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御 酒 の 話 11 


交通事故  ホフマン  保険料  メソン・デ・カンディドと鍵屋  ワインなんてつい最近飲み始めたくせに  ワシントンのお好み  二升のすまし  毒酒  正しい温泉宿のあり方  生麦  数の子の麹漬け  海中より杯中に溺死する者多し  観梅会  飛鳥山の花見  強壮酒  含蓄のある言葉  Nさん  齋藤秀三郎  二月二十二日(東京)  高野蘭亭  酒造好適米  酒の相手  河豚と日本酒  八木隆一郎  早耳  酒石  卯味噌寅酒    ティナ・グレース  昼飯はそば  腰杯  ようれぼし  羽化登仙  メエ・カポネ  灘香  大宅と川端  初心なきつね  チンネンの家  角瓶  憶良の家  佐藤陽子  二日酔  墨荘漫録  強飲国  一升徳利こけても三分  さか  二日酔いに見放された人  養老の滝  禁煙の害について  こだわりの人々  蛸のぶつ切り  骨酒の炎  素襖落  現場、寄り道、千鳥  泉山三六  痛くもかゆくも  四月二二日  越後杜氏、南部杜氏  尾張町付近  カフエータイガーにて  たたみじらす酒  鮟鱇が粕に酔ったよう  飯坂の温泉  名月や居酒のまんと頬かぶり  ブスと酔っぱらい  新八と五平  自動電話  イワシの刺身  一心同体  菖蒲酒  水木金土月  イスラム圏  新しき酒は新しき革袋に盛れ   粋」な味  もうコリゴリだ  搶蝦  山芋の俵あげ  五月二十三日(火)  素面の生酔 他  酒を編む  コウベ・ウォーター  タケノコの竹林焼き  キャバレーの男たち  街の灯   酎飲み  薬配って  一番好きな日本酒  的山  月夜  バンド飲み  上級生の教育  「春雨酒場」の解説  君尾  川柳の酒句(22)  大根おろしと釜揚げシラスの山盛り  「日本の銘酒地図」  わが嫌ひ  大手メーカーの技術展開  旧制静岡高等学校時代  名案  家出と追手道頓堀で別に飲み  コリン・ウィルソンの酔い  志ん生・馬生・志ん朝の飲み方  小紫  日本酒以外  ひとさんのお酒  式三献  飲む打つ買う  十二月十四日(火)  見合酒  三月二十五日(東京)  悪魔の発明  アダムのビール  生見玉  日頃の安物  東豊山十五景の内  滝瓢水  父の晩酌  赤垣源蔵  「アル中の嘆き」  ビールの祭り  十九世紀までのフランス農民  山科家  上緒の主  先んずれば人を制す  うそ替え  文七元結  菊の城  辰巳、島田と池波  イスタク・オクトリ  国栖の醴酒  桂酒  おそめさん  正しい酒の呑み方七箇条    山田五十鈴  里見クと喜多村腰Y  米穀潰し  清水と相生  その地の小料理屋  丸太の居酒屋  王績と和田義盛  「年々随筆」  赤と黒  毛利元就  ホン  酒一升  ノンベー処断  浅草名物  椰子酒の作り方  福山の銘酒  シコクビエ  一日六パイント  「やけ食い」「やけ飲み」  山田朝衛門吉利(山田家七世)  石崎喜兵衛  日本のお酒です  「お前はもういざこざの外にいるんだ」  麹造りのワイン  傘見世  遺言屋  某月某日  いい酒だと思うとき  心越禅師  サラ川(3)  キプロス島  ソーマチンとミラクリン  ビールの東漸  新村出  清河八郎の首級  モスクワのレストラン  コクがあってと舌の上でさらりと消える酒  昭和十九年冬  さもじ  そば  白酒黒酒  東都五光商群繁栄食類名品之名目  呑んべい道隆  官庁での肴  ぼくもまた…  青木弥太郎  夕顔  苦肉の策  太田胃散  片口  冨士眞奈美  酔っぱらいを演じる  フルシチョフ  焼いたウニ  酒との出逢い  ダンブリ長者  中陵漫録  正月二日の冷酒  屠蘇祝ふ  正月酒  酒の肴でウマいもの  酒ずし  ミケランジェロ、晴皐  くらわんか舟  文明の先導者  軽業  食べない理由  プリマス上陸  エビオス  花袋の旅行  将軍の酒  猪とのお見合い  酒の糟や糠  酒癖  アラスカ  油揚げで一杯  五四年、五七年  薬酒と餅鏡  田中小実昌  一升の酒  水なんか飲むのはカエル  夢声ロンドンにて倒る  十二代目羽左衛門  先取り  江戸の南北町奉行所  アホな酔っぱらい  なまことおでん  笹乃雪で卯酒  椎茸燗酒  肴としての餅  穴師  キンセンカ  花見の作法  昭和二十年の食生活  E・A・ポー  カンビュセス王  粕汁  あたまの悪い最中  酒断ちのご利益神佛  黄色っぽい、ソバ粉を練ったようなもの  桓景  生き仏たち  横に一本  樹海でおしゃべり  どん底での食談  初めてのお酒らしいお酒  わが生涯最豪華の酒  坊主しゃも  土佐でのちゃこさん  ソーセージの粕漬け  友情に乾杯  「うま酒」  阪神間のお茶人  秋色  酔狂  熱燗  諸商売人出世競相撲  酒樽



交通事故
本格的に酒を飲みはじめてから十数年、とくにこの七、八年は、三百六十五日、一日も休まず私の胃袋はアルコールを吸収し続けてきた。最近のペースは、だいたい次のような具合であった。昼間は、来客があればお茶のかわりにビール、ときにはカクテル。夕食時に、食事の内容に合わせて日本酒、ワイン、老酒(紹興酒)など。日本酒なら二合、ワインなら一本の半分程度。食後、九時頃から、仕事をしながらウウツカ・レモン・ソーダ、これは私のパーソナル・ドリンクで、大ぶりのグラスによく冷えたウオツカをダブル・ショットと、レモンのしぼり汁を二分の一個分入れ、氷を落し、上から炭酸水を注いでかきまぜる。酸っぱく、爽やかで、飲むほどにアタマが冴える(ような気がする)ので、仕事中のどりんくがに好適なのである。これを二時頃までの間に五、六杯。そして寝る前に、ウイスキーかコニャックをオン・ザ・ロックでダブル二杯かそこら、流し込む。これが平均的な一日の酒量。のんべえというほどではないが、決して少なくもないだろう。こんなペースであと五年も六年も続けていたら、そろそろ肝臓が危なくなるかもしれない、と思って、いわゆる”休肝日”をつくろうかと試みたこともあるのだが、一度も成功したことがなかった。せめてきょう一日だけは酒を断とう、と、朝に誓い、昼に思い、夜までは我慢するが、アルコールがないとどうしても眠れないのである。結局朝の四時、五時までまんじりともすることができずに過ごし、「…四時過ぎか。いちおう、最後に酒を飲んでから二十四時間は過ぎたんだからいいや」とみずからいいきかせてノコノコと起き出し、冷や酒をあおって、それでようやくやすらかな眠りにつく…といったパターンの繰り返しであった。交通事故のために念願の禁・節酒ができたのだとすれば、事故に感謝をしなければなるまい。(「食いしんぼグラフィティー」 玉村豊男) 


ホフマン
ドイツ浪漫主義の偉大な代表的天才だったE・T・A・ホフマンは、四十六歳で酒のために死ぬまで、ドイツ・ワインをおもに飲んでいた。彼は、同時にブランディやアラック、ラム、ありあわせのフルーツ・ジュースなどで造るパンチもまた、とくに好んでいた。彼はかつて書いた。「私は、たとえていえば、ライン・ワインは教会音楽であり、バーガンディは悲歌劇、シャンパンは喜歌劇、パンチはとてもロマンティックな作品”ドン・ジョバンニ”のようなものだと思う」彼がお気に入りのカフェで好んで飲んだのは、ライン・ワインだった。そのカフェで、彼は裁判をし、次の五十年間にわたるドイツ浪漫主義運動の方向を指導する手助けをした。彼は、彼にもっとも近いアメリカでの好敵手エドガー・アラン・ポー(彼もまた酒で死んだ)より約三十年前に死んだが、ウイスキーよりホックで肝臓をこわしたということのほうが何となくロマンティックに聞こえる。しかし、ポーとちがい、ホフマンはただ酔うために飲んだのではなかった。官僚(彼は判事で終わった)としての生活の退屈さを逃れるため、創造的イマジネーションを鼓吹するために飲んだのだ。そして、ホックの体への作用がじつに柔らかなので、会話の趨くまま真夜中まで、ずっと飲みつづけることが容易にできたのだ。(「わが酒の讃歌」 コリン・ウィルソン)ホックは、ライン川沿いの産地で生産されるワインの英語での呼称だそうです。 


保険料
アメリカ人たちが実によく飲み、よく食べてきたことは、これまでに出版された料理書を含む食物関係の書物の膨大な量からみても推定できることであるが、統計に表れた数字を知ると、それは私にとって驚きに変る。例えばJ・コブラーによれば、一七九二年、アメリカの人口が四百万そこそこであった頃、アメリカには二千六百軒に近い、もぐりでないディスティラー、つまり登録されたハード・リカー製造所があった。この年には、五百二十万五百二十万ガロンの蒸溜酒が国内で消費されたことになる。ところが二十年もたたぬうちに業者の数は五倍以上に増えた。人口は二倍にもならなぬ上に、もぐり業者を推定し、アルコールを飲まぬ人の数を考慮に入れて計算すると、当時のアメリカ人は、一人少なくとも一年に十二ガロンにのぼるウィスキー(バーボン、ライ、コーンを含む)、ラム、ジン、ブランディの類を飲んだことになる。ちなみに一ガロンは一升びんに詰めると二本強、現在の日本で一番出廻っているサントリー・オールドの瓶につめれば、約五本である。この量にビール、ワインのような醸造酒を加え、朝ごはんの時から子供たちまでが飲んでいたという植民地時代からの歴史的背景を考えるならば、社会の動きとしてアルコールの及ぼす悪影響に目が向うのも当然であったかも知れない。しかし十九世紀初期のアメリカは、まだ酒を百薬の長とみなす動きが幅をきかせてもいた。禁酒家に対しては、男性として尊厳に欠ける欠陥人間ということで保険料を余計に取ろうとする保険会社が存在したり、神からの賜りものある酒を拒絶する人間は信頼のおけぬ偏屈者とされたりしたのである。(「アメリカの食卓」 本間千枝子) 


メソン・デ・カンディドと鍵屋
さて、そのぶどう酒とセゴビアの名物料理を味わうには、スペインでも指折りの歴史ある民芸レストランの「メソン・デ・カンディド」を訪れなければならない。ローマの水道のすぐ近くにあり、入口に、金属の皿や、陶器が飾っているのですぐわかる。内部に入ると、これが、レストランか、こっとう屋かと見まちがわんばかり…。マジョルカ島の壺や、トレドの剣や、鹿の頭などが壁面いっぱいに飾ってある。テーブルもいすも中世期の民芸品で、スペイン情緒満点である。こういう点、私はヨーロッパがうらやましいと思う。日本には中世期の、つまり、室町時代や江戸時代からの建物が残っていると料理屋というものは、まずない。わずかに、東京・入谷に「鍵屋」という居酒屋があり、安政三年以来のくすんだ店で営業を続けて来たが、これも近く区画整理で移転するという。その点、ヨーロッパには三百年、五百年という歴史をもつ店が多い。チェコのプラハを訪れた時には、カロロ大帝の王子が夜な夜なおしのびでビールを呑みに来たという「バラバントスケオ」や、「モーツァルト」が恋人とあいびきしたという「三匹の金のライオン」が昔のままの姿で残っているのを見て、つくづく歴史を感じた。モーツァルトが坐ったといういすで、黒の生ビールを呑んだが、この味は格別であった。(「世界を食べ歩く」 豊田穣) 鍵屋の旧建物は現在、江戸東京たてもの園に移築されています。 


ワインなんてつい最近飲み始めたくせに
「ヌーボーの季節になりました」よくいうと思わないか、昔から、三百年も前から飲んでるような顔をして。あんなものをヨーロッパじゃ誰も飲まないよ。どうせ余って仕方ないから、どこか消費地を探さなきゃいけないというんで日本になったんだろう。だいたいわかるわけないんだよ、日本人には。パリでビデオを撮ったときに、フランス人の女の子を助手に使った。その子はボルドーの生まれで、ワイン造りをしている家の娘なんだ。彼女のおじいさんとおばあさんの金婚式のお祝いに、一八○○年代のワインの樽を開けて飲んだとか言っていた。そういう人達が飲む飲み物なんだ。みんな金持ちになって、やっと最近飲み始めたくせによく言うよ。いいワインの選び方?いいものを飲めばわかるよ。答えになっていないか。いいのを飲んで、後はそれを頼めばいい。それでも日本じゃ高くて数をのめないからやっぱりヨーロッパとかで飲むしかないよな。俺もヨーロッパに行くようになって、それなりにワインに詳しくなった。ラベルをはがして持ってくるようなかったるいことはしないけどね。(「龍言飛語」 村上龍) 


ワシントンのお好み
ジョージ・ワシントンのお好みはマディラだったと言われる。ポルトガルから輸入されたマディラとビールと林檎酒とラムで選挙民をもてなし、彼はヴァジニア議会に打って出たが、当時のアメリカがもっとも好んでいた酒というのが、甘いマディラだったのである。しかし時代と人の好みは、ほどんど偶然をきっかけとして変わってしまう。紅茶に反撥したアメリカ人が後には本当にコーヒーが好きになってしまったように、マディラもまた、イギリスが一七六四年に不当に高い課税をかけたことからボイコットが始まり、上流階級の酒といわれた王座を次第にウィスキーに譲ることになってしまった。しかし今日でも、料理のレサピーの中には頻繁に顔を見せるので、私はこの酒を使うたびに、ワシントンの謹厳実直な人柄そのもののようなポートレートを思い出すのである。もっとも、私たちがの親しんでいるワシントンの顔つきは、鯨骨で作った入れ歯がよくあわぬゆえにあのような、きっと口を結んだ顔なのだという。(「アメリカの食卓」 本間千枝子) 


二升のすまし
「委員長、何か質屋へ持って行けるものはありませんか」「ないね」私の答えは正しい。われわれはすでに五日間もタタミの上に直接寝ているのである。布団はすべて一六銀行への貯金となっていた。帰省した連中の押入れは必ず釘づけにすることになっていたので借りられもしない。一昨日までは私のがあった。なぜなら、他はみな一年生でまだ布団が新しかったが、三年生の私のは万年床に磨きがかかって汗や脂でテラテラに光り、質屋だって決して取りはしないだろうと皆が言っていたからである。しかし背に腹は替えられず、一昨日遂に私は布団の布地をビリビリと真中から小刀で裂くと、中の綿をそっくり取り出して、それだけをかついで質屋に行き、これは駄目だとおやじが言うのを、男一匹土間に土下座して、やっと二円五十銭を強奪に近い状態で出させ、それで二升のスマシ(どぶろくをすました酒)と二升の米を買って、皆に大盤振舞をし、したたかに酔いつぶれた。二升の酒で二十人が酔うはずがないとお考えになるだろうが、そこがシロウトと私のような呑ん兵衛の差である。学生は酔うためにだけ飲むのである。酒の味などどうでもよいのだ。だから私は寮生達に米を炊かせ、出来上る頃を見はからって。どぶろくに燗をする。そして温かいご飯を茶碗によそうと、その上に熱いどぶろくをかける。丁度お茶漬けのようにして食べる。これだけでもかなり酔って来るが、食べ終ると私の号令一下外へ飛び出し、鼻をつまんで全速力で広い寮の廻りを、三周させたのである。部屋に帰ってきた時には、全員へべれけになる。(「ビッグマン愚行録」 鈴木健二) 


毒酒
燕王(えんおう)「おぬしは忠でも信でもないわ。忠と信によって罪をうける者などあろうわけはない」。蘇秦(そしん)「いや、そうではござりませぬ。話に聞いたことがございます。遠方にいって役人をしていたものがあって、のこっていた妻は密通しておりました。夫がまもなく帰ってくるとて、その密通の男が心配しますると、妻が申しました、『心配することはないよ。あたしが毒酒を作っておいてあるからね』。三日たちまして、夫ははたして帰って来ました。妻は妾(めかけ)に毒酒を持ち出して夫へすすめさせました。妾は酒の中に毒があると言おうとしましたが、女主人が追い出されるのは恐ろしく、もし言わずにいれば、男主人が殺されるのが恐ろしいと考えました。さあ、そこで、わざところんで酒をすててしまいました。主人はひどく立腹しまして、五十ぺんも笞(むち)をくわせた、と申します。この妾は倒れて酒をひっくりかえしたればこそ、上(かみ)は男主人の命を助け、下(しも)は女主人の命も助けました。ところが笞うたれることは免れませんでした。忠と信あればとて罪を受けぬとは、どうして申せましょう。それがしのとがなども、不幸にもこの話に似てはおりますまいか」。燕王「先生はもとの官につかるるがよい」。前にもまして彼は厚遇されたのである。(「史記列伝」 司馬遷 小川・今鷹・福島訳) 合従策の蘇秦が、讒言にあった時の話だそうです。 


正しい温泉宿のあり方
一、アクセスがよい事 二、程々の料金である事 三、部屋は二、三十室 四、料理に過不足の無い事 五、その地のおいしいお酒を出す事 六、風呂に過不足の無い事 七、宿の造り(デザイン)に統一性がある事 八、上手なマッサージを呼んでくれる事
五 日本酒に対する見識は大分高まってきたとは言え、まだまだごく一部の事で、大方の旅館では日本酒に対して無頓着である。本書で紹介している宿は日本酒に対して神経の行き届いた所だが、それでも充分満足のいく宿は少ない。道後温泉にある「大和屋別荘」では『梅錦』の吟醸をちゃんと冷やしてガラスの冷酒器で出してくれる。こおの宿では、浴室の入口に生ビールのサーバーが置いてあって好きなだけ飲めるようになっている。これは仲々いいアイデアである。歓楽的要素の強い道後にあって、十九室の小規模で、玄関に下足番を置く、古風なスタイルを守る佳宿である。すぐ前にある有名建築家の建てたモダンな旅館とは対照的に本格的数寄屋建築の宿で部屋の造りにも見るべきものも多い。夏になると座椅子は藤、障子も御簾とすっかり夏のしつらえになるのも清々しくて良い。熱海にある「新かど旅館」は風呂よし、味よし、全十八室の丁度いい宿だが、ここでは予め頼んでおくといろいろ各地のいい酒を用意してくれる。私が訪ねた時は『浦霞』の吟醸が出てきた。熱海で、塩竃の銘酒が飲めるとは意外だったが文句のあろうはずが無い。この「新かど旅館」、ミラーボールがきらめくカラオケバーさえ無ければ、もっとおすすめできるのだが…(「泊酒喝采」 柏井壽) 


生麦
横浜市の鶴見区に、生麦(なまむぎ)というのがある。幕末外国人を若い武士がおそった「生麦事件」というのが史劇にもなっている。そこに住む友人のところに来る郵便の宛名が、生麦酒となっていることが、時々あるというのだ。「どうも、このまちがい、夏に多いようです」ちなみに、たまたま、この生麦に、キリンビールの工場がある。山の手線の恵比寿という地名はヱビスビールの工場ができてからだそうだが、生麦のほうは、昔からの地名である。(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


数の子の麹漬け
話を変えて、その晩出た摘みものの中に数の子の麹漬けがあった。その黒っぽい色からでもあるが、味も今はなくなった濃い味の江戸前の煮ものに似たものがあってビイルの肴などにいいのではなっかと思う。砂糖と醤油と鰹節を使って出した味が数の子の麹漬けになるならば江戸前料理も相当に高級なものだった訳である。そしてそれを本当に楽む為には昔の五臓六腑に浸み渡ってむせ返るように強烈な辛口の酒がなければならなくて、そういう酒も今はないことに気が付いた。なければ、例えばこの麹漬けなどは日本酒よりも却ってビイルに合っていて、これは上方と松前の間を往復する船の船頭達が考え出したものに違いない。そう言えば、その色は日本海とその上にのし掛る曇った空を思い出させるものである。そんなことを考えながら翌朝はこれでビイルを飲んだ。(「新鮮強烈な味の国・新潟」 吉田健一) たぶん今なら、比較的酸の多い古酒のつまみにすればおいしいでしょう。 


海中より杯中に溺死する者多し
【意味】酒におぼれて死ぬ者の数は、海でおぼれて死ぬ者よりかえって多い。
お多福に白酒
【意味】お多福顔の者に、白酒を飲ませたように、愛きょうのあるこっけいさをいう。 【参考】お多福が甘酒に酔ったよう(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


観梅会
「一つ、会をやるかな。」こう言って、端書(はがき)を彼方此方(あちこち)に出した。観梅会を開きたいと言って…。勿論、その頃は貧しい私だ。御馳走のしようもない。しかし何かめずらしいものはないかなどと思って、神楽坂までわざわざ出かけて行って、鴨を一羽買って来た。その頃には、お金と言う肥った下女が一人いた。『家婢』という短篇の中に出て来る女中である。それにKという書生、書生と言っても文学志願でも何でもない、何方(どちら)かと言えば主人夫婦が押されてしまいそうな経験に富んだ書生がいた。妻はもう二人子持ちであった。「何升あったら沢山でしょう。」こう書生が訊くので、「そうさなァ、川上君も、小栗君も、国木田も飲むからな。それに、天渓君だって強い。一人五合は要るな。」で、それだけの酒は用意した。やがて人々はやって来た。「どうも狭いけれど、二階の方にしました。ここなら、梅が見える。その梅の白いのが夕ぐれの色の中に埋れて行くのが、何とも言われず淋しいんですよ。」「はァ、盛りだね。」などと川上君は言った。狭い六畳に膳を並べて、それから半日飲んだ。何を話したか忘れたが、小栗君がお得意の「好いた水仙」を唄ったり、英語まじりの詩を吟じたりしたのを覚えている。独歩もその頃は元気だった。川上君は、「だって、そんなことを言ったって−」と言って、上品な顔を赤くして、金縁眼鏡を光らせた。その「目刺」の写真は、もう好い加減に酔った時分に、バタバタと庭に下りて、そしてそこで撮影したのであった。蒲原君は、飲むには飲むが、同人中では、何方(どちら)かと言えば余り強い方ではなかった。『独弦哀歌』を世に公にした時分で、元気で、大きな声を立てて笑った。会が散じた後、書生は、「飲みましたぜ!」と目を丸くしているので、聞くと、五合あてで足らず、更に一升取って足らず、また更に二升取ったということであった。「皆な強い。長谷川さんも強いな。」こう書生は言った。もうあれから十四、五年、川上君も、国木田君ももういない。小栗君にも何年逢わないかわからない。長谷川君には、それでもちょいちょい博文館で逢うが、昔のような興に乗った話などは滅多にしない。こうして時は過ぎていくのである。梅ばかりが徒に白く咲いた。(「東京の三十年」 田山花袋) 


飛鳥山の花見
吉宗将軍は、警察力を抑圧しただけではお気が済まなかったと見えて、柳営に給仕する御坊主等に、飛鳥山の花盛りの頃になりますと、今日は天気がよいぞ、花見にまいれ、といわれることは、年ごとにきまっていたようでありました。その時にはいつも、御自身にかれこれ世話を焼かれる、種々の佳肴を沢山重箱に詰め、御酒も樽のまま下され、御鳥見という狩猟方の者が、きっと同行いたしました。酒肴を持って御坊主と御鳥見が飛鳥山へ行き、花の下のよい場所を見立て、薄縁を広く敷き、美事な毛氈でその上に席を設け、持参の酒肴を開きまして、誰彼なしに花見の人を呼び込んで、飲ませ食わせるのですが、見知らぬ人の間に酒杯のやり取りをする、花見の時の交際ぶりは珍しくもないことですから、呼ばれてはいって来るものは、いくらもあるが、来た者は皆びっくりいたしますのは、杯をはじめとして、器物がことごとく御紋つきであることです。いずれも高蒔絵の葵の紋、これは江戸時代には容易ならない。折角来るには来たものの、一体何のことだかわけがわからない、御馳走してくれる人の正体も知れない、変な掛合いでもつかれらたらと、後日の迷惑を取り越して、尻込みする者のあったのも最初のことで、それが年々続くままに、慣れては気にする者もなく、平気で御紋付の重箱から喰らうようになりました。しかし、それが吉宗将軍の御思召で、市民を喜ばせるために、わざわざ出張しているのだと心付いたものはなかった。この話は、吉宗将軍の時に、しばしば御仰せによって飛鳥山へ出張りました御坊主で、後には御同朋に進みました高瀬友阿弥が、老後の何よりの思い出として、語り伝えました。(「江戸の春秋」 三田村鳶魚) 


強壮酒
伝説的な強壮酒として知られるのは碇草(いかりそう)や枸杞(くこ)、木天蓼(またたび)など、精がつくといわれる草木ばかり三十余種も酒に浸して長期間熟成させた「強根酒(チアンゲンチユウ)」。男性諸君に重宝された、動物系の材料を浸した強壮酒で有名なのは「至宝三鞭酒(チーパオサンビエンチユウ)」で、オットセイ、オオカミ、鹿と三種の動物の睾丸を高粱酒に漬け込んだものだ。トカゲ一匹を丸ごと漬けた「蛤「虫介」酒(グーチエチユウ)」というものもあり、交尾期のキノボリトカゲの雌雄を二匹仲よく瓶の中の酒に漬け込んだ「馬「上:髟、下:宗」蛇酒(マーツインシヤーチユウ)」という、見るだけでよく効きそうな酒もある。中には、本当に効くか疑いたくなる奇抜な強壮酒もある。例えば「羊羔酒(ヤンカオチユウ)」は羊の肉と果物の梨を一緒に酒に漬けたもの、「蚕沙酒(ツアンシヤーチユウ)」は肥料となる蚕の糞を酒に浸したものである。人気のあるのは「参茸葯酒(ツアンロンイヤオチユウ)」で、白酒(日本でいう焼酎)に人参、鹿茸(ろくじょう 鹿の角)など名だたる強壮材三十一種を漬け込んだ酒。強壮のほか滋養、疲労回復、精神倦怠にも効果ありといわれる。日本で最も名高い強壮酒は「虎骨酒(フーグーチユウ)」だ。古書によれば骨付きの虎のすね肉を黄色になるまであぶってから砕き、「麦曲」(麹のこと)と共に百余種を超す生薬で仕込んだ酒だという。近世では虎の骨を白酒に浸し、これに百種類を超す生薬を加えて造ったようだが、今日では虎の数が激減して捕らえることもできない。しかし、今でもこの酒は中国から入ってくる。すると、虎の骨は別の動物で代用し、生薬だけは昔ながらの伝統を守っているのかもしれない効くか効かぬかは試した人のお楽しみ。(「食に知恵あり」 小泉武夫) 


含蓄のある言葉
「亭酒」というのを新聞の投書欄で見た。よっぽどノンベーのご亭主なのだろう。酩酊というのを「酩亭」と書いた婦人もいる。毎晩酔っ払って帰ってくる亭主を見馴れているうちにいつのまにかそう思い込んでしまったのであろう。でも機嫌よく酔っぱらっているだけなら結構なことだ。「主乱」となるとこれはいけない。ふだんはおとなしいが、酒が入ると人が変わったように乱暴になるご主人なのだろう。主人と書くよりは「酒人」と書いたほうがピッタリだワ、という奥さんもいることであろう。「うちの人ったら一時帰休ですることもないものだから、昼間から『焼昼』ばかり飲んでいるんですよ」とこぼしている奥さんもいる。これは困ったものである。(「ジョーク大百科」 塩田丸男) 


Nさん
友人のNさん、この人は「ブラックアウトの達人」で、彼が酔って義眼を忘れた話や、目がさめたら駅の前で身ぐるみはがされて眠っていて、そのまま「ランニングのふり」をして走って帰ってきた話、などはよそで書いた。逸話の多い人なのだ。この人が出張で何日かある街へ行った。何日目かに飲み屋街をブラブラ歩いていた。知らない街なので、どこへはいるというあてもない。赤提灯で一杯飲んだあと、次なる店を探していた。かなり広大な繁華街をうろついているうちに、「スナック青りんご」という看板が目にはいった。歩き疲れたこともあるし、金もたくさん持っている。どんな店かわからないが、ええい、はいっちゃえ、というのでその店へはいった。はいると、カウンターの中からポチャッとしたママがにっこりほほえんで、「あら、いらっしゃい」席についておしぼりで顔をふいていると、「ロックで?」普通、スナックでいきなり「ロックですか」と言われるのは珍しい。たいていは「水割りでよろしいですか?」だ。酒豪でいつもロックで飲んでいるNさんは、これはいい店にはいった、と喜んだ。やがてロックのダブルをママが出す。おつまみを並べながら、ママが、「Nさん、今日は早いのね」 このときのNさんの驚きといったらない。まるで山の中で超能力者の怪人に会ったようなものだろう。何でこの女が初めての俺の名を知ってるんだ。いろいろ尋ねてみて、やっとわかった。N氏は、二日前に酔っ払ってこの「スナック青りんご」を訪れていたのだ。それがまったく完全に記憶から欠落しているのだった。(「しりとりえっせい」 中島らも) 


齋藤秀三郎
(「正則英語学校講義録」の中で、齋藤秀三郎は)あるいは英作文では、happenではなくturn up とすれば「キビキビした」感じになることを教える。あるいは読本で、rogue を「悪漢」、rascal を「大悪漢」、scoundrel を「大大悪漢」と説明する。そして実践の英語も本物だった。有名な大正元年の実話。酔って帝劇へ出かけ、イギリスの劇団がシェイクスピアを演じているのを「てめえたちの英語はなっちゃいねえぞ!」と英語でやじって新聞種になる。とにかくすごい人だったことは間違いない。(「辞書はジョイスフル」 柳瀬尚紀) 齋藤は、「熟語本位英和中辞典」の著者だそうです。 


二月二十二日(東京)
コンシェルト−かれは日本の政府に、酒を米からではなく、大麦から造るという特筆すべき提案をしてこれにより大量の米を輸出に向けられるようにし、日本の貿易の不利なバランス・シートを改善しようというのだが−は気管支カタルの疑いがある。熱海に転地させた。マイエッットは多年にわたる忠実な勤務ののち、今ではすばらしい高給で政府の財政顧問とちての地位を確保している。かれのために、非常にうれしい。(「ベルツの日記」 菅沼竜太郎訳) 明治12年です。 


高野蘭亭
宝永元申年−宝暦七年七月六日(一七○四−五七)。江戸中期の儒学者・詩人。江戸日本橋小田原町生れ。父は幕府御用達をいとなむかたわら、百里と号して服部嵐雪門下の俳人とちて知られている。十五歳のとき、荻生徂徠の門下となる。十七歳とき失明し、詩人として身を立てる決意をする。以後詩作に専心し、同門の服部南郭と並び称された。気性は豪胆で大の酒好き。愛用の杯は髑髏杯だったという。鎌倉の地を愛し、円覚寺のかたわらに草堂を建てて、松濤館と名づけ、しばしば同好の士を誘い遊んだ。(「江戸諷詠散歩」 秋山忠彌) 


酒造好適米
うま酒造りの原料米、とくに?米と呼ばれる酒母造りにお使われる米には、大粒で芯白が大きく、タンパク質などの雑味成分が少ない「山田錦」に代表される酒造好適米が欠かせない。ところが、このところの吟醸酒ブームもあり、酒造好適米は慢性的な品不足状況。ちなみに、日本酒造組合中央会によると、酒造好適米の受給充足率は八八年の八三パーセントから九二年には七三パーセントにまで一○パーセントも低下している。というのも酒造好適米は、冷害などに弱く生産が安定しないこと、丈高で倒伏しやすいなど栽培が難しく、手間もかかることなどから、栽培農家に敬遠されがちである。また、比較的栽培が容易で、売値も高いコシヒカリ、ササニシキなどの食用銘柄米の生産に多くに農家が転換したことが、酒米不足に拍車をかけている。そのため、清酒の原料米消費量が全体で五五万dあるのに対して、酒造好適米の生産量は七万五○○○dに過ぎない。(「日本酒の経済学」 竹内宏監修・藤澤研二著) 


酒の相手
小唄といえばかれこれ十年も前になりますが、お家元春日とよ師に節付けのできたばかりの小唄を教えていただきました。その夜、家元は大層ごきげんで「きのう手をつけたばかりだけど」と、指名で家元の前にすわりました。
 酒の相手に、話の相手 苦労しとげて、茶の相手
これだけの淡々とした詞ながら枯淡なしゃれた音〆でした。その夜、枕の上で考えたカラスミ茶づけは、御飯の上に焼きたてのカラスミを三枚、細かく割ってふりかけ、針しょうがと、煎った黒ごまを散らし、玉露のあつあつをたっぷり。さらさらと、夜ふけのすき腹にはかっこうと存じます。(「包丁余話」 辻留 辻嘉一) 


河豚と日本酒
肉を食べ粗(あら)を食べ、最後は白子を食べる。ここで河豚(ふぐ)の味は最高に達する。魚の白子であれほどおいしいものが他にあるだろうか。鰊の白子もおいしいが、河豚の白子はもっとどっしりとした味である。もしそこに鰭酒(ひれざけ)があれば、河豚の味はここで極まるか、という気がしてくる。ビールをのみながら河豚を食べている人がいるが、あれはいけない。河豚の味を舌でかみしめるには日本酒に限る。もちろんウイスキーもいけない。日本酒のまろやかな味と香り、河豚はこれしか合わない。食べ方、料理の仕方はどのように工夫してもよいが、しかし動かせない基本というものはある。河豚には日本酒、これは基本である。なぜなら他の酒はあの淡泊な河豚の味を消してしまうからである。(「美食の道」 立原正秋) 


八木隆一郎
八木隆一郎はどうしても脚本が書けず、旅に出るといって半月も帰って来なかった。家族には一応居どころは告げていたが、あんまり帰らないので、電話をかけると、八木は寝ているといい、宿の人が、「先生、毎日お酒ばかりで仕事をなさいません」という。夫人と娘の昌子(いまの文学座女優) がすぐに迎えに行ったが、二人を見ると八木はニッコリ笑って、「やアしばらく」(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


早耳
皆がこんな大騒ぎをしているのに、当の病人(漱石)はいっこう平気で体を持ち上げたりするのですから厄介です。そうして禁じられてるのにしきりに話をするのです。「おまえはさっきおれの顔に水をかけてくれたね」「だってかけろとおっしゃたから…」「そうだったかい。いい気持ちだったよ」なんかとこんなことを申します。−
それから早耳でしてうかうかしたことを言っておられません。で電話を隣りに移しますやら、家の中ではみんな小さな声で話しているのですが、それでもある晩などには、ちょうど鈴木三重吉さんの夜番の時で、お酒が欲しいが桜正宗がいいとか言っているのをちゃんとききこんで、おいおいと私を呼びますので傍(そば)へ参りますと、皆がいるのに酒なんぞ出すことはないよと申します。なんでもないんですよといいかげんの挨拶をしてその場を濁しておりましたが、万事この調子で、その中でもよほど真鍋さんの姿がちらつくのが気になるとみえて、学校があるのに真鍋は何しているんだと幾度も幾度も世話をやいていたものです。(「漱石の思い出」 夏目鏡子述 松岡譲筆録)漱石最後の床での話だそうです。 


酒石
江口照雪著『江戸の奇談』(大陸書房)の一篇に「酒石」がある。安政二年(一八五五)に広瀬旭荘(きょくそう)という人が綴った『九桂草堂(きゅうけいそうどう)随筆』のなかにある一文という。大要を紹介させていただこう。安政のころ、別府(大分県)に蘭谷(らんや)という僧がいた。無類の酒好きである。朝から晩まで酒びたり。一度に数升飲んでも座を乱したことがない。酒席に招かれて、盃の出るのがおそいと、「焼石将(まさ)に出んとす」というのが口癖であった。ある席でしきりに酒を欲したが、なにかの手違いでなかなか出ない。とうとう待ちきれず、大声で叫んだ。その拍子に、何やら口から吐き出た。長方形の平べったい小さな石である。それからというもの、蘭谷は酒を少しも飲まなくなった。いや、飲めなくなったというほうが正確であろう。さて、その石だが、いわゆる酒石とでもいうのだろうか。これを盆中におき、酒をそそぐと、たちまちにして吸いとってしまう。蘭谷が酒を飲んでいたのではなく、この石が酒を飲んでいたのかも…。(江戸風流『酔っぱらい』ばなし 堀和久) 


卯味噌寅酒(うみそ とらさけ) 
【意味】卯の日にみそを造ることと、寅の日に酒の仕込むのを忌む。
酔(え)いては管をまく
【意味】酒に酔ってはとりとめもない事をくだくだしく言い立てる。 管まく=くだくだしい事を言う。糸巻の音がぶうぶう音を立てるので管巻くというと説明されているが、まくは息まくなどと同じであろう。【出典】−「毛吹草」(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 



何時迄も止めずに呑んでいる酒が時計の針を知らぬ間に廻していたらしい。もう、駆けて行かねば終電車に間に合わぬ時間が来ていた。僕は、慌てゝ、立ち上がると、仕事のために東京に泊まるという高見(順)さんを残して、帰ろうと思った。高見さんは、僕ももう行く、と言った。そして二人は地下室から電通の通りに出た。夜の通りに霏々(ひひ 雨や雪がはなはだしく降るさま)として粉雪が舞っていた。高見さんは、二重廻しを纏いながら、「雪だ」と言って空を見た。そして、何ういう訳か、暫らく、粉雪の落ちて来る夜空を仰いだ儘じっと動かなかった。その姿は、街灯の光の輪の中に舞う粉雪をバックに、何か鋭い美しさを宿していた。「もう一軒だけ、付き合いなさいよ」と高見さんが言った。僕はうなずいて、二人は赤坂のお酒を呑む場所に行き、又、一時間程を過ごした。もう終電車はとうに出てしまって、雪だけが、いよいよ激しさを増していた。雪は街の音を消す。あたりをしんしんと更けていた。何うしても帰らなければならなかった僕は、夜更けの赤坂で高見さんに見送られて、円タクに乗った。高見さんが言った。「こんな雪の中を遠く迄帰らなくて良いのに」(「続々パイプのけむり」 團伊玖磨) 


ティナ・グレース
聞いて見れば、グアムで生まれて、以降、日本橋→沖縄→新宿抜弁天という、ドラマチックな”育ちコース”をたどってきた、という。おまけに母方のヒーヒーオジイちゃんは、浅草寺の瓦を葺いた実績をもつ生粋の江戸瓦職人…。−
取材の前だったか後だったかは忘れたが、別の雑誌でティナがもっている対談ページに呼ばれて伺ったことがあった。新宿の和食屋の座敷での対談だったのだが、とにかく日本酒がやたらめったら強かった−という印象がある。本文にもあるが、正に下町の女酒豪のような佇(たたずま)いで、サバサバシャキシャキとお喋りしながら、豪快に酒をやっていた。そんな映像が脳裏にこびりついているのだ。(実際、酒はそれほど飲んでいなかったのかも知れないが、そういう気迫はあった)。バイリンガルという呼び名はティナの好みではないかも知れぬが、その後、バイリンガルDJとして脚光を浴びたキャロル末広さんと、ティナと同じ”下町的サバサバシャキシャキ感”を感じた。(「けっこう凄い人」泉麻人) 


昼飯はそば
出版社に勤めていた頃、お昼十分前になると、決って電話でそばを注文する老人があった。私の知る限り、この老人が別の品を注文することはなかった。ある時、ごく自然に話し合える雰囲気があって、「Mさんは、そばがお好きのようですね」と言うと、「そう、晩酌を美味しくしたいから」という返事が返ってきた。あれから何年経ったろうか。いま、どこに健在でいられるか、Mさんの消息は知らない。しかし、晩酌をできるだけいい胃腸の状態で愉しむために、お昼時からととのえて待つというMさんの言葉を、折にふれて思い出す機会は多くなっている。(「あさめし・ひるめし・ばんめし」 竹西寛子) 


腰杯(こしざかずき)
つまりは携帯用の杯である。とはいうものの別に酒だけに限ったことではなく、むしろ旅先では水飲みに使われることが多かったらしい。街道といわず山中といわず、幸いにこの日本には、いたるところに清流があり、旅に水入れを持ち歩くことはさほど必要なことではなかった。このコップ一つあれば、まずはことが足りたのである。ところで、最近『江戸の紙細工』(誠文堂新社)なる本を出した。紙子(かみこ)−和紙を糊ではり重ねた着物、紙布(しふ)−縦糸か横糸を紙糸で織った布、などから始まって、実に広い範囲に”紙”が利用されている。弁当箱や水入れや椀や皿でも、一閑張りとよばれる技法で紙をいく重にもはり合わせて漆で塗り固めると、まったく木で作ったものと見分けがつかない。長門(ながと)という技術もあった。こちらも紙縒(こより)を編んで形を作り、これに漆をかけて補強するのである。むろん水も漏れず、雨にもじゅうぶんに耐える。かの陣笠なども、十中八、九はこの一閑張りか長門、つまり紙製である。さて、腰杯も案外紙で作ったものが多い。一閑張りにせよ長門にせよ、好みの形に作れることと、それに軽くて丈夫だからだろう。(「道具が証言する江戸の暮らし」 前川久太郎) 


ようれぼし
北条高時が、天下動乱の徴(きざし)をよそに、京から鎌倉へ田楽の家元を呼びよせて、衣裳に凝ったりしながら、毎日のように、田楽舞いにうつつを抜かしていたことは、史家によって、北条氏滅亡の一因とされているほどである。ある夜、高時は酒に酔って、ひとりで座敷で踊っていた。すると、どこからともなく田楽法師が十余人、忽然として現れて、高時と一緒に踊り出したのである。のみならず、彼らはへんな歌を歌った。「天王寺のや、ようれぼしを見ばや」こんな気味のわるい歌を歌って、その異様な田楽法師たちは、どっと囃すのである。侍女がその面白そうな歌声を聞いて、唐紙のすき間からのぞいてみると、法師たちはいずれも人間ではなくて、トビのような曲がったクチバシと翼のある、山伏姿のカラス天狗たちだった。しかし泥酔した高時は一向に気づかず、彼らのなぶり者にされながら、なおも愉快そうに踊っているのだ。びっくりした侍女が城(じょうの)入道に知らせると、入道はおっとり刀で駆けつけてきた。その足音を聞いて、化けものどもは掻き消すように失せてしまった。明かりをつけて座敷を眺めると、畳の上に禽獣(とりけだもの)の足あとが幾つも残っている。高時は酔いつぶれて、前後不覚に眠っている。天狗たちが歌った、「ようれぼし」というのは、識者の意見によると不吉な星のことで、天下が乱れんとするとき、この星が現れるのだった。いわば北条氏の滅亡を予告する、まがまがしき星であろう。天狗たちは北条氏の衰運を知っていたのかもしれない。それで高時をさんざん馬鹿にしたのかもしれない。と同時に、天狗と星とが密接な関係にあるということを、ここで私たちはしっておかなければならぬだろう。(「東西不思議物語」 澁澤龍彦) 太平記にあるそうです。 


羽化登仙(うかとうせん)
【意味】人間のからだに羽がはえて、仙人となって天にのぼること。酒に酔って気持ちのよいのをたとえるにも使う。【出典】如遺世独立、羽化而登仙〔蘇軾 前赤壁賦〕
羽觴(うしょう)を飛ばす
【意味】客と酒杯のやりとりを盛んに行う。 羽觴(うしょう)=すずめの形にかたどって翼をつけた杯。一般の杯にもいう。【出典】開瓊莚以坐花、飛羽觴而酔月〔李白 春夜宴桃花園序〕(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


メエ・カポネ
アル・カポネが無くなったあと、妻のメエ・カポネは手記を本にしないかと言われた。この話をもちかけた出版社は彼女の手記に五万ドルの値をつけた。インフレでドルの価値はすっかり下落してしまったが、一九四○年代の五万ドルは、それで十年から十五年は楽に食ってゆけたほどの大金である。「世間の人たちが私の夫に抱いているイメージはただ一つです」とメエ・カポネは答えたそうである。「私はもう一人のカポネを知っています。私は私の思い出を大切にして、いつまでもあの人を愛しています」メイ・カポネは五万ドルを蹴ったのである。−
しかし、中流階級の住宅地といわれたプレイリー・アヴェニューの正面が煉瓦造りの二階建の家では、カポネは理想的な夫であり父親だった。家に帰ると、カーペット・スリッパにラウンジ・ローブを着て、ラジオの音楽を聴いたり、一人息子のソニーの遊び相手になったりした。スパゲッティの料理が得意で、自ら台所にはいって腕をふるうこともあった。本人はシカゴ全市にビールやウィスキーやシャンペンを売りまくっていたが、家にはキャンティしかおいていなかった。「キャンティは家庭にふさわしいワインだよ」と言っていたそうである。(「グラスの中の街」 常盤新平) 


灘香
時は明治三十七年、醸造試験所が創立された当時、それこそ、酒造の揺らん時代だ、当時、試験所投師として最も日本酒醸造に造詣が深いと自他ともにゆるした、高野淳治先生。パストールやハンセンなどの学説はもちろん心得ており、「醸界の羅針」と題する著書までも出版していたほどの大家だが、実地作業の経験はくらい。灘の、世界長の実況を見学した程度で、仕込の操作に直接手を下したことはあまりなかったものだろう。試験所で先生の仕込んだもろみは、次から次へと腐造してしまった。これを他の同僚が見て、「どうも先生、このもろみは変調ではありませんか?」とおそるおそる伺いをたてると、「なに、変調なものか。これは”灘香”といって、優良もろみの呈する独特の芳香だ…」と一喝をくらわされた。当時、職工だった、丹波杜氏の向井某や田谷垣某などは、試験所にくるまでは腐造の経験を知らなかったので、大そう不思議がり、またがっかりしたという話である。これは愛酒家、若槻礼次郎さんが所長のころであったという。灘香の出所、あるいは、こんなあたりからではなかろうか?口の悪い人は「樽詰酒の時代、東京に下るころまでには灘香は木香ですっかり消されるから大助かりしたのだ」と、もっともらしいことをいったが、これでは灘香があまりにも可哀想だ。本当にきずもの扱いだ。−
そこで、私は灘香のかたをもつわけではないが、灘香を弁明したいのである。私は灘香は、灘酒特有の個性を持った、クラシックな好もしい香気、日本酒独特の香気だと考えている。(「酒」 芝田喜三代 ) 


大宅と川端
川端康成とは茨城中で一緒だが、高校は別、大学は東京帝大でまた同じだが、交渉はない。のち偶然、阿佐ヶ谷で隣り同士となった。大家が同じである。川端は収入が(大宅)壮一の数倍あるはずなのに、いつも貧乏をしていた、酒屋や八百屋の払いを延ばし、醤油が切れた、塵取りがこわれたといっては、壮一宅に借りにきた。壮一は川端夫人に、「奥さん、たまには旦那がこわれたといって借りに来るものですよ」と冗談を叩いた。当時の川端はやせて、朝鮮人参を煎じて飲んでいた。壮一は「造語」の名人である。「駅弁大学」「一億総白痴」(テレビの効能をいった)「男の顔は履歴書」等々たくさんあるが、昭和初期にモガ・モボと共に流行した「ステッキ・ガール」もそうである。(「百貌百言」 出久根達郎) 


初心なきつね
亀井戸の藤見に行かんと ぶらぶら行きけるに、小狐、この男を見て化かさんとや思ひけん、忽ち美しき若衆に化けて来り、後や先になりて行きける。この男、はじめより化けたるを見すましけるが、わざと知らぬ顔にて「これこれお前はお一人さうなが、どこへお出なさるる」といふ。「いや、私は亀井戸の藤見に参ります」といふ。かの男「私も藤見に参ります。幸いの事、御同道申しませう」「さやうならば、お連れなされて下されませい」と打ちつれ、程なく亀井戸に着く。藤最中盛りなるを見歩き「いかうくたびれました。酒一つ上げませう」とて、茶屋へ寄り料理など言付け、かの化若衆にひじいに食はせ「日もたけました。いざ帰りませう」と打連れ、もと来し道に帰りけるに、はじめ化け出でし所とおぼしきあたりにて、かの若衆「私はこの近所の者、さてさて今日は忝うござります」というて別れける。かの男、跡よりかの化若衆をつけてみけるに、狐の穴と覚しき所へ入りける。穴へ耳を寄せ、ひそかに聞きゐたりしが、穴の内にていふやう「さてさてけふはいかう馳走になつて」といふ。「それはどこで」といふ。「さればされば」と右の趣を語る。親狐にありけん、いふやう。「黙りやれ。それは馬糞であらう」(笑眉巻一・正徳二・初心なきつね)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


チンネンの家
岩城 あれはチンネンの家、近衛秀麿さんの息子の家だった。行ったのは(山本)直純とぼくだ。『珍念』というのは、寺の小僧をしていたときの名で、渾名じゃなかった。「今夜遊びに来いよ。夜の十一時ぐらいに帰ってる」と言うから、行ったらまだ帰っていなかった。当時、鍵なんかかけてないあばらやだったから、直純と入って待つことにしたんだけど、一時、二時になっても帰ってこない。で、勝手に飲んで、直純がバイオリンを弾いて、僕がピアノを弾いて、マーラーのシンフォニーを全曲やったんだよね。(笑)でもまだ帰ってこない。もうやることがなくなってだんだん腹が立ってきてね、朝の四時になってもチンネンは帰ってこないわけよ。それで「とにかく家にあるものは全部喰ってしまえ!」と冷蔵庫を開けたら、なんと赤い玉のチーズがあった。その頃はめったにお目にかかれないほどそれは贅沢なものだった。「喰っちゃえ!」って半分ほど食べ、その後で、どうせ味はわからないだろうと、二人でそれに小便をかけてまた冷蔵庫に入れた。(笑)
河童 いたずらの歯止めがないんだから恐い。(笑)
岩城 夜が明けても帰ってこないので、もっと面白いことないかと…ぼくはたいていプロデューサー兼演出家でそそのかして直純にやらせる。そのときも、「おまえはあのフスマを通り抜けろ!」と言った。そうすると奴は、ビューッと走ってきて体当たりした。するとその迫力で、ドドッ、バサッとフスマは人型に穴が開いた。(笑)これは面白い!とぼくも走って別のフスマに体をぶつけたけど、ぼくだとフスマが倒れるだけだった。憑かれたように真剣な顔をして、二人で何回も突き抜けていたら、フスマも障子をもうメチャメチャ。朝の七時ぐらいになってさすがに怖くなっちゃって逃げたんだ。(笑)だって、全部何もかもコナゴナにしたんだもん。あとで聞いたら、チンネンは家の中を見て呆然として泣いたそうだ。そして、だれがやったか、すぐにバレちゃった。
河童 君と直純は、その弁償のためにしばらく働いたとか… (「河童の 対談 おしゃべりを食べる」 妹尾河童・岩城宏之) 


角瓶
宇野重吉が民芸の公演の時に、麹町平河町の砂防会館の終演後、食堂で水割りを何杯か飲んで、「もう一杯」というと、「申し訳ありません、ウイスキーがなくなりました」とボーイがわびた。「じゃァほかへゆこう」と立ち上がろうとしたら、主人が、「先生のボトルがあります、御遠慮なく」といって、水割りを作ってくれた。半分飲んで、「先生って誰?」と尋ねると、「田中先生で」田中角栄の事務所の人たちが飲む酒だった。宇野も当惑したが、もう仕方がない。この話を聞いた誰かが、「上等なスコッチだろう」といったら、即座に、もう一人が「いや田中さんなら、角瓶さ」(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


憶良の家
特に「(山上)憶良の家」の作者安田靫彦は、近代日本を代表する歴史画家であり、古代の生活文化に深く通じていた、たとえばこの絵のなかの器に目をとめるだけでも、それがわかる。憶良が手にしている杯と、果物や豆を置いてある鉢は、いずれも夏にふさわしい、涼しげなガラス器か玉器である。鉢を乗せた漆器の丸盆も洗練されているし、少女が赤ん坊を抱く母に代わって父の杯に酒を注いでいるピッチャーなどは、おそらくシルクロードを経てペルシャあたりから到来したものだろう。こんな食器が、憶良の時代の日本の家庭で使えたのだろうか、という疑問をもつ人がいても当然である。だが、憶良にかぎっては、それがあり得た。憶良は四十歳を過ぎたころ、遣唐使の一行に加わって唐に渡っているからである。唐の生活を経験した彼が、さまざまな器を唐から持ち帰り、愛用していたことはあり得ないことではなかった。画家は憶良の経歴を知っているから、かわらけ(土器)のようなものではなく、当時の珍しい輸入食器を、大胆に登場させているのである。(「描かれた食卓」 礒辺勝) 


佐藤陽子
新潮「45」三月号(一九九六年)に、バイオリニストで声楽家でもある佐藤陽子さんが、「私の体はどうなっているんだろう−こんなに酒が飲める不思議−」という一文を書いておられます。読者の中には、すでに読んでおられる方も多いと思いますが、私にとっても大いに賛同納得することの多い文章で、とても面白くためにもなっています。佐藤さんは十歳そこそこから飲みはじめて十六歳の時には、酒と称されるほとんどのアルコール入りの飲み物の味を知ったとおっしゃいます。佐藤さんは、三歳の時からバイオリンを始め、巨匠L・コーガンに認められて九歳の時、旧ソ連へ留学されていますので、ロシアの酒の洗礼をしっかり浴びておられるわけです。彼の国は、日本と違って十六歳で成人となりますので、十六歳で酒もタバコも化粧も自由、男女の交際にも世間は十分に理解を示すといいますから、まだあどけない陽子さんがお酒を飲んでいても、殊更咎(とが)めるということはなかったようです。それでもモスクワでウォッカを、いい気になって飲み、すーっと気が遠くなり、バッタリと倒れたといいます。(「今宵も美酒を」 佐々木久子) 


二日酔い
ゆれる船に乗ると船酔いするのは当然だが、正月につきものの二日酔いがある。これ、生なかなことでは治らない。一番の良薬は、己(おの)れの適量を知ってそれ以上飲まないことだが、正月ともなると交際(つきあい)のことでもあり、相手はそう簡単に開放してくれない。私は「今夜は飲まなければならないぞ!」という日は、飲み始める三十分くらい前に、パン少量と牛乳を飲んでおく。つまりパンで多少なりとも酒を吸収させ、牛乳で胃の粘膜を保護しておくのである。これは多少の効き目がある。胃腸の丈夫な人は、バターやチーズ、天ぷらなどの油っこいものを食べるとよい。二日酔いになってしまったら仕方がない。水をガブガブ飲んで排泄につとめ、風呂に入ったりして発汗を促し、気分がよくなるだけ寝てるだけ。熱いさっぱりしたスープとか白粥に梅干を食べてもよい。ただし迎え酒はいけない。肝臓を悪くするだけである。(「新・口八丁手包丁:」 金子信雄) 


墨荘漫録
中国の『墨荘漫録』(宋代 張邦基)に、「僧、酒を謂って般若湯と為す。鮮(すなわ)ち其の説を知るは、予(よ)偶々(たまたま)釈氏会を読みて其の説を得たり。云う、一客僧有り、長慶年中一寺に宿し、浄人を呼びて酒を?(か)はしむ。寺僧之を見て(こ)其麁暴(そぼう)を怒り、瓶を奪って栢樹(はくじゅ)に投げ撃つ。其瓶百砕し、其酒凝りて樹に滞着し豪ハの如く、之を揺(ゆす)れども散落せず。曰く、某(それがし)常に般若経を持す。須(すべから)く此物一盞(せん さかずき)を傾くべしと。即ち諷詠劉亮(りゅうりょう 声のさわやかで澄んださま)、瓶を将(ひ)いて樹に就きて之を盛る、其酒悉(ことごと)く器中に落ち略子遺無し。奄然(えんぜん たちまち)に流啜(せつ すする)すればしばらにして器「爪凡+ノ」酣暢(かんちょう 酒を飲んでのびのびする)なり。酒の?辞(ゆじ 隠語)夫れ之に起れり」とあり。(「古代の酒と神と宴」 松尾治)

僧謂酒為般若湯 鮮有知其説者 予偶読釈氏会 乃得其説 云 有客僧 長慶中宿一寺 呼浄人?酒 寺僧見之怒其麁暴 奪?撃栢樹 其?百砕 其酒凝滞着樹如豪ハ 揺之不散 曰 某常持般若経 須傾此物一盞 即諷詠劉亮 乃将?就樹盛之 其酒尽落器中 略無孑遺 奄然流啜 斯須器「爪爪」 (音?)酣暢矣 酒之?辞 其起此矣(「和漢酒文献類聚」 石橋四郎編) 


強飲国
強飲国は。酒をもつて食とす。飯を食(くら)ふものを。野夫(やぼ)とし笑ひ。餅を食ふものを。瞽家(こけ)とし卑しめ。茶を喫(のま)ず。甘きを好(このま)ず。松魚(かつを)松魚の初声を聞くときは。布子(ぬのこ)を飛(とば)して差身(さしみ)をしてやり。飲(のめ)や唄(うた)への二上りに浮(うか)れては。財布を傾けて。身上(しんしよう)の根板(ねだ)を踏抜(ふみぬ)く。こゝをもて酒の泉は。いたづらに溢(あふ)れて。竟(つひ)に借金の淵となり。玉の觴(さかづき)は。むなしく乾(ひ)あがつて。内損(ないそん)の薬壺となる。されば酒は百薬の長なりといへども。これを過(すぐ)せば。又万病の半(はん)たり。長はん熊坂の号を混じて。盗人上戸といはるゝもうるさし。とはいへ古人の三友も。酒をもて琴書(きんしょ)と一坐にす。琴には耳を楽(たのし)まし、書には目をたのしまし。酒には口を楽します。(「胡蝶物語」 滝沢馬琴) 


一升徳利こけても三分
【意味】一升徳利がこぼれても、三合くらいはまだ残っている。元が多ければ、多少はむだづかいしても、全然なくなることはないというたとえ。
いやいや三杯
【意味】口では辞退しながら、勧められれば、何杯でも飲んで、その上催促もしかねない。遠慮は口先ばかりなことをいう。【出典】−〔世話尽〕 【参考】いやいや三杯十三杯 ○いやいや八杯おお(応。承知をあらわす声)三杯 ○いやいや三杯また三杯 ○いやいや三杯逃げ逃げ五杯(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) いやいや三杯(1)  


さか
爪という言葉も、おそらくツマ(端)と同じ語源の言葉である。ツメとツマでは音形が違うが、ツマサキ(爪先)、ツマハジキ(爪弾き)、ツマベニ(爪紅、今のマニキュアの一種)、ツマヅキ(躓、もとは爪突きに意)などという古い言葉のあるところを見ると、ツメ(爪)の古い形はツマであったことが分かってくる。−
言葉の源を考えてゆくのには、大事なことがいくつかあるが、言葉の変形の仕方をよく見ることも大事なことの一つである。タテという言葉と、似た音の型を持つ言葉に、サケ(酒)、タケ(竹)、アメ(雨)、アケ(朱)。カゲ(影)などがある。これらは、対になる、サカヅキ(酒杯)、タカムラ(篁)、アマグモ(雨雲)、アオアミドリ(朱鳥)、カガミ(影見・鏡)などの言葉を持っている。−
ツネニ(常に)とは、いつも変わることなく、物事がおこなわれ、存在することをいう。これがどんなところから発展した言葉かを考えるには右のような音韻の交代があることに注目したい。これはすでにタテの例で見たことだが、サカズキ(酒杯)のサカの方が古形で、そこからサケ(酒)という独立形が発達した。(「日本語の水脈」 大野晋) 大野晋のサケ  


二日酔いに見放された人
二日酔いというのもよくわからない苦しみのひとつである。僕(村上)はたいした量ではないにせよ毎日習慣的に酒を飲む人間だし、ときには人並みに酔っ払ったりもするのだが、不思議に二日酔いというのを一度も経験したことがない。どんなに酔っ払っていても、朝の光が射すとハツラツとして目が覚めてしまうのである。よくわからないから知りあいにときどき「二日酔いってどんな風になるの?」と訊いてみるのだが、誰一人として的確な描写・説明をしてくれる人はいない。「とにかく頭が重くて、苦しくて、とにかく何をする気も起きないんだよ」というくらいの答えしか返ってこない。そういわれても「頭が重い」というのがどういう状態かわからないのだからお手上げである。それ以上くわしい説明を求めても「うるさいなあ、二日酔いをやったことのない人間には二日酔いの苦しみはわかんないよ」と言われるのがおちである。二日酔いの話になると、人はみなきまって投げやりなものの言い方になるのである。先日某所でビールを何本か飲んだあとで、違う場所に移ってワインを集中的に飲み、かなり酔っ払って家に帰り、そのまま寝てしまった。翌朝七時頃に目を覚ますと、薄がすみのかかったような頭がぼんやりとする。それでふと「これが二日酔いの軽いものなのかな」と思ったのだが、食事をしてから十二キロほどランニングをして帰ってくるとそのもやもやはもうすっかり消えてしまっていた。という話をある知りあいにすると「あのね、そういうのは二日酔いとはいわないんです。二日酔いのときは食欲なんて全然ないし、だいたい走ろうなどという気には絶対にならないものなんです」と言われた。そんなわけで、二日酔いというのは僕にとって永遠の謎である。(「村上朝日堂の逆襲」 村上春樹・安西水丸) 


養老の滝
『十訓抄』に、「昔、元正天皇御時、美濃国(岐阜県)に貧く賤(いやし)き男有けるが、老たる父を持(ち)たり。此(の)男 山の草木を取(り)て其(の)値を得て父を養ひけり。此(の)父朝夕あながちに酒を愛しほしがる。之れに依り男なりひさご(瓢−ひょうたんのことで昔の酒器)を腰に付(け)沽家(こか 酒を売る店)に行(き)て、常に是を乞(い)父を養ふ。或時(あるとき)山に入りて薪をとらんとするに、苔(こけ)深き石にすべりて、うつふしまろびたりけるに(ころんでしまった)。酒の香しければ思はずにあやしとして、其(その)あたりをみるに石中より水流(れる)出事(できごと)有(り)。其色酒に似たり。汲(み)てなむるに、めでたき酒也。うれしく覚えて、其後日日に是を汲(み)てあくまで父を養ふ。時に帝(みかど 元正天皇)此事をきこしめて、霊亀三年(七一七)九月に其所へ行幸有(り)て御覧じけり」とある。この故事により、元正天皇はめでたいこととして、霊亀三年十一月十七日に養老と改元している。養老の元号は六年三ヶ月つづき、八年二月四日、聖武天皇即位により神亀と改元する。この孝子のために酒が湧いたという滝を養老の滝といい、岐阜県南西端、養老山地断層崖にかかる滝のことで、奈良時代、種々の病気に効験ある霊泉とされていた。(「日本酒のフォークロア」 川口謙二) 


禁煙の害について
今一つは−禁煙以来その反動で酒量が増したこと。これは、米の飯をぬく代りに、とかいう口実で、例えば日本酒コップ一杯がつい二杯になり、三杯になり、結局、実質は飯を何杯も食ったのと変わりなく、また以前なら、芝居のいわば幕間みたいに、ゆっくり煙草をふかすことで、飲む行為は中断されつつ心理的に享楽の密度を高め、あるいはニコチンがアルコールに溶け込むことで酔いが深まり、水割り二杯ですむところが、三杯、四杯とあおらないと満足感が訪れない。禁煙によって肝臓や胃が強くなった、それも確かにいえるので、悪酔いで苦しまない自信がついた分、量が段々増えていくのは道理で、「酒は煙草のような害はないんだからな」という理屈も、そうなると怪しく、どうかすると巨大な蜘蛛に搦みつかれ圧えつけられるような夢を見、息苦しさに寝床から跳ね起き、ああ、この調子だとアル中になるのも時間の問題だ、と音彦は怯え、頭も躰もぼろぼろの乞食になり、妻子からも見捨てられ荒涼たる世界をさまよう自分の姿が浮かび、明日は絶対禁酒だ、と自分に言い聞かせて眠るのだけれど、翌日、朝湯を浴び、ジョギングまじりの散歩もし、アルコールを汗にして排出すれば、夕方には喉の渇き抑えがたく、またしてもビール一杯が、とめどないアルコールの進軍となり、家のなかにあるだけの瓶を空にし、さて、いよいよ禁酒週間に突入するぞ、と身構えれば、皮肉にも、狙ったように、さる酒造会社から、音彦がその会社のPR誌に書いた雑文の、原稿料がわりのウイスキーが、送りつけられてくる始末である。(「禁煙の害について」嶋岡晨) 


こだわりの人々
AHAの紹介で訪ねたもう一つの町がサクラメント。いかにも新興住宅地という一角にコンピューター会社勤務ジム・ロングさん(三九)の家はあった。AHAはさまざまな手作り酒の国内コンテストを開いている。これまではビールが中心だったが一九九二年に二十九番目のカテゴリーとして「サケ部門」を新設した。最初の年に「サケメーカーオブザイヤー」に選ばれたのが妻のティナさん(三三)、そして翌年がジムさんだった。「フレッドのやり方を僕が妻に教え、面白いからというので妻が先にやったんだ。でもビールより手順が多く、時間のかかる。難しかった」そのはずである。造り酒屋でやるような本格的な三段仕込みである。どぶろくよりははるかに複雑だ。(「海のかなたに蔵元があった」 石田信夫)AHAは、アメリカホームブルワー協会の略称だそうです。 


蛸のぶつ切り
ああ蛸のぶつ切りは臍(へそ)みたいだ
われら先ず腰かけに坐りなほし
静かに酒をつぐ
枝豆から湯気が立つ
    *
今宵は仲秋名月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒を飲む
「春さん蛸のぶつ切りをくれえ」(井伏鱒二)で有名な詩の後半部分である。差しつ差されつ、盃を重ねることは、単に酒を飲むということではなく、盃に命の水をつぎ、そして飲み干すという、快さと厳しさを合わせ持った楽しみであったのだろう。ちなみにこの「よしの屋」とは、小林秀雄をはじめ当時の文士がよく通い文学議論をした新橋のおでん屋の吉野屋である。(「『酒のよろこび』ことば辞典」 TaKaRa酒生活文化研究所編) 


骨酒の炎
キリシタンが伝えられたとされる点については、それを裏付ける確かな資料の存在を知らない。ただ、加賀料理の老舗である「大友楼」の先々代のご主人大友圭堂氏は、『日本人の味』(一九七八年刊)の中で、加賀に来たキリシタンが「カモの肉に粉をまぶして、南蛮料理でも食った気になっ」たと述べられている。料理研究家の辰巳芳子氏も「骨酒に火をつける、治部煮の肉に小麦粉をはたきつけて炊くなどは、欧風の手法そっくりで、他の郷土料理にまず例がありません。キリシタン大名高山右近は、一五年もの間、加賀におりました。このあたりの事情との関わりがしきりに想われてなりません」(『日本の食生活全集17』月報21、一九八八年刊)と述べられておられる。確かに、フランベは西洋料理の必殺技である。しかし、それが必ずしも西洋的であるとはいいきれまい。そう思えるほど、「大友楼」での岩魚の骨酒の演出は見事であった。徳利から注がれる、ちんちんにお燗したお酒に立ちのぼる炎は、あたかも滝を登る龍の如きであった。(「加賀百万石の味文化」 陶智子) 


素襖落(すおうおとし)
▲をぢ いやいや、暇はいらぬ。是非一つ飲うで行け。 ▲冠者 それならば御意(ぎょい)次第に致し、一つ下されませう。まづ下に居りませう。 ▲をぢ さあさあ、この盃で一つ飲め。 ▲冠者 これは大盃でござります お酌これへ下されませ。 ▲をぢ いや、苦しうない。飲め飲め。 ▲冠者 慮外でござる。はあ、申し申し、一つちやうどござるござる。さらばたべませう。▲をぢ 何とあるぞ。 ▲冠者 いや、只ひいやりとばかり致して覚えませぬ。 ▲をぢ それなら、も一つ飲め。 ▲冠者 も、一つ下されませう。又ござります、ちやうどござるござる。半分飲み、最早一息にはなりませぬ。静かにたべませう。下に置く、扨(さて)、私もこの度御供致します筈でござる。追つけ下向いたしまして、こなたへ土産を進上申しませう。 ▲をぢ いやいやいらぬこと、無用にせい。 ▲冠者 私のことでござるほどに、こなたへはめでたう御祓(おはらひ)。かみ様へは物差、若子(わご)様へは、悦ばせるゝ様に笙の笛、こればかりでござる。 ▲をぢ いやいや、御祓ばかりにせい。さあさあ飲め飲め。 ▲冠者 下されませう、飲む、扨も扨もうまい。結構な御酒でござる。いつ下されます御酒より、とりわけ、よう覚えました。 ▲をぢ よう飲み覚えた。これは遠来(えんらい)ぢや。 ▲冠者 さやうでござりませう。好い御酒でござる。も一つ下されませう。 ▲をぢ まだ飲むか。過ぎぬ程に飲め。(「狂言記」) をぢ の所へ用事に行った冠者は、それをすっかり忘れて飲んでいます。 


現場、寄り道、千鳥
銀座に「現場」というバーがあるのを発見した、」真偽は知らないが、新聞の社会部の記者の溜りになっているという。社のデスクに電話を入れて、「今現場にいます」
神楽坂に「寄り道」という飲み屋がある。これはいかにも正直だ。「道草」があってもいい。「千鳥」という、ちょっと高級な酒亭がある。飲んでの千鳥足だからいいと思ったら、「こう高くちゃ、千鳥足までは、飲めない」(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


泉山三六
新聞の縮刷版をめくっていると、いろいろとおもしろいことが見つかる。たとえば昭和二三(一九四八)年十二月十五日付の『北日本新聞』第一面にこんな記事が載っている。
泉山三六蔵相が十三日夜参議院食堂でデイ酔、山下春江代議士(福島県第二区選出、東北農林繊維工業社長、女子体専卒、四十七歳)に不謹慎な行動に出たため、衆議院の懲罰委員会に附せられた事件について政府は十四日午前二時院内で臨時閣議を開き、蔵相から一身上の弁明を聞いたうえ協議の結果、願いにより免官することとなり五時三十分正式に発令した
専任蔵相は両三日中に決定する方針であるが元大蔵次官池田勇人氏が有力とされて…(後略)(「私家版 日本語文法」 井上ひさし)これは<@すべてを読点(テン)ですませる、A行替え直前の「言い切り」や「文意の切れ」は無符号のままにしておく、という表現の方法>の例文だそうです。 「酔虎伝」  


痛くもかゆくも
南部を訪問した者が、蚊のひどさに悲鳴をあげて、激しく苦情をのべた。かしこまって聞いていた黒人が、効果的な方法を教えてくれた。「主人のジョージさんは、とても見事に蚊をさばきましたよ。夜帰ってきたときは、いつもぐでんぐでんに酔って蚊が皮膚を刺すのが気にかかりません。朝起きられた時は、蚊はぐでんぐでんに酔っていてジョージさんや他の者を刺そうなんて考えません」(「ユーモア辞典 参」秋田實編) 


四月二二日(元禄二年)
さらに二カ所を訪問した後に、われわれは最後に馬で宗門改めの二人の役人〔大目付と作事奉行〕を訪ね、大へん結構な御馳走になった。これに対してわれわれは感謝の意を表して歌をうたった。最初の所では、次のような品が出された。(一)茶。(二)喫煙具一式。(三)無色の果汁。(四)褐色の汁を使ったイシダイの煮物一切れ。(五)小さく切った魚を豆粉と薬味と一緒に練り合せて焼き、長い形に切ったもの[焼かまぼこか]二切れ。(六)卵焼き。(七)青い竹の串にさした焼魚一つ。(八)砂糖をかけた柑橘類二切れ。一皿の料理が出る間に一杯の酒を飲んだが、私がこれまで口にしたうちではうまい方であった。またブランデーの壺に入れた一種の梅酒が二回出されたが、大へんよい味であった。食事には御飯は出なかったが、すべては非常に風変わりでおいしく調理してあった。もう一人の所では茶と煙草のあと、次の料理が食卓に出された。(一)混ぜ物にした長い形のパンのようなもの二切れを茶色の煮汁につけ、粉の生姜を少しかけ、小さな薄皿に載せたもの。(二)ゆで卵。(三)魚のすり身を[丸くして]揚げたもの四個。これも薄皿にのせてあった。(四)塩漬けの小さな魚卵で、それに褐色の汁がついていた。(五)素焼きの小鉢に入れたガチョウの肉の暖かい一口揚げ二個。ここでも杯がとり交わさ(ママ)たので、われわれをもてなす役目の奉行付きの医師でさえ、そのため頭が重くなったほどである。(「江戸参府旅行日記」 ケンペル) 


越後杜氏、南部杜氏
越後杜氏は一九六〇年(昭和三十五年)ころに千二百人いたが、一九八〇年(昭和五十五年)にはほぼ半減して六百人、八四年(昭和五十九年)には五百四十人、そして九〇年(平成二年)は四百二十六人と着実に減っている。それにくらべて、南部杜氏は一九八〇年に四百一人、八四年に三百八十二人、そして九〇年には四百五人とほぼ横ばいの状態をつづけている。ちなみに昭和初期までは最大勢力であった丹波杜氏は、一九九〇年で百二十二人である。おそらく新潟は、出稼ぎを生みだす土壌そのものが、もはや構造的に変動しているのだろう。新幹線ができ関越・北陸自動車道が開通して、あちこちに企業が進出した。わかい人たちは、ちょっとはなれた工場でも車で通勤するようになり、わざわざ遠いところへ家族と別れて出稼ぎに行くようなことをしなくなった。若者を吸いこむはたらき場が増えているのである。それが風景の変化ともなって現れているのかもしれない。そこへいくと、岩手はたしかに新幹線も高速道路もおなじ条件だが、とても企業が進出しているとは思えない。わたしが二十年前と景色がおなじだと思ってしまうくらいなのだから。「南部そのものは、杜氏にきてくれというのに応じきれない状態なんです。たぶん越後で減っているぶん南部へきているんですね。今年も杜氏試験にわかいひとが十人合格しているんですが、実際に酒蔵にでたのは三人です。やはり実地でみっちりやらないと外にはだせませんから」(「自然流『日本酒』読本」 福田克彦/北井一夫) 


尾張町付近
次第に尾張町に近づく。このあたりから二丁目にかけてが最も雑踏、喧噪。第一銀行のつぎに白牡丹、昔は女の化粧具一切はこゝでなければいけなかつたもの。電気のマツダ。現在のカフエ代表と目されてゐるタイガー、数十の女給が色とりどりに妍を競ひ美を誇つて目下の繁盛ぶり、当分は衰へそうもない。誰しも一度は見学の要あり。帆かけずしは評判。山の手風俗の人々、大抵は食べた後でお土産にして持つて帰る。セレクト、松月、二軒のカフエを過ぎると香筆墨の鳩居堂。足袋の佐野屋は二丁目の海老屋と併称される老舗。四丁目、尾張町の角は八十四銀行が潰れて昭和銀行。右側、千匹(ママ)屋分店、洋食器の十一屋などがあって角がカフエ・ライオン、銀座のカフエに動物園的名称を流行させた総本山だが当時東京一の大カフエだつた堂々たる昔日の面影はなく、階下は精養軒その他の売場となつてパンや牛肉や佃煮などが場末の公設市場(しじょう)のやうに雑然と並び、中に一寸一ぱいのおでん屋やビールスタンドが出来たのも人目を驚かす。尤も区画整理後の尾張町交差点は、いたづらに街幅(まちはば)ばかりがだだつ広くて、田舎町らしい趣さへ漂はせてゐるのだから、似合ひの景物だとも言へる。ちよつと引き返してタイガー前の横丁を這入れば、それぞれ名物、汁粉の若松、湯豆腐の末広、鉢巻岡田がある。岡田は一平描くところの亭主の像を看板にして酒客を呼び、酒よく庖丁よしとのこと。(「新版大東京案内」 今和次郎編纂 底本は昭和4年出版だそうです。) 


カフエータイガーにて
日頃行馴れたるカフエータイガーに立寄り二階に上り階段に近きテーブルを択びて食事を命ず。予は炎暑の日にも開放ちたる窓に近く坐することを好まず、また扇風機の風に吹かるることを厭ふが故、此のカフェーに入りて楼に登るも階段に近くして窓に遠き処を択びて坐を占むるなり。酔客の格闘するは是酒肆(しゅし)にては殆(ほとんど)毎夜のことなり。されば階段に近きあたりに坐を占むれば、いざ喧嘩となりて、コップビール壜など投付けらるゝも、後に硝子窓なければ硝子の破片の飛び散る虞(おそれ)なく、且は速に身をかはして逃るゝことを得べし。諺にも家の閾(しきい)をまたげば仇(かたき)七人ありとの誡今の世にても猶心得置くべきことなるべしる。過る五月末の夜のことなり。生田葵山(きざん)氏と共にこのカツフエーに飲み居たりしに、博文館発行の雑誌太陽の編輯記者なりと自ら名乗れる男、学生風によそほわせたる壮丁四五名を伴ひ、楼上植木鉢のかげなるテーブルに座を占め、其男一人立つてづかづかとわが卓子の傍らに来り、貴兄はいつぞや我等の編輯する雑誌に寄稿すべき事を約束しながら、其責をも果さず却て近頃は中央公論なんどに助力せらるゝにや。御返答こそ聞きたきものなれとの暴言に、葵山君余がために其の無礼を詰問せんとしたけれども、余は先刻より植木鉢のかげに数名の壮丁、事の起るを待ちかまへたる形勢まさに鴻門の会にも似たるを知りたれば、葵山君の袖を引き勘定も支払うべき暇なく、そこそこに逃れ帰りしこともありたり。(「歌舞伎座の稽古」 永井荷風) 


たたみじらす酒
「ボクはね、あれを唐揚げにしてビールのつまみにするんだけど、なかなかのレベルだよ」ある友人に、そんなことを言われたこともあった。これは、味としては何となくうまずけるような気がした。しかし、かつて高級珍味として君臨していたたたみじらすを、いきなり唐揚げという待遇の仕方は、ちょいとばかり乱暴に過ぎるのではないかという思いが、私を躊躇させた。それは、大関に弓取式をやらせるのに似ているんじゃないか…そんな気がしたのだ。油の中へ突っ込まれたら、いくら何でもたたみじらすのプライドが傷つくだろう。擬人化癖もいいかげんにしろと言われそうだが、とりあえず私はたたみじらすの唐揚げ問題を保留した。もう少し考えてみよう…そんな感覚だった。そのあと、私が不意に思いついたのがたたみじらす酒だった。フグのヒレは、そのものに旨い味があるわけではない。ただ、あれを焙ると中のエキスが香りをかもし出し、いかにもひれ酒という味わいを生んでいるのだ。そして、元を辿ればやはり、廃物利用がつくり上げた傑作の部類に入る代物ではなかろうか。そこへいくと、たたみじらすにはもともと美味なる味がある。これを焙ると香ばしい匂いも生じる。そう思った私は、矢も楯もたまらずこれをヒレ酒の要領で仕立てあげてみた。皆さん、答えはバッチグーだった。お近くにたたみじらすがあったなら、これはぜひともおすすめしたいのであります。正直言うと、フグのヒレ酒よりちょいと旨いのではなかろうか。しかも、酒を飲んだあと酒びたしになったたたみじらすをつまみ上げ、ちょいとひとかじりするとけっこうツマミになったりして、これはなかなかの発見だと悦に入ったものだった。(「酒の上の話」 村松友視) 


鮟鱇が粕に酔ったよう
【意味】醜い顔を赤くしているのをあざけることば。鮟鱇面は、頭と口の大きいあんこうのような醜い顔。【出典】あんかうの糟に酔へる〔世話尽〕
雨間の日照 上戸の額 盆の前
【意味】雨の合間に日がかっと照りつけるのと、酒のみの額と、うら盆前の陽気とは、どれも熱い。
池田の牛でいたみ入る
【意味】恐縮するという意味の痛み入ると地名の伊丹(いたみ)とをかけたしゃれ。 池田=伊丹の近くにある市。辛口の上酒を産するので有名で、伊丹と併称された。 伊丹=兵庫県東端の市。伊丹諸白の産地として有名。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


飯坂の温泉
「ふたりなんだが、すこうしはなしをしてえんだ。どっか部屋はねえかい? 奥があいてるって? そうかい。それじゃ奥にしてと…うん、なべにしよう…それから酒をな…ああ、ふたりともいける口だ。早えとこたのむぜ…ああ、この部屋かい。こりゃいいや、しずかで…さあ、立ったままじゃはなしにくいやな」「まあ、そうさせてもらうか。なにしろ、こちとら、このところ座敷へ坐って、一ぱいやるなんてことは、さらになしなんだからなあ…そこへいくと、おめえはいい身分だ」「まあ、そりゃあ、そうなんだがな…あ、ねえさん、酒は、そこへおいといてくれ…鍋のほうも自分たちでやるから、まあ、かまわねえでくんねえな…ああ、いいんだ、いいんだ。ちょいとこれからこみいったはなしがあるから…さ、まあ、一ぱいいこう」「そうかい、それじゃ、いただくことにしようか…おっとっとっと…うん、こりゃいい酒だ…いいさけの温泉(飯坂の温泉)なんてしゃれでもねえ身分だったんだからな、このところ…」(「古典落語」 興津要編)  「包丁」の出だし部分です。 


名月や居酒のまんと頬かぶり
其角の生まれは寛文元年(一六六一)。そんなこんなの歴史的事実から、まさに元禄に入ったころより居酒屋が盛んにできたと見当はつく。ところで、李白の有名な「少年行」を後において、其角俳句は皮肉たっぷりにつくっているとみるが如何であろうか。すなわち、李白のほうは、長安のモダーンな貴公子が「銀鞍(ぎんあん)白馬春風を度(わた)」ってやってきて、「笑って胡姫(こき 西域の美女)の酒肆(しゅし 酒屋)に入る」んである。されど、われら江戸っ子は名月を仰ぎながらテクテク歩いてきて、「頬かぶり」で居酒屋ののれんをくぐるんである、と。(「其角俳句と江戸の春」 半藤一利) 李白の「少年行」は、 「五陵年少金市東 銀鞍白馬度春風 落花踏尽遊何処 笑入胡姫酒肆中」で、確かにカッコイイ「少年」たちですね。 


ブスと酔っぱらい
次は私のラジオ番組「ふるさと人間話」のディレクター、後藤氏から聞いた実話。晴れ着姿のお嬢様達が、成人式の帰り、電車の中で一団となって喋り合っていると、したたかにきこしめした窓際族ふうの小父さんが怒鳴った。「こらブス共!静かにせい、ブス!」お嬢さん達、大勢だから気が強い。すかさず怒鳴り返した。「ブスとは何よ!ブスとは!うるさいわね、酔っぱらい!」すると、小父さん、「俺は、明日になれば治る!」(「えー、正面に見えますのが」 加藤武 文藝春秋編) 


新八と五平
昔、ある所に新八と五平という飲み友達があった。樽酒を買って来て「五平、この酒を名ざしで飲まぬか」と新八がいった。「どんなにするのか」と五平が聞くと、それは樽から酒をつぐ時、シンパッといったら俺が飲むし、五平っといったらお前が飲むことだといった。五平も面白いからそれはよかろうと賛成した。そこでまず新八が樽を持って盃へつぐと、酒は勢よく「シンパシンパ」という音を出して出て来た。いつまでも「シンパシンパ」というので、新八は樽の酒をあらかた飲んでしまった。そしてほとんど底になった時、やっと「ゴヘゴヘ」という音がしたので、ささ今度はそっちの番だといって初めて盃を五平に渡した。だが五平の分は盃にやっと半分ぐらいで、それも泡のところばかりであった。(岩手県膽沢郡 聴耳草子)(「日本笑話集」 武田明編著) 


自動電話
自動電話ボックスは、いつ頃まで紅殻色だったろうか。そういえば、その自動電話という呼び方も、いつの間にか公衆電話と変わっている。昔の電話機は、例えば「へへののもへじ」のような、道化た人間の顔を連想させる形をしていた。いまでも、田舎へ行けば見られるかも知れない。受話器を外す前に、ハンドルでベルを鳴らさぬと、交換手が出て来ない。独り者の頃、深酒をした後で、お袋の待っている家の近くまで帰ってくると、急になんとも云えぬ淋しさを感じることがあった。そんな時よく私は、家の近所の自動電話へ入り込んで、交換手と話をしたものだ。その頃の通話料は五銭だったが、交換手を呼び出すには、それは必要なかった。深夜の交換手は、何者とも分らぬ酔漢を、そっけなく叱りつけるようなことはしなかった。淋しいと云えば、淋しいわねと応じて呉れたし、君はどんな顔をしているのだろうと云えば、さあ美人じゃありませんわと、もの柔らかに相手になって呉れた。…これも他愛ない話である。(「カレンダーの余白」 永井龍男) 


イワシの刺身
「何でもいいからこの土地で採れる、うまいものを喰わしてくれ」と頼んでおいたのだが、まず出てきたのが何と鰯である。しかもそれを刺身にして刻み葱と酢味噌のタレをそえてある。海の幸といえば漠然とエビやタイを想像していたところにイワシを出されたので、よっぽど貧乏に見られたのかな、と服装など反省しかけたのだが、一切れ口に運んでみて、ぼくは唸った。アジ刺身というのを喰って、意外に美味なのにおどろいたのは十年ちかく昔のことだが、それでさえこのイワシの刺身の持つ味わいの微妙さにはとうてい及ばない。はじめは一切れ喰っては唸り、もう一片口に入れては噛みしめ、物思いにふけったりして喰っていたのだが、箸の動きのほうはひとりでに加速度がつきはじめ、唸ったり考えたりする余裕はなくなった。地酒の「太閤」は、秀吉がこの地から朝鮮に軍を送ったとき以来の由緒がある、といい、上質の佐賀米を使っているだけあって辛口の、なかなかうまい酒だがそれさえ間にはさむ余裕がなく、コップ酒でなければ間に合わない。イワシが下品な魚である、という理由を、ぼくはこのとき始めて知ったように思うのだが、それはあまり美味すぎるので、喰いかたがこのように、どうしても下品になってしまうせいではあるまいか。(「美味めぐり」 宇能鴻一郎) 唐津の洋々閣での体験だそうです。 


一心同体
イサドラとボブはおしどり夫婦として近所でも有名だった。買い物も芝居もいつも連れ
だって行った。ある晩、友人の家に招かれた帰り、酔いをさまそうと、二人はセントラルパークに立ちよった。十分も歩かないうちに繁みからピストルを持った男が飛びだしてきた。「命が惜しかったら金を出せ」ショックで口も聞けない二人に男はさらに言った「さあ、金を出すか、命を出すかだ」ようやく口を開いたボブが男に言った。「わかった。僕たちは一心同体だ。彼女を連れて行ってくれ」(「ポケット・ジョーク」 植松黎・訳) 


菖蒲酒
しかし菖蒲が薬草としてよもぎなどと共に邪を払うものとして重視され、五月の節句の朝廷の儀式に用いられた為、五月の節句といえば「徐一切悪」として菖蒲を使用したことは、聖武天皇の天平十九年五月の条に「昔者 五日節 常用菖蒲 云々 縦今而後 非菖蒲縵者 勿宮中」と「続日本紀」にあり古くから用いられていたことは明らかである。一般にもこの風習が伝わって菖蒲酒を飲むというのも悪霊邪気を払う為で菖蒲を細くきざんで酒に入れたものだが、近世になると形だけが残って酒瓶に菖蒲をさす丈のことになって了った。昔は宮中の儀式に群臣皆冠に菖蒲をさしたこともあったが、近世元禄時代の風俗屏風などに婦女子がかみ飾りに菖蒲をさしている絵があり、この風習が残っていたことを示している。(「江戸風物詩」 川崎房五郎) お酒ににおいをつけて 美しき五月となれば  


水木金土月
僕のようなコントの作り方だと、1週間番組を週2本が精いっぱい。当時は、水曜が『だいじょぶだぁ』、木曜が『加トケン』のコントを考える会議で、金曜が『加トケン』のロケ、続いて土曜がスタジオで本番、それで月曜が『だいじょぶだぁ』の本番。自分でコントを考えて、自分で演じるわけだから、体はボロボロになってた。でも忙しいほど、よく飲みに行って、よく遊んだ。ずっとコントを考えていた日は、立ち上がりが悪い。そのぶん本番が終わった後は、もうムチャクチャやってた。『だいじょぶだぁ』の収録が終わるのは、深夜2時、3時ごろ。それから田代と桑野を連れて、クラブに2軒行って、最後はディスコ。それがお決まりのコースだった。ディスコに行っても踊りはしなかったけれど、僕も彼らも音楽が大好きだから、音楽を聞きながら飲んでいるのは気持ちがよかった。田代も桑野もクラブなんてあんまり行ったことがなかったので、最初は自分たちから「連れてって下さいよ」なんて頼んできたくせに、1年くらいたったら、飲みに行っても途中で「もう帰りましょうよ」となるんだもん。「志村さんはいいよ、一人者だから」とか言っていたけど、そういうもんでもないんだなあ、一緒に飲みに行くというのは。(「変なおじさん」 志村けん) 


イスラム圏
そこで僕は酒にも出会うのだが、パキスタン人の多くは、史劇を求めるらしく、そこではジョニ赤の壜のイッキ飲みが盛んに行われていた。コップではない、壜一本である。正確に時間を測ったわけではないが、彼らはものの十五分ほどで壜を空にしてしまうのだった。このあたりの人々は全員がアルコール分解酵素をもっているという話で、つまりは下戸がいないという民族なのだが、いくらなんでも十五分というのは早過ぎる。飲んだ後は当然、全員がぶっ倒れるわけで、酒のある店の前にはヒゲ面の男たちがマグロのように転がっているのだった。この眺めは、怪しげな赤いネオンよりもはっきりと酒のある店を教えてくれるのだが、僕にはなにか鬼気せまる光景に映ったものだった。ことほどさように、イスラム圏にも酒は入り込んでいるのである。(「アジア漂流紀行」 下川裕治) 


新しき酒は新しき革袋に盛れ
【意味】新しい内容は新しい形式で表現すべきである。【出典】新しき葡萄酒をふるき革袋に入るることは為せじ。もし然(し)かせば袋張り裂け、酒ほとばしり出でて袋もまた廃らん。新しき葡萄酒は新しき革袋に入れ、かくて両(ふた)つながら保つなり〔新約聖書 マタイ伝第九章〕 (「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


「粋」な味
「粋」な味というのは、たとえばうまいソバ、コハダの寿司、手一束(ていっそく 手でつかむと身がちょうど隠れるくらいの大きさ)の海老のてんぷら、うなぎの白焼き、ほんのり甘いたまご焼き、五合の升(ます)できめるカブト(五合升の中に置いた一合の升に冷や酒を入れて、それをクイッとあおり、人差し指と親指の間に置いたひとつまみの塩を口に放り込む。それからおもむろに、吉原をひやかしに行く)というようなものであるらしいのは、山東京伝などの作品を読むと推察できる。(「日本グルメ語辞典」 大岡玲) 


もうコリゴリだ
翌日、隣の部屋から「あっ、カーテンが燃えている」「虫がワシを殺しにきた」との叫び声が聞こえてきた。酒が切れたための幻覚症状。続いてガチャンという音が壁に響いた。「おーい。こんなに血が出とる。はよう医者呼んでくれ」。看護士が駆けつけると、男の手首から血がしたたり落ちていた。早く反省室から抜け出したいため、プラスチックの食器の破片で手首を切ったのだ。「おれも酒をやめないと、いずれはああなるのか」。八日目に、木田さんは閉鎖病棟に移された。この日、別の反省室にいた男が衰弱死したことを人づてに聞いた。全身やせこけ、腹だけが大きくふくらんでいたそうだ。身よりもないらしく、遺体を引き取りに来る人もいなかった。担当の医師が体を震わせながら言った。「他の病気なら人に惜しまれながら死んでいく。しかし、アル中だけは周囲に見放され、しかも本人は苦しんで死んでいく。アルコールは麻薬より怖い。木田さん、私は患者をアル中なんかで死なせたくないんだ。その晩、木田さんは眠れなかった。一週間の反省室生活で見た生き地獄。自分の半生をふり返って、「もう二度とアルコールは口にすまい」と心に固く誓った。入院して十日目に、会社の上司である営業部長が見舞いに来た。「君は酒さえ飲まなければ優秀な営業マンなんだけどなあ。ここの院長とも相談して、会社には肝臓障害で入院ということにしといたから」。暗い心の片隅に、一条の明るい光が差し込んできたようだった。(文中、仮名)(「ドキュメント サラリーマンA」 日本経済新聞社編) 


搶蝦
紹興は昔のまま姿をよく保たれている。美しい風格のある町で、水街(シュイジェ)が四通八達している。道路に負けず水路が多く、小舟が重要な交通機関である。廖(承志)さんに教えてもらった通り、あらかじめ頼んでおいたので、招待所のその晩のご馳走には搶蝦(チャンシャー)が用意してあります、という。一体どんなものだろう、と大いに期待して食卓につくと、型どおりの前菜が終わるころ、大きな丼をかぶせた大皿が運ばれてきた。これですよ、と招待所の周所長がニコニコしていう。こうやって取るんです、と模範を示してくれる。かぶさっている大丼をちょっと開けて、すばやく一匹の生きた小指ぐらいの蝦(えび)を取り出すのだ。そして、器用に皮をむき、ゴマ油、生姜などで味つけした醤油をつけて食べる。先生どうぞ、というので、こわごわ取り出そうと大丼を開ける。とたんに数匹のえびがピョンピョン跳び出して、卓上は大騒動、卓辺は大爆笑である。「搶」とうう字を辞書をひいてみると、奪いとる、ひったくるなどとある。本場の紹興酒をやりながら中国風のおどりの味は格別だが、搶蝦はなかなかの技術を要するスポーツでもある。(「中国グルメ紀行」 西園寺公一) 


山芋の俵あげ
私と友人二名は歌舞伎を見に行って、帰りに赤坂のある居酒屋に寄ったのだが、そこのおばさんというのが、いやー、偉かった。感動した。決して小さな店というわけではないのに、接客係は50代とおぼしき女の人ひとりだけ。くるくるくるくるよく働く、その客のさばき方が凄かった。「いらっしゃいませ」と言うなり人数分の席を作る、お茶を出す、別のテーブルの注文を取る、料理を出す、その間にもしっかり冗談など飛ばしてスマイルも欠かさない。一分一秒もムダにしない。静止状態というのがまったくない。ほんとうにないっ。私たちはその間隙をぬって「あのー、山芋の俵あげというのを…」と注文し始めたのだが、新しい客が入って来て、たちまちさえぎられる。「あれえ…」と思う間もなく、、おばさんは手ぎわよく席を作る。「こちらさん三人。こちらさん二人っていうことで…」などと客をさばき、隣のテーブルと軽口を叩きながらお茶を出していたかと思ったら、いきなり振り向きざまに、「で、山芋の俵あげと…」と言ったので驚いた。まるで何事もなかったように話をつなげちゃっているの。そのとき、手にはすでにして注文票とボールペンを握り、「受注の構え」に入っていたのにも驚く。あまりにもムダのない動き。絶妙の間合い。で、で、できる…! 一瞬私たちはあっ気にとられ、次の瞬間ドット笑い出してしまった。−
ぐうたら眠り病の私には、ひとしおまぶしい「名人芸」だった。(「ひょんな人びと」 中野翠)  


五月二十三日(火)
今日も絶好のロケ日和。大いに能率上がる。昼は、川勝食堂で、ビフテキ、チキンカツ、ボイルエッグスに、親子丼。午後も、撮影好調。夕となれば、飲みたくなる。久しぶりで、日本酒を飲み出したら、これが中々うまい。毎夜一升位は飲んでいるだろうが、翌朝が、サッパリしているから、酒は、いいに違いない。東京では一人一合か、せいぜい二合しか飲ませないが、こっちは料理屋へ行けば無制限に出る。酒飲み天国だ。此処にいる間に、うんと飲まなくちゃ。と、又今夜も菊寿軒へ弟子たちと行く。冷奴、野菜煮、とろろその他、酒もふんだん。それで、七十九円だから、嬉しい。ああ、東京の、わが家の者たちよ、俺ばかり毎日うまいものを食っててすまんなあ。(「ロッパの悲食記(抄)」 古川鵠g) 昭和十九年、会津での話だそうです。 


素面の生酔 他
素面(しらふ)の生酔(なまよい)【意味】酒を飲まないのに酔っぱらった様子になること。 生酔=本来は、少し酔う意。酔客をもいい、大酔の意にも用いる。
身後(しんご)金を堆(うずたか)くして北斗を?(ささ)うとも生前一樽(いっそん)の酒に如かず【意味】死んでから、金を北斗星に届くほど積み上げても、何にもなりはしない。生きて居る間の酒の一たるのほうがよほどましである。
相撲と杯(さかずき)は手でとる【意味】杯を手に持たせようと勧めることば。(「故事ことわざ辞典」 鈴木・広田編) 


酒を編む
師走に二、三人寄りてゐたりしが「当年はいかう(大変)寒じまする」といふ。一人「いや、これが寒ずるではござらぬ。加賀のあたりはぎやうさん(ぎょうさん)に寒じまする。酒などはか(量)りて売る事はならいで、あ(編)んで売る」といふ。「これはつゐに聞かぬ事でござる。いかやうにいたす」といへば「まづ酒をつぎて板の上をながせば、それが氷まするを、かたはしからおこして、あんだ物でござる。また小便などもたゞする事はならいで、すり木ほどな木を持ちて打お(折)りてせねば、小便がさほになる」といふ。−(軽口曲手鞠巻三・延宝三・寒国の大咄の事) (「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


コウベ・ウォーター
外航船が飲料水を補給するとき、よく神戸港がえらばれるという。コウベ・ウォーターの名はそこから出た。ただし、普通神戸市民が飲んでいるのは、淀川の水を混ぜたものなのだ。布引貯水池のコウベ・ウォーターは、大きいパイプで港まで引かれている。そのパイプから配管されている一部の地域だけ、布引の水が家庭にはいる。「おなじ市民税を払っているのに」と、憤慨する人もいた。ところで、このコウベ・ウォーターと宮水を混同している人がいる。これは、はっきりと別物なのだ。灘の生一本の母である宮水は、海岸に近いところに親井戸があり、その水はいくばくかの塩分を含む。それが酒造りによいのだが、茶をたてるのにはむかないそうだ。そのかわり、宮水でつくったコーヒーはおいしいという。天は二物を与えないのである。(「雨過天青」 陳舜臣) 


タケノコの竹林焼き
まずほどよいタケノコを二、三本掘り取るだろう。そのタケノコの竹の皮は付けたまま…、切口のあたりだけ泥を綺麗に拭き取って、切口の真ん中あたりから、ドライバーをつっこみ、タケノコの節を抜くのである。若いタケノコは内部が一様につまっていて、節も、中空もないが、その軟らかいタケノコの芯をドライバーくり抜くわけだ。くり抜く際にこぼれ散るタケノコの芯の破片だってもったいないから、なるべくビニールの上で、穴をあけよう。穴の大きさは、親指二本分ぐらいが適当だろう。余り大きくなくてよい。その穴の中に生醤油を流し込むのである。醤油が入ったら、ダイコン(ニンジン)を栓の代りに削ってつめる。そこらの枯葉、枯木をよせ集めて、あらかじめ焚火を焚いておき、そのタケノコを半分灰の中につっこむようにして焼くだけだ。なるべく根元の方を上にしておくがよいだろう。醤油がもりこぼれないためと、根元のまわりによく炎を集めるように管理することができるからだ。さて、少々贅沢にやる気ならタケノコの根元に酒をかけるとよい。焼けた頃を見はからって、出して、切って、食べる…。(「檀流クッキング」 檀一雄) 


キャバレーの男たち
東中野の三畳一間のアパートに帰ったのは、朝六時だった。前の晩、最終電車に乗り遅れて朝の早い電車に乗ってきたのだった。毎晩、客たちが帰って店が終わると、キャバレーのボーイ長がマネージャーやホール主任たちのために、少し前まで客やホステスたちがいた客席に、よく冷えたビールと大盛りのオードブルを並べた。酔客や年下のホステスのためにホールを走り回る男たちにとって、その酒宴はたった一つの快楽だった。客の注文をごまかしたビールや食べ物だ。五人一組の客が来てビールを注文すると、伝票には五本と書き込み、客には四本しか出さない。オードブルは、客の食べ残しを別の客に出し、まったく手のつかないものを食べるのである。ボーイ長はそのことにかかりきりなのだ。その夜は卑しく飲みすぎて、終電車に乗り遅れてしまった。五、六百円のタクシー代に間に合うくらいはあったが、その金を使うと明日の食事代がない。ホステスの更衣室で寝た。(「酒場稼業四〇年 薄野まで」 八柳鐵郎) 


街の灯
昔、チャップリンの「街の灯」という映画を見ておもしろかった。金持ちの大男の酔っ払いが街で大酒をくらって、貧乏なチャップリンと仲よくやる。いっしょに梯子(はしご)をして歩き、グデグデになって、二人いっしょに広壮な邸宅に帰る。使用人がびっくりしているのもかまわず、「これはおれの親友だ。」といって、肩をたたきながら、また飲み、ダブルベットで二人で寝る。朝、目をさました富豪は、となりに寝ているボロ服の男に仰天し、「君は誰だ?」といって怒りだす。前夜の記憶が全然ないのである。チャップリンを泥棒あつかいにして、邪慳に追いだしてしまう。その夜、チャップリンがトボトボ街を歩いていると、前夜の金持酒童(しゅっぱ)が大トラになって現れ、「やあ、朋友(ポンユウ)。」といって、親しげに近づいて来る。二人はまた飲んで、富豪邸に行く。朝、また、いっしょに寝ている見知らぬ男におどろいて、チャップリンを蹴とばす。飲んでいるときだけしかおぼえていないわけだが、こういう経験は、酒童たる者は持っているはずだ。(「酒童伝」 火野葦平) 


焼酎飲み
知識さんは悠然とした殿中のふんいきでおられるが、じつはこのホテルの常任調査役をつとめる重役さんなのである。私は、知識さんが経営の一端をうけもつこのホテルに泊まらないことを詫びた。ところが知識さんは平然としていた。それどころか、自分も坊津のその宿で泊まっていいか、といわれた。私は驚き、知識さんの肩を抱きたくなるような思いで、ぜひそう願いたい、とたのんだ。知識さんもおもしろがってくれて、摂津さんという同じ会社の若い人を連れてきた。その紹介の口上は、まず焼酎のことだった。薩摩では「酒飲み」ということばはない。焼酎飲み、という。この摂津は相当やります、ということだった。「知識さんはどうですか」ときくと、ちょっとだまって、「医者が」といっただけで淋しそうに笑った。(「古往今来」 司馬遼太郎) 


薬配って
太地 片田舎に行ったりすると、十時ごろには食事処は全て閉まっているんです。仕方なしに赤提灯へ行って、酒飲みながら湯豆腐とか、ゲソの焼いたのとかたべなくちゃならない。そうすると食べるよりほとんど飲んじゃうんですよね。普通、女優さんたちって九時すぎたら飲む、食べるというのは美容によくないと、ひかえてらっしゃる方が多いでしょう。翌朝、顔がブチャムクレになるから(笑)。私の場合、深夜こそ飲んで食べて、気がついたらもう朝四時ですよ。
椎名 ハードですねえ。
太地 気力で持っているんでしょうね。
椎名 そうですか。
太地 男性の方が弱いですからね、みんな駄目になるんですよ。かわりばんこに「今日は休憩させてくれ」って。まだ私なんかより若い連中がですよ。
椎名 ハッハッハッ。そういうものですか。
太地 だから肝臓にきく薬をみんなに配って、「ホレーッ」と言って四時まで飲むわけ(笑)。
椎名 豪快だなあ。
太地 うちの師匠の杉村春子さんのところまでそれが伝わったらしいのね。「太地さん、みんなに薬を配って、酒飲ませるんですって?」と(笑)。(「喰寝飲泄」 椎名誠) 



一番好きな日本酒
太地 ええ、椎名さんがお飲みになっているのは?
椎名 「ビア・ヌーボー」。
太地 じゃあまず一杯いただいて。ここは日本酒はいけないんですよね。サントリーだから(笑う)。
椎名 いちばん好きなのは日本酒ですか。
太地 日本酒。ウイスキーも好きですけどね。「山崎」は好きですよ。(笑う)。私はお酒が入らないと駄目なんです。
椎名 ああ、僕もそうです。
太地 良かった(笑)。(「喰寝呑泄」 椎名誠) 太地喜和子と、椎名誠の対談です。 


的山
事業を引き継いだ長男・信愛は、九州全土に新しい金山を探し求め、有望と思われる二、三のヤマに手をつけたのだが、もはや柳の下にどじょうはいなかった。やむなく昭和半ばには、成清家はすっかり金山から手をひいてしまうのである。長男はその後、父・博愛の雅号に因んで、銘酒「的山(てきざん)」を醸造して売り出した。的山というのは「ヤマを当てる」という意味で、金(ゴールド)にかけた博愛の執念を語るものでもある。ところが銘酒「的山」は、たちまち全国の品評会で最優等賞を取り、それからは毎年のように賞を獲得して名を高めたのであった。臨終を前に、なお酒を呑みほした博愛を偲ぶのにふさわしい大アタリだ、と博愛を知るものは評したという。いま、博愛の孫にあたる成清信輔氏は、博愛の残した黄金の別邸−その後、「的山荘」と命名された−を料亭に変え、人々に銘酒「的山」を供することを業としている。博愛はその庭園の一隅に建てられた納骨堂で、別府湾と高崎山を望みながら、「的山」の好評ぶりに目を細めているに違いない。(「破天荒企業人列伝」 内橋克人)明治末年、「馬上金山」を掘り当てた清成博愛と、その子孫の話だそうです。 


月夜
「精白飯を長さ三寸、巾一寸ばかりの物相(もっそう 飯の器)に盛り、乾魚を一片貼ってよく圧し、出す。これを桶に盛り、別の飯で酢蔵し、石で圧す。これを飯鮓という」(『雍州府志』)。飯が白いのところから「月夜」ともいった。これを冷酒をつけタデの葉を妻にして食うのである。この飯ずしは、夏の珍味だったという。飯ずしの一種に「松タケ鮨」もあった。これらは「箱ずし」や「押しずし」の原型である。(「たべもの江戸史」 永山久夫) 


バンド飲み
マサさんのアパートはそんなに広くないが、ジュウタンが敷きつめてあって、靴を脱いで転がり込めるアットホームなものだった。「酒を持ってきます」と言って出て行き、しばらくしてビール、ワイン、ウオッカなどのビンを両手に抱えて戻って来た。隣の部屋の留守の友達の部屋から持ってきた、ということで、つまりは強奪だが、その友達というのが何国人だか男だか女だかも今に至るまで判明していない。その幻の「トモダチ」に感謝しつつ、ビールをベースにウオッカ、ワインと飲みまくった。ドイツのアル中の飲み方だが、「バンド飲み」などと勝手に名づけて実行しているのだ。(「アメリカ乱入事始め」 山下洋輔) 


上級生の教育
−吉本さんも、それほどアルコールに強い体質ではなかった。
なかったですね。それだけど、米沢へ行ったら、上級生が一週間もたたないうちに一升瓶提げて、夜中にがたがた寮にやってきて、わけのわからんお説教を始めて、おまけに「おまえら、飲め」とか言って飲まされたんです。それで覚えましたね。なんて勝手なやつらだと思うんだけど、後には自分も続いてやっていました。「お前、一緒に行こうや」とか、いろいろと上級生の誘いに乗って行くわけです。飲み屋さんに行って。田舎だから飲み屋さんもいろいろ種類があって、普通の飲み屋さんと、芸者さんもいるような飲み屋さんもあったり、ちょっとした小料理屋みたいなところにも連れて行ってもらいましたしね。そういうところへ行くと、学校の先生とか教授に会ったりして。「なんだ、おまえら」とか言われるんだけど、怒りもしないし、そんなに文句を言わないし、わりあいにそういう意味では、そういう機会は多い町だったんじゃないんですかね。とにかく一通り作法とか、酔っぱらわないための方法とか、上級生はちゃんと教えるわけです。強い相手と飲むときはどうしたらいいかとか。
−どうするんですか。
それは、ある程度飲んだら、トイレへ行って無理やり指を喉に突っ込んで吐いちゃうんだと。一度吐いたら絶対大丈夫なんだと。あとはいくら飲んだって、そんなに悪酔いしたり、参ったなんてことにならないんだというのを、代々先輩が教えたんです。でも、寮ではよく悪酔いした経験はあって。どぶろくを買って飲むということはよくやったんです。あれは口当たりがいいから、いい気になって飲むと、後ですごく苦しいんです。これで死ぬかと思うぐらい苦しい。それでもう懲りたと思うんだけで、またけろっと忘れて、また始まっちゃうんですけど。そのときは、この苦しさをは受け入れられないというぐらい、これで死ぬんじゃないかというぐらい苦しい。(「吉本隆明『食』を語る」 聞き手 宇田川悟) 


「春雨酒場」の解説
現代の若い読者には、この種の酒場は馴染みがないかもしれない。酒場とは言っても、ふつうの飲み屋とは違う。酒場(酒の小売店)が店先で、商売用の酒を客に飲ませるだけのものだ。むろん、正規の営業許可を取ってやっているのではないから、お燗などのサービスは一切しない。ツマミも、ピーナッツや缶詰の類である。客はそれを肴に店先のカウンターに向かって立ったまま飲む。何とも殺風景だが、その庶民的なところが一時期多くの人たちに愛された。最近はさっぱり見かけなくなったが、かつてはそこかしこにこの立飲み酒場があり、私も新聞記者時代にはよく利用したのを思い出す。そこでまず下地を作ってから目ざす飲み屋へ行った方が経済的だからで、当時のサラリーマンには懐かしい風物でもあったのである。(「春雨酒場」(源氏鶏太)の解説 山村正夫) 


君尾
ひと口に幕末の長州藩で志士といっても、高杉晋作、井上聞太(のち馨)とはちがって、二十二歳でやっと士分にとり立てられた伊藤博文は、身分がちがうので、他の人々について、京都の花街の座敷で騒いでいる声をききながら、別の小部屋で火鉢を抱いてションボリしていた。その時、君尾という芸子がそっと料理の皿と一本の酒をはこんで来てくれた。後日、宰相になった伊藤が京都に行った時、老伎の君尾を指名して呼んだ。君尾が、平伏すると、伊藤がいった。「あの時はうれしかったぞ」(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


川柳の酒句(22)
中直り元の酒屋へ立ちかえり(飲んでけんかしたものの、酒屋へ戻って手打ちで飲み直し)
仲直り疵(きず)のあるのがのんでさし(やられた方から飲んで仲直り))
大生酔(おおなまよい)を生酔が世話をやき(よくみる風景ですね)
酔いはせぬとは生酔の古句なり(神代の昔からでしょう)
生酔も顔の赤いはこわくなし(青くなってくると…)
生酔はもたれかゝるがきつい好き(「江戸川柳辞典」浜田義一郎編) 


大根おろしと釜揚げシラスの山盛り
晩年の父はこんなことを言っていた。「おい、弱っちゃったよ。お前なァ、俺、死にそうもねえや」親父は自分がボケるのを一番恐れていた。ボケさえしなければ、百歳まで生きるつもりではなかったろうか。炊き立ての飯の上に、大根おろしと釜揚げのシラスを山盛りにして、醤油をかけて喰う。これが魚河岸時代から、親父の二日酔いの特効薬だった。実際、食べてみると、こんなにうまいものはない。私の大好物でもある。あの日、これを食べずに親父が逝ってしまったのが残念で仕方がない。これさえ食べる間があれば、まだまだ長生きできたのではないか。(「だめだこりゃ」 いかりや長介) 


「日本の銘酒地図」
前夜書いておいた「全国どの酒がうまいか」の原稿九枚に目を通す。この種のものが増えると正月が近づいてくる感じになる。正月酒との関連もあろう。午後、「週刊大衆」のA氏に原稿を渡してから神田の本屋街を一軒ずつのぞいてまわった。漫画の本専門に扱っている店の中に、立ち読みの学生諸君の多いこと、多いこと。とある書店でふと、(昭和)四十六年十月に上梓した拙著『日本の銘酒地図』(阿部写真印刷出版局KK)が一冊、目に止まった。初版八千部を刷って、今や絶版になっているものである。各種銘柄を扱った酒の事典類は、昨今では洪水の如く?ちまたにあふれているが、四十六年に私が出した当時にはほとんどこの類書はなかった。当時の千五百円というのは、本としてはいい相場だったと思う。それが古本屋で倍の値段の三千円とは。希少価値と言うことなのか。(「酒まんだら」 山本祥一朗) 


わが嫌ひ
わが嫌(きら)ひ
生意気、生酔ひ、生齧(かじ)り
生でよいのは、
生海鼠(なまこ)、生貝、生鰹(かつお)、
なによりよいのが、現金(げんなま)ぢや。(「吐雲録」 和田垣謙三)大正3年初版の本です。 


大手メーカーの技術展開
しかし、最近は「新酵母探し」というよりは「新酵母造り」というほうが正確な表現なのである。というのも醸造協会酵母(現在六号から一三号まで八種類ある)でも、新顔のものは何らかの人の手が加えられた酵母なのである。たとえば、協会一一号酵母は七号酵母(真澄酵母)の中から、人為的に選び出されたアルコール耐性酵母である。一般の清酒酵母は、発酵が進みアルコール度が一八度以上になると死滅率が急に上がり、死滅した酵母により酒中のアミノ酸が増え、雑味など酒質低下の原因になる。しかし、一一号酵母を使うとアルコール濃度が二〇度以上になっても酵母が死滅しないため、アミノ酸の発生が抑えられる。さらに、最も新顔の一三号酵母は、九号酵母と十号酵母をバイオ技術により融合させ両方の良いところを引き出した、全く人工的に造り出された酵母である。大手酒造メーカーでも新酵母造りの成果は着々と上がっている。最近の研究成果として、“肝臓に優しい日本酒”酵母(西宮酒造)、”バラの香り”のバラ酵母(協和発酵)、?剌酵母(合同酒精)などが開発されている。また、バイオ技術は新酵母造り以外にも、バイオリアクターの応用による発酵期間の大幅な短縮や低アルコール清酒の開発(大関酒造)などに、その応用範囲が拡大している。さらに今後は、大手メーカーの技術展開はこれらの酒造りの分野に留まらず、医薬品、食品などライフサイエンス分野を中心に、非常に応用範囲の広いものになっている。そのあたりを端的に示すのが、九二年一月の旭化成と東洋醸造の合併である。旧東洋醸造がもつ発酵などの酒造関連技術と、旭化成のケミカル技術を複合することにより、その相乗効果の発揮が期待されている。(「日本酒の経済学」  竹内宏監修・藤澤研二著) 


旧制静岡高等学校時代
あのころは、酒を飲むと退学、タバコを喫うと停学という規則があった時代だったが、小生は両方ともやっていた。当時は酒が強くて、一升酒を一か月のうちに二十五日飲んだこともあるが、吐いたことは一度もない。三十の声を聞くまで、酒を飲んで吐いたという経験は一度もなかった。いまは、もうダメ。ある日、授業をサボって昼間からおでん屋のノレンに首を突っ込んで、豚のどこかはっきりしない部分の串差しをかじりながら酒を飲んでいた。コップ酒を片手に何気なく串を握ったままノレンから首を出したら、サボった授業の英語の先生と正面から顔が合った。困ったことになったな、とおもったところ、先生のほうがどぎまぎしたような顔をしてそのまま通り過ぎてくれたので、面倒なことにはならなかった。酒を飲めば退学というような規則というのは、学校の中の軍国主義的(この言葉を厭なものとして口に出すと、最近ではまた反感を示す連中が出てきたが)な人たちが作ったもので、心ある教師は腹の中では苦々しく思っていたに違いない。幸い、その英語の先生もそのひとりだったのだろう。(「悪友のすすめ」 吉行淳之介) 


名案
シャクロー爺さんが、ウオトカをちびちびなめながら、例のホラを吹いています。「とにかくだね、わしが朝起きてみると、靴が片っ方しかないのじゃよ。ハテナ、たしか昨夜は一足揃えて置いたのに、と、ベッドの下や、部屋中を探し廻ったが見つからない」「へえ、だけど爺さん、今はちゃんと両方履いてるじゃないか」「さ、それでだよ、わしが探し疲れて、ちょっと一服しようと、ウオトカを一杯やったのだが、とたんに名案を思い浮かべてな、とうとうウオトカを一本あけてしまったのさ、−すると、どうじゃろ、今まで一つしかなかった靴がちゃんと二つに見えるようになった、−そこで、わしは悠々とこの通り、足に靴を履いたというわけじゃよ」(「ユーモア辞典 参」秋田實編) 


家出と追手道頓堀で別に飲み(麻生滋カ路郎)
家でした息子と、それをさがしに来た伯父さんか、出入りの大将でもあるのだろうか、家出息子は親爺と大ゲンカで、「こんな家、出てしもうたるワイ!」と捨てゼリフすれば、親爺も「おお、どこなといきさらせ!」お袋一人がおろおろして、出入りの大将やら伯父さんにとりなしを頼む、「みつけて連れ戻しとくなはれ、早まったことせんうちに…」この句は昭和七年の句であるから、赤い灯(ひ)青い灯の「道頓堀行進曲」(日比繁二郎作詞)の曲が川面に流れていたであろう。「酔うてくだまきゃ あばずれ女 すまし顔すりゃ カフェーの女王(クイン) 道頓堀が忘らりょか… カフェーがこのころ、どんどんできたと、和多田さんの『相惚れ大阪』にはある。赤玉、美人座、ユニオン、ビール一本が二十五銭というこの時代に、チップ代だけで一日十円もかせぐ女給がいたとか。家出の若旦那は、もしかしたらそんな女給の一人に惚れ、夫婦(めおと)になりたいと駄々をこねたのや<骨抜きにされた毒婦を諦めず>も同じ路郎の句。恋の灯が川面に流れる道頓堀のそばの店で若旦那はやけ酒を飲みつつ物思う。追手のほうは、こjこかしことさがしあぐねて、これも道頓堀の一ぱい飲み屋で、「まましかしこまったもんや」と飲んでいる。(川柳でんでん太鼓」 田辺聖子) 


コリン・ウィルソンの酔い
秋の夕方、パブで飲むボトル半分のシャンパン、それも店の主人が暖炉に火を入れ、店内にはまだ半分の客しかいないころに飲むシャンパンのすばらしさを、私は身をもって知っている。もしあなたとボトルをいっしょに空にしてくれる友達をもっていればなおさらだ。ただ強い意志の持ち主でなければ、危険かもしれない。あなたは、くつろいで会話を楽しんでいるので、二本目を注文する。そしてだんだんゆかいになってきて、飲み終わる前に主人にもう一本持ってくるようにいう。するとあなたの友人は、お返しに今度は自分がもう一本買おうといい出す。私は友人と二人で七本も飲んだこともあったのを、はずかしいが認める。(友人はおどろくほどの酒量の持ち主で四本飲み、私は三本だった)。しかし、夜になって私は後悔した。死んでしまうのではないかと、一瞬真面目に考えたのは、あとにも先にもそのときだけだ。朝、頭痛で目を醒ました。獲物をしめ殺す大蛇に飲み込まれるような感じがして、また吐いた。それで、もう二度とシャンパンで酔っぱらうことはすまいと誓いをたてた。午後三時ごろになって、立っていられるほどに元気になったので、友人も同じように弱気になり、ガックリしているだろうと期待しつつ電話した。しかし彼はなんでもなかった。正午ごろまで少し元気がなかったが、クラブのウイスキーがまもなく治してくれたといった。私は三日間もこの不公平を恨んでいた。(「わが酒の讃歌」 コリン・ウィルソン) 


志ん生・馬生・志ん朝の飲み方
お酒はもう、三人とも好きでした。でも、飲み方には、それぞれの性格の違いが出るもんで。意外に思われるかもしれませんが、お父さんはそんなにたくさんは飲まないんですよ。ウチで飲んでても、コップ一杯か二杯。三杯飲むことは珍しかった。その代わり、朝っから飲んではいましたけどね。最初はちびちび飲んでいるけど、さあごはんだって皆が座ると、キューッて飲み干して、一緒にごはんを食べるんです。朝のおかずは納豆とごはん、佃煮にお味噌汁。夜はお父さんは刺身とか空豆なんか食べてました。あたしたちは焼き魚や煮魚、それにちょっとした野菜の煮物だったわね。お父さんも煮魚は時々食べていたけど、魚の骨が苦手なんです。一本でもあると、「のどに引っかかったらどうする。しゃべれなくなるじゃないか」って、怒られた。そうなると、お母さんが事前に骨をとってあげなきゃなんなくなる。だから自然とウチの食卓にはアジの干物とかイワシのように骨の多い魚は出なくなりなしたね。切り身とかが多かったね。そのせいであたしも骨の多い魚は苦手なんですよ。馬生は一杯のお酒でも時間をかけてゆっくり飲んでました。おかみさんのはるちゃんと一緒に、いろんな話をしながら、明け方の三時、四時っくらいまで毎晩のように飲んでたわね。酔ってくると、同じ話の繰り返しになったりするじゃない。けど、はるちゃんは馬生が何度同じ話をしても、その都度初めて聞いたかのようにして付き合ってた。はるちゃんもホント、偉かったと思いますよ。お父さんはそういう飲み方がダメなんです。人と向かい合わせで、ジックリ飲むってのが。お客さんや仲間と飲んでても、自分が飲みたいだけとっとと飲んで、「ごめんなさいよ」つって、帰って来ちゃう。人付き合いが苦手というのもあるんですけどね。だからウチでは、お客さんにお酒を出すってことも、あんまりなかった。それと反対なのが、志ん朝ですね。楽屋の人を皆連れ出して、飲みに行っちゃう。人に気を遣う子なんですよ。そいで、最後までちゃんと付き合うの。(「三人噺  志ん生・馬生・志ん朝」 美濃部美津子) 


小紫
延宝八年(一六八〇)二月のことであった。京都の久(ひさ)氏某(なにがし)という一代男世之介なみのプレイボーイが、三代目小紫の艶名を聞き及んで見ぬ恋にあこがれたが、親の目を盗んで百二十里のところをはるばる出向くわけにもいかず、悶々としていた。ある日、都で一番の太鼓持を呼びよせて悩みを訴えると、太鼓持が、「それほど恋しく思われるのでしたら、かの君の付差(つけざ)しなどいただかれて、憂さ晴らしをなさいませ」といった。付差しとは、口を付けた盃を相手に差すことをいう。そこで何某は、小紫の紋と自分の紋を比翼にして蒔絵した小盃を注文し、「この盃を持ちくだり、急いでお流れをいただいてこい」と、太鼓持を江戸へ発(た)たせた。吉原に着いた太鼓持は、とりあえず小紫を五日間揚げ詰めにするということにして、かくかくしかじかと小紫に訴えて、盃を差した。すると小紫は、「その久様というお方は、江戸でも隠れない粋人でいらっしゃる。そういうそなたも都一の太鼓持と承知しています。うそか真実(まこと)か存じませぬが、これほどまでに深い思いを、むなしくいやといっては、情(なさけ)知らずというものでしょう。とはいえこのまま戴いては、買われることを喜んで、逢いもせぬお客の盃を戴いたといわれ、人にそしられ、この身の面目もすたります。嫌うわけではありませぬが、この盃はさわります」といった。「さわる」とは、相手から差された盃に口つけず、そのまま返盃した後に受ける作法をいう遊里語である。さすがの目から鼻へ抜ける太鼓持も、道理に詰まってなっとくし、「この盃を持ち帰るまでは、大尽(だいじん)の揚げ詰めということにしよう」と、揚屋の亭主に三十日分の揚代を渡して、都へのぼって行った。その後、京都の大尽は、小紫のあっぱれな詰開(つめひら)き感心して、小判百両を贈ったという。(「元禄の演出者たち」 暉峻康隆) 天和二年正月刊の『恋慕水鏡(れんぼみずかがみ)』にある話だそうです。 つけざし  盃の殿様  飛脚泣かせ  


日本酒以外
太平洋戦争前夜、ぼくは新宿の居酒屋に入りびたって、日本酒以外のスコットランドの地酒を、小遣いのつづくかぎり飲んだ。金に困ったときは、哀しみのアブサンか孤独なジンを愛した。とにかく、当時のぼくには、日本酒でさえなければ、どんな酒でもよかった。たぶん、旧幕以来のアナクロニズムを売りものにしている花柳界で育ったぼくにとって(生家は鳥料理屋)、日本酒はそのシンボルであり、その日本酒を愛した祖父や父、言論と物資の統制によって戦時体制に急激に移行しつつあった日本の社会への、ぼくのおく手の反抗期だったのだろう。昭和十七年の秋になると、「自己陶酔亭」でトグロを巻いていた長髪の文学青年たちは、警察権も介入できない、天皇統帥の絶対主義的序列の最下位にくりこまれ、一人、また一人と、中国大陸や東南アジア、南太平洋の島々へ散っていった。そして戦後の社会、文字通り灰燼に帰した日本にかえってきたものは、十パーセントにもみたなかったそのときこそ、ぼくらの精神と肉体にとって、アルコールという「突っかい棒」が必要だったのだ。いま、目をとじると、新橋や新宿の焼け跡の闇市のなかで、復員兵姿のヒゲづらの男たちが、カストリ、薬用アルコールを水で薄めたバクバン、梅シューチューといった最低のアルコール飲料をあおりながら哄笑していた、あの火と灰の匂いがただよってくるのだ。だから、「自由」と「平和」と「民主主義」という言葉につきあたると、いまでもぼくの鼻孔には、薬用アルコールとカストリの匂いがただよってくるのだ。(「スコッチと銭湯」 田村隆一) 


ひとさんのお酒
ただ、外国の洒落は訳しづらいので困る。
「ある人が哲学者のディオゲネスに尋ねた。『あなたがお好きなのはどこのお酒ですか?』『なに、ひとさんのお酒です』」
これなどはうまく訳せた例だと思っている。(「名訳」 三浦一郎) 


式三献
銘々膳を単位とする空間展開型を原則とする日本の食事でも、宴会の食事になると時系列的な側面が顔をのぞかせる。鎌倉、室町時代の正式の宴会でいえば、酒は勝手についで飲むものではない。上座の者から盃を口にして、座順にしたがい次々に酒がまわされる。この間自分が酒を飲む時間よりは他人が飲むのをながめている時間のほうが長いわけだ。。盃が座を一巡するすることを一献という。酒を一献進めるごとに三宝などの膳にのせられた酒のサカナが供される。式三献といって初献から三献までが儀礼的な飲酒であり、それから食事にうつることもできるが、えんえんと十数献までつづくこともある。一献ごとにサカナを出すのだから、盃の数だけお膳が出没する。こんな儀式ばった宴会がわずらわしくなって、本膳料理というものが室町時代にでき、江戸時代になると 日本の宴会のスタンダード版になる。(「食いしん坊の民族学」 石毛直道) 北条時頼の酒(2) 正月の朝廷儀礼 


飲む打つ買う
「飲む 打つ 買う」という。大酒を飲む、博打を打つ、そして女を買う。昔は、男の楽しみの代表だった。いまはまちがったって、楽しみなんかじゃない。わたしなんぞは、あの「打つ」は「鬱(うつ)」のことではないか−と考えているほどだ。心の晴れないことがあって、大酒を飲む。翌日は二日酔いで、ユーウツである。当然のことながら頭は重く、仕事なんかできずに、「女房の怒りを買う」と、こういうわけだ。(’「ことわざ雨彦流」 青木雨彦) 


十二月十四日(火)
小倉さんと二人で大夫の車に乗り出勤。大夫は昨日と今日風邪の気味で欠勤。入浴。九時五十分に内務大臣の親任式。参議の末次大将、そのあと参謀総長、軍令部総長の拝謁、いよいよ南京陥落を正式に奏上したのだ。十一時四十五分に内閣と大本営海軍部の夫々代理を呼び、清酒一樽を賜り、武官府にも同じく一樽を賜った。正午から閣僚、参議の御陪食、その後御学問所にに於て閣僚に賜物。御哥(うた)所へ行き鳥野さんに哥を見てもらふ。(「入江相政日記」 朝日新聞社編) 昭和12年の日記です。 


見合酒
私が大学へ通ったのは、大東亜戦争になってからで、そのころは酒がなかなか手に入らなくなっていた。農学部に行っている悪友をそそのかして実験用のアルコールを盗み出し、砂糖を溶かしたカラメルで着色し、あやしげな香料を加えて、サントリーの瓶に入れておくと、本物そっくりに見えた。ひょっとすると、本物よりうまかったかもしれない。われわれはそれを大事にして、ちびりちびり飲んだが、われわれの大学にはもっとうわてがいた。それは医学部の学生で、まだ卒業しないうちから盛んに見合をしていた。戦争が深刻になるにつれて、彼の見合の度数は多くなり、しかも一度としてまとまったためしがない。人生二十五といわれた時代だから、彼が結婚を急ぐ心境はわかるが、それにしては理想が高すぎるなと思っていた。ところがそのうちに見合が目的でなくて、見合酒が目的だということがわかった。彼の言によると、そとで見合をしてもろくなものが食えなくなったので、近ごろはたいてい女の家へ直接案内されて行くことが多い。未来の花婿であってみれば、そうけちなこともできず、女の家では無理をしてごちそうを集め、酒の用意もしてくれる。そんな場合は男親も在宅していることが多く、「どうです、一杯やりませんか」と徳利を傾けてくれる。はじめは遠慮をしているが、しだいに本性を発揮して、出されただけ飲んでしまうので、こんな酒飲みの婿さんでは将来が案じられるということになって、こちらが返答するまでもなく、向うから断ってくるのだそうである。(「食は広州州に在り」  邱永漢) 


三月二十五日(東京)
今夕六時、工学寮[工科大学]の大講堂で大宴会、列席者百五十名、電信開通、すなわち日本政府の国際電信連盟加入のお祝いである。六時、来賓は製図室に集ったが、そこには電信機その他いろいろな模型が陳列されていた。別室では築地の中央局につながった電信機の実験があった。遺憾ながら偉大なこの新発明について適当な概念を得るには、あまり好機会ではなかった。終始、器械に雑音が多く、ほとんど何もわからなかった。食事はすばらしく、献立(メニュー)は趣向たっぷりで、酒は飛びきりだった。五回の乾杯(それに飲む酒の名は書いて配られた)が続けざまに行われた。九時に全部終了した。講堂は各国の旗で飾られていたが、その順序といえば−まずイギリスとアメリカ、つぎがドイツとフランス、それからロシアとイタリア。。全講堂を電燈で照明するという試みが、多少不備な点はあったが行われた。(「ベルツの日記」 菅沼竜太郎訳) いわゆるお雇い外国人エルウィン・ベルツの明治11年の日記です。この飛びきり酒とは、清酒だったのでしょうかワインだったのでしょうか。 


悪魔の発明
神父さんの晩餐。お料理がはこばれるたびに、神父さんはこういった。「ああこれは、ブドウ酒を飲みながら食べないといけない。」「これもそうだ。これも。」誰かが、神父さんにたずねた。「ブドウ酒がいらないのは、いったいどんなときですか。」「それは、水を飲むときです。」「それでは、神父さんはいつ、水をお飲みになるのですか。」「水は飲みません。あれは、あなた、悪魔が発明したものですよ。」(「食べものちょっといい話」 やまがたひろゆき) 


アダムのビール
Adam' ale である。−ではアダムは何を飲んだのか。ビールがないくらいだからコカコーラもカルピスもありはしない。あるのは水だけだ。つまり、「アダムのビール」とは水のことなのである。ついでにいうと、「アダムのリンゴ」は、「のどぼとけ」のことであり、「アダムの針」とはユリ科の多年草の糸蘭のことである。(「言葉の雑学事典」 塩田丸男) 研究社の新英和大辞典には、「戯言」で、「水」とでています。 


生見玉
貝原益軒などの解釈は、 生見玉(いきみたま)の祝儀とて、玉祭より前に、おやかたへ子かたより、酒さかなをおくり、又饗をなす事あり。いつの世よりかはじまりけん、今の世俗にする事なり。死せる人は、なき玉をまつるに今いける人を相見るがうれしき、とのこゝろなるべし。(『日本歳時記』)というもので、これが江戸時代の世間一般の常識となっている説であろう。つまり子方が親方に贈答する機会であるのだが、同時に戻ってきた死者が、生者と相目見えることだから、それは死者にとっても嬉しいはずの儀礼だというのである。いかにも現世を中心とした世界観から生じた思考といえる。そしてこうした思考は、たぶん都市民のものであったと思われる。というのは、生見玉、生きている者同志がお互いの霊魂を強化するための呪いとみられる節があるからだ。その場合まず必要なのは、、子と親の関係であり、次に擬制親子関係、さらに親類・縁者のつながりへというように社会関係が拡大化するのに応じて、生き見玉の贈答範囲も広がっている。こうした社会関係の多様化に対応して、生き見玉の風も広がっているのである。(「江戸歳時記」 宮田登)  


日頃の安物
若いときは風呂に入ると湯がアルコールの匂いをたてるくらい酒を飲んでも何とか耐えられたが、夕陽のなかをとぼとぼ歩く年齢にさしかかると、ものおぼえがわるくなり、指先がしびれ、カビのように倦怠感が全身にはびこり、人名、地名、書名など固有名詞をかたっぱしから忘れる。酒に弱くなる。すべてが水に流れ、流されていき、それに気がついてもとめようがない。それが度重なると、いまいましくなってきて、エイ、くそくらえ、酒でも飲むかと、はやりたちたいのだが、そのときも酔うより先に味のことを考えたくなる。そうなるとキックのきつい蒸留酒よりは、おっとりした醸造酒を飲みたくなる。ぶどう酒は酔いも醒めるもなだらかな丘そっくりだし、ほのぼのとした陽が血管に射すぐあいは春の温室に入ったようである。日頃から安物を飲みつけておくのが唯一の鑑賞のコツで、たまに上物にありつくと、香り、色、舌ざわり、酔心地、余韻、ことごとくこれほど違うものかと、愕然となる。この驚愕というものがいいのである。流れのなかの岩みたいなものなのである。固有なものに衝突する手ごたえ、手ざわりその抵抗感が愉しいのである。(「酒瓶のつぶやき」 開高健) 


東豊山十五景の内
寺前紅楓
てらまへて酒のませんともみぢ見の 地口まじりの顔の夕ばへ
江村飛雪
酒かひにゆきの中里ひとすぢに おもひ入江の江戸川の末
巌畔酒?(しゅろ)
杉のはのたてる門辺(かどべ)に目白おし 羽觴(うしょう)を飛ばす(盃をやりとりすること)岸の上(へ)の茶や(「日和下駄」 永井荷風)目白不動のある豊島区高田「東豊山」周辺のの景色を詠んだ蜀山人の狂歌だそうです。 


滝瓢水
この年(寛延二年 1749)、前橋藩(群馬県前橋市)十五万石酒井忠恭(ただずみ)は、姫路藩(兵庫県姫路市)十五万石に国替になった。忠恭は、さっそく新しい領地を巡視したが、領内の別府村に俳諧師として有名な滝瓢水(たきのひょうすい)が住んでいることを知り、瓢水の屋敷を訪ねた。当時、瓢水は六十六歳。放埒(ほうらつ)な暮らしをしてきたため、すでに家業は倒産し、財産は底をついていた。大きな屋敷はあるものの、空き家も同然だったのである。そこに藩主が姿を見せたのだから慌てふためくのが普通だろうが、瓢水は平然としていた。藩主忠恭は、瓢水が天皇の前で俳諧を披露したことを知っていたし、領内に住んでいることを誇りに感じた。だからその貧しさを瓢水の風流と解したのである。瓢水は忠恭を接待することができない。見かねた村役人たちが酒肴(しゅこう)を運び込んでくる。忠恭は酒を飲みながら、瓢水から俳諧の話などを聞き、上機嫌だった。ところが、まもなく瓢水が座をはずし、なかなか戻ってこない。瓢水は有名な風流人だから、奇行に目くじらを立てると、風流もわからないのかと侮られかねない。忠恭はそう思い、辛抱強く待ったものの、ついにしびれを切らして帰って行った。(「大江戸<奇人変人>かわら版」 中江克己) このとき、瓢水は須磨に月を眺めにいって三日後に戻ってきたそうです。滝瓢水は、「手にとるなやはり野に置け蓮華草」の作者だそうです。 


父の晩酌
昭和七年に作られた小津安二郎監督のサイレント映画「青春の夢いまいづこ」のなかにこんな新階層のサラリーマンが晩酌を楽しむいいシーンがある。夏、商事会社に勤める主人(武田晴郎)が家に帰ってくる。浴衣に着替え、食前にくつろぐ。そして冷えたビールをうまそうに飲む。団扇で風を送りながらその様子を見ていた婆や(二葉かおる)はしみじみという。「旦那様は、夕方、ビールを召し上がるときが、いちばん幸せそうでございますね」。職人の家だけではなく、サラリーマンの家庭でもこのころから晩酌という習慣が出来あがってきたことがわかる。”父の晩酌”は一家のささやかな幸福をあらわしている。多くの言葉や解説はいらない。父親が黙ってうまそうに晩酌を楽しむ。その姿を見ただけで、母親や子どもたちは、父親が今日一日つつがなく仕事をしてきたこと、明日もまた元気に仕事に出かけて行くだろうことがわかる。むかしの日本映画に晩酌のシーンが多いのはそのためである。”父の晩酌”があれば、余計な説明などしなくても、その家庭が慎ましく、幸福な家庭であることがわかる。逆に”父の晩酌”がないとその家庭は、冷えた、さみしいものになることが多い。たとえば、小津安二郎監督の「東京暮色」(昭和三十二年)の冒頭に、笠智衆が会社の帰りに、行きつけの居酒屋へ行き、ひとりで酒を飲むシーンがある。カウンターに座り熱燗を飲む。おかみ(浦辺粂子)が、酒の肴にコノワタを出してくれる。笠智衆はそれを肴にうまそうに飲む。居酒屋のシーンとしてはとてもいいものだが、”父の晩酌”ではない。案の定、この笠智衆は妻と別れていて家庭が寂しいものになっていることがわかってくる。(「東京つれづれ草」 川本三郎) 


赤垣源蔵
忠臣蔵の「赤垣源蔵徳利の別れ」によると、大酒飲みの彼は討入りの前夜一升徳利をさげ、兄を訪れるが兄は不在。そこで兄の紋付(もんつき)を相手に酒を酌みかわしたという。そして女中に、「自分が死んで来年の盆に帰ってくるとき、お供えは酒にしてほしい」とことづけたのである。これはお話だが、実在のこの人物は酒の飲めない下戸であった。討入りの前夜、妹の家を訪れ、めずらしく盃に一〜二杯汲んだといわれる。(「日本酒の夜は更けて」 楠本憲吉) 


「アル中の嘆き」
心配してくれるのはありがたいがね、おれはもう、とっくにアル中なのさ。そうとも。アル中になって、医者にも見はなされて、それでもまだ酒をやめなかったために、一週間前に、とうとう死んだのさ。それじゃお前は幽霊かって?うん、まあ、幽霊みたいなもんだ。だって、実態がないんだものな。そう、そしてこのグラスも、中の氷もウィスキーも、ぜんぶ実態がないんだ。おれはもう、すでに死んだ人間だ。だからこれ以上、いくら酒を飲んだって死なないんだよ。はははははは。ただねえ、困ったことがあるんだ。この酒、いくら飲んでも、ちっとも酔わねえんだ。だって、酒も、酒を飲むおれも、実態がないんだものな。幽霊みたいなものなんだものな。もう、わかっただろ。おれは今、地獄にいるんだ。そう、アル中で死んだ人間が落ちる地獄だ。いくら酒を飲んでも酔わない!こいつはまったく、死ぬ以上の苦しみだぜ!アル中にとってはな。(「アル中の嘆き」 筒井康隆) 


ビールの祭り
私はかつて、終わった直後にミュンヘン入りして「くやし涙のノーベンバー」だったが、一九五○年、とうとう望みを果たすことができた。年に一度のこのフェスティバルが、この年は百四十二回目で、とにかくケタはずれにスケールの大きい祭りだった。半月の会期中に、ミュンヘン中央駅から西南へ歩いて十分ほどの距離にあるテレジェンビーゼ広場へやってきた内外観光客は五百万人。西ドイツ最大のバカ騒ぎと呼ぶにふさわしく、何もかもがビックリずくめ。ビールは飲みも飲んだり四百四十万リットル。食べたほうもこれに劣らず鶏六十万羽、焼き魚百五十トン、ソーセージ百五十万本が、延べ六百五十万のお客の胃袋へ消えた。救急車は四千二百八十五回出動。酔いどれ百九十二人が昇天。落とし物だって驚きで、鍵が五百個、財布五百個、眼鏡六十個などなど。それに加えて、祭りが終わったときには、二十万個のジョッキがなくなっていた。ミュンヘンオリンピックもこのフェスト直前に開かれたので、スポーツの祭典にやってきた人たちは、ひきつづいてビールの祭典にも参加できたのだという。この祭りは十九世紀はじめ、バイエルン王子婚約の祝典からきた伝統的なフェスティバル、毎年十月の十六日間にわたり(年によっては九月下旬からはじまることもある)、大遊園地とビール天国が出現する。期間中は花馬車のパレードや各種の競技も行われるが、圧巻はなんといってもビアホール。(洋酒こぼれ話」 藤本義一) 


十九世紀までのフランス農民
「感じ取られましたか。じつはそうなんです。Nさん、十九世紀まで、フランスの農民は、日常、食事の時に何をのんでいたと思われますか」「赤ぶどう酒と返事しようと思っていたんですが、、そうではないんですね」ぼくの否定的な表情を読んで、Nさんは答えた。「ええ。それが水なんですよ。でなければぶどう酒の搾り滓に水を通しただけの、ピケットという赤い飲物をのんでいたんです」「水だって!まさか」「その「まさか」なんです。ぶどう酒は税金代わりに納められ、自分たちは水をのんでいた。貴族たちは自分の土地から年貢として納められるぶどう酒を飲んでいましたけれど」「それは知らなかったたなあ「「その水も粗悪だった。だからのちのちぶどう酒が安くなると、水をのむよりぶどう酒をのめと衛生当局から指導を受けるようになるんです」「へえ、いまある光景が、ずっと昔から続いていたような気がしていたんですが、そうではないんですか」僕だって、それを知ったときは、のけぞらんばかりに驚いたのだった。「じゃ、十九世紀に入ってからなんですね、ほとんどフランス全国でぶどう酒が飲まれるようになるのは」「そうです。細かくいえばぶどう酒、シードル(リンゴ酒)、ビールなどが、大量に消費されるようになるんです。それには製造、保存、輸送の技術革新が基本になければならなかった。パスツールなど、細菌学者もこの技術革新に一役買ったのです。それと同時にぶどう農園に資本が投下される。銘柄ものが高価になる一方でそうでないものは、誰もが日常飲める程度に値が下がる」「そういわれると、もう一歩でアルコール中毒の時代が来そうな予感がします」(「アルコール問答」 なだいなだ) 


山科家
翌長享元(一四八七)年も大火、盗賊の横行と物騒な世相が続いたが、こんな折に(足利)義政の東山山荘造営用の材木二〇〇本、義尚から竹三〇〇〇本が山科七郷に課せられ、工事普請役の郷民が何度も訪ねてきて相談をした。長享三(一四八八)年正月二四日、晴、斯波義敏(しばよしとし)が山科家を訪問、宴あり。彼は土産にひしくい一、鯉一、名酒柳酒一荷を持参した。この日の山科家の献立は初献が土器(かわらけ)物三、鯛、あわび、栗、次に「鳥入物シラヒキ、クルクル」さらにぬる冷麦、はまぐり、さらに鮒入物、赤貝、くらげ、土器物、ふきのとう、芹(せり)、くらげ、やまの芋、最後にひしくい入れ物、。大変なごちそうで品数は多いが、加工の度合は低いように思われる。七月はまた三日病が流行し、疫病送りが行われた。この頃、山科家では盆と正月の買物は宇治の市でまとめて行なっていたが、買物リストを見ると食物の種類は豊富である。蓮葉、粽(ちまき)、瓜、酒(大津樽、柳)、味噌、牛蒡(ごぼう)、塩引(塩蔵の鮭であろう)、はじかみ(生姜)、枝豆、ほとけ瓜、茄子、ひゆなど。−
長享二(一四八八)年の「山科家礼記」には、各種行事、祝い事の献立の記録が多く出ている。九月九日重陽の節会は赤飯で祝い、一〇月には正月酒も自家醸造した。(「日本の食と酒」 吉田元) 


上緒の主
上緒(あげお)の主、此うき(沼地)を買い取りて、津(摂津)の国に行ぬ。舟四五艘斗(ばかり)具して、難波わたりにいぬ。酒、粥(かゆ)など多くまうけて(用意して)、鎌、又多うまうけたり。行かふ人を招き集めて、「此酒、粥、参れ(召し上がれ)」といひて、「そのかわりに、此蘆(あし)刈て、少しづゝ得させよ」といひければ、悦(よろこび)て集まりつゝ、四五束、十束、二三十束など刈て取らす。かくのごとく三四日刈らすれば、山のごとく刈つ。舟十艘斗に積て、京へ上(のぼ)る。酒多くまうけたれば、上るまゝに、この下人どもに、「たゞにいかんよりはこの縄手引け」といひければ、此酒を飲みつゝ綱手を引て、いととく賀茂川尻に引つけつ。それより車借(くるまがし 牛車で運搬を請け負った業者))に物取らせつゝ、その蘆にて此うきに敷きて、下人(しもうど)どもをやとひて、その上に土はねかけて、家を思ふまゝに作てけり。(「宇治拾遺物語」 上緒主、得金事) 上緒とは、冠を髻(もとどり)の根もとで結ぶひもで、それが長いのでつけられたあだ名だそうです。安く買った京の沼地を、難波から運んだ蘆で埋め立て、家を建ててしまったという話です。 


先んずれば人を制す
赤ら顔の男がバーのカウンターに座った。バーテンが声を掛ける。「お一人とは珍しい。お友達は?」「可哀そうに。あいつ、アル中になっちゃった。医者に行ったら禁酒を言い渡されたらしいんだ」「いい方だったのにねえ」「酔うのも早かったが、アル中になるのもオレより早かった」男はストレートを一杯飲んでから、カウンター角の受話器に手を伸し友人に電話を入れた。「しかし相当ひどそうだな。声が震えているじゃないか」男は友人に見舞いの言葉をおくっていった。しかしブルブル震えていたのは受話器を持つ男の手の方だった。(「悪魔のことわざ」 畑田国男) 


うそ替え
太宰府では、正月七日、夜の酉(とり)の刻(午後五時〜七時)におこなう。木製の<うそ>を持った参詣人が、境内の楠(くす)の木を中心にして、「替えましょ、替えましょ」といいながら、相手をえらぶことなく、おたがいに<うそ>を交換する。そのうちに神官が、参詣人のなかにまぎれこんで、金製の<うそ>を渡すので、これを得た者には幸運が来るとして、社務所で神酒を授けた。現在では、社務所や露店でこの<うそ>を売っているので買って帰り、神棚にあげておけば防火のまじないになるという。(「日本語おもしろ雑学歳時記」 興津要) 


文七元結
ところが、文七が白銀町の近卯に帰ってくると、水戸屋敷から五十両がとどいていていた。じつは文七が水戸屋敷にうかがったとき、御用人が碁好きで相手をさせられ、辞しぎわに五十両を碁盤の下に置きわすれた。そのこともわすれてすられたと思ったのだが、水戸家のほうでは家来二人に提灯をもたせ近卯まで届けてくれたという。近卯では大騒ぎになった。翌日、近卯の主人は文七を共につれて長兵衛もとを訪ねるべく吾妻橋をわたることになる。長兵衛の住まいは、初代円右は本所畳横丁としているが、その師匠の円朝は、本所達磨横丁としている。前記佐藤光房氏の本によると、達磨横丁はいまの吾妻橋一丁目の駒形橋寄りあたりにあったらしい。くりかえしていうが、長屋の様子は深川江戸資料館に行って想像すればいい。円朝によると、おそらく表通りに、酒屋がある。主人は、文七に尋ねにやらせる。酒屋の番頭は、   彼処(あすこ)の魚屋の裏へ這入(はい)ると、一番奥の家(うち)で、前に掃溜(はきだめ)と便所(ちょうずば)が並んでますから直(じき)に知れますよ。   そこで、主人は、酒屋から「五升の切手(商品券)」を買いもとめ、その上、枝樽(えだる)を借りる。角のついた樽で、黒か朱の漆でぬられており、祝儀のときにつかう。角樽ともいう。その間、長兵衛の家は、前夜からだが、女房のお兼とのいいあらそいがつづいており、長兵衛はから威張りして、「人の命に換(け)えられるけえ」と毒づいたりしている。お兼はふんと笑って、「人を助けるなんてえのは旦那様のすることだよ」(「本所深川散歩 神田界隈 街道をゆく」 司馬遼太郎) 親の借金五十両を返すために娘が吉原に行き、自分をカタにして金を借りる。親の長兵衛は、その金を、五十両の店の金をなくして身投げをしようとしていた商家の奉公人文七に渡してしまう。結局、娘のお久と文七は夫婦となり、文七元結(もっとい)の店を開いたという落語です。 


菊の城
目白の「翁」で、僕はお酒は一種類だけ、菊正宗の一合瓶を置いていました。めんどくさがりやですから、これなら簡単だった、それだけの理由です。僕は日本酒は好きです。どちらかと言うとがぶがぶ飲む。いい気持ちになれればいいというような飲み助です。ところが、お二人の飲み方はまったく違っていた。それまで、そんなふうに酒を飲むなんて考えもしなかった。何種類かお酒を持参していて、飲み比べたりしているのです。しかもお酒が違えば、グラスも変わるんですから。僕らも飲ませてもらいました。こんな酒があるのか、と正直言って感動しました。菊姫など銘酒ばかりでしたが、中でも僕が旨いと感じたのは、熊本の酒、菊の城です。だいぶお酒が回った頃です。たまたま僕が飲んでいたグラスに酒を注いでくれたのですが、菊の城が入っていたところに菊姫が注がれてしまった。すると、注いだ人が、あ、菊の城だったですねと申し訳なさそうに言ったんです。僕はたいしたことではないと思って、いいじゃないですか、お城にお姫様が入ったんだからなどと茶化した。すると、佐藤先生が、そんなこと言うなんて、とたしなめるんです。お酒とはそういうものじゃないと。僕は驚いた。こういうお酒の飲み方、楽しみ方があるのかと。しかも味を見る時は、口に含んで、舌の上で転がすようにして味わう。利き酒のやりかたです。(「そば屋 翁」 高橋邦弘) 二人とは、神田和泉屋という酒屋の主人横田達之と、早稲田大学教授の佐藤總夫だそうです。「翁」は、山梨県長坂から広島県豊平へ移り、「達磨」という自分の体力にあわせた不定期週末営業の店に転換したそうです。 


辰巳、島田と池波
むかし、新国劇の脚本と演出をしていたころは、劇団の二人の男性スタア、辰巳柳太郎と島田省吾の演物(だしもの)を交互に書いたり、演出したりした物だが、この二人は、性格も芸風も全く対照的であって、二人とも同じなのは、長年にわたって健康だったことぐらいだろう。島田は扮装するにも長時間にわたって鏡台の前に座り込み、入念をきわめるが、辰巳は子供が使うような鏡台の前で、筆一本で、たちまちのうちに化粧(かお)をしてしまう。島田は大酒飲みだが、辰巳の体質は酒を受けつけない。つぎの芝居の相談するときでも、島田とはねっちりと盃を重ねながらするわけだが、辰巳となると、「ひとりで、のんでくれよ」と、私には酒を出すが、自分は饅頭をむしゃむしゃやりはじめる。私は、というと、むろん酒のほうなのだが、甘味(かんみ)も時によっては、(わるくない…)ほうだから、大阪の新歌舞伎座で稽古をしているときなど、酒後に、法善寺横町の[夫婦善哉(めおとぜんざい)]へ立ち寄ることもめずらしくはなかった。(「むかしの味」 池波正太郎) 池波正太郎とぜんざい 池波正太郎の甘辛趣味  


イスタク・オクトリ
九ヶ月間の攻防の末に大都市テノチティトランを陥落させ、巨万の富を奪い取った三六歳のコルテスは。まさに有頂天だったであろう。覇者となったコルテスの陶酔感を高めたのが、「イスタク・オクトリ(白い酒)」というスペインにはみられないアステカの酒だった。この酒はリュウゼツランの一種マゲイの樹液からつくった酒であり、神に捧げる神聖な酒とされていた。祭りの日以外は、五○歳以上の老人や神官や戦士にだけ飲むことが許された。もしも隠れて飲酒したことがバレると、最初は鞭(むち)打ち、二度目は村から追放が科され、何回も重ねると死刑にされたという。(「知っておきたい『酒』の世界史」 宮崎正勝) 


国栖の醴酒
すなわち、天皇が吉野の宮に行幸されたと、国栖(くず)人が来て醴酒(こざけ 一夜酒)と土毛(根芹)を捧げて、歌舞を奏して、天皇を慰めたと記されていて、これが今日の国栖奏の始めといわれている。辻田氏によると、国栖奏の行われる旧正月一四日には、今でも醴酒が振舞われるとのことであった。辻田氏から教えていただいた、そのつくり方は、一晩、水に浸したもち米を木臼で砕いて布ごしし、残りかすの粉砕、布ごしを繰り返して、「しとぎ」をつくり、それに清酒と砂糖を加え、少し温める。こうしてできた濁酒が醴酒とのことであった。「応~記」に出てくる醴酒について、足立勇氏は『日本食物史』の中で、後世の甘酒の類か、果実酒だったかもしれないと推論している。しかし辻田氏の醴酒のつくり方を見ると、沖縄での古代の神酒としての口噛み酒が、今日、沖縄本土では、米飯と泡盛と砂糖でつくる神酒にかわっているので(第3章参照)、生のもち米を砕いた「しとぎ」を用いている今日の南国栖町での醴酒づくりの方が「しとぎ」を口で噛んで酒にする口噛み酒の製法に近いものであることがわかる。(「日本酒の起源」 上田誠之助) 


桂酒
酒に関しては『東坡酒経』という一巻の書物を著しているほど各種の酒を試みており、のみならず地酒が口に合わないと自家で独特の醸造に凝ったりさえした。まさに天下第一老饕(くいしんぼう)の名に恥じない人となりである。だから蘇東坡居士といえば何よりも食通であり、美食の神様であった、文章家としてよりは余技の方で後世に名が残った。ところが、この食通があんまり当てにならないというのである。食物はともかく、酒の方はどうも信用できない。蘇軾は李白のような酒豪ではなくて、日に一合ほどしか嗜まない下戸だったからだ。海南島では口に合う酒がないので、かつてさる隠者に作り方を教わった桂酒というのを自家醸造してみた。
有隠者以桂酒方授吾。醸成而玉色。香味超然。非人間之物也。
玉のような色をして、香味はこの世のものとは思えず、現実ばなれのした出来栄えだとだという。しかるに実際にこの酒を飲まされた息子の話によると、まるで飲めたものではなくて、無理に飲むと下痢をしたというのだからひどい。ちなみに右の逸話は、篠田統教授の著書からの孫引きである。「実際、葉夢得が東坡の息子からきいたところによると、東坡が黄州時代につくった蜜酒は、途中で腐敗したためか、飲んだ者はひどく下痢をしたし、恵州にながされていた間につくった桂酒にしても、まるで屠蘇みたいで、一度つくったが二度とはこころみなかった。それをば坡公の詩才でいかにもまことしやかに書いているが、うっかり信用してはいけない。だいたいあの人はこまめで、めずらしいことにはななんにでも手をだすが、めんどうくさがり屋でこまかい節度を無視するから、まともにできたためしがない。云々。」(『中国食物史の研究』)(「食物漫遊記」 種村季弘) 


おそめさん
先日、赤坂の「砂場」でおそばを食べていたら、おそめさんが入って来た。おそめさんといっても今時の若い人たちは知らないだろうが、京都の祇園の出で、銀座で一、二を競う「クラブおそめ」というバァを経営していた美人マダムである。かなり前に廃業したことは知っていたが、以来、まったく噂を聞かなくなったので、どこでどうしているか知らないままに年月がすぎてしまった。砂場のそば屋はいつでも混んでいるが、折よく私の前の席があいたので、おそめさんは連れの人たちとそこへ座り、冷酒(ひや)を注文した。私はまんざら知らない仲ではなかったから、挨拶をすると、ちょっと戸惑った様子だったが、そこは心得たもので、如才なく笑顔で応じた後、「おかわり」といって、たてつづけにコップ酒を二杯あおった。相変わらずいい飲みっぷりだなあ、と感心したが、「おかわり」をしたのは、つい鼻先でおそばを食べている私が思い出せなかったためらしい。ややあって、「あのおゥ、失礼ですが、白洲さんでらっしゃいますか」という。「そうですけど」と答えると、「すっかりお見それしました。昔は怖かったのに、あんまり優しくおなりになったので、…」といいさして、口へちょっと手をやって会釈した。こういう仕草は東京の女にはとても真似られぬところで、指先からも袖口からもいうにいわれぬ色気がこぼれる。内容なんかなくても(あればいっそういいにきまっているが)そういうもののよさが見えるようになったことが、「優しくおなりになった」所以(ゆえん)かも知れないが、ひと口でいえばそれは年をとったということだからあまり自慢にもならない。(「いまなぜ青山二郎なのか」 白洲正子) 


正しい酒の呑み方七箇条
一、酒の神様に感謝しつつ呑む
二、今日も酒が呑める事に感謝しつつ呑む
三、酒がうまいと思える自分に感謝しつつ呑む
四、理屈をこねず臨機応変に呑む
五、呑みたい気分に内蔵がついて来られなくなったときは、便所の神様に一礼して、謹んで軽く吐いてから、また呑む
六、呑みたい気分に身体がついて来られなくなったときは、ちょっと横になって、寝ながら呑む
七、明日もあるからではなく、今日という一日を満々と満たすべく、だらだらではなく、ていねいに、しっかり、充分に、呑む   以上
(「杉浦日向子の食・道・楽」) 



ワインほど、いろいろうるさい飲物はない。料理との相性、生産された年、語りだすときりがない。通といわれる人は、出されたワインの三本に二本は、コルク臭があるとか、この料理には適切ではないとかいって、突っ返してしまう。こうした通につくづくうんざりしたハリウッドの男、彼もかなりの通だったが、仰々しく気取ったヤツらに痛棒をくわせてやろうと考えたのだった。彼は、手に入れられるかぎりのもっとも稀少で、もっとも高価なフランスワインを探し求めた。そして、その中身を、テレビでさかんに広告している一クォート三ドル二十九セントの安物のワインの瓶に移しかえたのだった。夕食に招待されたワイン通は、テーブルの上にデンと置かれている三ドル二十九セントのワイン瓶を見て顔色を変えた。そのワインが、彼のグラスに注がれたとき、席きにいたたまれないように、彼の眼は出口を求めてキョロキョロ動いたのだった。しかし、いまさら逃げる道はなかった。招待主夫婦が、一瞬も眼をはなさないなか、彼は、おそるおそるそのワインをひと口すすった。それからまた一口、口に含むとふっーと溜息をついた。彼のワイン通としての名声は、どうやら保たれたようだった。彼は、そっとグラスを置くと、味わうように舌うちをし、そして言った。「お若い方、わたしは、あなたがたが、こんな子供っぽいいたずらをしたとは思ってはいませんぞ。あなたがたに、このワインが買えるわけはありませんからな!」(「ポケット・ジョーク」 植松黎編・訳) 


山田五十鈴
元気美女の山田さん、平成三年の五月に、一過性の脳血栓で倒れた。舞台の上で意識不明となり、十日間醒めなかった。それも見事にクリアし、<脳血栓は治るものだとわかりましたよ>とたんたんとしている。ただし、それまではヘビースモーカーで、タバコは一日に六十本、お酒も五合くらい飲んでいたのにストップがかかった。<ピタッとタバコはやめました。今、舞台でタバコ吸うシーンがあるでしょ。これがまたおいしいのよ>山田さんは、そう言いながら、これに引っ張られちゃいけない、芝居中の人物が吸っているのだからと、自分に言い聞かせていると苦笑する。酒は適量。その他の健康法として、砂の入ったアレイを巻きつけて足を動かす運動を、毎日二十回は必ず実行している。女盛りは八十歳にしてこそ成るのかも知れない。(「あの人この人いい話」 文藝春秋編) 


里見クと喜多村腰Y
職業ともなれば、どれひとつとして、のんべんだらりとくらせるはずのないなかにもとりわけ、役者稼業は、「生涯無休」もいいとこだし、流行作家はいわずもがな、原稿を売って衣食の資に充てている者に、もしもてあますような時間が出来たら、そろそろもう転業の時期とみてよかろう。そういう立場の二人なら、相手の忙しさがよくわかっているだけに、いわず語らずの遠慮もあって、年に一度か二度…ひょっとすると、舞台では見ていても、遂に対座の機会の得られなかった年だってあったかも知れない。その反面、一昨日あったばかりでまた今日も、というような場合もないではなかったが…。なおその上に、二人が差し向いで、しんみりと話し込んだ記憶はただの一度もなく、双方に共通な友達とか、馴染の芸者とかを交えての、ほとんど例外なしに酒席だった。時代によって多少変りはあったろうけれど、概して彼は洋酒、…なかんずくウヰスキーで、私は、人肌のぬる燗一本槍。そこは各自(めいめい)好き勝手で、稀には夜を徹して飲んだこともあるが、強さをいえば、とても足もとにもよれなかった。彼の飲みッぷりは、だんだんと廻って来るにつれて、いう所の「ごきげげん」になり、歯ぎれのいい純粋の東京弁が、もの静かながら、矢継早(やつぎばや)に迸(ほとばし)り出て来るくらいが、変りといえば変りで、ただの一度でも乱れた彼を見た憶えはない。それに引き替え、こっちは駄々ッ子じみた傍若無人さで、席もはずさず、見るに堪えない醜態を演じたりした。そのとき、さも可笑しそうに彼のいった言葉で、今もって忘れられないのがある。「金盥(かなだらい)を擁(かか)え込んで、鼻の穴からおまんまつぶを窺(のぞ)かせて、…いいねえ」その「いいねえ」に毛ほどの皮肉味もなく、まるで、羽左衛門の権九郎が、鼻から泥鰌(どじょう)をぶらさげて、蓮沼から匍(は)いあがる、あの場面でも連想しているかのような、明るさ、ほがらかさなのだ。(「里見ク随筆集」 紅野敏郎編) 


米穀潰し
しかも両替業も実に明暦二年(一六五六)にこの正成によって開始されているのである。そして二代之宗によってその業務が大いに発展したのである。正成は時勢に鑑みて両替商の有利なことを認め、両替商を開業すると共に、その末子五郎兵衛をして業務見習いのために天王寺屋五兵衛方に赴かしめている。然るにこの五郎兵衛円沢が、その修行中寛文九年(一六六九)十九歳をもって死去したのは惜しまれる。『籠耳集(ろうじしゅう)』によると、鴻池が酒造を廃し両替商を開始したのは、「元来酒造は大切の米穀を年々潰(つぶ)し、自ら米を麁末(そまつ)に致し勿体なき事と思召(おぼしめ)され候」によって中止したと記している。(「鴻池善右衛門」 宮本又次) 


清水と相生
前述の如く始祖新六の鴻池村における清酒の醸造は時好に投じ、その売れ行きもよく、既に慶長年間には駄馬によって積出されたくらいで、家計も頗る豊かとなったので、元和元年(一六一五)に二男善兵衛秀成が、また元和三年には三男又右衛門之政が、始祖に先んじて大坂にでて醸造を業としたが、ついで同五年には始祖自身も内久宝寺町に店舗を設けて、醸造の傍ら販路の拡張に努めた。これは先にも記した所で、当時はまだ幼少であったが、恐らくは始祖に伴われて大坂に移住したらしい。このようにして鴻池家の醸造業と清酒の販売は年月を逐って盛んになり、大坂で醸造する銘酒「清水(しみず)」と鴻池村での造酒「相生」とを加えると、その年産額は十万石以上にも及んだので、その江戸積の如きも、到底陸路駄馬をもってしては間にあわず、勢い大坂・江戸間の運送が着目され、これを機縁にして鴻池家が海運業に手を出したことは前に述べた所である。(「鴻池善右衛門」 宮本又次) 造醸(2)  


その地の小料理屋
目的地について調査し、酒が旅の楽しみなので、夜になるとその地の小料理屋を物色する。長年の旅の経験で、中年以上のおだやかな表情をした男性の客が飲んでいる店ならまちがいなく、店に入ってカウンターの前に坐る。初めて入る店なので、隣席の人に声をかけられることが多い。どこから来たか、と問われ、東京からと答えると、「ご出張ですか?」と、言う。仕事にこの地に来ているのだから出張にちがいなく、そうです、と答える。目つきが尋常でないのか刑事さんですか、と言われたり、なぜか建築関係者と問われたことも多い。しかし、近頃は御出張ですか、ときかれることはなく、「御観光ですか」と問われる。高齢者にぞくする私は、会社の現役を退いて一人で悠長な旅をしていると思われるらしい。が、観光の旅をしているわけではないので、調べ物がありまして、と答えると、「いい御趣味をお持ちですね」と、言う。その地の名所旧蹟などを趣味として調べていると思うらしい。資料調べも趣味と言われればそんな気もするので、素直にうなずいたりしている。(「縁起のいい客」 吉村昭) 吉村昭の作法 


丸太の居酒屋
庶民の娯楽の王様として、相変わらず根強い人気を持つパチンコの元祖は、アメリカのデトロイトで作られた“丸太の居酒屋”(登録名)。平面式パチンコ台といったもので、やや前上がりに傾斜した盤面上に釘が並び、凹みがあります。ビー玉のような玉を棒で押し出して玉の入った凹みの点数でゲームを競うといったものでした。一般にはピンボールゲームと呼ばれており、大正から昭和初期に日本に入ってきてからコリントゲームと呼ばれるようになりました。これは、盤面の釘が、ギリシャのコリント式円柱に似ていたからです。このコリントゲームと呼ばれた丸太の居酒屋が、現在のパチンコの形(縦型)になって街中に出たのは、昭和二十年の初期のことです。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


王績と和田義盛
止むをえず王績の酔郷記を略述するに止める。「酔郷は中国を去ること、その幾千里なるを知らざるなり。その気和平、その俗大同その人愛憎喜怒なくその人寝ぬること干干(すやすや)たり、その行くこと徐徐たり、昔は黄帝嘗(かつ)てその都に遊ぶを得たり、下も秦漢におよんで遂に酔郷と絶つ、しかして臣下道を好み往々にして竊(ひそ)かに到る焉、阮嗣宗、陶淵明など数十人、ともに酔郷に遊び身を没するまで返らず、中国もって配仙となす、嗟呼(ああ)酔郷氏の俗は豈(あに)古えの華胥(午睡)の国か、何ぞそれ淳寂なるや」臣下道を好み、往々にして竊かに到る、とあるは「道」は飲酒のこと、ひそかに致るは酔郷へ密行したという意。この酔郷記を書いた王績は五斗先生と号していたが、その自叙伝に「吾酒徳をもって人間(じんかん)に遊ぶ、酒を以て招ずるものあれば、貴賤となく皆往(ゆ)く、往けば必ず酔う、酔えば則ち地を択(えら)ばずしてその処に寝ぬ、醒むれば即ちまた起きて飲む、常に一飲五斗、因てもって号となす」と。源頼朝の臣和田義盛は四斗の酒を平らげたというので四斗兵衛のニックネームがあった。王績はそれよりも一斗うえである。そもそも五斗といい四斗と号するがその計算単位は恐らく現行の舛斗とは相当の相違があるのではなかろうか。(「酒のみで日本代表」 奥村政雄) 


「年々随筆」
「年々随筆」第六に曰ふ「伊勢備後守貞彌の日記、(原注。世に花営三代記と云)春日亭え風呂御成(ふろおなり)といふ事年々あり。春日亭とは、伊勢守里第(邸の意味でしょう)なり。其第へ御成と申て、御酒奉りし事なり。さるは此頃の風俗に、人を招ぎて燕楽(打ちとけてたのしむこと)する事を、風呂と称したる物なり。風呂とは浴室の事。…かくて浴湯をも設けたる物にて、浴後に一杯をすゝめしものなり。此事貞治応安のころの物にはみゆれど、其後の書に見あたらず。見あたらねど猶(なお)打つゞきありし事には有べし。慶長以後はさかりに行れし事とおぼし。我も人も風呂と称して酒を饗するほどに、道路には風呂屋と称して酒をうる家いできたり、まらうど(客)ゞも、まづ風呂に入て、浴後に酒をのむ事なりしとぞ。さて其家に女をすゑて、湯を出る時は、かたびら(ゆかた)を仮(貸)し、酒になれば酌をとる、これを湯女といふ。此女つひに情をうるものとなりて、風呂やは北里の名と転じたり(下略)」(「酒中録」 青木正兒(まさる)) 「我が国でも室町時代には、人を招いて酒盛りするには、必ず風呂を設ける風習が有つたと云ふことで、其事を享和年間、石原正明の「年々随筆」に考証してゐる。」という本文の注の部分です。 


赤と黒
もうひとつ、岩城(宏之)さんの、これもジョークになっている話がある。「JALのスチュワーデスは、お客に近寄り過ぎる。一歩、、踏みこんでくるんですよ。そうすると、ぼくみたいなガニ股の男は足を踏んづけられて、跳びあがることになるんです」恰好のいい指揮台の立姿からして氏がガニ股とは信じないが、スチュワーデスが一歩踏み込むのはお客の声が聞き取れないためだ、という。という。「ビールとミルクがわからないんです。若い男性からビールっていわれたとおもって、持ってゆくと、”きみ、ミルクっていったじゃないか”と叱られる。今度は女性からミルクといわれたとおもって、持ってゆくと”あらビール注文したのにい”といわれてしまう。爆音のせいもあって、どうも聞えにくくて、一歩踏みこんでしまうのです」ついでにいうと、日本人が一番間違えるお酒の名はシーバース・リーガルだそうだ。「リーバース・シーガルとか、昔の漫才師の、なんたっけな、そうだ、リーガル千太みたいな名前のウイスキーくれとか、もう想像を絶しています」最後にこれはジョークでない、ほんとうの話。「ワインは赤と白がございますって訊いたら、黒はないのか、『赤と黒』って本があるじゃないかっておっしゃったんです。ジョークだったんでしょうが、私、どぎまぎして、『あの英米文学専攻だったもんですから』なんて答えちゃいました」(「地球味な旅」 深田祐介) 


毛利元就

ところで長男隆元は、彼に先立って死んでいるが、その長男として宗家をついだ輝元にも、祖父元就はしつこいくらい教訓を繰り返す。おもしろいのは、輝元の妻にも、「おまえの亭主は近ごろ酒がすぎるようだな」と手紙を出している。「まあ、酒は少しはいい。が、あまり過してはいけないから、内々に注意してやりなさい。大体、わが家の一族は、みな酒で早死にしている。親の弘元は三十九、叔父の照元は三十三、兄の興元は二十四、ことごとく酒で死んだ。自分は下戸だったので長生きだ。酒さえ飲まなければ、七十、八十まで丈夫で生きられるのだから、内々御心にかけていただきたい」たしかに祖父が呼びつけてたしなめるより、嫁さんからやんわり言った方が効果的だ。が、それにしても、こんな細かい注意を孫嫁さんに書いてやる祖父が今の世にいるだろうか。元就は、「女子供は話がわからない」などという態度は、決してとらない。それぞれに敬意を表したり、愛情をそそいだりしている。戦国の亭主族の中ではまずAクラスである。性格や人生行路は徳川家康に似ているが、女に対する親切さだけはグンと違う。女房族の一人としては−もし、このオジサマが天下をとっていたら?そんな気もちょっぴりしないでもない。(「にっぽん亭主五十人史」 永井路子) 


ホン
騒音の度合いを示す「ホン」も、当初は「地下鉄が八〇ホンで、街頭が七十ホン、晩酌が二ホン(お銚子)なら風邪は一〇ホン(咳がゴホンゴホン)」と落語のマクラにされた。(「ことばの情報歳時記」 稲垣吉彦) 


酒一升
人生一生 酒一升 あるかと思えば もう空か (新宿区愛住町10-1 正応寺 法語 平成20年1月) 


ノンベー処断
執行部コンビの近藤勇と土方歳三は、まぁ飲むには飲んだ。しかし、ほんもののノンベーではなかった。先に、その味覚的な面は実証した。今度はさらに、ハートの中を立入り検査しなくてはいけない。両ボスが下戸人間であったればこそ、新選組はあのようなシュプールをたどった。もし、かりに彼らが酒心を持っていたら、と考えてみよう。ずいぶん違った隊史が綴られたことは、確実だろう。この集団の家庭史は、対立、分裂、粛清のオンパレードであった。理由はいろいろあげられよう。出身、時代感覚、剣のエコールなど、割れる要素は多かった。比重のおき方は、人によってめいめい分かれる。さぁ、かくて、わがド・シロウト氏は声を大にして宣言するのである。わざと、先生方のお口癖を拝借する。「それらは、しかし、おのおのの事の一面を捉えてはいるものの、いずれもすべてではない」ああ、いい気持ちだ。しからば、正解はなにか。ご教示いたそう。-ノンベーどもに対する近藤・土方の拭いがたい嫌悪と、飲道を心得ぬリーダーに対する周辺の不信。そのからみ合い・イコール・新選組の内部トラブル史。これぞ、きらめく銘学説なのである。どれでもいい。頭に浮かんだ事件に、あてがってみていただきたい。きれいにぴったり、おっぱまるはずだ。表むきの名目はなんであれ、近・土に処断されたのはノンベーばかりだった。明白な事実である。専門家たちはどうして、こんな簡単な公約数を見落としてきたんだろう。と、たまには薄い胸を張っておく。(「幕末酒徒列伝」 村島健一) 


浅草名物
明治の浅草公園繁盛の話題としては、ちんや、いろは、米久などの牛鍋。紅梅焼、雷おこし、堅豆、浅草餅、人形焼、奴の鰻、大黒屋のてんぷら、梅園のしるこ、神谷の電気ブラン、山屋の都鳥(酒)、清寿司、万盛庵のソバその他いろいろ。(「明治語録」 植原路郎) 


椰子酒の作り方
するするっと器用に木に登り、穂の部分を削るようにして、刃物で傷をつける。そこに電灯のかさのようなポットをかぶせ、待つこと二時間。じわっと溢れ出た汁を、魚籠のような容器に集める。それが彼の仕事だ。もちろん、二時間、その木の下で待っているわけではない。あちこちの「これは、という椰子の木」に、同じように仕掛けをしてゆく。次の木までは、船をこいで、かなりの距離を移動せねばならず、それほど「これは」という木は少ないようだ。木を見極めるのも彼の大事な仕事で、大きな実をたくさんつけた、病気のない木、というのが基本だそうだ。そのうえで、生命力のある勢いのいい木を選ぶ。そう言われてから眺めると、なるほど確かに、木の一本一本に表情があるような気がしてきた。その集められた花の汁を、内緒でこそっと舐めさせてもらうと(本当は、そういうことは組合に叱られるらしい)、まさに、酒場で飲んだ椰子酒そのものだ。そのもの過ぎてツマラナイ、というと語弊があるが、原料と完成品の風味が、こんなに変わらないお酒も珍しい。(「百人一酒」 俵万智) 


福山の銘酒
河盛 水がいいし、お米がいいから当然いいお酒ができるというわぇですね。
井伏 酒はいいのがありますね。僕が子供のころ、灘なんかから買いにきました。税金納めるシーズンに灘の酒屋の番頭が二人きまして、利き酒して買っていきました。いまはどうかしりませんけれども
河盛 そうすると、ご郷里の方にも造り酒屋があるわけですか。
井伏 ええ、あります。昔から村に一軒あります。なかなかいい酒を出しますよ。川下の福山あたりにも凄くいいのが出ています。よほど前、酒仙といわれていた田中貢太郎さんが福山の銘酒を一とくち飲んで、ああ甘露甘露と、涙をこぼしたことがありました。しみじみ泣きました。(「井伏鱒二随聞」 河盛弘蔵) 


シコクビエ
中尾 シコクビエが夏の雑穀の一番古い基本タイプだとぼくは思っている。それがまた酒になる。インドの平原部はしないけれど、山地族になると、みんなシコクビエは酒の材料になってくる。それから東のほうでもシコクビエから酒。このタイプがアジアで一番古い酒と思っていいんじゃないか。さっきも言ったようにアフリカのシコクビエも酒にするけれども、こいつは芽を出さして麦芽にしてしまう。そうするとコウジを使って酒をつくることは照葉樹林の中の発明じゃないかしらんと思う。ただし照葉樹林の中の酒はあまり酒らしくない酒だな。シッキムやチベット人もほとんど同じものがタンバチャンの付近だけれども、シコクビエを蒸して、それにコウジをつけて、ぬれた状態で壺へ入れて-ぬれた状態というのは水の中じゃない-そしてそれを床下に埋める。そして取り出して青竹の太い筒の中に入れて、その中へ細いストローを入れて、上に熱湯を注ぐんだ。それでそのストローで飲む。そのストローで飲む習慣がベトナムからフィリピンぐらいまであるね。
岩田 インドネシアにもあるでしょう。
中尾 これは青竹の香りがいいし、しかしアルコール分は弱いもので、酒というにはかなり弱い。そんなような酒はぼくはそっちが本場だったと思う。たとえばシナでできたそんな酒はない。それから酒が伝播していったにしてはあんまり劇的すぎるし、相当の発明をしなきゃできないと思う。そうするとコウジで酒をつくるのは照葉樹林の中で始まって、ちょうど南はジャワぐらい、北はシナ、日本といいう伝播をしたとみてちょうどいいんじゃないか。(「照葉樹林文化」 上山春平編) 中尾は中尾佐助、岩田は岩田慶治です。 


一日六パイント
最初この印刷所に採用された時、私は印刷のほうへ廻してもらった。アメリカでは印刷の仕事も植字の仕事も一緒にやるのでそんなことはなかったのだが、ここでは運動不足になると思ったからである。私の飲物は水だけだったが、五十人近くもいたほかの職工たちは、みんな大のビール党であった。私は時おり片手に一つずつ大きな組版を持って階段を昇ったり降りたりすることがあったが、ほかの連中は両手で一つ運ぶのが精々であった。かような例をいくつか見るにつけ、彼らはそのいうところの「水飲みアメリカ人」のほうが、強いビールをのんでいる自分たちより強いのは不思議だと言い合ったものである。工場の中には職工たちの求めに応ずるためにビール店のボーイがいつもきていた。印刷機械のところで働いていた私の相棒などは、朝食前に一パインと(枡目の名、約三合一勺にあたる)、朝食の時にチーズをはさんだパンと一緒に一パイント、朝食と昼食の間に一パイント、昼食に一パイント、午後の六時ごろに一パイント、一日の仕事がすんでからもう一パイント、毎日これだけ飲むのだった。じつに忌まわしい習慣だと私は思ったが、彼のほうでは激しい労働に耐えるように身体を強くするには強いビールを飲む必要があると考えているのだった。ビールを飲んで生じる精力は、ほかでもない、ビールの成分である水の中に溶けている大麦の粒ないし粉の量に比例するものであって、一ペニー分のパンのほうがビール一クォート(枡目の名、二パイントにあたる)飲むより力がつく、とこう私は信じさせようと骨を折ってみたが、彼は相変わらず飲みつづけ、毎土曜日の夜には、この気違い水のために、せっかく稼いだ給料の中から四、五シリングも支払わないではいられなかった。こんな費用は私にはまったく不要だったわけである。気の毒にもこうして職工たちは、いつまでたってもうだつが上がらないのである。(「フランクリン自伝」 松本・西川 訳)1724-5年、ロンドンでの話のようです。 


「やけ食い」「やけ飲み」
悲しいこと、辛いことがあると「食事も喉(のど)を通らない」という言い方をするが、その一方で「やけ食い」「やけ飲み」などといわれるように、私たちは大量の食事をしたり酒を飲むことでストレスを紛らわそうとする。日頃からハードな仕事を強いられているビジネスマン、昼食は食べずに夜遅く帰宅してから大量に食べる場合も、ストレス回避的な意味合いが強いのではなかろうか。食事によるストレス回避行動は、治療にあたる医師の世界にもある。たとえば、外科医が手術する。手術は非常にストレスフルで、無事に手術を終えると、その直後、信じられないぐらいの量を食べることで紛らわせていると考えられる。(「嗜癖のはなし」 岩崎正人) 


山田朝衛門吉利(山田家七世)
吉利の娘は『幕末明治女百話』の中で、吉利について語っている。「綿服で乗物嫌い、仏参を欠かさず、諸方のお寺へ<大慈悲>の額を寄附したり」「泉岳寺へは毎月お詣りして、安兵衛さんのお墓へ、香華を絶やしませんでした」「乞食でもなんでも、むやみに救ってやり、果ては乞食を連れて宅へ来るなど、これには母親も困っていました。連れて来れば御飯を恵み、女ですと私のお古衣(ふる)を与えて帰してやるといった慈悲深い心の人間となりました」。斬首を新しい年に持ち越さないで、年内に片付けるという慣いがあって、大晦日などには、二、三十人位をまとめて斬った。大量に斬った時はなおさらであるが、一人の時でさえも、斬った晩は、平河町の居宅に天神町の町芸者を呼んで、夜を徹して大酒宴を開いた。酒を浴びるほどに飲み、夜通し大騒ぎすることによって、血による酔いをさまし、人を斬ったことの重圧感から解放されようと努めたのである。斬った日は必ず、門弟や雇人を混じえての大酒宴をやっても成り立つほどの、実入りがあったのである。これは江戸において、たった一軒しかない独占的職業だったからである。周りの者は、夜通しの酒宴を見て、よくは言わなかった。(「江戸奇人稀才事典」 祖田浩一編) 首斬り朝衛門のエピソードだそうです。 


石崎喜兵衛
さらに大阪では明治二十年、日銀大阪支店長だった外山脩三や、灘の「澤之鶴」の蔵元石崎喜兵衛、堺の素封家鳥井駒吉、宅徳平といった人たちが大阪麦酒を設立し、ドイツのババリアやミュンヘンに留学したビール醸造技術者生田秀を迎えて、吹田工場をつくり、当時最高品質のビールをつくり出した。これがいまのアサヒビールの始まりだ。この創立時の煉瓦づくりの面影が、いまも吹田工場の一部にそのまま残されている。(「酒・千夜一夜」 稲垣真美) 


日本のお酒です
友人が日本酒を頼むと、「お燗ですね」と一方的に答えながらもうヤカンを持ってくる。受け皿つきのコップになみなみとあふれさせる。この日本酒は何ですか、と尋ねると、「日本酒です」と言う。いやあの、銘柄は…、とまた尋ねると、「日本のお酒です」と答えて、注ぎ終わったヤカンを持っていった。これも凄い。何だか銘柄なんか訊いて恥ずかしくなった。焼き鳥がうまいのだ。肉も吟味しているらしいがタレに年季が入っている。それに焼きかげんがいいのだろう。竹の太くて長い串で、先の焦げたのがたくさん缶に刺して置いてある。一度で棄てたりせずに何度も使うらしい。その律儀な感じが好ましい。店の奥のガラス棚など、当然汚れてはいるのだが、ようく見ると整っている。よくよく見ると汚れてはいない。(「じろじろ日記」 赤瀬川原平) 有楽町都庁よりのガード下にある、お袋と息子でいつも喧嘩しながらやっている焼き鳥屋の話だそうです。一夕ずいぶん探しましたがわかりませんでした。 


「お前はもういざこざの外にいるんだ。お前にとって大切なものは何もない」(ピアニストを撃て)
ニューオーリンズのある酒場に入ったところ、ピアニストが演奏している壁に、「どうかピアニストを撃たないで下さい」という貼紙(はりがみ)があったと言う。オスカー・ワイルドの旅行記の一節だそうだが、その頃のアメリカ西部は無法時代で、いつ喧嘩(けんか)がはじまって殺しあいになるかわからない。思いがけない犠牲者ができるとしても、めずらしくないが、バーテンやコックの身代わりはあっても、ピアニストだけは死んでしまうと、かわりが来るまでは、長い時間がかかる。そのあいだ、音楽なしの殺風景な酒場というのはやり切れないので、たとえ殺しあいになっても「ピアニストだけは撃たないで下さい」というイミの貼紙を出しておいたというほどのことなのであろう。-
主人公のピアニストは終始いざこざにまきこまれ、ついには「撃たれる」のだが、それは積極的なアンガジュというよりは、いやいやながらという感じであった。そして、私にはその「いやいやながら」がとても面白かったのである。(「ポケットの名言を」 寺山修司) 映画「ピアニストを撃て」の中の名言だそうです。 


麹造りのワイン
東洋の酒といえば、やはり文明の発祥からいても中国から説き起こすことになる。中国の酒の起源がおもしろいのは、次の二点である。ひとつは「口噛み酒」の伝承がないことである。口噛み酒については、日本の酒を説き起こすときに改めてふれるが、日本のみならず広く東南アジアから台湾、満州、沿海州といった環太平洋の諸地域(アメリカ大陸もそうだという説もあるが、直接文献を見ていない)に分布する伝承である。ところが中国では、その類(たぐい)の話が残っていない。ハナから麹である。(余談だが、ハナは「鼻」ではない。韓国語で「ひとつ」のことである。だからここは「イチから=最初から」となる)。当然、人間が飲んだ最初の酒であろうと考えられる(自然発酵の)果実酒の話も残っていない。なにしろ近代(現代か?)になってヨーロッパ流のワインの製法が導入されるまで、中国の「葡萄酒」は麹を用いていたのである。これは現代日本の奄美群島黒糖焼酎と同じようなものと思えるが、事情はまるで違う。奄美の話は後にするが、ワインに麹を用いた過去が語るものは、中国のぶどうが糖分が乏しく旨いワインがつくれなかったからなのか、それとも一席獲得した技術を対象が変わろうとお構いなしに執拗に繰り返す頑迷さからなのか、どっちだろう。私は両方と見る。(「酒と日本人」 井出敏博) 

傘見世
朝食をとったかれらは、雪中を急ぎ、芝増上寺に近い第一の集合場所である愛宕(あたご)山の山上にある愛宕権現に行き、薩摩藩からただ一人参加する藩士有村治左衛門らと合流し、総勢十八名が桜田門外についた。濠ばたは、大名行列の見物人を目当にした傘見世(かさみせ)と称する葭簀(よしず)ばりの茶店が出て、おでん、甘酒、酒などを売る。さすがに大雪なので見物人の姿はなかったが、それでも傘見世が二つ出ていた。同志たちは、傘見世で酒を飲んだりしながら、見物人をよそおって武鑑を手に彦根藩邸の方をうかがっていた。やがて、彦根藩邸の門がひらいて行列が出てきた。(「史実を追う旅」 吉村昭) 桜田門外の変です。その前日、襲撃の参加者たちは、品川随一の妓楼土蔵相模で訣別の宴を開いたそうです。 


遺言屋
その時、二十年ほど前のアメリカ取材の折の南部の酒場で出会った老人を思い出した。このジイサマは、自称“遺言屋”であった。毎日、酒場に現れて、町の人たちにいうのだ。「ひとつ、いい遺言をつくらせてもらいましょう」他人の遺言を創作する詩人であった。二十五セントか五十セントもらうと、さらさらと書いて渡す。そして、朗読してみせる。「どうですかね、旦那…」「いや、ようねえやな。もうちょっといいやつを頼みてえな」「わかりました。じゃ、明日にでも…」この老人は、酒代稼ぎをしているのであった。巷(ちまた)の老詩人のアルバイトである。その老人に「あなた自身の遺言はもう創ってあるのですか」と質問したら、酔眼の前に手をひらひらさせて、「いや、なにしろ、忙しくってな。考えるひまがねのよ」とのことであった。(「今日は明日の昨日」 藤本義一) 


某月某日
仲間の園山俊二と東海林さだおとぼくとはほとんど酒量が同じである。東海林の表現をかりるとぼくら三人はグダグダとのむ。東海林は酒屋のせがれである。であるから学生時代からぼくの下宿には東海林が家から持ち出してくる特級酒があって、われらは酒に口がこえている。食い物はろくなものを食わなかったが、酒だけは特級酒を飲んでいた。いまでもだからうるさいところがある。園山俊二は目をショボショボさせて飲む。東海林さだおは顔をテカテカさせてのむ。ぼくは、自分でどうやってのんでいるのかよくわからないが、おそらくブスッとしてのんでいるにちがいない。とにかく三人ともギャーギャーさわぐ酒ではない。酒にうるさくて酒を味わってのんでいるように見える。女なんかいらぬ。酒さえのめばというように見える。だけどほんとうはちがう。女もほしい。女とキャーキャーいいながらほんとうはのみたい。ところがもてない。園山は少しもてる。東海林とぼくはほとんどもてない。もてないから、男だけ三人でキャーキャーいってのむのもみっともなく、しかたなくショボショボ、テカテカ、ブスッとしてのむ。まとめるとグダグダのむ、となるのだろう。(「ツキの酒」 福地泡介) 


いい酒だと思うとき
私は、戦争中、支那でぶらぶらしていることが多かった。もちろん、用事がなければ支那なんぞに行かれない時期だったから、用事はあったが、ぶらぶらしていたから、毎日、おそろしく暇で、そば屋かまんじゅう屋に目をつけていた。私は複雑に加工された食べ物を好まない。酒好きだから、食べ物の基準も、自ら酒の味から発しているらしい。ああ、いい酒だ、と思うときほど、舌が鋭敏によく働く時はないようだ。複雑な料理を食わされる時は、どうもいつも面白くない。舌が小馬鹿にされているようなあんばいで、一種の退屈感さえある。そういう傾向から、支那料理では、ソバとマンジュウがいちばんうまいという独断説を持つに到っていたのである。(「常識について」 小林秀雄) 


心越禅師
もう一つ、光圀らしいイタズラをしたことがある。朱舜水とともに日本へ亡命した明人の、心越禅師を試そうとして、ある時禅師を.小石川の邸に招き、酒を出した。禅師が、今や杯を口へもって行く刹那(せつな)、ズドンと大砲の音がした。しかし杯中の酒と、禅師の眉と、ともに微動だにしなかった。禅師は、おもむろに杯をかたむけつくして、「今のは、何でござる」と尋ねた。光圀は仕方ないから、「家来どもが、砲術の稽古をしているのであろう」と答えた。その後公は、水戸の祇園寺に禅師を尋ね、茶碗に唇をふれようとする途端に、心越禅師、「ガーッ」と大喝した。光圀は思わず茶碗をとりおとし、「何といたす?」と身がまえた。すると心越禅師、「一喝一棒、これ禅家の茶飯事でござるでのう−」とうそぶいた。光圀は、「うん、なるほど」といった。それから一層ふかく、禅師に帰依し、禅師入寂ののち、公自ら墓碑を書いた。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 


サラ川(3)
二日酔会社で直しまた飲み屋 健忘症
むかえ酒むかえるつもりがむかえられ 玉の助三郎
深酒を叱る上司も赤ら顔 年末男
おい課長!酔ったふりして呼びつける 陣太郎
無礼講言いつつ座る上の席 ジャッキーロウブ
昼あんどん忘年会ではシャンデリア 玉三郎
暇ないと言いつつ幾度忘年会 いやみな妻
会費分飲んで翌日二日酔い どけちマン(「平生サラリーマン川柳傑作選」 山藤章二・尾藤三柳・第一生命 選) 


キプロス島
十六世紀のころ、ベネチアの支配下にあったキプロス島は、「酔っぱらい」の異名をとったトルコ皇帝セリム二世が、キプロス産のブドウ酒を非常に愛し、一五七○年、その独占をはかり、六万の兵をおくってこの島を占領してしまった。露土戦争(クリミア戦争)ののち、一八七八年の協定で、イギリスはトルコからこの島の行政権を得たが、これは誤謬によるものだった。イギリスのトルコ駐さつ大使は、本国政府からクレタ島(クリート島)の割譲を求めるように訓令をうけた。ところが、大使は会議の席でその島の名が”C”の頭字ではじまること以外、なんというのか思い出せなかった。トルコ宰相がキプロスの名をあげたので、たぶんそれだろうと、これを受け入れてしまった。外交交渉もいまから九○年ぐらいまえまでは、こんなのんびりしたところがあった。キプロス島のキレニア山中には、珍しい白カラスがすんでいる。キプロス島の原住民は「ハロー」(こんにちわ)というべきとき、「グットバイ」(さようなら)と挨拶する。これはながいあいだ、キプロスの小学校で使用していた『希英辞典』の誤りによるものである。キプロス島は第二次世界大戦後、民族自決への運動がたかまり、いわゆるキプロス問題として今日も世界の視聴をあつめている。(「奇談 千夜一夜」 庄司浅水編著) 


ソーマチンとミラクリン
ソーマチンは、同じく西アフリカ原産の植物の実に含まれている。この実は強い甘味をもっているので、昔からトウモロコシ料理や酸っぱいヤシ酒に甘味をつけるのに用いられてきた。一九七二年オランダのグループは、この実から強い甘味をもつタンパク質を単離し、ソーマチンと名づけた。ソーマチンは分子量約二万のタンパク質であり、ショ糖の一六○○分の一量で同じ強さの甘味をしめす。−
ミラクルフルーツのなる木は、もともとは西アフリカのガーナやナイジェリアに自生している。現地の人は酸っぱいヤシ酒やビール、それのトウモロコシでつくった酸っぱいパンに甘味をつけるため、長年この実を利用してきた。(「味と香りの話」 栗原堅三) 前者は、一般的には味のないタンパク質のなかの珍しいもの、後者に含まれるミラクリンは、酸っぱいものを甘く感じさせるタンパク質だそうです。 


ビールの東漸
一九一四年、大正三年に勃発した第一次世界大戦に伴う日英同盟によって、日本軍は八月末から「青島攻略戦」を開始する。翌年には「二十一箇条の要求」。第二次世界大戦への道を土埃(つちぼころ)を立てて走り出していく日本陸軍の足音は、この頃から聞こえてくることになる。青島(チンタオ)を陥落させた日本軍は、中国側の抵抗もむなしく、当然ここを占領した。そして、一九○三年にドイツによって作られたビール工場を、一九一六年には大日本麦酒が買収し、満州などに向けてビールを送り出すことになったのだ。もちろん、それまで日本にビールがなかったわけではない。すでに一八七二年には渋谷庄三郎による「渋谷ビール」、七四年には野口正章の「三ツ鱗ビール」、八七年には有限会社日本麦酒醸造会社が設立され、九一年、大阪吹田に「有限責任大阪麦酒会社吹田村醸造所」(のちのアサヒビールの前身)が創られているし、麒麟麦酒は、一九○七年に「ザ・ジャパン・ブルワリー」を買収して創立総会を開いている。ちょうど自力でビール生産がいとぐちについた頃に、海外進出をねらうべく、青島の麦酒工場が手に入ったわけだ。戦争、占領、租借など、哀しく辛い歴史の渦の中、明治初期ドイツからビールの作り方が東漸(とうぜん)し、次に日本から海外へ向けてビールを輸出するに至ったのはかくの如き経緯があったのだ。青島ビールも軽くて美味しい。しかし、北京に行けば、やっぱり燕京ビール、西北の地新彊に行けば新彊ビール、「郷に入ったら郷に従え」という言葉があるが、その土地に行って生暖かいビールをグビグビ飲むのも、また乙なものである。(「漢字ル世界 食飲見聞録」 やまぐちヨウジ)  


新村出
私はあえて酒を飲まぬのでもなく、さりとて飲むという方でもない。メリケンの国に生まれぬ幸せに、気がすすみさえすれば五杯や十杯くらいはうまく飲めるという程度にすぎない。多く飲む人、飲んで乱れる人、ともに愚だと思うが、病気でない限り少量もやらない人は話せない。イン・ヴィノー・ヴェタリタス、酒中に真理ありじゃ。若いうちには、こんな文句を並べて箇中の趣を味わったこともあった。私はまた『万葉集』巻三にある大伴旅人卿の讃酒歌十三首を愛誦して、酒を讃美したこともあったが、まさか卿のごとく酒壺になって酒に染みなむというほどに酒にひたろうとも思わなかったし、いわんや来世には虫や鳥になってもいいから楽しく飲みくらそうとも考えない。(「新編 琅『王干』記(ろうかんき)」 新村出しんむらいずる)  


清河八郎の首級
四月十三日、同志の金子与三郎宅で酒を振る舞われた清河は帰途、古川に架かる麻布一の橋(港区三田1-1)を赤羽側に渡ったところで、茶店で待ち構えていた佐々木・速見ら数名と会った。速見(佐々木とも)が陣笠を取り丁寧に挨拶したので、清河も陣笠を取ろうとしたところ、背後から抜き打ちの一刀で斬られてしまった。清河は右手に鉄扇を持っていたため、即座に刀を抜くことができなかった。こうして清河は三十四歳の生涯を呆気なく閉じた。−
なお、暗殺された清河の首級は同志たちが取り返し、山岡鉄太郎が酒樽に詰めて自宅の軒下に、しばらく隠しておいた。しかし夏場になって悪臭がひどくなったので、山岡は伝通院処静院の住職瑞林に依頼し、伝通院(文京区小石川3-14-6)の墓地に埋葬してもらった。くしくも伝通院はこの年二月、上京する浪士組が集合した場所である。山岡の筆跡で「清河正明之墓」「貞女阿蓮(おれん)之墓」と刻む二基の墓碑が、伝通院の墓地に並ぶ。(「幕末歴史散歩 東京編」 一坂太郎) 


モスクワのレストラン
一昨年、ぼくは日本の対外文化協会と、ソ連の作家同盟との交換使節として、宇能鴻一郎氏と一緒にソ連へ行った。ソ連作家同盟の本部はモスクワにあり、この本部のすぐ傍(そば)に、作家同盟附属の、会員制のレストランがあった。レストランの建物が古く、したがって歴史も古い。現在はもちろん、客は作家とか詩人とかばかりであるが、ここへは昔から有名な詩人や作家が寄り集まったらしい。やれ、そこの階段からゴーリキーが酔っぱらってころがり落ちただの、やれ、『戦争と平和』の主人公が毎夜のように仲間と来て酔っぱらっていたのはこの店であると、通訳がしきりに注釈をつけてくれるといった、由緒あるレストランである。だがあいにく、料理はどれもこれも、たいしたことはなかった。肉にしろ魚にしろ、材料はいいのかもしれないが大味で、これはやはり料理のしかたが下手なのだろうか。(「やつあたり文化論」 筒井康隆) 


コクがあってと舌の上でさらりと消える酒
一方、日本の清酒は糖分やうま味成分の他にも乳酸などの有機酸、様々な味のアミノ酸や苦味、時には舌触りや淡い「老ね香(ひねか)」までもがうまく調和した時にコクが強いと評価されるようです。老ね香というのは古くなったときに生じる匂いです。日本酒の様々な成分を味覚や嗅覚がとらえてコクが生じるようです。ここでも尖った味は広がりを阻害し奥行きを失わせます。純米酒のように、もとの成分が豊富なものや古酒のように様々な化学反応によって練れた酒に重厚でコクが強いものが多いといいます。また、コクの要因である濃厚感と、シャープないわゆる辛口が両立しにくいことも発酵が進んだ辛口ではもとの成分の残存が少ないため濃厚感が出にくいことである程度説明できるのではないかと思います。コくはあるが舌の上でさらりと消えてしまうという大変好ましい酒もあります。両者は一見矛盾するように感じられますが、舌の上ですっきり消えてしまう感覚とコクとは両立します。消える感覚とは舌を覆っている唾液と一体化して存在を感じなくなることと解釈できます。体液と似たミネラル組成を持ついわゆるアイソトニック飲料が口の中ですっと消えた感じになるのと同じです。純水は消えずにいつまでも喉にまとわりつきます。水っぽいとか水くさいとか言われ、消えると表現されることはありません。日本酒では、ある程度の成分の濃さがないと、浸透圧などが低すぎて唾液と一体化しないと思われます。アルコールを添加してすっきりさせた本醸造酒よりも純米酒のほうが浸透圧の高い濃い酒になります。充分なコクがあってしかも舌の上で消えてくれるのは、唾液に近い浸透圧を持つ成分の濃さがあって雑味のない酒の特性でしょう。しからば、コクと消えてゆく感覚は両立するのではないかと思われます。後に残されるのは舌の先の甘さと香りだけという風雅な酒になるわけです。(「コクと旨味の秘密」 伏木亨) 


昭和十九年冬
昭和十九年の冬が段段寒くなつて、スチームの通らない郵船ビルの中では手先がかじかむ。中野が馴染(なじ)みの地下室の小使いの所から炭火を貰つて来てくれる。赤赤と盛り上げた火に頬を染めて、うれしさうな顔をしてゐる。時時軽い咳きをする事があつて、矢張りこちらで気を遣ふ。次第に世間が暗くなつて来る様で、日日の明け暮れも鬱陶しい。或る日出社して見ると、私の机の上に会社の封筒で包んだ壜が起つている。手に取つたが何だか解らない。衝立(ついたて)の向うにゐる中野に、こんな物があるが何だらうと聞いた。「お酒です」と衝立越しに彼が云つた。お酒がどうしたのだと尋ねると、「僕が国民酒場から汲んで来たのです」と云つた。お酒と聞いて顔の相好が崩れる様な気がした。私はもう今日で何日お酒の気に離れてゐるだらう。この節は食べる物も碌(ろく)にないが、お酒は一層手に入りにくい。会社の私の部屋へ来た相手と話してゐれば、いつもお酒の事に落ちる。私の嘆きを衝立の向うで中野が聞いて、気の毒だと思つてくれたのだらう。口に出して云はなくても、私はすつかりしけてゐる。その様子を見るだけでも中野は私にお酒を飲ましてやり度いと思つたのかも知れない。「それは実に有り難い。今晩家へ帰つて行く張り合ひが出来た」「先生はここでは飲まないのですか」「勿体なくて、そんな事は出来ない。家へさげて帰つて、お燗して飲む」「お燗する程有りませんよ。一本一合と云ふのですけれど、そんなには無ささうです」「構はない。少しでもいい。有り難い」国民酒場へ行つて買つてくれた親切をおろそかには思はない。しかし国民酒場へ行けば一本のお酒は手に入るものかと思つてゐたが、さうではなく、夕方の寒い風に吹かれて行列に起つた揚げ句、籤(くじ)が外れればその儘(まま)すごすご帰つて来なければならない。中野は大分前から行つてくれたらしいが、いつも籤外れになつてお酒が手に入らなかつた。昨夜初めて当つたので、今日こそ先生をよろこばせようと思つて持つて来た、と云つた。(「御馳走帖」 内田百閨j 


さもじ
すもじなどというのは、今でもおすもじなどと言って花柳界などでは使っているようだが、しろうとの家庭ではもうあまり言わないようだ。しかしすしをすもじと言い、魚をさもじなどというのが、江戸の末期の滑稽本なんかに出てくる。酒の肴のことを、さもじなどと言ったらしいが、さもじなどというのは、わたしは活きたことばとしては聞いた記憶はない。(「暮らしの中の日本語」 池田弥三郎) 


そば
いつだったか、神田のそば屋の二階で、おばあさんばかりが四人でそばを食べていた。彼女たちは全員が七十代半ばに見えたが、私は「カッコいい!」とうなった。そして、なんだかうれしくなってきた。四人のお婆さんが、たとえば天ぷらそばを食べていたり、鴨南蛮を食べていたりというのなら、私も目に留めることもなかったと思う。まして、ことさら「カッコいい!」と思うわけもない。このお婆さん四人は、もりそばを肴に日本酒を飲んでいたのである。これはカッコよかった。神田のそば屋の二階で、昼日中からお銚子を傾け、キュッとやりながら、もりそばを肴にする。こんなことは、若いだけのオネエチャンや、グルメぶってるだけのオバサンがやってもサマになることではない。女として相当年季がいる。やがて、隣のテーブルについた私の耳に、四人の会話が聞こえてきた。それを聞いて、また「カッコいい!」とうなった。嫁の悪口である。昼日中からキュッとやりながら、四人で豪快に笑いあって、悪態をついている。それも、しつこいようだがそば屋の二階である。神田である。「江戸っ子だってねッ。酒飲みねえッ」と、声をかけたくなろうというものだ。(「きょうもいい塩梅」 内舘牧子) 


白酒黒酒
天地(あめつち)と久しきまでに萬代(よろずよ)に
  仕へまつらむ黒酒白酒(くろきしろき)を  (文屋智努真人(ふみやのちのまひと) 巻一九−四二七五)
文屋智努真人は長屋王の子、智如王である。天平宝字五年に姓を賜った。黒酒、白酒は禁裏にて天子の代替わりの神事・大嘗会(だいじょうえ)の酒である。白酒は白濁の酒、黒酒は、クマツヅラ科の落葉小高木、臭木(くさぎ 久佐木)の根の蒸し焼灰を加え、酸を中和した濁り酒である。(「麹」 一島英治)  


東都五光商群繁栄食類名品之名目
酒    カンダ 豊島屋     スキヤ丁 矢野   昌ヘイ 内田   今井谷 鹿島   泉丁 四方
樽酒  カヤバ丁 小西     シンボリ 鹿嶋    〃 伊阪      シンカハ 鹿利   〃 米坊
料理  山ヤ 八百善      シホガシ 百川    土橋 平清     クボ丁 清水楼  ハシバ 川口楼
会席  大ヲンジ 田川屋    マツムラ丁酔月楼  小ウメ 小倉庵  日本バシ 嶋村  向ジマ 大七
多分、文化文政頃に出版された江戸番付の、酒に関係した部分です。 


呑んべい道隆
藤原道隆という人は藤原兼家の長男で、内大臣になって、関白もなさった方だ。長生きをなされば、まさにこの筋が藤氏(藤原氏)の嫡流であったから、あるいは弟の道長の全盛の時代というのは来なかったかもしれぬが、それが大酒呑みだったから、四十三歳で、ぽっくりなくなってしまった。道隆がなくなった、一条天皇の長徳元年(九九五)という年は、「大疫癘(えきれい)の年」といったと『大鏡』の作者が記している年である。四、五月ごろからその流行病が猖獗(しょうけつ)を極め、五位以上の殿上人だけでも死する者六十余人、道路には死骸が満ち溢れたという。道隆はそのまっ最中、四月三日に病気になって関白を辞し、十一日になくなった。そう聞けば、誰だって、関白までも、流行病でやられたかと思うだろうが、それが飲み過ぎだったというのだから、御立派である。病状は知れないけれども、脳溢血か何かだったのだろう。『大鏡』の作者までが、「実はその世間を騒がしていた流行病で倒れたのではなくて、大酔乱酒がたたってのことだった」と、わざわざ、注を加えているのも、道隆には気の毒だが、なにかおかしい気がしてならない。(「話のたね」 池田弥三郎) 上戸の語源 


官庁での肴
退庁時間になって、ちょっと一杯、実験室で引っかけるときなどは、何も肴がないから、実験用の、塩化ソーダ(純食塩)を指さきにつけながら飲む。あるいは、塩化ソーダに、○.五%くらいのコハク酸を交ぜて、味をつけてなめる。この上の肴といえば、生味噌がある。小盃に生味噌を入れ、これに実験用のグルタミン酸ソーダを耳かき三杯くらいまぜ、少量の水を加え、よく練って、ペーストにしたものをマッチ棒のさきにつけてなめる。これは実にいける代物だ。この味付味噌に、少量の醤油をまぜると天下一品のペーストができる。(「酒」 芝田喜三代) 


ぼくもまた…
ある男、前の晩ちょっとハメをはずしすぎてしまって、気が付いてみると病院で寝ていた。ベッドのそばには友だちがつきそっていた。「どうしてしまったのだろう」「うん」友だちが答えた。「昨夜、きみは飲みすぎて、窓からとび降りたのさ。町の上空を飛びまわってくるといってね」「どうして止めてくれなかったんだ」とケガした男は叫んだ。友だちは答えた。「そのときは、ぼくも、きみがてっきり飛べるものと思いこんでいたのさ」(「ポケットジョーク」 植松黎 編・訳) 


青木弥太郎
青木弥太郎が釣台で牢内へ担ぎ込まれて来ると、さあ牢内は大さわぎだ。青木がそんなに責められても白状をしなかったということがちゃんと知れ渡っていて、まるで英雄か何んぞのように牢鞘(ろうざや)を叩いて囃し立てた。縄で胴をしばって少し釣上げて足のぶらぶらになっているのを板の間へたたきつけるやら、手のぶらぶらを両手で握って、青木の横腹へ足を踏みかけて引延ばすやら、全身へ焼酎を吹っかけて揉むやら、当人にしてみればそれもなかなか苦しいのだろうが、牢内ではこれを「治療」といった。その中で、大牢の方から、「吟味(ぎんみ)中帰牢でめでたい」といって、といって、酒や肴が入って来る。酒はタンポといった。たちまち飲むやら食うやら大賑(にぎわ)いだ。青木は、「その晩五つ(はちじ)頃に葛湯を一杯飲むと、小便に行きたくなったが、体は少しもきかないし手足はぶらぶらで動けないから、夜番の者に抱いて小便をさせてもらうと、名主は、豪傑だ、今通じがあるようでは明日は元の身体になるといって賞(ほ)めた」といっている。(「よろず覚え帖」 子母澤寛)幕末の強盗だそうですが、長寿を全うしたそうです。 


夕顔
芭蕉の「夕顔や酔(ゑう)てかほ(顔)出す窓の穴」は元禄六年の作。深川芭蕉庵でのユーモラスな自画像である。美術の世界では江戸時代初期の画人、久隅守景(くすみもりかげ)の「夕顔棚納涼図」が名高い。農家の軒先の夕顔棚の下で半裸の亭主、女房、子供がむしろの上で寛いでいる。棚からぶらさがっているのは中がくびれたヒョウタンだが、それを含めてそのことは夕顔と呼ばれていたのだろう。このようにユウガオは、その実用性だけでなく、その花が夏の宵の風物詩として広く愛でられていたのである。(「食卓の博物誌」 吉田豊) 「夕顔棚納涼図」は国宝ですね。 


苦肉の策
問い・ある男が葡萄をしぼる器具を買おうとしたが、金がなかった。彼はどうしたか?
答え・葡萄畑を売った。(「世界のイスラムジョーク集」 早川隆) 


太田胃散
上京の機会があって、(太田)信義は欧米文化の導入により急速に変貌する東京の経済情報を目の当たりにして、心を揺り動かされた。そして、明治一一年(一八七八)、信義は思い切って官職を辞し、東京で商道に入った。日本橋呉服町に居を構え、友人、頼復次郎(頼山陽の子息)より譲り受けた『日本外史』および『日本政記』の分版権により出版業を始めた。この転身はストレスとなって信義の胃を襲った。以前から酒が好きで胃病で悩んでいた。信義が大阪へ出張した折、胃痛を訴え、緒方洪庵の娘婿、緒方拙斉医師の診察を受けた。そのとき与えられた処方薬が良く効き、間もなく長年の胃病も快癒した。この薬を後に信義が譲り受け、売り広めたのが「太田胃散」だった。拙斉の説明によれば、この処方薬はオランダより来日した医師ボードインによるものだった。(「日本の名薬」 山崎光夫) 


片口
農家でも商家でも勤め人の家でも、どこの台所にも一つや二つはかならず見かけたものだった。たいていは陶器、それでも農家などでは昔ながらの大ぶりの木製のものがそのまま使われていたようにおもう。酒や醤油を樽のままで買っていた時代には、これを漏斗を通して徳利などに入れるか、またはそのまま片口で受けるかがどうしても必要だった。トックリ、トックリ…、樽の飲み口からゆっくりしたリズムで流れ出す幼い日の音が、まだかすかに耳の底に残っている。大きな漆塗りの片口は、そのままで酒注ぎとして宴席に持ち出されることもあった。一升も二升も入り、朱漆塗りや家紋入りの片口である。つまりは早い話がその昔の銚子を兼ねていたことになる。今もって片口を銚子とよぶ土地さえある。(「道具が証言する江戸の暮らし」 前川久太郎) 銚子  銚子(図)  千葉県銚子市  


冨士眞奈美
冨士 ハイハイ。私も男性心理のことをもっと研究しなくちゃ。今日はすっかり河童さんに教えていただいたわ。小説、またひとつ書けそうだわ。(笑)
河童 真奈美さんは狡(ずる)いよ。ぼくにばっかりしゃべらせて、小説のネタまで仕入れて、自分のことは全然話さないんだもの…。あなたは激しい恋愛や結婚、離婚とドラマがあったくせに!それにしても、あなたは聞き出すのうまいね。そうとう飲んだはずなのに、追及の矛先が狂わないんだから、聞きしにまざるまさる酒豪だよ。よし、じゃ真奈美さんの人生をタロットカードで占ってあげよう。覚悟を決めなさい。ドキドキさせて一挙に酔わせてあげるから。(笑)
冨士 やって、やって。男と女の未来を占って。でも、ややこしいのは嫌よ。(「河童のおしゃべりを食べる」 妹尾河童 冨士真奈美) 


酔っぱらいを演じる
その芸談。酔っぱらいを演じる。大抵の人が、爪先で歩く。かかとで歩くのが本当だ。前へ転ばないため、後ろへ後ろへという観念が働くはずだ。酔って靴をはく時、玄関に尻を落して、いやあ大丈夫です、とやる。酔って転ばぬように、と無意識に座るのだ。「つまりここを見ておかなくちゃなんにもなりませんや。勉強ですね」化粧のコツ。日本人と西洋人では顔の作りが異なる。口紅を塗るのも日本人は唇の内側へ、西洋人は外へ塗る。鼻の低い人は鼻を白くすればよい。高く見える。顔の丸い人は、アゴを白くする。長く見える。頬を白くすると、頬骨が高く見える。だから頬骨の高い人は、頬を薄くするとよい。(「百貌百言 六代目・尾上菊五郎」 出久根達郎) 


フルシチョフ
世の中では、よくわたしのことを、飲んでは脱線するという。まさにそのとおり、ただし、何のレールをはずれてしまうのかは、知らない。ソ連のフルシチョフが有名な大酒のみで、いつ何を仕出かすかわからないと、みなハラハラしているとか、話せる男ではないか。(「トラ大臣の名は消えがたし」 泉山三六) 「酔虎伝」 


焼いたウニ
高校生のころまでは、海でウニを食べるだけだったが、大学に入って蘭島(らんしま)海岸(小樽と余市のあいだ)に行ったとき、魚介類にウニをまぜた寄せ鍋をはじめて食べた。ウニはどれくらい入っていたか、たしか掌(てのひら)で二握りくらいあったような気がする。これを七輪の炭火で煮る。次第に香ばしい湯気があたりをつつみ、鍋のなかはウニと魚がぐずぐずと煮えたっている。あれは本当に美味しかった。あんな美味しい鍋はその後お目にかかっていない。ウニをとり出して、帆立か鮑(あわび)の貝殻に入れて焼くのも旨い。これを食べると自然に酒を飲みたくなる。それもコップ酒がいい。(「これを食べなきゃ」 渡辺淳一) 


酒との出逢い
あいつは四十過ぎて、酒を飲みはじめたんで、飲み方を知らないんだよ、と私に半ば呆(あき)れ、半ば同情して言った人がいる。まったくそのとおりで、ほんとにいい年歳をして、と実は酒を飲む前からもう反省しております。どうしてこんなに酒を飲むようになったのか(といっても、量は知れているけれど)、これはたぶん先生のお宅でおいしいウィスキーや日本酒やブランディーや焼酎をご馳走になった結果だろう。私にとって先生との出会いはまことに衝撃的であったから、先生のお宅での美酒との出会いはいっそう衝撃的だったといえるのである。かつて大日本酒乱党総裁だった先生のお屋敷に参上すると、越乃寒梅やらワイルド・ターキーやらバランタインの十七年ものやらを、先生は素敵な盃やグラスですすめてくださった。先生は私の好奇心を刺激して、酒のある魅力的な生活に私を案内してくださったのである。ところが、親の心、子知らずで、こっちは酒を飲むと、何かタガがはずれたようになって、原始の世界に迷いこんでしまう。それで、先生に私は深くお詫びしなければならない。しらふのときは平々凡々、小心翼々として、気弱そうな笑みをうかべているのに、いったん酒がはいると、人が変わってしまうという中年男がよくいると聞いてはいたが、それがほかならぬ私自身であろうとは思いもよらなかった。若いころは、飲むとすぐに顔が赤くなり、胸が苦しくなったのではあるが。(「グラスの中の街」 常盤新平) 


ダンブリ長者
柳田国男がよく書いている「ダンブリ長者」の話というのも、やはり魂が抜け出る伝説のヴァリエーションの一つであろう。ダンブリとはトンボのことである。昔、ある貧乏な正直者が、女房と一緒に山の畑を耕していて、くたびれたので木陰で昼寝した。女房が見ていると、トンボが一匹、この男の口にとまっては向こうの山のかげに行き、何度となく往復している。女房が揺り起こすと、目をさました男は、こんなことを言い出した。「わたしは今、めずらしい夢を見たよ。向こうの山のかげに行ってみると、きれいな清水が湧いていて、それを飲んだら良い酒だった。今でも口の中に甘さが残っているよ」そこで、ふしぎに思って夫妻でそこへ行ってみると、はたして山かげに泉があり、その水は良い酒だった。夫婦はその酒を売って、めでたく大金持ちになった、というわけである。このダンブリ、すなわちトンボは、明らかに男の魂であろう。(「東西不思議物語」 澁澤龍彦) 


中陵漫録
『中陵漫録』(佐藤成裕著・文政九年序の随筆集)に次のようなことが書かれている。「酒の徳は常にあらはれず。『博物誌』に、大雪の中を三人往く。一人は大いに餓ゑ一人は酒をのむ。一人は飲まず、その餓ゑたる者は死す。酒を飲まざるものは病む。酒を飲みたる者自若(じじゃく 健在)たり、この事、実に然(しか)り。奥州白川(福島県白河市だろう)にて大雪の中に猟して、各々手凝(てこお)りて物を得る事ならず。酒を手に浸して出(い)でたる人は、終日猟をすれども手の凝る事なし。この時、帰りて漫(みだり)に温湯にて手足を洗ひたる人は、皆爪を脱して生ぜず、酒を浸したる人は、湯にて洗ひたりといへども、爪ぬくる事なし。これもぬる湯にて漸々に洗ひたるは恙(つつが)なし。その酒を飲むも、腹中に酒気あれば、終日寒にたゆるなり。若(も)し酒気絶ゆる時は、また酒を飲まざる者より病む事はなはだし。終日大雪中に往来する事あらば、腰間に一瓶を携へて酒気の絶えざるやうにすべし。余(佐藤成裕)知己の某は、はなはだ酒を好む。或時、大雪中を行く。腰間に一瓶を垂る。誤って石上に落して一滴もなし。この誤りを終日愁へて病む事、雪の苦より甚だし。これを思へば、余は酒をのまざる故、この愁苦もしらず。この大雪中の苦も、奥州白川以南になく、これより以北には常に苦しみ有り。往来の人も死する事あり。必ず酒を携へて寒苦を防ぐべし。(「日本酒のフォークロア」 川口謙三) 


正月二日の冷酒
【日本歳時記】 ○二日(正月)今朝卯の刻に起、食事にいたりて、雑煮を食ひ、冷酒をのむこと昨朝のごとし、又温飯を食し、温酒をのむべし。(「和漢酒文献類聚」 石橋四郎) 「日本歳時記」の著者は貝原益軒だそうです。 朝酒は門田を売っても飲め 養生訓(貝原益軒)3  


屠蘇祝ふ とそいはふ  屠蘇 屠蘇酒 屠蘇袋
山椒・肉桂・防風・桔梗・白朮などを調合して、三角形に縫った紅絹の袋に入れ、これを酒か味醂にひたした一種の薬酒。元旦に飲めば一年の邪気を避けるといい、広く用いられ、また三が日のうちの年賀の客に出す。中国から渡来した風習で、毎歳これを飲むと一代の間無病でいられるという。幼年者から順に年長者におよぶものだが、今日はあまりまもられておらず、また邪気を避けるというよりも祝い酒としての意義を帯びてきている。
古妻の屠蘇の銚子をさゝげける 正岡子規     屠蘇の座のその子この子に日がさし来 加藤知世子
せはしなき人と言はれ屠蘇を受く 水原秋桜子   かくぞとて幼なに持たす屠蘇の杯 中村汀女
屠蘇飲んでほうと酔ひたり男の子 原田浜人    屠蘇くむや流れつつ血は蘇へる 加藤楸邨
野心などなし屠蘇の酔他愛なく 岡本圭岳     屠蘇注ぐや吾娘送りきし青年に 加倉井秋を
屠蘇の香や紅絹の袋のいぶかしき 横山蜃楼   火の国に住みて地酒を屠蘇がはり 大島民郎
祖母も母も並びて小さし屠蘇をうく 古賀まり子   屠蘇酔ひの瞼ほめくよ火噴く島 水野鼎衣(「合本俳句歳時記新版」 角川書店編) 初春や去年の続きの屠蘇を飲む 


正月酒
正月酒(しょうがつざけ) 一月七日までの松の内に酒を飲むこと。また、その酒。
 →暮の支度の色々とある中にも、正月酒を仕込んで居たらしい形跡は無い。 『定本 柳田國男集』第十四巻・酒の飲みやうの変遷 
 →正月やかならず酔ひて夕付夜/万子 『卯辰集』
元日の酒(がんじつのさけ) 一月一日に酒を飲むこと。また、その酒。「元日酒」とも。
 →白木の升で呑む元日の酒は、ひとしお腹にしみる。−沢野久雄「古き習俗のままに」 『酒』一九九○年新年号
 →元日の酔 詫(わび)にくる二月哉/几薫 「井華集」(「日本の酒文化総合辞典 荻生待也) 


酒の肴でウマいもの
シュンユイ(鮭の燻製)もうまいし、バイチュジ(鶏の水煮の薄切り)もいける。中国料理の酒のつまみにはなかなかうまいものが多い。しかし、ゴ予算の関係もあって、現代中国の人民諸君は年がら年中鯉や鶏を食べているわけにはいかないようだ。そこで、フトコロも痛まず、しかも酒がどんどんすすむ、という重宝な「おつまみ」である「小道消息」が中国では目下、大ウケだという。全中国のノンベイたちはもっぱら「小道消息」をサカナに、うまそうに盃を重ねていると」香港(ほんこん)だより」に紹介されていた。「小道消息」−人の噂(うわさ)、陰口(かげぐち)のことだ。(「ジョーク大百科」 塩田丸男)


酒ずし
荻 どんな旅行書にも鹿児島の酒ずしと出てきますが、なかなか直に食べる機会はないものですね。(一口食べるなり)ウヘェ、これは僕にはちょっと甘すぎる。昨日作っていただいたんで、時間が経ちすぎたのかもしれない。こりゃデザートの感じだ。
石毛 あまりお酒の感じしないですね。
荻 鹿児島の人は、足りない時はまたこの上に地酒をかけて食べる。熊本の赤酒や瀬戸の保命酒に似た、味醂みたいな酒です。それを壮大に振りかける。
石毛 酒を食べるという感じになる。(笑)荻さんは作り方を御覧になった?
荻 昨日、鹿児島でジーッと見て来ました。魚全体に既に地酒を振りかけておいて、一方、炊いた御飯には「ちょっと酢を入れて、それはさましておく。そして大きな桶を用意しまして、下に塩を振ってご飯を敷いて、そこに地酒をじゃぶじゃぶと満遍なく振りかけるんです。その上に筍とか季節の野菜を敷きます。それで、ジャブジャブと地酒を振りかけて、その上に椎茸とか三つ葉の刻んだのを入れて、また米を敷いてジャブジャブとやる。それからこんどはタイの白身とエビとイカを敷き、また御飯を敷いて、最後にまた満遍なく地酒をジャブジャブ振りかけて、上に木の芽をいっぱい敷いて蓋をして押しをして出来あがりです。押しがきつすぎると、地酒が中から全部上がって来てしまうので、あるれない程度の押しをして、いちばん早くて五時間から八時間くらい、遅い時でも、九時間ぐらいが食べ頃。(「快食会談」 荻昌弘) 酒寿司 


ミケランジェロ、晴皐
 沢山の裸体の群像を描いたミケランジェロの「最後の審判」を式部長官のビアジオが「礼拝堂より浴場か酒場にふさわしい絵だ」と批評したのを怒って、ミケランジェロはビアジオに似せて、地獄に陥ちたミノス王を描いた。ビアジオは法王パオロ三世に、どうにかしてくれと訴えると、法王「わたしは浄罪界にいるものは救えるが、地獄に陥ちたものは救えんよ」
 明治の大画家狩野芳崖の父晴皐(せいこう)は豊浦藩のお抱え画家だったが、家財を売っては酒を飲み、天下国家や画を一日中論じているばかりなので、妻がたまりかねて「私は出てゆきます」とある日いった。かれが「だがどこへゆくつもりかね」というと「どこだっていいじゃりませんか。鼻の向いた方へゆきます」との答えに、晴皐先生大いに笑って「お前の鼻は天を向いているぞ。よし、お前が昇天するところを見ててやろう」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


くらわんか舟
三十石船は京都の伏見と大阪の間をひんぱんに往来する。これを目当てに、枚方(ひらかた)あたりを根城にして現れる食べもの売りの小舟は、「くらわんか舟」とよばれて特に有名であった。なぜ枚方かといえば、伏見から大阪まで約三○キロ、そのちょうど中間地点に当たるのが枚方だからである。航行時間は四時間から五時間、途中どうしても食事が必要な時間でもないが、旅先というものは、売る舟がくれば食べてみたくもなるし、飲みたくもなる。そこが売る側のつけ目だ。小舟は二人乗りで、舟のなかに鍋釜を据えつけ、「汁くらわんか! 酒くらわんか!」とかん高い声で呼ばわりながら近づいてくる。「くらわんか舟」と呼ばれたゆえんだ。「くらわんか」は「食べませんか」の意味で、上方にももう少しましないいかたがあるはずだが、むしろ売り子は客に対する口汚さを売りものにしていた。「銭がないので、ようくらわんか!」と、憎まれ口までたたく。武士でも乗っていたら、「無礼者!」と手討ちにされそうだが、くらわんか舟にかぎっては、この無礼が許されたという。こういう大きな船を相手に食べる物を売る小舟は、「売売舟」、「うろ舟」などと呼ばれて、江戸にもあったし、全国どこにでもいたが、くらわんか舟は際立った商売ぶりと、利用度の高さで有名になったものであった。(「描かれた食卓」 磯部勝) 歌川広重「京都名所之内 淀川」の解説部分です。 


文明の先導者
これは実にまじめで
美しい考え方だが
文明の最初の
パイオニアで
文明の先導者は
けっして
蒸気船ではなく
鉄道でもなく
日曜学校の
先生でもなく
宣教師でもない
いつもきまって
ウイスキーだ!(「また・ちょっと面白い話」 マーク・トウェイン) 


軽業
さる人友達に出あひ「さてさて今日は面白ひ軽業(かるわざ)を見て来たが、竹の上を下駄をはいて居合を抜く、手鞠(てまり)を使ふ。イヤモ、けしからぬ(並はずれてすばらしい)事をする」と話さるれば「何のそれが珍しい事が有る」といはれける。「そんならあのやうな事をしてみや」といふ。「そのやうなことをせいでか、俺はさゝの上で喧嘩さへする」といふた。(絵本御代春・宝暦十一・無題) 【鑑賞】ささ−笹−酒の上の喧嘩が、得意の軽業(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


食べない理由
京大教授で、英文学者の山本修二さんとは、京都にゆくと、酒席でよく一緒になったが、グイグイと豪快に飲む反面、目の前に出て来る料理には、ほとんど箸をつけない。「すこし召し上がったほうが、いいんじゃないですか」というと、「ぼくは昔から、飲んでいる時は、食べないことにしています。これが信条です」「どういうわけですか」「吐いた時、何か出てきたら、みっともないじゃありませんか」(「新ちょっといい話」 戸板康二) 


プリマス上陸
しかし、ヴァジニアの植民地が経済的利益の追求を目的とし、ニューイングランドのそれが自己が正しいと信ずる信仰を貫くことを目的としたものであるとすれば、精神的な意味での感謝祭は、やはりピルグリムズのそれに出発点があるのかも知れない。ピルグリムズは一六二○年の十一月末日になって、目的地はるか南のヴァジニアを目ざしていたものの、メイフラワー号が飲料水とたよっていたビールが底をついたことからマサチューセッツ州プリマスに投錨した。総勢百人、そのうち乗組員が二十五人という人員構成であった。晩秋のニューイングランドは気温が容易に零下に落ちこむ。何よりも、一応の都市生活をしていたものが猛々しい冬の未開地に上陸して無からの生活を始めたことや食料の不足、それに六十六日の航海による極限状態の疲労から、上陸後一年の間にその人員の半数が死亡してしまった。女性は二十数名のうち、残ったものはわずか四人であったという。しかし、生存者たちの新天地に賭ける情熱は強かった。信念を同じうし、労苦を分かちあった仲間の死をそれだけ見続けてもなお、その後の生存と発展の可能性を信じたということは、単に彼らが宗教心と未来志向に支えられていたからだということはできない。さまざまな記録に残るこれらの人々の言葉は、アメリカ大陸がいかに豊饒の天地をもって彼らを迎え入れたかを語っている。(「アメリカの食卓」 本間千枝子) 


エビオス
「営業マンとして大阪に配属されて、新幹線乗って行ったんだよね。で、ホームに着いたら先輩社員がわざわざ出迎えに来てくれてて、わあ、温かい会社だなあって感激して、よく見たら右手に巨大なメスシリンダー持ってんだよね。あの円錐を逆さにしたようなやつ、容量二リッターだったかな。で、そこになみなみとビール注がれてね、さっそく一気。何かこれは俗に”容量検定”といわれる伝統の儀式でね。十リッター一気に飲み干した奴もいるらしいんだ」なんて話を、キリンビールの知り合いに聞かされたことがある。こういう鍛えられ方をしているうちに、ビールが水の如き何でもない液体に見えてくる日が訪れるのであろう。「学生の頃よりは確かに酒、強くなりましたけどね。やっぱり”御機嫌伺い”が何日も続いた朝ってのはつらいですね。そういうときにはねえ、秘密兵器があるんですよ、実は…」橋本氏のいう”秘密兵器”とは、「エビオス」という胃腸薬。これは朝日麦酒は薬品部が手がけている薬品だ。「あー今日は飲み過ぎただな、こりゃ明日しんどいな、と思ったら、夜寝る前に三十錠から四十錠くらいガバガバッと飲んどくんですよ。そうすると不思議と次の朝二日酔いしない!」(「丸の内アフター5」 泉麻人) 


花袋の旅行
竜土会の他に、別に交遊と言うほどのことはなかったが、それでも旅には、同人一緒に出かけたことは二、三度あった。一度は、晩春の候に、竜土会を利根河畔まで持ち出したことなどもあった。蒲原君、小栗君、中沢君、小杉未醒君などが一緒であった。確か岩野君も行ったと思う。小栗君が酔って、喧嘩を吹かけたので、小杉君が怒って、小栗君の頭をポカンと一つお見舞いした。それでも小栗君は酔っているので、別に怒りもしなかった。旅館での寝るまでの騒ぎは並大抵ではなかった。中沢君と、中央の田村君と、小杉君三人で、独歩の借りて住んだ常陸の湊の杉田別荘へ行った時には、奇談が多かった。例の紅蓮洞氏も一緒であった。殆ど酒浸りと言うような旅行であった。(「東京の三十年」 田山花袋) 


将軍の酒
この”柳の酒”というのは、五条坊門西洞院の西南面に店を構えた造り酒屋で、当時の室町幕府に将軍用として、毎月六十貫の美酒を献上していた。将軍義政などというのは、酒ばかり飲んで、いつも酔っぱらっていたというから、きっと、この六十貫の酒の中の大半を飲みくらしていたのであろう。江戸時代に将軍が飲んだ酒は、伊丹の”男山”と、”剣菱”にきまっていたが、そのころは”柳の酒”であったのである。将軍などというものは、それほど舌が肥えているはずはない。自ら主体的に食べ比べ、あるいは飲みくらべて、そしてこれがよい、あれがよいと決めるのではないからだ。本当の食通とか酒通というやつは、如何なる苦労も惜しまないで、その美味を自ら探求する努力を惜しまない人間のあいだから出てくる。だから、将軍が愛用したところで大したことはないかもしれないが、しかし、その将軍には、御膳役というのがついており、一流の料理人がついている。これがえらぶのであるから、将軍家愛用といえば、いちおう信用してもいいだろう。先の頼山陽も、伊丹の”剣菱”をもっぱら愛用したというから、将軍と同じ酒だった。(「京都故事物語」 奈良本辰也編) 


猪とのお見合い
干支(えと)が亥(い)だから思い出すのだが、山へ行って猪の声を録音にとって来いと言われ、一人で九州の山へトボトボ登った。猪はシラミが湧くので、体を木にこすりつけるから、幹の皮がむけている木を辿(たど)ればヨカデスタイと村人に教えられたが、一向に猪は現れない。苦労して学校を出た男一匹どうしてこんな仕事をしなけりゃならないんだ、あーああ、人生はお先真っ暗だ、オレは人生をあやまったと、買って来た焼酎をラッパ呑みして、帰ったらもうやめようと青空を見ながら、岩にもたれて悔恨の念にかられていた。癪にさわって、ビンをポンと後ろに投げたら、ガサゾソと音がする。振り返って、岩ごしにひょいとのぞいた時、びっくり仰天というのはこういう光景を言うのである。何と岩の向こう側から、でっかい猪がひょいと顔を出し、私は五十センチもない距離で、猪とニラメッコをしてしまったのだ。ほんの一瞬だったのだろうが、時間がすべて止まったように思えた。私も猪も、恐らくお互いの顔のもの凄さに体が硬直してすくんでしまったのだ。「ウワーッ」飲み干した焼酎が胃の腑から吹き出しそうな声をあげて、私は一目散に逃げた。おかしなことに、猪もびっくりして反対側に猪突猛進した。荒い息をして気がつくと、私はあの重い録音機をしっかり肩にかついでいたのである。「へっ、これでもちったあヤル気があるぜ」その自分への微笑が、今日まで十九年間、細々と私をこの職業につないで来た。今夜も私は飲む。ホロニガさだけがあとで心に残るのを知っていながら。(「ビッグマン愚行録」 鈴木健二) 


酒の糟や糠
「『天道に親(しん)無し。常に善人に与(くみ)す』という。伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)のごときは、善人といってよいのだが、そうではないのか」と言うひともある。仁を積み行ないをいさぎよくしたことかくのごとくであっても餓死した。そればかりか[孔子の門人]七十子のともがらのうちで、仲尼(ちゅうじ 孔子)は、ただひとり顔淵(がんえん)を学をこのむとして推奨した。しかるに「回也(かいや 顔淵の名)しばしば空(とぼ)し」といわれたように、酒の糟(かす)や糠(ぬか)にも食べあきることさえできず、とうとう夭折(わかじに)した。天が善人に対する報いとは、いったいどんなことなのか。盗蹠(とうせき)は毎日罪のないものを殺し、人の肉を生で食い、凶悪でわがままであり、数千人の徒党をくみ、天下を横行したが、寿命をまっとうして死んだ。それは何の徳をおこなったのであったか。これらは、とりわけいちじるしく目につく例である。(「史記列伝」 司馬遷 小川・今鷹・福島訳) 


酒癖
これは、浅草の鳥料理店の主人を仰天させた話である。長い間、同店を一方ならず贔屓にしていたある客が、鳥料理店の主人を招待した。相手はお得意さまだから、辞退する理由がない。よろこんでその客の自宅を訪問した。その接待は叮重を極め、鳥料理店の主人は恐縮しながらその歓待をうけた。やがて歓談も一段落したところで、その客は主人を別室に案内した。その室内には、一揃いの食器類が物々しく並べてあった。その客は、無言でその品々をさし示した。鳥料理店の主人は指されるまま、その器具類を見詰めて”あっ?!”と低く叫んで息を呑んだ。無理もない。その食器はすべて、現に鳥料理店が使用しているものであった。大皿、小皿、小鉢、盃、徳利、鍋からコンロにいたるまで…そして床の間には店の部屋の掛軸が掛けてあったので、あまりのことに主人は、自分の目を疑ったほどだという。よくもこうまで揃えたものだ。しかし、火のはいっていた筈のコンロを、どうして持ち出したのであろうか−呆然とした主人は、やがてその客に、コンロや鍋を持ち出した方法や経路を、是非聞かせてくれるようにと、くり返してたのんだが、その客は、薄笑いを浮かべるだけで、とうとうその持ち出しのことについては一言も話さなかった…と鳥料理店の主人が後日、私に語ってくれた。(浅草寿司屋ばなし」 内田榮一) 


アラスカ
寒さの厳しいアラスカでは、厚い毛皮のコートを着こむほかに、ウイスキーやビール、熱いスープなどで身体を温めます。だから、街道ぞいのスナックで運転手がアルコールを注文していることはザラです。寒さで凍死するのに比べたら、お酒で身体を温めて運転するほうがずっと安全だというわけです。当然、自動車のほうも耐寒性重視。運転手がスナックに入っている間、エンジンをかけっぱなしにしておくのもったいないということで、アラスカの駐車場には駐車スペースごとに電源があるのです。ここにプラグを差しこんでおけばオーケー。アラスカの車には、ボンネットの裏側にパネル・ヒーターがセットされているので、駐車時にはこの電源を利用して車内を暖めておくわけです。人も車もじっくり温めたほうがいいようですね。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


油揚げで一杯
石毛 豆腐には立ち食いの系統があって、私のおやじのじいさんぐらいのころには、豆腐屋の前に来ると、揚げたての油揚げに醤油をかけて食って、それで酒飲んで帰るという風習もあったんです。
小松 外国人でも豆腐に夢中になる人がいる。豆腐のもとを買って帰って向こうでつくってる人がいるよ。
石毛 家で豆腐ができるというやつだ。ハウス食品が出してた。(「にっぽん料理大全」 小松左京・石毛直道) 


五四年、五七年
マルローの好みのワインはボルドーのポムロールの銘酒シャトー・ペトリュスだった。それも良い年のは高いので、問題にならない出来の悪い年、五四年を飲んでいたという。客商売だから、ソムリエも言葉づかいはていねいで、「出来が悪い年」などという言葉は使わずに、「モワイアン(まあまあの)」という言い方をする。私もワインリストを見ていて、このシャトー・ペトリュスを頼んでみる気になった。いくらか値段の安い年を探していると、五七年というのにぶつかった。かしこまりました、とひきさがったソムリエを見ながら、これだから話してみるものだと思った。キャラフにシャトー・ペトリュスは静々と入れ替えられる。ボトルのなかの澱(おり)がひと雫(しずく)も入らぬようにという、きめ細かさ。演出よろしく、キャンドルライトに照らされながら、永い間ねむっていたボルドーの赤が、再び息を吹きかえすこの瞬間から、ワインはメニューの注文が終わりしだい開かれねばならない。私がワインを飲む時は、まずひとくち口にふくみ、舌の上にころがす。そのまま鼻腔をを思いきりあけて、匂いを吸い込み、頭の芯の方に突き抜けていくのを見届けてから、おもむろに、じっくりと、ごくりとやる。そして、すぐ、いいとか悪いとかいわない。何も言葉を探すことはないのだ。しばらくそのまま、御一緒した相手の表情に、で…と、うながす瞳を読みとると、そこで始めて、うん、いいなとか、思ったよりいけるね、とか言うことになる。(「舌の世界史」 辻静雄) 開高健の嗅覚  


薬酒と餅鏡
実は、<鏡餅>とは中世以降の呼び名で、それ以前の平安朝ではもっぱら<餅鏡(もちいかがみ)>と称されていた。当時の公卿日記をみると、正月のところには、「二日…今朝餅鏡ヲ見、薬酒を嘗(な)ム」(『猪熊(いのくま)関白記』一二○二年)などときまってしるしてある。薬酒がこんにちいうお屠蘇にあたり、それに<餅鏡>で祝うのが、すでに年始めのしきたりとなっていたわけだ。ただ、注意してよいのが、<餅鏡>を「見ル」としている点で、<餅鏡>は、何よりも「見て」祝うものであった。だからそれは「鏡のような餅」というより、むしろ「餅で作った鏡」とすべきではなかろうか。(「ことばの散歩道」 阪下圭八) 


田中小実昌
田中は余りしゃべらず、唐突に「丑歳生れの男は−」と、以前、高島易断人寄せで過ごしていた頃の口上をしゃがれ声でひとくさり、うって変わって ポクポク仔馬ァで終る、初耳、誰も知らない歌を口ずさみ、「ぼくさぁ、肥ってっけど、痩せると吉行さんに似てんだよ、おかしい?」「どうもマクヴェインものはいやだ、文体が下品でさあ」八十七分署シリーズで人気のアメリカ人作家、訳せば金にはなるが、手がけない。数だけは誰にも負けないという。禿頭にかぶるじゃなくのせる色、材質の異なる帽子をのぞけば、一見、ドヤ街住人と変わらぬ、いや連中も田中ほど無造作じゃない、八方破れの風体、「遠藤さんのカソリックてのは、アリャつまりお念仏じゃない」真面目につぶやく。(「文壇」 野坂昭如) 


一升の酒
いつか日支事変の最中、軽井沢で志賀直哉、里見ク、久保田、室尾犀星、堀辰雄などが落ち合った。珍しく一本酒が手にはいたのを機会に、鶏を一羽つぶしてその頃としては盛宴を張ったことがあった。何かの都合で、室尾犀星が来ず、一升の酒を三合ずつ三人で分けて、めいめい自分の徳利でお燗をして手酌で飲むことになった。「やり取り、酌のしっこはなしにしよう」何でもストレッスを置いて楽しむことの好きな志賀さんが、笑いながらそう言った。志賀さんは配給になってから飲むようになったという飲み手。ところが、やり取り、酌のしッこの好きな久保田さんが、少し酒が廻ると、つと手を伸ばして誰れ彼れに杯をさすいつもの癖が始まった。杯をさせば、さした人の徳利から酒をつぐことになる。自分の三合が、それだけ減る訳だ。「いゝのかい?」さゝれた杯を受ける前に、志賀さんも、里見さんも、笑ってそう言う。久保田さん、初めのうちは、そう言われると、慌てゝ手を引ッ込めていたが、酔いが廻るにつれて気が大きくなって、「まあ−」と、杯を押し付けるようになった。見る見る久保田さんの酒が減って行った。(「食いしん坊」 小島政二郎) 


水なんか飲むのはカエル
でも、去年の夏ごろから、私もローミネラルのヴィッシィ・サン・ヨールを、食事中に飲んでいる。夏のヴァカンスの間は、一日に二リットルは飲んだと思う。というのも、あきらかにぶどう酒の飲みすぎで、肝臓が少し疲れてきたからである。ちょっと食べすぎたり、飲みすぎたりすると、とたんに消化が遅くなる。目の下にくっきりとクマができる。こういって医者にみてもらうと、あなたの年齢では当然のことでしょう。薬を飲むほどではありません、という。水を飲むことをすすめられた。で、ぶどう酒を飲むのは土曜と日曜の夜と、友人たちと食事をする時に限ることにした。ヴィッシィ・サン・ヨールは、かすかにしょっぱくて、軽い炭酸水のため飲みやすい。しつこいフランス料理であっても、この水があれば,ぶどう酒を飲まなくてもがまんでき、食がすすむ。五歳の娘は食事の時、水道の水を飲んでいたが、私がこの水を飲むようになると、はじめは好奇心で飲んでいたのだが、このごろはカライ水をちょうだいといって、水道の水を飲まなくなってしまった。薬でさえぶどう酒で飲む底なしのぶどう酒好きの主人は、水なんか飲むのはカエルぐらいなもんだと私をからかいつつも、時々私の水を横取りし、その量が少しずつ増えている。(「パリからのおいしい話」 戸塚真弓) 


夢声ロンドンにて倒る
そこで僕は東奔西走して百円の金をつくった。いま考えてもよくつくれたと思うくらいだ。その虎の子を夢声邸へ持参して、とにかくこれで上からのぞくカメラをドイツから買ってきてくれと頼み込んだ。ところが、日数は忘れたが、足柄が出航後、四、五十日たってから、ある日、東京日日新聞(今の毎日)を見ると驚いた。「徳川夢声氏ロンドンにて倒る」という見出しで、「ロンドンで、ジョニーウォーカーを二本とか三本飲んで急性胃かいようとなり、何回とか吐血して軍医の診察を受け、艦内で絶対安静の治療中だが、病状ははなはだ重体であ」といったことが出ている。さらに、「共にウィスキーを飲んだ同行の久米正雄氏曰く」とあり、「初めの一本で止めておけばよかったのに、なにしろ久しぶりのジョニーウォーカーだからたまらない。とうとう昔の腕が出て、三本とは飲み過ぎたよ」といった意味の、久米さんの話も載っていた。この記事を読んだ時、一番驚き、沈痛な面持になったのは、恐らく、夢声夫人で、次は僕であったろう。(ああこれはとんでもないことになった。夢声旦那がこのままになったらあの百円はそのまま香典になってしまうだろう。僕の田舎ではオヤジが死んでもせいぜい一円か二円だ。それがナンと百円という大金が香典になるのだ。イヤイヤそんねケチなことを考えてはいけない。徳川夢声といえば、今や日本の至宝だ。その旦那が今生きるか死ぬかの重体なのだ、カメラ位なんだ。百円位がなんだ。。祈ろう、旦那の回復を神や仏に祈ろう)と、はじめは多少心をカメラに向けたが、すぐ本心に返えり、ひたすら回復を祈願した。(「にやり交友録」 石黒敬七) 結局、夢声帰国後、無事、二眼レフのローライフレックスは石黒に渡されたそうです。 


十二代目羽左衛門
五代目菊五郎の実父たる、十二代目羽左衛門などは、台所に石室をかまえ、魚河岸から生きた魚をとりよせて、生けておき、酒は新川の鹿島からとった。そして毎晩役者、狂言方、留場その他の芝居者を集めては酒盛りをした。料理が大変やかましくて、女房おとわは、そのことでノベツ小言をいわれ、ある時は椀盛りを投げつけられたりした。羽左衛門は、酒盛りの途中でかならず一睡して、目がさめて、また飲みなおすのが癖だった。その時にはじめいただけの人数がいなかろうものなら、彼は大いに不機嫌であった。ある年の八月十五夜の晩に、庭一面に木賊(とくさ)を植え、白兎を放して、月見の宴をはった。白兎はお触れの御趣旨をはばかったものか、庭の隅にかたまって、さっぱり飛ばなかった。せっかくの趣向がムチャクチャになって、一同大笑いをした。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) お触れとは、幕府の出した奢侈禁止令のことです。 


先取り
作曲家のマーラーにはレストランの瓶のラベルをはがす趣味があった。それを知っていた親友のベルリナーは、ある夜マーラーと食事に行った時、ボーイにあらかじめラベルをはがしておくように命じておいた。マーラーは例によって酒瓶をとり上げたが、ラベルがないので驚いて瓶を置いた。ふとベルリナーを見ると、かすかに笑った。マーラーは彼のしわざだと気がつき、すっかり機嫌を損じてしまった。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


江戸の南北町奉行所
ところで、南北ふたつの町奉行所があったのは、江戸幕府の制度が複数制を原則としていたからでもあるが、その仕事があまりにも広い範囲におよんでいたからでもあった。南北奉行所は、月ごとに交替し、担当月を月番、そうでない月を非番と呼んだ。月番の奉行所は、門を八文字に開き、非番のほうは、脇の潜戸(くぐりど)を開いておくことになっていた。ただし非番といっても、休みだったわけではない。交替していたのは、新規の訴訟の受け付けだけで、それ以外の、事件の捜査や取り調べ、見廻り、民政にかかわるさまざまな処理など、通常の業務はいつもと変わるところがなかった。また、南町と北町とで担当地域が別れていたわけでもなく、ただ諸業種の問屋については、呉服、木綿、薬種問屋は南町、書物、酒、廻船、材木問屋は北町というふうに受け持ちを分担していたという。こうした分担があった程度で、ほとんど南北での違いはなかったようだ。それだけに南北両奉行所の緻密な連携が必要になる。(「地図から消えた東京遺産」 田中聡) 


アホな酔っぱらい
一九七七年の元日、ジェームズ・ゴードン・ベネット(三十六歳)は、ひどく酔っぱらったままニューヨークの婚約者を訪問。その豪邸で、暖炉をトイレと間違えて、家族来客の目前で、小便をしてしまった。そのため婚約は破棄。ゆくゆくは婚約者の父親から譲り受けるはずの数百万ドルの資産をフイにした。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


なまことおでん
銅版画は大森の工房で、石版画は板橋の工房で制作する。連日,そこへ通っているのである。今日は特にきつかった。二日酔いだったからだ。昨夜、高校時代の友人から「信濃町駅近くの”なまこや跡”で飲んでいるから来ないか」と電話でさそわれた。ちょうど食事をしようかと思っていたので、じゃあ一時間だけつき合おうと、陽子と出かけたのが、なんと延々と四時間も飲んでしまったのである。陽子はあきれて途中で帰った。十人も入ればいっぱいになる小さな飲み屋だが、おかみが美人で料理が気がきいていて、テレビ局の友人との話に夢中になり、ひしゃくで小壺からすくってくれる冷酒をぐいぐい飲んでしまった。飲みはじめると私はピッチが速い。酒の肴に「なまこ」と「おでん」を食べた。なまこの酢漬けが抜群にうまかった。固すぎなく、柔らかすぎなく、しかも大切りにしてある。秘法なんだそうだ。どうせ聞いても、自分でつくるわけでもないので、あえて聞かなかった。おでんも私の好物である。特に玉子が好きなのだ。時々玉子だけをおでんのつゆで煮ることがある。しかしいくら好きでも一度に三つは食えない。玉子焼きだと三個分食べてしまうのに、ゆで玉子だと二個がせいぜいだ。急に思い出したが、ゆで玉子をくずして、しょう油をかけて食べるのもうまい。これはよくパリでやる。(「男の手料理」 池田満寿夫) 


笹乃雪で卯酒
八品のフルコースを食べた大部分の客は、決まって、今夜はうなされそうだ、ここ当分、豆腐は見たくない、と思う。かつては、沖縄在住の米政府高官、地方へ行かれた宮様のために、空輸したものです、と、店主は自慢する。「夜の白々と明けに家を出て、入谷を一巡して笹乃雪で卯酒(ぼうしゅ)を酌むというのが、朝顔見物の寸法であった」と作家内田魯庵は書いている。豆腐は、下町の年中行事として根強い人気を保つ「朝顔市」と密接にかかわりあっていた。市で買い込んだ赤、紫の朝顔をかかえた家族連れなどが、いまも、その足で豆腐を食べに繰り出す。昔の風情を残していた旧店舗は、道路に占拠され、鉄筋の豪華ビルに変わった。だが、朝顔市の開かれる七月六、七、八の三日間は、昔ながらに開店は午前五時。これらの日は、店頭で下足番が、はきものと一緒に客が買った鉢を預かる。店側は、サービスに団扇を配る。毎年「朝豆腐」を食べようと、一番乗りを目指す人たちも多い。(「下町」 朝日新聞社東京本社社会部) 笹乃雪 朝酒は門田を売っても飲め 


椎茸燗酒
国東半島で椎茸栽培を業としている友人を僕は二人持っている。二人とも陸軍の軍楽隊時代の友人なのだが、この間、その一人が言うには、椎茸程不思議な茸(きのこ)は無くて、身体に如何に良いかはベストセラーの「椎茸健康法」に書いてある通りだけれども、あの一つ一つの傘が木の幹と接する部分、詰まり柄の根元を切り集めて、これを燗をした酒に浸してその酒を呑むと、あれあれという間に精力が減退して、要するに−インポテンツになってしまうのだと言う。彼の友達に道楽者が居て、奥さんが可哀そうなので、この減精の秘法をその奥さんに教えたところ、道楽者の道楽がぴたりと止まって、大層感謝されたと言う。(「舌の上の散歩道」 團伊玖磨) 上戸茸 秘められた清酒のヘルシー効果 


肴としての餅
以上から見ても、また『四季草』という本に出てくる「餅は魚物一色付ければ一献初献の肴となる」からみても、餅も酒の肴になることが裏付けられているわけです。この、一献もしくは初献、二献、三献というのは、まずひとつのお酒をだす、酒の肴をつける、それで一巡する、これが初献。再び酒と肴を出す、これが二献目。同じようにして三献というふうに重ねるという、一つの宴席のしきたりなんですが、それの初献に晴れがましくもこの餅が使われているのです。このことは、肴物さえ一色つければ十分酒の肴になるという意味合いも含んでいます。ですから、餅も正月元旦に雉酒の肴として饗されたということなんです。(「和菓子の京都」 川端道喜) 


穴師
穴師というものは、つまりそのお茶屋から案内をしていく若い衆。これがいろいろ働きまして、穴師って…。そりゃうしろの方でどうもいけないから、もう少しいい場所はないかなんてンで穴師に頼むてェと、「へい、よろしゅうございます」てンで、何処か見(め)っけてくれる。前のところに空いているところがある。それはつまりお茶屋同士ではなく穴師同士なんですよ。何処そこの穴師と、家は違っているがそれァ友達なんだから、「あすこはどうなんだい、今日はいいかい」なんて。「ああ」ってなことで。「それじゃ俺の方へゆずってくれ」なんてな事で、そしてそこへお客を入れる。それから見物に行っても今のように荷物の預り所なんてものはありません。これはお茶屋の方へ全部あずけるわけで。それと興行時間も長かったから、昔は気に入らないてェと、「あァこンところの幕はあんまり面白くない」なんてェと、お茶屋の方へ帰ってきてね。ここでお酒を飲んだりお料理をとって、あるいはその役者を呼んだり何かして。舞台へ出ない空のある時ですと役者がそこへ来てお相手をしたりなにかする、というような事で。(「江戸散歩」 三遊亭圓生) 芝居でのかつての風景だそうです。 


キンセンカ
「朝顔は一つなれども多く咲く明星いろの金盞花かな 与謝野晶子」。春の暖かな日ざしの中で黄金色に咲き誇るキンセンカの花は、のんびりした心温まる雰囲気を与えてくれます。「金盞花」という言葉は、その花の形、色から名付けられたものです。色は鮮やかな黄金色、形は盃形で日を受けて輝く姿が文字通り黄金の盞(さかずき)のようであるからです。またこの花には「長春花」という異名もありますが、これは花期が暖地では十二月ごろから咲きはじめ、普通でも三月から六月ごろの長期にわたるので名付けられたものです。ヨーロッパ原産のキンセンカは、嘉永年間(一八四八−五四)にわが国へ渡来したといわれ、切り花として広く一般に栽培されたものです。草の丈は四○センチぐらいで、茎に細毛があり、柔らかい感じの葉の先端は三裂し互生しています。(「ことばの豆辞典」 三井銀行ことばんp豆辞典編集室編) 


花見の作法
桜が、もししゃべれたら、「静かにして。あんたら、何しにきよったんや。いいかげんにせえよ!」と怒鳴りたい気分やろね。桜だって、咲きはじめたら、たしかに「早よ来てくれ」と待っている。人に見られたいと思っとる。そやけど、あんなバカ騒ぎは、決して望んでない。まずあかんのが、あの青いビニールかなんかのシート。あれを幹の根元に敷きつめられたら、桜が息が満足にできんようになります。風、通さんですからね。口と鼻にマスクをかけられているようなもんですわ。わしは桜の気持ちがわかるから、桜に代わって、花見客にようこう言うてるねん。「酔っぱらって、酒を適当にまくのはよろしい。飲みすぎて、へどを吐いているヤツはほめてやれ。いずれ、土の栄養になるんやから。立ち小便も許す。そやけど、ビニールシートを敷いているヤツらは放り出せ」と。昔の人間は、その場所に行って自分が楽しんだぶん、それだけのものを返してきたんや。酒こぼすのもそうだし、弁当だって、昔は木の折り詰めや。燃やせば、多少は土の肥やしになりますわ。小便かけたって、それもまた、桜にしたら栄養や。きちんと桜にお礼をしていることになってたもんです。それに、カラオケ。これも、花を早く散らせる一因や。昔みたいに、ゴザを敷いて、手拍子で歌っている時はよかったんです。拡声器にマイク。これは、桜が嫌がります。あの震動が、幹にちゃんと伝わっているんやから。(「櫻よ 佐野藤右衛門 聞き書き小田豊二) 


昭和二十年の食生活
昭和二十年十二月十四日−日比谷公会堂で”ドングリを応用した食料子供会”開く。
昭和二十一年三月十二日−こぶ、きりいかなどの佃煮を都民一人当り十匁あて配給、と発表。
同六月十九日−飯米獲得人民大会。
同七月十六日−お盆用のお酒の配給、成人男子一人にビール一本に酒五合、女世帯に甘味ブドー酒一本。
昭和二十二年六月十七日−主食の遅配、全国に拡がる。
同十二月十六日−正月のモチ米一人四百グラムを配給。
昭和二十三年二月十四日−「白いご飯が食べたい」と家出していた京都の少年が一年半ぶりに戻る。
いま年表を繰って調べていると、ぼくもずいぶん暗い時代にうまれたのだなあ。(「食いしんぼグラフィティー」 玉村豊男) 玉村は.昭和20年生まれだそうです。 


E・A・ポー
推理作家のE・A・ポー(一八四九年一○月七日没)は生まれつき陰気な人がらで、かれの笑顔を見た人はひとりもいなかったといわれる。一七歳のときから酒びたりになって定職をもったことはいちどのなかった。しかし、文名が高くなるとかれに面会を求める者も多く、当時のポーク大統領もポーに会いたがった。だが約束の日になるとポーは忽然と姿を消し、大統領は待ちぼうけ。そんなことはポーの生活のなかでは日常茶飯事だったらしい。常識から完全にはなれ、アルコールのなかでかれは生きた。一八四九年九月三日、かれはボルチモアで行方不明になった。やがて場末の酒場で発見されたポーは泥酔どころか意識不明。病院に収容されたが精神は完全に錯乱して、ついに七日に息をひきとった。享年四○歳。ほとんど無一文である。(「一年諸事雑記帳」 加藤秀俊) 


カンビュセス王
カンビュセス王は余りにも酒の度を過したので、近臣の一人であったプレクサスペスが、王に酒量を減らすように諫めた。そして、万民の耳目が注がれている王者にとっては、暴飲は恥ずべきことであると進言した。これを聞いて王は、「わしは決してわし自身を忘れてはいない。お前がその事実を知るように、わしの両眼も両手も、酒の後でもなお任務に堪えることを証明してやろう」と答えた。そう言うと、王は大きめの杯を取って、いつもよりたっぷりと飲んだ。そして、やがて酒が回って酔いが高ずると、自分を諫めた近臣の息子に、入り口の向こう側に進み出るように命じ、左手を頭上に上げてそこの立たせた。すると王は、弓を引き絞り、「わしの的はあれだ」と言って、こともあろうに若者の心臓に撃ち込んだ。そして胸を切り開かせて、心臓のど真ん中に突き刺さった矢尻を見せ、父親の方を振り返って、「わしの腕前は十分正確ではないか」とたずねた。ところが父親はそれに答えた。「弓矢の神様でも、これ以上正確に当てることはできません」と。ああ神々よ、この父親のような、身分がというのではなく、根性が奴隷にも似た人間を成敗して下さるように。(「怒りについて」 セネカ 茂手木元蔵訳) 


粕汁
ながいこと、粕汁のうまさはどこにあるのだろう、と考えてきたが、どうもこれはよくわからない。新巻きや鰤(ぶり)の粗(あら)のうまさがここに寄与していることは言うまでもないが、大根とか人参とか馬鈴薯の味を見落とすこともできない。つまり野菜と魚の味が、粕のうまさに実に巧妙に溶けあったのが、粕汁のうまさということになるのだろうか。塩鮭の頭などは塩ぬきにしても塩がのこるから、これに大根を加え、酒粕をいれてとくだけでよい。鰤の粗(あら)の場合は味噌を少々加えると、これはまた素朴な味になる。ほかに鰊(にしん)があうが、身欠(みかき)鰊ならいっそううまさがにじみでる。酒粕は焼いて食べてもおいしいが、こうした加工工夫は生活の知恵だろう。酒粕を焼いて食べる話はずいぶん以前からきいていたが、私のような酒のみは、まず酒の方に手が行き、粕などどうでもよいといった考えがあった。酒粕を焼いて食べるのがいちばんおいしい、と教えてくれたのは「小説新潮」編集長の藤江英輔氏で、私はさっそく試みてみた。なるほどこれはおいしかった。(「美食の道」 立原正秋) 


あたまの悪い最中
このあたまの悪い最中の二、三月のころでしたでしょう。森田草平さんが面会日の夜に、初めて小栗風葉さんをお連れになっていらっしゃいました。それがどうしたわけかたいそう酔っぱらっていらっしゃるのです。いったい酔っぱらって、初対面か何か、ともかくあんまりどころかいっこう親しくもない人のところへ顔を出されるのから異なところへ、そうしてそれをはなはだおもしろくなく思っているところへ、酒の勢いにまかせて何かかにかおっしゃたものとみえます。私はその場にいませんので、どんなことがどんなふうに行われたかは存じませんがたいそう気に障ったものと見えて、たまり兼ねたように、「かえれ!」どなる夏目の声が聞こえて参ります。何事が始まったのだろうと、ただならない様子に吃驚(びっくり)しておりますと、森田さんもお連れのお方もそこそこにおかえりになりました。それでも夏目の怒りは鎮まりません。あんなことを言わせにわざわざあんなやつを連れて来るとは、森田のやつもけしからんやつだ、といったぐあいで、雲行きが険悪です、あんまり夏目が腹をたてているので、それからというもの森田さんも家へ足踏みができませんようなことになってしまいました。(「漱石の思い出」 夏目鏡子 松岡譲筆録) 


酒断ちのご利益神佛
生駒聖天の名で知られる奈良の宝山寺(生駒市門前町)絵馬堂には「一日三合までに減らすことを誓います。巳歳(みどし)男」「お父さんがやめれば私も飲みません。夫婦そろってお酒がきらいになれますよう。四十三歳、酒好きの女」とか、懸命の願いが書かれた絵馬がたくさん奉納されている。大阪の一心寺(天王寺区逢阪上之町)境内の本多出雲守忠朝(ただとも)の墓は、酒断ちに効験ありとして、その墓に酒樽を描いた絵馬を供えて祈る。忠朝は酒ぐせが悪く、数々のあやまちをおかし、そのために命さえ失うことになったが、遺言に「酒はよくない。己れを真似る人あれば、私は死霊となり、戒める」といいのこし、以来、禁酒・節酒を願う人があとをたたない。千葉の浄国寺(銚子市春日町)にある、酒仏は、笠石が盃、塔身は徳利、台石はお膳の形をした石で組みたてられた墓である。天保年間(一八三○〜一八四四)、鈴木玄庵という医者がこの地におり、死後、貧乏のどん底時代に無料で診察・投薬をしてもらった人たちが、酒好きだった先生を偲(しの)んで建てたもの。当初は、先生の功徳を慕って病気平癒が祈られたが、いつしか酒断ち祈願にかわって、徳利に酒を入れて供えると効験が増すということになった。(「江戸風流『酔っぱらい』ばなし」 堀和久) 中真佐夫・六角弘共著「全国神佛ご利益総覧」にあるそうです。 


黄色っぽい、ソバ粉を練ったようなもの
ある日、河っ原の野球から帰って、腹ペコだったときのことだ。夕食まで、まだ時間がかかるようである。「これでもちょっと、食べていなさい」母が、茶碗に半分くらいの、黄色っぽい、ソバ粉を練ったようなものを出した。旨かった。「もう一杯!」「だめだめ。食べすぎると、大変なことになるわよ」「どこどこ?」台所に走って行き、この、なんともヘンテコリンに旨いものを捜し、こんどは茶碗一杯たいらげた。そしてすぐにもう一杯、腹に詰めこんだ。満腹した。同時に天と地が、グルグル回転した。ドターンと引っ繰り返った。目が覚めた。なぜかふとんの上に寝ていた。二時間くらい経っていたのであろう、隣の部屋で、みんなが夕食を終わったばかりのような気配だった。「ミズーッ! 水ちょうだい」隣の部屋で、父が笑っていた。「この子はいまに飲み助になるぞ」造り酒屋の家からもらった酒粕を、ぼくは茶碗二杯半、食べたのだった。しかも、堅い板のようになった、町で売っているような酒粕ではなく、もう一度絞れば、二番目の酒がとれるという、酒が充満した粕ではない、酒の元だったのである。(「九段坂から」 岩城宏之) 


桓景
後漢の時代、汝南(江西省九江)の桓景という青年がある時、費長房という先生から言われた。「九月九日に君の家が災難にあうだろう。家の人に赤い袋を作らせて茱萸(ぐみ)の実を入れ、小高い山に登ってこれを簪(かんざし)にして菊の酒を酌むがよい。」桓景はすぐ家に帰り、いわれた通りにした。九月九日の晩、山から家に帰ってみると、鶏や犬、羊などがみな変死していたが、桓景たちは、山に登っていたおかげで難を免れることが出来たという。以来、茱萸は香りが強いため、邪気を払う力があると信じられるようになった。「登高」やこの時飲む「菊の酒」はわが国にも伝えられ、俳句の歳時記にもある。「登高」としては 一足の石の高きに登りけり 虚子  かく縁の高きに上り下りにけん 虚子  があるし、別に高い所に登って酌み交わさなくても、この日に飲む酒を「菊の酒」といっている。 草の戸や日暮れてくれし菊の酒 芭蕉  草の戸の用意をかしや菊の酒 太祇  酒買いにやる慈童あり今日の菊 也有  寿ぎの舞終えて注がるる菊の酒 芳子(「味の歳時記」 吉村公三郎) 


生き仏たち
文豪幸田露伴(一八六七〜一九四七)が死んだときは、まだ戦後間もなくで物資のいろいろ不自由なころだった。しかし通夜の晩には翁の好物の一升びんがたくさん集まり、娘の文子は「お父さんが生きているうちには、こんなにお酒が集まらなかったのに」となげいた。通夜の客は翁の酒についての思い出をはなしながら、それを飲んで酔った。そのあげくに、棺の中に入れてあった刻みタバコの「白梅」と銀ぎせるをとり出して、みんなで回しのみをした。その「白梅」はその頃製造中止になっていたのだが、翁の好物だったのである人が一袋やっと手に入れ贈ったものだった。(「ユーモア人生抄」 三浦一郎) 


横に一本
献酬といふものがある。杯のやりとりである。昔にくらべればずいぶんすたれたが、今でもすこしは残つてゐる。すたれたのは、何のことはない、日本酒がはやらなくなつてウィスキーの水割りが全盛を極めた。まさにその分だけのことかもしれない。しかし、あれは面倒くさくてうるさいものですね。文士の酒といふのは、一人一本、横に置いての独酌といふことに様式が決つてゐるのですが、そしてもちろん献酬なんかこんりんざいないのですが、わたしはあれが好きだ。明治・大正・昭和三代の文士の発明としては、これなんか上出来の部類に属すると思ふ。もつともこの発明は、吉田健一さんの説によると、別に仔細があつてのものではないさうである。戦前の文士は貧窮を極めてゐたから、他人に飲まれちゃ大変だといふので、自分の分をしつかり横に確保する。それが独酌といふ文士の飲み方の方式を確立することになつたのださうな。これぢやあ、杯のやりとりなんか、あり得るはずがない。(「男のポケット」 丸谷才一) 


樹海でおしゃべり
亀さん あれはNHKの番組で放送されたもんなんだけど、「ドングリの一生」というテーマで授業する予定だったんだ。シナリオもできていたし…。ところがね、亀さん、講演が苦手だから、スピーチの前にはいつもがっぽり飲むんですよ。それで気持を調製するんだな。そのときさえ調製すれば、もうなんでもないんだ。シラフの時の”高橋延清”は講演を引き受けたりする雑用係で、講演するのは飲んで出来上がった”どろ亀さん”なんです。ところが、いよいよ舞台に立った時には、もう”どろ亀さん”は”延清”のいうことなんかきかないんですよ。ブレーキがきかんわけで、題なんか決められてもこまるんだ。
姫さん でも、小学生の前で酔っぱらうわけにもいかないでしょう。
亀さん 実は前の晩も三時くらいまで飲んでたんだ。そして学校にいって、いつものように調製しようと思ってウィスキー出したら、校長先生がね、あまり飲まないで下さいっていうんだ。酒臭いんだよ(笑)。そういわれてすっかり調製に失敗してね。(「おとこ友達との会話」 白洲正子) 亀さんは、森林学者の高橋延清、姫さんは白洲正子です。 


どん底での食談
かつて魯迅は広東で『魏晋の気風および文章と薬および酒の関係』という長い題の講演をやり、いまそれを岩波版の選集でしらべてみると、一九二七年の七月のこと、二日間にわたってのことだたっとわかる。これは題から想像のつく話で、料理ではなくて酒が登場してくるのだが、地獄鍋だろうと酒だろうと、食談であることに変りはあるまい。食談で魯迅は古代を語りつつ自分の生きている時代を痛罵したのだった。辛辣を博識の糖衣でまぶして提出したのである。
 彼は大へん長い面白い話をゆうゆうとまくし立てた。話したのは紀元三世紀の文学状況であった。その講演で、彼は当時のある学者たちが政治上のごたごたを避けるために『一度酔えば二箇月に亘ら』ざるを得なかったことを説明した。そして、もちろんその要点を見出しはしなかった。(増田渉訳)
林語堂はそういったそうである。ではその要点は何であったかということを、林語堂自身も書いていない。書けば投獄されるか斬首されるかである、それがありありと書けるくらいなら魯迅もこんな講演をする必要はなかったわけである。紀元三世紀の学者も、一九二七年の魯迅も、一九五○年の老舎も、史前期も史後期も、革命以前も、革命以後も、酒や料理や食談は強権に抵抗する人びとにとって、どうやら、最後の、たまゆらの拠点となったようである。それはクラゲのように漂ってでも生きぬいていかなければならない人が万策尽きはてたあげくの韜晦だが、興味をそそられるのはそういう極限の地点で自身を無化したはずなのにそれがかえって強化に転ずるという事実である。増田渉氏はこの魯迅のたぶからし講演を”彼の全著作中の中でもこれは圧巻の作品といえよう”と書いている。(「どん底での食談」 開高健) 五石散 五石散(2)  


初めてのお酒らしいお酒
初めてお酒らしいお酒を呑んだのは音楽学校の一年生の時だった。先輩が、演奏会の後で、新橋の土橋の近くのお酒を呑む場所に連れて行って呉れた。今は高速道路の下になって埋められてしまった川の傍の、船室のような装飾のある小さなバーだったと思う。”門”という名前だったような気もする。女の人が、赤いカクテルを持って来た。美しい色の飲み物だと思って美味しく呑んだ。お代わりもした。全然酔わなかった。先輩の前でかしこまっていたからか、戦争中の事で余りアルコール分が含まれていなかったのか、何(ど)ちらだか判らない。その両方だったかも知れない。(「続々パイプのけむり」 團伊玖磨) 


わが生涯最豪華の酒
ヴベイという町は、ローザンヌから一時間そこそこだが、レマン湖に沿った美しい町だ。一行が訪れた日はあたかもローヌの祭りで、町はわきかえっていた。私たちはまず公会堂で御馳走になり、その後は近くのホールで催された、ヴォー地方の葡萄酒の共進会へ招かれた。思えば豪勢な二次会であった。大きな会場の中は小さく仕切られ、三十軒ほどの蔵元がのり込んでいた。ペンのお客さんには、タダでいくらでも飲んでいただこうという、甚だ結構なシカケであった。うれしいのはスタンドの内に立っている蔵元の親爺がみんなタップリの肥っていて、その酒を扱うことすこぶる厳粛だったことである。その小さなスタンドに立つと、何もいわぬ先に、「ウイ・ムッシュー」と言って、酒瓶をとり出す。吟醸といったヤツである。キルク抜きでポンと口を抜くと、瓶口を鼻先へもってゆく。嗅いでみてよろしいとなると、ガバガバ注いでくれる。匂いをかいでダメとなると、ポイと後ろへ瓶ごとほって捨ててしまう。(ああ、勿体ないことをするな)と、当時アルコール不足の日本からやってきたわれわれは、最初ガッカリしたものである。しかし、やがて酒屋というものは、かくあるべきものと思うと、その心意気がうれしくなって、なるべく気のむつかしそうな親爺のいる店を見つけてはとび込む。抜く、嗅ぐ、ダメ、ポンである。これを何軒かくり返さして、その間に合格品だけをいただいたのである。ああいい気持だ、オレの一生のうち、こんな贅沢な酒を飲んだことはねえや。これからも多分ないだろうなんてと思っているうちに、情けなや、心気モーローと相成った。わたくしは今でも、葡萄酒はラインでもボルドーでもない、スイスが一番だと固く信じている。しかもスイスではヴォー州(カントン)のやつがいいと思っている。外国から来た客人は、いくら大事にしても損のないものである。(「歴史好き」 池島信平) ペンは、ペン・クラブのことで、昭和26年ペン・クラブ大会がスイスのローザンヌで開催されたときの話だそうです。 


坊主しゃも
私が「坊主しゃも」という名を覚えたのも、河竹黙阿弥の「三人吉三廓初買(さんにんきちざくるわのはつがい)」であった。「三人吉三」は、お譲吉三、お坊吉三、和尚吉三の三人の「吉三」が出てくる黙阿弥の代表作であるが、その四幕目巣鴨吉祥院の場に「坊主しゃも」の名前が出てくる。吉祥院の堂守をしている源次坊という男が、一時「坊主しゃも」にいたことがあるというのである。この寺に居候している和尚吉三を訪ねてお坊吉三がやってくる。お坊吉三は源次坊と昔なじみで、今日は寒いから酒を二升ばかり、それに肴を買ってきてくれと源次坊に頼むのである。そこで源次坊は酒の肴には「しゃもでも買ってきませう」といって出掛ける。しばらくすると花道を、毛をとったしゃもを一羽、ねぎとともに縄でしばって徳利と一緒にぶら下げて帰ってくる。しゃもとねぎ、それに酒。いかにも雪のよいの夕方を思わせる買い物である。(「芝居の食卓」 渡辺保) 


土佐でのちゃこさん

今、全国の人気のあるお酒は、淡麗辛口が主流になっていますが、もともと高知の酒は、淡麗というよりは薄くて辛いお酒でした。一升も二升も飲みつづけるためには、味が濃くて重いお酒では飲みつづけられません。私がはじめて土佐を訪れたのは、二十五年前です。三日三晩飲みつづけたのに、飲んでも飲んでもこたえない薄いお酒なのに驚きました。土佐の人も仰天され、”前代未聞のウワバミが来た”との悪評が立ったものです。もし、十五代容堂侯が生きておられれば、さぞや、「お主、やるな」とおっしゃるか、「女子のくせに大べらぼうめ」と斬り捨てられるか、いずれにしても鯨海酔侯には見参したかったものではあります。因みに、毎年四月の最終日曜日には、大杯で飲みっぷりを競う「赤岡町どろめ祭り」が開かれるはずです。「どろめ」はイワシの稚魚、「のれそれ」はアナゴの稚魚で、生のまま酢味噌かポン酢で食べると、土佐の酒がスイスイと入ることうけ合いです。(「今宵も美酒を」 佐々木久子) 


ソーセージの粕漬け
今日、その酒粕は漬け物への利用が最も多い。奈良漬け、ワサビ漬け、魚の粕漬けなど。ところが仙台に住む伊沢平一さん(この人は私の見るかぎり希代の食の達人で、雁屋哲さんの『美味しんぼ』の実在のモデルとなっている人物)から、酒粕に漬け込んだ特製のソーセージが送られてきた。それをフライパンで焼いて食べてみるて、そのあまりのおいしさに仰天、口に入れて賞味しながら七転八倒する思いだった。酒粕と西洋の肉加工品との取り合わせに違和感など全くなく、あらためて酒粕の食材としての可能性を見せ付けられた。(「食に知恵あり」 小泉武夫) 


友情に乾杯
ダビデはエレサレムの町で、泥酔して歩いているところを、警察につかまった。彼は一晩保護されて、翌朝釈放される前に、署長に呼ばれた。「そんなに飲んでは周囲に迷惑をかけるし、事故にあうかもしれない。これからは気をつけなさい。いったい、どうしてあんなに飲んだんだね?」「いや、あんなに飲んだのは当然のことなんです」ダビデは答えた。「昨日の晩、まず一杯飲んだんです。一杯飲むと、新しい人間が生まれます。そして『聖書』にもよく出てくるように、二人のユダヤ人に出会うと、その友情を祝うために杯を重ねます。ですから、私はその新しく生まれたもう一人のユダヤ人と二人で、盛大に友情を祝ったわけです」(「ユダヤ・ジョーク集」 ラビ・M・トケイヤー 加瀬英明訳) 


「うま酒」
我々の食事は、民宿とはいえたいそうな皿数が並んでいる。それに対して、じいさまはいつもタクアンだのチリメンジャコだのの小皿を相手に、コップ酒を二、三杯。赤銅色に焼けた喉仏がキュッキュッと鳴って、それが実にうまそうなのだった。一杯飲んで機嫌のよくなったじいさまは、僕にその酒をついでくれた。聞くと、この酒は客に出すのとちがって、近所の酒蔵にじいさまがその都度行って分けてもらってくる「蔵出しの酒」らしい。味のわからないのには自信のある僕が、そいつを口に含んでみると、その酒は感知しうるギリギリくらいのほのかな甘味だけを残して、すうっと胃の腑へ吸い込まれていった。あまりに驚いた顔をしたので、じいさまは嬉しくなったのだろう、その後もどんどん僕についでくれた。そして、自分でついでおきながら、酔いがまわってくると一升瓶を抱きしめ、「そんなに飲んだらワシの酒がなくなってしまう」とすね始めたのである。そんなわけだから、これはほんとにうまい酒だったのだろう。この話にはまだオチがある。じいさまが一升瓶を抱えてごねていると、ミシッ、ミシッと音がして、「もっと年とったじいさま」がおりてきた。この人はつまり、今年で九十六歳になるという、「じいさまのお父さん」だったのだ。「じいさまのお父さん」は、息子をにらむと、「こらっ!お前はまた酒ばっかり飲みおって」と叱った。じいさまはプッとふくれて反抗した。(「しりとりエッセイ」 中島らも) 丹後半島の地酒で、島の名前に何か関連した銘柄だったそうです。 


阪神間のお茶人
日本毛織の社長だった川西清兵衛様もお宅でよくお茶事をされ、今と違って京都から須磨駅までは二時間以上もかかるので、一日がかりでそのつど出張したものでした。阪神間にはお茶人が多く、朝日新聞の村山龍平様、白鶴美術館を残された嘉納治兵衛様など、あちらにもこちらにもと、大寄せ茶会ではなく、本式のお茶事が大流行でした。どちらさまのお道具も結構なものばらりで思い出が多いのですが、とりわけ強く印象に残っているのは、乾山荘と庵号の乾豊彦様で、汽船や倉庫の社長さんであり、もうそのころからゴルフの名手で聞こえていました。(「包丁余話」 辻嘉一) 


秋色
寛文九酉年−享保十年四月十九日(一説に四月十九日)(一六六九−一七二五)。江戸中期の俳人。夫の寒玉(かんぎょく)とともに榎本其角(きかく)の門人。老舗の菓子屋の娘であったが、結婚して古手屋(古着・古物商)や倹飩屋(けんどんや、一膳飯屋)を営む。この倹飩屋には、酒好きの其角がよく立ち寄っては、杯を重ねたという。其角が没するやその年、遺稿集『類柑子(るいこうじ)』の刊行に尽力し、七周忌には追悼句会を開いて『石なとり』を上梓し、そして十三回忌にはさきの『類柑子』を再板するなど、ながく師恩を忘れず、これに報いた。(「江戸諷詠散歩」 秋山忠彌) お秋の酒句 秋色桜お前もか  


酔狂
或学者の云。酒は量(はかり)なし。乱に及ばずといふを、悪く心得たる人多し。乱といふは酔狂の事也と思へり。大なる誤なり。乱に及ばずといふは、心ゆるまり形おこたりゆくを、乱に及ばずとはいへり。かくのごとくの事に至らざるを、乱に及ばずとはいふ也。世俗の人、喧嘩(けんか)口論放逸のふるまひをなせるを乱に及ぶと心得たり。是は乱に及ぶ所の段をこえて酔狂といふもの也。孔子の宣(のたま)ひし乱は酔狂の儀にはあらず。始めは人酒をのみ、中比(なかごろ)は酒が酒をのみ、終りには酒人を飲とかや。酒が酒を飲は乱也。酒が人を飲は是を酔狂とす。易(えき)の辞(ことば)にも『酒を飲で首(こうべ)を濡(うるお)す、亦節を不知(しらず)』といへり。首を濡すとは、酒が酒をのむ也。節をしらずとは、おのれが程々のよき加減をしらざる也。酔狂は又此うへなり。武士は上に主人有故に、おそれて乱酒する事すくなし。町人は上に主人なき故、酒の乱多しといへり。(「町人嚢」 西川如見) 


熱燗 あつかん 燗酒
酒を摂氏五〇度にあたためるのがよいという。寒いときは、七〇度にも八〇度にも熱して飲む。熱燗である。
熱燗に舌を焼きつつ談笑す   高浜虚子    熱燗や食ひちぎりたる章魚の足   鈴木真砂女
熱燗の舌にやきつく別れ哉   村上鬼城    熱燗や酔へばすなわち支那のこと  遠藤梧逸
樽仙人熱燗の猪口ふふむ図か 石塚友二    熱燗や吐きし一語は神「シ賣」す   成瀬桜桃子
(「合本俳句歳時記新版」 角川書店編) 


諸商売人出世競相撲
関脇は、右が「唐物屋」で左は「造酒屋」だ。唐物つまり外国製品は、今では<とうぶつ>と読むが、江戸時代は<とうもつ>と読む方が普通だった。唐とは遣唐使の唐つまり中国のことだが、幕末期に来日したヨーロッパ人を見た日本の子供たちが「唐人、唐人」といったそうだから、日本にとっての唐は外国そのものであり、唐物屋は、外国製品を扱う商社・販売店の意味である。造酒屋が左の関脇の地位にいるのは当然で、今でも各地にある古い蔵元つまり醸造所は地元の有力企業である場合が多い。(「大江戸番付事情」 石川英輔) ちなみに、大関は米屋と両替屋になっています。別格の一つ、差し添え人に菱垣船屋がありますので、まだ、樽回船が強くない頃の番付なのでしょうか。 


酒樽
柄樽(えだる)(一)と塗樽(ぬりだる)(二)が寄合(よりあふ)て 「柄樽殿 貴様はよい人じゃ其様(そのよう)に箱の様成(ようなる)家を持たしやって、私(わし)は此(この)よふに家もなくそこら爰(ここ)らに放らるゝは、甚だ残念に存じます」「はて何さ貴様もわずか一升(三)、わしも一升」
(一)握り柄のある酒樽。祝儀用に用いられる。 (二)漆塗にて高さはなく横にひろがった形、これも祝儀用のもの。正面に墨にて贈主が文字など書くので漆塗にしておかぬと拭いては消しでは数回しか使えぬ (三)一生にかける(「江戸小咄集」 宮尾しげを編注)