御酒 ごしゆ みだれ髪(2) 酒は最後の一滴の毒 乃木師団長と樺山文部大臣 コップに一杯 やけから酒三合 アダルト・チルドレン 復活一 酒とバカの日々 花の大学テニス部 焼き鳥屋 いわき さかづき【盃】 江戸酒 ちち-の-ひ[父の日] 花崗岩 パブの扉 酒を愛する詞 最後の晩餐 酒場八十八句集 冬 鬼殺し-おにころし 十五夜月 旧正月 もがき止め 柳橋の浴室 世にあるほどは楽しくおらな 濁り酒 濁酒 どぶろく どびろく タコを煮る時の下ごしらえ づぶろく[図武六] ルバイ第四十三 活性生酒のお燗 銘酒 二 みつぐみ【三組】 福島県相馬郡八幡村 鯲 どじよう おなじく 米の構造 在所無力 菊正宗 酒を飲む作家たち 襲われた男の人は 練酒之事 なばや 廓のやしょめ 御吸物 バーの一夜 初て酒の貴きを知れり いびる 粕汁 かすじる 酒の粕 父の酒癖 メートル法 十字軍の禁酒令 アンタブスを飲んだと同じ状態 杓 グラント将軍 「聲」雑記 悦楽の時節 道中昼飲み 酒盛り唄(2) ごさい アルコールの毒性 農民の晩酌 山形県西村山郡溝延村 南海先生 酒を渡ってくる風を飲む 足利義満 週休2日制 茶店 過酒家 結語 オーストラリアで造る「豪酒」(2) 茶碗をぶっつけあって 当て字 酒場の精神分析にご用心 底のないさかずき 最近登場した酵母 路傍 茶節 笑い上戸 古田さん どうせいつ死ぬか知れぬ命だ。 三月三日 四方赤良 おとゝ バブル崩壊以後 古酒 こしゆ 甘酒 あまざけ 無知の人の天国 江戸の地酒屋 熱燗 みづき【水木】 五分の一造り令 銘酒 一 狂言鶯蛙集(2) 酒造株 タンポポのお酒 白川郷のどぶろく 八幡商人の醸造 菜根譚 「司牡丹」カップ 酒屋会議と灘 海蜇(くらげ) 酒税がなかったならば? 食物年表1900-1950 マグダ・トルポットのメッセージ 久かたにみえたる客に みだれ髪 遊び酒(2) 酒と駅弁 酒盛 造醸 じんせい[人生] 燗付け ルバイ第四十二 つけざし[附差]
御酒 ごしゆ
-つまり男の酔ぱらいより平素とりすました女が酔っぱらう方がみっともないとの意。左句もその例である。
おく様の御酒にこまった花戻り 明四宮1
【類句】女の生酔はとんだおもしろい 安四叶2
みだれ髪(2)
はたち妻
このおもひ真昼の夢と誰か云ふ酒のかをりのなつかしき春
舞姫
くれなゐの襟にはさめる舞扇(まひあふぎ)酔のすさびのあととめられな
春思
酔に泣くをとめに見ませ春の神男の舌のなにかするどき
その酒の濃きあぢはひを歌ふべき身なり君なり春のおもひ子(「現代日本文学大系 与謝野晶子集」)
酒は最後の一滴の毒
-俺は血が見たくて仕方がないんだ。ほんとうだぜ。 三島由紀夫がこれから棒でも持とうとする悪戯(いたずら)っ児のような顔をしてそういったのがきっかけのように、席は荒れてきた。河出書房で「序曲」というクォータリイを出し、その同人達の座談会が神田の中華料理店で行われたときのことである。出席者は椎名麟三、梅崎春生、野間宏、中村真一郎、武田泰淳、寺田透、三島由紀夫と私であるが、そのとき荒れてきたものの名を正確にいえば、寺田透なのであった。その頃の寺田透は復員してからそれほど時日がたっていない上に家庭的な事情もあって、のめば必ず荒れるという評判であった。彼ははじめの裡、発言者に対して反対の意をいちいち表明していたが、そのうちに立ち上がったとたんに横へよろめいて倒れた。この座談会が「序曲」にでたとき、発言と発言のあいだに、編集者がていねいにも、このとき酔って倒れるものあり、と書きこんだことが、桑原武夫をして、あの連中にははじめ好意をもっていたのに支持する気がしなくなったという慨嘆を発せしめる主たる原因となった。しかし、酔っているのは、倒れた寺田透ばかりではなかった。全部が酒をのまない裡にすでに戦後という巨大な醗酵体のなかで酔っていたといえるのであった。私達の世代に強盗をもったのは光栄であるという三島由紀夫の溌剌たる気分は私達の首までつかっていて、酒は最後の一滴の毒として私達を断崖の縁でよろめかせ倒す役割しかもっていなかった。この座談会には終始沈黙をまもってパイプを握りながらみんなを眺めていたのは中村真一郎ひとりであったから、彼のみが覚めていててんでんばらばらに喋っているこのときのみなの姿体をよく記憶しているかもしれない。いま寺田透は東大教養学部の先生として穏和な方でこそあれ、決して破目をはずす酔っぱらいではない。けれども、その頃の寺田透はひとつの処理しがたい鬱屈した精神であった。(「酒と戦後派」 埴谷雄高)
乃木師団長と樺山文部大臣
ドイツに留学した経験を持つ乃木師団長のビール好きというのは有名だったが、時の文部大臣、樺山大将が訪れたときに開いた宴というのが、ビールの一気飲み大会だった。将校たちが並んで座っている前のテーブルに、ビールとコップが置かれていて、その前に兵卒がまた並んで立っているのである。そこに、乃木師団長と文部大臣が加わり、「ビール注げ!」という号令。兵卒がビールを注ぐと、今度は「ビール飲め!」。これを、十数回繰り返したところで将校全員が倒れ、最後に残ったのは乃木師団長と文部大臣だけだった。そこで、文部大臣の樺山さん、「みんな、弱いのう」と乃木師団長と顔を見合わせて笑ったというのだ。この一気飲みのやり方は、ドイツで学んできたという。(「退屈知らずの酒読本」 話題の達人倶楽部編)
コップに一杯
はじめて酒を飲んだのは昭和十年、十七歳のときである。尾久町の本町通りの横に住んでいたが、なにか心楽しいことがあったので私は父にビールを買い、弟妹や母にも菓子などを買って帰った。すると、父が「一杯飲め」という。幼時に、伯母たちが、いたずら半分に猪口の酒を私になめさせたことがあるがそれは飲むうちにははいらない。みずから好んで、すすめられるままに飲んだのはその夏の夕ぐれであった。ビールをコップに一杯だけで、まっ赤になってしまった。なんとなく、かっかっとするので冷やそうと思って外へ出たら、丁度、高等小学校を一緒に卒業した鶴巻秀子という文学少女が遊びにきた。私は、色白で小柄で、おっとりした感じの、そのくせ才走っているこの少女が好きであった。「どうしたの、金時の火事見舞いみたいな顔してさ」秀子にいわれて私はどぎまぎした。「ビール飲んだんだよ。コップに一杯だけどさ…そいで、ほてって仕ようがないから、そこらをあるいてさますんだ」「一緒に歩いたげるわ」夏の夕ぐれの尾久町はそぞろ歩きの人や、往来に縁台を持ちだして涼んでいる人たちなどでにぎやかであった。私たちは、すずかけの並木がある新開道路へ出て、二、三丁いくと引返し、またいって引返し、しんかんとした夜になるまであるいていた。なにを話したか記憶にはないが、おそらく、秀子は私たちの短歌同人誌『一隅』の同人だったから、短歌か詩か小説のことでも話していたのであろう。私は秀子にいくつかの短歌を捧げている。少年の日の淡い思いがそれらの短歌にはこめられていたが、今は同人雑誌『一隅』も散逸し、自作の短歌も多くは忘れてしまった。次の一首は、その頃のもので、今でもふしぎと覚えてゐる。 わが若き想いのすべてほのほのと君を包みて夕霧となる(「食いたい放題」 加太こうじ)
やけから酒三合
伴四郎はどうでしょうか、彼は風邪薬代わりによく豚を食べ、一緒に酒を飲んでいます。-このようなことはよくあり、例えば九月二十三日には永代橋で永代餅、両国回向院ではあわ雪に飯と鮨を三つ食べ、大通りで豚、山下御門で生鮭の切り身を買っています。日記には「今日は大奢り、昨夜より少々風邪気味ゆえ、薬代りに奢り申候」とあくまでも、風邪を治すためと強調していますが、もちろん酒も二合は飲んでいます。ここに出て来る永代餅は幕末に流行った永代団子、あわ雪は豆腐に摺りおろした山芋をかけた淡雪豆腐のことでしょう。十月十九日は風邪にもかかわらずつらいお庭拝見-新暦では十二月一日にあたる日の海辺で、その上風雨に見舞われ心底冷え切りました。帰りにそば屋に入って、皆がかけ蕎麦にもかかわらず鶏鍋に酒二合を飲んで、その勢いで帰り道を急ぎましたが酔いも醒めてしまい、しかたなく途中で「まぐろのあら」を買い、長屋で「やけから酒三合」を飲み切って大酔、おかげで汗をいっぱいかいたので、酒も薬代わりです。(「下級武士の食日記」 青木直己)
アダルト・チルドレン
「お正月もいやでした。父が初詣に私を誘うのです。でも父の目的は、初詣の帰りにお店で酒を飲むことだったんです。私はそれを知っていましたが断れませんでした。父がかわいそうで…。飲み屋に入った父のそばに座って、だんだん酔っていくのを暗い気持ちで見ていました。小学生の少女が父親と並んで元日からカウンターに座ってるなんて、奇妙な光景だったでしょうね。大声を出してからむ父の姿がとても恥ずかしかったのをはっきり覚えています。どこで切り上げて父を連れていこうか、家に帰ると母が悲しむだろうな、ということばかり考えていて何を食べたのかは覚えていません。こんなことを思い出してしまうので今でもお正月はきらいです。でも私が中学生になってから父がやっと酒をやめてくれました。それからはわが家にも静かなお正月が訪れました。今年はお正月に着物を着た私の写真を撮ってくれたんです。飲んでいるころからは想像もできなかったことです」-
しかしそのドラマを越えたもっと違うものがある。何だろう?そんな私の違和感が彼女の印象を忘れられないものとした。-これが私と「アルコール依存症の親のもとで育って成人した」(アダルト・チルドレン)との最初の出会いだった。そして彼女C子さんと私は二十年後にカウンセリングの場面で再会することになる。-
「先生に会うことを決心するのにずいぶん時間がかかりました。でも今私のかかえている問題を解決するにはやっぱり過去の私のことを知っていてくださる人のほうがいいと思ったので…」。久しぶりの再開がこのようなカウンセリングの場であるということは、一体彼女に何が起こったのだろう。-
優秀な兄は母の自慢の息子であり、アルコール依存症の父に代わって責任をとる役割を担っていたといえよう。その兄は一方でC子さんに絶えず暴力をふるっていた。中学受験の前の緊張状態のころは一番ひどかった。今でもC子さんは他人の怒声を聞くと条件反射的に左腕で顔をかばってしまう。その後のC子さんは二年余りカウンセリングに通い、ACのグループカウンセリングにも参加した。現在は男性の友達もでき、やっと母と別居に踏み切れた。それは少しもわがままなことではないのだと思えるようになったのはつい最近のことだ。(「依存症」 信田さよ子)
復活一 酒とバカの日々
講釈師の神田愛山さん(三九)は、自ら「アル中講釈師」を名乗っている。実際、愛山さんは九年前まで本物のアルコール中毒患者だった。しかし、その後は断酒の道を踏み外すことなく歩んでいる。いまでは、自分の体験の暴露を含めた「アル中講釈」がライフワークである。自ら創作した断酒講談は、「若山牧水」「山頭火」「酔いどれ将棋指しの末路」など十本。飲み始めたのは、大学入学のため清水市から上京した十九歳からだ。翌年、現在の師匠である神田山陽さんに入門、一陽を名乗り、三年後には二つ目に昇進した。しかしこのころから、「飲む→記憶喪失→(不始末)→部屋で目覚める」がパターン化された。婚礼の司会を頼まれても本番前に出来上がり、いつお開きにしたか覚えていないこともあった。いまでこそ、「無料でいいです。もう一度司会させてほしい」と笑うが、当時は記憶そのものがなかった。先輩から借りた台本やテープ、キャッシュカード、自分の眼鏡をなくすのは日常茶飯事、講談と落語の仲間の勉強会の会計になると、勝手に酒に使いこんだ。やがて友だちがカネを貸さなくなり、近づきもしなくなると、やたらに電話をかけまくった。でたらめにかけた相手を怒鳴り、一〇四番の案内嬢をからかい、一一〇番して、「キツネ目の男が毒入りのシールを張ったチョコレートをスーパーの棚(たな)に置くのを見た。今手元にある」と通報したこともある。このときは、警察官が二人すぐ飛んできた。しかし、警官は同情してか、「酒もほどほどにして頑張(がんば)ってください」といって帰っていった。幻覚、幻聴も現れ出した。師匠に謹慎を言い渡され、故郷に「強制送還」されたのが昭和五十九年十一月。以来、酒は一滴も口にしていない。東京に戻ってきたのは、それから十三ヵ月後。師匠に強制的に開かされた独演会で、断酒講談を初めて披露(ひろう)し、ここから愛山さんのライフワークの追求が始まった。(「デキゴトロシー」 週刊朝日風俗リサーチ特別局編著)
花の大学テニス部 林真理子(はやしまりこ)(作家)
大学のテニス部というと、いかにも華やかな集団のように聞こえるが、あの頃の大学生は本当に金がなかった。地方から出てきて三畳とか四畳半に住んでいる青少年たちが、週に二回練馬の区営コートを借りていただけの話だ。練習が終わると、毎晩のように誰かのアパートで酒盛りが始まった。先輩が出してくれた千円札の上に、みんなが小銭を投げるようにして置いて、それで二級酒を買いに行くのだ。お使いはたいてい一年生の私の役目だった。少し酔いのまわった足どりでアパートを出ると、いつも妙にはしゃいだ気分になる。「わーい、わーい、お酒だ、お酒だァ」と歓声をあげて走り出す私を、同行の男の子は苦笑いして見ていたっけ。「ハヤシ、ダッシュだ!」突然、テニスコートで叫ぶような声で私に命令する。その頃から肥満ぎみで足が遅い私は、しょっちゅう皆から怒鳴られていたのだ。「ハアーイ」私は元気よく答えて全速力で駆ける。十九歳の頬に夜風は気持ちよかった。「ねえ、先輩、こうやって一生懸命走ると、少ないお酒でも全身にゆきわたるね」酒瓶を抱えてもどってくると、また朝まで宴会は続く。どのくらいまで飲んでいたか憶えていない。ふと気づくと、私の鼻のふれ合うぐらいのところに、男のあごが横たわっているではないか。私は悲鳴をあげるところだった。しかし、あたりを見渡してみたら、四畳半になんと十二人が雑魚(ざこ)寝していた。ああよかったと私は思った。そんなことをしたら取りかえしのつかない"不良"になって、もう田舎に帰れなくなってしまう。私がテレビを買ったのと、本当の"不良"になったのは、それから何年も後のことである。(87/11)(「酒との出逢い」 文藝春秋編)
焼き鳥屋 いわき
前橋から東京に戻った(草野)心平さんは、麻布で屋台の焼き鳥屋「いわき」を始める。だが朝から晩まで休みなく働いても、まったく食べられなかった。妻と子どもたちに加えて、弟、義理の兄弟とその家族…と、とにかく養う家族が多すぎた。焼き鳥は一本二銭。なかにはお釣りの二銭か四銭をチップだと言って置いていく客がいる。心平さんは癪(しやく)に障(さわ)って、他人の自転車を借りてその客を追いかけて行って、チップを叩き返す。「なんだ、、チップをやったのに受け取れねえのか」「チップなんていらねえ。そんな薄汚い商売してるんじゃないや」と往来で殴り合い、そしてブタ箱行き。と言うようなことをやっているので、儲かりっこないのである。焼き鳥屋の備品を買うお金欲しさに詩集をつくって売ったこともある。そもそも詩では食べられないから飲食業をやっているのに、もうなにがなにやら。ただ必死さだけが伝わってくる。もちろん中国留学時代と同様、ひとりでガリ版を切り五十部刷った。こうして詩集『明日は天気だ』が完成したが、最後に収録されている「風邪には風」という詩は、終盤に (以下五十九行略ス) と刷られて唐突に終わっている。手持ちの原紙が尽きてしまったためだ。詩集は五十部すべて売り切ったが、けっきょく現金は米に消え、欲しかった自転車も備品も買えなかった。(「酒場学校の日々」 金井真紀)
さかづき【盃】(名)(酒を盛りて飲むに用ふる器)。
[白][杯][巵][「上:疋、下:皿」][觥][「左:木、右:咸」][「外:門、内:可」][盞][「上:麻、下:皿」][「上:揚、下:皿」][牌][牌]ママ[爵][:觴]
玉舟ギヨクシウ酒杯シユハイ酒政シユセイ酒巵シユシ玉海ギヨクカイ銀海ギンカイ酒器シユキ飲器インキ仲雅チユウガ季雅キガ伯雅ハクガ酒杓シユシヤク桮杓ハイシヤク巵匜シイ觥盂クワカウ金船キンセン盃盞ハイサン酒盞シユサン鴟夷シイ陶匏タウハウ玉窪ギヨクア金螺キンラ香螺カウラ酒魁シユクワイ羽觴ウシヤウ杯觴ハイシヤウ斝觴カシヤウ「左:木、右:咸」觴カンシヤウ酒爵シユシヤク杯爵ハイシヤク觴勺シヤクシヤク金罍キンライ塞鼻ソクビ鑿落サクラク不落フラク金巨羅キンカラ
(古)うき。うくは(浮羽)。(「類語の辞典」 芳賀矢一校閲 志田義秀、佐伯常麿編)
○江戸酒 【俳ざんげ】 江戸酒にいたみの衆のはなみかな 大江丸。
○大坂酒【西鶴名残の友】 けふは三日の桃の花伏見の城山を桜まさりと詠めしが、旅はさま/"\に替りて大坂酒に曲水の宴ぞかしと、心祝ひのこうたひ竹葉より思ひ出して、酔筒をわすれるな、茶弁当に火箸を入たか。
○大津酒【近江国輿地志略】 ○酒 大津の出す処なり、此地の水の性清して柔に、其味淡してよし、故に酒も其味甘美にして、京都の酒に劣らず、造醸する多しといへども、霜の松、松梅、打出浜、我宿等の酒殊によろし、石原沢村など云もの造醸に名ありとす。
○尾道酒【備前国郡志】 尾道属二御調郡一去二不レ遠醸レ酒者與二三原一相同其酒味醇厚経レ久不レ損故自レ古大明朝鮮東京(トンキン)蒲寨(カンボチア)呂宋琉球往来之倭船必繋二斯処一以求レ酒満レ樽充二船中之用一云々。(「和漢酒文献類聚」 石橋四郎編)
ちち-の-ひ[父の日]
(名)父に感謝する日。六月の第三日曜日。アメリカに起こった行事。-
父の日に父在るごとく酒を買う 大和柳子
父の日へ天地無用でとどく酒 田口麦彦(「川柳表現辞典」 田口麦彦編著)
花崗岩
六甲山系の花崗岩は、約1億年前にプレートの沈み込みに伴って発生したマグマが、地下でゆっくり冷え固まったものだ。当時の地上では激烈な火山噴火が起き、現在の阿蘇山に匹敵する巨大カルデラも造られた。一方、竜の筋肉をなす堆積岩の多くは、海底や海溝に溜まった砂や泥がプレート運動によって陸地に掃き寄せられた「付加体」と呼ばれる地層群が由来だ。つまり"日本竜"は、プレートの沈み込みが生み出したものといえよう。-ヨーロッパのような「安定大陸」では堆積岩などに覆われているために、この花崗岩の露出はごく一部に限られる。一方で日本列島のようにプレート運動による地殻変動が激しい「変動帯」では、地下の花崗岩が持ち上げられて山地となって地表に露出することが多い。日本列島では、地表の10%以上が花崗岩で占められている-。この花崗岩は鉄に乏しく比較的カリウムに富むことが特徴だ。したがって、日本列島の花崗岩地帯}から湧き出る伏流水にも、このような特徴が受け継がれることになる。一方で堆積岩地帯では鉄鉱物などが含まれるために、一般的に鉄分の多い水となる傾向がある。この花崗岩地帯の水こそが、日本酒の製造にうってつけなのだ。ワインと異なり、日本酒では洗米から始まって糖化・発酵などの醸造工程で多量の水が必要である。そして糖化を担う麹菌は鉄分を極端に嫌い、またカリウムは酵母菌の活動の栄養分となる。つまり、日本酒の製造に必須の麹菌や酵母菌は日本の水だからこそ、その役割を全うすることができるのだ。日本有数の酒どころとして名を馳せる、灘(兵庫県)や西条(広島県東広島市)、それに新潟長岡・魚沼地方では、いずれもその背後には花崗岩の山が控えている-。また、日本列島の背骨をなす花崗岩が浸食されると粗粒の砂となって周囲に堆積することが多い。このような花崗岩質の砂も含めると、花崗岩は「変動帯・日本列島」を代表する岩石種であり、そのおかげで日本酒が誕生したといっても過言ではない。(「「美食地質学」入門」 巽好幸)
パブの扉
駱駝(らくだ)の背にゆられ砂漠を彷徨(ほうこう)した後、ロンドンにもどった。パブに飛び込んだ。さほど冷えていないビターの1パイントのコップをわしづかみにして、グイグイと飲んだ。そして、もう一杯。それもカウンターにもたれて、一気に飲み干した。横の男が、どうしたのだという目で見ている。御存知だろうが、イギリス人は、1パイントのビールをそれこそボーフラでもわきはしないかとおもうほど、ゆっくりと飲む。それこそ三十分ぐらいかける。そんなところで、ぼくはひさしぶりにフラフラになるまで飲んだ。近くにいる女の子も目に入らない。ロンドンのパブは薄暗く、ビクトリア調のしつらえで、百年ぐらい経(た)っているだろう店が多い。はじめてとびこんだ店も、古い立派な店だった。そんなことに気がついたのも五、六杯ぐらい飲んでからだ。次の日から、ぶらぶらと歩きながら古いたたずまいのパブがあると、昼間からでも扉を押した。おもしろいことに、古いパブにはいつも扉が二つある。だから扉が二つあるところは、かなり伝統のあるパブだということにもなる。それには理由があった。イギリスは上流社会に属する人と労働者階級とが厳然と区別されていた。自分が属する階級に応じて、二つの扉のいずれかを選択し入ることになる。客達は階級によって別々に入り、扉から導かれるようにそれぞれの部屋でビールなどを飲んでいたのだ。しかし今ではその存在理由がなくなっている。今は不便な方の一つは開かなくなっていたり、あるいは二つとも使えたりしている。(「世界ぶらっとほろ酔い紀行」 西川治)
酒を愛する詞
劉伯倫に酒徳頌あり、地黄坊に水鳥説あり、和漢其味はかはるといへども、酔ふて倒れて管をまく、酒中の趣は同じかるべし、人酒をのめば酒酒をのみ、酒また人をのむ、一杯/\又一杯、浴れば万病の基となり、嘗れば百薬の長となる、もとより薬の酒なればと、八百余歳の生酔あれば、三日このかたのみ続け、飲てゆらるゝ由良殿あり、されば、前酒の涎は後段の反吐を思はず、ゆふべの癇癪はあしたの閉口を顧ず、酒を盛て尻を斬らるゝものは、醒ての後の御量見を待とも、屁を放て尻を蹙るものは、酔ての上の無分別をしらず、呑む程に/\、李白一斗詩百篇、亭主八盃百万遍念仏講の六字詰、生酔たんぽの底をたゝけば、題目講の七合入、だぶ/\とうけて妙々と干す、仏ももとは凡夫なり、古酒もはじめは新酒なり、のめやうたへや、月雪花のながめにも、これなくては興あらじとて、酒にあかさぬ夜半とてもなし、(「式亭雑記」 式亭三馬)
最後の晩餐
一〇ここに十二人の弟子の一人であるイスカリオテのユダは、イエスを売ろうとして大祭司連の所に出かけた。一一彼らは聞いて喜び、金(かね)をやる約束(やくそく)をした。ユダはどうしてイエスを引き渡そうかと、よい機会(きかい)をねらっていた。
最後の晩餐(ばんさん) 一四・一二-二五(マタ二六・一七-二九 ルカ二二・七-二三 ヨハ一三・一八、二一-三〇)
一二種(たね)なしパンの祭の初めの日、、すなわち過越(すぎこし)の子羊(こひつじ)を屠(ほふ)るの日の朝、弟子(でし)たちがイエスに言う、「どこへ行って過越(すぎこし)のお食事(しよくじ)の仕度(したく)をしましょうか。」一三そこでイエスはこう言って二人の弟子を使にやられる、「都(みやこ)まで行ってきなさい。水瓶(みずがめ)をかついだ男に出合(であ)うから、そのあとについて行って、一四どこでもその人が入(はい)ってゆく家に入って、家の主人に、『わたしが弟子たちと一しょに過越の食事をする部屋(へや)はどこか、と先生が言われる』と言いなさい一五すると主人は敷物のしいてある、用意のできた大きな二階座敷(にかいざしき)に案内(あんない)してくれるから、そこでわたし達のために食事の仕度をしなさい。」一六二人の弟子たちは出かけて都へ行って見ると、はたしてイエスの言葉どおりだったので、そこで過越の食事の仕度をした。一七夕方(ゆうがた)になると、イエスは十二人をつれてそこに来られる。一八彼らが席(せき)について食事をしているとき、イエスは言われた、「アーメン、わたしは言う、あなた達のうちの一人"わたしと一しょに食事をする者が、"わたしを敵に売ろうとしている!」一九これを聞くと、弟子たちは悲しくなって、「先生、わたしではないでしょう!」「わたしではないでしょう!」と、ひとりびとりイエスに言い始めた。二〇イエスは言われた、「十二人の一人、わたしと一しょにひとつ鉢(はち)から食べる者だ。二一人の子わたしは聖書に書いてあるとおりに死んでゆくのだから。だが人の子を売るその人は、ああ かわいそうだ!生まれなかった方(ほう)がよっぽど仕合わせであった。」二二ユダが立ち去ったあと、彼らが食事をしているとき、イエスはいつものようにパンを手に取り、神を讃美(さんび)して裂(さ)き、弟子たちに渡して言われた、「取りなさい、これはわたしの体(からだ)である。」皆がそれを受け取って食べた。二三また杯(さかずき)を取り、神に感謝(かんしゃ)したのち彼らに渡されると、皆がその杯から飲んだ。二四彼らに言われた、「これは多くの人のために流す、わたしの"約束(やくそく)の血(ち)"である。二五アーメン、わたしは言う、神の国で新しいのを飲むその日まで、わたしはもう決して、葡萄(ぶどう)の木に出来たものを飲まない。」(「福音書」 塚本虎二訳)
酒場八十八句集 冬
居酒屋に雪女の跡今しがた(2)
グッバイを鞄に詰めて冬の旅(6)
冬の夜に白き女の酌を受け(9)
悴(かじか)みし掌の盃や魂(たま)揺らゆ(24)
(高浜虚子の有名句から本歌取りの結果となった)
酔ひそぞろ天には冬の月無言(40)
赤提灯枯れ華燃ゆる火にも似て(41)
(枯れ華を冬のイメージに喩えた)
酒吐息(さかといき)ネオン凍れる舗道かな(42)(「酒場歳時記」 吉田類)
鬼殺し-おにころし
この語には二つの極端な意味が同居している。優れているほうは、辛口のうえアルコール度数が高く、酒鬼をも夢中にさせてしまうほど旨い清酒。これは「鬼殺し」の本来の意味であった。劣るほうは43章の「鬼殺し」にみる、下等酒としての意味。時代が下がるほど、こちら悪名のほうが高まっている。▼一鍋焼肉と、二合の鬼殺(俗に醇酒を称して鬼殺と云ふ)とに飽き、倦んで楊花の寄(よせ)に至り、竹元のお駒と●『東京繁盛昌記』聚芳閣▼腕こきのそめきも月にうかれてや鬼ころしのむ羅生門かし/子子孫彦「羅生門河岸月」●『狂歌すまひ草』
おにころ
鬼殺しの下略俗語。▼いわゆる「オニコロ=オニをもまいらす強い酒という意味の流行語」となってノンベーに愛用されないよう●「日本経済新聞」一九四九年二月二六日
鬼好み-おにごのみ
鬼殺しのうち良いほうの意味。▼江戸にて三州酒などあぢ辛くつよき酒を鬼ころしと云(*中略)野州日光にて鬼ごのみといふ●『物類称呼』巻四
鬼除け-おによけ
鬼殺しに同じ。▼おによけ 三議一統に、酒の事に云へり●『和訓栞(わくんのしおり)』(「日本の酒文化総合辞典」 荻生待也編著)
十五夜月 一山東京伝
209二仲秋の 月にめでては 三今川が いさめも四もどく 五酒宴遊興
209一 京橋住。天明期以降、江戸戯作者の代表格。 二 陰暦八月の「仲秋」に、今川了俊の弟で後嗣となった「今川仲秋(なかあき)」を掛ける。 三 「今川」は今川状。了俊が仲秋への教訓を並べた二十三箇条とその解説から成る。中世武家の道徳教育の教科書として普及。 四 そむく。 五 今川状の一条に「酒宴遊興勝負に長じ家職を忘るゝ事」とある。 ▽八月十五夜の名月を賞美する今川仲秋は、今川状の教訓にそむいて酒宴遊興に耽るの意。
九月九日、人の酒をおくりければ 一天津未曽良(あまつみそら)
230おくられし 手紙に無事を 二きくの酒 珍三重陽(ちようやう)に ぞんじさぶらふ
230一 本所立川相生町住、佐野屋利兵衛(江戸方角分) 二 「無事を聞く」-「菊の酒」。 三 「珍重」-「重陽」。「珍重にぞんじさぶらふ」は手紙の決まり文句。(「狂歌才蔵集」 中野三敏校注)
旧正月 きゅうしょうがつ
陰暦の正月のことで、地方の農漁村などは、今でもこの日に正月を祝うところがある。
雪ふみつけて旧正月のにごり酒 村瀬微笑(「川柳歳時記」 奥田白虎篇)
もがき止め
右の話で思い出されるのは、鈴木大拙先生の「酔払ひと心中と宗教」という随筆(岩波書店「鈴木大拙全集」第十九巻)であります。それには、
人には誰も自由を欲する心がある、即ち有限の存在を突破して無限者に合致したいとの心がある。自由なるものが実際あるか、無限者が実在かと云ふことは、確かめられても確かめられないでも、とに角、現在の悩みを突きのけたいともがくのは本当である。(中略)所が、此に何人にも忽ち役に立つものがある。一時的であつても、また或るときは、他に迷惑をかけることがあつても、もがき止めの妙薬となるものがある。それは酒である。(中略)米国で禁酒令を布いたなど云ふは、この詩趣神秘を知らぬ国民のやることで、誠に現時の器械的文明を説明してゐる。酒に宗教があり、詩があり、もがき止めの妙用があると云ふと、散文的の今の人は不思議に思ふ。(中略)天神地祇、八百万(やほよろづ)の神々に神酒を捧げるのも、無限の神を酔はしめて有限の人間の近からしめんとの考がかうじたものである。神様も酔はぬとその無限性が発揚せられぬ、人間と同じである。
これには、多少のアイロニー的調子がないでもないが、一種の酔いの哲学と見られないことはありません。この筆法でゆくと、宗教は阿片(あへん)なり、といいますが、精神安定剤や睡眠薬の異常な売行きを見ると、現代人にはむしろ、宗教は薬剤なりといったら、叱られるでしょうか。また、宗教は茸なりといえるのは、先のメキシコ人の場合でもありましょう。(「酔話の魔力」 坂口謹一郎)
柳橋の浴室
夏日、客(かく)至る、酒前浴(よく)せざれば快(こころよ)からず。故に九浴室(ユドノ)を設(まう)く。皆雅潔(キレイ)、混堂(セントウ)の囂(ヤカマシク)にして穢(けが)れたるが若(ごと)くならず。客の為に浴衣(ユカタ)を製す。各々其の家の章(モン)若(も)しくは名を染む。浴衣にして飲む、爽涼(さうりやう)膚(はだへ)に可にして、以て衣襦(いじゆ)の汗を燥(かわ)かすべし。蓋(けだ)し浴室の最も佳(よ)き者は柏屋(カシハヤ)なり。且(か)つ四時(しいじ)湯を沸(わ)かす。風雪の日、以て凍(サムサ)を融(と)かすべく、「酉毛」「酉匋」(ノミスギ)の夕(ゆふべ)、以て酲(ゑ)ひを解くべし。他楼(ホカ)の唯(た)だ炎「火喬」(アツサ)の為に設くるが若きにあらず。其(それ)既に浴せり。又既に飲む。以て妓なかるべからず。妓を酒楼に招く、船宿と致(おもむ)きを同じうす。但(た)だ客を留(とど)め妓を宿せしめるの計に至つては、則(すなは)ちあることなし。余(われ)諸(こ)れを一友人に聞く、「梅・亀の二楼、略(ほぼ)船宿の風あり。蓋し主人(テイシユ)は知らざる為(マネ)して、婢(ひ)をして其の媒(なかだち)を為(な)さしむ」と。其(それ)或いは然らん。要するに船宿の一〇便(べん)にして密(みつ)なるに如(し)かず。
九 料理屋が湯殿を設けたこと- 一〇 簡便であって、しかも人に知られないのには及ばない。(「柳橋新誌」 成島柳北 日野龍夫校注)
世にあるほどは楽しくおらな
世にある人間(ひと)は誰とても
ついには死ぬるのがその定め。
明日という日に己というもの
生きてあるかということすらも
死すべき身にて知る者はなし。
されば、おい人間よ、
これをとっくと心得おいて
大いに陽気にやるがいい
存分に酒を喰らい、死なんぞ忘れてな。
それにまた、こんなはなかい人生を
送るのだからその間(かん)に
アフロディテの愉しみも
存分に味わい楽しむがいいだろう。
その他のことは何もかも
運命の手にまかせてしまうのさ。
-
右の二篇(上は最初の一篇だけです)は四世紀後半頃に活躍し、その辛辣な諷刺詩によって知られる詩人パルラダスの作である。文法教師として貧窮のうちにその生涯を送った詩人は、キリスト教の興隆期にあって迫害を受けながらも最後まで異教徒として終始し、辛酸を嘗めたらしい。極めて厭世的な詩人であったパルラダスの詩は、ペシミズムに色濃く彩られているが、その刹那主義は、右の詩にも見られるcarpe
diem(今日という日のじゃ菜を摘め)という詩想にはっきりと読み取れる。人生短促の嘆きを詠い、短きは人の命、されば世にあるうちに歓を尽くし、大いに酒を飲もうではないかと酒を勧める詩は、少なくとも表面的には陶淵明の人口に膾炙した、かの一篇に似ていると言えるだろう。-無論、類似は表面的なものにとどまる。(「讚酒詩話」 沓掛良彦)
濁(にご)り酒(ざけ) 濁酒(だくしゆ) どぶろく どびろく
新米で醸造した酒であるが、精製されていず、白く濁ったものをいう。多くは密造で、市販されていないので、現代の季題としての意義は少ないともいえよう。
酔うて泣くことのよろしき濁酒かな 岩谷山梔子
濁酒や酔うて掌(て)をやるぼんのくぼ 石田波郷
濁酒や手打ちの宴が又喧嘩(けんか) 松本翠影
どびろくや生みたての嬰(こ)は眠らせて 末次雨城(「俳諧歳時記 秋」 新潮社編)
タコを煮る時の下ごしらえ
タコヲニルニハ、生シキ時アラヒテ、マナ板ノ上ニ置テ、生ダイコンニテ能(よく)扣(たた)キ、ニレバ、和(やわ)ラカナル物也、大コンナクバ、レン木ニテモ扣(たた)クベシ、又タコノカハムカズニ、白スナトニテ肴(さかな)ニ出スヘキ時ハ、酒ヲ入テニレバ、上ノカハ赤ク色ツク物也、又引茶ヲ入テニレバ、ヨクニエル物ナリ。 『躾方之事』煮物の部
タコをやわらかく煮る便法として、下ごしらえの段階で、このように生ダイコンの先端を平らに切って、その切り口で叩くという方法はわたしも実際に見聞している。確かにこの方法だとやわらかく、うまくなる。昔からタコをやわらかく煮るために大豆を少し入れるならわしもある。挽き茶(引茶)を入れる方法は、この本で初めて識った。
『躾方之事(しつけかたのこと)』 原本は小笠原家の伝書と言われる。わたしの手元にあるのは三冊の写本で、これを通覧すると、根本は室町時代末期にでき、江戸期に入って書き加えられた個所もある食事作法の本。(「料理名言辞典」 平野雅章編)
づぶろく[図武六]
大とら、づぶ三、づぶろ、または単にづぶともいう。
①づぶろくを辻番手柄そうにしめ (樽一五)
②づぶ六の客へ鍬釜素湯(さゆ)で出し (樽二五)
③孝行のやうにづぶ六蚊に食はれ (樽三六)
④どぶろくでづぶろくになる村日待チ (樽四三)
①辻番を見よ。(→非常警戒と往来取締のために設けた武家屋敷町の辻に建てた番小屋で、大名が建てたのを一手待ち、一万石以下の旗本が費用を出し合つて建てたのを組合辻番といつた。-) ②鍬鎌印の酔冷ましの薬。 ③二十四孝の一人に呉猛?というのがいる。貧乏で蚊帳が買えず己のからだに酒をふきかけて蚊をおびき寄せ親を安眠させたという。その話を見るようにからだ中に蚊をたからせて寝込んでいる泥酔者。 ④部落の人達が集まつて徹宵痛飲し、日の出を待つ行事をお日待ちといつた。日待を見よ。どぶろくとづぶろくの語呂からくるおかしみ。(「」古川柳辞典) 根岸川柳
ルバイ第四十三
「暗き酒盛(さかもり)」の天使の
遂に汝(なんじ)を川縁(かわべり)に見出で、
盃差して心蕩(とろ)かし、
「干せ。」と誘(さそ)ふも、怯(おび)ゆるなかれ。
[略儀] 「死の天使」アズレエル(Azrael)に、最後に、アケロン川(Acheron 幽界に在る川、仏教に所謂(いわゆる)、三途(さんず)の川に当る)の川岸(かし)で逢って、盃を差され、「干せ」と云われても、怯(お)めず飲むが好い。
[通釈] 死んでアケロン川を渡る時、死神に酒を勧められたら、構わず飲む事だ。其の為めに天国行きがどう為るのだろうか抔(など)と考える必要は無いと云うのである。現世享楽が、あの世迄持ち越されて居るのが、如何にも痛快だ。(「留盃夜兎衍義」 長谷川朝暮)
活性生酒のお燗
「えっ、活性生酒もお燗?」「以前、雪の秋田で蔵元数人を交えて飲んだときのことだけど、そのとき、能代喜久水の『一時』をヌル燗にしたんだ」「美味しい純米吟醸の濁りよね、開けるとき失敗すると中身が出ちゃうのよね」「蔵元たちはビックリしていたけど、いざ飲んでみると、これがまた美味しいんで二度びっくりさ。いってみれば、自分で低温の火入れしたみたいなもんさ。考えてみれば、普通に売られているお酒って、二度燗冷まししたお酒だぜ」「そ、そうよね。搾った生酒を二度火入れして商品として出してくるわけだから」「火入れの温度って大体六〇℃~六五℃前後っていわれているだろ」「それって、さっきのビックリ燗より熱いんだものね」「だろう。ってことは市販酒は二度燗冷ましにしたお酒ってことじゃない。しかも超熱燗の。だったら、生酒をヌル燗にするってことは超低温火入れを一度だけしてすぐに飲むお酒ってことさ」「そうよね。ということは、自分で"生貯蔵酒"を造ってるみたいなものよね」「蔵でやる火入れを自分でやったってことさ。しかも、本来のものよりずっと低温だし、すぐ飲むわけだから"火入れムレ""火焼け"という変質・変味もないしね。意外と、まだ生酒の風味も残っているんだぜ」(「ツウになるための日本酒毒本」 高瀬斉)
銘酒 二
一〇九三 閔中の酒に佳品はない。以前は順昌(今の福建省順昌県)の酒がひとり幅をきかしていたが、近ごろでは建陽(今の福建省建陽県)が王座を占めている。順昌の酒の卑しいことは論ずるまでもないが、建陽の酒の色と味とは、呉興(今の浙江省湖州市)と対抗できるだろう。が、やや乏しいのは、こくである。
三
一〇九四 北方には、葡萄(ぶどう)酒・梨酒・棗(なつめ)酒・馬奶(ばだい)酒(馬の乳からつくる)があり、南方には蜜酒・樹汁酒・椰醤(やしよう)酒があり、『酉陽雑俎(ゆうようざつそ(1))』には青田酒を載せている。いずれも麹(こうじ)を用いず、自然にできるものであるが、やはり人を酔わせることのできるのも、まことに不思議である。
(1) 酉陽雑俎 書名。唐の段成式の撰。二十巻、続集十巻。内容は喜兆・怪術・酒食・医・雷など、多方面にわたる。青田酒については、巻七に、青田核という六升の瓢(ふくべ)ぐらいの核の中に水を注ぎ、すこし経つと、水は酒になる。これを青田酒という、とある。
四
一〇九五 茘枝(れいし)の果汁は酒に作ることができるが、みな焼酒(焼酎の一種)である。作ったときの酒は甘いが、腐敗しやすい。刑子愿(けいしげん)は仏手柑(ぶつしゆかん)で酒を作り、仏香碧(ぶつこうへき)と名づけた。取り出したばかりのときは、やはり香気が強くて素晴らしいが、貯蔵がきかない。江西の麻姑(まこ)や建州の白酒は湯を飲むようなもので、腹がいっぱいになるだけである。(「五雑組」 謝肇淛 岩城秀夫訳注) 銘酒 一
みつぐみ【三組】
①三つ組の盃の略称。婚礼の三々九度には、必ずこの三つ組盃が入用であつた。
からかつた上で三つ組貸して遣(や)り 花婿になるのを(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)
福島県相馬郡八幡村
70酒盛の後でさらにアト祝イとかウチ祝イというようなことがありますか。それを何といいますか。残りものはどうしますか。
後で二次会めいたものはとくにないが、御祝儀の時など酒好きの人がかならず二、三人は残り、いつまでも飲んでいる。そして泊まって翌日帰る。また正客のある間はオクミアイから来ているオテツダイの女や料理を作ってくれる男たちはゆっくり飲み食いもできないからシタンド(下の間)で今日の噂話をしたりしてゆっくり御馳走になる。酒飲みが炉などで夜更けまでくだをまいているのを家内はかえって喜ぶ。残った酒をいくらでもすすめながら。
○残りものはその家である間は食べるし、あるいは分家や両隣または近所へ配ったり、子供が遊びに来るとくれて持たせてやったりする。
85村で一番御馳走としている食物はどんなものですか。
「酒を飲んで餅を食うのが一番の御馳走」とされている。なんでもトキ(時)でもない時、思いがけず出されるのが御馳走で一生忘れられない。
註 採集者、今野の祖母の実家、相馬郡上真野村の中野家では御祝儀に酒を一石三斗も飲ませたと、今におき祖母の自慢の一つである。
87甘酒を作りますか。どんな場合に作りますか。作り方はどうしますか。ほかに異なった名称がありますか。祭礼などの場合、昔の濁酒の代わりに作ることはありませんか。甘酒と濁酒との相違する点はどこにありますか。
味噌を作るのに必要なので麹をたくさん売っているから、買ってきて甘酒を作る。ハナコウジと御飯を一升一升の割合で混ぜ、水を入れてかきまわし、人膚(ひとはだ)に温めて一晩そのままにしておくと、翌朝飲めるようになる。あとは暖めておくとスカク(酸っぱく)ならない。麹にモトを使うのと使わないのとで異なるのである。
88醸造業者でなく,濁酒が造られていましたか。それはどんな時に造られたでしょうか。名称は何といいましたか。村祭りの時には今でも造りますか。どうしてつくりますか。芋酒、焼酎など造られましたか。これらの酒類は個人個人で造りましたか、村とか組とかが共同で造りましたか。女は関与しませんでしたか。
ニゴリザケは一年中造っておいた。燗鍋というのは片口のような口のついた鍋だが、これにニゴリザケを入れておいて、来客があると炉にかけてお茶を出すのと同じようにかならず出したものだった。雷神様の祭りの時に米を一軒から五合ずつ集め、組ぐみ(八幡村の組は成田・高松・八幡・今田・富沢・台の六組に分かれている部落によって区分している)で集めて酒を造り、各戸とも家内中雷神様へ行って飲んだものだ。
○娘には限らぬが、酒というものは御飯を炊くのと同じで女が造るものとされていた。だから女だけで造る時が多かった。
○密造なら今でも某々などよく造っている。ことに最近は多くなり、この辺でも山へ造ろうかなど相談している(これはあまり人には言えない話だが)。
○昔は御神酒も濁酒だった。清酒(買ってきた酒)のことを「コーノケ(眉毛のこと)の見える酒かい」などと笑った。
89一年のうち酒を飲む機会はどれくらいありますか。平均一戸当たりどれくらいの量を用いますか。どんな種類の酒ですか。毎日常用する人が何人くらいありますか。飲酒家と酒嫌いの比率はどれくらいですか。大酒家というのはどれくらい飲みますか。軽い程度の酒の肴には何を用いますか。
○清酒・焼酎。
○常用する人はないと思う。一家の主人でまったく酒嫌いの人はほとんどないらしい。
○三升飲んでもけろっとしているなどというがよくは分からない。
○酒の肴はあまり食わないようである。都会に比べて目立たないようであるし、お煮しめとか漬物(たくあんとからっきょうとか)ぐらいのものらしい。(「日本の食文化」 成城大学民俗学研究所編)
鯲 どじよう
和尚、小僧に徳利を持たせ、どじよう買ひに遣り「必ず誰か聞いても、どじようだといふな」とくれ/"\言付けてやつた処が、小僧帰りに道草をくひ/\歩く故、ツイ酒屋のが「小僧どの、手にさげたはなんだ」といへば「当ててみろ、壱匹遣ふ」(評判の俵・天明八(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)
おなじく((十)五つのうわさ)
かけいで給ふはどこ/\ぞ、上(かみ)は一條今出川(でういまでがは)、二條堀川(でうほりかわ)三條室町(でうむろまち)四條(でう)四めんのあなたなる耳塚(みみづか)過(す)ぎてぼくせん寺(じ)、伏見(ふしみ)の里(さと)につき給ふ。こ〻に五つの話(はなし)がござる、一(いち)にいつくはほんごのみぞにつきこんだ、二(ふた)つ不埒(ふらち)なせつちで、すとんと腹(はら)きつた、三つみつい法師(ほふし)は墨染姿(すみぞめすがた)にさまをかへ、茶碗朝酒(ちやわんあさざけ)くわいちうときや/\、ありやそりやかちぎねふくとんび、四つよしのはおぬすのけんとしうて白無垢(しろむく)さくらのぼかし、南無三(なむさん)ねじりをとりをつた、五つ今川(いまがは)にみうらがござる、一におはらひなく二に物さしよ、三にかけはり瀬戸(せと)の染飯(そめいひ)、宇津(うつ)のやの十団子(とをだんご)、附木(つけぎ)で作つた印籠巾着(いんろうきんちやく)、と〻さまか〻さま息災(そくさい)か、そのうちまゐりて申しませう、何を諸事(しよじ)も諸訳(しよわけ)その通り(「若みどり 近代歌謡集」 塚本哲三編輯)
米の構造
玄米は外側から順に果皮、種皮で覆われている。その内側には、タンパク質や脂質、糊粉層(こふんそう)と呼ばれる層があり、ここには発芽の際に必要な酵素や、フィチンという栄養物質などがある。また、胚芽(はいが)は発芽に必要なタンパク質やビタミン類を多く含んでいる。清酒を造る上で重要なのが、糊粉層よりもさらに内側、玄米粒の中央にある「心白」と呼ばれる円形(または楕円(だえん))の不透明な白色の部分である。多くの酒造好適米のような、心白がある米を「心白米」という。心白部分は米の組織が粗く、たくさんのすき間が空いた状態になっているため、心白米は吸収性が高く、蒸米の溶解性も高い。さらに、麹菌(こうじきん)が食い込みやすいので酵素力の高い、良い麹ができる。このように心白は清酒の製造工程全般にわたって大きな影響を及ぼすのである。(「新潟清酒達人検定」 新潟清酒達人検定協会)
在所無力
酒屋のとった非合法的脱税の手段は、在所無力と称して恣(ほしいまま)に役銭を減少するか、或は廃業届を提出して後、密(ひそ)かに営業を持続する等の手段であった。幕府の臨時課役のしばしばなる徴収、酒屋・土倉の脱税、この両者は互に因となり果となり、酒屋・土倉は漸次幕府の統制下より逸脱するに至ったのである。幕府の財政的根拠は土地所有関係に於て動揺崩壊し、次でまた富裕階級の支柱をも失わんとしつつある。将軍は今やただ諸侯の傀儡(かいらい)として舞台に登場するに過ぎない。かくして室町幕府は亡び、諸侯中の覇者たる織田信長によって、新たなる近世統一政府が創設せられるに至ったのである。(「日本産業発達史の研究」 小野晃嗣)
菊正宗
この魚崎西町の南側が、御影本町一丁目になりますが、ここでは何といっても菊正宗を挙げねばなりますまい。全国8位、出荷石数二十一万五千二百石。大手中の大手です。創業は万治二年(一六五九)で本嘉納家の創始。代々治郎右衛門を襲名して今日に至っています。荷印として、江戸期には「本(ほん)」印または「正宗」印が使用されていたようですが、明治十七年に商標条例が公布されてから、今の菊正宗を登録したといいます。世間では"菊正"の愛称でよく知られていますが菊正というと、辛口というのが、すぐ出るほど、その辛口の声価は高いといえます。純粋醸造の限定品雅(みやび)は、今日灘酒を語る時にやはり欠かせない製品ですし、生酛(きもと)造りの辛口という点で、手造りの味を持った、いい酒といえます。甘口、辛口は、この業界では日本酒度で表わしますが、ゼロを挟んで、マイナスの数字が多いほど甘く、プラスの数字が多いほど辛い、と理解していただきたいのです。菊正宗の辛口は、プラス2で、マイナス4~5が主流を占める現在の酒の中では、かなり辛口といえます。ついでながら書いておきますが、今辛口として売られているものの大部分は、マイナス1からプラス1が多いということで、一応の判断をしてほしいと思います。この菊正宗酒造については、明暦様式の面影を持つ『菊正宗酒造記念館』を、見落とすわけには参りません。最も古い酒蔵を、建造物はもとより酒造用器具、小道具類共々保管管理し、しかるべき手続きを経れば、見学の求めにも応じています。もちろん、国指定の重要有形民俗文化財ですから、心ない人々の気ままな来館は迷惑でしょう。近頃は、神戸の異人館ブームの後を受けて、観光ルートの中に、この記念館はじめ、魚崎近辺の蔵のある街並みが、そのコースになっているようですが、記念館はもとより、蔵の中も、酒造りに迷惑にならぬよう見学してもらいたいものです。また、菊正の本嘉納と白鶴の嘉納家とが、灘高等学校を設立したことも、よくご存知の通り。(「灘の酒」 中尾進彦) 昭和54年の初版の本です。
酒を飲む作家たち
古井(由吉) 出端を挫くようで申し訳ないんですけれど、明治の文豪たちはお酒をあまり飲まない。
十川(信介) そういえばそうですね。飲みませんね。
古井 夏目漱石、森鷗外…。
十川 鷗外はぶん殴られましたよ、酔っぱらった「読売新聞」の記者かなんかに。
古井 ああ、取っ組み合いになって…。
十川 鷗外は抵抗しなかったっていう話ですけれどもね。「鷗外、殴られる」というようなゴシップ記事があります。それに坪内逍遙、二葉亭四迷、自然主義の島崎藤村…。幸田露伴や根岸派が例外でしょうか。
古井 藤村、秋声、二人ともあまり飲まない。永井荷風も飲まない。正宗白鳥もあまり飲まない。嗜む程度ですよね。
寺田(博) 白鳥は甘党だったんですね。
古井 徳田秋声も飲めなかった。飲めないんですよ。これがなぜかというのが一つ。たまたまなのか、なにか時代があったのか。
十川 だいたい文学者が酒に狂うようになったのは、岩野泡鳴、真山青果、あのあたりからでしょう。
古井 葛西善蔵とかね。
十川 日露戦争のあと、大正にかけて、要するにいわゆる文士のイメージができだした頃から、やたらに飲み出したわけですね。
古井 そうですね。面白いね。泡鳴と白鳥が仲良く付き合っているんだけれど、片方はお酒を飲まない、片方はお酒を飲む。(「酒と日本文化 酒と文学的群像」 岩波書店)
襲われた男の人は 太地喜和子
太地喜和子さんは大変な酒豪である。どこへ行って機嫌良く、キャッキャいいつつ、大酒をあおる。とても楽しい酒だ。ある映画の撮影のため地方へ行った時のこと。例によって仲間と夜遅くまで飲んでいた。みんなずいぶんとピッチを上げたので、じゃあここらへんでお開きにしましょうと、おやすみなさいをいいながら、それぞれ部屋へ引き上げていった。太地さんは、旅館の自分の部屋まで来た。ガラッと扉を開ける。蒲団が敷いていある。太地さんの留守中に女中さんが敷いておいてくれたのだろう。何しろ、したたか酔っていたので、すぐに布団の中にころがり込んだ。すると、「ヒェ…なんだ?」布団の中から男性が飛び出してきた。寝ていたところにころがり込まれたその男性もびっくりしたが、こちらはもっとびっくりした。「どうなってるのヨ」といいながら、部屋の電気をつけると、なんと、菅原文太さんが蒲団の隅のほうで小さくなって震えていた。太地さんの部屋は、もうひとつ先だったのである。(「有名人のないしょ話」 徳光和夫)
(2)練酒之事
一、餅米壱斗上白食に蒸し、人肌或ハ人肌強く時節によつて也。
一、(3)地酒壱斗入搔合せ、群なき様にして桶に入、口を張置、七日過口を開け、石磨にて引、又、桶に入、口を張置。又、自是七日過口を開、売へし。引て直にハ風味出すして辛き物也。右の如く日数を経て甜ミ出る物也。
(2)練酒(ねりざけ)の造り方
○上質の精白もち米一斗を蒸し、人肌、あるいは季節により人肌よりも温かくする。
○(3)地酒一斗を加えて混ぜ合わせ、むらのないようにして桶に入れ、口に紙を貼る。七日過ぎたら口を開け、石臼でひき、また桶に入れ、、口に紙を貼って封をしておく。またそれから七日過ぎたら、口を空けて売ること。ひいてすぐには風味がまだ出ず、辛いものである。右のように日数がたてば、甘味が出るものである。
(2)練酒(ねりざけ) 筑前博多(現福岡県福岡市博多区)の名酒。白酒に似た甘口酒。粘り気があり、色が練絹のようなので、この名がある。 (3) 江戸積みにしない、地元向けの安酒の意か。(「童蒙酒造記」 吉田元校注・執筆)
なばや
那波という姓は珍しい。秋田市にある「銀鱗」醸造元である那波商店には、秋田県技術アドバイザーとして伺ったのがつきあいの始まりである。もう二〇年以上も前のことだ。その折り、那波家のことを当時息子であった宗久さんから聞いていた。那波家の先祖は京都の商人で、水戸佐竹氏の御用達だったよし。佐竹氏が、秋田に封じられたとき、佐竹氏は那波に付いてくるようにいって町の真ん中に土地を賜ったという。それが現在の駅からの大通りと飲食店通り川反の角にある呉服屋の店と水辺公園だという。那波の本家は京都から赤穂に移りやがて消えたとか。そんなことを聞いていたから「なばや」の屋号が気になっていたのであった。店がすいていたときを見計らって那波のいきさつを話した。おやじは「ウチは水戸の出だそうで、ずっと那波屋を名乗っていました。何かのご縁があるのでしょう」と答え、以来ときどき引っかかった。秋田の那波さんにそんなことを伝えると酒を送ってきた。一升瓶四本だからちょいとぶら下げていくわけにはいかない。そんな時、秋田県醸造試験場長になっていた池見さんが来たので、その酒をぶら下げて「なばや」に出かけた。吟醸酒の生神様の池見先生が売り込みに行ったのは、、これが最初で最後ではあるまいか。ところがその酒は「甘い」という一言で一蹴されるのである。これは「なばや」のおやじさんのいうのが正しい。やがて「なばや」が吟醸酒の存在に気付く。そして「銀鱗」の吟醸酒に接して「これならば」と店に置くようになり、さらには秋田の蔵まで出かけるという熱の入れ方になる。(「「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎) 第236回幻の日本酒を飲む会の会場になった串焼きいなばです。
廓のやしょめ
天下泰平のころの京の町は行きかう物売りたちでにぎわっていた。魚売りの荷のなかは大鯛、小鯛、ぶり、あわび、さざえ、はまぐりなど。町筋には店が立ち並び、金襴緞子(どんす)、紗綾(さや)、ちりめんなどが飾り立てられている。若い娘はいうにおよばず、もう大分くたびれた姥(うば)たちまでが、あれやこれやと眼の色をかえて品えらびをしている。このような町の様子を、天下泰平の世、めでたしめでたしと歌ったのが「やしょめ やしょめ」である。-
千秋万歳の"やしょめ"も、のちには花街で"廓のやしょめ"ともじって歌われている。
やつめ やつめ 女郎町のやつめ 取ったるいろのなかなか 逢いたい 見たい むりな大酒 …町の小路小路や、小年の寄つたるととかからが いさかうさまとは げにも いろざとの はでなり、いろなり 門には客まつ 背戸にはいろ待つ そつちもこつちも いくとせの恋ぐさと 祝いおさむる万歳楽 すおうの袖も ながき日のにぎわうるこそめでたけれ
「門には客待つ 背戸にはいろ待つ」と、廓は廓なりの商売繁盛を歌って躍如たるものがある。(「京都故事物語」 奈良本辰也編)
御吸物
江戸の居酒屋では、注文しないものが出されることはないので、料理を注文しなければ、黙々と酒だけを飲むしかない。江戸の居酒屋では、店頭の立障子や行灯などに、「おでん」や「から汁」などと、その店を代表する料理が書いてある。多くの店に「御吸物」とあり、現在では見られない居酒屋メニューだ。古くは吸物を羹(あつもの)といい、魚鳥の肉や野菜を入れた熱い汁物を指したが、江戸の居酒屋では酒の肴としてよく出された。飯のお菜(かず)は「汁」といって呼び方の区別をしていたが、居酒屋で飯を食べる客もいたので、厳密に区別してはいなかったようだ。飯と一緒に出す味噌汁を、丁寧に「御御御(おみお)つけ」と御の字を三つも重ねた呼ぶことがあるが、室町時代の女房言葉では味噌を「おみ」といい、吸い物の「おつけ」が合わさった呼び方である。多くの種類の吸物があったが、基本的に味噌仕立ての味噌汁と、醤油仕立てのすまし汁があり、京坂ではどちらも「露(つゆ)」といった。江戸で露といえばすまし汁のことである。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資)
バーの一夜 稲垣足穂
或(あ)る夜 バーで六人の客が巴(ともえ)になつて格闘をはじめた 同じ飲み友だちで今のさきまで仲よくしてゐたのだが そのうちに「このなかのひとりは星が化けてゐる」といふ言葉がひとりの口によつて云ひ出され 互に星を捕へようとしたのと 一せいに自分が星でないとさへ切つたのとが衝突したのである テーブルが倒れ 瓶(びん)がこはれグラスがとび イスがふりまはされ 南京豆の雨がふるうちに ひとりづゝが表へけり出されて おしまひにのこつたのがふら/\になつたからだをスタンドに支へた 彼はホツとし 勝ちほこつてバーを出たが 考へてみると 一ばんちひさい自分が大男を五人も投げとばしたなんてふに落ちかねる 結局 おれは星ではなかつたらうかとうたがひ出した 果してさうであつた彼はそこでキラ/\かゞやきながら天上したからである(「酒の詩集」 富士正晴編著)
初て酒の貴きを知れり
(小宮山)昌徳東湖は、早くから両親に別れて逸楽に耽(ふけ)ったが、後に改悛して書を読み倦むことがなかった。飲酒や囲碁の戒めは、自分を深く省みてのことからであろうか。(子の)楓軒は、「自分はそれを遵守してきたが、すでに四十歳を過ぎて今更酒を飲みたいとも思わないし、碁や将棋を知らないことを残念とも思わない。このままで一生を終わってもいっこうにかまわない。」と言っている。(楓軒著『楓軒紀談』十五)。ただし、楓軒は一度だけ酒を飲んでいる。後掲する文化四年(一八〇七)三月の紅葉郡大火の折りである。孫の昌玄(南梁)が次のように記している。
火既に熄(やみ)て後、属吏の妻児追々帰り、皆々啼泣ありしを先生見給ひ、胸塞がなんばかりなれバ、常には用ひ給ハざれども、酒を持来れと家奴に命じ、一杯を傾け給ひて、胸間爽快し、初て酒の貴きを知れりとのたまひしなり。されど、その後ハ終に用給うこともなかりしなり(「楓軒年録」一追記)。(「小宮山楓軒」 仲田昭一) 小宮山楓軒は、領民から慕われた、水戸藩の郡奉行です。
いびる【いびる】虐待、又は叱責する事。
末永くいびる盃姑さし 親子縁結びの盃
いへのたからとなさばやと【家の宝となさばやと】謡曲「羽衣」の詞句。脇の詞『われ三保の松原にあがり、浦の景色を眺むる所に』の下に『いかさま取りて帰り古き人にも見せ、家の宝となさばやと存じ候ふ』とある。
家の宝となさばやと五百てう お能拝見の五百町
家の宝となさばやと錫徳利 同上接待の酒徳利(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)
粕汁 かすじる 酒の粕
酒粕を混ぜた味噌汁。こってりした味で、酒の嫌いな人も好む。また酒の粕だけを焼いて食べることもある。
酒粕や野の風遠くわたる音 水原秋桜子
かす汁をうすめてくれる内儀かな 中村吉右衛門
心こゝにあらねば焦げし酒の粕 日野草城
粕汁に汗ばむ程となりにけり 菅内左山
粕汁にぶつ斬る鮭の肋かな 石塚友二
粕汁や父にかしづく母亡くて 木附沢麦青(「合本俳句歳時記新版」 角川書店編)
父の酒癖
一、二合の酒でまっさおになり、眼つきが変になって上目づかいで相手を見るようになると、父の酒乱ははじまる。それからはあばれながらのハシゴ酒である。落語の『素人うなぎ』に酒乱の金といううなぎさきの職人がでてくるが、その金そっくりで、飲むと、一瞬にして人が変ってあばれるのであった。私は、そういう父を子どものときから見ていた。小学校へあがる前の大正十二年から五年生の昭和三年まで父母と別居して伯母の家で養われていたが、それでも、ときどき酔っぱらって伯母の家へくる父の酒癖は知っていた。私が父母と同居するようになり、やがて、十四歳で紙芝居の作画をして一家五人の生活をささえるようになっても父の酒癖はなおらなかった。私の代りに、描きあげた絵を紙芝居の親方に届けてその代金をもらうと、一銭も残さずに使ってしまった。あるときなど、知り合いのカフェーの女給が「おとうさんにチップをもらったが、受取るわけにはいかない」といって母のところへ返しにきたほどである。あるとき私の描いた紙芝居の代金をあてにして、使いにいった父の帰りを待っていると、血だらけになった酔っぱらいの父が帰ってきてあばれた。母は弟妹をつれて木賃宿へ泊りにいく。私はひとり家に残って、父が眠るのを待つ。翌日は米代もおかず代もない、ということもあった。それゆえ私は、少年時代に、酒を飲まないより、酔わないように飲むことをつらぬこうと決心した。(「食いたい放題」 加太こうじ)
メートル法
要するに、法定計量単位以外で取引したりしてはいけないというわけ。ただし、輸出入にかかわるものについては除外規定があって、たとえば真珠です。真珠は世界中が「匁(もんめ)」なんですね。それ以外はメートル法で仕事をしなければいけない。わかりやくくいえば、お酒を「一升」と言って売ってはいけない。「一・八リットル」と言わなければいけない。「尺八」というのも、あれは一尺八寸の笛だからそういうので、本当は、これもそういう言い方をしてはいけないことになる。(「職人」 永六輔)
十字軍の禁酒令
さて、中世ヨーロッパで、聖地エルサレムをイスラム教徒より奪回すべく勇敢に戦った十字軍であるが、彼らにとってもっとも恐ろしかったのは、イスラム教徒ではなく、"酒"だったらしい。「え~い、こんなものがあるから士気が乱れるのだ。この悪魔の酒め!」と一六〇〇年、ドイツのヘッセで、軍に禁酒令を発令した。しかし、その中身には思わず笑ってしまう。
・どんなときにも、一度に七杯以上は飲まないこと
・一日に二度以上は飲まないこと
これのどこが禁酒令なんだ?よっぽど酒好きが多かったのか、決意したはいいが規約をつくるときに弱気になったか、きつく禁じても守れるわけがないと開き直ったか。何とも腰くだけの十字軍である。(「退屈知らずの酒読本」 話題の達人倶楽部編)
アンタブスを飲んだと同じ状態
アンタブスという酒が嫌いになる薬の実験者の話が週刊朝日に収録されていたが、効果テキメンというわけにはいかないらしい。すべて中毒というものは、当人に治そうとする意志がないとダメだということは、私自身が経験からそう感じているところであるが、アンタブスは服薬を中止すると又飲めるようになるらしいから、結局薬なしでも禁酒の意志を蔵している人だけが禁酒できるのではなかろうか。しかし、私はアンタブスの実験例から意外なことを知った。私は酒が嫌いになる薬など飲んだことはないが、二十年前から、時々アンタブスを飲んだと同じ状態を経験しているのである。だいたい私は酒の味が好きな人間ではない。若い頃は、先輩友人とのツキアイで酔うためにのんだ。というのはあのころ文学者は酔っ払ってカラムのが好きで、あいにく私の飲み仲間はその術の達人ぞろいであった。牧野信一は酔うと意地わるになるし、小林秀雄、河上徹太郎はカラミの大家。中原中也のように酒がないと生気のないのもいるし、私はツキアイにムリに酔う必要があったが、実は当時から今もって酒の味は大キライだ。今では、もっぱら、眠るため、時々はバカになりたいために、イヤな味を我慢に我慢して飲むのである。飲んでいるうちに、不味がいくらか忘れられる時は、胃袋の調子がよろしい時だ。時々一滴ものめなくなる。五勺ものまぬうちに、胸につきあげるような不快を覚え、完全に一滴ものめなくなるのだ。そういう時には、真ッ赤になるのである。ふだんは、酔えば酔うほど青くなる。けっして赤くなはらない。私が赤くなるのは一滴ものめなくてムカムカ吐き気に苦しみだした時なのだが、人はそうとは知らないから、オヤ、今日は大層なゴキゲンですね。まだいくらも飲まないのに、などと言われる。酔うどころか、一滴ものめなくて、吐きそうなんだ、酒を見ただけで堪えられないのだと説明しても、誰も本当にしてくれないのが当然であろう。真ッ赤になって一滴ものめなくなり、酒を見るだけで吐き気がつきあげてくる、という状態が、アンタブスを服用後酒をのんだ時の状態なのである。(「人生三つの愉しみ」 坂口安吾)
杓(しゃく)
杓は水・湯・もろみなどを汲むための柄の付いた容器で、用途により種々の名称が付いている.いずれも杉材製であったが、最近はアルミニウムなどの金属製のものも使用されている.
柄杓(えじゃく) 1升杓ともいい、2ℓ程度を汲む杓である。
釜杓(かまじゃく) 釜から湯を汲み出す時に用いる.柄の長さは2mに及ぶ.
汲杓(くみじゃく) もろみの汲出し、垂壺の汲出し、酛(もと)分けなど、用途別に専用するが、総括して汲杓という.上槽の際、もろみを狐桶(おけ)に汲入れる杓は小汲杓(こぐみじゃく)(俗に三味線(しゃみせん))と呼ばれている.-
へぎ杓(じゃく) 檜(ひのき)の薄板をまげて作った杓をいう.
湯当杓(ゆあてじゃく) 3~4ℓの熱湯を汲み、殺菌・洗浄の目的で容器に湯をかける杓である.(「灘の酒用語集」 灘酒研究会)
グラント将軍
何かあれば全て酒のせいにされた。馬が転倒しただけでも、「グラントが酔っていたからだ」などと難癖をつけられる始末。なんだか可哀想な気もするが、グラントは全く泥酔していないかというと、泥酔していたこともあるのだから自業自得な面もある。例えば、戦いが長期戦になると、テントの中でグビグビとウイスキーを飲んでいた。「たまにはそういうこともあるでしょ」と擁護したくなるが、部下には樽を決して空にしないように命じていたというから、酒との臨戦状態も万全だ。川に視察に行けば、短時間で船のバールームに何度も足を運び、気付けば、話し方がバカになり、歩き方がよろめくこともあった。視察に来たのか飲みに来たのかわからない。こうした事実に尾ひれがつき、当時の大統領であるリンカーンのもとには虚実まざりあったグラントの酒にまつわる話がいくつも届く。だが、グラントは勝利のためには自軍の被害をいとわず突き進み、「屠殺人」と批判を浴びながらも結果を残し続けた。リンカーンは噂を気にせず、グラントの姿勢を高く評価し、最終的には最高司令官に引き上げる。(「政治家の酒癖」 栗下直也) アメリカの南北戦争です。
「聲」雑記
その場所の一つに、始る前に行くのに恰好なのが丸善ビルの地下室にある「ピーコック」といふ西洋料理屋だつた。この料理屋の隅にバアがあつて、バアで飲ませるものならば大概何でもある。所が、いつも無理をして出掛けて来るので、三時に編輯会議が始る決りなのでそこまで五分か、せいぜい十二、三分しかないから、ウイスキイでも頼んで手つ取り早く片付ける他なかつた。併しさういふ條件のせゐか、その時飲むものが如何にも旨かつた。ウイスキイならば、急いでゐるからストレエトでがぶ飲みにする。夏の暑い盛りは、氷を砕いた上にバアボンをぶつ掛けて貰つた。これにほんの僅かばかりの水を足すとバアボン特有の芳香を放つて、がぶ飲みするだけで口の中が爽やかになる。それを急いで空けて、二分でも余計に時間があればもう一杯、又急いで空けてエレヴェエタアで五階に行つて皆が集つてゐる部屋に駈け付るから、いい具合に廻つて、いつも編輯の仕事に当るのに適した状態で部屋へ入つて行けた。酔つてはゐないし、それでしらふでもないのである。-
読んで古酒のやうな味がして、後まで程よくほとぼりは冷めずにゐるといふ風な作品は、この頃はそれを書く人間が稀になつたのか、それには原稿料が安過ぎるのか、これ見よがしに載せた小説はつひになかつた。泰平の世に馴れて、腕が鈍つてしまつたといふこともあるのかも知れない。会議が終ると、大概は丸善裏の「奥むら」といふ飲み屋に行つた。(「「聲」雑記」 吉田健一)
聲は丸善が出版した雑誌です。
悦楽の時節(とき)
プロディケよ、さ、ともに浴(ゆあ)みを、
挿頭(かざし)もて頭(こうべ)を飾ろうよ。
そして大きな杯(さかずき)を手に取って
生(き)の酒を存分に呷(あお)ろうよ。
人生(ひとのよ)の悦楽の時節(とき)は短いのだ、
やがて老齢(おい)がやってくりゃ
その日々にゃこんなことも叶うまい。
して行きつく先は死なのだから。
作者ルフィノスは紀元二世紀から五世紀の間の人と見られるが、詳しいことは不明である。かなりきわどいエロティックな恋愛詩の作者として知られるだけに、その勧酒詩もまた恋と絡み合った気分を湛えている。これが漢土の飲酒詩などとは異なるところだ。(「讚酒詩話 『ギリシア詞華集』における飲酒詩」 沓掛良彦)
道中昼飲み
大雨にたたられた道中、なかなか好きな食べ物も口にすることが出来ません。しかし、十九日の休憩に太田で玉子を肴に酒を飲み、(二十八文)、その後、二軒茶屋ではうなぎ三串と酒一合を楽しんでいます。日記を見る限り、食事だけでなくちょっとした休みにも酒を飲むことが多いようです。つまみに玉子というのはゆで玉子のことでしょう。玉子は伴四郎の好物のようで、翌二十日も食べ、二十一日には玉子で酒を楽しんでいます(五十四文)。-
また途中で、れんこんの油揚げを肴に味醂酒を一盃飲んでいます。味醂酒は『太閤記』にもミリンチュウ(味醂酎)と記される南蛮渡来の酒で、焼酎に蒸した餅米を混ぜ、麹を加えて作った酒です。伴四郎は道中昼間でも酒を飲んでいますが、旅にさわりはなかったのでしょうか、人ごとながら心配になります。しかし心配は御無用、翌日にはきゅうりもみで焼酎を飲んでいます。日記に「火降ることく暑気強し」とわざわざ記すくらいですから、相当の暑さで、暑気払いのつもりだったのかもしれません。その後も二十七日にはうどんと生節で一杯、二十八日にはそうめんで酒一合を飲んでいますが、ともに午前中のことのようです。(「下級武士の食日記」 青木直己) 和歌山藩25石取りの酒井伴四郎が、江戸へ単身赴任する時の旅日記です。
酒盛り唄(2)
「じんのめ」
〽ハアこの家座敷は花なら蕾
廻す度ごとさけさけと
キタサッサヨイヤサ
〽目出度めでたが度かさなりて
今度めでたで七めでた(新利根村下太田)(「茨城県の民謡」 河野弘)
ごさい 御幸 御菜
口に戸を立てぬと御菜つとまらず 五14
【語釈】○ごさい=御殿女中の買物などを代行したり、外出時に随行する役目の雇人。
【鑑賞】江戸城中の長局(ながつぼね)で男禁制の生活をする女たちには、いろいろと秘密が多い。人の口に戸は立てられぬという言葉があるが、御幸は秘密を守らないと勤まらない職業である。
【類句 生酔になられて御幸もてあまし 明四義2(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)】
アルコールの毒性
高校三年生で、就職試験の健康診断で、肝臓障害が指摘されて就職がだめになった生徒がいました。彼はかなり頻繁の飲酒、それもバイト仲間と居酒屋で飲酒をしていました。彼は肝機能検査では、γ-GTPが一〇〇単位以上あり、アルコール性脂肪肝の特徴を示していました。彼は青くなって養護の先生の所に相談にいき、それがお酒のせいであることをやっと理解したのです。まだ成長期にある子どもにおいては、飲酒が成長に悪影響を与えることは確かです。動物実験では、マウスにアルコールを飲ませると成長障害が発生することは確かめられています。大人のアルコール依存症において、男性のインポテンツと女性の生理不順はよく知られています。アルコールによる男性のインポテンツは、睾丸における男性ホルモンの合成能や、精子の形成能をアルコールが阻害するためと考えられています。女性の生理不順は、アルコールが卵巣の働きを阻害する作用があるからです。未成年の時代はまだ生殖器の働きが未完成なので、アルコールの毒性は強く出ると考えられます。
農民の晩酌
やがて、独り飲みや家飲みは、夕食時に酒を愉しむ晩酌に発展し、江戸時代の中期には、晩酌の習慣が農民の間にも広まった。八代将軍吉宗の治政が始まる直前の正徳五年(一七一五)夏に、近松門左衛門の『持統天皇歌軍法』が大坂竹本座で上演された。ここには飛鳥の里の農村を舞台にした場面が出てくるが、農民の間でこんな会話が交わされている。
「飛鳥(あすか)の里も賑(にぎは)ふ麦(むぎ)秋の。麦つき歌の嬶揃(かゝぞろ)へ、皆麦藁(わら)に腰掛けて、煙管(きせる)くはえて休みけり。「なふ/\おつう。そなたもやがて六十じや。早ふ市馬(いちま)に嫁とつてなぜ楽(らく)をしやらぬぞ」「ムゝおちやゝの言やる事はいの。是ほどにあがいても麦一粒(つぶ)身につかぬ。皆姑御(しうとめご)の寝酒(ねざけ)に請(うけ)酒屋(小売り酒屋)へぐはら/\。聞てたも毎晩(まいばん)五斗味噌肴(みそさかな)に天目酒。其跡へ打入(うちいれ)飯六よそいづゝ。珍しいお腹(なか)でないか。あんな堅(かた)ひかみ様姑(しうとめ)に儲(もふ)けたは。人犠(ひとみごく)の鬮(くじ)取に当(あたつ)たも同前」」(「晩酌の誕生」 飯野亮一)
山形県西村山郡溝延村
70酒盛の後でさらにアト祝イとかウチ祝イというようなことがありますか。それを何といいますか。残りものはどうしますか。
酒盛りの後、帰宅の挨拶をしてから一度にやに立ち、大きなお椀に酒を注ぎ、それをみんなに飲ませる習いがある。祝儀の時のみである。(「日本の食文化」 成城大学民俗学研究所編) 山形県西村山郡谷地町沢畑
南海先生
近頃京都大学の桑原武夫教授から、近著の中江兆民『三酔人経綸問答』の註釈をいただきました。この書は、中江兆民の著述のうちでも、その思想や抱負をうかがうのに一番よいものだということですが、その書き出しが、いかにも酒の作用を巧みに述べてあるので、ついつり込まれてしまいました。本文はむずかしい漢文調ですが、幸い桑原教授の名釈によりますと、、
南海先生は生まれつき酒が大好き、また政治を論じることが大好きである。酒を飲むとなると、わずか一、二本のときは気持ちよく酔っぱらい、気分もふうわりと、宇宙をとびまわるようで、見るもの聞くもの楽しくて、この世に憂いなどというものがあろうとは、つゆ思われない。さらに二、三本のむと、精神がにわかにたかぶり、思想がしきりにわきおこり、身は小部屋のなかにおりながら、眼は全世界を見通し、一瞬間に千年前にさかのぼり、千年後にまたがり、世界の進路を示し、社会の方針を教え、思うには、自分こそ人類の社会生活の指南車である(中略)さらにもう二、三本のむと、耳は鳴り、眼はくらみ、腕をふりまわし、足をふみならし、興奮また興奮、あげくのはてはひっくりかえって前後不覚、二、三時間眠ったあと、酔いがさめて正気にかえってみると、酔っぱらっていったこと、したことは、けろりと忘れて、まるでキツネつきが落ちたようなぐあいである。
いかにも、酒好きな人でなければ書けない文章です。(「酔話の魔力」 坂口謹一郎)
酒を渡ってくる風を飲む
永 -「普通におちょこで飲むんです」といったら「それだからいけないんだ。酒の飲み方というのは、酒呑童子や弁慶が飲むように、できるだけ大きな杯にお酒を冷やでひたひたと、薄くていいからついで、それを飲む。お酒を飲むと思わないでお酒を渡ってくる風を飲め。そうすればおいしい」と(宮崎康平が)言うんです。
《黒田節がそうじゃないですか》
永 そうそう。そうなんです。どういうことかなあと思ったんですが、後で考えると、芝居なんかではみんなお酒飲んでフウーとやるでしょう。あれなんですよね。それからはね、よそへ行くと、どんぶりのふたでも何でもいいから、でっかいものを出してくださいと言うんですよ。そこへお酒をついで、それでお酒というよりもお酒を渡ってくる風を飲みながら-どこの空気も同じようなものかもしれないけれども、ああこの土地に来たんだ、この土地の酒なんだなあと思うんですよ。いいものですね、お酒って。
《つまり、風土というものなんですね》
永 そうだと思う。酒を渡ってくる風を飲むというのが、何かぼくにはすばらしいことに思えるんですよ。(「一泊二食三千円」 永六輔) 酒を飲みに行く旅
足利義満
最近改修の終わった「金閣寺」は、連日観光客でごった返しているが、その「金閣寺」をつくりあげたことで有名な室町幕府三代将軍足利義満は、武家あがりにしては貴族趣味のもちぬしとしてつとに有名、かつ稀代の酒飲みでもあった。なにしろ一三歳にして酒宴に出席、ひどい酔い方をして、当時の執事だった細川頼之に、満座のなかでこっぴどくとがめられた、というのだから、素質は十分だったといってよい。義満二一歳の正月七日には、宮中に参内して徹夜で天皇や公家たちと酒をくみかわした、と記録されている。夜などは、とくに後円融(ごえんゆう)天皇みずからの酌を受けるなど、親しいつきあい方をしている。義満が、公家的な雰囲気にあこがれた原因として、こうした連日連夜にわたる上流階級との酒盛りがあげられよう。もともとガサツな武門の出のくせに、義満は酒席の作法についても、しだいに公家社会の礼儀作法を好んでまねるようになった。もっとも、のちにそうした貴族趣味のキワミとして、あの優美な「金閣寺」建設に着手したのだから、文化財的には、お手柄お手柄とあいなるが。(「酒
無用の雑学知識」 酔人倶楽部編)
週休2日制
(ソ連)1967年3月 週5日労働制の導入を年内に行うと発表。
ジョーク116
「週2日休みになったら、どうする?」
「決まってるよ、1日目はウォッカを朝から晩まで飲みまくるよ」
「2日目は?」
「2日酔いで1日中寝てるだろうな」(「ジョーク「ロシア革命史」」 歴史探検隊)
茶店
京都の南の入り口にある東寺の門前にあった一服一銭の茶売りは、東寺に対して「南大門前一服一銭茶売人条々」という請文(証文)を出している。応永十年(1403)のことである。かれらは、はじめ南河縁の地で営業を許されていたのであるが、しだいにもとの場所を離れて、人の往来のはげしい東寺門前の石段の下で商売をしはじめた。このように茶店は、とくに神社や寺院の門前で繁盛した。東寺のほかにも祇園、北野、西院地蔵のあたりなどがある。西の京西院地蔵のあたりには、茶屋が十軒、二十軒と軒を連ねていたといわれる。これら参詣客相手の茶屋に、そのうち"茶汲女""茶立女"が現われ、 京の茶屋の門口に 赤前垂(まいだれ)に繻子(しゆす)の帯 ちと寄らんせ 入いらんせ と呼びかける。 縄手 石がけ ぽんと町 見おろす川の水茶屋は にくや負けじと着飾りて しょうぎのはしに腰をかけ 茶碗とる手に顔見れば… と、サービスは茶だけでは済まなくなる。酒も出れば夜も長びくようになり、"茶立女"は売春婦の異名となり、はては"蛍(ほたる)茶屋"と呼ばれる夜間専門の茶店まで現れるようになった。(「京都故事物語」 奈良本辰也編)
過酒家 ゐざかやに入る 王績
其の三-
酒ニ対(むか)ヘバ但ダ飲ムヲ知リ 酒の向へば但だ飲むことを知り
人ニ逢ウテ強牽スル莫(な)シ。 人に逢うて無理に強いない。
壚(ロ)ニ倚レバ便チ睡ルヲ得 壚に倚(もた)れると居眠り出来るし
甕ヲ横タフレバ眠ルニ堪フルニ足ル。 甕(かめ)を横にすれば眠られる。
○壚 「史記」及び「漢書」の司馬相如伝に、相如が愛人卓文君と酒店を営み、「文君ヲシテ鑪ニ当ラ令(し)ム」と有る。此の「鑪」(史記)に関して諸家の註を要約して見るに、其れは酒を売る処で、土を累ねて四辺を高く盧の如くし、上に酒甕を置くのである。之を以て酒を温める爐と為すは俗説であると。此に謂ふ所も恐らく火の気の無い壚であらう。火が有れば之に倚りかかつて睡ることは危険である。ところが晩唐の皮日休の「酒中十詠」の中の「酒壚」には「火」有り「灰」有り、鐺の有ることを詠じてゐる。(「中華飲酒詩選」 青木正児)
結語
日本の居酒屋というのは立派な文化である。確かに、能や歌舞伎や文楽(ぶんらく)あるいは漫画やアニメやJ-POPなどのように、作品および表現を鑑賞する文化とは違う。特定の街の、特定の店を占める人たちが、時間の経過と共に築き上げてきた文化である。一軒一軒の赤提灯には、その店特有の文化があるのと同時に、それぞれの店の集合体が「日本の居酒屋文化」を形成しているわけである。そう考えると、地元の住民であろうと、はるばるほかの都道府県(または外国)から足を運んできた人であろうと、初めての赤提灯に入る以上、程度の差はあるものの、<異文化>の領域に身を浸すことになると言えよう。しかも、既成の映像や音源や出版物と違い、その場所に一人ひとりが身をおくことで、店独自の文化に新たな影響をおよぼすことになるから、居酒屋というのはまさに生きている文化だと言える。生きている文化は常に変化を遂げている。惜しくも閉店する老舗もあれば、将来すばらしい老舗に育つ新店もあろう。日本の居酒屋文化を慕うひとりとして、現在残っている老舗の名店も、無名に近い地元の赤提灯も、若い店主が開業したばかりの新店も、訪れ続けながら大切にしていきたい。この貴重な文化の行方は、我々一人ひとりに委ねられているのである。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)
オーストラリアで造る「豪酒」(2)
このオーストラリア米のルーツは、日本人が行って作ったことで知られています。明治三八年(一九〇五年)に四国・松山の篤農家、高須賀穣さん(一八六五~一九四〇)という方が、日本の米種子を持ち込み、稲作を開始したのです。普通、海外のお米と言うと、細長い米が圧倒的に多いんです。しかし、その時に栽培された米はジャポニカ種という短粒米です。それが向こうで作られた最初だと言われています。皆さん方は、十年前のあの食糧危機というか、米の不作のため日本でお米が足りなくなった時のことを覚えていますか?その時に、日本人が食べられる米と言われた二つが、カリフォルニア米とこのオーストラリア米でした。そういうお米を使って、お酒造りをしています。(「トップが語る現代経営」 小西酒造株式会社代表取締役社長・小西新太郎) 平成19年の出版です。 オーストラリアで造る「豪酒」
茶碗をぶっつけあって
露店の顧客を主とするのが、民主主義である。世界にみなぎる民主主義の怒濤、それを防止しようとした日本の軍国主義の堤は崩壊した。いざこざの相手は、その軍国主義的なヤクザ道を守ろうとし、民主主義の怒濤を、庭場だけでも、手の掌で防止しようとする人たちであるらしい話の様子である。ここにきた人たちは、その愚をせずに、怒濤に乗って逆らわず、当時の政策に協力しようというのであったが、その指導者が芝山氏であった。むかし士魂商才という言葉が流行したことがあるが、この言葉を逆用すれば、ヤクザ魂商才とでもいえる。屏風と商人は、曲がらなければ立たないという言葉もあったが、そのヤクザ道を曲げて立つのが協力である。協力とは妥協であり、利害相反する者が妥協して、自らを存在させるのである。ヤクザの妥協の相手は、いつの世でも具体的には警察であって、妥協しなければ滅亡があったのである。この妥協を「協力」と、この人たちは呼んでいる。近くは尾津が非妥協で滅びた。このいざこざの話のなかに「茶碗をぶっつけあって」という言葉が、しばしば使われた。「茶碗をぶっつけあって」は、「和解の酒の盃を交して」の意味である。「喧嘩の和解ですか」「いや和解ではありません、親睦です」このように芝山氏は答えて、喧嘩の和解はない、親睦だと否定した。集団的暴力行為のヤクザの喧嘩は、いまは致命的な事件となることを知っての否定ではあるまいかと推定した。いずれにしても、和解という言葉は、現在では使ってならない禁句になっているほどに、この社会も神経質になっている。(「浅草てき屋親分訪問記-芝山親分の半生-」 田村栄太郎)
当て字
近ごろの傑作をいくつか列挙してみましょう。「寝繰着(ネグリジエ)」、「満層荘(マンシヨン)」、「意明示(イメージ)」、「憂慰酔喜(ウイスキー)」、「軽ハズミ、してみたい。僕たちの軽験(けいけん)」(カティーサークのコピー)、「筆需品」(パーカーほか六社の合同広告)、「肺見。パシャリ」(財団法人結核予防会)、「珍豚美人(ちんとんしやん)」(酒場名)。どれもよくできていますが、すこしこじつけがすぎるかもしれません。(「井上ひさしの日本語相談」 井上ひさし)
酒場の精神分析にご用心
札幌の公務員Aさん(四五)は、俳優の故・中村伸郎を若くして太らせたような容貌(ようぼう)で、金縁の眼鏡がよく似合う。同僚たちも飲みにいった先でAさんを「先生」と呼び、本人もこう呼ばれるのが気にいっている。十月、Aさんは同僚とススキノに繰り出した。この日は冷え込んだうえに雨も降っていたためか、二軒目のスナックには二十代らしい銀縁メガネの女性が一人いるきりだった。同僚がいつものようにAさんを先生と呼ぶと、店のママが、「あら、こちらお医者さま、雰囲気からいって精神科医、そうでしょ」と決めつけ、Aさんも、「あっ、バレちゃったか」と、精神科医になりきってしまった。その勢いでAさんは、銀縁メガネの女性に近づいた。「さあ、心を全部開いてごらん。先生が精神分析してあげるからね」女性は悩みを打ち明けなかったが、Aさんは学生時代にかじったうろ覚えの知識を一方的にとうとうと披露(ひろう)するのだった。それから数週間たった十一月半ば、Aさんは職場で精神衛生の研修に参加した。講師の女性をぼんやり眺(なが)めていたらあの銀縁の女性だと気づいた。講師はAさんに気がついていないようだったが、「一時期はやった精神分析は大変困難な治療法で、現在ではほとんど使われていません。でも、ススキノにはときどきあやしい精神分析医が出没しますね」と、しっかりあの夜のことを覚えていた。Aさんは公務員の信用失墜を招くことを恐れ、休憩時間に会場から姿を消した。(「デキゴトロジー」 週刊朝日風俗リサーチ特別局編著)
底のないさかずき
堂𧮾公(どうけいこう)が昭侯にいった。「ここに千金の玉杯があって、下が抜けて底がなければ、水を入れることができましょうか?」「それはだめだ」「それでは瓦器で漏れぬものがあれば、酒を入れることができましょうか?」「大丈夫だ」堂𧮾公はいった。「瓦器はつまらぬものですが、漏れなければ酒を入れることができます。千金の玉杯は、いくら高価でも底がなくて漏れるものなら、水を入れるわけには参らず、ましてそれにのみものを注ぐものはおりません。人の君として臣下のことばを漏らすのは、底のない玉杯のようなものであります。聖知のものがありましても、だれもその知をつくしません。君が漏らすからであります」「なるほど」昭侯は堂𧮾公のことばをきいてからは、天下の大事を行おうとするときには、夜は必ずひとりで寝た。ねごとをいって女たちに謀りごとをきかれるのを恐れたためである。(外儲説右上)(「古代寓話文学集 韓非子篇」 高田淳訳)
最近登場した酵母
(吟醸酵母)
| 名称 | 開発した県・機関 | 特徴 |
| きょうかい86号 | 日本醸造協会 | 高カプロン酸エチル |
| まほろば酵母 | 青森 | リンゴのような爽やかな香気 |
| T-1 | 栃木 | 9号系 |
| M310 | 茨城・明利酒類 | 東日本の酒蔵を中心に頒布 |
| YS-44 | 茨城 | |
| G-1 S-3 | 新潟 | |
| うららの酵母 | 福井 | 酸少なくやや甘めの酒質 |
| 三重酵母 | 三重 | |
| 岐阜G酵母 | 岐阜 | |
| 梨酵母 | 鳥取 | 20世紀梨より抽出 |
| 徳島酵母 | 徳島 | アルプス系 |
| EK-1 | 愛媛 | フルーティーな香り |
| CEL-24 | 高知 | カプロン酸生成量が非常に多い |
(吟醸酵母以外)
| AK-3F | 秋田 | 純米酒向き |
| AK-4 | 秋田 | 低アルコール酒向き通称 ”秋田流雅(みやび)酵母” |
| KKK-S KKK-9 | 滋賀 |
(「日本酒のテキスト」 松崎晴雄)
路傍
まず瓶ビールをもらって喉を潤したあと、「千福」の樽酒(八〇〇円)です。この店に来たら、この樽酒を飲まなければ始まらない。この樽酒は、樽の香りがほのかに漂う上品なもので、すいすいと、とても飲みやすいのです。料理のほうは、お通しのキンピラに続いて、生揚げを焼いてもらいます。となりのおにいさんは、囲炉裏で餅を焼いてもらっています。みんなと話をしながら、時どきちょいちょいと餅をひっくり返す店主。目の前でプクゥーッとふくらんでいく餅が、おいしそうです。J字カウンターの頂点のところのお客さんは、ウルメイワシです。これも囲炉裏の上に金網をのせて、さっと炙ってできあがります。こうやって、目の前でつまみができあがっていく様子が見えるのがいいですねぇ。樽酒をおかわりし、野菜皿の中にある食用菊を注文します。「さっと茹でて、わさび醤油で食べるのもおいしいのよ」という、おかみさんのおすすめに従って、その食べ方を試してみると、これがまたシャキシャキとした、菊(もってのほか)の食感によく合うこと。赤紫の色合いもいいですねぇ。ワイワイと二時間半の樽酒タイムは、三六〇〇円でした。どうもごちそうさま。《平成一九(二〇〇七)年一〇月一二日(金)の記録》(「ひとり呑み」 浜田信郎) 中野区中野5-55-17
茶節
ということで、芋焼酎の本場である鹿児島県枕崎市に古くから伝わる、二日酔い対策の飲み物「茶節」をご紹介しよう。茶節とは、茶碗に味噌と削った鰹節を入れ、それをお茶で溶いたもの。いうなれば、味噌汁のお茶漬け(?)のようなものだ。茶節は、決して二日酔いの人専用の飲み物ではなく、体も温まるし鰹の栄養分を無駄なく摂れるということで、カゼをひいたときなどに、この地方では一般的に飲まれているものなのだそう。だが、よくよくその中身を考えてみると、本当に二日酔い専用といってもいいくらいに、効きそうな成分がぎっしりと詰まっているのだ。まず味噌だ。味噌の原料である大豆は、「畑の肉」と呼ばれるほど栄養が豊富なことは有名だが、中でも大豆たんぱくには、肝機能を改善するパワーがある。そして、大豆を発酵させて味噌煮する段階で、そのパワーは一層向上する。また、大豆本来の栄養分に加え、味噌には乳酸菌が含まれており、その整腸効果も期待できる。つまり、味噌だけでも充分に、肝機能を向上させ、荒れた腸を改善する能力があるというわけだ。次にお茶はどうだろう。お茶に含まれるカフェインは、血行をよくして新陳代謝の機能を高めてくれる。カテキンには、酒の飲みすぎで荒れた胃の粘膜を保護する機能がある。そういわれてみれば確かに、二日酔いでボンヤリした頭をシャキっとさせるためにお茶を飲むという人も結構多い。ということで、お茶も○。そして最後に鰹節。一般的に鰹節は「ダシをとるためのもの」と思われがちだが、鰹そのものが栄養に富んだ魚なのだから、それから作られた鰹節も同じように、食べればもちろん栄養満点。血を作る作用のある鉄分、パワーの源である亜鉛、アルコール分解を促進するのに役立つビタミンB、さらに、アタマがよくなる成分として話題のDHPなどなど、実は鰹節は、海の栄養庫といってもいいくらいに、さまざまな要素を含んだ食品だったのだ。この中でも、特に二日酔い解消に役立つのがビタミンB。ビタミンBは、アルコールを分解する酵素の働きを高めてくれるので、その結果、体内に残っているアルコール分解が促進されるというわけだ。(「二日酔いの特効薬のウソ、ホント。」 中山健児監修)
笑い上戸
好きだけれども、そう強いほうではないから、お酒の失敗というのも、あまりないが、それでも、三回ばかり、とんまなことをやっている。 第一は、宝塚歌劇で自分の芝居を上演したとき、終演後に出演者と座談会をすることになって、或(あ)る料亭に出かけた。メイクを早く落とした人から、次々にやって来て、その頃の宝塚の生徒さんはみんなお酒が強かった。一緒に飲んでいる中に、一人、あいたお銚子をぽんぽん横にする癖のある人がいて、ぼんやりみていたら、その数が十本以上になったと思ったとたん、部屋がぐるぐる廻り出して、最後まで舞台に出ていた春日野八千代さんがかけつけて来て、さあ、座談会をはじめましょうという時には、完全に出来上がっていたらしい。頭は冴えているつもりなのに、なにか発言しようとすると、言葉の代りに笑い声が出てくる。私は笑い上戸なんだと気がついたが、なにをいってもげらげら笑っているのでは座談会にならず、結局、御飯を食べてホテルへ帰って寝てしまった。翌日、改めてもう一回、座談会のやり直しをして、出演者からは二度も御馳走が食べられて、よかった、となぐさめてもらった。(「失敗は三回」 平岩弓枝)
古田さん
でも古田(晃)さんが魅力的なのは、かっこいいだけではなかったところ。はた迷惑な、ぐだぐだのずぶずぶの酒飲みだった。惚れ込んだ作家を全力で守ったおかげで会社は傾いた。社員の給料遅配。金融業者からの借金。手形不渡りの危機。古田さんは毎日金策に走り回り、ヘトヘトになり、苦悶を酒で紛らわせた。一九五〇年代前半の古田さんは、(草野)心平さんが學校以前にやっていた居酒屋「火の車」で、ひたすら苦しみをぶつけるような乱暴な飲み方をした。激しさでは負けていない心平さんが受けて立ち、しかしときには受けとめ切れず、古田さんは暴走した。火の車を手伝っていた橋本千代吉さんが書いた『火の車板前帖』には店の迷惑も顧みず、夜討ち朝駆けで飲みに来る古田さんの姿が描かれている。
「ドン! ドン! ドン! ドン! ドン! ドン!」寝入りばなの夜明けを、先刻から山鹿流陣太鼓よろしく間合きめて表戸を叩くのは、言わずと知れた古井さんである。(中略)もう、ダメだ、と私は観念する。とてもこの人の侵入をふせぐことはできない。この人はさむらいなのである。おそらく少しく顔をかしげ、眼鏡の奥は朦朧(もうろう)、口は堅く結び、姿勢を崩さず、泰然と叩いているのであろう。(中略)ズボンをはくのももどかしく飛び出してゆく。「おい! 酒ッ」「心平、いるか」「おい心平、起きろ」たまったものではない。正に大颱風襲来である。(橋本千代吉著『火の車板前帖』)(「酒場學校の日々」 金井真紀)
どうせいつ死ぬか知れぬ命だ。何でも命あるうちにして置く事だ。
<出典>近代、夏目漱石(なつめそうせき)(名は金之助(きんのすけ) 一八六七-一九一六)『吾輩(わがはい)は猫(ねこ)である』。
<解説>漱石の出世作『吾輩は猫である』は、一九〇五年一月から高浜虚子のすすめで「ホトトギス」に連載された。冒頭の「吾輩は猫である。名前はまだない」は、あまりにも有名だ。中学教師の苦沙弥(くしゃみ)先生の書斎に集まる迷亭(めいてい)、寒月(かんげつ)ら書生たちの生態を猫の目から見て、諧謔(かいぎゃく)と諷刺で描いた。漱石は東京帝国大学英文科卒、ロンドン留学から一九〇三年、帰国した。生涯、胃弱と強度の神経症で苦しんだ。だから、酒は弱い。この小説の中で漱石は、「他人なら酒の上で云(い)うべき事を、正気で云って居るところが頗(すこぶ)る奇観である。尤(もっと)も今夜に限って酒を無闇(むやみ)にのむ。平生なら猪口(ちょこ)二杯ときめて居るのを、もう四杯飲んだ。二杯でも随分赤くなる所を倍飲んだのだから顔が焼火箸(やけひばし)の様にほてって、さも苦しそうだ」と猫に語らせている。細君が「もう御よしになったら、いいでしょう」と止めると、「なに苦しくっても是(こ)れから少し稽古(けいこ)するんだ。大町桂月(おおまちけいげつ)が飲めと云った」と書いている。これは桂月が雑誌「太陽」で漱石を評して、「もっと陽気になれ」と言ったのを受けている。見出しの言葉は、『吾輩は猫である』の最終部分の猫の言葉。猫がビールを飲み陽気に酔って、「主人など糞(くそ)食らえ」。調子に乗って水甕(みずがめ)に転落し、もがくのも馬鹿らしいと抵抗しない。「太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏。有難(ありがた)い有難い」と不気味に結んでいる。(「食の名言辞典」 平野雅章・田中静一・服部幸應・森谷尅久編集)
三月三日 四方赤良
90盃を一さすが二女の節句とて三もゝのあたりに四手まづさえぎる
一 「盃をさす}-「さすが」。 二 桃の節句。 三 「股」-「桃」。 四 「石に礙(さは)つて遅く来れば心窃かに待つ、流れに牽かれて遄(はや)く過ぐれば手先ず遮る」(和漢朗詠集・三月三日・菅原雅規)に拠る。三月三日の曲水宴で、流れに浮かぶ盃を手でさえぎって詩を作り上げるの意。 ▽ 女同士、白酒を汲みあって桃の節句を祝うが、さすが女だけあって前の乱れを気にしながら盃を断ろうとする。
一婆阿(ばばあ)
207濁(にご)りなく澄(す)みわたるたる月のよにせめて飲(の)みほす二どびろくもがな
一 婆阿上人 通称桑名屋与左衛門。号錦江、後チ剃髪して道甫と号す。牛込原町の薬種商なりしと云ふ。 二 どぶろく ▽ 濁りなく澄み切った月のように清らかな夜(世)だが、せめて一つくらいは濁ったどぶろくがほしい、の意。
九月九日 一卯雲(ぼううん)
229けふばかり下戸に異見の二きくの酒三しら露ばかり飲(の)めや歌(うた)へや
一 木室卯雲 幕臣。名は朝涛(ともなみ)。明和五年(一七六八)没、七十歳。宝暦頃から江戸座の俳人として知られ、狂歌の作も多く、南畝は狂歌の先輩として敬している。明和末年以来の江戸小話本の先頭を切った作者としても有名。 二 「異見の効く」-「菊の酒」。重陽に飲む菊酒は息災延命に効くといわれるので、今日ばかりは上戸は下戸に飲酒するよう異見を言うことができる。 三 菊に置く白露ほど少々、の意。 ▽ 下戸ゆえ少しばかりでも飲めや歌えやの様子となる。(「狂歌才蔵集」 中野三敏校注)
おとゝ
衣裳(いしよう)をべゝといふは、美々(びび)の義歟。へとひと通ず。魚をとゝといふは、いかなる義ぞや。鳥をとゝといふは、とりのとをかさねたるなり。犬をわん/\、猫をにやあ/\とてをしゆるは、その鳴音(なくおと)をいふのみ。餅(もちひ)をあんもといふは、餡餅(あんもちひ)を下略せり。酒をおとゝといふは、酌(しやく)を辞(じ)する言葉をとれり。(「燕石雑志」 曲亭馬琴) 江戸時代にも、酒を「おとと」といったようです。
バブル崩壊以後
一九六〇年以降高度成長期より一貫して増加してきた国民の飲酒量がはじめて上げ止まりに入っているのだ。昭和六十三年といえば時あたかもバブル経済の最盛期である。その後のバブル崩壊、それに続く経済の低成長、長びく不況と共にアルコールの消費量も減ってきているのだ。見方によっては、平成に入ってからの東京都を始めとするアルコール専門病棟の設置などの、諸対策の効果が出てきたとも考えられようが、私はむしろわが国の経済動向と関連しているのではないかと思う。アルコールという薬物がモーレツ社員、企業戦士といった言葉で形容されたサラリーマンの、日々走り続けるガソリンのようにして消費されたのではないかと。このような減少、上げ止まりは勿論望ましいことには違いない。しかしそのデータをよくみつめてみると二つの危惧を抱かせられるのだ。まず一つは、低成長、不況、リストラなどで行き場を失い家族回帰したサラリーマンたちが「家庭」という密室の中において飲酒問題を呈していないかという点である。これは児童虐待と同様、プライバシーという防御壁によって容易に外部には漏れ出ないだろう。第二は、アルコールという薬物から他の対象に「依存症」が拡大しているのではないかという点である。我々のセンターの相談内容もアルコール問題は今や少数派であり、ギャンブル依存や薬物依存の問題が増加している。つまりわが国におけるバブル崩壊ひいてはソ連の崩壊に伴う地滑り的変動が、従来のアルコール一極集中であった依存症の変貌を生んだのである。このようにまさに「依存症は世につれ」といえるのだ。(「依存症」 信田さよ子)
古酒 こしゆ
今年酒に対して、前年の酒を「古酒」というのである。新酒の出るまではそういう感じもないが、新酒が出ると、はじめて古酒という感じがして来るのである。
一盞(さん)の古酒の琥珀(こはく)を讃(たた)ふる日 佐々木有風
牛曳(ひ)いて四山の秋や古酒の酔 飯田蛇笏
古酒の壺(つぼ)筵(むしろ)にとんと据ゑ置きぬ 佐藤念腹(「新改訂版 俳諧歳時記」 新潮社編)
甘酒 あまざけ
麹に飯または粥を加え、温めて甘味を出した酒精分を含まない飲物。沸騰させて飲む。「一夜酒(ひとよざけ)」ともいう。今では真鍮の釜を据えた荷箱を担って町中を売り歩く甘酒売りも見られなくなり、夏の風物詩もなくなった。壜詰めのものも市販されている。
甘酒屋古りし柳に荷をおろし 高木角恋坊
露地口を半分借りて甘酒屋 吉田美芳
稚児帰るころ甘酒の封を切る 杉原新二
甘酒におとぎばなしが匂い出す 奥山美智子
甘酒が楽しみで来る高台寺 戸井梅の舎
甘酒をあつあつにして凡夫婦 大場裕帆(「川柳歳時記」 奥田白虎編)
無知の人の天国
主人公山口節蔵は、いまは物を書く人間であり、書いたものは新聞にのる。しかしはじめて東京へ出て来たときは、原宿の谷田なにがしという漢学者の家の厄介になっていた。小説は谷田の葬式の日の叙述からはじまり、かつての書生の時代を回想する。
-その頃漢学の素養のある主人は内閣書記官を勤めてゐた。日々役所に通ふ外には、稀(まれ)に斯文会(しぶんかい)へ講釈に出る位のもので、活きた世間とはなんの交渉もない身の上である。内にゐる時は、朱檀(しゆたん)の机に靠(よ)つて読書をしてゐる。「己(おれ)はそろ/\老眼になり掛つてゐるが、為合(しあわ)せな事には洋書を読まんから、目金(めがね)なんぞはいらぬ」と云つて、得意らしい顔をして笑ふ。酒が好(すき)で晩酌をしてゐる時間がなか/\長いのである。
晩酌は、節蔵によつて次のように批判される。
-主人は役所に出て、その日の業を果して帰つて、曇のない満足の上に、あの酒を澆(そそ)いでゐる。その日まで経過して来た半生の事業、他人の思想に修辞上の文飾を加へた手工的労作を、主人は回顧して毫(すこ)しも疚(やま)しいとは思はないで、それにあの酒を手向(たむ)けてゐる。あの晩酌は無知の人の天国である。
明治の中期の話である。当時そうした「手工的労作」を、内閣でやっていた人物としては、たとえば股野琢、号は藍田という人などがモデルでなかったか。鷗外さんとは、おなじく明治政府の官僚として、軽い接触がありそうである。-
後代の歴史家は、おそらく明治を絶対王政の時代と規定するのにかたむくであろうが、その中での森鷗外の位置は、野心的な研究者にとって、常に研究の題目となりつづけそうに思われる。(「帰林鳥語」 吉川幸次郎) 森鷗外「灰燼」です。
江戸の地酒屋
江戸で知られた地酒に浅草並木町の山屋半三郎の《隅田川諸白-「○の中に山(一字)」》がある。寛政九~文政十二年(一七九七~一八二九)にかけて編纂された太田全斎の『俚言集覧』に「隅田川の水を以て元を造ると云」とあり、また岩本佐七が安政四~文久三年(一八五七~六三)に編集した『燕石十種』に「隅田川諸白 浅草雷神門前に有り本所中ノ郷細川備後守殿下屋敷の井の水を汲みて製すなり」とある。この酒については『江戸中喰物重宝記』など多くの書に紹介されている。『江戸買物独案内』(文政七年)に記載の御蔵前猿屋町角や日本橋呉服町二丁目に店を出していた常陸屋の酒の値段表によると、当時、池田の下り酒《瀧水》は一升三〇〇文もしたが、山屋の《隅田川》は三匁とある。元禄十三年(一七〇〇)の公定交換比率(金一両=銀六十匁=穴あき銭四貫文)で換算すれば《隅田川》は《瀧水》の三分の二の値段であった。(「江戸の酒」 菅間誠之助)
熱燗
熱燗や夫の不機嫌見てとりし 静岡 里見芳子 同
熱燗に色恋もなき女らと 東京 矢野蓬矢 昭和二九
熱燗や言葉の綾と知りつゝも 同 山本薊花 同
熱燗を酌んで生死のこと思はず 鈴鹿 渡部一蛙 昭和三〇
人生のかなしきときの燗熱し 横須賀 高田風人子 同(「年尾選 ホトトギス雑詠選集 秋・冬の部」 高濱年尾選)
みづき【水木】
俳優、水木辰之助。元と京師の俳優であったが、元禄四年、江戸に下つて市村座に入り、女形で所作事の名人と云はれ、特に槍踊りを以て大成功を納めた。其の他、七変化と云ふ踊りも辰之助の創始する処と伝へられる。晩年業を廃し、大和屋宇左衛門と称して閑居したが、享保十二年九月、歳七十二で歿した。歌喋はその俳号である。
盃洗へ水木の紋に浮いた猪口 黒丸に三星の紋(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)
五分の一造り令
そして幕府は同(元禄)十三年からはこの株改めを基準として五分の一造り令を発し、減醸規制を強化した。この減醸規制の強化は一見抑圧政策の実施のごとくにみえるが、未曾有の江戸入津量を記録している元禄十年段階では需要を上廻る供給の制限調整の強化は酒価の騰貴を結果していったから、株仲間の営業特権を上から保証したものであった。幕府はこの特権付与に対して五割の運上を賦課した。そして同十五年には「田畑作り候百姓」の酒造営業への参加を禁じた。特産地酒造株仲間との結合関係を強化したなかで施行されていく一連の政策であった。かくして灘酒造業展開の歴史的な特質の一つには、このような元禄体制に包摂されず、むしろこれに対するアウトサイダーとしての江戸中期以降急速に擡頭してゆくなかに考えられる。(「灘の酒」 長倉保)
銘酒 一
一〇九二「雪酒金盤露」は評判だけが高い酒であるが、しかし、まだ悪道には堕ちていない。「蘭渓」に至っては濫悪も極まれりというものである。なぜそうなのかといえば、酒の味が濃厚にすぎて、風韻が足りないからである。これを美人に譬えると、肉附きが豊満であるけれども、嬌態(しな)が少ないのである。しかしながら、楊貴妃は肥えた婢でありながら、後宮第一の寵を得た。一夜で醸した金華酒を売っている店では、常に戸外に履(くつ)がいっぱい脱がれているほど繁盛している。であるから、ほんとうに味のわかる人は、実に得がたいのである。(「五雑組」 謝肇淛 岩城秀夫訳注)
狂言鶯蛙集(2)
酔後飲水 足曳山町
酔醒にひやりと飲し氷みず 夏の夜ながらあたへ千金
しばらく酒のまざりける文月七日ある人天の川といふ酒を送りければ 十二栗圃
天の川酒は露ほど飲身にも いまひと徳利ほし合のそら
酒家聞虫 石亀鈍人
盃をはやさしたまへ松虫の はかなき酒のちんちろりぎり
供部屋月 於保曽礼長良
供部屋は主の御たちをたち待の 月にさしたる天もくの酒(「狂言鶯蛙集」)
酒造株
酒造株が制定されたのは明暦三年(一六五七)のことであるといわれている(『灘酒沿革誌』六五頁)。しかし法令の上で現実に確認できるのは、万治三年(一六六〇)八月の触書で「去る申年迄」の造来米高を調査して、町中吟味のうえ、「米之員数帳面」に記載させ、これを届出させた。のちにこのときの届出をもって酒造株とみなし、その届高を株高ときめたのであろう。-
一般に諸産業において株の免許が許されるのはもっと後のことであり、ただ例外的に警察的な取締りの必要から、当時質屋株(寛永一九年)、古手屋株・古道具屋株(正保二年)が公認されているにすぎなかった。酒造株も米価調節などの幕府の酒造政策の必要から、とくにその実態調査と酒造統制がおこなわれたのである。(「酒造りの歴史」 柚木学)
タンポポのお酒
やがて、芝生の間に濃い黄色のタンポポの花が、宇宙の闇(やみ)のなかの星のように咲きみだれる暑い夏になった。ぼくらはタンポポのワイン作りを教わった。花を摘んだ時に白いタンポポの液で濡れた指は、しばらくすると黒くなっていたのにおどろいた。洗ってもなかなか落ちてくれない。それほどアクが強い。僕らはタンポポの首を千個は刎(は)ねたろう。そのタンポポをぎっしり詰めた白いホウロウびきのバケツに、湯を6リットルほど滝のように注ぎ入れた。タンポポの花は湯の中でくるくる舞った。そのまま三日間そっと食堂の暗い隅に寝かしておいた。四日目の朝、ブドウを搾(しぼ)る木綿の袋にタンポポの花を水もろとも流し入れて、漉(こ)した。袋の下から流れる水は、レモン水のように澄んでいる。それとは別に、1リットルの湯に砂糖500グラムをとかし、35度ぐらいになったら、ドライイーストをくわえる。中庭から外庭へ通ずる入口に、大きな素焼きの植木鉢があり、レモンが火星のようにぶらさがっている。その実を二個とってきた。レモンの皮はすりおろし、果肉の方は搾って、タンポポの水に注ぎ入れた。そのとき無数の泡と泡がぶつかって壊れるようなかすかな音が聞こえた。そのせいなのか、二匹の猫が、そばで首を傾け聞き耳をたてていた。ドライイーストを入れたホウロウびきの容器の底から、宇宙の遠い響きとともに、透明なカプセルが無数にあがってくる。しかし地球の空気にふれると、それらはまるで巨大な軍艦にぶつかったトンボのように壊れてしまう。すごい数の泡だ。ぼくはその透明な泡を含んだ液体を、瓶につめた。夏を閉じ込める魔法使いのように…。しばらくそっと寝かせておいた。ぼくは、飲みたいときにいつでも、夏を飲むことができるようになった。(「世界ぐるっとほろ酔い紀行」 西川治)
白川郷のどぶろく
飛騨白川郷(ひだしらかわごう)といえば、平家の落ち武者の里として知られているが、この山村で毎年おこなわれているのが、「どぶぶろく祭り」。見物客にもどぶろくが振る舞われるという。飲んべいにはまことにありがたい祭りだが、そのルーツは、やはりというべきか、平家の落ち武者たちにある。当時のアルコールといえば、麹と蒸した米でつくったもろみを醸造したドロドロの酒。この白濁した酒を「どぶろく」といい、白川郷では、逃げのびてきた平家の落ち武者たちが、この酒を自分たちの手でつくり、以来、"村の地酒"として、ずっとつくられてきたというわけ。(「SAKE面白すぎる雑学知識」 博学こだわり倶楽部編)
八幡商人の醸造
日野商人だけではなく、八幡商人にも醸造で成功した例は多い。中島清蔵の津軽での創業(延宝年間、一七世紀末)や原田四郎左衛門の江戸日本橋通での醤油店(正徳年間、一八世紀当初)は古いことであるが、いずれにせよ江戸中期に閉店した。四郎左衛門はその年(享保七年、一七二二)群馬県藤岡で開店し、醤油、味噌醸造、塩、肥料、紙、荒物を商った。中興の主といわれる四郎左衛門柳外(りゆうがい)は文政の頃の人で、明治元年に歿したが、文学にも秀れ、遺稿二巻あり、また豪胆な人であったという。延享二年(一七四五)野間清六が茨城県結城(ゆうき)で、文化十三年(一八一六)西井新兵衛が同所で、天保五年(一八三四)野間徳蔵が栃木県延島(のぶしま)で酒造を営んだというが、次の井狩家以外はいずれも明治三十年までに閉店してしまった。猪狩三右衛門の初代は、猪狩四郎左衛門の三男の三平が分家したもので、大阪の靱(うつぼ)に開店、北海道産の鰊干粕(にしんほしかす)など肥料を扱っていた。盛大で分家を重ねたが、やがて家運傾き、六代の頃は没落に瀕したが、これが謹直、果敢な人で、尋常の商売では挽回しうべくもないということからついに意を決し、寛政七年(一七九五)二四歳で下野の栃木に下り、酒蔵に住み込み奉公、数年間よく勤めて主人の信用をかちえ、寛政十二年常陸(ひたち 茨城県)下館(しもだて)の醸造家の空家を借りて酒造業を開業し、八幡屋四郎兵衛と号した。この借り入れがどのような経緯であったか、原典は詳(つまびらか)にしていない。この八幡屋は本宅を八幡に置いて祖母に任せ、毎年往復した。盛大となった文政十一年(一八二八)新町にて宅地を買い入れ、店舗酒蔵を新築、酒、醤油醸造、肥料商を兼業した。明治末には八代平九郎が店主、その後、下館市金井町に井狩醸造本店があり、戦後まで継続していたが、現在は休業している。(「近江商人の系譜」 小倉榮一郎)
菜根譚
飲宴之楽多、不是個好人家。声華之習勝、不是個好士子。名位之念重、不是個好臣士。
一飲宴の楽しみ多きは、是れ個の二好人家ならず。三声華の習いの勝つは、是れ個の四好士子ならず。五名位の念の重きは、是れ個の好臣士ならず。
一 飲宴-飲み食いの宴会。酒宴。 二 好人家-良い家庭。 三 声華の習い-良い評判の好み、万事はでにする習慣。 四 好士子-りっぱな人物。 五 名位の念-高名盛位をえたいと思う心。功名心。
酒宴の楽しみばかりが多いのは、良い家庭というものではない。名声や、はで好みなのは、りっぱな人物というものではない。功名心の強すぎるのは、良い部下というものではない。(「菜根譚」 洪自誠 今井宇三郎訳注)
「司牡丹」カップ
私が初めて手にし、口にしたカップ酒は高知県の「司牡丹」、アルミ(あるいはスチール)缶入り本醸造カップだったはずである。時は一九八九(平成元)年三月、「司牡丹」のお膝元であるJR土讃線佐川駅前の自動販売機で購入、と記憶している。大学を卒業して社会人の仲間入りを目前にしての一人旅、その日は山中で道に迷って危うく遭難しかけ、命からがら駅前に帰還して買い求めたものである。あの時何故、缶ビールでなくカップ酒を買い求めたのだろうか?学生時代から日本酒は飲んで(飲まされて)きたがおそらくそれは安酒であり、いい思い出はほとんどない。それでも日本酒カップに手が伸びた理由、今となって思えば、"命からがら"にあったのだろうか。もし無事に登頂を果たして元気に戻ってきたのであれば、缶ビールを手に「おつかれさま」だったかもしれない。命の危険を冒してなんとか着いたからこそ、かつて散々苦い思いを味わってきた日本酒を口にし、深く酔いたい気持になったのではないだろうか。いずれにせよ、その日飲んだ缶入りの「司牡丹」カップは、旨かった。生まれて初めて手にしたカップ酒が本醸造酒(しかも、劣化の少ない缶入り)だったのは、私にとって幸運だったことだろう。人生初カップが安酒で不味(まず)いものだったら、後にカップ酒にのめりこむようなこともなかったような気も、今となってはする。(二〇〇五年十月、十六年ぶりに佐川駅に降り立ってみた。駅前に酒自販機は既になく、残念ながら缶入り本醸造の「司牡丹」カップを見つけることはできなかった)(「カップ酒スタイル」 いいざわ・たつや)
酒屋会議と灘
明治政府は、明治四年七月に「清酒・濁酒・醤油醸造鑑札収与並ニ収税方法規則」を交付し、廃藩置県の実施にともない酒造業についても全国的画一化の政策をとっていった。また冥加(みょうが)金の徴収と造石高制限を主としていた旧法踏襲の段階から、一歩進んで酒税確保と営業自由化の路線を打ち出した点で、これらの諸政策は酒造政策の抜本的な改革であった。さらに明治八年には、この四年の「規則」を集大成し、営業税・醸造税、鑑札および醸造検査をまとめた「酒類税則」を公布した。営業税が毎期五円より一〇円に、醸造税が売価の五%から一〇%に引き上げられ、ようやく酒税が国家財政においても地租につぐ重要財源として注目された。一一年には醸造税の従価税方式を改めて従量税方式とし、その造石税を一石一円と改正した。その上で、明治一三年九月に「酒造税則」が公布され、造石税は一円から二円に引き上げられ、同時に酒造検査の徹底化と罰則規定が強化された、この明治一三年の「酒造税則」の公布を契機にして、翌一四年五月から一五年にかけて、酒税の軽減を要求する酒造家の反税闘争が各地で高まり、やがてその火の手は全国的な酒屋会議にまで結集されていった。その指導者は高知県の自由民権家植木枝盛で、全国の酒造家に向かって酒屋会議への参加を求める檄文を出し、明治一五年五月に大阪で酒屋会議の開催をみた。そのスローガンは酒税の軽減であり、島根県酒造人小原鉄臣を総代として、減税請願の建白書を元老院へ提出した。時あたかも全国清酒造石高は、地方の小規模地主酒造家の増大によって、明治一二年には明治期のピークの五〇〇万石で、一三年、四五〇万石と連年四〇〇万石ラインを突破し、これに追いうちをかけるように、政府は増税をもって対応したのである。しかし酒税の軽減を要求する酒屋会議も政府の弾圧にあって粉砕され、造石税は翌一五年にはさらに二円から四年に倍増された。そのあと、松方デフレ政策によって地方の地主酒造家の没落がつづいた。灘酒造家は、この酒屋会議に積極的に参加していない。それというのも、酒税の引き上げに経営的にたえてゆける企業型の大規模酒造家グループと、重税がただちに経営の圧迫となってはね返る一〇〇石前後の零細な小規模酒造家グループとの経営差が、その対応を二分させたともいえよう。そこには江戸時代からの有力酒造資本が、幕末維新期の経営不振をたち切り、従価税から造石税へ、さらに造石税の引上げと営業税の増徴を強行していった政府の政策基調にのって、明治一〇年代後半以降、ようやく資本蓄積の条件を見出していった。明治二〇年代以降の灘酒造業は、このような起死回生の道を歩み出したのであった。(「灘の酒博物館 灘酒の歴史」 柚木学)
海蜇(くらげ)
海蜇(くらげ ハイチヨ)に「嫩(やはら)かなる海蜇(くらげ)を用ひ、甜酒もて之を浸せば頗る風味あり。其の光(さら)したる者は名づけて白皮(パイピイ)と為す、絲に作り、酒、醋もて同伴す」(随園食単)と。くらげは我が国でも相当古くから食膳に上つては居るが、特別な地方を除いては、中国料理の普及につれて漸く民衆的な食品になりつゝあると謂つてよい。「頗る風味がある」といふ程のものではないが、此の物特有の歯切れは、風味と謂へば風味であらう。(「飲食雑記」 山田政平)
酒税がなかったならば?
酒税は酒の生産や消費にどのような影響を与えてきただろうか。酒税がまったくなかったならば、酒の生産・消費がどのようになったかを仮想的に計算してみよう。具体的には、表2で示した式において、酒の相対価格(P)のところに、税抜き酒価格指数を卸売物価指数で割ったものを投入してやればよい。戦前においては表2の②式を使うが、酒消費の対相対酒価弾性値はマイナス〇・四五三二であったから、相対酒価が一%下がれば、酒の消費が〇・四五三二%伸びるということになる。図14には「酒税がなかったと想定した場合の酒消費量」を「酒税があった場合の酒消費量」で割った数字を示した。とすると、戦前においては、もしまったく酒税がなかったとすれば、酒消費量は最低でも一〇%以上、大きいときには三〇%以上、平均的には二〇%ほど増えたことになる。戦後においては、表5に示した。実績値が酒税が存在した場合、予測値が酒税がなかった場合の酒消費量(一〇〇%アルコール換算)である。酒の税率が高かった一九五〇年では予測値、すなわち酒税がなかったならば、七二%ほど酒の消費量が増えたと推定される。それ以降は、予測値と実績値のずれは小さくなり、一九九二年では三三・七%ほどとなっている。一九九二年時では、一人当たりビール大瓶換算で、酒税がなければ、消費量は二〇五本程度から二七三本に増えることになる。もっとも、これはまったくの仮想的な話であるし、最近では酒消費量は価格に敏感でなくなっているという先に示した筆者の計算が正しければ、酒税が下げられても、さして飲酒量は増えないということになる。(「酒と経済」 宮本又郎)
食物年表1900-1950
1920・鈴木梅太郎が合成酒「理研酒」を発明
1937・航空燃料ガソリンにアルコールを混和するために、アルコールを増産
1940・金魚酒(アルコール10%以下)が出て、世の批判を受ける
1947・メタノール含有密造酒横行
1947・ドブロク流行(「日本史分類年表 食物年表」 桑田忠親監修)
マグダ・トルポットのメッセージ
一九九〇年に事態はどうなるのか、すでに明らかである。一九九〇年までに、この国では、癌や心臓病をしのいでアルコール症と薬物中毒が健康問題の第一位を占めるだろう。今や薬物文明に向かって、ただ歩を進めているどころか、まっしぐらに疾走し、突入しようとしている。すべてのアメリカ人は、肉体的、感情的に不快なことをがまんする必要がないと教えられている。薬や注射や酒が解決してくれるからである。若者は、すぐに薬を飲み、その場しのぎをする。このために私たちが支払っている代価は高い。この代価こそが、薬物中毒である。アルコール、ベイリウム、コカイン、クエールード、アンフェタミン、マリファナ、THCなど。アルコールや薬物中毒にかかった芸能界のスターたちや、プロのスポーツ選手たちが、今や陸続と明るみに出てきている。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー)
久かたにみえたる客に酒くみて吹雪(ふぶき)する夜をかたりふかしぬ 平賀元義(ひらがもとよし)
この「誠の道」には、自筆で「元義酔書」の署名がある。岡山県倉敷市の郊外に生まれたが、元義は備前(びぜん)、備中(びつちゆう)、美作(みまさか)の各地を遍歴している。貧困放浪の不如意(ふによい)な生活をしながらも、酒が好きであったと思われる。この一首は、吹雪の夜を呑みながら語り合うという、心の救われた瞬間を楽しげに詠んでいる。(誠の道)(「古典詞華集」 山本健吉)
みだれ髪
臙脂紫
紫の濃き虹説きしさかづきに映る春の子眉毛かぼそき
まゐる酒に灯(ひ)あかき宵を歌たまへ女はらから牡丹に名なき
許したまへあらずばこその今のわが身うすむらさきの酒うつくしき
蓮の花船
春はただ盃にこそ注(つ)ぐべけれ智慧あり顔の木蓮や花
紫の虹
やれ壁にチチアンが名はつらかりき湧く酒がめを夕に秘めな(「現代日本文学大系 与謝野晶子集」)
遊び酒(2)
遊び酒の中には、酒客同士が打ちとけあい楽しく賑やかにすごすものもある。「罰酒(ばつざけ)」はその代表で、「ヨヨイノヨイ!」で知られる「じゃん拳」や「野球拳」では負けたほうが酒を飲まなければならない。また、「ひいふうさんッ!」でじゃん拳し、二回連続して負けると「一本負け」となって立会人から罰酒を飲まされるもの(主に九州地方)や、箸を細かく折って、一人がその切れ端の幾つかを片手に握り隠して「何個?」と数を当てさせ、当たらなかったら答えたほうが、当たったらきいたほうが、一杯飲まなければならない。(土佐地方)というものもある。罰酒の歴史は古く、平安時代、宮中で正月一八日に恒例の賭弓(賭射)が行われ、このとき勝者が敗者に罰酒を飲ませた記録が『醍醐天皇御記』や『公事根源』に残っている。(「日本酒の世界」 小泉武夫) 遊び酒
酒と駅弁
福井駅では、かに型の弁当箱に入った「越前かにめし」を必ず購入する。表面をびっしり覆ったかにの身が麗しいのはもちろん、かにみそと一緒に炊いたご飯がまた酒を呼ぶ。駅ビルでは、地元の日本酒「福千歳」を買うのを忘れてはならない。やわらかな飲み口と、程よい米の旨味を秘めた味わいは、かにのおいしさと見事にシンクロするのだ。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子)
酒盛 [十訓抄]友だちをかたらひ酒盛を好み博奕に心をいるゝ程に [和訓栞]モル紀に酒行をサケモルとよめり
(増)さかもり 対馬にて男女一席の飲食をいふ男子ばかりの酒宴にハ言はず
(増)酒屋 [江戸職人歌合]こふるとも今はたあハんみかハ酒胸いたきまで何おもふらん 判詞三河酒胸いたきまてをかしうつゞけられて侍る(「増補俚諺集覧」 村田了阿編輯)
造醸
元禄八(一六九五)年刊の『本朝食鑑』では奈良が第一の酒造地で、これに次ぐのが伊丹・鴻池・池田・富田など大阪近郊であるとされた。しかし『名産図会』では奈良産は「ボダイ」と呼ばれて山家の旧法であるとされるように変化したのである。これは伊丹・池田がその市場として大阪ばかりでなく江戸へ製品を輸送して利益を得て生産を拡大したからであった。その事情は本文の中にも述べられている。ついで『名産図会』の時代から、酒造の中心は西宮・灘へ移ってゆく。ここが製品の江戸輸送、原材料としての樽丸や米の運送、醸造用水の供給(いわゆる宮水)などに有利だったからである。また、農民の分解が工業労働者を供給した。特に宝暦四(一七五四)年造酒制限が廃止されるとしだいに灘の発展はいちじるしくなる。それが『名産図会』にあまり記述されていないのは、ここが大坂三郷酒造仲間と対立する存在であった上に、寛政には松平定信の抑圧政策によってこの地域の酒造業は半分近くに縮小されたから、重要な存在とはいえなかったのであろう。この後文化・文政期から灘地方の本格的発展がはじまって現代まで醸造業地として全国屈指の土地になる。そうして、山陰方面の冬季農閑期の労働力がこの地方に吸収され、マニュファクチュアの形態が出現する。(「山海名所図会 解説」 千葉徳爾註解)
じん-せい[人生]
(名)人の一生。この世での人の生活。
人生に意味などないよ飲みたまえ 台新碌郎
せい-ろん[正論]
(名)道理にかなった正しい意見や議論。
正論へ妥当を強いる酒を注ぐ 松田順久(「川柳表現辞典」 田口麦彦編著)
燗付け
チン、と電子レンジがお燗の付け終わりを知らせてくれる。「俺なんかこのお酒の温度が何度くらいか分からないで飲んでいるもんな」二合徳利で燗付けするのだが、ヌル燗が欲しいときは二合入れ、一合分のボタンを強でチンすれば間に合うし、熱燗が欲しければ少し少なめに入れ二合分のボタンを押せばいいのである。薬缶で燗つけするときは、お湯を沸騰させてから火を止め、二合徳利を沈め二分経ってから取り出すとちょうどいい頃合の燗になっている。もっとも徳利の厚さにもよるが。(「ツウになるための日本酒毒本」 高瀬斉)
ルバイ第四十二
汝(なんぢ)の飲む酒、触るる唇、
始(はじめ)あるもの終(をあり)有る例(ためし)に漏れずば、
さなり、思へ、その時ぞ、今日(けふ)の汝(なんぢ)は
昨日(きのふ)の汝(なんぢ)。明日(あす)の汝(なんぢ)も亦然(しか)ならむ。
[略儀]飲(の)まれる酒も、飲(の)む酒瓶(さかがめ)の縁(へり)も、皆、始(はじめ)有る者必ず終(おわり)有る例(ためし)に漏れず、軈(やが)ては、尽きたり、欠けたりして仕舞う。だとすると、人間も正に其の通り。「昨日の我」は「今日の我」と為り、「今日の我」は又「明日の我」と為ると思うであろうが、ドッコイ、そうは行かない。案外早く、終(おわり)が来てしまう。
[通解]飲まれる物も、飲む者も、共に、命短きを歌って居る。之を裏返して云えば、酒の尽きない内に、生きて居る限り、飲んだが好いと云う事に為る。宿命觀に撤して居るので、表面の歓楽の裏には、共に泣きたきような哀感が流れて居る。(「留盃夜兎衍義」 長谷川朝暮)
つけざし[附差] 飲みかけの盃を人にやること。
①つけざしの礼に背中を撫でゝやり (樽五)
②つけざしのそば大きな咳ばらひ (樽九)
③手ばなしでつけざしをのむ馴れたもの (樽一〇)
④つけざしを娘呑んだが落度なり (樽二三)
①助(す)けて貰つた礼ごころも女らしく、身代りの酔いを介抱する。 ②無理をするなと注意。 ③千軍万馬の猛者です。 ④それからの深酒。