつもりだがなあ。よし、あしたはもっと酔っ払ってみよう」六代目は素直にそういった。その三日の興行が済んで、二十五日の午後、小せんの住居の前に、一台の自動車がとまった。そして六代目と夫人、田村寿二郎、岡村柿紅の四人が入ってきた。六代目は五升壜(びん)を抱えて、「小せんさん、酒をもってきた。一杯やろう」六代目は小せんのそばに坐った。そして、酌をしてやったり、箸をとって物をたべさせたりしてやったりした。六代目が刺身をとって食べさせてくれたとき、わさびの加減といい、したじの付け具合といい、小せんは久しぶりに、自分で食べたというような気がした。ふだん女房に食べさせて貰っているが、したじが付き過ぎたり、付け足りなかったり、わさびが利き過ぎたり、どうも自分で食べるようなわけにはいかなかったが、そのときばかりは、ほんとうに物を食べたような気がした。それに、よく気がついて、「今、刺身をやったから、今度はカラスミをやってみるかい。そら、酌をするよ」」(ママ)そんな具合で、細かいところに気を配ってくれた。この要領で、さぞ舞台でも細かいことを演(や)るんだろうなと小せんは思った。小せんはただもう嬉しくなって、しんから酔いが廻った。そのとき夫人が、小せんの女房にむかって、「お眼が不自由で、ほんとうに同情いたします。あなたもさだめてお骨の折れることでしょうが、面倒を見てあげて下さい。決して見棄てるようなことのないようにして下さい。これも運命で仕方がないのですから、くれぐれも面倒を見てあげて下さい」夫人がそういって涙ぐむと、女房も泣いた。すると、「いやいや、そんな心配は無用だよ」と、岡村柿紅が、わざと陽気な調子で口をはさんだ。「小せんはよく、かみさんを怒鳴りつけているんだ。手前なんざァ出て行け、かかァになりては幾らでもあるって」六代目はびっくりして、「ほんとうかい小せんさん」小せんは返事に困って、苦笑するばかりだった。(「こころに残る言葉」 宇野信夫)


五花茶-五つの花のお茶
五花茶(ウフアーチヤア)は、五つの種類の薬草や薬花が混ざっている、熱気を抑える薬茶です。薬茶は、風邪、悪寒、のぼせなどを抑えるもので、お茶の葉は入っていません。体に良い飲みものを、昔の人はどれでも「茶」と言っていたようです。解毒作用のある竹の皮に包んである竹売茶、夏バテや酔い醒ましに効くという甘和茶、頭痛やめまいには甘和茶、悪寒や鼻水の出る、身体の内側からでなく、表が寒さなどを感じる外感(がいかん)の症状の風邪には黄老煜、実に様々です。五花茶は、二十四味、金銀花、羅漢果茶などと同じ仲間の、「凉茶(リヨンチヤア)」です。広東人や東南アジアに住む中国人には欠かせない、暑気払いの薬茶です。頭に血の上りやすい人やケンカっ早い人は、もっと強力な下火力のある「亀苓茶(クワイリンチヤア)」とか「亀苓膏(クワイリンキン)」を飲みます。(「雲を呑む 龍を食す」 島尾伸三)


あまざけや【甘酒屋】
甘酒の荷を担ぎ、売り歩く商売。その荷の上には磨き立てた真鍮の釜を飾り、看板とて富士の山を画き、三国一と肩書した。
富士山に 肩を並べた 甘酒屋  富士の看板と
郭巨思へらく 甘酒屋を 出さう  釜を掘り当て(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


483 月か太陽か
一夜飲み明かした二人連れ、朝帰りの道々、空の彼方にボーッと出ているのは月か太陽かと、議論を始めた。偶々通り掛かった男をつかまえて、二人はそれぞれ自分の意見を語り、続いてその男の思う所を話してくれと頼んだ。ところが、頼まれた男も酔顔モーロー、ただし返事だけはいとも丁寧に、「いやはや、まことにキックキック(しゃくりながら)お気の毒ながら、この私はきのうきょうこちらに参りました者で…如何とも土地慣れませんこととて、いずれをいずれとも判断致しかねますのじゃ」(「ユーモア辞典」 秋田實編)


11日 うつり香(が)
うちの商売用の、酒のおかんをつける銅壺(どうこ)の中ヘ、牛乳をびんのまま入れてあたためたら、お酒がくさいという文句がお客さんからでた。私の仕業とわかって、ただでさえ牛乳ぎらいな母に、こっぴどく叱られたことがあった。中学生のころだ。そんなことぐらいで、においがうつるものかなと、わたしが言ったら、あたりまえだと、父にもたしなめられた。さしみぼうちょうをといしでといて、水でほうちょうを洗っただけでさしみをつくると、さしみにといしのにおいがうつると言って、いやがる人がいるくらいだ。ほうちょうに移ったといしのにおいは、ほうちょうを井戸の中にぶらさげておいてぬくのだと、その時、父は教えてくれた。それから、といしのにおいまではともかくとしても、まな板一枚で、何でもつくってしまう家庭料理なんぞは、「まったくひでえもんだよ」と、つけ加えた。(「私の食物誌」 池田彌三郎)


中歌
「慶長見聞集」によると、「謡に作りたる梅若丸の塚有て、しるしの柳有、見物衆は塚のあたりの芝の上に円居して、歌をず(誦)し、詩を作り、酒もりする」のだったという。ところが「此寺の坊主、大上戸にて、爰(ここ)やかしこの酒宴場へ飛入走て、五盃十盃づつ呑む事数をしらず」と、たいそうな酒呑み坊主だった。 何よりもおかしきは、此坊主、角(隅)田川の謡きりはしを一ッ二ッ覚え、平家(の曲)とも舞ともわかず、称名ぶしに打上てうたふ、されども短くうたふに興有て、皆人笑ふ。はなはだ珍芸をもつて愛嬌のある坊主でもある。 当時、京都から亀屋道閑という人が江戸名所見物に訪れており、梅若塚にも是非寄って酒宴に及びたいと思っていた。しかしそこに行くと、吞ん兵衛坊主から歌を所望されるにきまっていると聞かされている。都から旅して来て、ろくな歌も詠めないと、必ず軽蔑されてしまう。困ったなと思いながら、一計を胸に案じつつ、梅若寺に行った。するとはたして寺坊主から、あなたは京から来た人らしいが、ここに来るほどの人は誰も、よくもあしくも皆歌をつくる、と硯、短冊を持って来てしきりに所望した。道閑はかねて覚悟だから、おくせずに筆を取り、さらさらと、何やら書いて渡した。坊主が見ると「うめわかまるの、つかやなき、すみた河原の涙かな」とある。坊主は妙な面持ちで何度も読み返し、指を折っては数え、また折直しては数えていたが、とうとう「いかにや都人、此句の文字を数ふるに、発句は七文字多し、歌には七文字足らず」不審にたえぬと言う。すると道閑は得意顔で「これは歌でもなければ、発句でもない、長歌でもなし、短歌でもなし、このごろ都にはやる中歌というものじゃ」と澄ましてこたえた。坊主は「ああ、やっぱりわいは田舎者、都で新しく流行しているものを知らずしておたずねしたりして」と面目丸つぶれを恥じる態であったと述べている。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎)


朝酒(あさざけ)は牛を売ってでも飲め(A)
朝酒は女房(にようぼう)を売ってでも飲め(B)
酒飲みには朝酒はこたえられない。ゆっくり休んだあとの寝覚(ねざ)めの酒は、仕事もせずに一杯やる開放感もあって格別(かくべつ)な味。どんな無理な工面(くめん)をしてでも飲む価値があるということになる。どんな工面といっても、女房を売ってはいけない。せいぜい牛どまりである。正解はA.「朝酒は女房を質に置いても飲め」というから、女房は質草(しちぐさ)までである。[類句]朝酒は門田(かどた)を売っても飲め(「どちらだ正しい?ことわざ2000」 井口樹生)


長崎出島
一八五八年(安政五)までは、日本人は断じてドルを使用することができなかったが、密輸入されていた。或るとき、一水夫が、酒を買おうとしたが、ドルだけしか持っていなかった。彼はそれを持って、酒屋へ行き、そのドルを畳の上に放り出し、あたりまえなら数朱に過ぎない酒のはいった徳利を、一本提げて去った。ところが翌日早くも、奉行所の役人はそのドルを持って、出島にやって来た。店主はそのドルをば掟を守ってか、或いはまた召し捕らわれるのを恐れてか、持っていようとしなかったのである。(「長崎海軍伝習所の日々」 カッティンディーケ 水田信利訳)


酒迎 「酒迎」(無署名)(『日本及日本人』七七四号六三頁)、麦生「酒迎」(同、七七七号六二頁)参照
蟠竜子[伊沢長秀]は、「黒川氏がいうに、親戚、朋友、参宮の人を粟田口に送り、その帰る時、またこれを迎う、逢坂の辺に出でてまつ、故に坂迎(さかむかえ)といふなり、とあり。この説によれば、坂と酒を取りちがえたるなり」と述べた。これは正説らしいが、『今昔物語』二八巻、「寸白、信濃守に任じて解け失せたる語(こと)第三九」に、「この国には事の本として、守の下り給う坂向(さかむか)えに、三年過ぎたる旧酒に、胡桃を濃く摺り入れて、在庁の官人瓶子を取りて、守の御前に参りて奉れば、守、その酒をめすこと定まれる例(ためし)なりと、ことごとしくいう」と見え、前文に、信濃守、「始めてその国に下りけるに、坂向えの饗をしたりければ」とあれば、参宮帰りに限らず、すべての歓迎会を坂向え(坂迎えの借字)と、とっと昔は言ったのだ(大正九年六月一日『日本及日本人』七八四号)(「南方熊楠全集」)


ドブロク
彼らにとって洗面器はまことに調法なうつわだった。ちょうど部屋の真中に炉がきってあって、そこで炭火をカンカンおこし、洗面器で甘藷や馬鈴薯をふかしたり、チャンコ鍋にしたり、そのほかいろんなものを煮たり炒ったりして車座になって食っていた。洗面器は彼らにとっては鍋にもなれば食器にもなった。また器用なものがいて、時々押入れの奥の方でドブロクをつくっていた。ちょっと寮をのぞいてみると、プーンとにおってくる。「やってるなあ」といったら「先生一杯どうですか」ときた。いちど飲んでみたが、少々酸っぱかった。だが、こういったまさに天衣無縫の野性的な寮生活のなかから、どんなところでも生き抜くど根性というかあるいは雑草のような不屈の精神力とでもいったらいいか、たしかに粗野ではあるが学園育ちらしい強じんな性格と、お互いを結びつける無限の友情ともいうべきものがつちかわれていったのではないかと思われる。(「鯉淵学園」 石橋幸雄) 鯉淵学園(鯉淵町5965)にかつてあった学生寮の話です。


梅酒 うめしゆ 梅焼酎
焼酎約二リットルに実梅・氷砂糖約六〇〇グラムの割合で、壺等の器に密閉してたくわえておく。古いほど味がよく珍重される。
たくはへて 自づと古りし 梅酒かな  松本 たかし
梅酒に 身を横ふる 松の風  前田 普羅
わが死後へ わが飲む梅酒 遺したし  石田 波郷
とろとろと 梅酒の琥珀 澄み来る  石塚 友二(「新版俳諧歳時記夏の部」 角川書店編)


滓下げ
泡なし酵母の話のついでに、「たんぱく質成分」が変質して、濁りが出たり、味が変になったりするだんが、それを防ぐために、ほとんどの酒蔵では、「柿渋(かきしぶ)」」や「ゼラチン」を使って滓(おり)を沈殿(ちんでん)させる「滓下げ」という操作をしているんだわ。だすけ、酒造業界では滓下げ操作(そうさ)をするのは常識だし、むしろ、積極的に滓下げ操作をしたほうがいいと言われているんだわ。だども、おらとこの蔵では、もう二〇年以上も前に滓下げ操作をやめてるんだいね。それでも大丈夫だと見極(みきわ)めがついたし、しないですむことなら、余計なことをしないほうが酒にもいいはずだ。一番の理由は酒を無駄にしなくてすむと思ってやめたわけだが、何の問題もないわね。だども、滓下げ操作をしない蔵なんて珍しいんでないかいね。(「杜氏 千年の知恵」 高浜春男)


七二 禍をうながす。
酒過れば、彌〻(いよいよ)のままほしく、行ひゆるめば、彌〻みだる。わざわひのぞめば、みづからうながすものとかやきけり。(「花月草紙」 松平定信 西尾実・松平定光校訂)


東西伊呂波短歌評釈
東 狗(いぬ)も歩けば棒にあたる
西 いや/\三杯
東のは、事を為すものは思はぬ災を受くることありといふ意、又は其の反対に、才無き者も能く勤むれば幸を得ること有りといふ意にして、西のは、其の語の用ゐらるゝ場合不明なれども、既に人の客たれば、いや/\ながらも三盃を斟むべし、といふ意か、いや/\三盃又三盃とつゞけてでもいふことあれば、薄〻(はく/\)の酒を酌むに、いや/\ながらも杯を重ぬれば、其の中にはおのづから酔ひて之を楽むに至るといふことを云へるか、或は又虚礼謙譲の陋しきを笑へる意の諺なるべし。(「東西伊呂波短歌評釈」 幸田露伴)





(卅七)髪結小五郎踊
二上りこい/\小五郎、髪ゆひさしてやつと束(たば)ねてやくつわかいとり、大津八町でむつきくどん/\新酒(しんしゆ)こざけはこざいかくもな、どつこいなろかえ、関(せき)の女郎衆(じよろうしゆ)はやれこりや馬の口とる諸手綱(もろたづな)、若衆見かけてな、どつこいなんななん/\なん/\やつこのやつとたばねてや
注 こざいかく-小才覚(「松の葉集」)


若取者笞五十
いずれにしましても、酒の造り手は、当初、朝廷用と、神社用に酒を造っていたようで、数年前、平城宮跡から発見されたカワラケに「醴太郎、炊女取不得、若取者笞五十」と墨書されていたのを見ても、朝廷で「醴(れい)」つまり一夜酒が造られており、そのボス(太郎)が炊女(かしきめ)に、醴を取ってはいけない。もし盗む者があれば、笞五十の罰を与えると受けとれ、何となく微笑ましい感じがするのです。(「灘の酒」 中尾進彦) 


アルコール氾濫社会
今の日本はアルコール氾濫社会、と呼んでいいように思います。それはアルコール類の値段が相対的に安くなったこと、アルコール消費量がどんどん増加していること、厚生省の推定では、問題飲酒者が二二〇万人を越えるところまで来ていること、なども表されています。さまざまな口実で開かれる宴会では、飲み切れないほどのお酒が出るのが普通になりました。親しい仲間が集まれば、必ずそこにお酒があります。男同士、女同士で集まればお酒があります。家で夫婦で晩酌する家庭が、三分の一あるという調査結果もあります。(一九九四年三月、「毎日新聞」)。休みの日になると、スキー場でも山登りでも海水浴場でも釣りでもビールが欠かせなくなりました。アルコール飲料は豊かさのシンボルとして、どこにでも顔を出すようになったのです。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二)


油燈
夜(よ)の酒蔵(くら)に 事(こと)おこれるを 我(わ)れ知(し)れり 杜氏(とうじ)に蹤(つ)きて 黙(だま)りて行(ゆ)きぬ
桶(おけ)の輪(わ)に 油燈(あぶらび)ひとつ 懸(か)けてある 酒蔵(さかぐら)のおくの 夜(よる)ぞふけたる
夜(よ)の倉(くら)に 人(ひと)をはばかりぬ 腐造酒(ふぞうしゆ)の 大樽(おほをけ)のまへに 杜氏(とうじ)は立(た)ちつ
夜(よる)ふかし 醪(もろみ)の湧(わ)ける 六尺桶(ろくしやく)に 洋燈(あぶらひ)を持(も)ち あがりてのぞく
天井(てんじよう)に 鳴(な)くねずみあり 大桶(おほをけ)の もろみの泡(あわ)に 燈照(ひて)らし居(を)れば
もろみ湧(わ)く いきれに噎(む)せつ 桶(をけ)のふちに 腐造酒(ふぞうしゆ)のもつ 香(か)を嗅(か)ぎにけり(「中村憲吉歌集」 斎藤茂吉・土屋文明選)


川合俊一
元バレーボールの選手で、現在はタレントとして活躍している川合俊一。-
これ以前の誕生日には、酔っぱらってマヨネーズを機関銃にみたて、中身をあたりかまわずまき散らした翌日、マヨネーズにまみれている食堂を見て、「なんだよ、これ?」「おまえがやったんだよ」よいわれて、はじめて自分のしたことに気づいた大トラである。ところで、こうした酒による不殺生のおかげで、彼はオリンピック選手に選ばれることができた。レギュラーを決める大事な試合がアメリでおこなわれたとき、ライバルたちが時差ボケで実力を発揮できないなか、川合選手だけは「酒飲んで夜中まで起きているという生活をしていたもんで」時差ボケなどなんのその。大活躍して、オリンピックでのレギュラーの座を勝ち取ったという。これは、本人の告白だから、間違いない。(「酒のこだわり話」 博学こだわり倶楽部)


農家のたのしみ   儲光義(ちよこうぎ) 原田憲雄訳
百本あまり 桑をうえ
三十畝(せ) 黍(きび)をうえた
衣食はこれで充分
時々に 友を招くこともできる
夏がくれば マコモ飯(めし)
秋になれば 菊酒
女房は 客あつかいがうまく
やんちゃ坊主も あいきょうがいい
日ぐれ しずかな庭で
ニレの木かげに まどいする
ごきげんで 「夜道を帰ろう」というのを
送って立った戸口に 涼しい風が吹く
あおげば 天の川は さわやかに流れ
北斗は ぐんと傾いて 見える
さて友よ まだ幾樽(たる)か 手つかずだ
あすの朝きて 飲まないかね(「酒の詩集」 富士正晴編著)


初代川柳の酒句(14)
生酔も さかり桜も さかりなり   李牛
荒(ママ)世帯 土間に家樽が 二ツ三つ   石斧
つれが下戸 だからとよけいに しいられる   石斧
亭主下戸 ぬるかつたり あつかつたり   雨譚
いたゞきやせうとハ 盃か 金か   雨譚(「初代川柳選句集」 千葉治校訂)


赤味噌
名古屋の赤味噌とは、実は長年、不完全燃焼の関係にあった。赤だしの味噌汁は好きだったものの、自宅で作る手抜き料理と何となくあわないような気もして、それ以外にはどう使えばいいかわからないまま日々が過ぎていた。日常からは疎外していたその赤味噌との距離が、いっきに縮まったのは3年前、まずは奥三河の宿で、赤味噌で炊いたぼたん鍋をいただいたのが発端だった。ぼたん鍋は何度か体験していたが、それまでは白味噌仕立てで、赤味噌は初めて。猪の肉は旨味も脂もたっぷりながら、まったくしつこさを感じることなく、名残が実にきれい、おいしい~とぱくぱく食べながらも、肉が上質なのかしらと、そのときはなんとなく納得していた。合わせたのは、近隣にある関谷醸造の「蓬莱泉」。きれいな甘味がたつ。いつもにも増してピッチが速かったのだが、体調がよかったのかしらと、これまたなんとなく自己完結。上機嫌のまま、眠りについた。ところがその直後、某料理研究家の先生のお宅で、目からウロコが落ちまくったのだ。土産に持っていったメンチカツとともに出されたのは、水と少しの砂糖を混ぜた赤味噌。「あれれ、ソースじゃないの?揚げ物に赤味噌って、なに??」そういぶかしく思いつつもおすすめに従ったところ、笑いたくなるほど旨い。肉の旨味はふくらむのに、後味すっきりなのだ。先生曰く、赤味噌には口中の油や旨味を洗い流す働きがあるという。その言葉を聞いて、ぼたん鍋の思い出が蘇った。なるほど、赤味噌だからこそ、あれほど食べてしまったのね、酒もすいすい進んでしまったのね、と。(「ニッポン「酒」の旅」 山本史子)


新酒、間酒、寒前酒、寒酒
抑(そもそも)当世(とうせい)醸(かも)せる酒は新酒(秋彼岸ころよりつくり初る)、間酒(あいしゆ 新酒、寒前酒の間に作る)、寒前酒(かんまえざけ)、寒酒(すべて日数も後程多くあたいも次第に高し)等なり。就中(なかんずく)新酒(しんしゆ)、別して伊丹(いたみ)を名物として、其(その)香芬(こうふん)弥(いよいよ)妙(みよう)なり。是(これ)は秋八月彼岸の頃、吉日を撰(えら)み定(さだ)めて其四日前に麹米(こうじこめ)を洗初(あらいそめ)る(但し近年は九月節寒露一三前後よりはじむ)。
一三 寒露 二十四気節の一つ。九月の節。陽暦十月の九日ころ。霜の降りはじめる時期に当たる。(「日本山海名産名物図絵」 千葉徳爾註解)



ヘルシェルは、友だちのハイケルがいつも酒で髪を洗っているのを見て、不思議で仕方ない。ある時、とうとう我慢し切れなくて、彼に尋ねた。「おまえは、まったくおかしなことをするね。なんで、酒で髪を洗ったりするんだい?」「ふふん」と、ハイケルは得意気に答えた。「俺は、長いこと徹底的な化学実験をしていたのさ。なんと、酒による洗髪は毛髪の育成を増進させる、という大発見をしたんだ」すると、ヘルシェルは肩をすぼめて、「ばかな。正気かい?もしそんなことがあったりしたら、俺の喉には何メートルもある髭があることになっちまう」(「ユダヤジョーク」 ジャック・ハルペン)


化物屋敷
医者殿はもう生きた心持はしない。化物屋敷の中へ連れ込まれたのだと思いますから、顔が青くなって、息も詰まるようになっております。そうした時分に横手の唐紙をあけて出たのは、継上下(つぎかみしも)を着た普通の士で、どうもお待遠であった。これから病間へ案内を致す、といって先に立って行く。医者殿もどんなことになるのだか分からないので、行きたくはないけれども、しょうことなしについていった。また幾間も幾間も通ってまいりまして、襖をあけると大勢ずらりと並んで大酒盛りをやっている。これは何のことだろうと思っているとその中の一人が、まず一杯お飲みなさい、といって盃をさす。そこには美しい芸者体の女もいれば、役者でもあろうかと思われる綺麗な男もいる。三味線・太鼓でいい按排で騒いでいる。肴を出してくれたりして、なかなか取り持ってくれるので、何だか気味の悪い心持がしないでもないが、あちらからもこちらからも盃をさされる。だんだん酒が回ってくると、こわいの恐ろしいのということもなくなって、とうとうそこへ酔い倒れてしまいました。家に残っておりました妻女は、夜が更けても夫が帰って来ない。どうなったか、心配で心配で仕様がないから、なかなか眠れません。しょんぼりとして明け方近くになりますと、どんどんどん表の戸を敲くものがある。夫が帰って来たんではないかと思って、あけてみると、赤鬼と青鬼がピョコリと二人立っている。籠は真中に置いてある。びっくりして家の中へ逃げ込んで戸を締めてしまったが、戸の隙間からそっと覗いて見ると、もう赤鬼や青鬼はおりません。駕籠はそこへ置き放してあって、持たしてやった薬箱は、どうしたものか、ちゃんと家の中にある。そうしてみると駕籠の中に入るのは亭主に違いな、と思って見ると、医者殿は褌一つで丸裸になっている。死んだのかと思うと、大鼾(おおいびき)をかいていて、しかもばかに酒臭い。その側に大きな風呂敷包みが一つあるから、あけてみますと、着て出た穢い着物がそれに包んである。そのほかに新しい立派な着物、衣類から襦袢から紙入まで、ちゃんと一揃入っている。(「江戸末の幽霊好み」 三田村鳶魚) 雲州の隠居の南海公がはやらない医者を、自身のつれづれのなぐさみに仕組んだいたずらだそうです。お屋敷に呼ばれた医者が、はじめ、一つ目小僧や大入道に驚かされた後、酒盛りに連れ込まれた話です。


道具名之事(3)
一、食様(ため)(21)とハ、食運ふ桶の事。          〇「めしため(21)」とは、蒸米を運ぶ桶のことである。
一、切様(きりため)(22)とハ、水計升之事。          〇「きりため(22)」とは、水をはかるますのことである。
一、掻桶(23)とハ、食を取桶之事。          〇「かき桶(23)」とは、蒸米を取り出す桶のことである。
一、突起とハ、食起す箆(へら)の事。          〇「突起し」とは、こしきについた蒸米を取るへらのことである。
一、奔(はしり)とハ、桶の口に置て、雫(しずく)を受る物也。      〇「はしり」とは、酒船の口に置き、しずくをうけるものである。
一、突揚(24)とハ、押木を揚る鐘(ママ)木也。      〇「突揚げ(24)」とは、押木を上げる撞木(しゆもく)である。
一、桶休め(25)とハ、様桶を置台也。            〇「桶休め(25)」とは、ため桶を置く台である。
一、掠摩(かすり)(26)とハ、底の酒を取器物也。     〇「かすり(26)」とは桶底の酒を取る道具のことである。
一、櫂とハ、酒を掻道具なり。              〇「櫂」とは、酒をかき混ぜる道具である。
一、元櫂とハ、元掻く箆也。               〇 「酛櫂」とは、酛をかき混ぜるへらである。
(21)食様 容量一斗余のい桶で、蒸米の運搬に使用する。 (22)切様 水をはかる枡」(ます)。容量は五升。 (23)掻桶(かきおけ) 蒸米をこしきから移すのに用いる桶。 (24)突揚 通称「りき」酒船に上から重石で圧力をかけて押すさいにのせる木のこと(図参照)。 (25)桶休め ため桶を置く台。休座(きゆうざ)ともいう。 (26)掠摩 桶底に残った酒や醪をくみつくすのに用いる、ちりとりのような形の道具。(「童蒙酒造記」)7


酒ばなれ
二日酔、宿酔…。酒党にとってこれは、ご難のひとつである。が、二日酔は迎え酒ですぐ癒る。それにもまして不愉快なのは、いわゆる酒ばなれする、あのしばらくの時間であろう。うまくその時間を睡眠の中に迎えればなんでもない。なるべくそうするようにつとめているが、下手に眼がさめたり、頭にのこって起きたりすると、苦しさの限りである。二日酔とは又ちがった嫌な味で、この場合は迎え酒でなく、新しくスタートするわけだから、又、一日つぶれる。この酒ばなれの苦しさが嵩じてくると、生命のつなぎ目のようなものさえ感じて、私は一種のノイローゼにさえ陥る。だから、酒の量-ということが一番問題になる。といってこれがビール一本ですっかり酔っぱらうこともあれば、のんでものんでも底がぬけているのかと思うほど酔わないこともある。要は、酒が理につんでは、旨くないという事である。(「味の芸談」 長谷川幸延)


瀬川公園

どっちらも好きで大蛇はしてやられ 拾五6
【観賞】酒も女も好きだったと人間あつかいしたおかしさだ。稲田姫をいけにえに出せと命じ、八樽の酒をのんで酔ったところを、スサノオにやられたのだ。
【類句】八樽くらって稲田をも喰ふところ 二三35(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)


後撰夷曲集(1)
 或方へ礼にまかりけるに数の子肴にて酒たうべ日もくれがたになりければよめる
数の子や にしんが鉢に あるなれば 思はず酒も つもりそろばん  方重
花見酒に うたへば蝶も かんたんの 夢の舞まふは やせたんぽゝ  且保
 本歌
けふのめと 人のしひざる 時だにも ゑふことやすき 花見酒哉  貞富
くふ餅も 又のむ酒も 読歌も はなの下なる 口すさみ哉  友知
名所花
万年の 栄耀もこれ 亀山の のめば浮木の 花見酒哉  高盛
酒にうたふ 木遣声して みよしのゝ 花にゑいさう 酔の内かも  義益(「後撰夷曲集」)


ちろり
医者部屋へ 通ふちろりの なくなるは 幾夜寝ざめの すまぬ酒盛 [甲子夜話・七十四]
作者、橘宗仙院。歌は、源兼昌の「淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に いく夜ねざめの 須磨の関守」(金葉集・四・冬)のもじり。
江戸城の御医者部屋の陸尺(ろくしやく)に預けておいたちろり(酒を温める筒形の器。典医たちが宿直の時、そっと飲むための用意)が紛失した。同僚の医者たちが「ここで一首」と望むと、宗仙院は言下に右のごとく詠んだ。(「狂歌観賞辞典」 鈴木棠三)


北米インディアン
北米インディアンは中毒におちいるほどの飲酒文化は持っていなかったが、その後、白人との接触の中で、一方では虐殺され、追い立てられ、狭いインディアン保留地に押し込められ、その食物だったバッファロー(野牛)を白人の銃で殲滅され、著しい人口減と固有文化の喪失が起きた。今日、インディアン保留地を見学した日本人が、酒瓶を抱えて飲んだくれて入るインディアンを見て、これを人種的劣等性のせいにしたりするのはお門違いである。日本人も、とりわけ幕末以降、北海道のアイヌ民族に対して何をやったかを、考えてみればいいのである。(「慶喜とワイン」 小田晋)



鈴徳利
 底が写真のようになっていて、中に玉が入っています。空になったときにならして、徳利追加の合図にしたと聞きました。


微妙に形が違う提灯
逆に、通常のものと微妙に形が違う提灯を見ると、私は入ってみたくなることがある。一度、呑み友だちと武蔵小山を探訪していたとき、大きな道の五十メートルほど先にある、やや楕円形をした白い提灯が目に留まった。私が半分独り言のように「あそこはいいかもしれない]と漏らしたら、友だちははじめどの店のことを指しているのか分からなかったようだ。何せ、店ははるばる向こうに佇んでおり、看板も見えない状態だった。よっぽど目を凝らさないと提灯にすら気づかないが、私は長年の癖で常に無意識のうちに偵察モードに入り、「よさそうな居酒屋はないか」と探しているらしい。近づいてみると、その店は新しい焼き鳥屋だということが分かった。通常なら、「新しい」という時点で入ることをやめるが、提灯が気になり入ってみた。新しい店だから、年季の入った店に比べて風情も貫禄もないし、長年通い続ける常連客なくしてはなかなかできあがらない「落ちつき」も味わえない。しかし、焼き鳥は予想以上に旨く、高級焼き鳥屋のように極端に高いわけでもない。しかも、若い店主や従業員たちが一生懸命仕事に励んでいる姿が頼もしく感じられ、全体として好印象を受けた。店主に「あの提灯は特注でしょう?」と訊くと、やはりそのとおりだった。さほど高い焼き鳥屋でもないのに、あれほど提灯にこだわるのだから、なるほど、味にも気合が入っているものだ、と納得させられた。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)


ぼうだら【棒鱈】
遊里に於ける酔客の異称。
軽子が寄つて棒鱈をかつぎ上げ  深川の岡場所で(「川柳大辞典」 大曲駒村) 軽子は、 江戸深川の岡場所で、遊客や遊女の世話をする女のことをいうそうです。


六〇 神人のこと
「神はわれなり、外にもとむべからず」といひたるひとに、「そはかの剥の卦に、『陰もまたしかり、聖人いはざるなり』とことはられしは、いまだいたりふかからざりしにやといふがごとにこそ。いで神はわれなりとおもふい給ふならば、またよくおもひてみ給へ。わがごとく色にそみたる神ありや。酒このみてほどしらぬ神ありや。みるものに奪れ、きくごとに心とられ、人に頑れてもしらざる神ありや。たゞ神はひとなり、われは神なりといふは、いとやすかめれど、正しく直き神徳のくもることなく、てらさざることなきを得てのちにこそ」
六八 陰もまたしかり、聖人いはざるなり 出所不明
★」「欺れて」か。(校訂者)(「花月草紙」 松平定信 西尾実・松平貞光校訂)


酒 10画 シュ さけ・さ
[解説] 形声。音符は酉(ゆう)。酉は酒樽(酒樽)の形で、酒のもとの字である。「さけ」をいう。酉の上に八()を加えた酋(しゆう)(ふるざけ)は、酒樽より酒気の発することを示す。酋(酒樽)を両手で捧(ささ)げて神前に置く形は「樽-木(字)」(尊)である。木製のたるを樽(そん)という。殷(いん)・周代の青銅器には酒器の類が多く、その器の銘文には「寶「阝(左)酋(右上)廾(右下)(一字)」彝(ほうそんい)を作る」ということが多い。「阝(左)酋(右上)廾(右下)(一字)」とは、神が天に陟(のぼ)り降りするときに使う神の梯(はしご)(阝。もとの形は阝(原本では右がとがる))の前に酒樽を捧げて置く形である。殷王朝では祭祀(さいし)(祭り)に多く酒を使い、そのため酒のせいで王朝が滅んだとされる。(「常用字解」 白川静)


雷かみなり
②雷、吉原の二階へ落ちて、あがらうともがくうちに、雲はれて大ごまりの所へ、若い者来て、「おめへ、雲がなくつてはどうで天へはのぼられますまい。いつそ女郎衆を上げておあそびなされませ」「なるほど、そうもせう。ひとり見たてゝつれまし来てくれや」といへば、のみこみ山と下へおり、盃など出すと、おし付ケ傾城(きみ)出ながら「能(よ)う落ちなんした」(譚嚢・明和九・雷)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)


岸本水府(龍郎)
元日の酒はあっぱれこがね色
ことしはいいぞ大盃をぐっとほす-
『中央公論』の連載第一回(田辺聖子の小説)で、酒を愛し大阪を愛した(岸本)水府像が目に浮かんできた。これからどのように展開するのか期待でゾクゾクしている。「穿(は)く身になって作る」の福助足袋のコピー、「グリコガアルノデオルスバン」などのグリコ豆文で有名なコピーライターの横顔も、きっと描かれるのだろう。水府氏自身も川柳の連作で小説ができないだろうかと、川柳小説にチャレンジし、昭和二十八年に詩作した三篇がこの句集に収められている。
あんた其処わてはここでと雑魚寝(ざこね)の妓
桜さくいつかの酒の香が残り-(「川柳と遊ぶ」 田口麦彦)


新粕
酒ふねに 今年のもろみ はや掛かり このにひ粕の いできたりけむ
粕汁に 青き漬菜を 浮かべてぞ ふるさと振りの 朝げたのしむ
音にきく 灘のにひ粕 汁にして 生けるしるしあり 朝毎にをす
瓜や漬けむ なすびや漬けむ 汁ににやせむと 妻ははり切りぬ うま粕たびて
温けき この日頃なり いましめて 酸くなせそ 君がたびしうま粕(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎)


あつ過ぎる 程につきたる 上かんの 新酒は淡き 粕のにほいす② 藤原東川
あつまりて 酒は飲むとも 悲しかる 生のながれを 思はざらめや② 斎藤茂吉
集まれば 冬のすさびの あら酒を 飲みむさぼりて 農に行き居り 新万葉集六 野原水嶺
あなあはれ 二十五年を 酒に生き 無類の名さへ あまじて受く⑰ 吉井勇
あなかしこ 人なればこそ 酒はのめ 鬼とけものは 酒をつくらず① 小杉放庵
あはれかの 国のはてにて 酒のみき かなしみの滓を 啜るごとくに① 石川啄木 (「現代短歌分類辞典 新装版12巻」 津端亨)


李白の詩
最も愛唱した集は李白の集であつた。終夜燈火に繙いてゐると。生唾が出て飲みたくなる。飛び出して四合壜を買つて来て、番茶茶椀で傾けながら読むと一層面白くなる。註釈なんか無用である。杜甫の詩はへむつかしくて、めそめそしてゐて嫌ひであつた。今も嫌ひである。酒興を佐けるには何と云つ李白の詩が第一であつた。(「中華飲酒詩選」 青木正児)


斑雪 はだれゆき はだらゆき はだら はだれ はだれ野
降るそばから消えてしまうというほどでなく、降ったあと少しの間、点々と斑(まだら)に残っている春の雪。新潟県下では、ほろほろと降る雪をいう→春の雪
斑雪嶺の暮るゝを待ちて旅の酒  星野麦丘人
花菜漬け はななづけ
あぶらなの花にならぬ蕾(つぼみ)のうちに葉や茎と一緒に糠味噌に浅く漬けた物。料理の付け合わせ、茶漬けなどに喜ばれる。
花菜漬酔ひて夜の箸あやまつも  小林康治
青饅 あをぬた
ぬたの一種。葱、分葱(わけぎ)、浅葱(あさつき)などをさっと茹でて、鮪、烏賊、貝の剝身などといっしょに味噌あえにしたもの。味噌は酢・砂糖・味醂、または酒と酢に辛子少量を加えてすりまぜる。辛子の代わりに木の芽を用いてもよい。
青ぬたや盃一つ妻にさす  那須九橋(「合本俳句歳時記新版」 角川書店編)


南部美人 なんぶびじん 久慈浩介さん 南部美人(岩手県二戸市)5代目蔵元
昭和47(1972)年、4代目の長男として生まれる。東京農業大学農学部醸造学科で小泉武夫氏のゼミで学び、在学中に、「香露」(熊本)、「勝山」(宮城)、「八重泉」(沖縄)で研修。家業に就き、先代杜氏に現場の仕事を学ぶ。現在、杜氏は南部杜氏の松森淳次さんが務め、久慈さんは日本酒とリキュールの製造を統括している。平成25年12月に代表取締役社長に就任。特技は海外出張。 ●語録「祖父は60年前、二戸の地酒を岩手の酒に、父は35年前、日本の酒にした。私は世界の"南部美人"にする」「誰かがやらなくちゃいけないなら俺がやる」「坐して死ぬより、前のめりになって切りかかって死にたい」  ♠最も自分らしい酒 「南部美人」糖類無添加 梅酒 ぎんおとめほか 精米歩合65% 著者コメント:「梅酒用に改良した全麹仕込みの甘口の純米酒を使い、糖類を加えず造った業界初の糖類無添加梅酒。製法は特許を取得した自信作」と久滋さん。甘さを控えた爽やかな味わいで、食前だけでなく、食べながら飲める梅酒。 ♥著者の視点 業界一の元気印。行動し、発言する男である。一年に地球を3周する距離を移動し、輸出は23ヵ国、売り上げの10%超が海外向けだ。日本酒全体の活性化にも熱心で、東日本大震災の直後に自粛ムードが漂い、花見の飲酒まで規制する動きの中で、「東北の酒を花見で飲んで応援して下さい」とYou Tubeで発信。反響は大きく、支援の輪は広がっていった。(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子)


初鰹家内残らず見たばかり
初がつおは高価なので、家の者はみんあ見るだけである。おかずとはならず、せめて主人の酒のさかなとなるだけである。『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』(一七六五年~)の川柳。(「飲食事辞典」 白石大二)


(文久二年十一月)十九日 出営
此日、横井小楠先生を訪う。我問う、此頃、世間、開鎖の論諍に皆服せざる処なり。それ開鎖は、往年和戦を論ぜしと同断にて、唯文字の換りしのみ。何の益かあらんやと。先生曰く、実に然り。当今しばらく此異同を言わずして可ならん。それ攘夷は興国の基を云うに似たり。しかるを世人いたずらに夷人を殺戮し、内地に住ましめざるを以て攘夷なりとおもうは、甚だ不可なり。今や急務とすべき興国の業を以て先とするにあり。区々として開鎖の文字に泥むべからず。興国の業、矦伯一致、海軍盛大に及ばざれば能わず。今や一人もここに着眼する者なし。又歎ずべしと。 かつて聞く、大久保越州の転ずる、閣老、板倉の説により、一橋矦また同意せられしによれりと。 また聞く、前夜萩藩の士、十三輩、横浜の異人を討たんとして、生麦村まで出張せしに、この秘密の暴挙を薩藩の士聞き得て、土州の老矦に密告せしが、老矦、此事を勅使に告げられしに、早々留むべきとのことを廟堂に達し、長州家に達命せられし故、長州の世子、直ちに同所へ騎切(のりきり)出張せられ、また土州の藩士も出張し、理解して引留めたりと。此際、長州の藩、周布(すふ)政之介も到りしに、酔って大言して云う。汝等、異人を討ちに出張なしながら、むなしく留まるの理あらんや。勅使また土州の令といえども、決して引き返すべきにあらず、などと罵りしに、土州藩、これを聞て、甚だ憤り、すでに闘争にも及ばんとせしが、暴発の諸士、事を扱いて、終に無事に帰家せしと云う。此周政[周布政之介]の暴言を咎めて、土藩の者等憤り甚だしく、長藩これらの事に当惑して、周政をして蟄せしむと云う。(「海舟日記」)


たいこ[幇間]
牽頭、太鼓などとも書く、たいこもちのこと。酒席で客の取り持ちをする者で古くは男芸者と云つた時代があつた。-
⑤こくるゐ(穀類)を二日くはぬとたいこ飲み   (樽一一)-
⑧叱られるそばでたゝみをたいこ飲み  (樽「一二)-
 ⑤お座敷つづきで酒びたり。-⑧酒をこぼした畳に匐(はらば)つて。(「古川柳辞典」 14世根岸川柳)


茶椀酒(ちやわんざけ)
今夜(こんや)ハ輪懸鉄(わかけばね)だといつて、とつくりをさげて行(いつ)たが、どうも解(げ)せぬと、そつと内(うち)をのぞいてミると、茶(ちや)わん酒(さけ)をしてやるゆへ、それがわかけかねかといへハ、ハテ、ひつかけてねる(七オ上)(「しんさくおとしばなし」 武藤禎夫・編)


三軒長屋
閑静を好む男がいた。生憎(あいにく)住居が鍛冶屋と鍛冶屋の間で、毎日毎晩トンテンカントンテンカンと、うるさくてならない。「あなた方が引っ越してくれたら、存分御馳走をする」二軒の鍛冶屋に、男は何時もそういっていた。ある日、二人の隣人がやってきて、「私共は、いよいよ引っ越すことになりました」「ついては、あなたは私共が引っ越せば、充分御馳走すると仰しゃいましたね」「いいました。そうして、あなた方は、いつ引っ越す?」「あした」「それは有難い」そこで男は、酒や肴を出して、充分に二人をもてなした。あるじも飲んで、酩酊してから、「そうしてあなた方は、どこへ引っ越すのだ」と聞くと、「私はこの人の家、この人はわたしの家へ引っ越すのさ」-中国の笑話である。『三軒長屋』として劇化もされている。(「こころに残る言葉」 宇野信夫)


現世の享楽 その一
子産は鄭(てい)の国の大臣として、三年のあいだ国の政治を統べた。善人はその教化にしたがい、悪人はその刑罰を恐れ、鄭(てい)の国はよく治まって、諸侯も一目おいていた。ところが、兄を公孫朝といい、弟を公孫穆(ぼく)という兄弟があった。朝(ちよう)は酒が好きで、穆(ぼく)は女が好きであった。朝(ちよう)の家には酒が千石も置かれており、麹(こうじ)も小山のように積まれていた。門から百歩ぐらいのところまで行くと、もう酒やかすのにおいが、ぷんと人の鼻につくのであった。かれが酒に酔っぱらうとなると、世の中の形勢も後悔とか物惜しみとかの理くつも、一家の経済状態も、親類の間柄も、生死の喜び悲しみも、みなすっかりおかまいなしになって、大水や火事や切り合いが目の前に迫っても、わかりはしないというありさまになるのだった。一方また穆(ぼく)の家の離れには幾十の部屋がならんでいて、えらばれた若い美人が入れられていた。かれが女色にふけるとなると、身内を遠ざけ、交際を断ち、離れにひっこんだまま、夜も昼もなく、三月もするとやっと出てくるのだが、それでもなお満足しないというのであった。-
(そこで子産は鄧析(とうせき)のいうことに従って、意見すると、朝と穆は)「-だいたい外のことを治めるのが得手なものは、かならずしも物事がよく治まらないで、あれやこれやで自分の身が苦しむものだ。それに対して、心のなかを治めるのが得手なものは、必ずしも物事が乱れるというわけでもなく、気分はなににつけても安楽なのだ。きみが外に治めるやりかたで行けば、その法は、まあとにかく一国で通用するだろう。しかし、人間の心には合わないよ。ぼくたちの心のなかを治めるやりかたで行けば、それを天下にまで及ぼすことができる。そして君臣の道などというものは、いらなくなってしまうよ。ぼくたちはいつもこの術をきみにいいきかせてやりたいと思っていたのに、きみは逆にそっちの術をぼくたちに教えようというのかい」 これを聞いた子産は、あまりのことにあきれはてて、返事も出なかった。あとで子産がそのことを鄧析(とうせき)に話すと、鄧析(とうせき)はこういうのであった。「きみは真人(道に通じたひと)といっしょにいて、それと気がつかなかったのだ。きみは智者などといえないよ。鄭(てい)の国がよく治まっているのも偶然にすぎない。君の手柄(てがら)じゃないな」(楊朱篇)(「烈士篇」 後藤基巳等訳)


蒸留酒と醸造酒
まずは、酒類を蒸留酒(ウイスキー、焼酎など)と醸造酒(ワイン、ビール、日本酒など)に分けて考えてみる。食通の渡辺文雄さんと対談した際、蒸留酒の酔いが鋭角的であるのにたいして、醸造酒の酔いは曲線的という話が出たことがあった。飲んで理屈っぽくなり喧嘩早くなるのが蒸留酒で、その反対に、情緒的になりムードに浸れるのは醸造酒ということになった。またそれは、キリッとした蒸留酒を飲んで話せば論理的になり結論も早まるが、柔らかい醸造酒では雰囲気に流されて話もなかなか進まないということでもある。それは第二次世界大戦の後、植民地の始末などでいち早く戦後処理をつけたスコッチの国イギリスと、戦後処理がいちばん遅れたワインの国フランスとの差ではないかという話にもなった。してみると、女性をムードでくどくには蒸留酒、喧嘩別れには蒸留酒、というあるプレイボーイの話もあながちわからないではない。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)


無礼講
酔った上での乱暴狼藉、喧嘩である。これは大町桂月以下(田中)貢太郎先生達が土佐の出身者多く、ことさら乱暴を許したところがあったとしても、酔えば無礼講に及ぶのが世の習いであった。しかし無礼講も一つの社交場の作法であったことを、『日常作法の心得』という著作の中で徳川義親氏が語っている。それによると、皆が騒いでいる時一人だけ加わらずにすましているのが、無礼であると記している。田中貢太郎の著作は、酒がいつの世にも画きだした酒徒の姿を、はしなくも表現しつくしてしまっている。酒をひたすら愛し、その量をよろこび、ひたすら酒を堪能し、酔余の乱行も、社交のうちの重大事として懐旧の種となることもあれば、世の非難をあびることもある。これはほとんど、歴史に酒の記録が残されるようになってから、いつの時代にも似た記事や文学を見いだすことができるだろう。(「酒と社交」 熊倉功夫)


酒銘記、酒爾雅、酒譜
北宋  張能臣『酒銘記』を著す。
    何剡『酒爾雅』を著す。
    竇苹『酒譜』を著す。酒之源、酒名、酒事、酒之功、温克、乱徳、試先、神異、異域酒、性味、飲器、酒金ほかあり有用。(「一衣帯水」 田中静一)


飯店と酒家
広東語圏で酒楼(チヤウロウ)と飯店(フアンデイム)はレストランのことです。酒家(チヤウカー)もやはりレストランを指します。ところが酒店(チヤウデイム)はホテルのことです。北京語(普通話)では、飯店はホテルのことで、酒家はレストランです。ややこしくなりましたが、北の人が南へ来て、「おとうさん、私は広州酒店に泊まっています」と手紙を出すと、おとうさんは、子供のが酒屋で酒びたりになったのか、お金が無くなって酒屋で働いているのではないかと、心配する、ということになるのです。(「雲を呑む龍を食す」 島尾伸三)


徳和歌後万載集(3)
くみかはす 銚子のさゝに からまりて 酔をすゞめの 時を江戸節  四方赤良
 ある人酒をふるまひけるにあたゝむるまも待たでひやにて  穿砂
いれ上戸 かんをも待たす ひやでのむ くせのわるさよ
 出はべりて  世人道へまうし
又六が 門ごくらくと 聞くからに さかむに仏の いやたふとけれ
 寄生酔神祇  一節千杖
かくかゝん 飲んではくらす 生酔の つみてふ罪も なかとみの友(「徳和歌後万載集」 野崎左文校中)


482最悪の事態
A「昨夜とうとう僕は求婚したんだがね、そいつがどうも憂慮すべき状態なんだ」
B「彼女、君になんと言ったんだい?」
A「芳しくないんだ。イエスと返事をしたのか、ノーと断ったのか、そいつさえハッキリしないんだからね」('「ユーモア辞典」 秋田實編)


渋(しぶ)
柿渋の中でも特にタンニン含量の多い「天王」「鶴の子」「田村」などを青柿のうちに採取して、破砕、圧搾しその搾汁液を約1ヵ月発酵させる.その後火入れをして、数ヵ月~数年間熟成させたもので、収量は生柿の20~30%、赤褐色ないし黒褐色の液体で、ph3~4、比重1.02~1.04、固形分7~10%、有機酸2~3%そのうち揮発酸が90%を占める.柿渋タンニン含有は5~6%である.用途としては、清酒のおり下げなどの食品清澄剤、蛋白質除去剤、木材塗装、漁網染料、繊維染料、化粧品素材、防臭素材等がある.(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)


あまざけのかんばん【甘酒の看板】
富士山の異称。甘酒屋はよくこの富士山の看板を用ゐたのであるが其の由来は詳らかでない。
甘酒の看板いづくからも見え  日本一の高山故
あまざけや【甘酒屋】
甘酒の荷を担ぎ、売り歩るく商売。その荷の上には磨き立てた真鍮の釜を飾り、看板とて富士の山を画き、三国一と肩書した。
富士山に肩を並べた」甘酒屋  富士の看板
郭巨思へらく甘酒屋を出さう  釜を掘り当て(「川柳大辞典」 大曲駒村編) 郭巨(かくきょ)は二十四孝の一人で、金の釜を掘って得ました。


着ながしのちろり
おせちは、「オヤ、それでも」と言ったが、艶二郎は、「いいよ、いいよ」と言うので、袴(はかま)のないちろり(酒のかんをする器)のまま出す。志庵は袴なしのちろりを見て、「こいつァ、着ながしのちろりだなぁ、しゃれたものだ」このうちに酒になり、うなぎもあらかた平らげてしまう。(「通言総籬」 和田芳恵訳) これで見ると、ちろりには袴をするのが一般的だったようです。


酒屋もんの仕事は眠いもん
夜は夜で泡番(あわばん)というのがあった。泡番というのは、「酛桶(もとおけ)」や「もろみタンク」の泡を消す役さね。あの泡には「酵母(こうぼ)」のいいところが入っているから、うっかりして泡をこぼしでもすると、それだけ湧(わ)きがわるくなるわけさ。ということは「発酵(はつこう)」が弱くなる。だすけ、発酵が進み過ぎていると思ったら、泡を消すんでなくて、泡を取ってやるということもやるわけさ。そういうがんも経験をつまねばわからんことさ。杜氏さんというものは、あの手、この手といろいろ工夫するわけだいね。今は「泡消し機」という便利なものがあって、タンクの上に乗っけておけば、電気モーターが棒をまわして泡を消してくれるかが、おらたちの若い頃はわかい衆(しゆう)の役目での。ゆっくりと眠っておられねえんだわ。だすけ、いつも睡眠不足で、酒屋もんの仕事とは何とも眠いもんだと思ったわ。(「杜氏」千年の知恵」 高浜春男)


白みりん
それまでの味醂は色が濃い「赤みりん」だったが、文化十一年(一八一四)に下総(しもそう)流山(ながれやま)で堀切紋次郎(もんじろう)が「万上(まんじよう)味醂」を、同じ頃に秋元三衛門(あきもとさんえもん)が「天晴(あつぱれ)味醂」という、色が淡く澄んだ「白みりん」を開発した。これによって流山が味醂の一大産地となり、江戸のウナギの蒲焼きに照りと香りをつけ、食欲をそそった。「白みりん」は、飲んでもすっきりとした味わいで、伊丹や西宮の下り酒が一升で七十文から八十文だが、白みりんの上物は一升が百文もした。味醂に焼酎を半分加えて飲用にしたものを、江戸では「本直(ほんな)し」と呼び、上方では「柳蔭(やなぎかげ)と呼んで井戸水などで冷やして飲まれるようになった。上方落語の「青菜(あおな)」にも登場している。味醂の絞り粕(かす)は、粒状で粘りがあり、形が梅の花に似ていることで「こぼれ梅」という風流な名で呼ばれる。ほんのりと甘味があり、クリームのような食感で、江戸時代にはおやつとされたが、近年の発酵食品ブームで見直され、パンやクッキーに加えられた商品も出回っている。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資)


「竹むきが記」の酒宴記事
酔態描写はただ一箇所、
御かはらけ度々になりて、宰相典侍、酔ひすゝみつゝ、傍痛(かたはらいた)き事どもぞ侍りし。「よからむ女(むすめ)もがな、なほ懲りずまに奉らん」など聞ゆれば、あひしらはせ給ひしもをかしかりき。妹の君の、本意(ほい)違ひし事どもなるべし。(上巻 元弘二年九月)
老女房が酔いに言寄せて、後伏見院に進めた妹の寵の薄さを恨み、院が笑って受け流す。昔も今も変らぬ酒席の一光景である。(「御酒すゝむる老女」 岩佐美代子)


眉間にセロハンテープ
そこで、せめて酒の席だけでも、シワが寄らないように眉間にセロハンテープを貼る。マユゲにつながっていても、とりあえず貼る。上司も部下も、立場の違いも関係なく、問答無用で貼る。実際にやってみていただければ分かると思うが、セロハンテープを貼って、それでもなお眉間にシワを寄せようとすると、非常に間抜けな表情となる。別に鏡を見なくても、周りのあちこちで同じようにやっている人たちを見ると、おかしくてついつい笑ってしまう。笑っているうちに、悩みなんてバカバカしくなっちゃって、気分がスッキリ、楽しいお酒が飲めるというわけ。(「二日酔いの特効薬 のウソ、ホント」 中山健児監修)


酔うほどに詩作百篇  原題《創作要不要霊感》
創作におけるインスピレーション、とくに芸術家のインスピレーションについていえば、それは平素、実際生活に深く立ち入った体験の基礎の上に、なにかの時にある種の偶然の刺激を受けたり、あるいは、なにかの事物に啓発(けいはつ)されて、ある種の連想を起こし、そのため久しく内部にかくされていたインスピレーションが触発されて生ずるものである。しかし、これは偶然のふとしたひらめきとは大いに異なるのだ。唐代の大詩人李白の"酔うほどに詩作百篇"のたぐいの伝説は談笑の材料にしかならないものである。(「燕山夜話」 鄧拓)


永久夜泊(えいきうのやはく) 永久橋は崩橋の北にあり
鼻落声鳴(はなをちこゑなつて) 篷掩身(とまみをおほふ) 饅頭下戸抜銭緍(まんぢうげこさしをぬく) 味噌田楽寒冷酒(みそでんがくのかんざまし) 夜半小船酔客人(やはんのしやうせんきやくじんをゑはしむ)
船饅頭は食類にあらず、戦中の遊女をいふ。古ぽちや/\のおちよといへる高名の遊女ありしとかや。[英一蝶朝妻舟賛]あだしあだなみよせてはかへる波枕といへるもこの類にしてひんのよき物なり。(「通詩選諺解」 大田南畝)


(5)百年たつうちにまるで変わった意味[75・11 46]
生酔 "ナマエイ"または"ナマヨイ"。『柳樽』などにあらわれる"生酔"は完全な酔っぱらいをさしている。[鶴屋]南北・[河竹]黙阿弥・[三遊亭]円朝あたりは、やはり「生酔-泥酔(者)」なのである。(「歴史読本」75年9月号67~68「ほろびゆく江戸のことば」小池章太郎)(「ことばのくずかご」 見坊豪紀)


ラインの夜
ぼくのグラスには焔のようにふるえる葡萄酒があふれている
ききたまえ ゆるやかな船頭の歌は
月の光の下で七人の女が(122)
足までたれた長い緑の髪を編むのを見たと言う

立って ロンドを踊りながら ひときわ高く歌いたまえ
もうぼくにあの船頭の歌のきこえなくなるほど
つれてきたまえ ぼくのそばへ
じっと眼を動かさず お下げの髪を編みあげた金髪の娘たちを一人のこさず

ライン 葡萄畑の影をうつすラインの河は酔っている
降りそそぐ夜の黄金の星々のふるえる姿が照りはえる
声は消えいりそうにあえぎながらいつまでも歌う
夏に魔法をかける緑の髪の妖精たちを

ぼくのグラスは哄笑のように砕けた
訳注 (122)七人の女 オーベルヴェーゼルの町に伝わる七人の乙女の伝説。(「世界名詩集」19 アポリネール」 滝田文彦訳)


つまみたくなる 形が面白い イカのあぶり焼き
材料(2人分) モンゴウイカ…1さく 塩…少々 わさび…少々
作り方 ①モンゴウイカは2cm✕5cmくらいの大きさに薄く切る。 ②串に波打たせて刺し、塩をして端の部分をさっとあぶる。 ③仕上げにわさびをちょっとのせる。
このつまみに、この一本 十四代(じゆうよんだい) 本丸(ほんまる) 特別本醸造/山形 日本酒度…+1 酸度…1.2 価格…1950円(1.8ℓ) ●吟醸酒さながらの豊かな香りが鼻腔をくすぐる、「十四代」で「最も旨い」と評される酒。この味でこの値段なら、入手困難でも無理なしとうなずける。見事なコストパフォーマンス。(船来る亭)(「新・日本酒の愉しみ 酒のつまみは魚にかぎる」 ㈱スリーシーズン編集) 平成14年の発行です。


メートルがさがる(メートルが下がる)[句]
「メートルが上がる」の反対。上げていた気炎が上がらなくなる。酒をあまり飲まなくなる
メートルをさげる(メートルを下げる)[句]
「メートルを上げる」の反対。上げていた気炎を下げる。酒をあまり飲まなくなる。◇『校風漫画』蛮カラと白粉(191年)<近藤浩一路>「此の日に限りてメートルを下げる説明振はまだしもだが」(「日本俗語大辞典」 米川明彦編) メートルが上げる メートルを上げる


新技術の公開
伊藤忠吉が次にやったことは、その技術の公開だった。微妙なカンと技術に頼った当時の酒造りは、どこの店でも"秘伝"で門外不出が当たり前だった。しかし、伊藤忠吉は「それではどんな高度な技術があっても、酒造界の発展に役立たない」と、ほかの酒屋に希望者がいれば隠さずに新技術を教えた。前に紹介したように、全国清酒品評会は回を重ねるにつれて、本県の入賞が多くなり、第一回に一等になった伊藤家の「両関」は名誉賞を二回も受賞した。東北を中心に全国から技術者が集まり、中には一年も泊り込んで酒造りを勉強して行った人もいた。この伊藤家が公開した技術の根本的なものが、寒い秋田の風土にあった酒造り、つまり「低温長期法」である。(「あきた雑学ノート」 読売新聞秋田支局編) 伊藤忠吉


大スターの息子の挫折感   俳優 G・クロスビー
<コメント>「私はひどい酔っぱらいだった」とゲイリー・クロスビーは言う。「自殺はできなかった。自殺では天国に行けない。そこで、たちのよくない連中とけんかをした。誰かに殺してもらいたかったからだ」クロスビーは、アルコール依存症で気まぐれな母としつけの厳しい父のもとで育った。スポーツ以外は、ほとんど自信がなかった。けがのためにスポーツが続けられなくなり、失意に見舞われると、憂さ晴らしに酒を飲んだ。アルコール症者の多くは、怒りを抱いている。断酒して数年経ってようやくクロスビーは怒りを抑制できた。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー)


阿佐ヶ谷会の変質
その後、「みち草」は高円寺から新宿へ出て、ハモニカ横丁に店を開いた。昭和二十三年だったという。店の移動につれ、客も新宿に移ったわけだ。上林をはじめ阿佐ヶ谷界隈の文士たちは、ハモニカ横丁に飲みに行くようになった。新居格区長でわかるとおり、そのころは文化人もお高くとまっていなかった。とにかくすべてが出直しだから、みんな意欲に燃えていた。中島健蔵なども顔見知りの花売り少女が行方不明になったとき、弟の靴みがき少年のために、一緒になって捜し歩いたりした。ある晩には、「お龍」の店で青野季吉と伴俊彦、中島健蔵と伊藤永之介とが同時に口論しはじめた。中島の組は互いにカウンターをたたき、青野の組は後ろの壁をたたきながら口論したという。井伏はその口論にふれ、「壁と云っても隣の店との仕切にする一枚のベニヤ板に過ぎないので、隣の『オキヨの店』という飲屋の棚が揺れてコップが落ちたそうだ。その飲屋は翌日から三日間、店を閉じたという話であった」(『風貌・姿勢』)とユーモアたっぷりに書いている。この「お龍」の店の常連は、中野好夫、河盛好蔵、池島信平の三人組で、一時は毎晩のように飲んでいた。中野の声は高いので、二、三軒先の「みち草」にいてもよく聞こえて来たという。とくに戦後の特色だが、学者たちが文化批判や作品批評などにおいて、文壇内で仕事をはじめた。中野好夫や中島健蔵、臼井吉見、河盛好蔵、新庄嘉章らである。そして彼らはこぞって焼け跡のハモニカ横丁で飲んでいた。そこへ阿佐ヶ谷界隈の文士たちも繰り込み、いつか一緒の飲み仲間になっていた。そうするうちに、学者たちが「阿佐ヶ谷会」にも出席するようになった。かつての貧乏文士の会は、一躍文化人の会へと発展していった。はたしてそれが良かったか悪かったか、私にはわからない。かつては文壇ギルド的なにおいを残していたが、学者たちの参加によって、これがなくなった。学者たちの文壇内での発言力は、文壇人の生活意識を徐々に市民的なものへと変えていった。それは「阿佐ヶ谷会」の変質ともなり、いわば無頼の徒の会合であったものが、良識人の会合へとなったのである。(「阿佐ヶ谷界隈」 村上護) みち草


お母さん、昔はね、毎晩これ(一升瓶)一本飲んでたよ。  樋口東洋子 甲州「くさ笛」女将
甲州の中心地から少しばかり路地へ入ったところに、飲み屋小路「オリンピック通り」がある。前回の東京オリンピックの開催の年にできたからこの名がついた。ということはこの小路は一九六四(昭和三十九)年からあるわけだが、そこに、一軒の縄暖簾(のれん)がある。「くさ笛」という飲み屋さん。カウンター一本だけの店ながら、連日、賑わう。-
「おいしいもの食べて、お酒飲んでいるのが、最高じゃんね」甲州弁がなんとも可愛らしい。飲みっぷりは今もたいしたもので、おいしそうに、楽しそうに、酒を飲む。甲州の地酒を置いているが、女将さんは昔ながらの「高清水」(これは秋田の酒)が好き。「お母さん、昔はね、…」そう、冒頭の、毎晩一升飲んだという話が出たのだ。小柄な女性である。細腕である。その女性が、毎晩一升と聞いて、見かけによらぬ男勝りと、舌を巻いた。甲府から東京方面の特急と各駅停車の最終便の時刻を頭に入れて、ぎりぎりまで飲むのが、「くさ笛」へ行ったときの習わし。最後は歩いても遠くない甲府駅までタクシーを飛ばす。それくらいまで、ねばる。酒は楽しく飲まなくては嘘だ-。女将さんを見ていて、通ってくる常連さんたちを見ていて、そう思う。来年(二〇二〇年)、女将さんと店は、二度目のオリンピックを迎える。筆者は、五輪開催中に甲府へ出かけてお祝いを言いたいと思う。その日を、今から楽しみにしているのだ。(「酔っぱらいに贈る言葉」 大竹聡)


甕覗
萬寿鏡の当主が酒の飲み方、楽しみ方を考えた末に思い浮かんだのが甕覗(かめのぞき)という方法である。秋の夜長に、美酒の入った広口の甕を囲んで酌み交わす光景は考えただけでも楽しい。萬寿鏡の当主、中野惣太郎氏の考えたこの甕覗こそ、酒はただ酔うためのものではないことを教えていた。酒をもてなす方の心がまず大切なのだ。その気配りが客人に伝わることによって、心から喜んでもらえることになる。それには時には演出も大切で、この甕覗こそ、座の雰囲気を盛り上げるのには最高だった。と、同時に落ちついた雰囲気になる。なぜなら、グラスが空になるたびに、甕の中から長柄杓(ながびしやく)で汲むという行為が、その場の呼吸に間を持たせるからに他ならない。長柄杓が甕に当たってチーンとすずやかな音を立てる様は、冷厳な酒蔵の空気そのものとなって伝わってくるから、思わず一杯を汲む喜びを覚える。また、汲んでいただく方も、茶の湯と同じく、汲む間を楽しめる。その待つ呼吸がたまらないものだ。この酒を酌む雰囲気だけは、他の酒器では味わえないものがあった。(「酒肴讃歌」 高木国保)


カストリ、早苗饗焼酎
終戦直後の昭和二一年ごろ、カストリ部落とか、カストリ雑誌、カストリゲンチャーなどという流行語があった。当時カストリといえば、ヤミ市に氾濫した怪しげな密造酒をいい、本当の粕取焼酎をさしたものではない。その密造酒を造るところをカストリ部落、これを飲みながら焼きイカを肴に気炎を上げるインテリをカストリゲンチャー、粗悪な酒であったから一合、二合までは平気だが、三合飲めば悪酔いして潰(つぶ)れるというたとえから、粗悪な仙花紙に印刷した扇情的雑誌も三号目では潰れるというので、そういう本をカストリ雑誌といった。その後、そういう怪しげな密造酒と、本物の粕取焼酎を区別するために考え出されたのが早苗饗(さなぶり)焼酎という名称であった。粕取焼酎を造った後に出る蒸留廃粕を稲作肥料にすると多収穫となったことから、豊作を祈る焼酎として、また、ちょうど田植えの時期に重なって出まわるために、このような名前がついた。(「銘酒誕生」 小泉武夫)


芥川比呂志の痛飲
芥川比呂志は、痛飲する人で、酔って来ると、文字通り、酔っ払ってしまった。芥川はふだん、ていねいな口調で、正確に敬語や丁重語で話す人だったが、飲みはじめると、それがガラリと変わった。はじめ「そうですか」という相槌(あいづち)を打っていた芥川の目がすわって、「左様でございますか」と丁ねいな云い方をした時は、飲んでいない時のしゃべり方とは、ニュアンスが変って、酔いがすっかり定着したという転機であった。もっとも、酒の上で、いやなことをいったりはしない。警句が次々に出て、話術の達人だから、おもしろくもあった。一度、新宿の飲み屋で飲んでいた時、慶応の国文科の学生が居合わせた。芥川も私も三田なので、同窓の気分で、大いに打ちとけたが、何かの話のついでに「語源っておもしろいものですね」と、その学生がいい出した。私が「そうだね、浜の栗だからはまぐり、ささやかな蟹(かに)だから蜘蛛がささがに、朽ちた縄のようだから、蛇がくちなわ」といった。すると学生が「ああそうですか、腐った縄が朽ち縄ですか」というと、芥川が、「君ね、国文科の学生が、そんなことを初めて聞いて、喜んでいたら、だめだ」といった。学生は、だまって頭をかいていた。しかし、その夜、それから芥川は、何かというと話しかけたあとで、「ねえ、くちなわ君」と呼んだ。後日、芥川に「相当辛辣(しんらつ)だったね」といったら、「そんなこと、いったかしら」と笑っていた。つい先ごろ、三十年経った今、三田の国文科の教授になったその学生が、語源についての著書を送ってくれ、添えた手紙に「くちなわ君がこんな本を作りました」とあった。しかし、芥川は、もういない。(小説新潮83・3)(「六段の子守歌」 戸板康二)


飲み残し
彼女は口ごもりながら話し出した。「幻の日本酒を飲む会はこの『集』では最大の売り物です。店への貢献度はナンバーワンです。でもいわなければならないと思って決心しました」。そしてこう続けた。会員は吟醸酒については「通」といえる人ばかりだと思います。米をどうしたとか、杜氏さんが夜も寝ずにつくった酒だとかいいます。そして出品された吟醸酒を大事に飲んでいるようなんですが、会が終わって見るとテーブルには飲み残しのグラスがたくさんあるんです。しみったれでいうのではありません。幻の会の採算はちゃんとあっていますから。でも、飲みながら話すこととそのお酒を飲み残すことはいうことと、やることが丸違いじゃないかと思うんです。瓶に残されたお酒は後で大事に売っていますが、グラスに残されたものは捨てるしかありません。話の後半は涙声になっていた。そうか、そうなっていたのか。私は気がつかなかった。いや、私自身もそこまで気が回らないようになっていたのだ。私は伴江さんに謝った。そして今度の例会で、あんたからいいにくいだろうがぜひその話をしてくれないかと頼んだ。心当たりがある。私は自分のグラスに自分で酒を注いで飲む癖がついている。それなのに、テーブルに有名な酒があると、それを私のところへ持ってきてグラスの縁まで注いでくれる人がいる。その人は私にだけで酌をするのではない。あたりかまわずお酌をする。その時、その人のグラスは必ず空になっている。酌をされた相手は必然的にその人のグラスも満たす。酒を飲むのに規則はいらぬというのが私の自説であった。自分のテンポで自分の胃袋を満たせばいいのだから。だが、人のテンポが気になる人もいるらしい。(「「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎)


カナカウィスキー
戦争中の話だが、ニューブリテン島のラバウルに行ったとき、現地人は、みな、カナカウィスキーと称するものを食べている。檳榔樹(びんろうじゆ)の実とカバンと称するサンゴの粉末を木の実や葉と共に食すると、口の中で酒ができるらしい。口の中は、赤い液でいっぱいになり、ピーッと、それを大地にはく。だから彼等のまわりは、赤い液でいっぱいだ。しかし、それをやると、ゆかいそうにしゃべり、しかも、ほほも赤くなった感じになる。ウィスキーというからには酒の仲間に違いない。いずれにしても、どんなアジがするものか、たしかめてみようと、さっそくそのカナカウィスキーを食べてみた。はじめはしぶいようなにがいような味がしていたが、間もなく頭にツーンときて、目がぐらぐらしてきたので、あわてて全部はき出した。相当強烈なウィスキーとみえて、しばらくぼんやりしていたが、まわりに土人たちが黒山のようにたかり、ゲラゲラ笑い大騒ぎするので、何事がおきたのかと、年輩の将校が偵察にやってきた。早速将校室に連行され、ビンタの連打で我に返ったが、それからという者要注意人物ということになってしまった。(「気違い水」 水木しげる)


酒を基語とする熟語(6)
酒盆シユボン 酒を盛るはち。[杜牧「哭韓綽詩」]
酒魔シユマ 人に大酒を飲ませる魔物。[「太平広記」]
酒幔シユマン 酒屋ののぼり[王建「宮前早春詩」]
酒螺シユラ アワビの杯。[白居易「酬夢得見喜疾瘳詩」]
酒律シユリツ 杯の数飲み[「祅乱志」](「日本の酒文化総合辞典」 荻生待也)


大食会の興行
文化十四年三月何日カ日ハ不承候、両国柳橋万屋八兵衛方ニテ大酒大食会興行連中、稀人(まれびと)分書抜 酒組 一、三升入盃ニテ三杯、皆々へ一礼ヲ伸帰ル。 小田原丁 堺屋忠兵衛 丑六十八歳 一、同六杯半、其座ニテ倒レ、余程ノ間休息イタシ、目ヲ覚し、茶椀ニテ水十七杯。 芝口 鯉屋利兵衛 三十八歳 一、五升入盃ニテ一杯半、直ニ帰、聖堂前ニテ倒レ、明ケ七ツ時比迄打臥。 小石川春日丁 大阪屋喜右衛門 七十二歳 一、五合入盃ニテ十一盃、跡ニテ五大力ヲ謡、茶ヲ十四杯。 本所石原町 儀兵衛 五十七歳 一、三合入盃ニテ廿七杯、跡ニテ飯三盃茶十四杯、ジンクヲ踊る。 金杉 伝兵衛 四十七歳 一、一升入盃ニテ四杯、跡ニテ諷一番、一礼を伸帰ル。 山ノ手 御屋シキ者 三十三歳 一、二升入盃ニテ三杯半、路ニテ少々ノ内倒レ目ヲ覚シ、砂糖湯茶わんニテ十二杯。 同 御ヤシキ者ニテ 四十五歳 右ノ外酒連三四十人許有之候得共二三升位ノコト不記。-
右文化十四丁丑年三月催之(これをもよほす)、此書付酒井若狭守様ノ御家来松本大七方ヨリ借写置候処其後承候ヘバ虚説ノ由。(『文化秘筆』)
この対饌豪傑も烏有子亡是公(うゆしぼうぜこう)であったが、容易に嘘の皮が剥げたとみえる。しかし人物の点出法が巧みである上に、住所・職業・年齢までも相応に按排して、誠実らしく書き付けた手際は、よく一時を瞞過するに足りよう。そしてこの作者が誰であったかは知れぬが、『文化秘筆』の記者も小普請らしく、原書の提供者も勤番侍であるから、何にしても閑人の欠伸(あくび)よけから起ったことなのはいうまでもない。(「虚月爺二郎のモデル」 三田村鳶魚)


明月記
鎌倉時代前期の『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の撰者、藤原定家(一一六二~一二四一)は、十九歳から八十歳で亡くなるまで『明月記』と呼ばれる詳細な日記を書いている。その中にも食についての詳しい記述はないが、それでも珍しい定家の献立記事があり、古代、中世の貴族の日記にもこんなのは珍しいと、京都文化博物館主任学芸員の藤本孝一氏は言う。仲秋の明月のことではないが少し、紹介してみよう。つまり、建仁元年(一二〇一)後島村上皇の院宣によって『新古今和歌集』の編纂を命じ、編纂作業が追い込みのハードスケジュールに入っていたころ、毎日、和歌所に日参していた撰者グループはそれでも、息抜きに各自が趣向を凝らした酒肴を用意して持参した。そのことが『明月記』元久二年(一二〇五)二月二十三日の条に書き留めてある。前日に源具親(みなもとのともちか)が風流な割子(弁当箱)や巻物のような竹筒に入れた酒を取り出した。それに続いて定家は、『伊勢物語』に題材を取った饗宴を調えた。その日は行事が一つ延期になり、時間が生まれたので定家は酒肴を持参して和歌所に行き、宴の準備に取りかかった。まず土高品(つちたかしな 脚のついた土器)に小折敷(四方に折りまわしをつけた盆)を置き、柏の葉を敷き、海藻の海松(みる)を盛り、その上に『伊勢物語』八十七枚にある「渡り海のかざしにさすといはふ藻も君がためにはをしまざりけり」の歌を書いた栢で覆った。これは「海神が髪かざりにするという藻ですがあなたのために贈りましょう」という意味である。また折敷には絵を描いて盃を置いた。瓶子の口は紅薄様(べにうすよう)の檀紙で包み、鳥汁で満たしたというから、王朝時代のチキン(ダックか?)スープはどんなものか、食べてみたくなる。-(「慶喜とワイン」 小田晋)


古今夷曲集(7)
市 独友
本歌
杉たてる 門をしるしに 上戸ども よりたかりのむ 三輪の市酒
和田酒盛をよめる 正成
盃を 和田へとさゝば 大いそに 名をとらごぜの 鼻やそがどの
題しらず 治貞
我死なば 酒屋の瓶の したにをけ われて翻れて 若しかゝるかに(「古今夷曲集」 新群書類従)


柄樽えだる
判じてる内にゑだるのぬしが来る  一九9
【語釈】〇柄樽=柄を二本つけ黒や赤に塗った樽。酒を進物にする時に使う。
【観賞】酒屋の丁稚が柄樽を届けて来たにを、誰からの進物だろうと考えている内に、当の客が訪ねて来たという日常生活の写生。
【類句】どなただかお出でとゑだるを置て行  一〇36


工面がいい
戦争中、酒をついで、つい膳の上へこぼし、あわてて、口から先に「勿体ない、勿体ない…」と、舐めるようにすすったものだ。それがこの頃は、こぼしても敢えてかえりみない。その私を見て、伜が「親仁も、この頃は工面(くめん)がいいナ」といって笑った。ナニ、それは酒を知らない子供の言である。その頃は、酒が乏しかったのだ。今なら舐めない。しかし、グラスや壜に、ビールを残しては立てない。予め、飲めない酒は注文しない。生酔(なまよ)い本性を違(たが)えず-というわけであろう。いかに酔って帰っても、費った金の勘定は忘れないのと同じく、これも酒癖であろう。(「味の芸談」 長谷川幸延) 工面がいいとは、金回りがいいという意味です。


道具名之事(2)
一、次輪(つきわ)とハ、甑に次輪の事なり  〇「次輪」とは、こしきにのせる二段目のこしきのことである。
一、小狙(さる(18))とハ、甑の穴に当る物也。又、猫といふ。  〇「さる(18)」とは、こしきの穴に当てがうものである。別名「猫」ともいう。
一、口桶(19)とハ、樋(ひ)の口桶の事。   〇「口桶(19)」とは、口のところが樋状になっている桶のことである。
一、揚桶(20)とハ、醅(もろミ)持桶の事。  〇「揚桶(20)」とは、醪を入れる桶のことである。
一、手様(てため)とハ、手有桶の事。   〇「手ため」とは、取手のついた桶のことである。
(18)小狙 別名を「こま」ともいう。こしきの底の穴をおおい、蒸気をこしきの中に行き渡らせるために中に溝を刻んだ八角形の木製の道具(図参照)。 (19)口桶 酒船の樋(とい)口に使用する小さな桶。 (20)揚桶(あげおけ) 待桶、小出桶ともいい、醪を仕込桶から移すさいに使用する。(「童蒙酒造記」 吉田元校注執筆)


伊丹隣郷鴻池村山中氏
それが中に、摂州伊丹(せつしゆういたみ)に醸(かも)せるもの尤(もつとも)醇雄(じゆんゆう)なりとて、普(あまね)く舟車(しゆうしや)に載て台命(たいめい)にも応ぜり。依て御免(ごめん)の焼印(やきいん)を許さる。今も遠国(えんこく)にては諸白(もろはく)をさして伊丹(いたみ)とのみ称(しよう)し呼(よべ)り。されば伊丹(いたみ)は日本上酒(にほんじようしゆ)の始(はじめ)とも云べし。是又古来久しきことにあらず。元(もと)は文録(ぶんろく 禄)慶長(けいちよう)の頃より起(おこつ)て、江府(こうふ)に売始(うりはじ)めしは伊丹隣郷鴻池村山中氏(いたみりんそんこうのいけむらやまなかうじ)の人なり。其起(そのおこ)る時は、纔(わづか)五斗一石を醸(かも)して担(にな)い売(うり)とし、或は二拾石三十石にも及びし時は、近国(きんこく)にだに売あまりたるによりて、馬(うま)に負(おお)せてはるばる江府(こうふ)に鬻(ひさ)ぎ、不図(はからず)も多くの利を得て、其価(そのあたい)を又馬に乗せて帰りしに、江府ますます繁昌に「骨辶+上:左、下:月」(一字)(したが 随)い、石高(こくだか)も限りなくなり、富巨万をなせり。(「日本山海名産名物図絵」 千葉徳爾註解)


平和列車
ある時汽車の中で、窓のことで二人のおかみさんが口論になってしまった。「ちょいとあんた、窓が開いてたらあたし風邪ひいて死んじゃうわよ!閉めといてよ!なに言ってんのさ!窓閉めたらあたしが窒息して死んじゃうわ!開けとくのよ!」二人の視線はバチバチと火花を飛ばしそうなので、周りの人や車掌もほとほと困り果てた様子だったが、その時、酒でちょいと鼻の赤くなったヘルシェルがそれを聞いて、「ウーイ、ヒック。じゃあまず窓を開けて一人を殺しちまえ。次に、ヒック、。窓を閉めてもう一人を殺しちまえ。そうすりゃこの世は天下太平だァ」(「ユダヤジョーク 笑いの傑作選」 ジャック・ハルペン)


泥酔の思い出(2)
これはいまだからできる話の部分ではない。こんなことは米沢時代ときどきやっていた。ところでこの頃わたしは、山形県左沢(あてらざわ)で徴兵検査を受けた前後で、パンツの代りに徴兵検査のとき必着の越中ふんどしを、習慣のまま着用していた。そして正体不明のままに家に帰り、蒲団のなかで目覚めたとき、この着用していた越中ふんどしを着けていなかったのである。着のみ着のままで目覚めたのに、どうして越中ふんどしだけがないのだろう?わたしはひそかに寝布団のなかをまさぐったが、どこにもみつからない。こんなことがありうるだろうyか。消えた昨夜の記憶を何べんも反芻したが、合理的な理由をどうしてもみつけることができない。その頃は父親や母親や兄弟と同居していたが、これを話題にだすと親たちには、酔ったまぎれにその頃立石駅にあった悪場所へでもよったのだと解釈されるにきまっているとおもうから、いい出せなかった。それから実に長い年月、ある懐かしさといっしょにそのときの疑問がときに蘇ってくるのだが、いまでも納得のゆく解釈ができないままでいる。その時悪場所によるだけの正気さはなかったことは、まったく確かだが、記憶がないのに無意識の行動にまで確信をもてると断言するわけにもいかない。これがいまだからできるとっておきの話の部分だ。(「背景の記憶」 吉本隆明)


いせ源
そのほど近くにある『いせ源』は、鮟鱇鍋の専門店で、江戸時代の天保元年創業という老舗。天保元年といえば、吉田松陰や大久保利通が生まれた年である。さっきからいちいち何だといわれそうだが、ここもまた魅力的な木造建築で、入口を入ると下足番のオジさんがいてちょっとドキドキしてしまう。いかにも昔風の急で狭い木造階段を上がると、二階は開けたふすまで程よく仕切られた座敷になっていて、仲居さんに指定された席に座ると、あらかじめ人数分の鮟鱇と野菜の入った鍋が有無をいわさず出てくる。ここでは、客は全員鍋を食うのが大前提なのである。しかし、なんのクッションもなくいきなり鍋がセットされるとちと驚く。鍋に火がつけられ煮えるのを待つ間、ビールか酒を飲むが、ここがちょっと手持ち無沙汰。つまみをとってもいいのだが、つまみというのが、刺身とかあんきもとか、鮟鱇関連のものばかり。これらは値が張る上にあんきもは鍋にも入っている。ここは鍋が煮えるのを待つにかぎる。といっても、煮えるのにそんなに時間はかからない。グツグツとしてきたらもうOK。自分で具材を入れる手間もなく、あとは好きなものをつまめばよろしい。鍋には「七つ道具」といわれるバラエティー豊かな鮟鱇の部位がすべて入っているので、いろいろな風味と食感が楽しめて、何よりの酒の肴である。皮、ヒレ、きも、ほほ肉、胃袋、エラ、卵巣、の七つだが、実は、あんきも以外、私はどれがどれやらよくわからない。でも、美味きゃどうでもいいのさ。だいたいがゼラチン質でコラーゲンたっぷりといった感じ。別にお肌の調子なんか気にしちゃいないけど。ところで、「ここの鍋は濃すぎる」という指摘がある。評論家的に厳しくチェックするならいかにもその通り、確かに濃いかもしれん。しかし、私は『いせ源』に来て味が濃いという指摘は当たらないような気がする。東京の下町の味とはこんなものだ。老舗といわれるような店は、ジャンルを問わずたいてい味が濃い。その味の濃さも含めて老舗の味わいなのだ。(「晩酌パラダイス」 ラズウェル細木)