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御 酒 の 話 16



花ねずみの思い出  三馬の性格  川へ進物  白秋の酒倉  アルコール好き  三遊亭朝之助  メートル  月々の酒  起こし文はがき  神楽坂  びん詰ビール  石城日記の酒  愛用酒  タマダ(1)  小林さんの酒  オホ  本菊水旅館  酔生夢死  禁酒法と酒  酒豪と酒仙  無明の酒に酔う  献立  正倉院御物阮咸  非常識な公務員盟約  飲酒の禁  酒の肴の蕗の薹  三月十日  蓑笠  六引く二  「遊仙窟」(3)  カクテル・パーティー  雨水  宗像三女神  烏帽子親  バル  夜明けあと(2)  あ、オハヨー  徳通駅を過ぎて  スキットル  漉酌奴  岡部さん  ラッキョウ  飲まば朝酒  つまみ  伝説の夜光杯  かい敷に篠葉を忌む  飲むと食う  梅見に瓢箪  書生鍋  龍の猪口  王翰  主観の新酒  生酔を少し当身で  一茶の酒の句  裏口営業  酒ありてこその桂月  饗膳の式次第  酒を飲む理由  二月十八日(水)  アフリカの酒づくり  いつ振廻たとハ  夷講  氷葡萄  美顔パック  アメリカン・ウィスキー  ウィスキーが四、五本  パブ  下り酒問屋と地廻り酒問屋  液体の法則  酒解神・酒解子  ラーメン肴に焼酎一升  昭和二十四年二月  内藤九段  襲名盃事  住み荒らす  呆れ顔  バス  夜明けあと  酒三升二  二月十一日甲子  徐邈  臼杵寄合    観人法  酔狂者の独白  ムレ香の原因物質  竹鶴氏  生酔の粕食らい  酒品  一つ聞し召せ  荒れ肌  慶長四年の主な献立  焼酎2升と  ワカツルやヒノデ  西村  田家春望  草野心平の日記  母親を  下男の日  幾こん  学校でワイン  屠蘇一盞  一月三十日(東京)  睡眠のせい  十里の道をさげ帰る  阿部定  炬燵に当たって熱燗  フーッと吹くしぐさ  暴言  水を汲む  おさすみ  牛乳と焼酎  酒死  鴻池村新右衛門家  めずらしき  清貧譚  初雪ハ  一升徳利十八本  東南アジアの屋台  酒徳  飲酒マナー  本朝の酒  耳熱す  酒好きにとって  一度酒をのんだら  米バラ麹  解放感  酒に身をゆだねる  福岡県の酒  入津量  エリザベス・ヘリオット  尾藤二洲  禁酒法施行の夜  鹿島清兵衛  城で酒造り  名徳利記  有吉さん  酒を持って来い  復活感  三日の原  酒と喧嘩  新邸落成の祝宴  田舎  どんぶりと  412 リト  屠蘇とジン  屠蘇のうた  春の野草  一月五日  ねんしゅ[年酒]  前後不覚  三重吉と珊吉  年始  誓いその一  大晦日  サッカー後   李元忠  羽毛  隠し狸  ほんとの持病  水戸の飲み倒れ  水本塾  変人  酒癖  サケヌスト  人間フラクションコレクター  冬至二つハネル字  忠度  竈神  芭蕉の無心  面屋  燗冷ましの熱燗  中野呑み助  泥酔加減  死なば卒中  十二月十七日  十二月十五日(月)  アスペルギルス  ロキシー  室町時代の飲料  サッカロミセス・サケ・ヤベ  496 ウツキ  赤酒(セキシュ)  米内光政  アラニン  浮瀬  子別れ  伏見の酒  八大名酒  121 リニケ  酒を変えていく  伏見橦木町笹屋  銀座裏通りのバー  牧野信一のこと  アイリッシュ・バア  居残  問題2  節松嫁々と智恵内子  酒の話  飲まず打たず食わず  お天気祭り  陶庵公  雲上と雲上・山桜  共産国の日本料理屋  トウロク病棟  十面  保証つきの酒  酒ゆえに  春本助次郎・春風亭小柳枝  飲まれる勿れ  きずたの冠  庄助さんの墓  無罪は明白  椎茸酒の実験    居酒屋のテーブル  「ぼくもー」  江戸町民の女性  スダチ  赤マタ黒マタ  蜜柑金柑  大盃  叫化鶏  しもつかれ  禁酒禁煙の婦人矯風会  口かみ酒の研究  下戸のため  その後 の是清  魚屋宗五郎  宴会  レーウェンフック  浮かぶ盞台  家飲み派  黒部猿田彦  阿佐ヶ谷会  漢・昭帝の時代  カンタレッラ  問題  飲み代と旅費  二日酔い社員  燻製  かにかくに祇園は恋し  通夜酒  67 タケキ  代金は学校に取りに来い  七打数七安打  せわな事かなせわな事かな  輸出三千五百樽以上  禁酒取締官  金津地蔵  十一月十九日(東京)


花ねずみの思い出
この「花ねずみ」という店には妙な思い出があって、この店でホステスにかこまれて、ドブロクの一升瓶を卓の上にどっかりと据え、皆で飲み干したことがあるのである。その夜、私はこの店でドブロクしか呑まなかった。華やかな銀座の高級クラブが、まさかドブロクをおいてあるわけはないから、私はどういうわけか、一升瓶をさげて現われ、しかもこのお店の酒をすこしも呑まずに、ドブロクばかり下品に呑んで帰った。さぞ店側からも、他の客からも、ひんしゅくを買ったことだろう。わるいことをしてしまった、と思う。その思いが、なんとなく敷居を高くしていると同時に、ママがやめる前に一度呑みに行こうと思わせた理由である。けれども、どうもよくわからない。何故、ドブロクの一升瓶などさげてふらふらと銀座に出て行ったのだろう。それに、酔っていて気づかなかったのかもしれないが、店側はあまり冷淡でなく、むしろホステスたちは面白がって席に群がるようにドブロクを呑みにきていたように思う。久しぶりの私を見て、古手のホステスが席に来ると、「ドブロク、呑んでる-?」などといって笑う。ママも最初にそういった。「あのとき、あとでお腹が張ったでしょう。濁り酒は呑みすぎると胸が焼けるものね」「お腹はいつだって張ってるがね」「今日もドブロクになさる?」「え-?」「冗談よ。今夜はないわ」「-すると、あのドブロクは俺が持ちこんだわけじゃなくて、お店にあったのかい」「あの頃はね、試験的に、焼酎とか濁り酒も、おいてみたことがあったの。すぐにやめてしかったけど。だって、ドブロク呑んだお客さまはお一人だけ」(「無芸大食大睡眠」 阿佐田哲也) 


三馬の性格
(式亭)三馬の性格に就いて「性酒を嗜み、人と争闘せしこと屡々(しばしば)聞えたり、絶て文人の気質に似ず、又商売の如くにもあらず、世の侠客に似たること多かり」とは馬琴の述べる所である。馬琴は、又評して「就中(なかんずく)馬琴を忌むこと讐敵の如し、いかなる故にや、己(おのれ)に勝れるを忌む、胸狭ければならん」といつて、自分と三馬との折り合いの悪いことを自白し、相当相手を悪くいつてゐるのであるから、前言が適評とは受け入れ難い。酒癖の悪かつたことと、癇癖の強かつたこととは事実らしく、その為に人と喧嘩も屡々(しばしば)したらしい。画家の勝川春亭とは自作の合巻「長壁姫(おさかべひめ)明石物語」の挿絵のことについて喧嘩をし、また一陽斎豊国との衝突は「戯作六家撰」にも細かに述べられている。だが、彼も初老に及ぶ頃から、酒を慎んで、専ら渡世に励むに至つたことは、理智的ににも秀れてゐた彼の一面を語るものである。親の茂兵衛は彼と別居してゐたが酒好きであつたので、三馬は毎月酒銭として南鐐三片づつ遣つてゐた。この行為については馬琴も賞讃してゐる。(「浮世床」の解説 中西善三) 


川へ進物
江戸も中期になると士道などすっかり堕落してしまった。明和元年(一七六四)、杉原七十郎ら旗本四人がそろって、隅田川で水練のけいこをするんだと称して、朝っぱらから船を出し、水練どころか、芸者を呼んで酒を飲み夜おそくまで涼んでいた。ところが七十郎が酔っぱらったあげく、川に落ちて死んでしまった。水練中の事故ということにしてしばかくはひたかくしにしたが、とうとう露見して、一同士籍を没せられた。その折の落首。
船に酔い酒がすぎ原七十郎 七百石を川へ進物(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


白秋の酒倉
「やっぱり、母ァちゃんの味噌汁と、お新香が一番だよ」などと云うようなみっともないことになりかねない。だから坂口安吾ほどの大人は「ふるさとに語ることなし」と云ったのだろう。だから、太宰治ほどの通人は、一言半句説明も弁解もなく、ハタハタの味噌漬けを山のように皿に盛り上げて、ただムシャムシャと喰ってみせるだけだったのだろう。私の郷里は柳川だ。その柳川の沖端(おきのはた)という漁師部落なのである。と云うより(北原)白秋の酒倉が焼失して、その全部が私の祖父の手に渡っていた。だから、私も、また黙って「ガネ(蟹)」「シャッパ(シャコ)」をロッキュウ(漁師)の流儀に赤くゆで上げて、大皿に盛り、ドサリと私達の前に据えれば、それでよかったのである。(「美味放浪記」 檀一雄) 


アルコール好き
アルコール好きになる主な原因は、アドラーによれば「劣等感」、マックリーランドによれば「欲求不満を起こしやすい野心」、ヴィランスによれば「神経症」です。「死の本能」の存在を主張する学者カール・メニンガーは、アルコール症の第一要因として自己破壊の衝動をあげ、これを「慢性自殺」、つまり時間をかけた自殺の一種であるとみなしています。人間は生まれながらにして、セックスをしたり食物を摂取したりする「生の本能」と、攻撃にまつわる「死の本能」を持っており、アルコール好きは後者のあらわれである、というのです。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


三遊亭朝之助
その頃、新宿の末広亭の楽屋で酔っぱらって寝ていたことがあった。乞食のような格好で酔いつぶれていやがる。寄席の世界には、「酔っぱらったら楽屋に来るな」という不文律がある。来るからバカだ。若いのが酔っぱらってみっともいいもんじゃあない。小言を喰うのが関の山で、ならいっそ休んだ方がまだ始末にいい、ということだ。おまけにその日はそこにそういうことに人一倍うるさい円生師匠が入って来た。当然のこと円生師匠がそれを見て嫌な顔をした。円生師匠が怒る前に、私は朝之助に、「バカ野郎、酔って寝ている奴があるか、表へ出ろ、表へ」と外に出して、「朝さん、もう駄目だよ、落語家やめた方がいいヨ」といったら、朝之助、「やめます」と言う。「本当にやめられるのか」「やめられない」「ならどうすりゃいいんだ」「酒をやめればなんとかなる」「なら切らなきゃしょうがないじゃないか。どうしたら切れる?」「十日間も飲まずにいたら切れる」「それじゃ、俺十日付き添ってやる。まずサウナへ入って汗を抜いてこい」ってサウナにやった。とにかく汚れてきたなくなっていて、おまけにいつも着物ばかり着ているかな尚更だ。着物というのは消耗と汚れが洋服よりずっと目立つもんだから、サウナから出たからジーンズをはかせて、シャツに着替えさせて、私の車に乗せたら、汗をダクダクかいていた。からだの調子とサウナの影響なのか、大変な汗だ。おまけに目の前に木がチラチラ揺れているという。もう幻覚が見えている。その頃、私は目黒の元競馬場に住んでいて、女房と子供も生まれていた頃か…。私の家に連れては来たが、心配だから私の家族は実家に帰して、私と朝之助の二人だけにした。睡眠薬を二錠ばかり与えたが奴ぁ眠れない。その薬は普通二錠も飲めばぐっすり寝られるはずなんだが、「ウーム、ウーム」と一晩中苦しそうに唸(うな)っていた。あげくに、夜明けになったら、「もう我慢できない。あたしは一切落語界とは縁を切りますから、兄(アニ)さん、金下さい」と言う。なけなしの金を二千円か三千円集めたか。昭和三十四、五年頃のこと。それを持って目黒のアパート、このアパートに画家の長尾みのるもいたが、そのアパートをふらっと出ていって、それっきり。(「談志楽屋噺」 立川談志) 


メートル
キロキロとヘクト・デカけたメートルがデシに追われてセンチ・ミリミリ ミリの十倍がセンチ、センチの十倍がデシ、デシの十倍がメートルといった、こきざみな名称を、こういう歌の形で、覚えさせたわけです。しかし、今日に到っても、わたしたちの暮らしの中に、慣用句や諺やたとえの文句として、メートル法のことばは、まだはいって来ていません。旧海軍の将校たちの仲間では、酒の量を「メートル」を使って言っていたということを聞きましたが、そのくらいではないでしょうか。 メートルがあがる という文句は、興奮して、談論風発することを言いますが、この「メートル」は、長さの単位ではなく、ガスや電気の消費量の測定器のメートルでしょう。ともかく、そんな状態ですから、日本人の暮らしの中における、メートル法というものの、底の浅さが察せられるというものです。(「ことばの中の暮らし」 池田弥三郎) 酒に酔って上機嫌になる と広辞苑にもあります。 


月々の酒
翁は鼻であひしらひ。夫(それ)酒盃に金銀盃あり。又玉の觴(さかづき)あり。いづれも和漢の宝ならずや。されば元日より大歳(おおとし)まで神酒(みき)をそなへて神に祭る。まづ初春は屠蘇白散(やくさん)。二月初午(はつうま)の稲荷祭は。赤の飯より神酒が売れ。三月三日の桃花酒は。下戸の豆熬(いり)より。白酒を賞翫す。五月五日の菖蒲酒。六月嘉祥の霙酒。九月節句の菊花酒に至るまで。みな延年の例(ためし)に酌む。三伏の暑き日も。酒を飲ば暑(しょ)を忘れ。玄冬の寒き日も。酒を飲ば冷(ひえ)ず凍(こごえ)ず。茶は神棚に供るものなく。又寒暑をも凌ぎかたし。(「胡蝶物語」 曲亭馬琴) 酒茶論の部分です。 


起こし文はがき
折り曲げて立体的にして飾れる「起こし文はがき」の居酒屋です。谷中銀座で見つけました。 



神楽坂
朝出勤すると、高橋隆という初老の営業局長に「お茶を飲みにいきましょう」と誘われ、電車道を挟んだ神楽坂まで下りていき、坂下のブラジル・コーヒー店に入る。そこで社長の武勇譚を聞かされたり、木材統制反対の秘策を練ったりで、たちまち一、二時間は空費され、それから取材に出撃ということになる。夜は夜で、編集長の岡野敬治郎という男に「一杯、飲みにいこう!」と誘われ、やはり坂下の「松竹梅の酒蔵」を振り出しに、神楽坂を漫遊することになる。つまり、小路の奥に入っていくことになるわけである。同僚の記者も不思議にお酒の強いものばかりで、電車道をもう一つ越えた坂の中途の左を入ったところの「官許どぶろく」の看板を出している飯塚という飲み屋によく連れていかれた。終電に乗り遅れることもしばしばだった。すると、小路の奥にある岡野敬治郎の家や同僚の境野くんのアパートに泊った。八木さんという同僚の飲んでいる姿は亀のようだった。境野くんのアパートの部屋には枯れた花がいつまでも捨てられずに挿してあった。日米開戦で統制がきびしくなり、一円五十銭以上は飲めないことになったが、開戦当初は店内に入れば明るく、ハシゴすれば充分飲めたのであった。(「東京百話 地の巻」 種村季弘編 「神楽坂-山田紙展の原稿用紙」 関根弘) 


びん詰ビール
ビールをびんに詰めるという方法は、現在では当たり前になっていますが、これが発明されたのは十六世紀のイギリス。熱心なカトリック信者のメリー女王が即位したころのことです。ある日、プロテスタントの牧師アレクサンダー・ノーウェルは、なに気なくびんにビールを詰めて釣りに出かけ、ゆったりと糸を垂らしていました。そのとき、司教の部下たちが彼を追っているという知らせを友人が持ってきたので、彼はあわてて逃げ出し、大陸へと亡命したのです。それから数年後、彼はイギリスへ戻り、かつての釣り場へ行ってみると、あの日のびん入りビールがそのままになっているではありませんか。それを試しにひと口飲んでみると、とてもおいしいのです。これは、密閉されたびんの中で、長時間にわたる発酵の結果つくられたガスがビールの液体の中に溶けこみ、刺激性とさわやかな味が生まれたためです。彼は、その後もびん詰ビールをわざとなんか月も放っておいてから飲むようになり、それが後世に広められ、現在に至っています。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


石城日記の酒
表4『石城日記』に見る食事内容一覧(文久元[一八六一]-二年)
6・13 午 焼貝 夕 しゞみ汁 酒 
6・16 朝 つみいれ汁 午 とうふ 夕 なおし(同上) 
6・17 朝 牛蒡汁 午 茄子羮 夜 午房、泥鰌、奴とうふ 酒
表に記載された87日間で、酒を飲んだ日は62日、うち一日に二回以上飲んだ日が13日(「江戸の食生活」 原田信男) 武蔵国忍(おし)藩下級藩士・尾崎隼之助の「石城日記」からつくられたものだそうです。 


愛用酒
あるウイスキー会社がヘミングウェーの顔と名前をコマーシャルに使わせてくれと申し出た。条件は四千ドルと一生のむだけのウイスキーだった。しかしヘミングウェーは断った。「四千ドルぐらいで好きでもないウイスキーなんかのまされてたまるものか。おれには特別の愛用酒があるんだ」 (「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


タマダ(1)
アルメニアの北にグルジアという国がある。今はソ連邦内の共和国であるが、かつては、キリスト教国として、アラブやトルコとよく戦った古い歴史を持つ国である。ここの首都トリビシは、昔はティフリスといって、二千年以上の歴史を持つ古い都である。トリビシの近くにゴリという町がある。スターリンの生まれた町である。グルジアの男性は、成人に達すると全部鬚(ひげ)を生やし、きわめて熱血的である。酒に強いし、けんか早い。モスクワの空港で、係員に文句をつけたり、レニングラードのレストランで、集団でワインの瓶をテーブルの上に並べ、大いに気勢をあげている鬚男のグループを見たら、まず、グルジア人と思って間違いない。グルジア人は、宴席を囲むとき、必ずタマダを選出する。この主人役が、テーブルをとりしきる。酒を何杯呑むか、旅行者を客に引っ張り込むかどうか、ということも、みなこのタマダが決める。(「世界を食べ歩く」 豊田穣) 


小林さんの酒
小林さんの酒は最近自宅では燗瓶二本だそうだ。ゴルフ帰りや旅先では三本ないし四本は召し上がるが、ゆっくりと手酌で楽しみながら飲まれる。ただ近頃料理を上がる量がいくらか少なくなったような気がするが私が大喰いのせいかもしれない。小林さんが空の銚子を何回も手にとって杯につぐ動作をくり返されるようになると酔いが廻ってきたのである。続いてクシャミを連発される。夜の酒席では料理以外食事はとられない。酒が食事の代りだ。(「わが酒中交遊記」 那須良輔) 小林秀雄です。 


オホ
濁酒は米一升で約二升五合から三升出来る。市販の酒より安くでき、酒粕も漬物などに使えることから、農民たちは法や米の統制の厳しい時代でも酒を造った。密造酒の酒樽は裏山の薪を積み上げた中や、作業小屋の藁の中、ねどこの隅につづれ(労働着)をかけたりして隠した。ある部落では酒の密造は公然の秘密で、一人が役人に発覚して罰金を取られることになると、部落総会が開かれ、部落の責任のもとに罰金を払うという具合だった。戦後、昭和二十年代、津軽の青森では沖館あたりで盛んに密造酒が造られ、「シマシ」と称して行商人によって下北、北海道方面に運ばれた。当時は病人用の水枕に酒を入れたが、その頃ビニール袋があったら運び屋さんも助かったと思う。密造酒を南部地方で「オホ」という。オホとはフクロウのことで、夜に飲む酒、役人の目を逃れて飲む酒ということである。農民には酒を密造するそれなりの理由が多々あった。役人もまた、こっそりと密造酒を飲んでいた。(「みちのく民俗散歩」 田中忠三郎) 


本菊水旅館
そういう訳で、凡て世の中で一番旨いものはあれどもなきが如き味がするならば、神戸で見付けたもう一つの旨いものは菊正だった。灘は神戸の一区であって、菊正は神戸のどこでも飲めるのが、どういう訳か、一番旨かったのは神戸にいる間泊っていた本菊水旅館のだった。どういう訳かでなくて、ここでは酒を大切に扱っているに違いない。醸造元では、そんなことはないと言うに決まっているが、醸造元が責任が持てるのは壜詰の酒が工場の門を出るまでのことで、一本の壜詰の酒にも意地があり、余り勝手な真似をされれば気を悪くしてまずくなる。併しそれはそれとして、本菊水の菊正がどんなかと言うと、味、香り、こく、色などというものは皆揃っていて、恐らく何れも満点である。併しそうだから、それが一緒になるとそこに出現するのは、ただもう酒というもので、どこまでがこくで何が色なのか、別にそういうことは問題ではなくなる。つまり、上等のシェリイと全く同じなのである。(「世界の味を持つ神戸」 吉田健一) 


酔生夢死
江戸時代の狂歌に、酒飲んでクダをまくのは極下等歌が中等で寝るが上等 といふのがあるから、寝るのはおとなしい酒飲みである。しかし、ほんたういうと、私などは寝る酒飲みは大きらいだ。まつたく、折角一杯やつて、これから愉快に話でもしようと考へてゐるときに、グウグウ寝てしまふなんて、なんでこんな奴と酒飲んだのかと腹が立つ。私は話の肴に酒を飲む主義だから、ほろ酔いで談論風発するのが好きだ。だから江戸時代の狂歌も「寝るが上等」は「話すが上等」と改めたい。地黄坊樽次はそんな話好きの酒童であつたらしく、酒友門人がはなはだ多かった。それから、どうせ寝るのだから、樽を枕にしてもかまわないわけだ。樽で思い出したが、小学校時分の教科書に、人間生きるかぎり、酔生夢死するは男子の恥、といふ意味を説いた一章があつた。先生も鹿爪らしい顔で、諸君、けつして酔生夢死するでないぞと、子供たちをいましめた。しかし、私は、長じるにしたがつて、酔生夢死こそ人間の理想、これに過ぐる男子の本懐があらうかと思ふようになつた。今でもさう思つてゐる。なぜ樽から酔生夢死を思ひだしたかといふと、どちらも酔ふこと、生きること、夢、そして、死と深いつながりを持つてゐるからである。(「酒徳院酔翁樽枕居士」 火野葦平) 


禁酒法と酒
禁酒法の下でいかに酒が飲まれていたかは酔払い運転の数にも現れている。つまり、理解に苦しむことというべきだろうが、酔払い運転による逮捕者は「禁酒時代」に入ってからかえって増加したのである。一つのデータをあげると、一九に七年には禁酒法実施の最初の年である一九二〇年と比べ四六七%、すなわち五倍近くの酔払い運転の逮捕者数が記録されている。二〇年代はいうまでもなく自動車時代であり、自動車の大衆化が急速に進展したのであるが、それにしても禁酒法下のこの酔払い運転の大幅な増加は以上といえよう。(「禁酒法-アメリカ における試みと挫折-」 新川健三郎) 


酒豪と酒仙
そこで酒豪と酒仙の区別が問題になるのだが。いくら飲んでも居ずまい一つ崩さないといった型の人を酒豪という。私にいわせれば酒豪は酒にはむしろ縁なき衆生である。そんなに平気でいる位ならはじめから飲まない方がよっぽど経済ですと奥さんの味方になっておとめ申し上げたい。ところが逆に、酒に目がない、少なくとも酒ときくと目を細くする型の人を酒仙という。この場合強弱は問題にならない。飲めばとう然としてうたい、やがては忘我の境に入ってたい然と居ずまいなど崩れ去る。我を忘れる位だから時には妻子も忘れかねないというだらしなさだが、そこにこそ仙の一字が生きてくる。(「詩酒おぼえ書き」 高木市之助) 


無明の酒に酔う
【意味】無明を境にさまよってさめないことを酒にたとえたことば。【出典】無明の酒に酔ひ、煩悩の鬼になやまさるる故と思ひて〔沙石集〕(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


献立
「いつもいつもおんなじせりふも、もう聞き倦(あき)た。精進もののこんだてはマアままにして、ちつとあくどく天麩羅か黒漫魚(まぐろ)のさしみで油の乗つたあいさつが聞きてへの」『春色梅児誉美(うめごよみ)』初編巻之三での藤兵衛のことば。米八が義理がたいことをならべ立てることのたとえとして、「精進ものの献立」と言っている。料理の品目や取り合わせのことを「献立」という。コンは「献」の呉音よみ。「献」はたてまつるという意で、杯をさすことの敬語。酒をすすめるというところから「献」といったのである。「立」は「膳立」の「立て」である。 (「江戸ことば 東京ことば辞典」 村松明) 


正倉院御物阮咸
うつくしさでこれに匹敵できるのは、おなじ正倉院御物の螺鈿紫檀阮咸(らでんしたんげんかん)であろう。竹林の七賢の一人である阮咸が、秦制と漢制とを綜合して作った琵琶なので、彼の名で呼ばれたという説がある。阮咸は生歿年代不明だが、三世紀の人であることはまちがいない。ただし、阮咸が創造したというのは、伝説に過ぎないようだ。杜佑(とゆう)の『通典』には、竹林七賢図にみえる、阮咸がひいている琵琶のことを、人びとが阮咸と呼ぶようになったとしるされている。阮咸が愛した楽器。あるいは阮咸がそれにたくみであった楽器、と解すべきであろう。(「西域余聞」 陳舜臣) 同じく竹林の七賢の一人である阮籍の甥だそうです。また、正倉院の阮咸は四弦、棒状直頸の琵琶だそうです。 阮籍の酒 


非常識な公務員盟約
奇報を得るに巧みなる朝野新聞は又左のごときことを伝へたり、もしこのこと真ならば、吾輩其頑陋(がんろう)を疑はざるを得ず、暫(しばらく)抄録して看官の一覧に供す「東京に近き或県にては、このほど書記官より各課長に命じて庁中一同盟約を結ばしめられたるかそのうちに左の如き奇妙な箇条ありと 一、割烹店一切立ち入るべからず、又芸、娼妓に接すべからず 一、他人の招きに応じたる時、其席に芸・娼妓の在りし時は直ちに之を避くべし 一、途中にて芸・娼妓と談話すべからず 一、寄席劇場へ一切入るべからず これでは芸・娼妓はマルデ疫病神扱いだが、これに満足せず更に当時流行の自由民権論者にも近寄せまいという心構えを見せている。 一、学術研究の為と雖も、演説討論に類似のことは一切なすべからず 一、自由民権を唱道する者とは一切交際すべからず 一、右の盟約に違背したる者は、本庁の懲戒例に照し、厳重の処分に及ぶべし<明治一五・三・一二、明治日報>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


飲酒の禁
先に述べたように、飲酒の禁は令せられているが、それは下層の人達に対してである。上層の貴族たちがその圏外にあったことは、禁令中にも例外事項として認められていたことであり、何ら遠慮する必要はなかったのである。(「菅公と酒」 阪本太郎) 菅原道真時代の禁酒令だそうです。 菅原道真と酒 


酒の肴の蕗の薹
佃煮風
摘みたてのの蕗の薹は、そのままよく洗って刻んで生醤油で煮る。苦味の強い日のたったものは、アク出しをしてから水をしぼり、醤油と味醂で佃煮風に煮付ける。そのとき縦四つ割りぐらいにしてもよい。
煮ころがし
できればホーロー鍋、なければ普通の鍋に醤油七、酒三の割合で入れ、ちょっと砂糖を加えて煮立たせた仲に蕗の薹を入れて、とろ火で煮ころがす。このとき梅干しを一、二個入れると風味を増す。
蕗味噌
味噌と胡桃(くるみ)やピーナッツを擂って合わせ、醤油で味を調え、ちょっと練る。照りが出たら冷まして蕗の薹を刻みこむと蕗味噌ができる。これはお年寄りも喜ぶおかずになる。このほか蕗の薹は、茹でたものを遠火で焼いて味噌をつけたり、精進揚げにしても美味しい。また、酒の粕があれば、他の野菜などといっしょに粕漬けにする。このとき、ほんのりと塩をふる。(「新・口八丁手包丁」 金子信雄) 


三月十日
三月十日よる…といえば、浅草地区を中心とする東京の下町が、壊滅的被害をうけた大空襲のあった晩だが、このとき、浅草の江口伊八氏は、酒で消火に当った。『それから火事になりましたので、私は酒屋さんの焼酎だとか、酒の蓋をとっちゃって、それで消火したんです。随分、消して救かったんですよ、酒の為にね』と、同氏は語っているが、"お釈迦様でも気がつくめえ"ではないけれど、よもやそんなところで役に立とうとは、当の焼酎も気がつかなかったことであろう。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


蓑笠
もはや鎖国の中での太平を謳歌してはいられないという思いが、心ある人たちのあいだに強まってくると、封建制の神学ともいうべき御用学の朱子学など影が薄くなり、洋学や国学、他派の儒学が、それぞれ活発に進められるに至った。中でも日本の古典復興を本願として国文や和歌の道の研究に志す国学者の活躍は目立ったが、『近世畸人伝』の著者伴蒿蹊など、豪快な酒飲みで、饒舌といってよいほどの議論好き、そばにいるものに唾をさんざんかけてまくしたてた。かれと会するには、蓑笠を着けて行かねばかなわぬと言われていたほどである。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎) 米屋與右衛門 


六引く二
細君に恋人ができたのも無理からぬところがある。亭主はのんだくれで、週に五六日は朝帰りという厄介者。夕方、亭主が出て行くのを見はからって、恋人はこっそり忍び込む。朝五時にならねば亭主は帰らぬので、細君も恋人も安心して夜をすごした。ところがある晩、どうしたはずみか亭主が一時ごろに帰ってきた。ふたりは大いに狼狽したが、細君はなかなかしっかり者で、「じっとしていましょう。酔ってるから気がつきはしませんよ」果たして亭主はなんにも気づかず、やっと床にもぐりこんだが、やがて大声に、「誰かいる!…足が六本ある!」「あなた、酔ってるのよ、早くお休みなさい」「たしかに六本ある」と亭主は起きあがり、ベットの裾にまわて数えだした。一本、二本、三本、四…「なるほど四本しかない」とまた床にもぐりこんだ。(「ふらんす小咄大全」 河盛好蔵訳編) 


「遊仙窟」(3)
まもなく、桂心が酒の肴をはこんできた。東海の鯔魚(なよし)の条(すわやり)、西山の鳳の肉のまるぼし、鹿の尾と鹿の舌、ほし魚と焼き魚、雁の肉のししびしおに、荇菜の漬物をそえた物、鶉の吸物と桂を加え米であえた肉汁、熊の掌と兎の股、雉の尾の肉と貉(さい)の唇など、山海の珍味が、語りつくせず、言いつくせぬほどならべられた。(「遊仙窟」 張文成 今村与志雄訳 平成二年) 唐時代の小説だそうです。 


カクテル・パーティー
戦後は日本もアメリカさんとおつきあいでだんだんこいつがふえてきた。戦後まだ酒が少なくて、のみ助どもがノドを鳴らしていたころに、田中前最高裁判所長官が外人を招いたカクテル・パーティーがちょっと話題になったことがある。外国関係のご招待にお返しのためのパーティーだったが、裁判官がカクテル・パーティーたァ何事かと詰めよる田舎代議士がいたりしたものだ。まだカクテル・パーティーの珍しいころだった。(「東京だより」 朝日新聞社編 「カクテル・パーティー」 門田勲)  


雨水
過飲の水、宿酔の水のうまさは、酒飲みだけがよく知る特権だが、知人の酒仙の話によれば、やはり、うまいのは山清水だが、次は雨水だそうである。少々古くなった雨水には、夏場、たいていボウフラが湧いてる。そんなときには、桶の縁をトントンと拳で叩くと、いっせいにボウフラが沈む。そのとき、間髪を入れずに飲むのだそうで、雨水の風味は、まさに水の王だ-というほどの惚れ込みようである。(「食の文化考」 平野雅章) 


宗像三女神
西の酒神といわれる宗像(むなかた)三女神、多紀理毘売(たきりびめの)命、市寸島比売(いちきしまひめの)命、田寸比売(たきつひめの)命は、『古事記』(神代記)に語られているように、天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男尊(すさのおのみこと)が天安河(あまのやすかわ)で誓約(うけい)された際、天(あま)の真奈井(まない)の水の「伊吹(いぶき)の狭霧(さぎり)」の中から化成(なれる)女神であった。三女神が酒神といわれた理由は、彼女らは大陸を結ぶ「道中貴(ちぬのむち)」つまり道中の神であったから、いち早く大陸の文物、産業に接触でき、文化、外交、航海、とくに産業・殖産的神徳を発揮したことによる。いま一つ、イツキシマヒメ(斎・島・姫)の神名から、彼女らが神酒つくりを含めて司祭的役割をもっていたからであろう。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


烏帽子親
●下北半島のユブシオヤ(烏帽子親)とユブシゴの関係は、将来性のある子と見込んだユブシオヤがその子の親の了解を得たところで酒を買い、ユブシゴとする。その親子関係は、実の親子と同じ親密さが続く。(青森県/森山泰太郞)
●氷見市では網元と船子、地主と小作のあいだにエボーシオヤ(烏帽子親)・エボーシゴの関係が結ばれる傾向がある。話が決まると、正月のキシュー(起舟)に酒を酌み交わす。縁が結ばれると、親は子に紋付の羽織、袴を贈る。以後、実の親子同様の関係となる。(富山県/太田栄太郎)-
●鳥羽から志摩にかけて、クガイ(長老・中老・若者からなる組織)の加入行事として、親取り子取りの盃を行う。最近は、親・子は名簿を照合して機械的に組み合わせる。親取り子取りを行ういちばんの意義は、ヤシキドリにある、という。ヤシキドリとは、墓穴掘りであり、死後の住家づくりのことである。(三重県/堀田吉雄)(「三三九度」 神崎宣武) 『日本の民俗』(全四七巻 第一法規出版)にとりあげられた「親子なり」の一部だそうです。(「三三九度」 神崎宣武) 


バル
ではスペインについては、なにからはじめるのが妥当なのだろうか?これはバルbar(酒場)をおいてほかにない。むろん、スペインにもカフェcafeはある。だが、フランスという、どことなく女性的な国にくらべて、質実剛健な気風をもつこの国では、カフェよりも男子的なバルのほうが、より深く日常生活と結びついているようだ。バルは朝からやってくる。それもまだ星がまたたいている早朝からやっている。これがうれしい。呑ン兵衛、アル中、およびその症候群にとっては、天国のような国である。かといって、アル中たちがトグロを巻いているようなことはない。バルの勘定はすべて現金払い、掛け売りによるアル中をふやさないためだ。古いバルにはときどき、凝った装飾が施されたレジの上に、彩色陶器の男性像が立っている。この像は両腕を交差するように構え、片方のゲンコツを、喧嘩なら買ってやるがね、とばかり髙く突き出していて、台座には「あン!?ツケにしろだと?ざけンな!」-という脅し文句が記されている。(「スペインうたたね旅行」 中丸明) 


夜明けあと(2)
明治二十二年 二月十一日。憲法発布。国内、お祝いの声があふれる。国旗は売り切れ、酒も値上がり。衆議院議員の選挙は、翌年に。
明治二十二年 日本製のワイン、スペイン万博で金賞。
明治二十四年 シカゴ在住の高峰譲吉、日本のコウジで作る酒会社を創立。原価が安くなる。
明治二十五年 下賜された木杯を、自分は禁酒主義と、返上した人がいる(朝野)。
明治二十五年 自称・北斎の三代目。洋酒屋の看板に、グラスから出る幽霊を描くのが得意(読売)。(「夜明けあと」 星新一) 


あ、オハヨー
飲む、打つ、買うの三拍子ってことがある。人間、このどれか一つに大変弱いものであるということを最近発見した。飲む-これはもちろん酒である。例えば朋友、猪股公章氏など、テッテイ的に酒には眼がない方で、いちばんそれがばれるのは、ビール等をグラスについだとき、泡と一緒にあふれ出る液体をああもったいないとばかりに手でうけないで自然に口を寄せていってしまうくせである。一度など、ある女の子が半泣きになって私のところへ来た。「私、猪股先生が死ぬほど好きなの」へえそれはもの好きな、とは思ってもいわないが、ふんふんとあいづちを打ってきいていると、「それでやっと昨夜二人っきりになるチャンスがあったんだけど、先生ったら酒びん片手に飲むばっかりで…」まあ大体そうじゃわな、今でも。「一本空けてグーグーねむりはじめて、わたしいつ目が覚めてくれるかとジューと横にいたんだけどそのうちシラシラと夜が明けはじめて」「なるほど」「ガバュと突然はね起きたかと思うと、私の顔を見て、"あ、オハヨー"」「それだけ」「それだけなの、シクシク」酒好きの男なんてそんなもんよ。女のオッパイの曲線より、酒ビンの丸味の方が色気があるっていうくらいだもの。(「ところで、もう一杯②」 山口洋子) 


[八]徳通駅を過ぎて咸昌の李大守と別る 二首
鴨江に相見(あいまみ)えて酒尊(さかだる)開き 繾綣(けんけん 情が厚く去りがたい)たる交情は我が懐(こころ)を慰めたり 十年の今日通亭の上 古意偏(ひと)えに多く屡(しばしば)杯を倒す(「老松堂日本行録」 宋希璟 村井章介校注) 1420年日本に向かう朝鮮使節の出国する前の詩文です。 

スキットル
フラスクボトルともいうウイスキー等のお酒を入れる容器のこと。-
日本人でスキットルが一番似合ったのは、いまは亡き開髙健さんだった。さすがはサントリー出身の作家だけのことはある。私も物心つく前から釣り人だった。登校前に釣り、下校時に釣るという釣りバカでもあったから、それなりの歳になると当然のように開髙さんのごとくスキットルにウイスキーを入れ、川や海に行った。しかし、スキットルという奴は安物だと口をつけたとき金属臭がして飲めたものではない。それでも見栄を張って、しばらくは飲んでいたが、あまりにも身体に悪そうなのでやめた。三十代に入ったころ、少しの間だが、サントリーのPR誌に原稿を書かせてもらっていた。このときもスキットルに手をだしそうになったが、チタン製にはまだ手がでなかった。いつか真冬の北海道を歩くとき、スキットルを携えて行きたいと思う。北海道ゆえ、ニッカの竹鶴でも詰めて。(「旅のらくがき」 千石涼太郎) 


漉酌奴
ろくしやく○京都にて造酒家(つくりさかや)の下部。ろくしやくと云 又乗物を舁(かく)ものをもいふ 東国にては造酒家の桶の大いなる物をいひ 又乗物をかくものをいふ 或云 主人たる人の心を京間六尺五寸間にたとへ 下男の心を田舎の六尺間にたとへて下部たる物を六尺とはいふ也 案(あんずる)に 酒家の下男をろくしやくと名くるは 酒を漉(こし)酒を酌(くむ)を役となすものなれば 漉酌といふ意を用へきか(「物類称呼」 越谷吾山 東條操校訂) 素直に六尺桶からきたとみたほうがよいのではないでしょうか。安永4年(1773)の出版だそうです。 


岡部さん
漫画家の酒豪番付では前頭か小結ぐらいのところに入る岡部(冬彦)さんだから強いことは強い。ビール、酒、ウイスキーと滅茶苦茶にチャンポンにして、ペラペラ喋りまくって大変なご機嫌であった。私は、チャンポンなんてとてもできないから、もっぱら日本酒を飲んで、これも相当にメートルをあげていた。案内役の天江さんが、これまた凄い酒豪で、いくら飲んでも一寸も崩れない、不思議な強さのお方である。天江さんに送られて仙台駅前のホテルに帰ったのが、もう午前一時ごろだったと思うのに、岡部さんは、ボーイさんに頼んでビールを持って来させ、私の部屋をノックして、またまた、酒もりをはじめたのである。もう互いにロレロレなのだが、なにを喋ったのかよくわからない。が、私の記憶では、ネクタイがない、手帳がない、やれ、なにやらがないと、やたらに物がないと、岡部氏はわめきづくめであった。(「酒と旅と人生と」 佐々木久子) 


ラッキョウ
山陰の、しかし、象徴的な味のひとつは、ラッキョウといえるだろう。砂丘のかげにひろがるラッキョウ畑の単調なうねりは、まさに日本的偉観のひとつである。また、あのラッキョウという、酢につける以外、煮ても焼いても何のいかしようもない植物くらい、ある意味で日本的単細胞の直線性をあらわすものも、ない気がする。八百屋からなまをどさりと買込み、一晩放りだしておくと、翌朝たちまちに青い芽をふいちまってるセッカチさも、はなはだしくペンダサン的に日本風である。このなまのラッキョウを、芽のふかないうちに、丹念に水洗いして塩水につけ、ころあいをみて、好みの味の酢や黒砂糖に封じこめておく。おどろくほど簡単に、家庭でラッキョウづけがたのしめるのは薄気味悪いほどである。きざんでカレーライスにそえるだけが能じゃないのだよ。むしろ日本酒のつきだしに、これは来客向けの一皿である、といってよい。今や、安くって簡単なものほどうれしがってくれる御時世だからね。(「男のだいどこ」 荻昌弘) 


【の】飲まば朝酒死なば卒中
飲むのなら朝酒に限る。朝酒が一番うまい。死ぬのなら脳卒中に限る。昏睡してそのままあの世行き。苦しまなくてすみますからね。(「食べる日本語」 塩田丸男) 


つまみ
英・米・仏などでの酒場があまり「つまみ」を重視していないことは、英語やフランス語に「つまみ」にぴったりする訳語がないのを見ても分かる。英和辞典を引けば、「つまみ」に相当する英語として「Snack,Tidbit,Side dish」などと出ている。「Savoury」も載っているかもしれない。しかし、これらは、日本語の「つまみ」とはどこかニュアンスが違う。これらはむしろ中国の「点心」に近い、たんの軽食を意味する言葉で、日本の「つまみ」のように「酒のつまみ」という意味はない。「Savoury」だけは、多分アメリカではあまり使わない言葉で、塩漬けの魚やブランデーに漬けた果物といった、確かに酒のつまみに適したものが主だが、お茶が好きなイギリス人のことだから、お茶のつまみとしての意味あいもある。-
日本人みたいに、酒を飲みながらよくつまむのは、スペイン人、イタリア人、ギリシャ人、トルコ、アラブ系の国の人々などで、つまみをスペインでは「タバス」、イタリアでは「アンティパスト」、その他の地中海諸国では「メッゼ」という。アチラでは「つまみ」は、地中海的な習慣のようだ。これらのつまみは地方によってずいぶん違うが、結構魚介類も多く、日本人の好みに合わないこともない。要するに、酒飲みが好むものはわりあい似ているのかもしれない。(「銀座の酒場 銀座の飲り方」 森下賢一) 


伝説の夜光杯
伝説の夜光杯とは、周の穆(ぼく)王のとき、西域から、
-夜光常満杯(やこうじょうまんぱい)というのが献上されたことである。これには白玉の精が三升も受けられる。もっとも、当時の一升は日本の一合に相当する。空になっても、夜これを出しておけば、朝になると満杯になるという伝説である。(「西域余聞」 陳舜臣) 


一【かい敷に篠葉を忌む事】
食物のかい敷(食物を盛る器)に篠(ささ)の葉を用ゆる事はいむ事なり。切腹する人に酒のまする時は、昆布の帯と塩を肴とする、そのかい敷ささの葉なり。されば昆布の帯も塩も常に肴にせず。ささの葉かい敷にするは忌むなり。『諸聞書条々』に見えたり。(「貞丈雑記」 伊勢貞丈) 


飲むと食う
まして、せっかく心を籠めたものが手つかずで戻ってきたり、半分食い残されて戻ってきたりしたときの、料理人の気持ちを考えてもらいたい。たとえようもない寂しさで、もう怒鳴り散らす元気さえ失せて、ガックリいってしまうのだ。それを知っているものだから、私は、熱い料理が運ばれてくると、すぐ料理場の板前の様子がチラチラ目の前に浮かんで、ほおっておけないのだ。腹は相当にくちくなっていても、つい早いとこ平らげてしまう。すると、てきめんに酒がまずくなり、感興いまや索然たりということになってしまう。これは、特殊な立場にある私のひとりのこと、一般のお客ときたら、料理人のことなぞこれっぽっちも念頭にないから、食べたければ食べる。腹がくちくなれば遠慮なく食い残す。酒のほう一本槍なら、ちょっとお吸い物を吸ったあとは、たまにさしみなどをつつく程度で、松茸のどびん蒸しがでようが、若鶏の空揚げが出ようが、置きっ放しの冷めっ放しである。-
では、いったいどうすればいいのか。私に言わしむれば、見栄を捨てればいいのだ。食べるものを見つくろって-などとバカ殿様みたいな注文の仕方はやめて、今日は何ができるのか?では何を通してくれ-と各人の好みをハッキリ出して注文するがよい。そういう注文のしかたを軽蔑するような家だったら、遠慮なく河岸を変えればいいのだ。(「舌」 秋山徳三) 


梅見に瓢箪
本年も梅はすでに咲きはじめ、続いて桃桜の花時に向ひ、野遊の好季節に近付きたれば、このごろ各骨董店にては瓢箪の売行よろしく、随(し)ひて相場も高く古物上等なるものは売物少なく価格を引上げたるよし。<明一一・二・二六、毎日>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編)


書生鍋
いろんな物を入れて食べ切れない書生の牛なべ。饗庭篁村(あえばこうそん)(一九二二年)の『作り菊』に、<頼みある中の酒宴かな、牛鍋の中へ、下宿の菜の物をごたごとに入れ、それへ鶏卵(たまご)をかけて煮えつかせしに、大坂漬けの大根(だいこ)を入れ、昨日のまゝに汲み替へぬ大土壜(どびん)に水を入れ、ホイ甘すぎると、生醤油をさし、吸へども尽ず、喰へども減らぬ書生鍋、取り巻く三人鼎(かなえ)と座し、巴(ともゑ)と巡る盃を、オイしたむなら此の鍋の上へ溢(こぼ)したまへ、少しは味を付けるから、そんな事を云(いは)ずと、皆(みん)なの盃の中のを少しづつ義捐(ぎえん)しやう、ソラ、是なら八百善製といへども、及ばぬ妙味となるだらう、>という。(「飲食事辞典」 白石大二) 


龍の猪口
話は変わりますが、江戸川柳に、「龍の猪口(ちょこ) 箱に収まる禁酒して」というのがあります。この龍の猪口とは、天保の頃に流行った「蜂龍の盃」のことです。蜂が人を刺す、龍が人を呑む、というところから「させば呑む」という洒落なんだそうです。禁酒なんかすると、こういった洒落を楽しむ気持ちも一緒に隠されてしまうようで、なんとも寂しいものです。(「もっと美味しくビールが飲みたい!」 端田晶) 


王翰
葡萄の美酒、夜光杯
飲まんと欲すれば、琵琶、馬上に催(うなが)す
酔うて沙場に臥すも君笑う莫(なか)れ
古来征戦、幾人か回(かえ)る-
涼州詞の作者王翰は、『唐詩選』にこの一首をのこすのみで、生没の正確な年代はわかっていない。あざなは子羽(しう)、山西省晋陽の出身だが、『新唐書』列伝によれば、だいぶアクの強い人物であったようだ。-若くして豪健、才を恃(たの)む。
進士に及第しても、バクチと酒が大好きで、それをひかえようとはしなかった。山西の地方長官をしていた張説に愛され、張説が中央の要職につくと、王翰も取り立てられた。羽振りのよかったころ、彼は傍若無人であった。-家に声伎(せいぎ)を蓄え、目使頤令(もくしいれい)し、自ら王侯と視(み)、人、之(これ)を悪(にく)まざるは莫し。…当時、ちょっとした身分の者なら、自家用の歌手やダンサーを召抱えていたものだ。それはよいのだが、王翰は彼らを頤(あご)で使い、態度きわめて傲慢で、まるで自分が王様にでもなったつもりであった。評判が悪かったのはいうまでもない。ところが、宰相になったパトロンの張説が、政敵の攻撃を受けて失脚すると、その庇護下にあった王翰も中央政府のポストを追われ、汝州長吏、仙州別駕、道州司馬と地方まわりをしなければならなかった。汝州や仙州はまだ河南省だからよいが、道州は湖南であり、それも広西と境を接した辺地なので、ずいぶん遠くにとばされたものである。王翰の鼻つまみされていたが、彼について救いがあると思うのは、ときめいていたときも、左遷されて不遇のときも、どうやら態度が変わらなかったことである。-日に才士豪侠と飲楽遊畋(いんらくゆうでん)す。 ということだったらしい。「畋」は「狩」とおなじである。土地の才人、文士、任侠の徒たちと大いに飲み、ハンティングをたのしむ、豪傑肌の人物であった。(「西域余聞」 陳舜臣) 


主観の新酒
芸術は模倣であるというプラトーンの説がすたれてから、芸術の定義が戸惑いをした。ある学者の説によると、芸術的制作は作者の熱望するものを表現するだけでなく、それを実行することだそうである。この説によって、試みに俳句を取り扱ってみると、どういうことになるであろうか。恋の句を作るのは恋をすることであり、野糞の句を作るのは野糞をたれる事である。叙景の句はどういう事になるか。それは十七文字の中に自分の欲する景色を再現するだけではいけなくて、その景色の中へ自分が飛び込んで、その中でダンスを踊らなくては、この定義に添わないことになる。これも一説である。少なくも古来の名句と、浅薄な写生句などとの間に存する一つの重要な差別の一面を暗示するもののようである。 客観のコーヒー主観の新酒かな(昭和三年十一月、渋柿)(「寺田寅彦全集」) 


生酔(なまよい)を少し当身で引(ひい)て行き おし付けにけりおし付けにけり
酔っぱらいの当人はへべれけになっていい気なものだが、それを連れて帰るほうは、たまったものではない。「まったくいい気なものだ、この馬鹿野郎めが」と、しょうことなしに、少し当て身をかました上で引きずって行く。 ○生酔=泥酔者 ○あて身=相手の急所を突いて気絶させる柔術のわざ。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎-監修) 


一茶の酒の句
八兵衛が破顔微笑や今年酒
菊の日や呑平を雇ふ貰ひ酒
「火骨」(ほだ)の火や小言八百酒五杯
花咲くや日傘のかげの野酒盛(「日本酒物語」 二戸儚秋) 


裏口営業
昭和二十二年二月二十三日夕五時ごろ、東京都港区麻布本村町一四〇、田中武雄元運輸大臣(当時六〇)邸を、麻布署本間主任以下二十三名の係官が包囲、屋内に乗り込んだところ、おりから各室で役人と業者らしい者のきょう宴の最中。早速、当の田中元大臣をはじめ同家支配人、女中頭、料理長を検挙、宴会中の青柳雄郎農林省糸政課長、伊藤繁樹商工省生活物資局ゴム皮革課長、小野田晋貿易庁事務官、長谷沢滝次鉱工品貿易公団軽工品部長、今村万寿男同課長、野上司全同経理課長ら二十四名が料飲政令違反現行犯として検挙された。これが、俗にいう"天麩羅御殿"事件である。料飲政令違反は、当時、"裏口営業"と呼ばれる手で、いろいろと行われていた。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


酒ありてこその桂月
この桂月に、杉浦重剛は、菅茶山の遺した品であるという、三合八尺入りの瓢箪を贈って、これ位はやってもよろしかろう、といって慰めた。その時の桂月の手記に、「余断酒すること一年半にして節酒に移りぬ、一酔陶然たる時、詩思動き奇想天外より落つ、酒ありてこそ大町桂月なれ、桂月より酒を奪い去らば、桂月は枯木寒巌のみ。節酒を聞いてみな眉をひそむ、独り杉浦先生はその愛瓢を割愛し、酒を充して余に贈る、感涙と共に拝受し、瓢量以上の酒を飲まぬことを天地神明に誓い、家に伝えて家宝となす。」とある。大正十一年初夏のことであった。(「酒雑事記」 青山茂編) 


饗膳の式次第
饗膳の式次第は複雑であるが、ごく簡潔に書くと、勧盃所役が盃をとり、檜扇(ひおうぎ)で三度盃を払って瓶子(へいし)所役に酒を注がせ、受ける人は拍手一つして盃を受け、三つ口に飲んで盃の余瀝(よれき しずく)を膝の前で落として盃所役に返す。上座から下座の人までこうして初献があり、ついで二献。二献がすむと権禰宜が中央に進み、「御箸(みはし)」と一声小さな声でいう{御箸申し}があり、これを聞いて一同は飯(いい)に御箸を立てる。ついで三献が振舞われ、御箸をもとに戻して終わる。初献と二、三献では作法が異なり、内宮と外宮でも御箸を立てる作法なども異なる。近代では「御箸申し」の声を聞いて、飯に御箸を立てかけることで料理をいただいたことにするが、古くは実際に口にしたのだろうし、木綿蔓(ゆうかずら)、木綿襷(ゆうたすき)を解き、明衣(みょうえ)の首止めをはずしてリラックスした解斎(げさい)の姿で席についたというから、実際の祝膳であった。近例ではあらかじめ饗膳は据え置かれ、退出後に撤している、古くはすべて一つ一つ進めていたのであろうから時間がかかっただろう。現在でも一時間二十分ほどかかる。
なお内宮神楽殿ではご祈禱のお神楽のあと、希望によりお供えしたお下がりをいただく略式の饗膳があり、饗膳所という建物もある。これも室町時代に武家社会から発生した戦陣への出発式や、戦利の祝膳に連なる素朴な料理で、素木のお膳やカワラケも持ち帰れることも書き添えておこう。(「伊勢神宮の衣食住」 矢野憲一) 


酒を飲む理由
酒を飲むには二つの理由がある。ひとつはノドが渇いているときそれを癒すため。もうひとつはノドが渇いていないとき、渇くのを防ぐため。<出典>イギリス、トーマス・ラブ・ピーコック(Thomas Love Peacock 一七八五-一八六六)『メリンコート』<解説>人がお酒を飲む動機や理由は千差万別なのであろうが、呑ん兵衛や酔っぱらって人に迷惑をかける人は、とかく呑んだ理由について言い訳をさがす。「私は酒なしでいられない。それをほんの少しよけい飲まないと平静になれないのだ」と告白したのはチャイコフスキーで、これなどはだれもが納得する言い訳だろう。『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスは、「私は機会があれば飲む。時には機会がなくても飲む」と弁明したが、それを英国風ユーモアでひねるとこうなるのだろう。ピーコックは長年東インド会社の官吏として勤め、当時の文学運動には参加しなかったが、いくつかの風刺小説で、その時代きっての諧謔家として高く評価された。詩人シェリーの親友であったし、娘が有名なジョージ・メレディスの最初の妻である。-(山本博) (「食の名言辞典」 平野・田中・服部・森谷 編)」 


二月十八日(水)
午食は御馳走で御錫(酒のこと)をいたゞく。午后一時四十五分御発。白雪に御乗。二重橋鉄橋にお出まし。予も光風で御供。民草の感激云はむ方なし。引続皇后宮、東宮、呉竹寮三内親王も御出まし。お上の御供して御守衛隊のあたりまで来た時又万歳が聞える。皇后様が御出ましになつたからであらう。母上、君子、子供二人も丁度この頃行つてゐて非常に難有泣いて了つたとの事。今日は祝賀の為内閣奏上物一つもなし。当直は小出、岡部、徳永、塚原、それに柴も居残り、大いに飲み、二升三合を飲み乾し又葡萄酒(伊太利)一本のみ、終に皇后宮にブランの御酌までして戴く。これに越す感激があらうか。御格子后皆で入浴。一軒一戸(エツケンエツコ)を連呼。(「入江相政日記」) 昭和17年の建国記念日です。 


アフリカの酒づくり
アフリカの酒づくりを見ると、ビール醸造の発祥の地メソポタミアおよびエジプトの影響を受けているためか、、一般に穀芽酒が多い。ところが、安渓貴子氏によりカビ酒が見出されている。安渓氏の報告によると、アフリカ大陸のほぼ中央に位置するザイール共和国のサバンナに住むソンゴーラの人々は、キャッサバをでん粉質原料として、糖化剤には稲籾を粗く砕き、それにカビを生やしたものを主とし、補助的な糖化剤として、トウモロコシを発芽させ、カビを生やしたものを使用する。そして、醗酵もろみを蒸溜して飲用するという。その後の調査で、彼らはこの製法を三〇~四〇年前に、同じサバンナ地帯に住むクス族から習い、また、クス族の人たちも、もともとはトウモロコシを使って芽米酒をつくっていたが、約一〇〇年前に稲が伝えれた後に、稲を使っての芽米酒づくり、ついで稲籾にカビを生やしたカビ酒づくりを考え出したというのである。これは、私たちが提唱した日本のカビ酒(日本酒)における麹の変遷、つまり芽米、さらにカビの生えた芽米、ついでカビの生えた蒸米、すなわち、米バラ麹へと移行したという推察に、たいへんよく似ており、この一致に驚かされる。(「日本酒の起源」 上田誠之助) 


いつ振廻(ふるまつ)たとハ極(ごく)わるい生酔 滄水
 いつ飲ませてくれたかとからむ酔っぱらい
梅の盛りにハ生酔出来ぬ也 玉簾
 寒くて酔う先からさめてしまう梅見
呑申間敷(のむもうすまじく)と青い顔で書 五英
 二日酔いで、もう飲みませんと書くものの…
こはくなひ呑人(のみて)そろそろ涙ぐミ 綿(ママ)糸
 泣き上戸は怒り上戸と比べると扱いやすい
わるいくせとかくに飲(のむ)と切りたかり 五扇
 武士の悪酔い(初代川柳選句集上 千葉治校訂) 


夷講
しかし商人達にとっては夷講は商売繁盛の神を祭る大事な日だ。「呉服屋で飯を売る日の賑やかさ」客には皆御馳走を出すのが慣例だった。三井をはじめ白木屋大丸などにも江戸での仕きたりの話が色々残っている。 夷講富士のぶらつく程のませ 夷講酒は三ごく一斗なり 越後屋三井の駿河町の富士にかけた句で、富士がゆらゆらして動いて見えるほど客に飲ませたのだ。一日ののませた量は三石一斗、三国一の山とうまくあわせた秀句である。この飯を出し、祝い酒を振舞うことは、町人達にとって一つの散財だった。PRでもあるから出費に苦労するのも止むを得ない。「五節句の外に夷が苦労させ」それだけに商人達の華やかに祝う日であり、商売大もうけを願う日であった。(「江戸風物詩」 川崎房五郎) 


氷葡萄
明治七年ごろ銀座、京橋辺りの氷屋はガス灯をつけ洋酒のビンをならべ、氷葡萄といえばブドウ酒の濃厚なのをタップリ入れたから女子供など一杯でフラフラ。氷をのんで腹くだし。もうコオリゴオリだと洒落ていたものである。(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 解説の部分です。 


美顔パック
パックは自分でもつくれます。要するに、小麦粉を用意して、そのなかに好きなものを入れればよいのです。そもそも、美顔パックなるものが考えられたのは、パン作りの職人の手に、きわめてシミが少ないことが発見されたことによります。したがって、小麦粉を水だけでも効果が期待できるわけなのです。いっそう効果を高めるためには、酒カスを入れます。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


アメリカン・ウィスキー
アメリカ側の反撃はすべてD・C・Lとの交渉を試みて失敗した後に行なわれたものである。現在のところアメリカ外の市場においてまだほとんどスコッチが、ことにD・C・Lの諸銘柄が世界市場を独占しているといってよい状態である。アメリカン・ウィスキーが、これらの市場をスコッチと争うまでにはなっていない。大戦後、時の経過とともに徐々に、戦後増産されて貯蔵されていたアメリカン・ウィスキーが成熟期に入ってきた一九五〇年以後になってはじめて国際市場争奪戦がはじまった。しかし、関税障壁がなければ(アメリカでは一ガロン一ドル五〇セント、一本約五〇セントであり、英米通商協定でも、一九四七年のジュネーブの一般協定による交渉でも、これは据えおかれている)まだまだアメリカン・ウィスキーは、国内市場でもスコッチの敵ではない。品質に関するかぎりたしかにそうであろう。しかし、両者は品質の上では全くといってよいくらい別個のものである。それだからこそアメリカン・ウィスキーの大量生産が可能となったのである。問題は量にある。アメリカン・ウィスキーは一カ年約二億三〇〇〇万ガロン、スコッチは一三〇〇万ガロンが戦後の生産水準である。原料に制約されているスコッチの戦後の生産量と急速に減少しつつある戦前からの貯蔵量の減少(戦前約一億五〇〇〇万ガロンであったものが八〇〇〇万ガロン以下となっている)は、重大な問題である。ことに古いスコッチ原酒の貯蔵量の低下は、ブレンド操業を困難ならしめるのではないかと考えられる。戦後のスコッチは戦前のものとくらべ、たしかに品質が落ちているがその原因はこうしたところにあったのではなかろうか。(「趣味の価値」 脇村義太郎) 昭和42年初版の岩波新書です。 


ウィスキーが四、五本
まったくの無一物とはいえないものの、精神的には裸になった梅原さんの身辺は、まことにさっぱりしたものである。テーブルの上には愛用のウィスキーが四、五本、煙草の箱が二つ、白い壺にバラの花がいつも挿してあり、それだけあれば何も要らないといった風情である。「年をとってからは、よく死ぬことを考えたが、近頃は死ぬことも忘れてしまったらしい」そういう先生の笑顔には、何の屈託もない。人生も一つの夢にすぎないのなら、夢の中で生きた梅原さんには、もう一つの新しい境地が開けたといえるのではないか。(「遊鬼」 白洲正子) 梅原龍三郎は、晩年、自分の作品数十点とともに、自分の収集した絵画を各地の美術館へ寄附したそうです。 


パブ

十四世紀ごろまでのイギリスの旅宿では、食事とともに酒(ワインとエール<ビールの古称>)を出し、目印として長い柱に灌木の枝束が結びつけてありました。その酒を飲ませる旅宿には土地の住民は入ることが禁止されており、そのかわりに人々はエールだけを飲ませるエールハウスに集まりました。旅宿との競合から、エールハウスでは食事を出さず、貧弱な食べものしかおけませんでした。一七四三年の徴税法でエールハウスでもジンやブランデーを売ってもよいことになったので、そこを「パブリックハウス」(略してパブ)と呼ぶようになりました。つまり一般人(general public)に、食事と宿泊を供給するという意味で、店は二つに仕切られ、一方をパブリックバー、他方をサルーンバー(高級な部屋)にわけて営業したということです。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


下り酒問屋と地廻り酒問屋
江戸の酒問屋は上方産の下り酒を扱う問屋と関東産の地廻り酒を扱う問屋に分かれていた。所在地も明確に分かれており、下り酒を取り扱う問屋は、新川、新堀、茅場町、地廻り酒を取り扱う問屋は南茅場町、南新堀、霊岸島に軒を連ねていた。下り酒は菱垣廻船によって江戸湾に運ばれ、品川沖で天満船に積み換えられ、酒問屋に運ばれた。酒問屋から小売の酒屋に渡り、一般消費者が買い求めた。小売屋は枡酒屋と呼ばれていた。(「目安箱こって牛 征史郎2 誓いの酒」 早見俊) 


液体の法則
坊さんがマリウスを道でつかまえ、「これ、マリウス、あれだけいっておりたのに、また酒場から出て来たな。どうすれば性根がなおるのじゃ」「でも、あっしは酔っちゃいませんぜ。連中とビールをチョッピリやっただけのことなんで…ただそれだけのことなんで…」「ただそれだけ?…ではおまえ、その瓶のなかになにを入れているんじゃ。いってみよ」「へえ、いやなに、これには…ちょっとばかしウイスキーがはいっておりますが…そのうち半分はチタンの野郎の分でして…」「よし、ではおまえの分をいますぐこの溝に流せ。半分だけすぐ流してしまえ」「ところが…そうはまいりません…あっしの分は底の方にあるんで…」 (「ふらんす小咄大全」 河盛好蔵訳編) 


酒解神・酒解子
酒づくりの祖神、酒解神(さけとけのかみ)・酒解子(さけとけのみこ)は大山津見(おおやまつみの神)(『日本書紀』は大山祇神)と神阿多都比売(かむあだつひめ)(『日本書紀』は神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)の父娘神のことである。神吾田鹿葦津姫は、前章で述べたように、神の田でとった米で「天甜酒(あまのたむさけ)」をつくり、新嘗も神祭をするなど、酒神にふさわしい行為が見られる。ところが、大山祇神がなぜ酒神に擬せられたか、記紀神話からは直接的には見出せない。この神は、神吾田鹿葦津姫の父神で、本来は山を司る神であった。山の神はまた水の神
さらに農耕神でもあった。そんな意味合いから。父娘共々に酒の神として崇敬されたのであろう。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


ラーメン肴に焼酎一升
美空ひばりさんは、七歳という幼さでデビューを果し、歌と演技のうまさで「天才少女」と評判をとりました。天才少女から「女王」の座に移り、家庭内のゴタゴタなどもあって、表面の華やかさとは違い孤独な人生を送り、昭和六十一年体調を崩し、六十二年福岡で入院。六十三年東京ドームで再起コンサートを開きましたが、翌年、再入院して帰らぬ人となったのです。私は、彼女のお酒の飲み方をみていて、ハラハラし通しでした。なにしろ、ラーメンを肴に焼酎を一升あける、という酒豪でしたから、よみうりテレビで「女流酒豪番付」を作ったときも、東の横綱と満場一致で美空ひばりさんを推せんしたものです。(「今宵も美酒を」 佐々木久子) 


昭和二十四年二月
新酒の出回るまでまだ二ヶ月もあるというのに都内ではビンづめ清酒は売れ切れて一本もなく、タルづめの手持ちも底をつくという心細い状態となり、大蔵省をあわてさせている。昨年十月以来特価酒清酒の出方は好調で、伏見ものは暮までに売切れ、一部残っていた灘ものも正月はじめになくなったうえ、今月の入荷は十六日現在一月の三分の一の三千四百五十石という少量、目下酒屋にあるのは合成酒のビンづめと清酒であっても近県もののタルづけくらいのもの、このためビンづめと清酒ではあっても近県もののタルづめくらいのもの、このためビンづめ清酒は一本千二百円程度のヤミ値で売る酒屋も現れはじめた。大蔵省では広島、山口、山形、新潟、秋田など地方の優秀な地酒七千三百五十石を月末までに入れようと目下努力中で、これが入ればちょっと息をつくが、あとは新酒の特級酒などの出回りはじめる四月末までは古酒の入荷は望みうすなので、都内はいま以上の清酒キキンになるものとみられる(『朝日新聞』昭和二十四年二月十八日)(「酒・戦後・青春」 麻井宇介) 


内藤九段
私は妙に内藤(國雄)さんとはウマがあって、テレビや対談などでずい分と御一緒しました。あるとき、新潟で催された「花と酒とを賞でる会」に二人で招かれ、いやいや、もう飲んで飲んで飲みまくりました。六時からはじめて午前二時まで、日本酒だけを飲みつづけたのです。古町の芸者さんたちもノリにノって、コップでグイグイやるのですから、あっという間に五升や六升はカラになってしまいます。みんなにせがまれて、持ち唄の「おゆき」をはじめ「王将」「別れの一本杉」「おんな船頭唄」などなど、内藤九段は大サービスして唄ってくれました。お酒で磨いたノドは、いよいよ冴えて、誰もがウットリと聞き惚れたものでした。それにしても将棋界の横綱は健在で、コップ酒をグイとあけては、誰彼となく返盃をくり返し、ビクともしませんでしたね。(「今宵も美酒を」 佐々木久子) お酒を愛して飲む  


襲名盃事
盃事をとり仕切るのは、媒酌人である。開式の辞も媒酌人が述べる。そのとき、次の言葉を加える必要がある。「お歴々の皆々様を前に、しがないこの私に、盃事を執れとのお言葉にしたがいまして、執らせていただきます。この盃式は、私の受け継ぎますところの家伝のしきたりで執り行わせていただきます。順序を間違いましたら、お許しいただきます」-このとき媒酌人は、本家熊屋駄知分家六代目の長瀬忠雄氏であった。推薦人、取持人の挨拶のあと、媒酌人長瀬忠雄氏は、祭壇前に盃事当事者二人を案内、向かいあわせに座らせる。そして、祭壇にある神酒(みき)一対、盃一対、それに鯛と塩を三方ごと取り下げて、当事者二人よりも下(しも)の位置に並べる。ここからが、媒酌人の仕切りの見せ場である。まず、盃を懐紙で拭う。次いで、神酒(徳利)を一本ずつ三度おしいただいて拝す。そして、口を切る。左手で徳利を持ち、右手の二本の指(人差し指と中指)で口を切るしぐさを三度行うのである。それには、ただ開封するというのではなく、手刀ををもって神酒を祓う意がある。ただし、一連の所作は、無言で行う。-口を切った神酒を盃に注ぐ。まず、左右の徳利それぞれから少量ずつ三度に分けて注ぎ、次に二本の徳利を両手に持ち、同時に、これも三度に分けて注ぐ。三度三回、つまり「三三九度」の注酒の作法である。そして、その酒を満たした盃に鯛と塩を入れる。といっても、ほんとうに入れるのではなく、鯛の頭、腹、尾に三度箸をつけ、それを盃に入れるまねをするのである。塩についても同様に、箸で三度つまんで盃に入れるまねをする。これは、別に肴を用意すべきところの「酒肴一献」の変形と理解してよいだろう。そうして酒を注いだ盃は、はじめのひとつを予備の三方にのせて祭壇に供える。供えたのち、二杯二拍手一拝。そのあと、もうひとつの盃に同じように神酒を注ぎ、鯛と塩を加える。それを三方ごと譲り親の斜め手前に運ぶ。そこで、簡単に口上を述べる。「このたび、名家の跡目をお譲りになるご決意、潔きものとお祝いいたします。私若輩ながら媒酌の大役相つとめさせていただいおります。お言葉がございましたら、うけたまわらせていただきます。」それに対して、譲り親の方は、引退の決意にかわりない挨拶を返し、次代目への取り継ぎを依頼する。そして、盃を三口で飲み干す。媒酌人は、その盃を引きとり、前と同じ作法で酒を注ぎ、鯛と塩を加える。それを、新代目(盃を受ける者)の斜め手前に運ぶ。「この盃をお受けになりますと、あなたは、ただ今より当代となられ、神農として家長の地位につかれるのであります。かねてよりお心構えはできておられると存じますが、神農ともなれば、これよりも増して苦労が多くございます。そのご決意を示されるべく御心もちで、この盃を三口にて干してください」-(「三三九度」 神崎宣武) テキヤ世界での襲名盃事だそうです。 


住み荒らす上戸の窓の板庇 酒盛がちに降る時雨かな
(酒好きの上戸が住み荒らした家の板庇は、逆漏り(さかもり)-酒盛にひっかけたもの-する癖がついているので、時雨が逆流して漏って家の中に降り込むという意味。『醒酔笑』五。この作者は安楽庵策伝で浄土宗の僧侶)(「日本酒のフォークロア」 川口謙二) 


呆れ顔
そこでこの椎の友仲間と寄宿舎従来の仲間と、また私の側では土井藪鶯氏の外同じ宇和島人の二宮素香氏同じく孤松氏等をも引き込み、また子規氏は大学の手合で大野洒竹氏藤井紫影氏、田岡爛腸(嶺雲)氏などをも引込み、その一同が会する時はなかなか盛んなものであった。また或る日の事、中根岸の岡野の貸席でこの大会を催している最中、浅草鳥越(とりごえ)町方面に火事が起こって、それが近火だからといって、森猿男氏と、片山桃雨氏は俄(にわか)に帰宅した。それからこの大会も済んだ頃まだ火事は消えず、新築の中村座が焼失したという事を聞いたので、それでは猿男桃雨氏の宅も焼けたろうから見舞って遣らねばならぬといって、私が率先して子規氏や古白氏や松宇氏などと駆着けて見ると、幸いに類焼はしなかったが、道具なども片付けて手伝いの人も出入りしていた。そこで例の見舞い客に振れ舞う土瓶らの茶碗酒を我々にも飲ませたが、我々はそこへ腰をかけたままで、もう火事の句数句を作る。また主人も作るという風で周囲の人々は呆れ顔をしていた。その頃の我々の俳句に熱心であった事はこの一事でも判るのである。(「鳴雪自叙伝」 内藤鳴雪) 


バス
大酒飲みとその仲間、今晩もすっかり御機嫌のまま、ウィルシェヤー行きのバスに乗り込んだ。そこで最初に目についた制服の男に二十五セント玉を渡した。男はたちまち一喝した。「こんなものは受けとらん!わしは提督だッ」「おい、早くこいつを降りようや」酔っぱらいは友達をせかし立てた。「どうしてこんなになっちまったんだか、さっぱりわからんが、とにかく、おれたちぁ軍艦に乗っちまったんだぜ」 (「ポケット笑談事典」 ベネット・サーフ)  


夜明けあと
明治十八年 東京名所狂歌 さけさけと きくの莟(つぼみ)の団子坂 下戸と見るまに 花は盃
明治十九年 ある農民。わずかな納税不足で山林が競売され、残金がとどく。思わぬ入金と大宴会。事情を知った時は、手おくれ(山陰新聞)
明治十九年 日本橋の洋酒問屋。共通切手(商品券)を発売。風月堂で洋菓子も買える(毎日)。
明治十九年 清国軍艦が長崎に寄港。上陸した水兵たち、酔って大あばれ、巡査隊と争う。民衆は屋根からカワラを投げ、応援(改進)。
明治十九年 ビン入りの日本酒、発売となる。水や安酒をまぜられる心配が、なくなる。(毎日)。
明治二十一年 ビールを生産すれど、ビン不足。その製造会社の開業を待ちかねている(朝野)。
明治二十一年 山梨県下のブドウ。収穫は多いが運送が不便で、利益が少ない。ブドウ酒の製造に成功したので、産業として伸びるだろう(東日)。 


酒三升二合
去る十一日大祭日なるを以て府下南葛飾群小松川村の加藤金吉方へ六七名の若者が集り、夫の「小人閑居して何か喰ひたがる」といふ狂句の如く飲食物の話となりしすゑ、是より大祭日の祝ひに銘々好む所の物を食して、其量の優劣を闘はさんと相談頓(とみ)に纏(まとま)り、各々之と思ふ物を取寄せ見事に飲食せし人名物名量数は左の通り
なま米一升七合 加藤金吉(二十二年) 水二升 小山七左衛門(三十七年) 酒三升二合 栗田幸吉(二十九年) 方三寸の切餅五十三 田村太郎吉(三十年) はじけ豆二升 山田浅五郎(二十六年) 豆腐五十挺 石川籐吉(二十七年) 蕎麦粉一升五合(そばがきにして) 小泉喜代治(二十五年) 右飲食中へ神田豊島町の古着商久野春吉(二十八年)なる者が来て、我れも仲間に入らんと常に嗜む所のふかし芋一貫目を取寄せ同じく喰ひはじめしが、八百目まで食ひ了り今日は先刻昼飯を喫せし故、残念ながら喰ひ尽せぬと云訳(いいわけ)して漸々に帰宅せしが、其為腹を損じ昨今病床に臥しをるといふが、世間には馬鹿者もあるものなり。<明一七・二・一四、郵便報知>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


二月十一日甲子(きのえね)晴大風(文久二年)
朝より認物(したためもの)なす。今日甲子ニ付(つき)兼而(かねてより)、横市・甫山(どうどう)ニ而(て)奥山へ至るの約なりしに、八碑後、横市一人来る。甫山用事ありとの事也。則同道ニ而至る途、さけ壱舛(升)命す。主人大祝にて、夕方よりさけはし(始)まる。夜に入、予、市次郎両人ニて歌舞し、近隣の室たち来る。此連中、世川氏ニ、予、家に持せし日蓮うつしの大黒天ゆつるへしと約せしゆへ、今日持しゆきしに、幸近隣に参り居との事ゆへ、招きしに大酔にて五ッ過より来る。予も大酔し打臥す。市二郎独(ひとり)帰る。さしみ 吸物 鮒大根煮付 むきみおろし ゆとうふ
二月十二日乙丑(きのとうし)晴
昨夜奥山に一宿しぬ。起いて(出)ゝ拝畢(おがみおわんぬ)。主人また酒あたゝめて出す。予も心ほつ(欲)して酌。むきみ・三つ葉・菜ひたし・豆腐汁・塩辛なとにて打興したる。折から此隣なる佐藤甚三郎入来、同人またさけとそは(ば)粉を持す。これは佳肴なりと速かに製して、終日の宴に及はんとせしか、今日ハ津田の引移りなり。参らすは有るへからすと申すに、甚三郎と予を、また近つきとて行へしとの事也。(略) などとあり、この夜石城は津田引移りの酒宴に参加し、「鱈昆布・吸物・さしみ・にしめ・そは・菜ひたし」などで盃を傾けている(「江戸の食生活」 原田信男) 武蔵国忍(おし)藩下級藩士・尾崎隼之助の「石城日記」の一節だそうです。 


徐邈(「辶貌」)
徐邈(ジョバク)、字は景山。魏の建国の初、尚書郎(文書掛り)と為つた。其時ちやうど禁酒令が出てゐたのであるが、邈は私(ひそか)に飲んで酔つぱらつてしまつた。校事(事務長)の趙達が職務上の事を問ふと、邈は曰ふ「聖人に中(あたっ)た」と。達は此の由を太祖(曹操)に言上すると、太祖は甚だ怒つた。渡遼将軍の鮮于(ゼンウ)輔が進み出て「近頃酔客(さけのみ)どもは酒の清(す)んだのを聖人と謂ひ、濁つたのを賢人と謂つてをります。邈は慎み深い男ですが、うつかり酔言したまでのことでございます」と、取りなしたので、刑を免れることが出来た。其後、文帝(曹丕)が即位するや、邈は段々陞進して中郎将に至り、関内侯を賜つた。文帝が許昌に行幸した時、邈を見て問うた。「どうだ、折々やはり聖人に中(あた)るか」と。邈が答へて曰ふ「昔、子反は穀陽によつて斃れ、御叔は飲酒によつて罰せられました。臣の嗜みは此の二子と同じで、自ら懲らすことが出来ませず、時々やはり之に中つてをします」と。帝は大いに笑ひ、左右を顧りみて曰ふ「名は虚しく立たず(評判だけのことは有る)」と。(「酒顚(しゅてん)」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 中国明時代の本だそうです。 


臼杵(うすきね)寄合
「ナント臼殿このやうに明けても暮ても、餅米斗(ばか)つかれては、からだが続かねへでござらぬか」 臼「なるほど杵どの云わるゝ通り続きませぬ、気付に一ツぱい飲(のも)ふではあるめへか」「よからう」と二人が、茶碗でぐいのみ、とっちりものに(三)なって」「サア一ト寝入いたそう、また搗屋(つきや)が見付て搗くでござろう」と、そばのむしろを引かけ、一ト寝入ねて、しばらく過「これ杵どの、だいぶ頭がおどるではござらぬか」「左様さ、目をさまして見さっせへ」といゝながら、目をあいてきると、いつかつきやがきて、ズイズイ(四)
注 (三)酔った表現 (四)米を臼で搗く音。このように聞こえる(「江戸小咄集」 宮尾しげを 編注 「百福茶大年咄」) 



みちのくの 深雪の蔵の 寒造(かんづくり) 遠藤梧逸
寒造 米の滝より 始動して 平畑静塔
白壁の 日陰の汚れ 寒造 榎本冬一郎
生涯も 勝負ありたる 燗熱く 加々美子麓
熱燗の 真底よりの 声を出す 中条明
岡惚れで 終わりし恋や 玉子酒 日野草城
玉子酒 するほどの酒 ならばあり 菅裸馬
嫁ぐ娘の 送別会や 玉子酒 上村占魚
ひれ酒に すこしみだれし 女かな 小源太郎
鰭酒に 五臓六腑を 託しけり 畑耕一
鰭酒や 男の顔は 妬ましき 星野すま子
圭角を もって聞こえぬ 生姜酒 高田蝶衣
生姜酒 貧土の農と交はりて 堀井春一郎
生姜酒 うつる世相に なじまざる 阿部鴻二(「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 山口青邨監修の「俳句歳時記」からだそうです。 


観人法
嘗て某清人其の談話中次の如き文句を書き示せり。何某とかの語なりといひしが、今は其名を記憶せず。鳥渡面白きものなれば此所に載せん。
之 以酒 以 観其徳
之 以財 以 観其廉
之 以威 以 観其勇(「兎糞録」 和田垣謙三) 


酔狂者の独白
実はこの『酔狂者の独白』は葛西が酒ばかり飲んでいて、とても自分で書ける状態でなかったから、そのころ雑誌記者をしていた作家・嘉村磯多が、葛西の口述するのを筆記してでき上がったものだった。この筆記が並大抵の苦労ではない。葛西は、近所の酒屋の爺さんがデーンと据えてくれた菰(まこも)かぶりの樽酒の前に坐りっぱなしで、グビグビと酒をあおり、世更けて酒が全身に沁みわたるのを待って、ポツリポツリ口述を始めるが、嘉村が出されたソバをちょっと残したのをみると、いきり立って、出直してこいという。仕方なく、翌日行くと、「まだ怒りが残っているからダメだ」といって追い返された。三日目に恐る恐る行ってみると「まあやってやろう」とやっと口述を始め、たった一、二枚しかできないというのに、酔余の葛西は大喜びで、真っ裸になって四つんばいで畳の上をかけ回って、ワンワン吠えながら、「こうして片脚をあげておシッコするのは男犬。こうやって、お尻を地面につけておシッコをするのは女犬」と、犬の真似をしてご機嫌だ。嘉村は、あまりに情無くて泣けてきた。こんな有様で、七十日もかかってやっと原稿ができ上がり、稿料が入ると、それまで酒代を貸していた酒屋の爺さんや、畳屋、表具屋など、飲み仲間が一斉に集まってきて、飲めや歌えの酒盛りが始まる。すっかりでき上がった葛西善蔵は、おつき合いで小さくなって宴席の隅っこにいる嘉村磯多に、「おい足相撲をしよう」と言い出す。嘉村が自分の足を葛西の足に組み合わせると、葛西の痩せ細った脛の、剃刀のような骨が自分の足の肉に切れこんで、コリコリとその骨の削りとられる音が聞こえそうな気がした。(「酒・千夜一夜」 稲上真美) 


ムレ香の原因物質
日本酒(清酒)は非常に良く工夫された仕組みの醸造法式により製造されている。しかしながら、それでもなおかつ、困る事柄がある。それは、日本酒(清酒)の生酒の劣化臭であるムレ香(か)の生成である。ムレ香はイソバレルアルデヒド(三-メチルブタナール)によって引き起こされる。イソバレルアルデヒドは刺激性のある不快臭の化合物だからである。ムレ香はどのようににしてできるのだろうか。生酒中になる炭素五個からなるイソアミルアルコール(三-メチル-一-ブタノール)に特異的に作用して、炭素五個のイソバレルアルデヒドを生成する一段階の酵素反応により引き起こされる。この麹菌のもつムレ香生成にかかわる酵素は、従来まったく知られていなかった新奇のイソアミルアルコール酸化酵素(IAAOD)と命名された新酵素である。この酵素はムレ香生成にかかわるイソアミルアルコールのみ特異的に反応し、ノルマルアミルアルコールや、ノルマルヘキサノール、イソヘキサノールにはほとんど作用せず、その他のアルコール類にはまったく作用しない特色を持つ。(「麹」 一島英治) 


竹鶴氏
竹鶴氏は故あってサントリーを退社、北海道余市市にスコットランドと同じ気候風土のあることを知り、ここで黙々と研究、研鑽をつみ、ニッカウヰスキーを完成させたのである。この竹鶴氏は、広島県竹原の小さな造り酒屋に生まれた方である。インタビューした時、氏は、「ウイスキーは、食前、食後のお酒です。私自身、刺身を食べ、湯豆腐をつつくときは、極く上等の日本酒を、チビチビやりながら食事をとります。食事が終われば、就寝までは、もちろんウイスキーのストレートですね」私は嬉しかった。竹鶴氏は英国で青春時代をすごし、奥さまも英国人であったのだから、すべてが英国風であろうと想像していたのだが、「イヤー骨の髄まで日本人ですよ、私は。やはり日本人は、すべて日本人らしく生活するのが一番…」-奥さまも…。「もう死んでいるから白状しますが、長い歴史をもつ民族の風俗や習慣や嗜好、食生活の違いは、男女の愛情では解決できませんな」と、しみじみもらして下さった。(「酒と旅と人生と」 佐々木久子) 


【な】生酔の粕食らい
「生酔い」のナマは「生煮え」とか「生ぬるい」というように中途半端なことだから、生酔いは、本来は「あまり深くは酔っていない状態」を言うのですが、転じて泥酔のことも言う、と辞書にはあります。このことわざでは泥酔の意味で使われています。べろんべろんに酔っ払っているのに、酒粕を見たら、反射的に手が出る、という酒飲みの意地汚い性格を笑ったものです。(「食べる日本語」 塩田丸男) 


酒品
ぼくの酒は御年十八歳のみぎり、小林秀雄から教わったものである、河上徹太郎、今日出海なぞが仲間だったが(もっともぼくよりは六、七年先輩、昭和三、四年頃の話である)まだ酒飲みじゃなかった。河上は全然飲まず、今ちゃんはお猪口一杯で真赤になる方で、みんな酒の勢いでわあわあやってる席では、まったく気の毒だった。当時はみんな若く、酒を飲めない奴は人間でないようにいわれていたから、御両人は奮起して、それから修行したわけである。いまはぼくなんかより、ずっと強い。小林がその頃のガキ大将で、いつまでも大きな声を出してるのは、小林にきまっていたものだが、この頃は胃潰瘍も手伝って、丹羽文雄に酒品をほめられるところまで、出世している。「三十や四十ごろからはじめた酒のみは、だらしがねえ、おれのように十代からのみはじめた者には、三十を越せば、自ずと酒品というものを備えて来るものだよ」と小林は答えたそうだが、小林にほんとうに酒品が備ったかどうかは別問題として、「三十や四十からの酒のみは、だらしねえ」という言葉の、証拠品みたいになって存在しているのが、河上徹太郎と今日出海である。(「酒品」 大岡昇平) 


一つ聞し召せ
一つ聞(きこ)し召せたぶたぶと、殊(こと)にお酌は忍び妻忍び妻、れんぽれゝれつのれいしよじやう(霊昭女か)に添はば、れつのれ(「松の葉」 藤田徳太郎校註) 


荒れ肌
日本酒(清酒)を多く飲むといわれる力士や酒造りの杜氏の肌は綺麗であるといい伝えられている。肌にたいする清酒の効果を調べるために、毛の無いマウスに清酒を経口投与して調べた。市販清酒の減圧濃縮物を七日間自由に摂取された後、中波長の紫外線を一回照射し、荒れ肌を誘発させ、のち三日および四日に荒れ肌の指標である経皮水分蒸散量変動率をはかった。その結果、清酒濃縮物の代わりに、エチール-アルファ(α)-D-グルコシド、グルセロール、有機酸を配合した試料についても同様な荒れ肌の誘発抑制の顕著な効果がみられた。この荒れ肌の誘発抑制の効果は、清酒に特異的に見られる効果であることもわかった。(17)広常正人『日本醸造協会雑誌』第九九巻、八三六-八四一(二○○四))(「麹」 一島英治)


慶長四年の主な献立
また餅を肴に酒を飲むのは中世の流行であったか、あるいは人々がびんぼうであったためかとは篠田統氏の疑問であるが、たしかに酒の肴は餅、田楽、山芋、岩茸、松茸の吸物、干飯、焼松茸などで占められている。慶長四年の主な献立をみてみよう。
(一)二月五日喜多院四季講の食事 「中飯御汁コマコマ、菜中ニタウフ・コハウ コフ・ナツトウ、二ノ膳カンヘウ サシミ、引物ハス、中段スヰセン・山芋、後段ハウ飯赤ヤキ大根・コンニヤク、引汁タウフ」餝飯が供されている。閏三、四月には筍(たけのこ)汁、韮汁、麦飯など季節の料理を食べた。また軽食の小付けの内容は田楽、チサ増水などが多い。 
(二)五月四日 「鈴一双給候、本膳モミウリ、タウフ、カサ子コフ、二サシミコンニヤク、コハフ ヰワタケ、ワラヒ、小汁・煎慈仙・山芋・サウメン、吸物ナスヒ、コリコリ」初夏の食事らしく素麺。端午の節句前に粽は来、梅干漬込用の塩を用意し、白瓜、枇杷、木瓜などの果物がやりとりされた。
(三)六月二八日 最福院での夕食 「汁・茄子丸 麩・ササケ盆カサウ若根・ヰワタケ シヰタケ・ユカワコハウ引酒、菓子瓜、後スイトン・ウハ、茄子ノスシ、大酒」このあと記者は茶の湯の座敷を見学してその立派さに驚いている。六月に多い食事は切麦、茄子、ささげなど、また新茶を曳き、梅干、瓜漬をつくったり、ソバの種子を撒いたり、寺院では食品加工に忙しい時期である。(「日本の食と酒」 吉田元) 奈良興福寺多門院の日記だそうです。 


焼酎2升と
ぼくの仕事は相変わらず殺人的で、アシスタントをかかえて所帯そのものがふくれあがっていた。本拠をかあちゃんが亡くなる少し前から新宿区中落合に移した。近くにマンションを5つ借り、1室には四六時中、各社の編集者が朝からたむろしていた。そして深夜になれば彼らを引き連れ、新宿へ飲みに繰り出した。新宿で飲むのは編集者とばかりではなかった。新宿2丁目のひとみ寿司の奥の6畳間で毎晩、異色のメンバーたちと会い、飲みながら映画、テレビ、ステージなどの企画を練り上げた。唐十郎、大島渚、佐藤慶、李麗仙、山下洋輔、篠山紀信、野坂昭如…、数えたら切りがない。6畳の真ん中に焼酎2升とポットに入れた熱いほうじ茶、氷水にさらした四つ割りのキャベツ、あとは塩、こしょう、化学調味料しか置かない。それでも月によっては、寿司屋から送ってくる請求が200万円をオーバーしたこともあって、事務所の経理から文句を言われたほどである。(「これでいいのだ 赤塚不二夫自叙伝」 赤塚不二夫) 


ワカツルやヒノデ
四十匹以上のニホンザルのいる上野公園。同園では、このサル全部に名前をつけています。その命名方法ですが、原則は母親の名前から一字を流用すること。たとえば、モワが生んだ子ザルをモヒチと命名するという具合。また、その年によって方針を統一することもあります。ある年はすべてを菓子の名前で統一するとか…。昭和五十二年生まれのワタガシの従兄弟にバウムクーヘンやコンペイトウなどがいます。その前年は酒のシリーズでワカツルやヒノデ。ほかに虫、魚、鳥などいろいろ。ナマズとかヒグラシとかヒバリという名のサルが上野のお山にいるというわけ。こんな不思議な命名法、ひとえに個体識別と飼育観察を容易にするためのものです。なにしろサルは大家族ですから。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


西村
もう一軒、ぼくの特に好きな煮込みの店が月島にある。ここはいかにも下町的な、鉢植えなどが多い路地の中にあり、看板のもなければ、たぶん店の屋号もない(「西村」というらしい)。非常に営業時間が短く、夕方のほんのいっときしかやらない。この店は客が店で酒を飲むことも、飲んでから来ることも歓迎しないと貼り紙に書きだしてあり、酒を売らない。飲みたい連中はあらかじめ酒屋でワンカップなどを買って行き、煮込みを食べながら、おばちゃんがちょっと横など向いたすきにさっと酒を飲む。それが面倒な人は、先に飲んで行くか、がまんしてお茶で煮込みを食べることになる。 (「銀座の酒場 銀座の飲り方」 森下賢一) 


田家春望  高適
出門何所見
春色満平蕪
可歎無知己
高陽一酒徒

ウチヲデテミリヤアテドモナイガ
正月キブンガドコニモミエタ
トコロガ会ヒタイヒトモナク
アサガヤアタリデ大ザケノンダ (「文士の風貌」 井伏鱒二) 


草野心平の日記
宿酔の日は後悔もしばしばで、「古稀を過ぎても私は依然学生飲みである。」(「一年三百日」)と自嘲している。日記を読むとそのようすが一目瞭然、なかなか可笑しい。たとえば一九六五年の二月はこんなふう。
二月二日(火) 宿酔。こう度々の宿酔はたまらない。以後必ず気をつけよう。(後略)
二月四日(木) ゆうべは注意したので宿酔なし。(後略)
二月六日(土) ゆうべは可成り飲んだが、宿酔を警戒しながらの気持ちがひびいいか、二日酔気分なし。(後略)
そして二十四日から四日間続けて、日記の一行目は「宿酔」。ふだんは風呂に入ったり粥で胃を休めたりしながら遣りすごすのだが、もとのもくあみ。
三月六日(土) 宿酔。どうもいかん。飲み出すとトコトンまでいきたがるこの癖。(中略)今日は一日愚劣なる日なり。
六十二歳にしてこうなのだから、なんだかうれしくなってしまう。(「口福無限 草野心平」の解説 平松洋子)  


骨肉の口を閉ざして火は紫
母は要りませぬ橋から唾を吐く
母親を捨ててあふれるコップ酒
これらは忘れよう捨てようとして捨てきれない、骨肉執着の裏返しであろう。<月の川とぼとぼ歩き親不孝><姉妹で母をそしり海が見え><世を憎む櫛の歯こぼれ玻璃(はり)の雨>そしり憎み、うとみながら母恋の血は奔騰する。これもまた母と娘の、太古から連綿とつづいた情愛のたたずまいである。(「川柳でんでん太鼓」 田辺聖子) 


下男(作男)の日
いまは下男はありませんから、作男と解すればよいと思います。農家では旧暦二月一日を下男の日といいます。秋のとり入れが終わると、長い間作男は休みに入りますが、二月になれば、そろそろ農作業の準備にとりかからねばなりません。そこで主人は二月一日、酒食を用意して作男を慰めます。作男は農楽を鳴らし歌と踊りで一日を楽しみます。その年二〇歳になる作男は二月一日、大人たちに酒食をおごります。二〇歳前には子ども扱いを受け、大人たちと対等なつき合いができません。二〇歳になって大人に酒食をおごった後から、成人として扱われ、大人たちと野良仕事などを互いにかわり合って助けあうこともできるようになります。地方によっては、年が多くても二月一日の下男の日に大人たちに酒食をおごらなければ、いつまでも成人として扱わないところもあります。(「韓国歳時記」 金渙) 

幾こん
一【後段の事】客のもてなしに、飯の後に麺類にても何にても出すを、今の世に後段(ごだん)と云う。いにしえはなき詞なり。飯の後にも、又は前にも、いか程も食物を出してもてなすを「幾こん」と云うなり。これ古の詞なり。たとえば、五こんめに飯を出したらばその次に出す物をば六こんと云い、又その次に出すをば七こんと云う。何ぞ一品出しては必ず盃出し銚子出す故、幾献と云うなり。いく度もかくの如くなり。こん数は亭主の心得次第なり。後段という名目はなき事なり。(「貞丈雑記」 伊勢貞丈) 


学校でワイン
日本の小学校では、いまの給食の飲み物はミルクと相場が決まっているが、私たちが小学生だった戦争中にはお茶さえありつけず、お湯を弁当箱の蓋に注いではチュウチュウと吸ったものである。ところが、そのずっと以前から、食事どきにはぶどう酒をのませていた小・中学校が東京にあった。このフランス系のミッションスクールで学んで、いま名をなしている芸術家も少なくないが、ここに学んだ一人に、いまは亡き藤原義江さんがおられる。藤原さんは大分県の片田舎から転校してきて、この暁星小学校で寄宿舎生活をはじめたものの、一ヶ月たってもまだワインが飲めなかった。そのあげく、ようやくこれを口にしたとき「藤原くんがヴァンを飲んだぞ」と食堂の中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになったという。これで仲間だという意識が、学級(クラス)になかに根づいたのであろう。長じては、ワインのない食事など考えられないといわれた"われらのテナー"藤原義江さんのノドは、こうして十一歳のときから、磨かれていた。(「洋酒こぼれ話」 藤本義一) 


屠蘇一盞
陽気東方に動いて万物始めて生る、という意義ある年の始。寔(まこと)に私ども国民は有史以来の非常時局に直面せる厳粛荘重なる皇紀二千六百二年の履端をこゝに迎へたのである。旧臘の八日、私は蝦夷の旅を終へて大阪に帰る車中、富山に於て思ひがけもなく米英に対する開戦の報を聞き、感激と緊張とに胸をとどろかせ、制しても制しきれない興奮を抱いてその夜大阪駅に下り立つた事でした。真珠湾の奇襲につゞくマライ沖に於ける英艦プリンス・オブ・ウエールズ号撃沈の快報、大御稜威の雷(いかづち)なして轟く処、連戦連勝、私ども銃後国民の意気は大捷の報を手にする毎に昂揚してゆくのでした。そして大戦の大詔を拝して二十五日目、輝かしい皇軍の戦果を称えながらこの未曾有の意義ある歳旦を迎えへたのである。聖寿万歳を寿ぎ奉り、皇軍の武運長久を祈り、護国の英霊に感謝の誠を捧げて、勝ち抜く迄撃滅せずんば止まぬ気概に燃えながら、つゝましやかなる雑煮膳に向ひ、年首を祝(ことほ)ひで屠蘇の盃を挙げた事でした。年去り年来る毎に鬼気を屠絶せしめ、魂気を蘇生せしめんとして祝ひ来たつた屠蘇一盞ながら、今年の屠蘇こそ寔に英米の鬼気を撃滅し、大東亜諸民族を蘇生せしめるものと思へば、心気自(おのずか)ら広裕。彼の自徳が、 屠蘇酒や日本一の酔心 と諷つた気持にもなる。(「たべもの歳時記」 四方山徑) 昭和18年の出版です。こんな屠蘇酒の時代もあったのですね。 


一月三十日(東京)
昨夕、三宮男爵のもとで盛大な夜会。自分が招待されたのは、苦情をいったお蔭である。あれには驚いたようだったが、自分の言い分が正しかったことを認めたらしい。先夜、皇太后御所で、自分のために日本式の晩餐が設けられた。女官たちは酒をすすめた。明らかに、少しばかり自分を酔わせるつもりだったらしい。だがその当(あて)ははずれたのである-自分はしたたかいける口だから。(「ベルツの日記」 菅沼竜太郎訳) 明治33年です。 


睡眠のせい
パーティーでさんざん大騒ぎした次の日だった。男はうめいたり、頭をふったり、ひどく不快そうだった。「昨夜、あなたはきっと飲みすぎたのよ、そうでなければそんなに気持ちが悪いはずはないわ」と妻がいった。「いや、これは飲んだからではないよ」男がいった。「なぜって、昨夜寝るときにはすごく好い気持ちだったんだ、それが今朝起きるとひどく気持ちがわるいときている。だからこれは睡眠のせいなんだ」 (「ポケット・ジョーク」 植松黎 編・訳) 


十里の道をさげ帰る
十里の道をひっさげて帰るので、揺れて濁っている。なぞ、心は濁り酒。『後奈良院御撰何曽』(一五一六年)に、<十里の道をさげ帰る にごり酒>とある。(「飲食事辞典」 白石大二) 二×五里(にごり)ですね。 


阿部定
柏木 阿部定の記録というのはすごいですね。『日本の精神鑑定』という日本の犯罪者を記録した本がみすず書房から出ているんですが、それを読むと阿部定は毎日酒を飲んでいますが、どうかすると相手の男と二人で二升ちかく飲んでいる。
田中 そのころはもう薄めてないですよね。
玉村 記録なんだから、誇張もないだろうし。
柏木 本当に学術的に研究したものですからね。まず、日本酒をぽんと一升くらい飲んじゃって、そのあとビールを何本かのんじゃう。すごいんですよ。
田中 そういう人っているんですね。
細見 石原裕次郎さんは二升くらいは飲んでました。(「下戸の酒癖」 玉村豊男編) 


炬燵に当たって熱燗
雪見など二度と行くものでない、こたつに当たって熱かんで酒を飲むほうが風流である。式亭三馬(一八二二年)の『人間万事虚誕計(うそばかり)』に、<雪見などというものは、再び三宝行くもんじゃねえ。あの位無風流なことはねえぞ。やっぱり内に居て炬燵に当たって熱燗で湯豆腐が大風流だ。>とある。「再び三宝」は、「再び」を強めていう。(「飲食事辞典」 白石大二) 


フーッと吹くしぐさ
あるとき九代目が成田山に弟子を連れて参詣した。成田山では大いに歓迎して、成田山の行事を九代目に見せた。そのなかに朱塗りの大盃に酒を何升か注いで飲む儀式があって、そのときの飲み手が、飲む前に立ちのぼる酒の気をフーッと吹き払って口をつけた。そうしないと酒を飲む前に、まずアルコールの気のために酔ってしまうからである。それを見ていた九代目は、そのフーッと吹くしぐさを、この場の弁慶に取り入れたという。もしこの話が本当だとすれば、九代目以前の(といっても九代目以前に弁慶をつとめた役者は実父七代目と異母兄八代目の二人だけしかいないのだが)は、いまだれでもやるあのしぐさをしなかったのだろう。もっと粗野で、簡単な、酒の飲み方だったのかも知れない。(「芝居の食卓」 渡辺保) 


暴言
昨年一月に札幌高裁で出た判決の中に、「酒席とは言え、どんな発言も責任を免れるものではない。とりわけ部長には、酒席でも節度ある言動が求められる」と書かれたのです。この訴訟は、酒席で部長がその上司に暴言を吐き、一気に係長まで4階級降格させられた、という案件で、その処分の適法性が争われていました。その結果が、「酒席の暴言で4階級降格させても適法」という判決です。いきなり4階級は厳しいなあ。気をつけよう。呑ん兵衛には冷たいようですが、面と向かって暴言を吐くのはやはり問題ですよね。(「もっと美味しくビールが飲みたい!」 端田晶) 


水を汲む音のきこえるわかれ酒 すいな事かなすいな事かな
わかれ酒は、遊女との後朝(きぬぎぬ)に取り交す酒。早朝のこととて、あたりはまだ静まり返っている中で、朝餉(あさげ)の支度(したく)のため井戸から水を汲む音だけが聞こえてくる。味な世界である。 鼻紙で起す火鉢の別れ酒(柳九一)(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎-監修) 

おさすみ
東京人の中には、江戸言葉の名残を伝えて「おさしみ」(刺身)の「しみ」を忌み「おさすみ」と発音する人もいたが、「死身」と「済み」との関わりにあったらしい。一部の通人や落語家の川柳句には時々現れる。「おさすみを知らぬ芸者とコップ酒」気まぐれに出会ったのを幸い、堤の茶屋へ誘って、ちょっと一杯。 (「明治語録」 植原路郎) 


牛乳と焼酎
安政開国後も、本邦人の、牛乳に関する智識は、なほ幼稚を免れざりし。文久二年『横浜話』、わが寺院に仮寓する駐在各国領事をいふ条に、「腎薬には、牛の乳を朝晩呑…寺々に壱疋づゝ牛を飼はする牛の別当あり、乳を搾る役なり、乳汁を焼酎なとに入れて呑、夏はギヤマン徳利に入、井戸の中につるしおく也」と書けるを見ても知るべし。(「明治事物起原」 石井研堂) 


酒死
シェークスピアは『リチャード三世』の中で、クラレンス公を獄中で殺し屋に殺させるのに、マデラ酒の中へ漬け、水死ならぬ酒死させている。これはなかなかにシェークスピアの時代考証の思慮深さを物語っている。というのは、実在のイングランド王、リチャード三世は一四五二年に生まれ八五年に死んだが、王位に就いたのは一四八三年から八五年の足かけ三年間である。ところが一四五三年には、イングランドとフランスが百年にわたって戦った百年戦争が終わり、イングランドは大陸の領土を失ってしまった。もちろんワインの名産地ボルドー地方も失ったので、一四五三年以降はボルドーの酒があまりイングランドに入らなくなった。そこでこれに代わるワインを、イングランドとしては、スペインとポルトガルに求めた。したがってクラレンス公は、心ならずもボルドーのクラレットと異なる、ポルトガルのマデラ酒で酒死させられたのである。 (「美食に関する11章」 井上宗和) 


鴻池村新右衛門家
先にもいった如く、鴻池家は鴻池村を本家とし、当主は新右衛門と称し、醸造を営んでいたが、大坂で分家した三家があり、この4軒で酒造をしていた。善右衛門家は三代宗利の代になって酒造業を廃したが、まもなく他の二家もこれを廃し、専ら両替や大名方御用をなし、ただ鴻池村の新右衛門家のみが酒造を続けていた。五代目新右衛門が寛政六年(一七九四)に大坂町奉行の下問に答えた文書がある(『灘酒史』)。これによると、この頃まで鴻池村での醸造はあった如くであるが、この寛政・文化の頃から、その繁栄を池田・伊丹に奪われ、やがて衰滅した。その関係からであろう、早くから大坂の善右衛門家、宗家としての地位を確立していたようである。(「鴻池善右衛門」 宮本又次) 


めずらしきひかりさし添ふ盃は もちながらこそ千世もめぐらめ
という一句は、紫式部のものした秀歌であることも書きくわえておきたい。(「日本酒物語」 二戸儚秋) 


清貧譚
一日、一家三人、墨堤の桜を見に出かけた。ほどよいところに重箱をひろげ、才之助は持参の酒を飲みはじめ、三郎にもすすめた。姉(黄英)は、三郎に飲んではいけないと目で知らせたが、三郎は平気で杯を受けた。「姉さん、もう私は酒を飲んでもいいのだよ。家にお金も、たくさんたまったし、私がいなくなっても、もう姉さんたちは一生あそんで暮せるでしょう。菊を作るのにも、厭きちゃった。」と妙な事を言って、やたらに酒を飲むのである。やがて酔いつぶれて、寝ころんだ。みるみる三郎のからだは溶けて、煙となり、あとには着物と草履(ぞうり)だけが残った。才之助は驚愕して、着物を抱き上げたら、その下の土に、水々しい菊の苗が一本生えていた。はじめて陶本姉弟が、人間でないことを知った。けれども、才之助は、いまでは全く姉弟の才能と愛情に敬服していたのだから、倦厭(けんえん)の情は起こらなかった。哀(かな)しい菊の精の黄英を、いよいよ愛したのである。かの三郎の菊の苗は、わが庭へ移し植えられ、秋にいたって花を開いたが、その花は薄紅色で幽かにぽっと上気して、嗅いでみると酒の匂いがした。黄英のからだに就いては、「亦他異無し。」と原文に書かれてある。つまりいつまでもふつうの女体のままであったのである。(「清貧譚」 太宰治) 


初雪ハ降(ふり)そこないも酒に成(なり)
案外に早く降りやんで、初雪というほどには至らなかったが、まず一杯というのである。初雪は酒をのむ口実になる。口実といっては当たらぬかも知れず、これを賞するのは風流の内なのである。そして風流には酒がなくてはかなわぬのである。(「『武玉川』を楽しむ」 神田忙人) 


一升徳利十八本
[一・二六、報知]力士も昔と違つて暴酒暴食を慎む様になつたと云ふことであるが、実際を聞いて見ると余り左様でもないらしい、併(しか)し彼等の為には之でも慎んで居るのであらう。現今力士の内で好酒家と聞ゆるは鳳凰、朝汐、海山で、鳳凰は御輿を据て呑み出すと一升徳利十八本位は倒すといふこと、海山も一寸に三升位で、其先は五升も呑めば少し酔ふと云ふて居る。世間で余り知られぬは朝汐で、五六升の酒を呑んでも平気なもの、之れに続いては常陸山で、相撲にも強いが酒にも強い。一体力士といふものは役者などゝ違ひ客の座敷へ呼ばれても、何一つ芸を演て客の機嫌を取ると云ふことは知らない、「関取りにはソレでは小さいから盃洗で遣らう」と云はれても「イヤ私ア下戸でごんす」と云ふと、客の機嫌を害ふ計りでなく、負けることが嫌ひの力士には無理でも呑まうと云ふ気になつてガブガブ遣るから、下戸といつても丸で呑めぬものではない。ソコで小錦でも梅ヶ谷でも、又逆鉾でも、谷ノ音でも、下戸と云うて居るが三升位は呑むさうだ。其の内で梅ノ谷と逆鉾は先づ嫌ひな方で、真の下戸と云ふは源氏山だ、併し之れとても盃をさゝれると素人の上戸は叶はぬ。二段目の好酒家では、野州山で、同人は前途有望の相撲ではあるが贔屓客は心配して居る。又元の力士には好酒家揃ひで、現に年寄株になつている武蔵川(剣山)、井筒(西の海)、柏戸(伊勢の海)など、計り切れぬ程の酒量で、本人は一升位は呑めましやうと云ふて居る。(「新聞集成明治編年史 第十一巻 北清事変期 明治三十三年-同三十五年」) 明治33年です。 


東南アジアの屋台
さて、いよいよ夜になる。冷たいビールの時間である。しかし出鼻をくじくようで申し訳ないが、東南アジアの屋台は、酒に対する関心がきわめて薄い。基本的に屋台は食事を出すところ、という認識が夜になっても生きているのである。そのあたりが、韓国や中国と違う屋台観である。しかし心配ご無用。東南アジアの屋台でもしっかり酒は飲めるのである。さらに嬉しいことに、酒に対するチャージはほとんどない。儲けるのは食事であって、酒からではないのだ。だから屋台で飲むビール代は酒屋で買ってくる料金とほとんど変わらない。ウイスキーや焼酎系の酒も同様である。その屋台がないときは、店員が酒屋へ行って買ってきてくれる。もちろん、自分で買って持ち込んでもいい。実に合理的なシステムが東南アジアの屋台にはできあがっているのである。(「アジア漂流紀行」 下川裕治) 平成9年の出版です。 


酒徳
現在、伊勢市内の、とくに黒瀬町には酒徳(さかとく)という名字が多い。電話帳で調べるとざっと百軒はある。これは清酒作物忌と酒作物忌から出た家柄である。中世になるとこの物忌は絶えて酒作内人(うちんど)となり、建久の『年中行事』では酒造内人と記され、近世では清酒作内人がそれぞれ六人ずつ、六位の権禰宜のなかから補任されていた。このサカツクリが、サカトクとなり酒徳の名字になったのである。(「伊勢神宮の衣食住」 矢野憲一) 


飲酒マナー
韓国には、日本にない独特な飲酒マナーがあります。それは目上の人の前では、がぶ飲みをせずに謙虚な態度で酒を飲むということです。すなわち、面と向かって飲むのではなく横を向いて、遠慮しながら飲む風習です。それは目上の人の前で酒を過度に飲んで、失礼するようなことがないようにという儒教的な考え方からきたエチケットです。(「韓国歳時記」 金渙) 


本朝の酒
唐土(もろこし)の米は、日本の米より性悪(あし)しとみゆ。されど五畿内又は肥後米の如く成(なる)もの、所によりて有(あり)といへり。今適(たまたま)唐船より、糧米(かてごめ)に持来るは、皆福州広東の米にて、皆野稲(のいね)たうぼしなり。東京(とんきん)、交趾(かうち)、柬埔塞(かんぼちや)、占城(ちやんぱん)、台湾、暹羅(しゃむらう)、咬𠺕吧(じゃがたら)等の米、皆たうぼしなり。これらの国々、いづれも野稲などを蒔ちらしをきても、暖国は一年に二度、あるひは三度づゝも田作るゆへ、人間の食事には余りて、米多きゆへ、一升五六銭、百斤にて二三匁より高きことなし。大河のほとりにて、水車に臼をつかせて、人の労なし。此ゆへに売買の米、皆上白のしらげ米(精白米)なり。但(ただし)此米にて、本朝(日本)造りのやうなる酒にはならぬゆへ、みな醪(もろみ)煎じの焼酎なり。今唐土天竺の酒といふは焼酎也。本朝のごとく造るもありと見えて、たまたま唐船より持来りしもあれど、隔別(かくべつ)風味悪し。本朝の酒、世界第一なりと、紅毛(おらんだ)人も褒(ほむ)る事也。葡萄酒、美味なりといへども、常に多く飲ときは、飽(あき)いとふ事あり。本朝の酒は、一生の間飽悪(にく)める事なく、事にかへて止る事なし。神代には皆醴酒(あまざけ)なり。唐土も上代は醴酒なりしとかや。末代世文華(ぶんくわ)に成て、漸く今の酒とはなれり。況近世の造酒、夥(おびただし)く米穀を費し、米の価いやましに高く成て、天下の驕者、唐土に勝れりといへども、酒のまぬ人もなく、これを止(やめ)んと欲すれどもあたわず、時運のしからしむる風俗、我も人もせんすべもなし。されども其中にをのれだに心あらば、我家の内をば、こゝろのごとくおさめ得ざらんや。(「町人囊」 西川如見) 


耳熱す
【意味】酒に酔うこと。【出典】酒酣耳熱忘二頭白一 (「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


酒好きにとって、酒というものは、どのひと口もうまいにちがいないが、わけてもうまくなるのは、ちと過ぎる頃からだ。
<出典>現代、堀口大学(一八九二-一九八一)「酒」。田村隆一編「日本の名随筆」『酒』<解説>-堀口大学は、外では洋酒、家での晩酌は日本酒だった。「最後には苦しくなるそうだが、僕はまだそこまで飲んだ事がない。とにかく、過ぎる頃から一段とうまく、楽しくなって来るのは否みがたい事実のようだ」と書いている。節度を守れる飲酒家には酒の長所が生き、節度のない飲酒家をたちまち酔漢に変えてしまうのは酒の大きな短所とも書く。堀口大学は、慶応大学予科文学科中退、新詩社に入り佐藤春夫を知った。海外生活が長く、都会派ダンディーな詩人。九〇歳の長寿は節度ある酒飲みであってこそだろう。(三浦隆夫) (「食の名言辞典」 平野・田中・服部・森谷 編) 


一度酒をのんだら
一度茶碗を愛したら、その茶碗は自分にとける。一度梅原を見たら、梅原が自分の中にとける。一度は人を見たら人が自分の中にとける。一度牛乳を飲んだら、一度肉を喰つたら、一度酒をのんだら-自分の血の中にそれらがとけるやうに、精神も受けたゞけのものは自分の血肉の中にとける。(「いまなぜ青山二郎なのか」 青山二郎の日記 白洲正子) 


米バラ麹
しかし日本人がなぜ、餅麹による酒づくりを導入したにもかかわらず習熟せず、米バラ麹による酒づくりに入ったのであろうか。その原因を追及するために、第5章では、芽米を用いて実際に酒をつくり、芽米によって酒づくりが可能であることを示し、かつ芽米による醴酒づくりからカビ汚染芽米、ついでカビ汚染蒸米、すなわち、米バラ麹を用いた酒づくりへと変化していった可能性を示した。ここでは、米餅麹を実際につくり、米餅麹による酒づくりを行なった。また、前述のインドネシアのくものすカビと黄麹菌での醸造結果の比較からわかるように、米餅麹の場合には、くものカビを使えば、品質のよいカビ酒ができることがわかる。しかしながら、わが国には米餅麹づくりに適した微生物が少ない。そのため、良質の米餅麹づくりがむずかしく、むしろ、米バラ麹づくりに適した麹菌が日本には多い。このような理由から、米バラ麹によるカビ酒が日本に定着したのであろう。(「日本酒の起源」 上田誠之助) 


解放感
私はいま、いわばおのれの赤恥をさらしているようなものだが、この酒地獄のなかで、やがて私はまるで地獄で仏に出会ったように、ほのかな光を、無数の釘を打ち込まれるようにして痛む頭の周辺に認めるようになるのだ。それはやがて解放感となって二日酔いに縛り付けられた私の不自由な軀の状況を越えてひろがりはじめる。それは満潮のようにひたひたとわが胸をみたし、いや、私の寝そべっている部屋を、空気を、窓の外の空間を、私の周りの世界を満たしはじめて、私の心はそのなかにただよい、私の胸から外界との境界が取り払われる。つまり私は周りに満ちあふれている解放感と一体となるのだ。私の心は大きく翼をひろげて深呼吸をし、その自由な空気を吸いこむ。いったい、そのわが魂をみたすもの、解放感とは何か。私はそこに一種の記憶の喪失を見るのである。私のなかに、前夜のある時点からまるでフイルムが途切れたように記憶の中断、いや完全な空白ができる。ちゃんとクルマにも乗り、車代を払い、家まで辿り着いていながら、それらの、その前後の記憶を喪失してしまっているのだ。といって何か持物を忘れたというわけではない。車のなかで眠っているわけでもない。おそらく酔っ払っているときは、それなりに何とか正体を保っているのだろう。しかし翌日、すべては空白だ。一方に記憶喪失の恐ろしさを感じながらも、しかし睡眠時間以外に延々とつづく意識の生活のなかの一コマを忘れてしまった空白ができることはすばらしいことではないか。われわれはときには記憶から解放される必要がある、と私は思うわけだ。これが二日酔い地獄の酒が私に贈ってくれる功徳の一つで、私にとって無上の解放感なのである。(「わが「酒徳」なるもの」 金石範) 


酒に身をゆだねる
運転をはじめる前の飲み方には、多分に試行錯誤的なところああった。酒が酔うための単なる手段になってしまったり、逆に、酔いが酒の単なる結果になったりして、両方がうまく一致してくれることは、かえってまれだった。酒にさまざまな種類や味があるように、酔い方にもじつに多くの型がありこれを思いどおりに一致させるのは、想像以上に困難なことなのである。ところが、運転をするようになってから、むしろ酒がぴったりと身についてくれるようになった。飲み方が計画的になったせいかもしれない。飲むためには、家を出るときからそのつもりで、車を置いて出なければならないから、仕事や健康の都合で、自制したいと思っていながら、ついずるずると深酒してしまったなどということは、まずありえない。すくなくも飲んでいるあいだは、心おきなく、酒に身をゆだねていられるというわけだ。おかげでますます、酒が好きになり、こういう飲み方にはどうやら日本酒が一番むいているらしく最近はもっぱら日本酒ばかりをたしなんでいるような次第である。(「矛盾を飲む」 安部公房) 


福岡県の酒
福岡県は七○年代の自由生産になるまで、清酒の生産高が全国三位であった。いまでは福岡も焼酎県となって見る影もないが、これは清酒の大陸進出の名残であった。かつての博多は、大陸浪人と馬賊芸者の紅灯の巷であり、博多で飲まれた酒はそのまま大陸に「雄飛」していったのだった。戦後余命をつないできたのは、原料と生産の統制によって桶売りができたからである。桶の売買が買い手市場になれば、市場を失ったままの福岡県の酒は衰頽せざるを得ない。(「酒と日本人」 井出敏博) 平成18年度では19位のようです。 


江戸入津量
元禄のいわば江戸の黄金時代、酒の入ってくる量も夥しく増加した。江戸に入る酒の数量はよく判明しないが、普通にいわれている享保頃年間二十万樽前後という数より、遙かに多かったらしく、既に元禄十年には一樽三斗六升入りで六十四万樽、十一年五十八万樽というように好況を反映してどんどん入っていた。しかし江戸の酒問屋は元禄を頂点として次第に減少し、正徳五年には百五人、元文二年(一七三七)には七十四人にへっているから、享保頃一時酒の入津高も減少したのかもしれない。(「江戸風物詩」 川崎房五郎) 100万樽を越えたという説もあるようです。 


エリザベス・ヘリオット
イギリスではプレストンの酒場の娘エリザベス・ヘリオット(一八二三-六五)は、歴史上最も重要な役割を果たした酒場の女といわれる。彼女は貧しい一冒険家をフランス皇帝に仕立てた。一八四六年、エリザベスがロンドンの酒場で女給をしていたとき、フランスの牢獄を脱獄してきたばかりのひとりのほら吹き男に出会った。この男は自分はフランスの皇位に即く権利をもつ者だといい、エリザベスはこの男のことばを信用して、二年間におよそ六万五千ドル(二三四○万円)の金をみついだ。そして大統領の任期が終わりかけたとき、クーデターをおこし、ナポレオン三世として皇位を継いだ。酒場の女給のエリザベスは姓をホワードと変え、皇后になるのを待ち望んでいた。しかし、ナポレオン三世にはほかに胸算用があった。彼はスペインの貴族の娘ウージェニーを妃に迎えた。だが、むかしの恩人を忘れることはせず、エリザベスにはボールガード伯婦人の称号を与え、貢いでもらった資金に多分の利息をつけ、一一○万ドル(三億九六○○万円)にして返した。皇妃にはなりそこねたが、それでも貴婦人となり、大金持ちとなった女給エリザベスは、その後一三年間存命して一八六五年の世を去った。(「奇談 千夜一夜」 庄司浅水 編著) 


尾藤二洲
尾藤二洲は、伊予川上の船頭の子で、しかも生来の跛足であった。中年から学に志し、それもはじめは古学にまごつき、遅蒔きに徂徠の説を疑い出して、鳩巣に転じ、ついに三博士の一人となった。二洲の転宗には、頼春水があずかって力がある。程朱の書を手に入れて、はじめて二洲にすすめたのは春水であった。そのほかには、中井竹山、同履軒の兄弟と親しかった。彼はのちに『駿台雑話』を読んで、手の舞い足の踏むところを知らぬほど喜んだ。昌平黌教官に任じられ、柴野栗山、岡田寒泉と相並んで、当時朱子学の中堅と目せられた。性極めて恬淡、読んでいるか、飲んでいるかすれば、別に望みはなかった。
白髪書生技倆なし。満窓の紅日、酔うて泥のごとし
とある古句を見るや、案を打って、「これこれ、これはわしの写真じゃ」とすこぶる御意に召した。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲)柴野栗山、古賀精里とともに、寛政三博士といわれた、江戸中期の朱子学者だそうです。 


禁酒法施行の夜 喪服を着た給仕もいた
一九二〇年一月十六日の夜、アメリカ全土の酒場は、午前零時から施行される禁酒法のために、最後の一杯を楽しむ人びとで、あふれかえっていました。なかでも圧巻は、酒飲みの集まるニューヨーク市。山の手のレストラン「マキシム」は、給仕たちすべて喪服を着て悲しみを表しているなかで、人びとは酒に別れを惜しみましたし、別の高級レストラン「ライゼンウェーバー」では、告別大舞踏会が繰り広げられるほどでした。その間、大多数の人びとはアングラバーに通い、アル・カポネに代表されるギャングの勢力拡大の手助けをせっせとしていました。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


鹿島清兵衛
豪商新川酒問屋の養子鹿島清兵衛は一大放蕩児でもあった。とうとう落剥して、かつての寵妓ぽんたによって養われる身となったが、清兵衛は、このけなげな妻を評して、「自分は事業には失敗したが、妻を育てあげるのには成功した」と語ったという。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 御酒頂戴(2)  


城で酒造
仙台市青葉区の仙台城内で藩政期に酒を造っていた「造酒屋敷」の場所を特定する木簡などの遺物を発見したと、同市教委が10日発表した。造酒屋敷は古文書で存在は知られていたが、具体的な位置などは分かっていなかった。市教委によると、城内に造酒屋敷を持つ例は極めて珍しいという。発表によると、7~11月、城の一番外側の門付近を発掘したところ、井戸跡から藩お抱えの造り酒屋「榧森与左衛門(かやもりよざえもん)」の名前や酒量などを記した木簡3点を発見した。榧森家は1608年、初代藩主・伊達政宗が酒造技術を導入するため、大和国(奈良県)から招いた全国有数の造り酒屋で、与左衛門は6代目の当主にあたる。このほか井戸跡からは、仙台近郊の農民が藩に納めた年貢米の数量などを記した木簡やたるの破片も見つかった。これらから18世紀前半には井戸跡周辺に造酒屋敷があり、榧森家が藩から支給された米で酒を造り、藩に納めていた様子がうかがえるという。東北大学の平川新教授(江戸時代史)は「城が青葉山のふもとにあるため酒造りに必要な奇麗な水が得られたのだろう」と話している。(読売新聞 2009.12.11) 


名徳利記
つくねんと静かなる時泥塑(でいそ)人のごとしとは、賢徳の姿をほめて、此物(徳利)にはあらざれども、したしめば一団の和気あたゝかに、雪の夜あらし(嵐)も身にしまざるは、これがためのたとへにもいふべかりける。まして備前の名産にして六升ばかりを入るゝときけば、たとへ八仙の客にはとぼしくとも、虎渓の禁足(虎渓三笑のこと)は忘るゝにたりぬべし。なほ此物の徳をおもふに、斗樽は座敷の場をとれば、これがたぐひにはいふべからず。あるはちろりといひ間(燗)鍋といひ、前後左右のむつかしみあるて、弦によそほひ袴をかけて、実は心のとけざるかたもあるべきに、たゞ此物の口をそらざまになして、なみ居る人の中に出ても、いずれに向ふともなく、たれにそむくともなき姿をもそふるなるべし。-
月に雪に花に徳利の四方面
(「鶉衣」 横井也有 石田元季校訂) 


有吉さん
社会問題を扱った「恍惚の人」や「複合汚染」は大きな話題となりましたし、「香華」「出雲の阿国」「和宮様御留」などは何度も舞台にかけられ、有吉さん自身が劇化、演出も手がけました。口八丁、手八丁の有吉さんはお酒も滅法強くて、ビールはあまり飲みませんでしたが、日本酒とブランデーは桁はずれに強く女流作家としては大関、横綱クラスでした。私が最も驚いたのは、あの頃、とても高価でよほどの人しか口にできなかったブランデーを一晩に二瓶もあけて、大枚、十万円をポンと支払われたのを見た時です。有吉さんは、味に対しもうるさい方でした。どんな方面にも、ありあまる豊かな才能をみせておられた有吉さんも、結婚に失敗されてからは、悶々とされ「夜眠れない」とこぼしておられました。一度御自宅に泊まり、隣で私がグウグウ寝るのに立腹され「どうして、そんなに眠れるのか」と叱られたことがあります。お母様が心配され、医師と相談、少量の睡眠薬を常用されるようになったのですが、薬だけではきかず、ブランデーを一緒に飲まれると聞いて「それは危い、止めて…」と申し上げたのですが、やがて、それが命とりになってしまいました。昭和五十九年八月三十日、五十三歳という若さで死去されたのです。(「今宵も美酒を」 佐々木久子) 


酒を持って来い
この探訪記者が持って来た報告が真実であったということは、島村さんが亡くなった後、その頃島村家の書生であった作曲家中山晋平が「中央公論」に書いた文章が裏書きしている。相馬御風の作詩、中山晋平作曲の「カチューシャ」の歌は一世を風靡したが、その「カチューシャ」を作曲した頃の中山晋平は、島村家に寄寓していたわけである。その中山晋平の文章によると、戸山の原の(松井須磨子との)逢引きを細君に見つかって家に戻って来た島村さんは、二階の座敷に子供のように仰向けに引っくり返って、両足でばたばた畳を蹴りながら、いつもは一滴の酒も飲めないのに、中山に向って「酒を持って来い」と叫んだそうである。そして中山が台所からコップに酒を注いで持って行くと、「今にして岩野泡鳴のえらさを知る」と云ったそうである。私はそこを読んだ時、何か泣き笑いのようなもので胸がうずいた。「今にして岩野泡鳴のえらさを知る」は何という気の毒な悲鳴であろう。刹那主義を主張し、刹那の生活の充実を主張した泡鳴は、女と同棲し、その女と別れ、次ぎの女と同棲し、それと又別れて次ぎの女と同棲しながら、頭からてこでも動かない自己是認を宣言している。(「年月のあしおと」 広津和郎) 島村抱月  


復活感
私は常々、酒を呑めない人間は人生の楽しみを十分に味わっていない、と哀れんでいるのだが、酒を呑めない人間は二日酔いの苦しみも知らないのだから、人生の真実も把握できないだろうと更に哀れんでしまう。二日酔いの苦しみも知らずに
人生を語らないでほしい。と酒飲みは下戸諸君に申し入れたいのである。それほど二日酔いはつらい。しかし、二日酔いが回復していく時の復活感といってよいのだろうか、あの感じはたまらなく愉悦的である。夜が明けて朝日に体が包まれていく時の心弾む感じ、雪がとけてその下から草の芽が吹き出しているのを見つけた時の心浮き立つ感じ、そんなものにたとえたらよいだろうか。身も心もよみがえって行く喜びが湧いてくる。(「美味しんぼ主義」 雁屋哲)



二日酔けふ三日の原あかずなお 酒手にやらん衣かせ山
(三日の原は京都府相楽郡加茂町の瓶原(みかのはら)で、三日目の腹にもじったもの。かせ山は同郡木津町にある鹿背山で歌枕にもなっているが貸せにひっかけたもので、裃(かせ)-衣-にもひっかけている。歌意は沢山飲んで二日酔いなのに、三日目の腹も酒が欲しい。しかし酒代が無い。そこで着物を売って酒代にしたいので、その着物をこっちへ貸しなさい。というもので元歌は『古今集』巻九の「都出でて今日みかの原いづみ川 川風寒し衣かせ山-詠み人しらず」である)(「日本酒のフォークロア」 川口謙二) 


酒と喧嘩
力道山が大相撲の関脇だったことはよく知られ、一般的にはプロレスラーの前は力士だったと思われています。しかし相撲をやめた後、タニマチだった新田新作氏に誘われ、新田建設に誘われ、新田建設でサラリーマンをしています。肩書きは資材部長でしたが、実際の仕事は工事場の現場監督だったようです。まる一年、新田社長が感心するほど仕事に打ち込み、力道山こと百田光浩部長も「日本一の土方」を自称するほどだったといいます。この力道山がプロレスラーになったきっかけは、銀座のナイトクラブで飲んでいたときに、ロンドンオリンピックの銀メダリストで、当時すでに一流のプロレスラーだったハロルド坂田と一騒動を起こしたことから。後に、彼に誘われてレスラーになったというわけです。力道山は酒と喧嘩が「大好物」っだったといいますから、プロレスは転職だったのでしょう。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


新邸落成の祝宴
この藩政改革に引き続いて藩知事公新邸が出来た。これまで代々の藩主は三の丸に住まわれて、或る点においては公私混合という風であったが、朝廷からの命令で、藩主の暮らし向きは、藩の収入の十分の一を下附せらるるという事になり、その暮らし向きの変更からも別に居宅を構えらるるの必要が生じて、即ち知事の官宅という姿でかような新邸が出来たのである。この新邸落成の祝宴には参事一同をも招き酒宴が開かれたが、以前は家老でさえも膝行(しっこう)して盃を賜るという風であったのを、そんな虚礼はやめねばならぬといって知事公と同席で盃の献酬などもして、酔いが回ると雑談もするので、君公に近侍の家職の人達などは、いささか眉を顰(ひそ)めたが私などは反対に随分平民主義の態度を執ったのが今から思えば可笑しい。(「鳴雪自叙伝」 内藤鳴雪) 明治維新時の逸話だそうです。 


田舎
大酒を飲む者はいるが、私は酔っぱらいはほとんど見たことがない。都会に比べて田舎では、飲酒に対する態度が違っているように思われるのだ。私の十代には、土曜日の夜十一時頃レスターを通って自転車で帰ってくると、チャールズ・ストリートの街角で酔っぱらった男や女が大声で歌っているのを聞いたことを思い出す。都市での生活のペースは、大酒に自棄(やけ)が加わり、この光景には不愉快で驚くべき何か-あたかも暴力の瀬戸際でバランスを保っているかのような-があった。しかし、田舎ではこんな光景に遭遇したことがない。パブはそのまま家庭での夕べの楽しい代替物であり、逃避の場所ではない。同じことが地方の人間のスポーツ-ラグビーやサッカーなどに対する態度にもあてはまる。そこには、都会での特質であるかのような蛮行を伴うヒステリー状態は見られない。マルクスのいうように、都会の疎外はまだ地方にはひろがっていない。(「わが酒の讃歌」 コリン・ウィルソン) 


どんぶりと井戸に点うつ屠蘇袋
正月に使った延寿屠蘇散のカスは、昔は唯捨てないで、必ず袋のまま井戸へ投げ入れたものだとのこと
屠蘇機嫌子の愛想に旅へ立ち
道中双六のお相手をして日本橋を降り出しに京を目指して…(「日本酒物語」 二戸儚秋) 


412 リト 臨月近く屠蘇二献飲む[折句袋]
おなかの赤ちゃんにもと、お屠蘇を二杯頂く妻。ほんのり顔を染めて、今年ははじめての子供も生まれてくる。無事ないい年でありますように。(「大阪宝暦折句秀詠」 鈴木勝忠) 


屠蘇とジン
それで、大晦日は一年中溜った書評用の本を全部売り払い、ただの蕎麦を食べてもつまらないから、天麩羅蕎麦にカレイ南蛮と行く。正月は、朝は決まっているから仕方がないが、お屠蘇は屠蘇散をジンに入れて飲むのが利き目があっていい。雑煮でも何でも、正月の朝出て来るものは皆一応、考えられていて楽しみなものなのに、どことなくもの足りないのは、お屠蘇が味醂だったり、日本酒だったりして、料理に負けない飲み物がないからである。そこへ行くと、ジンは屠蘇散とよく合って、そして強いから、昆布巻きや蒲鉾を突っつきながらちびちびやっていると、どうせ早くは起きないから、食事がすむのが二時か三時頃になる。(「仕事をする気持」 吉田健一) 


屠蘇のうた
ある男が馬琴に「お作の『ほす網も屠蘇の袋のなりに似て いわう銚子の浜の初春』をお書き下さい」と短冊を出した。馬琴は「海辺初春」と題を書きついで「屠蘇」と間違って書いた。しかし「ほかの歌でも結構です」といわれ、「屠蘇くまぬ浦の苫屋(とまや)も春くれば 香に酔う門の梅の花見」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


春の野草
春の七草をはじめ、野原のものは大体はみんな食えそうだが、酒の肴としてはたんぽぽや、藪かんぞうがいいようだ。両方ともゆでて、豆腐和えがその性に合うが、一番簡単なのはゆでたのを切っての二杯酢あたりだろう。さっぱりしているが味は案外コクがあり、その上目の覚めるような綠の新鮮さがいい。 (「口福無限」 草野心平)


一月五日
なお(一月)五日には、所領の農民が年賀の挨拶に出向く習慣があった。同書(「日本歳時記」 貞享3)は「必飯饌酒肉(かならずはんせんしゅにく)を与ふべし。一年の初の饗なる故に、分に従て美饌を与ふべし」として、食料を生産し貢納する農民に、ランクに応じて酒と美食を与え、大切にもてなすことが肝要である旨を強調し、この日「道路に酔人多きは、太平の象(しるし)なり」と結んでいる。(「江戸の食生活」 原田信男) 

ねんしゅ[年酒]
年始の客にすすめる酒。もともとは簡素な酒肴でもてなしたが、昨今は豪華な料理を用意している家も多い。日本酒が中心であるが洋酒・ビールも出される。
明日信じその人信じ年酒酌む 牧野まこと
箸紙に孫の名つらね年酒かな 佐々木良作
父と子の年酒に夜の更けにけり 紅羅坊名丸(「俳句用語用例辞典①」 大野雑草子編) 


前後不覚
内田百閒が一度正月三日に編集者や知人をホテルの正餐にまねいたことがある。会がすすんで、やがて拡声器から「蛍の光」が流れてきたが、百閒がすぐ止めさせた。そしたら今度はボーイが窓を開けてまわるのだが、百閒は寒いから閉めろと言って客に閉めさせる。では、とホテル側は白い上衣を着たボーイ全員を会場の出口に整列させた。それがなにを意味するのかを理解できたのかできなかったのか、酔いがさめた後で考えてみても、百閒自身にもわからなかったそうである。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


三重吉と珊吉
昭和七年大みそかに鈴木三重吉は息子の珊吉(さんきち)と一緒に酒二升を持って、伊豆の土肥温泉に行った。正月の三日には二人で十町ばかり散歩し、帰りに自動車をつかまえて乗った。「いくら」と聞くと「どうせカラの帰りだから」というのを、ムリヤリ三十銭うけとらせた。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


年始
ある小酒屋の亭主、懸取(かけとり)に出るとて、信濃もの留守において「内へ懸取衆が見へたら、いきまわってござれ(一)といへ」と、云付て、出る。はや大晦日も明方(あけがた)、元日おふおふとして、亭主は宵の草臥(くたびれ)で寝て居内(いるうち)、信濃ものが門口へ出れば「いせや五郎兵衛、年頭の御礼申ます」「いき廻って御出なされ(一)」
(一)もう一廻りしてからおいで下さい。支払い延期術(「江戸小咄集」 宮尾しげを編注) 


誓いその一
大晦日には何があってもぜったいに外出しない。無理にはしゃいで肝臓障害を起こす代わりに、予算が許す範囲内で一番贅沢なワインを飲みながら、自宅で夕食をとる。それからシャンペン・グラスを手にベットへ入り、十二時をまわってもまだ目が開いていたら、乾杯する。一月の一日は宿酔いの世の中を尻目にレストランへ出かけ、長々と優雅なランチを楽しむ。
誓いその二
去年のズボンを穿いてみる。実は私には自分なりに基準としているズボンがある。七年前に買っためったに着ないスーツの一部であるが、きついと感じるようになったら、何か手を打つ。といっても、二、三日、パンの消費量(フランスに住んでいるので、ふだんは少なくとも日にバケット一本)を減らす程度である。-
誓いその三
朝食の前には酒を飲まない。
この三つの誓いが、もういまでは習慣となっている。珍しい話だが、この贅沢にはほとんど金がかからない。それではみなさん、どうか、よいお年を。(「贅沢の探求」 ピーター・メイル) 


大晦日
-問題は大晦日の日である。その日は、どうしても銀行とマーケットに行って、松の内の籠城にそなえなければならぬ。それに縁起物の小さな松の枝を買わなくちゃ。午後一時をまわったころ、そろそろ町へ出かけようかなと思っているところへ、藤沢のKさんが伏見の濁り酒をかついでやってきた。なに、銀行もマーケットも、大晦日なんだから遅くまでやっているはずだ。Kさんとは兵隊仲間で、せっかくの濁り酒だから、ありがたく頂戴しようと、茶碗で飲み出したのが運のつき。昔話に花を咲かせているうちに、いつのまにかKさんの車に乗っていて、逗子桜山のてっぺんに住んでいる英文学の先生の家でウイスキーを飲み、それからまた鎌倉の町にひきかえして飲み屋を何軒か歩いたことだけはたしかだ。除夜の鐘を北鎌倉で聞いたことも、ぼんやりとおぼえている。目がさめたら我が家のベットで、あわててポケットをさぐってみると、二百円しかない。そうか、銀行もマーケットもよらなかったし、松の小枝も買わなかったのか!濁り酒の残りを飲んでいるうちに黒豆もミツバもトリもないわが家の正月がむなしくなって、ぼくはタクシーを呼ぶと(タクシーだけがツケがきく)鎌倉に住む哲学の先生の家へとびこんで、奥方から雑煮をいただき、ウイスキーを飲んで、それから正月三カ日のことが、どうもよく思い出せないのである。さまざまな情景だけが浮か。鵠沼のIさんの家で日本酒を飲んでいたり、ぼくのベットのまわりに、屈強な男が四人車座になって酒盛りをしていたり…正気になったのは五日の日で、やっと、江ノ電で銀行にたどえいつき、小銭をおろすと、その足で東京の深川の銭湯に行き、そこで初湯。(「スコッチと銭湯」 田村隆一) 


サッカー後
今でも覚えているレコードは、サッカーの練習試合後、四十五分ハーフで、おまけに延長戦までついて延べ百十分まっしぐらに走り回った後、酒七合、ウィスキー角瓶半分、ビール四本というのがある。それでも、あとで仲間に便乗して、寮中にストームをかけて歩いた程度だったが、今ではストームの元気どころか、とてもそんなことではすみそうにない。サッカーの試合は今でもクラブ・チームでやるが、試合の後はせいぜいビールか家に帰って軽くウィスキーぐらいのところである。それでも、いまだに煙草を吸わないせいもあってかコンスタントに一日に飲む量はかなりである。寒いころなど、煙草代りにブランディかスコッチをなめながら仕事をするが、たいてい一晩で壜半分以上は知らずに空けてしまう。もっともこれは飲んで味わう、というより、ただの手もちぶさたか、せいぜい保温であって、まったく酔わないのだから、酒を飲むことには入らないかも知れない。(「酒が「好き」ということ」 石原慎太郎)  


李元忠
北斉の李元忠は神武帝(西紀五四七年)の時、侍中に拝せられた。重要な地位に居りながら、まるで政務を念頭に置かず、唯だ音楽と酒を以て自ら娯しんだ。大抵毎日酔うて家事は大小とも心にかけず、園庭に果物や薬草を種ゑつらね、親しい朋友が訪問して来ると、必ず引き留めて玩賞し、毎(つね)に弾弓(はじきゆみ)を挟(たばさ)み、酒壺を携へて郷里を遊びまはつた。そして毎に言ふ「寧(むし)ろ食は無くとも、酒が無くてはならぬ。阮歩兵(籍)は吾が師である。孔小府(融)はまさか我を欺きはすまい」と。後に中書令と為り、復た太常寺の長官となることを求めた。といふのは、此の役所は音楽が有り、美酒が多いからである。神武帝が之を僕射(ボクヤ 宰相)に任命しようとした。文㐮(神武の長子)が之を留めて、彼は放達であるから台閣に任ずるには適当でないと言った。元忠の子の揆(キ)が之を聞いて、酒を節制するやうにと請うた。元忠が曰ふ「我(わし)は僕射に為ることが飲酒の楽しみよりも勝つてゐるとは思はない。お前は僕射が好きなら、酒を飲まぬがよいよ」と。(「酒顚(しゅてん)」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 中国明時代の本だそうです。 


尾羽毛
「尾羽毛」と云ふ字を当ててゐるが、何の意味か知らない。ただの皮では無い。子供の頃から嗜み食ひながら、造る所を見たことがないから、正体をよく知らないが、宅の近所に其れを扱ふ問屋が有つて、其の店の床板を上げると直径一間余りの大桶が埋められてゐて、油でどろどろの塩汁の中にオバケの筒切りにしたのが漬けられて有るのは時折見かけた。其の塊は魚形水雷のやうな形で、周囲を黒い表皮がかこんでをり、内部は白い真皮やぬなものが詰つてゐる。水で洒して、酢味噌で食べると、酒の肴に無上妙品である。以前京都には無かつたので郷里から送つてもらつて楽しんだが、其後仙台在住中どうしたはずみか其の地にも有るやうになつた。其の中京都へ帰つて見ると京都にも有るやうになつてゐたが、やがて戦争で影を潜めてしまつた。但し我家の寒厨には郷里の珍品として蔵せられ、時たま主人の晩酌を佐けてゐる。大衆向きの酒の肴で是れくらゐ妙品はまづ無からう。(「酒中趣」 青木正児) 私は芥子味噌で食べるのが好きです。 


隠し狸
▲冠者 はあ、せつかく隠したに、人の口と申すものは、戸が立てられぬとやらん云うが、頼うだお方の耳に入つた。ゆうべも、大狸二つまでとつた。さいさい、狸くれい狸くれい。夫が厭ぢや。おれが狸売りにまゐらう。この様な見事な狸は稀な。売りませう。今日は一つも狸は見えまうせぬ。売りませう。狸は狸は。狸は狸は。大狸は大狸は。 ▲主 冠者めが遅い。何してゐるぞ。さてさて、いかい市の立ちやうかな。 ▲冠者 はあ、頼うだ者がわせた。まづ狸をかくしませう。 ▲主 冠者、たぬきは。 ▲冠者 今日の切物(品切れ)で、狸はござらぬ。 ▲主 まことに見えぬ。市酒飲まう。酒を買ひに行て来い。 ▲冠者 お宿でまゐりませい。 ▲主 市で飲むが慰(なぐさみ)ぢや。買ひに行け。 ▲冠者 おかしられい。 ▲主 苦しうない。買うてうせい。 ▲冠者 あゝ、酒買うて来ました。まゐれ。 ▲主 飲まう。冠者も飲め。 ▲冠者 いやいや。 ▲主 ゆるりゆるり飲うでなぐさむ。一つ舞へ。 ▲冠者 お宿で舞ひませう。御免さしられい。 ▲主 此中(このぢう)も、御前がかりには左右へ廻らぬものぢやと申しまする。 ▲主 いやいや、おれがゆるす。 左右へまはれ。(「狂言記」)
後に隠した狸は、主についに見つかってしまいます。 


ほんとの持病
佐藤重臣さんも食事療法につとめ、糖尿病もおさまり、頭もすっきりしてきたという。だけど、ぼくみたいに、毎日、ガブガブ酒を飲んでいたんでは、いくら、病院にかよい、クスリを飲んだところで、糖尿病がよくなるわけがない。親切なお医者さんにもあいすまず、二日酔いのくさい息をお医者にはきつけるのがつらくて、病院にもいかなくなる。これでは、持病を飼いならすどころか、酒に飼い殺されて、持病をのさばらせているようなものだ。だから、ぼくはほんとの持病は酒を飲むことかもしれない。酒を飲むのがいけないのは、からだをわるくするだけでなく、まず、頭がダメになり、そして、たいへんに時間をつぶす。「仕事はみじかく、酒は長く」とうちの女房は悪口を言うが、酒を飲んでる時間、本を読むとか、またなにかおベンキョーをしていたら、どれだけいいだろう。(「田中小実昌エッセイ・コレクションⅠ」 大庭萱朗編) 


水戸の飲み倒れ
【意味】水戸の人はよく酒を飲むということ。 (「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


水本塾
私は薩州の水本塾へ入ったが、同塾生は過半薩州人で、他に高松藩とか、鯖江藩とか、肥前鹿島藩とかの人もいた。塾長は小牧善次郎で、後昌業といって、現今は御侍講を勤めて誰れも知る人だ。また宮内省で久しく要路に居た長崎省吾も当時は助八郎といっていた。また海軍中将だかにまで進んだ黒岡帯刀もいた。塾生で漢学の力ある人では、伊地知とか吉国とかいう人もあって、私も親しくなるにつれて応酬をした。この時代の事であるから、塾生一同はあまり勉強をしない。多くはよそで酒を飲んで帰って来て大声で吟声を発しまた時世論をする。それから世更けて戻った者が、既に寝ている者を起して、雑炊会を始める。それは賄(まかない)を呼起して残飯を大鍋へ叩き込んで、それへ葱大根などを切交えて、それを啜り合うのである。酒は欲しいけれども多く得られなかった。そんな事で夜中もガヤガヤ騒ぐが、水本先生は少しも叱らなかった。また一定の教授時間があるというのでもなく、時々書生を呼集めて、粗末な肴ながらも酒を振る舞う。先生ももとより酒好きであったから、塾生らも何ら憚ることなく酒を飲んだ。私は藩地をでるまでは全くの下戸でツイ三杯も飲めばもう嘔吐するという位であったが、この塾生の多数に感化されて、いつの間にか、一合位は傾けることになった。(「鳴雪自叙伝」 内藤鳴雪) 


変人
牧師が、村で教区の一人の男に会って、彼を呼び止めて話した。「ジョーン」とおごそかな声で、「お前の奥さんは、お前がこの頃、仕様がないとこぼしていたよ。どうして私の教えを守らないんだい? 私なら、町へ出掛けて、お酒に酔わずに帰ること位はできるよ」と言うと、ジョーンは、「そりゃ、それ位は、あっしにでも出来ますよ。しかし、ごらんの通り、あっしはそれほど変人じゃありませんからね」と答えた。(「ユーモア辞典」 秋田實編) 


酒癖
三笑亭可楽という人は有名な泣き上戸でしてね。二、三本酒を飲むともう愚痴が出ましてね。ボロボロ涙をこぼして泣くんですが、これは仲間うちでは有名なものでした。いつでしたか、柳枝、可楽、あたくしの三人で飲んでいましたが、そのうちに例の通り、そろそろ泣きはじめた。で、柳枝と顔を見合わせちゃ、こっちは、ほら、始まったなんてんで笑っていましたが、そのうち可楽が厠へ立った。そのあとで、柳枝が、「どうです。もう一本飲ませて泣かせましょうか」っていいましたがね。鶯じゃあるまいし、泣かしたって面白くも何ともない…。(「噺のまくら」 三遊亭圓生) 


サケヌスト
小学校の事であつた。今もありありと記憶に残つてゐる。学校下りの子供等が三々五々街を喧噪しながら帰つて行く。川助と云ふ鰹節問屋の前まで来ると、軒に新しく吊された小さな木札を、誰かが目ざとく見付けて「サケヌスト(酒盗)有り」と読みあげて笑つた。皆が口々に読んで大笑ひした。家へ帰つて其のことを話すと、側で聴いてゐた父が笑ひながら「あれはシユトウと読むので、鰹の臓物の塩漬ぢや」と教へて下さつて、早速其れを買はせられたやうであつた。成長するに及んで私も「酒盗」の味を覚えたが、其の鰹節問屋のは土佐からの直輸入で甚だ精品であつた。私の家で行つてゐた調理法は、其の問屋の主人の伝授で、魚腸の汚物を包丁でよくこさげ除け、酒で洗つて細かく刻み、ワケギの刻んだのを加へ醋(す)をかけて食べるので、誠に新鮮で何とも言へぬ珍味であつた。刻んで壜詰めにして売つてゐる品は大抵油が廻つて渋味が来てをり、あれでは到底酒盗を談ずることは出来ない。(「酒中趣」 青木正児) 


人間フラクションコレクター
(醸造試験所)佐藤研究室では清酒の着色に関する研究を主テーマとしていました。清酒に鉄が混入すると異常に着色することが知られており、鉄分の多い水は酒造には嫌われ、醸造用水は鉄分の少ないものとなっていました。この鉄に関係する着色物質の本体を明らかにする為、大量の酒に大量の活性炭を加えて、着色物質を吸着させ、その活性炭からアルコールで着色物質を溶出させたものを濃縮し、さらにシリカゲルカラムクロマトグラフィーで分画し、結晶として、モノをとる仕事をしていました。私は人間フラクションコレクター(分画、精製する機械)として、日夜働きつづけました。清酒の着色物質はフェリクリシンという物質であることが突き止められていました。フェリクリシンの結晶は写真で示します。この写真を見ると「なんとしても、清酒の着色物質を分離し結晶化するんだ」というあの頃の佐藤(信)先生の気迫が感じられます。(「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 


冬至二つハネル字
冬至には嘉例の通り二つハネル字のつくもので、金柑・にんじん・かんてん・れんこん・うんどん・ぎんなん、これをとりそろえて家内で酒宴を開くのが開運出世の呪(うらな)ひ。そこで二つハネル字のつくこと七いろこじつけました。狂文亭春江作、-感心-安穏-新聞-板権(版権)-看板-新田-安心。<明九・一二・二〇、仮名読>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


忠度(ただのり)
或(ある)男酒をかって棚にあげ置き、八ツ時分(3時ごろ)に呑ふ(のもう)と楽しみ、外へ出て、八ツ時分にかへりて、彼(かの)徳利を出し盃へついでみれば、酒は一雫(ひとしずく)も出づ、短冊がひらひらと出た。よみてみれば さゝ浪や志賀の都はあれ(荒れ)にしを昔しながらの山ざくら哉(三) 「ハゝアのみ人(四)しらずじゃな」
(三)この歌(平)忠度の作 (四)署名なき歌は「詠人知らず」として扱う。ここでは酒を「呑んだ人知らず」の洒落とした(「江戸小咄集」 宮尾しげを 編注 「千年艸」) 


竈神
香港以外にも台湾の中国人の竈神(かまどがみ)を見て来た。庶民の台所とアンバサダー・ホテルの調理場とである。習慣はきちっと残っているが、火力が薪からガスに変わった都市生活者の台所では、もうその姿を見ることは難しい。が、郊外ではまだその習慣は生きていた。彼らは竈神、すなわち灶(「火土」)君の祭りを持つ。旧暦の十二月二十三日にである。古い護符を取りはずし、新しいものに取りかえるのだ。もともとこの神は竈に祀られ、その家庭の一切を守り、ながめている。ただそればかりではない。家人の行動の善悪もみつめ、足元の壺にその記録を保管しているというのだ。竈神はそれをたずさえて、天帝に報告するといわれる。だから人びとは取りはずしの日、護符の神の口に、餅、飴、酒をふるまうのだ。竈神が家人の一部始終を報告するときに、はっきり物がいえないようにするのがねらいである。ねばねばした餅や飴は、神の口をふさぐのに恰好の食べ物なのである。おもしろいのは、竈神をはずしている間にそうじをしたり、神に見られたくないことをするということだ。(「アジア食文化の旅」 大村次郷) 


芭蕉の無心
何にも持たない主義であつた芭蕉だけに、心易い門下の誰彼に無心状を遠慮なく出して居る。去来、曲水(曲翠と後ち改号)への金子の無心は先づその筆頭だろう。ついで本屋喜右衛門への檜木笠(ひのきがさ)の無心なども変つて居る。食べものゝ無心となると、造り酒屋の窪田宗好にから口一升の無心、露川よりもらつた宮重大根で風呂吹を作つたのはよいがさてそれにつける味噌がないので何某へのその無心。喜八へ「もち米一升、黒豆一升、あられ見合」といふ会食用の材料無心、かふじや茂作に「つぶ納豆」の無心等々と甚だ多い。(「たべもの歳時記」 四方山径) 


面屋
若殿より、お多福の面を仰せ付けられ「何とぞ出精(しゅっせい)してお出入りにもなりたく、これにつけても正真のお多福がみたい」といふ処へ、懇(ねんご)ろなる者来り「よきお多福の手本がござる。御蔵前の酒屋まで同道すべし」と伴い行き、かの酒屋の店に腰かけ、飲みたくもない酒十六文が、燗を申しつけると、かの娘、暖簾(のれん)の陰より覗きける時「手本はあれじゃ」指をさせば、娘、内へ入り「かゝさん、舅(しゅうと)の有る所はいやよ」(楽牽頭・明和九)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


燗冷ましの熱燗
五浦の岡倉邸に移って、地方に旅した三十代の日々は、土地の金持ちが買ってくれる絵の中に下村観山や菱田春草らの仲間の作品はあっても、大観のは一枚もないなどということがあった。 「あのときは、つらかった。春草君の絵はどういうわけか、何枚か売れたが、私の絵は一枚も売れない。絵が売れることをあてにして来た旅先のことなので、金に余裕がなく、毎日毎日宿へ帰って来ても、晩酌ひとつ出来なかった。いちばん酒が飲みたいときに、飲めないのだから、つらかった」 ところが、夜になった部屋の前の廊下に銚子が二、三本置いてあった。次の夜にも置いてある。宿屋の小女が同情して、燗冷ましを熱燗にして、おいて行ってくれたのだ。 「燗冷ましの熱燗だったが、あのときほどうまい酒はなかった。五臓六腑に沁みわたった。私に同情して。こっそり燗冷ましを置いて行ってくれる小女の姿が、悲母観音に見えた。いや、悲母観音そのものだと思った。あのときほど人の情がありがたく身に沁みたことはなかった」(「酒・千夜一夜」 稲上真美) 


中野呑み助
中野さんと私は終戦までの二、三ヵ月のあいだ同居していたことがある。当時私は読売新聞の次長であった。再度の戦災で焼け出され、家族を疎開させて一人になっていたとき、『竹内君、オレも家の者は田舎にやってひとりになって了った。一緒にくらさないか』というわけで、危険地域の自宅をすて、田園調布にある正木亮博士(当時広島検事長として赴任中)の留守宅を借りうけ、女中さんと三人暮しをはじめた。中野さんは司法部内にきこえた酒豪で"中野呑み助"の名でとおった。それだけに警報下でも酒はきらしたことはない。毎晩一升近くの日本酒をたいらげていた。もちろん闇で買うわけでもないが知己、朋友、部下などが遠近を問わずとどけてくれたらしい。私が社から帰ってくるころには晩酌もだいぶまわった時分。顔をみるとまた呑み直しだ。酔った中野さんはきまって、『新聞はなぜ東条の暴政を書かないのか、日本はどうなるか、バカ野郎!』と喰ってかかる。『われわれが書いても、大本営や情報局の検閲でダメなのだ、新聞はつぶされるかもわからない。あなたこそ陛下の検事といばるんだから、摘発したらどうか』私はこう攻撃して口論の末、燈火管制下に酔いしれるのが毎夜のことでだった。(「最後の検事」 竹内四郎(報知新聞社社長) 文藝春秋巻頭随筆'60.11) 中野並助は、「昭和十八年から終戦のパージ下で敗れさるまで日本の検事総長」だった人だそうです。 


泥酔加減
そんな土曜日の午後、缶ビールを1本プシュッと開けて、テレビをつけた。競馬中継がある。しかし、ちゃんと見てられない。気がつくと、意識のほうは半分眠っている状態だ。今週はほとんど、家につくころには目が半開きだったもんなあ。そんな感慨にふけりながら目が半開きというのはどの程度の酔いであるか、と考える。個人的な泥酔加減の基準に照らして、5点を満点とするなら、3点から4点の間くらいでしょうか。5点というのは、目を完全に瞑(つむ)っている状態。寝ている。あるいは意識不明だ。ひとつ下の4点は、意識はあるが、言ってることがほとんどわかんない。目が開いていたとしても、な~んにも見えていない感じ。で、3点になると、目は開いているし、なんとか話もしているが、明日になればところどころ覚えていない状態。となると、目が半開きだねえ、と周囲が見立てるケースは、一生懸命どこかを見ようとしているのだが、その目を覗けば、あれれ、これはなんにも見てねえかも…という状態。つまり、半開きは泥酔3点~4点の中間あたりではないか。(「「酒とつまみ」編集長 大竹聡の酔人伝」 大竹聡) 


死なば卒中
「飲まば焼酎、死なば卒中」酒好きな古今亭志ん生の心意気である。敗戦で満州から引き揚げてきた時に志ん生が自宅に打った電報は、「ブジカエル サケタノム」(「芸人その世界」 永六輔) 志ん生の満州行き   


十二月十七日
きょうから羽子板市。羽根つきあそびというのは室町時代にはじまったものらしく、敗けたほうは酒を飲まなければならない、という罰則をともなった。この罰則は子どもの羽根つきでは顔に墨を塗る、というふうに変形し、江戸時代には庶民のゲームとして大流行した。(「一年諸事雑記帳」 加藤秀俊) 


十二月十五日(月)
一時半より東郷外相、引続賀屋蔵相。三時半より軍令部総長拝謁奏上。間食の後、斎戒、斎服に着替へ綾綺殿(りょうきでん)に先着。岡部、戸田両君と御服上、御裾奉仕。賢所(かしこどころ)御神楽の儀。五時半にお帰りの後、六時まで内閣上奏物御允裁。御神楽に付き御錫*を沢山に頂戴する。当直は岡部、戸田、外に甘露寺、佐藤、山県、村山、稲田、神戸。お錫が相当入つていゝ気持で大変な賑やかさである。九時半に又鴨うどんをいただく。十一時半より出御、十二時十五分掌典御榊奉献。一時御格子(みこし 天皇が寝所にお入りになること)。入浴。雑誌を読み二時半厠にに行き三時就寝。
*御錫 錫製で徳利に似た口の細い酒器。宮中では陶磁器は使わない。酒そのものも指す。昭和16年です。(「入江相政日記」) 


アスペルギルス
麹菌の学名はAspergillus orizae (アスペルギルス オリザエ)である。この学名は、カトリック教の灌水器を意味するラテン語の aspergillum に由来する。カトリック教の日曜日の正式(荘厳)ミサの前に司祭が会衆に聖水をふりかけて清める灌水式(聖水散布式)のことを Asperuges という。この聖水をふりかける容器が aspergillum である。カビであるAspergillus の梗子(こうし)(口絵)がこの灌水器に似ているところから名付けられた。(「麹」 一島英治) 


ロキシー
一体、村の人たちのの結婚はどのようにして決められるのであろうか。結婚で結ばれる相手の範囲はこの村だけでなく、グルン族の他の村にもひろがっている。しかし、距離的に近くとも、グルン族でない村は対象外である。適齢期の男の子をもった親は、ロキシー(コメ、雑穀の蒸留酒)をもってラマ僧のところへ、よい嫁をと頼みにいく。村を渡り歩いているお坊さんは、良いと思われる娘さんがいたら連れてくる。これが日本でいうお見合いに相当するものかどうかわからないが、すべてお坊さんの腕次第のようである。お坊さんは縁とおっしゃるだろうが、そのようにして決められる。(「コメ食の民族誌」 福田一郎・山本英治) ネパール・パルチェ村での話だそうです。 


室町時代の飲料
「言国(ときくに)卿記」記載の飲料
 酒(諸白、奈良酒、白ねり、酒もろみ、手酒)、鳩酒、桑酒、甘酒、茶、枸杞(くこ)茶
「多門院日記」記載の飲料
 酒(諸白、濁酒、霰酒(あられざけ)、霙酒(みぞれ)、桑酒など)、甘酒、甘茶 (「日本の食と酒」 吉田元) 


サッカロミセス・サケ・ヤベ
野白 コルシェルトは、麹菌の菌糸がちぎれて酵母になったんだろうと言ったんですけれども、アトキンソンは、そういうことではない、酵母は別だと。しかし、実際にそれが正式に発表されたのは、古在由直という後で東大総長にもなった方がいらっしゃいますが、その方と矢部、これは大蔵省の初代鑑定官ですが、そのお二人が、酒の酵母は麹じゃないとはっきり発表されたんです。そのとき、酵母の学名はサッカロミセス・サケ・ヤベと名付けられたのです。(「酒を語る」 斎藤茂太・佐藤陽子・野白喜久雄・栗山一秀・濱本英輔) コルシェルトとアオキンソンは、明治期のいわゆる「お雇い外国人」だそうです。 


496 ウツキ 浮かむ瀬へ続け者どもきゃつ殺ろそゞ [続折句袋]
浮む瀬は、大坂清水の料亭で、鮑(あわび)で作った七合半入りの大盃の銘にちなむ名。この盃での呑みくらべをさせるのが売り物であった。前にまけた男が取り巻きをひきつれ、決死の覚悟で乗り込む場面だが、思えば馬鹿らしいことだ。(「大阪宝暦折句秀詠」 鈴木勝忠) 浮瀬  121リニケ 


赤酒(セキシュ)
斎藤 -私は、子供のころに、風邪を引きまして寝込むと、赤い水薬が出てきましたよ。
佐藤 それはブドウ酒でしょう。
斎藤 赤ブドウ酒。つまり「赤酒(セキシュ)」が*日本薬局方にあったのです。今でもあるかどうかは知りませんけれども、昔は水薬として出していました。恐らく食欲増進剤という感じです。それでもわかるように、アルコールが治療薬として伝統的にずうっと使われていました。-
斎藤 もう一つ調べたら、明治時代の初期、ビールは薬屋さんで売っていたという事実があるんですね。薬屋でビールを売っていたということは、一種の薬的な雰囲気だったんじゃないでしょうかね。-
*日本薬局方(にほんやっきょくほう)…日本国内でよく使われる医薬品や医療上重要な医薬品の品質・純度等の基準を定めたもの。医薬品の変遷などがあるため厚生大臣により五年ごとに改正が行われる。(「酒を語る」 斎藤茂太・佐藤陽子・野白喜久雄・栗山一秀・濱本英輔) 日本薬局方ではブドウ酒となっているようです。 


米内光政
家ではいつもにこにこしていて冗談をよく言っていましたが、父は岩手県出身のため"い"と"え"の区別ができず、姉たちから「ええじゃないわ、いいわでしょ」なんてからかわれますと、自分でわざと「ええわ」と言っておどけてました。家のことや子供のしつけは母親まかせでした。そもそも海外駐在武官や艦隊勤務が多く転勤ばかりで家にはたまにしかいませんでした。私に大きくなったら海軍の軍人になれよと言うこともなかったし、ぐんじんのかていの雰囲気はありませんでした。趣味も特別あるわけでなく、手回しの蓄音機で長唄や流行の歌をきいては、、一緒に口ずさんでいたくらいです。酒だけは好きで、宴会などがありますと、まず家で軽く飲んでから出かけることもありました。(「血族が語る 昭和巨人伝」「米内光政」 米内剛政) 


アラニン
タンパク質に含まれているアラニンというアミノ酸が、酒の酔いや肝臓障害防止に効果があるということが、あきらかになりました。昔から、タンパク質は酒による肝臓障害防止によいといわれてきましたが、これといった確証はありませんでした。それでこれを各種アミノ酸を使って確認しようと研究がすすめられたのです。その結果、アラニンとその十分の一を量のオルニチンを混ぜたものが、酒害防止に最も効果があることがつきとめられました。まだネズミによる動物実験の段階ですが、この実験結果によるとあらかじめアミノ酸を注射しておいたネズミに、泥酔するほどのアルコールを与えても六時間で正常にもどったとのことです。さて、このアラニンというアミノ酸ですが、ほとんどのタンパク質に含まれていて、身近なところではトウモロコシにきわ立って多いそうです。これからは、お酒のおつまみにはトウモロコシをお忘れなく。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


浮瀬
アワビ(鮑)の貝殻に穴が七つあるのを七孔螺(こうら)、九つあるのを九孔螺、または九穴貝といい、とくに九穴あるものが珍重され、食べれば永遠の生命が授かるという伝説がある(矢野憲一氏『鮑』法政大学出版局刊)という。つまりアワビは不老不死の呪力を秘めると信じられていたのだが、江戸中期、大坂・四天王寺の西にある有栖山(ありすざん)清水寺に隣接して、なんと十一もあるアワビの穴を塞ぎ、これに酒を注げば、七合五勺も入るという巨大な酒杯を看板にして売り出した料亭が現れた。この奇杯の銘を「浮瀬(うかむせ)」といい、料亭の名もこれからとって浮瀬という。浮瀬が文政四年(一八二一)に発行した引札「奇杯品目録」には、 わが恋は千尋の底のあハび貝 身をすてゝこそうまむせもあれ という歌が、奇杯「浮瀬」の紹介に添えられている。詠み人は不明だが、あるいは銘の由来も、この歌にあったのかも知れない。(「浮瀬」 坂田昭二) 


子別れ
「あたしに、わるいところがあったら、いってください。これからさきは、気をつけましょう。あやまるからというのが女じゃあねえか。それが、なんでえ、かかあの口から亭主にむかってひまをくれたあ…なんてだいそれたことをぬかしゃがるんだ。亭主がなにをしようと大きなお世話だ、亭主は、仕事がすんで、寝酒の一ぱいもうまく飲もうとおもって帰ってくりゃあ、かかあが、つまらねえつらつきをしたり、変な処置ふりをすりゃあ、亭主は、おもしろくねえから、そとへいって酒を飲む。酒を飲みゃあ、気がかわって、女郎買えにいっちまうんだ。もとはといやあ、てめえがわりいんだ。さあ、でていけ、でていけ」「あーあ、でていくとも…でていくからにゃあ、離縁状を書いとくれ」「離縁状?…そんなめんどうくせえもなあいらねえや。台所のすみへいくと貧乏徳利があるから、そいつを持っていけ」「貧乏徳利が離縁状になるかい」「ならあな、とっくりとかんがえてごらんなさい。これがいっしょうのわかれでございます。さかさにふってもおっともない」「なにをくだらないことをいってっんだよ。あきれた人だねえ。まあ、おまえさんに魔がさしているんだから、あたしゃでていくけど、おまえさん、あとでゆっくりかんがえたらいいだろう」(「古典落語 子別れ」 興津要編) 結局、子は鎹(かすがい)という噺です。 


伏見の酒
幕末、京の旧市内が禁門の変の戦火に焼かれ多くの酒蔵が類焼したように、慶応四年、伏見鳥羽の戦いで、伏見の酒造家もまた戦火をこうむった。そして、明治を迎えても、なかなか立ち直れなかった。その上、江戸が東京となって皇居も遷されたので、伏見は京都と共に、ますます衰微し、酒造家は生計のために、極く僅かな酒を細々と造っていたのだった。伝統の株仲間も解消され、改めて大蔵省租税司から免許鑑札を貰うことになったが、小資本の酒造家はバタバタと倒産して行った。伏見が立ち直りはじめたのは明治十年西南戦争が終わってからである。明治十二年には木村、楠本の両先覚者が東上して販路を求め、その後大倉恒吉が灘の醸造技術の粋をとり入れて品質の向上に成功し、東京は勿論、九州、北海道にまで販路をひろげた。その間、輸送機関としては汽船が登場して従来の樽廻船にとって代り、その汽船も明治二十二年、東海道線が全通すると汽車にその座を奪われる、という変わり方だった。(「京の酒」 八尋不二) 


八大名酒
「八」という数字は、「飲中八仙歌」(「李白一斗詩百篇」という有名な句のある杜甫の詩)、八大山人(明末から清のはじめにかけての有名な文人画家)などがすぐ連想されて、八大名酒は僕の頭のなかで、たちまち伝統的な、古典的な存在になってしまった。しかし、残りの三種類(はじめの五種類は茅台酒、汾酒、大麯(「麦曲」)酒、西鳳酒、紹興酒)の酒の名は、みんなでいくら頭をしぼっても、とうとうでてこなかった。その後、このことが気になってしかたないので、少ししらべてみたところ、わからなかった三種は、やっぱり煙台の赤ぶどう酒である紅玫瑰(「王鬼」)葡萄酒(ホンメイグイブータオジュウ)と、ベルモットと、ブランデーであった。そして、八大名酒というのは、歴史的な伝統のあるものではなく、解放後の一九五二年、新中国の酒の全国品評会のときに、成績順に首位から八種類とったのが、この八大名酒だったのである。「そういうわけですから、八大名酒といっても、その内容は将来かわってゆくことも考えられます」と、中国糧食油脂出口公司の酒の専門家である朱梅さんは教えてくれた。品評会の順位ならそうだろう。変わっていくほうがほんとうだ。現に、さいきんの品評会で首位をかちえたのは、四川省の酒で、アルコール分が七五度をこえるという五糧液だという。これは小麦、大麦、高粱(こうりゃん)、稗(ひえ)、米の五種類の穀物からつくった蒸留酒で、品評会の評価にたがわない、みごとな酒である。きくところによると、亡くなった朱徳委員長も、五糧液のファンだったそうだ。(「中国グルメ紀行」 西園寺公一) 


121 リニケ 両方の女房が泣いて喧「口花」(けんか)済み [同(折句式大成)]
一緒に飲んでいた仲間が、なにかの拍子に喧??(「口花」)を始めると、喧?(「口花」)その物が目的となってとまらなくなる。大変だと飛んできた女房が、止めることも出来ずに泣いてすがりついて、やっと我にかえるのである。(「大阪宝暦折句秀詠」 鈴木勝忠)折句は句頭に指定された文字を折り込んで作られた5.7.5または7.7の句だそうで。この場合は、リ(両方).ニ(女房).ケ(喧「口花」)の3文字が折り込まれています。 


酒を変えていく
とはいえ僕の飲み方は、2、3杯ずつで酒を変えていく。最初はビールを飲んで、次ぎに赤ワイン、ちょっと飽きたらズブロフカというウオッカを飲んで、途中でグラッパが入って。どんどん強い酒に変わっていく。要するに、酒そのものが好きなんだ。子供のころからじいさんの晩酌を少しもらったりしてたから、もともと酒に強い体質なんだろう。とにかく欠かしたことがなくて、ずっと毎晩飲んでる。付き人時代も、金がないくせに、当時よく飲んでた剣菱って酒の看板を見つけちゃ、ふらふらと飲み屋に入ってた。でも、30歳を過ぎてからじゃないかな。メニューの値段を気にしないで飲めるようになったのは。ドリフ時代の後半くらいからだと思うけど。少し前は、番組が終わった後でみんなで飲みに行くと、クラブ3軒行って一晩で100万円くらい使ってたんじゃないかな。好きなコントやって、好きな女がいて、好きな酒を飲んでいられたら、本当に最高だ。(「変なおじさん 完全版」 志村けん) 


伏見橦木町笹屋
大石の放蕩譚は、「祇園の茶屋に日を送り、島原の郭中に夜をあかし、伏見の遊里にかり寝して、酒にひたり色におぼれ」などと書かれていて有名だが、よく通ったのは伏見橦木町の笹屋だったらしい。祇園一力が大石と強く結びつけられたのは、『仮名手本忠臣蔵』が大当りをとってからで、そのころ(寛延元年・一七四八年)は、祇園も遊里としてかなり名をあげていた。さらに五十年ほどのちになるが、祇園に遊んだ滝沢馬琴は、「井筒、扇九、一力など、座敷広し。客あれば庭に打水し、釣灯籠へ火を点す。忠臣蔵七段目の道具建の如し。大楼は燭台四つ五つ、蝋燭は六寸ばかりあり、半分たたざるうちとりかへる。そのたびにかならず客の顔の色が変る。蝋燭一梃八分づつなればなり」と皮肉な観察を下している。(「京都故事物語」 奈良本辰也編) 


銀座裏通りのバー
銀座の裏通りに一歩足を踏み入れると、バーが到る処に氾濫してゐる。表通りにさへ、近頃カフエーを尻目にかけてバーが続出して来たのに、これが裏通りになると、横町によつては軒並みである。今こゝに、入つて見て後悔をしないやうなバーを六七軒挙げて見るなら、ジヤポン、セレクト、太平楽、フアースト(以上表通り)フレーデル・マウス、ジユン・バー、メーゾン・ヤヘ、サイゼリア、スウリール、ニユーヨーク、ユング・フラウ(以上裏通り)を算へることが出来る。たゞ残念なのは、これらのバーが客の制限上日本製のビールを出さないで、一本一円二三十銭するドイツ・ビールを飲ませることである。バーは洋酒本位なので、少なくとも五円位は持つてゐないと落着いて飲めぬ恨みはあるが、それでもそこの適当な照明や椅子の配置によつて割に一人を楽しめるので、一円のチツプはそんなに高いものではない。(「新版大東京案内」 今和次郎編著) 

牧野信一のこと
一時はしげしげ会つてゐたが交際した期間も短いし、牧野さんは酒をのまなければ温厚な青年そつくりで絶えず手持ち無沙汰のやうな様子を見せてゐた。それが酒を飲むと、こちらで二の句がつげないほど辛辣なことを云ひ出すのである。しかし開きなほるといふやうな態度ではない。さりげなく話を持ちかけて、だんだん痛いところに触れて来る。たとへば、こんな調子である。「おい、こなひだ新潮に書いたお前の小説、面白かつたよ。ちよつと面白いね。でも一生懸命書いて、せいぜいあの程度かね。あれでも本気で小説を書いたつもりかね。おい、恥ずかしかねえか。」ときにはまた「おい、揉んでやらうか」と、薄笑いを浮かべながら持ちかけて来ることもあつた。私は牧野さんに何回もやりこめられた。一度は、久保田さんや河上の見てゐる前でやりこめられて、わあわあと声をあげて泣いたことがある。それでも牧野さんは手加減してくれなかつたので、もう夜がふけてはゐたが、私は部屋の外へ逃げ出した。ついでに、その料亭から逃げ出した。ちやうどそこへ、魚河岸に行くトラックが通りすがつたので、それを呼びとめて便乗させてもらつた。(「文士の風貌」 井伏鱒二) 


アイリッシュ・バア
もっとも、その時分はまだアイリッシュ・バアもしくはアイリッシュ・パブという呼び方は当方の頭にはインプットされていなかったのであるが、何かの時に、この言葉を知った。あれはニューヨークとお酒をこよなく愛するわが常盤新平氏のエッセイで、であったろうか。ようするに酒飲みのための酒飲みの場所である。黒光りするオークとかチーク材のカウンターが長く続き、客はもっぱらウイスキーやジン、ウオツカなどをガンガン飲む。テーブル席もあるにはあるが、そっちは大勢でワイワイやるためで、多くの客はカウンターでとにかくじっくり飲むだけである。-
じつはわれわれはうんと昔に、こういうのを見せられたことに気付く。それはジョン・フォード西部劇である。ご存知のようにフォードも、その盟友であったジョン・ウェインも、そして脇役のたとえばビクター・マクラグレンも、皆アイルランド系である。だから、その作品に現れる酒場、たとえば『荒野の決闘』のあのスルスルと拳銃やウイスキー・ボトルが滑ってくる長いカウンターのバア、サルーンと呼ぶ、あれがアイリッシュ・バアのプロトタイプだったのですね。(「酒場正統派宣言」 馬場啓一) 


居残
須「彼がしばしば君の方を、振りかへつて見ちょつたからサ。よっぽど君を愛(ラブ)してゐるぞ。」小「アハハハハハ。馬鹿を言ひたまへ。それはさうと。諸君はもう不残(みんな)帰つてしまったのか。」須「うン。今やうやく帰してやつた。泥酔漢(ドランカアド)が七、八人出来をつたから、倉瀬と二人で辛うじて介抱して、不残(みんな)車にのせてやつた。もうもう幹事は願下げだ。ああ、辛度々々(きつかきつか)。」小「僕はまた彼処(あすこ)の松の下に酔倒(よいたお)れてゐたもんだから、前後のことはまるで知らずサ。そりゃア失敬だったネエ。ちつうと手助(へるぷ)すればよかつつた。」須「ヤ日輪(ひ)がもう沈むと見えるワイ。去(い)なう去なう。」小「麓(した)の茶屋に俟(まつ)ちょるぢゃらう。宮賀が無感覚(アンコンシヤス)になりをつたから、それを介抱しちょるはずぢゃ。ああ、僕も酔うた酔うた。ああ。酔うてはァ、枕すゥ、美人のゥ、膝ァ。醒(さめ)てはァ、握るゥ、天下のゥ、権引。」(「当世書生気質(かたぎ)」 坪内逍遙) 桜の季節、「さる私塾の大運動会の、居残(いのこり)」書生の会話だそうです。また、「」は、「声を延ばす長音の記号」だそうです。 


問題2
般若湯-(イ)お茶 (ロ)お酒 (ハ)甘酒 (ニ)甘茶
こく-(イ)甘ったるい味 (ロ)深みのある味 (ハ)ほろにがい味 (ニ)しつっこい味
回答
般若湯-(ロ)お酒。 僧侶の間で隠語として使う。「般若」は、梵語の音訳であって、意味は「智慧」と訳される。あらゆる物事の本来のあり方を理解し、仏法の真実の姿をつかむ知性のはたらき。聡明で事理に通じていることを、清澄な水にたとえて「般若の智水」と言う。こういうところから、酒を「般若湯」と称するようになったのであろうか。
こく-(ロ)深みのある味 「この酒にはこくがある」。ここ「こく」は、「濃い」の連用形「濃く」から出たという説と、漢字の「酷」から出たという説とがある。「酷」の字には、酒の味に深みがあること、香気が強いことの意がある。そこで「酉」が付いているのである。なお「酷」には、転じてはなはだしい、きびしいの意になった。(「語源のたのしみ」 岩淵悦太郎) 


節松嫁々と智恵内子
江戸狂歌には、男まさりの女性たちも大いに活躍した。その代表格が、節松嫁々(ふしまつのかか)と智恵内子(ちえのないし)である。狂歌のペンネーム、いわゆる狂名もふるっている。自ら不始末の嬶(かかあ)だと開きなおるし、知恵が無いしなどと、これも逆説の表現だろう。嫁々の夫は山崎景貫(かげつら)といい、御先出組の与力を勤める歴とした幕臣である。景貫は狂名を朱楽菅江(あけらかんこう)といい、もちろんあっけらかんのもじりで、狂歌文壇の重鎮の一人であった。妻の嫁々は、夫が楽しんでいる狂歌に興味をいだき、「わたしも仲間に入れてください」と始めたにちがいない。こんな歌を詠んでいる。
買はばやな月はおぼろに春の夜の花も酒屋のかよひ尋ねて
酒屋は花の盛りにかけ、かよひには通いつまり後払いの通い帳、そして花の香りをかけている。そしてまた、
かたぶけしきのふの酒の二日酔そらにいざよふ盃のかげ
昨夜も月見の酒をすぎたのに、今夜も盃のような丸い月に誘われてまた飲みたくなったと、嫁々はかなり酒好きだったようだ。(「大江戸浮世事情」 秋山忠彌) 


酒の話
坂本君(わかもと社員)が出勤の途中に寄つたので、袋田行(二十人ぐらゐ同行のピクニック)の打ちあはせをした。(中略)四時十五分家を出て虎の門の(欠字)に行つた。入口で帆足図南次君に逢つた。あがつて待つてゐると森田草平君が来、馬場孤蝶翁が来、最後に戸川秋骨翁が来たので、すぐ晩餐になつて、いろいろの話をした。話は酒についてであつた。昔、戸川秋骨と島崎藤村の二人が鎌倉のソバ屋へ入つて五勺の酒を註文した話、與謝野晶子女史は酒徒でウヰスキーをのむことなどを話した。馬場翁は明治二年生の七十歳、戸川翁は明治三年生の六十九歳。森田君は明治十四年生。私は森田君の一つ兄だ。(「文士の風貌」 井伏鱒二) 田中貢太郎の「思い出すままの記」にあるそうです。 


飲まず打たず食わず残らず小商人(石川ことゑ)
『続番傘一万句集』から。飲む打つ買うは、やらないのに金は残らない。小商人、小商売の切実さは、<雨を手に受けてむなしい小商人>(たけし) <自費で飲む会ばっかりの小商人>(成光) <そろばんの左右汚れぬ小商人>(柳次) <くたびれた手帳をのぞく小商人>(秀史) いずれも『番傘一万句集』。こういう句境は『番傘』そのものであるが、どうも切実すぎて気がめいり、石川ことゑ氏の遊びのほうがまだよい。 
先に食べましたと夫婦で守る店(田村百合子)(「川柳でんでん太鼓」 田辺聖子)


お天気祭り
時には天気の回復を願っての「お天気祭り」なるものをする。これは、撮影前夜、スタッフは一部屋に集まって大酒を飲み、ドンチャン騒ぎをして暗雲を吹きとばすという、ぼくたちの世界に古くから伝わる儀式である。御神酒の入り具合が中途半端だったりすつと、御利益がとたんに薄らぐといわれていることから、みんなここぞとばかりに飲む。(「世界美味美酒文化雑考」 映像ディレクター冨田勝弘) 


陶庵公
留学前柳橋あたりで盛に豪遊をやった頃の話に、平時の如く花妓数名と飲むやら歌うやら大騒をして居ると、次の室にも豪遊連あり、何処の藩か国なまり怪しく四五名の武士が同く芸者を対手に驕て居ると、斯る時には能くある例で、何かの事から襖越しに口論が始まり売言葉に買言葉、サア来いと遂には腰の朱鞘が承知せぬ事に立ち到り、対手は四五名の荒武者、此方は唯った一人の公達で、愈々切り結ぶと云う一段、若し此時イヤこれは西園寺様かトンダ失礼を、諸君静に静にこれなるは西園寺公(西園寺公望)ぞと一人の武士が其の中から飛出さなかったら或は哀れ二十一歳を最後、其時膾になって居る筈、これは三十年も前の話であるが、公の性格には今も昔にかわらぬきかぬ気のところがあって、冷々たる智魂の外、別に勇猛の精神がある。これは侯に親しくして居る者の外は一寸解らない気質である。されば若し必要さえ起らば侯は何時でも馬を陣頭に立つるを辞しないと余輩は信じて居る。(「陶庵随筆」解説 国木田独歩) 


雲上と雲上・山桜
さて、わたしたち「おでかけこみしょう(お出掛け米味噌醤油)」が最初に向かったのは「山のおいしさ学校」。廃校になった旧高根小学校の木造校舎を活用した、地域起こしの拠点である。教室は手打ちそばを出す農家レストラン「IRORI」や、どぶろくの醸造場(高根の人は"ぞうじょうじょう"と訛るため、看板の表記は高根造醸場)になっている。どぶろくの責任者が(鈴木)信之さんとわかると、参加メンバーはよだれをたらして喜んだ。そこで、信之さんが味噌仕込みの前にどぶろくの特別レクチャーをすることになった。どぶろくは昔から各地でつくられてきたが、戦後は酒税法の強化で取り締まりがきびしくなった。しかし、小泉首相の時代に構造改革特別区が立法化され、突然、各地にどぶろく特区が誕生した。地方活性化のためなら醸造してもかまわないことになったのだ。製法はごくシンプルで、ご飯に水、米麹、酵母を加えるだけ。数日でアルコール発酵して、とろりとした乳白色の出来上がる。当然、ここ高根では原料の米には栄作さんの一家のコシヒカリを使用する。また、村上の銘酒・大洋盛の田澤勝杜氏が醸造のアドバイザーをつとめているそうだから、ずいぶん贅沢などぶろくである。「雲上(くものうえ)」という名称だ。説明してくれる信之さんも、その隣の實さんと栄作さんもにこにこ顔なのは、自分たちの土地の産物を見て、はるか東京からきたわたしたちが芽を輝かせているからだ。どぶろくを仲立ちにして、試飲する前からすでにムラとマチは交流していたのである。そして最後に、新作の赤色清酒酵母で仕込んだピンクの「どぶろく雲上・山桜」を見せてもらい、全員が夜の試飲会への期待で胸をふるわせてしまった。(「一食一会」 向笠千恵子) 新潟県岩船郡朝日村高根だそうです。 


共産国の日本料理屋
ロルフ・アンシューツという東ドイツ人がいて、チューリンゲンのズール市で日本レストランをやっています。彼はずっと以前から日本に興味を持っていて、ズールに日本料理の店を開いてみようと考え、国に働きかけ、幸運にもそれが実現したのです。江戸時代、日本料理屋には必ず内風呂がありまして、客はまず風呂に入り、その後、浴衣なり丹前なりに着替えてから宴会が始まるというのが当時のパターンでした。アンシューツは、その昔の料理屋の本を読んだらしく、それを忠実に踏襲して、タイル貼りのプールのような風呂と宴会場を作ってしまいました。この店は、毎日三百人くらいのお客様をこなします。お客様は成績の良い労働者の御一行さんが団体で来るのが多いようでした。バスで店に到着すると、まずガウンのような着物(化繊で出来ていて、例のスーベニアショップでよく見かけるのと同じもの)を着せられて、お風呂に案内され、男性も女性も一緒に入ります。風呂の深さは大体成人の胸くらいあります。もちろん裸です。ドイツの人達というのは、ヌードに対して抵抗があまりないのか、無邪気なものです。そして、風呂の中で、酒盛りが始まるという寸法です。酒はドップルコーンといって、ズール地方の焼酎なのですが、かなり強い酒です。風呂につかり、裸で肩を組みながら、歌ったり飲んだりして、まずは浴中宴会は陽気なものです。東ドイツ人はこれが日本だと思っているのでしょう。私も仲間に加わったことがありますが、連中と肝臓の作り方の違う日本人は、もうそれだけでへべれけになってしまいます。一時間くらいの"お風呂パーティー"が終わると、男性は紺、女性は花模様の先程の着物を着せられ、お座敷に席を移します。(「共産国の日本料理屋」 出井宏和(割烹「出井」主人)) その後、焼き鳥、すきやき、天ぷらといったぐあいに、一時間ぐらいごとに料理が出て、その間延々と酒を飲んでいるのだそうです。日本料理の教師としていった時の体験だそうです。 


トウロク病棟
アメリカでは約五百万人のアル中患者のうち三割が女性だといわれている。イギリスでも「十年前にはアル中患者の男女比率は八対一だったのに、今では三体一にちぢまった」と発表された。アメリカのコネチカット州にあるアルコール中毒ガイダンス・センターには、アル中の女性を妻に持った男性の悩みが数多くよせられている。その中には、「私が会社に行っている留守の間に、妻がスーパーマーケットに酒を買いに行けないようにバッテリーをはずし、キーをかくしておいたのですが、妻は酒飲みたさの一心で車の整備のことを勉強してバッテリーを元どおりにつなぎ、キーを探し出して酒を買いに行くのです」というような告白もある。日本でも女性の飲酒人口はふえる一方で、その結果、アル中患者も発生し、国立療養所久里浜病院では昭和四十九年から女性アル中患者を専門に収容する病棟を設けた。浦賀水道を望む高台にある東六病棟がそれで、通称「トウロク」。(「言葉の雑学事典」 塩田丸男) 


十面
年の暮れに、米屋薪屋味噌屋酒屋、われもわれもとつめかけて「お払ひは出きませぬか」といふ。亭主、座禅したるごとくの大の眼をむき出し、一向有無の挨拶なし。掛取どもあきれはて「お払いはともかくも、なぜそのやうに十面(渋面)つくつてござります」「ハテ九面(工面)が悪いから」(鶯笛・天明頃・十面)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


保証つきの酒
全国的にみると、二十年八月から十二月までに死亡九百九名、二十一年七月までの一年間には、死亡千五百五十七名、失明者百九十九名、犠牲者平均日に四名を出し"メチール恐怖時代"となっていった。とくに正式配給ルートの焼酎でやられたものが出たり、"これは大丈夫"と医者の証明したのを飲んだところ失明した…というのがあらわれたりすると、酒の総てが信用できなくなり、『どうだい一杯?伯父のところから、取っておきというのを一本、まきあげてきたよ』と、大丈夫のウィスキーをさされても、『俺を殺す気かい!?』なぞと、とんだインネンをつけたりするのも出てくる始末であった。致死量は、メチールに対する抵抗力-つまり、体質とか、これまでに酒を飲んでいる、いないといった経験によって違うが、だいたい、三〇グラムから一〇〇グラム、猪口に三杯くらいまでといわれているので、保証つきの酒でも、はじめの三杯まではスリル満点であった。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


酒ゆえに病を悟る師走かな
余計なことを書かなくてもいい句である。無性に酒好きのこっちには、しみじみと身につまされる。其角がこよなく酒を愛する人であったこと、もうすでに何度かふれている。そこでおまけに其角の酒の句のオンパレードで。まずは、何とも愉快極まる句から…。 酒を妻妻を妾の花見かな 酒の上に酒を重ねてドンチャン騒ぎ。こうなりゃ、槍でも鉄砲でも持ってこい、女房だって怖かあないやい! 名月や居酒のまんと頬かぶり この句は前にいっぺん講釈したが、鄙びた居酒屋の酒ほどうまいものはない。居心地のよろしい居酒屋が、近頃はほんとうに姿を消した。 猿のよる酒家きはめて桜かな 「猿のよる」とはいかなる飲み屋か。まさか料亭なんかじゃあるまい。もうたっぷりきこしめして、顔を真っ赤にしたやつが縄暖簾をくぐって来たの図ならん。 酒買ひにゆくか雨夜の雁ひとつ 「雁の便り」といって雁が郵便屋さんのかわりをすることは存じているが、この句の雁は雨をついでわざわざ酒を買いにいってくれるらしい。いやあ、有難いことであります。(「其角俳句と江戸の春」 半藤一利) 


春本助次郎
 曲芸の春本助次郎。酔って野次る客を高座から下りていって張り倒してから続きをやったという。
春風亭小柳枝
 酔っ払った揚句の留置所で味噌汁を一口飲むなり、看守を呼びつけ、「味の素を持って来い!」(「芸人その世界」 永六輔) 


飲まれる勿れ
私自身の例を申し上げる。私は、会社を辞めてから、前例により、その後一回だけ、会社の慰安旅行に連れて行って貰った。そして、その夜は、南房総で一泊したのである。夜の宴会のとき、私はこの中で、自分だけが、サラリーマンではないのだ、という解放感と、ある種の侘びしさもあって、大いに飲んだ。愉しく飲んだ。バカ騒ぎもした。私は、カメラを持って行っていた。翌日、私はそのカメラを見ると、随分と撮ってある。まだ、十枚ぐらいしか撮ってない筈だ、と思っていたのに、二十枚ぐらいを撮ってあったのである。しかし、私は、たいして気にもとめずに、残りを撮った。が、後日、そのフィルムを現像してみて、私は、おどろいてしまった。宴会中に、十枚ぐらい撮られているのである。たとえば、私が真ん中になって、女事務員たちに取りまかれて、いい気になっている、というようなものが何枚もあった。しかし、私は、そういうことを、全然、覚えていないのである。どう考えてみても、思い出せない。第一、いつの間に、私のカメラが、宴会場へ持ちこまれたのか、まるで、記憶にない。そして、私が、撮っているのでなしに、撮られているのだが、誰が、撮ってくれたのかも、見当がつかないのである。もし、この証拠写真がなかったら、私は、そういうことがあった、ということを、永遠に忘れてしまっているだろう。かりに、誰かにいわれても、嘘だ、と答えるに違いない。しかも、私の写真の顔は、ちゃんと、レンズを意識しているから、そのときは、わかっていたに違いないのである。私は、つくづく、酒というものは恐ろしい、と思った。自戒しなければならぬ、と肝に銘じた。(「新サラリーマン読本」 源氏鶏太) 文壇酒徒番付(昭和38年版)  


きずたの冠
イタリアは、ぶどう栽培の盛んな村であった。村人たちは彼バッカスをあがめ、彼はここに落ちついてぶどう栽培の改良と、ぶどう酒の製法を教える。なぜ彼がそれを知っていたのか?ここのところが不明なのだが、とにかく神のすること。不可能ということはない。彼がワインの神となったのは、イタリアにおいてであった。また、彼はつねに常春藤(きずた)で編んだ冠を頭につけていたという伝説もあり、のちの世に、西欧の居酒屋の看板に"きずた"を用いるようになった。"きずた"は日本の松と同様、長く綠の色を保つ丈夫な植物で、ぶどう酒による悪酔いをさます効き目をもっているともいわれ、競技の勝者にまぶせる月桂冠に次ぐ冠として親しまれながら、現在に至っている。(「洋酒こぼれ話」 藤本義一) 


庄助さんの墓
白河に行くと会津バンダイ山の唄にでてくる"小原庄助"サンの墓がある。呑兵衛の墓だけあって徳利の形はさーすが、と見物客はたまげる。安政五年に死んだという彼には高給取りかどうかは判らないが、酒代は相当なものだったろう。酒税が三〇~五〇パーセントというご時世だが、今日であったら高額納税者の一人ともいえる人だが、調べるほどに架空人物説もある。でも豪快に呑むというのはいいものだ。白河の駅ではカン酒ぐらいあってもいいのにと思うのだが、ビン詰がぞろりと並んだだけ。(「味のある旅」 おおば比呂司)お墓は白河市の皇徳寺にあるそうです。辞世の句は、「朝によし昼なほよし晩によし飯前飯後その間もよし」、戒名は「米汁呑了信士」だそうです。 


無罪は明白
パトリックは、免許もないのにウイスキーを一壜売ったとがで法廷にひきだされた。「この男をよく見てください」弁護人が判事にいった。「かりに彼がウイスキーを一壜持っていたにしても、それを売るなんてことをほんとに出来ますか」判事はパトリックを一瞥し、即座に無罪を言い渡した。(「ポケット・ジョーク」 植松黎 編・訳) 


椎茸酒の実験
ところが少しの酒で、うんと酔おうというのにはどうしたらいいか、われわれはその方法を知らない。こういうことをいい合っていたところが、それはなんでもない、簡単な方法で、効果はてきまんというのがあるという。聞いて見ると、ほし椎茸を水につけて、ふやけさして、そのしるを酒に入れると、たいへんにきくというのだ。それじゃあ、ひとつそれをやってみようということになり、当時の侍従長の大金さんをはじめとして、侍従や侍医の酒好きなものが集まって開帳することになった。その晩は大金さんのとっときの酒でやることになり、同氏出品の一升壜がその座に置かれた。かんができたので、一同おもむろにちょくを手にして、いつもよりよっぱど慎重に、まるで聞き酒でもするような態度で味わった。これはなるほどきく、という意見になり、みんなこれで首尾よく目的を達したと思って喜んだ。ところがおかん番は「まだ何も入れません」という。これには驚いた。大の男が、しかもみんないちおうの酒のみと思っている連中が集まって、これは何という醜態であろうか。この程度の暗示にかかっていては、これから先が思いやられた。いよいよ椎茸のしぼり汁が入れられることになった。とっくりの口もとへ、水からあげたばかりの椎茸を持っていってしぼっている。黒褐色の汁がとっくりの中に入っていく。われわれは、おそろしいような、やるせないような、首の座になおったような気持ちでこれを見つめている。椎茸入りの酒がみんなにつがれた。みんな同時にちょくをとって、目でいちおうの挨拶をかわして、ぐっとのんだ。乾物の椎茸のにおいがつよく鼻につく。色は別にかわりはない。四、五杯やったか、あるいは十杯もやったろうか、侍医の塚原博士が、俺はもうのめないといい出した。十杯や十五杯で酒をやめる塚原さんではないはずだ。けれどなんとなく胸がむかむかするし、妙に頭痛もして来たというのだ。私はそのころは別に気分はわるくならなかったが、干し椎茸の、あの一種のかび臭いようなにおいが妙に鼻について来て、ちっとも酒がうまくない。わずか十杯ほどでこうも酒をのむ意欲をうしなってしまうというのは考えられないことである。けれどもせいぜい一合ぐらいしかのまないと思うのに、普通の酒なら五、六合ものんだような具合になってきた。そのくせ別に酔ったとも思われない。陶然となどは決してならない。ただこれ以上もうあんまりのみたくない。というその具合が、五、六合ものんだ時のようなのである。とうとうなんということもなく索然としてしまって、一座はお通夜のようにめいってしまった。そしてアッというまにその宴会はお開きということになった。そのころ私は牛込の焼けあとの壕舎に住んでいたのだが、どうして帰ったのかわからずに、とにかくうちには帰って来た。このころにはすでに椎茸の毒酒が全身にまわって来たとみえて、ブッたおれるように臥(ね)てしまった。-われわれの仲間が、爾来、椎茸酒を一度もやらないのは、ここに重ねていうまでもないことである。(昭和三十二年)(「侍従とパイプ」 入江相政) 



酒一升、徳利へ入つたまゝ拾ひ「これはありがたい」と早速燗をつけてゐる中に、目がさめてみれば夢。「エゝ、ひやで飲めばよかつた(落噺笑種蒔・安政三・上酒) (「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 『笑府』の「好飲」(殊禀部)の翻訳だそうです。 志ん生落語の上戸と下戸 


居酒屋のテーブル
田中(優子) 居酒屋さんというのは、酒屋さんについている。時代劇を見ると、居酒屋にテーブルがありますが、ああいうことはまずなくて、ベンチです。畳が敷いてあるベンチで、テーブルは存在しませんから、お酒は自分の横に置く。ホステスもいません。酒屋の丁稚が運んできます。
玉村 その時はおつまみというか、あてのようなものはあるんですか。
田中 ごく簡単なものです。飲むところで、食べるところではありませんから。水茶屋もお団子などを出しますが、形式はまったく同じベンチです。
南 縁台みたいなものですね。
田中 ふつうは簡単に腰をかけて、横に酒や団子を置くわけです。
玉村 女性の客はどうなんですか。
田中 居酒屋に女性がいるという絵は見たことがないですね。水茶屋には女性がいますが。水茶屋の美女をテーマにした浮世絵があるくらいで、水茶屋は女性がいるので有名なんです。居酒屋ではお酒を運ぶのも男性しかいませんから。(「下戸の酒癖」 玉村豊男編)  


「ぼくもー」
ぼくが初めて酒というものを飲んだのは、幼稚園に上がる前のことだったと思う。ぼくの生家は高知から少し外れた物部川のそばの土佐山田町というところにあって、ちょっとした商売をやっていた。親父は早く死んでしまったので、祖父母とお袋、姉とぼくの五人暮らし。お袋はあまり飲まなかったが、爺ちゃんは大の酒好きだった。毎日、夕方近くになると、爺ちゃんは囲炉裏の前に座って、干物などをあぶりながら、ちびりちびりとやっていたものだ。それがよほど旨そうに見えたのだろう。子供心に欲しくなって「ぼくもー」とねだると、「じゃ、ちょっとだけだぞ」といいながら、なめさせてくれた。そのころ、爺ちゃんが常飲していたのは濁り酒のような田舎の酒で、甘口ではないから、子供が飲んで旨いはずがない。おそらく最初は「ウヘー」という顔をしていたと思う。でも、飲まされるのがいやだったら、そんなにいつも爺ちゃんのそばに寄りついているわけはないから、そのころから酒飲みの素質はあったようだ。小学校五、六年生のころには、晩酌のたびに爺ちゃんが「たいらもやるか」と盃をくれるようになっていた。(「今夜もハシゴ酒」 はらたいら) 


江戸町民の女性
玉村 (江戸町民の女性は)飲んでない、という証拠もない?
田中 全然ない。よくみんなで集まりをやることがあったんですよ。月並み会とか、日待ち、それに講だとかあるでしょう。そういう場合は、男性も女性も集まって、目の前にお酒と食べ物があって、あとは話をするだけ。日待ち講なんて、夜更かしですから。農村の場合では、えびす講といって女性だけの集まりもありました。その場合でもお酒が出ます。もともと、たとえば伊勢講のようなものは神聖なもので、お酒を飲むどころか一週間くらい清めに籠(こも)っていなくちゃならない、というものなんですが、そういうものもどんどん崩れてきて、しだいに宴会になっていく。
玉村 そうすると、江戸時代あたりまでは女性もおおらかに酒を飲んでいた、ということで間違いないですか。
田中 武士の妻以外はタブーがないですね。それに武士の妻は人口的にはごくわずかです。ですから全体の八、九割の女性には強いタブーというものは感じられません。これは可能性としてですが、明治以降、結婚に関する考え方だとか、家庭や家に対する考え方に、武士のやり方というのが広がっていくんです。家という考え方も、本来日本人には大したことではなくて、武士以外はほとんど実力主義ですから、養子をとったり、血がつながっていなくても全然平気です。とくに血縁に対する固執というのは少ないでしょう。武士階級だけだと思います。家という意識が庶民のものになるのは明治以降になってからです。江戸の長屋の庶民が、家なんて考えたわけないんですよ。(「下戸の酒癖」 玉村豊男編) 玉村の対談相手は田中優子です。 


スダチ
スダチは夏から秋に手に入るので、これを輪切りにして盃に浮かべる、これもお燗をした酒なればこそである。きりっとして匂いと爽やかな酸味が添い、涼しげだが、ながく酒に漬けるのは邪道で、すぐ引きあげること。(「性分でんねん」 田辺聖子) 


赤マタ黒マタ
ここでその年成人として認める青年たちを二〇名選定する話し合いをする。男は十四、五才に達したものの中から、女はすでに嫁いだものか、婚約したものの中から選らばれる。年ごろの子をもった親たちは、拝所(おかんじょ)の選定会議で自分の子供が選らばれるようにと、古老たちに盛んにごまをすって事前運動をする。選ばれた若者のことをアラジンといっていよいよ部落の一人前の人間として認められるのだが、平常品行が悪かったりすると、アラシンとしての資格に欠けるというわけで翌年にくりこされたり、ときには何年も選らばれないまま年をとってしまうものもある。アラシンの選定が無事終わると、祭りが始まる。最初の日はツカサという収穫を神に感謝する祈願を拝所で行う。二日目、神聖な森の奥深くに生えるガジュマルの木の下に赤マタ黒マタの二つの面を安置する。香をたき、敬虔な歌をささげ面に清水をふりかけ、赤マタの面は紅がらで、黒マタの面には墨で色をほどこす。さて、アラシンに選らばれた男女が数人づ組になって赤マタ黒マタの面を置いてある神聖な森にやってくる。道の要所要所に村の三〇才以上の男たちが張りこんでいて、「お前たちは、なにしにここへきた」「お前のような弱い体では、とても村の人間にはなれっこないよ」婚約した女のアラシンには「お前は亭主と別れて、別の男をつくる気だろう」などと難問をあびせててさんざんおどかしたり、いじめたりする。アラシンはこの難問をほうほうのていできり抜け、ようやく神聖なガジュマルの座に入ることを許される。アラシンたちは赤マタ黒マタの面に祈願し、この祭りの秘密を絶対他のものに口外しないことを誓い、神酒を飲む。どんな秘密かは知らないが、人気のない森の中のこと、よからぬたくらみをもつ連中もいようというもの。この儀式が終ると、祭りに参列した人たちみんなで酒を飲みかわし、歌をうたい、踊りをおどるにぎやかな宴席に変る。(「日本の奇祭」 湯沢司一・左近士照子共編) 沖縄・八重山地方の祭りだそうです。 


蜜柑(みかん)金柑(きんかん)酒の燗親は折檻(せっかん)子はきかん
【意味】口遊びの一つ (「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


大盃
さて九代目、五代目に対して(初代市川)左団次の酔態はなんといっても「大盃」である。題名の通り、これは酒のみのための芝居といってもいい。井伊掃部頭(かもんのかみ)が、内藤紀伊守の屋敷へきて酒宴になる。掃部頭は大酒豪、内藤家には相手をするものがいない。そこで足軽原才助を急に侍に仕立てて酒の相手に出す。才助をその額の傷から武田の遺臣、豪傑馬場三郎兵衛と見破った掃部頭は、三郎兵衛に酒を勧める。三郎兵衛はまた大盃で酒を飲み、掃部頭に負けない。三郎兵衛に戦物語を所望した掃部頭は彼を自分の家来にしたいと紀伊守に所望する。しかし本人がウンといわない。掃部頭はどうしても三郎兵衛がほしい。そこで三郎兵衛に、武術の試合を挑み、屈服させようとする。三郎兵衛もある者で、大盃を受けたあとにもかかわらず、ついに掃部頭に勝つ。これだけの芝居だから、見て面白いというものではない。これが評判になったのは豪放磊落な三郎兵衛の人柄が初代左団次にピッタリだったからである。(「芝居の食卓」 渡辺保) 


叫化鶏(ジアオホアジー)
叫化鶏(乞食鶏)は、なんとしっても、そのつくり方が素晴らしい。まず、鍋がいらない。つぎに、水もいらない。もちろん、包丁など不要。ただ、泥だけがあればいい。その昔(明末清初)、江蘇(こうそ)省の常熟(チヤンシユウ)にいた叫化子(ジアオホアズ 乞食)が、鶏を盗んだものの、鍋ひとつなく、どうしようもなかった。ふと思いついて、泥をぬりたくって(泥をぬって隠しておいたとも)、そのまま焼いたところ、とっても旨かったという。乞食は泥の鶏が、あまりにも熱かったので、地面におっことしたというのだが、このときに、鶏の毛は全部、泥と一緒にぬけおちたそうな(本当かな)。鶏は紹興産の越鶏(ユエジー)。塗りつける泥は、紹興酒の瓶(かめ)の口を封じるのと同じ粘土を用いるのが、一番だとか。したがって、一説では、浙江省の杭州の名物とも。また、香港ではこの逆で富貴鶏(フウグエイジー)と呼ばれているからおもしろい。(「美味学大全」 やまがたひろゆき) 


しもつかれ
謎の料理「しもつかれ」は江戸時代初期から初午(はつうま 二月最初の午の日)に作られ、赤飯と一緒に稲荷神社に供えられてきた。しだいに初午以外の日にも食べられるようになり、いまでは県内の学校給食にも取り入れられている。しもつかれを一言でいえば、冬の残り物の酒粕のごった煮だ。塩じゃけの頭を細かく切ったもの、節分で使い切れなかった大豆、大根や人参のすりおろし、油揚げなどを煮込んで、酒粕で味と香りを付ける。大根と人参については、専用の竹製おろし器「鬼おろし」を使って、粗くすりおろすというこだわりようである。このしもつかれ、すりおろし大根のドロドロ感もあって、見た目があまりよろしくないという声もある。その欠点を補って余りあるのが、極めて高い栄養価だ。動物性・植物性双方のたんぱく質をはじめ、EPA(エイコザペンタエン酸)やDHA(ドコサヘキサエン酸)などの魚の油、カルシウム、カロテン、食物繊維などがバランスよく含まれている。古くから、「しもつかれを七軒食べ歩くと中気にならない」という俗言さえあるほどだ。(「日本全国奇天烈グルメ」 話題の達人倶楽部編) 


禁酒禁煙の婦人矯風会
去る十一月中麹町区中六番町なる桜井女学校長矢島かぢ子女史外数十名の主唱にて、婦人矯風会なる者を設け、婦人社会の弊風をため、飲酒、喫煙を禁じ、以て婦人の品位を高めんとて、虎の門外なる耶蘇教会堂に同志者を集め、種々評議ありし末、本月六日日本橋区両替町の耶蘇教会堂に於て、役員選挙会を開きしに、会長は矢島女史、書記は佐々木豊寿、服部ちよ、会計は海老名みや、三浦りうの諸氏が当選されしと云ふ。<明一九・一二・一一、朝野>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


口かみ酒の研究
栗山 今、口かみ酒を研究している先生がおられまして、名城大学の山下勝先生が、女子学生ばかり使って…。どうして女子学生を使ったのかと聞きましたら男子学生と女子学生とを比べると、女子の方が唾液の中の糖化酵素が多いんですって。
佐藤 本当に…。
栗山 口かみ酒は、唾液の糖化酵素でデンプンを糖分にかえるのと同時に、口の中の酵母も入れているわけですね。それには、個人差があって、何回うがいしても酵母が減らないという奇妙な女子もいるそうですよ。(笑)(「酒を語る」 斎藤茂太・佐藤陽子・野白喜久雄・栗山一秀・濱本英輔) 


下戸のため
古参のタレントともいうべき永六輔は、下戸である。この人はうまいエッセイを書くが、私の目にはいま一つ物足りないのは、まったくの下戸のためではないかと思っていた。そんな永六輔が九州の島原へ行ったとき『まぼろしの邪馬台国』を書いた盲目の作家、宮崎康平に酒をすすめられた。「飲め」といわれて「ハイ、飲んでます」といったけれども、飲んでいないのは宮崎の鋭い勘で察知された。すると宮崎は、なみなみと大盃に酒を注いだものを口もとへもっていけといい、この酒は島原の人間が地元の水と米と島原人の心意気で造ったものだから、この酒を飲むことは島原とのつき合いが深くなることだという。それでも飲めないといえば、その酒を渡ってくる島原の風を飲んでくれといった。永は、酒を飲まないで風を飲んだが、これがほんとにおいしく、しかもその風に酔ったというのである。(「酒飲み仕事好きが読む本」 山本祥一郎) 


その後 の是清
若い頃は、オヤジも相当メチャクチャなことをしたようですね。アメリカに渡って奴隷にされたという話は有名ですが、他にも浴びるほど飲んだり、ペルーの銀山に投資したり…。このペルー銀山の話は、後に母がよく話していました。借金の払いに家屋敷を全部売り払って、同じ町内の長屋に引っ越したんです。ところがそれでも、長屋に毎晩のように友達を呼んで酒盛りをする。ちょうどその頃、母は私の姉をみごもっていたんですが、「おい、酒がないぞ」と言われて、大きなお腹をかかえて酒を買いにやらされる、「あんなきまりの悪いことはなかった」とこぼしていました。ただ私が生まれた頃は、もう日銀の副総裁になっておりまして、子供心にもずいぶん厳格な父親でしたね。お酒も晩酌にお銚子一本か二本、歳とってからは、ワインをグラスに一杯だけでした。(「血族が語る 昭和巨人伝」「高橋是清」 高橋是彰) 


魚屋宗五郎
その五代目(尾上菊五郎)のために、河竹黙阿弥が筆をとったのが「魚屋宗五郎」である。この芝居には酒乱の宗五郎のほかに、もう一人の酒乱が出てくる。磯部主計之介という殿様である。芝片門前の魚屋宗五郎の妹お蔦が、この磯部主計之介に見染められて妾奉公に上がる。主計之助はお蔦を寵愛していたが、お家横領をたくらみ、しかもお蔦に横恋慕した奸臣岩上典蔵が、お蔦が裏戸紋三郎と不義をしていると讒言したために、酒乱の上に嫉妬にかられた主計之助はお蔦を手打ちにする。一方宗五郎は酒乱のために禁酒している。ところがそうとは知らぬお蔦の召使のおなぎがお蔦のくやみに酒を持ってくる。しかもお蔦手討ちの真相を話すので、カッとなった宗五郎は、おなぎ持参の酒を飲んで、磯部の屋敷へ暴れ込む。そこで主計之助は、宗五郎にワビをいうのである。五代目の宗五郎は、酔いが醒めて主計之助のワビを聞き、「お蔦、うかんでくれろ」というところが観客の涙をそそってという。宗五郎は酒乱の自分と同じ病を主計之助に見たのである。お蔦を殺したのは、いま自分の目の前にいる主計之助じゃない、酒乱そのものなのだ、ということは自分が殺したのも同じではないか。そう思ったから「お蔦、うかんでくれろ」というのである。 さて宗五郎内では、宗五郎が周囲の人間がとめるのも聞かずに酒を飲んで酔っていくところが見どころである。五代目はここに工夫した。酒を角樽からあける片口に紅を仕込んでおいて、顔をかくしながら顔を赤くしていったという。いまはそんなことはしなくなったが、いかにも形を大事にした五代目らしい工夫である。(「芝居の食卓」 渡辺保) 


宴会
明治三十年代は宴会の全盛時代であった。週に二回ぐらい宴会の呼び出し状が来ないようなのは、「給料取り」(今のサラリーマン)としては、下の下であると評された。さて、その宴会の模様を幸田露伴博士は次の如くに述べて居る。「世上の光景を考うるに、まずは大抵の人は貴きも賤しきも一様に、これも世に立つ税の一つと、多少はあれど忍耐して、生きた肉へ義理の麦粉(ころも)をかけ、袴羽織の勿体姿(もったいすがた)、烏賊野(いかの)甲助君、海老名曲君、垣上浪四郎君、海鰻(あなご)長雄君などの面々、我から我をあげる何々楼の大広間、心中の種のまづいところは見せぬ天麩羅交際の上滑り、油をさした口車の調子ばかりは無闇によく、いや今日は能く御来臨で。その後は頓と御無沙汰ばかり、お変わりもなく、御盛んなことで…」と、これより芸の自慢。そのほかに移って細叙してある。(「明治語録」 植原路郎) 


レーウェンフック
この顕微鏡はそれまでの拡大鏡であった虫メガネとはまったく異なった複雑な構造をしており、球形のレンズ(a)は二枚の金属板の間に固定されている。観察者は、観察しようとする試料を針の先のように鋭く尖った(b)の先端に載せ、(c)および(d)を回転させながら焦点を合わせてから(a)のレンズに眼を密着させて観察する。拡大率は(a)のレンズを取り換えることにより行ったが、この顕微鏡は大体五〇倍から三〇〇倍の拡大率で明瞭な像をとらえるという精度の高いものであった。五〇倍であれば糸状菌(カビ)の胞子はよく見え、三〇〇倍では、五ミクロン(一ミクロンは一〇〇〇分の一ミリメートル)ほどの酵母の形なども容易に観察できる。レーウェンフックは、このタイプの顕微鏡を数百個もつくって、手の届く自然界の多くのものを克明に観察した。彼が自然科学の歴史上、非常に偉大な業績を残したのは、実はこの顕微鏡の発明よりも、それを使ってさまざまなものを発見したその観察力にあった、といった方が正しい。原生動物、細菌、酵母、カビ、淡水性の藻類といった微生物の発見(一六七三年)、横紋筋の微細構造(一六八三年)など、次から次に顕微鏡下の世界を世に知らしめた。(「醗酵」 小泉武夫) 



浮かぶ盞台
[九]東叡の山外に伊呂波(いろは)茶屋と云(いへ)る所あり。その家の中にて或時(あるとき)、来客の目前なる盞台(さかづきだい)、自然に空中にあがる。いづれも驚きさわぎたれば、行燈(あんどん)、烟架(えんか)の類(たぐひ)皆あがる。人々不思議に思ひ、逃還(にげかへ)りけるが、毎夜この如(ごと)きゆゑ、後は驚く者もなく、却(かへつ)てこれを視(み)んとて、人多く来れり。然(しか)るに或夜、火鉢にかけたる鉄薬罐(やくわん)に湯よくたぎりて有るもの空中にあがりけるが、何(いか)にしてか忽(たちま)ち落て、湯ばな四方に散ちたり。是(これ)より怪一向に止(やみ)たりと云。従来、狐狸の人を欺きしなるが、やけどして己(おの)れ沸湯をあびしに驚き、懲りて止めたりしか、咲(わらふ)べし。(「甲子夜話」 松浦静山 中村・中野校訂) 巻二十一です。 


家飲み派
居酒屋などに寄らず自宅で晩酌を楽しむ「家飲み派」が86.2%に上ることが、ビールの業界団体「発泡酒の税制を考える会」が12日まとめた調査で分かった。調査開始の2005年(75.1%)より10ポイント以上も上昇。ビールを飲み機会が1年前に比べて「減った」と答えたのが36.8%だったのに対し、価格が相対的に安い第3のビールは「増えた」が54.3%を占め、サラリーマンらの節約志向が改めて浮き彫りとなった。調査は6~7月、ビール類を飲む20~69歳の男女1000人を対象にインターネットで実施した。(読売新聞 '09.11.13) 


黒部猿田彦
江戸から続く俳句や川柳は相変わらず盛んである。だが一時期は江戸の文芸界を席巻した狂歌は見る影もない。ところが今、「現代狂歌舎」を主宰する黒部猿田彦(くろべさるたひこ)なる御仁が、『狂歌宣言-先千寿(さきせんじゅ)狂歌集』(一九九九年・論創社刊)を上梓して、狂歌の復興を志す。狂歌がはなつ面白さは、本歌取りいわばパロディ、これに掛け言葉や縁語を駆使するところにもある。もちろん猿田彦師も存分に発揮している。「小倉百人一首」のなかから二首ほどを本歌に、かの太田蜀山人と猿田彦師の作を並べてみよう。
花の色はうつりにけりないたづらに我身よにふるながめせしまに 小野小町
衣通(そとおり)の歌の流義にをのづからうつりにけりな女どしゆへ 蜀山人
鼻の色は変わりにけりなくれなゐにわが身に浴びる酒漬けしまに 猿田彦(「大江戸浮世事情」 秋山忠彌) 


阿佐ヶ谷会
私が阿佐ヶ谷会に入会を許されたのは、太宰君が自殺したあとであるから昭和二十三年以後である。そのとき、あの男は大酒飲み(これはとんだ誤解である)だから、あんな男を会員にしたら、われわれの飲み量が少なくなる、といって反対する会員があったということを聞いた。それほど会員は酒豪揃いで、その上、当時は酒を手に入れることがきわめてむつかしかったのである。<飲み会だから酒呑みの集まりであるのに不思議はないが、いつかそれをAクラスとBクラスに分けてみようとしたところ、Bクラスに入ると思われるのは辛うじて伊藤整君ただ一人で、あとは全部Aクラスであった。これには少々驚いた>と上林暁君も書いている。『酔いざめ日記』を見ると<二十四年十月六日、木、雨。阿佐ヶ谷会。会費七百円。幹事河盛好蔵、上林暁、井伏鱒二氏。>という記載がある。これは私が会員になって二回目か三回目の阿佐ヶ谷会である。その前日私と上林君が各自一升瓶を二本ずつ抱えて、虎ノ門近くの酒屋へ買出しに出かけ、途中都電の中で奥野信太郎さんに会って、「やあ買出しですか。お精が出ますね」と冷やかされたことを覚えている。(「井伏鱒二随聞」 河盛好蔵) 


漢・昭帝の時代
(漢の)昭帝が即位して六年、郡国に詔(みことのり)を下して、賢良・文学の士を推挙させ、民が苦しみなやんでいることと、民を教え導く要点について下問された。(1)彼らはみな「塩・鉄・酒の専売と均輸に関係する諸官庁を廃止して天下の民と利益を争うことを止め、節倹の模範を示されたならば、民を教え導かれましょう」とこたえた。桑弘羊(そうこうよう)は反駁した。「これは国家を支える大事業で、周辺の異民族を制圧し、辺境を安泰にし、国家の財政をまかなう根本である。廃止してはならない(2)」と。しばらくして桑弘羊は丞相の田千秋とともに酒の専売は罷(や)めるよう願い出た。(3)桑弘羊は国家のために大きな利益を興したのは自分であると、その功績を誇り、子弟のために官位を獲得しようとして大将軍の霍光(かくこう)をうらみ、そこで上官桀(けつ)らと謀反をくわだてて死刑になった。(4)
(1)始元六年(前八一)二月の詔
(2)塩鉄専売の是非をめぐる朝廷での論争で、この制度を養護した中心人物は、時の御史大夫桑弘羊、反対論を展開したのが郡国の賢良・文学六十余名である。『塩鉄論』六十編は、前漢宣帝時代の人桓寛(かんかん)がこの論争を記録整理し、加筆した文献とされる。
(3)始元六年(前八一)秋七月。この結果、民は申告して酒税を収めれば酒を作ることができるようになった。販売価格は一升(約〇・一九リットル)あたり四銭であった。(「漢書食貨・地理・溝洫志」 班固 永田・梅原訳注) 


カンタレッラ
この優雅で残酷で勇猛だったチェーザレのボルジア家には昔から”カンタレッラ”という有名な毒薬がある。即効性がなく、これをワインもしくは料理の中に一服盛られると、数日後に原因不明の死因で死ぬ、という便利なものである。チェーザレ自身は、毒薬よりは剣やその他の方法で人を殺すことが好きだったが、時として”カンタレッラ”を使った。このときは、ワインにしろ、料理にしろ、毒薬の香味をかくすために、味わいの濃厚なものであることが必要だった。そのために、ボルジア家のリザーブ・ワインならびに料理は濃厚で、美酒、美食であったと伝えられている。 (「美食に関する11章」 井上宗和) 


問題
微醺(びくん)-(イ)わずかな酒 (ロ)かすかな熱 (ハ)ほろよい (ニ)そよかぜ
酔狂-(イ)もの笑いになること (ロ)もの思いにふけること (ハ)ひどくものぐさなこと (ニ)ものずきなこと
回答
微醺-(ハ)ほろよい。 少し酒に酔うこと。「微醺を帯びて散歩する」。「微」は、かすか、少量の意、「醺」は、酒に少し酔うこと、ほろ酔いの意である。
酔狂-(ニ)ものずきなこと。 「わざわざ出かけて行くなんて酔狂な男だ」などと使う。「酔興」「粋狂」とも書く。「時計が欲しい為に、こんな酔狂な邪魔をしたんぢやない」(漱石『虞美人草』)「坊さんになるのは、酔狂になるんぢやないでせう」(同上)(「語源のたのしみ」 岩淵悦太郎) 

飲み代と旅費
「そうですか。では、最近での月々の旅費はどのくらいですか」と相手は執拗である。これならば答えられる。月平均で十万円前後であった。「うわあ大変だ。ボクの月給の半分以上が飛んでしまう」と若い記者が驚く。そんな比較をされても困る。齢も所得もちがう。好きな道に月十万円ぐらい投じてもいいだろう。むしろ、わが家の経済にとって問題なのは旅費ではなかった。飲み代、これのほうが旅費より多かったのである。じっさいよく飲み、よくつき合った、自分で言うのもなんだが、気前のわるいほうではなかった。だから自分の飲み代以上の金が流出していった。これは気の弱さ、見栄、さらには、どうにかなるさ、との生来の図々しさによるが、親から受けた教育でもあった。「ひととのつき合いにケチをするな。ケチをして貯金するような奴は大成しない」という意味のことを、私は父から吹き込まれて育った。ながい会社勤めを経てみると、全面的には肯定できないまでも、七、八割がた当っていたような気がしている。それはとにかく、飲み代と旅費という二つの大型出費に耐えねばならなかった女房は大変だったろうと思う。(「サラリーマン 小遣いのやりくり」 宮脇俊三) 


二日酔い社員
自由な社風ゆえか、いわば"瓢箪から駒"の発見もある。二日酔いで調子の悪い社員が、帰りがけに試験管を床に落としたのに気づかず、翌朝出社してみたら、床にきれいな膜ができあがっていた。ちょうど「ボンタン飴」をくるんでいる透明な膜のようなもので、これが天然多糖類からできた「食べられるプラスチック」として薬のカプセルや食品に使われるようになる。(「千年、働いてきました-老舗企業大国ニッポン」 野村進) トレハロースの大量生産に成功した岡山市の㈱林原での話だそうです。 


燻製
もともと燻製というのは、魚や肉などを保存食品として貯蔵するための人類が発明した方法の一つである。これを、いつ、どこで、だれがはじめたかについては定説がない。しかしスコットランドでは先住民族の時代から、魚の燻製を作っていたという伝承がある。あるいは燻製に関してはスコットランド人やアイルランド人に創始者として名乗りをあげる権利を、私が割合に認めるのも、次の理由があるからだ。すなわち、彼らは酒を、蒸溜酒を造る原料までもピートという泥炭を燃やしてその煙でスモークしているからである。もっとも、最近ではグレン・ウイスキーなどという雑穀アルコールが幅をきかせて、ピート臭があまり高く評価されない傾向にあるから、また酒のスモークドと魚や肉類のスモークドをあえて史学的に関連づけることもないかも知れない。すなわちバイキングは人間さえもスモークドしたくらいだから。要するにスモークドは、魚、肉を、樫(かし)、櫟(くぬぎ)、欅(けやき)、柏などの芳香性のある木を燃やして燻煙を立て、その煙の中の酢酸、クレオソート、ホルムアルデヒドなどを肉の中に吸収させ、貯蔵性をもたせることなのである。 (「美食に関する11章」 井上宗和) 


かにかくに祇園は恋し
この歌について吉井勇は、その著『京都歳時記』の中で、次のような書いている。
-これは別に、何処で作ったという歌ではなく、枕の下を流れている水の音は、大和橋の下をくぐる白川のせせらぎでもよければ、河原蓬(かわらよもぎ)の間を流れている加茂川の水のひびきでもかまわない。兎に角寝ていると枕の下に伝わって来る水の音が、何時までも耳について忘れられないというだけの歌である。今は世に亡き岸田劉生君は、私のつくった祇園の歌を、ひどく愛好して呉れていたと見えて、今でも時々舞妓の姿を描いたうえに、私の歌を賛した劉生君の遺作を、思いもかけないようなところで見たというような話を、思わぬ人から聞かされたことがある。私はそういった劉生君の作品を持っているが、これは又酔筆中の酔筆であって、墨痕淋漓たる思いきった筆つきで、縦横塗沫といったような形に、あちら向きの舞妓のうしろ姿を描いている。その絵の賛にはこの「かにかくに」の歌が、第三句の「寝るときも」というのを、わざと戯れに書き違えたのか、或いは酔って書き誤ったのか、「いねむれば」としている。私と岸田君とは、一度銀座裏のある小料理屋の二階で飲み合っただけで、その酔態がどんなものであるかよく知らないのであるが、聞くところに依ると、祇園先斗町あたりで遊んでいた時分は、殆ど徹宵(てっしょう)痛飲をつづけ、暁ちかくになってごろりと横になって、着のみ着のまま一時間ばかり、眠るだけだったということであるから、岸田君としてはこの第三句は、書き誤ったものではなく、むしろ「寝るときは」というよりも「いねむれば」という方に実感があると、思ったのかも知れないのである。(「今日の酒」 八尋不二) その歌は、「かにかくに祇園は恋し 寝るときも 枕の下を 水のながるる」です。 


通夜酒
通夜が始まりそれも一区切りついた頃、私らは通夜客の中から三、四人の人を選び、追悼の座談会を開くこととした。幸い近所に社員の家があったので、そこの応接間を借りてスタジオ代りとした。渡辺一夫さんにも出席をお願いした。私はその家の別室に置いた録音機の傍にいて座談会の内容を聞いていたが、そのうち録音に妙な音が混じるのに気がついた。自転車のタイヤに空気を入れるような音である。「あれは何だ?」と小さな声で録音の係に訊いた。録音係は首をひねるだけで分らない。私は足を忍ばせて座談会場の応接間へ行き、ガラス越しに中を覗いてみた。渡辺さんがソファに首をもたせて、寝息をかいているのである。シューシューというのはその寝息で、そういえば座談会が始まってから渡辺さんはほとんどしゃべらないのである。朝からの手伝いと通夜酒のせいで、疲れがでたのであろう。私はあわてながら録音機の所へ戻ってみたが、座談会の話は熱が入っている最中でどうしようもない。しかも寝息はだんだんに、グァグァという鼾(いびき)の音に変わってきた。何たることかと、私は観念の目を閉じた。とにかく座談会は終り、司会者は「ではこれで豊島与志雄さんのさんを追悼する座談会を終わります」といった。とたんに渡辺さんは目を覚まし大きな声で、「失礼しました!」と叫んだのである。この賑やかな鼾入りの座談会は、その夜遅く臨時番組として放送された。放送前に出演者の名前の中に渡辺さんを入れるべきか否かスタッフ間に意見悶着があったが、結果としては「東大教授・仏蘭西文学者の渡辺一夫さん」も紹介された。ほとんど鼾だけの座談会出席者というのは、その後聞いたことがない。(「『ラジオと酒』二題」 中村新) 


67 タケキ 誰にても生樽で遣(や)るに下戸はなし
きだる(生樽)は、贈り物[酒樽]の代わりにおくる現金。酒はのめない人があるが、現金を嫌がる人はどこにもない。儀礼から便法へ世はうごいていく。(「大阪宝暦折句秀詠」 鈴木勝忠) 「折句とは、『こたつ』を題として『腰当てに・立つ女房の・つこどごえ』のように句頭に二字・三字の題を読み込み、十七・十四音の句を作る一体であり、大阪の新風は、無差別に二・三字の仮名題をえらぶことによって、句の世界を広げた」とあります。ちなみに、寝言屋の表紙の変なうたも折句です。 


代金は学校に取りに来い
私が二年級の時、学校全体で甲州に修学旅行に出かけたことがあった。昼間は昇仙峡を見物し、夜は甲府に泊まった。その時の五年級は例のゲートル騒ぎをやった勢の好い連中であるが、受持の教師が、「宿屋で丹前を借りてはならない」という命令を下すと、それに反撥して、あべこべに丹前を貸せと宿屋に要求し、その丹前を著て、甲府の盛り場を練り歩いたのみか、大勢が勝手にいろいろな飲食店に押し上がっては飲み食いし、みんなが申し合わせたように、「代金は学校に取りに来い」と云って帰って来たものである。(中学生が丹前姿で酔っ払って町をねり歩いたというので、甲府の新聞では大いに叩かれた。)そこでそれらの飲食店がその代金を取りに宿屋に一時に押し寄せて来たので、教師たちは青くなってしまった。すると、江原さんがポケットから三百円-明治三十八年頃の金として、三百円は少し大きすぎる感じがするが、その時聞いたのはたしかに三百円という金額であったと記憶している-を出して、「これで払って置きなさい」と云ったというのである。私の兄はその五年級の生徒であったが、修学旅行から帰った後、教室で受持の先生が、「諸君、諸君は何ということをしてくれたのだ。誰が飲み食いに出かけたかということは詮議するなと、江原先生が云われるから、此処(ここ)でそういう詮議立てはしないが、しかし私達が江原先生の前で、どんなに面目ない思いをしたかということは、諸君もよく考えて見てくれ」と云ったということを、兄が私に話した。(「年月のあしおと」 広津和郎) 麻布中学創立者の江原素六のエピソードだそうです。 


七打数七安打
豪腕・別所、怪童・中西、荒武者・豊田…。管理野球全盛の現在と違って、昔のプロ野球界はじつに個性豊かなスターがひしめいていました。そんなかつての球界を知るオールドファンにとって、わけても懐かしい名は「青バットの四番打者」大下弘でしょう。とにかく、豪傑揃いといわれた当時の球界でも、大下選手ほどのツワモノはまず見あたりません。その大下選手の数々のエピソードのなかでも極めつけは、昭和二十四年十一月十九日、甲子園球場で記録した「二日酔いで七打数七安打」です。前夜の天気予報で明日は雨と知った大下選手は、その夜料亭にくり出して飲めや歌えのドンチャン騒ぎ。ところが、当日は朝から快晴ときたからたまりません。それでも大下選手は。球場の風呂場で水をかぶったり、試合中もガブガブと水を飲み続けたりしながら、第一打席=一、二塁間安打、第二打席=二塁打、第三打席=二塁右安打、第四打席=一塁線を抜く二塁打、第五打席=ピッチャー強襲安打、第六打席=右中間二塁打、第七打席=ショート内野安打と、前人未踏の快記録をなしとげました。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


せわな事かなせわな事かな
髪置(かみおき)は乳母もとつちりものに成(なり) せわな事かなせわな事かな
三歳の髪置の祝いに、今日まで無事育てあげた乳母は、大の功労者。めでたい、めでたいの献盃が重なり、つい乳母も喜びが手伝って盃を過ごし、酔っぱらい(とっちりもの)になってしまった。 髪置に乳母も強気(ごうき)な髱(たぼ)を出し(柳初351) ○髪置=幼児が三歳に至って髪をのばし始める儀式。十一月十五日、また十一月中の吉日に行なう。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎-監修) 


輸出三千五百樽以上
伊丹にて有名な酒造業は昨年以来朝鮮釜山浦へ支店を設け清酒を輸出せしが、ことのほか捌(さば)けよく、また去年十一月より上海へ積み送りしにこれも大に評判よく十一月より本年一月まで上海へ売捌きし高は三千五百樽余なりしかば、なほ一層上製にしてぞくぞく輸出する目論見(もくろみ)なりといふ。<明一三・二・二五、朝野>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


禁酒取締官
前記のように、私は禁酒時代のアメリカに在勤した。外交官には治外法権という重要な特権がある。したがって、酒を飲んでも問題にならない。もちろん、政府の施策に協力すべきであるが、外交団の宴会には従来通り酒が出た。それが、また、招かれる米国人にとっては魅力だったらしい。天下晴れて飲めるからである。これは人情である。そこで、主人のほうでは人情ついでにお土産を持たせて帰すことにもなる。実際、正直なところ、酒のお蔭で外交官はかなり人気があった。私などにしても、自分はあまり飲まぬくせに、相当のストックは持っていた。いつのことだったか、クリスマス・イブに、あまったウィスキーを幾本か、しかるべく包装(と言うよりは偽装)して、アパアトの隣人家族に届けてやった。ときどきエレベエタアで顔を合わせるだけであるが、好ましい人柄に見受けたからである。翌朝、ベルが鳴るのでドアをあけると、隣人氏が夫人同伴で何やら小箱を抱えて立っている。招じ入れて、メリィ・クリスマスの挨拶を交換すると、彼は前夜の『珍品』の礼を厚く述べたうえ、ニヤリと笑って、この機会に自己紹介をさせていただきたい、と言った。さし出した名刺の肩書きを見て驚いた。禁酒取締官だったのである。その後、この取締官夫妻とは大の仲よしになったので、時おり来訪しては歓談したが、日本酒だけはどうしても好きにはならなかった。検挙の手柄話などもよく聞かされたが、墓場に大密造場があったり、質屋の店にずらりと並ぶ洋服に酒壜がかくしてあったり、剥製の大熊の腹の中からゴロゴロと高価な珍品がころげ出す話を聞くと、酒飲みはどうしてそう意地がきたないのかと呆れるばかりだった。 (「外交官の酒」 加瀬俊一) 


金津地蔵
▲ゐ(い)なか者 かたじけなうござる。さらばさらば。やれやれ嬉しや。皆々待ちかねてゐられう。この地蔵を見せたらば、喜ぶであらう。都は物の自由な所でござる。戻つた。地蔵様を庵へすゑ(え)ませう。皆々ござるか。 ▲在所の者ども四五人 何と帰られたか。 ▲ゐなか者 帰り申した。即ち地蔵菩薩を買ひ取つて来ました。庵にすゑおいた。拝ましられい。 ▲在所の者 さてさて、殊勝にござる。 ▲ゐなか者 さらば香花(こうげ)を進ぜう。 ▲在所の者 よからう。 ▲ゐなか者 香花をお地蔵へ進ずる。 ▲子 香花はいやで候。饅頭が食ひたい。 ▲ゐなか者 まんぢう食はうと、お地蔵の、物言はしらるゝ。 ▲在所の者 さあさあ、饅頭早う進じませう。 ▲ゐなか者 お望みのまんぢうこそ進ずれ。 ▲子 ようくれたくれた。よい酒が飲みたいわ。 ▲ゐなか者 よい酒を飲まうと仰せらるゝ。 ▲在所の者 早う進ぜられい。 ▲ゐなか者 おのぞみに任せて、よき酒を参らする。 ▲子 よい酒をくれて満足した。皆々有徳にして取らせうぞ取らせうぞ。 ▲ゐなか者 やれやれ、うれしやうれしや。皆々有徳にしてくれうと、お地蔵様の仰せらるゝ。めでたく皆々酒を飲まう。 ▲在所の者 さあさあ、よからう。飲まう。ざゞんざ、はま松の音はざゞんざ。 ▲ゐなか者 めでたいめでたい。 ▲在所の者 目がちらつくやら、地蔵の動かるゝ。 ▲在所の者 まことに生き地蔵ぢや。ちとをど(踊)らしませう。 ▲ゐなか者 よからう。 ▲在所の者 さあさあ、はやさしめ。 ▲ゐなか者 心得た。金津の地蔵の地蔵の、お揺ぎやつた。見まいな、見まいな。 ▲子 ゆるぎたくもなけれども、檀那衆の望ならば、ちとまたゆるごよ。 ▲ゐなか者 かなづの地蔵の立たしました、見まいな見まいな。 ▲子 立ちたくはおぢやらねど、檀那の願ならば、さらばちとつつ立つた。 ▲ゐなか者 金津の地蔵の踊らしました。見さいな見さいな ▲子 をどりたくもなけれども、さらばちと踊ろよ踊ろよ。ほつぱい、ひうろ、ひい。(「狂言記」)都に仏を買いに行ったゐなか者が、すっぱ(詐欺師)にだまされて、隙を見て逃げるようにいわれたすっぱの子どもを地蔵だと思って買って持ち帰るという話です。 


十一月十九日(東京)
午後、大磯に赴く。樺山伯爵(白洲正子父)から、心臓を患っている伯の義弟赤星の診察を求められたのだ。車中で伊藤(博文)侯爵にあった。侯は熱心に『スペクテーター』を読んでいた。知名の一英人が、日本との同盟を廃棄して「むしろロシアに乗り換えた方がよい」と、自国民に勧告しているが、これに対して編集者は「今度の戦争が、クリミヤ戦争のように、大した決着なしに終る」ことを期待し、かつまた希望すると述べているのだ。伊藤侯は、平素に比べて無口だった。同盟国の側から、このような意見を発表しているのだから、侯としてもともかく、考えざるを得ないのだ。ところで、いつもながら驚くのは、六十三歳の高齢にもかかわらず、侯の容姿の若々しいことで、ことに侯が酒神(バッカス)と女神(ヴィナス)の熱烈な信者であり、しかも朝から晩まで、葉巻を口から離さないことを知っている者にとっては、なおさらそうだ。おそらく大磯の良い空気が、侯の若々しさにあずかって力があるのだろう。侯のいわく「東京との差異が、はっきりと感じられる」と。自分も同感である。自分は、横浜の山手に住みたいと思っている。そこではいつも、はるかにのびのびとした、すがすかしい心地がするのだ。海軍大将樺山伯爵は、強くて威のある薩摩男の好典型である。つねに伯爵とは、快く語り合う。(「ベルツの日記」 トク・ベルツ編 菅沼竜太郎訳) 明治三十七年です。