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御酒                                            


御酒の話(1)


二日酔いにきくといわれるもの(2)  二日酔いにきくといわれるもの  魏志倭人伝の酒  酒林の作り方  蜜の酒  榊原健吉  二日酔いの句(2)  放射能と酒  宮水  煮もと  酒の民謡  傍若無人  二日酔いの句  台湾の清酒規制  酒税率  オマル・ハイヤーム  「アルコールの公式」  惣花  本朝食鑑の桑酒  黒字倒産  上戸茸(じょうごたけ)  幸田露伴  江戸時代の酒の価格  本朝食鑑の鳩酒  酒の保管場所  「”通”気どりの店」  丸真正宗  プラトンの「法律」第6巻(アテナイオスの引用)  酒の割り方(2)(アテナイオス)  酒の割り方(アテナイオス)  昆布の羽織  酒の江戸っ子  酒飲みの祭り  石灰窒素工場と酒  本朝食鑑の菊酒  お燗機能付きカップ酒  下戸のアルコール依存  吟醸酒の添加アルコール  焼酎甕(かめ)  ヤドカリ  サリチル酸(2)  牧水のうた  専門家とシロウトの違い  瓢箪(ひょうたん)  本朝食鑑の葡萄酒  昭和20年の幻の酒造禁止令  酔って件(くだん)の如(ごとし)し  山頭火  くさや  米マツコルリ  スマイリー(顔文字)  金魚酒  本朝食鑑  しぼり  左(2)  明治初期の東京の酒屋  世田谷のぼろ市  千葉県銚子市(地名の語源)  どぶろく祭(HPから)  自衛隊の酒  禁酒法とカナダ  現在の神社の酒造り  禁酒地蔵-2  灘高等学校  八相狸  酒造年度  添加アルコール  内税か外税か  最近の酒器   袁枚(えんばい)の酒  酒壺、酒甕  四段  根岸鍵屋  古稀(七十歳のこと)  酒寿司  風呂敷で1升瓶を2本包む  酒の日    区内のドブロク祭り  「酔虎伝」  銚子  酒の輪廻?  三〜四合連日飲酒者  小鼓  酵母の伝播  赤い酒  禁酒地蔵  最近の酒の傾向  もったいない酒燗器  麻酔薬としての酒  変わり徳利  月の桂  養生訓4(焼酎の毒消し)  養生訓3(良い酒、悪い酒)   養生訓2(主人と客)  遊びの盃  また、ドライ  養生訓  醸造博物館  アルコール依存  酒の小売り免許  きき酒の楽しみ−私の場合−  清酒の幅  最古の酒  きじ酒の再現と試飲結果  仏掌柑  酔っぱらい石をも動かす  法酒  白瀧  きじ酒   小さな蔵の酒の味わい方  1升桝  1升ビンの結束  鳥の造った酒  中国の火入れ  盃の原料  吟醸米の洗浄  エンプティーカロリー  久保田  福沢諭吉の酒  半切り  未納税移入、移出  下戸の盃  酒色々  調合    破精(はぜ)込み  ビン  酒を煮る  酵母と公害  松尾神社  清酒の種類  曽根荒助  火中の酒宴  「燗」「酵母」  石榴鼻(ざくろばな)  贈る盃  お流れちょうだい  コウジブタ(麹蓋)  こしき  酒と竹  釜の役割  大石内蔵助愛翫の盃  2階建ての酒蔵  井戸さらえ  菰樽(こもだる)  酒桶の後半生  土蔵の酒蔵  ため  百日もん  生もとの中の細菌  寝前酒   酒国、酒客、酒軍、酒過、酒所  アルコール度数の測り方  木香付き酒  鬼殺し  サリチル酸  黒田清隆の酒  不許葷酒入山門  並行複発酵  貧乏徳利  三浦樽明の墓  孔子と釈迦  麹の米の変化  5段積み  尺棒  三段仕込み  甘酒  肥後赤酒  強い酒(しいざけ)  後楽園   「うわのみ」と「したのみ」   「ツン」と来る  添加アルコール  杜氏になるまで   火落ちのおきる場合   酒袋  甘辛  さかづきとぐい飲み  薄い酒  吟醸粕の漬け物  鯨海酔侯   昔の古酒  板御神酒、我酒、願酒、したみ酒、亡酒、呼び酒、わらじ酒   アワケシ  千石酒屋  キツネ(桃桶)  氷酒  戒めの盃  十里、賢人、白馬  ピリピリ酒  新酒香  麹と酵母  おつもり  酒粕  酵母の発酵能力  火落ち酒の矯正  首っつり  御酒頂戴(天盃頂戴)  酒の語源  クツイシ  レッテル  ノンベイの理屈  品評会の口直し  麹の「特徴」  寺で造られた酒  酒母の香り  ツボダイ  桶は長持ち  寝言屋の説  立ち飲み  杜氏の後継者   富士見酒  勧戒の器(かんかいのうつわ)  麹と酵母の混同  真澄  デカンショ  袖の梅  灘の酒蔵批判への批判  越の寒梅  大酒家  酒税と消費税  発酵と音楽  二日酔い  ドライ  理研酒(合成酒)  酒屋万流  火落ち香  泡無し酵母  酒母を飲む    麹とクモノスカビ  麹(こうじ)と酵母(こうぼ)  低温発酵  のみ口  13本取り  桜正宗  納豆菌  二升五合  酒米の条件  秋上がり、秋落ち  吟醸酒醸造の特殊性  号数のついた酵母  酔いざましの水  選挙と湯飲み酒  清酒は化粧品  杜氏の産地  鏡開き  級別  下戸  割水  酒屋の煙突  千日酒  吟醸酒用酒米で作るお粥  酒は薬  薄い酒  ささら  発酵の時に出る泡  桶と樽  さけの「さ」  酒林(さかばやし)  清酒の色抜き  杉桶時代の火入れ  冷やおろし  釜の湯  柿渋  酒風呂  ヤコマン  初呑切り  隠し味  税務署関税課  こしき倒し(胴転ばし)  火落菌のえさ  麹菌  蒸かす  酒税の率  凍結酒  瓶詰め火入れの温度  清酒の税率  ぬかの利用  麹の供給元  酵母の供給元  べく杯(可杯)  きき猪口  ひねり餅  火入れ  火落ち  生酒  統制  アルコール飲料  氷らせた酒  密造  酒の甘さ  石綿  にごり酒  新酒  古酒  アルコール発酵  軟水と硬水  アルコールの値段


二日酔いにきくといわれるもの(2)
「魚際」という両手のひらの親指のつけねのふくらんでいるところ、「期門」という乳首のすぐしたの部分、肝兪(かんゆ)という肩胛骨を結ぶ線と背骨の交わる線の下2番目の背骨の左右指2〜3本離れたところ、その他何カ所か指圧で二日酔いにきくところがあるのだそうです。漢方薬としては、「五苓散(ごれいさん)」、「黄連解毒湯(おうれんげどくとう)」が使われるそうです。医者でない身で、ブドウ糖液やビタミン剤を自分で点滴をすることができないのなら、漢方ならどうなのだろうと思うのですが、効果のほどはどんなものなのでしょう。


二日酔いにきくといわれるもの(1)
(果物・野菜等系)サトウキビ キンカン レンコン いちじく ザクロ 柿 とうもろこし 白菜 ハチミツ 梅干し ごま (魚貝系)しじみ フグ (ハーブ系)セイジ フェンネル ラベンダー ペパーミント ローズマリー ジュニパー カモマイル (茶系)緑茶 コーヒー プーアール茶 ゴーヤー茶 (漢方系) ハンノキ カンゾウ ササ ウコン 葛根 (薬系)クマノイ キトサン ブドウ糖そのほかには、「深い呼吸」というものもあります。さらに、レッド・アイ(ビール、トマトジュース半々のカクテル)などというものもあるようです。食べ方としては、そのまま、粥、茶、点滴、煎じる、ミックス等々。


魏志倭人伝の酒
「死するや 停葬十余日、時に当たりて肉を食わず、喪主哭泣(こくきゅう)し、他人就いて歌舞飲食す。」「人性酒を嗜(たしな)む。」の文章で有名な「魏志倭人伝」。「哭泣」の習慣は韓国に残っているようですが、それ以外は皆そのままに現在に続いているようです。仏教伝来以前の葬式の時に酒は飲むが、肉は食べなかったのだとしたら、その発想の原点は何だったのでしょう。そのほかにも、入れ墨のことや、刑罰のことなど、もっと知りたいことの多い、版木本で11ページばかりの古典です。是非ご一読を。


酒林の作り方
本来の酒林の作り方は、杉の枝を縄で結わえて、それを開き、丸く刈り込むのですが、これはなかなか難しいもののようです。そこで、最近は、二つのざるの口を合わせて縛り、それに杉の枝を差し着込んで、枝を刈り込む方法が多いようですが、さらなる簡便法があります。発砲スチロールを立方体に切り、そこに杉の小枝を差し込んで刈り込むだけのもので、余りありがた味はないかもし知れませんが、誰でもできる簡単なものです。雰囲気の好きな方はお試しあれ。


蜜の酒
日本三大銘菓の一つ、新潟の「越の雪」は淡雪のように舌にとろけるおいしいものですが、この系列で菓子の本家中国で、昔、干し柿の表面にふいた粉を集めて作った皇帝用のものがあったそうです。同様なものが酒にもあったようで、コーカサス地方で、野生の花の花弁にたまる蜜の部分だけを人間が採取して発酵させ、それを数度蒸留させたというものです。花の芳香の残る神秘的な酒だったそうですが、今では名前すら残っていないのだそうです。なめるだけでもしてみたいものです。(「酒の話」小泉武夫)


榊原健吉
幕末最後の剣客榊原健吉は、維新後、東京下谷車坂に道場を開き武道を新しい時代に伝えようとしました。各地を廻ってその技を見せることによって武道の心を伝えようとしたそうです。道場の資金を捻出するため、最初は寄席を、それがだめだったので、居酒屋を開業。道場の半分を仕切って飲み屋とし、「鬼笑い」という酒を出したそうです。店員は道場の「もさ」たちで、お客の方がヘイコラしながら飲んだそうで、流行るわけはなかったそうです。(「武道と酒」大塚乙衛) 勿論本人も酒豪で、新宿須賀町・西応寺にある墓の前にあるろうそく立ては瓢箪型です。


二日酔いの句(2)
二日酔い 飲んだ所を かんがえる
二日酔い 凡(およそ)天窓(あたま)が 四五貫目
二日酔い かぶとを着たる 心持ち
二日酔いと いうや六日の 菖蒲酒
みじか夜や 寝もせぬ酒の 二日酔い
二日酔い 翌日ふたたび でるやまい


放射能と酒
「あるレントゲン技師の話をしよう。その人は戦時中、満州でレントゲンを操作中、事故によって大量の放射線を浴びたという。その量は、当然その後に障害をもたらすほどの量であったが、今もって健康であるのは、大酒のみであるからだという」という文章に始まり、広島、長崎の原爆の際、酒豪や自棄飲みした人が助かった話、大腸菌をアルコール存在下にレントゲンを照射すると変異種のできる割合が小さいといった話が、「酒を楽しむ本」(佐藤信、昭和53年18刷)に載っています。その後の研究はどうなっているのでしょう。


宮水
天保年間に山邑太郎左衛門が、西宮と魚崎にある二つの酒蔵で、西宮の酒が常に良いことから発見したものだそうです。この水は、六甲山の伏流水が、宮水地帯で化石層を流れ、それに海水が少し混じることによって出来上がったもので、西宮南部の東西500m、南北1kmくらいの地域からくみ出せる浅井戸の水だそうです。カリウム、カルシウム、特にリンが多い硬水です。これらが酵母の増殖に役立つわけです。このこの硬度は6〜8度です。(ミュンヘンのビール用水の硬度は30度とか。) 今、灘の蔵元は、六甲山に貯水池を作って引いていると聞きました。東京農大の資料館に資料があります。


煮もと
貞享4年(1687)ころの「童蒙酒造記」に記載されている「もと(酒母)」の一つですが、これは、現在で言う「高温糖化もと」です。酒母をたてて、3日から10日後くらいの「ほおずき泡」が引き始める頃、「煮る」のだそうです。このマニュアル本は、「努々疑うべからず」「少しもせくべからず」「「努々驚くべからず」といった言葉で心配を払拭させながら、丁寧に製造方法を説明しており、秘伝の多かった当時によくもここまでと感心させられます。


酒の民謡
飲みやれ大黒 歌やれ恵比寿 ことにお酌は福の神
飲みやれ歌やれ 先の世は闇よ 今は半ばの花盛り
博打ゃ(ばくちゃ)打たしゃる 大酒飲みゃる わしが布機(ぬのばた)無駄にして
池田・伊丹の上諸白も 銭がなければ見て通る
酒は飲まねど酒屋の門で 足がしどろで(よろよろした)歩まれね
わしとお前は諸白手樽 中の良いのは人知らぬ
差せば押さえる押さえば飲めず 飲めばその身の仇(あだ)となる
明和9年(1772)出版の「山家鳥虫歌」(岩波文庫)にある民謡です。人間とは変わらないものですね。


傍若無人(ぼうじゃくぶじん)
「傍(かたわら)に、人無なきが若(ごと)し」は、人前もはばからず勝手な行いをすることですが、この言葉は、酒飲みからでたものでした。司馬遷の「史記」に書かれており、後に秦の始皇帝を暗殺しようとした荊軻(けいか)が、高漸離(こうぜんり)と友となり、燕(えん、北京近辺)の町で互いに飲み合い、「相(あい)泣きて、傍らに人無きが若し」という様子だったということです。要するに、大伴旅人や若山牧水のような泣き上戸の友人だったようで、その酒を通してできた言葉なのだそうです。


二日酔いの句
「二日酔い ものかは花の あるあいだ」 これは誰の句でしょう。延宝年間といいますから、30歳代の松尾芭蕉のものです。江戸時代の花見の賑やかさは、今と変わることがなかったのでしょう。芭蕉の酒量がどのくらいだったか色々な人が書いていますが、大酒家というほどではなかったでしょうが、好きだったのではないでしょうか。それにしても、われら懲りない衆生は、「花」を「生」と読みかえた方がよさそうです。


台湾の清酒規制
台湾では清酒の輸入は公売局が独占的に行っており民間業者は参入できないのだそうです。しかしWTO(世界貿易機関)加入のために規制緩和がすすめられようとしており、清酒の輸入、製造に関して段階的に開放されようとしているようです。それにより、今まで公売局に納められていた「公売利益」にかわって、酒税、営業税が検討されているのだそうです。つまり、今まで台湾には酒税はなかったのです。国による「多様性」を感じさせます。(01.02)http://www.maff.go.jp/soshiki/keizai/kokusai/kikaku/20000131taiwan51b.htm


酒税率
ビールの税率が高いとか、、ワインの税率が低いとかいわれますが、これらは、その時々の行政の考え方が表現されているといってよいでしょう。ビールの酒税が高いのは、安くすると、高い米を原料とする清酒を駆逐してしまい、米生産にも大きな影響があるからですし、ワインの酒税の安いのは、国産ブドウの原価が高いので、酒税を高くすると国産ワインが売れなくなり、ブドウ農家も立ち行かなくなるからのようです。今、行われようとしている、発泡酒の増税も、2兆円酒税の内、6割以上になったビールの酒税が、発泡酒の増加によって大幅に減少することに対する、財政逼迫時の行政としてのやむを得ない対応であるといえるのでしょう。(03.02)


オマル・ハイヤーム
「墓の中から酒の香が立ち上るほど  そして墓場へやって来る酒のみがあっても  その香に酔い痴れて倒れるほど  ああ、そんなにも酒をのみたいもの!」「天国にはそんな美しい天女がいるのか?  酒の泉や蜜の池があふれているというのか?  この世の恋と美酒(うまざけ)を選んだわれらに  天国もやっぱりそんなものにすぎないのか?」 (岩波文庫)これが、11世紀に生きた天文・気象学者オマルの4行詩(ルバイヤート)です。禁酒のイスラム教国の1000年ばかり前に生きた人物のうたなのだそうです。


「アルコールの公式」
アルコールの血中濃度を出す公式
〔飲酒量(ml)×酒のアルコール濃度(%)×0.8(アルコールの比重)〕÷〔体重kg×2/3(体重の2/3が水分)×1000〕×100
アルコールが体内からなくなる時間の公式
〔飲酒量(ml)×酒のアルコール濃度(%)÷100×0.8〕÷〔体重kg×0.15(体重1kg当たり1時間で分解できるアルコール重量)〕−飲酒時間(具体的には、15%の清酒1合をいっぺんに飲むと2.4時間かかります。)
これは大変役に立つ公式です。(「酒をたのしむ本」 佐藤信)


惣花
山邑家の「(桜)正宗」と並び称せられた灘酒に、岸田家の「惣花」があったそうです。その一挿話です。惣花が大好きな江戸詰めの大名がおり、ほかの酒は飲まなかったそうです。海が荒れて惣花が江戸に着かなかったとき、新川(酒問屋が多数あった。)のプロでも区別が付かなかったという「諫鼓(れんこ)」という酒を出したところ、その大名は気がつかなかった。ところが翌日、帰館すると「昨夜の酒は違う」と大名がいい、その理由を問われると「いつもは登城して敷居をまたぐ時必ず醒めるのに、今朝はなお酔気が残っていた。」と答えたという。(昭和7年刊の「酒通」にあるそうです。)


本朝食鑑の桑酒
桑の木とその根皮を煎じて濃い煎り汁を取り、そこへ米麹を入れて発酵させるのだそうです。中風(風邪が身体の虚に乗じて体内へはいるもの)、五脾(ごひ:皮、脈、肌、筋、骨)、脚気、疾嗽(はげしいせき)に効果があるそうです。これは酒というよりは、ほとんどアルコールのない薬酒といったものだったのでしょう。


黒字倒産
昭和初期の恐慌の際、酒が売れて売掛金は十分にあるのに、その売掛金が回収できなくて、問屋への支払いができなくなり、黒字なのに倒産したという話を、実際に体験した小売り酒屋さんから聞いたことがあります。この時は蔵元も同じだったようで、酒1石は、酒税40円、原価30円なので70円以上で売らなければならないのに、デフレのため、それを大幅に割る40円とか35円といった値段で売買したところも数多くあったということです。


上戸茸(じょうごたけ)
土佐の木山に上戸茸という椎茸ににたキノコが生えることがあるのだそうです。このキノコを盃の端にあてて、酒を飲むまねをすると、キノコが酒を吸い取ってしまい、あたかも飲んだように見えるというのだそうです。このキノコをしぼると酒が出てきて、また使えるとのこと。(「安齋随筆」 酒文献類聚) 椎茸を浸した酒を飲むと2合で酔う人が1合で酔えるという話もありますが、この話とは関係はなさそうですが。


幸田露伴
「五重塔」で有名な幸田露伴は、娘の教育にも大変細かい気遣いをしたようで、その厳しさは、「あとみよそわか」(おこなった後を見直せの露伴の唱え文句)で幸田文が書いています。その露伴の酒もむずかしいものだったそうです。さめないで飲める量の酒を徳利にいれてお燗させるのだそうですが、その量というのが盃3杯分なのだそうです。これでは、徳利は湯に浮いてしまいますし、それに何度もお燗を繰り返さなければなりません。孫娘がこれを手伝ったようですが大変だったと思います。(青木玉)


江戸時代の酒の価格
灘から江戸へ出荷する酒(諸白)は、10駄(1駄は、馬へ4斗樽を2本乗せるということで、8斗=144L なのですが、実際には大体7斗=126L)で、延宝4年(1676)は10両2朱、延宝6年は9両1分、延宝7年は11〜12両、延宝8年は14〜15両、天和1年(1681)は16両1分、元和2年は9両2〜3分…というように、大きな変動があります。(「童蒙酒造記」) 米の出来具合、酒の在庫状況、経済全体の動き等によって価格が大きく変わっているわけで、現在の価格変動と比べると、その生活に及ぼす大きさが分かります。


本朝食鑑の鳩酒
「肥えた鳩の腹毛、頭、尾、羽、足を取り去り、肉をさき、骨を砕いてすりつぶし、酒で煮る。」とあります。腰痛と老人の下冷えにきくとなっています。これは、酒というよりも、肉団子スープといったものだったのではないでしょうか。昔の食の本は、陰陽の思想に基づく医食同源の発想で、おいしさということよりも、その薬効を強調したということのようです。


酒の保管場所
聞いた話ですが、ある有名なレストランから蔵元に酒に色が付いているという苦情が来たそうです。蔵元は心配して現場へ行ったところ、ガスコンロのすぐ横に酒が置かれていたそうです。当然そのレストランでは、ワインはワインクーラー保存していました。最近、生酒や、吟醸酒は冷蔵庫に入れる人が増えてきましたが、その他の清酒も皆同じようにして下さい。それどころか、火入れした吟醸酒なら、純米酒よりも変化は少ないといっていいでしょう。ですから純米酒の方を冷蔵庫で(少なくとも冷暗所で)保管するべきなのです。おいしく酒を飲むには気遣いが大切です。


「”通”気どりの店」
p「うー冷えたなあ熱カン頼もう」f「そうっスね あー その上ノヤツ熱カンにして」 m「うちは熱燗できる酒は置いてません ぬる燗はできますがこれ一種類になります」 p「あのね…」 f「燗できない酒だ?なんだそりゃ とっくりに入れて湯にぶちこみゃいーだけだろーが ジュースだろーがコーラだろうが燗はできないって事はない! それがうまいかは別の話で」 m「だからっ うまくないものを…(怒)」 f「うまいかまずいかは飲む人間が決めるもの!料理じゃねーんだ酒は嗜好品だ」 … f「特別へんな飲み方するんならともかく燗酒は日本の文化!それもわからん”通”気どりの店に用はない 行きましょう!」 p「う!うむ…」(「パパはなんだかわからない」山科けいすけ) そうだそうだ。でも文字の多い漫画です。 


丸真正宗
東京23区内で唯一の蔵元です。灘の大関がワンカップでかつて10万石を売ったように、この蔵も1合瓶が業務店の多い東京ならではの大きなシェアをもっていました。蔵元直詰の1合瓶の信用は大きかったのでしょう。当時女性が酒造りに参加することなど考えられなかったとき、蔵元の娘さん自身が蔵人となって酒造りに加わり、また、蔵元の弟さんが早稲田大学学長になったりと話題の多い蔵です。


プラトンの「法律」第6巻(アテナイオスの引用)
「酔うほどに飲むのは不適切です。ただ一つの例外は、酒を授けて下さった神様のお祭りの時だけです。酔うのは危ないことです。例えば結婚する時ですが、新婦も新郎もこの時こそ正気でいなくてはいけない。二人にとって生活の小さからぬ変化なのですから。だがそれだけではありません。生まれる子は、どんな場合でも正気の両親から生まれるのでなければなりません。」 何と人間とはどこでもいつでも同じ事を考えるのでしょう。(「食卓の賢人」アテナイオス)


酒の割り方(2)(アテナイオス)
アテナイオスの「食卓の賢人」(岩波文庫)には、食物に関する話題が、引用という形で膨大な量紹介されています。古代ギリシャではワインは水で割って飲まれていたようです。簡単なワインの発酵はアルコール度数は現在とそう違っていないでしょうから(「賢人」階級は、べろべろになることを嫌悪し、また、雑味や酸味を薄めるために割ったのではないでしょうか。)、10%前半だったでしょう。そうすると、割ると2〜6%位でしょうから、ちょうど今のビールといった感覚だったということです。スパルタ人は、酒を割らないままに飲んでとうとう気がふれたと、ヘロドトスがいっているそうですから、濃い酒はいつの時代でも問題だったのでしょう。


酒の割り方(アテナイオス)
ギリシャのソフィストの知識量は大変なものだったようです。古代ギリシャでは酒を割って飲んでいたようで、紀元3世紀頃のアテナイオスは、数百年前の古典の中から酒を割ることの出典を紹介するのですが、「アンピトリュオン」2版では酒1:水1、「仕事と日」では1:3、「乳母」では1:4、「蜜蜂」では1:2、ことわざでは3:5、「アミュモネ」では2:5、「コッタボスの遊び」では2:5、「神々」では2:5と1:2等々と続きます。いずれにせよ、倍以上には割っていたようです。


昆布の羽織
松江に独特な文化をもたらした松平不昧公は、大名茶の世界に独自のスタイルを切り開いた人と言って良いのでしょう。家老の努力で、藩財政が好転したことを確かめると、茶の湯の世界に深入りしだしたということで、わきまえのあった藩主なのでしょう。もっとも家老は財政の好転を伝えたことを悔いたようです。この不昧公のもので、昆布の羽織という物があり、名前の通りのもので、自身が着て、酒宴の時にその羽織をつまみにして酒を飲んで周囲を驚かしたということです。


酒の江戸っ子
江戸時代多くの酒が灘から送られてきていたようですが、酒の江戸っ子もあったようです。灘の諸白の技術は、江戸に伝わっていたようで、銘酒として評判になっていた酒もあったようです。浅草寺の御用をつとめていた江戸生まれの酒として、「隅田川諸白」「宮戸川諸白」といったものがあったそうです。前者は、隅田川の水で仕込まれ、浅草寺の公英僧正によって命名されたそうです。後者は隅田川の浅草寺境内あたりを流れる部分の名前だそうですが、少し質は落ちたそうです。(吉原健一郎「浅草寺の酒宴」) 現在、23区内で醸造される清酒は、赤羽の丸真正宗1社です。


酒飲みの祭り
市川市の駒形神社には、1月20日、「にらめっこ おびしゃ」という行事があり、行司のいる机をはさんで両者がにらみ合いながら極熱(ごくあつ)の酒を入れた盃を飲み干し、その間に一方が笑うと笑った人が罰杯として、極熱の大杯を飲むという行事があるそうです。(NHKでは二人とも飲むと紹介していました。もしかすると、今は現在流に妥協したのかもしれません。) 足利市最勝寺では、「滝流しの儀」という正月行事があり、朱塗りの大杯を口にあてた檀徒に額から銚子で酒をそそぎます。酒は鼻を伝って大杯に流れ込みそれを檀徒は飲んでいきます。これ以上飲めなくなると手を挙げて止めてもらうのだそうです。(大晦日には「悪態祭り」があるそうです。)不思議な行事ですが、共にNHKTVで紹介されていました。


石灰窒素工場と酒
石灰窒素工業で働く人たちが、すぐ悪酔いするということから、信州大学の赤羽教授が、実験的に石灰窒素を被験者に0.3g内服してもらってから、少量のアルコールを飲んでもらったところ、被験者はすぐに顔が赤くなり、動悸がひどくなり、その後、顔が青ざめ、吐き気や頭痛が起こりました。これは、血液中のアセトアルデヒドが増加したことによるものでした。アンタブスという酒を嫌いになる薬もそうしたものの一つでした。ただこれは、かなり副作用があるようです。


本朝食鑑の菊酒
2種類あり、1つは、加賀の国(石川県)、菊川の岸に咲く菊の花とその水を煮て汁を取り、それを仕込み水にして酒を造るというもので、100万石前田家の酒として使用したようです。もう1つは、黄花を焼酎に数日浸して煎沸した後、氷砂糖を加えて甕(かめ)で数日寝かせるというもので、これは、肥後(熊本県)の50万石細川家の酒として同様に使用されたようです。目、頭痛、感冒の初期、婦人の血風によいそうです。


お燗機能付きカップ酒
石灰に水をかけると高熱が出ることを利用して、どこでもお燗のできるワンカップを開発したのは富久娘でした。ネーミングは「燗番娘」で、釣りをする人が、寒さの中で、暖かい酒を飲めることを望んでいたので、蔵元が製品化したということだそうです。確かに、氷結した湖に穴をあけてワカサギを釣るときなどにほしくなるのでしょう。その後、お燗機能付きの、フグのひれ酒なども出てきました。


下戸のアルコール依存
肝臓の中のアルコールを分解する酵素が活性を示さない人は、日本人などのモンゴロイドに多いそうで、国際会議などで赤い顔をしているのはたいてい東洋人だそうです。オリエンタル・フラッシィングというそうです。日本人には1割くらいの、ほとんど酒が飲めない下戸型の人がいるようです。ところがその酵素欠損型の人でもアルコール依存になるのだそうです。アルコールを分解する別の経路の活性が高まることによるようで、依存症の人の6%が該当するそうですから、飲めないからといって安心してはいられないようです。(「酒飲みの心理学」中村希明)横山大観などは依存にはなっていなかったものの、多分、このタイプだったのでしょう。


吟醸酒の添加アルコール
鑑評会へ出品用の吟醸酒造りはことのほか気を使います。添加するアルコールの場合は、1〜2年間保存して味をまろやかにして使用する場合が多いようです。また、気瀑法といって、空気にふれさせて同様に円味をつけるといったことも行われているようです。アルコール一つ取ってみてもこれだけ気を使うのですから、鑑評会への出品酒においては、すべての行程での気苦労がいかに大きなものであるかということが想像されます。


焼酎甕(かめ)
素焼きに茶色のうわぐすりをかけた1斗(18g)入りのずんどうの焼酎甕は、風情あるものです。杉でできた酒樽では焼酎は蒸発してしまって保存ができません。ここが西洋のオーク製の樽との違うところです。また、杉の香りは、あまり焼酎に合わないような気がします。それでこの焼酎甕が造られたのでしょう。空の焼酎甕を酒販店へ持っていくと昭和40年代で10円から50円くらいで引き取ってくれたように聞いています。この甕は、肩から上の部分を上手に割って蓋として、奈良漬けの貯蔵容器として使います。今は骨董の貴重品です。


ヤドカリ
ヤドカリの学名は Diogenidae だそうです。ディオゲ・・・と、どこかで聞いた名前です。そうです。これはギリシアの哲学者、ディオゲネスからきているのだそうです。アレキサンダー大王に望むものは何かと聞かれたときに、酒樽に住んでいたディオゲネスは、日が当たらないのでそこをどいてくれるのが自分の願いであると答えたということです。貝殻の家を背負うヤドカリを、酒樽に住むディオゲネスに見立てたということのようで、これは傑作ではないでしょうか。


サリチル酸(2)
日本にサリチル酸による清酒の殺菌法を伝えたのは、明治初期に東大教授になった「お雇い外国人」のドイツ人、コルシェルトだったそうです。その頃、ユルベー博士によってドイツに広まった方法なのだそうですが、明治13年にコンシェルトは、「酒類防腐新説全」で、サリチル酸の有効性を説いたところ、その本が「驚異的」な売れ行きを示したということです。火落ちによって倒産に至る可能性の多かった時代、酒蔵にとっては福音だったのでしょう。(神崎宣武「酒の日本文化」) 現在は使用禁止になっています。


牧水のうた
「人の世にたのしみ多し 然れども 酒なしにして なにのたのしみ」という若山牧水の有名なうたですが、これは「黒土」という句集に収録されており、代表的な酒賛歌とされています。この歌は一緒に「酒なしに 喰ふべくもあらぬものとのみ おもへりし鯛を飯のさいに喰ふ」「かえりみておもう 身体(からだ)のうちそとの きたなくもあるか 破(や)れ傷(や)みたり」等の句が妻喜志子によって選ばれています。妻を持ち、子を持ち、体はアルコールにさいなまれ、それでも酒を飲まずにはおれない酒聖のうたとしてよむと、どうでしょうか。


専門家とシロウトの違い
酒を保存すると味が丸くなります。若いアルコールのぴりぴりした感じがなくなっていくのですが、これを「会合現象」とかいって、水とアルコール分子がくっついて大きくなり、味がまろやかになると説明されます。シロウトにはわかりやすい説明です。しかし、物理学の専門家は、そんな分子間同士の引き合う力は存在しないという考えのようです。専門家ほど説明がはっきりせず、口が重くなるのも何となく分かるような気もしますし、しないような気もしますし・・・。


瓢箪(ひょうたん)
瓢箪といえば、ひさご、ふすべといわれる、酒を入れる容器ですが、古代中国では、「瓢(ひょう)」と「箪(たん)」は、二つの別の容器だったのだそうです。前者は飲料を入れるもの(これが本来の瓢箪のようで、その用途からヒシャクの意味もあったようです。)、後者は竹の籠で固形食を入れるものだそうで、「論語」に「一箪ノ食 一瓢ノ飲」と書かれているそうです。ですから、本来2種類の容器がひとつのものとして誤用されたものなのだそうです。「和漢三才絵図」にあります。


本朝食鑑の葡萄酒(ぶどうしゅ)
葡萄酒は、「腰腎を暖め、肺胃を潤す」薬効があるということです。山ぶどうを濾過して一晩おいたものを煮沸して冷やし、3年古酒に砂糖とともに入れて、15日間あるいは1年間熟成させたものだそうです。簡単に言えば葡萄液を入れた甘口の古酒ということですが、放って置いても自然にワインとなるブドウをこうした使い方をしたことは不思議なことです。ワインにするには、ブドウの糖分が発酵するのには少なすぎ、飲むには酸味が多すぎたということなのでしょうか。


昭和20年の幻の酒類禁止令
GHQは餓死者さえも出ていた昭和20年、食料を浪費する酒類製造を全面的に禁止しようとしていたそうです。しかし結果的には、それは行われませんでした。醸造業者が酒類原料を食料用として供出したことのほか、酒類不足によって死に至るメチルアルコールが流通したこと、密造酒が蔓延してきたことを、アメリカでの禁酒法の失敗を知っていたGHQ当局者が判断した結果なのだそうです。(「酔い」のうつろい 麻井宇介)


酔って件(くだん)の如(ごとし)し
昔の文章や手紙文で、末尾に「仍而(よって)如件(くだんのごとし)」と書いて、「以上書いてきた右のような内容である」という意味の文章末尾の定型句です。この「仍而(よって)」を「酔って」とし、「くだをまく」の「くだ」を「くだん」にひっかけた昔のおやじぎゃぐですが、これは何とも言えず面白くて、私は好きです。「飲みの宿禰(すくね)」というものもあります。


山頭火
山頭火には「酔うてこうろぎと寝てゐたよ」 「酒をたべてゐる山は枯れてゐる」 「ほろほろ酔うて木の葉ふる」といった酒を詠んだというか、飲んだ句が沢山ありますが、それとともに、水を詠んだ句もそれ以上に沢山あります。「へうへうとして水を味ふ」 「こんなにうまい水があふれてゐる」 「石をまつり水のわくところ」 「しようしようとふる水をくむ」 「霽(は)れて元日の水がたたえていつぱい」 「行き暮れてなんとここらの水のうまさは」 「ここまでを来し水飲んで去る」 「水のうまさを蛙鳴く」 「山からしたたる水である」等々。山頭火にとって水は生命であり神でもあったのでしょう。それとともに、酒を飲んだ後の甘露でもあったのでしょう。


くさや
くさやのにおいのもとは主としてアンモニアだそうです。くさやは、江戸時代に塩干魚を作る際、献上品である塩の使用を最小限にするため、一度使った塩水を繰り返し使っていました。そのうちに魚肉や内臓の一部がくさや菌というバクテリアによって発酵して、あのような味と香りがあり、日持ちの良い塩干魚ができる浸漬液ができたのだそうです。これはマルツ商店の奥山正人さんから教えていただきました。マルツ商店のくさやは、伊豆大島で作られている自然海塩を使い、昔ながらの製法を守り、手作り、天日干しにこだわっており、食べて甘味を感じるそうです。


米マッコルリ
新宿の韓国商店街で、紙パック入りの米マッコルリを見つけました。原料は米と小麦となっていますが、売っている人は「焼酎」と言っていましたので、そうしたものが入っているのかもしれません。「酒類の種類」では、「殺菌濁酒」となっており、米粒が入っていませんので、どぶろくではありません。アルコール度数は6%だそうでしたが、飲んでみると乳酸系の酸味のある、どうみても添加アルコールがほとんどの酒でした。今日本では色々なものが売られているようです。


酔っぱらいのスマイリー(顔文字)
:-*  :*)  これが米国版酔っぱらいのスマイリーのようです。縦にしてみないと分からないというのが半角の本家米国流ということなのでしょう。
日本では全半角両用ですので表現が拡大したのでしょう。スマイリーのことを日本では顔文字(フェイスマーク)というようで、酔っぱらい顔は  (*^〜^*)  U(^〜^*)  ◇(^^ )  ( ´o`)ロ   (=^〜^)o∀  といった具合に色々あるようです。酒器に「U」「◇」「∀」を使用するのが苦心のポイントのようです。詳しくは、「顔文字天国」をご覧下さい。


金魚酒
なぜ金魚酒と言ったかというと、「岡山あたりで水を汲む時に、あまり水を汲み過ぎて金魚も一緒に汲み込んだから、その酒が大坂へ来て、その金魚がまだ生きていた」ことからという、酒販業界の証言があるようですがどうでしょう。昭和14年に清酒価格が統制されたものの、蔵元は採算が合わないので、包み金を問屋に要求し、問屋も小売りにその分を上乗せした。小売りとしては包み金を出さない分、水で延ばした酒を買ったという文脈です。それが金魚酒という言葉の起源だという説で、『「酔い」のうつろい』(麻井宇介)に紹介されています。


本朝食鑑
人見必大という人が元禄八年に著した本ですが,酒に関しても記されています。その中で薬酒として、色々なものを紹介しています。忍冬酒(にんとうしゅ)、豆淋酒(とうりんしゅ)、屠蘇酒(とそざけ)、竜眼酒(りゅうがんしゅ)、葡萄酒(ぶどうしゅ)、桑椹酒(そうじんしゅ)、桑酒(くわざけ)、菊酒(きくざけ)、生薑酒(しょうがしゅ)、楊梅酒(ようばいしゅ)、蜜柑酒(みかんしゅ)、榧酒(かやさけ)、梅酒(うめしゅ)、鳩酒(はとざけ)、鶏卵酒(たまござけ)、蝮蛇酒(まむしざけ)。名前で想像するものと大分違うものがあります。段々紹介していきます。


しぼり
以前の酒袋による酒の「しぼり」には、「あらばしり」「中取り(中汲み)」「せめ(押し切り)」の三段階がありました。あらばしりは、長野県の真澄の商標になっていますが、しぼり始めた時の多少にごった部分のでてくる段階です。その次に、透明な一番良い部分がでてくるのが「中取り」です。この後、酒袋を積み替えて、もう一度圧搾してでてくるのが「せめ」です。これらは最後には一緒にされるのが一般的です。現在、一般的な酒しぼり機では、その境界が分かりにくくなっています。吟醸酒のしぼりでのみで残っているということなのでしょう。


左(2)
かつての「ものの本」は、博覧強記の人が自分の博捜した原典からそれらしいものを拾い出して書いていましたが、昨今の「ものの本」は、手軽にみつかる同種の本をそのまま自分流の言葉で書き写しているだけのものがほとんどなので、似たような説が出てきたり、間違った説が流通します。私もそのひとりなのですが、酒飲みを「左」という語源説で、通説(大工道具の「のみ」を持つのが左手)以外のものを見つけました。中国の「禮記(らいき)」に「左酒右醤」(食卓か祭壇で酒杯を左に置くことから)という言葉があるそうで、中国でいっていたものが日本に入ってきて、変化したというものです。これはありそうな説ですがどうでしょう。だれか調べて下さい。「和漢酒文献類聚」にあります。


明治初期の東京の酒屋
維新の頃より明治の初め 「大江戸趣味風流名物くらべ」という当時はやった番付表があります。「著作人」では「仮名垣魯文」、「白酒」では「かまくら河岸 豊島屋」、「醤油 国分勘兵衛」、「物まね 猫八」、「駒形 どぜう」、「芋坂 羽二重団子」などど共に、「閻魔堂橋 盗人酒屋」「親父橋 芋酒屋」と2軒の酒屋が入っています。どちらも不思議な名前の酒屋ですが、番付に入るくらいですから当時有名な店だったのでしょう。どんな店で、どんな酒を売っていたのでしょう。  その後、「閻魔堂橋」は、清澄通りの埋立てられた油堀川にかかっていたもの、「親父橋」は、人形町から日本橋に通じる道にあったもので、江戸官許遊郭の祖・庄司陣内を記念して命名されたことを知りました。



世田谷のぼろ市
明治36年のぼろ市を、幸徳秋水が、「世田ケ谷の襤褸(ぼろ)市」という文章で描いているそうです。その中で、飲食店は、おでん・濁酒(どぶろく)・寿司・駄菓子などで、特に、濁酒の店は、おでん・煮染め・煮魚を一緒に売り、最も利益が上がったが、この多くは「居店(いみせ)」と言って地元の家がこの日だけ店を出したように書かれているそうです。(世田谷区立郷土資料館) 庶民の飲む酒が、この頃でもまだ、どぶろく的なものだったということなのでしょうか。今は甘酒が所々で売られていますが、それが名残なのでしょう。


千葉県銚子市(地名の語源)
銚子市にお聞きしたところ以下のように教えて下さいました。
1 利根川の川幅が広いにもかかわらず、河口が狭く、川の水が外洋に流れ出している状態が酒器の「銚子」の口から酒がつがれているさまに似ているところから起こったという説。

2 地形が鳥の嘴(くちばし)に似ていると見て「鳥嘴(ちょうし)」と書いたものが、いつしか「銚子」になったという説。 以上の定説があります。
鳥嘴」はちょっと苦しい感じがします。酒ファンとしては、1であってほしいですね。ただ、もし、この銚子が徳利の意味であるならば江戸時代、本来の銚子なら江戸以前の命名ということになるのでしょう。


どぶろく祭(HPから)
岐阜県宮村 水無(みなし)神社、静岡県福田町中野 白山神社、大分県西国東郡大田村大字石丸445 白髭田原神社、茨城県行方郡麻生町青沼地区 春日神社、長野県茅野市本町 御座石神社、三重県熊野市井戸町796 大森神社、東京都中央区築地 波除神社、香川県三豊郡豊中町笠田笠岡 宇賀神社、中央区日本橋小網町16-23小網稲荷神社、島根県平田市 松尾神社、大府市JR共和駅からバス(長草下車)徒歩2分天神社等(祭りだけで神社では造っていないところもあります。)まだまだありそうですね。 mail 


自衛隊の酒
自衛隊内部の購買部門は、防衛弘済会という組織が行っているようですが、そこでのみ売られている清酒があります。「尚武」という銘柄で、蔵元は新潟の菊水酒造です。アルミのワンカップの5本が、艦艇、戦車、ジェット機の絵入りのパッケージに入っています。市ヶ谷の自衛隊見学をすると手に入れることが出来ます。ここには、市ヶ谷のみで売られている、「市ヶ谷」という焼酎もあります。(記念館では三島由紀夫が扉につけたという刀の切り傷が見られます。)


禁酒法とカナダ
アメリカで、アルコールの製造・販売・流通を禁じる禁酒法が施行されたとき、隣国カナダではそうしたことはありませんでした。従って、当然の事ながら、酒はカナダからアメリカへ流入しました。カナダは明らかにアルコールがアメリカに密輸されていることが分かっていても建前上国内消費として禁止しませんでした。その結果、カナダ政府総歳入のなんと約20%が、アルコール関係の税金で占められたそうです。アメリカからの要請でそれを禁止したのは禁酒法が廃止される頃だったそうです。最近話題になった自転車に税金をかける税金も施行された場合同様の運命をたどったのでしょうか。


現在の神社の酒造り
御神酒(おみき)を醸造して神事を行っている神社は、全国で43社あるそうです。酒税法の関係で、かつては数多くあったであろう神社の酒造りはほとんど消えてしまったのでしょう。清酒の製造免許を得ているのは、出雲神社、伊勢神宮、莫越(なこし)神社(千葉県)の3社のみで、あとは酒税法上で「その他の雑酒」にあたるどぶろくだそうです。(神崎宣武「酒の日本文化」平成3年刊)古式を伝える神事で、どぶろくが造られるというのは昔の酒の形が反映されているのでしょう。伝統の伝承という意味で神社の酒造りの臨時免許ぐらい緩和しても良いように思うのですがどうでしょう。


禁酒地蔵-2
禁酒地蔵で検索してみたところ、2件ありました。
一つは、静岡県磐田郡豊田町の高さ2mあまりにも巨大なお地蔵さんで、最近は子供の成績が良くなったというご利益もあるそうです。豊田町のHPに地図があります。
もう一つは、埼玉県秩父市上山田 秩父札所第4番 金昌寺にあるお地蔵さんで、多くの石仏の中にあるようです。
多分、探せばかなり沢山の禁酒地蔵があるのではないかと思います。もし知っておいでの方は是非お教えください。 mail 


高等学校
受験校として有名な灘高です。この学校は昭和2年に灘中学校として創立されましたが、この創立は、酒蔵の出資によったものでした。その酒蔵は、白鶴、菊正宗の二つの加納家と、桜正宗の山邑家です。この時、加納家の親戚の、東京高等師範学校校長であり、講道館創始者でもある加納治五郎が顧問となりました。初代校長は加納治五郎の愛弟子・眞田範衞だったそうです。サッカーや野球のスポンサーになるばかりではない、企業の社会貢献の形がここにはあります。


八相狸(はっそうだぬき)
狸には八相があるのだそうで、それは、笠、通(かよい)、目、腹、顔、金袋、徳利、尾なのだそうです。たとえば、笠は「思わざるは悪事災難避けるため 用心常に身をまもる笠」、通は「世渡りは先ず信用が第一ぞ 活動常に四通八達」、ぶら下げた徳利は、「恵まれし飲食のみにこと足利(たり)て 徳はひそかに我につけん 」ということだそうです。道学的ですので江戸時代にいわれ出したことなのでしょう。狐よりは狸の方が徳利との組み合わせは良いように思えます。


酒造年度
酒類業界は、製造面に関しては酒造年度を使用し、税務署への製造等の申告や報告はこれで行います。BY(Brewery Year)ともいって、7月から6月までです。4月頃までにその年の製造が終わりますので この頃を切り替えにすれば実態にあった統計が出せるからです。ただし、以前は10月から9月まででした。一方、法人税等の会計分野は会計年度となります。これはFY(Fiscal Year) といって、4月から3月です。 さらにこのほかに暦年(CY、Calender Year、1月から12月)もありますので、なかなかややこしいものです。


添加アルコール
清酒への添加用アルコールは97〜98%位の度数の状態でタンクローリー車によって酒蔵に運び込まれます。このままでは危険なので、すぐに30%に割水されて貯蔵されます。このアルコールは桶買いなどと同じ未納税酒として非課税酒として扱われます。高濃度のアルコールですので、近火などがあると、税務署の職員が酒蔵にかけつけるということです。


内税か外税か
平成1年に消費税が導入されたときに、外税にするか内税にするかということは大きな問題でした。アルコール業界は、それまで酒税が定価の中に含まれた内税だったこと、消費者に税をあまり意識させないで払ってもらえるということ、担当官庁である大蔵省もその方向へもっていきたかったということもあって、出版業界などとともに、内税で出発しました。しかし、税率が変わるたびに定価を変えなければならない煩雑さから、流通業界が外税を選択したため、外税が主流となり、アルコール業界もそれに遅まきながら追随することとなりました。


最近の酒器
伝統的な朝顔型の磁器製の盃や漆塗りの木杯などの後に、ぐいのみや、グラスなどの時代が来てるようです。一方で、ワイングラスという酒器があります。このデザインは秀逸といって良いような気がします。これは数百年の時間の中でとぎすまされてきたといって良いでしょう。ぐいのみは、茶器という良き歴史がありましたので、かなりのレベルにはいっているようですが、酒のグラスはどうでしょう。こうした酒周辺のものも、歴史という時間の流れの中で磨かれていくもののようで、酒グラスなどもこれからが楽しみなもののように思われます。


袁枚(えんばい)の酒
中国1700年代の知識人袁枚の著作、「隋園食単(ずいえんしょくたん)」(隋園先生の食単:レシピといった意味)には、中国料理の基礎から、具体的な作り方まで300種類以上の素材と料理法が並んでいます。「茶酒の部」には、「私は生まれつき酒をたしなまない。」と始めますが、「『烏飯酒』を飲んで十六杯に至った。側の主人が大いに驚いて、もうお止めになってはと勧めた。しかし私は酔い倒れそうになりながらなお杯を手からはなすに忍びなかった。」(岩波文庫)とあります。おそらく黒かったであろうこの酒の美味を思いやるとともに、こういう人とはあまり飲みたくないなとも思います。


酒壺、酒甕
大伴旅人は万葉集で、「なかなかに 人とあらずば酒壺に 成りにてしかも 酒に染みなむ」と酒壺になることを願っています。中国では、三国時代、呉の鄭泉(ていせん)は、「百歳後、化して土となり、幸いに取られて酒壺とならば 実に我が心を得ん」とうたい、11世紀ペルシャのオマル・ハイヤームは、ルバイヤートで、「なんでけがれがあるこの酒甕(さかかめ)に? 杯にうつしてのんで、おれにものこせ、さあ若人よ、この旅路のはてで われわれが酒甕とならないうちに。」オマル・ハイヤームが一番さとっているように思えますがいかがでしょうか。


四段
酒の仕込みは三段仕込みといい、酒米を三回に分けて段々増やして添加していくことで、発酵の順調をはかっています。そして発酵が終わり、しぼる直前に別の桶で糖化した甘酒を添加することを、四段とか甘酒四段といいます。四段の糖化は、麹よりも酵素剤の使用が多いようです。この時使う酒米は、うるち米が一般的のようですがが、餅米を使うこともあるそうです。これによって、甘味をましたり、発酵の進みすぎによる辛さを調整します。


根岸鍵屋
安政3年開業の酒舗が戦後居酒屋に転換して今に続いているという歴史のある店です。お燗がいかにおいしいものであるかとことを初めて知りました。内田百閧ェ常連だったという店だそうです。百閧ェ自分で燗をしてみたが、うまくなかったということを何かの本で読んだことがあります。酒は、桜正宗、大関辛口、菊正宗で、正一合徳利のお燗酒という正統派です。鴨の焼き鳥、さらしくじら、かまぼこなどのつまみがあります。台東区根岸3-6-23-18、電話3872-2227です。道路拡張のために現在地に移転しており、旧建物は小金井市の江戸東京建物園に移設保存されているそうです。


古稀(七十歳のこと)
「人生七十 古来稀(まれ)なり」という杜甫の詩からできた言葉です。この詩は「曲江」といって、この句の前には「朝廷から帰って、毎日、春の着物を質に入れて、毎日曲江のあたりへいって酔いを尽くして帰る。飲み屋へのつけは当たり前で行く先々は借金だらけ。」という部分があり、この後に、「人生七十−」と続きます。死んだら借金は踏み倒しといった感じのようです。古希の持っているイメージとは大分違いますね。(朝回日日典春衣 毎到江頭尽酔帰 酒債尋常行処有 人生七十古来稀)


酒寿司
鹿児島の郷土料理で、ご飯に塩と酒をまぜてすし飯とし、具と交互に積んで軽く重石をして数時間発酵させて食べるというものだそうです。具には、エビ、タイ、赤貝、タコ等の海のものと、フキ、タケノコ、シイタケ、錦糸卵等を使用するのだそうです。昔、殿様の宴会の残り料理とご飯に酒をかけておいたら翌朝良い香りが出ていたということからできた料理といいます。酒は殺菌用と味付けということだったのでしょう。暖かいので、現在酒蔵のない鹿児島ですが、地酒(じしゅ)という、熊本のような灰を入れた酒だったようです。


風呂敷で1升瓶を2本包む
大きめな風呂敷を広げ、対角線上に、1升瓶の底を中心に向けて、10cm位離して2本寝かせます。これをくるくると巻いて、中央部分で折り曲げて、2本を立たせ、口の方の余った部分でしばります。なかなかしゃれた包み方で、そのまま先様に差し上げます。かつて外風呂で、脱いだ着物を包んだという風呂敷の新しい使い方なのでしょう。


酒の日
10月1日でです。新米が収穫されて、酒造りがはじまるので、酒屋正月といったからとか、酉(酒壺)が十二支の「とり」で、10番目だからだとかいうことで、清酒の中央会が定めたようです。酒蔵開放などの企画も初めはあったようですが、今はどんな話題のあることが行われているのでしょう。多分「○○の日」というのは、数千あるのではないでしょうか。酒の日などはそれでも早い方でしたからしかたないにしても、よくもこれだけ増えたものです。これほどになると、多いこと事態が面白いということでしょうか。



泡の呼び方はまだ色々あります。「ほうろく泡」は、表面に顔の映るほどの大きな泡のことだそうです。「ほおずき泡」は、ほおずきくらいの大きさの泡。「蟹(かに)泡」は、ぶくぶくとした細かい泡。、「雪泡」は、雪が積もったように高くなる泡。(童蒙酒造記)といった具合です。科学的な分析法のなかった時代、いかに泡の様子を見ながら発酵を管理していたかということがそ名前の多さから分かります。


都区内のドブロク祭り
中央区小網町にある小網神社では11月23日に新嘗祭(にいなめさい)が行われ、神前に供えられたご神酒であるドブロクが参拝者にふるまわれます。ただ、このドブロクは、神社ではなく、滋賀県の藤居酒造で造られたにごり酒(どぶろくではありません。)で、神主さんの話では、神餞田で収穫された米が原料となっているということです。多分昔は神社で造っていたのでしょうが、酒税法の問題や、都心でドブロクを造るほどの人手間がそろわなかったのでしょう。強運厄除けのススキのミミズクと共にどぶろくが頒けてもらえます。


「酔虎伝」
「わが愛する泉山三六先生、かつてのこと、野党をなだめるかたがた、議員食堂で大蔵委に一席設けたことがあった。酒豪家をもって自他共に許す泉山大蔵大臣は、いささか酔いが廻り、野党の山下春江、松下トシ代議士のご両人に抱きついてキッスした。−懲罰動議は即決。−大臣席をあっさりあけて世間をおどろかした。−これが世上の人気をふっとうさせ、次の参議院選には楽勝。女性軍は、いずれも敗退の憂き目をみた。」(「酒鑑」芝田晩成) 昭和23年の話だそうですが、今こんなことが起こったらどうなるでしょう。酔わないで水をかける人はいるようですが。


銚子
現在銚子といえば徳利の別名ですが、以前は違ったものでした。金属や木で作られた、酒を盃に注ぐ容器で、長い取っ手がついていて、ヒシャクのようなものでした。片口型と両口(もろくち)型があります。両口型の中を二つに分け、一方に毒酒を入れて首尾良く目的を達したなどという昔の話もあります。旧仮名遣いでは「てうし」と書きます。読めますか?地名の銚子も同じ字ですが何か関係あるのでしょうか。


酒の輪廻?
米の澱粉が分解されたブドウ糖が、酵母によって、ピルビン酸からアセトアルデヒドを経てアルコールに変化します。このアルコールを、人間が飲み、主に肝臓が、アセトアルデヒドを経て、水と炭酸ガスに分解します。この炭酸ガスと水を稲が養分として米を作りこれが−−と、なにやら輪廻の話になっていきます。また、アルコール生成と分解の過程で、途中に二日酔いの原因であるアセトアルデヒドができるということも何となく面白く感じられますね。


三〜四合連日飲酒者
「一〜二合飲酒者、三〜四合飲酒者、五合以上飲酒者に分けて−、一〜二合飲酒はOK、三〜四合飲酒者は一○年以上経つと内科医や神経内科医の厄介になり、五合以上飲酒者は早晩(早ければ一年以内に、多くは数年から一○年後に)精神科医の厄介になる可能性が大である−。」というのが、岩波新書、高須俊明「酒と健康」の結論です。三合〜四合ぐらいなら大丈夫だろうという辺りの人たちが、気をつけた法がよいでしょう。


小鼓
丹波の名醸蔵で、先代が西山泊雲という俳人で、虚子の門。忘れてしまいましたが、丹波の山を読んだ句(「山を切るすすき」といったものだったと思います。)は秀逸です。酒銘「小鼓」は虚子の命名とのこと。杜氏の産地でもあり、酒造りの条件は整っています。さらにこの蔵の酒はデザインが見事で、味ばかりでなく、見ることでも楽しめます。時々「小包」という人がいますが要注意。


酵母の伝播
フランスで、銘醸蔵のワイン酵母を「いただく」ために、ハンカチを使うふりをして樽や壁をそれでふいて酵母をつけるなどという話を聞きますが、清酒ではどうでしょうか。これは誠に簡単なようです。主には杜氏がそのメッセンジャーになっているようです。杜氏は、その出身地ごとに強い結びつきがあります。また一方、現在は以前と違って、同じ酒造地ばかりに勤めに行かなくなり、各地に散っていくようになりましたので、ある県で開発された酵母は、すぐに別の県の同系統の杜氏の蔵へ流れてしまうのだそうです。


赤い酒
最近の沖縄ブームで有名になった、チーズのような赤い豆腐がありますが、あの色のもとは、赤い麹です。この赤い麹の種類で、新潟県食品工業試験所が開発したのが「赤い酒」です。赤い麹をアルコール浸漬して赤い色素をとかしだして、もろみをしぼる前にそれを加えるのだそうです。お祝い用に多く使われているようですが、長く置くと褪色していって茶色っぽくなるので、早く飲むのがよいようです。最近は、赤い(ピンク)にごり酒も出てきています。


禁酒地蔵
藤寺として有名な、台東区根岸3-11-4にある円光寺の境内に、禁酒地蔵があります。樽に腰掛けて、大杯を左手に持ち、右足を樽のノミにのせた石像です。毎月二十五日が縁日ということで、お札もわけてもらえます。お札には、「一好酒仙霊神石像」「盃の外は長閑(のどか)な友もなし」と台石に刻まれているように刷られています。さらに、どうみても地蔵尊ではありませんので、多分作られたときと、現在の信仰の形態とは違っているのでしょう。それでも、禁酒の誓いをたてた方は一度お参りしたらいかがですか。手前にある石像は一代前のものだそうです。


最近の酒の傾向
誰でもお分かりの通り、最近の清酒の味は、端麗型か、吟醸型です。以前から、「水のようなさわりのない」「かおりの良い」酒が求められてきましたから、ある意味で現在はその頂点辺りに来ているといって良いのでしょう。しかし、それだけでよいのでしょうか。酒の味の傾向は、食品一般でも言えることで、さっぱり型や、香り型はすでにぼつぼつになってきているのではないでしょうか。酒蔵の次のチャレンジを期待したく思います。越の寒梅も、世に逆らって今の味を作ってきたのですから。


もったいない酒燗器
中国のお燗器で、贅沢というかもったいないものがあります。銅製で、「やかん」部分と、「火鉢」部分とに分かれており、下方の「火鉢」部分には受け皿があり、ここに暖める蒸留酒(火酒)と同じものを入れてそれを火力源にします。発想は世紀末的ですが、バブル時代ならはやりそうな趣向です。暖めて酒を飲むことが当たり前な日本ですが、海外では珍しいと言われています。それでも、このように暖めて飲む飲酒法は探すと結構ありそうです。


麻酔薬としての酒
アルコールはあまりききの良くない麻酔薬です。酔っぱらって大騒ぎするのになぜ麻酔なのかとまず思います。脳は、人間の認識や判断等の「理性」をつかさどる部分(大脳新皮質)と、不随意筋や欲望等の「本能」をつかさどる部分(大脳旧皮質)があります。アルコールは、前者をコントロールしている部分(脳幹網様体)をまず麻酔させます。それによって、ふだん「抑圧」されていた部分が開放されて騒々しくなるのです。それを過ぎると、麻酔の効果が出てきます。つまり、ききの悪い麻酔薬なのだそうです。


変わり徳利
鳩燗、鴨燗、どちらも、形が何となく鳩や鴨に似ていますが、鴨は少々生臭い感じがあります。鶯の徳利は、注ぐと鶯の鳴き声がするというもの、飲むと鳴る鶯の盃もあります。イカ徳利は干したイカで作った徳利で、イカの盃付でおつまみ兼です。カラカラは、とって付きの土瓶型燗徳利。船徳利は下ぶくれな安定感のある徳利で、必ずしも船上で飲んだというものではないでしょう。抱瓶(ダチビン)は最近の泡盛人気で有名になったピクニックスタイルの容器です。


月の桂
伏見の銘醸蔵です。いち早くにごり酒を、素朴なものから洗練された飲み物に変えたりもしました。東京で、にごり酒とフランス料理を楽しむ会なども開いていました。この蔵の当主は、文化人で、「琥珀光」などというしゃれた名前を古酒に付けたり、多分、清酒の古文献では最大のコレクターだと思います。人との関係を大事にして、年賀状はすべて手書きで、そのため、大変早くから書き始めなければ間に合わないと言う話も聞いたことがあります。


養生訓(貝原益軒)4(焼酎の毒消し)
「緑豆(ぶんどう)粉、砂糖、葛粉、塩、紫雪など、皆冷水にてのむべし。温湯をいむ」とあります。蒸留酒は、効き方が強いので、識者には嫌われたようで、イギリスでも、風刺画で「ジン横町」の「のんべい」とビール飲酒の豊かさを対比させたりしています。この解毒法は、要するに二日酔い直しということなのでしょうが、効果のほどは「?」でしょう。「温湯はいむ」は、焼酎が「大熱」なので、反対の「冷」で中和させようという発想なのでしょう。有名な養生訓ですが、酒の部分は文庫本で3ページほどの分量です。


養生訓(貝原益軒)3(良い酒、悪い酒)
いかにも当時の説らしいものです。冷飲・熱飲はよくなく、温酒がよい。「酒を飲むは、その温気をかりて、陽気を助け、食滞をめぐらさんがため也」。灰を入れた(酸を中和した)酒は毒がある。酸味のある酒も飲むべきでない。濁酒は、脾胃に滞り、気をふさぐ。焼酎は大毒がある。多く飲むべきでない。火をつけて燃えやすいところをみて、大熱なる事を知るべきである。−−−生酒、にごり酒、焼酎にはかわいそうな説です。


養生訓(貝原益軒)2(主人と客)
もし客の酒量を知らない場合は、少し強いて酒を勧めてみて、もしその人が辞して飲まなかったらそこでやめて後はその人の飲み方に任せよとか、逆に客は、主人が強いなくてもいつもよりは多めに飲んで酔うのがよいとか、最近のノウハウものそっくりの文体です。そして、「主人は酒をみだりに強いず。客は酒を辞せず。よき程に飲み酔いて、よろこびを合わせて楽しめるこそ、これ宜しかるべし」と結んでいます。


遊びの盃
酒を入れるとさいころが浮いてきて、その目の歌の書いてある側面を見て歌う(浮賽歌謡杯、醸造博物館))。六角の陶製のコマを回し、倒れた面に書いてある盃(大小のべく杯)を飲み干す(醸造博物館)。枡形の組み盃が3〜5個あり、さいころを振って出た目の杯で飲む(数の大きな目が大きな盃となります。ほかは踊るとか歌うとか。)。木製の六角こまを回し、倒れた面に書かれた和歌の杯で飲むが、その盃には2杯、3杯等と書かれている。いずれも実在のものですが、考えればもっと色々楽しいものが出来そうです。


また、ドライ
禁酒法を制定しようとしていた頃のアメリカでは、推進派はドライ派でした。しかし、ドライ派の中にも色々な主張があり、絶対禁酒派は「ボーン・ドライ」と呼ばれました。一方、営利目的の酒類の製造・販売・搬送は禁止されるべきだが、自宅で醸造する酒類は良いだろうとする人たちは、「モイスト」派と呼ばれました。反対派は、ウェット派です。それにしても、米国の禁酒法が、製造・販売・搬送を禁止したもので、飲むことを禁じたものでないことは知りませんでした。つまり、禁止法施行前に購入して自宅にある酒を、本人やお客がいくら飲んても違法でないということです。(岡本勝「禁酒法」無理な法律が制定されたとき、脱法行為はどのように行われるのかよく分かる本です。)


養生訓
貝原益軒の養生訓には、「酒は天の美禄なり。少し飲めば陽気を助け、血気をやわらげ、食気をめぐらし、愁(うれ)いを去り、興を発して甚(はなは)だ人に益あり。多くのめば、又よく人を害する事、酒に過たる物なし。」とあり、飲酒の中庸を説いています。もっとも、「凡(およ)そ酒は、ただ朝夕の飯後にのむべし。」と、朝も食事後なら飲んで良いとしています。おおらかな江戸時代の生活習慣を思うべきなのでしょうか。


醸造博物館
社団法人東京農業大学醸造振興会の運営になる博物館で、農大の中にあります。醸造学課の創設者である住江金之の蒐集した酒に関する資料を中心に、その後寄贈された品々が所狭しと並んでいます。酒器、酒造りの道具、宮水資料、浮世絵、書籍等々ですが、例の慶安元年に行われた酒飲み大会である「水鳥記」のコピーと、その際使われた「大蛇丸盃」「蜂龍の盃」も展示されています。行かれる方は03-3428-1866へ連絡してからが良いと思います。
 これは、旧醸造博物館の話です。現在は自由に見ることのできる東京農業大学「食と農」の博物館の一部として公開されています。住所は世田谷区上用賀2-4-28です。


アルコール依存
現在200万人を超えると言われているアルコール依存症は、予備軍を含めて今後かなりのスピードで増加してゆくことが予想されます。社会的ストレスの増加、精神的にもろくまた、弱い人たちの増加、仕事のなくなる高齢者の増加、アルコール販売の自由化等々。アルコールに弱い体質の多い日本人ですので、今までのようなアルコール浸りになるというものとは違った形のアルコール依存症も出てくるような気もします。いずれにせよ本人の意思と、家庭・社会の理解がどうしても必要になるのでしょう。それにつけてもタバコの二の舞にならないことを願っています。


酒の小売り免許
今までは、高額な酒税を保全するということで、過当競争を免許制度で抑制してきました。しかし、最近は規制緩和の流れの中で、酒の免許の緩和が進んでおり、現在は免許制度撤廃の寸前まで来ています。消費税が導入されると、あっというまに、酒税は間接税の主座をおり、その役割は大幅に低下しましたし、アメリカからの規制緩和の要求と、国内の経済制度の自由化の要求は、免許制度をなくしつつあります。この後に続くのは、アルコール依存の問題で、これをどうするかということは大きな社会問題となることでしょう。


きき酒の楽しみ−私の場合−
私のようなしろうとは、すぐ鼻も舌も馬鹿になってしまいますので、初めの一口の印象を一番大事にするようにしています。次に、飲むときこの味をどう表現したらよいかなと思いながら飲むようにしています。そして、なるべく、すでに知っている酒と比べながら飲むようにします。比べながら飲むと、味の違いが何となく分かります。さらに、味の基本を知るようにします。そのキーワードは、香り、酸味、古酒臭、純米や山廃等の特徴などです。さらにできるだけ最高級といわれる味を知ることです。ただ、こうしたことは飲み初めだけにしましょう。


清酒の幅
新酒と古酒、生酒と火入れ酒、多酸酒と少酸酒、一回醸造と「しおり酒」(貴醸酒−酒を仕込み水として使用した酒−等)、吟醸酒と普通醸造酒、透明な酒と赤や黄色系の酒、アルコール濃度の濃い酒と薄い酒、甘い酒と甘くない酒、透明な酒とにごった酒、常温の酒と冷温の酒等々。こう並べてくると、清酒の味の範囲は、普段思っている以上に広いものです。あまり単純な清酒のイメージではなく、広い味の世界の中から、自分の趣味や、飲む状況に応じた清酒の選択をすることは楽しいものです。


最古の酒
日本で一番古い酒は、長野県の大沢酒造に保管されていた元禄二年(一六八九)の酒です。「香気ふくいくとして、たちまち室に満ち」と、坂口謹一郎が語っています。しかしもっと古いものとなるとやはり中国のようで、紀元前3世紀の中山(ちゅうざん)国の王墓から1977年に発掘された青銅壺に入っていたものだそうで、アルコールはほとんど蒸発してしまったものの、酸が残っており、酒と判断されたのだそうです。(秋山裕一「日本酒」)壺に残ったかすから、酒らしいものはまだ他にもあるようですが、今後の発見が楽しみです。


きじ酒の再現と試飲結果

東京農大で雉肉の凍結研究をしておいでの三嶋 哲さんが、雉酒の再現をされました。その結果は以下の通りです。
1. 同じ燗酒とは思えないほどの「まろみ」と「こく」がでました。
 2. 香りは、ほのかな香りが立ち、平安の優雅な気品を思わせる印象を受けました。
 3. 色は、淡い麦秋をイメージする色彩を出していました。コンソメスープと出汁の中間を想像して下さい。
以上です。雉の調理からスタートし、濃度と温度との戦いでした。酒を楽しむというより、食品製造工学と食品化学のお勉強をした3日間でした。」大変だったかもしれませんが、さぞかし楽しい三日間だったでしょう。


仏掌柑(ぶっしょうかん)
仏手柑ともいう、不思議な形をしたミカンの一種の柑橘類です。まるで手のような形で、どうみてもミカンには見えません。仏様の手と見たのは面白いと思います。これを少量の氷砂糖と共に焼酎に漬けて飲むと芳香が楽しめますし、薬酒の一種のようです。この仏掌柑は、柑橘系の香りが大変強く、かなり遠くからでも分かるほどだそうです。中国から渡来したもののようで、暖地で栽培されているようです。


酔っぱらい石をも動かす
「須須許理(すすこり、百済からの渡来人で醸造の技術を伝えた))が 醸(か)みし御酒(みき)に 我酔ひにけり」の歌は有名ですが、この後に、「御杖(みつえ)もちて 大坂の道の中なる 大石を打ち給ひしかば その石走り避きき かれ(それゆえ)ことわざに 『堅石(かたいし)も 酔人を避く』という」(古事記)と続きます。石でさえ酔っぱらいから逃げるということです。


法酒
韓国慶尚北道にある,かつての新羅の首都であった慶州で醸造される法酒は、米の酒です。ただし、麹は中国流の小麦粉を練って固めた「餅麹(へいきく)」で、米は餅米です。発酵時に菊の花や松葉を入れるのだそうですから、全体としては中国流の醸造法です。飲んでみると、私たちの舌になじんだ酒の味で、うまい古酒そっくりです。「ポッチュ」と読みます。


白瀧
新潟県を代表する名酒で、上善如水の酒蔵の銘柄です。軟らかい、水のようなタイプの酒の典型といって良いでしょう。ただし、「水の如き」酒を飲みたいのなら白滝の普通酒の方をおすすめします。あまりの売り上げ増で、対増産体制が大変だったようですが、最近はようやく段々普通の人にも飲めるようになってきたようです。蔵元は行動的経営学者とでもいった、理論と蔵元の実践を両立させている方のようです。


きじ酒

雉肉を塩で焼いて熱燗をかけて飲むのだそうです。似たような物には、骨酒、ひれ酒、まむし酒(焼いたまむし)、鳥骨酒(焼いた小鳥)、イモリの黒酒(黒く焼いたイモリ)、蝉酒(こんがり焼いた蝉)などがあるそうです(小泉武夫)。元日に宮中で飲むめでたい酒でもあるようです。ただ、焼いて薄醤油をつけた豆腐にかけた熱燗を飲むというものも同じように言ったようですので、本物の雉肉に酒をかけたものばかりを雉酒というのではないようです。



小さな蔵の酒の味わい方
御神酒酒屋といわれる1000石くらいの小さな蔵は6klタンクで50本くらいの製造です。この本数で、吟醸、純米、本醸造等々と造るのですから、それぞれは誠にわずかな数量です。そうすると、調合ごとに味が変わります。また、季節によっても味は変わります。さらに年度によっても当然違ってきます。実はそれが楽しいのです。同じ蔵の、微妙に違ってくる酒の味を、ああこれは、こうだからなんだなと感じながら飲むのです。去年と味が違うなどとおこっているのは「しろうと」です。


1升桝
豊臣秀吉が京都で使用されていた京桝(4寸9分−約14.8cm−四方、深さ2寸7分−約8.1cm-、容積1.804l)を公認し、江戸幕府も、寛文9年(1669)、4代家綱のとき京枡のみを公定枡としました。5合以上の穀物枡は弦鉄が枡の対角線上につけてあります。したがって□(四角)に対角線を書いて「ます」と読ませるのは、穀物枡です。昭和41年に尺貫法が禁止となって、1升は1.8lとなりましたが、もうぼつぼつ禁止は解いても良いような気がします。


1升ビンの結束
まず、包装した1升ビンを2本並べて、はじめに首の部分を紐で何重かにくくって真ん中で締めますが、ビンの互いの底が1-2cm離れる程度にしておます。次ぎに、底から5cmくらいのところで首と同じように何重かにくくった後、ビンの間に紐を通して十分に締めて出来上がりです。先にを縛ってももちろんできます。
のし紙はこのうえに貼ります。


鳥の造った酒
「天智天皇の時代、駿河国に竹取の翁がいて、竹を愛でていた。翁が竹を切ると、根本に一節が残った。美しい色だった。鳥が米を口に含んで飛んできて、節の中へ入れた。そこに雨露が入り、酒となった。味は良かった。」という、話があります。竹取物語の系列になるもののようですし、舌切りすずめなどのおとぎ話の系列でもあるように思えますが、全国でこうした話を集めていけば、昔の酒のことに関するヒントが見つかるかもしれませんね。


中国の火入れ
日本では西洋より300年も前に火入れが行われていたということが強調されますが、「日本の歴史と文化の父親」である中国ではもっと古いそうです。12世紀の中国の「北山酒経」には、「煮酒」という「煮沸消毒」のことが書かれているそうです。85℃位の温度らしいそうで、今の紹興酒と似たような殺菌温度なのだそうです。(秋山裕一「日本酒」 この本は発酵化学などのこともわかりやすく書かれた入門書です。)そうすると、日本よりさらに400年以上前ということになります。ただ、「低温殺菌法」(清酒は約60℃)ということになると、中国は温度が少し高すぎるかもしれません。


盃の原料
色々な盃があります。イカ徳利に付属した、イカ製の盃、皮を漆でかためた革製の盃、ミカンの皮でつくった盃(これは、広島でつくられていたように思います。ただし、ミカンの香りはしません。)節のある竹に酒を入れてお燗した「かっぽ酒」を飲む竹製の盃、杉の木でつくった木香が楽しい杉製くりぬき盃や桝、瓢箪の盃、何もないときは、折り紙でつくる紙製盃、どくろ盃等々、酒の好きな人はなんでも盃にしてしまいます。蓮の葉に酒を注ぐと葉柄を通って酒が出てきてそれを飲むと美味しいという象鼻杯なるものもあるそうです。これはべく杯の一種でしょうか。


吟醸米の洗浄
吟醸酒の酒米は50%以上精米してしまいますので、ビーズのような丸い小さな粒となってしまっています。酒米は元々大粒(たいりゅう)なのですが、これだけけずると、普通の米よりはるかに小さくなってしまいます。一方、軟質米でもありますので、大変吸水性があります。そこで、吟醸米の洗浄は、あっという間にすませなければなりません。小さな蔵では、10-20kgくらいはいる袋に酒米を入れ、半切りに入れて、洗米はさっと行い、その後の浸漬(しんせき)は約30秒。これが10秒違ってもいけないのだそうです。


エンプティーカロリー
アルコールは飲むと、口、胃、腸からどんどん吸収され、血中に入り、最後に肝臓で炭酸ガスと水に分解されます。肝臓のアルコール分解速度は体重70kgの人で1時間に7g、清酒ですと3勺位です。このときアルコールは体内に蓄積されることはなく、ちょうど燃えてなくなってしまうと同じイメージで、カロリー供給にはなりますが体重の増加にはならないで、消費されてしまいます。そのためアルコールはエンプティーカロリーといいわれます。ただ、清酒の中にある2〜3%の糖分(清酒1合で20kcal位です。)や、食欲が出て一緒に食べる食物は当然肥満の原因になります。


久保田
新潟を代表する朝日山の蔵元が醸造している名酒で、杜氏の名前から酒名をとったとか。この酒の大きな特徴は、ブレインの個性的なというか普通の酒蔵にはなかなかできない販売戦略にそって販路を展開していったことで、地域で積極的な酒販店を選んで自信を持って販売してもらうシステムを作り上げたということでしょう。酒販店に自費で総会に参加してもらったり、酒米作りに参加を募ったりといったこともあるそうです。サントリーが短期間、「酒は久保田、ビールはサントリー」とやったのには驚きました。


福沢諭吉の酒
子どもの頃、月代(さかやき)を剃るときに痛がるので母親が酒を与えたという話から、二十歳代の大酒のみの時代、ただし、喧嘩口論は一切せず、そして、健康に悪いことを悟り、朝と昼の酒をやめて、夜の酒も、34〜5歳で節酒に成功、という節酒の教科書は「福翁自伝」です。通いの貧乏徳利を製薬用に利用して酒屋に返さないので、その後酒を売ってくれなくなったという挿話もあります。


半切り
直径2mくらいで、深さ30-40cmくらいの浅い桶です。桶を半分に切ったという意味です。しかし、一般的な30石桶は、直径は同じくらいですが、高さは2mくらい、壺代は深さと直径が1m強ですから、どちらの1/2でもありあません。かつては、半切りの高さの倍くらいの桶があったのでしょうか。広くて浅いので、山卸しという酒母をすりつぶす作業を行ったり、「限定吸水」をさせる吟醸米の洗浄兼吸水を行ったり、また、一般の酒米の洗浄や、熱湯を入れて道具を洗ったりするときに使う、多用途に使用される酒造りの道具です。


未納税移入、移出
酒税法上の言葉です。「蔵出し税」である酒は、酒蔵を出る時点で課税されます。(酒蔵内で、しぼりたてをきき酒する場合も酒税がかかりますので、少し修正しなければなりませんが。)大手が小さな蔵から桶買いするときであるとか(最近は少なくなっています。)、酒が足りなくなってしまい、しのぎのために買う場合とか、要するに、蔵元同士が酒を売買するときには、申告をすれば酒税がかかりません。これを未納税移出とか移入とかいいます。


下戸の盃
直径2cmくらいのミニ盃があります。どうついでも数ccしか入らない、正に下戸専用です。お酌の強要の多い宴会にはこれを持参すると、話題たっぷりで、しかも自衛もできます。以前三越にあったような気がしますが、今あるかどうか。各地にいる陶芸家に頼んで、自分なりの小盃を造ってもらうのも楽しいものではないでしょうか。どうせ造ってもらうなら、大きい盃の方がよいという人の方が多いでしょうね。


酒色々
灰を入れて酸を中和させながら造る濃厚な肥後赤酒、仕込み水代わりに酒で仕込む貴醸酒、赤い麹を使って造る新潟県で開発された赤い酒、玄米で醸造したかなり酸味のあるワインのよう酒、ワイン酵母を使って発酵させた酒、にごり部分の少ない発泡性のにごり酒であるとか、糠を発酵させて蒸留したアルコールを添加した「純米(じゅんこめ)清酒」、酵素剤を多用して麹のくどさを少なくしたさっぱり型の純米酒、仕込み水をアルカリ化したアルカリ清酒、糠を糖化させてもろみに添加する清酒・・・等々


調合
出来上がった酒は、タンク1本1本皆味が違います。そこで、瓶詰めの時には、甘辛、酸度、熟度等を考えて、一年を通して味があまり変わらないように何本かのタンクの酒を調合します。新酒と古酒の調合にも大変気を使います。一つの蔵から出てくる同じ名前の酒が飲むたびに違ってはいけませんので、蔵元は、なるべく同じ味になるよう努力しています。しかし、小さい蔵ほどそれが難しいことは考えてみれば当たり前なことです。この辺も分かりながら小さい蔵の酒は味わうのが面白いのです。



もろみの泡は、日々に変わってゆきます。筋泡、水泡、岩泡、高泡、引き泡、落ち泡、玉泡、チリメン泡といった風に推移して行きます。ワインのようにシャーシャーという音とともに表面に泡が出ているだけという発酵の様子とは全く違います。発酵の進行に応じて泡の形が変わるので、杜氏はその様子を見て、発酵の可否を判断します。夜の酒蔵は、「ふつふつ」とでもいった、ワインとはまた違ったゆっくりとした発酵の音が楽しめます。


破精(はぜ)込み
麹米に麹菌が繁殖するとき、米の周囲に繁殖するのではなく、米の中へ食い込んで行くことをいいます。麹室を高温にして相対的に乾燥させると、米の表面は乾きますので、湿気を求めて麹菌は米の内部へと菌糸をのばします。こうした状態を「突き破精」とか「食い込みがよい」とかいいます。吟醸酒は特にこうしたつくりかたをします。表面一杯に菌糸が広がった麹を塗り破精といって嫌います。もっとも、酒母は多少「老ね麹」型にします。


ビン
現在、保存という点では、ビンがもっともすぐれたものだと思いわれます。ワインにしても、1800年代のものがあるのも、ビン貯蔵だからできることです。紙パックの清酒もありますが、内側にコーティングされているポリエチレンフィルムは、1年くらいでにおいが酒に移ります。ビンは、リサイクルという点でもすぐれた容器なのですが、重いとか割れやすいということで使用割合が減少してゆくのは残念なことです。


酒を煮る
奈良の興福寺に多門院があります。ここの記録文書である多門院日記(1478-1617)の永禄12年(1569)のところに「酒 ニサセ」と、火入れを行っている記述があります。一方、西洋でワインの火落ち対策として、パスツリゼーションといわれる、低温殺菌法をパスツールが発見したのが、1865年のこと。これを知った明治初期の英国人お雇い学者はびっくりしたそうです。だた、日本では、なぜ火入れが良いのかという理屈は分かっていませんでした。


酵母と公害
酵母は自分が生きるためにアルコールを生産します。しかし、アルコールは細菌にとっては「毒」です。殺菌のためにアルコール消毒が行われるのですから当然なことです。酵母はほかの細菌と比べるとアルコールに対する耐性は大きいのですが、それでもアルコール濃度が高くなると生息数は減少していきます。人間が公害で滅びていくようなものです。活発な発酵期に1ccあたり1〜3億いた酵母は、発酵末期にはその1/10位になってしまいます。


松尾神社
酒の代表的神様です。ここの裏山に湧き出る御神水でつくると良酒ができるということで、今でも酒蔵が運んでいくということです。元々は、その裏山が御神体だったようですが、祭神は、大山咋命(おおやまくいのみこと)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)です。この神社の酒との関わりは、この神社と強いつながりのあったいわゆる帰化人であり、大きな勢力を持った秦(はた)氏一族でした。秦氏は多分、大陸から当時高度な酒造りを伝えたのでしょう。 神格変革


清酒の種類
原料の面でいうと、3種類です。@純米酒 Aアル添(アルコール添加)酒 Bアルコール+α添加酒。Aは、本醸造酒(アル添量が少ない)と、本醸造以上にアル添の多いもの(もちろん上限はあります)。Bは、いわゆる三増酒(3倍醸造酒−アルコール、糖類、アミノ酸、こはく酸等を入れた30%の調味液をもろみに添加してしぼったもの。発酵したアルコールの3倍量になるので命名。)やその他特殊な酒があります。一方、吟醸酒、にごり酒、原酒、生酒等々ありますが、これはまた別な分類で、これらのそれぞれに理屈上は@ABがあります。


曽根荒助
醸造試験場が農商務省の下部組織として設置されたのは明治35年です。それ以降、清酒醸造が西洋科学で明らかにされてゆき、経験則からのみ行われてきた醸造方法が合理化されたり、その反対に経験則の合理性が再認識されたりしました。その創立者で初代場長が曽根荒助でした。神谷伝兵衛の葡萄園で出された明治33年醸造というワインを「どうも34年ものらしい。」と間違いをただした(住江金之「日本の酒」)という逸話を持った人物です。


火中の酒宴
昔の武士は「肝」を磨いていたという話の一つです。「近火にあっていよいよ立ち退かねばならぬ場合には、家中一同広間に厳然と坐り、御膳所から出てくる膳に向かって盃を挙げ、心静かに一献二献傾けてから悠々と立ち退く」という土佐の元藩士で明治になって俳句の宗匠になった山内千崖の話が鶯亭金升の「明治のおもかげ」にあります。「食わねど高楊枝」の作法は色々な形であったということでしょうが、今これは見直しても良いのでは。


「燗」「酵母」
燗という字は国字です。暖めるという意味の「火」偏と「間」を合わせた字ですが、なぜ「間」なのかというと、「冷と熱」の間だからだとか、重陽の節会からの寒冷期の「間」にすることだからとかいわれていますが、どんなものなのでしょう。「酵母」は明治以降につくられた言葉だと思います。これは誰がつくったのでしょうか。「酉元」(もと)も国字ですが、比較的新しいのではないでしょうか。これも誰がつくったのでしょう。案外当たり前のことが分からないものです。


石榴鼻(ざくろばな)
ピエロの丸い赤い鼻、クリスマスソング赤鼻のトナカイの赤鼻、そして多分、芥川龍之介の「鼻」も、酒飲みのシンボルである石榴鼻です。酒好きに往々にして見られる一種の病気のようですが(もちろん酒好き以外にもあります。)、どの場合も物笑いの対象になっているようで、かわいそうな気がします。石榴を切ったときに見える果肉と種子の様子が似ているのでつけられた名前のようです。医学用語では、酒「査皮」鼻(しゅさび)というようですが、この方がストレートです。


贈る盃
かつては、盃(おもに朝顔型の薄手のものです。)は記念の品として色々な機会に贈られていました。会社の創業記念、個人の受賞記念、日赤の総会記念(現在は献血の回数によっても配っていいるようです。)、喜寿や白寿の記念、軍隊の除隊記念等々です。以前、大きな瀬戸物屋では、店に小さな窯をもっており、これで文字等を焼き付けて需要にこたえていたようです。骨董屋でもそれほど高くなく、普通の人でも蒐集できるものの一つです。


お流れちょうだい
以前の宴会では必ず「盃洗」がおかれていました。盃を洗う陶製や木製の器です。目上の人に対して、その人の飲んでいた盃を目下の人がいただいて、その盃に酒をついでもらって飲むという習慣を「お流れちょうだい」といいます。その時、自分が飲んだ盃を、目上の人に返すときに、洗って返すのが「杯洗」です。儒教道徳が底にあるのでしょう。土佐では、これが逆で、目下の下が目上の人にすすめるのが普通なのだそうで、風土の多様性を感じさせます。


コウジブタ(麹蓋)
初日は「床(とこ)」という台の上で、保温布に覆われた中、麹菌は酒米に繁殖してゆきます。翌日は、約1升はいる「コウジブタ」という杉材でできた、深さ6-7cmの蓋なしの箱に盛り込み、1日かけて麹菌をさらに増殖させます。このとき、室内の温度が上下で違うため、「仕事」という麹を撹拌する作業のたびに、コウジブタを何回も積み替えます。このコウジブタは鉄の釘を使いません。最近は、もっと大きな箱や、手作業を必要としない機械造りになりつつあります。このコウジブタは、懐石料理のお盆になったりしています。


こしき
酒米を蒸かす道具で、胴ともいいます。以前は、桶のように杉材でつくり、冷えないように周囲に茣蓙を、さらに縄でしっかり巻きました、今はアルミ製や、もっと色々な蒸かし器ができています。釜の上にのせて、底の中央にある穴から蒸気を吹き上げます。その吹上口に置いて蒸気を均一に出させるのが「こま」。この蒸気道の形には杜氏の考えが反映されました。こしきには、マニラ麻を敷き、もろみ、酒母、麹の順序で酒米を張り込み、「乾燥蒸気」という高温蒸気で蒸かします。


酒と竹
アジアンエージで竹に脚光が浴びていますが、酒と竹は昔から切り離せません。桶を締めるタガと、杉の材をつなぐ釘が竹で、これがあったから桶ができたといっても言い過ぎではありません。道具でも、ささら(洗浄用)、アワケシ(かくはん用も)、かい棒の棒の部分、洗米用、しぼり用のザル等々。また、鏡開きの際のヒシャクや、徳利としてお燗をつける「かっぽ酒」も竹です。酒の別名が竹葉で、中国に語源があるようですから、この辺からも清酒のアジアとのつながりが感じられます。


釜の役割
3-4t水のはいる酒蔵の釜は、色々な役目を果たしています。まずは、酒米の蒸かし作業です。映像でよく出る酒蔵の代表的風景の一つです。そのほかに、使用した酒造器具の洗浄と殺菌と、火入れ作業(釜に蛇管という管を沈めてその中を酒を流して加熱殺菌する。)があります。さらに、蔵人の風呂に残ったお湯を使うという蔵もあります。和釜の保温能力はなかなかのもので、朝わかして夕方使う風呂の湯は、うめないとはいれないそうです。


大石内蔵助愛翫の盃
周囲がかなり欠けた朱塗りの径20cm位の杯に、木札とそれを眺める男性が描かれています。木札には、「一 喧嘩口論無用 一 下に置くべからず 一 志(し)たむべからず 一 おさへ申す間敷(まじき)事 尤も相手によるべし 一 すけ申す間敷事 但し女はくるしからず 」と書かれ、裏には良雄と書かれているそうです。「酒訓五戒」というのだそうですが、なかなか難しい戒めです。泉岳寺義士館にあります。ここには、「愛翫の瓢」もありますが、これは何だかよく分かりません。ちなみに「したむ」はたらすといった意味です。


2階建ての酒蔵
多くの酒蔵は2階建てになっています。その大きな理由は、2階へ麹室や酒母室をもってゆき、1階を醪の仕込み室にするという、狭い敷地を合理的に使用して蔵を立体的に利用するということによります。麹と酒母に使う酒米はそう多くないので、2階に部屋をとり、運びあげる苦労を減らします。乾燥の必要な麹室は2階の方がよかったのでしょう。1階は、醪の大桶が並びますので、普通の蔵の2階分くらいになります。ですから、2階といっても酒蔵は3階分くらいの高さがあります。また、2階があるために1階が涼しくなり、夏の清酒の熟成を順調にするようです。


井戸さらえ
酒の味を左右する水ですが、毎年酒造りがはじまるときに、神経を使う杜氏は、井戸を洗浄します。周囲の石垣や、底に敷かれた玉石も一つ一つ洗って、井戸を清浄なものにします。多くの酒蔵では、正月に井戸に注連縄を張ったり、松尾神社の祭礼には祝詞をあげます。神主さんも井戸用の祝詞を用意しているようです。


菰樽(こもだる)
菰樽は下膨れの安定感のある形をしており、鏡開きの時などは正に一幅の絵となります。しかし、裸の樽を見ると、底の方が細くなる形をしています。角樽にせよ、一般の大桶にせよ、桶や樽は底の方が細くなっています。ところが、菰を巻くとそれが逆になるのです。つまり、菰を巻くとき、樽の下方のノミをつけるあたりに藁を巻いて、その上に菰をかけるのです。このあたりの、美意識とでもいうのですか、なるほどと思わずにはおれません。


酒桶の後半生
昭和30年代に清酒業界は、杉桶からホーロー引きの鉄タンクに移行しました。杉の30石桶は大きなもので、しかも沢山ありますので、酒蔵でも置き場がありませんので、このときほとんどの桶はこわされて姿を消しました。僅かに残ったものは、その後、酒蔵の材木として使われていましたが、逆さにしてお茶室に使われることが多くなりました。形も狭さもいかにもむいていると行った感じがします。そうするとへそまがりがでてきます。ついに酒樽の便所まで登場したそうです(これはこれで面白いのですが)。


土蔵の酒蔵
多くの酒蔵は伝統的な土蔵造りです。酒蔵の土壁は20〜30cm位の厚さがあります。往々にして100坪はある大きな建物を支えるには、それくらいの厚さが必要なのでしょう。それと共にこの厚さは断熱性に大きな役割を果たしています。夏の暑い時期に酒蔵はひんやりとしており、酒を熟成させるのにもってこいの環境となっています。また逆に、寒冷地の酒蔵で、外気が寒すぎるときには冷え込みの心配があるのですが、これも土壁が役立ち、僅かな暖房で蔵内の温度が保たれます。


ため
「ため」とも、「試し桶」ともいいます。なぜ「ためし」なのか分かりませんが、ちょうど1斗入る、取っ手付きの桶です。杉製ですので大変軽く、しかも、熱湯を運ぶ機会が多いのですが、熱が通らないので、熱くない大変便利な小桶です。熱湯は、桶を洗浄して殺菌するために運ぶのです。肩に底をのせて取っ手をつかんで蔵人が「ため」を運ぶ姿は酒蔵の風物詩とでもいったものです。現在の「ため」はアルミ製やプラスチック製です。


百日もん
酒造りの蔵人のことです。農閑期の寒い時期に出稼ぎの人達によって酒造りが行われるようになってから出来た言葉なのでしょうが、現在でもちょうど同じくらいの日数です。現在は、大体11月から4月までの6ヶ月間で100数十日の期間です。実はこれは、失業保険がもらえるためというところもあり、短期特例という特別な制度も設けられています。これで農家の仕事と酒造りが今後もうまく結びついていくと良いのですが。


生(き)もとの中の細菌
昔は一般的であった酒母である生もとでは、初め、硝酸還元菌を繁殖させて、亜硝酸を作ります。亜硝酸は、殺菌作用があるのですが、その中で繁殖できる乳酸菌を次に増殖させます。したがって乳酸が蓄積されますが、これも雑菌の繁殖を押さえます。ここで、ようやく酵母(昔は多分空気中に漂う野生酵母)の出番がまわってきます。ここで、雑菌の少ない健全な酵母を繁殖させて、力のある酒母をつくるわけです。これが科学知識のなかった遙か昔から行われていたのですから驚くほかありません。


寝前酒(ねまえざけ)
最近は生活様式の変化で、伝統の晩酌という形が変わってきているように思えます。父親が家族の食事を待たせて一人晩酌するという時代は終わったのでしょう。といって、夫婦で、食事時に飲んでしまうと、食事の後片付けが大変になります。そこで、後片付けも終わり、寝る前に夫婦でゆっくりと飲むという習慣はどうでしょうか。ビールでは朝までに一度起きてしまいます。寝前酒は清酒が一番なのではないでしょうか。ただし、飲みすぎは厳禁です。


酒国、酒客、酒軍、酒過、酒所
酒国は、酒に酔って別世界で楽しんでいるような気分になること。酒客は、酒飲みのこと。酒軍は、酒飲みの相手。酒過は、酒を飲んだ際のあやまち。酒所は、酒が体に入っていること。どれも簡単な漢字の組み合わせなのに、普通と少々違う意味になる面白さがあります。それでも、よく見ればどれも何となく納得できる単語です。いくつわかりましたか。


アルコール度数の測り方
100ccの清酒をメスシリダーにとり、丸形フラスコに入れて、さらにメスシリンダーの壁面にに残ったアルコールも移すために水を30〜40cc入れて、これもフラスコに入れます。これを蒸留して90ccくらいになったところで止めて、100ccになるまで水を加えます。品温を、15℃にして、酒精計を入れて濃度を測ります。要するに、揮発性の水とアルコールだけを回収してその比重を測るのです。


木香付き酒
現在の酒の貯蔵容器は桶ではありませんので、木香が付くことはありません。一番簡単に木香をつけるのは、タンク貯蔵の酒の中へ杉の木を放り込んでおくことです。ところが、これは、食品添加物ということになってしまい法律違反となります。そこで、酒にふれないようにタンクの上部に杉の材をつり下げておくという方法があるのだそうです。もちろん、木香付け用の杉樽に短期間貯蔵して木香をつけるのが一般的な方法で、これならよいのだそうです。消費者は、徳利に杉箸をお燗しても冷やのままでも差し込んでおけば、木香のついた酒をつくることができます。


鬼殺
現在は辛口の代名詞のようになっている酒名ですが、かつては、辛くて、雑味の多くて飲みにくい酒の代名詞でした。あの恐ろしい鬼を殺すというのですから、その味のものすごさは想像できるというものです。地酒という言葉が、まずい酒というイメージから、いつしか独特の味と香りを持つうまい酒というイメージに変化した事と同じ現象です。「鬼殺し」という名称は、普通名詞とされているようで、商標登録では認められず、だれでも酒銘として使用できます。それで「鬼ごろし」という酒が各地にあるのだそうです。


サリチル酸
明治時代の「お雇い外国人」学者の推奨で広がったというサリチル酸は、かつて食品防腐剤として、清酒、ワイン、酢などに添加されていました。酒にとっては火入れが十分に行えなかったころの大変ありがたい添加物でした。規定量以上に入れるほど味が良くなるなどともいわれていたようです。医薬品としては水虫の薬でもありますし、また、添加物が問題視されるようになり、昭和51年以降使用が禁止されました。もちろん現在は一切添加されていません。


黒田清隆の酒
函館五稜郭に榎本武揚ら最後の幕臣たちが籠城したとき、攻める明治新政府側の将、後の首相・黒田清隆が酒樽10駄と肴を届けたのは酒好きらしい黒田の美談となっています。しかし黒田は泥酔すると人格が変わったようです。かっぽれの梅坊主は黒田の腕の上でかっぽれを踊らされ、「何か御気に触ると『たたっ斬る』というし、御機嫌だと子供のように可愛がる。」(戊辰物語)と語りました。結局は、その酔いで奥さんを斬り殺してしまったようで、同僚の明治政府の高官たちは事件のもみ消しに苦労したようです。


不許葷酒入山門
「葷酒(くんしゅ)」「山門」に「入」るを「許」さず。禅宗の寺の入り口によくある有名な言葉です。葷酒の葷はニンニクやニラのような「精」の付くものだそうで、これらと酒は寺に入ってはいけないということなのだそうです。これを「葷は許さず」「酒山門に入る」としたり、「許されざる葷酒」「山門に入る」と読む「不貞な輩(やから)」もいます。また、寺中で栽培、醸造して、寺中で消費するのならばよかったのかもしれませんし、寺で造って門から出すのは良かったのでしょう。ちなみに、中世の名酒「天野酒」を造ったのは河内長野市の金剛山天野寺です。当時多くの寺が酒を造っていました。


並行複発酵
清酒の発酵は、糖化とアルコール発酵が同時併行的に進むことが大きな特徴となっています。このことを一般的に「併行複発酵」といいます。糖化とアルコール発酵がバランスよく進行して行くので、ワインやウイスキー、ビールなどの醗酵と違って、醪のアルコール濃度は16-17パーセントにもなります。味を余り考慮に入れない焼酎の発酵では、20パーセントをこえることもあります。


貧乏徳利
はかり売りをするために、酒屋が消費者に提供した徳利で、約1升と1.5升との2種類があります。提供した酒屋の名前が書いてあるので、動く広告でもありました。金持ちは樽で酒を買うが、「貧乏人」は、その日の飲む量をこの徳利を持って買いに来たので、貧乏徳利といわれるようです。江戸時代のものの本にはこの言葉の明確な説明はないようです。通い徳利、貸し徳利ともいわれたそうです。最近のこの種の徳利の形はどうみても、かつての徳利の形にはかないません。


三浦樽明の墓
慶安元年(1648)に行われた酒合戦での一方の将、地黄坊樽次の配下だった、三浦樽明の墓は現存しています。豊島区池袋3-1-6にある祥雲寺の本堂向かって左側の奥にある不動像の刻まれたもので、現在は無縁仏になっているそうです。戒名の「酒徳院酔翁樽枕居士」は、像の右側にありますが、左側にあるらしい辞世の句「南無三宝多くの酒を飲干して 身は明樽と帰る古里」は良く読めません。この墓はよく地黄坊樽次の墓と間違えられています。


孔子と釈迦
孔子は「酒無量」(酒 無シ∨量 不バ∨  論語 郷党篇)といったそうです。一方、釈迦は「酒に三十六失あり」といったそうです。これをみた江戸時代の狂歌師・太田蜀山人は、孔子は上戸で、釈迦は下戸だろうと推測し、それをうたい、「なにはともあれ」とその後に「杯」を描いて一幅の軸にしたそうです。それにしても、孔子と釈迦の酒量はどの程度だったのでしょう。


麹の米の変化
蒸かした麹米は、まず冷やし、麹菌をふりかけ、麹室へ入れます。このときは、「もろもろ」とした感じの蒸かし米です。これを、保温するため布でおおって、30度くらいの麹室で何回か撹拌(仕事といいます)して1日おくと、固まりとなります。これを、「ぶんじ」という杉でできた道具で割って、手でもんでほぐして「ぼろぼろ」にします。これを麹蓋や麹箱に入れて何回か撹拌して、もう一日おくと麹菌が繁殖してくっつきあった表面の白い、麹となります。これを室(むろ)から出して冷やします。


5段積み
麹蓋のことではありません。最近1升ビンはP箱の6本入りになっていますが、少し前までは木箱の10本入りでした。この重さが33kgです。小さな酒蔵では多分今でも製品置き場では、人力で5段積みにしているでしょう。この5段目に積むのがなかなか大変で、こつがいります。また、若い元気な人だと2箱積みで運んだりしますが、これはまねしない方がよいでしょう。今は、1箱の重量を20kg以下にしないと酒販店の主婦等も大変ということで、軽量化しているようです。


尺棒
おけに酒がどの位入っているか計測する物差しです。T字型で、タンクの「検尺口」から差し入れ、酒で濡れたところの数字を見ます。桶の縁から3cm下を基準線として、そこから下へ何ミリか(2mmが単位です。)を見て、桶帳という換算表で何リッターかを見ます。したがって、数字が多いほど酒の量は少ないわけです。以前は尺貫法でしたの、寸法は何尺何寸と測っていましたので尺棒といいます。縁下(ふちした)3cmというのも、たぶん以前は1寸だったからなのでしょう。


三段仕込み
醪の発酵の時、少量の酒母に一気にたくさんの蒸し米や麹を入れてしまうと、酒母の中にある酵母が増殖できなくなってしまう可能性があります。そこで考えられたのが、三段仕込みで、おおよそ、1:2:4位の割合で、蒸し米と麹を増やしながら加えていきます。この三段階は、初添え、中添え、留添えといい、初添えの翌日は、踊りといって、1日間隔をとります。この方法によって、発酵は順調に進んでいくのですが、経験とは色々なスタイルを生み出すものだとつくづく考えさせられます。


甘酒
甘酒は麹さえあれば簡単にできます。一晩寝かせればできますので一夜酒ともいわれます。アルコール分はないのに「酒」といわれるのは、昔は多少発酵していてアルコール分がでていたからなのでしょうか。麹1kgに同量のお湯を加え、一晩55-60℃を保てば、糖度22-3の甘酒ができます。後は、多少の塩とかショウガを加えるとうま味がまします。このままですとすぐ酸っぱくなってしまうので、沸騰させて密閉して保存すれば多少はもちます。米は砕米の方が飲みやすいものです。


肥後赤酒
肥後赤酒とは、麹歩合を高くし、汲み水歩合を低くし、濃厚な味の酒を造り、製造の過程で出てくる酸味を、しぼる直前に、アルカリ性の灰を投入して徐酸するという、大変甘い酒です。熊本という暖かい地域がら、酸が多くなるのに対応した酒造りなのでしょうが、昔の酒にはこうしたスタイルが多かったように思われます。肥後の場合、藩主がこの酒を「奨励」したことが、いまに残った大きな原因なのでしょう。ただ、これが現在三増酒であることは残念です。たとえ、現在に余り味が合わなくても、本来の製造法で醸造した酒を残してほしいと思います。「トロッケンなんとか」とか、ソーテルヌとかいう甘口ワインもあるのですから。


強い酒(しいざけ)
民俗学は、日本の酒の飲み方は、強い酒(しいざけ)であるとしています。酒は本来、神様の飲み物です。したがって、まず酒は御神酒(おみき)として神に供られられます。その神様の飲み残しのお流れを頂戴するのが「なおらい」です。このとき、神事参加者は車座になり、お互いに無理矢理飲ませあって、酩酊します。そうした状態が神様と合一したということなのだそうです。「強い酒(しいざけ)」や、「べろべろ」が批判を浴びないゆえんはこうした歴史的伝統によるもののようです。


後楽園
水戸徳川家の後楽園には、「九八屋」という酒亭があります。大名庭園は、接待が主な役割でしょうから、当然あってしかるべきものかもしれませんが、こうした形で復元されているのは珍しいものなのでしょう。盃に注ぐのには昼九夜八を適量とする(満杯はよくない)ということから名付けられたのだそうです。水戸徳川家の藩主であった徳川斉昭(なりあき)の息、15代将軍慶喜の回想の中で、食事のときに金属製のお百姓がもった笠の上に、ご飯を何粒かのせたということですし、後楽園にも稲田がありますので、米を尊ぶ考え方の延長線上に酒も考えられていたのかもしれませんね。


「うわのみ」と「したのみ」
桶の下の方には「うわのみ口」と「したのみ口」という酒を出す二つの穴があります。そこに「のみ(呑み)」をつけます。しぼった酒の「おり」の部分を沈殿させて、「下のみ」から濁った部分を出したり、「初のみ」の時、「うわのみ」から火入れ後の酒を出したり、調合後、濾過するとき、「おり下げ」のときに入れた炭素が出ないように「うわのみ」から出します。逆におりを取るときには下のみをあけます。


「ツン」と来る
酒蔵を見学したときは、もしできたら、醪の発酵している香りをかがしてもらいましょう。発酵している醪(もろみ)桶の縁に立って、中からすくうようにして香りをかぎます。知らない人はびっくりしますが、アルコールと炭酸ガスの混じった、鼻に「ツン」と来る、独特の香りがします。最近は、食品衛生法などがうるさくなって(雑菌を嫌う杜氏さんのいる蔵もだめです。)、現場には入れなくなってきているようで残念です。


添加アルコール
添加アルコールの原料は廃糖蜜です。砂糖をしぼりおえたしぼりカスであるサトウキビの廃液には、まだ糖分が十分に残っています。これを発酵させて、連続蒸留器で蒸留したのが添加アルコールです。最近は、蒸留廃液の公害問題やコスト等の関係で、東南アジアや、ブラジル等で粗留アルコールを造り、日本へ輸入して再蒸留して販売しているのが大方の添加アルコールだそうです。蔵元は98%位のものを未納税で購入し、30%位に割り水して保管するそうです。


杜氏になるまで
酒を造る蔵人は、階級社会で、しかも分業制です。杜氏(とうじ)、頭(かしら)、麹屋(こうじや)、もと屋、船頭(ふながしら)、釜屋といった名称は、仕事の内容を表すとともに、その、格付けも示しています。杜氏になるためには、その役職をひとつづつこなしていかなければなりません。一つの役職をマスターするためには数年がかかりますので、杜氏になるには少なくても20年くらいが必要です。杜氏になるということはなかなか大変なことだったのです。現在は、酒造の基礎教育が進むことによって、実態はかなり変わってきているようです。


火落ちのおきる場合
まず発酵時です。桶やかい棒などの洗浄がよくなかったりすると、稀におこります。巡回指導といって国税庁の技師が蔵を訪れる折に調べられます。次は、貯蔵段階で、これは、貯蔵前の火入れがうまくなかったり、貯蔵する桶やのみの洗浄がまずかったときです。このチェックのために「初のみ」が行われます。最後は、瓶詰めのときで、割水後の瓶詰めするまでの間に起きることが一番多いようです。これも、瓶詰め時の火入れの不十分や、調合タンクの洗浄不足が大きな原因です。


酒袋
酒をしぼるときに、もろみを入れる袋で、縦長の袋の口を折るだけで、「ふね」の中へ積み上げてゆき、圧搾しました。太織りの木綿でできており、繊維を丈夫にするためと、粕離れをよくするために、柿渋や、番茶の渋で染色しました。この洗浄がよくないと袋香がついたりしました。ちょうど、使い古しのジーンズがよいように、使用してやや色あせた酒袋は、のれんやコースター、帽子などに再生されて売られたりしていましたが、貴重品となってしまったため、最近は複製ものが売られているようです。


甘辛
甘辛を舌で比較するということは大変難しいことで、専門家でもかなり慎重に発言するものです。甘辛は、酒の中にある糖分の多少によって感じられるのは当然ですが、それに加えて、酸(多いと辛く感じ、少なければ甘く感じます。簡単な例として、糖分の少ない吟醸酒は酸が少ないため甘く感じます。)、その他の味覚(雑味が多いと辛く感じます。かつての「鬼殺し」などはそうした酒でした。)、熟成期間(長いものほど甘く感じます。)、品温等によって全く変わってきます。甘辛は簡単には言えないもののようです。


さかづきとぐい飲み
昔の酒はアルコール度数が今より低かったようで、酒を飲む器は大きかったようです。さかづきも、黒田節の踊りで使われるものほどでなくても、今より大きかったようです。たしかに、浮世絵のさかづきを見ても、江戸中期までは木杯が多いようですが、かなり大きく描かれています。ところが、その後、さかづきはだんだん小さくなってきました。杯のやりとりとか、おかん、酒造技術の向上などのせいなのでしょうか。下って、昭和30-40年くらいから、民芸の広がりもあり大きめなぐい飲みがふえだしました。ところが、最近、「唇の切れそうな」薄い小さなさかづきもふえてきているようです。時代とともに酒杯も色々変わるものだなと思います。


薄い酒
当然ながら酒を薄くして売る人は昔からあったわけで、「地獄草紙」には地獄に落とされるものに酒に水を加えて売る人ということが何度も出てきます。昔、酒樽を運ぶ馬子が、途中で樽に穴をあけてストローで飲んで、あとから水を入れてごまかしたという話も伝えられています。また、第二次大戦中、配給の酒を、うめて売ったという話や金魚酒の話もよく聞きます。江戸時代の酒飲み大会は、水を入れた薄い酒だったからあれほどたくさん飲めたのではないかという説もあります。それに、発酵で今ほどのアルコール分が出ていなかったのでしょう。税法によってアルコール度数の守られた現在、最も高いアルコールの酒を私たちは飲んでいるのでしょう。


吟醸粕の漬け物
吟醸粕をご存じですか。普通の清酒の酒粕と全く違います。ドロドロで、真っ白で、漬けようとするものが沈んでいってしまうといったものです。ところが、これがこの粕で漬けると、その漬け物は甘くて実に美味しいのです。奈良漬けというと誰でも思い浮かぶイメージがありますが、それとは全く違った漬け物が出来上がります。これは是非おためし下さい。


鯨海酔侯(げいかいすいこう)
土佐の幕末の藩主山内容堂の雅号のひとつです。豪放磊落で理屈に強く、天下国家を論じることを好んだこの殿様は、雅号の如くあびるように酒を飲んだそうです。鯨海は土佐湾のこと。鯨飲にひっかけたうまい号です。土佐人気質の一典型だったといえるのでしょう。英国公使館のミッドフォードに「彼は昔からの悪い習慣を捨て切れずに、結局はそのために命を縮めたのである。」と書かれています。明治5年死去、享年46歳。墓は屋敷のあった品川区大井公園にあり、神葬です。


昔の古酒
元禄年間に出版された「本朝食鑑」には6,7年から10年を経た(幕末のこんな風な約束を見た気がしますが、もっと昔からあったのだと何となく安心しました。)酒のうまさと、奈良、兵庫のものが良いことが記されています。もっと古くは、日蓮の「油のよう」な酒をもらったことに対する礼状が残っているそうですが、これも古酒のようです。清酒は古くなるほど火落ちすることが少なくなるような気がするのですが、それにしても昔は、清酒を保存することは大変だったろうと思います。昔も古酒のおいしさを知っている人がいたことはうれしいことです。


板御神酒、我酒、願酒、したみ酒、亡酒、呼び酒、わらじ酒
それぞれなんでしょう。「板御神酒(いたおみき)」は、字の如く粕のことです。我酒(がざけ)は、無理に飲む酒で、やけ酒です。願酒は、「願(がん)」をかけて酒を断つこと、つまり禁酒です。「したむ」はたらすことで、容器からこぼれた酒ということで、桝酒などから受け皿にこぼれた酒です。「亡」は逃げるで、酒席からひそかに逃げること。「呼び酒」は迎え酒のことで、また酔いを呼ぶ事でしょう。「わらじ酒」は、分かれる際に飲む酒で別離の盃だそうです。


アワケシ
以前は、発酵時に泡が一日中出ていて、放っておくとあふれてしまうので、これを消す竹でできた道具がありました。簡単なもので竹の棒の先を縦に割って広げたものですが、これでかき回して泡を消していたのです。この仕事は夜も必要なわけで、居眠りをすると大変でした。アワは桶からあふれ出して、発酵にも関係しますし、後始末も大変でした。現在は泡消し器という扇風機を下向きにしたようなもので泡を消しています。ところがこれも時々壊れて朝来てみると−ということがたまにあります。


千石酒屋
千石というと、1.8Lビンで10万本です。日本の酒蔵の一番多いのがこのくらいの規模です。10万本というと多いような気はしますが、小売値段にすると2億円弱といったところです。これを、生産者価格にするとその3割安になります。さらに、小売値段の1.5割くらいが酒税です。そうすると実販売金額は1億円少々。これが日本の酒蔵の実体です。これは、小さな小売店とそう違いはない規模であり、しかも利益は雲泥の差で少ないようです。日本の味はどうなって行くのでしょう。


キツネ(桃桶)
これで桶の形が想像できるでしょうか。上から見ると大根のように一方が太く、他方がとがった形をしている桶です。狐の顔に似ているので名付けられたようですが、桃の形にもみえるので桃桶ともいわれるそうです。これは、清酒をしぼる時に、醪(もろみ)を汲んでサカブクロに入れるための桶です。なかなか造るのに難しいものだったようで、残っている数は少ないということです。こういう技術も今消えつつあるもののひとつなのでしょう。


氷酒
夏にお燗の酒を飲むのは、我慢大会のようなものです。そこで、オンザロックとか、貯冷するとかということになります。そこで、ひとつの方法を提案します。コップにぎっしり氷を入れて、そこへ氷が浮かない程度の清酒を入れるというだけのことです。もちろん、氷で清酒は薄くなります。しかし、温度が0度になった清酒は、薄く感じません。これは邪道なのではありますが、夏にぐいぐい飲むにはおすすめできる飲み方です。ただし飲み過ぎにはくれぐれもご注意下さい。


戒めの盃
沖縄に面白い盃があります。サイフォンの原理なのだそうですが、盃に酒をついでいくと、八分目くらいになると、底にある穴から酒が漏れだして、あれよあれよという間にすべての酒が流れ出てしまうというものです。何事も八分目が良いという戒めなのだそうですが、人は本当に面白いものを考えるものだと思います。


十里、賢人、白馬
どれもどぶろく(にごりざけ)のことです。十里は、にごり=二五里(2×5)の駄洒落(九里=栗 より=四里 うまい 十三里=サツマイモ のたぐいです)。賢人は、聖人(清酒=澄んだ酒:中国)に対して言われました。白馬は、相撲の世界で清酒のことを「馬力」というように、清酒は馬のような力が付くと言うことなのでしょうが、その白いものということでいわれるのでしょう。


しぼりたて(ピリピリ酒
本当の「しぼりたて」を飲んだことがありますか。しぼったばかりの、たれてくる酒を飲むと、ぴりぴりした炭酸ガスの舌触りがします。発酵の時の出てくる炭酸ガスがとけ込んでいるのですから考えてみれば当然なことです。時間がたつとこの炭酸ガスは抜けてしまいますので、ぴりぴりはなくなってしまいます。ですから、この「ぴりぴり」はしぼりたてでしか味わえません。先年、しぼりたてを飲んではいけないという酒税法が改正され、酒税を払えば飲めるようになりました。この味は一度体験する価値のあるものです。


新酒香
今は生酒が清酒のひとつのジャンルになりました。しかし、少し前までは、この新酒の味と香はむしろきらわれていました。そのため、新酒ができると、古酒とブレンドし、できるだけ新酒の形が出ないようにしていたのです。ところが最近、生酒のフレッシュな味と香りがむしろ好ましいものと見られるようになり、低温貯蔵等の周辺技術も進歩したこともあって、一般化しました。生の味と香りは、熟成したものとはっきりした違いがあります。現在の流れとして、未熟成のものの好まれる傾向があるようです。


麹と酵母
アルコールを造るのは酵母です。これは、世界中どこでも同じです。ただ、酵母はブドウ糖のようなものでなければアルコールにすることはできません。ですから、デンプンである米にいくら酵母菌をふりかけても清酒はできません。そこで登場するのが麹です。麹はアミラーゼという酵素を生産し、この力で、米のデンプンをブドウ糖に変えます。酵母と麹は良きパートナーであるわけです。ビール、ウィスキーの場合は、麦芽にアミラーゼがあり、これによりブドウ糖が生産されます。ワインの場合は、初めからブドウにブドウ糖があるので野生酵母によって自然に発酵します。


おつもり
盃の 手もとへよるの 雪の酒 つもるつもると いひながらのむ (徳和歌後萬載集)
雪の積もると、「おつもり」のつもるをかけた狂歌。酒飲みの心理は古今東西いずこも同じ。そこで終われば良い酒なのだがと二日酔いの朝、頭と胃の痛みをこらえながら反省する。にもかかわらず、夕方になれば、既に朝のことはすっかり忘れて同じ事を繰り返すという、学習効果の期待できないものがアルコールということなのでしょう。


酒粕
要するに「(すてるべき)かす」です。これが高額な商品になっていたのですから、いかにかつては酒が高かったか(つまり、粕は食べれば酔えるのですから)、また、粕漬けが美味しくて貴重なものだったかということなのでしょう。今も、固い粕を買ってきて、焼酎で溶いて砂糖を入れている地方があります。これは、粕が高かった時代、増量していた名残です。それが今は豆腐のおからと同様、産業廃棄物になりつつあります。粕漬けのおいしさを是非試食してみて下さい。(本HP食べ物のページにあります。)


酵母の発酵能力
清酒酵母の発酵力はなかなかのものです。発酵のアルコール度数はビールでは3−6%、ウィスキーでは8−9%、ワインで11-14%位ですが、清酒は13-19%位のアルコール度数となります。味をあまり考えないで、発酵させる焼酎で、23%までなったということを聞いたことがあります。たぶんアルコール発酵の世界一の濃度でしょう。清酒型(焼酎を含む)の発酵は、糖化と発酵がバランスよく行われるということで、高いアルコール度数の発酵が可能になるようです。


火落ち酒の矯正
『新川の酒問屋で「もう今日はお医者が来そうなものだ」と言う。「オヤ、何方が御病気ですか」と尋ねれば笑って「ナニ、酒のことですよ」と言った。』 これは明治の粋人鶯亭金升の文章ですが、要するに火落ちした酒を直す商売が明治時代にあたっということです。酒の火落ちは往々にしてあることです。火落ちした酸性の酒を中性にするためには、アルカリを加えれば良いのであり、いまでも行われています。ただ、そうはいっても、中和した火落ち酒は、独特の味があり、たまに、火落ち酒を調合したなと思われるものに出くわすことがあります。蔵元の娘に惚れて、主人に結婚を拒否された番頭が灰を酒にほうり込んで逃げたという有名な話も、かつての細菌管理の行き届かなかった酸性の強い酒の味を変えたということだったのでしょう。


首っつり
あまりきれいな言葉ではありませんが、特上の吟醸酒をしぼるときに、酒袋に醪を入れて、ひもで口をしばっていくつもつり下げて、自然濾過するのでこういいます。初めは布のめが詰まっていませんので、にごっている部分が出ます。次ぎに澄んだ部分が出てきます。この時の吟醸酒が最高に美味しいのです。この部分が、品評会に出されるのです。それ以降は段々と味が違ってきて、最後の頃にたれてくる部分は、これが同じ酒だろうかと思うほど違った味となるそうです。もっとも、最初に出てくるにごった吟醸酒、これが大変美味しいのです。


御酒頂戴(天盃頂戴)(1)
明治維新がなり、初めて明治天皇が東京を訪れたのが明治元年12月19日。まだこの時点では、京都側の反対が強くて、首都を東京に移すことは決定されておらず、天皇はとりあえずの東幸です。江戸市民にはまだ、徳川将軍家に対する親しみの情が残っています。京都から逃げ帰ってきた家茂に対して、「大した勢いだ。公方様が戻ってきたら米の値段がどさっと下がった」と湯屋で話題となったという時代です。こうした雰囲気の中で行われた、江戸市民の心情対策事業のひとつが、「御酒頂戴(天盃頂戴)」でした。このとき振る舞われた清酒は2940樽。いつの時代も酒の威力は大きいということでしょうか。江戸1年間の清酒消費量は100万樽だったそうですから、約1日分、当然計算されてはじかれた数字でしょうが、その計算力は大したものだと思います。


酒の語源
大きくいって、三つあるように思います。ひとつは、「栄え水」の転。二つ目は、「くし」(奇し)の転。もう一つは「け(饌)」に接頭語がついたというもの。始めのものはいかにも江戸時代らしい語源説です。次は、飲むと酔うという不思議な飲みものなのでいうのですが、「くし」は「け」に転じないようです。最後は美称の接頭語「さ」のついた「饌」(食べ物)、つまり「神様の食べ物=飲み物」ということで、これが一番本当の感じがします。「さ」を「稲の魂」と見る人もいますがこれはどうでしょうか。(ただ、「さか」が酒の古形-岩波古語辞典-というものもありますので、一筋縄ではいかないようです。)


クツイシ
以前は発酵桶(大桶)の並べられる醪蔵の1階には床が張ってありませんでした。桶1つでも6−7tあるのですから、床を張るのには無理があったのだろうと思われます。しかし、直接地面に桶を置くと湿気により桶材である杉が腐ってしまいます。そこで、クツイシという石(4-50cmくらいの高さ、丸太も使います。)を4個敷いて、その上に桶をのせました。湿気の多い蔵の場合、それでも、桶が腐ったといいます。クツイシの高さは、清酒を「タメ」(1斗入る桶)に出したりするのにちょうどよいものでもありでした。


レッテル
戦前の清酒レッテルは、極彩色できれいなものが数多くありました。戦中になると、紙は粗悪になり、色も赤、黒などの二色が多くなります。戦後は、税務署で売った級別を示す卵形の「規格証」を貼る関係で、3点貼りが一般的になりました。その後、表示事項を正面に貼るレッテルに記載すれば良いことになり、1点貼り、2点貼りのものが増えました。以前は、レッテルの枠の中に酒銘と、「天下一」といった、今は使ってはいけない言葉や、酒銘に関係する山や川が描かれていた程度ですが、最近はデザインのレベルが高くなって、洗練されたものが多くなっています。もっとも、昔流の枠組みに酒銘のレッテルは風格もあり、捨てがたいものがあります。ところで、今時、「レッテル」などという古風な用語を使っている業界はあるのでしょうか。


ノンベイの理屈
少し前には、1級酒は濃いので悪酔いするので、2級酒を飲む、という事がいわれていました。確かに、1級酒は、2級酒より、酒税法的に0.5%くらいアルコール度数が高かったのは確かですが、悪酔いする理由になりません。これは、明らかに、割安な2級酒を飲むための理屈です。チャンポンは悪酔いするというものもありました。これも、悪酔いするのは、アルコールの総量なのであって、種類の多さではありません。蒸留酒は糖尿病に良いというのもあります。これも、問題は総カロリー数なのであって、個々のカロリー数ではありません。(清酒1合分:15%のアルコール量のカロリーは、清酒は約190kcal、ビールは、約230kcal、焼酎は、約150kcal,ウイスキーは、約150kcalです。)


品評会の口直し
清酒の品評会では数多くの味見をするので、専門家といえども当然の事ながら、舌が疲れてしまいます。それを、回復させるのには、「昔は豆腐を一口食った」、「玉子の白味でうがいするとさらによろしい」と、住江金之が言っています。今はせんべいを食べたりしているようですが、このように、プロでも回復法は色々あるようですので、水を飲むとか、塩をなめるとか、それぞれに好みの方法を考えるのも面白いように思います。


麹の「特徴」
麹には色々な成分があります。たとえば、鉄と結びつき、黄色くなるもの。これは、普通の濾過では色のとれない面倒な物質ができます。また、熟柿臭と呼ばれる、酒を飲んだ人の息に含まれる清酒特有のにおいの原因物質も麹にあります。また、火落菌のえさとなる物質(メバロン酸)も、麹由来だそうです。こうしてみますと、麹をもっと研究すれば清酒はかなり変わるのではないかと思われるのですが、どんなものでしょう。


寺で造られた酒
中世の名酒造りは寺が中心だったようです。寺が酒を造るようになった理屈は何かというと、次のようなものとのことです。昔は神仏混淆で、寺に神も祀るのが普通でした。(廃仏毀釈の明治初期少し「乱れ」ましたが、今も同様といえます。)日本の神は、「御神酒あがらぬ神は無し」といわれるように、酒好きでしたから、境内にある、神社に供えるために酒を造るようになり、それが販売されるようになったというのです。キリストの血ということで、ワインを醸造した西洋のように、仏教にも仏と結びつく酒造りの大義名分があり、それが消えてしまったような気もします。寺院維持の費用捻出ということが一番大きな理由だったとは思うのですが、この件についてご存じの方がおいででしたらご教示下さい。


酒母の香り
酒母の仕込みが終わり、少しすると、麹によって、米が溶け始めた甘い香りが出始めます。そしてその少し後、何とも言えない良い香りが漂い出します。吟醸香そのものの香りの時期です。もっとも、これも一時で、だんだん、アルコールと酸の香りが混じったような、酒母の香りが強くなってきます。酒母は酸が強いので、酒母担当の蔵人「もとや」は、利き酒で歯がぼろぼろになるといわれています。これは、速醸酒母の話です。


ツボダイ
小さな酒蔵で酒母を造るときに使う、5-600L位のタンクの名称です。漢字で書くと「壺代」、つまり、壺の代わりです。室町時代の、杉と竹を材料とする桶が出来るようになる前は、焼き物の壺が酒を発酵させる容器でした。壺ですから、それほど大きなものは出来なかったでしょうから、多分大きくて5-600L位のものだったのでしょう。それ以上の技術が生まれるときは、初めはそれ以前の形を模倣します。そこで、初めての桶は壺を模倣したはずです。それが、徐々に大型化していわゆる30石桶に進化していったのでしょう。その初期の名称と大きさが共に現在のツボダイに伝えられているのだとすれば、酒造りとは保守的なものなのでしょう。


桶は長持ち
あいた4斗樽を、味噌樽や漬け物樽に使いますが、10年や20年は継続して使えます。(共に塩を多く使いますので、そのせいもあったのだろうと思われます。)酒を発酵させる桶の寿命も大変長いもので、数十年は当たり前といったところです。発酵を終えた桶は酒蔵の空き地に出されて、横に寝かせて乾燥させて置かれました。造りが始まると再び酒蔵にもどされて、発酵槽として使用されます。乾燥していて、ひしゃげているので、数日間かかって水を入れてふやさせて漏水を止めて使用します。酒蔵では、昭和2−30年代に木の桶からホーロー引きのタンクに変わりましたが、その時、江戸時代の桶が使われていたとことろもあったということですから、その寿命の長さがうかがわれます。ただ、今の4斗樽は材質と厚さが芳しくなく、かつてほどの寿命はないと思われます。


寝言屋の説
弥生時代は米は蒸かして食べられていたようです。固いものを食べていた当時の人には蒸かし米の方が歯ごたえがあっておいしかったのか、モチ米が多かったのではないでしょうか。そして、蒸かした米に繁殖しやすい麹菌がついて米麹ができたのだそうです。麹ができればブドウ糖が出来ますので、野生酵母がついて自然発酵が始まり、清酒の原型が出来ます。中国流のクモノスカビによる麹造りからの独立です。ということは、弥生時代の米の食べ方が、酒屋に残っているということではないでしょうか。


立ち飲み
酒の小売店で会社からの帰りがけに一杯ひっかけるのを楽しみにしている人は結構沢山いるのではないでしょうか。2〜3杯一気に飲んで、酒や焼酎のまわらない内に車で家に帰るという「知能犯」もいますが、これはまねしない方が良さそうです。この売り方には保健所の指導があります。客が買った商品を勝手にその場で飲んだり食べたりするのなら良いということのようです。ですから、ワンカップを自分であけて、同じようにおつまみの袋を自分であけて食べればよいということです。店でコップについだり、漬け物等を出すことはいけないのだそうです。


杜氏の後継者
現在(平成10年頃)、杜氏の平均年齢は60歳を越しているとのことです。そして、その後継者は余りいないようです。伝統的職業集団としての蔵人制度は崩壊しようとしています。蔵人という雪国の伝統的職業は、出稼ぎという半年家をあけるという現代にあわない特徴を持ち、それよりも、民宿やスキー場での職場を若い人は好み、蔵人は敬遠されます。また、製造の全責任を負わされる杜氏も、その責任の大きさからなり手があまりいないのが実状です。しかし、その一方現在、陶芸、木工等をめざす若い人達が増加しています。こうした、ものづくり志向の人達が徐々に創造性ある酒造りの仕事に入ってくるような気がします。


富士見酒
灘の酒は江戸時代、江戸の清酒市場を制覇し、菱垣回船、樽回船といった帆船で運ばれました。一方、米の金融と流通の中心であった大阪は、飲食の分野でも江戸に劣りませんでしたので、「富士見酒」というものを生み出しました。樽詰めされた清酒が、船に乗せられ、江戸へ向かいますが、遠州灘のあたりで富士山を見て灘へ戻ります。船で清酒が揺られてまるみがつき、適度に樽香がついた上酒となって戻ってくるわけです。これが「富士見酒」で、高値で売却されたということです。これは江戸人の粋な遊び心と見るべきなのでしょうか、爛熟した文化の世紀末的現象と見るべきなのでしょうか。


勧戒の器(かんかいのうつわ)
江戸末の算学者が考案した、木の枠に、底のとがった杯を縁に穴をあけて紐でつるしたものです。これに酒を注いでゆきますと、ちょうど八分目で杯がひっくりかえってしまい、注いだ酒がこぼれてしまいます。重心を計算した算学者と、腹八分目が何事にも大事であるという道学者の二つの顔が見えるようです。これは、はやりのテレビのお宝番組に出品されましたが、見立ては10万円とのことでした。


麹と酵母の混同
明治になってからも麹と酵母は混同されていたそうです。つまり、麹にアルコールを作る能力があると誤解されていたのです。室町時代に麹の商売が成立していましたが、これも、同様だったはずです。麹で米を糖化(ブドウ糖化)すれば、そこに野生酵母が付着して、ワインと同じようにアルコール発酵が始まりますので、酵母の商売は必要なかったわけです。様々な野生酵母が酒を発酵させていたのですから、昔の酒の味は、正に千差万別だったと思います。


真澄
信州諏訪の酒蔵真澄は、戦中から戦後にかけて全国一を連続して受賞しました。この結果見つかったのが、7号酵母です。香り味ともにすぐれた、この酵母は、7号酵母として、全国を風靡し、酒蔵の97%がこの酵母を使用した時期もあったということです。今でも、吟醸酒以外の清酒の醸造に使用される酵母の最も大きな使用頻度の高いものは7号酵母のはずです。この酒蔵は、蔵人のみそ汁用に作り始めた味噌も本業となり、信州一という名称で全国レベルの会社になっています。


デカンショ
「デカンショ デカンショ で半年暮らす 後の半年しゃ 寝て暮らす」 戦前の大学生によって全国的に広まったというもので、「デカルト、カント、ショーペンハウエル」の略だといわれていますが、これは学生のこじつけで、本来は丹波のデカンショ節のようです。「出稼ぎしょ」がなまったもので、この出稼ぎは酒造りだということです。もっとも、「でごわしょ」「でごんしょ」の転という説もあるようで、簡単に「出稼ぎ」説に乗れないような気もします。


袖の梅
吉原遊郭で無料で配られたり(当たり前でしょう)、売られていたという二日酔いの特効薬だそうです。どんなものだったか知りませんが、これを飲んだのはもてなかった人なのでは?いずれにせよ今に伝わっていないということは、たいした効き目はなかったということなのでしょう。梅干しをお湯でほぐしたものを飲むと良いという話もありますので、梅干しの一種のようなものなのでしょうか。 「袖の梅 おもき枕を あげてのみ」   「袖の梅 飲んで 上着のままで寝る」 (誹風柳多留)


灘の酒蔵批判への批判
灘が、地方の酒を桶買いといって買い取り、自社ブランドで売っているということで批判にさらされた時期がありました。これは、戦後、統制がなくなって、それまで大幅に生産を規制されていた清酒の売り上げが伸び、特に有名な灘の酒が大幅に売り上げが増加しました。ところが国税庁は、主食の米が不足を来さないように、清酒の製造を前年対比で一律上乗せの増産しか認めない規制をおこないました。売りたくても売る酒のない灘は、地方の酒を買って(後には造りを指導して)不足分に宛て、これがその後の形となりました。行政、生産者共に、当時これ以外の良い方法があったでしょうか。


越の寒梅
幻の酒ですが、ああしたきれいで、端麗な酒は、戦後の甘口志向の時代には受けなかったようです。こうした味作りに転向した当時は、余りに思い切った、しかも、正当な味づくり(つまり今の味のかたちに移行したとき)だったため、全く売れず、所有していた山を売ったこともあったということです。「越の」と「寒梅」とを2行に書いていたときには、商標権問題で訴訟を起こされて、多額の損害賠償金を払ったという話も聞いたことがあります。


大酒家
有名な江戸時代文化年間の酒飲み大会で、最も飲んだ人が、1斗9升5合とのことで、人間がどうしてこんな量の酒が飲めるのだろうと不思議に思います。フランス革命期の貴族サバランの書いた美味礼讃に、水では飲めない量を飲めるのが酒だとありますが、この約2升という量は想像を超える気がします。昔にありがちな大げさな話ではなさそうで、住江金之の書物に大正時代の熊谷の人で、1斗以上飲める人の話がありますので、人間の神秘性を思わざるを得ません。


酒税と消費税
酒税には消費税がかかります。従って二重課税になっています。国税庁ではでは、酒税は原価に含まれているものと見て、経費のひとつという見解のようです。確かにそういう側面もありますし、消費税計算の際、面倒であることもあるのでしょう。ただ、酒税は約2兆円ですから、それにかかる消費税は1000億円となります。多分この大きさもこうした見解を導き出した大きな原因のひとつだと思います。外にも同じような物品税がいくつか残っていますが、それらはどうなっているのでしょう。


発酵と音楽
酵母も生き物なのだから、音楽を聞けばおいしい酒を造るのではないかということで、いろいろ試みられています。福島の酒蔵では、蔵元のモーツアルト好きから、その音楽を聞かせて、鑑評会で金賞を受賞、モーツアルトという銘柄で販売していました。また、滋賀県の酒蔵では、現代音楽家に禅というシンセサイザー音楽を作曲してもらい、これで金賞を受賞し、その曲のテープと720ml瓶のセット販売を行ったり、長野県の酒蔵では、ビートルズを聞かせていました。地ビールでも音楽を聴かせているという話を読んだことがあります。


二日酔い
これがなければ人口が大幅に減少していたであろう、神の与えた人類の保護装置とでもいったものでしょう。二日酔いをなおすためにありとあらゆることが古来試みられてきたようですが、今のところこれといった出色のものはないようです。ただこれによる自己嫌悪や、禁酒の誓いは、二日酔いの回復と共に消えて行くのは不思議なことです。


ドライ
ドライといえば、アサヒビール。1本300円位という新商品が数千億円も売れたなどということはいまだかつてなかったことでしょう。このドライが米語では「(パーティーなどで)酒のでない」という意味に使われたり、go dryで、「禁酒法を行う」とか、「酒を飲まない」という意味に使われたりと、だいぶ我々のイメージとは違った言葉のようです。禁酒法制定の時代、「ウェット派」は禁酒法反対派でした。最近のウェットとドライという表現は、今の意味ではやりだした頃は新鮮でしたが今は古語、酒を飲まないというドライは今なら新鮮ではありませんか。


理研酒(合成酒)
オリザニン(ビタミンB)抽出で有名な、理化学研究所の鈴木梅太郎によって、大正10年に清酒の成分を調合して作られた合成清酒です。背景には大正8年の米騒動等の米不足がありました。清酒を分析して、その内容物を調合しても清酒の味にならない証拠品のようなものですが、今は、清酒を少量混ぜているので、以前よりは多少違っています。一方、その合成酒より安い清酒が沢山売られているのは面白いというか不思議というか。


酒屋万流
文字通り、蔵元によってそれぞれの流儀があるということですが、味もそれだけあるということです。協会7号酵母は、一時全国の酒蔵の97%が使用していました。そうであるのにもかかわらず、酒蔵の味はそれぞれに違います。これが面白いのではないでしょうか。


火落ち香
清酒が火落ちすると、酸っぱくなり、香りも全くだめになってしまいます。ところが、この火落ちの始まる最初の頃は、甘っとろいような独特の味というか香りのようなものが出てきます。ちょうど、肉が腐る寸前が一番おいしいといったたぐいのものなのでしょうか。これを発見したら対策が急がれます。少しでも早く再火入れして繁殖しつつある火落菌を殺菌してしまうのです。


泡無し酵母
清酒の醪(もろみ)といえば、泡が出ているのがふつうの風景ですが、最近は泡のほとんどでない酵母が使用されるようになってきています。泡の出ない分、仕込みの量を増やすことができますし、洗浄等の作業の合理化もできます。この酵母は、突然変異種を選択的に培養して開発したもので、国税庁のかなり大きな清酒業界への貢献のような気がします。7号、9号酵母といったもののそれぞれに泡無し酵母があり、701号、901号というように命名されているそうです。


酒母を飲む
酒母(しゅぼ)と醪(もろみ)、似たようなものですが、味での最大の違いは、酒母が酸っぱいことです。その酸は乳酸です。乳酸は殺菌作用があるのですが、その中で繁殖できる酵母を選択的に増殖させるのです。酒母の味見をいつもしている「もとや」は、歯をやられてぼろぼろになってしまうといいます。酒母を、製品化した蔵元があります。千葉県の木戸泉で、「アフス」という名前です。売れなくて古酒として売ったということを聞きましたが、それによってかえっておいしくなったことでしょう。



酒飲みを左利きとか左党とかいいます。語源は、工具のノミをもつ手が左なので、「ノミ手」で左だとか(佐渡の金山で金鉱を掘るのみを持つ手が左手とも)、武士が杯をもつのは、いざというとき刀をもつ右でない左手だとかいわれています。どちらかというと前者の方が説得力があるようにも思ますがどんなものでしょう。 世の中に酒というものなかりせば 何に左の手を使ふべき 


麹とクモノスカビ
東南アジアの酒造りは、酒の原料である穀物の「デンプン」を、酵母がアルコールをつくる原料になる「ブドウ糖」に変える、「コウジ」が特徴です。(ヨーロッパでは、その役を「芽(麦芽)」が果たすか、はじめから「ブドウ糖」を使用するかします。)その「コウジ」ですが、日本だけが麹菌(アスペルギルス・オリゼー)の繁殖した「麹」を使用し、中国は同じ「コウジ」でも「クモノスカビ」の繁殖したものを使います。


麹(こうじ)と酵母(こうぼ)
清酒は麹という「かび」と、酵母という「細菌(球菌)」の力によって造られます。大ざっぱにいって、麹の働きは、米のデンプンをブドウ糖にすること、酵母の働きは、そのブドウ糖をアルコールにすることです。つまり、酵母を米に振りかけても清酒はできないということです。麹があって初めて清酒ができるのです。この二つの生物は、たぐいまれなるパートナーと言って良いでしょう。


低温発酵
清酒はなるべく低温でゆっくりと発酵させなければなりません。一方、細菌の増殖、生活活動は30度くらいが活発になります。ですから、30度くらいで発酵させれば、時間的にも早くできるのですが、発酵のバランスがとれず、おいしい清酒はできません。普通は最高温度を15度くらいにして、20-30日くらいで発酵が終えるようにします。寒い地域に酒所が多いのこのせいです。吟醸酒の発酵は特に低温を必要とします。


のみ口
桶から酒を出す部分です。こののみも、杉で作られています。うまくあけないと、酒がこぼれてしまうので、なれるまではなかなか難しい道具です。杉材は秋田ものと、吉野ものがあり、秋田ものは長くても酒がにじみ出てきてしまうという話を酒蔵で聞いたことがあります。今でも樽は吉野がよいと言われています。


13本取り
料亭ではお銚子1本を1合と言いますが、当然のことながら、1合はいっていません。1升瓶からお銚子は普通13本とります。従って1本は8勺弱です。最近は8勺では客が物足りないようで2合という徳利が多くなっているようです。正1合といって、1合瓶で出したり、コップ酒の下に皿を敷いてそこへ少しこぼしてサービスしたり(このこぼれた酒を「したみ酒」といいます。)と、売る側も色々考えているようです。


桜正宗
正宗の起源になった酒蔵です。明治17年高橋是清によって商標法が整備された時に、正宗は誰もが使える酒の一般名詞であると登録を却下されてしまい、仕方なく、国花の桜を冠して酒銘にしたといいます。景気変動で酒蔵が苦しくなったとき、当時三菱銀行の神戸支店長で後、頭取となった瀬下清が、支店長の判断範囲を超えて、正宗元祖の蔵を残すべしと大きな融資をして、酒蔵を守ったという話は有名です。国税庁で、何号酵母と名付けられているものの第1号が桜正宗の酵母です。


納豆菌
麹室に納豆菌が入り、麹に繁殖してしまうと、糸を引いた麹ができるといい、蔵人は納豆を嫌います。実際にそうしたものを見聞したことはありませんが、可能性としてはあるのでしょう。とくに昔は、細菌の知識があまりありませんでしたので、まれにそうした「事件」もあったのでしょう。


二升五合、二合半の読み方
商売繁盛(升倍半升)。もっと多くなると、一斗二升五合。これは、御商売益々繁盛(五升倍=一斗、桝桝=一升×2、半升=五合)です。二合半は、「こなから」。なから(なからは半分の意味、一升の半分=五合)に「こ」がついて、半分の半分と言う意味。何ともいえない日本語の味わいです。


酒米の条件
大粒であることと、心白があることです。精米歩合が低いので、大粒の方が精米するにも、醸造の過程でも適しています。心白は、不純物の少ないデンプンで雑味の少ない清酒を作るのに適しています。ちなみに、飯米では心白があると等外米になってしまいます。


秋上がり、秋落ち
清酒によって火入れ後、秋になっていっそう味が整って行くものを「秋上がり」という言い方をします。逆に、味がひねたりして悪くなるものを「秋落ち」と言います。酒蔵はこれを判断しながら、ブレンドして、秋落ち型のものは早めに使うようにします。


吟醸酒醸造の特殊性
酵母が違う(9号とか10号)、精米歩合が違う(50%以上)、秒単位の洗米(30秒くらい)、乾燥させた麹造り(麹はこちこち、麹菌を後ろに撒いたりする)、低温長期発酵(悪い条件で発酵)、50%以上の粕歩合(普通は20-30%)といったように、普通の酒造りとかなり違った造り方をします。


号数のついた酵母
秋田の新政で見つかった6号酵母、長野の真澄で見つかった7号酵母、熊本の香露で見つかった9号酵母。どれも、現在全国の酒蔵は国税庁から購入することができます。ということは、それらの蔵元は自分の蔵で突然変異してできた貴重な利益源である新酵母を国税庁に召し上げられてしまったということです。今なら多分蔵元はどうぞと酵母を差し出さないことでしょう。ただ、これによって全国どこの酒蔵でも一定の品質の清酒ができるようになり、清酒業界の基礎ができたともいえると思います。


酔いざましの水
酔っぱらって寝込んでしまい、脱水症状になって口がからからになって目が覚めて飲む水のうまさ。これこそ本当の甘露というのでしょうか。とにかく水が甘く感じます。これを飲みたいばかりに酒を飲むのだという言い訳をするのんべいがいますが、けだし名言といったところです。


選挙と湯飲み酒
なぜか私にはよく分からないのですが、選挙で酒を選挙事務所に贈ることは選挙違反なのだそうです。たばこを贈ることは良いのです。また、現金(政治献金)は良いのだそうです。それでいて、酒はいけないのです。昔から選挙の際、事務所で酒を飲むのは習慣ですので、仕方ないので、やかんで湯を沸かしているようにみせながらお燗をして、いかにもお茶を飲んでいるかのように、酒を飲みながら、選挙の作戦をたてているのだそうです。警察官ももちろん知っていますが、まずとがめ立てすることはありません。変な話です。


清酒は化粧品
調理場に働く人は、水仕事が多くて手が荒れがちですが、クリームをつけると料理ににおいが移ってしまいます。そこで、宴会などで残った燗冷ましの酒にレモンを入れて、クリーム代わりに使用することがよくあるそうです。これはなかなか便利なもので一度機会があったらお試し下さい。最近の酒はべたつかないので使用感も上々です。


杜氏の産地
杜氏を多く出しているのは、雪が多く、出稼ぎしか仕事のなかった地域が多く、蔵人はそうした地域の伝統的職業です。南部(岩手)、山内(秋田)、越後、丹波などです。ところが、最近、豪雪地帯はスキーで生活が成り立つようになり、家庭を離れる出稼ぎが敬遠されるようになりました。杜氏の平均年齢は高まり、後継者難の時代になっています。


鏡開き
樽の蓋をあけることを鏡開きと言いますが、鏡餅を割るときも、そう言います。鏡という言葉は、樽の蓋も、鏡餅も丸いので、昔の丸い金属製鏡の形に似ていることから、起こったもののようです。樽の蓋も、鏡餅も割るのですが、昔は縁起を担ぎましたので、「割る」という言葉を嫌って「開く」という表現をしました。結婚式の「お開き」も「終わり」を嫌ったからで、考え方は同様です。


級別
以前は特、1、2級の3クラスがありました。特、1級は、国税庁にある鑑定官室というところで、官能検査を行い、それぞれ認められると、級別規格証を貼って売ることができました。このとき、清酒の醸造方法は問われず、味だけで判断がなされました。現在は、公定の検査はなくなりましたが、吟醸酒、純米酒、本醸造酒、アル添酒といった、清酒の作り方によって区分けされて売られています。お上の裏付けはなくなりましたが、飲む人が自分の好みで清酒を選べるようになったということでしょう。


下戸
火入れ作業中、熱酒はタンクの下の方にある呑み口からポンプで送られて入ってきますので、蓋にある空気抜きの穴からはわずかですが熱で気化したアルコールが出てきます。蔵人になった人が、酒の量を確かめるためにその穴から中をのぞき込んだところ、酔っぱらい、下に落ちて寝ていたという話を聞いたことがあります。この人はもちろん1年で退職したそうです。また、お見合いのとき、1杯くらいいいだろうと飲まされた盃1杯の酒でべろべろになり、押入に入り中で寝てしまって行方不明となり、破談になったという話も聞きました。


割水
清酒の原酒のアルコール濃度は16-23度くらいあります。瓶詰めするときは割水をして、14-15度位にします。以前は、このとき水を多く入れて増量して、酒蔵が酒税を脱税することを防ぐということで、割水の際は税務署の職員が立ち会ったものです。昭和40年代まで行われていたように聞いています。その後は、届け出だけになり、今は行われていないのではないということです。税務署にしてみれば面倒なことだったでしょうが、酒税の租税収入における割合が大きかっただけに行われていたということです。


酒屋の煙突
酒屋と風呂屋に煙突はつきものです。どちらも住宅の建て込んだ町の中にあることが多いので探すのに苦労したときは煙突を目印にすると良かったようです。もっとも、最近は風呂屋はほとんど姿を消しまいしたし、酒屋も高い煙突のいらないボイラーを使うようになりましたので、煙突で探すのは難しい時代となったようです。誰か古い煙突の全国調査をしませんか。


千日酒
中国の話で、千日酒を飲んだ人が寝たまま起きなくなってしまい、死んだものと家族は埋葬してしまった。3年目になり、その酒を作った名人狭希がそろそろ酒が醒める頃と訪ねてきて、事情を知った家族が驚いて墓を掘ったところ、ちょうど当人が目を覚ましたというものがあります。さすがに大国で、考えることも大きな中国ならではの話ですが、千日も酔いを保つ酒があれば酒蔵は困ってしまうでしょう。


吟醸酒用酒米で作るお粥
50%も精米してしまう吟醸酒用酒米でお粥を作ってみましょう。少々(?)高いでしょうが、非常に淡泊でさっぱりしたお粥で、京都の料亭で朝粥にでも使ったらきっと好評を得ることと思います。どこかの店でお試しあれ。ただし原価は大変なものになるでしょうが。


酒は薬
風邪を引いたときの卵酒に、こぶができたときに、切り傷のとき(これは焼酎の方がよいかもしれませんが)にも、酒風呂にといったように、アルコール15%の清酒は消毒薬や健康用に長く使われてきました。胃の中で悪さをするというヘリコバクターという細菌にはきかないのでしょうか。


薄い酒
落語で、薄い酒の序列を、「村雨」「庭雨」「軒雨」「すぐ雨」とし、それぞれ、飲んで帰るとき村の境あたりでさめる酒、庭を出る頃さめる酒、軒を出ることさめる酒、飲むさきからさめる酒としゃれています。国宝地獄草紙にも酒をうめて売った人間の地獄に堕ちることが何度も書かれています。第二次大戦中は金魚酒(金魚を入れても死なないくらい薄い酒)がありましたし、こうした話題はことかきません。最近は飲む本人がわざとうめて飲むことになりました。時代も変わったものです。


ささら
酒蔵では、竹を細く縦割りにして30cm位にしたものを束ねた、洗浄のための道具のことをいいます。以前は、道具のほとんどが木製でしたので、表面に凹凸があり、そこに、醪の米粒などがついてしまい、それが火落ちの原因になったりしますので、洗浄は大変重要な仕事でした。蔵人になり立ての若い人は、まずこのササラの使い方を徹底的に先輩蔵人によって指導され、清潔の必要性を教えられたものだそうです。


発酵の時に出る泡
醪の発酵の時には驚くほど大量の泡が出ます。桶から泡があふれないように、泡笠という桶の壁面を高くする杉製のおおいをめぐらしますが、それでもそのままですと泡はあふれてしまいます。昔はあふれないように、徹夜で竹の棒で泡を消していました。泡笠には当然たくさん泡がつきます。普通、泡笠は洗ってきれいにしますが、このこびりついた泡をとって、みそ汁に入れて食べるという酒蔵もあるそうです。香りがよいことでしょう。


桶と樽
桶と樽の違いはどこにあるのでしょうか。大きさでしょうか、材料の違いでしょうか。ちがいは、「かがみ」の有無です。蓋を上にのせる形式のものは桶です。はめ込み式の密閉型のものが樽です。従って、結婚式などで鏡開きするのは樽です。結納の時に使用する角樽もはめ込み式の樽です。鏡開きでは、上からかがみをたたくと簡単にそれがはずれるものと思っていて準備をしないで鏡開きをして失敗した話を聞くことがあります。鏡開きははじめからかがみをはずしてのせてあるのです。


さけの「さ」
民俗学者で、「さ」という言葉を重要視し、「稲の魂」といった意味の解釈する人がいました。「さなえ」、「さなぶり」「さおとめ」といった農業言葉の「さ」はそれであり、また、さくらの「さ」も、「さ」(稲の魂」がいるところ(くら=座)ということでした。もしそうであるのなら、酒の「さ」も同じかもしれませんね。酒こそ稲の生まれ変わった一番神に近いものなのですから。


酒林(さかばやし)
酒蔵の入り口に蜂の巣のような丸いものがぶら下がっていることがよくあります。これは、酒林といって杉の枝をまとめて丸く刈り込んだもので、酒屋のシンボルのような役目をしています。この酒林は昔は、杉の枝を下げていました。本来は神様のよりしろだったようで、神聖な清酒を造る場所に神様が降臨するためか、神聖な場所の結界を示すために作られたのでしょう。新酒ができると飾る蔵もあるようです。


清酒の色抜き
清酒は貯蔵しておくと糖分のカラメル化などによって黄色く着色してきます。瓶詰め前には、貯蔵時についてきた色や雑味、微少な浮遊物などをとるために、炭素濾過を行います。この炭素は主に、椰子殻(やしがら)の活性炭で、清酒の中に直接投下して、布や紙で濾過します。炭素を使いすぎると、香りや味もとれてりまい、あまり面白くないものになってしまいます。時々、いまはやりのさっぱり型にするために炭素を使いすぎて炭素臭のする酒も見受けられます。


杉桶時代の火入れ
杉の桶に、杉の蓋という時代には、火入れした清酒を密閉させる方法は何だったのでしょう。桶を密閉しなければ、外気と共に火落菌が入って清酒を火落ちさせてしまいます。従って、密閉させることが大変大事なことでした。火入れの時には、大量の和紙とふのりを用意して、桶に熱酒が入ると、桶と蓋の隙間に和紙を何層にも貼って密閉したのでした。


冷やおろし
火入れを終えて、タンクの中で夏を過ごし、熟成してきて飲み頃になった清酒をいいます。火入れした頃はまだ味が荒い状態ですが、夏が過ぎて秋風が吹き始め、外気が涼しくなってくると、夏の温度を保ってきている清酒の入ったタンクには温度差から、表面に水滴がつきます。このころが熟成した清酒の飲み頃となるわけです。


釜の湯
酒米の蒸かし作業は朝6時頃から始まります。しかしその前に釜の湯を沸騰させておかなければなりません。そのために、釜屋という蔵人の釜係りはかつて、朝の2時頃から起きて火を焚かなければなりませんでした。この釜は、大変保温性にすぐれ、1日たってもかなりの温度を保っております。ところが、次の日の蒸かしは、せっかくの湯をくみ出してしまい、新たに入れた水を沸かします。蔵人は水の力が落ちるから変えるのだと言いますが、資源保全の現代、そういうものかなとも思われます。


柿渋
清酒と柿渋はなぜか深い縁があります。たとえば、酒をしぼる時に使う酒袋に柿渋を染み込ませて茶色にして使います。また、瓶詰めする前に、おり下げといって、酒中の微少な浮遊物を沈殿させるために柿渋を少量酒に入れて数日間放置し、その後、濾過しておりを除去します。ほかにも、酒をしぼる「ふね」や、酒桶(渋引桶)に柿渋を塗ったりします。ただ、現在は段々縁が薄く成りつつあるようです。


酒風呂
一時大流行しましてすでに「死語」近いものですが、確かにある種の効果はあるようです。風呂に清酒を180mlから540ml位を入れるとよいようです。酒風呂にはいると、アルコールが皮膚を通して体内に入って血管を広げ、血流をさかんにするからだろうと思うのですが、あかであるとか、毛穴のごみがとれるからでしょうか、湯が大変よごれます。しかも湯から上がった後は、30分くらいは体がぽかぽかとしています。安い酒風呂用の清酒も千代菊などで販売されていました。


ヤコマン
清酒の発酵初期にわずかに出てくる芳香があります。普通は空気中に飛散してしまうのですが、タンクににふたをしてホースで発生物を集めて、マイナス30度に冷却します。そうしますと、6kl位の醪タンクで300cc位の液体がとれます。この液の香りがいわゆる吟醸香ですが、度数の高いアルコール液です。これは酒税法では、その発生したもろみからとれた清酒のみに添加しても良いとされている、通称ヤコマン(これを回収する装置のこともいいます。)といわれるものです。この名前は、この技術を開発した山田正一博士ほか菰田、真野という2名の研究者の名前の頭文字をとってつけられましたのだそうです。


初呑切り(はつのみきり、初呑)
新酒の火入れが終わってタンクにそれを貯蔵した後、味がどのように変化したか、また、火落ちがないかをみるために、初めてタンク(桶)のノミ(バルブ)を開いて味をみる一種の儀式のことをいいます。これによってそれぞれのタンクに貯蔵している酒の熟成の様子をみて、今後のブレンドの基礎資料とします。各地の酒造組合ごとに合同で、国税局の技官を招いてきき酒をしてもらったり、蔵元同士でお互いにきき酒して、今年の酒の品質をみます。


隠し味
インスタントラーメンに少し清酒を入れるとひと味違ってきます。冷蔵や冷凍したご飯を電子レンジで加温するとき清酒を少し振りかけるとふっくらして味が良くなります。調味用アルコールでは、みりんがよく使われますが、清酒も同様です。最近の味覚の傾向からして、てりを余り重視しなければ、みりんよりも、清酒を使った方が良いような気がします。どんな料理にもためしに少し清酒を加えてみて下さい。


税務署関税課
かつては「関税課の殿様」といわれていたそうです。かつては、酒税が国税の中で大きなウェイトをもっていましたので、税務署の中でも関税課は日の当たる部門でした。調査と称して昼時に酒蔵を訪ねると、下にもおかぬもてなしで、たっぷり食べて、たっぷり飲んだといった話が数多く伝えられています。それで殿様と呼ばれていたようです。いまは、税務署に酒税部門はなくなってしまったようです。時代も変わったものです。


こしき倒し(胴転ばし)
仕込みが終わると、酒米を蒸かす必要がなくなります。そうすると、蒸かしに必要な「こしき」は片付けることになります。このときに行われる酒蔵の中の行事がこしき倒しです。まだ、酒造りは終わったわけではないのですが、酒造りが一段落したことを祝い、後に残る作業に問題がないように願う行事(飲み会)がこしき倒しです。多分「倒す」という言葉を嫌って、別名である「胴ころばし」という名称ができたのでしょう。


火落菌のえさ
清酒を酸敗してしまう火落菌ですが、その「えさ」になるものは、メバロン酸という麹由来の物質なのだそうです。逆にいうと、これがなければ、ほぼ火落ちはないということです。聞いた話ですが、ハワイの清酒メーカーはしぼった清酒にあえて少量の火落菌を添加し、メバロン酸を消費させてしまい、それを火入れするとか。そうすれば、常夏の島ハワイでもめったに火落菌が繁殖して清酒が酸っぱくなることはない、ということになるわけです。


麹菌
麹菌は蒸かした米によく繁殖するようです。中国の麹が「クモノスかび」だったのにもかかわらず、日本にその製法が入ってきたときに麹菌に変わってしまったのはそのせいのようです。麹菌は、清酒ばかりでなく、みそ、醤油、漬け物、甘酒等々、いわゆる日本的な味作りに大きな貢献をしてきました。食生活の大きく変わってきた現在、この麹文化はどのように変わっていくのでしょう。


蒸かす
酒米は蒸かします。そして酒米は米はうるち米で、おこわではありません。この蒸かすということはひょっとすると古代の日本人の米を食べる食生活の名残なのではないかという気がします。弥生時代は米を蒸かして食べていたようですが、その理由は当時の食べものが固かったことと関係しているのではないでしょうか。焚いた軟らかいご飯では食べ応えがなかったのではないしょうか。ちょうど食肉文明の人が日本の松坂牛を軟らかくて歯ごたえがなくておいしくないといったように。


凍結酒
生酒を凍結したものが大関酒造などで売られています。生酒のフレッシュな味を保存するのは凍らせるのが一番です。いつまでもしぼりたての味が楽しめます。火入れ無し生酒は、0度以下で保管なければなりません。0度以下で保管しておいても、春から夏にかけて酒が徐々に熟成してゆき、春の荒々しい味が少しづつ変わっていき、面白いものです。凍結させるとこういう変化はほとんどないようで、いつでもしぼりたての味が楽しめるようです。


瓶詰め火入れの温度
60度以上の熱酒瓶詰めをします。60度以下ですと、火落菌が完全に殺菌できず、火落ちしてしまうことがあります。といって、あまり高温にしすぎますと味が変わってしまいます。時としてそうした味の製品に出会うこともあります。瓶の容量が少ないほど、高めの温度で火入れをしなければならず、ワンカップなどでは、70度位にするそうです。


清酒の税率
現在の酒税の税率は、アルコール濃度15度を中心に、濃度が高くなるほど高く、低くなるほど安くなっています。こうした税率をとりいれたのは、故坂口謹一郎東大教授だそうです。坂口は、その当時既に清酒が世界のアルコール飲料の中でアルコール度数が高いことに気がついており、将来低アルコールの飲料が好まれる時代が来ることを予測して、その時の役に立つようにと主張して実現させたということです。


ぬかの利用
酒米の精米で生まれるぬかは、何に使われるのでしょう。精米の初めに出てくる、赤ぬかは、エノキダケ栽培の培地などに使われます。精白度を上げた米の内側の白ぬかは、煎餅や団子の原料になります。最近は、これを発酵させてアルコールを造って清酒に添加したり、糖化してブドウ糖液にして醪に加えることも行われています。どちらも原料は同じ酒米であるわけです。吟醸酒の精米の時にでる最良のぬかの有効利用が出来れば面白いのにと思います。


麹の供給元
清酒製造に使用される二つの生き物の一つ麹。かびの一種ですが、これも酒蔵は購入しています。昔から麹屋と酒屋は分離しており、かつてはその間の争いもあったようですが、今にその分離の伝統が続いているようです。モヤシといわれる麹は、全国で多分10軒内外であろう清酒用の麹製造会社が供給しています。現今、清酒の販売減で、どの会社も大変なようですが、世界的に見て珍しい産業であるだけに、その持続・発展を願いたいものです。


酵母の供給元
清酒の命ともいうべき酵母、酒蔵のほとんどはこれを買っています。酵母を売っているのは国税庁の下部機関のようなものである日本醸造協会です。現在はアンプル入りになっており、10本で1〜2万円くらいで、アンプル1本で6キロリットルタンク1〜2本の発酵が出来ます。酒蔵独自の家付き酵母を使って醸造している蔵もありますが、一般的には日本醸造協会で培養された酵母が使用されています。以前、手詰めの瓶入り酵母に問題あるものがあり、各地で腐造がおこり、その結果現在のアンプル入りになったということです。酵母を自家培養しているのは、最大手の酒蔵とか、醸造技術をマスターしたした技術者のいる酒蔵のみです。


べく杯(可杯)
逆三角形型で底のとがっていて置くことのできない杯や、底に穴があいていて指で穴をふさいでいないとこぼれてしまう杯のことををいいます。漢文で「可」という字は、「べし」と読み、たとえば「可飲」(のむべし)といったように、動詞の上に置かれます。つまり、飲み干さなければ下に置けないというしゃれで名付けられたものです。単に逆三角形型ばかりでなく、天狗の鼻が底になるものや、おかめの口に穴のあいているものなど、色々なバラエティーがあります。ドイツのビールジョッキで角(つの)型の同様な物があり、洋の東西を問わずのんべいの発想は同じだと感心します。


きき猪口
酒の味をみるきき猪口(ちょこ)は底に青い丸が描かれています。「蛇の目」という別名の由来でもあります。まず、鼻で香りをかぎ、10cc位の酒を舌の上で転がして−ときき酒は進みます。回し飲みをするきき猪口はいやだという若い人もいますが、これは日本の伝統的な飲み方です。アルコールの殺菌作用もありますので、伝統にそう間違いはありません。底の青い輪は、白い部分との対比で酒の色とサエを見るためであり、丸いのは、ろくろで猪口を回しながら色づけをするからです。最近は酒についている色による先入観念で、きき酒がうまくできないといけないということで、黄色い色つきグラスできき酒が行われることもあります。


ひねり餅
酒蔵では、蒸かしたての熱い酒米を板にはたきつけて手でねって、直径20cmくらい、厚さ1〜2cmくらいの丸い「ひねり餅」をつくります。ひねり餅の状態を見ることによって、酒米や蒸かしの善し悪しを判断します。これを焼いて生醤油をつけて食べると大変おいしいもので、酒蔵の隠れた味の一つです。もっとも作る人にとっては蒸かしたてのあつい酒米を扱うので大変な仕事です。


火入れ
60度を少々超えた温度で清酒を加熱殺菌する、いわゆる低温殺菌法のことを火入れといいます。開放発酵の清酒には自然に火落菌という清酒を酸っぱくしてしまう細菌が入りますので、どうしてもこの火入れという作業が必要です。火入れのその他の大きな目的は、酵母を死滅させたり、麹の糖化酵素をこわすことです。これによって、清酒の発酵を止め、新酒を熟成した酒へと変化させるのです。


火落ち
アルコールは殺菌作用があるので悪くなることはないだろうという先入観念がありますが、清酒程度のアルコール度数ではある種の細菌が繁殖します。その細菌は乳酸菌の一種の火落菌といい、アルコールを乳酸にかえてしまい、清酒を酸っぱくしてしまいます。できたての清酒は火落ちを防ぐために60度を少し越えた温度で加熱殺菌して貯蔵します。これを火入れといいます。火落菌は60度で死滅するからです。昔の酒屋の倒産の理由の一つがこれでした。焼酎などの強いアルコールの飲料は火落ちということはおこりません。アルコールの殺菌作用により火落菌が生育できないからです。


生酒
生酒は糖化酵素(アミラーゼ。デンプンを、酵母がアルコール発酵のできるブドウ糖に変えるものです。)がポイントです。清酒の生はこの糖化酵素の状態で3種類あります。ひとつは、糖化酵素が壊れていないもの、ただし、この生酒は0度以下で保存しないと独特のひねた香りが出たり、すっぱくなってしまいます。これを通称生生といっています。もうひとつは、しぼりたての生酒を火入れという加熱殺菌をしてすぐに冷蔵庫貯蔵をして生酒の香りをのこした「生貯蔵酒」です。これは、当初の生の香りは多少変化しますが、まずは無難な生の香りが楽しめます。最後のひとつは、精密濾過で酵素を除去してしまう方法です。


統制
主食の米を減少させる元凶は清酒でした。従って第二次大戦中には統制が行われ、多くの物資と同様清酒も配給制となってしまいました。それによる悲喜劇が様々な形でおこりました。統制前の激烈な競争で息も絶え絶えだった蔵元が、値引き無しの定価販売で一気に精気を取り戻したとか、小売店が樽詰めで届けられた清酒を水でうめて増量し、それを瓶に詰め替えて自宅の風呂で火入れをして売ったとか、結婚式の清酒の手当ができない消費者が蔵元に畑でとれた大根を大量に持ち込み、ようやく無事に式をとりおこなうことができたとかいろいろな話を聞くことができます。


アルコール飲料
酒税法上アルコール飲料とされるのは、アルコール濃度が1%以上のものです。ですから、1%以下ならどんなにつくっても処罰の対象にはなりません。ビール醸造キッドとかいって販売されているものはそれで、1%以下だから認められているものです。(そんなはずはないのですが。)農家が田からとれた米で麹をつくって、味噌をつくっても良いのに、同じ米で麹をつくって清酒をつくってはいけないというのは確かに論理的にはおかしなものです。ただ、2兆円を越える酒税と、「アルコール依存」の問題を考えると、仕方ないのかなという気持ちもしませんか。


氷らせた酒
清酒は冷蔵庫の冷凍室に入れると簡単に凍ります。これをすこしおいておいて、とけだしたところを飲むと、濃淳なとろりとした濃い清酒が楽しめます。アルコールの方が、融解する温度が低いので先に溶けてきてしまうためです。もっと溶かしてシャーベット状にしてスプーンですくって食べるのもなかなかなものです。最近は洋食で、デザートに吟醸酒のシャーベットがでたりする時代になりました。ここへレモンをしぼってたらすのも一興です。


密造
今時「密造」などといっても実感のない人がほとんどでしょう。戦中から戦後、米不足のため主食の米を浪費してしまう醸造を抑制するということで、清酒が統制となり、のんべいには地獄のような時代がありました。このころ米を作る農家は有利なわけで、自作の米からおいしい密造酒を造る技術を持っているという嫁が良い嫁といわれました。当然税務署の取り締まりは厳しく、発酵のにおいが分からないように便所や裏山の穴の中で酒を造ったなどという話も伝えられています。


酒の甘さ
最近の清酒の酒度は±0位が普通です。酒度とは15℃の清酒の比重が水と同じときが0で、それより重い(糖分が入っている=甘い)ものは「−」がつき、軽い場合(糖分が少なくなる=辛い)ものは「+」がつきます。従ってそれぞれ数字が大きいほど甘くなりまた辛くなります。昭和時代くらいまでの清酒の酒度は「−6」近辺でした。今これくらいの酒度の清酒を飲めば普通の人なら甘すぎて飲めないと思います。それ位現在の清酒は辛口になってきています。


石綿
以前は清酒をろ過するときに使用されてきました。ところが、石綿に発ガン性があるということで、使用は禁止されました。その後継としては、絹やパルプ繊維などが利用されています。ところが、石綿は清酒のろ過には大変向いた素材のようで、これを使用すると、「テリ」「サエ」がまるでちがうのです。そこで、以前使っていて残っているものが今でも、鑑評会へ出品する吟醸酒のろ過に使われているということを聞いたことがあります。めくじらをたてるほどの問題ではありませんが。


にごり酒
市販されている「にごり酒」は清酒と表示されています。もろみの米粒の入った「本来の」にごり酒は、酒税法上では清酒とは認められません。「本来の」にごり酒(どぶろく?)を売ろうとすると、「清酒」の免許ではだめで、「雑酒」の免許を取らなければなりません。これは面倒ですし、一定の数量を売れないと免許がもらえません。それに、どぶろくはそれほどおいしいものでもありません。したがって、全国でもこの免許を持っているところはほとんどないと思います。では、「にごり酒」と「どぶろく」の違いは何なのでしょう。清酒は酒税法の定義では「もろみをこしたもの」となっています。つまり、ろ過をしないといけないのです。といってろ過をするとほとんどのにごりの部分はとれてしまいます。そこで蔵元はどうしているかというと、目の粗い網のようなものでろ過のマネをしているといったらよいでしょう。もちろん、その前に米粒をポンプなどでとろとろにしてしまっていますが。


新酒
少し前までは、新酒の香りは麹臭いといってきらわれていました。蔵元が新酒を出荷するときは、古酒をとっておいて、新酒の香りが鼻につかないように、それに混和して分からないようにして出荷しています。ところが、最近、若い味を好む層がふえてきて、生酒という名称で大きな市場を形成するようになってきました。漬け物の味覚からサラダの味覚に変わってきた流れと並行しているように思われます。新酒の認知度が高まるということは、清酒のジャンルが広くなるということでもあり好ましいことだと思います。


古酒
この頃「古酒」といって売られている清酒がありますが、みると数年しか寝かせていないものがほとんどのようです。私は純米酒の10年ものをお奨めします。良い状態で10年寝かせた純米酒は、ちょうど老酒のようになり、色と香りを楽しめる、普通の清酒とひと味違った新しい飲み物になります。(日本人には辛口の老酒より舌にあうような気がします。)ただし、吟醸酒は10年程度ではいけません。吟醸酒は大変寿命が長く最低20年くらいは保管してください。それに比べると純米酒は20年位までが限度かと思われます。それと当たり前のことですが、保存の条件は、10〜20度位の温度と光の当たらないということです。


アルコール発酵

12→2CCHO+2CO
 ブドウ糖       アルコール       炭酸ガス

 これはアルコール発酵の分子式ですが、この式から180gのブドウ糖から92gのアルコールと88gの炭酸ガスができるということが分かります。清酒なら、1tの米の内約半分の500kgが炭酸ガスとして消えてしまうのですから、考えてみるともったいないような気がします。単純に考えると、全国で50万d酒米を使用しているとすると、25万dくらいは炭酸ガスを発生させているわけで、発酵は地球温暖化にも”貢献”しているようです。(それでも石油と比べると大したことはなさそうです。)最近、ビール業界は、炭酸ガスの空中放出をかなりおさえてきているようです。


軟水と硬水
 灘の宮水といえば硬質の酒向きの水ということで有名です。昔は硬水が酒に向いていると思われていましたが、先人(広島の三浦仙三郎といった人々)の努力の結果、軟水でうまい酒が造られるようになりました。現在は、むしろ、軟水で造られた清酒の方が好まれているようです。軟水の酒は、女酒といった柔らかい味になり、伏見、新潟、広島、秋田といった現在の銘醸地を形成しています。しかし一方で、柔らかいさっぱり型だけでは物足りないところもあり、最近は、多少こくとか、幅のある硬水系の味も好まれてきているように思われます。何でも行ったり来たりがあるということでしょうか。


アルコールの値段
清酒    1800cc(15%)  小売価格1835円  内酒税252.9円    180cc184円
ビール    633cc(4.5%)   小売価格316円   内酒税140.52円    600cc300円
ウィスキー 720cc(40%)   小売価格1510円   内酒税286.3円     68cc142円
焼酎    1800cc(25%)   小売価格1370円   内酒税446.58円   108cc82円

度数換算したアルコール飲料で一番価格が高いのはどれでしょうか。それはビールです。その理由は小売価格の40%を越える酒税です。輸入原料(麦芽)で造られるビールと、国産原料(米)で造られる清酒とでは、さらに、1兆円を総売上とするビール業界と100億円単位を総売上とする清酒業界(しかも半分くらいは年商1億円前後の企業です。)とでは、原価的な競争は不可能です。(国内産)米と、(輸入物)ビール麦(麦芽)の重量あたりのコスト差は5倍以上です。米生産農家を守らなければならないということと、清酒を守らなければならないということから、ビールの高率税制が行われてきました。その結果がこの数字です。一番左は、清酒1合分(0.18L*15%)のアルコール換算の他酒類の小売値段です。(つまり同じだけ酔うことの出来る値段です。)今は減税されたためにウィスキーの方が清酒より安くなっています。