表紙に戻る
フレーム付き表紙へ

御 酒 の 話 6


利酒家オパーリン  女性がアルコール依存に陥るとき  池波正太郎の酒  ギリシアでの酒の名言  大当たり  東郷青児の酒修行  酒生活  二十四孝  「きき酒は才能ではない」  卓の下  赤米の酒  高橋是清の酒(5)  酢薑(す はじかみ)  刀自の解説  ウイスキーキャット  三木、三寸(みき)  アポロドロスの酒乱  赤蛸のグズ安  白夜  いざさらば  ハチ(蜂)  きじ酒(2)  孔融  樽代  茶と酒  四方久兵衛  酒類販売機の撤廃  池波正太郎の父の酒  前払いで  海の神が自ら歌った謡  食べ物に対する愛着  小林秀雄との酒  ドジョウの効能  頼山陽、スルフ  溝口八郎右衛門の墓  酒のことわざ(5)  伎楽での酔胡王と酔胡従  月岑の酒  川柳の酒句(13)  雄町と山田錦  高橋是清の酒(4)  斎藤月岑の辞世句  暇(いとま)の袋  貰婿  高岩寺の「御影」  酒と盃  キプロスふらふら  バイロン、十返舎一九、陶淵明  度牒を取りあげる(笑府)  最後の麹蓋職人  江戸で有名な酒銘  川柳の酒句(12)  修行  池波正太郎とぜんざい  仲七の肴観  無銭飲食  鹿内賢三  エロドのすきな酒  砂肝のつき出し  元時代の戦いと酒  白乾児と老酒  日南の見た熊楠の酒  ヘミングウェー、サミュエル・ジョンソン、豊島与志雄  ふたつのまがりかど  仰天・文壇和歌集(2)  「アルコール in インク」翌日譚  ソーマ讃歌  抜殻(ぬけがら)  川柳の酒句(11)  池田勇人の酒  倍増法  小僧白酒  こんなこと  吉行淳之介の酒  エウリピデスが酩酊した話  酒  規  アメリカの清酒メーカー  手痛い仕打ち  太田南畝  今川も酒の次には坪の事  杜氏の蔵元観  南方熊楠の酒  老爺 食酒 酔死  白鷹  食をひかえよ  舟の月  さかづきの意味  草野心平の酒(2)  唐津藩の雰囲気  仰天・文壇和歌集  甘いものの話  レンジでお燗  生のオリーブ油スプーン一杯  銘酒  水のような  コウロギのなき声  漱石の祖父  都〃一坊扇歌  馬琴日記  フランスとイタリア  戒語  十二文  双子の姉?  本ものの常連  浜町河岸回顧  「宮中の大饗宴」  火の番人  春すぎて夏きたるらし  アルコールに起因する社会的費用  良寛の酒詩(6)  カルルスベルヒ(2)  「ロマネ・コンティ・一九三五年」  伎楽面  海外の酒の句  燗をして飲む酒  まむし酒  高橋是清の酒(3)  花見(江戸小咄)  井月(「諸国畸人伝」)  うす桃色の神酒  池田の酒  アルカディア、タソス、アカイアに産する酒の特質について  刺客蚊公之墓碑銘  吉行淳之介の二日酔い  「災後漫成」  「一九四五歳の酒が二七年間寝た」  牛の小便  ふくろう神の歌った神謡  旨い地酒  阪神・淡路大震災と酒  良寛の酒詩(5)  根津宇右衛門  予言  カルルスベルヒ  池波正太郎の甘辛趣味  三遅  拳を打つ(「笑府」)  川柳の酒句(10)  悪食ベストテン  学生飲み(草野心平の酒)  紅葉(小咄)  「焚きつけの御神酒」と「上がり御神酒」  馬に古酒  奈良本辰也の30選  東方見聞録の酒  一合八文  パンとオリーブ油  高橋是清の酒(2)  宮脇俊三の酒  L−システイン  「ギリシアの葡萄酒さまざま」  「高いと思ったら払わない」  犬切御仕置之咄  高橋是清の酒  頭の痛くなる酒  「救済の道」  『含酒精鉱石発見覚書』  晩酌  さんげさんげ  サケとササ  祇園会と御霊祭  「京のお茶漬、高松のあつかん」  中産階級の30本  入社すると酒が飲める話  酒のことわざ(4)  バクダンの解説  じゃがいものつまみ  ハレとケの解釈  御酒をすすめて 手習ひ子 暇乞ひ  晴の御膳  酒の産地とつまみの産地  上戸あれこれの付録  上戸あれこれ  良寛の酒詩(4)  酒もみの太うち  ろ過砂  極熱燗  幽霊  羽二重団子  雑兵物語  川柳の酒句(9)  酸い酒(3)  青銅十疋飯も食ひ酒も飲み  初めての店  「初物評判福寿草」  奈良の名物  佐々木久子の酒  池波正太郎の晩酌  ゲンゾウ  四代目柳家小さん  飛ぶ盃  良寛の酒詩(3)  タダ酒  徳利の川柳  長部日出雄の酒  ゼノンとアンティゴノス  芋酒  「紀州藩勤番侍医の江戸見物記」  酒一合七銭  大上戸(「昨日は今日の物語」)  屠蘇機嫌子の愛想に旅へ立ち  酒と肴の相性  酒と肴の句  神田橋の落首  ショウジョウバエ(2)  川柳の酒句(8)  酸い酒(2)(「笑府」)  デモステネスとディオゲネス  壇一雄の酒  アルコールの快感  日本  良寛の酒詩(2)  姥が池伝説  瀬戸内晴美の酒  カブト虫やクワガタ虫  酒返礼の狂歌  醸造酒と蒸留酒の酔い方の違い  「ふたつもじ」の狂歌  豊原国周(3)  京の名物  川柳の酒句(7)  「一杯酒」  「酒屋地獄」  玉依日売の子供  朝永振一郎の酒  アルコールパッチテスト  酸い酒(笑府)  アレクサンドロス大王の酒  桟敷と芝居  朝鮮役に於ける熊本留守居役  酒のことわざ(4)  竹葉青酒  ドブロク特区  林芙美子の酒  浅野内匠頭の酒   その他の大酒呑みの人々」  感応寺でのふるまい酒  高崎屋  朝永振一郎の酒  良寛の酒詩  酒、折り紙、財閥、盆栽  水まし酒  487番目のアミノ酸を決める遺伝子の塩基  川柳の酒句(6)  大酒飲み国家  水戸中納言 末期の酒  上野の花見  酒のことわざ(3)  遠近(「笑府」)


利酒家オパーリン
昨秋ソ連からオパーリンという生化学者が来てわれわれの研究所も訪ねたが、彼はなかなか酒のことに詳しいので、よく聞いてみたら、もとは農産加工や醸造の専門家であったらしいのである。清酒の上級酒を下級酒を出して利酒(ききざけ、本来の字は「口偏に利」です)をさせるとピタリと当てるところなど、日本人もはだしである。ちょうど私の室に甲府からとどいた生葡萄酒があったのでサービスしたところが、これはカベルネーですねと減量葡萄の名前まで当てられてしまった。日本の工場も見たいというので二、三の醸造工場にもいっしょにいった。(「世界の酒」 坂口謹一郎) ソ連時代有名だった生化学者オパーリンの逸話です。コアセルベートなどという生命起源を説明する単語が浮かんできました。


女性がアルコール依存に陥るとき
迷わず離婚を選択するくらい自活能力のある女性、また意欲、自尊心を持っている女性はそう簡単にアルコール依存症などにはなりません。ところが、なかなか決心がつかず、果ては、自分はいったいなんなのだろうかとうつろになるばかりで、主体的なアクションを起こせないタイプの妻は避けに向かってしまうことになります。酒を飲むと、あれほど気が向かなかった家事も、けっこう調子よくできる。お酒って、けっこういいじゃないというので、しだいに量が増えていきます。(「酒飲みのの社会学」 清水新二) こうしたキッチンドリンカー型はむしろ旧世代型となり、男と同じタイプの依存が今後は増えていくのでしょう。


池波正太郎の酒
「とにかく変人だったよ」母はそういうが、私も父の子で、四つか五つのころに、台所の一升びんから酒をゴクゴクとのみ、躰中(からだじゅう)に火がついたようになって苦悶した。その日も雪であった。すると父は、戸外の積雪の上へ私をだいて行って、ころがしころがし、「こうすると、すぐに酔いがさめるから…」といい、私を雪だらけにしてしまった。私は父ほどの酒のみではないけれども、一日とて酒をのまぬ日はない。小説を書いていると、酒が何よりのたのしみでもあるし、自分の健康は酒によって、維持されているように思える。家での晩酌は、日本酒なら二合。ウイスキーなら、オンザロックを三、四杯というところで、それから食事をすませ、ベッドへころがってテレビのニュースを見るうち、一時間ほどぐっすりとねむってしまう。これが自分の躰には、とてもよいような気がする。「食卓の情景」 池波正太郎)


ギリシアでの酒の名言
銅は姿を映す鏡、酒は心を映す鏡(アイスキュロス 断片393)
酒に真実あり(ことわざ) 「酒と子供は本当のことを言う」というのが元らしい、しかし有名なのはこれのラテン語訳、いつごろからか行われていたのかわからないが、'In vino veritas'という。
【類例】これもギリシアのことわざで、「素面のときは胸の中にあるものが、酔うと舌の上にのぼってくる」.(「ギリシア・ローマ名言集」 柳沼重剛編) 日本では「生酔(なまよい)本性たがわず」「酒は本心をあらわす」などといったところでしょうか。


大当たり
最近中国旅行から帰ってきたアメリカ人が、ニューヨークのバーで声高に体験談をやっていた。「いやあ、奴(やつ)らには呆れたね。食堂でビールを注文したんだ。見るとビールの中で虫が泳いでいるじゃないか。ボーイに文句言ったら、ああ、これは蚊ですから大丈夫ですよ、というじゃないか。何んでも、中国料理じゃ蚊の目玉は最高の珍味なんだそうだ。だからジョッキの中の蚊なんてピーナツ豆ぐらいに思っているんだな。」それを聞いていた日本人がそのアメリカ人にやんわりと言った。「わたしもアメリカで同じような光景を見たことがありますよ。蚊ではなくてハエでしたがね。アメリカ人の酒呑みが、ビールに浮いているハエをじっとみつめて、静かに指でつまんでどけました。それからうまそうにビールを飲みほしました。それから、さっきどけておいたハエをもう一度ジョッキに戻し、マネージャーを呼んで言いました。おれのジョッキには<無料サービスの当たりくじ>が一個入っていたぜ、と。そして、もう一杯タダで飲んで行きました」(「ポケット・ジョーク」 植松黎編・訳) こんな形で日本人が登場するジョークもあるのですね。


東郷青児の酒修行
山田耕筰さんの好意で赤坂の東京フィルハーモニーの一部屋を貸して貰って、独逸(ドイツ)の新知識を吹き込まれながら、無茶苦茶に絵を描いた。それの個展で、中学出たての頃の話だよ。師匠の有島先生からは、酒が飲めなければ出世出来ないと云われて、まず酒の修行をさせられたな。新橋で先生が馴染みの妓と飲んでいるのを、廊下の端できちんと坐りながら、お膳を頂戴して苦しい修行を積んだものだよ。木綿の絣(かすり)を着て、飲めない酒を飲みながら、かしこまっている僕を哀れに思ったのか、若い妓が新聞紙に包んだぬくぬくの今川焼きをそっと渡して呉れたことがある。嬉しかったよ。−
今では僕も酒飲みで通っているけれど、生来の酒豪ではない証拠に、一杯の電気ブランで腰をぬかしたこともあるんだよ。(「なんだかおかしな人たち」 文藝春秋編) 後年の二科展大親分東郷の若き頃のエピソードだそうです。有島先生は有島武郎の弟、生馬です。 東郷青児の酒 


酒生活
一度だけ減量を試みたことがあった。お酒の量を一合前後と決め、肴は玉ねぎスライスに鰹ぶしをかけたものしか食べなかった。極端から極端に走るほうなのである。ヘルスメーターがなかったから、どのくらい体重が減ったかわからない。だが痩せたことはたしかに痩せた。ズボンがゆるくなった。はいて余りができ、みっともなくなるほどだった。「ズボンを新しくしなくちゃあ」すべてのズボンが駄目になりそうだった。夏物、冬物、あい物、全体替えることになると、これは安くない。それに−なんだ、減量なんてこんなに簡単なことなのか−その気になれば、いつでもできると思った。四十代で努力することもないな。食生活を(酒生活と言うべきかもしれないが)もとに戻したら、たちまちちょうどよくなった。すぐにきつくなった。(「食卓はいつもミステリー」 阿刀田高) 体重の減量には、肴の減少が一番寄与したように思うのですが…。


二十四孝
(落語の)『二十四孝』には、王褒・王祥・孟宗・呉猛・郭巨と、二十四孝の大看板たちが顔をならべて、それぞれのエピソードなども紹介されている。親不孝で乱暴な男が唐土の二十四孝の話を聞かされる。雷ぎらいの母親の墓石に着物をきせた王褒。鯉がたべたいという母のために、厚い池の氷の上に腹ばいに寝た王祥。孟宗の母親は寒中に筍が食べたいという。雪のなかをさがしに行くがないので落涙すると筍が出てきた。呉猛は母親が蚊にくわれないように、自分の躰に酒をぬって寝たが孝行を天が感じたものか、まったく蚊にくわれなかった。郭巨は、母親とわが子と二人を食べさせることができぬため、わが子を生き埋めにしようと涙ながらに穴をほると、金の釜が出てきた。落語の方は、このはなしをきいた不幸者が、呉猛の故事にあやかろうと、酒をのんでねてしまう。あくる朝、目をさますと少しも蚊にくわれていない。「これぞ天の感ずるところ」と得意になっていると、母親が「私が、夜っぴいてあおいでいたんだ」(「落語長屋の四季の味」 矢野誠一)


「きき酒は才能ではない」
「きき酒の目的はなんだと思いますか?」という松崎さんの問いに、「あの、どの酒がおいしいか探すわけですよね…」などと、しどろもどろになる私。「いやおいしいかまずいかではなく、酒の状態を客観的に評価するのが目的なんです。プロのきき酒は、酒が正常かどうかみることですが、一般の人の場合は、まず酒の特徴を正確に把握することですね」と松崎さん。では、その方法だ。初めに色を見る。日本酒は透明なものが多いが、よくよく見ると、黄色っぽかったり、古酒になると褐色のものもある。慣れてくると、外見だけでで酒の質がわかるそうだ。「人間と同じで、良い酒には良いツヤがある」と師匠は言うが、私が見ても色の違いくらいしかわからない。次は香りだ。まず「上立ち香」を鼻でかいでから、口に含んで空気を吸い込み、「含み香」をみる。最後に飲んで鼻に戻った「戻り香」をみるのだ。このとき、同時に味もチェックする。「きき酒は6〜7割くらい香りで判断します。味はどうしても前の酒に影響されるので、香りのほうが、区別しやすいのです。しかも、昔に比べていろいろな酵母が出てきたり、精米の違いや熟成の違いもあって、香りのバリエーションは年々増えています」松崎さんは「きき酒は才能ではない」と言い切る。なるべくいろいろな種類の酒を飲み、飲んだらメモをとる習慣をつければ、誰でもできるようになるという。ただし、自分の言葉で味や香りを言い表せる「表現力」と、メモを見ればその酒が思い出せる「記憶力」は必要不可欠だ。(「ニッポン全国酒紀行」 江口まゆみ)


卓の下
永来重明さんに聞いた話だが、森繁久弥さんの家で、むかし来客があって、酒をもてなしたが、いい気持でのんでいるうちに、あらかたビンがからになってゆく。森繁さんが、「おかわり」と」叫ぶたびに、婦人がこまって、卓の下で、森繁さんの足を蹴っていた。簡単に買いたせる時代でなかったのだ。そのうちに、客がそそくさと帰っていったので、森繁久弥夫人がいった。「あんなに合図したのに、あなた、おかわりおかわりとおっしゃるんですもの」「ちっとも知らなかったよ」夫人は客の足を蹴飛ばしていたのだ。(「新ちょっといい話」 戸板康二) ユーモアある森繁一流の作り話か、夫人がだまされたのではと、何となく思いませんか。


赤米の酒
松原 赤米の記録でもっとも古い例は、「正倉院文書」尾張国正税帳天平六年(734)の条にあります。尾張から朝廷の大炊寮(おおいのりょう)に赤米二百五十九石をおさめた、と記録されています。もっとも、この赤米は酒の原料としてもちいられていますが、柳田国男説によると、赤米の飯が、小豆(あずき)をいれて炊く赤飯に変わったということですね。赤が神聖な意味をもつ色とされたわけです。(「日本語と日本人」 司馬遼太郎対談集) 大阪吹田・国立民俗学博物館教授で社会人類学の松原正毅との対談の一節です。現在は、結構多くの蔵で赤米を原料とした清酒が醸造されているようです。


高橋是清の酒(5)
学校は正月の七日から始まるので五日には城下へ戻って来た。そうして、今度は家老始め知人の所に年始に行った。行く先々で酒を飲まされ、五日六日と二日続けて飲み歩いた。七日にはいよいよ始業式である。朝生徒を列べ、四斗樽を据えて、まず自分が大きな丼(どんぶり)で一杯飲んで、それを第一列の生徒に廻し次に他の一列にも廻した。しかるに、翌八日は文部省の視学官が視察にやって来ることになっていた。それで、こんなに酒臭くては困ると皆ないう。「正月のお祝いに飲んだのだ。まだ授業の始まらぬ前でもあるし、いいじゃないか」といって、私は放っておいた。翌日視学官が来たので、そのことをいって、酒臭いことを前もって断っておいた。八日の晩、相変わらず酒を飲んで寝ると、俄(にわか)に喀血(かっけつ)した。皆が大変に驚いて、ちょうそのころ長崎から赴任して来た唐津の医学校兼病院の先生に懇意なのがあったから、それを呼んで来た。その先生が診察をして「こりゃ大変だ。かねて大酒をやっちゃいかぬというのに、飲み過ぎるからだ。これは酒毒だ。君はこれで命を取られるぞ」と大変威(おどかさ)れた。(「高橋是清自伝」 上塚司編) 唐津の英学校校長時代のエピソードです。


酢薑(す はじかみ)
▲す(酢) さらば、これへ寄つて聞かせませ。昔推古天皇の御時に、一人の酢売、禁中に売りまはる。その時わうゐん(王院?)、酢売々々と召されしが、その門をするりと通り、簀子縁(すのこえん)にすくと立つておぢある。その時わうゐん、透張(すきはり)障子をするりとあけ、するすると御出であつて、すきの御酒(おさけ)を下された。一つたべ、二つたべ、三つ目に御詠歌を下された、お主これを聞かうずるよ。 ▲はじかみ(薑) 急いで語りやれ。 ▲す 住吉の隅に雀が巣を懸けて、さぞや雀は住みよかるらんと、下された。これに増した系図はあるまい。売子になられませ。 ▲はじかみ まづ某(それがし)がも お聞きやれ。昔 からく天皇の御時、薑売と召されしが、唐門(からもん)のからりと通り、から縁にかしこまる。その時わうゐん、唐紙(からかみ)障子をからりとあけて、からからと御感(ごかん)あり。辛き御酒を下されたり。一つたべ、二つたべ、三つ目にお肴とて、御歌(おんうた)を一首下された。これへ寄つて聞かせませ。からし、からもの、から木でたいて、からいりにせんと、下された。これに増したる系図はあるまい。お主、売子にならせませ。(「狂言記」 昭和7年刊) 酢売りと薑(しょうが)売りが張り合う狂言です。「す」と「から」の言葉遊びで、こうした狂言も多いようです。


刀自の解説
何れの国の伝統に於ても、主婦には或権力が認められて居た。家長が野に出でゝ猟し、海を越えて戦ひ又交易した時世を考へると、是は女の耕作よりよりも尚一層自然であり、又其力が昔に遡るほど強かつたことも想像せられるが、しかも今とても或程度までは必要と認められて居るのである。西洋では是をマトロン、マトロリーと呼んで居る。日本の古語では刀自であつた。刀自には稀に内侍所の刀自のやうに結婚せぬ者もあつて、語の本義はたゞ独立した女性を意味し、即ち男の刀禰に対する語であつたかと思はれるが、普通の用ゐ方は家刀自、即ち今いふ主婦に限られて居た。現在も此の語の活きて行はれて居るのは沖縄県の島々で、こゝでは妻覓(もと)めをトゥジムトゥミ、又はトゥジカミユンといふ語もある。他の地方にはたゞ文語として存するのみで、実用には代りの色々の語が生れて居る。(「女性史学」 柳田国男) この刀自(主婦)が酒造りも行ったため、杜氏という語が生まれたとしているようです。


ウイスキーキャット
ウイスキー酒蔵のねこのギルドは由緒ある古い組合じゃ。実際、ウイスキーが酒蔵で造られるようになるずっと以前から、ねこたちはギルドを作ってウイスキーの番人を務めてきたのじゃ。ギルドに加入するのはたやすいことではない。そんじょそこらの百姓家の飼いねこなんぞは、よっぽど運がよくて、抜群の勇ましい手柄を立てて、ギルドのお目にとまらぬかぎり、入れはしない。−ウイスキーの酒蔵では、最上等の大麦をまず水に浸けて、糖分を作る力を呼び起こす。それから大広間のように広い床の上に、ねこの背丈ぐらいの厚さに広げて、何日間かそのままにしておく。エネミーにしてみりゃ、願ってもないほどのご馳走の山だ。あいつらの勝手にさせておいたら、大麦の中でふざけ散らし、ころげまわって、好き放題のことをして、一方の口で大麦をガツガツ呑みこんで、もう一方の口から汚いものにしてひり散らかす。ウー!憎いやつらだ!(「ザ・ウイスキーキャット」 C・W・ニコル) 猫が語る、「酒飲みのための童話」だそうです。日本の酒蔵で猫を飼うという話はあまり聞いたことはありませんが、多分スコットランドの酒蔵には猫がいるのでしょう。同行写真家の作品の中に野ウサギを食べているところがありますので、かなり野性的な猫なのでしょう。


三木、三寸(みき)
昔唐土(もろこし)にある女 継子(ままこ)を憎み、毒酒をあてがひて殺さんとす、その子この事を知りて 与へし酒を杉木の三本ある控(うつば?)に移して帰りける、或る人かかる物とは夢にも知らず、嘗(なめ)て見るに 味(あじわ)ひ甘露(かんろ)の如し、然(しか)のみならず 嘗(なめ)て味(あじわ)ふもの 病は失せ 肌も麗はしくなる程に、帝(みかど)聞(きこ)し召して 是を取寄せてなめ給ふに、いふばかりなき珍味なり 其後彼子(かのこ)を召して 御尋ありければ、右の次第を奏し奉る、やがて内裏(だいり)へ召され宰相の官を下さりける、されば三本の杉より出生すればとて酒をば三木(みき)と名付たり、今の世に至るまで酒を入る器を杉の木にて作れるも此故事より起れり、亦酒は風寒暑湿を去ること三寸とあれば、則ち医書には三寸(みき)いふ、(「話の大事典」 日置昌一 風流日本荘子(やまとそうし)より) こじつけ語源説の一つのようですね。


アポロドロスの酒乱
アポロドロス(1)は他に双ぶ者がない大酒家であったが、自分の悪癖を隠そうとも、また酩酊してその結果犯した悪事を隠蔽しようともしなかった。もって生まれた性格の他に酒に負けやすい体質の持主で、酒で昂奮しのぼせあがると平常よりさらに残忍になったのである。  (1)マケドニア地方、カルキディケ半島にあるカッサンドレイア(古くはポテイダイア)で、民衆を煽動して独裁者となった男。数々の残虐行為を働いたが、前二七六年、アンティゴノス・ゴナタスに討たれた。(「ギリシア奇談集」 アイリアノス) 冨と力のを得て、このような結果に至る事例の何と多いことでしょう。


赤蛸のグズ安
本郷も兼康までは江戸のうち と謳われた三丁目十字街の角から二軒目の兼康小間物店は、赤い歯磨粉と堀部安兵衛の書いた看板とのために名高かった。−
安兵衛がその店のために揮毫せる「かねやすゆうげん」と平仮名ずくめの看板は、今は泉岳寺内遺物陳列所に山鹿流の陣太鼓の上部、富森春帆の「敬」字の軸の横に並べてある。いうまでもなく安兵衛は、文武両道の達人で、大酒飲み、越後の新発田を勘当され、江戸に放浪中、飲代がなくなれば、喧嘩の仲裁をして口銭(コムミッション)を取り、金のある間飲み回って、赤蛸のグズ安と敬遠されたが、時々は本心に立ちかえり、看板揮毫の正業で、潤筆料を稼ぐこともあった。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 大正時代に報知新聞に書き続けられた名調子のほんの一部です。


白夜
以前私は、阿武隈山脈のなかの平伏(へぶす)という沼にいったことがある。天然記念物のもり青蛙を見るためだった。その時、岩魚(いわな)がいる山間の小部落ですばらしいどぶろくを馳走になった。どぶろくという名前は、いかにもその対象をうまく象徴しているいい名前だと私は思っているのだが、私に馳走してくれた主人(あるじ)はどうも少し具合がわるい。さしさわりもあるから、なんか新しい名前をつけてくれまいかというのだった。私は主人の意見に賛成でもなかったが、馳走された手前もあり、どぶろくに白夜(びゃくや)という名前をつけた。今年の夏も私は、その川内村の禅寺を根拠にして阿武隈の山や渓谷を歩いたのだが、その時もまた白夜を馳走になった。(「酒味酒菜」 草野心平) この本の出版は昭和52年ですが、おいしい密造酒は結構つくられていたようですね。


いざさらば
(長明寺の)境内には石碑が多く、本堂前には、国学者橘守部(もりべ)の墓もあり、「いざさらば雪見にころぶ所まで」という芭蕉の句碑がある。この句は、雪の名所だった長命寺に建てられた句碑にふさわしいが、パロディ好きの江戸市民は、戯れに、つぎのような句を残した。
いざさらば居酒屋の有るとこまで(拾1)
いざさらば翁(おきな)も酒がなると見え(柳29)(「江戸小咄散歩」 興津要)
いざさらば 雪月花よ 酒はべつ(寝言屋) 名犬六助の塚 


ハチ(蜂)
ハチというのは、驚いたことにアルコールが好きなんだそうだ。しかも砂糖入りが好きなハチもいれば、フルーツ味が好みのも、中にはアニスの匂いがしただけでかならず寄ってくるやつもいるとか。だから、いろいろ試してみるのがいいらしい。味や材料を変えて、地元のハチの味覚に合ったブレンドを見つけだせ、というわけだ。彼が教えてくれた基本的な配合は次のようなものだった。スウィート・ヴェルモットに蜂蜜と水を混ぜたもの。クレーム・ドゥ・カシスの水割り。黒ビールとマールのブレンド。あるいはパスティスのストレート。効果的にやろうと思ったら漏斗に薄く蜂蜜を塗るのもいいらしい。そしてそのすぐ下にはかならず水たまりを作っておくこと。(「南仏プロヴァンスの木陰から」 ピーター・メイル) これは何の話かというと、ちょうど日本のハエ取りビンのような、フランスの蜂取りに使用する、蜂寄せアルコールのことです。そういえば、日本のハエ取りも、砂糖液に酒を入れていましたっけ。でも、ハエに混じってわずかにアシナガバチが入っている程度でした。蜂は洋酒の方が好きなのでしょうか。


きじ酒(2)
雉の骨付の肉を白焼きによく焼いて、出来れば塗物の酒呑みか,焼物のビール呑みに入れて、その上に熱燗の酒を注いで雉酒をつくるとじつに旨い。中に入れた肉の大きさにもよるが、二、三度は繰り返せるが、その度に味が落ちるのは何ともしようがない。ガラスのコップだと酒の濁りが透いて見えて良くない。それは雉酒に限ったわけではなく、鰻酒、河豚のヒレ酒、いずれも同じだ。蟹の甲羅酒の時には、コップでないのがいかにも嬉しく雅味があり、それだけ味覚をそそられる。肉から酒にだしの出るのは、雉が一番のようが、それだけに後の肉は煮がらしだ。しかしそれを細かく叩いて醤油で煮てそぼろにすると、かえって生から煮たのよりも旨くなる。(「味覚」 大河内正敏) ビタミンA、アルマイトなどの研究を企業化させて成功させたという、理研の学者経営者のはなしです。  きじ酒 雉肉の再現と試飲結果


孔融(こうゆう)
戦争がつづいて、兵糧が不足がちになるので、曹操はしばらく酒の醸造を禁じた。孔融はまた手紙を送った。 −天には酒星の輝きが垂れ、地には酒泉の郡が列(なら)ぶ。人には酒を旨(たしな)むの徳有り。… この世に酒は欠くべからざるものであると説いた。孔融は酒が好きである。彼が愛したのは、客(すなわち友人)と酒であった。 坐上 客 恆(つね)に満ち 樽中(そんちゅう) 酒 空しからず これが彼の人生のモットーだった。孔融の書簡にたいして、曹操は返書を送った。その内容は、酒は亡国の原因である、と論じたものだった。孔融はまた手紙を書いた。 −酒が亡国の原因となることは、たしかにあるでしょう。けれども、徐の偃王(えんおう)は仁義を重んじすぎて国を亡ぼし、燕の「口會」(一字、かい)は謙譲すぎて滅亡し、魯は儒を尊重しすぎて衰弱しました。だからといって、仁義や謙譲や儒を禁じてよいでしょうか?夏の桀王、殷の紂王は色をもって国を亡ぼしました。だからといって、いま婚姻を禁じるといえるのでしょうか。なぜ酒だけがいけないのですか?酒だけを禁じるのは、穀物がほしいからではありませんか… へらず口の見本のような内容であった。兵糧が足りないのなら、正直にそういえばよいのに、仰々しく亡国をもちだしたので、そこを突いた、といわんばかりである。曹操の忍耐は限界に達しつつあった。(「中国畸人伝」 陳舜臣) 曹操は三国時代、魏の創始者で、結局、「へらず口」孔融は曹操に殺されたそうです。


樽代
身受け証文 一、其方(そのほう:三浦屋という店))抱(かかえ)の薄雲(うすぐも)と申す傾城(けいせい:遊女)未(いまだ)年季之内(奉公期間内)に御座候(ござそうら)へ共(ども)、我等(源六というひとだそうです)妻に致度(いたしたく)、色々申候所に無相違(そういなく)、妻に被下(くだされ)、其上(そのうえ)衣類夜着布団、手道具長持(ながもち)迄(まで)、相添被下(あいそえくだされ)、忝(かたじけなく)存候(ぞんじそうろう)。則(すなわち)為樽代(たるだいのため)、金子三百五十両、其方へ進申候(すすめもうしそうろう)、自今已後(いまよりいご)御公儀様より御法度(ごはっと)被為仰付(おおせつけなされ)候、江戸御町中、ばいた遊女出合御座舗者(は)及不申(もうすにおよばず)、道中茶屋旅籠屋、左様成遊女がましき所に指置申間敷候(さしおきもうすまじくろうそう)、…(「江戸散歩」 三遊亭圓生) これは、三浦屋の遊女薄雲を妻として迎える時の証文だそうです。その際払う金子を樽代といっていたようですね。三百五十両は、千両を1億円とすると、3500万円、普通の人では到底できないことだったようです。


茶と酒
ある人、蘇州に天池茶・三白酒といううまい茶と酒があると聞き、わざわざ船を雇って蘇州へ出掛けたはよいが、まちがえてある村に立ちより、茶と酒を求めて飲んだ。ところが出されたのは古い葉の汁みたいなの(老葉湯)と、酸い白酒(酸白酒)だったので、不審に思い、「前々から蘇州をあこがれていたのに、どうしてこんなに悪い茶と悪い酒があるんだろう」というと、「このごろ風俗が変わりましてな、よい茶やよい酒はなかなか捜しても手にはいりませぬ」(「笑府」 岩波文庫) ちっとも面白い話ではありませんが、当時の中国の味に対する興味の強さが大変大きなものだったことがよくわかります。


四方久兵衛
源宗于(むねゆき)の「山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草も枯れぬと思へば」は、 山里は冬ぞさびしさまさりける やはり市中がにぎやかでよい と、ユーモラスに下の句でくだくなど、うれしい作風をしめしたが、この四方赤良の号は、当時の戯作によく出て来る「鯛の味噌ずに四方の赤、いつぱい呑みかけ山の寒がらす…」という文句によったものだった。四方とは、新和泉町(中央区日本橋人形町三丁目のうち)にあった酒屋四方久兵衛の店で、ここでは、赤味噌と銘酒滝水とが評判を呼んだ。 酒味噌でその名も四方へひびくなり(柳72) (「江戸食べもの誌」 興津要) もちろん四方赤良よものあから)は太田蜀山人の別号です。


酒類販売機の撤廃
WHO(世界保健機構)の外圧を借りて、酒類自動販売機の撤廃勧告が出されたのが平成三年のこと、それに対応した酒販業界の自主撤廃の決議がようやく平成七年の五月に公式になされたところです。しかし、テレビのゴールデンタイム中の宣伝広告は、タバコに関しては見られなくなったものの、アルコールはいまだに野放しの状態です。そもそも、法規制そのものが人々の習俗や慣習、あるいは価値観などを反映するものであることを思うと思うと、飲酒と酔いに対する社会的な寛容度と連動している法規制のゆるやかさもよく理解できます。(「酒飲みの社会学」 清水新二) タバコと酒に反対する人達の、それぞれの対象に対する態度の「強度差」には確かに顕著なものがあるようです。それぞれが今後どのように変化していくか興味深く思いませんか。酒販機はまだまだ街頭に沢山ありますし、コンビニやホテルの中などでは深夜でも買えますから撤廃にはほど遠い感じがします。


池波正太郎の父の酒
私の亡父・富治郎は酒のみであって、私が生まれたころ、気が向くと一夜に二升は、「軽く、のんだ」と、母がいう。それでいて、すこしも乱れず、のみ終えると、すぐにねむってしまうのだが、おもしろくないことがあるとふとんにもぐったきり、三日でも四日でも起きない。「いつ、便所に行くのか、物を食べるのか、それがわからない」のだそうだが、いつのまにか、お鉢が空になっているところを見ると、どうやら真夜中に食べていたらしい。なにしろ、私が生まれた雪の朝も、前の晩に深酒をして、二階でねむりこんでいた父へ、「男の子さんが生まれましたよ」と、産婆が駆けあがって来て知らせるや、父は、「寒いから、後で見ます」といったそうな。(「食卓の情景」 池波正太郎) この本には、酒の話も満載です。


前払いで
呑み屋で男がバーテンにいった。
「ぼくが酒の飲むのは、何もかも忘れるためさ」
バーテンが答えた。
「そういうわけでしたら、前払いでお願いします」(「ポケット・ジョーク」 角川文庫) 
今なら、名前を書けなくなる前にクレジットのサインをしておいてくださいといったところでしょうか。


海の神が自ら歌った謡
二三日たった時、窓の方に 何か見える様だ、それで 振りかえって見ると、東の窓の上に かねの盃にあふれる程 酒がはいっていてその上に 御幣を取りつけた酒箸が載っていて、 行きつ戻りつ、使者としての口上を述べて云うには 「私はオタシュツ村の人で 畏れ多い事ながらおみきを差し上げます」と オタッシュ村の村長が村民一同を代表して私に礼をのべる 次第をくわしく話、 「トミンカリクル カムイカリクル イソヤンケクル 大神様、勇ましい神様でなくて誰が、 この様に私たちの村に飢饉があっても もう、どうしにも仕様がない程 食物に窮している時に哀れんで下されましょう。 私たちの村に生命を与えて下さいました事、 誠に有難う御座います、海幸をよろこび 少しの酒を作りまして、小さな幣を 添え、大神様に謝礼 申し上げる次第であります。」という事を幣つきの酒箸が行きつ戻りつ申し立てた、 それで私は起き上がって、かねの盃を 取り、押しいただいて 上の座に六つの酒樽の蓋を開き 美酒を少しずつ入れてかねの盃を窓の上にのせた。 それが済むと、高床の上に腰を下し 見ると彼の盃は箸と共に なくなっていた。それから、鞘を刻み 鞘を彫り、していてたがて ふと面をあげて見ると、家の中は美しい幣で一ぱいになっていて 家の中は白い雲がたなびき白いいなびかりが ピカピカ光っている。私はああ美しいと思った。(「アイヌ神謡集」 知里幸恵編訳) クジラをとった海の神が、自分の兄弟と、人間に半分ずつ獲物を分け与えた話です。このあと、大神は神々をよんで捧げられた酒で酒宴をはってそのいきさつを語ります。


食べ物に対する愛着
食べ物に対する愛着は、おそらくは私たちの世代にとって一生拭(ぬぐ)いがたいものだろう。 お前来るかと一升買って待ってたよ あまり来ないのでコラサノサ 飲んで待ってたよ という俗謡の一節を聞いても私は食べることがどれほど大切であったかを考える。この歌の場合は”一升”と言っているのだからきっと酒だろう。だが、酒も食べ物の一種だし、酒があるなら多少の肴も用意してあるだろう。友だちを歓待する証拠として、この歌の主人公はことさらに酒をあげ、それを誇らしげに告げているのだ。一升の酒と少々の肴があれば、”お前”がなにをおいても喜んでやって来るだろうと彼は考えているのだ。つまり、彼を取り囲む社会全体が、かつてはそういう状況になっていたのである。今の若い人はそうは思うまい。一升の酒と少々の肴くらい、取るに足らないものである。(「食卓はいつもミステリー」 阿刀田高)


小林秀雄との酒
お酒が出ました。小林さんはサービスがよくておちょこが空になるひまがないので、飲むのに忙しい。−
お酒が入ると小林さんの話は飛躍しますが、あえて関連をつけて解釈しようとは思いません。しようとしても出来ないことです。−
「こないだ光公、何を怒ったの?僕酔っぱらってて解んないんだよ」光公とは中村光夫氏のことであり、こないだとは、こないだ一緒にお能を見た。そのあとで小林さんはごきげんで、しきりに梅若六郎氏の完全無欠間違いなしの芸を褒めていられた、それに中村さんが文句をつけた。何でもない、先生は健康で明るい芸をただ褒めたのであり、光夫さんのほうは方はみとめなかった、それだけのことです。−(「心に残る人々」 白洲正子)


ドジョウの効能
『食品国歌』には、「泥鰌よく 中調へて 痔を治め、消渇(しょうかち)・酔を解するものなり」とあるのだが、「消渇」なんて言葉、いまどきの若者にはなじみがなく、三升家小勝の「どうかわたしの名をショウカチと読まないでください」というくすぐりも通用しないときくから、手もとの国語辞典からひいておく。 〔消渇〕 @のどがかわいて小便が出ないという病気。A淋菌による、婦人の急性尿道炎症。(「落語長屋の四季の味」 矢野誠一) ドジョウも酔いを軽くするようですね。実は、昨晩、ドジョウの唐揚げで飲んできたのですが…。


頼山陽、スルフ
頼山陽は九州旅行の途中で、画家田能村竹田(たのむらちくでん)のところをたずねた。竹田が「あなたはいつのまにかそんなに酒が強くなったのですか」ときくと、山陽「この旅行中に強くなりました。家に帰るときっと女房に叱られることじゃろう」
学者達が集まって、アリストテレスが老人はすぐ酔うが、女はなかなか酔わぬと書いた理由を論じた。カルタゴ生まれのスルフは、「女には毎月浄めがあり、溝のついた花壇のようなもので、酒も体の中を早く流れぬけていってしまうのさ」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎)


溝口八郎右衛門の墓
智蔵寺の酒豪八郎右衛門墓。ところは山名。この曹洞宗の寺の墓地に、風がはりな墓が一つ立つてゐる。ただし、今日では白い苔におほわれて、こまかいところまでは目がおよばないが、そこに、酒樽の上に坐した人物のかたちがみとめられる。人物は頭巾をかぶり、酒瓶とさかづきとを手にして、まさにひとち酒をくまうとしてゐる。うしろに向背に似たものが附いてゐて、それにかすかながら文字が読める。出羽の三山の名である。すなはち、人物は三山めぐりの行者のすがたに仕立ててあるらしい。酒樽の前面にも文字ありとおぼえる。苔の上から手でこすって、指さきをもつて文字のかたちを判読するほかない。指は無漏の二字をさぐりあてるはずである。すべて石翁の石彫。人物は溝口氏、八郎右衛門といふ。八郎右衛門は豪酒をもつて郷曲にきこえた。墓は生前、おそらく死の一年ぐらゐまへに、立てたものである。没年をいへば、天保十四年癸卯、行年九十。石翁のほうはそのとき六十五歳。八郎右衛門の辞世として一首がのこされてゐる。 百の銭 九十はここで飲み別れ 六文もつて 長の道中(「諸國畸人傳」 武田石翁 石川淳) 安房の石工・武田石翁の中の一節です。


酒のことわざ(5)
金時の火事見舞い(主に酒を飲んだ赤ら顔)
食い外れはするとも飲み外れはせぬもの(飲む機会を逃さないのは当然というか…)
薬の灸(やいと)は身にあつく毒な酒は甘い(忠言は身に逆らい、誘惑は快い)
熊野の一升泣き(葬礼の時報酬を出して泣き女を頼む風習だそうです、お礼が酒一升くらいだったのでしょう)
系図上戸(飲むとわが家の家系自慢)(「故事ことわざ辞典」 鈴木、広田編)


伎楽での酔胡王と酔胡従
まず先頭は治道(ちどう)、案内と露払いの役です。次に庇持ち、笛・腰鼓・銅拍子・鉦盤の楽隊が、そして、その後ろへ獅子から酔胡王とその従者までが続きます。舞台では、治道が獅子を呼び、獅子児が必死に舞台に引っ張り上げようとします。しかし獅子は舞台に上がろうとせず、しかたなく治道は呉公(ごこう)の登場を促します。呉公は、舞台で笛を吹き、ついで上がる伽楼羅(かるら)は土中の毒虫を食べる振りをします。続いて呉女(ごじょ)と呉女従が登場。呉女に横恋慕する昆崙(こんろん)も舞台へ、かつてはかなりかなり卑猥な所作もしたようです。然し昆崙の恋故の悪戯も、金剛と力士によって砕かれ、追い払われてしまいます。ついで、婆羅門(ばらもん)が現れ、おむつを洗う振りをします。続いて太孤父(たいこふ)は太孤児に付き添われて登場、敬虔な信者の様子と親孝行の姿が対照的に表現しています。次に酔胡王とその従者達が登場。彼らは舞台の上で、宴会をはじめ、酔っ払っては歌い踊ります。宴もたけなわになったころ、酔胡従の一人が蹴って起こしてしまいます。目を覚ました獅子は暴れまわります。獅子児の手に負えず、呉公もあがってとめますが、呉公の威力をもってしても一向におさまりそうにありません。まさに「獅子奮迅」です。そこで呉公は懐から取り出した幡(ばん、宗教的権威の象徴)を獅子につけますがまだ治まりません。百花の王である、牡丹によってようやく獅子はおとなしくなります。(「広報 こくふ 454」 )伎楽面


月岑の酒
斎藤月岑(げっしん)は、外出すると料理屋で食事をすることが多く、酒もよくのみました。天保一三年(一八四二)九月の町奉行所隠密廻りの上申書によりますと、名主市左衛門は、世話掛など掛役に任命されていて、公務もうまく処理していますが、酒が入るとわきまえがなくなり、ふさわしくない言動もあると報告されています。日記にも、文政一三年(一八三○)三月には、金吹町(現中央区日本橋室町三丁目辺)の料理屋清水で大酔いしてしまい駕籠で帰宅し、閏三月には東湊町(現中央区新川二丁目)名主遠藤七兵衛宅で酩酊してしまい、帰ることもならず泊めてもらったあります。これで反省したのか、以降は度を越して酒を飲むことはなくなり、節度ある飲酒であったようです。(「神田が生んだ文化人と出会う 市左衛門と月岑」 加藤貴) 市左衛門は月岑の通称です。「武江年表」、祖父、父と3代かかった「江戸名所図会」等の著者です。


川柳の酒句(13)
二日酔 よりとも程な おもみがし(川柳では頼朝は大頭だったということになっているのだそうです)
ふらそこは ちびりちびりと あおくなり(酒器のフラスコは、酒が減ってくるとガラスの色が出てくる、江戸時代としてはしゃれた句)
棒の中 めんぼくもなく 酔は醒め(棒を持った辻番などに取り囲まれた酔っ払い)
みき徳利 きゃたつの上で ふって見る((神棚は高いところにあるので)
御酒徳利 一つこわして 二つ買ひ(御神酒徳利は対なのでこうなります)


雄町と山田錦
ここは岡山県赤磐郡熊山町、酒造好適米、雄町の産地として知られたところである。現在では、酒造好適米の代表は山田錦とされているが、戦前は雄町のほうが好適米としては有名だったという。米の値段はいまでも雄町のほうが高いそうだ。ただ、つくりかたがひじょうにむずかしく、最近では岡山と中国地方のわずかでしか栽培されていないらしい。「私は山田錦よりも、雄町のほうがににいい吟醸ができると信じています。」というのは、さきほどの『桜室町』の専務、花房満さんだ。「山田錦は香りの吟醸だが、雄町は味の吟醸だと思うんです。山田錦はたしかに、できたての香りがいいのですけど、雄町は香りがどんどんあがってくるんですよね。だから、鑑評会では雄町でつくった吟醸はいつも損をするのです。(鑑評会は五月に行われる)」『桜室町』は雄町を二千俵もつかっているというから、もう雄町信仰のようなものである。(「自然流『日本酒』読本 福田克彦・文)


高橋是清の酒(4)
かくて、(福井藩で高橋が開いた英語学校)耐恒寮における授業の成績は相当見るべきものがあったが、一方、私は、唐津に来てからは従来に増して酒を飲むようになった。朝は教場に出る前に冷や酒をやり、昼は一升、夜は学校の幹事などを集めて酒盛りをやるという風で、毎日平均三升ずつは飲んでいた。そうして、いつの間にか酒の肴に鶏を飼うことを覚えて、日曜日には幹事や学生、小使いなど五、六人も連れて、村落へ行っては鶏を買って来て、それを城内に飼育し、毎晩二羽ずつくらい料理して鶏鍋をやっていた。(「高橋是清自伝」 上塚司編)


斎藤月岑の辞世句
斎藤月岑(げっしん)は、江戸を知るために大変役に立つ「武江年表」の著者です。武江年表は全12巻、正編8巻は嘉永1年、続編4巻は明治11年に成立したそうです。赤坂一ツ木町屋が天正19年(1591)にできたとか、慶長8年に神田の山が切り崩されて埋め立てが行われたことなどからはじまる、興味尽きないものです。
その月岑の辞世句のひとつは
冥土にて いざこととはむ ほとゝぎす 又六どのゝ みせはありやと だそうです。(「増訂武江年表」 略伝 東洋文庫)
在原業平の本歌取りで、又六殿の店とは、酒屋のことで、冥土での酒屋の心配までしていますので、きっと酒好きだったのでしょう。


暇(いとま)の袋
▲シテ男 罷出(まかりい)でたる者は、この辺(あたり)の者でござる。某(それがし)幼馴染(おさななじみ)の女がござるが、眉目(みめ)形見苦しうて、朝寝を致し、たまたま起きて大茶をたべ、人事(ひとごと)をいひ、殊(こと)に大酒までたべて、酔狂を致し、何とも迷惑に存ずる。いつぞは去りたいさりたいと、存ずるところに、昨日より親里へ帰つてござる程に、この暇状(いとまじょう)を持たせてやって、去ろうと存ずる。まづ、太郎冠者を喚び出し、申し付けう。やいやい、太郎冠者、あるやい。(「狂言記」) 離縁状を里に帰っている妻に届けさせようと、太郎冠者に申しつけるが、こわがっていやがるので刀で脅して使いにやります。もちろん、怒った妻は戻ってきて、「入(い)る道具があつて取りに来た。」と持ってきた袋を夫の頭にかぶせてしまいます。「ああかなしや、最早去るまい。ゆるせゆるせ」と夫。


貰婿
▲をな 妾(わらわ)はこの辺(あたり)の者でござる。妾がつれやい(夫)、何ともかともならぬ酒飲でござるが、酔狂(よいぐるい)を為られて、迷惑致します。それにつき意見を申したれば、暇をくれてござる。別に参(まい)らう所はござらぬほどに、恥かしや、親のかたへ帰りませう。ものも、お案内。 ▲をなが親 聞いたやうな声がするが、誰も出ぬか。や をなは何して来たぞ。這入り(はいり)はせいで、余所(よそ)余所しい有様な。 ▲をな いや父様(ととさま)、己(おれ)が此(こ)うして来るは、別の儀ではござらぬ。内の食ひ倒れが言事(いいこと)をしたによつて、戻りました。 ▲をや 何といふぞ、子中をなしたる中を、出るぞ引くぞと云ふ事はあるまい。一時も置かぬ。お帰りやす。(「狂言記」) をなは女、妾は女性の自称(福田英子の「妾の生涯」が、勘違いされたらしく結構売れたという話もあるそうです。)、もののお案内は、訪問した際の挨拶です。ノンベイ亭主に意見したからと追い出されて実家に帰った妻が、迎えに来た亭主に背負われて「祭りにはきます」と帰っていく話です。


高岩寺の「御影」
高岩寺で、ちっちゃな薄い紙ペラに、爪の先程の地蔵尊が印刷されている、五枚一組の「御影」を、家族の人数分買う。これは、亡くなった祖父母が財布に常備していたお札で、家族の者が、車酔い、二日酔い、悪心、胸つかえ、ともあれ何でも気分の悪い時に、コップ一杯の水と共に、これを一枚舌の上に載き、飲み下しなさいと言われたものだ。取り出す時は、必ず効く、すぐさま効く、と、毎度真顔で力説した。こんな小片、飲んだところで大事なしと、ジジババ孝行に、素直に飲んだ。祖父母を偲んで、皆きっと歓ぶだろう。祖父母は、さも痛ましそうに押し戴いて一枚の「御影」を頒(わ)けるので、ずっと高価なものと思っていたが、五枚で百円だった。二日酔いにバッチリだからと、ポにもお仕着せにひとつ持たせる。(「呑々草子」 杉浦日向子) ポは、同行の編集者です。お江戸でござるもこの調子でやればよかったのに…。高岩寺は、巣鴨のとげぬき地蔵です。


酒と盃
酒器展を見た(日本橋白木屋)。おもに日本と中国と朝鮮の酒器だが、この展覧会を見ながら私が考えていたことは、どの徳利や銚子にはいっている酒を、どの盃で飲んだらうまいだろうかということだった。−
私はこうした焼き物には全く無知で、日本のものでは柿右衛門の作品など初めて見たのだが、見て私はびっくりした。これがそんなに有名でかつは名作なのだろうかと、考えこんでしまったほどである。柿右衛門のは色絵扁壺(へんこ)と台付きの盃があったが、そんな盃でのんだら酒の味も落ちやしないかと私には思えた。とびきり小さい古瀬戸の盃が一つあった。茶っぽい色の盃だったが盃底にソラマメの花を連想させるようなぼってりした黒色がしずんでいるかわいい盃だった。紫式部にでも進呈したいようなしろものだった。大型のものでは高取上畑窯(かみはたよう)のぐい呑みとか唐津山瀬窯(やませがま)盃などがいいと思った。古九谷の徳利はいくつかあったが感心したものは一つもなかった。むしろつまらないものばかりだった。(「酒味酒菜」 草野心平)


キプロスふらふら
この日、海べのレストランで、昼食にマコが飲み、ぼくも飲んだアフロディテは、キプロスでの有名な白ワインのひとつだった。ちゃんと壜にはいって輸出もされているのだろう。ただし、これだけワインがおいしく有名なのに、キプロスの男の人たちはほとんどワインは飲まず、たいていキプロス・ブランデーを飲んでいる。ゴールデン・ベイ・ホテルでのディナーでは、やはり白ワインのホワイト・レディをマコと二人で二本飲んでしまった。そのあと、強いブランデー・サワーをがぶがぶだから、くりかえすがワインは控えめにしなくちゃ。ディナーのあと、バーにうつる。バーのカウンターのよこの方に大きなガラス窓があり、庭とそのむこうに海が見える。ちょっぴり切りとった海ではない。暗い夜の闇の中で、はるかなさきまではわからないが、それでも広い海が見えるバーというのもいいものだ。もっとも、アンドレアとならんで、バカらしい冗談を言いあったりしているが…。この夜も大きな皿にはいった生のキュウリのお通しがでた。バーテンものってきてゾンビをつくってくれる。ゾンビはカリブ海ないし南米コロンビアあたりの死人オバケで、死んでいるのにふらふらあるいたり、わるいことをする。(「世界酔いどれ紀行 ふらふら」 田中小実昌) こんな調子でオーストラリア、アメリカ、イギリス、ドイツ、オランダと飲み歩いた紀行文です。この分野の本を読んでみて、作家とは大変な商売だと思います。


バイロン、十返舎一九、陶淵明
バイロンの家の庭から、ある時古い頭蓋骨が掘り出された。彼はこれに銀メッキして杯とし、悪友達と酒をのんでいうのだった。「この頭蓋骨も、うじ虫にになめられるより、僕たちの唇になめられて、さぞうれしいことだろう」
十返舎一九は家中の家財道具までみな売り飛ばして、友達と飲んでしまうのだった。彼は絵心もなかなかあり、何もなくなった部屋の壁に白紙を張って、その上に道具類の絵を描いてすましているのだった。
陶淵明の詩。「白髪がふえ、体はおとろえた。五人のむすこはみな学問きらい。十六の長男は徹底した怠け者。次の十五はてんで学ぶ気がない。十三のは六たす七もできぬ。その下はおやつをねだるだけ。ああ!酒でも飲むよりしかたがない」
(「世界史こぼれ話」 三浦一郎)


度牒を取りあげる(笑府)
貴人、寺に詣(まい)り、僧に向かってたずねた。「和尚は生ぐさものを食うか」「あまり頂(いただ)きませぬ。ただ酒を飲むときに少々食べます」「なに、酒も飲むのか」「はい、大して飲みませぬが、舅(しゅうと)がまいったとき相伴(しょうばん)していささか飲みます」貴人怒って、「なに、きさま、妻もあるのか。まったく出家らしからぬ。明日にも県知事にいって、貴様の度牒(どちょう)を取りあげてやる」といえば、僧、「何を隠しましょう、一昨年盗みを働いた事実が露見して、すでに取りあげてられております」この頃の僧侶は、五戒なんて掃いて棄てたみたいにして顧みない。この坊さんはまだしも「不妄語戒(ふもうごかい)」だけは守っているわけだ。(「笑府」 馮夢竜撰 松枝茂夫訳) 度牒は、僧尼であることの証明書、不妄語戒はうそをいうなかれという戒めです。ちなみに、五戒には、不飲酒戒(ふおんじゅかい)も含まれています。


最後の麹蓋(こうじぶた)職人
「本柾(ほんまさ)でないと、ねじれたり、ヒビ割れしたり、狂いが生じるんでしょう。麹室(むろ)の中は温度が高いし、乾湿差もある」わたしは、二杯目を彼の湯飲みに注ぎ入れた。「それもありまっ。だいいち底板同士をハギ(つなぎ合わすこと)ますのに、製材の板目では竹クギが入らんのですわ。なんちゅうても、本柾でないと良いコウジができん」「そこなんですよ。分からないのは」「あんさん。おひつを使いなはったことありまっか。あの理屈だす。おひつのご飯は米がベトつかず、おいしかったですやろが」「中学生のころまでは、実家で使っていましたね。フカフカしたご飯だったなあ」吟醸酒で顔を紅らめた彼は立ちあがると、わたしをとなりの土間へとうながした。物置の引戸を開け、おひつを一個取り出す。よく見ると、おひつの蓋、側、底板まできれいな柾目模様が描かれているではないか。「つまりや。コウジの水気を本柾が自然に吸収してくれますのや。板目やと、こうはいきまへんで。なんせ、サラッとしたハゼ込みのあるコウジが、酒造りに一番向いとるもんなあ」(「旨い地酒を求めて」昭和63年出版 北川広二) 最後の麹蓋職人だという当時75歳の松本平一を奈良県吉野町に訪ねた時の聞きとりです。


江戸で有名な酒銘
式亭三馬著『四十八癖』(初篇文化九年・一八一二−四篇文政元年・一八一八)を見ると、「何、あれが名酒なものか。(中略)おいらがのむ酒から見ては、かげもねえ。こちとらは、銭こそなけれ、紙屋の菊か、木綿屋の七ツ梅、さては、焼き印の剣菱でなくてははらが合点しねえ」とか、「ヲット来たり、四方か、滝水(たきすい)五升、こいつが命から二ばんめだ」とか、江戸で有名な名前が並んでいる…(「江戸食べ物誌」 興津要) この後、七ツ梅は、摂州池田の銘酒、、剣菱は昌平橋外、すなわち外神田の内田屋清右衛門方の酒銘、四方と、滝水は、和泉町(千代田区神田和泉町)の四方久兵衛の酒銘と解説していますが、どんなものでしょう。


川柳の酒句(12)
末長く いびる盃 姑差し(しゅうとめになって初めて分かる感覚ですか)
三会目 飲みも飲んだり 喰ひも喰ひ(初会、うらとなり、三度目の「馴染み」となった遊女の風景です)
酒は醒め 新造は眠る 火は消える(せっかく吉原へ行ったのに、もてなくて、遊女は部屋へ来なかった)
返されもせず 三郎へ 御酒をあげ(三郎は恵比寿、大黒を年の市で首尾よく盗むと福を授かるということだったが、間違えて恵比寿を盗んだという句)(「江戸川柳の謎解き」 室山源三郎) それにしても、酒を題材とした句は沢山あるものですね。


修行
普段、我々は野菜や麦飯であってもじつは満腹するだけ食べることはできる。しかし野菜に慣れた胃には、いくらなんでもというメニューが並ぶ点心も多い。あるお宅では、すき焼き、生寿司、鰻重。これは三回分ではなく、一度に出されるものだから堪らない。ほかに三人でお飲みなさいと、一升瓶が二本添えられる。朝、告知板に三、四組の托鉢メンバーとその点心先が書かれて発表されるのだが、このお宅に当たったメンバーは、口にこそ出さないががっくりきて、皆に憐れまれることになる。しかしいつかは自分にも廻ってくるだろうと思うと、まるでロシアン・ルーレットの気分なのである。私が当たったときも、なんだか武者震いしたものだだった。その家の仏壇前でお経をあげるとすでにすき焼きがいい具合に煮えていて、最初はむろん喜び勇んで食べはじめる。冷や酒を飲みながらすき焼きを食べるうちに、お勤めでもあることを忘れて極楽気分になってくる。しかし、寿司、鰻重と食べ進めると、ほどなく地獄が見えはじめる。酒はようやく三人で一升あけたが、どうしてもあと一升が飲めない。仕方ないから、食べ終わったすき焼き鍋に少しずつ入れて蒸発するのを待つのである。飲食物に申し訳ないとは思うけれど、こうなると本当に修行である。(ベラボーな生活」 玄侑宗久) 托鉢する雲水の話ですが、いまどき、浮世離れした話ですね。


池波正太郎とぜんざい
三十代のころは、芝居の仕事をしていて、大阪で稽古をつづけているときなど、稽古帰りにしたたか酒をのんだあと、法善寺の〔夫婦(めおと)ぜんざい〕などを軽く食べたりしたものだが…。
酒後の甘味は、躰(からだ)に毒だそうだが、また捨てがたいものがあるようだ。(「食卓の情景」 池波正太郎) 池波正太郎は両刀使いだったようですね。清酒はどちらかというと甘い酒に分類されるように思われますし、焼酎のねかせたものなど甘味を感じ、これがおいしさでもあるわけで、アルコール党すなわち辛党という図式は正確ではないのでは。一般的に、関西のぜんざいは関東のしるこだそうです。


浅七の肴観
東京門前仲町の「浅七」は、昔の江戸の肴を研究し、供しているたいへん優れた居酒屋で、私はここの主人と話をしていて目からウロコがおちる思いをした。主人の言うには「居酒屋の酒と肴のバランスは、五十一対四十九」。あくまで酒が主役である。また居酒屋の肴は「冷めてもおいしくなければいけない」。せっかくいい気分で飲んでいるのに「冷めないうちにどうぞ」は余計なお節介なのだ。「酒の最高の肴は会話です。話がはずんで肴がとり残されてるのは、楽しんでいるってことですよ」とは潔い言葉だ。この店では大勢で同じ品を注文してもそれぞれ一人前で出し、盛り合わせはしない。鍋ものでも一人一鍋の小鍋立てだ。酒飲みにはそれぞれのペースがある。一緒盛りで妙に遠慮しあったり、最後の愉しみに残したのをさらわれたりの気をつかわせないためだ。(「超・居酒屋入門」 太田和彦) 私のいった時は、たまたまなのでしょうが、客の方がご主人に気をつかうといった感じの店のように思われました。もちろん、酒と肴は十分に楽しめました。


無銭飲食
男がバーに入ってきた。五十セント玉をカウンターに置いてビールを一杯飲むと出て行った。バーテンは、その五十セントをレジスターに入れず、自分のポケットにしまった。酒場の経営者がそれをみていて言った。「どういうつもりなんだ、そんなことをして」バーテンは静かに答えた。「旦那はどう思われるか知りませんが、あの男はビールを飲んで、その代金を払わなかったんでさあ、わたしにチップを五十セント置いていっただけで」(「ポケット・ジョーク 酔っぱらい」 植松黎 編・訳)


鹿内賢三
この人は、おばあさんひとりで育てられて、師範学校を出て教師を何年かやり、これで大学まで大丈夫というまで、お金を貯めて弘前高校へ入ったんです。それで、寮の委員長なんかしたんですが、太宰治やほかの人にどんどん貸したりして、結局、高等学校の段階でなくなってしまったんです。で、京大の中国文学科に入ったすぐその日に、鈴木豹軒さんの研究室へ行って、これこれの事情で金がなくなったから、なんとかならないでしょうか…。豹軒先生は感じ入ってしまう。上方における奥州人のトクなところです。それで伏見の造り酒屋で家庭教師を求めているところがあるから、きみ、住み込みで見てやってくれとなったんです。で、教えてる子が学校に入ったからお払い箱になるところだったんですが、彼があんまり一生懸命やったんで、造り酒屋さんが、その子が卒業するまでおってくれ。卒業したら娘をもらってくれ。さらには造り酒屋が集まって、大阪に女子校一つ建てたんで校長になってくれ。初めから校長なんです。(笑)人徳ひとつで一生を送ったような。(笑) 「日本語と日本人」 司馬遼太郎対談集) 東北人を話題にした対談の中で、司馬が鹿内賢三について語ったものです。


エロドのすきな酒
第二の兵士 王は酒には目がない。三種の酒を貯へておられる。一つはサマトラキア島に産する、ローマ皇帝のマントのやうに真赤なやつだ。 カバドシア人 おれはローマ皇帝を見たことがない。 第二の兵士 もう一つは、サイプラスの町で出来る金のやうに黄色いやつだ。 カバドシア人 おれは金が大好きだ。 第二の兵士 それと、最後がシシリアの酒だ。それがまた血のやうに真赤なやつときてゐる。 ヌビア人 おれの国の神々は、みな血には目がない。年に二回、おれたちは若者と娘を贄(いけにへ)に捧げる。(「サロメ」 オスカー・ワイルド 福田常存訳) エロドはサロメの父で分邦ユダヤの王、サイプラスはキプロスです。酒も悲劇の始まりの雰囲気を高めています。


砂肝のつき出し
阿佐ヶ谷の一ぱい飲み屋”角八(かどはち)”では、とてもおいしい砂肝の煮つけをつき出しに用意していた。量は少ないが、こいつはその店のほかのどの料理よりもうまい。つき出しだから当然無料である。一杯飲む客より五杯飲む客の方が、店にとってよい客のはずである。なのに、コップ一杯あたりのサービスは、よい客の方が少ししか享受できない。これが矛盾でなくてなんであろう。「どうして二杯目には砂肝がつかないの?」意地きたなくも主人に質問してみたことがあった。親父はしばらく質問の主旨がのみこめないらしく、目をぱちくりさせていたが、「そりゃ、兄さん、つき出しってものは、人につくものですからね」となにやらわかったようなわからないような説明をする。(「食卓はいつもミステリー」 阿刀田高) 社会に出たてのサラリーマンだった若き阿刀田のエピソードだそうです。角八って今もあるのでしょうか。


元時代の戦いと酒
鎮江府をあとに、東南にむかって、活気ある町や村をぬけてゆくと、三日で宏大な常州に到着する。住民は偶像を崇拝し、紙幣を使用し、商工業で生活している。絹の産額も多いし、土地が肥沃なので、鳥獣も多いし、食糧も豊富だ。かつてこの地では、住民の手で残虐な行為が行なわれ、そして返報をうけた話がある。マンジ地方征服の際、司令官バヤンはキリスト教徒のアラン人の一部を派遣して、常州を占領させた。彼らはたちまち占領したが、入城したとき、良質な酒をみつけ、おおいによろこんだ。酔いつぶれるまでのみ、とうとう豚のように横になってねこんでしまった。夜になって町の人々は彼らがまったくよいつぶれているのを発見し、おそいかかって、一人のこらず虐殺してしまった。これをきいた大ハーンは他の将軍に大軍をさずけて派遣し、この町を強襲させ、住民を一人のこらず斬殺した。一人もにげられなかった。(「東方見聞録」 マルコ・ポーロ 青木富太郎訳) マンジは中国を指しており、鎮江、常州は現在の地のようです。こうした虐殺も多くて恐れられた一方、フビライは異教徒対応にも気を遣ったようで、キリスト教徒も征服の戦いに加わっていたようですね。だれかに教えてあげた方がよいのでは。


白乾児と老酒
此間中国見本市の招宴の晩に、久しぶりで白乾児(パイカル)をかいだ。いい匂いだった。その匂いから度数も想像できるほどキーンとした匂いだった。恰度(ちょうど)胃の痛みもあったので、飲みはしなかった。白乾児は恰度日本の焼酎にあたるが、晩秋と陽春の空とのちがいのように、その湿度のようなものにちがいがある。白乾児は度数は強いが味はサラッとしている。焼酎は幾分薄めだが舌ざわりは重たい。これは焼酎と白乾児だけのちがいではなく、中国と日本の酒全般を通じてのちがいのように思われる。老酒(ラオチュウ)はゴルフのようなもので五十すぎてからはもってこいといった感じの酒、味は矢張りさらっとしていて度数は低いが味にはコクがある。日本酒の丸味をもった重たいねばっこい味もいいにはいいが、私には老酒の味の方が好ましい。年のせいだろか。(「酒味酒菜」 草野心平) パイカルは、中国北部で作られるコーリャンを原料とした蒸留酒です。ノンベイの草野はやはりさっぱり味系がよかったようですが、パイカルと焼酎の対比は面白いですね。


日南の見た熊楠の酒
熊楠は、まじめな顔つきで日南に、「僕はロンドンにきてからすでに八年、食う物も食わないで勉強している…しかし、飲む物だけは飲んで」と喋(しゃべ)りだした。そういえば再会のその時から、熊楠は酒気芬々(ふんぷん)であった。
熊楠はこの部屋で、日南に顕微鏡をのぞかせ、動植物の両性を具えている標本の不思議を見せたり、外出すると行きつけの居酒屋(パブ)で、馬の小便のように生ぬるいビター(イギリスの生ビール)を振舞ってくれたりした。が、それは一杯や二杯ではないのだ。町々の角ごとにある居酒屋を片っ端から飲み歩いていくのである。この壮大なハシゴ酒にあきれた日南は、《(熊楠に)角屋先生の尊号を上(たてまつ)った。彼は歓んで其の儘(まま)之を甘受した》(「縛られた巨人 南方熊楠の生涯」 上坂次郎) 日南は、史論家の福本日南です。誰が見ても熊楠の酒は印象的なものだったのでしょう。


ヘミングウェー、サミュエル・ジョンソン、豊島与志雄
今度の戦争に従軍していたヘミングウェーは、いつも水筒を二つぶら下げていた。片方にはジンが、他方にはベルモットが入っていて、戦闘が静まると、彼はカクテールをつくってはのむのだった。
禁酒論者のサミュエル・ジョンソンに、ある酒好きな男が、「しかし酒は一切の不愉快なことを忘れさせますよ。こういうききめがあるのに、貴方は飲みたくなることはないんですか」「なくもないな。君の隣に坐ったような時などにね」
豊島与志雄の胃潰瘍がひどくわるときいて、ある人が見舞いの電話をかけてきた。「なにたいしたことはないよ。医者が原稿を書いちゃいけないっていもんだから、退屈で困っているんだ。あんまり退屈だから、今も酒をのんでるところだよ」(「世界史こぼれ話3」 三浦一郎)


ふたつのまがりかど
戦後の日本酒の世界はふたつのまがりかどを通過していることがわかる。ひとつは一九五五年から六○年にかけて、いわゆる高度成長がはじまろうという時期であり、もうひとつは一九七○年から七五年、オイルショックから低成長時代のはじまるときである。ある意味では日本の経済史を忠実になぞっているのだが、数字のうえでは、最初のまがりかどの一九五六年は、戦後復活した酒蔵の数がピークとなり、この年以降ちいさな酒蔵が絶えることなく倒産をつづけていく転換点となっている。ふたつめのまがりかどの一九七五年は、戦後増えつづけてきた日本酒の消費量が、この年を境に減少をはじめる年である。(「自然流・日本酒読本」 文・福田克彦) 自然流とは、前もっての先入観なしの、「しろうと」の目を通してといった意味のようです。


仰天・文壇和歌集(2)
おれより売れているおまえと酒を飲みたくない
こらこら酒の席で言った女のことなどメモにとるんでない
酔って書いたアイデアのメモ素面(しらふ)で読めばおもしろくなくまた酒
アンケートの一位三人いたことを仲間の作家と飲んで知る
笑っている時が怒っている時である宇宙人と酒を飲みたくない
夢枕獏の「仰天・文壇和歌集」にあります。 詠まれているのが誰のことか分かるともっと面白いのでしょう。


「アルコール in インク」翌日譚
書斎の片隅にあった赤インキのビンをチクリとやってみた夢声老は小躍りした。いけるのである。赤インキは微量ながらアルコールを含んでいた。心なしか頬が染まるのも早く思えた夢声老はアッという間にひとビン飲みほし、買いためてあった赤インキの幾本かを宝物のようにかき抱いた。「七彩の虹」はその翌朝である。生理的要求にしたがってトイレにかがんだ夢声老は、白い便器にポトンと落ちた、わが分身であるウンチンが、白磁にたまった水に、赤い色彩を溶かし、みるみる広がるとともに七彩に輝くのを発見したのである。(「いい酒 いい友 いい人生」 加東康一) よい子は試さないようにしてください。「アルコール in インク


ソーマ讃歌
「天則を語りつつ、天則により輝くものよ、真実を語りつつ、真実を行なうものよ、信仰を語りつつ、王者ソーマよ、調理せられて、インドゥよ、インドラのために渦まき流れよ」
「真に強力にして高大なる(ソーマの)流れは、集まり流る。芳醇なる(ソーマの)芳醇なる液は、合わさり流る、黄金色なすものよ、祈祷(きとう)により浄(きよ)められつつ、インドゥよ、インドラのために渦まき流れよ」(辻直四郎訳)(「グルメのための文芸読本」 篠田一士)
古代インドの聖典・リグ=ヴェーダの第9巻は、神に捧げる酒、ソーマへの讃歌だそうです。インドラはリグ=ヴェーダの二大神格の一人で、ソーマは、この神の好きな飲物だったそうで、そのためインドゥともいわれたのだそうです。


抜殻(ぬけがら)
▲との 一つ飲うで行け。 ▲くわじゃ あゝ、そりゃ、ようございませう。 ▲との さあさあ 受けい受けい ▲くわじゃ はあ。 ▲との よい酒か。 ▲くわじゃ いや、何とござつたも、覚えませなんだ。 ▲との 然らば、ま一つ飲め。 ▲くわじゃ はあ、あゝ、ござりますござります。申し殿様、身共に、此の様にお気を付けられますをば、朋輩共もいかうけなりう思ひまする。も一つ、たんませう。 ▲との 過げうがな。 ▲くわじゃ いや、数が悪うございまする。 ▲との さあ飲め。 ▲はあ、あゝ、いかう酔うたかな、いや。 ▲との 急いで行て来い、やい ▲くわじゃ 何処へ。 ▲彼の様へ。 ▲くわじゃ 行きますわいの。 (「狂言記」) 狂言には酔っ払いが誠に多く登場します。この太郎冠者(くわじゃ)は、使いに行く前に酒を飲ませてもらい、酔っぱらって途中で寝てしまい、探しに来た殿(との)に鬼の面を付けられて、鬼になってしまったと嘆くが、面が取れてそれを鬼のヌケガラだと殿に見せたという話です。


川柳の酒句(11)
上戸の人玉 やったらに跡を引(ひとだまも、上戸のものはしつこいようです)
雛祭り 皆ちっぽけな くだを巻き(白酒に酔った娘達の風景)
雛の酒 茶碗でのんでしかられる(男はじゃまといったところでしょうか)
雛の酒 みんなのまれて泣いて居る(困った親?ですね)
火屋と聞き 上戸の亡者 よみがへり(火屋は焼き場、これを「冷や」と聞いて生き返った上戸)
(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)


池田勇人の酒
故・池田勇人元首相が自宅でゆっくり晩酌した場合−まずはビール一本を息もつかせずに空けて、次に日本酒を徳利二本ほどチビチビと味わいながら飲み、そしてウイスキーの水割りかハイボールにしたものに切り換える。さらに最後のしめはドイツのモーゼルワインとなる。その間に、三時間ほど時間をかけたといわれる。ビールでさっぱりしたところで、日本酒の深い味わいをゆっくり確かめながら徐々に血中濃度をあげていく。さらに、ウイスキーで酔いをピークにもってきた後に、ゆるやかなエピローグのワインに移るというプロセスである。(「酒飲み仕事好きが読む本」 山本祥一朗) 首相になってから、三時間の食事がとれるとは思えませんので、それ以前のことなのでしょう。国税畑を歩んできた人らしい飲み方といえるのでしょうか。


倍増法
バーで、二杯目のビールを飲み干したあと客が聞いた。「きみんところでは、一週間になん樽ぐらいビールが出るかね」「三十五樽でさあ」店主は胸を張って答えた。「なるほど、ぼくはいま、それを七十樽にする方法を考えついたんだがね」店主はびっくりして訊ねた。「どうするんです?ぜひひとつご教示願いたいものですナ、旦那」「きみはちゃんと実行するかね?実行するって約束すればおしえてやるよ」と客はいった。「約束しますとも、もちろんです。旦那」店主はいよいよ熱心に答えた。「ならおしえてやる」客が答えた。「ビールはグラスにちゃんと一杯分注げばいいのさ」(「ポケット・ジョーク」3 酔っ払い 植松黎・訳) 戦時中、ビールは泡が多いと裁判にまでなったそうですね。


小僧白酒
「ヤ、どこへ」「貴様のうちへ、ひな祭りの白酒飲みに」。亭主、「サアサアここへ」と、雛だなの徳利ふつてみれば、「モウ皆にしたか(みんな飲んでしまったか)。コリャ小僧よ、山川屋へいて(行って)、白酒五合買つてこい」。小僧、「アイ」と出てゐたが、「さて、もどらぬは。ヤイ、コリヤ何してをるぞ。さて、この白酒が、新店ゆへに、とんだよい酒で、そして直(ね)が安い。とほふもなく、はかりが多い」と、徳利かたぶけ、「コリヤきつふ(たいそう)すくない。ヤイ小僧よ、道理でひまが入つた。おのれ、道で呑んだな」。小僧、おつ声(音調のひくい声)で、「のんだが、どふする」。(安永二年正月跋『口拍子』)(「江戸食べもの誌」 興津要) かわいい酔っ払い小僧の笑話です。


こんなこと
隠居所は店の奥にあった。家業は酒問屋、取引はだんだん左前にしめ出されているが昔ながらの間口は広く、新川筋にならんだ河岸倉の表つきよく、軒高々とあげた看板は八代続いたほこりに古く、さびつく貸し越しにがたつく裏口の立てつけ合わず、すきま風と一緒に何だかだと身に沁みる蔭口に一人おどおどと、かわいそうにおばあさんは家つき娘だからたよる処は御先祖様と阿弥陀様、南無々々とおじぎばかりしているから脊中がまがる。やっこらさとふり仰ぐ息子達からは、おもしろくない話ばかり聞かされるが、うつむいてさわれる孫娘はかわいいことばっかり云ってくれるのだから、来れば帰るまで「玉子や玉子や」とついてまわって離れない歓迎ぶりである。(「父・こんなこと」 守田文」) 幸田露伴の娘・文は、新川の酒問屋に嫁ぎましたが、離婚して父の元に戻り、晩年の露伴の面倒をみました。玉子は、青木玉です。


吉行淳之介の酒
随分飲んだね。あの頃は水割り(ウイスキーの)だった。昭和五十年近くまで強かった。ビールのトマトジュース割りを飲むようになった頃から、衰えが見えてきた。静校のころも強かった。三十過ぎるまで、一升酒飲んでも、吐いたことが一度もなかった。悪い酒も飲みましたよ。焼酎なんていい方で、カストリ、薬用アルコールまで飲んだ。悪い酒のころは戦後、間もなくだけど、戦国時代だったのですね。酔っぱらって、家の近くの国電市ヶ谷駅の線路にかかる陸橋の欄干の上を渡ったことがある、と言われるけれど、こっちは全然、覚えていないよ(笑)。まったく、ヤケクソで生き、イノチガケで飲んでいた。(吉行淳之介「定本・酒場の雑談」中の、山本容朗による聞き取りです。) 吉行淳之介の話はつい紹介してしまいます。


エウリピデスが酩酊した話
アルケラオス王が親しい友人のために盛大な宴会を催した時の話である。酒杯を重ねるうち、普通より強い酒を呑んでいたエウリピデスは、次第に酩酊に陥っていった。そのうちに同じ席にいた悲劇詩人のアガトンを抱いて接吻した−既にほぼ四十歳の年輩に達していたアガトンにである。アルケラオスが、あなたはアガトンがまだ恋しい相手だとお考えですかと尋ねると、エウルピデスが答えて、「そうですとも、美しいものが一番美しいのは春ばかりではありません、秋だってそうなのですよ」と言った。(「ギリシア奇談集」 アイリアノス) エウリピデスは、ギリシアの三大悲劇作家の一人だそうです。


酒  規
○一つ橋外の学校の寄宿舎に居る時に、明日は三角術の試験だというので、ノートを広げてサイン、アルファ、タン、スィータスと読んで居るけれど少しも分からぬ。困って居ると友達が酒飲みに行かんかというから、直に一処(いっしょ)に飛び出した。いつも行く神保町の洋酒屋へ往って、ラッキョを肴で正宗を飲んだ。自分は五勺飲むのがきまりであるが、この日は一合傾けた。この勢いで帰って三角を勉強しようという意気込であった。ところが学校の門を這入(はい)る頃から、足が地面につかぬようになって、自分の室に帰って来た時は最早酔がまわって苦しくてたまらぬ。試験の用意などは思いもつかぬので、その晩はそれきり寝てしまった。すると翌日の試験には満点百のものをようよう十四点だけもらった。十四点とは余り例のない事だ。酒も悪いが先生もひどいや。(「飯待つ間 正岡子規随筆選」 阿部昭編) 「ホトトギス」に発表されたものだそうですが、表題の「規」は、勿論子規の「規」です。


アメリカの清酒メーカー
フォレストグローブ「桃川」(ジャパン・アメリカ飲料)、ナパ「白山」(コーナン社)、フォルサム「月桂冠」(米国月桂冠)、ゴールデン「白鹿」(米国白鹿)、バークレー「松竹梅」「宝正宗」(米国タカラ)、ホリスター「大関」(米国大関)、ロスアンゼルス「カリフォルニア生一本」(アメリカン・パシィフィック・リム社)が、紹介されています。(「海のかなたに蔵元があった」 石田信夫) ハワイ・ホノルル酒造は米国タカラが買収して、「宝正宗」「宝娘」の銘柄は存続しているそうです。日本国内と同様で、アメリカでもメーカー同士のサービス合戦は大変なものだそうです。また、今までの超熱燗から、吟醸酒へと、日本と同じように流れているようです。


手痛い仕打ち
昭和二十年に青空マーケット式に始め、二十一年の暮から正規に「宇ちた」として営業を始めた。今は昔、当初のよしず張りの店で焼酎を飲んでいた人も、今、店先の木の長イスで焼酎を飲んでいる人も、同じ酒飲みに変りはない。そしてぼくも酒を愛する飲兵衛の一人である。
だけどなぜ、、たっぷり酒を愛した次の朝、酒はあれほど手痛い仕打ちをするのだろう。(「東京 酒場漂流記」 なぎら健壱)
立石仲店商店街にあるという、居酒屋「宇ちた」紹介のところにあるものです。


太田南畝
狂歌で知られる太田南畝は幕府の御徒(下級武士の御家人)の子として江戸牛込仲御徒町(新宿区中町)に生まれたが、五十五歳の文化二(一八○五)年から六年まで小石川鶯谷(文京区春日二−五のあたり)に住んだ。狂歌で自ら四方赤良(よものあから)と号した酒好きだったが、弟子たちに深酒を諫められ禁酒を宣言する。ところが初鰹を見て、たまらず一杯やっているところを見つかり 鎌倉の海より出でし初がつを 皆武蔵野のはらにこそ入れ と一ひねり。はらには原と腹がかけてあるが、さらにもう一首。 わが禁酒破れ衣となりにけりさして下さいついで下さい 「酒をさす」と「針を刺す」、「酒を注ぐ」と「布を継ぐ」をかけた当意即妙の歌である。南畝は狂歌の才で上司ににらまれもしたが、清廉な能吏として支配勘定の役職まで進んだ。墓は、やはり文京区の本念寺(白山四−三四−七)にある。(江戸東京物語 山の手編」 新潮社編)


今川も酒の次には坪の事
室町時代、足利氏に仕えた今川了俊が、広永十九<一四一二>年弟の(子息とも)仲秋のために与えた教訓書(家訓)を『今川了俊制詞』というが、通常略して『今川状』といっている。江戸時代、修身の教科書として用いた。処世訓である。
「今川も酒の次には坪の事」(一○・37)は、「今川状」の第十六条に、「一(ひとつ) 長酒宴遊興 勝負忘 家職 事」というのがあり、「飲む、打つ、買う」の順の飲酒の次は博打(ばくち)戒めている。「坪」は賽(さいころ)を入れる「壺(皿)」。 (「江戸川柳の謎解き」 室山源三郎) 「酒」と「坪」は逆でもよいような…


杜氏の蔵元観
杜氏は語る。「酒屋のご主人というのは、みんな坊ちゃん方が多いからね。旦那さん級ばかりだから、酒屋やめても、ほかで食べていけるという腹があるから、やめるんだったら、いつでもやめられるとうひとが、けっこう多いのではないですか」「結局、酒屋というのはほとんど村の大地主だから、むかしの頭がなかなか取れないんですわ。もうちょっと、酒屋自身として儲かることを考えればいいんだけど」「浮世離れというか、人間的にはすごくいいんだけれど、、まあ、十年以上おくれているというか。計算なしで、ひとさえ使っていれば、自分たちの生活ができたということがあったんだね」(「自然流『日本酒読本』 福田克彦・文) 最近はそうでもなくなってきたのではないでしょうか。むしろ、現在の日本人に、蔵元化が進んでいるといえるのでは。


南方熊楠の酒
なにしろ、馬小屋の二階にあるのは隙間(すきま)もなく積み上げた書物と植物類の標本ばかりで、せんべい布団が一枚、そのまわりには便器や食器が散らばり、いつ掃除したのかわからぬ乱雑な部屋の中でミナカタは、夏も冬も猿股一つの裸で研究を続けていた。博物館に通うときだけだけは、ぼろ靴に毛のぬけた狸のような古フロックコートを着用するのだが、それを着て歩くと犬がびっくりして吠え、飛びかかってくる。これにはミナカタも閉口したらしく、犬のいない道をさがして歩いていった。おかしなことにミナカタは、自分の食い物にも不自由しているのに、拾ってきた猫を可愛がって飼っておった。食事になると、パンでも牛肉でもまず自分が口の中で十分に咀嚼して、栄養のある汁だけを飲み込んで、その残りかすを猫に与えていた。ミナカタの食事は一日一食。その一食で一人一匹が仲よくすませるという奇妙なものであった。そして少しでも金が入るとミナカタは、酒、酒、酒と町内の居酒屋から居酒屋へとハシゴをして、それはもうとめどもなかった。(「縛られた巨人 南方熊楠の生涯」 上坂次郎) 咸臨丸で有名な木村摂津守の三男・駿吉の書いたもののようです。


老爺 食酒 酔死
私は時々、庭に出て石の下にワラジ虫がコロリと丸くなって眠っているのを発見する。指で少しつつくと、動くが、またコロリと丸くなって眠っている。寝床の中でローストチキンのような格好をして一日中、じっとしている私はこのワラジ虫によく似ているのである。それでは寝床の中で一日中、私が高遠な思索や瞑想にふけっているかと言えばそうではない。私はただグータラにも、じっと詰まらんことを考えているだけなのだ。たとえば「爺さん、酒飲んで、酔っぱらって死んじゃった。婆さん、それを見てびっくりして死んじゃった」という俗歌があるが、あれを昨日一日、私は漢文にどう訳すべきかと寝床で考えつづけていた。そして「老爺 食ライテレ酒 酔死 老婆 驚愕シテ 頓死」(レはレ点のつもりです)と訳したのであるが、そのうちに日暮れて、太陽が山の端に傾いていった次第である。(「古今百馬鹿 狐狸庵閑話」 遠藤周作) 丸くなるのは一般的にダンゴ虫とかマル虫とかいいますね。


白鷹
(白鷹の蔵元、辰馬悦蔵は京都大学を)大正七年に卒業というのだから、私たちの方から言えば、史学科の大先輩ということになる。西田(直二郎)先生が講師として最初の講義を持たれたのは大正四年だったから、悦蔵氏もその講義を聴かれたのであろう。師弟の関係があったのである。その頃の史学科の学生は、まことに少なかった。就中(なかんずく)、考古学など専攻する学生は、何年に一人という位のものである。自ずからなる親近感が湧いていたものだ。悦蔵氏は、その考古学を専攻したものだから、すぐに研究室の助手に採用され、梅原末治、末永雅雄などとの交友を深めながら、その研究に打ち込まれるという時代があった。すした考古学者としての探求が、やがて銅鐸の収集ともなって、今日の辰馬考古館を造りあげる基礎となったのだ。(「日本地酒紀行」 奈良本辰也) 樽を水でなく酒で洗ったという話や、若槻礼次郎、吉田茂や富岡鉄斎などの愛飲者をもち、伊勢皇大神宮におさめられる酒だとも紹介されています。


食をひかえよ
選択を迫られたら、いかがなさるか。
腹一杯食べるか、へべれけに酔うか。
頭を悩ますにはおよぶまい。
変わらぬ忠誠を尽すがいい、
もっぱら不変のしきたりに。(「酔いどれロシア」 A・ジノビエフ)
これはソビエト末期を風刺したうたでもあり、酒賛歌でもあるといってよいのでしょう。


舟の月
海のような広い川の川口に近き処を描き出した。見た事はないが揚子江であろうと思うような処であった。その広い川に小舟が一艘(そう)浮いて居る。勿論(もちろん)月夜の景で、波は月に映じてきらきらとして居る。昼のように明るい。それで遠くに居る小舟まで見えるので、さてその小舟が段々遠ざかって終に見えなくなったという事を句にしようと思うたが出来ぬ。しかしまだ小舟はなくならんので、ふわうhわと浮いて居る様が見える。天上の舟の如しという趣がある。けれども天上の舟というような理想的な形容は写実には禁物だから外の事を考えたがとかくその感じが離れぬ。やがて「酒載せてただよふ舟の月見かな」と出来た。これが(後で見るとひどい句であるけれど)その時はいくらか句になって居るように思われて、満足しないが、これに定みょうかとも思うた。実は考えくたびれたのだ。が、思うて見ると、先月の区会に月という題があって、考えもしないで「鎌倉や畠の上の月一つ」という句が出来た。素人臭い句ではあるが「酒載せて」の句よりは善いようだ。(「飯待つ間」 正岡子規随筆選) こうして次々と風景を進めてゆき最後に、「見送るや酔いのさめたる舟の月」という句が出来たそうです。


さかづきの意味
二つの辞典の記述を補って書き足してみると、こうなる。「さかずき。これは旧仮名でさかづき。盃は、坏、杯の俗字。つき、とは物を盛る器で、土でつくったもの。」つまり、坏(つき)とは、もともと飲食物を盛った土製品。酒だけを注いだものではない。ところでそれなら、土偏の右の「不」という文字は何をあらわすのであろう。前記の「新漢和辞典」を引くと、あらましはこう出ている。「不。一は天、『个』は鳥の飛ぶさま。鳥が天に飛びあがっておりてこない意。否に通じて打消しの意を表わし、『丕』に通じて大の意を表わす。一説に、花の萼(がく)の象形という」。つまり、坏とは、土で作った花の萼といえる。そしてまた天に飛びあがっておりてこない鳥を、その天ぐるみ閉じこめる器といえる。(「鳥のゆくえ 盃談義」 宗左近) これは漢字の解釈ですが、日本語の「つき」はどうなのでしょう。(『』はPC漢字に同じものがないので近いものを使っていることをあらわしています。)


草野心平の酒(2)
こんなこともあった。朝眼がさめると、いつもの奥の六畳で寝ていた。直感で隣の部屋にも誰か寝ていそうな気がしたので障子をあけると、河上徹太郎がぼんやり天井を見ていた。眼がさめたばかりらしく「ここどこだい?」「吉原だよ」「吉原?」彼のほっぺたに苦笑いがわいた。われわれは前夜新宿で飲んでたがここまでノシてきたのである。他の人たちは初めてなのだから発起人は私だったことになる。吉田のおかみと伊藤信吉も一緒だったそうである。帰るとき吉田のおかみは気になって河上と私の金をしらべたそうだが、からっきしなので二千円ほどかおるちゃんに無理に渡していったそうだ。キトクなこともあるもんだと河上と私はかげ口をたたいた。枕頭にのこっていたビールの残りを飲んでから私たちは改めて本格的にまたはじめた。「おい」と河上がいった。「こんな飲み方をしているのは、もうお前とおれ位になっちゃたな。小林(秀雄)や林(房雄)も無茶しなくなったし…」「おれはあんまりしらないが、石川淳はどうなんだい?」「そうか、そうだな、あれも以前とはちがうな」(「酒味酒菜」 草野心平)


唐津藩の雰囲気
私は、早速城内にある士族邸を修繕して学校にあて、直ちに五十人の生徒を募集して授業を開始した。ところが当時の唐津藩の掟として、士族の家には三味線が禁ぜられ、婦女子は琴を弾くことをのみ許されていた。また城下の町に料理屋を営むことも禁ぜられ、藩士が外で酒を飲むには、米屋や呉服屋や魚屋というような大きな店の裏に、大きな座敷があって、そこで近所の、娘を頼んで酌をしてもらうといい風であった。藩風がすでにそうであったから、漢学と撃剣が盛んで一体に攘夷気分が濃厚であった。(「高橋是清自伝」 上塚司編) こんな雰囲気の土地へ、英語を教えにきて、しかも、おおっぴらに大酒を飲んでいたのですから、すぐに学校は放火されてしまったそうです。


仰天・文壇和歌集
締め切り近づけどまだグラス放さぬ我の心 あきらめか名づけ難し
やっと仲良くなりし時玉突きの異動で担当者と別れの酒
「よし書きましょう」と答えたのも酒の席であった 酒の勢いで受けた原稿 酒の勢いで落ちる
ブンガクの話をしたがる旧(ふる)き友の酒に朝までつきあって説教されてしまったよ
夢枕獏の「仰天・文壇和歌集」にあるものです。「初期」のもののようです。


甘いものの話
美術人には左傾が多い。ムッソリーニと握手した横山大観先生などは、押しも押されもしない左翼の頭目だし、周囲の友人知己、概(おおむ)ね左党ならざるはないといってよかろう。敢(あえ)て断って置くが、この左という字は、決して右という字の誤植ではない。尤(もっと)も三十前後、それから下の若い人には、極右ならざるまでも、大分右がかった連中が多く、私など若い時分から右傾で、かつて寺崎広業先生に、三十五になったら左翼へ転換するようにと切に勧められたこともあったが、遂にその機を失い、今以て右翼の陣営に止まっている。何も左が古くて、右が新しいからという訳でもないのだが、生まれつきは是非がなく、左翼の闘士中川愛氷君編輯する『芸術』に、新年早々右傾談を寄するなど、我ながら気の利いた筋合ではない。註して曰く、これは喰い物の話なり。周章(あわて)て思想の問題などと混ずべからず。一体一つの町内に、酒屋が多いか、菓子屋が多いか、東京中の統計を取って見たら面白いと思っているが、恐らく未(ま)だやった人はなかろう。(「明治の東京」 鏑木清方) 残念ながら清方は右党だったようです。


レンジでお燗
レンジでお燗をすると、どうしても上が熱く下がぬるい状態になってしまうそうです。
そこであらかじめ、お銚子にガラス製のマドラー(単なるガラス棒でOK)を入れておくのである。こうすると銚子の中の酒が対流するので、均一な温度に燗がつけられる。ただし金属製の棒では電磁波を乱反射するため、うまく燗がつかない恐れがある。必ずガラス棒を使用すること。(「雑学 居酒屋」 PHP文庫) 本当は湯煎形のお燗が良いのでしょうが、簡便法ということで知っていると良いかもしれません。


生のオリーブ油スプーン一杯
「明日の朝十時にシャートーヌフのカーブで。朝食にたっぷりパンを食べてから、来てください」言われたとおりにし、さらに用心のためオリーブ油を生(き)でスプーン一杯、胃に流し込んだ。地元のグルメたちに教わった方法で、そうすると胃の内壁に膜ができ、まだ若い強いワインの執拗な攻撃から身を守れるというのである。ま、いずれにせよ、たくさんは飲むまいと、じりじり灼けるような曲がりくねった田舎道を走りながら思った。専門家たちがやるように、口の中で転がして、吐き出せばいい。(「南仏プロヴァンスの木陰から」 ピーター・メイル) シャトーヌフの町でワインを吐き出すことなんてできるもんですか。悪酔い対策にオリーブ油という手もあるようですね。ただしこの著者はその後も飲み過ぎて「昼食をゆっくりと地面に下ろ」してしまったそうです。


銘酒
生の葡萄酒をしこたま喰らい
酔っぱらってわしはもうふらふらじゃ。
だが、手も足もふらふらのこのわしを
誰がバッコス様から救ってくれようぞ。
だがまあ、なんとひどい神様に
会うたもんじゃ、
このわしがバッコス様をかついでおったのに
今度はあべこべにバッコス様に
どこへやらかつがれてゆくとはのう。(『ギリシア詞華集』 アンゲンターリス、マケドーニオス)
篠田一士の「グルメのための文芸読本」にあります。


水のような
(ミュンヘンのビールレストラン・ホーフブロイの)入口に近いところに空のスタインがたくさん置いてある。クレーベルさんはその一つを取って、水のジャージャー出ているところで水に当てながら、盛んに冷やしている。私もそのまねをして、それにビールを盛ってもらうと、ヒンヤリとした口唇の感触がなんともいえぬ。ビールの方は、まるで水を飲むような感じでスルスルといくらでも喉を通過する。私は、平素自己流の酒の鑑定の秘訣としているのは、ただ何のさわりもなくスルスルと水のように飲めるものを良酒とすることで、うまいと感じたり、濃いと感じたりするのはかならず駄酒である。そのコツで大いにほめると、クレーベル先生もわが意を得たりと最上級の言葉で自慢する。(「世界の酒」 坂口謹一郎) ミュンヘンの醸造試験所場長のクレーベル博士を訪ねた時の話です。坂口は、古酒も赤葡萄酒も結構好きだったようですから、一筋縄ではいかないようです。


コウロギのなき声
和歌山で蟋蟀(こうろぎ)の鳴声、「鮓(すし)食て、餅食て、酒飲んで、綴(つずれ)刺せ、夜具刺せ」と言うて、暑い時遊んでおったん、秋になれば冬の備えをせにゃならぬと警(いま)しむるのじゃと、幼年のころ予毎々聞いた。(「縛られた巨人 南方熊楠の生涯」 神坂次郎))
「焼酎一杯グイー」となく、センダイムシクイもいますね。


漱石の祖父
夏目漱石の祖父直基は、名代の酒豪であったうえに道楽者であったので、夏目家の財産を使い果たし、雑司ヶ谷鬼子母神近くの茗荷屋において、酒の上で頓死したというが、江戸時代から明治時代にかけては、鬼子母神周辺に料亭が建ち並んで繁盛していた。(「江戸小咄散歩」 興津要)
漱石は酒乱の気味があったようですし、遊びは苦手だったようですから、隔世遺伝とはいかなかったようです。漱石は新宿喜久井町に生まれましたが、喜久井町の名前は名主であった夏目家の家紋の井桁に菊花からだそうですし、また、夏目家からつけられた夏目坂の名前も今にあります。ちなみに漱石のお墓は雑司ヶ谷墓地にあります。


都〃一坊扇歌
多賀郡相田村(現在の北茨城市)に酒屋なにがしというものがゐた。その家に子が無かった。なにがしは玄作を識ってゐたので、二男の子之松を養子にのぞんだ。子之松は酒屋の家に入つて福次郎と名をあらためた。ときに十二歳とも十四歳ともいふ。いづれにしても、文化の末である。父のもとにゐたときよりは、音曲を習ふための便宜をあたへられたやうであった。しかるに、その後、酒屋の夫婦におそく子どもがうまれた。福次郎はその生家に於て余計者であつたが、ここでもまた余計者になつた。邪魔にされたのか、あるひはみづから邪魔になることをおそれたのか、この養子はふところに銭三百文もつて家出した。年月は判然としないが、まづ二十歳ぢかくのときと考えられる。ひとに屈しない性分のやうである。(「諸國畸人傳」 石川淳)
風変わりな医者の子として生まれた、都々逸(どどいつ)の創始者・「都〃一(都々逸)坊扇歌逸」の若い頃の話だそうです。


馬琴日記
喘息奇方(ゼンソクに良くきく薬)、クロみつ(黒蜜)生姜(ショウガ)三斤、温酒ニて呑下し、今晩、吾等(馬琴)四時(午後10時頃)前、用之(これをもちう)。右之(の)功香(効果)、喘息納り、明暁正六時(午前5時頃)前迄睡(ねむり)ニ就(つ)く。但し、少〃停滞之気味あり。酒は湯を交へて飲之。(「江戸人の生と死」 立川昭二)
早世した息子の嫁の おみち(路) による、死の床についた滝沢馬琴の様子を記録した日記だそうです。初めは馬琴自身による口述筆記だったそうですが、この頃は、おみちが自身の文で書いているのだそうです。ただ、「吾等」は馬琴のことだそうで、口述筆記の形をとっているそうです。黒蜜はきいたようですが、このあとに使った「真鳩の黒焼き」はきかなかったそうです。酒も多少はきいたのでは。


フランスとイタリア
フランスでは、アルコールに対する人々の親和性が高く、ある調査によると、国民全体の五分の四が、ワインは健康にいいと考えています。さらにフランスでは、労働者が一日に可能なワインの飲酒量は二リットル(約3本)と、人々は答えています。そのため、フランス人の間では、飲み過ぎ(過飲)についての意識が非常に薄いといいます。フランス人は一日に何回もワインを飲むため、一日中体内にアルコールを摂取した状態ににあり、そのためアルコールによる健康障害が相当の数に達しているというのです。
一方イタリアでは、労働時間内に飲酒するのは人々の伝統的な習慣に反することで、一日一リットル(約一本半)以上の酒は飲み過ぎとされています。そのため、フランスに比べ、アルコール依存で精神病院や一般の病院を訪れる人は少ないそうです。


戒語
草木をうゑ(植え) にハ(庭)をさうじ(掃除)し 水をはこび 石をうつすべし  をりをり足にきう(灸)すゆべし
あぶらこき(濃き)さかなくふべからず  あぶらものくふ(食う)べからず
つねにあはき(淡き)ものをくふべし  あさね(朝寝)すべからず
大食すべからず  ひるね(昼寝)をながくすべからず
み(身)にすぎたことをすべからず  おこたるべからず
酒をあたゝめてのむべし  かみ(髪)さかやき(月代)すべし
てあし(手足)のつめ(爪)きるべし  くちそゝぎ やをじ(楊枝、歯磨き) つかふべし
ゆ(湯)あみすべし こゑ(声)をいだすべし(「江戸人の生と死」 立川昭二) 良寛の「戒語」にある健康法だそうです。


十二文
十弐文が酢を下戸にふるまはれる(どうせ下戸だからと酢だかなんだか分からない酒を)
夕立に困つて下戸も十二文(居酒屋の軒を借りたあまやどりの申し訳に下戸も一杯だけ)
拾弐文ほどの機嫌は謡なり(酔っぱらったご隠居さんの趣味はうたい といったところなのでは)(「江戸川柳の謎解き」 室山源一郎) 説明は寝言屋流です。
安酒でも上等な方の値段だそうですが、酢ではどうしようもありません。


双子の姉?
妻が酔っぱらって帰った夫にいった。
「こんな時間に帰ってくるなんて、どういうことなの?」
夫が答えた。
「べつになんでもないんだ。きみがさびしがっているだろうと思ってね、急いで帰ってきたんだよ。でも、安心したよ、きみの双子のねえさんがきているんだね」(「ポケットジョークB酔っぱらい」 植松黎 訳)


本ものの常連
本ものの常連は開店間もなく黙って入って来て、その店の一番末席、よくない席に座る。カウンター端や、隅の机は落ちつく上席。そこには空いていても座らず、トイレや玄関脇に席をとる。ぼそぼそと酒と肴を注文。品名は略さず正しく言い、その店のおすすめ品を選ぶ。そうして、主人と話をするわけでもなく、なんとなく店内を見まわし、三十分もすると席を立ち帰ってゆく。勘定の時、主人に小声で「あれ返しといたからな」などとぼそりと言うので常連とわかる常連とわかる。(「超・居酒屋入門」 太田和彦) 常連になるのも大変ですね。それにしても、こんな絵に描いたようなお客を目にすることのできた著者は幸せだと思います。


浜町河岸回顧
元の酔月の裏の水門。そのほとりに、昔加茂の真淵(まぶち)が県居(あがたい)と名づけて住みけるもこのあたりかと、軒に糸瓜(へちま)、垣に忍冬(すいかずら)、庭に小さな流れを作って、蛙の声に夢を破らる物好き、昔なれやそれも明治四十何年の頃。
下戸でも飲める老酒(ラオチュー)の酔心、浜のやの門を出て、浜町河岸より築地河岸に相応しそうな公園のコンドル塔の欄に凭(よ)って逝(ゆ)きて帰らぬ河水を瞰(なが)むれば、初夏の宵の若葉の香身に迫って往事(おうじ)頻(しき)りに偲(しの)ばるる。(「随筆集 明治の東京」 鏑木清方) 江戸の文体の名文ですね。下戸でも飲める老酒というのがなんともいえません。


「宮中の大饗宴」
宮廷での大きな催しがあって、大ハーンが席につくときは、次のように行われる。彼のテーブルは他よりはるかに高い場所に設けられ、大広間の北端の南向きの椅子につき、第一皇后はその左に並ぶ。右手には彼の王子、甥、皇族が並ぶが、その席は彼らの頭がハーンの足と同じ位の高さになる。他の貴族のテーブルはもっと低い。−
大ハーンのテーブルの近くに、すばらしい細工の箱形の器具がおいてある。各側面は約三メートルあって、動物の姿が彫刻され、金メッキがしてある。内部には百四十ガロンもはいる純金の容器がおさめられ、そのまわりに容量四分の一バレルはどの小さい容器がおかれ、大きな容器から小さい方へ葡萄酒や高価な香料入りの飲物がながれこむようになっている。箱の上には大ハーンの酒器が全部おかれているが、中には純金の盃もある。八人前から十人前の飲物がいれられる位大きい。これらの酒器は金のひしゃく一組とともに、二人の間に一つあて、おかれる。人々はひしゃくでこれらの黄金の盃から飲物をすくいとる。(「東方見聞録」 青木富太郎訳) 何となく分かるといった話ですが、フビライの饗宴はとにかくすごいものだったようですね。


火の番人
冬のさむい、から風のふくに、金棒ひきて、ひつきりなく、「火の用心さつしやりまし」トまはるうち、たき火して、あたつてゐる家があるゆゑ、火の番人のぞいてみて、「コレコレ、このさむい、大風のふく晩に、たき火をして、あたつてゐるといふがあるものか。早く消してしまわつせへ」トしかりつければ、「イヤおまへも、このさむいに、寝ずにあるくは、さぞつらいことことであらう。今、燗をして、湯どうふで、いつぱいのんでおいでなさい」といへば、番人もさむさはさむし、下地は好きなり、御意はよし、よだれをながして、たき火のそばへきたり、あたりながら、一チ二はい酒をのみ、「さてさてさむい晩であつたが、一ぱいのんだら、あつたかになつた。冬は、ゆどうふ、ねぎまのことだ」トたがひに、やつたり、とつたりで、大きに酔ひがまわりければ、番人「これは、ごちそうになりました。おかげで、あつたまりました」ト立つてゆくゆゑ、「モウ一ツ、ちやわんでひつかけなさい」トすすめられ、立つてゐてのみながら、「コリヤア、いいあんばいに酔ひました。おかげで、さむさをしのぎます。風がふいても、かまうことはない。おまへも、火のもとなんぞは、いいかげんに気をつけて、早くおやすみなせえ。火の用心も、全体、ここのうちは、勝手しだいにしていいと思つたヨ」。(寛永年間?『一口はなし』) (「江戸たべもの誌」 興津要) 少々危険ですが、酒の功徳といったところでしょう。


春すぎて夏きたるらし
春すぎて 夏きたるらし その間に 飲みてほしたる 酒樽の山
飲みすぎて 朝きたるらし しろたえの 雪をつまみに 飲まん香具山
春も飲み 夏もまた飲み 秋冬も 飲みほすすえの 借金の山
酔いすぎて へどしたるらし 洗いたる ころもほしたり 天の香具山
もちろん、元歌は、万葉集の持統天皇の「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山」です。こんなことを考えているひまがあったら、もっと勉強しろといわれそうな…。


アルコールに起因する社会的費用
ある研究によると、アルコールに起因する社会的費用、つまり国家的損失は、昭和六十二年についてみると年額で、医療費の一兆九百五十七億円をはじめ、総額で約六兆六千億円にも達すると試算されています。日本には現在、およそ二百四十万人ものアルコール依存症予備軍がいるといわれています。実際にアルコール依存症で入・通院をしているのはおよそ五万人ですが、それにしても二百四十万人というのはかなりの数です。成人四十一人に一人といえば、その多さにびっくりするでしょう。(「酒飲みの社会学」 清水新二) 以前からよくいわれていますが、酒税の一部をこうしたことの対策にまわすべきではないでしょうか。


良寛の酒詩(6)
攀登円通夏木清(えんつうにはんとうすれば かぼくきよし)   円通寺に登ると青々とした夏の木々
進君杯酒避暑情(きみにはいしゅをすすめて しょじょうをさく) 杯を君に勧めて暑さを避け
一樽酌尽催詩賦(いっそんくみつくして しふをもよおす)     樽酒を飲み尽くして詩をつくる
忘熱更聞暮鐘声(あつさをわすれ さらにきくぼしょうのこえ)  暑さを忘れ気がつくと夕暮れの鐘の音
この寺は良寛が修行した岡山県の円通寺なのでしょうが、この山門脇には「不許葷酒入境内」の碑があるそうです。


カルルスベルヒ(2)
息子のカルルが学校も終えて一人前になった時、親父のヤコブ氏とビール工場の規模についてするどい意見対立を感じたのである。すなわち、カルルによれば、ビール工業は今よりさらに大規模にするほど利益が拡大されるというのであるが、この点については親父の方がいくぶん保守的な立場を持したのである。しかしそこは偉い親父のことであるから、甚だ奇抜な方法をとってこの問題を解決した。その方法はどういうものであったか?自分の在来の工場に隣った土地に新たな大工場を立てて、これを息子の手にゆだね、自分は旧工場を持って、この古工場(ガルム・カルルスベルヒ)と新工場(ニイ・カルルスベルヒ)とはまったく別会社として十数年間火の出るような商戦行ったのである。(「世界の酒」 坂口謹一郎) カールスバークの歴史の一エピソードだそうですが、結局、両社は息子によって合併されたそうです。


「ロマネ・コンティ・一九三五年」
くちびるから流れは口に入り、ゆっくり噛み砕かれた。歯や、舌や、歯ぐきでそれはふるいにかけられた。分割されたり、こねまわされたり、ふたたび集められたりした。小説家は椅子のなかで耳をかたむけ、流れが舌のうえでいくつかの小流れと、滴と、塊になり、それぞれ離れあったり、集りあったりするのをじっと眺めた。くちびるに乗ったときの第一撃にすでに本質があらわに、そしてあわれに姿と顔を見せていて、瞬間、小説家は手ひどい墜落をおぼえた。けれど、それが枯淡であるのか、それとも枯淡に似たまったくべつのものであるのか判断がつきかねたので、さらに二口、三口、それぞれのこだまの消えるのを待って飲みつづけなければならなかった。小説家は奪われるのを感じた。酒は力もなく、熱もなく、まろみを形だけでもよそおうとする気力すら喪っていた。(「ロマネ・コンティ・一九三五年」 開高健) 値段は違いますが、期待して飲んだ吟醸酒がヤコマン入りでがっかりといったところでしょうか。


伎楽面
聖徳太子の生きた推古朝の時代に、百済人・味摩之(みまし)が日本に伝えたという伎楽(ぎがく)は、音楽を伴った仮面劇だったそうです。現在、伎楽面のほとんどが東大寺と法隆寺に残され、前者は大仏開眼(782年)の際に使用されたもので200面位あって東大寺と正倉院に保管され、後者は7〜8世紀の物が大部分で、東大寺物より古いようですが、そのほとんどの約30面が上野・国立博物館の法隆寺館に展示されているそうです。そして、国立博物館法隆寺館1F奥の部屋にあるこれらの面の中で一番数の多いのは、「酔胡王(すいこおう)」と「酔胡従(すいこじゅう)」です。西域の酔った王様とその従者の面ですが、どのような仮面劇が行われたかは分かっていないようです。狂言の大名と太郎冠者の話を、教訓的にしたようなものだったのでしょうか。面をながめながら当時の舞のありさまを考えてみるのも面白いですよ。ただ、法隆寺館の仮面展示は常設ではないようで、先日行った折りにはしまっていました。


海外の酒の句
湯に割って呑むウイスキー冬の雷 相沢有理子
キュラソー卓に朧の灯が窓に 浅野右橘
コニャックののどほろ苦き無月かな 西寛
シャンペンにムーランルージェ明け易し 牧野まこと
三鬼忌のハイボール胃に鳴りて落つ 楠本憲吉
かるくのどうるほすビール欲しきとき 稲畑汀子
茅台(まおたい)のつめたき酔いに月移る 柴田和男
逝く春の宴やラムの酔いごこち 川上千枝
ワヰン酌む白より赤へ夏料理 赤見寿男(「俳句用語用例小辞典」 大野雑草子編)


燗をして飲む酒
昭和50年位までは清酒は燗をして飲むのが当たり前でした。その後の地酒、吟醸酒ブームで、常温や冷やして飲むことが多くなり、最近はビール並みの「冷や」が一般的になったようです。そうした中で、燗をして飲むことを標榜して売られる清酒も出てきたそうです。
「独楽蔵(こまぐら)・燗純米(福岡)」「琵琶の長寿・惚酔(ほろよい)(滋賀)」「福千歳・ひと肌恋し(福井)」などがあるそうで、惚酔には、43度というお勧めのお燗の温度までレッテルに記載されているそうです。(「雑学 居酒屋」 PHP文庫) 残念ながら私はどれも飲んだことがありません。どういうタイプの清酒を燗向きといっているか興味があります。


まむし酒
一升瓶には水が注がれ、封じ込められた蛇は一ヶ月のあいだ生きながらえる。もちろん餌など与えはしないが、命あるかぎり蛇は糞尿を垂れ、脱皮すら行う。それを捨てるために水は毎日入れ換えなければならない。そして一ヶ月後、蛇の体内からよぶんな汚れが除かれたのを見計らい、水から焼酎に換えて一升瓶に注ぎ込むのだ。焼酎は三十五度以上の強いアルコールが使用される。泡盛が最も適しているらしいのだが、そんな贅沢な酒を実際に使うことはめったになかった。ほとんどの場合、そこらの酒屋で買える安物だ。水責めの苦悶に耐え抜いた蛇も焼酎に浸されるや、ついにその生命力が尽きることになり、五分と持たずに死んでしまう。断食された飢えの苦しみから逃れるためか、まさに蟒蛇(うわばみ)の勢いで焼酎を呑み、たちまち昏睡して酒の中に没し、溺れ死ぬ。やがて蛇の骸(むくろ)から養分が溶け出して万病に効く精力剤となるのだが、熟成のための期間を置く必要がある。三ヶ月ほどで一応は飲めるようになるけれども、三年か五年も寝かせておいたほうが良い蛇焼酎になるのである。(「瓶の中」 山下定) 井上雅彦編の「異形コレクション 酒の夜語り」におさめられた短編の一節ですが、非常によく分かる説明です。


高橋是清の酒(3)
かくて一行は、城門前の御使者屋敷に案内された。夜になると四十人ばかりの藩士が、接待にやって来た。早速大広間で酒宴が始まった。当時の風習として、かような宴席では、まず酒の飲み比べで人を敗かすことが、手柄のようになっていた。しかるに、東京から海路神戸に到り、神戸から長崎に直行したが、長崎まで酒も良かった。ところが唐津の酒はいわゆる地酒で、おまけに、山脇、多田両君とも酒は飲まぬため、私一人で、四十余人を相手にして、痛飲せねばならぬという次第、これには私も随分弱った。しかし、それが非常な評判となって、歩兵の先生よりも英学の先生の方が偉いというもっぱらの噂となった。(「高橋是清自伝」 中公文庫) 唐津の英語学校の先生として赴任した時の逸話だそうです。山脇はフランス式調練の、多田はラッパの、一緒に赴任した先生だそうです。


花見(江戸小咄)
上野の桜に肩を並べる飛鳥山のにぎわい。王子近所の若い者、飛鳥山へ花見の趣向。そこで義太夫、ここでは、メリヤス(江戸長唄の短いもの)、テツツンツンの音にうかれ、「門十郎や、おらも、ここらで一ぱい呑むべい」「呑みなさろう」と貧乏樽の口ひらき、「酒の肴に、役者の声色(こわいろ)をつかうべいかの」「よしやれ。外聞の悪い。似もしないに」といえば、今ひとりの連れ、「酒の肴ならば、なまでもよかろう」(安永二年閏三月序『近目貫』) 役者の声色に似(煮)ていなければ、酒の肴なのだから「なま(生)でもよかろう」という落ちだそうです。(「江戸小咄散歩」 興津要)


井月(「諸国畸人伝」
井月(せいげつ:幕末から明治にかけて伊那谷へ漂泊して一生を終えた「こじき井月」と呼ばれた酒を愛した俳人)は伊那谷(長野県)にとつてはキタレモノ(外来者)の、さすらいびとであつた。いささか俳諧のゆかりがあって、ひとを泊め酒を供しうるほどの家には、ここに三日、かなたに五日と、転転としてあるく。吟遊詩人。いや、浮草の寄辺さだめぬ食客である。食客一本で世にふること約三十年。よくつづいたものである。山間のせまい村といふのに、これがつづきえたのは結構な世の中であつた。−翁(故下島空谷)の記すところに依れば、井月は痩せて、せい高く、禿頭無髯、眉毛うすく、目は切れながのヤブニラミ、身につけるものといへば、ひとが著せてくれるものをそのまま著たなり、肩には小さい古行李とよごれた風呂敷包とを両掛にして、ときには瓢箪を腰にぶら下げていた。そして、その瓢箪が酒をもつてみたされたときは、千両、千両と、口ぐせにいつた。なにをいふにも、口数すくなく、舌がもつれて、聞き取りにくい。(「諸国畸人伝」 石川淳) そして最後に石川は、 井月ものまずカ のまずヨ 菊の酒 と詠んでいます。


うす桃色の神酒
「真珠だけじゃありませんよ。わしの家内が祈るとトックリの中にひとりでに酒が湧いてくるんでね」「酒が?」「はあ」亭主はうなずいた。「五色の酒ですぜ。日によって色が変わりますがね」真珠だけでなく、酒までからっぽのトックリから湧きだすというのだから、あんたさんのようなノミスケの男には泣きたいくらい嬉しい女房じゃないか。山内一豊の妻もこの女性の前では糞くらえだ。「のましてください」思わずあさましい声をだして「その酒を」「神酒と言うてください。神酒と」御亭主がポンポンと手をうつと、さきほどの女中さんがその神酒を持ってあらわれる。うす桃色の色がついて、少し気味わるかったが、思いきって口にふくむと、あんた、みりんの味がしましてな。「しかし何ですなあ。経済的なお宅ですな。酒屋へ行かずとも、こう酒が次から次へと祈りで湧いてくるんだから」「それがわしは下戸だからね」(「古今百馬鹿」狐狸庵閑話 遠藤周作) 口から真珠が出るという女性を訪ねた話の一部です。


池田の酒
池田の酒であるが、これはいつ頃から名を知られるようになったのだろう。この地が生んだ牡丹花松柏の「三愛記」には博多の「ねりぬき」、加賀の「菊の酒」、河内の「天野酒」などのことは出てくるが、池田の酒にはふれていない。とすると、彼の送った室町時代の末期にはまだ、世に言うほどの酒は出なかったと言ってよかろう。ところが、江戸時代に入ると、この地は伊丹と並んで、わが国でも屈指の名酒の産地となるのである。−さて、ここの酒であるが、それは明暦三年(一六五七)にはすでに四十二の酒株があったと言われ、それから下って元禄十年(一六九七)には六十三の酒株があったという。そして酒造業者は三十八軒、造石高は一万二千三十石八斗五升となっている。一軒平均二百九十六石というから、その石高に於いても他地方を遥かに見おろしていたようだ。ちなみに、京都、近江の一軒あたりの石高は二百八石。そして、ここはその頃、誰知らぬ者のない御用酒醸造元満願寺屋九郎右衛門がいたのだ。(「日本地酒紀行」 奈良本辰也) 寒さだけでは酒の産地が説明できない一つの事例ですね。


アルカディア、タソス、アカイアに産する酒の特質について
アルカディアのヘライアでは、アルカディア人[の男]が呑むと頭がおかしくなって狂気に陥るが、女は子は産めるようになるという酒のできる葡萄が成育していると伝聞している。タソス島には二種の酒があるという。一つは呑むと熟睡でき、したがって口あたりが良いが、もう一方は健康に害があり、不眠症を起こし、暗い気分に陥らせる。アカイア地方のケリュニア付近に産する酒は、希望する女に流産をうながす効果がある。(「ギリシア奇談集」 アイリアノス) 色々な酒があったものです。ビールの酔いは騒々しくさせる、ワインの酔いは物憂くさせるということわざもありましたっけ。


刺客蚊公之墓碑銘
田舎の蚊々、汝(なんじ)竹藪(たけやぶ)の奥に生れて、その親も知らず、昼は雪隠(せっちん)にひそみて伏兵となり、夜は臥床(がしょう)をくぐりて刺客となる、咄(とつ)汝の一身は総てこれ罪なり、人の血を吸ふは殺生罪なり、蚊帳の穴をくぐるは偸盗(ちゅうとう)罪なり、耳のほとりにむらがりて、雷声をなすは妄語(もうご)罪なり、酒の香をしたふて酔ふことを知らざるは、飲酒罪なり、汝五逆の罪を犯してなほ生を人界にぬすむは、そもそも何の心ぞ、あくまで血にふくれて、腹のさくるは自業自得なり、子をさして母をこまらせ 親を苦しめて子をなかせたる罪の、今忽(たちま)ち報ひ来て我手の先に斃(たお)れたり、悟れや汝生きて桓公(かんこう)の血に罪を作らんよりは、死して文人の手に葬らるるにしかず、丈草(じょうぞう)かつて汝が先祖を引導す、我また汝を柩(ひつぎ)におさめて、東方十方億土 花の都の俳人によするものなり、何の恨みか存ぜん喝(かつ)。 念仏のとぎれけり蚊をたたく声 (「飯待つ間」−正岡子規随筆選− 岩波文庫) この飲酒罪とは、酒の入った血を吸っても酔わないといういわゆる盗人上戸の事なのでしょう。


吉行淳之介の二日酔い
二十代のころは、焼酎を一升飲んでも、翌日の正午の時報を聞くとガラスの曇りを拭(ぬぐ)い去るように気分が治った。それが年とともに、回復する時期が遅くなって、十年ほど前に、午後七時まで苦しんでいたことがある。その翌日の二日酔いは物凄(すご)く、夜になってかなり人心地ついても、まだ苦しい。横たわっているほかはないので、仰向けに凝(じ)っとしていると、体がいくつかの部分に区切られた感じが起こってきて、左の腰のところが麻雀牌(まーじゃんぱい)の一筒に、右の腰が一索になってしまった。もっと具体的にその感じを説明しろといわれても困るので、ともかくそうなってしまった。一索のほうはすっかり使い古した牌で、鳥の形が擦り切れて薄くなってしまっている。固体と気体との中間くらいのものがそこにある気分で、もう一枚ここに一索がきて、ピシャッと重なれば、ずいぶんラクになる、と考えて待っている。ところが、もう一枚の一索という牌が、どうしてもきてくれない。夜中を過ぎてから、ようやく回復してきた。つまり二十四時間の酷(ひど)い酔い方で、これは生まれて初めての体験であった。(「定本・酒場の雑談」 吉行淳之介) 昭和48年の文章なので、この二日酔いは吉行40歳頃の体験のようです。


「災後漫成」
灰塵遠接海東雲   かいじん とおく かいとうのくもに せっし
街陌縦横路不分   きはく じゅうおうのみちは わからず
天定人間春色近   てんさだまり じんかん しゅんしょくちかし
携尊将問野梅薫   そんをたずさえ まさにとわん やばいのかおり(読み下しは寝言屋ですので、かなりあやしいものです)
「焼け野原は東海の雲に連なり、町々は路もわからなくなったが、天定まり春も近づき、尊(酒樽)を携えて野の梅の薫りをたずねよう。」寛政9年(1797)、65歳で焼け出された江戸っ子・杉田玄白の日記に書かれた詩だそうです。(「江戸人の生と死」 立川昭二)


「一九四五歳の酒が二七年間寝た」
何しろロマネ・コンティのあるコート・ドールではいまだにギリシャ時代の陶器が出土することがあるんだそうだ。紀元三〇〇年頃の学者が書いたものによると、当時すでにこのあたりは名酒の産地となってから何百年になると書いてあるそうだ。だから、それから逆算すると、このあたりでは西暦紀元のはじまりの頃からぶどう酒を作っていたのだということになりそうだぜ。しかもここはぶどうだけしか植えないんだ。野菜も穀物も作らない。ずっと、そうなんだ。ぶどうだけなんだ。二〇〇〇年近くも植えかえ、さしかえ、つぎかえして、ひたすらぶどうだけを作ってきたものだから、土の組成がすっかり変わってしまったというんだよ。だから、いま、かりに、ここに四五年物が一本あったとするね。すると今年は一九七二年だから、この酒は二七歳だということになる。しかしだよ、よく考えてごらん。その酒はぶどうだけを作って一九七二年間になる土からでてきた酒なんだ。だから、二七歳というよりは一九四五歳の酒が二七年間寝た、そういう酒なんだということもできるわけだ。(「ロマネ・コンティ・一九三五年」 開高健) 米作りでなら、こうした可能性もありそうです。清酒の二七歳は少ないですが。


牛の小便
起きることは許されていなかったから、ビールは吸い飲みで口へ運ばれた。口切一杯を父はあけたという。土橋さんの笑い声が酔ったように楽しげに聞こえていた。しばらくして行って見ると、父は赤い頬をしていた。「あらおとうさんお酔いになったの。あれんぽっちで。」「そりゃ酔うさ、わたしゃ弱っているんだからね。」「いかがでしたか、おいしゅうござんしたか。」「おいしいもへったくれもあるもんか。吸い飲みで飲むビールなんかくそ面白くもない。まるで牛の小便みたよにとろとろ出て来やがらあ。あんなもの何がうまいもんか、馬鹿にしている。それで酔ったなんざおかしな話さ。」だいぶ機嫌がいい。字に書けばただ悪たい口だが、東京人特有の逆を覘って云うユーモラスな調子の蔭に複雑な、一ト口で云いあらわせない感情が見えていた。(「父・こんなこと」 幸田文) 以前紹介しましたが、もう少し長くどうぞ。


ふくろう神の歌った神謡
それが済むと私は自分の家へ帰りました. 私の来る前に、私の家は美しい御幣 美酒が一ぱいになっていました. それで近い神、遠い神に 使者をたてて招待し、盛んな酒宴を 張りました、席上、神様たちへ 私は物語り、人間の村を訪問した時の その村の状況、その出来事を詳しく話しますと 神様たちは大そう私をほめたてました. 神様たちが帰る時に美しい御幣を 二つやり三つやりしました. 彼(か)のアイヌ村の方を見ると、 今はもう平穏で、人間たちは みんな仲よく、彼(か)のニシバ(神様に救われた人間)が 村の頭になっています. 彼の子供は、今はもう、成人 して、妻ももち子も持って 父や母に孝行をしています・ 何時でも何時でも、酒を造った時は 酒宴のはじめに、御幣やお酒を私に送ってよこします. 私も人間たちの後に坐して 何時でも 人間の国を守護(まも)っています. と、ふくろうの神様が物語りました.(梟の神の自ら歌った謡 「銀の滴降る降るまわりに」 アイヌ神謡集 知里幸恵編訳) アイヌに伝わる神謡の一部です。米の収穫の難しかったかつての北海道では、麹は和人から購入したものを使用し、「掛米」は雑穀や木の実のようなものが多かったのではないでしょうか。アイヌの神様も酒好きだったようですね。


旨い地酒
平成5年出版の北川広二による「釣り竿片手に−旨い地酒を求めて」で紹介されている清酒です。
秋田県・館の井 秋田県・大納川 福島県・大七 宮城県・黒迺江 新潟県・八海山 新潟県・真稜 群馬県・群馬泉 埼玉県・神亀 山梨県・谷桜 静岡県・開運 静岡県・初亀 滋賀県・喜楽長 滋賀県・松の司 三重県・妙乃華 三重県・東天紅 奈良県・窓乃宿 奈良県・芳香冠 鳥取県・鷹勇 広島県・宝寿 鳥取県・トップ水雷 福岡県・杜氏の詩 香川県・凱陣
この頃になると、いわゆる地酒有名ブランドとは少し違った蔵元が紹介されるようになってきていますね。  


阪神・淡路大震災と酒
平成七年一月の阪神・淡路大震災の折り、避難所に全国から届けられた震災救援物資の中に、相当量のアルコール類が含まれ、震災直後、一部の避難所では毎晩のように酒席風景が展開されたといいます。そうでもしなければやり切れぬ不安とストレス下にあったことは容易に理解されます。救援物資を送る側も送られる側も、そして一般に私たち日本人にとって、慰安のためのアルコール類の差し入れは、ストレス対処の小道具としてはほとんど違和感のないところでしょう。ところが、いや応なく多様な被災民が緊急避難する災害避難所に酒類の持ち込みを禁止するアメリカからの震災特派員の目には、こうした避難所での酒席はやはり奇異な光景に映ったようです。深刻な事態にあってもなお飲酒に寛容な、わが国の飲酒文化が鮮やかにあぶり出されたエピソードです。(「酒飲みの社会学」 清水新二) あの大震災にこんなエピソードもあったのですね。


良寛の酒詩(5)
携樽共客此登台(たるをたずさえて きゃくとともに ここにだいにのぼる) 樽を持って皆で高台に登る
五月榴花長寿杯(ごがつのりゅうか ちょうじゅのはい)            時は五月ザクロの花が咲き 長寿の酒が杯に注がれる
仄聴屈原湛汨羅(ほのかにきく くつげん べきらにしずみしことを)     屈原が汨羅の淵に身を投じたのも五月
衆人皆酔不堪哀(しゅうじん みなよいて かなしみにたえず)        皆酔いつつ 屈原の哀しみを思った
国を憂えて汨羅の淵に散った屈原を偲んだ詩ですが、良寛の哀しみは何だったのでしょう。(「良寛詩集」 岩波文庫)


根津宇右衛門
東京国立博物館のリニューアルなった本館に展示されている、特集展示「肖像画」の中に、「根津宇右衛門像」があります。
「甲府藩主徳川綱重(1646〜1709)に仕え、主君の過度の飲酒を諫めた忠臣。没後もその霊魂がたびたび諫(いさ)めるので、綱重もついに禁酒したという。没後の遺像であるが、肖像画に西洋画法を取り入れた渡辺崋山の画法を継承したリアルな表現が目を惹(ひ)く。」と、解説にあります。天保6年(1835)、椿椿山(つばきちんざん)による絹本着色の作品で、いかにも諫言を貫きそうな風貌を持った人物として描かれています。


予言
待ちわびた年がついに訪れ、 お上の統計資料が公けにされ
それによるとロシアの民衆は、 ウォッカも呑まずに品行方正
ということになっているけれど、 この先どうなることやら。
民衆は最初はわめきたてるが、 例によって例のごとく鎮まり
さて密造酒(サマゴン)の消費は倍となる。
ソビエト時代の抵抗詩人・A・ジノビエフの詩です。ゴルバチョフによる禁酒令のことですが、ゴルバチョフは酒を飲まないのだそうです。(「酔いどれロシア」 川崎浹・訳) ゴルバチョフに引導を渡したエリツインがほぼアルコール依存だったことは、この予言の正しかったことを証明しているのでしょうか。


カルルスベルヒ
19世紀の初め、クリステン・ヤコブセンという農夫がデンマークのコペンハーゲンでビール醸造を始め、その子、ヤコブが偉い人で、ドイツ・ミュンヘンから酵母を持ち帰り、立派なビール造りに成功したそうです。その後、ヤコブは息子の名を取ってビールにカルルスベルヒと命名したそうです。彼は、コペンハーゲンのビール工場内にカルルスベルヒ研究所を建て、ここでは初代所長ハンゼンが酵母の純粋培養法を発明したそうです。玄関には「本研究所にて為したる業績は理論的または実用的如何にかかわらず すべて世界に向って公開すべし」という意味の言葉が大書されているそうです。そしてカルルは「実生活と芸術は一致すべきである」という信念のもとに、美術品の収集、ギリシアなどの遺跡発掘などの事業に利益の大半を費やしたそうです。(「世界の酒」 坂口謹一郎)


池波正太郎の甘辛趣味
三十代のころは、芝居の仕事をしていて、大阪で稽古をつづけているときなど、稽古帰りにしたたか酒をのんだあと、法善寺の[夫婦ぜんざい]などを軽く食べたりしたものだが…。
酒後の甘味は、躰に毒だそうだが、また捨てがたいものがあるようだ。
これは、池波正太郎の「食卓の情景」の一節です。池波は、両刀使いといったところだったようですね。住江金之の本に、戦前の調査で、好きなつまみの1位が金山寺味噌、2位がヨウカンというものがあったように書かれていたという記憶があります。


三遅
酒の異名の一つに「三遅(さんち)」があります。その起こりについて、古書に下の三説が紹介されているそうです。
@盃に酒を注ぎ入れ、三回中で巡(遅)らせて、静まったところを飲むのだそうで、こうして飲むと薬になるそうです。
A盃を受ける時、酒を受けて飲む時、飲み終わって別の人が飲む時、遅くするのだそうです。
B人に酒を饗するときに、筵を敷き、語を交え、肴を勧めるという「三遅の儀式」があったからだそうですが、その「三遅の儀式」のいわれについては書いてありません。(「和漢 酒文献類聚」 石橋四郎編)
大言海では、酒宴に遅刻した者に罰杯を課するに云う語、転じて唯酒宴の事としています。


拳を打つ(「笑府」)
嫖客、妓(おんな)と意気投合、一緒に死のうと約束して、毒酒を二杯用意したが、妓は客に、先に飲んでくださいという。客が飲み終わり、妓を促すと、妓は拳(けん)を出して、「わたし、お酒はいけない方ですから、あなたと拳を打って、負けたものがこの杯を飲むことにしましょうよ」 拳は妓の十八番(おはこ)である。そうでなければ、拳を打とうとはいうまい。 一説によると− 客が飲んでしまうと、妓、扇で机を叩いて、「板後」(テンポがおくれた)といった。(「笑府」) 中国・明時代の笑話ですが、吉原でもそのまま使えますね。


川柳の酒句(10)
農民の 汗を池田で 又絞り(かつての酒の産地・池田では、農民の汗の結晶である米でを作り、それを絞る)
のむやつらとは 下戸のいふ言葉也(その逆が のまぬやつ 弁当くふと花にあき)
禁酒して むす子おやじを はむくなり(はむくは、ご機嫌を取る。飲む買うの一方を自粛して親の目をくらます)
盃を させばうなずく ひきがたり(ひぎがたりをしているのは芸者さんでしょうか)
それ見たか 引けたとしらふ 腹をたち(飲んで遅れ、千鳥足で遅れ、遊郭に着いた時は引四ツで店じまい)


悪食ベストテン
以前、「週刊サンケイ」の最終ページに”なんでもベストテン”というコラムがあり、阿刀田高が悪食のランキングを依頼されて選んだそうです。ただし、実際に食べたものや、料理としてはっきり認められているものという条件だそうです。
@猿の脳みそ Aスッポンの生き血 B泥鰌(どじょう)入り豆腐 Cチーズの蛆 Dカンガルーの尾 E錦鯉、金魚 Fクロレラ G宇宙食 H母乳(ただし大人が飲む場合だそうです) そしてついにI消毒用アルコール
「結核療養所に入院していた頃、隣のベッドにアルコール中毒の患者がいて、時折隠れてこれを飲んでいた。『おいしいんですか』と尋ねたら、目を白黒させながらもう一くち口に含んで、クイと水を飲む。とても私などが試飲できるシロモノではなかった。」(「食卓はいつもミステリー」)


学生飲み(草野心平の酒)
私にはまだ酒の味は、実のところよくわからない。味を好むよりは酔いを好む方だからである。五十歳をすぎてもまだ学生飲みなのはそうした点からきている。酒は楽しく飲むのが身上であることは分かっていながら、稲妻形の学生飲みを続けているのでは酒を談ずる資格はどうしてもない。そのうちにそうした境地にはいっていけるかもしれないが、いまのところ話の材料といえば後味の悪い失敗談とか宿酔のたぐいしかないのは、なんとも情けない。人伝てに聞いた水上滝太郎さんの飲みっぷりのようなのは誠に範とすべきものの極上だが、私などには一生かかっても近より難い感じがする。あの人などは学生時代から、ちっとも乱れない堂々とした飲み方らしかったが、こっちは五十をすぎても学生なのだからテンで歯がたたない。(「酒味酒菜」 草野心平)


紅葉(小咄)
空尻(荷を積まない馬)へ御侍(おさむらい)を乗せ、品川の方へ行く。「旦那、よい序(ついで)でございます。海晏寺(かいあんじ)の紅葉が盛り。ちょっと御見物なされませぬか」「それは、よかろう」と行く。「これはどうも言えぬ。よく気が付いて案内してくれた。これについて一首読もうか」「それは、ようござりましょう」「こうもあろうか。『奥山に紅葉ふみ分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋はかなしき』」「これはこれは、近年の名歌でござります」「そんなら、案内した褒美(ほうび)に一盃飲め」と酒屋へ寄り、馬士(まご)は、したたかやり、真赤に成っているところへ、なかまの馬士が来て、「権兵衛、日よりだな(いいきげんだな)。大分なま(銭)があるな」「なに、馬鹿な事をいう。自切(じぎり、自腹を切る事)で飲む株はない」「そして、誰が呑ませた」「この猿丸が」(「江戸小咄散歩」 興津要) 猿丸大夫の歌である事はすっかりばれていました。


「焚きつけの御神酒」と「上がり御神酒」
古式にのっとる窯焚きといえば…窯詰が終ると、大安吉日を選んで窯前に御神酒と塩をそなえる。窯神に「つつがなく」を祈り、窯焚きのスタッフ全員にも塩を撒いて清める。潮の満ちる方へ向かって松葉に火をつける。この焚き点けを清める意味で火打石の火をかける。祈詞を唱え、火入れの儀式は終わり、窯のスタッフ一同で窯前に筵を敷いて車座になり膳をだし、窯出しの楽しみに思いを巡らせ、酒を呑み交わす。これを「焚きつけ御神酒」という。長い窯焚きが終わり、あとは窯出しを待つばかり、最後の薪を投げ入れ、焚口に土を塗って全部蓋をしてしまう。運は天にまかせ、窯焚きの日数だけ自然に除冷するのが通常の登窯の焼成方法だ。無事に焚き終わった労をねぎらい、祝い酒を呑み交わす。これを「上がり御神酒」といっている。(「酒豪の作る酒器」 黒田草臣) 陶芸の世界での酒の話だそうです。


馬に古酒
孫八孫八、あん(何)とおも(思)ふ。是をおもへば 馬はたゞほんにお侍衆(さむらいしゅう)の足でござり申とおもへば 異(い)なこんだ。大切な馬の筋を切はなして頑馬(駄馬)にしなされる。夫より尾筋を延て、尻に山椒(さんしょう)をひつぱさむは せめての事だぞ。能ゝ(よくよく)思へば、馬を人にみせてほめられべい(ほめられよう)ためと見へた。今時のお士衆(さむらいしゅう)は伯楽(ばくろう)の真似をしなされて、生まれもつかない頑馬におしゃる。
彦八、あんとおもふ。さてさておかしい話ではないか。またおかしい事がある。聞け。馬が痩(や)せる所で、肉を上げべいとて三年酒の上ゝ(じょうじょう)の古酒で薬がい(飼い)をしなさる。夏なんどは蚊にさゝれて痩せべいとて 蚊屋をつる。(「雑兵物語」 岩波文庫) 江戸時代17世紀後半の話のようです。もっとも現在でも霜降りにするために牛にビールを飲ませるなどという話もあるようですから、昔の人をあまり笑えないかもしれませんね。


奈良本辰也の30選
清酒の大好きだった、歴史学者・奈良本辰也の「日本地酒紀行」で紹介された30選です。
浦霞(宮城)、陸奥男山(青森)、飛良泉(秋田)、出羽桜(山形)、澤乃井(東京)、七笑(長野)、清泉(新潟)、満寿泉(富山)、菊姫(石川)、鬼ころし(岐阜)、孝の司(愛知)、御代栄(滋賀)、萩の露(滋賀)、玉乃光(京都)、月の桂(京都)、呉春(大阪)、天野酒(大阪)、白鷹(兵庫)、香住鶴(兵庫)、春鹿(奈良)、李白(島根)、御前酒(岡山)、賀茂鶴(広島)、五橋(広島)、梅錦(愛媛)、笹の井(愛媛)、司牡丹(高知)、白糸(福岡)、天山(佐賀)、西の関(大分)
昭和60年に出版された本ですが、歴史学者らしい選択をしながら、おいしいところをそろえたようですね。


東方見聞録の酒
[ペルシア 葡萄酒] [バルフとバタフシャンの間 葡萄酒] [ホータン(新疆ウイグル自治区) 葡萄酒] [太原府(中国) 葡萄酒]
[タタール人(これが元の民族です) 乳酒]
[カタイ(中国北部) 米を醸し香料を加えたもので、よく澄んでいて、うまい] [「工卩」(一字)都(四川省西昌県) 小麦と米で醸造し、香料を加えた酒] [カラジャン(雲南) 米で酒をつくるが、澄んだうまいものである] [ザルダンカン(首都ヴォチャン:永昌) 米をかもし、香料を加えてつくった酒が飲物だが、味はよい] [カウジク(ラオス) 米と香料とで酒がつくられる] [ソロマン((貴州省の蛮族の名?) 米と香料で酒をつくっている] [キンサイ(杭州) 良質の乾葡萄と葡萄酒が他の地からくる。しかし土地の人は米と香料でつくった酒を常用している]
[サマラ王国(パセイに近いアムダラ) ある種の樹の枝を切り、切り口の下に大きな容器にうけておく。したたった樹液は一昼夜で容器一杯になる。この酒はなかなかよいもので、白と赤の両種がある] [セイラン島 樹液で作った酒] [コイルム王国(コモリン岬西北海岸) 椰子からとれる砂糖でつくったもの]
エシャル市(アデンの東53km) 砂糖、米、棗などでうまい酒をつくっている(「東方見聞録」 教養文庫) 太原府の葡萄酒というのがどうかなと思いますが、他は大体現在と同じような分布であることが、当たり前ではあるのでしょうが面白いですね。


一合八文
酒の値段については、太田蜀山人の『金曽木(かなそぎ)』に、「予(よ)が稚(いとけな)きころ 酒の値一升百二十四文、百三十二文を定価とす。賤(いやし)きは八十文、百文もあり。中比(なかごろ)百四十八文、百六十四文、弐百文にいたり、弐百四十八文ともなれり。是は明和五年戊子(つちのえね)(1768)より、南鐐四文銭出来て、銭の相場賤(いや)しく(インフレで物価騰貴) 、物価貴(たか)くなれるなり」
八文が飲む内馬は垂れている(馬子が安酒を飲んでいる内に、馬は小便をたれている)
豊島屋でまた八文が布子を着(八文の酒で着物代わりにからだを暖めている)
八文が飲み飲み根ぼり葉ぼり聞き(結婚の人物調査の様子)(「江戸川柳の謎解き」 室山源三郎)
一升百文以上が普通のところ、一升八十文で、一合八文は安酒ということのようです。「冷やっこい水」は四文だったそうです。


パンとオリーブ油
「明日の朝十一時にシャトーヌフのカーブで。朝食にたっぷりパンを食べてから、来てください」 言われたとおりにし、さらに用心のためオリーブ油を生(き)でスプーン一杯、胃に流し込んだ。地元のグルメたちに教わった方法で、そうすると胃の内壁に膜ができ、まだ若い強いワインの執拗な攻撃から身を守れるというのである。{「南仏プロバンスの木陰から」 ピーター・メイル) 飲む前のフランス流準備のようです。若いワインに対する悪いイメージがあるようですね。シャトー・ヌフ・デュ・パープで試飲をしようとする前の準備だそうですが、うらやましいことです.。


高橋是清の酒(2)
船の中ではまたいろいろなことがあった。伊東さんは例の大兵(だいひょう)で、いつも浴衣(ゆかた)がけで酒ばかり飲んでいた。「君は飲めるか」というから「うん飲める」といってともに杯を傾けた。私は「金の柱」にボーイをしていた時分から飲むことを覚えてすきになっていた。ところが先生はいつも浴衣がけでいるから、酒場へ行って酒を買ってくるわけにいかぬ。それで君買って来ないかと私に酒買い掛りを頼む、私は使賃だといって飲む。その内にどうも人の酒ばかり飲んでいても旨(うま)くない。船に乗る時に、富田さんが小遣いにといって、鈴木と私にアメリカの二十ドル金貨を一枚ずつくれたので、三度に一度は、自分の金で買って飲む、すると、たちまち、それがなくなって、終いには酒は飲まない鈴木の金貨まで取上げて飲んでしまった。(「高橋是清自伝」) 14歳、高橋是清、渡米の際のエピソードです。伊東は後の海軍大将・伊東祐亨だそうです。


宮脇俊三の酒
宮脇さんも私も酒好きである。それでちょいちょい宮脇さんに来て貰って一杯、いや十杯くらいは飲んでいた。宮脇さんはブランデー好きである。私も昔はブランデー党であったのだが、かなり以前からウイスキーのほうが好きになり、宮脇さんだけにブランデーを供した。上等のコニャックは安くはないが、私は若い頃はかなり外国旅行をしていたので、毎度三本ずつ無税のブランデーを買ってきて、まず安上がりに彼にブランデーを出すことができた。それでも宮脇さんの言葉半分にしても、「北家のブランデーをおそらく風呂桶一杯は飲んだでしょうなあ」ということである。最近は宮脇さんの方が海外に出る機会が多いので、彼もときどきブランデーの差し入れをしてくれる。といっても、宮脇さんがそのほとんどを飲んでしまうのだが、これまでいろいろ恩義を受けている宮脇さんには文句も言えない。(「マンボウ酔族館」 北杜夫) 中央公論編集長後、作家活動に入った宮脇は、隣に住んだ北杜夫の恰好な飲み相手だったようです。


L−システイン
L−システインはアセトアルデヒドの毒性を減じる可能性があります。これはL−システインが持っているSH基がアセトアルデヒドと結合して血液中のアセトアルデヒドを減らす作用があるためです。”ハイチオールC”という二日酔いに効くといわれている市販薬がありますが、これにL−システインが含まれています。チオールというのはSH基のことで、SH基をたくさん含むから「ハイチオール」という名前がついているのでしょう。私自身も時々この薬を飲みます。飲んだ方が翌朝の気分は若干いいような気もしますが、残念ながら深酒をした翌朝の二日酔いを消してしまうほどの効果はないようです。(「酒乱になる人 ならない人」 眞先敏弘) こんな証言がありました。


「ギリシアの葡萄酒さまざま」
プラムノスの名で呼ばれる酒があったが、これはデルメル女神に供える神酒用であった。キオス酒というのは島の名に由来しており、タソス酒、レスボス酒も同様である。その他に「甘口(グリュキュス)」という名の酒もあったが、その名にふさわしい味がする。また、クレタ酒というのもある。シュラクサイにはポリオスという名の酒があるが、これはその地の王の名にちなんだ命名である。コス酒というのも呑まれたが、これは産地による命名であり、ロドス酒というのも名の由来は同様である。ところで次のようなことは、ギリシア人の贅沢さを示すものではなかろうか。彼らは酒に香油を混ぜて呑み、こういう混ぜ方をすこぶる珍重したのである。(「ギリシア奇談集」 アイリアノス) 古代ギリシアにも色々な名酒があったようですね。1800年位たった今、残っているものはあるのでしょうか。


「高いと思ったら払わない」
(川端康成が)亡くなられる数年前、銀座のバーで偶然会ったことがある。「このごろ、銀座にはよく出ますか」と聞かれたので、「近ごろ高くなりましたので、あまり来ません」と、答えたら、川端さんはニコリともしないで、「高いと思ったら、払わなければいいじゃないですか」と言った。
結局、川端さんの言葉のニュアンスから言って、ひとつには小生が手拍子で、「高いから…」という通俗的な返事をしたことを咎めているという印象をまず受けた。もうひとつは、来てみて常識以上に高く請求されたら、それは自分の判断で払わない、という川端さん独特の考え方も含まれていて、この二つの混ざっているような気が、小生自身はしている。(「定本・酒場の雑談」 吉行淳之介)


犬切御仕置之咄(いぬきりおしおきのはなし)
段々御せんぎ(詮議)の上 右(みぎ)与右衛門(よえもん)に相極(きわま)り申候付て、彼(かの)与右衛門被召出(めしいだされ)御尋被成候(おたずねなされそうろう)は、「其方儀(そのほうぎ)定(さだめ)て酒によい(酔い)犬切可申(いぬきりもうすべし)」と被仰候(おおされそうろう)。与右衛門申上候は、「少も酒給(たべ)不申(もうさず)候」由(よし)申上候。「左候はゞ(さそうらはば) うろたゑ(え)切申候哉」と被仰候(おおされそうそう)。「少も うろたゑ不申候。犬く(喰)らい付申候付 切殺し申候」と申上候付、御仕置はりつけ(磔)被仰付(おおせつけられ)候。酒よい(酔い)か うろたゑ切候と申上候はゞ、遠島(島流し)可仰付と御奉行衆被思召(おぼしめされ)処に、実心に切申候付死罪に被仰付候由。(「元禄世間咄風聞集」 岩波文庫) 犬を切り殺した与右衛門が、死んだ犬を近所の酒屋の前に棄てさせたことからおこった裁判の話です。犬公方といわれた綱吉の時代の証言ですが、裁判の現場では柔軟に対応しようとしていたようですね。


高橋是清の酒
しかるに、その銀行には、馬丁もおればコックもいる、その間にはならず者も交じっており、朝夕酒を飲む、博打は打つという有様であった。当時、私は十三歳の子供であったが、その時分から老けて見えて、体も大きかった。それで馬丁やコックたちとも一緒になって酒を飲んだりなどしておった。随分悪戯(いたずら)をしたもので、毎日鼠取りで鼠を捕らえては、「シャンド」のビフテキ焼きで焼いて食べていたが、いつの間にかシャンドがそれを二階から見て、「私の道具で鼠を焼くことだけは止して下さい」と穏やかに言われたのには恥入った。(「高橋是清自伝」 上塚司編) 英語の勉強のために銀行のボーイとなったときの高橋是清の逸話です。子供の頃から飲んでいた高橋の酒歴はこの頃から進んでいったようです。


頭の痛くなる酒
家で飲む日本酒では、一度のないことだが、外の、それも東京では名の通った店で、時折り、薬くさい日本酒を飲まされる。先日も、或る店で、友人三人とのみ、帰宅したら、どうにも頭がぼんやりして、吐き気がしてくる。夜半になったら頭痛が烈しくなり、どうにもならず、仕事はやめて、寝てしまった。(これはおれだけだな。五合やそこらの酒で、こんなになっちまうのか…おれも弱ったものだ)なさけなくなった。次の日、前夜のうちの友人Aが電話をかけてきて、「どうだ、昨夜…?」「どうだって、何が?」「変じゃないかったか?」「何が?」「吐き気しなかったか、頭、痛くなかったか?」「お前も?」「やっぱり、お前も?」「そうだ」「おれもだ」(「食卓の風景」 池波正太郎) 今はこういった話はなくなったようですが、以前はよく聞かれました。酒が気分で飲まれるものであることがよく分かります。


「救済の道」
いずれ酒乱でくたばるさ、神の定めし刻(とき)より早く
されど、しらふの隊伍(たいご)に戻る気はさらになく。
皮膚の下の血管にウォッカの流れるもよし
神の御前(みまえ)に酔眼もうろう立ちいずるもよし。
主よ!この場にいらしたら、あなた様とて、
へべれけに酔っぱらったでしょう、我を忘れて。(「酔いどれロシア」 A・ジノビエフ)
ソビエト連邦末期に書かれた抵抗詩人の詩だそうです。今ならどううたうでしょう。


『含酒精鉱石発見覚書』
父から養老の滝はあるのかと問われた博士が、養老の滝伝説の地・岐阜県養老町の滝の上流で拾った小石を分析したところ、僅かながら酒精(エチルアルコホル)の結晶を検出したそうです。その後の調査の結果、博士は明治二十四年、紀州の沖にある島の山奥で、アルコール分含有率50%を越える鉱石を発見ました。地元ではこれによる滝を出藍滝とよび、成人の儀式の時のみ飲むことが許されていたそうです。「余(よ)終(つい)に養老乃滝を見つけたり。芳醇にして甘露、筆舌に尽し難し。羽化登仙の心地」と書かれているそうです。ところが、博士は日々滝の水を飲み続け死亡します。遺体発見者の校長先生(棒荷)はそれらの石を土中深く漆喰で固めて埋め、資料としてこの覚書を公にしたそうです。ところが、この覚書の裏表紙には、校長先生の遺体が発見され、石を独り占めにした罰が当たったと書かれているそうです。鉱山学博士・伊奴毛有毛馬著、棒荷亜田留(覚書発見者)とタイトルの下にあるそうです。(「偽書百撰」 芝垣折太著 松山巌編)


晩酌
この酒(晩酌のこと)を、岐阜県などではオチフレ、又九州の東半分でヤツガイともエイキとも謂(い)つて居る。意味はまだはつきりせぬが、鹿児島熊本等の諸県でダイヤメ又はダリヤミと謂って居るのは、明かに疲労を癒(いや)すといふことで、即ち労働する者が慰労に飲まされる酒の意であった。東京では又是をオシキセとも謂って居るが、シキセは元来奉公人に給する衣服のことである。堂々たる一家の旦那が、その御仕着せに有付くといふのはおかしい話だが、起りは全く是も主婦のなさけで、働いた其日の恩賞といふ一種の戯語としか考へられない。(「酒の飲みやうの変遷」 柳田國男) 柳田流の晩酌解釈です。


さんげさんげ
両国の川に、五、六人、「さんげ、さんげ」と言うて千垢離(せんごり:神仏に祈願して川で身を清めること)をとりけるが、そのうち北風はげしく、そこそこに仕舞い着物ひっかけ、近所の酒屋へしけ込み、熱燗いい付け、「なんぞ、あるかえ」といえば、「あい、こんにゃくのでんがくと湯豆腐がござります」といえば、「そんなら」と、てんでの(めいめい)好きなものを出させ、食いけるが、一人がいうには、「こんにゃくという物は、性分(しょうぶん)のかいない(ふがいない)ものだ」「なぜ」「これは、あつい湯のなかにいれてもふるえる」といえば、「インヤ、そういやんな。豆腐も震える」といえば、一人が茶碗をもちながら、「これこれ、こんにゃくのふるえるでも、豆腐のふるうでもない。地震のゆるのだ」「なぜさ」「はて、おれが酒を、みなゆりこぼした」(安永三年刊「稚獅子」)(「江戸小咄散歩」 興津要) 「懺悔懺悔(さんげさんげ) 六根清浄 …」といいながら隅田川で水垢離をして皆が震えていたという話です。


サケとササ
寛永の頃とつたへられるが、道右衛門はまねかれて大阪道頓堀の芝居に出たことがあつた。狂言は近江源氏四斗兵衛内の段と、高田ではさういふ。四斗兵衛は道右衛門。そのセリフに「女房ども、酒買うて来い」といふのがある。高田地方では酒はサケである。道右衛門はすなはちサケと発言した。すると、上方役者の女房がすかさず「サケはササのことかいなあ」と切りかへして来た。これはサケといふことばをとがめたので、書抜には無いセリフである。道右衛門さわがず、「ところなまりに国ことば、浪花の芦も伊勢の浜荻。ぐずぐずいはずに買つッこい」と高田なまりで応じたという。(「諸国畸人伝」 石川淳)
島原藩の飛び地支配地だった大分県豊後高田に生まれた俳優の言い伝えだそうです。


祇園会と御霊祭
本朝ニモ頃間京童(きょうわらわ)ノ言ニ、古酒ヲ祇園会(ぎおんえ)ト云ヒ新酒ヲ御霊祭(ごりょうまつり)ト云、如何トナレバ、古酒ハ味厚クシテ身躰の上下、共ニ濕(うるお)フテ酔フ、祇園ノ大社ノ祭リニ上京下京共ニ賑フガ如シ、新酒ハ味薄シ、頭上バカリ酔て、下モ寂(しずか)ナリ、御霊ノ小社ノ祭ニ上京バカリ賑ヒテ、下京ノ寂寥タルガ如シト云モ青州平原ノ故事ニ似たり。(「訓蒙酔う要言故事」 石橋四郎編「和漢酒文献類聚」)
古酒は体全体が酔い、新酒は頭だけが酔うということで、祇園会は京都中が、御霊祭は上京だけがにぎわうということで付けられた名前のようです。さすがくちさがない京童といったところでしょうか。


「京のお茶漬、高松のあつかん」
四国の高松という所へ、わたし、ちょいちょい参りますので、聞いてみたら、もうそんなことは知らんちゅうてましたさかい、よっぽど前のことなんやろうと思うんですが、向こうに変わった挨拶があったんやそうで。人が来ていろいろと話をして、そんならもうおいとましますと、お尻を上げて帰りかけると「まあよろしいがな、まあ、あつかんでェ」とこない言います。あつかんで、ちゅうさかいね。熱燗で一杯飲ましてくれるのんかいなと思て、ま、嫌いなほうやないさかい「さよか」言うて座りなおす。なんぼ待っても何も出えへん。まあ酒の一杯ぐらいええわと思て「ほな、もう失礼します」「まあよろしいがな、まああつかんでぇ」…熱燗で、熱燗でちゅうて冷やも何も出えへんのやさかい、どうなってんのやしらんと聞いてみたら、これがあの辺の挨拶やちゅうんですが、悪い挨拶でっせ、この挨拶は。(「桂米朝コレクション」 ちくま文庫) 「京のお茶漬」で分かったかもしれませんね。


中産階級の30本
坂口謹一郎の「世界の酒」で、フランスの葡萄酒宣伝委員会で出した葡萄酒の飲み方を書いた本を紹介しています。そこには、中産階級の酒庫にねかせてしかるべき30本が紹介されているそうです。それによると、ボルドーは赤4種、白4種、ブルゴーニュは赤5種、白3種、ロアールは赤3種、白2種、アルザスは白2種、ジュラは赤1種、白1種、ローヌは赤1種、白1種だそうです。冷蔵庫で保管する清酒30種といったらどんな風になるでしょう。日本の「中産階級」にとって30種は多すぎるようで、10から15種ぐらいでしょうか。そうすると、酒の種類として 生吟醸 古酒吟醸 火入れ吟醸にごり酒 生特別純米 火入れ原酒純米 火入れ(特別)純米 古酒純米 本醸造 本醸造にごり酒あたりを各1〜2種揃えて、客とつまみにあわせて選んで飲むといったところでしょうか。


入社すると酒が飲める話
正式入社は、(昭和)二十三年二月である。そして間もなく、戦後初めて飲み屋に入って酒(密造のかすとり)を飲むことができた。会社が築地二丁目にあったのだが、その電停の近くの路地を入ると、汚い小屋が並んでいた。その店の一軒に、会社の先輩が連れて行ってくれた。正式入社してみると、月給千八百円だった。カストリ一杯三十円、三杯飲めば百円になり、毎日飲んでいれば酒代だけで三千円になるではないか。これではとてもまだ酒とは縁ができない、と考えているときに、連れて行かれた。先輩は月給の額が多いにしても、あまりに平然として勘定を払った。「ははあ、会社というところで働いていると、なんとなく酒というものが飲めるものらしいな」と、そのとき私は思った。  戦後じつに長いあいだ値段の変わらなかったものの一つに、ビールがある。そのころ屋台に近い飲み屋で、一本百円だった。ということは月給の十八分の一、(「定本・酒場の雑談」 吉行淳之介)


酒のことわざ(4)
金は火で試み人は酒で試みる(それぞれ本性をみるのに良いもの)
上方の辛好きに江戸っ子の甘好き(これは酒も含まれるのでしょうか)
聞かずの一杯(断られても最初の一杯だけはついでよい)
玉山(ぎょくざん)頽る(くずる)(容姿の清らかな人が酒に酔いつぶれる様)
金谷(きんこく)の酒数(しゅすう)(罰杯として三杯の酒を科すること)(「故事ことわざ辞典」 鈴木、広田編)


バクダンの解説
工業用アルコールは戦時中に代用燃料として開発された。飲用に供されないよう、毒性の強いメチルアルコールを混ぜ、合成着色料でピンクに染めて危険物であることを表示した。発想を逆転して不純物を取り除けば飲用酒となる。着色料は木炭の粉を入れると除去されて透明になる。問題のメチルアルコールはエタノールとの沸点の差を利用して揮発させる。こうして得られた飲めるアルコールを薄め、砂糖などで最低限の味付けをした危ない酒がバクダンだった。
メチルによる死者の記事は頻繁に報道されていた。二流のウイスキーに混入されていることもある。三十ミリリットルで死に至る猛毒だが、即効性ではない。半日から一日の間に独が回る。目が散るからメチルと言われいるように、たとえ死に至らなくても失明する危険がある。(「夢淡き、酒」 倉阪鬼一郎)


じゃがいものつまみ
○(新じゃがいもの)皮のまま糠味噌に漬け込みます。大きさによって漬かり加減が違いますが、卵大のじゃがいもで三日くらいがちょうどよいでしょう。皮をむいて、ごく細いせん切りにして、俎板(まないた)の上でよくもんで、水で流し洗いをして、きりっと絞りあげます。小皿に三箸、四箸くらい盛り付けて、かけ醤油(酒と醤油、または味醂と醤油を同量に混ぜる)をかけて、花かつおを天盛りにします。
○新じゃがいもの皮をむいて、できるだけ細く切って一度水でさらし、熱湯にさっと通して、固く絞って、三杯酢をかけます。天盛りはやはり花かつおがよろしいでしょう。(「料理歳時記」 辰巳浜子)
くずの小粒芋の丸揚げも紹介されていますが、これはビールの方があいそうです。


ハレとケの解釈
「ハレ」と「ケ」という言葉も祭の日に酒を飲む日本の風習と密接に結び付いています。社会生活は私たちにいろいろな欲求をコントロールすることを要求し、時にはやりたくないことも強制してきますから、社会生活の中で全くストレスを感じない人はまずいないだろうと思います。したがってストレスの発散の場所をどこかに与えなければ精神的に破綻をきたしたり、そこまでいかなくとも仕事の能率が大きく下がってしまう人も増えてきます。そこで日本ではハレという、通常の社会生活を営む日とは異質の日を設定し、その日のストレス発散のための重要な道具として酒を利用してきたのです。要するに、日本に酒乱が多いのは、日本社会が伝統的にそれをある程度容認してるからとうのが一つの背景としてあると思います。(「酒乱になる人、ならない人」 眞先敏弘)


御酒をすすめて 手習ひ子 暇乞
菅原道真が藤原時平の讒言(ざんげん)によって太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷され、失意のうちに五十九歳で没したのは延喜三年二月二十五日。その不遇な最後、また、いろいろ不思議なことが起こったことから天神信仰が生まれた。その忌日(生まれたのも、九州へ配流されたのも二十五日といわれる)を”御縁日”とし、各地の天満宮では祭が執行され、露店も出るのは今日でも行われている。天神は書道の神様でもあるから、この日は寺子屋も休みで、「御酒(ごしゅ)をすすめて 手習ひ子 暇乞ひ」と、官公の画像にお供えをして、礼拝の後遊ぶのである。(「江戸・川柳の謎解き」 室山源三郎)
お供えの酒を受ける道真は、余り強くなかったようですから、ありがた迷惑だったかもしれません。


晴の御膳
「晴の御膳」は宮殿鳳凰(ほうおう)の間で行われ、天皇陛下がお出ましになる。陛下のお椅子の前の卓には料理が盛りあげてある。だいたいが酒の肴のようなものである。昔はこれらを召しあがったそうである。平安時代以降になると、すでに形式化して後醍醐天皇(在位一三一八〜三九)の時の記録には、「天皇が箸をならした」とある。江戸時代を通じてこれらは実際に召しあがらず、「箸をとる」「箸をならす」との記録が見られる。天皇陛下(昭和天皇)ももちろんこれらを召しあがらず、ただちょっと箸をお立てになるだけである。次いで控えている侍従が陛下のご前に進んで、冷酒を卓の上の杯におつぎする。陛下はこれにも口をおつけにならない。(「宮中歳時記」 入江相政) 元日の早朝から始まる正月行事の一つで、このあと朝食になるのだそうです。昭和天皇はアルコールに弱かったようですが、アルコールの強かった明治天皇は飲んだのでしょうか。


酒の産地とつまみの産地
ところで山野の狩で取る肉類にはいいつたえがあって、そこでできる銘醸を使ってはならない。だからブルゴーニュに行った時は名産の鶉や鷓鴣が出てもそれにはボルドーを使い、ボルドーではそこの兎や猪にはシャムベルタンやメルキュレなど、ブルガンディー酒を使うことになる。それだから結局メドック(ボルドーの主産地の名前で、そこでできる酒)は野鳥肉に、兎にはブルガンディーということにもなってくるのである。(「世界の酒」 坂口謹一郎)
現地産の酒に現地産のつまみが最も合うというのが定説ですが、こうした逆を言う話は大変面白く、清酒でもないものかと思います。ブルガンディーは今様にいうとブルゴーニュです。


上戸あれこれの付録
お酌上戸 目立ちたがり上戸 カラオケ上戸 ひがみ上戸 脱ぎたがり上戸 のぞき見上戸 自慢上戸 わが家の家系上戸 居眠り上戸 無口上戸 金の話上戸 のろけ上戸 露悪上戸 食い気上戸 色気上戸 会社批判上戸 うわさ話上戸 けんか上戸 おごり上戸 いばり上戸 トイレ上戸 無駄上戸 反省上戸 はてなし上戸 健忘上戸 パソコン上戸 タバコ上戸 マージャン上戸 ゴルフ上戸 はしご上戸 よくばり上戸 自慢上戸 おしゃべり上戸 下ネタ上戸 ゲロ上戸 ぶりっこ上戸等々
いくらでもありそうです。 


上戸あれこれ
かつぎ上戸     異見(意見)上戸        悪態上戸
ねじ上戸       おもしろくない上戸       理屈上戸
くどくなる上戸    腹立ち上戸           小言上戸
さわぎ上戸      泣き上戸            しゃべり上戸
これらは、「酩酊気質(なまよいかたぎ)」という、式亭三馬による文化3年出版の滑稽本で紹介されているものです。(小学館版古典文学全集)かつぎ上戸は平生の言葉を縁起をかついで難しくいう酔い、ねじ上戸はしつこい酔いのようです。


良寛の酒詩(4)
頭髪蓬々耳卓朔(とうはつ ほうほう みみに たくさくたり)       髪の毛は乱れて耳にかかり
衲衣半破若雲烟(のうい なかばやぶれて うんえんのごとし)     衣はぼろぼろ
半酔半醒帰来道(はんすいはんせい きらいのみち)           なかば酔って寺に帰る
児童相擁後與前(じどう あいようす うしろとまえとより)         子供らに前後をささえられながら
 これはいかにも良寛さんらしい詩ですね。


酒もみの太うち
そのころの(江戸寛文頃)〔蕎麦切〕のおもかげをしのびたいのなら、地方都市で「うまい」といわれる蕎麦屋へ行くことだ。飛騨高山の〔えびす〕などもよいが、東京では、神田の須田町の〔まつや〕の酒もみの太うちを特別注文すると、往事の〔蕎麦切〕の面影をしのぶことができるであろう。〔まつや〕は、近くの連雀町の〔藪〕の名声にかくれてしまい、地味にやっているが、「知る人ぞ知る…」名店だと、私はおもっている。以前はいつ行っても酒もみを打ってくれたが、このごろは人手不足なのか、前もって予約しておかぬと食べられない。(「食卓の情景」 池波正太郎) 酒でこねた蕎麦を般若というそうで、食べると立派に酔っぱらいます。まつやで今でも食べられるのでしょうか。


ろ過砂
観世新九郎咄 一 酒にても水にても砂ごしいたし候によき砂は、目黒行人坂下に小川有、此川砂よく候。此砂に増し候は無之よし。(「元禄世間咄風聞集」 長谷川強校注)
観世新九郎は、小鼓方観世流宗家7世の豊房、砂ごしは砂を通してろ過すること、目黒行人坂は今も目黒駅近くにある急坂で、明和9年の火事の火元といわれている大円寺があります。坂下の川といえば、目黒川でしょうか、江戸時代は「こりとり川」といわれていたそうです。水垢離(みずごり:神仏に祈願するために水をかぶってけがれを流し去ること)をする場所だったということのようですので、砂もきれいで細かかったのでしょう。それにしても、どのような酒をろ過したのでしょう。


極熱燗
はっきり、酒の燗が熱いところがある。外国だ。そのなかでも、いちばん燗が熱かったのは、サンフランシスコのミッション・ストリートの日本レストランだった。  この店の燗はやたら熱く、燗をしているのを忘れて、燗をつけすぎたとき、杉の割り箸をつっこんだりしたものだが、それぐらい熱い。それこそ、まちがって、燗をつけすぎたとおもったが、二本目の銚子も三本目の銚子も、ぎんぎらに熱かった。アメリカ人の客は、大きな皿にもりあげられた、でかいエビのテンプラをたべながら、熱い酒をふうふう飲んでいる。しかし、外国の人たちは日本酒が好きで飲んでいるのではなく、日本料理には日本酒を、とおもっているようだ。そして日本酒は熱く燗をして飲むものというので、めずらしがって、ホット・サケを飲んでいるのだろう。
これは、「目の眼」増刊号に田中小実昌が「熱燗ぬる燗」という題で書いているものですが、出版されたのが昭和58年ですので、今はこんなことはないのでは。


幽霊
新川の酒蔵に幽霊が出るとの取沙汰(うわさ)。この家の番(番頭)、少々角力の手も知って居る人ゆえ、何程の事あらん(幽霊なんかこわいことがあろうか)と、今宵この酒蔵に寝たりしに(寝たところが)、うしみつごろ(真夜中)とおぼしきに(思われるときに)、ふしぎや、七ツ星の印の酒樽より、評判の幽霊あらわれたり。そのとき、番頭、大音(だいおん)あげ、「やあやあ、この番集(番頭)が前もはばからず、のめくりつん出たしろん坊、魔性の者か、化性(けしょう)の者か、返答は、ナナナ七ツ星のこもっかぶりめ。なんだとヱヱ」 幽「どうも九曜がたりませぬ」(文化十一年正月頃序「山の笑」)(興津要 「江戸小咄散歩」) 九曜は九つの星のこと、七つ星では二つ足りないので、「供養が足りない」にかけた小咄です。


羽二重団子
「日本橋の新川から”こもかぶり”を直接取り寄せましておすすめしましたので、酒が佳いと大変に喜ばれたようです。この四囲は、四、五軒の農家があるだけで、酒屋も近くにありませんので、お酒を求めにおいでになる人も多かったものです。肴は田舎のことで大したものは出来ませんで、豆腐の料理したものや豆や野菜の煮ものでした。団子を売るようになりますと、団子と酒を売る変な茶屋だといわれておりました。近くに根岸がありましたので、文士の方がよくおいで下さいました。」 吉村武夫の「今も残る江戸の老舗」で紹介されている、東日暮里・羽二重団子五代目の奥さんから取材した昔話だそうです。「吾輩は猫である」にも登場しているそうです。甘辛茶屋といったところでしょうか、今やっても面白いのでは。


雑兵物語
(馬蔵)米は一人に六合、塩は十人に一合、味噌は十人に二合と申。夜合戦があるべい時は、米が増申すで御座有べい。米も一度に渡せば、上戸めは酒に作りくらひ申ものだ程に、三日四日のをば一度に渡し、五日より日数多は飯米渡さない物だが、もし籠城の有まいでも御座ない、是は古法で御座り申所で、お心持にも成り申べいと存じてお耳に入申たが、五蔵殿はあんと思ひ被成る。
(五蔵)馬蔵が云通、飯米なんどを十日とも一度に渡すべいならば、上戸めは八日九日の飯米も酒に作りてのむべい。そうあるべいならば餓えて死ぬべい。三日四日の飯米を酒に作てくんのんでも、二日三日は断食でもつヾくべい。
江戸初期に書かれた「雑兵物語」(中村・湯沢校訂 岩波文庫)の一節です。これは、だんべい言葉で書かれた下級戦士のノウハウ集です。戦場でも米があれば酒にしてしまうという上戸の根性はたいしたものです。


川柳の酒句(9)
中直り元の酒屋へ立ちかえり(酒を飲んで喧嘩したものの、なかなおりができて再び同じ店へ)
大生酔を生酔が世話をやき(「べろべろ」を「べろ」が世話を焼く)
生酔いの女房寝声で礼を言ひ(おくってもらったへべれけ亭主を引き取った、すでに寝ていた奥さんが寝ぼけ眼で礼を言う)
抜けたあす旦那に樽を拾わせる(樽拾い:酒屋の丁稚 がいなくなり、主人がその代わりをしている)
居酒屋のねんごろぶりは味噌をなめ(常連は、つまみも味噌をなめる程度で店はあまりもうからず)


酸い酒(3)
ある店でちょうど酒が出来あがったところへ、頭巾をかぶった男が通りかかったので、丁寧に一礼して中に招じ入れて飲ませる。男飲み終わって、「わたしに似ている」といった。亭主、さては秀才だなと知り、礼をいって帰らせる。しばらくすると一人の女子が来たので、また招いて飲ませると、その女子も、「わたしに似ているわ」といった。亭主、「さっきの秀才旦那が、自分に似ているといわれたのは、酸い(ぶる)という意味でしょう。しかしあなたも自分に似ているとおっしゃるのはなぜですか」ときくと、その女子、「ほかでもないわ、ただ少し風変わりっていうことよ」(「笑府」 馮夢竜) 「酸」には「〜ぶる(例えば学者ぶる)」という意味があるそうです。「風変わり」というのは、酒が酸っぱいということと、女性が変わっている(一人で酒を飲む)ということがかけてあるそうです。今の日本では通じない笑話のようです。


青銅十疋飯も食ひ酒も飲み
「青銅」は、銅銭すなわち銭。「十疋(じゅっぴき)」は百文(一疋は十文)。お寺にわずか百文くらいのお布施しか出さないのに、そのお斎(とき)(寺で檀家に出す食事)にはたらふく飯も喰い酒も飲むという人物は”百旦那”といわれる。「蝋燭(ろうそく)に似た物を出す百旦那」とは、その百文の包み。「百旦那小僧銚子とひたしもの」と、寺の方でもお銚子一本と野菜のおひたし程度しか出さないのだが、「げつぷうで門を出るのは百旦那」・「夕飯は嬶いやだと百旦那」と、しこたま食べるのである。
室山源三郎の、「江戸川柳の謎解き」にある句です。


初めての店
一、小ざっぱりした上等な身なり(金は持っているな)
一、少ない持ち物(通りがかりでない近所の人だ。大事にしないと)
一、隅の目立たぬ席へ座った(オレに用事があって来たんじゃない。へんに常連くさくしないのは奥ゆかしい)
一、注文して新聞を開いた(放っておいてほしいんだな。これは気が楽だ)
初めての居酒屋へ寄る時の注意点だそうです。太田和彦の、「超・居酒屋入門」にあります。居酒屋主人の初めての客に対する視線と胸の内だそうです。一人で初めての店に行く時は役に立ちそうですね。


「初物評判福寿草」
安永5年(1776)に江戸で出版された「初物評判福寿草」というランキング本があるそうで、渡辺善次郎が、「食もいなせな江戸っ子気質」で紹介しています。
最高位「極上吉日」は、夏の初鰹
「上上吉」は、春の若葉、早わらび、秋の初鮭、新酒、新そば
第三位は、若あゆ、若もち、早松たけ、早初たけ  四位は、新茶、初茄子などだそうです。
初物好みの江戸っ子趣味は今と全然違わないようで、面白いというか、面白くないというか。


奈良の名物
大仏に 鹿の巻筆 あられ酒 春日灯籠 町の早起き(「上方落語 桂米朝コレクション」の「鹿政談」 ちくま文庫)
大仏はいうまでもなく東大寺の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、鹿の巻筆は、鹿の毛でつくった巻き筆で、もとは春日神社で用いられていたとか。あられ酒は、蒸し米か霰餅(あられもち)を入れた味醂酒、春日灯籠はこれもご存じの通りで、春日神社に沢山下げられています。町の早起きは、春日神社の神鹿が家の前で死んでいると大変なことなので、早く起きて、もしそういうことがあったら隣へ運んでおくということで、落語ではこれが導入部となります。


佐々木久子の酒
読売テレビがイレブンPMの正月番組で女性酒豪番附を企画し佐々木久子さんを招いて放映したことがある。佐々木久子さんを中心に、体操の竹越美代子さん、かしましの正司歌江さん、書家の望月美佐さん、元アナウンサーの下重暁子さん、某女性歌手との話題を提供したキャシー等々の酒豪連が集り、それに検査役として西側が、京都先斗町ますだの女将、増田好(たか)さん、東側、東京赤坂、冨司林の女将、林信子さんが控え、先斗町の舞子、赤坂の芸妓の踊りが番組の中で披露される趣向で十二月中旬に録画撮りが行われた。何しろ午後六時頃からのリハーサルの間も四斗樽から桝でぐいぐいやっていたものだから本番の十一時には全員出来上り、何を言っているのかさっぱり判らない。 − 番組は滅茶滅茶になったことがあるが、その時もチャコはホテルへ帰って来て楠本憲吉氏、林信子さんの二人で午前二時頃酒盛りをしたという豪の者である。 佐々木久子の「酒縁歳時記」の文庫版「酒はるなつあきふゆ」にある、石井泰行によるあとがきです。


池波正太郎の晩酌
私は、決してぜいたくはいわぬが、なにしろ、家に引きこもって数日間、仕事をしつづけていると、食べることだけが唯一のなぐさめになってしまう。私が書いている時代小説というものを、たとえていえば、「今日は、姉川の戦場に大軍をひきいて戦う織田信長を書く」 そして、「明日は、江戸の町の片隅で、その日暮しを送っている叩き大工を書かねばならない」のであるから、気分を転換させることが実に骨が折れるのだ。自分では気づかぬことなのだが、家人にいわせると、信長のような英雄を書いているときは、むずかしい顔をして威張っているらしい。酒のみの大工や八百屋を書いているときは、むやみに饒舌になり、晩酌の量もふえるという。(「食卓の情景」 池波正太郎)


ゲンゾウ
徳島県等には、一杯酒のことをオゲンゾウという方言があり、ゲンゾウは漢字で書くと「見参」と書くそうです。「見え参らす」ということで、始めてや、改まった人に対面することを本来意味したそうです。狂言記にの中には、「明日はゲンゾでござろう」とあるそうで、主従の契約をする時の言葉だそうですが、その際には、酒が与えられたそうです。主従の関係を結ぶときに、主人が酌をして家来に飲ませることがもともとの形で、それがその雰囲気を少々残しつつ一杯酒の意味に変わっていったというのがゲンゾウという言葉だそうです。前に紹介した柳田國男「酒の飲みやうの変遷」にある、「一杯酒」の続きの部分です。


四代目柳家小さん
大師匠の円生に聞いた話ですが、四代目の柳家小さんという師匠は、一滴も酒を飲まないけど、酒の話をさせたら、明治時代にこの人の右に出るものはいないというぐらいの名人だった。なんで飲まないのにうまいのかというと、寄席が終ると「おい、酒を飲む奴はついておいで」っていって、若手を連れて赤ちょうちんに連れていって、自分は一番端っこで、観察するんです。誰が何杯ぐらいで酔っぱらったとか、お猪口を落としてしまったとか、舌が回らなくなってきたとか、いろんな酔態を毎晩事細かに観察して、それを口座でやる訳ですよ。でも私は、その柳家小さんが飲めたら、もっとうまかったと思うんです。(「酒器放談・酒天之美禄」での三遊亭鳳楽の発言です) 小さんにも色々おりまして、といったところでしょうか。


飛ぶ盃
フビライ・ハーンは6、7、8月の間、涼しい上都(開平)に滞在したそうです。ここには、大理石で出来た宮殿と、竹で出来た宮殿があったそうです。その際、天候が悪くなると従者の魔法使いが嵐を去らせたそうです。この人々はチベットとかカシミールと呼ばれていたそうですが、これは民族の名前だそうです。9月から2月まで滞在する首都のハンバリク(大都=北京)の宮殿でフビライが食事をするときは、5mくらいの高い台上のテーブルにつくのだそうですが、いつも用いる酒や香料入りの酒が満たされた盃は、10m離れた広間中央の食器棚の上に置かれており、彼が飲もうと思うと、魔法使いがその魔術で、1万人の会食者の前で盃を飛行させて届けたそうです。これは、マルコ・ポーロの「東方見聞録」にあります。


良寛の酒詩(3)
兄弟相逢処(きょうだい あい あうところ)                 弟(由之)と会う
共是白眉垂(ともに はくび たる)                      共に眉は白くなり垂れている
且喜太平世(しばらく たいへいの よをよろこび)            世の平和なることを喜び
日々酔如痴(ひび ようて ちのごとし)(「良寛詩集」 岩波文庫)   日々酔いしれている
「由之と酒を飲み 楽甚し」という題名の詩です。兄弟共に酒好きだったようですね。


タダ酒
お酒というものは、自分が汗をかいて働いたお金で飲むからこそ、うまさがわかるのだ。タダ酒や、振舞い酒ばかり飲んでいたのでは、あっちへ行ってもペコペコ、こっちへきてもペコペコ、大の男が頭ばかり下げていなければならない。大したご馳走になるわけでもないのに、男が年中頭を下げていたのでは、精神的に陥没するし、なによりも人々に与(くみ)しやすい男だと甘くみられてしまう。男なら、絶対にタダ酒を飲むな、と(私の父は)いいつづけていた。近頃の世の中は、タダ酒を飲むのも平気、社用酒を飲むのは当然、といった風潮が大手をふってまかり通っている。(「酒縁歳時記」 佐々木久子) 現在は、男だけではないでしょうね。福沢諭吉は、「福翁自伝」で、藩の金は使わなければ損と、タダ酒のことではありませんが、合理主義の立場から逆の主張をしています。


徳利の川柳
から徳利おこしておくは罪つくり(立てておくと酒が入っているように見えるので寝かせる、昔からの習慣のようです)
ゑくぼほど備前徳利の頬っぺた(持ちやすいえくぼを徳利につけたのも古いようですね)
徳利の口からのんで追手でる(寒い夜に犯罪でもおきたか、追っ手に出る前に酒を引っかける)
詩のできるたびに徳利が軽くなり(李白が酒を飲むたびに詩ができたことから)(「江戸川柳辞典」 東京堂出版)


長部日出雄の酒
平素は温厚で控え目な、どちらかといえば気弱な人間だが、一たび酒が入ると虎になって牙を剥き出すところ、酒乱の典型である。彼に絡まれた人物をあげてゆけば、際限がない。ただ、彼の場合は、最後にはおもてへ連れ出されて相手に殴られることを、ひそかに熱望しているところがあるようだ。殴られると、あっけなく引っくり返って終りになるらしい。さいわい、私は彼に絡まれたことがないので、そういう現場を見たことはない。なにかの機会に、酒場に一緒に行って梯子酒になりかけると、二軒目くらいで、「ぼくはこのへんで…」と、言う。このあたりになると、前兆があらわれていて、ニターリニターリと薄気味わるい笑いが浮かび上がっている。言葉数もすくなくなっていて、間もなく発射されるであろう罵詈雑言をじっくり貯えている感じになっている。そうなると、私も引き止めずに、ニタリと笑って、「じゃ、さよなら」と、別れることにしていた。(「定本・酒場の雑談」 吉行淳之介)


ゼノンとアンティゴノス
アンティゴノス王は、キティオン出身のゼノンを尊敬し、寵愛もしていた。ある時泥酔したアンティゴノスは、酒の勢いでゼノンのもとに押しかけ、彼に接吻して抱きかかえながら、酔いにまかせて、何でもよいから自分に言いつけてくれと、まるで年端もゆかぬ少年のように、彼の言うことは必ず聴くと誓言までして言ったのである。ゼノンはそれに対して、「あっちへ行って吐いてきなさい」と厳然たる中にも寛容の気持ちをこめて言ったのであるが、酩酊を咎めるとともに、飽きるまで飲酒して身を亡ぼしてはならぬ、と彼の身を案じての言葉であった。(「ギリシア奇談集」 アイリアノス) これは唯物論的汎神論を説いたストア派の祖ゼノンの、酔っ払いに対する態度だそうです。


芋酒
「あそびにおいで」というので、井上と二人で、茅場町のレストラン〔保米楼(ほめろ)〕の、ローストビーフのサンドイッチを大箱につめさせ、これを手みやげにして出かけて行くと、三井のじいさん、すぐさま箱を開け、二匹の猫に惜しげもなくあたえ、自分も細君と共に食べる。じいさんはそのとき、芋酒なるものを、しきりにすすった。なんでも、山の芋を切って熱湯にひたし、引きあげて摺りつぶし、これへ酒を入れてねってから、燗をして出す。「こいつをやらないと、若い女房の相手ができないのでね」と、三井のじいさんが目を細めていう。後年、芋酒が江戸時代からあったことを私は知って、さっそく、小説につかった。(「食卓の情景」 池波正太郎) 「鬼平犯科帳」の〔兇賊〕だそうです。


「紀州藩勤番侍医の江戸見物記」
(江戸の)酒は上品なるハ価大ニ貴(高)く、口当り美なれども 醒る事 至而(いたって)早く、宿酔(二日酔い)の患いなけれど、鯨飲(おおのみ)の勤番者、須臾(しばし)の中に財布の底を叩きて、借金の淵に沈むべし。甘酒は白粥の上湯にひとしく、少しも甘からず、酢は味薄く、水がちにて、日を経しハ鉄漿汁(おはぐろ)の臭気有て、嘔(えずき)を催すに至る
これは、神坂次郎の「紀州藩勤番侍医の江戸見物記」で紹介されている原田某の記したものだそうです。江戸の酒はくせがなくて高かったということでしょうか。


酒一合七銭
明治の末はどじょう鍋六銭、どじょう汁一銭五厘、鯨(くじら)汁二銭五厘、鯰(なまず)鍋十五銭、酒一合七銭、めし一人前四銭、半人前二銭で、鍋と汁と酒とめしで二十銭あれば充分で、お香の物は無料だったそうです。(「明治粋人奇人談」 吉村武夫) これは、駒形どぜう越後屋の明治末のメニューだそうです。この店は江戸時代、酒は三合以上を飲ませなかったそうです。回転を大事にした商家の智恵だったのでしょう。


大上戸(「昨日は今日の物語」)
ある人が、「お児様は大上戸じゃ」というと、児は答えて、「いや、それほどでもないが、乳房に酒を塗らないと、乳も飲まなかったと、乳母がいっておったわ」(「昨日は今日の物語」 東洋文庫)
私の知っている人は、2歳位の子どもを早く寝せるために酒を飲ませていました。すぐに機嫌がよくなり、歌ったりしてから、ことんと寝てしまうというとのことでしたが、将来が心配です。乳離れを促すために唐辛子を乳房に塗るといった話はありますが、この笑話では、いつまでも乳離れしなかったのでは。


屠蘇機嫌(とそきげん) 子の愛想(あいそう)に 旅へ立ち
説明を受けるとなるほどと簡単に分かるのですが、それがないとさっぱり意味が分からない川柳は沢山あります。というよりも、ほとんどがそうした句なのかも知れません。
「屠蘇」とあるから正月のことで、子どもへのつきあいに道中双六をしている景。江戸の日本橋を振り出しに京へ上る。「お座敷でする道中は手が歩き」(「江戸川柳の謎解き」 室山源一郎)
こうした風景が無くならないことを願わざるを得ない時代となってしまったようです。


酒と肴の相性
吟醸酒 コチ、ヒラメ、カワハギ、生ダコなど白身の刺身、上等な釜揚げシラス、春先の生ホタルイカ、冬の生ガキ、生ハマグリ
中吟の冷 酢〆め(〆鯖、こはだ、鰺酢)、鶏わさ、かき酢、鱈白子、アンキモ
純米酒の常温 焼油揚、丸干し、焼椎茸にスダチ、焼蛤にネギぬた
純米酒か本醸造の燗酒 塩辛、焼魚、煮魚、野菜のおひたし、鍋、終わったら、揚げ銀杏、タタミイワシ、コノワタ等の風味物
一番始めに生ビールを飲んで、その後、上の順序で飲んで食べ、仕上げを黒ビールにするのが、太田和彦流・居酒屋フルコースだそうです。(「超・居酒屋入門」)


酒と肴の句
韮(にら)切って 酒借りにゆく 隣かな 子規
唐辛子 乏しき酒の 肴かな 虚子
共に、平野雅章の「たべもの歳時記」にありました。師弟関係の二人に、このような肴を題材にした句があったことを知って、大変面白いと思いました。臭いものと辛いもの、それぞれにおいしい肴です。後者は、疎開中の句なのでしょうか。
ふきのとう いためて汲みし 新酒かな(駄句) これで、臭辛苦がそろったというところでしょうか。


神田橋の落首
「元禄世間咄風聞集」(岩波文庫)に、「神田橋に立(たつ)落首」という項があります。
ほうび(褒美)いや 小判いろよく(色好く) 米やすく(安く) うんじやう(運上)なしに 酒がのみたや 
(注)では以下のようになっています。「ほうびいや」は、将軍綱吉の安易な加増や多大の下賜を批判しているのだそうで、「小判いろよく」は、貨幣改鋳で悪貨となったので元の色のよい小判をにもどることを願い、「米やすく」は、元禄十五年に米一石が銀百〜百十匁で高かったので安くなることを求め、「うんじやうなし」は、元禄十年、造酒屋に運上金(税金)を課し、十二年より毎年元禄十年に醸造した酒造米高を基準に、その五分の一造り(十四年は二分の一)の減産を命じたことを批判しているそうです。米不足の対策として、増税したり、減産させたりしたのでしょうが、酒価は大分上がったはずです。もちろん五分の一に減産しろといっても酒蔵がその通りにしたことはなかったようですが、酒の恨みはおそろしいということなのでしょう。


ショウジョウバエ(2)
本来このハエは、落ちて醗酵している果実に集まってきて、それをなめ、かつ、そこに卵を産む虫である。そこで、英語ではフルート・フライ(Fruit fly)すなわち果実バエとよばれる。とくにいたみかけたバナナが好きである。ドイツで見た生物学者のジョーク・コンテストに、 Time flies like an arrow. Furuit flies like a banana. というのがあった。それはともかく、このハエもまた、醗酵中の果実を、それから醗酵するアルコールを手がかりとして探しだす。それで彼らは、アルコールの匂いに敏感である。(「酒について」日高敏隆) 酒の好きな猩々のように目が赤くて、酒に寄ってくるハエに、こういう名前を付けたということは秀逸ですね。


川柳の酒句(8)
禅寺はしらふの石碑だしておき(葷酒山門に入るを許さず)
ぞうり取りよろけるなりに供(とも)をする(酔っ払い主人のよろけるなりについていくぞうり取り)
袖の梅おあんなんしの薬なり(袖の梅は二日酔いの薬、おあんなんしは、吉原の女郎のお飲みなさいの廓言葉)
そり橋は生酔いの歯が立たばこそ(太鼓橋はすべって渡りにくく、酔っ払いには歯が立たない)
昼三を生酔いの時買い始め(昼夜で三分という吉原の高級遊女買いは酔っぱらった時から)(「江戸川柳辞典」 東京堂出版)


酸い酒(2)(「笑府」)
酸い酒を売っている店に、客があがって、亭主に向かい、「豆腐と野菜だけでいい。しかし酒は上等のにしてくれよ」 亭主、かしこまりましたといって、はいって行き、しばらくしてから出て来て、「野菜にはお醋(す)入れますか」ときく。「野菜に醋を垂らしたのは結構だね」 亭主、野菜に醋を垂らすと、また、「豆腐の中にお醋を入れましょうか」ときく。「醋豆腐も結構だね」そこで亭主、豆腐に醋をかける。また「お酒の中にお醋を入れましょうか」ときく。客、いぶかって、「酒の中になんで醋をいれるんだ」というと、亭主眉をしかめて、「どうしましょう。もういれてしまいましたが」(「笑府」 岩波文庫) 途中で分かってしまう笑い話ですが、正統派です。


デモステネスとディオゲネス
ある時ディオゲネスは居酒屋で昼飯をとっていたが、そこを通りかかったデモステネスに声をかけて誘った。デモステネスが断ると、「デモステネスよ、君は居酒屋に入るのが恥ずかしいのか。君の主人は毎日ここへ来ているのだぞ。」 主人というのは民衆の一人一人を指したもので、つまり、大衆政治家とか弁論家といったたぐいの連中は、大衆の僕(しもべ)だということを言おうとしたのである。(「ギリシア奇談集」 松平・中務訳) 訳者によると、「居酒屋」と訳した「カペーレイオン」という言葉は、日本流には「一膳飯屋」とでも訳す方が適当かもしれないと書いていますが、酒も飲めたのでしょう。多様な民主主義を体験した古代ギリシアならではの一つのエピソードということなのでしょうか。


壇一雄の酒
私がはじめて壇一雄先生にお逢いしたのは、木枯らし吹き荒ぶ昭和三十年の暮れだった。石神井のお宅へ、おそるおそる伺候した新米記者の私は、なんとまあ作家とは凄じいものであることよ、と仰天した。荒壁もまだ乾かないといったふうな出来たての仕事部屋の真中に、浴衣の上に大柄の縞模様の夜着をひっかぶった壇先生は、昼間だというのに源蔵徳利から並々と冷や酒を茶碗についでは呷(あお)るように飲んでおられた。まじまじと見つめている私を見て壇先生は、例のはにかむような照れたようなやさしい微笑みをみせながら、「寒いねえ今日は、あなたも一杯やなさい。…」そうおっしゃって、茶碗にお酒を一杯ついで下さった。その頃の私は、そうすすめられれば、飲まなければいけないものだ、ときめていたから、押しいただくようにして冷や酒を飲み干したものである。(「酒縁歳時記」 佐々木久子) 雑誌「酒」を出版する前に記者だった頃の佐々木久子の体験だそうです。


アルコールの快感
酒や麻薬はそれらの薬理学的作用によって人工的に快感という報酬を人間に与えているのだということが分かってきます。酒飲みには耳が痛いでしょうが、酒を飲んで酔うことはこのように何の努力も伴わずに快感という報酬を得ることなのだという認識をもたなければなりません。そして世の中そう甘くないというのは、この努力いらずの快感が「依存症」という恐ろしい病気と常に表裏一体の関係にあるということなのです。当然ですが報酬を得る正しいやり方は、そのために一所懸命努力することです。(「酒乱になる人、ならない人」 眞先敏弘) これはノンベイに対して大変説得力ある言葉だと思いませんか。


日本
日本を「にっぽん」と読むか、「にほん」と読むか、ということは大変難しいようで、政府は「にっぽん」への一本化をはかったものの、うまくいかないようです。
@日本銀行 日本放送協会 日本赤十字 日本中央競馬会 日本社会党 日本郵船 JR東日本
A日本芸術院 日本経済新聞 日本相撲協会 日本大学 日本女子大学 日本新党 日本共産党 日本航空 日本テレビ
どちらが「にっぽん」で、どちらが「にほん」か分かりますか。@が「にっぽん」だそうです。日本酒はどちらでしょう。「にほんしゅ」ですよね。これは、「言葉の散歩道」(坂下圭八)にあります。当サイトの「日本酒という呼称」にもあります。


良寛の酒詩(2)
烏雀翔林飛(うじゃくは はやしに かけってとぶ)    鳥は林のねぐらへ帰る
老農言帰来(ろうのう ここに かえりきたり)       年寄りの農夫が帰りきて
見我若旧知(われをみる きゅうちのごとし)        私に旧知のように接してくれる
呼童酌濁酒(わらべを よんで だくしゅを くむ)     子供を呼んでどぶろくを酌み
蒸黍更勧之(きびを むして われに これをすすむ)   蒸した黍を勧めてくれ
師不厭淡薄(し たんぱくを いとわずば)          和尚さんこんなものでよいのなら
数言訪茅茨(しばしば ここに ぼうしを とえと)      しばしばこのあばらやに寄ってくれと(「良寛詩集」 岩波文庫)
やっぱり和尚さんです。


姥が池伝説
浅草・花川戸公園にある姥が池(うばがいけ)には、怖い伝説があるそうです。古代、用明天皇の時代に、観音が美しい稚児の姿で、一つ家に宿を求めたそうです。この家の老婆は旅人を石枕に寝かせ、上から石を落として殺していたそうですが、老婆の娘は見るに忍びないと、稚児にかわって自分が死んだそうです。老婆は驚き、半狂乱となって池に身を投じました。しかし成仏できなかったようで、霊魂は大蛇となって住民を悩ましました。そこで人々は社を建てて、大蛇を神として祀ったところ、土地の守り神となって悪病除けをおこなったそうです。伝染病がはやると竹筒に甘酒を入れて池に浮かべるのだそうです。生前老婆が酒が好きで、特に寝酒が好きだったからだそうです。明和9年の「江戸真砂」にあるそうです。(「考証・江戸の再発見」 稲垣史生)


瀬戸内晴美の酒
某月某日 ひれ酒三杯、あとお酒を二本くらいでやめておく。いつもは白子酒をのましてくれるのだけれども、今日はまだないとの事。
某月某日 お正月の一力のこの部屋で、芸者さんや舞妓さんとのみっくらをして、うどんの丼の蓋に両側からお酒をついでもらい、酒呑童子みたいにそれをのんでしまった。その写真がちゃんと写されていて、後から送ってこられたのには閉口した。
俗人時代・瀬戸内晴美の、「酒びたり好日」の一節です。


カブト虫やクワガタ虫
彼らは、樹液の甘ずっぱい匂いと、アルコールの匂いとかに魅かれるらしい。そこで昔から、糖蜜採集法といって、黒砂糖や糖蜜に焼酎をまぜ、どろどろにしあげたものを木の幹にぬって、これらの虫を集める採集法があった。その処方はそれぞれ秘伝であり、おいそれとは教えてもらえない。しかしいずれにせよ、酒か焼酎をまぜることにかわりはない。天然の樹液だと、アルコール醗酵が進むにつれて、ほかのタイプの醗酵もおこる。したがって、アルコール濃度が一定値をこすことはないだろう。だから、虫たちがいくら樹液をなめても、そのアルコール分で酔ってしまうことはないらしい。しかし、人工の糖蜜となると、そうはいかない。焼酎をすこしよけいにまぜたものだと、虫たちが酔っぱらって、足どりが怪しくなっているときもあるという。(「酒について」 日高敏隆) カブト虫よお前もか、といったところでしょうか。


酒返礼の狂歌
ある人、酒を人のところへ送るとき、遠来の酒だからと、もったいをつけて、小さい樽につめてつかわした。その手紙の返事に、
あまのさけ ふりさけみれば かすかある みかさものまば やがてつきなん(「昨日は今日の物語」 武藤禎夫訳)
阿倍仲麻呂「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」が本歌ですが、この話は醒酔笑にもあり、当HPにも紹介してあります。武藤は、頂戴した珍酒・天野酒も振ってみるとかすかにあるが三杯も飲んだら尽きてしまうだろう、と解釈し、醒酔笑より話が自然で皮肉も効いているとしています。


醸造酒と蒸留酒の酔い方の違い
醸造酒は気分がゆるみ、だらしなくなり、女性に声をかけてみたくなる軟派の酔いなのに対し、蒸留酒は理屈っぽくなり議論のはじまる硬派の酔いだ。恋をするなら醸造酒。ものを考える(一応、議論がそれだとして)なら蒸留酒。女性と飲むなら醸造酒、男同士なら蒸留酒。つまり、醸造酒=女酒、蒸留酒=男酒、という感じがする。(「超・居酒屋入門」 太田和彦)
これは男の側の視点からの語りですが、女性にとってはどうなのでしょう。


「ふたつもじ」の狂歌
徒然草に、「ふたつもじ(=こ) 牛の角もじ(=い) すぐ(直ぐ)な文字(=し) ゆがみもじ(=く)とぞ 君はおぼゆる」 という有名な謎歌(「恋しく」が隠されている)がありますが、これをもじった狂歌があるそうです。
ふたつもじ(こ) 牛のつのもじ(い) ふたつもじ(こ) ゆがむ文字(く)にて のむべかりける(銭屋金埒きんらつ)
これは、「こいこく」となり、鯉濃(こいこく)で一杯やろうと、金埒が太田南畝に送ったうただそうです。(「江戸川柳の謎解き」 室山源三郎) これに対する南畝の歌は 「すぐな文字(し)帯結び文字(や)お客文字(う)字は読めずとも飲むべかりける こいこくしやうといふことなるべし」 だそうです。


豊原国周(3)
国周(くにちか)さんの来られたのは、三代の時でした。絵描きだと言って来た国周さんは汚い姿で参られました。風呂に入って頂き、新しい着物をさしあげ、離れに仕事場を作りましてそこで仕事をしてもらいました。酒の好きな方で、毎日二升以上飲んでおられ、これで仕事が出来るのかと思いましたが、仕事には熱心で三ヶ月位居りましたが。仕事場に行っては下図を書き、十六枚の造り酒の絵を描き上げましたが、仕事をしております人の顔は当時人気の役者の顔で、さすが似顔絵師であると思ったと祖父は言っていたそうです。この絵は信仰しております成田山に納めましたが、この時は従業員一同t共に人力車で成田に参りお納め致しました。(明治粋人奇人談」 吉村武夫) 当HP豊原国周(2)を裏付ける証言です。


京の名物
「水、水菜、女、染物、みすや針、お寺、豆腐に、鰻(うなぎ)、松茸」という京の名物を詠み込んだ江戸時代の狂歌があるそうです。特に水のよいことは事実だそうで、京の人は、美人の多いことも、茶のうまいことも、ことごとく水のせいにしているそうです。さらに、豆腐と酒と漬け菜のうまさの根本は水のせいだろうと、平野雅章は「たべもの歳時記」の京菜の項で書いています。
確かに今もことわざは生きているようです。もっとも、これができた頃(平野は、文化文政頃と見ています。)は、全国的に有名な酒はなかったようで、酒が取り上げられていないのは残念です。ちなみに、みすや針は今も三条通にあるそうです。


川柳の酒句(7)
敷(しき)ぞめは まず越後屋でよっぱらい(江戸時代の三越は大きな買い物をすると飲ませてくれたようです)
十二文が酢を 下戸にふるまわれる(酒を飲まない下戸が買った古くなって酸っぱくなった安酒をのまされる)
笑う日は おもしろくない 泣上戸(酔えば泣くはずの泣き上戸が笑っているのは酔っていない証拠)
づぶになる つもりで 下戸を誘ふ也(泥酔するつもりなので、面倒を見てくれる下戸を誘う)
線香が 消えてしまえば 一人酒(線香の点いている間が芸者や陰間をあげる時間、それが燃え尽きたら一人酒の時間)
(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)


「一杯酒」
現在は紳士でも屋台店の暖簾(のれん)をかぶつたことを、吹聴する者が少しづゝ出来たが、つい近頃までは一杯酒をぐいと引掛けるなどは、人柄を重んじる者には到底出来ぬことであつた。酒屋でも「居酒致し候」といふ店はきまつて居て、そこへ立ち寄る者は、何年にも酒盛りの席などには列(つら)なることの出来ぬ人たち、たとえば掛り人とか奉公人とかいふ晴れては飲めない者が、買つては帰らずにそこに居て飲んでしまふから居酒であつた。是をデハイともテッパツとも又カクウチとも謂つて、すべて照れ隠しの隠語のやうなをかしい名で呼んでいる。(「木綿以前の事」 柳田國男) ひとり酒、居酒屋、テッパなどを解説する、有名な柳田國男の話です。


「酒屋地獄」
(雲仙岳は)噴火はしていないが、熱い蒸気を噴き上げている三○ほどの古い温泉が周辺にある。僧侶たちはこういう温泉にいろいろな地獄の名を付けている。例えば、まんじゅうのような形をして外観の丸いものを餅屋地獄と呼び、湯がにごった酒のように見えるものを酒屋地獄といい、人々がなぐり合うように荒狂い騒々しいものを喧嘩地獄といい、また他の所には親不孝地獄等々がある。(「江戸参府旅行日記」 ケンペル)
小浜町役場に問い合わせてみたところ、「戦後に作られた地獄案内図の中には酒屋地獄の呼び名が残っていたそうですが現在では、その場所が確定でき」ないとのお答えをいただきました。酒を水でうめて売ったり、高利貸しなどもしていたらしいかつての酒屋に、ある種の反感のようなものもあったのでしょうか。


玉依日売の子供
玉依日売(たまよりひめ)が石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時、丹塗り(にぬり:赤く塗った)矢が川上から流れ下ってきた。そこでそれを持ちかえって家の寝床の近くに挿して置くと、とうとうみもごって男の子を生んだ。(その子が)成人式の時に、外祖父建角身命(たけづみのみこと)は、八尋(やひろ)の家を造り、八戸を堅く固めて、八腹に酒を醸造して、神をつどい集めて、七日七夜宴遊なさって、そうしてその子と語らっていうには「お前の父と思われる人にこの酒を飲ませなさい」と。するとただちに酒杯をささげて天に向かって礼拝し、屋根の瓦を突き破って天に昇ってしまった。(「山城国風土記」 平凡社ライブラリー) 伊藤梅宇の「見聞談叢」では、そのあたりが「乃取来置之床辺 忽成麗夫 遂孕生子 至成人祖父建角身命 欲知其父 造八尋屋 堅八戸扉 醸八(しおる)酒」となっています。


朝永振一郎の酒
鳳楽 昔はね、寄席にみんな酒を持って来たんですよ。結構、錚々たる人が落語を聞いているんです。ノーベ物理学賞を貰った朝永振一郎さんが、人形町の末広という寄席によくお見えになり、ぐい呑をお出しになり、いつもポットから燗酒を次いで飲んでました。着物姿で、いい風情でしたね。(「陶説」 609号)
いいですね。こんなふうに酒は飲みたいものです。


アルコールパッチテスト
肝臓ばかりではなく、皮膚にもアルコール脱水素酵素やアルデヒド脱水素酵素があるのだそうです。日本人はアルデヒド脱水素酵素の活性が低下している場合が多く、分解されなないため増加するするアセトアルデヒドにより二日酔い様の下戸の苦しみを味わうこととなります。アルコ−ルが皮膚についた時も、皮膚にアルデヒドが蓄積してくるために皮膚が赤くなるのだそうです。これを開発したのは久里浜病院の樋口進医師だそうです。(「酒乱になる人、ならない人」 眞先敏弘) 今は、検査用の絆創膏が開発されており、イッキのみのありがちな学生用に、学園祭などで使われているようです。


酸い酒(笑府)
居酒屋にあがり、酒が酸(す)いといって文句をつけると、店の者が怒って、その男を梁(はり)に吊した。そこへやって来た客がそのわけをきくと、「うちの店の酒はずんとうまいのに、こいつめ、酸いとぬかしおったので、こんな目にあわせてやっているのです」と告げる。客、「ではちょっと一杯、試しに飲ましてくれ」やがて試しに少し飲んでから、眉をしかめて亭主にいった。「その人は許して、わしを吊りさげてくれ」(「笑府」 憑夢竜) 昔から薄かったり酸っぱかったりする酒をノンベイはたびたび飲まされてきたということなのでしょう。


アレクサンドロス大王の酒
伝えられるところでは、、彼(アケクサンドロス)はディオス月(マケドニア暦の秋分の日に始まる第1月)の五日にメディア人の邸で痛飲し、六日は二日酔いで寝たきりで、翌日の行軍について指揮官たちに問われ、体を起こして「朝早くだ」と指図した以外は、まるで死んだも同然であった。七日にはペルディッカスの饗応を受けてまたも呑み、八日は寝こんでいた。同じ月の一五日にも呑んで、翌日は大酒の後のお定まりの仕儀であった。二七日にはバゴアスのもとで食事をして(バゴアスの私宅は王の館から一○スタディオン離れていた)、二八日は酔い臥していた。こうなると、一ヶ月の中のこれほどの日数を、実際アレクサンドロスが酒でわが身を害していたか、あるいはこの話を記録した者たちは嘘をついているか、そのどちらかである。(「ギリシア奇談集」 岩波文庫) それにしても「ギリシア奇談集」は酒の話題の多い書です。


桟敷と芝居
<桟敷(さじき)>の由来は古く、記紀神話にスサノオノ命(みこと)は八俣大蛇(やまたのおろち)を酒に酔わせる、その酒船を置く棚がサズキと出てくる。それは神事・公事に仮設する床のことで、のちにサジキと訛(なま)られ、用途ももっぱら物見の席とされるに至った。もちろん貴顕の居場所のこととて、『枕草子』などいちいち<御桟敷>と呼ぶ次第ながら、当然そこには身分の上下による席順・序列が厳然と定まっており、演能の場合もまた然りとすることができよう。これに比べ、芝居すなわち<芝居>の方は、原則として追い込み自由の自由席だったに違いない。中世に<芝居酒盛>とのいいい方があり、芝に居る野外の酒宴をさすのだが、−<桟敷>に対して<芝居>は、身分秩序に左右されぬ自由な空間ともみなされる−(「ことばの散歩道」 坂下圭八) 桟敷(佐受岐)が酒船を置く棚だったとか、屋外の芝の上で飲む酒を芝居酒盛といったとか、面白いですね。


朝鮮役に於ける熊本留守居役
(加藤)清正侯 朝鮮征伐のあとに 薩人(薩摩の人)梅北と云ふもの、肥後をおかしかすむ。堺善左衛門、熊本の留守居たり。肥後の国さむらひ多く、梅北にしたがひて(従いて)いきほひ(勢い)いよいよさかんなり。堺たゝかはん(戦わん)とするに、ちからてき(敵)せず。一旦いつわりて降参するていにて さしころさんとおもひ、城を梅北にわたす。梅北 城に入りてこゝろをゆるさず。堺 今日より臣下になるはじめなれば 後のため、御盃をいたゞき候はんとて、梅北がこゝろをやわらげんとはかりて 酌に美女を出す。梅北まづのんで堺にさし、坐をたち さかな(肴)をはさむ。かねて此時(このとき)斬らんとたくみしが、威にやおされけん 手おくれて、  坐にかへれり。堺 この期すきては(過ぎては)叶はじ(かなわじ)とおもひ 短刀をぬき、とびかゝりて刺しころす。…(「見聞談叢」 伊藤梅宇) 色々な似たような話を思い出しませんか。


酒のことわざ(4)
後ろに柱 前に酒(床柱を背にして飲む酒、得意で快適なこと)
卯(う)味噌 寅(とら)酒(卯の日に味噌を、寅の日に酒を仕込むのを忌むこと)
海中より 杯中に 溺死する者多し(海でおぼれるより酒におぼれる者のほうが多いこと)
粕から焼酎(始めは粕で酔った人も後には焼酎でなければ酔わなくなるように、酒量が増すこと)
か(飢)つえて死ぬは一人 飲んで死ぬは千人(飢えて死ぬ人より酒で死ぬ人の方が多いこと)
(「故事ことわざ辞典」 鈴木・弘田編)


竹葉青酒
中国山西省の杏花村は古来から酒で有名な村で、村名を約した「杏村」が酒の意味でも使われたようです。酒を竹葉ともいいますが、その名前を冠した、竹葉青酒が杏花村では造られていて、最近飲んでみました。'60〜'70頃に、中国十八大銘柄の一つに選ばれたそうで、日本にも結構輸出されているようです。竹の若葉や、当帰(とうき・セリ科の多年性薬草の根)、砂仁(しゃじん・ショウガ科の植物の種子)等を汾酒(ふんしゅ)に浸漬させて加糖したものだそうで、アルコール分45%の黄色い薬酒でした。汾酒は山西省汾陽県で造られるコウリャンなどを原料とした蒸留酒で、茅台酒などと共に中国を代表する白酒です。造血・解毒や炎症をやわらげる効果ありと裏ラベルにありました。でも、竹葉という名前の古い歴史の重みは残念ながら感じられませんでした。


ドブロク特区
「構造改革特別区域法」に設けられた「酒税法の特例」として、「農業」と農家民宿等の「酒類を自己の営業上において飲用に供する業」を営んでいる個人・法人を問わないものが、「特区」においてどぶろく醸造を申請する資格があるのだそうです。つまり、民宿や旅館、レストランのようなところで、「農業」をいとなんでいる場合のようで、まだ間口は狭そうです。
岩手県遠野市や新潟県松代町などで開始されたというどぶろく製造場は、少しずつ増えているようです。地ビールの場合と違って、清酒業界はほとんどが中小企業であるため、余り自由に製造を認めると業界本体があぶなくなってしまうという懸念があるので、とりあえずドブロクだけを許可したといった感じなのでしょう。免許の申請に関しては今までと同様、何十種類もの書類が必要のようです。今までも、申請書類の作成を税理士に依頼すると、50万から100万円かかったと聞いていますので、それほど面倒なものなのでしょう。どぶろくといってもある種のノスタルジアのようなもので、決して美味しいとは言いがたいものですので、これによって町づくりがそう簡単に進むものとも思えません。今後この流れはどのように進んでいくのでしょう。


林芙美子の酒
林芙美子が吉屋信子宅を訪れたときの吉屋による林の描写があります。
「林さんが愛酒家であることをその書くもので知っていた私はわが家で珍しき酒客としてお銚子や盃を出した。林さんはその盃を両手で捧げる恰好(かっこう)でそろりと口に近づけ、飲むというよりすするというようにして、また間を置いてすする、お酒を貴重品扱いした飲み方だった。」(吉屋信子 「自伝的女流文壇史」)
落合に残る林の記念館には、濡れ縁で時に朝一杯の冷酒をのんだことや、親しい客が訪れた時に、手早く酒の肴を作ったことなどが書かれています。


浅野内匠頭の酒
右京大夫(陸奥・一ノ関三万石、当時奏者番)へ 内匠頭(吉良上野介を切った浅野たくみのかみ)様 御入不被成候内に(おいりなされずそうろううちに:右京大夫屋敷に入られる前に)、御書院之次之間(ごしょいんのつぎのま)を囲召置(かこいめしおき) 直に入申(ただちにいれもうし)、右京様より白むく黒き小袖(こそで)御出候(おだしそうろう)を 御召替(おめしかえ)、其後(そのご)御料理 出候処(だしそうろうところ) 御めし(飯)二はい(杯)上(あがり)候由(よし)。「御酒(ごしゅ)可上(あぐべく)候」由 被仰候(おおされそうろう:浅野がおっしゃった)へ共、「御大法にて候故(そうろうゆえ) 不差上(さしあげず)候」由 申候へば、「左候(さそうら)はヾ たばこ上り度」由 被仰候へ共、是も御大法にて不差上候由。「何事も御目付衆様へ不窺(うかがわず)候へば不罷成(まかりならず)候」由 申上候 已後(いご)、御湯被召上(めしあがられ)御膳(ごぜん)下げ候由。 「元禄世間咄風聞集」(岩波文庫) 事件の後は、浅野は酒も煙草もダメだったようですね。


「その他の大酒呑みの人々」
アルゴス人とテュリュンス人も酒に耽溺して、喜劇で笑いものにされている。トラキア人については、彼らがとんでもない呑兵衛であることはすでに広く喧伝(けんでん)されており、イカリア人もこの点では咎(とが)められずにはすまないが、彼らはさらにこんな非難も浴びている。彼らの宴会の席では、客人は誰でも望むなら、自分には何の関係もない女性たちに乾杯を捧げてよかった、というのである。
これは、古代ギリシアのアイリアノスによる、「ギリシア奇談集」にあります。当時の先進国・漢の人に「魏志倭人伝」で、「人性酒を嗜(たしな)む。」と書かれた日本人と似たものなのでしょう。


感応寺でのふるまい酒
江戸時代も今と同様に、富くじが盛んだったそうですが、中でも谷中感応寺、湯島天神、目黒不動が江戸三冨といわれてにぎわったそうです。三冨の内、一番早く始められたのが谷中感応寺(現在の天王寺)です。大きな木箱に入った冨札を錐(きり)で突いて、「一番。鶴の何番。」といった調子で発表したそうですが、これに当たった人は当たり札を持って寺へ行きます。奥座敷へ通されると、本膳に酒が出てもてなしをうけるそうです。飲んでいるうちに、三方(さんぼう)に当たり金が載せられてくるのですが、寺への奉納金が1割、世話人への祝儀が5分、次回の富くじで5分くれるので、合計2割減額されているのだそうです。しかも、寺側は、総額の7割を当たり金にしたそうですから、今と比べると当たり金の比率はかなり低いものだったようです。ちなみに、一番は100両、150両、300両などがあり、1枚は文化文政期で400文だったそうです。(「江戸の再発見」 稲垣史生)


高崎屋
駒込追分町は、元和4年(1618)に幕府御家人が拝領した町で、日光御成街道と中山道の分岐点に位置する。この町の一角には寛政〜天保(18世紀末〜19世紀中頃)にかけて両替商も兼業するなど酒商で財をなした高崎屋があった。高崎屋に隣接すると考えられる駒込追分町遺跡では、日光御成街道の道路下に築かれた19基の麹室が発見された。−この麹室と酒や醤油の販売を手がけていた高崎屋との関連は不明であるが、発見された麹室がいずれも18世紀末から19世紀前葉であり高崎屋の繁栄期に一致することなどから高崎屋に関連して麹生産を行っていた可能性も否定できない。((「発掘された神田の町」 千代田区立四番町歴史民俗資料館) 麹を外注で造ってもらっていたのでしょうか。文京ふるさと歴史館にある、長谷川雪旦・雪堤筆による高崎屋の絵を見るとその繁栄ぶりの見事さがよく分かります。高崎屋は今も酒屋として文京区向丘1-1-17に現存しているそうです。


朝永振一郎の酒

鳳楽  昔はね、寄席にみんな酒を持って来たんですよ。結構、錚々(そうそう)たる人が落語を聞いているんです。ノーベル物理学賞を貰った朝永振一郎さんが、人形町の末広という寄席によくお見えになり、ぐい呑みをお出しになり、いつもポケットから燗酒を次つ)いで飲んでいました。着物姿で、いい風情でしたね。うれしそうに、酒を飲みながら聞いてるんです。(「酒器放談・酒天之美禄」 陶説609号)
これは多分、語り手の三遊亭鳳楽の実体験による話なのでしょう。こんな風に落語は聞きたいものです。


良寛の酒詩
孟夏(もうか)芒種節(ぼうしゅのせつ)              初夏の種まきの頃に
錫杖(しゃくをつえついて)独(ひとり)往還(おうかんす)    つえをついてひとり歩いていたら
野老(やろう)忽(たちまち)見我(われをみ)           田舎の老人が私をみつけ
率我(われをひきいて)共成歓(ともにかんをなす)       私を連れていき一緒に楽しんだ
芦発(くさかんむり)(ろはい)聊(いささか)成蓆(せきをなし) 芦で編んだむしろで席をつくり
桐葉以(どうようもって)充盤(ばんにあつ)            桐の葉を器とした
野酌(やしゅく)数行後(すうこうご)                 屋外で盃を酌み交わし
陶然(とうぜん)枕畦眠(あぜをまくらにねむる)         酔って陶然となり田の畦を枕に眠った
(「良寛詩集」 大島、原田訳) 酒好きな良寛さんですが、聞き上手だったのでしょう。


酒、折り紙、財閥、盆栽
これらの言葉は何でしょう。
大名、茶の湯、生け花、二世、柔道、空手、寿司、鳥居、神風、布団、合気道、帯、能、万歳、着物、刺身、将軍・・・・ぼつぼつ分かってきたでしょうか。
農協、全学連、天麩羅、すき焼き、芸者、侍等々で、輸出された日本語だそうです。(ほとんどが「ことばと漢字の『面白隠し味』3000」 パラキハウス) 「酒」も海外で流通するようになってきたのでしょうか。「吟醸酒」も結構分かってもらえると聞いたことがあります。


水まし酒
奈良の伊勢屋という酒屋は、安い水を入れて売った。ある人がこれを買い、「伊勢屋の酒は、ひどく悪い」というわけで、狂歌を詠んだ。
酒の名も 所によりて かわりけり いせやの酒は よそのどぶろく
伊勢屋はこれを聞き、返歌をした。
よしあしと いふ(言う)はなに(難波)はの 人やらん おあしをそへて よきをめされよ(「昨日は今日の物語」 東洋文庫)
ごもっともで、今も同じ非難をよく聞きませんか。本歌は「物の名も所によりてかわりける 難波のあし(芦)は伊勢の浜荻」ですね。


487番目のアミノ酸を決める遺伝子の塩基
肝臓にあるアルデヒド脱水素酵素は、アルコールが分解されてできるアセトアルデヒドをさらに分解するもので、この活性が低いと酒に弱いということになります。アルデヒド脱水素酵素の、487番目のアミノ酸を決める遺伝子の塩基配列の一つがグアニン(G)になっている人とアデニン(A)になっている人がいるそうです。日本人ではGだけを二つ持っている人(GG)と、Aを一つまたは二つ(AGかAA)持っている人が半分位ずついるそうで、後者はアルデヒド脱水素酵素の活性が大きく低下するために酒を飲めない体質となるのだそうです。(「酒乱になる人、ならない人」 眞先敏弘) これは遺伝子の有名な話だそうですが、赤羽教授の研究成果は次々と深化しているようです。それにしてもたった一つの塩基の違いで人生が変わるとは…。


川柳の酒句(6)
酒屋の戸 銭でたゝくはなれたやつ(深夜酒屋の戸を銭たたけばあけてくれるとは江戸時代ならではなのでは)
土蜘蛛の身ぶりでなめるこぼれ酒(落として割ってしまい地面にこぼれた酒をなめていた生酔いを見たことがあります)
侍が酔て花見の興がさめ(人きり包丁を持った危険な酔っ払い)
ふところをやたらに探すさめたやつ(つい気が大きくなったか、落としたか)
詩のできるたびに徳利が軽くなり(「李白一斗詩百編」 一合で詩が一つ、ただし、中国は一斗が一升だそうです)


大酒飲み国家
噂によると、ビュザンティオンの人々は皆大酒呑みで、居酒屋を住処(すみか)にして自分の家屋敷は空家(あきや)にし、これを町に逗留する旅人に賃貸していた。寝室のみならず御内室も一緒に貸したものだから、彼らは酒びたりと女の取持ちという二重の非難を受けることとなった。−こんなわけで、彼らの町がひしひしと包囲された時にも、敵が城壁に攻撃をしかけてくるのに、味方はそこに見張りを残しただけで、行きつけの酒場で終日とぐろを巻いているというていたらくであったので、将軍レニダスは城壁の上のあちこちに急造の酒店を張らせた。この名案のおかげで逃げ出す口実を奪われ、彼らもようやく戦列から抜け出すことをやめる気になった。(「ギリシア奇談集」 岩波文庫) 多分、平和日本も将来、こんなおかしなことをいわれるようになるのでしょう。


水戸中納言 末期の酒
水戸中納言様 御逝去之(の)晩、御近習之(の)者(を)被召寄(めしよせられ) 於御座之間(ござのまにおいて) 御酒盛(おさかもり) 被仰付候(おおせつけられそうろう)。 宰相(さいしょう)様 被仰上候(おおせあげられそうろう)は、「中納言様にも被召上候様(めしあがられそうろうよう)に」と被仰候(おおされそうろう)。其時(そのとき)中納言様 大盃に六分めほど御請(おうけ)、十四口ほど被召上候(めしあがられそうろう)由(よし)。
ここで、中納言は水戸光圀(黄門)、宰相は光圀の養子の徳川綱条だそうです。(「元禄世間咄風聞集」 岩波文庫) 末期の酒を、大盃に十四口も飲めたということは、誠にたいしたものといってよいのではないでしょうか。


上野の花見
上野公園には、幕末の彰義隊の戦いで焼けた寛永寺がありました。開山の天海僧正が桜を好んだので、将軍のお声掛かりで吉野から桜を取り寄せて本坊の庭に植えたのが上野の桜の始まりだそうです。上野の花見として本格的ににぎわうのは、寛文年間(1661〜72)からだそうで、桜の下に幕を張り、花見酒と共に、心得あるものは連歌、俳諧を楽しんだそうです。天和年間(1681〜83)になると、弁当をしばってきた綱を桜の木に張り巡らし、それに女房の小袖や男の羽織を掛けて幔幕代わりにすることがはやったそうです。そしてその際は、寛永寺の門主である法親王の御座所が近いということで、鳴り物、口論はいっさい御法度で、山同心という警邏がいつも山内を見回っていたそうです。従って江戸時代の上野のお花見は今のイメージとは大分違ったものだったようです。(「江戸の再発見」 稲垣史生)


酒のことわざ(3)
鮟鱇(あんこう)が粕に酔ったよう(醜い顔を赤くしているのをあざける言葉)
一升徳利 こけても三分(もとが大きければ多少むだづかいしても全部無くなることはない)
茨を逆茂木(さかもぎ)にしたよう(狂言では辛くて舌にしみるような酒の味をいっている)
羽觴(うしょう)を飛ばす(羽觴はすずめの形にかたどって翼をつけた杯で、客と酒杯のやりとりを盛んに行うこと)
後ろに柱前に酒(床柱を背に酒宴をすることで、得意で快適なことのたとえ)(「故事ことわざ辞典」 鈴木・弘田編)


遠近(「笑府」)
大勢の客たち、酒宴のあと、帰途の遠近を話す。一人の生酔いが、「このうちでは、おれが一番近いさ」という。「しかし亭主にはかなうまい」とみなみないうと、生酔い、目をとろんとさせて、「亭主も奥にはいるには、少し歩かにゃなるまい。おれはここでこのままじゃ」(中国・明時代の笑話集「笑府」 松枝茂夫訳)
我が家へ来る客にもこういう人がいて、起きてくれるまで辛抱強く待ったものです。お宅ではいかがですか。