表紙に戻る
フレーム付き表紙へ


御 酒 の 話 27


杜氏奉公請状  同じグラスで飲む  酒サケ(7)  自分以外のものになりたい  清酒発祥の地  酔吟先生伝 要旨節訳(3)  酒は飲まねど  三級酒屋  酒サケ(6)  酒を食べる  酔吟先生伝 要旨節訳(2)  江戸の幕兵  アルコール分の差異  油燈  無念無想  酒サケ(5)  酔吟先生伝 要旨節訳(1)  発酵の種類  冬の酒(2)  方言の酒色々(10)  泥酔、くだをまく、酒など飲んで傍若無人なまねをすること  常春藤の薬効  好此の会  古い酒、古い友、古い金  酒サケ(4)  飲むのは甘く、払うのは酸っぱい  ゆき過ぎ  橋場の別荘  ムンスクリ、ヤマヤキザケ、ヨカンベイ  酒聖田中貢太郎  忘年会について  山本益博(評論家)  令集解(2)  一刻飲み、芋酒屋、飲儲、盞結い、打ち越し酒  年わすれ川柳  「麦利」酒免許  日本酒・焼酎  さら川(14)  我死なば  たのむぞよ  令集解(1)  五勺おくれ  きく家の燗  茶筅の先で酒塩を打つ  花柳吟  瓢亭で独酌  湊橋  さくら、さけ、さけよい、しおばら、しびれ  酒造技術の解放  酒[~をこぼす]  公事根源の一夜ざけ  映画館で手酌  京仕込み「キンシ正宗」発祥の地  百鬼園の酒日記  害ありて、益なし  ドクターに  秋の酒・濁れる酒・にひしぼり  人びとが集まる場所  だらすけ【陀羅助】  早さ自慢  方言の酒色々(9)  見知酒  もやしの湯葉巻き  妥協したくなる酒  よい酒のあとはよい馬  東京駅地下道は人生再起への途  泣き上戸から怒り上戸へ  冷やすと味がなくなる  養生の術  亭主が飲めば家の半分が  ぴーじゃーぬちーいりちゃー  慶応四年  土佐の陣ノレ  二百五十文が三百五十文  酒棒  吉久保酒造(1)  塩辛納豆おろし  朝酒のことわざ  天明5年の今津村南組の酒造状況  瓢兮の歌  狂歌酒百首  酒造年度  酒桶を作る  大勢でワイワイと宴を張る雰囲気  酵母の特徴  人形町・きく家にて  やまひには酒こそ一の毒といふ  わかめ  ごごおどっくり、ごせるせいさく、こたる、ごとお、ごまず  まつや  豊明の節会  秋の蝶甘酒糀ほの白し  秋鯖と蕪菁の二杯酢  明治元年戊辰四月閏九月十六日改元  御札が降った  酒のあたため方  松嶋半弥  〆酒  一日二朱  酒園遍歴(2)  効唐潜体詩其三(三)  釘書の意味  草庵に酒肴携来りて  第百十七段  居酒屋賭博  中吉弥八ト云者  酒サケ(3)  好適米の育種  一角[イルカ科の動物]  からきさけ[醇酒]   たまがは【玉川】  力士修業心得  赤羽駅前の居酒屋  うたげ  効唐潜体詩其三(二)  村田吾一老  お酒を飲んで赤うなれ  泰然として酒杯を離さず  私は笑い上戸なんだ  酒サケ(2)  アホウさん  酒席の相手  効唐潜体詩其三(一)  二、三杯  三人と絶交  亀の尾  親孝行の扮  肴の源流  サカバヤシ  涌をたまはりけるかへしに  酒サケ(1)  五十三段 けふは  七段目  ささ(名)  酒モリ  戸大、酒の子  御命講や油のやうな酒五升  「童蒙酒造記」  相政  鯖とごま  武玉川(13)  団子坂の菊人形  小御所会議にて  池田・伊丹の上諸白も  ほろほろ酒  あやうくお払ひ箱  嘉永二年己酉四月閏  二合半坂  三つの系統  級別制度  酔っぱらったあげく  酔っていない時・しらふ、酒気の廻りはじめた感じ、微酔、酔った勢い、酔いつぶれる  禁酒小説  三味線をぱったりやめて通ります  宿酔してる場合か  人生走馬燈  青い紙  白酒と黒酒  亀の尾と亀の翁  メンタリティーにとって最も重要なのは  フクス、ブットシジャケ、ムギザケ、ムラオケ  九段 御随身秦重躬  長かった  三大節の祝日  あじのたたき  神阿多都比売  生産規模は増大  瓶は忽ち破れたり  博打ゃ打たしゃる  山羊の刺身  温厚な老人  岡倉氏と  酒株から免許へ  唐衣橘洲  酒の酔い、酔う、祝酒に酔う、酔った振りをすること、酔って顔の赤いさま  甕の月  判官と師直  夏の酒(4)  寛政の改革  "キャベ中"患者  方言の酒色々(8)  入歯  額をなでて  蔵を守る  出芽増殖  乾盃する  悪酒の杯  ナサシ、ネリザケ、ハクザケ、ハックザケ、ヒエザケ  日本酒功労賞  酒食の友は見つけやすく  多賀宗義  乃祖の手段  われ嘗て  御成之記  萩の盛りによき酒なし  第百十三段  麹と蘖  目鏡にはまる一杯  殿もりの  ビール飲むために  グルタミン酸  境い目  京都祇園にて  根津宇右衛門像  東京でのワンカップの元祖  核実験やめられますか  スウェーデンのアルコール政策  九月四日[日]晴。容態同じ。  げんすい、こいび、こおぜん・の・き・お・やしなう、ごきとお、こけどっくり  トルカナ族  藤倉電線争議  新法度  都あっせん露店換地  土日はビール半分  夏の酒(3)  酒園遍歴  雑誌『酒』  田崎潤のこと  倍返し  方言の酒色々(7)  御酒部屋  オレは酒が弱かった  ユウスゲ  酒は湧くとき漉さねばならぬ  寒い国  来宮様のお祭  黒焼き  洗礼  飯と酒  剣菱の由来  ほうれ、いわんこっちゃない  百一段  酒席の仁義  ゑひてのち  発明とインチキ  たべんせん  食い別れ  芋不足  くこん、ぐれんたい、くろぶた、けす、けずり、けずりや、けずる  大酒家の子孫と成績との関係  臭木椿象  御年十四歳  多門院日記  井上靖酔話  ギネスブック的に満足  酒をやめたければ  飲みやれ歌やれ  外国の風習  鮎の友釣り  瀧川一益厩橋を退く事




杜氏奉公請状
信州における事例を挙げよう。元禄十六年(一七〇三)、上田原町(長野県上田市)の酒屋惣兵衛が大坂石津町(大阪市西区)石川屋の奉公人七兵衛を雇用した際の「杜氏奉公請状」が残されている。七兵衛の給料は年俸六両とかなりの高給で、うち二両は前金として支払う。酒はもちろんのこと、麹もつくること(当時麹はまだ専門の麹屋がつくることが多かった)、途中で欠落(かけおち 逐電、逃亡)した場合は、年俸に三割の利息を加えて弁償すること、内緒で酒を売らぬこと、気に入らなければ半年で暇を出してもらっても結構、また気に入ったらこの請状で何年使ってもらってもかまわない等の雇用条件が記されている。大坂の酒は、当時すでに「天王寺諸白」「平野諸白」が有名だった。酒屋の奉公人を斡旋する口入屋(くちいれや)があり、高給にひかれてはるばる信州まで出稼ぎに行く杜氏も多かったのであろう。(「江戸の酒」 吉田元) 


酒[~をふたりが同じグラスで飲む]
DRINKING:two from one cup
<1980>女性、69歳[ヨークシヤ州シェフィールド] ふたりの人が同じグラスから酒を飲むのは縁起が悪いとされてきましたが、実際のところは衛生的じゃなかったからです。
<1988>女性、58歳[グロースターシア州チェルトナム] ふたりの人が同じグラスから酒を飲むのはよくないんです(結婚していれば別ですが)。そんなことをすると、ふたりの運命がひとつのものになるからです。(「英語 迷信・俗信事典」  I.オウピー、M.テイタム著 監訳者 山形和美) 


酒サケ(7)
また野王が説を引て。凡(およそ)非穀而食。謂之肴。亦作「食肴」。肴はサカナといひ。一つにフクシモノという也と注したり。サカとは酒也ナとは古俗。魚菜をいひし総名也。サカナとは。其酒を佐(たす)くるをいふ也。フクシモノの義は不詳。古俗魚をも菜をも。並にナといひけり。魚菜の字。並に読てナといふ是也。後の人菜に分つべきために。魚をマナといふ。マとは真也。(「東雅」 新井白石) 


自分以外のものになりたい
がこういうことをつづめてみて一言でズバリというなら、すべて『自分以外のものになりたい』ということではありませんか。そう。『自分以外のものになりたい』コレです、男がお酒を飲みたがるのも。お酒は手軽にいつでもどこでも男をいまの自分以外のものにならせてくれます。堅造は軟造になり、石部氏は餅田サンになり、ネズミのようにおとなしいのがトラのようにたくましく、あべこべにガミガミ屋がイッパイ飲むと妙にくだけてやさしくなったり、イヤもう、その変貌ぶりはめまぐるしいばかりであります。(「お酒を呑みます」 開髙健) 


清酒発祥の地 せいしゅはっしょうのち[食品]
1578年(天正6 )に新六幸元が鴻池村で酒造りを始めた。当初は濁り酒を造っていたが、1600(慶長5)年に清酒の製法を発見し、これを江戸で販売したことから、鴻池家は豪商となったと伝えられている。
[碑名]清酒発祥の地
平成十二年十一月吉日
清酒発祥の地・鴻池戦国時代の天正6年(1578年)、尼子氏の家臣山中鹿之助の長男、新六幸元(ゆきもと)が遠縁を頼ってここ鴻池村に住みつき、酒造りを始めました。最初は濁り酒を造っていましたが、慶長5年(1600年)に双白澄酒(もろはくすみざけ)(清酒)の製法を初めて発見することができました。この清酒を江戸へ運んで販売し、次第に財を貯え、後に分家を大阪に出して、酒販売・海運業・金融業でも成功を収めました。これが豪商・鴻池家の始まりです。ここから北西約140mにある児童公園に建つ「鴻池稲荷祠碑」には、そうした鴻池家の歴史が詳しく記され、清酒発祥之地・鴻池の栄光を今に伝えています。
[所在地]兵庫県伊丹市鴻池(「日本全国発祥の地事典」 編集・発行 日外アソシエート株式会社) 


酔吟先生伝 要旨節訳(3)(解説部分)
此の訳詩の底本には「四部叢刊」影印の我が元和年間那波道円校刊「自氏文集」を用ゐた。但だ此の本には白楽天の自註を一切欠いてゐるので、「全唐詩」を以て之を補つた。-
宗の賈黄中の「賈氏談録」に謂ふ、宣帝の大中の末年に、曽て諫官が上疏して白楽天の為に諡(おくりな)を賜らんことを請うたところ、帝は曰ふ「酔吟先生の墓表でよいではないか」と、つひに諡を賜らなかつた。又謂ふ、白楽天は龍門山に葬られたが、河南府尹の盧貞が酔吟先生伝を石に刻して墓の側に建てた。今に至つて猶ほ存してをり、洛陽の士庶及び四方の遊覧者で其の墓を過ぐるものは、必ず酒を注いで手向けるので、塚の前の一坪あまりの土は、常に泥濘(でいねい)に成つている。(「中華飲酒詩選」 青木正児著) 


三一三酒は飲まねど酒屋の門(かど)で 足がしどろで歩まれぬ ションガヘ
「足がしどろで」は、近松作浄瑠璃「国性爺合戦」(正徳五年十一月初演)五「はっと気も消へ立ちとまり、進みかねたるしどろ足」と同じく、「よろよろした足つき」で、恐らく酒屋の門口にただよう芳香に酔うた気分を叙したものであろう。『延享五』に同歌(ただし結句「歩まれん」)が見える。(「山家鳥虫歌 近世諸国民謡集」 浅野建二校注) 


三級酒屋
三級の酒楼両所あり、萬丸といひ、大六といふ。亭々衆屋上に突出し、東山三十六峰より比叡愛宕の諸山悉く寸眸(すんぼう 小さなひとみ)に帰せざるなし。夫れ東山月を吐(はく)時は、則京城十萬家、稠密瓦屋恰(あたか)も波濤の起伏する如く、乾坤一碧身は方(まさ)に舟裏に在るが如くにて、東坡(蘇東坡)赤壁飄然の観に比すべき無尽蔵、真に晴風明月の実に価無き遊び、楼上千来萬客は、新陳交代絶間なく、所謂(いわゆる)大地は萬物の逆旅、光陰は百代の過客を、即時席上に変化無窮に見る如く、登りつ下りつ須臾(しゅゆ)の夢 手を拍(う)つ音は、ハーイーと答る音、物を喰ふ音、拳(こぶし)を打つ音、婢の尻を捫(ひね)る音、笑ふ音、怒る音、皿を破る音、叱る音、酔漢の屁を取外す音迄も、合せて楼の一大音響たる所以(ゆえん)なり。山海の珍味、水陸の奇品、備へざる無く、設けざる無し。肉は林の如く、酒は泉の如し。手を拍てば応じ、物を命ずれば成る。一も凝滞する事なし。嗚呼(ああ)都会の自由、盛楼の自在、一も我意の如くならざる者なし。我意の如くならざる者なくして後、我意の如くならざる者あり。我意の如くならざる者有て後、家倉山林田園の我所有ならざる者あり。家倉山林田園の我所有ならざる者有て後、自主自由の権、我身の有とならざる者あり。諺にいふ、奢(おごれ)る者久しからずと、宜(むべ)なる哉言や。江湖の人希(こいねがわ)くは夫れ之を節にせよ。(「西京繁昌記」 増山守正 明治文化全集) 


酒サケ(6)
唐韻云。醇酒は厚酒也。日本紀私記には。カタザケといふと注せしは。カタとは堅也。猶厚といふが如し。即今練酒(ねりざけ)などといふものの如きに似たり。説文にいふ。酎は三重の醸酒也。漢語抄にはツクリカヘセルサケといふと注せしは。旧事記に。八「左:酉、右:温-シ」酒としるされ。古事記に。八塩折之酒としるせし物の如きをいふ也。日本紀私記には。八「左:酉、右:温-シ」酒これを八塩折の酒といふは。醸熟せし酒を「シタ」(漢字を表示できません)みて。其酒にまた麹を下して醸す。かくの如くする事八度に至るを純「酉告」の酒とす。塩といふは。其汁を八度絞返すが故也。今世にも又一度をいひて一塩(ヒトシホ)といふなり。折とは。その八度折返す故也。これ古老の説也といひけり。又楊氏漢語抄を引て。酵はシラカス。白酒甘なりと注しけるは。万葉集歌に。シロキといひて。白酒の字を用ひしもの也。唐韻を引て。「左:酉、右:離-隹」はシル。一つにモロソといふ。酒薄也と注せり。モロソの義不レ詳。説文を引て。糟はカス。酒滓也と注せり。カスの義もまた不レ詳。モロソといひ。ミゾレといふは。転語也。即今ミゾレといふ酒。その遺製なるに似たり。糟粕二字。幷に読てカスといふは。説文に糟粕は酒滓也といふに依れる也。されどまた説文に。「漉」(本文は同意の別字)レ糟曰レ粕と見えしかば。糟と粕とは少しく異なる也。品字箋には。米久醸而成レ糟。酒既尽而名レ粕。粕魄(かす)也。言二米之精魂浄尽惟死魄存一也。と見えけり。さらばカスといひしは。猶屑といふが如し。クヅといひ。カスといふは。転語也。白酒をシラカスといふが如きは。所謂久しく醸して糟となるの義に似たり。(「東雅」 新井白石) 


酒を食べる
ひそかに告白するならば、酒との理想的なつき合いを、私は知っている。それは、横浜在住の中国人Tさんを見ていて悟ったことである。彼と酒とのつき合いを見ていると、酒は飲みものではなく、食べものであった。酒を食べ、料理を食べ、スープを食べるのである。つまり、飲酒ということが独立せず、食事という儀式の中に酒がセットされているのだ。そして、味覚を満足させながら会話を楽しみ、上機嫌になって食事を了(お)えるのである。だからTさんは、日本人の宴会に招かれると、食事をしてから出かける。ハーバード・グリーンの著の中にも、それを裏付ける一節がある。「中国人は、子供のうちから酒を飲む機会を持つが、同時に、自分の酒量の限界を越えないようなしつけを受ける。飲酒は、食事、祝い事、あるいは友人との厚誼に限定され、いきおいアル中患者はごく稀になる。伝統と文化の影響力の賜物である」(「泣き上戸から始まる」 森田誠吾 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


酔吟先生伝 要旨節訳(2)
遂に子弟を引連れて酒房(のみや)に入り、醸甕(さかがめ)を環(めぐ)つて箕踞(あぐら)をかいて、面を上げて溜息をついて曰ふ、吾天地の間に生まれ、才能操行は遠く古人に及ばず、而も黔婁(ケンリヨ) 古の斉の隠士で、貧甚しく、没した時蔽ふ衾(ふすま)も無かつたと云ふ。 よりも富み、顔淵 孔子の門人。若くして死ぬ。 よりも長命であり、伯夷 殷の義士。首陽山に入つて餓死す。 よりも食に恵まれてをり、栄啓期 孔子が之に何の楽しみが有るかと問うたのに対して、吾楽しみ甚だ多し、人であること、男であること、九十歳であることの楽しみ有りと答へた。 よりも楽しく、衛叔宝 晋代の人、名は玠。非常な美男子で、建業に転居するや、人が其の名を聞いて観る者が垣を成したと云ふ。 よりも健(すこ)やかである。有難い有難い。外に何の求むる事が有らうか。若し吾が好む所の酒を捨てるならば、何を以て老いさきを送らうか、と。又数杯を引いて好い気持に酔うて来た。かくて酔うて復(ま)た醒め、醒めて復た吟じ、吟じては復た飲む、飲んでは復た酔ひ、酔うたり吟じたり、循(めぐ)れる環(たまき)の如くである。是により身世を夢とし、富貴を雲とし、天を幕とし地を蓆(むしろ)とし、一生百年を瞬時と見なすことが出来、陶々然として楽しみ、昏々然として眠り、老の将(まさ)に至らんとするを知らず、古に謂はゆる「全きを酒に得る」 「荘子」達生篇の語。酔者は車より落ちても死なぬ、との比喩を謂ふ。 ものである。故に自ら酔吟先生と号する。時に開成三年、先生の齢は六十七、鬚(あごひげ)は尽く白く、髪(かみげ)は半ば禿げて、歯は上下とも欠けた。而し詩酒の興は猶ほ未だ衰へない。顧みて妻子に向つて云ふ、今まで吾(わし)は調子が良かつたが、是から先は如何(どう)なることか、自分には分らないよと。(「中華飲酒詩選」 青木正児著) 


江戸の幕兵
歩兵が白昼吉原へ行って、金の不足から地廻りにくたくたになるほど殴(なぐ)られて半死半生で戻ったのを、仕返しだといって大勢が鉄砲を担いで乗り込んで、廓内至る処でドンドンぶっ放して大あばれをしたしたのが暮の十四日の事。泥棒が多いからといって江戸中十カ所へにわかに仮屯所(かりとんしょ)をつくり、別隊組、撤兵組などと名をつけて夜になると屯所へ集まるが、酒をのんでねていて、二、三軒先へ押し込みの入ったのを知らなかったなどという他愛ない江戸の幕兵の有様であった。(「戊申物語」 東京日日新聞社社会部編) 明治維新となった戊申の年(1868年)のエピソード集だそうです。 


アルコール分の差異
その標準値は現在、特級一六から一六・九パーセント、一級一五・五~一六・四パーセント、二級一五から一五・五パーセントで、アルコール分がそれより多くても、税金さえ払えば、どのような規格で出荷してもよいことになっている。-
なぜアルコール分に差異をつけたかというと、万一審査に合格した品物が、二級酒と比較していくらか品質が落ちはしないかと考えられるようなときでも、アルコールが多いから、飲むとき、少々割水が余計きいて量が増え、得であるといういい逃れの用意をしたものだろう。(「さけ風土記」 山田正一) 級別があったことの話ですね。 


油燈
当時の歌人、中村憲吉は彼の実家である酒蔵が腐造に遭ったときのことを「油燈」というタイトルで十一首詠んでいます。 
・桶の輪に 油燈ひとつ 懸けてある 酒屋のおくの 夜ぞふけたる ・夜の倉に 人をはばかりぬ 腐造酒の 大桶のまへに 杜氏と立ちつ ・夜ふかし 醪の湧ける 六尺桶に 洋燈(あぶらび)を持ちて あがりてのぞく ・天井に 鳴くねずみあり 大桶の もろみの泡に 燈照らし居れば ・もろみ湧く いきれに噎(む)せつ 桶のふちに 腐造酒のもつ香を 嗅ぎにけり ・湧き鈍き 大六尺桶に 手をつけて 温きもろみを 洋盃(こっぷ)に汲むも ・燈のかげに 胴(はら)ふとくならぶ 桶の醪 彼方こちに湧きて 音のしづけさ ・含み「口利」(き)く もろみの粒は 酸くなりぬ 土間にし吐けば 白くおつる音 ・人影の 大きくうごく 倉の燈に 酸敗酒の処置を 秘にはかる ・牡蠣灰を もろみの桶に おろさせぬ 人ら夜ぶかき 桶にのぼるも
酸敗という事実を目の前にして一つ一つ実に冷静に表現をしているものです。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


無念無想
太田が、一人で居酒屋に行ったときに考えることは一つしかない。それは「次に何を頼もうか」ということ。「座った瞬間からそれだけ。これが居酒屋での理想の境地。無念無想」。東京でも名うての老舗居酒屋に行くと、一人客ばかりでシーンとしていることがある。ある者は天井を見上げ、お猪口(ちょこ)を眺めて微動だにしない人も。「みんな雰囲気に満足しているから、しゃべる必要がない。悟りの境地だね」。「まるで座禅道場ですね」と記者が言うと、「酒付き座禅道場だね。座禅でもみんなが最後に考えるのはただ一つ、何時に終わるのかな-ってことじゃないのかな」と楽しそうに答える。(「あの人と『酒都』放浪」 小坂剛) 太田は太田和彦です。 


酒サケ(5)
又和名鈔に玉篇に云。醪(もろみ)は汁滓酒也。漢語抄に。濁醪読てモロミといふ。説文に云「左:酉、右上:立、右下:口」は醇未レ「酉麗」(コサ)也。漢語抄にカスゴメといふ。俗には糟交(カスマゼ)といふと注せり。モロミの義不レ詳。我国之俗。凡(およそ)物の二つなるをモロといひて。諸の字を借用ゆ。ミとは実也。凡物の形あるをいふ。猶身といふが如く。古の時にモロミといひしは。汁と滓と二つ相混ぜしをいひ。いまだ「シタマ」(漢字を表示できません)ざるをカスゴメといひしと見えたり。カスとは糟也。コメとは籠也。猶糟交といふが如し。今の如きは。汁滓の酒をば。濁酒といひ。其いまだ「シタマ」ざるものをばモロミといふ。古にいひし所に同じからざるに似たり。(「東雅」 新井白石) 


酔吟先生伝 要旨節訳(1)
酔吟先生は官吏生活三十年、将(まさ)に老いんとして洛陽に退居してゐる。天性酒を嗜(たしな)み琴に耽(ふけ)り詩に淫(ひた)り凡(およ)そ酒徒琴侶詩客は多く之と交遊し、また仏教に帰依して、嵩山の僧如満と空門の友と為り、平泉の客(ひと)韋楚と山水の友と為り、彭城の劉夢得と詩友と為り、安定の皇甫朗之と酒友と為つた。いつも逢うたびに、欣然として帰るを忘れる。洛陽城の内外、凡そ道観仏寺や山荘の泉石花竹が有る処には遊ばざるなく、人家の美酒鳴琴有る処をば訪問せざるなく、図書歌舞有るものを見ざるはない。往々興に乗じて、杖を近郷に曳いたり、馬で都邑(まち)に遊んだり、輿(こし)で野外に行く。輿の中に琴一つ枕一つ、陶淵明と謝霊雲の詩集数巻を置き、輿(こし)の左右に一対の酒壺を懸け、水を尋ね山を望んで、気が向けば往き、琴を弾き酒を酌んで、興が尽きれば返る。かくの如きこと凡そ十年、其の間に日々作つた詩が約千余首、年々醸した酒が約数百斛(コク)、しかし此の十年の前と後に作つたもの醸したものは、この中に数へてない。妻子や弟たちは多過ぎるとして、抗議するものも有つたが取合はない。(「中華飲酒詩選」 青木正児著) 酔吟先生とは白楽天のことだそうです。 


発酵の種類
穀物を原料とする醸造酒を造るには、穀物中に含まれるデンプンを糖に変える「糖化」と、糖をアルコールに変える「発酵」という二つの過程が必要だ。ブドウを原料とするワインのような酒は、ブドウの中の糖を発酵させるだけで糖化の必要はない。これを「単発酵」という。麦を原料とするビールは麦芽で糖化した糖に酵母を加えて発酵させる。糖化と発酵が別々に行われることから「単行複発酵」と呼ばれる。ところが、日本酒は醪の発酵工程で麹の作用によって米の澱粉を糖化すると同時に、糖を酵母の働きで発酵させる。これを「並行複発酵」という。麹が酒の味をつくり、酵母が酒の香りをつくる。日本酒のもつ複雑で微妙な風味はこの「並行複発酵」のなせる技である。(「挑戦する酒蔵」 酒蔵環境研究会編) 


冬の酒(2)
1414霜氷あられみだるる冬の夜に酒てふもののなからましかば(千々廼屋(ちぢのや)集・雑)一八五五 千種有功(ちぐさありこと)
1415たのしみは雪ふる夜さり酒の糟あぶりて食ひて火にあたる時(志濃夫廼屋(しのぶのや)歌集・春明艸(はるあけぐさ))一八六八 橘曙覧(あけみ)
1416冬の夜の寒さをしのぐ酒だにも得がたかるらむつはもののとも(新輯明治天皇御集)一九六四 明治天皇
1417酒のめばほろほろ泣きぬ今は何もあきらめてある我が膝にむきて(馬鈴薯の花)一九一三 島木赤彦
1418冷酒を酌めば韮生(にらふ)の山峡(やまかひ)の夜のさまなど思はるるかな(天彦)一九三九 吉井勇(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


方言の酒色々(10)
酒造の際、そのおけから最初にしぼり、神に捧げる酒 ひのくち
寄り合い酒 もやい/もやいこ
婚礼で、仲人や客人などが家を出ようとする時に出す酒 たちは/たちはこ
婚礼の日を決めた時に飲む酒 ひさだめざけ/ひどりざけ
婚礼の泊まり客に翌朝勧める酒 めくそおとし/めし のくち(日本方言大辞典 小学館) 


泥酔、くだをまく、酒など飲んで傍若無人なまねをすること
【泥酔】(本)ぐたんぼ(福井県大野郡)・しずーだれ(筑前(望春随筆))・ずぶろく(仙台(浜荻)・茨城県真壁郡・長野県東筑摩郡・尾張)・どろくへろく(筑前(望春随筆)・山口県豊浦郡・福岡県博多)・どろんけん(茨城県新治郡・長野県東筑摩郡)・めれん(大阪(大阪詞大全)・対馬)。
【くだをまく】(本)ぐでる(山口県豊浦郡)・ごぼほる(津軽・秋田)・やまいも」を掘る(熊本・宮崎・鹿児島)・(補)ぐぜりがましか(形容詞)・ぐみはる。
【酒など飲んで傍若無人なまねをすること】(本)だはん(北海道(松前方言集)・青森県上北郡)。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録) 


常春藤の薬効
常春藤(きづた)がバツカスの神木となつたり、常春藤がバツカスの環冠となつたりする由来-
常春藤は酩酊(よつぱらい)の予防薬だといふ観念からバツカスに献げられた(dedicated to Bacchus from the notion that is a preventive of drunkenness)とあります。(Brewer's Dict.)又Das Buch von Wein の序文(Karl Wolfskehl)に「常春藤の冠を被つた葡萄酒神が遠方からギリシヤへ来た。常春藤(エフオイ Efeu)を頭のコメカミのところに戴く訳は、常春藤の葉は、葡萄の葉の敵で、葡萄酒の酔を中和するからだと信ぜられてゐます」云々。(den Weinrausch zu mildern)(「酒の書物」 山本千代喜) 


好此の会
東の都々一は俳諧の点取(てんとり)の如くに会を開くを例にしていたに比して、西の好此(よしこの)は酒食を主として派手な会をやる。この例を作ったのは大坂の鴻の池の店員だそうな。京都でも花やかにやる事にしていた。幕末に京都で大した好此の会をやった者があった。当日連中が行くと、広間の隅に毛氈(もうせん)が積んであるだけ、なんの飾りつけもない。いつもこうした会は雛棚(ひなだな)の如くに賞品を美々しく飾りつけるのにどうした事かと皆不審に思って坐っていると、文台(ぶんだい)が出て集吟を披講し、秀吟十章を読み上げると、毛氈がムクムクと動いて美しい芸子舞妓(げいこまいこ)が顕(あら)われ、その髪に大きい熨斗(のし)が附いている。その賞品には酒食一切の費用も附いていたので、取った人々は直ぐに指定の茶屋へ行き二日も三日も遊興したために産を破った者が出来、会主は家を潰(つぶ)してしまったそうな。(「明治のおもかげ」 鴬亭金升) 


古い酒、古い友、古い金(きん)
【意味】中世には王室の会計が窮迫し、質の悪い金貨を鋳造した記録がいくらでもあるので、古い金が尊ばれたのであろう。葡萄酒はもちろん古いのがよく、友だちも古い馴染だと安心して信用できる。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助)
【参考】古いものを礼賛した日本の諺には『酒は古酒、女は年増』、『女房と味噌は古いほどよい』、『老いたる馬は道を忘れず』、『年寄のいうことと牛も尻がいははずれない』などがある。 


酒サケ(4)
和名鈔に四声字苑を引て。醴はコザケ。一日一宿酒也と注せしは。後に読てヒトヨザケといふ也。又読てアマザケといふは。令義解(りょうぎのげ)に。醴は甜酒をいふと見えしによれるなるべし。又和名鈔に陸詞切韻を引て「左:酉、右:譚-言」は味長也。日本紀私記に。甜酒読てタムサケといふ。今按ずるに。「左:酉、右:譚-言」の字を用ゆべしと注せし如きは心得られず。天甜酒(アマノタムサケ)といひしは。神吾田鹿葦津姫(カムアタカアシツヒメ)の。天孫の御子生み給ひし時。吾田(アタ)の狭名田(さなだ)の稲をもて。醸し給ひし所にて。令義解に注せしが如く。即今のアマザケといふものと見えけり。我国太古の時にありて。漢字の音によりて。タムザケと名づけいふべき事とも思はれず。唯その甜酒を呼びてタムザケといひし義の如きは。既に闕(か)けぬ。(「東雅」 新井白石) 


飲むのは甘く、払うのは酸っぱい[デンマーク]
飲んだ後には渇き、愛の果てには哀しみ[アイルランド]
万事杯が手中にあるに如かず[中国]
パンは好きなだけ食べろ、酒は量って飲め[英]
一人は酒を呑み、一人は船を見る[ラオス]
 楽しく酒を飲んでいる人がいるかと思えば、船が盗まれないようにじっと見張りをする者がいる。世の中には楽をする者、苦労する者、さまざまな人たちがおり、人それぞれの境遇があるということ。(「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


ゆき過ぎ
「ハイ、十吉でござります。ご免下さりませ」隠居「ヲゝこれは珍しい。まづお達者でめでたい」十吉「あなたはいつ見申してもお若うござります」「イヤ、若くもござらぬ」「デモ、五十四五にもおなりなされますか」「イヤイヤもふ七十でござる。しかし、若いといはれるはうれしいものだ。一盃「上:夭、下:口 の」ましやい。ソレお松、燗をしろ」と、たちまち追従が酒になり、十吉、こいつはしめたものだと、日頃は好きなり御意(ぎょい)はよし、思ふさま引つかけ、「これはありがたうございました。また此の間に」と、そうそう暇乞ひして立出で、「アゝ、まだちつと足らぬ。どこぞへ行つて今少し「上:夭、下:口 の」みたいものだ。イヤあるある。太郎兵衛どのの内儀が産をしたといふ事だ。さらば悦びに寄りませふ」とたづね行き、十吉「太郎兵衛さん、おやどかな」太郎兵衛「ヲゝ十吉どのか。よくござつた」「承ればご安産でおめでたうござります」「アイサ、わしも願ひの通り男の子を儲けました。コレ、見て下され」と、赤子の掻巻(かいまき)きを取つて見すれば、十吉「さてさてよいお子様だ。もふおいくつでござります」「イヤ、この男はとんだ事をいふ。おととい生まれて、たつた一つだ」「それにしてはお若い。私はただかと存じました」(「笑府商売上手(おとしばなしあきないじょうず)」享和四 「ゆき過ぎ」 十返舎一九」)(「化政期 落語本集」 武藤禎夫校注) 


橋場の別荘
大官連は初めは騎乗で、後からは馬車に乗った。ある時、日頃ひいきの九代目団十郎(当時権十郎)のところへ山内容堂の橋場の別荘から使いが来た。団十郎夫婦と鶴蔵などが伺候すると容堂はえらい機嫌で酒宴となった。団十郎夫婦がいざ帰ろうとすると、三太夫が「お上が珍しい物を下さる」という。*なんだろうと思って夫婦が待っていると、ガラガラ挽(ひ)いて来たのは人力車。珍しいものだなと思って夫婦は有難く乗ったが、乗りつけないものだから妻君は浅草のところまで来ると目をまわして大騒ぎとなった。(団十郎未亡人、ます子談)(「戊申物語」 東京日日新聞社社会部編) お土産 の出典のようですね。 


ムンスクリ、ヤマヤキザケ、ヨカンベイ
ムンスクリ 秋田県仙北郡地方で、酒を寒中に作ること(食習手帖)。
ヤマヤキザケ 山焼酒。岐阜県飛騨地方で焼畑をこしらえてから飲む酒をいう(ひだびと四ノ七)
ヨカンベイ 酒の値が高くなると、酒の粕を湯にといて酒の代りに飲む者がますます多くなる。山上憶良の粕湯酒もやはりこれであろう。東北では一般にドベというが、福井県坂井郡などで、酒の粕をヨカンベイというのは、やはりこの用途のためにできた名で、隠語でないまでも、恥を含む戯語であろうと思う(民間伝承八ノ八)、北海道の漁村で酒粕をとかして砂糖を入れて沸かしたものをいい、甘酒の代りかと思われ、新しい工夫であろう(幌別漁村生活誌)。(「分類食物習俗語彙」 柳田國男) 


酒聖田中貢太郎
先年『酒の座談会』と云ふのに出たことがあつた。出席者は、江見水蔭、井原青々園、本山荻舟、松崎天民、田中貢太郎の諸氏を初めとして凡そ二十名ほどであつたが、いづれも愛飲家を以て鳴り聞えた人々であつた。酒の歴史、酒の逸話、酒の善悪、飲み方、燗の仕方等々、話はそれからそれへと飛んでいつ尽くべくも見えなかつた。その時である、今まで黙々として一隅にゐた田中貢太郎氏がやおら立つて曰く、いろいろ諸君のお話を承つたが、酒が良いとか悪いとか、どう飲んだらよいとか、どう云う場合がよいとか、さう云ふことは私に取つて問題ではない。私には只酒が有るか無いかと云ふことだけしかない。良いか悪いかではない。有るか無いかである。私はよく(大町)桂月先生と共に旅行した。山を越え谷を渉つたこともしばしばあつた。がさう云ふ場合、私の念頭には只(ただ)、あの里に酒があるかないか、あの峠茶屋に酒があるかないかと云ふことだけであつた。良い酒があるか悪い酒があるかなどと考へたことは一度もなかつたと。言葉はこれだけであつたが、これが当日の座談会に於て断然ピカ一だと私は思つた。酒の甲乙をつけるやうではまだ本当に酒を愛するとは云へない。酒そのものを無条件で愛好する!この境地に入てこそ初めて『酒の聖』と云ふべきであらう。(「随筆 酒星」 田中貢太郎 後書き「わが姿」 淵田忠良) 


忘年会について
忘年会のいいところは、ふだん言いにくいことを言える、と言うことだ。理屈では、たしかにそのとおりだが、しかし、ということもある。そこで、大きな声を出すのはいかにもミミッチいが、すこし酒を飲んで言うぶんには、相手を傷つけずに、上役や同僚や部下に忠告することもできる。だからといって、なにを言ってもよい、というものでもあるまい。酔った勢いでモノを言うには、それだけの覚悟が必要だろう。サラリーマン社会にあって、酒の席で吐いた暴言が、そのまま笑ってすまされる、などということは、絶対にありえない。そんな、笑ってすますような人間がいたら、そいつは、よっぽどの大人物か、ボンクラだ。大人物なら、酔わなくても、言いにくいことは言えるだろう。ボンクラなら、いくら言ってもしかたがない。そのへんの兼ねあいが、むずかしい。だから、仕事だ、というのである。人生の機微に触れる仕事である。(「男の博物誌」 青木雨彦) '70年代の文章だそうです。 


山本益博(評論家)
①好みの日本酒の味、タイプ、飲み方 肴を邪魔せず、酒飲みでない人にも飲んで飽きさせない酒。
②好きな日本酒の銘柄 日本酒とわざわざ"日本"をつけなければならないというところが残念ですね。酒、清酒で通じるようになればよいのだが…。いま好きな酒は『鄙願』です。
③日本酒によく合うと思われるつまみ 塩気の立っているものなら、よく合うのではないでしょうか。
④日本酒に対するこだわり 『鄙願』のように、"口に含んで雲のごとく、のどごしは霧のごとし"といった感じの清酒がもっとあるといいですねえ。(「夏子の酒 読本」 アンケートに対する回答) 半田大六 鄙願(ひがん)は問屋の一手ブランドだそうです。 


令集解(2)
②酒造りもこれと同じような制度のもとで行われ、役所としては、宮内省のうちの造酒司と、後宮の酒司とが主であって、前者が朝廷用の大部分の酒を造っていたようである。その長官の酒造正(さけのかみ)は、なかなかの高官で、当時小国の太守や、大国の介(次官)と同格の正六位となっている。そしてその下にも、造酒佑(さけのじょう)とか造酒司長とかいった高等官僚がひかえていた。実際に酒を造るのは、六〇人の酒部(さかべ)という品部の人たちである。そして酒部の出身は、倭国(大和)に九〇戸、川内国(河内)に七〇戸、計一六〇戸の酒戸である。このほか津国(摂津)にも二五戸あったが、これは主として酒をサービスする役にまわる家柄とされている。当時は春と秋にも酒を造っていたようで、かりに年三回造るとすると、現在の酒造にあてはめれば、これだけの人数だと少なくとも五〇〇〇石くらいは造ったはずである。しかし、『令集解』には、具体的に造酒法についての記載がまったくないのが惜しまれる。(「酒造りの歴史」 柚木学) 令集解は、延喜式とほとんど同期の平安時代初期に書かれた、奈良時代を中心にした古い時代の官制や格式が書かれたものだそうです。 令集解(1) 


一刻飲み、芋酒屋、飲儲、盞結い、打ち越し酒
一刻飲み  「一気飲み」ともいう。酒などを一気に飲み干すことで、現在でも「一気飲み」若者の間で健在だ。
芋酒屋  現在のおでん屋と同じで、燗酒と芋でんがくなどを出す飲み屋のこと。
飲儲(いんちょ)  酒の肴をいう。
盞結い(うきゆい)  酒盃を交わし合い、心の変わらないことを誓う。『古事記』『宇伎由比』と出ている。
打ち越し酒  酒宴で身分の上下などによらず、自由に杯をさして飲むこと。一種の無礼講である。
(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 


年わすれ川柳
年わすれよろけて杭(くい)の穴へ落ち 柳三22
年わすれに酔っぱらって、門松の支柱を立てるための穴へ片足を突っこんだ。-杭の穴をとり合わせたところが技巧である。そのような騒ぎで、
翌日はたなを追わるゝ年忘れ 柳一17
年忘れ隣でも今朝おそく起き 傍五34
翌日は大屋から店だてを食うような始末だから、隣の家も安眠を妨害されて、朝寝坊の相伴をさせられる。(「川柳集 狂歌集」 吉田精一評釈) 


「麦利」(一字)酒免許
わが国では、天保二年(一八三一)に、長野県の佐久郡春日村農業、佐治右衛門がつくったという古文書が残されているという。おそらく麦で造ったというだけで、いまのようなビールではあるまい。その証拠に、明治初期、税務署発行の酒類免許証に「「麦利」酒の製造を許可する」(東京府北多摩郡…)がある。これは珍しい資料で、現在税務大学校に保存されている。実は、同大学から問い合わせがあったのだが、「麦利」は音はりで、麦さけの意である。私は元来、日本には麦製の酒類はない(焼酎は別)と思っていたが、これが今の麦酒の先祖ではないかと断定する…。明治になって初めて麦酒を造ったのは、大阪の渋谷庄三郎でで、これはアメリカ人フルストに教わった(明治五年)。ついで、明治六年、山梨県甲府の野口正章が造り「三ツ鱗」として発売したが、苦い酒は日本人の口に合うはずもなく、間もなくつぶれてしまった。(「酒鑑」 芝田晩成) 


日本酒・焼酎 日本酒のシェアは四半世紀で半分以下に
1年間に出荷される日本酒は101万kl、焼酎は77万2000klである。ビールなどを含めたアルコール全体では1010万3000klであることから、日本酒のシェアは10.1%、焼酎は7.7%、ちなみにビールは55.4%を占める。これを1.8lの大ビンに換算すると、日本人のおとな1人は、1年間で日本酒を5.6本、焼酎を4.2本飲んでいることになる。(数字はいずれも2000年)。ただし、日本酒はピークだった1975年当時は236万klの出荷だったことからこの四半世紀で半分以下になったことになる。蔵元も3000以上あったのが1700を切っている。長期低落傾向にあるわけだが、それでも特定名称酒と呼ばれる"吟醸酒""大吟醸酒"といった差別化商品もあって下落幅は小さくなってきている。一方、焼酎は、82年登場の"チューハイ"から爆発的人気を獲得。98年の酒税法改正で焼酎(甲類)の増税が実施された時にはシェア低下も懸念されたが、現在もビール・発泡酒と並び、ポピュラーな酒として世間に認知されている。
日本酒 京都 月桂冠 「月桂冠」「大吟醸酒」など  兵庫・灘 白鶴酒造 「白鶴」「まる」「端麗純米」など  兵庫・西宮 大関「大関」など  兵庫・西宮 西宮酒造 「日本盛」  京都 黄桜酒造 「黄桜」など  新潟 朝日酒造 「久保田」など
焼酎 京都 宝酒造 1848億円 「純」「CANチューハイ」など  酒類事業をアサヒビールに売却 協和発酵工業 3756億円 「玄海」など  野田 キッコーマン 3267億円 「トライアングル」  東京 メルシャン 990億円 「三楽」など  大分 三和酒類 「いいちこ」など  東京 合同酒精 463億円 「ビックマン」 数字は上場企業の01年決算期連結売上高(「業界地図が一目でわかる本」 ビジネスリサーチ・ジャパン '02.05出版) 


さら川(14)
忘年会早くやりすぎまたやろか よみ人しらず
忘年会練習・本番・反省会 ハッシャン
イブの夜居酒屋男のフキダマリ とらぬたぬき
忘年会下戸には長い三時間 中戸の男(「平成サラリーマン川柳傑作選」 山藤+尾藤+第一生命=選) 


我死なば酒屋の瓶のしたにをけわれてこぼれてもしかゝるがに[古今夷曲集、治貞]
「わが死骸は酒がめの下に埋めよ、かめが割れたら酒がこぼれるだろうから。」というのは昔からの笑話の一つの型である。たとえば元禄版の「露休しかたばなし」では備前で土葬にせよ、土になって備前徳利に焼かれたいとあるし、古くは大伴旅人の讃酒歌の「なかなかに人とあらずは酒壺に成りにてしかも酒にしみなむ」もそれである。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) われ死なば 大宰帥大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首(3) 


たのむぞよ寝酒なき夜の古紙子
素丸編『その浜ゆふ』はこの句を芭蕉作として載せている。近江国高官の小林次郎左衛門宅において作った句ということになっているが、芭蕉の真作と認めるには少々疑問があるとされている。ただしその内容は芭蕉の世界そのものではある。芭蕉は酒が好きだったようだが、清貧の暮らしのなかでは飲みたくても飲めない日もあり、寝酒なき夜は寒さにふるえることもあっただろう。むしろそんな日のほうが多かったと思われる。(「食べる芭蕉」 北嶋廣敏) 


令集解(1)
『令集解(りょうのしゅうげ)』によると、当時の朝廷では酒に限らず、あらゆる朝廷の調度を製造するために、大規模な工房をもち、多くの工人をかかえていたようで、その種類も筆墨、製紙、製本、金属加工、染織、漆工、造兵、そのほかあらゆる必需品に及んでいる。そしてこのような生産に従事する工人たちは、"品部"(しなべ)とよばれていた。この人たちは、"雑戸"(ざっこ)または"雑工戸"(ざっこうこ)とよばれる。それぞれ専門の技術をもった民戸の集団から、朝廷へ出仕するのである。この雑戸は、おそらく上古からわが国の氏族制度のうちにあったように、家業をもって朝廷に仕える集団からきた制度とも思われるが、一般の農民からは区別して、その技能を世襲させ、そのかわりに租税は免除されて特別に保護された人たちである。その各戸から一丁(一人)の割で工房に召され品部となるのである。特殊技能の技術者であるので、当時の技術導入の先端をゆく、帰化人の百済部や狛部(こまべ)の系譜につながるものであろうと推測される。現在、正倉院に残されている芸術作品も、おそらくこうした人たちの作品であったろうと思われる。(「酒造りの歴史」 柚木学) 令集解は、延喜式とほとんど同期の平安時代初期に書かれた、奈良時代を中心にした古い時代の官制や格式が書かれたものだそうです。 


五勺おくれ
○世は大海の波立たぬ日もなければ、身は一葉舟の安からぬ事しばしばなるべし。疎(うと)きは素よりなる新体詩人の、友と俱(とも)に或飲食店に入りしが、七五の調(しらべ)長(とこしな)へに尽きざるに似ず、酒は一向に行かぬ同士の四辺を顧れば、孰(いづ)れも猪口をひかへたるに飲まねばならぬ心になりて、君些(ちつ)とは遣(や)るかね。一二盃は「上:夭、下:口 の」むよ。それではと急に肩身広く、手をたゝきて婢(をんな)を呼び、五勺おくれ。(「あられ酒」 斎藤緑雨) 


きく家の燗
「きく家では錫の燗徳利か、寸胴(ずんどう)ナベに備前の徳利を浸して温めています。備前焼を使うのは、これがいちばん温度が冷めにくいからです。熱燗の方が伸び伸びとした味わいの出る酒を、どうしてもぬる燗で、というご要望にはいったん五十度の熱燗にしたものを自然に冷ましたものをお持ちします。そうするとお酒もうまみを出し切ってくれます」(「うまい日本酒はどこにある?」 増田晶文) 


茶筅の先で酒塩を打つ
十作 コレ四郎九郎どの、お客さうな。もう行きましせうかい。
白太 エゝ、四郎九郎とは物覚えがない。十作。白太夫を早や忘れやつたかいの。
十作 イヤ忘れやせぬわいの。餅の祝ひとは格別、名酒「上:夭、下:口 の」まねばいつまでも四郎九郎ぢや。
白太 ハテサテ、盛つた酒を「上:夭、下:口 の」まぬとは、但しはまだ「上:夭、下:口 の」みたらぬか。
十作 コレそのやうに、ぬけぬけと嘘云はゆしやるな。俺にいつ「上:夭、下:口 の」ましやつた。
白太 オゝさつきに盛つた。樽や徳利は目に立つゆゑ、餅の上へ茶筅の先で、酒塩打つてやつたので、二度の祝ひは済んだぢやないか。
十作 エゝそれで聞えた。嬶(かかあ)が酒くさい餅ぢやと云ふた。外へは遠慮でさうせうと、おらは日頃懇ろな中ぢやによつて、晩に来て寝酒一杯よばれますぞや。そんなら四郎九郎どの、お客人ゆるりとさんせや。
 〽お客これにと出て行く。
  ト十作向うへ入る。白太夫見送り。
白太 ハゝゝゝ、コレ嫁女、あれ聞きやつたか。今の世の人はきめこまかで、おらが始末の手目(てめ)見付けて、晩に来て寝酒「上:夭、下:口 の」まうとは、せち賢い懇(ねんご)ろぶりぢやなう。ハゝゝゝ(「菅原伝授手習鑑」 山本、郡司本文校訂) 菅丞相(菅原道真)から七十の賀に白太夫という名をもらった四郎九郎と、その祝い酒をもらえなかったという十作の会話です。 


花柳吟
坊野寿山(ぼうのじゅざん)は、川柳を長年作ったが、ほかの人とちがって、花柳界を材料にした作品が多い。これを「花柳吟」といった。岡本文弥さんが、その花柳吟のいくつかを紹介した中で、たまらなくおかしいのが、ひとつある。
禁酒した芸者を呼んだつまらなさ
新派で、そういう喜劇を、市川翠扇主演で見たかった。(「ちょっといい話」 戸板康二) 


瓢亭で独酌
上方へ来て酒のいゝのには全く救はれたやうな気がする。もう京、大坂をはなれたら、何より悲しいのは酒の悪くなること。此の頃は地方の酒のよくなつたことを自慢されるが、なるほど上品にはなつたが本場の灘とは比較にならない。どことなく田舎芸妓が、三越の投げ物で衣裳したやうな不足を感じる。それから環境は全く静寂であることを希望する。私の一等、好きなのはヤハリ京都の瓢亭だ。瓢亭で独酌すれば事は足りる。(「俗つれづれ」 永井瓢斎) 昭和の初め、大阪朝日新聞で天声人語を書いていた人だそうです。 


湊橋
この橋は、霊岸島(現在の新川地域で通称こんにゃく島と呼ばれていた。)対岸の箱崎地区の埋立地(隅田川の中洲)とを結ぶために、延宝7年(1679年)に架けられました。この地域は、江戸時代から水路交通の要所として栄え、とくに江戸と関西を結んで樽廻船によって酒樽が輸送されていました。『江戸名所図会』によるとこの橋は、当時の湊町を形成した日本橋川河口の繁栄を象徴しており、また橋を挟んだ川岸には倉庫が建ち並び、当時の賑わいが偲ばれます。橋名の由来については、江戸湊の出入口にあったところから、湊橋と名付けられたものです。現在の橋は、関東大震災の復興期に再建されたもので、平成元年度の整備事業において、装いを新たにしました。
橋梁の諸元 型式 三径間コンクリートアーチ橋  橋長 49.68m  有効幅員18.0m(車道11.0m歩道3.5m×2)  着工 昭和2年5月  竣工 昭和3年6月  総工費 208,000円  施工者 東京市  平成2年3月 東京都中央区(湊橋の解説板) 中央区新川1丁目 と中央区日本橋箱崎町を結ぶ日本橋川に架かる橋で、道路名は湊橋通りです。隅田川に流入する河口部から2番目の橋だそうです。 


さくら、さけ、さけよい、しおばら、しびれ
さくら2[桜]酒。[飲めば顔が桜色になる](強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)
さけ3[酒]三。《数え歌系符牒》[←三に酒をば飲ましゃんす](京坂-呉服商用語)(明治)
さけよい[酒酔い] 銅貨(強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
しおばら[塩原] 馬肉屋で飲むこと。[塩原太助馬の別れ](芸人言葉)(明治)
しびれ[痺れ] 泥酔。(強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


酒造技術の解放
これにより、福島県会津若松派出所勤務の酒造検査委員(収税属)である箱石東馬は当時、東北の酒が灘物より3~5割も安い値段で取引されていたことを問題とし、その解決策は改醸であるとします。そして明治19年頃、灘に出かけその醸造法の秘密ともいえる部分に立ち入って調査し、明治22年(1889)には収税属を辞し、酒造改良教師として専念し、東北の酒造改良に尽くすのです。また、明治の20年代、酒造りの半数が腐造や変味酒となっていた福岡市の酒造業者が、収税属の地位を利用すれば臨検の名目で全国の酒造場に自由に立ち入ることができることに目をつけ、福岡県収税属に扮装し、灘の酒造場へ立ち入り、その技術を盗み、その地方の酒造改良の契機を作ったという話も残っています。このように明治20年代こそは、わが国の酒造社会が迎えた酒造改良運動の本格的季節であったわけです。収税確保と脱税防止を課題にした酒造生産工程を検査の対象としたとき、江戸時代から一子相伝として門外不出の醸造方法が、秘伝という高い壁を乗り越えて酒造会社に解放されたのです。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


酒[~をこぼす]
DRINK,spilling
<1584>スコット『魔術の曝露』ⅩⅠ,xv. われわれのあいだには男っぽい女と女っぽい男がいるが、そうした連中は酒をこぼすことに大した予言的な意味を読みとる。
<1603>W.パーキンズ『著作集』39. 酒をかけられるのはとても縁起がよい。
<1608>J.ホール『美徳と悪徳』88. 塩をかけられた人は、給仕のひとりが膝の上にワインをかけてくれるまで心おだやかではいられないのである。
<1620>メルトン『アストロロガスター』46. ビールがそばでこぼれると、それは幸運の印である。
<1652>ゴウル『魔術的占星術』181. 縁起の良し悪しをワインがこぼれたことから占うこと。(「英語 迷信・俗信事典」  I.オウピー、M.テイタム著 監訳者 山形和美) 

公事根源の一夜ざけ
およそ、酒を醸す最も単純な方法は、甘酒を造るが如き方法であって、古文献には「一夜酒」とある。次に、この「一夜ざけ」と「八しほ折りの酒」について述べた、「公事根源」(一条兼良著 応永年間)の文章を引用する。
一夜ざけとは、今日造れば明日は供するなり、一夜をへだつる竹葉の酒なれば、一夜酒と申すなり、又はこざけとも、或文に侍り、昔は口中に米を噛みて、夜宿をへて酒に造りけるにや、この酒は造酒司(さいつかさ)けふより、七月卅日まで日毎に奉るなり、応神天皇の御時より始まる、おほよそ酒をつくる事も、此の時に百済の人渡りて、造り始めたり、是よりさきには、酒といふ物なしと申す人侍れど、神代に素盞嗚尊、稲田姫のため大蛇を殺されし時、八しほ折りの酒を作りたる事、日本紀にも見えたり、然らば酒という事、神代より有るべきにこそ。(「酒の博物誌」 佐藤建次編著) 応永年間は、1394年から1427年です。 


映画館で手酌
話は余談だが、ずっとむかし、大辻司郎が「酒・酒・酒」という短編映画をつくった。ぼくが中学生のころで、神田の南明座で見たのを覚えているが、となり席にいた鳶職が手酌でチョビチョビやりながら見ている。暗がりのなかでよくオチョコに徳利の酒をこぼさないで注げると思って感心したが、ぼくも戦後の二、三年間、冬の試写室は外套を着ていても冷えこんでしまうので、この真似をした。ただし、ぼくの場合は洋酒で、携帯用ボットルにジンをつめてきくことが多かったが、まずはじまるまえに隣の席の友だちと二、三杯とりかわす。(「酒と映画」 植草甚一 「洋酒天国」 開髙健監修) 


京仕込み「キンシ正宗」発祥の地 きょうじこみきんしまさむねはっしょうのち[食品]
「キンシ正宗」は、日本酒メーカーの社名であり、同社の製造する清酒の清酒のブランド名でもある。1781(天明元)年、松屋久兵衛は京都・亀屋町にて酒造業を創業。この創業地は、現在"堀野記念館"として公開されている。1991(平成3)年に「キンシ正宗株式会社」となり、ブランドスローガン「京仕込」のもと、京の食文化を発信する企業として発展を続ける。
[碑名]京仕込み「キンシ正宗」発祥の地
天明元年(1781)、若狭出身の堀野家の初代松屋久兵衛はこの地で造り酒屋をはじめた。堀野商店(現在はキンシ正宗株式会社)は明治になってから酒蔵の一つを伏見に置き、戦後は本社を伏見に移したが、創業の地であるこの家は往時の姿をそのままに守り続けてきた。当時御所の南の一帯には、造り酒屋がかなり集まっていた。おそらく醸造に適した良質の水脈が豊富にあったのだろう。黒川道祐(どうゆう)「雍州府志(ようしゅうふし)」に「凡(およ)ソ京師ノ井水ハソノ性清ニシテ柔、ソノ味淡ニシテ芳、コノ水ヲ以テ酒ヲ醸ス、故ニソノ味甘美ナリ、惣シテ京酒ト謂ひまた地酒ト称ス」と説明している。「雍州府志」が書かれたのは貞享元年(1684)で、堀野家が造り酒屋をはじめるざっと100年前だが、今もこの敷地内にある井戸は毎時3tの湧出をしている。参考引用文献「京の老舗」駒敏郎より
[所在地]京都府京都市中京区亀屋町/堀野記念館(「日本全国発祥の地事典」 編集・発行 日外アソシエート株式会社) 


百鬼園の酒日記
三十歳といえば肉体的にも酒もかなりいける年頃だが、そのときの酒日記が「続百鬼園日記帳大正八年」によると、
十一月 二十三日 晩月桂冠凡(およそ)一合、就床前同五勺 二十四日 晩桜正宗、月桂冠、白鶴を取りまぜて二合五勺強 二十五日 昼、沢之鶴二合余(新撰亭)、晩永楽二合弱(ときは) 二十六日 昼、桜二合 二十七日 晩二合 二十八日 晩月桂冠一合 二十九日 昼月桂冠猪口に三つ。晩、千葉木下にて月桂冠及地酒凡二合 三十日 昼千葉の地酒仁勇、利根正宗及び月桂冠一合半
この調子で十二月も続いているが量的にはせいせい三合どまりで、決して大酒ではないにもかかわらず、毎日飲んでいて、一日たりとも休むことがないのである。内田は何故にまたこのように酒量だけの日記を書いたかというと、それがなんと飲酒に対する自戒ということなのだ。「酒の日記(余り飲みすぎぬ為。此間内はよく酒を飲む癖がついた。日本酒を二合以上、時には三合近くも飲んだらしい。度々そんな事を重ねない為、この日記を書く)葡萄酒は書かぬ」という但し書きが、日記の冒頭にある。(「作家と酒」 山本祥一郎) 


害ありて、益なし
明治11年(1878)のパリ万博に出品した日本酒が、ヨーロッパ人に「害ありて、益なし」と酷評されたことに対し、政府は酒造改良の必要性を認識した。海外から招いた外国人らの中にもこうした考え方はあったようで、同じ醸造酒のビールがボヘミア(現・チェコ)では大麦と一部は米を使って醸造しているのだから、日本酒も米の代わりに一部なりとも大麦を使用することで酒造の改良につながるのでは、などとも述べています。このような提案をした外国人のお雇い教師の一人のドイツのオスカー・コルシェルトがいます。彼は東大の医学部教授として化学と数学を担当したのですが、日本酒の化学分析に関する研究やサッポロ・ラガー・ビール品質試験や技術指導もしていて、防腐剤としてサリチル酸を紹介したのもこのコルシェルトです。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


ドクターに死ぬほど「上:夭、下:口 の」めとおどかされ (東京都・南川光男)
いいドクターです。「酒は少しなら百薬の長。飲み過ぎがいけません、程々に」と言われたって止める奴はいません。「もうガブガブ飲みなさい、飲んで死になさい」で効き目があるんです。…でも、それでも飲む人もいるか。いたなぁ。合掌。(「川柳うきよ鏡」 小沢昭一) 


秋の酒・濁れる酒・にひしぼり
1814有明の心地こそすれ杯に日かげもそひていでぬと思えば(拾遺集・雑秋・一一四八)一〇〇五? 大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)
1815めずらしき光さしそふさかづきはもちながらこそ千代もめぐらむ(紫式部日記)一〇一〇? 紫式部
1816もちながら千世もめぐらむさかづきの清き光はさしもうけなむ(後拾遺集・雑五・一一五四)一〇八八 藤原為頼(ためより)
1817こ(木)の下につもる落葉をかきつめて露あたたむる秋のさかづき(秋篠月清集・上・一二三三)一二〇四? 藤原良経(よしつね)
1818万世(よろづよ)もなほながづきのうらにあふ三角柏(みつのがしは カクレミノ)にみきたてまつる(壬二(みに)集玉吟集・中・一二二〇)一二四五? 藤原家隆(いえたか)(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


人びとが集まる場所
人びとが集まる場所は、物、情報などさまざまな文化の交錯する場所となる。ヨーロッパではそれは本来教会が担っていたが、そこから「俗性」を剥ぎ取って、それを居酒屋に任せた。教会は純粋に礼拝の場所となっていった。それに対して、非ヨーロッパ文明圏の寺院から「俗性」が削がれたのは最近のことだろう。たとえば、ヨーロッパの居酒屋が担った大きな役割のひとつに冠婚葬祭の宴会の機能があった。中国、イスラム圏、日本の茶館、カフェ、居酒屋にはこういった機能はなかった。冠婚葬祭の宴会は、イスラム圏、中国、韓国、日本では自宅か、そうでなければ寺院で行われた。日本ではつい最近まで精進落としの宴会は寺の本堂でおこなわれた。宴会のできる大きな家ばかりとはかぎらないからであった。つまり非ヨーロッパ文明圏では、寺院がコミュニティセンターの機能をはたしつづけたのだ。(「居酒屋の世界史」 下田淳) 


だらすけ【陀羅助】
陀羅尼助の略称。陀羅尼助の本家は吉野で、吉野大峰で焚いた香の煤烟に百草を交へ、陀羅尼経を誦する時に魔睡を払ふ為に調整したものであるが、後にはせんぶりの根で製したやうである。色黒く、味の極めて苦い薬で、腹痛に効あり、また一般に気付薬としても用ひられた。
陀羅助は腹よりも先ず顔に利き 非常に苦い薬で
陀羅助をねだられて居る四天王 泥酔した大江山の鬼(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


早さ自慢
建物を完成するのに、どこの国が一番早いか、各国の人々が口論している。まず、アメリカ人が口火を切った。「わが国では、元旦に陸橋の建設を開始したとすると、どんなに遅くとも、その年の大晦日にはもう陸橋を自動車が走っているね」次にドイツ人が自慢する。「わが国では、一月一日に病院の建設が始まったら、どんなに遅くとも、同じ一月の三十一日には、もう患者の診察が始まってますよ」ロシア人は二人を軽蔑するように見つめて言った。「ふん、そんなの自慢にならんよ、君たち。わが国では、月曜日の朝九時にビール工場の建設に取りかかったとするだろう、そうすると、どんなに遅くとも一時間後の一〇時には労働者一同が酔っぱらっちまってるからねえ」 (「必勝小咄のテクニック」 米原万里) 


方言の酒色々(9)
酒の醸造の際、最初に出る芳醇な酒 ばなざき
残り酒 おすたり
家を出かける時に一同が土間で飲む酒 しったぐりさけ
酒を量る升をうつぶせておいた時滴ってたまる酒 たれ
酒屋で立ち飲みする酒 いざけ(日本方言大辞典 小学館) 


見知酒
いわゆる禁門の変で京の町が焼け野原になったため、商いを休んだり、町屋敷を手放す者もあった。一八六四年(元治元年)一一月、久˥では出店を京に開くつもりで、堺町三条下ル道祐町東側の近江屋庄三郎の屋敷を買い取ることになった。屋敷は奥行き一七間、幅三間余り、ほかに一八畳敷きの土蔵がついて二一〇両だという。二四日、元蔵は地切り(町屋敷売買)の挨拶に、町役人の近江屋忠七様、同茂十郎様・釜屋治助様へ出向いた。それから町中ヘ切餅(きりもち)を配り、釜治様の座敷で出席の六人様から見知酒を一酒頂戴した。二六日、屋敷の焼け跡の灰掻き、屋敷の囲いに取りかかった。(「幕末維新の民衆世界」 佐藤誠朗) 近江の商人・小杉元蔵の日記だそうです。 


もやしの湯葉巻き
もやしを油でちょっとシンナリするほどいためて、辛子醤油であえ、キュッとしぼって、薄湯葉を水につけて軟らかくし、簀の上にひろげてもやしを細巻きにして、細巻きずしくらいに切る。これも酒盃を重ねさすものである。ちょっと湯がいたのもいいが、精進続きで油の不足を補うため、油でいためるのである。(「味之歳時記」 利井興弘) 


妥協したくなる酒
日本酒を飲むと私は、なんだか、人と妥協したくなってくる。徳利、チョコ、さしつさされつ、というような形式のうえのこともあるが、なによりもあのまったりとした、微温的で、おだてるような、やわらかい日本酒の味には人と妥協を誘わずにはおかないものがあるような気がしてならない。それが私には、大変不愉快だ。翌朝までしめりが精神にのこるような感じがする。おなじように酔いの曲線が緩慢で女性的で、いつとなく酔っていつとなくさめていくにしても、ぶどう酒のほうがはるかに精神にとっては健康のような気がする。私は、ぶどう酒を飲むとおしゃべりになり、ひとと議論したくてしょうがないのだが、日本酒のほうはともすれば私を沈黙がちにさせる。妥協する自分を警戒する気持ちからである。焼酎の荒い沈黙のほうが私にはまだしもありがたい。(「トマトジュースかウィスキーか」 開髙健) 


よい酒のあとはよい馬
【意味】この諺は二つの意味にとれる。一はよい酒に酩酊すると、心身ともに浮き浮きとなり、馬に乗っても盛んに走らせるから、大概の馬が名馬になる。二は酩酊して乗る馬は脚が丈夫で、つまずいたりよろけたりして乗り手を地面に放り出す馬ではならない。だから、よい馬でありたい。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助) 


東京駅地下道は人生再起への途
S氏(六〇)は、東京駅の地下通路をねぐらとしている。定職はない。二月二十七日の早朝、彼は自分を揺り起こして男を見上げた。ツルツル頭に茶の背広、どことなくうつろな目つきだ。「このあたりで、お酒を買えるところはないでしょうか」おずおずしながら聞いてきた。「缶コーヒーぐらいなら買えるけど、酒を売っているところなんかないよ」そっけなく答えるS氏に、男はまた聞いた。「では山谷村へは、どう行けばいいのでしょうか」不審に思ったS氏が身元をただしたところ、男は年齢四十九歳、長崎で会社を経営していたが、円高不況で倒産、七千万円の負債を踏み倒して、二日前に東京へ逃げてきたばかりだという。懐(ふところ)具合がさみしいので、安宿のある山谷に行きたいというのだった。S氏は男を叱った。「あんた、山谷へ行ってヘンな手配師につかまったらどうするんだ。仕事があればいいけど…」「もう心身ともクタクタ。働く気になれない」S氏はさらに叱った。「債権者に誠意を示すためにも、働きなさい!」そしてS氏は、いやがる男をひきずるようにして飯田橋の職業安定所まで連れていった。S氏の熱意に心動かされたのか、男は、「どうもありがとうございました。いずれの日にか、酒でもごちそうさせてください」と、深々と頭を下げた。「いや、たいしたことをしたわけじゃなし」と、S氏は笑いながら東京駅のえぐらに戻っていった。(「デキゴトロジー」 週刊朝日風俗リサーチ特別局編著) 


泣き上戸から怒り上戸へ
十八歳、初めての学生寮コンパで、したたかに飲んでしまったところ、悲しくもないのに泣けて泣けて、それも声をあげて泣き続けるので、みんなから、うるさい黙れ、眠れないぞと踏んだり蹴ったりされて、翌日、からだに青痣(あおあざ)が残った。これにこりて、ひとまず酒と手を切ったが、一年後、また酒を飲む羽目になり、同じように泣き出した。この時は、縁者ばかりだったので面白がられたが、とにかく泣き上戸という珍種であることが証明された。ところが、敗戦を境にガラリと変って、今度は怒り上戸になった。いつもというわけではないが、もはや泣くことはなく、わずかなことにカッとして怒り出す。戦争が心の仕組みを変えてしまったのだ。この怒り上戸の翌日の悔いたるや、泣き上戸の比ではない。以来、永いこと悔いにさいなまれて、なんとか怒りを抑えるようになったが、そのストレスを更に酒に紛らわして肝臓をいため、入院を繰り返すので、お医者から叱られてばかりいた。(「泣き上戸から始まる」 森田誠吾 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


冷やすと味がなくなる
奥さんに頼んで、朝の市場で、ぐち、かます、きす、白身の魚を買って来てもらう。魚を二枚におろしてうす塩をして、風通しのいい所に夕方まで干しておいてもらう、それをサッと焼いてもらう。冷酒はあまり冷やすと味がなくなる、ちょっと冷たいくらいがいい。そうでないと刺激だけが強く、うま味がなくなってしまう。口にふくんだ冷酒のうま味と香りをのどに通して、風ぼしの干物のしっぽを手でつまんで、口に入れる。舌に残った酒のうま味に魚の小味がからんで、香ばしさは後に残るといった味である。(「味之歳時記」 利井興弘) 


養生の術
養生の術は、先(まず)わが身をそこなふ者を去(さる)べし。身をそこなふ物は、内欲と外邪となり。内欲とは飲食の欲、好色の欲、睡(ねぶり)の欲、言語をほしゐままにするの欲と、喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の七精の欲を云(いふ)。外邪とは天の四気なり。風・寒・暑・湿を云(いう)。内欲をこらゑて、すくなくし、外邪をおそれてふせぐ。是を以(て)元気をそこなはず、病なくして天年を永くたもつべし。-
養生の術は先(まず)心気を養ふべし。心を和(やわらか)にし、気を平らかにし、いかり(怒り)と欲とをおさへ、うれひ・思ひをすくなくし、心をくるしめず、気をそこなはず、是(これ)心気を養ふ要道なり。又、臥す事をこのむべからず。久しく睡(ねむ)り臥せば、気滞(とどこお)りてめぐらず。飲食いまだ消化せざるに、早く臥しねぶれば、食気ふさがりて甚(だ)元気をそこなふ。いましむべし。酒は微酔にのみ、半酣(はんかん)をかぎりとすべし。食は半飽(はんぽう)に食ひて、十分にみ(満)つべからず。酒食ともに限(かぎり)を定めて、節にこ(越)ゆべからず。又わかき時より色欲をつつしみ、精気を惜むべし。-
飲食色欲によりて病生(いず)るは、全くわが身より出(いず)る過(あやまち)也。是天命にあらず、わが身のとがなり。万(よろず)の事、天より出るは、ちからに及ばず。わが身に出る事は、ちからを用てなしやすし。風・寒・暑・湿の外邪をふせがざるは怠(おこたり)なり。飲食好色の内欲を忍ばざるは過なり。怠と過とは、皆慎まざるよりおこる。(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂)  総論の部分です。 


亭主が飲めば家の半分が、女房が飲めば家全体が火の車になる[露]
泥酔して罪を犯した者もその罰を受けねばならない[ユダヤ]
毒の水に触るな[米 先住民]
盗んだ酒はうまい[オランダ、ベルギー]
飲み過ぎは記憶を溺れさせる[仏](「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


ぴーじゃーぬちーいりちゃー
そして待ってました。「ぴーじゃーぬちーいりちゃー」。な、なんだ、それ、いきなりお経が出てきたりして、なんて面白がっているそこのお父さん、これは経文なんかとは違いますよ。これまた泡盛によく合う山羊料理の名前なんです。「ぴーじゃー」は山羊、「ぬ」は「の」という意味の助詞、「ちーいりちゃー」とは血の炒め物の意。すなわち、「山羊の血の炒め物」なんです。肉や内臓を細かく切って、解体したときにとっておいた血とともに、ニンジンとかニンニクの葉を沢山入れて油で炒めたものです。調味は塩と醤油だけ。熱いうちに食べるのですが、ニンニクの香りがすごく良くて、泡盛にもこれがまた絶妙に合うのです。(「地球を肴に飲む男」 小泉武夫) 


慶応四年[一八六八]
 ・九月八日、明治と改元。
 ・十月十三日 明治天皇の鳳輦、江戸城へ入る。
 同日、月岑は松之助を連れて拝迎に出たが、大勢の群集に驚いてとりやめる。   
 十一月十四日、町々名主一同東京府へ出て酒肴を頂く。(「武江年表 斎藤月岑関係略年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


土佐の陣ノレ
一夕容堂は宇和島の伊達家に招かれたことがあつた。酒酣(たけなは)になつたところで客はそれぞれ隠芸をはじめ、容堂にもそれを強ひるものもあつたが、容堂は、『田舎漢には、芸などはできない、』と云つてすましてゐた。それを主人の宗城(むねなり)が見て、『あなたは、諸芸に達してをられる、どうか一つ、』と無理に強ひた。容堂は、『それでは、国の壮者の有様を御覧に入れやう、』と云つて、まづ手拭で頬冠をし、刀をさして起ちあがつて柄を握りながら、『わしの美童(とんと)に、さはらば、さはれ、腰の朱鞘はだてぢやない、シユウライシユウライ、』とやつた後で、忽(たちま)ち、『すれ、すれ、』と叫びながら、膳の上もかまはずどんどんと駈けまはつた。『これが、土佐の陣ノレぢや、』それがために膳の上の皿は砕け肴は飛んで落花狼藉。一座は忽ち乱れてしまつた。『御免、』容堂はちよつと会釈をするとともに帰つて往つた。しかし伊達家ではそれを怪しまなかつた。それは容堂の平生であつた。伊達宗城は何日も容堂を、『酔漢』と呼び、『酔狼君』と呼んでゐた。そして容堂の方でも、宗城を長面公と呼んでゐた。宗城は顔がひどく長かつた。(「随筆 酒星」 田中貢太郎) 


二百五十文が三百五十文
ただ金銭に苦しむ根本を熟考すれば、後年諸物万品昔より多少高価になりたり。古の価はさしをき、三十年前は予は知る所なり。その比(ころ)は、江戸にて上諸白酒一升二百五十文ばかり、今は三百五十文よりあるひは四百文なり。これを四斗樽一樽にて金二分の貴価(高値)とし、また江戸町は四里四方あり。その一里三十六町にして、四里は百四十四町なり。四方なれば、二万七百三十六町なり。これすなはち貴賤人民の住所、武家商工その他遊民等これに住す。ただ農夫これなきのみ。悉皆(しっかい)酒食する所なり。もつとも享保中、府内八百八町と云ふ。今世、千六百余町等云ふは、沽券地と云ひて、武家地・寺院・社頭等の地を除きたるものなり。しかも四方四里は、人民住すれば酒を飲む者あり。その一町一樽を一日の飲料酒とすれば、二万七百三十六樽なり。一樽の価金二分高価なれば、一万三百六十八両高価なり。ただ酒一種にて、ただ一日にかくのごとし。いはんや三十年前よりの直(値段)違ひと。数品の日用と無量無辺の金用殖えたれども、諸物価は二百余年多少物に依るといへども、下品(物価下落)なる物はこれなく、大小高直なり。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 4斗樽2分値が上がれば、20,736(144×1414)で、10,368両(2分×20,736=41,472分 一両4分ですので、41,472÷4=10,368両です。守貞によると、このインフレは金銀交換比率を銀4倍にすることで解決できるとしています。 


酒棒
既に誰でも知つてゐるでせうが居酒屋(public-house)の看板(サイン)はAle-stake(酒棒)から発達したものです。昔は、エールの醸造が、丁度税金の査定に適当な程度に達したとき、その旨を地方のエール検査官(local Ale-conner)に知らせる意味で、酒屋の亭主は必ず酒棒を出すやう法律で命ぜられてゐました。この酒棒を、右の信号の用が済んだ後々まで、常用するため、或いは又、常用するについては、何か装飾を施すつもりで、ブッシュ即ち常春藤(きづた)の束(buunch of ivy)を付加へる居酒屋も現れました。スコットランドでは常春藤でなくて、麦稈(ばっかん むぎから)の帚(ほうき a wisp of straw)がよく用ひられました。この麦稈の帚といふのは、丁度乾草(ほしぐさ)を麦稈の縄でグルグル巻いたやうな恰好に作つた、緊(かた)い束でありました。多分、麦芽煎出液釜の排出口の栓に使つたものを転用したものらしいです。その後、旅行者が、だんだん増しましたのですが、世間の人々は文字が読めなかつたので、酒やさんは何か見分け易い看板を用ひねばならぬことに気がつきました。初めのうちは、看板といつても単純で、又非常に粗末でした。白鳥や、牡鶏や、牝鶏や、その他いろいろの鳥類や獣類などの、彫り物を彩色したものが非常に流行しました。それらの彫り物を、鉄の環の中に嵌め込んで、それを酒棒の先端から吊下げるのが通例でした。ブッシュを居酒屋の特有看板として「エールの地にもワインを売つている」(wine as well as ale)といふ意味で初めて用ひたのは十七世紀末であつたと解せられてゐます。居酒屋看板と組合はさつてあるべきブッシュは、時々無いことがあつたことから「良きワインはブッシュを要せず」といふ古いスローガンが残つてゐます-云々。(棒だけで足るの意か?)(「酒の書物」 山本千代喜) 


吉久保酒造(1)
「甕(みか)の月」、(藤田)東湖が愛飲した酒である。カメの水に映る上弦の月、詩的な酒の名だが明治初期に、一品となった。吉久保酒造(本六丁目 水戸市)の銘酒である。竹隈の東湖居宅の目と鼻の先の穀町(今の本六丁目)にあった吉久保酒造には東湖の「御通帳」があったという。東湖の父、古着屋の二男坊の幽谷が十七歳そこそこで立原翠軒に推されて彰考館員となり、神皇正統記の研究をしていた寛政二年(一七九〇)に吉久保酒造は創業された。毎度おなじみの「水府地理温古録」、二百年前の天明六年(一七八六)に水戸藩の学者・高倉胤明が編さんしたこの本の「本壱丁目」のところを読むと、当時の酒造りと吉久保酒造創業の背景がわかる。"よしなき長者物語り"になったといいながら編者は面白いネタを綴っている。当世風に紹介しよう。『本一丁目の七軒町より南かどに、紀州出身の道明(どうめい)作兵衛という大酒造店の屋敷があった。(現在も名残りの道明橋が備前堀にかかっている)。表は長屋門で、冠木(かぶき)の上に木彫りの猩々が置かれていた。のちに商売不振になった作兵衛は帰国、井筒屋作十郎がこの屋敷をひきうけている。明和三年大火災で酒「上:夭、下:口 の」みのシンボル猩々は消失してしまった。この時代には上市(うわいち)、下市に酒造り店が多く、寛文、延宝(一六六一~一六八〇)に比べて、上下の町の酒屋の造り高は、町方役所へ書出しの〆高によると二万一千石余あった。それが不景気で衰え、領内の酒造店が少なくなりこれらの空蔵を借り江州(いまの滋賀県)者が来て造っている。彼らがもうけて貯める金銭は皆他国のものとなり残念である』としるし、地元産業の対応策をしっかりやって、両三年には御領内でも「丈夫の酒」をつくるになるだろうと予見している。(「水戸巷談」 網代茂) 


塩辛納豆おろし 日本酒が止まらない…
材料 大根おろし・納豆・塩辛…適宜
ゆず皮(あれば)…適宜
① 大根おろし、納豆、塩辛を食べたいように盛りつければ完成!
※ゆず皮を刻んでのせると、香りがいいわ。
酒飲みの胃袋をわしづかみね。実はごはんとの相性もバツグン!(「R25酒肴道場」 荻原和歌) 


朝酒のことわざ
「金を借りても朝酒は飲め」
「五割の酒を借りても朝酒は飲め」
「朝酒は牛を売ってでも飲め」
「朝酒は女房を質に入れてでも飲め」
「朝酒は女房を質に置いてでも飲め」(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏)「朝酒は門田を売っても飲め」と同意のものだそうです。「朝酒は後を引く」「朝酒はじれ(悪口雑言)の元」というものもあるそうです。 


天明5年の今津村南組の酒造状況

酒造人氏名    酒造株高(石) 蔵数(蔵)    造石高(石)  1蔵平均(石)
 小豆嶋屋才右衛門  51  4  4,820  1,205
 米屋与右衛門  30  3  3,271  1,090
 木綿屋伊左衛門  440  2  1,990  995
 米屋杢太郎  100  2  1,574  787
    善四郎  50  1  1,303  1,303
 大坂屋長兵衛  13  1  1,230  1,230
 米屋鉄蔵  20  1  1,085  1,085
    吟次郎  15  1  934  934
 壇屋八十吉  400  1  897  897
 米屋卯之平  20  1  852  852
 米屋宗次郎  20  2  840  420
 小豆嶋屋源次郎  40  1  837  837
 清水屋新四郎  207  1  837  837
 倉屋仁右衛門  35  1  817  817
 銭屋清右衛門  25  1  746  746
 大坂屋文治郎  20  1  601  601
 米屋長四郎  15  1  512  512
    吉郎兵衛  50  1  200  200
 倉屋仁大夫  0  1  30  30
  計  1,384  28  23,376  8,400

(註)「酒造高書上帳」(今津酒造組合文書)より.(「灘の酒」 長倉保 日本産業史大系) 多分、大坂屋長兵衛が今の大関でしょう。 


瓢兮の歌
兮瓢兮 我愛汝、    汝能(よ)シテ レ 不ヂ 
消息盈虚(えいきょ) 與(とも)ニ 行(おこな)、   有レバ レ酒危坐 無ケレバ レ酒「眞頁」(てん)
汝危坐スル時 我ズ 、   汝欲スル 「眞頁」セント時 我ラント
一酔一眠 吾ガ事足、   世上窮通(きゅうつう) 何処(いずこ)ゾ
[字解]○天に愧ぢず 瓢は酒と共に居るのが天命だから、瓢にとつては天分を守ることになり決して天にはぢる必要はないと云つたもの。 ○消息盈虚 きえると生ずると、みちかけると、共に『易経』に見える。時間と共に万物の情態が変化する旨を説いたのである。 ○時と與に行ふ 時間の経過と共に万物は変化して、永久に同じ情態にはとどまつてゐない。 ○酒あれば 酒が入つてゐれば。 ○危坐 重心を保つてきちんと正坐してゐること。 ○「眞頁」 「眞頁」倒の義、ひつくりかへる。 ○汝 瓢を指して云ふ。 ○眠らんと欲す 瓢の中に酒がなくなり、瓢が倒れやうとする頃には、自分も酒に酔つて倒れて寝たくなる。 ○吾が事足る 自分はそれで満足するとの意。 ○窮通 困窮すると栄達すると。 ○何処の辺ぞ 世上の栄達は自分と関係ないところで行はれてゐるのだとい云ふので、世の中の人々が一身上の名誉とか冨などに夢中になるのを嘲つてゐる。(「藤田東湖全集」 高須芳次郎編) 最後の部分です。 


狂歌酒百首
以上八首は「狂歌酒百首」から抜いたものである。この集は、一七七一年(明和八年)に出版されたが、そのもとは一四九七年(明応六年)の写本で、この原本は一三五五年(文和四年)にできたものだとある。それぞれの間が非常に隔たるのみならず、原本が亡師商珍という人の遺稿だというのだから、いよいよ年代が離れるわけである。この商珍がすなわち暁月坊だと、江戸時代の編著者はきめこんでいるが、まったく証拠がないので何とも言いかねるのである。ただ酒を主題とした百首が相当の力量を示していることは事実だし、原序の文和四年は藤原為守法名暁月(一二六五-一三二八)の死後二十七年で、遺稿に門人が序文を書いても不合理ではないから、暁月の作の可能性は、その意味ではゼロではない。ただし内容の面に疑問があるという説もある。それは、歌の中に「しちもろともに流れてぞ行」あるいは「質には破(や)れ蚊帳(かや)」など質屋の営業が存在するようだから、十四世紀前半ではあるまいとするのである。このように誰の詠かまだ決定できないが、狂歌史上たいせつな集であることはたしかである。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈)  狂歌の楽しみ 


酒造年度
昭和四〇年までは一〇月一日から翌年九月三〇日までの一年間を"酒造年度"といったが、現在は七月一日から翌年六月三〇日までの一年間が酒造年度である。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


酒桶を作る
仕込みや貯蔵に使う六尺桶の場合、幅一二センチの板を何十枚も使って側板を構成し、底は厚さ一〇センチ、幅三〇センチの板をつないで底板としている。板の連結は竹製の釘でされる。釘は円錐形をふたつ、底の大きい部分を中央で合わせたと言えばいいだろうか、両端のきっ先がとがっている。側板も底板も各三本のこの釘で板どうしを連結され、側板に彫られた溝に底板がはめこまれ、竹で編まれた輪のタガで締めあげられているだけという合理的な造りである。桶の作りかたは、底板を竹の釘で連結し、底板を溝にかませながら側板どうしを釘で連結したところで、桶を逆さにふせる。桶にはめるタガは、竹を割いたひご二本を組みこみ輪にしたものをベースに、残り八本の竹ひごを編むように二本の輪にからませていき、接着剤や止金具などをいっさい使わずに、頑丈な輪を仕あげる。桶の底の直径は、開口部の直径より小さく、上にむかって広がった形となっている。はめる場所の直径に合わせてあらかじめタガを作り分けしておく。つぎに、逆さにふせて置いた仮止め状態の桶に、このタガをはめていく。直径の小さい底の方からタガを入れて、幅二〇センチ、長さ七センチ、厚さ三センチの樫(かし)の木片に竹の柄をつけた締木(しめぎ)をタガの上端に当ててひとりが持ち、もうひとりが掛矢(かけや)と言われる樫の大槌でたたく。まんべんなく周囲をたたいて徐々に下げていき、伸縮するタガの直径の最大限のところと桶の外径がぴしっと合ったところでとめる。当時、大桶は税務署により五年に一度容量の検定があり、蔵ではこの周期でタガの締め直し作業を行っていた。桶そのものの寿命は手いれ次第で長く伸びた。五年に一度はタガをはずして、新しく作ったタガにはめ変えて締め直した。(「四季の酒蔵」 小山織) 


大勢でワイワイと宴を張る雰囲気
鈴木(信太郎)先生はそもそも日本酒が嫌いだった。お燗したときのあの特有の熟柿臭さがお気に召さぬのかと勝手に想像していたが、大勢でワイワイと宴を張る雰囲気に馴染めなかったというのが、今にして思えば真実のようだ。第一次大戦下のパリに留学された体験がそう言わせるのか、「戦争になると鉄とアルコールが急に足りなくなる。だけど、どんな戦争でも四年のうちには決着がつく」安全剃刀の刃、ワインとスコッチを四年分、開戦前に買い置きしたそうだ。巣鴨のお宅は米軍の空襲で焼けたにもかかわらず、昔ふうに密閉し目張りをしておいた土蔵に保管された洋酒は、命から二番目に大切な蔵書とともに無疵(むきず)で終戦を迎えた。(「たべもの快楽帖」 宮本徳蔵) 


酵母の特徴
ここで酵母の特徴をまとめてみよう。 ①酵母は小さい その大きさは一ミリの一〇〇分の一から二百分の一。一個一個を肉眼でみることはできない。重さは一〇〇億個が集まって一グラム程度である。したがって、ヒトと同じく六〇兆個細胞が集まれば六キログラムの重さになる。酵母が小さいのは、単細胞生物であるからである。しかし、同じ単細胞生物でも普通のバクテリアは酵母の一〇分の一以下だから、それに比べればずいぶん大きい。 ②酵母は丸い。 卵のように円形ないし楕円形をしており、その一部から芽を出すようにして、同形の子酵母を出生する。子酵母は親酵母につながったまま成長し、やがて離れていく。酵母には口、目、鼻などもなく、のっぺらぼうである。 ③酵母は白い。 酵母が無数に集まれば白くみえる。本当は無色であるが、光を散乱し、白くみえるのだ。 ④酵母は運動しない。 酵母は鞭毛や周毛などの運動手段をもたない。 ⑤酵母の比重は水より重い。 だから水に沈む。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


人形町・きく家にて
きく家ではまず、最初の一杯として活性純米酒を出す。『刈穂(かりほ)』の「六舟(ろくしゅう)」という活性酒で、きりっとした口当たりが食前酒にふさわしい。量は少なめだ。シャンパンがなくとも、これで華やかに宴席をスタートすることができる。「二杯目は少し香りのある大吟醸か純米吟醸ですね。日本酒の極みは洗練されたところ、つまり味の深みと「上:夭、下:口 の」み口の透明感にあると思います。変に香りが高い酒は、そのあたりのバランスが壊れてしまうんです。醸造用アルコールを添加したお酒か、そうでない純米酒かの選択は、お客様の舌の好みを探りながらお出しします。純米だと腰が強すぎて重く感じられることがありますからね。その点、アルコールを添加したものは、まずは無難に万人向けということはいえるんじゃないでしょうか」-
ちなみに私は『三井(みい)の寿(ことぶき)』『鷹勇』と進み、さらに『鷹勇』の特別純米、『ひこ孫』『豊盃(ほうはい)』『豊(とよ)の秋』とハイピッチで飲み続け、「もっと、もっと」と駄々をこねて、『寶壽』の純米吟醸を女将が七年寝かせたのをいただき、「これはうまい。燗をつけたらこの酒はさらにうまくなるはずだ。燗、燗をつけてください」と酔眼を鈍く光らせたただの節操のない「上:夭、下:口 の」み助になってしまった。(「うまい日本酒はどこにある?」 増田晶文) 


やまひには酒こそ一の毒といふ その酒ばかり恋しきは無し
つひにわれ薬に飽きぬ酒こひし 身も世もあらず飲み飲み死なむ
ここまで来れば哀愁の境を越え、病の毒だって何だっていいから酒が欲しい、酒が飲みたい、薬はもうご免だ。酒が飲みたい飲みたい。「身も世もあらず飲み飲み死なむ」である。牧水はこれゆえに「酒に耽溺した」と評する人もあるが、モノは解しようで牧水を酒に耽溺させてしまっては牧水が泣く。酒も泣くだろう。「牧水は酒に生きた」といったらどうか。泣き上戸の牧水泣いて欣ぶし、飲まれた酒だって浮かばれるというもの。モノは愛情をもって解する方がいい。「飲み飲み死なむ」という切々たる酒への慕情は「耽溺」ぐらいのことで片づけられるものではない。(「酒味快與」 堀川豊弘) 


わかめ
徳島の大毛島(おおげじま)の養殖わかめが一昨年から、節分まえにでまわりました。生わかめはわさび醤油か二杯酢で酒の肴に、また魚の煮つけと炊きあわせたり、すき焼きに入れたり、衣をつけて揚げ物にも。わかめの中央の芯も、干したものや生のものがあり、干物はもどして適宜に切り、ごま油でいためて甘辛く煮たり、おすしの具にもあいます。佃煮にすると、キャラ蕗かと一見うたがわれるほどの色と味です。(「ふるさとの料理むかし噺」 谷村寿子・中川紀子) 


ごごおどっくり、ごせるせいさく、こたる、ごとお、ごまず
ごごおどっくり[五合徳利]一生涯ぱっとしないこと。一生下積みで終ること。[←一升詰まらぬ→一生つまらぬ]→かなずち・の・かわながれ。(洒落言葉)(江戸)
ごせるせいさく[五せる政策]役人・官僚をだき込む政策。[←「食わせる」「のませる」「握らせる」「抱かせる」「いばらせる」合わせて「五せる」](利権屋用語)(現代)
こたる[小樽]酒。(強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
ごとお2[後藤]大酒飲み。[←後藤又兵衛?](強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
ごまず[胡麻酢]酒。→はんにゃとお。(僧侶用語)(明治)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


まつや
『まつや』も明治の初期、福島市蔵が開業し、その子米蔵と二代続いた。江戸っ子は昔から口が悪く「まづや」とわざと呼んではいたが結構人気があたっという。しかし、震災にあった『まつや』はやる気を失くし、店を売りに出した。それをそっくり買ったのが、伊勢政という酒屋の主人(あるじ)「小高政吉」。つまり現三代目当主「小高登志」の祖父である。職人を入れて改めて開業した『まつや』、昭和二年のことだった。(「食魔夫婦」 中尾彬) 神田須田町の蕎麦店だそうです。 酒もみの太うち 

豊明の節会
「豊明の節会(とよあかりのせちえ)」は新嘗祭の翌日、陰暦十一月の中の辰の日に行われた宮中の饗宴である。天皇が豊楽殿(ぶらくでん のちに紫宸殿(ししいでん))に出御し、小忌衣(おみごろも)・日蔭の蔓(ひかげのかずら)お召して参列された。上卿以下も小忌衣(白地に草木・小鳥などを青摺にした斎衣)をつけ、前に神にそなえた台盤の神饌や黒酒(くろき)・白酒(しろき)を賜った。その時五節の舞姫が上殿して舞を舞い、また叙位・賜禄も行われた。殿上人たちの朗詠・今様・乱舞などもあった。「とよのあかり」は酒に酔って顔のあからむことから、本来は宮中の酒宴をいったが、平安以後は新嘗祭の酒宴をさした。(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


秋の蝶甘酒糀ほの白し
荒川放水路と江戸川をつなぐ新川に秋の上潮がまぶしいほどにかがやく午後、岸べの船堀糀屋(こうじや)をたずねあてた。明治初年開業、当主の鹿野銀次郎さんは四代目である。農漁村地帯のことで昔は自家用味噌糀が主だったが、今は農家でも老人のいる家が自家用味噌をつくる程度、従ってほとんど甘酒糀専業となった。どういうものか糀屋は江戸川に五軒、湯島に五軒、あとはぼつぼつ指折り数えるほどに散在。新川の水面より低いと思われる店の裏の工場に入ると、煉瓦作りの室屋(むろや)が大小二室、大きい方は盛りの一、二月にならないと使わない。ここは女人禁制、酒造りと同じである。糀は十一月から三月三日まで、どういうわけかお節句の日限りということになっている。白米をよくといで水につけること十時間、蒸気釜でふかす。莚(むしろ)にあげてさまし、種麹をよくまぜて室に入れる。温度は人肌というが、手をいれてよいあんばい、二十二、三度。一昼夜おき、その間手ガエシ二回、糀蓋(こうじぶた)に盛り(一枚に五合位)室棚(むろだな) にかけ、十時間後手れし、さらに十時間後出来上がる。室の中に入ってみると糀のにおいと温気で息づまるようだ。二つの室をフルに動かすと一日二石八百枚の糀ができる。(「江東歳時記」 石田波郷) 


秋鯖と蕪菁の二杯酢
中丸の蕪菁(かぶら)をうすく輪切りにしてちょっと塩をしておく。黄菊の花弁をとって熱湯をかけ、二杯酢の中でしぼっておく。うす切りの蕪の上に〆鯖のそぎ身にしたのをのせ、黄菊をうすく散らしてまた蓋をのせる。こうして段積みにして軽い重しをする。半透明のかぶらにうすい黄色がにじんできれいである。満月か半月に切って、二杯酢をかける。これは甘過ぎないように注意せねばならぬ。二つがさねほどつやつやした椿の葉のふちにのせ、小皿で出す。かぶらの上に種をぬいた唐辛子の赤いのを、輪切りにして二つ三つこぼす。それがポイントとなる。これで結構たのしめる。思わぬ所で唐辛子がピリッと来て、思わずのむ一杯の酒のうまさ、いいなあ…。(「味之歳時記」 利井興弘) 


明治元年[一八六八]戊辰四月閏九月十六日改元
○同月(十一月)四日、快晴。今朝六時より東京市一統の者(惣代、地主、家主へ名主付添出る)、東京府へ召出され、御東行御祝儀に付き御酒を賜はる。一町へ鯣(するめ)一連土器一片木台を添へられ、名主一人へ瓶子二ツ宛(御酒入り)なり。これに依りて物持人夫宰領のもの、各黄紅の手巾もて頭を抹し、或ひはあらたに幟旗を製し、竿の上へ色々の造り物を付けてこれを先に立て、帰路には車夫を傭ひて酒樽を車に積み、太鼓鉦にてはやしものして各其の町内へ曳かしむ。途中より男女打雑(うちまじ)り、大路に陸続して願い行く。又、其の翌日よりは頂戴の御酒びらきとて家業をば大方休み、車楽(だし)伎踊(おどり)等を催し、日夜をいはず戸々に宴飲舞踊いて、東方の白きに驚かるも多かりし。其のさま神事の如く中には獅子頭を渡しけるものありて、三、四日の間賑はえり。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 御酒頂戴(天盃頂戴)(1) 御酒頂戴(天盃頂戴)(2) 


御札が降った
一一月一日(慶応三年1867)、当町内天利宅へ御札が降った。籐兵衛様が祝い酒飲み放題の札を出したため、大騒ぎになった。元蔵は、丁稚らを手伝いに遣った。二日は、籐兵衛様の御札祝いに呼ばれた。眼を病んで八月来酒を断っていた元蔵だったが、一時破禁して大酒し、酔い過ぎてころんで、額を少し擦りむいた。この間うちは、戦にでもなるかと心配していたが、それもどこかへ逃げてしまった。八日、上京一二町挙げての御礼参りの大踊りで、世上一同にぎにぎしい。道祐町(下京三町組)に住む元蔵も、生まれて始めての大踊りを見物に出た。まことに見事である。(「見聞日録」)
東本願寺の南の東塩小路村には、一〇月二七日、村役人宅に御札が降り、村中で祝っている。その有様は、「此節何国共なく太神宮様其外(そのほか)大黒天・天満宮・住吉稲荷・地蔵・弘法・毘沙門天何様に不限(かぎらず)、町在共処不嫌(ところきらわず)空より降り玉ふ、朔日廿七日当役庄蔵殿表杉垣え太神宮降下り玉ふ、右に追々様々に姿やつし大騒ぎに相成、昔よりためしなく目出度(めでたき)事共也」と記されている。(「要助日記」)(「見聞日録」)(「幕末維新の民衆世界」 佐藤誠朗) ええじゃないかです。 


酒のあたため方
文壇酒徒番付でいうと、立原正秋の新入幕は昭和四十一年で、十両七枚目。それが、次の場所は、一足飛びの関脇。その時の感想文で、この新関脇は、酒のあたため方を紹介していたが、それもすっかり有名になってしまった。「フロに入るとき、一升びんを抱いて入るのである。湯が熱すぎると、びんが割れる恐れがあるから、あらかじめぬるま湯をびんにかけておくとよい。こうしてあたためた酒を、書斎のストーブのかたわらに置く。一升を空けるのに一時間かかるとして、その間にこの酒は実にころ合いの温度を保つ。もちろん茶椀酒である」あらかじめぬるま湯をびんにかけておくとよい-なんて個所は芸が細かい。好きでなくては、こんなふうにいかない。関脇の翌年、大関に昇進にその後横綱を六場所もつづけたこの人。酒量だけなら、今でも文壇一、二位を争う大酒豪だろう。最高に飲んだのは二十五、六歳のころ。ひと晩に角びん三本あけたというから驚く。立原の酒豪ぶりは枚挙にいとまがない。親友の作家、小川国夫もあきれ気味だった。「よく私の家へ来て。いっしょに飲みましたが、強いですねえ。たいてい朝まで飲み明かすんですよ。私も酒は強い方ですが、朝方にはグロッキーになってしまうのに、彼は、ケロリとして、そのままブラリと朝の町へ出かけちゃうんです。いくら飲んでもくずれない男ですよ」いくら飲んでもくずれない男、まったく、その通り。深夜、酒場でこの人の顔を見かけても、崩れた姿を一度も見たことがない。姿勢を正しくしてのんでいるのです。(「ここだけの話」 山本容朗) 


松嶋半弥
また、松嶋半弥という人気役者も、手紙の書き方や、和歌のすばらしさなど、さまざまな風流の道に通じているのにあわせて、「酒すぐれて「上:夭、下:口 の」みこなし」と、酒の「上:夭、下:口 の」みっぷりのよさが称えられている。単に酒が飲めるというだけではなく、半弥は、たぐいまれな酒宴の演出家であった。ある秋の日、半弥は客の接待に大坂の茶臼山に出かけ、秋の虫の音を聞きながら屋外での酒宴を楽しんでいた。夕日のように顔が酒に染まって、みな、これ以上飲めない、というほどの上機嫌になっていたところ、近所の村の子どもたちが、手に手に竹籠をさげて「松茸狩りです」とやってきた。「こんな浅い山に松茸なんかあるわけがない」と見ていると、子どもたちは、やがて本当にたくさんの松茸を狩って戻って来たので、その場で焼いて、柚子を香らせながら、これはおいしい、と食べあさったという。じつはこの松茸は、接待役の半弥が前夜から人をやって植えさせておいたもの。実に心にくい演出である。いかに客を楽しませるかということを、徹底して追求する姿勢は、まさにプロでもあったのである。また、小松半大夫(はんだゆう)という役者が大坂南部の天野山で松茸狩りの酒宴を催したとき、そこにいた髭(ひげ)の半右衛門という男のうたった歌が流行歌になって、半弥の酒宴でもうたわれたという。役者の酒宴は文化的影響力も大きかったといえる。(「江戸の文化センター」 佐伯順子 「酒宴のかたち」玉村豊男編所収) 


〆酒
一〇月朔日(慶応二年1866)、養父の便りに、"七里村三上様との縁談がこのたび調った。去る二七日吉辰、〆酒(しめざけ)をお贈りした"とあった。身に余る御縁組と養父や伯母に謝した。縁談がまとまったと近江屋籐兵衛に話すと、喜んでくれた。嫁を取る日もそう遠くないらしい。大勢のお客様のお相手で忙(せわ)しなく暮らしたが、六条御殿に参詣して御法会に連なり、店の者に読み書きを復習(さら)わせ、夜は買い求めた「源平盛衰記」四八巻を繕い、「三楠実録」などを開いてから臥した。(「幕末維新の民衆世界」 佐藤誠朗) 近江の商人・小杉元蔵の日記だそうです。 


一日二朱
将軍(徳川家茂)上洛(文久三年)のお供をした軽輩の御家人衆が万屋で語ったことを、髪結弥兵衛から聞いた。
"御上洛のお供をしたが、手当てはほんのわずかだった。旅宿は商人の家で、夜具も損料をとられた。油も買い、酒を「上:夭、下:口 の」めば一日に二朱ずつかかった。京都では五、七両も借金をこしらえ、見てきただけが徳ぐらいなものだ"(「珍聞事記」)(「幕末維新の民衆世界」 佐藤誠朗) 江戸本両替町の商人、伊達浅之助の日記「珍聞事記」だそうです。 

酒園遍歴(2)
池島信平と知り合いになったのは、戦後のことだ。彼の本性は、食うことよりも騒ぐことが好きであるから、私と一緒にうまいものを食って日本酒をのんでいるのは閉口らしかった。池島はいつも酢のものなどを食って、日本酒はべとべとするからもういやだといい出し、バーへいってしまった。私は相変らず日本料理で日本酒をやっていたが、そのうちいつの間にか洋酒が好きになっていた。座敷へあがって、時間をかけてのみ食いするよりも、バーで洋酒をのんだ方が工合がよいのも理由の一つだが、日本酒の二日酔いにもあきあきしたのだ。年をとったのにもかかわらず大酒をやるのがいけないのだろう。翌朝頭が重いので、朝からビールをのむことになる。それがいとわしくなったのだ。(「酒園遍歴」 小林勇 「洋酒天国」 開髙健監修) 


効唐潜体詩(唐潜の体に効(なら)へる詩)其三(三) 白楽天
一飲一石(セキ)者ハ           一度に一石(こく)も飲む人は
徒ダ多キヲ以テ貴シト為ス。      ただ多いのを貴(よい)としてゐるが、
其ノ酩酊ノ時ニ及ンデハ        其の酩酊する段になると
我与(と)亦タ異ル無シ。         私と少しも異(ちが)はない。
笑ウテ謝ス多飲者ハ          御免蒙る、大酒飲みは
酒銭徒ダ自ラ費ス。           ただ酒代を使ふばかりだ。(「中華飲酒詩選」 青木正児著) 


釘書の意味
大皿や鶴首徳利などに刻まれた釘書には、旅籠屋の店名や屋号と一致するものがあります。徳利には「三」の文字を含む屋号が多く、これは「三河屋」(酒店)を指すと思われます。また、屋号と合わせて「五十番」などの番号が刻まれたものもあり、その最大は「千六十」。通し番号であれば一つの酒屋で膨大な徳利を保有していたことになります。内藤町遺跡3次調査では、これまで大皿や徳利に刻まれた釘書が49種類見つかっています。この内、29種類については文献資料や絵図により内藤伸縮の宿場にあった店のものであることが確認されています。(新宿区立新宿歴史博物館) 


草庵に酒肴携来りて
貞享四年(一六八七)十月、芭蕉は江戸を立ち、「笈の小文」の旅にでる。この紀行文の初めの部分に「草庵に酒肴携来りて行衛(ゆくへ)を祝し、名残おしみなどをするこそ、ゆへある人の首途(かどで)するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ」とある。門人たちが酒肴を持参して旅の前途を祝った。尾張で俳席を重ね、十二月末に故郷の伊賀に入り、そこで越年することになるが、大晦日には「空の名残おしまむと、酒のみ夜ふかして」、元日は寝すごしてしまったという。真蹟懐紙あるいは風国編『泊船集』によれば、元日は昼ごろまで寝ていたようである。久しぶりの帰郷に、家族との話も尽きなかったのだろう。酒を飲みながら夜をふかしている。(「食べる芭蕉」 北嶋廣敏) 


第百十七段
友とするに悪(あし)き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病(やまひ)なく、身強き人。四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵(つはもの)。六つには、虚言(そらごと)する人。七つには、欲深き人。よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師(くすし)。三つには、智恵ある友。
注 一 「益者、三友。損者、三友。直キヲ友トシ、諒ヲ友トシ、多聞ヲ友トスルハ、益ナリ。便辟(ベンペキ)ヲ友トシ、善柔(ゼンジウ)ヲ友トシ、便佞(ベンネイ)ヲ友トスルハ、損ナリ」(『論語』の季氏)。 二 身分が高く、重んずべき人。 三 剛勇で、勢いこんでいる武士。(「徒然草」 吉田兼好 西尾・安良岡校注) 


居酒屋賭博
居酒屋は、トランプやさいころなどを使用した賭博の温床であった。男たちが酒とたばこをやりながら、「ポーカー」に興じる図は想像できよう。ヨーロッパの居酒屋賭博への規制はすでに一六世紀にはじまっている。たとえば、一五五三年、イギリス・レスター市では居酒屋での不法賭博を禁止した(佐藤「近世イングランド都市の居酒屋政策」、一一八~一一九頁)。規制は、とくに啓蒙主義時代の一八世紀に厳しくなった。ドイツ・バイエルン国では、一七四七年、居酒屋での賭け事が窃盗、危険な喧嘩、瀆神行為へのきっかけを与えているので禁止するとした。一七六五年にも同様の法令が出された。ただ賭博全体を禁止したのではなく、身分、人格、資産にふさわしい賭け金であれば、として「クンスト」という賭け事は公認した。賭博すべてを禁止するのではなく、一定範囲に限定することで賭博の広がりを防止しようとしたのは、公娼制度と同じ論理であった。この論理はやがてカジノの創設につながっていく。(「居酒屋の世界史」 下田淳) 


中吉弥八ト云者
『朝倉始末記』の天文三年に、越前に起った一向坊主の一揆を退治した条に、引き立てられた坊主が、縄目を脱れるために偽計を設けた話がある。
爾所(そのところ)ニ長福寺、昔日元弘ノ乱レニ、中吉弥八ト云者、野伏シ(野武士)ノ奴原(やつばら)ヲ長追シテ、為敵組敷レ、既に頚ヲカゝントセシ時、六波羅殿ノ銭ヲ埋マレ候処ヲ教ヘ申サント、タブラカセシ事ヲ思出シ、我幸ヒ銭ヲ埋置タル事ナレバ云テ見ント思テ、縄取ノ者ヲ傍ヘ引寄テ、忍ビヤカニ申ケルハ、自右御辺御聞候ツル如ク、野僧ハ悪党ニテハナク候ヘ共、皆同類ニ与入候、仮令(たとえ)又同類ニテモ候ヘ、愚僧一人御宥免(ごゆうめん)候共、数多ノ人数ノ内ナレバ、ナジカハ苦カルマジク候、人ノ命ヲ助ルハ、又人ニテ坐(マシマ)スゾ、若(もし)御同心モ候ハゞ、御芳志ノ程、生々世々報謝シテモ難謝、御恩フカシ、セメテノ悦ニハ、少分ノ事ニテ候ヘ共、我等官位ノ望又ハ法衣ノ望も候ヘバ、銭廿余貫嗜置候ヲ、此乱国ニ成候ヘば(ママ)、埋置テ候ゾ、是ヲ所得サセ申サン、貴殿上方ヘノ帰路ノ時、道中酒ヲ被召候ヘト、実無偽申ケレバ、縄取心ヨゲニ打聞テ申ケルハ、御坊ノ様々御願ノ上ナレバ、兎角申モ返ラズ、随分奉行ノ隙ヲ「ウカガ」(漢字を表示できません)ヒ見申ベシト、小声ニナリテ云ケルガ、暫ク有テ能(よき)時分トヤ思ケン、長福寺ヲ大縄ヨリ免シテ、我ガ役ヲバ余人ニ頼、彼御坊ヲ酒家ニ引入テ酒ナド勧テ、是ニテ力付(ちからづけ)給ヘト、即二人ガ同道シテ内田ヘトコソ急ギケレ、斯(かく)テ在所ニモ着ケレバ、寺内ノ埋ケル処を(ママ)掘テ見ケルニ、人ヤ知テ掘取ケン、銭ノ形跡トテ無リケレバ、彼両人色ヲ変ジ、肝ヲ消シ、シバシハ物モ不云、良(ヤゝ)有テ彼縄取、扨(さて)ハタラシタルヨト、大音ニ呵(シカリ)ケレバ坊主聞テ云ケルハ、イヤイヤ全以テ偽リ不申、誠ニ其方ヘ徳付申サント存候処ニ、兎角是非無仕合ニテ候ト云捨テ、案内ハ知リツ、以住那辺ノ小路ヲ経テ走リケル程ニ、行方不知ニ失セニケレバ、彼者手失ヒ、腹立シテゾ帰リケル。(「江戸生活のうらおもて 江戸以前に働いた通貨」 三田村鳶魚 朝倉治彦編) 


酒サケ(3)
又酒を造る事を。カミともカモともいふは。旧説にカミスとは。昔は口にて米を嚼砕(かみくだ)きて。酒を造りたる也といふ也。又カモスとは麹也。米をカビさせて。酒に造る也と見えたり。藻塩草に前説は大隅ノ国ノ風土記に拠りし所なりと見えたれど。然るべしとも思はれず。後説をもて正しとこそすべけれ。醸読てカミスとも。カモスともいふ義の如きは。麹の注に見えたたり。むかし大隅国には。一家に水と米とを設けて。村に告廻しぬれば。男女来り集りて。其米を嚼て。酒船に吐入れて。酒の香出来る時に。又来り集りて。これを飲むを。名づけてクチガミの酒といふと。彼国の風土記に見えたり。猶今もまた俗にはかゝる事をばいふなり。琉球国にして酒を醸する事も。彼風土記に見えし所の如くする也といふ也。我昔琉球国の人に逢ひしごとに。かしこにて酒を造る方を尋問ひて。其説を詳にせしに。世にいひ伝ふる所の如きは。あとかたもなきそら言也けり。彼風土記に見えし所の如きも。古の俗いひつぎし所に出て。徴とするにたるべからず。素戔鳥神(すさのおのかみ)の御時。すでに八塩折(やしおり)の酒造られしなどともいふ事は見えたり。(「東雅」 新井白石) 


好適米の育種
好適米の育種は、酒と米の生産県、兵庫県や新潟県などで熱心に行われ、山田錦(兵庫県、昭和一一年実用化)、五百万石(新潟県、昭和三二年実用化)、たかね錦(長野県、昭和二七年実用化)、八反錦(広島県、昭和五八年実用化)など、また、寒い東北では耐寒性の強い亀の尾を交配する工夫がされて、今日、四〇種近い酒造好適米が指定を受けている。(「日本酒」 秋山裕一) 


珍しい動物のベスト 一角[イルカ科の動物]
鼻の上にねじれた角をもつ大きな水生哺乳動物で、海の住民の中ではもっとも珍しいものの一つです。この角は中世のころ、正真正銘のユニコーン[一角獣]の角として売られていました。またこの角で作られた酒杯は、毒よけ用として保証つきのものでした。こんなわけで、一角の牙が、当時、金に匹敵するほど価値のあるものだったとしても別に驚くには当たりません。この牙は雄だけについているもので、雌をめぐって争うときの武器として使われているのでしょうが、まだ確かなことはわかっていません。(「ベスト・ワン事典」 ウィリアム・デイビス編 ジェラルド・ダレル) 


からきさけ[醇酒](名)
濃厚な酒。「多設二醇酒(からきさけ)一、令レ飲二己父一、乃酔而寝之」(景行記一二年)「「酉農」 厚酒也、加良支酒(からきさけ)也」(新撰字鏡) 【考】「醇 日本紀私記云、醇酒、加太佐介(からきさけ)、厚酒也」(和名抄)とあるカタサケも同じものか。(「時代別国語大辞典室町時代編」 上代語辞典編集委員会 代表者 土井忠生) 


たまがは【玉川】
⑤音羽の石切橋の脇に在つた居酒屋。禁漁であつた江戸川の名物紫鯉を飼ふ役を勤め、代々五人扶持を貰つて居た。
千金の鯉玉川へ放ち飼 将軍家に上る鯉(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


力士修業心得
第一条 相撲は日本の国技と称されていることを忘れないこと。
第二条 国技相撲を修行する力士の言動は衆人の範となるよう心掛けること。
第三条 社会人として目立つ力士は財団法人日本相撲協会会員であるという誇りを持って行動すること。
第四条 社会道徳は勿論、一般常識に欠ける言動を慎むこと。
第五条 服装を正しくすること。
第六条 相撲は礼に始まって礼に終るを精神としている。土俵の上は当然のこと、日常に於ても同輩先輩に正しく挨拶をすること。
第七条 禁酒禁煙を守ること。
第八条 休養があって激しい稽古もできるのであるから、早寝、早起の習慣をつけること。
第九条 勝負の社会では人より多く稽古をすることによって成功することを忘れないこと。
第十条 病気、怪我は進歩の大敵であるから常に摂生に心掛けること。
第十一条 摂生には注意しても、怪我、病気を恐れず、人間には精神力の偉大さのあることを信じて稽古に励むべきである。(国技館相撲教習所にありました。) 


赤羽駅前の居酒屋
居酒屋の「まるます家」や立ち飲みの「いこい」は多くの酒場ガイドブックに登場する有名店だが、その特徴はどこか懐かしさを残す店の雰囲気、料理の独自性やレベル、良心的価格だけではない。もっとも特異な要素は「まるます家」においては朝九時、「いこい」においてはなんと朝七時に開店し、酒を給するという都内では珍しい早朝営業体制にある。なぜ朝早くから酒場を開店させるのか。その解答は、同地が工場街だった時代に由来する。六〇年代や七〇年代の高度成長期、連日増産に次ぐ増産を求められた工場は作業機械をフル回転し、労働者を二交代三交代とシフトさせ昼夜をぶっ通しで操業する所も多かった。その結果、一般的なサラリーマンが出勤に向かう早朝に勤務を終える夜勤の工場労働者も相当数現われ、彼らの労働後の食事(昼勤であれば夕食に相当)や晩酌(早朝だが)の場が要請されることになった。それに応じて早朝から営業する酒場が現われ、労働者の"朝飲み"が許容される風土が生まれたのである。とくに「まるます家」は一品のつまみにすべてライスを加えることができるし、丼物なども充実し、腹を減らし食事を求める夜勤労働者の多様なニーズに対応しようとしたスタイルが今もそのまま残っている。ただし同じような背景を持つ他地域の工場街に今も朝飲みできる酒場が残っているかといえばそうではない。赤羽だけにそれが顕著だというのには赤羽特有の事情がある。現在、赤羽駅前で居酒屋が早朝営業している直接的理由は工場労働者の需要ではもちろんない。大工場の移転によって、現在の赤羽には酒場が早朝営業する理由となるだけの工場労働者はいない。むしろ朝帰りの労働者としては、タクシーの運転手が多いのだ。赤羽近くには大手タクシー会社の車庫があり、かつての工場労働者と同じように、夜勤明けで朝帰りする運転手たちの利用度が高いことが最大の要素だ。(「場末の酒場、ひとり飲み」 藤木TDC) 


うたげ
酒を飲んで少し酔ってくると、皆手をうって歌をうたったものです。そこで酒モリのことをウタゲともいいました。ウタゲは歌餉であろうといい、また、手をうつから、ウチアゲのなまったものであろうともいわれていますが、あるいはウチアゲであったかもわかりません。(「食生活雑考」 宮本常一) 


効唐潜体詩(唐潜の体に効(なら)へる詩)其三(二) 白楽天
一盃復(ま)タ両盃             一盃また二盃
多クモ三四ヲ過ギズ。          多くて三四盃とは過ごさぬ。
便(すなは)チ心中ノ適ヲ得テ      それで、もう好い気分になり
尽ク身外ノ事ヲ忘ル。          身の外の事は皆忘れる。
更ニ復タ一盃ヲ強(し)フレバ       更に復た強ひて一盃重ねるならば
陶然トシテ万累ヲ遺(わす)ル。     好い気分で万(よろず)の累(わずら)ひを忘れてしまふ。」(「中華飲酒詩選」 青木正児著) 


村田吾一老
北海道の花の話を書いているとどうしても羅臼(らうす)の村田吾一老と樹氷のことを一行ずつでも書いておきたくなる。村田老は小学校の校長先生をしたり羅臼村長をしたりした経歴の持ち主で頑強な体躯、底なしの大酒飲みである。けれど骨の厚い、荒皺で蔽(おお)われたそのしぶい肉の中に不屈と優しさをひそめている。知床半島の高山植物を一本ずつ研究して分布図をつくり、道ばたにあるのを育てたり、種子をとったりして自宅の庭をギッシリと花で埋め、『草楽園』と名づけた。政府から一文も援助金をもらわず、誰にたのまれたわけでもなく、たった一人で黙々とやっているのである。北海道ではよくこういう佶屈な、優しい独立人に出会うものだが、老が花のことを話しながら眼を小さくしたり、微笑したりすると、まるで孫のことを話している人のようである。(「眼ある花々」 開髙健) 


お酒を飲んで赤うなれ
伊藤家は伊予の河野氏から出た林淡路守通起(はやしあわじのかみみちおき)という人が周防国束荷村に来て林家の先祖となった。(伊藤博邦公談)公の父十蔵はその林家から出て萩に移り、十川仁兵衛組の仲間(ちゅうげん)伊藤武兵衛の養子となった。公(博文)の少年時代は顔色青く近所の腕白は「利輔のひょうたん青びょうたん、お酒を飲んで赤うなれ」とはやしたてられたが、愛嬌があるので人に愛せられた。久保五郎右衛門の松下村塾へは十二、三から十五、六まで通学したが、それは井原素兵衛方に奉公の片手間であった。-
公のごときは馬上で太政官の提灯をともした若党が先に立ち吉原へくり込んだ。当時の大官のお馴染みは金亀楼(きんきろう)で店の横には馬繋ぎ場までがあった。同楼では、第一流のお役人の対手(あいて)として、小太夫(こだゆう)、瀟湘(しょうしょう)、今紫などという名妓を抱え御機嫌にそなえた。連中の遊びでは田舎臭味がとれず、女郎屋の座敷で酒を飲み鞭声粛々と詩吟をやるのが頂上だった。粋人の成島柳北この態を眺め「薩長の田舎もの、おいらんと芸者の区別がつくまい」とあざわらってペッペッと唾を吐いた。(「戊申物語」 東京日日新聞社社会部編) 


泰然として酒杯を離さず
井伏鱒二先生は、酒のお強い人で、まわりは大方倒れても、泰然として酒杯を離さず、三時四時はおろか、夜もしらみそめるころまで飲まれた。私は二度目の時、注意してその飲みっぷりをつぶさに拝見した。あれは、私どもの三分の一以上のスローな飲み方である。つまり、オチョコの杯の酒が、肝臓をぬけて出るのを待っていて、次の一杯を口にふくまれる。つまり衛生上極めて合理的な飲み方で、私どものように早グソ、早酒ではない。これは人物がよほど出来ぬと至難の業である。酒におぼれていては、到底真似をすることは出来ない。つがれればすぐ飲み、またつがれる。そのうちええメンドウなりとコップになる。それでは肝臓がたまったもんではない。分かっているのだが、それが下賤の酒飲みの性(さが)であろうか。(「あの日 あの夜」 森繁久彌) 


私は笑い上戸なんだ
第一は、宝塚歌劇で自分の芝居を上演したとき、終演後に出演者と座談会をすることになって、或る料亭に出かけた。メイクを早く落とした人から、次々にやって来て、その頃の宝塚の生徒さんはみんなお酒が強かった。一緒に飲んでいる中に、一人、あいた銚子をぽんぽん横にする癖のある人がいて、ぼんやりみていたら、その数が十本以上になったと思ったとたん、部屋がぐるぐる廻りだして、最後まで舞台に出ていた春日野八千代さんがかけつけて来て、さあ、座談会をはじめましょうというときには、完全に出来上がっていたらしい。頭は冴えているつもりなのに、なにか発言しようとすると、言葉の代りに笑い声が出てくる。私は笑い上戸なんだと気がついたが、なにをいってもげらげら笑っているにのでは座談会にならず、結局、御飯を食べてホテルへ帰って寝てしまった。翌日、改めてもう一回、座談会のやり直しをして、出演者からは二度も御馳走が食べられて、よかった、となぐさめてもらった。(「失敗は三回」 平岩弓枝 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


酒サケ(2)
また酒をキとも。ミキともいふが如きは。其義不レ詳。古事記に。御酒二字読てミキといひ。万葉集にも。黒酒二字読てクロキといひ。白酒二字シロキと読むが如きは。酒をばキといひし也。日本紀釈には。ミキといふ事を釈して。酒也といひ。オホミキといふ事を釈して。御酒也といひしが如きは。酒をミキといひし也。古の時には。キといひケといふ詞(ことば)をば。相通じていひけり。木をキといひ。ケといひ。またコといひしが如き此也。御酒をミキといひ。御食をミケといひし如きも。共にこれ飲食の物也しかば。これを呼ぶ所の詞(ことば)の転じけるのみにして。其義異なるにもあるべからず。たゞその飲食の物をキといひ。ケといひし義は。今はた知るべからず。或(ある)説に食をケといひしは。消(け)也。その消じぬるをいふなりといふ。もしさらば酒をキといひしも。ケといふ語の転ぜしにて。これもまた消さるの義にもやあるらむ。また或説に。ミキとは。ミは御也。キはイキ也。人を酔はしめては。イキヲヒの出るもの也といへり。然るべしとも思はれず。(「東雅」 新井白石) 


アホウさん
私のペンネームの阿木というのは、前記伊馬(春部、以前は鵜平と名乗っていた)さんが命名してくれたものだが、はじめ伊馬さんは「阿房(あぶさ)翁助」という名をくれたのだった。アブサとは、その前夜、私が「アブサン」を一本あけて、宿酔の青い顔をして行っためママ「アブサ」という名を頂戴したわけだ。イヤな名と思ったが、名づけ親が、「いまうへえ」という奇妙なペンネームの持主であってみれば、辞退するわけにもいかず、おとなしくきただいた。国学院大学折口信夫(おりぐちしのぶ)門下の高碕英雄という立派な名前の持主が、なぜ「イマウヘエ」などという奇名をつけたかと言えば、氏の父君の友人に塩谷鵜平という俳人があり、その方の句集を読んで感銘を受けた事から、名前をもらい、処女作の作中人物「伊馬君」という姓をとって、「伊馬梅井」にしたのだと言う。従って弟子の身分としては、「アブサ」でも我慢しなくてはならないわけだった。ところが、「ムーラン・ルージュ」の踊り子たちは、誰も私のことを「アブサさん」と呼んでくれない。「アホウさん」「アホウさん」である。「いくら弟子でもアホウさんはひどい」と、思い切って先生に改名を願い出た。すると伊馬さんは、やおら万年筆をとり出し、紙片に阿房翁助と書き、「いい名前ですがねえ」と言いながら、「坊」という字を無造作に消して、「木」と直した。阿木という合成のペンネームが出来たのはその瞬間である。私はよろこんで「これで結構です」と有難くお辞儀をした。(「しみる言葉」 阿木翁助) ムーランルージェは、かつて新宿にあった劇場だそうです。 


酒席の相手
江藤(淳) 榎本(武揚)というと、五稜郭の戦いで、一度は死を決して反抗してみたけれども、のちに明治政府に仕えて、高位高官にのぼったというので、一種の転向者という暗いイメージで考える人もあるんですね。私は、これはあまり当たっていないんじゃないかと思うんです。つまり、昭和になってからの思想運動の転向者のイメージを類推したような狭い解釈で、明治初期の人々の心理を裁断するのはまちがっているんで、まず時代が違うんですね。また榎本という人の個性が、どちらかというと非常に陽気で、明るい感じでしてね、とにかくあまり暗くないんです。一般に、榎本だけでなく、明治時代の人物を、無理に近代解釈の枠の中にあてはめると、解釈がゆがんでくるんじゃないかと思いますね。箱館戦争の時も、敵軍の大将である黒田清隆が榎本の助命のために親身になって奔走する。これは榎本という人が、そもそもたいへん魅力のある人だったからだろうと思うんです。それから、いわば彼が弓をひいた当の相手の明治天皇が、酒席の相手として榎本を非常にお好みになった。それから駐露大使になってペテルスブルグに行った時にも、ロシアの皇帝が、榎本という日本の外交官を、個人的にも非常に好もしい人間であると思ったという事実があります。(「日本史探訪 榎本武揚」 構成 中田整一 加茂儀一 江藤淳) 


効唐潜体詩(唐潜の体に効(なら)へる詩)其三(一) 白楽天
朝モ亦独リ酔ウテ歌ヒ          朝も独りで酔うて歌ひ
暮モ亦独リ酔ウテ睡ル。         暮も独りで酔うて睡る。
未ダ一壺ノ酒ヲ尽サズ          まだ一銚子の酒の尽きぬうちに
已ニ三独酔ヲ為ス。           もはや三度も独りで酔うた。
飲ノ太(はなは)ダ少キヲ嫌フ勿ラン。  酒量は少なすぎるが不足はない
且(しばら)ク喜ブ歓ノ致シ易キヲ。   手軽に楽しめるのが、まあ悦ばしい。」 


二、三杯
ちなみに、娘の村井米子によれば、家庭での村井弦斎はほとんど飲まず、来客があると二、三杯つき合ったが、一人で飲む姿は見たことがないという。わずかに飲む酒は、八百膳主人の栗山善四郎が持参する「黒松白鷹」を好み、「自分は飲みすぎないから酒の味がよくわかる」と言っていたらしい。玄斎は『酒道楽』で過度の飲酒の害を強調する一方、「薬用」として飲む酒の効用は認めていて。あくまでも公平な立場にたって書いている。(「酒道楽 村井弦斎」 解説 黒岩比佐子) 


三人と絶交
翌安政六年(1859)秋も、諸国では「虎狼狸(コロリ コレラのこと)」がはやった。松下城下では、いっとき役所なども閉められた。今治・尾道周辺では一日に何十人も死んだそうで、大三島内でも、明日村で一〇人ばかり、瀬戸村で二人、宮の浦で二人など、一村で二三人も死んだ。井の口坊の土井より大浦能敷の者たちが「ころり」退散の祈祷と唱えて寄り集まり、酒など「上:夭、下:口 の」んで踊ったが、酒を買わなかった三人と絶交する騒ぎになった。(「幕末維新の民衆世界」 佐藤誠朗) 瀬戸内海にある大三島に住んだ宮大工藤井此蔵の日記「藤井此蔵一生記」にあるそうです。 


亀の尾
亀の尾は、明治26年(1893年)、山形県の庄内地方、大和村(現・余目町)の農家阿部亀治が、ある冷害に見舞われた年、田んぼの水口に植えた耐冷品種の稲さえも青立ちしている中で、3本だけ黄色く実って頭を垂れている稲穂を見つけ、3年かけて品種固定、亀の尾と名づけて世間に発表、その食味のうまさと、寒冷に強いという特質から、東北地方一帯に広まり、全盛期の1925年には、なんと全国で約19万4000ヘクタールもの水田に植えられ、当時、関西の『雄町(おまち)』『八反(はったん)』と並んで、酒米三大品種の一つとして、もてはやされた稲だった。米粒の中心部(心白)に良質のでんぷんを多く含んでおり、食味の非常に優れた米、つまり食ってもうまい米でもあった。いま、うまい米の代名詞にもなっているコシヒカリ、ササニシキは、この亀の尾を始祖としている。反面、弱点もあった。まず、寒さに強いが病害虫に犯されやすい。また、背丈が高くて、風雨にあうと倒れやすい。そして、反当たりの収量が少ないことなのである。この弱点に加えて、農耕機械の開発が進み、農業の近代化、じつは農薬、化学肥料などが導入されたために、稲も品種改良が進んで、背丈が短い、倒れない、病害虫に強い、高収量の稲が現れ、亀の尾は哀(ママ)頽の一途をたどるのだった。(「夏子の酒 読本」 原作尾瀬あきら) 亀の尾は酒造好適米でない 


親孝行の扮
親孝行の扮 天保末、江戸にて一夫、張りぬきの男人形を胸につり、衣服二つを上下に着し、手足も張りぬきを用ひ、孝子父を負ひたる貌(かたち)に扮す。
樽負ひに扮す 酒樽を負ひたる貌に扮す。同前なり。酒[樽]形の中に頭を納(い)る。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 雑業の中にあります。 


肴の源流
以上のことからすると、肴の源流は、干ものとかなれずしであった、と仮定できる。つまり、塩を加えた保存のきく魚の加工品である。現在でも各地の神饌をつぶさにひろってみると、その系譜を伝えているところがある。たとえば、丹波地方(兵庫県)や吉田地方(奈良県)でな、なれずし(鯖ずしが多い)を用いている例がかなりある。スルメイカ(干もの)を供える例は、さらに広い範囲でみられる。その流れは、身近の例で求めると、結婚式や建前の席においてもみられる。すなわち、結婚式の三々九度や親族固めの盃には、塩梅・昆布・スルメなどが添えられる。これには、互いが末長く味わうため、という説明が加えられることが多いが、いかにも語呂あわせの感が強い。むしろ、神饌、直会からの流れで、それらを酒の肴としてとらえるのは妥当であろう。建前においては、餅・塩豆・スルメなどが酒と共にふるまわれるが、それも同様に理解すべきであろう。なお、現在、酒の肴に塩梅を使う一般例は案外にみあたらないが、昆布・スルメ・塩ダラなどの干もの類が、もっとも簡便な肴として用いられているのは、周知のとおりである。酒屋のスタンドでカップ酒を飲み、さきスルメをかじる。まさに、それこそが酒肴の古式というべきである。旧慣は、むしろそんなところに生きているのだ。桝酒(ますざけ)を飲むとき、桝の縁に塩を少量のせる習慣をご存じの方も多かろう。さらにつきつめてゆくと、塩そのものが肴ということができる。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 


サカバヤシ
サカバヤシといふ語が初めて見えた文献の第一例は醒酔笑(せいすいしょう 元和九-寛永五年完成、一六二三-一六二八)巻五である。 『-二十バカリナル下﨟一人走り来リ、サカ林ノモトニヨリ-』(上に着ようか下に着ようか) 第二例。続狂言記『河原新市』 (竹ノ先ニ杉葉ツケ、腰掛ニ持タセカケ置ク。)-(女)コレハ如何(いか)ナ事、又ソノ酒バヤシヲ取ツテ、ソレデ打擲(ちょうちゃく)スルカ。-「竹の先に杉葉つけ」といふのは能楽の持物の杉帚(ほうき)を想ひ起こさせる。-
杉帚を太く作ると皷方(つづみがた)になる。人倫訓蒙図彙(元禄三年)や和漢三才図会(享保二年序)や続一休咄(享保十六年)や商人配団(うちは)(享保十八年)などに図がある。-正徳頃には関西では皷方が一番多かつたことは左の記事でわかる。-
之に反し、筆の穂乃至(ないし)牡丹刷毛のやうに杉葉を太く束ねて本を揃へ、それを縄で巻いて、釣下げて揚げて出すのを仮に牡丹刷毛(ぼたんはけ)形と名づけた。-この形の現はれた正確な年代は不明だが、種彦の還魂紙料(すきかへし 文政七年刊、一八二四)に寛文頃描いたと伝へられる小屏風から転写した図が載つている。-
球形の酒林の出現の年代も固(もと)より不明だが、寛政九年から享和二年に至る間(西紀一七九七-一八〇二)に書かれた絵本太閤記六編巻十に文禄の役に、秀吉が名護屋の陣中で模擬店を設けて幕僚の慰安会を催した際の光景を描いた挿絵に毬(まり)形の酒バヤシの図があるが、これを以て文禄頃の風俗と早合点することは出来ない。-大言海を始め多くの著書が酒林を球形のものと説いてゐるのは、酒林の発展の最後の形である。
その後の文献には皆、杉葉の衰へゆく情勢を明かに反映している。
(一)明和頃(正徳から五十年後)。
中古風俗志、明和元年老人筆記(西紀一七六四)ニ曰ク『-近年マデ本郷ノスエ、四谷辺ニハアリシガ、イマハ絶テナシ。-』(「酒の書物」 山本千代喜) 


涌をたまはりけるかへしに
「元起和尚より涌をたまはりけるかへしにたてまつりける」という前書きををもつ、 水寒く寝入りかねたるかもめかな  という句がある。前書きの「涌」は「酒」の誤りらしい。元起和尚がどういう人なのかはわかっていないが、酒を贈ってもらったことにたいするお礼の句である。寒くて鴎はなかなか寝入ることができない。私(芭蕉)もまたそうである。しかし今夜はいただいた酒で身体もあたたまり、よく寝ることができるという意味がこの句にはこめられている。(「食べる芭蕉」 北嶋廣敏) 


酒サケ(1)
素戔鳥神(すさのおののかみ)。大蛇を斬給(きりたま)ひしに。八「左:酉、右:温-シ」(ヤシオリノ)酒を造らしめられ。天孫の御子生み給ひし時に。神吾田鹿芦津姫(カンアタカアシツヒメ)。天甜酒(アマノタムサケ)造られしなどいふ事。旧事記 古事記 日本紀等に見えたれば。其因来る所既に久しき事にて。其始をも知るべからず。万葉集抄に。酒をサケともいひ。サカともいふは。サカユ(栄ゆ)といふ詞(ことば)也。酒宴は皆人のさかへ楽しむ故なり。またサゝともいはむ同じ詞也。今俗に酒をサゝといふなり。即これ酒の転語なる也。また神の酒をミワといふ事は。土佐国にある三輪川の水を用ひて。大神のために酒を醸したりけるに。殊(こと)にめでたかりければかくいひし也。神酒とかきて。ミワと訓ずるは此故也としるせり。(「東雅」 新井白石) 東雅は、新井白石による語源解釈がなされた辞書だそうです。 


五十三段 けふは其事(そのこと)をなさんと思へば
今日ばかりは、酒を飲ぬやうになさんと思へば、見捨(みすて)がたき口説(くぜつ)をとり持(もち)、ぜひなき大酒(たいしゅ)にの(飲)み暮し、こゝろ待(まち)の人は、さわり在り、いやなる人は来たり。頼(たのみ)たる紋日は断り、さし合(あひ)在(ある)方(かた)よりは、約束しげく、きげんあしかるべき人は、さてもなくて、少しのことを気にかけて、切るの帰るのとわめく。
注 口説 男女の痴話げんか。 とり 持仲裁して 紋日 物日の訛。朔日・一五日・十八日・二十五日・二十八日を月次の日とし、他に各月の節句や祭礼などの日を物日として、必ず女郎が売られなければならない日とした。 約束 予約。 切る なじみの関係を断つ。(「吉原徒然草」 結城屋来示 上野洋三校注) この徒然草のパロディーを書いた来示は、其角の弟子で吉原の楼主だった人だそうです。 


七段目
九太 スリヤ、いよいよそこ許(もと)は、主人の仇を報ずる所存はないか。
由良 気(け)もないこと気もないこと-
九太 いかさま、この九太夫も、昔思へば信太(しのだ)の狐。化け顕はして、一献酌まうか。
由良 さしをれ、「上:夭、下:口 の」むワ。
九太 「上:夭、下:口 の」みやれ、さすワ。
両人 こりや、話せるわえ。ハゝゝゝゝ。
由良 サアサア銚子持て。みな来い来い。
皆々 アイアイ。
 ト踊地になり、以前の仲居、幇間大勢、銚子、盃、台の物など持つて出る。捨せりふあつて、酒盛になる。-
九太 由良之助どの、さし申さう。
由良 忝い忝い。(ト盃を取る)
九太 ドレ、肴致さう。
 〽傍に有合ふ蛸(たこ)肴、はさんでずつと差出せば、
 ト九太夫蛸をはさんで出す。由良之助思入れあつて、
由良 手を出して足を戴く蛸肴、ドレ賞玩致さう。
 〽喰はんとする手を、ぢつと捉(とら)へ、
九太 これ、由良之助どの、明日は主君判官公の御命日。取分け逮夜(祥月命日の前日の夜)は大切と申すが、見事その肴、貴殿は喰ふぢやまで。
由良 オゝ、喰べるとも喰べるとも。但し主君塩冶どのが、蛸にでもなられたと云ふ、便宜(びんぎ)でもござつたか。愚痴な人ではある。こなたやわしが浪人したも、元はといへば判官どのが無分別から起つた事。スリヤ恨こそあれ精進する気はみぢんもござらぬ、お志の蛸肴、賞玩致さう。
 〽何気もなく、只一口に、味はふ風情、邪智深き九太夫も、呆れて詞(ことば)なかりける。(「仮名手本忠臣蔵」 山本、郡司本文校訂) 七段目祇園町一力の場ですね。由良は大星由良之助、九太は斧九太夫です。 


ささ(名)
酒の異名か。「于時、作屋形於屋形田、作酒(ささ)屋於佐々(ささ)山而祭之」(播磨風土記揖保郡) 【考】風土記の本文に即すると、一応ササヤヲササヤマニツクリと訓まれ、「酒」の字にはササの語が該当することになる。しかし、酒の異名ササが上代にまでさかのぼりうるか、疑問は残る。ただし、懐風藻に見える「含霞竹葉清」「竹葉禊庭満」などの「竹葉」は、漢詩の例によって、酒の意を暗示するものと思われる。文献的には、日葡辞書に女のことばとして掲げてある。(「時代別国語大辞典上代編」 上代語辞典編集委員会 代表者 澤瀉(おもだか)久孝) ちなみに日葡辞書には 「Sasa.ササ(ささ) Saqe(酒)に同じ.酒.これは婦人語である.」とあります。 


酒モリ
いま酒モリは酒盛りと書いて、盃へお酒をこぼれるほど盛ることのように思っている人が多いようですが、モルというのは昔は物をわけることでもあったのです。たとえばハカリの目モリとか、物さしの目モリなどのモリは目を小さく刻んであることだし、人にものをモラウというのは分かち与えられることです。愛知県の山中へ行くと、桑を摘むことを桑モリと言っています。酒モリのモリは同じような意味があって、酒を分かち飲むことだと思います。(「食生活雑考」 宮本常一) 柳田国男による酒盛りの語源 


戸大、酒の子
戸大(こだい)  大酒飲みのこと。
酒の子  酒の肴のこと。お茶菓子を「茶の子」という類。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


御命講や油のやうな酒五升
御命講(おめいこ)は日蓮上人の忌日(十月十三日)に行われる法会のこと。日蓮上人の手紙に「新麦一斗、筍三本、油のやうな酒五升、南無妙法蓮華経と回向いたし候」とあるのを踏まえている。信徒からの寄進にたいする礼状である。この句には二つの解釈がある。一つは御命講の今日、日蓮上人の手紙にもある油のようないい酒をお供えしようという意味だとする解釈である。それにたいし、油のような美酒を贈られ、そのお礼の句とする解釈がある。すなわち御命講のその日、上人のお礼の手紙の言葉にもあるような、油のような美酒をいただいた、まことにありがたいとの例句だというわけである。後者の解釈にしたがえば、芭蕉は美酒を頂戴したことになる。そしてそれは濁酒ではない。だれが贈ってくれたのか。門人のだれかだろう。芭蕉が門人たちから酒をはじめ、いろんな品を贈られたことは手紙からも察せられる。(「食べる芭蕉」 北嶋廣敏) 


「童蒙酒造記」
さて、最後に江戸時代最高の酒造技術書といわれる『童蒙酒造記』を取り上げよう。「童蒙」の意味は、知識が十分に備わっていない子供のことだが、それはあくまで著者の謙遜か。あるいは子供でもできるくらい懇切丁寧な解説書かの意味だろう。本書が質、量ともに江戸時代を通じてもっともすぐれた酒造技術書であることは疑いない。数種の写本がある、以前から昔の酒造技術に関心を抱く人の間ではその存在はよく知られており、明治時代末から何度も部分的な翻刻、紹介が行われている。同書の著者はわかっていないが、「当流と号する鴻池流なり」とあるように、長年鴻池で酒づくりをした技術者らしい。しかし第一巻の「酒造に得失勘(わきま)への事」「酒十年概(ならし)の事」などの項を読むと、酒の市価や利益にも敏感な、結構商才もある関西人の姿がうかがえる。また貞享三年(一六八六)から翌年にかけての米価、酒価の記述があることから、本書の成立は貞享四年以後と思われる。前述のように鴻池の酒造業は消滅してしまったから、酒造技術に関する資料は本書以外にはほとんど残っていない。(「江戸の酒」 吉田元) 


相政
相政は左の小指がなかった。これは若い時にある若殿に酒を強いられ、その上「踊れ踊れ」というのが癪にさわって、小指をぷつりと切ると、血だらけのまま杯洗へ入れ、その小指の血が浮いた中で盃を洗って殿様へ返杯し、「あっしは人入れが稼業です。芸人じゃありません」と啖呵を切った名ごりである。(「戊申物語」 東京日日新聞社社会部編) 相政は、幕末浅草の侠客・新門辰五郎のことだそうです。 


鯖とごま
新しい鯖を三枚におろして、糸づくりにするのである。ごまはよくいって香りの充分出るまですって、そこへ醤油と調味料を少々入れる。鯖がかくれるくらいにごま醤油をかけて、夕食ならお昼に、昼食なら朝のうちに作って、タレを充分しみこませておく。これだけのことである。それが鯖の油とごまの香りと油がよくなじんで、お茶漬けとしては立派なものである。わさびも海苔もいらない。私はこれで一杯やるのである。トロッとして実にうまい。子供なんか舌をならしておいしがるのである。そして最後にお茶漬けというコースになる。(「味之歳時記」 利井興弘) 


武玉川(13)
餅屋と酒屋意趣のある顔(餅と酒とは犬猿の仲)
鳶と云れて酒を買母(鳶が鷹を生んだと賞められて)
大さかつきか出ると居直る(宴たけなわでいよいよ大盃が出ると酒飲みも居住まいを正す)
湯とうふの上へちろりの腰を懸(湯豆腐鍋の中ヘお燗をしようとちろりを)
生酔の無理が通れは夜が明る(べろべろのままいつのまにか夜明けに)(「武玉川」 山澤英雄校訂) 


団子坂の菊人形
「会期は最初は天長節、いまの文化の日の十一月三日をはさんで一カ月くらいだったのが、だんだん欲張って十月一日から十二月はじめまでやるようになったんです。客引きが紺の新しい半纏、股引、腹掛で、赤い毛氈の呼込台から勇ましい声でお客を呼び、明治三十年代には大人五銭、小人三銭で半紙二枚の番付を配りました。いやあ、もうかったものらしいですよ。その入場料を樽に入れて足で押しつけたといいますから。そのざるや樽のお金を数える間もなく、押入れにしまっとく。それを盗みにくる泥棒がいるので刑事も見張る。そしてその樽ごと、数える人もつれて日本銀行に運んでったそうです。大入りの日には舞台の下で舞台を回してる人にも大入袋が出たんですって。期間の収入だけで充分一年暮らせました。その二カ月だけが勝負でしょう。雨が降ると客の入りにもかかわるんで、いつも空ばかり見ていたそうです」と浅井正夫さん。その当時、不忍通りはまだ団子坂下までのびていない。市電も通る前なので、都心からの客は本郷三丁目かねやす辺から人力車でくるかあるいは上野袴越からやはり人力車で谷中道をぐるっと回って三崎坂を降りるか、根津から藪下通りを来て団子坂に出るか、いずれも二十銭の距離であったという。そんな不便な場所であるにもかかわらず、明治、大正、昭和の各天皇も見物したという。昭和天皇が幼少のころ見えた時は、種半の大西精三郎が羽織袴で先導し、種半の園内に総檜造の家二軒を御休息所として急造、これに対して金一封と酒樽が下賜された。(「不思議の町 根津」 森まゆみ) 団子坂で催された菊人形での逸話だそうです。 


小御所会議にて
城山(三郎) あのころのエピソードでは、どうしても山内容堂が意見を変えなければ、岩倉(具視)が差しちがえると言っているというようなことを、人を通して山内の耳に吹き込むわけです。そういうことから、最終的には、山内容堂のほうが折れて、王政復古が決まったというふうに言われています。岩倉も、本当に差しちがえる覚悟はあったのでしょうけれども、しかし、山内のほうは武家ですからねえ、差しちがえると言ってもうまくいくかどうかわかりません。しかしそうすると、岩倉というのは、非常に胆力がすわっているということになりますが、事実は、あの時、山内容堂はおもしろくなくて、朝から酒を飲んでいるわけです。そんな空気の所で、しかも、自分の横には大久保(利通)がいる。大久保は差しちがえるということで、前に老中を脅したことがあるんですね、そういう実績を大久保から聞いていますから、ここでそういうことをやったら、どういうふうに情勢が展開していくかということを、岩倉は十分読み通していたと思うんです。そういう読みを踏まえながら、最後にそういう一種のはったりといいますか、脅しをかける。これは、やはり並みの公家ではできないし、岩倉ならではの大芝居でしょうね。それが見事に成功したわけです。(「日本史探訪 岩倉具視」 構成 杉崎厳一郎 城山三郎・小西四郎) 


二八二 池田・伊丹の上諸白も 銭(ぜに)がなければ見て通る
「池田」は今の大阪府北西部、「伊丹」は兵庫県南東端の地名で、いずれも古来有名な清酒の産地。特に伊丹酒はすでに慶長年間(一五九六-一六一五)に江戸に積み出された。「上諸白」は、麹も米も共に特別に精白してつくった上等の酒。「諸白」は白米と黒麹で醸した「片白」の対。『延享五』に上句「池田伊丹の新諸白も」。類歌として『賤が歌袋』初編「酒は「上:夭、下:口 の」みたし酒代(さかて)はもたず、酒屋ばやしを見て通る」(『樵蘇風俗歌』中にも出。『佐渡の民謡』盆踊唄に下句「酒屋看板見てもどる」)。「酒屋ばやし」は、酒林で、昔、杉の葉を丸くたばねて軒にかけた酒屋の看板。(「山家鳥虫歌 近世諸国民謡集」 浅野建二校注) 

ほろほろ酒
灘の生酒(きざけ)に 肴は鯨 樽を叩いて 故郷の歌に
藤原義江の懐かしい「鉾をおさめて」の一節である。私は、その灘五郷の一つ、西宮の今津に育った。麹の香りがプンと鼻をつき、子供心にもその匂いに酔いそうであった。今津には今津港があった。西宮港の隣だ。長い酒蔵が細い露地をはさんで軒をならべ、昼も暗いような道が浜の灯台まで走っている。木の灯台、あまりに珍しい徳川時代からのもので、今でも今津港の入口にある。そんな酒蔵の道を、ある日大河内伝次郎や林長二郎(長谷川一夫)が走ったのである。町の者は「またカツドウか」であまり見に行ったことがない。その大きな酒造りの家の伜と仲よしで、よく彼の家に遊びに行った。中学のころは、「おい、こっそりと汲んでこいよ」で、生酒を蔵にとりにやり、中庭の離れでチビチビやったりしたが、すぐに酔って、おふくろさんから大目玉をくらった。(「あの日 あの夜」 森繁久彌) 


あやうくお払ひ箱
東大四ヶ年間、某子爵の扶養をうけた。御本人は召上がらぬので、宮内庁から御下賜の酒が、そのまゝ台所にあつた。年賀の各位を迎へる必要上、迎春五日間、玄関脇に頑張つてゐたので、その間、女中さんの好意で御下賜の酒をのませてもらつた。三河屋物とは比較にならぬ上物であつたし、一杯が二杯になり、五合ばかりをペロリと平げた。もう好い頃と思つたか、三太夫先生が御下賜の酒の、また御下賜をうけることになつたが、モウ一滴もありやせん。此の三太夫、健啖にして当時七十五六歳であつたが、食ふ時を唯一の楽しみにしてゐたし、一杯づゝ舐めてゐりや、半年も楽しめる御下賜品を、玄関番にしてやられた遺憾、骨髄に撤し、早速おかみへ申あげる。禁断の酒を邸内でのんだ不都合で、あやうくお払ひ箱になりかけた事がある。(「俗つれづれ」 永井瓢斎) 昭和の初め、大阪朝日新聞で天声人語を書いていた人だそうです。 


嘉永二年[一八四九]己酉四月閏
○十月、目黒茶屋町酒肆(しゅし)茶店の園中に、菊の花を以て人物其の外の造り物出来て、行客の足を停む。また牛御前境内長命寺境内にも、菊の造りもの花壇等出来たり。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


二合半坂
この坂は二合半(にごうはん)坂と呼ばれています。名前の由来は諸説あります。「再校江戸砂子」という資料には、日光山が半分見えるためと書かれています。なぜ「日光山が半分見える」と「二合半」になるのでしょう。このことについて、「新撰江戸名所図会」という資料での考えを紹介しましょう。富士山は麓から頂上までを十分割して一合・二合…と数えますが、西側に見える富士山と比べると日光山はその半分の高さ(五合)に見え、その日光山がこの坂からは半分しか見えないので五合の半分で二合半になるという考えです。この他に、あまりに急な坂であるため一合の酒を飲んでも二合半飲んだ時のように酔ってしまうからという説もあります。(二合半坂解説文) 千代田区富士見1丁目にある坂だそうです。こなから坂 


三つの系統
『古事記』『日本書紀』『風土記』などによれば、神々の酒には三つの系統がある。すなわち建速素戔嗚尊(たけはやすさのおのみこと)が足名槌(あしなつち)、手名槌(てなつち)の娘櫛名田比売(くしなだひめ)を八俣の大蛇から救うために醸さしめたという「八塩折之酒(やしおりのさけ)」がその第一である。これを便宜上、高天ケ原系統の酒と呼ぶことにする。その第二は大国主命と少名毘那命(すくなひこなのみこと)が国土経営の途上に醸さしめたといわれる酒で、これはいわば、出雲系統の酒である。最後は国津神系統とも呼ぶべき酒で、一説には木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)が自ら醸したといわれる「天甜酒(あまのたむさけ)」である。(「酒の博物誌」 佐藤建次編著) 


級別制度
特等酒、上等酒の定め(酒税として価格の一〇〇分の二加算)が設けられたのは、昭和一五年十一月のことだが、これは酒税を増やすためであった。ついで一八年四月に一級から四級と変わり、一九年四月に一~三級となり、二十年四月に一~二級、二十三年一級酒の上に特価酒、二十四年特、一、二級の三段階が確立した。(「さけ風土記」 山田正一) 


酔っぱらったあげく
戦後のまだお酒が珍しかったころ、伊皿子(いさらご)のある邸で、久保田万太郎先生の『水の上』という本の出版記念会があり、意地きたなくも徹底的にのんだ。散会となって電車通りに出ると、西の空が真っ赤に夕焼けている。私はたちまちうれしくなって、「火事だ、火事だ」と叫んだらしい。たちまち大騒ぎとなり、私は交番へ連れて行かれたという。「らしい」だの「という」とは如何にも無責任だが、交番の人だかりを覗いた伊志井寛(いしいかん)が、私をおまわりさんの手からもらい下げてくれたというのだからいたし方ない。そののちに、戸板康二(といたやすじ)の家で会があり、私は大いに酔っぱらったあげく、駅に接した踏切で、出発しようという電車の前に立ちはだかり、上衣をぬいでふりまわしながら出発を遅らせ、さっさとそれに乗りこんで行ってしまって、見送りに来た戸板康二は、駅長室に呼びこまれ文句を言われたという。(「しみる言葉」 阿木翁助) 


酔っていない時・しらふ、酒気の廻りはじめた感じ、微酔、酔った勢い、酔いつぶれる
【酔っていない時・しらふ】(本)さまどぅら(南島喜界島)・(補)さま・すめん。
【酒気の廻りはじめた感じ】(本)ほきほき(佐渡)。
【微酔】(補)さーふーふー。
【酔った勢い】(補)よーたまく。
【酔いつぶれる】(本)とれる(青森県上北郡)。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録) 


禁酒小説
一方、各地の禁酒会の機関誌には、禁酒をテーマにした小咄は載っているが、玄斎のような禁酒小説は、明治期には他に存在していない。では、なぜ玄斎は一九〇二年に禁酒小説を書いたのだろうか。ヒントは『酒道楽』の文中にある。「世間では未丁年者に酒を禁じろという説もあります」という一節だ。一九〇一年一月十九日に、政友会代議士の根本正が「禁酒法案」を初めて議会に提出したのである。根本は、政治家になる前から日本禁酒同盟会で禁酒運動に取り組み、一九〇〇年には未成年者喫煙禁止法を成立させるのに成功していた。村井弦斎はこうした社会の風潮を敏感に察知して、一九〇二年一月から「禁酒小説」の連載を始めたに違いない。(「酒道楽 村井弦斎」 解説 黒岩比佐子) 未成年者飲酒禁止法 


三味線をぱったりやめて通ります
生酔の口を押へる船番所
笠脱げば手拭取れの船番所
(中川船番所を船で通過するには)形式化していたとはいえ、やはり規定どおり笠や頬かむりはとらねばならず、三味線や酔客の声高な話し声などはとめて、神妙にしていなければならなかったようです。(中川船番所資料館解説 東京都江東区大島9-1-15 ) 


宿酔(ふつかよい)してる場合か少子国 (日立市・石川敏美)
子供が増えれば、家もせまいし金もかかるし、カァチャンは子育てを面倒くさがるし…いえ、そんなことないわよ、子供欲しいわぁのお宅でも、トオチャン仕事で疲れて、疲れるから酒ばっかりくらって…年寄りばかりで少子化の大日本。あああ。(「川柳うきよ鏡」 小沢昭一) 


人生走馬燈
若い時に親しく交わった竹馬の友が老後にいないほど淋しい事はない。これぞと思っていた親友は酒のために寿(いのち)を縮めている。根岸にいた頃、同窓の友に小泉亥子吉と言う酒屋の子がいた。父は新川の酒問屋中錚々(そうそう)たるもので、根岸へ隠居として小売りの店を設け、息子を其家(そこ)から寺子屋へ通わせてた。この子は手習い読書をしながら商売の事を考えていた。「あなたは何になるんです」「僕は作者になる」「私は酒問屋になります、酒の売れるように世話して下さい」「君も僕の仕事の世話をしてくれ給え」「お互いに助け合いましょう」これが十二、三の子供同志で約束した言葉だから二人とも外の子供とは違っている。二十五歳で新聞記者になったら僕は早速小泉を訪ね、「十年前に学校で約束したのを記憶していますか」と尋ねたら、「忘れません、いずれ新川の店へ参りますから、広告を願います」「宜しい、花主(とくい)のお世話を心がけましょう」と言って別れたが惜しいかな、氏は三十になるやならずで夭折(わかじに)してしまった。(「明治のおもかげ」 鴬亭金升) 


青い紙
信濃者を置きやす。赤い紙を買いにやる。取り違へて青い紙を買つてくる。旦那、大きに腹を立て、早速暇(いとま)を出す。宿の亭主、「その方は博奕(ばくち)は知らず、酒は「上:夭、下:口 の」まず、女郎は嫌い。なんでしくじつた」と尋ねければ、「少しの色事さ」(稚獅子・間違・安永三)(「化政期 落語本集」 武藤禎夫校注) 


白酒と黒酒
なお、ここでいう「白酒(しろき)」と「黒酒(くろき)」であるが、『古事記』以来使われている古語で、とくに神事に用いる酒をそう呼ぶ傾向が強い。神酒(みき)とは、白酒と黒酒の総称ということができよう。現在でも、神主が祝詞(のりと)を仰々しく奏するときには、神酒を白酒と黒酒に分けて読みあげることがある。神前に献ずる清酒を一対(二瓶)とするのも、その名残である。しかし、古代における白酒と黒酒がどのような酒であったかは、諸説があり、およそ想像の域をでないことである。たとえば、白酒は清酒で、黒酒は濁酒である、という説がある(『条々聞書貞丈』『日本山海名産図会』など)。また、黒酒は草木の灰を混ぜたもので、白酒はそれを混ぜないもの、という説もある(『貞丈雑記』『広辞苑』など)。そして、現在例からすると、前述したように、白酒が濁酒、黒酒が清酒とするのが妥当である。もっとも、のちの神饌に献じる米に和米(にぎしね 白米)・荒稲(あらしね 玄米)があり、魚に海魚と川魚があり、菜に海菜と野菜(あるいは、野菜と山菜)があるように、対の型式を整えるためであった、と単純に考えておいた方がよいかもしれない。すると、米の酒と雑穀酒である、と想定することも可能であるし、同じ一夜酒を何らかの色づけによって区別じただけ、と想定してもよい。とくに、一般には、その区別は、さほど重要ではなかっただろう。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 


亀の尾と亀の翁
絶滅を伝えられる幻の米を復活させ、日本酒愛好家の間で、その数に限りがあるために、幻の名酒ともっぱら評判の吟醸酒を造る酒蔵が、新潟県にある。幻の米は、いまから四十数年前にすっかり姿を消した『亀の尾』という酒米、幻の酒とは、その亀の尾で醸した吟醸酒『亀の翁(お)』、造っている蔵は、醸造高年間およそ2000石(360キロリットル)の新潟県三島郡和島町小島谷(おじまや)の久須美酒造である。幻の酒米・亀の尾をよみがえらせ、『亀之翁』を誕生させたのは、久須美酒造の専務・久須美記廸(のりみち)さんで、この人こそ、『夏子の酒』のモデルなのである。久須美酒造のある和島村は、新潟県中部、長岡市の北北西20キロの日本海沿岸にあり、あの良寛和尚が生涯を閉じた地で、良寛の里としても知られている。(「実録・夏子の酒 『亀の翁』秘話」 「夏子の酒 読本」) 


メンタリティーにとって最も重要なのは
西洋人のメンタリティーにとって最も重要なのは、設定された目標の達成である。
東洋人のメンタリティーにとって最も重要なのは、設定された目標達成のプロセスである。
ロシア人のメンタリティーにとって最も重要なのは、設定された目標達成のプロセスにおいて、酒を飲むことである。(「必勝小咄のテクニック」 米原万里) 


フクス、ブットシジャケ、ムギザケ、ムラオケ
フクス 香川県綾歌郡山田村(現・綾上町)で甘酒のこと。
ブットシジャケ 秋田県鹿角地方で、水を入れないで漉した濃い濁酒のこと(鹿角方言集)。
ムギザケ 麦酒。麦飯を炊き麹を入れて醸す。岡山県川上郡高倉村(現・高梁市)では、夏祭にこしらえて神に供す。同様の酒は沖縄にもある。
ムラオケ 村桶。福島県南会津郡館岩村水引では、もとは正月などに酒を飲むために、ムラオケという大きな桶で酒を作った。この酒作りおよび村人が集って飲む宿をサケノトウといった。酒には甘辛の二種あり、コトビのほかはあまり飲まなかった(旅と伝説一一ノ五)(「分類食物習俗語彙」 柳田國男) 


九段 御随身(みずいじん)秦重躬(はたのしげみ)北面の下野入道
御呉服(おごふく)やの母妙開(めうかい)「出入の仕立(したて)や新兵衛の内儀は、若死の相(さう)ある人なり。よくよくつゝしみたまへ」といひければ、いと恥しそうにして帰りしが、ほどなくうせにけり。誠に、老たる人の一言、神の如しと人思へり。「扨、いか成る相ぞ」と人のとひければ、「きわめて色わろく酒ずきなり。色のわろきは、亭主のはなの大きく曲りたるを思ひやりたまへ。酒をすきたる女に、きらひなるはなし。いづれか違ひ有まじ」とぞいひける。
注 御呉服や 底本「御眼北」。青による。将軍家御用の呉服商。後藤縫殿助ほか六軒があった。 母妙開 未考。 つゝしみたまへ 房事を。(「吉原徒然草」 結城屋来示 上野洋三校注) この徒然草のパロディーを書いた来示は、其角の弟子で吉原の楼主だった人だそうです。 


長かった
「いいですか、このまま飲酒を続けると、かなり危険です。完全に酒を断ってください。完全にです。そうすれば、寿命が延びること請け合います。それだけ、生きている時間が長くなるってことですよ」「おっしゃる通りです、先生。先月一日だけ、酒を飲めなかった日がありまして。いやあ、その一日の長かったこと、長かったこと…」(「必勝小咄のテクニック」 米原万里) 


三大節の祝日
今では未成年者の法律で決まっている、また衛生上いろいろ問題があるが、私共の高等中学(今で言えば小学五六年新制中学一二年相当)で三大節の祝日に小学校でお神酒が出た。式後校庭に整列して待っていると、一人の先生が大桶に柄杓をつけて、今一人はミカンの篭を下げてやって来る。右翼から順次に蜜柑一つずつもらい、蜜柑さかなに土器(かわらけ)一杯ずつ柄杓で注いでもらって傾ける、土器は普通の杯とちがい五勺くらいは入る、冷たいのが喉を通るのは楽しみなもので、先生が桶を下げて校舎から出て来るのを待っていた光景は、今なお目に見えるようである。もっともこのお酒は熊本の赤酒と称するもので普通清酒とちがい、甘味の多い酒であったから、男の子も女の子も喜んで飲んだ。今日小学校でこんなことをやろうものなら、校長はたちまち首であろう。時勢の変遷うたた今昔の感に堪えない。(「酒のさかな」 住江金之) この本は、酒袋で装丁されています。(「和漢酒文献類聚」も同様です。) 


あじのたたき
藁を用意して、半分をちょっと水でしめしておく。乾いたほうの藁に火をつけ、燃えさかったところへ、湿った藁を上からかぶせると物すごい煙が出る、この熱と煙とで魚をやくのである。ステッキほどの竹の先から、大根を二寸ほど切ってつきさし、その先に塩をした「あじ」の口からさしこむ。大根は竹が焼けないためで、魚の口を密着さしておく必要がある。白い煙とチロチロ赤い舌を出すその上で魚を回す。赤々と燃え出すと上からちょっと藁をかけてやるとまた煙が上がる。そのうちに栗色に光って来る。この栗色の光沢が物すごく食欲をそそる、これをしょうが醤油で食べる。お酒でもいい、ビールでもいい。このスモークの味は「かつおのたたき」にない、こくのあるスモークの香りである。(「味之歳時記」 利井興弘) 


神阿多都比売
ここに天つ日高日子番(あまつひこほ)のニニギの命、笠紗(かささ)の御前に、麗しき美女に逢いたまいき。ここに、「誰が娘ぞ?」と問いたまえば、答えたまわく「大山津見(おおやまつみ)の神の女(むすめ)、名は神阿多都比売(かむあたつひめ)、またの名は木の花佐久夜毘売(このはなさくやひめ)とまおす」と。…いたく歓喜びて、木の花佐久夜毘売を留めて、一宿婚しつ…。かれ後に木の花佐久夜毘売、まい出てまおさく、「妾は妊みて、今産む時になりぬ。こは天つ神の御子、私に産みまつるべきにあらず。かれ請す」とまおしたまいき。ここに詔りたまわく、「佐久夜毘売、一宿にや妊める。こは我が子にあらじ。かならず国つ神(土着民族)の子にあらむ」とまおして、すなわち戸無し八尋殿を作りて、その殿内に入りて、土もちて塗り塞ぎて、産む時にあたりて、その殿に火を着けて産みたまいき。かれその火の盛りに燃ゆる時に、生れまする子の名は、火照(ほでり)の命、次に生れまする子の名は火須勢理(ほすせり)の命、次に生れませる子の御名は火遠理(ほおり)の命、またの名は天つ火高日子穂穂出見(あまつひこひこほほでみ)の命。三柱。(古事記、上つ巻)ひこほほでみの命の子が、うがやふきあえずの尊、そしてその子が神武天皇となっている。神阿多都・神吾田津は蘖(かむたち 麹)「加無太知」の音に近い。しかも姫は、「時(ときに)神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)以卜定田(うらえたをもって)、号曰狭名田(なづけてさなだという)、以其田稲(そのたのいねをもって)醸天甜酒嘗之(あめのたむさけをかみてにいなえす)、又用渟浪田稲(またぬなたのいねをもて)為飯嘗之(いいにかしきてにいなえす)」(日本書紀、巻第二、神代下)の如く、稲米から一夜酒を醸している。これから考えると、酒と姫とは関係がまことに深い。(「酒鑑」 芝田晩成) 


生産規模は増大
伊丹の小西酒造(「白雪」)に伝わる文書によれば、元禄十六年(一七〇三)の仕込みは、三段掛けで総米九石七斗、醪の総量十五石三斗六升で、先の南都諸白より十数倍も増加している。麹歩合は「酉元」(もと)が三割三分、添の各段階で二割五分から三割である。このように次第に生産規模は増大したが、加えた水の量を総米で割った汲水歩合は奈良諸白とあまり違わない〇・五八(五・八水という)にとどまり、後年の灘酒に比べるとまだ低い。(「江戸の酒」 吉田元) 


瓶は忽ち破れたり
其侭(そのまま)銅壺(どうこ)に投じたるに、瓶は忽(たちま)ち破れたりと怒鳴込みしは、土地に所謂(いわゆる)遊人の女房なり。栓を抜かではと酒屋の男の言開きに力むれども、酒のやうには中々「上:夭、下:口 のみ」込まず、洋燈(らんぷ)のほやを御覧な、温(あつた)まつても破れるといふ理屈はあるものかね。(「あられ酒」 斎藤緑雨) 緑雨の「取分け好かぬ物」  


博打ゃ打たしゃる
二六九 博打ゃ打たしゃる大酒飲みゃる わしが布機(ののばた)無駄にして
ノノバタはヌノバタの訛り。すなわち、機織りで得た金を全部、博打や酒代に無駄遣いする夫に対していう妻の恨み言。愛人間の恨み言にも解されよう。『樵蘇風俗歌』下「博痴ゃ打たしゃる大酒飲みゃる いかに御器量がよけりゃとて」(『全書』)。「器量」は容姿よりも才能・力量の意。(「山家鳥虫歌 近世諸国民謡集」 浅野建二校注) 伯耆の民謡だそうです。 


山羊の刺身
山羊(やぎ)の刺身も泡盛に実によく似合います。刺身にする部位は、焦げめの皮に付いた赤身肉の部分で、ここはまったくといってよいほど山羊臭がありません。皮のゼラチン質のコリコリしたところに、赤身肉のシコシコが乗り、ゼラチン質から出たコク味が赤身肉のうま味と相乗し、鼻からは焦げた皮の匂いが入ってきて、なんとも言えぬ強烈な美味が合奏し合い、融合し合うのです。そこに南国の陽の酒を呷(あお)る。ところがどっこい、泡盛はしっかりとした古酒ですから、山羊のうま汁に蹴とばされることなく、しっかりと胃袋に入って参ります。とにかく酒と魚の相性というものを地球のあちこちで味わってきた私ですが、この泡盛と山羊料理において互いが溶け合う仲の睦まじさは只事ではないものだと思い、その辺りに何だか嫉妬みたいなものを感じたりして。すごいですねえ、この泡盛と山羊の関係は。(「地球を肴に飲む男」 小泉武夫) 


温厚な老人
明治のむかし、高浜虚子が、槽宗匠格で、久松侯爵家で開かれた運座(句会)に出席した。その席にいた温厚な老人が、しずかに声をかけ、杯に酒をついできれたりした。虚子は、身分のそんなに高くない松山藩士だった父親のことを思い出して、なんともいえない思いにひたっていた。なぜなら、その老人は、徳川慶喜だったからである。(「ちょっといい話」 戸板康二) 


岡倉氏と
そこで、岡倉(天心)氏は明日からでも学校へ出てもらいたいと、短兵急なことで、私もとにかく、お受けを致したわけであった。それから、酒が出たりしました。岡倉氏は酒は強い方。私もその頃は多少いける方であった。酒間にいろいろ寛(くだ)けて話し合いました。岡倉氏は話が纏(まと)まって悦ばしい。浜尾(新)校長もさぞよろこぶことであろうといって満足の体であったが、氏はちょっと話題を更え、「高村さん、いよいよ話が極まったら、一つ早速実行(やつ)ておもらいしたいものがある…」そういって女中をよっんで呼んで持って来させたものがあった。「それは美術学校の正服です。一つこれを着て下さい」といって、岡倉氏は自分でその服をひろげ、強いて背後(うしろ)から着せてくれましたが、袖を通すと、どうも妙なもので私は驚きました。(「幕末維新懐古談」 高村光雲) 上野の東京美術学校へ勤めるようになった時の思い出話だそうです。 


酒株から免許へ
徳川四代将軍家綱の明暦三年(一六五七年)、酒株が設けられ、免許を受けたものでなければ酒は造れない定めとした。また、天変地異や凶作で、減石の必要なときには、株高何分造りとするなどの制限を設けた。しかし、年々増加する清酒の需要に、株高ばかりでは応じきれず、密造の弊害も現れたので、元禄十年(一六九七年)の株改めに際して、その年の醸造実績を調べ、その額を株高に代えた。これを元禄調高という。さらに天明五年(一七八五年)に再度の調査を行い、「稼高」と命名した。天保年間(一八三〇~四四年)には、今津や灘(兵庫)の大醸造家の公認醸造高と実際高との間に大きな差が生じ、ついには公認石高一〇石で、一〇〇〇石以上の実績を持つものも現れるようになった。こうした酒株は、有価物件として譲渡売買されることもあった。明治四年(一八七一年)七月、太政官布告により廃止され、営業免許制に変わった。明治八年(一八七五年)には酒類税則が発布されて、営業免許は醸造免許と改められた。(「さけ風土記」 山田正一) 


唐衣橘洲
川柳同様、風刺性の強い狂歌は武士層を母体として発達したのですが、その狂歌師の一人に唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)という人がいます。酔竹庵と号したほどの酔漢で、真面目な武士に育てようとした親を裏切り、市井の無頼の徒と交わり、一夜に2升、3升飲むといった大酒飲みになってしまいました。父祖伝来の土地もお酒に消えたほどです。彼の狂歌を一つ。 とかく世は よろこび烏 酒のんで 夜は明けたかあ 日がくれたかあ(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


酒の酔い、酔う、祝酒に酔う、酔った振りをすること、酔って顔の赤いさま
【酒の酔】(補)ずだい。
【酔う】(本)あめる(佐渡)・くらいはらう・ぼれる(大阪(浪花聞書))・よっきる(青森県三戸郡・秋田県鹿角郡・宮城・福島)・(補)えーくらう・よったくれる。
【祝酒に酔う】(本)おみる(長野県東筑摩郡)。
【酔った振りをすること】(本)たら(岩手)。
【酔って顔の赤いさま】(本)てんび」みたい(奈良県宇陀郡・和歌山)。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録) 


甕の月
ご存知、藤田東湖(一八〇六~一八五五)が酒豪であったことは、その詩、書とともによく知られている。東湖の三名著のうちのひとつ回天詩史にもそれを伝えるくだりがある。烈公(徳川斉昭)が幕府からとがめをうけて謹慎、ブレーンの東湖も幽居、蟄居の身となった。その年の弘化元年(一八四四)に回天詩史は脱稿している。この巻の下の《自ら驚く塵垢(じんこう)の膚に盈(みつるを)》の章で東湖は『余の家はもともと貧乏していたが、こう(幽閉、蟄居に)なっては、ますます窮乏した。着物や道具類を国からもってきたのはほとんど売りつくしたが、なお駕籠(かご)が一つ残っていた。<中略>酒のお金が乏しくなるごとに、つくづく駕籠をながめて、ぼんやりするだけであった。まったく憫(びん)笑ものである。』好きな酒がのめない自分をあわれみ笑う東湖の姿が浮かんでくる。やがて江戸での幽居がとかれた東湖は、弘化四年自宅謹慎となって水戸へもどり、竹隈町の粗末な居宅で謹慎する。幽愁の東湖に好きな酒をひそかに届けていたのが、門人の桜任蔵、彼の名は真金、月並山人と号し、幼い時水戸に来て東湖の門人となり、後に宮本茶村(潮来の郷士・漢学者で文久三年<一八六三>歿)の門に学なび、その塾長として、尊攘運動がおこるや西郷隆盛や吉田松陰と往来し、大義を唱えた人物、安政六年に没。この任蔵も師に劣らぬ酒豪、酔うとむやみに人をののしる悪癖があったという。大物の東湖は大酒をたしなみながらも、いつでも泰然とのみ、饒舌にならず、黙々と盃をほしていたという。「甕(みか)の月」、東湖が愛飲した酒である。(「水戸巷談」 網代茂) 


判官と師直
判官 ムハゝゝゝ。これはこれは、師直公には只今のお詞(ことば)は御座興か、又は御酒機嫌か、コリヤ御酒参つたと相見ゆるハゝゝゝ。
師直 アイヤ判官、いつお手前御酒下された。いやさお手前いつこの師直に御酒下された。御酒はたべてもたべいでも、勤むる所はきつと勤むる相模守。コリヤお手前、酒参つたか。
判官 いえいえ、手前何で酒などを。
師直 いや酒参つた。
判官 いやいや手前、左様な。
師直 いやいや酒参つた参つた。道理こそ酒くさいくさい。(ト袖で口を押へ)その美しい奥方と、さへつおさへつお酒盛、それで登城が遅うなつたか。いや御尤御尤。それほど奥方が大切なら、明日からは出仕御無用だ。総体お手前のやうなものを、何とやら申したな。オゝ、井の中の鮒ぢやといふ譬(たとえ)がある。いやムツとなされるな。嘘でないわさ。後学の為だ、聞いておかつせえ。彼の鮒といふ奴は、僅か三尺か四尺の井の中を、天にも地にもないと心得、或日井戸替の折、釣瓶にかゝつて上るを、可愛さうぢやによつて大川へはなしてやると、サア鮒めが、小さな処から大きな処へ出たによつて、嬉しさにまぎれて途(ど)を失ひ、あつちへひよろひよろ、こつちへふらふらして、遂には橋杭へ鼻ツ柱をぶつ附けて、ピリピリピリと死にまする。お手前がその鮒だ。-
アハゝゝゝ、コリヤまるで鮒だ鮒だ、鮒侍だ。(「仮名手本忠臣蔵」 山本、郡司本文校訂) 三段目、松の廊下の場ですね。 


夏の酒(4)
1315 蒸し暑き宵の酒場に一人来て透きゆけと透明な酒飲みつづける(火を運ぶ)一九七九 佐佐木幸綱
1316 ワンカップ大関の蓋ひらくためにあらねどもまた汽車に乗る(転調哀傷歌)一九七六 福島泰樹
1317 「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの(サラダ記念日)一九八七 俵万智
1318 コップ酒浜の屋台のおばちゃんの人生訓が胃に沁みてくる(サラダ記念日)一九八七 俵万智(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


寛政の改革
幕府は天明六年には宝暦四年令以来はじめて前年造石高の半石造りの減醸令をだした。しかし極めて不徹底な結果に終わっている。翌七年六月には松平定信が執政職につき、幕閣をにぎるとこの情勢は一変する。定信は田沼残党を一掃し、灘目支配の代官青木楠五郎とその一味を追放、粛正に乗りだした。酒造に関しては翌月「酒造高の内」三分の一造り令を公布した。さらに同年十一月には「酒造高」の曖昧な表現を「株高」とした。これは元禄体制復帰への理想がこめられていた。このような反動政策が貫徹されるならば、灘目は致命的な打撃を蒙るだろう。定信の庶政記録でもある『宇下之人言』には「いまはつくり高と株とは二ツに分れて、十石之株より百石つくるもあり、万石つくるもあり」と述べ、さきの株高と造石高との懸隔した現実を非体制的な要素としてえぐりだしている。しかkし結果的には改革者の意図は実現しなかった。これには諸階層の強い反撃が準備されたからだ。その第一は灘目酒造家の反対、第二は江戸下り酒問屋行事八人と請酒小売人四一人による制限撤回の歎訴、第三は上灘郷につながる「上:くさかんむり、下:免」原郡下三三カ村農民にの増石嘆願がみられた。-
そしてこのような灘目の反対運動は奏功し、幕府はその発展に部分的に妥協せざるをえなくなる。天明八年には幕府は改めて酒造株改めを実施し、在方灘目の生産力の包摂に乗りだしていく。すなわち同年六月には同五年の造石高を申告させ、翌寛政元年八月にはその申告造石高を幕府は「永々株」として公認、株札を公布した。『宇下之人言』には「米の潰れなんとしていとふのみにあらず」としるし、この政策実施の一つの狙いが関西之経済的均衡を保つことにあったと書いている。なおこの時期に関東においては積極的に酒造が奨励されている。(「灘の酒」 長倉保 日本産業史大系) 


"キャベ中"患者
オフィス街から六本木に向かう地下鉄、午後六時半。「キャベ2(ツー)」を飲む男を見た。いわゆる"「上:夭、下:口 の」む前に飲む胃腸薬"だ。僕も新しもの好きのほうなので、ひと頃は各社から出ているその種の胃腸薬を「上:夭、下:口 の」む前に飲みまくっていた時期があった。胃腸薬に限らず、酵母にクロレラ、肝臓を保護するとかいう「ガンバレ肝太郎」、カラオケのノドを防備する「カラオケならプロシンガー」なんていうドリンク剤まである。まぁとにかくここ一、二年、本来の「病気を治す」という目的の前に、レジャー、エンターテーメントの小道具のような色合いのクスリが増えた。海や山に持っていくサンオイルのような意識で、酒場に胃腸薬を携帯する。その手のカジュアル胃腸薬、肝臓薬は、ネーミングがパッケージのデザインからしても、クスリ特有の深刻さ、暗さがない。コミカルなサラリーマンのイラストなんかが描かれている。よって、飲む際に「オレは病気なんだ」という後ろめたさがない。電車のなかでも、レストランのテーブルでも、人目を気にすることなく明るく口のなかにパラパラ飲(や)れる。実際、そういったものを飲んでおくと、CMの通り「翌朝、ぜんぜんつらくなぁい!」といった感じがする。確かに飲まずに「上:夭、下:口 の」んだときより、二日酔いも胃腸の具合もいい、という気がする。確かに金を払って買う商品なのだから、多少の効き目はあるのだろう。しかし、危険なのは、コレさえ飲んだから今夜はムチャクチャ「上:夭、下:口 の」めるぞォ!と妙に気が大きくなってしまう点である。(「地下鉄の友」 泉麻人 初出 夕刊フジ'91) 


方言の酒色々(8)
春、木を切るために山に入った人に、一週間ほどして家から届ける餅や酒 なかはんまい
祝言などで、人足が出発する時に、わらじを履いたまま飲む酒 かどさかずき/たちがん
祝言などの客の帰りがけに出す酒 わらじ/わらじざけ
祝儀の翌日に、嫁方から嫁ぎ先に贈る酒 いなりざけ
宴に招かれて辞する時の別れ酒 たくりざけ(日本方言大辞典 小学館) 


入歯
明治の名人、富士松加賀太夫(ふじまつかがたゆう)の所へ、葭町(よしちょう)の芸者の父で松村松濤と言う老人が来て、「加賀さん、入れ歯を「上:夭、下:口  の」んで苦しくてならねエ、助けてもらいたい」と言う。「ナニ、入歯を「上:夭、下:口 の」んだ?そいつァ浮雲(あぶな)い、どうして「上:夭、下:口  のみ」込んだのだ」「イヤサ、娘に二十円出してモラッタノヲ、ツイ「上:夭、下:口  の」んでしまったのサ」(「明治のおもかげ」 鴬亭金升) 


額をなでて
ある寺の住持、弟子に言付けぬるやう、「客あらんたび忘れざれ。まづ盃を出しては、愚僧が手の置き所を見よ。額(ひたい)にあらば上(じょう)の酒、胸をさすらば中の酒、膝を叩かば下の酒、この掟(おきて)そむく事なかれ」と示す。一度や二度こそあらめ、人みな後は見知りたりしに、させらぬ旦那参詣する。例のごとく、「酒を一つ申せや」とて、膝を叩きしかば、旦那手をつきて、「とても御酒たまはらば、額をなでてくだされいで」と。(醒酔笑巻一・吝太郎第六話・寛永五)(「化政期 落語本集」 武藤禎夫校注) 


蔵を守る
しかし次第に戦時色が濃くなり、昭和十六年戦争に突入。このころ、政府は中小企業の整理統合をすすめていた。転業したり廃業した企業の労働力や資材の供出で、戦力増強をはかるためだった。清酒業界もその例にもれなかった。小さな蔵に吸収合併されたり、廃業を余儀なくされたりしていて、この極小の蔵もそのどちらかを選ばざるをえないところまに来ていた。しかし、祖父も父も細々であっても独立して蔵を経営しようとする意志は固かった。東京都酒造組合会長であった祖父の、その役職も多少有利に働いたのであろうか、独立存続の必死の嘆願は受けいれられた。父は中国に出征し、従業員や蔵人も次々と徴用されていった。町内のひとびとも次々と地方へ疎開していくなか、祖父は「蔵を守るのだ。絶対に蔵からは離れん」と宣言し、学童疎開に従わざるをえない末の叔母を除いた家族、祖母、母、叔父、小売店の経営をしていた祖父の姉と叔母夫婦もともに残った。-
爆撃は激しくなり、田無の軍需工場からの帰途、叔父は累々と重なりあった焼死体のあいだを踏み分けて歩いて帰るありさまだった。家族各々の胸の内には暗黙の覚悟ができていた。しかし、米軍は占領後の交通の便宜のため、荒川大橋を爆撃しなかったのである。幸運にも橋の袂(たもと)に位置するこの小さな蔵は、救われたのだった。(「四季の酒蔵」 小山織) 


出芽増殖
子酵母は親酵母の体の一か所から芽を出すような形で出生し、親酵母につながったままで成長する。そして、十分に成長すると親酵母から離れてゆく。独立した子酵母は、今度は親酵母となって同様に子酵母を出生する。こうして次つぎに酵母は増えていく。これを「出芽増殖」という。生物は一般的に細胞分裂によって増えるが、酵母のように出芽方式によって細胞を増やす生物は珍しい。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


乾盃する
【意味】宴会のとき一座の健康を祝って盃をあげること。
【解説】これはイギリスから来た習慣だが、トーストはもちろん焼いたパン。イギリスでは食事の終わりにパンの皮をコップに入れて主人公が一座にまわす。一座のものはそれへ唇をつけて順々にまわし、コップがもとへもどったとき、主人役がパンの皮をたべ、酒を飲みほしたのであった。この乾盃をフランスでは「健康を祝って飲む」-といったが、Porter un toast.なる言葉は一七五〇年ごろからフランスに定着した。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助) 


悪酒の杯
東京ではよく三河屋の酒を買ひにいつたが、今から考へると水が半分であつた。そもそも酒は味と、量と、周囲とが調和せぬとよくない。学生中の一杯とあれば周囲なぞは考へてゐる余裕はない。あれば本郷の江知勝、なければ近所の蕎麦屋で辛抱するの外なかつた。たゞ量が足りると酒が薄く、酒が濃ゆいと量が足りない。両者の調和が限りある小遣でやれなかつた恨みは深い。三高時代、京都の聖護院あたりに巣を食つてゐて、寂しい正月を迎へたことがある。友人と両人で、心ばかりの迎春をするため、酒を買うことになり、友人は良い酒を少なく買はうといふ。私は悪質でよいから一升ばかり買はうと主張した。今から考へると、両者の差は三四十銭であつたと思ふが、遂に私の主張が通つて両人は悪酒の杯を重ねた。処が何うだ、翌日も、その翌日も、頭痛がしたのには閉口したことがある。(「俗つれづれ」 永井瓢斎) 昭和の初め、大阪朝日新聞で天声人語を書いていた人だそうです。 


ナサシ、ネリザケ、ハクザケ、ハックザケ、ヒエザケ
ナサシ 新潟県北魚沼郡で酒の山言葉。名を指して飲ませ合う慣習があったのであろうか。
ネリザケ 和歌山県で三月の雛祭りの白酒をいう(紀伊郡誌)。
ハクザケ 鹿児島県肝属郡百引村(現・囎唹郡北町)では、幾度か折り返した酒で焼酎に近い濃い酒をいい、ごく辛いという。昔はこれを用いた。
ハックザケ 鹿児島県肝属郡高山町で、田植頃の一夜作りの甘酒をいう。
ヒエザケ 稗酒。奈良県吉野郡大塔村篠原で稗で作った酒のことをいう。米の酒よりは柔らかく飲みやすいが、これを作るのはぜいたくとされた(吉野西奥民俗探訪録)。(「分類食物習俗語彙」 柳田國男) 


日本酒功労賞
私とカミさんは胸に大きな菊の花をつけられ、部屋の下手(しもて)に座った。私の隣にはもう一人大男がいる。鬼の若乃花だった二子山勝治親方だ。親方もややとまどった顔をしている。さっきも控室で「好きなもん飲んでて、その上お金までくれるって云うんだから、なんだか申し訳ないような…」とつぶやいていた。会場には招待客及びマスコミ記者がズラリといる。司会者がマイクに向かった。「日本酒は大平内閣時代に"国酒"と名付けられました。本日は酒の日でございます。そこで全国三千店近い酒造銘柄が、『第一回日本酒大賞』を制定いたしました。マスコミ関係156社に協力していただきアンケートをいただき、それを基に、選考委員会にて厳選いたしましたところ、次の方々が受賞と決定いたしました。発表いたします。日本酒大賞・二子山勝治氏。日本酒功労賞・中尾彬・池波志乃御夫妻、御三方、本当におめでとうございます」-
その夜、夫婦は、シッポリとコップ酒で乾杯した。気がつくと一升ビンが又空になっていた。えっ、副賞の三十万円、どうしたかって?もちろん近所の矢部酒店に、先月のツケを払いましたよ!(「食魔夫婦」 中尾彬) 


酒食の友は見つけやすく、生死の友は見つけにくい[タイ]
猩々に酒の壺[中国]
少なく飲めば薬酒で多く飲めば盲酒[韓国]
ただ酒は裁判官もハラール[パキスタン](ハラール:合法)
爪の上のルビーを飲む[仏]
 人に酒をご馳走になったときの礼儀をいうもの。コップを逆さにして親指の爪の上に傾け、酒が一滴しか落ちないのを見せることで、十分に堪能した証(あかし)とした。酒が赤ワインであれば、その一滴はまさにルビーに見える。イギリスではフランスの習慣にならって、すっかり飲み干せの意味で「君の爪の上に真珠を作れ(Make a pearl on yuur nail.)」という。コップを逆さにして、一滴が爪に真珠のように止まればよし、爪から流れ落ちるようなら罰としての飲み直しをさせられたという。(「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


多賀宗義
明治から大正にかけての酒豪、文豪、大町桂月、この先生はなんと、万葉の歌人、大伴旅人五十代の孫というからよく飲むわけだ。その叔父、多賀宗義も大した酒豪で生涯酔ったことがないという。明治天皇の御乗馬の御相手として、よく御召しになった。御稽古がおわると、いつも御酒をくだされることになっていた。どの士官も一杯にとどめたが、多賀少佐だけは三杯までお替りを請求した。その後は陛下も御記憶になり、翌年出たとき相変らず、「やるか」と仰せられたという。 酒の名を聖と負せし古への 大き聖の言のよろしさ 旅人(万葉集巻第三) 多賀少佐は一斗(一八リットル)入の瓢箪をもっていた。馬上にも常にこれをたずさえ、家に帰れば床の間におき、部下がくるとこれから飲ませた。近衛の大隊長をしていたころ、若い将校の中には大分発展するものが多く、細君たちがこぼしているのを聞いて、毎晩十二時すぎ、例の瓢箪を馬上にたずさえ、発展家のうちを叩き起して、「酒飲もう」といって訪問する。隊長がやってくるのに留守をするわけにも行かぬから発展家連中も自然夜遊びをやめ、家庭円満になった。少佐の家には雄、雌の瓢箪がある。曽て郷里の土佐で、例の瓢箪を持って野遊をしていると、一人の老農夫が来て、まことに稀代の大瓢であるとほめ、「実は私も瀬戸の大瓢箪をもっているが伜が下戸で、その瓢箪をゆずるべき資格がない。幸い、今日貴方のような酒豪にまわり合い、こんなにうれしいことはない。もし、御受け下されたならば瓢もその所を得た事を喜ぶにちがいない。私にとっても、この上の喜びはない」といった。二人は大いに意気投合し、早速百姓の家に行き、瓢箪同士、三々九度の盃をさせて嫁に貰い受けた、ということである。多賀宗義の墓は瓢箪形の石碑で、前面に、砲兵中佐多賀宗義之墓、後面に、明治三十四年十月二十八日、享年五六と刻まれている。(「酒鑑」 芝田晩成) 


乃祖の手段
京都の鴻雪爪(おおとりせっそう 曹洞宗の僧侶)が東京へ来てゐて帰ることになつたので、秋月種樹が送別の莚を張つて容堂も呼んだ。そして、莚が終ると容堂は雪爪を伴れ、月の下を歩いて箱崎の新邸へ帰り、邸中の枕中亭でまた酒を酌んでいると、阿波の蜂須賀侯の世子(跡取り)が来あわせたので、酒はまたはずんだ。その席には容堂が秘蔵の金の盃を出してあつた。世子はそれに眼をつけて、『わたしにください、』と云つた。容堂は頭をふつた。『これはいかん、大事の盃ぢゃ、』世子もひどく酔つてゐた。『くれなけれや、窃(ぬす)むまでだ、』すると容堂はにやりとして、『それぢや、乃祖(だいそ=自分の祖先)の手段を学ぶつもりか、』と云つた。乃祖とは蜂須賀小六をさすのであつた。それには雪爪が困つてしまつた。(「随筆 酒星」 田中貢太郎) 


われ嘗て
○われ嘗(かつ)て食客たりし事あり、口数きかぬは気心の知れぬ者とて、初めの家は逐(お)はれたり。次の家は酔してたる主人(あるじ)の体を、寝室迄得擔(えにな)ひ行かざりしとて逐はれたり。(「あられ酒」 斎藤緑雨) 


御成之記
右の献立(省略)を瞥見してみよう。式三献は「奥四軒」のやや狭い座敷において行われた。終わると例によって細川氏綱や三好一族によって太刀の献立があり、亭主三好義興(よしおき)は銘刀七腰を献上している。つづいて将軍は妻戸へ移動し、立ったままで三好一族の長老、長逸(ながゆき)が引く名馬を見物した。この間を利用して亭主の義興は衣装を改め、裏付大口から単青袴に着替えている。ここで「西向九間」の部屋に主客とも移り、酒宴が始まる。ようやく右献立の三行めにはいる。この酒宴が三献めまで進むと、ようやく湯漬けがふるまわれる。湯漬けといっても、右のように幾菜もならべられた膳が七つまで出るのであるから贅沢をきわめている。その湯漬け膳のなかには、うるかの桶、からすみ、鯨、うずら、鰍(どじょう)まであるのだから、文字通り山海の珍味といえよう。つぎに菓子が出る。これも贅をつくした菓子器に十二品まで並べられた。ここで記録によれば「御相伴衆次の間へ退出、(中略)さて公方様(義輝)も御休息所へ御成」(『三好筑前守義長(興)朝臣亭之御成之記』)とあるように、主客とも別室に退いて休息した。しかし略式の宴では湯漬のあと休息しないこともあったらしい。さて休息後ようやく四献めにはいる。この五献めに、前庭に設けられた能舞台で猿楽が始まった。まず祝福芸の「式三番」が演じられ、ついで十四番の能が上演された。老松 八島 熊野 春栄 松風 春日 竜神 当麻 野宮 張良 野守 自然居士 猩々 黒主であった。大夫への纏頭(はな 祝儀)は万疋(百貫文)の巨額にのぼった。酒宴の酌は三好一族総出であたり、松永久秀が御伴衆(親衛隊)の、篠原左近允が走衆(はしりしゅう)の、長逸・政康らが部屋衆の、石成(いわなり)友通らが手永衆(輿舁(こしか)き)のそれぞれ接待に応じ、歓待をきわめた状況であったという。(「酒宴のはじまり」 今谷明 「酒宴のかたち」玉村豊男編所収) 永禄四年(1561)三月末に京都上大立の三好義興邸において将軍足利義輝を招いて行われたものらしく、室町時代最も豪奢な酒宴だそうで、式三献の後に17献まで続いたそうです。 


萩の盛りによき酒なし
萩は秋の七草の一つで、初秋に紅紫色または白色の花をつける。萩の花が盛んに咲く秋は酒がうまくないということ。「醤油土用に酒寒に」といわれるように、酒は寒中に仕込むのがよいとされる。ところが、寒に仕込んだ酒の味をそこなわずに夏を越す貯蔵技術がなかった時代では、夏を越した酒は味が変化してうまくなかった。また、初秋の頃ではまだ新酒も出ない。こんなことから秋の酒はうまくないといわれたもの。(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 


第百十三段
大方(おほかた)、聞きにくゝ、見苦しき事、老人(おいびと)の、若き人に交りて、興あらんと物言ひゐたる。数ならぬ身にて、世の覚えある人を隔てなきさまに言ひたる。貧しき所に、酒宴好み、客人(まらうと)に饗応(あるじ)せんときらめきたる。
注 六 面白おかしくしようと。 七 取るに足らぬ分際で。 八 世間から認められる評判・名声ある人を遠慮のない仲のように言っている様子。 九 来客にご馳走しようと盛んに接待している様子。「マラゥト。マレビトに同じ。客人または、外来者」(日ポ)。(「徒然草」 吉田兼好 西尾・安良岡校注) 


麹と蘖
明朝末の崇禎十年(一六三七)、宗應星によって著された産業技術百科『天工開物(てんこうかいぶつ)』はその下巻に醸造の項を持ち、次のように記している。「(前略)酒をかもすには種麹をもととする。たとえすぐれた米や黍(きび)でも決して酒とはならない。むかしは麹で酒をつくり、蘖(もやし)で醴(あまざけ)をつくったが、後世には醴の味の薄いのを嫌って、次第にその製法がわからなくなり、同時に蘖の製法も滅んでしまった。麹は米、麦、小麦粉など、土地々々でちがった材料でつくり、南と北でちがっているが、その理屈は変わらない(藪内清氏訳)」(「酒の博物誌」 佐藤建次編著)
凡ソ醸酒ヲ必資麹蘖成ニ一レ信ヲ、無キハレ麹即佳米珍黍空造不成ヲ、古来麹造リ酒ヲ、蘖造醴ヲ、後世厭ヒ三ママ醴ノ味ヒ薄キヲ、遂ニ、至ル失フニ傳ヲ、則幷テ蘖法ヲ亦亡フ凡ソ麹麦米麪随テ方土ニ造ル、南北不同ラ、其義ハ則一ナリ(「和漢酒文献類聚」 石橋四郎) 


十二 目鏡にはまる一杯
ある大尽(だいじん)、茶屋へ行き、酒事してあそびけるが、内の料理する男の罷出(まかりい)で、「お肴なくとも、おなじみだけに御酒しつはりと」といへば、大尽、「おもしろい。こりや男、さいた」とて、大なる盃さしければ、この男、「私は得下されませぬ」「いやいや、ならぬとは言なせぬ。そこらは一盃うけよ」といへば、ぜひなく引受けける。大尽、巾着をひねくれば、男、さてこそ露うたるるよと、盃を下に置く。大尽見て、「何と、ちやうど受けたか。おれは目が悪うて気の毒じや」とて、(巾着から)目鏡を出し、盃を見られた。
注 二 豪遊する客。 四 十分に。 五 「さした」の音便。 六 そのくらい。 七 心付け下さる。 八 きちんと。 九 困ったこと。(「元禄期 軽口本集 露休置土産」 武藤禎夫校注) 


殿もりの朝きよめせでのむ酒のゑひてのゝちははくとこそきけ [酒百首]
「御殿の掃除をする役の下男が、朝の掃除をする前に酒をのむと、酔ってからはくそうだ。」-掃く、吐く、この同音を利用しただけで、酔眼もうろうと掃除するのか、酔ったあげく胃の中の物をもどすのか、どっちともわからないところに滑稽がある。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


ビール飲むために仕事している夏 (寝屋川市・竹鼻通男)
「まァこの夏のクソ暑さ。ヤダネッタラ超ヤダネ。仕事なんかしてられねえよ。サ、仕事終わったらとにかくビールだ。冷たいのが喉を通ると極楽ね。この極楽のために一日仕事をしている様なもんです。暑いおかげで、ヤダネッタラ…ビール旨いネ」(「川柳うきよ鏡」 小沢昭一) 


グルタミン酸
日本人は、昆布やかつお節や椎茸のほのかなうまみを「だし」として大切に利用してきた。その成分はそれぞれ、グルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸のソーダ塩である。これらはみな日本人の研究者によって発見された物質である。日本酒の中には、グルタミン酸はかなり含有されているが、イノシン酸やグアニル酸は酵母や麹カビの菌体の重要な構成成分であるにもかかわらず、醸造中に分解されてしまって、発見されていない。日本酒のうまみはグルタミン酸などのアミノ酸を中心に構成されていると思うが、たとえば合成清酒にグルタミン酸ソーダ塩を日本酒の含有量と同量になるよう加えると、とてもくどくて飲めなくなる。自然の味の調和は微妙である。(「日本酒」 秋山裕一) 


境い目
島崎藤村が、前田晁さんに、ある日、厳粛な表情でいった。「君、石というものは、重いものだね」横光利一さんが、鷲尾洋三さんと飲みながら、こういった。「酒を飲んでいて、今から酔うぞという、その境い目の所が、じつにおもしろいんですなア」(「ちょっといい話」 戸板康二) 


京都祇園にて
「まずはグラスに一杯だけ、ここに並んでいる大吟醸のうちどれかをいただきましょう。その後は純米酒か本醸造の酒を二合ほどぬる燗でお願いします」「すみませんが、メニューの中から選んでいただきたいんです」「本当にこの四つしか日本酒はないんですか。店主や料理人お奨めの酒が隠し球で用意してあるんじゃないですか?だってここは日本料理屋なんでしょ」「さようでございます、日本料理屋です。けど日本酒はこれだけなんです」「…。ではこの純米大吟醸を"冷や"でください」「かしこまりました」しかし出てきたのはグラスが汗をかいた、キンキンに冷えた酒であった。「確か"冷や"で、と言いましたよね」「だから、冷やです。よ~く冷えています」「…」日本酒で「冷や」というのは常温のことを指しているはずだが-後で知ったことだが、最近は冷やの語義が拡大解釈され、温度を低くしたものを「冷や」、冷やしても燗をつけてもいない酒は「常温」と区別するようになっているという。(「うまい日本酒はどこにある?」 増田晶文)  


根津宇右衛門像 椿椿山(1801-54)筆 絹本着色 江戸時代・天保6年(1835)
像主は甲府藩主徳川綱重(1646-1709)に仕え、主君の過度の飲酒を諫めた忠臣。没後もその霊魂がたびたび諫めるので、綱重もついに禁酒したという。没後の遺像であるが、肖像画に西洋画法を取り入れた渡辺崋山の画法を継承したリアルな表現が目を惹く。(東京国立博物館解説) 綱重は、徳川家光の三男だそうです。 



東京でのワンカップの元祖
幸い、広小路通りの吾妻橋に近い花川戸四番地に二間に七間(一四坪)の貸家が見付かった。伝兵衛は、早速これを借り受けて若干の改造を行ない、明治十三年四月、にごり酒の一杯売をはじめた。おそらく東京でのワンカップの元祖であろう。このときの資本金は六三両。これは、天野鉄次郎方の酒の行商で蓄えた金であった。開店当日の売上高は、七貫三〇〇文にもなった。独立自営の出発としては、まずまずの成功であったといえる。(「神谷伝兵衛」 鈴木光夫) これで積み立てた資金で鉢印、香竄葡萄酒が誕生したのだそうです。 


核実験やめられますか酒タバコ (東京都・豊英二)
「酒も煙草も身体によくないのは判ります。でも止められないよ。核実験も悪いと知りつつ止められないんだろう。でもさ、酒煙草は自業自得で自分に報いがくる。核実験は地球に末代タタルのよ。止めた方がいいね。止めて一杯やろうよ。シラクさん。」
注 ・核実験 この年(平成7年)、フランスのシラク大統領が九月五日に南太平洋で強行。(「川柳うきよ鏡」 小沢昭一) 


スウェーデンのアルコール政策
スウェーデン政府のアルコールに対するプライス・ポリシー(価格政策)は、かなりきびしいものである。基本的には、度の高いアルコールには大きな税金をかけて、手が届きにくくすることを目的としている。一九七年末の、酒類販売所(国営)で売られているアルコール飲料の基準価格は次のようなものである(一クローネは約七〇円)。・アクアビット 七〇クローネ(七五〇ミリリットル) ・コニャック 一八〇クローネ(同) ・ワイン 一一クローネ ・ビール(二・八%) 四クローネ(小びん) いわゆるスピリット(ウイスキー・コニャック、アクアビット、シュナップスなど)は大体九〇パーセントが税金である。こういった価格政策をとることによって、この一〇年間、スピリットの消費量はふえも減りもしない。そのかわり、ビールやワインは増えている。スウェーデン保健省では、この傾向は、政策が一応成功しているものとみている。つまり、アルコール分が少ないアルコール飲料が多く売れ、スピリットによるアル中患者を防ごうとのねらいがうまくいっているとみているわけだ。(「酒の人間学」 水野肇) 現在は、EU加盟によって、この政策は大きくゆらいでいるようです。 


九月四日[日]晴。容態同じ。
朝九時頃、湯浅さんが東京から帰道による。阿部次郎さんが午後に来る。山形から帰り道東京をす通りして当地へくる。病人に話したら酒でものまして上げろという事故(ゆえ)ビールを一本小宮(豊隆)さんと二人でのむ。湯浅(廉孫)さん三時の汽車で帰る。(「漱石日記」 平岡敏夫編) 「修善寺大患日記」(明治43年)で、漱石が重体に陥った時に、妻鏡が書いた部分だそうです。 


げんすい、こいび、こおぜん・の・き・お・やしなう、ごきとお、こけどっくり
げんすい[玄水]酒。(僧侶用語)(江戸)
こいび[小指]酒。[←「酒」を「好き」とういうことから、すき=すきな人=小指](強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)
こおぜん・の・き・お・やしなう[浩然の気を養う](動詞)句 酒を飲んで気焔をあげる。芸者遊びをする。(俗語)(明治)
ごきとお[御祈祷](人力車夫が)わざと走らずに、客に酒手をねだること。(車夫用語)(明治)
こけどっくり[倒け徳利]でたらめをいう・こと(人)。[←(酒が)出放題](洒落言葉)(江戸)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


トルカナ族
アフリカには何十という部族がいます。いま政治を握っているキクユ族、牛を追って昔ながらの暮しをしているマサイ、ワカンバなど沢山いますが、私たちは、セスナ機でスーダンに近い砂漠地帯に住むトルカナ族をたずねました。草で作ったマンジュウ型の小屋に住み、はな輪をブラ下げた年寄りの酋長を中心に大家族で暮らしています。一夫多妻のようにみえました。子どもは全員ハダカ。大人も漁をする時は、一子まとわぬスッポンポンの男もいました。なかなかおしゃれで、男は赤、女は濃紺や渋い赤の、原由美子さん好みのいい色の布を身体にまきつけています。エチオピア人を思わせる彫りの深い顔立ちと、一メートル八十センチはある身長。その線の美しさといったらありません。ただし、なかなかチャッカリしていて、写真を写す料金として二百シリング(六千円)くれと要求されました。パイナップルで酒をつくり、テラピアという一メートルもある白身の魚をくん製にしていました。(「女の人差し指」 向田邦子) 


藤倉電線争議
そのころになると、彼(矢次一夫)はもう争議調停のベテランとなり、専門家としてあつかわれ、毎月何軒も手がけた。その中で矢次式調停法の特色と威力を端的に示したのは、藤倉電線争議である。これまた労使ともに長く頑張って、膠着状態におちいり、にっちもさっちもいかなくなってから、矢次のところにもちこまれた。そこで彼は作戦を立てた。調停の場に、築地の「三楽」といういきつけの待合を選び、午前八時に、労使双方の代表をあつめた。どっちもそれぞれ別室に陣どって、顔をあわせようとしなかった。矢吹はまず風呂を沸かさせた。そして組合幹部を先に入れ、カミソリをならべておいて、髭(ひげ)をそらせた。かれらがまだ出ない前に、矢次は会社の重役たちをつれてはいりこんだ。どっちも裸のままで、逃げ出すわけにいかない。モジモジしているところを矢次が双方紹介した。はしなくも岸首相とアイク大統領の"ヌード外交"が実現したわけだ。風呂から出ると、双方にドテラをきせた。こうなるとどっちが重役で、どっちが争議団だかわからない。そこをねらって矢次はいった。「僕に一つ提案がある。争議団も会社側も、それぞれ大会または重役会を開いて、無条件一任の代表を一人ずつ選んでもらいたい」これには相当もめたが、午後四時ごろになって、やっと双方の代表が選ばれた。その間、料亭に残された連中は、手持無沙汰なもんだから大いに飲み、しまいにはいい気持になって、みだらな歌をうたい出すものも出た。決議をもってやってきた代表も、これに合流して騒いだ。電灯がつくころ、双方とも、面倒な話などどうでもいいという気分になって酔いつぶれた。そこを見計らって矢次は枕をたくさんもってこさせ、「ひと眠りして頭を休めてから話をつけようじゃないか」 といった。そしてかれらが眼をさましてから、双方のもってきた条件を別々にきいてみると、五千円の開きしかないことがわかった。そこで矢次は会社の代表を呼んで、五千円を出すことを納得させ、別にその日の費用としてもう五千円出させた。合わせて一万円もらって争議団も反対する理由はなく、その晩、目出たく手打ちをした。こうして彼自身も、労使双方に恩を売ることができたのである。彼自身の方は三文にもならぬというが、まさか会社の方でもすてておくことはなかろうし、そうでなくても、彼の経営する通信社の有力なスポンサーになることは確かである。(「矢次一夫論」 大宅壮一) 大正13年のことのようです。 


新法度
結城紬(ゆうきつむぎ)で有名な茨城県結城の大名・結城政勝が晩年の頃(1556年)に「新法度」という国法を定めているのですが、その中に「朝夕に、縁者、親類その他傍輩の間で、仰々しく酒を支度し、肴をしつらえるために奔走するのはとりわけ勿体無いものである。ことに飲み余したり、たらふく飲んで泥酔するなどのことは何の徳があるものだろうか。亭主役になるものは、とかく、勿体無いと承知し、心中迷いながらも、浴びせんばかりにして飲ませるものだが、それがいけない。だからここに基準を定める。朝夕の寄合酒を決めるからには、身分が出世してもこれに背いてはならない。すなわち、菜三種、汁一椀、酒は上戸に対して飯椀に十分の一杯とする。これより過ぎてはいけない」ということが書かれています。朝から寄合酒の風習があったのですね。とはいえ、これが身内ではなく他家の客人に対しては、どんな名酒だろうが、どんなご馳走だろうが、亭主の好きなようにしなさいといっているのです。戦国豪族の見栄といえばいいのでしょうか。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


都あっせん露店換地
鶯谷駅南口には寛永寺から線路を越えて北東へ下ってゆく立体交差道路の下に隠れるように小さな飲み屋横丁がある。高架道路脇の階段を降りると、すぐ目の前にラーメン屋、そして立ち飲みのもつ焼き屋「ささのや」が現れる。その裏側に飲み屋横丁が隠されている。十数軒の飲食店・スナックが額をすり合わせたように並んだその一角に小料理屋「順子」はある。「順子」のほかには「忍」「あまのじゃく」「峰」「一(はじめ)」それにラーメン屋とショットバー。ほかにもあるが、何軒かの店は閉店し、看板に灯はともらない。実質七~八割営業しているかどうかという寂しい一帯だ。実はこの一角、表通りの寛永寺坂沿いに並んだ屋台が移動してきたものだ。終戦直後、上野公園には被災者が仮住まいとするバラックが密集した。公園裏から鶯谷へ降りる坂道沿いには粗末な露店がずらりと並んだという。駅前にあった闇市は、最初は地べたに商品を並べただけだったりしたものが、昭和二一~二二年頃にはバラック風の屋根がつき、長屋風に造成されたり、屋台となって定着した。東京の駅の駅前という駅前には、バラックと屋台の飲食店や商店が、びっしり並ぶ有様だった。その状況を見たGHQのマッカーサーが「屋台の食品は不潔であり美観をそこねる」と不快感を示したのを受け、昭和二四年、東京都はこれら屋台をすべて撤去する措置をとらねばならなくなる。いわゆる「露店撤去令」である。戦後の混沌が生んだ闇市とはいえ、そこで商売をしてきた業者には、粗末な露店も生計を支える大事な店。お上の命令でもおいそれとは移動できるものではない。そこで東京都は期限が間近になっても移転の決まらない業者に移転場所を用意した。これを称して「都あっせん露店換地」という。鶯谷駅南口の坂下一帯は、それまで公園だった場所の一部を飲食店に変え、都が低賃金で貸し出したものだ。飲み屋街の西側の児童公園は、露店換地に切り取られた公園のなごりである。(「場末の酒場、ひとり飲み」 藤木TDC) 


土日はビール半分
五十一年はじめ医者にも原因がわからない突然押し寄せてくるジンマシンに悩まされた。それに元気なのは夏だけで、あとはいつも風邪をひいていた。しかし、五十二年六月に一週間人間ドック入りしたが、血圧が少し高いが、あとは異常はなかった。それから煙草も一日三十本にしたり、ニンニク療法、コーヒーの代わりにクコの葉とハトムギを煎じて飲んだりしている。それと「体操」。詳しく説明すると、踏竹三百回、腹筋運動二十回、腕立て伏せ十回から二十回。これがすむと原稿にかかる。食事は同じマンションの店からやきそばやかつどんなど店屋物、時には奥さんから弁当の差入れがある。回数は二回で、七時ごろから編集者が押寄せてきて酒になる。ビールを少々やって、ウイスキーに切換える。飲むのはバーボン(アーリータイム)だけで一晩ボトル三分の二。だが、土、日など来客のない時はビール半分でひっくりかえる。(「ここだけの話」 山本容朗) 西村寿光だそうです。 


夏の酒(3)
1311 あれ庭に蜥蜴(とかげ)あそぶをながめつつ焼酎酌みて端居すわれは (天彦) 一九三九 吉井勇
1312 酒桶の底に投げられ死にたらば来世は酒をたうべざらなむ (まんじゅさげ) 一九二一 尾山篤二郎
1313 雨の夜の暑ささびしく酒少し飲みゐてかういふ終りを思ふ (詠吟) 一九七九 福田栄一
1314 酒恋ふる胸をしづめてゆふまぐれ電話に妻のこゑをききゐる (呼べば谺(こだま)) 一九六四 木俣修(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


酒園遍歴
酒をのみだしてから四十年にもなった。子供のときにも、酒は大変うまいものだと思ったが、本気でのみだしたのは東京へ来てからだ。そのころの私は酒といえば日本酒であった。死んだ漫画家の柳瀬正夢(やなせまさむ)と二人で、神保町の屋台のおでん屋で七時間もたってのんでいたことがある。私は酒のすきこのみや、良い悪いを早くから口にしたけれども、本当に酒がわかったか疑問である。しかし、そのころは、一口のんでこれは白鷹、これは白鹿、これは菊正などと当てることはできた。そういうことができなくなったのは、こちらの口がきかなくなったのではなくて、酒がみな同じように悪くなってしまったからだ。(「酒園遍歴」 小林勇 「洋酒天国」 開髙健監修) 


雑誌『酒』
雑誌『酒』の創始者は、『株式新聞』の社長で無類の酒好きの小玉哲郎であった。『酒』は昭和二十五年九月一日に酒の友社から創刊された。"趣味の雑誌"と角書きし、A5判で、題字の「酒」を土屋竹雨が書き、火野葦平の「河童獨吟図」が表紙を飾っている。『九州文学』を編集していた宇野逸夫が上京して、株式新聞社に入り、その宇野逸夫が「酒」の編集を担当したのである。宇野逸夫たちの関係で火野葦平や長谷健が『酒』編集の顧問役になる。当時まだ戦争の余韻が残っていて国民の生活が全体に貧しく『酒』などの雑誌を読む人が少なくて、五冊ほど刊行して終刊になってしまった。そして昭和三十年六月に『酒』は復刊する。その時に小堺昭三と佐々木久子が株式新聞社に入社したのである。ところが『株式新聞』印刷局の労働争議で赤字の雑誌を出すのであれば給与を上げてくれと云う要求で、結局『酒』を昭和三十一年四月で休刊することで和議が成立したのである。佐々木久子は一年で解雇された。佐々木久子は火野葦平が「死ぬまで原稿を書いてあげるから」という励ましにより、独立してこの『酒』を復刊する。佐々木久子は資本もなく出版社や新聞社などをバックにつけないで、孤軍奮闘し、独力で『酒』を平成九年七月まで刊行しつづけたのである。赤字続きで当時は稿料も払えなく日本酒一升であったという。火野葦平や檀一雄や梶山季之等が積極的に応援し続ける。このような原稿料も出ない雑誌に有名作家がじゃんじゃん寄稿するのである。昭和にはこのような小雑誌をも守り育てていこうというような雰囲気があったのであろう。(「『酒』と作家たち」 浦西和彦編 「解説 雑誌『酒』と佐々木久子」 浦西和彦) 


田崎潤のこと
ある日、山峡を通った時、稜線から一斉射撃をうけ、大隊はその場に伏せた。その時だ。伏せた田崎の背中の上を満載した荷馬車を引いた持ち馬が乗り越えて行ったのだ。普通なれば即死であったろう。のちに彼はシャツをぬいで背中を斜めに走るその時の大きな傷を見せてくれた。どうして助かったのか自分でも分からぬという。彼は失神して道路わきにほうり出されたが、息がつまって一言もしゃべれず、ただ皆の声をウツロに聞いていた。「まだ、死んでいませんよ」「戦闘中だ。どこかそのへんに埋めて来い」結局、車の荷の上に乗せられ軍列は進んだ。何日か経った。小休止。兵隊たちは木陰に憩うた。「どうした。あの兵隊は死んだか?」「まだ生きています」それから何日か、急ごしらえの野戦病院に寝かされていたそうだが、まわりの兵隊はどんどん死んでゆく。あとで聞かされたことだが、そこは死を待つ重傷者の入れられるテントだった。まわりを見ると赤土の家の向こうに紅い太陽が沈むのが、ただいたずらに哀しかったそうだ。「おい!お前はもうすぐ死ぬ。何か望みがあれば言え!」軍医殿は、いたわりの言葉を与えた。「出来れば、酒がいただきたくあります。死ぬ前にぐっとあおって、そのままコロンとゆけば、自分は幸せであります」「よかろう」飯盒(はんごう)の蓋(ふた)になみなみと注がれた日本酒を、彼はうまそうに一気にあおった。そしてコンコンと眠った。その時に見た、やさしいおふくろの姿がたまらなかったと。どういうことか、彼は徐々に回復に向かっていった。まだ死なないので再び荷馬車に乗せられたが、昼はただひたすら身体を休め、夜はこっそり抜け出して村の料理屋へ行き栄養をとったという剛の者だ。そして暇さえあれば青森の母へ恋人のような手紙を出した。(「あの日 あの夜」 森繁久彌) 


倍返し
イワンが隣家のアブラハムを訪ねて来て頼み事をする。「なあ、一ルーブル貸してくれないかなあ。必ず二倍にして返すから」「ダメダメ。どうせ貸したが最後、酒に化けるんだから。返ってくる当てもない金を貸すほどこちとらおめでたくないよ」「そこを何とかしてくれないかなあ。この斧、担保にするから。なあ頼むよ」「そう来なくっちゃ」アブラハムは素早くイワンの手から斧を受け取り、一ルーブル紙幣を手渡すと提案した。「ねえ、いっぺんに二ルーブルも返すの、大変だよ。無理しないほうがいいんじゃないかな。今のうちに一ルーブル返しといたら?残りの一ルーブルは後でいいから」そう言われるとイワンも後々苦しくなるのはいやだなあと思えてきて一ルーブルを返す。「ありがとう。恩に着るよ」なんてアブラハムに心から感謝しながら帰宅する道すがらイワンは考え込む。借りたはずの一ルーブルは手元にないし、斧は手放しちまったし、あと一ルーブル返さなくてはならなくなった。でもどう考えてもまちがっちゃいないんだよなあ。(「必勝小咄のテクニック」 米原万里) 


方言の酒色々(7)
若い衆の仲間に入る時に出す酒 なりこざけ
泊まりがけのふるまいなどの時、起きる前の床の中で飲む酒 つらあいざけ
金を支払った人が提供する酒 かんじょーざけ
味付けに用いる酒 じでん/だしざけ/だしじゃけ
客が帰ろうとする時、座を改めたりなどしてさらに勧める酒 おたちざけ/しったくり/たちは/たちはな/たっぱ(日本方言大辞典 小学館) 


御酒部屋
西山荘については平面図がある。光圀の書斎は庭に面した丸窓のある三畳間である。寝室は六畳間である。それにくらべると台所はずば抜けて広い。台所はいくつもの部屋にまたがった造りになっている。煮炊きと水仕事はべつべつの間で行った。煮炊きする間には長い囲炉裏が切ってある。水仕事の間は竹の簀の子で中央に井戸を取り込んでいる。当時、内井戸というのはまことにぜいたくであった。光圀宅ならではである。ここ西山荘には「御酒部屋」もあった。西山荘時代、光圀用の酒は万姫を嫁がせた額田の鈴木家から届けられていた。西山荘ではこれを「額田の酒」とか「御前酒」と呼び、なくなると使いを出している。鈴木家では年間九百石の酒を醸していたという。ということはこの「御酒部屋」は家臣用の酒を造るための蔵だったとも考えられる。いやいや飲ん兵衛の光圀は鈴木家から調達する酒だけでは足りなかったから、この蔵で光圀の飲む分も造っていた…推測はいろいろできるが、いずれにしてもこの蔵で醸造していたことは間違いない。西山荘の気温、そして湧き水は酒造りをする条件をみたしていたことも加えておきたい。(「水戸黄門の食卓」 小菅桂子) 


オレは酒が弱かった
あのあたりのテントに比べて余りにみすぼらしい我々のシートだ。仕方なく少しはずれた川のほとりへ移動し、人目を避けるように支柱をたてた。なんと我々のシートには、黒々と印された「○:外、三:中」というマークがあるではないか!その夜は早寝して、未明燕岳へ登った。すでにその時代、燕から槍への縦走路は一寸した銀座通りで、若い男女の登山者がエンエン長蛇の列だ。我々はすっかりファイトを失い、槍へ行くのをとりやめて下山。「もう帰ろうよ」という事になった。さて、三人分の米を温泉宿に売り、その金でジョニ赤一本とビール六本を買った。ヤケくその宴会がはじまった。中学五年生として、このような多量の飲酒は異常のことであろう。やがて友二人は、金太郎の様になって荒い呼吸をはじめた。私は渓流の水をタオルでしぼり、朝まで二人を看護する破目となった。これが私自身「オレは酒が強い」と信じた第二の経験である。そしてこれが私の一生を決め、人一倍に大酒をのみ、他人に迷惑をかけて人事をわきまえざること幾度!そのくせ晩酌という習慣はなく、ひとりで酒をのむ事もない。のめば酔っぱらって酒量を計った事もない。今、愕然として、オレは酒が弱かったのだと気づいた。なんたる事であろう。弱いくせに強いと思いこみ、大酒をのんで一生を誤った滑稽な男。いやまことに残念というほかはない。(「しみる言葉」 阿木翁助) 毎晩一合 


ユウスゲ
北軽井沢へゆく前に、わが山荘のユウスゲは今年も無事に咲いているだろうかと考えた。雨戸を開けて山気を部屋に入れ、外を見ると黄色い花は咲いていた。夕闇が迫って来た時さびしげな花は開ききり、微風にゆれた。夕飯の時、その五、六輪をとって、さっと湯どおしして二杯酢で食った。食う花の中で女王である。ユウスゲを肴に一杯飲めば亡き人が懐かしい。(「厨に近く」 小林勇) 


酒は湧くとき漉さねばならぬ[韓国]
 酒は麹で発酵させるが、ちょうどその時にふるいで漉して滓を取り除かなければならない。物事には時期、タイミングというものが大切であるということ。「酒が発酵すると篩(ふるい)売りが通る」ともいう。
死後の酒三杯よりも生前の酒一杯がうまい[韓国]
親しい友人との酒は一口でも知恵にあふれ、にせの友人との酒は飲むほど計略にはまる[中国 ハニ族](「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


寒い国
「それに寒い国の人は大概大酒を飲みますが寒さを凌(しの)ぐにはお酒が一番ですネ、寒い国の人にはお酒がなかったら溜まりますまい、してみるとそういう処では是非飲まなければなりませんネ」と酒に対する有力な理屈を聞かんと思う、先生打笑(うちわら)い「アハハハ素人はよくその謬見(びゅうけん)を抱いているよ、己(おれ)も酒が可愛いからそうだとは言いたいが実際の事実はまるで反対だ。極寒の地に入って一番身体を害するものは何だというと酒だ、寒さ凌ぎに一時は酒を飲んで血液の循環を良くするから大層暖いように感じるが酒の醒めた時にはその反動で熱が飛散するから一層寒さを感じて却て身体の害になる、それが段々重なると自然と体力を減らして寒さに負けるから寒国に棲む者は酒を飲まずに運動や食物で身体を温めた方がいい、有名なる福島大佐が西比利亜(しべりや)の寒国へ単騎遠征を下時途中で一滴の酒も飲まなかったから病気に罹らなかったと自分は聞いておる、もしや寒さ凌ぎに酒でも飲んだら西比利亜の単騎旅行などは中々成し得られない、だから寒さ凌ぎには酒が一番悪い」と流石(さすが)に学理は曲られぬ、-(「酒道楽」 村井弦斎) 語るお医者先生は、一日中酔っ払っている飲ん兵衛だそうです。 


来宮様のお祭
私は中津屋へ入つて、まづ温泉に入り、それから二階へあがつて雑記帳を啓(あ)けてゐると、彼女が来て、『御飯はどういたしませう、』と云つた。私は飯の注文をして、『ついでに一本持つて来てもらはふか、』と云つた。すると女はにやりと笑つた。『お気のどくですが、来宮様のお祭でございますから、旦那は御存じでせう、』と云つた。私は何も知らないので、『何も知らないが、来宮様のお祭つて、なんだい、』と云うと、女はまたにやりと笑つて、『御存じでせう、旦那は、』と云つて、私が何か知つてゐてしばらくれてゐるやうにするので、『知るものか、なんだい、来宮様がなんだい、』と云ふと、女ははじめて私が何も知らないことを知つたのか、『御存じないですか、来宮様は、お酒が好きで、酒を飲んで、寝てをりますと、火事になつて、火が華表(とりゐ)の傍まで燃えて来ても眼が覚めんものですから、鳥が来て起こしてくれましたが、起きられないで、火傷をしましたから、それで、暮の十七日の夜から、むかふ一週間、酒を飲まんことになつております、』と笑ひ笑ひ云つた。(「随筆 酒星」 田中貢太郎) 今はもうこの習慣はなくなったでしょうが、静岡県賀茂郡河津町谷津にある来宮神社の伝承からきたものではないでしょうか。 


黒焼き
私の知人にお酒に当たったのがいる。酒席ですすめられて一、二杯のむと赤くなる。三杯飲むと身体にふるいが来る。五杯ものむと、あげつづけて、死人のようになってしまうのがいた。これが黒焼きでなおったのである。なんの黒焼きかって、もちろん酒の黒焼きである。馬鹿もほどほどというのでしょう。それが母の一心が黒焼きを作ったのである。昔から当たったものは、それの黒焼きというから、子供の酒に当たったのを見るにしのびず、母親はいろいろ考えぬいた結果、和紙にたっぷり酒をしみこませて、それを黒焼きにして飲ましたというのだ。この男、それがきいたのであろう、その後軽く一合はのめるようになったというから妙である。(「味之歳時記」 利井興弘) 


洗礼
洗礼は、新生児をキリスト教の共同体に迎え入れる教会の重要な儀式である。民間信仰の世界では、赤ん坊は悪魔にとりつかれて生まれてくるので、洗礼によって悪魔祓いをした(下田『ドイツの民衆文化』)。新生児の身体をきれいに洗うという機能もあったのだろう。イギリスではビール(エール)で身体を洗ったという(飯田『パブとビールのイギリス』、五三頁)が、洗礼の儀式も教会内でおこなわれるものだったから、以前は、洗礼後、教会内で宴会したのだろう。工業社会以前のドイツの農村では、教会で洗礼を終えると、産婆が赤ん坊を抱いて、父親、名親(洗礼式での証人)、親戚、その他の村人とともに居酒屋に直行した。宴会は、五、六時間つづいた。宴会費用はたいてい名親が支払った。名親は新生児の後見人、ゴッドファーザー(マザー)であった。村の名士が頼まれることが多かった。これも工業社会以前、フランスでは洗礼以後、名親臨席のもと、居酒屋のテーブルの周囲で、「子供の口が開けられ、スプーン一杯の飲み物[シードル]が流し込まれる…。子供は泣き叫び、顔をしかめる」。グラスのシードルは子どもの「聖水」と呼ばれた(ヌリッソン『酒飲みの社会史』、一五三~一五四頁)。聖水と呼ばれたということは、この習慣も、以前は、教会内でおこなっていたことを暗示している。(「居酒屋の世界史」 下田淳) 


飯と酒
先述の事例が示すように、現行の直会でも、高坏とか重箱に盛った米飯と瓶子(へいし)や徳利に入れられた酒だけがふるまわれる例が少なくないのである。米飯のかわりに赤飯がだされたり、菓子(おもに干菓子)がだされたりすることもあるが、その原型は飯と酒にある。とすれば、そのときの酒の添えもの(肴)は飯ということになる。そこで、平安後期に大江匡房(まさふさ)が朝廷の公事(くじ)・儀式を記した『江家次第』に書かれた次の一文に、重要な意味が生じてくるのである。
さて姫は「多志良加」と称する土器(かわらけ)より盥(たらい)に水を注ぎ、天皇御手水(おちょうず)のことあり、御食薦(ごしょくせん)を敷いて、飯を御前に、御肴八種を左に、菓子を右に、何れも窪手(くぼで)に盛り、小高坏に載せる、次に鮑(あわび)、海藻の羹(あつもの)を高坏にのせ、薦上に置く、次に窪手の蓋をとり、食薦の左右に置き、(一説に、羹の杯の北に重ね置くということもある)次に御箸を御飯・御肴、御菓子の上に置く、ここに天皇は之を姫に給ひ、御自らは飯、白酒、黒酒を召される。
-しかし、天皇が飯と酒だけに手をつけ、他は姫に与えたところに注目したい。少なくとも、そうした席では、飯と酒に口をつけることを優先しなければならなかったことを表している、と解釈できる。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 


剣菱の由来
黒松剣菱の由来は次のようである。永世(ママ)二年以前(約五百年前)創業者稲寺屋伝によると、その酒標は天地陰陽和合の象にて生々たる瑞気を感じ精気の回天を為すという。又後の醸主坂上桐蔭の時、井戸より不動明王の尊体が顕れ瑞喜して降魔の剣身と鍔形を酒標とす。七つ梅の由来は、昔の刻限七ッ時に最も梅の香りが立ちのぼるところから生れ、古人の歌に、おく深く谷間に咲けど七つ梅、香りは広く余にぞ知らるる。(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 


ほうれ、いわんこっちゃない
稲垣夫人、志穂によれば、稲垣の後年の酒はかなり壮絶で、二日酔いどころか、一週間酔い、十日酔い、という感じになっていた。客が見えると志穂に、「なにをぐずぐずしとる。酒が先だ。タイミングが悪い!」とどなりつけた。なにしろ幼い頃に謡曲のレッスンで鍛えられた声だけに、これが馬鹿でかい。そうして飲みはじめると、相手によっては昼さがりから真夜中まで、十時間ほどぶっつづけに飲むこともあり、客が帰るとさらにひとりで飲みながら朝を迎える。ごろりと横になってひと眠りして目覚めると、こんどはその日の夕方までに、さらに一升瓶を空にするという調子である。こんなペースが四、五日にも続くと苦しみ出すというが、これは当然といえばあまりにも当然な成行きだろう。そんな苦しみの中でもまだ、「酒を、酒を」といいはじめ、志穂が応じないと、無礼だの、五十年も飲んでいることだから大丈夫だのとわめき出す。「こうなると、こちらも頭から一斗ばかりぶかっけてやりたくなるが、そうもならず、しぶしぶ一杯つぎ、一杯つぎしているうちに、こんどは酒がうけつけられなくなり、空嘔吐が突き上げてくる。数日なにも食べていないので、からだを二つ折りにし胃の腑をしぼりあげたところで、出るものはない。アルコールが毛細管のすみずみまで染みわたり、針の先でちょっと突けば、ピューッと吹き出しそうである。そのうちに手先がしびれてくる。天井が覆いかぶさってくる。骸骨のような枯木が、部屋中に立つ。壁にふにゃふにゃした毛虫がいっぱい這い上がってくる-と口走り、危篤状態に陥る」稲垣がここまできてしまうと、こんどは志穂のほうが優位な立場になってくる。「ほうれ、いわんこっちゃない」(『夫、稲垣足穂』 芸術生活社)完全な、アルコール中毒による幻覚症状である。(「作家と酒」 山本祥一郎) 


百一段 久我相国(くがのしょうこく)は殿上にて
山口の小夜(さよ)衣は桐やの台所にて朝酒をまい(ゐ)りけるに、禿(かぶろ)盃を奉りければ、「茶碗まい(ゐ)らせよ」とて、ちゃわんしてぞまい(ゐ)りける。
注 山口の小夜衣 江戸町一丁目北側、山口七郎右衛門抱えの格子女郎。 桐や 揚屋町北側、桐屋市左衛門方。(「吉原徒然草」 結城屋来示 上野洋三校注) この徒然草のパロディーを書いた来示は、其角の弟子で吉原の楼主だった人だそうです。徒然草では「久我相国は、殿上にて水を召しけるに、主殿司(とのもづかさ)、土器(かはらけ)を奉りければ、「まがりを参らせよ」とて、まがりしてぞ召しける。」(西尾・安良岡校注)とあります。 


酒席の仁義
すると翌日、もう一人からも手紙を頂いた。「手前勝手にも酔狂、無礼の数々、平に平に。(覚えておられないことを祈るのみですが…)あの店の冷酒は鬼門だなんぞと人のせいにしたりして、何、われとわが身のタガの緩(ゆる)みようこそ鬼門であります」私はもうすっかり感激していた。お互いの醜態を覚えていようと、覚えていまいと、これこそが「酒席の仁義」である。私は今までに何人も見たことがあるのだが、酒の席での出来事を翌日になって面白おかしく、ペラペラとしゃべる男や女。これは本当に仁義に違反する。野暮の骨頂である。以前、勤めていた時に野暮の骨頂の女がいた。前夜、酔ってしまった上司に翌日言うのである。「えー!?覚えてないんですかァ。すごかったですよォ。こんなこと言ってあんなことやって。ねえ、みんなァ、すごかったよねえ。ねえ!」若くて可愛い女なら仁義を知らなくていいと思うならそれは違う。その女は単に頭が悪いだけである。男にも野暮天がいた。「あのコ。もう飲むワ、飲むワ。すごいの何の。最後なんて、イヤァ、驚きマシタ」この手の仁義知らずを見てきたので、私は常にセーブすることを覚えてしまった気がする。それでも今回のような弾みということがある。その時にお互いに「お腹の中がすっかり洗われ」とか「もう全員討死で」という一言で流してしまうのは、大人の男として大人の女として当然のマナーだと思うのである。それにしても、頂いた手紙の結び文句は絶品だった。「今度はお茶とケーキ、たっぷりアルコールのしみこんだもので盛りあがりたく思います」(「朝ごはん食べた?」 内館牧子) 


ゑひてのち物をいはぬはくちなしのやまぶき色のさけやのむらむ[酒百首]
「酔ってもだまりこくっている人はくちなしに似た山吹の色の酒を飲むからだろう」-くちなしは実が黄褐色の染料になるので、山吹といつも並称される。口が無いを物言わぬにかけたことはもちろんである。(「川柳集 狂歌集」 吉田精一評釈) 


発明とインチキ
これは東京での話。大正の中頃の事であった。某軍艦の司厨長を永くやっていた老練家で、酒ならばウイスキーでもブランデーでもカクテールでも、世界中の酒にくわしい。料理でも醗酵でも豪いもの、この人が永い間艦内で研究の結果、一晩の中に水飴が清酒になる発明を完成した。その酒は灘の生一本そっくりだという。もっとも水飴が発酵すればアルコールが出来るので、一種の酒になることは、学理上明かなところである。また当時合成酒が出来はじめた頃で、米以外の材料から清酒に似た酒ができることも不思議ではなかった。しかし一夜で灘の生一本のようなのが出来るとすれば、大した発明である。資本主がついて市内の某川沿に研究所ができた。発明家はここに泊りこんで昼夜を分たず研究に没頭している。まことに熱心なものである。研究所の中には秘密室が一つあって、ここだけは発明家以外、だれも這入ってはいけない。-
どういうわけか四斗樽でやると聴診器の音波が醗酵完了の響をもたらさなかった。多分温度の具合だろうから、いずれ解決はつく、差あたり面倒ではあるが、四合瓶を沢山使って事業を始めようということで、税務署に願い出た。-
立ち合った税務官が一人や二人までは、技術屋も頑張れたが三人四人の実見者が出て、自分も確信する、おれも確信すると言われると、技術屋の方でも「あるいは、そんなこともあるかなア」と、ぐらつき始めた。理論は理論として事実の前には如何ともなし難く、技術官側が今にも折れねばならぬ羽目となった。この時である。まさかとは思ったが念のためサリチル酸の分析をやってみた。ところがあったあった。防腐剤のサリチル酸が有った。天然の酒には無い筈のサリチル酸が出て来た。(「酒のさかな」 住江金之) 


たべんせん【喰べんせん】
『たべません』と云ふ廓語。無いを『ありんせん』来ぬを『来なんせん』などの類である。
喰べんせんなどゝは銚子初め也 初会の夜歟
十人が十人初会たべんせん 客に遠慮(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


食い別れ
身内の者がなくなった場合には、生き残った者がこれに対して食い別れの式をする。葬送の出棺時のデタチの膳というのがそれで、一杯きりの飯を食ったり、一本箸で食ったり、わかれのおみきといって碗の蓋で酒を飲んだり、ふだんは決してしない食べ方で死者のまわりで食事をして、今まで同じ火で炊いた同じ釜の飯を食った死者に対して、もはや共食者ではないことを宣言する。いうまでもなく死の誘惑を恐れるからで、これをクイワカレというのは(奈良県野迫川)、死者と生者の絆をたつための食い別れである。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 


芋不足
どの蔵も増産に次ぐ増産でうれしい悲鳴をあげているという。特にそれは芋焼酎の蔵に顕著だ。松竹梅、サントリーといった大メーカーも芋焼酎の牙城に参入してきた。しかし原料の芋は生産量が限られているため、結果的に困難になってしまった。鹿児島や宮崎、種子島などでは地元産の黄金千貫(コガネセンガン)や白千貫(シロセンバン)、紫芋(ムラサキイモ)などが、すでに底をついている。千葉や茨城、埼玉をはじめ全国からサツマイモをかき集めても、現状では追いつかない。中には、中国から冷凍イモやイモをペースト状にしたものを緊急輸入して急場をしのいでいるメーカーがある。はなはだしい蔵になると、ブラジルでつくられた芋焼酎を見つけ、それを混ぜて売りさばいているほどだ。(「うまい日本酒はどこにある?」 増田晶文) 少し前の焼酎ブーム時の話だそうです。 


くこん、ぐれんたい、くろぶた、けす、けずり、けずりや、けずる
くこん[九献] 酒。『海女藻芥』(女房言葉)(室町)
ぐれんたい2[愚連隊]帰宅の途中で酒を飲み歩く勤め人。(俗語)(昭和)
くろぶた[黒蓋]けんかの仲直りのための酒宴。(香具師・やし・てきや用語)(大正)
けす1 酒。[←きすの訛](香具師・やし・てきや用語、強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
けずり[削り]酒をのむこと。[←酒を飲む(板を削る)から発展]「けずりをやる」(酒をのむ)→いた。(強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)
けずりや[削り屋]飲み屋。酒屋。(強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)
けずる[削る]酒をのむ。[→酒(=板)からの発展]→いた。ひく。(強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


大酒家の子孫と成績との関係
私は曽(かつ)て昭和の初、百数十校の小学児童について父祖三代にわたり、父方母方とも大酒家の子孫と成績との関係を調査したことがあるが、山間部の村では必ず優等児であって、大都会では必ず劣等児であった。また面白いことは静岡県の禁酒村で大酒する人があったが、その児童は極端な劣等児であった。これまで言われていた俗説とは一致しない結果となった。もちろんこの小さい調査だけで結論はできないが、大酒家が山間部落では長い遺伝となり、平地に下れば、悪質を遺伝するものとは考えられない。私の解釈では、山間部落では大酒のできるような家は檀那衆である。二代三代にわたり大酒も続けられる。家庭でも勉強机もあれば家族の指導もよろしい。予習復習もやれるような環境である。しかすに小前の者では、大酒など思いもよらない。子供が学校から帰っても坐る机もない。子守をさせられたり、農作業の手伝いをさせられたり、予習も復習もない。出来が良くないのは当たり前である。さてこそ大酒家の子供が優良で、酒をのまない家の子が劣等である。ところが都会となると、これとは大分違う。インテリ階級では、酒は飲んでもメチャ飲みする人は少ない。乱酔するような大酒家は自由労働者などの下層階級に多い。前者の家庭が教育的であるのは当然である。また禁酒村のような良識的の村で大酒するという人は、よほど箸にも棒にもかからない人に相違ない。そういう家庭の子供が劣等児であるのも当然である。こういうところから考えると、優等劣等は遺伝の影響でなくして、むしろ環境の産物と思われる。(「酒のさかな」 住江金之) 


臭木椿象
実はだいぶ前のことですが、僕は奇妙な虫の幼虫を肴にして、仲間たちと日本酒で飲ったことがあります。その虫ですが地方名で「屁臭虫(へくさむし)」とまで蔑称される猛烈に臭いやつで、正式名は臭木椿象(くさぎかめむし)というそうです。間違って触れただけで、その異様な臭みが移ってなかなか離れません。ですからその成虫を食べるとなるとかなりの勇気が必要となりますが、僕らにはそんな勇気はとてもありません。ところが幼虫は臭みがなく、とても美味だということですので食べてみたわけです。その幼虫は臭木の木目に食い込んでいて丸々と太っていましたが。形はちょうど大粒の蛆虫と思って結構です。ピンセットを使って、こっそりと木の穴から引きずり出し、これを丼に山ほど集めて焙烙(ほうろく)で炒りました。少々の醤油で味付けし、焦がさないようにして仕上げて純米酒の肴にしたのです。所は福島県阿武隈山地の山の中。さてその味ですが、それはもう絶品でした。コクのあり奥深いうま味と上品な甘味、そしてマイルドで若々しい脂肪味は至上の珍味と言ってよく、純米酒のコクなど蹴散らさんばかりのものでした。空煎り前には、成虫の異様な臭みがややあっのですが、調理が終わった時には、それは耽美なほどの芳香に変わってしまっていたことが不思議でなりませんでした。その耽美な蛹を一匹口にするたびに、ぬる燗の純米酒を猪口で一杯飲むといったローテーションで楽しんだのですが、蛹の数があまりに多かったために、僕も仲間の三人もそのうち飲み過ぎて酔い潰れてしまいました。(「地球を肴に飲む男」 小泉武夫) 


御年十四歳
戦争中に飲んだ酒でいちばんよく憶えているのは、そのころ山梨県の赤の生(き)葡萄酒-酒石酸を採るために酸を抜いた脱酸葡萄酒というのがあって、この酒石酸はアルミニウムに使われて飛行機を造るのに必要だとかいう説明をきかされていた。だから日本の飛行機は葡萄酒でとんでいたことになる。飛行場にイモを作ったこともある。イモからアルコールをとってそれで飛行機を飛ばそうというんや。松根油でもとんだ。飛行機は何を食わしてもとぶものらしいデ。その脱酸葡萄酒がわが町内にも配給になった。飲んでるとひどく気持ちがよくなって、丁度夏のことだったので、物干し台で涼んでいるうちにねてしまった。どれほど時間がたったのか?ふと目ざめると、大空が俺の上にあった。しかし星の位置が変わっていた。ああ、やっぱり地球はまわっていると俺は感じたナ。俺が御年十四歳の時のことである。これはじつに明晰にいまでも記憶している。(「ヰタ・アルコホラリス」 開髙健) 


多門院日記
『多門院日記』中の酒造に関する記事も小野晃嗣氏が紹介され、一躍有名になった。奈良興福寺の塔頭(たっちゅう)多門院において文明十年(一四七八)から元和四年(一六一八)までの百数十年間、英俊という名の僧侶をはじめ、三代の記者によって書き継がれたこの日記は、段掛け、諸白づくり、火入れなど中世末の僧坊から生み出された酒造技術に関する記述があり、きわめて貴重な資料である。しかしもともとが日記であり、奈良を中心とした近畿の政治情勢、寺の行事などに関する記述の間に酒造記事が散見される程度である。大きな期待を抱いて読んでも失望する。(「江戸の酒」 吉田元) 


井上靖酔話
最後に源氏鶏太が披露した井上靖酔話。語り手の「井上さんを知る上に貴重な挿話」と註がついている。ちょっといい話なのだ。誰かが変にからんできた。相手にしないと、意地になってからんでくる。周囲の人がとめても駄目で、このために座がしらけてきた。我慢も限界を越えた。あるいは我慢してはならぬ事情になったのかも知れない。起ちあがって、「君を投げとばすがいいね」と念を押す。次の瞬間、相手の躯が宙に浮いた。井上靖は、四高の柔道部のキャプテンだった。(「ここだけの話」 山本容朗) 


ギネスブック的に満足
はじめてお酒を一升飲んだのは、もう東京に出て二十歳を過ぎたころだった。もう胃袋を三分の二切取ったあとだったと思う。十二指腸潰瘍だったのだけれど、その手術をしてからかえってゆっくりと飲めるようになったのだ。そのときは友人と三人だった。その一人のアパートだ。最初一升買って来て飲んでいるうちに話が面白くなり、また一升買って来て、それからまた一升買って来た。別に騒ぎもせずに、そんなにふらふらになったわけでもない。三人同じペースで飲みながら一升ビンを三本飲んだ。まだ飲めそうだったけど、いちおう一人一升ずつ飲んだのだということで、ギネスブック的に満足した。一升飲んだということは、相当な自信になった。俺は酒の一升くらい平気なのだと、それから胃も落ち着いて丈夫になってきたのだろうと思う。(「ウイスキーにたどりつくまで」 尾辻克彦 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


99.酒をやめたければ、しらふで酔っぱらいを眺めてみよ 若要不喝酒、醒眼看酔人
 現代の作家黎汝清の小説『雨雪霏霏』第8章。「醒眼をもって(あるいは酔漢)を見よ」の句は、清代の小説『児女英雄伝』などにも出てくる。 中国-漢民族
2.小さい時にとっくりを手にしていれば、大きくなって酒樽を持つようになる
 自家製の酒をお茶がわりに出すこともあるという彼らのあいだでは、年のいかないうちから酒を口にすることも多かったのだろうか。 中国-ヤオ(瑶)族(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川 


二二七 飲みやれ歌やれ先の世は闇よ 今は半ばの花盛り
発想は前出一二番(山城)の「飲みやれ大黒歌やれ恵比寿…」に類し、「先の世は闇」をもっと進めれば、『隆達』「月よ花よと暮らせただ、程はないもの浮世は」とか、『東海道名所記』(万治元年頃成)「一寸先は闇、命は露の間、あすも知らぬうき世なるに、ただおせおせとて」と同趣の酒席の祝唄となる。下句は、人生は半ばの全盛期の意。近世に類歌も多い。(「山家鳥虫歌 近世諸国民謡集」 浅野建二校注) 能登のものだそうです。 


外国の風習
日本では、酒は酔うために飲むものと、考えている人が多い。これはやはり、味を楽しむために飲むとした方が、健全ではないかと思う。酒を強いるというような風習は、外国にもあるのかも知れないが、決して日本ほど強くない。。英独仏米など、私たちの知っているところでは、ほとんどそういう例は見なかった。外国の風習がはいって来る時、その本来の姿がもち込まれることは滅多になく、妙に歪んだ形で輸入されやすい。カクテルなども、日本では、大都会の繁華街の、いわるゆバーやキャバレーなどで飲むものと思われがちである。それで庶民の家庭生活とは縁の遠い話になっている。しかしカクテルの本来の姿は、家庭で各自の好みの味をつけて、その味を楽しむというものなのである。(「味を楽しむ」 中谷宇吉郎 「洋酒天国」 開髙健監修) 


鮎の友釣り
腰まで水につかって、俗にお燗するという鮎の友釣りも苦手で、どぶ釣りだけにしている。(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) 


〇瀧川一益厩橋を退く事
北条氏直(うぢなほ)果(はた)して小田原より兵を出し、武州小玉郡本庄に著(つき)て、先陣北条安房守(あはのかみ)氏邦(うじくに)神奈川へおし寄す。(滝川)一益(かずます)は川を後にして相戦ふ。大敵支(さゝへ)がたく討たるゝ者多し。一益厩橋(まやばし)に帰り、其日討死(うちじに)せし人々の姓名を過去帳に書(かき)て、黄金を添(そへ)、寺に送りて供養し、諸将をあつめ暇乞(いとまごひ)とて酒宴し、一益鼓(つづみ)をうち、兵(つはもの)の交(まじは)り頼(たのみ)ある中の、とうたひければ、倉賀野淡路守、なごり今はと鳴(なく)とり、とはやし、終夜(よもすがら)酌酔(くみゑひ)て太刀刀(たちかたな)取出し、上州の諸将に引出物にし、懇(ねんごろ)に暇を乞て六月二十日厩橋を打出て、各々人質を帰し、木曽路より帰京す。瀧川彦次郎は一益が長男三九郎、二男八丸を伴ひ木曽路にかゝる時、一揆起り八丸を奪ひとられしを、一益が士古市久兵衛一揆を追払ひ、八丸を奪ひとりて一益と同じく長嶋に帰る。(「常山紀談」 湯浅常山) 信長の命で関東管領になっていた、瀧川一益に、信長が討たれたこの期をのがさじと、北条氏直軍が攻め来たったときの事だそうです。味方の諸将からも人質をとっていたのですね。 








注・横書きなので、<またまた>といった畳語後半の繰り返し記号(く:くの字点)の表記ができませんので、2回繰り返して記しています。
 ・機種(環境)依存文字等は、?になってしまいますので、「上:夭、下:口  の」のような表記にしています。
 ・旧字体の漢字は大体新字体にかえてあります。また、ふりがなは、かっこ書きにしています。
 ・ふりがなは適当に増減しています。