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御 酒 の 話 10


神田明神三河屋  江戸のお花見  夢あるき  石神  北条泰時  ソーマ  杜氏の遍歴  川柳の酒句(21)  大太郎盗人事  蓼科の梁山泊  黒田清隆、伊藤博文  初献は慇懃にして  泡般若  中村勘三郎  「KとT」(2)    白水要左衛門  潔癖家ともの臭さ  水での大宴会  スキの酒  チップ  ハムラビ法典(2)  髪結  四月一日  エリザベス朝時代の居酒屋  読書と酒  吉村昭の作法  椀の酒の解説  椀の酒  東京物語  三年間  ロシア式乾杯の辞  酒泉という名の由来  酒に効きそうな和漢薬  別春会  五斗の迎え酒  「どぶろくの記」2  大根ぞうすい  盛田昭夫  コップ酒  松岡萬の引合わせ  最初は  醴酒を設けず  慶長の酒価  病院のワイン  細川備後守下屋敷の井戸  酒飲む人の文章  カキの酒しゃぶ  大黒さん  「禁煙の害について」  久生十蘭  居酒屋ネットワーク  猫遊軒伯知  野ざらし  酒の借銭  水口家  中三と高三の一升酒  雉酒や「鶏酒」  酒一升  ”四者”  【ちびちび】  煎酒  特級と二級  高杉と周布  十度飲みと十種酒  考えられない  日本の流通機構  西郷札奇聞  夏のお酒  雀をたくさん  中野碩翁  ハムラビ法典  酒神とともに  アルコール中毒という言葉を広めた人  酒呑童子のいけにえ  上かん屋ヘイヘイヘイとさからわず  四日間で変わった  互助土族自治県  五月十八日(木)  ひとみばあさん  修学旅行  飛鳥山  志ん生の満州行き  江戸の地酒  猩々暁斎  古酒の燗  ネズミの好きなビール  百鬼園先生の宿酔  カジノキ  珍景山と雷電  保高徳蔵  十五から酒をのみ出てけふの酒  三社祭の出開帳  米の日−毎月、八日です  流し樽  友と酒は古いほどいい  宮川一貫  アンドレマルローとペトリュス  三に酒を飲ましゃんす  ヤシ酒  金原亭馬生  芥川比呂志  サラ川(3)  サフランライス  酒二升余、麦酒三本  五円やそこらの小遣い  首の体操  「むぎわら・くらぶ」  フルマラソン珍走記録ベスト・スリー  とんち教室  鹿児島のツケアゲ  息子の家出  酒のたしなみ−一九五七・三  しょう 升  ドブロクを食べる  食卓「笑」辞典  初代市川団十郎  洋食論  さけの酒びたし  酒の燗は人肌  酒はやめても酔いざめの水はやめられぬ  十一月十三日(土)  揚げ出し、一現  少年行  卓文君  酔い?  一駄  灰の投入  初代鴻池善右衛門  胸もみじ  豊島屋  十返舎一九、室生犀星  三日正宗  田端酒器美術工芸館  薬麹  酔っぱらいは東をめざす  ソヴェトの旅  左右の優劣  飲み手色々  玄酒  斗酒後の喧嘩  獅子唐  フランス人のおしゃべり  片口  煮アワビ  家長の晩酌  小学五、六年生の蜂ブドー酒  高杉晋作の漢詩  宝丹  加田こうじの思い出  吐雲録序文  安藤対馬守  鹿茸  騎士パストル  兵隊トラさん  恋文  岩波茂雄の酒  十七歳から十九頃  フランス・ハルス  伽羅の名木  兼常清佐、葛西善蔵  酒粕と黒砂糖  一人合点  酔っぱらいエビ  「わが酒史」  楽をあるじ  親父橋  「喝」  おやじの気持  ビデオ  馬込文士村のグループ各種  750万の酔っぱらい  酒呑童子とメフィストーフェレス  大罪  幻覚  ”カス”にあらず、「食べる酒」  安倍首相、ブッシュ大統領  柏亭の酔い  純粋日本酒協会でのおいしい出来事  桜正宗の一族  菊正党  漆の乾燥を調節する良法  一八五七年二月二十三日  寮には酒類を持ち込むべからず  前衛的な朝食  独酌のための発明品  蛸肴  中谷宇吉郎の酒  仲人  ケラー、イプセンとヴェルレーヌ、フリッツ・ロイター  一升酒  ”広告”は明治八年の新語  ビール営業マン  知事と作家  タケノコの醍醐味  飲む順序  「酒」  「KとT」  明治九年、札幌農学校とクラーク  切り抜き帖  悪性  川柳の酒句(20)  慶州法酒  髪切  ザハラ・キウト  甘エビに一番美味しい酒  五月七日(日)  どうしても飲めない  イマイミキ  東鶴  脱帽  酒の肴にもってこい  日本でのアルコール中毒の発生  おちょこ一ぱい百円  おく手の反抗期  スナック・白樺とスナック・M  ギリシャ人とワイン  天竺の留志長者  厳瓮(いつべ)  芝鶴の説  「秋刀魚の味」  上野の花見(2)  「みそっかす」  為永春水  鯰で酒を呑む  樋の酒  目出度いときは冷や  【するすると】  松平容保  小忠は大忠の賊  月下独酌 其の二  酒の砂漉  「どぶろくの記」  造酒司の発行した木簡  お見舞い  けんずい  新酒くばりが中止となる  チーズ  「酒と信仰」  芳しき酒  お酒はぬる燗  井伏と河盛の秘訣  バーの業界用語  甘辛は裏おもて  江戸時代の酒番付(3)  江戸時代の酒番付(2)  江戸時代の酒番付(1)  焼酎の伝播  寒造り


神田明神三河屋
以来ずっと、甘酒は『三河屋綾部商店』の『延壽甘酒』と決めている。この甘酒、甘酒なのにベタベタと甘くない。それは、麹と炊いた米だけで造っているからである。だから、炊きたてのごはんを噛みしめたときの甘さを凝縮したような味がする。麹は店の地下にある麹室で出来たもの、米は上質のうるち米で、これを練り合わせて発酵させる。つまり、まごうことなき自然食品なのだ。『三河屋』は元和二年(一六一六)、徳川二代将軍秀忠のときに三河から江戸に来たのが始まりというから古い。神田明神の社が現在の湯島に移ってきたのもこの年だから、『三河屋』はそれ以来の歴史を持っている、というわけなのだ。そして代々この甘酒や味噌、納豆等を将軍家や宮内庁に納めてきたのだと言う。甘酒の楽しみ方は、二倍の量のお湯で溶かすだけ、と簡単だが、個人的な好みで言えばもう少し薄めたほうが喉(のど)ごしがいい。塩をひと振りすると甘さが引き立つ。『延壽甘酒』には生姜の粉がついているが、これをほんの少し加えると香りが立つ。(「東京名物」 早川光) 


江戸のお花見
正保四年の三月といえば、今日からは三百年ほど前のこと、家光将軍は久世大和守(くぜやまとのかみ)を召して、きょうは十五日であるから、隅田川梅若の大念仏、並びに浅茅ヶ原妙亀尼の縁日で、昨夜から参籠するものも多いよしである、よって賑わしい様子を見てまいれ、しかし大勢でまいって見分すれば、折角の諸人花見の妨げになろうから、小人数にてひそかに見てまいるように、と命ぜられました。命を受けまして久世大和守は、辰の口から小舟に乗り、御蔵前から陸へ上り、それから木母寺へ行ってみますと、堂の前に群集しておりますのみか、大船小船は、水面の見えないほどに浮かんでおり、その船は、笛・太鼓で拍子を取っているものもあり、琴・三味線・尺八で小歌を唄っているものもあり、男女打ち交りで踊っているのもあり、なかなかの景気であるのを、大和守は暫時見物いたしまして、橋場を渡って総泉寺へまいりました。ここでは、花毛氈を敷き並べ、その上での酒宴、唄いつ、舞いつ、その賑わしいこと夥しい。なお、金竜山の聖天、浅草寺境内をも巡見いたすと、これまた参詣人が充(み)ち満ちて、江戸の春を楽しむ花見気分が、この一帯の地域に横溢しております。大和守は駒形から乗船いたし、辰の口へ揚り、早速登場復命いたし、見聞の次第を一々言上に及びました。その時、家光将軍は上機嫌で、大和守に対して、その方も定めし羨(うらや)ましかったであろう、所々の繁昌、庶民の遊山活計するは、政道に苦しみ悩みては、さようにあるべきでない、正しく太平を楽しむからであろう、といわれました。(「江戸の春秋」 三田村鳶魚) 


夢あるき
さて、藤子不二雄といつものように銀座の並木通りを飲み歩いていると、彼が、三人姉妹でひっそりとやっているバーに案内するという。おぼつかない足どりで、記憶をたどる風に、彼は横丁のそれらしいバーを探し廻り始めた。「あんな美しい三人姉妹は見たことない」バーの名は忘れたが、素晴らしい美人だというのだ。長女は着物のよく似合う人、次女はちょっとスリムな美人、三女はまだ女子大生だという。彼は、積極的に路地裏にはいり、扉を押しあけては、「違うなァ」。私も、それにひきずられ、五丁目まで探したが、とうとう見つからない。仕方なく二人ともあきらめた。すると彼はつくづくと言う。「そんなバーないかな」だと…。(「とっておきのいい話」 「夢あるき」 小林秀美) 


石神
▲女 やあ、参る程に、これでござる。ものも。案内も。 ▲アド 表に案内とある。どなたでござる。 ▲女 いや、妾(わらは)でございます。 ▲アド やあ。ようこそ御出やつたれ、何を思うておりやつたぞ。 ▲女 されば、その事でござる。私の男は、明暮大酒をたべ、酔狂ばかり致し、その上に妾を打擲(ちょうちゃく)いたします。ふつつりと厭(あ)き果てましたに由(よ)つて、暇を匕(こ)ひ捨てに致し、出て参りました。定めて、これへ尋ねに参ることがござろ。参つたら、なるほどこれへ参つたが、もはやわごりよにあき果てて、暇を呉れる様にと云うて、石神へ毎日毎日、神楽(かぐら)をあげに参ると仰せて下され。この上は、何方(どなた)が中直しなされても、あの男はふつふつ厭(いや)でございます。 ▲アド はて扨(さて)、それはまづ気の毒ぢや。さりながら、其方(そなた)の言分(いいぶん)を聞けば尤(もっとも)ぢや、定めてこれへ参ることがあらう。見えたらば、その通りいはう程に、心安く思やれ。(「石神」 狂言記) 家を出た妻は実家に帰る前に仲人のところへ行き、このように頼みます。追っかけてきた夫は、石神に化けます。 ▲女 やあ、これは、わ男ではないか。おのれは憎い奴の。さては神の贋をして、又妾をだまさうかと思ふか。あゝ腹立や腹立や。 ▲シテ あゝこれこれ、さうでない。何事も堪忍して戻つてたもれ。頼むぞ。 ▲女 いやいや、 何ほどいうても、戻る事ではない。あゝ腹立。やるまいぞやるまいぞ。 ▲シテ あゝ、許せ許せ。 


北条泰時
彼の道理好きは徹底していて、承久の変に際し、鎌倉方の総大将として、後鳥羽上皇を中心とする京都の宮廷勢力を攻めたとき、「今度の出陣が道理に叶わぬものならば、わが命を召したまえ。天下の助けとなり、人民のためになるのなら、われを助けたまえ」と八幡宮に祈りをこめて出陣したという。こういうことを正々堂々と言いきれる政治家が、いったい、今何人いるだろう。周知のごとく承久の変は鎌倉方の圧勝に終るが、これも彼の道理への信念を強めるものになったかもしれない。しかし、朝から晩までドウリ、ドウリではダンナさまとしてはつきあいにくい−とお思いになる方に、もう一つエピソードをご紹介しておこう。彼は道理の次に酒が好きだった。和田の乱のとき、前夜からの宿酔(ふつかよい)でひどく苦しく、金輪際酒は飲むまい、と思った。ところが戦の最中のどがかわき、すすめられるままに、又ひょいと飲んでしまったとみずから告白している。なかなか融通もお持ちあわせではあった。(「にっぽん亭主五十人史」 永井路子) 


ソーマ
古代インドのバラモン教の聖典『ヴェーダ』は、今から三〇〇〇年前につくられた祭式用の呪文集である。バラモン教では多くの神々が敬われたが、「火の神」アグニと並んで「酒の神」ソーマは人間にもっとも近い神とされた。「ソーマ」は祭式の際に供物として捧げられた強力な酒だったが、同時に酒が神格化された神でもあった。主神であり雷霆(らいてい)の神でもあるインドラ神が悪鬼ブリトラと戦ったとき、インドラ神は「ソーマ」を飲んで狂ったような勇猛心を身につけ、プリトラを打ち倒したとされている。「ソーマ」は、神々と人に多大のエネルギーと霊感を与えるパワフルな飲みものだったのである。「循環する時間」の更新を図るソーマ祭という祭りでも、「ソーマ」は供物として神々に供えられた。酒は、「時間」にも活力を与える精力剤とみなされていたのである。「ソーマ」はくだかれ、圧搾された後、水や牛乳に混ぜられて祭火に注がれ、残りは神官たちに飲まれたといわれる。「ソーマ」は、神官にも特別な力を与える飲料とされたのである。ちなみに「ソーマ」というのは謎の多い飲料である。興奮性の強い成分を含む植物の茎(たぶんヒルガオ科のツル)を水に浸して搾り、牛乳などを混ぜてつくった酒だとも、蜂蜜酒ミードだともベニテングダケだともいわれるが、実際のところはよくわかっていない。(「知っておきたい『酒』の世界史」 宮崎正勝) 


杜氏の遍歴
杜氏はいまも遍歴している。私があった杜氏で、ひとつの酒蔵での体験しかないという人はいなかった。武者修行といって、わかいころは各地の酒蔵を転々として腕をみがいたそうだ。終身雇用とかいわれる日本の企業社会のなかで、杜氏の世界は技術という一点で、横移動できる自由な側面をもっていたのである。それとともに、杜氏が酒蔵を移動すると、蔵人も全部それにしたがうという師弟関係の強さも、ひとつの特徴といってよいと思う。もともと杜氏が蔵元とかけあって、蔵人のだれだれにはこれだけの給料をやってほしいと決めるのだから、杜氏は労働組合の委員長も兼ねているようなもので、その権限は絶対的なのである。そして、南部なら南部、越後なら越後の杜氏同士で、「うちの蔵のわかい者に優秀なのがいて、そのうち杜氏にさせたいから、おまえのところに武者修行にだすからよろしく頼む」というようなやりとりが成立しているというから、日本では希有な産業別組織ともいえるのである。(「自然流日本酒読本」 福田克彦+北井一夫) 


川柳の酒句(21)
付(つけ)ざしのそばで大きなせきばらい(女性がお相手に自分の盃で飲ませる付けざしをしたので、そばの人がわざと咳払い)
付け差しで禁酒を破るはしたなさ(はしたないといっても、彼女からすすめられれば)
釣台(つりだい)の生酔対(つ)イによろけだし(嫁入り道具を運ぶ釣台を担ぐ人は当然酔っています)
から徳利おこしておくは罪つくり(立っていると、酒が入っているものと間違える)
ゑくぼほど備前徳利の頬っぺた(今流に一見たくさん入っているように見せる工夫のことををいっているのでしょうか)
徳利の口からのんで追手出る(寒い季節の夜、捜索に出かける人がぐっと一杯)(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編) 


大太郎盗人事(だいたろうぬすびとのこと)
そのつとめて(:翌朝)、その家のかたわらに、大太郎が知りたりけるものの有りける、家に行きたれば、見つけて、(知人が大太郎を)いみじく饗応して、「いつ、のぼり給へるぞ。おぼつかなく侍りつる」などといへば、「たゞ今、まうで来つるまゝに、まうで来る也」といへば、「土器(かわらけ)参らせん」とて、酒わかして、くろき土器の大なるを盃にして、土器とりて、大太郎にさして、家あるじの(飲)みて、土器わたしつ。大太郎とりて、酒を一(ひと)土器うけて、持ちながら、「この北には、誰(た)が居給へるぞ」といへば、おどろきたる気色にて、「まだ知らぬか。おほ矢のすけ(大矢のすけ:弓の名人で、次官をつとめたことによる通称のようです)たけのぶの、此比(このごろ)のぼりて、居られたる也」といふに、「さは、入(いり)たらましかば(:中に入ったならば)、みな数をつくして、射殺されなまし」と思けるに、物もおぼえず(:正気を失うほどおびえて)。憶して、そのうけたる酒を、家あるじに頭よりうちかけて、立走りける。物はうつぶしに倒れにけり。家あるじあさましと思て、「こは、いかに、いかに」といひけれど、かへり見だにせずして、逃ていにけり。(「宇治拾遺物語」 新日本古典文学大系) 「むかし、大太郎とて、いみじき盗人の大将軍ありけり」と始まる説話です。余り強そうな盗人には見えませんね。 


蓼科の梁山泊
鎌倉が先生の本拠地だとすると、小津組の第二の故郷は、蓼科です。蓼科から、たくさんの小津作品が生まれています。小津作品のホンは、小津・野田両先生のコンビのものが多かった。野田高梧先生は、小津監督の古くからの友達で、『晩春』から遺作の『秋刀魚の味』までの小津作品は、ずっとお二人の共同シナリオでした。初めの頃は、湘南にあった茅ヶ崎館という旅館に籠もって書いてらしたのですが、『東京物語』の後、野田先生が蓼科に別荘を買われてからは、執筆の場所をそちらに移されました。お二人は、一本のシャシンに、だいたい三カ月くらいかけてホンを書かれる。その間は、蓼科に籠もりっきりで、僕も、近くに小さな家を買った後、お二人の仕事場に何度かお邪魔したことがあります。僕を含めた小津組の連中や、両先生のお知り合いも、ちょくちょく訪ねていたようです。お酒の好きな二人ですので、誰か来られるたびに酒盛りになる。一本のホンを書き終わるまでに、百本ほどの一升瓶が空になったとか。僕が伺った時も、ズラーッと酒瓶が並んでいて、「なんやら、酒屋さんの裏みたいだなあ」と思いました。(「小津安二郎先生の思い出」 笠智衆) 


黒田清隆、伊藤博文
(明治)十四年(一八八一)、有名な北海道官有物払下げ事件が起こる。黒田の案は通りかけて、「ストップ!」がかかった。彼は処方箋どおり、怒り心頭に発する。さぁ、酒だ。乱酔しては、日に一回は内閣に怒鳴りこんだ。その前には、大木大蔵卿の邸へピストル片手に突入もした。二十二年(一八八九)、外国人裁判官の任用問題で、内閣が倒れた。黒田首相は賛成で、少数派だった。またしても痛憤して、家にたてこもる。朝酒、昼酒、夜酒であった。総理大臣が欠席しているのである。ほんとうなら、連絡員がこなくちゃおかしい。なのに、だれも寄りつかなかった。訪ねても暴れられるのがオチと、きまりきっているからであった。だが、どうにもせっぱづまって、逓信大臣の後藤象二郎が現れた。このときは黒田、完全につぶれていた。そこで、後藤は大きな声で用件をいった。それが酔いどれを刺激した。彼は口汚く、いやがらせを浴びせかけた。巨漢逓相は閉口して、退散した。つぎには、伊藤枢密院議長が足を運んできた。黒田は、政治的な一種の脅迫を投げつけた。議長は辞任した。すぐあとを追って、内閣もポシャッた。まさに黒田の酒、まつりごとを振り回す。−
正面の敵がまた、悪かった。こすっからい上に、神経がタフだ。黒田は伊藤のことを考えると、酒をあおりたくなり、飲むほどにますます伊藤憎しがたぎったのではないか。とすれば、彼を狂酒乱に追いやったのは博文である。(「幕末酒徒列伝」 村島健一) 


初献は慇懃にして三献は親しく九献は生酔い
【意味】酒宴で最初に杯をさす時は礼儀正しいが、追々によそ行きの調子がなくなり、終りにはめいていする。 三献=三杯酒を勧めて膳を下げ、これを三遍くり返す供応の式。 九献=杯を三献づつ三度さすこと。ここはそのような儀式ばった酒宴でなくて、宴の終りという意。(「故事ことわざ辞典」鈴木、広田編) 


泡般若
殺生や邪淫につづいて飲酒(おんじゅ)も仏家の禁ずるところである。しかし飲酒戒には般若湯という大きなぬけ道がある。酒は禁ずるが般若湯といえば許されるのである。したがって大徳寺でも万福寺でも般若湯はいっこうおかまいなしである。さきごろ海宝寺でおそるおそるビールはいけませんかと聞いたところ「ああ泡般若(あわはんにゃ)どすか」といわれて一本まいった。ウイスキーやブランデーは何とよぶのだろうか。洋般若で許してくれるだろうと思う。(「京都故事物語」 奈良本辰也編) 


中村勘三郎
勘三郎は、昭和三十年の暮に大病するまで、大変な酒豪であった。麹町の家へ、芝居がハネると大向うの連中や若手の役者が大ぜい集まって、夜な夜な酒をよく飲んだ。初めて麹町の勘三郎の家へ行ったのは、三十年正月興行の「助六」の時で、水入りまでたっぷり演じて歌舞伎座を出るのはかれころ十時半近く、それから麹町へ行って飲み始めるのだから、いつも夜更けの宴会だった。大ぜいが居間に集まると、上機嫌の勘三郎は、炬燵(こkたつ)の中へみんなを招き入れ、「さあ、飲もうよ」と、どっかと座り、おもむろに、「これは、ぼくの一番好きなウイスキー」と、オールド・パーのしゃれた角瓶を取り出して、私たちにもすすめた。オールド・パーは舶来の高級酒でうまいのは当然だが、面白いことに、勘三郎の好きな理由は、オールド・パーの壜の形がいいからであった。酔ったあとは、弟子や仲間と、そのまま居間で雑魚寝(ざこね)することもあった。そんな時に面倒をみる久枝夫人や家族は大変だったろう。(「勘三郎の天気」 山川静夫) 


「KとT」(2)
二人が行くと言うので、老僧は海苔巻を自分でつくってくれた。そしてそれを竹の皮に包んだ。瓢箪−老僧が上方(かみがた)見物に行った時京都の夜店で買ってきたという自慢の瓢箪を壁から下ろしたり、片口を持って向うに行ったりしているので、Kが訊(き)くと、「山行きは、どうしてもこれを持って行かなくては…。楽しみが違う。ヤ、本当だとも…。こればかりかついて行くに、何でもありゃしない。貴方(あなた)方が東京から持って来てくれた酒がまだどっさり残っているから…まア、持って行きなさい。」こう言って、老僧は無理にかれらに酒の入った瓢箪を持たせて、猪口を一つ紙に包んだ。すっかり草鞋(わらじ)がけになって、脚絆(きゃはん)をつけて、瓢箪を肩にかけて、Kは玄関の入口の処に立ってTの支度の出来るのを待っていた。其処に老僧と婆さんとが出て来た。「こういう風にしていると、いかにも酒飲みのようだね、君。」こうKが言うと、「なアに、…そればかし…重くも何ともありゃしない。それがあるとないとでは、楽しみが違うでな。」老僧は完爾(にこにこ)した。その瓢箪の酒は、歩く度にコトコト軽い音を立てた。若い二人には、爽やかな楽しい気分が漲(みなぎ)り渡った。深夜短刀を見つめて、生か死かを思ったK、暗い深い肉体と精神との刺戟に堪えかねて、おりおりは自ら殺そうかと思ったT、そういう暗い気分は今は少しも二人の頭になかった。彼らは鳥や獣(けもの)のように快活に歩いた。老僧の持たせてよこしたその瓢箪は、一番先に、W滝の小暗(おぐら)いしかし爽やかな日影のさし込んだ谷の岩石の上で開かれた。Kはポッケットの中からごそごそと紙に包んだ猪口を出して、Tに渡して、「こいつは妙だな。」と言ってトコトコと瓢箪から酒をついだ。しかし、一、二杯しか二人は飲まなかった。滝のある谷には、八汐の躑躅(つつじ)や、山吹や、婿菜(むこな)などが、紅(あか)く白く黄(きいろ)く咲き満ちていた。(「東京の三十年」 田山花袋) Kは国木田独歩、Tは田山花袋です。青春ですね−。 KとT 



水だって
ほどほどに飲めば
害には
ならぬ
(「また・ちょっと面白い話」 マーク・トウェイン) 


白水要左衛門
白水(しらみず)は藩の重臣をはじめ、改革のための要所に配された人たちに向かって、博多を”大坂”にするのだということを繰り返し吹き込んだ。そのための努力もあって、周辺各藩から多くの物資が集まり、北前船なども東北の物産を積んで博多にやってきた。品々を求めて町人や農民が集まるようになった。これまで領民に対する衣食住は、すべて細かい制約でおさえつけられていたが、それが取り払われた。金を貸し与えることによって設備投資をすすめたので、博多織の業者をはじめ、商人たちは店を拡張した。中島町裏には芝居小屋をつくり、芝居見物をすすめた。酒は領内で造ったものしか許されなかったが、領外の酒を入れてもよいことになり、上方の酒や灘の生一本も人々の口をうるおすようになった。水茶屋や料理屋も軒を並べ、歓楽境ができあがった。市川団十郎や人気役者の嵐平三郎が一ヵ月のの通し興行をやり、城下を活気づけた。町民も絹物などを着て、芝居見物に出かけた。あらゆる消費面にわたって、節約などという考えは過去のことになってしまった。江戸相撲が呼ばれて、大関稲妻と緋威(ひおどし)の取組みを、七歳の子供行司が合わせ、人気を集めた。浜新地の歓楽街で、幕府の禁じている富くじも行われた。これの采配をふるったのは、日田商人の丸屋与一である。町人が貸し馬場で、乗馬を楽しむこともできた。白水の指導による経済改革は成功したかに見えた。しかし、インフレを生み、すべての物価が上がった。富くじの札を天領に持ち込んだため、槍玉にあげられ、富くじ興行は破綻した。領民は新しい藩札で買い物をし、商人はこれをもって藩庁にゆき、正銀と引き替えてくれと言ったが、藩庁には正銀の蓄えが無かったので、人々は騒ぎ出した。六十万両の藩札をつくって、景気をあおろうという改革は破綻した。天保五年正月から手がけられた改革も、天保七年秋にはゆき詰まりを見せ、白水の描いた夢は壊れた。天保八年、藩は白水要左衛門を捕え、失政の責任者として姫島へ流罪に処した。(「江戸奇人稀才事典」 祖田浩一編) 福岡藩で天保の経済改革を試みたのは、藩主お抱えの眼医者白水要左衛門という人物だったそうです。 


潔癖家ともの臭さ
板垣退助は、極端な潔癖家で、便所から出て手を洗ふ時には、半桶一杯位の水を使つた。また旅行する時には、自分専用の茶碗や箸を用意して持ち歩いた。ところが、中江は身なりに構はないもの臭さ(ものぐさ)で、いつもその身辺は不潔であつた。そして中江は板垣の潔癖さに構はず、酒席などでは自分の汚い手で盃を乾(ほ)して、そのまま板垣に献じた。変物で理屈屋の中江に対して一目おいてゐた板垣は、閉口しながらもその盃を取つて飲み乾さなけれがならなかつたので、周囲のものは、それを面白がった。(「日本文壇史」 伊藤整) 中江は、兆民です。兆民とつきあっていた西園寺公望も、さぞかし往生したことでしょう。 


水での大宴会
南禅寺勝平宗徹管長との問答で、「耽酒もその極に達すれば淡々の境あるにあらずや」というたのは、中島敦の『名人伝』にあらわれた弓矢の名人紀昌のことが念頭にあったからである。紀昌は、弓矢を持たずに矢を射る恰好しただけでで鳥を落とした甘蠅老師に傾倒して九年、ついにかつての師も「これぞ名人」と拝跪させるほどの域に達したが、そうなったらもはや矢を射てみせようとはせず、ついには弓や矢をみても、「何の道具だ?」と弓矢の名前すら忘れ果てていたという。これが真の名人の姿だとすると、私なども”酒仙童子”を名乗るなら、、人にうまい酒をすすめられたとき、「これは何という飲物ですかな?」と訊くようでなければならんわけだ。あるいはまた、なにも酒でなく、ただの水を飲んでも「うまい酒ですな」などと言えるようでなければいけない。そう考えて勝平老師にあえて珍問を発したら、「然ること、拙僧もあり」「してそれは如何な儀なりや?」「されば−」と管長語り出されたのは次のような体験談である。 管長若かりし日、戦中の学徒出陣で海軍予備学生で入隊され、猛烈な訓練につぐ訓練の日常、たった週一回の休みの日、仲間とせめて酒でも飲んで騒ごうということになった。ところがかんじんの酒が、隊内どこにもない。外出して町の中を探しに行ったが、やはりない。ついに、仕方ないから酒がわりに水を飲んで酔ったつもりになろう、ということに衆議一決した。その結果、「それで水で乾杯をやり、酒を飲んでるつもりで水をチビリチビリやり出したら、最初こそ気勢やや上がらなかったが、だんだんほんとうに酒を飲んでるような気がしてきて、しまいにみんな酔っ払って、歌ったり踊り出したり、大宴会に相成ったな」(「酒・千夜一夜」 稲垣真美) 


スキの酒
このように考えてくると、ハレの酒がハレの時空間を”ハレたらしめる”ためにのまれるものであり、ケの酒が、その味を楽しみながらも食欲を増進させる”晩酌”として、あるいは、眠りを誘う”寝酒”としてのまれるものであり、したがって、これらの酒が、人間の生活に対して、それなりに”機能的な効用”をもたらすことを期待されていたのに対して、現代の、とりわけ”余暇の酒”は、そういった性格を著しく希薄化していることがわかる。わたしは、このような酒のありように対して「スキの酒」という規定を与えてみたらどんなものだろうかと考えてみるのである。(「酒場の社会学」 高田公理) 例として、ハレ(晴)の酒では、「結婚式の酒」「フォーマルなパーティーの酒」、ケ(褻)の酒では、「晩酌・寝酒」「接待される酒・される酒」、スキ(好・数寄)の酒では、「キャバレー・スナックの酒」「仲間内のパーティーの酒」があげられています。 


チップ
外国ではチップ収入で暮らす人が多いので、海外旅行にチップは欠かせませんがその相場は職種によって違い、また欧州とアメリカでは事情が異なっていますので、遠慮なく聞くことです。ところでチップはフランスではpourboire(プルボワール)、ドイツでTrinkgeld(トリンクゲルド)と言い、直訳すればそれぞれ「飲むことのために」、「酒手」と、チップとは全く違った意味の言葉です。(「ことばの豆辞典」 三井銀行このばの豆辞典編集室編) チップ(tip)は、"To insure promptness"(敏速を保証するために)の頭文字からとったらしいとのことです。 


ハムラビ法典(2)
§108 もし居酒屋の女主人がビールの値としての大麦を受け取らず、銀を大きな銅で(計って)受け取り、その結果大麦の販売価格に対するビールの販売価格をつり上げたなら(直訳:[一定額の銀で得られる]大麦の量に対し[一定額の銀で得られる]ビールの量を少なくしたなら)、彼らはその居酒屋の女主人(の不正行為)を立証しなければならない。
§110 もし尼僧院に居住しないウグバブトゥムでもあるナディートゥム修道女が、居酒屋を開いたり、ビールを飲むために居酒屋に入ったなら、彼らはその女性を焼き殺さなければならない。
§111 もし居酒屋の女主人が1ビーフ(容器)のビールを掛けで売ったなら、彼女は収穫時に5スート(約50リットル)の大麦を受け取ることができる。(「ハンムラビ「法典」」 中田一郎訳) ハムラビ法典と、どうしてこんなに違うんでしょう。面白いですね。 


髪結
「これ六や、大きに飲んだな」「なに少しさ」といふ舌も回らぬくらゐで「さあお寄りなさへまし」「イヤおれはよしにしよう。切られてはならぬ」「なんぼ酔つても切るこつちやねへ」「そんならちつとでも切ると、蕎麦を買はせるぞ」「アイ切らずは、お前に買はせます」といひながら、大方、頭はすりしまい「さあ蕎麦をお買いなさい。もう髭ばかりだ」「髭が肝腎だ。こゝで蕎麦を買はせる」「いゝゑ、お前に買はせます」と言ひしま、鼻をうわそぎにそがれた。鼻に目もかけず「ハアほばくはう、ハアほばくはう」(花笑顔・安永四・髪結)
【鑑賞】「ほばくはう」は「蕎麦食おう」だが、鼻欠けのため発音が出来ないくらい鼻をそり落とされても、賭に勝ったのを喜ぶ心理がおかしい。(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


四月一日
われわれは摂津守[長崎奉行川口源左衛門宗恒]と二人の宗門改めから祝賀の挨拶を受けた。それから数日間、われわれは将軍ならびにその他の幕府の要職にある人々に贈る織物や鏡やその他の献上品の荷物をあけ、適宜に整理したり選択し、また[樽の]栓を抜いてブドウ酒を[壜に]詰めるなどの仕事に大へん忙しかった。これらの作業はみな十兵衛様や付添検使および通詞の立会いのもとに、江戸の専門家を呼んでやらせ、その労力に対して非常に高い手当を支払って、純日本式に仕上げ、上覧に供するために、すべての品物を整えなければならなかった。(「江戸参府日記」 ケンペル) 元禄時代の話だそうです。 


エリザベス朝時代の居酒屋
シェークスピアやベン・ジョンソンがよく通ったであろう居酒屋というのは、どちらかというと、現在でもイギリスの小島のへんぴな土地に見られる古い旅館(イン)のようなものだったのではないか。床は板張りであったかもしれないし、あるいは、土を固くかためたものだったかもしれない。どちらにしても、おそらくは藁(わら)で覆われ、エリザベス朝時代の酒飲みにとっては、遠慮なく唾を吐くべき場所であった。ワインやビールは低い棚やカウンターの上に樽のままおかれていた。まだコルクがなかったので、ワインはびんで保存されることはほとんどなかったのである。シェークスピアは一びんのサックを注文し、彼の一クォートびんは樽からみたされ、四ペンスかかった。(オックスフォードでは、エドモンド・ペニング・ローセルによれば、一五八〇年に一ガロ二シリングだったというが…)。そのクォートびんはやや球形の、底の平たい、把手のついた首の短いもの−たぶん陶器製−だったかもしれないし、あるいは厚い緑色のガラス製の奇妙な形のびんだったかもしれない。私たちの現在の傾向である丈(たけ)の高い薄いびんは、エリザベス朝の人々には不合理なものに映っただろう。つまり、びんの丈が高くなるほど、それは倒れやすからだ。彼らのびんはずんぐりとした、丈よりも幅のあるものだた。それから三、四世紀たって、びんは徐々に細く、背が高くなっていった。シェークスピアは自分のボトルをかざりけのない木のテーブルに持って行って置き、質素な木のベンチに腰をおろし、パイプに火をつける−エリザベス治世の第二半期には、居酒屋での喫煙は一般的になっていた。彼は料理を注文することもできたが、塩づけのラディッシュをかむことで満足したであろう。エリザベス朝の人々が居酒屋を好んだ理由は、一つには、貴族をのぞいては家庭内で酒を貯えることが法律で禁じられていたからである。(「わが酒の讃歌」 コリン・ウィルソン) サックは、辛口白ワイン、1クォートは、1/4ガロンで、約1.14リットルだそうです。 


読書と酒
九代目の水戸藩主烈公のもとに藤田東湖という学者がいた。その東湖の詠んだ読書の詩というのがある。「書ヲ読ムハ酒ヲ飲ムガ如シ、至味意ヲ解スルニ在リ、酒ハ以テ精気ヲ養イ書ハ以テ神智ヲ益ス、彼ノ槽ト粕ヲ去リ淋漓其ノ粋ヲ「米勹」ス(掬す すくう)、一飲三百杯万巻駆使スベシ」 私は本を読みながらゆっくりと酒を愉しむことが多いが、そのことを指して読書態度としては不謹慎だとぬかした評論家がいた。なんの、東湖センセイのいう如く、私は精気を養いながらも神智を益しているのである。(「酒まんだら」 山本祥一朗) 


吉村昭の作法
文壇酒徒番付というのが、今はない「酒」という雑誌で企画されていて、大相撲の番付表に似たものが配布されていた。その最後の番付で東の横綱に推された私は、毎日欠かさず酒を口にし、この三十年ほど二日酔いになったことはない。酒を愛する者として、多くの酒飲みと接してきたが、その中には昼間から酒に酔っている人もいた。身近に接するのは出版社かの編集者たちだが、かれらの中には社の机の曳出(ひきだ)しにウイスキーの小瓶を入れていて、昼間からチビチビやっていて、そのまま夜の酒につながる。こういう人は、少なくとも六十歳までにはあの世へ旅立った。そうした例を数多く見てきた私は、外で人と飲む時は日没後と定め、家で一人で飲む時は、夕食をすませて九時頃から飲む。そのような戒律を自分に課しているので、体調はすこぶるいい。(「縁起のいい客」 吉村昭) 


椀の酒の解説
来客一同飯がすむと、主人が一献ごとに酒の肴を携へて出て、中酒を勧める。中酒は三献の定(きま)りであるが、上戸の為に四献以上をも勧める。而(しこう)して一献ごとに主人は客一同の盃とすべき椀を指定するのであるが、其の使用容器は初献より二献三献と次第に大きいものが指定されるのが普通らしい。先づ最初は椀の蓋、次は中椀、次は汁椀、最後は飯椀である。椀はすべて今も本膳に使用される塗椀のたぐいらしく、椀の蓋は汁椀の蓋かと思はれるがよく知らない。中椀は坪(ひら)ではないかと思ふが、是もよく知らない。兎に角、順序に容量が大きくなるのらしく、そして下戸は糸底を以て盃に当つると云ふ作法も有つたらしい。そこで上戸は成る可く大きい椀で飲みたがり、定法を越して四献目を獲得しようと策をめぐらす処に、此の上戸話の笑いが爆発するのである。(「酒中趣」 青木正児) 


椀の酒
朝食(あさめし)のうへに、初献には かさ にてとほし、二返(にへん)には中の椀、三返には汁のわんにても(盛)らせたり。四返めには、はなやかに飯の椀にてつがせんと、たくみすまして銚子を先に出し、後より亭主時宜(じぎ)をいはんとおもふ間(ま)、とくはや飯のわんにて、こぼるゝばかり請(う)けたれば、亭主いはん事なきまゝ、扨(さて)かよひ盃でよう御座らうものをと。(「醒酔笑」 安楽庵策伝) 


東京物語
小津安二郎の「東京物語」(昭和二十八年)では、下町に住む中村伸郎と杉村治子の夫婦が卓袱台(ちゃぶだい)で朝の食事をする。温かいご飯と味噌汁とおかずが一、二品、ごくシンプルな日本の朝ごはん風景だ。せいせいの贅沢は夫が「うまいね、この豆」といって食べる煮豆くらいだが、それでも小津の映画のなかではしゃれた洋食よりもずっとおいしそうだ。この映画で、原節子が両親(笠智衆と東山千栄子)を自分のアパートに招いて、ささやかにもてなすシーンがある。ここでも卓袱台である。そして原節子は、笠智衆が酒が好きだったことを思い出し、隣の家に「ねえ、ちょっとお願い、お酒ないかしら?」と酒を借りに行く。隣の主婦は酒を貸すだけでなく、「ピーマンの煮たの、おいしいわよ」と惣菜も添える。この時代、近所どうしでの酒や惣菜の貸し借りはごく当たり前のことだった。(「東京つれづれ草」 川本三郎) 


三年間
中国の俚言に、「三年間、酒を飲み続けてみよう、そうすれば金はなくなる。三年間、酒を飲まないでみよう、それでも金はなくなる」とある。酒を飲んでも飲まなくても、どっちみち金がなくなるというのなら、酒はやはり飲むに限るということをいっているのである。(「日本酒の夜は更けて」 楠本憲吉) 


ロシア式乾杯の辞
−同志諸君、最近のアルメニア放送(ウソ放送の別名)によれば、世界の三大指導者が神と会見したそうであります。先ず、フランスのジスカールデスタン大統領が神に訊ねた。フランス国民は一体いつになったら、みな幸福な暮らしができるだろうか。神が答えた。あと百年後に。ジスカールデスタンは泣きだした。私はとてもそれまで生きてはいけないだろう。次に、アメリカのカーター大統領が訊ねた。アメリカ国民は一体いつになったら、みんな百万長者のような暮らしができるだろうか。神が答えた。あと五十年後に。カーターは泣きだした。私はとてもそれまで生きてはいられないだろう。最後に、わがソビエトのブレジネフ書記長が訊ねた。ソビエト人民は一体いつになったら、みんな人間らしい暮らしができるだろうか。今度は神が泣きだした。私はとてもそれまで生きてはいられないだろう。(ここで一座の人びとが涙の出るほど笑いころげるのを見届けて)さて、同志諸君、そこで私は提案する。われらが親愛なるレオニード・イリイッチ(ブレジネフのこと)の健康のために乾杯!   まあ、ざっとこんな調子なんですね。ロシア人は気のきいた乾杯の辞ができないと一人前ではないといわれています。それにしても、陽気な酒の席で、こんな洒落た乾杯の辞を聴いていると、思わずロシア人の小話的才能に脱帽したくなってしまいますよ。そこで最後にひとつ− ロシア式酒盛りの乾杯の辞に祝して乾杯!(「ロシア式酒盛りの乾杯の辞」 木村浩) 日本では100年前に幸福な暮らしがあったと神様はいうのでしょうか。 


酒泉という名の由来
蕭州の地に金泉あり、味酒の如し。漢の時、因て以てその郡を酒泉郡と名づく。飲人語酒泉の太守に及べば神徃くとなす。 といわれる、その酒泉とはどんなところか。皮襲美の詩に『春は野鳥の沽(かう)に従い、昼は間猿の酌むに任す、われ願わくばこの泉に葬られて、酔魂鳧(鴨)の如く躍らむ』と歌ってある。解説するまでもなく、鳥や猿などが夜となく昼となく自由に来て、この酒泉に浮遊し酒を飲んで楽しんでいる、自分も死んだらこの泉に葬って貰いたい、そしたら霊魂は鴨のようにこの泉に浸り、思う存分踊り狂いたいというのである。このように酒家憧憬の地であったが、果して現実に金泉があったかどうか。美濃国養老の滝のような、何か故事来歴があるのではないか、疑ってみたが手許に資料がない。従って筆者は仮りに次のような憶測から断を下しておく。粛州の地形一部は山岳地帯で優良米を産し、水質もまた良好で灘や広島のように、当時の酒の産地であったのではないか。特に金泉と称するものが水質最適で多くはこの泉水を醸造に用いたということが酒泉の名ある所以かと思われる。(「酒のみで日本代表」 奥村政雄) 


酒に効きそうな和漢薬
宿酔(胸やけ、吐き気)  一等丸
飲みすぎ、吐き気  越中反魂丹
飲みすぎ  宝丹
飲みすぎ、吐き気(胃のむかつき、二日酔い、悪酔いのむかつき)  松井熊参丸
飲みすぎ  萬金丹
吐き気、二日酔い  恵命我神散
飲みすぎ、二日酔い  御岳百草丸
二日酔い  大山煉熊丸
二日酔い  糾勵根(肝臓の部分に張る)
二日酔い  樋屋奇應丸(「日本の名薬」 山崎光夫) 酒に関する効能の書かれてるものを並べました。 


別春会
公(水戸黄門光圀)は若いときから大酒飲みで、江戸にある時も諸侯や旗本と日々痛飲し、大抵の者には引けをとらなかった。平生のごとく謹厳な態度で杯を重ね、いくら飲んでも酔わず、酔っても玉山崩れず、泰然自若として機知に富んだ戯談(じょうだん)をとばした。酷寒の候といえども、酒を飲めば腹中おのずから暖まり、借金とりも…とはいわなかったろうが、鶯でも鳴き出しそうになるとの意で、この痛飲会のことを別春会と名づけた。別春会は、毎月三十回(すなわち毎日)ずつ開会された。別春会では、浄瑠璃、三味線、歌舞にわたる余興は、禁物であった。公自身能の舞には堪能であるけれども、武士が一杯機嫌で隠し芸となん称するものをやることは、それが上手であるほど、公は苦々しく思った。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 


五斗の迎え酒
中国は晋時代(二八〇年)「七賢」きっての大酒豪劉伶(りゅうれい)は、「一飲して一斛一斗)、五斗(五升)にして酲(てい 二日酔い)を解く」と豪語しているが、これが深酒の悪酔に対する迎え酒というものである。わが国でも、 二日酔といふや六日の菖蒲酒 成次 と詠まれ、五月五日、端午に二日酔し、六日に迎え酒をしている。だが、この、迎え酒の一口ほどつらいものはない。二日酔いともなれば、誰しも酒の匂いを嗅ぐことさえ不快なものである。「良薬は口に苦し」この代表が迎え酒であろう。しかし、一、二盃を我慢して飲み下すと、その後の酒は不思議なほど楽になり、春風たいとう、えもいわれぬ酔い気分となる。これが迎え酒の特効である。(「酒」 芝田喜三代) 


「どぶろくの記」2
その日から私の嫁としての自由へのあこがれは、どぶろくをひそかにつくることに集中した。食べ料の米さえもともしい暮しの中で、麹を買い、新米を集め、かつ、ひそかに瓶を洗って、米と麹を、練り合わせ、既成のどぶろくの少しを加えて瓶にしこむという業は、並たいていの冒険でない。米はよその家で焚いてもらい、麹もひとに買って来てもらい、既成のどぶろくは、その山家からサイダー瓶につめて来たのを使うことにした。瓶は物置にある味噌用のものを、さがし出したのだが、これらの操作が、すべて、舅姑(しゅうとしゅうとめ)の不在の時間に断続的に行われたのだから、その間の緊張は、胸もどきつくというものである。さて、しこんでから四、五日もして、二階の自分たちのへやの押入れのすみの布とんにくるんだ瓶のあたりから、豊じゅんな香りが漂って来た時の、まあ、なんといううれしさであったろう。からだじゅうよろこびに震えるといっても大げさでないような。できた。できたと、押入れに首をつっこみ、山陰名産の和紙の被いをとるのももどかしく、米つぶのとろりと浮き上がって、むせるような香りのたち上り、舞い上がる実体を見すえ、これが生きるよろこびというものかと、涙ぐんでしまった。八またのおろちのように、瓶に首をつっこみ、その香りをかいだ。ただただかいだ。本当に何ともいえずいい匂いとはこのようなものだとうっとりとした。それからまた幾日かして、また押入れに首をつっこみ、茶のみ茶わんですくいあげて飲んだときのおいしさ。息がつまるようであった。香気はそのころになるといよいよ高く強く、二階へ上がろうとして、階段の下まで漂って来ているのに気づいたときの、これもまた大きいおどろき。舅姑に見つかったら、追い出されてしまうかもしれない。私はどんなに嫁の暮しがきびしくても、夫のそばをはなれる気は毛頭なかったから、舅姑に叱られるくらいこわいことはないのだ。(「どぶろくの記」 田中澄江) 


大根ぞうすい
@ごはんを水洗いしてザルにあけ、水切りしておく 250g
Aていねいに大根をおろす おろして200g 鮫皮かおろし金の細かい目でゆっくりね
B水を600cc沸し、@を入れ塩をばらりと振り、煮立ったら弱火にして6分間煮、Aを入れて、ぐらりと来たらできあがり。
淡泊な味を楽しんでください。だしを入れるとかえって大根臭くなり、醤油をおとしてもダメ、薬味も不要(「一日江戸人」 杉浦日向子) 「二日酔いにテキメン」だそうです。 


盛田昭夫
本田宗一郎さんのホンダが世界のホンダだとすれば、盛田昭夫さんのソニーも、それに負けないくらいに世界中に名の知られた世界のソニーであろう。本田技研は本田さんの技術開発に支えられて成功した企業で、技術一本で勝負に勝ったという感じがする。それでも途中でうまくいかなかったときは、本田さんが真剣になって自殺を考えたことがあるそうだが、ソニーにはそういう風雪時代は見られない。それは多分、ソニーがホンダと違って、世界に販売ルートを開拓するという商法に徹し、「技術のソニー」というよりは「販売のソニー」という、世界のがもっているイメージとはやや異なった展開をしてきたせいであろう。その推進力となったのが盛田さんであり、もともと、盛田さんは愛知県の造り酒屋の出身だから、商人的な才覚をもった工業資本家になったとしても必ずしも不思議ではない。大宅壮一さんは、「日立、東芝のモルモット」といって、ソニーが大手メーカーの実験台になってきた事実を指摘したことがあるが、モルモットが最後まで生き残り、しかも世界的大企業にのしあがったのは、この盛田さんの腕に負うところが大である。現に我が家の食卓で盛田さんもいっていたが、「ウォークマンを僕が考え出して、あれをつくれといくらいっても、誰も賛成しなくてね。やむをえず会長命令でやったのですよ。もし十万台年末までに売れなかったら、僕は会長をやめると啖呵をきってね」(「邱飯店のメニュー」 邱永漢) 盛田は、子乃日松(ねのひまつ)盛田酒造の15代目だそうです。 


コップ酒
が、夫は乱暴を働く方向には進まなかった。一人でコップ酒をあおるという方向に進んだのである。リビングのテレビの前に座り、朝からコップ酒を飲む。「その姿を毎日見ていると、私の気がおかしくなりそうでした。まだ陽の高いうちから時代劇やら演歌やらがリビングに流れるだけでもゾッとするのに、コップ酒ですから」そのコップ酒に関して言い争いが始まったとき、夫は突然泣き出した。酒の入ったコップを握り、身をよじって泣く夫に、妻は、「寒々としたものを感じました」と私に言った。同情でも憐憫でもなく、「言いすぎたかも」という反省でもなく、「寒々とした」というのはなんとリアリティーある一言だろう。その日を境に、夫は台所に逃れてコップ酒を飲むようになった。台所にある小さなテレビを見ながら妻の目を盗んでコップに酒を注ぐ。むろん、妻がそれに気づかぬわけはないが、見て見ぬふりをした。そして、できるだけ台所には入らないようにした。夫は日がな一日酒を飲みながらテレビを見て、眠くなれば昼寝をし、また適当なころに起き出してはコップ酒とテレビである。「夫は一流大学、一流企業のコースを歩いた人でした。娘たちもそういう人に嫁がせました。でも、男は本当に学歴ではないですね」この二組に夫婦の話は、十年以上も前に聞いたものであるが、私はいくたこういう夫婦をテレビドラマにしたいと思った。というのも、これからはこんな夫婦がふえる一方だと思ったのである。(「きょうもいい塩梅」 内館牧子) 定年後の夫の話だそうです。


松岡萬の引合わせ
筆者の親しくしてもらっている静岡西深草の村本雨楼翁が二十年の昔、清水の本町に住んだ当時の松本屋の小僧、保田七蔵という老人から聞いた話によると、当日辰五郎は羽織袴の如何にも逞(たくま)しい風貌の侍一人と連立って先に松本屋へ来て次郎長を待った。何しろ娘が慶喜さんの妾に上がって滅法の気に入り、御作事火防方という役にあって誰も新門などとは言わない。みんな「アラカドの親分」というほどな日本一の親分だ。みんなは次郎長さんに静岡へ来てもらってということだったが、辰五郎は、「いや何、おいらちょうど清水港に用もあり、三保を見る眺めは格別だから、ついでと申しちゃあ失礼だが、その時に山本さんにお目にかかろう」という。勿論次郎長も「こちらから伺います」といったに違いはないが、とうとう辰五郎の方からやって来た。松本屋は朝っから大騒ぎで、今日は府中から偉い親方がお見えになる。何しろ前の公方様と直々(じきじき)お話の出来る方だ。粗相があっちゃあならないという訳で、家中の掃除をして埃(ほこり)一つないようにしていた。そこへ次郎長がたった一人、てくてく歩いてやって来た。平右衛門がその姿をひょいと見ると、小ざっぱりはしているが、十二月でずいぶん冷える日なのに木綿の袷(あわせ)の着流しだ。びっくりして、「どうして羽織を着て来ないのだ」といった。次郎長はちょっと頭をかいて、「これしかねえ」と笑った。清水訛りで何んとか「ずら」といったかも知れない。平右衛門も笑って急いでまだ袖を通したことのない自分の新しい羽織を持って来させて着せた。それで出て行くと、さっきの侍が次郎長を辰五郎に引合わせ、白木の三宝に土器をのせて、それへ平右衛門が酒をついで双方へ酌をした。一座はすぐ打ちとけて笑話になったが、小僧の七蔵がそれから何度か酒を運んだ。辰五郎も七十を過ぎていたが、次郎長も五十歳だ。この時辰五郎に打添って来た侍は元幕府御鷹匠で剣術遣い、松岡萬(よろず)。山岡鉄舟の同志で、静岡に来て後から小参事などもやった。次郎長が山岡の知遇を得て、本物になったのは本当をいうとこの人の引合わせである。(「よろず覚え帖」 子母澤寛) 


最初は
「最初は、たしかに私が酒を呑みました。でも途中からは酒が酒を呑ませているんです」
「呑ンべが、呑んでからちょっとお茶漬けとか、ラーメン喰ったりするでしょ。あれで肥るんです。呑んだら喰わないで寝るのが、健康というものです」
(「一般人名語録」 永六輔) 


醴酒を設けず
漢の高祖(劉邦りゅうほう)の一族で楚(そ)の王となった元王(げんおう)のもとには、穆生(ぼくせい)、白生(はくせい)、申公(しんこう)という三人の大臣が仕えていた。このうち穆生は下戸だったため、元王は宴会の折は必ず彼のために「醴酒(れいしゅ)」を用意していた。ところがやがて代がかわって戊王(ぼおう)のときになると、それが忘れられるようになる。穆生は自分が軽視されていることを悟って楚の国を離れた。この故事から人材を軽視することを「醴酒を設けず」というようになった。ただし、この”下戸の酒”が、今の甘酒のように麹を使ったものか、それとも飴作りのように麦芽などのもやしを使ったものかは、もうひとつはっきりしない。(「食卓の博物誌」 吉田豊) 


慶長の酒価
『柳庵雑筆』(栗原信充著・嘉永元年1848刊)に次のように記載されている。
南都般若寺(奈良市般若寺町)の古牒(こちょう、古文書)に、慶長七年(一六〇二)三月十三日、厨事(くりやごと)下行米三石六斗(代七貫二百丗二文)、上酒一斗(代二百八十文)、下酒二斗三升(代二百三十七文)、ミリン酒三升(代百九十五文)とあり、三石六斗の代、七貫二百丗二文は、一石二貫八文の交易なり(米一升廿文余に当る)。上酒一斗二百十八文は、米一斗八合余の代なり。今は米より酒価倍せり(江戸末は桃山時代より酒価が高くなっていることがわかる)。酒好き故としらる、ミリン酒三升百九十五文は、米九升の代なり。然ればミリン酒一升、米三升余に当た。今にてもミリン酒の価三升余に当れり。慶長七年より弘化二年(一八四五)まで、二百四十四年の久しきを経て、価の大形(おおかた、大方)同じきは如何ぞや。
とある。これをみると、酒価は倍になっても、みりん酒はそんなに上がらなかったといえよう。元禄時代の金、銀、銭の三貨は、金一両=銀六十匁=銭四貫文とされていた。(「日本酒のフォークロア」 川口謙二) 


病院のワイン
翌朝、ウィーンから例の家族が到着し、ホテルをひきはらった。パスポートは二週間後の裁判まで、警察に取り上げられっぱなしなので、国外に出ることができない。だが、警察の預かり証を持っているので、オーストラリア国内での行動は自由だった。ウィーン・フィル氏は、弁護士も連れてきた。ぼくは、まず相手側の病院を見舞いたい、と言ったが、弁護士は、そういうことはしてはならぬ、と命令した。せめて花を、と言ったが、裁判のすむまではこれもいけない、と言うのだった。この点、日本と大いに違う。そこで、アクトクの収容されている病院に向かった。ぼくはガタガタ震えた。生きていてくれ。祈った。案に相違して、アクトクはベットの上にあぐらをかき、横に四リットルははいろうかという、でかいワインの瓶を抱え、ベロベロに酔って御機嫌だった。胸の方々に打撲傷があり、血行をよくして早く治すために一晩中飲んでいろと、ワインをあてがわれたのだそうである。ベロベロで元気なアクトクの騒ぎぶりに安心し、ぼくはそのままウィーンに戻った。車中で、ウィーン・フィルの一家に、新聞の朝刊を見せられた。 DIRIGENT MACHT BLECHMUSIK とあった。直訳すれば、「指揮者がめちゃくちゃな音楽をやる」となるが、これはドイツ語の洒落だった。BLECHMUSIK とは、田舎の楽隊のへたくそなプカプカ、ドンドンのことをいう。ぼくは直前に、ウィーン交響楽団を指揮したが、この新聞は、大激賞の批評を載せたのだった。これにひっかけたのである。幸い、相手の車の一家五人のうち、十四歳のお嬢さんが、打撲傷で入院するだけですんだ。あとはみんなピンピン元気だということだ。(「九段坂から」 岩城宏之)アウトバーンで岩城が追突事故を起こした時の話だそうです。アクトクは、同乗者です。 


細川備後守下屋敷の井戸
寛政の改革は、松平定信の意欲にかかわらず、江戸地酒に関しては隆盛をきたすことが適(かな)わなかったようだ。やはり、米、そして水が、関西の名産地に劣ったことが第一の理由だったようである。山岸半三郎店では「桜川」という酒を新たに売り出した。しかし、たいして評判にはならなかった。このころになると、隅田川の流れも船便や水遊びの人出などの増加で、水質が悪くなってきたのであろうか。それでなくても、江戸は海に接しており、井戸水に潮香が混じり、飲み水に適しない土地だったのである。そのため、家康は江戸移住の当初から、十数里(約六十六キロメートル)西へ離れた森の中にある湧き水でつくられた井頭池を水源とする上水道(神田上水)工事を急がせたのだった。といっても、水道の水は酒造りには合わない。一時、江戸の酒造家は、本所も北の、大川橋(吾妻橋)の近くにある細川備後守(びんごのかみ)下屋敷の井戸へ日参したようである。そこの井戸水が、酒造りに適した霊水という評判が立ったからであった。いずれにしても、江戸をふくめた関東の酒は、上方からきた下り酒には、たちうち出来なかったようである。(「江戸風流『酔っぱらい』ばなし」 堀和久) 


酒飲む人の文章
河盛 井伏さんの文章は男性的ですからね。菊池(寛)さんの文章もそうですね。
井伏 ああ、そうですね。心臓の弱い人や酒飲む人は文章の区切りが短いといいますね。菊池さんは心臓が弱かった。志賀(直哉)さんは酒をきらいでしょうし、そうともいえないね。志賀さんも区切りがちょっと短いようですね。簡潔ですね。鴎外のものも。
河盛 僕はだいたい日本の作家の文章は節回しのいいのと、リズム感のいいのと二つに分かれると思うんです。−井伏さんはリズム感のいいほうです。志賀さんもそう。それにくらべて荷風は節回し派ですね。林芙美子もそうです。日本では節回しのうまいほうが大衆性がありますね。谷崎(潤一郎)さんも節回し派のほうですね。(井伏鱒二随聞」 河盛好蔵) 


カキの酒しゃぶ
”カキ(牡蠣)の酒しゃぶ”という贅沢な食べ方は、私としても一年一度のものなのです。先ず土鍋にドドドッと入れて煮立てます、。この際、料理酒などという酒ではなく、その夜のお飲みになる上等なお酒でなくてはなりませんぞ。これをケチると酒しゃぶの旨さは半減します。念のため。土鍋の酒がぐらぐらと煮立ったら、良質のバターを表面がすっと色づく程度(大スプーンで一杯強)入れます。鮮度のいいカキを二、三度しゃぶしゃぶと酒の中でくぐらせて、薬味で食べます。薬味は、生姜、レモン、ネギ、一味など好みのものを薄味(ナベのスープと醤油で割る)の割下に入れて下さい。これでお酒を飲むといくらでもハカがゆき、身体も暖まって熟睡できるのです。お酒は、必ず、ぬる目のお燗にしてどうぞ!!。(「今宵も美酒を」 佐々木久子) 


大黒さん
江戸では、正月の甲子の日に重点が置かれたようであり、都市民俗の特徴がよく出ている。だから甲子をもっぱら財をもたらす幸運としてとらえさせたのは、別な要素の介在があったからであろう。それは多分民間陰陽師の流れをくむ漂泊民の仕業ではないかと考えられている。一方の福神の雄である恵比寿については、やはり夷(えびす)まわしがいてエビス信仰を流布させたが、大黒の場合には大黒舞の徒がいた。かれらの大黒讃歌は、「一に俵をふまえて、二ににっこと笑うて、三つに酒つくりて、四つ世の中よいように、五つ何時もの如くに、六つ無病息災に、七つ何事ない様に、八つ屋敷広げて、九つ倉を建て並べ、十でとうと治まる御代こそめでたけれ」というものである。大黒舞これを正月の年頭に、各家を巡遊し唱えながら、かつ大黒の像を祀ったのである。ようするに大金持ちになりたいという庶民の願望に、うまくマッチするよう大黒が機能しているのであった。(「江戸歳時記」 宮田登) 「大黒さんという人は一に俵をふんまえて、二ににっこり笑って、三にさかずき差し上げて、四に世の中よいように 五ついつもの若い人、六つ無病息災に、七つ何事ないように、八つ屋敷を広めて、九つ小屋をおたってて、十にとっくり(徳利)おさまった」というのは、私の知っているものです。(大黒さんでなくて道祖神かもしれません) どちらも酒がからんでいますね。 


「禁煙の害について」
いま一つは−禁煙以来その反動で酒量が増したこと。これは、米の飯をぬく代りに、とかいう口実で、例えば日本酒コップ一杯がつい二杯になり、三杯になり、結局、実質は飯を何杯も食ったのと変わりなく、また以前なら、芝居のいわば幕間みたいに、ゆっくり煙草をふかすことで、飲む行為は中断されつつ心理的に享楽の密度を高め、あるいはニコチンがアルコールに溶け込むことで酔いが深まり、水割り二杯ですむところが、三杯、四杯とあおらねば満足感が訪れない。禁煙によって肝臓や胃が強くなった、それも確かにいえるので、悪酔いで苦しまない自信がついた分、量が段々増えていくのは道理で、「酒は煙草のような害はないんだからな」という理屈も、そうなると怪しく、どうかすると巨大な蜘蛛に搦みつかれ圧えつけられるような夢を見、息苦しさに寝床から跳ね起き、ああ、この調子だとアル中になるのも時間の問題だ、と音彦は怯え、頭も躰もぼろぼろの乞食になり、妻子からも見捨てられ荒寥たる世界をさまよう自分の姿が浮かび、明日は絶対断酒だ、と自分に言いきかせて眠るのだけれど、翌日、朝湯を浴び、ジョギングまじりの散歩もし、アルコールを汗にして排出すれば、夕方には喉の渇き抑えがたく、またしてもビール一杯が、とめどないアルコールの進軍となり、家のなかにあるだけの瓶を空にし、さて、いよいよ禁酒週間に突入するぞ、と身構えれば、皮肉にも、狙ったように、さる酒造会社から、音彦がその会社のPR誌に書いた雑文の、原稿料がわりのウイスキーが、送りつけられてくる始末である。(「禁煙の害について」 嶋岡晨) 


久生十蘭
久生十蘭が銚子から鎌倉に引越したときに、小生も手伝わされて雑巾がけなんかもしたけど、広い家であることは結構なのだが古くて埃(ほこり)が多いので閉口しました。もっとも、一段落したところで鳥貝を肴に酒を飲ませて貰ったが、物資のない時代だったせいもあって、あの鳥貝が大層うまかったのを記憶している。あの人は、自分が将校で奥さんは従卒である、と称していた。「こらっ、従卒っ、酒を買って来いっ」などと叫ぶ。酒がいつも豊富にあるというのではなくて、一本飲み終えると次の一升瓶を酒屋に買いに行くというような暮らし向きだった。大雪の日の夜遅くまでも構わずにそう叫んでいたらしいが、従順な奥さんで、ハイハイと素直に出かけて行っていた。(「悪友のすすめ」 吉行淳之介) 


居酒屋ネットワーク
これからのビジネス社会を生き抜いていくには、さまざまな情報源を持っていることが不可欠である。サラリーマンが多面的な情報をストックしようとすると、会社内の人間関係だけでは不十分で、社外のインフォーマルなネットワークをどれだけ構築できているかが大きなポイントになる。そのため、アフターファイブの勉強会の類は、ますます活発になってきているようだ。中には、そのような勉強会に三つも四つも顔を出している「勉強会オタク」のようなサラリーマンもいる。このような勉強会、会そのものももさることながら、会の終了後に場所を居酒屋に移し、うま酒を酌み交わしながらの交流が、参加者に受けているようである。ここでも、うま酒が”触媒”の役割を果たし、参加者同士のコミュニケーションがスムーズになり、そこから新たなネットワークが広がったり、場合によっては、新しい事業のジョイントベンチャーに発展したりするケースもある。しかし、このような改まった形で勉強会を組織しなくても、うま酒が取り持つネットワークが居酒屋を舞台に形成されることは少なくない。そんな人間関係をつくりたかったら、馴染みの店を自分で持ってみるといい。それには、何かの機会に利用した居酒屋で、店の雰囲気やマスターの人柄、料理の味付けや置いている酒の種類などが自分と相性の良さそうな店を見つけたら、別の機会にふらっと一人で出かけてみることだ。馴染みにする店だから、とにかくアフターファイブに気軽に立ち寄れて、リラックスできることが第一条件であるが、できれば通勤ルート上にあるほうがちょくちょく寄りやすい。そんな店が見つかったら、会社の人間は誘わずに、できれば一人で、一人に抵抗があれば最初のうちは社外の仲間などと少人数で出かけることだ。そしてカウンターに席を取って、まずマスターと仲良くなることだ。マスターとの会話を楽しみに出かけていると、顔なじみの客も二、三できてくるはずである。そうしているうちに、よほどの変わり者でもない限り、言葉を交わしたり、あるいは名刺の交換をするくらいの人間関係はできてくるものである。著者の経験では、酒の話を中心に世の中の動向や趣味の話に至るまで、うま酒を触媒にしたネットワークは不思議に増殖しやすいようだ。(「日本酒の経済学」 竹内宏監修・藤澤研二著) 


猫遊軒伯知
化猫で有名な講釈師猫遊軒伯知は大酒飲みで貧乏で弟子の金の世話になりっぱなしで死んだ。その弟子への遺書に「拝借の金返すつもりだったが、いま都合が悪いから、こんど会う時必ず返す」と書いてあったそうだ。(「とっておきのいい話」 文藝春秋編) 劇作家・大西信行の「ロッパがアッととびおきた」の中にありました。 


野ざらし
「わからない人だなあ。野ざらしの人骨があったんだ。ああ、こうしてかばねをさらしているのは気の毒千万と、ねんごろに回向(えこう)をしてやった」「猫がどうかしましたか?」「猫じゃないよ。回向だ。死者の冥福をいのったんだ。うまくはないが、手向けの句、野をこやす骨をかたみにすすきかな…盛者必滅会者定離(えしゃじょうり)、頓証菩提(とんしょうぼだい)、南無阿弥陀仏と、ふくべにあった酒を骨にかけてやると、気のせいか、赤みがさしたようにみえた。ああ、いい功徳をしたと、たいへんにいい心持ちで帰ってきて、とろとろすると、さよう時刻はなんどきであったろうか、しずかにおもてをたたく者がある。なにものかと聞いてみたら、かすかな声で、向島からまいりましたという。さては先刻の回向がかえって害となり、狐狸妖怪のたぐいがたぶらかしにまいったなとおもい、浪人ながらも尾形清十郎、年はとっても腕に年はとらせんつもり、身をゆだんなく、ガラリと戸をあけた。乱菊や狐にもせよこのすがた…ゆうべの娘が音もなく、すーっとはいってきた」(「古典落語」 興津要) 


酒の借銭
慶応二年秋の末頃、江戸城西丸中仕切門にある撤兵組番所に張札が発見された。
 か(借)りものと思へばおも(重)きかた(肩)の筒、三度の菜を腰えさげ、勤に出れば秋の夜の、堀風寒く火の気なく、たつ(立つ)身はつらき御門下、実にやる気がないわいなァ
また、このころの落首に「小給士官の歌」があった。
 調練を、するがいやでは、なけれ共、腹が減るのを、なんと西洋
 世に連れて 人の心も にごり酒 すまし兼たる 酒の借銭
同年十一月町触には、歩兵・歩卒が不取締りとなり、市中の料理茶屋などで無銭飲食や不法の所業におよんでいるとし、以後は町奉行所へ訴えでるよう命じている。同時に歩兵取締りのため、歩兵組四〜五十人ずつで市中を巡回すると歩兵奉行・歩兵頭から通達が出されている。(「江戸の情報屋」 吉原健一郎) 最後のところは今の日本でも必要のようですね。 


水口家
翌朝、五台山に登った。山上に、四国八十八箇所のひとつ、竹林寺がある。お遍路寺だから、私より前のほうを、お遍路姿の老婆が二人歩いてゆく。登りきれば日が当るのだが、途中、崖と木立で日陰になった道があって、道の両側は、土地のひとびとの墓碑がびっしりならんで苔むしている。明治以後の墓は、郷土や富商階級のそれが多い。そのなかに、五台山のなにがしという人の墓があって、亡くなった私の知人の曾祖父の墓であるようだった。この水口家は足軽の家で、ここから浜口雄幸が出たときいている。私の知人の水口さんは、酒品のいい人だった。痩身で、背もぴんと立て、ひじを高くあげて杯を持つ。飲みだすと、四、五時間はかかった。最後は「点字毎日」の編集長で、ずいぶんめずらしい仕事なのだが、酒間でも仕事の話をめったにせず、黙々と飲み、ひとの話をしずかにきいている。物はいわないが、歯の隙間を鳴らす癖があって、よほど機嫌がいいと、しきりに鳴らした。そういう風姿はどうみても土佐浪士という感じで、たとえ横に会社の上役がいても、毛ほどの配慮を払わないあたりは、水際だったものだった。(「古今往来」 司馬遼太郎) 


中三と高三の一升酒
佐々木 親父の影響だろうね、中学三年のころなんですけど、酒一升をグーッと飲めるかという話が出たわけ。そんなものできないと話が揉めてきて、それならやろうというんで一升ビンを買ってきて、画用紙にくるんで持ち帰ってね、家で隠れて一気にのんだわけだす。ちょっと苦しかったけど飲んだ。そしたら次の瞬間、何か滝がボワーッと口から吹き上げていくのが見えたの。それっきり人事不省になって、目が開いたら誰もいなかった。
椎名 そのころの中学三年生というのは何歳ですか。
佐々木 いまの中学三年ぐらいですから…。
椎名 アッそうですか、同じですか。
佐々木 同じです。だから本当はいけない。
椎名 ハッハッハッ、中三じゃ一升飲めないですね、それは。
佐々木 ポンプみたいに入ったものが全部出たんですね。それが飲み初め。
椎名 ハッハッハッ。僕はわりと酒が強くて、高校三年のときに一升酒大会というのをやっぱりやりまして、優勝したことがある。「白雪」というやつは甘口なんですよ。これを見事に一升飲みまして、四百円だか五百円だったか賞品を取りましてね。それで、千葉の稲毛の駅から意気揚々と電車に乗ろうと思ってベンチに坐っていたんですよ。そしてさて乗ろうと思ったら腰が立たないんですよね(笑)。腰が抜けちゃっているんです。それで、翌日、二日酔いで死の苦しみです。僕はそれ以来、「白雪」というのは絶対飲まない(笑)。(「喰寝呑泄」 椎名誠) 佐々木崑は、'18年生まれの写真家です。 


雉酒や「鶏酒」
ところで、雑煮というと、ぐらぐらと煮炊きする烹雑(ほうぞう)と思われがちなんですが、宮中雑煮は汁のない「包み雑煮」というものです。この雑煮は、雉(きじ)の肉をこんがりと焼いた中へ熱い酒をそそぐ雉酒(きじざけ)の肴になるものです。御所の雉酒というのは、平安の昔からのしきたりで、その酒の肴にこの餅が使われていました。ただし室町の末期から安土桃山時代にかけては、武将はむしろ雉なんかよりは鶴を最高の味として食べており、鶴は非常に高価なものとされていました。信長が初めて正親町(おうぎまち)天皇からの密使立入宗継(たちいりむねつぐ)を迎えるときには、木下藤吉郎や村井貞勝に命じて鶴を調理させて歓待しています。江戸時代になると、通説では「宮廷財政逼迫のため、雉を欠き豆腐に変えた」というようなエピソードがあるようですけれども、私はこれはちょっとおかしいと思うんです。もともと京では、海のものは入手しにくく値が張るもんですから、目の下一尺の鯛なんてもうこれはべらぼうな値段です。ところが、京は山に囲まれた盆地ですし、丹波、丹後をひかえていて鳥は安いんです。安永三(一七七四)年の禁裏供御(きんりくご)「費目調べ」によると、「蛤(はまぐり)一個につき代銀一分二厘」、「雀十羽につき代銀一分七厘」となっており、蛤一個の値段が雀十羽の値とほぼ同じというぐらいの時代です。雉の肉が貴重なものであることにかわりなくとも、高すぎて入手困難というはずなないんです。もっとも好みに応じて、明治天皇などはコップに鶏肉を焼いたものを入れ、清酒をそそいだといわれています。(「和菓子の京都」 川端道喜) きじ酒 


酒一升
まゆだまは、餅花(もちばな)というように雪囲いをした暗い座敷の中に浮かぶ冬の花だ。と、そんなことを思っていたら、ある分校の先生は、これには備荒の意味もあるのだというのである。一冬さらされてすっかりカチカチになり、煤(すす)けて黒くなった餅は、とても湯でもどすぐらいで食べられるものではない。まずくてだれも手をつけようとしないだけに、必ず万一の時の備えとして残されることになった。一年、それが役に立たないで済めばそれにこしたことはない。新しいまゆだまを作ったとき処分すればよいのである。また同じその先生と分校への道を歩いているとき、一面に山百合の花が咲いているのに出会ったことがある。じつに美事な百合だったので、少し折っていきたいと言ったら、「ここでは百合を折ったら酒を一升買うことになっている」といってとめられた。百合を折るのはむらの法度(ほっと)なのである。その理由はまた百合の根がいざというときのむらの食糧になることからきているのであった。(「ことばの情報歳時記」 稲垣吉彦) 秋田県での話だそうです。 


”四者”
実業家としての馬越は辣腕(らつわん)そのものであった。それは彼のビール販売術に端的に表れている。彼が採用したのは、いわば”落下傘方式”による浸透術である。新しいファッションや嗜好品のたぐいは、まずその時代のオピニオンリーダーが手をつけ、それが順次、一般消費者層に浸透してやがて流行になる、という法則性を巧みに応用したものであった。「ビールの売り込みは、まず、”四者”に集中すべし」と馬越は指令した。”四者”とは、学者、医者、役者、芸者のこと。彼らにビールの味を憶え込ませれば、行く先々でビールをPRしてくれるだろう。そうすればやがて一般消費者も彼らをマネるに違いない、と踏んだわけである。そこで、”四者”を対象に無料試飲会を開催したり、機会あるごとに無料プレゼントをしたり…。馬越の計略は図に当たり、日清戦争(明治二十七年)後の好景気も手伝って、みるみるうちにビール愛好者はふえていった。すると彼は、ころやよしと、次にビヤホールなるものを銀座に開店する。(「破天荒企業人列伝 馬越恭平」 内橋克人) 


【ちびちび】
酒は好きだが、酔うのは嫌いだ。だから日本酒を愛用している。日本酒だって、もちろん、飲めば酔う。だがこの酒は、飲みようによっては酔わずに飲める。人にもよるだろうが、僕にはこの酒なら酔わずに飲める。しかも長時間、美味いと思いつづけながら飲める。別に秘伝があるわけではない。ゆっくり飲むのだ。ちびちびやるのだ。これだと何時までも酔わない。そしてだんだん美味くなって来る。いわばこれは、閑人の飲みようだ。忙しい人には出来ない。宴会や会合の席では、これは出来ない。独酌、まことによろしい。心の合った同じ飲みっぷりの友があれば、なおさらよろしい。(堀口大学「堀口大学全集」)−
解説とウンチク日本酒のことを「これは世界で一ばんうまくない酒の一つかもしれない」と言ったのは、誰あろう、引用文の作者でもある詩人の堀口大学である。が、堀口は毎夜晩酌には日本酒を飲んでいたという。これだから文人の言葉は気をつけなければならない。本音をわざとゆがめたり、ぼかしたりする。作者は、「うまくない証拠(・)に」日本酒だけは、空腹のときでないとうまくないことを挙げており、至上の晩酌のためにきびしい節制を行う。そこには日本酒への深い想いが見える。(「『酒のよろこび』ことば辞典」 TaKaRa酒生活文化研究所:編) 堀口大學 


煎酒
江戸初期の『料理物語』に出てくる刺身の素材とつけ汁、薬味は次の通りで、醤油の名が出てこない。 まながつお…煎酒(いりざけ)、ショウガ酢。 くじら…うすく作って煮え湯をかけ、サンショウ味噌酢。 うなぎ…白焼きにして青酢。 あゆ…煎酒。 こい、ふな…煎酒。 さわら…煎酒、ショウガ酢。 ふか…皮を引き、煮え湯をかけてよくさらしショウガ酢。 きじ…丸煮にしてむしりサンショウ味噌酢など。 幕末の『守貞漫稿』を見ると、刺身のつけ汁は醤油になっている。 たい…酢味噌やワサビ醤油。 たい、ひらめ…辛味噌かワサビ醤油。 まぐろ、かつお…ダイコン卸しの醤油。 なお『料理物語』には、タケノコの刺身は蒸して白酢を添えるとあり、他に、アサツキ、キクの花、シャクヤクなども酢味噌を用いるとある。しかし、野菜や獣肉などの刺身はすたれ、もっぱら魚肉のみとなった。『料理物語』に出てくる、”煎酒”というのは調味料の一種で、「カツオ一升に梅干十五ないし二十個を入れ、古酒二升、水とたまりを少々加えて一升に煎じ、こしてさます。また、酒二升に水一升入れ二升に煎じてつかう人もいる」。これをナマスの酢のもの、かけ汁などに使用した。(「食べ物江戸史」 永山久夫) 


特級と二級
夕食は、今夜は海産の珍味であった。酒は「初孫」で、黙っていると二級をもってきて、それが結構いけることも草薙とおなじである。特級と飲みくらべてみたがほとんどかわらない。まずアワビの酒蒸が出る。これは珍しくないが、つぎに出た名物、口細カレイ塩焼がよかった。これがめっぽう気に入って、香ばしく脂ののった背ビレから、内臓から、頭までしゃぶりつくしてしまった。鯛は潮煮、大エビのホワイトソース掛けは東京の一流ホテルと大して味は変わらなかったが、氷の上で冷えきったスズキのアライは、歯ごたえといい舌ざわりといい、うまかった。あんかけの一種だろうが、蓋附塗物の大碗に冷したコンソメ風すまし汁をみたし、底に卵豆腐と鯛切身の沈んでいる料理は、酒にはそれほど合うとはいいがたいが、大げさに言えば口に入れるや叫びたくなるほどの美味である。さらにモンゾク(モズク)の三杯酢、カボチャ甘煮、民田茄子、その他とつづくが、みな地元の名物である。(「美味めぐり」 宇能鴻一郎) 羽黒山詣での際の話だそうです。 


高杉と周布
晋作・玄瑞・井上聞太(馨)・赤禰武人・長嶺内蔵太・寺島忠三郎・有吉熊次郎・品川弥二郎・白井小助・松島剛蔵・山尾庸三の十一名は十一月十三日、神奈川宿に集まり、横浜金沢にピクニックに出かける外国公使を白昼襲撃する準備を進めた。しかし計画は実行寸前のところで、同盟を求めた土佐藩の同志から洩れ、土佐藩前藩主山内容堂の知るところとなる。ただちに容堂は、長州藩世子毛利定広(元徳)に通報した。驚いた世子は、神奈川宿まで使者を遣って計画を中止させ、晋作らを蒲田の梅屋敷まで連れ戻す。ここで世子は、自分を補佐する優秀な家来たちを失いたくないと説諭し、彼らを感涙にむすばせた。その後、心配して駆けつけた土佐藩士も交えての酒席となった。そこへ酒に酔った長州藩重臣の周布政之助が馬に乗って現れ、「容堂公は尊皇攘夷をちゃらかしなさる(馬鹿にしている)」と吐いた。憤慨した土佐藩士は、周布を斬ろうとしたが、晋作が周布を斬るように見せかけて、馬の尻を切った。驚いた馬は、周布を乗せたまま走り去った。これが「梅屋敷事件」である。晋作の機知がなければ、幕末史にまた一つ、無益な流血事件が増えていたかもしれない。(「幕末歴史散歩 東京編」 一坂太郎) 


十度飲みと十種酒
十度飲み 十度飲みは大盃で十回酒を飲む遊びである。一〇人で一組をつくり、真ん中に一〇個の盃を置く。一人ずつ一〇個の盃に注がれた酒を全部飲み終えたら、次の人に盃をまわす。一〇人全員が早く飲み終えた組が勝ち。禁裏で三月二一日、十度飲みがあり、言国(ときくに)も参内した。若い言国は早く飲み終えたのか、「予ハ十度ノミ以後、常ノミヲサせラル也、」(『言国卿記』文明六年1474三月二一日条)と「常飲み」をさせられた。
十種酒 十種酒の方は、同年三月二八日、足利義政夫妻が参内した折りに行われた。十種酒のやり方は加藤百一氏によれば、酒を判定する者をくじ引きで左右各一〇人ずつの二組に分ける。あらかじめ飲んで三種類の酒の特性を記憶しておく。今度は銘柄を隠して先の三種類の酒が順不同で三回ずつ注がれる。さらに「客」と呼ばれる酒をもう一点加え、合計一〇点をきき酒して判定し、用紙に記入する。正しくきき酒をした数で勝負を競う。この日はあまりにも人数が多く、入れぬ者まで出、九ツ時分(午後零時頃)から夜の八ツ時分(午前二時頃)まで延々と酒を飲んだ。しかもこれだけで終りでなく、翌二九日も昨日の勝負で負けた者がまた召された。土御門天皇も負けた内の一人だった。酒宴半ばで琵琶、琴、笛、笙を演奏し、言国も笙を吹いた。(「日本の食と酒」 吉田元) 


考えられない
アメリカ南部の小さな町の話。後家さんが商売を始めることにした。自分の家で密造酒を飲ませることにしたのだ。そこはゴミゴミした下町で、腕白小僧たちがいつも道路で遊んでいた。小僧たちは、その家に男たちがやってきてドアをノックするのに気がついた。そうして、いつもこう言うのだ。後家さんが、「何をお求めなんです?」ときく。「ご存じでしょう、わたしたちが欲しいものは」と男たちが言う。「お金は持っていますか」後家さんがたずねる。「もちろん」と男たちが答える。「二ドルありますよ」後家さんはそこで彼らを居間に通し、密造ウィスキーを一杯売るのだった。そのあと、男たちは口笛を吹いたり、歌ったりしながら、いかにも何事もなかったように町を歩いていくのだった。ある日、悪戯(いたづら)主がふたり、なかで何が行なわれているのかすっかり見てやろうじゃないかと相談した。そして、ふたりは後家さんのドアをノックした。「何のご用?」後家さんがきいた。「ご存じでしょう、ぼくたちが欲しいものは」坊主たちが答えた。「お金はあるの?」チビどもは言った。「十セントあります」後家さんは、チビどもを居間に通した。十セントをとりあげると、二人の頭をつかんでゴチンとばかりかち合わせた。それから道路に蹴(け)り出した。チビどもは起きあがると、埃(ほこり)を払って叫んだ。「なんてこったい、あんなものに二ドルも払うなんて、とっても考えられないや」(「ポケット・ジョーク」 植松黎 編・訳) 


日本の流通機構
いまよその国に行って、牛肉を買ってくる国民がいるでしょうか。アメリカ、オーストラリアから帰ってくる人は、発泡スチロールに入ったチルドビーフを買って来ますし、そのほか輸入制限目いっぱいのアルコールを三本ずつ買ってきます。私の友人で、ジャンボ機が満員のときに買われてくる酒類の値段を換算した人がいるのですが、だいたい一機当たり二千万円買っているというのです。そうすると、いま成田を離着陸する飛行機が一日平均二五○便だといわれますから、六割として百五十機ですから三十億円ぐらいになるわけです。これが全部貿易外収支なのです。それを全部貿易内収支に勘定してくれれば、いまの経済摩擦は半分解消してしまうのです。ですから、いかに日本の流通機構がまずいことをしているかということでしょう。英国やフランス酒造メーカーが成田空港のあの風景を見たら、相当頭に来ると思うのです。日本が正常な貿易関係というものを欧米の人たちに認識させるためには、日本から欧米に行った人たちが、肉や酒を免税店で買ってこないで、手ぶらで帰ってこられる状況をつくらなければなりません。その時に、はじめて非関税障壁がないと堂々と胸を張って言えると思うのです。やはり、ウイスキーやコニャックを三本と肉やエビを買ってくるという状況を、脱出しないといけないのです。(「だから日本は叩かれる」 ポール・ボネ) '87年の文のようですが、その後の日本ははどう変化したのでしょうか。 


西郷札奇聞
さて、大坂の商人柳井某もたいへんな西郷ファンで、生活ことごとく薩摩ふう、酒は薩摩焼酎しか飲まず、器も薩摩焼でなければ気がすまない。もちろん、手にいれた西郷札はつねに財布の底にだいじにしまってある。ところが、この人物、ある日遊郭に遊びに行ったはいいが、夜になってにわかに腹痛をおぼえ、近所の薬屋まで使いを出した。しかしその代金として、こともあろうに、まちがって西郷札をわたしてしまったのである。翌朝、あわてて薬屋に掛けあいに行くと、なんとこの薬屋も熱烈な西郷信者であった、はからずも手に入った一枚の西郷札を神棚に祀り、神酒をささげて一家で拝んでいる最中である。柳井が返してくれといっても、いったん受けとったものを返せるか、と議論になり、取組みあいの大喧嘩。結局は、この一枚の西郷札は柳井の手に戻ったというが、西郷は死後に、かえってこういう信者たちを獲得し、国家的には逆賊とされながらも、庶民のなかでは英雄として鮮明なイメージを形成したのであった。上野の山の西郷の銅像は、そのイメージの結集であったといってよい。(「一年諸事雑記帳」 加藤秀俊) 西郷札とは、西南戦争の際、西郷側によって戦費調達のため発行された私製紙幣だそうです。 


夏のお酒
「太田さんは、お酒がつよいでしょう?」何故か、そういわれることが多いのである。どちらかといえば、柄の大きいことも影響しているように思う。「見かけ倒しなんです」最近は、そう答えるようにしている。「ええ。まあ、ほどほどには」などと答えようものなら、本当に大酒豪なのかと誤解されてしまうことがわかったのである。大酒飲みになる素地はあるのかもしれない。父がそうだった。「あなたには、とめどがなくなるところがあるでしょう。お菓子でも、あればあるだけ食べてしまう。お酒もいったん飲みだすと、際限なくつよくなるような気がする」二年半前に空に行った母は、よくそういっていた。だから、あまり飲んではいけないというのである。お酒はほどほどにしか飲まないこと、それが母の教えのひとつだった。−
母が空の上に行った年の夏に作った梅酒がほんの少しだけれどそのままのこっていた。沢山あった梅の実は先に食べてしまって、液体だけが小さなビンに入って冷蔵庫の奥に蔵われていたのである。つい先週の日曜日、洗濯をすませた後で、何ということなくそれを一気に飲み干してしまった。胸の動悸が激しくなった。私は、かつての母のように窓際に横になった。真夏を思わせる暑い一日であった。頬が火照ってくる中で、母が死んでから今日までの間に決してお酒がつよくなっていないことを何故かうれしく思った。「やはり、大酒飲みになるのはやめにしよう」久しぶりの心地よい酔いの中で、改めてそう思ったのである。(「気ままなお弁当箱」 太田治子)  


雀をたくさん
ある所に親子二人の者があった。ある日、親父が肥後の国では雀が高く売れるという話を聞いて来た。息子と相談して雀をたくさん捕って舟で積んで行くことにした。それで雀をどうして捕るか色々と相談した。親父が酒の粕を買ってきて、息子は椿の生(なま)の葉を集めた。それから雀の集まる所へ行って、息子は一面に椿の葉をひろげた。親父はそれに少しずつ酒の粕をつけておいた。それから二人は木陰に休んで見て居ると、雀がたくさん集まって来て、酒の粕を食べて酔っぱらって椿の葉の上に寝てしまった。それから日であたたまった椿の葉がそり返って、寝ていた雀をすっかり包みこんでしまった。これを見た親子はすっかり喜んで、箒(ほうき)ではきよせて用意していた俵に詰めた。それから船に積みこんで肥後に行った。すると雀船が来たというので、大勢の人が集まって来た。ところが俵の口をあけると雀は飛んで行ってしまった。酔っぱらっていた雀は酔いがさめていて飛んでしまったのだった。そこで親子の者はくたびれもうけをした。(長崎県 島原半島民話集)(「日本笑話集」 武田明編) 雀を取る方法 捕らぬスズメの味算用  


中野碩翁
ある時、西国某藩の藩士が二人で、向島辺を散策した帰り、碩翁(せきおう)の別荘とは知らずに、門内へ入り、頭の禿げた碩翁を、町人扱いにして、酒などふるまわれて屋敷に帰った。帰ってのち、それが碩翁の別荘であったとわかり、二人とも蒼くなって、重役にことの由をつげ、内心では死を覚悟していた。重役も大いに驚き、山のような贈り物をつんで謝罪の使を出した。碩翁はホクホクして、「なに私が飲みたかったから、一杯だしたまでじゃ。決して心配にはおよばない」といって、進物を納めた。またある時、碩翁が吉原をぞめいていると、妓夫どもが手どり足どりして、二階へかつぎ上げてしまった。それが碩翁とわかると、楼主はガタガタ慄(ぶる)いをはじめて、座敷に出て、「どうか命ばかりは、お助け下さいませ」と哀願した。碩翁、笑って曰く、「どうも表からは帰りにくいから、裏から出してもらいたい。」楼主蘇生の想いで、履物を裏へまわしたものの、裏は人の家で路(みち)がないのであった。そのことをいって、表から出てもらおうかと、思わぬでもなかったが、せっかくの機嫌が狂って、首でもはねられては大変と、至急に裏の家へ交渉して、大工を呼び、板を抜き、屋根をこわして、新路をつくり、そこから碩翁に出てもらった。供の者を数名つけて、向島の別荘へ送りとどけ、数百両の贈り物をして、後のタタリを食いとめた。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 江戸幕府11代将軍家斉の寵姫、おふみの方の実父中野碩翁の逸話だそうです。 


ハムラビ法典
紀元前一八○○年頃から、メソポタミア地方にセム族のアモール人が侵入してきた。彼らは先住民族を征服し、ここに古バビロニア王国を建設したが、賢かったのでスメール人の文化を吸収し、彼らが完成させていた麦酒の醸造技術も、そっくりそのまま学びとってしまった。この王国が最も栄えたのは、六代目の王ハムラビの時代である。王の命令で、閃緑岩の石に刻まれた「ハムラビ法典」は、史上最古の成文法として知られているのだが、この中には、ビールおよびビール酒場についての条項が掲げられている。 <一○八条>もしも手配中の犯人がビール酒場へはいり込んだのに、これをかくまって当局につれていかれないようにした場合には、この酒場の女は死刑に処せられる。 <一一○条>もしも尼僧院に住まない尼僧、あるいは高位の尼僧でも、ビール酒場を開いたり、またビール酒場にビールを飲みに立ち寄った場合は、火あぶりにされる。 <一一一条>ビール酒場の女が六○シラのビールを信用で飲ませた場合には、収穫のときに五○シラの穀物を取りたてねばならぬ。(「洋酒こぼれ話」 藤本義一)  ハンムラビ法典の酒に関する条項   


酒神とともに
酒は、人間にとって旅のような気がしてならない。金色の不定形な液体が、ぼくの暗くて細い咽喉(のど)をしずかに流下すると、魂という、これもまた不定形な物質に光りとリズムをあたえ、ときには交響楽のごとく、ときにはピアニシモのごとく、わが胃の腑に微妙な振動をつたえ、ぼくをして、この世が、われとともに永続しかねないという楽天的な観念の囚人たらしめ、あるいはまた、「不死」という絶望と暗黒の地獄の詩的道案内人にもなってくれる。そのとき、金色の不定形な液体の力は、旅の車窓をかたちづくり、つかみどころのないわが魂に、強靱にして繊細な形式をあたえてくれるのだ。時、場所、肉体と精神の諸条件によって、アルコールがかもし出す香気と血液のリズムとが、ぼくをたえず旅立たせ、四季と時代の光景を、朝と夜の光りを、ぼくの感情の起伏を、ときには知性の祝祭を現出せしめ、ぼくは酒という名の車窓から離れられなくなる。そして旅とともに人が老いるように、酒神もまた人とともに老いるのではなかろうか。青春の時の酒、壮年期の酒、そしてぼくも酒神とともに四十年ちかく旅をしつづけてきたが、いま、やっと初老期に入る。ぼくは未知の老年期を、若干の興奮と大いなる幻想をいだきながら、わが友酒神とともに迎えたい。(「スコッチと銭湯」 田村隆一) 


アルコール中毒という言葉を広めた人
「このアルコール中毒という言葉を作ったのは誰ですか」「マグヌス・スフというスエーデンの医者です。一八四九年に彼は『慢性アルコール中毒』という単行本を出版し、それが瞬(またた)く間にヨーロッパに広まったのです。その二年前の四七年に学会で報告しています」「誰が日本に紹介したのですか」この質問には、ぼくは答えられなかった。「病気として紹介したのは誰か知りませんが、一般の人にこの名を広めた最初の人なら知っていますよ」「誰ですか」好奇心をかきたてられたといった表情でNさんがぼくを見つめた。「中江兆民ですよ。兆民が「アルコール中毒」を理由に国会議員を辞職したいと、辞職願いを議長に提出したんです。一八九○年、日本最初の議会でのことです。これはかれが医者からそう診断されたということではありません。自分で勝手におれはアル中だといっただけです。でもこれでかれが、そういう病気がヨーロッパで話題になっていることを知っていたことが分かります。かれはそういう知識を持った、当時の数少ない日本人の一人だった」(「アルコール問答」 なだいなだ) 


酒呑童子のいけにえ
だが好事魔多しとか、私の方にも罰が当たった。偶然だがこれもきっかけはママカリである。帰京して石堂から鬼のように借金を取立てていると、ある日珍しく先方から電話で、ママカリを送ってきたから取りにこいというのである。石堂は当時千歳烏山のマンションに住んでいたので、早速そこへ駆けつけると、部屋のなかが何か只ならぬ気配である。ドアを開けた瞬間、大きな目の猿のようなものが奇声を発しながらこちらをさして突進してきた。「お前が種村か。入って飲め。コラ飲めというんだ」入れ違いに石堂が廊下に出てバタンとドアを閉めた。初対面だが、これが映画界酒乱の随一浦山桐郎であることは聞かなくても分かる。石堂は相手をしているうちに始末に負えなくなって、ママカリを餌に私を釣って、酒呑童子に捧げるか弱いお姫さまのように浦山にあてがおうという魂胆だったのだ。気がついたときには万事休すで、マンションの一室に日本一の酒乱と一緒に監禁されていた。殺風景な部屋に不似合いなステレオがでんと置いてあって、いましもレオポルド・モーツァルトの「おもちゃの交響曲」が流れている。その軽快なメロディーにつれて、「貧乏人の音楽!貧乏人の音楽!」と連呼しながら、浦山桐郎がベットの上で宙返りを打っている。先程の物音の正体はこれだったのだ。柄が小さいせいか、ベットのバネがトランポリンのように効いて、浦山桐郎は信じられない程上の方まで跳ね上がっている。しかし落下するときはかならずしも正確にベットのマットレスの上に決まらないから、三度に一度は着地点が外れて、板張りの床の上にぎゃふんと叩きつけられる。ふつうなら一巻の終りのはずなのに酔っているから痛くも痒くもなくて、また起き上がってベットに飛び込むと信じられない程の高さから「貧乏人の音楽!」という声が降ってくる。今これを書いていてもウソのような気がするが、こういう状況でそれからの二日間昼夜を分たず不眠不休のまま、酒呑童子の酒の相手をさせられたのであった。むろんママカリにはお目に掛れず仕舞いであった。(「食物漫遊記」 種村季弘)  


上かん屋ヘイヘイヘイとさからわず
上燗屋は牧村史陽『大阪方言辞典』によれば、「おでんかん酒屋、一ぱい飲み屋」とある。いま「上かん屋」というのは大坂でも使わぬ言葉になったが、一ぱい飲み屋はある。構造社『川柳全集 西田当百』(堀口塊人編)によれば、この句の「上かん屋」に当たるところを現代で指摘すれば「老舗(しにせ)を誇る道頓堀の『たこ梅』、または「梅田のお初天神の角店(かどみせ)になっている『関西煮屋』」だろうとある。燗は錫の大徳利、肴は大鍋のおでん、このころ蒟蒻(こんにゃく)一つが二銭、蛸の足一串十銭だったという。お初天神はいっていないが「たこ梅」は覗(のぞ)いたことがある。「たこ梅」の錫の徳利も、鍋の中身もかわらない。豆腐に玉子、ねぎまにコロにさえずり、厚あげ大根、バカ貝にロールキャベツ。もっともいま、道頓堀の朝日座前の「たこ梅」は姐ちゃん連が能率的にてきぱきと給仕し、「ヘイヘイヘイ」などと柔媚(じゅうび)にうけこたえてくれない。客のほうが「さからは」ぬようにしている。だが、親爺さんのさからわぬ一杯飲み屋はやはり、今の大坂にもあり、「野球は阪神じゃ!巨人なんかヒイキにする奴、アホじゃ」にも、親爺さんは「ヘイヘイヘイ」である。(「川柳でんでん太鼓」 田辺聖子) 


四日間で変わった
そして最終日、岸田さんは、この四日間で自分がはっきり変わった、と思った。つい一週間前まで部下の教育や営業方針など他人をどう説得すればわかってもらえるかに悩んでいた。プログラムの中で、他人に改善を求めてはいけない、自分を改善すればいいのだ、と知らされてショックだった。どんな人にも素晴らしい長所がある、ということを参加者全員から教えられた気がした。これまで一人で悩んでいたことが、そんなにたいした問題ではないとわかって、気持がすっきりした。最後の発表で、それまでリーダー役をするたびに「前のグループと同じです」と最小限の言葉で済ませていた外資系機械メーカー経理担当の柳茂徳さん(三五)が「生涯設計ノートを完成させ、毎日二時間ずつ勉強して公認会計士を目指して頑張りたい」と決意表明したのには、みんな驚き、ひときわ大きな拍手がわいた。照れ屋の柳さんだけでなく、「しゃべるのが苦にならなくなった」「率直に自分の意志をあらわすことが大事だとわかった」という感想は多かった。打ち上げは大友さんが見つけたなべもの屋でやった。都合で帰らなければならない人を除いて十八人が飲んで歌った。医者に禁酒を”宣告”されている辻さんも「ちょっとぐらいなら」と乾杯、同窓会の名付け親になった。午後九時半過ぎ、十人が六本木のカラオケ・スナックで二次会を開いた。居合わせた女性客と踊り出す人もいて、ヤンヤのかっさいを浴びた。四日前までは見ず知らずの人たちだったのに。(「ドキュメント サラリーマン」 日本経済新聞社編) 


互助土族自治県
青海省の人口は三七○万で、そのうちの一四○万は少数民族が占めている。少数民族は、七○万のチベット族を筆頭に、三○ほどもある。私たちの一行は、省都西寧から車で一時間余りの土族の村を訪れた。緩(ゆる)い傾斜を登って行く山峡の道の両側はすべて麦畑だ。主に小麦で、裸麦もある。米作りには水が足りない。やがて、小盆地のなかの互助(フーズー)土族自治県の一村に着く。村中総出の歓迎だ。文字通り老若男女の人垣のなかに、土族特有の民族衣裳を着飾った娘さんたちが目立つ。車を下りると、その娘さんが、三杯の白酒(パイチュー 蒸留酒)をお盆にのせて差し出す。ほんとうは三杯を飲み干さなければならないのだが、なにしろ六○度の青「禾果」(チンコ)酒のことだから、そんなことをしたら第一ラウンドでたちまちKOである。なめるだけで許してもらう。家の門を入るにも三杯、部屋に入って座につくと、また三杯、遠路よくござった、と長老が歓迎の乾杯をまたもや三杯、土族の人たちの飲みっぷりは見事というほかない。海量(ハイリャン)(酒豪のこと)とはこのことである。(「中国グルメ紀行」 西園寺公一) 


五月十八日(木)
ロケーション初日、曇天で仕事にならず。監督は、斎藤寅次郎氏なり。宿へ帰ったが、今日は風呂が沸かないから、銭湯へ行けとて、湯札を呉れた。田舎道のまん中に一軒の風呂屋。銭湯というもの、何年かで味わう。夜は、宿から電話で申し込んどいた、菊寿軒という料理屋へ、月田一郎・鳥羽陽之助を誘って、行ってみる。どんなものかと心配していたのに、先ず、酒もビールも、どんどん出して呉れるので、喜び、日本酒を久しぶりで、コップで飲む。山独活(うど)の生に、味噌をつけて囓(かじ)り、魚でんに、豚カツと出て、大満悦。酒もビールも、ふんだんに飲んで、百二十六円は、安いものである。(「ロッパの悲食記(抄)」 古川緑波) 昭和19年の5月18日だそうです。 


ひとみばあさん
ひとみばあさんにはモデルがいる。新宿にある「ひとみ」という居酒屋にいるおばあさんだ。その店には、「だいじょぶだぁ」の本番が夜中の2時から3時ごろに終わってから、よく飲みに行っていた。24時間営業で朝まで飲めるから、しょっちゅう通ってた。そこで飲んでると、夜中なのに僕のところにあいさつに来るおばあさんがいる。多分夜の7時か8時ごろ寝て、夜中の2時か3時ごろに一度目が覚めてたんじゃないだろうか。それが、あんなヘアスタイルで、ちょっと派手めなメガネをして、ものの言い方がすごくていねいなんだ。「どうも、遅くにいらっしゃいませ」という言い方が。それで必ずサービスで、何か出してくれる。その様子がなんかかわいらしくて、すごくおかしい。「いいキャラクターしてんなあ、枯れてるなあ」と思った。それで、声を変えて、しゃべり方や雰囲気をオーバーにして真似てみた。床山さんを店に連れてって、「あのかつらつくってくれる」って頼んでみたら、「あれねぇ」って、僕がやろうとしていたことがすぐわかったみたい。本物のひとみさんは、ひとみばあさんよりも、もっと上品だ。あとで聞いたら、屋台から始めてビルを建てたというすごい人らしい。(「変なおじさん 完全版」 志村けん) 


修学旅行
とにかく、私は二十年ほど前、修学旅行で京都を訪れた時、清水寺のそばで扇屋のきれいな娘さんをナンパしようとして軽蔑の眼差しで睨(にら)まれ、夜の街に繰り出して酒場のおネエさまを誘惑しようとして軽くいなされ、大坂のストリップを見学しに行き感動して戻ってきたクラスメイトにそのことを話し、無駄なことをするもんだ、という冷たい反応をもらい、くやしまぎれに飲みすぎて二日酔いになり、帰りの新幹線ではフラフラ状態、しかも無理して食べた京都の弁当にアタッてしまい、東京駅からウチに帰る間、各駅停車で公衆便所に駆け込んではズボンをおろして唸る、という惨状に陥り、結局一週間近く学校を休むという羽目になった。(「決定版 日本グルメ語辞典」 大岡玲) 


飛鳥山
これはこの附近一帯が豊島氏に関係のある所で、豊島清光の第三子かが紀州三上の庄の地頭に補せられ、豊島郡十何ヶ村かを熊野権現のために寄進したなどとの云い伝えがあるという話を聞いた吉宗が、なつかしさの余り、ここを幕府の直轄領とし、地頭の野間氏を他に移して、飛鳥山を江戸市民のレクリエーションの地としようと特別の庇護を加えたのだという。彼は飛鳥山一帯に数千本の桜と石神井川沿岸に紅葉を植えさせ、それによって春は桜、秋は紅葉と市民を大いに楽しませようと計画し、これが出来上がって、桜が満開となると、元文二年三月自らここにやってきて花見の宴を開き市民に大いに花に浮れてよろしいと布告したのだ。そのすばらしい花見こそ後世に残すべきだというので、江戸城吹上にあった紀州からもってきた石をここに運び、そのいわれ因縁を綴ったのが有名な飛鳥山の碑だといわれてる。 この花を折るなだろうと石碑見る 飛鳥山何と読んだか拝むなり 飛鳥山どなたの碑だとべらぼうめ 碑も読めぬ李白の多い花の山 成島鳴鳳の飛鳥山の碑は江戸中に名高いが、全く難読の碑である。さっぱりわからないという連中はただおじぎをすりゃいいんだろう組である。だから酒のみだけは李白級がいても、詩文の方は全く駄目でどうしようもない。しかし、ここは上野の山とはちがい、仮装どんちゃん騒ぎを許したから 飛鳥山ばだら三味線百で借り と、大いに花に浮かれる者が多く、野趣濃厚な花見光景だった。(「江戸風物詩」 川崎房五郎) 上野の花見  


志ん生の満州行き
この空襲でお父さんはますます怖がるようになっちゃった。そんなとき、満州行きの話がまた来たわけ。で、あたしは言ったの。「お父ちゃん、あっちへ行けば、空襲はないし、お酒だって飲めるんだから行っといでよ。ひと月も行ってれば、その間に戦争も終わるわよ」お父さんも「そいじゃ、行ってくるか」って。−
結局、ほんのひと月のはずが、二年もの長旅になったんですけどね。−
それこそ噺(はなし)以外は何もできないお父さんでしたけど、満州から無事に帰ってきた時は、家の中に希望の光が見えたようでしたよ。お父さんの帰還は馬生だけじゃなく、あたしたち家族全員にとっても、久々の嬉しい出来事でした。お父さんが家に着いたとき、お母さんしかいなかったんですが、「怖かった」って、言ってましたよ。ヨレヨレんなった中国の人が着る服着て、リュックサックしょった人がいきなりヌーッと入ってきたもんだから。すっかりやせ細ってたから、お母さんもすぐにはお父さんだと気づかなかったのね。その後、お母さんはすぐに焼酎を買いに、酒屋に走ったんですって。(「三人噺 志ん生・馬生・志ん朝」 美濃部美津子) 塩豆 ウォツカでの自殺未遂 五代目志ん生です。 


江戸の地酒
 隅田川 樽の中まで 浪の音  柳155
浅草並木町の山屋半三郎醸造の銘酒隅田川の由来については、二説ある。『浅草寺志』には、山屋は、寛永年間(一六二四−四四)創業で、隅田川の水で醸造して伝法院公英僧正に献上し、隅田川諸白の銘を賜ったとあるが、随筆『江戸塵拾(ちりひろい)』(明和四年・一八六七序)は、本所中の郷、細川備後守下屋敷の井戸水で醸造したという。
 涼み舟 網手の猪口(ちょこ)で 宮戸川  柳112
 都鳥 飲めば足まで 赤くなり  柳115
宮戸川、都鳥は、浅草駒形町、内田甚右衛門発売の銘酒。網手の猪口は、網目模様を染めつけた盃であり、都鳥は、吾妻橋から上流にいる鴎の称で、足が赤いという誤信がある。(「日本語おもしろ雑学歳時記」 興津要) 


猩々暁斎
そうして国芳(くによし)の孫弟子にあたる、芳柳(ほうりゅう)、年延(としのぶ)、年方(としかた)、年恒(としつね)、年英(としひで)等は、すべて芳年(よしとし)門に出でて、歌川派の衣鉢を伝え、その芳柳門から出でた両芳翠(ほうすい)(山本と羽山)の名は現代人に親しい。すなわち歌川派が、国貞によって伝わらず、国芳によって伝わったことは、十目十指(皆がそうと認めるところの意)で、ことに国芳門の暁斎(ぎょうさい)などは、鳥羽絵を加味した、やや風変わりの特色を出して、明治以後、博覧会に出品して妙技賞牌を受けた。これは若い頃から乱暴者で、狂斎と号し、明治三年、不忍弁天、長駝亭の書画会席上、酔に乗じて、当時の顕官を誹毀(ひき)するような絵を描いたため、席上画の現場から、席上拘引の憂きめにあって、讒謗律(ざんぼうりつ)に問われ、四ヵ月禁獄のお灸をすえられてこりごりし、爾来(じらい)狂斎を猩々暁斎と改め、浮世絵狩野派、鳥羽派の諸派に出入りして、長所を総合し、一家の風をなし、晩年根岸にうつり、左に酒杯をはなさず、右に画筆を揮(ふる)うという風であったから、アルコール中毒にかかり、明治二十二年五月二十六日、五十九歳で没した。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 酒蚤 


古酒の燗
「古酒は、燗もいけますよ」という話を聞いたら、どうしても試したくなって、無理をお願いしてしまった。月桂冠の上燗。おーッ、これは、これは!複雑な味の要素が、うまい具合に舌の上にばらけて、香りもさらに強く迫ってくる。ちなみに、このときの器は、厚みのある抹茶茶碗だった。これが、実にいい。味に厚みのあるものは、厚みのある器で、繊細なものは、薄目の焼き物で…。酒と器の関係にも、一家言ある島田さんだった。(「百人一酒」 俵万智) 「島田さん」は大坂の島田商店のご主人だそうです。この時は、「島田さん」の選んだ、平成6年の「長龍 純米大吟醸 長期熟成酒」、昭和57年の「梅乃宿 古酒」、昭和51年の「月桂冠 秘蔵古酒」だったそうです。この本の出版は平成14年です。 


ネズミの好きなビール
「違いがわかる男」というのはインスタント・コーヒーのコピーです。コクを好むということは、ネズミはコクの有無の「違いがわかる動物」だということに他なりません。たとえばビールはドライよりもコクのある一〇〇%モルトタイプ、つまり麦汁とホップだけで造ったビールをネズミは好みます。ドライとモルトタイプのどちらがうまいと感じるか、人間ならば好みはそれぞれでしょう。しかし、ネズミはモルト好きです。本格派といっていいかもしれません。一方、清酒の場合は、癖のない飲みやすい甘口を好んで飲みます。(「コクと旨味の秘密」 伏木亨) 


百鬼園先生の宿酔
半丁よりももつと沢山残つてゐた豆腐を、何の味もつけずにその儘翠仏が飛行家の口へ入れてしまつた。「ああ、うまかつた」と云つて飛行家が脣を鳴らした。「しかし返礼をしないと悪い」今度はお膳の上にあつた漬けアミを飛行家がしゃくつて、翠仏の口へ押し込み出した。塩辛い物を口一ぱいに頬張る程入れては、又後から同じ事を繰り返してゐる。「そんなばかなものを食つて、辛いだらう」と私が気にして云つたら、「辛くねえよ、和尚め、糞ぢぢい、百鬼園先生」と翠仏が云つた、それから二人で手を出したり、足をのばしたりして相手を押してゐたが、時時は私の方へもやつて来た。又座のまはりにある物はみんな引つ繰り返し、暖炉の傍にゐる目白の飼桶をがたがた揺すぶつたりするので、気が気ではなかつた。到底素人では鎮圧する事が出来ないと考へたので、席を変へる事にしたが、そこは翠仏の根城なので大いに威張つて、座敷にぐうぐう寝込んでしまつた。又飛行家も一寸はふつておくと直ぐにぐうぐう眠り込むので、無理に起こしては酒を飲ましたが、二人とも他愛ははくなつてゐる。その中に在つて私だけがしやんとして、嬋娟たる美技を相手に飲み続けたから、一晩に二度目の酒で大分酔つ払つた。もうそんな事をする歳でもないと自分で考へてはゐるが、翠仏が現はれるとつい誘ひ込まれてしまふ。口髭に白髪をふやして大いに威厳を備へてゐるつもりであつても忽ち馬脚を露はすのである。しかし一晩明けた今日は宿酔で甚だ気持ちが悪いから、自然に渋面となり、威武に於いて欠くるところはないと思はれる。(「御馳走帖」 内田百閨j 


カジノキ
中尾 日本では、野生植物から育てあげた栽培植物は、ウド、セリ、フキ、ミツバぐらいなもので、食いものとしては、きわめて貧弱で実力のないものばかりだ。ということは、農業らしいかっこうになるときは、外部から作物を受け取ったに相違ないということだ。そこで、外部から受け取ったものに目をつけると、農業がどこで始まったかということを知る目安になるのじゃないか。そこで外部から受け取ったと考えられるものを、一応、相対的に古いと思われるものから、大きなグループに分けてみたのだけれども、一番最初に入ってきたグループを、かりに、「照葉樹林前期複合」とよぶことにしよう。主なものとしては、ヤマノイモ、カジノキ、ヒガンバナなどがあり、ひょっとしたらサトイモもこのとき入ったかもしれない。これらの移入作物は、かな半栽培的な状態で、野生の果実類や根菜類と併用されているので、「前期複合」とよんでおく。れっきとした農業にはなりきっていないという意味だ。日本のサトイモは明らかに中シナ系とみていいだろう。カジノキはもう少し南に、マレーシアぐらいまで下がる。また、食用ではないが、ウルシなどが、中シナあたりからきている。
吉良 カジノキはベリーとしてはいったという考えですが、繊維料としてはいったわけですか。
中尾 どちらか決定しがたい。津軽半島から出た縄文時代のつぼの中に、カジノキの種子が相当出ているね。酒をつくっただろうという推測になっている。(「照葉樹林分k」 上山春平編) 


珍景山と雷電
昔、長崎に珍景山という中国人の、絵を描く先生がありまして、この方が大変な酒豪、斗酒なお辞せずの方で…。この方は大酒を飲むというので大評判。その当時、相撲で、雷電為右衛門という、これもなかなかの酒豪でございました。あるとき、相撲興行で長崎へのり込んできたので、雷電とひとつ、飲み比べをしようということになりました。ある料亭で二人、差し向かいで、もちろんそばに、ちゃんと審判官がついております。飲むほどに、だんだんお互いに酔ってくるんでしょうが、さすがの珍景山先生も、どうにもたまらなくなり、一斗飲んだときにはぶっ倒れて、ぐうぐう寝こんでしまいました。雷電がこれを見ていたが、風邪を引かしちゃいけないというので、蒲団を持ってきて、寝た上へ掛けてやり、その枕元に坐り込んで、今度は自分一人で、またがぶがぶと飲みはじめて、とうとう二斗の酒を一人で飲んだという…大変ですねえ。朴歯の下駄をはいて、鼻歌をうたいながら帰ったというんですから、雷電という人は図抜けて酒にも強かったんでございますね。(「噺のまくら」 三遊亭圓生) 


保高徳蔵
或る時、私は高校の友人と共に、「文芸首都」の主催者、保高徳蔵先生のところへ遊びに行った。友人は銘酒の醸造元の息子であり、バクダンや焼酎でなく、本物の灘の生一本を持っていった。縁台で飲みながら、私は言った。「首都の連中はすぐ吐いたりしてだらしがないです。誰か来たら、ぼくが酒の飲み方を教えてやりましょう」ところが、徳蔵先生は酒が強かった。いくら飲んでも平然としている。友人がまず吐き、ついで私も吐いてのびてしまい、その夜は新聞紙を敷いた布団の上に泊めて頂いた。さすがに私は恥辱を覚えたと見え、あとで先生に、「小生はまだミルクを飲んでいるべき人間であります」というハガキを出した思い出がある。とにかく、たいていの人が「おれは酒が強い」と威張りたがる。威張っておいて、ゲロゲロと吐いていては世話がない。(「マンボウ人間博物館」 北杜夫) 保高徳蔵(やすたかとくぞう)は昭和8年に「文藝首都」を創刊。ここからは北杜夫のほかに、なだいなだ、中上健次、田辺聖子、佐藤愛子、芝木好子らが巣立ったそうです。 


十五から酒をのみ出てけふの酒
すこぶる気に入っている句である。親父の晩酌につきあわされ万病の薬を飲みだしたのは小学一年生のとき。十五じゃずいぶんと”遅かりし其角どの”ということになる。この句には唐の白楽天の詩をおいてみないことには、正しく味わうことにはなるまい。で、「琵琶行」の読み下しを。「自ら言う もとこれ京城の女 家は蝦蟇陵(ひきりょう)の下にありて住めり 十三にして琵琶を学得して成る 名属教坊の第一部」この詩の女は貧家の生まれながら、それに押しつぶされることなく、十三で琵琶を学び出して、いまや超一流の弾き手となっている。薄幸ながら一芸に秀でた美女に、自然と興を引き出されて其角はこの句を詠んだものか。さらに深読みすると、句からはほんわかとした色香も匂ってくる。すなわち、『論語』にいう、十五は学に志すの年と。俺もその十五で芭蕉翁について俳諧の道に志し、ついでに酒道にも、当然のことながら、酒とくれば女、すなわち色の道なり、そっちのほうにも腕をあげ磨いて今日に至る…と。その趣が、「けふ(今日)の月」にあるのではないか。月はけだし遊里に照る月ならん。酒に女に全盛をつくし、「けふの月」の五文字に万感の想いを盛る。いやいや名句であることよ。(「其角俳句と江戸の春」 半藤一利) 


三社祭の出開帳
三社祭が無事に済んで、その直会(なおらい)の席に連なっていた父親が、お神酒のせいでもあろうか、ふらりとその宴席をはずして、そのまま吉原(なか)へ繰り込んでしまった。そして日頃気の合っている友達を電話で呼び集めると同時に、吉原の幇間連中は言うに及ばず、浅草まで手をまわして幇間を集めての乱痴気騒ぎだ。やがて、「おいみんな吉原でいつまで騒いでいてもはじまらないから、これから一つ、趣向を変えて船橋あたりへ出かけてみようじゃねェか、東京から一歩踏み出しゃ旅の空だ、師匠達だって気軽に遊べらァな…」と言いだしたのは私の父親だ。異議のあろう筈はない。それ行けッ!と押し出した一行は、船橋に着くと、先ず飛び込んだのが呉服屋だ。人数だけの揃いの浴衣を、明日までに仕立ててくれ−仕立ての良し悪しに文句はつけないから、今夜中にたのむ−と無理な注文をとうとう納得させた上で、次は酒屋へ行って四斗樽を一本譲ってもらい、わらじ、渋団扇等を買い集めて即興の樽神輿を作りあげ、それッ肩を入れろ!!とそそまま待合へ繰りこんで、その待合の入口を、御神酒所に仕立ててしまった。なんのことはない浅草三社祭の出開帳。お祭りのやり直しを始めたのである。土地の芸者衆を呼んで、ワッショイ!!ワッショイ!!!と文字通りのお祭り騒ぎである。そしてこのお祭りはそのまま二日も三日も続いた。三日目の事、連日の酒にふやけて蒼白くむくんだ顔を撫でながら幇間の一人がこう言ってきた。泣き出しそうな顔である。「大将、まことに申訳ないんですが、どうもからだの調子が変なんでよくよく考えてみたら毎日、毎日酒ばかりいただいていて、ここ二、三日、まるっきり飯粒にご面会していないことに気がついたてえ次第で…」(「浅草寿司屋ばなし」 内田榮一) 浅草弁天山美家古寿司先代の話だそうです。 


米の日−毎月、八日です
毎月八の日の「米の日」には農協組合員や家族は一日三度必ず米の飯を食べること、農協店舗ではこの日はめん類、パンなどの販売をとりやめる。この日に行われる会食ではビールもウイスキーも駄目で清酒オンリー、となかなかきびしい。幕府の農民法令として有名な慶安二年の触書(ふれがき)には「(百姓の食物は)雑穀専一に候間、麦粟稗菜大根其外何にても雑穀を作り、八木(米)を多く食つぶし候はぬやうに仕るべく候…」とある。江戸時代の農民は自分の手で米をつくりながら自分の口へはほとんど米を入れることはなかった。農協の幹部にやいのやいのといわれて米の飯を食べているこんにちの農民たちを地下のご先祖たちは何と思ってござることか。(言葉の雑学事典」 塩田丸男) 今もやっているのでしょうか。米の日は平成11年から始まったそうです。 


流し樽
瀬戸内海を航行する船から、遠国の人が、「こんぴらさん」に神酒を奉納したい時に、清浄な樽に神酒を収めて「奉納金毘羅大権現御宝前」などと書いた旗を立てて河や海に流す、これを流し樽という。この酒樽は波に漂い、風に吹かれて流れ、これを見つけた船乗りは手や竿で讃岐の方へ流れるように向きを変えて潮に乗せ、やがては丸亀や多度津の海岸に打ち寄せられる。この樽をひろいあげて「こんぴらさん」の神前へ届けた人にも神運が訪れるという。「流し樽」に基いて、神酒ではなく初穂すなわち賽銭を樽に納めて流すことを「流し初穂」よぶ。どちらも江戸時代寛政年間(1787-1801)頃から行われている、「こんぴら」崇敬行事のひとつである。この樽の中身については神前に納められるまで不備がないという。(「金刀比羅宮書院の美 展」 東京藝術大学大学美術館) 


友と酒は古いほどいい
日本古来のことわざに、酒は古いのがよいというものがあり、それに女盛りの魅力を取り合わせた「酒は古酒、女は年増」というのもある。その印象が強いためか、このことわざも日本の古くからのものと見る人もいるが、英語のOld friend and old wine are best.の翻訳。「古いほどいい」と言えば、「女房と味噌は古いほどよい」ということわざもある。不謹慎な、あるいは思慮の浅い男はつい、「畳と女房は、新しい方がよい」などと口走って、家庭内で要らぬいさかいの種をまくことになる。なんと言っても、気心の知れた古女房がよいという、こちらのことわざでなくてはならない。ただし、味噌と一緒にされて女房が喜ぶかどうかは大いに疑問があり、使用にはなお一考を要する。(「こたわざの知恵」 岩波書店辞典編集部 編) 


宮川一貫
「先生は何をのみますか?」「僕はコノウ、コックテールというのを飲むんである」「これがコクテールのメニュウですが、どれにしますか?」「どれのこれのと面倒だ。ここにあるヤツをことごとく(旦那は万事この調子の演説口調で、ここでもコートゴトクと力が入る)とろう」そのメニュウというのが、三十種類ぐらいある。僕が給仕を呼んで、ここにあるコクテールを全部持ってきてくれというと、物に動じない給仕も、「全部ですかムッシュウ」と聞き返したくらいだ。テーブルの上に十五杯のコクテールが二列に並んだ時は、さすがの僕も恥ずかしく、「先生、このカフェーには世界でも有名な絵描きがよく来るんです。マチスもピカソも、キスリング、フリエツ、ザック、フジタ、みな世界的です。日本の文士でも正宗白鳥、久米正雄、吉屋信子、林芙美子などみな、ここが根城だったんです」と、照れかくしの説明をする。先生はそんなことはどうでもよいといった表情で、一等端のカップを手にとり、日本のキキ酒よろしくピチャピチャと音を立てて味わい、そのカップを今度は僕の方に突き出し、「君、これ、ちょっといけるよ。やって見給え、少し辛口かナ」という。また次を同じテでやる。パリ人は人のことに関知しないエチケットを持っている筈なのに、あまりわれわれの行動が奇妙なので周囲の連中はニヤニヤしてこっちを見ている。僕も最初のうちはいささか恥ずかしかったが、次第に度胸がすわってきた。一通りピチャピチャのキキ酒がすむと、「君、マンハッタンはどれかね?」ときた。どうも恐れ入ったご質問だ。三十種の中からマンハッタンなど分かりっこないから給仕を呼んでマンハッタンはどれだときくと、即座に中頃のカップをさして「マンハッタンはこれですよムッシュウ」といって、ぼくの顔を見て片眼をつぶった。デタラメをいったのだ。「先生、これがマンハッタンです」というと、またピチャチピチャ、「君、コックテールはマンハッタンにかぎるね]ときた。(「にやり交友録」 石黒敬七) この先生は、石黒の柔道師匠・代議士の宮川一貫だそうです。 アシモフの雑学 


アンドレマルローとペトリュス
アンドレ・マルローが、ラセールに足繁く通っていたことを知る人は多いが、彼の係のソムリエがこんな話をしてくれたことがある。マルロー好みのワインはボルドーのポムロールの銘酒シャトー・ペトリュスだった。それも良い年のは高いので、問題にならないくらい出来の悪い年、五四年を飲んでいたという。客商売だから、ソムリエも言葉づかいはていねいで、「出来が悪い年」などという言葉は使わずに、「モワイアン(まあまあの)」という言い方をする。私もワインリストを見ていて、このシャトー・ペトリュスを頼んでみる気になった。いくらか値段の安い年を探してみると、五七年というのにぶつかった。かしこまりました、とひきさがったソムリエを見ながら、これだから話はしてみるものだと思った。(「舌の世界史」 辻静雄) 


三に酒を飲ましゃんす
こんな符丁はご存じですか。「一に俵を踏んまえて 二ににっこり笑わんす 三に酒を飲ましゃんす 四つ世の中よいように 五ついつもの如くにて 六つ無病息災(才)に 七つ何事もないように 八つ屋敷を建て広め 九つ小蔵を建てならべ 十でとっくり治まった」僕の母親たちの時代には少女の間ではお手玉遊びが盛んでした。お手玉をしながら調子よくこんなお手玉唄を歌うのです。元々は江戸時代から伝わる門付け芸能の「大黒舞」の際に謡われたもののようですが、でも、多くの子どもたちは意味も分からずに歌っていたのでしょう。じつはこの歌は呉服の商人の符丁なのです。呉服業界では、1を「俵」と言い、2を「笑い」と言い、3を「酒」と言ったそうです。(「言葉ある風景」 小椋佳) 数の隠語 


ヤシ酒
小松 酒は新石器時代にはあったね。
石毛 容れ物の問題から見れば、旧石器時代では野生のヒョウタンをのぞくと酒づくりの容器がなさそうですね。東南アジアからミクロネシアに行くと、ヤシ酒というのがあって、ヤシの花房を切ってたらたら落ちるのを採取して、そのままおいて置けば、朝採取したのが、夕方には酒になっている。そのかわり二日ともたないんですけどね。ところが不思議なことに、ポリネシアにはないんです。東南アジア、インドなどの熱帯アジアやミクロネシアではサトウヤシ、ココヤシなどで酒つくりをし、西アジアから北アフリカにかけての乾燥地帯ではナツメヤシ、熱帯アフリカではアブラヤシの酒をつくる。どうしてヤシ酒がポリネシアに行かなかったのか、はわからない。(「にっぽん料理大全」 小松左京・石毛直道) 


金原亭馬生
金原亭馬生(きんげんていばしょう)は、父親の古今亭志ん生と同じように、好酒家だった。原則として、米の飯は食べないと、自分もいうし、まわりもそれを認めていた。つまり、飯のかわりに酒をというのが、馬生の生活だといわれた。ある日、前ぶれなしに、新聞記者が自宅を訪ね、声をかけたが誰も出てこないので、庭にまわったら、居間で馬生がおいしそうに飯を食べている。「おや」とびっくりして叫ぶと、何となくうろたえて、こういった。「内緒ですよ、たまには御飯も食べるんです」(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


芥川比呂志
芥川三兄弟の長男芥川比呂志さんは、俳優、演出家、詩人、エッセイストと、多彩な芸術家。惜しくも六十一歳にして身まかり、昨年が十三回忌。瑠璃子夫人が『青春のかたみ 芥川三兄弟』を上梓した。<私の一日は、風との対話ではじまります>と、亡き夫比呂志氏を「風」と表現している。いとこ同士の夫婦だ。深酒とロマンスについての伝説も数多いハムレット役者。線路に寝て、どっちが電車を止められるか、フランス文学者鈴木力衛さんとかけをした有名なエピソードも、本書で披露されている。四十代半ばの名優と、東北地方を巡る講演会に随行したことがある。ホテルオークラでご夫妻と出発前に打ち合わせ、当人が席をはずすと、夫人がすっと寄ってこられた。「どうか一滴たりともお酒を口にしないように、見張っていて下さいませ」上ノ山温泉の旅館で三人の講師たちと宴会が始まった。その時の緊張感たるやなかった。乾杯で一口でも呑んだら一巻の終りなのだから。気配りの芥川大人は、シラフでジョークを連発。だが、いま一つ座は盛り上がらない。苦労人の水上勉さんが、日頃歌わないのにうたを出されたほどである。宴半ば、トイレに行く風情で席を立った美丈夫にかけ寄ると、「戦友が近くで材木屋をやっているので訪ねます。後はよしなに」断酒旅行はつつがなく続いた。(「この母にして」 水口義朗) 芥川比呂志の酒 


サラ川(3)
酔っぱらい さけて通れば 主人まり   隣の赤いバラ
意志強し 死んでもやめぬ 酒タバコ   ごんぞう
検診の 結果でるまで 飲み続け   隅田川
よく飲んで よく寝て今朝も 遅刻する   憲峯
二日酔い してない時は ミス多し   名声一代(「平成サラリーマン川柳傑作選」 山藤章二・尾藤三柳・第一生命 選) 


サフランライス
四 海馬は増やせる 脳の神経細胞は生まれた時がいちばん多く、あとは一秒にひとつぐらいの猛ペースで減る一方だという常識があります。しかし、脳の中で情報の選別を担当している「海馬」の神経細胞は成人を超えても増えることがわかりました。ネズミにおいては「海馬が大きければ大きいほど、かしこい」という実験結果が出ています。−
池谷 そこでさらに、海馬のどこに可塑性があるのかと調べていきますと、脳細胞と脳細胞のあいだをつなぐシナプスに行き着くんです。シナプスそのものに可塑性がある、ということがわかったのは、ごく最近のことなんです。神経一個より小さい単位ですから。そういう一個以下のレベルに可塑性があるとわかりました。−
池谷 サフランの中にも可塑性を高める成分があります。ただ、それはお酒を飲む時に効くだけなんです。お酒を飲む時には可塑性が低くなるのですが、サフランの中のクロシンという物質はそれを防ぐという特徴がありますね。お酒を飲む前にサフランライスを食べると、記憶が飛びにくくていいかもしれません。(「海馬」 池谷祐二・糸井重里) 


酒二升余、麦酒三本
酔って、米朝師匠の「名古屋甚句」がでる。−老名妓の方は、地唄が出ようが、お能が出ようが、何でもござれ。米朝師匠の「名古屋甚句」は、松葉屋奴(やっこ)師匠のふりがついた絶品。二番目に、呑んべでおちぶれた亭主とわかれ再婚した女性が、夜の街角でふと先の亭主とあい、ふりはらって行こうとしながら、亭主の手もとにのこした子供への愛情、長年苦労した相手に、わかれてからかえっておこる憐みと気づかいにひかれ、ついつい話しこむ。この短いやりとりを、踊りの合間にしかた噺(ばなし)ではさみこむのだが、対話−それもほとんど女の方のせりふだけで描き出されるうらぶれた人生の哀歌、涙とおかしみは、まさに絶妙といってよく、最後に お前なんかに…でまた歌となって、女が行ってしまうあたりで、いつも笑いながら泣けそうになる。このふりとやりとりをつくった奴(やっこ)師匠−「せむしの釣」で有名な−といい、それを酒の席でこれほど彫り深く演ずる米朝師匠といい、上方の芸人さんには、なまじなインテリなど、足もとにもよれぬほどの「味」がある。こういう芸や、照生さんという七十をこえた婆さん芸者の「四条の橋から灯(ひ)が一つ見える…」という歌などを聞いていると、ええ畜生!仕事も家族も、何も彼(か)もおっぽり出して、思いっきり道楽がしてみたい、とつくづく思う。だいぶ乱れて、そろそろ立とうとすると、女将(おかみ)が、あちらのお部屋に、会田センセイが来てはりまっせ、という。なんだなんだというわけだ、会田雄次先生と合流して、関西TVの若いのと、ああだこうだといっているうちに午前二時をすぎ、ご帰館は午前四時前。酒二升余、麦酒三本。(「また酒中日記」 吉行淳之介編  内 「七十歳の名妓たち」 小松左京) 


五円やそこらの小遣い
或る時はまた、たしか芝浜館だったか、親類や親しい人も招いての宴会に、弟の行郎はいたかどうか、一番末席かその次ぐらいの私が乱酔に及び、つかつかと親父の前に進み出て、いまどき、大学生が、五円やそこらの小遣いでやって行けるもんかどうか、ちっと考えてみてくれ、と、あたり構わず掛合をつけた由、翌朝聞いてまいったが、しかしそれは、行為を趣味から考えてのことで、内心の正直さには自信があった。宿酔(ふつかよい)の腫(はれ)ぼったい顔で出て行くと、親父も叱らず、昨夜は、なかなか元気があってよかった。独逸の学生は、咽(のど)きり一杯ビールをあおって、別の部屋へ行くと、洗面台のような、吐くのに丁度いい高さの台があって、そこへ大勢ならんでげえげえやっているが、すぐまた戻って来て飲みだす。ああいう元気は日本人にもほしいものだ。そんな、明治十年の、親父の洋行当時にはあったかどうか、あんまり聞いたことのない風習を話して聞かせたりした。しかし、来月からいくらにしてやるとはいわなかった。(「里見ク随筆集」) 明治末期の話です。 


首の体操
ビールの飲みすぎによる肥満は、一連の減量体操を行うことで、解消することができる。まずその第一課は―――誰かが、もう一本どうだいとすすめたとき、首を右から左、左から右へとしっかり振ることである。(「ポケットジョーク」 植松黎編・訳) 


「むぎわら・くらぶ」
例によって、ジィちゃんの(天才的な)発案で、俺たちには金がないから、いいこっとうを見つけたら、皆で金を出しあって買おうじゃないか、そりゃ素晴らしいアイデアだということになり、「むぎわら・くらぶ」と名づけて、小林秀雄をはじめとし、秦秀雄、石原龍一ほか七、八人が会員になった。「むぎわら」というのは、縦もしくは横に線を描いた明末(または瀬戸)の焼きもののことである。口絵にあげたのがその名の元となった明の染付で、会員たちが一個づつわけて持っていたという。それを肴にありったけの金をはたいて前祝いをしたに違いないが、ある日ジィちゃんが、壺中居で見つけた唐津のぐいのみが、第一回の「むぎわら・くらぶ」の共有になった。値段は三万円で、戦争中としては高い方である。結局、買ったのはそれだけで、「むぎわら・くらぶ」はやがて消滅する。何せ会長が青山さんなのだから、長つづきするわけはなく、壺中居にはお金も払わなかったらしい。それから三年ほど経って、彼はそのぐいのみを壺中居へ持って行き、今度は五万円で買えという。「だってあなた、まだお勘定も済んでいませんよ」「俺が三年間持っていたんだから五万円に上がっているサ。ありがたく思え」といわれ、壺中居はたぶん言い値で買ったのであろう。そのぐいのみを私が見たのは小林さんの家で、小林さんから以上のような話を聞いた。今、その唐津は私が持っているが、人が見たら蛙になるヨ、とでも言いたげな、実に何でもない姿をしている。蛸壺みたいに少し口の先の方が開いていて、景色といって殆んどないのだが、手に持った感じとか、お酒を呑んだ時の口当たりがまことにいい。酒の杯に、これ以上の何を望むのか、といっているようなぐいのみである。(「いまなぜ青山二郎なのか」 白州正子) 白州正子年譜一九五六年 青山二郎 酔いはない酒 


フルマラソン珍走記録ベスト・スリー
フルマラソンといえば、四十二・一九五キロをひたすら走りつづけるレース。ただでさえ、これを完走することは、容易なことではないはずなのに、世の中にはすごい人たちがいるもの。後ろ向きに走ったり、フライパンを持って走ったりして、立派に完走してしまうのですから。これを名付けて「フルマラソン珍走記録」とすれば、その第一位は、米国ビバリーヒルズの料理店主で「速足のギャリソン」と呼ばれているロジャー・バーボンさん。彼は一九八二年五月にロンドンで、ウエーターの正装のまま、しかも栓を開けたビールびんを盆にのせて片手で持ち、フルマラソンを二時間四十七分で完走。これに次ぐのは、英国のデール・ライオンズさん。フライパンにのせたパンケーキを、なん度も放り上げながら、フルマラソンを完走すること数回。最高タイムは、一九八二年のロンドン・マラソンでの三時間九分。第三位は、米国のアーネスト・C・コナージュニアさん。一九八〇年十月、ニューヨーク・マラソンに参加した彼は、後ろ向きに走りつづけること五時間一八分、見事に完走。それにしてもよくやりますねえ。(「雑学おもしろ百科」 小松左京監修) 


とんち教室
とんち教室七不思議というものがとなえられ出したののも始まってから半年ほどの後であった。この七不思議はレギュラーが変わったために六不思議に変わっているが、現在のを内緒でこっそり申し上げてみると、 青木先生の顔の色 長崎抜天の東京生まれ 三味線豊吉の年齢 桂三木助の紋付 春風亭柳橋の眼 石黒敬七のステッキ 先生の顔の色が年中白くない(ということはおわかりであろう)のは不思議である。冬は、「ちょっとスキーをしてきまして…」夏は「二日ばかり鎌倉へ泳ぎに行って来まして…」という言いわけも一おう納得できるが、秋も冬も一年じゅう白くないのは不思議だというものだ。長崎抜天といえば誰も長崎生れであると思うが、これがさにあらず、立派な江戸ッ子であるというわけであるが。豊吉さんは、いつ年をきいても「私は三十八よ」と答える。去年も三十八、今年も三十八という。いったいいくつか誰も知らない。不思議ではないか、というのである。三木助生徒のは、いつ見ても着物の紋が違っているのは、甚だ不思議ではないかということ。春風亭の眼が引こんで、一度二度顔を洗ったくらいじゃ水が眼にとどかない、どういうわけか不思議千万だというわけ。僕のは、いつもステッキを腕にブラ下げていて、突いたのを見たことがない、どういうわけかという次第。《『旦那の遠めがね』 昭和27年 日本出版協同発行より》 (「黒めがねの旦那 石黒敬七展」のカタログにありました) とんち教室の始まったのは昭和24年だそうです。 


鹿児島のツケアゲ
「東京や大阪のカマボコ屋では、魚肉のいちばんいい部分をカマボコにつくり、あまり物の魚肉をツケアゲにまわすが、ウチでは近海のいちばんいい部分でツケアゲをつくる」というのが鹿児島のカマボコ屋のほこりである。家庭の自家製のツケアゲつくりも、機械化された工場での製品も製造工程に変わりはない。すり身に砂糖、塩、片栗粉、卵白、地酒(家庭では現在ではミリンがよく使われる)、化学調味料を入れて調味してから、揚げるだけのこと(家庭ではつなぎにトウフをすりつぶして入れることもある)。よい魚と鹿児島独特の醸造法でつくられた甘口の地酒をたっぷり使うのが鹿児島のツケアゲをよそのサツマアゲとひと味ちがうものにしている。揚油は菜種湯でなくては、なめらかでしっとりした舌ざわりができない。油はテンプラを揚げるよりも低温の百六十〜百七十度が適温。(「食いしん坊の民族学」 石毛直道) 


息子の家出
ある酒好きの男がいた。日夜、酒にひたって杯を手から離したことがなかった。そのためアル中になって、酒がきれると、生きた心地がしなくなる。友人が見るに見かねて、禁酒を勧めた。「酒をやめたほうがいいと自分でも思っているんだがね」と酒飲みはいつになくすなおに答えた。「ただうちのドラ息子が家を出ていってまだ帰ってこないものだから、心配で酒でも飲んでいるよりほかないんだ。息子が帰ってきたらきっとやめるよ」「それじゃ天に誓いなさい。でないと信用できんな」「いいとも」と酒飲みは天を仰いで言った。「息子が帰ってきても酒をやめなかったら、酒甕に押しつぶされてもいい。杯の中で浸し殺されてもいい。酒池に滑り落ちて死んでもいいし、酒の海でおぼれ死んでもいい。いや、その罰に一生醸造村の奴隷にされてもいいし、死んで酒粕山の鬼になってもいい。酒泉の下におっぽり出されて永遠に動けなくてもけっしてボヤいたりいたしませぬ」「ところで、君んところの息子さんはどこへ行ったんだね」「オヤジのために酒を買いに出かけたんだよ」これは中国にある小咄のひとつである。自分が酒飲みでないせいか、私はこの話の主人公にあまり同情的ではないが、しかし、酒飲みの心理はわかるような気がする。(「食は広州にあり」 邱永漢) 


酒のたしなみ−一九五七・三
ところで、私自身の酒はということになると、これはまたまことにだらしない。酔えば(酔っているのだろう、やはり)ただもうゲラゲラ、アハハ、アハハで、まことにもって他愛がない。どだい酒でなければ言えないような、腹ふくるるものがてんでないからである。ここ二十何年か、私は健康法としてやっていることが一つある。それはグッときたり、癪に障ったりしたことは相手が誰であろうと、とにかくそのときその場ですべて吐き出してしまうことにしている。畜生、あのときああ言ってやればよかったなどと、あとになって、夜の目も口惜しくて眠れないなどというのは、結局健康に一番悪いからである。おかげで鬱憤などというものは少しもない。そろそろ夕方になって、酒を飲み出すころなどは、悪くいえば、すっかり藻抜けの空になっているといってもよい。これではどうも、からもうにもからむよしがないのである。まことにお人好し然となってしまうのもやむをえない。とにかく酒の上で議論を吹っかけるやつ、恩ばかり知らない人間に売りたがるやつ−これらはすべて大きらいである。たまたまぶつかっても、本気で怒る気にもなれぬ。ただ心から軽蔑をもって聞き流しているだけだ。「賢しらをすと酒飲まぬ人」も「猿に似るかまもしれぬが、飲んで悪酔いする人もまた豚に似ていようか。酒の席についていえば楽しいのは、ただそこはかとない世間話、バカ話−終わったあとには、吹き抜けた風のようになにものこらぬのがよろしい。もちろん相手が二、三人、若くて、美しい女の人なら、なおさら楽しいことはいうまでもない。(ぼらのへそ」より)(「悪人礼賛」 中野好夫) 


しょう 升
(種)体積 中国で古代から現代まで、日本で大宝令(701年)以来今日まで用いられてきた単位.日本ではとくに尺貫法の基本単位のひとつであった.中国では、周(1122〜256B.C.)、漢(202B.C.〜220A.C.)の時代には1合(0.18039L)程度と推定されるが、市中ではこの3倍を1升とする習慣が生じ、唐代(618〜907)においては大小2種の升が制定され、小は調薬用で、大は一般用であった.この制度が日本の大宝令(701年)で採用されている.このときの升の量については諸説があるが、現用の6合(1.08234L)程度と推定される.律令制の崩壊とともに大小はまちまちになって混乱したが、豊臣秀吉(1536〜98)の京升の制定によってほぼ統一され、江戸時代(1603〜1867)になってほぼ現在の量に定まった.明治政府はこれをとって、当時の折衷尺(曲尺)で方4.9尺、深さ2.7尺すなわち64.827立方寸を1升とした.現在の計量法では、これをうけついでメートル法との関係で1升を1.803856Lと定義している.1959年1月以降は計量法によって取引上の使用は禁止されている。(「単位の辞典」小泉袈裟勝監修) わが生 酔うて醒めざるを 昔の中国では1斗が今の1/10であったという解説はありませんね。 


ドブロクを食べる
相変わらずの親父だった。「しかし、俺が軍隊で何やらせられたとおもう?凧あげだぜ。いやんなるぜ、ばか野郎」「なんでそんなことをさせられたの?」「まず凧を黒く塗ってな、それをあげさせられるんだ。黒い凧あげときゃ、敵機が来ても、遠目からだと飛行機に見えるだろうって。なんて情ねえ作戦!あの時、あ、日本は負けるなとおもったよ」祖母はその大切な米を炊いて一家で食べようとせず、ドブロクにして、親父に飲ませた。戦争に負けても、一家の働き手を大切にする、日本の家族の伝統が我が家にも生きていた。めしが発酵してくると、フツフツとよい匂(にお)いがする。四六時中腹を空かせていた私は、こっそり盗んで食べた。だがたちまち顔が真っ赤になり、すぐバレてしまった。それを見た親父は、怒るどころか、私の顔を指差し、手を打ち大声をあげて笑った。ふだん説教ばかりしている親父が、あんなに可笑(おか)しそうに笑うのを見たのは、浅草の寄席以来のことだ。(「だめだこりゃ」 いかりや長介) 


食卓「笑」辞典
ハイボール−高めの玉
オードブル−サンドイッチをこなごなに切ったもの。
飲酒−忘れるために飲むのだが、やがてやめるのを忘れてしまう。
アルコール−すぐにメッキをはがしてしまう、社会的化粧のすばやい剥離剤。
ウィスキー−面倒のびん詰め。(「食べものちょっといい話」 やまがたひろゆき) 


初代市川団十郎
元禄三年(一六九〇)のことだが、家族の幸せと将来の出世を神仏に祈り、酒を断ち、妻以外とは交わらない、と誓った。ところが、いとも簡単にその誓いを破ってしまう。数人の若衆方や女形と男色の交わりにおよんだのである。段十郎としても、これでは面目がないと思ったのだろう、元禄六年(一六九三)、改めて新しい誓いを立て、つぎのように書き記した。「災いは迷いの心から起こってくる。迷いとは、酒と淫の二つだが、酒は両親のためと思い、父母存命のあいだはかたく禁酒すること、三方荒神へ申し上げる。また、女色、男色はもっとも重い悪事だが、夫婦の縁は釈迦にもあったことといわれるので、これだけは御免蒙る。そのほか、いかなる女色、男色も、父母にお仕えするあいだは絶つつもりだ」これが実行されたかどうかは不明だが、前例からみると疑わしい。いずれにせよ、元禄六年(一六九三)には団十郎と改名し、芸域を広げる一方、狂言作者として多くの作品を書いた。(「大江戸奇人変人かわら版」 中江克己) 


洋食論
○西洋料理屋にて甚(はなはだ)不便なるは、堂々たるホテルの食堂にても洋酒のよきものを蓄え置かぬことなり。ビーヤホール又カツフヱーなどの小料理屋は申さず。堂々たるホテルの食堂にても葡萄酒の種類大抵は一様にて少し変つたものを好めば、いつもおあいにく様を云はるゝは甚心細し。赤葡萄酒はボルドオばかりよしといふにはあらず。人によつては伊太利亜、西班牙なぞの葡萄酒好むものあるなり。殊に白葡萄酒はボルドオは甘過ぎて食事に適せず。ライン産のものにかぎるやうに思はるゝなり。(「荷風全集」) 大正5年の文章だそうです。 


さけの酒びたし
村上(新潟県村上市)名物さけ料理の一つに「川煮」というのがある。漁場でさらいあげたばかりのさけを骨も内臓もそのままの筒切りにし、川原にしつらえた納屋の中で大なべにみそを煮立て、さけを投じて一時間ほど煮る。煮てから四、五日たったものに風味があるといわれているが、昔は裸の川子たちが冷えたからだをあたためるために、納屋の中にもぐって熱いさけ汁をすすったのがはじまりだという。また、この地方自慢の「さけの酒びたし」は、塩引きのさけを軒につるして堅く干しあげ、燻製ざけのように薄く切り、酒またはみりんに浸して食べるのである。(「味をたずねて」 柳原敏雄) 


酒の燗は人
冬の夜、縄のれんで職人風の男とお坊さんが隣り合って飲んでいた。男は威勢よく、「熱燗一本!」坊さんは静かに「人肌で一本」男が坊さんに話しかける。「こんな寒い夜でも熱燗じゃねえんですね」坊さんがさとすようにいった。「さよう、熱すぎると酒の本当の味が分らぬからな」「えー、そういうもんですかね。じゃ私も今度はそのー、えー、なんでしたっけ、湯燗でしたっけ」「湯燗ではない、人肌じゃ」「湯燗でも同じようなものでしょう」「これこれ、何を言う。湯灌とは、納棺の前に死体をお湯でふき清めることじゃ。人肌と一緒にされてしまっては大変じゃ」「へいへい、分かりやした。それじゃ、ついでに伺いますが、お湯のかわりに酒でふき清めてもらうことは何てぇんで」「そんな作法はありませぬ。が、強いて申せば、酒灌かな」「そうですかい、じゃ私が死んだ暁(あかつき)には是非その酒灌でお願いいたしやす」「おもしろい、拙僧(せっそう)が熱燗で湯灌をやるわけじゃな。ハハハハハ」「いやいや、そうじゃねえ。その時ばかりは若い尼さんの人肌がいい」(「悪魔のことわざ」 畑田国男) 


酒はやめても酔いざめの水はやめられぬ
女のひとのなかには、「飲ませれば口説いてくれる」とカンちがいして、無理やり飲ませようとするひともいるけれど、あれは、やめほうがいい。わたくし、酒を飲むと、悪いクセがあって、酔うのである。酔うとどうなるか−というと、「女のひとが綺麗にみえてくる」というのはウソで、女のひとなんかどうでもよくなってしまう。酒は、ケンカを売ったり、女を口説いたりするために飲むものではない。そんなことをしたら、酒に申しわけない。あれは、あくまでも酔いざめの水を飲むために飲むものだ。(「ことわざ雨宮流」 青木雨彦) 


十一月十三日(土)
満喜ちやんは髪も結へ支度も出来上つてゐる。勝ちやんは床屋へ行き、君子は朝倉さんと染井のお墓参りい行つてゐる。−
一時より式。坊城夫妻の仲人で滞無く済む。又皆で写真を写し、予や勝ちやんと二人で一旦帰宅。更に番町へ行く。子供二人えらい元気で騒いでゐる。四時半に又勝ちやんと華族会館へ行く。六時からボツボツ皆様みえる。百五十人位。母上、余丁町兄上、高木兄上夫妻も見える。宴は八時過ぎに果てる。あと君子と二人中の町へ行き、続いて新居へ行く。君子は御床盃も仕め、その他種々世話をする。あちらを出たのが十一時半。すっかり疲れて了つてすぐ入床。ねむい。(「入江相政日記」 昭和十二年) 御床盃(おとこさかずき また床盃)は、広辞苑によると、婚礼の夜、新夫婦が寝所で盃をとりかわす儀式」だそうです。入江の妻君子が取り仕切ったようですね。 


揚げ出し、一現
揚げ出しあげだし 揚げ出し豆腐の略語。豆腐に布切れをあて、ちょっと重しをかけ、水気を切り、良質の胡麻油で揚げる。形は丸でも角でも好みに従う。舌を焼くような熱いやつを大根おろしと醤油で食べる。これも江戸好みで、上野池の端にあった。「揚出し」と称した店は、朝帰りの遊客に喜ばれた。「迎え酒」という風景もオツなもの。
一現いちげん 一面識。初会、初対面の客。格式ある旅館や料理屋では一現の客は断った。川柳に「一現で駄々をこねてる酔っている」(寿山)とある。また一現は「一見(いっけん)」の意味にもつかわれる。「ちょっと見たところ」の意。例えば「一見令嬢風」「一見貴婦人風」「一見紳士風に装った怪盗ジバコ」など。(「明治語録」 植原路郎) 


少年行
五陵年少金市東(五陵の年少 金市(きんし)の東)
銀鞍白馬度春風(銀鞍(ぎんあん) 白馬 春風を度(わた)る)
落花踏盡遊何處(落花踏み尽くして 何処(いずこ)にか遊ぶ)
笑入胡姫酒肆中(笑って入る 胡姫(こき)の酒肆(しゅし)中へ)
五陵の若者たちは、金市の東の繁華街、 銀鞍の白馬にまたがって、春風のなかをさっそうと行く。 いちめんの落花を踏み尽くして、どこへ楽しみに出かけるのか。 にぎやかに笑いながら繰りこんだのは、碧眼(へきがん)の胡姫(こき)の酒場のなか。 胡姫−胡(異民族)の女性、の意。唐詩では、ペルシア(イラン)系の紅毛・碧眼・白皙の娘が「胡姫」のイメージの中心をなす(「李白詩選」 松浦友久編訳) 


卓文君
李白の詩にある「胡姫(こき)の酒肆(しゅし)」は、イラン系の美人がサービスする飲み屋で、さぞたのしいところであっただろう。漢代の四川(しせん)成都(せいと)で、卓文君(たくぶんくん)という資産家の娘で、司馬相如と駆けおちした女性が、実家の前でバーをひらいて父親をあわてさせている。『史記』では、彼女のことを「当「土盧」(とうろ)」と表現しているが、「土盧(ろ)」とはカウンターのことで、そのむこうに卓文君がいたのだ。西部劇のカウボーイが、パブのカウンターに肩肘ついて、鉄火なマダムとやりとりしながら、バーボンウィスキーをキュッとやるのと基本的には同じである。(「雨過天青」 陳舜臣) 


酔い?
ガネッシュとう名のネパール人が日本に住むタラという親友の招きで、日本を訪ねることになった。そして、到着したその日にパーティーが開かれることとなった。パーティーではビールが出された。ビールの栓を開けて、グラスに注ぐと家全体が大きく揺れた。ガネッシュが言った。「日本のビールは凄いな。栓を開けてグラスに注いだだけでもうフラフラしてしまったよ。酔ってしまった」タラが笑いながら言った。「友よ、違うんだ。ビールで酔ったんじゃないんだ。揺れているのは地震のせいなんだ」(「世界の日本人ジョーク集」 早坂隆) 


一駄
『事跡合考』、南川語云、「津の国鴻池の酒屋勝屋三郎右衛門といふ者、酒二斗づゝ入る桶二つを一荷(いっか)として、其上に草鞋(わらじ)数足置たるを担(かつぎ)て江戸に下り、大名の家々に至りて一升を銭二百文づゝに売たり。其頃いまだ麁酒(そしゅ 粗酒)のみにてこれが酒の如き美酒なき故、ばい(二倍)とり勝に買(かい)はやらかし、頻(しきり)に上下して夥(おびただ)しく利を得たり。其頃米は下直(安い)なり。木銭(宿銭)は十二文ほどしたる故、鴻池より一上下(江戸への往復)銭三百五、六十文にて仕廻たり。肩の上ばかりにてははか行かざる故、その一荷四斗の樽を一樽として、二樽を馬一駄として数十駄づゝ持下りて、勝屋売たり。之依(これにより)末代に至て酒の価を極(きめ)る時、十駄金子(きんす)何拾両と立るもの、弐拾樽酒八石の積り也。追日(ひをおって)酒うれる故、馬の背にても及びがたく、終(つい)に東海を何拾万樽といふに至りて船に積(つみ)入津(にゅうしん)する事、今日盛り也」といへり。こはいつ頃の事にか。寛文・延宝の頃にても有べし(今も鴻池といふ酒屋多くあり)。(「嬉遊笑覧」 喜多村「竹均」庭) これも、有名な話で、主人公は鴻池の新六であろうとのことです。 造醸(2) 


灰の投入
往古は今の如き清くすみたる酒にてはあらず。皆にごり酒にして今のどぶ六と唱へる是なり。或時鴻池山中酒屋に召遣ひ(めしつかい)の下男、根性あしき者にて、主人に何がな腹いせして(何か腹を立てて)帰らんと、あたりを見廻すほどに、裏口に灰桶のありしを見付け、家内の見ざるやうに土蔵に持ち行き、桶なる灰を酒桶に投込み、心地よげに独笑して、空さぬ顔に立帰りける。扨て主人初め家内の者、かゝることは露しらざりしが、右の酒を汲み出さんとひしやく(柄杓)にて汲み上げ見るに、こは如何(いか)に、きのふまでのにごり酒、忽(たちま)ち清くすみ渡りたるは不思議なりし。是を一口呑むで見るに、香味を亦至つて宜(よろ)しく成りたるは如何なることならんと、よくよく見るに、桶の底に何やらん溜りたる物あり。やがて酒を汲み出し考ふに、是は灰を桶へ入れたるなり。濁れる酒のきよくすみて、自然と香味も宜しく成りたる也と心得たり。さは去りながら、何人のかゝる事を伝へしやらんと思ひ廻らし思い出したるは、扨(さて)は、今日帰りたる下男が、灰汁(あく)桶をなげ込み置きたるより、かゝることこそ出来たり。是れかれをして天より家にをしへ(教え)給ふ成るべしと、家内の者を堅く制し、夫(それ)よりにごり酒にすまし灰を入れ、清くすみ渡りたる上酒とし売初めしかば、諸人不思議の思をなし、次第と商売繁昌し、後世富家の第一となりたるも、いわれは斯(か)くと知られけり。(「鴻池善右衛門」 宮本又次) 「摂陽落穂集」にあるそうです。この主人が、鴻池始祖新六だそうです。ただし、酒はこの時代、布を使ってしぼっていたでしょうし、また、すでに火入れが行われており、火入れをすれば、にごりの部分は沈殿しますので、この有名な逸話はあまりあてにならないようです。澄んだ酒は、上級酒だけだったのでこういう話が生まれたのでしょう。 酒を煮る  


初代鴻池善右衛門
延宝七年(一六七九)三月の六日、七日、八日にわたり西六(さいろく)こと初代鴻池善右衛門正成(まさなり)は、大阪今橋二丁目の旧難波橋角の屋敷に、かねて師事していた西鶴とその門下の宗匠水田西吟(さいぎん)らを招き、二代目喜右衛門之宗(これむね)と推定される山中西友(さいゆう)らとともに、「曲水の水のみなかみや鴻の池」という西鶴の発句にはじまる百韻五巻を興行し、同月中に『西鶴五百韻』と題して刊行した。初代善右衛門は当時七十二歳(元禄六年正月没、八十六歳)、すでに次男喜右衛門に家督を譲った隠居の身であった。質実剛健、大力の人で、かりそめにも廓(くるわ)や茶屋には近付かなかったというが、風雅の嗜(たしな)みは深く、毎月一回は知名の国学者を自宅に招き、当時俳諧の基礎知識とされていた『伊勢物語』や『源氏物語』の講義をきいたという。しかも富豪でありながら、講義終了の後に出すもてなしの菓子は、焦げ飯に醤油を刷いたものであった。(「元禄の演出者たち」 暉峻康隆(てるおかやすたか))初代善右衛門は、酒造りで有名な鴻池家始祖新六の八男だそうです。句は、曲水の宴の川の源は鴻池という池だというよいしょですね。 


胸もみじ
乞食(こつじき)のころりと寝たり花の蔭(かげ)
夜桜やひねものひとり笙(しょう)を吹く
門過ぐる犬見送るや秋のくれ
門に蔦火燗手酌(てじゃく)に胸もみじ
なども、谷中風物詩の匂いが濃い。露伴は若いころからの飲酒で胸のあたりが赤かった、と文さんが書いている。(「明治東京畸人伝」 森まゆみ) 幸田露伴の、「谷中集」にあるそうです。 


豊島屋
三月には、山川の白酒、と触れて白酒売が通った。これは、浅草並木にあった山川という白酒の問屋が卸していたが、明治のころは絶えている。神田鎌倉河岸の豊島屋が、酒問屋としても古く、酒ばかりではなく、荒物屋、金物屋など河岸にならんだ店は、すべて豊島屋の一家なので、そこを豊島屋河岸とも呼んだ。白酒の売出しと同時に市中の大名屋敷はもちろん、町人たちも買いに集まったので、店先は雑踏し、人いきれで卒倒する客もいる。そのため医者が気つけ薬を用意して、豊島屋にひかえていた。ここの白酒は、市中を触れて売り歩くことはなかった。(「六本木随筆」 村上元三) 豊嶋屋の白酒 


十返舎一九、室生犀星
 十返舎一九がなじみの質屋に来、「これを質草に金を貸してくれ」と風呂敷包みを出した。質屋は金を貸したが、一九が帰ったのち、風呂敷を開けてみると、酒屋、米屋、炭屋その他の督促状ばかり。質屋はあわてて一九のところへ行き、「あまりひどい。金を返して下さい」というと、「もう使ってしまったから返せぬ。初がつおを買ったんだ。『借金を質においても…』というじゃないか。お前も食ってけ」これには質屋も怒れず、いっしょに食べて飲んだ。
 室生犀星は早寝で、八時か八時半には寝るので、彼の家は九時過ぎるとまるで真夜中だった。そして犀星のいうのだった。「十時過ぎに町を歩いているものは、スリか酔っぱらいだけだ」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


三日正宗
電気ブラン、焼酎、カストリも幅をきかした。アルコールをじかに飲んだように、ガソリンも当時は酒の役割をはたした。私も飲んで、朝までガソリンのゲップが出て弱ったことがある。私は煙草を飲まないので、戦争中の欠乏のときに、やはり七転八倒した煙草の苦しみが切実にわからないが、戦地では、兵隊は松葉をはじめ、あらゆる草木の葉を代用した。はては紙を燃やしてその煙をかいだり吸ったりしていた。煙であればなんでもよかったのである。酒童(しゅっぱ)の方も同様で、液体であればなんでもよく、酒のつもりで水を飲みながら、目をとじ、「ああ、甘口のいい味だ。」などと、うっとりとなっていた兵隊もあった。それにくらべれば、マツカリ、電気ブラン、焼酎、カストリなどは上級酒といえる。ラングーンにいたとき、「三日正宗」というのがあった。酷暑のビルマで、大急ぎで醸造していた日本酒は、早く飲まないとすぐ腐る。三日以上は保(も)たないので、その名が出たのである。しかし、戦場では最高の醍醐味で大いに満喫したが、二日酔いがひどくてへこたれた。(「酒童伝」 火野葦平) パンの会の歌  


田端酒器美術工芸館
和歌山市内に「田端酒器美術工芸館」というのがある。訪ねた人は恐らくあまりにも美しい酒器と、幽玄世界へのいざないに感動し、身震いするか鳥肌がたつかも知れない。何とそこには他の美術工芸館では多分お目にかかれない「盃台(はいだい)」という珍しい酒器が三千点も展示されているから、驚きを通り越す。盃台とは、桃山から江戸、明治時代にわたって雅人粋士たちによって愛用された酒器のことで、酒を飲む時に使う盃とそれを乗せる台とが組み合わさったものである。盃台という言葉は杯を敬い、それを支える心を表現したところから来ており、杯を尊ぶのは、「人と人を、心と心で結びつける神聖な器」であるからだという。桃山時代の七宝焼の盃台が最も古いものとされるが、その後、色彩の美しいもの、形の絶妙なもの、独創的な味わいのあるユニークなもの、雅趣に飛んだ風流なものなどが次々に作られて明治まで伝承されてきた、心の和む飲酒道具である。磁器製の盃台には伊万里、九谷をはじめ、織部、清水、志野、萩、砥部(とべ)、信楽(しがらき)、平戸などのものがあり、漆器では輪島、根来(ねごろ)、会津のものが目立った。(「食あれば楽あり」 小泉武夫) 和歌山市木広町5-2-15 電話 073-424-7121  


薬麹
日本には薬麹がない。「酒は百薬の長」というのは、日本での解釈によると「酒は飲むことでストレスが発散され熟睡できる」ことが基となっている。ところが中国や韓国では、酒はある意味で薬そのものであったようだ。たしかに、 酒、百薬之長、嘉会之好。(「漢書」 食貨志) という章句もあるが、中国の通説では「いにしえは酒を薬として飲んだ(服用した)ことからきた美称」であるという。こちらが正解ではなかろうか。白酒(パイチウ)ではあるが、中国の著名な桂花三花酒は独特の薬麹を用いる。麹の原料は米の粉と桂皮、細辛など二十余種の漢方材料である。中国宋代の『北山酒経』に記録されている麹の製法は、すべて各種の薬麹の作り方である。それぞれによって多様な酒となる。麹という字は、現在の中国では流通していない。麹の異字体である「麦曲」、その簡字体である曲が使われる。ちなみに、糀は日本でつくられた漢字(国字)である。韓国の記録に残された酒、たとえば東陽酒(トンジャンジュ)は、東陽麹というまったくユニークな麹からつくられた薬用酒であった、まず、桃の種子・桑・杏の種子を小麦粉と練り、一方、蓮の花・蒼い耳子・川鳥の皮を緑豆・竹の葉・胡瓜と練る。次に、藤の芽と葉に水を加え、これらを合わせて餅麹をつくる。これを東陽麹といい、さらに、粳米と紅麹とともにつくられた酒が東陽酒である。こうなったら酒のうまいまずいは別物である。「からだにいい」から飲むのであって、まさに百薬の長とはいったものだ。日本の例で調べてみると、薬用酒は古来、多いのであるが、麹に薬材を入れて薬麹とする方法は見あたらない。(「酒と日本人」 井手敏博) 


酔っぱらいは東をめざす
酔っぱらいは「東へ向う」習性を持っているという。泥酔した人間をたとえば雨天体操場のような場所の真ン中に立たせて歩くように命ずると、彼もしくは彼女は十人のうち八人までが東の方角にむかって進んでいくものだそうそうだ。クリスチン・アドルフというアメリカの生理学者が一九四四年に、この新発見を発表して話題をまいた。酔っぱらいがどっちに向って歩こうと、そんなことどうだっていいじゃないか、なんて言ってはいけない。この発表を聞いたロスアンゼルスの警察が一つのテストをこころみた。泥酔者を保護するためパトカーを近寄せる時、東向きにするのと西向きにするのと変りがあるか調べてみたのだ。西向きのパトカーだとダダをこねて乗りたがらない者が多かったが、東向きだとたいてい素直に乗ったそうだ。やっぱり役に立ったのである。(「ジョーク雑学大百科」 塩田丸男) 


ソヴェトの旅
これも、まあ似た事ですが、ソヴェトという国は、たいへん広い国だ、これを、私は、行ってみて合点し直した。私は酒呑みだから、ロシヤに行くとなれば、まず何をおいてもウォッカのことを考えた。行ってみれば、葡萄酒もうまい。南へ行けば、行けども行けども葡萄畠なのだからうまいはずだ。ブランディもうまい。私は、酒はわかるから、このブランディは一流品だと鑑定した。後で聞いたら、チャーチルも、ヤルタ会談の帰りには、たくさん買って行ったそうです。われながら迂闊な話であります。(「常識について」 小林秀雄) 


左右の優劣
左右の優劣は、上と下のような絶対性を本来含まないから、かつて、すべてが左尊右卑で仕切られてきたわけではない。<左遷>、<左前>といった言葉も古くから用いられてはいた。だだ、どちらかといえば右をよしとする世界の風潮(英語のライトrightは正義・直・右を意味する)に同調している中で、酒好きを<左党>と称するのは、尚左の名残とみられなくもない。大工・石工等は左手で鑿(のみ)を、右手で槌(つち)を使う。鑿手(のみて)すなわち呑み手との駄洒落からきたいい方と思われるが、また、その<左党>を<上戸>、しからざるを、<下戸>と呼ぶことも定着しているからである。(言葉の散歩道」 阪下圭一) 


飲み手色々
ふだん、時に眼を大きく見開き、「へーえ、それ、ぼく知りませんでした」くらい、無口謙虚だが、酒が入れば一変、長部がグラスを片手に、ニヤリと唇を歪め、相手の眼ひたと見つめる時、吉行も逃げ出す。相手の耳にしたくないことを、ニタニタ笑いつついう。日航ホテル横、地下の「魔里」で飲んでいた時、五木が編集者三人とやってきて、すぐ出ていった。隅にいた長部、近づいてきて、「どう、やはり気になりますか、アハハハ」。印度哲学の松山俊太郎は東大空手部主将とか、酔うと何でも素手で叩きこわす。芳賀書店、ぼくの「わるい本」をつくった矢牧一宏は、吉行の古い仲間らしいが、年中喧嘩してどうせ入れても欠けると、前歯が上下ともにない。「ユニコーン」では、映画俳優同士が、純愛ポルノへ出た、電気紙芝居に身を売ったで取っ組み合い、大島と熊井敬は怒鳴り合う。唐十郎は酔うと、誰かれかまわずなぐって、李礼仙何ごともなく唄う。パトカーのサイレン近づくと、唐は手にしたビール瓶のかけらで、自らの腕を軽く傷つけ、「ヤラレタ」とうずくまった。女の酒乱は青柳友子、戸川もむやみに威勢よくなったが、まず乱れる前に所かまわず睡って、松本、司馬、黒岩につぐ中間誌御三家の書き手、かたわら中平康監督、自ら原作の映画主演、青山にシャンソニエ「青い部屋」を開き、仕切るのは姉だが、当人もよく唄っていた。(「文壇」 野坂昭如) 長部日出雄の酒 


玄酒
<中国>古代の飲酒法については、興味深いことがあります。君主が臣下の者をもてなすとき、上座に水を入れた樽を置くのです。それを「玄酒」と呼んでいました。酒のもと、とでもいった意味で、つまり水のことです。宴会の前に、その水を飲みます。なぜそんなことをしたのでしょうか?さきに水を飲んで、酔っ払うのを予防したのではありません。−もとを忘れるな!という教訓であります。いまからお酒を飲むが、それも、もとはといえば水であった。−そんなものの道理を、ここで思いおこさせようというのです。ところが、野人(いやしい人というほどの意味)をもてなすときは、そのような作法に従わなくてもよいとされていました。野人なら、お酒を飲むときに、そのもとを考えるほど哲学的ではあるまい、と軽んじられたわけです。ですから、人に招待されて、お酒のまえに水が出なければ、侮辱されたと思ってよいのです。食べ物にも似た作法があります。朝廷で大礼のときに供えて、あとでおさがりを食べるアツモノ、すなわちスープは、味をつけないしきたりでした。ふだんはおいしい味のついたスープをいただいていますが、このスープとてもとは味もそっけもないものだった。−そう考えますと味つけを案出した先人の知恵のありがたさも、よくわかるでしょう。お酒のまえの水、ご馳走のまえの味抜きスープなど、たしかに私たちに感謝の念をおこさせずにはおきません。食事をいただく前のお祈りに似ていますね。ただし、右のようなしきたりも、漢代にはもうおこなわれなくなったそうです。(「美味方丈記」 陳舜臣・錦「土敦」) 阮籍の「詠懐詩」 


斗酒後の喧嘩
芸者を呼んでくれたりしたので、私もいい調子になってしこたま飲んだ。集まってきた七、八人の子分に親分は説教をし、殊にいちばんはじめに喧嘩をした三人には一段とひどい津軽弁で叱っていた。夜更けて家を辞した。斗酒を浴びても顔色が変わらず姿勢も崩さない私だが、外へ出るとそれまでの多少の緊張がほぐれたせいか、酔いが廻った。マントを風になびかせ、朴歯の下駄をガラガラ鳴らして夜陰にひとり寮歌を高吟した。五重塔のある古寺の境内はこの町でも好きな場所の一つであったが、そこへさしかかる少し前から、誰かがつけて来るのを感じていた。そして塔の下まで来ると彼等は、矢庭に面前に立ちふさがった。「誰だ、何の用か」と問いただしたのと、瞬間こいつらがあのこっぴどく叱られた子分達であり、その腹いせのでいりであることを見抜いたことまでは記憶しているが、あとは無我夢中の大乱闘となった。どこをどう戦ったのか全く覚えていないが、実はその頃、私は喧嘩だけは滅法強かったのである。−
何しろあの翌日の夕方、私も誰かのパンチが左頬に命中して口の中が切れ、ものもろくにかめない状態だったが、親分に連れられて詫びに来た三人を見て驚きもし、吹き出しもした。一人は−つまりいま目の前にいるこの男−左腕を内側から両手でつかまれると、五重塔の縁の端にしたたか打ちつけられたとかで腕を折り−
親分の肝煎りで、痛いのを我慢して、景気よく飲み、シャンシャンを手を打った。(「ビックマン愚行録」 鈴木健二)旧制弘前高校寮長時代の逸話だそうです。 


獅子唐
また獅子唐(シシトウ)の佃煮を試みられてみるがよい。これは、やわらかいのをえらんで、はじめ油でいためてから、醤油と味醂、酒で味をととのえて煮つめる。砂糖を使ってはいけない。どんな料理にも砂糖は禁物である。私の家では、砂糖はコーヒーと紅茶の隠し味にしか使わない。したがって年間の消費量が四キロをこえたことがない。そのかわり味醂は四合壜を月に四本は使う。味醂と酒をふんだんに使うことが肝要である。酒は地酒がいちばんよい。市販の有名な特級のようなまずい酒を使ってはいけない。酒屋へ行き、名もない地酒の一級酒を求めてこられよ。樽酒が一番よいが、一般の家庭ではこれは無理だろう。話がよこにそれてしまったが、獅子唐の佃煮は、二袋か三袋を煮つめておくと、夏場なら一週間は保(も)つ。かかるのは手間だけである。金はかからない。(「美食の道」 立原正秋) 


フランス人のおしゃべり
でも、こだわるようだが、私はぶどう酒のせいもあると思う。もっとも、フランス人の祖先ゴール人は、ローマ人に征服されるまではもっぱらビールをつくりビールを飲んでいた。ぶどう酒づくりをフランス人に教えたのはローマ人である。フランス人はたちまちのうちに美しい赤いぶどう酒の魅力のとりこになって、ぶどう酒づくりに励むようになった。かくして、ぶどう酒というおしゃべりをはずませるよき酒を友に得て、フランス人のおしゃべりにはいっそう拍車がかかったのではないか。と、ここで、助け船を出してくれる友人がいた。フランスには、レスプリ・ド・キャフェ・ド・コメルスというものがあるというのだ。それは、手っとり早くいえば、キャフェでの庶民的な井戸端会議である。ここでは、まさにいいたい放題。タブーも何もない。政治、思想、宗教、金、食べもの、人の悪口、仕事の不満…。人々は行きつけのキャフェで、顔なじみたちと日ごろの憂さを晴らす。こんな時、フランス人はコーヒーではなくて、だんじてぶどう酒を飲む。そのぶどう酒が、かれらをより饒舌にさせるのだ、と友人はいったのである。生まれつきのおしゃべりが蜿々と二千年。しかも、人をおしゃべりにさせるぶどう酒が友の二千年。とすれば、フランス人のおしゃべりには、二千年の年季が入っているともいえそうだ。シャポー(脱帽)としかいいようがない。(「パリからのおいしい話」 戸塚真弓) 


片口
農家でも商家でも勤め人の家でも、どこの台所にも一つや二つはかならず見かけたものだった。たいていは陶器、それでも農家などでは昔ながらの大ぶりの木製のものがそのまま使われていたようにおもう。酒や醤油を樽のままで買っていた時代には、これを漏斗を通して徳利などに入れるか、またはそのまま片口で受けるかがどうしても必要だった。トックリ、トックリ…、樽の飲み口からゆっくりしたリズムで流れ出す幼い日の音が、まだかすかに耳の底に残っている。大きな漆塗りの片口は、そのままで酒注ぎとして宴席に持ち出されることもあった。一升も二升も入り、朱漆塗りや家紋入りの片口である。つまりは早い話がその昔の銚子を兼ねていたことになる。今もって片口のことを銚子と呼ぶ土地さえある。(「道具が証言する江戸の暮らし」 前川久太郎) 


煮アワビ
一般に蒸しアワビというと、殻ごと水洗いしたアワビに塩をまぶし、その上に薄く切った大根をのせ、蒸し器に入れて一時間以上蒸したもの、あるいは酒に浸したまま蒸す酒蒸しなどがありますが、私の作り方は酒塩で煮つめていく調理法です。先ほど述べたような雌貝を十杯ほど殻からはずし、砂をよく洗い流したあと大きな鍋に入れ、アワビ二杯にたいし水一升くらいの井戸水を注ぎます。この水は水道では困るのです。理屈ではありません。日本料理は水の料理なのです。夏場の水道でつくる料理では、目のなかにはいった塵のように、どうしても神経にさわるものをぬぐい去ることができないのです。さいわい私の店では、今でも百五十尺(約四五・五メートル)もの深さから良質の地下水を汲み上げています。そして五合くらいの酒を入れてから、ほんの耳かき一杯ほどの粗塩を入れます。火にかけて弱火で煮つめていくわけですが、沸騰する頃になると、カニをゆでたときのように、白い<あく>のようなものが次から次へ表面に浮いてきます。およそ一時間はこのあくが出てきますが、赤ちゃんをあやすように根気よく面倒をみて、すくってあげるのです。あくの出なくなった鍋のなかの煮汁の量は一割ほど減ってきます。しかし、私がしようとしていることは、すべての煮汁を蒸発させることなのです。さらに弱火に四時間もかけておくと、煮汁は四分の一ほどになってアワビが煮汁から顔をのぞかせるてきます。そのときの煮汁は、白粉を溶かしたように濃くなっています。そのときに塩味をみます。耳かき一杯の塩でも、アワビ全体の塩分と合わさり、かなりの塩味になっています。足りないときは、もう耳かき一杯くらい入れるのです。それから一合ほどみりんを加えます。あとは焦げないように、アワビのエキスの最後の一滴まで吸いつくすかのように木柄杓でかき回しながら煮つめていくのです。八時間くらいはかかりますが、これがアワビの奥深い持ち味をそのまま引き出す、最高で一番よい方法だと思います。このようにしてできた塩蒸しは<精神の充実>さえ伝えてくれるように思えてなりません。(「魚味礼讃」 関屋文吉) 今日、著者の店、紀文寿司でこれを食べてきました。 


家長の晩酌
思い返してみると、私のこの二軒の家は双方ともに、おそろしく食事時間の長い家庭だった。食事時間の長さは家長が酒を嗜む場合、食事だけを摂る家庭の優に二倍以上の時間となる。直都の家では夕餉(ゆうげ)の仕度はまだ陽も高い三時半ぐらいから始まり、働き者の高枝は手伝いの少女と二人で、考えてみれば現在の健康食と呼ばれているような野菜中心の料理を四、五品作り上げるのだったが、その他にも、私たち昭和ひとけた生まれが子供だった頃の食卓には、その家の主人だけの特別料理が並んでいたものだった。もちろん私の家とて例外ではなかった。多くの場合、主人だけのおかずは酒の肴であり、二、三品、刺身とか酢の物、少しばかりの料理屋風を気どった和えものや、今で言えばつき出しのようなものが用意されるのだった。(「父のいる食卓」 本間千枝子) 


小学五、六年生の蜂ブドー酒
ぼく自身も、酒はほんとにうまいと思い、心から飲みたいと思って飲んだことはそれほどないので、酒そのものが好きでないのかもしれない。はじめて酔っぱらったのは小学五、六年生の時で、ひと口だけ飲ませてもらった蜂ブドー酒の甘さが忘れられず、両親の不在をさいわい盗み酒をし、瓶の半分くらいを飲んだ。この時はたいへんうまいと思ったが、これはむしろ甘味に飢えていたからだろう。すぐ苦しくなり、顔を風船玉のように鬱血させ頭をかかえて苦しんでいるところを帰宅した母親に見つかって叱られた。「もう飲んだらあきまへんで」こんな苦しいものは二度と飲むものか、そう思った。しかし大学に入ると、ご存じの通り学生の間では酒を飲めぬやつは子供だという常識が彼らを支配している。友人との交際には酒を、それもできるだけ多量に飲むことが必要だった。味などわからず、ぼくはただ無茶飲みをしては吐いたものだ。(「やつあたり文化論」 筒井康隆) 


高杉晋作の漢詩
武城為客又逢春(武城に客となり又春に逢う)
墨水櫻花依舊新(墨水(ぼくすい)の桜花旧(きゅう)に依(よ)りて新たなり)
昨日悲歌慨慨士(昨日の悲歌慨々の士)
今朝詩酒愛花人(今朝(こんちょう)は詩酒花を愛するの人)
(「江戸諷詠散歩」 秋山忠彌) 高杉晋作が春の隅田川で花見を楽しんだ時に詠んだ詩だそうです。 


宝丹
『守田治兵衛商店』は、延宝八年(一六八〇)創業。現在十三代を数える。『宝丹』は九代目の治兵衛が文久年間(一八六一〜六四)に、オランダ人医師ボードウィンに処方を教わり、その後数年に亘ってその薬効を試してから売り出したと言われる。幕末から明治に入って爆発的な売れ行きを示し、上海、香港、そして遠く南米まで輸出されたという。古い効能書きによれば、飲み過ぎ、食べ過ぎから頭痛、虫歯にまで効くとあり、いわゆる万能薬として広く利用されたらしい。かつては赤い半練り状だった『宝丹』も、現在は可愛(かわい)いアルミ缶に入った白い粉末である。もちろん厚生労働省に認可された医薬品であるから万能薬と称するわけにはいかず、胃腸薬として販売されている。一缶千五百円と大メーカーの胃薬よりは少し値段は張るが、そのぶん効き目も高い気がする。毎年、忘年会シーズンになると、池之端までこれを買いに走る。何よりこの『宝丹』、飲み過ぎ、宿酔(ふつかよ)いに効く。(「東京名物」 早川光) 


加田こうじの思い出
荻 今おっしゃったようなおでん屋さんの他に、今日で言う「双幸」とか「お多幸」「呑喜」とかいう式の、サラリーマンが夕方カウンターにずらっと居流れて突っつく、飲み屋兼おでん屋も…。
加田 ございました。おでん燗酒という口ですね。屋台と店とありまして、どっちも高級な店じゃございませんわね。安値だからみんな入るわけです。昭和初期、私が飲んだ頃、お多幸でお酒が八銭だったと思います。それにおでんが二銭くらい、茶飯が三銭くらいだったと思います。ですから、十品くらいおでんを食べて、お酒を三本飲んで、仕上げに茶飯食べても五十銭がせいぜいというところです。それでお腹がいっぱいになった。
荻 今日の感覚でいうと、千円かつかつでお酒が飲めて、おでんを食って、茶飯を食ったという感じ。(「快食会談」 荻昌弘編) 昭和52年の対談だそうです。 


吐雲録序文
書成りて至誠堂主人と共に之が序文を乞ふ。博士曰く「予が業は已(すで)に卒(お)はれり。今又更に紋切形の序文を書きなぐるは七面倒なり、君請ふ代りて之を書せ、持上ぐるも貶下(けな)すもそは固(もと)より君の自由に任す、」と。頑として応ぜず。博士の強情無頓着、茲(ここ)に至りて極まれり矣。兎糞の文字こそ廃されたれ、矢張り放(ひ)ちッぱなしかお好きと見ゆ。厳命に応じ、博士独特の模倣し難き文体を模倣し、数言を面塗(つらぬ)ること酔而如管ン(よってくだん)。 大正三年七月上浣 辱知 北山人 誌(「吐雲録」 和田垣謙三 の序文) 和田垣は、この書の前に「兎糞録」という本を出しているのだそうです。 和田垣謙三の酒 酔って件の如し 


安藤対馬守
二百六十八大名の中に、ただ一軒、浜町の安藤対馬守は、奥州磐城平(いわきたいら)、五万石の小諸侯なのだが、定例で門松を拝領する。これは、同家の祖対馬守信重が、家康公の囲碁のお相手に出ていた。ある年の大晦日の夜に、例のお相手をしていて退出の刻限が延びたが、家康公はしきりにお負けなさるので、今一局、今一局と御所望になって、何分お暇がでない。重信も困って、最早お暇を給わりたい、帰宅いたして松飾りもいたさせずば相成りません、迎春の用意、なにとなく心忙しく存じます、と申し上げた。公は、松飾りを持たせ遣わそうからもう一番仕れ、と言われる。重信は主命よんどころなく、また対局して、家康公がお勝ちになったのをしおに、お暇を頂いて帰宅してみると、過分な飾り松が下されてあった。この時から、同家は門松拝領が定例になり、年ごとの十二月二十五日に、かざり松、注連縄(しめなわ)の類まで取り揃え、車に積んで、御徒目付(おかちめつけ)・御小人(おこびと)等が両三人付き添い、安藤家上屋敷の表門を開かせ、拝領の品々は、人足が玄関の下屋敷へ運び込む。安藤家では、家来の面々が、麻上下(あさがみしも)着用で出迎えて請け取り、御小人は別席へ通して、古例の饗応がある。酒は銅の燗鍋で出し、肴は焼味噌一種、その後に目録を呈す、勿論、人足に至るまで、一々祝儀を与える。この拝領の松飾りは全く柳営のと同じで、立派なものではない。目立って違うのは竹で、どこのも葉つきであるのに、徳川家では、竹束といって弾丸除にするその竹を、三河以来正月の飾りに用いられる例であったから、葉つきでなく、のみならず、殺ぎ竹であった。安藤家はその拝領の松飾りを、表門外と玄関前へ立てた。(「江戸の春秋」 三田村鳶魚) 


鹿茸
家内が母親と香港へ行く事になって、お土産は何にしましょうか、と言った時に、僕は、例の亀があったら、あ、それと鹿茸、薄切りの安物で良いからと言い、息子は、即座に陳皮梅(チンピーメイ)と答えた。僕と息子の言っている物は、一体何かと言うと、先ず僕の言った例の亀とは、もうこの十年程、旅行する海外の国々で、亀の形の置き物や飾り物があれば、必らず買い求めて蒐集する習慣が僕には付いてしまっていて、この頃では、このコレクションは一寸有名になって、方々珍しい国国へ旅行した友人達が持ち帰ってくれた物も含めて、今では居間の机の一つを占領しもう一つの机までを侵略するに至っているのである。このコレクションに又一つの新品を加えるために、香港に多い亀の置物の中で良い物があれば買って来て貰いたいという頼みに加えて、鹿茸とは、中国の強精剤で、毎年抜け代わる鹿の角が、春になって生え始めの時に採集して、それを乾かした物を言うのである。この袋角は香港では立派な物も売っているが、それは高価なので、薄く輪切りにした物を買って来て貰おうという算段なのである。これをどう用いるかと言うと、先ず焙烙(ほうろく)でこんがりと狐色に炒って、それを煎じるか酒に漬けて呑むと、誠に元気百倍になるのである。(「舌の上の散歩道」 團伊玖磨) 


騎士パストル
ガイウス帝は、ローマの有名な騎士パストルの息子が、にやけた風をして髪の毛までもめかしているのに腹を立ててその子を監禁した。そのときのことである。父親のパストルは、わが子の命を助けていただきたいと嘆願に及んだ。すると帝は、処刑のことを命じたのである。ところが帝は、この父親に対して余りに無慈悲な仕打ちは見せまいとして、その当日彼を食事に招いた。パストルは招きに応じて来たが、恨めしそうな顔つきは少しも見せなかった。帝は、パストルの健康を祝して、と言って杯を上げたが、パストルの側には監視をおいた。この哀れな父親は、まさにわが子の血を飲む思いであったが、それに堪えた。更に帝は香油と花冠とを送ったが、それらを実際使うかどうか見張らせた。彼は使った。わが子を埋葬した−いや、まだ埋葬していない−その日に、彼は百人もの宴客の間に座を占めて、痛風を病む老いの身でありながら、子供たちの誕生日にさえ適当ではないほどの酒量を飲み続けていた。しかもその間、涙一滴こぼさず、なんらかの表情によって苦悩を吐露するような様子も見せなかった。息子のための願いが聞き届けられたかのように、彼は食事をとったのである。なぜか、と君は尋ねるのか。パストルには、もう一人の息子があったからである。(「怒りについて」 セネカ) 


兵隊トラさん
柴又は、震災も戦災も免れた。下町で焼け出された人たちが、戦時中からぼつぼつ移ってきていた。トラさんも、その中にいた。角刈り、着流し、雪駄ばき。いなせとみるか、うさんくさいとみるか、証言の分かれるところだ。六十に一つ二つ欠けていた。参道の張り店のオニイさんたちが、その姿に頭を下げた。一風変わった名前は、乱暴者だからとか、脱走兵なのだとか、人びとはうわさしあった。だが、門前で乱暴することはなかった。冠婚葬祭が好きで、世話役をかって出ていた。いつも出征兵士送りの先頭に立っていた。励ましの挨拶が、歯切れよかった。帝釈天での集まりの席に、志ん生を連れてきて一席語らせたことがある。みんなのトラさんを見る目が変わった。老いたトラさんは、長屋の四畳半で、ひっそりと死んだ。三十五年ごろか。娘という粋な感じの女性が引き取りに来た。本名は、誰の記憶にもない。トラさんにコップ酒をふるまった覚えがある川魚料理屋の天宮久七さん(六七)によると、戦後すぐ、柴又にもヒロポンやヤクザが横行する気配だった。でも、トラさんのにらみのせいか、ヤクザのシマにならずにすんだ。トラさんが映画のモデルであろうとなかろうと、二人の男を重ね合わせてみる人は少なくない。(「下町」 朝日新聞東京本社社会部) 「兵隊トラさん」と言われていたそうです。 


恋文
あなたの事ばつかりしか考へられません。他のことはとても頭の中にぢつとしてはゐないのですもの。私だつて、あなたがたやすくいらつしやれない事だつて知つてゐるんですけれども、それだからだまつてはゐられないんですもの。それにあなたは、あんな意地悪を言つては私を泣かして、それでいいんですか。さつき郵便局までゆきましたから、東京と通話ができるんです。うれしいと思つてかけようと思ひましたら、他の人が今かけて出るのを待つてゐるんだと言ひますので、なかなか駄目らしいのでよしました。明後日の朝かけますからお宅にゐらして頂だいな。五分でも十分でも、こんなに離れてゐてお話が出来るんだと思ふとうれしいわ。それをたのしみにして今日とあしたを待ちますわ。(中略)さつき、あんまりいやな気持ですから、ウヰスキーを買はせて飲んでゐるんです、だんだん変な気持になつて来ます。あさつてはあなたの声がきけるのね。何を話しませうね、でも、つまらないわね、声だけでは。ああ、かうやつてゐる時に、あなたがフイと来て下さつたらどんなに嬉しいだらうと思ひますと、ぢつとしてはゐられません。本当にはやくいらしつて下さいね。(中略)書いてゐるのが大ぎになつて来ましたからやめます。さよなら。あなたの手紙は二度も六銭づつとられましたよ。でも、うれしいわ、沢山書いて頂けて。」(「東京育ち」 諸井薫) 伊藤野枝が大杉栄に送った手紙の一部だそうです。 


岩波茂雄の酒
岩波書店を開業した頃、茂雄は旅行で店を空けた。漱石に、商売人が十日も休んではいけないと叱られた。茂雄の食事は質素で、朝は味噌汁に漬け物と海苔くらいであった。ごはんは一杯に盛ることを嫌い、ふた口から三口ほどの量をつけさした。そして何杯もおかわりするのである。酒は好きで、たしなんだが、酔態を見せることはない。十八歳で岩波書店に入店した小林勇は、この年で、すでに酒を飲んでいた。煙草は注意されたが、酒は何も言われない。しかしある晩、酔って歩いている所を呼びとめられ、こんなおそくまで何をしていた、と咎められた。小林は、先生も遅いですね、と言った。茂雄は店員たちから、先生と呼ばれていた。書店を開く前は、女学校の先生をしていたからである。翌朝、小林は茂雄に呼び出され、「あまり威張って酒を飲むものではない」と叱られた。(「百貌百言」 出久根達郎) 


十七歳から十九頃
河童 中学を卒業してすぐ、小磯先生の紹介で、『フェニックス』という看板屋の小僧になった。奥村隼人という画家をリーダーに、絵描きが集まって作っていた看板屋でね。ときどきペンキを買う金もなくなる心細い工房だったけど…夜になると、モデルさんに来てもらって、ペンキや缶や描きかけの看板などを片づけ、作業所をアトリエに変貌させて、みんなで絵を描いていた。だから、貧乏ではあったけど、面白い時代だったですね。闇市の屋台で、焼酎まがいのアルコールを、水道の水で薄めて飲んだりね。その安くて危険な酒は、よく酔えるんだけど、急にガクンと効くの。たいてい、気がつくと電車通りの路上に寝ていて、朝の出勤の人たちがぼくの頭を跨ぐように歩いていたな。(笑)
小室 それ幾つのとき?
河童 十七歳から十九頃までだったね。
小室 今はぜんぜん飲まないから、イメージ的にも、河童さんと酒が結びつかないなあ。だから、今も酒は怖い。(笑)
河童 飲まれていたのよ。思い出すと、よくも命が…、ということばっかり。だから、今も酒は怖い。(笑)
小室 怖いことって?
河童 気がつくと、たいてい見ず知らずの所で目が覚めた。(笑)あるときはヤクザの組の事務所で寝ていた。唇が切れているし、顔が腫れていて顎も痛い。聞くと、喧嘩の仲裁に飛び込んで、殴られたらしい。ぼくは、仲裁なんてした覚えはないの。(笑)そんな恐ろしいことをするわけないんだけどね。(笑)(「河童の対談 おしゃべりを食べる」 妹尾河童 小室等) 小磯先生は、小磯良平だそうです。 



フランス・ハルス
もっとも、この宴会の食卓の真の主役というなら、おそらく酒であった。描かれた男たちは酒焼けのためにほっぺたがいずれ劣らず赤い。酒を愛し、飲みに飲んだオランダ人たち。これを描いたフランス・ハルスという画家にしてからが、伝えられるところによると大酒飲みで、毎晩のように酒びたりだった。彼は、多数の弟子を抱え、画家として尊敬を受けたが、二度の結婚がいずれも子だくさんだったこともあり、生活は貧しかったといわれる。最初の妻と二度目の妻の間に、合わせて十四人の子どもをもうけた。酒でも飲まないひには、というところか。絵の注文も多く、仕事も早かったといわれるハルスが、それでも晩年は寂しい養老院暮らしだった。ハルスは死後すっかり忘れられ、十九世紀後半になって再発見された画家である。(「描かれた食卓 名画を食べるように読む」 磯部勝) レンブラントの「夜警」で有名な、オランダの集団肖像画の一つ、フランス・ハルスの「聖ゲオルギウス市民隊の幹部たちの宴会」という絵画の解説の一部です。 


伽羅の名木
時代のほどは判然しないけれども、妓楼西村庄助方へ藍染の股引をはき、醤油色の手拭で頬冠りをした、年の頃三十四五の百姓男が、訪ねてきて、「ここの家に、香具山(かぐやま)という名取のお女郎がいるということを聞いて、わざわざ見物に来ましただ。どうぞチョックラその女に逢わせてくンさろ」といっているところへ、香具山が揚屋からもどってきて、この話をきくやいなや、ツカツカと百姓の側へ寄りそった。香具山は微笑をふくんで、百姓男の顔をのぞきこみ、「私が香具山でおざんす。こちらへ腰をかけて、ゆっくり見物してくんなんし」といいつつ、自分で茶を汲んで出した。百姓男は、「とてものことに、酒を一杯御馳走になりますべいか」とすこぶる厚顔(あつかま)しい。香具山はそれにもいやな色をみせず、冷酒を注いで出した。すると今度は、「俺(うら)ア、冷は飲(い)けねえでの」とツカツカ炉の傍らにあがり込み、袂から割薪を二本出して、火の中にくべて、酒の燗をした。「こいつあ、上燗だ」と田舎者らしく舌鼓を打って、香具山に献(さ)すのを、快く受けて、酬(かえ)した。こうして二三度あっさりと盃のやり取りしてから、「何年となく念にかけた大夫(たゆう)様を、見物したのみならず、そのお酌でお酒まで頂いて、このような喜ばしことはない。俺アこれで翌(あす)が日、頓死(おっち)んでも浮かばれるだ」とコロコロして出て行った。後にはドット男衆や女衆が笑い崩れたが、香具山だけは、襟に顎を埋めて、深い物思いに沈むようであった。百姓男が、炉にくべ去った割木からは、香の高い紫煙が立登って、梁(うつはり)、天上にたなびいた。庄助の女房が、けげんそうに鼻の孔をひろげるのを見上げた香具山は「今のお人は、田舎者のようにいわんすけれど、身分のある人が、私をからかいに見えたのでおざんしょう」と試される身の淋しさを、愛くるしい笑いに紛らしていった。薪の異薫はむせるばかり、烈しく高まってきた。吉原五丁中、時ならぬ空炊き物のにおいに、老若男女高き鼻、低き鼻をヒコつかせて、匂いの源を探しつつ、三人五人と西村方の前に集まって、はては往来も塞(ふさ)がるほどの人山をきずいた。炉の中の薪は、意外にも伽羅(きゃら)の名木であった。それと気がつくと、庄助の妻は、急いで燃え残った方の一本を揉みけして、箪笥にしまいこんだ。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 田舎者は、ある大身の旗本で、数回の登楼の後、香具山を身請けしたというお話です。 


兼常清佐、葛西善蔵
 ドイツから帰国の途中でパリによった音楽博士の兼常清佐は、ドイツビールの味が忘れられず、あるレストランの入って「ビール」と注文した。ところが、給仕が持ってきたのは赤葡萄酒。こんなビールがあるかと、博士は手まね足まねで泡の立つところなどを、やってみせた。すると、これがビールだと頑張っていた給仕はようやく「ああビエール」
 晩年の葛西善蔵に、ある酒屋の主人がパトロンについていた。善蔵が自分の不毛の才能を呪っては、酒に酔いしれて、すさびはてた生活をしているので、酒屋が心配してはときどき訪ねてきた。すると善蔵のほうが「じいさん、そんなに心配しなさるなよ」と慰めるのだった。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


酒粕と黒砂糖
灘五郷の酒つくりは毎年十一月の中ごろからはじめられる。酒つくりが始まると酒粕が売り出される。この酒粕は、焼いて、中へ黒砂糖を挟んで食べる。これを「板おみき」とよぶ。粕汁、これは大阪好みのおつゆである。粕を溶いて汁を作り、大根、ニンジン、油揚げ、ブリ、サケなどを入れる。また糠味噌桶に夏から秋につけておいた茄子の残りを出してきざんでいれたりする。粕汁は、いかにも大阪の味、庶民の味、冬にふさわしい味である。この粕汁と一緒に食べるのがかやくご飯である。大阪には、この汁とかやくご飯だけを食べさせる店がある。かやくご飯は、米と醤油、それに濃くとった煮ぼしのダシにコンニャク、ゴンボ、薄あげを細かく刻んで入れ、一緒に炊いたり、まぜたりするのがかやくご飯。「加薬御飯」とかく。加薬とは東京でいう具のことである。(「楠本憲吉のたべもの歳時記」) 


一人合点
貧しい暮らしをしている友達のところへ、桜の花の一枝を持って、訪ねて来た、ふだんからの風流仲間。亭主悦んで、これを早速徳利にいけて、しばらくはこれを眺めて楽しんでいたが、やはりこのままではもの足りぬ、一杯飲みたいな、ということになり、巾着の底をはたいて、やっと二十文ほど取り出した。これで酒を買えば、二人が飲むくらいは何とかなろうと、亭主は出かけて行って酒を買って来た。かんをつけて、さていよいよというところへ、折あしく、大酒呑みと名うてのなにがしが、お久しぶり、と訪ねて来た。はてこまった。こちらは早く飲みたいけれど、ここで出したら酒が足りぬ。一人で飲まれてしまう。さりとてこの男、いつ帰ろうとも知れぬ。案じわずらっていたが、しばらくして亭主、はじめの客に向かって、「さて、水辺の鳥は、どう致しましょうかな」すると、それを受けてはじめの客が、「山に山を重ねないわけにはいきますまいな」つまりシ(さんずい)に酉(とり)は酒、山を重ねれば出という字。これを聞いた大酒呑み、字は全く知らぬ文盲のこととて、一人合点。「わあ、なさけない。またお二人で、連歌をなさるのか。それはごかんべん」と逃げていった。−『咄本体系』(「話のたね」 池田弥三郎) 


酔っぱらいエビ
生きたカニの酒漬けがあるなら、生きたエビでも同様ではないか。陽子も即座にその説に同意した。一つには、生きたエビを踊りにする勇気がなかったのである。ふたつきの鍋に日本酒をなみなみと入れ、そこに生きたエビを十匹ほど一度に放り込み、すばやくはねないようにふたをした。三分位は恐ろしい勢いであばれていたが、三十分も漬けておくと、さすがに酔っぱらって静かになった。元来は躍り食いたいところを、直(じか)に手を下すのが嫌なので酔っぱらいエビにしたのである。三日も漬けておく必要はないわけだ。せいぜい一時間も酒に放っておくだけで十分である。それをそのままカラをむしり取って食べた。秘法なんてなにもない。ただ生きているエビであることだけが重要なのである。カニにおとらず珍味、美味である。生きたエビなら日本でも手に入る。残ったカラは焼く。酔っぱらいガニよりは確実に安上がりである。しかも、ひけをとらない。(「男の手料理」 池田満寿夫) 


「わが酒史」
しかし、酒の味は、いつまでたっても、ウマいものである。そして、独酌の酒が、いっそうウマい。若い時は、対手(あいて)なしに飲んでも、意味はなかったが、今は、大抵の男が(女は無論のこと)ジャマである。誰もいない方が、よろしい。もう、沢山は飲めないのだから、ジャマなんかされたくない。それから、酒のサカナの好みも、すっかり変わってきた。コノワタや、ウルカも昔のように、好きでなくなってきた、いま住んでいる大磯は、いろいろの魚があって、結構なのだが、サシミなんて、酒のサカナよりも、飯のオカズにする方が、好きになった。ナマ臭いのである。といって、肉は、もっとご免であるから、何を食っていいか、わからない。皮つきのジャガ芋を、まる茹でにして、塩をつけて食ったら、サカナになった。こんなことは、昔は、想像も及ばぬことであった。(「わが酒史」 獅子文六) 


楽をあるじ
「嵯峨日記」の元禄四年四月二十二日の稿は、「朝の間雨降。けふは人もなく、さびしきまゝにむだ書きしてあそぶ。其ことば、喪に居る者は、悲(かなしみ)をあるじとし、酒を飲むものは楽(たのしみ)をあるじとす。『さびしさなくばうからまし』と西上人(さいしょうにん 西行法師)のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。又よめる、 山里にこは又誰をよぶこ鳥獨独(ひとり)すまむとおもひしものを 独住ほどおもしろきはなし。長嘯隠士(ちょうしょういんじ)の曰(いわく)、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と。素堂此(この)言葉を常にあはれぶ。予も又、 うき我をさみしがらせよかんこどり とは、ある寺に独居て云し句なり」(「包丁余話」 辻嘉一) 


親父橋
それから申しあげました東堀留川に架かっておりました親父橋という、あすこに橋がなくてはどうも不自由で困るというので、庄司甚右衛門が一手で架けて、それで日本橋から来る人が便利で、それを渡ってくりゃ真っ直に吉原に出てくるというわけです。これを親父が架けた…おやじというのは廓の者が一切の世話をしてくれる甚右衛門、この人の事をばおやじ、おやじと呼んでいたわけで、おやじが架けたから親父橋という名前をつけたといいます。(「江戸散歩」 三遊亭圓生) 明治初期の東京の酒屋 戻


「喝」
しかし、中国ではこの「喝」という字を書いて「飲む」という意味に使う。「喝茶」と書けば「お茶を飲むこと」、「喝水」と言えば「水を飲む」、そして「喝酒」と記せば「酒を飲む」ことなのである。ただ…この「喝」という言葉は、どちらかと言えば、なんとなく溢れる水を口から喉まで滴らせながらゴクゴクと飲み干す下品な語感をぬぐいきれない。したがって、酒を「喝」する場合も、恋に破れた哀しさをひとりで酒で紛らわすしんみりさ…などとは程遠いドンチャン騒ぎで、浴びるような酒の飲みっぷりを、この「喝」という漢字のオーラは持っている。ならば、なぜ現代中国語では「飲む」という行為に「喝」を使って、「飲」という字をお使わないのだろうか。それは「喝」が口語で使われる言葉であるのに対して、「飲む」は文章を書くときに使われる言葉だからである。(「漢字ル世界 食飲見聞録」 やまぐちヨウジ) 


おやじの気持
頃合いを見はからって、ご子息も年頃、縁筋によい娘があるがどうかと申し入れた。娘の方はすこし前に社を辞めさせておいた。親許では二つ返事でOKである。披露は、男の親兄弟が満員の汽車をはるばる禁を犯して背負ってきた白米と、地酒のご馳走で、火の気のない広い会場で、寒さにふるえながらも、当時としては豪勢な心あたたまる雰囲気だった。それから二十余年たつ。男はもう大会社の部長格になっている。子どもはみな出来がよい。夫婦仲も円満だ。Sは大の婿自慢孫自慢である。ところが、Sから、亭主が酒をのんで遅く帰ることが多いと娘がこぼしている、叱言を言ってほしいとの頼みがあったので、軽くいっておいたら、二、三日たって、頼んだS本人が頭をかきながら、取り下げにきた。娘から余計な口出しをしないでくれと叱られたといって、うれしそうな顔をしていた。(「すしやの証文」 江戸英雄) 


ビデオ
深夜、家人が寝静まった後、野球の試合のビデオを見ていた。とうぜん巨人の試合で、しかしそれがデーゲームであった。テレビの画面はまっ昼間である。ために、深夜、三時をまわっているにもかかわらず、昼間のような錯覚におちいった。デカイ声で「オーイ! お茶!」とやってしまった。二、三日して、今度はナイターをビデオにとって昼間見た。無性に、ビールが飲みたくなった。飲んでしまった。酔っぱらって仕事ができなくなってしまった。モノによっては、ビデオも時間を合わせて見なければいけないのだということが分った。(「まいにちクローガネ」 黒鉄ヒロシ) 


馬込文士村のグループ各種
尾崎は、知り合いの文士らに馬込に住むことをさかんに勧めた。「一杯やると誰彼の差別なく」、馬込に来いと誘ったという。その頃の作家は、世間からまともな人種と思われていなかったから、集まることで安心感もえられたし、もちろん酒を酌み交わしつつ文学談義を闘わせたり、若き芸術家気取りの自意識に満ちたバカ騒ぎを共にする楽しさもあっただろう。また郊外ゆえの家賃の安さも重要だった。川端康成が馬込に滞在したのは、昭和三(一九二八)年五月からで、翌年の九月には上野桜木町に移っているから、わずか一年半にすぎない。やはり尾崎士郎に勧められて馬込に来たらしいが、その頃のことを「文学的自叙伝」には、次のように記している。「−細君連中が相次いで断髪し、ダンスが流行し、恋愛事件が頻出し、大森の文士連中のまはりはなんだか熱病に浮かされたやうであつた。とにかく、賑やかで面白かった。私までが宇野千代氏と方々歩いたので、恋人と誤解した人もあつたらしい。その火事騒ぎは、私が大森へ来ると間もなく起こり、私が大森を去るとやがて消えた。文士の家庭が世の風潮に感染したに過ぎないとはいへ、よその文士村にはなかつたのだから、私はお祭り見物の好機に恵まれたわけである」お祭り騒ぎの熱っぽさが、その頃の馬込文士村にはあった。川端にしても、傍観でもしていたかのような口ぶりだが、妻が突然、賭に負けたからと、断髪帰宅するようなこともあった。もっとも間宮茂輔によれば、馬込文士村住人には、尾崎士郎、榊山潤らの「酒飲み駄弁グループ」、広津和郎や宇野千代等の「酒飲まぬマージャン、花引きグループ」、萩原朔太郎、衣巻省三らの「酒飲みダンスグループ」、北原白秋や室生犀星らの「酒飲み孤高グループ」といった分類があって、川端康成は「酒もギャンブルもやらぬ超然組」とされているから、たしかに一緒に騒いだり遊んだりはしなかったようだ。(地図から消えた東京遺産」 田中聡) 


750万の酔っぱらい
そういうわけで7番目の星は地球だった。地球は軽々しく扱える惑星ではなかった。ここには111人の王様がいて(もちろん黒人の王様も忘れないようにして)、7000人の地理学者がいて、90万のビジネスマンと750万の酔っぱらい、3億1100万のうぬぼれ、つまりおよそ20億人の大人が住んでいる。地球の大きさをつかみたかったら、電気が発明される前には、6つの大陸を合わせて46万2511人という、ほとんど軍隊のような数の点灯夫がいたはずだとということを思い出してみよう。少し離れたところから見ていれば、それは壮麗な光景だったろう。この軍隊の動きはオペラのバレエ場面のように統制が取れていた。まず舞台にニュージーランドとオーストラリアの点灯夫が登場する。彼らはそれぞれの街灯を点けると、退場して眠りにつく。次には中国とシベリアの点灯夫が踊りながら出てきて、やがて舞台裏へと隠れる。その次はロシアとインドの点灯夫の出番で、それからアフリカとヨーロッパ。次は北アメリカ。こうして舞台に登場する順番が狂うことは決してない。まことに壮麗な見物だ。(「星の王子さま」 池澤夏樹・新訳) 


酒呑童子とメフィストーフェレス
源頼光が手勢を引き具して大江山の酒呑童子退治する顛末を見せる能の『大江山』には、酒飲みの哀歓が悉く尽されていて、この能、まことにいい。山伏に身を変じた頼光に、酒呑童子という名の由来を尋ねられて、酒呑童子はこう答える、「わが名を酒呑童子といふことは、明け暮れ酒に好きたる故なり。さればこれを見、彼を聞くにつけても、酒ほど面白き物はなく候。客僧たちもひとつきこし召し候へ」こうして頼光たちの危険な酒盛りが始まる。あわれ酒呑童子は盛り潰されて寝首を掻かれようなどとは夢にも考えもしないので、歓待これ努める。「いざいざ酒を飲まうよ、さておさかなは何々ぞ。頃しも秋の山草。桔梗、刈萱(かるかや)、仙蓼(われもこう)、紫苑といふは何やらん。鬼の醜草(しこぐさ)とは誰がつけし名なるぞ」酒呑童子は、私の顔の赤いのは酒のせいです、鬼だなどとお思いにならずに、ご一緒に一杯やってください、そうすれば私だって面白い飲み相手なのですからと懸命に接待する。さて夜もふけて、鬼の寝所に攻め入ると、酒呑童子は目を覚まして「情なしとよ、客僧たち。偽りあらじといいつるに。鬼神に横道なきものを」(これはひどいことをなさるではありませんか。私に嘘いつわりはないと申したのに。鬼神は決して道に外れたことはしないものなのに)と恨みを述べるが、遂に討たれる。この謡曲をうたっていると、寝首を掻かれる酒呑童子が可哀そうでならない。またゲーテの『ファウスト』の悪魔メフィストーフェレスだってそうで、散々ファウストのために尽して、その報償としてのファウストの魂を天使にさらわれて、大損をしている。(「言いたいことばかり」 高橋義孝) 


大罪
ジョシュアが、ラビのところは行った。「ラビよ、私は深い罪を犯しました。私は生活の苦しさかに耐えかねて、ろうそくを六本盗んでしまったっんです」「ろうそくを六本も、盗んだと?これはモーゼの十誡(じゅっかい)に反するたいへんな大罪じゃ。それを悔いあらためるには、このシナゴーグへ飛び切り上等のワインを六本寄付しなさい。そうすればあなたの罪は私が飲むこととになる飛び切り上等のワインに洗われて、すっかり洗い流させるはずじゃ」「ラビよ、それはとても、無理なことです。私は生活苦から六本のろうそくを盗み出した。六本のろうそくも買えない者が、どうして、それよりずっと高価なワインを手に入れることができるでしょうか?」「いや、簡単じゃ。ジュショア、ろうそくと同じ方法でワインを手に入れればよいのだ」(「ユダヤ・ジョーク」ラビ・M・トケイヤー) 「ラビとは、ユダヤ人の地域社会の牧師、教師、カウンセラー、裁判官といった多くの役割を兼ねた指導者である。私もその一人である。」とトケイヤーはあとがきに書いています。 


幻覚
僕は、三年前にアル中で肝障害を起こし、五十日間入院した、アル中につきものの「連続飲酒」という状態が続き(朝から晩まで何日もぶっ通しで飲み続けること)、ついには黄疸が出てぶっ倒れた。よくアル中になると「小さな大名行列が机の上を進んでくるのが見える」とか、西洋では「ピンクの象が見える」とかいう。稲垣足穂は、部屋の中にぼんやりとわだかまっている、影のような「鬼」を見たと記している。断酒を急にしたために、そういう幻覚が出てくるのではないか、と僕は楽しみにしていたのだが、結局そんなものには出合わなかった。残念な気もするが、見なくてよかったとも言える。なぜなら、アル中の幻覚というのは「小さな大名行列」とか「ピンクの象」とか、そんな楽し気なものとはまったく正反対の幻覚だからだ。多くは被害妄想をともなった、強迫的な幻聴幻視のようだ。たとえば隣の部屋から自分の妻と母親の会話がはっきりと聞こえてくる。「あの人はもう駄目で、一族の恥だから、殺してしまおう」と相談しているものだ。もちろん幻想だ。(「しりとりえっせい」 中島らも) 


”カス”にあらず、「食べる酒」
飛鳥、奈良、平安時代の酒の最大の特徴は、甘味が異常に強くトロリとしており、粘稠性があって濃厚なことで、およそ今日の日本酒とは似ても似つかぬ性状と風味を持っていた。そしてどの酒も、アルコール分が三%未満で、中には一%にも達しない酒もあった。そんな昔のことがどうしてわかるかというと、当時の古文書に従って酒を造ってみると、どれもそういう酒になるからだ。さらに謎めいているのは、世の中に米が余っているなどという時代ではなく、むしろ貴重なものであったにもかかわらず、驚くほど酒化率(使用した原料米に対して得られた酒の量で、酒化率が悪いとその分、粕が多くなる)の悪い酒造りをしていたことである。アルコールをもっと出し、米を溶かして粕を少なくし、酒を沢山得ようとするならば、仕込み水の使用量を高めてもろみを希薄にし、酵母の発酵を促進させればすむのに、あえてそうしなかった。その謎を解くためには、当時の酒の置かれた立場を考えながら、その周辺の食生活の事情から考察しなければならない。まず、当時は液体としての酒と固体としての酒(粕)の両方を「酒」として位置付けていたようである。今日では酒粕は酒税法でも酒類の範疇に入れていないが、当時は粕(糟)として米から生まれた酒であり、濃醇な手に持つことのできる酒(手握り酒)であった。平安時代の『延喜式』あたりの記述を見ていると、やたらに「糟(かす)」という字の付く酒を造り分けているのである。粕も酒であったから酒化率など問題ではなく、こして液体の澄酒(すみさけ)を飲み、残った粕はそのまま食べたり、または軽くあぶって間食にしたり、湯に溶かして甘酒のようにして飲んでいたのだろう。粕には豊富にたんぱく質や炭水化物、ビタミン、ミネラルが含まれ、貴重な滋養物ともなっていた。さらに濃醇な酒は、酔うためだけではなく、甘味料や味付けの一部として料理にも使われていたようだ。その証拠に、『延喜式』の中に「汁糟(じゅうそう)」という酒が出てくる。その酒は「御厨子(みずし)所」や「内膳(うちのかしわで)司」といった調理場に納められたことが訳されているのである。また、糖分が三○%を超すほど濃厚な酒は、糖による浸透圧が非常に高く、そこに酒を変質させる微生物が入ってきたにしても、濃糖圧迫のため成育しにくい。このため酒は腐ることなくいつまでも長持ちする。こういったことを醸造学的、また調理学的に見る限り、これだけ濃い酒を造っていた謎はおのずと解決されるような気がするが、いかがであろうか。(「食に知恵あり」 小泉武夫) 


安倍首相、ブッシュ大統領
安倍首相のときは白と赤のワインが出された。加えてふだんは出さない貴州茅台酒(まおたいしゅ)の中でも、特に高価なものが供されている。安倍首相はあまりアルコールを飲まないが、かなりたしなむ昭恵夫人のための気配りと日本側は見た。つまり右派で知られる安倍首相の評価は今後を見守るが、対中関係打開への意欲にはそれなりの配慮で応える。メニュー全体をみるとそのような意図がにじんでいたように思われる。−
ブッシュ大統領になってから招かれる人が異口同音に言ったのは、クリントン時代と比べ饗宴が威厳に満ちたものになったことだ。招待者の数は抑えられ、規模も小さくなった。ダンスパーティーも夜一○時にはお開きとなる。ブッシュ大統領自身は若いころのアルコール中毒の体験もあって禁酒を守っており、食事中もミネラルウォーターかコーラで通す。(「ワインと外交」 西川恵) 2006年に首相就任直後に訪れた中国での晩餐会のアルコールの話で、赤白共に中国産の長城'02年だそうです。 


柏亭の酔い
夕餉(ゆうげ)の膳に対してビールの満を引いた柏亭は、いつもほど飲まないうちに早くも十分の酔を発して満面朱をそそいだようになっていた。柏亭は酒客(しゅかく)で相当の酒量のある人であったが、すぐに酒がまわって赤くなり、そうしてすぐにさめる。それを繰り返して量を飲むという体質の人であった。それが旅の興趣と疲労とにいつもより早く酔ったのであろう。その時刻に、講演会場と定められた速玉神社うらの三本の杉にある速玉座では定刻の六時よりも半時間も早く聴衆がひきもきらず押しかける盛況に、定刻には満員以上の入りであった。開会を促す会衆の拍手に会場はどよめき渡った。定刻はもう過ぎているのである。にもかかわらず迎えの車は一人の講師も乗せないで帰った。先生がたをのせでない車夫は、講師の代りに、「開会のあいさつでもしておいてくれれば、その間に出向く」という講師の言葉だけを持って来たのである。場内の拍手は刻々に益々盛んである。ろうばいした幹事は、ともかくもと壇上に登って、文芸講演会の趣旨というというような言葉をあいさつ代りに一席述べて檀を下った。しかし先生方はまだ見えなかった。そのはずである。幹事のあいさつはせいぜい五分ばかりですんだのだから。その間にも別の幹事が講師の宿に電話して急ぎお出かけをと交渉しているが、柏亭先生ご自身が電話に出て、「赤い顔をして檀に上るのは聴衆に対して不作法だから、酒のさめるのをもう二、三十分待ってくれ」という返事に、幹事たちは異口同音に、「困ったな」を、お互いに交換するだけで処置もなかった時、かたわらにいた僕に眼をつけたのが、「はまゆふ」の主幹とも言うべき、わが中学校の先輩であった。(「わんぱく時代」 佐藤春夫) 前座を引き受けさせられた佐藤春夫は、その講演のため、停学処分になったそうです。この時の講師は、石井柏亭、生田長江、与謝野寛とあります。 


純粋日本酒協会でのおいしい出来事
といっても三つ、四つと味わううちにわからなくなる。一つだけ自信のあったのは、米麹の味のじつに濃厚なもの(まったく自己流の解釈だが)。もう一つ特徴を感じたのは塩漬け大根的な辛口。それと自分の好みではない重ったるくもたついたもの(いわゆる一般酒に似た味、失礼)、というわけで、サッパリした味の美酒というのがむしろ見分けがつけにくい。とか何とか、あとはあてずっぽーで投票した。やがてB会場でのパーティーでその発表があり、六問全解が三人(うち一人は二テーブル十二問全解)、やはりプロは凄い。いやプロかどうかはわからないが、賞状を受け取りに出てきたのはいずれも若い人で、酒蔵の息子かと想像する。次に四問正解が五人(五問正解はないわけだ)。その五人目に、何と私の名前が呼ばれてしまった。これは冗談ではなく本当である。投票用紙の控えも持っているぞ。しかし三百人くらいの中でこれだから、自分はひょっとして天才だ、とは思わないように努力したが、いやマグレだマグレだと言いながらも、同行のAさんによると目が勝ち誇っていたそうである。まあ自分の直感が認められるのは嬉しいことで、自信がわいてきた。やはり賞というのは励みになる。私はこれからもしっかりと酒を飲むぞ。(「じろじろ日記」 赤瀬川原平) 純粋日本酒協会での利き酒会で、ブランド付きと、目隠しそれぞれ6種類の清酒の同じものどうしをあてるのだそうです。 


桜正宗の一族
深沢七郎さんが、はじめて正宗さんを訪ねたとき、どうしても、大きな池がある家だと思いこんでいた。なぜそう思ったかと、あとで考えたら、名前が白鳥だからである。同時に、正宗という姓なので、「先生の家は、あの、桜正宗の」といったら、「関係ないよ」という返事が帰って来た。正宗さんに深沢さんが、「いい小説か、わるい小説か、先生は、何できめるのですか」と質問したら、正宗さんが答えた。「うん、カンだな」(「新ちょっといい話」 戸板康二) 正宗白鳥のこと  こんな記憶違いもあるのですね。


菊正党
さて菊正宗だが、酒飲みは異口同音に菊正がいゝと言う。私の知っているだけでも、鈴木三重吉、水上滝太郎、室生犀星などは菊正党で、戦争前まで、銀座の鉢巻岡田、日本橋の灘屋の二軒は、純粋の菊正を飲ませると言うので、菊正党に愛されていた。外に、読売新聞の隣に、菊正のビルディングがあって、そこの何階かで菊正を飲ませた。室生犀星はそこの常連で、そこからの眺めを書き出しにした小説がある。しかしなんと言っても、菊正というと思い出すのは水上滝太郎のことだ。少し誇張した言い方をすれば、水上さんは一生菊正以外の酒は一滴も口にしなかったと言っていゝだろう。菊正以外の酒を飲まされる宴会だと、ごく軽く飲んで置いて、その足で岡田へ寄って口直しをして帰られた。(「食いしん坊」 小島政二郎) 


漆の乾燥を調節する良法
また、時には水よりも酒をあたえるのもよい。いうことをきかない人間に一杯飲ませるように漆にも一杯飲ませるとたいへんよく乾く。それは水よりも酒のほうが酸素の供給を旺盛にするからである。べつに人間のように特級酒でなくとも二級酒で漆は結構満足に乾燥を早めてくれる。私は酒の接待で漆の乾燥を時折早めている。期日の切迫した制作などには朝から晩まで一日に何回となく酒で接待することがある。急ぎの場合など酒代がかさむけれど、化学的薬剤操作で乾燥を促進させる方法にくらべると、弊害がなく、ほとんど無理なく円滑な結果がつねに得られる。酒の飲ませ方はどうするかというと、漆のなかへ酒を直接混入するのでなく、酒を吹きつけた密閉容器のなかに漆を塗った器物を入れて乾かすのである。この方法を一日に数回くり返すうちに、漆は理想的に乾燥してくれる。(「うるしの話」 松田権六) 


一八五七年二月二十三日
われわれは奉行と同じテーブルについた。別のテーブルには、二人の副奉行がついた。食事はスープ、鶏、廿日(はつか)大根、生魚、煮魚、牡蠣、ソーセージなど、十二品以上あり、すべて漆塗りの椀に盛られていた。食事と同時に熱いサケが出た。それは米から抽出した飲物で、小さな陶器の盃に注がれるのである。−
第一奉行は、私[ヒュースケン]の健康を祝って乾杯したいといった。彼はそういって日本の酒を小さな陶器の盃で飲んだ。私もそれに倣った。酒はいやな味がしたが、私は愉快そうな顔をしていた。すると、その盃は貴方にさしあげるから、お持ち帰りください、と言われた。それで、私はきれいな日本の盃をたくさん所有することになった。しかし、その恐るべき飲物が盃から胃に流れこむときは、口の中がたまらなくいやな感じだった。(「ヒュースケン日本日記 1855-61」 青木枝朗訳) ヒュースケンはハリスの通訳として来日、攘夷の嵐の中で暗殺され、南麻布の光林寺に眠っています。 


寮には酒類を持ち込むべからず
こんなことがあった。風紀点検委員会(これはフーテンと呼ばれていた)が夜中に不意に各部屋を巡回して無断外泊者の氏名を調べる。そして翌朝次のような掲示を出した。 今暁不時点検を行ひしに不在者左の如し。 …、…、…、 右の者は保証人連署の届け書を提出すべし。 またこんなこともあった。寮の紀年祭の二月一日に、普段気に入らないフーテンを、泥酔してぶん殴った豪の者がいて問題となったが、それは級友の嘆願書によってようやく処分を免れたという。寮には酒類を持ち込むべからず。(外交官の息子、松本和夫が家の台所からかすめて来た舶来のワインを、秋の夜、ひそかに少し口にするのは仲々さわやかなものだった)正門以外を通行するべからず。(だから夜中十二時過ぎて閉門の後帰寮するには、必ず正門を乗り越えた)女人禁制。ただし敷地内には一人だけ女性がいた。看護婦さんだが、彼女は「ダス」という仇名(あだな)で呼ばれていた。dasとはドイツ語の中性名詞の定冠詞である。色が浅黒く、ごついが親切な人だった。(「日本語と私」 大野晋) 一高の話だそうです。 


前衛的な朝食
しかし、前衛的な朝食といふものもあるんですね。世の中にはときとして、大胆不敵に個性的な人間もゐるから、さういふ人は朝食面においてさへ独自な道をゆき、革新的な立場をとるのである。たとへば、世紀末から今世紀初頭にかけてのフランスの文学者ジャリ、この男は『ユビュ王』といふ戯曲をはじめとして、変な具合に難解で変な具合に滑稽な作品ばかり書いた天才ですが、このジャリさんの朝食は二リットルの白葡萄酒であつたといふ。いいですか、二リットルですよ。やりますねえ。それからまた、あの大政治家、チャーチルは、鳥のシギを二羽と赤葡萄酒を一本といふ昼食を好んだといふ。ホレイショ・ボトムリーといふ、わたしの知らない人は、クンセイのニシンを二匹とブランデーの水わり一杯。そして、コールリッジといふ浪漫主義の大詩人は、目玉焼きを…ここまではごく普通だがこれからさきが前衛的で、何と六つ。そして、このさきはもつとすごくなつて、ローダナム(つまりアヘンチンキ)をミネラル・ウォーターで割ったものを一杯。四人とも、旧套(きゅうとう)になづまない実験的な意欲がまことに立派で、何となく頭が下がる。一つ明日の朝は、こつちも朝酒としやれませうか。(「男のポケット」 丸谷才一) 


独酌のための発明品
さる文庫本のために書いたことば。コマーシャルのように見えるが、そういうわけでもない。メモのかわりに書いておいた。「本を教養のしもべとみるのはやや古い。教養の”教”を”饗”にするといいが、”養”の音に適当な字が見つからぬ。いっそ饗宴という気分で読むとどうだろう。本をひらけば、もてなしの席が現われる。ある時は古今の人と語り、ある時は東西の物語に耳を傾ける。美酒つきぬ、千古の宴のために、一度の人生も百倍になる。本は人生の独酌のための、最高の発明品ではあるまいか」(「算私語録 そのV」 安野光雅) 


蛸肴
ここで由良助が、かつての朋輩斧九大夫とめぐり会い、宴会になる。仲居たちが朱塗りのおおきな台を運んでくる。二人がかりで持ってくる蛸足つきのお膳で、酒や料理がのっている。その料理から九大夫が酒の肴に蛸の煮物をつまんで由良助に勧める。由良助が仇討ちをする気かどうか、その心底をためすためである。なぜか。由良助は「口に諸々の不浄をいふても」今夜は「慎(つつしみ)に慎を重(かさね)」ている。判官の逮夜だからである。そんな日ならば遊びにこなければよさそうなものであるが、わざと仇討ちをする気がないことを見せるために来ているのである。九大夫は敵方のスパイである。むろん今夜が逮夜であることを承知している。逮夜だから魚鳥をさけて精進しなければいけない。そこは蛸である。食べれば精進を破るし、ひいては判官への忠誠−仇討ちの意志が疑われる。あとで由良助は、この蛸を食べたときは「四十四の骨々も砕る様」なつらさだったと告白しているが、そんな気配は少しも見せなかった。 手を出して足を頂く蛸肴 といって一口に食べようとする。九大夫がその手を押えて、今夜は亡き殿の逮夜、それでも蛸を食うのかという。そうすると由良助は笑って、判官があの世で蛸にでもなったという情報でもあるのかといって食べてしまう。九大夫は呆れて由良助が仇討ちの気がないのだろうと思う。ここは由良助がいかに巧妙に人の目をごまかしていたかという芝居を見せるところであり、俗に「蛸肴(たこさかな)」と呼ばれるシーンである。そういうドラマを抜きにしても、秋の祇園町で、旧友二人が蛸を肴に酒をくみかわしているというのが絵になっている。この肴は、松茸でもふぐでも困る。蛸だというところがそれらしいのである。(「芝居の食卓」 渡辺保) 「仮名手本忠臣蔵」です。逮夜は、忌み日の前夜です。 


中谷宇吉郎の酒
中谷さんは、お酒に酔っても、ハメを外したことがない。いつも静かで、温顔である。この人が怒ったという表情を見たことがないので、わたくしや岩波の小林勇さんは、酔っぱらうと「この中谷大悪人」と、よく、呼んだものである。それを聞いてもニコニコである。尋常の人ではない。そして、傍の奥さんを「静子、静子や」とやさしい声を出して呼んだ、いかにもいたわりきっているという感じを出す。三十余年もつれそった古女房(失礼!)を、こんなやさしい声で呼ぶとは、いよいよ勘弁ならぬというので、われわれは再び大声を発して「中谷大悪人…」と呼号することになる。一夕、中谷家でご馳走になった後、二次会にと、新宿にある小さな飲み屋へ、ご夫妻をご案内したことがある。当時、わが「静子」はアメリカ仕込みの運転技術を披露したいさかりで、はからずも、わたくしはそのクルマに乗り込まされるハメになった。深く酔っていたが、彼女の運転中、生命の危険を感じていたのであろう。わたくしは「主よ、みもとに近づかん」を、ずっと歌いつづけていたそうである。ところが、「信平さんは、静子の運転中、感動して讃美歌ばかり歌っていてね…」その後、何回も、中谷さんはこの言葉を第三者の前で披露して、わたくしをクサらせた。(「歴史好き」 池島信平) 「中谷さん」は、雪の中谷宇吉郎だそうです。 中谷宇吉郎 


仲人
結納の目録を書かなければならないというので、私が大奉書を夏目の前に持ちこみます。どう書くもんだといったわけで、それをどうやら書いてもらって先方へ届けます。それから式は先方の家であげるので、長女の筆子が十三でしたがお酌を頼まれ、何でもかんでも家っこでというのはいいが、さて私始め夏目などはなおさらのこと、こんなことには不調法ですので、ともかく老人に聞くにかぎるというので、私が母に大体教わってきて、それを夏目と筆子に教えるわけなのです。ともかく口でいったばかりじゃいけない、一応稽古しておかなければならないと申すことで、夏目がお婿さんになりお嫁さんには誰がなったか忘れてしまいましたが、たぶんほんとうのお嫁さんだったでしょう。なんでも座敷に二人向かい合って坐っていると、筆子が銚子をもってきて、お辞儀をしては三三九度の盃をまわす稽古をしました。私がいわば舞台監督なのだから笑わせます。さていよいよ当日となって式が始まります。先方の家が手狭なので宅とは勝手が違います。そこへお銚子に雄蝶と雌蝶とを結びつけなければならないのですが、どうも私たちの手ではうまく結(ゆわ)いつけられません。そこであなた男ですからと夏目に頼みますと、こんどはどちらが雄蝶でどちらが雌蝶なのかわからないという始末です。それをいいかげん当て推量で結ぶと、今度はあまり強く引っぱり過ぎたものとみえて糸が切れてしまいました。「あ、切れた、切れた」しまったと思ったものでしょう、夏目が頓狂な声を出します。場合が場合ですから、いやなことをいう、切れたの何のとははなはだ面白くないことをいうので私が気にします。が夏目はそんなことには気がつきません。そのうちにいよいよ三三九度の盃という段になって、両方から向かい合って出て来て、いい塩梅にすわったのはいいけれども、今度はいくら待ってもお酌が出て来ません。間のぬけるったらありません。しかたがないので私が筆子の待っている唐紙の腰をとんとんと叩くと、ようやくにこにこ出て来て盃をまわすといったぐあいで、気のもめるったらありません。一ぺんで仲人にはこりごりいたしましたが、このお嫁さんは折り合いよく行っていましたが、七年めかにきのどくなことにお産でなくなってしまいました。(「漱石の思い出」 夏目鏡子述) 漱石の三三九度 


ケラー、イプセンとヴェルレーヌ、フリッツ・ロイター
 ケラーはぶどう酒が何よりの好物だった。ある時医者が「しかしのみものは健康上なるべく少なくした方がいいですな」と彼に忠告した。ケラーは「ではそう致しましょう」と案外素直に答えた。「今夜からスープは止めにします」
 イプセンがヴェルレーヌにあうためにパリ行きの準備中ときき、ヴェルレーヌは待っていた。ところが「二人は互いに相手の言葉を知らないからイミない」という者があり、この計画はやめになった。ヴェルレーヌ「しゃべれなくたって、酒を一緒にのめばたちまち心が通じたのにな」
 ドイツの詩人フリッツ・ロイターがあるレストランに入った。主人が「特別良いぶどう酒です」とすすめた酒を、彼は一口のんで「まるでバラのようだ」主人はよろこんで「よいかおりでございましょう」「いや、トゲのようにのどをひっかくよ」(「ユーモア人生抄」 三浦一郎) 


一升酒
前 お酒は、普通、どれぐらいお飲みになるんですか。伝説では、いろいろ伺っていますが。
白洲 伝説は大変なんですけど。いまはもう、年で駄目でございまして(笑)。
前 お若いときは。
白洲 若い時は一升酒で、あとまでウィスキーを飲んだりブランデーを飲んだり。若い時というのは、私は無理をして覚えたんですよ。つまり、小林秀雄さんや、青山二郎さんなどと付き合うため。だって、飲まないと口も聞いてくれないんですから。
前 でも、やっぱり素質があったんですね。
白洲 お勉強に飲んだみたいな感じですね。子どもの時からじゃないから。大人になってからですよ、ちょっと無理がいってたみたいですね。いまでも、一年に三、四回ぐらいはべろべろに酔っぱらって朝まで飲むことがあります。
前 意識がなくなるとか、そんなことは…
白洲 ないです。いよいよギラギラするだけ…(笑)。(「おとこ友達との会話」 白洲正子)聞き役は、歌人の前登志夫です。


”広告”は明治八年の新語
「広告」という言葉が最初に現われたのは、明治八年(一八七五)三月十六日の東京日日新聞紙上です。同紙に”ビール発売広告”として、山梨県のビール醸造所が東京に進出、ビールを新発売することを知らせました。「広告」以前は、商店などが使った宣伝用語に、「御披露」「告知」「口上」「報告」等いろいろあって統一をみなかったのですが、「広告」の新語誕生により、たちまち一般化しました。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


ビール営業マン
営業マンばかり突っ走って、ホステスといいことしてる−なんて情報が酒屋の主人の耳に入ったら「オレが卸してやってる店で、ちっ、おもしろくもねえ!」ってことになるわけで、まあその辺の美味しい話との関わり方は、他業種の営業マンと同じように”身を汚さない提灯(ちょうちん)持ち”の立場をキープしなくてはならない、ということだ。アフター5のほとんどは、以上のような酒屋さんや呑み屋さんの御機嫌伺い呑み(キリンビールではプロドリ=プロモーショナル・ドリンクと呼んでいるそうだ)に費やされる。橋本氏の場合は平均して週四日。ほとんど毎夜のように”御機嫌伺い呑み”に繰り出しているわけだ。「まあ大体一日平均して三軒、何だかんだデスクワークがありますから、スタートは八時くらいかな。一軒あたりそんなに飲みませんよ。生ビールだったらせいぜい中ジョッキに二杯か三杯…」一軒あたりで中ジョッキ三杯で三軒でしょ、で、それが週四日。あとプライベートな呑み会もあったりして、そりゃやっぱ相当飲んでるほうじゃないのかな…。この日の取材も、橋本氏にとっては一種のプロドリなわけで、何かやたらとピッチが早い。約十分ほどで三人で中ビンが三本空いた。「うん、違う…」と思ったのはグラスが完全に空になるまで注ごうとしないあたりである。橋本氏の場合は、話の合い間にほぼ二口ほどでグラスを空にしてしまう。(「丸の内アフター5」 泉麻人) 


知事と作家
そのころ、ネヴァダはまだ州に昇格しておらず、準州扱いで知事は大統領が任命した。友人のビルがネヴァダの知事になったので、マーク・トウェインはいっしょにカーソン・シティに行くことにした。新任の知事が有名な作家といっしょにやって来るという報せが届くと、カーソン・シティの荒くれ男たちは早速寄合を開いた。東部のへなちょこ野郎の鼻をへしおって身のほどを弁(わきま)えさせるには、大宴会を催して酒でつぶしてしまうのが一番ということに衆議は一決した。二人の乗った幌馬車がカーソン・シティに着くと、旅装を解く間があらばこそ、待ちかまえていた人々が引っ攫(さら)うように宴会に連れ込んだ。乾杯、演説、乾杯…列席者が次々に酔いつぶれ、椅子からすべり落ち、テーブルクロスを頭からかぶって高鼾をかきだす…十二時を大分廻ると、残っている正気の男は二人だけ。作家が、ぐっと伸びをして知事に言った。「さて、どっかで飲みなおすか?ビル」(「ポッケト・ジョーク」植松黎編・訳) 


タケノコの醍醐味
このなかで、最も美味しいものといえば、やはり薄味に鰹節のだしで炊いたじきたけである。これに鰹節と木の芽をそえる。最も原始的な食べ方だが、これが一番うまい。完全にあくが抜け、ほどよく味が滲みこんでいることはもちろんだが、噛むときの歯ごたえがまたいい。さくさくと、ほどよく硬くてやわらかい。硬軟、両方ほどよくとは理屈に合わぬ要求だが、これがタケノコの醍醐味である。わたしは、このじき煮が、大きい丼にたっぷり盛られているのを、皿にとりながら食べるのが好きだ。一度、大阪の料亭「つるや」で、このじき煮を大皿に盛ってもらって、笑われたことがある。しかしこれを肴に、ちびりちびり飲む酒は絶品である。(「これを食べなきゃ」 渡辺淳一) 筍は物集女産が飛び抜けているようですね。育て方のコツでもあるのでしょうか。 


飲む順序
酒の席に二種類の酒が出されており、いずれをも存分に楽しみたい時、どんな順序で飲んでいけば新鮮な感覚で飲み続けられるか。飲む人の勝手、と言われればそれまでであるが、初めに重厚な強い酒を口にすると、それに続けて飲む次の酒の味がわからなくなることが多い。何種類かの酒を続けて飲む場合、飲む順序の目処(めど)はおおむね次の通りと考えるのが至当であろう。 甘・辛がある場合、辛いから先に 重・軽がある場合、軽いから先に 濃・淡がある場合、淡いから先に(アルコールと色の濃・淡を含む) 赤・白がある場合、白いから先に 老・若がある場合、若いから先に(老は熟成酒の意) 温・冷がある場合、冷いから先に これはあくまでも目処であり、ことに蒸留酒の場合には、その飲み方、つまりストレートで飲むか割って飲むかで、違ってくる。ケース・バイ・ケースである。(「酒の科学」 野尾正昭) 


「酒」
『夜の蝶』という映画で、ロケーションさせてもらってから知合いになった祇園のお茶屋梅村の女主人で、舞妓時代、土田麦遷のモデルをつとめたとかいうお照さんが、向いの家を買い取ってバーをやることになり、何か気のきいた名前を付けてくれと頼まれ、クラルテと名付けた。フランス語の光明という意味をお照さんの名前にひっかけたものだ。バルビュスの同名の小説が好きだったせいもある。バーのマダムになるからには、多少洋酒のことも知っておかねばなるまい。これを教えてやらねばと思っていたら、ちょうどその頃、岩波新書で、『世界の酒』という本が出ていた。わりにくわしく、それぞれの酒の原料、醸造法、蒸留法などがわかりやすく説明されている便利なものである。その本の受け売りをクラルテで盛んにやっていたら、隣の紳士が、「実によくご存じですね」といい、「実は私も酒のことを研究している者でして…」と名刺を渡された。「京都でいま医学会があるので来ているのですよ」という。名詞を見てびっくりした。坂口謹一郎とある。日本一の酒学者で、文化勲章をもらった人だ。私が受け売りしていたのもこの人の著作だったのだ。 いつしかに習いとなりしクラルテの 食後酒(ディジェスチフ)の懐しきかな 吉井勇大人の亜流の拙吟である。(「味の歳時記」 吉村公三郎) 


「KとT」
来てからもう一月以上の日は経った。蕨(わらび)を奥山から採って婆さんが売りに来たり、八汐(やしお)の躑躅(つつじ)が赤く前の山の峡(かい)を彩ったりした。かれらは老僧に仕込まれて、夕飯に一、二杯酒があっても好いと言うので、一升ずつ酒を酒屋から持って来させて、それを長火鉢の傍(そば)に置いた。そしてKはそれを時々振って見て、「まだ頼もしいなア。」などと言って笑った。そのくせ、かれらは五尺位飲むと、スウスウ呼吸(いき)を高くした。顔は金時火事見舞というようになった。「これから二人が酒飲みになれば、和尚さんが先生ですぜ。」などと言って、かれらはその話を老僧にした。「オホホ、オホホ。」と老僧は口を小さくして笑った。時の顕官になった人が、昔、微賤(びせん)の時分にこの寺に食客となって一、二年世話になっていたことがあった。その人が後年やって来て記念に書いていったという額が大きく長押(なげし)にかかっていた。Kは、「和尚さん、僕らだって、今に豪(えら)くなりますぜ。その時は、あんな額位じゃない。大檀越(おおだんおち)になって、本堂の普請位しまさ、なア、おい、T君。」こう言うと、「そうどこじゃない。無論の話だ…。」老僧は盃を口に当てながら言った。(「KとT] 田山花袋) Kは国木田独歩、Tは田山花袋です。二十六の二人が寺にこもった時の話だそうで、この時の寺への土産は沢の鶴の六つ割り(四斗樽の酒を六つに分けた量)一樽だったそうです。 


明治九年、札幌農学校とクラーク
明治九年の九月、ウィリアム・クラークとその後輩のペンハロー、ホィーラーの三人は、佐藤昌介、大島正健等十一名の生徒を連れて札幌に農学校を開いた。開校式をした時彼は演説して言つた。「諸君はこの学校に入つて、やがて国家のために重要な地位と厚い信用とを、またそれにふさはしい名誉を受けるやうに、準備し努力しなければならぬ。それがために健康なる肉体を得、食欲をつつしみ、また性欲を制する力を養ひ、従順と勤勉の習慣を訓練し、且つ習はんとする学科については、出来る限りこれを研究錬磨すべきである」と言つた。青年期に入つたものの多い生徒等は、時に酒を飲んで乱暴をした。開拓使長官黒田清隆は、学生の飲酒をやめさせてほしい、とクラークに申し入れた。クラークは独身で赴任してきたが、酒が好きだつたので、一年分の自分の飲料として数十本の酒を用意してあつた。ある日クラークは、その酒瓶を悉(ことごと)く教室に運び入れさせ、学習中の禁酒の必要を説いて、自分も禁酒することを誓ひ、金槌をもつてその酒瓶を全部その場でこはした。生徒たちは彼に従つて禁酒の誓約をした。(「日本文壇史」 伊藤整) 


切り抜き帖
切り抜き帖をみると、この世には愉快なオッサンもいるものである。東京都に住む左官職人の某は、友だちと奈良に遊びにいったはいいが、二人とも酒に酔っぱらってしまった。東大寺の大仏に参詣している善男善女が恭々しく手を合わせて顔をあげると大仏さまの掌の上でアア、コリャ、コリャとおどりだしているのである。知らせをうけた巡査が大急ぎで駆けつけ、この酔っぱらって大仏さまの掌の上でアラ、エッサッサとおどっている左官屋の某をやっと掴えると、今度は別の方向から仲間の男が這いのぼりおどりだしたというから始末がわるい。結局、この二人は奈良警察署でお説教をうけたと新聞に書いてある。もちろん、東大寺にしてみれば、大仏さまの掌まで這いのぼり、その掌の上でアラ、コラサ、サッサとおどるような男は不謹慎にして迷惑な存在にちがいない。にも拘わらず、私はなんだかこの二人に親しみを感じ、肩でも叩いて「おっさん、オモろい奴っちゃなあ」そう言ってやりたい気持ちにかられる。(「狐狸庵閑話」 遠藤周作) 


悪性
「悪性」という言葉の説明は、「悪人のみをさして言(いう)詞(ことば)にあらず。当道にてもいたづらなる者をいふ。悪性と題する歌 風呂相撲芝居兵法男だて しゃみそばきりにばくち大酒 此歌にて此心をしるべし」という具合である。残念ながら、わたしにはこの歌の意がよく理解できない。(「江戸時代稀才事典」 祖田浩一編) 畠山箕山の著書で、奇書と呼ばれる「色道大鑑(おおかがみ)」にあるそうです。 


川柳の酒句(20)
上下(かみしも)のせなかをさする礼の供(年賀で飲みすぎて吐く主人の背中をさする供の者)
赤いかと門を出い出い供に聞き(顔に出ているか確認)
顔のないやつが盃のみはじめ(現代の角かくしと違って顔がほとんど見えないほど)
盃のたんびに綿をつまみあげ(深くかぶった綿帽子、三三九度の時)
渡辺は酒宴なかばへさげて来る(四天王の一人渡辺綱が羅生門に出た鬼の腕を持って来る)(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編) 


慶州法酒
当時ポピュラーだったのはマッカリと焼酎。しかし洗練さには遠かった。酒は食文化の一つの柱であり、ひいては受難の歴史を経てきた民族のアイデンティティーにもかかわる。「わが国酒を開発せよ」大統領は、特命を発した。「国税庁の職員が、文献をあさったり、各地に伝わっている酒を調べたり苦労があったようです。こうしてできたのがこの会社。当時、国の技術者から指示された製法で造っています」新羅時代の古都、慶州市(慶尚北道)。この町の郊外に一九七二年設立された。「慶州法酒(キョンジュポプチュ)」で、金万煥工務課長(四八)が説明する。特命によって開発された酒は「法酒」だった。「法酒」自体は、各種の文献に「百日かかって醸す」などと記録に残る。また慶州の校洞(キョドン)(洞は村の意味)には、私的に造り継がれていた「校洞法酒」があることも分かった。そうしたものを土台にしてできたのが、新しい法酒だ。日本の感覚からすれば、純米薬酒といったところだろうか。原料は米七割に、もち米三割。麹は伝統的なヌルを使う。普通の清酒と同じ三段仕込み。最後に強壮作用のあるクコなどを添加する。設備は、日本から新鋭の醸造機械を導入し、近代的な生産体制を整えている。できた酒は、薄い色がつき、生薬の香りがする。「政府の後押しもあって、ずいぶん売れました。ソウルオリンピックで、韓国の酒としてすっかり有名になりました」日本でも、韓国土産として時折見かける。現在の生産量は三千百`g。初年度の十倍だ。慶州法酒の誕生は、伝統酒の見直し機運につながっていく。「総督府(植民地)時代、酒造りが禁じられて多くの酒が消えてしまった。しかし地方に埋もれている酒もあるはず、と全国調査した」と日本の文部省に当たる文化体育部の文化財管理局。オリンピックを前にした一九八五年のことだ。その結果、八六年に三つの伝統酒が国の重要無形文化財に指定される。ソウルの「梨花酒」、( )川(ミョンチョン)の「杜鵑酒」、そして先の「校洞法酒」である。(「海のかなたに蔵元があった」 石田信夫) '97年出版の本です。 法酒 高麗史による清酒と法酒  


髪切(かみきり)
貧乏人の女房には惜しき貞女なものにて「おらが亭主は飯より酒が好きだに、それを買ふ銭がないとはよくよく貧乏な事だ。どうぞ買うて進ぜたいもの」と試案をして、かもじ屋へ髪をきつて売り、その銭で酒を買い、亭主にのませれば、悦び「これはどふして買つた」と問へば「わしが髪を切つて売り、その銭で買ひました」「手前は亭主思ひの心ざし、死んでも忘れぬ。どれ、どのよふに切つた。見せやれ」と見て「よしよし、まだ明日の分ほど残つてある」(さとすゞめ・安永六)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


ザハラ・キウト
戦前の話だが、コーカサスのアブカシアというところに、ザハラ・キウトという老人が住んでいた。大へんな酒好きだが、一九三五年にある人が、「いつごろから酒を飲みはじめたか」と聞くと「一八○三年ごろからだ」という。一三○年あまりも酒を飲んでいたことになる。いろいろのことから総合して、彼の生まれは一七八二年、一九三五年では一五三ということになる。もっとも、人間長生きだけがしあわせとはかぎらぬが、毎年すこしずつでも寿命ののびるのはやはり喜ばしいというべきであろう。(「奇談千夜一夜」 庄司浅水編著) 酒を飲まない長生きの老人を訪ねて、長生きの秘訣を聞いていたところ、隣の部屋が騒がしくなった。そのわけをきいたところ、その老人の飲んだくれの兄が酔っぱらって帰ってきたのだという返事がかえってきたという、小咄がありましたね。 


甘エビに一番美味しい酒
『高砂』の金谷芳久さんがおもしろいことをいっていた。「最近、友だちにいわれたんです。『おまえのところで、甘エビにいちばん美味しい酒をつくれ』って。『石川の甘エビだぞ、新潟の甘エビじゃないぞ』って。うれしかったですね。そんなことをいうやつがいるのかと。それで、ああ、われわれ造り酒屋というのは、そういうふうにものを考えてこなかったと思ったんですよね。ことしは金賞に入ったとか、入らなかったとか。ほんらい、酒と肴と風土というのは、切りはなせないんですよね。この料理にはこの酒というのがあってもいいと思うんですよ」(「自然流『日本酒』読本」 福田克彦・北井一夫) 「高砂」は石川県白山市・金谷酒造店の清酒だそうです。 


五月七日(日
流山の帝国清酒会社へ、慰問に行く。実は、御馳走とおみやげが目的なり。満員電車から、ガソリンカア、流山着十一時すぎ。工場を見学。合成酒のにおい、プーンと芋のにおいなり。はじめて合成酒を飲む。何(ど)うも芋くさくて、弱った。演芸の前に昼食、親子丼一つ。おやおや、こんなことで、おしまいかなと一行の人々と顔見合わせる。と、引続き、しること甘酒が出て、ごきげんのところへ、社長が、ハイと無造作に、サントリー七年二本呉(く)れたので、又すっかり喜ぶ。演芸を了(おわ)って、食堂で、社長や警察署長等と会食。豚を一匹潰(つぶ)しました、とて、ふんだんに豚肉が出る。お手のものの合成酒、ビール、なおし等、チャンポンにやり、いい加減酔っぱらって、でも、欲張りなもので、ふらつく足で、酒に野菜に水飴等、皆々リュックに詰めて、持ち帰る。(「ロッパの悲食記」 古川緑波) 昭和十九年です。 


どうしても飲めない
ある朝、食事の前に一杯どうかと勧められたトウェイン、飲みたいのはやまやまだが、どうしても飲めないのだと言って、次の三つの理由をあげた。
1 自分は禁酒論者なのだということ
2 朝食の前には飲んだことがないこと
3 すでにもう四杯も、飲んでしまったこと(「また・ちょっと面白い話」 マーク・トウェイン) 


イマイミキ
ガタンゴトン、ガタンゴトン…    荒川はもうこえたのだろうか。   眼をあけると、変なヤツがいた。
がらがらの終電車だ、なにも、よりによって、オレの真向かいに座ることはないじゃないか、とおもった。
しんきくさいヤツだった。   そいつが酔っていることはひとめでわかった。自堕落に、眼がすわっている。
気にくわない眼だった。   吐きそうだった。   オレは眼をとして、イ・マ・イ・ミ・キについておもった。
イマイミキの、笑顔をおもった。   イマイミキのように生きよう、とおもった。   それがせいいっぱいだった。
眼をあけた。   そいつは、笑っていた。   イマイミキを演(や)っていた。
バーカ、と言ってやったら、そいつも、   バーカと言った。   そいつは、ガラスに映った、オレだった。(「とっておきのいい話 イマイミキ」 市川準) 


東鶴
現在、県下には五十軒ばかりの銘柄の蔵元が操業していて、そこでの醸造石数はほぼ十万石余。そのうち四割程度が、地元の消費となっている。また、県下酒造家の統一銘柄に「東鶴(あずまづる)」というのがある。この銘柄の会社は、灘の西宮の地に本社を置き、その会社の構成は佐賀県酒造組合員の八十九人の出資によって、昭和三十二年にスタートしたものである。ここでは、佐賀で造られた酒を、灘に再出荷しようというわけであり、つまり看板は灘ものとなっていても、中身は佐賀酒のつめ合わせという次第である。佐賀酒も、戦争中までは遠く朝鮮、満州の方まで出荷していたものが、その販路をとざされた戦後は、佐賀県下においてさえ、灘や伏見など、全国的に名の売れた酒が大いに幅をきかすようになった。そのために、佐賀酒の看板をぬりかえた方が営業方針としては得策とふんだようであるが、佐賀酒のプライドを捨てたやりかたにはあまり感心できない。(「酒まんだら」 山本祥一朗) 「県下」の県とは、佐賀県です。多分、この頃、国税庁による共同出荷の指導があったのでしょう。共同出荷の会社はいくつかありますが、灘に本社を置いたのは多分、佐賀だけなのでしょう。 


脱帽
「脱帽」とは南北朝時代の阮孚の故事に本づいたものらしい。阮孚は酒好きで頭が禿げてゐたので、或時周の文帝が戯れに酒瓶十個に帽子をかぶせておいて彼をからかはうとしたところが、(彼の恰好に似せたのである)彼は部屋に入るなり之を見て「おゝ兄弟分、失礼千万、どうして御所なんか這入りこんだのだ、早く宅へ還へれ還へれ」と云つて酒瓶を皆持帰つたので、帝も手を打つて大笑ひしたと云ふ。(「酒中録」 青木正児) 


酒の肴にもってこい
「先生は漬け物がお好きだそうですから、敦煌の祁連(きれん)山地区にある独特の漬け物をご紹介しましょう」と常書鴻老人が言った。誰に聞いたか知らないが、わたしの嗜好をよく知っている。彼は画学生としてパリに留学したのだが、最も中国的な大人だ。だからこそ敦煌に三十年以上も住みついて敦煌千仏洞の再生の功労者になったのだろう。常老の教えてくれた漬け物は、「西瓜韮菜(シーグワジュウツァイ)せある。西瓜を横二つに割って、紅い、美味い部分は食べてしまってよろしい。紅い部分をきれいに取り除いて、そこへ適当に塩した韮(にら)を入れ、両半分をぴったり合わせて土中に埋める。西瓜と韮の最盛期は、八、九月だから、冬に取り出して、口に入れるまでは、四カ月ぐらいかかる。「冬の来るのが待ち遠しいんですよ」と常老が舌なめずりする。「塩味と、西瓜の香りがしっくりと溶け合って、美味いですよ。酒の肴にももってこいです」(「中国グルメ紀行」 西園寺公一) 


日本でのアルコール中毒の発生
「家で毎日晩酌するという生活は、江戸時代では庶民のものではなかった。それでは、庶民は、まだアルコール中毒にはなれない」分かったとNさんはうなずいた。「これで、アルコール中毒が、比較的新しい病気だということがわかってきましたか」とぼくはいった。「考えてみりゃそうですよね。江戸時代、権力者たちは、農民には酒を飲ますまいとしていたんだ。そして農民は旅行の自由もなかったから、町に出て、酒屋で酒を飲むこともなかった。今になって思い出しましたが、日本の古代では酒造りは朝廷と、神社などの、つまり祭祀として必要とするものの専売だったんですね。庶民にはそこから下がって来るものだった。つまりお神酒だったんだ」「その時代には、もちろんアルコール中毒などというものはなかった。アルコール中毒が生まれるのは、急速に酒の商品化が進んでからですね。日本では、酒の専売制度がしかれた明治以降とみています」(「アルコール問答」 なだいなだ」) 


おちょこ一ぱい百円
ミニチュア農園で思い出したが、下宿部屋の床の間とは所変わって、衆人環視の上野の美術館の真っ只中にミニチュア食堂というのを開業した人がいる。これは中野夏之さんという画家である。時は一九六三年三月、場所は上野美術館読売アンデパンダン展(最終回)会場。どういうお店か、ここの当人の証言があるので聞いてみよう。「中西 (前略)…で、その『ミニチュア食堂』というのはどういうのかといいますと、おもちゃの食器を買ってきまして、その食器にカレーライスを盛る、あるいは、おにぎり、みそしる、魚のフライ、目玉焼きなどをつくって町で販売されている値段と同じ値段ですね。ですからおちょこ一ぱい百円、四センチぐらいの大きさのわかさぎの魚フライが百五十円、目玉焼が七十円、というメニューを作ってアンデパンダン展の会場で売りました。 杉本(弁護人) そのカレーライスとか目玉焼というのもおもちゃですか。 中西 それは本物です。目玉焼はうずらのたまごであり、小さな魚はわかさぎであるということです。それから、いかの場合はほたるいかとか、ことさら小さなものを集めたように記憶しています。それでバックグランドミュージックは刀根康尚が作曲しまして、それは、そしゃくしている音、料理しているときの音をテープにとって、それを増幅器にかけて、せいいっぱい拡大しました。」(「千円札裁判における中西夏之証言録」)(「食物漫遊記」 種村季弘) 


おく手の反抗期
ぼくが、わが酒神と遭遇するのは、昭和十五年の春あたりからで、下町の商業学校時代のクラスメートの小悪魔的誘導によって、ぼくよりも三、四年上の大学生たちの詩的世界に没入することになる。詩の世界は、とりもなおさず酒神の世界だから、大学生たちのあとについて、新宿の居酒屋やバー(当時はスタンドと云っていた)をハシゴし、第一次大戦後のヨーロッパの文学と芸術運動について耳学問し、シュルレアリストの名前をおぼえる要領で、ヨーロッパの酒のラベルをおぼえ、ぼくはわが生家の日本酒的環境から脱出するために、小遣のつづくかぎりスコッチを飲んだ。新宿のどんな小さなバーでも、ウイスキーといえばスコッチのことで、たいてい、ヘイグ・アンド・ヘイグか、オールド・パーで、金に困ったときはアブサンかジンを愛用した。当時の僕としては、日本酒でさえなければ、どんな酒でもよかった。たぶん、祖父や父や、戦時体制へ急速に移行しつつあった日本社会への、おく手の反抗期だったのだろう。太平洋戦争前夜。(「ウイスキーに関する仮説」 田村隆一) 


スナック・白樺とスナック・M
<スナック・白樺>・思想的純化 ・政治的上昇 ・革命的行動 ・ウィスキーによる透徹した酩酊 ・「ファイン・アート」としてのロック・ミュージック  
<スナック・M>・肉体的混沌 ・風俗的下降 ・暴動的うごめき ・日本酒による泥酔 ・「大衆芸能」としての演歌・軍歌
 つまり、ひとことでいえば、<スナック・白樺>が「超俗的な上品への形而上的憧憬」をもって、すべての既存の権力や権威に抵抗する術(すべ)をこころえていたのに対して、<スナック・M>は「通俗的で柄のわるい格調への形而下的同化」をもって、おなじ志を表現しようとしたのであった。だから、飲み人たちは、みずからの反権力性や反権威性を、革命の歴史をめぐる知的な会話や、反逆的なロック・ミュージシャンがつくりだすサウンドへの陶酔によってカタルシスしたいと思える夜には<スナック・白樺>に足をはこんだ。そして、それは、ひとつには<スナック・白樺>のマダムが、柄の悪い猥談や泥酔後の無意味な愚行や蛮行の自慢ばなしをあからさまに軽蔑する高潔な人柄の持ち主であったからであろうとおもわれる。それに対して、飲み人たちが<スナック・M>にやってくるのは、たとえば、女との自堕落な遊びやギャンブルに負けてのうらぶれや演歌をうたってのバカさわぎ、などといった無秩序の混沌にみずからをひたらせることによって、存在としての反権力、反権威そのものに同化しているという幻想を持ちたいと思えるときであった。(「酒場の社会学」 高田公理) スナック・Mが、著者の経営した店だそうです。 


ギリシャ人とワイン
私たちの観点からいえば、長生きしたアレキサンダーという想念の主な興味は、ワイン帝国が、エジプトからインド、南ロシアまで広がったかもしれない可能性である。BC六世紀において早くも、ギリシャ人は地中海地方の大きなワイン商人になっていた。エジプトでさえ、そのワインを彼らから買っていた。ペルシャは自身の酒を持っていたが(すでに記したように、伝説的なワインの発明者ジャムシッド王はペルシャ人であった。)、ペルシャ人は、ブドウ栽培の点においてギリシャ人の優秀さを持っていなかった。ビールが彼らの国民的飲料になっていた。(実際には、伝説ではディオニソスはペルシャに発祥したのだが、原住民がビールを好んだために、彼は不愉快になってペルシャを立ち去ったのだ、とされている)。ペルシャ人は飲むとなると酔いつぶれるまで飲んだ。(ヘロドトスは、あらゆる重要な決定は飲んだときに行ない、翌日素面(したふ)のときに、これを検討するという、ペルシャの面白い習慣を記している。)ギリシャ人はブドウの樹を育てたり、刈り込んだりして、ワイン造りの技術をあみだした。一方、ペルシャ人はブドウの木を刈りこまずにおいた。つまり彼らの一般的態度は、ワインの効力があるかぎり、その味には、いかなる注意も払わないということである。(「わが酒の讃歌」 コリン・ウィルソン) 


天竺の留志長者
おのれ、物のほしければ、人にも見せず、隠して食ふ程に、物のあかず多くほしかりければ、妻にいふやう、「飯(いひ)、酒、くだ物どもなど、おほらかに(たっぷりと)してたべ。我につきて物惜しまする慳貪(けんどん けちで欲張り)の神まつらん」といへば、「物惜しむ心、うしなはんとする、よき事」と喜びて、色色に調じて、おほらかに取らせければ、うけとりて、「人も見ざらん所に行て、よく食はん」と思て、外居(ほかい 食物を入れて運ぶ容器)に入れ、瓶子(へいじ)に酒入(いれ)などして持ちて出(いで)ぬ。「此木のもとには烏あり」「かしこには雀あり」など選(え)りて、人離れたる山の中を木の陰に鳥獣もなき所にて、ひとり食ゐたる心のたのしさ、物に似ずして、誦(ずん)ずるやう、「今曠野中(こんくわうやちゆう)、食飯(じきはん)飲酒(おんじゅ)大安楽、猶過(ゆうくわ)毘沙門天、勝(しよう)天帝釈」。此心は「今日、人なき所に一人ゐて、物を食ひ、酒を飲む。安楽なる事、毘沙門、帝釈にもまさりたり」といひけるを、帝釈、きと御覧じてけり。にくしとおぼしけるにや、留志(るし)長者が形に化(け)し給て、彼(かの)家におわしまして、「我、山にて、物惜しむ神をまつりたるしるしにや。その神離れて、物の惜しからねば、かくするぞ」とて、蔵どもをあけさせて、妻子を初て、従者ども、それならぬよその人共、修行者、乞食(こつじき)にいたるまで、宝物どもを取出して、配り取らせければ、みなみな悦て、分(わけ)とりける程にぞ、まことの長者は帰りたる。(「宇治拾遺物語 留志長者事」) けちん坊の長者が、帝釈天の怒りを買い、宝物を失うが、それをきっかけに信仰を得たという説話です。 


厳瓮(いつべ)
神武天皇が神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)といわれていたころ、九州から東征して、国々を平定しながら、紀伊から大和に入ったが、宇陀の高倉山の頂上からながめると、士族のかためがきびしくて、これを征服するのはなかなかのことと思われた。ところが、ある夜の夢で、香具山(かぐやま)の土をもって平瓮(ひらか 平たい土器)と厳瓮(いつべ かめ・つぼ)を作って、天地の神をまつれ、という神のお告げをうけた。さっそくこれを作って、丹生(にぶ)の川上で、「いまわたくしは厳瓮を川に沈める。わたくしがもしこの国を治めるという大業をなしとげることができるのだったら、この川にすむ魚はことごとく、あたかも まき の葉の流れるように、酔うてうかべ」といのって、そのかめの口を下向きにして沈めたところ、川の魚が、大きいのも小さいのも、みな浮かんできた。命(みこと)はこの吉兆をよろこばれて、軍を進め、八十梟帥(やそたける)らを平らげて、大和の畝傍山(うねびやま)の橿原宮(かしわらのみや)で即位された。このとき浮き上がった魚は、旧暦九月のことだから、おもにアユだったろうと考えられる。(「アルの話」 宮地伝三郎) 


芝鶴の説
中村芝鶴(しかく)という歌舞伎俳優、現代の名優の一人。明治三十三(一九○○)年、先代芝鶴の子として生まれ、大正八(一九一九})年早くも二代目芝鶴を襲名して、名題俳優に昇進した。一方では、小山内薫に認められて、当時の新しい演劇を主唱した二世市川左団次の一座に加わり、岡本綺堂の「修善寺物語」やシェークスピアの「オセロ」、ゴーリキーの「夜の宿(どん底)」等々出演した近代的女形でもある。この中村芝鶴、なかなか筆も弁も立つ人で、大学の演劇科の先生もしたし、『役者の世界』(木耳社)という本も出した。『役者の世界』は、むかし先代の尾上梅幸に『梅の下風』の名著があったが、それ以来の歌舞伎名優ならではの好著。その中に「酒」の章があって、いろいろと教えられる。たとえば、「酒好きを”左きき””左上戸”ということについて、私は不審を持っていました。酒盃は右手に持って飲むのに何故左ききというか」という疑問を提出し、その答として、「盃を左に持って呑むのは、酌をする者が傍らに付いていない庶民階級を指していた」と記している。つまり、手酌だから左ききにならざるを得ないというわけ。(「酒・千夜一夜」 稲垣真美)  左(2) 


「秋刀魚の味」
先生は、お酒が大好きでした。小津作品に、お酒を飲む場面がしょっちゅう出てくるのも、そのせいです。『秋刀魚の味』など、あれほど毎日毎日、昼間っから酒を飲んでいたんでは、仕事なんかできんだろうと思えるぐらいです。先生の映画は、外国でもよくよく上映されますが、『秋刀魚の味』を見たアメリカのアル中の人が、「日本では、あんなに酒を飲んでいても文句を言われないのか。俺も日本に行きたい」と言ったという話を聞いたことがあります。麦茶を飲んで酔っ払いを演技していた僕は、根っからの下戸。ビールならコップ一杯、お酒ならオチョコ半分で、カーッと頭に血が昇り、真っ赤っかになってしまうほどです。(「大船日記」 笠智衆) 


上野の花見(2)
上野の桜は一説に林羅山の建言によって植えられたという。吉野山を模して山の上としたとでは咲く花の種類もちがえて咲く時期に遅速のあるように取り図ったといわれている。しかし宮家が門主である関係上取締りは厳重になり、花に浮かれて狂態を演じることは許されなかった。夜桜はいっさい許されず、暮六ツが限度であった。 入相の桜縄目を許される 真っ黒(黒門)に桜の口をしめるなり 暮六ツで幔幕がおろされ、花見の終わりとなる。上野の黒門もピタリと閉められる。 上戸をつれて気づかいな花を見る 飲まぬ奴一日拝む花の山 といった静かな花見風景だった。(「江戸風物詩」 川崎房五郎) 上野の花見  


「みそっかす」
父は酒を飲んだ。一人でも飲み客とも飲んだ。酔えば荒れて人にからむのが癖であった。私たちにもしつこかった。機嫌よく酔っているときは話を聞かせてくれるにしても、浮きたつようなおもしろさであった。そのおもしろさが遂におわりまで続いたことがなかった。ひきこまれて夢中になっているうちに泣かなくては納まらないような羽目にさせられてしまう。だから用心するような怖じた心になって、子供ながらおもしろがりつつも逃げ腰ある。いくらどうしたってだめである。終生父に酒はつきものであったが、考えれば私も飲む父の姿をどのくらい見てきたことか。一生を通じてこの頃が一番荒れた酒の時代である。子供だったからもあるが、私の父に対する恐怖は染みついている。それもその場限りの、からっとした、一気に来るものではなく、逃げても追いつめられ、最後にがんとやられてしまう。いわば道中の長い、殺気だった恐怖であった。父とななが一番凄く摩擦しあった時代のせいでもあろう。ははは私の記憶では、かつて快く酒の給仕をしたことがない。しかめっ面と軽侮の色を遠慮なく見せている。(「みそっかす」 幸田文) 幸田露伴が再婚した頃のことだそうです。 


為永春水
春水は、不平不満だった。読者のある者も、また不平不満だった。特種の絵や、特種の活動写真が、現代社会の裏に流布すると同じに、絶版以後の春水ものは、さらに愛読者の熱をたかめて、秘密裡に需要された。絶版後もやはり『梅暦』が、もっとも多く読まれた。しかしこの秘密出版は命がけの冒険だった。春水は毎日大酒にひたり、翌十四年十二月二十三日、五十四歳を一期として、酒に倒れた。彼は死んだが、『梅暦』は永く残って丹次郎の感化は、ますます下宿の書生の心を腐らした。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 為永春水は、はじめ貸本屋を業とした町人で、その著作『春色梅暦』は水野忠邦による天保の改革の対象の一つとなり、手鎖の刑に処されたそうです。丹次郎は『春色梅暦』の主人公、また、「五月雨や心腐らす梅暦」という句があるのだそうです。 


鯰で酒を呑む
地震が地底の鯰(なまず)に原因するという信仰は、古くから民衆の間にあり、鹿島神社の要石(かなめいし)によって鎮めてもらうのが常であった。このため仙果の記しているように、鹿島の神を拝する図と大鯰を攻める図が人気を集め、いわゆる鯰絵が多数出版された。また地震は社会変革を期待する民衆の「世直し」観とも深く結びついていた。(宮田登「世直し」とミロク信仰」『民俗学研究』三三−一)。実際に、当時の不景気な状況下では、災害にともなう救済と復興による景気上昇が町人たちに期待されていたのである。
 職人が なまずでうまく 酒を呑(のみ)
という建築ブームを生じている。貧困な庶民たちにとっての「世直し」の契機として、安政の地震も落首の恰好の材料となった。(「江戸の情報屋」 吉原健一郎) 


樋の酒
▲主 太郎冠者、次郎冠者、留守に置いてござる。この度は酒を飲まぬ様に、別々に致しておいた。いつもとは違い、留守をして居るでござらう。まづ帰らうと存ずる。これは如何な事。壁に穴をあけて、あれからこれへ、これは何ぢや。扨も扨も、何ともならぬ奴の。樋(ひ)を仕掛けて、酒を飲みをつたと見えた。太郎冠者、次郎冠者、どちへうせた。これは扨、ふせつて居るか。次郎冠者めも、正体もなう酔うて、ふせり居つた。おのれ何とせう。横着者。やい、起上がらぬか起上がらぬか。 ▲いやいや、もはやたべまい。 ▲主 たべまいとは、身共ぢやが。 ▲次 頼うだ人か。許させられ。 ▲主 やるまいぞやるまいぞ。やあ、おのれ、まだふせつて居るか。悪(にく)い奴の。起きをらぬか起きをらぬか。 ▲シテ あゝ、酔うたわ、酔うたわ。もそつと謡はう。ざゝんざあ。 ▲主 やあ、おのれ、まだ、ざゝんざあ。憎い奴の。何とせうぞ。 ▲シテ 頼うだお方、お許されませ。あゝ悲しや。今から飲みますまい飲みますまい。 ▲主 何の、飲むまい やるまいぞやるまいぞ。 ▲シテ 許させられ許させられ。(「狂言記 樋の酒」) 飲まないように別々の部屋に離された二人、壁の穴を通す樋を使って酒を流して飲み合ったという話です。 


目出度いときは冷や
「いよ、いよ、今年から無鑑査だからな」とか「出展した(踊り)が評判がいいんだそうだ」とか「三井コレクションが買うってえ話もあるそうだ。めでたし、めでたし」などと口にして至極機嫌がいい。食卓を前にして、おやじは「目出度(めでた)いときは日本酒も冷やに限る。ふき、一升びん、まんま持って来い」と機嫌のよさを脹(ふく)らませた。おやじは「お香々(こうこ)を持って来い」と言っては茶碗に自分で注いだ酒を飲んだ。おやじが嬉しがるのは良いけれど、此んなにだらしなく酒を呑んでいるのを見たことがないから、おふくろも僕も呆気(あっけ)にとられて口が利けなかった。(「続 そよ風 ときには つむじ風」 池辺良) 池部良のおとうさんは池部鈞(ひとし)という洋画家だったそうです。 


【するすると】
金を得てビルを出でしが 四五分の後するすると飲み屋に在りつ (吉野秀雄「吉野秀雄歌集」)
するすると
@ものごとが滞りなく進行する様子。 Aなめらかに、すべる様子。
解説とウンチク 「金を得てビルを出でしが」とあるが、定期的な収入や余裕のある金ではないことは容易に想像できる。多分、金策の結果、なんとか手に入れた金だろう。ところが、金を得た建物から出て四、五分後には「するする」と飲み屋に闖入しているという寸法である。貧乏は当人にとっては深刻でつらいもののはずだが、そこにえも言われぬ人生のペーソスとユーモアがただようこともある。作者の吉野秀雄もまた、貧乏話には事欠かぬ人生を送った。しかし、天衣無縫、あくまで純粋な生き方を送り、そこから生まれる歌もまた、虚飾のない、人の心に素直に伝わるものとなった。他に 原稿が百一枚となる途端我は麦酒を喇叭飲みにす という歌もあり、これもまた、なにげない、文士の生活の一瞬をとらえた歌でありながら、どこかに生への感謝、生きていることの讃歌の気持が伝わってくるような気配がある。(「酒のよろこび」ことば辞典) TaKaRa酒生活文化研究所) 


松平容保
容保(かたもり)は腺病質だった。だが、飲まなかったわけではない。新選組が、将軍・家茂を招待した。容保は実兄の尾張康勝や慶喜といっしょに列席した。御学問所での本番にも、つき合っている。まだ恭順中、仙台の会津シンパが和平の斡旋にやってきた。容保は労を謝して、宴を張った。そのとき、彼は大盃を出した。客はそれを見て、「お気持ちはありがとうござるが、大盃(大敗)は困り申す。小戔(しょうさん、勝算)にて頂戴いたしたい」しゃれをいったと伝えられる。土方歳三が入城したときにも、容保は歓迎会を開いている。大鳥圭介も、「兵隊へは酒肴料を贈られたり。全軍士官感泣せり」酒を飲むのは当然、人を酒でもてなすのも当然なのであった。武士道の一部、と評してよいのではないか。(「幕末酒徒列伝」 村島健一) 


小忠は大忠の賊
【意味】主君の目先のきげんをうかがって忠義立てをするのは、大局から見て不忠になる。荊(けい)の「龍共」王(きょうおう)と晋の詞(れいこう)とが戦った時、荊の軍は敗れ「龍共」王は負傷した。この戦に当たって、荊の大将司馬子反が水を飲もうとすると、家来が酒を持って来た。子反は水にかえさせようとしたが、くり返し酒を出すので子反はついに飲んだ。一口飲むと酒好きな子反はやめる事ができず酔って戦わなかった。「龍共」王がさらに一戦をしようと思って子反を召したが、病気だといって出て来ない。王がみずから行って見ると、子反の幕舎は酒の臭いがぷんぷんしていた。王はとうてい頼みにならぬことをさとって兵を引き上げて、子反をきった。家来が子反につまらぬ忠義立てをしたのがかえって大不忠になったという故事で、この話は呂氏春秋・韓非子などにあげてある。(「故事ことわざ辞典」 鈴木・広田編) 


月下独酌 其の二
天若不愛酒(天モシ酒ヲ愛セズンバ、)(天がもし酒を好まなければ)
酒星不在天(酒星天ニ在ラズ。)(酒星は天に在るまい)
地若不愛酒(地モシ酒ヲ愛セズンバ、)(地がもし酒を好まなければ)
地應無酒泉(地応ニ酒泉無カルベシ。)(地に酒泉は無いはず)
天地既愛酒(天地スデニ酒を愛ス。)(天地が酒を好む以上は)
愛酒不「女鬼」天(酒ヲ愛シ天ニハジズ。)(酒を好むは天に愧じない)
已聞清比聖(スデニ聞ク、清ハ聖ニナラビ、)(むかし清酒を賢人に喩えたという)
復道濁如賢(マタ道ウ、濁ハ賢ノゴトシ。)
聖賢既已飲(聖賢モスデニ飲ム、)(賢人聖人併せ飲む以上は)
何必求神仙(ナンゾ必ズシモ神仙ヲ求メン。)(何も神仙を求める必要はない)
三盃通大道(三盃、大道ニ通ジ、)(三盃で大道に通暁し)
一斗合自然(一斗、自然ニ合ス。)(一斗で自然と合体する)
但得酒中趣(タダ酒中ノ趣ヲ得ルモ、)(ただ酒中の興趣を解すればよい)
勿為醒者傳(醒者ニ伝ウルナカレ。)(醒者げこに言って聞かせないことだ)(「中国酒食春秋」 尾崎秀樹) 赤字の所は、「聖賢というのは、魏の曹操が禁酒令を出したとき、人々がひそかに暗号を用い、濁酒を賢人と称し、清酒を聖人とした故事」をいっているのだそうです。 


酒の砂漉(すなこし)
灰で清酒を造ったとともに、濁酒を砂で漉して清酒にしていたようである。『卯花園漫録(ぼうかえんまんろく)』(石上宣続(のぶつぐ)著、文化文政の頃の随筆)に次のような記事がある。 酒を砂ごしする事は、酒の味わひを軽くして飲まんためなり。酒によって気のつよきあり。それを知りてこすべし。何印の酒は殊の外重きにより、砂の厚み一寸通したる時はいまだ重し。依(よっ)て三寸にいたしこすべし。全体薄き酒ならば、またその加減あるべし。何酒にても能(よ)くその酒を利酒(ききざけ)いたし、そのうへにて砂の分量をはからひしこす事なり。その心得なく砂あつきが能しとのみ心得、または羽二重(はぶたえ)絹二十遍ごし三十遍ごしと、兎角(とかく)数遍ことのみ能き事としてこす時は、水を呑むも同じ事なり(この記事は酒も漉し過ぎると水の如くなることをいっている)。(「日本酒のフォークロア」 川口謙三) ろ過砂  


「どぶろくの記」
”ほんに東京の奥さんが、いとしげに、こないな重いものをしょっていきなんすだか。まあ、このものを一ぱい飲んでつかんせえな。荷も軽うになりますけえ。” 綿入れに着ぶくれたその家のおばばさまが、茶のみ茶わんについでくれたのは、ご飯つぶの浮いて、とろりと白いどぶろくであった。香気も高く、口にふくむとほろ苦く、舌の先からしみわたる刺激のこころよさがあって、甘酒の辛いのかしらと思いながら、甘酒よりきつい味だと思いながら、私は、一ぱいの番茶をすする速度で、飲み干してしまった。おいしくて、うああと溜息がでた。おばばさまは機げんよく、”おうおう、よく飲んでつかんしたなあ。” と目を細めた。麹からはじめて、新米をふかして自分のつくったどぶろくが、それほどまでにおいしがって飲んでくれてうれしいと言う。もう一ぱい、また一ぱいと瓶からしゃくいあげてすすめられ、何ばい飲んだのだろうか。大丼に一ぱいも飲んだような気がするのだが、帰りの道の駅まで遠いことを考えて、私は飲みだめをするのと同じつもりであったらしい。どのくらい出したか、額は覚えていないけれど、たしかに、そのお代は無理においたようである。それで、なお一ぱいついでもらったのであったと思う。おばばさまはお代を見てたいそうよろこんだ。嫁や息子に内緒の小づかいができたのである。そのどぶろくは、おそらくおばばさまの飲みしろであったのかとも思う。酔ったと気づいたのは、その家を出てすぐ雪の畦道であった。熱風がからだの中を下から上にふき上がってくるようで、息も苦しく、道ばたにかがんで動けなくなった。下ろしたリュックにすがって雪の上にすわると、たとえようもなくその冷たさがいい気もちだった。ひとりでに横伏せの形になり、顔ごと、雪にふれていると、この世にこれほどの幸福な場所はない思いになった。(「どぶろくの記」 田中澄江) 


造酒司の発行した木簡
           若湯坐少鎌
 造酒司符 長等犬甘名事
           日置薬
 直者言従給状知必番日向□(参カ)
右の木簡は、政府の醸造所であった造酒司が、技術者の長を呼び出したもので、「符」という命令書の形をとっている。呼び出しの対象となったのは、若湯坐少鎌・犬甘名事・日置薬の三名である。命令どおり、勤務に当たっている日には必ず出頭せよ、とある。この木簡は、出頭した役人が役所まで持参したらしく、平城宮の造酒司跡から見つかった。(「木簡が語る日本の古代」 東野治之) 

お見舞い
次の日、とるものもとりあえず、私は病院に見舞いに出かけた。檀さんの病室を聞き、おそるおそる階段をあがった私は、ひっそりとした陰鬱な病室風景を想像していた。ところが、檀さんの部屋の扉ををあけて来意をつげると、「どうぞ」といって、すぐに中へ通された。そこには檀さんの九州時代からの親友である東映の坪井與さんやビデオホールの水田三郎さんらがわいわいいって、酒杯を傾けていた。檀さんはあお仰けに寝たままの姿で私に会い、「小説は一部と二部と読みましたよ。もう出版社には話をつけましたから、このつぎきたときにここでひきあわせましょう」私は症状を聞き、あまり長くお邪魔していると身体にさわるといけないと思ったので、すぐにも辞し去るつもりでいたが、坪井さんたちは私をひきとめ、「檀のやつ、もう少し当りどころがよかったら、今頃、もうお陀仏になっていたところですよ」といいながら、私にも酒をすすめ、相変わらず陽気にはしゃいでいる。なんでも昨夜も、近所からやかましい、と文句をいわれたそうだが、本人たちは平気の平左で、、檀さんの病気を肴に酒杯を重ねているのである。その雰囲気があまりにも普通の人と違っていたので、私はびっくりもしたが文士というものは変わった生き方をする人たちだなあと改めて感心した。(「邱飯店のメニュー」 邱永漢) 


けんずい(硯水・玄水・間水・間食・気師)
硯水は冬季極寒の時に、硯の水の凍るのを防ぐために酒を用いた、中国の故事から酒の異名となりました。『梅園日記』(江戸時代中期)に、「『運歩色葉集』に云ふ、硯水は咸陽宮を作る時、高きに依り硯水凍る、酒を入るれば即ち硯水凍らず、余れる酒は大工之を飲む、今世に伝来して硯水と曰ふなり、とあるによれば、硯水はもと酒をいへるを、うつりて他の食物をも工匠にあたふるは、硯水とよべるならん」とあります。「硯水」は中国秦の咸陽宮新築に時に、楼閣天に聳え、その高き所で作業する大工や左官等が墨縄の硯の水が凍るのを酒を用い、その残りの酒を飲んだ事から起こったとのことです。(「古代の酒と神と宴 十二講」 松尾治) これなどは、こじつけっぽい語源説ですね。間水(けんずい)が、硯水となったということのようです。 


新酒くばりが中止となる
江戸の酒屋では、毎年十月になって、大坂から新酒が入荷すると、早速出入りの屋敷はもちろん、町人の家々にまでも、一升二升、あるいは五合と、もらさずくばるのがしきたりだった。ところが文化五年(一八○八)、新川新堀の酒問屋より、今後は「新酒くばりはやめるように」という触れが出され、長年続いてきた酒くばりの行事も、この年をもって中止になってしまった。(「たべもの江戸史」 永山久夫) 酒問屋 新川大神宮 


チーズ
不意の客が来て、奥さんがワインを出した。奥さんは、あいにくチーズを切らしてしまっていることを、客に謝った。これを傍らで聞いていたウイリー坊やが、そっと部屋をぬけ出し、やがてチーズをひとかけ皿にのせて戻って来た。客は、小さいウイリーの気のつき方を大いにほめ、ありがたくチーズを口に放り込んだ。「なかなか利発な坊やだよ、きみは」と客は言った。「チーズはどこにあったの?」ウイリー坊やは得意満面で答えた。「ねずみ捕りのカゴさ。きのう仕掛けたんだ」(「ポケット・ジョーク」 植松黎編・訳) 


「酒と信仰」
しかるに日本では必ずお寺の入口に「薫ママ酒山門に入るを許さず」の碑が立てられている。支那のお寺には殆どこれを見ない。日本独特のものらしい。ちょうど欧米の耶蘇教国民が何のこだわりもなく酒を楽しんでいるのに、日本のクリスチャンだけが飲酒を邪道かのように批判しているのも、みなこれは、日本の国民的偽善の表徴かとも思われる。これも仏僧の話であるが河陽に釈法常という坊主がいた。性英爽、酷(ハナハ)だ酒を嗜む。寒暑風雨となく常に酔う。酔えば即ち熟寝し、覚むれば即ち朗吟す。曰く「優游たる「麦曲」世界、爛「火曼」たる枕神仙」−
と太平楽を並べていつが、この男もまた禅門の高僧である。(「酒のみで日本代表」 奥村政雄) 日本カーバイトの創設者だそうです。「ニンニクは葷物(フンウー)、すなわちなまぐさである。韮、葱などとともに、五葷(ウーフン)あるいは五辛の一種で、僧侶は食べることを許されない。日本でも、禅宗の寺の山門には「不許葷酒入山門」と掲げられている。」と、西園寺公一の文章にありますから、中国にはそうした碑はないのでしょう。 


芳しき酒
チベットの巡査には大変悪風があって実に困った事があるのです。第一この巡査には極った月給がない。その月給は何から仰ぐかというと市中に貰いに廻るのです。貰いに行くといっても乞食のようにへいこらいって一生懸命頼む訳ではない。大抵、三人連れで町家の門(かど)に立ち大きな声で怒鳴り立てる。その言葉がなかなか面白いです。 百千万の金銀を持たるる方の施しを受くべき者は我らなり。何もなき身の頼みに応じ三万金を惜気なく与うる主(ぬし)は君らなり。茅屋親爺(あばらやおやじ)の三十人に大判三十与えよや。茅屋婆(あばらやばば)の三十人に大判三十与えよや。君は世間を救う主。すべての情を汲み分けて我らの苦患(くげん)を救う主。今日君よりの賜物を、今宵我が家に持ち行きて、飢えたる婆を悦ばせん。欠けたる椀に芳(こうば)しき酒なみなにと注ぎ湛(たた)え、前後知らずに酔い臥して、飲まれぬまでに賜えかし、ラハーキャロー  このラハーキャローという言葉は、善神の勝利を得たという意味です。右の歌のようなものをこつこと何遍か述べ立てて居ると、家内(うち)から金盆(かなぼん)の中に麦焦(むぎこが)しを入れ、そのまん中によい家(うち)なれば銀貨三枚位、悪い家なれば一枚あるいは半分の銀貨を入れて、その糧(かて)の所にカタ(薄絹)の小さいのを一つ添えてあるのです。(「チベット旅行記」 河口慧海)1903年に帰国した際、新聞に連載した口述筆記を底本にしたものだそうで、もちろん昔の話です。 


お酒はぬる燗
日本のトップクラスのソムリエたちが、日本酒造組合中央会と連携して「日本酒サービス研究会」を作りました。「日本酒はわずかの温度差で香りと味わいが極めて複雑、多彩に揺れ動き変化する」「具体的にいえば摂氏十五度を中心に、前後一度つまり十四度と十六度の温度間で著しく香味が変容し、三十五度近辺で香味にまとまりがでる」というのです。このことは三十五度から三十八度までぐらいの人肌のぬるいお燗が、もっともお酒の味を引き立て、よくしているということだと思います。やっぱり「お酒はぬる燗」といいつづけた先人のチエは凄いものでした。(「今宵も美酒を」 佐々木久子) 


井伏と河盛の秘訣
河盛 あなたのお酒にいつも感心するのは、前の晩朝の四時ごろまでのんでられても、十時ごろからちゃんと机に向かわれる。あの秘訣は。
井伏 お湯へはいってね、汗を流すんですよ。昨夜も一人で三時ごろまで飲んでいた。それで今日は朝早くからお湯へはいって、汗を流したんですよ。そうすると二日酔い、さめますよ。それから酒飲むとき、水を飲むんです。それから酢のものね。河盛さんはだいたい適宜まで飲んだら、さっと帰る。
河盛 そうしないと体がもちませんよ。あなたにはいつも叱られるけれど。
井伏 あれは僕にはできないな。あれは一つの芸ですよ。(「井伏鱒二随聞」 河盛好蔵) 


バーの業界用語
86(エイティシックス):酒を出さない客。「あいつら、86にしたわ」品切れにもつかう。「カルーアとストリが86よ」客を永久追放するときもつかえる。「あんた86よ。さっさと失せろ!」
Buy-back(バイバック):無料ドリンクのこと.。通常、常連の三杯目は無料にする。ほとんどのバーがこのやり方を採用している。
Call liquors(コール・リカー):有名ブランドの酒(アブソルート、デュワーズなど)。
Card(カード):客が酒を飲める年齢であるかを確かめること。
Grazing(グレージング):何時間もすわったまま、カウンターに備え付けのスナックを食べたり、ガーニッシュ容器を空にしたりする客。
Walk-out(ヲークアウト):勘定を払わないで逃げた客のこと。
Well liquor(ウェル・リカー):コール・リカーやトップシェルフ・リカーとは逆に、安いまたは無名ブランドの酒。金のない客がよく言ったものだ。「ウェル・ヲッカでマティーニを作ってくれ」(「酒場の奇人たち」 タイ・ウェンゼル) 


甘辛は裏おもて
わたしはいわゆるカラ党の方で、アマ党の菓子を談ずる資格ははなはだとぼしいのだけれど、しかし「茶前酒後」というか「酒前茶後」のどちらでも、酸ツぱいものよりは甘いものゝ方が性に合い、殊に戦争中の不如意からだんだん甘党に接近し、下戸の方から領域を犯すとて抗議を申し込まれるようにさえなつた。そういえばこれまで下戸であったもので、いつの間にか一合位は飲めるようになつたのが、わたしの知る範囲だけでも幾人かはある。戦争中平等に配給されたばかりではない。上戸は不自由な酒によつて、下戸は足りない甘味によつて、体内に欠乏する燃料材(アルコール分)を、不得手なもので互いに補う外なかつたためである。菓子も酒も落つればおなじ谷川の水であり、下戸と上戸と決してカタキ同士ではない。(「荻舟 食談」 本山荻舟) 


江戸時代の酒番付(3)
前頭筆頭はまた伊丹に戻って「伊丹 五川 綛屋(かせや)」。この番付では、綛の字がニンベンになっているが、間違いである。前頭二枚目も同じ綛屋の酒で、輪が三つかさなった酒銘だが、この名前はわからない。前頭三枚目は「同 壺 大和田」、前頭四枚目「同 旭鶴 松岡」。西の大関は「伊丹 老松 山本」。これも今に名が残る銘酒だ。関脇「西宮 志ら菊 小西」、小結「伊丹 桜岡 坂上」。前頭筆頭「同 白雪 小西」。前頭二枚目「伊丹 三國山 坂上」、前頭三枚目「同 白菊 紙屋」、前頭四枚目「同 七つ梅 木綿屋」。これで東西とも一段目が終わったが、よく見ると東西それぞれ七銘柄ののうち、東に池田、西に西宮が入っているだけで、あとはすべて伊丹である。(「大江戸番付事情」 石川栄輔)  「池田の満願寺屋の小判が東の小結として出ているところから見ても、この番付の内容は十八世紀の中頃までさかのぼれるほど古いのだ。」としています。 


江戸時代の酒番付(2)
東の大関は「伊丹 剣菱 坂上」となっている。文字で剣菱と書いてあるのではなく、酒樽を包んだ薦(こも)に印刷した酒銘が載せてある。坂上は剣菱を作っている酒造家の名で、坂上傳右衛門という。剣菱は今でも製造が続いている有名な酒で、剣と菱形をあしらった酒銘もそのまま使っているからすぐわかるが、酒銘は種類が多く、今ではなくなってしまった酒もあり、必ずしもブランド名を読みとれない。剣菱は江戸で人気の高い酒だった。「牡丹に唐獅子虎に竹 虎を踏んまえ和唐内(わとうない) 内藤藤は下がり藤…」ではじまる長い江戸の尻取言葉があるが、その中に「内田は剣菱七つ梅」というのがある。内田屋とは和泉町にあった酒屋で、剣菱と七つ梅という銘酒を扱っていたが、それが尻取りに取り込まれるほど有名だった。関脇は「伊丹 男山 山本」。男山も今に名が残る銘酒である。小結は「池田 小判 満願寺」。小判印の満願寺屋九郎右衛門の酒は、徳川将軍の御前酒として、また、甘口の酒としても有名だった。しかし、安永五年(一七七六)に池田の同業者の紛争に巻き込まれてから、衰えてしまった。(「大江戸番付事情」 石川栄輔) 


江戸時代の酒番付(1)
番付の中央上にある、相撲なら『蒙御免』の部分は、見立番付によくある『為御覧』となっていて、その下の興行日の部分には、番付の二段目から三段目までは高級品であり、上位の酒と同じであるというような意味のことが書いてある。番付では、なっきりと順序を示さなくてはならないが、商品では相撲のように勝ち負けがはっきりしていないため、編集者もいろいろ気を使っているのだ。行司は、中央上段が「九年酒大和屋又」、下段が「味淋(醂)大和屋太」。九年酒とは醸造してから九年間寝かせておいた古酒で、上等の新酒の三倍ぐらいの値段だった。右側に「大和屋 菊屋 焼酎 千代倉」、左側に「山城屋 座古屋 本直シ」と並ぶ。いずれも有名な酒造家の屋号だが、大和屋又は大和屋又右衛門、大和屋太は大和屋太兵衛の略。本直しとは、味醂に焼酎を混ぜた甘い酒のことだ。世話人が「松浦」「吉田」。勧進元の「池田 伊丹 灘」と差添の「西宮」はいずれも酒の産地の地名である。「河岐阜」は不明だが、もちろん地名だと思う。(「大江戸番付事情」 石川栄輔) 


焼酎の伝播
一六○三(慶長八)年八月一六日、宇喜多秀家は八丈島に流された。一族二二人。しかし、鳥も通わぬ八丈島、などというけれども、じつは島は島どうしでさまざまな交流があった。とりわけサツマイモを原料とするイモ焼酎は島づたいにひろがったようである。その伝播経路はさだかでないが、もともとは元の時代に中国でつくられ、それがタイに南下して再び黒潮にのって琉球につたわったものであるらしい。いうまでもなく琉球泡盛である。その製法はついで薩摩につたわり、島津家は泡盛を暑気払いとして慶長年間から徳川家に献上していた。泡盛というのは、そのアルコール分を測定するのに水を加えて混合し、その泡の量を尺度としたことがその語源である。焼酎についてはポルトガルのアラックが輸入されたこともあり、これが転じて焼酎は「荒木酒」または「亜利吉酒」とよばれたりもした。この製法は鹿児島から八丈島にもつたえられる。日本列島の本土に住む人びとがもっぱら陸路によって物産や技術を各地につたえていたのにたいして、島に住む人たちは、海上の道でさっさと焼酎をつくっていたのであった。(「一年諸事雑記帳」 加藤秀俊) 


寒造り
もと唄につづくくだかけ寒造 西山泊雲
寒造りしたゝる甕のひびき哉 田中王城
佇めばつぶやく醪寒造 岸風三楼
暁に蔵唄きこえ寒造 松尾静子
大き扉の閉まる音せり寒造 八木林之助
寒造りこの泡底に切なきもの 天野莫秋子(「俳句歳時記」 角川書店編) 西山泊雲は、小鼓の蔵元だった人です。
寒造りいさむ杜氏の声の張り 出麹の湯気の白さや寒造り