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御 酒 の 話 17


酒の海  フウイヌム国  大叔母さん  にびき  酒ぎらい  ちんこ  武玉川の酒句  搾菜  竜宮のお酒  端唄好き   王子の狐  オートラ・セルヴェッサ  甘酒祭り  林倭衛  渡辺崋山と葡萄酒  河東節「浮瀬」  我が御酒ならず  ただ酒  ジコイカ  望子  四人揃えば  六一 酒つくる水。  菅沼主水  咽喉で味わう  恋法師純蔵主、辞世の詩  三猪口の合成酒  ぼろ市  イッツァ・ロング・ウェイ  在郷家臣の宴  天山文庫開庫十周年  私は酒飲み  逮捕された瞬間  布袋さん  絶体絶命  那覇税務署勤務  ハイテーブル  お燗番  ほろよい機嫌  友ありて  二割  石の吸物  トリフォン  酒屋の旦那も八字ひげ  天一  ひねか  そば振舞い  少しもさわがず  アルコールについての意見  神格変革  阪妻  いつものやつ  官幣大社出雲大社  風呂上り唄  いとこ兄弟  256 ヱノナ  うたごえの店 灯  狸、座敷童子  夜明けあと(4)  問題4  大食  ぬ利彦  酒豪二人  閑情記趣  芭蕉の酒  民主的  昭和三十四年夏場所  葡萄酒二樽  ドゥー・ギャルソン  古代の旅費規程  世間に酒ほどの薬はない  気の遣いっぱなし  正式な踏みつぶし方  地獄蒸し  魯智深  加嶋家    新下  めし  大下戸と大上戸  昭和二十一年  酒作  酒縁名字  ホーロータンク  トウンパ  酒と女と歌を愛さぬ者は  汽車のほうがうるさい  初代川柳の酒句(3)  教頭  断酒弁  サフラン  三十八軒  アルコール童貞  カツオの腹皮  トマス・アルヴァJr.  へしこ  早い酔い  無涯の韻に次す  海鼠  木灰  さくらんぼ  烏蛇  奈良坂や  一旦飲み出したからには  メソン  首露王の王陵  魚屋も酒屋も八百屋も米屋も  酒狂人  「酒」  郭の中の飲み屋  ビールびんの風鈴  犬殺し  ニンニク  鯖の燻製  細木香以  五八 まねぶもの。  鉛の杯  ピンポン  挙我觴  鯛網の漁  下部温泉の源泉館の鉱泉  酒ついで  七里酒  焼酎一本  十悪所八景  関堂日記  カンカンノウ  禁読  小説の大酒飲み大会  酔いの経過  団十郎  「お伽草子 瘤取り」  口取り  呑ぬ日もなし  彼我の好む酒  黒い舌  「百姓?(ふくろ)」の酒と煙草  祖父と父の酒  最初の牛鍋店  のむ人のめぬ人  儒者の酒量  明治の酒合戦  フグジャー司教  古事記の八俣遠呂智  夜酒盛  数の子  ルーズベルトの政策  岸駒  マックソーリー  変動相場制  六個の玉杯  妙なクセ  馴染んだ店  「猿酒」  嫌いなものに関するメモ  のんだくれ  ポケット・ウイスキー  めざマル酒  四十九年 一睡の夢  嗜欲の害  一年三百日  どぶにつける  アチラが立てばこちら…  何でもない  プロセスチーズ  酒好きの人間は  尾崎士郎  宴席での上手な酒の飲み方  イクラの醤油づけ  タマダ(2)  北米料理批判  夜更けのカルタ  葡萄酒と人間の血  借金党の暴動  お客さんの酒もついでにナメてきた  閨房記楽  酒田の地酒  そこで寝てろ  大粒米と小粒米(2)  大粒米と小粒米  酒の狂歌  山田錦、雄町  親子酒  我流イングリッシュで珍問答  四月二十五日(金)  壁土とラムネ  少日子命  ヒロにもやれっ  大物主神(大国主神)、大己貴神・少彦名神  酔醒めの水は  バーテンダー(2)  夜明けあと(3)  兄弟盃  春の酒の肴  桶洗い唄  赤米神事  253 シキア  雀らが  眼鏡が必要である理由  問題3  葡萄酒の鑑別  ひとり者  狂歌人  酒の勉強  十五杯  アルコール醗酵技術  焼酎乱売  鯉のイリ酒  ネワール族の蒸留酒  ガスパール・ヴィレラ  湯西川温泉  樽背負い  中学のころ  見合  某月某日(2)  疝気  アペリティフ  倭国の酒  別盧秦卿  メダカの佃煮  スッポンの卵  別火  ヨガ  酔うていて旨いうどんが分かるらし  飲むムード  ブフナー  交換条件  酒母づくり  一升酒  猩々(甲子夜話)  用事後  儀助煮  事業の多角化  浪花の風  家にテレビが無い  奇蹟  馬喰町  風流  いにしへと今  あんきも  放蕩者  大好物  ブドウ酒びんの格好  酒色のこと  一九と蜀山人  恭受納仕候  この馬券野郎  歓伯  母親  アルメニア  酒も薬に  樽婿



酒の海
一体に人間はどういうことを求めて一人で飲むのだろうか。そうして一人でいるのに飲むことさえも必要ではなさそうにも思えるが、それでも飲んでいれば適当に血の廻りがよくなって頭も煩さくない程度に働き出し、酒なしでは記憶に戻って来なかったことや思い当たらなかったことと付き合って時間が過ごせる。併しそれよりも何となし酒の海に浮んでいるような感じがするのが冬の炉端で火に見入っているのと同じでいつまでもそうしていたい気持ちを起こさせる。この頃になって漸く解ったことはそれが逃避でも暇潰(ひまつぶ)しでもなくてそれこそ自分が確かにいて生きていることの証拠でもあり、それを自分に知らせる方法でもあるということで、酒とか火とかというものがあってそれと向い合っている形でいる時程そうやっている自分が生きものであることがはっきりすることはない。そうなれば人間は何の為にこの世にいるのかなどというのは全くの愚問になって、それは寒い時に火に当り、寒くなくても酒を飲んでほろ酔い機嫌になる為であり、それが出来なかったりその邪魔をするものがあったりするから働きもし、奔走もし、若い頃は苦労しましたなどと言いもするのではないか。我々は幾ら金と名誉を一身に集めてもそれは飲めもしなければ火の色をして我々の眼の前で燃えることもない。又その酒や火を手に入れるのに金や名誉がそんなに沢山なくてはならないということもない。(「飲む場所」 吉田健一 「酔っぱらい読本」 吉行淳之介監修) 


フウイヌム国
また酒類が海外から輸入されるということは、決して水やその他の飲料の欠乏を補うためなんでもなく、全くただこの液体が、それを飲むと正体も何も忘れて愉快になり、いっさいの憂いを払い、脳中には奔放怪奇な空想が、それこそ滾々(こんこん)として湧き起り、希望に燃え、不安は消え、理性も暫(しば)しはいっさいその機能を停(と)め、四肢もまた忽(たちま)ち自由を奪われて、やがて昏々たる眠りに落ちるという、ただそれだけのためである。もっとも実を言えば、そのくせ目が覚めれば、あとはいつも宿酔に悄然たる体たらくに決っており、しかも揚げ句の果は身体中病気だらけになって、生涯怏々として生命まで縮めるものも、全くこの液体のお蔭である。(「ガリヴァ旅行記」 スウィフト 中野好夫訳) 美徳が身に備わった馬の住むフウイヌム国で、主人の馬にガリヴァが酒類を説明したところです。 


大叔母さん
どうやら、ブリア=サヴァランの美食家としての資質は、彼一代でできあがったものではなさそうだ。こんな話がある。それはそれはすごい、大叔母さんがいらっしゃった。ある日のこと、この大叔母さんが、枕許(もと)で看病するブリア=サヴァランに話しかけたそうな。 ジャン、わたしのジャン、どこにいるの。 ここにいますよ、ここに。お加減はいかがですか。上等のワインがありますが。 まあ、結構なこと。汁ものならば、まだとおるだろうからね。その後は、ひと眠りすることにするよ。 大叔母さんは、この上等のワインで喉をうるおし、安心したのだろうが、半時間後、ひと眠りどころか、永遠の眠りについた。大叔母さん、九十三歳のことであった。(「美味学大全」 やまがたひろゆき) 


にびき
嘉永年間(一八四八−五四)創業の古い店である。上野駅が拡張されるというので、店が取り払いになって下谷三丁目の現在地に移って来た。それが明治二十五年のことだという。上野にいた頃は、"にびきの石蔵"といわれた石造の蔵でどぶろくの酒造をやるかたわら、小店を開いて客に飲ませていた。いわば居酒屋のはじまりのような店である。屋号は内田屋なのだが、暖簾の丸に二引き紋から「にびき」が通称になった。二つ引両は足利(あしかが)氏の家紋である。それをいうと、「いえ、そんな大したんじゃないんです」とあるじの吉田徳太郎さんは、あわてて手を振った。ふぐは上野にいた頃からやっている。大正になると東京へも上方風の綺麗ごとな料理がはいりはじめたが、それまでのふぐは正才でも虎ふぐでも、何でもぶつ切りに切って割り下で煮つけて、それがどぶろくのおかずというおよそ贅沢な調理法だったらしい。(「東京の老舗 京都の老舗」 駒敏郎) 台東区下谷のにびきふぐ料理店だそうです。 


酒ぎらい
よそから、もらったお酒が二升あった。私は、平常、家に酒を買って置くということは、きらいなのである。黄色く薄濁りした液体が一ぱいつまっている一升瓶は、どうにも不潔な、卑猥な感じさえして、恥ずかしく、眼ざわりでならぬのである。台所の隅に、その一升瓶があるばっかりに、この狭い家全体が、どろりと濁って、甘酸っぱい、へんな匂いにさえ感じられ、なんだか、うしろ暗い思いなのである。家の西北の隅に、異様に醜怪の、不浄なものが、とぐろを巻いてひそんで在るようで、机に向かって仕事をしていながらも、どうも、潔白の精進が、できないような不安な、後ろ髪ひかれる思いで、やりきれないものである。どうにも、落ちつかない。夜、ひとり机に頬杖ついて、いろんなことを考えて、苦しく、不安になって、酒でも呑んでその気持ちを、ごまかしてしまいたくなることが、時々あって、そのときには、外へ出て、三鷹駅ちかくの、すしやに行き、大急ぎで酒を呑むのであるが、そんなときには、家に酒が在ると便利だと思わぬこともないが、どうも、家に酒を置くと気がかりで、そんなに呑みたくもないのに、ただ台所から酒を追放したい気持ちから、がぶがぶ呑んで、呑みほしてしまうばかりで、常住、少量の酒を家に備えて、機に臨んで、ちょっと呑むという落ち着き澄ました芸は、できないのであるから、自然、All or Nothing の流儀で、ふだんは家の内に一滴の酒も置かず、呑みたい時は、外へ出て思うぞんぶんにのむ、という習慣が、ついてしまったのである。(「酒ぎらい」 太宰治 「酔っぱらい読本」 吉行淳之介監修) 


ちんこ
カツオ漁の本場、鹿児島県の枕崎市では、刺身やたたきにするのはもちろん、頭や内臓も料理にして、カツオを余すところなく食べつくす。で、「ちんこ」も食べる。えっ!魚なのに?と驚かされるが、名前そのものの部位ではない。カツオの心臓のことで、子供のそれに形状がよく似ているから付いた名らしい。料理法はフライや塩焼き、ショウガを利かせた煮込みなど。焼けばコリッとした食感がうれしく、煮ればまるでレバーのような濃厚な味わいを楽しめる。酒の肴に最高で、ビールや日本酒、焼酎は当然ながら、意外なことにフライや塩焼きは白ワイン、煮込みは赤ワインにもよく合う。(「日本全国奇天烈グルメ」 話題の達人倶楽部編) 


武玉川の酒句
生酔の道か多くてはかと(ど)らす (そんなに道に酔っぱらいが多いというのは年始参りなのでしょうか)
酔かさめると赤い蚊がとふ(飛ぶ) (酔っぱらいの血を吸った蚊)
餅も流れす(ず)下戸の曲水 (曲水の宴で下戸は困るのでしょう)
茶碗酒女の屑も面白し (くずという表現はいけませんが、今でも…)
面白く酔ふ女房に子がなくて (これも同様ですが、前句と共に余り悪気は感じられませんね)
(「武玉川(二)」 山澤英雄校訂) 


搾菜
中国四川省の特産物であり、中国を代表する醗酵漬け物がザーサイ(搾菜)である。ザーサイは芥子菜(からしな)の仲間である大心菜(だいしんさい)類を原料とし、まず葉を除去してから茎を縦横四つに割り切り、天日で十分に乾燥する。これに白酒(パイチュウ 焼酎のこと)をふりかけながら、八%程度の食塩で一週間ほど漬け込み、これを下漬けとする。本漬けは、下漬けの時の醗酵汁に香辛料を加え、これに再び塩を五%ほど加えたものに漬け込み、一年間ほど醗酵、熟成して製品とする。主として乳酸菌、酪酸菌などが醗酵に活躍する。そのまま食べるほか油炒め、煮込み、炒飯(チャーハン)、雑炊などに使っても香味が大いに楽しめる。(「醗酵」 小泉武夫) 


竜宮のお酒
「ああ、なに」と浦島は狼狽して、「この花は、この紫の花は奇麗だね。」と別の事を言った。「これですか。」と亀はつまらなそうに、「これは海の桜桃の花です。ちょっと菫(すみれ)に似ていますね。この花びらを食べると、それは気持ちよく酔いますよ。竜宮のお酒です。それから、あの岩のようなもの、あれは藻です。何万年も経っているので、こんな岩みたいにかたまっていますが、でも、羊羹より柔らかいくらいのものです。あれは、陸上のどんなごちそうよりもおいしいですよ。岩によって一つずつみんな味わいが違います。竜宮ではこの藻を食べて、花びらで酔い、のどが乾けば桜桃を含み、乙姫さまの琴の音に聞き惚れ、生きている花吹雪のような小魚たちの舞いを眺めて暮しているのです。」 (「お伽草子 浦島さん」 太宰治) 


端唄好き
端唄(はうた)の好きな男、友だちのところでご馳走になり、ほろ酔いきげんで端唄をうたい、わが町内へ帰る。おりから、女房、かどぐちへでたが、かまわずに男はうたってゆきしゆえ、女房「うちの人に似ている声も、あればあるもの」と戸を締めた。ほどなく男が帰ってきた。女房「たったいま、お前さんによく似た声の人がうたいながら、うちの前をとったよ」「それはおれだ」「ばかばかしい。なぜにまた、うちの前をとおりすぎたのかい」「されば唄があまったからよ」 (「小ばなし歳時記」 加太こうじ) 


王子の狐
[二九]近きこととぞ。乗物町に住(すめ)る乗物師の新助と云もの、王子稲荷にゆく迚(とて)田疇(うね)を行に、傍(かたわら)なる叢中(そうちゅう 草むらの中)にて狐の化(ばく)る所を見る。程なく後より娼妓一人来る。新助これぞ先の狐ならんと思ふに、妓云ふ。同行の客離(はなれ)たり。冀(ねがは)くは其人を尋て連行(つれゆき)給へと。新助心よく諾(だく)し、我が行く方へ伴はん迚、王子村にて名高き蝦(えび)屋と云(いへ)る大店に上り、まづ酒肴数品を云つけ、妓とともに飲食し数盃を傾け、厠にゆく迚出たり。妓因(より)て孤座(こざ)してありしが、余り久く此の如くゆゑ、店の男女不審に思ひ、何にして独り居るやと聞けばと聞けば、つれは厠にゆきたりと答ふ。夫より厠を見れど居ず。されば己(おの)れ独りなり。酒食の代を払ふべしと云ふに、妓答へず。店の者ども腹をたて、伴れもなく独り居て飲み食ひしふとゞき者なり。若(も)し払はずんば擲(ぶち)のめせとひしめきたれば、妓云ひ訳なき体なりしが、やがて毛尾を現はし狐となりて逃出る。男ども、さては狐なり。打殺せとて追かけしを、店主の、これは若(もし)や王子の神ならんも知らずとて追者を止めぬ。この新助は狐に欺れざるのみならず、却て狐を欺きしこと、珍きこととの沙汰なりしとかや。(「甲子夜話」 松浦静山 中村・中野校訂) これも有名な話ですね。きっと当時世間に広まっていた話なのでしょう。巻二十一 


オートラ・セルヴェッサ otra cerveza[スペイン語] <意>ビールをもう一杯
闘牛士が格闘のあとで帽子を高々とかかげてアレナをゆっくり一周する。人びとは狂ったようにたちあがって喚声をあげる。とりわけ闘牛士の出身部落の連中がかたまっているスタンドの騒ぎはすさまじい。帽子がとび、ぶどう酒の皮袋がとび、闘牛士はいんぎんに会釈して一つ一つ投げかえす。「セルヴェッサ、セルヴェッサ!…」よこにいたスペイン人の一人がそういって私にビール瓶をつきつけたので、"セルヴェッサ"とは"ビール"であろうと見当がついた。スペイン語はかいもくであるからニッコリ微笑し、手さぐりのイタリア語の"グラーチェ"(ありがとう)といったら、もう一本をズボンの腰からぬきだした。栓を歯でカリカリとこじあけ、一口ラッパ飲みしてから、「オートラ・セルヴェッサ!」と叫んだ。ビールをもう一杯ということではあるまいか。さしだされるままうけとってラッパのみし、ニッコリ笑って、グラーチェという。生ぬるい、ドロンとした、気のぬけた、おそろしくまずいビールであったが、私はニコニコ笑いながらおっさんの肩をたたいて、グラーチェ、グラーチェといった。スペイン語で知ってるのはこれだけだ。(K)(「世界カタコト辞典」 開健・小田実) 


甘酒祭り
甘酒祭りというとなんとなく子供っぽい語感をあたえますが、もちろんこれは税務署対策の用語で、ほんとうはドブロク祭りのことでありました。長野県上水内郡牧郷村の例であげますと、ここでは伊勢の新嘗祭(にいなめさい)を、別名「甘酒祭り」と呼んでいます。祭の前日になると各家から新米三合ずつを神社にもちよって甘酒をつくります。世にいうところの「一夜酒」というやつです。一夜酒というのは、その風味の点からいってかならずしも上等なものではありませんが、酒をのむのが祭りであり、村中でなんの気がねもなく、社殿で飲んで酔っぱらえるとあれば、一年の仕事の辛苦もまた、慰められようというものです。この甘酒神社には、一夜酒をつくるようになったふるい由来が伝わっています。これによると、むかし、この神社の社頭には酒の湧く泉があったそうです。これは神がめぐんでくれた酒だというので、祭りの日にかぎってこの酒の泉をくんで祝うことが許されていました。ところがある日のこと、りっぱな飾りをつけた一頭の牛があらわれて、この酒の泉をのみ尽くしてしまってから、すっかり酒が湧かなくなったといいます。そのために各戸から米をもちよって酒をつくるのだそうですが、近年は十月二十二日を祭礼の日とし、村中の戸主があつまって、自称甘酒をくみかわしていたそうです。神をおそれぬ税務署の干渉があって、しだいにこの規模は小さくなり、世をはばかるようになってきましたが−(「陽気なニッポン人」 酒井卯作) 昭和40年出版ですが、このころが御神酒製造免許の必要になってきた時期なのでしょうか。 


林倭衛
私はその頃油絵の具を買って来て、大船附近の風景と、私のところに来る文学青年の顔とを描いたことがあるが、丁度白木屋で二科会とか旧草土社とかの若い人達が展覧会をやった時、鍋井君もその仲間であったが、私にも出品してみろと鍋井君が云ったので、それらを出して見たのだが、その展覧会の後で、誰とかが賞めていたからその絵を見せてくれと云って、林倭衛が突然やって来たのである。そして林は、「何だ、この程度か」と私の絵を見て云ったが、それからどうしたわけか、毎日のように私を訪ねて来るようになった。大変酒の強い男で、その頃のアナーキスト運動をやった人間によくあるように、何処かニヒリスティックになっていたが、しかし性格は純情型的で、嘘がなく、真直ぐな、気持ちの好い人物であった。酒の飲めない私が、大酒飲みの林と仲よくなったのは不思議であった。(「年月のあしおと」 広津和郎) 


渡辺崋山と葡萄酒
三州田原町なる崋山会会員の取り調べられしものの中に、崋山が葡萄酒を謝する手紙の一節あり。発信年月日と、その所蔵家を詳らかにせざれども、崋山の自裁−天保十二年十月−前時代に舶来品のありし証の一つとして、ここに収めおく。
存寄ウエーン(ワイン)頂戴、難有奉存候(ありがたくぞんじたてまつりそうろう)。此は葡萄酒と奉存候、乍(ながら)恐少々水を割り候品か、或は如斯(かくのごとき)薄酒歟(はくしゅか)(與欠)弁し兼候得共(そうらえども)、まだ之より少々濃品有り、苦味も甚敷(はなはだしく)候。私も至て好きにて、此儘(このまま)頂戴仕候は不得手にて、之へ砂糖を少し攪混致し、滾湯(こんとう)を以て適意に宜敷(よろしく)注文候得ば、第一の葡萄の味香気発揚尤も妙に御座候、洋人も薬用等にも如此候由、崎人など右に馴れ、上戸は此儘(このまま)四五陶も倒し、飲宴常に御座候由、是全呑なれ、酔を取るに急なる故に存候。兎に角用ゆる時は、長夏午睡の初、寒灯読書の倦、大に共に補益を覚え、気血循環仕、誠に難有奉存候。大抵小盃二碗にては、酒暈面に上り申し、一碗にて適宜に御座候。奉謝候。(「明治事物起原」 石井研堂) 


河東節「浮瀬」
寝てかとえ、蓮に誘う朝ぼらけ、傘持つほどはなけれども、三つ四つ濡るゝ涼しさに、少しは消ゆる酔ひ心。昨日の無理にたどられて、わけもあらしの武蔵野に、一つ受けたる草の露。こぼすな露の、露の化身はころころころと、こけて身をとんとさ。こけて性根もさい盃の、一は富士山の時知らぬ。望(もち)に醒めては其の夜降る、色にも出さぬ白妙の、あまり大盞(たいさん おおさかずき)なればとて、母衣絹(ほろぎぬ)に包みしより、熊谷とは名乗りけり。それより源氏栄ゆれば、光をかくし女院(にょういん)は、柴の戸の御徒然(おんつれづれ)の明け暮れは、大原と召されさむらいて、世を味気なき墨衣、身を捨てゝこそ浮ぶ瀬の、甲斐も信濃も吾妻路も、汲みて楽しむ芦原や、この不忍の七度まで、呑ほす御代は二萬歳、かず盃は重なれど、色も変わらぬ友こそは、買ひ得し市の宝なれ(緑陰書房刊『日本音曲全集』第十一巻古曲全集)(「浮瀬 奇杯ものがたり」 坂田昭二) 「武蔵野」「熊谷」「大原」「浮ぶ瀬」などはみな大杯の銘だそうです。 元禄御畳奉行の日記(2)  


我が御酒ならず
是(これ)に還(かへ)り上り坐(ま)しし時、其(そ)の御祖(みおや 応神天皇の母親)息長帯日売命(おきながたしひめのみこと 神功皇后)、待酒(まちざけ 来る人を待って作る酒)を醸(か)みて献(たてまつ)らしき。爾(ここ)に其の御祖、御歌(みうた)曰(よ)みたまひしく、  この御酒(みき)は 我が御酒ならず 酒(くし)の司(かみ) 常世(とこよ)に坐(いま)す 石立(いはた 岩石としてお立ちになっている)たす 少名御神(すくなみかみ 大物主神と共に、酒造りの神とされていたようである)の 神寿(かむほ)ぎ 寿(ほ)ぎ狂(くる 今なら「めっちゃ」でしょうか)ほし 豊寿(とよほ)き 寿(ほ)き廻(もとほ)し 献(まつ)り来(こ)し御酒ぞ 乾(あ)さず食(め)せ ささ とうたひたまひき。如此(かく)歌ひて大御酒(おほみき)を献りたまひき。爾(ここ)に建内宿禰命(たけうちすくねのみこと)、御子の為(ため)に答へて歌曰(うた)ひけらく、 この御酒を 醸(か)みけむ人は その鼓(つづみ その鼓を酒を造る臼の側において) 臼に立てて 歌ひつつ(その鼓の音に合せて歌いながら) 醸みけれかも 舞ひつつ 醸みけれかも この御酒の 御酒の あやにうた楽し(無闇に愉快千万だ) ささ (「古事記 祝詞」 倉野憲司・武田祐吉校注) 


ただ酒
ある日、はせ川へ作家の永井龍男さんが仲人の用件で出掛けようとしていた。私がついて行ってもさしつかえなければ、つれていってくれといったら、今日の相手は佐藤垢石だからかまわんだろうと、二人ではせ川へ行った。うす暗い土間で垢石老は待っていた。すぐ酒になった。垢石の息子にこの家の娘をもらうことになって、永井さんに仲人をたのんでいるところである。そして今夜は、はせ川のおばさんのおごりである。垢石老の話を永井はふんふんと聞いていたが「それで息子は、どこに勤めているんだ」と聞いた。息子は大学に在学中だという。「それじゃ、まだ早いなあ、本人はそれについてどういう考えをもっているんだ」と聞くと、垢石は酒をぐっとのみほして、「それがまだ息子にはいってないんだ」と答えた。「おばさん、酒を止めてくれ」永井さんは垢石の顔をじっと見た。垢石は視線をさけて、おちょうしを取ろうとした。永井さんはその手を押さえていった。「お前さん、それはお前さん一人の考えだな。このうちと親戚になって、ただで酒を飲もうというこんたんだな」永井さんは冗談でいったかもしれない。しかし私のみたところ、垢石さんの顔に、見やぶられしか、という表情があった。はせ川のおばさんの顔を見ると、ただもうびっくりしてつっ立っていた。(「フクちゃん随筆」 横山隆一) 

ジコイカ
ワンカップ酒を差し出し、紙皿へツマミをざらざらあける。「わたしまでこちそうになっちゃって」「いいのいいの、やってやって」「エライかわいらしいの、蛍か」「ウチではジコイカいうちょる」女の親指くらいの、ころりと太ったイカの丸干し。瀬戸内海の珍味という。ワタごと干してあるので、噛むと、驚くほど濃厚な旨(うま)みが頬(ほお)の内側一杯に涌わ)くようにほとばしる。「うまいっすねえ」ふたりとも笑っている。「お歯黒だよ」イカ墨で、みなの笑う口の中が、真っ黒になっていた。(「ごくらくちんみ」 杉浦日向子) 


望子
望子を掲げていたのは、たばこ屋、薬屋、両替屋などをはじめ、日常生活に密接した品物を扱う店で、酒家にひるがえる酒旗などもこの望子にふくまれる。酒家の目じるしには、酒旗のほかたとえば「ほうき」なども用いられたらしく、酒の異名を「掃愁帚」(うれいをはくほうき)といったところから、「ほうき」をシンボルにしたのだという。なかなか気がきいている。古来、詩にもうらわれた酒旗が中国の空にたなびいていたのは、十八世紀ごろまでで、その後あとを断ってしまった。日本の酒家の望子、おでん屋の赤ちょうちんは、まだ健在のようだけれども−。(「香港 旅の雑学ノート」 山口文憲) 望子は日本でいう「絵看板」といった感じのものだそうです。 


四人揃えば
酒飲みと言えるようになったのは、学部に進んでからである。私どもの第一高等学院でなく、当時あった第二学院から来た連中で酒飲みが居た。名前を挙げると、伊葉野篤三(大阪出身、のち大阪新聞記者、敗戦後間もなく死去)、逸見廣(山形出身、のち早大教授、昭和四十六年死去)、旧予科の残党浅見淵(神戸出身、のち評論家、昭和四十八年死去)の三人は特に酒好きだった。学校を出てからも、四人の酒づき合いは絶えなかった。一番早く家庭を持った浅見の家へひとびんぶらさげては頻々と寄り合った。四人揃えば一升びん四本を必ず空け、更に浅見夫人が酒屋へ走ることもあった。(浅見前夫人は、昭和二十八年に亡くなった)。(「あとどのくらい飲めるか」 尾崎一雄 「酒恋うる話」 佐々木久子編) 


六一 酒つくる水。
摂津のくにに川あり。その川の末に、かの酒つくる所ありて、その川水をくみてつくるが、あめが下にすぐれし酒とはいふなりけり。川の上には、ゑたといひて、けものの皮などつくるものがすみゐて、川のうちえ杭をたてて、なまがはをさらすことつねのことなり。あるとし、そのことをいひ出て、「この酒は、神にもそなへ、仏にも奉るものなるを、皮ひたす川水にてつくらんは、いかにぞや。ゑたなるものをば、川の末えうつして給はれ」とうた(訴)へしかば、つゐにそのごとくになりにけり。そのとしより、いかに酒つくれども例のごとあらねば、いまはひそかに、またその皮ひたす水の末くみてやつくらんとすらめ。(「花月草紙」 松平定信 西尾実・松平定光 校訂) 


菅沼主水
松平左京大夫頼純は紀伊家藩祖ョ宣の次男であるが、子供のころ癇症に悩まされた。ひきつけのたぐいである。これを心配した家老の菅沼主水(もんど)は熊野神社に百日のはだし参りをし、その満願の日、社前の茶屋の主人(あるじ)から癇症の大妙薬を教わった。翌日登場ママした菅沼は頼純の近習に、「あす、新しい俎板(またにた)、包丁、まな箸、沙鉢(さはち)二、三枚、それに上等の酒二、三升と蒲団三枚、医者の血どめの薬を用意しておけ」と命じた。家老の命令だというので、近習たちが言いつけ通り揃えておくと、菅沼が登城し、頼純の居間の次の間に蒲団を重ね、その上に俎板その他を並べてから、頼純の見ている前で自分の左足を出し、脇差を抜いて股(もも)の肉を五、六寸切り取って、俎板の上に置いた。医者が傷の手当てをして、包帯を巻いた。そこで菅沼は切り取った肉を刺身に作り、酒に浸し、まな箸を使って何度も洗ってから、そのうちの二切れを試食してみせ、舌つづみをうって、「これこそ熊野神社のお告げの大妙薬でござる」と、頼純にすすめた。頼純は目をつぶって一切れ呑み込んだが、思わずげッと吐き出すと、菅沼が目を怒らし、「これは卑怯でござるぞ。ご病気が全快しなければ、生きている甲斐もなきものを」と声を荒げたので、やむをえず一切れ呑み込んだ。すると、いま一切れ、いま一切れと、無理矢理三切れ食べさせられた。そのあと菅沼は酒を進め、頼純の落ち着いた様子を見て退出した。この荒療治のおかげで頼純は病気全快し、長寿を保ったという。−これは武将の言行を録した『明良洪範』という江戸時代の本にある話だが、実話かどうかは疑問である。(「聞いて極楽」 綱淵謙錠) 


咽喉で味わう
陳(舜臣)さんと私の夫と私、なにかの会合のあとで三人である酒舗へ寄った。そこは中国のお酒をいろいろ取り揃えてある、そのころ巷間に名高かったマオタイ酒の飲み方を、陳さんは教えてあげますよといわれる。私はすでに酩酊していたからつつしんでご辞退し、夫は陳さんとマオタイ酒を飲むという。「このマオタイ酒は、咽喉で飲む。舌でころがして味わったりしたらあかんねん。咽喉で味わうもんやねん」と陳さんはおっしゃり、グラスを一気に、「クイッ」とあおられる。夫も、同じく、「クイッ」とひっかけた。「わかりましたか?咽喉で味わうコツが」と陳さんがおっしゃって、また、「クイッ」「わかりました、咽喉で味わうと、殊に格別なるものですな」と夫はいって、これも、「クイッ」と飲む。「酒は、舌よりも、やはり咽喉ですな」と陳さん。「舌では、味がわかりません。咽喉のほうが敏感ですなあ」と夫。両人、気持ちよく、双方とも、クイッ、クイッとやっているうちに、バッタリ倒れた、ということになっているが、横で見ていたはずの私も、そのあとは茫々、記憶がさだかではなく、気がついてみるとわが家の寝床にいた。夫は無論、記憶にない、という。「えらいこっちゃ、陳さんに何ぞ、失礼なこと、いうたりしたり、せえへんかったやろか」と夫はしきりに気にし、あくる日の晩、私たちはその酒舗へ出かけて、恐る恐るその気がかりをたしかめた。お店の人は笑っていった。「陳先生からもお電話がございましたよ、何ぞ、オッチャンに失礼なこと、いうたりしたり、せえへんかったやろか、っておっしゃって…」(「性分でんねん」 田辺聖子) 


恋法師純蔵主、辞世の詩
平生は長詠短歌の中
酒を嗜み詩に婬して 永日を空しくす
身後精魂 何処(いづこ)にか去る
黄陵の夜雨 馬嵬(ばくわい)の風
さて一休の遺した偈(げ)や詩がいくつもある。多くの辞世があるというのも一休らしい。仮死、虚死、偽死−そんなものに戯れてみたものか。その中で冒頭のものは「恋法師純蔵主(ぞうす)、辞世の詩」と題された一首、僧侶の形式的な遺偈(いげ)の臭が比較的少ないものとして快い。常日頃、詩歌をうたってすごし、酒を飲み、詩を作り、長い一日を空しく過ごすとは、悠々たる生涯の回顧である。その身の果てに、魂はどこへいくのかと自問し、黄陵、馬嵬を想起する。もし赴くべきところとして想起したとすれば、黄陵は舜妃の墓のあるところ、馬嵬は楊貴妃の斬られたところである。(「辞世のことば」 中西進) 


三猪口の合成酒
五十燭光の電灯の下、卓袱台(ちゃぶだい)を囲んで、五人は首を揃えた。「じゃあな」と意味なく口にしたおやじが、配給の合成酒を猪口(ちょこ)に注いでくれ、「助惣鱈の干物が、一枚増えたからって、こんなものを食って、出てったんじゃ鉄砲担いだら、三歩も歩けねえと思うよ。嘘も方便、豚もおだてりゃ木に登るんだ。実際にドンパチやるのは兵隊じゃねえか。兵隊にだな、兵隊が腰を抜かすほど、旨いものをたらふく食わせて、灘の生一本を、朝昼晩に一本でもつけてみろってんだ。そうすりゃ、わざわざ、でけえ声出して、天皇陛下の御ために戦えなんて、がなり立てなくったって、みんな気持ちよく死んで行くってもんだ。助惣鱈の干物一枚、余分に食わしてやったから、しっかりやって来いとは、ちと虫がよすぎるんじゃねえか。そりゃ聞こえませぬ、伝兵衛さんだぜ」たった三猪口の合成酒で、悪酔いしたおやじの演説は止まらない。(「風の食いもの」 池部良) 昭和17年だそうです。 


ぼろ市
連れになった爺さんは白い息を吹き吹き、(世田谷)ぼろ市の話をしてくれた。−
市(いち)の始まる村の入口に松山があって、「おでんかん酒」の行灯が立木に結いつけてあるのも、野趣横溢である。酒は落語でいう"じきさめ""村さめ"のたぐいで、玉川向うで出来る地酒だそうである。 市は往来の鍵の手なりに、小半道もつづく。クヌギとケヤキの木が人家の軒にもあって、まだ枯葉がまつわっている。ずらりと並んだ露店に、農家向けのがらくたと、ぼろとが、実によく網羅されている。その間をお百姓たちが、ぞろぞろ練って、一軒一軒しゃがんでは見て行く。何ともいえぬ、すっぱいような香がする。(「東京百話 地の巻」 種村季弘編 「ぼろ市・嫁市」 野尻抱影) 世田谷のぼろ市 


イッツァ・ロング・ウェイ
あれはわたしが中学二年の夏だった。この年、昭和十二年の七月はじめ、中国の蘆溝橋に端を発した戦火は夏の深まるとともに、北支から中支へと拡大していった。町内の誰かれや知人のなかにも召集令状がとどきはじめ、そして親戚の中で最初の応召者夏目伸六さんであった。わたしの母の従兄弟にあたる。「父・夏目漱石」「猫の墓」などの好著を戦後残した。その壮行会が東京・新橋の第一ホテルで行われた。母や叔父・兄とともにわたしも出席した。大勢のひとびとの挨拶も終り、自由な歓談に入ろうとしていたとき、突然わけのわからぬ大声でわめきながら、一人の男が会場に飛びこんできた、というよりはむしろよろめきこんできたという方が正確だったかも知れない。よれよれの着流し姿で、頭は坊主刈りのようだった。わたしの場所からは少し離れていたので表情はよくわからなかったが、かなりきこしめしているようであった。彼はふらふらと広間のはしに立っていた伸六さんに近寄ると、もたれるようにその手を握りしめて、「死ぬなよ。死ぬなよ」というようなことを二・三回、ろれつのまわらぬ口調で繰返したようであった。伸六さんが苦笑をしながら握手をし返すと、こんどは急にそれを振りほどくようにして、一段高くなっている挨拶用の舞台に跳びあがり、大声で歌いだした。「イッツァ・ロング・ウェイ。イッツァ・ロング・ウェイ…」晩年はでっぷりと恰幅のよかったその人は、枯木のように痩せていて、ひょろひょろと旧制高校生のやるストームのように、手を拍ち足を振りあげながら、いつまでもわめき歌うのだった。「イッツァ・ロング・ウェイ。イッツァ・ロング・ウェイ…」軽快で晴れやかななかにも、甘美な哀感が底を流れるマーチ風の曲だった。わたしは唖然として隣にいた文学青年の叔父にたずねた。「あれ誰なの」「タルホさん、−稲垣足穂さんだよ」叔父は笑いながら答えた。稲垣足穂の作品はもとより、その名さえはじめて耳にしたわたしだった。(「イッツァ・ロング・ウェイ」 角田秀雄)  イギリスの「ティペラリーの歌 It's a long,long way to Tipperary」という歌だそうです。 


在郷家臣の宴
また富永家は在郷家臣としての立場から、近隣の寺々とも付き合う必要があり、時には会合のための場所を提供している。天保三(一八三二)年四月二三日の昼、村内の信者への法談のため、近在の僧侶が同家に寄り合って小宴に及んだ。その献立は、正条千代菊という酒に、九年母・蓮根・高野豆腐・空豆・椎茸の硯蓋(すずりぶた)、独活(うど)と粕和えの皿、豌豆と三ツ葉に小口豆腐の汁、三ツ組みの大盆は、大平に豆腐と三ツ葉の浸物に、酢の物が蓮根・木耳(きくらげ)・独活・湿地(しめじ)、これに筍・蕗・飛竜頭(がんもどき)の平と飯、さらに中酒と菓子麩・蓴菜(じゅんさい)の吸物と香の物、といった精進物であった。その代は八匁六分四厘ほどかかり、浄教寺をはじめとする九ケ寺の僧侶たちに供された。一方、集まった農民へは、米半分の混ぜ飯に、油揚と大根葉の平が出されている。なお、ほとんどの場合、武士に対しては料理人に依頼しているが、この僧侶の時には、自家で賄ったらしく手料理と記している。(「江戸の食生活」 原田信男) 播磨国龍野藩の大庄屋以上の在方御流格という身分の永富家の『関堂(たかせきどう)日記』にあるそうです。 


天山文庫開庫十周年
ところで文庫(福島県双葉郡川内村にあった天山文庫)には三つの書庫があるが、第二、第三の書庫は会津若松の銘酒「花春」の酒樽である。コンクリの丸形の台座をつくり、酒樽を逆さにしてその上に屋根をのせ、酒樽の一部に矩形の入口をつくり、内部には書棚をぐるり一杯につくった。一つは三拾一石三斗四升六合入り、も一つは三拾一石六斗二升一合入りの渋をぬった酒樽だが、白いペンキで書いたその数字は樽を逆さにしたので、数字も逆さになっている。友達というのは有難いもので、当日には「花春」のこもかぶりの二斗樽が二つと、仙台の「天賞」醸造元の新酒「こけし」のワンカップが百個とどいた。それで乾杯に使ってくれというのである。野天の宴は先ずこもかぶりを割ることからはじまった。(「口福無限」 草野心平) 


私は酒飲み
それはたしかに、私は酒飲みである。母親の胎内にいた時でさえ、ひそかに中枢神経を通じて指令を発し、それまで酒など口にしたことのなかった母に、ビールのがぶ飲みを演じさせたほどの、私は酒飲みだ。今までおおっぴらに、それを公言してもきた。しかし、しかしである。齢三十半ばに達し、私の仲にようやく「品の良さ」という言葉の持つ、あのえも言われぬおっとりした感覚に対するあこがれが生まれてきたのだ。相撲取りの真似をして一升酒の一気飲みに挑み、挙げ句の果てに両国橋の欄干から転げ落ちるとか、「へっへっへ、企業タイアップでスペインに行って、ワインがぶ飲み、料理は食い散らかし放題、オンナのコはド美人て企画があるんですが、おやりになります?」などと誘惑されるや、行く行く行く!どうあっても行く。その話よそにまわすなーっ!、と絶叫するといった、そういう品のないことをいつまでもやっていてはイケナイ、という良心の声が心に響く今日この頃、なのにである。(「旅ゆけば、酒」 大岡玲) 


逮捕された瞬間
獲物勘定中 エルマー・"トリガー"・バーク 一九一七−五六
一九四六年、ニューヨークの酒屋から金を強奪したシンジケートの殺し屋エルマー・バークは、酒屋の表で銃を抱えたまま札束を一枚一枚勘定している最中に、通りかかった警官に逮捕された。
ワインを呑みながら オスカーワイルド 一八五四−一九〇〇
一八九五年、ワイルドはロンドンのカドガン・ホテルで、白ワインの炭酸割り(ホック・アンド・セルツァー)を飲みながら友人のアルフレッド・ダグラス卿と話している最中、スコットランド・ヤードの警部によって、男色の罪で逮捕された。(「世界おもしろ雑科2」 ウォーレス、ワルチンスキー他) 


布袋さん
戦後箱根の旅館を借り切って、毎年漫画集団の忘年会が二十数年間続いた。しかしお客さんと集団員の数が多くなり、一軒の旅館では収容できなくなって、ここ数年前中止してしまった。この忘年会で集団の酒豪の正体が分るのである。集団酒豪の横綱は文句なく横山隆一さんであった。前夜祭から忘年会の当日、翌日のしめくくりの日まで飲み続けてもダウンすることはない。酔いがしたたか廻ってご機嫌になると、浴衣(ゆかた)の前をはだけて太鼓腹を出して布袋(ほてい)さんみたいな姿でよろめき加減になる。こうなると仲間達はいよいよ布袋状だぞ、とささやき合う。昭和二十八年頃の忘年会だったと思うが、日本酒が珍しい頃で八十名ぐらいで一夜に一石以上も飲んだこともあった。(「わが酒中交遊記」 那須良輔) 


絶体絶命
ある時、非常に不注意な男が地下室に降りて行って、小さな樽の中を見て黒い砂が入っているのだと思って、その黒い砂らしきものの中に蝋燭を突き立てた。そして、彼はその側に坐って、酒を飲み出し、蝋燭は次第に短くなって行った。蝋燭は、短く、また短くなって、火は次第に、その黒い砂に近づいて行った。火は黒い砂に近づき、また近づいて、ついにその黒い砂に達した−そして、黒い砂の土で火は消えた。別に何事も起らなかった。(「ユーモア辞典」 秋田實編) 


那覇税務署勤務(昭和五十三年〜五十四年)
那覇税務署に二人目の副署長が新設され、そこへ技官として初めて着任しました。現在まで、技官で署長(副署長)になった人はいないので、どうやら私が最初で最後のようです。那覇税務署管内の泡盛製造場に着任の挨拶に行ったとき、麹に触(さわ)ったり、醪(もろみ)に手を突っ込んだりしたので、造り酒屋の主人はびっくりしたようです。私としては酒造場へ行ったときの鑑定官の条件反射みたいな行動でしたが、「今度来た副署長さんは変わっている」ということになってしまいました。(「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 


ハイテーブル
テーブルには果物を山盛りにした器と、ターキッシュ・ディライト(turkish delight)というゼリー状の甘いお菓子とが出ている。やがて、さっき銅鑼(どら)を打ち鳴らした学僕が再び現れ、トロリとした液体の入った大きなガラス瓶を置いていった。これは「ポート(port)」というあまい葡萄酒の一種で、これまた伝統に従って、この瓶を必ず時計回りに順々に回して、分け合って飲むのだそうである。それも、一人で沢山に注いでがぶ飲みするようなことは御法度(ごはっと)とみえて、みな少しずつグラスに注いで次の人に渡すので、巨大な酒瓶は時計回りに何度も何度もテーブルの上を巡ってゆくのであった。原則として、この場はちょっとした無礼講らしく、斜め向かいで例のぼろガウンのユダヤ先生がバナナを手づかみにしてむさぼり食いながら、大声で何事か論じている、私は、その間なすところ無く茫然として(ユダヤ先生にならって)バナナをほおばりつつ、おとなしくしていた。すると、次には銀製の平べったい器に入った、得体の知れない茶色い粉末が回って来た。これはスナッフ(snuff)といって、「嗅ぎタバコ」である。この茶色い粉末を手の甲の親指の付け根あたりにちょいとなすって、それをやおら鼻の穴の真下にあてがい、一挙に粉末もろとも吸い込む。すると、鼻粘膜を刺激して、クシャーンと快いクシャミをする、というのがやはりハイテーブルの伝統の一つなのだそうである。(「イギリスはおいしい」 林望) 「まだ正式に(オックスフォードの)セント・アントニーズ・コレッジのメンバーになる前、最初にそのハイテーブルに招かれた夕べのこと」だそうです。ちなみに著者は下戸だそうです。 


お燗番
酒そのものの味に直接影響する最も大切なものがお燗であることは以て前掲の如し、而(しこう)して、そのお燗の中でも一番大切なのは最初の一パイである。これこそ熱からずヌルからず、ほんとの上燗でなければならない、そこが先ず大切な腕の示しどころである。ところがいくら上燗でも、一本調子で続いてはいけない、お燗というものは、飲む程に、酔う程に、だんだんと熱くしてゆくべきもので、そこを一寸注意すると、思わずおいしく飲めるものと御託宣、これが第二の秘訣である。更にお酒が進んで、御気分満点、顔はほんのり桜色になってきたら、こんどはお燗を次第に下げていかなくてはいけない、さなきだにほてってきた体に、そう熱燗がうけられる訳がない。むしろヌル目になってゆくお酒がおいしく喉をならすのだ。そこがお燗番の微妙な秘術で、こうした調子でゆくと本当に「よい銚子ッ!」と云うわけである。かくて愈々猩々(しょうじょう)も顔負けの赤さになり、歌の一つも出る頃になったら、こんどは思い切って熱燗にする。これが最後の大切な「極め手」であるとか…。蓋(けだ)しここまでいってはヌル燗等もどかしく、たぎりきった胃の腑が満足しないからである。この最後の熱燗こそ、真の酒飲みを満足させるものであり、強くはないが好きでたまらぬという小猩々共を酔いつぶす奥の手でもあると云う。(「お燗番」 竹田恒徳 文藝春秋巻頭随筆'59.4) 


ほろよい機嫌
「蒲焼は勿論、すべて出し物の大皿、丼(どんぶり)までも残る所なく喰ひ尽して、菊の井・幸介もほろ酔(ゑ)ひ機嫌となる折から、引け四つの鐘ゴオンゴオン」『花街寿々女』中巻の一節。酒を飲んで少し酔い、きげんのよいことを「ほろ酔い機嫌」という。江戸では「ほろえい」「ほろよい」の両形が用いられたが、いまは後者が一般的となった。「ほろ酔い」を『大言海』では「ほの酔い」の転とするが、「ほろ」は「ほろりと酔う」の「ほろり」と同類の語であろう。「機嫌」はもと「譏「言幾」嫌」と書き、人そしりきらうことを意味する語で、仏教用語に由来するものである。(「江戸ことば 東京ことば辞典」 村松明) 


友ありて夜の酒過す新生姜 鶏頭子
新ショウガの季は、それこそ年に一度、そのときにしかめぐり逢えない味のもの。冷奴、アジの塩焼きなど、おろしショウガの欲しいとき、半日陰の庭先に植えてある種ショウガを探り取りして間に合わせる。谷中ショウガの名で呼ばれる新ショウガは、水分を多くふくんでいて、ほとばしるような香りがある。赤い茎を熱湯にくぐらせると、それを漬ける酢までが、しばらくすると赤みを帯びてくる。(「食の文化考」 平野雅章) 


二割
その前に私は呉服屋に用があり、四時半頃、呉服屋への道を歩いていたとき、背後から女に呼びかけられた。行きつけのバーの子だった。「こんなに早く出勤か」「いえ、お勘定を戴いての帰りですよ。お店に出る前に食事をしようと思って」私は編集者と食事の約束があるので、食事にはつきあえないが、ビールならつきあおう、と返事をし、近くのレストランに入った。その子は食事をとり、私はビールをもらった。私はビールをのみながら、どこから勘定をとってきたのだ、ときいた。するとその子はハンドバックから小切手をとりだしてみせた。ある機械製作会社の小切手で、いまでも額面をはっきり憶えているが、十八万三千円だった。「このうち二割が○○さんのところに戻るのよ」○○さんというのは、その機械製作会社のある課の課長だった。三万六千円が彼にリベートとして戻るという話だった。「それは非常によくない話だ」と私は言った。「だけど、こうしないと飲みにきてくれないのよ」「しかし、あの店ははやっているじゃないか」「でも全部が私の客じゃないでしょう」そうだ、この子を責めてもはじまらない、と私はその話を打ちきった。その子の話では、月に一回月末にその会社に集金に行くが、だいたい十五万円から二十万円の額だということだった。すると、その課長のふところには、まいつき三万円から四万円の金が入るわけである。(「男性的人生論」 立原正秋) 


石の吸物
次に節分の夜の追儺(ついな)式では、物頭一人が麻上下をつけて、新しい枡(ます)に煎豆を入れて、それを白木の三宝にのせて、先に立って「鬼は内、福は内」と言いながら豆を打つのである。すると、後ろから麻上下の侍が、そのたび毎に「左様でござります」と答えて随う。この式が済むと。当主が書院で鬼と対座する。そして主客の盃事の作法があって、双方に吸物が出るが、碗の中には石が入っている。つまり石の吸物なのである。追儺式に九鬼家では「鬼は内、福は内」と呼ぶのことは『東都歳時記』などにも載っているが、石の吸物については記していないので、正月の松飾りの木札と同じく分家だけであるのかも知れない。(「江戸街談」 岸井良衛) 北八丁堀にあった九鬼大隅守の屋敷で行われていた節分行事だそうです。 


トリフォン
バルカンの古代トラキアは、近年のワルナ付近の発掘でも知られるように、世界最古の葡萄産地の一つであった。トラキアの伝統を残すといわれるブルガリアには、今日でも葡萄栽培をめぐる複雑な儀礼が行われている。その一つ、トリフォンまたはトリフォン・レザンとよばれるものを紹介しよう。これは葡萄の剪定のはじまる二月一日から三日間行われる。まず第一日目には、葡萄園をもつ家々で祭りのためのパン、ニワトリの腹中に米を入れて煮てから焼いたもの、桶いっぱいの葡萄酒を用意する。主人たちはこれを、村の中にある公共の場所(多くの場合大樹がある)に運び、宴会を開く、このとき、三本の葡萄枝を赤いリボンで巻いた冠状のものを用意し、お祭りの中心になる人物(トリフォンという)を選んで、これにかぶせる。トリフォンはふつう、裕福で人望のある人が選ばれる。ひと通り飲食が終わると、トリフォンを担架にのせてかつぎ、太鼓をたたきながら家々をまわる。すると各戸の主人は葡萄酒を大鍋に入れて、トリフォンその他に飲ませ、残った一部をトリフォンに頭からそそぎかける。そのためトリフォンはびしょぬれになる。終りにトリフォン自身の家に着くが、ここで彼は着がえをし、冠はそのままで坐につき、村人にご馳走する。このトリフォンはその秋の新しい葡萄の収穫までトリフォンでありつづける。(「西域余聞」 陳舜臣) 二日目は特別なパンをつくり近所に配り、三日目はかまどで燃えている薪二本をとりだしてたたき合わせるそうです。 


酒屋の旦那も八字ひげ
昨今三田辺より京橋辺へかけて、おりおり新しき酒店を見受くるよしなるが、其家の主人は大抵鼻下に八字ひげを蓄えて意気揚々、ちと商家には不似合の先生なり、之れに連れそふ女房も、たすきをかけて働くものゝ、なかなか横柄なれば、買手はぶつぶつ小言を云ひながら帰るもの多しといふ。何(どう)いふ加減でこんな酒屋ができたらうと、馬士(べつと)あがりらしい男の立話し。猫もしゃくしもひげをたくはへるようになつたからと云つて、酒屋さんまでがまねておまけに官員さんのようにいばつてみせるにはおよびますまい。<明二〇・一・一八、絵入朝野>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


天一
この奇術の天一が総理大臣伊藤博文の酒宴で奇術をやったら「おい、天一、一杯飲め」と博文が杯をだした。天一はこれを受けておいて杯を博文を返しながら「おい、伊藤、一杯飲め」(「芸人その世界」 永六輔) 


ひねか
野白 熟成というのは、お酒の中のアミノ酸と糖分とが化学変化していくわけです。それによって、色が濃くなります。熟成した香りのことを*老香(ひねか 熟成香)と言いますが、この研究の有名な話として、老香の本体を(醸造)試験所でつかまえたんですね。それは、黒砂糖なんかの甘ったるいにおいと同じだったんですね。ところが、黒砂糖の研究をしていたお茶の水女子大学の先生が、勝手にソトロンという名前をつけまして、試験所では名前をつけなかったものですから、今ではソトロンという名前になっています。発見は醸造試験所が一番早かったのです。ちょっと遅れて、フランスだったと思いますが、シェリー酒の熟成した香りが同じものだということがわかりました。
*老香(ひねか)…清酒が熟成したときにでてくる香り。味のバランスによるが、強すぎるものは欠点とされることが多い。中国の老酒(らおちゅう)の香りと似た香り。(「酒を語る」 斎藤茂太・佐藤陽子・野白喜久雄・栗山一秀・濱本英輔) 


そば振舞い
祖谷山には昔から「そば振舞い」とか「さしそば」とかいって、客にいっぱいそばを食べさせる風習がある。そばを振る舞うときには、酒を出さない。理由は、昔、酒とそばを大飲大食して命を落とした者があったからだ。そこから「そばと酒をいっしょに飲み食いして、夏の夜露を受けると死ぬ」という迷信が生まれ、そばと酒の食べ合わせは悪い、ということになった。強いて酒を飲むことになれば、まず、そばつゆを一杯飲んでからということになっている。(「探訪ふるさとの味」 柏原破魔子) 


少しもさわがず
ある建物の壁に次のようなポスターが貼られた。「アルコールは緩慢に人を殺す毒素である」その翌日、だれかがその下に次のように書き加えた。「結構、結構、ぼくらはちっとも急がない」(「ふらんす小咄大全」 河盛好蔵訳編) 


アルコールについての意見
出所は不明だが、つぎのような話がある。ある国会議員がアルコールについての意見を聞かせてもらいたいと有権者から言われた。「あなたのおっしゃるのが、精神を毒し、肉体を汚し、家庭生活を壊し、罪人を唆す悪質な飲み物であるというものであれば、私はアルコールを認めない」と議員は言った。「しかし、それがクリスマスのご馳走にそえられる秘薬であり、冬の寒さから守ってくれる楯であり、体の不自由な子供たちに楽しんでもらうための資金を国庫に入れる、課税できる一杯であるならば、私はアルコールを認めるものだ。これは私の立場であって、妥協するつもりはない」(「晴れた日のニューヨーク」 常盤新平) 


神格変革
ところで、戦国武将織田信長が安土城内に、前田利家が金沢城内に松尾神を祀ったり、また一六二〇年(元和六)年、広島城主浅野長晟(ながあきら)が、大山咋(おおやまくい)神を祀る旧領近江国坂本の酒井社を再建したのは、松尾神の弓矢の神、軍の神、田の神、農耕神など本来的な神徳を願ってのことで、まさか酒徳、酒福の神徳を祈願するためではあるまい。さらに、一七〇二年(元禄一五)年刊『神道名目類聚抄』は、梅宮神は酒の守護神であるが、松尾神はそうではないといいきっている。とすれば、松尾神が「日本第一酒造之神」への神格変革があったことはまぎれもない事実である。ではその時期はといえば、第一の目安は浅野長晟が近江国坂本の酒井社を再建した一六二〇(元和六)年、つぎの目安は酒屋の松尾社への献納石灯篭の最古年代一六六一(寛文元)年、つまり一六二〇〜一六六一年の間ということになる。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


阪妻
親父、阪東妻三郎は、かつて"剣劇王"阪妻と呼ばれ、一世を風靡したチャンバラ映画の大スターでした。親父はサイレントからトーキーへと移り変わる過渡期を見事に生き抜きましたが、ある時期から"剣劇王"と呼ばれることに抵抗を覚え始めていたようです。非核三原則ではありませんが、刀を「持たない、抜かない、振り回さない」と、そんな気持ちになっていたような気がします。母が、親父の役作りについて、ポロッと漏らしたことがあります。稲垣浩監督の「無法松の一生」は親父の畢生の代表作となりましたが、親父は主人公の車夫、宮島松五郎の役作りに異常な執念を燃やしていたそうです。撮影所から戻ると、玄関ではなく台所から家に上がり込み、胡座(あぐら)をかいて茶碗酒をあおり、車夫の紛争のまま鰯(いわし)を頭からかじっていたといいます。(「血族が語る 昭和巨人伝」「阪東妻三郎」 田村高廣) 


いつものやつ
「この前、ウチの店が紹介されたんですよ。雑誌で」と知り合いのマスターが言う。「ああ、読みました。だいぶ誉められてましたね」「ええ、まぁ。それはいいんだけれど、やっぱり、ああいうのはダメですね。ヘンな客が多くなりました」「へぇ」「電話して来るんですよ。若いのもいれば年輩もいます。全員、男性。これから女連れで行く、『いつものやつ』と言うから、なになにを作ってくれ、というような電話です。常連っぽく見せたいんでしょうね、女性に」「情けないなぁ。で、そういう時はどうするの?」「ええ、そういう客には、オレンジ・ジュースをお出しします。面白いですよ。心の底からびっくりした顔になって、うろたえます」マスターはゲラゲラ笑った。私も一緒になって笑った。(「酔っ払いは二度ベルを鳴らす」 東直己) 


官幣大社出雲大社
大国主神を祭神とする旧官幣大社出雲大社は、島根県簸川(ひかわ)郡大社町杵築(きづき)南に鎮座する。古く天日隅宮(あまのひすみのみや)とか杵築社といわれた当社が、大和政権の援助により造営されたのは八世紀前期であった。当社の神酒づくりには、神水・神火の秘儀が伝承されている。とくに神火の儀は、桧の火鑽(ひきり)臼とウツギの火鑽杵とをすり合わせた原始的発火法で得た忌火(いんび)が使われた。また、一一月二三日の古伝新嘗(にいなめ)祭に供御される醴酒(れいしゅ)は、甘味の遠い甘酒素(もと)に似た酒である。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


風呂上り唄
いつも御嘉例のお風呂の上り いつもこころがさわやかに
酔に酔た酔た五勺の酒に 一合飲んだら由良之助
殿さ前髪わしゃ振袖で 世帯するのは恥しや
酒は諸白肴は小鯛 ことにお酌は忍び妻
酒は飲まんせ一合や二合 三合までなら買うて飲ます
酒は飲みたし酒代はもたぬ 酒屋酒屋を見て通る
酒と名のつく気違水を 誰が飲ました主さんへ
酒を飲む人しんから可愛 酔うてくだ巻きゃなお可愛い
酒はもとより好きでは飲まぬ 会えぬつらさで自棄(やけ)で飲む
酒は酒屋でよい茶は茶屋で 娘煙草の火を貸しやれ(「京の酒」 八尋不二)初添えの二番櫂入れをするときに唄うのだそうですが、この作業は入浴後におこなわれたので「風呂上がり唄」とも「添謡いもの」ともいわれたそうです。 


いとこ兄弟
アミ族の男たちもたくましかった。農繁期以外には、川をさかのぼり山奥にわけ入った。そこに小屋を掛け、水牛を放し飼いにした。そして、そこを基地として狩猟や採石に励んだ。しかし、他民族の侵入に対しては警戒が必要であった。そんなとき、いとこ兄弟は、常に行動を共にしたのである。「いとこ兄弟が、いちばん頼りになる。そう、山入りの最小の単位がいとこ兄弟だった。それ以上に人数が要れば、お互いに実の兄弟を加えればよい。また、別のいとこ兄弟と、二組、三組と組んでもよい。でも、いつも運命共同体となるのは、いとこ兄弟以外にない」と、頭目が語ってくれたことがある。そのいとこ兄弟の契りは、日本での兄弟盃ほどに厳重なものではない。当人同士が意思を確認して、口約束をかわす。そして、主としてその年のイリシンのとき、隣同士で踊りながら酒(焼酎)を飲む。竹筒でつくったひとつの盃の酒を交互に飲むのだ。それが、兄弟盃に相当するのではあるが、そう限定するわけにもゆかないところもある。踊りの輪のなかには酒が大量に用意されており、踊りが中断したときは誰彼となく盃をまわして共飲するからだ。しかし、隣同士で踊りながらひとつの盃で何度も酒を飲みかわすことで、周囲にもいとこ兄弟の成立を認めてもらう。そこにその儀礼的な意味がふくまれている、とみてよいだろう。事実、彼らが酒を飲むときは、そのまわりの者が手拍子をもってひときわにぎやかにはやしたてるのである。さてこのように命までをいっしょにかけて共同作業を行う。これ以上に明確な「兄弟なり」の理由はあるまい。その実利がなくなっても、制度だけがなお残る。現在のアミ族社会がそうである。私が知ってからたった四半世紀ほどのあいだに「山入りをしないいとこ兄弟」の現実にかわっているのだ。さらに、それ以上に慣行が有名無実化したのが日本の戦後、とみればよいのではあるまいか。(「三三九度」 神崎宣武) アミ族は台湾の山岳民族だそうです。 


256 ヱノナ (ゑ)ふ程はまずくちなわ殺し
くちなわは、大酒のみ。大蛇。外の連中はすぐに酔ってしまい、さっさと引き上げて、跡には呑み足らぬおろちだけが、不満そうにねばっている。(「大阪宝暦折句秀詠」 鈴木勝忠) 


うたごえの店 灯(ともしび)
もっとも、この店のそもそもの出発は、うたごえ運動と直接関係はないらしい。この町で料理と酒をあきなう店があった。ロシアの女性が働いていた。サービスに歌を歌った。大変に喜ばれ、そのうちに客が合流して歌うようになった。浅酌低唱とはちがった集団の歌が、雰囲気を作るのを見た店主は、新しい商法を発見したわけである。十年のあいだに、歌を余興にした食堂が、歌専門の酒場になり、酒よりも喫茶のほうが学生層を包容し得ることから三転して、現在のシステムに切りかえたのだという。「歌うビルディング」というのは、火野葦平の命名である。その歌うビルの最もにぎわう土曜日の夜八時半ごろ、見に行った。二階が二十四平方メートル(八十坪)ほどのフロア、半分吹きぬけになった三階が、かぎの手に床を張り出している。上下のテーブルを囲んで、ざっと四百人から五百人ぐらいの、青年男女がギッシリ腰かけている。イスは待たなければ、なかった。ほとんどがジュース、ケーキ付コーヒーで、夜はふけるとビールという注文もあるようだが、酒に酔っている人は見かけない。酔うものが、ほかにあるからだ。(「東京だより」 朝日新聞社編 「うたごえの店」 戸板康二) 昭和30年頃オープンした、西武新宿駅前にあった店だそうです。 


狸、座敷童子
静岡県北設楽(きたしだら)郡本郷にある酒屋の土蔵には古狸が住んでいて、ながいこと蔵の中の酒をのんでいたため、腹が赤くなっていたといいますし、また同県の長篠の城跡の近くの運送問屋の荷蔵にも狸が住んでいて、時おり狸の腹づつみの音がきこえたともいいます。私の生家には五メートルもある青大将が住んでいましたが、ただしこれはあまり自慢にはなりません。そういった点で、東北地方の座敷童子(わらし)はその存在にひとつの意義を持っていました。岩手県九戸郡大川目村山口郷の小倉某家の場合をとりあげてみますと、この家はむかし国家老の家として代々栄えたものですが、この小倉家には年に一度、旧正月の十六日に座敷童子の着物をとりかえる仕きたりがありました。つまり正月十六日の夜、童子のあたらしい着物を膳に据えて、酒肴の膳といっしょに床の間に供えておくと、翌朝にはちゃんとぼろぼろのふるい着物ととりかえられてあったといいます。この着物を年々とりかえて、それがいまあるだけでも十何枚かになったというのが、この家の自慢の種でありました。(「陽気なニッポン人」 酒井卯作) 


夜明けあと(4)
明治三十二年 米国に禁酒論者が多い。雇った部下にも飲酒を許さない。日本移民の中に、酒粕で代用する者あり、輸出がはじまる(報知)。
明治三十二年 大阪。壽屋が国産の赤玉ポートワインを製造。
明治三十二年 銀座通りの新橋ちかくに、ビアホールが出現。広告もかねる。増加の傾向。
明治三十二年 ヱビスビールを、旅順・大連に輸出しようとしたが、相手にされない。日本では福の神だが、ロシア語では品のない言葉(中央)。(「夜明けあと」 星新一) 


問題4
あおる−(イ)あおむいてぐいと飲む (ロ)一口一口じっくり飲む (ハ)しきりにがぶがぶ飲む (ニ)こっそりかくれて飲む
酌量−(イ)こまかに調べること (ロ)手かげんをすること (ハ)将来を予想すること (ニ)心の中を察すること
回答
あおる−(イ)あおむいてぐいと飲む。 一気に飲みほす。「酒をあおる」「毒をあおいで自殺した」などと使う。漢字では「呷る」と書く。本来は「あふる」であって、風が吹いたり、風を起こしたりして物を動かす意の語と同源と考えられる。
酌量−(ロ)手かげんすること。 「情状酌量」、または「情状を酌量する」などと使う。「酌」は、本来酒を杯にくむこと、転じて、あれこれ照らし合せて加減する意であり、「量」は、事の軽重等をおしはかることである。(「語源のたのしみ」 岩淵悦太郎) 


大食
食いくらべは、東西を問わず、いつの時代にも行われるものだが、ここの食いくらべは、桁外れのものすごさで、いくら食い意地の張った人間でも、ちょっとあやかってみたいという気にはなれそうにない。競技は四日間続く予定で、まず第一日目にはタピオカ、ヤマノイモ、焼きバナナといった、いかにも腹がふくれそうな食べ物がどっさりでたあとで、仔牛一頭をたいらげるというのである。チャンピオンとして対決するのは、大食漢を自認するアウレリャーノ・セグンドと、<象おんな>のあだ名をもつカミーラという女だ。ともかく、最初の日の食べくらべでは、ふたりとも勝負なしということになり、四時間ほど眠る。目をさますと、今度は五十個分のオレンジジュースと八リットルのコーヒー、それに三十個の生卵を飲み、そのあとで、二頭の豚とひと房のバナナ、四箱のシャンペンを片づけるという始末である。さすがの大食漢も息もたえだえ、鬱血一歩手前といった危険な状態になるが、食事は、これで終わりではない。二羽の七面鳥を焼いた、新しい料理が目のまえにだされ、さあ、一羽ずつ召しあがれといわれたとき、この食べくらべのドラマはクライマックスを迎える。(「世界文学『食』紀行」 篠田一士 『百年の孤独』 G・ガルシア=マルケス) もちろん小説です。 


ぬ利彦
京橋二丁目、昭和通りに面して「ぬ利彦」の看板をかかげた九階建の大きなビルが二つ並んでいる。その一つの第一ぬ利彦ビル、二階にコンピューターを入れ地下を倉庫にして、タイル張りの広い一階のフロアはまるで酒の博物館、目移りがするほどに内外のありとあらゆる酒の瓶が集まっている。初代中沢彦七は摂津の屏風(びょうぶ)村の人。藩主九鬼氏の参勤交代の供をして江戸へ出て来て、当時松川町といった現在の場所で酒醤油の仲買をはじめたのは、享保二年(一七一七)のことだった。江戸は日本一の大城下町、当時すでに人口百万を超える繁華を誇っていたが、酒はほとんど上方に依存していた。樽廻船と呼ばれた二百石から四百石積みの船が、上方の銘酒を積んで霊岸島の新川に着く。長い海路なので天候によって遅速が起こり、それが値にひびいた。江戸時代の「ぬ利彦」の代々の当主は、大屋根に登って風向きを見定めてから、新川の問屋町へ買いつけに出かけたそうである。今は高速道路になってしまったが、すぐ前に日本橋川と京橋川とをつなぐ堀割があって、買いつけた酒は、船でその河岸にある自家の蔵へ運びこんでいた。この初代は"天狗"の異名をとった。小田原へ日帰りで往復したというほどの健脚家でもあったそうだが、店に坐りこんでいないで、自分で走りまわって商圏を拡げたところからついた異名だろう。商いは機敏だったが、値が上がりそうだと見ると、得意先へ上がらないうちに買うことを奨めてまわる。そんな算盤(そろばん)をはなれた篤実さがあって、「ぬ利彦」は次第に大を成していった。遠祖は源頼朝旗下の武士だったというが、中沢家代々のあるじたちは、一種士魂を思わせる爽やかな商法を採っていたのである。先年隠居した中沢彦七さんは数えて八代目。明治・大正・昭和と三代を生き抜いた、むかし気質な大店のあるじの風格がある。良い意味でのワンマンぶりと、時流に遅れない進取性とで、「ぬ利彦」の屋台をしっかりと支えてきた。(「東京の老舗 京都の老舗」 駒敏郎) 


酒豪二人
奥野(信太郎)先生も暉峻(康隆)先生も、兄弟をつけがたいほどに、酒豪だった。お二人と旅に出ると、小原庄助さんよろしく、朝湯、朝酒にはじまり、昼酒、夜酒、深夜酒と、毎日が午前さまという強行軍の酒びたりとなる。−
参考までに一日の先生方の飲みっぷりをご紹介しておく。午前六時起床、すぐドンブリコとお湯に入り、七時半からかるく朝酒、ビール二本、お酒二本ないしは三本。昼は、これまたかるく一杯というのが、一人三本から四本。夜は、ネオンサインのまたたく限り、何軒でも梯子。日本酒を五合くらい。ウイスキーの水割りを十五、六杯。中やすみにビール二本、また次々とバー、クラブで水割りを五、六杯平均。十軒梯子すれば五十杯くらいという計算になる。(「酒と旅と人生と」 佐々木久子) 


閑情記趣
粛爽楼では四つの事が禁じられてゐた。官吏の異動についての話、官衙及び時局の話、八股文(科挙の試験の時に用ゐる文体の名)の話、及び牌(かるた)をやるとき他人を見て目くばせすること、これである。この禁制を犯したものは必ず罰として酒を五斤おごらねばならなかつた。また四つの事が喜ばれた。慷慨豪爽、風流蘊藉、落拓不羈、澄静緘黙、これである。夏の日永の退屈したときには、対句の運座を開いた。この会は八人づつでやるので、各人みな銅銭二百文づつ持ち寄る。先づ鬮(くじ)を引いて、一等を引き当てたものが試験官となり、不公平を防ぐために別座に控へる。その他のものはみな受験者といふわけで、各々記録係から紙一枚づつ受取つて捺印をする。試験官が五言と七言の各一句を出題する。線香に目盛をして時間を限り、各人はその対句を考へる。歩きまはるなり佇(たたずむ)なりそれは各人の自由であるがたがひに私語することは許されない。対句ができて小匣(こばこ)の中に投げ入れるとはじめて座に就くことを許される。みんなの答案提出がすむと、記録係が匣を啓(ひら)いて、全部これを一冊の帳面に写し更にこれを試験官に提出する。これは情実を防ぐためである。試験官は十六対の中から七言のを三聯、五言のを三聯選ぶ。そして六聯中第一席に当つたものが後任の試験官となり、次席が記録係となる。両聯とも選に入らなかつた人は各々罰金として銭二十文、一聯だけ入選したものは各々各十文、また期限をすぎたものはその二倍の罰金を出さなければならない。一回の試験に、試験官は線香代として百文を得る。だから一日に十回これを繰りかへすとすれば、千文の銭が積まれるわけで、それだけあれば酒代に事欠きはしない。(「浮世六記」 沈復 佐藤春夫・松枝茂夫訳) 乾隆27年(1763)年に生まれた沈復の自叙伝の一節です。 


芭蕉の酒
三重県といえば、江戸期にさかのぼると、松尾芭蕉がいる。芭蕉は、詠んでいる俳句から察すると、けっして嫌いではなかったが、酒豪の門人榎本其角らにくらべると、とくに強いほうではなかったようだ。そしてその飲みかたはには、年齢やときの境遇によって、かなりの違いがみられる。その変わりぶりは、陽気型から陰鬱型を経て自適型へ、とでもいえようか。まず陽気型は、算え二十九歳で江戸へ出た直後の三十代である。花見酒に酔い興じた句がある。 花にやどり瓢箪斎(ひょうたんさい)と自らいへり 二日酔いものかは花のあるあいだ いずれも延宝年間(一六七三−八一)、三十から三十八歳の間の作である。−
ところがこの明るさが、延宝八年(一六八〇)の冬、日本橋から深川へ居を移してから消えてゆく。 花にうき世我(わが)酒白く飯黒し 椹(くわのみ)や花なき蝶の世すて酒 酒のめばいとど寝られぬ夜の雪 いずれも四十代前半の句である。−
やがて四十代後半から五十代にかけての酒には、心の余裕が感じられる。 雪をまつ上戸の顔やいなびかり 夕顔や酔て顔出す窓の穴−
芭蕉には何かと世捨て酒のイメージがつきまとうが、それはある一時期の酒だと言えそうである。(「大江戸浮世事情」 秋山忠彌) 


民主的
東京の居酒屋は、江戸時代の、参勤交代で江戸詰めになった侍や、経済的発展や火事、地震などによる慢性的建築ブームを当て込んだ出稼ぎなど、いろいろな理由で多かった単身赴任や独身者のための飯屋から発生した。あれだけ身分のうるさかった時代に、居酒屋で飲む時は、侍も庶民も一緒だった。「開かれた酒場」に意味をもつイギリスの「パブ」も、最近まで入り口は紳士用と庶民用に分かれ、アメリカ南部の酒場も、ぼくが最初に訪れたころは白人と黒人用に分かれていて、黒人用へ入ったら「お前はあちらだ」と言われた。その点、日本の居酒屋は民主的だ。(「銀座の酒場 銀座の飲り方」 森下賢一) 


昭和三十四年夏場所
吉井山は紅陵大学(拓大)で学生横綱になり、出羽海部屋に入門した戦後初の学生出身力士である。昭和三十四年夏場所十四日目の夜、後援者と深酒をし、翌日の千秋楽に起きられなってしまった。酒を飲んで土俵へ上がった力士は多いが、泥酔して休場というのは珍しい。(「相撲百科」 もりたなるお) 


葡萄酒二樽
次ぎにはまた水が欲しいと手真似をしてやった。我輩の大食ぶりからみて、とうていちょっとやそっとのことでは間に合わないと見てか、実に利口な奴らで、彼らは一番の大樽を一つスルスルと吊し上げたかと思うと、我輩の手の方へゴロゴロと転がして来て、ポンと呑み口を開いてくれた。我輩は一息に飲み乾してしまったが、なに、あたり前のことで、量といっても半パイント(約一合半)は怪しい、それに味がまたバーガンディの薄口葡萄酒に似て、も一つうまいと来ているのだから、もう一樽持って来た、だがこれも同様、そして我輩はもっとくれという手真似をしてみせたのだが、今度はもうないということだった。なにしろこうした奇跡をやったというので、彼らはもう大喜び、大騒ぎで、我輩の胸の上を小踊りするやら、そしてはあの最初したように、『ヘキサー、ディガール』を叫ぶのである。彼等は我輩に向って、二つの空樽を投げ下ろしてくれろという手真似をしたが、それもまず大声で『ボラック、ミヴォラ!』と叫んで、下の連中に危険だから退け退けと一応警戒を発しておく。さて大樽が宙に舞ったかと思うと、またしても一斉に『ヘキサー、ディガール』のどよめきだ。(「ガリバー旅行記」 スウィフト 中野好夫訳) リリパット(小人国)での最初の部分です。この葡萄酒には催眠剤が入っていたそうです。 


ドゥー・ギャルソン
その中でぼくのお目当ては、セザンヌが足しげく通ったという、「ドゥー・ギャルソン」。店はクール・ミラボー大通りに面していて、とてもわかりやすい場所にあった。ぼくたちは塩崎さんという強力な案内人を先頭に立てて、さっそく、店の中に入った。店の内装は十九世紀初頭に流行した「アンティーク・エトルリア調」という様式だそうだ。建物は現在、歴史的建造物に指定されているとのことだった。この店の創業は一七九二年と古く、店名の由来は創業者の二人の男性の名前からきていると聞いた。"GUERIN"(ゲラン)と"GUION"(ギヨン)の二つのGの頭文字を組み合わせ、つけられたということだ。二つ(ドゥー)のG(ジェ)である。したがって、いまでも土地の人はこの店を「レ・ドゥー・ギャルソン」と正式店名では呼ばず、「レ・ドゥー・ジェ」と呼んでいるそうだ。セザンヌは、この店に毎日夕方四時から七時のアペリティフ・タイムに現れ、「"Rinquinquin"(ランカンカン)」という、ピーチベースのヴァンキュイ(食前酒)を好んで飲んでいたという。南仏の輝く光とさわやかな大気のなかで、思う存分に充実した時を送ったあとのこの一杯は、言葉では言いつくせないほどの味わい深さをもち、セザンヌにとってはこの時こそ、まさに至福の時であったことだろうと、ぼくは思った。それにしてもセザンヌは「エックス」のお坊ちゃん、ずいぶんオシャレな食前酒を飲んでいたものだ。「レ・ドゥー・ジェ」には多くの著名人が訪れていた。名優ルイ・ジュヴェ、伝説の歌姫エディット・ピアフ、実存主義のジャン・ポール・サルトル、そして最近ではかのピーター・メール氏がここを訪れていた。(「世界美味美酒文化雑考」 映像ディレクター冨田勝弘) 


古代の旅費規程
官公庁や民間企業の旅費規程は、日当や宿泊費・交通費の支給基準が定められている。この制度も古代律令制度の出張規程に源を発するもので、『延喜主税式(ちからしき)』によると、官人には日当として「米二升・酒一升・塩二勺」が支給された。酒一升(現在の四合)が支給されるのも、「人の性酒をたしなむ」倭国の伝統からか。『養老軍防令(ぐんぼうりょう)』の兵士が具備する用具の記述には、コメは糒(ほしい)に加工して飯袋(いいぶくろ)に入れ、焼塩は塩甬(おけ)に、水は水甬に入れて持参すると定めている。一般の旅びとも同様な装具で旅をしたのだろう。自炊が原則の旅で食料携帯という負担を軽減するため、朝廷は和銅五年(七一二)十月に、旅には銭を持参せよと命じた。役夫が重い食料を携帯すれば輸送力が減少するので、路地で食料が調達できれば好都合である。ところが、翌和銅六年三月に重ねて、旅には銭一袋を持参するよう詔がくだされるので、この令は、あまり守られなかったらしい。(「食の万葉集」 廣野卓) 


世間に酒ほどの薬はない
世の中に酒のような薬はない。狂言「木六駄」に、<いやのう。そうじて世間に酒ほどの薬は無いと思わしませ。まず第一寿命を延ばし、旅の憂さを忘れ、寒さを防ぐ。今身共が身の上に思い当たっておりゃる。もす又酒は毒じゃと言う人があらば、この太郎冠者が目に物を見しょう。(日本古典全書による。)>とある。(「飲食事辞典」 白石大二) 


気の遣いっぱなし
「おまえら何頼むんだよ。頼むんなら早くしろよ、ママだっていろいろ忙しいんだから。腹減ってんのか?だったら早く頼めよ。ほら」「はい、わかってます」メニューもまだ、見せてももらわないうちにこの有様なのだ。「じゃあ、カキフライと、ハンバーグください」「サラダは何がいいかな」と、日本橋生まれで銀座育ちだというママがきいてくる。と、すかさず師匠が、「サラダなんかいいんだよ、そんなもの出さなくたって。悪いね余分なことさせちゃって。面倒じゃないかね」「そんなことはいわよ。つくるのはあたしじゃなくてコックさんなんだから。お酒は何にするの。ビールでいいのかな?」「だから、こいつらにそんなこときかなくっていいっていってるの。なんでもいいんだから。なに飲むんだよ。なにィ!? ウイスキーの水割りだって? 俺がビール飲んでんのにか。ったく、ま、いいや、好きなもの飲めや。ママ、悪いけどこいつらに水割り出してやってくんない。ほんとに最近の若いやつらは口がおごっちゃって生意気なんだよ。悪いね、ママ」師匠は最初から最後まで店に対して気の遣いっぱなしなのだ。どの店に入ってもそうだった。それでいて、どうだうまいか、うまいだろうなどとひとり満足しながら、オイラたちの食うのを見て喜んでいるところもあった。(「浅草キッド」 ビートたけし) 師匠は、深見千三郎だそうです。 


正式な踏みつぶし方
飲み終わった缶ビールの、正式な踏みつぶし方をご存じですか。−
まあ、そんな細かいことは気にせず、まずはアルミ缶とスチール缶に分けてから、空き缶を軽く水ですすいで下さい。次に空き缶を寝かせて、真ん中かを真上からゆっくり踏みつぶします。すると蓋と底の両端が、踏みつぶした足を包むように内側に倒れこんできますよね。そうなったらいったん足を抜いて、あらためて蓋と底の両面を均等に踏みつぶします。出来上がりは、蓋と底の二つの丸が並んだメガネ状の一枚板。これで、運搬効率がぐんと上がります。−
空き缶をつぶさないで、と呼びかけている自治体もあります。回収してきた空き缶を圧縮してブロック状に固める機械を使用している場合は、平たくつぶされた缶同士ではかみ合わず、うまいブロックができないからです。環境に優しいつもりの努力が逆効果、というのも悲しい話ですから、自治体のお知らせにはよく耳を傾けてください。(「もっと美味しくビールが飲みたい!」 端田晶) 


地獄蒸し
九重町のある"豊の国"大分の別府温泉には「地獄蒸し」と称する名物料理がある。湯気がもうもうの温泉蒸気で魚、野菜、卵などを一気に蒸しあげ、観光客に提供するもの。地底エネルギーを活用する知恵は、エコやクリーンエネルギー源の見直しが叫ばれるずっと昔から日本人に備わっていたのだ。だが、これを一人の人間が食品加工に活用し、しかも商品化を実現してしまうなんて…なんと大胆で、勇ましいこと。その人こそ、わたしを真夜中に阿蘇の隠れ里・岳の湯へ導いた山口怜子さん。福岡県久留米市の郊外・北野町にある山口酒造場の十代目主人で、ご主人に先立たれた現在は食工房地蔵原主宰者にして、チーム・ヤマグチのリーダーである。(「一食一会」 向笠千恵子) 久留米市北野町にある山口酒造場の酒名は「庭のうぐいす」で、社長はその息子さんだそうです。 


魯智深
魯智深、のれんをかき上げ、そまつな店の中へ歩み入ると、小窓のわきに腰をかて、大声出して、「亭主、通りすがりの僧だ。酒を一杯のませてくれ。」在の者、じろりと見て、「和尚さま、どちらから見えました。」智深、「おれは行脚の僧、廻国巡礼をしてここを通る。酒を一杯飲ませてくれ。」在の者、「坊さん、もし五台山の和尚さまなら、わたしは飲ませてあげられませんよ。」智深、「あっしは違う。さっさと酒を持って来い。」在の男、魯智深の例の姿恰好なり、言葉も違っているのを見て、「どれだけ召しあがります。」 智深、「いくらでもよい。大碗でどんどん持って来い。」と、大碗でおおかた十杯ほど飲んだところで、智深、「どんな肉がある。一皿食わせる。」 とたずねれば、在の者、「朝は牛肉がすこしございましたが、すっかり売り切れました。ただ野菜が少少あるだけです。」、ふと嗅ぎつけたは一陣の肉の臭い、庭へ出てみれば、塀のそばの土鍋の中に、犬が一匹にてあります。そこで智深、「おまえのところには、そこに犬の肉があるではないか。なぜおれに食わせぬ。」在の者、「御出家さまのこととて、犬の肉は召しあがるまいと、おうかがいしませんでした。」智深、「あっしの金はほらこのとおり。」 と銀子を在の者に渡し、「とにかく半分、おれに食わせろ。」在の者、いそいで煮えた犬の肉を半分取り出し、にんにくを搗きつぶして、それを智深の前に置くと、智深、大喜びで、手で犬の肉をひきさき、にんにくおろしをつけて食べながら、続けざまにまた大碗十杯ばかり酒を飲みます。(吉川幸次郎・清水茂訳)(「中華文人食物語」 南條竹則) 水滸伝、花和尚の酒屋に入るくだりだそうです。 


加嶋家
ご維新で京都より江戸(東京)へ遷都の折羊羹の黒川家等、多くの御用商人もお供をして東上して来ましたが、造酒司だけはどうしたことかお伴して来ませんでした。そこで江戸表(おもて)より、代々由緒ある酒問屋加嶋家に、この白酒黒酒(しろきくろき)醸造のご下命があるようになったのですが、加嶋さんはそのほかの酒は造っておられませんので、唯それだけのための、日本一小さい酒造家さんということになります。さてその白酒黒酒は、十月十七日神嘗祭の折、全国より供えられた新米を、天覧の後、十一月一日から仕込にかかって、十一月二十三日の新嘗祭の前日までに出来上げたのが合せて約八斗、それをに神にお供えの後、当日の儀式に参内した高官連と共に、陛下がお召し上りなるもので、いわば新米による最初の新酒を味わわれるということでありましょう。その仕込みは、戦前は、加嶋家斎戒沐浴してなされましたが、倉が戦災にあわれたこともあって、戦後は加嶋さんが宮中に参じてお造りしている由で、その醸法は延喜式当時より麹は少なく、水は多くなっています。また一種の酒袋によって粕を分離するので、現行酒税法に照らせば一応清酒に当たるが、特殊の用途ですから免税になります。そしてその粕は、式のときに使うかわらけ等と共に、後には残さず地中に埋めてしまうのだそうです。ではその味わいは?と言いますと、酒通をもって鳴るいまは故人の大野伴睦先生(当時、衆議院議長)の言によると、「正直なところ酸っぱくて飲めたものではない。誰も一寸くちびるをしめす程度だよ」とのこと、古い慣習を厳守し、改良が許されないのであってみれば、これはむしろ当然で加嶋さんのせいではありません。また、伊勢神宮の白酒黒酒を「口利」(きき)されたという元名古屋国税局の畑生鑑定官室長の話では、「あれは神様のお召し上がりになるもので、我々ではとても−」とのことですから、そのほどが伺われます。(「酒おもしろ語典」 坂倉又吉) 御神酒醸造蔵 今は藤居酒造が納めているということなのでしょうか? 



好んでもちいられる色は、 紅<ほん>(あか) 緑<ろっ>(みどり) 黄<うぉん>(き) 藍<らーむ>(あお) の四色だが、なかでもひんぱんに街で目にするのは、紅、黄、緑の三つ。看板にこれらの色を選ぶについては、次のような「色の約束ごと」をふまえる。 紅−慶事、好運、美、勝利を表す、エンギのいい色。 黄−富貴、財力、黄金を表わす、景気のいい色。 緑−<福禄寿>の<緑>にも通じるおめでたい色。 (ただし<載緑帽>−「緑の帽子をかぶる」というと、これは亭主が女房を寝取られることだから、あまりめでたくない、米軍がグリーンベレーが香港を行進したら。見物人は大喜びだろう) 藍については、まえの三つほどはっきりしたいわれはないが、酒楼の看板にときどきこの色をしたものがある。どうやらそのルーツは、 千里鴬(うぐいす)鳴いて 緑、紅(くれない)に映ず 水村山郭(さんかく)酒旗の風 と、古詩にもうたわれた<酒旗>にありそうだ。中国では古来、居酒屋の目じるしに酒旗を掲げた。この「飲み屋」の看板の色が藍だったといわれる。(「香港 旅の雑学ノート」 山口文憲) 


樽ひろい紋の付いたは新下(しんくだ)り さがしこそすれさがしこそすれ
主人の共をするのに、紋の付いた木綿物を着て歩いている小僧がいる。江戸では見馴れないあの服装は、上方からやってきた新下りの丁稚(でっち)に違いない。定紋の付いた木綿物は、江戸では用いなかったが、上方では平服に、また丁稚の正式の服装に用いる風習であった(『守貞謾稿』巻之十三)。江戸人から見ると幾分野暮な感じに見えたのであろう。 ○樽ひろい=酒屋の小僧。得意先を廻って空き樽を回収したりするところからの名称。 ○新下り=上方の本店から新しく江戸の出店へ下って来た奉公人。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


めし
白状するとめしが一番好きなのですが、どうもあれは旨すぎる。沢山食べないように警戒しているから、お茶漬けも残念ながら年一度です。酒類は清酒に換算して三〜五合というところでしょうか。病気を酒のせいにするのは嗤うべき迷信です。そばは好きといっても、本当のそば食いではない。いつでしたか、ざるそばを食べていたら、職人風のおやじがあとから来て、もりを二つスルスルとやってしまい、まだ半分も食べかねている私の顔をジロリと睨んで出ていきましたっけ。(談)
  朝 酒   昼 酒       夜 酒
月   なし  なし ビール、酒、ウィスキー 火   なし  黒ビール一本 ビール、赤ブドウ酒、ウィスキー
水   なし  なし ビール、赤ブドウ酒、ウィスキー
木   なし  なし ビール、赤ブドウ酒、ウィスキー
金   なし    黒ビール一本 ビール、酒、ウィスキー
土 なし  なし ビール、酒、ウィスキー
日 なし  なし ビール、赤ブドウ酒、ウィスキー
(「週刊現代」 昭和三十四年)(「雨のみちのく 独居のたのしみ」 山本周五郎) 酒の部分のみです。 


大下戸と大上戸
家光に仕えた松平伊豆守信綱は<知恵伊豆>と呼ばれるほどの切れ者だったが、切れ過ぎることがかえって評判を落とす原因となり、(土井)利勝もそのことで信綱に忠告することもあった。その信綱は大下戸で、利勝は大上戸だった。そして信綱はつねづね天下の老中ともあろう者が酒を飲むのはいかがなものかと、批判的であった。ある日、老中一同で神田橋を通ったとき、一人の酔払いのよろけ歩くさまが甚だ見苦しかった。信綱はこのときとばかり利勝に声をかけ、「見事な伊達歩(だてあゆ)みですな」と皮肉いっぱいにその酔払いを指すと、利勝は「伊豆殿、お嗜(たしな)みなされ。下戸の酒に酔ったほど見苦しいものはありませぬぞ」とやり返したので、信綱も二の句がつげなかった。(「聞いて極楽」 綱淵謙錠) 


昭和二十一年
昭和二十年という年は、よくよく悪い年であった。戦争には敗ける、米は大凶作…まったく"弱り目に祟り目"の見本のような年であった。ところが、この"祟り目"は、翌二十一年になっても解けず、いや、却ってますます深刻度を加え、二月十七日、米の供出に強権発動をした"食料緊急措置例"の公布をみて、供出成績は好転するかにみえたが、ついに四月に入って北海道は遅配二十日以上になり、連合軍から初の小麦粉放出がされるという事態となった。そして、五月に入ると東京を中心にする京浜地区、つづいて京阪神へと"飢饉"はひろまっていった。こうなっては、酒どころの騒ぎではない。政府は、六月一日から七月三十一日までの期間で、米、大麦、甘藷を入荷させないことと、六月一日現在で、酒類製造場に在庫する右の三品を食糧として供出させることとなった。この量、合わせて、甘藷二百二十万石、大麦八万二千石、米六千七百石で、米が少なかったのはすでに二十一年分として三月中に酒の仕込みを終っていたためであった。この非常措置は、食糧危機突破のため、大蔵省と、酒類業者が自主的に決定したもので、酒の製造は事実上、停止となった。この間隙をついて、密造酒が横行する。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


酒作

先(まづ)さけめせかし。はやりて候。うすにごりも候。  
酒作。

七番 宵ことに都に出るあふらうり更てのみ見る山崎の月
見渡せば秋の田面のいなもちゐおひきに出る山のはの月
 左哥。暮ごとにとこそいふべけれ。夜やはあぶらうるべき。右歌は。秋のたのものいなもちゐ。ま事にさる事ゝきこゆ。仍もちゐにつくべきにや。
山崎やすへり道ゆく油うり打こほすまてなく涙かな
なからへて君とねのこはいさしらず三かひとつもせめてあはゝや(「七十一番職人歌合」 群書類従第十八輯) 職人歌合は、職人に仮託して歌を詠み、左右でその優劣を比べたものだそうです。そして、「七十一番職人歌合」は、その種のもののなかで一番職人数の多い、室町時代に成立した歌集だそうです。 


酒縁名字
ことのついでに、酒に縁のありそうな名字を電話帳で繰って見たら、屋号、商号を9除いても、酒井、酒伊、酒居、酒依、酒出、酒泉、(酒入)、酒折、酒川、酒掛、酒作、(酒師)、酒田、酒谷、酒戸、(酒徳)、酒舟、酒部、酒巻、酒見、酒美、酒本、酒寄、酒匂、升井、升川、升崎、升田、升光、升野、升水、升元、升本、升森、桝井、桝宇、桝岡、桝潟、桝田、桝谷、桝野、樽井、樽石、樽川、樽沢、樽見、樽味、樽元、樽谷などがあった。名前では「天保水滸伝」でお馴染みの平手造酒、「寛永三馬術」の丸目蔵人などがある。(「日本酒物語」 二戸儚秋) 「酒」の字の入った名字  


ホーロータンク
阿部礼一氏の著書*によると、大正十二年にホーローの湯槽をみつけ、これを酒の貯蔵に使うヒントを得た、と記してあり、まず調熟の試験から手をつけたもののようである。
* 阿部礼一、齢八十にして想い出の三、四(一九七三)(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


トウンパ
醸造酒(トウンパ)はチベット人の大僧正(チニ・ラマ)の夫人につくってもらった。材料はコードと呼ばれるシコクビエと、麦麹の粉である。まずヒエを臼でつき、外皮を除く。一時間半ほど洗って、それをゆで、竹のむしろに広げて冷ます。そして麹の粉を混ぜてから土壺に入れ、五日間ほどねかせて醗酵させる。醗酵したヒエを器に入れて湯をさす。赤黒い色をしたヒエの粒が残っていることから"粒酒(つぶざけ)"ともいう。竹製のウトローをさして吸う。まさに、日本酒の熱燗の味だ。吸いながら、何度もそう叫んだ。(「アジア食文化の旅」 大村次郷) シコクビエ   


酒と女と歌を愛さぬ者は
酒と女と歌を愛さぬ者は、一生涯阿呆(あほう)で過ごすのだ。 <出典>ドイツ、マツチン・ルター(Martin Luther 一四八三−一五四六)の言葉。 <解説>免罪符に象徴されるローマ・カトリック教会の腐敗と堕落に抗議するため、ヴィッテンベルク教会堂の扉に「九十五箇条の意見書」を貼って宗教改革に火をつけ、ヨーロッパ中を宗教戦争の渦中にひきずりこんだルターは、その役割からすれば、謹厳実直居士の堅物のはずでそのルターが言った言葉とは思えない。ルターは、ドイツのアイスレーベンの鉱山業者の息子だったが、荒野で雷に襲われた恐怖を免れた感謝の念から、托鉢修道会の聖アウグスティヌス隠修士会に入った。そこでルターは、教会と教団の示してくれるあらゆる苦行に耐えたが、それがむだであることに気がつき、人は信仰のみによって救われることを悟る。修道士たちの不毛な禁欲主義や、低級な偽善に背を向け、自らが「信仰のみ」という宗教改革の標語となり試金石となった。私生活では、四二歳で尼僧カタリナ・フォン・ボラと結婚し、自ら結婚の神聖・重要性をその生活の中で実践し、精神的に豊かな家庭生活を営んだ。こうした生き方は日本の親鸞聖人に似ている。彼は女性を尊重するとともに、酒が人の生活に豊かさを与えることを素直に認めていたわけである。(山本博) (「食の名言辞典」 平野・田中・服部・森谷 編) 


汽車のほうがうるさい
夜汽車の中で酒ぇ飲んで、パァパァ喋ってたら、車掌が来て、「少し静かにして下さい。うるさくて寝られません、と他の客から文句が出てるんです」に小痴楽、「バカヤロウ、汽車のほうがよっぽどうるせえ」(「談志楽屋噺」 立川談志) 


初代川柳の酒句(3)
梅屋敷まだ生酔の顔を見ず 五雀     (寒くて)
酔かさめ見れはからた(体)を巻レてる 雨譚     (余程の悪酔い)
三味せんを度度拾うわるい酒 五盛     (本人はしっかりひいているつもり)
飲ム礼者こゝろあたりか弐三軒 春松     (どこの家に年賀に行けば飲めるか)
生酔に供があるのてこわくなし 間々     (いざとなればかついでくれる) (初代川柳選句集上 千葉治校訂) 


教頭
ある日のことだ。やはり昼休みにそこに仲間と行って、授業が始まるまでのちょっとの間、ビールでも飲もうということになった。昼間のことだから、そんなに量は飲まないのだけれど、仲間とあーだ、こーだ、としゃべっていれば、三十分、一時間はすぐに過ぎてしまう。あっという間に午後の授業が始まる時間になってしまった。いまから学校に戻っても、どうせ絞られるに決まってる。「しょうがない、今日はもういいや、午後はさぼっちまえ」ということになって、そのまんま飲んでいたのである。普段ならこんな時間からほかの客が来ることはない。ところが、その日は違った。ちょっと頭の薄くなったオヤジが黙って入って来たのである。そいつの顔を見たとたん、ぼくたちは、それまでわいわいやっていたのが嘘のように、押し黙ってしまった。なんとそのオヤジ、生徒指導の教頭だったのだ。まいったなぁ、と思いながら身を堅くしていると、教頭は。ぼくたちの方をほとんど見ようともせずカウンターに座って、マリちゃんに「ビールをくれ」という。教頭は、驚いた顔のマリちゃんが差し出したビールをうまそうにキュッと飲み干すと、おもむろに立ち上がった。そして、一瞬、ひるんだぼくたちの方にちらっと目を向けて、こういった。「お前ら、早く出ろ」そのまんまの勢いで、ドアを開けて出ていった。いくら酒に寛容な土地柄とはいえ、さすがに昼間から授業をさぼってバーに入り浸っているのはまずい。親呼び出しの上、謹慎処分くらいはくらうところだ。いまなら最低でも停学、厳しい学校なら退学も覚悟しなければならないかもしれない。これはまずいことになったと思いながら、ぼくたちは学校に戻った。事情を知った級友たちに冷やかされながら、呼び出しがくるのを待った。が、おとがめはいっさいなかった。結局、教頭は、ひまわりの一件は、自分が飲んだということにして、見て見ぬ振りをしてくれたのである。これを粋といわずしてなんとよべばいいのだろうか。−
もっとも、あのとき教頭先生が飲んだビール代は、結局、ぼくらが払わされたわけだが。(「今夜もハシゴ酒」 はらたいら) 


断酒弁
もとより李杜(李白・杜甫)が(の)酒腸もなければ、上戸の目には下戸なりといへども、下戸なる人には上戸ともいはれて、酒に剛臆(強い弱い)の座をわかてば、おのづからのむ人のかた(方)にかずまへられて(数えられて)、南郭が○(ふえ 上:竹、下:于)をふきけるほども、思へば四十の年の年にも近し、されば衆人みな酒臭しと、世に鼻覆(おほ)ひたる心はしらず。まして五十にして非を知りしとか、かしこきためし(例)にはたぐひも似ず。近き比(ころ)いたましう酒のあたりけるまゝに、藻にすむ虫と(割れ殻=われから 我から 自分から)思ひたつ事ありて、試に一月の飲をた(断)てば、身はなら柴の木下戸となりて、花のあした月の夕べ、かくてもあられけるものをと、始めて夢のさめし心ぞする。けふより春の蝶の酔心をわすれ、秋のもみぢも茶の下にたきて、長く下戸の楽に老を待つべし。さもあれ此(この)誓ひ、みたらし川に御祓(みそぎ)もせねば、たとへ八仙の一座なりとも、まねかば柳の青眼に交り、吸物さかなは人よりもあら(荒)して、おなじ酔郷にあそぶべくば、いざ松の尾の山がらすも、月にはもとのうかれ仲ま(仲間)と思ふべし。 花あらば花の留守せん下戸ひとり (「鶉衣」 横井也有 石田元季校訂)  


サフラン
「編むはまたもや、かわいいサフラン」と歌ったのは、ギリシアの詩人メレアグロス、古代ローマの頃、サフランは皇帝たちや貴人の寝床の上で、その独特の香りを放っていたという。また、酔っ払わないためのおまじないに、その花で冠を編んでいた。いわゆる「通」といわれたひとびとは、ワインの中に、このサフランを浸していたという。そのワインには、催淫作用があるという噂であった。(「美味学大全」 やまがたひろゆき) サフランライス  


三十八軒
田沼時代料理茶屋の発展と共に酒の入津(にゅうしん)量も飛躍的に増加し、九十万樽から百万樽にのぼったため、明和初年には減少したといってもなお七十六軒の酒問屋があったが、天明七年(一七八七)の大飢饉に酒造高三分の一という制限令が出たため、次第にその影響をうけ、定信の寛政改革に当っては、酒造高の制限は厳しく励行する様つとめたため、寛政二年(一七九〇)には四十八軒に減少した。この影響で相ついで減少の道をたどり、文化十年十組問屋の株仲間成立にあたっては三十八軒に減じてしまった。しかし株仲間が杉本茂十郎の努力で成立して以来、これが独占的な組織となったため、この人員が下り酒問屋の定数となり、冥加金千五百両を納めて、幕末には地廻り酒十万樽に対し下り酒九十万樽と圧倒的に下り酒が多く、江戸における利益を独占した。この頃になると酒問屋は三十八軒中二十八軒が茅場町霊岸島新川辺に集中して、呉服町だの伊勢町だのと元禄頃中央市街近くに勢力をもっていた酒問屋の姿は一変し、ただの一軒もみられなくなってしまった。(「江戸風物詩」 川崎房五郎) 


アルコール童貞
人と人とを急速に近づけるのに酒ほど有難い媒体はない、今は亡き大宅壮一が、三十三歳で夭折した息子を思いながら、「生きているとき、父子で酒杯をあげて人生や社会を語り共通の陶酔境をもつことができたものを、残念」と悔んだ。それは酒の飲めた息子とは違い大宅壮一自身がまったくの下戸で一滴も飲めない体質だったために、この後悔の前提として「自分が飲めるものなら…」というのがある。大宅はそんな自分を「アルコール童貞」であるといい、人生のもう一つの世界を知らなかったと悔やんで死んでいった。(「酒飲み仕事好きが読む本」 山本祥一郎) 


カツオの腹皮
その枕崎で「カツオの腹皮」と云うのを、土地の人は喰べているが、おそらく、鰹節を作るときに切り捨てる砂ズリのところを塩干しにしたものだろう。おそろしく塩辛いものだけれども、これを酒にでも浸して塩抜きにし、焼いたり、大根と一緒に煮たりして喰べると、質素で、剛健な酒のサカナになる。(「美味放浪記」 檀一雄) 


トマス・アルヴァJr.
ビジネスに倫理の入りこむ余地はないと信じていたエディソンは、他人がなんと思おうと自分の利益を守る、という主義だった、危険な労働環境で雇い人を長時間働かせておいて、最低の給料しか払わなかったという。ほとんど研究室暮らしだったので、家族の存在は頭になかったらしい。妻は二人とも重いうつ病にかかり、長男は、アルコール中毒と心気症になって自殺した。(「世界おもしろ雑科2」 ウォーレス、ワルナンスキー他 )


へしこ
へしこの歴史は古く、江戸時代中期頃から作られてきたという説もある。主に使うのは産卵期の春サバで、背開きにしていったん塩漬けにし、身を締まらせたものを糠漬けにする。糠をふりながら桶に並べたのち、虫除けのために唐辛子や山椒の実を置く地域もあった。夏の暑さで発酵が進むので、少なくとも半年以上は漬けたままにする。一年以上漬ければ、よりへしこらしい奥深い味わいとなる。食べる時は、できるだけ糟を落とさない方がうまい。魚と共に糟も香ばしく焼けて、一層食欲をそそるからだ。また、生を刺身にしても食べられる。かなり塩辛い食べ物ではあるが、しょっぱさの奥に形容しがたいうま味が秘められており、酒の肴にぴったりだ。塩辛さにも関わらず、血圧を下げる効果があるともいうから、発酵食品とは不思議である。(「日本全国奇天烈グルメ」 話題の達人倶楽部編) 


早い酔い
久保田(万太郎)さんは酒の味をたのしんだ人ではなかった。酔うことが必要だったのだ。晩年は、よく洋酒を用いたが、これとてそうであった。傍の者が気をつけなければ、出されるものを差別なく呑んで、早い酔いの状態に身を持って行きたがった。このことは、あるいは久保田さんの文学に就いても云えることかも知れぬと思っている。(「カレンダーの余白」 永井龍男) 


[四〇]無涯(むがい)の韻(いん)に次す《倪(日本人の僧の名)、無涯と号す。》
碧海(へきかい)溶々として大空を漾(うか)べ 
楼船(ろうせん)浪(なみ)を逐(お)うて飄蓬(ひょうほう)一に似たり 
鳴榔(めいろう)二到泊(とうはく)す懸崖の下 
挙酒(きょしゅ)して愁(うれい)を排せば面一紅
一飄蓬−風にひるがえるよもぎ。 二鳴榔−船板 三挙酒−杯をあげる。酒を飲む。(「老松堂日本行録−朝鮮使節の見た中世日本−」 宋希m 村井章介校注) 


海鼠
「それでね、(素戔嗚尊の姪は)思わず自然に、口に啣(くわ)えましたね。何となくエロチックな気分になっていたところに、だ」「小野さんの話、全然分かんないよ。僕、家ん中に入るよ」と言ったら、「まま、ちょっと待ってよ。これからが肝心な話なのよ。そのとき、素戔嗚尊に肩を叩かれ『お前、何を食ってるんだ』と聞かれたんで、びっくりして『伯父上、これ、舐める子です』と言ったんだ。海鼠の由来は、ここに始まるわけだ。尊は乱暴な人だから『よこせ、俺も舐めてみる』と言ってさ、その変な棒を横取りしたらつるっと手から滑って、尊が抱えていた酒の甕の中に、どぼんと落ちて、跳ね返って、左手に持っていた醤(ひしお)、一種の味噌だが、の上に落ちた。尊は、そそっかしい人だから、ひょいと棒を取り上げて、口に突っ込み、がぶりと噛んだ。いや、酸っぱいの、なんの」「小野さん、昔のお酒って酸っぱいの?」「いや、いや、尊は永い間、朝鮮の新羅(しらぎ)に行ってたんで、その間にお酒が酢になっていたの知らなかったんだな。根が忘れっぽい人だったらしい。ところがさ、よく噛んでみると、歯当りのよさと二杯酢で締めた旨い味に『これは、美味なりや』と叫んだのが、海鼠の食べ始めだと分ったよ。−」(「風の食いもの」 池辺良) 子供のころ池辺が、父親の友人だった漫画家小野佐世男から聞いた"笑い話"だそうです。 


木灰
せっかくつくった種麹に、酒造りにとって害となる腐敗菌や雑菌が含まれていると、出来上る麹は不純となり、結果的に好い酒はできない。言いかえれば(雑菌のいない)純粋な種麹は、優良酒を生みだす条件となることは当時の酒造り人たちは体験的に知っていた。そこで彼らは、なんとか純粋な種麹をつくり出す手はないものかと、おそらくさまざまな試みを行ったのだろう。その結果。種麹の製造の際に、木灰を使うことにより、きわめて純粋で良質の種麹が出来ることを知った。この木灰使用の理論は、現代の微生物学的見地から考えると実に巧妙な方法である。ほとんどの雑菌は、木灰のアルカリ性に対して抵抗力がなく死滅してしまう。(すなわち木灰は、多くの雑菌の殺菌剤である)のに、逆に麹カビは木灰に含まれているカリウムを利用して多量の胞子を着生させる。これは、雑菌や麹カビ、木灰の性質を非常によく見抜いての方法であり、この原理を応用すれば、種麹製造の際、原料の蒸米に木灰を加えておくだけで空気中や蓆(むしろ)などから侵入してきた雑菌は淘汰され、麹カビだけがそこに残って胞子を多量に着生し、純粋な種麹が得られることになる。今から七〇〇年も前という、未だ微生物の存在すら知られていない大昔に、世界中のどんな民族にも先がけて、このような「微生物の純粋分離法」や「純粋培養法」を木灰で行っていた日本人の知恵には感服させられる。(「醗酵」 小泉武夫) 


さくらんぼ
それはさておき、私は”さくらんぼ”でお酒を飲むのが大好きなのです。他人は、バカにたい、と酷評し、顔をしかめておいでですが、これが、なかなかの絶品のさかななのです。今の世は、しゅんを考えずに何もかも促成栽培をやったり、ビニールハウスで早出しをすることばかり考えているので癪にさわって仕方がないのでありますが、”さくらんぼ”ばかりはそうはゆきません。ごく短い期間だけ市場にそっと顔を出す”さくらんぼ”は愛(いとお)しいものの一つです。(「今宵も美酒を」 佐々木久子) 


烏蛇
『史補』の所云(いふところ)に因(より)て、予(松浦)が医生の説あり、曰く。かの烏蛇(からすへび)の性たる、よく諸風頑痺、皮膚不仁、及 大風眉髭ノ脱落等の症を治す。古人以ヘ為く(おもへらく)。性 善にして無毒と。昔し有人。患(わずら)フ大風ヲ。家人悪(にくみ)之ヲ、山中ニ為ニ起ツ屋ヲ。有リ烏蛇、墜(お)ツ酒罌(かめ)ノ中ニ。病人不シテ知ズ(しらずして)飲酒スルニ漸差(い 多分)ユ。罌底見有ルヲ蛇骨、(おうていにじゃこつあるをみて)始テ知レリ其由(そのよしを)。是よりして和華 古今烏蛇を用る者多し。京師の東郭家に有一禁法。名酔仙散。大風を治るの聖剤たり。その方たる、烏蛇を取て諸薬と共に酒中に置き、熟するに及て飲服しむ。(「甲子夜話」 松浦静山 中村・中野校訂) 巻二十一 

奈良坂やこの手造りのみぞれ酒 とにもかくにも値切られもせず
(ある人が奈良の名酒−を買う時に代金を値切ったが、まけなかったのを詠んだもので、みぞれ酒とは麹が浮かんでいるのを霙(みぞれ)に見立てたものである)
奈良酒やこの天目に二つ三つ飲めと 仰せあらばとにもかくにも
(山中山城守長俊−織田信長、豊臣秀吉などに仕えて一万一千石の大名となったが、西軍に属したため徐封。後徳永家康に小禄で仕えた。右筆の人で和歌をよくたしなんだ−彼のもとへ連歌師紹巴が訪れたが、長俊が天目茶碗に酒をついで、しきりに強いたので閉口した紹巴が作ったと、醒酔笑に書かれている)(「日本酒のフォークロア」 川口謙二) 


一旦飲み出したからには
唐の詩人孟浩然は襄陽(今の湖北省襄陽)の人で、郷里の鹿門山に隠れた。採訪使の韓朝宗が浩然と約束して偕(とも)に京師に至り、之を朝廷に推薦せんと欲した。その時たまたま故人(旧友)が来たので浩然は大いに飲んで歓を尽くした。或人が曰ふ、君は韓公と往く約束が有るではないかと。浩然は叱(しっ)して曰う「一旦飲み出したからには、他のことなど、かまつてはゐられない」と、卒(つひ)に赴かなかつた。朝宗は怒つて行つてしまつたが、浩然は悔いなかつた。(「酒「眞頁」(しゅてん)」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 


メソン
酒を飲ませるところはパルにかぎらず、いろいろある。メソンmeson のことなどにも触れておこう。カタルーニャ地方ではタスカ tasca と呼ぶことが多い。辞書でメソンを引くと「居酒屋」とあるが、メソンという看板を上げているところは、往事は田舎の料理屋兼宿屋だったところが多い。建物もそういった造りのものが目立つ。街道筋、巡礼路にはよく見かける。都会でもメソンの看板を見かけるが、よく見ると二階(スペイン式には一階)から上がペンシオン pension (下宿屋)になっているところが少なくない。田舎だとこれがとくに顕著だ。下宿を兼業しているところでは、メソンは、酒も飲ませるが家庭料理ふうなものを出すという、レストラン・バル bar resutaurante のような性格をもつ(同じような性格のものにタベルナ taberna がある)。(「スペインうたたね旅行」 中丸明) 


首露王の王陵
正面の拝殿と左右の建物のとがつくっているコの字形の空間は、白洲である。白洲に二列、アヤメのような植物が植えられている。その拝殿の裏へまわると、いまひとつ大きな空間がある。王陵である。電柱ほどの高さの円墳がすそをそっとひろげ、ひとの肌のまるみを思わせる姿を、青芝がやわらかくつつんでいる。正面に儒礼による祭壇がしつらえられていたが、ぜんたいのふんいきは、生けるものに接するような温かみがあった。十数人の男どもが、円墳に対して一列横隊にならんでおり、ことごとくクツをぬいでいる。やがてすわり、いっせいに三跪九拝の礼をとりはじめた。一族の長老らしい老人が祭壇にすすみ出て、ノリトのようなものをあげはじめた。その介添えの壮齢の男子二人が、一升ビンをかかえている。それらが古墳のすそに対して酒をそそいだ。簡略化されているが、歴とした儒礼である。その儀式がおわるまで、そのひとびとに同行した女性たち十数人が、拝殿のヒサシの下でかたまって待っていた。男たちが儀式を終えてさがると、女たちが交替した。(「街道をゆく」 司馬遼太郎) 韓国古代駕洛国の王、金首露王の陵墓でのことだそうです。 


魚屋も酒屋も八百屋も米屋も
そこで私はもといた霞町の家に出入りしていた商人たちに少しずつ借金を払いに行った。この人たちは、私の家が本村町に越す時、誰も「貸金」について文句を云いに来た者はなかった。私は最初魚屋に行って五円を払った。魚屋のおやじは、痩せて眼の引っ込んだ鯒(こち)のような顔をした男であったが、「へえ、お坊ちゃんがお金をお取りになった。そうですか、それは結構でしたね。へえ、お坊ちゃんがお金をお取りになるようになるなんて」と私の顔を見つめながらにこにこして云った。−霞町に越して来た頃、私は中学の初年級であったから、その頃の「お坊ちゃん」が魚屋の頭に浮かんでいるのであろう。そして大いに喜んでくれた揚句、魚屋は私が出した帳面に、「五円入金」と記し、その後の借金がいくらあったか、三、四十円もあったか、その上に棒を一本さっと引っぱって、「もうこれで結構でございます。よくお忘れでなくおとどけ下さいました。後はお坊ちゃんがお金をお取りになられたお祝いとして棒引きにいたします。よくおとどけ下さいました。ありがとうございました」こうして魚屋は、五円で借金の全額を棒引きにしてくれたが、しかし驚いたことには、それは魚屋ばかりではなかった。魚屋から二軒はなれた酒屋でも、私が五円をとどけると、それを喜んで、残りの借金を消してくれた。八百屋もそうであった。三軒の米屋もそうであった。何処でも「後をいつ呉れるか」などと云ったところはなかった。「よくお忘れなくおとどけ下さいました」と何処ででもとどけに行ったことに感激して、後を棒引きしてくれたのである。こうして全体で三十円か三十五円で、長い間の貧乏暮らしをして来た霞町時代の出入り商人への借金のカタがついてしまった。(「年月のあしおと」 広津和郎) 


酒狂人
○酒狂人を東国にて。なまゑひ又よつぱらひといふ 大坂にて。よたんぽといふ 遠江にて。泥ぼうといふ 酔て泥の如しといへるこゝろにや 薩摩にて。酔食(よいぐら)ひといふ 肥前唐津にて。さんてつまごらと云(「物類称呼」 越谷吾山 東條操校訂) 


「酒」
ある男、酒屋へきて「さてさてすひ(一)酒かな」といへば、酒屋の亭主腹をたち「しろ物(二)に傷をつけるにくひやつ」といひさま、かの男を縛り、みせの梁(はり)へ、吊(つる)しておく。さて暫(しばらく)して、旅の僧きて「あの者は、何ゆへ縛られしや」と聞くゆへ「売物の酒をすひとぬかした故に、縛りました」といふ。かの僧「成程もっともなる事、縛られしも道理、道理。時にその酒をわしにも飲ませて下され」といふ。亭主、一合、ついで出せば、かの僧、一口のんで、顔をしかめ「さアわしも縛らっせへ」
(二)代物とも書く。そこの家の売物である。ここでは酒 (「江戸小咄集」 宮尾しげを 編注 「春の山」) 


郭の中の飲み屋
次のようなエピソードがその頃の森(敦)さんにはあった。すなわち、毎夜吉原で酒を飲む粋人として、寄宿寮内でも知る人ぞ知る存在となった森さんは、「吉原ってどんなところだ」と日ごろ好奇心を燃やす学友たちに、ある日「これから吉原で遊ばせてやる」と宣言した。そして学友たちといっしょに吉原にくり込んだ森さんは、約束どおり一人残らず友だちを登楼らせて、いいように遊ばせたが、その間、森さん一人は登楼せずにいつの間にか郭の中の飲み屋にシケ込んで、一人グビリグビリと大盃をあおっていた。森さんが愛したのは酒で、女ではなかったというエピソードだ。そういう高校生活を送りながら、森さんは処女作『酩酊船』を書く。これが認められて、いきなり「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」、すなわちいまの毎日新聞の東京と大阪で同時に連載と決まった。(「酒・千夜一夜」 稲上真美) 


ビールびんの風鈴
昔、兵隊の作っているのを見て、真似をして作った風鈴がある。ビールびんの底を抜いて、中へくぎをつるすだけのかんたんな風鈴である。物が物で、みばが悪いし、まさかお座敷の前へ割れたビールビンをつるすわけにはいかないが、音だけは本物の風鈴である。ビールの銘柄で、びんの音もちがうといえば話になる。音だけを楽しむものだから、便所の窓など、外から見えないところへつるすとよい。しかし、ビールの割れた空びんを外へ置くと、泥棒の凶器にされる恐れもある。だから、めったなひとにはすすめない。(「フクちゃん随筆」 横山隆一) 


犬殺し
「なんすかコレ。キビワリイ」「犬殺し。地元じゃそんなふうにもいうらしいけど。おとついの高知出張のオミヤ。珍味だよ」半透明の自身が黒い滑らかな皮に包まれている。一筋角の立った裾(すそ)広がりの長いものを三ミリ厚ほどに切ってある。歯にあてたときは軟骨の食感だが、根深い弾力が、延々と続き、噛み続けるうちにゲル状になり、やがてふっと溶けてしまう。強いと言えば、極厚のフグ皮。頤がくたびれるころ、冷えた白ワインを呑む、と、また一切れと箸(はし)がのびる。「犬殺し、って、犬にコレ喰わすと死んじゃうんすか?」「あんたも戌(いぬ)年だから殺したろかと思って、ふふふっ。正体は、鮪(まぐろ)の尾鰭(おひれ)。このナマのを放ると、犬が喜んで死ぬほど喰いまくるんだって。コレは品良く、湯がいたり晒(さら)したりしたやつだけで。頭から尻尾(しっぽ)まで無駄なく喰い尽くすのが食文化だね」(「ごくらくちんみ」 杉浦日向子) 


ニンニク
僧坊ではにんにく、韮、ねぎなど香りの強い野菜を食べること及び飲酒は建前としては一応禁止されてはいたが、結構賞味されている。「ニンニク日中ヨリ賞翫了」、「今日モニンニク各賞翫了」、「ニンニク今日迄三日食了」記者はにんにくを賞味しつつも、いささか後ろめたさを感じている有様がうかがえて微笑ましい。ビタミンB1 に富むにんにくは「服薬了」と疲労回復薬としても扱われている。韮は豆腐と共に汁に入れられたし、酒については塔頭(たっちゅう)での酒づくりは商業的規模にまで達していて、禁酒の戒律どころか「大酒」という語が到る所に見える。(「日本の食と酒」 吉田元) 


鯖の燻製
イギリスのスーパーマーケットなどで、生の鯖(さば)を買ってくると、どうしたわけか痩せていてあまり脂ののっていないことが少なくない。ところが、この燻製になっている鯖に限っては、決してそういう期待はずれなことがない。鯖の燻製には二通りあって、一つは何も余分なものは付けずに、そのまま濃い茶色になるまで濃密に燻(いぶ)してあるもの、もう一つは身の一面に粒胡椒をまぶしてそのうえでやや浅めに燻してあるもの、である。しかしいずれにしても、すっかり中まで火が通っていて、これは改めて加熱する必要はなく、そのまま食べることが出来る。スーパーでは真空パックにして売られているのもあるが、味の上ではいうまでもなく鮮魚の売場で売られている裸の奴(それも胡椒などついていない方)にしくはない。イギリス人は、どういうわけかこれをそのまま食べるということを好まないらしく、この茶色く香ばしい鯖の燻製も、いちど粉々にほぐしてしまって、それでクリームだの玉葱だのといったものと一緒にまぜこぜにして、パテのような形に加工してから食べることの方が一般的らしい。それはそれでまずくはないけれど、どうもわれわれのような心(しん)から魚好きの国民からみると、もったいないという感じが否めない。私は一滴も酒を嗜まないのでその方は一向にわからないけれど、おそらく酒呑みの人にとっては、じっさいこれは酒の肴にまた絶好のものであろうと想像される。(「イギリスはおいしい」 林望) 


細木香以
幕末に、今紀文の名を残した細木香以(さいきこうい)は、もと新橋山城河岸の舛酒屋、彼の代には諸家御用達をしていたが、その巨万の富を花柳界と芝居で費いはたし、文字通り落剥の果て逝ってしまったが、文事を好む彼が兄事したのは、河竹黙阿弥だけであった。(「酒雑事記」 青山茂) 森鴎外の「細木香以」によると、香以は、二代目津藤(つとう 摂津国屋藤次郎)で、その父、初代竜池のとき、酒屋はやめたそうです。 


五八 まねぶもの。
みとせよとせ(三年四年)、門より出ることもなく、夜もね(寝)でふみ(文)のみ見ゐたりしが、つゐ(遂)に病出来にけり。「ふみみるはやまい(病)のもとなれば、われはせず」といへば、「君は酒の(飲)み過て病出来し人をみて、酒やめ給ふや」といひし。(「花月草紙」 松平定信 西尾実・松平定光 校訂) 


鉛の杯
ローマ帝国は鉛毒で滅びた、という説をとなえる歴史学者がけっこういるそうです。これは、当時のローマ帝国の水道管が鉛でできていたことを論拠にしています。もうひとつ、鉛毒の原因はワイン。一説に、ローマ貴族は一日平均四リットルものワインを飲んだとか。このワインは鉛の容器であたためられ、さらにこれを飲むときに鉛の杯が使われたといいます。つまりローマの貴族は現代人の十倍近い量の鉛を摂取しており、こうした鉛が鉛毒ばかりか痛風の原因にもなったはず。鉛毒の不快感と痛風の痛み。貴族たちは政治的発想どころではなかったという歴史解釈です。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


ピンポン
爾来、久保田(万太郎)さんには晩年までたびたび会つて来た。しかし、会ふのは何かの会合か、誰かの宅か、小料理屋での集まりか、芝居見物するときなどに限られてゐた。それもたいてい酒席であつた。私は久保田さんの自宅を訪れたこともなかつたので、二人きりで話をしたことは一度もない。だから二人相対の場合のことは別として、酒席の久保田さんは雰囲気を出すことが上手、人に酒を飲ませるのが上手であつた。せつかちに飲み、せつかちに人に飲ましてゐた。盃を呉れるので有難く頂いて返盃すると、さつと一気に飲んでまた呉れる。返すとまたすぐ呉れる。それの繰り返しである。「まるでピンポンしてゐるやうですね」と、あるとき私が云ふと「嫌やァな台詞」と云つて、胸元で手をしぼり合せた。鼻の先を指でこねまはし、胸元で手をしぼり合せるのが癖であつた。(「文士の風貌」 井伏鱒二) 


挙我觴
ようこそ まァ いらっしゃった          有叟有叟至山房
山房は静けさだけがとりえです          山房寂々日月長
どこにでもお坐り さァおらくに          南窓之下随意坐(ざせ)
お持たせの瓜で この盃をあげましょう     喫君瓜兮挙我觴(さかずき)
これは近くの竹丘老人が山房を訪うた折の作である。「君が瓜を喫(は)み、我が觴を挙げん」といっているが、むろん、酒の方も瓜同様に竹丘持参の品であっただろう。(「新修 良寛」 東郷豊治) 


鯛網の漁
さて、鞆の浦にやって来た目的は、現在は観光用と化してしまったが、その鯛網の漁を瀬戸内の海の現場で目の当たりにしてみようというもの。まずは浜辺で漁師たちによる大漁祈願が行われ、御神体ともいうべき黒光りした鯛に御神酒がかけられて船出となる。指揮船の後を追うように、法被(はっぴ)と腰蓑(こしみの)を身につけた漁師たちの乗り込む親船が二隻続く。(「考える舌と情熱的胃袋」 山本益博) 


下部温泉の源泉館の鉱泉
そのころ私は神経痛で家に籠つてゐた。とりあへず外科病院へ電話で河上(徹太郎)君の容態を問ひあはせると、片方の足首の捻挫だつたから、その手当をして退院させたとのことであつた。私は見舞に行く代りに、胃病や骨折に効くといふ下部温泉の源泉館の鉱泉を送つた。その添状に、捻挫してゐる足首は足の末端だから、口の広い甕か何かに鉱泉を入れて足首を漬けてゐたらどうか。医者に聞いて実行してみないかと書いた。源泉館の男女混浴の湯槽には、いつ見ても負傷してゐる人や骨折してゐる人が混じつてゐる。戦前には主に年寄の入浴客を見かけたが、戦後は自動車事故で怪我をした若い男女が多い。それを思い出して鉱泉を送り届けた。−
その後、何箇月かたつて何かの会で河上君に逢ふと、正常な足取りで歩いてゐた。「びつこにならなかつたな」と言ふと、、「びつこにならなかつた」と言つた。「下部の鉱泉は骨折に有効かね」と聞くと、「臥てゐる間ぢゆう、あの水でウヰスキーを割つて飲んだ。あれはミネラルウォーターだからね」と言つた。闘病の仕方にも個性が出るものだ。(「文士の風貌」 井伏鱒二) 


酒ついであなたはしかしどなたです(橋本拷J)
酔うているときはお互いに百年の知己のごとく親しくなってしまう。話が合い、おもろいなあととんとん話題が弾んで、ふと、気がつく。ハテ、この人、前から知っとる人なんかいな、−すべてフワフワと快い酔い心地。作者は麻生路郎の『川柳雑誌』初期、編集にタッチした人という。(「川柳でんでん太鼓」 田辺聖子) 


七里酒
柳田国男先生の『新語論』には、菅江真澄の紀行の紹介をして、松前では、濁り酒のことを七里酒と言った、ということがみえています。にごりを二・五里と洒落た、隠語に近い語です。(「ことばの中の暮らし」 池田弥三郎) 


焼酎一本
五年生になった頃は、立石の駅前でキャンデー売りをしていた。これは新しくきた義父の発案であった。青い色のアイスボックスを置いて、ミカン箱に坐っているだけでよかった。場所もよかったし、お菓子なんかの不足している時代でもあったのでよく売れた。大人たちはキャンデーをなめながら電車を待ったりしていた。そのうち義父は、ぼくたち二人に仕入れ販売の一切を任せてくれたので、二人は経営者のような気持ちになり、張切った。初めは上りの駅前だけでやっていたのを、下りの改札口にも陣取り、ぼくはそちらも任せられた。熱のはいってきた二人は、三角クジをつくり、景品を出すことを思いついた。一等は焼酎一本で二等は木製のサンダルだった。三等はもう一本キャンデーが貰えた。このアイディアは好評だったが、ぼくは客がクジを破くのを見ると、当たるのではないかと思いドキドキしていた。(「断片的回想記」 つげ義春 「東京百話 地の巻」 種村季弘編) つげの戦後すぐの思い出だそうです。 


十悪所八景
なんぼ堰(せ)きやるとも、逢(あ)はなけりやならぬ、嫌(や)だと云やらば出直して遣(や)り懸けよ、及ばぬ恋を瀬田に懸橋、ばつと立つ名が浮名の浮(うき)にさ、網曳く網曳く妓達(よねたち)は、やんれ可愛らしやの、えいえい叡山(えいざん)のお山は、腐れ伊達者(だてしゃ)ぢやないが、やれ雲の帯、鹿の子斑(かのこまだら)に雪の振袖、げにげに江天(こうてん)のぼつとり者(美人の意を、ぼたぼた降る綿雪にかく)、志賀の唐ア唐ア代詣(だいまゐ)り、ひつ連れ立つて、つい連れ立つて詣る女は、男欲しさに宿願(しゆくぐわん)かかか懸けたえ、利生(りしゃう)を待つぞ一つ松、その木の下(もと)で差すぞ盃、やつこりややつこりやこりや飲めさ、嫌ださ、ぞめき騒ぎし有様を、見たか平沙(へいさ)の楽遊(らくあそ)び、禿遣手(かぶろやりて)に幇間(たいこもち)、瞽女(ごぜ)や座頭に按摩取(あんまとり)、さても悪所のせいらいやと、ばつと云うて、ばんしゆばんしゆばんばんしゆ(番衆、番太郎も同じ。晩鐘にかく)、雨も降らぬに足駄(たかあしだ)、蓑(みの)着て棒突いて、行燈(あんどん)提げてどんがらり、どんどと鳴るは夜店仕舞の幇間、どんがらり何者ぢや、あれは遠寺(ゑんじ)の番太郎、さつさ別れの涙こそ、さつさ濡れて、しつぽと濡れたが瀟洲(せうしやう)の、夜の雨にも優るべし、明る日は二日酔の作り病で、親兄弟の見る時は、真事(まこと)らし気(げ)に洞庭の、あゝき(秋)の月とも謂(いひ)つんべし、いかい愚痴(たはけ)の成れの果(はて)、うかりひよんとぞ見えにける(「松の葉」 藤田徳太郎校註) 室町末から元禄期にかけて流行した歌謡の一つだそうです。 


関堂日記
この視察には、ほかに同心二名と供の下人六名が従ったが、彼らに供された料理は、身分に応じて異なった。大目付の直接の配下である同心二名には、先の料理のうち吸物・硯蓋・鉢肴・大盆だけであるが、まったく同じ内容のものが出されている。ただし場所は、客間ではなく玄関でこれを供している。さらに下人六名も、同じく玄関で相伴にあずかったが、料理内容は同心とは異なり、海老・松茸・菜の平に飯、これに芋・蛸の肴と酒が振る舞われただけであった。この時の料理人は、村方の者と思われる人物で、魚代一三匁五分と四斗の酒代八匁とがかかった旨が記されている。(「江戸の食生活」 原田信男) 播磨国龍野藩の大庄屋以上の在方御流格という身分の永富家の『関堂(たかせきどう)日記』で、天保一○年(一八三九)年九月四日、藩の御奉行大目付らが村内視察をして立ち寄った際の部分だそうです。 


カンカンノウ
文政四年三月の中旬から五月の中旬まで、千葉の成田不動に御開帳があった。御開帳は、人が大ぜい集まらなければ御利益があるということにはならない。そこで人の集まるような余興が是非ともに必要なので、御開帳ともなると、必ず人を呼ぶような催物を見にくるついでに参詣するような本末をあべこべにしてしまったようなことになっていた。−
そのほか、いろいろなものがある中に、表門の外に小屋がけをして、ここでカンカン踊りを見せていた。これが評判になって押すな押すなの大繁昌であった。これは盆中に長崎に逗留していた外国人が、墓まいりに来て、そこで酒宴の果てに亡魂へ手向けのつもりで踊ったものだという。囃子方が四人で、踊る者が三人、いろいろの手拍子、足拍子で、手には何も持っていない。−(「江戸街談」 岸井良衛) 歌詞は「カンカンノウ、キウレンス、キユワキニデス、サンジョナラエ −」といったものだそうです。 


禁読
アイルランド人のパット・オブライエンは無類の酒好きだった。ある日、本を読んでいたら飲酒の害がくわしく説明されていた。すっかり驚いたパットは、以後、本を読むのをやめることにした。(「ポケット・ジョーク」 植松黎 編・訳) 


小説の大酒飲み大会
昼八つ(午後二時)を迎え、征四郎は日本橋浮世小路にある高級料理屋千川に着いた。大酒飲み大会お会場である。玄関で太刀を預け、会場である二階の大座敷に案内された。二階は襖が取り払われ五十帖の広々とした座敷になっている。既に、出場者と見物人が詰めかけていた。「いよ、こって牛の若」幇間の久蔵が扇子をぱちぱちさせながら近づいてくる。「おお、どうだ。今日の集まり具合は」征四郎は辺りを見回した。座敷の壁には仰々しい横断幕が張り巡らされ、出場者のために白木で作られた台が運び込まれている。台の上には畳が敷かれ、座布団が五枚置かれていた。出場者は五人ということか。見物人は、店者(たなもの)、職人、侍などが混在している。「へへへ、これ」久蔵は懐中から小判で百両の切り餅を出して見せた。「集まったな」久蔵は征四郎が出場する大会で賭け金を募っている。募った賭けのうち、優勝した場合に一割が征四郎に還元される。(「目安箱こって牛 征四郎2 誓いの酒」 早見俊) この小説では、征四郎の二斗八升五合が一位ということになっています。 


酔いの経過
酔いの経過は、いったい、どのようなものであろうか。心臓の鼓動が早くなってくると、何処か暗い森の遠い奥で皇帝ジョーンズを追っているリズミカルな太鼓が鳴りはじめたような気がしてくるが、そのリズミカルな精神が次第に胸にのぼってきて、耳許で暫く停っていると思うまもなく、やがて、数秒間、その耳許の太鼓は不意にまったく躰と同じ大きさになり、そして、躰全体が一枚の霊妙な振動板となって宇宙の何処かから発せられている意味も解らぬ神秘音に繊細に共鳴しているような感に襲われる。この感覚は僅か数瞬である。従って、酒が体内の運河を廻ってゆくのに凝っと気をつけている性癖のものでないと、この瞬間は容易に捉えがたいが、もし気づけば、これが酒飲みの味わう最も霊妙な数秒間の時間であろうか。その数瞬が過ぎてしまえば、躰とともに大きくなった太鼓は、さらに躰を越えて行ってしまってもはやもとへもどってこないのである。つまり、その数瞬のあとには、体内感覚はなくなり、絶えず外向的な酔っぱらいの状態がやってくるのである。(「酒と戦後派」 埴谷雄高 「酔っぱらい読本」 吉行淳之介監修) 


団十郎
細見 その頃飲まれていたお酒はなんだったんですか。
水上 「団十郎」といって、樽酒の中では一番べっちゃこ(最後)にあるやつですよ。
細見 ドブロクみたいなものですか。
水上 燗冷ましをためたものです。それをなぜか「団十郎」といってました。みなさんは団十郎を知らないですか。京都の飲み屋で、樽酒の最後のいちばん位の低いところに「団十郎」と書いてあった。千本中立売(せんぼんなかだちうり)の飲み屋なんかは。
細見 いつごろのお話ですか?
水上 昭和初期ですね、団十郎を飲んだのは。
細見 たぶん、安いものだから「団十郎」といって、良く見せかけたという洒落だったのではないでしょうか。
水上 それはええ結びやなあ。(「下戸の酒癖」 玉村豊男編) 


「お伽草子 瘤取り」
このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みというものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらわれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌(てのひら)をぽんと撃ち合わせていずれの掌が鳴ったかを決定するような、キザな穿鑿に終るだけの事であろう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在っては、つねに浮かぬ顔をしているのである。−
見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言うのか、十数匹と言うのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作って坐り、月下の宴のさいちゅうである。お爺さん、はじめは、ぎょっとしたが、しかし、お酒飲みという者は、お酒をのんでいない時には意気地が無くてからしき駄目でも、酔っている時には、かえって衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔いである。(「お伽草子 瘤取り」 太宰治) こぶとり爺さん 鬼の酒盛り  


口取り
口取り肴。口取り物。(菓子の場合もある)日本料理(和食)の宴会ともなれば明治から大正初頭にかけてはまず口取りが選ばれる。膳の上を賑やかにしたもので、鯛の塩焼き、紅白の「化粧蒲鉾」・きんとん・うま煮・海老・杏の砂糖煮・寄せ物(羊羹系統)・玉子焼など彩りを美しく盛られている。宴会のさかんだった日露戦争(明治三十七、八年)前後には、およそ洋服を着るからには、一週間にはすくなくとも二回ぐらい、口取りを包んだ折をブ下げて帰るようでなければ、給料取り(サラリーマン)としては、下級であると評された。口取りは五品または七品。あるいは三色・五色・七色・九色と色分けで美しく見せることもあった。皿に盛ってある時は、その風情に山水に象り、後高、前低が法とされる。北沢楽天のポンチ絵(今は漫画)には、宴会の折詰をブラ下げた酔っ払い男が犬に吠えられている風刺画があった。当今では「口代り」に化けてその場で食べてしまう様式となり、分量も品数も変わってしまった。 (「明治語録」 植原路郎) 


たんとも呑(のま)ず呑(のま)ぬ日もなし
大酒をのんであれるということもないが、一日として酒なしではいられない。根っからの酒好きなのだ。まわりに迷惑をかけることがないのをよしとせねばなるまいが、それにしても飲み過ぎるのではあるまいか。(「『武玉川』を楽しむ」 神田忙人)


彼我の好む酒
嘉永七年写本『横浜記事』米人を饗応したる条に、「更ニ酒肴ヲ勧ム、彼曰ク、此酒飲ムコト能(あた)ハズ、乞ふ甜醸(甘い酒)ヲ賜ヘト、蓋(けだ)シ其猛烈ヲ懼(おそ)ルゝ也。乃(すなわ)チ飲マシムルニ養老美酒ヲ以テス、各口ニ適シテ欣然タリ彼皆杯盤ニ向フ」また邦人が彼の軍艦内に招かれし記に、「其酒各種酸味ヲ帯ビテ可ナラズ、一種葡萄ト号スル者味最モ美且ツ緩ナリ。和蘭(オランダ)烈酒ノ比ニ非ズ。言ふ是レ尋常ノ物ニ非ズ其精醸ヲ極ムス者ナリト」彼養老酒を賞し、我葡萄酒ヲ好む、好一対なり。(「明治事物起原」 石井研堂) 


黒い舌
その頃新橋駅裏のバラック飲み屋街にあった「凡十」というカストリ酒場に横山さんはじめ集団の連中が集まって飲んでいたが、二十四年に仲間の一人だった村山しげるさんが、メチール混合酒を飲んで亡くなった。しかしここいらのカストリ酒場で飲んでいた連中は、皆一様に舌が黒く焼けていて危機一髪の飲み方だったのである。(「わが酒中交遊記」 那須良輔) 「横山」は、横山隆一、「集団」は、漫画集団です。


「百姓?(ふくろ)」の酒と煙草
煙草嫌ふ人有といへども、大酒の本心を乱し、病を生ずるにくらべぬれば、さのみ世の費(つひへ)をなし、病を発(おこ)すには至らず。山嵐嶂気(さんらんしゃうき)の、邪毒を散ずる事ありて、鬱帯(うつたい)の気を開き、寒湿を解散(げさん)するの能あり。女人労鬱(らううつ)の気を散ずるに、酒にかへて吸習ひて一徳なり。むかしは酒飲ぬ人多かりしゆへ、気を散じ、挨拶になれとて、女人などは、殊に吸習ひぬ。今の人は男女ともに酒を飲める人、又煙草をも常に多く吸て飽(あく)事なし。酒の費(ついへ)には似ざれども、是も又世の費と成こと多し。但米穀を費し、失ふ事なきを徳とす。その器物に金銀をついやすは、世の費といふにはあらずや。況(いはんや)百姓たらんもの、何ぞ其の入物器財に、美を尽す事をせん。たゞ酒を省きて、煙草を翫ぶ事あらば、誰か悪(にく)しといはん。(「百姓?」 西川如見) 


祖父と父の酒
そうして、肩の濡れ手拭い(祖父や祖母はテノゴイという)は、時折、冷水で絞りなおされる。これは祖父が命じるのである。あれはいま思うと、夏の晩酌を涼しくする最高の工夫みたいな気がする。夏の祖父の飲みものは「柳蔭(やなぎかげ)」である。江戸では「本直し」というたと、江戸時代の本にある。みりんと焼酎半々に合せたものを冷やして飲む。牧村史陽氏の「大阪方言事典」をみると「戦争中の酒類統制ですべてが東京式に統一せられ、柳蔭の名はついに消滅してしまった。」とある。父は夏でも燗をした日本酒であったようだが、「酒は冷(つめ)とうして飲んだらあかん」といい、それぞれ自分の好みをゆずらなかったようである。それでもみな大阪者なので夏の酒の肴は、ハモの湯引きに梅肉酢、タコ、間引き菜とてんぷら(これはきくらげの入った白天(しろてん)というもの)のたき合せ。そんなものであったろうか。ところで私も、夏はかえって熱燗が涼しくていいのだから、そこは父に似ている。(「性分でんねん」 田辺聖子) 


最初の牛鍋店
さて、店を開くは開きしも、一向来客なし、なきはずなり、店前を通る人さへ、この店の前は、鼻を押さへ目を閉ぢ、二、三軒先より、駈けて行くくらゐなり。「店開きにお客が一人ないといふのは、心細い」と、口小言いひいひ、夜の十時頃に、店を締めようとするとき、図部六(ずぶろく)に酔ひし、仲間二人飛び込み来り、「さア牛肉を食はせろ、俺達はイカモノ食ひだ」と、大威張りにて食ひ行けり。その後とも、ときたま来る客は、悪御家人や雲助、人柄の悪い奴ばかりにて、「俺は牛の肉を食ツた」と強がりの道具に使ふためなりし。いはゆる真面目の人は皆無なりければ、商売にはさぞ骨の折れたることなるべし。(「明治事物起原」 石井研堂) 「芝露月町の東側−当時はその裏はすぐ海岸なりし−に」あった、貸家が使用されたそうです。 


のむ人のめぬ人
(明日は、どのように書いたらいいものか…)などと、おもいあぐねてしまったら、もう、ねむるどころのさわぎではなくなってしまう。むろん、私にも、月のうちに何度かある。しかし、私は、晩酌によって、約二時間をねむる。この熟睡こそ、まさに酒の功徳といってよい。酒が体質的にのめぬ人は、どうしてもねむり薬にたよるらしい。これで躰をこわしてしまう。役者もそうだ。脚本が初日ギリギリに出来あがり、これをおぼえこみ、演技を練るための苦悩の夜に、酒が飲めぬ人は、ほとんど絶望的になる。酒がのめて、のみ方を知っていて、のめば自分がどうなるか、ということを体験的にわきまえているものは、もう、酒をのみ終ったとたん、暗示にかかってしまうのである。(さて、よくねむれるぞ。明日は明日のことさ)このことである。(「のむ人のめぬ人」 池波正太郎  「酒恋うる話」 佐々木久子編) 


儒者の酒量
江戸時代に名をうたわれた儒者の中、伊藤仁斎と荻生徂徠は下戸だったが、仁斎の子東涯は上戸、太宰春台と服部南郭等は皆大酒家であり、山崎闇斎と浅見絅斎(けいさい)等はいずれも大上戸であったという。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


明治の酒合戦
こうした酒合戦は明治になってもなかなか盛んで、とりわけ、明治十六年五月十九日神田明神下の佐野屋という質屋で行われた酒合戦は有名で、今なお老人達の語り草になって残っている。佐野屋の大酒会は早朝からわれこそはといった連中が集まって来て、酒客は百人をこえる大勢となったが、中には豪の者は正午前にすでに一斗八升を平らげたのがいたという。これが第一位といわれたが、その他もまことにすさまじい連中ばかりだった。ある人が万世橋から鉄道馬車にのったところ、この会へ出た一老人が乗合わせた。その老人のいうのに、品川の者で六十九歳になるが、今日の酒合戦に出席して八升を平らげてきたといい「自分は壮年の頃にはこうした会合で、よく二斗ぐらいはのんだものだが、こう年をとっては八升になってしまった」と酒の量のへったのをなげいていたという。朝から正午まえまでに一斗八升も飲むなんていうのはどこに酒が入ったのだろうとびっくりする。十五、六年ごろまではまだまだ東京と名はかわっても、のんびりこんな馬鹿げた「のみくらべ」が行われていたのだ。(「江戸風物詩」 川崎房五郎) 


フグジャー司教
ドイツのヨハン・フグジャー司教は説教もうまかったが酒好きでも有名だった。その故か、この世を去るに際し、つぎのような遺言をのこした。曰く、「じぶんの墓石の上には年じゅう、酒のいっぱいつまった酒樽をのせておいてくれ、そうすればわたしのからだはいつも豊潤な美酒の香りにひたることができるであろう」と。フグジャー司教はこの遺言を実行できるため、多額の金子をモーテフィアスコーン市当局に遺贈した。(「奇談 千夜一夜」 庄司浅水 編著) 


古事記の八俣遠呂智
爾(ここ)に速須佐之男命(はやすさのおのみこと)、乃(すなわ)ち湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に其の童女(おとめ 櫛名田比売(くしなだひめ))を取り成して(童女を櫛に変えて)、御美豆良(みみづら 髪)に刺して、其の足名椎(あしなづち)手名椎(てなづち)神(童女の親)に告(の)りたまひしく、「汝等(なれども)は、八塩折(やしおり)の酒を醸(か)み、亦(また)垣を作り廻(もとほ)し、その垣に八門(やかど)を作り、門毎に八(や)佐受岐(さずき 桟敷) 此の三字は音を以ゐよ。 を結(ゆ)ひ、其の佐受岐毎に酒船(酒を入れる器)を置きて、船毎に其の八塩折の酒を盛りて待ちてよ。」とのりたまひき。故(かれ)、告りたまひし随(まにま)に、如此(かく)設(ま)け備へて待ちし時、其の八俣遠呂智(やまたのをろち)、信(まこと)に言ひしが如(ごと)来(き)つ。乃(すなは)ち船毎に己(おの)が頭(かしら)を垂入(た)れて、其の酒を飲みき。是(ここ)に飲み酔(ゑ)ひて留(とど)まり伏し寝き。爾に速須佐之男命、其の御佩(はか)せる十挙剣(とつかつるぎ)を抜きて、其の蛇(をろち)を切り散(はふ)りたまひしかば、肥河(ひのかわ)血に変(な)りて流れき。(「古事記 祝詞」 倉野憲司・武田祐吉校注) 


夜酒盛
ところで、この秋じまいの習俗の一つで、下北半島の一隅で婦女子が集まって開く、夜酒盛(よじゃがもり)というのがある。秋じまいになると、娘たちはその年に収穫されたものの中から、米やダイコン、大豆などを親からもらい、その品を持ち寄って集まった。娘達は同世代ごとに十人から十五人単位で、一軒の家を一週間から十日と借り切って、持ち寄った材料で料理を作り、男たちを招待し、祝宴を開くのである。その際作られる料理は、ニシメ、ニエコ、ナマス類、そば、鶏卵、濁酒多様なもので、客人には膳を出すこともあるが、炉端膳と称して、囲炉裏を囲んで食べることもあった。男たちはその期間中、夜になると落ち着かなかった。今晩はどこそこで十八(歳)の夜酒盛だ、あそこは二十だ、二十二だと語り合っては、娘たちの開く夜酒盛の家に急ぐのであった。娘たちはまた、この期間中親から外泊を許され、仲間と自由に語り、枕を並べて床につくことができる日々であった。夜酒盛の家で、客人として娘たちにごちそうを受けた男たちは、帰る際、座布団の下に金子を入れ、御祝儀、御礼としていった。当時娘たちは春から秋まで野良で働いても、現金収入がなかった。だからこの夜酒盛の際に、男たちから受ける御礼の金子が、娘たちの唯一の収入になっていた。集まった金は仲間と分け合い、げたや、着物のハンエリ、腰巻、足袋などを買い求めては、晴れ着で着飾る正月を迎えるのである。(「みちのく民俗散歩」 田中忠三郎) 


数の子
「かずちゃん数の子ニシンの子」というわらべ唄がある。「酒のさかなにゃ数の子よかろ親は二親(ニシン)で子はあまた」という民謡もある。いずれにも数の子が登場している。数の子は、子孫繁栄の縁起ものとして使われる。近ごろでは、人口問題上、子だくさんはあまり歓迎されないが、数の子を使う風習だけは残っている。(「探訪ふるさとの味」 柏原破魔子) 


ルーズベルトの政策
一九三二年の大統領選挙戦はこうした混乱した状態に最後のとどめを刺すことになった。今や不況のシンボルへと転落していたフーバーは敗北を喫し、ニューディールの大胆な政策構想で国民を引きつけ、禁酒問題にも柔軟な姿勢をとっていた民主党のフランクリン・D・ルーズベルトが当選したのである。実際に早くも一九三三年二月、つまりフーバーがまだホワイトハウスにいる時に(当時政権の交代は三月四日だった)、連邦議会は禁酒条項を撤廃する憲法修正第二十一条を可決し、批准を得るために各州にまわされた。だが必要な数の州の批准を得るには時間がかかる。国民はそれまで待つことができない。そこで世論の動向に鋭敏なルーズベルトは三月四日政権につくや、ただちに景気の回復を目指すニューディール政策に着手するとともに、経済的必要と関連づけて禁酒政策の緩和に踏みきった。(「禁酒法−アメリカ における試みと挫折−」 新川健三郎) 

岸駒
伊勢屋の隠居こと大窪詩仏は、町人らしく揉み手をして、「一枚だけは、手みやげに、私が持って帰りとうございますから、お急ぎを願いたいので…あとの九枚は、先生のお気の向きました節に、お描き願いまして、飛脚便で取寄せると致しましょう」といって引取った。約束の日にくると、絵は出来ていた。岸駒(がんく)は酒肴の用意をして伊勢屋さんを下にもおかずもてなした。伊勢屋さんは、岸駒の虎を側に置いたまま、ろくに見もせず、しきりに盃をかさねた。元来の正覚坊だから、飲みッぷりと酔いッぷり神に入るのは当然だが、時分はよしと、鯉こくの椀を手から辷らしたのは、予定の行動であった。「あュ、これは粗相を…」と口だけは狼狽して、仕草は悠然落ちつきはらって、かたわらなる虎の絵で、畳を拭いた。鯉こくの味噌汁に浸って、せっかくの虎がクシャクシャになった。岸駒は、さすがに不快であった。−
「まずお聞きなされ。何を隠そう、伊勢屋の隠居とは、大窪詩仏が、貴殿を眩ます仮名でござる。先般太田南畝が土産話の一節に、貴殿が尊き技芸を、正札で切売りさるる由を聞いて、江戸の文人一同いたく慷慨し、拙者を選みてはるばる上洛せしめ、御覧の通り芝居を一幕打ちしも、すべては風流道のためでござる。−」(「江戸から東京へ」 矢田挿雲)京の岸駒が玄関に虎の真筆料を真30両、行20両、草10両と張り出していることに江戸の痩せ我慢連が憤慨し、藤堂公から350両を借用して、大窪詩仏を商人に変装させてうった芝居だそうです。岸駒は受け取った300両は返しましたが、その金で、詩仏は某楼に岸駒を招待したそうです。 


マックソーリー
その帰り、バワリーあたりを車で走っていたら、たまたまマックソーリーズ・オールド・エール・ハウスの前に出た。一八五四年開店、ニューヨーク市最古の酒場である。改装しないことを売り物にしてきたので、バーのなかは古色蒼然としている。ここのテーブルでビールを飲んだ。目の前の壁に、この店のことを書いたジョゼフ・ミッチェルの『マックソーリーの素敵な酒場』という本のジャケットがはってある。ニューヨークの酒場は安い。二十ドル札(約五千円)一枚あれば、かなり飲める。バーテンダー一人にウェイターかウェイトレスが一人という酒場が多い。したがって、人件費も安くてすむのではないか。(「晴れた日のニューヨーク」 常盤新平) 


変動相場制
浅草・千束の猿之助横丁に、クマさんこと熊谷幸吉さんがやっている飲み屋「かいば屋」がある。ここでは、ぼくは酎ハイを飲む。焼酎ハイボールだ。主人のクマさんは、ひところミル酎を飲んでいた。ミルク割り焼酎だ。ミルクをサカナに、いっしょに飲むから、ナマケ者には便利だよ、とクマさんはわらっていた。それが、グレ酎にかわった。焼酎までグレちまったようだが、グレープフルーツ・ジュースで割った焼酎だ。クマさんの店では、酎ハイなどの値段を書いた紙が壁にはってあった。その紙が、あるときから、なくなった。「どうして、なくなったんだい?」とぼくがきくと、クマさんはこたえた。「変動相場制になったのよ」飲み屋の値段が変動相場制というのは、どういうことなのか、ぼくはクビをひねっていたが、そのあと、なん日かして、「かいば屋」にいくと、クマさんが言った。「きょうは高いよ」「なんで?」「場外馬券を買ってスッちまった」飲み屋の主人が競馬に負ければ、酎ハイなどの値段が高くなる、これがクマさんの言う変動相場制だったのである。(「田中小実昌エッセイ・コレクション」 大庭萱朗編) 


六個の玉杯
杯はもうコップや枡のように分厚であってはならない。と同時に、酒の熱さがちょうど具合よく杯によって保存され且つそれが誠に微妙に唇に伝わるようなしろものでなくてはならない。これは私のりくつではなくて、玉杯から得た一つの尊い経験なのである。私が今秘蔵している玉杯というのはK君から贈られたもので、K君は酒徒などではなく、むしろ謹厳に近い若い同学の徒であるが、かねて私の酒飲みであることを知っていて、何かの序でに父君遺愛のこの品を、むしろところを得たものとして私に伝えて下さったと、私なりに勝手ながら、心から感謝をこめて解釈している。杯には箱書きや折紙等がなく、不案内の私にはそれが何時の時代又どこの産とも見当はつかないし、強いてつけようとも思わないが、比較的新しい桐の箱に六つの仕切りをして、六個仲よく収まっている。大きさや形状は吾々が日常使用するさかづきに似ていて、六つが六つながらちがった型をしている。唯素材がまごうかたない玉(ぎょく)であるというだけのことで、文選や徒然草の「玉巵」や「玉のさかづき」であるかどうかも保障の限りでなく、私がいつも客に誇示して玉杯と称するのも謂わば仮称でしかないが、それにしてもこの六個が玉で作られている限り、この仮称はたいした誣いごとではないつもりである。(「詩酒おぼえ書き」 高木市之助) 


妙なクセ
エノケンは酔っ払うと妙なクセがあった。スピードを出している自動車の右側のドアから外に出て、車の後を回って左側のドアから入るのである。車が猛スピードを出していないとやる気にならないのだから、いくら身が軽いとはいえ、常人には理解しかねるクセだった。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


馴染んだ店
ただ、本当はやはり、どんなに馴染んだ店であっても、「今晩は」と入って行って、そしてどんなに何度も繰り返したお馴染みのメニューであっても、毎回毎回「酒二合、冷やで」 などと注文するのが正しいのだ。で、それでなくてはならない、と肝(きも)に銘じていて、どんなに仲良しになった店でもキチンとそれで押し通す、という強い意志を持ちつつ、ふと気付いてみると、いつの間にかこの店ではなにも言わなくなっていた、「そうか、もうここで飲むようになって三年も経ったもんなぁ」と感慨にふける、というのが店に馴染む、ということの味わいだ。(「酔っ払いは二度ベルを鳴らす」 東直己) 


「猿酒」
ひと頃箕面(みのお)のみやげ物に「猿酒」といふのがあつた。丹波のや江州の信楽(しがらき)などで焼いた瀟洒な徳利型の容器に詰めてある珍酒なのである。由来箕面には猿が多い。瀧を上つて勝尾寺へ通ふ山路などを独り通つてゐると、何時の間にか彼方の峯、こなたの谿(たに)から一群の猿猴が現はれて人間嬲(なぶ)りを初める。商売の眼の聡(さと)い大阪の商人は早速と此の悪戯(いたずら)ものゝ猿を拉し来つて、こゝに名産「猿酒」が猿ならぬ人間によつて醸され、箕面遊覧のよいおみやげとして、すばらしい売行を示したものである。しかしこの人間代醸の「猿酒」のい風味も捨てたものではなく、酒飢饉でなかつたその当時でさへ、相当の酒通が愛してわざわざ大阪から紅葉狩りならぬ猿酒買いに出掛けたものである。(「たべもの歳時記」 四方山径) 昭和18年の出版です。 


嫌いなものに関するメモ
ウイスキーを飲みながら食事をする人がいる。コーヒーを飲みながら晩餐、ていう人もいるようだ。こういう人々は味の蕾の無いかたがたではあるまいか。考えてごらんよ、ウイスキーのオン・ザ・ロックスなんかで河豚(ふぐ)を食べるなんて。こらあかんわ。
コーヒーを飲みながら食事するっていうのは、西部劇時代から一向に垢抜けない、アメリカの蛮風です。この一事だけでも、アメリカ人がどれだけヨーロッパで軽蔑されているかわかんない。それをどうだろう、日本のホテルなんか得々と真似しちゃって、食事の始まる前にコーヒー・ポットなんか出している。
ビールの小壜しか置いてない店。日本酒のお銚子に、つるっとしたウイスキー・グラスを出す店。(「ヨーロッパ退屈日記」 伊丹十三) 


のんだくれ
「なんぼのんだくれの私でも。現在のお袋がよくよくの事ならばこそ、子へ手を下げて頼むとは、冥加(みやうが)が恐ろしいと存じました故、…と、口から出まかせに云つたものの、…」『三日月阿専(おせん)』巻之五での源次のことば。ひどく酔っぱらうこと、また、そのような人、大酒飲みのことを「のんだくれ」という。この語の語源につき、『大言海』では、「飲みたがり」の転で、飲みたいままの意から「のんだくれ」となったものとするが、どうであろうか。あるいは、「飲みたくる」(「たくる」は「ひったくる」の「たくる」で、奪い取るの意)という複合動詞からできた「のんだくり」の転であるかも知れない。(「江戸ことば 東京ことば辞典」 村松明) 


ポケット・ウイスキー
旅行や登山などに持ち運びが便利なため、隠れた人気を保持しているポケット・ウイスキー。平たいビンの形が内側に弓なりにそっています。じつはこの携帯ボトル、一六二○年代に、アメリカのギャングの親玉アル・カポネとその手下が、FBIの目をかすめて、酒を無事に運ぶために考案された苦心の作なのです。禁酒法(一九一九年施行)もなんのその、ホテル、レストラン、キャバレーなどでは、客の求めに応じて酒を提供していました。しかし、店に酒を運ぶのに、樽詰めや丸ビンの大きいやつでは目立ちすぎます。そこで、ズボンのポケットに忍ばせて、太腿にピッタリ合う形と、大きさを考え出したというわけです。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


めざマル酒
フジテレビ系めざましテレビがプロデュースしたという、各地物産を集めた銀座めざマルシェが今年1月にオープンしたということで行ってみました。めざマル酒というフロアが11Fにあったのでのぞいてみたところ、525円で展示されている数百点の清酒の中から3点の利き酒ができ、また、夜は居酒屋にもなるようでした。売る方は大変でしょうが、グラス一杯の量をもっと少なくして、5点くらい利き酒できるといいのだがと、勝手なことを思いながら赤い顔をして帰ってきました。 


四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒 上杉謙信
「霜は軍営に満ちて秋気清し」という漢詩の作者として、武将上杉謙信の名は長く人々の記憶にのこりつづけてきた。もっとも、天正五年(一五七七)九月十三日に、七尾城攻略の陣中にあって詠じたというこの一首は、後世の仮託らしいが、仮託されるにふさわしい武将が謙信だったことに、違いはない。事実、彼は六尺近く眼光するどい偉丈夫だったのに、和歌をよくし、書に巧みだったというから、漢詩を物することもありえる。(「辞世のことば」 中西進) 


嗜欲の害
又走ること十町あまり。但(と)見れば山の半腹(なから)より。生出(おひいで)たる松に索(なは)をかけこれに両足を結び著(つけ)て。ぶらさがりたるものあり。近くよりてこれを見るに。これ人なり。世に首縊(くく)るものはあれど。足括(くく)るとは聞も及ばず。はや縡断(こときれ)たるかと見れば。さはなくて。斧を三絃(さみせん)にして。鼻唄をうたふ形容(ありさま)。さながら狂人に異ならねば。あやしくも又不便(ふびん)におもひて。抱きあげつゝ索を解(とき)すて。扶(たすけ)おろして。その故を問ば。この人甚(はなはだ)不興して。われはこの山の麓なる樵夫(きこり)なり。強飲国に生れながら。家貧しければ。酔ふほどには酒を得飲ず。けふも粗朶(そだ)を負て里へ出。些(ちと)の酒にありつきたれど。山風に吹きさまされ。可惜(あたら)酒の忽地(たちまち)に。醒(さめ)んことの遺憾(のこりをし)さに。見らるゝごとく梢(こずゑ)より。倒(さかさま)にさがりしは。飲たる酒をのぼせん為なり。しかるに御辺(ごへん あなた)。わが楽みをしらず。かく引きおろし給ふこと。さりとては情なし。と頬ふくらまして呟(つぶやけ)ば。夢想兵衛呆れ果て。人その危きを忘るゝは。嗜欲(ぎよく)の害也。(「胡蝶物語」 曲亭馬琴) 強飲国  


一年三百日
年のせいでからだは疲れやすく、畑仕事も楽でなくなった。従って酒も弱くなった。近来は、ウチで飲むときはワンカップ三杯に決めている。例の駅などで売っているワンカップ酒と同じ分量のコップに一升瓶からコップのふちまでなみなみにと注ぎ、その冷やを飲むのが普通だが、コップからグイ飲みに注いで呑む場合もある。これは自分自身に課した掟の積りだが、元来が意志が強い人間ではないので、友達なんかがやってくるとつい話がはずんでいるうちに三杯が四杯になったりする。また五杯になったりする。五杯といえば酒場や料理屋などの一合トックリ六本半にはなるので、そうなると今の自分にはオーヴァということになる。然し時には八合を超える時もある。すると、つまり翌る日は二日酔いになり、どうも胃がむかつくので迎え酒という破目になる。と仕事も思うようには到底できず、せいぜいベットで本を読む位がオチでまる一日は仕事の方はロスになる。今でも一ト月に五日位はロスがあるので、一年三百六十五日が自分にとっては一年三百日しかないことになってしまう。今年のある日の日記に、「自分の酒」という詩を書きつけたが、それは 酒は極楽。 さうして。 地獄 地獄極楽。 詩というよりはフラグメントだが、いつわらない実感である。(「口福無限」 草野心平) 十五年のロス  


どぶにつける
「皮を剥ぎ、腸(わた)を捨て、胆嚢(たんのう)をよくとり、血の気のないまでよく洗って、先ず濁酒(どぶ)につけておく。清酒も入れる。下地は中味噌より少し薄くして煮立ってから、魚を入れ、塩加減をして出す」(『料理物語』)というのが、江戸初期の河豚汁の調理法だった。(「食の文化考」 平野雅章) 


アチラが立てばこちら…
アレクサンダー大王はあまりいける口ではなかったともいい、よくのんだともいわれる。彼が英雄に似ず女に弱かったのは、酒をのみすぎたからだとも伝えられている。(「ユーモア人生抄」 三浦一郎) 


何でもない
客「二千円の葡萄酒と、二千八百円のとではどう違うんです」
店員「はい、八百円、違っています」(「ユーモア辞典」 秋田實編) 


プロセスチーズ
ウイスキーの好きな人には、チーズなどは絶好のおつまみでしょう。歯ごたえのあるプロセスチーズで一杯、なんてのはこたえられないものです。ところで、チーズで困りものなのは、切り口がすぐに固くなってしまうことです。こんなときには、逆にウイスキーが、役に立ちます。固くなった切り口に、ウイスキーを少したらして、密閉容器に入れておけばよいのです。柔らかくなると同時に、ウイスキーの風味がついて、さらにおいしく食べられます。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


酒好きの人間は
酒好きの人間は自分が好き。
賭けごとの好きな人は他人が好き。
いろごとの好きな人は、自分も他人も両方好きな欲ばり人間であると思うけど、さてあなたは一体何にいちばん弱い人?(「ところで、もう一杯A」 山口洋子) 


尾崎士郎
 ある日酔った尾崎士郎は友人たちと未知だが、その著に心酔していた北一輝の家に押しかけた。北が出て来ると尾崎「北一輝何者ぞや!」北「われはこれ日蓮の行者なり。尾崎士郎は何者ぞや!」尾崎「われはこれマスター・ベーターなり!」
 大森馬込時代尾崎士郎は「作家は霞を喰うべし」という一文を発表したが、友人たちと会っては飲み、路上にねて泥まみれという生活だった。その頃彼がつくって自嘲的によくわめいた歌、「文学時代(雑誌名)は締切りで、博文館は間に合わず、急げや急げ講談社」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


宴席での上手な酒の飲み方
秋山裕一先生は醸造試験所入所以来、今日までいろいろ指導を受けています。最初の指導は「宴席での上手な酒の飲み方」でした。鑑定官室では宴席が多く、しかも上座に坐らされて「献杯、献杯」と杜氏さんや蔵元さんらが押し寄せてくるので、そのときは「まあ、一杯」と言って、相手に注いで、その後、自分に注がれたら、盃をいったん下に置いて、相手の名前を聞いたり、いろいろ質問すること、そしてゆっくり飲んで相手に盃を返す。こうすれば酒の総攻撃によって、あえなくダウンということもないでしょう、と教えられました。(「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 


イクラの醤油づけ
イクラの醤油づけ:ダイコンを斜に切ってヘラとし、生筋子の粒をそぎとる。湯に通してほぐす手もあるが、呼吸が必要。醤油、酒適量につけこんで、酒のサカナ。(「男のだいどこ」 荻昌弘) そういえば、渋谷の居酒屋芝浜の素人っぽいイクラはいいですよ。 


タマダ(2)
トリビシは、クラ川をはさむ渓谷地帯にある町で、非常に景色がよろしい。古い教会や城壁も残っている。ここのママダビデの丘にあるレストランからの夜景が素晴らしい。ケーブルカーに乗って夜景の写真をとりに行った。さっそくタマダにつかまった。十数人のグループであったが、日本の新聞記者だと聞くと、まず、グルジアのワインを呑んでから、写真をとれ、という。そこで乾杯となった。全員のグラスに赤ぶどう酒を注いで、「日本とソ連の親善のために乾杯!」と来た。きゅーっと干すと、冷えていてなかなかうまい。次は、「日本の新聞記者の健康を祝って乾杯!」「貴君の両親のために乾杯!」はては、「この上等の背広のために乾杯!」「日本の新しいカメラのために乾杯!と果てしがない。やっと五杯で勘弁してもらった。とにかく、乾杯が好きな民族である。そして、酒が飲めなければ、一人前の男とは見なされないのである。(「世界を食べ歩く」 豊田穣) 


北米料理批判
パスは言う。「われわれの国では、食事は、食卓をともにする人たちの和合だけでなく、料理の材料の和合でもある。それに対して、ヤンキーの食事には、ピューリタニズムが滲(し)みこみ、排除を事とする」と、なかなか手きびしい。香辛料を悪魔のように避け、クリームとバターの泥沼料理に満足し、砂糖をやたらと使うのが、ヤンキーの悪癖である。彼らが好むアイスクリームとミルクセーキをみれば、すべては納得がゆくだろうと、パスは裁断する。さらに、飲み物だって、ヤンキーが常用するウイスキーとジンは孤独な人、内向性の強い人間のためのもので、葡萄酒とはちがう。「葡萄酒やリキュールは食事の楽しみを補うもので、その役目は、食卓のまわりにくりひろげられる、さまざまな関わり合い、結びつきを、より一層、親密、かつ緊密たらしめるよう刺激することである」。近頃は北米合衆国でも葡萄酒をたしなむ人間がふえたようですが、このパスの指摘は、本質的には正しく、同時に、正確な文明批評にもなっている。(「世界文学『食』紀行」 篠田一士 『食卓と寝台』 オクタビオ・パス) 


夜更けのカルタ
町の小さな酒場の常連が、ある時、カルタをつくりはじめた。むろん、そのへんにいる人の中で、一人でも圏外にいるような状況では、はじめるべきではないのだが、その日は、たいへんうまいぐあいに、雰囲気ができあがって、店のあるじが筆記役になった。たちまち、酒を主題にした四十七ができた。あれは、あの店に保存してあるはずで、一度写しに行こうと思っているが、その店には行っても、ついそれを忘れて帰って来てしまう。しかし、今でもおぼえているが、その酒のカルタは、むろん、作りやすいところから、作りはじめて行った。数えていくと、三十ほどできて、「ね」と「き」は、まだ残っていた。ぼくより大分前から飲んでいた某誌の編集者のK君が、カウンターに俯伏せになって、眠っているようだった。ぼくは不意に「寝耳に水割り」といった。すると、K君は顔をあげ、間髪を入れずに、「気違いにストレート」と切り返した。ウイスキーの会社の広告文には、採用してもらえそうもない。(「夜更けのカルタ」 戸板康二(演劇評論家) 文藝春秋巻頭随筆'67.1) 


葡萄酒と人間の血
葡萄酒と人間の血を同じものとする考え方は古代ヒッタイトにもみられ、葡萄酒をそそぎながら、「これは酒ではない、これはあなた方の血である。」という儀礼があったことが記録に残っている。(「西域余聞」 陳舜臣) 加藤九祚による解説の一部です。 


借金党の暴動
神奈川県南多摩群廿八ヶ村の貧民約三百人は、本月三日蓑笠(みのかさ)に身を堅め、筵(むしろ)旗を押し立て、竹槍等を携へて御殿峠へ集合し、不穏の状あるに因(よ)り、八王子警察署より警部巡査三十名許(ばかり)現場に馳せつけ、種々説諭して解散せしめたりしが、其後も不穏の様子打ちつゞき、五日には五百人余、十日には千四五百人余以前のいでたちにてやはり御殿峠に集合、近傍の家家より金穀を挑発し、大釜をすえて炊出しをなし、酒樽の鏡を抜きて威勢を附け、太皷(たいこ)を打ちならして八王子表へ繰出し、銀行はじめ其他の貸附会社に強談して、借金は満五ヶ年据置、五十年賦にて返却、質入地は五十ヶ年賦に買戻すことを承認せしめんと傲語しつつありとの報にまた八王子の警部、巡査三四十名馳せつけ、願筋あらば一二人の総代を選び、事穏便にいたすべし、異形の姿にて多勢押出すは据置き難しと、夜を徹して説諭せしため、千人近くは帰村せしが、三百余人の首謀者は説諭に従わず、止むなく、一旦八王子署に拘引し、つぶさに利害を説いて解散せしめたり。然るにこの三百余人は恰も警察署の許可を得たるが如く、五人七人づつ惣代と称して銀行、貸附会社、金満家等へ押しかけ強談の箇条を示して、承認の調印をなせと怒鳴り立てれば、おそれて調印するもあり、前以て門戸を閉塞して落ちのびるもあり。八王子署にては其処置に窮し居れる由。<明一七・八・二四、朝野>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


お客さんの酒もついでにナメてきた
ふところの深い大鵬は、いつも慎重な立ち合いをして、自分充実の体勢をつくることを心掛けた。勝手知った自分の陣地で勝敗を決しようとする消極戦法でもあった。敵地に乗り込んで無茶はしないのだ。柏戸は逆で、自分の陣地で取ったほうが有利なときでも、闇くもに敵地へ突入していく相撲がほとんどだった。思い切りの良さが柏戸人気を支えた。全盛期の柏戸は、相手を引きつけて一気に突っ走り、勢いあまって勝負審判の肩口をかすめ、マス席に飛び込むことがあった。そうしたとき仕度部屋にもどると、「お客さんの酒もついでにナメてきた」などと冗談をとばした。大鵬は冗談もいわないかわりに、不機嫌になることもなく、いつも取り澄ました感じであった。(「相撲百科」 もりたなるお) 


閨房記楽
素雲は笑ひながら私の肩をどんとどやしつけて。まああなたはあたしをおなぶりなさいますのねといふ。と芸(「私」の妻)が酒令を出していつた。以後口を動かすことは許すが、手を動かすことは許しませぬ。違反者は罰として大「角光」(おおさかづき)で一ぱい飲み干すべきであります。素雲はもとよりの酒豪、「角光」になみなみと斟(そそ)いで、ぎゆうとひと息にのみ乾す。私が、手を動かすことは許すが、ただ撫でるだけで捶(ぶ)つことは許しませぬといへば、芸は素雲をひつぱつて私の膝に押しつけ、さあさあたんまりと撫(な)でまはしなさいよ。私は笑ひながら、君は通人ぢゃないね、模索は有為無為の間にあるんだよ。抱きついてむやみに探りまはすなんざあ田舎者のやることさ。そのとき彼女等二人の鬢に簪(かざ)してゐた茉莉(ジャスミン)の花が酒気に蒸され、それに白粉汗と油の香を雑へて、いい馨(かお)りがぷうんと鼻をついた。私が戯れに、ああ小人の臭味が船ぢゆうに満ちみちて、何だか胸がむかむかするといふと、素雲は思はず拳骨でとんとん私の背中を捶つて、まあ誰があなたにむやみに嗅いでくれと頼みましたえ。そこで芸が、酒令に違反した罰として大「角光」二はいを命じますときめつける。でもあなただつて小人だなんてあたくしを馬鹿になさるんですもの、捶たないでわられませいかといいかへせば、いいえあちらの小人といふのには曰はくがあるのです。まあこれをお乾しなさい、話して聞かせますから。素雲はつづけざまに二はい飲み乾した。(「浮世六記」 沈復 佐藤春夫・松枝茂夫訳) 乾隆27年(1763)年に生まれた沈復の自叙伝の一節です。 酒令 


酒田の地酒
ここで、こういう料理を肴で飲んでいた酒のことも書いて置かなければならない。酒田の地酒で、この辺で酒は十数種類造っているそうであるが、今度行っている間飲んでいたのはその中の初孫というのだった。ここで聞いた話では、この酒は甘口だということである。人に甘口か辛口かを教えられるのも、この頃の酒に見られる特徴の一つに違いないが、それでもまだ初孫が甘口だとは思えない。要するに、全然舌に逆らわない酒で、これが甘口ならば菊正も甘口だということになる。尤も、こういう違いは確かにあって、菊正は西ノ宮の硬水で作るが、酒田の水は朝嗽いしただけでも解る通り、如何にも口当たりが軟らかな水で、それを口に入れている間に酒に変わったところを想像すれば、大体は初孫の味というものが得られる。そしてこれがあって、どれだけ助かったか解らない。これからまだ何十種類かの料理が出て来るのであるが、その傍にはいつも盃と、初孫のお銚子があったことをここで断っておく。(「山海の味・酒田」 吉田健一) 


そこで寝てろ
エノケンが浅草の舞台に出ている頃、酒に酔ったままヘベレケで登場したら、それを見た客が「コラ エノケン 無理しないでそこで寝てろ!」昔の客は粋でしたというのだが…。
(「芸人その世界」 永六輔) 


大粒米と小粒米(2)
戦後、昭和二〇年代の米の不足時代は米の入手の方に心をくだいたが、経済的にも安定してきた昭和三五年頃から、再び「酒造好適米とは何ぞや」に酒造技師たちは挑戦した。醸造試験所でも米の研究を再開したが、この裏方として野白喜久雄博士の苦労がある。このときは、酒米の代表として、兵庫県の山田錦(大粒米)、普通米として埼玉県産の日本晴を選び、三年間にわたって、一定の計画に基づいて、七つの研究室の分担で仕込み試験を行った。精米は、野白博士自ら糠で真白になりながら担当されていた。精米歩合は七五、七〇、五〇パーセントなど、研究室のそれぞれの計画に従って、できるだけ同一条件で仕込み、もろみ管理を行った。さて、三年間の実験結果は、酒質からみると、山田錦と日本晴との間に明確な甲乙つけがたいというものであった。この重大な結果は、「米にかなり高度な技術を集中すれば、大差のない酒質が得られる」ということを意味するもので、以後、米価の高騰の時代に突入し、量産、マスセールの競争時代を迎えるに至って、原料米への考え方の転換を与えるきっかけとなった。ただ、研究成果の公表は米の統制時代でもあり、あまり大きく扱われなかった。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


大粒米と小粒米
大正五年から醸造試験所の佐藤寿衛氏が中心となって、全国から仕込に使用している米を集めて、分析と酒造適性の試験が精力的に六年間も行われた。集められた品種は神力、愛国、亀の尾、坊主、雄町などで、当時たくさん作付けされていた品種と一致する。また灘、伏見、広島といった当時の銘醸地の使用米が注目されていたことも事実であろう。この研究結果から、「酒造好適米」という言葉が生れ、大粒の心白米がこれにあたることが明らかにされた。これは大きな功績である。その頃の酒造米としてよいものは、蒸しが容易で麹菌のハゼ込みがよく、糖化されやすくて発酵がよく、異臭味を与えない米とさてていた(明治四三年鹿又親先生の論)。当時の精米は水車などに頼っていたから、皮がうすい大粒心白米は使いやすかったに違いない。それは最近私どもの得た実験結果からも理解がつく。小粒米で給水が悪い場合にも糖化は極度に悪くなるが、大粒米では吸水の悪い場合にも糖化は悪くならないのである。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


酒の狂歌
八田 食ふものを見ればハッタとにらみつけ触覚だけでのむ善之進
塚原 伊勢松とたが名づけゝむ梢(こずえ)には余り葉のなき酒のみの松
村山 日の本にお御酒あがらぬ神はなしお御酒あがらぬ村山もなし
西野 酒をのみ野球をたしみ歌をよみ馬にも乗れど脈もとるなり(「入江相政日記」) 昭和18年4月27日にあります。 


山田錦、雄町
野白 山田錦は非常に粘り気が少ないと思います。
佐藤 食べてみたら、やっぱりササニシキがおいしい。
野白 山田錦と並ぶくらい有名な酒米に雄町という米があるんですね。雄町は、ちょっと年代は忘れましたけれども、大正時代には全国で二番、三番ぐらいの作付面積があったんですね。
佐藤 どうしてなくなっちゃったんですか。
野白 結局は、作りやすい、多収穫とか、耐倒伏性とかの目的で米の育種をやってきましたから、作りにくい品種は農家から嫌われてきたのです。山田錦だって随分丈が長いので、刈り取り機のコンバインが使えないという、農作業にとってはむずかしい米なのです。
斎藤 山田錦の歴史は…。
野白 これ(山田錦)は昭和十四年ごろ兵庫県で育種・栽培されました。関西あたりでは、雄町や山田錦というような味があっさりしたお米の評判がよかったようです。その理由は、関東のおかずは非常に味が濃い、一方、関西はあっさりした、淡白な味のおかずなんです。やっぱりお米も、さっぱりした味の米がよかったのではないかと考えられます。(「酒を語る」 斎藤茂太・佐藤陽子・野白喜久雄・栗山一秀・濱本英輔) 


親子酒
とあるカフェですでに相当酔っぱらったふたりの男が負けず劣らずに怒鳴りあっている。−ぼくの家はここからあまり遠くないんだ。 −ぼくの家もそうだよ。 −ダルマ町だ。 −おやぼくんとこもダルマ町だ。 −二七番地だ。 −番地までおんなじだ。 −そこの五階だ! −何を!嘘をいうない。ぼくんとこも五階だが、あすこには、部屋が一つしかないはずだぞ。 −なにを馬鹿な、おれの家は確かに五階だ。 そこで大口論がはじまり、組んずほぐれつの大乱闘を演じたが、ようやくボーイがなかへ入ってふたりをおさまらせた。それを見物していたひとりの客が、「あれは、いったいどういう連中なんだい」とたずねると、ボーイが答えて、 −なあに、ここの常連で、ふらりは親子なんですが、酔っぱらうとお互いに相手の顔を忘れてしまうらしいんです。(「ふらんす小咄大全」 河盛好蔵訳編) 


我流イングリッシュで珍問答
ある繊維会社の部長と、ロスアンゼルスで夕食を共にしたときの話。彼はなかなかかっぷくがよく、いかにも酒に強そうなビジネスマンだった。夕食のテーブルに座る前、まず一杯とカクテルラウンジで話を始めた。彼はビールを注文し、私は飲めないのでジュースにした。話をしながら、それぞれの飲物でのどを潤していたのだが、そのうち彼のグラスのビールがなくなる。当然のように「ビール」といって彼はつぎのグラスを注文する。常識的にいって食事前の飲物である。二〜三杯がいいところではなかろうか。ところが、ビールがなくなると彼は、つぎからつぎへとビールを注文するのである。まさにとどまることを知らないのだ。これにはさすがの私も驚かされてしまった。そのうちに気がついたことだが、彼は夕食を私にご馳走になるからと、カクテルラウンジの支払いは自分で支払いたいと思って、勘定書=BILLを要求していたのだった。アメリカでは勘定書を「チェック」といい「ビル」は一般的でない。その上発音が悪いとあって、ウエイトレスには、ビールのおかわりと聞こえたらしいのである。(「こちらニューヨーク支店」 矢野成典) 


四月二十五日(金)
先帝御日柄に付三井君多摩稜御代拝。穴埋めの為早く出勤。十時御出門で靖国神社行幸。予はお留守。還幸後日ソ中立条約に御署名、御二階御座所で御参内の高松宮殿下と御対顔。十一時半園部和一郎中将拝謁奏上、引続皇后宮に拝謁、数々の賜物。三内親王御参、午后吹上に成らせらる。半蔵門近くの竹藪で竹の子をお掘りになる。二十本位とれる。あと障碍馬場の辺でお遊びになる。お帰り後映画、鉄道信号機と出雲合計五巻。福州陥落に付賜った酒を当直の岡部、沢本、松永、田四君と一緒においしく食べる。夜は候所で沢本さんと二人で小袖曾我をやる。御格子后沢本、岡部両君と一緒に二合飲む。これで合計一升飲んだ訳だ。 当直(「入江相政日記」) 皆の合計でしょう。昭和16年です。 


壁土とラムネ
いつだったか尾崎(士郎)さんとは文藝春秋の旅行で東北の各地をいっしょに歩いてまわったことがあった。尾崎さんは飲酒の翌日にはかならず”壁土”と称して制酸薬の錠剤をポリポリ服用した。そしたらまたその晩は酒である。その翌朝が”壁土”、またその晩が酒、まったく酒と”壁土”をたがいちがいに用いることによって、平衡を得るといった調子で、これがぼくにはすてきにおもしろかった。実をいうとぼくもまたそれに感染して、その旅中にはずいぶんこの”壁土”のご厄介になった。思えばつい数年前のことであったが、現今流行の肝臓保護剤なるものが世に布かれる直前のことであったらしい。尾崎さんの”壁土”に相当するものは、火野(葦平)さんの場合だとこれがラムネになる。玉をチャリンチャリンいわせて火野さんがラッパ飲みやっている様子は、いかにもうまそうだ。これもやはり数年前のこと、ぼくは若松の火野さん宅で、一晩大いにご馳走になったことがあった。そのときは長谷健さんも大元気でやはり同じ席で痛飲斗酒に及んだ。翌朝はやく出発するに際して、火野さんはプラットホームまで見送ってくれた。そのとき売店でさっそくラムネを買い、さも甘露甘露といわんばかりにラムネの玉を上下に揺りうごかしてラッパ飲みしていた。十月来の秋風が肌に快い朝のことであったとおぼえている。(「酒」編者のことば 奥野信太郎) 


少日子命
『伯耆国風土記』逸文、粟嶋の条に、「少日子命(すくなひこのみこと)、粟を蒔きたまひしに、莠実(みの)りて離々(ほた)りき」とある。たわわにみのって頭をたれる粟の穂は豊穣の象徴であり、スクナヒコが粟の穂にのり飛び去る記述も、イネが主穀になるまでは、アワが主穀の座を占めていたことを示すものである。古態をつたえる神事にはアワが神饌(粟飯・粟酒)として奉納されるのも、アワが主穀であった時代の姿を投影するものである。(「食の万葉集」 廣野卓) 


ヒロにもやれっ
戦後の父のなによりの楽しみは、天皇誕生日などに宮中に参内することでした。私が帰ってからすぐ軽い脳梗塞で倒れて、すこし身体が不自由になったんで、参内のときは私がつきそっていきましたが、立食パーティーでも父はとくに椅子をいただいて、元女官のおばあさんたちに囲まれて、一杯やりながらご機嫌でした。お酒は若いころから、とにかく好きで強かったんです。戦後のものがないころにも、ありがたいことに父のところには皆さんがお酒を届けてくださるので、不自由はしませんでした。しかし、そうは言っても、私も一緒に飲める分量はありません。でも、父はそれを知りませんから、私の家内に「ヒロにもやれっ」と命じる。仕方がないんで、私はお銚子をお茶にいれさせて、酒を飲んでいるふりをしていました。こっちも飲ん兵衛だから、あれは辛かったですねえ。(「血族が語る 昭和巨人伝」「岡田啓介」 岡田貞寛) 


大物主神(大国主神)、大己貴神・少彦名神
全国の造酒家から篤敬される桜井市の大神(おおみわ)神社の祭神は、大物主(おおものぬしの)神、大己貴(おおなむちの)、神少彦名(すくなびこなの)神の三座である。これらの神々が酒神とし崇められる確証をまず求めよう。『延喜式』(巻八・祝詞)の「出雲国造神賀詞(くにのみやつこかんほきのことば)」の中に、「倭(やまと)大物主櫛?(くしみかたま)命」とある。倭は大和国、大は美称、物主は地主、櫛は奇=クスリ=酒、?はミカ=酒甕、転じて酒の意。したがって、大物主神はまさしく農耕神・酒造神である。また、大己貴神は記紀神話に大物主神と同一神、大国主と同体とあるので問題はない。少彦名は『日本書紀』(神功皇后記)の「酒楽歌(さかほがいのうた)」に、 神酒(くし)の司(かみ) 常世(とこよ)の坐(いま)す いわたたす 少御神(すくなみかみ)の とあるので、まぎれもなく酒神である。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


酔醒(よいざ)めの水は甘露の味
【意味】酔って一眠りしたあとで飲む水は実にうまい。【参考】酔醒めの水下戸知らず (「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


バーテンダー(2)
ブロード・ウエーの飲み屋の用心棒、お客にたかる浮浪人の耳をつかんでは放り出すのだが、どういうものか放り出しても放り出しても、すぐによろよろと戻って来てしまうのだ。この様子をさっきから飽きもせずにおもしろそうに眺めていたお客、とうとう用心棒氏の肩をたたいていった。「お前、どうしてあのルンペン野郎がすぐ舞い戻って来ちまうのか、わかるかい?」彼は意見を述べた。「つまり、お前があんまり逆回転を強くひねり過ぎるからだよ」(「ポケット笑談事典」 ベネット・サーフ) 


夜明けあと(3)
明治二十六年 徳島県のある村の、男の赤ん坊。生まれて二十日で下の前歯が生え、飯やイモを食い、酒を与えたら、喜んで飲んだ(読売)。
明治二十八年 東京市内に、甘酒の露店がふえる。酒や麦湯だと、許可が必要なので(都)。
明治二十九年 酒税法の改正。ミリンも酒なり(官報)。
明治三十年 長野県の飯田。精米がおくれ、米価上昇。祭りの酒に酔った連中、米騒動を開始。加わる者がふえて、警官と大乱闘に(東朝)。(「夜明けあと」 星新一) 


兄弟盃
たとえば、弘前市大字貝沢では、それを「兄弟盃」という。「あらかじめ打ち合わせておいた当日、弟分は自分の親友一名を介添えとして伴い、酒二升と肴少々を持参して兄分の家を訪れる。先方では両親はじめ家族一同、さらに叔父など親類の者一〜二名も加わって弟分らを迎え、まず兄分と弟分の間で兄弟分の盃を交わし、ついで酒盛りとなる。ケヤク(津軽一円にある少人数の「同輩集団」)全員を招待する例も珍しくない。彼らは単に客人というよりも盟約を結ぶ晴れの立会人という意味が濃かったようである。ついで何日かを経て弟分の家でも、兄本とその同伴した親友、さらに前記と同様の人々の参会のもと、兄弟分の盃が交わされる。こうして二回にわたる儀礼によって、兄弟分締結に関する儀礼をすべて終えたことになる」(「三三九度」 神崎宣武) 竹田旦の『兄弟分の民俗』にあるそうです。 


春の酒の肴
菜の花の納豆和え
菜の花は、塩を少々入れた湯でさっと茹でる。堅い茎のところはほどよく切り、水気を切って醤油で下味をつける。刻み納豆を溶き芥子と醤油で味つけして菜の花を和える。
蛍烏賊の酢味噌和え
(塩ゆでされた物を)もう一度さっと熱湯を通し、酢味噌は、まず赤味噌二〇〇グラム、味醂半カップを擂り合わせ、弱火で照りの出るまで煮つめる。これを魚天味噌といい、味噌和えの基本。これに酢と溶き芥子を好みに合わせて入れる。これで和えたり、山葵醤油や生姜醤油で食べる。−(「新・口八丁手包丁」 金子信雄) 


桶洗い唄
酒屋百日乞食よりも劣り 乞食や夜も寝る楽もする
酒屋百日大名ぐらし 五尺六尺立てならべ
酒屋男に醪(もろみ)がかかる 若い娘にゃ眼がかかる
酒屋男は家鴨か鴨か 朝も早よから水の中
酒屋男とうぐいす鳥は 寒さこらえて春を待つ
酒は上出来お家は繁昌 造る杜氏(おやじ)さんは福の神
造る杜氏さんが福の神なれば 蔵の若衆も福の神(「京の酒」 八尋不二) 


赤米神事
まず、収穫した赤米は、「コシキ婆(ばあ)」とよばれる女性の手で脱穀される。コシキとは、まさしく古代の炊飯具甑(こしき)である。種籾を入れた俵を天井につるして保存するのは高床式米庫の印象をつたえるものらしい。その俵にネズミモ(ウミトラノオ)を尻尾のようにつけるのも赤米が海路伝来した記憶を伝えている。酒は甘酒であり、麦麹で醸される。日本の麹の主流は米麹であるが、良田がなくムギなど畑作穀物に依存した古態をつたえるものだろう。遙拝神事で、椎木(しいのき)のシャモジから、飯を掌(てのひら)に受けて食べる所作も、「食飲には「竹(上)+邊(下)」豆(へんとう 高坏 )を用い手食す」という『倭人伝』の記述を彷彿とさせる。また、神事に不可欠な魚のグレ(メジナ)をクロイオとよぶのも古代の呼称である。「尾張国正税帳」天平六年(七三四)条に、大炊寮(おおいりょう)酒料として赤米二五九斛(石)を貢納した記録がある。赤米は、奈良時代には飯米としての用途を失い、上古に伝来した記憶が、酒米としてつたえられていたのだろう。 (「食の万葉集」 廣野卓) 前半の「赤米神事(あかごめしんじ)」は、対馬厳原(いずはら)町豆酘(つつ)の多久頭魂(たくずたま)神社ものだそうです。 


253 シキア しいるこゑ(声)聞へ勝手はあぶあぶと
酒癖の悪い客であることが知れているのに、無理にすすめる声がする。断っているうちはいいが、あれを通り越すと大変だと、お勝手でひやひやしているが、出ていって止めるわけにもいかず、顔を見合わせている。(「大阪宝暦折句秀詠」 鈴木勝忠) 


雀らが酒盛る中へ心無(こころなし)や 餅くへと出す鳥さしの竿
(餅は鳥刺(とりさし)の使う竿先につける鳥黐(とりもち)にひっかけたもので、歌意は雀らが酒盛最中に無粋な鳥刺が餅食へとばかり鳥黐をつけた竿を差し出し雀を捕らえたというもの。酒は上戸、餅は下戸とされていた)(「日本酒のフォークロア」 川口謙二) 


眼鏡が必要である理由
で、最後に閃いた。眼鏡を作ってみよう。肩と首の痛みはもうその頃は極限に達し、検眼のために背骨を真直にすることもままならなかったが、なんとか済ませ、数日で眼鏡が出来上がった。老眼ではなく乱視であると宣言された。初めて眼鏡を掛けた時、むしょうに酒を飲みたいと思った。どうやら酒の味にも、この身体の不調が響いていたらしい。最初に飲んだマティーニはじつに美味しかった。以来、眼鏡はもう必需品である。何をするにも、手放せない。どうにも不思議なのは、酒の味がちがうという点で、眼鏡を掛けずに酒を飲むと、何やら力が入らない。酒を飲むのにいったいどこに力を入れようというのかと思うが、身体のどこかにエイと力む部分が生じるのですね、酒を飲もうというと。じつに不思議だ。酒を目で飲む、というのは今まであまり聞いたことがないが、カウンターに眼鏡を置いて飲む時と、これを掛けて飲む時とでは全然味が違うのだ。で、考えた。だいたい酒を飲む時は独りではない。とも飲む友人や相手がいる。いない場合でも、カウンターの向こうのバアテンダーと話をしたりする。ようするに、酒と会話は隣り合わせなのである。そして、この会話に欠かせないのが相手の目を見るという作業で、別れ話やクビ切り宣言でない限り、人は話をする時大概は相手の目を見る。これが酒の席でも眼鏡が必要である理由ではないか。(「酒場正統派宣言」 馬場啓一) 


問題3
ひとしお−(イ)ようやく (ロ)いちだん (ハ)もっぱら (ニ)せいぜい
ろれつがまわらぬ−(イ)あたまの回転がにぶい (ロ)からだの調子が悪い (ハ)発音がはっきりしない (ニ)全く融通がきかない
回答
ひとしお−(ロ)いちだん。 ひときわ。一層。「暑さがひとぎお増す」「ひとしおうまい」「喜びもひとしおだ」などと使う。もと、「ひとしお」は、染物を一回染め汁にひたすことである。「一入」と書くことが多い。歴史的仮名遣では「ひとしほ」である。「しほ」は、古く、「八(や)しほ」「百(もも)しほ」のように、酒を造る時に酒を醸(か)む程度や、染物を染料にひたす回数を算えるのに使う。 貴醸酒
ろれつがまわらぬ−(ハ)発音がはっきりしない。酒に酔った時など、舌がもつれて何を言っているのかわからない状態を言う。 嫁へ差すまではろれつがまわるなり(古川柳) 婚礼の歳などの情景であろう。 まわり過ぎるとまわらなくなるろれつ(古川柳) 酒がまわると、ろれつがまわらなくなるという意味。「ろれつ」は、もと、音階を表わす「呂律」の転であろうと言われる。(「語源のたのしみ」 岩淵悦太郎) 


葡萄酒の鑑別
梁の「朮(上)‥‥(下)」(けつ)公は豪飲して善く酒を鑑別した。高昌国から使者を派遣して、蒲桃(葡萄)の乾凍酒を献じて来たので、帝は「けつ」公に命じて之を迎へしめた。「けつ」公が使者に謂うて曰く「この蒲桃は七分は?(ヲ)林の産で、三分は無半のである。凍酒は八風谷で凍らせたのではない。また高寧酒を和(ま)ぜてゐる」と。使者が曰ふ「其の年は風の災害で蒲桃が熟せず、故に雑(ま)ぜたのであり、凍酒は王の急命で作つたので、故に時節をはづれたわけであります」と。帝が「けつ」公に問ふ「何を以て之を知つたか」と。対(こた)へて曰ふ「蒲桃は?林のは皮が薄くて味が美しい、無半のは皮が厚くて苦い。酒は八風谷で凍成したものは一年中腐敗しないが、今此の品は嗅ぐと酸つぱい香がする。高寧酒は滑らかで色が浅い。故に此のやうに言つたのであります」と。(「酒「眞頁」(しゅてん)」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 

ひとり者
ひとり者、店(たな)(一)をもちければ、友達よろこびにいって、 友達「是(これ)はよい住居(すまい)だ、先(ま)ヅめでたひ」 亭主「是ではせまいけれど、だんだんひろぐるつもりだ」 友達「そふいやんな、ひとり者には是でたくさんだ」 亭主「イゝヤひとりではいぬ、是から女房をもち、めかけをおき、樽酒をのんでたのしむつもりだ」 友達「しゅするにゃ、金があるまい」 亭主「ハテ、かねをひろった時のことさ」
(一)店といっても商売をするところでなく、ここでは借家をいう (「江戸小咄集」 宮尾しげを 編注 「恵方みやげ」) 


狂歌人
飲食にちなむもの−大飯食人(おおめしのくらんど)・目黒粟餅(めぐろのあわもち)・焼酎何献泡盛(しょうちゅうなごんあわもり)・数寄原飲吉(すきはらののみよし)・透原好酒(すきはらのよきさけ)・酒上不埒(さけのうえのふらち)・酒上事也(さけのうえのことなり)・酒上熟寐(さけのうえのじゅくね)・酒上真のり(さけのうえのまのり)・酒呑親分(さけのみのおやぶん)・酒大増長機嫌(さけのだいぞうちょうきげん)など。狂歌人には酒飲みが多かったようだ。(「大江戸浮世事情」 秋山忠彌) 


酒の勉強
ところで一高生森敦もしょっちゅう門限に遅れて、正門によじのぼったが、ときどき途中からズルズル落っこって、とうとう門が越えられず、門前の交番で厄介になった。なぜか?ご本人の弁によると"斗酒なお辞せず"と豪語して、高校生で酒の修行をしたあげく、つい足をとられて、門をのぼりきれなかったという次第。だが、作家、森敦さんの名誉のために断っておけば、まもなくほんとうに"斗酒なお辞せず"になり、毎夜のように吉原の郭の中で、酒を飲む粋人ならぬ、粋高校生となった。この森さんのお母さんがなかなかの賢夫人で「男は酒やタバコぐらい飲んだほうがいい。酒もタバコも飲まぬようなおもしろくない男になってもらっちゃ困る」と言って、森さんが「実は、吉原で酒の勉強をしています」と白状におよんだところ、このお母さん、「おもしろい、お母さんも連れてってちょうだい」と言い出した。そこで一高生森敦は、堂々とこの変わった"教育ママ"といっしょに吉原へくりこんだ。(「酒・千夜一夜」 稲上真美) 


十五杯
実は、ぼくは、今から二十年ほど前、たしか、一九七七年にこの町で「年越しのカウントダウン」に参加したことがあった。若き日の思い出のひとつである。二十年前の大晦日の夜のビアホールの中も、オクトバー・フェストのテントの中とおなじように熱気にみちていた。ぼくは、熱さを鎮めるように、ビールを何杯も何杯も飲んだ。その頃のぼくには若狭もあり、勢いもあった。一リットル入りの大ジョッキで、一杯、二杯、三杯と重ねて、たしか十五杯までいったと思う。ここで、ギブ・アップ、自分の限界を知った。ここミュンヘンのホーフブロイハウスでのできごとである。(「世界美味美酒文化雑考」 映像ディレクター冨田勝弘) 


アルコール醗酵技術
地球の気候変動の解決のための主要なテクノロジーの根幹にアルコール醗酵技術がよこたわっている。アルコール醗酵の主役は酵母菌である。酵母菌のみがアルコール醗酵をするのかというと、そうではなく、アイカビの近縁グループ菌(Paecilomyces sp. NF1)株が植物バイオマスからエタノール生産を効率よくすることで知られている。この菌株は、グルコースやフルクトースなどの通常の醗酵性糖のみならず、多糖類のデンプンなどからもエタノールを効率よく生産する。この株は、キシロールやエタノールのそれぞれの高い濃度に対して抵抗性を持っている。実は、カビのアルコール醗酵について、今から五分の四世紀も前の一九二八年に、坂口謹一郎は麹菌を麹汁上、摂氏二八−三〇度で一三−一五日間表面培養するとアルコール醗酵をする。さらに発酵技術ということでは、ゴミとして処分される海藻からメタン醗酵によるメタンガスの回収に世界初の開発に成功し、東京ガスは二〇〇七年度からの事業家を模索しているとの『毎日新聞』のニュースがある。エネルギー対応の点からは、石油資源のないわが国としては、光合成に依存する植物資源の活用がこれまで以上に重要な課題となる。幸いに、日本は水に恵まれている。植物資源の活用は、いつの日か、先述した酵素化学からの生体物質発電、そして新しい産業分野形成への夢につながる。(「麹」 一島英治) 


焼酎乱売
しかし、群雄割拠で、しだいに乱売戦が激しくなり、二十四年暮ごろから、すでに二流会社では問屋と小売店に呼びかけ、一斗カメを十カメ買ってくれた小売店主を温泉招待するということが一般化してきた。中には、温泉招待費だけ、金額を引くというのもあり、一方、小売店でも一升四百円をわって売るという店も出たりして、焼酎業界にも、いろいろと変化が見えはじめてきた。そして、国民のフトコロが好転するにつれて、焼酎から合成酒にうつり、合成酒から清酒となってきて、焼酎はおいてけぼりをくっている。このため最近では五月から、これまで月九万二千石の出荷費を七万石に制限するという低調さになっているという。じじつ、ここごろでは焼酎をおいてない飲み屋がかなりある。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) この本の発行は昭和32年です。 


鯉のイリ酒
ここで、少しばかり豪華版の料理を紹介するから、金と暇のある人は、料亭の「山吹」あたりに出かけていって、宴会気分を味わって貰いたい。指名する料理は「鯉のイリ酒」である。すると大きな皿が運び込まれてくるだろう。その大皿の中央には、イキヅクリ(?)の大鯉がデンと据えられる。鯉の周りや上や下には、錦糸卵だの、トサカノリだの、ツノマタだの、酔った眼ではっきり覚えていないが、ノリだの木ノ芽だの散らしてあっただろう。さて、受皿に、充分のダシ汁を入れて、鯉の刺身を、その錦糸卵や、薬味の類と一緒に、ダシ汁の中に落し、サラサラとソーメンの塩梅に啜り込むわけだ。私は二夜、続けてこの「鯉のイリ酒」を馳走になったが、ダシ汁をウイスキー一本分貰い受けて、分析研究してみるつもりでいたところ、二日目にはもう醗酵して酸っぱくなっていたところから考えれば、おそらく、昆布のダシ汁に相当量の酒が加えてあったに相違ない。おいしく、また見栄えがする料理だから、豪華を愛する人は、大いにこころみてみるがよいだろう。豪華の宴遊のあとで、宮崎の町をうろつく時には日向の夏柑を二つ三つ買うのがよい。その匂いが素敵だし、中皮ごと齧りつく歯ざわりと云うか、酸っぱ味と云うか、酒を飲んだ楽しさが、静かに思い直されてくるほどだ。(「美味放浪記」 檀一雄) 本来は祭などで食べる郷土料理のようです。 


ネワール族の蒸留酒
蒸留酒(ロキシー)をネワール族(ネパール)の家司祭(パジュラチャリア)であるヒロ・プロバさんに仕込んでもらった。材料として、米とチューラと呼ばれる乾燥米を同量、他に麦麹(チョーマナ)を四分の一量と、米の量ほどの黒砂糖が用意された。香りをつけるためにみかんなどを入れる家もある。工程は、大別すると二つからなる。仕込み作業と蒸溜作業である。仕込みは、米を蒸すことから始まる。三十分ほど蒸してから、それを広げて冷まし、麦麹、乾燥米、黒砂糖を混ぜ、土の壺に入れ、二週間ほどねかせて醗酵させる。次が蒸溜である。ヒマラヤの民の蒸留装置は優れている。まず発酵した酒(もろみ)を銅の容器に入れる。その上に大きな壺をのせる。壺の底には穴が開いている。この銅の容器と大きな壺が、甑(こしき)の働きをするわけだ。壺の上にさらに銅鍋を置き、水を張って冷却器にする。薪(まき)で火を炊くとアルコールの蒸気が穴を通って伝わり、冷却水の銅鍋の底に触れて再び液体となる。これを壺の中に置かれた小壺が受けるのだ。でき上がった透明の酒は、のどを焦がすような強さであった。火をつけると、青白い炎が上がった。(「アジア食文化の旅」 大村次郷) 


ガスパール・ヴィレラ
当時の京都の酒についてはキリスト教宣教師の観察記録からその一端を知ることが出来る。フロイスの『日本史』によると、永禄三(一五六〇)年、近江坂本から京都に入ったポルトガル人神父ガスパール・ヴィレラ(Gaspar Vilela 一五二四か五−一五七二)と日本人従者ダミアンとは、ようやく見つけた貧民街の掘建て小屋に住み、自ら米を搗き、蕪の汁と鰯という粗末な食事をしながら布教を続けていた。神父は毎日従者ダミアンに酒を買いに行かせたが、「またぱあでれ(padre ポルトガル語で神父、司祭の意)にはそれが必要であったので、ダミアンは毎日ぱあでれのために、豊後から持ってきた瓢箪に少しばかりの酒を買いに行った。そうしてダミアンは毎日酒を買いに行かねばならなかった。というのは、何しろ酒は翌日までとっておくと、酢になってしまったからである。その時、ダミアンは片手には鰯を、片手には瓢箪をぶらさげていた。」この文章を読むと当時の日本の酒はきわめて腐りやすかったという印象を受けるのだが、貧しい生活をしながら手に入れる酒だから恐らくそう上等のものではなかったろう。「それが必要であったので」とは毎日のミサ聖祭で、日本酒をブドウ酒の代わりに用いたことを指しているが、さて彼らはパンの代わりには何を用いたのだろう。(「日本の食と酒」 吉田元) 


湯西川温泉
湯西川温泉というトコロは昔、平家の落武者が流れついて住みついたところという。奥にある旅館伴久はこの家系の流れを汲むという主人がいる。国際観光ホテルという名のインターナショナルな旅館は、伴久のお姫サマにあたる人が女将である。ご来客の皆さんを前にしてこの姫さまはハンドマイクを使って「平家の昔」を語るというご時世である。冬はスキー、夏は涼しくてケッコーな場所だが、この地で催される春の祭りは無礼講でサケが呑めるので有名だ。この日は村を挙げて湯殿山神社に参集、それぞれが山と運びこんだ料理をひろげ、ご自由好き勝手に各家の料理をたべ、サケを呑み、シシ舞を見物して楽しむ。この日のふるまい酒は三石とも五石ともいうが三百升からの酒がこの日一日で消えるから酔払いがたくさんウロウロする。だがこの頃はこの美風(?)も都会化されて、簡略の方向へ向い、あわせて、これまでの一門的風習は消えつつあるようである。(「味のある旅」 おおば比呂司) 


樽背負い
岩村と花野の婚礼の日、岩木山はもう真っ白だった。部落には、前の日から粉雪が降っていた。根雪になるにはまだ早い雪だったが、昼も夜も休みなしに降りつづいて、婿かたからの嫁迎えの人力車が昼すぎに岩村を出たときには、村ははや厚い雪に蔽われていた。嫁迎えの一行は仲人の県会議員夫婦に徳太の伯父、それにこの地方の風習で向こうハチマキにはんてん、もも引き姿で二升入りの樽を背負った樽背負いの中学生が一緒である。−
妙は父母と親子別れの盃を取り交わした。輿入れには嫁の親はつきて行かない。嫁かたのつき添いとして妙の叔父夫婦とさとが子が一緒に行くのである。嫁入りの荷物の馬車が先に立ち、花嫁の一行は人力車を連ねて雪の中を岩村へと向かった。雪は粉雪からぼた雪に変わった。樽背負いの中学生が先頭に立って、「嫁行くじゃ−」と高く叫ぶ。すると道のあちこちから雪つぶてが飛んで来て、妙の人力車の幌に当たった。村の娘が他村へ嫁に行くとき、その村の若者が行列に雪や泥を投げるのがこのあたりの風習である。(「津軽嫁コ唄」 佐藤愛子)


中学のころ
お袋はなかなか目端の利く人だったから、それまでやっていた小さなうどん屋を改装して料理屋を始めた。お袋が女将で、近所のお姉さんたちを雇って御酌をするという、純和風の店だ。市内の料亭などとは比較にならない田舎の店だが、けっこう繁昌して、威勢のいい男たちが集まって毎晩どんちゃん騒ぎを繰り広げていたものである。爺ちゃんに鍛えられたおかげで、中学のころには、ぼくは並の大人には負けないくらいの上戸になっていた。で、お店にはいくらでも酒がある。これで飲まないわけがない。もう時効だと思うから書くけれど、中学時代、母の店の酒をくすねて、近所の悪ガキたちが集まったところへ持って行ってやったことも何度かあった。だって、酒といわず、タバコといわず、大人がやっていることはなんでもやってみたくなる年頃だからしょうがないでしょう。(「今夜もハシゴ酒」 はらたいら) 


見合
見合の席が一転、芸者遊びの場になったといたらどうなるでしょうか。航空諸侯・大西瀧治郎の場合−佐世保市内の料亭で粛然と見合は始まりました。見合相手の松見嘉子(後、淑恵と改名)の家の者が「ウチのは再婚で…」とおずおずというと、大西は、「私など、何婚かわかったものではありませんから」と笑い飛ばします。次第に興が乗ってきた大西は、酔ってケンカした話や芸者遊びの話をし、それだけでは飽きたらなかったのか、とうとう馴染みの芸者をあげて、ドンチャン騒ぎをする始末。松見家の人々は、見合に来て、なぜか芸者遊びを楽しんで帰京する羽目になったのです。ところが、この縁談、うまくまとまったというから驚きます。大西の飾らぬ人柄がウケたとか。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


某月某日(2)
午後十時すぎ。桜木町駅前の市電の停留所で、一人の酔っぱらいが喚(わめ)いている。安全地帯は鉄柵で囲ってあるが、彼はその柵に凭(もた)れて、「身區」(からだ)ぜんたいをぐらぐらさせながら喚く、年は五十がらみ、工員ふうの、痩せた小柄な男である。「なんでぇ、七百両ぽっち。みんな呑まずにいられるかってんだ、この泥棒」彼は危なく倒れそうになる。「押すな」と彼はどなる。「押すな、危ねえぞ」と彼は手をふり回す。「ちえっ、三つき分も溜まってる月給を、七百両ぼっちでどうするんだ、やい、七百両ぽっち家へ持って帰れるかよ、泥棒」彼はまた倒れそうになる。「泣いても泣ききれねえ、おらあ泥棒になってやる、強盗だってなんだってやってやる、嬶(かかあ)や餓鬼なんか、おれが強盗したってなんだって、やい押すな」彼は鉄柵にしがみついく、「泥棒、やい泥棒、ざまあみやがれ、みんな呑んじまったぞ、泥棒」そして彼はついにぶっ倒れてしまった。(「日本経済新聞」、昭和二十九年十一月)(「雨のみちのく 独居のたのしみ」 山本周五郎) 


疝気
そのころ堀(辰雄)君が、私に銀座の酒場に行くのは止せと云つた。銀座へ行かないで浅草へ来いと云つた。浅草が私のがらに合つてゐるといふ堀君の説で、あるとき浅草山内の蕎麦屋に連れて行つてくれた。その店を出ると、私は急に腹痛を催したので雷門の近くの薬屋で「この辺が痛いから、薬を下さい。」と下腹をおさへて云つた。その店の角帯前垂姿の番頭は、ろくに私の窮状に目もくれず、「ああ、疝気だね。」と云つて、薬戸棚から古風な薬袋を出してくれた。その店を出ると、堀君は顔を赤くして大いに笑い出した。「あっさり、やられたね。」と云つて、また大いに笑つた。笑ひながら「驚いたね。ああ、疝気だねか。」とまた笑つた。つい私も笑つたが、堀君がこんなに面白がつて大きな声で笑つたのは珍しい。何がそんなにをかしいのか。あつさり片づけられたことがおかしんおか。それとも疝気だと診断されたことがをかしいのか、いまだに私にはよくわからない。いま私は広辞林といふ辞書を見た。「疝気(名)漢方にて、大小腸又は腰部などの痛む病気の泛称。−せんきすぢ(疝気筋)(名)疝気の起こる筋。ただしからざる筋。−せんきもち(疝気持)(名)(病)疝気の持病なること。又、其人。」と書いてある。これでは、顔を赤らめて笑ふほどの材料でない。しからば、角帯前垂姿の薬屋の番頭が、超近代的にあつさり片づけたのがをかしかつたのかもしれぬ。(「文士の風貌」 井伏鱒二) 


アペリティフ
aperitifという語は、中世ラテン語のaperitivus(アペリテイヴス aperire−開けるの意)に由来するとか、十八世紀頃までは、食欲をおこさせる料理(飲みものではなくて)のことを意味していた。こんな名言がある。「アペリティフが食欲の扉をあけるのは、合鍵によるしかない」(読み人知らず)。古代ローマ人たちは、食卓につく前に、蜂蜜で割ったワインを飲んでいたし、ガリア人たちも、宴会のはじめには、香(辛)料の入った食前酒を飲んでいた。十二世紀頃になると、ドイツ人たちがアペリティフにabsinthe(アブサント)を混ぜたワインを好んで飲むようになり、Wermut(ヴェルムート にがよもぎの意)と呼ばれ、vermohut(ヴェルムツト)の魁(さきがけ)となった。十九世紀頃には、パリで、アプサントを飲むことが大流行、アペリティフの時間を「高フひととき」なんて洒落て言っていたと、グリモ・ドゥ・ラ・レニエールは語っている。ところで、こんな至言もありますよ。曰く「アペリティフは折角開けようとしたものを時としてさえぎる」(フランス美食ユーモア辞典) (「美味学大全」 やまがたひろゆき) 


倭国の酒
『前漢書』の「平当伝・善淳」の注、「醸酒律」の条に、 稲米一斗酒一斗ヲ得、上樽トス、稷米一斗ヲ得、中樽トス、粟米一斗ヲ得、下樽トス とあるように前漢、後漢を通じて古代中国では高粱、粟など雑穀類を原料とした酒に比べて、米の酒は第一等の酒であった。とすれば、楽浪交易に従った倭奴国の古代航海者は、しばしば彼の地で第一等の米の酒に陶然となり、その原料である稲米を対楽浪交易の重要商品として位置付けしたのは当然であろう。この際、おそらく彼らは米を原料とした酒造りの方法などを倭国にもたらす役割を果たしたものと思われる。一方、江南ルートで渡来した水稲作りとそれに随伴した米からの酒造りは、すでに倭国に広く伝播していたと思われるので、江南ルートと楽浪・南鮮ルートの酒造り技術は倭国において互いに接触する機会をもった。こうして米を基幹原料とした「倭国ノ酒」が倭国の人の手によって醸造されたのであろう。この米の酒こそ我われの「日本酒」の原形であったことはほびお確実である。さらにここで忘れてはならないことは、縄文中期以来なじみの深い液果類、果実酒、堅果類や根茎類のでん粉を原料とした酒、さらには縄文後・晩期に現れた雑穀酒などは、いずれも米の酒の出現によって急速に脱落していったkとである。(「日本の酒の歴史」 加藤百一) 


別盧秦卿
知有前期在
難分此夜中
無将故人酒
不及石尤風
ソレハサウダトオモツテヰルガ
コンナニ夜フケテカヘルノカ
サケノテマヘモアルダロガ
カゼガアレタトオモヘバスムゾ
(「文士の風貌」 井伏鱒二) ここに有名な 「サヨナラ」ダケガ人生ダ があります。 


メダカの佃煮
メダカの佃煮の味は塩辛いばかりではなく、独特の苦味があるのが特徴だ。体の大きさと比較して、胆のうが大きいことが理由ではないか。身の部分が少ないこともあって、胆のうに含まれる苦い胆汁(たんじゅう)の味が立つのだろう。この苦味が酒によく合うという人も多く、メダカ十匹で酒を一合ほど飲むのが通だともいわれるほどである。(「日本全国奇天烈グルメ」 話題の達人倶楽部編) 新潟県中部の村松町など旧村松藩が治めた一帯の産物だそうです。 


スッポンの卵
スッポンの卵は、しかし、茹でただけでも美味しいし、それよりも酒漬けにするとこたえられない。昔、小岩の「楊州飯店」で初めてスッポン料理を食べた時、店に行くと、テーブルの上にグラスが置いてあった。中に白く半透明な丸い物体が入っている。何かときくと、卵の酒漬けだという。たぶん白酒(パイチュー)に漬けてあったのだろう。相当にアルコールがきいていて、ブランデー入りのボンボンのようだった。子供の頃に還った心地がした。(「中華文人食物語」 南條竹則) 楊州飯店  


別火
また、私の倉ではお墓や喪家へ行った後では、塩水をかぶるか、あるいは他の者とは別の風呂(たらいなどで湯を汲み出して)に入って身を清めないと、酒倉の中に入ってはならぬことになっていました。さらに変わったことでは、その喪家へお弔いに行ったりしたとき、その家の火の入ったものを口にしてはならぬということになっていて、お茶を飲んでも、ご飯をいただいても、またその家の火鉢の火で煙草を吸ってもならぬのであります。そして万が一にでも誤ってその禁を犯すと、その喪家のけがれた火が家に入るのを防ぐため、それから三十五日というものは、他の者といっしょの食事をすることを許されず、別火によって炊事しなければならないことになっていました。おそらく皆さまには想像もつかないほどのこの奇習も、私の祖母がきわめてそういうことには厳格な人で、なかなかお許しが出ず、創業以来二百二十余年の伝統?をそれまで続けて来たのですが、その祖母も亡くなったこともあり、もう解除してもよかろう、しかし長年続けて来たことだけに何かそれにわけがあるかもしれぬからと、酒造りの守護神である松尾神社の手塚宮司(故人)にお伺いしたところ、宮司はびっくりして、「それは実に驚くべきことです。そのもとは、遠く平安朝時代から伝えられる延喜式にのっとっていられるものと思います。しかも、その延喜式に定められているのは、我々神官のように神に仕えるものが、大祭等の祭事をする前数日はは社殿にこもり、斎戒沐浴して、その間、けがれのない別火で炊事したものを食することになっていますが、お宅では酒造りを神事と心得て、そのようになさったのでしょう。おそらく今では、日本中でも他に例のないことでしょう」とのことでした。(「酒おもしろ語典」 坂倉又吉) 著者は清酒千代菊の当主だそうです。 


ヨガ
水泳もヨガも、全身をくまなく動かすことではいい運動である。はじめに基本になるポーズをみっちり仕込んでもらっておけば、あとは自分なりに暇をみて試みればいい。深酒をした翌朝、軽い屈伸運動とか、体躯を左右にねじるポーズをとったりする。アーチのポーズとか鋤(すき)のポーズ、コブラのポーズなどという名の付いたいろんなポーズがあり、レッスンに通うののが億劫なら千円前後の図解入りのヨガの手引書でも参考にやってみるのもいいだろう。(「酒飲み仕事好きが読む本」 山本祥一郎) 


酔うていて旨いうどんが分かるらし(椙元紋太)
酔いのあとのうどんはしみじみと旨い。こればかりはどんない酔っていてもわかるのみならず、正気にかえらせるのである。酒のあとの麺類は太りまっせ、といわれても、そんなこと、かもてあっれるかいな、という勢いで、「素うどん一丁!」などとどなった酔っぱらい、割箸割ってずるずるとすすり、第一声が、「ふーッ、うまい!」何だか私も、うどん屋へいきたくなった。(「川柳でんでん太鼓」 田辺聖子) 


飲むムードが最高に盛り上がる話題を選びましょう
「おはようございます。皆さんはお友達とどんなことをお話ししますか、作曲家や歌手の離婚のお話ですか、それともお大根が高くなったお話ですか、結構です、今日はお客さんの席でのお話について考えてみましょう。話題の選び方ですね。まずさけていただきたい話題はなんでしょう。 一、店内のホステスに関連する話題はまずさけましょう。ほめても悪口をいっても楽しいお話ではありませんから。 二、政治の話、政党の話もさけましょう。お客さんがどう考え、なにを支持していられるかも解りませんし、飲んでお話しして楽しむ話題でもありません。 三、宗教の話も話題に出すことはいけません。人それぞれに信仰の考えは違いますし、そのことで討論する場所でもありません。 四、殺人事件、爆破事件なども話題としては避けましょう。そんな話をして、お相手がその犯人で記念にバクダン一個くれて行ったらどうします。まずさける話題です。 五、お金のある人、ない人の話もやめときましょう。 では話題に選ぶのは、芸能人のゴシップ、歌謡賞のお話、音楽のお話、映画のお話、TVのお話、相撲のお話、ゴルフのお話、中央競馬のお話、旅行のお話、地方観光地のお話、外国のお話、昔のお話、等々の中から相手のお話に調子を合わせて選んで下さい。新聞から、TVから、週刊誌から、その話題を拾う気持ちで見て下さい。では今日も張り切ってまいりましょう。」(「百言百話」 谷沢永一 ) 伊東一虎監修「花の点呼集」にある、クラブホステスへの講話と支持、二百九項目の一説だそうです。 


ブフナー
パスツールの死後二年ほどした一八九七年、ブフナーは実験室で酵母菌体から薬理作用を持つ物質を抽出する目的で、乳鉢(にゅうばち)(試料を乳棒で研磨して粉彩する器)に砂と酵母を入れて、乳棒で磨砕していた。この処理を通して、酵母の菌体は完全に破砕され、細胞内の内容物が外に流れ出して酵母は完全に死滅する。彼はその日の作業はここまでとし、保存の目的で多量の糖を添加し(糖が多いと浸透圧の作用で微生物が成育できず、保存が可能である)、別の実験に取り組んだ。ところが翌日、ブフナーは研究室に来て、わが目を疑うほどびっくりした。昨日磨砕処理して生命を失ったはずの酵母抽出液が、盛んに炭酸ガスを発生しながらアルコール発酵をしているではないか。「生命がなく無細胞でもアルコール発酵が起こる。ということは、生命そのものがなくても醗酵は起こるのだ。これはえらいことになったぞ」と彼は、しばらくその現象をみつめながら唖然としていた。この発見はまことに偶然であった。ブフナーは早速その現象の解明にのりだした。その結果、酵母の細胞内から溶出したタンパク質の一種がアルコール発酵を引き起こすという、科学的触媒が起因であることをつきとめた。ブフナーはこの物質が酵素(生体内でさまざまな化学反応を触媒して、その反応を進めるタンパク質)であることを確認し、このアルコール発酵にかかわる一連の酵素をチマーゼ(zymase)と名付けた。一〇種類以上の酵素と数種の補助酵素から成る、複雑な構成の酵素である。(「醗酵」 小泉武夫) 


交換条件
アメリカの禁酒法時代のこと。ジミーは無類の酒好きで、毎日バーボンを空にしていた。ところが最近飲むたびにはき気がするので医者に相談することにした。「そうとうやられていますかね、先生」「かなりひどいな、この安酒は。どうだね、治してやるからそのかわりに酒をどうやって手に入れるか教えないかね。どうせあんたはもう飲めない体なんだから」 (「ポケット・ジョーク」 植松黎 編・訳) 


酒母づくり
よい酒はよい酵母から生れるが、デンマークやドイツのビール醸造における純粋酵母の利用技術を導入し、それを日本酒づくろい流にしたものがこの二つの酒母づくりである。ビールづくりでの純粋培養酵母を酒母の代りに用いる仕込法が大正時代に提唱され、理論的であるとして共鳴者も現れたが、どうしてもうまくいかなかった。是は、日本酒づくりが開放発酵であって並行複発酵方式によるために、乳酸酸性下進行させることが必要であるのだが、そのことが理解されていなかったからである。明治四二年、乳酸を使用する速成酒母の製法が江田氏によって考案され、速醸「酉元」(もと)と命名された。それまでは、乳酸発酵によって乳酸を得る生「酉元」や水「酉元」によっていた。しかし、生「酉元」は作業が非常に煩雑であるため、山卸しの操作を省略した山廃「酉元」が、嘉儀氏により同年発表された。今日、速醸「酉元」のつくり方には二、三の改変が加えられているが、酒母づくりのほとんどが本法である。山廃「酉元」はリバイバルブームの今日、再び見直されて仕込まれている。なお、純粋培養酵母仕込みは、培養技術の向上と初添えに乳酸を使用することにより成功し、乾燥酵母の使用とともに今後の合理化工場での研究テーマとなろう。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


一升酒
玉村 この間も大阪の新聞社の人で毎晩一升飲むというという人に会いました。放っとくと一升のんじゃうから、飲まない時はセーブするんんだそうです。
細見 そのくらいはいくでしょう。僕も四十歳前後の頃はそのくらい飲みましたよ。
柏木 でも毎日はないでしょう。
細見 いや、ほとんど毎日。だから、私はあの石原裕次郎と五分に渡りあえたんですよ。松竹梅のコマーシャルに出演を頼みに行ったんですが、俺は酒のコマーシャルになんか出ない、と言って一人でお酒を飲んでいる。最初はジン。それからウイスキー。それもフルボトル一本いく。それで最後は清酒だ、と言って蔵出しだなんだとまた飲み続ける。これにつき合ったものだから、「お前は酒の強い奴だ。それなら一緒に仕事をしてもいい」と、お許しが出たんです。その頃はこっちも体力がありましたからねえ。会社でも、いやがられるくらい強かったですから。鼻の頭がだんだん赤くなるのね。(「下戸の酒癖」 玉村豊男編) 


猩々(甲子夜話)
[二五]『唐国史補ニ』云(いわ)ク。猩々者ハ好ム酒ト与ヲ一レ屐(はきもの)。人有ル之(猩々)ヲ者ハ、置テ二物(酒と履)以(もって)誘フ之(猩々)を。猩々始メ見テハ 必(かならず)大罵(たいば ののしる)シテ曰ク。誘フ我ヲ也ト。乃(たちまち)絶走シテ遠ク去る。久フシテ復(ふたたび)来ルニ、稍々ニ相勧メ俄頃(がけい にわかに)ニシテ倶(とも)ニ酔フ。其足皆絆(つなが)ル於屐ニ。因(よりて)遂(つい)ニ獲(とらへる)之ヲ[『増韻ニ』繋(つな)グヲ足ヲ曰(い)ヒレ絆ト、絡フヲ首ヲ曰フ羈ト]。『唐詩品彙ニ』送ル蜀客ヲ。蜀客南行シテ聴ク碧鶏ヲ。木綿花発(ひら)ク錦江ノ西。山橋日晩(くれ)テ行人少ナリ。時ニ見ル猩々樹上ニ啼(なく)ヲ[『校書余録』]。(「甲子夜話」 巻二十一 松浦静山 中村・中野校訂) 


用事後
用事はたいてい六本木あたりで済ませることにしている。仕事は二時間くらいですんでしまう。あとは延々と長い六本木の夜に、私は取り残される。あらかじめ飲み友だちと連絡がとってあるので、仕事の後はバーからバーへのカニの横バイ。夜は何もない軽井沢での分をとり戻す勢いで、とにかく飲んで喋って笑いまくる。都会の男は柔弱だから真夜中にはダウンしてしまう。そこで男を捨てて深夜族と合流する。この場合は女友だちだ。キャンティーあたりで落ち合って夜食にスパゲッティを食べる。それからイタリアのワインを二時の閉店まで飲む。四時まで開いている店に移ってまだまだ飲み続ける。女たちが欠伸をしはじめる頃、六本木に暁が訪れる。白々とした無人の街だ。猫が横断歩道を横切って行ったりする。じゃまたね、と女たちがタクシーを止めて言う。空気はひんやりと肌に心地よい。やがて東の空にバラ色の朝焼けが始まる。私は反対方向のタクシーを止めて乗りこむ。再び都会の夏が始まる前に私は上野駅にたどりつかなければならない。そして朝一番の電車で家族の待つ軽井沢に向かうのだ。朝日がかっと照りつける頃、私は車内で眠っている。(「ジンは心を酔わせるの」 森瑤子) 


儀助煮
酒やビールのつまみに使われる「儀助好み」のこと。江戸末期に博多の宮野儀助がつくり出したという小型の魚煎餅の一種。幼魚を天日で乾かし、甘辛く味をつけ、芥子(けし)、青海苔、唐辛子などを振りかけて乾かす。(「明治語録」 植原路郎) 


事業の多角化
前掲書(帝国データバンクの出版物だそうです)の『世襲について 事業・経営篇』は、老舗企業倒産の原因を「事業の多角化」とみなし、その典型として、一八〇六年創業の金露酒造という中堅清酒メーカーをあげている。金露酒造は酒どころとして名高い神戸市灘区の老舗だったが、多角化を図り、カラオケやサラ金の経営にまで乗り出した。しかも、大手酒造メーカーに対抗して量産体制に切り替えるべく借金をして十二億円もの投資に踏み切った。これらがすべて裏目に出てしまい、金利負担と価格競争にあえいだ末、二百年近くもの歴史に幕を閉じるはめになった。せっかく「金露」というブランドがあるのだから、灘の地酒としてむかしながらの経営を続けていれば、こんな顛末には至らなかっただろうと、前掲書は分析している。(「千年、働いてきました−老舗企業大国ニッポン」 野村進) 


浪花の風
鴻池家の家訓に関しては、久須美?雋(ゆうしゅん)の『浪花の風』に次く如く書かれている。
当地にて名高き富商鴻池善右衛門が家の掟は貝原篤信が定むる所といふ。此事を其家に尋るに、左様なること決して無之(これなき)よしを答ふといふ。されど世上にて貝原が定ムるといふ説、一般に唱ふることにて、按(あんず)るに何か子細ありて、此事を善右衛門方にては深く秘する事にやと思はる。何にいたせ、其家の掟は規則能(よ)く整ひて代々是を守るといふ。其一つを云はば、店に居る若きものも数十人なれども、其着服・四季施(しきせ)等皆古来よりの仕来りを守る故、他の店の者と混(まぎ)れることなく、且(かつ)此ものども時々寄て、店の引けし後は、夜中十人・二十人寄集りて酒のみ戯れ遊び、浄瑠璃又は乱舞杯(など)学びをなして興ずることあり。是を陰にて聞ク時は、美酒・佳肴ありて大酒宴の有様なれども、其席を伺ひ見れば、肴といふものもなく、先は菜漬けの香の物か、左もなくば塩鰯杯を少々計(ばか)り肴となして、酒のみ楽む体(てい)、実(げ)に二百年も以前はかくやありけんと思はるゝことにて、今ノ世の目より見る時は、興のさめたる体といふ。−(「鴻池善右衛門」 宮本又次) 


家にテレビが無い
ところが二、三年前のある日、二女が小学校から泣いて帰って来た。聞くと学校で<ビンボーで、ワラの屋根の家に住んでいて、テレビも無い>というのでいじめられると言う。<テレビの無いのがなぜ悪い、ビンボーのどこが悪い。そういう子の家も、ワラ屋根にブリキをかぶせて、ペンキを塗ってあるだけのことや、平気でいろ>と言ってみても相手は三年生。<だからテレビを買ってくれ>と言わない分だけこちらにこたえた。そんなことがあったころ、Nテレビから、仕事や窯たきの様子などを録画したい、という申し入れはあった。やがてNテレビ一行はやって来て仕事をし、済めば例によって囲炉裏を囲むと、私に持参してくれた酒を、自分たちも大いに飲んで一晩明かすと、<家にテレビが無いことは、非常にいいことです>と、どう考えても辻褄の合わぬ事を言って、東京へ帰っていった。さてそれが、どのように放映されたか、テレビの無いわが家では知る由もないが、その時、そこらをウロウロしていた二女が、画面の隅にでも、はいっていたものらしい。それ以来、いじめられっ子だった二女が、子供たちの間に市民権が得られたのである。<テレビは無いが、テレビに映った事だし、内と外くらいの違いなら許せる>というところか。とにかく、同等のあつかいを受けるようになり。危ういところで異境の徒にならないですんで、娘は再び元気になった。元のままなのは、ビンボーと、ワラの屋根だが、その屋根の下で、父親の方はいまだに穏やかではない。(「山棲み日記」 仁田三郎) 公害防止条例で登り窯を続けることのできなくなり、京都を出て過疎の村に移り住んだという陶芸家の随筆です。 


奇蹟
同人雑誌の話が大分具体的になり始めた頃、それは明治四十五年の晩春であったが、或午後、仲間が井ノ頭に散歩に出かけた。丁度公園の池の近くを歩いていた時、いきなり葛西善蔵が、「僕が『富士の裾野』を踊ろう」と云い出して私達を驚かした。葛西はセルの着物にセルの袴(はかま)を穿(はい)ていたが、われわれの歩いて行く先頭に進み出て行って、妙な手振りで踊り出したものである。それまで舟木の二階で見ていた葛西が、何か卑下したように控え目で、謙遜で、無口であったことは、前節で述べたが、みんなが文学論に花を咲かしている時、ひとり神妙に謹聴したように黙り込んでいる彼を、舟木は「内気で議論などできない質なのだ」と庇(かば)うように云っていた。その葛西が突然「富士の裾野」を踊ろうと云って踊り出したので、私達は呆気にとられたのである。これは後になって解って来たが、卑下したり、謙遜だったり、無口だったりするのは、葛西のアルコールの入っていない時で、アルコールが入ると、彼は別人のように生気づいて来る。舟木の二階では、いつもアルコールが出なかったので、生気づいた彼を今まで見ることが出来なかったわけである。−
「お。葛西善蔵が踊った。奇蹟、奇蹟!」と舟木笑い出した。そして自分の云った奇蹟という言葉に急に気がついたように、「そうだ。雑誌の名は『奇蹟』にしようじゃないか」(「年月のあしおと」 広津和郎) 


馬喰町(ばくろちょう)御捌(おさばき)誉(ほめ)て酒を買(かい)
諸国から公事(くじ)、つまり訴訟のため江戸に出て来た者が宿をとるのは馬喰町である。土地の所有、利用に関するものが多かったであろう。遠国から出て来て公事が長引けば出費もかさみ、心労もひとかたでなく、村をあげての訴訟であれば村人たちの努力もたいへんなものである。一村の浮沈がかかっている。ようやく勝訴にこぎつければさぞほっとして仲間と苦心の思い出話をかわしつつ酒をうまくのんだことであろう。(「『武玉川』を楽しむ」 神田忙人) 


風流
さくらのやつ、大手をふってのびるだけ枝をのばし、庭の真ん中で、ふんぞり返って育っていった。床屋へ行かない若者が、ぼさぼさ頭で庭をうろついているようだった。それでも年に一度は晴着を着て、私におべっかをつかうので、切り捨てるわけにもいかず、そのままにしておいた。花が咲くと、縁台を持ち出し、赤いもうせんをしき、つや出し剤で光らせたひょうたんや、まげもの細工の灰おとしを置くと、ぐっと風流になる。洋犬は裏へ追いやって、和犬をつなぐと、ぐっと日本的で、峠の茶屋という感じである。ある夜おそく帰ると、さくらの木は映画用の強いライトで、夜空に浮かびあがっていた。そして、おとぎプロの若い連中が、さくらの下で酒を飲みながら、夜ざくら見物としゃれているではないか。私も急いでその場に加わった。風もないのに、散り方がおかしいと思ったら、木の枝へひもをつけ、見えない遠くからだれかが引っぱっていた。その後は家内に紐をひかせ、落花を盃に受けながら、ひとりで風流を味わっている。(「フクちゃん随筆」 横山隆一) 


いにしへと今
村里の農民、其所の産土神(うぶすな)を祭る事、諸国に多し。筑紫にては多くは八九月の間に祭るを常とす。希(まれ)に春夏祭るもあり。又冬まつる所もあり。いづれも秋冬の間は、田畠の九穀実るときとなれば、神明を祭る事も尤なり。田家の祭礼には、甘酒を造り濁酒を祝(いはひ)て、民家相互に、寿き祀る事終日(ひねもす)也。是も繁華の地の、祭礼といふを見るに、美酒美肴をつらね、さまざま美尽し、目を驚かす事多し。神の御心にかはふやいかに。上代の酒といふは、今時の酒にはあらず。末代の美酒は、三輪の神も終にきこしめしたる事はあらじ。いにしへは十人の客あるに、上戸なるは二三人なりし。今は十人に下戸なるは一人も有りがたし。神も仏もいかゞ見たもふらん。(「百姓?(ふくろ)」 西川如見) 


あんきも
「ひやおろし、活醸酒。そんで、これ昼貰(もら)って来た、あんきも」コップ酒と、一センチ弱の角切りと五ミリ厚の半月形にスライスしたあんきもの皿を床に置く。「まって。こっちの角のは、歯ァ当てちゃダメ。舌でころころ転がして角がとれて円くなったら、上顎(うわあご)の天井に押し付けて、すりすり嘗めて溶かすの。仕上げに酒で洗う」「ふつーに食ったってうまいよ」「普通に愛したって愉しいけど、丁寧に愛したらもっと愉しいでしょ。食べ物だって、そおよ」口中で転がしていると、ふいにほろっと細片が崩れ、それを舌で追い裏漉(うらご)しするように潰(つぶ)す。部位により微妙に香りが違う。そこへひやおろし。海底の沈黙は、豊かな時を育(はぐく)むふとんなのかもしれない。「ね、うんまいでしょ。こっちのスライスはね、三分…」と、紅茶用の砂時計を反転し、「舌の上に寝かせて。噛んじゃだめ。しゃべってもだめ。ひたすらがまん。人肌にするんだから。自分と同じ温度にしてから、ぐしゅっと食べるの。なんか自分を食べてるみたいよ。いいでしょ、こんな午後。なにもかも急いでもつまんないじゃない。ここへ来たときぐらいはさ、浮世を忘れてのんびりしよゅたって、今日は、そうもしてらんないんだっけね。ばからし」(「ごくらくちんみ」 杉浦日向子) 


放蕩者
幸徳秋水は「社会に向つて運動する気あらんがためには、公道を天下に行はんがためには、まず修身斉家して後顧の憂を除かざるべからず」などと書いているが、実は彼自身は大変な放蕩者で、かつて師岡千代子という女性と再婚したときなんどは、披露宴のさいちゅうに姿を消して宴をメチャクチャにし、心配した友だちが探しまわったところ、ある料理屋で酒を飲んでいた。友だちが咎めると、秋水はすまして、「いや、大失敗だった。見合のときはたいそうな美人と思ったのだが、今日よくよくみたら、とんだブスなんでびっくりした。二三日吉原に流連(いつづけ)したら、あの女もびっくりして実家に戻るだろう。君たちも一緒に飲もうよ」と言って飲み続けた。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


大好物
元来、私は苦しかったことや悲しかったことは、すぐ忘れるように訓練してきた男なので、うらみがましい敗残の記憶は風と共に去らしめてあるから、心にさほどのよどみはない。それでもどうやらときどき憶い出すその頃の情景の点描には、うまい酒を呑んだ記憶は少ない。喜びのために造りたもうたはずの大好物(みき)を、哀しみのいやます酔いの底で、神にそむきながら狂いの酒に変えたことは幾たびかあったに違いない。 抽刀斬水水更流 挙杯銷愁愁更愁 刀をもって水を斬るも水はふたたびもとのようにつながる。愁いもまた酒をあおって消そうとしても、ますますつのるものだが、といった意味だろうか。こんな唐詩をどこかの壁に書いてあったのを思い出して、ああ、唐の詩聖もおれと同じだったのかと、自らをなぐさめたことがあったが…。しかし、酒がなければとうに死んでいたろう。いよいよ酒が無いときは、骨がくさるというヒロポンも自分で腕にさした私だ。そして出来ることなら頭蓋骨からさきにくさってほしいとも思った。人間の弱さに耐えられぬやり切れなさがこみあげて来て、心も身体もくされはてれば好都合と、手あたり次第に金を借り、酒に変えて流しこんだのだ。が、いつも朝になるとオメオメと生きながらえているのには閉口した。生の喜びどころか、砂を噛むような生の倦怠がこみあげてきて、きょう一日をどうしようと、太陽につばでもはきかけたい気持も味わった。(「森繁自伝」 森繁久彌) 


ブドウ酒びんの格好
タヒチ島の国王ポマレ五世は、一八八○年、ソシエテ諸島がフランスに併合されるまで、タヒチ島の最後の国王として君臨していたが、生前、フランス産のブドウ酒を非常に愛し、つねに手元におくことを忘れなかった。一八九一年この世を去るにのぞみ、フランス政府に彼の永遠の安息所を、最愛のブドウ酒びんで飾るように要請し、その結果、彼の墓石はブドウ酒びんの格好につくられた。(「奇談 千夜一夜」 庄司浅水 編著) 


四九 酒色のこと。
肉くさらす膏薬をはり、血をとる針をさすに、薬のつきたるあたりをみれば、血色かはりて、けふ(今日)は一寸ばかりもくさ(腐)れぬといふがうちに、肉つ(突)きて臓腑にくされいりぬ。また絡え(へ)さし入れたる針をぬけば、いとすぢ(糸筋)のやうに血のはしり出てとまらず。つゐに爪の色もうせて、かほも青ざめにけり。かくても心をいためず、楽しむものあらんや。またたれかかうやうのことをせん。人のみ(身)にとりても、腐腸伐性などといふこともありとぞ。(「花月草紙」 松平定信 西尾実・松平定光 校訂) 


一九と蜀山人
ある日、戯作者の十返舎一九が、蜀山人の名を慕って訪問すると、待たせておいて、容易に出て来ないので、一九は冷遇されたものと僻(ひが)んで、プイと出てしまった。ほど経て文人の寄合の席上、一九は一杯機嫌で蜀山人に向い、先日の無礼を咎めた。すると蜀山人の答は、意外であった。「それは悪かった。しかし私は私で、そこもとと一杯やろうと思ったが、おりからお手許不如意、はたと思当ったのは、庭前の木を下駄屋が所望しておったことおがあるので、貴公を待たせておいて、下駄屋に走り、商談を決めて帰ってみれば、貴公の姿が見えず、失望のあまり桐の木は乃公(だいこう)一人で飲んでしまったという次第さ」「そうですか、それは、あッはッは…」と一九は泣笑いをして、爾来両人は、大の仲好しとなった。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 


恭受納仕候
野分のあとの農家の前に            田家風雨後
まがきの菊が一、二輪              籬菊僅存レ枝
でも 嫁御がすすめる濁酒(どぶろく)の味   少婦「酉麗」濁酒
衣をはなさぬ赤子の手              稚子牽(ひく)衲衣
あとの二詩のどちらにも、「濁酒」の文字が読まれるのが愉快である。かれの書翰にも、「昨日は濁酒一樽恭(うやうや)しく受納仕候(じゅのうつかまつりそうろう)」というのがある。これにいう「濁酒一樽」とはおそらく四斗入りの薦被(こもかぶ)りであったろう。方々から酒をもらって、おきまりの「恭受納仕候」としたためた書翰で、今に残っているものが実に多いが、さすがに阿部家、解良家、原田家等への礼状には、濁酒の文字は読まれない。いずれも上等の清酒であったろう。それは別として、上掲の詩は純朴な付近の農村、農地をよく描き出している。同時に、また、良寛がいかにかれらから家族ぐるみで親しまれていたかが分かるとともに、かれの酒好きが皆に周知されていた様子も想像される。(「新修 良寛」 東郷豊治) 


この馬券野郎
「これ、買っておいて。10レースの1-8、3-8、5-8」紙片を受け取ると、病人はニコと笑って布団の中に、その姿を隠したのだった。いつもは、ビールやウイスキーを飲みながら競馬を楽しむのだが、本日は覚悟の程が違って禁酒である。珍しく覚悟が結果に繋がった。どうだ、どうだ、どうだ。もひとつおまけにどうだ。8レース、1-8、2820円、9レース、4-8、3730円、10レース、3-8、2330円、もひとつおまけに11レース、1-7、1150円。病人の3-8も当たってしまった。大急ぎで帰宅する。土、日の仕事は生意気にも、ほとんどお断りしているのだが、ギャンブル好きの徳光さんの司会では致し方無い。夜九時からのTVコロンブスの出演を引き受けていたのだ。熱いシャワーで汗を流し、湯気の立つ体で迎えの車に乗り込む。番組は、すみやかに終了した。新作のアニメーションの打ち合わせの為にTYO泉さんがテレビ東京の玄関で待っていた。「軽くやりながら」と云う泉さんに「それは、ちょっと」と首を傾(かし)げて見せて「重くなら」と笑う。ネオン海 六本木かけて漕ぎいでぬと 人には云うなよ バーのネエさん 上機嫌であった。鞄(かばん)の紛失に気付くまでは−。さっきの店じゃ、あっちの店じゃ、こっちの店じゃ、どっちの店じゃ。いつものように競馬場で飲んでおけば良かった。日中を禁酒にした反動が、夜の大酒となって現れたものであろう。やはり酒は昼からのむべきだろう。カード二枚と、白紙の小切手が一枚。これは電話で停止の申請をすれば済む。現金は諦める。落とした僕が馬鹿なのよ。拾った貴兄は笑って喜べ。でも馬券は返してくれ。頼む。返してくれ。それが適(かな)わないのであれば、破らないでくれ。捨てないでくれ。当たっておるのだ。何に使おうが知ったこっちゃないが、換金してくれ。これ以上JRAに儲けさせてたまるものか。とにかく引き出すんだよ−。ドロボー−。もうヤケでベロンベロンになるまで飲んでやった。泉さんがくれたタクシーのチケットで帰宅した。なにせ無一文だから、翌日の毎日王冠は行けない。レースの検討をしても無駄であるから寝てしまった。(「また酒中日記」 吉行淳之介編) 病人は風邪で寝込んだ黒鉄ヒロシの奥さんだそうです。 


歓伯
扶桑(ふそう 日本)の酷熱は中州(朝鮮)に倍せり
久客醺蒸されて 白頭ならんと欲す
歓伯送り来る心 更に厚し
闌(らん てすり)に憑(よ)りて共に坐し 千愁を散ぜん

二 歓伯−酒の異称(「老松堂日本行録−朝鮮使節の見た中世日本−」 宋希m 村井章介校注) 歓伯の使用例です。 


母親
辰野隆の母堂は息子に意見していった。「わたしの目の黒いうちは飛行機にはのらないでおくれ。フグも食べるんじゃないよ。お酒をのむ時は杯の上にお箸を二本のせてのんでおくれ。ニホンバシの下は水だから…」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


アルメニア
このアルメニアに行ったとき、筆者が持ち前の知識を披露して、「コニャックといえば、フランスのコニャック州が有名だが、アルメニアでは、コニャック州から造り方を教わったのか」と言ったら、ガイドの青年にふふん、と鼻先であしらわれた。彼はいう。「コニャックは元来、アルメニアが原産だ。なぜなら、ぶどうそのものがコーカサスの原産で、従って、ぶどう酒もアルメニアが原産である。アルメニアでは、ぶどう酒のことをビーノ、これを蒸溜して出来たいわゆるブランデーを、コニャックと名づけた。それは紀元前千年以上も前のことだ。その頃、フランスは、ガリア、またはゴールといって蛮族の国だった。文化は、アルメニアから西へ流れた。フランスの歴史をひもとけば、ぶどうとぶどう酒の製法は、シルクロードによって、東方からきたものだ、と書いてあるはずだ。」これには、私も参った。(「世界を食べ歩く」 豊田穣) 


酒も薬に
その昔、わたしが現役の兵隊であったころ、松山の在所で、風のために三十九度から四十度近い高熱を発し、ふるえていたときの話である。演習のことであるから、もちろん野天の毎日、毎夜であったある晩、あまりに耐えがたかったので、救護班のある民家に泊まった。ところがそこで、昔ながらの唐草模様が染めつけてある丸い大徳利に、酒をふんだんに入れて出された。高熱になやまされていたわたしは、その時、酒も薬であろうと大いにきこしめしてしまった。その翌日、熟睡から目覚めてみると、看護兵がわたしの体温をしらべにやってきていた。ところが、体温器をいくらわきの下にはさんでいても、出してみると七度二分しかないのだ。看護兵がからからと笑って、これではあまり熱がなさすぎるといって、親切にも、わざわざ布で体温計をこすりあげて、八度くらいのところの状態にして、報告書をしたためてくれた。こうして、風邪ひきの四十度の高熱も、一夜にしてケロリとなおったのであるから、この徳利酒はまさに百薬の長のようなものであった。このわたしにとって忘れがたい酒は、いわゆる、ねっとりとしていた。徳利の口からたれた酒のしずくが、しずくなりにこびりついているような、なんとも言えないよくうれた、よくかもされた地酒であった。このように、ときどき、わたしは、たしかにうまい酒だと思う酒にめぐりあわすことが少なくない。(「酒も薬に」 野間仁根) 


樽婿
▲むこ 樽を持つてまゐる人を雇ひたうござる。 ▲静六 やすい事ぢやが、一人も内にゐぬ。 ▲むこ 何としたものでござらう。 ▲静六 はじめて行く事ぢや程に、門までおれが持つて参らう。 ▲むこ それは恐れがましい事でござる。 ▲静六 苦しうない。持つて行きませう。 ▲むこ さらばさきへござれ。 ▲静六 そなたござれ。 ▲むこ さあさあおいでなされませい。▲静六 参る参る。 ▲むこ 引出物貰うたならば、お目にかけまうせう。 ▲静六 持て来て見しやれ。 ▲むこ これでござる。 ▲静六 樽をやりませう。お案内。 ▲冠者 誰ぢや。 ▲静六 婿殿のお出でござる。この樽肴は、みやげでござる。 ▲冠者 その通しうとへ申さう。申し申し、婿殿お出でござる。この樽肴はみやげでござる。 ▲しうと こちへ通せ。 ▲冠者 申し申し、お通りなされませい。 ▲むこ 心得た。疾うから参らうを、何かとしておそなわりました。 ▲しうと ようござつた。 ▲冠者 申し申し、表に婿殿はござりまする。 ▲しうと こちへ通せ。 ▲むこ いやあれは内の者でござる。 ▲冠者 申し申し、こちへお通りなされい。 ▲静六 某は通る者ではござらぬ。 ▲冠者 通るまいと仰せらるゝ。 ▲しうと 某が迎ひに参らうか。平にござれと云うて通せ。 ▲冠者 畏つた。申し申し、平にお通りなされい。 ▲静六 いやいや ▲冠者 まづござれござれ。 ▲しうと 内々(ないない)待ちました。御出(おいで)忝(かたじけの)うござる。 ▲静六 はあ、早々参りませうを、おそなわりました。おみやげでござる。 ▲しうと 云はれぬ事をなされました。 ▲冠者 祝儀ばかりでござる。 ▲しうと 冠者、さかづき。 ▲冠者 心得ました。 ▲しうと さらばたべて申さう。さしまする。 ▲静六 いたゞきまする。 のむふりをして、そと婿に飲ませる。わきからもらうて婿のむ。三ばいのむ。 ▲しうと 引出物進ぜい。 ▲冠者 畏(かしこま)つた。 ▲しうと 祝うて進ずる。 ▲静六 かたじけなうござる。戴きまする。杯を戻しませう。 ▲しうと めでたう納めませう。 ▲静六 舅殿も一つまゐりませい。 ▲しうと をさめに一つたべまする。もはや取りませう。 ▲静六 さらば戻りまする。(「狂言記」) 樽持ちを頼んだ静六が婿と間違えられて歓待され、「さてさて、さんざんの仕合(しやはせ)ぢや、せめて樽なりとも持つて帰らう。ふえんのあまつた婿は入らぬか入らぬか」と終わります。