週休2日制 茶店 過酒家 結語 オーストラリアで造る「豪酒」(2) 茶碗をぶっつけあって 当て字 酒場の精神分析にご用心 底のないさかずき 最近登場した酵母 路傍 茶節 笑い上戸 古田さん どうせいつ死ぬか知れぬ命だ。 三月三日 四方赤良 おとゝ バブル崩壊以後 古酒 こしゆ 甘酒 あまざけ 無知の人の天国 江戸の地酒屋 熱燗 みづき【水木】 五分の一造り令 銘酒 一 狂言鶯蛙集(2) 酒造株 タンポポのお酒 白川郷のどぶろく 八幡商人の醸造 菜根譚 「司牡丹」カップ 酒屋会議と灘 海蜇(くらげ) 酒税がなかったならば? 食物年表1900-1950 マグダ・トルポットのメッセージ 久かたにみえたる客に みだれ髪 遊び酒(2) 酒と駅弁 酒盛 造醸 じんせい[人生] 燗付け ルバイ第四十二 つけざし[附差]
週休2日制
(ソ連)1967年3月 週5日労働制の導入を年内に行うと発表。
ジョーク116
「週2日休みになったら、どうする?」
「決まってるよ、1日目はウォッカを朝から晩まで飲みまくるよ」
「2日目は?」
「2日酔いで1日中寝てるだろうな」(「ジョーク「ロシア革命史」」 歴史探検隊)
茶店
京都の南の入り口にある東寺の門前にあった一服一銭の茶売りは、東寺に対して「南大門前一服一銭茶売人条々」という請文(証文)を出している。応永十年(1403)のことである。かれらは、はじめ南河縁の地で営業を許されていたのであるが、しだいにもとの場所を離れて、人の往来のはげしい東寺門前の石段の下で商売をしはじめた。このように茶店は、とくに神社や寺院の門前で繁盛した。東寺のほかにも祇園、北野、西院地蔵のあたりなどがある。西の京西院地蔵のあたりには、茶屋が十軒、二十軒と軒を連ねていたといわれる。これら参詣客相手の茶屋に、そのうち"茶汲女""茶立女"が現われ、 京の茶屋の門口に 赤前垂(まいだれ)に繻子(しゆす)の帯 ちと寄らんせ 入いらんせ と呼びかける。 縄手 石がけ ぽんと町 見おろす川の水茶屋は にくや負けじと着飾りて しょうぎのはしに腰をかけ 茶碗とる手に顔見れば… と、サービスは茶だけでは済まなくなる。酒も出れば夜も長びくようになり、"茶立女"は売春婦の異名となり、はては"蛍(ほたる)茶屋"と呼ばれる夜間専門の茶店まで現れるようになった。(「京都故事物語」 奈良本辰也編)
過酒家 ゐざかやに入る 王績
其の三-
酒ニ対(むか)ヘバ但ダ飲ムヲ知リ 酒の向へば但だ飲むことを知り
人ニ逢ウテ強牽スル莫(な)シ。 人に逢うて無理に強いない。
壚(ロ)ニ倚レバ便チ睡ルヲ得 壚に倚(もた)れると居眠り出来るし
甕ヲ横タフレバ眠ルニ堪フルニ足ル。 甕(かめ)を横にすれば眠られる。
○壚 「史記」及び「漢書」の司馬相如伝に、相如が愛人卓文君と酒店を営み、「文君ヲシテ鑪ニ当ラ令(し)ム」と有る。此の「鑪」(史記)に関して諸家の註を要約して見るに、其れは酒を売る処で、土を累ねて四辺を高く盧の如くし、上に酒甕を置くのである。之を以て酒を温める爐と為すは俗説であると。此に謂ふ所も恐らく火の気の無い壚であらう。火が有れば之に倚りかかつて睡ることは危険である。ところが晩唐の皮日休の「酒中十詠」の中の「酒壚」には「火」有り「灰」有り、鐺の有ることを詠じてゐる。(「中華飲酒詩選」 青木正児)
結語
日本の居酒屋というのは立派な文化である。確かに、能や歌舞伎や文楽(ぶんらく)あるいは漫画やアニメやJ-POPなどのように、作品および表現を鑑賞する文化とは違う。特定の街の、特定の店を占める人たちが、時間の経過と共に築き上げてきた文化である。一軒一軒の赤提灯には、その店特有の文化があるのと同時に、それぞれの店の集合体が「日本の居酒屋文化」を形成しているわけである。そう考えると、地元の住民であろうと、はるばるほかの都道府県(または外国)から足を運んできた人であろうと、初めての赤提灯に入る以上、程度の差はあるものの、<異文化>の領域に身を浸すことになると言えよう。しかも、既成の映像や音源や出版物と違い、その場所に一人ひとりが身をおくことで、店独自の文化に新たな影響をおよぼすことになるから、居酒屋というのはまさに生きている文化だと言える。生きている文化は常に変化を遂げている。惜しくも閉店する老舗もあれば、将来すばらしい老舗に育つ新店もあろう。日本の居酒屋文化を慕うひとりとして、現在残っている老舗の名店も、無名に近い地元の赤提灯も、若い店主が開業したばかりの新店も、訪れ続けながら大切にしていきたい。この貴重な文化の行方は、我々一人ひとりに委ねられているのである。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)
オーストラリアで造る「豪酒」(2)
このオーストラリア米のルーツは、日本人が行って作ったことで知られています。明治三八年(一九〇五年)に四国・松山の篤農家、高須賀穣さん(一八六五~一九四〇)という方が、日本の米種子を持ち込み、稲作を開始したのです。普通、海外のお米と言うと、細長い米が圧倒的に多いんです。しかし、その時に栽培された米はジャポニカ種という短粒米です。それが向こうで作られた最初だと言われています。皆さん方は、十年前のあの食糧危機というか、米の不作のため日本でお米が足りなくなった時のことを覚えていますか?その時に、日本人が食べられる米と言われた二つが、カリフォルニア米とこのオーストラリア米でした。そういうお米を使って、お酒造りをしています。(「トップが語る現代経営」 小西酒造株式会社代表取締役社長・小西新太郎) 平成19年の出版です。 オーストラリアで造る「豪酒」
茶碗をぶっつけあって
露店の顧客を主とするのが、民主主義である。世界にみなぎる民主主義の怒濤、それを防止しようとした日本の軍国主義の堤は崩壊した。いざこざの相手は、その軍国主義的なヤクザ道を守ろうとし、民主主義の怒濤を、庭場だけでも、手の掌で防止しようとする人たちであるらしい話の様子である。ここにきた人たちは、その愚をせずに、怒濤に乗って逆らわず、当時の政策に協力しようというのであったが、その指導者が芝山氏であった。むかし士魂商才という言葉が流行したことがあるが、この言葉を逆用すれば、ヤクザ魂商才とでもいえる。屏風と商人は、曲がらなければ立たないという言葉もあったが、そのヤクザ道を曲げて立つのが協力である。協力とは妥協であり、利害相反する者が妥協して、自らを存在させるのである。ヤクザの妥協の相手は、いつの世でも具体的には警察であって、妥協しなければ滅亡があったのである。この妥協を「協力」と、この人たちは呼んでいる。近くは尾津が非妥協で滅びた。このいざこざの話のなかに「茶碗をぶっつけあって」という言葉が、しばしば使われた。「茶碗をぶっつけあって」は、「和解の酒の盃を交して」の意味である。「喧嘩の和解ですか」「いや和解ではありません、親睦です」このように芝山氏は答えて、喧嘩の和解はない、親睦だと否定した。集団的暴力行為のヤクザの喧嘩は、いまは致命的な事件となることを知っての否定ではあるまいかと推定した。いずれにしても、和解という言葉は、現在では使ってならない禁句になっているほどに、この社会も神経質になっている。(「浅草てき屋親分訪問記-芝山親分の半生-」 田村栄太郎)
当て字
近ごろの傑作をいくつか列挙してみましょう。「寝繰着(ネグリジエ)」、「満層荘(マンシヨン)」、「意明示(イメージ)」、「憂慰酔喜(ウイスキー)」、「軽ハズミ、してみたい。僕たちの軽験(けいけん)」(カティーサークのコピー)、「筆需品」(パーカーほか六社の合同広告)、「肺見。パシャリ」(財団法人結核予防会)、「珍豚美人(ちんとんしやん)」(酒場名)。どれもよくできていますが、すこしこじつけがすぎるかもしれません。(「井上ひさしの日本語相談」 井上ひさし)
酒場の精神分析にご用心
札幌の公務員Aさん(四五)は、俳優の故・中村伸郎を若くして太らせたような容貌(ようぼう)で、金縁の眼鏡がよく似合う。同僚たちも飲みにいった先でAさんを「先生」と呼び、本人もこう呼ばれるのが気にいっている。十月、Aさんは同僚とススキノに繰り出した。この日は冷え込んだうえに雨も降っていたためか、二軒目のスナックには二十代らしい銀縁メガネの女性が一人いるきりだった。同僚がいつものようにAさんを先生と呼ぶと、店のママが、「あら、こちらお医者さま、雰囲気からいって精神科医、そうでしょ」と決めつけ、Aさんも、「あっ、バレちゃったか」と、精神科医になりきってしまった。その勢いでAさんは、銀縁メガネの女性に近づいた。「さあ、心を全部開いてごらん。先生が精神分析してあげるからね」女性は悩みを打ち明けなかったが、Aさんは学生時代にかじったうろ覚えの知識を一方的にとうとうと披露(ひろう)するのだった。それから数週間たった十一月半ば、Aさんは職場で精神衛生の研修に参加した。講師の女性をぼんやり眺(なが)めていたらあの銀縁の女性だと気づいた。講師はAさんに気がついていないようだったが、「一時期はやった精神分析は大変困難な治療法で、現在ではほとんど使われていません。でも、ススキノにはときどきあやしい精神分析医が出没しますね」と、しっかりあの夜のことを覚えていた。Aさんは公務員の信用失墜を招くことを恐れ、休憩時間に会場から姿を消した。(「デキゴトロジー」 週刊朝日風俗リサーチ特別局編著)
底のないさかずき
堂𧮾公(どうけいこう)が昭侯にいった。「ここに千金の玉杯があって、下が抜けて底がなければ、水を入れることができましょうか?」「それはだめだ」「それでは瓦器で漏れぬものがあれば、酒を入れることができましょうか?」「大丈夫だ」堂𧮾公はいった。「瓦器はつまらぬものですが、漏れなければ酒を入れることができます。千金の玉杯は、いくら高価でも底がなくて漏れるものなら、水を入れるわけには参らず、ましてそれにのみものを注ぐものはおりません。人の君として臣下のことばを漏らすのは、底のない玉杯のようなものであります。聖知のものがありましても、だれもその知をつくしません。君が漏らすからであります」「なるほど」昭侯は堂𧮾公のことばをきいてからは、天下の大事を行おうとするときには、夜は必ずひとりで寝た。ねごとをいって女たちに謀りごとをきかれるのを恐れたためである。(外儲説右上)(「古代寓話文学集 韓非子篇」 高田淳訳)
最近登場した酵母
(吟醸酵母)
| 名称 | 開発した県・機関 | 特徴 |
| きょうかい86号 | 日本醸造協会 | 高カプロン酸エチル |
| まほろば酵母 | 青森 | リンゴのような爽やかな香気 |
| T-1 | 栃木 | 9号系 |
| M310 | 茨城・明利酒類 | 東日本の酒蔵を中心に頒布 |
| YS-44 | 茨城 | |
| G-1 S-3 | 新潟 | |
| うららの酵母 | 福井 | 酸少なくやや甘めの酒質 |
| 三重酵母 | 三重 | |
| 岐阜G酵母 | 岐阜 | |
| 梨酵母 | 鳥取 | 20世紀梨より抽出 |
| 徳島酵母 | 徳島 | アルプス系 |
| EK-1 | 愛媛 | フルーティーな香り |
| CEL-24 | 高知 | カプロン酸生成量が非常に多い |
(吟醸酵母以外)
| AK-3F | 秋田 | 純米酒向き |
| AK-4 | 秋田 | 低アルコール酒向き通称 ”秋田流雅(みやび)酵母” |
| KKK-S KKK-9 | 滋賀 |
(「日本酒のテキスト」 松崎晴雄)
路傍
まず瓶ビールをもらって喉を潤したあと、「千福」の樽酒(八〇〇円)です。この店に来たら、この樽酒を飲まなければ始まらない。この樽酒は、樽の香りがほのかに漂う上品なもので、すいすいと、とても飲みやすいのです。料理のほうは、お通しのキンピラに続いて、生揚げを焼いてもらいます。となりのおにいさんは、囲炉裏で餅を焼いてもらっています。みんなと話をしながら、時どきちょいちょいと餅をひっくり返す店主。目の前でプクゥーッとふくらんでいく餅が、おいしそうです。J字カウンターの頂点のところのお客さんは、ウルメイワシです。これも囲炉裏の上に金網をのせて、さっと炙ってできあがります。こうやって、目の前でつまみができあがっていく様子が見えるのがいいですねぇ。樽酒をおかわりし、野菜皿の中にある食用菊を注文します。「さっと茹でて、わさび醤油で食べるのもおいしいのよ」という、おかみさんのおすすめに従って、その食べ方を試してみると、これがまたシャキシャキとした、菊(もってのほか)の食感によく合うこと。赤紫の色合いもいいですねぇ。ワイワイと二時間半の樽酒タイムは、三六〇〇円でした。どうもごちそうさま。《平成一九(二〇〇七)年一〇月一二日(金)の記録》(「ひとり呑み」 浜田信郎) 中野区中野5-55-17
茶節
ということで、芋焼酎の本場である鹿児島県枕崎市に古くから伝わる、二日酔い対策の飲み物「茶節」をご紹介しよう。茶節とは、茶碗に味噌と削った鰹節を入れ、それをお茶で溶いたもの。いうなれば、味噌汁のお茶漬け(?)のようなものだ。茶節は、決して二日酔いの人専用の飲み物ではなく、体も温まるし鰹の栄養分を無駄なく摂れるということで、カゼをひいたときなどに、この地方では一般的に飲まれているものなのだそう。だが、よくよくその中身を考えてみると、本当に二日酔い専用といってもいいくらいに、効きそうな成分がぎっしりと詰まっているのだ。まず味噌だ。味噌の原料である大豆は、「畑の肉」と呼ばれるほど栄養が豊富なことは有名だが、中でも大豆たんぱくには、肝機能を改善するパワーがある。そして、大豆を発酵させて味噌煮する段階で、そのパワーは一層向上する。また、大豆本来の栄養分に加え、味噌には乳酸菌が含まれており、その整腸効果も期待できる。つまり、味噌だけでも充分に、肝機能を向上させ、荒れた腸を改善する能力があるというわけだ。次にお茶はどうだろう。お茶に含まれるカフェインは、血行をよくして新陳代謝の機能を高めてくれる。カテキンには、酒の飲みすぎで荒れた胃の粘膜を保護する機能がある。そういわれてみれば確かに、二日酔いでボンヤリした頭をシャキっとさせるためにお茶を飲むという人も結構多い。ということで、お茶も○。そして最後に鰹節。一般的に鰹節は「ダシをとるためのもの」と思われがちだが、鰹そのものが栄養に富んだ魚なのだから、それから作られた鰹節も同じように、食べればもちろん栄養満点。血を作る作用のある鉄分、パワーの源である亜鉛、アルコール分解を促進するのに役立つビタミンB、さらに、アタマがよくなる成分として話題のDHPなどなど、実は鰹節は、海の栄養庫といってもいいくらいに、さまざまな要素を含んだ食品だったのだ。この中でも、特に二日酔い解消に役立つのがビタミンB。ビタミンBは、アルコールを分解する酵素の働きを高めてくれるので、その結果、体内に残っているアルコール分解が促進されるというわけだ。(「二日酔いの特効薬のウソ、ホント。」 中山健児監修)
笑い上戸
好きだけれども、そう強いほうではないから、お酒の失敗というのも、あまりないが、それでも、三回ばかり、とんまなことをやっている。 第一は、宝塚歌劇で自分の芝居を上演したとき、終演後に出演者と座談会をすることになって、或(あ)る料亭に出かけた。メイクを早く落とした人から、次々にやって来て、その頃の宝塚の生徒さんはみんなお酒が強かった。一緒に飲んでいる中に、一人、あいたお銚子をぽんぽん横にする癖のある人がいて、ぼんやりみていたら、その数が十本以上になったと思ったとたん、部屋がぐるぐる廻り出して、最後まで舞台に出ていた春日野八千代さんがかけつけて来て、さあ、座談会をはじめましょうという時には、完全に出来上がっていたらしい。頭は冴えているつもりなのに、なにか発言しようとすると、言葉の代りに笑い声が出てくる。私は笑い上戸なんだと気がついたが、なにをいってもげらげら笑っているのでは座談会にならず、結局、御飯を食べてホテルへ帰って寝てしまった。翌日、改めてもう一回、座談会のやり直しをして、出演者からは二度も御馳走が食べられて、よかった、となぐさめてもらった。(「失敗は三回」 平岩弓枝)
古田さん
でも古田(晃)さんが魅力的なのは、かっこいいだけではなかったところ。はた迷惑な、ぐだぐだのずぶずぶの酒飲みだった。惚れ込んだ作家を全力で守ったおかげで会社は傾いた。社員の給料遅配。金融業者からの借金。手形不渡りの危機。古田さんは毎日金策に走り回り、ヘトヘトになり、苦悶を酒で紛らわせた。一九五〇年代前半の古田さんは、(草野)心平さんが學校以前にやっていた居酒屋「火の車」で、ひたすら苦しみをぶつけるような乱暴な飲み方をした。激しさでは負けていない心平さんが受けて立ち、しかしときには受けとめ切れず、古田さんは暴走した。火の車を手伝っていた橋本千代吉さんが書いた『火の車板前帖』には店の迷惑も顧みず、夜討ち朝駆けで飲みに来る古田さんの姿が描かれている。
「ドン! ドン! ドン! ドン! ドン! ドン!」寝入りばなの夜明けを、先刻から山鹿流陣太鼓よろしく間合きめて表戸を叩くのは、言わずと知れた古井さんである。(中略)もう、ダメだ、と私は観念する。とてもこの人の侵入をふせぐことはできない。この人はさむらいなのである。おそらく少しく顔をかしげ、眼鏡の奥は朦朧(もうろう)、口は堅く結び、姿勢を崩さず、泰然と叩いているのであろう。(中略)ズボンをはくのももどかしく飛び出してゆく。「おい! 酒ッ」「心平、いるか」「おい心平、起きろ」たまったものではない。正に大颱風襲来である。(橋本千代吉著『火の車板前帖』)(「酒場學校の日々」 金井真紀)
どうせいつ死ぬか知れぬ命だ。何でも命あるうちにして置く事だ。
<出典>近代、夏目漱石(なつめそうせき)(名は金之助(きんのすけ) 一八六七-一九一六)『吾輩(わがはい)は猫(ねこ)である』。
<解説>漱石の出世作『吾輩は猫である』は、一九〇五年一月から高浜虚子のすすめで「ホトトギス」に連載された。冒頭の「吾輩は猫である。名前はまだない」は、あまりにも有名だ。中学教師の苦沙弥(くしゃみ)先生の書斎に集まる迷亭(めいてい)、寒月(かんげつ)ら書生たちの生態を猫の目から見て、諧謔(かいぎゃく)と諷刺で描いた。漱石は東京帝国大学英文科卒、ロンドン留学から一九〇三年、帰国した。生涯、胃弱と強度の神経症で苦しんだ。だから、酒は弱い。この小説の中で漱石は、「他人なら酒の上で云(い)うべき事を、正気で云って居るところが頗(すこぶ)る奇観である。尤(もっと)も今夜に限って酒を無闇(むやみ)にのむ。平生なら猪口(ちょこ)二杯ときめて居るのを、もう四杯飲んだ。二杯でも随分赤くなる所を倍飲んだのだから顔が焼火箸(やけひばし)の様にほてって、さも苦しそうだ」と猫に語らせている。細君が「もう御よしになったら、いいでしょう」と止めると、「なに苦しくっても是(こ)れから少し稽古(けいこ)するんだ。大町桂月(おおまちけいげつ)が飲めと云った」と書いている。これは桂月が雑誌「太陽」で漱石を評して、「もっと陽気になれ」と言ったのを受けている。見出しの言葉は、『吾輩は猫である』の最終部分の猫の言葉。猫がビールを飲み陽気に酔って、「主人など糞(くそ)食らえ」。調子に乗って水甕(みずがめ)に転落し、もがくのも馬鹿らしいと抵抗しない。「太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏。有難(ありがた)い有難い」と不気味に結んでいる。(「食の名言辞典」 平野雅章・田中静一・服部幸應・森谷尅久編集)
三月三日 四方赤良
90盃を一さすが二女の節句とて三もゝのあたりに四手まづさえぎる
一 「盃をさす}-「さすが」。 二 桃の節句。 三 「股」-「桃」。 四 「石に礙(さは)つて遅く来れば心窃かに待つ、流れに牽かれて遄(はや)く過ぐれば手先ず遮る」(和漢朗詠集・三月三日・菅原雅規)に拠る。三月三日の曲水宴で、流れに浮かぶ盃を手でさえぎって詩を作り上げるの意。 ▽ 女同士、白酒を汲みあって桃の節句を祝うが、さすが女だけあって前の乱れを気にしながら盃を断ろうとする。
一婆阿(ばばあ)
207濁(にご)りなく澄(す)みわたるたる月のよにせめて飲(の)みほす二どびろくもがな
一 婆阿上人 通称桑名屋与左衛門。号錦江、後チ剃髪して道甫と号す。牛込原町の薬種商なりしと云ふ。 二 どぶろく ▽ 濁りなく澄み切った月のように清らかな夜(世)だが、せめて一つくらいは濁ったどぶろくがほしい、の意。
九月九日 一卯雲(ぼううん)
229けふばかり下戸に異見の二きくの酒三しら露ばかり飲(の)めや歌(うた)へや
一 木室卯雲 幕臣。名は朝涛(ともなみ)。明和五年(一七六八)没、七十歳。宝暦頃から江戸座の俳人として知られ、狂歌の作も多く、南畝は狂歌の先輩として敬している。明和末年以来の江戸小話本の先頭を切った作者としても有名。 二 「異見の効く」-「菊の酒」。重陽に飲む菊酒は息災延命に効くといわれるので、今日ばかりは上戸は下戸に飲酒するよう異見を言うことができる。 三 菊に置く白露ほど少々、の意。 ▽ 下戸ゆえ少しばかりでも飲めや歌えやの様子となる。(「狂歌才蔵集」 中野三敏校注)
おとゝ
衣裳(いしよう)をべゝといふは、美々(びび)の義歟。へとひと通ず。魚をとゝといふは、いかなる義ぞや。鳥をとゝといふは、とりのとをかさねたるなり。犬をわん/\、猫をにやあ/\とてをしゆるは、その鳴音(なくおと)をいふのみ。餅(もちひ)をあんもといふは、餡餅(あんもちひ)を下略せり。酒をおとゝといふは、酌(しやく)を辞(じ)する言葉をとれり。(「燕石雑志」 曲亭馬琴) 江戸時代にも、酒を「おとと」といったようです。
バブル崩壊以後
一九六〇年以降高度成長期より一貫して増加してきた国民の飲酒量がはじめて上げ止まりに入っているのだ。昭和六十三年といえば時あたかもバブル経済の最盛期である。その後のバブル崩壊、それに続く経済の低成長、長びく不況と共にアルコールの消費量も減ってきているのだ。見方によっては、平成に入ってからの東京都を始めとするアルコール専門病棟の設置などの、諸対策の効果が出てきたとも考えられようが、私はむしろわが国の経済動向と関連しているのではないかと思う。アルコールという薬物がモーレツ社員、企業戦士といった言葉で形容されたサラリーマンの、日々走り続けるガソリンのようにして消費されたのではないかと。このような減少、上げ止まりは勿論望ましいことには違いない。しかしそのデータをよくみつめてみると二つの危惧を抱かせられるのだ。まず一つは、低成長、不況、リストラなどで行き場を失い家族回帰したサラリーマンたちが「家庭」という密室の中において飲酒問題を呈していないかという点である。これは児童虐待と同様、プライバシーという防御壁によって容易に外部には漏れ出ないだろう。第二は、アルコールという薬物から他の対象に「依存症」が拡大しているのではないかという点である。我々のセンターの相談内容もアルコール問題は今や少数派であり、ギャンブル依存や薬物依存の問題が増加している。つまりわが国におけるバブル崩壊ひいてはソ連の崩壊に伴う地滑り的変動が、従来のアルコール一極集中であった依存症の変貌を生んだのである。このようにまさに「依存症は世につれ」といえるのだ。(「依存症」 信田さよ子)
古酒 こしゆ
今年酒に対して、前年の酒を「古酒」というのである。新酒の出るまではそういう感じもないが、新酒が出ると、はじめて古酒という感じがして来るのである。
一盞(さん)の古酒の琥珀(こはく)を讃(たた)ふる日 佐々木有風
牛曳(ひ)いて四山の秋や古酒の酔 飯田蛇笏
古酒の壺(つぼ)筵(むしろ)にとんと据ゑ置きぬ 佐藤念腹(「新改訂版 俳諧歳時記」 新潮社編)
甘酒 あまざけ
麹に飯または粥を加え、温めて甘味を出した酒精分を含まない飲物。沸騰させて飲む。「一夜酒(ひとよざけ)」ともいう。今では真鍮の釜を据えた荷箱を担って町中を売り歩く甘酒売りも見られなくなり、夏の風物詩もなくなった。壜詰めのものも市販されている。
甘酒屋古りし柳に荷をおろし 高木角恋坊
露地口を半分借りて甘酒屋 吉田美芳
稚児帰るころ甘酒の封を切る 杉原新二
甘酒におとぎばなしが匂い出す 奥山美智子
甘酒が楽しみで来る高台寺 戸井梅の舎
甘酒をあつあつにして凡夫婦 大場裕帆(「川柳歳時記」 奥田白虎編)
無知の人の天国
主人公山口節蔵は、いまは物を書く人間であり、書いたものは新聞にのる。しかしはじめて東京へ出て来たときは、原宿の谷田なにがしという漢学者の家の厄介になっていた。小説は谷田の葬式の日の叙述からはじまり、かつての書生の時代を回想する。
-その頃漢学の素養のある主人は内閣書記官を勤めてゐた。日々役所に通ふ外には、稀(まれ)に斯文会(しぶんかい)へ講釈に出る位のもので、活きた世間とはなんの交渉もない身の上である。内にゐる時は、朱檀(しゆたん)の机に靠(よ)つて読書をしてゐる。「己(おれ)はそろ/\老眼になり掛つてゐるが、為合(しあわ)せな事には洋書を読まんから、目金(めがね)なんぞはいらぬ」と云つて、得意らしい顔をして笑ふ。酒が好(すき)で晩酌をしてゐる時間がなか/\長いのである。
晩酌は、節蔵によつて次のように批判される。
-主人は役所に出て、その日の業を果して帰つて、曇のない満足の上に、あの酒を澆(そそ)いでゐる。その日まで経過して来た半生の事業、他人の思想に修辞上の文飾を加へた手工的労作を、主人は回顧して毫(すこ)しも疚(やま)しいとは思はないで、それにあの酒を手向(たむ)けてゐる。あの晩酌は無知の人の天国である。
明治の中期の話である。当時そうした「手工的労作」を、内閣でやっていた人物としては、たとえば股野琢、号は藍田という人などがモデルでなかったか。鷗外さんとは、おなじく明治政府の官僚として、軽い接触がありそうである。-
後代の歴史家は、おそらく明治を絶対王政の時代と規定するのにかたむくであろうが、その中での森鷗外の位置は、野心的な研究者にとって、常に研究の題目となりつづけそうに思われる。(「帰林鳥語」 吉川幸次郎) 森鷗外「灰燼」です。
江戸の地酒屋
江戸で知られた地酒に浅草並木町の山屋半三郎の《隅田川諸白-「○の中に山(一字)」》がある。寛政九~文政十二年(一七九七~一八二九)にかけて編纂された太田全斎の『俚言集覧』に「隅田川の水を以て元を造ると云」とあり、また岩本佐七が安政四~文久三年(一八五七~六三)に編集した『燕石十種』に「隅田川諸白 浅草雷神門前に有り本所中ノ郷細川備後守殿下屋敷の井の水を汲みて製すなり」とある。この酒については『江戸中喰物重宝記』など多くの書に紹介されている。『江戸買物独案内』(文政七年)に記載の御蔵前猿屋町角や日本橋呉服町二丁目に店を出していた常陸屋の酒の値段表によると、当時、池田の下り酒《瀧水》は一升三〇〇文もしたが、山屋の《隅田川》は三匁とある。元禄十三年(一七〇〇)の公定交換比率(金一両=銀六十匁=穴あき銭四貫文)で換算すれば《隅田川》は《瀧水》の三分の二の値段であった。(「江戸の酒」 菅間誠之助)
熱燗
熱燗や夫の不機嫌見てとりし 静岡 里見芳子 同
熱燗に色恋もなき女らと 東京 矢野蓬矢 昭和二九
熱燗や言葉の綾と知りつゝも 同 山本薊花 同
熱燗を酌んで生死のこと思はず 鈴鹿 渡部一蛙 昭和三〇
人生のかなしきときの燗熱し 横須賀 高田風人子 同(「年尾選 ホトトギス雑詠選集 秋・冬の部」 高濱年尾選)
みづき【水木】
俳優、水木辰之助。元と京師の俳優であったが、元禄四年、江戸に下つて市村座に入り、女形で所作事の名人と云はれ、特に槍踊りを以て大成功を納めた。其の他、七変化と云ふ踊りも辰之助の創始する処と伝へられる。晩年業を廃し、大和屋宇左衛門と称して閑居したが、享保十二年九月、歳七十二で歿した。歌喋はその俳号である。
盃洗へ水木の紋に浮いた猪口 黒丸に三星の紋(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)
五分の一造り令
そして幕府は同(元禄)十三年からはこの株改めを基準として五分の一造り令を発し、減醸規制を強化した。この減醸規制の強化は一見抑圧政策の実施のごとくにみえるが、未曾有の江戸入津量を記録している元禄十年段階では需要を上廻る供給の制限調整の強化は酒価の騰貴を結果していったから、株仲間の営業特権を上から保証したものであった。幕府はこの特権付与に対して五割の運上を賦課した。そして同十五年には「田畑作り候百姓」の酒造営業への参加を禁じた。特産地酒造株仲間との結合関係を強化したなかで施行されていく一連の政策であった。かくして灘酒造業展開の歴史的な特質の一つには、このような元禄体制に包摂されず、むしろこれに対するアウトサイダーとしての江戸中期以降急速に擡頭してゆくなかに考えられる。(「灘の酒」 長倉保)
銘酒 一
一〇九二「雪酒金盤露」は評判だけが高い酒であるが、しかし、まだ悪道には堕ちていない。「蘭渓」に至っては濫悪も極まれりというものである。なぜそうなのかといえば、酒の味が濃厚にすぎて、風韻が足りないからである。これを美人に譬えると、肉附きが豊満であるけれども、嬌態(しな)が少ないのである。しかしながら、楊貴妃は肥えた婢でありながら、後宮第一の寵を得た。一夜で醸した金華酒を売っている店では、常に戸外に履(くつ)がいっぱい脱がれているほど繁盛している。であるから、ほんとうに味のわかる人は、実に得がたいのである。(「五雑組」 謝肇淛 岩城秀夫訳注)
狂言鶯蛙集(2)
酔後飲水 足曳山町
酔醒にひやりと飲し氷みず 夏の夜ながらあたへ千金
しばらく酒のまざりける文月七日ある人天の川といふ酒を送りければ 十二栗圃
天の川酒は露ほど飲身にも いまひと徳利ほし合のそら
酒家聞虫 石亀鈍人
盃をはやさしたまへ松虫の はかなき酒のちんちろりぎり
供部屋月 於保曽礼長良
供部屋は主の御たちをたち待の 月にさしたる天もくの酒(「狂言鶯蛙集」)
酒造株
酒造株が制定されたのは明暦三年(一六五七)のことであるといわれている(『灘酒沿革誌』六五頁)。しかし法令の上で現実に確認できるのは、万治三年(一六六〇)八月の触書で「去る申年迄」の造来米高を調査して、町中吟味のうえ、「米之員数帳面」に記載させ、これを届出させた。のちにこのときの届出をもって酒造株とみなし、その届高を株高ときめたのであろう。-
一般に諸産業において株の免許が許されるのはもっと後のことであり、ただ例外的に警察的な取締りの必要から、当時質屋株(寛永一九年)、古手屋株・古道具屋株(正保二年)が公認されているにすぎなかった。酒造株も米価調節などの幕府の酒造政策の必要から、とくにその実態調査と酒造統制がおこなわれたのである。(「酒造りの歴史」 柚木学)
タンポポのお酒
やがて、芝生の間に濃い黄色のタンポポの花が、宇宙の闇(やみ)のなかの星のように咲きみだれる暑い夏になった。ぼくらはタンポポのワイン作りを教わった。花を摘んだ時に白いタンポポの液で濡れた指は、しばらくすると黒くなっていたのにおどろいた。洗ってもなかなか落ちてくれない。それほどアクが強い。僕らはタンポポの首を千個は刎(は)ねたろう。そのタンポポをぎっしり詰めた白いホウロウびきのバケツに、湯を6リットルほど滝のように注ぎ入れた。タンポポの花は湯の中でくるくる舞った。そのまま三日間そっと食堂の暗い隅に寝かしておいた。四日目の朝、ブドウを搾(しぼ)る木綿の袋にタンポポの花を水もろとも流し入れて、漉(こ)した。袋の下から流れる水は、レモン水のように澄んでいる。それとは別に、1リットルの湯に砂糖500グラムをとかし、35度ぐらいになったら、ドライイーストをくわえる。中庭から外庭へ通ずる入口に、大きな素焼きの植木鉢があり、レモンが火星のようにぶらさがっている。その実を二個とってきた。レモンの皮はすりおろし、果肉の方は搾って、タンポポの水に注ぎ入れた。そのとき無数の泡と泡がぶつかって壊れるようなかすかな音が聞こえた。そのせいなのか、二匹の猫が、そばで首を傾け聞き耳をたてていた。ドライイーストを入れたホウロウびきの容器の底から、宇宙の遠い響きとともに、透明なカプセルが無数にあがってくる。しかし地球の空気にふれると、それらはまるで巨大な軍艦にぶつかったトンボのように壊れてしまう。すごい数の泡だ。ぼくはその透明な泡を含んだ液体を、瓶につめた。夏を閉じ込める魔法使いのように…。しばらくそっと寝かせておいた。ぼくは、飲みたいときにいつでも、夏を飲むことができるようになった。(「世界ぐるっとほろ酔い紀行」 西川治)
白川郷のどぶろく
飛騨白川郷(ひだしらかわごう)といえば、平家の落ち武者の里として知られているが、この山村で毎年おこなわれているのが、「どぶぶろく祭り」。見物客にもどぶろくが振る舞われるという。飲んべいにはまことにありがたい祭りだが、そのルーツは、やはりというべきか、平家の落ち武者たちにある。当時のアルコールといえば、麹と蒸した米でつくったもろみを醸造したドロドロの酒。この白濁した酒を「どぶろく」といい、白川郷では、逃げのびてきた平家の落ち武者たちが、この酒を自分たちの手でつくり、以来、"村の地酒"として、ずっとつくられてきたというわけ。(「SAKE面白すぎる雑学知識」 博学こだわり倶楽部編)
八幡商人の醸造
日野商人だけではなく、八幡商人にも醸造で成功した例は多い。中島清蔵の津軽での創業(延宝年間、一七世紀末)や原田四郎左衛門の江戸日本橋通での醤油店(正徳年間、一八世紀当初)は古いことであるが、いずれにせよ江戸中期に閉店した。四郎左衛門はその年(享保七年、一七二二)群馬県藤岡で開店し、醤油、味噌醸造、塩、肥料、紙、荒物を商った。中興の主といわれる四郎左衛門柳外(りゆうがい)は文政の頃の人で、明治元年に歿したが、文学にも秀れ、遺稿二巻あり、また豪胆な人であったという。延享二年(一七四五)野間清六が茨城県結城(ゆうき)で、文化十三年(一八一六)西井新兵衛が同所で、天保五年(一八三四)野間徳蔵が栃木県延島(のぶしま)で酒造を営んだというが、次の井狩家以外はいずれも明治三十年までに閉店してしまった。猪狩三右衛門の初代は、猪狩四郎左衛門の三男の三平が分家したもので、大阪の靱(うつぼ)に開店、北海道産の鰊干粕(にしんほしかす)など肥料を扱っていた。盛大で分家を重ねたが、やがて家運傾き、六代の頃は没落に瀕したが、これが謹直、果敢な人で、尋常の商売では挽回しうべくもないということからついに意を決し、寛政七年(一七九五)二四歳で下野の栃木に下り、酒蔵に住み込み奉公、数年間よく勤めて主人の信用をかちえ、寛政十二年常陸(ひたち 茨城県)下館(しもだて)の醸造家の空家を借りて酒造業を開業し、八幡屋四郎兵衛と号した。この借り入れがどのような経緯であったか、原典は詳(つまびらか)にしていない。この八幡屋は本宅を八幡に置いて祖母に任せ、毎年往復した。盛大となった文政十一年(一八二八)新町にて宅地を買い入れ、店舗酒蔵を新築、酒、醤油醸造、肥料商を兼業した。明治末には八代平九郎が店主、その後、下館市金井町に井狩醸造本店があり、戦後まで継続していたが、現在は休業している。(「近江商人の系譜」 小倉榮一郎)
菜根譚
飲宴之楽多、不是個好人家。声華之習勝、不是個好士子。名位之念重、不是個好臣士。
一飲宴の楽しみ多きは、是れ個の二好人家ならず。三声華の習いの勝つは、是れ個の四好士子ならず。五名位の念の重きは、是れ個の好臣士ならず。
一 飲宴-飲み食いの宴会。酒宴。 二 好人家-良い家庭。 三 声華の習い-良い評判の好み、万事はでにする習慣。 四 好士子-りっぱな人物。 五 名位の念-高名盛位をえたいと思う心。功名心。
酒宴の楽しみばかりが多いのは、良い家庭というものではない。名声や、はで好みなのは、りっぱな人物というものではない。功名心の強すぎるのは、良い部下というものではない。(「菜根譚」 洪自誠 今井宇三郎訳注)
「司牡丹」カップ
私が初めて手にし、口にしたカップ酒は高知県の「司牡丹」、アルミ(あるいはスチール)缶入り本醸造カップだったはずである。時は一九八九(平成元)年三月、「司牡丹」のお膝元であるJR土讃線佐川駅前の自動販売機で購入、と記憶している。大学を卒業して社会人の仲間入りを目前にしての一人旅、その日は山中で道に迷って危うく遭難しかけ、命からがら駅前に帰還して買い求めたものである。あの時何故、缶ビールでなくカップ酒を買い求めたのだろうか?学生時代から日本酒は飲んで(飲まされて)きたがおそらくそれは安酒であり、いい思い出はほとんどない。それでも日本酒カップに手が伸びた理由、今となって思えば、"命からがら"にあったのだろうか。もし無事に登頂を果たして元気に戻ってきたのであれば、缶ビールを手に「おつかれさま」だったかもしれない。命の危険を冒してなんとか着いたからこそ、かつて散々苦い思いを味わってきた日本酒を口にし、深く酔いたい気持になったのではないだろうか。いずれにせよ、その日飲んだ缶入りの「司牡丹」カップは、旨かった。生まれて初めて手にしたカップ酒が本醸造酒(しかも、劣化の少ない缶入り)だったのは、私にとって幸運だったことだろう。人生初カップが安酒で不味(まず)いものだったら、後にカップ酒にのめりこむようなこともなかったような気も、今となってはする。(二〇〇五年十月、十六年ぶりに佐川駅に降り立ってみた。駅前に酒自販機は既になく、残念ながら缶入り本醸造の「司牡丹」カップを見つけることはできなかった)(「カップ酒スタイル」 いいざわ・たつや)
酒屋会議と灘
明治政府は、明治四年七月に「清酒・濁酒・醤油醸造鑑札収与並ニ収税方法規則」を交付し、廃藩置県の実施にともない酒造業についても全国的画一化の政策をとっていった。また冥加(みょうが)金の徴収と造石高制限を主としていた旧法踏襲の段階から、一歩進んで酒税確保と営業自由化の路線を打ち出した点で、これらの諸政策は酒造政策の抜本的な改革であった。さらに明治八年には、この四年の「規則」を集大成し、営業税・醸造税、鑑札および醸造検査をまとめた「酒類税則」を公布した。営業税が毎期五円より一〇円に、醸造税が売価の五%から一〇%に引き上げられ、ようやく酒税が国家財政においても地租につぐ重要財源として注目された。一一年には醸造税の従価税方式を改めて従量税方式とし、その造石税を一石一円と改正した。その上で、明治一三年九月に「酒造税則」が公布され、造石税は一円から二円に引き上げられ、同時に酒造検査の徹底化と罰則規定が強化された、この明治一三年の「酒造税則」の公布を契機にして、翌一四年五月から一五年にかけて、酒税の軽減を要求する酒造家の反税闘争が各地で高まり、やがてその火の手は全国的な酒屋会議にまで結集されていった。その指導者は高知県の自由民権家植木枝盛で、全国の酒造家に向かって酒屋会議への参加を求める檄文を出し、明治一五年五月に大阪で酒屋会議の開催をみた。そのスローガンは酒税の軽減であり、島根県酒造人小原鉄臣を総代として、減税請願の建白書を元老院へ提出した。時あたかも全国清酒造石高は、地方の小規模地主酒造家の増大によって、明治一二年には明治期のピークの五〇〇万石で、一三年、四五〇万石と連年四〇〇万石ラインを突破し、これに追いうちをかけるように、政府は増税をもって対応したのである。しかし酒税の軽減を要求する酒屋会議も政府の弾圧にあって粉砕され、造石税は翌一五年にはさらに二円から四年に倍増された。そのあと、松方デフレ政策によって地方の地主酒造家の没落がつづいた。灘酒造家は、この酒屋会議に積極的に参加していない。それというのも、酒税の引き上げに経営的にたえてゆける企業型の大規模酒造家グループと、重税がただちに経営の圧迫となってはね返る一〇〇石前後の零細な小規模酒造家グループとの経営差が、その対応を二分させたともいえよう。そこには江戸時代からの有力酒造資本が、幕末維新期の経営不振をたち切り、従価税から造石税へ、さらに造石税の引上げと営業税の増徴を強行していった政府の政策基調にのって、明治一〇年代後半以降、ようやく資本蓄積の条件を見出していった。明治二〇年代以降の灘酒造業は、このような起死回生の道を歩み出したのであった。(「灘の酒博物館 灘酒の歴史」 柚木学)
海蜇(くらげ)
海蜇(くらげ ハイチヨ)に「嫩(やはら)かなる海蜇(くらげ)を用ひ、甜酒もて之を浸せば頗る風味あり。其の光(さら)したる者は名づけて白皮(パイピイ)と為す、絲に作り、酒、醋もて同伴す」(随園食単)と。くらげは我が国でも相当古くから食膳に上つては居るが、特別な地方を除いては、中国料理の普及につれて漸く民衆的な食品になりつゝあると謂つてよい。「頗る風味がある」といふ程のものではないが、此の物特有の歯切れは、風味と謂へば風味であらう。(「飲食雑記」 山田政平)
酒税がなかったならば?
酒税は酒の生産や消費にどのような影響を与えてきただろうか。酒税がまったくなかったならば、酒の生産・消費がどのようになったかを仮想的に計算してみよう。具体的には、表2で示した式において、酒の相対価格(P)のところに、税抜き酒価格指数を卸売物価指数で割ったものを投入してやればよい。戦前においては表2の②式を使うが、酒消費の対相対酒価弾性値はマイナス〇・四五三二であったから、相対酒価が一%下がれば、酒の消費が〇・四五三二%伸びるということになる。図14には「酒税がなかったと想定した場合の酒消費量」を「酒税があった場合の酒消費量」で割った数字を示した。とすると、戦前においては、もしまったく酒税がなかったとすれば、酒消費量は最低でも一〇%以上、大きいときには三〇%以上、平均的には二〇%ほど増えたことになる。戦後においては、表5に示した。実績値が酒税が存在した場合、予測値が酒税がなかった場合の酒消費量(一〇〇%アルコール換算)である。酒の税率が高かった一九五〇年では予測値、すなわち酒税がなかったならば、七二%ほど酒の消費量が増えたと推定される。それ以降は、予測値と実績値のずれは小さくなり、一九九二年では三三・七%ほどとなっている。一九九二年時では、一人当たりビール大瓶換算で、酒税がなければ、消費量は二〇五本程度から二七三本に増えることになる。もっとも、これはまったくの仮想的な話であるし、最近では酒消費量は価格に敏感でなくなっているという先に示した筆者の計算が正しければ、酒税が下げられても、さして飲酒量は増えないということになる。(「酒と経済」 宮本又郎)
食物年表1900-1950
1920・鈴木梅太郎が合成酒「理研酒」を発明
1937・航空燃料ガソリンにアルコールを混和するために、アルコールを増産
1940・金魚酒(アルコール10%以下)が出て、世の批判を受ける
1947・メタノール含有密造酒横行
1947・ドブロク流行(「日本史分類年表 食物年表」 桑田忠親監修)
マグダ・トルポットのメッセージ
一九九〇年に事態はどうなるのか、すでに明らかである。一九九〇年までに、この国では、癌や心臓病をしのいでアルコール症と薬物中毒が健康問題の第一位を占めるだろう。今や薬物文明に向かって、ただ歩を進めているどころか、まっしぐらに疾走し、突入しようとしている。すべてのアメリカ人は、肉体的、感情的に不快なことをがまんする必要がないと教えられている。薬や注射や酒が解決してくれるからである。若者は、すぐに薬を飲み、その場しのぎをする。このために私たちが支払っている代価は高い。この代価こそが、薬物中毒である。アルコール、ベイリウム、コカイン、クエールード、アンフェタミン、マリファナ、THCなど。アルコールや薬物中毒にかかった芸能界のスターたちや、プロのスポーツ選手たちが、今や陸続と明るみに出てきている。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー)
久かたにみえたる客に酒くみて吹雪(ふぶき)する夜をかたりふかしぬ 平賀元義(ひらがもとよし)
この「誠の道」には、自筆で「元義酔書」の署名がある。岡山県倉敷市の郊外に生まれたが、元義は備前(びぜん)、備中(びつちゆう)、美作(みまさか)の各地を遍歴している。貧困放浪の不如意(ふによい)な生活をしながらも、酒が好きであったと思われる。この一首は、吹雪の夜を呑みながら語り合うという、心の救われた瞬間を楽しげに詠んでいる。(誠の道)(「古典詞華集」 山本健吉)
みだれ髪
臙脂紫
紫の濃き虹説きしさかづきに映る春の子眉毛かぼそき
まゐる酒に灯(ひ)あかき宵を歌たまへ女はらから牡丹に名なき
許したまへあらずばこその今のわが身うすむらさきの酒うつくしき
蓮の花船
春はただ盃にこそ注(つ)ぐべけれ智慧あり顔の木蓮や花
紫の虹
やれ壁にチチアンが名はつらかりき湧く酒がめを夕に秘めな(「現代日本文学大系 与謝野晶子集」)
遊び酒(2)
遊び酒の中には、酒客同士が打ちとけあい楽しく賑やかにすごすものもある。「罰酒(ばつざけ)」はその代表で、「ヨヨイノヨイ!」で知られる「じゃん拳」や「野球拳」では負けたほうが酒を飲まなければならない。また、「ひいふうさんッ!」でじゃん拳し、二回連続して負けると「一本負け」となって立会人から罰酒を飲まされるもの(主に九州地方)や、箸を細かく折って、一人がその切れ端の幾つかを片手に握り隠して「何個?」と数を当てさせ、当たらなかったら答えたほうが、当たったらきいたほうが、一杯飲まなければならない。(土佐地方)というものもある。罰酒の歴史は古く、平安時代、宮中で正月一八日に恒例の賭弓(賭射)が行われ、このとき勝者が敗者に罰酒を飲ませた記録が『醍醐天皇御記』や『公事根源』に残っている。(「日本酒の世界」 小泉武夫) 遊び酒
酒と駅弁
福井駅では、かに型の弁当箱に入った「越前かにめし」を必ず購入する。表面をびっしり覆ったかにの身が麗しいのはもちろん、かにみそと一緒に炊いたご飯がまた酒を呼ぶ。駅ビルでは、地元の日本酒「福千歳」を買うのを忘れてはならない。やわらかな飲み口と、程よい米の旨味を秘めた味わいは、かにのおいしさと見事にシンクロするのだ。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子)
酒盛 [十訓抄]友だちをかたらひ酒盛を好み博奕に心をいるゝ程に [和訓栞]モル紀に酒行をサケモルとよめり
(増)さかもり 対馬にて男女一席の飲食をいふ男子ばかりの酒宴にハ言はず
(増)酒屋 [江戸職人歌合]こふるとも今はたあハんみかハ酒胸いたきまで何おもふらん 判詞三河酒胸いたきまてをかしうつゞけられて侍る(「増補俚諺集覧」 村田了阿編輯)
造醸
元禄八(一六九五)年刊の『本朝食鑑』では奈良が第一の酒造地で、これに次ぐのが伊丹・鴻池・池田・富田など大阪近郊であるとされた。しかし『名産図会』では奈良産は「ボダイ」と呼ばれて山家の旧法であるとされるように変化したのである。これは伊丹・池田がその市場として大阪ばかりでなく江戸へ製品を輸送して利益を得て生産を拡大したからであった。その事情は本文の中にも述べられている。ついで『名産図会』の時代から、酒造の中心は西宮・灘へ移ってゆく。ここが製品の江戸輸送、原材料としての樽丸や米の運送、醸造用水の供給(いわゆる宮水)などに有利だったからである。また、農民の分解が工業労働者を供給した。特に宝暦四(一七五四)年造酒制限が廃止されるとしだいに灘の発展はいちじるしくなる。それが『名産図会』にあまり記述されていないのは、ここが大坂三郷酒造仲間と対立する存在であった上に、寛政には松平定信の抑圧政策によってこの地域の酒造業は半分近くに縮小されたから、重要な存在とはいえなかったのであろう。この後文化・文政期から灘地方の本格的発展がはじまって現代まで醸造業地として全国屈指の土地になる。そうして、山陰方面の冬季農閑期の労働力がこの地方に吸収され、マニュファクチュアの形態が出現する。(「山海名所図会 解説」 千葉徳爾註解)
じん-せい[人生]
(名)人の一生。この世での人の生活。
人生に意味などないよ飲みたまえ 台新碌郎
せい-ろん[正論]
(名)道理にかなった正しい意見や議論。
正論へ妥当を強いる酒を注ぐ 松田順久(「川柳表現辞典」 田口麦彦編著)
燗付け
チン、と電子レンジがお燗の付け終わりを知らせてくれる。「俺なんかこのお酒の温度が何度くらいか分からないで飲んでいるもんな」二合徳利で燗付けするのだが、ヌル燗が欲しいときは二合入れ、一合分のボタンを強でチンすれば間に合うし、熱燗が欲しければ少し少なめに入れ二合分のボタンを押せばいいのである。薬缶で燗つけするときは、お湯を沸騰させてから火を止め、二合徳利を沈め二分経ってから取り出すとちょうどいい頃合の燗になっている。もっとも徳利の厚さにもよるが。(「ツウになるための日本酒毒本」 高瀬斉)
ルバイ第四十二
汝(なんぢ)の飲む酒、触るる唇、
始(はじめ)あるもの終(をあり)有る例(ためし)に漏れずば、
さなり、思へ、その時ぞ、今日(けふ)の汝(なんぢ)は
昨日(きのふ)の汝(なんぢ)。明日(あす)の汝(なんぢ)も亦然(しか)ならむ。
[略儀]飲(の)まれる酒も、飲(の)む酒瓶(さかがめ)の縁(へり)も、皆、始(はじめ)有る者必ず終(おわり)有る例(ためし)に漏れず、軈(やが)ては、尽きたり、欠けたりして仕舞う。だとすると、人間も正に其の通り。「昨日の我」は「今日の我」と為り、「今日の我」は又「明日の我」と為ると思うであろうが、ドッコイ、そうは行かない。案外早く、終(おわり)が来てしまう。
[通解]飲まれる物も、飲む者も、共に、命短きを歌って居る。之を裏返して云えば、酒の尽きない内に、生きて居る限り、飲んだが好いと云う事に為る。宿命觀に撤して居るので、表面の歓楽の裏には、共に泣きたきような哀感が流れて居る。(「留盃夜兎衍義」 長谷川朝暮)
つけざし[附差] 飲みかけの盃を人にやること。
①つけざしの礼に背中を撫でゝやり (樽五)
②つけざしのそば大きな咳ばらひ (樽九)
③手ばなしでつけざしをのむ馴れたもの (樽一〇)
④つけざしを娘呑んだが落度なり (樽二三)
①助(す)けて貰つた礼ごころも女らしく、身代りの酔いを介抱する。 ②無理をするなと注意。 ③千軍万馬の猛者です。 ④それからの深酒。