表紙に戻る
フレーム付き表紙へ


御 酒 の 話 45




義侠  対酒曲  ジュウタンの上にゴロゴロ  台所から酒を追放したい  大正九年(2)  酒類の価格  冠辞考  (二七)下六藤六踊  酒古名考  番夜作  酸素  白酒  中国酒  洗い場の仕事  遊子方言  あまざけ【甘酒】  腐造ふぞう  五時まで  481目印  徳和歌後万載集(2)  家教  酒小史  田中貢太郎と和田垣謙三  酒場のオーナー  鍋島  話し相手、飲み相手  飲まぬ客  初代川柳の酒句(13)  実験  四九 酒食のこと  無名異焼の盃  かに  <酒と泪と男と女>  ぼう【棒】  古酒の軽いの  中走り  灘の生酛方式  古来風躰抄  健醸  奥州詞  当流人名辞書  (一)菊づくし踊  野放し状態のテレビコマーシャル  灘五郷  かんだやぶそば  大正九年  酒場のツケで直木賞をとった男  月の下で独り酌む  やっぱりお酒は日本酒ね  六畳か、四畳半かい  少年ヘルシェル  三輪  君を羨む(張謂)  編者あとがき  道具名之事  米淅歌  酒癖  居酒屋 いざかや  古今夷曲集(6)  泥酔の思い出  駅弁  徳利二本の酒  アチーヴ  義侠  順の舞  杜甫  道化万歳  俳句・短歌索引  酒を基語とする熟語(5)  ハスの葉  八丈島の焼酎  まずいと感じた時はそれ以上飲まない  地酒居酒屋  東野さん  お梅  一杯飲んだ後、もう一杯飲まないでいられたら  伊藤忠吉  メートルをあげる  有頭エビの鬼殻焼き  あはもり【泡盛】  さばけ  宴会  480手遅れ  酒不酔人  ほろ酔い  徳和歌後万載集  北山酒経  「飲」「食」の表現  第五高等学校時代  東洋美人 とうようびじん  寝酒  三国一、門前一  初代川柳の酒句(12)  昼呑み  はやみち[早道]  伝染病  酒の徳  ぶれいかう【無礼講】  居酒屋-ラジオライブ-高尾山  身延の日蓮  利休卵  岩村弥八  ぽん酒館  話と交換  古今夷曲集(5)  安倍川あべかわ  今年酒の粕  酒言葉之事  一休と亦六  某月某日  宴城東荘(2)  造醸  酒飲まぬヘルシェル  酒に強いこと、酒に酔わぬこと  誤植  暑い時は、熱いものを食う  ハタハタ  大学生の飲酒  酒の華  (十六)曽我五郎  酒泉公園  同(童謡)(陸奥)  狂歌百人一首  ウコン  江戸の独身者  「酒」に関する和歌表現  枝桶  第二 正直な親仁を一呑みにする上戸気質  479酔うと  すっぽん仕込み  ストレス  あしかが【足利】  アサリの茶碗蒸し  酒を基語とする熟語(4)  メートルがあがる  硝酸塩  ドク・シバリンセン  玉川  称好塾  ソムリエの話  陶器に味噌詰めるような人じゃ  氷を入れたビール  蘇東坡  やごとなき方より  酒によって夢から醒める  ハモニカ横丁  のまぬくらいなら、蕎麦やへは入らぬ  井戸に吊しておいた酒  日本酒で二升  黒糖焼酎  イワナの骨酒と酢洗い、刺身  あくねざけ【阿久根酒】  古今夷曲集(4)  一人酌む  初代川柳の酒句(11)  おつけ言葉  陽と陰  細き丸輪  壺入  津軽のりんごと酒  イラギのみりん干し  酒狂人  ライバル  きょうかい15号酵母  418しまった!  はつがつを[初鰹]  酛の前半と後半  日本海  向島の園遊会  夫木和歌抄  江戸の新酒と酒の消費量  お酢  蜀山人自筆百首狂歌  子守歌(福井県)  酒々井  木枯紀行  無礼講(ぶれいこう)  (七)難波津壺論  酒を基語とする熟語(3)  アンキモの味噌漬け  地にすずしみある時   まんどりあし(万鳥足)  贅言(酒と私)  獺祭 だっさい  可能なのに治療されない病気  ●七月四日(金)  寄中汲酒恋  状元紅  断酒(だんしゆ)  宮内省御用達  気持ちよく飲むこと  屋台おとみ  大學先生曰く  唐代  生ワラビと5年熟成吟醸酒  黒糖焼酎  六歳六月六日  三日目の酒母  ポンちゃんの受難  酒売亦六  ふらすこ  民酒主義  塩鮭  変わり酒粕ソース  宴城東荘(1)  高校生の問題飲酒  食後酒  どぶ-ろく  二本目もスイスイ  鳳来寺紀行  紹興花彫酒 貳拾年陳  風流問  女学酒宴喧嘩狼藉  満月酒  飲酒法令  アルコール依存症  アイテテテ…  ●六月九日(月)  竹鶴  題酒家  天明の大飢饉下の秋田藩  (六)蝦夷の話(巻六)  ぽんしゅ(本酒)  ワカサギの甘露煮 「酒」を基語とする熟語(2)  独酌  居残り組  酒で記憶を失うのは究極のホラーである  酒の肴にすしと答える外国人  唐 六二七~六四九  以前はボトル一本半  歳ですなあ  ふやとうじ【麩屋杜氏】  船唄  兜で酒  壱岐焼酎  デパートの対応  地獄信解品第七(後談)  奇跡を祝って  御園竹  夜帰る  変わり茶碗蒸し  亀田窮楽  脳の萎縮  森光子  王道のつまみ  マイタケ  酒造株  とっくにすぎた  高砂の尾上の桜咲きにけり




義侠
「義侠」を醸す山忠本家酒造は、愛知県西部の愛西市にある江戸時代から続く老舗蔵だ。最高レベルの米を求めて、酒造好適米「山田錦」の産地、兵庫県東条町へ幾度となく足を運んだ蔵元さんの情熱は、酒の味わいにしかと感じられる。たとえばその真骨頂ともいえる「妙」(純米大吟醸低温熟成酒)は、米のまあるい旨味が口のなかでぽわんぽわんと広がっていく。瞳を閉じれば、ゆらゆらと揺り籠に揺られているような心地よさ。熟成酒をブレンドした「遊」(純米大吟醸)は、きりっとした印象のなかに、厚みのある甘味が潜んでいた。「えにし」(特別純米)は、」燗酒がおすすめ。艶のある甘味が引き立ち、肩のこりがほぐれるような幸せを覚える。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子)


対酒曲  賈至(かし) 前野直彬(まえのなおあき)訳
春ともなれば酒の味は濃く
花草を前にしてあげる杯(さかずき)
一献(いっこん)酌(く)めば千の憂いが消え
三杯飲めば万事は空(くう)に帰する
うららかな日ざしに声かぎり歌い
東風(こち)吹く中で酔うては舞う
もし 一座のかたがた
われらの生涯はころがる蓬(よもぎ) それでよいではござらぬか(「酒の詩集」 富士正晴編著)


ジュウタンの上にゴロゴロ
コンサートを打ち上げて「さァ飲もうよ」となったときの梓みちよの豪快無類な飲みっぷりは、並居る男たちも顔色なしでなじみの深夜営業のクラブを飲み歩いた末に、「ねえ、家に行って飲み直そう…」と、なんとかダウンせずに頑張ってきた男どもを強引にひきつれて、わが家に帰るのだが、パッパッと外出着を脱ぎすてたみちよは、シャワーを浴びるのももどかしく、ラフな部屋着で大あぐら、ブランデーのボトルをひっさげて、酒盛りのやり直しである。もう、そのころには東の空はほの明るくなり、まさに暁の酒宴。元気なのは梓みちよひとりで、男どもは一人倒れ、二人つぶれて、ジュウタンの上にゴロゴロ。(「いい酒 いい友 いい人生」 加藤康一)


台所から酒を追放したい
太宰治のエッセイに、『酒ぎらい』という一文がある。「私は、平常、家に酒を買って置くということは、きらいなのである。黄色く薄濁りした液体が一ぱいつまって在る一升瓶は、どうにも不潔な、卑猥(ひわい)な感じさえして、恥ずかしく、眼ざわりでならぬのである」とつづられている。ところが、ほんとうの太宰は、大の大酒飲み。自宅や近所の鮓屋、銀座のバー「ルパン」などで酒を飲むのが楽しみだった。じつは、『酒ぎらい』のエッセイは、心中未遂(みすい)、薬物中毒、離婚といった二〇代の不幸を忘れ、人生の再起を誓ったころのもの。再婚の新妻をともなって東京・三鷹(みたか)の新居に移り住んだ二か月後に書いたものである。そのときの状況を考えると、生活に追われる新妻を横目に、とても悠々(ゆうゆう)と酒を飲んではいられないという気持ちから書かれたものなのかもしれない。じっさい、このエッセイは、「どうも、家に酒を置くと気がかりで、そんなに呑みたくもないのに、ただ、台所から酒を追放したい気持ちから、がぶがぶ呑んで、呑みほしてしまうばかりで、常住、少量の酒を家に備えて、機に臨んで、ちょっと呑むという落ちつき澄ました芸は、できないのである」とつづいていく。「台所の酒を追放したい」から飲むと、大義名分をかかげなければ、気の弱い太宰は、好きな酒が落ちついて飲めなかったと考えられている。(「酒のこだわり話」 博学こだわり倶楽部編)


大正九年(2)
搾酒場
酒蔵(さかぐら)も 母屋(もや)もしづまり 初夜掻(しよやがき)の 酛摺(もとす)りうたは すでに止(やみ)みたり
酒蔵(さかぐら)に 揚槽(あげふね)しまる 音(おと)たかし 夜(よる)は母屋(おもや)の 遠(とほ)くまでひびく
算用(さんよう)を 夜(よ)おそく終(を)へし 帳場(ちようば)にて 人手(ひとで)をからぬ 寝酒(ねざけ)わかすも
この家(いえ)に 酒(さけ)をつくりて 年古(としふ)りぬ 寒夜(さむよ)は蔵(くら)に 酒(さけ)の滴(た)るおと
夜(よ)を凍(し)みる 古(ふる)き倉(くら)かも 酒搾場(しぼりば)の 燈(ひ)のくらがりに 高鳴(たかな)る締木(しめぎ)
燈(ひ)のもとに 酒槽(さかふね)のしまる音(おと)のして 石(いし)を懸(か)けたる 男木(おとこぎ)ふるふ
夜(よ)くだちて 締木(しめぎ)の懸石(いし)の 垂(た)るおとも 槽(ふね)もをわりの 滴(た)りの乏(とも)しさ
槽(ふね)のしたの 夜(よ)ぶかき瓶(かめ)に 下(お)りて汲む 搾(しぼ)りたての 酒粕(さけかす)くさきかも(「中村憲吉歌集」 斎藤茂吉・土屋文明選)


酒類の価格
未成年者の飲酒を抑制するための最も効果的な方策は、お酒の税金を大幅に増額して、子ども達が簡単に買えない値段にすることです。それは大人達のアルコール消費も抑制する効果も持っています。日本の物価水準からすると、この三〇年間に食料品は約五倍になっているのに反し、酒類は二・五倍しか上昇していません。つまり、酒類はこの三〇年間で、他の物価と比較して半分の値段になっているのです。つまり、未成年者飲酒禁止法も小売の免許も酒税も、新しい視点から組み立て直さなければならない時期に来ているのです。国民の健康と福祉のために、お酒の消費と生産・販売をどのように調整するかということが求められているのです。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二) 平成7年の出版です。


冠辞考
また「冠辞考」では、「酒をかみするてふ話は麹(かんたち)をまじへて造る事也。其かんだちはかびたちにして、米のかびの立たるをいへり。故にかみする、かもする、かむなどとも云うは、皆音通へり。かびる、かぶる、かみるなどに通はして知るべし。古へ飯をかみて、酒とせしなどいふ俗説は、いふにたらず。」とあります。(「灘の酒」 中尾進彦) 冠辞考は、賀茂真淵の著した枕詞の辞書です。


(二七)下(げ)六藤(とう)六踊
二上りえいどつこいえい/\、えいこのえいとんな、聟(むこ)がくるやらげ六と藤六とお樽(たる)もつてまゐつた、おつとりそろへた御祝儀(ごしうぎ)、霰(あられ)まじりの霙酒(みぞれざけ)、春はうでたいと其酒(そのさけ)ひつかけて、花たちばなやれ宇治水、えいとんな、うんえいとんな、池田伊丹(いけだいたみ)のげ六と藤六が昼は前垂玉襷(まえだれたまだすき)、よるは綸子(りんず)の三重(みへ)まはり、ちんたの酒(さけ)やしなの酒(さけ)は婿殿(むこどの)のおすきぢや(「松の落葉」)


〇酒古名考 一冊
槻の落葉の一冊にて荒木田久老著なり。酒の古名を考證したるものにして、即ち「くし」と云ひたるならんとの説なり。(「古今料理解題」 幸田露伴)


番夜作(ばんやのさく)
薬罐 寒天独 不氷(やくはんのかんてんひとりこほらず) 中番何事 是相応(なかばんなにごとぞこれそうおう) 小僧今夜廻町内(こぞうこんやてうないをまはる) 酒代明朝 又一升(さかだいみやうてうまたいつしやう)
自身番のていをつくれり。くはしくは大屋裏住(年中行事)にみへたり。町人用の多きをなげく詩也。くはしくは白子屋にたづぬべし。シラアシ。(「通詩
選諺解」 大田南畝)


酸素
そして深呼吸には、さらにもうひとつ、二日酔い対策の効能としてあげられることができる、ということだ。最近では酸素入りの水や缶入りの酸素がコンビニで売られているし、街には酸素バーなる店もあるくらい、酸素は注目を集めている。では、二日酔いに対して、酸素が何か関係あるのかというと、これが大アリなのである。実は酸素には、悪酔い・二日酔いの原因であるアセトアルデヒドの分解を促進する機能があるという研究結果が発表されているのだ。これだけでも「酒を飲んだら酸素」という理由がお分かりいただけるだろう。(「二日酔いの特効薬」 中山健児監修」)


白酒
私的記事として最も興味深いのは、巻一、父の喪中、乳母宅にこもる作者の許に愛人雪の曙がひそかに訪れる場面である。それとも知らぬ乳母は枕元の障子をたたいて作者好物の白酒の用意ができたと知らせる。
さしてもあるべきならねば、「心地のわびしくて」と言へば、「御好みの白物(しろもの)なればこそ申せ。なき折は御尋ねある人の、申すとなれば、例の事。さらば、さてよ」とつぶやきて去ぬ。…死ぬばかりにおぼえてゐたるに、「御尋ねの白物は、何にか侍る」と尋ねらる。霜、雪、霰とやさばむとも、まことしく思ふべきならねば、ありのまゝに、「世の常ならず白き色なる九献(くこん)を、時々願ふ事の侍るを、かく名立たしく申すなり」と答(いら)ふ。「かしこく今宵参りてけり。御渡の折は、唐土(もろこし)までも白き色を尋ねむ」とてうち笑われぬるぞ、忘れがたきや。憂き節には、これ程なる思い出、過ぎにし方も行く末も、又有るべしとも覚えずよ。 (文永九年十月)
密事に気づかず、小言たらたら去る乳母、「白物とは?」との問に、風流めかしてもごまかせないと覚悟を決め、「白酒の事」と」正直に答える作者、「よい事を聞いた、おいでの折は唐土までもさがしてよい白酒を御馳走しましょう」と笑う愛人。作者は憂く辛い折節毎に、これ程心和む思い出はないと言っている。人目をしのぶ恋でありながら、この率直さ、このユーモア。こよなくさわやかにほほえましい、酒のエピソードである。(「御酒すゝむる老女」 岩佐美代子) 「とはずがたり」です。乳母の言葉は、好きな白酒だから言ったのに。白酒がない時はあるかと聞くのに、あると言えば、いつものように逆らう、それなら、いいだろうといった意味だそうです。


中国酒
あまり知られていないが、灘酒に次いで江戸後期に売れ筋となったのが「中国酒」である。といってもメイド・イン・チャイナや中国地方で造られた酒でもなく、「なかぐにしゅ」と読む。『守貞謾稿』も、灘の酒を下り酒の最高ランクとしているが、上方と江戸の中間である東海道筋の尾張(おわり)の知多(ちた)半島の常滑(とこなめ)や半田(はんだ)、三河(みかわ)の豊橋(とよはし)などで醸造されたものを中国酒として評価している。その他の国の酒は品種が劣る「下品(げひん)」としている。常滑は古くから焼き物の産地で、焼き物は船便などで広く各地に運ばれ、廻船事業が発達していた。江戸時代には尾張(おわり)藩のバックアップもあって酒造業が盛んとなり、上方よりも江戸に近い地理的条件を巧みに生かして、船で江戸に輸送していた。天候が悪化すると、難所の紀州灘を渡るのは難しく、灘からの下り酒の船便は途絶えた。江戸では酒が不足になって問屋は酒の入手に奔走した。中国酒は、こうした情報をいち早くキャッチし、品不足には迅速に対応するなど、穴埋め役として重宝がられた。中国酒は早くから上方酒を研究し、酒質もそれなりだったので、人気のほうも上々だったらしい。多いときには江戸の市場で一割のシェアを占めたという。


洗い場の仕事
酒屋もんになると、最初は「洗(あら)い場(ば)」の仕事だわ。酒造りに使う道具はもちろん、杜氏さんの猿股(さるまた)まで洗うんだ。それから洗い場の親方になって、次は「洗米(せんまい)」の係をやって洗米の親方になるという具合で、「釜屋(かまや)」、「酛屋(もとや)」、「麹屋(こうじや)」、最後に「頭(かしら)」になる。早く言えば、これが昔の酒屋もんの順番だったのさね。「頭」というのは副(ふく)杜氏という格で、杜氏さんを補佐(ほさ)して仕事の段取りを整えるんさね。「杜氏」になるのはその後だ。仕事を一つひとつ覚えながら、階段を一段、一段とあがるようにして杜氏になっていくわけさ。おらもその通りの順番で修業して杜氏になったんだわ。「洗い場」の仕事は毎日、毎日、冷たい水を使うすけ、手も足も真っ赤になっての。たとえば「酒袋(さけぶくろ)」があるろ、「もろみ」を入れて搾(しぼ)る袋さ。あれは酒に臭(にお)いがつかないように、実際に搾りに使う一ヵ月も前から、何度も何度も洗うわけさ。それも一枚や二枚ではないんだ。たいへんな数だ。それを繰り返し繰り返し、冬のさなかに冷たい水で洗うわけさ。他の仕事をしたいと思っても、入ったばかりの酒屋もんにできる仕事はそれぐらいだすけ、仕方ないんだわ。おらも、これが一番、辛かったな。一日でも早く、仕事を覚えて、洗い場から出たいと思っていたわ。だども、ただ早く偉(えら)くなればいいとも思っていなかったんだわ。早くと同時に、一つひとつの仕事をしっかり覚えんば駄目だという頭はあったな。若いうちに、一つひとつの仕事をしっかり覚えておかんば、上の役についても、下の者の指導ができないわね。それは杜氏になっても同じこんだ。酒屋もんの仕事はどういうものか、全部知っていればこそ、こういう時はああしろ、こうしろと若い衆にも指示がだせるわけさね。それが昔の杜氏だったんだいね。(「杜氏千年の智恵」 高浜春男」)


遊子方言
客 いや、これは、これは、かかさま、どうじゃ、どうじゃ、一つ 飲み給え、飲み給え。
茶屋男を呼び、ひそひそ言う。
茶屋男 これ、申し、御祝儀(ごしゆうぎ)がござりましたぞえ。
遣手(やりて) ははゝゝ、おありがとうござりんす。私は、まあ、行って参りましょ。
新造 今のお盃、あげましょ。
そこへ台の物、菓子。重箱の蓋をとれば、あたたかそうな物。方々から持ってくる。
客 さあさあ、これほど御肴(おさかな)が出た。おさえます。おさえます。いや、おみよ、お秀、いやあ呂州さん、さあ、お出で、お出で。なに、今の盃は、こう、おまわし、おまわし。
かぶろ 兄(あに)さん、その三味線箱、あちらへ上げてくんなんし。あれ、後亭さん、わるふざけなさるな。あれ、呼びなんす。おう、おう。
みな 旦那は、だいびお酔いなさった。休ませ申したらよかろう。
注 一 差された盃を受けずに、もう一度差した人に飲ませること。(「遊子方言」 田舎老人多田爺 和田芳恵訳)


あまざけ【甘酒】
①芝神明の祭日に於ける甘酒。この祭日には生姜市と云ふが立つて、よく甘酒を売り、又氏子の家々でも作つた。『神明は甘い辛いの土産なり』はその例句。
甘酒へすぐに土産をおろし込み   土産の生姜を
甘酒もかために作る生姜市   固めと片目の秀句
甘酒を呑ませて傘を借してやり   其頃雨多し(「川柳大辞典」 大曲駒村編)


腐造ふぞう
もろみに腐造乳酸菌等の有害菌が異常繁殖し、酸度が4~10以上に達し、酵母の増殖活動が抑えられて留後10~15日位でアルコール発酵が停止して香気も悪くなり、アルコール分の生成も10~15%に留る現象を腐造という.酒質は酸臭(さんしゆう)・腐敗臭(ふはいしゆう)・酪酸臭(らくさんしゆう)・酢酸臭(さくさんしゆう)等があり酸味・甘味等が調和せず到底飲用できない.踊りのころから異臭が感じられる時や、初期には異常がないのに次第に酸臭を発し、有害菌が急に繁殖して酸度が急増する場合等がある.有害菌の性質により、酸度が増加してもアルコール分の生成が普通のもの、アルコール分の生成は早く停止するが、酸度の増加が3~4程度に留まるもの、あるいは香気がそれほど悪化しないもの等がある.もろみが酸臭を発し蒸米は異常な酸味を有し、泡が光って重く粘り、品温の上昇が鈍るかあるいは停止し、酸度が1日に0.5以上増加し、ボーメの切れが鈍るか停止し、またツン香が弱まる等の異常を早く発見することが大切である.有害菌の繁殖原因は原料・器具等から侵入し、こうじ・酒母中で多量に繁殖した場合が考えられる.またもろみ初期に酵母の増殖が遅れて有害菌が優性に繁殖した場合も同様である.酒母ならびに踊りの酸度を通常に保てば有害菌の繁殖は抑えられる場合が多い.また蒸米の生蒸(なまむ)しも腐造の原因といわれているが、救済するには発酵助成剤、酒母、固形酵母の添加等がある.腐造もろみが発生すると、以後のもろみにも次々と感染していく可能性があり、早く仕込みを中断して原因の追及と藏全体の消毒殺菌を行う必要がある.(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)


五時まで
二日酔 覚めた頃には 五時となり   ア~ル中
午前様 三日つづいて 犬と寝る   ハスキー作
残業
残業の はずが帰れば ちどり足   職場の花
ベテラン?
真ん中で 飲んでる奴が 平社員   よみびとしらず
仕事での 損失補填 赤ちょうちん   課長補佐(「平成サラリーマン川柳傑作選①一番風呂・二匹目」 山藤章二・尾崎三柳・第一生命選)




481目印
子供A「ボクのお父さんの鼻は、なぜ赤いか、知ってる?」
子供B「なぜだい?教えてよ」
子供A「人の大勢いる所へ行っても、目印になって、ボクが迷子にならないためサ」(「ユーモア辞典」 秋田實編)


徳和歌後万載集(2)
 詩人嗜餅   竹杖為軽
酒一斗 のみにし人も 物かはと かみこなしたる 餅は大白
 友どちひとりふたり目黒に詣でけるにその友ひとりは上戸ひとりはげこになんなりける折から雨ふりければ   泥道すべる
村雨の さめるもあれば 酔ふもあり 是やめぐろの ふどうなるらん
 やまひのゝちしばらく酒をやめ侍りければ   峯松風
下戸となる 我身ひとつを 歎なり 二つ三つよつ いつか飲みたや(「徳和歌後万載集」 野崎左文校訂)


家教-家のしつけ
お酒もタバコも中国の法律では、未成年の飲酒や喫煙を禁止してはいないようなのですが、もし法律で禁止されているとしても、彼らは法律による束縛を受けることを、身近に感じてはいなさそうです。法律よりも両親がこわいとか、友人たちの「お酒は人生に良くない」とか、「祝事以外にタバコを口にするのはみっともない」等という歯止めの方が効果的なプレッシャーとなっているようです。成人しても両親や目上の人の前ではタバコを遠慮するお行儀の良い人も、たくさんいます。これは十二歳くらいまでに家庭での家教(カーガウ)(しつけ)がしっかりしていたからなのだそうです。(「雲を呑む 龍を食す」 島尾伸三) 中国では、18歳未満の未成年者への酒、タバコの販売は禁止されていますが、飲酒、喫煙の明確な年齢制限は規定されていないそうです。


酒小史
南宋 端正二頃 一二三五頃 宋伯仁『酒小史』を著す。酒一〇四種の名称のみ。外国の種一五種を含む。朝鮮酒はあるが日本酒はない。(「一衣帯水」 田中静一)


田中貢太郎と和田垣謙三
貢太郎がはじめて博士について酒を飲みにいったときのことである。音羽のある縄暖簾に入ると、まず「酒一本」といって一合入りの銚子をとる。そのあとで肴を注文するだろうと思っていると、一向に注文するふうでもない。自分の盃につぎ貢太郎の盃にもついで、三、四盃つぐと銚子の酒はなくなった。すると博士はポケットから銭を出して、「行こう」という。みかけによらずけちな人だと内心軽蔑しはじめながら、貢太郎はついていった。次は山吹町のバーに入った。貢太郎は「博士が最初の家で蚊の吸ふ位飲んで出たのは、汚い食ふ物も碌碌無い家であつたから、ちょっと飲んでから、出たのであるから、此所では酒も多く取り肴も貰つて、ゆつくり落ちついての飲むだらうと思つてゐると、又酒を一本注文した。そしてそれは二合壜であつたが、やはりその酒ばかりで他に肴も取らずに飲み、無くなるとすぐ腰をあげた」という。貢太郎はあきれたものの、酒も少しまわって、物足りないことは物足りないものの、最初とはちょっとちがった感じをもった。三軒目も同じ。四軒目も同じで酒だけとって飲む。貢太郎は、もはや軽蔑するどころではない。相当よい気持になっていた。六、七軒目で博士は貢太郎に問うた。「君、ひもじくないかね。何か食はうぢやないか」といわれて貢太郎は何も食べられなかった。このあとまた店をかえ、十軒あまりまわって夜遅く帰ったが、ぐでぐでになった貢太郎に、博士は愉快そうに洒落をつぎからつぎへと連発するかと思えば、女給相手に拳をして遊んだという。肴を食べ、料理を楽しみながら飲む酒は、比較的近代の、それも上等な酒宴のことで、一般の水準でいえば、肴の質も量も少なく、ほとんど肴なしで酒を飲む人もたくさんいたのであろう。それにしても貢太郎は、酒をくみかわしてはしめて博士の人となりに接し得た。酒は言葉以上のコミュニケーションたり得ることをこの挿話は示している。(「酒と社交」 熊倉功夫)


酒場のオーナー
酒場通いもあまり頻繁になると、なかにはそんな酒場のオーナーになってみたいという気を起こす向きもあったりする。昔、美人画の挿し絵で一世を風靡した岩田専太郎という画家がいた。この人なぞもそのくちで、最もお盛んな頃には三軒の酒場のオーナーだったこともあった。ところが生来のお人好しである。店のマダムと特別に肉体関係などなくても出資は惜しまない。オーナーとして金を出した上、そのママに経営が赤字だと泣きつかれれば、そうかそうかと同情を惜しまないから、自分は儲けるどころではなかった。さすがの岩田画伯も晩年はよくこぼしていた。酒場のオーナーになってみてよかったことは何もない。酒場の裏側がわかってしまうと、店で女性たちと遊んでいてもちっとも面白くない。それに店の女性の側でも、岩田に対してはオーナーとしてみるために遊びの妙味が消え失せるというわけである。ストレス発散でのぞいたつもりの酒場で夜な夜な度を過ごして、酔いが醒めては、いやな気分に襲われている向きがあれば、一度試しに酒場の裏側に思いを馳せながら飲んでみれば深酒にはなるまい。(「知って得する酒の話」 山本祥一郎)


鍋島なべしま 飯盛直喜さん 富久千代酒造(佐賀県鹿島市) 蔵元・杜氏
昭和37(1962)年、「富久千代」を醸す蔵元の長男として生まれる。明治大学卒業後、東京で会社勤めをしていたが、父の入院を期に帰郷を決意。醸造試験場で基礎を学んだ上で、平成元年に家業に就く。地元の酒販店とともに、佐賀を代表する酒を造ろうと新聞で名称を公募。佐賀藩を統治した鍋島家にちなみ「鍋島」を選択。当家の末裔の了解を得たうえで、平成10年にデビューした。14年から前杜氏(肥前)の後を継ぎ杜氏に。 ●「『故郷に錦を飾ると言う言葉があるが、故郷に錦を着て帰ることを願う前に、郷土を錦で飾ることを考えよ」。「青年団の父」田沢義輔先生の言葉ですが、私の人生訓です」「佐賀らしい甘さと米の旨味、搾りたてのフレッシュ感を瓶に閉じ込めたい」 ♠最も自分らしい酒 「鍋島」純米吟醸 山田錦 精米歩合50% 著者コメント:佐賀の酒らしい柔和な甘みを豊かな酸がひきしめ、生酒のようなフレッシュ感がある。揚げ物、炒め物や中華、軽いイタリアンにも合う。現代の食卓にふさわしい1本。 ♥著者の視点 平成15年、ガレージのような小さな蔵で一人で酒を醸していた。10年後に訪問するとモダンなテイスティングルームも併設され、10人体制で造っているという。平成16年、初めて出品した全国新酒鑑評会で入賞した翌年から連続金賞、23年にIWCでチャンピオン酒に選ばれるなど輝かしい成績を収め、九州を代表する銘柄へ成長。努力に脱帽。(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子)


話し相手、飲み相手
京都大学に進んでからは、帰省すると父のご相伴で昼と晩とに杯が付くやうになつた。元来父は客を好むたちで、誰かと大声に放談しながら対酌するのでなければ酒が旨くなかつたらしく、私の子供の頃は毎晩のやうに二階の客間で誰かと対酌する声を聞いた。老境に入るに従ひ興が薄らいで来たやうであつたが、そこに私が少しは話し相手、飲み相手になれるほど成人し、そして兄は米国へ行つてゐて久しく帰らず、父は淋しかつたからであらう。私が多少酒の味を解し、酒の肴の小言を云ふやうになつたのも、皆此の間の庭訓に因るのである。ところで京都に於ける下宿生活は味気無いものであつた。然し一つの楽しみは、やはり酒を飲むことと、詩を読むことであつた。(「中華飲酒詩選」 青木正児)


飲まぬ客ちょっちょと酌(しやく)に時を聞き
酒を飲まない客、酒の飲めない客が宴席の合い間で時々声を掛けて時刻を聞く。途中で抜け出そうとしてである。『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』(一七六五年~)の川柳(せんりゆう)。(「飲食事辞典」 白石大二)


初代川柳の酒句(13)
のミかけを 吸(すい)/\廻る 宿下(やどさが)り   眠狐
生酔に 供かあるのて こわくなし   間々
下戸斗」(ばかり) 揃ッて馬鹿な 大一座   眠狐
生酔(なまえい)は はなし(放し)うなぎを ミんな買   魚交
けちな晩ン 酒と夜食て 壱分なり   五楽(「初代川柳選句集」 千葉治校訂)


実験
都会住まいの読者に、次の「実験」をお勧めしたい。ひとりで行うことが大事である。現在、住んでいる都市のなかで一度も降りたことのない駅やバス停で降りて、しばらく歩きまわり、その街の雰囲気を少し把握してから、よさそうに思える居酒屋に入る。もちろん、どこの街でも見かけるようなチェーン店居酒屋は問題外であり、事前に居酒屋ガイドや、ネット情報や、知り合いの推薦などをいっさい参考にしないで自分の「嗅覚」だけを頼りに店を選ぶことが肝心である。そして、のれんをかき分けてカウンター席に腰を下ろし、一服してから、なぜその店に惹かれたのかを、なるべく細かく思い起こしていただきたい。逆に、店の選択が失敗だったと思ったら、どういう側面が気に入らないか、また、店を選ぶ時点をふり返り入店する前からその兆があったかどうか、もう一度考えていただきたい。ひとり呑みに慣れていない読者にとって、この小さな冒険はかなり度胸が要るように感じられるかもしれないが、数回実行するだけでも、居酒屋に対する嗅覚が格段と上がると思う。少なくとも、自分の好みをいっそう自覚できるという意味では、居酒屋選びに役立つはずである。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)


四九 酒食のこと
肉くさらす膏薬をはり、血をとる針をさすに、薬のつきたるあたりをみれば、血色かはりて、けふは一寸ばかりもくされぬといふがうちに、肉つきて臓腑にくさりいりぬ。また絡えさし入れたる針をぬけば、いとすぢのやうに血のはしり出てとまらず。つゐに爪の色もうせて、青ざめにけり。かくても心をいためず、たのしむものあらんや。またたれかかうやうのことをせん。人のみ(身)にとりても、腐腸伐性などといふこともありとぞ。
六三 腐腸伐性 枚乗、七発「皓歯蛾眉。命曰二伐性之斧一。甘脆肥膿命曰二腐腸之薬一」(「花月草紙」 松平定信 西尾実・松平定光校訂)


無名異焼の盃
名にし負ふ 佐渡が島辺の 常山の たくみに成れる 朱(あけ)の盃
誰れか知る ろくろの冴えの きびしさを このひとひらの 盃にして
福をうち 鬼をそとにぞ 刻り成せる この盃の 鬼の顔あはれ
うま酒を もればほのかに 濡れわたる この盃の 赤埴(あかはに)の膚(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎)


かに
灯籠の時、中の町尾張屋の見世先にて大一座酒もりの中ヘ、大きなるかに、這いてきたれば「これは珍しい大かにかな。酒をのませてみん」と盃をあてがへば、はさみにてもち、幾杯も/\ぐい/\とのみ、
しばらくすぎて、まつすぐに這つていつた。(初商・安永頃)
【語釈】〇灯籠=吉原の七月の盆灯篭の行事。
【鑑賞】落語のマクラに振られる咄。普通は横ばいの蟹が千鳥足になれば縦に。初出の咄は、
若殿、御縁側にて、お庭をご覧あるに、池の端に蟹一疋まつすぐに歩む。「あれ、かわつた蟹じゃ。皆見ろ」との御意。御近習、大ぜい立ちかゝり見れば、蟹気の毒さうに『ちと、たべ酔(ゑい)ました』(いちのもり・安永四・生酔)(「」)


<酒と泪と男と女>
騙される女と見せる赤い酒   内匠民子-
美女が注ぐ酒とろとろと音がする   近江砂人-
男も女も二兎を追う夜のグラス   西野光陽
水割りの氷をかんだ挫折感   松宮功天(『続・類題別番傘川柳一万句集』)(「川柳と遊ぶ」 田口麦彦)


ぼう【棒】
①番人などの持つて居る棒。
 棒の中 面目もなく 酔が覚め  混酔漢捉はれ -
④『足を棒』などゝ云はれる棒。疲れた足の事である。
 下戸の礼 棒で歩いて 帰るなり  酒飲みと違ひ(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


古酒の軽いの
(番頭が隠居道伯に息子の遊びを注進すると) ところが道伯はうなずいて「お前たちが、この家を大切に思ってくれるのは、大へんありがたく思うが、そうかといって、自分の考えはちがっている。よく聞かれよ。若者が悪所通いをするのは、まあ、珍しいことではない。これを世の親が怒って、ただ折檻するものだから、結局、ぐれて、外で金を作り、高い利息のついた金で、高い利息のついた金で、こっそり遊びをする。-うちの身代は、お前も知るように、現金二千貫あまりの見積り、この金を年一割で廻わすと利息が二百貫目にあまるわけだ。この利息の中から、家の経費五十貫を引いて、百五十貫は殖えてゆく勘定だ。-(遊びの金は)総高〆(しめ)て、およそ三十一貫目ということになる。これを利益金から引けば、残金百十九貫目は毎年増えてゆく、利に利をかけてみよ、鼠算で途方もない金高。死んだときはこの金を持って行かれるものではない。金は生きてゐるうちに楽しむものなのに、つまらぬ衆生(しゆじよう)は、これを集めてかえって苦しんでいるわけだ。-」隠居のもっともな説法に、番頭も涙をこぼして、ごもっともというよりほかなく、立ち去ろうとすると、「これこれ」と呼びもどし、、「揚屋の酒は、必ず悪くて毒となる。こちらから古酒の軽いのを先方へ届けて置き、過ぎぬほど飲めと言ってくれ」の言葉、また尊い。玄右衛門も、世間の親仁とはちがった考えに、誰はばかることなく通ったが、色里というものは、人目をしのび、首尾をもとめるからこそおもしろいので、こうあけっぴろげの遊びでは拍子抜けがして、つまり、おもしろくもなんともない。もう、色里がいやになって、「なんとか、気がつまるように寺参りがしたいことじゃ」と歎くようになったそうな。(「世間子息気質」 江島其磧 小島政二郎訳)


中走り
袋採りにしても、吊るし採りにしても、自然の重みで搾るわけだから、終わるまでには時間がかかる。最初に元気良く出てくる酒が「荒走(あらばし)り」だ。次に出てくるのが「中走(なかばし)り」で、最後が「攻(せ)め」だいね。「荒走り」は最初に出てくる酒だから、まだ木綿の袋の目がつまってなくて、粕もまじっているから濁(にご)りがある。「中走り」になると、やっと袋の目がつまって濁りがなくなってくる。「攻め」は名前の通りで圧力をかけて絞るから、雑味が入り込みやすい。だすけ、鑑評会に出すのは、「中走り」の酒なんだわ。流れ出てくる中走りを、一〇リットル入りのガラス瓶(びん)にとっておくんだわ。この瓶をしばらく置いておくと、袋でこしきれなかったものも瓶の底に沈むから、その上澄(うわず)みだけを取って、鑑評会に出すわけだ。この瓶採りも時間がかかるものだわ。一〇リットル入りの瓶の口まで酒が入るまでには、三〇分から一時間ぐらい見ておかんば駄目だから、これも手間だいね。わずか一〇リットルの酒を搾るのに、三〇分も一時間もかけるわけですよ。こんなことができるのも、大吟だからですて。(「杜氏千年の夢」 高浜春男)


灘の生酛方式
灘では、この寒い時期の醸造期間を短縮することにも挑(いど)んだ。まず酛造りに手を付けた。元禄時代からあった自然の力を活用した生酛(「育て酛」ともいう)を改良して短期型生酛法を生み出し、それが「灘の生酛方式」として定着する。一回目の仕込みの初添(はつぞえ)から、搾り終わるまでの醪日数も大幅な短縮に成功する。それまでの醸造期間は百四十日程度だったが、九十日くらいにまで短縮することができ、酒造りの回転数を上げることができた。しかも宮水の使用や改良型の生酛などによって醪日数を減らしても、酒質はむしろ一段と向上した。酒母造りから搾り終わりまでの一仕込みが短くなれば、仕込みの総数を増やすことができる。仕込み中は大きな桶一つで行われ、仕込みが短くなれば、桶の空くのが早まり、次の仕込みにかかれるわけだ。回転数が上がるというのはそういう意味だ。早く仕込みが終われば、その分江戸に早く届けられる。寒酒を待ち望んでいる大江戸の呑兵衛たちには、きっとこたえられなかっただろう。しかも、「灘の生酛法式」でとびきり旨くなったのだから。なぜ旨くなったのか。現代、これを科学的に分析したところ、実に興味深い結果が出た。エキス分に含まれる糖分の比率が低く、タンパク質がアミノ酸に分解される前のペプチドという成分の比率が高いことがわかった。この仕込み方式では、単に辛口になるばかりではなく、奥行があって深い味わいを感じさせ、しっかりとした特有の「押し味」になるという。この独特の風味は、それまでの丹醸にも、ほかの下り酒にもなかった特質だ。偶然とはいえ、短期型の灘流生酛はまったく新しい味わいの酒を誕生させたのだ。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資)


古来風躰抄
さらに『万葉集』の秀歌例を抄し了ったのち、同集(万葉集)をいかに学ぶかをといて、次のように述べたのであった。
又、万葉しふにあればとて、よまん事はいかゞとみゆる事どもゝ侍(はべる)なり。第三の巻にや、太宰帥大伴卿さけをほめたる哥ども、十三首までいれり。又、第十六巻にや、いけだの朝臣、おほうわの朝臣などやうのものどものかたみにたわぶれ、のりかはしたる哥などは、まなぶべしともみえざるべし。かつはこれらはこのしふにとりての諧謔哥と申うたにこそ侍れ。(古来風躰抄)
このような考え方は、『六百番歌合』における顕昭らの皮相な「万葉の古風」の模倣作に接して、(藤原)俊成の裡において確信に近いものになっていったのであろう。また、寂然が十重禁戒のうちの不沽酒戒を、
はなのもと 露のなさけは ほどもあらじ ゑいなすゝめそ はるの山かぜ(唯心房集)
と歌っているところに端的に知られる仏教的な規制も働いたとも思われるが、やはり最大の原因は「うち/\にはことのほかにゑいにのぞ」んでも、詠歌に際して飲酒に関する表現を避けるという貴族の美意識が、古典和歌における酒の歌を極度に貧困にしたのであろう。(「酒の歌、酒席の歌」 久保田淳)


健醸
しかし、どうせ飲むなら少しでも肝臓に優しいお酒を選びたいもの。そんな酒好きの願望をかなえる「肝臓に優しい日本酒」が存在するのだ!それは、日本盛株式会社の『健醸』という商品。『健醸』は、体の脂肪の流れをよくする効果がある、天然ビタミンの一種である「イノシトール」という成分を、通常の日本酒の五〇倍もの量含んでいるのだ。アルコールを摂りすぎるとどうしても脂肪肝や肝硬変のリスクが気になるが、「健常」を飲むことによってその心配も多少は減るというわけだ。実際、神戸学院大学のマウス実験によれば、イノシトールは脂肪肝や肝硬変に効果があることが分かっている。(「のんべえの悩みは癒やされる」 中山健児) 平成19年の出版です。現在(R4/11/30)、日本盛の健醸には、酵母が生成するオルチニンが、1合あたりシジミ30個分含まれているそうです。


奥州詞(おうしうのことば)
座頭茱萸茶椀盃(ざとうのぐみ ちやわんのさかづき) 欲飲三線夢中催(のまんとほつして さみせんむちうにもよふす) 酔唱仙台君莫レ笑(ゑふて せんだいをうたふ きみわらふことなかれ) 古来音曲幾人哀(こらいのをんぎよく いくばくひとかかなしむ)
[諺草]に云、座頭の茱萸をくふたやうなと云々。あんたるこんだか未詳。[碁太平記七ツ目]にみへたる宮城野しのぶの仙台ことばも此事なり。按甲辰のとし[森田座顔見世大帳]第一ばん目二ばん目の間[蜘蛛糸幼稚問答(くものいとおさなもんどう)]を引て、ふきや町太夫元スケとなり。狂名橘太夫元家にて仙台座頭の芸あり。みな人感歎せざる事なし。まことに名人で厶(ござ)リ升(ます)ル。 この詩もたゞ仙台座頭の浄るりをのべて、結句にむかしの人をなかせたる心持にて、幾人か哀とつくれる歟。たゞしは韵字(いんじ)にてこずれる歟。どういふもんだ光とく寺の門歟。(「通詩選諺解」 大田南畝)


当流人名辞書
図武六。 甚く酔ひたるものをいふ。図武は潰(つぶ)れの下略にして、つぶを濁りてづぶといふは、言語の荘厳法なり。六は甚六兵六の六の類なり。されば-は酔ひ潰れ男といふほどの義なり。一説に濁醪をどぶ六といへば、-はどぶ六の転にして、どぶ六飲みの略ならんと。此説おもしろからず。江戸語。東京語。
清三。 酒をいふ。江戸語。遊民の輩の用ゐたる語なり。
呑兵衛(のんべゑ)。 酒客をいふ。
傳兵衛。 酒をいふ。富山の売薬商の語なり。(「当流人名辞書」 幸田露伴)


(一)菊づくし踊
二上がリ加賀(かが)のお菊(きく)は酒屋の娘、顔(かほ)は白菊紅菊(しらぎくべにぎく)つけて、よいこの/\、よいこの小ぎくとりなりしやんときくながし咲(さ)いて見事(みごと)な扇車(あふぎぐるま)のくる/\/\くるま菊(ぎく)かさね菊(ぎく)、猩々舞(しゃう/"\まひ)を舞(まひ)の袖(そで)/\、見(み)そめてそめて恋(こひ)にこがれ、こがる〻身は唐錦(からにしき)、通(かよ)ふ道芝菊(みちしばきく)ませがきさ、あしあしでとんとびこえつとんとびこえ、ぞん/\ぞんどつとした/\、ひとへふたへ三重四重七重八重菊(みへよへななへやへぎく)よ、御所の御紋は菊(きく)の九重(こ〻のへ)(「松の落葉」)


野放し状態のテレビコマーシャル
注目しなければならないのは、いわゆる先進国においては、アルコールのテレビのコマーシャルは厳しい規制が設けられており、日本だけが野放しに近い状態であるということです。たとえば、スエーデンではアルコールのコマーシャルは全面的に禁止されており、アメリカにおいてもテレビではハードリカー(ウィスキーやブランデーなどの蒸留酒)のコマーシャルは禁止されており、ビール、ワインのコマーシャルも飲酒シーンは使ってはならないなどが決まっています。さらに、諸外国においては、アルコールの害に対するキャンペーンがテレビを通じて流されていることです。つまり諸外国においては、アルコールの消費量を抑えようという政策が働いており、アルコールの害についてのキャンペーンが続けられており、未成年者の飲酒を抑制するようにテレビのコマーシャルも規制されているのです。この点では日本はいまだに後進国といわざるを得ません。アルコールのコマーシャルの問題からははずれますが、テレビドラマでの飲酒馬面も大いに問題です。かってタバコがドラマにおけるイメージ作りの小道具でしたが、今や飲酒がドラマの中でのイメージ作りの小道具になっています。ドラマの中で、女性もヤングも、飲酒場面が主人公の情緒の表現として多用されているのです。飲酒は主人公の怒り、寂しさ、喜びなどの表現に使われています。最近人気のあった東京ラブストーリーというドラマでも、主人公のヤング達がいつも飲酒しているのが気になってしまいました。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二)


灘五郷
はじめ、灘は、上灘、下灘などの呼称で呼ばれ、今津を加えて「灘三郷」といわれていたようです。上灘は莵原(うはら)郡(東灘区)、下灘は八部(やたべ)郡(灘区)です。文政十一年(一八二八)に上灘郷が分裂して、東組、中組、西組になります。東組は青木、魚崎、住吉の三カ村、中組は御影、石屋、東明(とうみよう)、八幡の四カ村、西組が新在家、大石の二カ村でした。これが「灘五郷」の元の形です。現在の「灘五郷」は、今津、西宮、魚崎、御影、西の五郷ですが、これは、明治十九年に「摂津灘酒造業組合」ができてからの名称です。そして、西宮以外の灘の村が代官所支配であったのに、西宮だけが大坂町奉行の支配下にあったためのようです。このため西宮は、池田、伊丹とともに、新興の灘と対立、反目していたともいわれます。また、大坂、兵庫津の問屋商人とも、灘は対立していたようで、かなり目立って、近隣の商人の領域を、おびやかしていたようです。しかし、明和六年(一七六九)に灘、西宮、兵庫が幕府領(天領)として、幕末まで支配がつづくに及んで、灘は一方で天下の名醸地としての、地位を確保したのです。(「灘の酒」 中尾進彦)


かんだやぶそば
蕎麦といえば、このエリアにもう一軒、『かんだやぶそば』がある。江戸時代にできた『藪蕎麦』直系の老舗で、創業明治十三年。明治十三年といえば、ヘレン・ケラーが生まれた年。それはともかく、東京にたくさんある「藪」という名のつく蕎麦屋の本家のような店である。入口に門と前庭があって、初めて来るとちょっとビビるような立派な構えだ。勇気を出して庭を進んで店内に入ると、テーブル席と小上がりとがあって、店員の姐さんたちがカウンターの前に数人並んで迎えてくれる。この雰囲気にまたちょっとビビる。席について注文をすると、お姉さんがカウンターのところから、注文の品を、「せいろう、一ま~い♪」なんて感じに、独特の節回しで奥にむかって通す。そんで、ここでまたまたビビる。てな具合に、はじめはなにかにつけビビってしまうのだが、慣れてしまえばどうということはない。最初に感じるほど敷居は高くないのだ。時期や時間帯によっては行列ができることもあるが、構えの大仰さから敬遠する客もケッコーいると見えて、『まつや』に比べて空席率も高く、ゆったりと酒と蕎麦を楽しめる。ここのつまみでは「わさびいも」が好きだ。おろした山芋にわさびを添えたものだが、自然薯(じねんじよ)やつくね芋系のもっちりした芋なのでつまみやすい。安酒場の山かけなどでよく使われる長芋系の芋は、水っぽくてかなわん。ときどき器に口をつけてズルズルすする輩がいるが、あれはいただけない。この「わさびいも」や「焼き海苔」なんぞで一杯やって、最後を「鴨南ばん」で締めるとすこぶる心地よし。(「晩酌パラダイス」 ラズウェル細木)


大正九年
初雪
ふる雪(ゆき)に 草鞋(わらじ)のあとを のこしつつ 酒蔵(さかぐら)の男(をとこ) みづ汲(く)みてとほる
酒(さけ)つくる み冬(ふゆ)とおもふ 心(こころ)せはし 雪(ゆき)ふる今朝(けさ)の 洗場(あらひば)のうた
大寒
朝(あさ)さむし 母屋(おもや)のうちへ 酒蔵戸(くらど)より 蒸米(むしまい)のいきれ 漏(も)れつつにほふ
部屋(へや)ごとの 朝(あさ)の炬燵(こたつ)に 釜場(かまば)より 大十能(おほじふのう)に 火をはこばしむ
雪(ゆき)の日(ひ)は 店(みせ)にくつろぎ 物書(ものか)きぬ 障子(しやうじ)あかりの とどく炬燵(こたつ)に
樽(たる)負(お)ひて はひる人(ひと)あり 小蓑(こみの)より 乾(かわ)ける土間(どま)に 雪(ゆき)をこぼして(「中村憲吉歌集」 斎藤茂吉・土屋文明選)


酒場のツケで直木賞をとった男
『山椒魚』や『黒い雨』の名作を残した井伏鱒二(いぶせますじ)にも、長い無名時代があった。とくに昭和初期には、ユニークな作風の井伏はまったく売れなかった。売れないと金に困るのが、いつの時代もモノ書きの常。金に困っていた井伏は、飲み歩いては酒場にツケをためていた。やっと書き下ろしの長編『ジョン万次郎漂流記』で評判を得たのが、昭和一二年。井伏は、その年の下期の直木賞を受賞するのだが、その選考理由が「井伏は、方々の飲み屋で借りてるそうだから、あいつにやろう」。早稲田文学の先輩である佐藤春男ママの推薦で、直木賞が決まったという。受賞を聞いた井伏の答えは、「むろん、金はくれるんでしょうね」だった。(「酒のこだわり話」 博学こだわり倶楽部編) 佐藤春夫は、選考委員ではありません。出身大学は慶応です。


月の下で独(ひと)り酌(く)む    李白  武部利男(たけべとしお)訳
花の間に酒壺ひとつを置き
友もいないし独りで酒をくむ
杯をあげて名月をむかえ
影も仲間にいれると三人になる
月はもともと飲むことを解せず
影はただわたしのままに動くだけ
だがまあ月と影とをお相伴(しようばん)させ
楽しみを味うのは春のうちにかぎる
私が歌うと月もさまよい
わたしが踊ると影も乱舞する
正気のうちはいっしょによろこびあい
めいていしたあとはそれぞればらならになる
人間ばなれのした交わりを永久にむすぼうと
はるかに天の川で落ち合う約束をする(「酒の詩集」 富士正晴編著)


やっぱりお酒は日本酒ね
子ども扱いで、その輪の中に入れてもらえなかった小百合は口惜しがって、背伸びを試みていたのである。その吉永小百合があるときから、「やっぱりお酒は日本酒ね。徳利でお燗しておちょこで飲むのって、素敵だと思います」とにわかに日本酒党になってしまった。「こりゃオイ、本格派だぜ」ムードで飲んでる若い連中に徳利は似合わないのが普通だが、白木のカウンターで熱燗の徳利を「アッ熱い」などと白い指で…なんて図は、まさに一流の飲んべえである。私などは、そんな吉永小百合に驚かされたのだが、実は、それこそが現父君の岡田太郎さんの薫陶によるものだったとは、そのころ夢にも思わなかった。(「いい酒 いい友 いい人生」 加藤康一)

六畳か、四畳半かい
師匠の家を訪れた夏の夕暮れ。例によって馬生は気持ちよさそうにグイ呑みを唇に運んでいた。「いやいや、どうも…さァさァ」ころ合いの酒の相手が現れたと、私はたちまち馬生師匠の前でグイ呑みを手にすることになったのだが、次の間で弟子たちが、師匠・馬生に噺をきいてもらっているところだった。「芸は盗むもの」がこの世界の鉄則で、師匠が弟子を手とり足とり教えたりはしない。弟子たちは高座の袖や、劇場の楽屋で師匠の噺に耳を傾け、その芸を独習する。その結果を、師匠に聴いてもらうだけでも大変なことで、緊張した若者は、懸命に演じていた。馬生はチビチビやりながら、その噺に耳をかしていたが、ひとくぎりついたところで、馬生はつぶやくようにこういった。「お前さん。その隠居のいる部屋は、六畳か、四畳半かい、それとも八畳…」きかれた弟子は、きょとんとしている。噺のなかで隠居の部屋の広さが語られていたのだったろうか…という戸惑いである。「いやさア、お前がどう思っているのかってきいているんだ」と馬生。隠居に呼びかける八ッつぁんの声、答える隠居のセリフ。それらが四畳半を想定しているのと、八畳と考えているのとでは、違って当然だというのが馬生の芸。その日の懐具合いかんで、盃を口に運ぶにも、おのずと違いが出るのが、「人間ってものじゃねえのか」と語る馬生の心意気を、若い弟子が感じとるまでには、並大抵じゃないのだろうが、すでに徳利の本数もかなりのものではあっても、馬生の心と耳は確かだったのである。(「いい酒 いい友 いい人生」 加藤康一)


少年ヘルシェル
少年時代のヘルシェルも大人のヘルシェルに負けず頭の回転が早かった。質問には即座に答え、言い争いには必ず勝った。ある安息日の前日、ヘルシェルの親父は彼に酒を一本おつかいにやらせた。「父ちゃん、お金」「へん!金で酒を買うなんざあたりまえすぎて、てんでおもしろくねえ。タダで買ってこい!
そうすりゃほめてやる」ふざけた親父である。そこでヘルシェルは家を出ると、空きビンを一本拾って戻ってきた。親父は怒った。「誰がスッカラカンのビンを持って来いと言った。バカヤロ!」ヘルシェルは知るもんかという顔つきである。「中身のはいっているビンでコップいっぱいに酒をつぐのなんか、あったりまえでおもしろくないよ。カラのビンでいっぱいにしてみろやい」(「ユダヤジョーク」 ジャック・ハルペン)


三輪
古歌に、味酒(うまさけ)の三輪(みわ)、又三室(みむろ)という枕言(まくらことば)なりと冠辞考(かんじこう)にはいえり。されども、味酒の三輪、味酒の三室、味酒の神南備(かんなみ)山、とのみよみて外(ほか)に用いてよみたる例なし。神南備(かんなみ)、三室(みむろ)とも是(これ)三輪山の別名(べつみよう)にて他にはあらず。是によりておもうに、万葉(まんよう)の味酒神南備(うまさけかんなみ)とよみしを本歌(ほんか)として、三輪三室(みわみむろ)ともに、神(かみ)乃在山(いますやま)なれば神というこころを通じて詠(よみ)たるなるべし(ちはやぶる神と云をちはやぶる加茂、ちはやぶる人とよみたる例の如し)。これによりて三輪の神松(かみまつ)の尾(お)乃神(かみ)をとおく神の始祖神(しそしん)とするもその故なきにしもあらず。又日本記(紀)崇神(すじん)天皇八年高橋邑人活日(たかはしさとひといくひ)をもって大神(おおかみ)の掌酒(さかひと)とし、同十二月天王(皇)太田田根子」(おおたたねこ)をもって倭大国魂(やまとおおくにたま)の神を祭らしむ、云々。大国魂(おおくにたま)は大物主(おおものぬし)と謂(いい)て、三輪の神なり、されば「上:宀、下:夏」(ここ)に掌酒(さかひと)をさだめて神を祭りはじめ給いしと見えたり(今酒造家に帘にかえて杉をば招牌とするはことごとく其縁なるべし)。
二 味酒の三輪 『万葉集』巻一額田女王の歌に和した井戸王の歌に 味酒の三輪の山、青丹よし奈良の山の、山の際(ま)にいま隠るまで、道の隈いさかるまでに、つばらにもみつつ行かむを、しばしばも見さけむ山を、心なく雲の隠さふべしや とあるをさす。その他「うまさけ」とある歌は万葉集に五首見え、『日本書紀』崇神紀にも二首あるが、そこに三輪の殿とうたっている点から、神社で祭儀用に酒を醸したことが、酒造の起源ではないかと考えられる。 三 冠辞考 賀茂真淵の著作。『古事記』『日本書紀』その他日本の古書から、まくら言葉を多数に抜き出して五十音順にまとめ、その註釈説明をしたもの。十巻。 四 三輪の神大物主命をまつる三輪神社の祭に酒を醸したのが有名になって、大物主の神を酒造の祖神とするようになった。(「日本山海名産名物図絵」 千葉徳爾注解)


君を羨む(張謂)
君を羨(うらや)む 酒有らば よくすなわち酔う
君を羨む 銭(ぜに)無きも よく憂えざるを
盛唐の詩人張謂(ちようい)(生没年不詳)の七言古詩「贈喬琳」(喬琳(きようりん)に贈る)の中に右の二句がある。張謂は、天宝二年の進士だが、中央の官職につけず、節度使の幕下となって北方の辺地を転々としている。のちに、長安へ呼びだされ、礼部侍郎(次官)にまで昇進する。かなりの出世だが、すぐに左遷の憂き目を見ている。必ずしも、世渡り上手といえない。(私は、伝統の蛇が幾重にもからみついた中国の官僚空間を考える時、多少の世渡り上手の才覚では、長期間生き延びるなど不可能に近いと思っている)張謂の友人である喬琳も、中央に官職を得られず、節度使の幕僚ではじまり、その後も刺吏(州の長官)として地方のあちことをたらいまわしされる。いやけがさしたのか、唐朝に反旗を翻した節度使朱泚(しゆせい)の幕僚となる。鎮圧されるや、彼も連座の罪で死刑に処せられる。この詩は、張謂も喬琳も長安にいた時のもので、ともに就職浪人(進士となっても、スムーズに官職の降ってこない時代となっている)をしていた可能性がある。喬琳は、せっせと天子に時事を論じて上策(意見書提出)している。いっこうに反応がなく、食客(居候)生活を余儀なくされている。それでも彼は、酒を飲んでも、不平をまきちらして、くだをまくような悪い酔いかたをけっしてしない。それが羨ましいと張謂は言う。また金がなくとも、憂うるあまり暗い顔になったりもしない。それが羨ましいと言う。張謂自身は、物事がうまくいかないとやはり愚痴っぽくなり、酒癖も悪くなったりしたので、張謂の「君を羨む節」はなおも続く。
君を羨む 五侯の宅を問わざるを-
君を羨む 七貴(しちき)の門を過(よ)ぎらざるを-(「酒を売る家」  草森紳一)


編者あとがき   吉行淳之介
「小説現代」の名物ページである「酒中日記」は、昭和四十一年一月号にその第一回が掲載になっている。「小説現代」の創刊は、昭和三十八年二月号からで、もう四半世紀を越した。その創刊号から、私は人物インタビューのようなものを二十三回連載した。そんな縁で、「酒中日記」の第一回を依頼されたわけだ。こういうリレー式連載のトップバッターというのは、なかなか難しい。その書き方によって、連載の性格がきまる面がある。いま、自分のその文章を読み直してみた。川上宗薫と日沼倫太郎の名が、いきなり出てきた。そのあと、矢牧一宏の名もみえるが、三人とも鬼籍に入った。三人の友人について色々おもい出すが、酒飲みは死ねば「安息の地」に行ける恩典があるということを、付け加えておこう。私のその日記の「某月某日」には、六軒のハシゴ酒をしていて、多量の酒をチャンポンで飲んでいる。ただし、その翌日のところには強烈な二日酔いの記述がある。あの頃は元気だった、ということか、あるいはあの頃から弱りはじめた、ということなのか。また、これらの行間に隠れている事柄がいくつかあって、それらを思い出して興味深かった。読者はそれを知ることはできないにしても、記述からはみ出す気配を感じとることはできる筈である。このことは、ほかの筆者の文章についても、当て嵌まるだろう。酒の飲み方は百人百様で、それぞれの個性が出ていて興味は尽きない。酒を通じての交友、華やかな祝い酒、酒乱とその翌日の後悔の時間、大酔しての活躍状況、いくら飲んでも底なしの人物、一滴も飲めないのに雰囲気で酔っぱらってしまう人物、すこしも酔っていないようでじつは朦朧といている人物。…その他いろいろ、各種各様のタイプが揃っている。(「酒中日記」 吉行淳之介編)


道具名之事
一、渡しとハ、大桶の事也。             〇「渡し」とは、大桶のことである。
一、五寸とハ、五尺五寸の事也。          〇「五寸」とは、高さ五尺五寸桶のことである。
一、七寸とハ、三尺七寸の事也。          〇「七寸」とは、高さ三尺七寸桶のことである。
一、細高とハ、口窄(せま)く、長け高き桶の事。    〇「(16)細高」とは、口が狭く、背の高い桶のことである。
一、壺台とハ、(17)元卸(おろし)の桶の事。      〇「壺代」とは、(17)酛卸に使う桶のことである。(「童蒙酒造記」 校注・執筆 吉田元) 醪や酛などを入れる桶の名前です。


米淅(とぎ)歌
○くらやいくらやい、何倉や。しも(下)て倉か、かみ(上)倉か。はいはいわたししも(下)倉でございます。ヨイナ。
○せはしい中にも、しししたい、ししやしし。(津市)
○(もと)サーエー、ハツドツコイナ。(中)ハくるわいな。(けつ)エサくるわい/\なー。(三人)サイ/\/\サー。元がし、中がし、けつおし三人交互に唄ふ。(三重県)(「俚言集」 文部省)


酒癖
酒癖といっても、一口にはいえない。その時々の年齢によって推移する。そして、コースはたいてい似たり寄ったりである。まず収集癖などというのも、普遍的であろう。盃、徳利、箸置など一セット集めて喜ぶというのは可愛い方で、床の間の軸まで持出すのもある。「又、笑うて来たナ」笑うというのは、イザという時、お笑いですますのをいうのだろうか。板場へ迄出かけ、粋な台所道具を一揃い揃えた男がある。世帯マージャンに通じるものがある。私たちのコースでは、看板のかけ替などある。医者の看板を外して、フグ料理の表に立てかけ、葬儀屋の看板を、医者の看板のあとへおくなど初歩である。当時、千日前の播重が漫才の小屋になっていて、夜の九時頃になると「これより、十銭」という立簀(たてす)が出される。立簀というのは足の二本ある田楽(でんがく)の親方みたいな看板である。これが閉場後、とり入れるのを忘れてあった。のみ友達と、これを担いで道頓堀の中座の、鴈治郎一座の表におっ立てて「ナニ、大した違いはない…」手を打って帰った。ところか翌(あく)る日の朝、昨夜のことはすっかり忘れて、中座の前を通ると大変な人だかりである。二重、三重の列である。鴈治郎が十銭で見られる-と、いう騒ぎである。やがて、巡査がかけつけた。私は、黙ってソッとその群を離れた。これらは酒癖というよりは、酒乱である。(「味の芸談」 長谷川幸延)


居酒屋 いざかや
居酒屋はもぢ/\するが気ざになり   明五宮2
【語釈】〇居酒屋=見世さきで客に酒をのませる酒屋。 〇気ざ=気のさわり、気掛り。
【鑑賞】呑みながらも落ちつかず挙動不審な男、サッと逃げられると損をするから、それとなく監視する。それよりうわ手の無銭飲食は、わざと暴れて、左句のような機会をつくる。
【類句】酒屋から引ずり出すとそりゃと逃げ 明六宮2
銭が無か先へぬかせと居酒見世(しかし、さきに言ったらただでは飲ませまい)   安元梅3


古今夷曲集(6)
 酒宴半にめしつかふものゝ樽なる酒を有やなしやとふりて見ければ咄と笑ふかうちに客にてほめる  安継
本歌 樽のはら ふる酒きけば かすがなる みかさものまで 軈(やが)てつきかも
 或酒家より一瓶をえて返事に  貞直
涌出る 庭の泉の 壺本は 人のなさけを 請てこそしれ
 奈良のわたり木津といふ処に知人あり 立よりけるにもとより酒好むをしれりければ盃もて出ながら折ふし美酒侍らす 水くさき酒なりといへれば はやうけもちてよめる  宗丹
木津川の 水くさ酒と 人はいへど 宇治栂尾の 茶にはましたり
 題しらず  満永
本歌 世間に たえて酒もり なかりせば 下戸のこゝろは 嬉しからまし
  正定
本歌 我こひ湯 塩けも見えぬ をき/\は 人こそしらね 酒の酔ひざめ(「古今夷曲集」 新群書類従)


泥酔の思い出
太平洋戦争中のこと、げんみつにいうと昭和十九年(一九四四)の十月から翌年三月までのあいだ、わたしはミヨシ油脂化学の東京向島工場に、ひとりで学徒動員者として通っていた。ちょうど山形県米沢市にあった高等工業学校を九月に卒業したが、翌年四月に入学予定の東京工業大学へゆくまでの中間の期間だった。そこで帰京して、単独の動員の名目で工場の実験室に所属することになったわけだ。石鹸や化粧品でしられたこの工場は、戦時下、航空機潤滑油の製造をやっていた。せっかく今だからできる話なので、もう少しくわしくいえば、石鹸材料を乾溜して、ある沸点範囲の留分を重合させると、潤滑油が合成できるという製法が、ここで発見されていた。その試験や研究の手伝いをやっていたのだ。工場には月一回くらい酒とかビールとかの配給があった。重要な軍需工場なので、特権的にかなりの量が配給され、そのときは一同で飲み放題といった具合だった。あるとき硫酸とか塩酸とかいう液体の化学薬品を入れる巨大なビンに、いくつもはいったビールの配給があり、工場実験室一同は、へべれけに酔っぱらうまで飲んだ。ある者は東武線で終点日光までいってしまったと翌日午後に青い顔で出てきた。それほどひどくない者もみな二日酔いで、遅刻して出社してきた。他人のことはともかく、わたしもひどかった。京成線曳舟駅まで何とか歩いていったのは覚えているが、駅のベンチに正体不明のまま横たわっていた。耳だけが聞こえる。学生の分際でなんだ、この非常時に酔いつぶれて、などと罵(ののし)っている声が耳にはいってくるが、起きあがる気力などない。そのうち電車が駅にはいってくると誰かが揺りおこして、どこまでゆくんだと怒鳴っている。お花茶屋駅だとぼんやりこたえると脇の下から支えて、電車の中へ突っこんでくれた。それ以後はまったく覚えていない。それにもかかわらず翌朝目覚めたら着のみ着のまま寝布団のなかに寝ていた。わたしはまったく覚えがないまま青砥駅で乗りかえ、お花茶屋駅で降りて、家にたどりつき、布団を敷いて(もらって)寝たことになる。翌朝痛む頭、むかむかする二日酔いの胃をかかえ、遅刻して工場にたどりついた。(「背景の記憶」 吉本隆明)


駅弁
最後に、私がこれまでこの大会で食べて気に入ったものを挙げておこう。
「いわしのほっかぶり寿司」(根室本線 釧路駅)
いわしの握り寿司に薄切りの大根をかぶせてある。この大根から透けて見えるいわしの七星が美しい。いわしの鮮度がよく、大根と一緒に食べることもあって、青魚特有のクセは感じない。酸っぱ過ぎない締め加減もちょうどよく、日本酒のつまみにピッタリ。-
「白神鶏わっぱ」(奥羽本線 秋田駅)
比内地鶏をメインに、舞茸、とんぶり、ハタハタうま煮、そしてなんとジュンサイまで、秋田の名産品がこれでもかと詰め込まれている。ご飯も鶏スープと白神の塩で炊いてあり、徹底して秋田をアピール。まさしく日本酒を飲めと言っているような駅弁。もちろん酒も秋田の地酒を合わせたい。
「いかすみ弁当 黒めし」(山陰本線 鳥取駅)
いか墨と醤油で炊いたご飯の上に、軟らかく煮た小振りのいか、そしていか団子がのっている。いか墨といってもご飯は、イタリアンのパスタやリゾットのように真っ黒ではない。いか、団子、ご飯どれをとっても美味しく、ビールや日本酒にピッタリ。鳥取砂丘名産のらっきょうを素揚げした付け合わせも箸休めとしてグッド。
「鮎屋三代」(九州新幹線 新八代駅)
炊き込みご飯の上に一尾まるごとの鮎の甘露煮と、レンコン、卵焼きなどのオカズがのっている。メインの鮎は、ご飯のオカズとしてはやや味が濃いが、酒の肴としてはかえって好ましい。はらわたの苦さが特に魅力。日本酒や焼酎をやりながら味わうとすこぶる満足。(「晩酌パラダイス」 ラズウェル細木)


徳利二本の酒
先代中村吉右衛門を、戦後まもなく、番町の家に訪ねて、芸談をきかせてもらおうということがあった。冬だったので、寒がりの吉右衛門は、うんと着ぶくれて、茶の間にすわっていた。うしろには、俳句の師匠の高浜虚子の短冊を貼った屏風(びようぶ)が立てられていた。夜七時という約束の時間にゆくと、千代夫人が「今までお客様がいらしたので、まだ食事をしていないのですけれど、いただきながらで、お話しさせていただきます」といった。やがて、老優の前に、お膳が運ばれた。いくつかの小鉢の脇に、一本徳利がのっている。「ごめんなさいよ」といいながら、吉右衛門は、猪口(ちよこ)に手酌(てじやく)をしながら、ゆっくり飲みはじめた。私は名優の晩酌というものをとっくり見る経験をしたのが、大変うれしかった。大体二本ぐらいを、ゆっくりゆっくり飲むというのだから、まことに、程のよい酒である。いかにも、ひと口ごとに、酒をふくんで、味わっているという感じであった。この人は、歌舞伎界の最長老になっても「毎日初日のつもりで舞台に出ています」「役者は一生修業でございます」という、きわめて、けんそんした言葉を吐くので、有名だった。だから、この日の芸談も、明治のおわりから大正にかけての青年時代、下谷の二長町の市村座にいたころ、夏目漱石の門下の小宮豊隆さんに、ほめてもらったのが、じつにありがたかった、先生は大恩人です、としきりに云っていた。酒量が多くないので、二本目の酒を半分ぐらい飲んだころから、いわゆる「ごきげん」になって来た。笑顔がじつにいい。酔いはじめたというふんい気で、すわり直した吉右衛門が、こんなことをいったのだ。「大学の先生がえらくても、戸板さん、清正はできませんよ」何とも、おかしかった。(「六段の子守歌」 戸板康二)


アチーヴ
「あんなもン、チョロいやい。受かるにきまってるんだから今夜は前祝いだ」友達を誘い出して、新宿西口の小便横丁をハシゴしてあるいた。一軒、二軒、三軒…。三軒目までは覚えている。公衆便所で小便をした。それからどこをどう通って家に帰ったのか、気がついてみると朝で、枕元にアチーヴの受験票を入れておいた鞄がない!あれは奇蹟だった。朝靄の立ちこめる小便横丁の焼酎屋を一軒一軒叩き起こしてゆくと、二軒目にあったのだ。それを鷲づかみにして走った。電車はとっくに走っていたのだから、どうして走ったのか、いまもって理由は分からない。新宿から音羽を通って小石川に出る。目指す試験場は小石川の竹早高校である。枯れた街路樹が芽吹き、朝日の黄金(きん)に朝靄がみるみる千切れてゆく。口から吹き出す息が真白だ。試験場に着いたのはぎりぎり五分前だった。悪い連中のたまっているところへ自然に足が向く。アヘアヘしながら事の次第を説明すると、芸大志望のSがコップに水を持ってきてくれた。「ビタミン飲めよ。ビタミン飲めば絶対だぞ」掌いっぱいにごぼっとくれたビタミンの錠剤を呑み下すと、ホーレン草を呑んだポパイみたいに、途端に頭の回転が速くなったような気がしてきた。結果は-要するに、アチーヴは本当にチョロかったのである。(「人生居候日記」 種村季弘)


義侠
もちろん日本酒の揃えを誇る居酒屋は名古屋にもあるのだが、地元の酒への愛をたっぷり感じられる場所はないかしらと思っていたなか、仕事を介して出会ったのが随一の歓楽街、錦のビルの地下1階にある『華雅』である。酒のメニューを開けば、愛知を代表する銘酒「義侠」のオンパレード。女将の加藤直子さんはもともと、日本酒好きのごくふつうの主婦だったのだが、「義侠」に惚れたのがきっかけで、店をもつ決意をかためた。涙があふれるほどに感動したその旨さを、より多くの人に味わってもらいたいと思ったのだという。「義侠」を醸す山忠本家酒造は、愛知県西部の愛西市にある江戸時代から続く老舗蔵だ。最高レベルの米を求めて、酒造好適米「山田錦」の産地、兵庫県東条町へ幾度となく足を運んだ蔵元さんの情熱は、酒の味わいにしかと感じられた。たとえばその真骨頂ともいえる「妙」(純米大吟醸低温熟成酒)は、米のまあるい旨味が口のなかでぽわんぽわんと広がっていく。瞳を閉じれば、ゆらゆらと揺り籠に揺られているような心地よさ。熟成酒をブレンドした「遊」(純米大吟醸)は、きりっとした印象のなかに、厚みのある甘味が潜んでいた。「えにし」(特別純米)は、燗酒がおすすめ。艶のある甘味が引き立ち、肩のこりがほぐれるような幸せを覚える。(「ニッポン」「酒」の旅」 山内史子)


順の舞
〇順の舞、順字古くはすむといへり。『源氏物語』松風、「おほみきあまたゝひずむながれて」。藤裏葉の巻、「みなすむながるめれど云々」。順流にて次第にめぐる盃也。『室町殿日記』巻十三、織田信長公節振舞の条、「大さかづきにて上戸も下戸も押ならしに給べき由、仰らるゝ。扨御肴には順の舞あるへしとて、めん/\嗜ける芸共とり出て、舞つ、うたふつ、入みだれて云々」。沈約が『宋書』十九巻に云、「魏-晋以-来尤ス二相-属ルコトヲ、所属者代-起。猶-若き二酒以桮(さかずき)相属スルカ一也。謝-安以属ス二桓嗣ニ一是-也。近-世以-来此-風絶矣」。おのれ舞ふべきを、人をして代らしむ順の舞の類也。『桜陰比事(おういんひじ)』に、「下戸迄も我を覚えぬ程の酔のまぎれに、順の舞の芸つくし云々」。古き『前句付(まえくづけ)』に、「たゞも居られず/\、御酒宴に身は夜がらすの順のかあ、首尾のよいこと/\、摺子木で座中をさらふ順の舞、又、順のまひ娵(よめ)には爪が三本はえ」。(「嬉遊笑覧」 喜多村筠庭 長谷川外校訂)


杜甫
しかし、この成都で、薬膳料理なんか食べていて、ちょっと気が咎めるのは、近くの浣花渓(かんかけい)のほとりに六年間(七五九~七六五)、葺き屋根の小屋を建てて住んでいた盛唐の大詩人、杜甫のことを想起するからである。彼は長安にいた頃作った詩の中の「麗人行」では、楊貴妃たちの宴会風景を、
紫駝(しだ)の峯は翠釜(すいふ)より出で、
水精の盤に素鱗(そりん)を行(くば)る。
と詠んで、赤栗毛のラクダの瘤の肉が緑色釜から取り出され、水晶の皿には銀鱗の魚がのせて出されるという豪華な食事風景を描いたのだが、当時の彼は受験浪人で、
旅食す京華の春
朝(あした)に富児(ふうじ)の門を叩き
暮に肥馬(ひば)の塵(ちり)に随(したが)う
残杯と冷炙(れいしゃ)と
至る処潜(ひそ)かに悲辛(ひしん)す
というわけで、都の春に旅住居して、金持の飲み残しや、冷えた炙り肉などの食べ残しで生命を支え、屈辱感を味わっていた。成都に来てからは少し落ち着いたのだが、それでも一畝ほどの田を自分で耕し、客が来たら麦の畑から菜を摘んで来て、それで濁酒を呑むという生活であった。しかし、病気がちで(喘息と、それに糖尿病もあったらしい)、
潦倒(ろうとう)新たに「イ享」ひ(停む?)濁酒の杯
というわけで医者から禁酒を命じられた。かや葺きの屋根は雨漏りし、手元不如意になって薬草を摘んで売っていたが、やがて成都にもいられなくなり、洞庭湖上の孤舟であかざの粥をすすりながら病み、のたれ死に同様に亡くなっている。(「慶喜とワイン」 小田晋) 初めの詩は、「麗人行」、2つ目は、「奉贈左丞丈二十二韻」、3つめは「登高」です。


道化万歳
文化・文政の頃に、太神楽がやつた道化万歳は持芸の曲鞠(きよくまり)や、ひらき万歳や、お亀など一通り済ませて、最後が道化万歳になる。それは太夫と才蔵と二人の掛け合いで、
太〽一に一天四海しづかに治まる時を得て、
才〽二に二階の夕涼、琴三味線をひきならべ、十五童子の其中に、われらが一座のべざい天。
太〽三に盃とりあげて、さいつおさへつ呑む酒に、布袋おなかもふくれたり。
才〽四ツ四ツ手のはや駕に、ひらりとめしたる寿老人の廓がよひ、あたまの長ヱにこまられたり。
太〽五ツいつでもいそがるゝ寿老人の廓がよひ、手がいの鹿に打乗つて、馬道さして急がれたり。
才〽六ツむづかし口説(くぜつ)ごと、立引(たてひき)づくのはり合なり、びしや門天がしかるべし。
太〽七ツ難波に名も高き、西の宮の若ゑびす、につこと打ゑみし、いくぼのふけいは…。
なんとあって、それから太夫・才蔵の取遣りで、その場その場の材料で、自由に話を拵えて笑わせる。上手なやつはとんでもないおかしみを湧かせもしました。(「道化万歳」 三田村鳶魚)


俳句・短歌索引
泡沫(うたかた)をグラスに聞きて走馬灯   64
火球飛ぶ唯一無二の門出かな   179
闇海を孕みつ喰わる蛍烏賊   36
参道にささゆり匂ふ巫女過ぎて
酔鯨のもんどり打つて土佐の海モーゼの咆哮(たけび)さながらに割く   17
月渡る女酒場の身の上を   151
独酌に雨後の月冴ゆひとしずく   7
ハイボール弾ける初夏のブルージーン   153
新橋の宵五月雨るる孤悲ごころ   66
ミサイルの沖縄上空掠め飛ぶわれ呉港に大和を思ふ   10
酔ふきみの仕草や風に月見草   57(「酒は人の上に人を造らず」 吉田類) 本人作の俳句・和歌で、数字はページです。


酒を基語とする熟語(5)
酒嚢(シユノウ) 酒袋、転じて別腸のこと。[「論衡」別通]
酒波(シユハ) 満杯の酒に生じるさざなみ。[薩天錫「走筆贈燕孟初詩」]
酒瓢(シユヒヨウ) 酒を入れるひょうたん。[王禹偁「題張処士渓居詩」]
酒風(シユフウ) 酒の中毒。[「素問」病能論]
酒兵(シユヘイ) 酒を兵にたとえ、人の身に害をなすものとしている。、[唐彦謙「無題詩」](「日本の酒文化総合辞典」 荻生待也)


ハスの葉
浴衣が水面にゆれて行く前に、ハスの赤い花が咲いていた。大賀ハスである。土中での二千年の眠りから再び甦った奇跡の花だ。冷夏ゆえによもや?と心配させたが、他のハスよりも早い時期に、緋色も鮮やかに神秘な美しさを競っていた。カメラマンが早朝にこの花を写すのは、この花の咲く瞬間にある。「ポン」とかすかな音を聴かせて開くその瞬間こそ二千年のロマンが今に甦るときである。この雅の世界での宴が今朝の目的だった。襟足もも涼しい美女が奏でる琴の調べを聴きながらのハス酒である。この日のために、私が密かに用意したのが、地元川西町の松之井酒造の大吟醸大古酒だった。大古酒なる呼び方は、冬に絞られた酒が土用を越して秋口になると、新酒から古酒へと呼び名が変わり、さらに冬を越して初めて大古酒とされるが、実はこの松之井の大吟醸は二千年ハスに劣らぬ、ロマンに満ちた貯蔵法によって熟成された酒であった。この酒の出来の素晴らしさに目を見張ったのは、まだ新酒の頃であった。しかも、貯蔵にも興味を引かれた。案内された場所は、蔵の裏手にある杉林の一画で、昼なお暗いその横穴の奥深く、茶褐色の大カメの中に凜として熟成のときを待っていたのが大吟醸だった。この酒が大古酒になるまで、ひたすら待って、山の宿の朝を出迎えてくれたのである。舞台の設営は、この二千年ハスの管理に寝食を忘れて世話をしている半間正氏だ。同氏は市議会議員という多忙な身でありながら、風雅を趣とする粋人の一人である。氏によって、このハス酒が生まれた。そのハスの葉に大古酒が注がれるや、たちまち白珠の露と化した銀色に輝くその滴(しずく)が、転がりながら舌に冷たさを伝えるとき、無上の歓びがわけもなく五体を駆けめぐった。(「酒肴讃歌」 高木国保)


八丈島の焼酎
この碑文にもあるように、八丈島で焼酎が造られたのは今から一四五年前のことである。丹宗家は薩摩藩島津家に仕えた代々回漕問屋の名門で、庄右衛門はその九代目。たまたま幕末期の薩摩藩は財政が逼迫し、その建て直しのために秘密裡に密貿易を庄右衛門らに行わせる政策をとっていた。一方、幕府の方も、財政ままならぬ上に、幕府体制崩壊の兆が噂されるなどに苛立っていた。そんな空気の中、どうも不穏な動きをする薩摩藩に幕府が警戒心をつのらせないはずはない。庄右衛門が自ら乗船して江戸に回した密輸船をついに船もとろともに「御用」にしたのだった。そして、庄右衛門は八丈島に処せられた。八丈島に着いてみると、この島には禁酒令が出ていて、島の人たちが酒を造るのも飲むのも禁止されていた。理由を問うてみると、以前は玄米三升五合に対し粟麹一升五合、水五升で仕込んで濁酒(どぶろく)七升を得ていたというが、今は食糧事情が悪いというので、穀類を使用した酒造りは禁止されているとのことだった。しかし、薩摩芋はすでにこの島ではかなり作られていて、救荒用として食べられていた。そこで庄右衛門は役人のところに行って、穀類を使わないで酒を造ることはよいいのかどうかを聞くと、「そんなことはできるわけがないから、好きにしてよい」という回答を得、さっそく村人に薩摩芋を供出させて、自信満々で生まれ故郷の芋焼酎を造ったという。それまで蒸留の酒を持たなかった八丈島の人たちは驚き、喜び、そして庄右衛門を神様のように尊崇した様子は『八丈実記』(流人近藤富蔵著す)に「衆人、これを習うて、五村の大益を得たりと、賞歎せざる者なし」とある。庄右衛門は明治元年の赦免と同時に、故郷の鹿児島からかぶと釜や蘭引、蒸留器具を購入させ、さらに生誕地の阿久根から焼酎製造に適する種芋を導入するなど、その後の八丈島焼酎の発展に尽力したのであった。八丈島には今日、六社の焼酎製造元があり、伝統の薩摩芋焼酎と麦焼酎が造られている。(「銘酒誕生」 小泉武夫)


まずいと感じた時はそれ以上飲まない
主人と知り合えたのも、お酒がきっかけでした。ある時代劇に、初対面の私達二人がゲスト出演したとき、主人が私に、「『越乃寒梅』という酒を、友人が送ってくれてね。とてもうまかったよ]と、話しかけてきたのでした。そのお酒は、東京では一軒のお店でしか売っておらず、飲ませてくれる店も神田にたった一軒あるだけです。たまたま私はそのお店を知っていたので、「今度一緒に飲みに行きません」とお誘いし、二人で飲みに行ったのが、今からすれば第一回目のデートでした。そのお店で飲んだ後、二人揃(そろ)って神田明神へお参りし、ホロ酔い機嫌の勢いで、私の知り合いの店に芸者をあげに行くという始末。翌日、上野の池之端で、また二人して飲んでいました。お店を出たのが、夜中の二時頃。近くにある湯島の天神様へお参りに行ったところ、「四年間、待ってくれないか」と、主人からプロポ-ズされたのでした。私は何のためらいもなく、「うん」と、簡単明瞭に答えていました。四年どころか、半年もたたないうちに、結婚にゴールインしていたのには、自分でも信じられないほどです。いわば、お酒が取り持つ縁、お酒が施してくれた功徳と思っています。大好きなお酒だけに、まずいと感じた時には、決してそれ以上飲まないことにしています。まずいと思いながら飲むのは、お酒に対して失礼ではないかしら。(「酒と出逢い お酒が縁で」 池波志乃 )


地酒居酒屋
池袋西口の「笹周」は「越乃寒梅」と「菊姫」が飲める店として名を上げてきた。昭和五〇年前後だと思う。当時すでに「越乃寒梅」は幻の銘酒といわれていた。だが、石川県鶴来町の「菊姫」の厚みのある味わいをアピールしたのは「笹周」が先鋒だと思う。この店に「こういう酒を飲みたいから取り寄せるように」といったのは、大学の数学の教授だったと聞いている。昭和五三年ごろに後楽園球場(現東京ドーム)の近くに「鷹の羽」という店が何種類もの地酒をそろえて飲ませてくれていた。その店は、スーパーなどの店頭で豆腐を冷却する水槽を置き、これに十数種の一升瓶を浸して酒を飲ませてくれた。主人はサラリーマンからのスピンオフした人だそうで、肴はナイフを使って調理するものを出してくれた。値段が安かったので、何種類もの地酒を堪能できた。そこで出会った蔵元は、「こういうように品質管理してくれれば」と店の酒の扱い方を絶賛したが、その蔵には冷蔵貯蔵施設はない。品質管理の考え方は蔵元より居酒屋の方が進んでいた。それを白々しく「これが理想的だ」なんてうそぶく蔵元の言葉が空しかった。池袋東口の高速道路下に、とてつもなく高いがうまい酒を飲ませる店があると評判になる。「伝魚坊」である。主の日和佐さんの言葉によれば、「あるとき、お客が持ってきた『香露』と『菊姫』を飲んで、目から鱗が落ちたようなショックを受けた。これが酒なら、これまでオレが売っていた酒は何だったのか」と。酒のメニューの中心は、「菊姫」の隣の松任市の「天狗舞」。そしてこの店はおやじさんの鮭と肴へのこだわりとウンチク話で有名になる。「浦霞」を扱っていた高田馬場の「樽一」が銀座に出店し、いわし料理と地酒でアピールする。渋谷神泉の「さくら」、銀座には小さいが「庄内浜」、「三献」などが名乗りを上げる。それらは地酒からそれぞれの蔵の秘蔵する吟醸酒そろえと変身していく。(「「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎)


東野さん
東野さんのロレツの怪しくなった酔いの演技は素晴らしく、あの「秋刀魚の味」の中で圧巻であった。 中村伸郎
『永くもながの酒びたり』(早川書房)所収「東野英治郎さんと私」より-
このときの、東野英治郎の演技が、圧巻だったと中村伸郎は回顧し、実は、と、裏話を披露するのだ。
小津さんの演出はゲストの初めから本番そのままの、本もののウイスキイ・オンザロックや生ま雲丹を用意して、その飲み方、食べ方の演技指導が細かかった。酒好きの私などは大いに喜んで、テストの始終、飲み食いしたが、気が付いてみたら東野さんは真赤に酔いが廻り、ロレツも本当に怪しくなっていた。(中略)小津さんはそんな本当の酔いを撮りたかったので、すっかりお気に入ってカメラを廻しておられた。
たしかに、あの映画の東野英治郎はすごかった。酔いが滲み出すというレベルではなく、目付き、顔色、声の響きに、酒精が噴出するような、見事な酔いだった。その抜群の演技の背後に、お酒のあまり得意でないことを承知の上で、実際に飲ませた監督のちょっとしたいたずら好きの一面も見えるようだし、いやなによりもそれを正面から受けとめた俳優の正直さに惚れてしまう。(「酔っぱらいに贈る言葉」 大竹聡)


お梅
「みち草」は、その後、二幸裏の路地に移ったが、今は青梅街道ぞいの常円寺横に移って、あいも変わらず小林梅さんが経営している。近頃は深夜までということはないが、かつては朝の四時頃まで客がいた。井伏鱒二も遅い組で、家が近所の巖谷大四が飲んでいると、こう言ったそうだ。「おまえはどうせ早く女房のところへ帰りたいんだろう」「ほら、はじまったよ。大四、もう帰れないよ」こう相槌を打つのは、お梅であった。巌谷はこんな具合に付き合わされて、朝の始発電車で荻窪に帰ることもあったという。ときには終電車で帰るときなど、お梅も一緒で、酔っているから「おいッ、鱒二いッ」なんて呼び方をしたという。井伏はこういわれるのがはずかしく、電車の中を逃げて行く。お梅は「おーいッ、鱒二イッ」といって、井伏を追っかけた。もちろん逃げても無駄である。一番前の車両にまで追いつめられて、井伏はお梅に、「お梅さん、だいぶ酔っているなア」などと言って照れたいう。(「阿佐ヶ谷界隈」 村上護)


一杯飲んだ後、もう一杯飲まないでいられたら
▽ウィルバー・ミルズは、アルコール症である。一九期務めたアーカンソー選出の元下院議員で、一九五八年から七五年まで下院の「歳入委員会」委員長の要職にあった。現在は、ワシントンDCのシー・アンド・グールド法律事務所所属の弁護士である。-
さきごろ入院していたとき、私がアルコール症であるかどうかを知る方法が一つあると言われた。一杯飲んだ後、もう一杯飲まないでいられたら十中八九アルコール症でない。しかし、もう一杯飲まずにいられなかったら、十中八九アルコール症だというのだ。よし、私はこのテストに合格できると思った。合格して、私をアルコール症だと言ったあの無能な医者やほかの連中に、そうでないことを見せつけてやりたかった。このテストを受けることにした。私はいまだかつて、飲まずにはいられない、ということはなかった。飲みたいから飲んだにすぎない。私は酒の味が好きだ。ジャック・ダニエルやオールド・フィッツジェラルドほどうまいものは、いまだに思い浮かばない。しかし、私はテストに失敗した。私は一杯飲んでからまた飲んだ。その晩、五〇度のウオツカを二本空けて、そのうえまだ飲んだ。ニューヨークに行ったらしく、そこから病院に連れ戻された。病院では、ベッドのそばでみんながにやにやしており、私は消え入らんばかり。それ以来、酔いからさめる人のそばにいて、その人が目を開いたときけっして笑いを浮かべてはいけない、と事あるごとに私は訴えている。('「アルコール依存症」 デニス・ホーリー)


伊藤忠吉
話が前後するが、明治四十年湯沢の伊藤仁右衛門商店の養子・伊藤忠吉が約一年ぶりに帰郷した。当時、どこの酒屋でも酒は腐りやすく、悩みのタネだった。そこで伊藤忠吉は、カンに頼っていた酒造りに理論を取り入れようと、東京で開かれた第一回酒造講習会に出かけて大蔵省技官から新しい技術を学び、さらに、酒造りの"先進地"灘(兵庫県)にひと冬泊まり込んで酒造技術を勉強していたのである。湯沢に帰った伊藤忠吉は、早速"新技術"で酒造りに取り組んだ。ところが、これが見事に失敗してしまった。気候のよい灘の酒造りを、寒さの厳しい本県に持ち込んだのが間違いだったのである。発奮した彼は、米、水の分析からやり直して、翌四十一年には第一回全国清酒品評会で一等に入賞するまでの酒を造り出したのである。本県独自の技術が認められたのは、これが最初だった。


メートルをあげる(メートルを上げる)
[句](「メートル」は仏語mètre)①「メートル」は計量器のことで、目盛りがついており液体の体積を測った。この目盛りが上がるところから、「気炎を上げる」の言い換えとして「メートルが上がる」ができた。意気盛んに話す。また酒を飲んで気炎を吐く。◇『校歌ロオマンス』三高、同志社、高工(1916年)<出口競>「三高の生徒は吉田町の寵児である。ミルクホオルでメエトルを上げる」◇『僕の学生時代』焼芋党(1918年)<池辺鈞>「其処は我々の倶楽部でもあった。治外法権とでも云ふのだろう、盛にメートルを上げたものだ」◇『何処へ』怪しき夜の巻・二(1947年)<石坂洋次郎>「才太郎が酌をする度に、勢いでグビリ/\無理な呑み方をしながら、学校改革論や町の封建気風論で、盛んにメートルを揚げた」②酒を盛んに飲む。◇『大阪』三の二(1922年)<水上滝太郎>「どれもひとつつけて来ましたよ。こつちもメートルあげんならんオアハハハハハハハ」◇『絵入 大正膝栗毛』七十九(1924年)<桂月散人>「いくらでもメートルを上げて見せる。酔がチト醒め気味だが」◇『青春物語』「パンの会」のこと(1932~33年)<谷崎潤一郎>「二人はすっかり意気投合して好い気持ちでメートルを上げた。しまいに木村はヘドを書いた」(「日本俗語大辞典」 米川明彦編)


有頭エビの鬼殻焼き
作り方 ①エビの背を曲げて竹串を刺し、背ワタを引き出す。 ②背ワタが出てきたら手でそっと引き出す。 ③頭の先端とひげを切り、きれいに揃える。 ④尾の先端も切り揃え、とがった剣を切り落とす。 ⑤身をつぶさないようにして、背を頭まで切り開き、背ワタを取る。 ⑥頭のミソはおいしいので、落とさないように注意して開く。 ⑦まん中から串を打ち始め、計3本打つ。 ⑧殻のほうから焼き、ミソが固まってきたらつけダレを塗る。 ⑨返して殻のほうにもつけダレを塗り、これを3~4回繰り返す。 ⑩身がぷくっとふくらんできたら、焼き上がり。
材料 有頭エビ…4尾 (つけダレ)しょうゆ…大さじ11/2 みりん…大さじ11/2 酒…小さじ1/2
このつまみに、この一本 神亀 純米酒/埼玉 日本酒度…+6 酸度…1.6 価格…2800円(1.8ℓ) ●全量純米酒造りの丁寧な酒造りで知られる「神亀酒造」。2年以上の熟成を経て出荷される酒は、米の旨味豊かでふくよかな広がりを見せる。燗にすることで本領を発揮する。(頑固親爺)(「新・日本酒の愉しみ 酒のつまみは魚にかぎる」 ㈱スリーシーズン編集)


あはもり【泡盛】
①琉球名産の一種の酒。粟を原料として醸造したもので、焼酎に類し、最も強烈な酒である。
泡盛の酔飯盛を買に行き       三田から品川へ
泡盛に酔ひ飯盛を喰ひに行き    同上
泡盛で酒盛をする御殿山       薩摩侍等
泡盛に酔つて小間物屋を口説き   反吐をつく(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


さばけ
酒母またはもろみ中の蒸米、物量、泡の性状を表現する言葉で、粘り気や糊気のないさらっとした状態を「さばけのよい酒母(またはもろみ)」という.何れの場合でもさばけが悪いと発酵は緩慢となり味は鈍重となりやすいので嫌われる.(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)


宴会
宴会を 夜の仕事と 子に教え         子育てトト
何のため 疲れて休む 慰安会         朝野歌麻呂
花嫁
お茶お華 その裏側で 酒煙草(たばこ)     凡秋
バブル
バブルとは遠く ビールの 泡を舐(な)め     アオヤギ(「平成サラリーマン川柳傑作選①一番風呂・二匹目」 山藤章二・尾崎三柳・第一生命選)


480手遅れ
婦人「お酒をお止めなさい。そうすれば八十歳までも生きられますよ」
老人「しかし、もう、遅すぎます」
婦人「善いことをするのに、遅すぎるということはありません」
老人「しかし、奥さん、私はもう八十二歳ですもの」(「ユーモア辞典」 秋田實編)


酒不酔人-お酒で酔っているわけじゃない
酔うという字は、酉(お酒の入った壺)を、卒(兵卒・兵隊)が抱いている様子なのだそうです。私も、これまでに人前でふらふらに酔ってしまった中国人というのは、台北市の繁華街と、上海と広州で見かけたくらいです。東京では毎晩大勢の泥酔を目にすることから考えると、とても少ないのです。
酒不酔人  お酒が人を酔わせるのではありません
人自酔   人は酔いたくて、酔っているのです
なるほど、酔うために、酔おうと思ってお酒を口にするのだから、そんなにたくさん飲まなくても、もう酔っているのと同じような物だ…となるのでしょう。自分が分からなくなるまで飲むというのは、程度のひどいストレスがあってのこと、ということになるのではないでしょうか。「おれは酔いたくて呑んでいるんだ」というおじさんがいるよ、という似たような含みで、
酔翁意不在酒  おじさんは酒で酔っているんじゃない
とも言います。


ほろ酔い
酒は酔うために飲むが、ほろ酔いがいい加減だ。なぜか。酒はここでは、我れを忘れるために飲むのではなく、我れに帰るために飲むからだ。ひとは、夢を見るためでなく、夢から醒めるために、飲む。だから、酒場は会社の近くであっても家の近くであっても、そしてもちろん学校のそばであってもいけない。(「酒の文化、酒場の文化」 鷲田清一)


徳和歌後万載集
 具足びらきの日 紀定麿来りければ  酒上不埒
五十歩も 百歩もおなじ 足もとの よろりよろひと 酔ひ給へかも
 返し  紀定麿
むだ口は 何のやくにも たゝかひを もつて立たれぬ 程に酔けり
 人のもとへ酒さかなをおくるとて  可笑
初秋の 風もふくらに おね酒の 口にあはびの かひあらまほし
 伊予守(いよのかみ)何がしのもとにてはたしろといへる魚を味噌吸物にして出しければ
これもまた いよの揚げたの 馳走とて とをはたしろの みそに成けり
 生酔音楽  もとの木あみ
ひちりきの 舌もまはらず 大酒に うどのゝあしも 立たぬ生酔(「徳和歌後万載集」 野崎左文校中)


北山酒経
北宋 政和七 一一一七 朱翼中『北山酒経』を著す。本書は中国の古い酒造技術書中で最もすぐれており、①なまの穀物で麹を作り(現在も中国は生穀、日本は蒸煮穀物)、②竹の葉を酒に加え、③紅麹酒が具体的に見られる。紅酒は『洛陽伽藍記』(五四七)でも見られる。『斉民要術』以来の酒の名著である。李保『続北山酒経』を著す。(「一衣帯水」 田中静一)


「飲」「食」の表現
「筆舌に尽くし難い」味覚にぶつかったとき、本来ならその味覚なり嗅覚なりを、実物そのもので相手に伝えればいいところを、視覚とか聴覚という手段で表現しようとするところからことは面倒になる。誤解が誤解を生み、うわさが一人歩きすることで、とんでもない幻の酒が生まれたりするわけだ。私のようにいたって好奇心の強い人間は、たとえ巷でいいとされている酒でも料理でも、一応は自分の口に入れて確かめてみないことには納得しないから、右のような誤解は少ない。その上で、自分なりに自分のための小さな「堰止め」の作業をやっているわけで、私の場合はそれがたまたま仕事と結びついているに過ぎないのである。とかく人のうわさほどあてにならぬものはない。悪評さくさくの人間が思いのほか好人物だったり、人気のある人物の裏面がなんとも醜いものだったりするようなケースには数限りなくぶつかってきた。酒や料理についてもやはり同じで、良きにつけ悪しきにつけ評判ほどでない事例に出くわすことは数えきれない。吉田健一や山本周五郎流表現法などは、当人のノリで書いたようなものだから、読む側もそのような気分になって読み流せばすむことだ。こういうのは書く当人が十分に満足していて、相手に押しつけがましいところがないから罪がなくていい。いずれにせよ、「飲」「食」を実物の他に何らかの手段で表現するのほどむずかしいことはない。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)


第五高等学校時代
私が(熊本・第五高等学校)二年に進んだ時、桜井校長は或る事件の責任を負うて退き、代つて松浦校長が山口高等学校から転じてこられたので、禁酒の宣誓は自然消解した形で、吾々は大ぴらに酒が飲めるやうになつた。高校は帝大に直結するので未来を嘱望され、相当高級な料理屋などでも優待して気楽に飲ませてくれた。私には水善寺公園の小料理屋は静かで好ましく、小鮒のフライのしやりしやりした感触は印象に残つている。それから熊本には麦で造つたアクモと称して、永年貯蔵のきく特産の酒が有り、他国の人が肥後の赤酒と呼んでゐるやうに、年数を経るに従つて茶褐色になる。甘味が強いので私は好まなかつたが、或る土曜日の午后、学友三人と熊本郊外の最高峰キボウと云ふ山に登るとて、麓の店屋で赤酒三本をビールの空壜に詰めさせて携え、日が暮れて辿りついた山頂の祠の拝殿で、蝋燭を点して鑵詰を肴に之を飲んだ味は又格別であつた。仙人が飲むと云はれる流霞にも比すべきであらうと思はれた。(「中華飲酒詩選」 青木正児著)


東洋美人 とうようびじん 澄川宜史(たかふみ)さん 澄川酒造場(山口県萩市) 4代目蔵元
昭和48(1973)年、3代目の長男として生まれる。東京農業大学農学部醸造学科の在学中に、「十四代」で研修。家業に就き、先代の杜氏(但馬)の元で働き、25歳で杜氏として酒を作り始める。平成19年、社長に就任。好きなミュージシャンは、親交のある「コブクロ」。 ●「いつでも失敗する恐怖に怯えています。だからこそ当たり前に、ただし完璧に行って、まっとうな発酵に導くことに細心の注意を払う」「こういう酒ができました、ではなく、自分の目指す味に到達させるのが目標」「米の味や酵母の香りが出過ぎない、稲をくぐりぬけた水のようでありたい」 ♠最も自分らしい酒 「東洋美人」純米吟醸 酒未来 酒未来 精米歩合50% 著者コメント:「公私ともにお世話になっている『十四代』高木社長から酒米を譲られ、5年間試行錯誤した上で発表した思い入れのある酒」と澄川さん。上品な香りと静かに広がっていく旨味、透明感。出過ぎるものがない洗練のハーモニー。 ♥自分を追い込みながら完成度を追求、「十四代」高木顕統さんが"一番弟子"と公言するなど技術力で定評ある蔵元。平成25年7月の集中豪雨では酒蔵や自宅が濁流に飲み込まれ壊滅的な被害を受けた。「失ったものは大きいが、元に戻すのではなく次の次の世代に繋がる酒造りをする」と設備投資する。その姿勢にエールを送りたい。(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子)


寝酒
寝る時に飲む酒。よく眠れるように飲む酒。寝酒には、飲み過ぎのおそれがある。今大路道三(どうさん)(一五六〇?年)の『道三翁養生物語』に、<寝酒という事、どこのうつけが言い出したぞや。夜酒を飲まば、その酒さめてから寝るものなり。ほかほかのあとは、冷や冷やを知らず。酒過ぎたらば、濃き茶を飲むべし。>という。「冷や冷やを知らず」は、冷えることがあっても気がつかない。凍死などの原因となる。濃いお茶を飲んだりして、酒をさます必要がある。(「飲食事辞典」 白石大二)


三国一、門前一
又、三国一は今も醴(あまざけ)屋に残り(思ふに、これは白きを雪にたとへ、雪は四時富士山にあれば、三国一は富士山よりいふ也)、又、聟取の祝言に聞えたり。『寛永発句帳』、「聟ならで三国一や空の月 親重」。門前一は、『埃嚢抄(あいのうしよう)』三、「建仁寺の大道に、表(ひよう)の巻と云酒あり。門前一という心也」(『文選巻一は表文なり』)。(「嬉遊笑覧」 喜多村筠庭 長谷川等校訂)


初代川柳の酒句(12)
酒の直段(ねだん)に 茶が売れる 美しさ         卜文 酒が高いと茶が売れる
三味せんを 度/\(たびたび)拾ふ わるい酒       五盛 あちこちへ寄り道
ひらめかし おとろく(おどろく)下戸を 追廻し      梅斧 酔っぱらいが刀を抜いて
最(も)うひとつ おなめなさいと 娵(よめ)へさし     五楽 もう一杯と亭主
礼者 こゝろあたりか 弐三軒            春松 新年の挨拶回りに代理は飲める家へ(「初代川柳句集」 千葉治校訂


昼呑み
だが、たまに社会の常識に逆らいたくなることもあるのではないか。別に爆弾を投げたり、逮捕されるような派手なことをしでかしたくないが、程よいタブー破りは平凡な日常にスパイスを加える効果がある。昼酒にもそのような効果があるが、とりわけ日中の商店街のなかで酒を呑む行為は、いっそう刺激に富んでいると思う。かような軽い抵抗心を披露したくなるとき、私の足は自然に赤羽に向かう。「*いこい」やもう一軒の激安の立ち呑み屋「*喜多屋」は早朝から開いている。座って呑みたかったら午前九時から「*まるます家」が開店する。この街では昼酒どころか、朝呑みまで常態化しているので、そもそも飲酒に関するタブーはとっくに消えているのではないか、と考えたくもなる。だが、やはり居酒屋のなかで呑むのと商店街のど真ん中で呑むのは、違う。私はまだおとなしいせいか、さすがに山谷(さんや)周辺で見られるように、酒屋で買ってきた缶チュウハイを手に、道や商店街のど真ん中にどんと座り込んで堂々と酒を喰らうようなことはできない。せいぜい、立ちながらおでんとコップ酒を軽くいただく程度だが、それには赤羽駅東口の一番商店街のなかの「*丸健水産」(第二章を参照)が打ってつけである。自家製のおでんに赤羽の地酒「丸眞正宗」を、店が用意してくれている立ち呑み用テーブルで悠々といただく。この一番商店街も戦後の闇市に由来するが、駅周辺にスーパーやデパートが進出したことで衰退しはじめ、さらにコンビニの出現によって、ダブルならぬトリプルパンチを喰らったごとく、衰退に拍車がかかった。そのため、現在のアーケード内はかなり寂れている。だが、そういう類の寂を好む人なら、そのため、現在の「空気」をじっくり味わいたくなるだろう。また、赤羽の商店街には呑み屋が多いとは言え、「丸健水産」辺りでは普通の買い物客や子供の姿が見られるから、店内の昼酒とはまた一味違う飲酒体験である。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー) 赤羽駅前の居酒屋


はやみち[早道]
一種の銭入れ。〇「ェェやかましいソレやらうと、はやみちより壱文ほふり出す。「コリヤ四文銭(なみせん)とはありがたい。「四文銭か、なむ三ぽう、三文つりをよこせ云々(一九・東海道中膝栗毛初編)。
①飛脚の銭入 早道に 限るなり   (逸)
②酒するたびに 早道 腹がへり   (同)
①飛脚と早道の縁語結びの句であるが、この早道という銭入れは飛脚が腰に下げている物に似ている。②飲み食いする度にへっていく財布。一方の腹がふくれると一方の腹がへるというおかしみ。(「古川柳辞典」 十四世根岸川柳著)


伝染病
酒のみちに迷いながら、また迷いこんだみちがもう一つある。知らずしらずのうちに作歌の中にも陶磁の美に関係したものがふえてしまったのは、このためである。このみちは一度感染すると病みつきとなって、思わず深入りをする一種の伝染病である。うっかりしていると慢性化して、一度うつると重病になりやすい。私の場合はその伝染病の保菌者、つまり入れ知恵して下さる先輩たちの数も多かったところへ、酒徳利とか盃とか商売につきものの道具もあるので、好むと好まざるとに拘わらず、いつの間にやら自然に身につくようになった。たとえがよろしくないが、自然に身についた垢のようなものである。しかし、道具が道具であまり上品でないのでその質もいわゆる上手ものには程遠く、せいぜい地方の国焼きか、流行の民芸品の境界をはなれえない。これについて真先に思い出されるのは 大正から昭和にかけて柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチなどの人たちの間で創られた民芸運動のかげのスポンサーとして知られる畏友山本為三郎氏の指導のことである。ある時、同氏がアサヒビールの社長時代に社長室を訪ねると室の棚の上に古唐津らしい酒徳利の全く同じ姿のものが二本並べてある。氏はいかにも誇らし気に、「この一本は柳宗悦さんが九州で見つけたものだが、他の一本はその後、柳さんが渡米された時、ニューヨークで発見して買って帰ったもので、珍しいものだ」との説明である。それは、唐津らしい土に、渋紙色の釉薬の厚くかかったものを指書きで太い筋をぐるぐると無造作に引き書きしてあって、如何にも優雅に見えた。私は、何となくどこかで見たことがあるような気がしたので、家へ帰って、「がらくた」の中を探して見たら、はたして口の欠けたそれとそっくりの徳利が見つかったのであった。二川焼という古唐津の一種だ。この徳利は今も家のどこかにころがっている。そんなことが病みつきのもととなって焼きものの魅力にとりつかれるようになった。そして、だんだん経験を積むに従い、沢山のがらくたの中には、名も知れぬ田舎酒屋の駄徳利に混ざって、いわゆる古伊万里、古備前、小丹波、古瀬戸なども出てきて、それぞれの深い底しれぬ美しさに、虜になってしまった。(「玩物喪志」 坂口謹一郎)


酒の徳
二、三人寄合ひ、「酒といふものは結構なものだ。至極よく血をめぐらす」といへば「なるほどそうだ。おれが此中、大ぶんのんだれば、家までめぐらした」(稚獅子・安永三・酒の徳)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)


ぶれいかう【無礼講】
上下の差別なく相互の礼儀を撤して催ほす酒宴。後醍醐天皇から北条高時討伐の内意を享けた日野資朝が、同士を語らふ為めに無礼講を挙行された次第は「太平記」に伝へられて有名である。
無礼講 衣通姫(そとおりひめ)の 給仕なり   実は肌も露出した女
梯子屁を 高点にする 無礼講           珍芸尽しの審判
美くしいのは 追出して 無礼講          男計りで乱酒
無礼講 三位の局 痣だらけ            皆に抓ねられた(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


居酒屋-ラジオライブ-高尾山
「お久しぶりです」女将に挨拶された。愛想を返したが、果たしていつお邪魔したのか見当もつかない。Iさんのキープしていた焼酎の一升瓶は空き、代わって僕が一本入れた。ひと区切りついてタクシーでホテルへ戻れるものと思っていたら、途中、なんとIさんの奥方が乗り込んできた。これでは区切りどころじゃあない。結局、所替えしての居酒屋で乾杯に次ぐ乾杯。二人のお酌攻勢から逃れたのは年が改まる少し前。別れ際に記念写真を撮った相手はIさんだったか、それともタヌキの置物だったろうか。明けて元日、午前中は福島県の酒を復興のバネにしようというラジオ番組にゲスト出演。居酒屋を借り切ってのライブ中継だ。盃(さかずき)を重ねるにつれ、場が温もってくる。終始和やかに番組は進んだ。初仕事が他ならぬ福島県の美酒を味わいながらというのも縁起がいい。ラジオ中継を終えて数時間後、僕は久々に東京の空気を吸った。そして、翌日の初登山は高尾山の峰歩き。A君は愛妻と精神科医の青年を連れてやってきた。僕たちは混雑の少ない稲荷山(いなりやま)コースで軽快なスタートを切った。けれど日頃は運動不足からか、みんなの足運びは鈍い。奥高尾の城山(しろやま)を目指したものの、目標半ばの紅葉台(もみじだい)に建つ茶店であえなく頓挫(とんざ)した。とはいえ紅葉台の見晴らしも悪くない。茶店のテラス卓を囲み、彼方(かなた)に聳(そび)える雪化粧の初富士へ缶ビールで献杯する。燗酒とおでんを追加しての酒盛りは小一時間ほど続いた。(「酒は人の上に人を造らず」 吉田類)


身延の日蓮
しかし、入山当時の生活は実に大変だったようで、甲州で最もよい時期の五月ころはともかくとして、いよいよ冬に入ると、南国房州育ちの日蓮にはその寒さが骨身にしみ、「ゆき(雪)かたくなる事金剛のごとし いまにき(消)ゆる事なし ひるもよるもさむくつめたく候事、法にすぎて候 さけ(酒)はこをり(氷)て石のごとし あぶらは金ににたり なべかまに小水あればこをりてわれ かん(寒)いよいよかさなり候へば、きものうすく食ともしくてさしいずる者なし」(兵衛志殿御返事)(「関東古社名刹の旅 群馬・栃木・茨城編」 稲葉博) 身延に入山した時の手紙です。

利休卵
「利休卵」の仕方とは、「是は白胡麻一合を油をとり、よく摺りてさて古酒5才ほど入れ、よくすり、此中へ卵を十個わりこみ、溶き合わせ、これを箱か鉢に入れて蒸すべし」と言うのである。「利休焼」というのは味醂六、醤油四の割合で煮つめたものに胡麻を加え魚に塗って焼いたものだから胡麻を使うことで、それに因んだのだろう。(「慶喜とワイン」 小田晋) 卵百珍集(原田信男・校注・解説)にあるそうです。


岩村弥八
〇岩松弥八が事、『武徳編年集成』巻一、「天文十四乙巳(きのとみ)年三月大九日、御当家の旧臣岩松八弥は刮目(かつもく)なる故に、時人片目八弥と称す。隣国の敵に内通し、岡崎城中広忠公の御寝処に入(いり)、千村正の脇指にて犯し奉る所、突損じ、御股を傷(きずつけ)て、八弥営中を走る。広忠公御刀を抜て追給ふ。城中動揺し、八弥逆心、君を刺て逃ると呼はる時、植村新六郎家政(後出雲守)登営し、此声を聞て、城門の橋際へ弥八逃来る、家政引組て堀の内へ落る。遂に八弥を殺し首級を得」云(いふ)。『松平記』云、「岩松は新田庶流なり。八弥常に昵近(じつきん)して軍功度々なり。是より先乱心せしにや、無罪の家僕を害し、婦女を殺さんとしけるを、逃て難を免かる。剰(あまつさ)へ酒を好て、今日成道山大樹寺に於て遠忌仏事をなし、過酒沈酔して直に登城し、君を犯すに至る。一子あり、誅せらる。孫も有(あり)、是も死に就(つ)かむとしけるを、広忠公慈仁にて、八弥が戦功に免じ、其孫幼稚なれば命を助け、武門を避て、源家桃井庶流、幸若小八郎といへる舞大夫の門弟となし賜ふ。-(「嬉遊笑覧」 喜多村筠庭)


ぽん酒館
『ぽん酒館』がある越後湯沢駅内は飲食店も多いので、ひとしきり試飲を楽しんだら、腰を落ち着けて飲むのもいい。そのひとつ『魚沼の畑』は、看板メニューこそ丼ぶりだが、地元魚沼の酒「鶴齢」「八海山」「兼続」が揃う。おすすめなのは、3種の呑み比べ。同じ地域の酒でありながら、「鶴齢」はふくよか、「八海山」はきれいな直球、「兼続」は淡麗、と違いが明確。もちろんいずれも旨いので、ついつい先へと進むことになる。合わせて惣菜や漬物の盛り合わせを頼むと、もう酒とどんぴしゃりの相性の良さ。素朴な料理ばかりながら、新潟らしい品のいい味付けなのだ。さらに、酒、料理に負けず劣らず感動するのは、テーブルに置かれたポットの水。決して特別なものではないのだが、とても清々しくやたらおいしい。酒同様にぐびぐび呑むので、どんなに盃を重ねても気分はずっとすっきり健やかなまま(あくまでもわたくしの場合ですが)。ちなみに『ぽん酒館』は、2013年に新潟駅にオープン。越後湯沢駅同様、試飲コーナーや飲食店を備えている。実は両駅とも天然温泉に日本酒を加えた「酒風呂」があるのだが、わたくしはいつも呑みすぎて、そこにまで至れていない。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子)


話と交換
「これから犯人の身の上話に移るのだが、もう時間も相当に遅いから、あとはまた明晩の続講といふことにしよう」これを聞いたこま子(娘)は、なか/\話の中断を承知しない。「ねえ、パパさん、終ひまで話してよう!」と、執拗に天心に食ひ下がるのであつた。彼がかう粘られるのを待ち望んでゐたのには、心中に自ら期するところがあつたからであつた。「おこまがさう言ふなら、話をしないこともないが、そんならママさんにさう言って、もう一陶だけ持つて来てくれないか。」その時分の天心は、医師の勧告で、酒二本と極められてゐた。そして、彼の健康に注意を払つてゐた元子(妻)は、決してそれ以上の分量を、彼に提供してゐなかつた。併し、かう彼がこま子を通じて欲求すると、自分でも話を結末まで聞きたがつてゐた彼女は、容易に禁断の鉄鎖を解き放つて、更に他の一陶を捧げるのであつた。-
かくて、新本が手に入ると、天心の講釈は、又その晩から一夕一話の割合で、十日足らずも続いた。元子も、こま子も、彼の妙味ある独特の話術に魅せられて、猶も他の談を迫つたが、さうさうは種本がなかつたので、連続講談は、遂に最後の幕を閉じてしまつた。併し、この十日足らずの間に、天心は二三升の追加酒量を祈り出してゐたことは事実であつた。(「父天心」 岡倉一雄) 話したのはコナンドイルの小説です。


古今夷曲集(5)
題しらず 行安
本歌
汲かはす さゝのおなかに 満ぬれば 身をじゆくしとぞ 我は酔たる
親しき方にて酒すゝめられけるに是は味なし彼はよしなどひいければとかくいひて盃の数重なる事よと笑はれけるによめる
わたくしも 難波にすめば すゝの酒 よしやあしとて たべませいでは
これは/\大酒のまるゝ事よと亭主の笑へりければ
読人しらず
あがり子の 椀をおりべに 擬(なすら)へて 八たびのまばや 酔時のあらん
あがり子の 椀をおりべに なせり共 てうしのこりて 酒や残らん
題しらず
本歌
道すがら しとろもじずり 足もとは 乱れ初にし われなら酒に(「古今夷曲集」 新群書類従)


安倍川あべかわ
安倍川を越えて上戸(じようご)は待ている  天五信3
【語釈】〇安倍川=東海道の府中(今の静岡)の西にあって、あべ川餅が名物。
【鑑賞】下戸には見のがせない名物だから、お代りなどして時間がかかる。上戸は対岸で待ちくたびれる。ふつう酒のみが下戸を待たせるのだが、ここだけは反対である。東海道の旅の待たせる最初は旅送りの人たちとの別盃で、左の句はしびれを切らして先発し、鶴見の米饅頭屋↓で待ち合わせるというケース。
よたん坊めがと鶴見で待合せ  拾二3 (よたん坊は酔っぱらいの意)
【類句】
あべ川で生酔下戸を引立てる  安六宮3
川越しは餅屋の前にぞうろぞろ  安六松3
あべ川で馬はきなこを浴びて行  拾二5(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)


今年酒の粕
その頃は、取りつけの酒屋から、新酒の時分、酒の粕や、こぼれ梅を「今年酒(ことしざけ)の分です…」といって届けて来た。新酒の事を、今年酒というのは、いかにも初々しい感じで、酒もいっそう旨い気がする。そして、この酒の粕でも、こぼれ梅でも、この頃市場で買って来るものなどとは、雲泥の相違である。板カスにしろ、踏込みにしろ、この頃のは搾れるだけ搾ってあるのか、酒造法が変わっているのか、まことに酒の粕の味には遠く、あの頃の、今年酒の粕には及びもつかない。去年の末に、ある酒造会社から送られた粕を貰ったが、ようやく昔に近い粕汁を満喫することができた。といっても、昔に近いというにすぎない。(「味の芸談」 長谷川幸延) こぼれ梅はみりんの粕です。


酒言葉之事
一、ほうろく泡とハ、鏡の見ゆる大き成泡の事。 〇「ほうろく泡」とは、表面に像の映るほど大きな泡のことである。
一、鬼灯(ほうつき)泡とハ、鬼灯程にて鏡見ゆる泡の事。 〇「ほおずき泡」とは、大きさがほおずきくらいで、像の映る泡のことである。
一、蟹(かに)泡とハ、左右/\(うざうざ)と細(こま)か成泡の事。 〇「かに泡」とは、ぶくぶくとした細かい泡のことである。
一、雪泡とハ、雪の降積りたることく高泡の事。 〇「雪泡」とは、雪が降り積もったように高くなる泡のことである。(「童蒙酒造記」 吉田元校注執筆)


一休と亦六
我寒夜(われかんや)に道を歩み身上冷(みうちひ)えて堪(た)えがたければ、布施物(ふせもつ)にかへて一盃(ぱい)の酒を与へよ。我(われ)一分(ぶん)の酒気有(しゆきあ)れば、十分(じふぶん)の禅機(ぜんき)あるはと宣(のたま)へば、亦六曰(またろくいは)く、小人(それがし)貧しく侍(はべ)れども、商物(あきなひもの)に候へば酒の貯(たくはへ)は乏(とぼ)しからず候。疾(と)く/\す〻め申せといひてお三輪(みわ)に命(めい)ずれば、お三輪(みわ)は立ちて一陶器(ひととくり)の酒を持来(もちきた)り、此酒あた〻めてまゐらせ度(た)く思ひ侍(はべ)れど、年木(としぎ)の用意(ようい)さへなければと、いと恥(は)ぢらひつ〻いふに、一休四辺(あたり)を見(み)まはし給ひ、かしこによき薪(たきぎ)ありと宣(のたま)ひつ〻、釣仏壇(つりぶつだん)に安(あん)じたる木仏(もくぶつ)をとり給ひ、老女が携(たづさ)へ来りし斧(をの)を以て、木仏(もくぶつ)を二(ふた)つさつと打破(うちわ)りて、囲炉裏(いろり)に投入(なげい)れたまひければ、亦六夫婦小山三等(またろくふうふこきんざら)は唯(たゞ)あきれてぞ居たりける。時に一休微笑(みせう)して宣(のたま)はく、汝等我(わが)ふるまひを訝(いぶか)るは宜(うべ)なり。昔丹霞(たんか)といふ和尚大悟(をしやうたいご)し、寒天(かんてん)に恵林寺(えりんじ)の木仏(もくぶつ)を焼(た)きたる事あり。我(われ)今百魔山姥(ひやくまやまうば)、提婆仁三郎(だいばにさぶらう)といふ二体(にたい)の真(まこと)の仏(ほとけ)をつくらんと思へば、いかでか仮(かり)の木仏(もくぶつ)を惜(をし)まんや。仏(ほとけ)も下駄(げた)もおなじ木(き)の端(はし)にあらずや。疾く/\燗(かん)せよといそがし給へば、やむことを得ずお三輪自在竹(みわじざいたけ)に陶器(とくり)をくくりつけ、彼木仏(かのもくぶつ)を薪(たきゞ)となしたりけるに、一休は木仏(もくぶつ)の燃るを見給ひ、掌(て)を打(う)ちて大に笑給(わらひたま)ひけり。時に彼雉竹林(かのきじたかやぶ)の裏(うち)より飛出(とびい)で来りて、一休(いつきう)の御衣(おんころも)の袖にまつはり、谷口呱(くくく)といひて片目(かため)に涙を流ければ、一休(きう)手をもつて雉(きじ)の脊(せ)をかきなで給ひ、汝も二体(たい)の仏(ほとけ)をうらやみ成仏(じやうぶつ)をねがふかと宣(のたま)ひて、またお三輪(みわ)にむかひて宣(のたま)はく、此雉(このきじ)は乃(すなは)ち是(これ)汝が父竹斎(ちくさい)が再生(さいせい)なり、「目奇(一字)」盲(かためし)ひたるは其証(そのしるし)ぞかし。-
一休(いつきう)また宣(のたま)はく、沙石集(させきしふ)といふ書(ふみ)にもさる例(ためし)あり。皆是前世(これぜんせ)の宿因(しゆくいん)なれば、如何(いかん)ともすべからずと宣ふうちに酒の燗いできたれば、大盃(たいはい)に受けて数盃(すはい)をかたぶけ給ひ、舌打(したうち)しつ〻あな快々(ここちよし/\)と宣(のたま)ひて、十分(じふぶん)の酒気(しゆき)をおび給ひ-(「本朝酔菩提巻之八下」 山東京伝) 酒売亦六


某月某日
家の近くの「富寿司」で、ソフトボールチームの準優勝祝いの集りがあり、サンダルをつっかけて出掛けてゆく。「富寿司」の常連を中心に「四十がらみ」と称するチームができ、私は、いつの間にか総監督にされていた。毎日曜日の朝、近くの広場で猛練習をして試合にのぞむが、いつも初回で大量点をとられ、コールド敗けを繰返した。練習もしない主婦だけのチームに敗けた時は、情けなさに涙も出なかった。その後、威勢のいい三十代の男性が徐々に加わり、それにともなって勝つことも多くなって、チームの者たちは、町内の大会で三位になった時、酒が入ると涙ぐむほど喜んだ。そして、遂に準優勝の栄をかちとったのだ。賞状を前に祝杯をあげたが、壁にはられたチーム構成表をみた私は、総監督ではなく名誉会長となっているのに気づいた。いつの間にか棚上げされていて、これでは今に元名誉会長にされてしまうかも知れない。いずれにしても気のいい人ばかりで、私も嬉しくなって杯をかさねた。(「酒中日記 良き人良き酒」 吉村昭)


宴城東荘(2)
乾盃の音頭をとった玄宗の女婿である崔恵童が、この詩を披露するや、すかざず弟の敏童がそれに奉和した。
一年の始め 一年の春あり
百歳 かつて百歳の人なし
よく花の前に向かい幾回か酔わん
十千 酒を沽(か)うて 貪を辞するなかれ
年のあらたまるごとに春はやってくる。つまり人は年をとる。人の命は、一口に百歳までとはいうが、それほどまで長生きしたものなど、ほとんどいやしない。春がやってきたとて、あれこれみな忙しく、満開の花を見ながら酔いつくすなんて、めったにありやしない。酒の値段、たとえ一萬銭たりとも、惜しみなく金をはたいて手にいれようぞ。今日一日、存分にその美酒を飲みつくすのだ。玄宗の女婿崔恵童の詩に対し、他にも和するものがずいぶんいたと思えるが、弟の敏童の一詩残るのみである。この春宴の席に敏童の妻となった晋国公主もいたかどうか不明だが、一時のものでしかないという栄華のおびえが、その詩の裏心として顕著であり、このはかない刹那を貪(むさぼ)り楽しまん、というあせりのようなものが見えて、せつない。(「酒を売る家」 草森紳一)


造醸
酒は、是必聖作(これかならずせいさく)なるべし。其濫觴(そのはじまり)は、宋竇革(そうのとくかく)が酒譜(しゆふ)に論じてさだかならず。日本にては酒の古訓(こくん)をキという。是則(すなわち)食饌(け)と云儀(いうぎ)なり。ケは気(き)なり(字音をおおく和訓とすること例なり、器をケというがごとし)。神に供(くう)し、君(きみ)に献(たて)まつるをば尊(たつと)びて御酒(みき)という。又黒酒白酒(くろきしろき)というは清酒濁酒(せいしゆだくしゆ)の事といえり。サケという訓儀(くんぎ)はマサケの略にて、サは助字(じよじ)、ケは則(すなわ)ちキの通音(つうおん)なり。又一名(いちみよう)ミツとも云(いう)。是(これ)は酒を造るを醸(かも)すといえば、カを略(りやく)して味(み)の字を冠(かんむ)らすか。
一 宋竇革 宋代の学者。竇苹(ヘイ)の誤り。山東省汶上の人。『酒譜』はその著作で、酒の名にはじまり酒令に終る酒に関する故事を録す。一巻。(「日本山海名産名物図絵」 千葉徳爾注解)


酒飲まぬヘルシェル
ヘルシェルは議論では必ず勝つことで有名だが、たとえばこういう話がある。ある時ラビ(ユダヤ教司祭)が彼をきつく叱りつけた。「おいこらヘルシェル、おまえはしょっちゅう飲み過ぎて酔いつぶれているが、あれはよくないぞ。<飲み過ぎは罪のもと>とタムルードにも書いてあるぐらいはしっとるじゃろう」「でもラビ様、酒なら僕は一杯以上は飲んだことがないですよ。誓ってもいい!つまり、一杯飲むともうベロンベロンに酔っぱらって別人になっちゃうんです。するともう一杯飲むけれどまた別人になっちゃう。またもう一杯飲んでまたまた別人になっちゃう。このくり返しだから、僕が一杯以上飲むことは絶対にありません!」ヘルシェルの反論にラビは困った。「全くずるいやつめ。それじゃ聞くが、その"別人"ってやつは何という名前じゃ」「もちろん僕が最初ですからね、みんな僕にちなんでヘルシェルって名前ですよ」(「ユダヤジョーク 笑いの傑作選」 ジャック・ハルペン)


酒に強いこと、酒に酔わぬこと
おかしなことに、酒品のほかに、酒に強いこと、酒に酔わぬことがまるで人間の偉さのようにいわれる面がある。人間の偉さを公式にはかる面となっているわけではないが、個人的感覚として酒に弱い者が、強いものに何かコンプレックスを抱くような面がたしかにないではない。この点は、女色についての能力の強弱について、男が抱くコンプレックスとまことによく対比している。このことは論理的に阿呆(あほ)くさい。が、心情的にはその存在はどうにでもならぬであろう。こういう阿呆くささがあるというのが、あるいは人類というはなはだかしこく、悪辣(あくらつ)な、善良な、不完全な、しかし地球一の社会的動物の、一種のかわいらしさ、あるいは一種の生産性の核心をなしているものではないかと思われる。大いに酒によっていい気持ちになれ。ただし、おとし穴におちても悔やむなよ。まあしかし、五柳(ごりゆう)先生(陶淵明)みたいな酔いざまが罪がなくてよいが、罪ある酔いざまがあっても仕方がない。あまり罪つくりにならんようにな、というのがわたしのねがいだが、そのわたし自身がいっこうに当てにならん酔いざまでは、言う声が細るのもむりはない。(「酒の詩集」 富士正晴編著)


誤植
100年程前、イギリスの禁酒主義者が書いた本の題名が『酔うことは楽しいことだ』となっていた。その当時、人々は、禁酒主義者の転向宣言か、あるいは反語的表現かと大騒ぎしたが、真相は単なる誤植であった「Drunkness isi folly」というのが、ほんとうの題だが、「folly」の「f」が「j」と誤植されていた。つまり、「酔うことは愚(おろ)かなことだ」が、わずか一文字の誤植で、「酔うことは楽しいことだ」という賛美的な題名に変わっていたのだった。


暑い時は、熱いものを食う
築地小劇場が軍のご意向で、国民新劇場なんて奇妙な名称に改めさせられる時代である。西村晃青年の役者暮らしも先が見えていた。昭和十八年には学徒動員で特攻隊員として鹿児島県の串良へ。一寸先は闇って変転のなかで生き残った西村晃は、その体験のなかから、屈折した人間の弱さとずるさを演じきる名バイプレーヤーとなっていったのだが、酒の飲み方にもひと癖もふた癖もあって、「当たり前の飲み方で、量を競うのは肌に合いませんな」と皮肉たっぷりな苦笑を浮かべるのである。いまはもう跡かたもなくなったが新宿・帝都座が名画座を併設して、当時の若者たちに愛されていたころ、その帝都座裏の路地には、映画人や文士たちの集まる飲屋が何軒もあった。ルパシカなどを着用に及んでカウンターの隅で一杯やっている西村晃は、眼光けいけいとしていて、油断のならない奴って感じだったが、肩を並べて話し合ってみると、まことに気のいいオッサンで、後年の"水戸黄門"への片鱗ものぞかれたといってよかった。「暑い時は、熱いものを食う。御酒をたしなむ。これがよろしいのです。どうですか」と私にも熱燗をすすめる西村晃は、"水戸黄門"連投にびくともしない。暑中には熱いものを信条としてきた結果であるのおかもしれないのだ。(「いい酒 いい友 いい人生」 加藤康一)


ハタハタ
そんなこんなで夜が来て、さあ、いよいよハタハタをいただくことに。まずはオーソドックスに塩焼き。ハタハタはウロコがないので洗うだけでよし。おまけに内臓やエラも小さいので、とらずにそのまま塩をして焼けばよい。両面がこんがり焼けて、腹がはじけてブリコがのぞくようになったらOK。まずは、背中のあたりの身肉をひと口。フツーはブリコを持つと身が痩せているものだが、ここまで大型になると身もじゅうぶん食べごたえがある。次いで、宝石のようなブリコ。粘液につつまれて糸を引くところを口に入れると、ゴムのような弾力のある噛み心地。噛み潰した中からまるで鶏卵のような旨味がとびだす。そして、この旨味を受け止めるには、日本酒以外にありえない。秋田の地酒なら申し分ないが、まあ、とりあえず日本酒なら何でもOKだ。二尾を塩焼きであっという間に食べ終える。次なる料理は腹に味噌を塗って焼く田楽だ。あらかじめ素焼きをしてところに、砂糖とみりんを混ぜた味噌を片側に塗って、グリルでサッと炙(あぶ)る。淡白なハタハタの身に味噌味がよく合う。ここまできたら煮付けも食べたい。醤油、酒、みりんで作った煮汁を沸かし、ハタハタをまるごと投入。落としぶたをして、しばらく煮て味が行き渡れば完成。ハタハタは火の通りが早いので、そんなに煮込む必要はない。塩焼きも、味噌田楽も美味いが、やはりハタハタは醤油と一番相性がいい。特に煮汁がからんだブリコはこたえられない。-
というわけで、産直ハタハタ晩酌、これにて終了。(「晩酌パラダイス」 ラズウェル細木)


大学生の飲酒
大学生の飲酒のひどさは、目を覆いたくなる有様です。大学生は、飲酒したり遊びまわったりすることが大学生である証しであり、特権であるような錯覚に陥っているように思われます。大学がレジャーランドになっているといわれる由縁です。「大学は真理を探究し、学問する場所である」などといえば、バカな頑固おやじと嘲笑される有様です。お酒に強いことが、大学生としての必要条件となっているのかも知れません。毎年のように大学において急性アルコール中毒による死者が出ても、性懲りもなく新入生歓迎会で無理やり飲ませるいじめが続けば、自衛策として酒に強くなるしかないのかもしれません。表1に示しましたが、大学生の男子では九〇%、女子で八〇%の者が月に一回以上飲酒しています。週に一回以上飲酒している者は、男子で五〇%、女子で二四%に及んでいます。週に数回以上飲酒している者は、男子で二五%、女子で六%いました。週に数回以上飲酒している大学生は、夜は全然勉強していないと考えられます。飲酒して勉強することはないと考えた方がよいからです。何しろ日本の大学生は、世界中の大学生の中で最も勉強時間が少ないという調査結果も出ているくらいです。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二)


酒の華
1997年、テレビでそのことが放送されるや、、あちこちのスーパーというスーパーから酒粕が消え、私たちの蔵にも多くの問い合わせがきました。ところが数日すると、もうそのフィーバーは忘れ去られてしまったのです。酒粕の評判は一過性のものとも思えるものでした。私は酒粕という名前がよくないのではと思います。いくら身体に良くても「カス」ですから。もう少し、存在性のある、「酒の華」とか呼んであげるとどうでしょう。 - 末廣酒造代表取締役社長 新城基行(「酒粕の凄い特効」 滝澤行雄監修)


(十六)曽我五郎
二上リ我は石川や濁らねども人が濁(にご)すよの、かけふにはなにとしんまゐらしよ、勝山(かつやま)が髪のゆひぶり手替りにこのえ君ちとせ山、それや昔(むかし)のさゞれ石、いはほと成ていつまでも変らぬものは常磐木(ときわぎ)の、葉色(はいろ)に迷ふ人心(ひとごころ)、地をはしるけだもの空をかくる翼(つばさ)も、恋には誰(だれ)も身をやつす、いや/\わらは心とひやうし、一眼早足(いちがんさそく)やつとん/\、二眼早足(がんさそく)やつとん/\、さきの力(ちから)にやよれつもつれつ、やととん/\とん/\とん/\、うけて流(なが)して袖返し、棒はみや口戸田小坂、そちが思へばこちも思ふよ、ほんにさせいもんしやたらほん、誠につい/\のつい我等も思ひそろ、思ひと恋とはがつてんか、君が盃つく/\つつてん、つけさし三杯(さんばい飲(の)めや)歌(うた)へやとかく世の中(「松の落葉」)


酒泉公園
町の中心から、ちょっとはずれた酒泉公園は、当地の数少ない名所でもあり、市民の憩の場所のようで、九時になったばかりなのに、散歩する人影も見えた。三元の外国人料金を払って門をくぐる。入場券の裏に、酒泉の歴史に続いて、こう綴られていた。『…唐代大詩人李白《月下独酌》曰"天若不愛酒、酒星不在天。地若不愛酒、地應無酒泉"。…』そうか、李白は、ここまで来ていたのか。一年前、西安-かつての長安の都を訪れたとき、李白がよんだという詩をガイドから聞いた。『両人対酌山花開 一杯一杯復一杯 我酔欲眠卿且去 明朝有為抱琴来』放浪の詩人、李白(七〇一~七六二)は、四〇歳代の三年間だけ長安で仕官し、宮廷詩人として過ごしており、「一杯一杯復一杯(イーペーイーペーユーイーペー)」とうたったのは、そのころだろう。無類の酒好きだったそうだから、一五〇〇キロほど西に酒ゆかりの酒泉があると聞けば、万難を排して足を向けたに違いない。李白の足跡をたずねて酒を味わう旅も趣がありそうだ。公園中ほどにある石の手水鉢(ちようずばち)に、「月下独酌」が彫ってあった。「李白は、泉のほとりで、月夜の晩、一人で酒を飲み、酒をうたいあげました。天もし酒を愛さざれば、酒星、天にあらず、地もし酒を愛さざれば、地まさに酒泉無からん。この天は神様の意味でしょう。酒星は酒好きの人のことです。最初の地は天の神様に対して人を現し、後の地は世の中の意味だと思います」高さんの日本語は、普通の会話になると乱暴だが、ガイドを始めると丁寧になる。(「ユーラシア大陸飲み継ぎ紀行」 種村直樹)


同(童謡)(陸奥)
鈍助どん/\、金魚売(うり)に遣つたれば、金魚のふれ方忘れて、酒に酔つた鮒ぢやと、ふれてあく
鈍助どん/\、線香売りにやつたれば、線香のふれかた忘れて、仏様の松明ぢやと、ふれてあく
 -鈍助の歌は拙けれども人をして噴飯せしむるに足れり。ふれてあくとは云ひ触れて行(ある)くの意なるべし。(「現存せる童謡」 幸田露伴)


狂歌百人一首
 参議等
徳利は よこにこけしに 豆腐汁 あまりてなどか さけのこひしき
 大弐三位
有あひの たなのさゝをば 呑ときは ゆでさや豆を さかなとぞする
 三条院
友もなく 酒をもなしに ながめなば いやになるべき 夜はの月かな
 大納言経信
夕されば 門田のいなば 音づれて 権兵衛内なら 一合やろうか
 崇徳院
焼つぎに やりなばよしや この徳利 われても末に あはんとぞ思ふ
 源兼昌
淡路島 かよふ千鳥の なくこゑに 又ね酒のむ すまの関もり(「大田南畝全集」 浜田義一郎編集委員代表)


ウコン
ウコンといえば悪酔い・二日酔い対策として酒好きに欠かせないアイテムだし、実際、使っている人も多いだろう。カレーにはそのウコンが含まれているのだから、酒に疲れた体が欲するわけだ。カレーの中で大切な役割を果たしているのが、ウコンに含まれるクルクミンという成分。これが、アセトアルデヒドを排出する作用のある胆汁(肝臓で作られる消化酵素)の分泌を活発にすることで、体内からアセトアルデヒドが消えていく。また、これ以外にもウコンには活性酸素を排出する作用があることが確認されている。(「二日酔いの特効薬のウソ、ホント。」 中山健児監修)


江戸の独身者
江戸日本橋の賑わいも、元禄の頃には最高潮に達する。その繁栄の源は、上方商人たちの江戸店(えどだな)(東京支店)だった。ここで働くのはほとんどが男たちである。店は繁盛しているとはいえ、お店者(たなもの)たちは店の金で酒が飲める身分ではなく、さびしい男所帯を紛(まぎ)らわすために、下り酒を買ってきては自分の部屋で飲むという独酌(ひとりじゃく)派になった。独酌飲酒は、江戸の経済的発展の陰に生まれた新しい飲み方となり、武家でも独酌飲酒が広く見られ始めた。その後の享保六年(一七二一)の江戸の町方の人口調査では、人別(戸籍)のある者は五十万千三百九十四人で、そのうち男は三十二万三千二百八十五人である。さらに幕府の直臣は二万二千余家があり、それに仕える武家奉公人の多くは独身で、二百七十家ほどある大名家の江戸勤番武士たちも独身という。異常に男が多い社会であった。独酌飲酒は、武家、お店者からやがて、町の小さな商人、落語に出てくる裏店住まいの坊手振、日傭取り、駕籠かき、武家奉公人の中間(ちゅうげん)、小者(こもの)など、一般庶民層にまで浸透していき、酒の需要がますます増えていった。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資編著)


「酒」に関する和歌表現
次に、順徳院の『八雲御抄』巻第三枝葉部の衣食部では、「酒」に関する和歌表現を次のように列挙している(4)
酒 みき。とよみき。ながるゝかすみ。竹の葉。栢梨。しろき。くろき。万[には]しろみき、くろみきといへり、同事也。あそびのむといへり。はるのかぜすゝむといへり。みわすゑまつるとは、神に酒をまゐらする也。わとは酒字也。ひあひのさけ(たゞその日あるといふ心なり。)ゆにてしろと云、一説有。
これは王朝中世の和歌において酒に関する表現がいかに豊富であったかを物語るものではない。むしろいかにして「酒」という言葉を用いないで済ますことができるか、歌人達が腐心した結果がこれらの表現の大部分を生んだのである。三代集から『後拾遺集』あたりまでは、今までその一端を垣間見たように、詞書きに「酒」や「かはらけ」などの言葉も散見されたのであったが、以後の勅撰集ではそれらの言葉は激減する。(「酒の歌、酒席の歌」 久保田淳)


枝桶
枝桶も昔の酒蔵ではよく使っていた。入れ物が小さければ管理がしやすいわけで、間違いも少なくなるからだ。初添えから「踊り(初添えの翌日で、何もしない日)」までは枝桶を使い、その後で大きな仕込み桶に移して、「仲添え」と「留添え」は大きな桶で仕込む。そんげなやり方をしていたわけさ。だども、醸造技術もだんだん発達して、そういうものを使わなくても安全醸造ができるようになったすけ、今は、枝桶で初添えするような蔵はほとんどなくなっているろう。それでも、おらとこの蔵では大吟に限っては枝桶で初添えをするんだわ。もろみの管理に少しでもいいということなら、枝桶で仕込みたいわね。仲添えからは、まちっと大きなタンクに移して仕込むんだわ。(「杜氏千年の智恵」 高浜春男) スッポン仕込み


第二 正直な親仁(おやじ)を一呑(ひとの)みにする上戸(じようご)気質
親仁は身を乗りだして、「若い者がそんな弱気でどうするのだ。もう一杯飲んで、とくと思案をかためなさい。」とまた、一杯飲まし、「おれは三千両は少ない。五千両買おうと思うがどうじゃ。」と言った。息子は顔色をかえて、「そんな気の大きいことをきくと、身の毛がよだち、寒気がいたします。左次兵衛様、親父に意見をしてくだされ。一(いち)か八(ばち)かの大利をねらった買い置きは、申しにくいことですが、私どもほどでない身代のものがすることです。私は、あんなことを聞きますと、身がちぢむ心地がいたします。ゆるりとこれでお遊びなさりませ。」と挨拶して勝手へはいった。親仁はその方を指さして、「私の嫌いな酒を伜に飲ませるわけはこれです。あの者は十八、九の時から、とかく生まれながら気が大きく、小判市(こばんいち)に手を出しますので、意見してとめると、米、油さては唐物、薬種の買い置き、一夜検校(いちやけんぎよう)になるような大儲けが好きで、今まで、あいつの損は、三千両や四千両ではききません。傾城狂(けいせいぐる)い、賭博(ばくち)で、この半分を減らしたら、今まで勘当せずにはおきませんが、なにしろ、商人の、儲けようとてすることですから、勘当もなりません。心配しておりましたところ、人とかわって大酒をのめば、平生とはちがい気がめいり、側で大声でものを言ってさえびくつく性分、それから試してみますと、持って生まれた気性で人の言うことをきかず、持病の買い置きがきざしそうな時、酒をもりかけると、ただ今の通りです。なんと、これも大きな病気ではありませんか。」との親仁の話に、やっと左次兵衛は酒をしいられた不審がはれた。(「世間子息気質」 江島其磧 小島政二郎訳)


479酔うと
男「お酒を飲むと貴女は素敵だ」
女「あらッ、あたし、ちっとも飲んでやしませんわ」
男(ため息をつきながら)「僕が飲んでるんですよ」(「ユーモア辞典」 秋田實編)


すっぽん仕込(じこ)み
初添(はつぞえ)は旧来、小タンク(枝桶(おけ))に仕込むのが普通であったが、初添を親桶に仕込み、仲添・留添をその上に仕込んで枝桶を使わない仕込み方法をすっぽん仕込みという.また初添えは枝桶に仕込み、仲添から全量親桶に仕込む場合、これを仲(なか)すっぽん仕込みと呼ぶこともある.(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)


ストレス
ストレスが うようよしている 縄(なわ)のれん  キンモクセイ
遠いマイホーム
飲み過ぎて 一つ乗り越し もう越後(えちご)   早川太詠
二日酔
過労死を 酒の肴(さかな)に 二日酔       管理者一同
懇親会 部下の本音で 二日酔          現実オンチ(「平成サラリーマン川柳傑作選①一番風呂・二匹目」 山藤章二・尾崎三柳・第一生命選)


あしかが【足利】
①尊氏を祖とする足利将軍家。清和源氏で、源義家から出た家である。義家の子を義国、義国に二子あり長は義重で新田の祖、次は義康で足利を起したのである。野州足利郡足利庄を食んだから足利の姓が出たのである。されば其家紋の如きも、新田氏は丸に一つ引、足利氏は丸に二つ引と別れたのである。(たかうぢ参照)
足利は 酒屋 新田は 大神楽  内田酒屋は丸二


アサリの茶碗蒸し
作り方 ①生しいたけは軸を取り除き、薄切りにする。卵は割りほぐし、ここ二中華スープを加える。調味料で味を調える。 ②丼などの深さのある器に生しいたけとあさりを入れ、卵液を注ぎ入れ、蒸し器に入れ、中火から弱火で約20分蒸す。あさりの口が開いて卵液が固まればできあがり。
貝の下ごしらえ ①海水程度の塩水につけ、砂をしっかりとはかせる。 ②貝殻をこすり合わせ、よく洗っておく。
 材料(2人分) アサリ…20粒 生しいたけ…2枚 卵…2個 中華スープ…1 1/2カップ 薄口しょうゆ…大さじ1/2 みりん大さじ…1/4
このつまみに、この一本 久保田百寿(くぼたひやくじゆ) 本醸造/新潟 日本酒度…+6 酸度…1.2 家格…1950円(1.8ℓ) ●穏やかな香りと軽快な味わいの「久保田・百寿」は食中酒に最適。あさりのだしがたっぷりの茶碗蒸しとの相性も抜群。安心して呑める定番酒は、一家に一本の必需品。(花ふぶき)(「新・日本酒の愉しみ 酒のつまみは魚にかぎる」 ガッケンムック)


酒を基語とする熟語(4)
酒足 シュソク 満足のいく酒の量(白居易「首夏詩」)
酒胆 シュタン 酒好き(「漢犀詩話」)
酒壜 シュタン 酒徳利(「本草」艾)
酒腸 シュチョウ からだに酒を入れる腸がある、という俗説から。(杜牧「題呉与消暑楼詩」)
酒禿 シュトク 酒の飲みすぎによるはげ。(「清異録」肢体・十様仏)(「日本の酒文化総合辞典」 荻生待也)


メートルがあがる(メートルが上がる)
[句](「メートル」は仏語mètre)「メートルを上げる」の自動詞形。気炎が上がる。意気が上がる。酒を盛んに飲む。◇「酔狸州七席七題」訪問(1924年)<葛西善蔵>「四股を踏んで、陶然その席に着き、狸州又座に上る。(略)狸州のメートル稍々上る]◇「明治大正見聞史」政府の恐露病と日露戦争・三(1926年)<生方敏郎>「だがこんなにメートルが上つたのは、必ずしも七博士ばかりの事ではない。誰も皆一般に人々の鼻息が荒くなつてゐた」(「日本俗語大辞典」 米川明彦編)


硝酸塩
温度が高いと発酵が進みすぎるが、この現象を「早わき」という。「雑学あきた」にはちょっと関係ないようだが、大正の初め、四国の丸亀税務署では酒造技師数人が、折からの暖冬による早わき現象の防止策を話し合っていた。その中の一人が「高知県の佐川町の酒屋は、どんな年にも早わきがない」といった。すると、花岡という技師が「佐川町にはほかと何か変わったところがあるのか」と聞いた。「しいていえば、あの町の井戸水には硝酸塩が多いことくらいだ」というと、花岡技師は「それに違いない」。早速実験したところ、見事に早わきが防げたのである。化学的な説明は省くが、今でも早わき防止にこの硝酸塩を使う酒屋がある。しかも、当時は西洋の醸造書には「硝酸塩を含む水は、醸造には不良水」とあったのだから。この早わき防止策は大発見だったわけだ。この花岡技師というのは、花岡正庸氏。後に、仙台税務監督局に転任し、大正十四年に本県の専任技師、昭和二年十月の県醸造試験場完成とともに初代場長となった人である。同二十八年、由利郡矢島町で没するまで、こよなく秋田を愛し、秋田の酒造りに貢献したため、長野県の生まれだが、本県人だと思っている人も多い。(「あきた雑学ノート」 読売新聞秋田支局編)


ドク・シバリンセン
<コメント>アルコール症の人は、飲みはじめのころは信じられないほどアルコールに対する抵抗力が強い。この抵抗力が、くせものなのだ。彼らはそのおかげで「自分はアルコールに負けない」と信じこんでしまう。ドク・シバリンセンがアルコールに魅せられたのは、ごく若いころだった。まだ十代のうちから大人ばかりのバンドの巡業に加わり、絶えずアルコールに親しむようになった。飲みすぎに気づいたのは兵役中だったが、最初の結婚生活では、さらにアルコールに深入りした。当時の飲酒癖をふり返ってみて、初めて彼はアルコールがどれほど自分の生活の足を引っ張っていたかを知った。▽ドク・シバリンセンは、アルコール症である。「トゥナイト・ショー」バンドの指揮者で全米の大交響楽団と共演している。セブロンというロック・ジャズ・グループの主催者である。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー)


玉川 たまがわ フィリップ ハーパーさん 木下酒造(京都市京丹後市)常務取締役・杜氏
昭和41(1966)年生まれ。イギリスのコーンウォール州で育ち、オックスフォード大学で英・独文学を専攻。卒業後、昭和63年JETプログラムで来日し、大阪市内で英語教師をしているときに日本酒に魅せられ、梅乃宿酒造(奈良)に蔵人として入社。須藤本家(茨城)、大門酒造(大阪)で、但馬流、南部流、能登流の3流派の杜氏の元で学び、平成13年に南部杜氏組合の資格試験に合格、19年から木下酒造へ。著書に『The Book of Sake』ほか。 ●語録「軸とするのは『和』・『旨味』・『熟成』」「データや理屈でわかろうとしないで欲しい。自分で旨いと思えば何でもあり」「まだまだ経験不足だけど、旨味の表現方法は無限にあると思う」 ♠最も自分らしい酒 「玉川」自然仕込み 山廃純米 北錦、雄町、五百万石、祝など。精米歩合66% 著者コメント:酵母無添加で仕込んだ山廃シリーズで、私が最も好きなのは雄町。たっぷりした旨味があるのに嫌味がなく、酸で切れあがる。煮穴子や豚の角煮と合わせたら悶絶。 ♥著者の視点 試飲会場で利き酒する姿を頻繁に目撃するが、終わると関西弁交じりの流暢な日本語でフランクに話してくれる。古い文献を読み込み、酵母無添加の仕込みに挑戦したり、「アイスブレイカー」「タイムマシン」などユニークな酒を発表。日本酒本来の旨みを提案し続ける。「趣味は日本酒とフリークライミング」と答える根っからの日本酒好き。(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子)


称好塾
中学を卒ると、七月の高等学校受験までの間上京して小石川なる杉浦重剛先生の称好塾に預けられた。ところがこの塾は、酒を以て人間を陶冶するかと思はれるほど、実に飲むことが多く、皆善く飲んだ。先輩の話では、先生の御説として、酒ぐらゐ飲めぬ者は駄目だ、酒を飲んで乱れたり、身を持ちくづすやうな奴は、どうせ役に立たぬ劣等者だ、と云ふので、つまり酒によつて青年の意気を盛んにすると共に、よく此の試練に耐へしめようとしたものらしい。塾の宴会には先生御一家も列席せられ、指名会と称して、次々に指名して詩吟が行はれた。杉浦先生が先づ一番に吟じられたやうに記憶するが、同居してゐられた奥様の御老母が、御郷里の民謡「土佐の高知のはりまや橋」を歌はれたのが印象に残る。塾生も皆よく此の謡を歌つた。こんなふうで飲むことが多く、試験準備の方は怠り勝ちであつたが、酒の方は此の三箇月余りで大いに手を上げたらしい。(「中華飲酒詩選」 青木正児)


ソムリエの話
かつて、吟醸酒をテーマとしたある雑誌の座談会で、ベテランソムリエ数人の中に私が日本酒の解説者の立場でおつき合いしたことがあった。その時のソムリエ諸氏の吟醸酒についての印象には、こんなのがあった。「薫製のような香りがして、最後には砂糖大根の香りの中にフルーツ、野菜などの香りも溶け込んでいる感じ」とか「秋の落葉を焚いた後の灰のような香りが印象的」とか「ロワールのシュナブラン系のフルーティーな香りが感じられ、その中にマーマレードの味が若干見られる」などというのがソムリエの話の一部だが、日本酒だけに精通した人たちにとってはまるで思いもよらぬ表現法といえる。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)


陶器(とくり)に味噌(みそ)詰めるような人じゃ
とっくりにみそを詰めることはありえないこと。やってもむだなこと。そのように、つまらない人、とんだ人(また、そんなことをするとんだ人、つまらない人)。松葉軒東井(とうしようけんとうせい)の『譬喩尽(たとえづくし)』に掲げる。(「飲食事辞典」 白石大二)


氷を入れたビール
一九八五年くらいから食堂でビールを注文すると氷を入れて飲まなければなりませんでした。この頃から香港の物が国内の流行となり、料理方法も、ホテルの経営方法も、物流の経路も港式(香港式)が大勢を占めるようになっていきました。冷蔵庫でギンギンに冷たくされたビールが出てくるようになった一九九〇年代半ば過ぎになると、ビールは生力(サンリキ サンミゲル)が流行り、嘉士伯(カシパ カールスバーク)がそれを押さえ、二〇〇〇年夏の上海では上海ビールがすっかり勢いを失い、七宝から四宝引いた名前に変わった三宝(サンパウ サッポロ)が人気になっていました。地ビールも盛んになり、各地でビールが生産されるようになりました。(「雲を呑む 龍を食す」 島尾伸三)


蘇東坡
北宋 景祐三(年) 一〇三六 蘇東坡、眉州眉山に(四川省)に生れる。高名は文学者で当代切っての老餐(食通)で4,『東坡酒経』、『茘枝譜』などの食物関係書がある。宋末の料理書『山家清供』にはすでに東坡豆腐が出てくる。(「一衣帯水」 田中静一)


やごとなき方より月をゑがきし船のかたちをしたる盃をたまはリければ  仲吉子よし
君は船 しんもろはくを 引うけて のまばや水に うかぶさかづき
題しらず  風前雲助縣升見
一とせは 酒にひたりて 過してき この世はさめて 夢にぞ有ける
雀酒盛り  置石村路
もとよりも 雀はさゝが すきなれば ゑさしの竿に さいつさゝれつ
久しくあはざりける山田氏にいなだといへる肴にて酒すゝむるとて  武士八十氏
今もつて 酒はやまだの をろちなら 出す肴も いなが姫ぞや(「徳和歌後万載集」 野崎左文校訂)


酒によって夢から醒める
意識が緊張すればするほど、われわれは潜在意識的な情報に対して無防備になってゆく。ということはつまり、意識の閾が通常より狭くなることで、逆にふだんは入ってこないものが入りやすくなるということである。ということはさらに、わたしたちの知覚が他者によって操作・誘導されやすくなるということである。こういう視点に立てば、酒は誘惑の手段であるとともに、覚醒の手段ともなりうることがわかる。それは意識の緊張を解くことでその閾を下げ、意識して感覚されているものの領域を拡張する。右で見たように、なにかに打ち込んでいるとき、夢中になっているときというのは、視野がもっとも狭くなっているときである。意識が点になっていて、したがって意識にじかに触れてこないものにはとても無防備になる。逆に、意識が緩んで力が抜けているときというのは、ふだん目につかないものが見えたり、ふだん耳に入ってこない音が聞こえたり、あるいは、意識が次にやること、あしたのことに向かうのではなくて、ふと少年の頃のことを思いだしたり、記憶というより漠とした気分でしかその跡形がのこっていないような、わたしがわたしとなる前の存在の感触をふと思いだしたりすらする。つまり、ここではゴールドの液体とともに、感覚のセッティングが変えられ、意識のフィールドがうんと広がり、身体にしみ込んだ想像力や時間感覚までが、もぞのぞと蠢きだす。そう、ひとはここで酒によって夢から醒めるのだ。<現実の生活>というぶつぶつ寝言だらけの夢から、ゆっくりと身をはがすのである。(「酒の文化、酒場の文化」 鷲田清一)


ハモニカ横丁
とにかく戦後の文学を語る場合、ハモニカ横丁は抜かせない。当時、ジャーナリズムで活躍する文士、評論家、さし絵画家など、この横丁に足を踏み入れぬ者の方がめずらしかった。そのあたりのことを、かつて「思索」の編集者だった安田武が、「東京新聞」(昭和五十一年十一月二十四日)に書いている。ちょっと引用させてもらおう。
「高野」も「中村屋」も、未だ戦後の営業を再開していなかった。その間の狭い露地一帯が、いうなれば、戦後日本、最高の文化的「サロン」ということになったわけだ。といっても、このサロンたるや、間口一間、奥行き二軒、芝居の書き割りのような長屋がズラリ並んで、思い思いに赤提灯など出していた。七、八人の客で満員となってしまう店は、将几(しようぎ)の一番奥の客が、「オシッコ」といえば、入り口に近い客から全員が立ち上がって、ゾロゾロと一まず表へ出なければならぬ。オシッコは、むろん、前の中村屋の塀に向かって垂れ流しという、いわばそういう「サロン」なのである。
だが、かけ出しの編集者(いや、あながちかけ出しとは限らない)にとって、ここは、まさに絶好の「仕事場」であったのである。この横丁の一軒、たとえば「道草」とか「龍」あたりで網を張っていれば、まさしく一網打尽、自宅へお百度踏んでも、なかなかウンとはいってくれぬ執筆者の承諾を、たちまちにとりつけることができたからだ。石川達三、井伏鱒二、亀井勝一郎、青野季吉といった人びとは、「思索」とあまり縁がなかったが、中野好夫、河盛好蔵、中島健蔵、新庄嘉章らは、夜のハモニカ横丁で秘かに待ち伏せしていた方が、仕事の段取りが手早い。もうすこし細かくいえば、魔子の店のあったカストリ横丁で、しばらく後にハモニカ横丁が出来た。丹羽文雄がはじめて来たとき、「ハモニカみたいな横丁だな」といったのが、その名の由来となったらしい。新宿駅東口前にあった塀におそって、店がズラッと並んでいたのである。'(「阿佐ヶ谷界隈」 村上護)


のまぬくらいなら、蕎麦やへは入らぬ
しかし、蕎麦やへ入ったからには、一本の酒ものまずに出て来ることは、先ずないといってよい。のまぬくらいなら、蕎麦やへは入らぬ。 池波正太郎『散歩のとき何か食べたくなって』(新潮文庫)所収「藪二店」より
蕎麦屋で飲むのが好きな人には、まことに痛快なひと言ですな。浅草生まれの池波正太郎は少年時代、曾祖母に連れられてよく蕎麦屋へ行ったという。曾祖母が頼むのは天ぷらなどの種物(たねもの)で、自身はゆっくりと酒を飲んだらしい。(「酔っぱらいに贈る言葉」 大竹聡)


井戸に吊しておいた酒
近代的な試験室に戻り、いろんな酒をきき酒させてもらったが、その中にとくにわれわれのために用意した酒があった。それは白磁の一斗入りの甕(かめ)にいれて、井戸に吊しておいた酒である。何年前の酒かそれすら見当がつかない代物らしい。いい酒を長期間貯蔵するにはいまは冷蔵庫に入れるが、酒蔵に冷凍機による冷蔵倉庫が作られる前、低温の安定した温度で酒を貯蔵する方法として井戸に吊し置いたものらしい。この酒には蔵の主(おも)だった人はみんな集まってきた。きき酒する主役はわれわれか蔵の人たちか。われわれが客だから先にきき酒させてもらった。いい酒だった。落ち着いて微かに熟成香が漂う。口に入った酒はまん丸くなって舌の上を軽く転がっていく。蔵の人たちのきき酒はまず色、そして沈殿しているものがあるか濁りはあるかというところから始まった。彼らは香りを慎重に嗅いでいるのにわれわれは「うまい、うまい」を連発して飲む。(「「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎) 米鶴(山形県東置賜郡高畠町二井宿1076)です。


日本酒で二升
私は、三十五、六歳のとき、しばらく極端にアルコールに弱くなり、ビール一本で酔う時期が続いたが、同人雑誌「VIKING]に入ってから、また酒量がふえてきた。五年ほど前までは、日本酒で二升、水割りで二十五、六杯までであれば、全然意識朦朧とせず、キョロキョロと辺りを観察していたものである。二日酔いは経験したことがない。これは別段体質がいいからというわけではない。めったに深酒をしないからであると思う。ふだんは、一日にビール二本ぐらい。ビールがなければ、飯を食う気がしない。色の無い絵を見るような味気なさである。やっぱりさけはいい。(「酒との出逢い」 津本陽)

黒糖焼酎
ラムの兄弟のような酒なのだが、ラムのように甘ったるい感覚はなく、米麹特有の香りと黒糖の芳香が相まって、香味を心ゆくまで楽しめる嬉しい南国の酒である。ラムに似ているというのでロックでもいいが、地元では水割りにしたり燗をつけて飲む。ところで、黒糖焼酎を島別に飲み分けてみると面白いことに気づく。味が濃くて甘味があり、黒糖の匂いが軽く感じられるのはどの島の焼酎にも共通しているのだが、島ごとに風味が異なり、特に味の濃さに差があるのだ。私のところに毎年壺に入れて送って下さっている徳之島の「奄美」という名酒は、大変に奥深い味と上品な濃い味を持ち、黒糖の甘い香りを熟成によって風格のある芳香に変えた逸品で、この酒の風味を頭に入れて、奄美大島の龍郷町の酒や、喜界町の酒、沖永良部島の和泊町や知名町の酒、与論町の酒を飲み比べてみたことがあった。すると、それぞれの島の焼酎の味には微妙な違いがあって、感動したが、いずれも黒糖焼酎の特徴を前面に出した製品で、甲乙つけがたいものばかりであった。違いはきっと仕込み水の違いや原料配合の差異、黒糖や麹の特長などにもよるものなのだろう。(「銘酒誕生」 小泉武夫)


イワナの骨酒と酢洗い、刺身
酒の味を探求するようになって気がついたことだが、これは味が濃醇で旨過ぎるために知らずして量が飲めなかったのだ。原因は二つあった。三倍醸造の甘い酒を使い、イワナに塩が付いたまま骨酒にしたからに外ならない。そこに気づいて以来、辛口酒にした上、骨酒用のイワナには塩を使わないでやってみた。しかも、一匹丸ごとではなく、頭と骨だけを使ってやってみると、案の定、見事な骨酒となった。魚の中で最も脂肪分の多い頭から出る脂肪だけで十分だったのだろう(小さいイワナなら丸ごとが良い)。一杯目より二杯目がよりまろやかになった。これは明らかに山の精を一身に集めたイワナの精が酒にとけこんだからに外なるまい。串刺しのイワナを豪快に喰い、骨酒を愉しんだ後は、淡麗な酒に淡泊な味がよく似合う、料理はイワナの酢洗いと刺身だ。(「酒肴讃歌」 高木国保)


あくねざけ【阿久根酒】
薩州出水郡阿久根で醸造する酒。焼酎の一種であつた。
 置きつぎの コップに一つ 阿久根酒   おくにあくの結び
 拳相撲 手取芸者も 阿久根酒      酒豪の芸者
 若い者 ぴり/\とする 阿久根酒    阿久を悪に掛く(「川柳大辞典」 大曲駒村)


古今夷曲集(4)
 江口のわたりさらしの里にてよめる
此里は 江口の君の めされたる きやふのあまりの 酒しなる覧
 紅葉賀
今日の賀の 酒は五十も 呑つべし もみぢの色に 顔もなるほど
 花宴
南殿の 花の宴に しさしうけて 呑ぬる酒の かんたちめなり
 信海
濁り酒の 濁にしまぬ お心は 中汲てこそ しるき蓮花寺
 奈良の酒家にて酒すゝめけるに兎角時宜しけれど後には大酒盛になりたると人の語を聞て 源有純卿
本歌
なら酒や その手作りを 時宜せしは とにも角にも ねち上戸かな(「古今夷曲集」)


一人酌む
友よびて ともに酌まなむ すべもなき 里にさびしく 一人して飲む
 四十歳より酒を始めて健康を回復せしかば
酒によりて 得がたきを得し いのちなれば 酒にささげむと 思ひ切りぬる
ひとたびは 世をもすてにし 身なれども 酒の力に よみがへりぬる
一人して 酌むもたのしと いふわれを 妻はほほゑみて わき見こそすれ
酔ひすぎて 小夜の寝覚めの あやしきを なほ一坏(つき)と 重ね」けるかな(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎)


初代川柳の酒句(11)
酢ィ酒を のミなさるかと せなへ出  五楽  酸い酒しかないがと男へ
酔かさめ 見れはからたを 巻てる  右譚  暴れる酔っ払いはじばられる
中堂へ 寐ころふを下戸 引たてる   五楽  寺でひっくり返る酔っ払い(天井に龍の絵でも)
しいられて 上戸山椒の ほうにしやう  五扇  これ以上飲めないので山椒なら?
酒買た 内でおしへる あら世帯     仝   酒屋が新婚世帯の長屋部屋を教える?(「初代川柳句集」 千葉治校訂)


おつけ言葉
民話にも、おつけ言葉の笑いは全国的にある。その中、岐阜県大野郡のものを示す。
ある金持の家で下女を使っていると、どんな言葉をいうにも「お」という言葉をいうから、家の奥様が下女に、「そんなに『お』という言葉をいわぬようにせよ、人に聞かれるとおかしくなるから」と叱られた。ある日、奥様がなますの料理をせずとして、下女に「かんなはないか」と尋ねると「『け』の中にある」というので、「手で指して見よ」といわれる。下女は桶に指をさしながら「これです」といった。奥様は苦笑しながら「そういう時は『お』という言葉をいえ」といわれた。ある日その家で報恩講を催して大勢のお客様が集った。奥様がお客様に酒を振舞おうとして、徳利をもって座敷へ出て、敷物につまずいて徳利を落したから、下女は大きな声で「奥様のお裾にお徳利がお止まりなされて、おててこてん」というたから、お客たちが腹を抱えて笑ったので、その下女は暇を出されてしまった。(日本昔話集成三六八・鶯言葉)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)


陽と陰
赤線の跡地が呑み屋街に変貌した場合、一番よく見られる酒場はスナックだと思う。外見はともあれ、スナックの派手な内装を思い浮かべれば、その歴史的な流れを想像するのはさほど難しくないだろう。赤線と違って、青線はあまり目立っていいような立場ではなかったためか、それとも建築の際に資金が限られていたためか、とにかく派手な店構えはあまり見られないようである。商売の内容は「おおっぴらな秘密」だったとは言え、不法だったから当然かもしれない。いずれにせよ、青線の外観と構造は赤線とは対照的だった。もっとも有名な事例は、新宿ゴールデン街だろう-木造二階建ての地味な建物が並び、一軒一軒には狭い入口しかなく、一階が極小のバーになっている。現在のゴールデン街は、一階と二階で店も店主も異なるケースが多いが、本来は一階で建前として酒を出し、二階、または屋根裏で客を取っていたわけである。赤線のきらきらする派手な建築様式が「陽」だとしたら、路地裏に潜んで隠れて客を取っていた青線は「陰」ということになるだろう。売春防止法の施行後、赤線や青線が呑み屋街に変貌したケースは少なくないが、赤線地帯がスナック街に変わり、紫色などの派手な看板を揚げるようになったのに対して、青線は、薄暗い路地に潜んだまま、間口の狭い木造二階建ての建物がぎっしり並ぶ小料理街やバー街になったケースが多いように思われる。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)


細き丸輪
一、米半分白ミ迄、(10)細き丸輪一ツ入る。輪の太さ三寸、半分白ミの後輪を抜くなり。始より輪なしにて搗候へハ、耗弐、三分も少く候。
〇米が半分白くなるまでは、(10)細く丸い輪を一つ入れる。丸い輪の太さは三寸とし、米が半分白くなったら、輪を抜く。最初から輪を入れずに米を搗くと、米が飛び散って二、三割も少なくなる。
(10)細き丸輪 わらでつくった輪。米やぬかが飛び散るのを防ぐ。(「童蒙酒造記」 吉田元・校注執筆)


壺入
〇又、壺入(つぼいり)といふは、箕山云、「揚(あげ)やにて遊宴せず、傾城の家主(かしゆ)の館(たち)へ行て女郎と興(きよう)ずる也。この名目(みようもく)、酒屋(さかや)より出たり。調(ととの)へて飲ずに、酒屋の内に入てのむを壺入といふ」『一代男』八、「よきやらうのかたに二、三日のつぼ入」。『下手談義(へただんぎ)』に、「門前の茶屋へつぼ入して」などみゆ。是を酒屋の事にいへる説は、壺といふ字になづみたる也。壺は瓶をいふにあらず。つぼめる処をいふ。瓶につぼといふも、此義なり。局をいふも、つぼねたる処なる也。(「嬉遊笑覧」 喜多村筠庭 長谷川等校訂)


津軽のりんごと酒
りんごそのものがまず、弘前をはじめ津軽地方で造られる日本酒のアテとして映える。深紅の実をそのままがぶりとかじり、酒をぐびりとやっていただきたい。りんごの酸味と酒の甘味がすうっときれいに溶け合い、実に気持ちがいい。料理なら豚肉のソテーにりんごジャムを添えるだけで、酒とともに旨さが増す相乗効果あり。焼きりんご、アップルパイといったスイーツにも、津軽の酒は甘く寄り添う。よりダイレクトにその相性の良さを実感するなら、りんごと酒を混ぜるべし!これまで試行錯誤した結果、ジュースは透明なものでなく、白濁したタイプが功を奏するようだ。分量は…わたくしの自身の好みはジュースを2~3滴たらす程度だが、酒2対ジュース1,もしくは3対1ぐらいが一般的な受けがいい。もったいないと思われるかもしれないが、朝からぐびぐび呑める、お目覚めドリンクのごとき爽やかなおいしさ、いや、食前酒、食後酒としてもうってつけなので、もちろん夜でもまったくかまいません。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子)


イラギのみりん干し
「類さんの持久力は、修行ならぬ"酒行"の賜物(たまもの)ですな」笑顔で言われて気を良くした僕。その足で熊野川の河口にある酒蔵・尾崎(おざき)酒造へお邪魔し、社長に案内していただいた。酒蔵の裏手はそのまま熊野川の堤防沿いとなる。やはり気になるのは熊野川の水質、そして川の氾濫(はんらん)という。母屋と隣り合う棟の中で、まず蔵の代表銘柄「太平洋」を試飲。仕込み水はもちろん熊野川の伏流水だ。ぐいーっと頂くと、すぐさまツマミが欲しくなる。奥方が勝浦(かつうら)名物イラギのみりん干しを炙ってくださった。これが大ヒット。試飲という名の酒盛りとなる。イラギはサメ肉の切り身を干したもの。辛口の男っぽい酒に合わせれば見事に響き合う。お次は、是非にと薦めていただいた銘柄「くまの那知(なち)の滝」。なんとも透明感のあるすっきり味だ。(「酒は人の上に人を造らず」 吉田類)


酒狂人
(江戸時代)それでも磁器は、庶民にとって高価なものであったから欠ければ惜しいのである。古典落語の中には、徳利にも命があり、酒飲みの書家が口の欠けた徳利を壊そうとするのを救ってやったら、後で徳利がこの時の酔っ払いのところに化けて出て、女房にしてくれと言う『徳利妻』の噺まである。さんざん失敗しても、江戸の酔っ払いには、当今のシンナー少年や覚醒剤男と違ってどこか愛嬌がある。もっとも江戸幕閣の最高裁判所に相当する評定所も、かねてからの狂気、乱心にもとづいて人殺しをした者は、寺預けや親類預けで済ませているのに、「酒狂人」の人殺しは多く死罪になっている。(「慶喜とワイン」 小田晋)


ライバル
ライバルが上司で来た夜は一人酒      愛子
会議
会議後の一杯飲屋(のみや)が本会議     佐来利満
勘定
「お勘定」とたんにつぶれるセコい奴     タラ・レバ
オレがもつ言った上司が酔いつぶれ     金無蔵
社内恋愛
社内恋愛離れて座る宴会席         よみびとしらず


きょうかい15号酵母(ごうこうぼ)
秋田県醸造試験場が育成した吟醸用酵母秋田流・花酵母(AK-1)が平成8年度よりきょうかい15号酵母として全国に頒布された.TTC染色は赤色、β-アラニン培地で増殖しない.また、マルトースの発酵性・資化性が強く、α-エチルグルコシドの資化性が弱いこと、カプロン酸エチルの生産性が高いことなどの性質を有していることよりきょうかい7号酵母の自然突然変異株と考えられている.泡なし性であり、有機酸生成が少ないなどの特徴をもち、低温長期型の発酵に適しているとされている.(「改訂灘の酒」 灘酒研究会)


418しまった!
酔っ払って帰って来た男が、細君に気取られぬよう抜き足差し足で家の中へ巧く入り、酒場の喧嘩で出来た傷に絆創膏を貼り、しめた!とばかり自分の寝床へもぐり込んだ。翌朝、彼は彼をグッと睨んでいる細君を見て言った。「どうしたんだね、一体?」「貴方、また昨夜、泥酔したでしょう?」「そ、そんな事ないよ、お前」「そう?もし貴方が正気で帰ったんだとしたら、一体誰が洗面所の鏡にベタベタと絆創膏を貼り付けたんでしょうね?!」(「ユーモア辞典」 秋田實編)


はつがつを[初鰹]
⑪冷や飯はあるがと下戸の初がつほ(同(樽一二))
 ⑪酒がいけないのは物足りない。
㉖下戸が出て二百引かせる初鰹 (傍四)
 ㉕上戸ならけちなことはいわないけれど。
⑤伊勢屋の生酔ひ酒だか鰹だか (樽二八)
 ⑤何だか判つたもんじやない。(「古川柳辞典」 根岸川柳)


酛の前半と後半
酛を作る仕事は、大きく分けて前半と後半があるんだ。まず、前半は純粋な酵母を大量に増やしてやる。そのために最初の何日間は温度を徐々に上げてやるわけさ。その後、後半では低温に強い酵母に仕立てるため、温度を下げていく。これを「低温耐性(たいせい)」をつけると言って、長期低温発酵のもろみの最後まで、酵母が弱くならないようにするんだいね。(「杜氏千年の智恵」 高浜春男)


日本海
私は、五つ六つで酒の味を覚え、十五、六からその味に惑溺(わくでき)したが、それ以前、すでに酒には縁のある人間であった。食満南北も、堺の酒造家の息子で、年少の時、今の大関の前身である長部へ奉公に行った話を聞かされたが、私の父もまた辰馬の流れをくむ、西宮の半田という酒造家の三男坊である。彼は二十才の時、私の家へ婿養子に来たが、それ以前、その樽印を書くのが上手であったという。「その時分は、四斗樽にも菰包(こもづつみ)の菰(こも)にも、筆で書いたもんや…」祖母は、寝物語によく私に父の話をした。新銘柄の発売にあたって、特に慎重に考慮されるのは樽印、すなわち商標の選定である。一度決定した樽印をつけた以上、その店の信用にかけても変更は出来ない。ことに当時は日露戦争の前後へかけて、新銘柄発売の絶好機であり、いろいろな酒が出た。その中に、私の父が樽印を作った「日本海」がある。父は、私の家へ来て私が生れる以前、ある事情で離婚して、西宮へ帰った。その後、東郷提督の偉勲を偲ぶ「日本海」の名称を思いつき、旗艦三笠の檣頭(しようとう)にひるがえるZ旗に、逆巻く怒濤を配した下絵から「感褒(かんぽう)」の文句まで作って、これを提案した。感褒というのは、樽印(銘柄)の左側に一行か二行、朱色で詩とか、俳句などでその酒を礼讃するものである。感褒-とは、おそらく額の字の揮毫などに「閑忙」の印を押すのから、そう名づけたのかと思う。父のは日本海らしく  旭日昇天君子国 瑞気発揚此一杯  と、此一戦を利かした素人離れのしたもので、この新酒は発売と共に非常に売れ、明治の末までつづいたという。私の酒に親しんだ頃、もうそんな酒はなかった。が、私が時に酒壜のレッテルなどをしみじみ見ていると、「争われんもんや…」祖母が、涙ぐんで話したものである。(「味の芸談」 長谷川幸延)


向島の園遊会
これも中根岸四番地時代の末期のことと思ふが、美術学校関係の園遊会が向島の某遊園地で行はれたことがあつた。そして、その崩れが天心の家へ押寄せて来た。何でも先達が江戸ッ児気質の経師屋寺内銀治郎であつたところから考へると、彼等は美校出入りの商人達でもあつたらう。十数人の人々が、手に手に地口行灯を打振りながら、天心の寿をなし、『先生万歳』と口々に叫んでゐたと覚えてゐる。その地口行灯の絵は、恐らく若手の助教授連が殴り描いたと覚しく、頗る達筆の跡をとゞめてゐた。お神楽を布呂敷で隠さうとしてゐる画に『おかぐらかくそう』の、暗夜に一閃する角灯を揚げた査公を描き、『ぼかくらかくとう』のと、皆朱の虎を描き、その牙にそぎ竹を植ゑて、『はゝたけ朱とら』なぞの文句が、それ/"\行灯に認められてあつた。銀治郎等の出入商人連は、終日の園遊会でしたゝかに煽つた酒の酔ひが未だ醒めやらずして、頗る元気に踊り狂つてゐた。先達(せんだつ)銀治郎の如きは、「先生方の地口も旨いが、おらにやらせればもつと旨いよ。例えば小便壺と大便壺を並べて描き、『うんこ、しょうべん(海野勝珉)』とは、どうぢやらう。」なぞと、盛んに無礼講振りを発揮してゐた。この園遊会は、美術学校長としての天心が、最も得意の絶頂の時代で、謂はゞ峠の最高所に達した時であつたらう。これから、運命の道は幾多の紆余曲折を経て、下り坂となつてゐるのだ。


夫木和歌抄
けれども、平安以降おびただしい数にのぼる和歌を眺め渡すと直ちに気付くことは、酒の歌は極めて乏しいという事実である。試みに、鎌倉時代末期に編まれた類題和歌集の『夫木和歌抄』巻第三十二雑部十四の「酒」という項目を見ると、そこには十五首の歌が収められているが、そのうち七首は『万葉集』の歌で、残り八首が平安時代から鎌倉初頭の詠である。八首のうちの三首は既に見た俊頼の歌、残り五首の作者は、大江千里・藤原隆季・藤原季経・藤原良経・藤原定家である。-
千里- あくまでに みてる酒にぞ さむき夜は 人の身までに あたゝまりける-
隆季- 竹のはに 籬の菊を 打そへて 花をふくらん 玉のさかづき-
季経- 春秋に 富める宿には 白菊を 霞の色に 浮べてぞ見る-
良経- このしたに つもるこのはを かきつめて つゆあたゝむる 秋のさか月-
定家- をみ衣 しろきをすへて さか月の めぐみにかへる 夜はぞたのしき-(「酒の歌、酒席の歌」 久保田淳)
源俊頼の歌は
きよみきの ひじりをたれも かたぶけて しゐをつみえぬ 人はあらじな
たけのはに うかべるきくを かたぶけて われのみしづむ なげきをぞする
よの人は とひしたむとも すまざらば みきとないひそ しばしもらさじ だそうです。


江戸の新酒と酒の消費量
蔵入り酒は、新酒入荷の合図の青い旗を立てた手押し車に積まれ、市内の酒屋へ少しずつ配られる。これも市中での宣伝を兼ねていたのだろう。それがすむと酒問屋から酒仲買人を通して小売酒屋に売られ、酒屋はお得意の屋敷や商家などへ配り歩く。こうして新酒のお披露目が続き、江戸の一般消費者に渡ることになる。毎年数十万樽の下り酒が江戸で消費されていたが、時代を経るにつれて、その消費量は増大していった。上方からの下り酒以外も含む総計は、享和(きようわ)三年(一八〇三)に約九十六万樽、文化十四年(一八一七)に百万樽の大台を越え、文政四年(一八二一)に百二十二万樽のピークを迎える。四斗樽には三斗五升の酒が入っていた。当時の江戸の人口は約百万人で、成人男性の割合が多く、飲酒人口が半分だとして一人あたり一年約二・四樽=八・四升=一升壜で八十四本。一ヵ月で七本となり一日平均二合半ほどになる。それにしても、よく飲んだものである。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資)


お酢
お酢は、人間が手を加えて作った最古の調味料だといわれている。倉庫などに蓄えておいた穀物や果物などが、自然にアルコール発酵してお酒が生まれ、そこへさらに菌が働いてお酢が誕生した。つまりそう、お酢はもともとお酒から生まれたものなのだ。だからというわけではないだろうが、実際お酢には、お酒による二日酔いというデメリットをカバーしてくれる働きが存在する。肝臓の働きを活発にし、代謝機能を促進する効果があるのだ。というわけで、お酒を飲むときのおつまみに、酢の物、もずく酢、酢ダコ、マリネなど、お酢を使った料理を食べるのは、二日酔い予防として非常に効果的といえる。また最近では、お酢をミックスしたお酒なんてものも存在する。割とよく見かけるのは、黒醋やりんご酢を使用したカクテルだ。ちょっと凝ったお店だと、他に米酢やぶどう酢を使ったカクテル、なんてのもある。これなら、一杯でほどよく酔えて、しかも二日酔い予防にもなり、まさに酒飲みにとっては一石二鳥だ。ちなみに、飲みすぎて二日酔いになってしまった場合にも、お酢は効果を発揮しる。大さじ一杯ほどの量を、小さなコップでクイッとやれば、それだけで格段に二日酔いの症状は和らぐという。「お酢をそのまま飲むのはちょっと…」という方には、甘いハチミツや果汁一〇〇パーセントジュースを混ぜた、特製サワードリンクがオススメだ。(「信じる者のみ救われる?!二日酔いの特効薬のウソ、ホント。」 中山健児)


蜀山人自筆百首狂歌
生酔の 礼者をみれば 大道を よこすぢかひに 春は来にけり
しろがねの 台(うてな)に こがねの盞(さかづき)の 花はいはずと 人やすいせん
てる月の 鏡をぬいて 樽まくら 雪もこん/\ 花もさけ/\
世をすてゝ 山にいるとも 味噌醤油 さけの通ひぢ なくてかなはじ(「大田南畝全集」 浜田義一郎編集委員代表)


子守歌(福井県)
ねんねこさいろこ酒屋の子、酒屋の子守は何処へ行(い)た、酒屋の子守は子を負(ぶ)つて、此山越えて奥の其の、も一つ奥の其山へ、紅葉や桜の枝折りに
万葉の歌も是(かく)の如きのみ。歌は近くに在り、何を苦みてか陳〻腐〻の書中に求めん。(「現存せる童謡」 幸田露伴)


酒々井
成田で千葉ゆき普通電車に乗り換え、一四時四四分、成田線の酒々井(しすい)駅に着く。ひっそりとした小駅だろうと思っていたら、派手やかな鉄筋の橋上駅に立て替えてあり意表をつかれた。改札口を出たところに、酒々井駅を紹介するJR東日本のPRパンフレット「旅もよう」が積まれ、『房総版・養老の滝-「酒々井」の起源』の見出しが目にはいる。これはすばらしい。酒の文字が二つもつく地名だけあって、やはり酒に縁があるのだ。『昔むかし、この地に年老いた父親と孝行息子が住んでいた。父親は大変酒好きで、親思いの息子は、毎日一生懸命働いて酒を買い、父親の喜ぶ顔を見るのを楽しみにしていた。ところがある日、どうしても酒を買う金がつくれず、とぼとぼ帰宅する道端で、井戸から酒の香りがしてきた。井戸水をすくい、なめてみると、まさしく本物の酒であった。くんで帰り父親に飲ませると、「これはうまい酒だ」と大喜び。それからは毎日、息子は仕事の帰りにこの井戸水をくんで帰り、父親を喜ばせた。この話を聞いた村人がこの井戸水を飲みに行ったが、それはただの水であったので、「孝行息子の場合は真心が神に通じたに違いない」とほめたたえた。そしてこの井戸を「酒の井」と呼び、傍らに碑を建て、これにちなんで村の名も「酒々井」と呼ぶようになったといわれる。…』(「ユーラシア大陸飲み継ぎ紀行」 種村直樹)


木枯紀行
須走(すばしり)の立場で馬車を降りると丁度其処に蕎麦屋があつた。これ幸ひと立寄り、先づ酒を頼み、一本二本と飲むうちにやゝ身内が温くなつた。仕合せと傍への障子に日も射して来た。過ぎるナ、と思ひながら三本目の徳利をあけ、女中に頼んで買つて来て貰つた着茣蓙を羽織り、脚軽く蕎麦屋を立ち出でた。宿屋を出はづれると直ぐ、右に曲り、近道をとつて籠坂峠の登りにかかつた。おもひのほかに嶮しかつた。酒は発する、息は切れる、幾所(いくところ)でも休んだ。そしていつもの通り旅行に出る前には留守中の手当仕事(てあてしごと)で睡眠不足が続いてゐたので、休めば必ず眠くなつた。一二度用心したが、終(つひ)に或所で、萱か何かを折り敷いたまゝうと/\と眠つてしまつた。『モシ/\、モシ/\。』呼び起こされて目を覚すと我知ずはつとせねばならなかつた程、気味の悪い人相の男がわたしの前に立つてゐた。顔に半分以上の火傷(やけど)があり眼も片方は盲ひて引吊つてゐた。『風邪をお引きになりますよ。』わたしの驚きをいかにも承知してゐたげにその男は苦笑して、言ひかけた。わたしはやゝ恥しく、惶てゝ立ち上つて帽子をとりながら礼を言つた。『登りでしたら御一緒に参りませう。』とその若い男は先に立つた。酒を過して眠りこけてゐた事をわたしは語り、彼は東京の震災でこの火傷を負うた旨を語りつつ、峠に出た。(「若山牧水全集」)


無礼講(ぶれいこう)
『太平記』に、「その交会遊宴の躰、見聞耳目を驚かせり。献盃の次第上下をいはず、男はえぼしを脱(ぬい)で髻(もとどり)をはなち、法師は衣をも着ずして白衣になり、年十七八なる女の盻(ミメ)かたち優に、膚(はだ)ことに清らなるを二十余人、すゞしの単(ヒトヘ)ばかりをきせてしやくをとらせければ、雪の膚すきとをれり云々。人のおもひ咎むる事もやあらんとて、事を文談に寄せんが為に、其頃(そのころ)才覚無双の聞(きこ)え有ける玄恵法印といふ文者を請じて、昌黎文集の談義をぞ行はせける」。『宋書五行志』、「晋恵帝玄康中、貴遊子弟相与(トモニ)、為し二散-髪倮-身之飲ヲ、対-二婢-妾ヲ一、逆フレ者傷ミレ、非者負うレ、希うレ之士、恥ずレるをレ焉」。『醒酔笑』に、「老僧・小僧・児・若衆いひ合(あわ)せて随意講のまはし始まれり。ある席にて、児(ちご)、汁(しる)の碗(わん)に酒をうけられたり、後見の法師、目をきつと見出しければ、児、かほをおさへて、なむさんほう随意かうは破れたよ」(無礼講も後人の酒宴に比(くら)ぶればあやしむにたらず)。(「嬉遊笑覧」 喜多村筠庭)


(七)難波津壺論
二上リ難波津(なにはづ)に咲(さ)くやこの花(はな)冬(ふゆ)ごもり、今をはるべと咲(さ)きそめて、栄(さか)ゆる葉もしげるよの、幾夜かさねて葉(は)もしげるよの、君がよはいは萬夜(よろづよ)の、久しかるべきためしかや、国も豊(ゆたか)に民さかえ、玉の盃(さかづき)手(て)にもちて、飲(の)めや歌(うた)へやざ〻んざの、声(こゑ)すみ渡(わた)るめでたさよ、我もかはらぬ嬉(うれ)しさよ、こ〻な殿御(とのご)はないくつ、十三七つあらまだ若(わか)や、さても/\わごりよは誰人(たれびと)の子なればしほらしや、をどれ/\爰な子をどり出せ、見事てん手拍子(びやうし)もそろ/\た/\そろた/\そろ/\/\/\月(つき)の笑顔(えがお)の照(て)つたりや、紅葉笠(もみぢがさ)、そりや加賀笠(かがかさ)よ/\しんきしの竹根笹(ねざさ)にあられ、はら/\/\/\/\落ちて離(はな)れて夜ごとに通(かよ)へさ、さまがふりだす形(なり)ふり見れば、さてもそなたはいとしゆてならぬ、扨(さて)もそなたはいつもど〻んど、どつこいど〻んど、どこついど〻んど、どんどとござれ、えいさつさ/\えいさ/\さら/\/\/\えいさつさござれ、どんどと打(うて)は響くえ、昆陽野(こやの)の宿(しゆく)の、遊女(いうぢよ)が袖(そで)をじつ/\/\ともひかへて、今やうは朗詠(らうえい)しほり萩(はぎ)を歌(うた)ふとおさへて酒をしひられた、此酒(このさけ)にたべ酔(ゑ)ひべろり/\べろつく管(くだ)まきやるか、小ふなぢやわいの、のめのよい上戸衆(じやうごし)の側(そば)にそつとゐたれば、雪にひやかかん呑みかねぢか〻るかいな、そも恐しうはおんぢやらない、うら〻がやうな底(そこ)もない蛇之介(じやのすけ)が、なんでも呑(の)まんと思(おも)へば今里(いまり)か瀬戸(せと)か南京(なんきん)さらさら、打ちわられのすりこ鉢(ばち)、ねるやうでねもせいで、しつくりがつくり寝がへりしては寝られない、はや明方(あけがた)の時太鼓(ときだいこ)、どう打つの、どんどん/\どう打つの、どんと打納め、えいやつとも声をせい、さみ賑(にぎは)う門(かど)の松竹(「松の落葉」)


酒を基語とする熟語(3)
酒所(シユシヨ) ほろ酔い(「王先謙」補注)
酒鍾(シユシヨウ) 酒猪口(「述異記」上)
酒箴(シユシン) 飲酒のいましめ(「漢書」遊侠・陳遵伝)
酒数(シユスウ) 飲んだ酒盃の数。(李白「春夜宴桃李園」序)
酒醒(シユセイ) 酒酔いが醒めること。(「晋書」 会稽王道子伝)(「日本の酒文化総合辞典」 荻生待也)


アンキモの味噌漬け
作り方 ①味噌床を混ぜて作る。 ②アンキモを味噌床つけ、一日置けば食べられる。 ③網で、サッとあぶっていただく。
材料(2人分) アンキモ…適量 酒…適量 <味噌床>赤味噌…1カップ みりん…1/4カップ 酒…1/2カップ
このつまみに、この一本 梅錦(うめにしき) つうの酒 本醸造/愛媛 日本酒度…+5 酸度…1.4 価格…2136円(1.8ℓ) ●濃厚なコクを持つアンキモに焦げた味噌の香ばしさが加わったひと手間かけた極上つまみ。梅錦をちびちびと飲みながら、極上の酔いに身をまかせたい。(三献)(「新・日本酒の愉しみ 酒のつまみは魚にかぎる」 ガッケンムック)


地にすずしみある時
県内でも歴史の古い酒蔵のひとつ、中仙町の鈴木家に伝わる古文書「酒造伝記」の一節に「秋は更けて新酒を造らんと思はば、日暮れて町の真中に、はだし足にて立て、地にすずしみある時は造るなり。あたたみあれバ、造らじ。よくよくこれをかんがへみるべし」と、酒造りを始める時期について書いてある。明和八年(一七七一)に書かれたものといい『秋田県酒造史』にも収められているが、当時、すでに酒造法がある程度整理されていたことがうかがえる。(「あきた雑学ノート」 読売新聞秋田支局編)


まんどりあし(万鳥足)[名]
「千鳥足」のもじりで、千鳥足よりひどい酔いかたで歩くこと。 ◆『大増補改版 新しい言葉の字引』(1925年)<服部嘉香・植原路郎>「まんどり足 万鳥足。 酒に酔ふと足元が定まらずよろよろするのを千鳥足といふが、酔態一層甚しい時は、足元も一層危つかしくなるので、千鳥に輪をかけて万鳥足と洒落たのである」(「日本俗語大辞典」 米川明彦)


贅言(酒と私)
私は子供の時分から好んで酒を飲んだ。親譲りの体質に恵まれた上に、幼にして母方の従兄に飲むことを教へられた。まづ其の指導は、母の里(豊前八屋町)の倉の二階に私を連れこんで、伯母が秘蔵の焼酎漬の青梅を食うた揚句、いささか焼酎を嘗めることさへ有るに始まつた。下関の実家の兄は三歳年長であつたが、酒の方は私より三歳くらゐ後れてゐた。それでも父の血を引いて酒ずきであつた。私がまだ小学校で、兄は已に長府の中学校に入つてゐた頃、休暇で家にゐる時など、勉強すると称して殊勝らしく二人で机を並べてはゐるが、時として私を台所に酒を偸みに遣やつて、一つのコップを代る代る飲んだ。私は色に出なかつたらしいが、兄は赤くなつて母に見咎められた。二人とも口を張つてハアハア云つて息を嚊がさせられ、そして悪いことを教へてはならぬと兄が叱られた。(「中華飲酒詩選」 青木正児)


獺祭 だっさい 桜井博志さん 旭酒造(山口県岩国市)3代目蔵元
昭和25(1950)年、2代目長男として生まれる。松山商科大学経営学部卒業、灘の酒造会社を経て、昭和59年に社長に就任するが、販売は減少の一途、従来の「旭富士」とは別に、平成2年、東京へ向けて高い品質の銘柄「獺祭」を発表。日本で一番、米を磨いた「二割三分」で人気に火が付き急成長し、18ヵ国で販売される世界のブランドに成長させた。杜氏制度は取らず、桜井さんが編み出した製法で四季醸造。好きな作家はジェフリー・アーチャー、音楽は最近目覚めたショパン。 ●語録「お客さまの『ああ、美味しい』という一言にすべてをかけてきた。数字は評価の裏付け」「"幻の酒"戦略で、良質な酒蔵が量を造らないままでいると、美味しい酒を飲める人は限られる。一般のお客様は、いつまでたっても美味しい酒を飲むことができないんです」 ♠最も自分らしい酒 「獺祭」磨き二割三分 山田錦23%精米  著者コメント:真珠のように輝く小さな米粒から醸される香や涼やかで、はかなくも優しく、誰もが上質と感じる酒。河豚となら、さらに良し。 ♥著者の視点 すべての酒が山田錦を使った純米大吟醸と、わかりやすく、百貨店でも売っている。一部マニアではなく、飲みたい人が飲める、ちょっと高いけど裏切らない酒。「獺祭」の名前は口コミで広がっていった。クールジャパンの代表として世界のファンを広めて欲しい。(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子)


可能なのに治療されない病気   医学博士 D・トルポット
アルコール依存症者になるかどうかは、遺伝素因による。衝動強迫性が存在するのは、脳の原始的な部分のエンドーフィンとセファリン系に生じた変化によることがわかっている。原始的脳の生化学的な狂いは、遺伝質による。アルコール依存症になるというのは正しくない。なるのではなく、生まれながらにしてアルコール中毒なのである。子宮から出てきたその日に、もうアルコール中毒なのである。-たった一つの遺伝子ではなく、おそらく数多くの遺伝子が作用するのであろう。この点はまだはっきりしない。アメリカでは、アルコールを薬物-生命とりの薬物-とは見なしていないし、アルコール依存症を病気であると考えてもいない。意志の力を欠く人間の悪習であり、道徳上、倫理上の問題であると考えている。せいぜい、潜在する情緒的、精神医学的疾患を示すものと見なされているにすぎない。しかし、アルコール依存症者を、潜在的疾患の症状とするのは断じて正しくない。アルコール症者は、二次的に重い情緒問題をかかえてはいる。私がこれまでに会った何千人ものアルコール症患者のうち、抑うつ状態でない人、不安や怒りや悩みをもたない人、さびしい思いをしていない人、いらだちや不眠症に悩んでいない人、つまりさまざまな感情のおりなす苦悩をもたない人は、一人としていない。しかし精神医学のすぐれた選別方式を利用した多くの研究によれば、アルコール依存症者の九〇パーセントは、潜在的な精神疾患をもっていない。したがって、潜在的精神疾患があるから飲みすぎるのだという前提は、もはや崩れ去る。まさに、その正反対が正しい。アルコール症とは、基本的には遺伝性の病気である。過去五〇年間、この病気に対して精神科医は因習的に間違った扱いをしてきた。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー) 昭和62年の出版です。


●七月四日(金)
もう六時間近く飲み続けているわけだが、Iさんとさらに三軒茶屋に流れ、某若者向けパブで、"まかないカレー"というシブいつまみを食べながら白ワインを飲んでいる午前二時の私。
●七月五日(土)
昨日の今日のはずであるが、昼二時頃、神田神保町三省堂地下のドイツ居酒屋で山口(昌男)さんたちとビール(ハーフ&ハーフ)を飲んでいる。さらにこのあと、夜七時半から「風花」で開かれる古井由吉と柄谷行人の朗読会に顔を出すつもりである。そして深夜、昭和の快人で平成の妖人康芳夫さんらと共に新宿の文壇バーの老舗「風紋」(この店に入ったのは十数年振りだ)でウィスキーの水割りを飲んでいる。(「酒日誌」 坪内祐三)


寄中汲酒恋    問屋酒船
うすからず 思ひあひたる 中くみは 菰かぶるとも 心からくち
名所生酔    堂伴白主
白波の たつもよろ/\ 生酔ひの 顔はあかしの うら千鳥足
盃の蒔絵を見侍りて    人世話成
さかづきの うらは蒔絵の 鳥なれば おさへる人も さす人もあり
菊印の酒を人のもとにおくるとて    猿萬里太夫
あくるたび どく/\/\と 音あれど 薬ときくの 酒じるしかな(「徳和歌後万載集」 野崎左文校訂)


状元紅-生まれた年から用意するお酒
紹興酒の生産される浙江省紹興では、男の子が産まれると科挙の試験に合格した時の宴席にだすお酒、「状元紅(ヂヤンユンホン)」を準備し、女の子には結婚式にだすお酒、「女児紅(ロイイホン)」を用意するのだそうです。ところが、すべての男の子が科挙の試験に合格するわけではありませんから、今なら大学への入学ということになるのでしょうが、男の子も結婚式にそのお酒の栓を開けることになるようです。昔、科挙に合格するまでは一人前の男ではないという理由から、合格までは結婚しないと決めた人も多かったとか。科挙の合格と結婚式を同時に祝えるのが、最高の喜びだったのだそうです。いつまでも合格できなかったらどうなるかというと、いつまでも結婚できないということになるのです。(「雲を呑む 龍を食す」 島尾伸三)


断酒(だんしゆ)
禁酒。『古今著聞集』に、<「客人(まらうと)入らせ給(たま)いたり。」というほどに、法師一人、高坏(たかつき)に肴(さかな)物すえて、持(も)て来(きた)りてすえたり。又銚子(ちようし)に酒入れて来れり。「これ参り候(そうら)え。」と、すすむるを見れば、この肴に盛れる物ども、すべて見も知らぬ物なり。ともかくも物も言わず、ただ三宝に身を任せて、かいつくない(つくばい)て居たれば、しきりにこれをすすむ。断酒の由を言いて飲まねば、この酌(しやく)取りの法師、いかにも御酒参らぬ由を、奥の方へ言いければ、「さらばこれを参らせよ。」とて、すなわちゆゆしき美膳(びぜん)を取り出(いだ)したり。これも又、つやつや見も知らぬ物どもを盛り供えたり。>とある。『古今著聞集』は、橘成季(たちばななりすえ)、一二五四年の編。


宮内省御用達
宮内省御用達にはいろんな品物があるが,酒も例外ではなく、冠婚や葬祭などでは限られた銘柄が使われている。月桂冠、惣花(日本盛の蔵元の銘柄)、菊正宗、桜正宗などがそれである。それぞれの蔵元はその名誉にかけて、磨きぬいた内容のものを揃えてあり、いずれも吟醸タイプの純米酒で造られている。春の園遊会では、"桜"正宗が使われ、秋ともなれば"菊"正宗と季節柄に合わせることもあるが、いずれにせよ順番性で、均等に使われている。また、陛下より渡される「賜り酒」もむろんこれら御用達の酒ながら、その場合には銘柄はいずれのものかわからないようになっている。かつての昭和天皇ご自身はあまり酒を召し上がりにならなかったようだが、上戸に対してもわけへだてなく寛容であられた。-
ところで、御用達銘柄というのではないが、宮中雅楽器をイラストに使ったラベルの酒がある。福島県の矢吹町の楽器正宗というのがそれで、この銘柄の由来が、なんでも「君が代」を作曲した宮内庁の雅楽関係の人と蔵元が縁戚筋に当たることから、ということだった。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)


気持ちよく飲むこと
あのね、僕が二日酔いをしない理由で、一つ大事なことはね。気持ちよく飲むことだよ。いいも悪いも気持ちよく飲んで、今日はバカと一緒に気持ちよく飲んだなって、それでいいんだよ。ね? 高田渡 酒とつまみ編集部編『酔客万来』(ちくま文庫)
高田渡(たかだ・わたる) フォークシンガー。一九四九~二〇〇五年。六〇年代末に音楽活動を開始し、七一年からは『ごあいさつ』『系図』『石』と傑作アルバムを毎年発表。フォーク界をけん引した。アルバムと同タイトルの著書『バーボン・ストリート・ブルース』もある。
そういう話の中で、冒頭の言葉が出た。渡さんは二日酔いをしないと強弁する。そしてこう続ける。  こんなバカと飲んで、このバカヤローってところで、スパッと切ればいいんだよ。それをズルズル引きずるからいけないんだよ。(中略)ああ、そうか、昨日は親子丼だったなとかさ。(中略)できれば今度は鴨南蛮と飲みたいな、なんて思えばいい。これはホントの鴨南蛮かな、なんて思いながら飲むんだよ。  こんな話をしているとき、度さんの声には張りがあり、顔はいささか紅潮し、いくぶん笑顔でありながらも目つきだけは大真面目を装っている。その姿は、類まれなサービス精神の表れにも見え、なにしろご本人がたいそう愉快そうでもある。  あ~あ、今日はお前みたいなバカと一緒に気持ちよく飲めてよかったよ。  そんなふうに言われたような気がして、筆者などはたいへん名誉なことだと思ったものだった。(「酔っぱらいに贈る言葉」 大竹聡)


屋台おとみ
(阿佐ヶ谷)駅の南側にも、屋台は多かった。その中の一軒に、たしか「おとみの店」というものもあったはずだ。この女主人のおとみは、かつて西銀座でメイゾン・トミという派手な酒場を経営していた。その頃は丹羽文雄と同棲し、貧乏だった彼の生活費も出していたと聞く。詳しくは知らない。浅見淵の『文壇側面史』には、屋台店「おとみの店」のことを次のように書いているので、参考までに引用させてもらおう。  阿佐ヶ谷駅前で、かつてのメイゾン・トミのおかみさんが屋台店を出していた。おとみさんは戦争ちゅう上海から帰って来て、メイゾン・トミ時代、彼女を窃かに崇拝していた銀行員とたまたま街上でめぐりあい一緒になっていた。この銀行員は妻子を離別するというのぼせかただった。が、戦争がすむと、おとみさんが濫費家のせいもあって、ふたりはたちまちはげしいインフレで生活に困りだし、おとみさんは丹羽文雄のところに駈けつけ、資金を出して貰って屋台の飲み屋を始めたのである。文壇人ならたいてい、おとみのことを知っていた。だから店を開いたとなると、さっそく飲みに集まった。阿佐ヶ谷界隈の文士はもちろん、ジャーナリストも多かった。河盛好蔵、森繁久彌、画家の中山魏らもよく顔を見せたという。そんなときには、マダムも得意のソプラノで歌をうたった。その声はあたりの屋台を圧したものだったという。(「阿佐ヶ谷界隈」 村上護)


大學先生曰く
わが邦の堀口大學先生曰く、「酒は好きだが、酔うのは嫌いだとは、無理な註文のようだが、そしてまた折角飲む以上、酔わなかったらつまらないではないかとの抗議が出るやもしれないが、とにかく僕は酔うのは嫌いだ。他人が酔うのも好きではないが、自分が酔うのはたまらない。感傷癖が出て涙もろくなったり、誇張癖が出て法螺吹きになったり、自制のブレーキがゆるんでお下劣になったり、自分で自分が嫌になってしまう。乱暴に脱ぎ捨てた手袋みたいに、自分の裏側が表へ出て、玄関のたたきにおちていたりするのは、見るに忍びない」(酒)たしかに酔いの醜態は、自己制御の不可能性にある。しかし、酩酊ニは覚醒のはたらきもあるのではないだろうか。(「酒の文化、酒場の文化」 鷲田清一)


唐代
唐  大暦年間  七六六~七七九  竇常『酒録』を著す。
    建中元    七八〇        酒税令公布。(新唐書『食貨志』)。酒税はこれ以前にもあったと思われるが、筆者未見。(「一衣帯水」 田中静一)


生ワラビと5年熟成吟醸酒
さて、生ワラビの根元にミソをつけて一口かむとサックリした歯ざわりとともに、ワラビ独特の芳香がこぼれた。-
姿よし、食味よし、話題性もある。この飽食の時代に酒席で特に必要とされるのは、季節感であり、話題性であると思う。この三拍子揃ったワラビの一品で酌んだ酒が山形の酒「栄光富士」の特別吟醸で、しかも五年間も長期熟成した秘蔵の酒だったのである。私自身、この頃長期熟成の酒質と保存方法に興味を持っていたので、特別にお願いした御酒であった。二年以上熟成した日本酒を秘蔵酒と呼ぶが、その方法となると、どの蔵もまだ手探りの状態から脱け出ていない。どのような酒質になるのか、その結果は貴重な資料でもある。(「酒肴讃歌」 高木国保)


黒糖焼酎
さて、昭和二八年奄美諸島が沖縄と分離して復帰した時、日本の国税当局は困った問題を抱えてしまった。黒糖焼酎は砂糖製造の過程で得られる黒糖を発酵して蒸留した酒であるが、そうすると輸入しているラム酒と同じではないか、ということになる。ラム酒はやはりサトウキビから砂糖を造る過程で得られる糖蜜を発酵、蒸留した酒で、黒糖も糖蜜も同じようなものである。つまり、日本の酒税法の定義からいえば、奄美諸島の黒糖酒は焼酎でなくラムになってしまうわけだ。ラムとなれば洋酒のスピリッツに入ってしまい、酒税はぐんと高くなり、復帰はしたものの、地酒の値段が上がったのでは島民は困ることになる。そこで考え出されたのが、麹を使うという妙法であった。いかなる焼酎も麹がなければ醸せない。麹を使わせれば洋酒のラムと一線を画すことができるということになって、奇抜な仕込方法が考え出された。すなわち、一次仕込みと二次仕込みに麹と水を使い、そこに三次仕込みとして水に溶解した黒糖を加えて発酵させるのである。(「銘酒誕生」 小泉武夫)


六歳六月六日
生まれてはじめて、お酒なるものを口ニしたのは、六つの年の六月六日。この日、私がめでたく花柳輔三朗先生の門下の端に連なったのを祝って、いまは亡き祖父が"月桂冠"の杯を差したのであった。銘柄まで覚えているんだから、よっぽど感激したに違いない。まさに栴檀(せんだん)は双葉より芳しかったのである。ホント、お酒って美味(おい)しいものだと思ったのだ。残念ながら母の逆鱗(げきりん)にふれて、以後十八歳になるまで酒との縁は絶たれるのだが、やっぱり本質的に飲んべなのだと思う。(「酒との出逢い 六歳六月六日」 沢田雅美)


三日目の酒母
そして事実、酒蔵に行くと、運が良ければいろんな試作品、中間製品、失敗作などに出会うことがある。こういうのにでくわすともう理性を失ってしまい、絶対味覚を忘れてしまうらしい。いいにくいことだが、もろみ圧搾機から流れ出る酒はうまいか?酒になる途中のもろみはうまいか?ましてや酒のモトである酒母はうまいか?これらがうまきゃ商品として売れているはずだ。まずいとはいわないが、感涙を流すほどうまいものではない。だが、ときにはほんとにうまいものに出会うことがある。これは酒蔵関係者でも気付かぬ珍品なのだが、「三日目の酒母」というのは絶対うまい。もし、酒蔵見学の機会があったら所望してみたらいかが。蔵によっては味わさせてくれるところがあるかもしれない。スプーン一杯口に入れた人が、うまさで顔を綻ばすシーンが見られるだろう。それがどんな味か?これはなめてみなければわからない。([「幻の日本酒」酔いどれノート] 篠田次郎)


ポンちゃんの受難
昨夜は、新潮社の担当三人とオリーブの池田君と三時頃まで六本木で飲んでしまい、頭がズキズキ。朝から、TBSの録画撮りがあるので一時間しか眠れなかった。安部譲二さんの番組にお呼ばれしているのだ。なんと、ガッツ石松さんも来るそう。なんだか、動物園みたいな番組ですねえ、と、今や、私の最強の鞄持ちと化した月刊カドカワの石原君がお迎えに来てくれる。いつも人に気を使うポンちゃん(私の愛称)が唯一、わがままを言える人、わがままと言うよりは理不尽といった方がよいかもしれない。朝の番組だってのに懲(こ)りない面々はビールなんか飲み始めて上機嫌で番組終了。それにしても、ガッツ石松さんて、すごくセックスアピールがある。何だか見城さんを彷彿(ほうふつ)とさせるね、と言ったら石原君が大笑い。夕方、野坂昭如先生のインタビューを受けるので、それまで休もうとニューオータニにチェックインする。石原君に景気つけようぜえ、とはっぱをかけて上の中華料理屋さんに行って御馳走を昼間から頼む。だのに、彼はフカヒレのスープしか飲めない。明日の選考会を前に彼はもう流動食しか喉を通らなくなっているのだ。もちろんこの一週間というもの、眠ることすら出来ない。私が金曜日のデートで何を着ようと言うと、ポン助は脳天気でいいなあ、と溜息をつく。さて、野坂先生のインタビューは、とても、私に気を使ってくださったためにポンちゃんはわがままも言わず、なごやかに終わった。しばらく、ニューオータニでジントニックを飲んだ後、先生は銀座に連れて行ってくださった。とっても楽しくって、思わず、野坂先生に抱きついた、ということはもちろんなく、それどころか、私は昨夜の寝不足のためハイヤーの中で先生を枕にして口を開けて寝てしまった。あー、恥ずかしい、死にそう!!(「酒中日記」 山田詠美)


酒売亦六
児子(せがれ)亦(また)六はいまだ定む妻もなく独留主(ひとりるす)して暮(くら)しけるが、かねて小酒(こざけ)を商(あきな)ひ、折々(をり/\)はみづから酒桶(さかおけ)を荷(にな)ひて、近き村々を売歩(うりある)きければ、里人等(さとびとら)酒売亦六(さけうりまたろく)とぞ呼びなしける。頃(ころ)しも冬の半(なかば)なりしが、一日(あるひ)例の如く荷(に)をかたげて、交野(かたの)の辺まで酒売(さけうり)に行きし、途中(とちう)にて鹿笛(しかぶえ)の七といふ狩人(かりうど)に行きあひ、亦六いひけるは、よき所にて逢(あ)ひぬ。和主(わぬし)にかしたる酒の價(あたひ)五貫(かん)の銭を度々(たび/\)催促(さいそく)すれど今にすまざず。とても償(つぐな)ふ心なくば県司(あがたつかさ)に申し告げてとるべきなり、いざ我(われ)と共に司(つかさ)の許(もと)へ行くべしといへば、狩人(かりうど)曰(いは)く、そは極(きは)めて理(ことわり)なれど、此程(このほど)は雪しば/\降(ふ)りて野山(のやま)のはたらき自由(じいう)ならず、よき獲物(えもの)なき故に、心の外(ほか)におそなはりぬ。(「本朝酔菩提 因掲陀尊者 百蟹陀羅尼品第十二」 山東京伝)


ふらすこ【ふらすこ】
①西洋舶来の頸の長い硝子壜の事。葡萄牙語である。「傾城酒呑童子」に『玻璃、白玉のふらすこに、ちんだ泡盛、薬と汲むや玉の井が』などゝある。
長安の御用ふらすこ 集めてる  日本なら酒徳利
ふら/\とふらすこの魚狙ふ猫  泳ぐ魚を獲る
ふらすこはちびり/\と青く成り  空になると青し
ふらすこは段々飲むと青く成り  同上(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


民酒主義
民主主義を生んだのは、酒だという人がいる。古代ギリシャ人が、酒を酌(く)み交わしながら、意見を戦わせたところに民主主義の芽が生まれていたというのである。当時、哲学者のプラトンは「酒は、まことを語るもの」といっている。また、アルカイオスは、「真実なる酒神は、心の底に隠れたことも打ち明けさせる」と語っている。酒が入ってこそ、本音の議論ができたというわけだが、しかも、彼らは、ある結論がでたとしても、それを鵜呑(うの)みにすることはなかった。翌日も、酒を片手に同じ議論をつづけ、前日と同じ結論に達したとき、はじめて正式な答えとして合意したという。(「酒場で盛りあがる酒のこだわり話」 博学こだわり倶楽部編)


塩鮭  中勘助
ああこよひ我は富みたり
五勺の酒あり
塩鮭は皿のうへにたかき薫(かを)りをあげ
湯気たつ麦飯はわが飢ゑをみたすにたる
思へば昔
家を棄(す)て
世を棄て
親はらからを棄て
瞋恚(しんい)や
狂乱や
懐疑や
絶望や
骨を噛(か)む心身の病苦に悩み
生死の境をさまよひつつ
慰むる者とてもなく息づきくらし
または薬買ふ場末の町の魚屋の店にならぶ
塩鮭のこのひときれにかつゑしこともありしかな
見よや珊瑚(さんご)の色美しく
脂にぬめるあま塩の鮭のきれは
われにその遠き昔をしのばせ
そぞろに箸(はし)をおきて涙ぐましむ(「酒の詩集」 富士正晴編著)


変わり酒粕ソース 藤井酒造 藤井啓子さんのお勧め
いろいろなソースを作っておくと、便利です。
●材料 酒粕/マヨネーズ/卵 玉葱 パセリ/うに/酢/サラダ油/など
◆酒粕マヨネーズ ペースト状に練った酒粕を、倍量のマヨネーズに混ぜ合わせます。もちろん酒粕の量は好みで調節してください
◆タルタルソース マヨネーズに、ゆで卵、玉葱、パセリのみじん切りを混ぜ合わせる。ここに酒粕を練り込む。
◆うにソース うにと卵黄をペースト状に練り、ここに酒粕を合わせる。いかの上に乗せたり、かまぼこに挟んで食べる。
◆酒粕ドレッシング 酒粕50グラム、酢大さじ3杯、サラダ油大さじ2杯をよく混ぜ合わせる。(「酒粕の凄い特効」 滝澤行雄)


宴城東荘(1)
一月(ひとつき) 人生 笑うこと幾回ぞ
相い逢い値(あ)うて しばらく杯を銜(ふく)まん
眼に看(み)んか 春色の流水の如くなる
今日の残花 昨日開けり
右は、附馬(ふば 帝のひかえ馬を司る役)となった崔恵童(玄宗の娘婿)の「宴城東荘」(城東の荘に宴す)である。城東にある荘園内へ一族の仲間を集めての宴会詩のように思える。いったいこの世に生まれて一ヶ月の間に、なんど笑うだろう。めったにありやしない。さあひさしぶりに我々は一堂に会した。思い切り、楽しく酒を酌みかわそうではないか。見るがよい、この溢れる春の気配とて、流れる水の如く、はかないものだ。今日枯れしぼむ花も、昨日満開の花盛りだった。さあ、今日この一日、大いに笑って飲み尽くすしか手はないぞ。太平の世ならではの酒宴ともいえるが、今や栄華を極めている一族の不安の伴った酒宴でもある。(「酒を売る家」 草森紳一)


高校生の問題飲酒
高校生の一七%に問題飲酒群が存在するのは、非常に大きな数字だと考えられます。これは、高校生の毎日喫煙している者の割合より少し多いくらいなのです。高校生における問題飲酒群は、学校や地方によって大きな差があります。まず首都圏や京阪神などの大都市圏は問題飲酒群が多く、地方都市では少ない傾向にあります。東京・神奈川では問題飲酒群は一六~二六%に及びますが、地方都市では八~一四%となっています。また大都市圏ほど問題飲酒群の男女差が少なく、二対一くらいですが、地方都市では男女差が大きく、三対一くらいになっています。また、問題飲酒群の割合は学校の歴史や雰囲気によっても大きな違いがあり、同じ県内においてもおとなしい学校は低いレベルで、派手な、あるいは問題が多い学校では高いレベルにあります。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二) 平成7年の出版です。


食後酒
グラッパはイタリアのリキュールで、まさに食後酒のために作られているようなもんだ。蒸留酒にハーブやスパイスなどのエキスを入れたもので、様々なタイプがある。今ウチにあるのは戴きもので(この手の酒は自分で買うことはほとんどない)、無色透明な蒸留酒にアニスもしくはフェンネルのような香りがついている。冷やしてはないけど、冬だから常温でいいや。(チビリッ) くはっ。このカーッとくる感じ、いいねえ。なんとなく口の中が爽やかになるな。でも度数が高いからあくまでもチビリチビリだぞ。腹はいっぱいだけど、やっぱりなーんかつまむものが欲しいなあ。よしこれだ、ビターなチョコレート、それからカマンベールチーズ。日本の酒にはなかなか甘いものが合わないけど、洋酒は甘いのと一緒にやれるからね。そのへんも食後酒の習慣が根付いているゆえんだろうな。(「晩酌パラダイス」 ラズウェル細木)


どぶ-ろく【濁醪・濁酒】(名)
蒸した米に、こうじと水を加えて醸造しただけの、滓(かす)をこし取らないままの白色のどろりとしたにごり酒。 ◆咄本・昨日は今日の物語1614-24頃
[語源説]
①ダクラウ(濁醪)の転訛<松屋(まつのや)筆記・梅園日記・和訓栞・大言海>。
②ドビロク(酴醿緑)の転訛(類聚名物考)。(「日本語源大辞典」 前田富祺)


二本目もスイスイ
元ライオンズの大打者で、いま野球解説者として活躍の田淵幸一の夫人は、ジャネット八田の名で一世を風靡したモデルだった。-
当時、松尾和子あねごが、西麻布あたりの地下でシャレたクラブをやっていて、松尾和子自身がグランドピアノによりかかり、ブランデーグラスを片手にジャズを歌っていたりで、商売になっているとはとても思えないほど、いつでもゆったりとできる店だった。ここへジャネットを連れていったのだが、「私飲みません。だって無駄だから」とジャネット。要するに、いくら飲んでも酔わないというのである。「またッ、粋がっちまって」と私たち。だが、ジャネットのいう通り、無理に飲ませたわれわれが顔青ざめるほどジャネットは強かった。ブランデー一本は、あっという間で、二本目もスイスイ。白い肌が染まるわけでもなくケロッとしているジャネットに私は唖然としたのであった。(「いい酒 いい友 いい人生」 加藤康一)


鳳来寺紀行
喜びながら手荷物を其処に預け、足ついで故その東照宮までお参りして来ようと再び石段を登つて行つた。大きくはないが古びながらに美しいお宮は見事な老木の杉木立のうす暗いなかにあつた。社務所があつても雨戸が固く閉ざされてゐた。お寺に引返して足を伸して居ると、程なく夕飯が出た。新城から提げて歩いてゐた酒の壜を取出して遠慮しながら冷たいまゝ飲んでゐると、燗(かん)をして来ませうと温めて貰ふ事が出来た。お膳を出されたのは、廊下に畳の敷かれた様な所であつたが、居ながらにして眼さきから直ぐ下に押し降(くだ)つて行つてゐる狭間(はざま)の嶮しい傾斜の森林を見下すことが出来た。誠によく茂つた森である。そして狭間の斜め向うにはその森にかぶさるように露出した岩壁の山が高々と聳えてゐるのである。湧くともなく消ゆるともない薄雲が狭間の森の上に浮いてゐたが、やがて白々と其処を閉ざしてしまつた。そしてツイ窓さきの木立の間をも颯々と流れ始めた。まだ酒の終らぬ時であつた。突然、隣室から先刻の年若い僧侶-T-君という人で快活な親切な青年であつた-が、『いま仏法僧が啼いてゐます。』と注意してくれた。驚いて盃を置き、耳を傾けたが一向に聞えない。『随分遠くにゐますが、段々近づいて来ませう。』と言ひながらT-君はやつて来て、同じく耳を澄ましながら、『ソレ、啼いてませう、あの山に。』と岩山の方を指す。『ア、啼いてます/\。随分かすかだけれど-。』M-君も言つて立ち上がつた。まだ私には聞えない。何処を流れてゐるか、森なかの渓川の音ばかりが耳に満ちてゐる。二人とも庭に出た。身体の近くを雲が流れてゐるのが解る。『啼いていますが、あれでは先生には聞えますまい。』と、M-君が気の毒さういにいふ。私は彼の耳の遠いのを前から知つてゐるのである。近づくのを待つことに諦めて部屋に入り、酒を続けた。酒が終ると、酔と労れとで二人とも直ぐぐつすりと眠つてしまつた。(「鳳来寺紀行」 若山牧水)


紹興花彫酒 貳拾年陳
レストランへ着くと、二人だけ個室に通された。。念願の紹興へ来たのだから上質の紹興酒を飲みたいと聞いたら、この店にしかない二〇年ものの「紹興花彫酒」があるという。値段は三八〇ミリリットル入りで五〇〇元(五二〇〇円)也!日本の料理店でも五二〇〇円の酒と聞けば、ちょっと待てよと思うが、ここは中国、あの白酒「武漢」の一〇倍で、労働者の月収に近い。中国人民に申しわけない、我が身に過ぎたぜいたくという気はするものの、もう旅のゴールに近く、これまで浪費してきたわけでもないから、一度くらいはよいではないかとライオンの同意を求め、「紹興花彫酒 貳拾年陳」をたのんだ。紹興酒は、うるち米、もち米、きびなどを原料に仕込み、「花彫」は貯蔵期間の長い紹興酒をさす。紹興では、女の子が生まれると酒をつくり、花模様を彫ったかめに貯蔵して、嫁入りのとき集まった人にふるまった習慣からついた名前のようである。つきっきりで世話をやいてくれたハイティーンのサービス係が、ありがたそうな布張りの箱に入った「紹興花彫酒 貳拾年陳」を捧げ持ってきた。紹興東風酒廠製とある。彼女は英語を話せ、紹興に一二か所ある紹興酒会社の中でトップの製品と説明した。箱の中から、赤いリボンを巻いた、ひょうたん型の壺が現れ、コルクを抜くと芳香が漂った。グラスに受けて口に移せば、ふわっと酸味のあるまろやかな酒が広がってゆく。あまりにも軽く、早く飲み込まないと蒸発してしまいそうだ。味の系統は確かに紹興酒だが、別の酒のように思えた。-
一〇時四〇分ごろ、昨日車が待っていた紹興駅ホームはずれの同じ場所まで車で送り込まれ、五六分発の上海西ゆき快客354列車を待ったが、今日も遅れている様子。駅構内で貨車の入れ換えをしていた蒸気機関車を眺めて過ごす。「買ってはいけません。駅の紹興酒は皆ニセモノです。身体をこわすので、絶対に飲んではいけません」現地ガイド氏の大声が聞こえた。ライオンがホームの販売員から紹興酒を買おうとしたのを見たガイド氏が飛んで行ったのだ。ガイド氏によれば、紹興酒が飲みたければ、レストランかホテルで買うに限るそうだ。駅売り紹興酒の車内持ち込みは果たせず、ガイド氏が大丈夫と保証する、ミネラルウォーター、コーラ、スプライト、ビールになった。(「ユーラシア大陸飲み継ぎ紀行」 種村直樹) 平成8年の出版です。


風流問
旋頭歌
春日なる三笠の山に月の舟いづみやびをののむ盃に影にみへつゝ
狂歌
ひとりのむ酒に友ある今宵哉月かけがさす雲がおさへる  秀谷
発句
花に風かろく来て吹け酒の泡  嵐雪(「風流問」 幸田露伴) 「風流問」中の酒を詠んだものです。


女学(じよがく)酒宴 喧嘩(けんか)狼藉(ろうぜき) はやりなば その陣頓(やが)て 破れこそすれ
女のかなでる音楽、酒盛り、けんか、無法な行為などが盛んに行われているようでは、戦争に負けて、軍勢の陣営は敗れてくずれる。小瀬甫庵(おぜほあん)(一六四〇年)の『太閤(たいこう)記』(一六二五年)に載せ、前後に、<余またこれを視る、(歌略)/主将軍法を慎まざれば、みだりなる事ども多く出(い)で来るものなり。これが不敬の実なり。あに敗軍せざらんや。>という。(「飲食辞典」 白石大二)


満月酒-俺の子が生まれた
子供が生まれて一ヵ月目を満月といいます。お金持ちなら、勢いのある親分なら、「俺の子供が生まれた!」とばかりに、、この日は大勢の客をレストランに招待して「満月酒」という盛大なパーティーを開くでしょう。どうして、生まれてすぐではなく、一ヵ月後に祝うかというと、昔は男の子は生まれてもすぐに死んでしまったりしたので、元気に育つかどうか様子をみてからお祝いをしたからです。庶民は家庭で身内が集まってやります。すべてが派手になってきた最近は、レストランでやる人も多くなったようです。見栄を張る余裕のない、生活の苦しい家庭では何もやりません。やりたくてもできないからです。招待を受けた人、当然参加できると思い込んでいる親族、近所の人などは利是(レイシ)と呼ばれるお祝いのお金を、お年玉袋に似た、利子袋(レイシートイ)というまっ赤な小さな紙袋に入れて出かけます。(「雲を呑む 龍を食す」 島尾伸三) 平成12年の出版で、中国の思い出話です。


飲酒法令
酒はのむべし、さけはのむべからず
一、節句祝儀にはのむ
一、珍客あればのむ
一、肴あればのむ
一、月雪花の興あればのむ
一、二日酔いの酲(悪酔い)を解(とく)にはひとりのむ
このほか、群飲、佚遊<いついう>、長夜の宴、終日の飲を禁ず。童謡にいはく。おまへその様に酒のんで猩々にならんす下心。猩々よくのめども禽獣をはなれず。人として禽にだも鹿猿<しかざる>べけんか。(「万紫千紅」 大田南畝)


アルコール依存症
アルコール依存症者とは、自制できずに自分の生活を破壊し、アルコールを常用しながら、禁断症状、ブラックアウト、耐性の変化等の諸症状を呈する人をいうアルコール症者が必ずたどりつく先は、三つある。監獄か、病院、あるいは墓場。アルコール症は慢性の進行性疾患で、肺結核や糖尿病と変わらない。アルコール症は四段階の経過をたどる。飲酒に始まり、次に暴飲、三番目には境界をふみ越え、最後に病気に突入するのである。この病気になると、アルコールの常用で生活が破壊されても、なお飲まずにはいられない。アメリカ人は、この四段階の経過にふつう一〇年から一五年かかる。一般に、五年から七年飲み続け、三年から五年暴飲し、一線を越えるのに二年かかる。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー)


アイテテテ…
海老勘も歳には勝てず、足が弱くなってきた。ステッキで歩いてもなかなか昔のように根よく通うことはできない。NHKで東京の老舗(しにせ)というタイトルで海老勘の店を映した。そのとき、彼は両手をついてはっているところを映されてしまった。彼は、大いに怒ってNHKくらい話のわからない奴はいない。私がちゃんと座っているところを映してくれと、よくよく頼んだのに、色男台なしだ。そんなことを言いながらも、酒は大好きで、毎日飲まない日はなかった。江戸時代から伝わっている駒形のどぜう屋、その主人は海老勘の友人であった。どぜう屋の百年祭に招待されて、悪い片足を引きずりながらどぜう屋に出かけた。一体、彼はタダの酒が大好きであった。お通夜へ行って、その身内を慰める。主人の供養ですからと酒が出る。その酒が彼は最も好きであった。いろいろと施主と仏の話をしながら酒を飲む。どこのお通夜でも酒を飲む。だからどこのお通夜でも率先して出かける。だから仲間は、彼のことを「お通夜の勘ちゃん」と呼んでいた。どぜう屋で酒をあまり飲み過ぎて彼は倒れてしまった。日本橋の家へ帰るのは危ないので、どせう屋の息子の車で送ることになった。息子は、運転がまずかったらしく、どぜう屋を出てすぐ四ツ角で追突してしまった。海老勘はあとで私に向かって、あっしの右の足は悪いから、どんなときでも右足をかばってるんです。そうすると、ドシーンと追突してしまった。とたんに左足がガックリきてしまった。これで調子よく両方悪くなってしまいました。私は威勢のいい海老勘を知っているから、慰めるほかはなかった。それでも彼はステッキで毎日のようにどぜう屋へやってきた。彼は元来、お世辞を言うのと言われるのが大好きな人であった。どぜう屋へ行って酒をあつらえ、どぜうを肴に飲んでいると、主人がそこへやってきて、こないだは倅が粗相をしてすいません、お詫びいたします。どぜう屋はおかみさんを呼んで夫婦もろとも、頭を下げ、「お許し下さい」すると海老勘は「いいよ/\、間違いと気狂いはどこにもあるんだ」そう言いながら酒をのむ。それが何ともいわれずいい心持であったらしい。ステッキで、あくる日もどぜう屋へ来て酒を注文する。主人がそこへ来て、相手をする。飲んでいるうちに追突された左足が痛む。「アイテテテ…」思わずそう言うと、どぜう屋が倅を呼んで、「オイ旦那に謝れ」倅は仕方なく、誠にすいませんと手をついて謝る。海老勘は、飲みながら、「いいよ、いいよ、まちげえ-ときちげえ-はどこにもある」そのあくる日もやってくる。どぜう屋の主人が相手をする。海老勘は時々、顔をしかめて「アイテテテ…」と言う。どぜう屋の主人が「足のためには酒がよくないんじゃないかな」すると海老勘は開き直って「君はおれに酒を飲ませないつもりか」(「心にのこるさまざまな話」 宇野信夫) 「海老勘は日本橋に佃煮(つくだに)の店を持っていて、そこの主人である。経営上、店は会社となっているので社長である。」とあります。


●六月九日(月)
一時から銀座のソバ屋「吉田」で『SPA!』の対談。池田さんと二人でお銚子十本以上空けたのち、銀座の路地裏で写真撮影し、その路地裏にある福田さんなじみのカレー屋を覗くと、移転のため新橋に越しましたとあるので、チラシを頼りに新橋まで歩いて店を探し当てると、もう三時過ぎだからランチ・タイムの営業を終えている。こうなるとどうしてもという感じで、二十分以上グルグルと歩きまわると、開店したてらしいエスニック・カレー店を発見。カウンターにギター片手の若者が座ってる。カレーを待つ間に、早速ハナレグミをリクエストすると、ワンフレーズだけだがちゃんと歌ってくれる。五時頃、新橋で皆と別れる。カレー屋で飲んだビールのせいもあって突然の睡魔に襲われる。目の前の名画座「新橋ロマン」に飛び込む。ゆったりとしたシートで寝心地がよい。時どき目が覚めるとスクリーンに女の裸が写っている。(「酒日誌」 坪内祐三)


竹鶴 たけつる 石川達也さん 竹鶴酒造(広島県竹原市)杜氏
昭和39(1964)年、「賀茂鶴」で専務を勤めた父の三男として、東広島市西条に生まれる。早稲田大学第二文学部在学中から神亀酒造で修業。平成6年に竹鶴酒造に入り、8年に杜氏に就任。好きな作家は、内田樹、花村萬月。
●語録 「放し飼いの酒造り」「真の個性とは狙って出すものではなく、滲み出てくるもの」「杜氏の務めは、その蔵の水や環境、その年の米の性質や気候などを勘案し、最良と判断する造りを選択していくこと」「酒の存在する意味は、飲んだ人に生きる力を与えられるところ」「生酛と速醸の酒の違いは、味そのものではなく、味を下支えする部分の差」
♠最も自分らしい酒 「小笹屋竹鶴」生酛純米 原酒 雄町(広島産) 精米歩合70% 「先人の知恵や精神を学んでいる酒。決して自分の作品ではない」と石川さん。迫力ある酸味と旨味、堂々とした存在感。漲る生気、燗にして地鶏など肉料理と飲みたい。
♥著者の視点 人間の管理下に置かない酒造りを貫く、酒造界の"ゴジラ松井"こと石川杜氏。「酒造り=エロスなる妄想にとりつかれている」との発言に驚き、真意を問うと長文の回答が来たが、「自然と一体化するという姿勢を大事にしたい。自然とは命であり、命が満ちているものや場所。その観点でみると、酒造りとは命を生む行為であり、子づくりだという見立てに達した」という趣旨だと私なりに解釈。哲学者だ!(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子)


題酒家  飲屋に題す  韋荘
酒緑 花紅 客ハ詩ヲ愛ス                酒は緑に花は紅(くれない) 客は詩を愛す
落花 春岸 酒家ノ旗。                 花は散る春の河岸(かし)に酒家(のみや)の旗。
尋思スルニ世ヲ避ケテ逋(ホ)客ト為リ           つくづく思ふに、世を避けて隠者と為り
酔ハ不(ず)シテ長ク醒ムルモ也(また)是レ痴。       酔はずして長く醒めてゐるのも愚かなこと。
〇逋客 世を避けた隠者である。逋(ホ)とは逃亡の意。(「中華飲酒詩選」 青木正児)


天明の大飢饉下の秋田藩
江戸時代には、有名な大飢饉が何度かあった。食べる米さえ不足なのだから、まして酒造用に米を回すわけにはいかない。そこで酒造りには幕府をはじめ、各藩とも厳重な監視の目を光らせた。とくに天明三年(一七八三)は全国的な大凶作で、秋田藩でも全面的に酒造を禁止した。当たり前のことと思う人が多いと思うが、秋田で全面的な酒造禁止というのは、実は例外的なことなのである。佐竹藩の重臣、梅津忠宴(ただよし)の日記の中に「寒さしのぎに酒は欠かせない」ということが書いてある。支配者の側も、酒がなければ産業発展はおぼつかないことを認めていたのである。だから、農民が勝手に造るドブロクも、あまりおおっぴらでなければ見て見ぬふりをしていたらしい。天明の時も、ちゃんと例外は設けられていて、大地主が作男などの激励のために少々飲ませる分はかまわない、ということになっていた。多くの餓死者が出た津軽、南部藩などに気がねしての酒造禁止令だったのだろうが、"大酒飲みの伝統"にはかなわなかったらしい。また、凶作の年でも酒造に回すぐらいの米はあった、"豊かな県"だったという証拠でもあろうか。(「秋田雑学ノート」 読売新聞秋田支局編)


(六)蝦夷の話(巻六)
播磨の国(兵庫県)大蓮寺という寺に、務白上人という浄土宗の僧がいる。生国は越後の国(新潟県)の人であったが、あまねく諸国を巡って大かた見残すところもない。雲水行脚(うんすいあんぎゃ)の境涯で、宗旨は浄土であるがそのようすは禅僧に似ている。才能が広く、諸宗の学に通じ、儒教や歌道にも暗くない。以下はこの僧の物語である。-。-
毎年秋の末に松前に来る。上蝦夷・下蝦夷といって、両方から船で来る。船は葛で巻きたて、水が入らぬようにからみつけた物である。干鮭(ほしざけ)や鳥の羽、、獣皮などのみやげ物を持って来る。そのときは領主松前家が、海辺に小家をかけ、蝦夷の首領を座らせなさる。交易の仕方は金銀を以てするのではなく、みな物々交換で、多くは五穀の類を好む。蝦夷はもっぱら濁酒を好み、これを器に受けて、はしのような木で鼻の下のひげをかき上げて飲む。いずれも上戸(酒好き)である。その酒がはなはだ悪酒であって、日本人に飲めるような酒ではない。(「翁草」 神沢貞幹原著 浮橋康彦訳)


ぽんしゅ(本酒)
[名](「日本酒」の略の変化したもの)日本酒。(「日本語大辞典」 米川明彦)


ワカサギの甘露煮
作り方 ①ワカサギは、塩水でぬめりを取るように洗い、水けをペーパーで押さえてとる。 ②魚を並べて金串を2本平行に打って素焼きにする。 ②尾は焦げやすいので、アルミ箔でおおって焼く。 ④ほうじ茶をひたひたに入れ、細切りの昆布を散らして2~3時間煮る。 ⑤湯を捨て、調味し、落としぶたをして中火で汁がなくなるまで味をなじませる。
材料(2人分) ワカサギ…20尾 昆布…少々 ほうじ茶…1~3カップ 酒…1/2カップ しょうゆ…大さじ4 砂糖…1/2カップ たまりじょうゆ…大さじ2 けしの実…少々
このつまみに、この一本 喜楽長(きらくちよう) 辛口純米原酒/滋賀 日本酒度…+9 酸度…1.6 価格…2200円(1.8l) ●甘露煮で甘くなった口の中をサッと洗い流し、またひとくち、と箸を伸ばしたくなる。キリッとしたのど越しが愉しめる秀逸な辛口。後味もよい原酒。(頑固親父)(「新・日本酒の愉しみ」 ㈱スリーシーズン編集) 平成2年の出版です。


「酒」を基語とする熟語(2)
酒荒(シュコウ) 荒れた飲み方。[「国語」越語・下]
酒痕(シュコン) 酒の染みたあと[白居易「故衫詩」]
酒佐(シュサ) 酒の尺人。[「前灯余話」田洙遇薛濤聯句記]
酒資(シュシ) 酒代。(陸游「仮中閉戸終日偶得絶句詩」)
酒醇(シュジュン) エチルアルコールをさす近代の漢名。(「日本の酒文化総合辞典」 荻生待也)


独酌
お酒とはもともと人にお酌をしてもらって飲むものだったのである。お猪口でちょっと独酌しても情けない趣が漂ったくらいだから、コップ酒や茶椀酒などで飲もうものなら、ほとんど悲惨と感じられたのも納得がゆく。太宰治はその茶椀酒のおぞましさを巧く描いている。
「ねえさん!飲ませて!たのむわ!」と、色男とわかれた若い芸者は、お酒のはいっているお茶碗を持って身もだえする。ねえさん芸者はそうはさせじと、これまた身悶えして、「わかる、小梅さん、気持ちはわかる、だけど駄目。茶椀酒の荒事なんて、あなた、私を殺してからお飲み。」そうして二人は、相擁して泣くのである。そうしてその狂言では、このへんが一ばん手に汗を握らせる。戦慄と興奮の場面になっているのである。これが、ひや酒になると、尚いっそう凄惨な場面になるのである。うなだれている番頭は、顔を挙げ、お内儀のほうに少しく膝をすすめて、声をひそめ、「申し上げてもよろしゅうございますか。」という。何やら意を決したもののようである。「ああ、いいとも。何でも言っておくれ。どうせ私は、あれの事には、呆れはてているのだから。」若旦那の不行跡に就いて、その母と、その店の番頭が心配している場面のようである。「それならば申し上げます。驚きなすってはいけませんよ。」「大丈夫だってば!」「あの、若旦那は、深夜台所へ忍び込み、あの、ひやざけ、…」と言い終わらず番頭、がっぱと泣き伏し、お内儀、「げえっ!」とのけぞる。木がらしの擬音。ほとんど、ひや酒は、陰惨きわまる犯罪とされていたわけである。いわんや、焼酎など、快談以外には出て来ない。変われば変る世の中である。(「酒の追憶」)
これほど独酌にはおぞましいイメージがつきまとっていたのである。(「酒の文化、酒場の文化」 鷲田清一)




居残り組
ところで、空襲がいよいよ激しくなるにつれ、阿佐ヶ谷界隈にも住民は少なくなった。文士で疎開せず居残っているのは、とうとう上林暁、外村繁、青柳瑞穂の三人になった。吉祥寺の亀井勝一郎を加えても、やっと四人のさびしさである。彼らは寂寥をなぐさめるため、時々寄り集まった。酒屋はどこも閉じていたから、青柳家が会場になった。それはかつての「阿佐ヶ谷会」の面影はなく、ささやかな茶会という趣だった。といっても、お茶を飲むだけでは、どうにも様にならない。これが彼らの集まりだった。一杯ぐらいは飲みたくなる。そこで手配したのが工業用アルコールだった。青柳は大学生の息子に、化学実験後の使い残りの古アルコールを、持ち帰るように頼んだという。それをもう一度蒸留しなおすのだ。こうすれば危険度は少々薄らぐ。それを飲もうというのである。「うん、これはいい」「まるでウィスキーですな」四人はメチルアルコールを神妙に、いささかこわごわと飲んだ。飲み過ぎては命がなくなる。あまりうまくもなかったろうが、酔えることは受け合いだった。こんな具合に憂さを晴らして、彼らは、それぞれの住居に引きあげるのだった。もちろん酒のあるところには、労をいとわず出かけていった。阿佐ヶ谷や高円寺にあった国民酒場でも、彼らは時々顔を合わせた。行列にならんで待てば、ビール一本なら買えるのである。ある日、高円寺の国民酒場で、上林と戸村が出会った。そのとき戸村は(笑)ながらこう話したという。「おれの女房は全く気力がなくなって、左手の甲に食いついている蚊を右手で打つことさえ出来ない。つわりではないかと思って医者に診てもらったところ、塩分の不足から来た栄養失調が原因だった」笑い話ではなかった。疎開もせずに踏みとどまるには、誰にも栄養失調になる懸念があった。(「阿佐ヶ谷界隈 村上護」)


酒で記憶を失うのは究極のホラーである-スティヴン・キング
『キャリー』でデビュー、『シャイニング』『ミザリー』などの作品でモダンホラーの第一人者となる。ほかにも、『スタンド・バイ・ミー』や『グリーンマイル』などのベストセラーがある、アメリカの超メジャー作家だが、この人が、一時、かなりの酒を飲んだらしい。依存症であり、薬の問題も抱えていたというから、深刻である。『書くことについて』(田村義進訳・小学館文庫)には、その時代のことを述懐した部分があるのだが、読んでみて驚いた。アルコールの問題が深刻だった八十年代。『クージョ』という長編を書いていた頃の記憶がほとんど残っていないというのである。眠って起きて、ものを食って排泄して、そして仕事をしていたのだが、そこに何を書いたか記憶にないのだ。八五年末頃は『ミザリー』を書いていて、このときはコカインのせいで鼻血が止まらなかったとか。すさまじいですな。『ミザリー』は、狂気の看護師アニー・ウィルクスによる監禁の恐怖を描いた作品で、映画ではこの看護師をキャシー・ベイツが演じている。ヒット作だからご覧になった方も多いかと思うが、恐怖は徐々に、しかし着実に増大していく。そして、このアニー・ウィルクスという怪物を創造することをコカインとアルコールの代わりにして、キングは、薬と酒から脱却を図ったということなのだ。(「酔っぱらいに贈る言葉」 大竹聡)~


酒の肴にすし答える外国人
外国人の日本酒志向というのは馬鹿にならない。某パブリシティー会社が、日本在住の外国人に日本酒についての意識調査を行ったことがある。するとそのうちの半数以上が日本酒を愛飲しているということだった。日本酒のよさについては、燗して飲めること、差しつ差されつ飲むために、人間関係が円滑になるなど、多くの長所をあげていた。さらに加えて「日本酒は、伝統ある日本文化の一つとして光る存在ではないか」とさえいっているのである。日本酒を飲むときの酒の肴として何が合うかとの設問に対しては、第一にあげたのが刺身、第二にすし、第三に天麩羅と続いた。日本酒の肴としては肉より魚類のほうが合うというのは、彼ら外国人の口にしても同じだったのである。それにしても、日本酒に合う肴として第二にあげたのがすしとは注目すべきではなかろうか。彼らの舌には、日本酒が日本文化の伝統の一つであり、すしもまたわが国の食文化のエッセンスであると映ったようである。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎) 平成15年の出版です。


唐 六二七~六四九
葡萄酒。『詩経』、『神農本草経』にも葡萄の記事は見られるが葡萄酒が出てくるのは、唐の太宗の時代からである。唐書によると、葡萄酒は高昌国(トルファン)を破ったとき、葡萄を持ち帰り、宮中の庭で栽培し、葡萄酒を作った。
芳香は酷烈、味は醍醐を兼ねた(この項青木正児氏「酒癲」による)。(「一衣帯水」 田中静一)


以前はボトル一本半
船戸(与一) いま酒量はどのくらいですか
大藪(春彦) 寝酒にウイスキーをボトル三分の一。昔はかなり艶っぽいことで女房とケンカしてたけど、いまはお酒の量とタバコの本数でケンカしてる(笑)。
船戸 毎日、ですか。
大藪 そう。お湯割りにして。以前は毎日ボトル一本半飲んでいたんだけど、膵臓(すいぞう)をおかしくしていまは、アルコール性肝炎だといわれている(笑)。
船戸 膵臓をおかしくされた時、アフリカでいろんなものを食いすぎたんだ、という噂(うわさ)が流れましたけれど(笑)。
大藪 それは嘘(うそ)(笑)。真相はね、アメリカで拳銃(けんじゆう)や機関銃、ライフルを撃ちまくるツアーをやって、S&Wのロイ・ジェンクスというヒストリアンを訪ねた時に、彼が鉄砲を置いている前の奥さんのところで御馳走(ごちそう)を食わされちゃって、家に帰ったらまた御馳走つくってるもんで、食わなきゃって食っちゃったら、あんまり脂っこい料理で、それが発病の原因だったらしいんですね。その晩、吐いちゃって。それに、その年の暮れ、クリスマス・イヴにフランス料理食っちゃって、夜中に心臓がつかまれそうな痛みで目が醒(さ)めて、胃薬飲んでもどうしようもなくて、翌日病院に行ってみたら急性膵炎だという。その時は絶食して三日入院しただけですんだんですが、だんだん…。退院すると酒も欲しくなるしビフテキも食いたくなるしで、結局、都合三回入院した。船戸さんはどこも悪いとこないんですか。
船戸 高血圧だけです。酒を減らせといわれている。(「諸士乱想」 船戸与一)


歳ですなあ
五月二十九日(水)
歩いて「まり花」まで移動。呑(の)んでいるうちに、黒鉄ヒロシが角川書店の小畑氏、大和氏と一緒にやってきて、これより馬鹿話の花が咲き、ブラック・ユーモアで笑いころげること二時間。客の人柄もあろうが、人数も、この店はこれくらいがいちばんよろしい。いつもは詰めこみ過ぎです。二日酒を呑んでいなかったものだから、いくらでも入り、ついに十杯を越した。ホテル帰着十一時半。
五月三十日(木)
案の定、眠を醒(さ)ませば二日酔い。しかしコーヒーを飲んだらなおってしまった。-
講演終了後、内藤監督の映画「俗物図鑑」が上映されたが、おれは新潮の三氏と共に神楽坂の「寿司幸」へ行く。ここは井伏鱒二先生、永井龍男先生などがお見えになるという由緒ある寿司屋にして、新鮮な魚が出るなり。三氏と共にホテルへ戻り、呑みながら十一時頃まで喋る。就寝十二時。二日酔いがいやなので、自制したつもりであったが、また呑み過ぎたようである。
五月三十一日(金)
案の定、二日酔いである。だが、レストランへ行って熱い排骨湯麺(パーコーメン)を食べたらなおってしまった。-
もう二日酔いはいやだから、おとなしく自室でルーム・サーヴィスの和食を食べ、テレビの巨人-中日戦を見る。じっくり楽しむつもりだったのに、あっ、何てことだ。西本が完封し、二時間十五分、あっという間に終ってしまった。ウイスキーたった百mlですっかり酔いがまわり、九時就寝。歳(とし)ですなあ。(「酒中日記 乞うご期待「スタア」」 筒井康隆)


ふやとうじ【麩屋杜氏】
麩を作る職人の事。酒を作る男の長を、杜氏と呼んだのに依るのである。
足見せをして雇はれる麩屋杜氏  粉を練るのに踏む故(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


船唄     太田浩(おおたひろし)
島ざけは口を火にする
からだはしだいに島となり
横たわる
まっ青(さお)い大海の上


兜で酒
タイのかぶと煮は、ちょっとぜいたくな酒の肴だが、その昔は、本物の兜(かぶと)を肴に酒を飲んだ人たちがいる。たとえば、鎌倉幕府三代将軍の源実朝もその一人だが、平安時代から室町時代にかけて、酒の肴は、かならずしも食べ物ばかりではなかった。衣類や兜、鎧(よろい)などの武具も酒の肴とされ、それらを愛(め)でながら酒を飲んだのである。「なかなかよい兜じゃな」といった武具の鑑定(かんてい)や、それをつかっての武勲(ぶくん)が、話の中心だっただろう。(「酒場で盛りあがる酒のこだわり話」 博学こだわり倶楽部編)


壱岐焼酎
壱岐は今日では麦焼酎となったが、それがいつごろから始まったかを手繰(たぐ)っていくと、芦辺浦に住む牧山藤兵衛という人の記録帳(嘉永三年-明治一八年)に「焼酎の仕込麹〇・一六石、麦〇・四石、水〇・三石」とあり、江戸末期には麦で造られ始めている。明治時代に入って麦焼酎がさらに盛んになったのは、島での麦の生産量が増えてきたためであろう。調べてみると、明治二六年に壱岐で造られていた主要農産物は米一万六四二七石、、裸麦二万八七六一石、大麦二五二八石、小麦二六三八石、大豆一万一九一七石であった。この時すでに米を裸麦が上回っているので、焼酎の原料は今日の大麦ではなく、主体は裸麦であったようだ。(「銘酒誕生」 小泉武夫)


デパートの対応
私と私の仲間は前年、「第一回浅草アマチュア音楽祭ジャズポピュラーの部」に出て銀賞(第三位)を取った。それで浅草松屋のいろんな催事に呼ばれていた。縞のシャツにカンカン帽子、いつも吟醸酒を持参である。それを松屋の関係者が見て、史上初の吟醸酒大図鑑をやろうと言い出した。私は監修役となっているが、さすがデパートの実力、私の知らない酒を含め、二〇〇種を越すアイテムを集めた。催事場には吟醸酒がずらり並んだが、それらはよほどの通でないと知らない銘柄ばかり。私は一日に二、三回短い解説をする。脇には吟醸酒のグラス売りコーナーがあり、毛氈(もうせん)を敷いた床几(しようぎ)に腰をかけて飲めるという雰囲気である。いま、吟醸酒の即売催事を考えるときのすべてがここに出ていた。メーカーさんは何人か訪れてくれたが、デパート側はメーカーに売り子をやらせるなどの協賛はおこなっていない。私には初めての経験であった。わざわざ訪ねてくれた通の客と飲みながら話に忙しかったという記憶である。その中に、いまたぶん日本一の日本酒ジャーナリストであろうといわれる松崎晴雄さんがいた。まだ大学生だった。その後デパートは地酒・吟醸酒にかなり力を入れてきた。池袋西武は地下を大改装して食品館とし、専門化を図っていた。池袋東武は全国の銘柄を網羅するイベントをやった。カタログは新聞紙見開き裏表、計四ページカラー写真入りというすごいものであった。トレンドを先取りしたデパート業界はそれを利益に結びつけたかどうかはわからない。力にまかせて数を集めるだけでは駄目なのだ。品質のいいものを集めても駄目なのだ。問題はそれを飲む人をどう育てるかということなのだ。だが、デパートはそこまでやらなければならないのであろうか。それをやる役割まではデパートにはないと思うのだが、それに近いことをやったデパートの商才、商魂に敬意を捧げる。(「「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎)


地獄信解品第(じごくしんげほん)七(後談)
一日(あるひ)地獄(じごく)例の如く一室(いつしつ)に籠り、座禅(ざぜん)して居たりけるに、一休和尚(きうおしよう)突然と入来(いりきた)り給ひ、一言(ごん)をも宣(のたま)はず、花器(はないけ)に挿(さ)したる花をとりこれを拈(ひね)りて見せたまへば、地獄(じごく)は静(しづか)に目を開きこれを見て微少(につこりわら)ひ、やがて椅子(いす)を下(くだ)りて居睡り居(い)たる女童等(かぶろども)を揺醒(ゆりさま)し、耳につきて囁(ささや)きけるに、女童等(かぶろども)点頭(うなづ)きて身を起去(おこしゆ)き、暫(しばらく)ありて美酒嘉肴(かこう)を捧来(ささげきた)りて一休(きう)の前におく。一休(きう)喜び給ふけはいにて大盃(たいはい)を取上(とりあ)げ、女童(かぶろ)に酌(しやく)をとらせて数盃(すはい)を傾(かたぶ)け、舌をならして宣(のたま)はく、あな美酒(びしゆ)なる哉(かな)、世尊(せそん)五十余年の連留(ゐつゞけ)も、此花を拈(ひね)りて此美酒(このびしゆ)を得んのみ。汝は是我(わが)為めの迦葉なり。吾(わが)正法眼蔵(しようほうげんざう)、涅槃妙心(ねはんめうしん)、実相無相(じつさうむさう)、微妙(みめう)の機関(てくだ)を、汝が゙為に悟(さと)られたり。最早座禅(もはやざぜん)に及ばず、是非(ぜひ)の門を絶却(ぜつきやく)して、情(じやう)を恣(ほしいまゝ)にせよと宣(のたか)ひて立上(たちあが)り、鉄如意(てつによい)を以て、さしも美麗(みごと)に彩色(いろど)りたる椅子(いす)を微塵(みじん)の如くに打砕き、別(わかれ)をも告給(つげたま)はず飄々(へう/\)として帰り給ひぬ。斯くて地獄は拈華微笑(ねんげみせう)の問答(もんだふ)に、禅法(ぜんぽふ)の奥密(あうみつ)を大悟(たいご)し、胸中豁然(くわつぜん)として夜(よ)の初めて明(あ)けたるが如く、これより後は任情遊戯(にんじやうゆうぎ)を旨(むね)とし、意(こゝろ)を恣(ほしいまま)にして心中更(さら)に一物(もつ)を止(とど)めず。四大皆空(くう)なる事を看破(かんぱ)し、地水火風(ちすいかふう)の色小袖(いろこそで)、空即是色(くうそくぜしき)の紅粉(こうふん)も、わずか一重(ひとへ)の臭皮袋(しうびたい)、惜(をし)むかひなき身と悟(さと)り、唯活気(くわつき)を以て本来の面目(めんもく)とし、前よりも尚()なほまさりて姿を美麗(びれい)に粧()よそほい、名香(めいかう)をたきしめたる綾羅錦繍(りようらきんしう)を身にまとひ、髪の飾手道具(かざりてだうぐ)の結構(けつこう)に、金玉(きんぎよく)を鏤(ちりば)め糸竹(いとたけ)のしらべ酒宴(しゆえん)のそなへに、清雅(せいが)を尽して、あまたの嫖客(きやく)に身を任せければ、冨翁嘉客(ふをうかかく)恋ひしたひて千金を塊(つちくれ)とし、郭中(くわくちう)三千に余(あま)れる遊女等(あそびめら)彼(かれ)一人の為に色を失ひ、其の名一時(じ)に高かりけり。(「稲妻表紙後編本朝酔菩提」 山東京伝)


奇跡を祝って
村娘が何人かで舞台から歌を唄いながら、ひっこんでくる時、なぜか私は後むきに入って来たのです。調子にのって、歌いながら歩いて来た私が突然消えてしまったんです。「あッ!」という誰かの声は、かすかに聞いたように思いますが奈落の底へまっさかさま…。見ていた人の話では私の身体は一回転して落ちたそうです。-
その夜、この奇跡を祝って、スポンサーさんが秋田の酒蔵ということもあり、大酒宴が開かれました。「飲めません、飲めません」というのに命びろいをしたのだから、まあ一口飲んで見なさい飲んでみなさいとすすめられて、一口飲んだのが私と「お酒との出逢い」…私はいつの間にか皆ンなに、はやされて、一人唄い、踊り狂っていたのです。その時の歌が笠置シヅ子さんの「東京ブギウギ」だったのですから、私のお酒との出逢いも随分古くなりました。もう三十年に近くなるお酒との出逢いでお酒が私の人生にどんな影響をしてくれたか…。バーやお酒屋さんに奉仕しただけだったか…。ま、たとえどんな事があったにせよ、私はお酒が好きなんです。そして、飲んでよっぱらう私の酒は、ひばりちゃんが唄ってくれるあの素晴らしい「悲しい酒」ではなく、いまだに、「東京ブギウギ」のお酒なんです。(77.11)(「酒との出逢い 奇跡を祝って」 京塚昌子)


御園竹
よい酒に出会ったときのくせでビンを見せてもらうと、その酒がなんと生酛系(きもとけい)の本醸造だった。酒名は「御園竹」とある。初めて酌んだ酒である。酒はビン詰めにしてしまえばすべて同じだが、この生酛系とは、酒造りにおいて、原点といえる醸造法を用いて醸したもので、今日では、手間があまりにもかかりすぎることから、全国でも稀にしか醸されていないのが現状である。その御園竹を酌みながら、酒の肴の中ではめずらしいものが二つ、三つあった。その一つは蜂の子。これは子供の頃に好んで食べていたから、どちらかと言えば懐かしい味だが、驚いたことは、長野の人達が、幼虫ばかりでなく、羽化した、ほとんど成虫に近い蜂まで食べていることだった。-
もう一つの珍味は、ずばり、あちらの方に自信のない人が飛びつきそうな一品、いや逸品!かもしれない。器に盛られた黄色みがかった天ぷらがそれだ。一見しただけで、正体を当てる人はまずおるまい。それほど意外性がある。コリコリとした歯応えの後に残るほのかな苦味と芳ばしさは、酒の肴としても応えられないが、何本食べてもそれが何か当てることができない。とうとう降参した。その正体は…というと何と朝鮮人参の天ぷらなのだ。(「酒肴讃歌」 高木国保)


夜帰(よるかえ)る(笵成大)
笵成大(はんせいだい)(一一二六-一一九三年)は、南宋の四大家(楊万里(ようばんり)・尤袤(ようぼう)・陸游(りくゆう)の一人とされる。官僚として副宰相(参知政事)ぐらいまでは昇進する。二度、官を辞して隠遁するが、そのたびにまた返り咲いている。「明哲保身」の人ともいえるが、その人柄にいや味がなく、バランスのよくとれた人柄であったようにも、詩を読む時、感じられる。二十九歳の時、進士の試験にパスするが、左にあげる詩は「夜帰」(夜帰る)といい、合格前の作とされている。 竹輿(ちくよ)伊軋(ぎしぎし)と永き街を走る  面を掠(かす)めて風清く 酔夢は廻る  曲れる巷(こうじ)に声無く 門戸は閉じる  一燈 なお照らせり 酒爐(しゆろ)は開けり -
しかし、あとで科挙合格以前の作だという伝記的な知識が入ってくると、、ぐっと詩に深まりがでてくる。これが詩を読む醍醐味の一つである。青年笵成大は、なぜこの日、酒を飲んだのか。酒場で飲んだのか。友人宅で飲んだのか。酒ぐらいは、だれでも飲むさというものだが、この日は、深酒で、ついに酔いつぶれ、だれかが駕籠かきを呼び、彼の住所を教えて、その中へ押し込み、送り返されてしまったのではないか、と急に思えてきた。それほどまでになぜ飲んだのか。これまでの科挙の失敗などで気がむしゃくしゃしており、この夜はやけ酒気味だったのではないかと、想像の足が伸びてくる。だが、冷たい夜風に当たり、すっかり酔いが醒めてしまった。駕籠は、大通りから寝静まった横丁の路地へと突っ走っている。急に後悔のようなものが湧きあがってくる。左右の家々は、みな門戸を閉じていて、その様は、周囲の彼への批判のようにも感じられる。あるいは、世の中から締めだしを食っている象徴のように思えたかもしれない。気持ちとしては家に帰りにくい。そんな時、遅くまであいている一軒の居酒屋の灯を見つけ、ほっとする。まだ俺は見棄てられていないなと思ったかもしれぬ。もっとも家に帰りにくいので、覚悟をつけるための時間かせぎに駕籠からいったん降りて、また一杯やったのかもしれない。(「酒を売る家」 草森紳一)


変わり茶碗蒸し 山根酒造場 山根正紀さんのお勧め
●材料(5人分) 卵3個/鶏スープ 2.5カップ/塩 小さじ1/2杯/胡椒 少々/板粕 70グラム/ラー油 少々/豚ひき肉 120グラム/長葱 1/2本/生姜 15グラム/日本酒 大さじ1.5杯/醤油 大さじ1杯
●作り方 ①板粕は細かくし、鶏スープ1/2カップと一緒に鍋でなめらかになるまで煮る。 ②残りのスープを加え暖め、塩、胡椒して人肌に冷ます。 ③卵は解きほぐし、②と合わせて裏ごしする。 ④葱と生姜をみじん切りにし、ひき肉と混ぜ、調味料を合わせ5個の小判型にする。 ⑤5つの器に小判型にしたひき肉をそれぞれ入れ、③を注ぎ表面の泡を取り除く。 ⑥蒸し器に入れ、強火で2分、その後弱火で15分蒸す。 ⑦竹串でさして、透明な汁が出てきたらでき上がり、好みでラー油を振っていただく。(「酒粕の凄い特効」 滝澤行雄監修)


亀田窮楽
亀田窮楽は、もとは鍛冶屋である。仕事に飽いてこれをやめ、"市中の隠者"となった。書をよくするが、粗紙・粗墨・粗筆をもって行きあたりばったりに書くものだから、まるで幼児の手習いのようである。しかしながら、筆画の自在なるさまは、言葉に表せないほどである。彼の書はどれを見ても、大かた粗紙で薄墨である。つねに酒を好んで、門人がお礼の金を贈ると喜ばず、酒を贈ると大いに喜んでこれを楽しんだ。夏冬の着物も垢(あか)がつき、破れると門人からまかなうというぐあいで、自分では全く家事のことをかまわない。門人が贈った謝金を、封をしたままためておいて、順々に上り口に並べて置く。掛取りどもが来て封を切って、それぞれ(一)秤(はかり)にかけて取って帰る。米代や家賃というのもそうである。封の金がなくなったあとに来た人には、「もう何もない。次には早く来なさい」と断る。商人どもはみな合点して、いささかもとどこおることがない。いつも門人あるいは知人が訪ねて来ると、手ずから酒びんを取り出して、冷酒をもってこれにもてなした。盃その他の器はあるにはあるが、たとえようもなく汚い。たばこ盆の引出しから、ほこりまみれの干物を出して、机の上で自分で刻んで客に出す。うんざりするが、来る人はこれを肴にして酒を飲むのである。ある所に祭に呼ばれて行った。店先で快く酒をくみ交わしていたところ、こじきが門口に立ってうらやましそうに眺めている。窮楽はこれを見て、自分の前にあった盃をこじきにさした。こじきは遠慮して、酒を自分のめんつう(食器)に受けようとした。窮楽は「それでは盃事にはならない。この盃で飲め」と言う。こじきは「それならば」といって盃をいただいた。かれこれついだりおさえたりなどして余念なく返盃のとき、こじきが洗おうとする。それを止めて、そのままその盃で自分で快く飲んで、次へ回した。列席の客は、大いにあきれ困ったということである。このように、生涯を安らかに楽しんで終わった。隠君子といっても恥ずかしくはあるまい。
(一)江戸時代の貨幣は計量貨幣であった。(「翁草」 神田貞幹原著 浮橋康彦訳)


脳の萎縮
私達が中年以上のアルコール依存症の人達と話していると、いくつかの特徴が見られることがあります。それは、話がまわりくどく、何をいいたいのかわからない話し方であるとか、同じことを何度も繰り返したり、自分の体験を順序だてて話せないとか。オーバーないい方がたくさん出て来るとかです。この時私達は、この人はアルコールでだいぶ脳がやられているなと感じるわけです。このような時、そのアルコール依存症の人は、知能が低下しており、脳も萎縮していることが多いわけです。若いアルコール症の人達では、このような印象を持つ人はほとんどいません。しかし、知能テストをやり、脳のCTを撮ると、確実に知能が低下していたり、脳が萎縮していたりします。たとえば、難関といわれる有名大学を卒業したに都の知能指数が、びっくりするくらい低いことがあります。若いアルコール依存症の人の知能テストをやってみましたが、彼らの知能指数の平均は、一〇〇以下(知能指数の平均は一〇〇)でした。しかもその知能の低下には特徴がありました。それは知能テストの中の、一つの符号(記号)を捉えてそれを書き写すテストが特に低くなってしまう傾向でした。これは従来からアルコール性の知能低下の特徴と考えられていましたが、それが二〇代ですでに現れていることに驚かされたのでした。これは脳の柔軟な働きが低下している証拠でもあります。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二)


森光子
森光子はほとんど酒を飲まないが、ほんの一杯で頬を赤く染め、コロコロと笑う。もう童女のように可愛い。それが、ごく親しい仲間と共に二杯目、三杯目となるとボロボロと泣き出す。いわゆる泣き上戸で、なにかにつけて涙となる。アルコールがこのひとの涙腺を刺激するらしいのだが、普段でも感激屋の森光子は、酒のなかに去っていったひと、逝ってしまった友だちを思い浮かべるらしいのである。「ほんと奥さんがほしいわね」真っ暗なマンションに帰って、自分の手でスイッチを押すのが辛くって、玄関の灯りはいつもつけっぱなしという森光子は、温かい灯りのともった家に「いま帰ったぞ」とご帰還になる亭主族を心底うらやましいと思うのだそうだ。(「いい酒いい友いい人生」 加藤康一)


王道のつまみ
では、いよいよ「王道のつまみ」とは何か?それは、つまみやすくて、常温で放っといてもそうそう味が変化しないものだ。たとえば、「小鰭(こはだ)」「〆鯖」「酢だこ」など。「刺し身」もおおむねOKだが、完全に生だと割と早く表面が乾くので、酢や塩で締めてあるほうがベターだ。それから、常温で置いておける惣菜系、たとえば「小松菜と油揚げの煮物」「切り干し大根」「おから」「マグロの角煮」などの煮物、煮付けの全般。また、漬け物もOK.。あと、思いつくままにあげると、「さらしくじら」「なめこおろし」「煮凝(にこご)り」「塩辛」「酒盗」「からすみ」などの珍味系、「コロッケ」「アジフライ」など常温でもいける揚げもの、「ポテトサラダ」「南蛮漬け」など。こういったものなら、目の前に置いておいて、自分のペースで飲みながら、好きなタイミングでつまむことができる。こうしてみると、「王道のつまみ」は、老舗の居酒屋の定番のメニューにありそうなものが多い。さすが、老舗はつまみというものをよくわかっている。また、「お通し」「突き出し」として出してくるようなものとも重なる。「お通し」に関しては、「あんなもんいらんわい」と不要論者だった時期もあったが、最近はなかなかいい習慣ではないかと思う。ま、心をこめて上手に作られたものにかぎるけれど。(「晩酌パラダイス」 ラズウェル細木)


マイタケ
そこで登場するのが、発見した人が喜びのあまりに舞い踊ってしまったから、という名前の由来を持つ、マイタケである。マイタケは、食用のキノコであるにも関わらず、薬用のものに負けないくらい健康にいい物質を大量に含んでいる。その中で、二日酔い対策として特に注目したいのが、「β-グルカン」と呼ばれる成分。この「β-グルカン」が体全体の免疫力を活性化し、肝機能を高めてくれるわけだが、まいたけの「β-グルカン」は、他のキノコと比べて非常に特殊な構造を持っていて、とりわけその働きが優れているのだという。ちなみに食べ方としては、「βーグルカン」が熱に溶け出しやすい性質を持っているため、鍋や味噌汁の具にしたり、炊き込みご飯に入れたりと、ゆで汁までも一緒に摂れる調理法がより二日酔いには効果的。もちろんゆで汁をそのまま飲んでもよく、その場合は、グレープフルーツなどの果実の絞り汁を少量加えると、グッと美味しく飲みやすくなるのだとか。自分なりに上手に工夫をして、お酒を飲んだ翌日、舞い踊るようなスッキリした気分で朝を迎えていただきたい。(「二日酔いの特効薬のウソ、ホント。」 中山健児監修)


酒造株
明暦三年(一六五七)に、酒造株が制定され、蔵元には鑑札が交付された。将棋(しようぎ)の駒(こま)のような形をした木製の札で、蔵元の氏名や住所、酒造株石高などが書かれていた。これを所持していなければ酒は造れず、酒造許可の証明書でもあった。ただし、この鑑札は同じ領内であれば、譲渡や貸借も可能であった。つまり、経営不振に陥ったり、跡継ぎがいなくなったときには、別の蔵元に営業特権が認められる鑑札を売ることができたので、一種の有価証券として金銭と同じように流通したのである。大きな蔵元が経営規模を拡大させるために、鑑札を買い集めるといったことも頻繁にあった。この鑑札に書いてあった酒造株石高は、あくまでも許可されたもので、つねに実際の酒造量は上回っていた。それだけ酒の需要が旺盛だったのだろう。幕府も、それを黙って見過ごすわけにもいかず、「酒株改」という全国調査を行い、実態をつぶさに調べ、十七世紀後半だけでも寛文(かんぶん)六年(一六六六)、延宝(えんぽう)八年(一六八〇)、元禄十年(一六九七)の三回実施している。とくに三回目の元禄の「酒株改」は徹底的に行われた。現在でも各蔵元は、国税庁の管轄下で厳しく酒造を管理されているが、この当時も小さな酒道具にいたるまで村役人に調べさせ、帳簿を作ったという。実はこの年の酒株改では、鑑札より多く酒を造っている蔵元に、減醸を命じたり、罰したりしていない。幕府は、実際の酒造高をきっちりと把握した上で、それに見合った税金を取ろうとしたのである。狙いは税収アップにあったのだ。このときの酒造高は、後に酒造高を減らす減醸令が出される場合の基準となった。また、同じ元禄十年には、酒造業に対して、酒の価格の五割もの運上金を課している。運上金とは酒造許可免許に関する税金にあたる。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資)


とっくにすぎた
鉾田町菅谷では、疫病が流行したとき、また、その予防には前述した悪疫追い払いの各種各様の行事を行っているが、「とっくり(徳利)にヨシ(葭、葦)の葉とスギの葉をさして、門口に吊し、疫病が通るとき『とっくにすぎたヨシヨシ』のよびかけ」としており、疫病が家の中へはいらないようにする伝承がある(玉造町、茨城町、大洋村も同じ)。水海道市大生郷では、とっくりにスギの葉とヤツデの葉をさして「ここのえは(ここの家は)とっくにすぎた」とのじゅ文のしるしとしている。ヤツデは九つの葉に分かれているので、この地方では別名ココノエの木と方言でいっているので、前述のような俚諺呪文となっている。(「民俗学と茨城」 戸山善八)


高砂の尾上の桜咲きにけり
やや下って、大江匡房の、 高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞たゝずもあらなん(後拾遺・春上・一二〇) という歌は、後に『小倉百人一首』にも選ばれた名歌であるが、内大臣藤原師通家において「人/\酒たうべて歌よみ侍けるに、遙かに山桜を望むといふ心を」詠んだものであった。古来の名歌秀逸はしばしば酒席において生まれているのである。