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御 酒 の 話 13


お握りと赤出し  酔月  荊軻  羨ましい青木先生  中国古代の肴  超過供出  ボストン・ティ・パーティ  鑑評会  トラ大臣  日本酒大賞  はなや  メチールアルコール混入酒  有毒飲食物等取締令廃止  デッド・ソルジャー  ねんき  末広亭  酒というもの  御酒なら  禍泉  森太郎  流人墓地  酒買時に灯のうつる川  まじない  芭蕉と酒  寝て花やる  お酒を愛して飲む  サラ川(6)  お蓮  寒夜の温まり物  鞍馬参詣  蒹葭堂  よく生き延びて…  蛸のやわらか煮  弓鷹  霊柩車  「酒好き」  禁酒看板  「自堕落先生の碑」  盗人上戸  ぼやき  花見酒  "花見酒"の経済  太地喜和子  スウェン・ヘディン、アンリ・ルソー  カフエー・キリン  森監督  ホケ  公界物  年始の挨拶  社員旅行  罰金  麻生路郎と川上三太郎  濁酒は髭につく  旅でみる酒という字の憎からず  ローマ時代のブドウ酒  対馬祭  ウオツカ  只飲  ソ連時代  亀甲煮    酒船石  酒泉という地名  ラム酒、甘露酒、葡萄酒  唐茶  豹の酒  容器  飲むか飲まれるか  南部の置注ぎ  浜村温泉  ラットハウス・ケラー  スパルタ  薄田隼人  軽く千キロ  斗酒  酔っぱらいなど  燃える賄賂を肴  酒のつくりやう  剣菱と大関  酒神の多様化  長命  酒場との相性  一月五日(東京)  天界  醒酒茶  きこしめす  勘太郎  厄払い鯉の放流  酒は旨いなぁ  アルキロコス  アンツルさん    注文の仕方  ウロキナーゼ  お屠蘇を全部  正月の酒  屠蘇散  お屠蘇カクテル  パリの新年  万歳  初買(文化元 腰巾着)  竹光  ロバ  久木田社長  アンツルさん  酒買ってこい  ビール六本  論理  二百種のスコッチ  日本禁酒同盟会の始め  赤とんぼ  酔人法  十二月十五日  南柯の夢  百両のもとで  寝酒 ねざけ  煤払い  忠臣酒蔵  神酒流し  酒之部  酔態  私に合った店  高千穂神楽  十二月十七日(東京)  酒豪八人衆  竹の節  ろくろ首  爆弾酒  最後の花見  日本酒の表示  氷頭膾  灘中卒  私がお酒を飲む時  冬 廻文  酒鬼  来年の樽に手のつく年わすれ  年わすれよろけて杭の穴へ落ち  隠豪屋  店を出す  衣を典す  澄むと濁るの違い 酒の巻  宮水井戸場  飲まなきゃ俗物  アワビ貝の徳利  生酔本性違わず  ザャパン人、バンザイ  Dアミノ酸  パンの会で飲まれた酒  気の合わない同士  先生  バルザック  野見宿弥  酒も取り止め  あつかん[熱燗]  十組問屋  赤垣源蔵=和田垣謙三  無いとこづもりの高天ケ原  平清  家康下賜の酒  生酔の後ロ通れバ寄かゝり  5万4000人  シーグラムビル  鶴田浩二の映画  主君  幸運な酔っぱらい  いっきいっき  「喜式神名帳」の酒名神  おもの(神饌)  ビロード  篁牛人  禁酒宣言  溺死人之墓  若い巡査  茶盞拝  鈴木信太郎先生  酒をぐい飲みする者は金払いが悪い  泥に酔った鮒  養命酒  赤鬼  盃の時に何にもおつしやんな  尾崎放哉  十月の肴  八月某日  グァンバレ男の子  皆で飲むもの  宿酔  ぶえん  湿地と乾地  糸引き納豆  ゴーダチーズの味噌漬け  南蛮酒に酔いて(2)  下戸の酒句(2)  事故  耳明酒  あかだ薬  服忌令  島村抱月  みにくいもの  アサメシ温泉  講武所芸者  鴨居の裏  二階と一階  泣き問答  都万神社  酒の効果  趣味は禁酒  酒道  明治三十七年四月十二日  ボージョレーとロマネ・コンティ  代替の刺激  オコゼ  連雨独飲(二)  ショウチュウのなぞ  ただのみ  手酌は恥のもと  ルイ十六世  薬玉  ルーマニアの一口噺  虎の威を借る狐  銀座のキツネ  スエヒロ  谷崎日記。  永田宗郷  会津若松  尻つまみ祭り  ことわざ  首の鎖  玄徳と曹操  浪人  酒手の要求  雪は鴨を煮て飲んで算段す    瑟と缶  幾久酒  イエンとジュウ  酒によいという商品  伯爵のマージャン  上海での断食  三浦樽明の墓(3)  かはらけの手ぎは見せばや菊の花  反逆罪  畢卓  黄門ばなし(2)  一晩九十五本  酒徒とのつきあい  シーソー  命の酒  時系列型と空間展開型  酒売  藤田弓子   ソウメンと割水  小松説  メーコン  下戸の酒句  餅麹と黄麹菌


お握りと赤出
しばらく断酒して、臓器のご機嫌をうかがったうえで、また、ぼちぼち呑んでいる。断酒は思いのほか辛くはなかった。それより、この先、呑めなくなる身体なるものが、厭だった。現在の臓器を休ませれば、将来は呑めるというのが、張り合いとなった。ようやく血液検査による数値が、放免となった解禁のとき、「呑む前に食べろ」が主治医との、唯一の約束。まずちいさい盃で、梅酒を一杯(これは酒じゃない、いわゆる露払い)。そしてちいさい握り飯(海苔なし具なし)をひとつ。それに蜆(しじみ)か豆腐の赤出しを一椀。なんだか、とても、落ち着く前菜だ。こうすると、おのずと酒量も減るし、穏やかな満足感も得られる。なにしろ、箸を使わない握り飯と、噛まずに飲める味噌汁が、なんの抵抗もなく、素直に受け容れられる。こんなん有り?という意外なほどイージーな、呑ん兵衛必携の「救済符」。外の呑み屋で、初手にいきなり「お握りと赤出し」は、気恥ずかしいかもしれないが、馴染みの店に、訳を話せば、毎回そうしてくれる。この前菜、定着して欲しいと、切に願っています。(「杉浦日向子の食・道・楽」) 


酔月
「目が冴える」−「富嶽百景」の中、夜更けに目が冴えた太宰は、どてら姿で外に出て初秋の明るく照る月をながめる。酒気をおびて感覚はますます鋭敏になっている。このような状態で月をながめる美しい言葉がある。「酔月」である。酒に酔い、また月の光に酔う。(「『酒のよろこび』ことば辞典」 TaKaRa酒生活文化研究所:編) 


荊軻
荊軻(けいか)は邯鄲(かんたん)をおとずれた。魯句??(ろこうせん)は荊軻とすごろく博打をやったが、盤の道争いでもめ、魯句??が怒ってどなりつけると、荊軻は無言で逃げ出し、二度と顔をあわせなかった。荊軻は燕[えん の都薊(けい)]に来てから、燕の犬殺し(姓名は不明)と筑(ちく 琴に似た楽器)ひきの名手高漸離(こうぜんり)とが気に入った。荊軻は酒が好きで、日ごとにその犬殺しや高漸離といっしょに燕の街で酒を飲み、酒の興が高まってくると、街のまん中で、高漸離が筑をうちならし、荊軻が筑にあわせて歌い、楽しんだが、やがていっしょに泣き出し、そばに人無きがごときありさまであった。荊軻は酒飲みの連中とつきあってはいたが、しかしその人柄は沈着で、読書を好んだ。かれの歴訪した諸国では、どこでもかれはその地の賢人・豪傑・長者(人望ある人)たちと交わりを結んだ。燕におもむくと、燕の処士(才能がありながら、官職につかない人)の田光(でんこう)先生がまたかれをあつく遇したが、それは荊軻が凡庸な人間でないことを理解したからである。(「史記列伝 刺客列伝 第二十六」 小川・今鷹・福島 訳)) 荊軻は燕王・丹からの依頼で秦王・政の暗殺をこころざしますが、結局失敗しました。 傍若無人  


羨ましい青木先生
「旅と酒」といえば、京都に遊びに行って酒を呑んでいると、会いたいと思い。ついに会う機会のなかった方があった。京都大学の青木正児教授である。『支那文芸論藪』『支那近世戯曲史』などの著書が示すように、中国文学が専門だが、私はそのほうではなく、「酒」でお近づきになりたかった。『中華飲酒詩選』という本を読んだからで、その本文もることながら、巻末につけられた「贅言(ぜいげん)(酒と私)」に魅せられたからである。これを読むと、「とてもかなわない」という気持ちになる。−
大学時代、もっとも愛誦したのが李白の詩集だったという。「秋夜灯火に繙(ひもと)いていると、生唾が出て飲みたくなる」ここもいい。こちらも生唾が出てくる。「飛び出して四合瓶を買ってきて、番茶茶碗で傾けながら読むと一層面白くなる。注釈なんか無用である」ここもいいが、私の大学時代はすでに戦争下で、学生は簡単に酒を入手できなかった。あたら青春を酒なしで、わびしいことだったわいと、残念であり、青木先生が羨ましい。(「スキな人 キライな人」 小島直記) 


中国古代の肴
夙(つと)に「詩経」大雅・既酔篇に曰ふ「既ニ酔フニ酒ヲ以テシ、爾(なんじ)ノ?(こう)既に将(すす)ム」と。註に「?ハ牲体(せいたい)ヲ謂(い)ふ」と有り、即ち祭祀賓客に供へる畜獣の骨付きの肉である。そして「?」と「肴」は同じ字である。是は酒と同時に進められる食品が、肉類を主とすることを示してゐると解することが出来よう。また大雅・鳬?篇に曰ふ「爾ノ酒ハ既ニ?(こ)シ、爾ノ?ハ伊(これ)脯(ほじし)トス」と。脯は乾肉である。是は漉(こ)した清酒に添へて乾した肉を肴に進めることを叙したので、酒の肴が更に乾肉と限定されてゐる点は注目すべきである。次に「論語」郷党篇に孔子の日常生活を記録した中に「沽(か)ヒタル酒ト市(か)ひたる脯ハ食ハズ」と曰つて有る。是は酒も脯も皆自宅で製造し、買つた品は不潔として食はなかつたと云ふのであるが、やはり「酒」に対して「脯」が挙げられてゐる。どうも酒の肴には主として脯を用ゐるのが古代の風習であつたらしく見受けられる。(「酒中趣」 青木正児) 


超過供出
当時の新聞から話題を拾っておく。一月中に供米割当を完納した埼玉県では超過供出を確保するため超過分の一割で酒を作り一部をお百姓に還元、あとは石炭増産用に特配する案をたてたが、二十五日農林省では埼玉県のみに試案としてこれを許可した。この案は同県の割当に対し一割八分、十万石の超過供出を目標とし、その一割一万石で酒一万五千石を作り、農家には供出一石につき酒五升、計五千石を還元し、残り一万石は炭坑労務者にまわし、酒造税の三千万のうち千五百万円を県に還元させて県民の負担を軽くし、供米を促進し、どぶろく造りを防ぐという、県食糧委員会もこの案に大賛成なので直ぐ全県的な超過供給供出運動をおこすことになった。(『朝日新聞』昭和二十二年二月二十七日)同じ日の紙面に、大蔵省の酒類価格改正の発表が載っている。清酒一級、一升四十三円。清酒二級、合成清酒、焼酎いずれも同じ一升三十三円。ビール、大瓶一本七円。−(「酒・戦後・青春」 麻井宇介) 


ボストン・ティ・パーティ
一七七三年一二月一六日の夕方、ボストンの印刷工B・イーデスの家におよそ五〇人の人びとがあつまった。かれらはイギリスの植民地支配に不満を持つ独立主義者たち。そして、その日、ちょうどボストン港に停泊中のイギリスの商船三隻を襲撃しようという計画を立てた。意気をあげるため、イーデスは大量のラム酒をはこび出し、全員ことごとく酔っぱらった。その酔いの勢いにのって、かれらは大さわぎをしながら港にむかい、船荷の茶を海にほうりこんだのである。これが有名なボストン・ティ・パーティで、ここから独立戦争がはじまるわけだが、この五〇人の独立の闘士たちは、泥酔状態で茶箱をはこんだものだから、二日酔いになったり、本格的な病気になったりしてしまった。(「一年諸事雑記帳」 加藤秀俊) 「世界おもしろ雑科2」 (ウォーレス、ワルチンスキー他)にはラム酒ベースの巨大なパンチ・ボールとなっています。 


鑑評会
わたしはなにも全国鑑評会をやめろ、などとは言っていない。どうせやるなら、滝野川の片隅で関係者だけで陰気にやらずに、フランスのワインのようにセレモニーつきの、お祭のような形にして、もっと大きな会場(武道館や晴海あたりの会場)を借りてやったらどうか、とさえ思っている。広く一般市民に酒がどのようなものか、広めることが必要のように思えるのである。今年の出来が、どうであるかとか、こうであるとか、年々品質の向上と話題性を提供するようにするのである。陰気にコセコセやっても何のメリットもない。もっとオープンに新酒鑑評会とか、日本酒博覧会とか、だれでも楽しんで参加できるようにしたほうが、はるかに大きな意味があるように思えるのである。酒の美味しさを消費者に知らしめる効果は大きいであろう。(「異見 文化酒類学」 桜木廂夫) 


トラ大臣
いつであったか、先年、徳川夢声危うしという報に、さっそく、同君を見舞った。ところで驚いた。先生、例の胃潰瘍で否、お腹を開いてみたら、その胃潰瘍のほうは、停酒時代にケロリと癒っていたが、今度は、十二指腸のほうが潰瘍していたのだそうで、さんざん血便を下す、さては口からも血を吐く、まさに鮮血淋漓の間にも、泰然として酒を嗜(たしん)んでいたのだそうな。私は、徳川さんのその死生を超越して「ただ杜康(とこう 酒の異名)あり」の心境をば、つくづく羨ましく考えさせられたことであったが−しかし、そこまで行けるかどうか、また行っていいのかどうか。私にはわからない。ただ人生は詩であり、詩は酒である。私が先年、旅立つある人に贈った詩の一句は、いささかなごやかな風懐でもあり、また、ひろびろした気分が出て面白いと、みな、よろこんでくれるので、毫を揮っては、天涯、友を求めている。 一路春風応托酒(まさに酒にたくす) 英雄反面是詩人 (「トラ大臣の名は消えがたし」 泉山三六)「酒」) 「酔虎伝」  泉山三六  


日本酒大賞
梅原 −ところで、先生、酒ですね。私は先生に感謝しなくちゃならないのは、日本酒大賞は先生の推薦なんです。先生が審査員で。私はいろんな賞をもらいましたけれど、日本酒大賞にはびっくりしましたね。第一回が、たしか若乃花、第二回が小さん、第三回は斎藤先生。
斎藤 それから、ご夫婦にも差し上げたんですね。映画監督の篠田ご夫妻。
梅原 第四回は、平山さん、それで第五回が私。突然、「日本酒大賞どうでしょう、先生、お受けになりますか」と聞かれて…
斎藤 ただ、たくさん飲んだから大賞なんじゃないんです。お酒をうまく社会的に生かす方に差し上げているわけですから。いいお酒なんですよ。
梅原 梅原は酒豪だそうだっていうことになっているのですけれども、実は若いときは酒をたくさん飲んだんですけれども、もう飲まなくなっちゃったのです。飲まなくなったときに日本酒大賞をもらいまして、申し訳ないようですけれども、せっかく斎藤先生の推薦だからいただきましたけれどもね。
斎藤 お酒を一年分差し上げたのです。その一年分というのはどういう計算かと思ったら、一日二合の計算なんです。それ、一年分差し上げた。二合というのは、われわれがいま提唱している、お酒はどのくらいまで飲んだら安全か、というのが二合なんですよ。それとぴったりなのです。(「斎藤茂太VS梅原猛 旅・酒・文化のシンポジウム」) 


はなや
終戦直後建った、バラツク式のマーケツトの中程で、「はなや」という店があつた、九尺間口の、お粗末な、一杯呑みや、勿論、料理なぞ何にも出来ない。襟足の白い怪し気な女の居ようという店。赤提灯と、紺にれん、カウンターに、椅子を並べ、店との境に障子があつて二畳の畳数に置炬燵がある、といつところ。でも、椅子があつて、今しがたお風呂から帰つたらしい、女の姿が、ギシギシ鳴る二階へ消えて行つた。店先に車が着いて、二人の監視員がドカドカツと「おばさん、居るかい?」と障子を開けると、何やらゴトゴトしていたが、「ヘイヘイ」と置炬燵から、這い出して来たのは、七十がらみの皺くちやな、田舎婆々、勢込んだ二人も鳥渡、面喰つて、「はなやのおばさんは、居ないのかい?」と聞いた。「わしゃ、田舎から来て、留守しとるで、何も判らんが」と、うすとぼけた様な挨拶に取りつくしまもない。一応、来意を告げ、先刻資料を取つてメチールを検出された焼酎の残品を、封印した。「時に、おばさんは、何処え行つてるんだネ」と、もう一度、聞き直した。ボヤーツとした顔付で、「今…アノ…病気で…二階の寝とるが」といつたので、「それじや、そう手間は取らせないから、いよつと聞きたいことがあるんで呼んで呉れないか、何なら、こつちから行つて訊ねて見ようか」というと、「イヤ…そうじや…ない…サア…保健所へ…注射しに、行つとるかも知れん」狸の化けたんじああるまいかと思うような素振り、物言い、「何を云うか、保健所は、すでに退庁の時間じやないか」と腹の中で思いながら、KはTに向つて、「一寸、待つて見ようか、帰つて来るかもしれないから」と二人の監視員は、敷居に腰をおろし、世間話しをし始めた。薄暗い二畳の置炬燵の端で、何やら、モソモソ動く気配がする。猫にしては大きい、と思ったら炬燵の中から、ムツクリ、顔を出し、「どうもすみません」と、真紅な顔、ハーハー息をはずませながら、袖で、顔の汗を拭きふき出てきたのは、此の家の女あるじ、五十を越した、皺だらけの顔に、お白粉や紅なぞつけて、これでも、昔は○○新地の芸者をしたことがあるという。嗄がれた、ガラガラ声で「何とも、すみません」「おつかなかつたもんだから」とペコペコ頭を下げるばかり、「でも、苦しかつたわよ」今更ながら怒るにも怒れず、TもKも苦笑するばかり。色々問い訊したところ、時々飲みに来たことのある、二十七、八の工員風の男が、飲み代のカタに、一升置いて行つたものだと云い、その男は何処の誰だか判らないという、さんざん、手間を取らされ、いつもながら、同じ様な、逃げ口上で、それ以上の手懸りは、得られなかつた。(「怪食戦記」 小川芳明) 


メチールアルコール混入酒
終戦当時、無知からくる悲劇で多くの犠牲者を出したメチールアルコール混入酒の事故が、もはや戦後じやないといわれた昭和二十七・八年には、中毒事故件数こそ減つたが、取締りの網に引つかゝる違反酒が後を絶たない。然し密造や販売方法の手口は一段の進歩?というか、変わつて来た、とく角文化国家にメチール酒が売られるなぞ、文明国にはあり得ないことである。問題は酒の税金が高率というところにあつた。だから、この時代には検査の結果、違反限度スレスレで、明らかに陰に専門の技術者の存在が推定されるような密造酒が出回つている。浅草山谷の飲食店の倉庫に名前の通つた銘柄品のレツテルを貼った密造酒が四十樽以上隠されていた。検査の結果メチールアルコールが一cc中一mgの限度スレスレとかチヨツト限度から顔を出したものなどあつて、半数は衛生的には違反にならなかつた。暮の一斉検査で、漸く監視の科学化が具体化し、食品衛生検査車が活躍しだした当時である。浅草山谷の電車通りで、夜に入つて検査を続ける検査車に集まる弥次馬、各ブロツママから応援に駆けつけた監視員の車がそれに連なり不良品の瓶を次々とトラツクに積込み、手際よく処理されるが、一時はチヨツトした壮観で異様を感じさせる雰囲気であつた。闇市でコツソリ売られ、中毒を起こした初期時代から、次は酒が自由販売になつた時、飲食店で違反酒が発見されると仕入先ルートをたぐつて、酒屋があがつた。ところが次にはその裏をかいて酒屋が飲食店に卸さなくなつて、専ら店頭のコツプ売り等に廻したので、今度は直接酒屋の店頭や倉庫から発見された。しかもこれらの仕入れは、元酒屋に関係のあつた玄人筋のブローカの売り込みであつた。こうした関係で、飲食店へ持込まれる密造酒は、素人を利用した箇人的な取扱が多くなり、監視員はそのルートがつかみ憎くなつた。(「怪食戦記」 小川芳明) 著者は、東京都衛生局の食品衛生監視員だった人だそうです。 


有毒飲食物等取締令廃止
文化国家のツラ汚しともいうべきメチールアルコール酒の氾濫も、どうにか死亡事故が殆どなくなり、密造酒はあつても人命にかゝわるような違反品が出なくなつたのと、独立に伴う法令の整備もあつて、ポツダム宣言に基く勅令としてGHQによつて交付されたこの有毒飲食物等取締令は、昭和二十九年六月一日をもつて廃止となつた。こんな法律のあること自体が文化国家の恥だから、無いに越したことはない。ところが、この日まで、この法律で告発した事件はその適用法律がなくなつたので、食品衛生法の第四条だけで取扱われることになつた、この法文では過失は罪せられず、従来有罪になつたものが不起訴になつたり、起訴中のものも起訴中止となつて、結構な傾向であるのだが、当面担当監視員は気抜けの形であつた。(「怪食戦記」 小川芳明) 


デッド・ソルジャー
七時になった頃、テキーラのボトルが空になった。私はそれをテーブルの上に横倒しにして、以前ガーリックに教えてもらった事を思い出した。アメリカではこうして空になり横倒しになったボトルのことを「デッド・ソルジャー」と呼ぶのだそうだ。ヤンキーらしいブラックな表現だ。(「酒気帯び車椅子」 中島らも) 


ねんき
客ずきな人、年忌とて大勢よびよせての大さわぎ。客生酔にて明方に帰り、あくる日に又前日(まえび)の客のかたえ案内をし、今宵も呼び。客不思議ながら、さそいやい行しとき、亭主悦び様々の馳走、客、亭主に向ひ「きのうきのう(ママ)の年忌は、マアどなたで、今宵は何の御位牌で御座ります」亭主ぬからぬ顔で「是は潤年(うるうどし)(四)の年忌でがざる」
(四)この年忌の仏は、閏年に死んだから、もう一回法事をするんだという。客のくるのを悦ぶ性質なので、何のかのと理屈をつけて、人寄せをする。閏年とて二度するわけはない。閏年は四年に一回あって、その年は十二ヶ月の外に一ヶ月を加える。これは暦日を合わす為に考えられたものである。江戸時代は大の月三十日、小の月二十九日にて十二ヶ月としたので、閏は二十三ヶ月目又は三十四ヶ月目に一月あった(「江戸小咄集」 宮尾しげを 編注 「好文木」) 


末広亭
そんなわけで、ようやく「志ん生」を襲名したのは戦争中の昭和十七年、五十二歳のとき。しかし、それからは、"飲む""打つ""買う"できたえた人生が芸に生きてきた。名人志ん生といわれる。が、ふところぐあいがよくなると、志ん生はなおさら飲んだ。人形町の寄席末広亭まで三分とかからない酒場が行きつけで、家を出る楽屋より先にそこへ寄る。飲むほどにへべれけになり、へべれけになると、平気で出番をすっぽかそうとする。そこで女房おりんさんがやってきて、よっこらしょとグニャグニャになった志ん生旦那を背負って、末広亭の楽屋まで運び込む。やっと高座に上がったが、まるでロレツが回らない。間違いだらけ。「きょうはダメだい」とお客にいい渡すと、あとはまた人形町から浅草へと、どれだけ飲んだかわからない。(「酒・千夜一夜」 稲上真美) 


酒というもの
洒落っていえば、私は、いまは亡き古今亭志ん生さんの笑いが一番好きでした。あの方は実におかしいことをいう。「エー、酒というものは、ケッコーなものでありました…。ビールやウイは、…あんなもんは、いくらのんでもみんなションベンになって出ちゃう。けれども、酒はそうじゃない。…酒はウンコになる」実にどうも、おかしかったものです。その志ん生さんが、高座へ出てきて、「フー」とか「ハー」とか、なんかわけのわからない声を出しているうちに、そのまま、ずっと眠っちまったのを見たのも人形町末広でありました。まぁお客は大喜び、今日は志ん生の寝たのを見た、大変な収穫だった、と大満足で帰ってゆくのですね。大したもんです。ただ寝てるだけでお客がみんな喜ぶのですから。あの方は、お酒が入っている状態がふつうで、われわれが水やお茶を飲むのと同じように、のべつ召し上がってた。しかし芸だけでなく、存在そのものが、貴重だったのです。芸で名人であるばかりか、人間としても名人間だったと思います。(「旅は青空 小沢昭一的こころ」 小沢昭一・宮腰太郎著) 


御酒なら
人からもらう煙草を「お先たばこ」という。酒の場合はもっとうまい表現がある。「私は酒はのみませんが、御酒ならいただきます」(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


禍泉
「酔(醉)という字は卒に従う。卒は終に酒と共に卒す危辞なり。戒を寓する所以。若し大酔の宴を抜かさば楽しみ、何処よりか来らん」という文章を見たことがあるが、これは少なからざる堅白異同の弁(詭弁)と思われる。戎門の広牘語に曰く「これ瓶中に置く酒なり。杯に酌み、腸に注けば、善悪喜怒岐る焉。もしそれ性昏く志乱、腸脹れ身狂い、平日敢て為さざる者これをなす。言騰る烟?の如く、事破る穽機の如し、これ豈聖人賢人ならんや、一言これを蔽えば曰く禍泉なり、楽しみ何処よりか来らん」これを平易に説けば、瓶の中の酒は黄金色に輝いていかにも美しき静物であるが、一と度これを杯にうつし、腸に注げば(人が飲めば)静物忽ち活躍を開始し、喜怒哀楽様々の様相を呈示する。性質も聡明の力を失い、思想も混乱して狂気じみる。平常は決して行わない事もこれをなし、言葉も荒々しく、すべてが破壊的になる。これを一言に尽せば酒は禍の水であるといえる。酒は飲んで楽しむべきに、かえって禍の源となるは皆量を過すからである、という意味である。(「酒のみて日本代表」 奥村政雄) 「戎門の広牘語」は「夷門広牘(いもんこうとく)」のようです。 


森太郎
灘五郷という。西郷、御影郷、魚崎郷、西宮郷、今津郷の総称である。前の三郷はかつて灘目(灘辺の意)と呼ばれ、今は神戸市域。後の二郷は西宮市にある。「灘の生一本」で知られる酒どころだ四季醸造の近代工場ビルの間に、昔ながらの酒蔵も並ぶ。灘の酒の芳醇な香りと味は、原料の米と水に恵まれて、醸し出した。米は播州米、中でも河東・美?地区に産する山田錦。粒が大きく、ねばりのある心白米だ。水は有名な宮水(西宮の略)。六甲山系の地下層をくぐってきた伏流水と塩分を含んだ海からの地下水が合流して、西宮の一角にわき出す。リンとカリが多く、鉄分の少ない硬水で、夏を越して「秋晴れ」の美酒の風味を熟成する。菊正宗酒造記念館の館長森太郎(七〇)は『酒のリン成分について』の研究で工学博士を受けている。リンは酵母の生育に欠かせない。灘の酒造りの近代化と技術革新に努めた。いまも毎日、工場の麹のチェックや利き酒をつづける。美術商の父の勤務地、米国ボストンで生まれたが、すぐ芦屋市に連れ帰られて育った。食通の父のお供をしているうちに酒に興味を持ち、阪大工学部で醸造学を勉強する。本嘉納商店(現・菊正宗)に入り、技師、工場長などを経て、五十六年まで専務だった。寒造りの伝統を破って、革命的な四季醸造に踏み切る。「地酒は個性的な味が身上。灘は全国銘柄をめざして、なるべく均質の良い酒を造っていく」。日本酒の不滅を固く信じて疑わない。(「新人国記 兵庫県」 朝日新聞社編)昭和61年の出版です。 


流人墓地
この島の墓地は花で有名だ。朝と夕に墓へ沢山の花を飾る習慣がずっと続いているのだ。本当に墓地には沢山の花がそえられていた。花を持ってくる老人がここでいろんな世間咄をする、というのもなかなかいい。流人墓地も綺麗に掃除され花がそえられてあった。墓石もあの柔らかい抗火石を使っているので、細工がしやすいからだろう。流人墓地の中にいくつか奇妙な形をした墓石があった。「この人はバクチが好きだったようで、墓石がサイコロを振る壺になっています」センターの青年が説明してくれた。「こっちは飲んべえだったようで酒樽の墓石です」(「南国かつおまぐろ旅」 椎名誠) 


酒買(かう)時に灯(ひ)のうつる川
市内のあまり大きくない川のようである。宵闇のこくなるころ酒屋へ行く。家々の灯が川面に映っている。人通りもほとんど無いであろう。一種のものさびしさと、そのなかの都会的な美しさである。(「『武玉川』を楽しむ」 神田忙人) 


まじない
「一盃のみやれ」「これはよかろ」と茶碗でぐひ飲み、肴をしたゝか食い仕舞「南無さん、今夜は大事のたい夜(一)だに」「こいつ由良といふ仕打するな(二)」「されば、蛸(三)ならまだよいが、まぐろの刺身アゝどふした物だ、ゑいゑいしようがある」と茶碗に水いっぱいくみ、ほうきといふ字を書くまねをして、ぐいと飲む「そりゃ、なんのまじまいだ」「はて、これで腹の掃除する(四)心だ」
注 (一)精進日の前夜 (二)『忠臣蔵』芝居、一力茶屋に出てくる大星由良之助のする様な口真似 (三)由良之助に仇討の所存あるや否や、殿の逮夜に、斧九太夫が彼に蛸を与えて食するや否や試す筋あり (四)なまぐさ物をたべたので、それを掃除してのけよう(「江戸小咄集」 宮尾しげを編注) 


芭蕉と酒
芭蕉は『笈の小文』の中で、奈良県吉野郡竜門村にある瀧を次のようによんでいる。
瀧(龍)門
龍門の花や上戸の土産(つと)にせん
酒のみに語らんかゝる瀧の花

扇にて酒くむかげやちる櫻
芭蕉はいける口であったようだ。門弟たちには次の教訓をたれている。
行脚掟(あんぎゃのおきて)
好(このむ)で酒をのむべからず、饗応により固辞しがたくとも、微醺にて止(やむ)べし
「行脚掟」は、芭蕉が旅行の注意事項を十数か条にまとめて記したものとして、江戸時代中期以降の「俳諧書」(俳句の本)に収録されている。しかし、芭蕉作という確証はない。芭蕉の仮託の書としても興味深いものである。(「麹」 一島英治) 


寝て花やる
【意味】寝て楽しむ。こうじを作る時、室(むろ)の中でねさせてこうじ花を出すことから出たことば。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


お酒を愛して飲む
おでんで飲むのが大好きという酒友の将棋の内藤(國雄)九段は、「お酒を愛して飲まなければ、お酒の心はわからない」と、いっている。つづいて、内藤九段は。大きな勝負に負けたとき、たったひとりで赤提灯の店のカウンターに坐り、しみじみとお酒を飲むと、勝ったよろこびで飲むときよりも、一段とお酒がおいしいともいった。敗者として、戦局を分析しながら、お酒と語り合うと、敗れた口惜しさがお酒のもつ大きな情にとけこんで、なんともいえない安らぎが湧く。しみじみとお酒が飲めることの幸せを感謝する、と話していた。(「酒と旅と人生と」 佐々木久子) 


サラ川(6)
オアイソの気配感じて酔いつぶれ  勘定知らず
飲み会が嫌いと言いつつ厚化粧  タマプラ婦人
飲み食いのおみやげよりは領収証  営業マン
気にくわぬ上司に勧める鬼ころし  裏見ツララ
コクのなくキレもない部下なぜドライ  一番しぼる部長(「平生サラリーマン川柳傑作選」 山藤章二・尾藤三柳・第一生命 選) 


お蓮
幕末の志士清川八郎と安積(あさか)五郎がさる料亭で遊んでおり、酔っぱらった五郎が、節分の豆撒きだと言って、女たちに金をばら撒いたところ、争って拾う女たちの中でただ一人静にすわったまま動かない女がいた。八郎はその女にすっかり惚れこんで妻にした。泥中に咲いた清らかな花という意味をこめて、その女にお蓮(れん)と名のらせた。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


寒夜の温まり物
夜寒い時からだを温める食べ物。老年には、辛い物を避けるといわれた。今大路道三(一五六〇?年)の『道三翁養生物語』に、<老いては、五辛の類、臭き物、食わぬものじゃ。これは深き訳あることじゃ。ねぎ、にんにくは上ぼるゆえなおなお悪しし。寒夜の温まり物は、うどん、煎餅、そば湯、かや湯、かや酒よし。鳥の類もよけれども、老人は好むべからず。孟子殿の、五十は肉にあらざれば飽かずと仰(おしや)ったは、唐米を食らう在所にての事じゃぞ。日本の事じゃないぞ。>という。(「飲食事辞典」 白石大二) 


鞍馬参詣
この頃言国は自分の病気が中風であるとの診断を受ける。頼みとする次男言綱は内蔵頭にはなったが、まだ元服したばかりだった。いよいよ鞍馬参詣の頻度が増す。「宿願仔細在之テ鞍馬寺参詣也、」(三月十九日条)言国の宿願の内容についてはよくわからないが、自分の病気の平癒だろうか。ところが彼の日常生活は病気回復にはよくないことが多すぎるのである。三月の参詣の際には市原から冷泉為政と一緒になったので、市原の茶屋に引き入れて酒をすすめた。鞍馬山は春の盛りで一面一重、八重の楼の花は目を驚かす程だった。酒の樽を持参したので「坊主召し出酒ヲノマセ、」寺の子供たちにも土産などをとらせた。寺での夕食は山中らしく蕨の汁で、また酒を飲む。夜中に参詣を済ませ、翌日も鞍馬寺の僧と酒宴、謡でまた大酒。帰りも市原の茶屋でまた酒を飲み、沈酔して道に平臥する有様。やっとのことで京都に帰り着いた。さすがに以後はこんな飲み方はしなくなったが、中風なのにこんなに飲んでよいものかと思う。また広橋中納言から「大津樽」(近江大津産の酒)一荷が入ったから欲しいかと問われて、これもすぐに購入した。(「日本の食と酒」 吉田元) 公家山科言国の日記「言国卿記」の明応10(1501)年の様子だそうです。 


蒹葭堂
蒹葭堂の家は、大坂夏の陣で戦死した城方の勇将後藤又兵衛(基次)の末裔といわれている。彼の代まで酒造業を営んでいたが、本人は全く飲めなかった。「紺屋の白袴」みたいな話だが、こういう例は時々あるようだ。伏見の古い酒造会社何代か前の当主は夫婦ともども一滴も飲めなかったというし、現代の名杜氏の中にも完全な下戸がいる。それでも評判の美味しい酒をつくっているのだから、飲める飲めないは関係がないらしい。蒹葭堂は漢籍詩文から絵画までさまざまなことを学んだが、もっとも得意とするところは本草学だった。物産博物学とでもいうべきものだが、彼の場合には物産学から広く考古学や民族学の分野にまで及んでいる。そのため膨大な資料を集め、多くの著作を残しているが、その方面での名声があがると大名から庶民に至るまで、好学好事の士は大坂に来ると必ず彼のところを訪れるようになった。(「下戸の逸話事典」 鈴木眞哉) 残念です。 木村蒹葭堂  


よく生き延びて…
中村 いや、僕はわりと人に聞かせないで、その代わり自分をイジメるほう。
阿川 危ない性格ですね。
中村 うん、危ない、危ない(笑)。
阿川 それ以降、そこまで思い詰めることはないですか。
中村 もう、そこまで自分をイジメられなくなりました。途中でくたびれちゃうんでね(笑)。若いときは、やけ酒飲んで、体壊して入院したりしましたけど。
阿川 荒れて…。
中村 酒飲まなきゃいられないし、トランキライザーで落ち着かせなくちゃなんないし…。薬と酒を一緒に飲んじゃって、救急車で運ばれたりもしましたよ。
阿川 死のうと思って?
中村 違う違う。けど、どっかにそういう意味もあったんでしょうね。
阿川 危なーい。よく生き延びて…。
中村 ねえ、よく生きてるね。(「阿川佐和子のアハハのハ 中村吉右衛門」 阿川佐和子) 


蛸のやわらか煮
薄いアルミなべではシチューができないと同じ理屈で、やわらか煮のなべも分厚い鉄なべが理想です。鉄なべがなければアルミの鋳ものの深いものでも結構です。第一の方法と同じようにしてよく水洗いした蛸の足を切りはなし、頭は縦二つに切ってなべに入れ、蛸がひたひたにかくれる程度に清酒をそそぎ、清酒だけで煮ます。はじめの五、六分で蛸はふくれて清酒より上にあふれてきますが、落とし蓋で押えて中火にして、ことことと煮込みます。約三十分もすると、こんどは蛸が縮んで小さくなり、汁けが多く感じられるようになります。さらに弱火にして大体二時間で煮あげます。調味には清酒だけで煮あげ生姜酢などで召しあがるのと、濃厚に煮あげてこってりしたやわらか煮にする場合とがあります。後者では火からおろす二十分ほど前に、濃口醤油と味醂をさして味をととのえます。なべのまま冷えるまでおきますと、いわゆる含め煮といった状態になります。冷たくなってから切ります。(「辻留・料理のコツ」 辻嘉一) 


弓鷹
私の父の名は中西政太郎、母の名はよきである。父方も母方も、もともとは石川県。父は小松・符津であり、母は能登・恋路海岸の出である。父も母も幼い頃に両親に連れられて北海道小樽に渡った。双方の出が石川県というのは偶然である。長じて二人は出逢い、恋をし、結婚する。政太郎は小樽駅前の中西商店という酒屋の長男、よきは坂下石店という石屋の長女であった。よきは、小樽小町と騒がれるほどに美しかったという。明治三十三年生まれの政太郎、明治三十七年生まれのよき、二人の結婚は大正十一年一月。そして、昭和九年、国策にあおられたのか、やむにやまれぬ事情があったのか、一大決心をして満州へ渡った。子供二人を抱えて、親から分けてもらったわずかばかりの資金を手に、一か八かの運を天にまかせて、牡丹江で造り酒屋を始めたのだった。「王道楽土」、「五族共和」の唱い文句に踊らされてきたものの、創業の頃は、実に命がけだった。背丈ほどのある雑草を自分の手で薙(な)ぎ倒し、薙ぎ倒し、家の土台を造り、夜は夜で匪賊の襲撃に備えて、枕元に日本刀を置いて寝た、母ですら棍棒を肌身はなさず持っていたという。しかも、満州というところは水が悪く、酒造りにとって、それとの闘いも命をすり減らすものだったが、それを克服し、関東軍の庇護を得てからというものは順風満帆の発展ぶりだった。父と母は裸一貫からの叩き上げだった。絵に描いたような成り金だった。成功してからというもの、満州は極楽境だった。造っている日本酒は「弓鷹」「日本刀」「千代鷹」「満州白雪」。「子宝酢」という酢も造り、ガラス工場もホテルも印刷会社も料亭も経営していた。(「翔べ!わが想いよ」 なかにし礼) 


霊柩車
一九五九年にビリー・ワイルダーの作った「お熱いのがお好き」は最盛期のマリリン・モンローの映画だが、一九二〇年以降の禁酒法施行時代のストーリーで、ファースト・シーンは、霊柩車に向かって捜査官がピストルを発射すると。酒が滝のように噴出するのであった。(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


「酒好き」
日本に住んでいる外人ビジネスマンにとって、最も身近な女性であるOLがどう見えるかについて、違和感を感じたり、驚いたことをアンケートの結果で見ると…。違和感を感じることでは「結婚退職が多い」がナンバー1で、約四割が不思議に思っているようです。以下、女性管理職が少なく、自分の意見を主張することが少ないなどにも違和感を感じているそうです。このほか、お茶くみ、コピー取りが女性の仕事になっている、女子社員に制服がある、朝早く出社して机をふくことが女性の仕事になっているなどがあがっています。驚いたことでは、まず海外旅行が好きで、ブランド志向が強く、ファッションセンスがすぐれていることなどがベスト3。驚いたことの十位には、なんと「酒好き」というのも入っています。案外日本のOL事情をスルドクついているといえるでしょう。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 昭和63年出版です。 


禁酒看板
「飲酒を禁止します 当山境内では、お酒をのむことを一切禁止します。守れない人は境内より出ていっていただきます。 西新井大師 総持寺」 こんな看板が足立区の西新井大師にありました。 


「自堕落先生の碑」
自堕落先生については「武江年表」に「常に酒を好み俳諧をよくし蕉門にはべり」とあります。本名は山崎三左ェ門俊明、北華と号し不思庵、不量軒、捨楽斎、確蓮坊などの洒落た号を持っていた風流人でした。元禄13年(1700)生まれで、16才で仕官し38才までは何とか宮仕えをしていたようですが人に追従するのが厭で辞めてしまいます。それからは「常に寝ることを業とし、鳥獣魚鼈の肉を好み酒は李陶が未知味を知り、酔ては眠り醒めては臥し、うかうか、うかうかと日を送っては無為なり」という生活を送りました。40才の年末に自分で柩(ひつぎ)を造って入り、養福寺で知人を集めて自分の葬式を執り行い、住職の読経中に棺を破って躍り出て客を驚かし、後は参会者と飲めゃ歌えの大宴会を催したという、何とも狂気破天荒な人であったといいます。昭和61年に歴史資料として荒川区登録文化財に認定されました。(養福寺パンフレット 西日暮里3丁目) 石塔には「自堕落先生之墓」と刻まれています。 


盗人上戸
【意味】@甘い物も酒も両方好きな人。両刀使い。A酒を飲んでも顔色や姿に酔いが出ない人。そら上戸。反対に、色がすぐ出るのを色見上戸といった。
ねじ上戸
【意味】酔うと一々理屈をつけてからむ酒飲み。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


ぼやき
最近ぼくの気に入りのジョーク。『少年サンデー』の読者の投稿作である。うちの妹は、幼稚園でいやなことがあると、酒を飲んでいる父の方を見て、「あんたはいいよ。酒が飲めて…」とぼやく。(「ぼやき三題」 式貴士) 


花見酒
落語に「花見酒」というのがある。多くの読者は、先刻ご承知のことであろうが、花見に通る人出を見かけて、熊さんと辰つぁん、オレたちも花見をやろうじゃないかということになった。が、先立つものは金。その金がない。熊は一策を案じて、一つ花見をしながら金もうけをやろうじゃないかと持ちかける。通りの酒屋の番頭に掛けあって、灘の生一本を三升借りこんで、これを花の下にかつぎ込み、コップ一杯十銭で売ろうという名案を考え出した。客が二十銭銀貨を出したときにツリがないというのも気がきかないから、十銭玉一枚だけは用意して行こうと、周到ぶりもよろしく、樽をかついで、よいしょよいしょと出かけた。途中、うしろをかついでいた熊さん、匂いばかりかがされて、とうとう我慢ができなくなり、「おい辰、商売だから、ただ飲みはわるかろうが、銭を出したら、おれが飲んでも構うまい」「構わねえとも、だれに売ったっておんなじだ」というわけで、一杯おれに売ってくんねえ、ホラ、十銭だよと、たしかに支払って、熊は一杯ぐっと飲みほす。売って十銭手にした辰も、これを見ては辛抱しかねて、「兄貴、おれにも一杯売ってくんええか」「いいとも、買いねえ」「じゃ十銭、払うよ」二人はみちみちこれをつづけ、やがて向島に来たころは、もうベロベロで、客がついたときは酒はとっくに売切れ。じゃ一つ売上げを勘定しようじゃないかと、熊が財布をさかさまにしたら、ジャラジャラとは出てこないで、十銭玉一つころげ出た。…(「"花見酒"の経済」 笠信太郎) 


"花見酒"の経済
ふざけた話みたいで恐縮ではあるが、実はいまの日本の経済には、これに似た一面がある。いや、日本の経済ばかりでなく、一国の経済には、すべてこういう一面がある。それはアメリカでも同じだということは、前節でふれた点からも考えていただけよう。しかし、ここで肝腎なことは、三升の酒を、二人でのんでしまったからこそ話はおしまいなので、二人で飲むのは一升だけに止めておくか、それとも二升まで飲むか、その辺のところだと、話はまだつづくのである。一升だけでやめて、あと二升を一杯十銭で売っていたなら、この二人は、番頭に借りた酒の代金を支払った上、多少の小遣いまで残ったかも知れない。花見酒の風流、もとより、彼らのものであったろう。そこで、これを比喩として見ると、国内消費をどの程度まで進めて、一杯景気をつけることができるかということは、国の経済の規模に応じて、十分の勘考が要求されていることであろう。酒三升の売上げは、信用借りでものにした経済成長の高さを示すものと見るなら、その中で自分たちが、カネをやったりとったりして互いに飲みほす部分が多すぎたら、いくら景気はよくても、同じ酒三升という国民総生産でも、そのもつ意義が、大いに変わってくる。(「"花見酒"の経済」 笠信太郎) 


太地喜和子
一番緊張したゲストは、やっぱり太地喜和子さんだった。芝居の世界では大変な人だから、初めてコントをした時はヒヤヒヤした。太地さんはシャイな人で、お互いに飲まずに話をできなかった。初めてお会いしたのは、ある正月番組での対談だったけれど、「初対面に弱いから」と言って、会った時にはもう楽屋で半升ぐらいあけていた。僕も本番中に飲んで、それで意気投合した。その後、何回か誘われて飲みに行ったけど、本当に恥ずかしがり屋だから、酔わないと電話をくれない。太地さんが地方に行った時は、必ず酔っぱらって電話をよこした。ホテルの部屋なんかで、オカマ連中をいっぱい呼んでワアワア言ってる。「ケンちゃん、今大阪にいるの。すごいのよ、こっちは、盛り上がってるのよ」なんて。そのくせ、お互いに素で会ったことはなかったんだけど。(「変なおじさん 完全版」 志村けん) 


スウェン・ヘディン、アンリ・ルソー
 スウェン・ヘディンはタクラマカン砂漠で一滴の水もなく一週間も過ごし、やっと生還した。彼は帰国して歓迎レセプションでその話をすると、画家のカール・ラルソン、「わたしなぞこの七年間も、水など一滴ものまないよ」彼は大酒飲みだった。
 画家のアンリ・ルソーの十八番の歌は「あーあーあーわたしは歯が痛いよ…」というのだった。よっぱらうと彼はよくこの歌をうたったが、歌い終わらないうちに彼はいつも途中からいつしか、いびきになってしまうのだった。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


カフエー・キリン
ビールを飲まうといふのにはカフエー・キリンに限る。明治座の経営なので、ヂヨツキに浪々と注いで出す生ビールはいつも新鮮で、ドイツ式の天井の間接照明が如何にも落ちついてゐ、女給達も一様に藍色の袷衣(あわせ)を慎(つつま)しやかに身に著けて、皆んなおとなしい上に親切である。そして彼女たちが卑しく物欲しさうな顔を見せぬので、遠慮や気兼をしないで本当に気持よくビールを飲んで来られるのである。こゝのライスカレーは銀座では比較的評判である。チツプを五十銭置いて心からお礼をいはれるのは、このカフエー位であらう。表通りのカフエーで、いひかへれば銀座のカフエーで二三軒択んで入るに足るカフエーは、先づこの位のもの。プランタンのやうな古い歴史を持つてゐるカフエーもそこにはあるが。(「新版大東京案内」 今和次郎編著) 


森監督
そんな時、ふと前にいちどお世話になったことのある映画監督の森一生(かずお)先生を思い出しました。確か昭和四十年ごろだったと思いますが、私、森監督の『駿河遊「イ夾」伝・度胸がらす』という大映の映画に森の石松で使ってもらいました。森監督とは初めての仕事でありまして、びっくりすることばかり。第一、撮影そのものがトントントン、段取りのいい超早撮りで、テストもやって一回という早さです。「ハイ!本番いこう。用意、スタート。ハイOK。ハイ、次のシーン、ハイ、アップだけひろいます、サァ本番いこう…」移動車、クレーンなど大がかりな撮影の準備も、それぞれ担当の人が監督さんの目を見ていて、次は、そうなるだろう。呼吸がわかっていて、先手先手と打って、さっと準備してさっとやってしまう。清水一家と安濃徳(あのうとく)一家が入り乱れる荒神山(こうじんやま)の大乱闘シーンの撮影も、中ぬき中ぬきで役者はどこ撮られているのか皆目わからない。トントントントン、カメラは回って、午前中、何十カット、午後、何十カット。夕方四時には、「ハイ、本日分はOK。撮影オワリッ!!」まァ、早いこと、早いこと。結局、監督のアタマがいいから、そういう早撮りも出来るんですね。しかしそれというのも、実は森監督は大のお酒好きで、必ず五時にはお宅へ帰って一献傾けるのが生活上の決まりになっていた。一日のポイントは五時にはわが家でキューッ。そういう生活を大切になさっていたからであります。早朝から馬力をかけて仕事をし、夕方のお酒を一日の区切りにする−そういう生き方。(「小沢昭一的こころ」 小沢昭一・宮腰太郎著) 


ホケ
ホケは古語では火気、熱気の意を持つが、その地方の方言では水蒸気を意味する。鉄瓶からホケが立つなぞともいう。そして水蒸気が酒の異名或いは隠語となっているところから、それが蒸留酒であることに税務署ならずとも、直ちに気付く筈である。つまり、ホケはカストリと同じく焼酎類に属する。原料はサツマ芋である。−
私は昭和二十年の歳晩に、敗残の嵐を背に受けつつ、都を落ち延びて、この遠い山奥へ赴いたのであるが、旅情を慰むものは、まず酒というべきだった。「酒はあるかね」着くとすぐに、私は土地の人に訊ねた。「あることはあるが、非常に高い。ホケならば、一升六十円で手に入る」 その当時、清酒は二百円ぐらいであったが、三分の一以下で飲める酒というものは、ホケの何たるかを知らずとも、酒の一種に相違ないとすれば、天恵に近かった。かくして、私は初めてホケに見参したのであるが、壜の内容を透かして見た時、私は人が種油とまちがえて持参したのではないかと疑った。酒の色ではないのである。不透明な、光沢のない、重い黄色さ−その色はフカシ芋の切断面に似ている。一向に、酒欲を誘わぬ色である。更に奇怪なことに、肝油を水に落としたように、ギラギラ光る油の玉が、夥しく表面に浮いているのである。しかし、人は見かけによらぬというし、私は偏見のない男であるし、グッと、最初の一盃を飲み干したのである。それは、酒であった。非酒ではなかった。しかし、とたんに私はハラハラと落涙して、敗残の私の実存を眼のあたりに見たといっても、誇張にならなかった。実になんともいえぬ味と匂いなのである。カストリの臭気も相当であるが、ホケの如く凶悪無惨なるのではない。それは濃い腋臭と腐敗した芋の皮の臭いと、空想的には鬼のフンドシの臭いとを加えたというべきであった。(「続飲み食い書く」 獅子文六) 


公界物
二三 酒盛の様子はいかうあるべき事なり。心を付けて見るに、大方呑むばかりなり。酒といふ物は、打上がり綺麗にしてこそ酒にてあれ。気が付かねばいやしく見ゆるなり。大かた人の心入れ、たけたけも見ゆるものなり。公界物(くがいもの)なり。(「葉隠」 口述者 山本常朝(つねとも)) 公界物とはおおやけのものという意味だそうです。 


年始の挨拶
私は谷崎精二氏の作品を愛好してゐるが、このごろは先生に出会すことをおそれてゐる。その理由を告白しよう。−正月三日の夜、私は紋つきを着て袴をはき、谷崎さんの宅を訪ねた。(しかし学生時代に私がしばしば訪ねた先生の家から先生が引越してゐたことは私は知らなかったのである)玄関の土間には幾つもの男女の履物がぬいであつて、家のなかでは大声で俗歌をうたふ声がきこえてゐた。私は名刺だけ置いて帰つてくるつもりで格子をあけると、奧の部屋から二人の婦人が快活に笑いながら走り出て、「さあどうぞ、さあどうぞ」といつて、どうしても私にあがつて行けといふのである。私は面食らつて、「あけましておめでたうございます。先生はいらつしやいますか?」とたづねると、奥の部屋から酔つぱらつた男の声で、「先生だつて?なるほど、先生ときなすつたか。どうです、一ぱいやりませんか?大いにやつているところですよ」そんなことを言ふので、私は部屋に通つた。そこでは角刈りと坊主あたまの二人の男が二人の婦人を相手にして食卓の上の正月料理を食べながら、彼等はたいへん酔つてゐたのである。けれど先生も奥さんもそこには見えなくて、或ひは酔つて二階でやすんでゐるのかもしれなかつた。「先生はよほどお酔いになつてゐるのですか?」さう言つて角刈りの男にたづねると、彼は私を驚かせたほど大声で笑つて、「はゝあゝ先生と仰有る!先生はよほどお酔いになつたですとも!さあどうぞ一ぱい。どうか、お受けなすつて。お正月は、みんなが四海同胞です。大いに飲みませう!」そして彼は私に幾らでも酒をついでくれたので、私は直ぐに酔つてしまつた。私は、たうたう吐きたくなつたので、「吐いてもよいですか」といふと、彼等は声をそろへて、「吐いていらつしやい。早く吐いていらつしやい」と答えた。そこで私は外へ出て、溝のところにしやがんで吐いてしまつたが、そのとき玄関の表札を見ると、谷崎さんの名前ではなくて、私の知らない人物の名前であつた。私は家のなかに入る勇気を失つて、玄関の外から、「頭がふらふらするから、私は帰ります。どうもご迷惑をかけてすみません」さうして私は大股に走つたのである。この失策を犯して以来といふものは私は先生の顔を見る度ごとに自分の顔をうなだれがちで、平静な心で談話することができない。そして街で先生に出会することがあつても、小学児童が校長先生に叱られるときみたいに、私は不自然に真面目な様子を装ふのである。(「文士の風貌」 井伏鱒二) 


社員旅行
「ええ…本年もこうやって社員旅行をおこなえることは」なんて調子で社長の演説があって乾杯し、あとはやったりとったりでだんだん盛り上がって行く。宴のはじめのほうで上座へ酒をつぎに行くのがゴマスリ派で、中盤以降に行くのがイタモン派、どこへも行かないで最初からおわりまで同じ席で飲み続けるのは不平不満のやからか近々退職予定者。庭で女の子たちと写真をとりあっていた経理さんなんかは、真っ赤な顔をして徳利をぶらさげて、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。しまいには歌をうたいだす。どうもこういう宴会のおわりはどうなっていたんだか、いくらよく考えても思い出せません。三、三、七拍子で手をしめて広間を出た記憶もあるんですが、乱戦混戦でデテールがはっきりしないんです。気がつくといつも宿の下駄をはいて、坂道を何人かとカラコロ歩いています。射的やパチンコに無駄金を使って、ヌード劇場へ入ろうかなんて相談するがたいてい話だけで、途中川か海岸で立ち小便をして、宿へ戻るとまた大浴場。部屋ではマージャン連盟が熱戦をくりひろげていて徹夜の構え。おにぎりを運ばせてあるからつい手が出てしまう。いやに鮮やかなタクアンをかじって、いざ寝ようとするがパイ音がやかましくて寝られたもんじゃない。別室へ非難するとこちらは酒豪の部屋で、ウイスキーを氷もなしで茶わんにつぎ、グイグイやっている。ああなぜ社員旅行の帰りがいつも二日酔いなのかやっとわかりました。でも、楽しいもんですね。ことに小さな会社の社員旅行というものは。おたくの社も週末あたり、おでかけじゃないんですか。(「うわさ帖」 半村良) 


罰金
山城の攻略でも原っぱの合戦でも、もう一騎打ちの時代は過ぎた。彼は、弓の一斉射撃をによって、敵をバタバタ倒す戦法をあみ出した。百発百中の効果をあげるため、(太田)道灌はひんぱんに「弓のコンクール」を開いた。訓練が終ると、成績を上、中、下に分けて
「下」の者にはかしゃくのない罰金を課したりした。もっとも、罰金といっても射撃訓練が終わったあとの酒代だ。”道灌弓部隊”は名実ともに集団戦の精鋭となった。(「武蔵野むかしむかし」 朝日新聞社編) 


麻生路郎と川上三太郎
酒とくれば、酒豪だった麻生路郎と川上三太郎を抜かすわけにいかない。路郎は肝炎を病んで亡くなったが、晩年、「体の色まで、好きだった酒とおんなじ琥珀色になってしもうた」といったそうである。
酒とろりとろり大空の心かも(麻生路郎)
悠々とした仙境にあそぶ酔い心地、路郎はうれしいといっては飲み、淋しいといっては飲み、揮毫をすると云っては飲んだそうで、李白の末裔を自認していたらしい。酒の上でもよいライバルだった川上三太郎にはまた、
酒とろりおもむろに世ははなれゆく(川上三太郎)
がある。体の緊張感もわだかまりもとろりとろりと放恣にほどけ、片方は広々と天空のごとき心となり、片や、世俗は茫々のうちかすんでしまう。この両句、句品のたかさも均衡している。川柳は卑俗低次元のものと思いこんでいる人もいるが、こういうまろやかで句柄のいい川柳も知って欲しい。(「川柳でんでん太鼓」 田辺聖子) 


濁酒は髭につく
【意味】そまつな物(安物)には欠点があること。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


旅でみる酒という字の憎からず(岸本水府)
わかるなあ、この気持。取材で地方都市なんかへ行く。車に乗ってその町を走っていると、飲み屋のある通りを抜けるとき、おのずと視線が、店の看板の 酒 という字に吸いよせられる。この地方ではどんな銘酒があるのであろうか。名物の酒の肴は何だろうか。そんなことを考え、一瞬、仕事はおるすになる、さすが水府さんの句の「憎からず」の品のよさ。私みたいに視線が思わず「酒」の看板に吸いよせられるときのあさましさはない。(「川柳でんでん太鼓」 田辺聖子) 


ローマ時代のブドウ酒
まずブドウを、奴隷たちに踏みつぶさせる。彼らは、大きな樽の中で、牧人の神パーンがこよなく愛でた、シューリンクスの笛の音にあわせて、足ぶみをしたという。ブドウの汁(プロトプロムと呼ばれた)がではじめると、柳の枝で編んだ円錐形のかごでこれを濾過し、ドリアと称する大瓶に入れて発酵させた。また、ブドウ酒を浄化させるために、灰や粘土、大理石をくだいたもの、石膏、樹脂、松脂(まつやに)などを入れていたらしい。さて、二、三年もたつと、このブドウ酒は土製のアンフォラに入れ替えられる。このアンフォラの内側には、松脂がぬってあったという。また中には、かのホラティウスが歌ったように、コルク栓のついたガラス瓶に入れ、松脂で封をしたものがあったと聞く。ちなみに、アンフォラには、ブドウの産地と製造年月日を書いた、ピタッキューム(今日のレッテルに当たるもの)が貼ってあったとか。(「食べものちょっといい話」 やまがたひろゆき) 

対馬祭
▲主 これは、この辺(あた)に住居(すまひ)いたす者でござる。俄(にわか)に客来(きゃくらい)ござる程に、太郎冠者に、いつもの酒屋へ酒を取りに遣(つかは)さうと存ずる。やいやい太郎冠者あるか。 ▲シテ はあ、これに居ります。 ▲主 汝を喚(よ)び出(いだ)すこと、別の事ではない。俄に客がある。汝はいつもの酒屋へ行て、酒を一樽遣されませ。 ▲シテ 畏まつてござる。代物(だいもつ)を遣されませ。 ▲主 いや、代(かは)りは遣ひ切つてない程に、いつものやうに通(かよひ)で取て来い。 ▲シテ その義でござる。只今までの通の面(おもて)が済みませぬと申して、それはそれは酒をおこす事ではござらぬ。 ▲主 それは尤(もっとも)なれども、追つ付け算用せうと云うて。取つて来てくれ。頼むぞ。(「狂言記」) 結局酒屋で、対馬祭を「仕形(しかた)でして見」せるということで、「御馬が参る」と言いながら酒樽を持ってきてしまいます。 


ウオツカ
ウオツカといえば、私たちはやはりソ連を連想する。この洋酒の日本渡来の初期は、ロシアの海軍少佐でスループ艦ディアナ号の艦長ワシリー・ミハイロビチ・ゴロウニンが書きしるした『日本幽囚記』(井上満訳、岩波文庫)に見られた。−
われわれはこの隊長に感謝し、隊長はじめ一同にいろいろな西洋物産を贈りものとした。先方では鮮魚や、百合の根や、野生大蒜(おおひる)や、日本の飲みものである酒(さき)を一瓶くれたうえ、まず一杯飲んでから、その酒をわれわれにご馳走してくれた。私も隊長と部下にフランス製のウオツカを供し、日本の習慣にしたがって、まず自ら一杯を飲んで健康に害のないことを示した。彼らは非常に満足げにそれを飲み、少しずつすすって舌をならすのであった。彼らは私の飲んだ茶碗をとって、それで飲み、頭を少し前にかがめ、左手を額にあげて感謝の意をあらわした。サキという飲みものは米で作る。味は悪くないし、強くもないが、たくさん飲むと強い酒になれた者でも泥酔する。(「洋酒こぼれ話」 藤本義一) 


只飲(ただのみ)
ある男、酒を買つて棚にあげおき、八ツ時分に呑ふと楽しみ外へ出、八ツ時分に帰りて、かの徳利を出し、盃へついでみれば、酒は一雫(ひとしずく)も出ず、短冊がひらひらと出た。よみてみれば『さゝ浪や志賀の都はあれにしを 昔ながらの山ざくら哉』「ハゝア、のみ人しらずじやな」(千年草・天明八・忠度)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


ソ連時代
寒いところにいるだけあって、ウオツカで身体を内から温めようとする欲求も強くなるのは当然なのだろうが、ロシア人の飲酒量は米国人の三倍だし、最近は大酒飲みの欠勤ばやりでどうも能率が上がらない。交通事故の五割、全犯罪の七割以上が飲みすぎのためであるらしいし、「飲み暴れ離婚」や世のヒンシュクをかう与太者もふえている。あまり知られていない事実だが、かつて「赤の広場」で十代の"立ち回り"があって学生一人がナイフで刺し殺され、二十七人が負傷した事件まで巻きおこしている。フルシチョフ時代から、これは問題視されていた。レストランや酒屋で売るウオツカの量を制限したり、酔っぱらって街を歩くことを禁止したり、アルコール度数の低いワインやビールを増産したり、というのはそのあらわれなのだが、なかなか成果があがらない。最近は、これではならじと制限を固く守るように周知徹底を図ったり、未成年者に酒をすすめた場合、懲役五年と決めたりしたが、全面的な禁酒は考えていない。もともと酒好きの国民なのだし、禁酒法が悪の根源となった米国と同じ道をたどりたくないわけだ。(「洋酒こぼれ話」 藤本義一) 


亀甲煮
食べてみると、この亀甲煮は、味もスッポンに似ている。ヌルッとした皮、煮てやわらかくなった軟骨、ドロドロのゼラチン質が混じり、黙って食べさせられたら、区別がつくかどうか。料理法は、鮭の頭を適当に切り、酒と醤油で煮るのだが、骨がやわらかくなるなるまで約五時間、文火(とろび)にかけてコトコト煮込む。とすれば、酒も多量に使って煮ることも、スッポンと同じ。この鮭頭のスッポン煮−いや亀甲煮には、露生姜(つゆしょうが)を落とし、柚子皮の微塵切りを散らしてあるから、臭いも消えて、ますますスッポンと区別がつかなくなるわけだ。続いて、先ほど触れた、鮭の地川干し。色のきれいな鮭の薄切り−それも道理、正真のサーモンピンクだもの。レモンの香りを移した一と切れを舌にのせると、かなり塩からい。ふと思い出したのは、金沢地方のイナダだ。これは、夏場の鰤に強く塩を当て、カチンカチンになるまで日干しにしたもの。やはり、薄くそぎ切りにして、酒の肴にする。新潟のこれは、土地の皮でとれた鮭を用いるので、その名が地川干し。鮭は、頭をとり、身の部分に強く塩を当て、一か月置く。じゅうぶん塩が回ったところで塩を抜き、冬の冷たい北風の吹く時に干し上げるのだが、漬け込みから仕上げまでに、たっぷり半年を要するとのことだ。スモークド・サーモンにくらべて、脂臭さがないから、日本酒によく合う。たしかに珍味というに価する。(「食べてびっくり」 森須滋カ) 



「少しコだな、とは吉井勇が酒中おのれの失策を覆わんとする慣用語なり。けだし、コは虎にして、「酔の通語」、しかもいまだ彼コならざるなり。べにら坊鋭くこの点を衝いて曰く。虎の威をかる吉井勇、と」(「里見ク随筆集」 紅野敏郎編) べにら坊なまると称した小山内薫の「講演旅行記」にあるそうです。 


酒船石
奈良県高市郡明日香村字酒船石の丘陵上にある加工石材。長さ5.3m、幅2.3m、厚さ約1mの不正形の花崗岩で、表面のほぼたいらな三角形を呈するところに、楕円形の凹所2個をもうけ、これを直線の溝でつないで石の一端に達せしめ、また楕円形の一つから左右へななめに溝を作って、石の両端にみちびくとともに、べつに円形の凹所2個をうがって、それぞれこの斜溝に連続させている。原型はさらに大きく、溝と凹所の組あわせも複雑なものであったが、いま石の両側をわりとられてなくなっている。酒船石の名はこれを長者の酒船とみる民間伝承によるもので、はたしてこの種の沈殿装置が醸造用に適するか否かは疑問がある。またその製作年代も不明である。なお、ここから約400mはなれた飛鳥川ぞいの水田から、2個の花崗岩を組あわせて、小規模な沈殿装置および導溝としたものが発見されたことがある。(上田三平 「酒船石」 史跡調査報告3、昭2)(小林) (「考古学辞典」 水野清一、小林行雄 編) 現在は漏刻説が一般的のようですね。 


酒泉という地名
酒泉という地名については、一九七三年の旅行で、当時の「酒泉空港」の女性服務員からきいた話を、私は『敦煌の旅』で次のように紹介した。
漢の李広将軍がこの地にきたとき、土地の父老が酒を献上しましたところ、将軍のいうには、自分一人で飲むわけにもいかぬが、数千の部下全部に分けるほどの量もない、これを城下の泉にそそぎ、水に薄めて量をふやせば全軍の将兵に行き渡るであろう、と。…そんなふうにして、酒を泉に注いだことから、将軍の部下にたいする思いやりを記念して、土地の名を酒泉と改めたと伝えられております。…
−ところが、最近のガイドブックをみると、伝説のあるじが霍去病(かくきょへい)になっている。そして、酒は土地の父老が献じたものではなく、皇帝から下賜された、とある。−
しかし、つぎの『史記』の記述からみて、彼が酒泉伝説のあるじであるのはふさわしくないとおもう。−
武帝は彼(霍去病)が出征すると、数十台の大型車に満載した物品を下賜した。それなのに、凱旋のときは、食料や肉を棄ててしまう。ところがうえている兵士もいたのである。驃騎将軍(霍去病)はそんなことにおかまいなしであった。(「六甲山房記」 陳舜臣) 


ラム酒、甘露酒、葡萄酒
しかし船は硬い砂州、と言うよりも、陸地の続きに乗り上げていて、船首は水に漬かっていても、船尾は高く持ち上がっていて、そのために後半部にある物品は皆どうもなっていなかった。言うまでもなく、私は何が水で駄目になっていて、何が無事であるかまず見て廻ったのである。船の食糧はすべて無事で、私はお腹が空いていたのでパン類が収めてある部屋に行き、ポケットにビスケットを詰めて、ほかの仕事をしながら食べた。愚図々々していることはできなかったのである。また一番大きな船室にラム酒があるのを見付けて、これも相当に飲んだ。それは私がこれから取りかかる仕事に必要な元気を私に与えた。その後で私が何よりもほしかったのは、必要な品物を載せて帰るボートだった。−酒類は船長が持っていた壜詰めの酒が、甘露酒も入れて五、六箱あり、そのほかに葡萄酒が五、六ガロンあった。これは長持ちに入れる余地もなく、またその必要もないので、別に筏に載せた。−(「ロビンソン漂流記」 1719年 デフォー 吉田健一訳) 孤島に流れ着いたばかりのロビンソンの行動だそうです。1ガロンは約4.5リットルです。 


唐茶
あるじの翁これを聞て。阿々(からから)とうち笑ひ。客人知らずや。万物に異名あり。蘭陵(らんりょう)とは金華の本名。李白が詩とて名に高き。蘭陵美酒鬱金香(らんりょうのびしゅうつこんこう)。と賦したるはこれ金花酒(きんかしゆ)也。亦蘭生とは。漢武の酒。煬帝(ようだい)これを玉薤(ぎよくけい)と。しやれて呼ばせし例(ためし)は多く。醇儒(じゆんじゆ)と号し。懿?(いこう)と諡(おく)り。醴泉?(れいせんこう)に封ぜしは。唐子西(たうしせい)が滑稽にて。般若湯とは和尚の酒。東坡の施主につくときは。掃愁帚(そうゆうそう)をやわらげて。愁いを掃ふ玉帚(たまはゝき)と。いふもやつぱり酒の事。俗人これを唐茶といふ。縁故(ことのもと)を尋(たずぬ)れば。謝安(しやあん)が煎茶に異名して。代酒従事(だいしゆじゆじ)といいしに逆(むかへ)て。こゝには酒を唐茶といふ。(「胡蝶物語」 曲亭馬琴) 「唐茶」を茶と思って飲んだところ酒だったので、怒った夢想兵衛に対して、あるじの翁答えていわく。 


豹の酒
ジャン(鹿(上)+章(下) 一文字)の煮こみ、兎の牛乳煮、鴨の焼きもの、雉の酒蒸し、虎の干し肉などの珍味に黄酒(ホアンチュウ)も、白酒(ぱいちゅう)も、乾杯がいそがしい。「あいにく今日は豹の肉はないが、豹の肉は美味えもんですぜ。え?どこの肉が一番美味えって?そりゃあ背骨の両側の肉に及ぶものアねえ」と周おじさんは舌なめずりをする。「ここの店で豹の肉を売るってことが知れると、朝早くからもう行列です。ことに背骨の両側の肉は引っ張りだこなんです。美味いだけでなく、ものすごく精がつきますしネ。豹といえば、豹の膝頭の皿骨を入れた酒は有名な虎骨酒(フーグージュウ)、ご存じでしょう?あれよりも効き目のある薬種ですよ」と何さんが教えてくれる。話は尽きそうにもなかったが、この冬の猟の成果を祈って最後の乾盃をし、再会を約して野味香の店を出た。(「中国グルメ紀行」 西園寺公一) 野味香は武漢にあるそうです。 


容器
そんな明るい記事の中で、さらに我が意を得たりと思わせたのは、越冬隊中の酒豪だという佐伯富男氏が、「ガラスのコップで、キュッと飲みたかったですよ」と、無邪気に感想を述べている箇所だった。そうだ、それなんだと膝をたたきたい気になったのは私ばかりではあるまい。私は紅茶にウィスキーをたらしたのが大好きで、たいてい日に二三度はたしなむが、ある時紅茶茶碗で飲むのと、コップで飲むのとでは味が違うという発見を、ある人に話して笑われた。お前だけの感じだというなら分るが、そんなことはあり得ないと云うのだ。それでは、スープ皿におしるこを盛って、スプーンでたべても味は変わらないと思うか?うん、変わらないと思う。というような他愛ない議論にその時はなってしまったが、いまでも私は自説をまげない。(「カレンダーの余白」 永井龍男) 


飲むか飲まれるか
日本 男が酔っぱらうことは、つきあいのよさを示すと見られ、酒を飲まないとつきあいが悪いと見られる傾向がある。「新年会」「忘年会」「快気祝い」「ゲンなおし」「暑気払い」などと飲む機会が多い。ただし、最近の若者は機会があってもつきあうことがへっている。男はときどき深酒をして、酔っぱらってしまう。酒量が男らしさやたくましさを表わすと見られがちである。女が酔っぱらうのはふつうではないと見られよう。
オーストラリア 社交上で飲む機会は、男のあいだではありふれている。男は「仲間」(mate)とパブ(ホテルとも呼ばれる)やクラブで飲む。女はたいてい家や社交的集まりのときに飲む傾向がある。ある社会階級とくに若い男のあいだでは、酔いつぶれるまで飲むのが男らしさのしるしだと考えられている。アボリジニやアイランダーの集落によっては、自治協議会(counsil)の経営する「キャンティン」(canteen)があって、ビールが飲める。アボリジニの男は公園や海岸で車座になってビールその他のアルコール飲料(grog)を飲むことが多い。稼いだ金をかたっぱしから酒につかってしまい、しかも酒乱になる男も多い(ただし、そういう女は少ない)
カナダ 男は主にバー(tavern lounge)で飲み、女は家や社交的集まりのときに飲む。バーは十時半前後から深夜まで開いている。若い男のあいだでは、酔いつぶれるまで飲むのが男らしさのしるしだと考えられている。ビジネスマンの場合は、酔っぱらうと信用されない。女が酔っぱらうと性的にルーズなしるしと見られる。インディアンやエスキモーは、男も女も稼いだ金をかたっぱしから酒に使ってしまい、しかも酒乱になる人が多い。(「日本 オーストラリア カナダ 比較文化辞典」 金山宣夫) 1983年の出版です。 


南部の置注ぎ
【意味】旧南部領では、杯をおいたままつぐふうがある。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


浜村温泉
サンドスキーで知られる、浜村駅の表で降りると浜村温泉で、裏に降りると勝見温泉、鉄道線路で二つの温泉がある。浜村は湯の豊富なのは、鳥取県の中では一番だ。農家でも内湯がある。路傍の湯で、馬子や人足が、酒徳利を突っこんで燗をし、玉子や野菜を茹で、肴にして、飲んでいるのも、変わった景物である。冬期に入ると松葉蟹を、この湯で茹でてたべられる。松葉蟹は山陰の名物で、この時期に旅をした者には忘れられない味である。(「旅に拾った話」 宮尾しげを) 


ラットハウス・ケラー
市役所の建物が市庁舎であることは間違いないのだが、ドイツでいうラットハウスは、事務的な役所の建物である市庁舎とも多少ニュアンスが違う。むしろ市庁舎と一緒になった公会堂、タウン・ホールの意味が強い。ドイツの古い都市には色々な形のラットハウスが多く、大方は町の観光コースに入り、名所になっている。これは年代を経た歴史的建造物が多いせいで4ある。例えばリューベックでは一二三○年の建物、ブレーメンには一四○九年の建物がそのまま残っている。−
そして大方はこのラットハウスの地下に、ラットハウス・ケラーと呼ばれるレストランがある。例えばハンブルクの壮麗なルネッサンス様式の市庁舎は、もう百年近い歴史をもつ建物だが、この地下のラット・ワインケラーは、ハンブルクの有名レストランの一つでもある。地階とはいいながら天井の高い、六百席もある荘重な装飾の食堂で、料理も何を食べても大方は間違いない。とくに野菜と米とハムを使ったコンソメのスープはこの地方の名物だが、淡泊で雑炊のようで冬はとくにいい。 (「美食に関する11章」 井上宗和) 


スパルタ
「スパルタ教育」という言葉を知らない人はいないだろう。古代スパルタでは、赤ん坊が生まれると、医者が体のすみずみまで調べ、、そのうえ葡萄酒の産湯(うぶゆ)をつかった。一種の体力テストである。体の弱い子供は、葡萄酒の産湯で引きつけを起こした。テストに合格しなかったひ弱な子は、山に捨てに行かれたという。晴れてテストに合格した男子は、六歳になると集団生活を始め、読み書きを習い、頭を剃り、裸足(はだし)で歩き、裸で各種の競技を行った。着るものは夏も冬もマント一枚だけ。夜はアウロタス川の岸に生える水草をつんで、その中に寝た。食べ物も十分には与えられず、足りない食料はどこからか取ってくるようにと、盗みが奨励されていた。これも戦争に備えるためで、戦場では食料が不足するので普段から小食に馴れさせ、どうしても足りないときは、略奪でそれを補うのだった。ところで、古代スパルタの一般市民たちは、いつも共同で食事をしていたという。彼らは毎日、大麦五十リットル、葡萄酒二四リットル、チーズ二キロ、乾しイチジク一キロ、そして副食代に銅貨少々を持ち寄った。(「やんごとなき姫君たちの食卓」 桐生操) 


薄田隼人
岩見重太郎の後進ともいわれる薄田隼人(すすきだはやと)は、大坂冬の陣の時、豊臣方に属して伯労が淵(ばくろうがふち)の砦を守っていたが、女郎屋に行って泥酔している間に、寄せ手から砦を乗っ取られた。以来、つけられた仇名が橙(だいだい)武者。橙は大きくて色もみごとだが、飾り物の役にしか立たぬ、というわけだ。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


軽く千キロ
「日本にいるときから、どこにどういう畑があって、そこでどういうワインができるのかということは本で調べていましたから、それを自分の目と舌で確かめて歩くわけです。畑を見てから蔵元に行ってワインを試飲させてもらう。さらにそこで即売用のワインを一本購入して、ホテルに帰ってからそれを飲む。そのくり返しでした。そうやって一つ一つのワインの味を体に覚えさせていくわけです。日本にいて飲むのとちがった、そうやって畑と蔵元をたずねながら飲むと、記憶のされ方がちがいます。それに、日本では名前を聞くだけで飲んだこともないようなワインが沢山あったのですが、それが考えられないほど安い値段で飲めるんですね」日本で飲んだら何万円という高級ワインが、たかだか五千円くらいで買えるのである。生活費と同じくらいの予算をワイン代として予算に組んでいたので、シャンベルタンとかクロ・ド・ブージョとか、日本では大金持ちしか飲めないような高級ワインを毎日のように飲んでいたという。ホテルの部屋に、自分が飲んだ高級ワインのビンをならべていくのが楽しみだった。しかし、同時に毎日が孤独と寂寥に苛まれる日々でもあった。「はじめのころは、ほとんどノイローゼになりましたよ。誰とも一言も口をきかない生活でしょう。さみしかったです。毎日ほとんどの時間、ブドウ畑の間の小道を一人でとぼとぼ歩いているわけです。親や友達にいろいろ勇ましいことをいって日本を出てきた以上、ここでくじけてなるものかと思って、歩きながらでかい声で歌を歌って自分をはげましたりしました。しかし、それにしても、毎日よく歩きました。一日二、三十キロは軽く歩きましたね。ブルゴーニュだけでなく、ボルドーに移ってからも、やはり足で毎日歩いたので、通算して軽く千キロは歩いているはずです」(「青春漂流 田崎真也(二十五歳)」 立花隆) 日本一になった頃の取材だそうです。 


斗酒
大酒を飲むことを近ごろつつしんでいる。わたしのレコードとしては、朝の六時から始まって、その日一日じゅうと次の日の夕刻まで飲みつづけたことがある。これは冬の富山から宇奈月にかけての旅行の二日間、まったく飲みつづけたときのことである。あとで、いったい、わたしはいくらくらい飲んだのだろうと、熊谷守一先生にたずねた。おそらく三升ぐらいは飲んだろうかと、わたしは思っていたのである。ところが熊谷守一先生は、首を横にふって、「どうして、どうして、あの酒は斗だよ」と言われた。若いときに、むこうみずに酒を飲むと、いつのまにか斗の酒を飲んでいる。斗の酒を飲むのには、同じ座敷、同じ料亭では飲めるものではない。家がかわり、土地、風景がかわり、座敷がかわることによって、初めて飲めるようである。(「酒も薬に」 野間仁根) 


酔っぱらいなど
宇宙人が来訪。酔っ払うにつれて、しだいにしゃべりだす。話の内容は、その星の文明がいかにすばらしく、社会状態も理想的かといったもの。それを聞いた地球側の連中の反応。「酔っ払うと、大きなことをしゃべりまくりたくなるものだ」「いやいや、酔った時こそ、本音が出るものだ」
 かなり初期のメモであることは、まちがいない。作品にしようとすれば、なったはずである。ふくらませるには、最初のうち、宇宙人がほとんど口をきかなかったことにすればいい。言葉は通じるのだが、積極的な発言をしないのである。おとなしい性格、警戒心、原因はなんとでもつけられる。地球人たちは、なんとか聞き出そうと、さまざまな方法をこころみる。そういえば、似たような話をすでに書いている。しかし、その時は、なぜか酒までは思いつかなかった。そのあげく、もっとも原始的な方法、酒を飲ませることを思いつき、こころみる。その結果が洪水のような大言壮語。信じていいのかどうか、なぞは依然として残ったまま。二十年前なら、雑誌社へ渡していたかもしれない。しかし、そのころな注文も少なかったし、宇宙人ものばかりではと、これなそのままになってしまったのだ。(「できそこない博物館」 星新一) 完成にまで至らず、メモとして残ったものばかりを解説付きでならべたという作品です。 


燃える賄賂を肴
この原翁の一四が十七歳で通ったように、この頃の賄賂というものはひどい物で、唐津六万石の小笠原壱岐守長行が、幕末の老中に出ている時に、その賄賂で面白い話を残した。この人は側役に言いつけて、どんな賄賂でも持ってくる者があれば、うむうむいってみんな受取った。賄賂人の方では、これでうまく行ったと思っているのだが、いつまでたってもいっこうに薬の効能が出ない。ひょっとして足りないのではないかと思うから、また持って行く。前と同じに黙って貰う。それでやっぱりちっとも利き目がない。そのために大変評判を悪くした。これを諫める気があったのか、家老の百束新というものの旨をふくんで、気に入りの新井常保が、ある時、さりげなくある町方与力の話をした。「町方に清廉な与力がある、ここへいろいろな手で贈られて来る賄賂は、手をかえ品をかえて実にわずらわしいので、そのまま受け取ることとし、玄関脇の一室に山のように積んでおく、これを五月五日男の節句の日に、一品残らず屋敷の庭の真中に持出して火を放して焼く。知人を招待して、この賄賂の燃える煙を眺めながら夜更けまで盃を重ねるという」壱岐守はにやにやして、それをきいていたが、「その男は馬鹿だな」といった。そして、「町方与力位ではまあ精々そんな才覚位のものであろう」といって、「紙一枚といえども天下の宝だ。それを焼くのはいかん。その上、折角の贈物を無礼ではないか、新井」「はい」「おれは音物(いんもつ)はみんな貰う、そして金は使い、紙一枚帯一筋、それぞれ道に応じて役立てる。しかし頼まれてもいかんことはいかん、わが心にしかと問うて見て、やるべきことは頼まれんでもやる。やるべからざるものをどのように頼まれてもやらん。ただ、これだけのことだ。こうして見れば、自然諸大名も賄賂の無駄を知り、頼んでも持っては来なくなるだろう。賄賂を一々断っていたのでは、老中はこの断りに日を送っていなくてはならぬ」と笑った。(「よろず覚え帖」 子母澤寛) 


酒のつくりやう
○惣じて酒のつくりやう、大概しれたる事にて、また至てむつかし。そのとう人(杜氏)の覚悟料簡は、誠に教外別伝(きょうげべつでん)ともいふべし。いかんとなし既に脇男(わきおとこ)として手伝ふ者も、肝心の意味の塩梅は、我と手かけずしては知かたし。然れば素人のやうやうと升目の調方、詞(ことば)の伝受斗(ばかり)にてはぞんじもよらず、酒は造られぬ物といえと、又田舎の人、諸寺なんとに、いかにもすぐれたる手酒を造るもあれは、詮する所なるにもあらす、またならぬにもなし。(「萬金産業袋(ばんきんすぎはひぶくろ)」 三宅也来) 享保年間の出版だそうです。 


剣菱と大関
昔からある酒の銘柄といえば「剣菱」だから、歌舞伎古典の舞台の酒樽には、剣と菱のあるあのしるしがついている。しかし、「双蝶々曲輪日記」の相撲場だけは「大関」である。この酒の歴史は知らないが、とにかく相撲の芝居だからなのだ。(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


酒神の多様化
ぼくの祖父も父も大酒飲みだった。明治元年生まれの祖父が、迎え酒をしている姿を一度も見たことはなかった。陽が落ちなければ盃を手にしなかったが、いったん手にすると、膝もくずさず豪快に飲んだ。その点、父は軟弱のきらいがあった。朝、湯「上:夭、下:口 の」みで一合、昼、湯「上:夭、下:口 の」みで二合、夜、湯?みで三合、そして宴席になどに出ると、ベロベロになって眠りこけるのである。父は、義理のつきあいで、歌舞伎座などにしばしば出かけて行ったものだが、客席にいたためしはめったになく、たいてい食堂で酒を飲みつづけているのである。祖父も父も日本酒しか飲まなかった。そして二人とも、老衰で目出度くこの世を去った。祖父は八十三歳、父は七十九歳十ヵ月。あと二ヵ月で八十歳になるというのに、末期の水がわりにワインを飲んで旅立った父は、養子のせいで遠慮したのかもしれない。祖父や父の酒神にくらべると、ぼくの酒神は手のつけられないくらい軟弱で、二日酔い、三日酔いはザラなのだ。これはひとえに、日本の戦前戦中戦後の社会が、そのラディカルな近代化によって、政治的経済的諸矛盾とともに酒神もまた多様化されて、日本の米の神さまと、欧米の麦と葡萄とジャガイモの神さまとが、わが体内で文化闘争を演じるせいだと思われる。(「酒神とともに」 田村隆一) 


長命
親切な判事が、いつも酔っぱらいで捕っているクレイグを親友の医者のところ送った。医者は、クレイグを診察した後、酒をやめなければ長生きできない、と忠告した。クレイグはしばらく考えていたが、首を横に振って言った。「いんや、そんなこたあねえぞ。年寄りの医者と年寄りの酔っぱらいとでは、酔っぱらいのほうが、ずっと多いもんな」(「ポケット・ジョーク」 植松黎 編・訳) 


酒場との相性
最近は大手の資本をバックにしたバーが増えてきているが、そういう店は、いずれもよく計されて、すべてよくできてはいるが、隙(すき)がなさすぎて、通う気にはならない。カッコをつけない店や、カッコをつけていても、どこか抜けている店のほうが楽しい。長年続いている店は、あまりキチンとした店より、一生懸命だが、どこか頑固でおかしな店が多い。酒の店は、あまり一生懸命ばかりでも窮屈だ。酒場との相性は、人間同士の相性と同じで、理屈では割り切れない。ある人が好む酒場は、ある意味ではその人間の生きざまの鏡のようなものだ。(「銀座の酒場 銀座の飲り方」 森下賢一) 


一月五日(東京)
天皇は、正十二時、広間にお出ましになり、まず式辞を読まれたが、その中で、諸外国代表者とこの席に会する喜びを述べられた。これが英語に翻訳される。次に桂首相が答辞を述べ、その後で、外交団主席がフランス語で祝辞を述べる。普通はフランス語が宮廷語とみなされているのに、日本の宮廷で英語が採用されているのは、特異のことである。このかん、全員は起立している。次いで、天皇は着席され、他のものも続いて着席する。宴会は純日本式で、紐飾りの付いた服装の給仕が銀瓶から注ぐ一杯の酒で、例のように始まる。それから、各自の前に黒い漆塗の盆に盛って並べてある料理に手を出す。皇室の紋章入りの酒杯は、各自が記念品として、持ち帰ってよいことになっている。(「ベルツの日記」 トク・ベルツ編 菅沼竜太郎訳) 明治三十八年です。 


天界
ユダヤ教では、タバーナイルの祭り(先祖の荒野放浪を記念する秋祭り)の最後の日はどんちゃん騒ぎが行われる。この日だけは教えに忠実な祭司もちょっとはハメをはずしても大めにみられることになっている。そこでこの日、一人の信心深いラビが、やはりちょっと飲みすぎてしまった。千鳥足で帰宅の途中、彼は橋の上で立ちどまって眼下の流れを眺めた。なんたることだ、彼は見たものを信じることができなかった。彼は欄干から身を乗り出して再び見つめた。まちがいないい!そのとき、一人の警官が酔っぱらってふらふらしている老人が橋の欄干からいまにも落ちんばかりに身を乗り出しているのをみて叫んだ。「どきなさい。その手すりから離れなさい」警官はそのとしとったユダヤ人の老人は素直に警官の言葉にしたがった。「それでいい。爺さん、ここは見逃してやるから家に帰りなさい」警官がいった。「それにしても恥ずかしくないのかい。いい歳をしてそんなに酔っぱらっちまって」「すいません、お巡りさん、すぐ帰りますじゃ。だけどひとつだけ教えていただけませんかな、あの下で光っているものはなんでしょうな」警官は下を見た。そこには月が映っていた。「月ですよ」警官がいった。「やっぱりそうじゃったか」老人はいった。それから恍惚とした様子で天をみあげた。「ヤーウェの神さま感謝いたします。わたしがこんなに高くまであがらせていただけるとは思ってもみませんでした」(「ポケット・ジョーク」 植松黎 編・訳) 


醒酒茶
名称:混合茶
原材料名:蓮の葉、プーアール茶、サンザシの果肉、熊笹
お召し上がり方:1回分10gを500mlのお湯で5分間煎じるか、又は3分蒸らしてからお飲み下さい。
高輪の薬日本堂鰍ノありました。 


きこしめす
「メシ(飯)」のもとは「召す」なのです。そして「召す」は食べることばかり言う言葉ではありません。「お召し物」というように着物を着ることも「召す」です。時代小説がお好きな方ならご承知でしょうが、昔は切腹することを「腹を召す」と言いました。酒を飲むことも「召す」なのです。辞書にも「御酒を召していらっしゃるようだ」という用例が載っています。最近はちょっと聞かなくなりましたが、「きこしめす」という言葉があります。私が新聞社に勤めていたころは、昼間のパーティーにでも招(よ)ばれて、少し飲んできたのでしょう、赤い顔をして社に戻ってきた先輩記者を、「おや、ご機嫌ですね。だいぶきこしめしてますね」などと言ってからかったものです。先輩も、「おう、しっかりきこしめしとるぞ」と大声で言い返してくる、というありさまでした。「きこしめす」は「飲み食いする」ことを言う古語です。(「食べる日本語」 塩田丸男) 


勘太郎
昭和のはじめごろ、歌舞伎座の三階で見ていたら、相撲の呼び出しの勘太郎が、ベロベロに酔っぱらって見ていた。見ていたというより、泥酔のため、ものうそうで、たいして熱心に見てもいないようなふうだった。それだのに、きまり、きまりには「チャッ」とかなんとか声をかけている。土俵で長年きたえたのどだからよくきいていた。(「侍従とパイプ」 入江相政) 


厄払い鯉の放流
厄年の男女が鯉にお神酒を飲ませて川に放す奇習「厄払い鯉の放流」が7日、富山県砺波市の庄川で行われた。鯉に厄を託す行事は、江戸時代後期に始まったとされる。今年は、地元の数え年25歳と42歳の男性、33歳の女性計18人が和服姿で参加。金屋神明社でおはらいを受け、黒い鯉の口にお神酒を注いで川に放した。地域おこしのため、氏子以外の参加者を初めて募り、県内外の12人が選ばれた。愛知県刈谷市の会社役員三森康史さん(41)は「トヨタショックで大変なので、景気が良くなるよう願をかけた」。鯉の滝登りのように、景気が上向くか?(読売新聞 おあしす 2009年1月8日) 


酒は旨いなぁ
あたしは毎度のごとく水で薄めようとして、ふと「もうそんなに長く生きらんないのに、水で薄めちゃかわいそうだな」って思ったの。この頃はほとんど臥せっている状態だったし、何か感じるものがあったんでしょうね。ちゃんとしたお酒を飲ませてあげようって、吸い飲みに日本酒を八分目ほど入れて。「飲んだら胸焼けして、大変になっちゃうかもしんないよ」って言ったら、「うん、いいよ、いいよ。胸焼けたって、胃酸飲みゃいんだから。何でもいいや」そいで、全部きれいに飲んで、言ったんです。「ああ、酒は旨いなぁ。やっぱり酒は旨いよ」「じゃ、もうそれで寝てね」「うん」つって、お父さんは横になりました。それから一時間くらいして様子を見に行ったら、お腹あたりんとこに何か茶色いもんがくっついていたの。あ、やっぱりお酒飲んだんで、吐いたなと思って。実はそれ、血だったんですよ。けど、茶色くなっていたから、わかんなかった。お父さんは眠っていたんですが、「汚しちゃったね。悪かったね、気づかなくって」って言いながら、浴衣取り替えてやって、あたしも隣の布団に入ったんです。朝になって起きたときも、お父さんはまだ眠ってるようでした。あたしはいつも通り、お掃除してから、お茶飲んでたんです。で、奥の部屋に寝ているお父さんに、「今朝、何食べるぅ」って聞いたんですが、返事がない。よく寝てるなと思いつつ、とりあえずおしめだけでも替えようとしたら、何か変なんですね。冷たくはないけど、肌の温かさがちょっと違うんです。これはおかしいと、「お父ちゃん、お父ちゃん」つって呼んでも、起きないの。結局そのまま二度と目を覚ますことはありませんでした。でも、全然苦しまずに逝ったからよかったですよ。大好きなお酒も飲めたしね。最後の言葉が「酒は旨いなぁ」だなんて、本当にお父さんらしいって思うんです。(「三人噺」 美濃部美津子) 


アルキロコス
ギリシア抒情詩はパロス島出身の前七世紀の詩人アルキロコスに始まる、とされている。古代において時にはホメーロスにも比肩するものとさえ見なされ、その闊達豪毅な詩風と痛烈な風刺、悪罵によって詩名が高かったこの詩人として三篇ほどの酒の詩(の断片)が伝わっている。その一つは
槍により 俺は得る日々の糧
槍により 俺は得るイスマロスの酒
飲むもまた 槍に凭(よ)りてぞ。
という一篇である。貴族の諸子として生まれたとはいえ、貧しかった詩人は、身一つを養うため、一筋の槍に日々の生活と命とを託してあちこち転戦して歩く傭兵としての境涯に身を置かねばならなかった。彼の飲む酒は、文字どおりその命を賭し槍を振るって得たものであった、安穏のうちにゆるゆると汲む酒ではない。(「讃酒詩酒」 沓掛良彦) 


アンツルさん
かと思うと、六十九連勝の双葉山も好きであった。「双葉山定次は、当時の、わたしの、生きていく上の、ある支えであったといっていい」アンツルさんは、誰はばからず、こう言ってのける。昭和十四年一月十五日、双葉山が安芸ノ?に負けた夜、銀座からヤケ酒を飲みはじめて、浅草まで飲みつづけ、とうとう吉原へ行って、そこで「串平」というおでん屋に入る。この店へ、以前、双葉山が来た時、小さな椅子ではこわれるからと、主人が、アームの付いた丈夫な椅子をわざわざ買って用意したそうだが、アンツルさんが入ってくると、主人は黙って、奧にしまってあった双葉山の椅子を運んできて、「さ、掛けておくんなさい」と、言う。アンツルさんは、その双葉山の椅子に掛けて、明方まで飲んでは泣き、翌日は目がはれて、会社を休んだそうだ。アンツルさんは、安藤鶴夫をもじって「感動する夫」とあだ名されたほど、感動家であった。双葉山の七十連勝がくずれ去った時、アンツルさんは、どんなおもいで泣いたのであろうか。(「名手名言」 山川静夫) 


献(こん)
【献の事1】一こん(献)・二こんと云うを一盃・二盃の事と心得たる人、あやまりなり。何にても吸物・肴などを出して盃を出すは、一こんなり。次に又吸物にても肴にても出して盃を出す、これ二こんなり。何こんもあくの如きなり。一こん終れば、その度ごとに銚子を入れて、一献毎に銚子をあらためて出すなり。何こんもこの通りなり。
【2】酒を一盃・二盃と云うは、今時の人の詞なり。古(いにしえ)は一度・二度といいしなり。かわらけに二度入・五度入などと云うも、三ママ盃入・五盃入と云う意なり。(「貞丈雑記」 伊勢貞丈) 


注文の仕方
私が五,六人で小料理屋へ行ったときの注文の仕方は、刺身と吸物を人数分だけ取り、あとは品書きにあるものすべてを二品か三品ずつ頼む。そうやって、出てきたものを見て、好きなものを食べてもらう。案外に酢のものが嫌いだという人がいたりするものである。また、そうやったほうが楽しいのであり、料理が余ってしまうこともない。もっとも、これは親しい人たちだけのときにかぎられるが。 (「旦那の意見」 山口瞳) 


ウロキナーゼ
アルコールの中でも最近とくに注目を集めているのが赤ワインであり、日本酒は隅のほうに押しやられた感がする。だが、日本酒にはワインよりはるかに優れた要素が含まれていることが明らかになってきた。それは、日本酒には血栓を溶かす働きがあるウロキナーゼという酵素を増やす作用があるというのである。倉敷芸術科学大学の須見洋行教授によると、血管の内側の細胞(内皮細胞)に微量のアルコールを加えたり、日本酒を実際に飲んでもらうと、内皮細胞のウロキナーゼは三倍以上に増え、飲酒寺の血栓を溶かす力は1.7倍に高まることが明らかになった。ただし、この薬効は、1日のアルコール量で30〜60グラムくらい、日本酒では1〜2合が効果的で、回数は週に1〜2回が有効とのこと。また、常飲者は、血栓を作る引き金になる血小板の働きが抑えられており、急に禁酒すると2週間ぐらいでリバウンドが起こり、血栓が形成されやすくなる。禁酒する場合にはだんだんと回数を減らすほうがいいらしい。また、須見教授は、ストレスを与えたラットにほろ酔い程度のアルコールを飲ませると、胃潰瘍の発生を抑える効果が顕著に見られたという。しかもこのアルコールによる胃潰瘍予防効果は、いろいろなアルコールの中で日本酒が一番で、ワインの約5倍もあった。(「思いっきり体に効く話」 石川恭三) 


お屠蘇を全部
私の父は、奈良漬けをひと切れ食べても赤くなるというほどの下戸。父親が晩酌するなんてシーンは、テレビや映画で初めて見た。母も、嫌いではないらしいが、実力は伴わない。これもお猪口一杯、多い時で二杯で出来上がる。そんな家庭環境だから、食卓にお酒が載るのはお正月だけである。私が生まれた時、すでに六十歳という高齢だった父は、私がもうすぐ九歳の正月には、病を得て、来年のお正月は一緒に祝えるのだろうかと心配になる状態だった。両親と私、三人の最後のお正月かもしれないと思うと、三段重ねのお屠蘇の杯の一つが使われないままなのは、どこか寂しい気がした。「私にも、お屠蘇飲ませて」もちろん、来年、家族が揃っているかどうか心配だからなんて言わなかったが、両親はわかったのだろう。しばらく考えて、私の手に一番小さな杯を持たせてくれた。大きな杯が父。底の方にほんの少し。真ん中の大きさの杯は母。これは半分くらい。私のは小さいから注ぎにくかったのか、けっこう入った。どんな味なのか緊張して、神妙な顔つきで飲んだ。そんな私を、父は何かを確かめるように覗き込んでいた。「なんだ、甘いんだ」結局、残ったお屠蘇を全部飲んで、別段何の変化も起こさず、ケロッと遊んでいる私を見て、父は嬉しそうにしていた。「お前、お酒がつよいんだな」よかったな…という含みがあるような言い方だった。おそらく、男性なのに飲めなくて、父は苦労したんだろうと思う。父のそのひと言が、その後の私とお酒のつきあいを決定づけたかなという気もする。(「斗酒空拳」 吉永みち子) 


正月の酒
正月と酒はつきものである。よしあしの論議は、先刻承知しているが、酒飲みにはどうにもならない。三が日は、朝からさかずきをふくんでも、心にとがめぬところがうれしいし、客に一口すすめることができるのもおおどかな気分である。クリスマス騒ぎで徹夜したわけではないし、一年に一度われら中年者にもそのくらいのたのしみはあってもよろしかろうと思う。元旦の酒は、まず目を酔わせる。よい天気ならば、なおさらのことである。そんな時に、笛と太鼓のはやしを先触れに獅子舞いが飛び込んで来たりすると、実にまぶしい思いをする。昔三河から出てくる万歳は、途中才蔵市というのに寄って、かっこうな相手を選んでコンビを組み、それから江戸の町々を回ったものだという話を先日聞き、なかなか面白いと思った。しかし、万歳も獅子舞いもすたれたものだし、たまたま回ってきても品が落ちた。三が日楽しめば、われわれにしてもちょっと酒を断ちたい気持ちになる。はたで心配したり、そしったりするほどのことはないのである。(「カレンダーの余白」 永井龍男) 


屠蘇散
薬迄(まで)春は目出たくのんでさし まことなりけりまことなりけり
薬を飲むなどということは、あまりめでたがらぬものであるが、新春の屠蘇散(元旦に、酒を浸して飲む薬。一年の邪気を払い、寿命を延ばすという)だけは、薬なのに、めでたく新年を祝って飲み、また人にも指す。 元旦に目出度(めでたく)遣(つか)ふさじかげん(安永六) ○春=新年をいう。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


お屠蘇カクテル
結局「これが一番おいしいね」と意見が一致したのは、シンプルな「御屠蘇のシャンパン割り」だった。甘さや香りがほどよくなり、見た目も派手で、めでたさ倍増である。これは、お正月カクテルとして、かなりイケているのではないだろうか。ホテルの新年メニューにだって採用されるかもよ!と自画自賛しあう私たち。もちろん、たまたまベビーシャンパンがあったので、こうなったが、安いスパークリングワインでも十分だろう。来年のお正月は、俵家でも、この「お屠蘇シャンペン」で乾杯してみようか。(「百人一酒」 俵万智) 


パリの新年
十二月三十一日の守護聖人はサンシルヴェストルというので、フランスではサンシルヴェストルの日といえば大晦日のことを意味する。この日はどこのレストランも特別のディナー・メニューを組み、夜中まで店をあけている。なかには、午後八時から午前零時まで、と、午前零時から午前四時まで、との二回にディナー・タイムを分けて、つまり明け方までドンチャン騒ぎに場所を提供している店もある。メニューは店によって違うが、まず前菜に生ガキ一ダース、それから鴨のローストだとか仔牛の丸焼きだとか、とにかく派手な料理を食い、シャンパンを飲んで、叫び、歌い、バカに騒いで新年を迎えるのである。午前零時には全員が総立ちになり、抱き合って祝福する。道路では一斉にクラクションが鳴り、道行く人々は誰彼かまわず抱き合ってキスをする。もちろん口唇対口唇ではない、頬への挨拶キスだが、それでもパリジェンヌにキスができるのはうれしいと、私も友人と連れ立って毎年のように繁華街へ繰り出して午前零時を待ったが、どうも外に出ているのは男がやたらに多いようで、たまに女性がいると零時前からその周囲には人だかりができているのだった。しかしとにかくそんなふうにして、新しい年を迎える。そして元旦以降は、クリスマス以来の散在で軽くなった財布と二日酔いで痛くなった頭を抱えて、ただひたすらゴロ寝するのがパリジャンの正月の過ごしかたである。私も一度大晦日の晩から元旦の明けがたまで飲み続け、そのままなにがなんだかわからなくなって道路に寝てしまったことがある。気がついたらもう昼過ぎで、ひどく寒かったが、隣にもう一人、寝ている男がいる。見れば乞食である。私が起き上がるとその乞食も目を覚まし、私に向かって、「ボンナンネ(新年おめでとう)」と挨拶した。(「食いしんぼグラフィティー」 玉村豊男) 


万歳
正月には万歳が来た。太夫は皆三河から来たが、才蔵は才蔵市で雇うのであった。その頃は各大名屋敷とも万歳を呼んだ。私の藩主は勿論私の内も呼んだ。但し君侯へ出る万歳は大小をさしている格のよい万歳であったが、私どもの内へ来るのは一刀であつた。万歳にもそういう地位の差等があつた。君侯でなくとも歴々の者は二刀を呼ぶのであつた。私どもは内の万歳を見る外に、よその万歳も見て歩いた。万歳の尻には子供は勿論大供も跟いて行った。才蔵は随分しつこく戯れたもので、そこに居る若い女などにからかい、逃げ出すと勝手向までも追掛けて行くこともあった。舞が終ると、内では膳に米を一升盛り、銭を包んで添え、そしてちょっと屠蘇を飲ませた。(「鳴雪自伝」 内藤鳴雪) 


初買(文化元 腰巾着)
二三人寄り合、さかもりを始め、皆生酔となり、「ナンと今年はまだ初買に行かぬが今からこの元気で行こうじゃアねえか」「こいつは良かろう」と、すぐに打つれ出、柳橋から猪牙にのり、「なんと、こう出たところは、どうも云えぬいい心持だ、堀まで一ト寝入りやらかそう」と三人ながら、ぐっと寝てしまううち、舟は堀につく。船頭「舟が着きました」「オイオイ、時にみな酒がさめた」つれの男「おいらもさめた、何と正月そうそうから女郎買いでもあるめえ、是から内へ帰ろう」「いかさま酒がさめたら帰りたくなった、すぐに此舟で帰りやしょう」「それがいい、時にこの三人で、まア一両がら助かったというもんだから、祝に一升いれて、舟でのみながら帰りはどうだ」「コリャ面白い」と酒肴を調のえ来り、舟にのり漕ぎ戻す。大川橋あたりへ来て、「ホンにわすれた。船頭殿も一つ飲まっし、サアつぐぞ、二三ばい続けてやらかしねえ」船頭「ハイ有難うございます、大きに酔いました、サア上げましょう」「オットオットこいつは、いい慰みだ」と、さえつおさえつ一升徳利をあけて仕舞い、「ごうてきに面白くなった。時に折角思いたって出かけたものを、帰るでもあるめえ、のう船頭どの」船頭「左様さよう、また堀へ漕ぎ戻しましょうか」「しれた事よ、ナニかまう事はねえ」と夢中になり、さっさ押せ押せ、今戸河岸までも、やとさのせ、やとさそせと浮れたちて漕ぎ戻す内、川風にふかれて、堀へいった頃、また酒の酔がさめ、「オヤここは何処だ、また堀へ来たか、さア酒はさめるし是から帰ろうか」「それがよい、おいらも内に用がある、船頭どの、あの又もどして下され」船頭「そうはなりませぬ」みなみな「なぜならぬ」船頭「まだわしが醒めやせぬ」  [初買]正月早々女郎買いすること。 [柳橋]台東区柳橋、この河岸には吉原行きの船宿が多く並んでいた。 [猪牙]船宿から出る、スピードのある小舟の名。吉原行きにはこの舟が一番よく使われた。 [堀]台東区浅草山にある山谷堀の略。吉原行きの舟はこの堀へつけた。 [さっさ押せ押せ]押せば港が近くなるという、流行歌の一節。 [大川橋]今の台東区から江東区の間を流れる、角田川にかかる、吾妻橋の昔の名。(「日本酒物語」 二戸儚秋) 

竹光
神田辺を折助が酒に酔つた千鳥足を、子供がはやして「ヤイなまゑひ、やいべらぼうめ」と笑ふをきいて「なんだ生酔だ。うぬ、いつ酒をのませた、おれが好きでおれが飲むに推参なやつだ」「推参もすさまじい。折助やい、うろまやい」とはやす。「おう了簡がならぬ。子供マツ二つにするぞ」と脇差にそりをうつと「ワアイ切れるなら切つて見ろ抜けやい抜けやい」といふゆへ、こらへかねてスラリと抜けば竹光。「それ見やアがれ。それで切れるものか。やアいやアい」と笑へば「なに、うぬら、片ツはしから、とげをたてる」(無事志有意・寛政十)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


ロバ
健康管理の講師が会場の人々に質問した。「さて、この壇上にビールの入ったタルと、水の入ったタルとがあると仮定して、ここへ一匹のロバを連れてきたとします。するとロバはどちらをとるでしょうか」すると一人が答えた。「そりゃ水ですとも!」「どうしてロバは水を選ぶんでしょう?」「どうしてって、そりゃ馬鹿なロバのすることですもの」(「ユーモア辞典 参」秋田實編) 


久木田社長
細見 いえ、そんなことはありません。当社(宝酒造(株))の前々社長は、一滴も飲めなかったんです。鹿児島の出水(いずみ)の出身です。
大河内 ああ、いいことを聞いた。
細見 今のお話をうかがって、あの社長も鹿児島だったからずいぶん苦労されたんだなあ、と思いました。久木田という社長ですが、ぬらしたおしぼりを手に持っていまして、そこに流すんです。
大河内 それはいいことを聞いた。盃洗は目立ちますからね。
細見 ところが匂いがしますから、しょっちゅう芸者たちにおしぼりを替えさせていました。舞妓に水と酒の入ったお銚子を両方持たせて、お得意様にはお酒をすすめて、お流れ頂戴という時には、舞妓が水のほうのお銚子を社長に差し出す。これをぐいっと飲んでいた。一、二年はやっていたんですが、ある時に舞妓が間違えまして、お客さんのほうに水を注いでしまった。
玉村 長年の苦労も「水の泡」というやつですね。(「下戸の酒癖」 玉村豊男編) 


アンツルさん
かと思うと、六十九連勝の双葉山も好きであった。「双葉山定次は、当時の、わたしの、生きていく上の、ある支えであったといっていい」アンツルさんは、誰はばからず、こう言ってのける。昭和十四年一月十五日、双葉山が安芸ノ?に負けた夜、銀座からヤケ酒を飲みはじめて、浅草まで飲みつづけ、とうとう吉原へ行って、そこで「串平」というおでん屋に入る。この店へ、以前、双葉山が来た時、小さな椅子ではこわれるからと、主人が、アームの付いた丈夫な椅子をわざわざ買って用意したそうだが、アンツルさんが入ってくると、主人は黙って、奧にしまってあった双葉山の椅子を運んできて、「さ、掛けておくんなさい」と、言う。アンツルさんは、その双葉山の椅子に掛けて、明方まで飲んでは泣き、翌日は目がはれて、会社を休んだそうだ。アンツルさんは、安藤鶴夫をもじって「感動する夫」とあだ名されたほど、感動家であった。双葉山の七十連勝がくずれ去った時、アンツルさんは、どんなおもいで泣いたのであろうか。(「名手名言」 山川静夫) 


酒買ってこい
ご存じだとは思いますが、お父さん(五代目古今亭志ん生)は七十一んときに脳溢血で倒れたんです。巨人軍の優勝祝賀会に呼ばれたときでね、一席終えてから食事するという約束だったんですが、先方の都合で噺と食事が一緒に始まっちゃったの。そうすっと皆、食べることに集中するじゃない。で、カーッとなって、高座でひっくり返っちゃった。お医者さんに「もうダメだ」って言われて、皆覚悟を決めたんですが、翌朝持ち直してね。そんときに言った台詞が、「酒買ってこい」。それどこじゃなにのにね。それくらい好きだった。ども倒れてからは、なるたけお酒を控えさせたかったんですけど、お父さんが聞くわけありません。だからあたし、お酒を水で薄めたんですよ。もちろんお父さんには内緒でね。そうしたら、こうクッて飲んで、「近頃の酒は水っぽくなったなぁ」「そうなのよ、やっぱり時代が悪くなったのかね、昔と違って」知らん顔して答えてやったんです。お父さん、腑に落ちないって顔をしながらも、黙って飲んでた。これはいけるってんで、それからずっと薄めていたら、ある日、また、言い出した。「やっぱり、どうも水っぽいよ」「お父ちゃん、今まで特級酒飲んでたでしょ?特級じゃ身体に悪いから、一級酒にしたのよ。だから、ちょっと薄めなんだよ」「ふぅん。そうかい」そうして、お父さんは亡くなる前の番まで、水で薄めたお酒を飲み続けたんです。(「三人噺」 美濃部美津子) 


ビール六本
○内田百閧ウんが料亭でビールを飲み食事をした。百閧ウんが内儀に言った。「この店のビールはうまいから帰りに六本包んでくれ」 (「旦那の意見」 山口瞳) 


論理
親友のお通夜に行ったマイクは、哀しみのあまり酒をがぶ飲みし、前後不覚に酔っぱらってしまった。これを見かねた葬儀屋が気をきかし、葬儀場の片隅にあった空の棺桶の中にマイクを寝かせた。翌朝早く、目を覚ましたマイクは、辺りを見て驚き、痛む頭で必死に考えた。「もしおれが生きているなら、何だって棺桶の中にいるんだろう?もしおれが死んでいるのなら、どうして小便に行きたいんだろう?」(「ポケット・ジョーク」 植松黎 編・訳) 


二百種のスコッチ
有楽町にあるデパートの地下の食料品売り場を初めてのぞいた。酒呑みだから、そういう所でも、ついつい酒の売場に行ってしまう。そこのウィスキー売場をのぞいてみて驚いた。スコッチウィスキーのシングルモルトが二百種類ぐらいズラリと並んでいたのだ。最近は国産ウィスキーもシングル・モルトを出しまじめたが、なんとなく、常識として、ウィスキーというものはブレンドされたものという理解があった。だからモルト・ウィスキーそのものが日本では、ほとんど知られていず、せいぜい外国の空港の免税品店によくあるグランフィディック位にしか馴染みがない。それが、ハイランド物、ローランド物とりまぜて二百種もあったのだ。このハイランド、ローランドという分類はスコットランドの地形のことで、ネッシーでお馴染みのネス湖のあるあたりから北の高地がハイランドだ。グラスゴーまで下がると低地である。味はというと、高地の物の方がややコクがあって重い。もちろんそれぞれの銘柄が異なった味だ。これをブレンドしてシーバス・リーガルだのバランタインだのオールド・パーだのを作るわけだ。ここまでは本当の話。これからが思いつき。二百種の高地低地とりまぜたモルトの瓶を前にして、ふと思ったのは、こいつらを自分で勝手に混ぜあわせて、オリジナル・ブレンドのスコッチを作ってみたいということだった。 (「食わせろ」 景山民夫+山藤章二) 


日本禁酒同盟会の始め
安藤太郎、領事として、北米布哇(ハワイ)にあり、基督教の洗礼を受け、明治二十一年、禁酒会を創設し、同二十三年、内地にはじめて、日本禁酒同盟を組織せり。これを本邦禁酒同盟の祖とす。その任地にありしとき、ときの逓信大臣榎本武揚等より、日本酒二樽を贈らる。安藤氏夫人その樽を打ち破りて、掃き溜めに棄てしといふ逸話、同人間に喧伝さる。安藤氏大正十三年十月二十七日歿す。(安藤太郎氏昇天記念)明治十八年八月『団珍』、流行四大会社とて、羅馬[ローマ]字会、束髪会、節酒会、囲碁会をあぐ。(「明治事物起原」 石井研堂) 


赤とんぼ
わたしのところに、佐藤(春夫)さんの色紙が、たった一枚ある。芸術院会員になられた時、いただいたものだが、この旧詩は、わたくしが特にお願いしたものである。
酔生夢死
(赤とんぼ 小春日に酔へるなるべし)
肩に来て 人なつかしや 赤とんぼ 杖を 立てれば 杖に来て 山の径(こみち)に 逃げもせず 踏まばふむべし (「歴史好き」 池島新平) 


酔人法
もう一つは酔(ツイ)という方法で、車海老や蟹の料理に使われる。酔蝦(ツイハー)というのは、車海老の頭と脚をちょんぎって、生姜と葱を加え、その上から紹興酒を相当量そそいで、約五分間、酒がよくしみるまでつけておくだけである。いつだったか、こういう海老の食べ方があると吉田健一さんにお話ししたら、吉田さんは酔いのまわった赤ら顔を火星人のように綻ばせながら、「そいつはさぞうまいだろうなあ」と嘆声をあげていた。人間があえない一生を終るのは、神様が人間を料理するせいであるかどうかは知らないが、仮にそうだとすれば、これも一方法であって、人間は海老と違って、絶えず風呂に入って垢をおとしているし、死ぬ時も体をきれいにするようだから、洗う手間も省けるというものである。生涯を酒に酔って暮らすのは案外自然の摂理に叶っているかも知れず、こういう人生を酔人法と呼べないこともない。(「象牙の箸」 邱永漢) 


十二月十五日
朝六時、大磯に赴き、正午に帰京して、青木、ハッツフェルト両家の結婚式に、かっきり間に合った。ドイツ公使による戸籍上の挙式で、公使は戸籍吏の役目を務めた。首相桂伯爵は、結婚立会人として出席していた。祝宴の後で自分は、伯がその心労と激務にもかかわらず、依然として元気で快活な様子であることは、同慶のいたりであり、また政党が伯を悩ますことのはなあhだしいのは、遺憾にたえないと、伯に述べた。「だがね、今日はうまく行くよ」と、笑って胸をたたきながら、伯がいった。「政党との折合いは、この胸一つにありさ。政党は、政府の予算に対する質疑を、ほとんど全部撤回したんだ。この足で、すぐ議会へ出るが、そこで万事は、すらすらとはかどるよ」と。そのとおりだった。最初は、すこぶるきびしい態度をみせていた二大政党も、完全に妥協してしまったのである。だが、租税は重い。地租は、宅地が二倍、耕地が五割の値上げとなった。その他に塩専売、関税引上げ、営業税、増税のビールとアルコール飲料税、所得税、相続税があり、それに通行税までが加わるのだが、この通行税は、電車の場合には、総収入の三割五分を下らぬ額に達する!!(「ベルツの日記」 トク・ベルツ編 菅沼竜太郎訳) 明治37年です。 


南柯(なんか)の夢
【意味】夢。転じて、はかないことのたとえ。広陵(江蘇省の揚州を中心とする土地をいった)の淳于?(じゅんうふん)という人が、邸内に古い槐樹(かいじゅ)の下で酔って眠ると、ふたりの使者に迎えられて、大槐安国の南柯郡の郡守に任じられ、二十年を経た。夢からさめて槐樹の下を調べると、穴が二つあって、一つは大蟻が王となって大槐安国に相当し、今一つは南の枝を向いていて、それが南柯郡を意味していたという。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


百両のもとで
この下谷のけころの家に、加賀藩の足軽らしい男が来て遊んで帰った。加賀はいうまでもなく、百万石の前田家で、いまの本郷の東大がその跡地だから広大なものだが、この上野山下の岡場所が近いからであろう。その足軽らしい男がちょいと遊んで帰ったあと、紙入れが落ちていた。女は、それを拾って、あわてて、あとを追って出た。が、広小路の群衆にまぎれてしまって、姿を見失ってしまった。住所でもわかる書き物が入っていないかと女は紙入れをあけてみると、そうしたものはなく、僅かな小銭のほかは、谷中感応寺の富クジが一枚入っているだけだった。しかたがないから、富クジの入った財布は親方に預けておいた。こういう売春婦の切見世は必ず、親方がいる。世界中どこでもそうだが、管理売春である。「そのうちに、また遊びにくるだろう、そのとき返してやりゃいい」くらいに思っていなかったが、いつまで経っても、その男はやって来ない。そうするうちに、富クジの日が来てしまった。富クジというのは、いまの宝クジである。谷中の感応寺の富クジは当時有名だった。忘れ物でも気になるので感応寺へ行った。坊主が長い槍で富札を突く、その様子を群衆にまじって見ていると、なんと、その番号が一ノ富で大当り。百両が当ってしまった。いまと違って、新聞やTVに出るわけでない。ともかく百両受けとったけころ女と親方は、加賀邸にいってこれこれしかじかの男はいませんかと人相をいって探したが、見つからない。分家までいって探したがやはりわからない。加賀家の名をかたったのかもしれないという。同じ足軽でも、百万石と一万石では、モテかたが違うと思ったのかもしれない。その親方は、感応寺とも相談して、けころ女を女房にして、百両を資本(もとで)に酒屋を開いたが、よく繁昌したという。どこまで本当の話かわからないが、山下のけころ女や親方などにも、そういうまともな考えを持った者がいたらしい。(「江戸歩き西ひがし」 早乙女貢) 


寝酒 ねざけ
冬の夜、寒くて寝られないとき、身体を温めるために酒を飲む。これを寝酒というのだが、玉子酒にしたり、ときには熱燗にし。その酔いをかって、こころよく眠るのである。
奉公にある子を思ふ寝酒かな  増田龍雨
なさけなくなる歌よみの寝酒かな  石原八束
快き寝酒の酔のうちにあり 西山惟空
塗箸に酢海鼠すべる寝酒かな  福久清一(「合本俳句歳時記新版」 角川書店編) 


煤払い
しかし、この煤払いはとに角半分楽しみでやるもので、決して腹をたてたりしてはならないし、又すべきでないということになっていた。終ると煤だらけの黒い頭をきれいにしなければならない。 飛びこんで来ようが煤の仕まいなり 煤掃の湯帰りもとの人になり 番頭はじめ一同湯に入ると、晩には祝儀酒が一同に出る。江戸の各商店では店が終ってから遊びに出かける番頭などが多かったらしく、そのためか、今の十時頃になると各自の印をとって、在不在を調べたり、夜中に寝室を巡って突然名をよんで不在をただすといったことが慣習的に行なわれていたらしい。店員たちも油断はできなかったが、この煤払いの夜だけは早寝ということで、名改めや印改めがない。だから店員達にとってこの夜は一番楽しい夜の一つだった。早寝といって寝床の中に各自は一度はもぐりこむものの、しばらくたつと寝床は「もぬけのから」で、皆どこかへ遊びに出かけるといった状態で、主人もこれを大目にみる、暮という忙しい中での楽しい江戸の商慣習であった。(「江戸風物詩」 川崎房五郎) 12月13日に江戸で行われた煤払い(大掃除)行事の一こまだそうです。掃除の終わった後、主人以下を胴上げをする商家もあったそうです。(「江戸風物詩」 川崎房五郎) 


忠臣酒蔵
船橋聖一氏の「新・忠臣蔵」によると、仇討本懐後、回向院が一同を中に入れてくれないので、両国橋際の広場に集まり、神崎、前原の二人が酒屋十兵衛を叩き起こした。見ると隣の米屋五兵衛の前原と、小豆屋善兵衛の神崎なので無下に断ることも出来ず、上戸連は有り合う枡に、一杯二杯三杯と重ね、大ぜいのことだからたちまちにして、一斗樽をカラにしてしまった。心身共に疲れきった同志にとって、この時の一掬の枡酒ほど、うまかったことはなく、また精気を回復するに最適の良薬もなかったそうな、とある。十兵衛が一封(金子二両)を裏返すと、「元禄十五年午十二月十四日、浅野内匠頭家来死骸取捨候方へ酒代」としるしてあったという。泉岳寺に引き揚げてからも義士は酒を供されている。寺社奉行阿部飛騨守の邸から戻った酬山和尚に、大石が一通り吉良討入りの経過を物語り、白粥やお斎の礼を述べると「何を申すも、この寒さ。葷酒は山門に禁制でござれど、今日の場合、さぞお疲れも甚しいことであろう。般若湯を進ぜましょう」粥や飯までは一存にはからえたが、酒までは出せなかった白明は、和尚の許しが出たので、それとばかり、三斗の酒を暖めて、客殿、衆寮へ配給、一同微醺を帯びたと記されている。忠臣蔵は忠臣酒蔵でもあったようだといえそうである。(「日本酒物語」 二戸儚秋) 


神酒流し
佃島と住吉神社とはきってもきれぬ縁がある。その佃島の住吉神社に白魚祭りというのがあった。これは神殿内と海上と両方で行われるもので、白魚漁業をはじめるにあたって、その網入れの儀式、いわば「仕事はじめ」を佃島の漁師達がやるのである。大体白魚漁は半寒、旧暦の十二月二十日前後から旧暦の三月の節句までが主であるから、今の一月十五日すぎ頃から四月のはじめまでになる。この祭事は、佃島の漁師達が家康の命で竹筒に入れて白魚の稚魚をもち下り、これを隅田川に放つ時、住吉神社に無事生育を祈願したことにはじまるという。この祭りは海川に神酒、槙灰、白箸、幣帛(へいはく)を流して神を祭ったから「神酒流し」とよばれ、この日を境に、それまでベラとよび、売買にも一合二合と量っていたのをこの祭りがすむと、正式に白魚とよび、二十筋(古くは二十一筋)を一チョボとよび、一チョボ、二チョボと数えるようになる。この祭り以後江戸っ子は白魚のシーズン来るを知らされる訳である。(「江戸風物詩」 川崎房五郎) 


酒之部
○惣じて酒のつくりやう、大概しれたる事にて、また至てむつかし。家々の流、その「??酉(上下)」人(とうじ)の覚悟料簡は、誠に教下別伝(きょうげべつでん)ともいふへ(べ)し。いかんとなし既に脇男(わきおとこ)として手伝ふ者も、肝心の意味の塩梅は、我と手かけす(ず)しては知かたし。然れば素人のやうやうと升目の調法、詞(ことば)の伝受斗(ばかり)にてはぞんじもよらす、酒は造られぬ物といへと(ど)、又田舎の人、諸寺なんと(ど)に、いかにも風味すぐれたる手酒を造るもあれば、詮す(ず)る所なるにもあらす、またならぬにもなし。(「萬金産業袋」 三宅也来) 


酔態
歌舞伎には、酒に酔ってその酔態を見せる芸がある。明治の名優九代目団十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左団次の三人の名優を俗に「菊団左」というが、この三人の名優にも、それぞれ酔態を見せる当たり芸があった。九代目には「義経腰越状」の五斗兵衛。五代目には「魚屋宗五郎」。そして、初代左団次には「大盃」の馬場三郎兵衛。この三人の酔態には、それぞれ独特の芸の特徴があったようである。酒の飲み方にも人それぞれ、個性があるのと同じである。(「芝居の食卓」 渡辺保) 


私に合った店
私の目から日本酒についてウロコを落としてくれたのは、若い頃、酒田へ呼んで自前の二級酒「初孫」を振る舞ってくれた佐藤の久ちゃんだった。彼は今も同じ港で、完全主義のフランス料亭『ル・ポットフー』を主宰し、食前酒にこれを供する。見事な冷やし方である。盛岡では『南部炉ばた』だ。主人の南部なまりと、店構えと、寄せ豆腐がこたえられない。が、「あさ開」や「七福神」をひしゃくで注がれる気分もそれ以上の店である。いや地酒だけ好物なのではない。京都の『ますだ』で、私はいつも「賀茂鶴」に驚く。私に合った店があり、そして店に合った酒がある。それがみつかるか、みつけられないか、だけだ。ふりかえって、私は東京で酒にひかれるとき、わずか二軒の酒亭しか選んでこなかった、と気づく。他にも魅力の店は多すぎる。しかし、酒の雰囲気を味わうぶんには、大塚の『江戸一』と、神楽坂の『伊勢藤』二軒が近間にあってくれただけでいい。そこで何を呑む?「白鷹」である。「白鷹」は素晴らしいナショナル・ブランドだ。『江戸一』も『伊勢藤』も、酒に合ったじつに飾らない肴を出す。結構な品々であるが、しかし満腹しにゆく店ではない。呑みにゆく店である。そしてこういう専門の酒亭では、私は必ず燗を所望する。燗もまた、そこでは芸術的商品だから。一方、懐石料亭の座敷では、ほとんど、冷やにしてもらう。台所からの距離と時間が、それこそカンをくるわさえる気がしてしかたない。(「ほんもの食べたい」 荻昌弘) 


高千穂神楽
神楽は三十三番あって、夜を徹して行われる文字通りの夜神楽である。なにしろせまい家の中で踊るので、時々見物人は庭まではみ出てしまうことがある。外の見物人は夜半になると焚火をしても寒いので、肩を組みながら、「ノンノコサイサイ」と拍子をつけながら体をゆする。これを「神楽せり歌」といって、夜神楽にはつきものである。三十三番といわれる神楽の中にはおもしろいものがある。「酒漉し(さかこし)」といって、男女二神がざるをゆすって酒をこすところ、例によってかまけざわママ(感染呪芸 かまけわざ)が含まれ、安ママ(産)のまじないにもなるといって、男神が見物人の女性の尻を大根でうったりする。男神は棒をかついで出るのだが、棒の先にはワラズトがつるしてあり、これに小さな餅が入っているので、これを見物人たち撒く。それにヨナガリといって雑炊が配られ、甘酒なども出るので、食事付きの神楽ということになる。(「日本の奇祭」 湯沢司一・左近士照子共編) 宮崎県・高千穂神社の夜神楽で、十二月から一月にかけて行われるそうです。 


十二月十七日(東京)
昨日、川上・貞奴の慈善興行を見に行った。この両人は、日本劇壇の確固たる因襲に、新生命を吹きこむ偉大な功績を立てたのである。特に貞奴は、日本の舞台を女性にも開放させたのである。しかしこれも、貞奴がヨーロッパ巡業を経てようやくやれたことであった。何しろ日本では、女役は、すべて男優により演じられているので(ちなみにこれは、古代ギリシャ劇やシェークスピア劇と全く不思議な類似である)貞奴が一度ヨーロッパで成功を収めてからは、もはや劇壇はかの女を閉め出すことはできなかった。昨日はしかし、かれらは物もあろうに『ベニスの商人』の法廷の場と大詰をやったのである。だが、この試みは完全に失敗だった。こんな試演によりかれらは、その名声を再び失墜する危険を冒しているのだ。こんな企ては、ほとんど全く不可能に近い。すでに俳優の外観全体からして、まさに噴飯ものだった。かれらは長い、黒いまき毛をつけねばならないと考えていたらしいが、その代りにもじゃもじゃの乱れ髪を首に垂らしていた。川上のシャイロックは、最近かれのやったハムレットと同様に滑稽だった。かれはまるで、酒好きでそのため零落した、人の好い日本の町人のようで、短く刈ったゴマ塩の鼻下ひげ(顔一面のひげでなく)をつけ、くしゃくしゃの半白髪で、アルバニア風の服装をし、黒と赤のチョッキにひざまで届く上衣、灰色の長靴下という姿だった!その演技は、シャイロックの冷酷で頑迷な性格をいささかも示すことなく、法廷の場におけるかれの貪欲振りは、半病人の白痴の欲望のようだった。貞奴のポーシャはまだしもましだったが、それも良かったわけではない。彼女は、表情を変化させようとする努力をすら惜しんでいた。アントニオに至ってはまさに悲惨だった。(「ベルツの日記」 菅沼竜太郎訳) 明治36年です。 


酒豪八人衆
六月十日、ヨーロッパから日本の家具の視察のため、デンマーク人デザイナーら八人が来日したが、その案内を担当した神戸の家具メーカーのA氏(三七)は、彼らのビールの消費量に驚嘆した。A氏が目撃した限り、デンマーク人がその日始めてビールを飲んだのは、東京発午前九時の新幹線が新横浜にさしかかったときである。車内販売のワゴン車が一行の席を通った途端、「ビア!ビア!」と一斉に声が飛び、デンマーク人ら八人はハイネケンビールを二缶ずつ買って、軽く飲みほした。ところが飲み終わって五分ほどで一人のデンマーク人が、「次のワゴンは何時ごろくるか」と英語で聞くのでA氏が、「さぁ、三十分くらい後だろう」と答えたところ、「ビュッフェはどこだ」というだれかの声のあと、全員すっくと立ち上がり、食堂車へぞろぞろと移動し、とうとう新神戸に到着する直前まで帰ってこなかった。この間彼らが飲んだビールは一人十本以上。それでもだれも顔を赤くする者はなかった。神戸到着後、買い物に出たところ、「のどが渇いた」と声があがったため、またしてもデンマーク人ら八人はレストランで十五分間休憩した。その間に彼らは小びんのビール三本ずつでのどをしめらせ、さらに「今夜はタタミマットとユカタで日本情緒の宴会をやりたい」とA氏に申し出たのである。そこで急遽、有馬温泉で大宴会となったが、デンマーク人八人はその晩三ケース(大びん七十二本)のビールを飲んで、平然と翌日ヨーロッパへの帰途についた。(「デキゴトロジー」 週刊朝日風俗リサーチ特別局 編著) 


竹の節
○その後、第三十九代天智天皇の御代に、駿河国富士郡に竹取りの翁という物がいて、竹を愛でていた。この翁が竹を切ったところ、その元に一つの節が残り、美しい色であった。そこへ鳥が米を口に含んでやってきて節に入れた。米がしだいに積もって雨露の湿り気を受け、酒になり、よい味になったのである。(一、其後人王三十九代天智天皇御宇、駿河国富士郡竹叟云者愛竹。翁竹切、本一節残。色美也。鳥含米来、彼節入。連々積而後、受雨露潤成酒。味妙也。)(「童蒙酒造記」) 


ろくろ首
「本所に美なるろくろ首が出るといふことだが、嘘かほんか、見届けに行ふではないか」「こりやおもしろい。今から行ふ」と、三升樽をさしない、大盃を小脇にかいこみ、本所さして急ぎ行く。頃は極月(ごくげつ 十二月)、寒気しのぎがたく「ナント金兵衛、おし付、八ツであらう。まづ寒さしのぎに一杯呑ふではあるまいか」「そふもしよふ」と樽を開き酒最中、向ふより十七、八の美なる娘、しづしづとあゆみ寄る。綱平「ヤイいゝ肴が来るぞ。あれがかのろくろ首なら、おせんもはだしだ」などといふ所へ、かの娘、二、三間向ふにすわり「ちと、おあい致しませう」と首をのばす。「これは願ふに幸、さあさあ」と大盃へ並々つぐ。娘「ありがたし」とぐつと引かけ「アゝいゝ気味でござんす」とのどをなでる。「これはうらやましい。ひとしほ楽しみが長い」「アイ、そのかわりに、おからを給(たべ)る時のづゝなさ」(楽牽頭・明和九)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


爆弾酒
先日、韓国の宴会で特殊なお酒の飲み方を教えてもらいました。その名も爆弾酒。まず、ショットグラスにウイスキーをなみなみと注ぎます。次に、そのグラスごと生ビールの大ジョッキに沈めて、これを一気に飲むのです。ビールの喉ごしの中からウイスキーの強い刺激が突然現れるのですから、味わうと言うより精神鍛錬なんでしょうね。友情を深めるために全員が順番にやるのが原則だそうで、韓国駐在の日本人ビジネスマンには必修項目だそうです。あ、しんど。(「もっと美味しくビールが飲みたい!」 端田晶) 


最後の花見
三月十五日、上機嫌の秀吉は、北政所、秀頼をはじめ、西の丸殿(淀君)など、愛妾をしたがえてやってきた。雨つづきだったのに、この日は珍しく晴天、これも太閤の御威光というわけ。花見の道中には、八つの茶屋が用意され、それぞれ知恵をしぼった趣向が凝らしてある。四番茶屋の増田長盛などは、六歳の少年秀頼のご機嫌をとり結ぶために、からくり人形などを用意しているという周到さである。八番茶屋には、町の商店がしつらえてあった。秀吉は焼餅を食って、ならんでいた瓢箪の一つを腰につける。すると、「茶屋のかか、二十ばかりなる二三人、両の御手にすがり、おあし給はり候へ、すまさせ給へとて、笑をふくみかけ申せば、秀吉公もことのほか打ち笑ませ給ひつつ」、茶店にあがって酒宴に打ち興じたと、『甫庵太閤記』は記している。よほど楽しかったらしく、秀吉は秋の紅葉狩を約束して帰城したが、わずか五ヶ月後には不帰の客となった。(「京都故事物語」 奈良本辰也編) 


日本酒の表示
灘でない、よその産地から買い集めた酒でもレッテルには灘の醸造元の名を入れ、「灘の生一本」ということで売り出すのはおかしいと、日本消費者連盟がクレームをつけたことがある。これが発端で日本酒の表示基準が決まり、昭和五十年四月一日から表示の規制がきまった。
「最高・日本一・日本最古」といったことばは比較する根拠がないから使えない。ただし、「酒王・酒の司・酒の横綱」といった表現はかまわない。王様や横綱や何種あってもおかしくないから。「特選(撰)・別選(撰)・特製・デラックス」は同じ会社の中で品質的にランク付けする場合に限る。「超特選(撰)」は、同一銘柄の特級酒の上位のものに限る。「超特級」は使えない。「−受賞・−推奨」という表示はその銘柄に限る。だからある会社が特級で受賞したのに一級にも受賞とつけるなどということはできない。アルコール入りでも「本醸造」と表示できること、罰則規定のないこと、は穴である。(「ことばの情報歳時記」 稲垣吉彦) 


氷頭膾
席につくと同時に、朱盃で冷や酒。湯上がりの渇いたノドに、なんとも快い。さらっとして水でも飲むようだが、まさしく酒。聞けば、地酒の”越乃寒梅”だという。佐々木久子さんが推奨し、幻の名酒とといわれた、あの酒である。文字通りに、冷たいのを駆けつけ三杯。うまい。酒は、体調と雰囲気しだいだ。膳の上は、氷頭膾(ひずなます)。この土地では、これを鮭頭膾(けいとうなます)と呼ぶそうだ。むろん、鮭は地川のもの。氷頭は、鮭の頭部の軟骨で、別名かぶら骨ともいう。透明で、やわらかい。これを薄く切り、二、三日塩漬けにしたあと、甘酢に二日ほど浸すと、膾になる。薄氷のように清澄で淡白。行形亭の氷頭膾はさらに豪華版だ。大根下しに柚子の皮の下したのを混ぜ、甘酢で調味し、これで鮭頭膾を和える。その上に、ピンクパールの魚豆(ととまめ)を散らす。魚豆は、新鮮な鮭の腹子をほぐし、さっと塩茹でにしたもの。だから、外回りは白っぽくなっても、中はドロッとしている。この魚豆は、これから先の献立に何度か登場するが、冬の新潟料理には欠かせない、大事な材料の一つらしい。(「食べてびっくり」 森須滋郎) 行形亭(いきなりてい)は、新潟市にある料理屋だそうです。 


灘中卒
今の中学校は父兄同伴でなくても映画に行けるようだが、私の中学の頃は絶対に一人で映画館や劇場に行ってはならぬことになっていた。私の出身中学は灘中学−今の灘高である。灘高を卒業したなどというといかにも秀才くさく見えるがとんでもない。当時の灘中は大体、神戸一中に入れなかった落第坊主や阪神の酒屋の息子の入った学校で、その連中のなかで最も劣等生だけで構成されたクラスに私はいたからである。(「ぐうたら人間学」 遠藤周作) 灘高 


私がお酒を飲む時
夫(吉村昭)は確かにのんべいである。道楽の中の代表的なものは、飲む、打つ、買う、と言われているが、「おれの場合は、飲む、飲む、飲む、だな」と言うくらい、ただひたすらに飲む。仕事は朝食後九時に書斎にはいり、昼食時に一時間休憩し、夕方六時まで書斎にはいりっ放し。六時に入浴して晩酌がはじまる。まず湯上がりにビールの小瓶を一本、続いてワイン。これは栓を抜いてしまうと味が落ちるので私が三分の一ぐらい飲む。そのあと夫は日本酒を一合か二合、季節、肴、酒の銘柄によって燗をしたり、ひやのままで飲む。食後は、専らウイスキーの水割りで、これは寝るまで飲み続ける。外で飲む時は、四、五軒ハシゴするが、家では酒のハシゴをするのだ、と言う。このコースのうち、私がつきあうのは食事中のワインだけである。食後のウイスキーも、夫は相手が欲しいらしく、酒が飲めなくて酒飲みの女房がつとまるか、と文句を言うが、私はそれからが自分の仕事であり、夫の酒の相手はしていられない。日中は、もろもろの雑用に追い廻されて、ゆっくり机に向かっている暇はなく、随筆ぐらいは書けるが、まとまったものを書こうとすると、何にも、誰にも邪魔されぬ時間が必要で、どうしても夕食後八時頃から深夜までということになる。夫は日中は来客で仕事を中断されることを嫌い、親しい人との約束は大概六時以降にして貰う。すると、お酒の相手もして貰えるので好都合なのだ。しかしそうなると私はお客用の肴も準備せねばならないので、益々仕事ができなくなり、その分、夜の時間に喰い込むことになる。たまに、夫と外出したときに一緒に飲むこともあるが、私は一箇所に腰を落ち着けてゆっくり飲みたいのに、かれは三十分もいると次の店へ行きたくなる。新宿だけで馴染みの店が、この間二人で数えてみて八十七軒あった。まだ忘れているところがあるかもしれない、というから、それらを廻って歩くには、よほどまめにハシゴせねばならないのだ。札幌と長崎にも、ボトルを置いている店が何軒かあるなど、かれの夜の地図は広いのである。それにつきあっていると、こっちはフラフラになり、一足先に帰ることも屡々だ。私が一番くつろげるのは、仕事が一段落したあと、頭にすっかり血がのぼってしまっているので、ぬる目のお風呂にゆっくりはいり、ベッドへブランディーを持ち込んで深夜一人で飲むときである。(「女の引出し」 津村節子) 


冬 廻文
ひえにけさのむかやかんの酒に酔     重方−
家にけさ屠蘇酒さぞと酒に酔(「毛吹草」 松江重頼) 


酒鬼
台北で出会った「酒鬼(チイクエイ)」の顔が、男の声にくっついた。偶然、今読んでいる『干城遺稿』のなかに、明治七年、谷干城が軍をひきいて台湾を侵攻するくだりがあり、辰夫の連想をたすけたらしい。「酒鬼」とは、酔っぱらいのこと、と彼に教えたのは、虹泉の母親だった。(「酒鬼」 嶋岡晨) 


来年の樽に手のつく年わすれ         たづねこそすれたづねこそすれ
忘年会の調子がはずみ過ぎ、用意した酒では、足りなくなって、えいままよとばかり、正月用の酒にまで手がついてしまった。−(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 
 


年わすれよろけて杭(くい)の穴へ落ち        にぎやかな事にぎやかな事
年忘れ(-)に、よほど飲み過ごしたと見えて、正月の門松の用意のため掘ってあった穴へ、ころがりこんでしまった。 けがをしてひつそりとする年忘れ(明和二) ○杭の穴=門松はだいぶ大きな穴を掘り、そこに松を立てて、杭で固定する。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


隠豪屋
横浜には「因業屋」というのがあったが、いずれも頑固な商売振りを見せた。東京銀座(いまの西銀座五丁目あたり)のビフテキ専門店。明治から大正初期にかけて全盛を極め、当時ビステキと称した。大皿に人数分だけ並べ、これを銘々皿にセルフサービスで分け合う。酒は一人一本(正一合)限り。呑助は下戸の友人を引っ張って行き、世に時めく伊藤博文さえも、ここのオヤジには二本目を断られ、その頑固が縁で、店の看板を書かされてしまったという話がある。(「明治語録」 植原路郎) 


店を出す
「上戸の建てたる蔵もなしといふ。上戸は楽しみが多いから、ちと酒を呑んだがよい」「そんなら貴様は蔵を建てたか」「ヲゝ建てたとも。池田屋の蔵も伊丹屋の蔵も、おいらが建てた」「エゝへらず口ばかり。おいらは酒を呑まぬによつて、大晦日が楽だ。そなたの内のやうに掛取が降るとは違ふ」「イヤ蔵はひやうひやくだが、見世をば方々へ出した」「何みせを」「小間物店を(初登・安永九・上戸)」(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


衣を典す
文久二年(一八六二)秋、竜馬が江戸へ潜ってきた。当時、滄浪(そうろう 間崎哲馬)は藩邸を切り回していた。久しぶりの友を迎えて、彼は「会飲ス」る。そして、再会の詩を作った。文中に、つぎのようなくだりがある。お目当ては、これなのだった。「酒ノタメニ衣ヲ典(てん)スルハ俗態ニアラズ 人ニ因(よ)リテ事ニ為ス アニ男児ナラムヤ」盲滅法、暗号解読してみる。「いい相棒といっしょに、デカいことしよう。そやつと飲む酒のためなら、質屋へいこう」エラそうに、ぶたせていただく。この場合の「典」は、「質に入れる」を意味する。「典物」といえば、「質草」をさす。杜甫だかの詩にも、「春衣を典ス」ってな箇処があるらしい。滄浪はまさか、ほんとうに着物をマゲて酒を買ったわけではなかろう。心意気を述べたと愚考する。(「幕末酒徒列伝」 村島健一) 


澄むと濁るの違い 酒の巻
世の中は澄むと濁るの違いにて
 さけ(酒)は止まらず さげ(下げ 落語)はおしまい
 おさけ(お酒)は猩々(しょうじょう) おさげ(お下げ)は少女
 みき(神酒)は左で みぎは右  


宮水井戸場
昭和36年に宮水保存調査会によって、酒造用に使用されている宮水井戸28井戸場、67井について調査した結果、一つの井戸場には1〜数本の井戸が設けられている.大半は直径1.5〜2.4mで井戸の深さは地表面下4〜5m、6mを越える井戸は認められない.井戸の深さに差のあることは、宮水地帯の土地ならびに井戸場の高低にもよるが、それよりも場所によって帯水層に深浅のあることを示している.井戸の構造については、昔の井戸は円形に御影石を積上げていたが、新しい井戸ではコンクリート側管が利用されている。井戸底には玉砂利を敷き、底からのみ地下水が流入するような構造になっている。揚水方法は0.72〜1.5kWhのタービンポンプが用いられ、1.5〜2インチの吸水管を利用するものが多い.井戸の周辺は白砂を敷いて清められ、井戸の中は鏡のようで水は清浄に澄んでいる.(「改訂 灘の酒 用語集」 灘酒研究会) 


飲まなきゃ俗物
河盛 井伏さんはお酒をのみ出したのはいつごろからです。
井伏 大震災後、田中貢太郎さんのところへ出入りするようになってから。僕が文学青年やつれしてたころ。
河盛 学校を卒業してからですね。
井伏 学校を止してからです。飲まなきゃ俗物だといわれるので、飲まなくてはしようがない。(笑)どうしても飲まされた。田中さんは小説を書くときでも作中人物に酒を飲ませなくては、筆がはかどらないというのです。河盛さん、このごろからでしょう。
河盛 そんなことはないですよ。あなたとつき合うようになってからです。井伏さんが飲まなきゃ俗物だというから。(「井伏鱒二随聞」 河盛好蔵) 


アワビ貝の徳利
10年ほど前、京都の寺町を歩いていると、古道具屋に二個のアワビ貝を抱きあわせ、漆で隙間を固め、底に口をつけたアワビ貝の徳利があった。面白いので求めておいた。そのすぐあと、司馬遼太郎さんと陳舜臣さんとでお酒を飲む機会があったので、アワビ貝の徳利に京都の濁り酒をいれて味わってみた。残念なことに、長い間酒をいれておくとにじむのがわかり、実用品というより、どこかの粋人が、片思いなが一つにやろうと百年ほど前に作らせたのであろうし。この酒器に司馬さんからは「わだつみの逢瀬」、陳さんからは「大海密會」の名をつけてもらった。「日本文化と貝」というような展覧会をするときには出品しようと大切にしている。(「食の体験文化史」 森浩一) 


生酔本性違わず
【意味】酔っても、本来の性質は変わらない。 生酔=少し酒に酔うこと。転じて、酔客をいい、大酔いした者をもいう。 【参考】酔って本地忘れず〔御伽草子 酒呑童子〕 ○上戸本性を現わす ○酒に酔い本性忘れず〔毛吹草〕 ○酒の酔い本性違わず<忘れず>
酔って本性顕す
【意味】酔うと、平常は押さえていたことを言動にあらわすので、本心が知れる。【参考】酒は本心をあらわす ○上戸本性をあらわす(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


ザャパン人、バンザイ
井伏 ぼくはつい先日、当時ロンドンにいた労働者階級の一日本人の手記を手に入れました。
河盛 それはぜひ聞かせて下さい。−
井伏 それにつづいて、こう書いています。その日、一月元日にはロンドンに、日本の「レンタイキ」が幾らも揚がり、(レンタイキでなくて日の丸の旗か軍艦旗かと思いますが)街を歩くと行きずりの英国人が、口々に「ザャパン人、バンザイ」と声をかける。ある人は、こちらを大なるホテルへ連れて行ってご馳走をしてくれる。また、居酒屋に連れて行って、飲みたくない酒を飲ませ、仕事師のような者や汚ない身なりの者まで「ザャパン人、バンザイ」と叫ぶ。これには困った。それでこちらも飲ませようというと、こちらの金では飲まぬという。「今日ワ日本ガ、リョズンヲヲトシタカラ、ソノユカイニ、ココロヨリ、ユワッテ(祝って)ヤルトイイマス。ショーガナイ。ソンナニ、エイコクワ、日本ヲ大セツニオモイマス。其ノ日ワ、私ノウレシサ、ココニワ、カケマセン」と書いています。英国人は朝野をあげて日本人に喝采を送り、また、この手記を書いている日本人は、ただ夢見心地になっていたようです。(「井伏鱒二随聞」 河盛好蔵) 日露戦争の際の話だそうです。 


Dアミノ酸
アミノ酸には、成分が同じでも立体構造によって、左手型(L)と右手型(D)の二つがある。静物は、科学的にはほぼ等しい二つのうちL体だけを利用していると考えられてきたが、分析技術の進歩で、D体が様々な生命現象にかかわっていることがわかってきた。
発酵食品にはDアミノ酸が豊富に含まれる。細菌がD体を利用するだけでなく、醗酵の熱などでD体に変わるアミノ酸も多いためだ。ドイツの研究で、熟成したチーズや、焙煎したコーヒーは多くのDアミノ酸を含むことがわかった。関西大の老川典夫教授によると、日本酒にはアラニンやアスパラギン酸などのD体が多く含まれている。一つの蔵元で20種類の日本酒を比べると、糖度、酸味は同じでも、D体の比率が高いと「濃い」と感じた。「鏡の向こう」の陰の存在と思われていたDアミノ酸は、身の回りで様々な役割を果たしているらしい。(読売新聞 2008年12月7日) 


パンの会で飲まれた酒
高村 会計はいつでも石井柏亭がやつてたんです。石井柏亭は非常にそういうことのできる人でね。
高見 何を飲むんですか、酒は。
高村 日本酒が主ですね。洋酒はめいめいが持ってきたりして…。上田敏なんか、凝った酒、持つて来てね。
高見 洋酒ですか。
高村 ええ、ぼくれそのころ、それほどいろんなもの飲んでないのに、上田敏がいろんなものを持つて来て、教えてくれた。
高見 洋酒はどんなものが入つてたんでしょうね。
高村 かなりいろんなもの。リキュールが多かつた。まあ、今日からいえば、ごく普通のもんですよ。
高見 例の赤い酒、青い酒で、青いベルモットみたいな酒がよかつたんじやないですか。
高村 そう。クラレットとか、杢さんの詩にある、金粉を浮かしたアンチツヒつていう甘い酒、あんなのをよく…。それからベネデイクチンとか、シヤトルーズとか、これは上田敏が珍重して飲んでたもんですよ。(「高村光太郎全集」) 聞き手は高見順です。 パンの会の歌  パンの会参加記  


気の合わない同士
問題は気の合わない同士の酒である。気の合わないということもないが、ま、あまり気心の知れない同士でお酒を飲むときである。この「ごく自然に」 という部分で、ほとごと苦労するのである。例えば「おごられ酒」というのがある。しかし、あまり気心の知れない相手である。まず最初、「ま、なんか食べながら飲めるところにしうましょうか」ということになり、縄のれんにはいる。まずおしぼりが出る。双方、手と顔を拭きつつ、首を廻して店内の「しながき」を眺める。「今日は冷えますな。まずお酒といきましょうか」と相手が言う。「結構ですな」と、ぼくが答える。本当は結構ではないのである。ぼくはいつも、なにを飲むにしても、まず最初はビール、と堅く心にきめている人間なのである。それはもうここ十年ぐらい、ずっとそういう方針で人生を生きてきた人間なのである。だが、今日のお勘定は相手が払うのである。わがままを言ってはならぬ。それからもう一つ、お酒を飲む場合は、なんでもいいからなにか一口、おつまみを食べてから一杯、そういう段取りも決めている人間なのである。そうやってぼくは今日まで生きてきたのだ。それなのに相手は、ビール抜き、おつまみ抜きで、いきなり日本酒である。ぼくが十年間、堅く守り続けてきた人生方針が、ここであえなく崩れてしまうのである。情けない。相手は、深く傷ついた当方にはなんおいたわりもなく、「まままま……」などと言いながら湯気の立つ熱いお酒をお猪口に注いでしまう。(「ショージ君のゴキゲン日記」 東海林さだお) 


先生
友人の酒好きが、体調を崩し、思い切って精密検査を受ける気になった。私に「どこで調べてもらえばいいだろう」というから、「君の家のそばで風邪を引いた時に往診してもらう先生があるんじゃないか」といったら、声をひそめて、「じつはその先生、一滴も飲めないんでね」。幸い彼は不安材料なしにおわり、今でもさかんに飲んでいる。(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


バルザック
ある日、本を書き上げたのちバルザックは彼の本を出版している出版社の編集者ウェルデとご贔屓の店「ベリー」で食事をすることになった。ベリーは、その当時パレ・ロワイヤルにある高級レストランだった。この店のメニューには、スープ十二種類、アントレ、牛肉料理十五種類、羊肉料理三十種類、野鳥と猟獣の料理三十種類が常に載せられていた、というから大したものである。この日、バルザックが食べたものは次の通りだった。
各種のオードブル オスタンドの牡蠣 百個 ノルマンディーの舌びらめ ブルターニュの海岸育ちの若羊のカツ十二枚 子鴨とかぶらの煮込み しゃこ(キジ目キジ科の鳥)のロースト脇腹肉二羽分 デザート菓子 梨十二個とほかの果物 食前酒、ワイン、食後酒 コーヒー
編集者のウェルデは、この日、胃の具合が悪く、ポタージュとしゃこのロースト脇腹肉をわずかに食べたばかりだから、前記のメニューのほとんどはバルザックが一人で食べたことになる。しかもこのとき勘定を払ったのは、腹痛を起こしていたウェルデであった。私はこのエピソードを知って以来、バルザックを尊敬すること著しく、それからのちは私の定宿に近い、ブールバール・モンパルナスとラスパイユ通りの交差点に、ねまき姿で立っているバルザックの像の前を通るたびに畏敬の念を込め、一礼するようになったのである。(「美食に関する11章」 井上宗和) 


野見宿弥
聖徳太子、野見宿弥(のみのすくね)、板垣退助など紙幣の肖像にお神酒を供えると、「生得(しょうとく)好き」「大好き(退助)」とご両人はごきげんだが、野見老だけは一向に酔った様子がないので、恐る恐るお伺いをたてると、「呑みの少くねェ」(「日本酒物語」 二戸儚秋) 


酒も取り止め
天明四年(一七八四)一月二六日の会所日記には、
 大浜六郎左衛門がしかけた兎のわなにかかったといった山鳩を二羽献上に来た。昼休み会所に詰めていたので、上様よりお酒を賜った。山筒の者達が手すきになったというので、南山の鹿を捕らえるように言いつけておいたところ、二十三日より二十六日までの間に鹿を六匹、兎を六羽打ちとってきたと差出した。鹿は一匹につき三百文、兎は百文ずつ渡すように驩E衛門へ命じておいた。
山筒の者とは鉄砲の許可を得ている猟師達である。寛政期の大飢饉直前は、このように狩猟漁労の成果がある土地であった。寛政四年(一七九二)三月二五日の記録は、人別改め(戸籍調査)に出役して村々を巡回する藩士達に対する村方の接待が指示されている。これまで香の物のほかに一汁二菜と酒も少々 ではあったが、御倹約中なので、吸物、煮物、香の物も酒も取り止めという。(「伊予小松藩会所日記」 増川宏一、原典解説:北村六合光) 

あつかん[熱燗]
日本酒は、ほとんどが<燗>をつけて飲まれる。五〇度前後が適温であるが、寒いときは七〇〜八〇度にも燗熱を上昇させることもある。→冷酒
熱燗の機嫌を妻の気に入らず 松尾 黒x
熱燗やときに言語の火花あり 井沢 正江
舌の上をまろぶよき句と熱燗と 岡入 万寿子(「俳句用語用例小辞典」 大野雑草子編) 


十組問屋
そこで江戸通町仲間の大坂屋伊兵衛なるものが、この状況を見るにしのみず、元禄六年(一六九三)に発起人となって、荷主の組合を作ろうとし、元禄七年橘町の惣助という家に荷主の参会をもとめた。会するものは本船町米問屋鎌倉屋・桑名屋・山口屋・松葉屋、呉服町の酒問屋鴻池吉兵衛・同惣右衛門・同五兵衛、通町の畳表問屋全部、大伝馬町綿問屋磯屋・紙屋、本町の紙問屋山中・高田、同町の薬種問屋駿河屋・小西、室町の塗物問屋楠見・八木・日光屋、同町の小間物諸式問屋全部である。その後屡々(しばしば)参会を重ね、日本橋の釘屋衆中にも加入をすすめ、十組(とくみ)と称する荷主の組合を組織した、−
ここにおいて大坂屋伊兵衛は呉服町の鴻池の出張店三家に赴き、内談して大坂の鴻池本家の援助をもとめたところ、鴻池家はこれを快諾し、万一の場合には手船百余艘を出して十組問屋を援助すべく、更に不足の場合は百五十艘を新造すべしとの保証を与え、契約のため手代一人を江戸に下らしめた。大坂屋は有力なる後援者を得たので、廻船問屋に対する交渉もまとまり、以来両地間の海上紛擾(ふんじょう)を除くことが出来た。十組問屋は菱垣廻船問屋をその支配下に置き、水難の際の分散勘定、十組問屋関係以外の荷物、すなわちいわゆる脇荷物についての取扱いをすべて十組の掌中におさめたのみならず、遠江国(静岡県)今切以西において難破した際の分散勘定は従来大阪においてなしたが、これを江戸にてなさしめることにした。このようにして菱垣廻船従来の弊風は大いに改まり、元禄九−十年頃より後は難破の損害も減少し、廻船の数もまして、江戸・上方間の開運を大いに発展させた。(「鴻池善右衛門」 宮本又次) 樽廻船  


赤垣源蔵=和田垣謙三
故伊藤侯を始め大隈伯、故川上音二郎等の銅像原型を作りし彫塑界の元勲小倉惣治郎翁は本年五月、六十九歳を一期として忽焉(こつえん たちまち)易簀(えきさく 死去)せり。翁は齢(よわい)古稀に達するまで独身生活を持続し、たゞ芸術とのみ親しみたり。江戸っ子肌に加ふるに一種の天才を以てす。故に其言行の飄逸なる、畸人伝中異才を放つに足る。性酒を嗜(たしな)むこと深く、其の高輪泉岳寺に葬らるゝや、一酒友一升入の貧乏徳利を霊前に供し、 君行かば赤垣殿へこの徳利 いづれ後より さらばおさらば の歌を捧げたり。又或る友人は、 酒呑の四十七士が会葬し 其の中に達磨のやうな義士もあり の二句を手向けたり。達磨のやうな義士とは当日会葬せし黒田清輝画伯を指すなり。式後或人右の川柳作者に向つて、「君は黒田画伯を詠じたるが、何故和田垣博士を詠じ込まざりや、赤垣源蔵=和田垣謙三、何ぞ其名の相似る甚しき、独り名のみならず、他に猶ほ一点、否二点までも相似たる所あるに非ずや」とて、ヂロリと予の顔を凝視して、さも得意の様子なりき。名の相似たるは事実なるも、他に猶ほ一点のみならず二点までも相似の点ありといふは一向合点行かざりし。(「兎糞録」 和田垣謙三) 


無いとこづもりの高天ケ原
【意味】酒宴をしても、用意の酒を飲み尽くせば、右から左へ補充できない不便な土地柄をいう。酒がなくなれば、いやでも切り上げるほかはない山奥の土地を高天が原にたとえたもの。また、もう酒がないから、これで酒盛りはおしまいという意にもいう。 つもり=酒宴の最後の酌
情けの酒より酒屋の酒
【意味】同情は実質を伴わねばありがたくない。 【参考】思召より米の飯 ○お心持より樽の酒 (「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


平清
平清(ひらせい)は深川土橋にあった高級料理茶屋で、料理や番付でも常に上位にランクインしていました。土橋というのは、もともと土で固めた橋のことですが、『(江戸)町方書上』によれば、「宝永の頃(1704-11)永代寺境内の東方の堀が、南方の二十間川(今の永代通り南の大横川)へ接続していり、馬場通り(現永代通り)に土橋が架かっていた。年代は不明だが。堀が埋め立てられたので橋も取り払われた」(意訳)としています。平清は今の八幡宮正面の鳥居よりやや東に寄ったあたりにありました。周囲は三十三間堂にも近く、岡場所もありました。屋号の平清は主人の名が清兵衛で、市村座があった日本橋葺屋町の芝居茶屋、平野屋で板前をしており、そこの娘と結婚して開業したことから付けられました。創業は文化年間(1804-1818)で、明治32年(1899)に廃業したといいます。(「江戸名物をささえた江東地域」 深川江戸資料館特別展解説) 石川英輔「大江戸番付事情」の安永六年(1859)料理茶屋番付には、別格の行司欄に、右から平清、八百善、嶋村と並んでいます。 


家康下賜の酒
井野辺茂雄氏の『富士の信仰』に記載された「富士郡神社明細帳」の記事によると、「夏月富ママ登他国ノ業者多ク此穴ニ入ル。人穴宿帳賑はふ。常ハ往来稀ニシテ、幽栖ノ閑地ナリ」とある。人穴の周辺の集落がすでに人穴村となっており、人穴には浅間神社の名称が付せられている。「右田畑ともに不入たるの旨を守り居住いたすべき者也」(「塵塚談」)という本田平八郎の人穴村年寄に対する書付が、人穴についての世俗的保証となっていた。そこで角行が徳川家康と対面したという伝説に付加する権威がどうしても必要だった。そのためには家康がこの近辺を旅した事実がなければならない。人穴村名主の家には、家康に供奉した本田平八郎の持っていた扇・槍などがあるといわれた。また隣村の上井出村問屋場には、家康の御朱印状が下し置かれて保存されていたという(右同書)。こうした家康伝説が富士山麓に形成されたのは、江戸時代の中期頃だったろう。「其節東照宮様(家康)より御直に被下置候(くだしおかれそうろう)忍冬酒(にんどうしゅ)・白鳥徳利にあり、予(よ)彼(かの)御酒を慎て少し頂戴する所に、味ひ(あじわい)于今(いまに)相替らす(あいかわらず)、奇異の事なり」(右同書)といった伝説が散見されるのである。 (「江戸歳時記」 宮田登) 


生酔(なまえい)の後ロ通れバ寄(より)かゝり
生酔いとは少し酔った状態をもいい、また泥酔をもいうが、句によまれた生酔いはまず後者とみてよい。酒をのんでいる男の席のうしろは壁か襖などで、女はその狭い所を通りぬけねばならないのであろう。男はわざと女の足に寄りかかり腕を腰にまわしたりする。(「『武玉川』を楽しむ」 神田忙人) 


5万4000人
酒類の安売り競争激化の影響で、全国の酒店経営者約5万4000人が約10年半の間に、廃業や倒産、転業に追い込まれていたことが、全国小売酒販組合中央会(目黒区)の調べでわかった。同会が組合員のいない沖縄県を除く46都道府県について調査したところ、1998年に約14万人いた組合員のうち、5万3997人が今年8月末までに廃業(休業を含む)や倒産、転業に至った。このほか、少なくとも152人が自殺、3338人が失踪・行方不明という。このうち都内の組合員の廃業などは5050人、自殺は10人、失踪・行方不明者は904人。98年から酒類販売が段階的に規制緩和され、酒販免許が原則自由化された影響を受け、酒店経営者が経営難に陥ったためという。同会の四十万(しじま)隆会長は、26日に目黒区の全国小売酒販会館で開いた「街の酒屋の生活圏を求める総決起大会」で、調査結果を全国の組合員らに報告。「無秩序な価格競争が酒屋の生活権を脅かしている」と窮状を訴えた。青森県の小売酒販組合も女性は「約25年前に地元の住宅地で開業した酒店経営者は、隣に大型ショッピングセンターができたため売り上げが落ち、仕入れたビール券を換金してやりくりするまでになった。3年前に山で無惨の姿で発見され、つらい結末となった」と涙ながらに語った。大会では、酒店経営者の廃業や自殺防止のため、新たな法律の整備などを求めていくことを決議した。(奥村登)(読売新聞 2008年11月28日) 


シーグラムビル
ステイタスシンボルのベスト ニューヨークのシーグラムビル
酒類の取扱業では、たとえ世界最大で最高であっても、名声という点では上位にはランクされません。そこで、サミュエル・ブロンフマンは、フィリップ・ジョンに命じて、パークアベニューに真鍮を段積みにしたタワーを建てさせました。そのおかげでシーグラムと超金持ちであるブロンフマン一家は、上流階級の仲間入りを果たしたのです。あなたはウイスキーのボトルから別に得るところはないと思いますが。(「ベスト・ワン辞典」 ウィリアム・デイビス編) 


鶴田浩二の映画
私は、鶴田浩二の映画を観に行くときは、酒を飲むシーンを楽しみにしていたような気がする。そして、この楽しみは任侠映画の大ブームのときも味わいつづけた。鶴田浩二は(彼がどんな役を演っているにせよ)、酒を口に含むとすぐにそれを喉へ送り込まず、いったん口の中へ貯めて、何かへの思い入れを込める。眉根を寄せまぶしそうな目をして遠くを見すかすような、不思議な表情をする。この複雑さがまずこたえられない。次に、これを一気に喉へ送り込み、喉にしみながら通過する酒を見送る貌になる。そして、苦い、いやな思い出をその酒とともに飲みくだしたような顔で、苦々しくグラス(および盃)をみつめる…この刻一刻の表情にたまらない色気が生じるというわけだ。(「酒の上の話」 村松友視) 


主君
主君たる人の酒に強きあり。機嫌よき時、小姓に「われをば世上に上戸といふか」「いや、さやうには申さぬ」「下戸といふか」「いや、その沙汰も御座ない」「推(すい)した推した。中戸といふらん」「いや、世上には、底しらずじやと申す」(醒酔笑巻五・寛永五・無題)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


幸運な酔っぱらい
そういえばまだ学生だった頃、西武新宿の駅で目撃した中年の酔っぱらいのことを思い出す。彼はこの上もなく上機嫌で電車に乗り込んできて、「ういいー、よっしゃあ」などと言いながら、勢いよく座席に腰を下ろした。ところば勢いがよすぎたために、座った反動で後頭部が電車の窓ガラスにパコーンと激突した。と同時に、あの硬い電車の窓ガラスが、コナゴナに砕けてしまったのである。すぐそばに座っていたぼくは、「どひゃあ!」と叫んで座席から飛び上がったが、ガラスを後頭部で割った当の本人は、「おり?おりー?」などと惚(ほう)けた声を出しながら、頭に降りかかったガラスの粉を払ったりしているである。素面(しらふ)だったら、おそらく大怪我をしていたのではないかと思われる状況であった。しかし酔っぱらいの彼は、傷一つおうこともなく、そのままグースカ寝込んでしまった。まことにハッピーというかラッキーというかオーマイガーというか、何しろ信じられない出来事であった。ぼくはあまり深酒をする方ではないから、そこまでひどい酔っぱらい方をしたことはないのだが、何ちゅうか羨ましくもある、たまにはハメを外してべろんべろんになって、ゲロまみれでフラフラと赤信号を無視し、電車の窓ガラスを後頭部で砕いてみたい気もしないでもない。(「幸運な酔っぱらいのなぞ」 原田宗典) 


いっきいっき
いっきいっき(一気一気)[名]宴会、飲み会などでその場を盛り上げるために酒を一気飲みさせる時に、回りの人がはやしたてるかけ声。この合唱を「一気コール」と言う。1984年に第二回新語・流行語大賞の流行語部門で金賞。<関連語>一気飲み・おわび一気。◇『現代用語の基礎知識1985年版』若者用語「いっき・いっき コンパなどで、『一気・一気』と大合唱して、特定の人にビールなどを一気に飲みほさせる」◇『みみたぶ』第8話(1989年)<関口誠人>「イッキ、イッキ」(「日本俗語大辞典」 米川明彦 編) 


「延喜式神名帳」の酒名神
最後に、『延喜式神名帳』『古今要覧稿』に酒名神として記載されている神社を左に列記します。
白玉手祭来酒解神社 山城国乙訓郡   松尾神社 山城国葛野郡
梅宮神社 同右            大酒神社 同右
酒列磯前薬師菩薩神社 常陸国那賀郡
酒殿神社 酒彌豆男神 酒彌豆女神二座 宮中神
酒屋神社 山城国綴喜郡        酒見神社 尾張国中島郡
酒人神社 参河国碧海郡        酒治神社 丹波国船井郡
酒垂神社 但馬国城崎郡        酒井神社 伊勢国奄芸郡(「古代の酒と神と宴 十二話」 松尾治) 


おもの(神饌)
現在の「おもの」の品目は、御飯三盛、御塩、御水、乾鰹(ひがつお 鰹節)、鯛(夏期はカマス、ムツ、アジ、スルメなどの干魚)、海藻(昆布、荒海布(あらめ)、鹿尾菜(ひじき)など)、野菜、果物、清酒三献である。−
御酒壺(みさかつぼ 横瓶と同じ)に入った清酒を御盃台(みさかずきだい)にトクラベの一片を敷き、その上に三寸土器の盃を置いて注ぐ。続けて三献をお供えする。(「伊勢神宮の衣食住」 矢野恵一) 外宮の御饌殿(みけでん)が、伊勢神宮の神々に日に二度御饌を供える場なのだそうす。また、トクラベはハイノキ科ミミズバイ(蚯蚓灰)という常緑樹の伊勢地方の方言だそうです。 


ビロード
私も、はじめてこの「ビロードのような舌触り」という言葉に出会って−中学くらいの頃だと思う。たぶん、グルメ系サスペンス調の推理小説で見かけたのだろう−以来、もともとビロードの感触が好きだったことも手伝って、何がこの形容に当たるのかを折にふれて思いめぐらしてきた。けれども、どうもぴったりしたものに出会った記憶がないのである。よく見かける用例では、ワインの味を描写する際にこれを使う。”ビロードのようななめらかな”ボルドーといった具合に。しかし、実際にそういう酒に出会うかというと、十四の歳からかなりの量を呑んできた私でも、まずお目にかからない。たしかに、口にした瞬間まず唸り、それから香りと味わいの芳醇さに思わず踊りだしたくなるような名品というのはある。が、ビロードの感触だ、と言えるかどうか心もとない。理由の一つは、酸味にあるだろう。名品になればなるほど、ワインの酸味は全体的なバランスの中に溶け込んで比類ない気品を生むのに役立つから、なめらかさを阻害するなどということは絶対にありえない。舌や口を刺激したり、喉(のど)を下りていく時にトゲを立てたりなんていうこともない。にもかかわらず、酸による活き活きした感じが、ビロードの退嬰(たいえい)的な怠惰な気持ち良さと微妙に食い違ってしまうのだ。もっとも、少なくとも三十年は寝かせたヴィンテージ物のポートとか、百年以上年を経たマディラの上物などのように甘味の勝ったものには、微かにビロード感が望める余地はある。とりわけ、マディラにはひなた臭いような浜納豆のような風味がわずかにあって、日光によくさらしたビロードの生地みたいに思い込めなくもない。(「日本グルメ語辞典」 大岡玲) 


篁牛人
篁牛人(たかむらぎゅうじん)は、この道をトボトボと歩いて絵を売りにいった。一時は棟方志功と腕を競った。志功がめきめきと売り出して国際的な画家となる一方で、こちらは富山にくすぶったまま。酒量がふえて、数少ない知人がはなれていく。−
神通橋に近い富山市石坂に善照寺という真宗の寺がある。篁牛人は明治三十四年(一九〇一)この寺に生まれた。本名は浄信、幼名は光麿。十人兄弟の二男である。絵が好きな少年は、十六歳のとき高岡工芸学校本科図案科に入った。東京に出て美術学校に進みたかったが、子沢山な寺の伜(せがれ)に許される道理がない。工芸学校を出たあと、物産館の図案助手になった。代用教員をした。二十六のとき富山県売薬同業組合図案部勤務。今風にいえば薬箱のデザインやポスターを描いていたわけだ。かたわら、ひとりこつこつと勉強していた。仏典や老子、荘子を読む。ふだんはおとなしい男が、酒を飲むと「天才」を豪語して高慢になる。−
牛人の描いた女性は、世に知られた志功の美人と同じく、ゆったりとふくよかで、頬の大きな童顔をしている。だが、あきらかにちがうだろう。志功の女人が目の大きな銀座の美人ママを思わせるのに対して、牛人作は、ふくよかな中に凛とした気品がある。張りつめている。とびきり上質なエロティシズムをそなえ、天平美人であるとともに観音像でもあるだろう。こころもち森田昌子さんにも似ている。「観音さまの手は、赤ん坊の手だっていってましたね。夜は「番頭」のお酌で酒を飲む。毎日、一升瓶がカラになった。あるとき森田夫妻に、自分の絵は世に出るかどうか、真剣な顔でたずねたそうだ。(森田)医師は遠慮会釈がない。きっと名が出るだろうが、それは死んでからのことだと答えた。「死後かァ、さみしいノー」牛人は下を向いて、つぶやくようにいったそうだ。(「二列目の人生」 池内紀) 


禁酒宣言
森田草平さんは時時思ひ出した様に禁酒の宣言をした。よく出掛けて行つて御馳走になつたが、宣言中はこちらで敬遠して近づかない事にした。又別の時には葉書にその旨を印刷し、堅く誓つてあまねく宣言せられた事もある。何かきつとお酒の後で、あのしくじりはお酒の所為(せい)だと思ふ事があり、その後悔をお酒にかぶせて解決するのだらうと思ふ。禁酒と云ふ事はさう云ふ役に立つ。しかし病気などで飲めないから酒を断つのは所謂(いわゆる)禁酒ではない。飲めないから飲まないのは、無いから飲まないのと似てゐる。草平さんの禁酒は何度宣言しても、いつも一週間か、せいぜい十日ぐらゐしか持たなかつた。(「御馳走帖」 内田百閨j 


溺死人之墓
墓正面には「紀州本宮徳福丸富蔵船溺死人之墓 積合中 樽廻船井上」とあり、解説には「安政四年(一八五七)に樽廻船問屋と酒問屋組合等の荷受人たちが建立しました。」とあります。両国回向院にあります。 灘目の海難供養碑   

若い巡査
あれは二十年以上前の、ひどく暑い夏の日だつた。そのころわたしは、某大学で英語を教へてゐた。裸同然のなりでせつせと翻訳してゐると、交番の若い巡査が来た。大急ぎでシャツを引つかけて、出てみると、「実は、お願ひがあつて参りました」と言ふ。「お願ひ?」「はい。わたしは**大学(わたしの教へてゐる大学ではない)の学生なのですが、夏休みの英語の宿題で困つてをります。先生に教へていただきたいと思つて、職務中ではありますが伺ひました」そこでわたしは大笑ひして、部屋に通し、「教へるのは面倒くさいから、ぼくが全部書く。いいかい?」「はい、ありがとうございます」といふことになつた。ところがこれが、「輝くものすべては金ならず」「ローマは一日にして成らず」なんて調子の英語のコトワザが目白押しに並んでゐるもので、十ページもある。易しいことは易しいが、分量が多いし、馬鹿ばかしくて仕方がない。馬鹿ばかしいけれど、引き受けた以上、やつてやるしかない。そこで冷蔵庫からビールを一本持つて来て、「君も飲めよ」「はい。酒は好きですが、しかし勤務中ですから」「ぢやあ、ぼく一人で飲みながらやるよ」「お願ひします」一杯やりながら宿題を片づけ、最後に、「うちに泥棒がはいつたら、つかまへてくれよ」「はい、きつとつかまへます」といふやりとりで送り出した。ところで、このとき聞いた話があります。警察官といふのは、署長の手前のへんまでは試験の成績がよくなければ昇進できないのださうで、非常にきびしい。巡査から巡査部長になるときの試験、巡査部長から警部補になるときの試験。警部補から警部になる時の試験。三つとも学科だけで、学科がよくなくちやぜつたい駄目。いくら手柄を立てたつて、試験に通らなくちや上にあがれない。そして、警部といふのは大体、警察署の課長とか副署長とか、まあそのへんなのですが、しかし、署長になるには、今度は一転して、酒が強くなくちや絶望なんださうです。宴会でにぎやかにつきあつて、あいつはいい奴だといふことにならないと昇進できない。それで彼の先輩は、一滴も飲めない人だつたので、署長を目前にしたとき、志を立て、酒を稽古することにした。毎週月曜、家へ帰るとき、二級酒一本と焼酎一本を買ふ。ここで私が、「隣の芝生は青い」などと書きながら、「ちよつと待つて。どうして全部二級酒にしないの」「それは、二級酒だけにすると高いから」(「犬だって散歩する」 丸谷才一) 


茶盞拝
▲女 なあ、忝(かたじけな)うござる。なうなう、嬉しや嬉しや、如何様のことぞと思ひました程に、帰られたら、酒肴拵へえといて、馳走いたしましよ。何かと云ふ中(うち)に、帰りました。茶盞拝(ちゃさんはい)の戻られますを待ちましや。 ▲シテ 唐の東□□□日本地に住める者なり。 詞 これは、唐土(もろこし)茶盞拝と申す者でござる。我十ヶ年以前に日本に捕へれ、箱崎の浦に住居(すまひ)せり、日本人無心自我唐国妻恋々々。 ▲女 なうなう、腹立や腹立や。今までこそ知らなんだれ、それは妾(わらわ)も合点ぢや、これほど馳走するに、まだ唐の女が恋しいか。腹だちや腹だちや。 ▲シテ 茶盞拝茶盞拝。 ▲女 なうなう、それは尚合点ぢや。よい酒茶が飲みたいと云うことであらう。今日は其方(そなた)におませうと思うて、酒肴を調(ととの)へておいた。まづ下にゐて、一つ飲ましませ飲ましませ。さあ、この盃で飲ましませ。 ▲シテ うらいりやうすうらん。 ▲女 さうでござる。一つ参れ。 ▲シテ はゝあふうれいらしや。 ▲女 如何にも、よい酒を調(ととの)へて置きました。気に入つたら、も一つ重ねさせられ。 ▲シテ ちんふんちやは。 ▲女 妾にささせらるゝか、戴きましよ。妾も一つ飲みました。(「狂言記」) 中国人を夫にした女が、ものしりの人に、なぜ夫が泣いてそのあとに茶盞拝と言うのかときいたところ、つらくあたるから泣くのであり、常々よい茶酒を飲まないから悲しいのだと教わったので、家に帰って…。秀吉時代の狂言なのでしょうか。 


鈴木信太郎先生
鈴木信太郎先生−と先生をつけるのは、わたしがぢかに教へていただいたせいではない。仏文関係の友達が多いため、彼らがみな先生、先生といふ。その影響でつい書いてしまふだけなのですが、その鈴木先生はたしか六時間しか眠らなかつたといふ。これは随筆に書いてあつた。若いころに一度、森鴎外に面談したことがあつて、そのとき鴎外が、「君は睡眠はどうしてます?」と訊ね、すぐにつづけて、「一生の時間は限られてゐるから、あまり眠らず本を読むやうにしなくてはいけない」と教へたのだそうだ。そこで鈴木先生は、眠る前にしたたかブランデーをあふつて、熟睡すること六時間、目覚めるとたちまちフランス象徴派の詩書をひもとくことにした、といふ恐ろしい話だつた。わたしは鈴木信太郎の学問を尊敬してゐますが、この話、どうも気に入らないね。八時間か九時間眠って勉強するほうが、もつと偉い学者になれたのぢあないか、と疑つてゐます。(「犬だって散歩する」 丸谷才一) 


酒をぐい飲みする者は金払いが悪い
<出典>アメリカ、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin 一七〇六-九〇)『貧しいリチャードの暦』 <解説>酒をぐい飲みするよう者は節度に欠け堅実性がなく、だから金払いもルーズである。フランクリンはウィットに富んだ文筆家でもあった。禁欲的なカルヴァンの徒で資本主義的精神をもち、適正利潤の正当性を勤労の奨励と結びつけて説いた。「時は金なりということを忘れるな」(『若き商人への忠告』)と説いたのも彼である。実利ということから考えると、酒の飲み方を見てもそういえる。酒をぐい飲みするような者は、飲み方にも節度を欠いているわけで、そのような人間にはきちんときちんと金銭の支払いをしなければならないといった着実性はない。また、石をうがつ、わずか一滴の雨だれでも、くり返ししたたり落ちることで石に穴を開けることができる。ぐい飲みせずにひと口分ずつでも蓄えていけば、いつかは資本がたまる。そうして勤倹貯蓄もできずこらえ性のないものが、きちんと金を払うことのできようはずがない。さらに、大量に飲酒することで、支払わなくてはならない金額がかさむから、いっそう金払いが悪くなる。つまり酒の飲み方一つとっても、もっと言えばどんなにささいな行動からも人の生活態度はわかるということを、フランクリンは言っているのである。−(見田盛夫)(「食の名言辞典」 平野・田中・服部・森谷 編) ニューヨークのクリントン知事 インディアン  


泥に酔った鮒
【意味】どろ水の中であっぷあっぷしているふな。気息奄々しているたとえ。
鈍智貧福下戸上戸
【意味】人間には、知能のにぶい者、智恵のある者、貧しい者、富む者、酒の飲めぬ者、酒の好きな者などいろいろさまざまあること。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


養命酒
伝統薬には”伝説”がつきものだが、養命酒の伝説は信州伊那谷に、今から四〇〇年ほど前の慶長年間までさかのぼる。ある大雪の晩に中村村大草の庄屋、塩沢宋閑は行き倒れの老人を救う。介抱の甲斐あって老人は元気を取り戻すとともに信州の人と風土に愛着を示し、三年余にわたり食客となっていた。そして、塩沢家を去るに臨んで、「恩に報いることは何もできないが、薬酒の製法を心得ているので、お礼にそえれを伝授しよう。幸いこの地は天然の原料も多く、気候風土も適している」と、薬用酒の秘製法を授けていった。食客は著名な本草学者だったという説もあるが、定かではない。これより宋閑は薬酒造りに精を出し、赤石山麓に分け入り、雑草を採取して、伝授された薬酒を造り始めた。苦心の末、完成したのは慶長七年(一六○二)で、徳川幕府の開かれる前年にあたり、これに「養命酒」と名付けた。名前の由来は、中国最古の薬学書『神農本草経』に「上薬は命を養う」とあり、そこから取ったという。−
塩沢家に残っている古文書によると、「養命酒の製法は家醸酒(原酒)に生反鼻(はんぴ)を浸して二千日間土中で醸し、さらに数種の薬草を合醸の上、三百日を経てから用いる」と記録されている。塩沢家が徳川家康に養命酒を献上したところ。後に幕府から”天下御免万病養命酒”と効能を評価され、神通力を象徴する”飛龍”を目印として使用することを許された。これは今日も使用されていて、日本でも最も古い商標のひとつとされる。(「日本の名薬」 山崎光夫) 


赤鬼
赤鬼、一ついきに成つて、ある人の内へかけこみ「あとから生酔がまいります。どふぞおかくまいなされて下さりませ」といふ。亭主「そのよふな赤いこわい顔をして、なぜ生酔をこわがる」といへば、赤鬼「さめると。せうき(鍾馗=正気)になります」(落語花之家抄・安永七・赤鬼)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


盃の時に何にもおつしやんな おし付けにけりおし付けにけり
初めて登楼した客は、遊女と引き付けの座敷(客を最初に遊女と引き合わせる部屋)で、初会の盃を交わす。その時に、半可通な客に限って、口数が多く、下手な洒落を言ったりしたがるものだが、そういう手合は、えてして遊女に振られたりするものである。最初の盃の時には黙っているのが無難と、初会客に注意する茶屋の男の言葉であろう。(「誹風柳多留三篇」 岩田秀行校注) 


尾崎放哉
本名秀雄。明治十八年一月二十日、現鳥取市に出生。鳥取県立第一中学校より一校、東大法学部卒業。俳句は中学時代より定型俳句を作り、一校俳句会では、荻原井泉水と相識る。特に大学時代は、作句に熱中し、しきりに「ホトトギス」に投句した。この間、姉並が養子を迎えたり、従妹(いとこ)に当る沢芳衛(よしえ)との初恋、そして、結婚に破れるということもあった。明治四十二年、大学卒業と共に、日本通信社に就職。しかし、新参記者の悲哀と役人の権威主義に腹を立てて、一ヶ月で退職。明治四十四年に強力なコネによって、今度は東洋生命保険会社に入社。ほとんど同じ頃、鳥取市坂根寿(とし) の次女・馨と結婚、小石川に新居を構えた。大正三年、大阪に支店次長として赴任するが、この大阪転任が彼の人生を狂わす端緒となった。大正四年東京に帰任すると、彼は自由律俳句の目ざめ、「層雲」に投句し始める。しかし、会社不適合、寺男への転身を考慮に入れ始めると、作句熱も衰え、会社もあっさり辞めてしまった。やがて、朝鮮火災海上保険会社の支配人として京城に赴任。仕事に精励するが、禁酒の制約が守れず、解雇。その頃より肋膜炎を病み、生活の当てを求めて渡満したが、更に病勢は悪化、やむなく、内地に引揚げ、やがて、妻と別れて一燈園に入る。大正十三年、の縁で常称院、須磨寺へと転々するが、俳句は須磨寺に入って、にわかにすばらしいものになった。しかし、そこの長くは居れず、一燈園、常高寺、竜岸寺、井泉水寓と放浪する。大正十四年八月、井泉水の紹介に渡る。そこが安住の地でなければ台湾行きも考えたが、幸い、西光寺奥の院南郷庵があいて、その庵主におさまる。これより、独居無言、読経と俳三昧に入り、句や随筆にみごとな生彩を加え、膨大な書翰と共に俳句史に永遠の名を刻み込んだ。大正十五年四月七日、島の老爺にみとられながら、孤独の内に瞑目。ときに四十一歳。没後の翌月、選抜秀句集『大空(たいくう)』が師の荻原井泉水によって刊行された。(「尾崎放哉全句集」 伊藤完吾・小玉石水編) 


十月の肴
烏賊と納豆の和え物(冷凍のモンゴ刺身用烏賊は、解けないうちに細く糸切りにして、酒と醤油大さじ一杯をふって味をつけておく。納豆は小鉢にとり、溶き芥子と醤油大さじ二杯ほど入れ、強くかき混ぜてねばりを出す。刻み納豆か叩き納豆にしてもよい。さきの烏賊に合わせて和え、化学調味料と醤油で味を調える。これにオクラか晒し葱の刻みをかける。)(「新・口八丁手包丁」 金子信雄) 


八月某日
大坂、黒門町「よだれ鮨」。大坂スポーツニッポンの本田健チャンと待合せ。福島「すえひろ」で水道屋のおやじとガス屋のおやじに、競艇担当記者。あと数人と騒いだが、職業は判別せず。皆で南へくり出す。何名で行ったのか最初からわからないので、梯子酒をしていても全員揃っているのかどうか訳わからず。「イブ」「つるつる」「酒都」「チルドレン」あとは覚えてない。明け方、淀川沿いを健チャンと二人で歩く。「あんた毎晩こんなことしてたら、人間バラバラになっとうよ」「じゃあ健チャンもだな」「わてはもうバラバラでんがな」「じゃあ俺もそうだ」橋のたもとに、赤ちょうちんの点(とも)っているちいさな店が一軒。「あそこで反省会してから、別れまひょか」「そうだね」ちょうちんを仕舞う婆さんの姿が見えて、二人とも走り出す。(「また酒中日記」 伊集院静 吉行淳之介編) 


グァンバレ男の子
新聞を斜め読みしていたら「ついに女学生が男子学生を抜く」という文字が目に飛び込んで来た。キョービ、女が男に抜かれたとなると驚くが、抜いたのならば驚かない。で、今度は何で抜いたのかしらと余裕の表情で、老眼鏡の奧の目をキラッと光らせた。何だと思います?大学での飲酒人口における男女比率ですよ。お酒を飲むかという問いにイエスと答えたのが、男子学生よりも女子学生の方が多かったんですと。さらに、自分はお酒が強いと思うかという問いでも、やはり女子学生が男子学生をしのいでいた。「俺って、一応飲むけどさ。強いって言われるとどうかなあ。自信ないなあ」っていう反応なんでしょうね。それで強いかという問いにはイエスと言い切れない。それに対し、躊躇なく「私って強いの」と言い切ってしまう女の子が男の子より多いということだ。ったくもう。どうした男の子。グァンバレ男の子と励ますしかない。(「斗酒空拳」 吉永みち子) 


皆で飲むもの
ところが酒の世界になると話が変わってくる。バンコクには若者を意識したインテリアの店が次々にでき、そこにはテンポの速いアジアのポップスやディスコ系の音楽が流れているのだが、メニューはしっかりとしたタイの主張が顔をのぞかせている。現地の一般の食堂と同じ料理が並んでいるのだ。確かに皿や盛りつけには気を遣い始めているが、味はアジアなのである。日頃、マクドナルドのフライドポテトを食べている若者も、酒の肴にはアジアの料理を選ぶのである。レバーを煮込んだ料理や魚のスープでウイスキーを飲みはじめるのである。アジア人というのは、酒を酒だけで飲むことがとことん苦手な民族のようだ。酒は常に食事とセットになっている。酒は夕食のときにおかずと一緒に飲むもので、欧米社会のように酒だけを飲む店はどこにも見当たらない。確かに欧米人が多いツーリストエリアにはカウンター式のバーが何軒もあるが、それは外国人が好む流儀で、アジア人はそれが欧米文化に憧れる若者であっても、決してその止まり木に座ろうとはしない。東南アジアには、ひとり酒をのむという美意識がない。酒は今でも、皆で飲むものなのだ。(「アジア漂流紀行」 下川裕治) 


宿酔
朝、起きてみると、うちではいちばん広い部屋に、将棋の佐藤義則五段が寝ているのがわかった。それで、佐藤さんを連れてきたのを思いだした。それから眼が痛い。痛いうえに痒(かゆ)い。全体に目が潤んでいる。私は、昨日、泣いたことを思いだした。私は、昨日、三度泣いた。本当に泣いたのと酔い泣きとが半々ぐらいで、酒を飲まなかったら泣かなかったかもしれないし、泣くようなことがなければ、あんなに飲まなかったかもしれない。だから、宿酔(ふつかよい)である。宿酔のひどいときは、すぐには症候があらわれない。朝なんか早く目ざめてしまって気持ちがいいくらいのものである。とにかく、大酒を飲めば、ぐっすりと眠る。だから気分がいい。しかしながら、宿酔は宿酔なのであって、胃は荒れているし、血の中にはアルコールが残っている。そのうちに発作がくる。そこで、発作のくる前に、ビールでも飲んで、いそいで原稿を書かなければいけない。(「禁酒禁煙」 山口瞳) 


ぶえん
旅と酒の歌人、若山牧水の晩年の小文に「鮎釣に過した夏休み」がある。明治十八年(一八八五)、宮崎県東臼杵郡の山間の村に生まれた牧水(本名、繁)は一〇歳になると村から一〇里も離れた延岡の高等小学校に入学した。その少年時代、夏休みに帰省して過ごした日々の思い出である。二階で朝寝している少年は、よく父に起こされた。「繁、起けんか。今朝、いいぶえんが来たど」と。「ぶえんとは多分無塩とでも書くのであろう。氷も自動車もなかった当時にあっては、普通の肴屋の持ってくる魚といへば塩物か干物に限られていた。中には一人か二人の勇ましいのがあって涼しい夜間を選んで細島あたりからほんとうの生魚を担(かつ)いで走って来る。彼らはもう仕入れをする時からどこには何をどれだけ置いとくときめてやって来るのだ。だから走りつく早々台所口にかねてきめておいた分を投げ込んでおいてまた次へ走る」と牧水は書いている。父はそれを待ち受けて刺身をつくり、まだ十いくつの牧水を相手に朝酒を楽しむのだった。この一文を読んだとき、私は無塩という古語が、明治の日向にまだ生きていたことを知っておどろいたものである。(「食卓の博物誌」 吉田豊) 


湿地と乾地
東海林 納豆が糸引くんだ。
赤瀬川 俳句だって、練った言葉から無数の糸がこう出て…。
奥本 ベチャーッとしてね(笑)。
赤瀬川 切っても、切っても出てくる(笑)。俳句なんて説明がないんだもん。引っ張ればどんどん出てくる。
奥本 ゾンビ胞子っていう(笑)。
東海林 そういう糸引きの湿地帯に生きていると、当然乾いた土地とは全然違う文化になるはずですね。
赤瀬川 そりゃそうですよ。言葉も糸引いてるしね。
東海林 結局、醗酵地帯ということですよね。
奥本 この地帯にはすごく菌が豊富なんです。酒蔵や納豆の室、それから麹ね。ヨーロッパではそうはいかない。
赤瀬川 醸造酒っていうことでいうと、日本酒とワインですよね。フランスは、どう違うんですか。気候とか湿気問題は。
奥本 すごく乾いているんです。だからチーズにも、ワインにも、ちょうどいい気候なんじゃないですか。
赤瀬川 あッ、むしろ乾いてないと、ああいうものはいけない。(「うまいもの まずいもの」 赤瀬川原平 東海林さだお 奥本大三郎) 


糸引き納豆
この研究のそもそもの糸口は、糸引き納豆を食する文化と、プラズミドの大きさの比較から得られた納豆菌の不思議な分布様式にあった。納豆づくりの起源は、稲の栽培と切っても切れない関係にある。したがって、納豆をともなう食文化の伝播は、当然ながら稲作の伝播とともに行われたと考えられるのであるが、糸引き納豆を利用する食文化が日本列島の北と南にかたよって存在することは、一つの傍証を与えているようにも思える。つまりそこからは、日本列島の先住民、口噛み酒をたしなむ南方モンゴロイドである縄文人による、中国江南地方からの陸稲、ついで水稲、水稲耕作技術などの導入とともに口噛み酒の渡来がまずあり、それらの文化の上に、北方モンゴロイドである弥生人がもたらした穀芽を用いた醴、餅麹を用いたカビ酒がわが国に入ったのではないだろうか。そして、口噛み酒はいつしか日本列島の辺境に押しやられていったのであろうという図式が思い描かれるのである。(「日本酒の起源」 上田誠之助) 


ゴーダチーズの味噌漬け
奥本 ゴーダチーズを味噌に漬けてるの、恐ろしいことをするねえ。
赤瀬川 すごいなあ。いかにも日本的発想ですね。マルコメと雪印!。(笑)味噌は、やっぱりアジアのものですか。
奥本 東アジアでしょうね。
東海林 麹味噌って、日本以外にもあるんですか。
奥本 納豆は、インドネシアにもあるんですよね。
東海林 あるって言いますね。
奥本 食ったことあるけど、味はおんなじでしたよ。味噌汁はないみたいだけど。
赤瀬川 韓国にはありますね。
奥本 醤(ジャン)っていう味噌でしょう。
赤瀬川 ええ、ええ、このチーズの味噌漬けって酒のつまみにいいですね。
東海林 これは大発見だね。相当、味噌の味がする、和風ですね。
赤瀬川 瓶詰めの雲丹(ウニ)にちょっと似てる味だね。(「うまいもの まずいもの」 赤瀬川原平 東海林さだお 奥本大三郎) 二分の一に薄めた醤油に一週間漬けても、おいしい酒のつまみになります。 


南蛮酒に酔いて(2)
私も私の懺悔録に書いた南蛮酒を、やっぱり粗製な葡萄酒、昔しいわゆるチンタ酒のたぐいと最初は思ったのであった。チンタ酒とはポルトガル語で、チント・ヴィニョすなわち有色酒、赤葡萄酒の意味のチントを訛ったもので、徳川時代長崎に遊んだ人たちはよくこれを飲んだもんだ。私は南蛮酒はこのチンタ酒よりは、アラキの方に近いのではあるまいかと思う。しかし慶長時代には、チンタをもアラキをもともに南蛮酒の名で総称していたのかも知れない。アラキは李時珍の『本草綱目』にも既に阿刺吉と出ており、アラビア語より東西両洋の諸国に伝播したものであるが、また南蛮酒と称し得ることは疑いない。訳せば火酒とも焼酎とも訳される。アラキはやはり米から醸造する酒である点においては、後世の南蛮酒と同じである。寛永十五年になり正保二年に出版された松江重頼の『毛吹草』によれば、山城の土産のうちに南蛮酒が数えられている。さすれば京都でも寛永時代にはそれができたものと見える。重頼の師匠になる松永貞徳の文集の中には、銘酒を挙げて「葡萄酒、焼酎、美淋酎類者、自異国来候」とあって、南蛮とはみえていないが、これ等の酒のエキゾチックなることを明示しているのは面白い。享保十七年京都付近の人三宅也来が著した『万金産業袋』の巻六、酒食門のうちにねり酒、焼酎、みりん酒などとともに南蛮酒の製法を説いて、 上白米一石斗(ばかり)こはいひ(強飯)にむ(蒸)し、かうじ(麹)一石、生焼酎一石、右三色を一つにして仕こみ、日数五十日斗(ばかり)してあぐる、あげやう常酒のごとし、但日数は夏冬にて少しづつの相違有、かくのごとくいひてはいと安き事のやうなれども、かげんむつかしき仕こみなり、こわいひのさめ、かうじのあらひ、水気のおきやう、手がけてよく其術を知るべし、酒にあげて木香を好まねば、ふるき樽に入るべし。 といい、最後に異国酒には、アラキ、チンタ、アガヒイタ、ニツハ、マサキ等の名目を挙げておる。本書によれば、南蛮酒は、異国的なものではなくなっているようで、アラキやチンタなどとも別な酒とされていたことがわかる。南蛮酒の伝統は、実はもっと古い。ポルトガル人渡来以前少なくとも三十年くらい遡り得るのである。牡丹花松柏が晩年泉南に隠居して、永正十三年七十四歳のおりに書いた「三愛記」という短篇の文章がある。三愛とは花と香と酒との三つを愛することをいうのであって、そのうち酒について松柏は次のごとく賛している。 酒はもろこし南蛮のあぢはひを試み、九州のねりぬき、加州の菊花、天野の出群なるを求め… これによると、唐土南蛮の酒の美しさをほめたことがわかる。九州のねりぬきとは、博多の練酒をいうので、そのねり酒というのは『産業袋』にその製法が見え、私が買いに出かけた酒屋の看板にも見えている。してみると南蛮酒なるものは、ポルトガルやイスパニアなどの黒船が南洋や支那近海に来始めない時分からの呼称とも見え、それがその名その物ともに今日に伝わっているものと考えてよいであろう。『本草綱目』に焼酎は元の時代からの飲用であると出ているが、葡萄酒がペルシャから東漸したがごとく、阿刺吉酒のごとき焼酎もアラビヤから伝播したのかもしれない。そういう経路は他日の研究問題にゆずることにしよう。(「琅「王干」記」 新村出) 


下戸の酒句(2)
女房に 座敷を渡す 下戸なやつ   竹露
耳だらい あけたを下戸ハ おん(恩)にかけ   鼠弓
下戸が出て 弐百引ヵせる 初鰹   十口
中堂へ 寝ころふを下戸 引たてる   五楽
ひらめかし(酔って刀を) おとろく(驚く)下戸を 追廻し  梅斧
下戸斗(ばかり) 揃ッて馬鹿な 大一座   眠狐(「初代川柳選句集」 千葉治校訂) 


事故
サダム・フセインの乗ったリムジンが、バクダット郊外の田舎道を走っていた。すると道の脇から一匹の豚が突然飛び出してきて、リムジンとぶつかってしまった。運転手はリムジンを止めてクルマから出てきた。彼は豚の死骸を確かめてから、フセインに報告した。「豚を轢き殺してしまいました。どうもあそこの農家の小屋から逃げてきた豚のようです。一応、農家の主人に話してきます」フセインはうなずきながら言った。「豚を轢いたのは大統領のリムジンだ。大統領のリムジンに豚を殺されるなんて名誉なことだと言っておけ」「わかりました」運転手は粗末な家の中へと消えていった。五分、十分、三十分。いくら待っても運転手はなかなか戻ってこない。そして一時間後、ようやく運転手は真っ赤な顔をして、煙草をくわえながら戻ってきた。その様子を見てフセインが聞いた。「どうした?何かあったのか?」運転手が答えた。「私は大統領が言われたように主人に伝えました。すると主人は非常に喜んでパーティーを始めたのです。唄を歌い始め、お酒をふるまってくれ、この煙草ももらいました。フセインは首を傾げながら聞いた。「一体おまえは何と言ったのだ?」運転手は答えた。「はい。私は大統領の運転手だが豚を殺した、と」(「世界のイスラムジョーク集」 早坂隆) 


耳明酒
上元(旧正月十五日)の早朝、清酒を飲むと耳が明るくなる(よく聞こえるようになる)といって、みんな一杯ずつ飲みます。これを耳明酒といいます。耳明酒は冷酒で飲みます。また、一説では、耳が明るくなるばかりでなく、一年中良い便りを聞くともいわれています。耳明酒は女性も飲みます。(「韓国歳時記」 金渙) 


○あかだ薬
【松屋筆記】○あかだ薬 張良草子、その菊のは(葉)におく露がしたの木受におち合て不老不死の薬となる 薬師の浄土にて不老山この浄土にて「あかたやく」 人間にあたふれば其名を和らげて即(すなわち)酒と申也云々 守武(もりたけ)千句追加に『隅田川原は薬也けり『都鳥はし(嘴)と足とがあかだにて』云々。(「和漢酒文献類聚」 石橋四郎編) 


服忌令
ある人のいへるは、町人百姓などは儒学ありといふ共、三年の喪(も)などをつとむるは無用成事(なること)也。道に志しあらん人は、さいはい日本相応なる服忌令(ぶくきれい)あり。此法にしたがひ、父母の服忌ならば五十日の精進にて世間に交らず、五十日過ても孝心の誠を守らんと思ふ人は酒飲ず、何にても厚味(こうみ)のあるものを食せず、乾魚(ほしいを)を食して生魚(なまいを)のたぐひを食ず、厚味成物或は五辛の類(たぐひ)は壮年の人には?欲(いんよく)をおこすものなれば是を忌(いむ)べし。但老人の病気なる人ならば、養生の為に少酒をのみ、又肉の類を折々用てもくるしからずと見えたり。又謡楽舞の座敷へ参らず。かくのごとく守る事十三箇月也。是我朝(わがてう)服忌の法なり。去ながら、町人百姓などは五十日の間外へ出て渡世をいとなまずんば飢(うゑ)に及ぶの類も多かるべし。其日ぐらしの貧なるものなどは、三日のいとなみを欠事叶(かな)はざる事なれば、是さへなべておこなひがたし。唯心喪(しんも)とて、外むきは兎にも角にも世にしたがひて、内心のつとめを右のごとくに勤め守る事は、貧賤なる土民といふとも行ひ安き事也。(「町人?」 西川如見) 


島村抱月
明治四十四年に私は東洋経済新報に入社したが、ここに私を紹介したのは田中穂積氏であった。しかるにその田中氏を私が知ったのは、後に述べるごとく、同氏が主宰した東京毎日新聞社に勤務したからであり、しかしてその東京毎日新聞社に私を推薦してくれたのは、ほかならぬ島村(抱月)氏であった。だから島村氏は、ただに私を文筆界に送り出してくれたばかりでなく、また私が(これこそ全く思いもかけない)経済記者たるにいたる機縁を作ってくれたのも、島村氏であった。もし私が爾来(じらい)経てきた今日までの行路が、私個人についても、また私と社会との関係についても不幸なものでなかったとすれば(私は他にいっそう幸福な行路があったかどうかを知らない)、実に島村氏は私の最も感謝すべき大恩人のひとりであったといわねばならない。しかし島村氏は、私に対してのみ特にかく親切であったのではない。私同様、否それ以上に島村氏の恩顧を被った者は、かぞえ切れない数に上ったであろう。正月元日には、島村氏は朝から座敷にすわり込み、酒と煮染めを備えて、入れ代わり立ち代わり年始に来る若者を相手に飲みかつ語った。この島村氏の気分は、必ずしも正月元日だけでなく、平常においてもまた示された。だから多くの若者が、自然島村氏に親しみ、出入りした。そして島村氏はまたよくそれらの若者の面倒を見たのである。(「湛山回想」 石橋湛山) 


みにくいもの
「若侍 新内けいこ」新内は武士にふさわしい芸ではない。「銭おしミ 酒猪口(ちょこ)の焼継(やきつぎ)」 。割れた陶磁器も焼き継ぎという技術で接着、再生できるが、猪口のように安いものを修理して使うのはいくらなんでもケチが過ぎる。「用たゝぬ 鉄釘(かなくぎ)の手紙」。鉄釘は、いわゆる<金釘流>で、字が下手なことのたとえ。下手なのも程度問題で、読めないほどの悪筆なら文字の用をなさない。(「大江戸番付事情」 石川英輔) 番付四段目です。三段目に「吊ひ酒の生酔」があります。多分、少し飲んで逆さ吊りになって酔おうとすることでしょう。 


アサメシ温泉
岡本太郎さんが、青森県の浅虫温泉に行った。夜の食事の時は、飲んでいて、ほとんど何も食べずにいた。同行者が案じていると、翌朝は元気に、モリモリごはんを何杯もおかわりする。「それにしても、朝からよくそんなに召し上がれますね」と感心すると、「アサメシ温泉」(「新ちょっといい話」 戸板康二) 

講武所芸者
ペリー来航以後、幕府は講武所を神田三崎町や神田小川町につくって、旗本・御家人の子弟に剣術や槍術を学ばせた。講武所に通う若侍たちは結髪までがちがっていて、たっぷりした大髻(たぶさ)に、月代(さかやき)はわざと狭くし、「講武所風」といわれて、いかにもりりしかった。若い女たちにも人気があった。講武所の若侍たちが三崎町辺りの居酒屋で飲んでいると、「いかがですか」などと、近所の遊芸のおっしょさんが三味線をひいてくれたりした。それが度かさなっておおぜいになり、やがて芸者になって、講武所芸者とよばれるようになった。−
将軍家茂なども神田小川町の講武所のほうが好きで、ここへゆくのをたのしみにしていたといわれる、将軍の御成がたびかさなれば町方が元気づき、いやが上にも講武所の士気が上がる。旗本・御家人の子弟がおしかける。従って飲み屋がさかえ、遊芸の女師匠がよろこんで酒席で三味線をひくというかっこうだったらしい。(「本所深川散歩神田界隈」 司馬遼太郎) 


鴨居の裏
「お忙しい中を恐縮です」と、池田さんが現れた。部屋がパット明るくなった。池田さんは私たちの名刺を丹念に見て「講談社の方がおられますね。文京区音羽…私は大蔵省に入ってすぐ、税務署に回されて、あのあたりが管内でしてネ。この地区は大手の企業が少なくてねェ。したがいまして講談社は目標のひとつでして…。一日中、講談社の前の電柱に身をかくして見張るんですワ。当時は自転車で小僧さんが、次々に荷台に本を積んで出て行く。その台数をチェックして、判断の資料にしたんです。いや、その節は失敬しました」と苦笑されて、ライスカレーをぱくついた。「そうそう、料亭が意外に多い地区でしたなあ。待合が新築されると、その規模や小口を調べに行きましてね、鴨居の裏に手を入れて、裏まで鉋(かんな)がかかっていると『お女将(かみ)、だいぶ金かけたな』なんてネ。今も税務署はやっとるらしい。ホテルの場合はトイレットペーパーの使用量が目安になり、喫茶店ならばトマトジュースが、ひとつのポイントになると聞きました。と申しますのもトマトジュースは朝の客に多い。たとえば徹マンのサラリーマンとか、わけありの二人連れといった連中がオーダーするんだそうで、したがってトマトジュースが多く出る店は、朝から繁盛していると解釈するんだそうで」カレーの食事は、ものの五分で終って、コーヒーが運ばれると、池田さんは「みなさん、ウイスキーのオンザロックにしませんか」と言われ、こちらも白面で話し合うことなど、きれいに忘れて飲みはじめた。(「酒の肴になる話」 矢口純) 雑誌編集者と首相時代の池田勇人との昼食会だそうです。 


二階と一階
両日すぎて些(すこし)の物を送れば、婦人前の如く酒を買て答ふ。官人その酒を煖(あたた)めて、箱の内より金杯をとり出し、一杯くみ小童をよんで送(おくり)ていはしむ「楼上の官人大娘子(婦人)にすゝめ奉る」と。婦人少も辞せず、笑てのむ。小童婦人呑(のみ)たるよしを申せば、官人又一杯をくみ送て説く「官人申します、婦人は外にある人なれば、一杯酒は呑むべからず(婦人は他家へ嫁すべき者なれば一杯きりの酒を飲むは縁起悪しとの意)」と。婦人又呑(のみ)をはる。官人又小童をよんで意を通じて云「官人よく一礼をのべます、娘子すてずよく両杯を呑たまへり、官人楼を下て(官人は二階にいる)婦人に酒をすゝめ申さんはいかゞ」といへば、往返三四反もすれども婦人きゝ入れず。官人少しの銭を取て来て、小童に嘱(たのみ)て申しけるは「?(なんじ)必(かならず)工面をめぐらし、彼(彼女)をつれ来れ。小童銭を得て喜び、又婦人のもとへ行ていろいろ説(とい)て申しけるは「娘子すでに両杯を呑玉(のみたま)へば、亦官人のもとへ行て一杯を回礼すべし」と。手を引て楼上へつれ来(きたり)「娘子来り玉ふ」といへば、官人いそぎ坐を立ち、個萬福(このごきげんよい) をのべ、いそぎ酒をとり来り、満々と一杯をくみ、婦人にすゝめて申すは「娘子の愛し玉ふを蒙る、此一杯を呑玉へ」と云へば、婦人手に取(とり)一飲してほし、卓(だいの)上に置くとき、却て少しのしたゝりあり。官人みて拿過(とりすぎ)来てねぶる。婦人これをみて嬉的(にこにこ)とわらひ、急々に下へ走り行く。(「通俗古今奇観」 青木正児校注)中国宋明時代に著された短編小説を江戸の淡斎主人なる人が訳したものだそうです。これは美人局の話です。 


泣き問答
「おそめ」のバァで川口松太郎氏と会い、私たちの一行は倍ほどにふくれ上がった。そこへ俳優座の女優たちが、松八重の「唐津」に送られて入って来て、そのままどやどやと松八重に雪崩れ込む。その中で一人むうちゃんだけが珍しく素面でいた。何だか疲れはてた様子で、私たちが「老衰だ」とからかうと、「そうらしい」と答える。ジィちゃんは、「京都なんかに独りで来てゐるのが良くないのだ」と書いているが、彼女の気鬱症はその頃既にはじまっていたのである。それから後のことは、酔っぱらってもいたし、何が何だかさっぱりわからない。ジィちゃんの『京都滞在記』によって、夢の出来事のように思い出すだけだが、それによると、熹朔さんが女形になり、私が男役になって、踊りを踊ったらしい。そこへ高枝ちゃんという舞妓が加わり、ジィちゃんはたいそう彼女が気に入ったようだが、気に入ったからといってどうするわけでもない。夢中になって遊んでいる時でも、彼だけはいつも醒めており、「齢をとつて眼が肥えて最後の物が見えて来ても、人生はそんな筈のものではなかった」という思いが心の底に沈殿しており、「美人を唐津や織部に見立てたつて、手持無沙汰である」ことに変りはなかったのだ。「ところが、それから<淡交>の客らしくない騒ぎが持上がった。何うも関東の人間が内輪同士になると、恁ういふのを一発ぶたないと酒席にやまが来ないらしい」といい、朝っぱらから飲んでいて、座談会でまた飲み、三軒目に踊ったり笑ったりしたので、私が一番酔っており、突然泣き出したという。泣きながら人と問答するのが私の特技だそうで、だから好い気持ちで酔っぱらったことなんか一度もないのである。「そこまでは芸のうちだったが」と、ジィちゃんはちゃんと見ぬいていたが、俳優座の女優の一人が私の涙に触発され、急に興奮して熹朔さんのズボンにかじりつき、坐ったまま引きずられている様は、とんと曾我の対面の五郎のようだった、と書いている。だが、私は夢のまた夢の心地がして、さだかに思い出すことができない。そこにいた友人の多くが鬼籍に入ったのを想う時、私ははたして向こう側にいるのか、こちら側にいるのか、それもはっきりしない。「此の座席で、近松門左衛門が見たのも恁んな酒席だつたらう」と、『京都滞在記』は終わっている。(「いまなぜ青山二郎なのか」 白洲正子) 


都万神社
ついで、日向国二の宮の都万(つま)神社に参拝した。ここの祭神は木花開耶姫(このはなさくやひめ)で山門には「日本酒発祥地」の大きな標柱がある。このことからもわかるように、ここは米を原料にした酒づくりでは最古の伝承のある神社である。本社では祭りのとき、お餅と甘酒が供えられるが、氏神様の祭りのときには、昔は、しとぎ、甘酒、赤飯が供えられたといい、現在は赤飯のみが供えられるとのことであった。(「日本酒の起源」 上田誠之助) 宮崎県西都市大字妻1にあるそうです。 


酒の効果
映画”ユーモレスク”で、ピアニストのオスカー・レヴァントがある女に、「お酒を飲むと貴女は素敵だ」「あらッ、あたし、ちっとも飲んでやしませんわ」レヴァント、溜息をつきながら、「僕が飲んでるんです」(「ユーモア辞典 参」秋田實編) 


趣味は禁酒
長部日出雄は、大酒家で聞こえているが、かつて読んだ文章の中で、酒の上での人との交渉を思い出したり、ひどい二日酔いになったりした時の自己嫌悪にたえかね、しばしば禁酒するのだと書いていた。その禁酒が救いだとしたあとに、こう付記している。「御趣味は?」と訊かれると、「趣味は禁酒です」(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


酒道
バーボンの本場ケンタッキーのカウボーイ野郎、ジョー・マクロウは、好みのバーボンを飲むときはいつも片手で目隠しをする。たまたまそれを見た酒場の客がそのワケを聞いた。「バーボンはあらゆる酒の中でも一番高貴な酒じゃ」マクロウは答えた。「だから、バーボンを見ると、わしの口の中にツバが出る。わしゃいいウイスキーを水で割るなんてとんでもないと思っとるんでな、だから、飲むときは見んように気をつけとるんじゃ」 (「ポケットジョーク」 植松黎編・訳) 


明治三十七年四月十二日
向い側の席を占めた二名の海軍士官に、名古屋で一枚の号外が手渡された。二人は低声で読んでいたが、突然一人が叫んだ「なに、マカロフが死んだ?これじゃ、勝利も同然だよ」と。他の一人は「見せろ、どこからの報道だ?ロンドン発?本当ならいいが」と。それきりであった。軍隊の上陸がなによりも緊急の現在において、きわめて重大な意義を持つ、この出来事に対して、それ以上は一言も発せられなかった。歓声もなければ、豪語もない。それどころか、およそ一語といえども、もう聞かれなかったのである。やがて京都についたとき、その報道を載せたいろいろな号外が五、六枚持ちこまれた。今度は、他の乗客も皆、それを読んだ。「本当に運がいい!」と、一人がにこにこしながらいった。「まったく日本は『神国』じゃないですかね?」と。他の連中も、それに調子を合わせて微笑した。そして、この話題はそれきりだ多t。しかもこれが、天気の話をするのと同様の、平静な調子で語られていたのだ!−ところで、最近ドイツのある大新聞が、終始日本人の誇大狂について論じた(!)一記事を掲載した。もし厳格な自制、すべて空威張りの忌避、冷静にして慎重な行動などが、誇大狂の徴候であるとすれば、確かに日本人は誇大狂にかかっている。独、英、米、仏の人々で、ことにあの海軍士官連のような、理解不可能の克己と節制に当面して不快に、実のところ恥かしく、感じない者はなかろう。誇大狂!もちろん、程度の低い国民は、その喜びをこのんで色に出すものだが、それでもさすがに、他国人に向っては、つねに多少控えめだ。すべての外人に奇異の感を与えるのは、このような場合、日本では泥酔者を全然見かけないことだ。しかしながら日本の新聞だけは全く特別だ!日本人は、その祖国にとってこれら新聞紙がいかに禍いであるかを必ず悟ることだろう、これら新聞紙は、自国を完全に歪めた形で、外部に伝えているからである。(「ベルツの日記」 トク・ベルツ編)  


ボージョレーとロマネ・コンティ
この「飲んだグランジを記憶にない」という事件を思い出したのが、ボージョレーとロマネ・コンティをブラインドで試飲させると、たいていの素人(つまり、ワインを飲んだ経験の少ない人)は、ボージョレーの方を美味しいと選ぶ、という話を聞いたときだった。ボージョレーは、あのボージョレー・ヌーボーのボージョレーである。ブームの盛り上がりがあまりにも強烈だったこともあって、今となってはちょっとしたワイン飲みは、初心者の安ワインと馬鹿にするが、ちょっと冷やして飲むと、気持ちの良いワインである。様々な作り手のものがあるが、良くできたものなど、かなりのレベルのワインである。ただ、ロマネ・コンティと比較するような種類のワインでは、もちろんない。それなのに、その百倍か、それ以上高いワインよりも、、安い方を素人は選ぶというのである。初心者に毛が生えたレベルの身、あるいは急激に階段を上った身には納得がいく。また、音楽に喩えるなら、何の知識もなくて、ピアノソロくらいだったら、「良い、悪い」はともかく、「好き、嫌い」は言えるだろう。しかし、オーケストラとなると、ある程度の理解、あるいは経験がないと、ただただ大きい音、あるいは複雑な要素に圧倒されるだけではあるまいか。あるいは、雑誌に載っている短編小説やエッセイを読むのはともかく、トーマス・マンやドストエフスキーの長編だと、それなりの素養なり、覚悟なりないと楽しめないものではないか。そういったことと相通じるものが、ワインにもある、ということなのである。複雑さが身上の高級ワインなど、あまり飲んだ経験がない人間が飲んでも、美味しいとは思われないということなのである。その代わり、それなりのステップを踏んだ後だったら、圧倒的な感動を味わえる、ということなのである。(「味覚の探求」 森枝卓士) 


代替の刺激
アルコール依存症の人たちが酒をやめると、ギャンブルに嗜癖したり、異性や買い物に嗜癖することがある。それはもともと、心の焦燥感をアルコールである程度カバーしてきたためで、カバーするものがなくなると、それに代わる刺激、それも似たような刺激を求めるようになると考える説がある。「代替の刺激」で、病んだ心を満たそうとするわけである。このような心の動きは、アルコールにおける「AA」のような自助グループの活動にも見られる。つまり、似た心の傷を持っている人たちが集まる自助グループのミーティングは、仲間どうしが心を開き、仲間に依存することによって病んだ心を癒そうとしていると考えられる。似た心の傷、似た心の痛みを知っている人間どうしが集まって、互いに傷や経験をわかち合うことで、充足感が得られるわけである。代替を求める過程で、より健康なものを求めさせようというのが自助グループであり、より不健康なものを求めるとギャンブルや薬物などへの嗜癖になる。(「嗜癖のはなし」 岩崎正人) 


オコゼ
そのオコゼを山の神に見せて高笑いする祭が和歌山県にある。柳田国男先生の「山の神とオコゼ」によると、紀州熊野路の八木山峠の下に、八木山という部落がある。今の何郡何村に属するか地図にも大字一覧にも見えて居らぬ。この村の産土神(うぶすながみ)は山神で、社は里離れたる山中にある。祭礼は霜月(旧暦十一月)の八日、この祭りの式は極めて珍しい。まず社頭の広庭に筵(むしろ)をしき、氏子一同これに坐り神酒を戴くのである。氏子の中に当番の者があって真中に坐り、女や子供は筵の外に立って祭りの式を見物する。当番は、初から懐中に一尾の干したオコゼを入れて居る。神酒一巡の後、氏子一同から当番の者に向かって、−貴殿御懐中のオコゼを見せて下され という。当番は −いやいや見せ申すまい。皆の衆はお笑いなさるであろう故に。 といえば −笑いますまい、一目でよいから見せて下され それならばと、懐へ手を入れ、右の手で持てば左の袖口から、左の手で持てば右の袖口へ、干したオコゼをちょいと出す。一同が、ハハハハと笑う。当番はわざと不機嫌な顔をして、オコゼを引込める。一同は又酒を飲み、暫くあって再び懇望する。 −いやいや決して見せることでは無い。あのようにお笑いなさるる故に。 というと、 −今度こそは笑いますまい。平に見せて下され。 とたって言う。そんならばと、また出すと、前よりも一層高く笑う。同じ順序でこれを三度、終には当番も見物も大笑い、最初は儀式で笑った者が、三度目の酒が巡ると自然におかしくなって、我慢出来ぬようになる。これが祭の式である。この辺で人が大笑いすることを山の神にオコゼを見せたようだという相である。
この熊野路の祭は氏子の者が当屋に向って、オコゼを見せることをくりかえして所望するところにおかしみがあるのであるが、氏子の者こそ山の神の姿であった。(「日本の笑話集」 武田明編著) 


連雨独飲(二) 陶淵明
故老 余ニ酒ヲ贈ル(老人たちが余に酒を贈ってくれて)
乃(スナワ)チ言フ、飲メバ仙ヲ得ト。(それで言ふには、之を飲むと仙人になれると。)
試ミニ酌(ク)メバ百情遠ク(ためしに一杯やつてみると何も彼も忘れてしまひ)
觴(サカズキ)ヲ重ヌレバ忽チ天ヲ忘ル。(杯を重ねると忽ち天をも忘れた。)(中国飲酒詩選 青木正児) 


ショウチュウのなぞ
石橋忍著『日本の医学』という本を買ってきて読んでみた。こんなことが出ていた。鎌倉時代ごろは、武士は主従関係が道義で結ばれており、義のために生命を惜しまなかった。しかし、時代が移るにつれ、やとわれ武士が多くなった。となると、戦傷治療の技術者、つまり外科医を召し抱えておく必要がでてきた。サービスが悪いのなら、いい外科医のいる、ほかの主君のほうにつかえるぞ、だ。外科技術向上の条件がととのってきた。いい外科医ひとりが、多数の武士をひきとめる。待遇もよかっただろうし、あらゆる方法を真剣にこころみたにちがいない。そして、戦国時代の末期らしいのだが、ショウチュウで傷口を洗う方法を考案した人があらわれたとある。その人名はあきらかでない。あとは私の想像だが、ショウチュウは最初、麻酔薬がわりに使われたのではないだろうか。花岡清洲よりはるか以前にである。−戦国時代には、ショウチュウが適当である。いつもアルコール分の低い日本酒しか飲んでいないから、たちまち酔っぱらう。それで手当てをすればいい。しかし、飲みたがらなくてか、痛がってか、ショウチュウを押しかえしたやつがいた。それが傷口にかかる。となると、必ずいい結果になったはずである。傷は化膿することなく、なおりも早い。つぎにも、そんな患者があった場合、やはり同じだ。理屈はわからなくても、ショウチュウの結果について、体験的に気がついた。いっそのことと、飲ませるのをやめ、傷を洗うのに使ってみる。いい結果とわかり、ますます確実となる。(「ショウチュウのなぞ」 星新一) 


ただのみ
摂津の国一の谷は、古(いにしえ)元暦のころ、源平戦場の跡とて平家の公達、無官の大夫あつもりの墓とて、何人が建てけん五輪の石碑残れり。今はその前並木の方に、海の面を見晴らしたる所に、そばを商ふものありて、往来の旅人を日の丸の扇にて呼びかけ「そばのあつもり上がらんか、あんばい義経」といふ。地口ずきの江戸もの、これを聞いて喜び「代銭いかほど」といへば「あつもり十六歳の時」といふ。「これは面白い、供にも食せん。とも盛これ盛」と何杯も食ひ「これで平家の二十四もり食ふたであろ。外に酒もりがなくてはならぬ」といへば、亭主「だんな、秀句口合ひはゑらひもんじや。有盛有盛」と出す。その時江戸のもの、あり合呉主(ごす)茶碗おつとり「酒をつぎ呑」といへば、亭主扇をもつて仰ぎたて「イヨ咽(のど)の守呑つね公」と賞むれば「イヤ我こそは剣びし五位の上戸、胸もとの義経と名のる上は平家の一文も払ひなし」と駆け出す。亭主肝をつぶし、供の者を引とめ「こなさんも酒を呑んだ。サア梶原の二度のかけは致さぬ。代物が浦の浪銭を、この場に於て払ツた払ツた」といへば「イヤ、おれは梶原ではない。よしつねの身内において」「なんと」「酒をたゞのむじゃ」(富久喜多樽・文化十一・地口)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


手酌は恥のもと
【意味】独酌はみっともない。ついでもらって飲むのが本筋である。【出典】手酌は恥のもと、これ御覧ぜよと、さらりと酌んでついと干し〔壇浦兜軍記〕
徳利に口あり鍋に耳あり
【意味】どこでだれが聞いているのかわからない。密談の漏れやすいのをいう。
徳利に味噌を詰める
【意味】入れにくい。実際に合わないことのたとえ。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


ルイ十六世
気弱で政治オンチなルイ十六世は、保守派の貴族の働きかけもあって革命に敵対し続けた結果、王権が停止され、一七九三年に「国民への敵対」の罪で首切り機械のギロチンにより公開処刑された。処刑前夜にルイ十六世はつぎのような手紙を書いたという。「ヴェルサイユで私は、途方もない贅沢な暮らしをしていた。しかし今日、神よ、私はあなたを称(たた)える。私は古代の賢明なる王たちと同様、小聖堂内にあるささやかな私の部屋で、一杯のワインを前にして、私の治世を終える。私は司祭とともにあり、彼は今、神とブドウの果実の結合に備えて、ワインと水を混ぜでいる。ワインは神であり、神はワイン、すなわち私の敵たちの正反対のものである。(中略)私はもはや王ではなく、若芽をもたないブドウのように私自身や子供たちから切り離された哀れな男にすぎない」(ヒュー・ジョンソン 小林章夫訳『ワイン物語(下)』)。(「知っておきたい「酒」の世界史」 宮崎正勝) 


薬玉
一番忘れ去られたのは薬玉(くすだま)である。朝廷の五月五日の節会(せちえ)に、群臣に酒を給され、「薬玉を賜う、五色の糸もて臀(しり)にかくれば悪鬼を払う」とあった群臣があやめのかずらをかけている光景を「公事根源」にのべている。薬玉も邪気を払うものだった。一種の飾り物で、古くは菖蒲に色々の糸を結びたれたもので次第にあじさいの色で飾ったり造花を使用するようになり、更に長命のしるしとして沈香や丁字など香気の強い薬を玉にして錦の袋に入れ、菖蒲や艾或は造花をつけ八尺もある五色の糸をたれ下げた飾り物になって行った。(「江戸風物詩」 川崎房五郎) 


ルーマニアの一口噺
フランス人とハンガリア人とルーマニア人の三人が集まって一杯やるかということになったが、めいめいお国自慢に熱中して、何を飲んでいいのかわからなくなる。そこでネズミをつれてきて、まずフランス人がボルドーを一滴飲ませてみたら、ネズミはたちまち気持ちよくイビキをかいて眠りはじめた。つぎにハンガリア人がトカイを一滴飲ませてみたら、ネズミはとび起きて、もう一杯おくれと、叫んだ。さいごにルーマニア人がお国自慢を一滴飲ませてみたら、ネズミはとび起きて床で二度跳ね、ネコを一匹つれてこい、おいらはネコを殺してやるぞと、声高らかに叫んだ。 ルーマニア出来のそんな一口噺を聞いて笑いながら、脂が入ってゴワゴワした田舎風のソーセージの熱いのを『ビノ・ノアール』で下から咽喉へ送っていると、血管におだやかな陽がみなぎってくる。カルパチアの金と赤の秋の日光も、黒海からの栄養塩を含んだ微風も流れこんでくる。(「酒瓶のつぶやき」 開高健) 


虎の威を借る狐
権勢のあるものをかさに着ていばる小人。
百獣の珍味を求めて食ってきたグルメの虎が、夜遅く酔っぱらいの狐をつかまえた。どんな味付けでくってやろうかと考えている虎に向かって、狐が言った。「ねえ、虎さん、私なんかよりずっとうまい動物を知っているんですが食べてみませんか。今からでもご案内いたしますよ」「どんな動物だ」「サイです。サイのフィレ肉赤葡萄酒煮なんかサイ高ですよ」なんとか虎を納得させた狐は、このグルメを後に従えて森の中を歩き続け、ある家の前に到着した。「俺だ。開けてくれ」「なによ、こんなに遅く。どうせまたはしごして飲んでたんだろ」戸を開けたのは一匹の女狐だった。「さあ、ダンナ。こいつです」「ちょっと待て、これはただの狐ではないか」「いいえ、妻(さい)です。証拠に角を出している」共催をペロリと処分してもらった狐は、今あこがれの独身生活をエンジョイしている。虎の胃を借りた狐のお話である。(「悪魔のことわざ」 畑田国男) 


銀座のキツネ
昨年十一月末、銀座で一流といわれる酒場で、長い間密造洋酒を売っていたことが発覚して話題となった。この事件に関連して、前にもう一つ新聞種になった犯罪があった。東京都下の印刷屋で洋酒のレッテルを多数偽造しているのを発見されたのである。私たちはその時すでに、ニセのレッテルを張りつけるニセ洋酒はどこにあるのだろうと不審に思っていた訳で、これでつじつまが合った感じがした。しかし、つじつまが合ったなぞと、もっともらしいことをいっているヤツが、いちばん馬鹿だ。というのは、この密造酒を二年か三年、知らぬ顔で売っていたバーテンは、なかなか根気のいい男で、その間日記のようなものをつけ、だれ一人としてこの酒を怪しいといった者はないと記しているそうである。かくいう私なぞも一杯や二杯は飲まされているに違いないのである。幸い戦後の密造酒のようにメチールなぞははいっていなかったらしいのが見つけ物というところで、おそらくは日本製の洋酒を台に、香料を加えたりしてそれらしい物をデッチ上げたのであろう。こうなると、国産奨励のおりから、日本製の洋酒も味だけは立派だということになりかねない。−(昭和三十七年一月「新潟日報」)(「カレンダーの余白」 永井龍男) 


スエヒロ
ごらんなさい。昭和一八年のメニューがあります。温かい生ブドー酒一合五十銭。お肉の味覚をそそるビール七十銭。上等酒一合四十五銭。スキヤキは一円四十銭から三円五十銭まで。時代は変わりました。ええ、商売のほうも変わりましたよ。いまねえ、三重県の松坂と、信州の菅平と牧場が二つあって、六百頭飼わせてます。ほかにオーストラリアに三百頭、これは飼料を指定して現地の人に飼わせてます。これを梱包して税関通すまで伊藤忠にたのむことにして三者連合でやってるわけです。スエヒロの名前を出している店は今全国に六十軒。直営店が十五軒。−
あのネ、こんなことを人に話しても通じませんよ。通じませんからいつも話しません。けど私は信じますねえ。たとえば頭が重くて痛いとき、仏さまのお下がりお酒のビンをもってきて頭にかけます。ピタリこれはなおりますわ。いえ、ほんとなおります、ハア。商売で悩んだときにもお酒のごりやくを仰ぐかって?いや、そういうときにはビンを持ち出しません。商売のことは別。
(「銀座ゆうゆう人生」 上坂冬子)'71年3月「銀座百点」に載ったスエヒロ石原社長の話だそうです。 


谷崎日記。
朝荷風氏と街を散歩す。氏は出来得れば勝山へ移りたき様子なり。但し岡山は三日に一度ぐらゐは食料の配給ありとの事にてその点勝山は条件甚だ悪し。予は率直に、部屋と燃料とは確かにお引受けすべけれども食料の点責任を負ひ難き旨を答ふ。結局食料買入れの道を開きたる上にて荷風氏を招く事にきめる。本日此の土地にて牛肉一貫(二〇〇円)入手したるところへ又津山の山本氏より一貫以上届く。今日は盆にて昼は強飯をたき豆腐の吸物にて荷風氏も招く。夜酒二升入手す。依って夜も荷風氏を招きスキ焼きを供す。又吉井勇氏に寄せ書きのハガキを送る。本日大阪尼崎方面空襲にて新型爆弾を使ひたりとの風説あり。今夜も九時半頃迄二階にて荷風先生と語る。(「うわっ、八十歳」 新藤兼人) 昭和二十年八月十四日のものだそうです。 断腸亭日乗   


永田宗郷
青山南町に永田宗郷という漢学者がいた。朝から晩まで酒浸りの大酒飲みで、漢学塾を開いていたが、月謝はその場で飲んでしまう。おまけに飲むと生徒に絡むから、生徒が三日と続けて居つかない。当然家内は火の車。債鬼が押しかけてくるから、老先生はときどくふらりと姿を晦まして何日も帰ってこない。そうとは知らずに市原忠良という岩手県人の書生が入塾してきた。生徒は皆逃げてしまったのでたった一人の塾生である。ある日例によって先生がどこかへ消えてしまった。三日経っても四日経っても帰ってこない。市原忠良が雨戸を閉め切った真暗の部屋のなかに虫の息で寝ていると、十二日目に先生が一升徳利を抱えて上機嫌で戻ってきた。市原は起きようにもその気力がない。先生は酔っ払っているから、市原が餓死寸前とも知らずにしきりに管を巻いて絡みはじめる。かりに河村北溟が運良く訪ねてこなかったら、先生はまたまた続きを飲みに出掛けて、市原は確実に餓死してしまったはずだ。(「食物漫遊記」 種村季弘) 


会津若松
今回の目的地は、白虎隊で有名な、会津若松である。駅前の舗装だけがやっと出来たような広場で、埃に白っぽくなった板塀などが並んであり、ぼくの子供のころのままの、田舎の駅といった感じが、わずかに残っている。じっさい、このごろはどこの地方都市に降り立っても、駅前の印象は、うんざりするほど似通っているのである。だだっ広い広場に貧弱な街路樹、不格好な宣伝塔か彫刻家噴水、銀行や観光案内業者の白っぽいビルのあいだから、すぐにネオンのアーチをめぐらせた、商店街がつづく。ぼくの感じでは、小さな都市の駅は、こうであってはならないのである。広場はあまり舗装がしてなくて、がらんとしていて、人気が少なくなければいけない。古びた中二階造りの家並みは昼間から雨戸を閉じ、「御旅館」の看板だけが麗々しく目につく。鉄道の横には枕木を利用した柵が立ち、ヒマワリが数輪、埃を浴びて首を傾げている。−
戦災を受けていない、古びた街なみには、やたらに酒の看板が目につく。江戸時代のはじめ、蒲生(がもう)家が京都から酒造りの職人をつれてきて、それ以来ここでは酒が名物の第一になっているのである。(「美味めぐり」 宇能鴻一郎) 


尻つまみ祭り
伊豆の温泉の伊東に、尻つまみ祭りというのがある。参詣に来る女の尻を、祭典中は境内の燈火を消すので、これ幸いと男がつまみ、女は男の尻をつまむのである。ところが男の尻をつまむ女は、まァないらしい、大てい男が女をつまむ。祭典中は燈火を消すという境内は、行ってみると、一本の電柱もなく燈火のつけようがない。これは社殿の燈火の間違いらしい。この尻つまみ祭りのある神社は、温泉の南の端にある玖須美の玖須美神社で、その辺一帯の祭礼で、伊東町全体の祭りではない。いわれはこの夜、氏子が社殿に居並んで、神酒を神主から頂戴する時、一切言葉を出してはいけないことになっているので、盃を次に回すとき、暗いので尻をつまんで合図をして盃を渡すという段取りが、いつか尻をつねるようになってしまったらしい。(「旅に拾った話」 宮尾しげを)伊東市音無町1-12 にある音無神社の祭礼だそうです。 


ことわざ
酒は情の露雫(つゆしずく)(酒は情合をこまやかにする)
酒に痛む(酒で身体をこわす。また泥酔する)
酒の皮を剥(む)く(「剥く」は杯の酒を飲まずにこぼし捨てること。また浪費を重ねる。贅沢を尽くすことにも用いる)
酒はほろよい、花は半開き−つぼみ(酒はほろ酔いがよく、花は半開きやつぼみはよい)
酒返しはせぬもの(酒を贈られたら受けるもので辞退は失礼に当る)
酒盗人は色にあらわれ、伽羅盗人は香にあらわる(酒盗人は顔に出るし、香木盗人は香りでみつかる)(「日本酒のフォークロア」 川口謙二) 


首の鎖
亭主は雇い人全員に、客が食卓についたら酒の酌を怠らないようにと命じました。さらに酒蔵にある最高の一番強いワインを運ぶようにと命令しました。すべてが亭主の命令と計画どおりに行われました。みんなが、食卓につく時間になると、すぐにたくさん食べ物が運ばれ、牛飲馬食が始まりました。亭主はたえず食卓の間を行き来して、自分の計画が気づかれないようにし、さらさら疑いを持たれないようにしました。亭主は盛んに酌をして、若い貴族に酒が不足しないようにしました。さて貴族は少なくとも三百グルデンの値打ちのある美しい金のネックレスを首にかけていました。亭主は貴族が完全に酔っ払ったのを見とどけると、言いました。「若様、どうしてあなたは一日中そんな重いものを首にかけていられるのですか。」貴族は言いました。「なんだって。」亭主は言いました。「私はシャツや上着を一日中着ていると体が窮屈ですし、同じような帽子をかぶっていると頭が重くなります。まして一日中そんな鎖をつけていなければかないなんて。」若い貴族は言いました。「わしには全然苦痛でない。誰かやって来て、もう一つ鎖を贈ってくれたらいいのにと思っているくらいだ。たとえそれが重かろうが、わしは両方とも身につけるつもりだ。」亭主は言いました。「そういう鎖を身につけている人は、どんな気分なのかぜひ知りたいものです。」貴族はすばやく亭主の首にネックレスをかけてやりました。酒宴はさらに続きました。亭主はそれまでしていたように食卓の間を走り回りました。貴族の方は最後には完全に意識を失って、横になって寝入ってしまい、誰が支払いをするのかは気にもとめませんでした。暴飲がお開きになるまで続いたときには、部屋に残った数人もベンチの上で横になっていました。誰からも警戒心というものがなくなってしまっていて、貴族はもはやネックレスのことなど考えてもいませんでした。(「道中よもやま話」 イェルク・ヴィクラム 名古屋初期新高ドイツ語研究会訳) 


玄徳と曹操
ある日、関羽と張飛は外へ出、玄徳一人で裏庭のはたけに水をやっているところへ、許?(きょちょ)と張遼が十数人の騎兵をしたがえ、あわただしく庭まで入って来て「丞相の仰せにて、玄徳どの、すぐにお出なさるようとのことでござる」と言う。玄徳はおどろいて「それはどのような大事でござるな」と問うたが、許?「いや知らぬ。ただ、呼んで来いとの仰せだ」と言うので、ぜひもなく二人のあとに従って丞相府に出頭した。すると曹操は、きっとした面持で「屋敷の中で、うまいことをしておるな」と言ったので、おどろいた玄徳は土のような顔色になった。曹操はかれの手を取って、ずっと裏庭に入り「玄徳どの、はたけ仕事も楽ではあるまいのう」と言ったから、ようよう心おちついた玄徳は「いや何、ただ暇つぶしのなぐさみでござります」と答え、曹操は頭を上げて、からからと笑い「今しがた、庭の梅の実が青くなっておるのを見て、ふと去年、張繍(ちょうしゅう)を征伐の道すがら、水が不足で、困り果てておったとき、わしが計略を思いつき、むちを上げて、かなたを指さし『あそこに梅の林があるぞ』と言ってやったら、兵士らはこれを聞いて、口の中につばを出し、渇きを止めることができた事を思い出したのじゃ。この梅の実を見ては、また一しおの喜びがある。それに、ちょうど造らせておった酒もよくできたあんばいゆへ、使君しくん)どのをお招きして、あの亭(ちん)で酒を酌もう思うたまでじゃ」。玄徳はすっかり安心し、曹操のあとについて、亭のあたりまでくると、もう酒宴の支度ができていて、青梅を皿に盛り上げ、一瓶(かめ)の酒がそえられてあった。二人は向かい合って座をしめ、のびのびと酒盛りを始めた。(「三国志」 小川環樹・金田純一郎訳)玄徳がまだ勢力盛んになる前に、曹操のもとに身をおいていたものの、その殺害の連判状に名を連ねた直後、曹操からの呼び出しがあったときの話です。 


浪人
浪人、酒屋へ行き、借銭の言訳をいへども得心せざる故、ぜひなく、おし肌ふぎ「腹を切るがどふだ」亭主あざ笑ひ「おまえ方のせりふは久しいのだ」やがて浪人、脇差を横腹へつゝこみ、臍(へそ)のきわ迄切廻し「かくのごとくだ」といふ。「とてもの事に、なぜお切りになされぬ」「この半分は米屋で切る」(座笑産・安永二・浪人)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


酒手の要求
駅より駅への長い間には一行の駕籠が離れ離れになり、一町二町と隔たって舁(かつ)がれて行く。こうして広い野や淋しい山道を通ることがある。婦女子などはこういう時雲助に対して甚しく不安を感ずべきであるが、武家の一行は全く安心なもので、次の駅で皆無事に揃うのであった。なぜ武家に対して彼らが温順であったかというに、武家は駅の問屋の手を経て雲助を雇う。問屋には雲助の親分が請負的に用を弁じている。もし雲助に悪行があったら、直ちに親分の責任になる。故に親分はその雲助に制裁を加えた。馬子も雲助同様の組織になっていたから荷物も聊(いささ)か障りなく届いたものである。制裁はなかまどうしで加えさせたもので、軽いので指を一、二本へし折らせた。甚しいのは十本とも折られる。あるいは殴って半殺しにする。そうしてその駅を追っ放す。或る駅でこういう制裁を受けると他の駅でも雇ってくれぬ。だから雲助は親分には十分に服従せねばならぬのである。それで問屋から口をかけられた旅人には、全くおとなしくしていた。賃銭は武家の払うのは五十年も前の相場で払うので、安政の当時においては不当なほど廉価なものであったが、雲助や馬子はそれに甘んじて仕事をしていた。それではいかにも引合わぬという疑が起ろうが、彼らの稼ぎには武士以外の平民がある。平民の用は、問屋から武家の用を命じられるそのいとまに遣(や)ることになっており、それは『相対雇(あいたいやと)い』といって、問屋を仲に立てないでいるので、賃も十分にとり、なお酒手もねだった。それで武家の方と差引いて生活したのである。それでは平民ばかりを客にしたら大変に宜(よ)いはずであるが、それは許されていなかったのである。(「鳴雪自叙伝」 内藤鳴雪) 


15雪は鴨を煮て飲んで算段す(五五22)
当時の人々は、能を鑑賞したり、自ら謡(うたい)の会を催したり、好みに合った謡曲の一節を口ずさんだり、謡曲の詞章に接することは日常的でさえあった。そこで、謡曲の詞章を生かしたパロディーの句が、何千句と詠まれている。雪がしきりに降りしきる日は、友人たちと室内で鴨鍋をつつき、酒を酌みかわして歓談するが、いつの間にか酒の勢いが付いて、「さて、これから遊里へ繰り込もうではないか」などと、女郎買いの相談に到達する。「ところで、金はあるのか」「なに、近くの岡場所なら、安く遊べるさ」などと、打ち合わせに余念がない。そんな状況を述べている。「算段す」とは「相談する・手段を工夫する」という意味である。謡曲の文句を知らない人は、ここまでの句意で終わりである。さて、謡曲「鉢の木」に、次の詞章がある。 雪は鵝毛(がもう)に似て飛んで散乱す。 「鵝毛」とは鵞鳥の羽毛で、極めて軽い物に譬える。ひとしきり降る雪は、鵞鳥の羽毛のように軽々と空中を舞い、散り乱れているという意である。これを見事に援用している。「雪は鴨を煮て飲んで算段す」という全句を、少し早口で声にして読むと、謡曲の詞と寸分も違わないように聞こえる。「なぁるほど、うまく使いこなしたな」と読者に思わせるほどの、パロディーとしては出色の出来ばえである。(「江戸川柳」 渡辺信一郎) 



「憩」という字は、心の上に自らの舌が乗っている。心と自らの舌。これは、味わうことにより、心身がいやされるということだろう。飲食のみならず、景色、出会いも味わいだ。それを、ひとりで、する。ひとりで選んで、ひとり、味わう。オトナなんだから、ワケないはずだが、案外、みんな、していない。ここに秘策あり。ソバ屋さん。ぽっかりあいたハンパな午後(二時から四時ごろ)、存分に憩える空間が出現する。その時間帯のソバ屋さんは、オトナの貴賓席。ほの暗い店内は、昼下がりの陽光に包まれて、座った席がカンガルーポケットとなる。メニューの組み立ても自在。むろんソバだけでもいいが、いきなりソバ汁粉でもいい。次に板わさと燗酒でもいい。熱々の鴨南の後に冷酒で、もり一枚をたぐるのもいい。普通のレストランなら、デザートの後にメインディッシュは注文できない。食堂だって、昼酒の客など歓迎しない。焼き海苔をツマミに一合酒を三十分かけて、のうのうと過ごせるのは、ソバ屋さんだけだ。ストレイシープを、いつまでもかくまってくれる、たそがれ時のソバ屋さんに敬意を表して、「ソ連(ソバ屋好き連)」を結成して十二年になる。腹ごしらえではなく、心ごしらえが会則。シメのソバ湯を飲み干すころには、まるまると、自分が、満ちている。ソバ屋さん、ありがとう。(「杉浦日向子の食・道・楽」) 


瑟と缶
そののち秦は趙をうち石城をおとした。あくる年、さらに攻撃し趙の死者は二万人であった。秦王は使者をだし趙王へ、よしみを結びたいから、西河(せいか)の南の?地(べんち)において会見しようと申し入れさせた。秦のたくらみをおそれた趙王は出かけないつもりであったが、廉頗(れんぱ)と藺相如(りんしょうじょ)は方策を立てた、「王さまのお出ましがなければ、趙の弱さと気おくれを見せるものでございます」。かくて趙王は出発し、相如が供をした。廉頗は国境まで見送って、王に別れを告げ、「お出ましのうえは、途中の道のりとご会見の儀式が終って、お帰りの日数は察するところ三十日にはなりますまい。三十日たってお帰りなければ、太子さまのご即位を願いたてまつります、秦の野望を失わせるためでございます」。王はそれを許可し、かくて秦王と?地で会見したのである。秦王は酒宴たけなわとなるや、「予は趙王には音楽をこのまれると聞き及んでおる。ひとつ瑟(しつ 琴に似た五十弦の楽器)をかなでていただけまいか」と言い、趙王は瑟をひいた。秦の御史(ぎょし 記録係)が進み出て記録にとどめた、「某年某月某日、秦王、趙王と会飲し、趙王をして瑟を鼓せしむ」と。藺相如は進み出た、「趙王は秦の王さまには秦のうたがお上手と聞かれております。缶(ほとぎ 酒を入れる小さなかめ)をうって、互いの興をそえていただきとう存じます」。秦王はきげんわるく、ことわった。そのとき相如は前へ出て缶をさし出し、ひざまずいて願った。秦王はそれをたたこうとしない。相如は言った。「この五歩の近さゆえ、それがしの頸(くび)の血が大王にはねかかると思しまされませ(相手を殺し、自分も殺されようの意味)」。側の者がかれへ切りかかろうとしたが、かれは目を見ひらき大喝すると、みなたじろいだ。そのとき秦王は気はすすまぬものの、少し缶をたたいた。相如はふりむいて趙の御史をよびよせ、「某年某月某日、秦王、趙王のために缶(ふ)をうつ」としるされた。秦の群臣は「ひとつ趙より城十五をもって秦王への贈り物にしていただきたい」と言えば、藺相如もまた言った、「秦の咸陽(かんよう)をば趙王への贈り物にいただきましょう」。酒宴のはてるまで。秦王はとうとう趙をおしきることはできず、趙の方でも兵の備えを厳重にして相手の出かたをみていたから、秦もうかつなことはできなかった。(「史記列伝」 小川・今鷹・福島 訳) 


幾久酒
婚礼ニハ幾久酒ト書。柳留モ家内喜多留。
とあるように、菊酒を幾久酒と書いて用いる、おめでたいときの必需品であった。それにしても、いく久しい酒とはうまいあて字である。そして菊酒は加賀の名物であった。犀川上流の水で作ったと『料理無言抄』にも書かれている。
菊酒加州ヲ第一トスル事ハ才川之上ニ菊岳有り。此水ヲ以制スルヲ以名物ト云。諸国の名物を記した『毛吹草』の加賀の項にも「菊酒」の記述がある。ところで伝内の説でいくと菊酒は金沢が起源ということになる。しかし、菊酒には手取川流域の鶴来(つるぎ)が起源であるとする説も根強い。加賀藩士の碩学(せきがく)富田景周(かげちか)が著した『加賀国菊酒考』(一八一五年刊)には、白山山麓手取川の水源付近に白菊の叢生(そうせい)地があり、その露を集めた水で菊酒を造ったという説が載る。これが鶴来説である。(「加賀百万石の味文化」 陶智子) 『料理無言抄』は、加賀藩の料理人舟木伝内によって著されたものだそうです。 


イエンとジュウ
よく中国の冗談で言われることがある「先生、夏休みは何か御必要なものがありますでしょうか」と、学生が訊ねる。先生はゴホンと咳を一つして真面目な顔で答える…「イエン・ジュウ!」「イエンジュウ」と発音される言葉を漢字に直せば、「研究」である。しかし、この別々にしてみると「イエン」は「烟(煙草)」、「ジュウ」は「酒」。この先生は、「研究」と言いながら、実は学生に「煙草」と「酒」を、暑中見舞いに持ってくるようにと、暗に催促しているというのである。(「漢字ル世界 食飲見聞録」 やまぐちヨウジ) 


酒によいという商品
琉球酒豪伝説 泣Aイ・エス・オキナワ(ウコン含有加工食品)
飲めるんで酒「肝の助」(ウコンスティック) 兜仙堂(ウコン加工食品)
かんぞう奉行 潟Tッポロエージェンシー(キュウリ抽出物加工食品)
チェイサー 輸入者:潟Iージービー(原産国アメリカ)(カキガラ加工食品)
カンキュウ 販売者:協和エンジニアリング晦S(システインペプチド含有酵母エキス加工食品)
以前みつけたものです。現在売られているかどうかは分かりません。 


伯爵のマージャン
伯爵だったのだが、賭けマージャンの最中に警察の手入れをくって、爵位を棒にふってしまった吉井勇はいう。
博うたずうま酒くまず汝(うぬ)らみな日をいただけと愚かなるかな(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


上海での断食
北は上海にいた。中国本土には排日運動に火がついていた。五月(大正七年)、北京大学生は外交部長曹汝霖(そうじょりん)の屋敷を焼き打ちし、その直後、北京学生連合会、二週間後には長江一帯の重要都市における学生の大部分が組織化され、六月には全国学生連合会が上海に成立した。すなわち、中国革命は軍事革命から労働者、学生革命へと体質が変わったのである。この情勢にこたえて、国民党は改組し、孫文がその中心となった。八月にはソビエト政府代表カラハンの名で、北京政府と広東政府にあてて、かつての帝政ロシアが持っていたいっさいの既得権益を放棄し、平等の立場で国交を回復する、という宣言が送られた。中国は大きく動いた。まったく新しい歴史が胎動しはじめたのである。自称「支那革命顧問」北一輝は、これを矛盾と見た。それは自分が敗北したことの自認でもあった。法華経を大声で読みはじめ、断食に入った。 最初の一週間は酒ばかり。 次の一週間は卵ばかり。 次の一週間は駄菓子ばかり。 そして水ばかりの一週間。 ついに血便が出た。 この間北は、「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を書き、このあとさらに「日本改造法案大綱」を書いたのである。(「スキな人 キライな奴」 小島直記) 


三浦樽明の墓(3)
その地黄坊の碑と伝えられるものは、正面中央が不動尊、その左が戒名、左に、皆人の路こそ変れ死出の山打越え見れば同じ麓路 南無三宝多くの酒を飲みほして身は明樽と帰る故郷 と二首の辞世を刻し、台石には、「延宝八庚申正月八日歿」と刻してある。辞世の歌の意味は説くにおよばぬ。畢竟するに、「酒を飲んでいいといったって、わりいといったって、おなじことじゃねえか。下戸が百まで生きたという話も聞かなけりゃ、上戸がすべて赤ン坊のうちに死ぬとも、限らねエじゃねエか。嘘だと思うなら、みんな一遍死んでみろ、下戸も上戸もありはしねエから」とやはり気が咎めるものだから、臨終(いまわ)の際まで、弁解(いいわけ)しているのが、前の歌であり、「ああ飲んだ飲んだ。何もかも飲みつくして、いよいよおさらばだ」と少し淋しそうな音をあげているのが、後の歌である。そこで「延宝八庚申正月八日歿」とある忌辰(きしん)を吟味すると、地黄坊樽次の忌日は、寛文十一年(一六七一)四月七日で、戒名は信善院日宗と、尋常らしくついているから、いくら京伝が尻押しをしても、この碑と地黄坊と、全然無関係であることは明らかだ。しからばこの碑は、何びとのかというと、同じく酒客の一人たる、小石川富坂小笠原信濃守の藩中、三浦源右衛門の実父、三浦新之丞樽明のである。樽明は、酒中の仙中の仙で、酒量の多いこと−一生のうちに飲んだ酒の総計においては、ほとんど古今に倫を絶し、酒名天下にあまねくして、遠近から入門する酒徒、門前に市をなしたというが、さてどのようにして、これら後進子弟を養成したものか遺憾ながらその方法はわからない。「酒の神の碑」のは、俗名を書いてないけれど、辞世に「身は明樽と帰る」といったのは、自分の酒号をほのめかしたものと察せられるし、それに第一忌日の点が合っている。戒名の枕樽居士などは、最もふるっている。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 三浦樽明の墓  三浦樽明の墓(2)   



かはらけの手ぎは見せばや菊の花
記録によれば、元禄元年(=貞享五年、一六八八)の旧暦九月十七日、名古屋に住む芭蕉の俳友・荷兮(かけい)の家をはるばる其角は訪ねている。その折に酒豪の其角のため、主人荷兮が大きな酒盃(かわらけ)を用意して、「まずは駆けつけ三杯、旅の草臥(くたび)れを治しなされ」と大いにもてなしたのである。よし、それならばご好意のままに、十分なる手ぎわのほど(酒量)をお見せいたそう、と其角俳句はいうのである。まことに豪毅な句である。酒呑みの心意気はこうでなくてはいけない。ちょうど菊の季節、で下五の「菊の花」ということなのであろう。と、あっさり解釈してしまっては、これまた其角俳句らしい面白さが失せる。ことによったら盃に菊の模様が描かれていたかも。いや、そんな写生ではなく、中国から伝来の重陽の節句の「菊花の酒」を意識し、粋な其角は巧みに菊花を配したな、と考えたくなる。菊は延年のめでたいもので、菊を酒盃に浮かべて飲むと長生きができる、その故事である。『太平記』巻十三にもある。「菊花を盃に伝えて万年の寿を成さん」荷兮の心からのもてなしに応(こた)えんと、あたりにない菊の花で挨拶し主人の多幸を祈る。放胆な句のうしろに江戸っ子の敏感さが秘められていて、気持ちがすこぶるよろしい。(「其角俳句と江戸の春」 半藤一利) 


反逆罪
イギリス陸軍のジョン・ウィルスンは、毎日軍隊から支給されるラム酒を拒絶したため、反逆罪で罰せられた。インドのバンガロアで、彼のために軍法会議がひらかれ、禁酒主義者であることが立証されたが、法官は彼の主義を認めず、軍規にそむいたということで、有罪を宣告され銃殺された。(「奇談 千夜一夜」 庄司浅水 編著) 


畢卓
晋(しん)の畢卓(ヒツタク)。字は茂世。吏部郎(人事院の吏員)であつた。或時云つた『片手に蟹の螯(はさみ)を持ち、片手に酒杯(さかづき)を持つて、酒池の中を泳いでゐたら、それで一生を終るに十分だ』と。(「酒癲(しゅてん 癲−やまいだれ)」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 中国明時代の本だそうです。 


黄門ばなし(2)
酒興に、遊芸の巧みな武士があれば、きっとしかられた。辻半三郎は、武芸一辺の武士で、弓は殊に巧者であったが、嫡子半五郎は武芸にうとく、遊芸に秀でていた。酒の席などでの隠芸の番がまわってくるのが、待遠しい方であった。ある年の狩場に、半五郎は勢子大将を仰せつかった。馬に乗るのに、家来どもが半五郎の尻を押し上げて、鞍上に安置した。公はそれを目に止めて、数年後、半三郎隠居のさい、嫡子半五郎も同時に隠居仰せつけられ、半五郎の嫡子平吉に家督を許した。親子同時に隠居となり、祖父から家督がとびこえたのは、おそらく空前絶後であろう。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 


一晩九十五本
「酒」誌の名物であった文壇酒徒番付は、今も伝説的な語りぐさとなり人気のある企画でした。昭和三十五年の新番付でも、堂々と西の横綱を張りつづけておられたのは、私の恩人でもあった火野葦平先生でした。火野先生は、大のビール党でした。本来、横綱としての風格からいえば、日本酒、ビール、ウイスキー、ワイン、紹興酒となんでもござれでないと横綱ではない、とされていましたので、ビール酒童(しゅっぱ)では資格がない、という人もありました。でも、ビールとともに三十年、世界のビールを飲み歩いておられた火野横綱は、一晩に九十五本もカラにされたという質と量を評価された上に、おびただしいビール賛歌を書きなぐっておられたのも、一種の無形文化財的な価値があるとされたものです。(「今宵も美酒を」 佐々木久子) 


酒徒とのつきあい
奈良本辰也センセイは強いなあ。(お酒のほう)8の会という、サントリーの肝煎りで行われる、飲む会があって、私は奈良本センセイと一緒になった。センセイは筋金入りの酒豪で、同じコップ、同じ色の液体にみえるが、私のはビール、センセイのはウイスキーのストレート、共にグイグイやって私の方が先に酔っ払ってしまう。センセイは飲むほどに談論風発、私(田辺聖子)はもう酔っぱらって、吉田松陰も坂本竜馬もごったになって、「なぜ吉田松陰が新撰組に斬られたのか?」と考えていると、なおおかしくなって、何が何だかわからんようになる。しかも尚センセイは姿勢も崩さず顔色もかえず、急ピッチでおいしそうに飲む。「センセイ、毎晩飲んだりますのん?」「うむ、夜は七時から十二時まで飲む」おばけ!こんな酒豪にかなうはずはないだろう。(「また酒中日記」 吉行淳之介編) 


シーソー
コックのノラが調理場へよくくるマイクという男に結婚の意思表示をしたが、一年たってもまともにならない。マダムが尋ねた。「いつ結婚するんだい。何かあったの」「こうなんです。あの人が酔っている時は私の方が結婚したくない、酔っていない時は向うの方が結婚する気がないのです」(「ユーモア辞典 参」秋田實編) 


命の酒
芳醇なる命の酒に
秋は淋しくも酔いしれる
強く! 甘く!
琥珀の色に輝く酒
酒は淋しき者の慰め
命の酒!
淋しからずや運命(さだめ)
呪わしき運命よ
命の酒よ
芳醇なる命の酒に
我は酔いしれて
しびれるまで(林芙美子「命の酒」)−
解説とウンチク
この詩は「放浪記」でよく知られている小説家・林芙美子が女学校へ通っていた十八歳の頃、秋沼陽子の筆名で「備後時事新聞」に寄稿した作品である。−(「『酒のよろこび』ことば辞典」 【なぐさめる慰める】 TaKaRa酒生活文化研究所:編) 


時系列型と空間展開型
石毛 ええ、現在のヨーロッパ式の配膳法はコースがあって、一皿食べ終わったら次を運んでくる。時系列型の配膳といえます。それに対して、日本では原則としてすべての料理をお膳に並べてしまう空間展開型であったといえます。韓国の場合はやはりお膳に全部の料理を並べてしまいます。時系列型は召使を前提として成立する配膳法です。日本では空間展開型が基本ではありますが、時系列型の配膳もなかったわけじゃない。平安時代の大臣が主催する宴会である大饗(たいきょう)の献立だとか、あるいは室町時代や江戸時代の本膳料理を見ると、どうも二つの原理が共存している。食事そのものは空間展開型でいっぺんにいろんな料理が並んじゃう。ところが、その前後に酒があるわけです。本式の昔の宴会では食事が終わればあとは、いまでいったら二次会として、あるいは無礼講になるような、酒を飲むことがある。また、食い始める前に酒を飲む習慣があった。あらたまって酒を飲むときは一献、二献というやり方で、杯が一席を流れるのですが、一献すむと次の一献を飲むための料理が運ばれてくる。その形式が結局、茶懐石の料理にうけつがれているのです。ですから、二つの原理がやっぱりあったけれども、空間展開型の原理というのは飯を食うためであって、酒を飲むは時系列型であったということです。(「にっぽん料理大全」 小松左京・石毛直道) 


酒売
獄門にかけられて有(ある)まへを、酒売(さけうり)すたすた通りければ、獄門の首が「こりゃ酒売どの、其酒をたもれ」といふ。酒売ぶるぶるもので「御安い御用で御座ります」と、茶碗に一ぱいついで呑せて遣(や)れば、獄門舌打して「アゝいゝ気味だ、とてもの事に、あたまを一ツ叩いて下され(三)
(三)酒のみの癖に、気分よきとき頭を叩くこともあり、この罪人もその口である。自分は首だけなので、手を拝借というところ(「江戸小咄集」 宮尾しげを 編注 「金財布」) 


藤田弓子
藤田弓子という女優は、太地喜和子と双璧といわれるほどの飲み手で、酔った勢いで颯爽と歩いてガラス戸にぶつかったら、そのガラスがスーッと割れ、怪我もせずに向うにぬけたという風説がある。その割れたガラスに藤田の姿がそのまま、輪郭を残したともいうのだが、これはどうも、あてにならない。(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


ソウメンと割水
井伏さんのお宅にうかがうのは、二年半ぶりぐらいだろうか。いつの間にか庭にすっかり苔がついている。この苔は、郷里から送られてきたマツタケについていたものなる由。井伏さんご自慢のナギの木は、葉っぱの色がずいぶん濃くなっている。最初に、紅茶が出る。きょうはB社の原稿のギリギリのしめきりであるから、お酒が出ないうちにおいとましよう、と思いながらユックリお茶を飲んでいるうちにに、早くもソウメンが出た。これは、お酒が出る前兆である。井伏さんは健康に留意されているのであろう、お酒を上がるまえに必ず何か召しあがる。サンドイッチ、おむすび、その他、ピクニックのお弁当のようなものを何かしら召しあがったのちに、やおらにお酒が始まる。昔、坂口安吾氏と一度だけお酒を飲んだことがあるが、安吾さんもやはり健康に気をつかっていた。しかし、その健康法はあまり効果はなさそうであった。つまり安吾さんは、ウイスキーを必ず水割りにするのだが、その水割りはウイスキー八分に水二分ぐらいで、水はほんのオマジナイ程度にしか入れない。それぐらいなら、いっそストレートで飲めばいいと思うのに、ウイスキーの上にちょろちょろと水を申し訳のように注いでから飲むのである。…安吾さんは大体、私がビールを飲むのと同じ速度でウイスキーを飲んだ。つまり私がビール一本飲む間に安吾さんはウイスキー一と瓶あけるのである。私はそのときビール二本ご馳走になったが、安吾さんはサントリーの角瓶を一人でほとんど二本をカラにした。安吾さんは酔っ払うと凶暴になるという噂があったが、そのときは最後まで機嫌よく、むしろ大変やさしい心根の人のように思われた。さて私は、井伏さんのお宅で、もうそろそろおいとましなければ、と腰を浮かせかけていると、電話がかかってきた。B社のS君である。先輩のお宅にうかがっているとき、追い駆けて電話をかけられると、何となくツケ馬につけられたみたいで非常に具合が悪い。私は、かえって席が立ちにくいような感じになって、何とかシメキリをのばして貰えないか、と頼んだ。結局一日だけのばして貰うことになった。こういうときの一日の猶予は、ふだんの一週間か十日分ぐらいの余裕を心理的に生じる。S君に感謝して、私は安んじてウイスキーをご馳走になることになる。(「また酒中日記」 吉行淳之介編) 安岡章太郎の某月某日だそうです。 


小松説
小松 灘の酒が東へ行くためには杉樽を使った。フーゼル油というのをきいたことあるでしょう。これは悪酔いの原因で。酒の発酵ののときに、米ぬかをとりのぞくんだけど、ぬかをとってしまえばフーゼル油はない。しかしそうすると、今度は吟醸でいながら酸敗しはじめる。それを杉樽の中に詰めておくと、杉樽のなかから、ヤニの形でフーゼル油が入ってきて、これが防腐剤になる。これが二日酔いの原因になるんです。これをとりのぞくためにお燗をつける。だから杉の樽酒を冷やで飲むくらい体に悪いことはないですよ。防腐剤よりはるかに毒性が強い。(「にっぽん料理大全」 小松左京・石毛直道) 


メーコン
タイ人はひとりで酒を飲む習慣がない。自己主張の強いタイ料理の数々が並び、そのまわりに男たちが車座になる。その横には、だいたいメーコンの瓶が置かれている。彼等は酒を割る飲み物にはうるさい。というか、この酒はそのままではなかなか飲めないのだ。はっきりいってまずいのである。ソーダで割る人もいれば、ソーダと水の半々という人もいる。一時、リポビタンDで割るのが流行したが、今はスポンサーという得体の知れない飲み物で割る人も多い。が、なにで割ったところで、その味が料理に合うかといえば、僕は首をかしげざるをえない。ウイスキーの風味というものは、それがどんなに高級なものであれ、料理とともに口にしてうまいものではない。ウイスキーはそのまま飲んで初めて、その味を発揮するものだと思っている。しかし日本人にしたら、タイ人のそんな飲み方を笑えない。−
当然、人よりもちょっと金を持つことに無上の喜びを感じる中間層は、最近になってメーコンより一ランク上の酒を求めるようになった。もともとタイには、メーコンより高いセンティップという酒があった。これも米焼酎系ウイスキーには変わりはないのだが、安物のアルコール臭が弱く、ちょっと金のある人はこのセンティップに走るのである。しかしタイでは、さらにその上を走る酒がにぎにぎしく登場した。「リージェンシー」というブランデーである。メーコンの倍ほどの値段だが、これもブランデーの味からはほど遠い。おそらく米からつくているのではないかと僕はにらんでいる。(「アジア達人旅行」 下川裕治) 


下戸の酒句
のむやつらとハ下戸のいふ言葉也   亀遊
くゞりから入れよふとして下戸こまり  眠狐
情ウのなさ下戸平皿(ひらざら)てのめといふ 眠狐
下戸おん(恩)にかけかけぐつともミ 眠狐
いたゞき過やすと下戸へ茶屋返し 五楽
三河嶋へ落るよと下戸とらへ 鼠弓(「初代川柳選句集」 千葉治校訂) 


餅麹と黄麹菌
つまり、餅麹をつくるためには、カビは餅の内部に侵入しなければならない。そのためには、くものすカビ=リゾープス属(Rhizopus)、毛カビ=ムコール属(Mucor)、疑似酵母=サッカロミコプシス属(Saccharomycopsis)やアミロミコプシス属(Amylomycopsis)などのように、アルコール発酵能をもち、嫌気度の高い餅の中でも生育できる菌でなければならない。しかも、でん粉を加水分解する酵素(アミラーゼ)の活性が大きいことが望まれる。ところが、このようなカビは南中国や東南アジアにはよく見られるが、日本や朝鮮ではあまり見られないのである。たとえば、日本の稲によく見られる黄麹菌(アスペルギルス・オリーゼ)は好気的で、アルコール発酵能も弱く、餅麹をつくるには適さない。一方、小麦餅麹の場合には米餅麹ほど組織が密でないので、麹をつくるためのカビ選択の厳密さはルーズになり、小麦餅麹の場合には黄麹菌が生えることができるだろう。日本の酒づくりに餅麹が使用されなかった原因の一つはこの辺りにあったと思われる。(「日本酒の起源」 上田誠之助)