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御 酒 の 話 5


柳田国男による酒盛りの語源  川柳の酒句(6)  おにやけは酒のこと  二日酔いにはビーフシチュー  タピュロイ族  飲酒の男女差  新川大神宮  瓶底飲み  酒袋の商売  珍陀酒の飲み方  漱石の最後  九年母(くねんぼ)  不忍に左が利(き)いて飲みに出る  酒豪列伝(アイリアノス著)  靴下(「笑府」)  ばけ物  酒の味は水の味  標高3800mの酔い  川柳の酒句(5)  つけざし  神酒(ネクタール)  お秋の酒句  酒という字を分解すると  あさがら模様の目貫  郷飲酒(きょういんしゅ)  儚秋好みの肴  動物と酒  リビアの禁酒法破り  酒だらけ  新?・酒のことわざ  「水割りストロベリー」  馬の見立て  削る  酔狂い(撤酒風 「笑府」)  酔ったのを見た者が無い  北原白秋の酒句  子規の酒句  酔いを醒ますこと  酒一升の持主  家と家との共同の酒盛り  酒の代りに笹の実  川柳の酒句(4)  酔っ払いの真似  古代ギリシアの禁酒法  酒に縁のある名字  寺田寅彦の酒句  葛西善蔵の酒(3)  節哀の酒(「笑府」)   アルコール作用の分類  酒一合の値段  変わった「ヒネリ餅」  荒畑寒村の酒  さかだち日記  鈴木三重吉の酒  天王寺の酒  バッカスの饗宴  一茶の酒句(2)  酒のしるし(「笑府」)  鯨(かわくじら)  野坂昭如の酒  東海道 宿の客引き  鬼呑み  「つきだし」の語源  共同で酒を作る(「笑府」)  緑雨の「取分け好かぬ物」  ハンムラビ法典の酒に関する条項  酒のことわざ(2)  松尾神社・亀の井  ケンペルの見た日本人の飲酒  戦国時代のインスタント酒  酒をひたす(「笑府」)  網走番外地  酒蟹(しゅかい)  酒の字のある駅名  突き出し  川柳の酒句(3)  酒手の語源  硝子(ガラス)の徳利  うすい酒(「笑府」)  元禄4年オランダ使節の将軍への土産  織部の汁碗 酒二百文  塩豆  上戸の語源  貧乏樽  「税務署長の冒険」  大国魂神社の神事  生酒(きざけ)での乾杯  肴の看板  しゃれこうべ杯  ワインの醗酵  殿様の川柳  病人と酒  北条重時の家訓  善馬の肉を食いて酒を飲まざれば人をそこなう  あんぽんたん  お中元のさしすせそ  袋や宗古  キャリー・サルーン 花からの酵母  江戸の酒価  神田川の猪口(ちょこ)  よっぱらい  酒屋と都市の成立  タンブラー  南方性と北方性  寺内流湯豆腐  酵母をいじめない  あられ酒  合歓(ねむ)の花見  神無月の留守神  猩猩緋(しょうじょうひ)  上戸のことわざ  先生  平成15年11月16日千住復古酒合戦  酒呑地蔵  明治の蕎麦屋  放射能と酒(2)  銚子と徳利  転失気(てんしき)  千鳥足の酒句  井伏鱒二の含羞の酒  笹沢佐保の酒  「酔」のつく字  禁酒の願掛け  きのたま 大正の作家の酒  緑雨の玉子酒の句批判  丸谷才一の一升瓶嫌い  ウザク  古井由吉の酒  樽拾い(川柳)  芋酒  梶山季之の酒  ドロンコ  「酒の歳時記」中の酒句  狂歌作者名  長谷川一夫以下の共通点  「医学天正記」  新川(川柳)  耳杯(じはい)  毛吹草にある酒関係の季語  極上品は水に似ている  煮酒(にざけ)(季語)  下戸の川柳  文壇酒徒番付(昭和38年版)  開高健の酒による二日酔い対策  ディオニュソスの死  酒中花(2)  鼠尾馬尾鼠尾  キャベツ  「葉隠」での酒の話(2)  「葉隠」での酒の話  俊成の酒歌評価  さかづきの異名  酒税の変遷  佐々木久子の朝  酒の日常化  モームの名言  カミエビの語源  酒に縁のある植物  イスラームにおける酒  奈良時代頃の酒の話題  「うかうかと御出(おいで) とっととお還(かえ)り」  「さかや」  開高健の二日酔い対策  甲付(こうつき)  ウマヅラハギ  コップ座  其角の酒  東大寺二月堂のお水取り  灘目の海難供養碑  川柳の酒句(2)  奈良時代の氷室  良寛の酒  「毛吹草」の名物酒  イカリアに伝わる酒の神話伝説  K2の酒  Kの酒  貝原益軒の本音  「稲麹(いねこうじ)」(稲麹病)  鬼ころし酔いが覚めれば鍾馗なり  酸度とアミノ酸度の関係  数の子と酒  新宿・ハモニカ横丁  編み酒  七人の大和尚の飲酒  アルコール in インク  鹿型パズルゴブレット  戦後生化学界の大発見  禁酒の川柳  酒米の蒸しの香り  雪割り酒   ピョートル大帝の酒宴  男の収入三分法  酒のことわざ  販売員用の危機管理マニュアル  灘五郷の全国シェアの変遷  紀元2600年の昼酒  シェイクスピア「オセロ」中の酒のセリフ  「御遺告(ごゆいごう)」  「粕と共に去りぬ」  アレキサンドロス大王の「死の酒宴」  河盛好蔵・酒之買出  フランスで一番古い酒歌  菅原道真と酒  芝居好  酒飲み隔世遺伝説  川柳の酒句  裸の職人  木村蒹葭堂(けんかどう)  米屋與右衛門(よえもん)  酒桝星(さかますぼし)  ホラチウスの「書簡詩」  酔っぱらった私はこんな・奇行編  酔っぱらった私はこんな・暴力編  人肌の燗  季節によって変える酒の濃度  吉田屋酒店  亀の尾は酒造好適米でない  暮れのやりとり  「聞き酒」  酒呑みが作った酒  安岡章太郎の吟醸酒観  南極老人星  小津安二郎映画の酒  戦後日本酒(並等酒、2級酒)の値段  千束(ちつか)  「清酒」と「日本酒」  強いアルコール飲料の効果と危険 そら豆  十分杯(じゅうぶんはい)  大七皆伝の能書き  デカメロンの後書き  露伴と酒  レオナルド・ダ・ヴィンチの酒観  数の隠語  シャンパンの古酒  一茶の酒句  馬乳酒の感想  「江戸嬉笑」の生酔  美味礼讃の小話  柱焼酎  酒令  これはなんでしょう  大観と「生々流転」  煮売屋  酒をたしなんだおかげ  ベートーベンと酒


柳田国男による酒盛りの語源
昔は酒は必ず集まつて飲むものときまつて居た。−斯(こ)ういふ共同の飲食が即ち酒盛りで、モルはモラフという語の自動形、一つの器の物を他人と共にするといふことであつかたと思はれる。亭主役のちゃんとある場合は勿論(もちろん)、各人出し合ひの飲立て講であつても、思ふ存分に飲んで酔はないと、この酒盛りの目的は達したことにはならなかつた。
柳田国男の「酒の飲みやうの変遷」にあるものです。大言海は、倭訓栞の「昔ハ、杯ヲ勧ムル人、自ラ、杯ニ酒ヲ盛リテ、サスナリ」を語源として記載せています。そして、「盛る」という言葉には「器に入れて満たす」という意味があるとしています。柳田説のモラフがモルになるというのは少し無理があるように思いますがどうでしょう。


川柳の酒句(6)
あわもりで酒盛をする御殿山(付近に薩摩藩邸がある、泡盛は沖縄を支配した薩摩藩の名物)
こい口をならせば御用置いて行き(鯉口は刀の鞘の上部、侍が酒屋の小僧を脅して酒を置いていかせる)
盃をさし上げて居るやかましさ(マアマアとすすめるとモウモウと盃がどんどん上がっていく酒宴の風景)
貴殿身どもで酒代をつきちらし(酒代をどちらが払うかという武士同士のやりとり)
下戸のあたまへぶっかける酒の割(酒代を頭割りすれば当然下戸が損)
薬代(やくだい)を酒屋へはらふ無病もの(病弱の人は薬屋へ、無病の人は酒屋へ、世の中平等です、辞典とは別解釈です)
「江戸川柳辞典」(浜田義一郎編)にある酒句です。


おにやけは酒のこと
稚児(ちご)が久しぶりに家に帰ってきたそうです。稚児の住んでいる寺の坊さんから手紙が届き、稚児に対する気持ちが語られ、「おにやけに渇えている」とも書かれていたそうです。これを読んだ稚児の母が、おにやけとは何かと聞くと、答えに困った稚児は酒と答えたそうです。そこで、親は諸白の樽を十ばかり山へ持たせ、手紙を持ってきた使者にも「おにやけを召し上がれ」と酒をすすめたそうですが、下戸だという返事なので、「おにやけの実を召しあがれ」といったそうです。
「昨日は今日の物語」(東洋文庫」)にある笑話です。おにやけとはは若気(にゃくけ)から転じた言葉で、男色の若衆のことだそうです。酒のことだと返事をしたのは、「おにやけ」を「鬼焼け」と読み替えていった言葉なのでしょうか。「おにやけの実」とはここでは酒粕のことです。この頃の日本では男色が比較的普通に語られていたようです。


二日酔いにはビーフシチュー
午前中は死んだふりで過ごし、昼頃体に鞭打って、バラ肉、タン、オックステイル、肉を何でもと、玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモ、セロリの野菜の買い物に行き、帰ったら病身を横たえるのだそうです。動けるようになってきたら台所へ行き、肉を適当な大きさに切って、鍋に放り込み、水と酒を合わせて煮始め、煮立ったら弱火にしてニンニク数粒と、月桂樹の葉を2、3枚入れて再びベットへ倒れ込むのだそうです。4時間位たって野菜を入れるそうですが、煮汁が少ないようなら水なり酒なりを足して薄く塩味をつけて再びベットへ戻り、小1時間するとぼつぼつ生き返ってくる頃だそうです。ここでズルをして缶詰のドウミグラスソースを入れ、塩を足して味を決めて、そのまま20分弱火で煮るとできあがりだそうです。二日酔いはシチューを「作って治す」のだそうで、是を食べることによって再び二日酔いを楽しめるということのようです。(「美味んぼの食卓」 雁屋哲) シチューを食べて二日酔いを治すということではないことに十分ご注意下さい。


タピュロイ族
タピュロイ族の酒好きは非常なもので、酒に生き、一生の大半を酒とつきあって過ごすほどである。酒は飲用にあてるばかりではなく、他の国では体にオリーブ油を塗るところを、彼らにあっては酒は塗る。
これは、「ギリシア奇談集」(松平、中務訳)にある一節です。注には、この種族はカスピ海南岸に住むメディア系の一部族であるとあるます。ここで酒というのはワインです。そういえば日本人も、「性 酒を嗜(たしな)む」と魏志倭人伝に書かれていましたね。


飲酒の男女差
酒を飲むとアルコールは血中に吸収されて体内を巡回してにまんべんなくゆきわたります。そして、脳細胞にも臓器細胞にも、特に体重の70%を占める細胞中の水分の中へ入り込んでゆくのだそうです。ですから、同じアルコール量を飲んでも、体重のある人は酔いにくいということになります。また、女性は体内に脂肪を多く含むので、体内の総水分量が相対的に少ないため、同じ体重の男女が同じ量の酒を飲んだ場合、女性の方が血中アルコール濃度が高くなる傾向があるのだそうです。(「酒乱になる人、ならない人」  眞先敏弘) もちろん、体脂肪率の高い男性や、酒に強い女性は違った結果が出てくるのでしょう。


新川大神宮
東京都中央区新川1丁目にある新川大神宮は、はじめ代官町にあったそうですが、明暦の振り袖火事で類焼して後、霊巖島に幕府から代替地を拝領して移転したのだそうです。新川を河村瑞賢が開削した結果、一帯は酒の海上輸送の基地となりました。灘の酒の集積地となったからでしょう、酒問屋の信仰も多かったそうです。多分、番船競争の際でしょうが、新酒が届くと、初穂としてそれを神社に奉納し、その後に販売したそうです。富くじの興業も行われたようです。明治維新後は幕府の庇護がなくなり、酒問屋が主なる氏子となって神社を支えたようです。その後、戦災で焼けたため、昭和27年に酒問屋が中心となって現在の社殿が再建されたそうです。(主に境内の解説) 境内の石灯籠の裏側には「昭和十七年十月建工東京酒問屋統制商業組合」と彫られています。また、境内にある敬神会一覧にはアルコール関係の会社がずらりと並んでいます。


瓶底飲み
四国九州の多くの土地では、今でも祝宴の翌日又は翌々日、手伝ひ人や家の者を集めて、慰労の飲食を供することを、「瓶(びん)底飲み」とも「瓶こかし(たおす、ころばすという意味)」とも謂(い)っている。北国一帯では又是を残酒とも呼んでいた。乃(すなわ)ちこの酒宴の為に用意せられた酒は、此(この)際に底まで飲み尽くして瓶を転がすといふので、此日が過ぎるとあとは又永く酒無し日が続いたものと思はれる。(「酒の飲みやうの変遷」 柳田国男) 酒が商品として流通する以前、酒は神祭の日に神に捧げるためにその日に向けて準備して造られました。人々は祭事終了後にそれを飲んで直会としました。そしてその祭事を手伝った人たちに、後日感謝を伝えるために行われたものが「瓶底飲み」だったようです。


酒袋の商売
会津屋敷 皮草履(ぞうり)代、壱(一)ケ年に三千両ほど取込候。
小出屋敷より木履(ぼくり)之(の)はな緒(はなお)・酒袋 両様にて壱ケ年に千両づゝ。
これを語ったのは元禄時代の囲碁本因坊・保井算知だそうです。この頃から大名屋敷では自分の藩の名産を江戸藩邸を通して売っていたようです。小出屋敷とは、丹波国園部の伊勢守(いせのかみ)小出英利(ふさとし)であろうと注に記されてています。ぽっくりの鼻緒と酒袋(酒をしぼる時に、どろどろしたもろみをいれる袋)で各1000両とは、なかなかの大商いと言っても良いのではないでしょうか。それにしても本因坊はよほど色々なお屋敷に招かれていたようですね。「元禄世間咄風聞集」 長谷川強校注)にあります。


珍陀酒の飲み方
「これはオランダ人がバタビアで蒸留した酒ですから、少しはお飲み下さい。ほんの少しではありますが、オランダ人の善意と親愛を示すものと思(おぼ)し召し下さい」と言ってから、使者のために台付きのグラス、日本人が珍陀酒(ちんたしゅ)と呼んでいる酒をなみなみと注いだ。すると彼は、日本の流儀で両手に持ち二、三回口にもってゆくと、さもおいしそうに飲み干し、最後の一滴まですすり、それから畳の間や、煙草に使う紙やそのほかの紙の上に傾けて見せ、下の方でグラスの縁を親指か紙で拭(ぬぐ)って最後にカピタンに手渡した。
将軍への挨拶の返礼にと着物を届けに来た人たちに対するオランダ側の接待の一場面をケンペルが描いたものです。(「江戸参府旅行日記」斎藤信 訳) 今でも想像できる場面ですが、当時、酒を飲む際、指か懐紙で盃の縁をふいて戻すという習慣があったのでしょうか、それとも茶道にならったのでしょうか。珍陀酒は赤ワインのことだそうですが、ここでは蒸留したブランディーのようですね。


漱石の最後
(大正五年)十二月九日、漱石は絶望となり、親戚や弟子たちがみな枕頭に集まり、医者はただ、見守るばかりだったが、そこへ遅ればせにかけつけた宮本博士が、たとえ絶望にもせよ、医者は患者の息のある間は最後の努力を払うべきだと他の同僚を叱咤し、再び食塩注射がはじまった。その注射の効果か、漱石は、ふと眼をあけた。そして、「何か食いたいな」と言った。医者のはからいで一匙のブドウ酒が与えられた。「うまい」これが漱石最後の言葉であった。その日の夕方六時五十分、短い冬の日が、もうとっぷり暮れた頃、漱石は息を引き取った。五十歳であった。(「文壇ものしり帖」 巌谷大四)
夏目漱石は酒に弱く、飲むと酒乱になるたちだったと聞いたことがありますが、ワインを飲ませた医者は粋な人だったということでしょう。


九年母(くねんぼ)
ミカンの一種クネンボを酒の肴にする話を、酒聖の一人である中国文学者・青木正児(まさる)が「あまカラ抄」で書いています。
皮ごと竪(たて)に二つに割って、横に薄く切り、醤油を滴(た)らして食うと、酒の肴に珍無類、仙気を帯びた異味となる。子供たちは酸っぱいと言って軽蔑し、あの香気の素晴しさを説いて、皮ごと食えと教えても決して食わない。
伝道者の苦労が偲ばれますが、このあと、本人も、 なるほど実の酸っぱいのが玉に瑕である と書いていますが、この肴にあったのは清酒なのでしょうか、老酒なのでしょうか。そういえば、子規の句に「年忘(としわすれ)橙(だいだい)剥いて酒酌まん」がありますね。


不忍に左が利(き)いて飲みに出る(川柳)
上野・寛永寺(現在の上野公園内)の常行堂近くに時の鐘ではない、寛永寺の法要や行事の時に搗く鐘のある鐘楼があったそうです。その4本の柱の1本を京都・室町の左甚五郎が彫ったそうです。残りの3本は大坂・道頓堀の吉兵衛、野州(下野)・佐野の善兵衛、江戸・皆川町源太郎だったそうで、2本は関東、2本はは関西の人でした。左甚五郎は南の角柱に竜を彫ったそうですが、夜ごとに不忍池へ水を飲みに行くという噂が立ったそうです。(「考証 江戸の再発見」 稲垣史生) この本では不忍池の水を飲みに出るとなっていますが、表題の川柳のように、あいまい屋の沢山あったという近くの不忍池端の店へ酒を飲みに出たとみたほうが面白かったのでは。


酒豪列伝(アイリアノス著)
アテナイ人ディオティモスは口に漏斗をあて、注ぎ込まれる酒を一気に呑むところから「漏斗」と綽名された。スパルタ王クレオメネスは大酒呑みであったその上に、生酒を呑むというスキュティアの悪弊に染まっていたとされる。キオス島生まれの詩人イオンも、酒は生酒派であったという。
このほかにも、シケリアの僭主(せんしゅ)ディオニュシオス2世、ニュサイオス、ディオニュシオス1世の子ヒッパリノス、テーバイのティモラオス、オレオスの人・カリデモス等々の名前が並んでいます。(「ギリシア奇談集」 岩波文庫) それぞれに多くの逸話があったのでしょう。酒はワイン、生酒(きざけ)は割水をしない原酒です。


靴下(「笑府」)
さる嫖客(ひょうかく:遊女と遊ぶ客という意味のようですが、ここでは遊び人というぐらいの意味でしょう)の毛織りの靴下がひどく破れているのを、みんなで笑いものにして、「靴下に孔(あな)のある人を見つけたら、孔一つについて一杯ずつ罰杯を飲むこと」という酒令(中国での酒席における一種の遊び)を出した。するとその嫖客は、そっと両方の靴下を股のところまでずり上げ、足を出して「僕は今日は靴下を穿かないで来たんだ」(「中国明時代の「笑府」 松枝茂夫訳)
これはこれで面白いのでしょうが、自分でいくつも孔をあけて、十分罰杯を楽しんだという話の方が寝言屋的には面白いのですが…。遊び人風のやさおとこはアルコールに弱かったのでしょうか。


ばけ物
或人(あるひと)和尚(おしょう)に尋申(たずねもうし)候(そうろう)は、「ばけ物は世界に有之(これある)物にて候や」。和尚云く(いわく)、「成程(なるほど)多きものなり。其方(そのほう)なども逢(あい)候なり。人が色々かわり候がばけものなり。先(まず)上戸に酒を出(いだし)候に、さいぜん(最前)下戸をつくり一てき(一滴)もならずと云(いう)なり。是(これ)則(すなわち)ばけ物なり」と答しと也。(「元禄世間咄風聞集」 岩波文庫)
化け物はいるのかとの問いに和尚の答は、一滴も飲めないと答えていて酒を出されると上戸に変ぼうする者は化け物であるというものであったという話です。化け物を化かす物とみた解釈なのでしょうか。これも当時の老中・戸田山城守から聞いた話だそうです。


酒の味は水の味
雁屋哲の「美味しんぼの食卓」にある酒と水の関係を書いた部分です。水と酒の関係がよく分かります。
銘酒天狗舞を生み出す水はどんな水なのか車多家の井戸の水の味を見させていただいたのだが、その際息子さんが「酒が非常に良くできた時、その酒の味はまさにこの水の味です」と言われたのである。
水は単にうまみを溶かすための溶媒(ようばい)ではなく、うまみに生命を与える母体であることが分かってくる。  だから酒の場合も失敗すれば元の水の味を濁らせる。成功した時には元の水の味をふくらませ、元の水の味の性格を一層鮮明に引き出すということではなかろうか。


標高3800mの酔い
「二日目だからもう酒を飲んでもいいだろうと、食事の前にハイボールを二杯目を飲んだのが不覚だった。一杯目は何ともなかったが、二杯目を飲みほしたときには、普通の平地で八杯ぐらい飲んだぐらいの気持ちになってしまった。明らかに酸素不足のため早く酔ってしまったのだった。」(「チチカカ湖の鱒」 中屋健一)
ペルーとボリビアの国境にあるチチカカ湖は標高3800m位とかで富士山より高いところにあるようですが、富士山で酒を飲んでも同じような気分になるのでしょうか。ちなみに、鱒料理では酢漬けのようなものが一番おいしかったそうです。


川柳の酒句(5)
くせのある酒でくじらの太刀をはき(酒癖が悪いので鯨の歯に銀箔をはった安全な刀をさして飲む)
あくる朝女房はくだをまきもどし(前夜酔っ払ってまいたくだを翌朝女房にまねされる)
下戸へ礼を言って女房はそびき込み(下戸に連れてきてもらった酔っ払い亭主を家に引きずり込む女房)
剣菱を墓へかけたき呑仲間
からしするそばへけんびし(剣菱)持て来る(カツオを食べるためにカラシをすっている、カツオを肴に剣菱で一杯)
御酒きげんより見ぐるしいささきげん(御酒きげんは男、女房詞の「ささ」のきげんは女)


つけざし
昔の遊郭で、おいらんが自分の吸ったタバコのキセルを客に渡す、ツケザシという作法があったそうで、吉原に少し前まであった花魁ショーでも行われていたように聞いています。
「ツケザシは誰でも知つて居るやうに、本来は酒の一つの作法であつた。即(すなわ)ち酒盃の滴を切つてしまはずに、思ふ人の手に渡すことで、最初は多分同じ器から分ち飲むことであつたらうと思ふ。是が男女の情を通はす方式になつたのも自然で−」
と柳田国男の「女と煙草」にあります。すでに死語になりつつある「ツケザシ」という言葉ですが、明治大正期にはまだごく普通の言葉だったことが分かります。


神酒(ネクタール)
すなわちアフロディティが生まれたとき、神々は祝宴を催したが、その中にはメティス(巧智の神)の子ポロス(術策の神)もいました。そこで食事が終った頃に、ペニヤ(窮乏)は御馳走を当てこんで乞食をしに来て、戸口に立っていたのでした。ところがポロスは神酒(ネクタール)(葡萄酒はまだなかった)をたべ酔ってゼウスの園に這入ってゆき、そこで酔い草臥れて深い眠りに落ちました。するとペニヤは、困窮のあまり、ポロスによって子を得ようという一策を案出し、その傍らに臥してエロスを孕んだのでした。
プラトンの「饗宴」(久保勉訳)にある一節です。ギリシアの神々の関係はともかくとして、神酒(ネクタール)がぶどう酒ではなかったとしています。どんな酒を想定していたのでしょう。ハチミツの酒でしょうか。


お秋の酒句
天和元年(1681)、日本橋照降町の菓子屋の娘お秋13才が上野の山へ花見に行った折り、観音堂裏の枝垂れ桜を見て 「井の端の桜あぶなし酒の酔」 の句をつくり、枝にそれをつるして帰ったそうです。住職の法親王がそれに目をとめてほめました。その桜は名前にちなんで「秋色(しゅうしき)桜」と命名されたそうです。法親王はその後お秋を召して俳句の相手を命じたそうですが、お秋はこのときも名句をつくったそうです。土産をもらい、かごに乗せてもらって本坊を出ましたが、途中夕立にあったそうです。お供に混じって父親が居ましたが、お秋は父と入れ替わって自分は笠と合羽にはだしで家に帰ったそうです。お秋は其角に師事し、後には点者となって菊后亭といったそうです。何代目かの秋色桜の下にその句碑が建っているそうです。(「考証 江戸再発見」 稲垣史生) 今年の花見でやってみるのも一興でしょうか。 


酒という字を分解すると
戀(恋)という字を分解すれば、いとし(糸)し いとし(糸)と いう心 という有名なものがありますが、それをまねました。
酒という字を分解すると
 シ(さんずい)とり(酉)(一人)で飲むがよいとある。
 シル(汁)をニロ(煮ろ→お燗しろ)といっている(シ+ル+ニ+ロ=酒)
 サントリー(シ=三、酉:とり)にも縁がある(よいしょ)
 死(シ:さんずい)んだら壺(酉)にしておくれ
どうもお次がよろしいようで…


あさがら模様の目貫
或人(あるひと)後藤(彫金、ことに目貫の彫刻を業とする名家)に目貫(めぬき)を頼(たのみ)ほり(彫り)候に、「能酒(よきさけ)をほり(彫り)候様(よう)に」と申し候へば、「安き事なり」とて、あさがら(麻殻:麻の皮をはいだ茎)をほり(彫り)遣(つかわし)候よし。子細は能酒(よきさけ)は浅くからく有(これあり)候ゆへ、あさがらほり候よし。
刀身を柄に固定する装飾金具である目貫の彫刻に「よい酒を彫ってくれ」という依頼主の難題に答えた彫金師の機知の話ですが、「浅く辛く」とは、多分さっぱりとした辛さでしょうから、今とまったく同じセンスですね。続けて「悪しき酒を」と注文したところ、「州浜(すはま:州が出入りしている浜辺)」を彫ってきて、これは「酸く甘く(す あま)」だそうです。「元禄世間咄風聞集」(長谷川強校注)にある、老中から聞いた話だそうです。


郷飲酒(きょういんしゅ)
祖父が孫の過ちを罰して石段の下にひざまずかせたところ、孫の父も一緒にひざまずいて立たなかったそうです。祖父が聞くと、「あなたがわたしの子を折檻なさるのに、わたしとしてあなたの子(つまり自分)を折檻しないわけにはまいりませぬ」と返事したという話が、中国・明時代の「笑府」((松枝茂夫訳)にあります。そしての後に、「孝子でもあるでもあり慈父でもあり。このような人物には、郷飲酒を飲ませても、その資格十分である。」と記されています。この「郷飲酒」というものは、古代中国で、「諸侯の卿大夫が、世の隠れた賢者や一枝一芸に秀でた者を君主に推薦し、辞去するときに賓客の礼をもってこれに賜る酒」と注にあります。この感覚は既に今の日本には通じなくなっているでしょう。


儚秋好みの肴
青紫蘇の穂をしごいて入れた大根おろし、玉子の黄身だけに醤油を落としたウニの即席代用品、さっと茹でて七味唐辛子を振った京菜などの即席の肴に感心し喜んだりしたものだが、近頃はウインナ・ソーセージの辛子醤油、蟹鑵と胡瓜のマヨネーズ和え、シューマイ、カツ、テキ、茹で玉子のフライ、コキールなども酒の肴として愛用するようになった。
二戸儚秋の「日本酒物語」にあります。後半の肴は今では別に違和感はありませんが、昭和35年当時にはかなり前衛的なものだったのでしょう。今は、前半の方が面白そうなつまみです。


動物と酒
言葉を持たぬものはすべて生まれつき酒とは相性が悪いが、とりわけ、葡萄(ぶどう)の房や種子を食べすぎると酔ってしまう動物はそうである。烏もいわゆる「酒草(オイヌウツタ)」を食べると酔っ払うし、犬も狂躁状態になる。猿と象が酒を呑むと、象は闘争心を忘れ、猿は猿知恵を忘れる。こうしてたわいなく捕まってしまう。
2〜3世紀にギリシア人・アイリアノスによって書かれた「ギリシア奇談集」にある文です。動物を酔っ払わせて捕まえるという方法は面白そうですね。「酒草」がどんなものか分かっていないそうです。これが分かれば烏対策に使うことができるのでは。


リビアの禁酒法破り
三好徹の「旅寝の酒」の中の話です。カダフィ政権は禁酒法を施行し、酒は買っても売っても、飲んでもいけなく、さらに、リビア人だけでなく、イスラム教徒ではない外国人も対象になったそうです。この法律破りの一つに、商社マンから聞いた話として、缶入りの清酒を持ち込むことが紹介されています。トリポリ空港で抜き取り検査はあるものの、リビア人は清酒を知らないそうで、調味料だといえば通ってしまうそうです。ほかにもヘアトニックの瓶にウイスキーを詰めて持ち込むという手もあるそうです。
これは昭和51年の文章ですが、今はどうなのでしょう。


酒だらけ
酒酒と酒屋酒売る 酒枡に 酒を酒をとさけぶ酒飲み
「月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月」で月が8回、「瓜売りが瓜売りに来て瓜売り残し売り売り帰る瓜売りの声」で「うり」が9回です。余り上手ではありませんが、上の句でも9回「さけ」が使われています。同じ2文字を57577の中に10回使うというのはかなり難しいでしょう。だれかやってみませんか。


新?・酒のことわざ
徳利孤ならず必ず追加あり(1本飲めば必ず何本にも)
吾(われ)唯(ただ)酒の足らざるを知る
腐っても飲みたい(少しすっぱいですが)
名酒(なさけ)は人の為成らず
暑さ寒さもお燗まで
三勺飲んで師の影口をいわず(いうでも同じようなものかも)
元のことわざはお分かりですか?(徳孤ならず必ず隣あり、吾唯足を知る、腐っても鯛、情けは人のためならず、暑さ寒さも彼岸まで、三尺下がって師の影を踏まず)


「水割りストロベリー」
昭和20年、巌谷大四が東方社という陸軍参謀本部直属の対外宣伝機関に勤めていたとき、社の誰かが苺のエッセンスだという、怪しげな真紅の液体を一升瓶で持ってきたそうです。酒のない時代だったので、皆喜んで、コップにそれを三分の一ほど入れ、水をつぎ足して呑んだそうです。呑んでみると味もそっけもなく、苺の匂いばかりがぷんぷんしていたということです。しかしこれは大変なアルコール度をもったもので、多量に呑んで広間のソファーにひっくり返る者が続出したそうです。(「文壇ものしり帖」 巌谷大四) この時代は苦味チンキやインク、メチルなど色々なものが飲まれたようですが、「味もそっけもなく」という表現からして、結構上手に蒸留してあったアルコールだったということなのでしょうか。


馬の見立て
比丘尼(尼僧)3人が歩いていて馬の勃起した一物を見たそうです。その見事さに名前を付けようということになり、一人目は九献(九献は酒の女房詞)、二人目は梅法師、三人目は鼻毛抜きとしたそうです。梅法師(梅干し)は見るたびにつばがたまるから、鼻毛抜きは抜くたびに涙が落ちるからだそうです。九献は、「酒は昼飲んでも夜飲んでも、飲みさえすれば、心がうきうきして楽しいもの。そのうえ、酒は三々九度といって献数が定まって、九度が本式。それ以上は相手の精力次第。」なのだそうです。(「昨日は今日の物語」 武藤禎夫訳) 二人目と三人目の名付の方がよさそうですが、それにしても比丘尼も人の子です。


削る
甚五郎 左がきいて けづるなり
削るほど 笑上戸は 角がなし(「東海道中膝栗毛」 麻生磯次解説)
大工仲間の言葉で、酒のことを板というために、酒を飲むことを「板を削る」とか「板をひく(のこぎりで)」といったそうです。これからできた川柳のようです。左甚五郎は酒飲みだったのでしょうか。ところで酒を「いた」というのは、「伊丹(いたみ)」からきたということのようですが、私は何となく、大工言葉の「いたを削る」といった言葉は、伊丹発展より前からあったような気がするのですがどんなものでしょう。


酔狂い(撤酒風 「笑府」)
造り酒屋に住んでいる鼠が、米倉の鼠に何度もふるまいを受けたので、一つお返しをしましょうと招待し、米倉の鼠の尻尾を口にくわえて、酒甕の中に釣り下げ、酒を吸わせる。下の鼠が、「頂きます」といったので、上の鼠もおもわず、「どうぞ「と返事をしたとたん口がひらいて、下の鼠ドブンと落ちる。やがて酒を浴びてる音がするので、上の鼠、「頂きますといったばかりなのに、もう酔って暴れているのかなあ」(「笑府」 岩波文庫)
ケース1:上の鼠は下の鼠がきらいだった ケース2:下の鼠は泳ぎながら飲んでいた ケース3:酒甕にはわずかしか酒は入っていなかった ケース4:酒蔵の鼠は蔵元から金をもらっていた…


酔ったのを見た者が無い
御馳走のあった時なども、本当にそれを味わい楽しむ力を持っていたのはこの人だけだった、特に飲むことにかけては。少しも飲みたくなくても、強いられれば、いつも皆を負かしたものである、それになによりも一番不思議なのは、まだ誰も○○○○○の酔ったのを見た者が無いということである。
こういわれているのは誰でしょう。時と場所は紀元前416年のギリシア、語っているのアルキビヤデスです。プラトン著の「饗宴」(久保勉訳)にある一節です。もちろんは○○○○○はソクラテスです。この天才は意志ばかりでなく酒も大変強かったようです。


北原白秋の酒句
新春と今朝たてまつる豊御酒は とよとよとありてまたたのたのと
しゅんしゅんと煮立つ酒かも吾が弟と 春早き丘に来り火をたく
独居はなにかくつろぐ午たけて 酒こほしかもこの菊盛り(「日本酒物語」 二戸儚秋)
柳河の御用商人であった酒蔵に生まれた白秋は大酒家だったそうで、夜明けまでゆうゆうと飲みつづけたそうです。


子規の酒句
土器(かわらけ)に花のひつゝく神酒(おみき)かな
寝ころんで酔いのさめたる卯月(うづき)哉(かな)
昼時に酒しひらるゝあつさ哉(かな)
古妻(ふるづま)の屠蘇(とそ)の銚子をさゝげける
花の酔さめずと申せ司人(つかさびと)
酒あり飯あり十有一人秋の暮
年忘(としわすれ)橙(だいだい)剥いて酒酌まん
虚子を待つ松覃酢(まつたけずし)や酒二合(「子規句集」 高浜虚子選)
子規はそれほど飲めない体質だったようですね。晩年の病床ではワインを時々飲んでいるようです。


酔いを醒ますこと
酔って苦しいのを一番早く楽にしようと思ったら、南天の葉を噛むのだね。ただ歯で噛んでいるとじきに吐気を催してみんなお酒を吐いてしまう。田舎ではご馳走に呼ばれる人がむりな酒を強いられた時の用心に、南天の葉を懐中に入れて行くこともあるそうだよ。吐くのがいやなら、玄圃梨(げんぽなし)の実を噛んでも、茎を噛んでも、木の皮を噛んでも、酒の酔いが奇妙に冷めるものだよ。…酒に酔わない盃だといって売っている木の猪口(ちょこ)は玄圃梨でこしらえたものだよ。
村井弦斎の「食道楽」にある一節を復刻したものだそうです。(「酒雑学百科」 永山久夫) こういうことの実験結果は意外と知られていません。試してみた方があったら教えてください。


酒一升の持主
「学校給食にお食事券」という新聞記事が、本当は「学校給食の汚職事件」だったという同音異字型の誤植だったそうです。同様に、「某はかねてから酒一升の持主として当局でも注目してる人物」という記事も、本来は「左傾思想の持主」という文言の誤植であったそうです。私はてっきり作りばなしだと思っていたのですが、外山滋比古の「ことばの四季」によると、後者は戦前の新聞であったことだそうです。記事を電話で送稿するために起こったことだそうで、現在なら滅多にないことでしょう。酒のことだけに簡単には酒られないということなのでしょう。


家と家との共同の酒盛り
一つの家の中で行われる神と人との共同飲食のほかに、家と家の間で行われる2種類の酒盛りがあったと柳田国男はいっています。一つは村内同士で行われるものであり、もう一つは外部からやってきた人々との間で行われるものだそうです。前者は、上代、ニヘ(にえ)といわれていたそうで、誰が主人ということはなく、皆が均等に費用を分担することを例としたものだそうです。後者は、これと比べると起こりは新しいそうですが、心を開くという意味においてはこのほうが必要性は大きかったといいます。すぐれた異郷人の訪問、部落外の婚姻等によっておこなわれるものもので、こうした酒盛りが、料理、歌舞、茶の湯等の発達を促したと柳田は見ているようです。(「餅と臼と擂鉢」)


酒の代りに笹の実
ある人、若衆(わかしゅう)の訪問をうけたので「本当に忝(かたじけ)ないことじゃ」といろいろとご馳走する。「別段何も、お肴(さかな)はござりませぬが、御酒一献、さしあげましょう」とすすめると、若衆につきそってきた草履取り(ぞうりとり)の三八が、まかり出ていうには、「そのようにお酒をお強(し)いなされますな。今朝も、徳利を振ってみたが酒がなかったといって、笹の実を食べ、それで今もって顔が赤いくらいでございますから…」
これは、寛永の始めにできた近世笑話の祖といわれる「昨日は明日の物語」(東洋文庫)にある話です。笹の実は粕で、草履取りまで従えた若衆が粕を食べて酔っていたという笑話です。こうした話のかなり古いものの一つでしょう。


川柳の酒句(4)
河童を皿へ 居酒屋の三杯酢(河童はキュウリのことです)
酒なくて見れば桜もかっぱの屁(有名な句ですね)
品川の 芸者は蟹の髑髏盃(どくろはい)(これはこうら酒だそうです、もっとも平家がにのこうらには平氏武者の顔が見えるとか)
酒の銘 工夫鬼貫(おにつら)たのまれる(俳人上島鬼貫は銘醸地伊丹の生まれだったので、酒の命名を頼まれたろう)
切落し どじゃうに酒をかけたやう(切落しは芝居舞台の前の大衆席)(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎)
色々あるものです。 酒の字をいれれば自然句が生まれ 


酔っ払いの真似
われわれはある時は立ち上がってあちこちと歩かなければならなかったし、ある時は互いに挨拶し、それから踊ったり、跳ねたり、酔払いの真似をしたり、つかえつかえ日本語を話したり、絵を描き、オランダ語やドイツ語を読んだり、歌をうたったり、外套を着たり脱いだり等々で、私はその時ドイツの恋の歌をうたった。しかし、わが長官の威信が傷付けられてはならないと、高官達が気づいたので、カピタンは跳ねたりしないで済んだ。(「江戸参府旅行日記」 ケンペル)
島崎藤村の「夜明け前」にもありますが、これは江戸へ挨拶にのぼったケンペル達がすだれをはさんだ将軍綱吉らの前でその指示によって行われたことの描写です。これらが、高官の家に挨拶に行くごとに繰り返されたのですから、ケンペル達はたまったものではなかったでしょう。


古代ギリシアの禁酒法
マッサリア(マルセイユ)では女性は酒を嗜んではならず、年齢を問わず皆水を飲まなければならなかった。テオプラストスによると、この法律はミレトスでも執行され、イオニア系の女性は従わなかったがミレトスの女性は従ったという。
古代ギリシアのアイリアノスによる「ギリシア奇談集」にあります。この法律も多分長くは続かなかったことでしょう。日本では女性を対象にした禁酒法はなかったように思います。


酒に縁のある名字
酒井、酒伊、酒居、酒依、酒出、酒泉、酒入、酒折、酒川、酒掛、酒作、酒師、酒田、酒谷、酒戸、酒徳、酒舟、酒部、酒巻、酒見、酒美、酒本、酒寄、酒匂、升井、升川、升崎、升田、升光、升野、升水、升元、升本、升森、桝井、枡宇、桝岡、桝潟、枡田、桝谷、桝野、樽井、樽石、樽川、樽沢、樽見、樽味、樽元、樽谷
これは、二戸儚秋の「日本酒物語」にある電話帳から見つけたものだそうです。以前ご紹介した「酒の字の入った名字」と炙る者もありますが、まだまだ沢山ありそうです。


寺田寅彦の酒句
客観のコーヒー 主観の新酒哉(かな)
「柿の種」にある句です。カフェインで頭が冴えて外がよく見えるようになるといったイメージのコーヒーと、酔うと俺が俺がという自己主張の進んでいきそうな酒とを、客観と主観という対比にしたものなのでしょう。同じ本に、芭蕉と歌麿を対比した文もあります。前者は氷水、後者はクラレット(ボルドーの赤ワイン)を飲む、隣室でジャズが始まると後者は顔がクラレットのせいもあるか急に活き活きとしてきて、後者はニコニコしながら、一片の角砂糖をコーヒーの中に落としてじっと見つめているといったものです。多分似たような雰囲気のものでしょう。この新酒というのは今の私達が思うしぼりたての酒の味ではなく、春売られる新酒の多めに入った火入れをした酒の味ではないかと思うのですがどうでしょう。また、新酒は酔いやすいという評判があったのでしょうか。


葛西善蔵の酒(3)
雑誌「改造」が葛西善蔵に100枚位の中編を依頼したもののなかなか進まないので、信州別所温泉の大島屋という旅館に大正5年5月に一ヶ月滞在して書いてもらうことになったそうです。最初は飲まなかった葛西ですが、酒好き作家の万造寺斎が来たこともあってすぐに連夜の酒宴となり、莫大な借財をつくってしまったそうす。それでも、ようやくそこでできた作品が「不能者」だそうです。この稿料百数十円が送られてきたものの足りないので、葛西は次の原稿の前借りを依頼したそうです。そこで、春陽堂の「新小説」から借りた100円を久米正雄が救援使節として持ってきたそうですが、これも飛んで火にいる夏の虫で、たちまち一緒に飲み尽くしてしまったそうです。結局、久米が旅館の若主人を説得して、その保証で他の借金をひとまず待ってもらってようやく東京に帰ることができたそうです。宿賃が1ヶ月で3〜40円の時代だそうです。(「文壇ものしり帖」 巌谷大四)


節哀の酒(「笑府」)
中国・蘇州では、死者を荼毘(だび)に付して野辺送りをする時に、親戚友人が酒をとどけて喪主(もしゅ)を慰める風習があり、これを「節哀(せつあい)」といっている。ある人、死んだ父の野辺送りをして、節哀酒を貰(もら)い、へべれけに酔って家に帰ると、その母を見てゲラゲラ笑いつづける。母が怒って、「このばか鼈(すっぽん)め、お父さんが亡くなって何が嬉しいんだよ。私の顔を見てゲラゲラ笑うなんて」というと、「お母さんのことで、もう一度飲めると思ったものだからね」(「笑府」 松枝茂夫訳) 
これは一種のブラックユーモアですね。


アルコール作用の分類
アテネの財政家オイプロス(BC405〜BC330)という人がワインの作用レベルをを十段階に分けているそうです。
1、健康 2、愉快と愛 3、睡眠 4、放縦 5、わめき 6、からかい 7、喧嘩 8、自我主張 9、憤怒 10、狂乱
エピテトス(AD60〜AD140)という哲学者はブドウ樹は三種類の異なった果実をつけるといっているそうです。
1、愉快 2、喧噪 3、破滅(「ワインの世界史」 古賀守)
日本人でこうした分類をしている人はいましたっけ。


酒一合の値段
侍「よい酒があらば、ちくと(少しばかり)出しなさろ
女「ハイハイ三十二文のをあげませうかヤア
侍「今すこし下直(かちょく:安い)なのはなんぼじや
女「廿(二十)四文のもおざいます
侍「しからばソノ二十四文の酒と、三十弐(二)文の酒と、等分にわつて、壱(一)合五勺ばかり出しなさろ
女「ハイハイ
トかつて(勝手)より、ちろり、さかづきをもちきたりて、さかなのにつけ(煮つけ)などをだす(「東海道中膝栗毛」)
酒を混ぜさせるのはその後に来るギャクの導線のようですが、当時の酒一合の値段が分かります。


変わった「ヒネリ餅」
私達が少年の頃には、酒屋の職人たちが酒の仕込の日に、蒸した白米を釜からつかみ出して、ヒネリ餅というものを拵(こしら)へて居た。普通には扁平な煎餅(せんべい)のようなものしか出来なかったが、巧者な庫男(くらおとこ)になると是で瓢箪や松茸や、時としては、又人形なども作り上げた。蒸米は冷えるとすぐに固くなるので、熱いうちに手を火ぶくれして斯んな技術を施したのであつた。
これは、柳田国男の「餅と臼と擂鉢」にあります。柳田国男がこんなことまで知っていたのかと、その知識量のすごさを改めて実感しました。


荒畑寒村の酒
故大杉栄とともに雑誌「近代思想」を出していた時代だったから、大正二、三年ごろだろう、今は豊中市に住んでいる和気律(わけりつ)と大杉と私(荒畑)と三人、銀座の牛肉店松喜(まつき)で飯を食ったことがある。いける口の和気が二合の徳利をあらかた傾け、大杉と私が二、三杯ずつ飲んだところ、私は腰が立たなくなってしまった。両の腕を二人にかかえられ、蹌々踉々として銀座裏の和気の下宿にやっと辿りつき、前後もしらず眠りこけて目がさめたのは実に三時間の後であった。…「君は三杯の酒で三時間眠りこけたんだぞ。一杯一時間に当たるじゃないか。おかげで飛んだ迷惑をした。君みたいな、酒の上の悪い人間は見たことがない」(「あまカラ抄」2 冨山房百科文庫) 本当はわが家頁にのせるべきものではないのですが、あまりにも面白いので…。


さかだち日記
中島らもの禁酒(酒断:さかだち)日記です。
「しかし、おれはほんとうにアルコールを摂取すれば、小説の案が浮かぶと思っていたのだろうか。公園かどこかで、敗北感にうちのめされながら一合の酒を飲んで。そうではないだろう。酒はおれにとって、とうに忘れ去られているジンクスに過ぎない。仕事部屋に帰って睡眠薬を飲んで寝てしまう。」 …「おれは決めた。一年のうち十一ヶ月は馬車馬のごとく働いて、残り一ヶ月はアムステルダムに居続けを決めることにした。」(「さかだち日記」 中島らも)
酒を断ってドラックに移行してしまう典型的な例であるといっていいでしょう。何とかならないものなのでしょうか。


鈴木三重吉の酒
漱石の弟子だった鈴木三重吉は酒乱だったそうです。「随分酒を御飲過(おのみすぎ)ならぬ様 願上候(ねがいあげそうろう)」という漱石からの手紙もあるそうです。「以後は仰せ(おおせ)の如く、大いに酒を慎む覚悟に存候(ぞんじそうろう)」という返事を出しているそうですが、すぐに町で酔ってけんかをしてケガで入院してしまったそうです。漱石没後、未亡人への正月の挨拶でもべろべろになって皆にかつがれて人力車に押し上げられて帰るという有様だったそうです。(「文壇ものしり帖」 巌谷大四) 童話作家の興味深い一面ですね。


天王寺の酒
この地の飲料水は少し泥臭くて悪い。けれども全国一のよい酒を飲むことができる。この酒は隣接する天王寺という村で造られ、大量に他の地方へ出され、またオランダ人や中国人によって輸出もされている。
この文章は何だかお分かりですか。元禄4年(1691)に行われた江戸参府旅行の際のケンペルよる日記(「江戸参府日記」東洋文庫)にある「大坂」の部分です。まだ、この当時は灘ではなく天王寺の酒が強かったことや(帰りに灘近辺を通った文章がありますが酒のさの字もありません)、輸出もされていたことがわかります。そして、当時も水がまずかったことも。


バッカスの饗宴
よく見ると、木の幹には、いくつとなく、小指の頭ぐらいの穴があいて、その穴の周囲の樹皮がまくれ上がって、ちょうど、人間の手足にできた瘍(よう)のような格好(かっこう)になっている。虫類はそれらの穴のまわりに群がっているのである。人間の眼には、おぞましく気味の悪いこの樹幹の吹き出物に人間の知らない強い誘惑の魅力があって、これらの数多くの昆虫をひきよせるものと見える。私はこの虫の世界のバッカスの饗宴を見ているうちに、何かしら名状し難い、恐ろしいような心持ちに襲われたのであった。(「柿の種」 寺田寅彦) 漱石の弟子で、物理学者の寺田寅彦の俳句雑誌巻頭文章集の一部です。樹液に群がる昆虫をバッカスの饗宴といっています。


一茶の酒句(2)
杉の葉をつるして見るや濁り酒
行く秋を唄で送るや新酒屋
猿の子に酒くれるなり茸狩り
大火鉢またぎながらや茶碗酒
大酒の諫言(かんげん::いさめる言葉)らしや閑古鳥 (「日本酒物語」 二戸儚秋)
「一茶俳句集」に漏れている句ですからあまり「酔い」出来とはいえないようですが、分かりやすいですね。


酒のしるし(「笑府」)
客に酒をふるまうのに、女房、一本出すごとに鍋のすすで顔に一棒を引いて数をとる。ところが主人しきりに酒を求めてやまぬので、童子が、「お酒はもうお控えになって下さいまし。奥様のお顔がちと見苦しくなりました。」
中国・明の時代、中流以上の家庭の主婦はよほどの場合でない限り、客に顔を見せることはなかったそうです。(「笑府」 松枝茂夫) 


皮鯨(かわくじら)
唐津といえば、無地の「ぐいのみ」で、口辺にぐるりと黒く鉄釉のかけられたものを「皮くじら」と呼んで、酒徒は、特に古陶好きの呑んべは大喜びする。つまり皮のついた鯨身への連想から「鯨飲」ということにつなげ、酒量を誇る呑んべたちのお気に召すのである。(「酒器の変遷」 村山武一)
盃の縁の黒い部分が、鯨の肉と黒皮に似ていることからいわれたようですが、いとじりをもって鉄釉に浸したか、筆でふちの部分に鉄釉を掃いたのでしょう。「黒く」とありますが茶色の方が多いのでは。


野坂昭如の酒
僕は典型的なアルコール依存症だから、飲むと一週間くらい連続飲酒となる。だからふた月やめていて一週間飲む、三月(みつき)やめて一週間飲む、という具合に、前にも酒をやめているんです。
いま酒をやめていられるのはこれのおかげですね(と薬の入ったびんを出して)。抗酒剤のシアナマイドというのを病院でもらってるんです。これを1ccでもいいから、とにかく朝飲む。(「さかだち日記」 中島らも)


東海道 宿の客引き
藤沢 お休みなさいやアし。酔(よわ)ないさけもござりやアす。ばりばりする強飯(こわめし)をあがりやアし。
山中 おやすみなさいまアし。くだり諸白もおざりやアす。もち(餅)よヲあがりやアし。
三島 お泊まりなさいませお泊まりなさいませ。  しょうちゅううり 目のまはる焼酎をかはしゃいませ。
吉原 お休みなさいやアせ。さけ(酒)ウあがりやアし。米の飯をあがりやアし。こんにゃくと葱のお吸物もおざりやアす。
一九の「東海道中膝栗毛」です。東海道宿々での留女(とめおんな)等の面白くした袖引き風景です。それにしても、弥次さん喜多さん連日の飲みっぷりはたいしたものです。一九も酒好きだったのでしょう。


鬼呑み
鬼呑みとは毒味の作法だそうです。室町時代の作法書「風呂記」にあるそうです。
鬼呑みと申し候はば、左の手の平に一滴請(う)けて、銚子を上に置き、右の手を下ろし、左の手を上にして吸うなり。手を袴にて、そと拭(ぬぐ)うなり、盃さす人と盃のむ人との姿の見ゆる習なり。(今様に直してあるそうです)
要するに左のてのひらに酒をこぼして、すするところを主人からも客からも見えるようにしたことだそうです。(「酒と社交」 熊倉功夫) 物騒な時代の習慣ですが、味の分かる人がしたら和製ソムリエになれたのでは。


「つきだし」の語源
筆者の勤務していた大東文化大・板橋校舎裏門近くにあった翁鮨で出た鉄火丼に、酢醤油、ワサビ付きのトコロテンが添えられていたそうです。これで、トコロテンが「つきだし」の原点であることに気が付いて、筆者長年の謎が解けたそうです。江戸時代から東京には辛口の食前料理としてのトコロテンがあり、これが酒を呑む前のオードブルとして使われていたということだそうです。一説として残してもよいような気がします。筆者は荻原朴で、「語源の快楽」にあります。


共同で酒を作る(「笑府」)
甲乙相談し、資本を出し合わせて酒を作る。甲、乙に向かって、「君は米を出せ。僕は水を出すから」
乙 「米は全部出すんだったら、勘定はどうなる」
甲 「僕は決して良心に恥じることはしないつもりだ酒が出来た時、僕には上水(うわみず)だけ返してくれたらよい。あとは全部君のものだ」(中国・明時代の「笑府」(松枝茂夫訳)) 


緑雨の「取分け好かぬ物」
○今の世に取分け好かぬ物はと、飽(あ)くまでわれを片意地に仕做(しな)したる人の、わざとの如く問寄(といよせ)るに答へて、壮士芝居と電話と、瓶詰の酒と也。一たびも自ら誂(あつら)へしことなし、掛けしことなし、観(み)しことなし。
斎藤緑雨の「あられ酒」にある一節です。明治30年頃の新しいものが分かりますね。「へそまがり」の明治の作家緑雨には、瓶詰めの酒はおいしそうに見えなかったのでしょうか。今の酒パックの酒は飲まないというのとは多分違います。


ハンムラビ法典の酒に関する条項
古代バビロニアのハンムラビ王の有名な法典は、バビロンのベル・メロダッハ寺院の石柱に刻まれているのだそうです。この法典の酒に関する条項が、古賀守の「ワインの世界史」にあります。それによると、神殿に仕える女性がワイン商を営むことを禁じたり、ワイン商が酔い癖の悪い者・酔って騒がしい者にワインを売ることを禁じたり、それに関して、ワイン商のワインの販売量を規制したり、また、ブドウの収穫期には、酒を飲むことを制限したりしているそうです。はじめの神殿の女性に関するものは、神殿への献上物を神官らが身内の女性に販売させていたことを一掃させようとしたのだろうと古賀は記しています。多分どれも守られなかったでしょうね。


酒のことわざ(2)
酒中国に 江戸女 住居(すまい)京都に 武士薩摩(中国は山陽山陰地方、薩摩のことわざでしょうか)
酒と朝寝は 貧乏の近道
酒と産に 懲りた者が無い(酒の方は納得出来ますが、最近は後者は違うのでは)
酒呑みの 尻切れ襦袢(じゅばん)(酒代にいそがしく服装にかまっていられない)
酒飲みは 半人足(「故事ことわざ辞典」 鈴木、広田編)
これらのことわざは納得出来るような出来ないような…。


松尾神社・亀の井
「参拝のあと、右手へまはつて亀の井の泉を汲みに行つた。『此の水を飲まなければいけないのだ』私はさう言ひ、三人は順番に泉の水を柄杓に受けて咽喉(のど)をうるほした。水はそれほど冷たくはないが、量(こく)のある味覚はなんとも言へぬ。」
「桂川の右岸に迫る西山の岩壁から噴出する冷水の甘美さは格別だ。甘露甘露!と思はず歓声をもたらしたのだった。」
これは、村尾次郎(「士風吟醸」)による京都・松尾神社にある亀の井の水体験記です。金属製の亀の口から流れ出ている水は酒造家ばかりでなく一般の人たちも汲んでいくそうです。京都は水の豊かな地、これからもよい水が湧き続けることを願っています。


ケンペルの見た日本人の飲酒
「同行の日本人は旅行中、毎日三度食事をするが、さらに間食もする。まだ夜明け前、日本人は起き上がって着物を着るとすぐに、従って出発の前に一回目の食事をし、昼にはほかの旅館で二回目を、そして床に就く前に三回目の食事をとるが、それについてはすでに述べたように、日本人のために国内風に調理され大変おいしい。彼らは食事のあと酒を飲みながら歌をうたったり、あるいは(花札は禁止されているので)ほかの遊びや、順々に謎かけをして暇をつぶすが、そのとき間違ったり負けたりすると、一杯飲まなければならない。これに反してオランダ人は、食事を静かに食べなければいけない。…」
これは元禄4年江戸にのぼったケンペルの「江戸参府旅行日記」(東洋文庫)にある一節です。江戸初期も食後に酒を飲んでいたこと、武士は一日三度食事をしていたことなどがわかります。


戦国時代のインスタント酒
即席酒之法 麦こがし、干飯をひき割り、酒につけては干し、つけては干して身につけ、陣中で水に入れれば即座ににごり酒のようになって、一段と味のよい酒ができあがる(「戦法秘伝聞書の留」)
万里酒之法  大麦の粉をみりんと焼酎と等分にしたものでねり丸め、日に干して入用のときに温湯にときて用ゆべし(「武事精談中巻」)
兵糧米を密造して酒にしてしまうということもあったという戦国時代、こんなものもあったようです。永山久夫の「酒 雑学百科」にあります。


酒をひたす(「笑府」)
しわんぼうの父子、旅先で毎日酒を一文ずつ買い、一度に飲んでしまうのが惜しさに、箸を酒の中にひたして、箸の先をなめることにした。ところがその子が箸をひたして二度つづけてなめたので、おやじが叱りつけた。「こら、なぜそのようなむちゃ飲みするのだ」
中国・明の馮夢竜(松枝茂夫訳)による「笑府」にある笑話です。「刺俗部(俗物根性)」というところにあります。俗物というのはかわいそうな気もします。


網走番外地
「春に 春に追われし 花も散る きすひけ きすひけ きすぐれて どうせ 俺らの行く先は その名も 網走番外地」 網走番外地の1番です。
高倉健の歌で、酒の雑学といった本には決まって出てくる歌詞ですが、これが放送禁止になっているのだそうです。多分、「どうせ俺らの行く先は … 網走番外地」といった表現に問題ありとされたのでしょう。この「きす」が、「好き」を逆にした隠語の典型例で、酒のことです。きすを引くは酒を飲む、きすぐれては日がな一日酒におぼれてといった意味でしょう。隠語使用の生きた好例だと思うのですが…。


酒蟹(しゅかい)
中国・清の時代、金持ちのケなにがしは、とてつもない量を食べかつ飲んだそうです。ある日、猫がガチョウを食べてしまったので、ケはその猫を殺させて料理の一品にあてて食べてしまったそうです。すると、その後、いくらがんばってもたくさん食べられなくなってしまったそうです。物知りは、「大食の人の腹中に住んでいる『肉鼠(にくそ、鼠:ネズミ)』が、猫の入ってくるのを見て驚いて死んでしまった」という解説をしたそうです。同様に、大酒のみの腹の中には「酒蟹(しゅかい、蟹:カニ)」がいるのだそうです。そして「肉鼠と酒蟹は友好的な関係にあるので、大酒を飲みかつ大食をするということになるのだそうです。(「食悦奇譚」 塚田孝雄) 蟹の嫌いなものってなんでしたっけ。


酒の字のある駅名
日本交通趣味協会で発行した全国駅名便覧にある酒の字を含む駅名です。
酒折(さかおり、中央本線、山梨県)、酒田(さかた、羽越本線、山形)、酒田港(さかたこう、羽越本線、山形県)、東酒田(ひがしさかた、羽越本線、山形県)、酒殿(さかど、香椎線、福岡県)、酒々井(しすい、成田線、千葉県)、南酒々井(みまみしすい、総武本線、千葉県)、南酒出(みなみさかいで、水都線、茨城県)などがありました。
他に関係ありそうな駅名としては、小樽(おたる、函館本線、北海道)、大甕(おおみか、常磐線、茨城県)などがあります。かつては、酒津、上戸(うえど)という駅もあったそうです。


突き出し
大言海で「突き出し」は、「突き出すこと」「遊女が初めて勤めに出ること」「相撲の手の一つ」とあり、居酒屋で始めに出るつまみの意味は記されていません。広辞苑には本料理の前に出す小鉢物などという解説があります。主に関西で言われる言葉のようですが、多分、遊女の「初めて」の勤めというあたりから出来た言葉なのでしょう。居酒屋へ行って、先ず出てくる突き出しを見ると、その店の姿勢が分かるもので、それだけに店側もこれに大分気を遣っていたようです。ところが、最近突き出しが有料になったり、若い人たちに好まれなかったりするようで、これを出さない所も増えてきているようです。突き出し、お通しといった言葉の死語にならないことを祈ります。


川柳の酒句(3)
判じてる内にゑだる(絵樽)のぬし(主)が来る(誰からの樽だろうと言っているうちに届けさせた本人が)
樽ぬきにして葬るは居候(いそうろう)(樽が棺のかわりとは)
六人で小酒屋ほどは持って行き(大江山の酒呑童子退治)
宝剣はおろち下戸なら今に出ず(やまたのおろちが下戸ならば宝のつるぎは手にいらず)
かかあどのちょっとございとあいをさせ(かあちゃんちょっと来いや一緒にどうだいと、いい亭主)
かかり人屋根から落ちて酒にゑひ(酔い)(居候が修理で上がった屋根から落ちて気付け酒を飲まされて酔った風情)
すごいのがあったり、歴史があったり、生活があったりで川柳はいいですね。(浜田義一郎編の「江戸川柳辞典」)


酒手の語源
大言海では酒直(さかあて 直=値)の約で、酒のあたい としていますが、萩谷朴は「語源の快楽」に別説を書いています。衣手(ころもで)、帆手(ほで)などの手は、布の総称のことで、前者は衣服の布地、後者は帆布をさすそうです。昔は「コウゾ」(タヘといった)の繊維を織って布を作ったので、タヘ(たえ)がつまったテが布の総称になったそうです。酒手の手は、それにもう一段階加わり、貨幣が流通する以前の、交換財として布が用いられたことが反映されており、代価としての意味をもっているのだそうです。


硝子(ガラス)の徳利
○酔へば碌々つがぬ前より、お銚子お銚子と催促せわしく、あちらに二盃、こらに三盃と罎(とくり)の底に……積もれば残りも大分のものなり。置くも詮なく、棄つるも勿体なしと、平野といへる牛肉店の主人の思ひつきて、罎(とくり)の陶器(せともの)を悉く硝子(がらす)に改めしに、其後(そのご)は中なる酒の見え透くよりも、本性たがはぬ人々のふところ見え透きて、めったには滴も残さづ飲み行くやうになりしと。
斎藤緑雨が「あられ酒」で書いています。でも今はどうでしょう。本性に戻った方が良いような気がします。


うすい酒(「笑府」)
出されたうすい酒を飲んだ客が、しきりに料理のできばえをほめるので、不思議に思った主人が、
「まだ肴をだしてもいないのに、どうしてわかります?」ときくと、客、「ほかのはともあれ、第一、お酒で味をつけたこの白湯(さゆ)からしてすばらしくおいしいのですから」(「笑府」 馮夢竜 松枝茂夫)
中国明時代の「笑府」にあるものです。最近こんなところでというような店でレモン香のついた水を出すことがありますが、使えそうな話ですね。


元禄4年オランダ使節の将軍への土産
「金銀珠 奇楠香 竜脳 猩々緋 羅紗…」などの、宝物、香、布などど共に、「酒二種類」が、幕府側の「常憲院殿(徳川綱吉)御実紀」に記されているそうですが、献上した側のケンペルによる「江戸参府旅行日記」(東洋文庫)には、「裁縫師が将軍に献上するヨーロッパ製の敷布を仕来り通りに折りたたみ、止め縫いした。これらの品を献上するために、載せて持ってゆく松の薄板の台や、樽に入っているスペイン産の赤ぶどう酒を小出しする容器を注文した。」とあり、大量に配るときは樽で運んで瓶詰めしたらしいこと、フランスのワインではなかったことなどが分かります。面白いのですが、これに対するお礼は一様に着物で、ケンペル翌年2度目の江戸行きの時は関係各所から123着集まったそうです。


織部の汁碗
安楽庵作伝和尚の「醒酔笑」にある、余り面白くない笑い話です。
当時、古田織部はもてはやされ、中酒(食事のときに飲む酒)に座敷で用いられる盃まで、織部盃といわれたようです。
あるとき三八(人名)が顔赤く、機嫌(きげん)よさうなるを、人 見つけて、「そちはあらけなく(大変に)酔ひたる体(てい=様子)ぞ。」といへば、「道理かな。今朝のふるまひに、汁の椀のおりべで、つづけざま三ばい飲みたるもの。」
織部の当時の流行のすごさがわかると共に、汁の椀で酒を飲む習慣ことがあったこと、また、朝からもてなすこともあったことが分かります。


酒二百文
[女郎]こんやは おめへ 壱本(一文銭を100枚穴に藁を通してたばねたもの)おくんねえな。 そして弐百アおれ(俺)にくんねへ(下さい)。 ろじ(路地)番にやるから。 そしてあとの弐百でかばやきをか(買)ひねえ… [女郎]そんならこうしなんし。百が酒を買にやつて、五十がみかんと五十が玉子を買にやろふじやねへか。 [源]どうともしろ、 ト四文銭一本ほうりだす。  
注 四文銭一本四百文の内、二百文とりて、残り二百文の買物なり。(「青楼夜の世界闇明(みそか)の月」 寛政11)
また「砂払」(山中共古)にある値段咄です。あれこれの物価の関係が多少分かりますね。


塩豆
戦前、すでに名を成していた桂文楽の所へ、まだよれよれの芸人だった古今亭志ん生が訪ねてきて酒を飲むことになったそうです。後日、文楽のいわく、
「…で、ヤツが云ったね。俺が肴を買うから、酒の方を頼むよ。…買ってきたのが、おまいさん、塩豆ですよ。」「ところがですよ、ヤツは塩豆をそのまま食べなかったね。いっぺん湯通しして、醤油をちょいとかけて、オツだよ!…あたしゃ、こいつうぁ偉いやつだなと思ったね。」
というはなしを柳家小満んが「猪口『田中屋』をご存じないか」で書いています。本人が試してみた所、意外とオツだったそうです。


上戸の語源
「人能(よ)ク飲ムト、能ク飲マザル、大戸小戸之(の)称アリ、唐宋酒令詩話ニ、之ヲ言フコト多シ」という文が「余冬序録」にあり、飲酒家を大戸、非飲酒家を小戸といっていたそうで、この大戸を上戸、小戸を下戸と言い換えたのが、日本の上戸下戸の語源だろうと、「語源の快楽」で、萩谷朴が書いています。また、ここでは、「大鏡」「道隆伝」で、「をのこ(男)は、上戸一つの興のことにすれど、過ぎぬるはいと不便なるをり侍りや。」とあるそうで、上戸は平安時代からある言葉であるとしています。これも通説を否定しています。(寝言屋の説


貧乏樽
「酒は貧乏樽とて安き樽に入れ樽代共にいくらとて」と、「皇都午睡」とあるそうです。
くだりうり貧乏樽で手をあらひ  (柳多留)
人同じからず茶瓶と貧乏樽   (柳多留)(「和漢 酒文献類聚」 石橋四郎)
こうしたものをみると、貧乏徳利ばかりでなく、貧乏樽というものもあったことがわかります。柳多留の、「くだりうり」は下りものの灘酒を売る人のことでしょう。また、茶瓶と貧乏樽は人の上下を言っているのでしょう。


「税務署長の冒険」
濁密(だくみつ=密造酒)造りは、濁った酒しか出来ないし、罰金を取られるし、しかも酸っぱかったり甘かったりでおいしくない、技師の世話位はするので、税金を納めておいしい酒を造ったらどうか、などと、密造地帯で税務署長が講演したが、聴衆の村人は面白そうに手を叩いたり笑ったりで、反応のないことおびただしかったそうです。狙いをつけた署長は、始め部下を派遣するもののうまくいかず、自身が変装して乗り込みます。結局、山中で20石樽が15位も並んだ工場を発見したものの、発見されてしばられて木につるされ失神します。気が付くと、首謀の名誉村長に自分のみでしたことにしてくれと頼まれるが、助けにきた税務署員、警察官に署長は救助され、関係者一同捕縛されたというはなしです。最後に、くろもじのにおいに、署長「ああいい匂いだな。」捕縛された名誉村長「いい匂いですな。」 宮沢賢治の作品です。賢治童話の中では異色のものように思えますがどうですか。


大国魂(おおくにたま)神社の神事
東京府中市にある大国魂(おおくにたま)神社で行われる くらやみ祭は、かつて電気のない時代、真夜中に行われた伝統の雰囲気を残す、音が大事な役目を持っていたらしい祭礼です。その中で、「饗膳勧盃の古式」という神事があるそうです。5月5日に神社本殿を出発した8基の神輿一行が御旅屋での神事の後、金棒に先導されて野口仮屋神道を西から入り、野口仮屋へ行くそうです。野口主人に迎えられた宮司以下は、座敷の東側より南面して流れ方式に主人と相対して列座し、主人の茶・粽(ちまき)・濁酒・冷酒・赤飯等の接待を受けるのだそうです。(神社解説板)これは、大国主命が来臨した際に、野口家に宿を求めたことに由来するのだそうですが、この野口家とは「國府鶴(こうづる)」の醸造元・野口酒造に連なる一族だそうです。


生酒(きざけ)での乾杯
ギリシアで饗宴が行われる際、まず食事をすませたあと、飲酒に移ったそうです。そして、酒宴にはいるに先立って、「善き守護神」のためにと、生酒(きざけ)で乾杯し、テーブルを取りのけることが習慣だったそうです。シラクサの僭主(せんしゅ)・ディオニュシオスはこれを「悪用」し、エトルリアに渡ったとき、神殿のアポロン像の傍らにあった銀のテーブルを、アポロンに乾杯を捧げた後に持ち去らせたそうです。(「ギリシア奇談集」 アイリアノス) 古代ギリシアでは、乾杯は原酒のワインでおこない、その後は水で割ったワインを飲んでいたようですね。


肴の看板
居酒屋では、縄のれんの脇の方とか軒の下に、その店にある肴を下げて宣伝する習慣があるそうです。たとえば、ニワトリの羽やアンコウなどだそうです。川柳にも詠まれているそうで、
 杉の葉は無くて軒端(のきば)にかしわの羽
 とりの羽衣(はごろも)居酒屋の軒へさげ
 鮟鱇(あんこう)も飲みたそうなる居酒見世 (「酒雑学百科」 永山久夫)
あなたは見たことがありますか。


しゃれこうべ杯
古代ギリシアでは、しゃれこうべを彫った杯が流行したそうです。日本でのそのてのはなしとしては、敵のどくろで作った織田信長や、部下のどくろで作った水戸黄門の話を思い出しますが、これはまったく違った発想の産物だそうです。その意味する所は、「生きているうちに楽しめ。だれでもやがてそうなる。」ということだそうです。(「食悦奇譚」 塚田孝雄) ギリシア流は現世的で、むしろ今の日本人にはすぐ受け入れられそうなものではないでしょうか。


ワインの醗酵
ワインが醗酵するとき、当然の事ながら、はじめもろみのなかは、多くの種類の酵母と雑菌だらけといった状態だそうです。それがどうして正常な醗酵となるのでしょう。まず、ブドウの果汁はクエン酸やリンゴ酸などの有機酸を多く含んでおり、かなり酸性に傾いているそうで、これが雑菌の活動を押さえるのだそうです。さらに、雑菌のほとんどは糖を醗酵する力が弱く、さらに空気を必要としているそうです。ワイン酵母は糖分がえさですし、炭酸ガスを大量につくります。さらに、ワイン酵母の造るアルコールは殺菌作用がありますので、雑菌は死滅してしまうのだそうです。(「(ワインのはなし」 湯目英郎) これって、清酒の醗酵とそっくりですね。酒母が乳酸によって酸性になることからはじまり、後は皆同じです。


殿様の川柳
けいさん(圭算:文鎮のこと)が 袋に入ると かん(燗)ができ  飯田町にしき連
句意は習字か書きものをしていたのを中止し、圭算を袋にしまうと、ちょうどその時、夕げの膳の上に燗のつきごろの酒が待っているという情景の川柳で、うまい句とはお世辞にもいえなそうなものです。明和元年の川柳万句合にこの句の作者として「田安君殿」と最上級の敬称が付けられているそうで、これは多分、徳川吉宗第三子、田安家初代の宗武(むねたけ)の句であろうということです。(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編) 川柳の社会的広がりがよく分かりますね。


病人と酒
南イタリアにあったギリシアの植民地ロクリスで紀元前7世紀中頃に活躍したザレイコスという人が制定した法律は、必要にかなった立派なものが多かったそうですが、これなどはその優なるものであったとして、以下のような記述があります。(「ギリシア奇談集」 アイリアノス 西暦200年頃のローマ人による書物だそうです。) 「住民は、病気になって医者の処方もなしに生(き)のままの酒を呑んだなら、処方にないものを呑んだという廉(かど)で、回復しても死刑に処す、というのである。」 この酒というのはワインでしょうから、割って飲めばかなり薄くなるのですが、そうした酒を飲むのが普通だった社会が、濃い酒は危険だとして、病人に対して厳しい姿勢をとっていたということは興味深いことです。


北条重時の家訓
一 酒宴の座席にては、貧(まずし)げならん人をば、上にもあれ、下にもあれ、ことばを懸(かけ)て、座の下にもあらんをば、是へ是へと請(しょう)ずべし。…
一 酒なんどあらんに、一提なりとも、一人して飲むべからず。…
一 …百姓なんど来りたらん時は、便宜あらば酒を飲ますべし。…
といった条項があちこちにあり、禁酒ではなく、飲み方、飲ませ方を問題にしているようです。重時は、六波羅探題から鎌倉幕府の連署執権となった人だそうです。(「酒と権力」 五味文彦)


善馬の肉を食いて酒を飲まざれば人をそこなう
秦の繆公(ぼくこう)の飼っていた良馬が逃げたのを百姓たちが殺して食たべてしまったそうです。役人が百姓を罰しようとした時に、繆公は「古いことわざに、善馬の肉を食いて酒を飲まざれば人をそこなうということがある」と言って、かれらに酒を飲ませたうえに放免したそうです。その後、繆公が晉(しん)との戦いで、苦戦におちいった時、その百姓たちが奮戦して繆公を救って恩に報いたという逸話があったそうで、「史記」にあるそうです。(「故事こたわざ辞典」 鈴木、広田) 当然、ことわざ自体は繆公以前のものですが、単純に馬肉と酒ということでもなさそうに思えるのですが…。


あんぽんたん
近世の俗語なり 朝鮮あさがおを耆婆草(ぎばそう)と名づけ 其実三粒を酒に漬けてこれを人に飲ましめれば 甚だ(はなはだ) 酔をすすむ 是(これ)を称してあんほんたん(阿呆丹)という 又よく疝(下腹部が痛む病気)を治す、あほうの転なり と「和訓栞(わくんのしおり)」にあるそうです。また、「和漢三才図会」には、酒と共に飲むと 或いは笑い、或いは舞いて という状態になることが記されているそうです。(「「和漢 酒文献類聚」 石橋四郎編) 最近この植物がやけに目に付きますが、変なことにならなければよいのですが。


お中元のさしすせそ
昭和63年に文庫本になった「最近日本語歳時記」(稲垣吉彦)に、お中元ベスト5が「さしすせそ」であるとして、5品目を並べています。酒、食料品、スポーツ用品、石けん、そうめんだそうです。「最近」は順序や品目が多少違ってきているのではないかと思われますが、酒はまだまだ上位にはいるのでしょう。料理の調味料に関するさしすせそというものもあって、砂糖、塩、酢、醤油、味噌なのだそうですが、これは調味料を使う順序をもいっているのだそうです。それにしても、砂糖と共に酒も入れておくべきではなかったのではと愚考する次第なのですが…。


袋や宗古
「屋敷にのうらに見事成(なる)しだれ桜有之(これあり)、見物人大勢有之由(よし)。或時(あるとき)禁中の御医師通仙院 為花見(はなみのために) 提重(さげじゅう)など酒等持参にて花見也。然共(しかれども)終日之(の)花見にて 酒等も切れ候て、不得止(やむをえず) 宗古 酒等を出し候由。翌日家来召連れ 右之(みぎの)しだれ桜を切りたおし候と也。皆人、「なぜに切り被申候哉(もうされそうろうや)」と尋ね候へば、「桜有之故(ゆえ)見物人も有之、左候へば(さそうらえば)昨日のごとく時に依て(よりて)は出申候付て、切たをし(倒し)候」と也。」(「元禄世間咄風聞集」 岩波文庫) この宗古という人は20万両ほどを持つという京都の袋屋という商家で、ことのほかけちな人だったそうです。


キャリー・サルーン
キャリー・ネイションは、アメリカにおいて禁酒運動の過激な形態として酒場(サルーン)を打ちこわすことを「発明」した人物だそうです。大酒のみの一度目の夫とは死別、二度目の男(多分大酒のみ)とは離婚寸前。彼女は体重92kg、身長1m80cm、怒り狂って暴れる彼女を押さえるには警官4人を必要としたそうです。神様が夢枕に立って告げたということで始まった彼女の活動は、手始めにカンザスの酒場で手斧を振り回して時価1500jの鏡をたたき割り、裸体画を破り、ボトル入りのウィスキー一財産分と店中のグラスを粉々にし、四十人の客を追っ払ったことで始まったのだそうです。機関誌が2種類出たり、活動用の斧を彼女自身が売り出したり、それを逆に酒場が宣伝に使ったりしたそうです。彼女は禁酒法施行の8年前に亡くなったそうですが、アメリカ研究の好材料でもあると丸谷才一は「夜中の乾杯」で紹介しています。


花からの酵母
花の蜜に宿る酵母で醸造されてる吟醸酒がでてきているのだそうです。空気中の野生酵母が、ある種の花の蜜に宿り、それを抽出するのだそうですが、これは千載一遇といってよい難しいものなのだそうです。これを発見したのは東京農大の中田久保という根っからの研究好きな教授だそうです。すでに、ジャスミン、ナデシコ、日々草から酵母が分離抽出されているそうです。これからの研究の成果が楽しみですが、稲垣は、従来の酵母からとは違った新しい日本酒の誕生の可能性を感じていたようです。(「新しい日本酒の話」 稲垣眞美) 新しい酵母をうまくならして、おいしい酒を造る蔵元が次々と出現しますよう。


江戸の酒価
○おやぢ「ハイお酒とお肴(さかな)で百三十文で御座ります。飛鳥山下の料理屋にて、飯食せし代は四百五十文。これは安い安い。  (注) 二人連れにて一寸(ちょっと)一杯やりし値なり。
○(注)「弐(二)百の酒は飲(のめ)ぬ…と身の程を知らぬ者あり」との文句あり。酒壱(一)升弐百文にてありしり。
○大晦日(おおみそか)に酒屋より書出しを以て来て、どうぞ今晩お払を下さりましといへば、とふりものみて「なんだ壱貫弐百五十文、酒五升、云々   (注)一升二百五十文
江戸時代の洒落本から資料性のあるものを拾いだして(注)を付けた山中共古による「砂払」にあります。多分山中は酒好きだったのでしょう。想像で現在と換算してみてください。


神田川の猪口(ちょこ)
神田川が猪口に、鐶(くわん:今はかん、金属の輪)の模様を描きたるは仮名違ひなりとて(「鐶」は「くわん」で、「神田川」は「かん」)、先頃或(ある)雑誌記者のこれを嗤(わら)ひしが、今の小中村の猶(なお)河岸に在りて、旧(もと)の中村楼なりける時、酒盃のまん中に蕪菜(かぶな)をかき、蕪菜のまん中に楼の字をかきたるは、こゝも会席の訳ありげに見えて、大方の判じかねる所なりし。主個(あるじ)に問へば、是れ即ち、なかぶら楼。(斎藤緑雨 「あられ酒」)
緑雨の時代にまだ神田川という酒があったことが分かります。洒落の盃で、今でもあって良さそうな気はしますが、私はこうしたものを見たことがありません。


よっぱらい
酔いどれ(「酔い倒れ」がなまったものと「俚言集覧」にあるそうです)、生酔い、ずぶ六、などが酔っぱらいの昔の標準語(江戸語)といったものなのでしょうか。そして方言として、大阪では「よたんぼ」、水戸では「すそはらい」、薩摩(鹿児島)では「酔食い(よいぐらい)」または「えくろ」、唐津では「さんてつまごろう」、遠江(静岡県)では「泥ぼう(酔うと泥のようになるから)」などというそうです。(「酒雑学百科」 永山久夫) 多分調べると、まだまだ沢山あることでしょう。


酒屋と都市の成立
尾道の前に向島という島がり、かつて歌島といわれていたそうですが、鎌倉後期に酒屋が何軒かあって、「我々は田畑を持っていない、酒を造り金融おやってをやって生活を立てているが、代官が酒を取りすぎて困る」という訴状が酒屋から出されてていたそうです。酒屋が中核になって都市が出来ていたと、こうしたことなどから網野善彦は類推しています。そしてさらに、遊女の屋もあったようだとし、酒屋の存在と遊女の屋は不可分で、これが都市文化の源流だとしています。都市は酒がなければ成り立たなかったろうという見解です。(「座談会 酒と日本文化」 大岡信・網野善彦・浅見和彦・松岡心平)


タンブラー
タンブラーは「タンブル(tumble)=ころぶ、倒れる」からきているのだそうです。ヨーロッパで牛の角(つの)を酒杯として使っていたのだそうで、角の中の酒を飲み干さない限り卓上に置くことはできません。当然の事ながら、角は「タンブル」して中の酒がこぼれるからで、タンブラーという名称はここからできたのだそうです。(「最近日本語歳時記」 稲垣吉彦)
正倉院御物の中に角の杯が描かれているという話を聞いたこともあります。底のとがった杯の名称由来のおもしろさとしては、日本の可盃(べくはい)のほうが上のような…。


南方性と北方性
日本人が弁当や、駅弁のような冷や飯を食べ、ビールを冷やして飲み、中国では一般的に暖かい食物をとり、ビールを冷やさないで飲む。これは日本の文化の南方性と、中国文化の北方的要素の強いことをあらわしているのではないか、と丸谷才一が「夜中の乾杯」で独自の見解を書いています。周作人や蒋介石も、冷や飯を食べる日本人に驚きの目を向けていたそうです。そして、うろ覚えではあるがとして、内田百閧ヘ冬にビールを飲み、夏は日本酒を飲み、ビールは確か冷やしていなかったと、書き添えています。


寺内流湯豆腐
「土鍋に五合の日本酒を惜しげもなく入れる。板昆布などは使わない。煮立ったら、カヤの油(高価で入手しにくいが…)をさっと色づく程度に入れる。豆腐をしゃもじで切りながら入れ(包丁では豆腐がまずくなる)、葱、紫蘇、茗荷などの薬味をきざみポン酢で食べるのである。いやもう、その旨いこと…大変な驚きであった。これだと御酒がスイスイといくらでも水の如くに入るのである。」と、寺内大吉に教わった湯豆腐の作り方として、佐々木久子が「酒縁歳時記」に書いています。


酵母をいじめない
「酵母菌をいじめるとか、ハングリーにすることに、私は反対なんですよ。いじめるなんてとんでもない。私にはできません。私は、あくまでももろみにもある程度の温度を与えて、酵母菌たちがのびのびと楽に、自然に生きられるようにして、それで酒を造ります。無理なことは一切しません。」と田坂は言いきる。(「新しい日本酒の話」 稲垣眞美)
愛媛県西条市の蔵本屋本店の、ただ一人で酒を造っているという蔵元の言葉だそうです。吟醸酒を造るには10℃くらいの低温で酵母をいじめながら醗酵させた方が良いものができるという定説に挑戦している蔵元だそうです。しかもとびきりの美酒ができているそうです。


あられ酒
あられはうるち米を蒸して餅とし、これからかき餅をつくり、焼酎に浸して乾燥しこれをくりかえしてあられをつくる。このあられをみりんの中に浮かべたもの。(「酒の辞典」)
味醂ニ同ジクシテ、味モ相似タリ、糯米(もちごめ)ノ粕、溶化セズシテ交る。(「大言海」)
蒸米、または霰餅を入れ熟成させた味醂酒(「広辞苑」)
共通しているのは奈良が名産ということです。結局飲んでみないとわからないもののようです。奈良の春鹿で醸造しているようです。


合歓(ねむ)の花見
炎天に瓢(ひさご:ひょうたん)かたげて人の行くを、何(いづ)れへと問へば、向島辺という。何の御催(もよお)しと重ねて問へば、今が合歓(ねむ)の花の盛りと思ふて。
「ぼく本月本日をもって、めでたく死去つかまつり候間、この段広告つかまつり候也。四月十三日、緑雨斎藤賢」(「言葉の博物館」 阿刀田高)という自分名で死亡広告を出したという奇行の多かった作家斎藤緑雨の「あられ酒」にあるものです。酒はどんな花とでも合うことをお確かめ下さい。


神無月の留守神
旧暦10月(今の11月)は神無月(かんなづき)です。全国の八百万(やおろす)の神が出雲大社に集まり、他の国には神さまがいなくなるのでこの名前が付いたといわれています。出雲の国では、逆に神在(かみあり)月というそうです。出雲に集まる理由は、会議があるからともいわれています。一方、大言海はそれは誤りで、「醸成月(かみなんづき)」であるとしています。「味飯(うまいい)を水(酒)に醸成(かみな)し」といった典拠を記しています。しかし、山口県では「神さまが出雲へ酒を造りに行く」といった伝承もあるようです。そしてこの留守を守る神は竈の神(荒神)であるとか、恵比寿であるとかとも言われているようです。


猩猩緋(しょうじょうひ)
色の名前です。どちらかというと全体的に鮮やかさを抑えた感じのする日本の色の中で、トップクラスに鮮やかな赤のことです。
猩々の血はもっとも赤いとされ、中国では「猩血」を色の赤いたとえに使い、濃い紅色を「猩色」、鮮やかな紅色を「猩紅」と呼んでいるそうです。「猩猩緋」はその「紅」を「緋」にかえた日本名であろうと、長崎盛輝が、「日本の伝統色」で書いています。「猩々は血を惜しむ 犀(さい)はは角を惜しむ」と、血が猩々緋の原料と見られていたことからおこったことわざもあるようです。実際の原料は、「ケルメス」と呼ばれる動物性染料だそうです。


上戸のことわざ
上戸に餅 下戸に酒(下戸は餅がすきということになっています、見当違いのたとえ)
上戸の額(ひたい) 盆の前(熱いもののたとえ)
上戸は毒を知らず 下戸は薬を知らず(上戸は酒が多いと毒になることを知らず、下戸は酒が程々なら薬になることを知らない)
上戸本性違わず(酔っても本性は違わない)
上戸本性を顕わす(酔って本性をあらわす)(「故事ことわざ辞典」 鈴木、広田編)


先生
懐王が賈(か)に人の道を知る人を先生というのはなぜかと聞いたところ、本来は先醒(せんせい)であり、その意味は、共に酔い、一人先んじて醒めるからだと答えたと、中国・宋の「野客叢書」にあるそうです。そして、後世、同じ事を貝原益軒が、「道を知れる人は酒にゑひて(酔いて)醒(さめ)る如く、ねふり(眠り)の覚(さめ)たるが如し、故(ゆえ)に道をしれる人を先醒と云」と書いているそうです。(「酒文献類聚」 石橋四郎) 漢字遊びの一種なのでしょうが、面白いですね。


平成15年11月16日千住復古酒合戦
千住の町おこしを目指す人たちが中心になったらしい平成の千住の酒合戦が、区長も参加して、千住大橋駅近い稲荷神社で行われていました。五合、一升、二升、三升、五升の五つの盃が三宝に乗せられて並んでいましたが、教育委員会も後援者になっている事もあるのでしょうか、大酒を飲むということではなく、文化年間に行われた酒合戦の雰囲気とスタイルを復元するといった感じのものでした。希望者が5人づつ、ひしゃく一杯か二杯の酒の入った大盃を飲み干していました。多分一番苦労したのは当時の肴の復元で、「蟹」「鶉の焼きとり」「さざれ梅」「からすみ」「花塩」「鯉の羮(あつもの)」「子鰭(こはだ)」「鯛の羮(あつもの)」が並んでいました。同時に、その実現にかかわったらしい地元の文人・建部巣兆(たてべそうちょう)の作品展も近くで行われていました。町おこしの酒「千住」(太田酒造・太田道灌の子孫とか)も売っていました。


酒呑地蔵
渋谷区本町5-2本町小学校の向かいに酒呑地蔵があります。現地にある解説によると、四谷伝馬町の中村瀬平という人が幡ヶ谷村の農家に雇われたのだそうです。その勤勉さに村人が彼の31才になった正月にごちそうしたところ、普段飲まない酒に酔った瀬平は川に落ちて水死してしまったそうです。その後、村人の夢枕にたった瀬平は、村から酒飲みをなくすために地蔵を造って欲しいと語ったため、宝永5年(1708)にこの地蔵が出来たのだそうです。鞘堂(さやどう)の中の地蔵の前には、断酒の祈願を書いた札が何枚も並んでいました。場所等の情報をホームタウンジャパンの小橋様に教えていただきました。


明治の蕎麦屋
「砂場といへば絵本にも のこれる(残れる)如く、数多きものなりしが、今は(東京)府下にて三軒を超えざるべし。よからぬを蕎麦屋の酒と、以前は譬喩(たとえ)にも引きしを、神田本郷の繁盛ならびなき藪にては、客人を見るより早くお誂へはと言はず、御酒はといふも時世の故にや。」 斎藤緑雨「あられ酒」(明治31年刊)
明治の作家・緑雨の文章ですが、「砂場」「藪」が当時も有名だったこと、「蕎麦屋の酒」は良くないという言い方があったこと、客に「お誂えは」と注文を聞いたこと、藪ではまず「御酒は(どうしますか)?」と聞いていたこと等々、いろいろなことが分かります。


放射能と酒(2)
「原爆後遺症がひどくもうどうにもならない、と医師から見離されていた恩師の長柄正之先生は、片時も酒杯をはなさなかったせいか、現在もピンピンしておられる。」
「広島の二部隊で被爆し、爆風で片耳は吹っ飛び、背中一面は大火傷。もうだめだ、と国の山梨県へ送り返された風間敬一氏、生家は塩山の醸造元である。」「どうせ死ぬのなら、心おきなくお酒を飲んで死にたい。お手のものの日本酒をガブ飲みした。みるみる持ち直し、すっかり回復して現在は山梨県工業試験所の所長として活躍中である。」
そのほかにも、何人もの事例を佐々木久子も「酒縁歳時記」(昭和52年初版)で書いています。


銚子と徳利
○[染]そんなに手をのばして、徳久利(とつくり)をころばしなんさ。(天明四年出版の本)
酒の燗に此頃(このころ)銚子を用ゐる図あり。此処の文句は燗徳利の様なり。用ゐてありしか。
○コウ酒がじイゝいひ(い)出した。燗ができたら中なをり(仲直り)に一ぺい(一杯)やらう。(上と同じ本)
此文句によれば、酒が燗の附しといふに、ジイゝとは、銚子を火にかけしゆへ、酒の焼けつく音にて、鉄銚子を用いありしと思はるゝゆへ、前記の燗徳利あるも、一般の用にはあらざりしか。(「砂払」 山中共古)
天明4年(1784)の頃は、銚子と徳利が共に使われていたようです。ただし、この銚子は古来からの柄のついたものとは違うようです。


転失気(てんしき)
落語の転失気も酒にかかわる話です。昔の知識人であった坊さんの具合が悪くなり、お医者に診察してもらったそうです。お医者から転失気があるかときかれて、知らないともいえないので、ただ今はありませんと答え、寺の小坊主・珍念に自分は知っているかのようにいって調べさせたそうです。珍念は、あちこちで聞いてまわりましたが、分からない大人達は珍妙な答えをして、珍念を困らせます。結局、珍念はお医者に聞いて、和尚さんがその意味を知らないことに気づきました。そこで彼は、「呑酒器(酒を呑むうつわ)」とこじつけて(頭いいですね)、盃のことであると和尚さんに伝えます。和尚さんは再び来た医者に転失気がありましたと盃を見せます。医者は驚き、和尚さんは珍念にだまされたことに気がつくというオチの落語です。盃を呑酒器というのも面白いのでは。


千鳥足の酒句
顔は猿 足は千鳥に 人だかり
白鳥を のんだで ちどり足になり(白鳥:白く首の長い徳利)
千鳥足 馬鹿にするなと 千鳥いい
千鳥足 もう一頑張りで 万鳥足
このうち二つは浜田義一郎編の「江戸川柳辞典」にある千鳥足の酒句です。


井伏鱒二の含羞の酒
寺田博(エッセイスト) 僕は長い間、井伏鱒二という人に親炙(しんしゃ)していたわけですけれども、最初から井伏さんは酒なんですね。行くと酒ということになるんですけれども、それは僕の感じでいうと、含羞(がんしゅう)なんですね。つまり顔と顔、目と目を酒なしで見合わせるのは恥ずかしくてしようがない(笑)。目と目を合わせて文学論をやるなんて、こんな恥ずかしいことはないから…。
古井由吉(作家) それはそうだ。(「酒と文学的群像」 座談会 季刊文学増刊号)


笹沢佐保の酒
丸谷才一の「夜中の乾杯」にある逸話です。
「笹沢佐保さんは若いころどこかに勤めてゐた時分、土瓶に清酒を入れて机上に置き、茶碗で一杯やりながら事務をとったといふ。ある日、課長が、「それはお茶ですか?」と訊ねたので、「さうです。一ついかがですか」と飲ませたら、「いや、結構なお茶ですな」と相好を崩したさうだ。」
せちがらくなった今時、こんな会社があったらと思いませんか。


「酔」のつく字
径酔(けいすい)すぐに酔ってしまうこと 洪酔(こうすい)はなはだしく酔うこと 
酔脚(すいきゃく)千鳥足でよろよろしている 酔郷(すいごう)酒に酔って天国にいるような気持ちになること 
酔筆(すいひつ) 酔放(すいほう)たらふく飲み食いすること などが永山久夫の「酒雑学百科」にあります。
「説文解字」には「酔」に関して、酒を飲み卒(お)えても乱れないという意味(酉:酒+卒=醉=酔)であると、いかにも著者・許慎らしい説明があるそうです。


禁酒の願掛け
「堀の内へ禁酒の願掛けせしとのことありて、さかづきを手にも取りますめへといつた斗(ばかり)で、酒をたべますめえ(飲みますめえ)といふこたアいはなんだ、云々(うんぬん)とて、猪口(ちょく)か吸物わんのふたでやらかします。」という屁理屈が、享和二年(1802)出板の十返舎一九の「起承転合(きしょうてんごう)」にあるそうです。(「砂払」 山中共古) 堀の内は杉並区堀ノ内の厄除け祖師です。ここでは、さかづきと猪口が区別されています。それにしても祖師といわれる日蓮は酒を飲んでいましたよね。


きのたま
「金玉」の語源に酒がからむそうです。「きんたま」は、「きのたま」がなまったものだそうで、その「き」は、おみき(御神酒)の「き」で酒の意味なのだそうです。そして、なぜ「き」なのかというと、古代の酒はどろどろとしたにごりざけで、似たようなものを貯える玉だからということなのだそうです。(「ことばの博物館」 阿刀田高) 大言海は「生(いき)の玉」の上略音便だろうとしています。どちらも?といった感じですが、前者が酒に関係しているのでよしとしましょう。


大正の作家の酒
古井 大正の作家はどうでしょう。
十川 大正の作家はやたら飲みますね。漱石の弟子でも鈴木三重吉は飲みます。白樺派の志賀直哉や里見敦はお茶屋遊び。とくに私小説家は質に女房を置いても飲み兼ねないですね。北原白秋や高村光太郎、萩原朔太郎、若山牧水のような、詩人・歌人。画家たちとの関係もあるのでしょうが、このころから文士のアウト・ロー化が目立つようになると思います。(「酒と文学的群像」 座談会 古井:古井由吉、十川:十川信介) 大正という時代はいろいろの意味で自由に自分の「飲み方」が出来るようになってきた時代とういことなのでしょう


緑雨の玉子酒の句批判
○吾(わが)兄子(せこ=恋人とか夫)の来べき宵なり玉子酒 とは、金玉(きんぎょく)の十千萬堂(とちまんどう)氏が風流妄語(もうご)と題したる句の一つなり。艶なるものとて評判高かりしも、われはいさゝか服し難きものあり。もと玉子酒は調(ととの)へて待つ品ならず、必ず宵にと約したる男の更けて漸(ようよ)う来りしに、かゝる時よと女の急立(せきた)ちて鍋の下あふぐを…と、いった感じで、事前に準備するものではないと、風刺と皮肉の明治時代の作家・斎藤緑雨が「あられ酒」でいっています。句の本歌は衣通姫(そとおりひめ)の「わがせこが 来べき宵なり ささがにの 蜘蛛のおこなひ 今宵しるしも」です。


丸谷才一の一升瓶嫌い
「太宰治は、自分はなぜ大酒を飲むかを論じ、家の中にあの酒という黄いろい不潔なものがあることに耐へられないから、と書いてゐましたが、もう一つ、一升びんの形状が醜悪でグロテスクなのが我慢できないせいもあったのではないか。つまり、一升びんを早く始末したいから、中身を飲んでしまふわけだ。」
これは、「夜中の一杯」の中で丸谷才一が書いているものです。丸谷の美意識は一升瓶の存在を許すことができないようです。


ウザク
「私は、このウナギをさっと焼いてきざみ胡瓜(きゅうり)と一緒に酢であえ、お酒の肴にする。ウザクというのだが、これは十年来の私の土用の間の楽しみであった。」(「酒縁歳時記」 佐々木久子)
うざいではりません。ウザクは、ウナギのウと、胡瓜を切る音のザクザクのザクからできたことばのようです。あぶらの多いウナギと、さっぱりしとた胡瓜と酢は相性がよいようで、夏のつまみとしてはおすすめできます。お試し下さい。


古井由吉の酒
古井 内向の世代って、会うと十二時間、酒を飲んでいましたよ。六時から六時までとか、五時から五時までとか。酒としては最強です。
寺田 僕は今でも思い出すけど、古井さんはまだ立教の助教授で、朝、夜が明けたから講義に行かなければいけないのに、まだちょっと時間があるからというので、早朝、蕎麦屋に飛び込んで、叩き起こしてコップ酒を呷(あお)ったでしょう。
古井 そうそう。
芥川賞作家・古井由吉の座談会での思い出話です。寺田はエッセイストです。(「酒と文学的群像」 季刊文学増刊)


樽拾い(川柳)
樽拾ひ 目合イ(まあい)を見ては 凧(たこ)を上げ(寸暇を惜しんで、または主人の目を忍んで正月にたこ揚げ)
樽拾ひ あやうい恋の じゃまをする(ひそかな忍び会いを見付けてしまう)
旅は道づれ 大名と樽ひろひ(伊勢藩藤堂家の参勤行列についていけば無料で伊勢詣りが出来たのだそうです)
冬の日や あれも人の子 樽拾い(一番有名な句です)(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)
樽拾いとは酒屋の丁稚(でっち)のことです。「甲子夜話」には「酒家の下男を世に樽拾と呼ぶ 少年は皆赤黒き衣を着て同色の前垂を為せり」とあります。


芋酒
芋酒を呑めばいもせ(妹背:夫婦)の中よくて 零余子(くかご)を産むというはまことか と沢庵禅師が詠んでいるそうです。
芋酒の作り方は、寛永20年刊行の「料理物語」に、「山のいものいかにも白きを、こまかにおろして、これを冷酒にてよくよくときのべ、塩を少し入れ、適宜にかきまわしてよし」とあるそうで、強請酒として珍重されたそうです。(「酒雑学百科」 永山久夫) ねばねばが気に入られたのでしょうが、効能と味の程はどうでしょう。誰か試してみませんか。


梶山季之の酒
起き抜けにビールを飲み、喉がかわけば一日中でもビールを飲みつづける。彼にとってビールは清涼飲料水だった。お酒といえば、賀茂鶴とサントリーの だるま なのである。(「酒縁歳時記」 佐々木久子)
梶山の健康を気遣った佐々木久子が、自らが中心となって作っていた文壇酒徒番付・西の横綱から前頭筆頭へと昭和50年に落としたそうです。梶原から「イタチの最後っぺえみたいなことをするなよ」と、佐々木は言われ、心痛んだそうですが、その年、梶原は急死したそうです。


ドロンコ
寛政2年(1790)春、出版になった山東京伝(さんとうきょうでん)作の『繁千話(しげしげちわ)』という、いわゆるこんにゃく本にある一節だそうです。
○馬骨子足下(そっか=あなた)得釆(とくへん)は如何(いかん)。 不佞(ふねい=私)は大ドロンコに及(およぶ)ト。 紅毛(おらんだ)のことばに酔(よう)た事をドロンコと云。是医者の仲間にてよく云ふしゃれ言(ことば)也。(「砂払」 山中共古)
ドロンケンが、大言海では英語から、荒川の角川外来語辞典ではドイツ語(例の古いもの1863)からとなっていますが、もっと古くから日本へは、オランダ語のドロンコが入ってきていたようですね。


「酒の歳時記」中の酒句
去年今年(こぞことし)新酒の酔いの覚めやらず
櫂入唄(かいれうた)五臓六腑を駆けめぐる
いただけば茶柱立ぬ花見酒
燗酒を屋台でのめば雪となり
あの世には酒屋はなしと新酒注ぐ(つぐ)
暉峻康隆(てるおかやすたか)の「酒の歳時記」に、「桐雨」名の酒句があちこちにあるので調べたところ、本人の句でした。余り上手とはいえませんが、いかにも酒好きな作者らしいものばかりです。


狂歌作者名
酒月米人(さかづきのこめんど) 問屋酒船(といやのさかふね) 酒上不埒(さけのうえのふらち 恋川春町だそうです) 酒呑親文(さけのみのおやぶみ) 透原好酒(すきはらのよきさけ) 菊酒壺(きくのさかつぼ) 千鳥友呼(ちどりのともよび) よたん坊酩酊(よたんぼうめいてい) 酒上真のり(さけのうえのまのり) 
これらは、四方赤良(よものあから 江戸の酒銘からつけたそうです 別名太田蜀山人)の、「狂歌才蔵集」に採られている歌の作者名です。酷使亭肝蔵(こくしていかんぞう)とか、呑屋附有(のみやのつけあり)などはどうですか。


長谷川一夫以下の共通点
長谷川一夫 辰巳隆太郎 嵐寛寿郎 大宅壮一 赤尾敏 横光利一 今東光 川端康成 河野一郎 河野謙三 向坂逸郎 広津和郎 芥川龍之介 宇野浩二 小汀利得 菊池寛  これらの人々の共通点は何でしょう。
それは当然飲むか飲まないかということですが、全員飲めないか、ほとんど飲まなかったということだそうです。(「下戸の逸話事典」 鈴木眞哉) 全員、蔵を建てる以上の、名は立てているわけで、ことわざ破りの面々であるということでしょう。飲まないということは、無理やり飲まされることに対する最大の防壁ですから、案外便利なものかもしれません。


「医学天正記」
「加藤清正 過酒(飲み過ぎ)、心下痛(みぞおちの痛み)、吐黄水(飲み過ぎによる胃炎で胃液を吐く)。
片桐且元 傷酒(アルコール依存症)、瀉痢(げり)、感冒(かぜ。頻脈からそう診断した模様)。
黒田長政 過酒、心中熱(胸焼け)、「口曹」(一字)雑時疼(飲み過ぎによる胃炎で腹がゴロゴロ鳴り、ゲップが出て、時に胃痛あり)。
小早川秀秋 年十八、九歳。酒渇嘔吐(酒で喉が渇き、嘔吐あり)、胸中煩悶(胸に苦悶感あり)、全不食(極度の食欲不振)、尿赤(血尿あり)、舌黒渇(舌が黒く渇く)、脈細数(脈拍数が多くて弱い)」(桃山時代の名医、曲直瀬玄朔の「医学天正記」にあると、「食悦奇譚」で 塚田孝雄が書いています。) 今はだれでもこれができる社会になっているということが歴史の進歩ということなのでしょう…。


新川(川柳)
新川へ玉川を割る安い酒
新川は上戸の建てた蔵ばかり
嶋一つ伊丹池田でおっぷさぎ(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎)
江戸時代酒問屋が集まっていた日本橋近くの新川を題材にした川柳です。はじめは、酒を水で割ることを、玉をきかせるといいますが、この「玉」は「多摩川」の「玉」だったということが分かる句。二つめは「下戸の建てたる蔵はない」ということわざの川柳化。三つめは、灘が江戸への下り酒の主流になる前の、伊丹・池田が新川(嶋)を牛耳っていた頃の句のようです。


耳杯(じはい)
卵を楕円形に二つに切り、その長い方のふちの両側に耳のような取っ手をつけた杯です。それでこうした名前が付いたのでしょう。取っ手が二つあるので双耳杯ともいうようです。また、一名羽觴(うしょう)ともいうそうで、羽のある觴(さかずき)の意味です。多分この両耳を持ってとがった方に口をつけて飲んだのでしょう。高坏のような足のあるものもあったようです。上野・国立博物館東洋館にあります。長径が20cmはありそうで、1合以上は入りそうでした。普段静かなこの建物に、たまには行ってみるのもよいものです。


毛吹草にある酒関係の季語
三月 曲水宴、桃の酒      四月 煮酒(にざけ)
五月 菖蒲酒            六月 朝生酒(あさじざけ)、甘酒
九月 新酒(古酒、葡萄酒)   霜月(十一月) 霙酒(みぞれざけ)、霰酒(あられざけ)
極月(十二月) 寒作の酒    非季詞 柳樽
江戸初期に出版された異端の俳人・松江重頼による毛吹草(岩波文庫)にあるものです。


極上品は水に似ている
ウオツカの場合には不純物を残さない。徹底的に蒸留しちゃう。ただし蒸留したあとで酒を磨き上げる。白樺の木炭とかなんかでね。そこでおだやかな、まったりとした、しかもキックがあって、あくる朝に弊害をもたらさないというシンプルで深い芸術の至境に近いものが出てくるわけですね。コニャックでもスコッチでも、ウオツカ、ホワイトラム、テキーラ、極上品を全部飲んだ自信がありますが、そこで一言言いたいのはその極上品と言われるものには全部共通した性格が一つある。それは水に似ている。  焼酎もそうです。  蒸留酒でも醸造酒でもそうやな。(「対談 美酒について」 開高健の発言) 私のように沢山飲む必要のない者にとっては、水+αがないと楽しくありません。


煮酒(にざけ)(季語)
江戸時代初期の歳時記である、「毛吹草」や、「をだまき」(元禄)には、旧四月で採り上げられているそうです。江戸時代後期の「華実(かじつ)年浪草」(天明2)には夏の部にあるそうです。そして現代歳時記では「最新俳句歳時記」(昭和5年)や山本の「季寄せ」には初夏の季語としてのっているそうです。ところが虚子の「新歳時記」(昭和9年)では不採用だったそうです。これにより、その後の歳時記に「煮酒」という言葉が載らなくなってしまったのだそうです。暉峻康隆が、「酒の歳時記」で書いています。私も最近の歳時記をいくつか見て「煮酒」のないことに気づき、なぜだろうと思っていたのですが、これで疑問が氷解しました。もちろん、「煮酒」は火入れのことです。ちなみに「火入れ」も現在の歳時記にはありません。


下戸の川柳
下戸へ礼言って女房はそびき込み(へべれけの亭主を家に引っぱり込み)
下戸の首二ツかゝへて世話になり(酔っぱらい下戸の二人にかかえられ)
生酔いをまきつけて来る下戸の首(よっぱらい襟巻きには重すぎる)
下戸恩にかけかけ一ツぐっとのみ(一杯だけだと恩着をきせる下戸)(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)
下戸ってやっぱり損なのでしょうか。


文壇酒徒番付(昭和38年版)
東 横綱:(東京)石川淳    大関:(東京)吉田健一 関脇:(東京)高橋義隆 小結:(新潟)山岡荘八 
西 横綱:(広島)井伏鱒二  大関:(福岡)壇一雄   関脇:(富山)源氏鶏太 小結:(岡山)吉行淳之介
行司:尾崎一雄、上林暁、獅子文六、大井広介
外に、瀬戸内晴美は西の前頭、石原慎太郎は西の番外?関脇、三島由紀夫は東の番外?前頭となっています。
勧進元:「酒」編集部 そして制作者の佐々木久子は呼出しとして顔を並べています。(「季刊文学増刊 酒と日本文化」)


開高健の酒による二日酔い対策
開高−つまりね、二日酔いになるとひどい毒が…早くいえば毒ね。それが心にも体にもたまるでしょう。一方的にたまっているわけよ。それで軽く酒を飲む。酒を飲んだということで、いくらか神経が緩和することもありますが、バランスが取れてくるわけ。実質的に体力として肉体的に回復しているかはどうかについては疑問があるが、バランスが取れたという感じで、毒が一方に傾かない、攻められるだけの毒にしないで、散らすことができるわけ。内向的な毒を外向的にできるわけ、誘い水を出すことで。それで心がどんどん動き出す。これや、迎え酒の功徳いうのはそこやね、非常にメンタルなもんですわ。
これに対して対談相手の吉行淳之介は いまの話は、非常にいいんじゃないかな。 といっています。(「対談 美酒について」 吉行淳之介 VS. 開高健)


ディオニュソスの死
穀物の女神デルメルの娘ペルセポネーに、ゼウスはひそかに交わったそうです。生まれた息子はザクレウスと名付けられ、嫉妬深いゼウスの妻ヘラの復讐を恐れてクレータ島イダ山中の洞窟に隠されて、見張りを付けて育てられたそうです。しかし、やがてゼウスの敵、ティターン神族がこれを嗅ぎつけ、真夜中に幼いザクレウスを襲撃しました。ザクレウスは勇敢に立ち向かいましたが、結局神族により八つ裂きにされてむさぼり食べられたそうです。これを見た女神アテナが最後に残ったザクレウスの心臓を救い、ゼウスはこれを飲み込んだのだそうです。このザクレスがディオニソスなのだそうです。ゼウスはその後、ディオニュソスを第二の母となるテーバイの王女セレメーに宿らせます。(後半は「御酒の雑話2」にあります。)(「酒の神 ディオニュソス」 楠見智津子) ディオニュソスという神のもつ大変特殊な歴史がこうした神話を生み出したのでしょうか。


酒中花(2)
「○梅さん笄(かんざし)をちっとか(借)しな [梅](髪から)ぬいてか(貸)す [柳]おめえもいゝ年をして、(かんざしに)酒中花をからみつけてをくこともねへ、おとなげねへと、みみ(耳)のあかをとる。(かんざしは耳かきが出来るようになっていました。)」(寛政三年、山東京伝 「娼妓(しょうぎ)絹ぶるい」にあるそうです。)  これを山中共古が注して  「此酒中花といふもの、水へ浮ばせると開くものか。他のものかとも思われど、とにかく水中にて開くもの、寛政以前よりありしゆへ、かく名附けしものあるかと思へば、覚(おぼえ)の為に記し置く。此(この)女、水中に浮びし水中花を、かんざしにて動かせしのが、つきて居しをいへるなり。」  さらにこれを、三村竹清が注して、「水中花とい名にて、此間、茅場町の薬師にて売るを見たり。」 としています。(「砂払」 山中共古) 明治になっても酒中花はあったようです。酒中花は「酒の雑話2」にあります。


鼠尾馬尾鼠尾
永山久夫の「酒雑学百科」にあるのですが、「鼠尾馬尾鼠尾」、これは何のことでしょう。読み方は「そひまひそひ」とありますが、今様には「そびまびそび」なのでしょう。酒の注ぎ方なのだそうで、はじめは鼠の尾のように細く注ぎ、次いで馬の尾のように太く勢いよく、最後は再び鼠の尾のように細く注げばよいということだそうです。なぜ鼠の尾と馬の尾を対比させるのかよくわかりませんが(多分なにか意味があるのでしょう)、その感覚が何とも面白いということなのでしょう。


キャベツ
古代地中海ではキャベツは「酔い止め」として重宝されていた。エジプト人はゆでたキャベツを宴会の前に食べていたし、ギリシア人も泥酔防止と称して、煮たキャベツを胃に詰め込んで酒宴に臨んだ。種子をあらかじめ口に含んだり、酒に入れておくこともあったようである。こうした効果をもじって「キャベツにかけてオレは禁酒する」といった飲兵衛(のんべい)の殺し文句さえ聞かれた。  と、「食悦奇譚」で塚田孝雄がのべています。環地中海共通のキャベツ観があるようですね。


「葉隠」での酒の話(2)
酒盛りの様子はいかう(立派でおごそか)あるべき事なり。心を付けて見るに、大方呑むばかりなり。酒といふ物は、打上り(切り上げを)綺麗(きれい)にしてこそ酒にてあれ。(こうしたことに)気が付かねばいやしく見ゆるなり。大かた人の心入れ、たけたけも(心がけの程度も)見ゆるものなり。(酒盛りは)公界物(公の世界の物)なり。(「葉隠」 岩波文庫) 下の文と似たようなものですが、武士の酒観とでもいったものの雰囲気が分かるようです。ただし、実際はこうなっていないということは昔も今も同じです。


「葉隠」での酒の話
大酒にて後(おく)れを取りたる人数多(あまた)なり。別して残念な事なり。先ず我がたけ分(自分の酒量)をよく覚え、その上は呑まぬ様(よう)にありたきなり。その内にも、時により、酔い過す事あり。酒座にては就中(なかんずく)気をぬかさず、不図事出来ても間に合ふ様に了簡あるべきなりあるべきなり。又酒宴は公界ものなり。心得べきなり。(「葉隠」 岩波文庫) 「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。」で有名な「葉隠」の一節で、万一への備えと、酒宴を公的な場とみる武士の心得です。


俊成の酒歌評価
又、万葉しう(集)にあればとて、よまん事はいかヾとみゆる事どもゝ侍(はべる)なり。第三の巻にや、太宰帥(だざいのそち)大伴卿さけをほめたる哥(うた)ども、十三首までいれり。又、第十六巻にや、いけだの朝臣、おほうわの朝臣などやうものどもかたみにたわぶれ、のりかわしたる哥などは、まなぶべしともみえざるべし。(万葉集にあるかららといって和歌にすることはどうだろうと思われるものがあり、大伴旅人の酒をほめる歌十三首などは、学ぶべきとは思われないといった意味。) 「千載和歌集を」撰した藤原俊成の「古来風躰抄」にあるそうです。(「酒の歌、酒席の歌」 久保田淳) 要するにこの当時、酒をうたうことはかっこわるかったということなのでしょう。


さかづきの異名
玉舟(ぎょくしゅう) 酒杯(しゅはい) 酒政(しゅせい) 酒巵(しゅし) 玉海(ぎょくかい) 銀海(ぎんかい) 酒器(しゅき) 飲器(いんき) 仲雅(ちゅうが) 季雅(きが) 伯雅(はくが) 酒杓(しゅしゃく) 「木否」(一字)杓(はいしゃく) 金船(きんせん) 盃盞(はいさん) 酒盞(しゅさん) 鴟夷(しい) 陶匏(とうほう) 玉窪(ぎょくあ) 金螺(きんら) 香螺(こうら) 酒魁(しゅかい) 羽觴(うしょう) 杯觴(はいしょう) 酒爵(しゅしゃく) 杯爵(はいしゃく) 觴勺(しょうしゃく) 塞鼻(そくび) 不落(ふらく) 金巨羅(きんから) うき うくは(「酒雑学百科」 永山久夫) 色々あるものですね。塞鼻は、多分飲むとき鼻をふさいでしまうといった意味なのでしょうが、どんなかたちのものなのでしょう。


酒税の変遷
清酒1石(180l)当り

年号 明治11 明治13 明治15 明治29 明治31 明治34 明治37 中略 大正15〜昭和12 昭和19 昭和20/4
酒税(円) 2 4 7 12 15 15.5 40 995 1,245(1級)
年号 昭和24/4 昭和34/4 昭和38/10
酒税(円) 25,700(1級) 48,888(1級) 27,378(1級)

(「酒さけ酒」 大関酒造株式会社) 灘酒の資料だけに2級酒の酒税がのっていません。



佐々木久子の朝
私は未だひどい二日酔いをしたことがないのだが、毎朝、ぬるい朝風呂に入って血のめぐりをよくし、梅干しを入れた熱い番茶を飲み、気分のよくなったとき味噌汁と大根おろしを食べる。これでなお気分の悪いときに初めて迎え酒をする。風呂に入る時間のない時には、紅茶に蜂蜜とブランデーを入れて飲むと具合がいいようである。(「酒縁歳時記」 佐々木久子)
いかにも酒豪「ちゃこさん」らしい寝覚めのようで、うらやましいという言葉の一言しかありません。


酒の日常化
特別な日に飲むものだった酒が日常化されてきたことを示している例として、15世紀のごく始めの備中(岡山県)の新見庄(にいみのしょう)という庄園の資料があるそうです。毎日の金銭の支払いを代官が記した帳簿なのだそうですが、それによると、豆腐や魚、昆布を買って代官は近くの有力者たちと市庭(いちば)でたびたび酒を飲んでたことが分かるそうです。海から離れた備中の山の中で、北方の産物である昆布や、魚が日常的に買えて、それを肴にたびたび酒を飲んでおり、また、狸も肴にもしているそうです。(「座談会 酒と日本文化」 網野善彦の発言) 15世紀初めに、ある程度の力を持った人たちが飲める、商業としての居酒屋があったということなのでしょうか。


モームの名言
「芸術至上主義とは芸術のための芸術ということであるらしい。しかし文学というものは、ときどきパンではないかもしれないけれども、しばしば酒ではあるだろう。とすると芸術のための芸術ということは、ブランデーのためのブランデーということになる。かりにそんなブランデーがあるとして、だれが飲むんだろう」というサマセット・モームの名言があるそうです。「対談 美酒について」の中で開高健が言っています。飲んでみたいですね。


カミエビの語源
カミエビとは、アオツヅラフジ(青葛藤)と言われるブドウのような美しい紫の実をつける雌雄異株のツル性の木本植物だそうです。カミは神で、エビはエビヅルに基づいた名(牧野富太郎)という説や、実の熟する頃、実に白い粉がふくので、「カビエビ」(エビはブドウの古名)などという説があるようです。中村浩は、「植物名の由来」で、「カミ」は「醸む」か「噛む」、「エビ」はブドウの古名で、「酒をかもすことのできるブドウ」という意味だろうと記しています。 この実には醗酵するだけの糖分やデンプンがあるのでしょうか。白い粉が、柿のような糖分なら、可能性はあるような気もします。


酒に縁のある植物
タイセイキン(大酒錦 ハス科 園芸)、サケリュウゼツ(酒竜舌 アガウェ・アトロウィレンス リュウゼツラン科)、サカウメ(酒梅 バラ科 徳川斉昭が植えた梅の中にある名前です)
ショウジョウバカマ(猩々袴 ユリ科)、シロバナショウジョウバカマ(白花猩々袴 ユリ科)、ショウジョウ(猩々 カエデ科 園芸)、ショウジョウ(猩々 ボタン科シャクヤク 園芸)、ショウジョウシダレ(カエデ科 園芸)、ショウジョウノムラ(カエデ科 園芸)、ショウジョウスゲ(カヤツリグサ科)、ショウジョウソウ(猩々草 トウダイグサ科)、ショウジョウボク(猩々木、ポインセチアの別名 トウダイグサ科)、ショウジョウヤシ(猩々椰子 ヤシ科)、ヒメショウジョウヤシ(姫猩々椰子 ヤシ科)、イマショウジョウ(今猩々 ツツジ科 園芸)、ショウジョウカ(猩々花 アオイ科)、ショウジョウ(猩々 サクラ科 園芸)、ショウジョウウツギ(スイカズラ科 猩々空木)、ショウジョウマル(猩々丸 サボテン科 トゲが赤い)、ショウジョウトラノオ(猩々虎の尾 ワルシェウィッチア・コッキネア アカネ科)
スイガン(酔顔 ボタン科ボタン 園芸)、スイヨウヒ(酔楊妃 ツツジ科 園芸)、スイヨウヒ(酔楊妃 ボタン科シャクヤク 園芸)、スイフヨウ(酔芙蓉 アオイ科)、ヒトエスイフヨウ(一重酔芙蓉 アオイ科)、スイセンノウ(酔仙翁 ナデシコ科)、スイビジン(酔美人 アヤメ科 園芸)、スイビジン(酔美人 キク科 江戸菊 園芸)スイヒレン(酔妃蓮 スイレン科 園芸)、シスイ(紫酔 ユリ科 ホトトギスの園芸品種)
サカズキバツバキ(盃葉椿 ツバキ科 園芸)、オオサカズキ(カエデ科 園芸)、オオサカズキ(大盃 梅 園芸 バラ科)、オオサカズキ(大盃 園芸 サツキ ツツジ科)、オオサカズキ(大盃 園芸 キリシマツツジ系 ツツジ科)、オオサカズキ(大盃 園芸 サクラソウ サクラソウ科)、タイハイ(大盃 園芸 ボタン科ボタン)、タイシュハイ(大朱盃 サザンカ ツバキ科 園芸)、ギンパイソウ(銀盃草 ナス科)、カンパイ(乾杯 バラ バラ科 園芸)、タイサンボク(大盞木:牧野富太郎説 モクレン科)、タイハイボク(大盃木 タイザンボクの別名 モクレン科)、センニョハイ(仙女盃 サボテン科)、ショウハイスイセン、タイハイスイセン(小杯水仙、大杯水仙 ヒガンバナ科 園芸)、キンセンカ(金盞花 キク科)、キンセンカ(金盞香 水仙のとこだそうです ヒガンバナ科)、ダイシハイ(大紫盃 ムクゲ アオイ科 園芸)、センニョハイ(仙女盃 ベンケイソウ科)、ギンパイソウ(銀盃草 ナス科)、ギンバイカ(銀杯花 フトモモ科)、モモノサカズキ(桃の盃 園芸 サクラソウ サクラソウ科)、チョコタケ(猪口茸 ホテイシメジ キシメジ科)
モロミグサ(萩の花 マメ科)
トックリハシバミ(徳利榛 カバノキ科)、トックリヤシ(ヤシ科)、トックリヤシモドキ(徳利椰子擬 ヤシ科)、トックリラン(リュウゼツラン科)、トックリキワタ(徳利木綿 酔っぱらいの木、酔いどれの木 パンヤ科)、トックリアブラギリ(徳利油桐 トウダイグサ科)、ヘイシソウ(瓶子草 サラセニア 食虫植物 サラセニア科)、チョクザキミズ(猪口咲ミズ イラクサ科)、ヒョウタン(瓢箪 ウリ科)、ヒョウタンボク(瓢箪木 スイカズラ科)、ヒョウタンウツボカズラ(瓢箪靫葛 ウツボカズラ科)、オオヒョウタンボク(大瓢箪木 スイカズラ科)、オニヒョウタンボク(鬼瓢箪木 スイカズラ科)、イボタヒョウタンボク(水蝋瓢箪木 スイカズラ科)、ハナヒョウタンボク(花瓢箪木、スイカズラ科)、ベニバナヒョウタンボク(紅花瓢箪木、スイカズラ科)、オニヒョウタンボク(鬼瓢箪木 スイカズラ科)、ヒョウタンソウ(瓢箪草 フクシア アカバナ科)、フクベノキ(瓢の木 別名ヒョウタンノキ ノウゼンカツラ科)、アカバナヘイシソウ(赤花瓶子草 サラセニア・ルブア サラセニア科)、マスクサ(升草 カヤツリグサ科)
シュチュウカ(酒中花、石田波郷の句集で有名 ツバキ科 園芸)、シュチュウカ(酒中花 アヤメ科 園芸)
スイチョウカ(酔蝶花 クレオメです フウチョウソウ科)
ウタゲノトコ(酒宴の床 園芸 サクラソウ サクラソウ科)
ヒヨドリジョウゴ(鵯上戸 ナス科)、キヒヨドリジョウゴ(木鵯上戸 ヤブサンザシ ユキノシタ科)、ジョウゴバナ(上戸花 クロサンドラ キツネノマゴ科)
アワモリショウマ(泡盛升麻 ユキノシタ科)、アワモリソウ(泡盛草 アスチルベ ユキノシタ科)、アワモリハッカ(泡盛薄荷 シソ科)
チドリノキ(カエデ科)、アカバナ(アカバナ科)…これはむりですか。いずれにせよ、園芸品種も含めて色々あるようですね。ご存じの方はお教え下さい。


イスラームにおける酒
そもそもイスラームの根本聖典であるコーランにも、酒は神さまの恩寵のしるしだといった表現がある。コーランは二、三年をかけて断続的に下された掲示なので、初期のものと後期のものとではずいぶん趣が異なるのだが、初期においては酒はなかなか好意的に見られている。時代が下ると、酒には罪も益もあるが、罪の方が大きいぞ、となり、また酒に酔ったら醒めるまでは礼拝に来るな、と言われるようになる。しかしこの段階でもまだ、酒が全面的に禁止されているわけではない。最後には酒は悪魔の業だから、これを避けよ、という掲示が下るに至るが、これはムハンマド(マホメット)の亡くなる年のことである。(「イスラームにおける酒」 東長靖)


奈良時代頃の酒の話題
「正倉院文書」によると、「雇夫、雇工に対して辛酒一升を水四合で割り、二日に一度、一人三合ずつ支給した。」とあるそうです。また、写経所の職人が三日に一度、酒を支給するよう、役所に要求していたことを示す木簡が、飛鳥板葺宮跡から見つかっているそうです。(「食悦奇譚」 塚田孝雄) 前者は、多分濃度からいってビール感覚でしょうから、二日で大瓶ビール1本といったところでしょう。日本でも酒を割って飲むということが行われていたことが分かりますね。木簡に関しては、これからも発掘される可能性がありますので、もっと酒の資料が出てこないかと楽しみです。


「うかうかと御出(おいで) とっととお還(かえ)り」
俗にこのように言われるお祭りがあるそうです。京都・嵐山の松尾神社の祭礼だそうです。松尾神社では、毎年四月下の卯(う)の日に渡御(とぎょ)祭(神幸祭ともいう)を行い、翌月上の酉(とり)の日に還御(かんぎょ)祭を行うそうです。その間6基の神輿はそれぞれの御旅所にとどまるので、俗に「うかうか(卯)と御出、とっと(酉)とお還り」と言われるようになったということです。佐々木久子の「酒縁歳時記」にあります。 時間の流れのゆったりとしていた昔の祭の様式がいまだに残っているようですね。


「さかや」
世田谷区の次太夫堀公園民家園に「さかや」という、「旧城田家住宅主屋」が移築復元されています。移築前は、近くの元砧村大字喜多見字本村にあった建物だそうです。この民家は江戸末期に半農半商の酒屋として建てられたものだそうです。「ドマ(ミセ)」の部分に「ダイドコロ」といわれる板の間を張り出して店棚とした、いわゆる店造りの形式だそうです。多摩川を下った筏師がその帰りがけに飲みに寄ったそうで、中2階はその休息場所だったと考えられているそうです。(「あるじでえ bR」) 今は酒でなくラムネを売っています。軒の竹の樋が印象的でした。


開高健の二日酔い対策
二日酔いになるとひどい毒が…早くいえば毒ね。それが心にも体にもたまるでしょう。一方的にたまっているわけよ。それで軽く酒を飲む。酒を飲んだということで、いくらか神経が緩和することもありますが、バランスがとれてくるわけ。実質的に体力として肉体的に回復しているかどうかについては疑問があるが、バランスが取れたという感じで毒が少なくとも一方的に傾かない。攻められるだけの毒にしないで、散らすことができるわけ。内向的な毒を外向的にできるわけ、誘い水を出すことで。それで心がどんどん動き出す。これや、迎え酒の功徳というのはそこやね。非常にメンタルなもんですわ。(「対談 美酒について」 吉行淳之介VS開高健) 二日酔いの本質を付いき、かつ、迎え酒擁護の最強なもののひとつでしょう。


甲付(こうつき)
酒樽をつくる杉は、6、70年ものがよく、さらにその甲付の部分が一番よいとされています。杉材を切ると中心部が赤身の芯材で、その外部の樹皮までの間を白太といい、白太辺材というそうです。その赤身と白太の接する所がいわゆる「甲付(内稀 うちまれ)」で、ここから木香(きが)が浸出するのだそうです。その杉は、奈良県吉野の川上村の奥地がメッカで、小川村、大塔村などが有名だそうです。(「酒さけ酒」 大関酒造兜メ) ほのかに木香の付いた樽詰め酒はなかなかよいものです。時々居酒屋で特に頼まないのに木香の付いた酒が出てくることがありますが、多分「自家製」なのでしょう。


ウマヅラハギ
ウマヅラハギを薄づくりにしてその肝をといた醤油で食べるのはもうひとつの人生のヨロコビである。ぼくはフグよりウマヅラハギの方がうまいと思う。脂ののった戻りガツオと岸壁から拾ってきたウマヅラハギの薄づくり。それに一杯の酒があればもうなにもいらない。  と、「麦酒主義の構造とその応用胃学」で、椎名誠がいっています。清酒主義も研究していただけたらと思っています。清酒主義で見た場合のウマヅラハギの位相はどのようなものでしょう。


コップ座
うみへび座の近くに6つの小さな星があって、それらをつなぐと、台の付いた鉢の形になり、これをコップ座というのだそうです。ギリシアやローマの時代、クラーテルという酒や薬を混ぜる、両耳と台の付いた鉢の形に見られたことに由来する名前だそうです。酒とブドウの神、ディオニソスは、この鉢で酒をつくったといわれており、この神はよくこれを持った姿に描かれているそうです。それで、ギリシア人はこの星座を「ディオニソスの鉢」と呼んでいたそうです。その後、酒をつくる技術をアテネの王イカリウスに教えたときに、この鉢をゆずったと伝えられているそうです。(「星の神話・伝説」 野尻抱影) コップでも鉢でも、少し小さすぎるのでは…。


其角の酒
芭蕉の門人だった酒好きで酒の歌も多い榎本其角は、俳人評判記「花見車」(元禄15年刊)には、若い頃酒癖が悪かったそうです。「酒が過ると気ずいにならんして、団十郎が出る。裸でかけ廻らんとした事もあり。」と書かれているそうです。「団十郎が出る」というのは、歌舞伎の荒事(あらごと)をいうのでしょうから、酒を飲むと暴力に及ぶような一種の酒乱だったらしい。ただ、その本の続きに、今は少しおとなしくなったことが書かれており、元禄末年、其角は40歳を越えており酒癖も丸くなったらしい。「其角と『吉原徒然草』」の中で上野洋三が書いています。その「吉原徒然草」にも其角は加筆したのではないかと上野は想像しているそうです。


東大寺二月堂のお水取り
3月12日に行われる籠松明(かごたいまつ)の火の粉をふりまく奈良東大寺二月堂の有名な”火祭り”「お水取り」では、その火の粉を体に受けると魔除けになるのだそうです。とくに、酒の仕込みに、この火の粉と二月堂にある若狭井(わかさい)という井戸の霊水を入れると腐敗しないということで、多くの酒造家が参詣するそうです。ところで、福井小浜市の神宮寺は10日前に”お水送り”の神事があり、その際ここから流された霊水が二月堂の若狭井に到着するのだそうです。(「酒縁歳時記」 佐々木久子) いつ頃から、またなぜこうした信仰が始まったか調べると面白いでしょうね。


灘目の海難供養碑
新酒の一番乗りを目指した番船競争が華やかに行われていた江戸時代ですが、酒を運ぶ樽回船の海難事故は沢山あったようです。中目黒にある祐天寺には、樽回船の遭難供養の碑があります。山門をくぐって左側奥手に木綿問屋仲間、「白子組」の海難供養碑と並んで建っています。寛政8年(1796)3月23日夜相模灘で雷を伴う大風により、上灘と呼ばれた莵原(うはら)の2艘の樽回船が沈没し、33人が犠牲となったことを祐天寺住職祐全が記しています。被害者か供養者に祐天寺との関係があったのでしょう。当時は沿岸をたどる船舶輸送でしたが、船が小さかったこともあって、事故は数多くあったようです。


川柳の酒句(2)
土蜘(つちぐも)の 身ぶりでなめる こぼれ酒
忍ぶれど 色に出にけり 盗み酒
きゝ酒を ぐひぐひ(ぐいぐい)飲んで しかられる
きく事に 耳のいらぬは 香(こう)と酒
酒と女は にくくない かたき役
浜田義一郎編の「江戸川柳辞典」の「酒」の項にある句です。どれもいかにもというものばかりです。


奈良時代の氷室
奈良の平城京跡から貴族の大邸宅が発掘され、出土した木簡に、氷を蓄える「氷室(ひむろ)」についての記録が見つかったそうです。古代ギリシア・ローマ、中国では夏、酒に氷を用いる場合、氷を雪片状に砕いて酒杯に入れるのが普通で、「雪割り酒」だったらしいとのことで、日本でも貴族達は似たような冷や酒での宴会を楽しんでいたのだろうと、「食悦奇譚」で、塚田孝雄が書いています。夏の氷は貴重品でだった時代がつい最近まであったことを知っている人は日本の人口の半分以下になっているのでしょう。


良寛の酒
あの人(良寛)は酔っぱらっている状態の歌って何にもないんですね。だけど酒なしにはいられなかった感じがするぐらい、とにかく酒の蓄えががなくなると、自分のパトロンの一人がお米屋さんで、そこに女中さんがいて、女中さんに手紙を出して、黄金の水を一寸と…。そうすると女中さんがぶつぶつ言いながら、仕方がないわね、でもしようがないわって持ってきてくれる、というようなことがしょちゅうあったみたいですね。それでいくと、酒は絶対に必要なんだけれども、良寛は酒は飲んで酔っぱらうためとか、そういうことは何もないのね。むしろ頭が冴えてくる。(座談会「酒と日本文化」 大岡信の発言) そういえば、子どもたちとかくれんぼをしていて、隠れた場所で寝ていたという話もありましたね。


「毛吹草」の名物酒
味醂酎(みりんちゅう)、消酎(しょうちゅう)、南蛮酒、山川酒、酒(山城) 僧坊酒(大和) 天野酒(河内) 酒(和泉) 須磨濁酒、伊丹酒、富田(とんだ)酒(摂津) 菊川酒(遠江) ネ川(えがわ)酒(伊豆) 小濱(おばま)酒(若狭) 大野酒(越前) 菊酒(加賀) 杵築(きづき)酒(出雲) 小嶋酒(備前) 尾道(おのみち)酒、三原酒(備後) 若山(わかやま)忍冬酒(にんどうしゅ)、延命酒(紀伊) 嶋後(どうご)酒(讃岐) 博多練酒(ねりざけ)(筑前) 小倉酒(豊前) 麻地(あさぢ)酒(豊後) アハモリ酒(薩摩)
これは正保2年(1645)刊の松江重頼の「毛吹草」(岩波文庫)にある諸国名物一覧のアルコール関係を拾ったものです。江戸初期の酒の産地がある程度分かるようです。


イカリアに伝わる酒の神話伝説
酒神ディオニソスがアッティカ半島のイカリアの村に至り、農夫イカリオスに宿を頼んだところ、イカリオスは神に帰依して尽くした。ディオニソスは返礼としてブドウの栽培法とワインの醸造法を伝授した。イカリオスは、できあがったワインを山羊(ヤギ)の革袋に詰めて村へでかけ、村人にふるまった。生まれて初めて酒をのんだ村人は毒を盛られたと勘違いし、イカリオスを撲殺した。娘のエリゴネーは愛犬により父の死体を発見し、驚きと悲しみで首をくくって父の後を追った。これを知ったディオニソスは、村中の娘に狂気をもたらし、娘達は縊死を遂げた。アポロンの神託でことの次第を知った村人は、その父と娘のために盛大な供養を行ったため、ディオニソスの怒りはおさまった。以後イカリアは葡萄の産地として繁栄した。 楠見千鶴子の「酒の神 ディオニソス」にあります。ただし、現在この村のあった地に住む人はなく、葡萄も栽培されていないそうです。ただし、村の名はディオニソスとなっているそうです。


K2の酒
Y−K2のひとり酒の録音テープがあるのよね。レコードになっていますよ。
K−そのひとり酒はどういうこっちゃ。ひとりで酒飲みつつブツブツ言ってんの?
Y−そのテープを遠藤周作が取り上げてアレンジしたの。
K−それは面白いな。
Y−自分で水割り作っている音や氷の音がカチカチ聞こえ、なんかヘタな浪花節をうなったりね、それから童謡を歌ったりしている。浪花節は「タンタンタヌキの金の目玉」。目玉とちゃんと言っているんだ。そういうときはKがおそらく鬱(うつ)になりかかっているときだろうね。(「対談 美酒について」 ) このK2は北杜夫です。このレコードは聴いてみたいですか。もちろんYは吉行淳之介、Kは開高健です。


Kの酒
K−私はかなり早くから酒に取材費を注ぎ込みすぎているんですが、ひとり酒が趣味でね、これを始めるととめどなく飲むの。淫してしまう。壁に映える影法師相手に飲んでるんです。
Y−健康なんだね。体力があるんだよ。
K−今まではね。それで大酒になってしまうんです。以前は酒飲んでも、あくる日熱い番茶に、おばんのおっぱいの先みたいなポタポタッとした梅干しをつぶして入れて、それで効いたんですがね。このごろは二日も三日もダメージが続くんで、ひとり酒、おおいに警戒しているんですけど、ちょっと油断すると度を過ごしますね。(「対談 美酒について」)
さて、このKは誰でしょう。開高健であることは分かる人にはすぐ分かるでしょう。すると、当然Yは気遣いの吉行淳之介ということになります。


貝原益軒の本音
「饅頭、菓子=虎屋。ういろうもち=二口屋。ちまき=道和。豆腐=丸山。酒=関東屋。銘柄は乱菊、清滝川、花橘…」 これは、益軒晩年の「忘備録」に書かれている”うまいものリスト”だそうです。肉食を忌んだ江戸時代にもかかわらず、イノシシ、ブタ、ニワトリなどの肉も大好きだったそうです。名著「養生訓」で説いたような、節食、中庸とは違った生活スタイルを本人は持っていたということのようです。(「食悦奇譚」 塚田孝雄) 酒のスタイルはどんなだったのでしょうか。そのエネルギーの高さからみて、かなり飲めたような気もしますが…。


「稲麹(いねこうじ)」(稲麹病)
稲の穂に黒緑色の糸状菌の玉の付いたものを「稲麹」といい、植物病理学では「稲麹病」というそうです。この稲麹の中には2種類のカビが棲息しており、一つはそれほど恐ろしくない病原菌としてのカビ(ウスチラジノイデア・ビレンス)、もう一つはコウジカビ(清酒造りに使用されているもの)で、繁殖している数の上では10対1なのだそうです。ところが蒸した米ではコウジカビが猛烈に繁殖するということ、35℃以上の温度は前者にとって増殖出来ない温度であるが、コウジカビにとっては最適であるということが小泉武夫の実験によって確認されたそうです。このような状態に置けばコウジカビを選択的に繁殖させて酒造りに必要な「麹」ができることから、現在の麹造りの原型がこの「稲麹」にあると小泉は推定しています。また、調査の結果、実際にこの稲麹を用いて麹をつくっていたことも分かったそうです。(「味噌・醤油・酒の来た道」 森浩一編) 


鬼ころし酔いが覚めれば鍾馗なり
福は内、鬼は外へと豆をうちおさめて、酒を飲んでいる所へ、門の戸ぐわらりとおしあける。見れば赤鬼なるゆへ、豆をとって打たんとすれば、鬼言うやう「是々ちっとの内じゃ、置いて下され、今そこへなまよひ(生酔い:酔っぱらい)が来ます」「ハテらちもない。鬼とも言わるるものが、生酔をこわがってすむものか、出て行かっしゃい」鬼「いやさ、さうでない。さめるとせうき(鍾馗:正気)になる」(口拍子、安永二)(江戸川柳辞典 浜田義一郎編) 石でさえ逃げるという酔っぱらいの威力はたいしたものです。いや、二日酔いの威力かもしれません。


酸度とアミノ酸度の関係
元国税庁技官だった上原浩によると、基本的な考え方として、アミノ酸度が酸度より0.2〜0.3低い清酒は軽く爽やかに感じられるということです。そして、酸度は、清酒のアルコール度数×0.1を下回るものがよく、例えばアルコール度数16%の清酒の場合、酸度1.6以下、アミノ酸度1.4以下というのが理想的な酒ということになるのだそうです。(「純米酒を極める」)
瓶に貼られた裏ラベルをご覧になるとよいでしょう。しかし一方、この両者が少なすぎると酒は味気ないものとなってしまいます。下限の数字も書いておいてもらえればよかったと思いました。


数の子と酒
たいがいにしろと数の子ひったくり
この川柳は、数の子が安直な塩蔵食品で、下種(げす)なおかずのひとつであった江戸時代の風景だそうです。正月三が日を過ぎて来宅した親しい年始客が、数の子をおかずに貴重な白米飯をおかわりをするので、その原因である数の子をひったくったというのが句の意味なのだそうです。こりこりというかぽりぽりというか、音を立てるものを噛みながら酒を飲むのは、江戸時代、野暮と見なされていたのだそうです。(「大江戸美味草紙」 杉浦日向子) 美意識の洗練されていた江戸っ子が、酒と数の子の相性よさにどうして気が付かなかったのかと、不思議に思われます。肥料に使われていたというニシンの卵だけに、安かったことが見栄ぱっりの江戸っ子にうけなかったということなのでしょうか。もっとも最近の日本人も同様なのでしょうが。


新宿・ハモニカ横丁
当時のハモニカ横丁には、よしだ、五十鈴、仲良し、ととや、みちなど屋台に毛が生えてような、六、七人入れば一杯になってしまうカウンターだけの飲みやが目白押しにあり、これらの店には、丹羽文雄、石川達三、草野心平、織田作之助、坂口安吾、壇一雄、河上徹太郎、立野信之、井上友一郎、吉田健一、亀井勝一郎、江戸川乱歩、角田喜久雄、高木彬光などの作家、文芸評論家、池島心平を頂点とした編集者たちが、夜な夜なタムロしていたのである。(「酒縁歳時記」 佐々木久子)
先年火災にあった、新宿の一名ションベン横丁のかつての様子を記したものです。


編み酒
師走に二三人寄りてゐたりしが、「当年はいかふ(大変)寒じまする(寒いです)」といふ。一人、「いや、これが寒ずるではござらぬ。加賀の辺(あた)りは仰山(ぎょうさん)に寒じまする。酒などは量(はか)りて売る事はならいで(なくて)、編んで売る」といふ。「これはつゐに聞かぬ事でござる。いかやうに(どのように)いたす」といへば「まず酒をつぎて板の上を流せば、それが氷りまするを、片端からおこして編んだものでござる。又小便なども、ただする事はならいで、擂木(すりこぎ)ほどな木をもちて、打折りてせねば、小便が棹(さお)になる」といふ。(「化政期落語本集」 補注 武藤禎夫編) 落語の原話の小咄だそうです。 


七人の大和尚の飲酒
中国・明の時代に七人の大和尚がどこからともなく都にやってきて、酒を二石も飲み歩きました。それと同時に北斗が空から光を消したので、さてこそ北斗の精に違いないと、太宗皇帝が宮中に召して酒を賜ろうとしました。すると、たちまち七人は姿をかくしてしまい、その夜からふたたび北斗七星が、こうこうと輝きだしたという話です。(「星の神話・伝説」 野尻抱影)
中国にはアルゴ座のカノープスにも似たような伝説があり、中国はこうした話が好まれたようです。


アルコール in インク
開高−うちのおじが当時銀行員で、戦争中は僕は子どもだから酒は飲まなかったけれど、話を聞いていると、とにかくアルコールが払底して飲み助は困っちゃって、ついに目をつけたのがインクだというの。
吉行−それは徳川夢声も言っている。
開高−それでアテナインキにはコクがあるとか、なんとかはどうだとか、丸善がどうだとか議論しているという。おじがそんな話をしていたのを覚えているな。(「対談 美酒について」 吉行淳之介VS.開高健)
平和な現在は、ドリンク剤に含まれていることを知らないで飲むアルコールが問題になりますが、逆にそうしたものを必死で見つけようとしていた時代もあったということですね。


鹿型パズルゴブレット
ジョークグラスとか、トリックグラスたかいわれるもので、サイフォンの原理を取り組んだグラスの一種だそうです。背の高いグラスの底からガラス管が上に伸び、その上に動物の形をした細工が付けられているという形です。平成15年にサントリー美術館で開催された「ガラスの酒器・ヨーロッパ」で展示されている酒器は、その動物として鹿が付けられており、これがじゃまになってグラスのふちからは飲むことができません、しかし、台座の付け根にある小さな穴をふさぐとサイフォンの原理で、中央の管を伝わってワインが上昇し鹿の口から飲むことができるというものだそうです。(カタログから) 実は私には見てもしくみがよく分かりませんでした。沖縄でつくられている同様にサイフォンを利用した杯は、建前上飲みすぎを戒める意味を持っています。このあたりが東西の感覚の違いといってよいのででしょうか。


戦後生化学界の大発見
終戦後の世界の生化学界または分子生物学界の顕著な出来事をあげよと言われれば、一つはメバロン酸(火落酸)の発見により従来不明であった各種の物質の生成経路が開明されたこと、第二には生体内での蛋白質が実は糖を尻っぽにつけた糖蛋白質の形でいろいろな生理作用を発揮することが発見されたこと、この二大事実の発見にとどめを刺すのである。その後者の開明にもイソプレノールという日本酒腐敗菌(火落菌)の生成物を含んだツニカマイシンというものが深く関係してることが日本で発見されたと言ったら、世界のその道の専門家がはじめて成程と気がつくであろうと思うと、日本酒のために実に愉快にたえない。(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎) 歴史のある研究分野からはいろいろな発見があるという顕著な一例なのでしょう。酒造業界からさらなる発見発明のでてくることを期待します。


禁酒の川柳
無刀で帰宅 仕(つかまつ)り以後 禁酒(酔って帰宅して刀を忘れた、武士として最大の醜態、始末書を出した文章調)
禁酒した 目にはつれなき 雪月花(酒なくて なんのおのれが 雪月花 とうことでしょう)
禁酒だと おっしゃりませと 袴腰(袴をはくのを手伝いながらの女房のいさめ)(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)
禁酒して何を頼みの夕しぐれ 鉄砲(ふぐ)の鍋で禁酒を打破り 一とふし(カツオ)の刺身願酒(禁酒)をつい破り 禁酒してむすこおやじをはむく(へつらう)也(酒は止めても女遊びは適当にということだそうです) などという禁酒川柳もあるようですがいずれにせよ、こりない面々といったところでしょう。


酒米の蒸しの香り
酒米の蒸し上がりのタイミングはどのようにして知るのでしょう。こしきの上から立ち上がる蒸気の香りをかいで確認するのが間違いがないのだそうです。その香りは、最初のうち若草のようにみずみずしく、それが干し草のような香りになり、やがて「一日置いたひねり餅を焼いたときの香り」になるのだそうで、そうなったときが蒸し上がりだそうです。(「純米酒を極める」 上原浩) 物づくりは五感で行うものなのでしょう。これは、実際にかいでみるしか仕方ないようで、早朝の蔵元見学のときにでも杜氏さんにお願いしてみてください。


雪割り酒
湯沢の宿でこたつにあたりながら、二階の窓から汚れを知らぬ処女雪をとっては、コップの中にギュウギュウと詰め込み、その上からお酒を注ぎ込む・・・・と、雪とお酒が奇妙にうまく溶けあって、なんともいえない、まろやかな、さわやかな雪割り酒になるのである。(佐々木久子 「酒縁歳時記」)
1升酒の酒徒で、雑誌「酒」の編集者だった佐々木久子の随筆です。最近の雪は酸性がかなり強いということですので、ロマンにひたるばかりではいられないかもしれません。


ピョートル大帝の酒宴
稀代の大酒飲みだったロシアのピョートル大帝は、何かと口実を作って酒宴を開いたそうです。しかし、招待客にとってこの席は地獄に等しかったそうです。ピョートル大帝が命じた分だけ杯を干さなければならなかったからで、しかも供されるのは粗悪なウォカ。宴席には兵士が配置され、割当量を消化したかどうか目を光らせていたそうですから、お開きのころには悲惨な光景が繰り広げられていたそうです。こうした無理強いは酒に止まらず、晩餐会で酢が苦手で、サラダを断った大臣は、縛り上げられ、口をこじ開けて血を吐くまで酢が注ぎ込まれたということです。(「食悦奇譚」 塚田孝雄) 酒食に強い権力者のすごさの典型例の一つといってよいのでしょう。


男の収入三分法
情報通だった開高健がバンコクで聞いた話として紹介しているものです。一つは水に流すというもので、これは酒を飲むということだそうです。二つは大地に返すというもので、これはへそくりを土ガメに詰めて隠しておけというもの。最後の三つ目は敵にやれというもので、この敵というのは女房のことだそうです。「この敬虔なる仏教国のバンコクにおきましても、女房のことを敵と言うんですか」と開高が聞いたところ、そうですとはっきり言っていたそうです。(「対談 美酒について」 吉行淳之介VS.開高健)
酒代、貯金、生活費を各三分の一・・・男の夢の夢と言ったところでしょうか。


酒のことわざ
酒が入れば舌出(い)ず(酒を飲むと口数が多くなる)
酒買って尻切られる(人に酒をごちそうしたのがあだとなって、乱暴される)
酒飲んで死んだのは鰌ばかり(これは字のごとくで、どじょう鍋は下ごしらえにどじょうを酒につけます)
酒は猶兵のごとし(酒は武器と同じで、用法を誤ると身を害する) (「故事ことわざ辞典」 鈴木・広田編)
酒の字のはいることわざは、この辞典にはそれほど多くないような感じがします。


販売員用の危機管理マニュアル
未成年と思われるお客様が酒類を買おうとする場合の対応例
「お客様はおいくつですか?」「身分を証明するものをお持ちですか?」「未成年の方にお酒を販売すると、私どもが罰せられます。また、お酒の販売免許も取り上げられてしまいます。ですから、販売でき来ませんのでご了承願います。」
未成年と思われるお客様から「親(家族)から頼まれた」といわれた場合
@名前(姓・名)、電話番号を聞き、別紙の確認書に記入する。」Aその場で家に電話をかけ、以下のことを確認する。「○○さんのお宅ですか? こちら「酒の大島」です。ただいま、○○さんがお店にこられて[商品名]を[父・母などの家族名]さんに頼まれてとおっしゃっていますので、ご確認の電話を入れさせていただきました。[商品名]を○本販売してもよろしいでしょうか。」 等々
元全酒販会長だった大嶋幸治の「問題の酒 本物の酒」で、自店での管理マニュアルとして紹介しているものです。酒類販売の自由化される今後、この問題はどうなっていくのでしょう。


灘五郷の全国シェアの変遷
明治5年(1872)       6.2%     明治10年(1877)      7.1%     明治20年(1887) 321場 11.3%
明治30年(1897) 381場 8.2%     明治40年(1907) 404場 10.0%     大正6年(1917) 433場 10.1%%
昭和2年(1927) 438場 10.2%     昭和12年(1937) 371場 10.1%     昭和22年(1947) 47場 8.4%
昭和32年(1957) 126場 9.9%     昭和42年(1967) 139場 12.4%     昭和52年(1977) 96場 15.7%
昭和62年(1987) 76場 17.6%     平成7年(1995) 46場 17.9% (「改訂 灘の酒 用語集」)
ビール大手メーカーのシェアと比べると清酒の業界には大きな違いがあることが分かります。消費の減少する業界としては少々変わったパターンであるといえるかもしれません。


紀元2600年の昼酒
紀元二六○○年は昭和十五年で、その秋には奉祝の式典やら何やらがあって、禁じられていた昼酒がこの日だけは許され、平和な時代のお花見のときのように、昼日なか、真っ赤な顔をした人が大勢で街を歩いていた。しかし、一億の国民が全員、心地よく酔っぱらっていたかといえば、無論そんなことはない。近衛文麿を中心に、軍部に抵抗することを意図していたはずの昭和研究会も、大政翼賛会が発足すると何らなすところもなく発展的(?)解消をとげてしまったし、ほぼ同時に日独伊三国同盟が結ばれて、日本も決定的に軍事独裁国家の仲間入りをしてしまった。 これは、「しごとの周辺」として記された、安岡章太郎の文章です。今がいかによい(?)時代であるということがわかります。


シェイクスピア「オセロ」中の酒のセリフ
Good wine is good familiar creature, if it be well used.
坪内逍遥訳「良い酒は(悪魔どころか)可愛い使魔(つかわしめ)なんだよ、利用次第で」
木下順二訳「酒もほどよく飲めばかなり役に立つもんですぜ、あんまり悪口をいいなさんな」
小田島雄志訳「いい酒はいい守り酒ですよ、うまくあつかえば。酒の悪口はよしましょう」
増野正衛訳「酒も、うまく使ってやりさえすれば、かわいいもんですぜ」(「食の名言辞典」 東京書籍)
それぞれにそれほど大きな違いは感じませんが、いろいろな表現があることはわかりますね。


「御遺告(ごゆいごう)」
弘法大師の「御遺告」の中にも、塩酒(塩を酒の肴として飲むこと)を、「酒はこれ治病の珍、風除けの宝なり。治病の人には塩酒を許す」としていて、高野山などでは酒の中に塩や梅干しなどを入れて飲む習慣が生まれたほどであるから、仏教も酒を積極的に勧めることもしないが、また否定もしない。(「つい披露したくなる 酒と肴の話」 小泉武夫)
弘法大師も酒を嗜んだのでしょう。それにしても、塩との取り合わせは、清酒のような酒には大変向いているように思われます。塩がビールやワインのつまみにあうかどうかためしてみて下さい。


「粕と共に去りぬ」
吟醸酒にアル添をする大きな理由は、吟醸香を少しでも酒に残すことにあるそうです。吟醸香の成分は、酢酸イソアミル(バナナのような芳香)と、カプロン酸エチル(リンゴのような芳香)などだそうですが、これらは、しぼる時に大部分が粕に付着してしまうのだそうです。しかし、どちらもアルコールに溶けやすいため、アル添をすると酒の方に香りがある程度残るのだそうです。「純米酒を極める」で、上原浩は、酒造家の間で言われているという「粕と共に去りぬ」(多分酒造家は困っていっているのでしょうが)といった、ほのかに香る程度の純米吟醸酒がちょうどよいのであると力説しています。


アレキサンドロス大王の「死の酒宴」
インド遠征の際にアレキサンドロス大王と親友となった裸行仙のカラノスが死期を悟って積んだまきの上に横たわり、自ら火を放って最期を遂げたそうです。その死を悼んだアレキサンダー大王は故人を悼むための酒合戦を賞金附きで行うことを配下の兵士に呼びかけたそうです。1等1タレントという巨額の賞金につられて多数の兵士が合戦に挑んだそうですが、まず35人が会場で死亡、その後野営地で6人が死亡。優勝した兵士(プロマコス)は4クース(13g)を飲み干したそうですが、勝利の栄光もつかの間、4日後に息を引き取ったそうです。「食悦奇譚」(塚田孝雄)にありました。 戦いの時代の酒宴の典型といったところでしょうか。


河盛好蔵・酒之買(さけのかいだし)
ちか頃は酒が豊富だから幹事も楽であるが、戦後しばらくはずいぶん酒を集めるのに苦労をした。いつか上林暁君と二人で幹事を命じられたとき、田村町の近くに酒屋があるということをきいて、二人で一升瓶の空瓶を二本づつかかえて、はるばる荻窪から買いに行ったことがある。大の男が一升瓶を両手にかかえて電車にのっているなどは、決して格好のいいものではないが、生憎(あいにく)、奥野信太郎さんに会って、ニヤニヤされたことを覚えている。酒屋でつめて貰った一升瓶を、会場の青柳(瑞穂)邸に届けたら、主人は眼をほそくして、どうだろう、このうちの一本だけを三人でこっそり飲もうではないかと提案した。それに賛成したか、反対したか、今ではもうわすれてしまった。(河盛好蔵 「阿佐ヶ谷会」) 半世紀前にこんな日本があったわけです。


フランスで一番古い酒歌
酒は笑ってわたしを迎える。
酒こそわたしのうれいを払う。
そしてわたしの知恵を目覚ます。
酒とわたしは互いに愛しあう。
わたしが抱けば酒もわたしを抱く。
かれをかかえれば、かれはわたしをかかえていく。
17世紀中葉のモタンという人の作った、よっぱらい全盛時代のフランスで一番古いというサヴァランのいう酒歌の一節です。(「ブリア・サヴァラン 「美味礼讃」)


菅原道真と酒
道真は、「盃を停(と)めて且(か)つ論ず」「客を招く江村(こうそん)歳酒の盃」「晩春同門会飲して庭上残花を翫(もてあそ)ぶ」といった漢詩をつくっており、酒を嫌っている様子はないそうです。ところがその一方で、「性、酒を嗜(たしな)むことなく愁ひ散じがたし」「酒と弾琴とは吾知らず」とも詠っているそうです。これを歴史家坂本太郎は、当時の、飲酒の喜びに我を忘れるという、酒に耽溺することの多かった貴族社会、とくに文人達の中で、自分の酒の飲み方が「嗜む」とは到底いえなかったのだろう。愁いを消そうと盃を手にすればするほど愁いのまさりゆく人だったのだろうといっています。そして、道真は人としての弱さを多分にもっていて、それゆえに共感を持つと別の随筆で書いています。(「歴史随想 菅公と酒」)


芝居好
芝居好きで仕事をしないため寺に預けられた息子。和尚「イヤハヤ、困り切ります。いかに○屋の倅(せがれ)なればとて、親の慈悲じゃから、一升人二升(一生かけて人間らしくしようの意味)と思ふゆゑ、意見をすれど、三升(七世市川団十郎の俳名)の真似ばかりして、四升(師匠)の言ふ事も聞かず、五升(後生)の事はどこへやら、六升(六情)がわるいから、終始は(行く末は)七升(七生)までの勘当じゃ。まことに愚僧も困り果てる」とはなしのうち、障子のかげにて、息子「八九升(はくしょん)」(「化政期落語本集」 武藤禎夫校注)  一斗(一度)は私(寝言屋)も異見しないと。○内は実は米で酒ではありません。でもつい取り上げてしまいました。


酒飲み隔世遺伝説
志賀直哉、永井荷風、佐藤春夫、芥川龍之介らも、酒量はごくすくなかったらしいとのことです。佐藤春夫が「ぼくは酒が飲めなくて、世間との附き合いを狭くしたので、息子には飲むようにすすめたら、必要以上に大酒飲みになって、こんどは体でもこわさないかと、その方が心配になってきた」と言ったように、志賀直哉の長男直吉も、芥川の長男比呂志も酒が好きだったそうです。父が酒豪だった安岡章太郎は酒が弱いそうです。安岡は、こうしたことなどから、酒飲みは隔世遺伝の法則が当てはまるのではないかといっています。(「父の酒」 安岡章太郎)


川柳の酒句
大あくび棚の御神酒を見つけ出し(あくびをして上を見たら神棚に供えてあるお神酒徳利を発見)
よたん坊(酔っぱらい)めがと鶴見で待合わせ(東海道を上方に向けて出発する時上戸は別れの盃で遅れ、下戸は鶴見で待っている)
阿倍川を越えて上戸は待っている(阿倍川では甘い安倍川餅を下戸が食べるので、ここでは上戸が川向こうで待っている)
肌寒く行灯(あんどん)燗のわかれ酒(夜も更け火もなくなり、行灯のほのおでお燗する、そのまま旅に出発するのでしょうか)
高い水壱升九十五文なり(酒ともいえない水を加えられた薄い酒が95文とはという嘆き) (「江戸川柳辞典」浜田義一郎編)


裸の職人
アメリカ人を知事が案内して、酒の蔵元を見に来た。杜氏が新米を樽に仕込んでいる時期だ。あらかじめ検分をしに来た役人が、「上半身裸では失礼だ」といったら、こういってことわられた。「杜氏というのは裸でいる職人です。国技館に天皇が来られた時、横綱や大関は、まわしひとつでお迎えするじゃありませんか」(「戸板康二 「最後のちょっといい話」)
30℃の温度のある麹室(こうじむろ)を見た時のはなしなのでしょう。酒造りは冬ですので、麹室とこしきの上以外の作業場は寒いのですから、温度差の大きな仕事場で働く蔵人は大変だそうです。


木村蒹葭堂(けんかどう)
江戸時代に生きた、なにわの知の巨人といわれる木村蒹葭堂は酒屋だったそうです。蒹葭堂は、今でいう博物学の本草学を深め、大槻玄沢と一角獣の当時無かった共同研究を行い、絵を池大雅等に学び、詩文を善くし、畸人売茶郎と茶を楽しみ、膨大な奇物、稀本を収集し、太田南畝、谷文兆、司馬江漢、松浦静山といった、当時の多くの著名人のと交友を持ったという人だったそうです。屋号は坪井屋吉右衛門、大坂北堀江に酒造の店があったそうです。ただ、いわゆる名義貸しで、寛政の改革の際、酒造石高改めの際、吟味を受け、借り主は酒造株と道具を没収され、蒹葭堂は町年寄りを罷免されたそうです。「蒹葭堂雑録」には自身が蜜柑(みかん)酒を造り、中国人に賞賛されたたという文や、葡萄酒の製法を語った南畝の「遡遊従之」もあるそうで、酒造への関心もあったようです。(大坂歴史博物館編「木村蒹葭堂」) もっと知られてよい人のように思われます。


米屋與右衛門(よえもん)
摂津(今の兵庫県)今津の米屋與右衛門は、儒学に長じて酒造業に携わり、節倹につとめ、富むに従ってますます陰徳を積んだそうです。ある時、親族の使用人が主人の金100両を使って行方をくらましたとき、さまざま尋ねて見つけだし、深くいさめて、その後その100両を与えて店に帰らしたということもあったそうです。今津に道の狭いところがあったが、火災のときに人に難があるだろうとそこを買って道を広くしたり、板橋は火災の時危険だとして石橋に造りかえたりしたそうです。この人が死んだとき、遠近の男女が集まり、声を出して泣き悲しむ様は釈迦の入滅も思いやられたという話を聞いたと、伴蒿蹊の「近世畸人伝」にあります。


酒桝星(さかますぼし
オリオン座の有名な3つの星と、右下の4等星と、小三つ星(こみつぼし)といわれる、やや左下の星を結ぶと、取って(小三つ星)の付いた酒桝に見えるのだそうで、日本で昔から酒桝星といっていたそうです。そしてその近くのサソリ座の1等星アンタレスの左右の星が山形になっていることから、カゴカツギボシといわれたそうです。このカゴカツギが、酒桝星の店で飲み逃げをして、いつも追いかけごっこをしているといわれていたそうです。西洋ではオリオンがサソリを恐れて、サソリ座が西に沈んでからのぼってくるといわれているそうで、日本の伝説と似ているそうです。(「星の神話・伝説」 野尻抱影)


ホラチウスの「書簡詩」
水ばかり飲んでいる人たちの書いた、これらの腰折れ歌はどれ一つとして、長く歌われたり後の世に伝わりはしない。
バッカスがいささか酒ずきの詩人たちを、サチルスやファウヌスの仲間に入れてからは、
ミューズ、あの純潔なミューズも、朝っぱらから、お酒のかおりをお嗅ぎあそばす。
「水飲み屋は演説場に行け! 堅造どもは歌なんか歌うな!」
こうケラチヌスが命じてから詩人たちは、見よあのとおり日がな一日夜は夜もすがら、互いに酔いをきそっている!
「美味礼讃」の「ポエチック」にあります。これからはアルハラなどと言われないように詩も気を付けないといけなくなりそうな気配がします。


酔っぱらった私はこんな・奇行編
●朝、目覚めたら部長の家でした。隣に知らない女の人(部長の奥様。できた人です)が寝ていて、その人が「驚いた?」と優しく言ったのでホントに驚きました●突然、履いている靴を投げる。そしてそばの人の靴を奪ってその靴で二次会に行く●門扉に腰掛けて「♪菜の花畠に入り日薄れ」とうたっていたらしい。今思うとよくあの門扉に腰掛けられたなぁ。高さが一b三十aぐらいある●寒いと言ってトイレットペーパーの芯を腕にはめた●思いっきり明るくなり、みんなが油断したころにゲロを吐く●昨日はすっかり酔っぱらってしまったと思いながら、タバコを吸おうとハンドバックをあけるといきなり私のブラジャーが出てきた。なんで?といくら考えても思い出せない(「おじさん改造講座8」 清水ちなみ) 独身女性の体験談集だそうです。勝ったと思った男性は多いのでは。


酔っぱらった私はこんな・暴力編
●カラオケビデオ画面を舐めたり、他人のスカートをめくったり、店のカウンター内の冷蔵庫のものを勝手にぱくついたり●昔は泣き上戸。今は暴れる(らしい)。アメリカ出張で飲みすぎて病院へ連れて行かれた●走るか、できないときはまわりにいる人にピンタする●偉い人の頭をポンポンなぐったり、変な顔のおぢに「その顔どーしたの?」とかいえる●まず機嫌がよくなり、「そろそろかえりますよ」と言われると、「これからだ」とテーブルをひっくり返す●毎晩のように飲んで帰っても無事故無違反。同乗した同僚に聞いたら「ぶつけられるものなら来〜い」とわめきながら右車線中心にものすごいカーチェイスで帰ったという…(「おじさん改造講座8」 清水ちなみ) この本の副題「女の一人暮らしはこんなにこわい」を見ないでつい買ってしまいました。もちろんそれぞれの主人公は女性です。


人肌の燗
徳利を肩のあたりまで水に浸けて、じわじわ沸かし、純米吟醸酒なら四十二度くらいになるまで温める。これがぬる燗と呼ばれる温度だ。徳利をスルッと湯から引き抜いて、猪口に注ぐと、ちょうど人肌の燗になっている。精白度が低く、少々雑味のあるような純米酒の場合には、一旦五〇度くらいまで温めて湯から引き抜き、室温で少し放置する。四十三〜四十五度くらいになったら飲み頃である。(上原浩 「純米酒を極める」)
なれるまでは温度計を片手にお燗をしたほうがよいと思います。ちなみに元鑑定官の著者はフラスコでお燗するそうです。


季節によって変える酒の濃度
古代ギリシアの医者・ヒポクラテスは季節に応じて食事のスタイルを変えることを勧めたそうです。冬は、できるだけ多く食べて皮下脂肪を蓄え、ワインは濃いものをできるだけ少量飲むようにし、小麦パンを主食にし、肉や魚はあぶって食べる。春は大麦パンに切り替え、肉は次第に減らしていく。ワインは水で薄めて量を増やし、野菜も少し増量する。こうして夏に向かってダイエットし、秋から冬にかけてはこの逆にするのだそうです。
塚田孝雄の「食悦奇譚」にあります。冬は原酒、夏は氷で冷やして薄めてといった感じなのでしょう。


吉田屋酒店
台東区谷中(上野桜木2-10-6)に下町風俗資料館付属展示場の元酒屋店舗があります。堂々とした瓦葺き2階建ての建物です。建築されたのは明治年間だそうですが、江戸の雰囲気をよく残したものだそうです。店の部分は土間で狭く、向かって左側の壁側に陶器樽が並んでいます。正面の帳場は一段高く、畳敷きで、ここに店主か番頭さんが座っていたのでしょう。居酒屋の有名店である根岸・鍵屋の旧店舗(安政3年建築、はじめは酒小売店)は、小金井市、江戸東京建物園に移築保存されています。2階建ての格子戸付き、瓦葺きの木造建築で、いかにものれんをくぐって入りたい雰囲気のものです。一方、次々と廃業していく全国各地の酒蔵についてはどうなっているのでしょう。


亀の尾は酒造好適米でない
昨今では亀の尾が名米として有名になり、これを使ってつくれば自動的に良い酒が出来るかのように考えている人が少なくないが、そうでない。亀の尾がいまだに酒造好適米の指定を受けていないことからも分かる通り、この米はつくりにくいのである。その代わりに、つくりようによっては、酒造好適米を使った酒にも負けない個性的な酒が出来る。鯉川酒造は、亀の尾を見事に使いこなせるようになった。  と、「純米酒を極める」で上原浩は書いています。
ある一定の水準のある米があり、それによる醸造法が会得できれば、銘酒はできるということなのでしょうか。醸造用水についても同様なことがいえるように思えます。そうすると、清酒とっての良い原料とは何なんだろうと思えてきますし、その一方、だから酒造りは面白いとも思えてきます。


暮れのやりとり
「ヘイ、酒屋でござります」「ナニ、酒屋。まあ今日はよふござる」「ヘイ、いや、掛(かけ:掛け売り代金)を取りに参りました」「掛ならば、猶さら去(い)んでもらおう」「めっそうな。毎節季ゝ滞りが三貫八百六十文ござります。いずれ今晩は、いただきとうございます」「お気の毒だが、さっぱり切らしました」「それでは帰って、主人へ申し様(よう)がござらぬ」「なくば、そう言ってくれろ。全体酒屋があるによって、つい飲み過ごす。過ごすと、女夫喧嘩(めおとげんか)する。すると、飛んで出る。出ると、煮売り屋へ入る。入ると、つい三百や五百は使う。そうすと、だんゝ酔ってきて、訳もなく飛びあるき、しまいにや、新町(大坂の代表的な遊里)でとまって帰る。…」と暮れの掛け取りに来た商人とそのお得意とのやりとり。カード時代の今はしたくてもできなくなった風景です。(「化政期落語本集 面白し花の初笑 冬木立」 武藤禎夫校注)


聞き酒」
テレビで、造り酒屋の杜氏が出て来て、醸造の最後の過程で、いい局をきかせると味がよくなるというのである。画面にかぶせた音楽は、ヴィヴァルディの「四季」であった。胎児に名曲をきかせるという話を思い出したが、アナウンサーが最後にこう結んだ。「これがほんとうのきき酒です」
戸板康二の「最後のちょっといい話」にあります。これはいいですね。


酒呑みが作った酒
メキシコでテキーラの話を聞いたとき、酒呑みが作った酒と下戸がつくった酒があるのでないかと思った。日本酒やウィスキー、あるいはウォッカなどは酒呑みがつくったけはいがあるが、ブアンデーなどの中には酒を受けつけない人が、科学的に味覚を追求したあげくできた酒もあるのではないか…
これは、村松友視の「食べる屁理屈」にある文です。何となく分かるような分からないような。


安岡章太郎の吟醸酒観
日本酒でもいわゆる吟醸と称するものは、まるで果実酒のような白葡萄酒のような、爽やかな香りと味がすることは、よくしられているとおりだ。しかし吟醸酒が葡萄酒をふくむいかなる果実酒とも決定的に違うところは、これが生醤油や酢ともよくナジんで、刺身や酢の物と一緒に口にふくんでも、風味が全然こわれないどころか、いきのいい白身の魚など一層冴えた味になってくることだ。つまり吟醸酒には一見果実酒のような匂いがするにしても、それはあくまでも米が母体になっている酒であり、味噌、醤油、酢などと同質の味覚に属するものなのであろう。  昭和53年の安岡章太郎による「酒は地のもの」にあります。友達に清酒立山の社長がいたからかもしれませんが、非常に的確な指摘だと思います。


南極老人星
中国では、アルゴ座のカノープスを、南極老人、老人星などと呼んでいたそうです。宋の時代、奇妙な老人が酒屋へ寄り、いくら飲んでも酔うことがなかったそうです。仁宋皇帝は宮殿にこの老人を招いて酒1石を与えたところたちまち7斗を飲んでどこともなく立ち去ったそうです。次の日、天文の役人が「昨夜、南極老人星がいつもの位置から消えました」と言上したので、仁宋は、「ではあの老人がそれであったか。めでたい、めでたい」と喜んだそうです。日本でも、平安時代には老人星祭をもよおし、この星が見える年は天下太平であると中国同様に祝ったそうです。七福神の寿老人はこの老人星の姿を写したものだそうです。野尻抱影の「星の神話・伝説」にあります。


小津安二郎映画の酒
小津安二郎は大の酒好きなので、酒を飲む場面が、どの作品にもあった。ことに、「秋刀魚の味」は、のべつに酒を飲んでいるようなシナリオで、ニューヨークでこれを見た米国人が「日本ではあんなに飲んでくらしていて文句をいわれないのか、俺も日本に行きたい」といったという話がある。ところで、小津作品の常連で、「戸田家の兄妹」以降、十七回も続けて出た笠智衆は根っからの下戸なので、いつも麦茶で酔っ払っていたのだ。(「最後のちょっといい話」 戸板康二)
寅さん映画では坊さん役なので飲まなくてもよかったのかもしれませんが、笠が酒に強かったら、小津作品はもっと変わったものになっていたのでは?

戦後日本酒(並等酒、2級酒)の値段

年号 昭和22 昭和25 昭和26 昭和27 昭和28 昭和29 昭和33 昭和36 昭和37 昭和38 昭和40 昭和42 昭和43 昭和45
価格 500 645 485 565 485 505 490 510 460 485 510 550 600 660
年号 昭和48 昭和49 昭和50 昭和52 昭和55 昭和56 昭和58 昭和59 平成01 平成02 平成04 平成06 平成06.05
価格 750 930 1020 1100 1200 1220 1350 1380 1450 1530 1560 1640 1650

戦後20年間は、元来が高いものだったために比較的安定しており、その後世間並みに上昇率が高まったという感じがします。しかし需要の頭打ち等によって、一般的な物価と比べると相対的に上昇率は低くなているといえるように思います。(「戦後値段史年表」 週刊朝日編)



千束(ちつか
花壇の菊が盛りとなったので、親しい友達を5〜6人招いて酒宴を催した。宴もたけなわになった頃、一人の客が、「ご秘蔵の菊、失礼ながら」と花をむしり、自分の盃に入れて飲んだので、亭主は自慢の菊をむしられたものの、客のことゆえ、「薬にでもなるのですか」 客「これを食べますと七百歳は確かでございます」 客は皆、我も我もと菊をむしって盃にに入れて酒を飲む。亭主はついにこらえかねて、「これは結構な寿命の薬ですが、少しは、ご子息や、嫁子(よめご)の気にもなってみてください」 現在の落語で、これを原典としているものは無いようです。ちなみに千束は、多くの束、たくさんの意味だそうです。(「化政期 落語本集」 武藤禎夫校注)


「清酒」と「日本酒」
元国税庁の技官で、退官後も純米酒復活のために業界指導に尽力し、「夏子の酒」では、上田久先生として登場している上原浩は、当然純米酒派です。従って、表示に関しては、「日本酒」は本来の造り方で醸される純米酒を、それ以外の、アル添酒や三醸酒などを「清酒」と呼ぶべきであるとしています。(「純米酒を極める」 光文社新書) 歴史的なものを保存し、それをさらに発展させるためには、こうした考え方は大変よいことであると思います。ドイツのビールという表示の厳しさは、同様なもののようです。ただ、清酒という言葉の好きな寝言屋にはちょっと困ったなという感じはします。


強いアルコール飲料の効果と危険
「フランスのおかたよ、お国のかたはわれわれが親子二代百年にわたってやっているこの商売の重大さをご承知ない。わたしは注意ぶかく店にお見えになる職工さんを見ていましたが、強い酒が好きになって止めどがなくなると、皆さん、同じような最後を遂げられますな。最初は朝小さな杯で一杯召しあがる。数年間はこんな分量で満足しておられます。だがやがてその量が倍になる。すなわち朝一杯やって、また昼ごろもう一杯ということになる。これがまたほぼ二、三年続きます。するとこんどは、朝、昼、晩と規則正しくやりようになるんです。やがて、しじゅうやらなければすまなくなり、クローブを入れたものでなければ承知しなくなる。もうここまできたら余命六ヶ月を越えないことは確かです。」これは、「美味礼讃」でブリア・サヴァランが、ダンツィッヒの酒商から聞いたこととして紹介している逸話です。


そら豆
そら豆には、ビールが好適のようである。私は、決して、ビール好きでなく、飲み盛りの頃でも、ビールは一本、後は日本酒にした。大佛次郎、火野葦平両君の如く、十五本もビールを飲むことは、とうてい不可能のようである。しかし、少量なら、ビールのウマさを、解さないこともない。(獅子文六 「食味歳時記」)
ビールでは太刀打ち出来なくても、総アルコール量では、獅子文六もなかなかのものだったようです。それにしても、そら豆は清酒のほうがあうような気がするのですが…。


十分杯(じゅうぶんはい)
普通の大きさの杯を「三度入り」、大きくなるにしたがって「五度入り」「七度入り」というのだそうで、「十分杯」というのは、ほどよく注げばこぼれないが、過ぎると杯が倒れて全部こぼれてしまう仕掛けのものなのだそうです。転じて、物事はほどほどにすることのたとえにもなっていると、「言葉の道草」(岩波新書)にあります。広辞苑には慶長期出版の日葡辞書にあることが記されています。「御酒の雑話」で、沖縄や、江戸時代の同様な杯はすでに紹介しています。この十分杯はこの文章だけではどんなものか分かりません。多分、もし知っている方がおいででしたらお教え下さい。
Yahoo!のnaga ama様から長岡市立阪之上小学校の資料室にあるとの情報をいただきました。小学校のホームページによると、沖縄の戒めの杯のようなサイホン原理によるもののようでした。naga ama様ありがとうございました。


大七皆伝の能書き
全国でも稀な正統的生もと造りの純米吟醸酒です。天然の乳酸菌と選び抜かれた酵母によって、独特の深いコクを長い時間をかけて醸し上げる、酒造りの粋といわれる生もと造り。さらに弊社が独自に開発した超扁平精米技術によって、雑味を徹底除去し、一段と美味しくなりました。伽羅の香りをともなった奥ゆかしい芳香に、刺激を一切感じさせない、丸く艶のある極めて完成度の高い味わい。森林の中に入り込んだかのような落ち着きのある名品です。料理と幅広い相性があり、冷酒でもぬる燗でも美味しくいただけます。
生もと造り純米吟醸・大七皆伝のカートンに印刷されていた能書きです。こうした酒のあることをうれしく思いました。


デカメロンの後書き
ここに物語られた内容は、それが何であれ、他のあらゆる事柄と同様に、すべては聞く者の心がけ次第で、毒にも薬にもなり得る。酔漢のチンチッリオーネや呑み助のスコライオや他の多くの者たちの言を俟(ま)つまでもなく、葡萄酒が命ある者にとって最良の薬ではあっても、熱を出している者にとっては毒になることぐらい、誰が知らないであろうか?また熱を出している人間に害があるからといって、それが悪いものなどと、どうして私たちに言えようか?
ボッカチオの「デカメロン」にある作者による後書きの一部だそうです。(「ワインという物語」 大岡玲) また、酒弁護の名言を一つ見つけましたね。


露伴と酒
幸田露伴は酒仙と呼ばれるのにふさわしい文人で、一人娘の文(あや)の新川のとつぎ先の酒造家のために、いろいろな書体で「酒」という字を書いて贈った。この家から新しい酒が届くと渋の袋に入れてしぼり、まだ色がすこし白濁したのに、紅梅の花びらをうかべて飲むのを楽しみにしていた。
戸板康二の「最後ののちょっといい話」にあります。文(あや)は、その後離婚して父の元に戻りましたから、この楽しみは途絶えてしまったことでしょう。それにしても、露伴という人は酒の話題を沢山提供してくれる大変な趣味人であったことであったことがよく分かります。


レオナルド・ダ・ヴィンチの酒観
ワインは胃に入ると沸騰し、膨張し始める。すると、その人の魂はその力に押されて脳に上り、体外に逃げ出す。膨張したワインは魂を追い出して脳を占領し、暴れまわる(…)。マホメットはワインのためにたくさんの失敗をしたので(…)金輪際、ワイン飲むべからず、という法律を制定した
ベジタリアンだったレオナルド・ダ・ヴィンチの手記にあるそうです。「酒失などといった行為は、およそ人間の所行とは見なしていなかったに違いない。」と、これを「食悦奇譚」で紹介している塚田孝雄は記しています。


数の隠語
俵(たわら) 笑(わらい) 酒(さけ) 中(なか) 如(ごとく) 才(さい) 事(こと) 敷(しき) 蔵(くら)
これは呉服商の数え歌型の一から十までの隠語で、「大黒さん 一に俵をふんまえて、二ににっこり笑わんす、三に酒を飲ましゃんす…」と続く数え歌から取ったものだそうです。
「さ け の み は ふ く の か み」 は、大正期のバーでの隠語だそうです。そしてかんじんな酒屋(明治期)では、「ぼおず りゃん うろこ つじ おて りょう ちえ はん きわ」と九までだそうです。(楳垣実編 「隠語辞典」)
「よ っ ぱ ら い が こ ろ ん だ」「ぼ う だ ら が へ を こ い た」 …。


シャンパンの古酒
一番驚いたのは、シャンパンである。戦前から貯蔵の一本を抜かれた時に、私は何の期待も持たなかった。シャンパンなんて泡が立って、景気のいいうちに飲むべき酒と思ってたからだ。そしてグラスに注がれたのを見ると、すっかり気が抜けて、色も飴色に変わっていて、いかにもマズそうだった。ところが一口飲んで見て驚いた。こんなウマい酒は、生まれてから飲んだことがないのである。それはシャンパンの味ではないが、さりとて白ブドー酒の古酒の味ともちがう。何とも言えぬ独特の気品ある味だった。こうしたシャンパンの飲み方があると知って、私は浅学を恥じた。(「食味歳時記」) この私は獅子文六、シャンパンを出したのはかつての朝日麦酒社長・山本為三郎。山本は飲酒家でなかったそうで、好きな人に飲ませるのが好きだったようです。


一茶の酒句
とそ(屠蘇)酌(くむ)も わらじながらの 夜明哉(かな)
酒菰(さかごも)の 戸口明かりや みぞれふる
酒冷す ちょろちょろ川の 槿(むくげ)哉
婆々(ばば)どのが 酒呑みに行く 月よ(夜)哉
名月や 芒(すすき)に坐とる 居酒呑
梅咲くや 現金酒の 通帳
野ゝ宮の 御酒陶(みきとくり)から 出(でる)か(蚊)哉
酒尽て 真の座に付(つく) 月見哉 (「新訂 一茶俳句集」 岩波文庫)
一茶の酒句は、あえて俗に近く、分かりやすく、そして理屈の長野県人らしくといった感じがします。


馬乳酒の感想
小泉武夫は、モンゴルで羊の肉や内臓を塩ゆでにしたものを肴に馬乳酒を何度も飲んだことがあるそうです。そのとき現地の人は、のどの奥から絞り出すようなかんだかい声で「馬乳酒は栄養のもと、どうぞお召し上がりくださいな」といった意味の歌をいつも歌いながら勧めてくれたそうです。乳酒は酔うために飲むというよりも、体のために飲むというのが本来のようで、ひと息入れるときのお茶代わりであったり、野菜代わりのビタミン摂取という感じをもったそうです。馬乳酒はアルコール分が少ないとはいえ、体が温まったり、食欲の増進、ストレス解消や気分転換といった効用は十分に果たせる酒であり、現地の人たちが口を揃えていっていたのも「疲れがとれる」「よく眠れる」ということだったそうです。(「つい話したくなる 酒と肴の話」) どんな味なのでしょう、そして牛乳では出来ないのでしょうか?


「江戸嬉笑」の生酔(なまよい:よっぱらい)
足腰の立たなくなったひとりの大生酔(おおなまよい)を、道連れの生酔二人がかついで家に送り届けにきたが、「着物ばかりで体がねえ」との女房の言葉。びっくりした二人は元の道を戻ったところ、亭主は四つ辻で裸で高いびき。またまた、二人で連れ帰り、生酔い二人「おめえは、よっぽど仕合わせな人だ」女房「なにばかばかしい。酔っぱらいを落とされて何が仕合わせなものか」生酔い二人「イヤサ、そういうまい。落としたはおいらが誤りだが、よく人が拾わなかったものだ」(文化3年刊「江戸嬉笑」 岩波文庫) 「落語「ずっこけ」の原型だそうです。この本は式亭三馬が行司役となって二つの落とし話を判定しています。


美味礼讃の小話
ある酒飲みが食事をしていたが、デザートになってぶどうを勧められると、いきなりその皿を押しやって、「せっしゃはぶどう酒を丸薬にして飲む習慣は持っとりません」
美味礼讃にはこんな小話まであります。著者のサヴァランは、フランス革命の洗礼を受け、アメリカへ亡命したりして、再びフランスへ戻り、その後の歴史にもコミットできた法律家です。ところで「美味礼讃」の原題は「味覚の生理学」、「美味礼讃」といういかにもぴったりした名前は誰が付けたのでしょう。


柱焼酎
明治中期の文献などを見ると、一酒造期につくる石数を決めるに当たって、仕込んだもろみのうちの一○本に一本程度は腐造、または変調することを前提として計画を立てていたことがうかがえる。当時は、今とは比較にならないほど設備も技術も乏しく、衛生状態も悪かったから、腐造を想定せざるを得ないという事情があったのだろう。そうして、運悪く腐造したり変調したりすると、やむなくそれを蒸留して焼酎を採り、その他の変調の危険性のあるもろみに柱焼酎として添加したのである。つまり、明治期における柱焼酎は、腐造防止の措置であり、望んで行っていたのではなかった。(「純米酒を極める」 上原浩)  これは大事な指摘です。それにしても、1割を腐造と見ていたという当時の酒造のむずかしさがわかります。


酒令
酒令は中国の酒席での風習で、種々の取り決めをしてこれに違うと罰杯を飲ませたり、遊技をして負けたものが罰杯を飲まされるといった、宴をもり立てるもので、その取り決めのことを令というのだそうです。飲むと乱れるから酒禍に備えたものであると中国古代の「詩経」にあるそうですから、その発祥の古いことが分かります。そしてこれはその後いろいろな形に変化していったようで、人形を作って回してそれに指された人が飲む、一字を隠しておいて詩を詠唱し、その一字にあたると罰杯を飲む、中国流漢字遊びをして出来なかったり良くなかった人が飲む、といったものになっていったようです。そしてそれを取り仕切る司会者というか監督官のような人もいたようです。「中国の酒書」(中村喬訳・東洋文庫)にあります。


これはなんでしょう
さる、うし、うま、たぬき、きつね、とら、ねこ、白ねずみ、かえる、かめ、うぐいす、すずめ、つばめ、はと、とんぼ
これらは、灘での酒造用語だそうです。さる:こしき穴の上に置き釜からの蒸気を分散させるもの、うし:蔵人の部屋で酒を燗する取っ手のついた深い銅鍋、また、麹室の大きな梁、うま:側面から見るとはしご形をした四つ足の支台、たぬき:もろみを酒袋に流し込む時に使う筒つきの小判型小桶、きつね:もろみを酒袋に流し込む時に使う一方のとがった小判型小桶、とら:突き破精のこと、ねこ:小型の木製四脚台、白ねずみ:精米作業の状態、かえる:幅広い板の片側に足場台を固定して傾斜を持たせた用具、かめ:生もとの入った半切桶を背負って屋外に出す様子を亀するといった、うぐいす:呑口、ささら等を乾燥させるために綱2本を張り渡したもの、すずめ:オリ引きの時に使用するちいさな呑口、つばめ:桶に目張りする時、糊の着いた目張紙をのせて桶輪にひっかける台、はと:酒袋にもろみを流し込むホースの先に付けた金属製の仕切弁、とんぼ:T字型の尺棒   詳しくは、「灘の酒 用語集」をどうぞ。


大観と「生々流転」
横山大観の代表作といわれる「生々流転」の絵巻は、大正十二年九月関東大震災の日に、院展に出品されていたが、その時会場にいた大観はケースからこの絵巻を出してクルクルと巻き、池之端の家に帰った。堅山南風が夜、見舞いにゆくと、不動様のように大観は玄関に仁王立ちになり、片手で一升瓶をぶらさげていた。  と、戸板康二の「最後のちょっといい話」にあります。大観はいざというときに一升瓶を持って逃げようとしていたのでしょうか、それとも震災を自分の目に焼き付けようとしていたのでしょうか。それにしても、今「生々流転」を無事な姿で見ることの出来る我々は幸せです。


煮売屋
「ヲゝ寒い。けふ(今日)は内にいると、掛取り(つけの集金)の断りによわる。アゝ、どこぞで一杯やりたいものじゃ」(と、うろうろと行くうち、ふと煮売屋へ、)「なんぞうまいもので、三合つけて下んせ」「ヨヲヨヲ、何にしませう(しょう)。鰌(どじょう)の汁に鯨のいりつけ(煮つけ)、棒鱈(タラの干物)と大根」「コヲツ、鯨がよかろう」「鯨に酒三升(三合のところを景気づけに三升といった)ヨヲ」(と、ほどなく酒さかな持ちくる。むせうに飲み、)「アゝ、酔うた。コ、モウ二合つけてくんねへ」。(文化文政期の「近世笑話集」の中にある「冬木立」 岩波文庫) ここでは、煮売屋で酒が売られていたことがはっきり描かれています。


酒をたしなんだおかげ
獅子文六は二十代半ばを過ぎた頃、風呂吹き大根の味を覚えたそうです。これはひとえに酒をたしなんだおかげだそうです。 「飲酒の癖も、マイナスは多いが、それによって、食べ物の幅も、味の深さも、啓明されることは、明かである。ことに日本の料理は、酒を味わう舌によって、そのウマさを知る、因果関係があるようだ。酒量の多寡は、問題ではないが、酒に始まって、飯に終る順序に適うように、日本の料理はできているのだろう。私も、晩酌を始めるようになってから、急に食べ物に対する眼が開け、従来マズいものと、きめていたものが、ウマいものの部に入るようになった。」(「食味歳時記」) 酒のせいばかりでなく、味に早熟だったのかも知れませんね。


ベートーベンと酒
ベートーベンに健康にかげりが見えてきたのが30歳頃で、50歳を越えると音楽家にとって致命的な聴力も次第に衰えていきました。栄養障害、偏食、そして過度のアルコールが原因だったといわれているそうです。気むずかしいこの作曲家の家では炊事婦が長続きせず、ベートーベンは自炊をしていたのだそうです。痛飲したのはコーヒーとワインだそうで、死んだときは肝臓がすっかりやられていたということです。ビールは毎日コップ一杯ほど飲んだそうですが、これは好きというよりも、ビアホールに備えつけてある新聞を読む必要にかられてのことだったそうです。(「食悦奇譚」 塚田孝雄) ベートーベンもそうだったのですか…。