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御 酒 の 話 21



労山の道士  骨煎餅  新酒仕込み  冷やし桶  昼寝  適量と法悦  本物の飲ん兵衛、本物のエール  酒ほがい(6)  大橋夫妻  変化への対応    滝に御神酒  ウナギと梅干し  魂を体内に入れる液体  教養ある紳士振り  掛取  コンニャク  酒も文化、料理も文化  ワンカップ大関  大宰帥大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首(6)  おねしょ  繁千話  ハノイの酒造り見学  こんな日  朝二合、昼三合、夜五合  天賞  これじゃ今は診察できない  酒を直す  武玉川(4)  前頭の何枚目か  酒屋火事  大宰帥大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首(5)  木精の取り締まり  さかやの しんえもん  福地桜痴  イシダイの皮  朝飲一盃酒  酒品方正  美しいろくろっ首  内酒  竿  太子講  大宰帥大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首(4)  春日の祭の祝詞  毒薬をふところにして天の川  酒問屋  トウゴウヤブカ  最高位は小結  リンカーン暗殺  木久蔵錦絵吟醸酒  奈良時代の禁酒令  ドロメ祭り  かねつけ祝  泡をこぼすな  魚骨亭  後に飛んだ  切腹  カラ酒  宴会の記録  大宰帥大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首(3)  馬鹿なことするより  下宿料の値あげ  私の恩人  ぼく好みの句  キンシ正宗、白鷹、神聖  宴会の酒を持ってくる法  平山芦江  大宰帥大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首(2)  バクダッドの酒合戦  枝豆  夜の酒場  坊主  麹酸  大宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首  鉄火和え  駄酒  寛政年間記事  安物を知る  深く蔵す  水に対するあこがれ  東條家の夕食風景  一抹の暗さ、少々のさびしさ  香取屋  晩年の鵬斎  南新川酒問屋高橋門兵衛  送別会での話  平安時代の酒(2)  試験の前夜  酒と共に去りぬ  外酒・内酒  鉄道模型中毒  前座  平安時代の酒  偽・酒のみの自己弁護  大盛堂  銚子浦  鱸包丁  からす、すずめ、ほたる  "ベタ甘"ではなく  戦国・近世大名の城下町の銘酒  グラッドストーン  Xeixu.  勧修寺文麿  餅で公界はならぬものなり  「ワイン文明とウイスキー文明」への若干の異議  ほんとうの出逢い  「叶」の酒  一見の客  晩酌(2)  ワイン文明とウイスキー文明  若いもの少ししさつて  交互の麻酔剤  豆カン  弁慶の使ひ  ジャニス・ジョブリン  高野山にて  竹葉  哭沢の神社に神酒すゑ  晩酌(1)  代筆  居酒屋・旅籠  牛酒、馬酒、豚酒  ビヤホール  諸工人の侠言  萩原朔太郎  お月さんいくつ  酔っぱらってるように見えない  五十日  アダルト・チルドレン  武玉川(3)  今度こそ  乾燥蒸気  説教酒  ハシゴ酒  花柳章太郎    おたまじゃくしが食べたい  清水卯三郎  嬶ァ天下  豊の楽  色彩家  ヒヤヒヤの押し売り演説  深夜の酒宴  滋酔郎  アザレア  思わず笑ってしまう二本の珍名さん10人  団体行動  いつまでも鳴り止まぬ嵐のような拍手  アンドルー・ジョンソンの副大統領就任式  隣の酒屋  酔鶴亭記  ニューフェイス  奈良時代の酒  手酌五合、髱一升  喧嘩エレジー−石倉三郎  酵母の純粋培養  食後の儀式  竹酒  ウマヅラ  掘り出された奈良の都(2)  和田酒宴  特に酒を賞美  ビール片手に  ほどほどに  毎晩練習  マスコミ  強いて之を禁じなば  一本だけ  王子たちの鏡  秋句  養父母を打擲して終身懲役  明治五年壬申  柏舟  二升五合  大禁物  酵母数  遵守事項  長幼有序  ペルシア人  ヤケ酒  暗号  だいじん  明治五年壬申  かしく  酒ほがい(5)  イワシのつみれ  唾液に含まれているアミラーゼ  ウナギの蒲焼き  大的上覧  楢づけ  初会の挨拶の盃事  斯道の研鑽  二つ口のあるティーポット  芸者を総揚げ  薬罐ノ口ノ径  五十円ソコソコの月給  大人の文化  広田社  千歳飴  南亭酔作  ラオ・ラーオとナム・カーオ  兵六憲法  奉公人の禁物大酒・自慢・奢  駄々っ子に  そろそろ切りあげるか  たまさかに  唐代の酒名  覗かれて  汽車を座敷に  三味線の箱  イワナのコツ酒  酒代稼ぎ  樽籐左衛門  焼酎一升  西園寺公望、渡辺崋山  秋夕節  大御酒の柏  掘り出された奈良の都  エノケンさん  飲酒 陶淵明  ナット・ターナーの暴動  日本酒に含まれている糖類  腸だけのつぼ焼き  角の居酒屋  茶屋  モッキリッコ  岡田以蔵  酒のでき具合  原料米の表記  「感想」  アンコウのあご  生もとと山廃もと  水はもっといい  樽香  小説書け  安い葡萄酒  酔っ払って風呂場で転んだ  酒を一升  うま口  重賢と玉山  お盆  不況対策の区民集会  白ボケ  隅田川の風流事  蔵開きの儀式  高田の貧乏徳利  鴎外の酒  口かみ酒  黒田の酒癖  生涯在酒




労山の道士
ある日の夕方、帰ってみると二人の客が師匠と酒を酌み交わしていた。日はすでに暮れたのに、まだ燈(あかり)もつけていなかった。すると師匠は紙をまるく鏡の形に切って壁にはると、やがて明月が部屋に輝き、その光は毛筋さえ照らし出すほどであった。門人たちは主客を取り巻いて宴席の世話をしていたが、客の一人が、「ああ今晩は実に愉快だ。しかしせっかくのことには、この楽しみをみなでともどもに分かち合いたいものです。」とそういいつつ、机の上から徳利を取って弟子たち一同に分けてやり、「さあみんな酔ってくれ」といった。王は考えた。七、八人もいるのに、一本の酒が何で行き渡るものか!かくてめいめい杯を取り、われがちに飲んで、ただ徳利の空になるを恐れるかのごとくであった。ところが、あっちへやりこっちへやり、代わる代わるついでも、酒は一向にへらぬので、王は不思議なことだと思った。そのうちもう一人の客が、「月の光を下さったが、こうしてひっそりして飲むんじゃつまりませんな。どうでしょう、一つ嫦娥(こうが 伝説上の女性。「上:羽、下:廾 げい」の妻で、不死の薬を盗んで月の中へ逃げた)を呼んでこようじゃありませんか!」といって、箸を月の中へ投げると、一人の美人が光の中から出て来た。はじめは尺にもたりなかったが、地上に下り立った時は、すっかり人間と同じ身のたけになり、ほっそりした腰とすらりとした頸(うなじ)をして、ひらりひらりと霓裳(げいしょう)の舞を舞いはじめた。それから歌った。 ひらひらと いざ帰らばや 月のご殿に籠(こ)もらばや その声はきよく澄んで、笛のようにはげしかった。歌が終わると、くるくる廻りながらすっくと立ち、机の上におどりあがったので、びっくりして見ているうちに、たちまちまたもとの箸になった。三人はどっと笑った。もう一人の客がいった。「今夜はまことに楽しゅうござった。すっかり酩酊つかまつりました。いやもうほんとにいけませぬ。わしを月のご殿まで送って下されんかな?」三人は席を移して、だんだん月の中にはいって行った。人々が見ていると、その三人は月の中に坐って飲んでいて、髭(ひげ)や眉(まゆ)まではっきり見え、鏡にうつった影のようであった。−(「聊斎志異(りょうさいしい)」 蒲松齢 増田、松枝、常石訳) 中国清代の伝奇小説だそうです。 


骨煎餅
次に小さい魚の中骨は、油で揚げて骨煎餅にすれば、いい酒の肴になる。鮎や鱚なら上等。小鯵もいいが、面白いのは穴子と鰻。どれも中骨が生のままではカラッと揚がらないので、あらかじめ日干しにする。最初は一六〇度くらいの油に入れ、ゆっくり時間をかけて揚げ、最後は一八〇度で揚げ終るようにすれば油もよく切れる。揚げた中骨を紙に取り、じゅうぶんに油を切って薄く塩を振る。こうしてカラッと揚げた骨煎餅、空缶にでも入れておけば、かなり保存もきく。(「本当は教えたくない味」 森須滋カ) 


新酒仕込み 避けたい風評被害 東北の酒蔵
東日本大震災で被災した東北地方の酒蔵で新酒の仕込みが始まった。震災後、高まった東北の酒への応援ムードは落ち着きつつあり、目下の課題は、福島第一原発の風評被害を避けること。蔵元たちは自ら原料のコメや水をこまめに検査して安全性をアピールしている。(伊藤甲治郎、武田裕芸) 東北有数の蔵元、宮城県大崎市の「一ノ蔵」で9月中旬、今期の酒造りが始まった。しかし、出だしの10日ほど、使用できたのは昨年のコメ。「せっかく新米を刈ったのに」。杜氏(とうじ)の門脇豊彦さん(48)は残念そうに酒米を見つめた。同社は毎年この時期、自社の水田で収穫された早場米で新酒を作り、11月に出荷している。しかし、今年は県によるコメの放射性物質で安全が確認されるまで新米を使用できなかった。同社は使用するコメと水の検査結果をホームページで公表しており、これまで放射性物質はいずれも「不検出」だった。出荷前の酒も検査し、結果を公表する方針という。300年近い歴史のある福島県二本松市の「奥の松酒造」は震災で工場の壁が崩れ、瓶詰めラインが故障して、約1か月間出荷できなかった。しかし、4月以降はこれまで取引のなかった地域からも注文が寄せられるようになり、売り上げは前年同月比で2割伸びた。一部の商品が在庫切れとなり、例年より1か月早めて9月から仕込み始めた。10月末からは新米を使う予定で、玄米と商品の両方の段階で放射性物質の有無を検査している。50種以上の商品すべての検査を業者に依頼するため、対策費は100万円を超える。同社の薄康雄総務部課長は「支援ムードで日本酒の消費層が広がったところなのに、風評被害で台無しにしたくない」と、気を引き締める。日本酒造組合中央会東北支部によると、岩手、宮城、福島の3県では、震災直後の3月は出荷量が大幅に落ち込んだが、4月から2〜3割増で推移し、マイナス分を回復した。「新酒ができてからが本当の勝負」という。(読売新聞 2011.10.3) 


冷やし桶
横になると、彼はいった。『さあさあ、諸君、諸君は、まるで酔っていないようじゃないか。これは容赦ならん、君達は飲まなくちゃいけないんだよ。皆でそう相談をきめたのだから。で、僕は、君達に相当酔が廻わるまでこの酒宴の座長に推そうと思うのだ−ぼく自身をだよ。さてアガトン、もしあるなら、大盃を一つ持って来させてくれ。いや、待った、それには及ばん!それよりか、給仕、君あそこの冷やし桶を持って来てくれ、』と彼はいった。並盃で八杯以上も入るのを見付けたので。彼はそれになみなみと注がせて、真っ先に自分でそれを飲みほし、それからソクラテスの方へさせと命じた、と同時にいった。『ソクラテスに対しては、諸君、私も全く術策の弄しようが無い、いくらでも勧められるだけ飲み干して、しかもけっして酔うということのない人なんだから。』(「饗宴」 プラトン 久保勉訳) 饗宴の終わり頃、酔っぱらって入ってきたアルキビヤデスの発言です。 


昼寝
ぼくは音楽会のある日は、午後の三時半から五時まで昼寝をする。効率よく午後に熟睡するためには昼食のときビールをガブガブ飲む必要がある。そのビールのためには早朝ゴルフがまことによろしい。ウィークデーの朝から玉転がしをして遊んでいるわけではない。なにもかも夜の音楽会のためのコンディションづくり、涙ぐましい努力なのであります。(「棒ふり旅がらす」 岩城宏之) 


適量と法悦
酔いによって、感覚が鈍くなるというのは寂しいことであって、普段より感覚が鋭くなっていることを自覚するくらいが適量ではないかと思われる。周りにいる女のほとんどが美しく見えはじめると、これは一種の危険信号である。また酒の肴に対して、うま味を感覚しなくなると、もういけませぬ。また平常心を失いはじめると、笑い上戸、泣き上戸の傾向があらわれる。日本的な飲み方だと、ここいらあたりからが宴もたけなわとなるのだが、これはあまりいただける風景とは言い難い。現代日本人の多くは信仰を持たぬので、何かで法悦や解脱を感覚しようとしている。その何かが、おそらくは酔いなのではあるまいか。「哀しい酒」のセンチメンタリズムの、もう一歩向うで、ほろ酔いつづけたいものである。(「都市探検家の雑記帳」 松山猛) 


本物の飲ん兵衛、本物のエール
英国には、まだまだ本物の飲ん兵衛が大勢いるのだ。特定のビールにありつくために、何マイルも車をとばす連中。英国の奇妙な営業免許規則のせいで、ある村ではほかよりも三十分パブを遅くまで開けていられる。だから十時半になると、メートルの上がった連中は、車にとび乗って隣村までぶっとばすことになる。その三十分の差を最大限に生かそうというのだ。しかし連中のこの熱意も、今の警察の取締りが厳しくて、水をさされがちである。ホップの香りがツンときて、ときには実際にコップの中に浮いていたりする昔ふうのビールに取って代った、マイルドな味のビールを飲む英国人も多くなったが、味の好みは再び洗練されつつある。木の樽から抜いて、原料のホップの芳香が残っているビールと、タンク車で運んでくる味も品質も均一なビールとでは、味に歴然とした違いがある。いわゆる本物のエールの愛好家は自分たちだけの会をつくっているが、これは、「昔にもどろう」という風潮に少なからぬ影響をおよぼしている。そこでビール会社も、昔ふうのビールの需要を認めて、出荷しているところが多い。(「パブの人間学」 ポブ・フレンド サントリー博物館文庫) '82年の発行です。 


酒ほがい(6)
よわきかな恋に敗(ま)けては酒肆(さかみせ)に走りゆくこと幾度(いくたび)かする(酒ほがい)
かなしくも心に触るる君が歌酒がうたふにあらずやと聞く(酒ほがい)
夕みぞれ都のなかの放浪につかれたる子が酒おもふ時(酒ほがい)
酒甕のうへあざやかにしるすらくわれの秘密はこのなかにあり(酒ほがい)
酒に酔ひ忘れ得るほどあはれにも小(ちさ)くはかなきわれの愁か(酒ほがい)
満つる時よろこび来り満たぬ時かなしみ来る酒甕を置く(酒ほがい)(「酒ほがい」 吉井勇) 


大橋夫妻
大橋さんは、外見上は、万事につけて強引に過ぎるようなところがあり、暴君になるのではないかと心配された。寿々子さんは「巨泉は寿々子でもっている」と言われるくらい行き届いた優しい心くばりの出来る女性である。女性である。年齢の差もあり、大橋さんはバツイチでもあり、私も本気で心配していた。ところが久し振りに会って、アニはからんや、オトウトしからんや、これが見事に良い夫婦になっているので、オーバーに言えば、腰が抜けるくらい驚いた。銀婚式を済ませたばかりだそうだが、二十五年も経てば、夫婦なんてナントカナルもんだなあの感慨を久しくした。大橋さんは日本酒党ではないのだが、寿々子さんは鰭酒をガンガンゆく。話題によっては「あんたそれ間違っているわよ」と巨泉をやっつけたりする。実に痛快な夜だった。(「江分利満氏の優雅なさよなら」 山口瞳) 


変化への対応
将来、食事が洋風化すればするほど、日本酒は不利とみられるが、逆に、今から、ハンバーグに合う日本酒、カレーライスに合う日本酒というものが開発できれば、これからの多様化、個性化の時代に、日本酒はその最先端を走ることができるかもしれない。そしてそれは決して夢物語などではない。つまり食習慣の変化をいかに的確に捉え、うまく対応していけるかが、これからのマーケティングの成否のカギになるということであろう。(「食文化の国際比較」 飽戸弘 東京ガス都市生活研究所編)'92の出版です。 



叔于田 従来「叔」は鄭の荘公の弟である共叔段を指すのだと言はれてゐるが当てにならぬ。寧ろ娘から好きな若い男を指していふ呼称だと解する方が自然である。この恋歌の第一章に
 叔、狩にゆく 巷に酒を飲む無し
 豈(あ)に酒を飲むなからんや
 叔が洵(まこと)に美しくまた好きに如かず
恋する身にしてみれば対手の男の酒の飲みぶりまでが好ましいといふ次第。この詩は三章から成り立つてゐるが三章とも叔礼讃に終始してゐる。(「詩経随筆」 安藤圓秀) 詩経 風にあるそうです。 


滝に御神酒
山頂の武蔵御嶽(みたけ)神社近くまでは、ケーブルカーで昇れる。その周りには、参拝者の宿泊所の宿坊が十数件並ぶ。仏教系の宿坊と違って飲酒に寛容な雰囲気で、夕食でも普通にビールなどが注文できるが、やはり修行の場であるから深酒は慎みたい。もちろん、神道の作法に従って朝のお参りもあるので、午後八時には眠りに就きたい。さて、滝行(たきぎょう)である。神道の作法にのっとって行うもので、勝手にやるわけにはいかない。日の出前に起床し、神職者の導きで五時前から無言で山を下り、道のり約三〇分の綾広の滝を目指す。そして滝に御神酒を注ぐ。屋外でふんどしに着替え滝壺に入る。夏でも冬でも水温は約四度。背中に水が刺さるようだ。そして滝の神の名「祓戸大神(はらいどのおおかみ)」を何度も唱えながら約三〇秒。これを二セット行う。岸に上がると放心状態である。(「酒場を愉しむ作法」 自由酒場倶楽部 吉田類監修) 


ウナギと梅干し
そして、食べ方もいろいろある。一般には、白焼きを食べるのに、ワサビと醤油を添えることが多い。東京、赤坂にある有名店のようにキャビアをのせて提供する店もあるが、キャビアは高価だからといって、同じ魚卵のタラコやイクラでは合わない。また、天然ウナギの白焼きを塩だけで食べさせる店も多い。さらに、北九州のある店では、白焼きに梅肉を添えて出している。ウナギと梅干しの食い合わせは迷信であることを知っている人は多いが、実際にトライする人は少ない。しかし、これが旨い。こんなに合うものかと感動するほどである。きっと、これを最初に食べた人が、あまりの旨さに相性の良さを誰にも教えたくない気持ちから"食い合わせ"の悪さを吹聴したのだろうと想像してしまった。白焼きには、まだいろいろな食べ方があるが、酒との相性を考える上では、一般的なワサビと醤油の組み合わせから考えることとする。まず、日本酒だが、純米酒でも精米歩合の低いママ米を使う特別純米酒のように、まろやかな味わいが、ウナギの淡白ながらふくよかな旨味とよく合い、ワサビの風味と特別純米酒ならではの後味の爽やかさがマッチする。温度は15度くらいがよい。(「『和』の食卓に似合うお酒」 田崎真也) 


魂を体内に入れる液体
晴の食物が日常化する著しい例に酒がある。酒は、昔は祭(晴の日)の際にしか飲まなかった。祭に酒を用いるのは、神を迎えて、神とともに酒を飲むこと、また酒を飲むことによって、精神に一種の異常さを来させることのためである。精神に一種の異常を来すということは、酒がただ神聖だということだけではなく、酒が魂を体内に入れる液体であり、酒によって人格が変わってくることで、これは、はたから見ると、酒の魂が体に入ったというふうに見るわけである。また祭に先立って、若い人たちに厳しい物忌みの生活をさせ、祭の前に酒を飲ませる。すると、神聖な物忌みの生活の後に酒を飲んで、人格が変わり、神の性格をもって祭の場に臨み、自然と神としての行動をすることになる。これも第三者として、信仰の上から見ると、神が乗り移って、ないしは神そのものが出現してきたと見るわけである。(「くらしの条件」 中尾達郎) 


教養ある紳士振り
どうも酒を飲んで酔態を示すのは、日本人の特質かあるいは弱点であろう。欧羅巴(ヨーロッパ)でも中国でもほとんど酔漢を見かけなかった。河上(徹太郎)にしろ私にしろ酩酊するのを心配してくれる共通の友白洲次郎が、先日二人を招いて英吉利(イギリス)のウィスキーとフランスのブランデーを出して「幾ら飲んでも前後不覚に酔うのは止めてくれ、君たちは教養ある紳士じゃないか」とまるで親爺のような意見をするのに恐縮したが、河上は既に酔い痴れて、「何をッ、判ったったら判ったよ」と教養ある紳士振りを示し、ウィスキーをかかえ、山を越えて隣村へ帰って行った。白洲の寝た後、私はブランデーを朝方まで飲み続け、これも紳士としての教養を発揮し、カラ壜だけを食堂へ残しておいた。(「私の人物案内」 今日出海) 


掛取
熊さん、八つぁんの世界も同様で、「八つぁん、ほら今年もまた掛取が来たよ。どうする?」「む、そうだなァ。む、、熊さん。横町のご隠居に教(おせ)えてもらったように、あれでいこう」「あれとは」「酒屋の番頭は芝居(しべえ)」が大好きだ。そこで近江八景に似た文句を盛り込んで、何とか掛取を追っ払っちまうのさ」「ほらほら、おいでなすったよ」「えー、お掛取さまの、おはいりィーッ」「む、熊どの八どの、合わせて、このたび月々溜まりし味噌醤油、酒の勘定。きっと受け取ってまいれとの主人の厳命ィー。上使(じょうし)の趣、む、かくの次第ィーッ」「へへーッ。その言いわけは、これなる扇面(せんめん)」「む、なにィ、扇の表に書かれしは、こりゃまさしく近江八景の歌。この歌もって言いわけとな」「心やばせ(八走)と商売にィ、浮見堂(うきみどう)やつす甲斐もなく、膳所(ぜぜ 銭)はなし、城は落ち、堅田(かただ)に落つる雁がねの(借り金の)、貴顔(帰雁)に顔を合わす(粟津)のもォ、比良のの暮雪の雪ならでェ、消ゆる思いを推量なし、今しばらくは辛崎(からさき)のォ」「む、松で(待って)くれろというわけか」「へへェーッ」(「志ん朝のあまから暦」 古今亭志ん朝・斎藤明) 


コンニャク
コンニャクを指でちぎるか、お椀の縁でヘギ切りして、から焙りする。別に鍋を熱くしてゴマ油をさし、炒め焙り、あと甘辛く煮つける。酒の肴にうってつけの小鉢が一つできるが、これを市販のコンニャクで作ると、煮べりして、始末におえたものではない。−
ところで神田に所在する日本こんにゃく協会が昭和四十三年に出した『こんにゃく史料』の巻頭に、古文書にみるはじめてのコンニャクを紹介している。文選(もんぜん)の蜀都賦(しょくとのふ)の註に云うとあって、<栩蒻(こにゃく)その根は白く、灰汁(あく)をもって煮ればすなわち凝成す。苦酒をもってひたしこれを食す。蜀人これを珍とす>これによると、古代の中国人はコンニャクを食べていたと知れる。(「味をつくる人たちの歌」 牧羊子) 


酒も文化、料理も文化
日本に限らず、世界のどこへ行っても酒と料理は密接に結びついているというのが私の持論である。日本酒の場合、その典型的な例が高知と広島に見られる。高知を代表する料理としてカツオの「たたきを例にとる。たたきはネギ、ニンニク、ショウガと香りもきついし、一切れも大ぶりだ。大きな皿に盛りつけた皿鉢料理のように豪快に食べるのが土佐風のいいところだろう。高知の酒は、口の中の魚のにおいを消し去るように、辛口でさっぱりとして切れ味がいい。いいかえれば、男性的な荒々しさがあるから、べたつかずに量も多く飲める。一方、広島の酒の特徴は瀬戸内のカキやオコゼなど淡白な磯魚の上品さをそこなわなわないきめこまやかな味のふくらみにある。米の味をきれいに導き出している。両者とも広島杜氏の流れを組むにもかかわらず、対照的な酒を作り出しているところがおもしろい。そこが酒も文化、料理も文化といわれるゆえんだろう。(「舌の寄り道」 重金敦之) 


ワンカップ大関
日本酒は燗で飲むものという常識を破り、"冷や"に注目してヒットしたのがワンカップ大関である。いわゆる逆転の発想によって生まれたヒット商品だ。東京オリンピックを記念して発売した同商品は、若者をターゲットにし、容器のデザイン、商品ロゴなど、それまでの日本酒のイメージとはまったくかけはなれたものだった。容器はブルー一色のコップ型、ロゴは英語、このセンスが受け、清酒を冷やで飲むことが一種のファッションにもなったのである。その後も自動販売機の導入やアメリカから技術を得たキャップの改良などでますます人気が高まり、ビール感覚で気軽に飲める酒として旅やレジャーの場でも重宝されるようになった。(「ヒット商品笑っちゃう事典」 モノマニア倶楽部[編]) 


大宰帥大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首(6)
今(こ)の世にし楽しくあらば来む生(よ)には虫に鳥にもわれはなりなむ
 今の世にし−シは強めの助詞。 虫に鳥にも−虫にでも鳥にでも。音数の関係で虫ニモのモが略されている。飲酒は仏教の五戒の一。これを犯せば悪道におちるという。 [大意]この世で楽しく酒を飲むなら、来世では畜生道におちて、虫にでも鳥にでもなってかまわない。
生者(いけるもの)つひにも死ぬるものにあれば今(こ)の世なる間(ま)は楽しくをあらな
 生者−生命ある者。 楽しくをあらな−ヲは間投助詞。 [大意]生ある者は遂には死ぬものであるから、この世に生ある間は楽しくありたいものだ。
黙然(もだ)をりて賢しらするは酒飲みて酔泣(えひなき)するになほ若(し)かずけり
 黙然をりて−だまっていて。 賢しらするは−利口そうに振舞うのは。 [大意]だまって利口ぶったふるまいをするのは、酒を飲んで酔泣きするのに、やっぱり及ばないものだ。
(「万葉集」 高木、五味、大野校注)  


おねしょ
陶器には素人のことだから、これがどの位結構な品なのか見当が附かない。とにかく正田(建次郎)さんが私のために特に焼いてくれたものだから大いに珍重して、来客にも自慢して飲ませていた。ところがある日訪れた客が、「先生この杯はおねしょしますね」という。言われてみると、私の杯の下も湿っている。肉眼には見えない小さな隙があって、毛管現象で酒がしみ出るのであろう。正田さんにそういったら、「ああ、あれはながく入れておくと漏るのだよ」と、あっさりいわれた。しばらくして、赭朱色に薄い黒灰色が面白くにじんだ盃をもう一つ焼いてきて、「これは漏らないよ」といって渡された。−
最近、正田さんから電話があって、あの盃を取換えるからといって、奥さんの運転で、わざわざ陋屋まで訪ねてこられた。渋い赭紫地に白い煙のような模様がぼかされた御持参の分は、前のもるのとは比較にならぬ素晴らしい出来栄えである。早速酒を暖めて二人で飲み出した。先生少々御酩酊とみえて、帰りがけに取り換えに来た古い方の盃を持って帰ることを失念してしまわれた。翌朝奥さんからの電話で、あれは捨てて下さいという伝言であったと女房がいう。(「逸遊雑記」 山内恭彦) 


繁千話(しげしげちわ)
二八馬骨子(ばこつし)足下(そつか)の得釆(とくへん シヤワセ)は如何(いかん)。不侫(ふねい ワタシ)は大ドロンコに及(および)サ 紅毛(おらんだ)のことばに、酔(ゑふ)た事を二九ドロンコと云(いふ)。是医者の仲間にてよく云ふしやれ言(ことば)なり
二八 以下、わざとむじかしい漢語と、中国の俗語とを会話の中にまぜて用いているが、これは当時の通人仲間に流行した口癖である。 二九 オランダ語で泥酔を意味するドロンケンのなまり。(「繁千話」 山東京伝 中野三敏校注) 


ハノイの酒造り見学
ばあちゃんは、かまどのところで、「ヒッヒッヒッ」と笑いながら、得意げに酒造りの実演を始めた。グエットちゃんは、それを全部通訳してくれる。わからないところは、辞書をひいて調べてくれた。材料は、もち米の玄米。玄米は食用ではなく、酒のために特別に作る。それを一〇日間壺に入れておき、麹を入れて、さらに一〇日間おく。麹作りは難しいので、マーケットで買って来るという。見かけはラオスに似ていて、直径五センチくらいの平べったいダンゴ状。どうやらこれは、中国でも使われている「もち麹」らしい。麹は、一八キロの米に対して一六個入れる。発酵した米を釜に入れ、そこに水を入れて素焼きのカメの底のようなフタをかぶせ、粘土でパッキングする。フタからは、ホースが延びていて、水槽をくぐらせてある。ここから酒が出てくるというわけだ。燃料は練炭だった。ばあちゃんは、ひとしきり説明が終わると、どうだ、エッヘン、というような顔をした。自分の長年培ったワザに興味を示してくれたことが、よほど嬉しかったに違いない。最後に、「ワシが造った酒じゃ。持ってきなさい」と言って、地酒をひと瓶持たせてくれた。強烈に辛くて強い酒だった。プーンとパンのような香りがする。洗練されたうまさはないが、手作りのあったかさが感じる、素朴な酒だ。私はお返しに、日本から持って来た紙パックの日本酒をあげると、ばあちゃんはまた「ヒッヒッヒッ」と笑った。(「女二人東南アジア酔っぱらい旅」 江口まゆみ) ハノイのばあちゃんだそうです。 


こんな日
つい半月程前、日本橋のある店で、李朝の辰砂で、松に二頭の鹿だが、一頭はうしろを振り向いて走っており、その後を一頭が追いかけている図で、流れるような線がでていた。しかるべき人が所持していた品で、最近見た李朝でこれを超える品は他になかった。とうてい私などが買える品ではなかったが、しかしそれを眺めた日から数日は、至福といってもよい感情ですごした。こんな日は酒がおいしく、その壺をおもいかえしながらのんでいるうちについ度をこしてしまうことがある。東京にでた日は、銀座の関西料理屋にたちより、酒は二本できりあげる。家に帰って自分の愛用している酒を一本のむためである。あれかこれか、と道をさがして歩いているうちに五十の坂をこえてしまったが、これからは美しいものにであえるだけがたのしみの日々になるだろう。(「いつもの道」 立原正秋) 立原正秋の酒 


朝二合、昼三合、夜五合
客間は「鉦鼓洞」といい、来客を通し、ここで酒をもてなした。大観は晩年いささか量は減ったらしいが、元気な八十近くまで、一日一升を飲み続けた。朝二合、昼三合、夜五合、客が来ると、さらに殖える。肴はあまり食べず、からすみ、塩辛といった小皿で満足した。料亭でも料理にはほとんど箸をつけなかった。この酒は師匠の岡倉天心の感化で、酔い方も、後に書くが、酒興に歌う、男の心意気をたたえた歌も、すべて天心ゆずりであった。(「ぜいたく列伝」 戸板康二) 


天賞
思案しながら、御徒町の方に、ガードに添って歩こうとすると、「勘兵衛」と書いた、飲み屋があった。お酒一合につき出しが五品ついて十五銭と書き出してある。仙台の銘酒「天賞」の蔵元の直営テナコトが書いてある。これなら五合飲んでも七十五銭ではないか。五品のつき出しが五編つくのかな?私は、ヨロコビ勇んで店にはいったのであった。お銚子も並び酒は十五銭で、上酒は二十銭。−
上酒を注文して、丁寧に飲んだ。上酒二本に並酒が六本、合計六本つまり六合飲んで金一円也だ。このくらいでチップを出しては失礼だからヤメタ…。そのころは、郊外といわれた、灯火も少ない赤羽の道を歩きながら、日本じゅうでオレほど幸福(しあわせ)な人間があるだろうかと思ったのが、昭和八年十二月二十三日であったのである。戦後、仙台に行き、「天賞」という酒蔵の主人であり、詩人であり、竹久夢二の研究家である天江富弥氏が、そのころの経営者であったことを知り、自来仙台に行くごとに、その本陣とする酒寮ろばたを訪れている。四十余年の夢は茫々たり、の感が深い。(「たべもの世相史・東京」 玉川一郎) 


これじゃ今は診察できない
ふたりは徒歩で十分ほどの所にあるアルコール依存症治療のクリニックを訪れた。待合室に座ると、周囲の通院患者たちが好奇のまなざしで酔いどれの友人に視線を向ける。紫色にむくんだ彼の顔と乱れた頭髪、ときおり大声で僕を呼ぶ酔態はクリニックの中でも異形の存在だった。受付の白衣を着た男性が一枚の紙を机に置いて「これに記入してください」と命じた。友人は震える手で本籍地や飲酒歴を書こうとする。すると受付の男性が首を振った。「これじゃ今は診察できないなあ。酔っぱらったままで来ると正確な診察ができないんですよ。まずアルコールを飲んでない状態で来てもらわないと」なんと事務的な事なかれ主義なのかと憤りもしたが、医師の説明を聞いているうちに納得せざるを得なかった。アルコール依存症の患者は両親や祖父母の飲酒体質の遺伝や家庭環境、さらには本人の飲酒の年数といった客観的な事実を口頭もしくは書面で報告しなければならない。泥酔状態の患者では正確な事実関係を報告することはまず不可能だろう。(「修羅場のサイコロジー」 本橋信宏) 


酒を直す
酒を直す。そのような生業(なりわい)があることは慶士郎も知っていた。仕事に立ち合ったことはないが、準備する様子は見ていたことがある。酒は生ものなので、ちょっとしたことで味が変わってしまう。樽に日が当たっていたり、蔵の中が蒸れたりすれば、それだけでおかしくなる。苦みや酸味だけでなく、よくない臭いが出たり、酒の色が変わったりする。もちろん、満足に飲むことはできない。この悪くなった酒に手を入れて、何とか飲めるようにするのが直し人の仕事だった。そのような者たちは摂泉(せっせん)には数多くしたし、江戸でも新川の近くに何人か住んで、酒問屋に出入りしていた。−
「直しにいい灰がどんなのか知っているかい」どこか突き放したような口調で菊助は言った。それが彼女の話し方らしい。「いや、残念ながら」「濃茶を茶椀に汲んで、その中に灰を入れる。そこで掻き立ててみるんだよ。茶はすぐに薄くなっていく。一刻のうちに済みきってしまうのが、よい灰。澄まなかったり、色が抜けないのは駄目な灰さ。−」
直しを進める菊助の手並みは実に見事だった。酒を嘗(な)めて味を確かめると、持ってきた山灰と吉野灰、さらに黄柏(おうばく)とらつこつを混ぜて、一気に樽に放り込んだ。酒は一瞬で濁ったが、菊助は平然としていた。「まずは、七日。このままにしてください。そこで味を確かめて、継ぎ足すものを考えます」(「酒風、舞う」 中岡潤一郎) 


武玉川(4)
旦那へさして逃るさかつき(旦那に酒を注いですぐ逃げる注ぎ手)
酔うて戻た妻を見上る(酔っぱらいの妻を寝床で見上げる夫)
二代とハ続ぬ下戸の蔵を買(下戸の蔵は続かない)
四も五もくハぬ下戸の関守(色々言っても下戸の関守には通じない))
盃出して伯父をしつめる(鎮める)(どら息子を説教する伯父が逆に怒りだして−)(「武玉川」 山澤英雄校訂) 


前頭の何枚目か
「文壇酒徒番付」という印刷物が毎年「酒」という雑誌から出るのだが、それによると私は前頭の何枚目かになっている。なぜ私が酒徒であり前頭であるかが、よくわからない。なるほど酒は多少飲むが、時あっては見さかいもわすれて飲み、帰りの車を何度かとめてドアをひらき、開いては吐き吐いては進発を命じまた停車させたりするがそれは年に一度か二度ぐらいで、あとは飲んでいるのかこぼしているのか、さだかでない飲み方をする。その私の上に、兵庫という二字が入っている。出身県のことである。兵庫かね、私は、と「酒」の編集部に聞きたいぐらいだが、毎年これを改めない。私は口惜しいが、兵庫県出身ではない。なぜこんなことをしたか、発想のモトは想像できる。その番付はベテランの文芸担当記者が討論の末きめるのだが(閑な話だ)、その審査員のなかに、百科事典派の哲学者のような物識りがいて、維新までの私の家は兵庫県飾磨(しかま)郡広(ひろ)という在所で田を耕していたということを、なにかのことで記憶していたせいだろう。(「ふるさと」 司馬遼太郎 )

酒屋火事
寛政六年[一七九四]甲虎(きのえとら)十一月閏
正月十日未(ひつじ)中刻秋田屋某といへる酒屋より出火、烈風にて山王御社、永田馬場、霞が関、虎御門外桜田辺諸侯藩邸数宇類焼、幸橋御門焼け、愛宕下日蔭町、新橋、芝新銭座、仙台、会津家等一円焼亡せり。
天保四年[一八三三]癸巳(みずのとみ)
○十一月朔日夜、八丁堀松下町代地福本といへる酒楼より出火、近辺類焼せり。
天保十三年[一八四二]壬寅(みずのえとら)
○正月二十七日、大風明方、深川山本町尾花屋(酒楼)より失火、近辺類焼あり。
嘉永三年[一八五〇]庚戌(かのえいぬ)
○十一月二十九日、暁丑(うし)下刻、本船町の酒屋長兵衛宅より出火、室町一丁目、小田原町、按針町、長浜町、伊勢町、瀬戸物町等類焼し、明六ツ(あけむつ)半時過ぎ鎮まる。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 武江年表で、酒屋が火元と記されているところです。どれも年末年始です。 


大宰帥大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首(5)
夜光る玉といふとも酒飲みて情(こころ)をやるにあに若(し)かめやも
 夜光る玉−述異記・戦国策等に出て来る夜光の玉。 [大意]夜光る玉などと大事そうに言うが、それも酒を飲んで心をはらすことに何でまさろう。
世のなかの遊びの道にすずしくは酔泣(えひなき)するにあるべかるらし
 遊びの道−狩猟・歌舞・文筆のことすべてを指す。 すずしくは−心楽しまず荒涼たるならば。スズシは荒涼の意。この句諸説がある。 [大意]世間の遊興の道に心楽しまないならば、酒を飲んで酔泣きをすべきものであろう。(「万葉集」 高木、五味、大野校注) 


木精の取り締まり
明治四十四年十一月十日、神奈川県保土ヶ谷町某が、焼酎に、木精(メチール)を混和して販売したること発覚し、次いで東京本所三笠町車夫大貫房次郎が、木精中毒にて失明したるより、一時問題をひき起こし、四十五年四月、厳正に調査せしに、焼酎、泡盛、赤葡萄酒等の、十中八、九はみな木精混和の疑ひあるを明らかにしたり。よりて四十五年五月、内務省取締規則を発す。この項を編纂中の、昭和十七年十一月にも、殺人焼酎の名にて、数名の暴死者と、失明者を生じたる新聞雑報あり。(「明治事物起原」 石井研堂) 


さかやの しんえもん
小林− いちごの にーがた さかやの しんえもん
ごがつの むいか しちびた はちゃさいて
くすりのんで とーか
かぞえ唄ふうになってますね。羽根つき唄です。初めのところ、越後の新潟ですが、昔は北前船の海往来がさかんでしたから、越後から入ってきたのか、あるいは越後に夢を託したのか、こういう歌があるんですねえ。
 −しちびた、はちゃさいて、というのは何ですか。
小林 それは、尻っぺたを蜂が刺してですね。(「わが心のわらべ唄」 小林輝冶) 金沢の羽根つき唄だそうです。 


福地桜痴
桜痴は前にも書いたように下戸だから、酔っ払った相手にからまれても平気で、応対した。塚原蓼洲という日報社の記者が桜痴の前に酔ってあらわれ、「飲まない先生が酔った者の話を聞いても、おわかりにならないでしょう」といったら、「なアに、そうでもないよ、君達の話は酔わない時でも、わからないのだから」。山口有朋が桜痴に「福地は酒を飲まないのを自慢しているようだが、女は買う、バクチはする、人と喧嘩をする。酒を飲むやつとおなじじゃないか」というと、「しかし、居眠りは致しません」と答えた。水野の家来だったころ、酒席で無理に酌をされるのに困って、大福餅を袂(たもと)に入れ、ムシャムシャ食べるので、みんなが注ぐのをやめた。「どうだ、名アンでしょう」(「ぜいたく列伝」 戸板康二) 


イシダイの皮
イシダイの皮に出会ったのは、もう随分以前のことである。南房総の沖で春の"乗っ込みマダイ"を釣っていたとき、外道としてかかってきたものだった。四キロ強のそれを刺身にしたのだが、残った厚い皮を湯引きしたのである。「イシの皮はうめえぞ。一杯やってみろ、こたえられねえぞ」と船頭さんが教えてくれたものだ。ていねににウロコを取る。とにかくこまかいウロコがびっしりとついているのだ。丹念にやらないとダメである。そして皮を引いた身は刺身にした。皮を拡げてまな板の上に置く。まな板はやや斜めにしておくのである。その上からサッと熱湯をそそぎかける。すると皮自体が生きもののようにチリチリッと締まる。煮えたぎった湯をたっぷりとまんべんなく振りかけるようにする。そしてすぐさま縮んだ皮を別に用意した氷水の中に沈めるのだ。これを間髪入れずという具合にやるのがミソというかコツなのだ。あとは細かくきざむだけである。そのままではちょっと味気ない。わさびじょうゆでもいいのだがこれは酢みそに限る。その昔、織田作之助はタイの皮の酢みそを好んだというが、それはマダイの皮である。イシダイの皮はマダイよりもコクがある。コリコリッとした歯ごたえも舌ざわりも一級上である。磯の香りが皮全体にしみ通っている感じだ。(「食いしん坊のかくし味」 盛川宏) 


朝飲一盃酒
朝(あした)ニ飲ム一盃ノ酒     朝に一盃の酒を飲むと
冥心 元化ニ合ス。         目のくらむ酔ひ心は造化の元気と合致し、
兀(コツ)然トシテ思フ所無ク     ぽかんとして何も考へず
日高クシテ尚ホ閑臥す。      日が高く上つてもまだ閑(のんき)に臥てゐる。』
○朝ニ飲ム」 (白)楽天は早朝酒を飲むことを好み、之を「卯酒(ぼうしゅ)」(卯の刻=六時頃の酒)と称して、詩に多く詠じてゐる。(「中華飲酒選」 青木正児訳著) 魚酢 


酒品方正
ひとくちに酔っぱらいといってもさまざまで、私がこの中のどのタイプかというと、どのタイプでもない。これでも酒品はいいほうである。酔って乱れず、からまず、殴らず。酒品方正。だから困る。なぜ困るかというと、酒品方正だから反省することがない。反省することがないから反省しない。反省しないから飲みすぎる。飲みすぎるから宿酔(ふつかよい)になる。ものごとを順にたどれば、論理的必然的にそういうことになるわけで、原因と結果を直結させてひっくり返せば、私の毎朝の宿酔は、私の酒品のよさの証明にほかならない。これは唯物弁証法的真実である。なんだそりゃ、と仰せのむきは、辞書を引いてごらん。哲学辞典とはいわない、国語辞典で結構、「唯物弁証法においては、弁証法は客観的事実の発展的法則である」というような説明がなされているはずである。酒品がいいばっかりに宿酔に苦しむ−これこそ「客観的事実の発展的法則」そのものであって、この弁証法を編み出すまでに、思えば三十年かかっている。俳句歴は十七年だが、お酒歴は三十年、厚みがちがう。俳句も、まあすこしはうまくなっているんだろうが、お酒はもっと上達した。上達のあまり、どいうやら融通無碍(ゆうずうむげ)の境地にさしかかったようで、何を飲んでもうまい。何を飲んでもしあわせである。(「江國滋俳句館」 江國滋) 


美しいろくろっ首
本所に美しいろくろっ首の化物がでるというので、仲間をさそって見物にいく。なかなかでてこないから、酒肴で一杯やって夜がふけるのを待っていると、向うから十七、八の美しい娘がきた。「おお、あれらしいが、あれが、ろくろっ首なら、笠森もはだしのいい女だ」「ねえさん、こちらへ」というと娘がくる。「一杯いかが」と杯を差すと、娘はにっこりと笑って、きゅーっと引っかけて、首をのばして、のどをなでて、「ああ、おいしい」「なあるほど、首が長くなれば、のど元を通るおいしさも、普通の人よりは長いわけ」「はい、お酒のときは、それでよろしゅうございますが、おからを食べるときは人一倍せつのうございます」(「小ばなし歳時記」 加太こうじ) 


内酒
さきに、結婚式を知らなかったという兵庫県家島の例をあげましたが、ここでも、私どもがふつう考えている嫁入りの結婚式を挙げなかったというだけで、じつはヨバイの行きはじめ、つまり馴染(なじみ)ができたとき、娘の家に酒一升、麹ママ緬二十束を持参して会食をし、契りのしるしとしたものです。この地方では、たいていの女性はこれを機会に町に出稼ぎにいき、二、三年働いて嫁入り仕度の金をつくってから「おばんです」といって、聟の家の裏戸から入りこむ例が多いようでした。ところが「内酒(うちざけ)」を入れて約束したまま、嫁入り期間があまりながすぎると、聟さんの家に引き移ったときには、聟さんは交通事故で死んでいたという意外な事件も起こりますし、初婚の嫁さんなのに、自分の子供を二人もつれて嫁入りするという例もめずかしくありませんでした。(「陽気なニッポン人」 酒井卯作) 昭和40年出版です。 


竿
庄内特有の苦竹(にがたけ)で延竿、合わせ竿、けずり竿、矢竿と多様、ちなみに継竿は邪道とされた。「気に入った庄内竿を海に延べているだけで楽しい」「昔ながらの竹竿は日本酒の味」と故老は言う。(「飲んだくれてふる里」 小宮山昭一) 


たいしこう【太子講】
聖徳太子の忌日を修する講中の称。毎年二月二十二日は其の日で、太子は推古天皇の二十九年同月同日に薨去されたのであるが、俗に太子は木匠の祖と仰かれるので、大工の連中が主としてこの講中たり、当日は業を休んで会飲したのである。
太子講内気な手合あらばこそ 皆威勢のよき連中
太子講ほぞをきめたり削つたり 食つたり飲んだり
ほぞをきめたり削つたり太子講 同上
おきあがれ下駄の歯入れも太子講 一廉の木匠顔にて
指金で勘定をする太子講 集つた人数を(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


大宰帥大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首(4)
あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似る
 あな−原文、痛。古語拾遺に「事之甚切、皆称阿那」とある。アナミニクは神武紀訓注に「大醜此云鞅奈「シ弥」尓句(アナミニク)」とある。 賢しらをすと−利口ぶるとて。 [大意]ああみっともない。「馬鹿馬鹿しい。酒など」と利口そうに振舞うとて、酒を飲まない人をよく見ると猿に似ているよ。
価(あたひ)無き宝といふとも一坏(ひとつき)の濁れる酒にあに益(ま)さめやも
 価無き宝−仏教で無上の法を無価宝珠という。無価は評価を超えて貴いという意味。pricelessと同じ造語。 いふとも−既に言っているが、たといそう言っても。純粋の仮定ではない。 あに益さめやも−どうしてまさっていようか。まさっていない。アニは反語・否定を導く副詞。朝鮮語の否定の辞aniと同源。マスはすぐれる意。 [大意]仏法などで、評価を超えて貴い宝というが、それも一杯の濁酒に何のまさるkとがあろう。まさりはしない。(「万葉集」 高木、五味、大野校注) 


春日の祭の祝詞(のりと)
天皇(すめら)が大命(おほみこと)に坐(ま)せ、恐(かしこ)き鹿島に坐す建(たけ)みかづちの命(みこと)、香取に坐すいはひ主(ぬし)の命、枚岡(ひらおか)に坐す天(あめ)のこやねの命、ひめ神、四柱の皇神等(すめがみたち)の一一広前に白(まを)さく、「大神等の一二乞はしたまひのまにまに、春日の三笠の山の一三下つ石(いは)ねに宮柱広知(ひろし)り立て、高天(たかま)の原に千木(ちぎ)高知りて、一四天の御蔭(あめのみかげ)・日の御蔭と定めまつりて、貢(たてまつ)る神宝(かむだから)は、御鏡(みかがみ)・御横刀(みはかし)・御弓(みとらし)・御鉾(みほこ)・御馬(みま)に備えまつり、御服(みそ)は、明(あか)るたへ・照るたへ・和(にぎ)たへ・荒たへに仕(つか)へまつりて、四方(よも)の国の献(たてまつ)れる一六御調(みつき)の荷前(のざき)取り並べて、青海(あをみ)の原の物は、鰭(はた)の広物・鰭の狭物(さもの)、奥(おき)つ藻菜(もは)・辺(へ)つ藻菜、山野の物は、甘菜(あまな)・辛菜(からな)に至るまで、御酒(みき)は、甕(みか)の上(へ)高知り、甕の腹満て並べて、雑(くさぐさ)の物を横山の如く積み置きて、神主(かむぬし)に、一七某(それ)の官位姓名(つかさくらゐかばねな)を定めて、献るうづの大幣帛(おおみてぐら)を、安幣帛の足(たり)幣帛と、平らけく安らけく聞(きこ)しめせと、皇大御神等(すめおおみかみたち)を称辞竟(たた)へまつらく」と白(まを)す。
注 一 奈良市に鎮座する春日神社の祭にとなえられる祝詞である。 二 御命令でありますから。 一一 神の前の美称。 一二 お求めになったままに。 一三 地下の岩石に宮殿の柱をしかと立てて。 一四 宮殿の美称。 一六 種々の物のたてまつりもの。 一七 この文は、ひな形であるから、某と書いてある。(「古事記 祝詞」 倉野憲司・武田祐吉校注) 


毒薬をふところにして天の川
毒薬とは、どうもカルチモンだったようである。これらの句の前に「一刻も早くアルコールとカルチモンとを揚棄しなければならない、アルコールでカモフラージュした私はしみじみ嫌になつた。アルコールの仮面を離れては存在しえないやうな私ならばさつそくカルチモンを二百瓦(グラム)飲め(先日はゲルトがなくて百瓦しか飲めなくて死にそこなつた、とんだ生恥を晒したことだ!)」などと書いているから、カルチモン自殺を図ったのだろう。酒を控えれば眠れないからカルチモンを飲む。カルチモン常用が不安になると酒を飲むそんな繰り返しだったが、そのカルチモンで自殺しようとしたのだ。しかし、金がなくて薬が足らなかったなんてところが実にいいかげんなのである。歩き続けて五日目になっても「一刻も早くアルコールとカルチモンを揚棄しなければならない」などと書いている。敏感すぎて死のうと思っても死ねないわけだ。それだけに余計つらい。死ねる人間の方が楽だなどと思っていたかもしれない。(「放浪行乞 山頭火百二十句」 金子兜太) 


酒問屋
十組と云ふは、塗物店・内店組・表店組・薬種店・通町組・綿店・紙店・釘店・河岸店・酒店・以上を云ふ。薬種店は前に云へる享保中定めたる二十五人なり。その他何年にこれを定めしこと、いまだこれを考えず。
右の内、酒は樽船と号す。大坂よりの廻船に積み下り、その他は菱垣船と云ふ。−
酒店、三十六戸、千五百両。
明樽(あきだる)問屋、五十五戸、七十両(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 


トウゴウヤブカ
実は、私の司会する科学番組<ウルトラアイ>で、酒を飲んだ人の皮膚に、なぜ蚊が群がるかを解明するため、私がビールを飲み、ディレクターの池尾君がジュースを飲んで、ほどよいところで蚊帳の中に入る。そこへ、東京大学理学部から運ばれてくる千匹の蚊が放たれるという仕掛けだった。依頼を受けた東大理学部では、なんのために蚊を使うのかを問い合わせてきた。「酒を飲んだ山川さんを刺していただければいいんです」と池尾君。「はあ、おもしろい実験ですね。では、ふだんはエサをやっている蚊に一週間断食させておきましょう。蚊にもいろんな種類がありますが、いちばんどう猛なトウゴウヤブカがいいと思います」と、東大側。おいおい、そんなむちゃな、とつぶやいてもあとの祭りだった。さすがに、このトウゴウヤブカの攻撃力はすごかった。しかも、千匹である。ビールでほろ酔い気分のわたしが蚊帳の中に入ると、いよいよ実験開始だ。蚊帳というのは、蚊から人を守るためにあるのに、このスタジオの蚊帳は、蚊に食われるために吊ってあるのだから、あきれる。かくして、千匹の蚊が一斉に放たれたときは、私は恐怖のために口もきけなかった。「ウォーン」飢えた千匹の蚊は、容赦なく襲いかかり、およそ八分間のあいだに三百匹近くが、ランニングシャツ一枚の私の肌に食らいついたのだった。一方のジュースを飲んだ池尾君には、五十匹ほどが刺した。結果は歴然。食われた私はブクブクにふくれあがり、よく民放のコマーシャルで宣伝しているカユミ止めなど、ほとんど効力はなかった。酒を飲むと、人間の血液の温度が上がり、蚊の体液の温度に近くなって吸いやすい、というのが、この涙ぐましい実験の結論である。(「当世やまとごころ」 山川静夫) 


最高位は小結
「酒」といふ雑誌があつて、正月号には「文壇酒徒番付」が載せられるが、例年の吉例になつている。私の最高位は小結まで昇進したことがあつた。しかし先年、病気をして入院したので、その入院中は、私は心ならずも休場せざるを得なかつた。以来、私の番付面での地位は下がる一方で、今年は終に引退、勝負検査役にされてしまつた。毎晩、私は晩酌を欠かしたことはなく、現役でも十分働ける自身を持つてゐるのに、残念であつた。しかし「取組場所」といふのを見ると、銀座、「エスポワール」「葡萄屋」「おそめ」等、新宿、「ばつかす」「キヤロツト」等、有楽町、「お喜代」等、等となつてゐる。成程、これでは私に現役の資格がないのも当然であらう。(「阿佐ヶ谷日記」 外村繁) 昭和36年1月18日の日記だそうです。 


リンカーン暗殺 一八六五
俳優のジョン・ウィルクス・ブースが、ワシントンのバー、カークウッド・ハウスで酒を飲みだしたのは、一八六五年四月一四日の午後三時である。四時にはディアリーの酒場につき、ブランデーを一本注文した。二時間後には、タルタヴァルの酒場でウイスキーを飲んでいたが、その隣がフォード劇場であった。暗殺決行の最後の準備を整えたブースは、九時半にタルタヴァルに戻った。そこではリンカーンの従者チャールズ・フォーブス、リンカーンの馬車の御者フランシス・バーンズ、アル中気味の警官でリンカーンのボディ・ガードのジョン・パーカーが一杯やっていた。一〇時一五分、パーカーが飲み続けているすきに、ブースは酒場を出て隣のフォード劇場に入り込み、リンカーンを射殺した。ブースの共謀者ジョージ・アツァロットは副大統領のアンドルー・ジョンソンを暗殺する予定だったが、飲みすぎて恐ろしくなり、計画を放棄した。(「世界おもしろ雑科2」 ウォーレス、ワルチンスキー他) 


木久蔵錦絵吟醸酒
ところで、林家木久蔵銘柄の酒があることをご存じだろうか。ラベルは私の描いた錦絵「長屋の花見」が大きくあしらわれた「木久蔵錦絵吟醸酒」がそれ。醸造元は、小田原市中町の相田酒造店で、創業明治二十三年、ご店主は相田良一さん(電話〇四六五-二二-五四〇五)。中辛の実にコクのあるおいしいお酒でおすすめですが、飲みすぎにはくれぐれもご注意。([落語の隠し味] 林家木久蔵) 

奈良時代の禁酒令
この禁酒令は、天平宝字二年(七五八)二月二十日にくだされた詔によるもので、皇族官人以下すべての者に、祭祀と病気治療以外の飲酒を禁じたものである。このように、直接飲酒を禁じた初出は、『書紀』持統五年(六九一)五月十八日条で、「酒宍(みきしし)を禁(いまし)め断(や)めて、心を摂(おさ)め悔過(けか)せしめよ…」、すなわち飲酒を断って身を清浄にたもち長雨の止むことを祈らせている。この年は四月から六月まで長雨が降りつづいている。奈良時代にも禁酒の詔は前記の天平宝字二年のほか、たびたび発布されている。しかし、前詔のように祭祀と薬用の場合は許す、というぬけ道もある。京都上賀茂神社の葵祭にも、酒を「お薬」と称して神前に供える例もあるので、この令が酒好きの万葉びとにどれほど守られただろうか。(「食の万葉集」 廣野卓) 


ドロメ祭り
ドロメ祭りとは高知県香美郡赤岡町海岸で催されるもの。特産のドロメを賞味しながら、心ゆくまで酒を楽しもうという、酒飲み天国、土佐ならではの勇壮な催しです。ドロメとは、片口イワシの稚魚のこと。海が澄んだときは、保身のために泥にもぐり、目だけをだしているところから名づけられました。ドロメ祭りのクライマックスは、もちろん"大杯飲み干し大会"。朱塗りの一升杯になみなみと注がれた酒を、いかに早く、こぼさず、美しく飲むかが、県知事をはじめとする審査員によって審査されます。ちなみに、最も早く飲み干した人は、昭和五十三年大会の傍士さん、一三秒というみごとな記録です。同時に行われるはし拳競技も、いわば酒飲みコンクールと呼べる物。二人が向かい合って箸を三本ずつ持ち、相手の打ち出す箸の数の言い当てを競います。負けた方は中央に置かれた献杯を飲みます。ドロメ祭りにかぎらず、土佐地方では宴席でよくこのはし拳が行われ、賑わいを添えています。(「酒博士の本」 布川彌太郎) ちなみに、現在赤岡町は江南市だそうで、市のホムページでは優勝者の平均時間が12.5秒となっています。 土佐でのちゃこさん どろめ 


かねつけ祝
この島では娘が十七になると、盛大な「かねつけ祝」をする。以前は男子の元服も同日に行われたというが、今では娘の元服だけが残っていて、十七歳の娘達はパーマをかけて、親が苦心して新調してくれた晴れ着を着て揃って宮詣りをし、揃ってあいさつにまわり、家々では酒宴を催す。−
宿の八十歳になるおばあさんのかねつけのときには、島田に結ってカンザシを六本さして、紅白粉の化粧をして絹の紋付をきて叔母につきそわれてかねつけ親の家に行ってかねをつけて貰ったという。「かねつけは嬉しゅうござんした。かねつけたらかわいらしい口元じゃ、などとほめられて」と目をほそめて話したが、かねつけ親に行くときには、大きな櫃に八十八の餅と四つの重箱に餅十五・酒一升・似〆・ナマミ(刺身)を入れ、大の男に持たせて行ったという。これも薯の餅だった。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 長崎県津島市鰐浦での調査だそうです。(昭和45年初版) 


泡をこぼすな
「泡をこぼすな!」については、野白(喜久雄)先生の研究ではっきりした。もろみには、酵母がその一グラム当りに一〜二億匹くらいいる。これは昔からわかっていたが、泡にはなんとその一〇倍くらいいるのである。−
高泡は少なくとももろみの量と同じくらいから倍くらいに達するから、その中にいる酵母の数は莫大な数になる。野白先生の計算では、もろみの全酵母数の半分くらいにあたるという。泡の中の酵母は、もろみ発酵の予備軍として、落泡となってからもろみに帰って活動するのである。したがって、この泡をこぼすことは酵母を失うことで、落泡以降の発酵、くいきりに関係してきてアルコール分の生成が悪くなる。これが泡をこぼすな!という理由である。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


魚骨亭
さて、飲み物の種類はつぎのとおりであった。 松葉ビール 部員の誰かが、ものの本でシベリアの原住民が、松葉ビール状の飲物をつくっているとの記事を読んで考案したもの。ぬるま湯のなかに松葉を多量にほうりこんで一日おくだけで出来あがり。うす緑色をおびた液体で、泡立ちはあまりよくない。少ししぶ味をおびて、かすかに松脂くさいにおいがするが、けっこう茶のかわりになる。アルコール分を含まないので、国税庁から密造酒の手入れをくらう心配はない。しかし、ビールというからには、酔いがまわるようにしなくてはという意見もあり、アルコール添加をし、砂糖を少量入れて甘みもつけた。 
魚骨亭カクテル ジュースパウダー、カルピスのたぐいを適当にミックスして、ソーダ、アルコールを入れてつくる、でたらめ飲料。−
ドブ 当時、京都では密造のドブロクを交番の前の飲屋でさえも出してくれた。わたしたちは、そんな飲屋の常連であったので、やすくわけてもらえた。飲屋で飲んでもビールビン一本の量が三十円だった。これをコップ一杯十円で売れば、かなり利益があるはずであった。そのほか、ほんものの焼酎、二級酒(合成酒)のたぐいも若干用意した。(「食生活を探検する」 石毛直道) 昭和34年開催の記念祭で、京大探検部が出した魚骨亭での飲物だそうです。ちなみに、つまみは、ザリガニのフライ、カエルのつけやき、タニシ、ドブ貝の煮つけ、オカウナギ(蛇)のカバヤキといたもので、売上げは七千二百五十円、純益は「たったの」七百四十円だったそうです。 


後に飛んだ
魚喃 弟がいるみたいな感じね。うちは同居を始めてからしばらくは私のほうが家にいられないぐらい忙しかったんですけど、今度は相手のほうが忙しくなってきて。私はスナックに一人で行くのが好きなんですよ。そこでしこたま飲んで、彼氏が仕事でぐったりして帰ってきた頃にはもうへべれけ。「今日さ〜」ってまくし立てて寝させないの(笑)。昨日も、沖縄に引っ越すスナックの常連さんの送別会で、予想外に飲んだら「上:夭、下:口 の」まれちゃったの。千鳥足で、「今度連絡するよ!」とか言って連絡先メモった箸袋がいくら探してもない、みたいな。それでうち帰って、酔っ払いながらうどん茹でてるとこにヤツが帰ってきて、「ちっ!一人分しかないのに」とか思いながらもうしゃべっるしゃべる。大騒ぎしたみたい。今朝起きたら、「頭痛くない?外側が」って、向こうが洗面台に立って歯を磨いている後ではしゃいでピョンピョン跳んでたら踵がツルッと滑って転んで私が後に飛んだんだって。
角田 あはははは(笑)。(「酔って言いたい夜もある」 角田光代) 対談相手は、魚喃キリコだそうです。 


切腹
第三 松田某
松田某は酒席で同藩の小島某と口論した。帰途、赤羽橋を渡ったところをふらふら酔い心地で歩いていると、耳の辺がひやりとした。振り返ると、さっきの小島が刀を抜いて立っている。松田は真影流が達者で、その上腕力もあるから、すぐに小島の腕を押さえて刀を動かさぬ。そこへ同藩の友人が四、五名来合わせたので、その腕を放し、「勝負するから御一同立ち会ってくれ」ということになった。仕方がないので一同承知をする。松田は抜くとすぐ上段に構えた。小島は青眼につけたが、いきなり横腹を斬り込んで来るのを、松田は刀を右の方へ下げて受け止めた。受け止めたがその時少し肱を斬られた。それと同時に、受けたままのその刀を小島の胸板に突っ込んで行く。小島はウーンといって倒れてしまった。松田は悠々と止めを刺してから、その死骸の上へ腰かけて切腹しようとしたが、一同が、「ここは往来である。屋敷へ帰ってからやった方がいい」というので、松田もそれに従って、一旦帰宅し、家族などにも暇乞いをして、大勢友人の集まった前で切腹した。−
第四、その他の場合
第四は、松平籐十郎がわが子を酒に酔わせて熟睡させ、その間に絞殺して、更に自分で腹を切ってやって切腹ということにした事件。(「続ふところ手帖」 子母澤寛) 


カラ酒
鈴木(義司) さっきの『黒松~生(しんせい)』の話だけれど、そこの社長さんがね、甘口の酒が多い理由は、カラ酒を飲む人が多いからだというの。カラ酒というのは肴なしで飲むことね。
馬生(金原亭) アタシも「からだによくないから、カラ酒は飲んじゃいけないよ」って、よくいわれましたよ。
鈴木 今の奥さんは酒の肴が作れない。子供のおかずと同じで、ハンバーグが出る。ハンバーグじゃ酒が飲めないから、カラ酒ばっかりになる。そうすると甘口のほうがおかずの代わりになるんですって。
渡辺(文雄) 酒の中に肴が入っているということですね。(「あの味 この味 ふる里 隠れ味」 渡辺文雄編)  黒松~生は、石巻市の三本木屋酒造店の酒名だそうです。 


宴会の記録
和銅三年(七一〇)三月十日の平城遷都から延暦三年(七八四)十一月十一日までの七十四年間、『続紀』の宴に関する記録を大まかに拾い上げただけで百数十回にのぼる。このうち、天平十二年(七四〇)の暮れから同十七年(七四五)の五月に至る約四年半にわたる恭仁京、紫香楽宮、難波京への彷徨の時代を差引くと、純然たる平城京時代の宴会の記録にのぼった数はちょうど百回である。平城京で記録に残った百回の宴会のうち、場所を明記していないのが二十回にのぼるが、残る八十回は、いずれも宮城内のどこかで宴が開かれたかを記している。それらを、回数の多い場所から順に列挙していくと、次のようになる。朝堂(17)内裏(13)南苑(10)中宮(8)閣門(5)大安殿(3)松林苑(3)前殿(3)東院(2)中門、殿上、鳥池塘、中朝、松林宮、南樹苑、南殿、大郡宮、中司南院、宮ノ南西、法王宮、田村第、重閣中院、軒、楊梅宮、内嶋院(いずれも各1)宴というものが半ば政治的、公的な性格をもち、しかも奈良時代の正史である『続日本紀』に記録として止められた宴であるから、宮城内でも儀式をとり行なう枢要な場所の朝堂や、天皇の座所である内裏が数多く出てくるのは当然だろう。(「掘り出された奈良の都−平城京時代」 青山茂) 


大宰帥大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首(3)
言はむ為便(すべ)せむ為便知らず極(きわ)まりて貴きものは酒にしあるらし
 為便−手段。方法。 [大意]何とも言いようも、しようもないほど、極めて貴いものは酒であるらしい。
なかなかに人とあらずは酒壺(さかつぼ)に成りにてしかも酒に染(し)みなむ
 なかなかに−ナカは中途半端の意。 人とあらずは−人間でいずに。 成りにてしかも−テシカは願望を表す。もとテは完了のツの連用形。シカは回想のキの已然形であろうが、テシカと複合して用いられる。 [大意]中途半端に人間でいずに酒壺になってしまいたいものだ。そうしたら、酒たっぷり染みることが出来るだろう。(「万葉集」 高木、五味、大野校注) 


馬鹿なことするより
写経して釈迦にコネをつけておく 竹野峰吉 新入り−
しゃらしゃらと脱ぐ娘は嬉し又哀し 永田矩章 新入り−
もう帰るあらまだいたのとママが言う 金子賢治 新入り−

馬鹿なことをするより朝寝朝の酒 島田順一 新入り
 これは皆殺しの句です。なぜならこれがウシロに来られると、店に居残ってるのも、脱ぐ娘に説教するのも、写経するのも、みんな"馬鹿なこと"として片付けられちゃうからだ。こういう手があるんだなァ。(「ぼけせん川柳 喜怒哀ら句」 山藤章二) 


下宿料の値あげ
居候をするにしても、本や衣類などを保管しておく場所がいる。また、ときどきは居候先から、もどってきて一日昼寝をするところがほしい。そのような目的のために部屋を一つ借りることにした。つまり、下宿だ。居候はただであるが、下宿先には金を払わねばならない。部屋代、食費込みで、一ヵ月三千円ということになった。下宿先にきまったのは、スクマ族のラシディ家だ。ラシディは、村で一番の酒造りの名手で、おまけに飲み助ときている。酒飲みのわたしには絶好の相手だ。あまり、いっしょにラシディ氏の手造り酒を飲んだので、食事、酒つきの下宿代三千円では気がひけて、こちらから申し出て、下宿料の値あげをしてもらった。(「食生活を探検する」 石毛直道) 東アフリカ、タンザニア共和国のマンゴーラ村でのことだそうです。 


私の恩人
たまに先輩の水商売のアカを身につけた人に会うと、私は自分まで淋しくなり、自分の将来を見るようで、商売が嫌になったこともありました。そんなとき、私のそんな様子を察してくれたお客さんに連れて行かれたのが"ばばあ横町"の「利佳」と「あづま」だったのです。まだ前の場所にあったころです。そこで誠実に商売をやっている先輩にお目にかかったとき、狭くて汚い店の中で何故か明るくはなやいでいるお店のお客さまたちと出会ったとき、私はそれまでのまよいがふっきれたような気がしました。長い時間をかけてつくりあげたお店とお客さまとの安心しきった関係、うつくしくはなやかなママ、その姿は私の恩人です。−(ひろた・かずこ 新宿花の木)(「新宿利佳の三十年」) 利佳は平成20年に閉店したようですが、花の木は営業しているのでしょうか。 


ぼく好みの句
近くの本屋さんに行ったら、石田波郷、志摩芳次郎両氏になる現代俳句歳時記(番町書房)の「秋」の巻があったので、「新酒」のところを開いてみる。編者によると新酒は、秋の季感ではないという。つまり、新酒の蔵出しが初夏だからだ。しかし、米のとり入れが秋であるため、俳句では秋季とさだめられたのではないか、といい、秋に蔵出しされる酒は、いうまでもなく新酒であると、註している。また、濁酒、つまり「にごり」とよばれるどぶろくは、その年の米で作るので。あきらかに新酒であるとして、今年酒、新走り、という語をあげている。新走りという言葉を、ぼくははじめて知ったのだが、いかにも原初的な新酒というひびきがあって、実に新鮮である。十句ばかりあった例句から、ぼく好みの句を左に引用させていただく− 戸をたたく人も寝声や新酒買 志太野坡  蔵あけて旅人入るゝ新酒かな 江森月居  杉の葉を添へて配りし新酒哉 小林一茶  生きてあることのうれしき新酒かな 吉井勇  目しひ目をしばたゝき酔ふ新酒かな 阿波野青畝  舌触り粗き新酒の小気味よし 三溝沙美(「新酒礼賛」 田村隆一 「酒恋うる話」 佐々木久子編) 


キンシ正宗、白鷹、神聖
銘酒キンシ正宗 伏見の酒の中で、キンシ正宗は早くから東京人に親しまれている。 創業 天明元年(一七八一) 店名 キンシ正宗醸造株式会社堀野商店、初代堀野久蔵 特色 灘にくらべると甘口で、キメの細かいさっぱりとした味。米を厳選して作り上げた大吟醸清酒である。酒の好きな人はもちろん、酒の嫌いな人も、この酒のいい事はすぐ判る。−
清酒白鷹醸造元辰馬悦蔵商店 創業 文久二年 店名の由来 酒銘の白鷹は百鳥の王であり、王者の風格と気品を持ち、「鷹」に清酒の清らかさをあらわす「白」とをあわせて生まれたもので、品質最高峰の清酒にふさわしい名前である。 創業者 初代辰馬悦蔵 特色 全国三千余種の清酒銘柄があるが、「白鷹」だけが、伊勢神宮の御料酒として古くから用いられている。 自家醸造酒の他、いわゆる買酒は一切していない。純粋の灘の生一本である。現在、ほとんど他では行われていないずりまいママを使用して酒を造っている。日本一の酒造米伊勢の山田錦の使用量は灘では一−二位である。 店名 株式会社辰馬悦蔵商店 「エピソード」−。白い鷹は千年に一度しか現れないというが、銘酒白鷹を好む有名人の酒徒は少なくない。政界では元総理若槻礼次郎、財界では郷誠之助(ごうせいのすけ)などは熱烈なファンであった。文人では芥川龍之介、尾崎士郎、吉井勇、船橋聖一氏などがある。−
清酒神聖 創業 享保年間 店名 清酒神聖醸造株式会社山本本家 店名の由来 創業から明治まで塩屋源兵衛、明治から昭和二十八年山本源兵衛商店、昭和二十八年五月から株式会社山本本家 創業者 初代塩屋源兵衛 特色 「神聖」は大伴旅人、李太白、白楽天の詩歌から取り入れ、書体は富岡鉄斎の揮毫による。神聖の酒味は五味が調和して飲みあきしない中庸酒で、和洋華どの料理にもマッチしているが、特に冷酒の味がいい。−(「味の日本史」 多田鉄之助) 


宴会の酒を持ってくる法
まず、ボーイが持ってきた酒を、右手で受け取る。それを図のように左手に持ちかえる。ワイシャツの下には、病人が使う水枕がかくしてあり、それから出たゴム・チューブがワイシャツのそでの下を通って左手にきている。そこで、他の人にわからないように、右手でポンプを操作してやる。石油カンの石油をストーブに移すときのあの要領だ。すると、アーラ不思議、コップの中のお酒はスーッと消えて、水枕の中におさまってしまう。「うまい酒ですなあ」とかなんとかいいながら金の密輸のときみたいに、水枕を二、三個腹に巻きつけておけば、洋酒の五、六本分は軽い。そして、自分のほんとの腹にも一本。たいていの宴会はこれで元を取っちゃう、となれば、こりゃ必需品だね。−
話は横道にはいったが、まあこういう発明がなされたのも、それが特許になった一九二九年(昭和四年)という、アメリカの大恐慌の年であったことを考えれば、やはり、必要?(「珍々発明」 中山ビーチャム)アメリカ特許1767820(1929) 


平山芦江
先生(平山芦江)は「都々逸」や「小唄」の作家としても知られて居られて、六畳の部屋の小さい床の間には「酒の相手に遊びの相手、苦労しとげて茶の相手」という自筆の細い掛軸が飾られていた。世間話や文学の話、それと芝居の話などに花が咲いて、時間の経つのを忘れてしまう程、話し上手な方で、そろそろお暇ましようとしたら「今日は私がご馳走するから、ゆっくりしてって下さいよ」と引留められた。東雲亭という料理旅館がすぐ下隣りにあるので、そこから料理を取寄せて一杯飲ませて頂けるのかと、勝手な考えをしてみたが、先生一向にその気配を示さない。しばらくして話が一段落した所で、「一寸、失礼します、一服やって待っていて下さい」と漸く腰を上げられたので、これから料理を註文しに行かれるのかなとと、これまた一人合点して待つことしばし、片手に青々とした新鮮な菜っ葉をぶらさげて入って来られた。炉に粗朶(そだ)をくべ、湯がたぎったところでその湯を鍋に移し、青菜を入れて一寸塩をして、三、四分してそれを取り出し、食べよい位に切って小鉢に盛り、鰹節をナイフでかいでその菜の上にふりかけて、更に醤油を落として出来上がり。酒は素焼きのとっくりに入れて火燗をして、稍々熱つ目になったところを別のとっくりに移し終ると、「お待たせしました、おひたしで一杯いかがですか」と酌して下さった。菜っ葉は先生が種子から蒔いて育てたのを、そのまま畑から取って来て下さったもので、新鮮といえば新鮮、これ以上新しい野菜はない。酒は一級酒らしかったが、火燗にすると練れて美味しくなる。(「喜言冗語」 小菅孝一郎) 


大宰帥大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首(2)
古の(いにしへ)の七(なな)の賢(さか)しき人どもも欲(ほ)りせしものは酒にしあるらし
 七の賢しき人−晋(しん)の阮咸(げんかん)以下七人が竹林の下に集り琴酒を玩(もてあそ)んで清談を事とした故事。 酒にし−シは強めの助詞。
賢(さか)しみと物いふよりは酒飲みて酔泣(えひなき)するしまさりたるらし
 賢しみと−自ら賢いとして。 [大意]賢人ぶって物を言うよりは、酒を飲んで酔い泣きする方がかえってまさっているらしい。(「万葉集」 高木、五味、大野校注) 


バクダッドの酒合戦
さて、アルサディのジャッジで酒合戦が始まった。みていると、ハッサンは若いし体もよいので、ピッチが早い。グラスにアラクをつぐと、水も割らずにぐいぐいとあおる。言い忘れたが、ゲームの初めに、アルサディが、両軍のアラクをテーブルの上に少量こぼし、マッチで火をつけてみせる。私は、水割りで白くなったアラクをなめながら考えていた。アラクは、匂いもよいし、味も超セックで、辛口好きの小生としてはきらいな酒ではない。しかし、ストレートに三本はきつい。こういうときは、日本での教訓に従って、まず食うことだ、と思いつき、前菜の羊の焼き肉や野菜サラダを全部食ってから、またアラクの、水割りをちびちびなめていた。アルサディは心配して、「どうした?」と訊く。「うむ、おれは最後に一気に勝負をつける」と、私が答えているところへ、マズグーフが焼けてきた。目の下四十センチという大物で、黒鯛よりは鰈に似ており、白身でふかふかして、なかなかうまい。泥臭さは全然なく、皮の焦げたところがまた香ばしい。私たちは腕をまくり、手づかみでマズグーフを食い始めた。マズグーフを半分ほど食った頃、私は満腹していた。私は手元のグラスをぐっと呑み干すと、次のをストレートで注いだ。相手はすでに、二本目の半分にかかっていた。空きっ腹に呑んだので、かまり回って来ていた。私はピッチをあげ、一本目をあけ、二本目にかかった。やがて両人が三本目にかかったとき、私は「日本にアワモリというこれより強い酒があり、先頃、三本連続で呑んで即死した」という話をした。若者のハッサンは、三本目の半ばでギブアップした。空腹でピッチをあげたので、苦しそうであった。(「バクダッドの酒合戦」 豊田穣) アラクという55度のスピリッツ3本の早飲み競争だそうです。 


枝豆
莢(さや)の両端をハサミで切り落とし、塩を振って揉(も)むか、塩水に入れてガラガラ掻き回すかして水洗いし、たっぷりの沸騰している塩湯に投げこみ、蓋をしないで一〇分間くらい茹でる。ゆで加減を見てザルにあげ、薄く塩を振りかけ、風を送って冷ます。こうして茹でた豆は、そのまま莢から豆を弾(はじ)き出しながら口に入れるほかに、いろんな食べ方ができる。面倒だが、豆を弾き出して一粒ずつ薄皮をむき取り、染めおろしで和えると、醤油が加わって枝豆のもつ自然の甘みが際立ち、格段にうまくなる。、染めおろしとは、大根おろしに醤油を染ませたもの。先の『飲食事典』によれば、弾き出した豆に山葵(わさび)醤油をつけて食べるのもオツだとしている。また、豆を布巾に包んで糠味噌に漬けると風流な漬物になるし、焼みょうばんう少し加えて塩漬けにすれば冬までおいても色が変わらず、酒飯ともによいそうだ。(「本当は教えたくない味」 森須滋カ) 


夜の酒場
夜の酒場の
暗緑の壁に
穴がある。
かなしい聖母の額(がく)
額の裏に
穴がある。
ちつぽけな
黄金虫のやうな
秘密の
魔術のぼたんだ。
眼をあてて
そこから覗く
遠くの異様な世界は
妙なわけだが
だれも知らない。
よしんば
酔つぱらつても
青白い妖怪の酒盃(さかづき)は、
「未知」を語らない。
夜の酒場の壁に
穴がある。(「萩原朔太郎詩集」 河上徹太郎編) 


坊主
夜昼、ただ酒ばかり「上:夭、下:口 の」む男がいた、酔えばさながら死人(しびと)。人々は色々に意見したが、一向にきくことがない。ある日、例のように酔いしれて、大路に大の字になって寝ていると、友だち三人が通りあわせ、妻子を養わず酒ばかり「上:夭、下:口 の」んでいる馬鹿者め、こんな奴は坊主にしてやろうと相談して、剃刀をもってきて、三人がかりで頭を剃ってしまった。男は何事も知らず、あくる日眼がさめると、頭のあたり寒気がする。手をあててみると髪は一ト筋もなく、すっぺりとした坊主。これは自分ではあるまい。まず女房にきいてみようと、いそいで家に帰って、「コレ女房、この坊主はおれか」女房は坊主になった亭主を見て肝をつぶし、「この馬鹿坊主、どこからきた」と怒鳴る。やっぱりおれじゃねえと、一散に駈けだして、その後行方知らず。(「笑いのタネ本」 宇野信夫) 


麹酸
Q 新聞に「化粧品で使われる麹酸に発ガン物質、厚生省が使用禁止命令」という記事が載っていましたが、化粧品に使う麹酸と日本酒に含まれる麹酸は同じものですか?
A 麹菌が生産する物質として麹酸があります。この麹酸は皮膚のメラニン色素の生成を抑制し、美白効果があることから、化粧品に使われています。麹菌の種類と培養日数などにより麹酸の生産量には違いがあることが分かっています。日本酒に使う黄麹菌では五日間の培養で麹酸が生産されます。日本酒の麹は培養二日間で、でき上がり、これを使用していますから日本酒にも、甘酒にも麹酸は含まれていません。厚生省の検査でランダムに調査された日本酒から麹酸は検出されていません。(「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 


大宰帥(だざいのそち)大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首
験(しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし
 思はずは−思はずに。 [大意]甲斐もない物思いなどに耽(ふけ)らないで、一杯の濁酒でも飲むべきであろう。
酒の名を聖(ひじり)と負(おほ)せし古(いにしへ)の大き聖の言(こと)のよろしさ
 聖と負せし−魏の太祖が禁酒令を出したので酒「上:夭、下:口 の」みが清酒を聖人、濁酒を賢人と呼んだ故事。 大き聖−魏の徐「しんにゅう+貌」(じょばく)という人を指すか。 [大意]酒の名を聖とつけた昔の大聖人の言葉の何とよいことよ。(「万葉集」 高木、五味、大野校注) 


鉄火和え
同じ鉄火の名の付くマグロ料理に「鉄火和え」というのもあるが、これは純米酒のやや熱めの燗酒の肴として絶妙である。少し脂肪分ののった、まあ中トロってところだが、それを一−二センチ角のさいの目に切る。別にざっと熱湯をくぐらせた三つ葉を刻んだものと共に、ワサビを利かせた醤油で和え、小鉢に盛って上からのりを振りまいたものである。マグロのうまみとコク味、鼻をくすぐる三つ葉とのりの芳香、ワサビの刺激に富んだピリツンがうれしい。(「食あれば楽あり」 小泉武夫) 


駄酒
判断の頼りなさを克服するためには、世評の高い良質のウイスキーに親しんで、自分自身の嗜好を磨くよりほかない。駄酒しか飲まない人に、銘酒を評価する力はつかないものだ。そのとき、より鮮明で強固なイメージを獲得するには、漫然と美酒に溺れるのではなく、官能の捕捉した香りや味の印象を言葉によって、全体より細部を、抽象的用語より具体的用語で、プロファイルしていく修練が大切となる。表現を伴わないで認識だけが存在するだろうか。(「ブドウ畑と食卓のあいだ」 麻井宇介) 


寛政年間記事
○酒楼に於いて書画会を催す事此の頃始まる。(近頃印行の「名家書画談」に、書画会は寛政の頃鎌倉の僧曇熙といふものより始まりしよしいへり)。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 寛政は、1789年〜1801年です。 


安物を知る
安ぶどう酒を日頃飲みつけて、二日酔い、アタピン、胃痛、酸っぱさ、とげとげ、ガサガサ、シブサなど、要するに酒だろうと、香水だろうと、ハタまた文学であろうと、お粗末品すべてつきまとうイヤらしさをよくよくおぼえておくのが上物を味得するもっともたしかな、狂いのない方法である。言葉をちょっと変えると、日頃どれだけお粗末をたしなんでいるかによってどれだけ上物の全域と神髄が察知できるかがキマる。安物を知れば知るだけ、それだけ上物のありがたさがわかる。(「判定する」 開健) 


深く蔵す
盃は茶碗とちがい、見る機会の少ないものである。ひそかに盃を集めている人はかなり多いようである。私の知っているだけでも松永安左衛門、畠山一清、大蔵亀、梅沢彦太郎、井上恒一、岡部敢、小林秀雄、佐藤千寿、青柳瑞穂、野田「金秦」五郎、広田煕などそれぞれこれという盃をいろいろと秘蔵されている。しかし、かつてだれからも全蒐集を見せてもらったことがない。やきものでいちばん庫深く蔵されているのは盃かも知れない。(「徳利と酒盃」 小山冨士夫) 


水に対するあこがれ
このへんが実に微妙なところなのだが、ワイン文化は、多分、それ自体が本源的に水に対するあこがれを根に持っているのではないか。もしそうでなければ、ワインは、より強い酒をめざして進化の歴史をたどっていたはずだ。独断と偏見のそしりを恐れずにいえば、ワイン文化の内側でワインを飲む人たちは、ワイン文化の外側の酒飲みたちが考えるほど「酔い」を求めていない。彼らは「あとを引かない飲み方」でワインを日常の飲料としてきたのである。これを、われわれの「飲み方」と対比すれば、「酒」よりもむしろ「水」に近い。もしも、良質の水とワインと、どちらも飲むことも可能な場合、ワイン文化とは「それでもワインをとる」という頑固さを、果して、つらぬき通せるであろうか。(「ブドウ畑と食卓のあいだ」 麻井宇介) 


東條家の夕食風景
東條(英機)は酒好きというわけではないが、毎日、一定の量だけ晩酌をしている。たとえ親しい者が訪ねてきても、その量を越えて酒を飲むことはなかった。軍人は二十四時間の生活すべてを天皇に捧げた身、それゆえに酔うことは許されぬと信じていたのである。この一定の量とはどれだけかということを令嬢に質したとき、次のように答えたのである。「わたしたち姉妹は、父が食卓についたときお酒を徳利のなかにいれるのが楽しみで、順番を決めてそそいであげたものです。父は、徳利に書いてある酔心という文字の酔と心の間のところまでいれさせて、それ以上は決して飲みませんでした」血縁者が語る証言の強さは、このようなところにある。東條の部下たちは、東條さんはあまり酒を飲むほうではなかった、としかいえないが、令嬢たちから日常生活では酔心という文字のその中間の量までしか飲まなかったという事実を聞くことで、東條家の夕食風景、東條の性格までが想像されてくるのである。(「血族が語る 昭和巨人伝」 解説 保阪正康) 


一抹の暗さ、少々のさびしさ
客商売であれば足の便がよく、人通りの賑やかな界隈を思いがちだが、こと居酒屋に関しては必ずしもそうとはかぎらない。居酒屋の特性とも関係していて、足の便がよすぎると人は通り過ぎるばかりだし、人出の集中する繁華街は、えてして明るすぎるし賑やかすぎる。それというのも居酒屋には一抹の暗さ、少々のさびしさが必要なのだ。けっこう微妙な陰影があって、暗すぎたり、さびしすぎてもいけない。適当に薄暗く、わびしくない程度のさびしさ。店舗にしても新築早々とか、あまりに老朽化したのはおのずと敬遠される。前者は陰がなさすぎるし、後者は陰がありすぎる。(「今夜もひとり居酒屋」 池内紀) 


香取屋
斎藤緑雨の下駄は必ず伊勢由(いせよし)のもので、香取屋(かとりや)では面白くないと云つてゐたと、竹馬の友上田万年博士の話にある。併し緑雨自身「ひかへ帳」に書いたのを見れば、「香取屋を一とおもへるは伊勢由あるを知らぬなり、伊勢由を一とおもへるは、この外法(げほう)ありしを知らぬなり」となつてゐる。外法といふのは通人間に知られた店であつたが、気が向かなければ何十日でも仕事をせず、毎日酒浸りにたつていた為、たうとう潰れてしまつたのださうで、「遂に台無しになりて、今は隠し鋲の跡も留めず」と、下駄に縁のある言葉で緑雨は述べた。或は外法がなくなつてしまつたから、これに次ぐ伊勢由で満足したのかも知れぬ。(「明治の話題」 柴田宵曲) 


晩年の鵬斎
亀田鵬斎(かめだぼうさい)といえば、画の谷文晁とともに、文の鵬斎として関東の両大関に称えられた傑物。−
ところが、松平越中守−白河楽翁−にひょんなことでニラマレ、"異学を唱うる者"とされたため、塾は次第にさびれてしまった。しかし、いかに困っても、その節を屈しなかった。しかも、天明三年の飢饉のとき、「書は自分の命だが、困ったときはお互いさまだ」と、読本をのぞくほか一切を売却、この代金をソックリ寄附したが、生活は赤貧洗うが如し、だった。鵬斎の一人ッ子で、父におとらぬ学博をうたわれた綾瀬(りょうらい)がのちにこのころを語っていうに「夏、たった一枚の衣で、母がこれを洗う間、私はハダカで乾くのを待っていたものです」晩年−鵬斎は、集ってくるファンとともに、酒を飲んで談笑、詩文・画・書の需めに応じたので、徹夜も珍しくなかった。彼は専ら酒だけ飲んでいたらしく"異学"の名はいつか"酒仙"となっていた。あの文化十二年、江戸千住宿の中屋六右衛門方の"酒合戦"に谷文晁らとともに賓客として出たのは死ぬ十一年まえ、すでに酒仙として、酒だけ飲んでいたわけだが、まったく飯を摂らなかったというわけでもなかったらしい。しかし、その量は極めて少量だったとみられる。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


南新川酒問屋高橋門兵衛
その竹原につぎのようなビジネスを依頼した話がある。それは「現今東京多額納税者の一人、南新川酒問屋高橋門兵衛氏先々代門兵衛氏(商家の主人はたいてい襲名制だった)は自分親父と昵懇(じっこん)」、いいかえるとこの古老の父親とは親しい間柄だったために、先々代の門兵衛氏がこの古老の父親に「竹原に金を千両ほど預けたいのだが周旋してほしい」と頼んだ。これは多額納税者の一人が竹原銀行に金千両を預金するに当たって、身元確実な仲介人を立てたということになる。さっそく竹原の支配人にその事を話すと、三、四日たって、「先日御預金の儀、主人に相談致せし処、御預り金は総て御断り申候へ共、外ならぬ貴所の御紹介なれば、特別に御預り致すべし、されど御預り料は申し受けたし」という返事だった。なんで預金するのに預け料を出さなければならないのかと、仲介した親父さんも思ったのだが、それをそのまま門兵衛さんに伝えると、ごもっともと承諾して千両の預け料として、年に十五両、紹介人の親父さんに二〜三両の進物を謝礼に出したという。くり返すが金利でなく、一・八%の預け料である。しかし竹原としては、「此金を其侭(そのまま)倉置致し何時でも原形の侭(まま)相渡すことなれば、預り料をとるも無理ならず」という論理であった。(「江戸っ子歳時記」 鈴木理生) 


送別会での話
自分が異動する事になって開催された送別会での話。隣のテーブルでは、知らない会社の新入社員の団体(30人ぐらい?)が大学生ノリで大騒ぎしながら飲んでいました。トイレに行った際、隣の団体の幹事らしい人が「うるさくてすみません」と謝ってきたので、「酔って騒ぐのは若者の特権だ!」と励まし、そこでなぜか意気投合。トイレから出ると、彼らの席に加わり、社会人の先輩面をしてイッキ大会の輪の中心へ。その後、どうやら彼らといっしょにカラオケボックスに移動したようで、明け方、知らない会社の新入社員数名に「○○先輩に一生付いていきますから!」と言われたところで我に返りました。自分の送別会なのに、1次会の途中で消えてしまいスミマセン。(こだま 36歳 男)(「酔って記憶をなくします」 石原たきび編) 


平安時代の酒(2)
当時、酒は官位や職階によって作り分けられていたので、必然的に濃厚な酒、トロリとした液体は上位に、粕主体の酒は下位に配らなければならなかったのだろう。すなわち階級制が一つの理由であったのかもしれない。濃醇な酒が必要であった第二の理由は、酒を作っている間およびできあがって飲まれるまでの間に、大切な酒が腐ってしまってはどうしようもないので、その対策のためではなかったのだろうか、ということである。−
第三の理由として考えられるのは、日常生活において、酒が糖材(甘味料)の一分として使われていたのではないかという点である。(「酒に謎あり」 小泉武夫) 


試験の前夜
明日はO教授の「美学概論」の試験があるという日の前の晩、一所懸命にノートの頁を繰っているところへ、高等学校以来の友人Kが訪ねてきて、新宿へ出ようと誘った。迷惑でないこともなかったが、O教授の講義ノート持参で新宿へ行って、ビヤ・ホールで一杯飲んだ。するとKが近くの遊郭へ行こうと言い出した。私は気が進まないので、応じなかった。Kはどうしても行くと言う。「それじゃお前は己の用事が済むまでの間、応接室で待っていてくれ」そういうわけで一軒の娼家の応接間で私ひとりはKが再び姿を現すのを待つことになった。火鉢にはもう火が入っていない。薄ら寒い夜であった。幸いO教授の講義ノートを持ってきたので、私は翌日の試験に備えて熱心にノートを読んで時を過ごした。やがてKが戻ってきて、一緒に外へ出たが、何だかばかばかしい気持ちがしてならず、またビヤ・ホールに引き返して、一杯、二杯とビールを飲んでいるうちにいい気持ちに酔っぱらってしまった。(私がひとりで飲んだビールの本数の記録は十二本、一ダースである。大学時代のことであった。)翌日、目を醒まして時計を見ると、もう正午近くになっていた。O教授の試験開始時刻は午前十時であったから、試験を受けることはむろん不可能になってしまった。その「美学概論」の講義ノートは、製本させて現在も書架の片隅に立ててある。(「蝶ネクタイとオムレツ」 高橋義孝) 


酒と共に去りぬ
【アトランタ発】去年だったか、オーケストラとの練習を終えて夕方ホテルに帰って来たら、ロビー中タキシードとジョロンジョロンのイブニングの善男善女がグラスを持ってパーティーの続きをやっていた。フロントでカギを受け取った時、いきなり見上げるような白人の大男がかけ寄って来た。「アイ・ノウ・ユウ!ユウ・マイ・フレンド」とつれあいに抱きついて来た。ベロベロで呂律がまわらない。「ノー、ノー」とはねつけても、でかい男の千鳥足でどこまでも追っかけてくる。エレベータに乗ろうとしたが、こんなのにいっしょに乗られて四十階も行くのは、自殺行為に等しい。ヒズ・フレンドは殺されないかもしれないが、彼女にくっついている日本の男のぼくはどうなるのだろう。二人でロビー中逃げまわった。まわりの善男善女は声をひそめて見ているだけだ。ホテルのフロントマンたちも助けに来ない。ぼくはポリスを呼んでくれと、大声で何度も叫んだ。勇敢なアメリカ市民の魂を持ったおあさんが、ヨッパライをなんとか止めようと来てくれた。だがつれあいを抱こうとしてあばれるベロベロを手で押しのけたりしない。さわらないのだ。アメリカでは、先にさわった方が暴力罪になる可能性があるからだろう。酔っぱらいがピストルを持っていたらそれっきりだし、だが、ぼくがもし持っていたらぶっぱなしていただろう。正当防衛ということになる。やっとの思いでガードマンの部屋に逃げ込んだ。部屋にわれわれを隠し入れたガードマンが、機転をきかして外から鍵をかけ、ドアの外で、彼女はあなたの友達ではないといっている、と酔っぱらいに説明している。ベロベロはドアをたたき続ける。パトカーが来るまで一時間もかかり、その間鍵をかけられたガードマンの部屋で、生きた心地がしなかった。どんなところでも一応平気で歩ける、昨日までの東京がなつかしい。(82.1.29)(「棒ふり旅がらす」 岩城宏之) 


外酒・内酒
いや、家のそとで飲む酒はシミジミ、旨いなあ。同じ銘柄(「白雪」か「老松」か)にせよ、家より旨い気がする。酒に外(そと)酒・内(うち)酒の区別あり、というところか。(「小町・中町 浮世をいく」 田辺聖子) 


鉄道模型中毒
離人症的な精神傾向がやって来て、人づきあいにも仕事にも、つくづく厭気がさしてしまっていた時に、鉄道模型にめぐり逢った。そしてそれは、一種効果的な精神療法として作用してくれたのである。十畳の半分くらいのスペースにレールを敷きつめ、深夜というより夜明け方まで、ラムのオン・ザ・ロックを飲みながら、大の男が鉄道模型を運転する。それは他者から見れば鬼気迫る情景かも知れぬ。狂気とぎりぎりのところで、稚気に返り、酔いの甘美さに魂をあずけ、漂着者ガリヴァーの視点で小世界を見降す。コトコトと走りまわる旅客列車や貨物列車のリズミカルな運動をながめていると、淋しさや、その他もろもろの想いは消え、やがて夜が明ける。新しい朝には救われずにはいられない。少しの時間を眠り、そういう数ヵ月を過ごしたあと、ようやく他の人々と接することの不快感が消えた。僕はアルコール中毒ぎりぎりのところで、もっと麻薬的な鉄道模型中毒にかかったのだった。そして僕はある朝、サン・スーシの町(著者が作った鉄道模型の町)に別れを告げた。サン・スーシの町からほとんどの建物が取り壊され、町はただの板きれにもどった。(「都市探検家の雑記帳」 松山猛) 


前座
ある晩、銀座で柴田錬三郎さんから水上勉さんの話を聞いた。「俺は水上とは講演旅行はしないことにしている。彼(あれ)は前座にしてください」といって、講演会は必ず前座でトップ・バッターを承る。あれは真冬の裏日本で、寒い日だったが…トップ・バッターは壇上に歩をはこぶと、額にかかる髪をやおらかき上げて、『しばれますなア』といいやがる。次いで、『私は福井の片田舎の貧しい家に生まれました。口べらしのために小学校を出るとすぐ京都の寺にやらされました。京都の冬も寒い。しかし小僧の私は寒い朝、早(はよ)う起きて、まだ暗い寺の廊下を雑巾がけするのです。あかぎれに氷のような水が沁みて…』という件になると、早くも婦人客の中には袂からハンカチを出して目頭を押さえる…それからは水上の独壇場−何か話すと、聴衆はハッと打たれる、うっとりとする、涙ぐむ…。めでたく終ったときには万雷の拍手。そのあと、この俺がのこのこ壇上に現れて、『眠狂四郎が』なんていったって、さっぱり効きめがねェんだ。うっとりもしねェんだ。だが、ここまでは俺も許すよ。彼が前座を承るのには理由(わけ)があるんだ。こっちが講演を早々に仕上げて会場をあとにして、まっしぐらに色街に行くだろ。店の女将に芸者を呼べ!というと、これが一人もいえェんだ。トップ・バッターの彼が、すでに総揚げしてやがる。俺はあいつとは講演旅行は行かないことにしている」(「幻の歌手たち」 矢口純 「ゴシップは不滅です」 野坂昭如編) 


平安時代の酒
まず、当時は「液体としての酒」と「個体としての酒」(粕)の両方を「酒」として位置づけていたのであろう。今日では、酒粕は酒税法でも酒類の範疇に入れていないが、粕(糟)とて米から生まれた酒であり、手に持つことのできる酒であった。だからこそ、多くの酒を作り分けている中で、「糟」という字の入った酒があったのではなかったか。粕も酒であったから酒化率など問題ではなく、濾して澄酒を飲み、残った粕はそのまま食べたり、または軽く焙って間食にしたり、湯に溶かして甘酒のようにして飲んでいたのだろう。見方によっては「飲む酒」と「食べる酒」とがあったとも言え、まことに面白いことだ。(「酒に謎あり」 小泉武夫) 


偽・酒「上:夭、下:口 の」みの自己弁護
昔から、甘いものが好きである。一般に甘いもの好きは、酒を飲まないことになっているが、私は左もやる。いちどだけ文壇酒徒番付の東の大関になったことがあった。東というのは、たぶん当時金沢に住んでいたせいだろう。私の出身は福岡であるから正しくは西の陣に入れてもらうのが筋だ。−
「でも、五木さんが酔っぱらっているのを見たことがない」「一時間に二、三杯なら、多少おしゃべりになる。流行歌をうたったりすることもある。時にはY談をやる。声が少し高くなり、血色がやや良くなる。これがずうっと十時間でも二十時間でも持続するわけだ。」「で、朝までやると水割り四八杯か」「そう」「かなり飲みますな」とは言うものの、どこか釈然としない表情だ。やはりぐぐっとグラスを空けて、大騒ぎしないことには、酒飲みとは認められないものらしい。(「重箱の隅」 五木寛之) 


大盛堂
渋谷駅前の大盛堂書店は、すでに七十年に近い歳月を道玄坂と共に歩んで来た店である。初代の舩坂米太郎氏は山梨県の造り酒屋の次男として生まれたが、父の代に至って倒産の悲運に遭い、立身の道を東京に求めて上京した。米太郎氏が渋谷に来たのは明治四十二年であった。−
米太郎氏は開業資金をえるために屋台を引き、それに本を立て並べて、農大、国学院など、この周辺の学校を主として書籍を売り歩き、二年間の刻苦の末に、道玄坂下、十字路の右側に書店をひらいたのである。まだ宇田川橋の欄干がここにあった明治四十四年八月のことであった。米太郎氏は、明治生まれの人が多分に持っていた質実の気風を商法に生かして、大正年間すでに、渋谷の大盛堂、と広く店の名を人に知られるような隆盛を築き上げていった。(「大正・渋谷道玄坂」 藤田佳世) 


銚子浦
[六]世に謂(い)ふ銚子浦と云るは、その地勢の酒器の銚子似たるを以て云なり。浦の向地は常陸(ひたち)にして、こなたは下総(しもうさ)なり。浦の入口の海底ことごとく大石聳立(そばだち)てありとなり。この地の方言にガンバラネと云、何(い)かなる義にや。海底の巌石水面に見えざれば、船行する者甚(はなはだ)懼(おそ)る。よつて不レ知二案内一(あんないをしらざる)の者は船行叶(かな)はず。此処(ここ)の人の導(みちびき)を得て浦を出入すと云。浦入口の船路、石間纔(わずか)廿間(にじゅっけん)ばかりありて、其余は嶮巌(けんげん)のみと云へり。因(よつ)て口狭く中広きを以て銚子の名あるなり。(「甲子夜話」 松浦静山 中村・中野校訂) 千葉県銚子市  


鱸包丁
甥 これは よいお肴でござる。 伯父 それほどよいと思わしますならば、右をもって 五はい飲うでくれさしめ。 甥 イヤ さようには下されませぬ。 伯父 イヤイヤ わごりょはむつかしい上戸じゃによって、初めから強(し)いておかねばならぬ。ひらに 飲うでくれさしめ。 甥 その儀ならば畏ってござる。 伯父 さて 最前の熬物(いりもの)こそ出来たれと、柚(ゆ)の葉の香頭(こうとう)に、貝杓子(かいじヤくし)おっ取り添え、これもしつけ知ったる若い者が、これへ持って出(じよ)う、ところで これも、よそえ所をよそうて、そなたへもおまそうず、またみどもが食(た)びょうが、五はいの上では、よい肴ではないか。 甥 まことに よいお肴でござる。 伯父 それほど よいと思わしますならば、左をもって 七はい飲うでくれさしめ。 甥 最前の五はいさえござるに、そのようにはたべませぬ。 伯父 イヤイヤ わごりょは酔う上戸じゃによって、今から強いていかねばならぬ。ぜひとも 飲うでくれさしめ。 甥 その儀ならば ねろうてもみましょうか。 伯父 ウーン、一〇ねろうてみょうというは、飲もうということか。 甥 さようでござる。 伯父 ハ、それはちかごろ 畏り存ずる。 甥に対して頭を下げる 伯父 さて 小盃をもってちょろちょろと廻そうか、ただし、当世様に一三ざっと取ろうか。
註 四 吸物の中に入れる柚(ゆず)などの薬味。 六 盛りつけるべき所をうまく器に盛って。 八 なかなかたいへんですのに、の意。 九 上戸の中でも、酔って前後不覚になる方だから。一〇 それ(計十二杯の盃)を目標にしてもみましょうか。 一三 「ザット。事のはげしくすみやかになされるさま」(日葡)。(「狂言集」 小山弘志校注) ここに出て来る、右と左はどういう意味なのでしょう。 


からす、すずめ、ほたる
良寛の父以南は与板の新木(あらき)家から迎えられた婿養子である。従って与板には、こころやすい親戚や知人が多かった。山田杜皐(とこう)もその一人で、良寛の再従弟にあたり、杜皐は俳名、通常は太郎兵衛とよび、酒造業を営んでいた。夏は盆踊りの手拭いをもらったり、冬は防寒の帽子をもらったり、また、高級菓子の白雪羔(こう)をねだったりして、残っている手紙を見てもその交わりがわかるが、良寛はもっとも気がるにこの家にしばしば遊んでいる。ところで、良寛はこの家の内儀に「からす」と、また末から二番目の娘に「すずめ」と綽名(あだな)をつけていた。内儀は顔の色が黒かったから、娘は甚だ饒舌だったからだという。逆に、この家のおよしという女性から、良寛は「ほたる」という綽名をもらっていた。かれの顱頂(ろちょう)が光っていたからでは、蛍はおかしいので、蛍の出る季節になると毎年きまってこの家に来訪したためそう呼ばれたのか、どうも綽名の理由ははっきりしない。私は、初夏の夜、かれが提灯を持って外出し、大好きな蛙の鳴く音を川端の草むらのあたりで蹲(うずくま)って聞き惚れているところを、およしに見付けられたのが起こりではなかろうかと、勝手に想像している。さて、良寛を「ほたる」「ほたる」と呼ぶおよしに、次のような戯歌を与えている。 くさむらの蛍とならば宵々に黄金の水(酒)を妹(いも)たまふてよ 身が焼けて夜は蛍とほとれども昼(原よる)ははなんともないとこそすれ 遺墨(第六一図)を見ると念入りにも、二首の終わりに署名の代わりに「蛍」と一字を付けている。 ぬのこ一 此度御返申候 さむくなりぬいまはほたるも光なしこ金の水をたれかたまはむ 蛍 閑難都起 およし散 ほたる 山田屋 どの歌を読んでもほほえましく、蛍と黄金の水とを結びつけているのは、やはり当意即妙で、かれのユーモアと解すべきであろう。(「新修 良寛」 東郷豊治) 


"ベタ甘"ではなく
なにげなく旅館でマホー瓶につめてもらった酒を氷のうえで飲んでみると、鼻さきをはじかれるような寒気、爽烈のせいでもあったが、"ベタ甘"ではなく清淡だったので感心し、釣りを終って引揚げてきてから、丁重に蔵元に刺を通じ、醸造場を見せてもらった。それは諏訪市内にある古い家なのだが、すみずみまで清潔で、よく管理され、プロセスには古式を守るとともに新式にも鋭敏にとり入れてあって、小さいけれど神経がゆきとどき、親密によくまとまり、感じ入らせられた。別室に招じ入れられ、幾種もの作品を茶碗につがれ、黄綬褒章受賞者の老杜氏がひたすら謙虚に、コクはどうですか、香はどうですか、のどごし、まるみ、しみのぐあいは…と腰をすえてたずねかかってくるので、おろおろしてしまった。(「続・食べる」 開健) これは真澄のことでしょうか。 


戦国・近世大名の城下町の銘酒
児島酒 鹿苑日録(1597(慶長2)年3月条)
尾道酒 庭訓往来(室町初期)
三原酒 輝資卿記(1607(慶長12)年3月条)
道後酒 輝資卿記(1607(慶長12)年3月条)
小倉酒 鹿苑日録(1599(同4)年12月条)
伏見酒 多門院日記(1599(同4)年正月条)
小浜酒 鹿苑日録(1600(同5)年4月条) 若狭国
唐津酒 鹿苑日録(1602(同7)年5月条) 肥前国
島原酒 鹿苑日録(1603(同8)年6月条) 肥前国
防洲之名酒 輝資卿記(1607(同12)年3月条) 周防国山口
肥前之大樽 輝資卿記(1611(同16)年4月条) 肥前国佐賀
柳川大樽 資勝卿記(1631(寛永8)年5月条) 筑後国柳川(「日本の酒5000年」 加藤百一) 

グラッドストーン
一八六〇−六二年の間、宰相グラッドストーン出でゝ『大衆に、軽い飲料葡萄酒を与えよ』といふ政策を唱へました。グ翁は、ポットやフォックス等とは違つて、酩酊せんが為の飲酒はしませんでした。彼は葡萄酒は飲んだけれども、それは、葡萄酒が彼を元気づけてくれ、又彼の老齢にも拘らず、壮者を凌ぐ元気で激しい頭脳労作に堪へさせてくれることを知つたからでした。彼は葡萄酒を信頼してゐました。彼は又、若しイギリス人が、もつと葡萄酒を飲み、その反対に、もつと少くスピリツトを飲むならば、国民全体がもつと楽な生活が出来ると考えてゐました。そこで軽い飲料葡萄酒("light beverage wine")に対しては、原産国の如何を問はず、税を軽くしました。反対にアルコールを高めた葡萄酒は、それが、ドイツ、ポルトガル、スペイン、その他何国のスピリツトを以てアルコール分を補強したかを論ぜず、アルコール分に基づいて税をかけることにしました。(「酒の書物」 山本千代喜) 


Xeixu.
Xeixu.セイシュ(清酒)Sumizake(澄み酒)に同じ.澄んだまじりけのない酒.
†Sumizaqe.スミザケ(清酒) 澄んだ,漉した日本の酒.(「邦訳日葡辞書」 土井・森田・長南 編訳)  注: † 補遺所収の見出し語 


勧修寺文麿(かしゅうじふみまろ)
実はこのお坊ちゃま、極端にアルコール飲料に弱く、簡単に酔い潰れてしまうのだが、今にも潰れようとするその瞬間、あたかも別人格が生まれたかのようにいきなりシャッキッと背筋を正して名探偵ぶりを発揮するという癖(へき)があるのだ。いくら何でも、そんな変身探偵ってマンガ的過ぎやしないか、という向きもあるかもしれない。しかしこの文麿探偵に限っては、それが許されるんである。それもそのはず、この探偵、元はといえば、マンガのキャラだったのである。本書は望月玲子/漫画、高田紫欄(しいら)/原作の『麿の酩酊事件簿』全二巻(講談社コミックス)のノベライズ作品であり、「原作者・高田紫欄の許可を得て、高田崇史が大幅に加筆した」うえで、二〇〇三年七月、講談社ノベルズから刊行された。(「麿の酩酊事件簿」高田崇史の解説 香山二三郎) 


餅で公界はならぬものなり
もちで晴れの場所は処置することができないものだ。もちでは、世間の付き合いははできない。酒で晴れの場所、世間付き合いができるのだ。松葉軒東井(しょうようけんとうせい)の『譬喩尽(たとえづくし)』(一七八六年)に掲げ、<上戸の語。>と注記する。(「飲食事辞典」 白石大二) 


「ワイン文明とウイスキー文明」への若干の異議
ところでブリザール氏は、日本についてはウイスキー文明と断定する。「数種類の小さなオードブルでお酒を飲み、飲み終わるとご飯を食べるが、このときは一切お酒は飲まない」からだという。しかしこれには若干異議がある。大食漢のフランス人やアメリカ人にすれば、お刺身や、てんぷらなどは、"小さなオードブル"と見えるらしいが、これらは日本人にとっては立派なメインディッシュである。だから日本人の意識では、"たべながら飲んでいる"ともいえるだろう。飲んだ後のお茶漬けや、茶そば、おにぎりの類は、むしろデザートに近い。さらに食事が終わってバーなどへ二次会に繰り出せば、これは立派な食後酒である。こう考えると、日本はワイン文明に近そうだ。もちろん軽く飲む時などは、おつまみ程度で済ませ、すぐ食事に入ることもある。そういう時はウイスキー文明かもしれない。どうやら日本はフランスとアメリカの中間のようだ。(「食文化の国際比較」 飽戸弘 東京ガス都市生活研究所編) 


ほんとうの出逢い
敗戦後は酒はよくのんだ。但し、金がないからおごってもらってのんでいたのだろう。三十をすぎているのに、酒品は全くなく、理屈酒、怒り酒のたぐいであったのではあるまいか。当時つきあっていて連中を大分怒らせたらしい。島尾敏雄もその被害者のひとりだと思う。若い女の人におごってもらった場合は、大抵は相手が陽気な酒豪であったので、すこぶる機嫌よく酔うように教育されたらしく、酒をのむのは楽しいこともあるらしいということになりかけた。だから、このあたりがわたしの、酒とのほんとうの出逢いということになるのではあるまいか。ほんとの出逢いがこうして幸福であったためか、以後はわりあい愉快なお喋り調の酔い方が多くて、君は酔っぱらっている時の方がいいことをいうなどとほめる(?)桑原武夫のような人物がいたり、酔っぱらっている君を見ているとほんとに面白いねなどという貝塚茂樹のような人物もいる。しかし、酔態をほめられると、却って後でぞっとしてくるものだ。ひとりで寝酒が安全か。(「ぼくの酔態」 富士正晴 「酒との出逢い」 文藝春秋社編) 


「叶」の酒
しかし七十年のわたしの人生における喜びや悲しみを頒ち合い、常に意中にあったわたしの酒は、逡巡する陶淵明の酒の類ではない。芳香の底に秘められた固い絆をもってわが余生と結ばれ、今宵「寂」の裏を返して「叶」の酒に至った。これは神の恩寵かも知れない。文豪露伴翁の語る中に酒は心をつぐものとあり、酒を尊び友と和んで縁を結ぶならば酒の本道これに如かずという。まさに「清閑清酔」の極意と言えよう。(「清閑清酔」 吉野孝) 雪の夜、電話が通じないため、老齢を心配して出版社の女性が訪ねて来て、一緒に飲んだ折の心境だそうです。 


一見の客
えー、最近はレトロ・ブームとやらで、ことさらに古風なことを好む人たちが増えてまいりました。ある人、雑念を払いたくて、昔ながらのたたずまいが残る、とある鄙(ひな)びた山あいの町あたりへ、一人旅をした。別にその町が目的じゃない。ただ何となく惹かれるものがあって、ふとその町に寄ってみたんですな。嬉しいじゃありませんか、これも昔風の居酒屋が、たった一軒ぽつんとある。店の中には、多分地元の人たちでしょう、四、五人が、にぎやかに話し合っていた。旅人は、練ったそば粉をサカナにして、独り静かに「上:夭、下:口 の」んでいた。しばらくあって旅人は、ふっと耳をそば立てた。酒売る家のさざめきに、交(ま)じる夕べの雁の声…。「雁だ、雁だ!」旅人は声を出し、月をかすめる雁を見るべく外へ出ようとしたんですな。店のおばさん、何と聞き違えたものか、「へぇっ?借りだァ?借りといわれても、うちは一見(いちげん)の客には貸したことがねぇだよ」(「志ん朝のあまから暦」 古今亭志ん朝・斎藤明) 


晩酌(2)
さて零時半ともなれば、わたしはウイスキーグラスを戸棚から取り出して仕事しながらちびりちびりはじめる。ちびりちびりでも二時までには少なくても五杯くらいになってしまう。二時が打てば、わたしは仕事場を離れて台所におりてゆく。たいてい昼のうどんが残っている。数年前までは醤油をかけるだけで満足していたけれど、このごろは口がぜいたくになって、冷蔵庫から蒲鉾やら玉ネギやらを出して、煮込みうどんをつくり、よく煮えたところに生卵を一つ落とす。もしうどんの残っていない晩には、そばがきをつくって、おろし醤油で食べる。が、うどんもそばがきも、じつはカクテルの肴なのである。ジン、ブランデー、ラムをメジャーグラスの七、八杯、毎晩かわるがわる基酒に、必ずレモンの絞り汁入りの甘酸っぱいカクテルを種々つくるが、その肴に煮込みうどん、あるいはそばがきのほか、焼竹輪、冷やっこ、雲丹、アスパラガスから沢庵に至るまで冷蔵庫にあるものを総動員する。これで腹もいっぱいで明日の昼まで十分もつし、アルコールも、三時か三時半に寝台に横になるや棒のように眠ってしまうにたるだけは、血管の中に満ち足りるのである。(「カワハギの肝」 杉浦民平) 


ワイン文明とウイスキー文明
フランス人で、たいへんな日本通として知られるピエール・ブリザール氏(前AFP通信東京支局長)が、世界を二つの文明、すなわち、「ワイン文明」と「ウイスキー文明」とに分類している。一口で言えば、食事をしながらアルコール飲料を楽しむ文化圏と、飲み終わってから食事をする文化圏という区別である。言うまでもなく「ワイン文明」の国々はワインを中心に蒸溜してつくるコニャック、アルマニャック、さらにリンゴ、梨、さくらんぼなどの果実汁を醗酵させてつくったリキュールを楽しむ。一方、「ウイスキー文明」圏では、スコッチやバーボン、ジンなど穀物をベースとしたアルコール飲料を常用する。フランス、イタリア、スペインなどのラテン系の国々がワイン文明圏に属し、イギリス、スコットランド、北欧諸国、アメリカなどはウイスキー文明圏に属する。日本もウイスキー文明圏に属するという。なぜなら日本酒も穀物(米)から作られるし、小皿のオードブルを楽しみながら、お酒を飲み、飲み終わってからご飯を食べるからだという。ワイン文明圏では食べることにたいへんな情熱を燃やすが、ウイスキー文明圏ではあまり飲食に関心がなく、”そそくさと飲食を済ませる”という(『比較文化の眼』、TBSブリタニカカ、一九八二年、より)。(「食文化の国際比較」 飽戸弘 東京ガス都市生活研究所編) 


若いもの少ししさつてついでのみ ねんの入れけりねんの入れけり
妓楼の若い者(- 妓楼で雑事を処理する男衆)も、二会目の客から祝儀が貰えるので、座敷へまかり出て、酒の相手をつとめたりして機嫌を取る。客の前へ出て盃をいただき、少し後へさがってから、酒をついでもらって飲む。客の気をそこなわぬようにとの、うやうやしい態度である。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


交互の麻酔剤
が、酒の狂酔、苦痛の自己麻酔剤−自分はこの二つの、完全中毒者だ。この夜と昼のの交互の麻酔剤に依つて、辛うじて自分の一日々々が延ばされてゐるに違ひない。が自分とても、自分の神経系統の傷害程度の意外に進んでゐるものだらうとは気付いてゐない訳ではない。酒の力でやうやう四時間足らずの睡眠。心気朦朧、鈍頭痛、耳鳴り、そして後頭部半面の筋肉が硬直すると云ふのか浮腫(むく)むと云ふのか−顔の筋肉もさうだ−それが硬張るやうなむず痒いやうなヘンな不愉快な感じだ。それが少しでも物を考へたり書いたりした翌日には、覿面に現はれる徴候だ。自分にも無論その原因がはつきり分らない。(「湖畔手記」 葛西善蔵) 


豆カン
豆カンはカンテンと赤豌豆だけのものに黒蜜をかけて喰べる。あっさりとしていて初夏のもの。酒のあとにもいい。浅草までこれのために遠出したくなるほど、この店の独特の柔らかさ。(「喰いたい放題」 色川武大) 


弁慶の使ひ笠子で呑んでいる
 端午の節句には親類縁者から五月人形の贈物が来る。それに笠子の干物を添える習慣があった。かさごは、頭、目、口の大きい紅色で、黄褐色の斑紋がある近海魚で、その肉は美味。
夷講上戸も下戸も動け得ず
 十月二十日夷講の日には商家では呑み放題、食い放題の宴を催すので…
五段目の小道具みんな飲める奴
 忠臣蔵の五段目は猪、鉄砲(ふぐの異名)で、何れも酒の肴に好適(「日本酒物語」 二戸儚秋) 


ジャニス・ジョブリン(一九四三・一・一九〜七〇・一〇・四)
ヘロインで死んだアメリカ初の女性ロックスター
彼女のイメージ−突飛な服に羽根のついたボア、サイケデリックな蝶をあしらったポルシェ、ボサボサの燃え立つような赤毛−はますます過激になっていったが、ジョブリンの歌は本物だった。「人生ってほんと刺激的。でもときどきそれだけじゃ物足りなくなるのよ」。アルコールも彼女のイメージの一部だ。ステージでサザンコンフォート(リキュールの一種)を飲むのをつねとしたジョブリンは、この酒造会社に、ただで宣伝してやっているのだからと毛皮のコートを要求し、手に入れた。(「有名人のご臨終さまざま」 マルコム・フォブス、ジェフ・ブロック 安次嶺佳子訳)  


高野山にて
遍照光院という格式の高い宿坊にお世話になる。夕食はすべて植物由来の精進料理である。ごま豆腐などの名物料理もさることながら、やはり旅先だけに飲んでから休みたい。そんな下賤な心を見透かされたかのように僧侶は、「泡般若をお持ちしましょうか」と、ビールを出してくれた。聞き慣れない呼び名だ。僧侶の話では、弘法大師が零下数十度となる真冬の高野山で凍える弟子を見かねて、体を温める目的に限って「いっぱいの般若湯は許す」と仰せになったそうだ。般若湯とは日本酒のこと。ビールは泡が立つから「泡般若」なのだそうで。「麦般若」と呼ぶ向きもあるそうだ。聖者の慈悲深いエピソードが愉しくて調子に乗って、もう一本ビールを頼んだ。僧侶はにやりと笑って「お大師様(弘法大師の呼称)は、いっぱい、と仰ったのですが、コップに一杯なのか、腹いっぱいなのか、これは今でも解釈が分かれるところです」。(「酒場を愉しむ作法」 自由酒場倶楽部著 吉田類監修) 


竹葉
宜城醪・蒼梧清は酒の名である。一つに宜春(三)と名づける。王烈之の安成記に云ふ、安成の宜春県に美酒を出す。之を宜春醇酎と謂ふと。また張華(晋の詩人)の軽薄篇に「蒼梧ノ竹葉酒、宜城の九「酉温−さんずい うん」醸」と云ふのが是である。
 註(三)宜春は晋代には荊州安成郡に属する県で、「譲−言 じょう」陽郡の宜城とは全く別の地である。之を同一の地とするのは著者の牽強も甚だしい。 (四)竹葉の産地は蒼梧ばかりでなく、晋の張協の「七命」の賦に「豫北ノ竹葉」と有る。豫北とは江州豫章郡の北部である。唐以後も竹葉と名づける酒は諸所に産したやうであるが、白楽天の江州謫居(たっきょ 辺境の地へ流されること)時代の詩にも往々見えてをり、其の酒は緑色であつた。晋代の江州の「豫北ノ竹葉」も緑色であつたであらう。是を以て類推するに蒼梧の竹葉も緑色だつたので、故に曹植の賦に「蒼梧ノ縹青」と有り、竹葉は蓋し其の色の類似を以て名づけられたのであらう。(「酒「眞頁」(しゅてん)補」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 


哭沢(なきさは)の 神社(もり)に神酒(みわ)すゑ 祷祈(いの)れども わご王(おほぎみ)は 日知らさぬ
哭沢の神社−奈良県桜井市木之本にある、イザナギノミコトが、イザナミノミコトの死んだ時に流した涙から生まれたという泣沢女(なきさわめ)の神をまつる。○神酒−ミワ。神に供える酒。○高日知らす−天知らすと同じ。死して天上に戻って天を治めると信じられていた。[大意]哭沢の神社に神酒を供えて皇子は天に昇って高い天を治められるようになってしまった。(「万葉集」 高市、五味、大野・校注) 


晩酌(1)
ともかく日の暮れる前、約二時間を畑でその季節季節の作業をしたのち(雨の日は合羽を着て一時間ほど果樹と野菜のあいだをうろうろ歩きまわったのち)、薄暗い路をくたびれて家に戻る。晩酌はなるべく辛口の二級酒一合二勺ときめている。先だって秋田の新政の二級酒をたのんだら五十本もやってきてしまった。二十本近く空になったけれど、うまい酒がまだ三十本も残っていると思うだけでも、ゆたかな感じがわたしの中にただよっている。一合二勺の酒をわたしは二、三十分かけて飲む。酒の肴をせっせと食べるからそんなに時間がかかるのだ。いわゆる副菜はみんな酒の肴になってしまう。ただ、いつも酢のものがないときはない。タコ、カニ、ナマコ、カク、ナマコ、カキ、ワカメ、ワカメの芽株、スジワカメ、生ノリ、レンコン、小カブ。ときにはタンポポ、クコの若芽の酢味噌あえのうち何か一いろというぐあい。(「カワハギの肝」 杉浦民平) 


代筆
ハイゼルベルクが来日したとき、そのお別れパーティーに招かれ、酒友朝永振一郎のご夫妻のお伴をして、麻布のドイツ人邸に趨いた。たまたま日曜で、車が少なかったため、少々到着が早過ぎそうだったので、時間潰しに青山の今右衛門の店をひやかした。酒器を出して貰ったら、その中に、形も色も悪くないのがあったので、これを購めた。主人が不在だったので、錦花絵酒器、今右衛門という箱書きは、私が代筆した。印だけ本物である。価から考えても、後世贋作が問題になる程上等な代物でないから、まあ差支えないであろう。薄手の純白の地の唇に当たる感触はなかなかよい。(「逸遊雑記」 山内恭彦) 


居酒屋・旅籠
居酒屋の多くは村の中心にあり、大きな道路に面していた。建物は農家よりかなり大きく、ある記録では間口一九メートル、奥行約二三メートルもあった。旅人の馬を休めるため母屋のほかに厩、小屋、納屋があり、菜園や小さな牧場などがつきていた。居酒屋ではビールが売られ、畑仕事を終えた農民はそこで一杯やったのだが、居酒屋の多くはビールのほかにもさまざまな商品を扱い、田舎のよろず屋のような役割も兼ねていた。居酒屋の特許状をみると、そこではパン、塩、肉、鰊、バター、チーズ、油、布、乾し草、燕麦、ビール、葡萄酒、蜜酒、ミルク、鉄製品などが売られていた。その多くは旅人のためでもあったが、村人もそこで自給できない商品を買った。とくにビールの醸造には許可が必要だったから、居酒屋で買うしかなかった。居酒屋はこうして農村内での小さな交易所の役割を果たしており、シュレージェンやプロイセンでは居酒屋の前の広場がやがて市場となり、のちに年に発展していった。居酒屋には、村人がなにかというと集まり、世間話や噂話に花を咲かせる場であったし、ブリューゲルの「結婚祝い」に描かれているように結婚披露宴などが開かれる場所でもあったから、村落を支配する領主からみると油断のできない治安の要とみられていた。(「居酒屋・旅籠」 阿部謹也 「日本の名随筆 酒場」) 


牛酒、馬酒、豚酒
島一番の飲んべェと鳴り響く石底友吉(いしぞこともきち)は明治四十四年生まれの八十歳で、いまだに眼鏡なしで本を読み、健康にいいからとつねに裸足で歩く。さすがに最近は飲んでいないよといったが、若い頃は六〇度のどなん花酒一本槍で、それも必ずストレートで飲み、最高は五合じゃとこともなげにのたもうた。そして「水は絶対に入れちゃいかん」といい「花酒を毎日飲んでいれば長生きできるよ」とつけ加えた。酒徒の鑑ともいうべきこの爺さまの言によれば、酒ぐせに牛酒(けんか酒)、馬酒(はしご酒)、豚酒(酔ったらすぐ寝る)の三種があり、爺さま自身は豚酒だそうである。そんなら私も完全な豚酒派だ。(「うまいもの職人帖」 佐藤隆介) 


ビヤホール
ビヤホールは、英語でなくて和製英語である。”麦酒の一杯売”をなんとなづけようかと苦心のあげく、ビアルーム、ビヤバー、ビヤサロンなどの案がでて、最後にビヤホールにおさまった。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


諸工人の侠言(しよくにんのちうツぱら)
夕辺(ゆうべ)仕事のことで八右衛門さんの処(とけ)へつらア出すとてうど(丁度)棟梁がきてゐて酒がはじまツてゐるンだらう 手めへの前(めえ)だけれどおらだつて世話やきだとか犬(いん)のくそだとかいハれてるからだゝから酒を見かけちやアにげられねへだらう しかたがねへからつツぱへりこんで一杯(いつぺゑ)やツつけたがなんぼさきが棟梁でゑく(大工)でもごちそうにばかりなツちやア外聞(げえぶん)がみつともねへからさかづきをうけておいてヨ小便をたれにゆくふりでおもてへ飛出して横町(よこちやう)の魚政の処へ往(いつ)てきはだのさしみをまづ壱分とあつらへこんで内田へはしけて一升とおごつたハ おらアしらんかほの半兵へで帰(け)へツてくると間もなく酒と肴がきた処(とツ)から棟梁もうかれ出して新道(しんみち)の小美代(こみよ)をよんでこいとかなんとかいツたからたまらねへ 芸妓(ねこ)が一枚(いちめへ)とびこむと八右衛門がしらまで浮気になつてがなりだすとノ(「安愚楽鍋」 仮名垣魯文) 


萩原朔太郎
萩原朔太郎は若い頃詩を書くだけで、前橋の父の家でブラブラしていたが、晩酌をかかさなかった。家族会議の結果、飲ませなければ外でツケにしてあとでとりに来られるにきまっているが、それより毎晩ツケた方がいいということになったのだった。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


お月さんいくつ
「お父さん、きれーなお月さんだねぇ」今日は仕事が休みてんで、もう宵の口から、月見酒とばかり、コップでグイグイやっていたお父ッつあん。もうすっかり出来上がっちまって、お月さんが、いくつにも見えてきた。「坊や、お月さん、いくつに見えるゥ?」「いくつって、一つにきまってるじゃないか」「十三、七つだ。まだ歳ゃ若いだ。俺もまだまだ若いんだゾゥ」申しあげるまでもなく、十三、七つとは十三夜の、七つどきのお月さんのことですね。午後四時ごろでしょうか。十五夜前ですから、まだ歳ゃ若い。お父っつあん、すっかりいーい気持ち。(「志ん朝のあまから暦」 古今亭志ん朝・斎藤明) 


酔っぱらってるように見えない
酒、強くなったのは、いつ頃からかなあ。いつ頃から酔っぱらわなくなったんだろ。人よりゃ酔っぱらわないよね。酔っぱらってんだけど、そんなに酔っぱらってるように見えないらしいんだよ。でも、最初は吐いたりしたよ。気持ち悪かったね。なんか酔っぱらって吐いてるわけじゃなくて、ただアルコールが気持ち悪いんだよ。だけど、それがいつ頃からか吐かなくなって。ほろ酔い加減になってきたんじゃない?したらもう、ずーっと変わんないね。だから、初めは吐いたりして抵抗あったけど、なんにもすることないっていうか、売れてないときは、結局、酒しかなかったんだよね。学生んときもそうだったけど、女がいるわけじゃねえしさ。そいで、うだつが上がらねえから夜んなると、金持ってそういうとこ行って、酒飲むか、麻雀屋に行って麻雀勝った奴が奢ったり、それのくりかえしだから。浅草行ってもおなじだったね。売れない芸人が揃っちゃあ、焼酎屋行って飲んでたっていうだけだよね。(「孤独」 北野武) 


五十日
「それで、この味か。これでは、どうにもならぬな」しかも、一夏越した酒を送ってくるとは。どうせならば、今年の春の気合の入れた酒を送ってくればよいものを、なぜ、こんな古酒を叩きつけてくるのか。「わかっております。ですが、私はこの酒を売るつもりでいます」おさとがきっぱりと言いきったので、慶士郎は驚いた。「どういうことだ?この荷はまだ届いてから五十日は経っておらぬだろう。なら、根岸屋の損にはならぬはずだ」酒の質については、到着から五十日は造り酒屋が責任を持つと定められており、何かあっても問屋は責任を問われない。逆に五十日を過ぎれば、問屋が全面的に負担することになり、何があっても逃げられない。そのため五十日前後になると、問屋が味の落ちつつある酒を安売りすることもあり、その酒を大量に仕入れる豊島屋のような升酒屋(ますざけや)が繁昌することもある。(「酒風、舞う」 中岡潤一郎) 時代小説です。 


アダルト・チルドレン
アルコール依存症の親のもとで育った子どもは、自分もアルコール依存症におちいりやすいなどのリスクを抱えるとされ、「アダルト・チルドレン」と呼ばれている。アダルト・チルドレンの略称である「AC」が、本来の意味を離れて一人歩きし、流行語のようにもてはやされたこともある。(「今日も飲み続けた私」 衿野未矢) 


武玉川(3)
殿の禁酒に夜ハ捨り行(すたりゆく)  (殿様の禁酒命令、夜は長い)
御神酒ハあれと(ど)青い庚申  (庚申講では青い顔をした青面金剛の掛け軸をよく飾ったようです)
付さしも七合入ハちから業(わざ)  (大きい徳利はつぐのも大変)
看病へ突出して遣る忍冬酒(にんどうしゅ)  (薬酒で酔った患者が看病している人につぐということでしょう)
下戸の鼻にハうまい木犀  (モクセイの甘い香りは下戸向き) (武玉川(一) 山澤英雄校訂) 


今度こそ
それから友人が仕事場に顔を出さない日が五日つづいた。彼の部屋に電話を入れてみると呂律の回らない言葉が返ってきた。酒が抜けるまで放っておこうと思い、そのままにしておくとさらに二日がたっても出ない。レギュラー原稿に穴を開けるわけにいかないので、急遽代役で僕が原稿を書くことになってしまった。行方知れずになってしまった友の居所を突き止めようと、僕や編集者たちが彼のいそうな場所を探索し始めたがなかなか見つからない。あきらめかけていたところへ、廃人のようになった友が仕事場にあらわれた。あれから彼は部屋で酒を飲みつづけ、夜になると歌舞伎町を徘徊していたと酒臭い息を吐きながら告白した。昨日になってようやく身体がアルコールを受け付けなくなり、仕事場に顔を出すことになったのだった。周囲の人間に心配と騒動を巻き起こした当人は「今度こそ本当にアル中を治すよ…」と力なくつぶやいた。(「修羅場のサイコロジー」 本橋信宏) 


乾燥蒸気
連続蒸米機が出てくるまでは、米は甑(こしき)で蒸していたもんだったわ。甑を担当する人間を「釜屋」と言うんだんが、釜屋というものを一度や二度は、釜の底を割るぐらいになれば一人前と言われていたんだわ。なぜかというと、いい蒸米を造るには乾燥した熱い蒸気がいるからだ。釜に水が入っている。それを下からどんどん加熱して蒸気を出すわけだんが、最後のほうになると、中の水が蒸発してきて、釜肌が出てくる。そこで、さらに加熱すると、ただでさえ熱い蒸気が焼けた釜肌で熱せられて、もっと熱くて乾燥した蒸気になる。それがいい蒸米を造るわけだ。だすけ、水が蒸発してしまえば、釜が熱くなって割れてしまう。毎度、毎度、釜が割れるようでは話にならないが、釜がわれるか割れないか、ぎりぎりのところまで釜を熱くするようなのが、腕のいい釜屋とされていたわけだ。(「杜氏 千年の夢」 越後「八海山」杜氏 高浜春男) 


説教酒
山口 丸谷さん、山本周五郎さんが灰皿ですき焼やったっていう話知ってますか?南部鉄かなんかの灰皿をもらって一人用のすき焼鍋にしったていうの。おかしいよね、灰皿ですき焼やっておいしいわけないじゃない。できるとは思うけど、一人で食べてもまずいしね。
丸谷 山本周五郎という人は、お酒を飲みながら説教する人だそうですね。
山口 ずいぶん被害者がいるらしいですよ。
丸谷 そういうのを説教酒っていうんですってね。僕はどうも、説教酒的なやつは好きじゃなくてねえ。
山口 一般的には好きな人もいるんじゃないですか。お酒を飲むと気分が昂揚してくるから、普段言えない、溜まっていることが…。
丸谷 言いにくいことでもつい…。(「男の風俗・男の酒」 丸谷才一VS山口瞳) 君帰りたまえ  


ハシゴ酒
というのもトイレは店外に設えてある、今はあまりみかけなくなった共同トイレというやつである。用を足すと元の店に戻って、「ビールもう一本ちょうだい」と店主に声をかけた。「いらっしゃいませ、ビールですね」と声がしたのだが、「いらっしゃいませ」はおかしいだろうと顔を上げた。あらっ、何か様子が違う。咄嗟に何が違うのか判断がつかなかったが店内を見渡して、先ほどの店とちょっと違うのが分かった。そして理解した。−隣の店に入ってしまったんだ…。とにかく同じ店と見紛うような店が並んでいる一角であった。普通なら「間違えました」と謝って店を出るところだが、気恥ずかしいし、第一、眼の前にはすでにセンの抜かれたビールが置かれている。またそれに輪をかけるように、「なぎらさんですね」と、嬉しそうな店主が語りかけてくる。「はい」と返事して、何事もなかったようにビールを口にした。ビール一本で退散しようと思ったのだが、店主は淀みのない弁舌でもってあたしを釘付けにする。ビール二本を空けたところで、勘定するかと、ポケットを探った。しまった、財布は隣の店である。どうしようか…あたしは「ちょっとトイレ」と言って、席を立った。「ずいぶん長いトイレですね」最初の店の店主が言う。(「酒にまじわれば」 なぎら健壱) こうして二軒の店で何回もハシゴをしたそうです。 


花柳章太郎
大道具で思い出したが、男役としての当り狂言「鶴八鶴次郎」の大詰の居酒屋で、鶴八と別れた鶴次郎が番頭の佐平と酒をしきりに飲んで、涙を酔いで忘れようとする場面がある。たまたま前の月に六代目菊五郎が、「神崎笹屋噺」という新作で、居酒屋で酔うくだりが大評判だった。菊五郎は「私がやりよかったから、章ちゃんに貸すよ」と、飲み台を届けてくれた。菊五郎にたのまれて川尻清潭がそっと見にゆくと、上半身はまさに酔っているが、足が酔っていないと思い、それを伝えると、菊五郎は「飲み台の桟(さん)に足をかけて芝居をすればいい」と教えた。じつは、大道具が女形の花柳がやりにくいだろうと気を利かせ、桟をとってしまったのだ。(「ぜいたく列伝」 戸板康二) 



「キ」について、今一つ植物学者前川(文夫)博士の興味ある所説を紹介する。「キ」は生命の根源力となる「勢(いきおい)」を意味するが、その力のあり場所として、たとえば体内から発する漿液がある。漿液の一種である精液は具体的な行為を伴うもので、そうした行為の結果からでなければ子供は生まれない。このような素朴な生殖観念では、強い力をもつ男性を「キ」、これを受け入れて実らせる女性を「ミ」と言った。このような受け止めかたは、『記紀』神話の二柱の神、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)の「ギ」と伊邪那美尊(いざなみのみこと)の「ミ」があやなす生殖行為の偉大さに見ることができる。このように、「キ」は男性を意味するとともに何か力のあるもの、さらに神秘的な力を持つもの、それらが多く「キ」と表現された。酒を「キ」と称した古代人は、酒に生命の勢いを求めたのかも知れない。(「日本の酒造りの歩み」 加藤百一) 


おたまじゃくしが食べたい
酒好きの男、寒さをしのがんとまず湯豆腐酒屋にて三、四合やらかし、よいきげんにふらつき、またふぐ汁にて三、四合、こんにゃくの田楽よし、これでやらかせと、やたらめっちゃに飲みあるき、足もよろよろ、暗さは暗し、あっちへつきあたり「いまいましい暗い晩だあ」と、あくたいつきつき、よろけあるき、お屋敷のどぶへころげこむ。寒い夜なればどぶにあつい氷いっぱいに張りたる上に、ころげたまま、高いびきごうごうと寝ていたが、からだのあたたかみで、氷がとけてとうとう、どんぶりごと半身はめければ、目をさまし「助け船助け船」とわめいた。この声に辻番でてみれば、どぶはまりなり。辻番の役人「やいやい、なに者だ、このあつい氷をくだきてなかに落ちたるぞ、くせ者ならん」といえば「いえいえ、くせ者ではございません、わたしは氷の上に寝ておりました者でございます」辻番「なに寝ていた、こいつふとどきな、ぬすびとにちがいない」「いえいえ、わたしは親孝行で寝ておりました」辻番「親孝行がなぜどぶのなかに寝ていたのか」「さればそのこと、わたしが親父が、おたまじゃくしが食べたいと申しましたから」(「小ばなし歳時記」 加太こうじ) 二十四孝にある、鯉が食べたいという老父のために、寒中、氷のはりつめた池のうえに寝て氷をとかしたという孝子の話がもとだそうです。 


清水卯三郎
だが私はこの青年時代の志と違って生涯を僅か出版界と新聞界に足跡を残すに過ぎない程度の灰色に閉じた瑞穂屋を、日本の夜明けを先駆した一商人として表に出しておきたいと思う。清水卯三郎は武州熊谷(埼玉県熊谷市)在の羽生村に文政二年(一八二九)三月四日に生まれ、明治四十三年一月二十日、八十二歳で没した。醸造業と薬種業を兼ねた素封家の三男に生まれたのだが、長兄は早逝し、二兄は他家へ養子に行っていたので、家を継いだという。漢学を学んだので、若い頃には早くも薬種や醸造に関する著作もあったと伝えられているが、万延元年(一八六〇)『ゑんぎりしことば』(イングリッシュ言葉)と題する英語字典風の著作もあったという。明治にはいってからは、「ひらがな国字論」に関する著作をいくつか持った。造り酒屋の伜ではあったが、非常な好学の青年であった江戸に出て、神田今川橋にあった親戚の大黒屋という菓子屋に寄寓して、箕作阮甫の塾に通い、蘭学を修めた傍ら、早くも英語も学んでいたのが後日、フランスから単身イギリスを経てアメリカに渡るだけの勇気を与えた。(「道鏡と居酒屋」 倉本長治)7号で明治政府にとりつぶされた「六合新聞」を発刊したり、明六雑誌の会計主任になったりしたそうです。 


嬶ァ天下
たとえば、岩手県田所一帯がそうでした。むかしからこの地方では、嫁入りの三々九度の盃のとき、婿どのはどこかにいって顔を出さないという風習のあるところですが、ここでは婿の地位が低いといって、えらい評判になったことがあります。村の寄合いに出て、きわめてかんたんな事柄でも、いざ決定という段になると「家さ帰って、カカァと相談してくる」という人が続出するので、村の評議はまどろっこしくて仕様がないとこぼす人もいました。うっかり独断で決めてしまって、あとから女房にどなられるのがこわかったからです。これはちょうど、レナールの言葉を借りたスタンダールが、「妻の意見を聞いてみんことには」としりごみをしたのとよくにています。そんなら村のあつまりには、嬶ァたちは鼻の先でせせ笑って、「そんなことぐらい遊びずきの男たちにさせなければ、ほかにすることはあんめえ」そういって相手にされなかったそうです。(「陽気なニッポン人」 酒井卯作) 昭和40年出版 


豊の楽
是(これ)の豊の楽(とよのあかり 宴)の日、亦春日の袁杼(をど)比売(ひめ)、大御酒(おほみき)を献(たてまつ)りし時、天皇(すめらみこと)歌曰(うた)ひたまひしく、 水灌(みなそそ)く二五 臣(おみ)二六の嬢子(おとめ) 秀(ほだり)二七取り 堅く取らせ二八 下堅く二九 弥堅(やがた)く取らせ 秀錘謔轤キ子 とうたひたまひき。此(こ)は宇岐(うき)歌なり。
二五 臣の枕詞。 二六 オミは臣下の敬称で、臣又は使主の字が当てられる。 二七 りっぱな酒瓶。ホはすぐれたものの意。タリは酒を入れて注ぐ土器で、徳利のようなもの。タル(樽)はその転化である。りっぱな酒瓶を手に持っていらっしゃるよ。 二八 しっかりと手にお持ちなさい。 二九 しんからしっかり、いよいよしっかりお持ちなさい。 一 歌曲上の名称。盞歌の意。酒杯を挙げる時の歌。(「古事記 祝詞」 倉野憲司・武田祐吉校注) 


色彩家
病気の前、気がむくと前に描いた絵に色をさして行った。その色の美しい組み合わせに眼をみはったことがある。長與(善郎)さんはとんでもない色彩家なのである。目黒の家にいた頃、斉白石の軸がかかっていた。いい色をしているとい思ったら、酔っぱらった時、墨絵の原画に色彩をぬったのだと云った。それで絵がよくなっているのだった。酔って興がのると画を描いた。誰か傍にいて、その感興を助けたらもっと傑作を描いたろう。(「随筆八十八」 中川一政) 


ヒヤヒヤの押し売り演説
越後国中蒲原郡酒屋村にて、去る五日改進派の政談演説会を開きしに、開会の二三日前より同派の賛成連は、近村の各所へ左の如き掲示を為したるよし、近頃珍しき掲示にこそ、
 改進派政談演説会、本日(十月五日)午後一時より、酒屋町教覚寺に於いて開会候。付きては傍聴諸君ヒヤヒヤの程偏(ひとえ)に奉希(ねがいたてまつり)候。(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


深夜の酒宴
「お別れにお酒を飲みません?」「それもいいですねえ。」と僕は大儀な気持ちで立上った。深夜の廊下は打って変わったようにひっそりしていた。そしてどこかの部屋から、男の息苦しそうな鼾(いびき)がとぎれることなく聞えているのだった。僕は加代の後について行きながら、心に何度も繰り返していた。瘠せ犬のようにか!全く何という女なんだろう。だが僕は間もなく加代の部屋で酔いつぶれてしまったのだった。だが酔いつぶれながら、僕はただ一つのことをぼんやり覚えていた。それは加代が酔いつぶれている僕の頭を子供のように撫でながら、脱けて来る髪を指に巻いては畳の上へ落としていたことだった。(昭和二十二年)(「深夜の酒宴」 椎名麟三) 


滋酔郎
滋酔郎(じすいろう)というのは、十七年前に仲間と句会をはじめたときにつけた俳号で、深いいわれは何もない。お酒が好きで、毎晩酔っぱらっているので本名の下にその字をあてただけのことである。いってみれば、その場の思いつき、ほとんど発作的衝動的につけた俳号なんだけれども、大事な名前を、思いつきなんかでつけるものではない。名は体をあらわす。十七年間名乗りつづけているうちに、近ごろ、だんだん本格的な酔っぱらいになってきたことを自覚する。酒量は増えたし、宿酔(ふつかよい)は毎朝のことだし。しかしながら、本格的な酔っぱらいになったから悪いというものではない。酔っぱらい方による。−
からすみをひときれくれし除夜の妻 滋酔郎(「江國滋俳句館」 江國滋) 


アザレア
アザレアという花があります。別名セイヨウツツジ。寒さに強いので北海道などで人気が高く、冬から春にかけて可憐な赤やピンクの花を咲かせます。鉢植えにして、シクラメンと同じように冬の窓辺を飾るのに重宝されます。しかしこの花、眼に見えない棘があるのです。それは花言葉が、なんと「節制」と「禁酒」であること。(「とりあえず、ビール!」 端田晶) 


思わず笑ってしまう二本の珍名さん10人
@東西(ひがし)南北(なた) A北斗(きたと)七星(ななせ) B修行三千年 C鹿児島県 D高橋前後左右(まごぞう) E腹巻とし子 F清酒リカ G醤油和男 H山本虎の子 I大久保真自目 日本テレビ「特ダネ登場」より (「世界おもしろ雑科2」) 


団体行動
ドイツのビアホールへ行くと、ドイツ人が大きなジョッキーにビールをなみなみとついでいい気分になっているのを見かけるが、いい気分になると、ドイツ人は一緒になって踊ったり、大合唱をしたりする。一糸乱れぬその足並みを見ると、ドイツ人は軍国主義や制服文化のよく似合う国民のような気がしてならない。あれに狂信的な指導者がでてきたら、全く地獄の底までも引っ張って行かれるのではないかと心配になってくる。日本人は、その面でドイツ人とよく似たところがある。明治維新以後、西欧文化を輸入するにあたって、文物制度をビスマルクのドイツに学んだところが多いが、これは決して偶然ではないと思う。没個性的な団体行動を要求するところは、日本人もドイツと共通しているからである。だからもし、日本とドイツが隣接国だったら、恐らくひどく反撥しあったことだろう。(「食べて儲けて考えて」 邱永漢) 


いつまでも鳴り止まぬ嵐のような拍手
小泉 酒を飲むと喜怒哀楽が、非常に自然に発現しますからね。そういう意味でも、僕は酒は絶対必要だと思いますね。
日高 それは世界中そうじゃないですか。昔、ソ連共産党大会でスターリンが演説した時かな、一部始終ちゃんと記録があるんですね。そこに聴衆の反応として、拍手、嵐のような拍手、長く続く拍手とかっていろいろ書いてあるんです。一ヵ所、「いつまでも鳴り止まぬ嵐のような拍手」というのがあるんです。何を発表したかというと、「ソ連共産党中央委員会は、ウオツカのアルコール度数を高めることを決定した」と(笑)。(「発酵する夜」 小泉武夫) 日高敏隆との対談です。 


アンドルー・ジョンソンの副大統領就任式 一八六四
一八六四年の選挙で大統領候補のリンカーンと組んで副大統領候補となったジョンソンは、米国中を精力的に遊説したため、疲労の極に達して、マラリアにかかってしまった。一八六五年三月四日の副大統領就任式の朝、ジョンソンはベッドから起き上がることができなかった。元気をつけようとしたジョンソンはウイスキーをひっかけたが、身体が弱っていたため、すぐに酔っぱらってしまった。就任演説では、ろれつがまわらなくなりはじめたので、係官が制止して就任の宣誓をとりおこなった。ジョンソンの言葉は不明瞭で、何回も言葉をまちがったので、やたら時間がかかったが、それが終わると今度は酔っぱらいの大演説をぶちはじめた。結局、最高裁判事が出てきて、ジョンソンにお引き取り願った。(「世界おもしろ雑科2」 ウォーレス、ワルチンスキー他) 


隣の酒屋
人間にはたまには困ったときや貧乏をしたときのことを思い浮かべると、つまらんものでもおいしくなるものだ。わたしは貧乏のどん底にいても酒を飲んでいた。いや酒を飲んでいたので貧乏をしていたのか。下谷佐竹で二階借をしていた時分、朝湯のついでに隣の酒屋で冷酒を一合枡にもらい、その隣の豆腐屋へ持っていって油揚げの揚げたてを肴に飲むのだが、おかみさんが気のきいた人で、大根おろしに醤油をかけて生姜を擦りこんできてくれる。これを肴に桝の角から飲む冷酒のうまさは、飲まない人にはわからないだろうと思う。(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) 

酔鶴亭記
こゝに呉竹の世々経たる酒肆(しゅし)あり。さるは臨「工卩」にかけむかひのわびしき店には似るべくもあらず。又六が杉葉常磐の色深く、碓(からうす)のこだま花紅葉をうなづかせ、土蔵の白壁雪を奪ふ。其あるじ又風雅にさへ富めば、騒人ことにこゝにたよるに、酒債尋常行処にありといひしは、つもる行くへの覚束なくも、毎日杖に百銭をかけて現金買のをのこゝそ、二季の帳をも騒がせず、たのもしき得意ならめ。されば暖簾には名におふ浅野屋の風を伝ふれど、猶一室に扁すべき号あらむことを予に求む。率爾(そつじ)に酔鶴の二字を与ふ。其意いかにと問ふに、かの「粛鳥」「霜鳥」の裘(ころも)を脱ぎ、金亀を解きて価にあてしためしあれば、仙鶴を日々百杯に酔はしめて、もとよりかれが持合せの千年の齢を、酒手にこちへとる合点也と、且戯れ且祝して、あるじが為に謾に筆を採る。(「鶉衣」 横井也有 石田元季校訂) 


ニューフェイス
しかし越後名物は略さずに記すと「新潟後家、三助かぼちゃ弥彦山、小千谷縮に御坊三条」とあり、米も酒も出て来ないで我々にとっては戦時中の食料難時代にお馴染みになった「かぼちゃ」が出て来る始末だ。いつだか明治洋風建築として名高い新潟県の旧議事堂が憲政記念館になっているので見学にゆき、珍しい私の父の肖像写真をみつけた。それは明治時代のもので、歴代の官選知事の末席を汚していた。説明を読み、そのころの知事はみな信濃川の治水ととりくんでいたことが判った。同時に、それがほぼ完成した大正期になって、始めて新潟県は米産地として世間に浮上して来るのであった。「こしひかり」なんて、まるで米の代名詞みたいになってる名詞は、至って最近の産物であることが解説で判った。つまり米があって、その上の酒であり味噌であってみれば、「幻の銘酒」なるものが出現するのも当然ではないか。ニューフェイスだから持てるという原則が、酒の世界でも通用してるのである。 (「うぞうむぞう記」 飯沢匡)  越後名物の記されているのは、江戸時代の名物尽しだそうです。 


奈良時代の酒
奈良時代になると麹による酒造法が伝来して、神饌など特別な儀式用以外は古来のかみ酒はもちいなくなった。また濁り酒には、どうしても、古来の穀物をかんでつくったイメージがつきまとう。そこで、清酒づくりを指向したのか、「清(す)める酒」の製法を工夫している。『延喜式造酒式』が、「草木の灰を和したるを黒酒という」と解説しているように、濁り酒に草木灰をまぜた酒を黒酒とよんでいる。黒酒と白酒の製法は米・麹・水の配合量はまったくおなじである。(「食の万葉集」 廣野卓) 


手酌五合、髱一升
 自分で注いだ酒だと五合でもう結構となるが、女性が注いでくれるなら酒もうまくなり、一升は飲めるということ。「髱(たぼ)」は日本髪の後方に張り出した部分で、若い女性のこと。
聞かずの一杯
 人に酒をすすめる際、相手がことわっても最初の一杯だけは酌をしてもよいということ。
これから酒の壇ノ浦
 《源氏と平氏の最後の合戦場として有名な「壇ノ浦」に「段」をかけて》さあこれから酒の段だ(酒を飲もう)という粋な言葉。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


喧嘩エレジー−石倉三郎
「よォ、おじさんよ」なにィ、おじさんだと!三郎はムカッと来て振り向くと、猪首(いくび)でズングリした野郎が立っていた。うん、こいつはできるな、と感じた。三郎くらいになると、相手が強いか弱いか、ひと目でわかる。その男は首をコキコキ曲げながら、「一杯いかない?」と誘った。それがツービートのたけしだった。二人は近くのビアホールに行き、ジョッキ三十杯を空にした。当時、たけしと三郎は演芸場の楽屋で先輩芸人たちから最も評判が悪かった。先輩を先輩と思わない、いびると必ず腕力で仕返しされる。始末におえない奴らだと。−
そこへコントゆーとぴあのホープが「サブちゃんにぴったりの男がいる」と話を持ってきた。「レオナルド熊っていうんだけどね、ストリップ劇場じゃ帝王といわれている伝説的な芸人さ。はっきりいって根性は悪い、最悪だ。でも芸は面白いよ。実は俺の師匠なんだ」(「完本・突飛な芸人伝」 吉川潮) コントレオナルドの突っ込み役だったそうです。 


酵母の純粋培養
日本で清酒酵母を純粋培養して報告したのは、矢部規矩治先生である。矢部先生は大蔵省鑑定官となり、醸造試験所の設立委員となった方であるが、明治二八年に東大、農芸化学科の古在由直先生のもとで清酒酵母の性質とその由来について研究され、東京大学紀要に発表した。当時は、カビの胞子がもろみ中で酵母に変わって発酵を行う、という説がまだからり信じられていた時代であった。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


食後の儀式
それから(とあの男は語り続けた)ソクラテスは席に着き他の客と同様に食事をした。食後にみんなは灌酒礼をささげたり、主神を頌讃したり、その他こういう場合の習慣になっている儀式をすませたりして、それから飲む方にかかった。するとパゥサニヤスは第一に口を開いてほぼ次のようにいったということだ。『さて、諸君、どういう風にしたら一番気楽に飲めるだろう?実は諸君にいっておかなければならんのだが、僕一個としては昨日の酒で本当に大分まいっている。それで多少の休養がほしい。だが、諸君の大多数もみな同じことだろうと思う。諸君も昨日出席されたのだから。それでどういう風にしたら一番気軽に飲めるか、一つ考えて見て貰いたい』(「饗宴」 プラトン 久保勉訳) エロスに関する「シュンポシオン」の導入部です。 


竹酒
広島岡田さんの竹酒 竹の酒といっても竹筒に酒を入れただけとか、笹を漬け込んだというものではない。竹筒を酒に漬けて、浸透圧で筒の中に移し替えるという、世界でも例のないもの。もちろん新案特許。筒に密閉された酒は時を経てまろやかになり、なんともいえぬ味わいに。1年物の竹焼酎を「上:夭、下:口 の」んだ知人は天水のようだと表現したが、まさに自然の甘露。ちなみに竹は真竹がいいとか。(「粋音酔音」 星川京児) 


ウマヅラ
房総半島の大原という漁港で懇意にしている漁師の船を覗いてみた。四角く仕切られた船の生簀(す)のなかで無数のウマヅラが泳いでいた。「どうするの?」とたずねると漁師はあたりに人がいないにもかかわらず「シーッ」と声をひそめた。「これから買いに来るんだよ。東京のフグ屋がね。酸素ボンベを積んでね。いまにやってくるっぺよう」−
もっとも昔、大阪の安直なテッチリ屋ではフグにハゲのすき身を混ぜるところがあったと耳にしたことがある。フグといってウマヅラを食わされる客こそいいツラの皮だが、別に魚の名前を食べるわけじゃない。旨ければそれでいいのだ。実際、ウマヅラは旨い。とりわけ寒い季節にはキモもたっぷり入っていて、鍋にしてもみそ汁にしてもいける。わけてもキモあえやキモたたきは絶品で、とろりと舌の上でとろける。酒の肴にはぴったりである。(「食いしん坊のかくし味」 盛川宏) 


掘り出された奈良の都(2)
A宮城だけでなく、諸国でも酒が醸造され、米穀とともに税物として徴収されていた。正倉院に残っている各国の「正税帳」に、「古酒貳腹 員九斛(石)五斗五升七合、雑用四斛二斗七升四合」とか、「酒 七拾甕(かめ)別五斛」とか、国の倉庫に保管してある酒の分量をくわしく記入してある例が多数ある。これらの記録から、大は五石入りから、小は一石余のカメにそれぞれ保存してあったこともしれるし、「醸酒拾参斛 「米斤」稲百八拾貳束斛別一四束」などと、一石の酒を造るのに米をどれくらい用いたかまでくわしく書いたものまである。これらの酒の記録によると、古酒・旧酒・新酒・濁酒・白酒・滓酒、粉酒・醴・滓とさまざまな種類に分けられていたこと、これらの酒を国司の巡行のときに課長クラス以上には一人に一升、一般役人には八合ずつ支給したり、池を修理する工事に徴用した人夫に、一人あて三合の酒をふつまってやったことなどもわかる。(「掘り出された奈良の都−平城京時代」 青山茂) 


わだしゆえん【和田酒宴】
和田義盛が一族九十三騎を集めて山下宿河原の長者の許で開いたと伝へられる酒宴。「和田の酒盛」はまた幸若舞曲三十六番の一で、また歌舞伎の方では「兵根元曾我」の第四番目に和田の酒盛と云ふがあり名高い。例の朝比奈三郎義秀と曾我五郎時到の草摺曳と云ふは、この酒宴に於ける一つの波瀾である。後世「風流和田酒盛」「初買和田宴」「和田酒宴納三組」「和田酒盛栄花鑑」等、江戸歌舞伎の狂言が続出した。
和田酒宴ほど小林屋大一座 小林義秀に掛く(「川柳大事典」 大曲駒村編著) 


特に酒を賞美
此使節のために午膳(ごぜん)を設けたるに甚(はなは)だ簡易なりし、その食卓上、一椀の飯を備へ、その次、水中に煮たる魚を列する外、別に香湯或は他の食物を加へず、その後肉を呈すれども使節の持越せる石灰に似たる粉末を以て悉(ことごと)くその風味を除けり、しかして此肉も飯に添へて食せり、その他一二の果物を食し午膳を終りたり。使節はすべてヨーロッパの巧妙なることを嘆美し、特に酒を賞美して、夥(おびただ)しく三鞭酒(シャンペン)を飲みたり。人の通知せる如く日本使節は旅館チュロフレに投宿してこゝに程能(ほどよ)く暮せることをわれ聞けり。彼肉食中にては煮たる鳥を最も好むと見えたり。総て食物には何にても胡椒(こしょう)を夥しく振かけ、食するに臨んで小刀および肉叉子(フォーク)を用ひたり。(アムステルダム新聞訳海外新聞別集)(「幕末遣外使節物語」 尾佐竹猛) 文久二年、竹内下野守を正使とした遣欧使節の新聞記事だそうです。 


ビール片手に
デパートの屋上にあるカフェはガラス張りになっていて、その前は子どもたちが遊ぶための広場になっており、ちょっとした遊園地のようだ。平日でもお昼を過ぎた頃から、子ども連れの母親がやってきて、親子で一緒に遊んでいる姿が眺められる場所。沖縄の島々を役半年間、旅を続け、東京に帰ってすぐに妻と離婚してから"家族"というのが恋しくてしかたなく、このデパートの屋上のカフェに来ては親子を見つめ、なぜこんな結末を迎えてしまったのだろうと、ビール片手に思い出にひたっていたんだった。けれど自分でも気がつかないうちに、いつの間にか広場の家族を目で追いつつも、頭の中では、「この店でジョッキを五杯飲んで、次はいせ屋に行ってウーロンハイ、最後にシメで、そばに冷酒だな。よし、帰る途中でコンビニに寄ってウオッカを二本買って、家での見直そう。決まった」広場にいる家族を眺めつつ、妻の放った言葉や幼い二人の我が子に想いをはせていたのが、いつの間にやら酒を飲む算段をするようになっていた。(「酔いがさめたら、うちへ帰ろう」 鴨志田穣)  三ヵ月 


ほどほどに
吉行淳之介さんの処世訓は「ほどほどに…」ということだった。それは、たとえば駅前の食堂で天丼を食べるとして、上・中・並とあったら中を注文するといった意味だ。なんでもないことにのようだが、私にとってはずいぶんと有効だった。懐石料理で一万円・七千円・五千円とあると七千円のものを頼む。一万円と七千円では内容的にほとんど差がないことがわかっている。日本酒で特級・一級・二級とあれば一級を飲む。これは何というか、とても居心地がいいのである。特級酒はベタベタして甘いだけといったことが多い。飲食物に限らず「ほどほどに…」は大いに役立った。それまでは、私は「ほどほどにってことのない人だから」と言われることが多かった。もっとも「妻子を捨てて女優と同棲するような男がほどほどにもないもんだ。ほどほどにしろ」と言う人もいないわけではなかった。(「江分利満氏の優雅なさよなら」 山口瞳) 


毎晩練習
それからは毎晩練習である。マンションの扉に鍵を掛けて、アルコールとの格闘が始まったのだ。といっても不美味な苦い酒を無理に飲むのではなく、美味しいと思うものをゆっくり味うように心掛けた。一人で飲むとつい飲み過ぎてしまい、朝まで玄関まで寝ていた等の話を聞くので”めちゃ飲み”はしない。ビールから始めて、日本酒、ウイスキーと品を変えて飲んでゆけるように練習した。それぞれの味は、その時によって変るので何でも飲めなくては困る。一年間ほどは練習に次ぐ練習であったが、さて本番になるとまだ練習が足りないのだった。日本酒銚子半分で顔に出るし、言わなくても良いことまで言ってしまうという、ていたらくだ。やはり浮世の風は冷たいのだった。それからまた半年、鍵を掛けての練習の末、ようやく一人で巣立ちできるようになったとい思えたのは、ごく最近のことだった。(「練習に次ぐ練習」 萩原葉子 「酒恋うる話」 佐々木久子編) 


マスコミ
「山川さん、ちょっと一軒つきあってください」と、海老蔵がいう。酒が強い海老さんのことだから、まだ飲み足りず、どこか、なじみの店へでも行きたいのだろうと察して、すぐに同意した。雨の中を麹町の方へ行く。こっちも酔っているから場所はさだかでなかったが、海老さんは大きなマンションの前で車を止めると、どんどん中へ入っていく。奥まった部屋のベルを押すと、中から上品な婦人が現れ、まあ、ようこそと、誘う。その婦人のうしろには、とびきり美人のお嬢さんが寄りそうようにいるではないか。そして、海老さんのあとから付き従って入ろうとする私を見て、「こちらは、NHKの方ですね」と、不安げな顔をした。ここで、やっとわかった。お嬢さんは、現在の團十郎夫人の希実子さん、つまり、海老さんが世間にまだ発表していない極秘の婚約者だったのだ。酔った勢いというのは恐ろしい。「大丈夫です、この人は」海老さんはニヤニヤしながら、私を中に入るよううながした。そして、小声で耳許にささやいた。「いまマスコミはうるさいんです。今夜ここへ来たことは黙っていてくださいよ。たのみますよ」私は吹き出したいのをこらえて、「あのう…ぼくもマスコミなんですが」すると、海老さんは、ほんとうにびっくりして、「あッ」と一声、そのあと絶句した。(「当世やまとごころ」 山川静夫) 


強いて之を禁じなば
治安日に久しければ、楽時(らくじ)漸(ようや)く多きは、勢(いきおい)然(しか)るなり。勢の趨(おもむ)く所は即(すなわ)ち天なり。士女(しじょ)聚(あつま)り懽(よろこ)びて、飲讌(いんえん)歌舞するが如き、在在(ざいざい)に之れ有り。固(もと)より得て禁止す可(べ)からず。而(しか)るを乃(すなわ)ち強いて之を禁じなば、則ち人気(じんき)抑鬱して、発洩(はつえい)する所無く、必ず伏して邪慝(じゃとく)と為り蔵(かく)れて凶姦(きょうかん)と為り、或は結ばれて「やないだれ+火」疾毒瘡(ちんしつどくそう)と為り其の害殊(こと)に甚しからん。政(まつりごと)を為す者但(た)だ当(まさ)に人情を斟酌(しんしゃく)して、之が操縦を為し、之を禁不禁の間に置き、其れをして過甚(かじん)に至らざらしむべし。是も亦(また)時に赴くの政然(しか)りと為す。
[訳文]世の中が泰平がつづくと、楽しみ事が多くなるのは自然の勢いである。この勢いのおもむくところは天意にあるところであろう。男女が集まって、歓び合い、酒盛りなどして歌ったりおどったりすることは、どこでもしていることで、止めてはいけないことだ。これを強いて禁止すると、人心が抑えつけられて発散するところがなく、隠れて悪い事をしたり、ひねくれた事をしたり、または内部に固まっていろいろの病気を引き起こして、その害は禁じないより甚だしいことになる。政治を行う者は、人の心の赴くところを酌みとり、適当に操り、禁ずるでもなく、禁じないでもない状態にしておいて、一方に偏り過ぎなくするがよい。これが時代に順応した政治というものであろう。(「言志四録」 佐藤一斎 川上正光訳注) 


一本だけ
昭和十九年九月−といえば、ソロソロ、空襲必至の声が巷にあふれ、すべてに、たいへん窮屈となってきたときである。さる中部の旅館に泊って、『酒はどういうもんでしょうね?』と、つとめて下手に出て訊いたところ、『一本だけなら何ンとかなるかもしれません』という女中の返事。そこで、『頼む』とやったところ、一本は確実だったがあとはきかず、この費用一本一円四十銭にプラス税金五十五銭で、宿泊料が最上の室でお一人二円七十銭だったから、当時、酒は価格からいっても大したものであったわけ。二流の旅館ならば酒一合の値段で泊まれた。−いうまでもなく、以上はマルコウ(○公 公定価格)である。ヤミではどうだったか?一本五円はいいところ、十円、十五円というのはザラだった。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


王子たちの鏡
大昔からイランはワインの産地として名高く、以来ずっとアルコール飲料は、宗教的指導者の極めてきびしい支配下にあっても、イラン人の生活の変らぬ色どりだった。『王子たちの鏡』と訳されている有名な作品の中に、ワインに対するイラン人の態度がうまく要約されている。あるサルタンが息子に統治する者のあるべき振舞いについて忠告して次のように書いている。
 せがれよ、私はお前にワインを飲むことを戒めなければならぬ
 回教の掟のもとでは飲酒は罪悪だから
 だが、もし飲むなら極上のワインに限れ
安物の酒にむだ金を使うのは同様に恥ずべきことだから
イランにおけるワインの生産は、国内の各地に住むかなりの数のアルメニア人のキリスト教徒、ユダヤ人、それにゾロアスター教徒に負うところが大きかった。これらの民族グループは自分たちで飲むのにワインをつくり、酒好きの回教徒にも売った。(「現代イランの飲食事情」 ウィリアム・O・ビーマン サントリー博物館文庫) 


秋句
悦びに 戦(おのの)く老の 温め酒 高浜虚子
火美し 酒美しや あたためむ 山口青邨
温め酒(ぬくめざけ) 母の手紙も 来ずなりぬ 細川加賀
古酒新酒 味ひわけて 好悪なし 三溝沙美
ふるさとの 父すこやかに 新酒かな 中火臣
どぶろくに えうて身を投ぐ 大地あり 森川暁水
どびろくの かめや日月 流れけり 永園哉
にごり酒 提げて行く夜の 土橋かな 玉川一郎(「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 山口青邨監修の「俳句歳時記」からだそうです。 


養父母を打擲して終身懲役
九月十三日東京裁判所落着。 東京第五大区十一小区浅草町一丁目二十三番地 平民繋次郎養子 板橋百蔵 其方儀酒酔ノ余り湿足ノ儘(まま)寝所へ入ラントスルヲ養母なをニ見咎(みとが)メラレテ、且(かつ)養父繋次郎ニ譴責(けんせき)受ケタルヲ憤リ、手ヲ以テ同人ヲ打擲(ちょうちゃく)シ及ビ左手へ咬付(かみつき)、其上(そのうえ)説諭セントスルなをノ頭髪ヲ引抜キ又ハ咬付キ、養父母ヘ傷負ハスル科(とが)改訂律条例第二百二十八条ニヨリ懲役終身申付ル。<明一一・九・一四 東京曙>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


明治五年[一八七二]壬申(みずのえさる)
○同(九月)二十二日、天長節(御誕辰の御賀あり)御祝儀に付き、二十二日、東京御府に於いて、市井の者へ御酒千樽を給はる。六大区へ分ちて頂戴せり。これによりて同夜より二十七日頃迄、町々の内俄に車楽(だし)を拵へ、又は伎踊(おどり)を設け、昼夜に町小路を渡す。(但し二十日、二十四日は雨降りたり)。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


柏舟
柏舟は良人に冷遇せられてゐる妻が、自分の身を柏舟にひきくらべて其の嘆きをうたつたもので、日本流にいへば、寄るべ渚の小舟、と言つたやうなものだ。人の考えることは時間と空間とを超へて同じやうなものではある。この詩の第一章に
汎たる彼の柏舟 亦汎としてそれ流る
耿耿として寝ねられず 隠憂あるが如し
我れ酒を以て敖(あそ)び以て遊ぶなきにあらず
一時の酒の酔を仮りて心の憂さを忘れても、醒めての後に更に増すわびしさを思ふと酒を飲む気もしないといふわけである。日本の古典によく出て来る「わが心石にあらず転ずべからず、わが心席にあらず巻くべからず」といふ語は此の詩の第二章にうたつてある句である。(「詩経随筆」 安藤圓秀) 詩経 風にあるそうです。 


二升五合
その彼の店である日、昼間から同級生が十人ほど集まってしたたかに飲んでいたことがある。ぼくは日本酒の冷やをコップであおりつづけ、ある友人と何やらわけのわからない話題をやかましく喋りつづけていた。いくぶん口論じみでいた気がする。たぶん酔いすぎて、つまらないことをくどくどと話していたのだと思うが、よくおぼえていない。もうぼくは一人で日本酒を一升五合くらい飲んでいた。突然、良雄がぼくに『俺、コヒにそんなこと言われるのは情けない』と言ってポロポロ涙を落としたのだった。そのときになってもぼくは自分が何を喋っていたのか思い出せず慌てた。なにせ眼に映るものが揺れ動き、歪むほどに酔っていたのだった。ぼくは涙を流す良雄に、意味もわからず弁解しつづけたのをおぼえている。次の日、聞くとぼくは一人で冷や酒を二升五合も飲んだと良雄が言った。それはおおげさだろうと言ってはみたが、あるいは本当かもしれないという気もした。われながらあきれ、恥じ入るのだった。(「乱酔記」 小檜山博) 


大禁物
娘の婚約者が上京した。結婚式の次第を相談する。本人達の希望により、媒酌人を頼まないことにする。結婚届に互いに署名、捺印することで、それにかえるといふ。従つて、結婚式といふより、披露宴で、小さいパーティーを開くことになる。披露宴の招待状も両人名の横書である。かなり変つた結婚式になりそうである。私は何も彼も大賛成である。本人達さえ幸福であれば、結婚式などどちらに転んでもよろしい。但し酒類の乏しいのだけは大禁物である。私は当日、酒類の無制限の寄付を申し出た。さうして私の唯一の主張を通させてもらつた。私はこれですつかり安心である。(「阿佐ヶ谷日記」 外村繁) 


酵母数
清酒の仕込みは酒母、添、仲、留と四回に分けて仕込みますが、その原料の割合は七%、一四%、二八%、残りと四分割して仕込みます。これを「段仕込み」といいます。酒母の育成は添加した酵母を安全に最大酵母数まで増殖させるために約二週間(速醸酒母の場合)を要します。添仕込みでは醪の容量が約三倍になりますので酵母数は約三分の一に薄まります。最大酵母数まで増殖させるため二日間必要で翌日は「踊り」と称して一日仕込みを休みます。仲仕込みと留仕込みは醪の容量が約二倍に増えますので酵母数や酸度が二分の一に薄まりますが、約一日で最大酵母数になりますので仲仕込みと留仕込みは続けて行います。仕込みを添・仲・留と三回にわけて行うことを三段仕込みと言います。(図3)段仕込みは極端に酵母数が希釈されることを防ぎ、添加した酵母のみを優勢に増殖させる仕込み方法で安全醸造の要ということができます。また蒸米が一段ごとに溶けますので仕込水をつめた仕込が可能となります。清酒仕込の汲水歩合(仕込水量l/総米量kg×100)は約一三〇%ですが、ビールやウイスキーの製造に比べて水の使用量は約四分の一以下になります。この結果アルコール分が二〇%もの高い製品となります。 (「酒を語る」 斎藤茂太・佐藤陽子・野白喜久雄・栗山一秀・濱本英輔) 「資料編」にあります。 


遵守事項
第一条「逃走」逃走し又は 逃走することを企てないこと。
第四条「不正連絡」許可なく又は許可された方法によらず、他の受刑者・外部の者又は外部機関と連絡し又は連絡することを企てないこと。
第十七条「たばこ・酒類の作成等」たばこ若しくは酒、又はこれらと類似の物を作り、又は用いないこと。
第二〇条「けんか等」他人とけんかし、若しくは口論し又はこれらのことを企てないこと。
第二一条「侮辱等」他人を公然と中傷し、ひぼうし、若しくは侮辱し又は他人に対して粗暴な言動をしないこと。
第三六条「交談」交談を禁じられている時又は場所に於いては、みだりに話をしないこと。
(著者注−第一条〜第四五条の『遵守事項』であるが、入所から出所まで、絶対に守らねばならない事項である。特に第四条、第二〇条、第二一条、第三六条等は所内生活において、違反する者が多く、取り調べとか独房に入れられたり、あるいは仮出所取消しになる人たちもいる。−)(「飲酒運転で犯罪者になった」 川本浩司) 


長幼有序
古来、朝鮮半島では、中国から伝わった儒教の考えが深く根づいて、「東方礼儀国」と称されたほど礼儀作法をなによりも大事にしてきた。いまも韓国が礼節の国といわれるのは、儒教の精神が生活の規範として脈々と息づいているからだろう。なかでももっとも重視されているのが「長幼有序(チャンユユソ)」、つまり年下は目上の人を敬わなければならないという儒教的な年功序列の考え方の徹底だ。それは食事作法の中にも連綿と受け継がれている。たとえば、食事はその家の最年長者が箸をつけてからはじめるのがマナーであり、たとえ客人であろうと年長者がひと口食べて「どうぞ」とすすめるまではおあずけである。また、目上の人の食事が終わっていなければ、勝手に食事の席を立つことは許されないし、客人より先に食事を終えてしまうことも非礼にあたる。酒は左手を右ひじにかけ、右手で注ぐのが一般的であるが、ここでも目上の人から酒をすすめられた場合のみいただくのが礼儀と、食作法はけっこうこまかくてうるさい。(「世界地図から食の歴史を読む方法」 辻康夫) 


ペルシア人
最近イランの王室図書館で発見された古文書(王室古文書、PL 755, N 552.23)によれば、頼光とその一味が征伐した酒呑童子は、実はペルシア人であったらしい。古文書は、頼光の暗殺を免れた酒呑童子の側近が、朝鮮半島に逃れ、さらに洛陽に辿りついて綴った手記を、中国の商人がペルシアまでもち帰ったのだろうといわれている。酒呑童子は、ぶどう酒の醸造業者で「シルクロード」を通って洛陽へ来て、異国趣味の酒場をひらき大いに成功した(その成功は『唐詩選』にもみえる)。彼は商売をもっと拡げようとして、側近たちを連れ、日本へ渡来したが、日本の役人は酒場をひらくことも、ぶどう酒を売ることも許可しない。しかたがないから、人里離れた山中にかくれて、ぶどう酒を密造し、畑を耕し、鶏を飼って、余生を平和に送ろうとしていた。このペルシア人は音楽を好み、笛をとって歌を吹いていたという。また『アルス・アマトリア』から『カーマ・スートラ』に到るあらゆる愛の術を心得ていたから、来って彼と共に暮らした土地の女たちのなかで、一人として彼を愛さなかった者はない。酒呑童子の山中閑居の夕は、またさながら洛陽の酒場の歓楽に似ていたようである。こういうある日、頼光が仲間を連れてやってきた。飲みに来るなら一人で来ればよさそうなものだ、と酒呑童子は思ったが、そこは酒の飲むのにも役所の金で集まって飲むのがこの国の風俗と心得ていたから、よろこんでとっておきの白を出し、その次に赤を出し、その次ぎにロゼーを出そうとするところへ、彼らは陰険にも刀を抜いて斬りかかってきたのである。(「真面目な冗談」 加藤周一) 


ヤケ酒
この頃(終戦後の時期)、父はよくヤケ酒を呑みました。もともとお酒が飲める人ではないのですが、戦前のおつき合いで宴会などにでますと、「献盃、献盃」の繰り返しで、ずいぶん呑まされて何度もたおれて健康を損ねていたんです。戦後のこの時期は、ウィスキーをずいぶん呑みました。ジョニー・ウォーカーの黒しか呑まないんですが、二日か三日に一瓶あけてたんじゃないでしょうか。その頃でも、いただき物など父一人が呑むぐらいは家にあったんです。家の中でお酒を呑むのは父一人だけなんですが、私がお酌をすると、「亭主が酒を呑まないから、給仕が下手だ」なんてブツブツ言いながら呑んでおりました。一生懸命働いて、なんでこんな目にあわなければならないのか、という気持ちがあったんでしょう。おしゃべりをするわけでもありませんし、明るいお酒ではありませんでした。母が心配しまして、「洋酒は強くて身体によくないから」ということで日本酒に変えたんです。その後、PHPをやったり、事業が落ち着いてくると、自分が打ち込めることが出てまいりましたので、それほどは呑まなくなりました。でも、お酒は亡くなる少し前まで、お猪口に二杯とか、ビールをコップに半分とか、呑んでおりました。(「血族が語る 昭和巨人伝」「松下幸之助」 松下幸子) 


暗号
冬になると、深夜の番組の中で、ぼくは最後に、次のようなことを口ばしることがある。「今夜はとくに冷え込むなあ。こういう日には湯豆腐で熱燗といきたいものですなあ」とか、「鍋ものをふうふういって食いたいねえ」などという。これらは、大阪ミナミのある店に対する暗号なのだ。ブラウン管の上でこれを知った店の親父は、すぐさま、その支度にとりかかることになり、午前一時に到着すると、ちゃんと出来上っている仕組になっている。公共の電波を私物化してはいけないという原則論はあるけれども、ま、これぐらいは許しておいてもらわなくてはいけないのである。でなければ、午前一時から注文すれば、時間を食うこと夥しい結果となる。(「食いてしやまん」 藤本義一) 


だいじん
『色道大鑑』第一巻に「吉原にて歴々の客人をだいじんといふ(以下略)」とあり、『洞房語園』巻下に「大臣、傾城買の上客をさしていふ(以下略)」などと記しており、これらの江戸の随筆類では、既に「だいじん」の語源がわからなくなっていたため、いろいろの説を試みている。普通は、大尽、大臣と書くが、正しくは大神と書くべきである。つまり、遊里の揚げ屋へ行って開く饗宴を、神が来臨した祭りの場と見立てているから(というより、神の来臨があってこそ饗宴が行われるという信仰的なことは忘れ去っても、民俗記憶がよみがえるから)である。したがって供について行くとりまきの者を大神に対して末社(後には太鼓持)といっていた。神社においては、首座の神が大神で、それに付属して支配を受ける小社を末社と称するからである。遊里における饗宴は、先にも触れたが、旧習を守り、祭りの形式をそのまま行い、まず、一定の式(杯事)が行われ、正客である大神、その供である末社に、主人(あるじ)が酒、肴を勧め、妓(祭の際の舞姫)を勧め客もこれに応じて主人の勧めたものを客が思いどおりにする、というのはきまった形式で、古来の祭と同様の手順を踏んでいる。おもしろいのは、吉原では末社といわない。江戸時代における吉原は、いわゆる浅草田圃のまんまん中で、吉原の者は、日本橋、京橋あたりへ行くのを「江戸へ行く」といっていた。だから吉原の外から大尽が連れてくる取り巻きを江戸神といい、吉原で大尽を取り巻く連中を地神といっていた。この事実からも、正客を大神と感じていた(意識していないだろうが)ことがわかる。(「くらしの条件」 中尾達郎) 


明治五年[一八七二]壬申(みずのえさる)
○同九月、鉄道御開業成功に付き、十二日、開業式行はせらる。同日、臨時行幸仰せ出ださる。朝八時、新橋より鉄道横浜へ行幸、御当日、新橋の横浜鉄道館及び浜離宮御園林延遼館等、諸人参拝をゆるされしかば、貴賤群集夥しかりし。新橋南北京橋辺、所々車楽伎踊(だしおどり)台を設けて賑へり。鉄道の入口には、足代を組みて紅白の挑灯夥しくかゝげ、境内樹木の枝にも挑灯を下げ、夜に入りて燈火を点じたれば、其の光景いはむかたなし。其の外の経営、市中の繁昌、言語にのべがたし(夜に入りて花火あり)。右相済みて後、市中へ酒肴を賜はる。翌十三日より始まり、新橋ステーションより横浜へ汽車運転業を肇めらる。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


かしく
「八重霞浪花浜萩」「競(いろくらべ)かしくの紅翅」「赤格子血汐船越」新作ものとしては、岡本綺堂作の「おその六三浪華春雨」など外題はそれぞれ異なるが、これらいずれの芝居の主要人物でもある"かしく"という女は、実在のモデルがあった。大阪北の新地、油屋喜兵衛の抱え遊女"かしく"がそれで、彼女は蔵屋敷留守居某に身請けされ、八重と改めて、老松町で妾ぐらしをしていた。八重は大酒飲みで、酒乱の癖があった。兄の吉兵衛が、『酒だけはやめな…酒だけは』と、いつも意見していたが、寛延二年(1749)二月二十九日、八重は酒乱から吉兵衛と口論となり、吉兵衛はそのため怪傷をして、これがもとで翌日死んだ。八重は"過失致死"で捕り、三月十八日、引廻しのうえ千日で獄門となった。刑死後、八重が生前よく参詣した曾根崎上一丁目の法清寺に、油屋喜兵衛がその首を弔って「本具妙暁信女」の石碑を建てた、…というのが、かしくの生涯である。法清寺は一名"かしく寺"といい、八重の石碑の手水水をソッと飲ますと、どんな酒好きでも酒嫌いになるといわれるが、果して霊験はイヤチコであるか、どうか?(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


酒ほがい(5)
酔びとよ悲しきこゑに何うたふ何うたふ酔ふべき身をば歎けとうたふ(酒ほがい)
さな酔ひそ身を傷(やぶ)らむと君言はず酒を飲めどもさびしきかなや(酒ほがい)
恋がたき挑むと言はれおどろきし弱き男も酒をたうべぬ(酒ほがい)
おどろきて一夜(ひとよ)のあひだ隠れたるみそか男は酒甕(さかがめ)を出づ(酒ほがい)
いろいろの酒甕どもにかこまれぬ遁(に)げあたはずばいかにすべけむ(酒ほがい)(「酒ほがい」 吉井勇) 


イワシのつみれ
イワシのつみれ汁は、各家庭で作ったものだが、最近では作る家はほとんどないといってもいいだろう。すり鉢どころかまな板さえない家が多いというのだから、話にならない。もしつみれを作ったら、六センチぐらいに切った長ネギの芯を抜き、その中につみれをつめて網で焼いてごらんなさい。ちょっとした酒の肴になることうけあいだ。(「舌の寄り道」 重金敦之) 


唾液に含まれているアミラーゼ
蒸した米を口の中で噛んでいると、およそ四分後にヨウ素反応(デンプンが存在しているとヨウ素と反応して紫色を呈するが、デンプンがブドウ糖に変わってしまうとその反応が消える)が消失した。このことは、唾液に含まれているアミラーゼが、予想していた以上に強い力を持ったものであることを示す。その力は、麹菌の造るアミラーゼや麦芽に含まれるアミラーゼに比べ、そう遜色ないものであることがわかった。発酵によって得られたアルコールと酸度については表に示したが、一〇日も発酵を続けると九パーセントものアルコールが生成されたのである。これは今のビールの二倍もの濃度である。(「酒に謎あり」 小泉武夫) 


ウナギの蒲焼き
日本酒との相性は?実は、古酒が合う。長期熟成酒とも呼ぶ、日本酒を熟成させたタイプだが、氷温のような低い温度で熟成させたタイプでなく、純米酒タイプを15度前後のいわゆる蔵の温度で熟成させたもので、最低でも5年以上経つと酒の色調が鼈甲(べっこう)色から琥珀(こはく)色になり、紹興酒にも通じる香りや風味を伴っている。この風味が、焼けたタレとウナギの脂の風味とマッチする。したがって、上質な紹興酒、老酒(ラオチュウ)、黄酒(ホワンチュウ)と合わせても面白い。(「『和』の食卓に似合うお酒」 田崎真也) 


大的上覧
[二四]人の覚悟は種々ある者なり。或人(あるひと)宴席にて話(かた)りしは、当春大的上覧のとき、某と云る人、的(まと)に向ひ弓を打揚(うちあげ)たるに、手ぶらぶらとして直に後へ倒れ、両足天に朝する体(てい)なり[これは例射術上覧のとき気おくるゝものゆゑ、内々酒を呑て気を弼(たす)くるもの多しとなり。此人もこれに因(より)て酔過したりとぞ]。人々駭(おどろ)き、病にとり成し(病気ということにして)御前を退かせたるに、其人(そのひと)従はず。射術上覧の為出たれば退くべからず迚(とて)、やはり矢をつがひして的に向へども、手先き定らねば矢さきも狂ふゆゑ、危しとて組頭など出、御目付も出合ひ、やうやうと休息所に牽戻(ひきもど)し、夫(それ)より帰宅させたれども覚えず。久しふして醒め且つその事を聞き、慙愧すれども為(せ)んすべを知らず。唯(ただ)忙然(ぼうぜん)として有りしが、数日ありて決心せしは、我御前に於てかゝる体ありしも、その本は酒の故なり。この身これ迄にして、後ち人に面を向けがたし。此上は他なし。死せんのみと云しが、日々酒を呑むこと絶へず。勉強(つとめはげむ)強飲、遂に酒を以て病を得、死せりとぞ。これ斯人の安心決定なるべけれども、外に為べき道もあらんことにぞ。(「甲子夜話 巻二十八」 松浦静山 中村・中野校訂) 


楢づけ
岐阜県は美濃も飛騨も山国であるから楢(なら)の実も栃(とち)の実も多い。楢の粉に小麦粉を混ぜて楢餅をつくったり、べたべたして酒の粕に似た楢酒をつくってそれを楢づけといって食べて酔ったということである。粒楢(つぶなら)は飯代わりに食したという。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 


初会の挨拶の盃事
半 はゞかりながら、あなたへ三一上(あげ)ませう 
金 谷粋さん 
谷 マア「上:夭、下:口 」(のみ)ねへ   
金 半兵へが耳へ口をよせて あさぎへ 
半 はゐ 
三 ちつとあげ申しんしよふ 
金 まづまづ   三 のみてさかづきを台へのせる。  半 心得て谷粋が前へ 
谷 三二おさわり申しやせうか 
三 マアお取りあげなんし 谷 のみて置く 半 又こころへて、綱木が前へ 
綱 さかづき取りあげて、のみて おかさん、あげんしよう 
後 チツト三三おゝさへもうしやせう 
綱 マア「上:夭、下:口 のみ」なんし 
後 アイ左様なら 
半 サア出しなせへ 
後 つぎなさんな 
半 何故へ 
後 まだ、お約束のお客がごぜんす 
三 夫でも一ッや二ッはよふおぜんせう 
後 あゐ と、うけてのみ、ひかえて居る 
半 ソンナラ三四おばさん、お頼申やす 
後 ナゼ、「上:夭、下:口  のん」でいきなせへな 
半 イゝヘ後にいたゞきやせう。今夜は下がいそがしうごぜんす
註 三一 お盃をさしあげましょう。以下初会の挨拶の盃事。まず若い者が客に渡し、客が飲んで、自分の決めた相手の女郎にさす。以下同様にして最後は送ってきた茶屋が飲みおさまる。これで初めてそれぞれの相手が定まるのである。 三二 お障り。飲まずにさしきかえること。 三三 「押え」は、さそうとする盃を押し返して、相手にもう一杯飲ませること。 三四 茶屋の女房に対する新宿の痛言か。(「甲駅新話」 太田南畝 中野三敏校注) 半:若い者  金、谷:客  三(あさぎ)、綱:女郎  後:茶屋の女房 


斯道の研鑽
さて、私は毎日酒場通いをしたものの、女給の誰かに惚れたわけではなし、まして惚れられたわけでは更にない。といってここが大事なことだが、私はただの一滴も飲めなかったのである。いつか私が便所に立った後でグレープ・ジュースのコップに永井龍男がウィスキーを二、三滴たらし込んだのを飲むと、「おや、乾葡萄の味がするぞ」と訝(いぶか)っているうちに、もう胸がカーッとなり、そのまま肘掛椅子の上で仰のけに眠ってしまって以来、酒をすすめるものがなくなった。私の結婚式当日、グラウスのマダムが勘定書を持って祝いに来てくれた。もう当分来ないだろうと思ったからだろう。親戚知人のいる中で伝票を出され、母は赤くなって私を睨みつけたが、渋々払ってくれた。「結婚してもたまには遊びにいらっしゃいね」とマダムがお愛想を言ったのを、母は何という侮辱、恥知らずの言葉だろうと怒った。女房の親父は小原庄助氏の後裔でもあろうか、終生飲み続けて四十二で死んでしまった豪の者で、その娘は私よりもイケるたちだった。三好達治、佐藤正彰、中島健蔵、大岡昇平等に私たち夫婦で、よく新宿へ飲みに行った。「樽平」という山形辺の地酒を飲ます家で、うまいよりも安いのではやっているようだ。そこへ度々来るうちに私もナメるように少しずつ酒を飲み始めた。鎌倉へ引ッ越して、小林秀雄と一軒置いて隣りに住み、毎日彼と連れ立って駅前のおでん屋に行った。「飲まねエ奴とはつき合わねエぞ」と脅かされ、一杯二杯と飲むうちに酒がうまくなり出した。爾来二十年、一心不乱に斯道の研鑽を積み、今日の地位を得たのである。(「私の人物案内」 今日出海) 


口が二つあるティーポット
気の短い人は、お茶をつぐのにもせかせかして、ティーポットの口を二つにしたらどうだなんていうが、五千三百年前のチョガ・ミシュ(イラン)の遺蹟から、実際そうした形のものが発掘されているのだから面白い。当時のことだから、せっかちにつぐという貴族のところへお客がくる。そこでもてなすための宴会となる。古風な楽器でオーケストラがはじまり、テーブルには山海の珍味が並べられる。そこへ侍女が、この二つ口のあるポットに酒を入れて持ってくる。親愛の情を示すために、同じ酒器から酒をくみかわして飲もうといった使い方をしたのであろう。毒ははいっていないよといった…。(「珍々発明」 中山ビーチャム) イギリスの特許番号360253(1931)にあるそうです。 


芸者を総揚げ
ちょうど週末で、那須温泉(栃木県)はかなり込み合っていた。旧知の旅館もあるので、訪ねれば一人くらいはなんとか泊めてくれるだろうが、混雑時だからこそお互いに迷惑である。翌日はほかへまわる予定だったので、バスで下った黒磯の駅前旅館にでも泊まろうかと考えながら、ぶらぶらと新那須温泉まで来てしまった。そうと決まれば、急ぐことはない。道ばたの食堂兼用の飲み屋に入り、酒を一本注文した。すると、そこは芸者の置き屋も兼ねており、奥で女たちはお座敷の準備に大わらわだった。話のはずみに、「部屋はたくさんあるので、泊まっていけば」と誘われ、そこに居座ることにした。早速、食事をとり、部屋に引き上げてくつろいでいると、座敷姿の芸者がばたばたと乱入してきた。客といさかいをして、旅館を飛び出してもどってきたらしい。「まあ、聞いてください。いくらお客だって、こんな仕打ちってありますか」涙声でしゃべりはじめた彼女の話に耳を傾ける。すると、彼女のいきどおりはいくぶんおさまったらしい。「私のおごりですから、つき合ってくれるでしょう」彼女は、下から魚や酒を持ってきて、酒宴が始まった。夜がふけて、他の芸者もそれぞれ客を伴いもどってくると、店でひとしきり飲んでいたが、ほどなく騒ぎはおさまる。すると、芸者は、次々に私の部屋に集まり、芸者を総揚げして一晩飲み明かす結果となった。翌日、彼女らに送られ、二日酔いのからだでバスに乗り込んだが、玉代はおろか、飲食代もぜんぶ彼女らのおごりだった。(「旅の歳時記」 山本「イ胥」) 


薬罐ノ口ノ径
33 余島崎ノ草「上:くさかんむり 中:合、下:廾 庵」(そうあん)ヲ訪フ。師藁(わら)スベヲ以テ薬罐(やかん)ノ口ノ径ヲハカリ、其ワラヲ以テ出去レリ。シバラク有テ酒一陶(つぼ)袖ニシ来ル。ヤガテ薬罐ニ入レテあたゝム、是ハ其酒ヲ盛ルトクリノ大小其口径ニカナハザレバ、酒ヲアタゝムル事ノナラザルヲハカル也。(「新修 良寛」 東郷豊治) 良寛庇護者の一人であった解良叔問の子である解良栄重による良寛逸話集だそうです。 


五十円ソコソコの月給
昭和の一ケタの終わりごろ、丸ビルの二階に「白鷹」の直売だという店があった。大ぶりなワイン・グラスのような正一合入りのコップで飲ませた。値段は確か、一パイ二十五銭であった。戦後、あんなにスイッとノド越しのいい酒に出あったことはない。そのころ、人形町のユニオン・ダンスホールのそばに、「松竹梅の酒蔵」というのがあり、そのころ最高の酒といわれた「松竹梅」を同じようなコップで飲ませて、これが五十銭であった。三十銭の円タクに五人乗りで、人形町まで行き、十枚二円の「夜券」を、一時間も掛かって踊り、今晩は豪遊しちゃったナ、などと顔を見合わせたりする、二十代で五十円ソコソコの月給取りの身では、この松竹梅は、月給日ぐらいしか飲めないゼータクな酒であったが、コップからシズクがテーブルに落ちると、指にベタつくほどのコクのある酒であった。しかも甘くなくて、サラリとしているのだ。麹のにおいもしたし、どういうワケか、青畳のようなにおいを感じたナ。(「たべもの世相史・東京」 玉川一郎) 


大人の文化
わたしの大食癖がおさまったのは、酒の味がわかりかけてからである。わたしの酒歴は十八歳のころからはじまる。微妙なものの味の識別ができるようになるには、人間の成熟をまたなければならない。−
私の場合、酒を飲みだすことによって大人の文化へ足をふみこみはじめ、それにともなって食物に次第に目がひらけてきたといえよう。子供のころは、臭いをかぐのみきらいであった川魚やシヤウオのたぐいへの偏見が消え、うまいものであることを素直にみとめたのも、酒を飲むようになってからのことである。(「食生活を探検する」 石毛直道) 


広田社
兵庫西宮の旨酒
室町後期の『公事根源(くじこんげん)』に「兵庫西宮之旨酒」とある西宮酒は、都へ進出して激しい市場争いをしたことが、一五〇九(永正六)年の洛中酒屋「言上書」から知られる。旧官幣大社広田神社の門前町として栄えた西宮は、一三七一(応安四)年八〇〇軒が焼失したとある。広田社は酒づくりと深い関係があり、『延喜式』(玄蕃寮)には、新羅(しらぎ)の使節に与える神酒の稲を調達するように定めてあった。このことは、西宮酒の成立にかなり重要な意味をもつものと思われる。なお、西宮が銘醸地になったのは、この地に酒づくりに適した水が湧き出ていたからであるが、この湧水が後年の「灘の宮水」と同じであるかどうかは不詳である。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


千歳飴
「千歳飴」といえば七五三と相場が決まっているが、もともとはひとりの飴売りが考えた単にユニークな形の飴にしかすぎなかった。江戸時代のこと。当時も今と同じく飴といえば飴玉。丸く小さな飴玉は子どもが頬ばってのどにつまらせることが多かった。そこでアイデアマンの飴売り七兵衛は、飴を棒状にして長い袋に入れ、小さい子どもが食べてものどにつまらせることがないようにして売った。しかも、これを食べると千年生きられる、という意味で千歳飴と名づけ、浅草など、参詣者の多い場所で縁起物として売った。これだけでも大ヒット商品だったが、さらに拍車をかけたのは健康食品として受けとられたことである。じつをいうと七兵衛さん、生来の酒好きで、酒を飲んではつやつやした肌で売り歩いて。しかも、浅草だけにとどまらず、各地を跳びまわる健脚ぶり。さぞや千歳飴のおかげだろうと、大人までもが七兵衛さんの飴を買い求めたのである。今でいう、元気印の親父がスッポンエキスを売る、の図か。(「ヒット商品笑っちゃう事典」 モノマニア倶楽部[編]) 

南亭酔作(南亭に酔うて作る)   孟浩然
納涼 風 颯トシテ至リ        涼を納るれば風が颯(さつ)と吹いて来る
逃暑 日 将(まさ)ニ傾カントス。  暑さを避くれば日は将に傾かんとする。
便(すなは)チ南亭裏ニ就イテ    そこで南亭の中に往き
余樽 解酲ヲ惜ム。          樽の余りも迎へ酒をするを惜しんで、飲んでしまふ。(「中華飲酒選」 青木正児訳著) 


ラオ・ラーオとナム・カーオ
村の中を通って、川へ向かう。どんどん酒の匂いはキツくなる。急な斜面を下りると、川岸に酒造りの小屋が点々と建っている。酒は、壺や鍋で細々と造っているのかと思いきや、なんとドラム缶で造られていた。薪(まき)でドラム缶を下から熱し、上からは、蒸溜を助けるため、水をかけて冷やしている。酒造りをしているのは、なぜかみんな女だった。子供たちも薪を担いできたり、水を運んだりとよく働いている。かたわらには、素焼きの壺がいくつもあり、米を醗酵させているらしかった。村の田んぼでとれた米に麹を混ぜて、壺に入れておきさえすれば、この熱帯モンスーンの気候で、いい具合に発酵するのだ。もちろん、水はメコン川から汲んでくる。まさにこの酒は、メコンの大地の恵みなのである。村人が、つくりたてのラオ・ラーオ(蒸溜したもの)をついでくれた。まだ少し温かい。メコンのほとりで、メコンの民の酒をゴクリ。最高の気分だ。「セープラーイ(うまい)!」と言ったら、みんなの顔から笑みがこぼれた。言葉が通じないのに、にこにこと私たちのまわりを取り囲んで、人なつっこく話しかけてくる。子供たちが走ってきて、恥ずかしそうに笑いながら、ナム・カーオ(蒸溜前のもろみのようです)を差し出した。コップを川で洗ったため、酒は泥が混じって茶色く濁っていた。しかし、せっかくの好意だ。「コープチャイ(ありがとう)」と言っていただく。米の粒が少し入っている。スコータイのより発酵が進んでいて、ちょっと酸っぱいが、かえってこの素朴さがいい。(「女二人東南アジア酔っぱらい旅」 江口まゆみ) ラオスのサンハイという酒造りの村でのことだそうです。 


兵六憲法
一、居酒屋兵六に於ては店の女がお客にお酌する事を厳禁す
一、葷酒山門に入るを許さずとは反対に、居酒屋兵六の山門内ではアルコール抜きの飲物は一切売るを許さず
一、宣伝広告は必要止むを得ざるもの以外厳に慎む様心掛る事
一、兵六店内の大掃除は遠慮す可き事
一、清酒は地酒の二級酒に限り特級や一級酒は絶対置かぬ事
一、洋酒、泡盛等は御遠慮申上る事
一、日本の代表的な酒である蒸溜酒の焼酎を皆に再評価して頂く様大いに宣伝する事
一、居酒屋兵六は半分は店主のものであるが半分は社会のものと心得置く事(「兵六亭 兵六憲法閑話」 平山一郎) 兵六は神田神保町にある居酒屋で、この憲法は創業者であった先々代が作ったものだそうです。 


奉公人の禁物大酒・自慢・奢
武士として主君に仕える者にとって好ましくないものは、酒を飲みすぎること、自らをりっぱだと思うこと、分に過ぎたことをすることである。不仕合わせの時は心配ないが、少し順調な時はこの三つにおちいる危険がある。『葉隠』に、<「奉公人の禁物は、何事にて候わんや。」と尋ね候えば、「大酒・自慢・奢なるべし。不仕合わせの時は気遣いなし。ちと仕合わせよき時分、この三箇条あぶなきものなり。(略)」>と。『葉隠』は、山本常朝(つねとも)(一七一九年)の口述。(「飲食事辞典」 白石大二) 


駄々っ子に柄樽をつける初の午(うま)
 寺子屋へは初午から行き始めるので、柄樽を持って師匠に挨拶に行く。
太子講ほぞをきめたりけづったり
 二月二十二日は建築工芸の祖、聖徳太子忌なので、建築関係は仕事を休み、太子講と称して酒宴を張る習わしがあった。ほぞをきめる(食べる)、けづる(呑む)は大工言葉の符牒なのである。(「日本酒物語」 二戸儚秋) 


そろそろ切りあげるか
「そろそろ切りあげるか。明日が早い」
「大風が吹けば桶屋が儲かる。じゃないが日曜晴れの予報だと土曜飲み屋に閑古鳥が鳴く」
「?…」
「秋晴れの日曜は鶴岡の男子たるものは早朝一斉に磯釣りに走るのだ」
「それ程釣りキチが多い。前夜はオチオチ飲んでいられない」 (「飲んだくれてふる里」 小宮山昭一) 


たまさかに飲む酒の音さびしかり
大正七年(一九一八、三十七歳)の句。山頭火が大正六年一月号の『層雲』に寄せた「白い路」の一節に、「私は『貧乏』によって、肉体的にさへも二つの幸福を与へられた。一つは禁酒であり、他の一つは飯を甘(うま)く食べることである」とあり、どうやら禁酒の誓いを立てていたようである。このころの山頭火の酒を知る上で、興味深いエピソードがある。後に、俳人の渡辺砂吐流氏が書きしるしたもので、大正六年三月十日、防府の熊万楼で開催された椋鳥句会復活大会に、山頭火は熊本からわざわざ出かけてきた。渡辺氏は当時十八歳の郵便局員、山頭火はすでに『層雲』選者の一人であった。ところが、この句会で誓いを破って大いに飲んでしまったからたまらない。翌日、熊本に帰る途中、小倉の旅館に上がり込んでさらに飲み、飲み過ぎて支払いができなくなってしまった。渡辺氏が手紙を受けとり、金の工面をして大急ぎで駆けつけたところ、山頭火は宿で頭から蒲団をかぶり気の毒なほど恥ずかしがっていたという。控えていた酒だけに、すっかり酔っぱらってしまったのだ。「たまさかに飲む酒」には、当時の山頭火の状態が率直に表現されている。禁酒といいながらも、時々飲んでいたわけだが、「酒の味」といわずに「酒の音さびしかり」といったところに、いかにも酒好きの淋しがりやの澄んだ感覚がうかがえる。(「放浪行乞 山頭火百二十句」 金子兜太) 


唐代の酒名
酒は「呈+おおざと」(エイ)の富水。烏程の若下。栄陽の土窟春。富平の石凍春。剣南の焼春。河東の乾和・蒲萄。嶺南の霊渓・博羅。宜城の「さんずい+盆」水。潯陽の「さんずい+盆」水。京城の西市腔。蝦蟇陵の郎官清。河漢の三勒漿、法は波斯(ペルシヤ)から出たものである。三勒とは庵摩勒(アンマロク)・「田比」黎勒(ビレイロク)・訶黎勒(カレイロク)を謂ふ。[国史補] (「酒「眞頁」(しゅてん)補」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 


覗(のぞ)かれて酒盛に成(なる)くすり喰(ぐい)
やあ、うまそうな匂いがするぜ、何を食ってるんだ、と遠慮のない連中が顔を出す。かくれて肉を食っていたのだが、まあ、いいや、ちょうど煮えたところだ、一杯やろう、ということになった。<そっとのぞけば酒の最中>(利牛『炭俵』)。猪の肉は好まれていたらしい。(「『武玉川』を楽しむ」 神田忙人) 


汽車を座敷に
これが縁結びで、清兵衛はぽん太を熱愛、外人が目をつけていると聞くと、忽ち落籍して別宅に置くが、やがて本妻とする。ぽん太は玉の家の女主人ますの妹で恵津といい、藤間勘左衛門におどりを、杵屋六寿に長唄を、住田彦四郎に鳴物を習っている。清三郎がくわしく書いているのだが、明治二十八年に、京都までぽん太を同行するに当り、清兵衛は二等車を一輌買い切り、出入りの大工に寸法をとらせて床板を張り、毛氈(もうせん)や座布団を敷き、汽車を座敷に改造する。そして、杵屋六左衛門(のちの寒玉)、芳村伊十郎、音楽学校を卒業したての洋楽器を弾く北村季晴が同行、新橋からは若い芸妓を数人のせ、ひいきにしていた竹川町花月の板前をつれ、発車と同時に大酒宴を開いてドンチャン騒ぎがはじまるが、駅に停車すると一同しーんと鳴りをひそめたというのが、いかにもおかしい。この京都行は、清兵衛が推進した写真学会の会長である徳川篤敬(あつよし)侯が日清戦争から凱旋、帰京する前に京都に寄ると聞いて途中まで歓迎に出向こうという理由であったが、目的は往復の大饗宴だったようだ。かなり懐中にして行ったにもかかわらず、東京の清三郎のところに「三千円送れ」という電信が毎日来る。この時代の三千円は、こんにちに直すと、どのくらいの額なのか見当もつかない。(「ぜいたく列伝」 戸板康二) 清三郎は鹿島清兵衛の実弟だそうです。 遊鬼 


三味線の箱
まわりどうな箱屋の親父、風を吹くをよろこび「かか、商売がはやるぞ酒こうてこい」といえばママそれはどうしていそがしいぞ」と問えば「はてこの風で人の目にほこりがはいると、目をわずらうので、三味線をならうによって、三味線の箱が大分売れる」といわれた。
これは明和五年(一七六八年)の関西の『絵本軽口福笑』にある。この話が転じて、有名な<風が吹くと桶屋がもうかる>の話になったのか、桶屋のほうが先かわからない。 (「小ばなし歳時記」 加太こうじ) 


イワナのコツ酒
食事半ばに、コツ酒というものが出てきた。大きな深皿に、よく焼いたイワナが一尾ずつ入っている。焼きたてでなければならない。それへ、銚子の酒を二本、じゅっと音の鳴るような注ぎ方で注ぎこむのである。「どうぞ」と、奥さんが捧げた。詩人のTさんがまず飲んだ。なるほど酒がおそろしく香ばしくてうまい。酒がからになったあと、編集部のHさんが代表でイワナに箸を入れた。どうですか、ときくと、酒好きのHさんは顔じゅうくしゃくしゃにして、「ええ、−これは旨いです」、といった。雪に閉じこめられた五箇山というのは意外な美味を考案している。江戸期の加賀の殿様には、五箇山のこのコツ酒がすきで季節になるとコツ酒はないか、と膳部の役人にさいそくしてはさかんにこれを食っていた人があるという。(「街道を行く」 司馬遼太郎) 


酒代稼ぎ
あるとき、西郷隆盛は仲間と酒を飲むため、酒代稼ぎに中国の名筆陳元輔(ちんげんぽ)の偽作をこしらえ、大久保利通に売りつけようとした。大山巌を使いに出したところ、大久保はこれを見破り「せっかくの思召だが」と断った。ついで松方正義のところにもっていったところ、松方は、「西郷さんの書としてはみごとなでき栄え、有難く頂戴仕る」といってそのままただで巻き上げた。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


樽籐左衛門
江戸三年寄(市中名主の惣督なり。樽籐左衛門、市右衛門、喜多村弥兵衛、以上三人を云ふ。町奉行に属す)三町人各幕府に由緒ある町人なり。籐右衛門、本姓水野氏。戦場に酒樽を献じ、遂に府命にて族称を改む。」また東三十三国に桝を売ることを許し、他にこれを売ることを禁ず。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂)  伊勢屋作兵衛   


焼酎一升
民俗学者たちがよく話題にする、長崎県対馬の「籠背負(てぼから)い嫁」というのも、いわばもっとも古風であり、しかももっとも合理的な婚姻法のひとつでありました。これは籠(てぼ)を背負って畑に行くような安直な方法で、婿の家に引き移って行くことからこの名前が出たものといわれています。ここでは結婚の申入れするとき、名物の芋焼酎一升出すだけで、嫁が引き移るときは酒肴が出ないばかりでなく、婿さんはじめ家族一同は、畑仕事をいつものようにしていて、式らしいものはひとつもありません。だから嫁ごは焼酎一升でもらえるといい、女の子どもが生まれると「焼酎が一升生れた」などといって笑ったものでした。(「陽気なニッポン人」 酒井卯作)  昭和40年出版です。 


西園寺公望、渡辺崋山
 国木田独歩は西園寺公の家に世話になっていたことがある。そのころは西園寺家も貧乏なころで、毎晩ぶどう酒は一杯だけで、あとは日本酒でがまんしなければならなかった。毎晩ぶどう酒を一本ずつのめたらというのが公の望みだった。
 渡辺崋山が桜間青崖を訪ねると「ちょっと外出するから留守居してくれ、それから羽織を拝借」といって出たが、やがて帰って来て、酒肴を出してもてなした。崋山は「ごちそうになった」と立って「羽織は」ときくと、「君の羽織で酒肴ををととのえた。羽織はわれらの腹中にあるのだ」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


秋夕節
秋夕節は、韓国の名節中もっとも重視される朝鮮民族固有の祝祭日です。この季節になれば暑くもなく寒くもなく、気候が爽快で月も一年中でもっとも明るく、新穀と新鮮な果物が豊富に出回り始めます。各家庭では秋夕の日、朝早く全家族が晴れ着に着替えて、新穀をもって醸した酒と新米で作ったソンピョン(松葉を敷いて蒸した秋夕独特の餅)、そして栗・ナツメ、柿など新しく採れた果物を祖先の祭壇に供えて薦新する茶礼を行います。秋夕茶礼の順序・供物・紙榜などは次章で述べる忌祭とほぼ同じです。また秋夕前後には祖先のお墓参りをして、お墓に雑草を伐る習わしになっています。これを伐草(ボルチョ)といいます。また、平素親もとを遠く離れていた子どもたちが、実家に帰って親兄弟と一緒に秋夕を迎えます。(「韓国歳時記」 金渙) 秋夕節は旧暦八月十五日だそうです。 


大御酒の柏
是に大后(おほきさき)石之比売命(いわのひめのみこと)、自(みずか)ら大御酒(おほみき)の柏(かしは)を取りて、諸(もろもろ)の氏氏の女等(おみなども)に賜ひき。(「古事記 祝詞」 倉野憲司・武田祐吉校注) 柏の葉に盛った固形の酒ですね。 


掘り出された奈良の都
「造酒司」があったと推定されるのは平城宮第二次内裏の東隣りにあたる場所。通称一条通りの南に面したところで、従来東一坊大路が南北に通っていたと推定されていた地域である。発掘が進むにつれ、従来の説にしたがえば道路敷が出るべきところから、多くの建物遺構や大形の井戸二基、それらをめぐる溝などが発見されて調査員たちをとまどわせた。このあたりは宮城外になるはずであるのに、宮城内と関連した建物遺構がなお東に続いているのである。従来平常宮の東辺と考えられていた線よりさらに約二五〇bほど東辺は東に拡大されたことになったのである。その拡大された一画から、五百数十点の造酒司関係の木簡が見つかったのである。 (表)「造酒司符 長等 若湯坐少鎌 犬甘名事 日置薬」 (裏)「宣者言従給状知必番日向□□」 造酒司が表書きに連記した三人の雑人に上番することを命じたものである。同様「造酒司」の官庁名のみえる木簡がこの場所からもう一枚「造酒司解 申□人」と表書きをし、裏に酒の支給簿風の記載したものが出ている。この二枚だけで、この場所が造酒司の跡であると決めるのは早計だが、そのほか酒に関したものを数点列挙すると次のようなものがある。 (表)「親王八升 三位四人一斗二升」 (裏)「伎人六升」 これもやはり酒の支給の身分別の多寡を記したものであろう。 (表)「□合□酒三升□□者 右□□」 (裏)「□務急甚仰望垂処分頓首死罪」 (表)「監物史生等謹啓 酒一二合」 (裏)「右依望処分□□以状」 この二つは酒の処分についての許可を申請したものである。 (表)「酒五升已上大殿祭料」 (裏)「二升」 は酒の使いみちとその数量を書いたもの。そのほか「清酒四斗」「白酒□」「清酒中」「中酢」「古滓」など酒に関した付札が集中しているのである。(「掘り出された奈良の都−平城京時代」 青山茂) 


エノケンさん
夫人が助手席、後部座席に小さなお嬢さんをはさんでエノケンさんと私。コチコチになりながら大先輩の話を聞いた。若い時から身軽で、酒が入ると、自家用車の運転手をびっくりさせてやろうと、。かなりのスピードで飛ばしている最中に、車の右手のドアを開けて屋根づたいに反対側に移ってドアを開け、元の席に移るなんてことをよくやったという。ところがある時、反対側のドアが開かず、振り落とされて地面へたたきつけられ、呼べど叫べど運転手は気づかず、車はそのまま五反田方面に走り去ったそう。その日私の乗っていた車の後部座席の窓ぎわにも一升瓶が横倒しになっていたし、舞台のピアノの上にも水ならぬ特級酒の冷やの入ったコップが置いてあったように覚えている。([落語の隠し味] 林家木久蔵) 妙なクセ 


飲酒 陶淵明
秋菊有佳色、「なべぶた+邑+衣」露「てへん+綴−いとへん」其英。 秋菊佳色有リ 露ニ「なべぶた+邑+衣 ゆう」シテ其ノ英ヲ「てへん+綴-いとへん と」る。
汎此忘憂物、遠我遺世情。            此ノ忘憂ノ物ニ汎(うか)ベ、我ガ遺世ノ情ヲ遠クス。
一觴雖独進、杯尽壺自傾。            一觴 独リ進ムト雖モ 杯(ハイ)尽キテ壺(コ)自(おのづか)ラ傾ク。
 秋菊が佳い色に咲いてゐる 露に湿れつつ其の花房を採り、
 此の憂を忘るる霊薬に浮べ飲んで 我が世を遺(わす)るるの情を更に遠くする。
 一つの杯で独り酒を進めて相手はないが 杯が空になれば壺(とくり)が自と傾く。
(「帰園田居 田舎のわが家に帰りて」 陶淵明 青木正児訳 「酔っぱらい読本」 吉行淳之介監修) 一部です。 


ナット・ターナーの暴動 一八三一
一八三一年八月二一日の晩、黒人奴隷の預言者ナット・ターナーは、ヴァージニア州サウサンプトン郡で暴動を起こし、五〇人以上の白人と一二〇人以上の黒人が死んだ。ターナーはアルコールを一滴も飲まなかったが、六人の仲間はその晩、豚の丸焼きとりんごのブランデーをたらふく詰め込んでいた。最初のプランテーションを襲撃したときには、暴徒はりんご酒を飲んでから、そこにいた白人を皆殺しにした。その晩から翌日にかけ、暴徒たちは次々とプランテーションを襲い、白人を殺し、馬、武器、ブランデーなどを略奪した。昼頃には一団は約六〇人にふくれあがっていたが、ほとんどがすっかりご酩酊で、馬にもまたがっていられなかった。ターナーが前進部隊に追いついてみると、プランテーションの酒蔵でブランデーをあけてだらけきっていた。白人グループの接近を知ると、ターナーは部下を叱咤し、白人たちと闘うよう激励した。ところが翌日、非常招集をかけてみると、残ったのはたった二〇人だった。これで三〇〇〇人からなる武装した白人の民兵や志願兵にかなうわけがなく、暴動は鎮圧された。(「世界おもしろ雑科2」 ウォーレス、ワルチンスキー他) 


日本酒に含まれている糖類
日本酒に含まれる糖は、グルコースが圧倒的ですが、このほかイソマルトース、パノース等の非発酵性糖(酵母により発酵されない)や、オリゴ糖等も含まれており、清酒のコク味に微妙に関係しているものと考えられています。甘味物質としては、糖類のほかにグリセリン、エチルグルコシドやアラニンなどの甘味アミノ酸も含まれています。(「酒博士の本」 布川彌太郎) 当然のことながら、添加された糖類ではなく、本来の酒に含まれるものです。 


腸だけのつぼ焼き
次ぎに腸だけの(さざえの)つぼ焼きをこしらえた。腸は砂袋を取ってからざっとゆで、ミツバ、シイタケを刻んだものと混ぜてから元の殻に戻し、出し汁を注ぎ込んで殻蓋をして火にかけ、煮ながら食った。腸特有の苦みが実に春の夜の酒に合い、やや熱めの燗徳利三本はあっという間に空になった。(「食あれば楽あり」 小泉武夫) 


角の居酒屋
最初の地点、「室町一丁目東側南角」に戻ると、その地所の前に「一丁目の自身番屋」があって、その「東側中程横町の角に、居酒屋ありて、二階表側の軒先に、三尺四方足らずの屋根に宮居を設け、高砂の尉(じょう)と姥(うば)とを祭りたり」という。−
もとに戻って、その居酒屋の二階の軒先の高砂の夫婦の話は、世阿弥の謡曲の『高砂』からきていて、『大辞林』によると「阿蘇神主友成が、播磨国高砂の浦で、老夫婦に会って高砂の松と住吉の松が相生である故事を聞き、二人に誘われて津の国住吉に至り、住吉明神の来現を仰ぐという筋。(中略)一部は婚礼などの祝儀で謡われる」とある。狂歌本『江都日千両(日本橋)』には「室町高砂新道(じんみち)」と題して、 室町に名も高砂の尉と姥歳もひさしにまつる御祠(みてぐら) とあって、それが高砂新道の名称の由来だと説明されている。(「江戸っ子歳時記」 鈴木理生) 


茶屋
マス席の券も茶屋の独占から開放されて、プレイガイドや国技館の切符売場に放出されるようになった。ただしそれは一部である。依然として案内所が扱う分が多い。そのために、いいマス席を一般買いするには、前売りに早くから並ばなければ手に入らないのである。茶屋が飲食物を提供する件は、中止されていない。国技館にいくとわかるが、出方が手提げ籠(かご)で、酒だの焼き鳥だのを、せっせと客席に運んでいるのである。サービス会社ができ、茶屋は案内所となったが、茶屋制度そのものの実質は残っているのだ。特に飲食物の提供は、中止の改革案など、まったく忘れたように、堂々と大手を振ってまかり通っているのである。こうした点についての当事者のコメントは、切符の売り捌(さば)き所については、移り気の一般ファンのみを対象とするわけにはいかない。案内所が扱う切符は案内所の買い取りになっていて、販売が非常に安定している。したがって、相撲経営の立場上、これを全面的になくすことはできない、ということである。(「相撲百科」 もりたなるお) 


モッキリッコ
私はいまでも、あの薪割りの百姓爺さんが、私の生家の台所で、脚絆を巻いたまま板の間にきちんと膝を折ってモッキリッコを飲んでいる姿を憶えている。この爺さんは、私が母にいわれて薪小屋へいって、「ダダサえ、今日はハア、済ませてくんせ。台所(だいどこ)サきて、モッキリッコ飲んでくんせ。」というと、いきなり馬が嘶くように笑う爺さんであった。彼はモッキリッコの前に膝を折って坐ると、まず仏様を拝むようにしてモッキリッコを拝む。それが済むと、コップをほんのすこし膳から持ち上げ、手が顫えてこぼれそうになるところへ、うまく口を持っていって、すすり込む。それから、頭をくらくらさせてなにか独り言をいいながら、一と口ずつ、旨そうに飲んでいた。ときおり、なにがおかしいのか、不意に独りで吹き出したり、馬が嘶くように笑ったりする。酒がこぼれると、急いで掌で拭き取って、禿げた頭になすりつける。そんな彼をみて、「ほい、またダダサがモッキリッコと仲良しして笑ってる。なんぼう面白いんだか。」と母がいったものだが、後年、私もモッキリッコに親しむようになって、あのときのダダサの無我の境地を、なるほどと思い当るようになった。(「モッキリッコ」 三浦哲郎 「酒恋うる話」 佐々木久子編) 


岡田以蔵
幕末の天下「三人人斬り」薩摩の田中新兵衛、肥後の川上玄斎、土佐の岡田以蔵。あの頃の暗殺事件でこの三人の中の誰かが関係していないものは殆んど無い。中でも以蔵の遣り口は惨酷で、時には以蔵をおだててやらせた同志も顔をそむける位だったという。おやじの儀平宣之(ぎへいのぶゆき)というのは家老桐間兵庫というものの家来だが、武術にも強かったが、大変な大酒家でやや酒乱の形、これが伜の以蔵に災して時々気狂いのようにさえなったのではないかという。以蔵ははじめ武市半平太について一刀流を学んだが、安政三年の秋、武市と共に江戸へ出て、あさり河岸の鏡新明智流桃井春蔵に弟子入りし、ここで一年余で目録許可になって、また武市について土佐へかえった。以蔵は天保九年正月二十日の生れだからこの時が丁度二十歳。それから二年ばかりしてまた武市について九州へ武者修行に出たが、途中別れて一人となり、豊後の岡藩に入って、ここの直指(じきし)流堀加治右衛門に一年修行した。だから腕は相当に出来る。腕は出来るが割合に文字がうすい。これが以蔵の生涯に災した。以蔵は剣術と一緒にも少し学問をしていたら、もっと人間の本筋を歩いて、只、同志の煽動に乗って、後世人斬り以蔵などという忌やな名前だけを残さなかっただろう。(「続ふところ手帖」 子母澤寛) 


酒のでき具合
神前に供されるかみ酒には神意を伺う意味もあった。『播磨国風土記』託賀郡の条には、醸み酒を盟酒(うけいざけ)として子供の父を神に問う物語があり、前出の大神(おおみわ)神社でも、酒のでき具合によって神意を伺っている。このように、酒のでき具合には神意が反映されると考えられている。(「食の万葉集」 廣野卓) 


原料米の表記
Q 原料米の表記で漢字、カタカナがありますが、何か決まりがあるのですか? 五百万石、山田錦となっていて、ゴヒャクマンゴク、ヤマダニシキとは書いてありません。逆にコシヒカリはカタカナ以外は見たことがありません。たかね錦は高嶺錦とたかね錦と二通り見た気がします。
A カタカナ名の品種は農水省で、ひらがな名と漢字名の品種は道府県で育成され、名づけられた品種です。山田錦は兵庫県で、五百万石は新潟県で育成されました。「たかね錦」の「たかね」は標高の高い場所に適する多収穫の早生の意で、錦は酒米であることを表しており、ひらがなが一般的ですが、「たかね」を学のある方が「高嶺」と書かれたのでしょう。(「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 


「感想」
ある時、先生が例の如く黒板にドイツ文を書き始めると、学生の間から声が上がった。「先生、そこは先週やりました」「そうか。それでは感想を書き給え。なんの感想でもいい」われわれ学生は少なからず当惑したが、ノートの頁を千切って、先生のいわゆる「感想」を書き始めた。先生は教室の窓際にあるスティームのそばへ椅子を寄せて、ぐっすりと眠り込んでしまった。大学へ出かける前に先生はうちでもうビールを飲んでいるのである。やがて時間がきて、学生のひとりがぐうぐうう眠っている先生に声をかけて「感想」を書いた紙片を束ねて先生に差し出した。先生はその紙片をくるりと捲いて上衣のポケットに無造作に突っ込んで、軽く一揖(ゆう)して教室を出て行った。恐らく先生は外へ出てからそれらの紙片を道ばたの屑籠の中か何かにぽいと投げ棄ててしまうのであろう。まことに先生は帝国大学教授の亀鑑であったと言わざるをえない。大学の先生というものは、料理教室やスキー講習会の講師ではないのであるから、それでいいのだと考える。A教授は小さい人で、顔は狆ころに似ていた。(「蝶ネクタイとオムレツ」 高橋義孝) 


アンコウのあご
江戸のアンコウも吊し切りで知られていた。「居酒屋はあごをつるすを見得(みえ)にする」「アンコウも飲みたさうなる居酒見世」「あごばかり軒に残ると人は散り」など、江戸の川柳にはアンコウを詠んだものが多い。(「味の日本史」 多田鉄之助) 神田須田町にある鮟鱇料理屋いせ源紹介の所にありました。 


生もとと山廃もと
山卸しという「もとすり」作業は、厳冬の夜間作業でつらいことは書いた。明治四二年、醸造試験所の嘉儀(かぎ)氏はもとすりの意義は麹と蒸米の接触であると解し、それならば、麹の酵素を浸出しておいて蒸米を入れればよいという理論をたて、山卸しをやめ(廃止し)て水麹を行う、山卸廃止「酉元 もと」を考案した。今日、山廃「酉元 もと」といわれている酒母である。この理論は、後に「かいでつぶすな、麹でとかせ」という鹿又(かのまた)親説に支えられ、作業の容易さもあり、おおいに広まった。灘酒研究会の調査で、昭和三二年〜三七年の五年間に生「酉元 もと」と山廃「酉元 もと」の製造の比率は、三二年には生「酉元 もと」が二一パーセント、山廃「酉元 もと」が四一パーセントであるのに比して、五年後には、生「酉元 もと」は八・七パーセント、山廃「酉元 もと」が五五パーセントにかわったことからも理解されよう。(当時、速醸「酉元 もと」は三分の一であった)。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


水はもっといい
レオナルド・ダヴィンチ(一四五二〜一五一九)が遺した手稿に、「ワインはいい。が、水はもっといい」という警句らしいものがあるという裾分一弘氏の『レオナルドとワイン−彼が下戸でなかったことの証明』(『図書』一九八四年五月号)を面白く読んだ。裾分氏によると、この短い書きつけは、読み方によって、「ワインはいい。水はもっといい筈なのに、こちらはどうしてもテーブルに残ってしまう」となるのだそうである。−
レオナルドの手稿には、このほか、「ワインは控え目に。少しずつ、また何回も」「酔払いに飲まれたワインは、飲み手に復讐する」と言った。どちらかといえばストイックな言葉があることから、彼はワインを飲む楽しさよりも、その結果である酔いについて、否定的な関心をもっていたのではないか。彼は禁酒論者ではなく、おいしいワインを、おそらく微醺を帯びる程度に飲む合理主義者だったであろう。(「ブドウ畑と食卓のあいだ」 麻井宇介) 


樽香
最近この樽酒の健康効果が明らかになりました。樽酒に含まれる成分にはセスキテルペン類が含まれています。セスキテルペン類にはセスキテルペン、セスキテルペンアルコール、セスキテルペンケトンがふくまれていて、この複合した香りが樽酒の香りと考えられています。昔から樽酒は十分に熱殺菌しにくい条件下にあったのですが、火落ちしにくいことが経験的に知られています。この樽酒の抗火落性にセスキテルペン類が関与していることが分かりました。またセスキテルペン類には鎮静効果などの作用があることも知られています。樽酒もアルコール飲料でありますから飲み過ぎると健康を害すると健康を害することはいうまでもありません。また食品である以上、直接的、かつ過大な効果、効能を期待するのは誤りです。しかし最近の研究によって清酒中には健康増進に有効な物質として特定のペプチッド、ガンマ−アミノ酪酸などの存在が明らかにされ、これとセスキテルペン類が樽酒の健康効果ということになるでしょう。(「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 


小説書け
ある夜、開健さんと銀座の「花ねずみ」で飲んでいると、野坂さんが入ってきた。すでに酩酊していた。彼は席に着くとすぐ立って、店の専属バンドのところに行き、ミュージシャンたちと、何やら打合わせを細かくして、うたい出した。まず「マリリンモンロー・ノーリターン」である。居合わせた客は、今や流行歌手といわれる野坂さんの出現に拍手を送った。彼はレパートリーを幾曲もつづけざまにうたった。開さんは半畳を入れた。「いい加減に歌をやめて、小説を書け」間髪を入れず、野坂さんのマイクからアドリブが出た。「魚など釣らずに、小説書け」(「幻の歌手たち」 矢口純 「ゴシップは不滅です」 野坂昭如編) 


安い葡萄酒
私が「ツール・ダルジャン」を訪ねていったのは、画家の荻須高徳氏夫妻、それに小説家の大岡昇平氏と一緒の時だった。見渡したところ、フランス人よりは外国人の方が多いようだった。こちらは旅先のことでもあるし、高いといったって、一羽とって皆で分けて食べればいいというつもりではいってゆくと、タキシードを着用に及んだボーイが、銀盆の上で丸裸の鴨をジュージューとやってスープを取っている。早速ボーイが私たちのところへ持って来た鴨は、半熟にボイルしてあり、二十四万三千七百六十七番という由緒を示す番号札が添えてあった。ボーイは見せるだけ見せると、番号札を残して鴨を持ち去った。私は案内の者に「あんなことをしちゃあうまく食えない。食ったところで肉のカスを食うみたいなもので、カスにうまい汁をかけているに過ぎない。他の客はあれでよかろうが、こちらは丸ごと持ってこいといってくれ」と頼んだが、案内の荻須氏の言葉を聞いたボーイはただ笑っているだけで、ボーイ長に伝える気振(けぶ)りもない。重ねて、「料理屋で、身銭を切って食べるのになんの遠慮がいるものか。こちらがお客だ、もっと堂々と言ってくれ給え」。そこで私は、生まれて初めてお芝居をやった。案内人を通じて、「このお客は東京の近郊に住んでいて、家の前に大きな池があり、その池に大中小の鴨を何千羽も飼っている。音に聞こえた鴨の研究家で、鴨の食い方、鴨の料理にやかましい人だ。特に研究家としては有名だが『自分ではあの焼き方が気に入らぬ』といっている」と通訳してももらった。上手にいえたかどうだか分らないが、ともかく存外素直に持って来た。果せるかな、半熟で丁度うまい工合に処理してあった。これでよし。私はポケットに用意していた播州龍野の薄口醤油と粉山葵を取り出し、コップの水で山葵を溶き卓上の酢でねった。私の調理法がどうやら関心を買ったらしく、タキシードに威儀を正したボーイたちがテーブルの前に黒山のように並んで、成行きいかにと見つめていた。あえてうぬぼれるわけではないが、かかる格式を重んじる店でこんな仕方で調理したのは前代未聞のことであろう。並いるボーイ連中の関心も当然のこととうなずかれる。大岡氏は長らくニューヨークに滞在した後だったので、「久し振りの日本の味だ。蘇生の思いがした。日本趣味のよさを改めて考えさせられた」と、たいへん喜んでいた。ところが、出された葡萄酒がまずい。これが葡萄酒かといいたいほどにまずい。それもそのはず、一本七十円ぐらいの安物だ。こんな安い葡萄酒を好まぬ私は、「上等のブランデーはないか」とたずねてた。すると、「よいのがあるからどうぞ」と地下に案内された。見ると、葡萄酒の壜がほこりにまみれて何万本も寝ころんでいる。その酒倉のちょっとした席で待っていると、「わざわざこんなところに来てくださって光栄に存じます」というようなことを言って、マネージャーのような人が持出したのが大変にうまかった。彼は「お気に召したら、どうぞいくらでもお飲み下さいという。プレゼントいたしましょう」という。さすがにそのブランデーは上等であった。そこで同行の士が珍しがって杯を重ねるとよろしくないので、「プレゼントだといっていい気持ちになって飲むのは日本人の恥だ」とたしなめた。フランスでもやはりエチケットがあるのだから、有名なレストランだからといってわけもなく怖れることはない。ちなみに、先ほどの鴨、鴨というが、それは昔の日本人が家鴨を鴨と間違えたのであろう。ツール・ダルジャンの鴨も、実は家鴨なのである。山葵醤油で喰った家鴨は、家鴨としては相当にうまかった。(「春夏秋冬 料理王国」 北王子魯山人) 有名な部分だそうです。 


酔っ払って風呂場で転んだ
親父はノーベル賞の授賞式には出席していません。記念のメダルは駐日スウェーデン大使から頂きました。というのも、親父は授賞式に出席する前に風呂場で足を滑らし、転んだ拍子に肋骨を一本折ってしまい、お医者様からスウェ−デン行きを止められていたからです。けがで授賞式に出席できなくなっても親父はそんなに残念がってはいませんでした。とにかく晴れがましいことの嫌いな人でしたら、「やれやれホッとした」と、「ちょっと残念だ」と、気分は半々だったのではなしでしょうか。親父のけがについては、「朝永さんは酔っ払って風呂場で転んだ」と、そんな噂が流れています。親父は酒が好きでしたからね。晩酌は欠かさないほうでした。風呂場で転んだときも少々酒が入っていました。(「血族が語る 昭和巨人伝」「朝永振一郎」 朝永惇) 


酒を一升
林芙美子は、その出世作『放浪記』の中に、この道玄坂で夜店を出した時の様子をこんなふうに書いている。
「四月×日」今日はメリヤス屋の安さんの案内で、地割りをしてくれるのだといふ親分のところへ酒を一升持って行く。道玄坂の漬物屋の路地口にある、土木請負の看板をくぐって、綺麗ではないけれど、拭きこんだ格子を開けると、いつも昼間場所を割りをしてくれるお爺さんが、火鉢の傍で茶をすすってゐた。「今晩から夜店をしなさるって、昼も夜も出しゃ、今に銀行(くら)が建ちませうよ。」お爺さんは人のいい高笑ひをして、私の持って行った一升の酒を気持ちよく受取ってくれた。−
ここで思うのは地割りのきびしさだが、よそ者の芙巳子が、いきなり夜店を出したいと言って、たとえ一升の酒を玉重親分のところへ届けたとしても、夜店の一等地といわれていた坂下左側の真ん中どころの場所にもらえる筈はなかったろうと、私は芙巳子や万年筆屋の店を、もう少し坂をのぼった所の、渋谷郵便局の前あたに置きかえて、その侘びしげな様子を目に描くのである。(「大正・渋谷道玄坂」 藤田佳世) 


うま口
「…日本酒を甘口、辛口の二種にわける人がいますけど、私らにいわせると、"辛口"とはいわんで、"うま口"というんですわ。飲んでも飲みあきん。もたれてこん。いきつかん。いつまでもさらさらと飲める。それが"うま口"ですねン。しかし、これが作っても売れませんのです。私らメーカーもそう思いこんで、つい易きについて、ベタ甘を作ってしまうんですわ。日本の酒飲みは堕落しましたワ。私もその一人ですけどなア。責任は感じてますのやけどなア」いつか厳冬の仕込みのときに灘を訪れ、そのうち一軒の巨大酒造の重役氏と話をしたら、歎くような、諦めるような口調でそう聞かされた。この酒造の作品はベタ甘派の乱立の中で珍しく節操高く"うま口"をめざしていると批評されている。その意図は作品のひとすすりのなかに一脈うかがえそうなのだが、珍しいことだとは思うのだが、けれど、それすら"あま口"と感じられる。(「続・食べる」 開健) 多分菊正宗のことなのでしょうが、'71年の時点でこれを言えたのはやはりのんべいだからこそでしょう。 


重賢と玉山
細川重賢(しげかた)はある日、秋山玉山といっしょに一杯やつてゐた。酒たけなはになつたころ、殿様は、唐土から新渡の本を出し、潘雲綺の『珊瑚枕歌』を見せ、これに次韻(同じ韻を使つて唱和)せよと強いた。儒臣はしきりに辞退したのに、一杯機嫌の殿様はどうしても承知しない。作れと言い張る。これは殿様と家来との関係としてかなり風変わりなものですが、一体にこの二人の仲はかういふ遠慮のないものだつたらしい。玉山は別のとき、これも殿様といつしよに酒を飲んでゐて、服部南郭が玉山の詩を褒めちぎつたといふ話を披露し、殿様の近くに寄つて行つてその肩を叩き、どうです、南郭の意見に同感ですか、と尋ねた。すると殿様の方も、わしも嬉しい、と言つたといふ。さういふつきあひだつたのですから、艶つぽいう詩を作れと命じることも充分あり得ると思います。(「犬だって散歩する」 丸谷才一)  重賢は熊本藩主、玉山は藩校時習館の教授だった漢学者だそうです。


お盆
お盆の風習も、それぞれの地方によって違います。長い伝統に培われていて、それぞれ尊厳さの中にも民俗の美学がある。それをたっぷり受け継いで表現できるところは、やはり今に残る農山村でしょう。そうすると、今の暦の七月中旬よりも、やっぱり陰暦か、ひと月おくれのお盆のほうがいい。
遺言の酒そなえけり魂(たま)まつり 太祇
供える人も、恐らくお酒の好きな人でありましょう。(「志ん朝のあまから暦」 古今亭志ん朝・斎藤明) 


不況対策の区民集会
愛知県宝飯郡東部落農村方面の不況は愈々深刻となり、年二回の決済期たる旧盆は迫つても売掛代金は集まらず、地方商人は何れも苦境にあるが、農家の窮乏は其の極に達し、各自大緊縮を決行して苦境を切り抜けんとし、各町村当局に於いても緊縮の上に緊縮を行ひ、町村税の軽減を図つてゐるが同郡八幡村大字千両では此の程区民集会を開いて不況対策ににつき協議の結果、区民は今度煙草、酒を一切廃止すること但し中毒的のものは煙草は刻みに限り酒は極少量を認め、理髪、結髪については全部同業者の手をからず、何れも自宅に於いて男は丸刈女は束髪にすることを申合せ実行して居る。<昭五・八・三一、新愛知>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編)


白ボケ
この白ボケの原因については蒸米のたんぱく質が未分解であるといった説もあったが、昭和三〇〜三五年頃の研究で、アミラーゼを主体とする(麹由来の)酵素たんぱく質が、火入れ変性によって不溶化して混濁してくるものであることが明らかになった。要するに、もろみ中で蒸米のでん粉などを分解するのに役立った諸酵素が新酒に移り、火入れされて起こる現象である。したがって、日本酒は多少の差はあれ、白ボケから逃れることはできない宿命をもつのである。それで今日では、どこの工場でも滓(おり)下げといっって、清澄化操作を行っている。これには柿渋−ゼラチン(タンニンとたんぱく質)やアルギン酸などの凝集反応を利用する物理的方法と、酸性プロテアーゼを作用させて白ボケ物質を凝集、沈殿させる酵素法とが用いられている。私も山田(正一)先生の御指導のもとで、麹菌の酸性プロテアーゼを滓下げに用いることをやり、クラリンSとしての発明を昭和三〇年頃にやった。この特許はもうとうに切れたが、今日でも使ってくれている人がいるのはうれしい。これはまた、私の博士論文である。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


隅田川の風流事
『ひとつアメリカ人を、ビックリさせてやろうじゃアないか』と、岡倉天心がいった。『ビックリさせるって…何をするんだ?』と訊いたのは今泉雄作だった。−明治二十三年、第三回内国博覧会があったときのことだ、博覧会に米国人が陳列のため、きているので、それを招待して"何かビックリする"ことをやろう…というのである。しかし、ヘタにご馳走なんかしても意味がない。だいいち金がかかる。そこでなるべく費用は安くビックリ効果の多いことをやろうとウルサがたが集って、いろいろ趣向を考えたすえ、小川勝aという天下に名だたる"道楽者"が、『盃流しをやろう、隅田川で…』と言いだした。『そりゃア、いい』と衆議は一決。早速、持ちよった四百円ほどの金で、東京中の盃を買い占めこれに"日の丸"と"星条旗"を描いた。当日は生憎(あいにく)と雨で、屋根舟の装飾なぞズブ濡れ、赤や青の色が流れて、とんだ不格好な姿となったが、アメリカ人たちは初めての"船遊び" に喜んでいる。上流の屋根舟からプカリプカリと盃が流され、これを下流の屋根舟で待っていて、叉手(さで)でひろって酒宴…ということになり、大いに親善に役立ったという話が残っているが、こういう風流心が出ても、鼠の死骸やサンダルの古なぞが浮流している、いまの隅田川では盃流しなぞ、やっても無駄であろう。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


蔵開きの儀式
老人が口にした通り、黒鉄屋の敷地内ではいまにも蔵開きの儀式が始まろうとしたいた。四代目当主、黒金屋弘右衛門(ひろえもん)。長子、昭彦。蔵差配の山岡。土佐杜氏かしらの玄蔵。蔵の前に顔を揃えた四人は、寒い朝を迎えられたことを笑顔で喜び合った。元禄八年の酒仕込みを始めるのが、蔵開きだ。酒の仕込みには、按配のよい寒さがなによりも大事である。前日のぬるさを案じていた四人は、キリリとした朝の冷気に目元をゆるめた。「今年の蔵を任せます」「受け取りました」弘右衛門が差し出した蔵の錠前を、玄蔵が両手で押し戴いた。黒鉄屋創業以来の、蔵開きのならわしである。当主の後に控えていた昭彦は、乳白色の徳利を手にした。わきの山岡が、同じ色の盃を当主と杜氏かしらに差し出した。昭彦は弘右衛門の盃を、司牡丹の仕込水で満たした。弘右衛門は一気に飲んだ後、玄蔵に会釈をした。昭彦から同じ水を注がれた玄蔵は、かみ締めるかのようにゆっくりと味わい、喉を鳴らして飲み干した。そして弘右衛門に深い辞儀を返した。蔵の前に出された大太鼓を、昭彦と山岡が力を込めて打った。ドン、ドン、ドドドン。打つ調子が次第に早くなり、ついには連打になった。大太鼓の重々しい響きが、村に立ち込めた冷気を突き破っている。やがて打ち方が最初の調子に戻り、蔵開きの儀式が終わった。(「牡丹酒」 山本一力) 


高田の貧乏徳利
降って慶長・元和ころに青織部の徳利をつくったのは美濃の久尻(くじり)で、大富がその主産地である。江戸になって久尻一体では黒飴釉のかかった俗に久尻徳利と呼んでいるものを盛んにつくり、徳利では有名なものである。美濃の高田も徳利の産地として知られ、高田や大平でつくった黄釉のかかった徳利は、東京の地下にはどれだけ埋まっているか知れない。東京のビルや地下鉄の工事、河底の泥をさらう時などに、徳利が出たといえばきまって、黄釉のかかった高田の貧乏徳利である。高田の徳利職人は、一生に徳利を江戸から下関まで並ぶくらいつくったといわれている。明治以降、美濃一帯の製陶地が申しあわせて分業制度をつくってからは、高田は徳利、市之倉は盃、多治見は煎茶碗、笠原は飯茶碗、下石(おろし)は急須・土瓶、駄知(だち)は丼(どんぶり)と町によってつくるものの種類の区別ができたが、高田ではわれわれが子供のころ、東京のどこの酒屋の店先にも並んでいた薄鼠色の地に黒く「三河屋」とか「上州屋」とか書いた一升徳利を主につくっていた。東京だけではなく東日本一帯に送り出したのだから、その産量はおびただしいものである。(「徳利と酒盃」 小山冨士夫) 


鴎外の酒
父(鴎外)は日本酒を、親友の賀古鶴所が来た時だけつきあったが、肴は焼海苔。(むろん焼いて売っているのじゃない)−
父は酒を嫌いではなかったが少ししか飲めず、賀古鶴所が来た時だけ飲んだ。(「ドッキリ語録」 森茉莉) 


口かみ酒
さらに口かみ酒について興味あることは、南太平洋、東洋、南北アメリカ大陸など環太平洋地域に広く伝播されていることである。日本へは南方系の漁撈文化をもったて人々によってもたらされたが、その時代背景は詳らかではない。筆者はかつて北海道の紋別アイヌの「口かみ酒」について調査したが、彼らの口かみ酒は彼らの「噛みシトギ」(ダンゴ)にその素材が求められること、さらにシトギは糖化剤であり、被糖化物であるという特色を持つことなどについて指摘した。口かみ酒の原料は必ずしも米に限られていたわけでなく、粟、黍、トウモロコシなどの雑穀類もすべて原料の対象であった点に着目しなければならない。このように口かみ酒は原料が米だけに限定されていなかったことから、今日の清酒造りの祖型とは考えられない。(「日本の酒造りの歴史」 加藤百一) 


黒田の酒癖
黒田清隆は薩州人として首相になつた最初の人であるが、酒癖のために屡々(しばしば)問題を起した。西郷従道なども首を貰ふぞと云はれて、白刃の下に首を差延べたことがある。牧野伸顕(のぶあき)が岳父の三嶋通庸(みちつね)から、黒田の秘書官になることを頼まれた時、難色を示したのもこの酒癖のためで、夜は絶対に行かないでいゝといふことで漸(ようや)く承諾した。黒田が農商務大臣であつた頃、省内の課長以上の人々を三田の自邸に招いたことがある。二階の日本間に細長い机を列(なら)べ、その廻りに腰を掛けてゐると、やがて酒肴が出て、黒田自ら酌をして酒を勧めるといふ調子であつた。そのうちに下の広庭で太神楽(だいかぐら)がはじまり、近所の町家の者が集まつて見物してゐる。皆も太神楽を見たらよかろうと云はれて、二階から見物するまではよかつたが、大臣は遂に「さア皆さん、こゝから小便をしよう」と云ひ出した。これには誰も応ずる者がない。結局大臣の黒田が範を垂れただけで、皆だんだんに帰つて行つた。特許局長の高橋是清などもこの時招かれた一人であつた。二階から小便するくらゐは、小栗風葉あたりも酔へばやつたことで、薩州元勲の逸話として特に伝ふるに足らぬが、林有造が条約改正反対の建白書を持つて来た時、二人で大いに飲み、林が酔払つて玄関を出ようとすると、黒田がいきなり林の首を締めた。林の方でも、相手が乱暴するなら此方もそのつもりでやると考へた途端、黒田は林の耳に口をつけ、用心せいよと云つて手を放した。何の事やらわからず宿へ帰つたが、二三日すると、例の保安条例で林は真先に退去を命ぜられた。こゝらになると単なる酒癖ではない。薩州の大物たる貫禄は十分ある。(「明治の話題」 柴田宵曲) 


生涯在酒
上田秋成は「生涯在酒」という印を用いたが、学者は彼が下戸であったと言う。そうではあるまい、旨い酒を旨い限り若いうちに呑み尽くして酒を卒業したのだろう。そう想って「生涯在酒」の四字を眺めていると、秋成の顔が見えてくる。そんな酒になりたい。魚の詮議に興味はない。(「生涯在酒」 秦恒平 「酒恋うる話」 佐々木久子編)