表紙に戻る
フレーム付き表紙へ


御 酒 の 話 31



オキシドールのボトルキープ  新豊酒色  木香様臭  盃と鵜の食ふ魚と女子は  酒の数量十首  第一課は終り  酒の中国向け輸出  作三斛麦麹法    四谷荒木町のカンヅメ事件  酒屋の片隅で飲む銘酒 鈴傳(四ツ谷)  酒の輸出開始  徳利にかかわる方言  丸屋  老荘の徒  ○とふせいじん  複雑味  自殺念慮  カッチリカッチンと  塹壕戦の賭博  夏酒・正月酒、古酒・新酒  方言の酒色々(23)  泥酔三年  五歳から飲んでいる  タンポポの酒  酒樽の底に穴があいている  酒と歌  中村遊郭最後の日  口は心のものさし  とく-り【徳利】名  又六が 門ごくらくと きくからに  をかし、男、伊勢の国にて  義太夫を呼べ  新酒頌  へたな・だいく、へびのすけ、ぽたん、ぽつぽつ、ほやす  或酒家より  右に左に  一杯どうですか  酒米色々  金丸信  山に行て  寿の秘訣  つはもののまじはり【兵の交】  燗の温度  さくら  ウイリアム・ブースの警鐘  花見じゃ花見じゃ  「事件」  豪飲して初鼓に辞去す  テキのもくろみ  樽代や節句銭  うくひすの巣立の酒の一銚子  弘法大師に供酒  酒量 注  18-かわりめ  老ぬればあたゝめ酒も猪口一つ  酒量  ●「敵同志」  舟、尾路ヲ過グ  酒などはまず飲み申さざるよう  酒上手  さけ|酒  斉民要術64-67章  061酒  酒逢知己飲  正覚坊  呑唯知足  幻術  無明の酒  上洛取り止め  尾崎士郎(おざき・しろう)  【ワイン】  タハニワハカ  仏も一杯機嫌  芋酒、練酒、栗酒  死人料理  人間は誰でも  カカオ豆の発酵  磐城壽  やっぱり、おまえだな  酒は天の美禄  仏説摩訶酒仏玅楽経(2)  酒もまた  酒の飲み方  殿様  断酒期  酒豪の国の酒づくり  司牡丹命名の由来  養生訓 酒1  カニガ泡フク  彦根侯御登城お待ち受け献立  赤羽・まるます家にて  ○風くどき  出宿  ○禁酒  しきさんこん式三献  将軍直接対面  俳句における類似  縄暖簾の居酒屋  病院のベスト  どんな症状が  盃ハ畳ノ模様デナイ  ㈲セキヤ  最後の伝説  大阪造幣寮にて  夏酒と正月酒  晩帰品川  焼き味噌大根  アルコール類と酸類  ルーカン  粒食  サラ川(19)  寒造りの上澄み  テーブルの上  酒の製造  大田南畝の狂歌(5)  葛西のマネ  液化仕込み  方言の酒色々(22)  呑みすぎ申すまじき所  十六日(月曜)  これはこれは  二番煎じ  彼は愛酒家協会の一員だ  素人鰻    寒中、遠行する場合の用心  庄内藩  友達は皆、酒豪  時間外れの酒(2)  市村博士と禁酒法  新銘柄  66.酔払いの話と子どもの歌  禁酒  春中喜王九相尋  むさしの国神田の社にて  仁斎盗賊を改悛させる  除杲  ひやざけ、ひりか、びん、ふくろあらい、べいろしゃ  井伏鱒二(いぶせ・ますじ)  蛇の産室 蛇女房  酒精、燕台先生  金とり会  ひがくる、ひく、ひだりきき、ひのきいた  つけざし【附差】  造酒蛭子  友と酌む  脳溢血の予後  出囃子  同食の禁忌  般若湯は智慧の湯  酒の飲み方  五升の酒  オアシス型酒質  酒人某  欲言無予和  サラ川(18)  方言の酒色々(21)  酒は天の美禄  巻耳  盃を底の糟まで飲む  仏説摩訶酒仏玅楽経(1)  28.真の愁いは酒では解けない  サケツクリノウタ-酒造りの歌(1)  自宅酒2  めでたやな  燗徳利  むさしの国神田の社にて  オレの命の泉を絶やしてくれるなよ  ぱいいち、ぱいつぐ、ぱいつやる、はち、はりうつ  【肴舞】  エノケン一座  ちろり  杏所と東湖  (十二)一ぱいきげんで遣だんな  もうお酒はやめるよ  飲酒家(さけのみ)  「酔郷記」仮に終  時間外れの酒  悪口  夏酒・正月酒  蘭亭記  生前一樽の酒に如かず  金粉酒  酒鬼(其七)  ルーカン  百薬の 長たるゆえに  四方の留粕の序  つけ鼻  ミカキニシン  阪妻  料理との組み合わせ  蕎麦切、河盛  或酒家より一瓶をえて返事に  握り寿司  酔いどれ女  水っぽい酒や闇の値上げ  屠蘇臭くして酒に若かざる憤り  いはんや興宴のみぎりには  (四)上戸のこたつ  敗飲して走る体  さかほがひ  足利尊氏の風雅  酒飲みの哀愁感(ペーソス)  第一人 意気地無し  連載を月に四ページ  文士と酒、煙草 明治四十二年一月  酒 大正五年一月号「文章世界」(アンケート)  酒正月  一月三日、月、晴。  呑仙士  新年の御祝儀    夜の酒がまずくなる  最後の一本をやめる  飲むのは家の外  焼酎に葱少しもりて  新居  源氏酒  酒と正月  デカンショ節  糖度が年々上がっている  おーいお母さん、お酒くれ  ゴトクと犬  1781 歳暮夜飲  江川酒  糟糠の妻  お幸ちゃんのいるキラク  インドネシアで飲んだやし酒  酒甕神  酒と月  阿部知二(あべ・ともじ)  瑞光  パリ ノーエルの夜  大田南畝の狂歌(4)  かぞえ年十八歳の配給  池の酒  緑酒紅灯の裡に居て心を鉄石にす  久しくあはさりける  値段に見合うクオリティ  カウンターの向こうには  無愛想な人、家来    「お子様ランチふたつ、酒五本」  これはこれは大酒のまるゝ事よ  甘口タイプ  居酒屋にわが酔ひし間を   赤きは酒のとがぞ  歳末非常警戒  槍烏賊  浦なみの  禁酒時代





オキシドールのボトルキープ
小説家よりも派手な立ち合いを繰り広げるのは、演劇とか映画の世界の人たち。いきなりカウンターの上に仁王立ちして、グラスをけちらかすようなパフォーマンスをする。唐十郎(からじゆうろう)などはもう武勇伝の枚挙にいとまがないですよ。たった一言、相手が腹の立つようなことをいったとたん、パンチが飛んでいる。殴られた方もいきり立つ。周囲は即座に分担して、二人を押さえにかかる。収まらないのは殴られた相手の方です。そこで、唐十郎はグラスを割り、ギザギザになったところで、やや薄くなった額をこすり、「どうだ、これで相子だ」と啖呵(たんか)を切る。自傷行為で償うというパフォーマンスでした。その時は、オキシドールのボトルキープ(島田の)が役立ちました。(「酒道入門」 島田雅彦) 


新豊酒色 清冷於鸚鵡之盃中
479新豊(しんぽう)の酒(さけ)の色(いろ)は 鸚鵡盃(あうむはい)の中(うち)に清冷(せいれい)たり
長楽(ちやうらく)の歌(うた)の声(こえ)は 鳳皇(ほうわう)管(くわん)の裏(うち)に幽咽(いうえつ)す 友(とも)の大梁(たいりよう)に帰(かへ)るを送(おく)るの賦(ふ)
新豊酒色 清冷於鸚鵡之盃中
長楽歌声 幽咽於凰皇之管裏 送友帰大梁賦(「和漢朗詠集」 川口久雄・志田延義校注)
私注「送三友人皈二大梁一賦 公乗億」。 一 長安城外の県名。酒の名所。 二 盃が鸚鵡貝に似ているもの。 三 宮殿の名。- 四 笙のこと。- ▽新豊県の名酒の色は、鸚鵡貝の盃の中にひんやり清(す)みきっている。長楽宮のうたげの歌の声は、鳳凰の鳴きにも似る笙の音に和して咽ぶがごとくきこえるの意。-(「和漢朗詠集」 酒 川口久雄・志田延義校注) 


木香様臭
余談であるが、高級アルコールは、フーゼルアルコールとかフーゼル油ともいわれ、以前は二日酔いの元凶とされた。いまでは、二日酔いの真犯人はアセトアルデヒドであることはご存じのとおりである。飲酒によって血液にはいったエタノールは、肝臓でアルコール発酵とは逆方向の反応で、アセトアルデヒドに変えられる。アセトアルデヒドは、やがて肝臓のALDHという酵素によって消失するが、その速度は酒の強い人では速く、弱い人では遅い。消失速度が遅い場合には、アセトアルデヒドが血中に蓄積し、動悸や頭痛を起こすのだ。日本人の約四%はALDHが遺伝的に欠損しており、そういう人は奈良漬けを食べただけでも、救急車のお世話になりかねない。酒類中のアセトアルデヒドは、少量であれば華やかな印象を与えるが、多すぎると青臭いような不快臭になる。これを清酒では「木香様臭」などというが、樽酒に感じられる「木香」と同じではない。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


盃と鵜の食ふ魚(いを)と女子(をんなご)は 方(ほう)なきものぞいざ二人寝ん
「酒のみの酒好き、魚を好く鵜の鳥の食欲、そして男の女好きとは際限がないもの、さ、二人で寝よう、愛欲の限りを尽そう」という「うた」。脱帽し、共感する「うた」です。(「梁塵秘抄 信仰と愛欲の歌謡」 秦恒平) 梁塵秘抄(りょうじんひしょう)の作者は後白河法皇だそうです。 


酒の数量十首
酒の数量(すりょう)十首狂歌が『たとへづくし』にある。升は昔の量の単位、一升は一・八リットル。
世のうさを忘るる為の酒なれば飲んでくらすが一升の徳
極楽は紫磨黄金ときくなれど酒なき国を何二升ぞや
雨風の夜半をもなんのいちいなき酒と聞いたら急ぎ三升
諸芸には教えなければ叶(かな)うまじ酒ばかりには四升入(い)るまい
間押さえ手元見ようと無理酒を一ツ助(すけ)るも五升なりけり
稀(まれ)人も養生に呑(の)む酒なればほどよく飲んでおもし六升
身の程を弁えて飲む酒なれば七升までの勘当もなし
陶淵明李白かように酒飲んで末の世迄も名を八升
酒呑んで瞋(いか)らず泣かず賑(にぎ)わしく笑い上戸をふ九升戸とはいう
長命の栄えともなる酒なれば呑んで楽しむ世間一斗(「道歌教訓和歌辞典」 木村山治郎編) 


第一課は終り


魚と酒でどんちゃん騒ぎをやらかし、歌で声をからしたあとで、彼は浮世のことを忘れ去っている。これにて第一課は終り(この画集を教科書に見立てている)。ムカデのように見えるものは、日本のディナー・テーブル(膳)に似せたつもりで、カップを浮かせた丸いものは、酒を呑むたびにカップを洗うためのもの(盃洗)である。(「ワーグマン日本素描集」 清水勲編) この本には、「to be or not to be」を「あります ありません あれはなんですか」とした翻訳が、明治初期に舞台で語られていたらしい画もあります。 


酒の中国向け輸出
長崎にはオランダ船ばかりでなく、多数の中国船が来航していたことは見落とされがちだが、酒の中国向け輸出の方はどいだったか。中国人との通訳にあたる者を唐通辞(とうつうじ)と称したが、彼らの公用日記『唐通辞会所日録』に少しだが航海用の酒のことが出てくる。寛文八年(一六六八)、中国船の船長に示された日本からの輸出禁制品中に酒と油が入っているが、航海中の携帯用に少し持って行く分にはかまわないと、但し書きがついている。その量だが、同年出港に際して酒の支給を要望した四十四人乗りの一番船(その年入港した順に番号をつける)に、日本側は一斗二升入り樽を十九樽、一人当たり約五升一合宛支給することにした。続いて二番船も酒と焼酎を要望したが、日本側は焼酎についてはその必要を認めず、以後の支給量は一人当たり約五升一合と定められた。総量は大したものではない。またオランダ人は一人当たり一升二合まで持ち出しを許されていた。-
先の酒の量はここで中国人が一人で買うことのできる上限であるが、宝永五年(一七〇八)の輸出禁止品目にもまだ酒、焼酎、薬酒が含まれていて、航海用の酒は一人一升二合まで、ただし正徳三年(一七一三)以後は「唐人望次第(とうじんのぞみしだい)」と、事実上制限はなくなったようだ。(「江戸の酒」 吉田元) 


「三石(1)ムギ麹」の作りかた(作三斛麦麹法)
原料として、コムギの蒸したもの、炒めたもの、生のもの、それぞれ一石を使用する。コムギを炒めるときは黄ばむ程度とし、焦がしてはならない。原料はそれぞれ別に臼でできるだけ細かく挽き、挽いたものを混合しておく。七月の最初の寅の日に、童子に青い服を着せ、太陽のまだ出ない時刻に穀地(2)に向かって水十石を汲ませる。水を汲むときには、水をはねさせてはいけない。余った水は捨て、他に使ってはいけない。麹を混ぜるときも童子、小児を使い、穀地の方向に向かって行い、堅くこねる。土間を清潔で乾燥の状態にし、人妻を近づけてはならない。その日のうちに麹をこねまるめるのを終わるようにし、翌日に持ち越してはならない。土間を区切って十字路を作り、交叉するところに五体の人形を置き、これらの人形を麹王(3)とする。麹王に酒と干肉を供えるに当たっては、湿った麹を手の中で椀の形にして、その中に酒と干肉とを盛り、主人が呪文を三度読み、そのつど、再拝する。麹室は板で仕切り、泥で密封して風が入らないようにする。七日目(4)に戸を開いて麹を切り返し、また密封する。一四日目に麹を集め、もと通り戸を密封して風が入らないようにする。二一日目に取り出して甕の中に入れ、二八日目に取り出し、麹に孔を開け、縄を通して曝し、よく乾かす。餅麹(5)の大きさは手でまるめて直径二寸半、厚さ九分とする。
(1)三石-「三斛」。「斛」は容量の単位である。『説文』に「斛は十斗」とある。 (2)穀地。方位の名称だが、詳細は不明である。 (3)麹王。古代の麹は経験んの集積で作られたので、失敗が多かったと見え、「麹王」という偶像を作り、これに祝詞をささげ、加護を求めたのでアロウ。 (4)「二七日」、「三七日」、「四七日」はそれぞれ一四日、二一日、二八日を指す。- (5)餅麹-「麹餅」。『要術』では「麹餅」だが、日本では「餅麹」と書くのが通例なので、訳文ではすべて「餅麹」とした。日本の麹がばらばらの形状であるのに対し、原料粉を練りかため、餅状にしたものである。中国大陸および東南アジアでは現在でも麹の主流は固形の餅麹である。(「斉民要術」 田中静一、小島麗逸、太田泰弘編訳) 



「卯酒(ぼうしゆ)」という言葉があります。「卯」は八時頃*、朝の、でありますから、その時刻に、ちくりとやるのをいいます。これが一番うまいといいます。「亀酒(きしゆ)」という言葉があります。この方は俗語のようであります。蒲団(ふとん)の襟から、首だけ出して、ちくりとやるのであります。姿もまた俗っぽいが、これがまた一番うまいといいます。いいます、と人ごとのようにいいましたが、近頃これをやってみたことがありますなるほどと思い、さほどでもとも思いました。やってみた、といいましたが、一度きりと聞えると嘘(うそ)をいったことになります。ついあとを引くきものであります。下落したものだなと思います。老醜々々と呟(つぶや)いてみます。けれども私は、小原庄助(おはらしようすけ)さんではありません。もともと身上(しんじよう)などなかったから。弁解をつけ加えていうと、れに私の卯酒は、昨晩からの引きつづきの、私にとっては時刻は丁度深更に当たることがたいていであります。やれやれというので、一杯、ちくりとやります。サリドマイドは発禁になりましたが、あれは私によくききました。それのだいようというわけで。お薬よりは、やはりお酒がよろしい。私はお酒はキライであります。キライなものを、よくまあいただいたなと思います。時間でいうと、半世紀にわたっていただきつづけたのに感心します。感心は自(おのず)からひとり、人さまを相手にしません。うまくもないものを我慢してきたのであります。酔って陶然として、感傷的になるのが、お酒の身上だと考えます。サリドマイドにはその効力がありません。逆は必ずしも真ならず、睡眠薬なんぞ馬鹿々々(ばかばか)しいものさと、盃中のものを眺めてそう思います。酔って陶然と、おいおいと感慨ふかく感傷的になるのも、青年時代壮年時代までのことであります。-ありました。歳月は人を待たずだから、客人には待たせないでおつき合いをするのが、社交上の良識というものでしょうかと思います。光陰矢の如し、老いぼれが酒をいただいても、あまり面白いものではありません。酒は智恵の眼をひらかせるものでもあるのですがね。
*編者注 『広辞苑』には「今の午前六時ごろ。また、およそ午前五時から七時のあいだの時刻」とある。(「三好達治随筆集」 中野孝次編) それでも神宮プールの三分の一にみたないくらいには飲んだそうです。 


四谷荒木町のカンヅメ事件
エノケンの、もっともすさまじい酔談は、四谷荒木町のカンヅメ事件である。それは、昭和八年の初夏、松竹座で連日、大入りをとっている彼のところへ、浅草の興行師木内末吉が訪ねてきて、自分の興行にも出てくれ、とくどいたのにはじまった。話は、松竹対木内という、両興行師の交渉に移されたが、木内は、まだ、売れない前のエノケンを使っていたことがあるので、人情にもろいエノケンが、何をするかわからない。ひょっとして、木内との契約書に判でも押したらたいへんだ。そこで、松竹は、昼は松竹座に、夜は四谷荒木町の待合にカンヅメにしてしまおう、という作戦に出たのであった。松竹座が終演になると、事務所の岩田至弘という社員が、「先生、ちょっと、お伴しましょう」とくる。岩田は、のちに国際劇場支配人、松竹歌劇団長、歌舞伎座支配人などをして、先年亡くなったが、松竹でも、酒豪で知られた男である。大きいからだで、大きな四角い顔の持ち主だったが、頼もしい、実直な人柄である。エノケンは、のもうと誘われたのであるから、敵にウシロは見せられない。そこで、その晩は、荒木町の待合で飲み明かして、朝、その家から、松竹座へ出勤した。その日、また、終演になると、「先生、お伴しましょう」ときて、また敵にウシロを見せられず、荒木町の待合へ。翌朝、「行ってらっしゃいませ」と、女中に送られて、松竹座へ。かくて、一か月間、この荒木町待合へのカンヅメがつづき、そのあいだ、毎晩、徹夜で飲んだ、というのだから、よくつづいたものである。エノケンも、岩田もりっぱなものだ。もっとも、この連夜の無理がたたって、エノケンは、ピタリと便通がとまってしまった。シロウト療法で、ヒマシ油を二本も飲んだが、全然、効き目がなく、四十度以上の熱がでて、ダウンしてしまった。松竹の中に、聖路加病院に親しい人がいたので、聖路加へ運び込まれた。病院まで、松竹のニラミのきくところが選ばれたわけだ。(「ああ酒徒帰らず」 木村嵐) 


酒屋の片隅で飲む銘酒 鈴傳(四ツ谷)
四ツ谷駅近くの露地にある酒屋「鈴傳」。その酒屋の左手にある小さな入口の中、そこが「鈴傳」の立ち飲みコーナーです。-
さて今日は何を飲もうかな。サービスカウンターのすぐ横の壁には、短冊に書き出された日本酒の銘柄がずらりと並んでおり、それぞれ三〇〇~五〇〇円ほど。この値段で、正一合(一八〇ミリリットル)のコップなみなみと出てくるのですからうれしい限りです。今日は「呉春」(三八〇円)をいただきましょう。それと刺身(三五〇円)。料理は立ち飲みカウンター上のガラスケースの中や上のバットに展示されていて、それを注文する仕組み。(「ひとり呑み」 浜田信郎) 平成20年の出版です。地酒を中心にした業務店が営業する立ち飲み屋です。 


酒の輸出開始
『長崎オランダ商館の日記』によると、酒の輸出開始は一六五〇年頃らしい。一六五二年六月二日の記事に、オランダ商館が大坂に注文し、大坂から到着した船の積み荷に銅、貨幣とともに酒二百樽が含まれている。また翌一六五三年八月二十八日の商館長コイエットの日記には次のような記事がある。「当地でトンキンとシャムのために注文した酒三百樽を大坂の海老屋四郎右衛門から受取り、トンキンの王子のりんず四十反には、京都で絵をかかせるため、同人の使いに渡した。これは支那人ピンクワに託したカイゼル君の書簡に記された依頼によるものである」(『長崎オランダ商館の日記』村上直次郎訳、岩波書店)(「江戸の酒」 吉田元) 


徳利にかかわる方言
【炭火の灰に埋めて燗をする尻のとがった徳利】(本)いぎり(壱岐)。
【徳利の酒を傾けつくす】*ようき(本)すだむる(壱岐)。
【徳利から直接に酒などを飲む】(本)けーふく(壱岐)。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録) 


丸屋
符牒と同様なことが、隠語についても見られます。隠語も店の内部だけで通用する言葉でした。文書の中によく見られる隠語には、次のようなものがあります。丸屋=お酒、仙の字・仙印=食事、玉(たま)へん=現金、キ印=回収不能、徳蔵=蔵でさぼっていること、屋印=休暇日・外出許可日、テ印・手印・テの字=白木屋 たとえば次のように使われます。
・お客様へ「丸屋」をお出しする時に、奉公人達に不行儀があってはならない。(「江戸奉公人の心得帖」 油井宏子) 呉服商白木屋の文書で使用された隠語だそうです。 


老荘の徒
さて、話は飛躍するが、私はかねがね東洋思想史上における孔孟と老荘は、同じ米からとれた飯と酒のようなものだと考えている。飯ばかり食っていると、米の苦味が舌にしみて、やりきれなくなるから、酒を飲みたくなるのは人情の常である。酒飲みにもいろいろあって、好きで飲む酒と、飲まないではやりきれないから飲む酒がある。どっちにしても大差はないが、いくら大酒飲みでも、ぜんぜん米の飯は食わないでは生きていけまい。荘子のいわゆる「絶迹易無行地難」、つまり世間からまったく隠れてしまうのはやさしいが、道を歩いて、しかも大地を踏まないのはむずかしい、というのがそれである。だから、偉大なる隠者は山の中になんぞ隠れたりしないで、街の中に隠れるものだそうである。そして、荘子自身もいっているように、だいたい「酒を飲む者は、はじめは礼ではじまって、ついには乱に及ぶもの」だから、酒の消費量だけから推せば、中国人はより多く孔孟の徒で、日本人はより多く老荘の徒だという結論が出そうである。リアリストにいわせると、ロマンチストは敗北者の一種だが、荘子にいわせると、人之小人は天之君子だから、ご乱行はまさしく君子的である。(「君子有酒」 邱永漢 日本の名随筆「酔」) 


○とふせいじん
ここにいたつてげいしやずきのおくさまありけるが、とのさまもありければ、用人に申付、男げいしやを当世人と名づけて、とのさまの御目通りへ出しければ、とのさま仰らるゝは、「コリヤ三太夫、異国の人には髭があるときいたが、かれはひげはいかゞいたした、三太夫「御意にござります、髭はあまりなでまして、なくしましたともうします、との「ハゝアして言葉抔もちがふであらふの、三「御意にござります、との「そのほうぞんじておらば、いちいちつうじいたせ、三「かしこまりてござります、かれが国におきましては、
○おめしを さいこう ○きせるを てうけい ○酒を 清三 ○たばこを 孫右衛門 ○肴を たつぼ ○小つぶを 小げん-(「江戸自慢」 近世文芸叢書) 


複雑味
兵庫県「龍力」の本田武義会長が平成15年(2003)に発表した論文「兵庫県産酒造好適米山田錦で造ったお酒と健康について」の中に、お米に含まれている元素の含有率と精米歩合の関係が書いてあります。お米にはカリウム、マグネシウム、ナトリウム、カルシウム、マンガン、亜鉛などの微量元素が含まれているのですが、亜鉛を除く他の元素は精米歩合90%を超えるとその含有率は急速に減少し、精米歩合40%程度になってもその差はたいして変わりない数字となっています。つまり、精米歩合90%以上のお米で造るお酒にはそすした微量元素が多く含まれるというわけです。それらが雑味となってお酒の味を悪くするのだといわれ、これまでは、しっかり原料米を磨くことできれいな酒質作りを目指してきたのですが、その雑味も旨味として捉えたらどうだろうという考えに立つ酒造りが生まれ始めたのです。ワインには、日本酒には悪者とされてきた渋味や酸味などをしっかりと旨味と捉える風潮がありますが、それと同じ考え方に頭を置き換えたのです。秋田県「天の戸」の森谷康市杜氏は、これを「複雑味」と表現しました。筆者は、どうせなら、と「冨久雑味」と洒落てみました。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


自殺念慮
自殺を切望する観念。海外のデータだが、週二五〇g(一日三合弱)の大量飲酒は、一五年後の自殺死亡のリスクを三倍高めると言われている。また酩酊は、情動制御中枢が抑制され、人を攻撃的にするという特徴があり、その攻撃が外部に向かうときは暴言や暴力となり、内部に攻撃性が向かうと自殺行動につながる。(「実録!アルコール白書」 西原理恵子・吾妻ひでお アルコール依存関連用語) 


カッチリカッチンと
そこで、仕込みの前に杜氏は、酒造りの神に真剣に祝詞を上げたのである。それはこんな風だ。「カッチリカッチンと切り込みましたる玉のようなる潔めの切り火。真正面なる松尾様、荒神様……。八百万の神々様もお目覚めあらせられて、お立ち会いのほど願い奉る。ただ今仕込みましたるモロミ……甘く辛くシリピン上々の酒とならしめ給え……」(『日本酒 人と酒のつき合い史』井口一幸)(「日本人と酒」 別冊歴史読本) 


塹壕戦の賭博 4.7(夕)
西部戦線では敵味方の間に色々面白い事柄が起きるが、或日の事英軍と独軍との塹壕の間(なか)にある空地に、一匹の牝牛(めうし)がひよつくり飛び出して来た。敵味方とも牛乳(ミルク)や新しい肉に飢(かつ)ゑてゐるので、何うとかして、自分達の塹壕に引張り込まうとするが、ひよつくり頭でも出すと、直ぐ弾丸(たま)が鳴って来るので、そんな剣呑(けんのん)な真似も出来なかつた。すると、英軍の塹壕から、小石を包んだ紙片(かみきれ)が一つ独軍の塹壕に投(ほ)り込まれた。なかにはこんな文句があつた。「君の方で銀貨(マルク)を一つ空に投(ほ)り上げて呉れ、すると此方(こつち)から狙ひ撃ちをする。うまく中(あた)つたら牝牛は己達(おれたち)のものだ、若(も)しか狙ひそこなつたら、此方で銀貨(シルリング)を一つ投り上げる。君の方でうまくそれを狙ひ撃ちしたら、牝牛は君達のものになる。」暫くすると、独軍の塹壕から、"O.K."(承知した)といふ合図があつて、一マルクの銀貨が一つ空に光つた。英軍から小銃の弾丸が一つ飛び出したが、うまく逸(そ)れてしまつた。すると今度は英軍の塹壕から、一シルリングの銀貨が一つ空に投り上げられた。独軍の塹壕で矢庭に小銃の爆(は)ぜる音がしたが、弾丸は外(そ)つ方(ぽう)へ逸れてしまつた。-かうして暫の間(ま)に五マルクと伍シルリングの銀貨が無駄に投り出された。独軍の塹壕から六マルク目の銀貨が光つたと思ふと、英軍はばちりと巧くそれを狙ひあてた。すると先方(むかふ)から合図があつた。「約束通り、牝牛は君達の方に呉れてやるが、己達の銀貨だけは返してくれ」そこで英軍の塹壕から、剽軽(へいきん)な男が一人のこのこ這ひ出して、やつこらさで牝牛を連れ帰つた後、そこに散らばつた銀貨を一つ宛(づつ)克明に拾ひ上げた。そしてその中(うち)の六マルクだけを態々(わざわざ)独軍の塹壕に持つて往つたものだ。すると、相手方は、「うまく狙つたな、これは御褒美だよ。」と言つて、麦酒(ビール)を半打(ダース)持出して来た。剽軽な英吉利兵は麦酒壜を両脇に抱へ込むで、自分の塹壕へ転げ込むださうだ。(「完本 茶話」 薄田泣菫) 


夏酒・正月酒、古酒・新酒
即ち多聞院に於て行う年二回の夏酒・正月酒の醸造は、また中世後半期に於ける一般的現象であり、『百済寺古記』中に夏酒・冬酒の呼称を発見し得る。しかし中世醸造業界は夏酒の醸造にその主力を注いだもののようである。中世の日記類に於て新蒭・新酒なる呼称を見出し得るのは、七月下旬より十月の中旬までに限られており、古酒なる呼称もまた殆どこの時期に於てのみ見出し得ることは、以上の推定を実証するものであろう。(2)新酒とは即ち七月頃に熟成し市場にあらわるるに至った夏酒を云い、古酒とは新酒出現以前の酒を称したものである。而して中世人は古酒を新酒より遙かに珍重なものとしている。即ち「天野古物也、世所稀者也」(蔭涼軒日録延徳四年二月十日条)と云い、「天野古酒試之、尤可口」(同上明応二年九月廿二日条)と古酒を賞玩しておるのである。されば古酒はその価格も新酒より遙かに高価であった(諸才芸代物附)。而して醸造以来三ケ年というのが古酒の最大保有期間であったものか、『経覚私要鈔』には「三年酒」の称が見えるし、晴富宿彌も「摂津国三ケ年ニ成ヲ取出テ」飲用しているのである。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


方言の酒色々(23)
居酒屋の土間で酒を飲むこと あしっつるし
建て前の時、大工などが、清浄とされる方角に向かってちょこで酒を投げること なげざけ
食事の終わった後に酒を飲んだりものを食べたりすること あとおさえ/おじゅーす
屋根ふきの時、親類が米や酒を持って行くこと けんずい
旅に出る人を招いて酒を飲ませること かどいで(日本方言大辞典 小学館) 


泥酔三年
私が生涯で最も飲みっぷりを見せたのは、終戦後の三年間ぐらいのものだろう。長い戦争中、酒に飢えていた。その禁断を解放された痛飲が三年はつづいた。その三年間は天下にロクな酒のない時代で、カストリが主役の時代であったが、カストリにはメチルが少ないというので安心してのんだ。カストリの臭気が鼻について、どうしても飲めなくなったので、シューチューを飲むことにしたが、これにはメチルを混入した危険なものが多い。ところがたまたま新橋マーケットのボンジョールという店を知るようになった。ここの主人の小林さんは終戦までドイツ駐在の外交官だったという人で世に希な謹厳な紳士であった。この人のショーチューなら安心だろうというので、上京すればここで飲み、あるいはショーチューのカメを届けてもらったりして飲んでいた。そのおかげをこうむって、メチルにも当らずにいまもって生きのびているのかも知れない。この店は、今は有楽町にマルセーユと名乗っている。この店名は私が命名したものである。しかし、やがて、ルパンという地下室の酒場で、サントリーやニッカやトミーモルトなぞが飲めるようになった。ルパンは戦前から名のあった銀座のバーであるが、こんどのは洋酒専門の酒場であった。カストリやショーチューの臭い酒を飲んでいたのが、にわかにサントリーやニッカを飲みだしたから、うまくて仕様がない。私が生涯で一番よく飲んだのはこの店である。たいがいサントリーを二本ずつのんだ。その代り、ここでお酒を飲んだ時ほど泥酔したこともない。あれぐらい前後不覚に酔っ払って良く生き延びていられたものだと思う。一足でればパンパンやアンチャンが神出鬼没をきわめている暗黒街なのである。むろん焼跡の露にうたれて寝ていたこともあるし、コンクリートの上にねて風をひいたこともある。スリにはずいぶんやられたが、ヨタモノにやられたのは一度しかない。(「泥酔三年」 坂口安吾) 


五歳から飲んでいる
そんな病態を抱えながら、お酒はよく飲みましたね。お酒が嫌いになる薬がどこかにないかしら、とよく考えたものです。「五歳から飲んでいる」というのもあながち冗談ではなかったかもしれません。連日、各界の方々と赤坂や新橋で楽しくお酒を酌み交わしていました。発想が奇抜で、話が面白いと、かなり年上の方々からも可愛がっていただいたようです。五十代で糖尿病になってからは、、日本酒はやめましたが、ビールをお茶がわりに、そば焼酎をちびりちびりと舐めていました。私はそれはやめてほしかったのですが、耳を貸す人ではありません。この習慣は、最晩年まで続きました。(「見事な死 升田幸三」 升田静尾(夫人) 文藝春秋編)1991年4月5日(満73歳没) 


タンポポの酒
「ぼくらにもできますかね?」「もちろん、でも、もっとタンポポの花が強く濃い色にならなくては」やがて、芝生の間に濃い黄色のタンポポの花が、宇宙の闇(やみ)の中の星のように咲きみだれる暑い夏になった。ぼくらはタンポポのワイン作りを教わった。花を摘んだ時に白いタンポポの液で濡れた指は、しばらくすると黒くなっていたのにおどろいた。洗ってもなかなか落ちてくれない。それほどアクが強い。ぼくらはタンポポの首を千個は刎(は)ねたろう。そのタンポポをぎっしり詰めた白いホウロウびきのバケツに、湯を6リットルほど滝のように注ぎ入れた。タンポポの花は湯の中でくるくる舞った。そのまま三日間そっと食堂の暗い隅に寝かしておいた。四日目の朝、ブドウを搾(しぼ)る木綿の袋にタンポポの花を水もろとも流し入れて、漉(こ)した。袋の下から流れる水は、レモン水のように澄んでいる。それとは別に、1リットルの湯に砂糖500グラムをとかし、35度ぐらいになったら、ドライイーストをくわえる。中庭から外庭へ通ずる入口に、大きな素焼きの植木鉢があり、レモンが火星のようにぶらさがっている。その実を二個とってきた。レモンの皮はすりおろし、果肉のほうは搾って、タンポポの水に注ぎ入れた。そのとき無数の泡がぶつかって壊れるようななすかな音が聞こえた。そのせいなのか、二匹の猫が、そばで首を傾け聞き耳をたてていた。ドライイーストを入れたホウロウ引きの容器の底から、宇宙の遠い響きとともに、透明なカプセルが無数にあがってくる。しかし地球の空気にふれると、それらはまるで巨大な軍艦にぶつかったトンボのように壊れてしまう、すごい数の泡だ。ぼくはその透明な泡を含んだ液体を、瓶につめた。夏を閉じ込める魔法使いのように…。しばらくそっと寝かせておいた。ぼくは、飲みたいときにいつでも、夏を飲むことができるようになった。(「世界ぐるっとほろ酔い紀行」 西川治) ミラノで教わったそうです。 


酒樽の底に穴があいている
【意味】事業が振るわず、財布にあまり金のないもの。まるで酒樽の底に穴があいているようにというのである。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助) 


酒と歌
今まで自分のして来たことで多少とも眼だつものは矢張り歌を作つて来た事だけの様である。いま一つ、出鱈目に酒を飮んで来た事。歌を作つて来たとはいふものゝ、いつか知ら作つて来たとでもいふべきで、どうも作る気になつて作つて来たといふ気がしない。全力を挙げて作つて来たといふ気がしない。たゞ、作れるから作つた、作らすから作つたといふ風の気持である。寝食を忘れてゐる樣な苦心ぶりを見聞きするごとにいつもうしろめたい気がしたものである。わたしは世にいふ大厄の今年が四十二歳であつた。それまでよく体が保てたものだと他もいひ自分でも考へる位ゐ無茶な酒の飮みかたをやつて来た。この頃ではさすがにその飮みぶりがいやになつた。いやになつたといつても、あの美味い、いひ難い微妙な力を持つ液体に対する愛着は寸毫も変らないが、此頃はその難有(ありがたい)液体の徳をけがす様な飮み方をして居る様に思はれてならないのである。湯水の様に飮むとかまたはくすりの代りに飲むとかいふ傾向を帯びて来てゐる。さういふ風に飲めばこの霊妙不可思議な液体はまた直にそれに応ずる態度でこちらに向つて来る様である。これは酒に對しても自分自身に対しても実に相済まぬ事とおもふ。そこで無事に四十二歳まで生きて来た感謝としてわたしはこの昭和二年からもつと歌に対して熱心になりたいと思ふ。作ること、読むこと、共に懸命にならうと思ふ。一身を捧じて進んで行けばまだわたしの世界は極く新鮮で、また、幽邃である様に思はれる。それと共に酒をも本来の酒として飮むことに心がけようと思ふ。さうすればこの廿年来の親友は必ず本気になつてわたしのこの懸命の為事を助けてくれるに相違ない。(「酒と歌」 若山牧水) 


中村遊郭最後の日
何年昔のことになるか、もう忘れたが、尾崎士郎さんと、林房雄さんと、私の三人、新橋の界隈で飲んでいたことがある。酔いが廻った頃だろう。「最後の中村遊郭で、我々ひとつ、夜明かしで痛飲しようや」という話になった。もちろん、提唱者は、尾崎士郎さんである。林さんも、私も、付和雷同して、一行には高橋義孝さんも迎えることになった。なにしろ、戦国時代の豪傑が輩出したゆかりの地の遊郭最後の日だから、私達が出掛けなかったら、ほかに、誰が弔うものがあるだろう。約束の日の特急が東京駅を離れるより早く、もう列車の中は前夜祭の観を呈していた。中村遊郭に上がり込んでからが、大変だ。呼び集められる限りの女を呼び集めて、まるで私達四人の、引退披露祝賀大公演のありさまになった。もちろんのこと、あたりが白むまでである。尾崎士郎さんのはしゃぎようといったらなかった。いや、林房雄さんの大乱痴気騒ぎ。高橋義孝さんときたひには、はいていたフンドシがなくなってしまったと、部屋部屋を探しまわっているありさまである。さて、中村遊郭最後の宴も終わり、一眠りしてから、気がついたことだが、一体、会費がいくらになるか、想像も及ばない。はじめから、誰も聞いていないし、相談もしていない。尾崎さんも持っている様子はなく、林さんも、高橋さんも、私も、あんなベラ棒な、桁はずれな、大宴会の会費など、持っている筈がない。これが開店披露とでもいうのなら、宣伝の為に、かなりの出血サービスということもあり得ようが、反対に中村遊郭最後の日である。私達はウヤムヤのうちに帰ってしまったが、一体、どういうことになったのか、今もって、奇々怪々な一夜であった。やっぱり、尾崎さんが、あとの処理を、こっそり、つけてくれたものか…それにしたら、申し訳ないことをしたものだ。(「わが百味真髄」 檀一雄) 


69.口は心のものさし[10912]
 <飲む酒の量でその人の人柄が知れる>という意味とも、<ふだんの言動に知らず知らず心に思っていることが出てしまうものだ>という意味とも説明される。 エストニア
65.酒は賢人の飲みもの
 酒は節度をもって飲める賢人の飲みもの。しかし「酒は賢人を荒れさせる」とも言う。 フィンランド
66.酒はその値段の価値あり
 高価な酒だが、うまさや飲んだときの快さはそれに勝る、と思うのは飲むまえのはなし。 フィンランド(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


とく-り【徳利】名
細長くて口の狭い酒などを入れる容器。とっくり。 文明本節用集(室町中)
[語源説]①酒が容器から出る時の音から<松屋まつのや筆記>。また、トクリ(曇具理)の義で、曇は壜の意。具理は鉼の意という<大言海>。②仏の宝器であるトクリベウ(徳利鉼)の略<類聚名物考>。③トクリ(得利)の義(運歩色葉集)。④タクリ(欧吐)の義<言元梯>。⑤壺または器の意か<海録>。(「日本語源大辞典」 監修・前田富祺) 


又六が 門ごくらくと きくからに さかむに仏の いやたうとけれ [後万載集、世入道へまうし]
京都紫野大徳寺門前の又六の酒屋で、一休和尚は「極楽をいづくのほどと思ひしに杉葉立てたる又六が門」とよんだと伝えられる。酔っぱらってねむるのが極楽だというのである。「歌によるこの教えを聞くと、釈迦牟尼仏の教えが一そう有難く思われる。」(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


(七五)をかし、男、伊勢の国にて一四所帯してあらむと云(い)ひければ、女、  大淀の濱(はま)に生(おふ)てふ一五海松(みる)なりと心(こころ)のまゝに食(く)ひてあれかし  と云(い)ひて、まして酒もなかりければ、男、  袖濡(ぬ)れて海人(あま)の刈(か)り干(ほ)す一六青海苔(のり)や海松(みる)を一七菜(さい)にて止(や)まんとやする 女(をんな)、  五月より一八出来(でく)る麦飯味なくは盬(しほ)に漬けたる貝もありなん  又、男、  涙にぞ濡(ぬ)れつゝ搾(しぼ)る一九濁(にご)り酒の辛(から)き心は鼻(はな)を二〇弾(はぢ)くか  二ニよに落(おち)ぶれたる女になん。
注 一四 一緒に暮そう。 一五 浅海の海底に生える、みる科の海藻。濃緑色の円柱形の幹が多数分岐。食用。伊勢の二見の名物(毛吹草、巻四)。 一六 青海苔は干すと新緑色になる海産の食用苔。三河・伊勢・志摩・紀伊の海浜で多く産するが、特に伊勢志摩産が美味(本朝食鑑、巻三)。伊勢では馬瀬が名産地(毛吹草、巻四)。 一七 菜にして済ませようとするのでしょうか(それはあんなり胴欲だ)。 一八 炊く事ができるの意。四月中・下旬に麦は刈りとるから。 一九 濁醪(どぶろく)の糟を酒袋で除去した下級の酒。 二〇 激しい匂いが鼻を強く刺激する意。酒の強い匂いと女の薄情さとで涙が出るという意。(「仁勢物語」 前田・森田校注) 


義太夫を呼べ
専門学校昇格問題できこえた文部大臣N氏が、ある時、知合のに三人に誘はれて廓(くるわ)に行つたことがあつた。酒が始まると、知合の一人が盃をN氏に差しながら言つた。「なんだか芸妓ばかりでは座敷がしみていかん。義太夫を呼ぼうぢやありませんか。」「義太夫か。」N氏は盃を受けながら大きく頤をしやくつた。「そいつは面白からう。早速呼んでくれ給へ。」狸好きのN氏が狸のやうに腹を撫でていつもの大笑ひをする頃になると、そこへ年増の女義太夫がすつと入つて来た。そして太棹の調子を合しながら、骨つぽい顔を歪めて一くさり『酒屋』を語つた。皆は感心したやうに手を拍つて喜んだ。N氏も皆の後から急に思ひ出したやうに、手を拍つて感心した。女義太夫は面目を施して引下つた。それからまた一しきり酒がはずんだ。暫くするとN氏には直ぐ側に居る主人側の一人を突ついた。「君、義太夫は遅いね。まだ来ないのかしら。」「義太夫?」突かれた男は不思議さうな顔をしてN氏を見た。「義太夫はもう来たぢやありませんか。」「もう来たつて?なあにまだ来やしないさ。」N氏は胡麻塩の頭をふつた。相手はN氏をすつかり酔払つたのだと思つたらしく、わざと宥めるやうに言つた。「来ましたよ、さつき太棹の弾き語りをして帰つた女があつたぢあありませんか。」N氏は腑に落ちなささうに狸のやうな表情をした。「あれは君浄瑠璃ぢやないか。義太夫はまだ来やしないよ。」皆は呆気に取られた。酔つた眼を一ぱいに見張りながら、じつとN氏の顔を見つめたが、つい気の毒になつたので同じやうな事を言つて調子を合した。「ほんたうにさう言えば、義太夫はまだ来ないやうですね。」「それ見給へ、まだ来やしないんだよ。おい、誰か早く義太夫を呼ばないか。」N氏は図に乗つて得意さうに大きく喚いたが、そこに居合はせた人達は、みんな可笑しさと悲しさとのごつちやになつたやうな表情をして、誰一人義太夫を呼びに立たうともしなかつた。(「茶話」 薄田泣菫) 


新酒頌
酒酒、儀狄<ぎてき>つくり大禹のむ。ふるきはあたらしきにしかず。おもきはかろきにしかず。かろくすめるものは、暫時のあたまにのぼり、重くにごれるものは、二日酔の枕となる。たちまち酔ひたちまちさむ。日々に新にして、又日々にあらたなり。(「四方の粕留」 太田蜀山人) 


へたな・だいく、へびのすけ、ぽたん、ぽつぽつ、ほやす
へたな・だいく[下手な大工](名詞)句 財産を飲みつぶすこと。[←鑿(のみ)つぶし](洒落言葉)(江戸)
へびのすけ[蛇之助] 大酒飲み。[蛇は酒が好き]→うわばみ。(俗語)(江戸)
ぽたん ①酒のさかな。 ②副食物。[←「たんぽ」「たんぼ」の逆語](強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
ぽつぽつ 上等の日本酒。(強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
ほやす(動詞) (料理屋で)酒をのむ。(強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


或酒家より一瓶をえて返事に  貞直
湧出る 庭の泉の 壺本の 人のなさけを 請てこそしれ

題し(知)らす  満水
本哥 世間(よのなか)に たへてさかもり なかりせは 下戸の心は 嬉しからまし

同 我こひ湯 しほけも見えぬ をきをきは 人こそしらね 酒の酔覚
(「古今夷曲集」) 


右に左に
しかし仕事上、旧姓をペンネームならぬ編集ネームとして使う女子が少なくない。
「ええ?」
「いえ、結婚しても変わらないって話」
姓が?-とはいわない早苗だ。
「美貌が?」
「酒量ですよ」
「へへへ」
「ケン君、怒らないんですか」
「怒らないよ。理解あるもん」
「でも、もう玄関先で、吐いて寝てたりしないんでしょ?」
壮絶な実話である。結婚前の話だが、朝の四時頃、玄関で目を覚ました。しかし、妙だと思った。
-私は汚れた女。
そう感じた。
吐くにしても、普通は気持ちの悪くなったところで植え込みに行ったりする。ところが、わざとやったように、衣服が汚れている。そこで思いだした。
-わざとやったんだ。
深夜タクシーを降りて歩きだした。まだマンションの戸口まで細い道がしばらく続く。そこで、<襲われたら大変>と思った。防御の手段はないかと考えた時、かなりむかむかすることに気づいた。そこで、
-こいつはいいぞ。
グッドアイデアとばかり、右に左に吐きながら歩いてきたのだ-という。(「飲めば都」 北村薫) 


一杯どうですか
もっとも私はそのとき連れがいたから、そのオジサンの相手になってあげるひまはなかったけど、そういえばこんな種類の店にはほとんど女は来ない。それは、私には、まだ一人前に社会で働く女が少ないからだと思われる。女が男と同様のウェートで社会に地位を占めた場合、やっぱりこういう安直な飲みやへもくるようになるだろうと思う。酒でも飲まなければやりきれないような気持にさせる、仕事や人生の重さを知るだろうと思う。そのとき、男と女は同等になる。「一杯どうですか」なんて、一人の女が一人の男に酒をついだりする。それから天気のことや競馬のことをしゃべるかもしれない。(「言うたらなんやけど」 田辺聖子) 


酒米色々
例えば新潟県村上市の大洋盛(大洋酒造)は村上産の五百万石とたかね錦、山田錦を使いわけている。滋賀県今津町の琵琶の長寿(池本酒造)では玉栄を、今津町と安曇川(あどがわ)町で契約栽培をしている。また二年前から東北の亀の尾を志賀の地に根づかせようとしている。県によっては、独自に地元の酒造好適米を指定し、農家に推奨しているところもある。山田錦より歴史が古いといわれる雄町は、戦後作る人もなく、幻の酒米といわれていた。岡山県赤坂町の酒一筋(利守酒造)の利守忠義社長は、二十数年前に近くの神主さんの家に雄町が残っていたのを見つけた。稲丈は一メートル八十センチ近くあったという。そこから、各農家を回って、栽培をお願いして、純米吟醸、赤磐雄町の誕生となった。現在の栽培農家は七十軒九千俵を産出するという。(「利き酒入門」 重金敦之) 


金丸信
かねまる・しん 一九一四年山梨県生まれ。東京農業大学農学部卒業後、中学教員を経て実家の造り酒屋を継ぎ、戦後は焼酎やワインの生産に事業を拡大する。五八年に自民党から衆院初当選。社会党のとの間に太いパイプを作り、「国対政治」の中心となって活躍、"寝業師"の異名をとる。中曽根政権で党幹事長、副総理を務め、八七年、盟友・竹下登をかついで「経世会」を旗揚げ。その後は党内最大派閥の会長として"政界のドン"と呼ばれた。九二年に東京佐川急便からの違法献金事件で議員辞職、翌年には東京地検特捜部に脱税疑惑で逮捕され、表舞台から姿を消した。九六年三月二十八日に糖尿病による脳梗塞で死去。-(「見事な死 金丸信」 文藝春秋編) 太平酒造という蔵で、サントネージュワインとなり、今はアサヒビールに吸収されたようです。 


山に行て爰(ここ)かしこに酒宴しけるを
、黒
 さしかはす花見の酒やかたみ先
 よわからぬ相手もがもな花見ざけ 白
 花にゑいて皆持となるや下戸上戸 黒
あまりに呑過して帰るさうたてかるべし、ひかへられよといふて其のむ人に替りて、白
 興さむるかためはいまに花の酔
此三人もおのが芝居に入て盃さし出けれど、ひとりは下戸と見えてさかづきもとりあへねば、黒
 さかづきは打て返しよ花の友(「一話一言」 太田蜀山人) 


長寿の秘訣
スコットランドのある著名な法律家が、長寿の秘訣はなにか、と興味をもった。裁判の証人に二人の長老がでてきたのを幸いに、彼はそれぞれにどうしたら健康を保ち、頭脳も明晰にしていられるのか、その理由をたずねた。一人は、自分が九〇まで健康でいられるのはひとえにアルコールを禁じたからにほかならないといった。「あなたも禁酒主義者ですか?」と、もう一人の九三歳の老人にたずねた。「いいえ、私は二一の時からずっと日にウィスキー一びんずつ飲んでいます」「あちらでは長寿の秘訣は禁酒だというのだが、このくいちがいをどうせつめいしますか?」「それは簡単ですよ。オークの丸太を日に曝しっぱなしにすれば、いつまでももちます。また、水に漬けたままにしておいてももちますよ。しかし干したり漬けたりをくり返せば、すぐに腐りますね。酒を飲む飲まないも同じ理屈です」(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


つはもののまじはり【兵の交】
謡曲「羅生門」の詞句。『伴ひかたらふ諸人に』の次に『御酒をすゝめて盃を、とりどりなれや梓弓、やたけ心の一つなる、兵の交り、頼みある中の酒宴かな』とある。
つはものゝ交りもする娘なり 此娘は踊り子
つはものゝ交り一人江戸訛り 綱(渡辺)は江戸の生れ(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


燗の温度
なお、燗の温度を表現する言葉もいろいろあるが、現在は次のように分類するのが一般的だ。好みだが、酒を例にとってみる。
日向(ひなた)燗 三十度近辺(大吟醸、五年以上の長期熟成酒)
人肌燗      三五度近辺(吟醸古酒)
ぬる燗      四〇度近辺(純米吟醸)
上燗        四五度近辺(本醸造)
熱燗        五〇度近辺(本醸造、普通酒)
飛切燗      五五度近辺(普通酒)
ついでに冷やの温度も記しておく。
雪冷え    五度近辺(吟醸生酒)
花冷え    一〇度近辺(純米吟醸)
涼冷え    一五度近辺(大吟醸)(「利き酒入門」 重金敦之) 今更ですが。 


さくら
○向島の花
いかにかあらん。紅雲(こううん)十里黄塵万丈(こうじんばんじよう)の光景眼の前にちらちらと見えて土手沈むこと三寸三分。
此(この)花に酒千斛(せんごく)とつもりけり
花ちらちら島田の男酒を飲む
交番やこゝにも一人花の酔(「松蘿玉液」 正岡子規) 


ウイリアム・ブースの警鐘
救世軍のブース大将が、ロンドンから来日した明治四十年に、「日本人は熱血の国民だから、酒を飲むと深酒になりやすい性格を持っている。日本にもし飲酒の悪習が広がり始めたならば、欧米より酒害ははるかに大きなものになるであろう。今の日本は西洋の国ほどひどくはないが、酒の害は図り知れぬほど恐ろしいものがある。あなどったり高を括ったりしてはいけない、酒の悪風は案外早く広まるものであり、酒は悪魔なのだから、諸氏は戦って戦ってなおも戦い、酒の害を国民から拒絶するためベストを尽くさねばならない」という趣旨の講演をされました。この当時の日本にはいわゆる酒飲みはいても、アル中は少なかったものです。-
戦後二十年間にアル中患者は激増し、その後の十年間に女性アル中も、で出てくるようになったのです。そして戦後三十年にして女性のアル中もまた激増の兆しを見せるにいたりました。日本のアル中の発生様相が完全に欧米型になってきたのです。(「断酒でござる アルコール呪縛からの脱出」 堀井度) 

花見じゃ花見じゃ
阪急夙川の近くには公民館もあり、そこではこの季節、桜まつりと称しまして野外のステージがつくられ、歌手が来たり漫才コンビが来たりする。民謡大会もあるそうでございまして、何しろ浮かれとるわけですナ。さ、そこを狙うて現れるのがこの名物男で。歳の頃なら四十五から五十あたり、小柄な、えろう風采(ふうさい)のあがらん親爺(おやじ)やそうで。何やしらんはっきりせん笑いを頬のあたりにうかべて、そのくせ眼だけはキョロキョロひからせ、香枦園浜あたりから川上へむかって歩きだすのやそうですございますナ。そうして、あっちの団体こっちの車座、ぬかりなく目配りをして、酔いがまわってワーッと盛りあがっている座があると、ふらふらと近よっていく。いえ、決して財布を取ろうとかいうわけやない。ごく上機嫌な顔で近づいて、座のなかで一番酔うてそうな男に声をかける。かえると同時にスッと右手を出す。「ま、一杯。ま、ま、一杯。ワーッ」右手には空の湯飲み茶碗がしっかりと握られているそうで、ついそれに酒を注いでしまうんやそうですナ。タイミングがエエもんで…。「や、どうも、おもろいですナ。ワーッ」一杯飲んで次の座へ移り、一杯飲んで川上へと歩く。途中公民館前で歌やら漫才を聞いて酔いをさまし、またもや前進を開始する。夙川から苦楽園、甲陽館のあたりまで到達したときには、時刻も夕方近く、おっさん合計にして一升ほど飲んで、足腰が立たんようになっているんやそうでございますが。ま、何とえらい男がおるもんですなあ。天下太平、春はヨイヨイでございますナ。ワーッ。(「むさし日曜笑図鑑」 かんべむさし) 


「事件」
日本ではかつて、これと同じ現象がスコッチ・ウイスキーで起きている。スコッチは長らく高嶺の花だった。なかでもカティサークは人気が高く、1本が数千円もするにもかかわらず、日本で飲まれるウイスキーのシェアはナンバーワンを誇ってきた。ところが、その後、酒税が大幅に下がったり、ディスカウント店が安売りするなどして価格が2000円を割ると、売上は急落した。安くなれば売り上げが伸びるのはずなのに、逆の結果になってしまったのだ。これにはイギリス人が驚き、「日本人は本当にスコッチが好きなのか、本当にスコッチの味をわかっているのか」と首をひねった。業界ではいまもなお「事件」として記憶されている。日本でスコッチ、とりわけカティサークの人気が高かったのは、「高額」イコール「ステータス」ととらえ、ありがたがっていたからにすぎない。現金ではないが、高価だとわかる社用の贈答品としての利用も多かったのではないか。(「遊ぶ奴ほどよくデキる!」 大前研一) 


豪飲して初鼓に辞去す
同年三月二十三日の条も挙げてみよう。
朝晴。鳥居君の招に赴く。…園池の締構まさに成り、余に命じて名を製せしむ。茗澗(めいかん)いたり、豪飲して初鼓(午後八時ごろ)に辞去す。轎中(きょうちゅう)に酔臥し、美なること甚だし。この日、家中の大小また時季に染み、一の免るる者なし。魏然霊光あるはただ我あるのみ。夜、春木・春水・春草・春虫の五絶句を作る。
鳥居君とは林述斎の二男だが、旗本鳥居家を継いだ耀蔵である。のち江戸町奉行となり、蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英ら進歩派蘭学者たちを弾圧して、妖怪などとあだなされて歴史上評判が悪いが、慊堂(こうどう)は耀蔵の幼少から学問の面倒をみたこともあって、可愛くて仕方がないという体である。耀蔵は、慊堂がいなければもっと反動的暴走を繰り返したかもしれぬ。同席した茗澗とはやはり述斎の子で、第六子である。いずれも側室の子たちである。茗澗は「木聖」宇のあと、やはり大学頭になった。慊堂は、「豪飲」して駕籠で送られ、陶然たる酔い心地である。それぞれ個性の強い述斎の子たちと、このように気持ちよく飲める人物は、ほかにいなかったかもしれない。慊堂は、だれからも愛される酒のみであったのである。(「江戸文人と宴遊文化」 今田洋三 「酒宴のかたち」玉村豊男編所収) 松崎慊堂の日記、「慊堂日暦」にあるそうです。 


テキのもくろみ
人はなにゆえお酒を飲むか。しこたま飲んで夜が明ける頃、ふと覚醒してみれば、断片的な記憶の隙間(すきま)に空白のあるを知り、得も言われぬ恐怖に襲われる。なんか私、暴言を吐いたかしら。神様が我々にこうしてときどき人間の愚かさを知らしめるためにお酒は存在するのだろうか。「図に乗るな。お前はまだ修行が足りないよん」アダムとイブに禁断のリンゴをかじらせて楽園から追放したように、酒の力で理性を狂わせ、ちくりと苦言を呈するのがテキのもくろみにちがいない。と、二日酔いの頭を抱えて私は低く呟(つぶや)く。(「残るは食欲」 阿川佐和子) 


樽代や節句銭
佐石 所(ところ)がそこの家主(いへぬし)の杢右衛門(もくゑもん)とやらいふ人(ひと)は、世間(せけん)の家主(いへぬし)と事替(ことかは)つて、樽代(たるだい)や節句銭(せつくせん)などを取(と)らぬというが評判(ひやうばん)ゆゑ。
太助 店子(たなこ)が引合(ひきあひ)でも喰つた時に、悦(よろこ)んで弁当代(べんたうだい)や番所入用(ばんしよにふよう)と取(と)るやうな、そんな欲張(よくば)つた事(こと)はしなかつたらう。
與九 いやっさういふ家主(いへぬし)が世間(せけん)にあるから、お上(かみ)に御苦労(ごくろう)が絶(え)えぬといふもの、先(ま)ず家主(いへぬし)をするからはかすり取(と)るのが役徳といふもの、親子喧嘩(おやこげんくわ)や夫婦喧嘩(ふうふげんくわ)を長屋(ながや)でするのを覘(ねら)つて居(い)て、大(おお)きな声(こゑ)でもした時(とき)は出掛(でか)けて行(い)つてそつと立聞(たちぎ)き、中へ飛込(とびこ)み双方(そうほう)宥(なだ)め、仲直(なかなほ)りだと酒(せけ)でも買(か)はせ、十分(ぶん)馳走(ちそう)になつた上(うえ)で、土産(みやげ)でも持つて帰(かへ)るのが、家主(いへぬし)の上手(じやうず)といふものだ。
佐石 はゝあ、それぢやあやつぱりお前(まへ)さんは、家内繁昌(かないはんじやう)長屋騒動(ながやさうどう)といつて、神棚(かみだな)を拝(をが)む方(ほう)だね。
與九 はて、それでなければ地主(じぬし)から僅(わづ)かな給金(きふきん)を貰(もら)つた位(くらゐ)で、ろくな暮(くら)しが出来(でき)るものか。(「黄門記童幼講釈くわうもんきおさなこうしやく」 河竹黙阿弥) 


うくひすの巣立の酒の一銚子 ひとくひとくと急きこそ飲む
雲雀毛のむまからさりし酒なでと のみあかりてや上戸なるらむ
はるの日のなかさかもりに成ぬれは 我には人のくれかたきかな
ゑひてのち物をいはぬはくちなしの やまぶき色のさけやのむらん
本歌 梅の花見にこそ來つれ鶯のひとくひとくと厭ひしもをる 読み人知らず(「狂歌酔吟藁百首」 暁月坊) 


弘法大師に供酒
律宗のような戒律を尊ぶ宗旨はどうか知らないが、ほかの宗派では祖師がすでに酒を好んでいる。弘法大師も高野山を開く時、山上の寒気を防ぐため、山麓の天野慈尊院にいた母公から毎冬のように酒を送られたので、現在でも毎年三月二十一日の御影供当日には同寺から酒を供えることになっている。(「日本の酒」 住江金之) 


酒量 注 
一 淳于「上:髪-友、下:儿」 戦国、斉の人。滑稽多弁。斉の威王が政治をかえりみなかったので、綱紀が乱れたが、王を諫めて正道にかえらしめた。また酒一石を飲むことができたが、酒極まれば乱れることを、例を引いて王に説いたので、王は長夜の飲をやめたという。 二 盧植 一五九-一九二。後漢、「シ豕」(たく)の人。字(あざな)は子幹。鄭玄(じょうげん)とともに馬融に師事し、古今の学に明通した。官は尚書に至ったが、董卓(とうたく)が廃立を図ったとき、抗論して官を免ぜられた。能く酒一石を飲んだという。 三 蔡「上:巛、下:邑」 一三三-一九二。後漢、圉(ぎょ)の人。字は伯「口皆」(はくかい)。すぐれた学者として著名。嘉平中、六経文字を奏定し、自ら書して碑に刻し、大学門外に立てた。しばらく董卓に仕えたことが災して、獄中に死んだ。 四 張華 二三二-三〇〇。晋、方城の人。字は茂先。博学で、王佐の才ありと称された。 五 周顗 二六九-三二二。晋、安城の人。字は伯仁。王敦が乱をなしたとき、王導を救わんとして努力し、遂に殺された。王導はのちにこのことを知り、「われ伯仁を殺さずと雖も、伯仁、我によって死す」と嘆じた。朝廷に仕えていたとき、酒一石を飲み、晋の南渡後も対抗できるものはいないと称していたが、一日江北よりの客に、欣然として酒二石を出し、共に飲んで大酔した。客の様子を見させると、すでに脇腹が腐って死んでいた。 六 于定国 漢、「炎阝」(たん)の人。字は曼倩(まんせん)。廷尉となり民を裁くこと公平で、丞相に至った。酒を飲むこと数石に至るも乱れなかったという。 七 高陽の酒徒 世を捨てた酒飲みと、自分をあざけっていうことば。もと秦末・漢初の「麗阝」食其(れいいき)が漢の高祖にまみえたとき、自ら称したことば。 八 寇莱公 宋の寇準のこと。九六一-一〇二三。下「圭阝」の人。字は平仲。官は同中書門下平章事に至った。酒を好み、宴会のときには、扉を閉じ、馬車のそえ馬をはずし、客の帰れぬようにして痛飲したという。 九 石曼卿 九九四-一〇四一。字は延年。宋、宋城の人。詩文に巧みで、蘇舜欽(そしゅんきん)・梅堯臣(ばいぎょうしん)と名をひとしくした。劇飲を喜び、劉潜と王氏の酒楼に至り、終日一言も交えずに対飲し、夕方に至るも酒色なく、あい揖(ゆう)して去ったという。 一〇 劉潜 宋、定陶の人。好んで古文をつくり、進士となる。石曼卿と酒を飲んでいたとき、母の急病をきき、急ぎ帰ったが、母はすでに死んでいたので、潜は一慟(どう)して、そのまま息絶えた。その妻もまた潜を撫して大号して死んだという。前注、石曼卿参照。 一一 胡宗憲 明 績渓の人。字は汝貞。嘉靖の進士。兵部右侍郎となる。徐海・麻葉・陳東らの賊を平らげ、官は右都御史に進み、太子太保を加えられた。 一二 汪道毘 明、「翕欠 きゅう」県の人。字は伯玉。嘉靖二十六年(一五四七)の進士。王世貞らとともに古文辞派であった。(「五雑組」 謝肇「シ制」(しゃちょうせい) 岩城秀夫訳 中国古典文学大系) 酒量 


18-かわりめ 替わり目
【プロット】酔っ払いに人力車夫が声をかけた。大将!何?おれ、いくさに行ったことがないぞ。いえ、俥(くるま)をさしあげようと思いまして。車を差し上げる?力持ちだな。そうじゃありません。帰り車ですからお安くしますよ。いかがですか。帰り車?危ねえな。いいえ、乗ってくれませんか。そうか、その商売熱心、気に入ったぞ。じゃ、乗ってくれるんですね。イヤだ。意識不明なのか、それともからかっているのか。とにかく酔っぱらいは乗ってくれた。どちらまで?わからない、乗りたくて乗ったんじゃないから、勝手に真っ直ぐ走れ。それじゃ困ると言うんなら、ちょっとこの家に用があるから戸を叩け、と酔っ払いは傍らの家を指した。車夫は言われた通りにする。「あら、おまえさん、また酔っ払って。俥屋さん御苦労様。どこから乗せてくれたの」それがね、お宅の戸袋の前。こちらの旦那だったんですか?女房は俥屋に代を払って帰した。おまえさん!どうして家の前から乗るの?もうお寝なさい。いや、飲むんだ。何を?何をって、硫酸飲むわけないだろ、酒に決まってらあな。だめよ!おい、おまえ、女だろ。大きな口あいて言うな。呑まれるかと思う。駄目と言われると飲みたくなるのが男ってもんだ。逆にもう一杯召し上がれと静かに言ってごらん、いや寝ようと言いたくなる。それが男ってものだぞ。「そう、じゃ、もう一杯いかが」「せっかくだからもらおうか」(「ガイド落語名作プラス100選」 京須偕光) 


老ぬればあたゝめ酒も猪口一つ 『五百五十句』
 老ぬれば温め酒も猪口一つ 「玉藻」昭14.12
 老ぬれば暖め酒も猪口一つ 「ホトトギス」昭15.10
失せてゆく目刺のにがみ酒ふくむ 「ホトトギス」昭18.3
 三月二十日、大崎会、丸之内倶楽部別室  (高浜虚子) 


酒量
古人で酒を嗜(たしな)むのは、一斗を節とした。十斗が一石で、量の最高単位であった。だから大酒飲みの淳于「上:髪-友、下:儿」(じゅんうこん)(注一)・盧植(注二)・蔡「上:巛、下邑」(さいよう)(注三)・張華(注四)・周顗(しゅうぎ)(注五)といった連中でも、一石を越えたものはいない。ただ漢の于定国(うていこく)(注六)ばかりは、飲むこと数石に及んでも乱れなかった。これこそ古今第一の高陽の酒徒(注七)である。宋の時寇莱(こうらい)公(注八)・石曼卿(注九)・劉潜(注一〇)・杜默のごときは、みな酒飲みということで雄と称せられたものであって、その酒量も古人を下らなかったのである。近い次代の飲酒家が、昔に比べてどうであるかは知らないが、ただ士大夫の中で、黙って百杯以上のみ、声もかわらず顔色もかわらないものがあれば、酒豪と称することができよう。わたしが目で見、耳で聞いておぼえているところでは、曽「上:啓-口、下:木」(けい)・馮衍(こうえん)・胡宗憲(注一一)・汪道毘(注一二)は、みな敵対するものがいないと自負していたのである。そしてその他小ざかしい連中は、とりあげるまでもない。曽「上:啓-口、下:木」は等身大の銅像を鋳造し、曽「上:啓-口、下:木」が飲んだ分だけ銅像に入れていって、銅人から酒が溢れ出るまでになっても、まだ酔っていなかった。馮衍は春の会試の発表の際、各進士に一杯ずつ相伴をしていって、三百杯をおえるまで続けたが、それでも興はまだ尽きず、さらにその中から善く飲むもの五人をえらび、ともに立ったままで酌(く)み交わすこと、さらに百余杯であった。五人はみなよろよろとしてどうにもならなかったが、馮は平気であった。胡宗憲が浙江で郷試の発表を迎えたときも、やはりそうであった。汪道毘は飲むたびに、大小の酒甕(さけがめ)をいろいろとりまぜて並べ、一つの机に並んでいるのを飲みつくすのを、標準とした。そして酒が尽きるまで啜り、ほぼ余瀝がなくなるまで飲んだ。これも裴弘泰(はいこうたい)と同類であろう。しかし汪道毘は嘗(かつ)てこんなことをいった。「善く飲むものは、その量を大切にする。席につくとすぐに、がぶがぶと吸飲する人を見るたびに、可笑(おか)しくなるのだ」また名言というべきである。(「五雑組」 謝肇「シ制」(しゃちょうせい) 岩城秀夫訳 中国古典文学大系) 


●「敵(かたき)同志」
或る酒屋の前に牧師が次のような立看板を立てました。「酒は人類の敵(てき)なり」すると酒屋の主人はその隣の教会に次のように筆太に書きました。「汝の敵を愛せよ」(『日の出』新潮社 昭和一〇年一月号)(「日本の戦時下ジョーク集」 早坂隆) 


(北条霞亭の)『三原観梅詩』中の
舟、尾路ヲ過グ

石頭思月千光寺 貝子拾春尾路江
垂柳岸辺舟欲繋 誰家楼上酒尤濃
(石頭ニ月ヲ思フ、千光寺、貝子ニ春ヲ拾ふ、尾路ノ江。垂柳ノ岸辺、舟ヲ繋ガント欲シ、誰ガ家ノ楼上ノ酒、尤モ濃ナル)
春の海岸で貝を拾う風情は、春信の浮世絵を想わせる甘い感傷が漂っている。恐らく女の爪のように、仄かな桜色をした薄い貝なのであろう。(「江戸の漢詩」 中村真一郎) 


酒などはまず飲み申さざるよう
「御切米五両頂戴の由、惣領かぶにては青山氏以来これなく、何分節用致すべく候。酒などはまず飲み申さざるよう致すべく候」(同三月一八日)父(青山延光)は勇(息)の酒好きを案じて戒めたついでに、同じ町内の中村が、佐藤会介という者と酒の上で喧嘩をはじめ、お役御免になったことを報じている。ことのいきさつは佐藤が金一分で刀のツバを中村へ売る約束をした。後刻中村がツバを受け取りに行くと、佐藤は川上捨三郎という友人と酒をのんでいた。佐藤がツバを出すと、川上が先にとりあげて、一分二朱で自分が買い取ろうといい、佐藤はそれで売るという。そこで中村が大いに腹をたて喧嘩になった。酒の上の喧嘩ぐらい、当時の武士にありがちなことで、表ざたにせずともすんだのだが、中村の父が激怒して、佐藤へあやまりにこいという。佐藤はそれしきのことと相手にせず、佐藤は中村の長屋に住んでいた様子で、中村の方から家のあけ渡しを要求され、その筋へ訴え出たので事が大きくなったのだという。わずか二朱のことで約束をたがえる者もたがえる者だが、酒の上でつかみあいをして、中村と川上と二人まで免職になるとは「貧すりゃドンする」というが、なさけないことだと延光は歎いている。(「幕末の水戸藩」 山川菊栄) 


酒上手
茶の湯が最終的に行きついた先は、「数寄」というものです。一言でいえば「自分が思うがままにせよ」、自分の趣味や好みを優先させればよろしい。しかしこの好きにすればよいというのが曲者(くせもの)で、ことの道理をわきまえていない人に自由にしていいといっても、何もできない。それは「自由の刑」という処罰になる。すべてを勝手気ままにするわけではなく、誰でも納得できる普遍的な原則に準じた中で、自由に振る舞えばいいということ。小笠原流礼法の「いづれも時宜によるべし」と相通じるものです。人は一度自らを型にはめた後に、その型から逸脱しようとするものです。いわば、型どおりに対して、崩しを入れ、さらには型破りも行うわけです。文字の書体と同じで、楷書(かいしょ)を崩し、行書や草書にする。さらには自らの書体を編み出すという段取りです。酒の道もこの精神です。目指すは「数寄」。では、その際の普遍的な原則、心得の基本とは何であろうか。それは、酒上手になることに尽きる。-
これらを総じて考えてみますと、つまるところ酒上手な人というのは、飲み方がきれいであるという事になります。一緒に飲んでいて気持ちがいいこと。一緒に飲みたがる人が多いこと。どうすれば一緒に酒席を交えたいと思われる人になるかを考えていけば、すなわち酒上手になれるというわけです。(「酒道入門」 島田雅彦) 


さけ|酒
ロシア人は酒が好きだ。10世紀にロシア人がイスラム教ではなくキリスト教を受け入れたのは、イスラム教は飲酒を禁じているからだという伝説があるほどである。庶民に最も好まれるのはもちろんウォッカである。コニャックも良質のものが生産されているが、値段が高いため労働者は日常的には飲まない。ビールやワインもたくさん飲まれている。ウォッカの値段も相当高いので、安い果実酒やサモゴンsamogonと称される密造ウォュカも広く飲まれている。国民1人あたりの飲酒量は、ワインなどを含めた統計はフランスなどよりは少ないことになっている。しかしロシア民族に限れば、彼らが飲むアルコール度の高い酒の量は欧米人よりかなり多いであろう。ソ連の国民でもイスラム教徒は一般に飲酒はしないが、キルギスやカザフなど中央アジアの民族はクミズと呼ばれる馬乳酒を飲む。アルメリアやグルジアやカフカス地方の人々は、ウォッカよりもコニャックやワインを好んでいる。アルメリア・コニャックやグルジア・ワインは国外にも知られている。飲酒の場所としては、日本のように手軽に飲めるバーや飲み屋、スナックなどはほとんどない。レストランでも酒は飲めるが、庶民にとっては手軽にというわけにはいかない。したがって、酒屋で瓶を買ってきて飲むというのがふつうである。ビールやビアホールや街角のビール・スタンドなどでも飲める。労働者は仕事中でも酒を飲むという者も少なくない。(袴田茂樹)(「ロシア・ソ連を知る事典」 川端香男里他監修) 


斉民要術64-67章
『要術』の第七巻は、一次産品の記載を主体としたこれまでの巻から一転して、醸造(造麹、造酒)の解説を進めている。しかし、最初の第六二章および第六三章は貨殖と甕塗りの記述である。すなわち、蓄財と貯蔵への対処であり、醸造加工に際しての心構えを説いたものである。この考えかたを基盤として、第六四章から第六七章までに各種の麹およびそれらを使ってのおよそ四二種におよぶ酒造法が詳述されている。『要術』の麹はグループに大別され、あわせてそれぞれ特徴をもつ九種がある。第六四章に記述された神麹はすべて小麦を原料とする餅麹である。神麹の「神」は「力が強い」ことを意味し、ていねいに作られるため酵素力が強い。これに対し、通常の麹は粗麹と称される。(田中、小崎)(「斉民要術」 田中静一、小島麗逸、太田泰弘編訳) 斉民要術は、六朝時代(二二〇年ごろから隋王朝が成立するまでの約三〇〇年間)の体系的で最古の農法書だそうです。 


061酒
*ハムルkhamr(アラビア語で酒)の原義は"覆うもの"である.そこで,酒以外にも,*ハシーシュ,*コーヒーなどの嗜好品摂取が酒と同様に理性を失わせる禁止行為(*ハラーム)か否かの議論がなされてきた.たいていの法学者による酒の定義は,理性を覆い隠すもの,すなわち理性を失わせるものである.クルアーンのなかでは,酒が禁止された経緯が段階的に示されている.,酒と賭け矢について,それらは大きな罪であるが,人間にとって益がある.だが,その罪は益より大である(Q2:219)とされ,次には,酔った場合*礼拝に近づいてはならない(Q4:43),そして酒は悪魔の仕業(Q5:90)として,製造・販売も完全に禁止される.法学者の間でも,酩酊の定義,飲酒の量などに関する議論が数多くなされ、各教派・各法学者の意見にはさなざまな点で差異がみられる.法律上どの飲料がハルムであるかというもっとも重要な定義でさえも,学派ごとに異なる.たとえばナビーズ(一般的には,ナツメヤシあるいは干しブドウの浸出液を醗酵させたもの)の使用については,*ハナフィー学派は治療薬としては認めており,それ以外の四大法学派とシーア派は禁止している.実際の食生活の面では,中世では酒の生産と販売は,*ユダヤ教徒・*キリスト教徒が行っていた.それらの場所にムスリムの出入りもあったため,*ムスタスィブ(市場監督官)の立入り調査もしばしばあった.年代記によれば,支配者によるたびたびの禁酒布告と立入り調査が行われていた.それらは,当該政権やイスラーム世界が危機的な状況に陥った時に,頻繁に行われた傾向がみられる.料理書での飲物の記述をみると,10世紀のアッバース朝期の料理書には,ムスキル(酔わせるもの)としてナビーズ,ファッカーウ(ビールの類)など7種の飲物の製法がある.記録資料からは,概してブドウから作られたワインは富裕者のものであり,庶民や農民は異なる醗酵飲料を飲んでいたことが分かる.たとえば10世紀の農書には、米のナビーズがイラク南部で常飲されていたことや、他の穀類を原料とした発酵飲料が農民たちに飲まれていたという記録がある。(鈴木貴久子)(「岩波イスラーム辞典」 大塚和夫他) 


【酒逢知己飲、詩向会人吟】しゆほうちきいん しこうかいじんぎん<酒は知己に会うて飲み、詩は会人に向って吟ず>
酒は知己とのみ飲むもの、詩は理解する人のために吟ずるもの。「会人」は「会家」ともいう。-(「禅語辞典」 入矢義高監修者 古賀英彦編著者) 


正覚坊
正覚坊(しようがくぼう)という名前は飲兵衛(のんべえ)の代名詞として通用しているようであるが、千度小路(せんどこじ)のの市(いつ)ちゃんの説によると、正覚坊は決して酒好きではないそうである。千度小路というのは小田原(おだわら)の現在魚市場のある囲(まわ)りの通称で、その附近には漁師の住居が櫛比(しつぴ)している。市ちゃんもそこに住む漁師の一人で、五十を少しこしたばかりの年恰好(としかつこう)である。姓は鈴木というが名前は市太郎(いちたろう)というのか市兵衛(いちべえ)というのか、いずれそういう名前であろうが私はまだ聞きただしていない。その市ちゃんの説によると、正覚坊を酒飲みだなんどというのはたいへんな間違いで、正覚坊という亀(かめ)は決して酒を嗜(たしな)まない。強いて吻(くちさき)をこじあけて飲ませるようなことをすると、甚だ苦しそうである。酔っ払って苦悶(くもん)をするさまは殆(ほとん)ど見ていて憐(あわ)れを覚える位で、そうしておしまいには涙を流すそうである。(「三好達治随筆集」 中野孝次編) 


幻術
およそ幻戯の術は、多くはいつわりである。金陵の人で薬を売るものがあった。車の上に大士像を載せ、病気のことをたずねる。薬をば大士の手のひらを通らせ、手の上に留まって落ちないのがあれば、人に服用することを許し、日に千銭を手に入れていた。一人の少年が傍らで見ていて、その術を会得したいと思い、人の散ってしまうのをまって、飲み屋に連れて行って酒を飲んだ。酒代を払わず、飲みおわると外へ出たが、飲み屋主人は気付かぬようであった。こうすること三度に及んだので、薬を売る男が、その法を教えてくれというと、少年は、「これはつまらぬ術がだ、あなたが交換することを承知してくれるなら幸甚です」といった。薬売りが、「私のは他でもない、大士の手は磁石なのさ。薬の中に鉄屑(くず)が入っておれば、くっつくのじゃ」というと、少年は、「私のはいっそう簡単なものです。先に銭を飲み屋に渡しておいて、客が来ても絶対に挨拶しないこと、と約束しておくことにすぎないのです」といったので、互いに大笑いして終わった。(「五雑組」 謝肇「シ制」(しゃちょうせい) 岩城秀夫訳 中国古典文学大系) 


無明(むみよう)の酒(さけ)
酒は百薬の長とも、気違い水ともいう。飲み方しだいで薬にも毒にもなる。ところで、「無明という根本的な無知があるために、人は貪欲(とんよく むさぼり)、瞋恚(しんい 怒り)、愚痴(ぐち 愚かさ)の三毒にとらわれつづけるのだ」と仏教では説く。そして「無明を断ち切れば煩悩の火も消える」と。けれど、人の心を楽しませ、無上のよろこびを与えながら醒めたときに悔いを残す酒のように、無明はなかなか断ち切れぬものである。それが無明の酒。(「仏教珍説・愚説辞典」 松本慈恵監修) 


上洛取り止め
これも其(その)一ツであるが公(徳川斉昭)がある時三浦贇雄へお話になつた事に、三代将軍までは三年め五年めには上洛する積りで東海道の城々へは本丸へ御殿を造り其用意も出来て居たが寛永十年の上洛より一切上洛をせぬ事になつた。この時将軍は後水尾帝へ拝顔をいたし天酌で天盃を賜り御傍に中院通村が一人お付申して、帝より山城一国を賄料として差上げるやうに致したしとの御直談があつて、将軍大きに当惑を致され。何ともお答ひが出来ず甚だ窮された由、ソレより上洛と云ふ事は断然やめられたと云ふ事を聞きて居るト仰せられし由、斯云事は何の書物にもない扇の事と同じくケ様の御言伝へが内々にあるものと見える(「水戸史談 庄司健斎君物語」 高瀬真卿) 


尾崎士郎(おざき・しろう)
明治三十一年二月愛知生れ。早大政経卒。算数は簡単なものでもマゴつく。浪花節と相撲が大好きで、昔は庭に土俵まで作って素人相撲を取ったくらい。現在横綱審議会委員をつとめ、毎場所国技館へ通う。文士に珍しい熱血漢で豪放磊落、よく人を世話する人情家で、また酒豪でもある。代表作『人生劇場』は日本的ロマンとして独特の光彩を放っている。青春の喜びと悲しみ、愛情と義侠の血の交錯は、作者の内面的な自画像でもあろう。(太田区山王一ノ二八五〇)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。 


【ワイン】
■不用意な発言
人間の心は本質的に束縛を嫌う。どんな楽しみも、義務として立ち現れたらもう魅力ではなくなる。ためしに大酒呑みにワインを薬として処方してみるといい。きっと苦くて味気ない薬だと敬遠することだろう。 ローランス勲功爵『夫も父親ももういらない。神の子の天国』(一八三八)(「珍説愚説辞典」 J・C・カリエール/G・ベシュテル編) 


タハニワハカ
春にはがんぴの樹幹に傷をつけて、タハニワハカ(樺の水=樹液)を器にとり、そのまま飲む。また放置して固まりかけたものに果汁を入れて発酵させ、酒をつくったりもする。(「聞き書き アイヌの食事」 萩中・畑井・藤村・古原・村木) 


仏も一杯機嫌
昨春、自動車事故で私は骨折した。せめて国許(くにもと)の老母には隠しておこうと思ったのだが、ラジオでも新聞にも出てしまったので、バレてしまった。どうせあいつのことだから、酔っぱらってたのだろう、とみんないうから弁明するが、酔ってはいたけど、ある車の前を正当に横切ったところ、それを追い越そうとして出て来た車に、やにわに突きとばされたのだ。やがて救急車が来、サイレンを鳴らして近所の病院へ運ばれた。降りる時「おいくらですか?」と聞いて笑われた。なるほど、これでいくらか税金のもとをとったわけだった。医者は全治一週間の打撲傷と診断した。それから加害者と一しょに警察へいき、私も不注意でしたと、示談にした。加害者はその車で宅まで送ってくれた。街道からうちまでビルの四階位の高さの坂道だが、自力で歩いて帰った。翌日延二十人もの見舞客があった。「お通夜のつもりだったのに、仏が生きてやらあ」と、賑やかな宴会になった。仏も一杯機嫌でいい気持に往生した。ところが一週間はおろか、三週間たっても治らない。専門医に来て貰ったら骨折らしいといい、翌日病院でレントゲンにかけてはっきりそれが分った。否応なしにギプスをはめられ病室へ運びこまれた。四、五日で退院、しかしギプスがとれるまでに三ケ月かかった。手当が後れたのがいけなかったのである。漸く松葉杖で二、三町歩けるようになると、犬がついて来るけど、心配そうに足許を離れない。杖を置いて休むと、そばへ寄って来て、ギプスの上から足をなめてくれる。加害者は果実屋で働いている青年で、りんごを持って見舞に来てくれた。「月の十五日が公休だから、せめて庭掃除でもやらせてくれ」と葉書をよこしたりした。もちろん平に辞退した。(「旅酒猟」 河上徹太郎) 


芋酒、練酒、栗酒
芋酒
一 山のいも いかにも白きを 細かにおろし 冷酒にてよくとき かんをして出す 塩少々砂糖入てよし
練酒
一 薯蕷(じょよ)をふと蒸にしてこし 三年酒にて延るなり かしう(加州)練酒 百命祢(ね)り酒も同じ
栗酒
一 大栗をよく蒸(むし) 皮を去(さり) 摺(すり)て みりん酒一升のかさに 大白 御とうみつにして弐百目入こして 二三夜ねかしてよし(料理法集 料理酒之部 「重宝記資料集成」) 


死人料理 ぼっこ食い嫁
長者の家に一人娘があって、婿入りしたいものはないかと建札を出した。いろいろ男がきたが誰も長くいる者がない。そこへ一人の男が婿になるといってきた。娘が先に立って何十もある座敷を通って奥座敷へつれて行ったが、その座敷に死人の棺があった。娘はその中の死人をとり出し、菜板にのせて料理して婿にすすめた。逃げることもできないので度胸をきめて、酒をのみ料理もくった。酒も料理もとても甘かった。娘はこの度胸ある男を見込んで一緒になり、仕合せに暮した。死人は砂糖で作った菓子であった。(三戸郡五戸町の話 採話・能田多代子)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


人間は誰(だれ)でも酔(よ)うと人物(じんぶつ)が一流(いちりゆう)になるのではないかとさえ思われた。
*井伏鱒二『引越やつれ』(昭和二十二年)夜逃げを考えていたのに、酔ってそのことをすっかり忘れている時の感慨。(「日本名言名句の辞典」 尚学図書辞書編集部・言語研究所) 


カカオ豆の発酵
カカオ豆を覆う白くて甘酸っぱい果肉が、カカオ豆の発酵に重要な役割を果たします。果肉には糖分が多く含まれており、これが発酵の際、酵母によって2日間くらいかけてアルコールに分解されます。そのため、発酵2日目くらいになると、甘いお酒のような、いい香りがしてきます。十分に酵母が働いたあとは、そのアルコールを栄養源とする酢酸菌が働きます。この菌がアルコールを取り込んで酢酸と同時に熱を出すので、発酵3日目以降はカカオ豆の温度は50℃以上にもなり、ツーンと酢のような酸っぱい匂いに変わります。発酵中に働く菌は様々な種類があり、場所や生産者によって異なります。良い菌からは香りのよいカカオ豆が作れるため、良い菌が住みついている発酵箱は生産者の宝物なのです。(チョコレート展解説 国立科学博物館) チョコレートやココアの原料だそうです。 


磐城壽
すると福島県内で移転先を探し始めたが原発事故の影響で地域が限られていた。土地が見つかっても蔵の新築や酒造免許の取得に時間がかかり、酒を造れるのは最短で1年半先とわかる。焦り始めた頃、山形県工業技術センター酒類研究科長で研究主幹の小関敏彦さんから連絡があった。山形県は「十四代」「山形正宗」「出羽桜」「鯉川」ほか全国で知られる人気酒蔵が目白押しだが、小関さんは若手をスターに育て上げる名伯楽としても知られる人物である。その小関さんから、廃業を考えている山形県の酒蔵を紹介されたのだ。酒蔵が福島県外に移ると、復興支援制度は使えない。だが、蔵を譲り受ければ、すぐにでも酒を造り始められることに、大介(鈴木大介 専務で杜氏)さんは魅力を感じたという。「銘柄を引き継ぐことが条件で譲りたいという、その名前が『一生幸福』だと聞いて、初めは僕らの境遇に最もふさわしくないと思いました。ただ、オーナーの気持ちはわかる。僕らが今、一番さびしいのは安波祭を見ることができないことなんです。酒は、祭りや景色と同様に住人の心の支えだと思うんです。そこで、『一生幸福』は長井市民のために山形の米で造り、『磐城壽』は全国ちりぢりに暮らす浪江の人のために、なるべく福島の米を使って作る。2つを並行して造ろうと決意したのです」(「極上の酒を生む土と人 大地を醸す」 山同敦子) 福島県浪江町請戸(うけど)にあった、「磐城壽(いわきことぶき)」鈴木酒造店の、震災対応で、3.11は、甑倒し(こしきだおし)の日だったそうです。 


やっぱり、おまえだな
勤めてから一か月くらい経った昼間、私はバーの裏手にある露地で、酒の木箱を片付けていた。すると、一番奥に置いてあった箱の中に、ウィスキーのさらが一本入っていた。おやっ、と思ったが、しめたとも思った。私はそれを頂戴した。一週間して、私はその露地で同じように片付けをしていた。また宝物にありつけないか、という気持もどこかにあった。うると背後から、「やっぱり、おまえだな」と凄みのある声がした。振り向くとそこに鷲鼻が立っていた。冷たい目をしていた。「なんのことですか」と私は白を切ることにした。「とぼけるな、せんしゅうそこに置いておいたボトル一本、持っていっただろう」鷲鼻の肩は上下していた。興奮すると彼はいつも肩で息をする。私は鷲鼻を無視して、露地からバーに入ろうとした。その時、パチンと音がして、鷲鼻が右手にナイフを出していた。私はドアの方ヘ一、二歩下がった。鷲鼻は黙って私を見ていた。肩が先刻より揺れていた。背筋がひんやりとした。しかし私はなるようにしかならないと思って、開きなおって鷲鼻を見た。私は小さい頃から喧嘩や争い事になると、やるだけやってみようという気になる。命までとられるものか、と妙に落着いてしまう。それがアブナイと、友人から言われるのだが…。沈黙が続いた。その時バタンと裏戸が開いた。短髪が顔を出した。鷲鼻はナイフを隠した。おはようございます、と言って私はバーに入った。その夜、仕事が終って短髪に昼間の件を話した。そのウィスキーはどうしたの?と聞かれて、もう飲んでしまった、と言った。短髪は笑っていた。「あれは、あいつの儲け口だからな、あいつも盗んでいるが、おまえも盗んだわけだから、やっぱり怒るだろうよ。客に出すウィスキーを少しずつ少な目にして、一本頂戴するのだから、あれで結構大変なんだろう」(「銀座の花売り娘」 伊集院静) 


*酒は天の美禄。百礼の会酒に非ざれば行われず。(あらゆる儀式には酒がつきもの)
-班固撰「漢書」
*女と酒と歌を愛さない者は、一生の間阿呆(あほう)のままだ。
-フォス「詩」
*二度子供になるは老人のみならず、酔払いも然り。
-プラトン「法律」(「世界名言事典」 梶山健編) 



仏説摩訶酒仏玅楽経(2)
爾(この)時 世尊 説キ二 壺中 麹世界ノ 上頓大乗之法ヲ一 已(おわ)リ。重テ 演説シテ二 摩訶酒仏ノ功徳一 曰(いわく)。是ノ仏 饒益(にょうやく)シテ二 衆生ヲ一。不レ別タ二 聖凡ヲ一。能(よく) 令(しむ)下 一切衆生 得レ楽 除レ苦。酔眠酣歌。心身清浄。永(ながく) 離(はなれ)二 蓋纏(がいてん)ヲ一。得(えせ)中 阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)ヲ上。(「仏説摩訶酒仏玅楽経」 亀田鵬斎 新編稀書複製会叢書)
その時、世尊は、壺中の酒世界における最上の法門たる大酒大乗の法を説き終わり、重ねて摩訶酒仏の功徳を演説して次のように言われた。「この仏は、人々に利益を与え、聖と凡とを問わず、一切の人々に楽を得て苦を除き、酔つて眠り上機嫌で歌い、心身清浄となつて、様々な煩悩から永く離れ、この上ない正しい悟りの心を得させるのだ。」(「仏説摩訶酒仏妙楽経謹解」 石井公成) 



酒もまた のまねばすまの 浦さびし すぐればあかし 波風ぞ立つ(古歌 出典未詳)
【大意】酒ものまねばすまされないうら淋しい時もあるものだ。しかし(須磨を過ぎると明石であるように)酒も過ぎると青赤し、人と口論などすることにもなるものだ。(「道歌教訓和歌辞典」 木村山治郎編) 


酒の飲み方
テレビを観ていると、他人の不幸までもが自分の喜びのように感じられ、知らず知らずのうちに酒量が増えていく、ダラダラと飲み続ける。主婦アル中の誕生である。これらをどう受けとめるか、ということだが、やはり目的というものを持つべきだろう。人生に大きな目標を持つということは、現代において不可能になっているが、なにも大きなものでなくてもいい。どんなちいさなことでも構わないのである。たとえば、一時間これに集中しよう、これについて考えよう、これを作ってみよう。編み物でも手芸でもいい。完成させるという意気込みと、その可能性を毎日の目標としてはいかがだろう。。そのとき、酒は手段ではなく、やすらぎに変わるだろう。一つの仕事をやり終えた一杯の酒は格別である。(「男は切れ味、かくし味」 藤本義一) 


殿様
さて、「カ行」では河上徹太郎ほど不器用に見える酒呑みも珍しい。私の酒が、器用で小賢しく眼ざわりというのは、青山学院派その他の定評になっているが、それにしてもおよそ不器用な酔漢は川上である。「殿様」のあだ名通り、もおッとした顔で、重々しく杯を重ねていると思っているうちに、本人は酔っている。特に彼が嬉しい時は要心しないと、太刀で背中をどやされたり、突き飛ばされたりするが、そんな愛撫の仕方をいい加減に放って置いたりすれば、もっと大ごとになる。歌舞伎芝居で、吃(どもり)の又平が自分の咽喉をかきむしる仕草をするように、河上徹太郎は矢庭にテーブルの上に上って辺りをへいげいする。怒ったのではなく、全身で愛情を示そうと努力しているのである。-
この人(河盛好蔵)はまた、実に素直に、酒に身を委ねる。こんな素直な吞み方をされれば、酒の方でも決して悪酔いなぞはさせないものである。-(「酒徒交伝」 永井龍男) 


断酒期
下の息子が、さっきの飲み屋の女将と同じ口調で、男をからかった。「へえ、信じられないな。もしまた飲みはじめたらどうする?皆で賭けようか」と。さすがに妻は、男の気持ちを察したらしい。「…そうね。人間ドックのたびにイエローカードが出ていたんですもの、この辺が年貢の納めどきね。お父さん頑張って」と、深く頷くのだった。-それから一か月、男はいまだに禁を一度も破っていない。外で会食のようなときはウーロン茶でつき合うことに慣れ、さほど苦痛に思わなかったが、辛いのは、土曜、日曜といった家での夕食のときだった。まだ宵の口から、いきなりメシというのは、いかにも味気なく、その手持無沙汰というか空虚感というか、とにかく名状しがたい人生の索漠に、男は砂を噛む思いだった。そこで男は一計を案じた。それは、お銚子に熱い焙じ茶を入れ、猪口に注いで酒代わりに口を慰めるのである。他人様が見たらいかにも未練がましく映るであろうが、いまの男はこれで結構気が鎮まる。侘びしいといえばたしかにその通りではあるのだが。(「男の節目」 諸井薫) 


柳田さんて人は酒乱なんで
せっかく、愉快になろうと思って入った店なのに、なんたることだ、と(ロッパが)いささか色をなすと、おでん屋の主人が、「すいません。柳田さんて人は酒乱なんで。今夜のところは、怒らないでください」と、とりなした。まだ、なんかいっているのを、ぐっと我慢して店を出たが、時間がたつにつれて、腹が立ってきた。翌朝になっても、腹の虫がおさまらない。そこで、エノケンの出ている松竹座に行って、柳田に「どういうわけだ」と、始末をつけようとした。ところが柳田に会う前に、エノケンに合ってしまった。「エッ、そんなことがあったの?そいつあ、気分を悪くさして、悪かったね。柳田先生は、酒癖が悪いんだ。そのくせ、ひと晩たつと、ケロリと忘れてんの。困ったな。それじゃあ、今晩、時間内かな。ちゃんとしたところで、キチンと謝らせるから…」エノケンにそこまでいわれれば、仕方がない。その晩、両方の芝居がハネたところで、エノケンが麻布の料亭にロッパを招待した。ロッパは、山野一郎を帯同して出かけると、一滴も飲んでいない柳田が、両手をついて、前夜の無礼を謝った。こう、下手に出られれば、ロッパも悪い気分はせず、たちまち、一件は落着した。そのあと、ゆっくり飲もう、ということになって、ウイスキーとお銚子が、じゃんじゃん、運ばれてきた。ウイスキーはロッパ用、お銚子はエノケンと柳田用である。飲みも飲んだり、ロッパはウイスキーを二本からにし、エノケンは数十本のお銚子を垣根のようにならべた。これくらい飲めば、いくら酒豪でも脳細胞がどうかなってしまう。やりとりがおかしくなって、ロッパとエノケンが睨み合う。エノケンは、自分で着ていたワイシャツをビリビリに引き裂いたかと思うと、コップをガリガリと噛みくだいた、というから、すごい荒れようである。騒ぎの原因をつくった柳田と、山野が一生懸命、引きわけ、両人、別の部屋に隔離されたりして、結局夜の明けるころまで、このものすごい酒宴はつづけられた。仲は悪くなくても、心の底ではニックキ敵国という職業意識が、二人の気持の中に燃えたぎっていたのであった。この対立は、ずいぶん長いことつづくのである。(「ああ酒徒帰らず」 木村嵐) 柳田(貞一)はエノケンの師匠だそうです。 


酒豪の国の酒づくり
もっと正確にこの銘柄の由来をたどると、発祥は三百五十余年昔へさかのぼる。山内一豊(かずとよ)が土佐へ封(ほう)ぜられたとき、主席国家老の深尾和泉守がここ佐川の領主となった。酒にたしなみ深い和泉守は地酒の蕃味を捨てて旧領掛川から醸造家を招いた。以来佐川では日本古来の正統な酒醸が守られた。大正七年、佐川町内の醸造家が結集して近代企業としての会社をおこした。その折、佐川出身の宮内大臣田中光顕(みつあき)は、「天下の芳醇なり。今後は酒の王たるべし」と激励の一筆を寄せ、司牡丹と命名したんだそうである。もちろん牡丹の王は酒の王-いわば土佐という蕃地へ正統な日本酒を持ちこんだわけである。だから現在でも司牡丹では土佐の米を用いていない。理由は土佐の米が軟水から産するためだ。軟水は酒造米として不適格である。腐敗しやすく味も低級である。美味な酒造米は硬水の田から産したものでなければならない。石灰分クロル分、さらにはたっぷりミネラルをふくんだ硬水-こうした酒造米は六甲山麓に産する。これが灘を酒醸王国にのしあげた。司牡丹でも六甲の硬水から産した酒造米"山田錦"を使っているそれは米が全く欠乏したあの戦争末期でもほそぼそではあるが断絶しなかった。「純血の日本酒なんですよ」と技師長さんは胸を張る。(「寺内大吉・旅行商売潜行記」 寺内大吉) 昭和45年の出版です。 


養生訓 酒1
酒1 飲酒の量によって、薬とも毒ともなる
酒は天の美禄なり。少(すこし)のめば陽気を助け、血気をやはらげ、食気をめぐらし、愁(うれい)を去り、興(きょう)を発して甚(だ) 人に益あり。多くのめば、又人を害する事、酒に過(すぎ)たる物なし。水・火の人をたすけて、又よく人に災(わざわい)あるが如し。邵堯夫(しょうぎょうふ)の詩に、「美酒飲んで微酔せ教(しめ)て後」といへるは、酒を飲(のむ)の妙を得たりと、時珍いへり。少(すこし)のみ少(すこし)酔へるは、酒の禍なく、酒中の趣(おもむき)を得て、楽(たのしみ)多し。人の病、酒によつて得るもの多し。酒を多くのんで、飯をすくなく食う人は、命短し。かくのごとく多くのめば、天の美禄を以(て)、却(かえつ)て身をほろぼす也。かなしむべし。(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂) 


カニガ泡(アワ)フク ムスメガワラウ 

カニガ泡(アワ)フクムスメガワラウ 
コレハ美味(ウマ)ソトオヤジモ笑ウ
縄デククラレドッサリ着(ツ)イタ
コヨイノ酒ガ待チドオシイゾ

何(か)十三が蠏(かに)を送るに謝す 黄庭堅
形模(けいも)は婦女の笑いに入ると雖も(いえど)
風味(ふうみ)は壮士(そうし)の顔を解(と)くべし
寒蒲(かんぽ)束縛す十六輩(ぱい)
已(すで)に覚ゆ酒興(しゆきよう)の江山(こうざん)に生ずるを(「「サヨナラ」ダケガ人生(じんせい)カ」 松下緑) 


彦根侯御登城お待ち受け献立
南無三宝       彦根侯御装束のし色
御奥          三月三日朝五つ時 御箸
御酒          当日 天気は白雪(酒の名)
硯(すずり)ぶた   元禄(四十七士)以来久しぶりのなべ焼き
            ふいのこと故 肝つぶしいたけ
            首はなし
            この後の所置は どうしようか
平鉢         狼ぜきものは 手柄を□□ての作り身
   彦根家中は  胸をもやしうど
   おかごは   そこへおろし-(「幕末の水戸藩」 山川菊栄) 桜田門外の変の際につくられたものだそうです。 


赤羽・まるます家にて
左側のカウンターを担当しているおねえさんから歌うように注文が飛びます。「はい。八番さん、サメの煮こごりがひとつ!」目の前の女将さんが注文を復唱しながら。目の前に横二列に列んだ番号が書かれた板の八番のところに立った棒に、赤いプラスチックの小札を刺します。札はあっちを向いたり、こっちを向いたりしている。しばらく観察していると、どうやらこっちを向いている札が、まだ出ていないものを、あっちを向いているものが、すでに出ているものを示しているようです。奥の厨房から、料理がトンと出されると、女将さんがちらりとその札を確認して、「はい。ナマズの唐揚げ(五〇〇円)が出た。一二番さん!」と、カウンターのおねえさんに声をかけながら、一二番の札を、くるりと反対に向けて、「まだ出ていない」という状態から、「すでに出た」という状態に替えます。(「ひとり呑み」 浜田信郎) 


○風くどき
「まつなら酒のへワキなら酒(奈良酒)ならば 酔ふたさァ、いつぱいなサン 「なら酒ならばエイエイナさらば名酒を、四季になぞらへ咄して見ませう、春は先(まず)咲く梅の酒とよ、三千年に一度花咲(はなさき)実もなる、西王母が桃酒、せうらくかしやうの風吹ば、花ふりとも名付たり、夏は涼しきかくの池とや、清水江川にてみづあわもり、秋はさやけき、月と争ふ白酒、せうとイこん芥酒、博多のナンケンノケンケあだものではない わさてのホゝンホゝン練酒はワキ何とねるやらとろりトロリトロリトントントロリトと ねる程にアリヤリヤヤアコノコノコノアゝよふたさ、サン「コノよふたさの懸声、菊の酒にも咄しがござるの、唐(もろこし)の事かとよ、しう(周)のぼく(穆)王の御時、慈童といゝし其人、てうあい(寵愛)の余りに、枕を越へしとがにより、て(れ)つけん山へ流され、菊の園生にいよ住み給ふ、法華経の普門品(ふもんぼん)の二の句をさづかり、菊の裏葉に書付給ふ、雨露の懸る音は、はらゝはらゝしたゝる、そのしたゝりが留りて、コノ不老酒となりて、命ながへの菊の酒とや、我朝に渡りて加賀の名物、きて見る我等はよ(酔)ふたさ、あゝ一盃な、一盃ならば肴をもふさふ(申そう)、みかさみかさと二三度呼と、みかさでもせで ちんたのわせた、ちんたなにせう そつちのでのめ、しやんとさせみかさ、サン「ヤアしやんとしたこそ みかさはよけれ、ワキ余りちんたのしたゝるや、しやんとさせ みかさ、さてもさてもいやいやヤアサン「あいをしようとはそりやきまゝよふな、どふした酒なヒンヤホイ人にさすならコンキヤラコン、キヤラキヤラコンキヤラコしたにをけ、よふたいいやさそつちでせ、これこれおさへたコノサン「おさへたかぜうなら亭主イおやじが内なる肴は何じや、ワキ山鳥々々サン「山鳥ならばそこらでしめろ、ワキまかせておけよコフ サン「まかせがぜうなら冬の気はまたみぞれ、雹に荒き酒をば、ひゑの酒に暖め、酒にしやうちうすぎたら、伊丹となら酒、桑酒くわへて味醂酒、忍冬酒のまじわりは葡萄酒に究ると、げこも声を揃へてとふイヤイヤやんやと一同に宝命酒、四季をあさりといはゐおさめて、こゝでたるの口をきりきりしやんとねぢあけ、新酒は内にか、ワキいや留守じや、サン「そちでせワキしん酒でしたをなやいた、サアゝ サン「したをなやさばさしわれふるもふた酒のゑワキわれふる酒のよふたさァ、一ぱいな、サン「みよもにごらんすみ酒や、ワキ御代も濁らん澄酒や、花のお江戸の名酒かな、(「御船唄留」) 


出宿于泲      出(い)でて泲(せい)に宿(しゆく)し
飲餞于禰       禰(でい)に飲餞(いんせん)す
女子有行       女子(ぢよし)行(かう)有(あ)り
遠父母兄弟     父母兄弟(ふぼけいてい)に遠(とほ)ざかる
問我諸姑       我(わ)が諸姑(しよこ)を問(と)ひ
遂及伯姊       遂(つひ)に伯姊(はくし)に及(およ)ばん

里(さと)を出(で)て嫁(とつ)ぐとき
泲(せい)の町(まち)に宿(やど)り
禰(でい)の町(まち)で別(わか)れの酒(さけ)を酌(く)んだ
女子(おなご)は嫁(とつ)ぐのが定(さだ)めなので
父母兄弟(ふぼはらから)から離(はな)れてきたが
父母(ふぼ)の亡(な)くなった今(いま)
せめて叔母(おば)さん方(がた)を訪(たず)ねたい
姉上(あねうえ)までも訪(たず)ねたい(「詩経」 高田眞治編訳) 飲餞とは、「旅立つ者は道路の神を祭って安全を祈り、見送りの人と共に酒を飲むこと」だそうです。 


○禁酒
久しく見舞わぬ友達の所へ見舞た所、これは忝いともてなし、それ御盃を出せと女房へのいひつけ、きやつ元からしわんぼうだが、何を思い出したかち走(馳走)ぶりと心に不審、幸と禁酒なれば、「イヤモウ、その世話よしにしてください、わしはちつと願が有て、きびしい禁酒だと聞、「なに禁酒だ、そんならなを盃を出せ、(「譚囊」 近世文芸叢書) 


しきさんこん式三献
酒宴の作法の一つ。献は盃をさすことをいい、一献とは、肴や吸いものを出し、盃を客に献り酒をすすめ、その後肴ものの膳や盃が元に戻ることをいう。次にまた肴を出して、盃を同様に献り酒をすすめ、また肴や盃が戻ってくると、これを二献と数える。このような方法で何度でも酒をすすめ献数を重ねて行くが、三献までが饗宴の次第の一つの区切りをなすとされ、これを正式の宴会の形としているので、特に式三献と称し、また三献の儀とも称する。『式正秘伝書』に「式敬也、制也、尊卑貴賤、百官有司、所々常々之酒食礼儀、必ず以二三献一為レ常、因謂二式三献一」とある。盃をさすときに、一杯酒を飲むのを一度といい、三度、すなわち三杯飲むことを一献と数えた一献と数えた。式三献には三度酒をすすめる形を三回くり返すので、これを一般に「三々九度の盃」と呼んでいる。この式三献の方式は、平安時代の節会を始め、加冠・元服・婚礼などの祝賀の饗宴にみられ、後代まで及んでいる。(倉林正次)(「有職故実大辞典」 鈴木敬三編) 


将軍直接対面
当初の儀礼的な拝礼はその後、蘭学を通じて<西洋>に好奇の目を向けた蘭癖の将軍吉宗の時代において型式が一変した。享保二年(一七一七)二月二十八日、甲比丹J・アウエル(Aouwer)を迎えた拝礼は「ことしより特旨によて簾を撤し、ちかくみそははす」(『徳川実紀』)とあるように、これを機会にそれまでの簾越しの拝礼から、将軍直接対面のオランダ人謁見が実現している。三月二日には江戸城内でオランダ人の遊技御覧があり、「蘭人國楽を奏す。床はてゝふたたび帝鑑の間に出て、撃剣また舞踏。書字。またかの國人の酒宴するさまをなす。後に酒羹。茶菓を下さる」と記され、このとき、はじめて城内でオランダ人を交えての酒宴が開かれたのである。これを契機にしてか、吉宗は享保九年(一七二四)三月二八日にオランダ流外科を修める桂川甫筑国教(くにみち)に江戸参府中のオランダ人一行と殿上の間での対談を許した。(「江戸のワインパーティー」 戸沢行夫 「酒宴のかたち」玉村豊男編所収) 長崎出島のオランダ甲比丹による将軍拝礼儀式だそうです。 酔っ払いの真似(その後はまた元に戻ってしまったようですね。) 


俳句における類似
鴬や柳にさます梅の酔 乙由
鴬の竹にさますや花の酔 潜柳
後者は享保なり。前者もその頃なるべし。両句暗号にはあらずと見ゆるものからいづれか先にしていづれか後なるや知りがたし。但(ただし)乙由は名ある宗匠にして潜柳とは世に聞えざる人なれば暫(しば)らく乙由を以て先となさんか。乙由のこの句『麦林集』以前に何らかの書に載せあらばその時代を知るの便(たより)ともなるべし。知りたまふ人あらば教へたまへ。(「松蘿玉液」 正岡子規) 


縄暖簾の居酒屋
これが下って明和頃(一七六四~一七七一)になると、屋台店もできるし飲食物の辻売りも始まる。酒屋は古くからあったけれども、有名な鎌倉河岸の豊島屋が、店先で一杯酒をのませ肴に田楽を売ったりしたのは宝暦(一七五一~一七六四)からだと伝えられている。-ただし、これは現代でも酒屋で立ち飲みさせると同じで、純然たる居酒屋とは言えない。しかしこの頃からこの種の店が多くなりだしたのは確からしく、寛政頃(一七八九~一八〇〇)には煮売屋で居酒をさせる、いわゆる煮売酒屋というのがずいぶん盛んになった。また同じ頃から大名の江戸屋敷の長屋へ弁当を届ける飯屋が新しい職場として現れている。そしてここでも居酒をさせるようになる。居酒というのは店先で酒を飲ませることをいうので、こういう店へわざわざ出かけてくる人たちは、自宅で落ちついて酒ののめぬ連中だから、いい家の旦那衆などというのは来るわけがない。扱うものも安酒ときまっている。この飯屋兼居酒屋の店がもっぱら表に縄暖簾をかけていたから、「縄暖簾」というと、飯屋兼居酒屋の代名詞になってしまった。(但しこれはあくまで飯屋が主体である)こういうわけだから宮本武蔵や柳生十兵衛の生きている時代に、縄暖簾の居酒屋が出てくる筈がないのだが、それが(テレビなどでは)堂々と現れるのである。では宝暦以前、外で食事をするにはどうしていたかというと、そういう場所がないから用意よく自分で弁当を持って出たのである。腰掛茶屋(後の水茶屋)というのが享保(一七一六~一七三五)以前からあって、そこで休むこともできるし、酒ものめなくもなかったが、これも浅草寺境内や両国などと場所が限定されている。(「時代風俗考証事典」 林美一) 


病院のベスト
ロンドンのセント・ジョーンズ・ウッドのウエリントン病院。モダンで小さめで、三つの手術室、新しい看護施設、頭蓋X線装置、ラジオ・アイソトープなどを備えた診療部門があります。個室が九十八室あり、全室サーモスタットの給湯シャワー付き浴室付きで、外線電話、カラーテレビ、蘇生設備、冷蔵庫などもあり、またこのうち九十室には専用バルコニーがついています。面会制限はなく(軽い食事も持ちこめます)礼拝堂牧師や通訳もいて、ローズ(クリケット競技場)の国際優勝試合を見ることもできます。出される食事は低脂肪のもの、消化のよいもの、減塩のもの、カロシー制限のあるもの、糖尿病患者用のものといろいろメニューが揃っています。アラカルト(一品料理)はオードブル(スモークサーモンのパレ、卵のアスピック)から始まって、チーズがずらり、舌びらめのワレスカ風、チキンのキエフ風など十三品目あります。ワインもたくさん揃えてあり、シャトーワインのムートン・ロスチャイルド一九六四年ものまで置いてあります。ジンやスコッチは飛行機のようにミニチュアびんで揃っています。シャンパンはドン・ペリニョン一九六六年ものがありこれはボランジェ以外では最高級品です。常連の患者は主として外国人か、あるいは金持ちです。こそドロに一五万ポンド盗まれた患者がいました。(「ベスト・ワン事典」 ウィリアム・デイビス編 リチャード・ゴードン) 1980年出版だそうです。 


-いつごろから、どんな症状があったんですか?
西原 一番強烈で頻繁だったのは、悪口ですね。一緒に住んで半年くらいからかな。とにかく人の悪口を言うんです。もう聞くに耐えられないの。「アイツは俺のことをわざと騙(だま)して、陰で笑ってやがるんだ!」とかね。そういう口汚くて耐えられないようなの。もっと酷(ひど)い言葉もあったんですけれど、聞いているのも辛くて…もう脳が覚えていないですね。いずれにしろまっとうな言葉じゃないんです。
-そういう被害妄想的な症状々が出るケースは多いんですか?
月乃 多いんです。あと"恨み"ですよ。風邪を引くと熱がでるのと同じように、アル中の典型的な症状に"恨み"があるんです。俺も昔は恨みの固まりでした。特定の人物、昔付き合ってた女の子ですけれど、頭の中で「あいつはろくな女じゃない」「あいつのせいで俺はこうなった」って妄想が、ストーリーになってできてくるんです。やっぱり、鴨志田さんも恨みごとが多かったですか。
西原 関わりのあった特定の人物をずーっと攻撃し続けましたね。私の周りの人間とかには特に酷くて、私の親や兄弟のことを平気で罵倒してました。でも、本人がいるとコロッと態度が変わるんでタチが悪い。(「実録!アルコール白書」 西原理恵子・吾妻ひでお) 


【盃ハ畳ノ模様デナイ】同前(久しく盃を停滞せしむる人にいふ語。)
【酒屋(サカヤ)ヘ三里豆腐屋(トウフヤ)ヘ二里】地の僻遠なるをいふ。狂歌、頭ノ光、時鳥自由自在にきく里は-。 (「諺語大辞典」 藤井乙男) 酒楼 

㈲セキヤ
別の項でも紹介した関矢健二さんは、日本でただ一人の日本酒プロデューサー。「日本酒プロデューサーというのはマスコミの方から頂戴した呼び名で、私自身はただ、蔵元と消費者の間の風通しをよくする仕事だと思っています」13年ほど前、上野の小さな酒店の3代目を継いだころ、彼が店頭で感じたことは、日本酒はあまりいいイメージでとらえられていないということだった。吟醸酒、純米酒、本醸造酒などのいい日本酒といわれるものを蔵元さんが造っても小売店は、それをどうやって売ればお客に知らせることができるのかわからない。そこから3年かけて日本酒の基礎から徹底的に学ぶことにした。醸造学、地質学、農業経済学、医学、心理学と、彼はどこまでも貪欲に知識を吸収していった。「その結果わかったことは、日本酒造りは事前にしっかりとしたコンセプトが必要だということでした」どの飲酒層を対象にどう売るのか。そのためにはどんな酒米を使うのか。事前にきっちりと日本酒の設計図を描き、後は杜氏を信頼する。酒が出来上がったら効き酒だ。そしてその酒の"内容"が価格を上回っていればOKを出す。もちろん酒の特徴に合わせて、ビンの色からラベルデザイン、銘柄ネーミングまで関矢さんがやる。「これはもう親と子の関係と同じですから、名付け親にならなくちゃいけません」こうして世に出た"関矢ブランド"はこれまでに68種。(「こんなにおもしろい日本酒の最新エピソード」 「夏子の酒 読本」) 平成5年の出版です。㈲セキヤは東京都台東区東上野5-10-2だそうです。 


最後の伝説
村山(由佳) -では最後の伝説です。お蕎麦屋さんで、お店の女性を笑わせるため、縦に書いてあるメニューをわざと横に読んで、周囲をポカンとさせた後、「あっ、これ、縦に読むのか」という十八番のギャグがあるというというのは本当ですか?
伊集院 いや、それは二日酔いで真面目に読んだの。鍋焼きと釜揚げと天ぷらうどんを横に読んで、「鍋釜天にしようかな」ってね(笑)。
村山 ハハハハ。伺っていると、案外、伊集院さんは天然というか、ものすごく自然体なんですね。(「伊集院静の流儀」 伊集院静) 


大阪造幣寮にて
明治天皇九州ご巡行の際、大阪では造幣寮の泉布館が行在所になった。もちろん一番よい部屋が陛下、その次の部屋にお供の人達、私は臨時にどんなご用があるかも知れないから、その次の間に詰めておった。陛下は部屋部屋をご覧になって、私の部屋へおいでになった時、ちょうど時刻だったから瓦斯(ガス)灯をつけた。陛下は不思議そうにご覧になって、消してみよと仰せられたから、消す。付けてみよ、消してみよ。何度も付けたり消したりしてご覧に入れたが、とうとうしまいに陛下がご自身で付けたり消したり遊ばした。西郷南洲がお供の主席であったが、そういう連中はみなどこかへ行ってしまって、若い連中が陛下のお側に残った。陛下はなかなかご酒がお強い。葡萄酒をずいぶん召上がった。そのうちに角力が始まった。どたんばたん。陛下が一番お強いようであった。陛下は翌日天保山へおいでになって、軍艦にお乗りになった。(「自叙益田孝翁伝」 長井実編) 


夏酒と正月酒
以上表示するところによれば、奈良の一僧坊多聞院は、大体に於て二月と九月前後との二回醸造を行い、前時期に於る醸造酒を夏酒と称し、後の時期に於るそれを正月酒と称している。而して、この両者を通じて、その醸造法は酛造り・初添・中添・留添の三段掛法を採用している。夏酒に於ては酛造りと初添の間に十五六ケ日より二十日余の期間を置き、初添より中添の間は約十日間、留添は中添の翌日にこれを行っている。而して酒上ケは留添より約二十日間を経過した後であった。次に正月酒に於ては酛と初添は約七八日を置いているが、初添・中添・留添は連日これを行っている。夏酒・正月酒に於て、醸造日数を異にしておるのは、恐らく温度の差による醗酵度の変化に起因するものと思う。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


晩帰品川    晩(くれ)に品川に帰る
烟霧高輪暮   烟霧(えんむ) 高輪の暮
前途更渺茫   前途 更に渺茫(びょうぼう)たり
潮来呑欠岸   潮(うしお)来(きた)りて 欠岸(けつがん)を呑み
月湧出危檣   月湧きて 危檣(きしょう)を出(い)づ
蓬戸無人守   蓬戸(ほうこ) 人の守る無く
梅窓有酒香   梅窓(ばいそう) 酒の香(かんば)しき有り
縄床払塵罷   縄床(じょうしょう) 塵(ちり)を払い罷(や)めて
乞火向隣荘   火を乞いて 隣荘に向かう
寛政三(一七九一)年以後、寛政五(一七九三)年以前の作。五言律詩。『卜居集』巻上。
○烟霧 もや ○高輪 江戸から東海道への出口にあたる高輪大木戸より品川に至る一帯の地名。現在の港区高輪あたり。『江戸砂子』によれば、「品川まで片側町にて東は海也。房総の山々幽にして眺望よし」とある。 ○更 いっそう。夕闇ではっきりしないうえに、もやのために、いっそうぼうっと霞んでいるのである。 ○渺茫 かすかではっきりしないさま。 ○潮来 潮が満ちてくる。 ○欠岸 崩れた岸。唐の杜審言(としんげん)の詩「韋承慶(いしょうけい)の義陽公主の山池を過(よ)ぎるに和す五首」に、「逕(みち)は転じて危峰逼(せま)り、橋は回りて欠岸妨ぐ」。 ○月湧 杜甫の詩「旅夜、懐いを書す」 に「星垂れて平野闊(ひろ)く、月湧いて大江流る」。 ○危檣 高く立った帆柱。杜甫の同じ詩に「細草、微風の岸。危檣、独夜の舟」。 ○蓬戸 蓬を編んで作った戸。転じて、貧しい家、あばら家をいう。 ○梅窓 月光に照らされて梅の影が映っている窓。季節が初春であることを示す。 ○縄床 本来は縄を張って作った腰掛けのことだが、ここは縄を編んだ敷物をいうか。 ○払塵 しばらくぶりの帰宅であることを暗に示す。 ○隣荘 隣家。荘は、田舎の家。 ○韻字 茫・檣・香・荘(下平声七陽)(「晩帰品川」 大窪詩仏 注者 揖斐高) 


焼き味噌大根
酒飲みであったこと、あるところで出世をあきらめていたこと、文学青年であったことなどが、ないまぜになってそういう「食べること」に向かったのだろうと、娘の私は理解している。だがそのぶん、子供の頃から、私は父が自分で作っていた酒の肴をお相伴したりして、酒飲みならではの味覚を覚えてしまった。たとえばまだ七厘を使っていた頃だから、昭和二十年代であったろうか、父は大根を薄く輪切りにし、その上に蜜柑(みかん)か柚子(ゆず)の皮を薄くみじん切りにしてまぜた味噌を乗せ、大根ごと赤く燃える炭の上で焼くのである。しばらくすると、味噌が焦げる香ばしい匂いが部屋中に広がり、父はそれを肴にちびちびやっている。味噌が焦げる匂いというのはしかし、ひどく食欲をそそるものがあって、私はつい手を出して、それを熱いご飯につけて食べたものであった。(「かぼちゃの生活」 宮迫千鶴) 


アルコール類と酸類
この場合の「高級」とは、炭素原子の数が多いことを意味する化学用語であって、アルコールの品質が高級というわけではない。エタノールはC2化合物、つまり分子中に二個の炭素原子をもつ化合物だが、イソブタノールはC4化合物、そしてイソアミルアルコールはC5化合物である。アルコール類としては、ほかにチロソールやトリプトフォールも生産されるが、これらは苦味成分である。高級アルコール類は、酒類の基調香となる大事な成分であるが、さらに酢酸と反応してエステルとなれば、果実のような芳香成分になる。アルコール類と酸類が反応してできる物質をエステル類といい、一般的に香りのよいものが多い。たとえば、酢酸イソアミルはデリシャスリンゴのような芳香をもち、近ごろ人気の吟醸清酒の主要香気成分である。エタノールとカプロン酸からできるカプロン酸エチルは洋ナシのような芳香をもち、吟醸香のもう一方の代表的成分だ。酒類中のエステル化合物としてな、そのほかに、酢酸エチル、酢酸イソブチル、カプリル酸エチル、酢酸フェネチルなどがある。酒中のエステル含有量は、それぞれ対応するアルコール類の一〇〇分の一くらいしか含まれないが、その香りは強く華やかである。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


ルーカン
ベトナムのドブロクも飲んでみたいとおもい、グエン君がベトナム語で、店の女の子に聞いてくれた。女の子は、他のアルコール類はあるがドブロクはないという。それを聞いて居た老人が、小さな茶椀を手に、こちらへどうぞと手まねいてくれた。老人は穏やかな表情で、飲んでみますかといって、茶碗に白い液体を注いでくれた。ぼくは老人の前へ行き、厚かましかったかもしれないが、注がれた茶碗を受けとった。やや酸(す)っぱくて、そこはかとなく甘いは、まったくドブロクそのものだ。ちょっと発泡性もある。ルーカンと呼ばれるドブロクだそうだ。発酵し続けているのだろう。ツーンとくる。(「世界ぐるっとほろ酔い紀行」 西川治) 米の酒のようです。 


粒食
酒造りはその国の主食の形態に左右されるといわれている。中国の食生活は本来粒食であったが、紀元前二世紀ごろに小麦とすり臼が西方から伝来してから変わったという。したがって、稲作の日本への伝来のころは、中国や朝鮮半島は粒食時代だったと思われる。当時の酒造りは穀粒を蒸して、麹も麹カビが使われた可能性がある。この経験者が渡来者のなかにいたのではなかろうか。そうすれば稲と麹カビの相性のよさから、わが国では米からの麹になることは容易なことだと思われる。古代中国の食は粒食で、酒造りも『礼記』では穀粒使用と思われる。麹カビの存在も、「麹衣」とか「麹塵」の語から推測される。しかし、この時代の酒造りの糖化剤は「麹「上:くさかんむり、中左:𠂤、中右:辛、下:米 げつ」」と書かれていて、実態はいまだ明らかでない。漢代では麦などの餅麹と撒麹の両者が使われた。(「日本酒」 秋山裕一) 


サラ川(19)
激安より非常口ありの飲み屋かな のんべえ
ストレスを煙(けむ)に巻いてる赤提灯(あかちようちん) 労後の遊人
赤ちょうちん入ってみたら交番所 昼行灯(ひるあんどん)
逢うたびに今度飲もうよまたいつか つきあい上手
ミーティング最後の議題は「どこで飲(や)る?」 ドラエモンの父
居酒屋でクラブ通いの頃語る ビート留守(「「サラ川」傑作選 にまいめ」 山藤・尾藤・第一生命選) 


寒造りの上澄み
日頃は人の出入りの多い家だったが、その夜は吹雪に吹き込められてか来客もなく、私一人茶の間で叔母の昔話を聞いていた。すると、話の切れ間に叔母が少しいたずらっぽい目つきで、「提灯(ちようちん)に火を入れてついておいで」と言って立ち上がった。ついていくと、蔵を繋いで渡り廊下を伝って一番奥の米蔵までいって中に入り、隅の藁束をいくつかどけるように命じる。言われたとおりにすると、大きな甕が出てきた。戦中戦後のその頃は、清酒などとても庶民の口に入るものではなく、農村ではどこの家でも当然のように濁酒(どぶろく)を密造し、それを呑んでいたし、税務署も大目に見ているようだった。白く濁ったその酒を琺瑯引(ほうろうび)きの薬缶(やかん)で温め、湯飲みで呑むのが普通の吞み方だった。米蔵に隠してあった一メートル半ほどの深さのその甕にも、作男(さくおとこ)たちの手で濁酒が仕込まれていたのだが、それがただのにごり酒ではない。この家の作男たちの杜氏(とうじ)としての腕は極付(きわめつ)きだし、その杜氏が大寒に仕込んだ絶品の「寒造り」である。脇の踏み台に乗って蓋をあけ、提灯をかざしてみると、冷たく澄んだ上澄みを透して底に沈澱した白い澱(おり)が見える。蓋の上の小さな柄杓(ひしやく)で、叔母が懐(ふところ)に入れてきた徳利(とくり)にその上澄みだけを静かに汲みとり、茶の間にもどって二人で舐めるようにして呑んだが、盃二杯ほどで陶然と酔うものだった。叔母も「酒は体質に合わないんだけれど、寒のこの上澄みだけは呑みたくなるのよね」と言いながら、盃を口にあてていた。(「寒造りの上澄み」 木田元) 


テーブルの上
そういえば、戦後まもない頃、講談社の中で火野(葦平)さんとバッタリ会ったことがある。二人はそのまま貴賓室に案内され、お茶の代わりに、オーシャンウイスキーが一本出された。それをガブ飲みしているうちに、二本めになった。いつのまにか、またまた三本目になった。そのうち、日野さんと私はテーブルの上で高歌放唱しながら、踊っていた。どちらも、はいているのは、軍靴だ。面白いくらい、テーブルがよく鳴った。その次、講談社に出向いてみたら、「椅子が二脚バラバラになってましたよ」「そんな筈はない。オレ達が乗っていたのはテーブルだよ」と私が答えたが、「テーブルから椅子へ飛び移ったり…椅子からテーブルに飛び移ったり…」見給え。私は火野軍曹と同罪で、講談社には、生涯の負債をおっている。(「わが百味真髄」 檀一雄) 


酒の製造
「ふつうの醸造法は、八十ガンディングの最上精白米からなる。これを蒸したのち冷まし、三十二ガンディングのカビの生えた米と、九十六ガンディングの清浄な水を[加え]、この混合物を八つの桶に分け、一昼夜に五、六回かきまぜる。そして温度が上昇するまでこのようにして二十五日間放置し、それからのち一緒に大きな壺の中でかきまぜ、一種の泡が上がるまで十四、五日放置する」
これは「酉元 もと」づくりと枯しの説明である。-
「酒は日本人のふつうの飲み物で、大抵温め、水とまぜて食事時に用いられる。しかし、バタヴィアその他では、これが食事前に飲まれ、大部分ブランデーのように加熱される-」(「江戸の酒」 吉田元) 一七七九年長崎商館長に任命されたオランダ人ティツィングが著した「酒の製造」の一部だそうです。 


大田南畝の狂歌(5)
飲中八仙
蘇晋
さけをのむ 長斎坊主 めでたしと 布袋<ほてい>一ふく 床にかけ物
李白
勅諚<ちよくぢやう>と いつても一斗 詩百ぺん よべどしら川夜舟
張旭
柳髪 すゞりの池に ひたしつゝ むかふ旭の からす羽の文字
焦遂
五斗五斗と どもるどもりも 銭ごまの はだしで逃る くだをまき舌(千紅万紫) 飲中八仙 飲中八仙歌 張旭 


葛西のマネ
井伏(鱒二)は若い頃、二歳年上の牧野信一から酒の席でカラまれ、当今はやりのイジメを受けた。「おい、こないだ『新潮』に書いたお前の小説、面白かったよ。でも一生懸命に書いて、せいぜいあの程度かね。そうだろう、あれで本気で小説を書いたつもりかね。おい、恥ずかしかねえか」と、こんなふうである。井伏は口惜し涙にむせんだが、その場から逃げ出そうとはしなかった。あるとき、早稲田界隈の居酒屋で二人が飲んでいると、彼らの先輩に当たる谷崎精二が姿を見せ、「やあ、相変わらずやっているね」と、傍らの席に腰をかけた。牧野は私小説家葛西善蔵に私淑していた。葛西の酒乱は有名で、周囲の者は泣かされた。かつて谷崎はその葛西と同人誌仲間だった。その晩、牧野は谷崎が同席しているにも拘わらず、井伏を散々やっつけた。最初、谷崎はこの場の雰囲気をニヤニヤ眺めていたが、やがて、「なあんだ、牧野君のカラみかたは、昔の葛西とそっくりじゃないか。いじめかたまで葛西をマネたかね」と、言った。これにはさすがの牧野もとゞめを刺されて参ったか、沈黙せざるを得なかった。(「ありし日の文士と酒」 大村彦次郎) 


液化仕込み
市販されている多くの液化仕込みのお酒は、液化率を上げるため80~90℃あたりが最適温度の酵素剤を使用します。その結果、できたお酒の火入れ温度(60℃台)の方が低く、酵素が失活せず、その酵素が貯蔵時のお酒の変質を招きます。そこで限外濾過という超精密濾過を行い、残存酵素を取り除くことが必要となってきます。そのため、その酵素より分子サイズが大きい旨味成分まで濾過することになり、味も素っ気もないお酒が誕生するというわけです。しかし、液化率は60~70%と低くなるものの、火入れ温度より低い50℃前後で活動する酵素を使うと、火入れで酵素を失活させることができるため、限外濾過の必要がなく、旨味成分も残るということで、吟醸クラスのお酒もできるというのです。確かに、この方法で造った吟醸酒を全国新酒鑑評会に出品し金賞を何回か取った蔵がありますが、味に幅のあるものが入賞するという最近の傾向の前には入賞が難しくなっているようで、この蔵はここ数年金賞を逃しているようです。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


方言の酒色々(22)
出棺前の会葬者全員が酒を飲むこと でたちの酒
花嫁を送ってきた者が帰る時に、座敷で大杯で酒を飲ませること しりからげ
金を出し合って酒を飲むこと だいこざけ
供応で酒か肴のどちらかが欠けることをあざけって言う語 めっこぶるまい
供応などの際、酒をついで回る役 けんぺー(日本方言大辞典 小学館) 


呑みすぎ申すまじき所
こういうわけで、弘道館で洋学の研究は許されなかった。しかし烈公(徳川斉昭)は、そのうめ合せでもあるまいが、豊田(小太郎)の健康を案じて、貴重な牛乳を与え、運動をすすめて体力を維持するように注意を与えている。
「豊田儀、生牛乳好み候故、このたび悴の話聞き候えば、酒はやはり多く用い候由の所、何ほど牛乳用い候ても歩行を致さず、机にのみ寄り居り候ては、必らず俗にいうよいよい病をひき出し申し候えば、宅に居り候て弘道館まで通い候よう申すべく候。遠くより歩行候えば、道に費(つい)え候ようには候えども、一所に居り候てもよいよい病などひき出し候えば死候故、遠くより通い候よりは事は出来申すまじく候。豊田ぐらいの者もまたとは得難く候えば、歩行致さざるは甚だ宜(よろ)しからざることに候。この雲丹海胆到来故二箱遣わし申候。酒の節口取(くちとり)には然るべく、会沢(正志斎)は養生家故、呑みすぎ申すまじき所、量太郎は安心致さず候。何分多く用いず、養生のみ用い候ようにと存じ候。  青山量太郎へ」(「幕末の水戸藩」 山川菊栄) 青山天功(量太郎)は、水戸弘道館総裁になった人だそうです。 


(昭和17年2月)十六日(月曜)
シンガポール陥落の祝い酒という訳だが、馬鹿な飲み方をした。夜中に起きて四分の一あまりを一息に飲んだのがいけない。朝から飲みたくなり、一本開けさせると、これが世にも恐るべきウィスキー。二杯だけ飲んで捨てさせる。それから配給の日本酒をとりにやる。陥落祝いとあつて合計八合の配給あり。まず三合ほど飲んで、あまり好い酔心地でもなく床にもぐる。動物の如くに眠る。甚だ不愉快な眠りである。自分を馬鹿々々と思いつつ眠る。晩に起きてまた五合を飲み、飲んでる間だけ子供たち相手に大いに元気よく喋る。
十七日(火曜 晴 寒)
一日中床にあり。配給の八合がこたえて、気分重く食欲なし。無理に朝飯、汁かけ一杯、昼飯、茶づけ二杯喰う。(「夢声戦争日記」 徳川夢声) 


これはこれは大酒のまるゝ事よと亭主の笑へりけれは 読人しらす
本哥 あがり子の 椀をおりべになすらへて 八たひのまばや 酔時のあらん

返し
同 あかり子の わんをおりべになせりとも てうしのこりて 酒や残らん(「古今夷曲集」) 


二番煎じ
四、五人の友達が嵯峨のあたりへ花見にいったが、「葷酒山門に入るを許さず」の石の立っている山門のなかに、いい桜が咲きみだれていた。そこで、あの桜のしたで一杯やろうと、山門のなかへどやどやとはいって行くと、門番がでてきて、「その筒のなかのものは酒であろう。酒はこの寺へ入れるわけにはいかない」という。そこで、「これは酒ではございません。このなかの頭株が持病もちなので、煎じ薬をもってあるいているのです」と答えると、「それでは飲んでみよう」というので、大きな茶椀になみなみとついでやった。すると、門番は「この薬には地黄がはいっているらしい。よくきくでしょう」といって通してくれた。みんなはよろこんで、「おい、うまくやったな」とほくそえみながら、目星い桜のしたに陣どり、さしつおさえつのんでいると、さっきの門番がやってきて、「さっきの薬の二番煎じはまだできませんか」ときいた。(「江戸小咄大観」 田辺貞之助) 


彼は愛酒家協会の一員だ
【意味】大した酒飲みをいう。
【解説】一七三五年に大往生をとげたド・ポスキエールという貴族がローヌ河にのぞむヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンに同好の士を集めてこの協会をつくった。その会員はfrére Boit-sans-eau(水なしで飲む兄弟)とかfrére Boit-sans-cesse(絶えず飲む兄弟)などのふざけた変名を名乗って、憲章をつくり、紋章を定め、会員をシャンパーニュ、ブルゴーニュなどの名酒十産地のサークルに別けた。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助) 


素人鰻
「よいご酒(しゆ)でござんす。これならもう上々でござんす。こくといい、香りといい、もうしぶんござんせんで、へえ。…よせねえもんでござんすねえ。…あ、どうもあいすみませんで…いつまでも若(わけ)えんじゃなえ、どうかしてよせるもんなら、よしてえと思ってやすが、なにしろ酒屋の前なんざァ通りきれねえんで…あの呑み口から出るとこなんざ…見た日にやァたまりません。こらァ見るからいけねえんだと、こう思いましてね、それから目ェつぶって通ったんです。へえ、いけませんですよ、鼻てえやつがあるんで…鼻へつうんとくる…咽喉(のど)へぐうーッと…しようがありませんから目ェつぶって鼻ァ押さえて、私(あつし)ァ酒屋の前をかけ出して通った…泥溝(どぶ)へ三度落っこっちゃった…あははは、そんな思いをしてもやめれれねえんですから馬鹿でござんす…もう酒じゃァねェ、何十遍…しくじったかわかりません」(八代目桂文楽『素人鰻』)(「落語食物談義」 関山和夫) 



酒は私のなかで
ひっそりとねむったが
酒をかかえて夜もすがら
私はねむらずにいた
ときおり冗談のように
顔を見あわせた(「現代詩手帖」 一九七六年一月)(「現代史文庫120 石原吉郎」) 


寒中、遠行する場合の用心
冬、朝(あした)に出(いで)て遠くゆかば、酒をのんで寒をふせぐべし。空腹にして、寒にあたるべからず。酒をのまざる人は、粥を食ふべし。生薑(しょうが)をも食ふべし。陰霧(いんむ)の中(を)遠く行(ゆく)べからすず。やく事を得ずして遠くゆかば、酒食を以(て)防ぐべし。(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂) 


庄内藩
庄内藩の汽船は、あの辺は冬は海が荒れるので港へ入れることが出来ない。ほかの所で使おうじゃないかというので、明治三年であったが、伊勢の四日市へ米を積みに行ったことがある。凶年で米が高いというと、そこの領主が津止(つど)めをする。この時この津止めを食うて、買った米を他領へ出すことが出来ぬので大困りをした。この汽船はトン数は七百トンであったから、ざっと四、五千石積むことが出来る。津止めを食うて、仕方がないからぶらぶらしていると、その辺の人が汽船が珍しいものであるから、しきりに見せてくれというて来る。とうとう観覧料を取って見せたが、天保銭が数十樽あった。小舟へ毛氈を敷いて、なかなか盛んに見に来た。米が駄目で、仕方がないから切干(大根)を買って東京へ帰ったが、これで五千円損した。庄内には大山酒という酒がある。それを積んで東京湾へ入ろうとすると、浦賀で止(と)められた。その時分にはまだ株というものがあったから、酒問屋の証明がなければいけないというて止められた。(「自叙益田孝翁伝」 長井実編) 


友達は皆、酒豪
筆者は酒が一滴も飲めないのに、友達は皆、酒豪ばかりと云っていゝ。しかも現代を超越した呑仙士(ノンセンス)ばかりで、奇抜、痛快の形容を絶した逸話をノベツに提供して、筆者の神経衰弱を吹き飛ばして呉れる。福岡の九州日報社といふ民政系の新聞社に居る頃、社員で酒を飲まないのは私一人であつた私と一緒に地方版の編輯をやつてゐた松石といふ男は、月末近くになると、茶褐色に変色したカンカン帽を持つて、一巡する。一銭入れる者もあれば、十銭入れる者も在る。運よく原川社長(旧民政系代議士)が来合はせると五十銭ぐらゐ入れて貰つたりして感激の涙に泅んで帰つて来る。むろん其の金で飲みに行くのだ。飲まないと頭が変テコになつて仕事が続かないので、止むを得ない義金募集なのださうだ。ある時、松石君、大枚三円なにがしかを収穫したので、帰り途のウドン屋に寄つて大いに飲んだ。傍で飲んでゐたサラリマン風の男と非常な心友になつて、スッカリ肝胆相照らしてしまつた。将来、死生を共にしやうと云ふ処まで高潮したので、とにかく今夜は俺の家(うち)に来いと云ふ事になつて、グテングテンになつてゐる奴を引つぱつて帰ると、出迎へた妻君に残りのバラ銭を一掴み投与へた。大至急に酒を命じて二階に上つた。それから二階で又盛んに飲んで、歌つて、死生の契りを固めて居るうちに、たうたう飲み潰れて二人ともグウグウ寝てしまつた。あくる朝、松石君が眼を醒ますと、傍らに知らない男が寝てゐる。ハテ、何処の宿屋に泊つたのか知らん…と思つて天上や床の間を見廻すと、たしか自分の家(うち)である。松石君は仰天して二階から駈け降りた。台所で赤ん坊を背負つて茶漬けを喰つている妻君を捕まへて詰問した。「二階の男はアリア何だい」妻君も仰天した。「…まあ…アナタ御存じ無いの」「知るもんか。あんな奴…」「あら嫌だ。昨夜(ゆふべ)、貴男が親友々々つて云つて連れて来て、二階でお酒をお飲みになつたぢや無いの。さうして仲よく抱き合つてお寝(やす)みになつたじや無いの」「馬鹿云へ。俺あ今朝(けさ)初めて見たんだ」妻君は青くなつてしまつた。「まつたく御存じ無いの」「ウン。全く…」そんな問答をしてゐるうちに、松石君はやつと昨夜(ゆふべ)の事を思ひ出したので、思はず頭を掻いて赤面したと云ふ。「困るわねえ、貴方にも…まだ寝て居るんでせう」「ウン。眼をウッスリと半分開いて、気持よさゝうに口をアングリして居やがる」「気色の悪い。早く起こしてお遣んなさいよ。モウ十時ですよ」「イヤ。俺が起こしに行つちや工合が悪い。お前起こして来い」「嫌ですよ。馬鹿馬鹿しい」「でも彼奴(あいつ)が起きなけあママ俺が二階へ上る事が出来ない。洋服も煙草も二階へ置いて来ちやつたんだ」「困るわねえ」「困つたなア」そのうちに二階の男が起きたらしくゴトゴトと物音がし始めた。…と思ふうちに突然、百雷の落ちるやうな音を立てゝ、一気に梯子段を駈け降りた。玄関で自分の靴に足を突込むと、パタパタと往来へ走り出て、何処ともなく消え失せて行つた。夫婦は眼を丸くして顔を見合はせた。腹を抱へて笑い出した。「よかつたわね、ホホホホ」「アハハハ。あゝ助かつた。奴さん気まりが悪かつたんだぜ」「それよりも早く二階へ行つて御覧なさいよ。何か無くなつてやしないこと…」松石君の古いカンカン帽が、その日から新しくなつた。昨夜の親友が間違へて行つて呉れたものだつたといふ話。(「近世怪人伝」 夢野久作) 


時間外れの酒(2)
二、三年前に、「冬の日」という短編を書いた。これには、神田連雀町のやぶのことが出てくる。作中の中年の人物に、「寒い日でしたので、そばの前に、一口やろうかという気になったんですが、外はまだ明るいし、コップでと思いましてね、頼んだところが、酒はきてもコップを持ってこない。催促すると、ちょっとお待ち下さいという。この頃の女の子は、われわれには無愛想ですから、我慢して待っていました。するとね、お待ち遠さまと云って持ってきたコップが、温めてありました。注いだ酒が冷めないように、そんな心遣いがしてあったんです。いまどき珍しい商法です。すっかりうれしくなってしまって、一本が二本になりました」と、語らせているが、ほんとうに経験した話である(「時間外れの酒」 永井龍男) 


市村博士と禁酒法 2・11(夕)
京都大学教授法学博士市村光恵(みつゑ)氏は憲法学者だが、憲法があつて酒のない国と、酒があつて憲法のない国と、どつちかといへば、二つ返事で後の方を選ぶほどの酒好きである。ところが、市村氏の親兄弟は揃いも揃って、堅い基督教信者である。二本の基督教信者は余り人前では酒を飲まない。尤も耶蘇は平気で葡萄酒を飲むだが、日本の基督教は耶蘇が一度も往つた事のない亜米利加を経て来たもので、彼地(あすこ)は植民地だけに好(よ)い酒がない。悪い酒は悪い書物と同じやうに頭を悪くするものなので、基督信者は酒を飲むではならない事になつたのださうだ。この意味において市村氏の親兄弟が酒を飲まないのは間違つてはゐなかつた。市村氏は好(よ)い酒のない土佐の産(うまれ)だつたから。ある時市村氏の家に、何か祝い事があつて皆が食卓に並んだ。そのなかには無論憲法学者も交(まじ)つてゐた。愈々(いよいよ)皆が箸を執(と)らうとすると、老(としよ)つた市村氏の父は食前の祈祷を始めた。「主よ、主が吾が一家の上に垂れ給うた御(み)恵みを感謝いたします。ここに列りました家族の中に一人(にん)の御(み)心に叶はざるものがありますけれど…」式(かた)の如く頭を垂れて温和(おとな)しく祈祷に聞きとれてゐた憲法学者はひよいと聴耳(ききみゝ)を立てた。「一人の御心に叶はざるもの?…はて誰だらうな。」学者は眼をあげて、そこに居並んだ家族の顔を見比べた。皆胡桃(くるみ)のやうに堅い基督信者で、御心に叶つたらしい羊のやうな眼もとをしてゐた。「すると俺かな。御心に叶はざる者つていふのは」憲法学者は額にあててゐた掌面(てのひら)で頚窩(ぼんのくぼ)を押へた。「いくら親爺にしても、余りひどい事を言つたものだ。神様に聞こえないからいゝやうなものの、若しお耳にでも入つたら困るぢやないか。」その市村氏は、この十六日に第三高等学校で催される同校学生の擬国会に在野党側の首領として出席する事になつてゐる。ところが在野党側の学生は、食糧不足に対する、一つの応急策として、禁酒法案を提出することに決めたので、その説明の任に当たらなければならない市村氏は、困り切つて学生に妥協を申し出た。「いくら何でも僕に禁酒法案の説明をさせるなんて余りぢやないか。」憲法学者は二日酔ひの顔を手帛(ハンカチ)のやうに両掌(りやうて)の掌面(てのひら)で揉みくしやにした。「酒の為に潰す米なんて知れたもんだよ。往事(むかし)から馬鹿の大食ひといつて、馬鹿が一等沢山米を食ふのだ。その馬鹿の大食ひを治すには何よりかも酒を飲ますに限るんだからね。」でも学生は言ふ事を肯(き)かない。禁酒法案は矢張り酒好きの市村氏が説明しなければならぬ事になつてゐさうだ。(「茶話」 薄田泣菫) 


新銘柄
第二次世界大戦直後、接収された日本の商店の棚に酒びんが並んでいた。-極上のブドウからつくられた生一本のキンブ・ビクトリア・ウィスキー-(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


66.酔払いの話と子どもの歌[2412]
 調子がはずれていたり、わけが分からない点が、共通している。 エストニア
67.のどの金遣いに、手の稼ぎは追いつかない[4682]
 酒飲みは、懐ぐあいを無視して、酒に金を注ぎ込む傾向がある。 エストニア
68.酔払いの金とイヌの小便は際限がない[2446]
 №67と同じことを別の角度から述べたもので、「酒飲みの神は金持ち」[2441]とも言う。 エストニア(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


禁酒
酒好きの男、何に感じてか金比羅様へ誓文(せいもん)を立てけるか、一周間ばかりして或る寄り合の席上にて、朋友(ともだち)四五人の美味(うま)さうに見るより、飲みたしとおもふ心矢も楯もたまらずなり、オイ自分達ばかりで飲まずと、おれにも一盃くれねえか、と云へば、皆々肝(きも)を潰して、飛んでも無い事だ、おめへは金比羅様へ誓文して禁酒したといふでは無いか、飲むのは可(い)いか罰が当らうぜ、と意見すれども一向聴かず、ナアニそこは神様のことだから、彼(あれ)の禁酒は末遂げめえと初手(しよて)から御見通しになつていらしつたに相違無え、禁酒したには違い無いが実はありやアほんの出来心さ。(「笑話(春の山)」 幸田露伴) 


春中喜王九相尋            仲春に王九が相ひ尋ぬるを喜ぶ     孟浩然
(二)酒伴 来りて相命ズ        飲み友達が来て一杯出せと云ふので
   尊ヲ開イテ共ニ酲ヲ解ク。     樽を開いて共に迎へ酒を飲む。
   杯已に手ニ入ルニ当リテ     杯が已に手に在る間は
   歌妓 声ヲ停(とど)ムル莫レ。  歌姫よ歌声を停めてはならぬ。』
○春中 春の中の月、すなはち二月である。 ○酲ヲ解ク 酲は宿酔すなはち二日酔ひである。「酲ヲ解ク」とは二日酔ひを治する為に迎へ酒を飲むことである。晋の酒豪劉伶の言つた有名な語に「天 劉伶ヲ以テ名ヲ為サシム。一飲一石、五斗酲ヲ解ク」と有る。孟浩然も愛酒家であるから、連日豪飲し、宿酔と解酲とを循環して繰返したことであらう。因つて此の場合は単に「酒を飲む」と云ふほどのことらしく受け取れる。(「中華飲酒詩選」 青木正児著) 


むさしの国神田の社にて神酒徳利をふり見て
当世は神はいつはる世なりけりかんだといへどひや酒もない [万載狂歌集、六位大酒官地黄坊樽次]
地黄坊樽次は仮名草子『水鳥記』にあらわれる酒戦の主人公である。神田神社の神前の酒が冷酒で、燗をしてないのは神の偽りであるというたわいない狂歌である。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


仁斎盗賊を改悛させる
伊藤仁斎[寛永四年(一六二七)-宝永二年(一七〇五)]は京師の人で、卓識を以て世に知られた大儒である。ある夜仁斎が外出先から帰って来る時である。緑林の徒(盗賊のこと)が数人彼を路に要し、剣を撫して罵った。「吾らは酔わざるべからず。而も今やその酒の資尽きたり、客よ其の衣裳を脱げ、その金袋を出して、咸(ことごと)く与えよ」と。仁斎自若(じじゃく)として、「汝ら何を以て業となすや」「常に横行略奪して自ら給す」と賊は答えた。仁斎はこれを聞くと、打うまずき、「汝らの業斯の如し、我また何か抗せん」と、すなわち静かに衣服を脱ぎ、其の金袋を採って之を授け、悠然と立去った。賊等は之を見て仁斎を止めた。「我らは此の業をなすこと数年、けれど未だ嘗(かつ)て挙止の沈着にして、然も勇気ある、客の如き者を見ず、元来客は如何なる人ぞ」この時仁斎は、破顔カラカラと笑って云った。「儒生なり」賊は儒生と聞いたが判らない。そこでまた重ねて聞いた。「儒生とは何事をなす物ぞ、何の職なるか」と。仁斎は静かに答えた。「人倫の道を教うる、これ儒生の業とする所である。人倫の道とは親に孝、兄には弟、人と交るには信を以てし、老いた者を敬い、幼き者を愛し貧を賑わし、窮を救うなどを以て、その主要とするものである。而もこれらのことは、人間の共存生活に一日もなくて叶わぬものである。それ故人としてもしこれ無きものあらんか、其は禽獣と何ら異ならない者と云うべきである。」と。賊等はこれを聞いて大に感じ、頓首百謝して言うよう、「噫(ああ)、客とわれらと斉(ひとし)くこれ人にして、業の異なること斯くの如し、われら甚だ良心に之を愧(は)ず、客よ、願わくばわれらの罪を宥(ゆる)せ、今より灰を飲みて胃を洗い、謹んで教を門下に奉ぜん」と。遂に悔悟して良民となったという。(「日本逸話全集」 田中貢太郎) 


除杲
国朝(明)の除杲(じょこう)は木匠から起用されて官につき、大司空(注二)にまで出世した。その腕の器用なことは、前代の人たちにひとしいもので、しかも声や顔つきが容易にかわるようなことがなかった。あるとき奥向きの御殿を、一棟建てかえることになった。しばらくの間じっと仔細にながめていたが、外に別に一棟を作った。その日になって、古いのをこわして新しいのと取り換えたが、分毫(ふんごう)のちがいもなかった。そして全く斧(おの)や鑿(のみ)の音をきかなかったのである。また魏国公の大邸宅が傾斜したとき、これを元にもどそうとしたが、数百金を費やさなければ、どうにもならないということであった。徐は人に命じ、千余石の砂を嚢(ふくろ)に入れて、両側に置かせ、自分は主人と差し向かいで酒を飲んでいたが、宴も盛りをすぎるころになるところになって外へ出た。すると邸はすでに元通りにちゃんと立っていた。
注 二 大司空 もと、周代の法官の長。漢代には御史大夫の称となったがことがあるが、後世、工部尚書をいうようになった。(「五雑組」 謝肇「シ制」(しゃちょうせい) 岩城秀夫訳 中国古典文学大系) 


ひやざけ、ひりか、びん、ふくろあらい、べいろしゃ
ひやざけ[冷酒] きびしい寒さ。[冷酒でもひっかける](強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
ひりか 酒を飲むこと。(強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
びん5 徳利。(強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)
ふくろあらい【袋洗い】 宴会。《仲間が集まって酒を飲み楽しむ》(山窩用語)(明治)
べいろしゃ (酒に酔って)舌が廻らなくなる・こと(者)。[←真言宗で唱える「おん・あぼきゃ・べい・ろしゃ・のう」の上下略](僧侶用語)(明治)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


井伏鱒二(いぶせ・ますじ)
本名万寿次。明治三十一年二月広島生れ。早大中退。いわゆる中央線沿線作家の頭領として地味ではあるが隠然たる勢力をもつ。有名な蔵書ぎらいで書斎には一冊の本もない。釣好きでアユ釣は佐藤垢石の手ほどきを受けたが、最近は神経痛がおこるので取止め。ただし酒だけはやめられず、新宿界隈の居酒屋にノコノコと出かけている。戦後の代表作に『本日休診』がある。(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。「黒い雨」は昭和30年1月連載開始だそうです。 


蛇の産室 蛇女房
八幡様のお宮へ、村の若者たちが毎月酒肴を持参して酒盛りした。そのあたりに沼があって、そこに住んでいる蛇が何とかして仲間にかだりたくて、娘になって酒を二升持ち、仲間入りをした。そうしているうちに娘は妊娠し、なし月もせまった。室をたててもらい、自分が出るまで、見てはならないといわれたが、誰か一人すき見をすると、人ではなくて蛇だと分って驚いたが、蛇も見られたことを気づいて、沼の中に帰ってしまった。(三戸郡五戸町の話 採話・能田多代子)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


酒精、燕台先生
去る九月三十日、八十九歳の高齢で死去した陽明学者細野燕台翁は、近代酒豪家の中でもまさに日本一の酒士で、私は酒精と呼んでみたいと思う。明治五年、金沢の醸造家に生まれ、ふるさとのツバクロ城の名を号した。若年から晩年まで一日一升を飲みつづけてきた翁の酒量というものは計り知れざるものがある。-
冷水浴がすむと茶室にもどって身支度をととのえて、ちゃんと縁側に端座して茶臼をまわして抹茶をひく。左手に書物を持って読みながら、ゆっくりと右手で茶臼の把手をまわす。抹茶をのみおわるころには、小さな炉の鉄ビンがたぎっている。お銚子がころあいになって、まだ薄暗いころに一杯やる。夜明けの酒というべきであろう。朝二合、昼二合、夜六合の割合で飲んでいるが、酒客が訪れてくればいくらでもお相手になる。年がら年中、朝から夜まで酒の気を切らしたことがない。-
燕台先生と酒盃をかさねていると、理研酒"利久"の一升ビンがずらりと並んでいるので、"利久"がお好きですかときくと、翁は灘各地の酒造家に知己が多く、贈られてくる銘酒は飲みつくせないほどくるが、この銘酒は一口も飲まないという。「わたしは金沢の醸造家に生まれて、三十代までは家業をついでいたから、若い時分からずいぶん酒をのんできた。灘の酒をはじめ諸国の銘酒も一通りは味わってみたけれども、七十歳ごろから合成酒をのみなれてしまって、私のからだにいちばん適(かな)った酒であるということがわかったからだ。合成酒は固形分が少ないから老人向きの酒では無いだろうか。-」(「酒士の印象」 篠原文雄) 


金とり会
かつて福島は安価な酒を大量に製造していた県で、酒造レベルを測るひとつの目安とされる全国新酒鑑評会で金賞を獲得した蔵の数は全国でも最低レベルであった。そこで、量から質への転換を図る組合の働きかけにより、1991年、ハイテクプラザに蔵の跡継ぎや従業員を対象とした学校、清酒アカデミーが開校した。さらに、醸造・食品科長の鈴木賢二さんが中心となって、金賞獲得を目的とした通称"金とり会"を結成した結果、平成17酒造年に初めて金賞数1位に輝き、その後、毎年上位を維持してきた(ちなみに平成22年度も新潟、兵庫に継ぐ全国3位)。名醸地として知られてきた矢先の大震災だった。だが新城会長は屈しない。福島の酒の魅力を広めようと、県外の物産展への蔵元参加を後押しし、原発事故による風評被害を防ぐため、地域の異なる3蔵の酒を専門機関に依頼して、放射能検査を実施した。いずれも放射性物質は検出されなかったという。戸別の蔵元が検査を望むときは仲介する予定であるし、既に仕込み水の検査も行い、クリアしている。「今後の課題は原料米です。安全は最低限。我々は旨い酒を造るだけです」と意欲を燃やしていた。(「極上の酒を生む土と人 大地を醸す」 山同敦子) 


ひがくる、ひく、ひだりきき、ひのきいた
ひ・が・くる[火が来る](動詞)句 色気づく。[←酒が腐敗する。腐敗した酒は火を入れて樽に入れるが、酒に色がつく。][酒屋→製樽工](明治)
ひく2[挽く](動詞) 酒を飲む。[←板=酒。板挽く=酒を飲む。→いた](強盗・窃盗犯罪者、香具師・やし・てきや用語)(明治)
ひだりきき[左利き] 酒飲み。[←のみ手。大工は左にのみを持ち、右手に槌を持つので、左手=のみ手。右手=つち手。のみ手=飲み手](大工用語→俗語)
ひのきいた[檜板] ①一等酒。[←上等の酒は檜板の樽に入れる] ②酒。→すぎいた。まついた。(強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


つけざし【附差】
人の盃の酒を加勢して飲んで遣る事。これは煙草などにも云ふ言葉で、「鷹筑波集」に『しのべるか飲みし煙草のつけざしに、恋こそ胸の煙とはなれ』とありまた「吉原讃嘲記」にも『面白きは…床の中のつけざし』などゝあり、必ずしも加勢でない場合もある。
附差の礼に背中をなでゝやり 自分の身替りの酔
手放しで附差を飲馴れたもの 千軍万馬の強者
附差は一と口飲むとあちら向き 胡散臭く
附差で禁酒を破るはしたなさ 恋の意地とは云ひ
附差の側に大きな咳ばらひ 無理をするなと(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) つけざし 


造酒蛭子(みきえびす)
「摂津名所図会」に、天満宮(天満にあり中略)に、菅原道真がみずから描いた像があり、酒を供すると顔が赤くなるという。それで造酒笑姿(えびす)と言うとある。かつて小笠原子爵家所蔵の造酒天神という画像は、関白近衛前久の筆で、この前に酒を供えると赤らむと言う。どういう仕掛けかわからないが、しいて科学的に解釈すれば、硝酸コバルト溶液は湿気の多少で赤くなったり、青くなったりする。それで、これを顔にぬっておくと普通のときは別段なことはないが、酒を供えて湿気が立ち上ると赤くなるのである。(「日本の酒」 住江金之) 


友と酌む
からすみに 似たるを見つけ 清酒(さけ)に似る アペリチーフを酌むも とつくに
日本の友に
とつくにの わがさびしさを やるべくは この一つきに しかざる如し
百にあまる 酒のかずかず 学ばむと パリの巷を めぐりあるくも
 フランス人には葡萄酒は酒にあらずお茶のごときか。不思議に酔つぱらひの少なきをあざけりて
ひのもとの 人は酔はむと 飲む酒を 水のごとくに ただに飲むかな
酒飲むと われはたのしく あるものを 彼らにはただの 水にすぎざり
飲めば酔ふ ものぞとわれは 知りにしを 酔はざる酒も ありにけるとは
あはれはや とつくに人は うま酒に 酔ふとふことも わすれけらしな(「パリの生活から」 坂口謹一郎) 


脳溢血の予後
先日の朝日学芸欄で、四国へ帰省中の上林暁氏の消息を読んだ。上林氏が脳溢血の予後にもかかわらず、仕事に乱れを示さず精進されていることは周知の事実だが、お父さんも同様な体験者で、しかも高齢を保たれているということを、その消息ではじめて知った。上林氏とお父さんの異なる処は、上林氏が病後は禁酒をまもっているのに対して、お父さんの方は今日も杯を捨てないのだそうだが、今度の帰省では、息子がその禁を破って、老翁の晩酌の相手を勤め、二杯三杯の酒をたのしんでいられるということである。-(「酒徒交伝」 永井龍男) 


出囃子
私の出囃子が「三下り鞨鼓(かつこ)」に決まった昭和三十(一九五五)年ごろ、若手で決まっていたのは、六代目(笑福亭松鶴)の「だんじり」ぐらいやったな。まだ、前名の枝鶴(しかく)になる前の光鶴(こかく)と呼ばれてた時分の話。彼は当時から破天荒でね。酔うた勢いで、戎橋松竹の囃子場に布団を敷いて寝てしまうことがようあったんや。翌朝、お囃子さんが来てもまだ寝ている。そこで、三味線のおトミさんが「この人起こすには『だんじり』よりほかはない」ちゅうて、これに決まったんや。その後、松鶴を襲名する時に、またおトミさんが「上方の大真打ちに相応(ふさわ)しい『船行(ふねいき)』はどないや。この曲ええで」と言うて、すぐに決まった。私も「船行」は六代目にピッタリやと思います。(「米朝よもやま噺」 桂米朝) 


同食の禁忌
同食(くいあわせ)の禁忌多し、其の要(おも)なるをここに記す○猪肉(ぶたにく)に、生薑(しょうが)、蕎麦(そば)、胡「上:くさかんむり、下:采」(こすい)、炒豆(いりまめ)、梅、牛肉、鹿肉、鼈(すっぽん)、鶴、鶉(うずら)、をいむ-
○酒後に茶を飲べからず、腎をやぶる○酒後に、芥子(からし)及び辛き物を食へば筋骨を緩(ゆる)くす(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂) 


般若湯(はんにやとう)は智慧(ちえ)の湯(ゆ)
酒を坊さんの隠語で般若湯と称し、出家僧が酒を飲んでいたことは、いまや自明のことである。古くは弘法大師空海が、高野山で厳寒をのりきるために嗜(たしな)んでいたという説もある。般若湯というのは、仏教でいう悟りの再興の智慧=般若を増すためのお湯ということで、明らかに無理なこじつけによるものだ。現在、酒の消費量は人類の歴史上最高値を示しているが、人びとの智慧が増しているとは、とうてい思えない。(「仏教珍説・愚説辞典」 松本慈恵監修) 


酒の飲み方
主婦アル中が増大しているようだ。おれも、これを取材したことがあるが最大の原因が、「なにも、することがない」つまり、暇だ、手持ち無沙汰だということになる。どこかで、人生の目的を見失っているように感じたものだ。家の中というのは、台所には隠し味に使う酒が必ず置いてある。朝から、グイとそれをやるとなんとなく気分がいい。テレビを観ていると、他人の不幸までもが自分の喜びのように感じられ、知らず知らずのうちに酒量が増えていく、ダラダラと飲み続ける。主婦アル中の誕生である。これらをどう受けとめるか、ということだが、やはり目的というものを持つべきだろう。人生に大きな目標を持つということは、現代において不可能になっているが、なにも大きなものでなくてもいい。どんな、小さなことでも構わないのである。たとえば、一時間これに集中しよう、これについて考えよう。編み物でも手芸でもいい。完成させるという意気込みと、その可能性を毎日の目標にしてはいかがだろう。そのとき、酒は手段ではなく、やすらぎに変わるだろう。ひとつの仕事をやり終えた一杯の酒は格別である。その酒で、自分自身を癒してやるのである。酒の量ではなく、"喜び"が自身の中で増殖作用を起こしてふくらんでくるのが、かなり意識されるのではないだろうか。(「男は切れ味、かくし味」 藤本義一) 


五升の酒
土佐では五人で宴会をするとき、準備委員はまず五升の酒を用意する。客人ひとりずつが一升。ほかに三升。それは宴席にはべる女中衆の飲み量なのである。「これやがな」司馬(遼太郎)はにやにや笑って、コップを傾ける仲居さんの横顔をながめている。好い材料が出来たと満足顔である。翌日は地元の新聞社に招かれた。そこで聞いた酒豪番付は、トップが社長。次が編集局長、以下運動部長、学芸部長-何やらサラリーの額に準じて酒量がきまっているみたいである。新聞社だけではない。土佐山田の女学校を訪れたら、ここでもトップは校長さん。以下教頭、教務主任と酒豪秩序はじつにはっきりとしている。酒が飲めねば人に非ず。まさしく土佐は天下の酒どころである。(「寺内大吉・旅行商売潜行記」 寺内大吉) 


オアシス型酒質
何十、何百ときき酒していて、淡麗な個性のないお酒に出会うとホッとしていい点数を付けることがあります。淡麗なお酒を得るために酸度の少ない酒造りをしているのです。篠田次郎氏はこういったお酒を「オアシス型酒質」と名付けられていますが、あとでそのお酒をきき酒してみると、「なんでこのお酒がいい点数を…」ということになります。「鑑評会は個性のない平凡なお酒を採る」と避難めいて言われます。こういったことを避けるため「酸度区分別審査法」が考え出されました。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


酒人某(しゆじんぼう)扇(おうぎ)を出(だ)して書(しよ)を索(もと)む 菅茶山(かんちやざん)
一杯人が酒を呑み
三杯酒が人を呑む
是れ誰(たれ)の語か知らざれど
我が輩は紳(しん)に書(しよ)す可(べ)し

ハジメハ人ガ酒ヲ呑(ノ)ミ
シマイニ酒ガ人ヲ呑ム
誰ノ言葉カ知ラネドモ
呑ンベハ肝(キモ)ニ銘ズベシ(「「サヨナラ」ダケガ人生(じんせい)カ」 松下緑) 


言(い)わんと欲(ほっ)して予(われ)に和(わ)する無(な)く 杯(さかずき)を揮(あ)げて孤影(こえい)に勧(すす)む
<解釈>(秋の夜長)何か言おうとしても私に答える人もいないので、杯をさしあげては一人ぼっちの私の影に酒をすすめるのだった。
<出典>晋(しん)末宋(そう)初、陶潜(とうせん)(字(あざな)は淵明(えんめい) 三六五-四二七)の「雑詩」十二首の其二。五言古詩十四句の第九・十句。『陶淵明集』巻四。
風来入房戸     風(かぜ)来(ふ)きて房戸(ぼうこ)に入(い)り
夜中枕席冷      夜中(やちゆう) 枕席(ちんせき)冷(ひ)ややかなり
*1気変悟*2時易    気(き)変(へん)じて時(とき)の易(うつ)るを悟(さと)る
不眠知夕永      眠(ねむ)られず 夕(よる)の永(なが)きを知(し)らざる
欲言無予和      言わんと欲して予に和する無く
揮杯勧孤影      杯を揮げて孤影に勧む
日月*3擲人去    日月(じつげつ)人(ひと)を擲(なげう)ちて去(さ)り
有志不獲騁      志(こころざし)有(あ)れども騁(は)するを獲(え)ず
*1気 空気。 *2時易 季節が移り変わる。 *3擲人去 人間の意思を投げ捨てるように、歳月が無常に経過する。
<解説>夜の次第にふけゆく時間にじっと身を寄せ、眠れない自分と自分をとりまく時間と空間とを凝視する孤独な営みのなかから、引用の詞句が生まれた。一人ぼっちの影に杯を傾ける姿をイメージして定着させることによって、見る者でありながら見られる者でもあることに立ち会う、真の孤独の相が浮き彫りにされてくるのである。(大上正美)(「漢詩漢文名言辞典」 鈴木修次編著) 


サラ川(18)
飲み会で離れて座る社内愛        夢中人
飲み会で酒の肴は欠席者         欠席裁判長
酒のみは酒のむために酒へらし      堺の単身パパ
医者じゃなく財布がとめるもう一杯    よも
田園の飲屋に広き駐車場         くじら(「サラ川」傑作選にまいめ 山藤・尾藤・第一生命選) 


方言の酒色々(21)
外で酒を飲まないこと でがんし
四十一歳の男子が、人々を招いて山へ行き、景色のよい所で酒を飲むこと やくいり
正月初めて酒を飲むこと はるさかずき
他村へ嫁入りする時にその村の青年会へ酒を一升買って出すこと みちあけ
出棺直前に会葬者に碗のふたで酒を出すこと でたち(日本方言大辞典 小学館) 


*酒は天の美禄。百礼の会酒に非ざれば行われず。(あらゆる儀式には酒がつきもの)
-班固撰「漢書」
女と酒と歌を愛さない者は、一生の間阿呆(あほう)のままだ。
-フォス「詩」
*二度子供になるは老人のみならず、酔払いも然り。
-プラトン「法律」
*酒が少量であればあるほど、頭は冴えて血は冷ややかになる。
-ベン「孤独の報い」(「世界名言事典」 梶山健編) 


巻耳(部分)
陟彼崔嵬      彼(か)の崔嵬(さいくわい)に陟(のぼ)れば 
我馬虺隤      我(わ)が馬(うま)虺隤(くわいたい)たり
我姑酌彼金罍   我(われ)姑(しばら)く彼(か)の金罍(きんらい)に酌みて
維以不永懐     維(こ)れ以(もつ)て永(なが)く懐(おも)はざらむ
かの岩石(がんせき)の険(けわ)しい山を登(のぼ)って行(ゆ)けば
我(わ)が馬(うま)も疲(つか)れてよたよたとする
われは暫(しば)し金樽(きんそん)の酒(さけ)を酌(く)んで
心の憂き懐(おも)いを忘れよう

陟彼高岡      彼(か)の高岡(かうかう)に陟(のぼ)れば
我馬玄黄      我(わ)が馬(うま)玄黄(げんくわう)たり
我姑酌彼兕觥   我(わ)れ姑(しばら)く彼(か)の兕觥(じくわう)を酌(く)みて
維以不永傷     維(こ)れ以(もつ)て永(なが)く傷(いた)まざらしむ
あの高(たか)い岡(おか)に登(のぼ)れば
わが馬(うま)は病(や)み疲(つか)れる
われは暫(しば)し角(つの)の杯(さかずき)に酌(く)んで
心(こころ)の痛(いた)みを忘(わす)れよう(「詩経」 高田眞治解説) 「若妻が公役に従って遠征する夫の身の上を思うて」うたったものだそうです。万葉集を思い出しますね。 


盃を底の糟まで飲む
【意味】苦しみを底の底までなめつくすこと
【解説】この成句はキリストが懊悩煩悶のなかで祝福の盃を飲んだことにはじまるが、シャトーブリアンは「イエスはこの盃を苦いと思った。どうして天使がそんな苦い盃を彼の口へもって行ったのだろう」といっている。詩人アンドレ・シェニエは「常に奴隷にして、人生と人の呼ぶ苦き盃を、底の糟まで飲むに疲れ、彼はしばしば…」とうたっている。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助) 


仏説摩訶酒仏玅楽経(1)
如是我聞(によぜがもん) 一時 仏 酣暢(かんよう) 無懐山にあり。 七賢、八仙とともなり。 一切 酔龍、酔虎。 醸王糟侯。 鯨飲、海呑。 狂花、病葉。 歓場 害馬。 酣笑 酒悲。 人非人等。 従十方来。(「仏説摩訶酒仏玅楽経」 亀田鵬斎 新編稀書複製会叢書)
このように私は聞いた。ある時、仏が「酔い心地でもの思いが無い」という名の山にいらして、七人の酒好き賢者、八人の酒仙たちとおられた。一切の酔龍・酔虎、醸王・糟侯、鯨のような大酒飲み、多くの川を呑みこむ海のような大酒飲み、怒り上戸、眠り上戸、泣き上戸、楽しい席をそこなう理屈上戸、緊那蘿ほかの天龍等が、十方からやって来た。 ○歓場害馬=楽しい酒の場をかき乱す邪魔者。理屈上戸。- ○人非人=人のような形で人でない者。仏教の天部八部のうち、緊那蘿などを指す。(「仏説摩訶酒仏妙楽経謹解」 石井公成) 始まりの部分です。 酒徳経の歌?もこの中にあります。


28.真の愁いは酒では解けない
 酒飲みが頭ではよく承知している真理。 チベット
29.生まれた子には名を 飲まれた酒にはおしゃべりを
酒には楽しいおしゃべりがつきもの。酒がいっそううまくなる。 チベット
65.酒が有れば、みんな友[14122]
 一見したところ、№41の「チーズがある間は友」と大変よく似ているが、このことわざは<酒の席では、みなが友人である>という意味。 エストニア(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


サケツクリノウタ-酒造りの歌(1)
先づ米が取れて寒い風が吹出す頃に仕事は始まり、第一に精米に着手する。米とぎ・米洗ひ・米踏等々で、今日はプロペラの洗米機も用ゐられる。【山家鳥虫歌】の播磨の歌に、「いつか鴻池米踏みしまひ、播磨灘をば船でやろ」 がある。岩手の米とぎは、例えば甲が、「始まり、にんにく山椒、椎茸ごんぼ、むきだけ納豆、山芋こんにゃく、豆腐で渡した」と歌へば、乙が」、「十で切つたか、十二でしめた、三十四、五十六、なんなつとうはい、十九はたやまとんだ」と受ける。広島県賀茂郡西条町の米洗ひ歌、「揃ふた揃ふたで足拍子手拍子、カセが揃ふたらなほ良かろ、揃ふたらカセがのう、カセが揃ふたらなほ良かろ、ヨヤレヨイヨイヨウ」、「安芸の西条に今研ぐ米は、酒に造つて江戸にやる、造つて酒にのう、酒に造つて江戸にやる、ヨヤレヨイヨイヨウ」と歌ふ。かくて純白の米が出来ると一方に桶洗ひが始まる。三十三石、三十四石の大桶をササラを掛けて洗ひ、熱湯を注いで去年のアクを取る湯ごもり、杓子で湯をかける湯あての作業が続き、風と日光にさらされた桶は去年の酒の気が完全に抜かれる。桶洗ひは戸外の作業で、灘では「アー寒や北風、アーかうつめとては」と一人が云へば「長の冬ぢゆが勤まろか」と他が和す。越後では、「今朝のヤー洗ひ番はどなたにどなた、かあい男の歌の声、「かあいヤー男の洗ひ番の時は水は湯となれ風吹くな」。(「日本民謡辞典」 小寺融吉) 


自宅酒2
お土産ものの酒盗に
皆が誕生日にくれたお酒 酒飲みはプレゼントの内容が迷わなくていいな だってさ
居酒屋で食べたメニューを思い出しておつまみをつくってみよう
コトコト
お酒をつけている間におつまみを用意 カパ くだんの酒盗と 
ポテトサラダ
今日のは酒盗に合うように芋の形を残さずクリーミーに作ったよ たしかお店で食べたのはこんな感じ ・胡麻を使わない ・マヨの前にバターを和える ・コマ切れのクリームチーズを入れる ・人参・きゅうり・ハム等は入れないか少なめ小さめ
アチチ
これで今夜はしっとり飲めるはず
テレビだとダラダラしちゃうから音楽 JAZZ
そして始まるいただきものナイト
ウヘヘ こたつ ガサガサ パラパラパッパ←サックス
うん お酒 いい温度
口に含んだ刹那
飲み込んだ瞬間
お酒の世界 私の時間
ヘヘヘ
フフフ
酒盗onポテサラ
クセのある香り しょっぱさと
クリーミーさが包む でも活かす
芋も進む まくっ
酒も進む ぷしゅーっと
なぜこのふたつは合うんだろ 海のものと山のもの トリロリロン←ビブラフォン
魚のものと畑のものと牛の(乳の)ものよ(「ワカコ酒」 新久千映) 


めでたやな下戸(げこ)の建てたる倉もなし上戸の倉も建ちはせねども(作者未詳『醒酔笑』)
【大意】酒好きが酒代かさんで蔵の建たないのはごもっとも、では酒ののめない輩に蔵が建つかといえば、これも建たない。いずれにしてもめでたやな。(「道歌教訓和歌辞典」 木村山治郎編) 


燗徳利
さて私の調べによると、江戸で燗徳利が用いられだしたのは、文政の初め頃かららしい。私は草双紙の挿絵を年代順に調べてゆくという方法をとったが、文政五年(一八二二)刊の柳亭種彦作『忠孝両岸一覧』に燗徳利の中へ小粒金をかくす話が出てくる。文章にもハッキリ「かんとくり」と書いてあるし、挿絵にも何度も描かれているのだが、もうこの頃には普及していた証拠かと思ったが、その後の草双紙には一向現れず、相かわらず、ちろりに銚子ばかりで、十何年もたった天保十年(一八三九)頃から再びボツボツと描かれだすから、『忠孝両岸一覧』に燗徳利だ出て来たのは、作者が燗徳利の出現を珍しがって、いち早く自作中の小道具に取上げたものと考えられる。燗徳利が早急に一般化しなかったのは、大量生産が及ばなかったものか、或いはコストが高価だったためか、何か理由があるのだろうが、よくわからない。ともかく天保も末頃になって、やっと目に立つようになりだしたのである。だからそれまでの飲酒のシーンには、まるで燗徳利が出てこないわけだ。(「時代風俗考証事典」 林美一) 


むさしの国神田の社にて神酒徳利をふり見て
当世は 神はいつはる 世なりけり かんだといへど ひや酒もない [万載狂歌集、六位大酒官地黄坊樽次]
地黄坊樽次は仮名草子『水鳥記』にあらわれる酒戦の主人公である。神田神社の神前の酒が冷酒で、燗をしてないのは神の偽りであるというたわいない狂歌である。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


オレの命の泉を絶やしてくれるなよ
私の知人にロシア文学者の米川正夫氏がいる。米川さんは胃カイヨウのため開腹手術をして胃の大半をチョン切ってしまった。したがって食べものは流動食しかとれぬ。命をつないでいるいもなものはビールなのである。朝に昼に夕にメシのかわりにビールを飲んでいる。米川さんの家をたずねたさい、私がビールを適量以上に飲むと「オレの命の泉を絶やしてくれるなよ」真剣な顔つきで制するほどである。米川さんにとってはビールは命の親であるから無理もない。(「井の外の蛙」 福田蘭堂) 


ぱいいち、ぱいつぐ、ぱいつやる、はち、はりうつ
ぱいいち[杯一]酒を飲むこと。[←「一杯」の逆語](強盗・窃盗犯罪者用語、俗語)(大正)
ぱいつぐ[杯注ぐ](動詞)①酒を飲む。 ②食事をする。→ぱい。(強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
ぱいつやる(動詞) 会合して酒を飲む。宴会を開く。[←ぱいいち](強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
はち5 酒を飲んで酔うこと。(強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)
はりうつ[張り打つ](動詞) ①飲食する。 ②酒を飲む。[←はり=「はりかえ」(飲食)の下略](「隠語辞典」 梅垣実編) 


【肴舞】
酒の肴として、舞踏すること。[古今夷曲集]肴舞の扇の風もいやで候。今をしさかりの花見酒には。(「諺語大辞典」 藤井乙男) 酒の肴 


エノケン一座
エノケン一座は、正月など、こういう酔劇をよく演じた、という。正月は、もう、明けても、暮れても、酒が切れない。大酔したエノケンが、ちょうど、武士の役で、舞台に登場した。客席は、超満員で、かぶりつきのところに、父親に抱かれたかわいい坊やが、熱気に圧倒されて、泣きそうな顔になっている。これを見たエノケンは、つかつかと、舞台の端まで行って、「坊や、いい子だねえ。おじさんが、お芝居しているあいだ、泣いちゃダメだよ。コレあげるから…」といって、腰にさした刀を、大小二本ともやってしまった。そのあと、エノケンはその刀を抜いて、立ち回りをしなければならない。だから、いよいよ、チャンバラのキッカケになったときに、うろうろした。いっしょに出ていた二村定一が、楽屋から、別の大小を持ってきたので、かろうじて、ドラマは進行した。酒を飲んで舞台へ出てはダメ、と取り締まるはずの座長が、こういう酔っ払いであるから、一座の連中も、かなりの酔っ払いが、そろっていて、しばしば舞台がおかしくなった。そこでエノケンは、一座に号令して、なるべく飲酒出演はやめよう、といった。(「ああ酒徒帰らず」 木村嵐) 


ちろり【銚釐(上左:未、上右:攵、中:厂、下:里)】銅、または錫の敲(左:高、右:攴 たた)き目のある打出し製の器。専ら酒を澗するに用ひるのである。
色男ちろりのやうな羽織を着 丈の短い羽織
ぶたばぶてなどゝ銚釐を投り出し 夫婦喧嘩
お妾の勧めで銀のちろり出来 小鍋立用として(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


杏所と東湖
寛政一一(一八〇〇)年になり、(藤田)幽谷は許されてふたたび彰考館に帰った。彼のはげしい性格にもかかわらず、稀にみるすぐれた才能識見の故に、いつまでも館外にすてておくことは許されなかったものであろう。結局彰考館は、幽谷を中心とする新進の手に帰したが、それから二〇年余の文政六(一八二三)年、(立原)翠軒は死の床で息子杏所(きようしよ)を呼び、「何といっても幽谷はわが藩随一の人物だ。自分の一代は許せないが、お前の代のなったらいっさいを水に流して親しくせよ」といい残した。杏所は画家で酒仙であり、至って物にこだわらぬ性格で、さっそく藤田家との旧交を温めた。二年後、幽谷も翠軒のあとを追ったが、杏所と東湖とはいいのみ友達で話があい、更に三代目の立原朴二郎(たちはらぼくじろう)になると、東湖の子藤田小四郎(こしろう)の乱(水戸天狗党の乱)に参加して戦死する間柄となった。(「幕末の水戸藩」 山川菊栄) 翠軒は、大日本史を編纂した彰考館の総裁だった人で、幽谷はその弟子でしたが、翠軒は幽谷を破門したそうです。その後、幽谷も彰考館の総裁になったそうです。 


(十二)一ぱいきげんで遣だんな
さる旦那下人よび寄、ことの外さむく候へば、なんじさけを一つのみて、ふし見へつかひにまいれ、やれだけあつくかんをいたし、八蔵にのませと有、下女かんよく候と申す、だんなこゝへ持て参れ、われかんをみんとて、ちやわんにつゞけざまふたつのみ、さてよきかんなりよいきびかな、このいきおいにゐてこいといわれた、(「軽口あられ酒」 近世文芸叢書) 


「もうお酒はやめるよ。ただ寝ている私なんかには、もったいないからね」
母の「お酒、やめるよ」はあくびみたいなもので、ときどきフワッと出てはすぐ忘れる。半年も経つと夕食だけ茶の間にきて籐椅子(とういす)にかけ、私たちと一緒に食卓を囲めるようになったが、私も娘も下戸のために母ひとりゆうゆうと晩酌を楽しむ。飲み相手のいない晩酌はせいぜい一合にせよ、酒の肴は要(い)るし、冬は燗をつけなければならず、面倒でかなわない。飲めない私は、酒の用意まで介護の中に入っているとは思えないのだ。ヘルパーさんもまんざらお世辞で言うのではないように、酒のせいかつやつやして美しい。そして酔いが回るほどに饒舌(じようぜつ)になって演説するから、テレビのニュースも聞き取れず、どこが寝たきり老人かよと蹴っとばしたくなってくる。おまけに母の身内の手土産(てみやげ)ばかりか、私の友人たちまで一升瓶を持ってくるようになって、お礼はいえどもちっともうれしくない私。やっと箱がきたと思えばビールかウイスキーで、開けてがっかり玉手箱だ。そういう私に遠慮するわけでは全然なく、ある日突然「お酒やめるよ」と宣言したから、娘は驚いて「どうして?」と聞き返す。「お酒やめてビールにしようかね」娘は台所でズッコケた。ある日はからだの調子がよくないとのことで、「もうお酒はやめるよ」宣言に、肴を作る手間が省(はぶ)けたとホッとした私は急にやる気が出て、料理を何品も作って母を呼んだ。「こんなにおかずがあるんじゃあ、お酒を飲まないわけにはいかないよ」娘が徳利(とつくり)に酒を注ぎに立ち、笑いをこらえた眼で私に合図(あいず)する。私はあきれて彼女の視線に応える気力もない。(「寝たきり婆あ猛語録」 門野晴子) 


飲酒家(さけのみ)   1.20(夕)
片山国嘉(くにか)博士が名代の禁酒論者であるのは知らぬ者はない。博士の説によると、不良少年、白痴、巾着切…などいふ輩(てあひ)は、大抵酒飲みの子に生れるもので、世間に酒が無かつたら、天国はつい手の達(とゞ)きさうなところまで引張り寄せる事が出来るらしい。尤も亡くなつた上田敏博士などは、酒が肉体(からだ)によくないのは判つてゐる。だが、素敵に精神の助けになるのは争はれない。自分は肉体と精神と孰方(どちら)を愛するかといへば、言ふ迄もなく精神を愛するから酒は止(や)められないと口癖のやうに言つてゐた。その禁酒論者の片山博士の子息(むすこ)に、医学士の国幸(くにゆき)氏がある。阿父(おとつ)さんとは打つて変つた酒飲みで、酒さへあれば、天国などは質に入れても可(い)いといふ性(たち)で毎日浴びる程酒を飲んでは太平楽を言つてゐた。阿父(おとつ)さんの博士もこれには閉口したらしかつたが、それでも、「俺は俺、忰(せがれ)は忰さ。忰が一人酒を飲んだところで、俺が禁酒会員を二人拵(こさ)へたら填合(うめあはせ)はつく筈だ。」と絶念(あきらめ)をつけて、せつせと禁酒の伝道を怠らなかつた。ところがその国幸医学士がこの頃になつてばつたり酒を止(や)めて一向盃を手に取らうとしない。飲み友達が何どうしたのだと訊くと、宣教師のやうな青い顔をして、「第一酒は身体(からだ)によくないからね。それから…」と何だか言ひ渋るのを、「それから…何うしたんだね。」と畳みかけると医学士は軒の鳩ぽつぽや「世間」に立聞きされない様に急に声を低めて、「あゝして親爺(おやぢ)が禁酒論者なのに、忰の僕が飲んだくれぢや世間体が悪いからね。」と甚(ひどく)悄気(しよげ)てゐたさうだ。禁酒論者へ報告する。まんざら捨てたものではない。酒飲みからも、国幸医学士のやうなかうした孝行者も出る世の中だ。(「完本 茶話」 薄田泣菫) 


「酔郷記」仮に終
又旧(もと)の蒲団に寒さを喞(かこ)ちながら入りたりし途端、アゝ我(われ)酒癖(しゆへき)のさまざまを罵(ののし)りながら現前(げんぜん)今も楽観の外道(げどう)に劣れり、酒好む人の思はん所も恥かし酒呑まざらん人の思はん所も尚はずかし、酒好む露伴ならば酔郷の記を作(つくり)し露伴を斬(きつ)て捨つべし、酒好まざる露伴ならば酒呑む露伴を斬(きつ)て捨つべし、何(いづ)れにしても二股(ふたまた)に跨(またが)り酒呑みながら酒徒を嘲(あざ)ける露伴今さら憎し小癪なりし、諸悪の元(もと)なる酒とは知りながら今まで飲みたるは是非なし、酔郷記は最早作り難し、イヤイヤ酔郷記を作り終らざるは遺恨なり、イヤ此遺恨小(ちひ)さく取るに足らず、酔郷記を作りながらも尚酒を飲むこと遺恨骨髄(こつずゐ)に撤して口惜(くちをし)く、酒のむ人酒のまざる人に対して共に恥(はづ)べき頂上なり、思ふに経を誦(じゆ)し理を観るさへ楽観とて鄙(いやし)き者ならば、言を放ち文を弄(ろう)する我(われ)鄙劣の極点なり、一切経を暗誦しとて行(おこな)はずんば安覚(あんがく)は野孤(やこ)ならん、一切経(いつさいきやう)を習得せずとも槃特迦(はんとか)は仏弟子なるべし、我いまだ我慢心足らず自己(おのれ)の言(ことば)を踏得ざる事屡次(しばしば)なれど、今思ひ切て酒を廃し酔郷記を作るべし、露伴人を斬事は或は能(よく)すべし露伴露伴を斬(きる)は否(いや)なり、人に斬られては或は死すべし露伴露伴に斬られて死して怨霊(おんりやう)残る事あるべし、我今奮発して大我慢増上慢心を起し酒を廃す、願わくは従来の経験に徴するに我慢心常に挫(くじ)かる、此故に急卒酔郷記を作らず、此我慢心今或は微弱なりとも三年の後養ひ得て増長せば必ず作るべし、我今自(みづか)ら弱きを知る、酒客に向ッて恐るゝ所あり、悲しい哉、我わが懺悔として酔郷記を作るの勇気なし、三年の後にあらずんば懺悔せじ、それまでの痩我慢まことに後に懺悔となりなんを欲すればなり、と決定(けつぢやう)して尚寝られず。酒壺の中(うち)に日月長からで、苦悩の中に一時間長かりし。(仮(かり)に終(おはり))(明治二十三年一月)(「酔郷記」 幸田露伴) 「酔郷記」を擱筆するに際しての文です。 


時間外れの酒
考えてみると、私の食事にはたいてい酒がついてまわる。ことに外出先では、つい前後の運び具合からそういうことになる。酒の方を一区切りつけて、さあそばを一杯ということなら、ざるにかぎる。口中は清められるし、腹の酒もおさまる。これは気分のよいもので、いかにも仕上げという落着きだが、振り出しからざるまで一杯ということは、私の場合にはない。そこで、真夏でもないかぎり、天ぷらそばで一本ということになるそばやの一隅で、そうして呑む酒が私は大好きだ。こういう味は、連れのない方がよい。お銚子と一しょに、天ぷらそばを注文すると、気のきいた店では、おそばにすぐかかってもよいかと念を押す。のびてしまうのを心配してくれる訳だが、私は実は二口三口酒を飲んでいるうちに、そばも天ぷらの衣も汁も吸い込み、ややのび加減になる頃合いがよく、これを一箸二箸ふくんでは酒ということになる。上品な呑みようでも食べようでもあるまいが、気どってみてもはじまらない。(「時間外れの酒」 永井龍男) 


悪口
-いつごろから、どんな症状があったんですか?
西原 一番強烈で頻繁だったのは、悪口ですね。一緒に住んで半年くらいからかな。とにかく人の悪口を言うんです。もう聞くに耐えられないの。「アイツは俺のことをわざと騙(だま)して、陰で笑ってやがるんだ!」とかね。そういう口汚くて耐えられないようなの。もっと酷(ひど)い言葉もあったんですけれど、聞いているのも辛くて…もう脳が覚えていないですね。いずれにしろまっとうな言葉じゃないんです。
-そういう被害妄想的な症状々が出るケースは多いんですか?
月乃 多いんです。あと"恨み"ですよ。風邪を引くと熱がでるのと同じように、アル中の典型的な症状に"恨み"があるんです。俺も昔は恨みの固まりでした。特定の人物、昔付き合ってた女の子ですけれど、頭の中で「あいつはろくな女じゃない」「あいつのせいで俺はこうなった」って妄想が、ストーリーになってできてくるんです。やっぱり、鴨志田さんも恨みごとが多かったですか。
西原 関わりのあった特定の人物をずーっと攻撃し続けましたね。私の周りの人間とかには特に酷くて、私の親や兄弟のことを平気で罵倒してました。でも、本人がいるとコロッと態度が変わるんでタチが悪い。(「実録!アルコール白書」 西原理恵子・吾妻ひでお) 


夏酒・正月酒
以上表示するところによれば、奈良の一僧坊多聞院は、大体に於て二月と九月前後との二回醸造を行い、前時期に於る醸造酒を夏酒と称し、後の時期に於るそれを正月酒と称している。而して、この両者を通じて、その醸造法は酛造り・初添・中添・留添の三段掛法を採用している。夏酒に於ては酛造りと初添の間に十五六ケ日より二十日余の期間を置き、初添より中添の間は約十日間、留添は中添の翌日にこれを行っている。而して酒上ケは留添より約二十日間を経過した後であった。次に正月酒に於ては酛と初添は約七八日を置いているが、初添・中添・留添は連日これを行っている。夏酒・正月酒に於て、醸造日数を異にしておるのは、恐らく温度の差による醗酵度の変化に起因するものと思う。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


蘭亭記
糸竹(しちく)管弦(かんげん)の盛(せい)無(な)しと雖(いえど)も、一觴一詠(いつしよういちえい)、亦(また)以(もつ)て幽情(ゆうじよう)を暢叙(ちようじよ)するに足(た)れり。
<解釈>事や笛などの楽器のにぎやかないろどりはないけれども、一杯の酒を飲んで一首の詩を作れば、それでもう風雅な思いを述べ表すのに十分である。
<出典>東晋、王義之(字(あざな)は逸少 三〇三-三七九)の「蘭亭(らんてい)記」。『古文真宝後集』巻四。
雖無*1絲竹管弦之盛、一觴一詠、亦足以暢叙幽情。
*1 絲竹管弦 弦楽器と管楽器。楽器。音楽をいう。絲竹も管弦と同じ意。
<解説>風雅の遊びには、酒と詩とがあればこと足りるということを強調した句。この出典となる文の題は、古くは「蘭亭集序」または「臨河序(叙)」と呼ばれた。記というよりは序と呼ぶべきものである。唐代では「蘭亭詩序」と呼ばれ、宋代では「脩禊(しゆうけい)序」、「曲水序」、「禊飲序」とも呼んだ。これを書いた王義之の書は絶品で、「蘭亭」「禊帖(けいじよう)」と呼ばれている。右の数首の題が示すように、陰暦三月三日に行われる祓禊(ふつけい)つまり祓(はら)いと禊(みそぎ)の祭事のあとに、曲水流觴(りゆうしよう)の遊びをしたことを述べた文章である。時に晋の永和九年(三五三)。会稽郡の内史(太守)であった王義之が、山陰県(今の浙江(せつこう)省紹興(しようこう)県)の蘭渚の亭(あずまや)で、当時の名士孫綽(そんしやく)・謝安(しやあん)ら四十一人と曲水の宴を催した。曲水の宴とは、川の水を引いて九曲の流れを作り、人々がその左右の岸に位置して川上から流れてくる觴(さかずき)を取って飲み、一首の詩を作るという遊びである。漢代に始まるもので、当初のは三月上巳(じようし)(三月の最初の巳の日)であったのが、晋代では三月三日に行われるようになっていた。このとき、王義之・謝安ら十一人は四言(しごん)および五言(ごごん)の詩を各一首作り、すべて二十二首。王豊之(おうほうし)ら十五人は各一首。合計三十七首の詩が蘭亭で作られ、王義之がその詩集の序文を書いたのである。王献之ら六人は詩ができなくて、罰杯を大杯で三度飲まされた。-(横山伊勢雄)(「漢詩漢文名言辞典」 鈴木修次編著) 


*身後金を堆(うずたか)くして北斗を拄(ささ)うとも、生前一樽の酒に如かず。(死後、北斗星にとどくほどのカネを遺すよりも、生きているうちの一樽のほうがよい)
-白居易「勧酒」
*酒に薬用の名あり、酔を買ふべき名義に窮するものは愚なり。
-長谷川如是閑「是如閑語」
*酒が入ると英知が出ていく。
-ハーバード「ジャクラ・ブルーデンタム」(「世界名言事典」 梶山健編) 


金粉酒
EAU-DE-VIE DE DANTZICK(オオ ド ヰイ ド ダンチツク)
黄金(こがね)浮(う)く酒(さけ)、
おお五月(ごぐわつ)、五月(ごぐわつ)、小酒盞(リケエルグラス)
わが酒舗(バア)の彩色玻璃(ステンドグラス)、
街(まち)にふる雨(あめ)の紫(むらさき)。

をんなよ、酒舗(バア)の女(をんな)、
そなたはもうセルを著(き)たのか、
その薄(うす)い藍(あゐ)の縞(しま)を?
まつ白な牡丹(ぼたん)の花、
触(さは)るな、粉(こ)が散(ち)るぞ。

おお五月(ごぐわつ)、五月(ごぐわつ)、そなたの声は
あまい桐(きり)の花(はな)下(した)の竪笛(フリウト)の音色(ねいろ)、
若(わか)い黒猫(くろねこ)の毛のやはらかさ、
おれの心(こころ)を熔(と)かす日本(につぽん)の三味線(しやみせん)。

EAU-DE-VIE DE DANTZICK(オオ ド ヰイ ド ダンチツク)
五月(ごぐわつ)だもの、五月(ごぐわつ)だもの-(Amerikaya-Barniに於て)(「食後の歌」 木下杢太郎) 


酒鬼(其七)
酒は飲むべし飲むべからず、少飲に止むれば百薬の長、度が過ぎれば延命の良薬は忽ち気狂(きちがひ)水となる。常は柔和忍辱にて仏さまジヤと曰(い)はるゝも酔ば悪鬼羅刹(あっきらかん)の如く火をふかむ計(ばか)り罵(ののし)りわめく。されば罪は酒にあるかと云へば諄于髠は七八斗を傾くるも大笑して国家の誤を救ひ、李太白は長安の大道に酔倒るゝも天子の招聘に腰を折らず、酒に咎はあらず飲む者の賢愚に依て其(その)果を異にす、人名字書に名を残すゑらいお方は皆酒好きと上戸は巻舌にて理屈を云へど。山田の大蛇(オロチ)の昔より酒に魂を奪はれてあらた財宝を飲み悉(つく)し二ツなき命を棄てゝも杉葉立てたる極楽に遊ぶが嬉しと管巻く無分別者ぞ多かる。大禹は亡国の媒を造りしとて儀狄を疎んじ世尊は飲酒戒を立てゝ娑竭陀(しゃがた)を誡(いま)しめ給ふ、西も東もをしなべて酒飲むがよしと教え給ひし聖人(ひじり)はなきに。魏軍百萬を虎髯にて嚇かしたる張翼徳も酔つぶれては匹夫下郎に寝首を取られ、忠義に凝たる小山田庄左衛門も雪見酒の銚子には末代までも汚名を流せり。謹むべきは酒、名からして恐ろしき般若湯。飲む者の賢愚に依るなぞと賢人めかして掃愁箒としゃれずとも飲まぬほど安心なるはなし。人参(にんじん)飲んで首縊(くく)る白痴ありとも人参が毒と云ふわけもなきに五合の徳利傾けて一時の憂を忘るゝとも是が薬とは申されまじ。一杯は人酒を飲み二杯は酒酒を飲み三杯は酒人を飲むの唐人が誡もテムプルが一杯は我が為に二杯は友の為に三杯は楽の為に四杯は敵の為にと云ひしも異邦仝感(どうかん)に節制(ほど)の理を述べしなるが。浅ましき凡夫心の人間に節制が守れるなら是ほど手軽な説法はなけれど、守りがたきは此節制にて知りがたきは己が酒量にぞある。(「酒鬼」 内田魯庵) 


ルーカン
ベトナムのドブロクも飲んでみたいとおもい、グエン君がベトナム語で、店の女の子に聞いてくれた。女の子は、他のアルコール類はあるがドブロクはないという。それを聞いて居た老人が、小さな茶椀を手に、こちらへどうぞと手まねいてくれた。老人は穏やかな表情で、飲んでみますかといって、茶碗に白い液体を注いでくれた。ぼくは老人の前へ行き、厚かましかったかもしれないが、注がれた茶碗を受けとった。やや酸(す)っぱくて、そこはかとなく甘いは、まったくドブロクそのものだ。ちょっと発泡性もある。ルーカンと呼ばれるドブロクだそうだ。発酵し続けているのだろう。ツーンとくる。(「世界ぐるっとほろ酔い紀行」 西川治) 米の酒のようです。 


百薬の 長たるゆえに かえりては また百病の もととなる酒(脇坂義堂『やしなひ草』)
【大意】酒は百薬の長、また百病のもと。(「道歌教訓和歌辞典」 木村山治郎編) 


四方の留粕の序
此あかは 吾(わが)酒(あか)ならず、四方に知る 赤良(あから)のうし(大人)の醸(かみ)し酒(あか)ぞ。うまらに をせ さゝ、さゝ をせをせ と流行唄(はやりうた)に浮(うか)れたりし、安永のむかし、はじめて こちけいの口をひらきて、狂やく(薬)好む たはれ人にすゝめ、手酔(てゝゑい)あしゑひ酔(ゑひ)くるはせ、一筋の路(みち)を ともじに踏(ふま)せしより、千鳥あしの跡 久しくとゞまり、今も昔に仁宝鳥(にほどり)の、かつしか早稲(わせ)の うま口なる、うしの新醴(にひしぼり)もがな(…が欲しい)と、ふみ(文)のはやしの杉(酒林)をしるしに、たづね来る人 日々に絶(た<え>)ず。げに戯(たはれ)もんざう(文章)は 年月にさまかはりて、あらたなるをおかしと思ふ習ひなれば、何とかやの酒の 十とせ(十年)をへてそこねざるも、口なれたるはめづらしからず。然(さ)りとて酒つくる才(ざへ)なき人の、しぼり出したるは、新(にひ)しきも味(あぢは)ひなし。かくては何をちからとして たはれうたをうたひ、戯れ文をつくるべき。瓶(かめ)のつくるは罍(もたひ)の恥(はぢ)とか。いざたまへ よきあか乞(こひ)にと、書屋(ふみや)とともに うしのみもとに参りて、此殿(との)の奥(おく)の酒屋の うはたまり(上溜まり)、あはれ中酌(なかくみ)をだにと こひもとめたりしに、留粕(とめかす)といふ物 四十枚(よそひら)ばかりとう出て、かう「白+僕-イ」(かび)くさきものながら、幸ひに接骨(ほねつぎ)くすし(薬師)の泥鏝(こて)にもかゝらず、漬物店(つけものだな)の桶にも入らずて、爰(ここ)に留粕のとまりて久しきが、さすがに人酔(ゑ)はすべき所(ところ)なんある。かの劉伶(りうれい)が寝むしろに敷(しき)、憶良の太夫の寝(ね)酒にあたゝめけんやうに、からの大和のねごといひ出(いだ)すたね(種)ともなるべくは、そのしる(汁)をすゝり、その糟(かす)をくらひて、ふみ(文)商人(あきびと)の腹をこやさせよと投(なげ)あたへ給へりしを、やがて寧楽(なら)の桜木にゑらせて、糟堵(かすかき)のかけず崩れず、幾久幾久(いくひさいくひさ)と南総館のあるぢとゝもに、梼(ほぎ)くる(狂)ほすもまづ粕の匂(か)に酔(ゑゝ)るなるべし。 四方歌垣真顔 文政二年己卯正月吉日(「四方の粕留」 太田蜀山人) 「四方の留粕」出版を、酒の製造にひかっけて序文としているようですね。 


つけ鼻
文明がすすんで、手には義手、足には義足と、何でも間に合う時節となった。ある鼻かけが赤坂で有名な江戸一人という店へいって、鼻につけてもらい、得々として友達のところへ寄った。「おや、これは美男子になったじゃないか。どこでやってもらった」「赤坂の江戸一人さ」「まったくうまいものだ。つぎ目も全然眼につかないな」と、しきりにほめる。すると、鼻かけが袂から紙につつんだものを出して、「これを見てくれ」「なんだ、これは」あけてみると、赤い鼻だった。「これをどうするんだ」「こりゃ酒に酔ったときの鼻さ」(「江戸小咄大観」 田辺貞之助) 


ミカキニシン
いつだったか、弘前の踏切近い一杯飲み屋で、ストーブにあたりながら、地酒を飲んでいたところ、向こうの隅のオッさんが異様なサカナを喰っている。なにによらず、土地の人が喰っているモノが、その土地では一番うまい酒のサカナに相違ないから、「オレもあれを!」と指さした。私の前にさし出されたその皿の中は、よくよく見ると、ミカキニシンと味噌と、ニンニクのようである。長いままのミカキニシンは、煮てもなく、焼いてもなく、そのまま市場から運んだように見事ではあるが、一体、どうして喰べてよいのか、私はとまどった。このストーブで焼けということか?しかし、ストーブのあちら側にいるオッさんは、焼いたような気配をまったく見せず、手掴みのまま、味噌をくっつけて、囓っている。そこで、私も思い切って、その長いミカキニシンを手掴みにし、先方のやっているとおり、味噌をつけ、囓ってみると、これはいける。そこで熱燗をキュッとまた一杯、先方のオッさんがやっているとおり、ニンニクを一囓りしてみたが、これもいける。私が笑ったら、先方のオッさんも笑いかえして、「わしらは小さい時、こうして、ミカキニシンに味噌をくっつけオヤツ代わりに握らせられたもんだ。だから今でも、こうして、酒のサカナにするのが、一番うまい」とそんなことをいっていた。(「わが百味真髄」 檀一雄) 


阪妻
同じ映画俳優でも、売り出し中の阪妻の阪東妻三郎などは、一党をひきつれて、料亭にあがって、お銚子を垣根のようにならべて、痛飲する。一党の半分ぐらい、ぶっ倒れたのを見すまして、つぎなる料亭へ行って、またもや、飲めや歌えをやって半分ぐらい酔いつぶれたところで、またまた、つぎなる料亭へ行く。しまいには、阪妻だけになって、それでもまだ飲みながら、「ああ、もう、することがないから、ヘソのゴミでもとろうか」(「ああ酒徒帰らず」 木村嵐) 


料理との組み合わせ
田中-ワインのことがわかってきたところで、次に料理との組み合わせが問題になりますね。「このくらいの値段で、この料理に合うワインは?」という聞き方をよくしますけれど。
田崎-そう難しく考える必要はありません。たとえば、鶏のささみのソテーや紅鱒の塩焼、生牡蠣にはレモンをかけたほうがおいしいと思うのですが、それと同じで、この料理には酸味があったほうがうまみを引き出せるなっていう発想で合わせればいいのです。同じ素材でもクリームソースがかけてあったり、トリュフが使われた料理になると、酸味じゃなくてコクのあるワインがほしくなりますから、シャブリよりも重いムルソーとかが合うわけです。(「ソムリエに訊け」 田崎真也×田中康夫) 


蕎麦切、河盛
江戸時代初期に「蕎麦切」とか「河盛(かわもり)」とかいった蕎麦は、うどんの製法をまねたもので、汁も大体同じようなものを使った用いた。六月から七月にかけてとれる蕎麦のことを特に新蕎麦といったものである。食べ方も手がこんでいて、汁は味噌水垂一升に良質な酒五合をまぜ、乾し鰹の細片を入れてとろ火で煮、塩や溜醤油を入れてまたあたためる。これとは別に大根のしぼり汁・花鰹・山葵・蜜柑皮・蕃椒・紫海苔・焼味噌・梅干などで蕎麦と汁に味をつけたりした。そして、蕎麦切を煮た蕎麦湯を飲むと絶対に中毒しないといわれた。だから、蕎麦を食べたあとには必ず蕎麦湯を飲んだものである。薬味にねぎを使うのは後世のことである。(「落語食物談義」 関山和夫) 


或酒家より一瓶をえて返事に  貞直
湧出る 庭の泉の 壺本の 人のなさけを 請てこそしれ

題しらす  満水
本哥 世間に たへてさかもり なかりせは 下戸の心は 嬉しからまし

同 我こひ湯 しほけも見えぬ をきをきは 人こそしらね 酒の酔覚(「古今夷曲集」) 


握り寿司
握り寿司そのものも、一個一個がひとつの完成形の料理として、そのまま肴になります。握り寿司をつまみにする場合には、注文して出されたら間髪を入れずにそれをいただいて、次の注文までの間にチビリチビリとお酒を飲みます。昔は高級店でしか味わえなかった「人肌の酢飯に冷たいネタ」という、絶妙な食感の握り寿司を出してくれるお店も増えているので、出された寿司を目の前に置いたままお酒を飲んでいると、せっかく完成形で出された寿司がダメになってしまうのです。(「ひとり呑み」 浜田信郎) 


酔いどれ女
鉄くずのようにさびた木の葉が
ハラハラ散ってゆくと
街路樹は林立した帆柱のように
毎日毎日風の唄だ。
紫の羽織に黒いボアのうつるお嬢さん!
私はその羽織や肩掛けに熱い思いをするのです。
美しい女
美しい街
お腹はこんなにからっぽなんです。
私は不思議でならない
働いても働いても御飯の食えない私と
美しい秋の服装と-

たっぷり栄養をふくんだ貴女の
頬っぺたのはり具合
貴女と私の間は何百里もあるんでしょうかね-

つまらなくなって男を盗んだのです
そしてお酒に溺れたんですが
世間様は皆して
地べたへ叩きつけて
この私をふみたくってしまうのです。
お嬢さん!
ますます貴女はお美しくサンゼンとしています。

ああこの寂しい酔いどれ女は
血の涙でも流さねば狂人になってしまう
チクオンキの中にはいって
吐鳴りたくっても
冷たくて月のある夜は恥かしい

嘲笑したヨワミソの男や女達よ!
この酔いどれ女の棺桶でもかつがして
林立した街の帆柱の下を
スットトン
スットトンでにぎわせてあげましょう。(「酔いどれ女」 林芙美子) 


水っぽい酒や闇の値上げ
水っぽい酒や闇の値上げ、悪質の殺人焼酎が新春の帝都に横行して、これが当然のような有様なので警視庁では断乎(だんこ)取締るため調査を開始した。節米策と併行して十四年度(十四年十月一日から十五年九月三十一ママ日迄)の酒造用の米は二百万石と決定され、前年の約四百万石からグッと半減してしまったので、所詮は品不足になるだろうとの不心得な見越しや、近頃の物価高につけ込んだ悪質違反である。帝都の酒店は小売店だけでザッと一万一千四百軒、その一年に売る酒は約六百種、三十八万石に上り、飲食店、バー等に至っては数知れないのだが、旧臘一日から壜詰二十種、樽詰四十種に公定価格が設けられ、月桂冠、キンシ正宗、菊正宗、白鶴、大関等の上酒一升小売値二円二十銭から大吟醸等の八十一銭、その他も去年の三月四日現在以上には値上げならず、最高は三円五十銭(中略)と決定されたのに、その裏から表れた所謂(いわゆる)「玉を割る」の逃げ手、結局水を割っては一升が八合、料理店の一合徳利七勺の酒しかない計算、然(しか)も料理店では頻(しき)りにお銚子の値上げをしているという噂、一方強い焼酎が最近大いに飲まれているがメチルアルコールを含む危険があり保健上の害毒も恐ろしいので警視庁の断乎たる摘発準となったものである。(『朝日新聞』昭和一五年一月一一日)(「酒の日本文化」 神崎宣武) 


屠蘇臭くして酒に若かざる憤り 新聞「日本」明30.1.25
新酒飲んで酔ふべく我に頭痛あり 「自選類題虚子句集」
 新酒飲んで酔ふべくわれに頭痛あり 『新俳句』
 新酒飲んで酔ふべく吾に頭痛あり 『稿本虚子句集』
 新酒飲んで酔ふべく我れに頭痛あり 『高浜虚子全集』十二巻
豊年も卜すべく新酒も醸すべく 「自選類題虚子全集」
唐辛子乏しき酒の肴かな 其他、明治三十三年中の俳句 『定本虚子全集』三巻 


191 いはんや興宴のみぎりには なんぞ必ずしも 人の勧めを待たんや
注 191 一 趣深い宴遊。 二 「水限(みきり)」の意。時、所。 三 「何(なに)ぞ」の転。下の「や」と呼応して、反語の意を表わす。
現代語訳 191 ましてや興宴のおりには、どうして人からの勧めを待とうか。
『宴曲集』巻五の「酒」の一節。吟句風のやや硬い詞章であるが、曲節を伴って実際にうたわれる場合には、さほど支障とはならなかったのであろう。前歌と同様、宴席で勧盃(けんぱい)の時にうたわれたものであろう。(「閑吟集」 校注 臼田甚五郎・新間進一) 


(四)上戸のこたつ
あるじやうごども四五人寄合て、今宵は夜さむにこたつに火を入られよといふ、亭主まだこたつをきらぬといふ、一人が申けるは、こたつより酒一升御かいあれ、打よりたべ我等がふところへあし御さしあれと申、此儀よからうとて酒とりよせ、何れものみてかの人のふところへ足ふみ入、そろそろねられた、ひといきねて目をさまし何れも申けるは、さても是はひへごたつじやといへば、一人の申は、今五合かきさがいたらよからうといふた、(「露新軽口ばなし」 近世文芸叢書) 


敗飲して走る体
武州承応(承応は厳廟(綱吉)の御初年-欄外注記)の頃、武州大塚に住る医樽次と呼ると、大師河原の巨農池上太郎左衛門と云両酒徒、互に酒卒を集め、品川辺の原野にして酒戦せしことあり。迺(すなわち)『水鳥記』と云る絵詞の二軸あり。昔人の書画なり[狩野主馬絵、広沢知慎書と云ふ]。この中池上か酒兵、敗飲して走る体(てい)あり。其中に左の図あり。-
元和より承応に迄るの間三十八年。此頃に至ては已(すで)に昇平の世と成れども、未だ戦国の余風を存せし者歟(か)。手負の者の足を屈めて持つこと、血の下に降らぬやうにする意あるにや。沈酔の者もさすることと聞へたり。今世には知る人もなし。時々闘争せる怪我人も、前図の如くにして引とると云ことを聞かず。(「甲子夜話続篇」 松浦静山)

 



さかほがひ(創作詩)(スツンツの合唱曲にあはせて)
阿古屋(あこや)の珠(たま)を
溶(と)きたる酒(さけ)は
のこさで酌(く)まむ。
ほせよさかづき
ほせよ、ほせよ、觴(さかづき)
 のめや、うたへや
 うたへや、のめや。
 あゝ、おもしろ、
 あゝ、おもしろの
 さかほがひ。
薫(かをり)はたかき
さゆりの花(はな)は
かざしにささむ。
たをれ、かさしに、
たをれ、たをれ、挿頭(かざし)に
 のめや、うたへや
 うたへや、のめや。
 あゝ、おもしろ、
 あゝ、おもしろの
 さかほがひ。
色(いろ)さへ香(か)さへ
妙(たへ)なるひとを
あかずもこよひ
みるが楽しさ。
 のめや、うたへや
 うたへや、のめや。
 あゝ、おもしろ、
 あゝ、おもしろの
 さかほがひ。(「さかほがひ」 上田敏) 


足利尊氏の風雅
姦雄と呼ばれ逆賊と罵られる足利尊氏[嘉元三年(一三〇五)-延文三年(一三五八)]はまた一個の風流人でもあった。かの有名な夢窓国師は、彼が禅学の師として常に尊敬していた所である。一日、尊氏は小鳥狩に出かけて帰るさい、嵐山の麓をすぎると、国師の草庵から煙が立ちのぼっているのを見、やがて立寄って、 露の身を嵐の山に置きながら 世にあり顔の煙立つかな と詠んだところが、国師は直ちに、 世にありと思はねばこそ露の身を 嵐の山の煙とはなせ と返歌した。是から尊氏は折々この草庵を訪れたが、或時国師が濁酒(にごりざけ)を出したので、取敢えず、 隠居して心をすますものならば 濁酒をば如何飲むらん と詠ずると、国師は、 隠居して飲むべきものは濁酒 とてもこの世にすむ身ではなし と返したという。(「日本逸話全集」 田中貢太郎) 


酒飲みの哀愁感(ペーソス)
酒を楽しく飲むために、空腹を耐(こら)へてゐる日本人の習慣は、彼岸の西方浄土を望むために、現世の苦悩を忍んでいる仏教徒の生活と同じやうに、何かの「物のあはれ」を感じさせる哀愁感(ペーソス)がある。先づ充分に食事をし、たらふく食欲を満たせてから、次に強い酒を飲んで酩酊し、食気と飲気の両方の欲を、二重に飽満させる西洋人の生活は、実質的に考へて便利であり、二重に羨ましいやうにも思はれる。だがそれだけまた没趣味であり、実質よりも気分や情趣を尊ぶところの、日本人の生活情操に適はしくない。(「個人と社会」 萩原朔太郎) 


第一人 意気地(いくぢ)無し
新年の宴会、各ゝ着下(きおろ)しの衣裳に自己(おのれ)の美術心かくの通りでござると嗜好(すきこのみ)をあらはして、ズラリと列(なら)んだ大一座(おおいちざ)見事(みごと)なりしが、頓(やが)て杯盤(はいばん)の周旋(しゆうせん)とて出来(いできた)る芸者等の何(なん)のつまらぬ御座付(おざつき)すめば、忽(たちま)ち誰も彼も捌(さばけ)た応答、一人(ひとり)が笑ひ二人(ふたり)が笑ひ、三人笑ひ四人笑ひ、笑ひ声(ごゑ)座中に伝染(でんせん)する時、アハゝゝハと歯齦(はぐき)を出す様な下卑(げび)を為し玉はずニタニタと笑ひ玉ひし御方(おんかた)あり。取り上(あげ)し猪口(ちよく)飲乾(のみほ)して下に置く途端(とたん)隣席(となりの)髭多き男より、一つ献(けんじ)じ天皇(てんのう)と古い洒落(しやれ)を熨斗(のし)にさゝれ、ハテおもしろい事をいふなと感心しながら又ニタリと笑ツて、自分の猪口を叮嚀に盃洗(はいせん)で行水(ぎやうずゐ)使はせ、黙ツて一礼を添へ差出(さしいだ)せば、生憎(あいにく)女は心付(こころづか)ず向ふをむき居るに、其(それ)に声を掛(かけ)て酌(しやく)さするだけの事もせず、自(みづか)ら徳利取ツてソツとつぐ可笑(おかし)さ。是れ場馴れぬよりなれど、一ツは此人の心意気おとなしきより千年たっても場馴れ玉はざる、笑止といへば笑止の事なり。隣りの男は、此先生面白くない酒だなと見て取り余り話も仕掛(しかけ)ず。(「酔郷記」 幸田露伴) 


連載を月に四ページ
吾妻 それでも、仕事はしていたんだよね。連載を月に四ページくらいやってたんだけど、とりあえず、朝起きてはすぐに飲みはじめて、酩酊状態で描いてるんですけれど、一応、仕事はしていましたね。
西原 家族と「病院にいこう、この現状はおかしい」って話し合ったりはしなかったんですか。
吾妻 うーん、「合ったり」はしていないけど、…奥さんからは言われましたよ。保健所の断酒相談所があるからいかないか、って。
西原 いきました?
吾妻 いったらもう酒が飲めなくなるって思って、いかなかった。
注 連載を月に四ページ 該当作品は「エイリアン永理」。一九九七年春から一九九八年冬にかけて海王社「コミックウィンクル」にて連載。吾妻曰く「一冊の中でアル中のときと断酒後の絵が見られるお得な本」。違いがわかるだろうか
断酒相談所 最初から、病院や自助グループに連絡することにためらいがある場合は、多くの保健所で「酒害相談」が行われているのでそちらに連絡を。また保健所以外の相談所として、都道府県別に精神保健福祉センターがある。(「実録!アルコール白書」 西原理恵子・吾妻ひでお) 


文士と酒、煙草 明治四十二年一月
煙草は少年時代からズツと喫んで居ります。非常に好きですから病気になつても中々思ひ切れません。主に刻みを用ゐます。酒の方は胃腸が悪いので此の数年廃止(やめ)て居りますが、偶(たま)には二三杯飲むこともあります。勿論日本酒ですよ。西洋酒はサトラルースと言う葡萄酒が好きで四合入りのを買つてチヨビチヨビ飲みますが、唯高価なので始終飲んでゐる訳ではありません。(「文士と酒、煙草」 泉鏡花) 文章世界という雑誌に掲載された、アンケートに対する答だそうです。 


酒 大正五年一月号「文章世界」(アンケート)
折角のお尋ねながら二三年前より激しき神経衰弱に罹りたると、且昨年来糖尿病に冒されつゝある為め、医師より飲酒を制限せられ、此の頃は酒に対して頗る意気地なく相成候。またそれ程の不自由も感じないやうに相成候。酒を飲まずとも、結構酔払ひ以上の乱暴を働き申候。但し小生の一番好む酒はウオツカにて、此れとウヰスキイのみは幸ひ糖尿病に害なきため、唯今にても少々は嗜み候。右御返事まで。(「酒」 谷崎潤一郎) 


酒正月
あゝ酔ふた酔ふた。屠蘇が三杯灘が百杯、久しい奴だが飲んだ酒なら酔はずばなるまい。ペツペツ気を付るはいゝ、吸物の中に羽根の真が這入ツて居る。これ北の方、北の方といツたら急に御機嫌が麗はしくなツたぜ。北の方より東の方の大関で、大分骨組が荒いやうだが、おツと怒るまい、其むくむくと肥つた処が福々しくツて良といふ事よ。自動鉄道のお客と来て上げたり下げたりするやうだが、かう見た処はなかなかの美だの。『松の内我が女房にちよツと惚れ』」か。ちよつとをせり上げてぐつとゝしやう。板木屋味噌じやアないが、此位のほれ工合ならよからう。おやオヤ徳利が無くなツた。上戸の泥棒が這入ツた訳でもあるまい。種はお前の袖の下か。おきやアがれ飛んだ手品だ。隠さずに出したまへ。ナニ過ぎると毒だ?何だと、跡を引くのは彗星と講釈師と貴郎ばかりだ?お前もまじまじして居ておつう洒落るね。文句をいはずに根ツ切り葉ツ切りこれツ切り、牛の撃剣といふ格で、もう一本は何うだ。おツとよしよし、さう素直にいふ事を聞いてくれると、己もお前を大事にしたくなる。行く行くは奥蔵の脇へ山の神の祠を立てゝ、御洗手水には黄金の摺鉢を据ゑて置く心算だ。何と好趣向だらう。時にかうやツて只飲んでるのも智恵がない、通がツて河東でも語らうか。『どの袖ひかん移香の、峯に一はけ夕霞』、何うだ、いゝ声だらう。ナニ破鍋声だ?聞手が綴蓋の女房で調度いゝ。(「酒正月」 川上眉山) 


一月三日、月、晴。
昨夜、光田、石浜酔って泊る。昼頃おきて三人で酒疲れでぼんやり過す。夕方になり、妻に酒の用意を命ず。小田君子供をつれて来り両君をさらって彼の家へ行ってしまったので、小生後より行く。坪田譲治氏初対面。大いに無茶をしゃべり、高円寺まで氏を送る。東中野に行き、又阿佐ヶ谷ピノチオに引返しのみ、二三軒おでん屋をのぞき、石浜と光田、又我家で泊る。暁近くまでのんだ。
一月九日、日、晴。
虚無。浅床の中で、誰か首でもしめて呉れればそのまま死んでしまいたい、そんな気持、ぐんにゃり一日を送る。-
十二月三十日、金、寒気烈し。
妻は朝から酒一本持ち借金の言いわけに駒村さん宅に行く。山口から送ってきたスルメも持って。来年はきっと支払いたい。夜質屋に行き利子支払う。三河屋にて五十銭飲む。十二月は酒、酒でおくってしまった。来年は仕事をするぞ。妻は医者の借金も支払った。新年の酒二本だけ註文した。(「酔いざめ日記」 木山捷平) 昭和13年だそうです。 


呑仙士
同じ社友で、国原三五郎といふのが居る。これに凖社友の芋倉長江画伯を取合はせると古今の名コンビで、弥次喜多以上の悲惨事を到る処に演出する。大正何年であつたか正月の三日に、国原がフロツクコートで初出社すると、左手の甲に仰山らしく包帯をしてゐる。見ると夥しく黒血がニヂンで乾干付(ひからびつ)いてゐる。トテモ痛さうである。「どうしたんだい。正月匆々(さうさう)…」と聞いてみると国原は、酒腫れに腫れた赤黒い入道顔(づら)を撫でまはした。「ウン。昨日(きのふ)社長の処で一杯飲んで帰りがけに、芋倉長江が嬉しいと云つて此処に啖(くら)ひ付く
きやがつたんだ。俺を西洋の貴婦人と間違へてキツスするのかと思つてゐたら、飛び上る程痛くなつたから大腰で投げ飛ばして遣つたんだ。まだズキズキするが、右手で無くてよかつた」と云つて涙ぐんでゐる。其処へ当の芋倉長江画伯が、死人のやうな青い顔に宗匠頭巾、灰色の十徳といふ扮装で茫々然と出社して来た。見ると向ふ歯が二本、根本からポッキリ折れて妙な淋しい顔になつてゐる。私は驚いて、「ずゐぶん非道く啖ひ付いたもんだね」と慰めて?遣つたら、長江画伯イヨイヨ茫然とした淋しい顔になつて眼をパチパチさせた。「イヤ。これは何時(いつ)打たれたのか、わからないのです」と謙遜?するのを横合ひから国原が引取つた。「ウン。それは僕が知つとる。僕が君を投げ飛ばして遣つたら、君はイヨイヨ嬉しいと云つて横に立つてゐた電信柱に啖ひ付き居(よ)つた。その時に柱に打ち付けて在る針金に前歯が引つかゝつて折れたんだ。僕は君の熱心なのに感心して見て居つたよ」といふ話。トタンに私は酒が飲み度くなつた。いまだ曽て電信柱に啖ひ付くほど嬉しい眼に合つた事が無かつたから…。(「近世快人伝」 夢野久作) 本人は酒は一滴も飲めないそうです。 


新年の御祝儀
斉昭の側室の中には勤王(きんのう)の万里小路(までのこうじ)の娘で、多くの子を生み、夫人とは姉妹のように仲がよいと美談視されていた秋女(あきじよ)もいたが、本当に二人とも満足していたかは分らない。当時の水戸家では、元旦だけは、夫人を皇族の地位に返して藩主以下臣下の礼をとる例だった。その日は大広間の上段の間の座布団の上に夫人を座らせ、藩主以下藩士一同、下段の間に平伏して新年の御祝儀を申しあげ、夫人から御盃を頂戴した。ただしこれは夫人の人格を尊重したり、その人自身に敬意を表する意味でなく、夫人によって象徴される皇室、とりわけ南朝の幻影に対する斉昭個人のあこがれや、センティメンタリズムや、こっとう趣味の現れとみてよさそうだった。(「幕末の水戸藩」 山川菊栄) 



昭和五十年一月新春御歌会始の儀に召人として献歌を命ぜられる
御題「祭」
新年同詠祭応制歌(としのはじめにおなじくまつりということをおおせごとによりよめるうた)
いそしみて いや醸み継がむ にひなめの まつりのにはの しろきくろきを(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎) 


夜の酒がまずくなる
約二十年ほど、毎月(ママ)正月をこの宿(奥湯河原 加満田)で送りむかえをするようになった。年末の年末の二十九日頃から、小林さんを中心に近くのコースでゴルフをして大晦日(おおみそか)まで毎夕食をともにした。いまはもうこの思い出もなつかしいが、正月がくると小林さんの部屋には来訪者がある。むろん、酒が出る。私の部屋へも番頭さんがよびにきて宴席にはべらせてもらえた。中村光夫、林房雄、今日出海、吾妻徳穂。吾妻さんをのぞいてみな故人だが、それぞれ頑固な人々だった。林さんは酔うと声高になって悲憤慷慨なさった。中村さんはだまってしまうと、一時間も二時間も黙りきりだったように思う。小林さんは晩年とてもお元気でよく呑み、よく話された。夜もふけることがあった。番頭さんや奥さんが心配して、徳利の数を加減すると機嫌がわるくなった。夕刻から、一杯やるのがたのしみで、肴のはなし、野菜のはなし、昔喰ったうまいもののはなし、いまにして気づくのだが、ゴルフ場などでも先生はめったに水やジュースを召しあがらなかった。夜の酒がまずくなるから、というのが理由だった。正月がきて、二台のタクシーが表に着く。先のに先生がのられ、あとのに私がのる。二台とも真鶴半島へ向かうのである。奥湯河原から駅前をぬけて海岸通りに出る。吉浜をすぎる地点で、先生は中川一政先生のお宅へ新年のごあいさつである。私は吉浜の山の中腹にあった谷崎潤一郎先生邸の松子夫人にごあいさつして雑煮をいただくのである。(「心筋梗塞の前後」 水上勉) 


最後の一本をやめる
今年の正月の某新聞から、今年は何をやりたいかとアンケートを求められ、どうも酒を飲みすぎて二日酔いをする傾向があるから、最後の一本をやめることにする、と答えたら、友人からそんなこと可能かどうかという抗議を受けた。これは可能である。我が家では飲む場合、最後の一本をつけさせ、それを飲まずに台所の料理用に下げ渡してしまう。料理用なら燗冷しで結構だし、むだにならない。燗冷ましが毎日一合ずつ出る勘定だから、料理にもじゃんじゃん使えて、料理そのものが旨くなる。二日酔はしないし料理は旨くなるし、一挙両得というものである。が、実際には、最後の一本をつけさせ、それを下げ渡すのが惜しくて惜しくて、ついそれを飲んでしまい、毎朝二日酔の状態にあるというのが、私の実情のようである。酒の乏しい時代に酒飲みになったものだから、酒惜しみ根性がどうしても抜けきれないものらしい。(「悪酒の時代」 梅崎春生) 


飲むのは家の外
正月といえば、酒がつきものだが、私は酒好きだけど、否、酒好きだけに、そうきめてかかるのが嫌だ。何ということなく昼間からエンエンと飲み続ける。いろいろな人が入れ代り立ち代りして、お通夜みたいな気分が出ない。酒もまた「白紙状態」に換言する作用があるはずだけど、これでは効果は逆だ。お座敷を変えようにも、外ではいきつけの飲み屋が皆しまっている。私はどちらかといえば外で飲むほうが好きである。酒はどちらかといえば不潔なものだから、便所という不潔専門の場所が外にあるように、飲むのは家の外ですませた帰りたいのである。同じ理由で友人の家で酔っぱらうのも好きでない。(「旅酒猟」 河上徹太郎) 


焼酎に葱少しもりてあたらしき年のはじめとさらに勢(きほ)はむ
以下昭和二十年のもの。その年の正月をこんなあんばいに向かへたらしいが、「焼酎」はいいとしても、「葱少しもてり」と得意になつてゐるのがどうもをかしい。わたしは上州人なので、年の暮には戦争下でも、西上州の下仁田葱ぐらゐは手に入れてゐたらうが、それにしてもたかが葱ではないか。「さらに勢(きほ)はむ」と自分に言ひきかせたつて、どうにもなるものではなかつた。(「飲食の歌から」 吉野秀雄) 


新居 
新居逢元日   新居 元日に逢い
推戸晴曦明   戸を推せば晴曦(せいぎ)明(あきら)かなり
階下浅水流   階下 浅水(せんすい)流れ
涓涓已春声   涓涓(けんけん) 已(すで)に春声(しゅんせい)
臨流洗我研   流れに臨みて 我(わ)が研(すずり)を洗えば
研紫映山青   研(すずり)の紫は 山の青(あお)に映(は)ゆ
地僻少賀客   地僻(ちへき)にして 賀客(がきゃく)少く
自喜省送迎   自(みずか)ら喜ぶ 送迎を省く
棲息有如此   棲息(せいそく) 此(かく)の如く有り
足以愜素情   以(もっ)て素情(そじょう)に愜(かな)うに足(た)る
所恨唯一母   恨む所 唯(ただ) 一母(いちぼ)
迎養志未成   迎養(げいよう) 志(こころざし) 未(いま)だ成らざるを
安得共此酒   安(いずく)んぞ得ん 此の酒を共(とも)にし
慈顔一笑傾   慈顔(じがん) 一笑(いっしょう)して傾(かたむ)くるを
磨墨作郷書   墨を磨(す)りて 郷書(きょうしょ)を作(な)せば
酔字易縦横   酔字(すいじ) 縦横なり易(やす)し
新しい住居に移って元日となり、戸を推し開くと晴ればれしい日光が明るい。縁先には浅い流れがあり、はやちょろちょろと春めいた音を立てている。流れを前にして私の硯を洗うと、硯の紫色が前の山山のみどりに照り映える。土地が場末だから年賀の客が少なく、送り迎えの手間が省けるのがうれしい。こういう塩梅の住居を手に入れたものだから、日ごろの思いが十分に満たされた。ただ残念なのは、たった一人の母親を、わが家に迎えて世話をしたいという希望がまだかなえられないでいること。私はこうして新年の祝い酒を飲んでいるが、何とかしてこの酒をともに汲みかわし、やさしいお顔がにっこりされて、杯を傾けるのを見たいものだ。墨をすって郷里の母へ手紙を書くと、酔っ払った字は思う存分よく書ける。(「新居」 頼山陽 注者 入谷仙介) 


源氏酒
私の家では正月の三日間だけは遊ぶことにしてゐます。昼は大抵女房と羽根をつきます。夜はカルタを取ります。そのカルタの前に時々『源氏酒』という遊びをやります。私の発明するところにかかるものです。まず五種だけ違つた銘の酒を買ひます。たとえば白鷹に月桂冠に大関に爛漫に日本盛といふやうなものです。男女の悪友が集まると、まづその一つ一つを名を言つて飲ませます。それから今度はそのうちの三種だけを同じ形の徳利五本に入れて五度に飲ませます。さうすると同じ酒を二度飲むわけです。その前に紙の小切れを渡して、それに線を縦に五本引かせます。それは五度飲んだ酒です。そしてその同じ酒だと思つたのを横につなぎます。それで源氏模様が出来ます。そこへまだ味を知らない哀れなるねえやさんがあらはれて『今のは帚木でございます。』『今度のは須磨でございます。』など宣言するといふ寸法です。もちろん誰のも当りません。当るのはよくよくのまぐれ当りです。私はこの遊びの張本人ですから、百発百中の成績を得るつもりで相当努力しました。同じ白鷹といへば、市内のどの酒屋で買つても必ず同じ成分内容を持つてゐるかどうか、そこは私には問題になりません。ただその晩の白鷹や大関の区別がわかれば十分です。しかし、それがなかなか難儀です。ちよつとした口や頭の工合で同じ酒でも色々な味になります。酒の成分が舌を刺激する時、その刺激を頭が受け取る様子が恐らくその時々で違ふのでせう。(「源氏酒」 兼常清佐) 


酒と正月
私は先妻をうしなつて後、あしかけ六年間ほど、独身でゐた。まだ、三十代だつた時分、そのころ、清水崑と知りあつた。私は無名、憂悶の折だつたが、清水は漫画で売出してゐた。私達は当時、東京郊外の下宿やアパートに住んでゐた。大晦日になると銀座で飲み、浅草へ行つて除夜の鐘を聞いた。年越しのそばを食べ、お礼の火にあたりながら新しい年を迎へる気分は、何とも言へなかつた。昭和十一、二年のころである。それから私たちは、吉原をぶらぶら歩いてゆく。大門の通りに十夜営業している料亭があつた。清水の馴染みの家で、引手の茶屋ではない。それへあがると、姉妹の芸妓が高島田裾模様の晴衣姿でやつてくる。これも清水のお馴染みで、いつも二人だつた。私たちは二人を相手に、夜明け方まで飲み、酒興にのつて放歌乱舞した。正月の未明、そんな騒ぎのできるのは、吉原しかない。それも料亭にかぎつてゐた。私たちは毎年、そんな風にして新年を迎へた。年始に行く所もないし、くる客もない。はなはだ手持無沙汰な身の上だから観音様や吉原芸妓に年始にいつたやうなつもりで、例年の習慣になつた。(「酒と正月」 中山義秀) 


デカンショ節
昔の学生がよく歌ったデカンショ節に
論語孔子を読んでも見たが
 酒を飲むなと書いちゃない
酒は飲め飲め茶釜で沸せ
 下戸の建てたる倉はない
酒は飲め飲め茶釜で沸せ
 御神酒あがらぬ神はない-
どうせかうなりやデッカイ事なされ
 親爺質において酒をのめ(「日本の酒」 住江金之) 


糖度が年々上がっている
「伯楽星」(宮城)蔵元の新澤巌夫さんが調べたデータも紹介しましょう。グルメ雑誌の月刊「dancyu」(プレジデント社)では、毎年、日本酒の特集を発刊しています。私も約十五年間に渡って多くのページの執筆を担当してきましたが、二〇一〇年の年末に新澤さんの酒蔵(さかぐら)を訪ねた際、特集の巻頭ページで取り上げられる日本酒の糖度が、年々上がっていると指摘されました。「特別純米や純米吟醸クラスの酒の糖分は、ここ数年の平均値では100ミリリットルあたり1.3グラムから1.5グラムぐらい。十年前は1.0グラムぐらいでしたから確実に甘めの傾向になっています」と言うのです。(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子) 


おーいお母さん、お酒くれ
実生活ではとにかく不器用な人で、ファックスは送れないし、ビールの缶を開ければ泡だらけ。私を「お母さん」と呼んでなんでも頼みました。「おーいお母さん、お酒くれ」と呼ばれると、ミニボトルでウイスキーをつめておいて、「はい」と二本だけわたします。開いたミニボトルをずらりと並べて「お地蔵さんだなあ」と笑っていました。大腿骨骨折のあと、九七年末に食道ガンが見つかると、手術はいやだといって放射線治療を選びました。陽気に振る舞い周囲の人たちを笑わせてばかりいました。看護婦さんに大人気で、意識を失うとナースステーションの全員が馳せつけて、お医者さんが「前代未聞だ」と驚いていました。各社の編集者がそろって御見舞いに来た時、「俺の葬式の相談しているんだろう」と言うんです。最後の日は、しきりに「眠りたい」というので、冷や酒を吸い飲みに入れてあげると、一合すうっと呑んで「うまい」といい、眠るように亡くなりました。田村は「明日も生きよう」と思っていたのでしょう。私は、田村がすべてから解放され安らかになったのだと思いました。(「見事な死 田村隆一」 田村悦子(夫人) 文藝春秋編) 


ゴトクと犬
大昔のこと、ゴトクには足が四本、犬には足が三本しかなかった。ところがその頃犬神様といって、とても偉い神様があった。その神様がある日、大勢の家来をつれて、山に花見に出かけた。そして帰る途中、道端に沢山の犬が、みな三本足で、よろめきながら、不自由そうに歩いていた。で神様は、可哀想に思って、家来に犬を一匹つかまえさせて見たところが、胸の両端に一本づつ、後の真中に一本ついている恰好が悪いので、何とかしてもう一本つけてやろうと思って御殿に帰った。十二月三十日の年取りの晩、明けると新年という夜、神様は酒を銚子に入れて、炉のゴトクにかけた。そして炭をくべようとすると、ゴトクの足にあたって炭が入らない。そうこうしているうちにゴトクから薬罐がひっくりかえって、酒がみあんこぼれてしまった。神様は怒ってゴトクの足を一本取ると、そこから炭が入るようになった。そのもいだゴトクの足を見て思いついて、早速犬をよび、犬にその足をつけてくれた。犬は格好もよくなり、自由に歩けるようになったので大喜びした。このときから犬の足は四本、ゴトクの足は三本ときまった。だから今でも犬が小便する時は神様から頂いた足に、小便のかからぬように、片足を上げてするのだそうだ。(八戸市の話 採話・曲田達八)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


1781 歳暮夜飲      歳暮、夜飲
晨光無日不熹微      晨光(しんくわう)日として熹微(きび)ならざるは無し
今是寧知定昨罪      今是(こんぜ)寧(いずく)んぞ知りて昨非を定めん
但願燈前一樽酒      但(た)だ願ふ燈前一樽の酒の
年々歳々莫相違      年々歳々相違(たが)ふことなからんことを(南畝集9) 


江川酒
江川酒は中世の末葉後北条氏の全盛時代以来関東方面に名酒として喧伝されたもので、伊豆の名産である。-
この江川酒について『渡辺幸庵対話』(改訂史籍集覧本)には、次のように興味ある説をあげている。 江川酒の事、文字の如此にてハ無之候、豆州之内大川と申処有之候、則大之字を書てエと読申候、鎮守ハ大川大明神也、此処にあり(るカ)水にて造り出申酒にて、昔江川酒と名付申事、小川をエ川と読申候、江川にハ鱒鮭無之物に候故、ます酒なきと称美の詞にて、エ川酒と申候、処の名とハ同し事なから、文字替り申候、小川長左衛門と申す仁、大番より此処の御代官被仰付、御収納米にて此の酒を造らせ献上に候、代々長左衛門殿は二百石取被申候、 今日伊豆東海岸加茂郡城東村の大字に大川なる地名が残っている。江川酒はこの地の醸造酒であったのであろう。また幸庵の対話より見て、『親俊日記』天文八年七月十日の条に、「貴殿奉公衆御同道、小河酒在之、野州(洲)井御酒調進之」と見える小河酒は、或は江川酒のことであるのかも知れぬ。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


糟糠の妻
オレアリの奥さんが夜中に目をさますと、夫が台所でゴソゴソ動きまわっているのが聞こえた。「なにを探していらっしゃるの?あなた」「いや、なんでもない。なんでもない」「じゃ、いつものウィスキーが入っているびんに、お目当てのものは入っていますよ」(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


お幸ちゃんのいるキラク
井伏さんは昔、たしか大震災のあと田中貢太郎さんに仕事のことでいろいろ世話になった、という。結婚したときにも田中さんに仲人になってもらったそうである。井伏さんの自叙伝に書いてあるが、井伏さんがはじめて友人の紹介状をもって小石川茗荷谷の田中さんの宅を訪ねると、田中さんはとにかく散歩しようと言って、「お幸ちゃんのいるキラク」という西洋料理屋につれて行き、「ちくと飲もう。おい、ここな娘さん。ニッポン酒をくれ」と、そういう注文をして田中さんは酒を飲みだした。この店では借りがきくから幾らでも飲めというので、井伏さんも酒を飲むことにして相当の量を飲んで一と息ついたところで、田中さんは酔いにまかしてこういった。「ほほう、君はなかなか飲むきに見どころがある。そうじゃ、多いに飲め」井伏さんはあまり飲んで倒れても困ると思って、早稲田の肩口教授が酒を慎めと教訓した例をあげると、田中さんは、「かまわん、あんな文士は小人じゃ」といった。井伏さんは殆ど身動きできなくなるほど酔いつぶれた。田中さんは人力車を呼んで鶴巻町の下宿屋まで送りとどけてくれたそうである。(「酒士の印象」 篠原文雄) 


インドネシアで飲んだやし酒
栓を抜いたら瓶の底から、小さな泡が無数に上がってくる。一口ぐいっと呑んだ。やや酸味があり、発泡していてツーンとくるが飲めなくはない。瓶が一巡し、もう一口呑もうとおもって瓶を受け取った時だ。ムムッ、何やら白いものが瓶の中で、泡とともに体をくねらせ上下している。そのくねくねしている虫を指さし首を傾(かし)げると、運転手のイダは「この虫がいないとうまくないのだ」とその白い虫を指さしながら、親指を立てた。「いい」という意味だ。白い虫をつっと呑み込み、うまいというような顔をした。どうして虫がいるほうが、うまいのかと聞こうとおもったが、聞いても言葉が分からない。無駄だと思ったから、聞きはしなかったが、なんとも不思議だ。ぐいっと呑んだ。薄甘い飲料水に、酢を混ぜたようにツーンとする味だ。(「世界ぐるっとほろ酔い紀行」 西川治) インドネシアで飲んだやし酒だそうです。 


酒甕神(さけみかのかみ)
平安朝時代、造酒司(みきのつかさ)の酒甕神がある。この中に大邑刀自(おおむらとじ 大甕)・小刀自(ことじ 小甕)・次邑刀自(つぎむらとじ)の神があある。清和天皇の貞観元年、大刀自神に従五位を授け、春秋の祭典のとき祭るように定められた。(「日本の酒」 住江金之) 女と酒 造酒司酒殿坐神 


酒と月
楊誠斎(ようせいさい)の「月下に杯を伝(まわ)す」という詩に、
老夫(おれ)は渇(のどかわ)くこと急にして月は更に急なり
酒 杯中に落つれば 月先に入る
青天を領取して併(あわ)せ入り来たる
月をも天をも都(す)べて「上:艹、中左:酉、中右:隹、下:れんが」(ひた)し湿(ぬ)らす
天既に酒を愛すること古(いにし)えより伝うるところ
月飲む解(あた)わずとは真(まこと)に浪言(たわごと)なり
杯を挙げて月を一口に呑みしに
頭(こうべ)を挙ぐれば月の猶(な)お天に在るを見る
老夫大いに笑って客に問うて道(い)わく
月は是れ一団(ひとつ)なりやと
酒は詩腸に入って風火発(おこ)り
月は詩腸に入って冰雪潑(とびち)る
一杯未だ尽きざるに詩は已(すで)に成り
詩を誦して天に向かえば天も亦驚く
焉(いずく)んぞ知らん 万古の一骸骨(がいこつ)(注一)
酒を酌んで更に一団の月を呑まんとは
私は十余りの少年の時、父君の竹谷老人のお伴をして誠斎にお目にかかったところ、誠斎がこの詩を朗吟するのを目(ま)のあたりに聞いた。そのときこう申された、「老夫(わし)のこの作は、自分でも李太白(りたいはく)そっくりに出来た(注二)と思うている」と。(巻十)
注 一 万古の一骸骨 自分自身をいう。枯れきった達観の底に見すえたイメージをそのまま打ち出したもの。 二 李太白どっくりに出来た 李白に「月下独酌」など、月を友として飲む酒の詩がある。(「鶴林玉露」 羅大経 入矢義高訳 宋代随筆選 中国古典文学大系) 


阿部知二(あべ・ともじ)
明治三十六年六月岡山生れ。東大英文科卒。明大教授。英文学正統派の理論家で、小説と評論の両刀使い。昭和初期、横光(利一)、川端(康成)らの新感覚派時代の新作家として登場、代表作『冬の宿』で文壇的地位を確立した。いわゆる知性の作家である。『黒い影』『人工庭園』は好評であったが『冬の宿』を凌ぐまでに至っていない。最近、文学校長になったりデモ事件の裁判の弁護に立ったり、左翼的正義感をもつ動きをみせつつある。寝言で英語をペラペラやるといわれる彼の弁舌は、音楽を聞くように流暢。中年後酒豪となる。(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。永井龍男の「酒徒交伝」に、この事典は、「あることないことを取りまぜた記述が、なかなか愉快である。」と記されています。 


瑞光
さて、その柳川からちょっとばかり山つきのほうに上がったところに、瀬高という町がある。城島(じょうじま)とならび称される酒の名産地だ。町の中を矢部川が貫流していて、どこの井戸も、水質がよろしいのか、ここの地酒はたいそううまい。実は私の女房の実家が、この町の造り酒屋であって、酒の名は「瑞光(ずいこう)」(〇九四四-三-二二六九)である。私は今日まで、あまり日本酒を飲まなかった。なぜなら、日本酒をのめば、いやでも女房の酒を飲まねばならないからだ。女房の酒に馴れてしまえば、頭が上がらなくなるのが道理である。渇シテモ盗泉ノ水ヲ飲マズで、女房の家から酒が来れば、ドカドカと人に分けていた。だから友人たちは「酒ナラ瑞光」「酒ナラ瑞光」といってくれている。私も、ニュージーランドやオーストラリアに出かけたり、ロシアに出かけたりしたときには、その「酒ナラ瑞光」は、すでに海外に輸出されているのである。さて、外地に着いて、おそるおそる飲んでみると「瑞光」はまことにうまい。辛くなく、甘くなく、さっぱりと舌に澄んで、その水質の桁はずれによいことが、口の中で感じられる。畜生!女房の酒でなかったなあ、とそのつど、大声をあげるならわしだ。(「わが百味真髄」 檀一雄) 瑞光は廃業したようです。 


パリ ノーエルの夜
この宵も マルチニの白(ブラン)かと 問ふガルソヌの まなざしに見る ふるさとのひと
マルチニは わが好む酒 シトロンと 氷(グラス)をそへて たばひねや君
ゑがほもて われにすすむる ガルソヌの 酒はこよひも わが好む酒
葡萄酒と チーズいだきて ノーエルに 君を訪ふべく 登る七階
ノーエルの 街のとよめき 遠く聞き み室にくみし 酒はアルヂェー(「パリの生活から」 坂口謹一郎) 


大田南畝の狂歌(4)
飲中八仙
知章
井戸ばたの 茶椀酒にて 馬の耳 風ふきおくる 猪の牙の舟
沙陽
酒の香の 匂ひくるまの かうじ町 十三丁や よだれたらさん
左相
聖人の たのしみ酒も かはりなく 日には 十貫文の入用<にふよう>
宗之
盃の ひかりもさすが 男へし くねりまはらず 皓(かう)としてたつ(千紅万紫) 


かぞえ年十八歳の配給
あれは二年生(高校時代)-昭和十七年のクリスマスの夜だった。友と本郷で古本屋をあさったのち、燈火管制で暗く、寒風が身を切るような通りを歩いて、蝋燭をともした屋台へはいった。鳥とねぎの炒めかなにかで、得体の知れないウィスキーを飲んだ。そのころはもうそんなものが御馳走だった。かなり飲んでから喫茶店へはいった。サラリーマン風の青年が二人、これも大酔して大声で話している。と、やがてひとりが手でタクトを振りながら、「聖(きよ)しこの夜」をドイツ語でうたいだした。眼をつぶったままおなじ節(せつ)をいつ果てるともなく繰り返している。相手も眼をつぶって黙って聴いている。もうじき出征するんだな、そして死ぬんだな-と、酔って朦朧とした頭のなかでなんとはなしにそう感じた。その夜私は成城のその友人の下宿へ寄り、ほかの友達の分までありったけの配給酒をまき集めて飲みつくし、正体もなくよいつぶれてしまった。高校生でもかぞえ年十八歳になれば酒、タバコの配給があった!(「酒は道づれ」 河竹登志夫) 


池の酒 蛇婿入 蛙報恩型
親父が旅で蛙を呑もうとしている蛇に懐刀を投げつけ、向ってこようとする蛇に羽織をかぶせて助けた。若い男が留守の家をたずね、五十里ばかり先の者だが娘の婿にすると、親父と約束したので訪ねてきたといった。「そんな事は家へいってこない」というと短刀と羽織を出して婿にする約束の品だという。親父の持ち物に違いないので家に入れて婿にした。娘の顔が青くなり食もとらなくなった。妊娠したのかと思ったが次第に弱ってくるので、婿の様子がおかしいと気づいた。ある日婿の留守にまた一人の若者がたずねてきて、「五十里先の田圃に住む蛙で親父様に助けられたが、それを恨んだ蛇が婿だといって化けてきているのだ」と教え、庭の大きな松の木の上に巣をかけている鷲の巣を取りにやれといって姿を消した。婿が帰ってくると、何気なくその事をいいつけた。婿は取りに行くが、「取ってくるまでは姿を見てはならない」といった。母娘は承知して家に入っていたが、戸の隙からのぞいていた。婿は蛇の姿になって松の木にのぼって行くと、木の上の巣から大鷲がとび上がって蛇にかかって来た。他の鷲も加勢して攻撃してきたので蛇は地上に落ちて死んでしまった。そこへ前にきた蛙の若者がまたあらわれ、「私が庭の池にとび込むから、そのあとの水を飲むとおいしい酒に変っている」といって池の中にとび込んだ。母と娘はいわれた通りにすると蛙のいった通り、上等な酒に変っていた。その家ではその酒を売って身代をあげ、帰ってきた親父もびっくりした。(三戸郡名川町名久井の話 採話・小笠原梅吉)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


緑酒紅灯の裡に居て心を鉄石にす
かくしてその歳も暮れて明くれば慶応元年の正月となったが、前にもいう通り、昨年から京都の形勢はやや小康を偸(ぬす)むという有様で、一橋と諸藩との交際はますます煩雑になって来たが、その頃では黒川嘉兵衛が用人の筆頭で、御用談所の事務を全権で支配しており、また川村正平は自分らより一級上の身分で、同じく御用談所出役(しゆつやく)であった、常に交際上の事に奔走された。自分らもやはり黒川などの下役だから宴会ごとに必ず随行して、たいてい毎晩のように今夜は筑前藩の御馳走、明夕は加州藩の招待、明後夕は彦根の岡本半助(おかもとはんすけ)が木屋町(きやまち)の何亭へ招くとかその間稀(まれ)には真実国家を憂うる有志はいも出て来て、外国の経世はどう、政府の職分はかくありたいものだなどと論談する相手がない訳ではないが、多くは杯酒の間に往来して花を評し柳を品するのをこの上もない快事とするものばかりだから、自分は微(すこ)しこれを厭(いと)うたが、しかしこれらは藩と藩との交際宴会で、もとより自分らが主となる訳ではなく、ただ黒川の随従役で酒の座敷の御取持をするというまでの事ではあるが、毎夜のように祇園町とか木屋町とかいう場所で酒杯の席に陪するのが職分のようになって来ては、自然と浮薄の風に流れやすい虞(おそ)れもあるから、その頃両人はこのさい別して倹約を守って極めて謹直にしようと、堅く約束して置いたから、いかに緑酒紅灯の花吸海(かすいかい)に遊泳したからといって、自身の催しから遊興などしたことは一度もなく、酒はもとより飲まず婦人にも一切接せぬというすこぶる堅固な覚悟であった。(「雨夜譚 渋沢栄一自伝」 長幸男校注) 徳川慶喜の臣下時代のエピソードだそうです。 


久しくあはさりける(会わざりける)山田氏にいなだ(鰍)といへる肴にて酒すゝむるとて  武士八十氏(もののふのやそうじ)
今もつて 酒はやまたの おろちなら 出(いだ)す肴も いなた姫(稲田姫)そや

くそくひらき(具足開き)の日 紀定麿(きのさだまろ)来りけれは  酒上 不埒(さけのうえのふらち)
五十歩も 百歩も をなし(同じ)足もとの よろりよろひと 酔給へかし
返し  紀定麿
むた口は 何のやくにも たゝかひを もつてたゝれぬ ほどに酔けり(「徳和歌後万載集」) 


値段に見合うクオリティ
「-素性のいい酒、上質な酒はもっと高くてもいいと私は思う。安売りしてほしくないんです。今ならまだ間に合う。今のうちに世界の超一流の有識者に、お金を払う価値がある日本酒がたくさんあることを知ってほしいのですよ。そのためには、値段に見合うクオリティがあることを納得させるものがないといけない。納得させるためには米を極限まで磨いたとか、低温で発酵させているとか、醸造技術論だけでは限界がある。ましてや金粉が入っているとか、ボトルに金をかけているだけでは、本物を見極められる超一流の人たちは納得しませんよ。では、彼らが何に最も価値を見出すか。それは、その土地でしかできないもの、その場所でしか出せない味です。考えて見てください。優れているのが技術だけなら、再現性があるわけだし、金を注ぎ込めばどこかほかの場所で大量に造れる可能性があるってことでしょう?そんなものに高い金は出しません。そこの気候、その土壌、その条件でしか、その味が出ない、しかも、それが素晴らしく上質である。それなら高くてもほしがる人がいる。そんな日本酒をどこかで造ってくれないかと、ずっと探していて、出会った酒蔵の一つが、『根知男山』なんです」と、一気に語った。このインタビューは、大橋さんが、日本酒造組合中央会の会議室で、「日本酒の海外戦略」と題するセミナー(コーポ・サチ主催)の講師として招かれた前日に行われたものだけに、日本酒の酒蔵たちを叱咤激励する思いで、語れば語るほど大橋さんはフーとアップしていった。(「極上の酒を生む土と人 大地を醸す」 山同敦子) 大橋健一は栃木県の業務酒販店「山仁酒店」代表取締役社長だそうです。 


カウンターの向こうには
カウンターの向こうには煙草や葉巻の煙が充満し、中世のお姫さまさながらにフレアーのあるドレスを着、きらめくイヤリングをゆらして、化粧した女性たちが米兵の相手をしている。「店に入ってきてむすっとしたお客がいたら、私から先に一杯おごるんだよ。むこうの人はおごられたら必ずおごり返すから、ごちそうになって、またお返しをし、そのうちにいい気分になって、店中の女の子たちに何回もおごって、すっからかんになるんだよ」と、いつか母が回想していたことがある。一袋三十円の粉ジュースを一杯二百円で売り女の子たちはウイスキーの水割りと称してせっせと麦茶を飲み、朝鮮戦争とベトナム戦争を経て私の家は豊かになった。母のこの商売のおかげで子供たちは恵まれた生活を送ることができ、十分な教育を受けさせてもらったといえる。が、子供の頃、私はこの母が好きではなかった。米兵を乗せて集まってくるタクシーの運転手に心づけを渡し、客に愛想を振りまき、酔客をさばき、女性たちを仕切っていた母は、明け方近くに眠り込み、朝早く、枕元で子供たちがうるさくしようものなら邪険に追っ払ったものだった。子供たちの世話は全部お手伝いさんまかせだった。(「母そっくりの私」 成美子(エッセイスト)) 


無愛想な人、家来
石川達三は、酒の方が傍らへ来れば呑んでやるが、来なければ呑んでやらないと云った呑み手で、酒の方から云わせると、無愛想な人だと呟くかも知れない。
顎を出して杯をふくむのは石川淳である。その恰好で、「お前みたいな無学は…」とか、「この馬鹿がね」なぞ云われても、決して驚いてはならない。そういう時は上機嫌なのだ。この頃はいつも奥さんと一しょに、銀座でコニャックやカクテルを愛用しているが、もう奥さんを「家来」とは云わないようだ。民主的な貴族に鞍がえしたのであろうか。(「酒徒交伝」 永井龍男) 



本 瀧のみを絶す久しくつゝくれは上戸の名こそ猶聞へけれ
霰酒
あられ酒玉の盃底はあれとうき老か身は色も呼れす
 奈良菊屋より献上のすそとてみそれ酒をおくられしに
うへうへにあかりしふしのみそれ酒すそのみてさへ風味よし原
 さかの茶屋のおもてに壺入の千鳥あしありとと書たるかこゝろにくゝて
大井河深き心の亭主そと誰もつられてあひにこそくれ
酔たとき千鳥足ても南無薬師壺入なれは薬成らん(「貞柳翁狂哥全集類題 雑部上」) 


「お子様ランチふたつ、酒五本」
去年(二〇〇五年)の夏に八十八歳で亡くなった上方講談の三代目旭堂南陵さんは、有名な二代目南陵の息子で、「小南陵」時分からの付き合いです。私より八つ上で、先代同様、長生きでした。この人と私の兄弟弟子の米之助君と、どっちも飲み助でね、同じ近鉄沿線に住んでたんですよ。上六(上本町六丁目)辺りの一杯飲み屋で「時間があるさかい、ちょっと飲もか」。それがちょっとやない、終電もあぶないころまで飲んで喋(しやべ)ってる。どっちもうだうだと喋る酒で、話し相手になれる人がいてたら、肴(さかな)は何でも良いわけです。近鉄百貨店の食堂でも飲んでばっかり、何ぞ食べるもん注文せな追い出されてしまう。そこで、お子様ランチを頼むことを発見してね。あれは、いろんなおかずがちょっとずつあるんで、飲みながら食べるのにかことに都合がいい。仕上げのチキンライスまであるしね。「お子様ランチふたつと酒五本」とか言うわけです。終(しま)いに有名になってしもうて、「これはお子様のために作ってるのやから大人の方はご遠慮願いタイ」と言われた。「ご飯に旗がない」と、持って来させて立てて喜んでいるような不思議な存在でした。(「米朝よもやま噺」 桂米朝) 


これはこれは大酒のまるゝ事よと亭主の笑へりけれは 読人しらす
本哥 あがり子の 椀をおりべに なすらへて 八たひのまばや 酔時のあらん

返し
同 あかり子の わんをおりべに なせりとも てうしのこりて 酒や残らん(「古今夷曲集」) 


甘口タイプ
このようにして、戦後すぐから約五十年をかけて、甘口で味のある酒=粗悪な酒、辛口ですっきり淡麗な酒=良い酒、という評価基準が出来上がってしまったのでしょう。旨口の酒にスポットが当たったのは、一九九三年、当時二十代の若い蔵元が自ら造った酒「十四代」(高木酒造・山形県)中取り純米酒です。蔵元自身が旨いと思う酒を実現じたこの酒は、弾ける香りと、生き生きとした旨味や綺麗な甘味を持っていました。さらに翌年に発表した「十四代 本丸」は、特別本醸造ながら、吟醸を思わせる華やかな香りと爽やかな甘みがあり、1升2000円を切る価格(税抜き)の安さもあいまって大ブレイク。「十四代」の登場は、"芳醇旨口"タイプという日本酒の味わい、蔵元杜氏というありかた、価格設定など、さまざまな意味でのエポックメイキングとなったのです。その後、濃厚な味わいを好むファンの増え始めます。活性炭による濾過が行き過ぎて酒の味が薄くなってしまうことに対する反動もあり、"濃醇旨口"タイプの「無濾過生原酒」が注目されるようになりました。さらに、近年では嗜好の多様化が進んでいます。たとえば一九八七年に造る酒をすべて純米酒造りに切り替えた「神亀」(埼玉県)や、この蔵で造りを学んだ「竹鶴」(広島県)のように、酵母が糖を完全に食い切るまで"完全発酵" させた酒は、水のように淡い辛口ではなく、濃くて、キリリと締まった飲みごたえのある"濃醇辛口"タイプとして、熱烈な支持者がついています。一方では「而今」(三重県)、「冩楽」(福島県)に代表される、酸と甘味のバランスのとれた"ジューシーな甘口タイプ"は、ワインを好む若い世代や女性たちをも虜にしています。(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子) 


居酒屋にわが酔ひし間(ま)を自転車のサドルにしるく雪たまりけり
一台のボロ自転車によつて、物資集めに飛び歩いてゐた。「血痰を吐きつつもとな巨福呂(こぶくろ)の坂にかかりぬ薯(いも)背負(しよ)ひてわれは」などといふ歌をみると、-その時も自転車だつたが、-ずゐぶん無理をしたものだと歎かれるが、前の年家内に死なれ、子らはまだ大きからぬ時分で、わたしが努力しなければ、一家は飢ゑ死んだであらうのだから、これも止むことをえなかつた。-
さて「居酒屋に」云々の拙歌だが、国民服に戦闘帽、それにゲートル巻きのいでたちで、懇意のおでんやのおかみさんから、一、二本の酒をねだり取つてゐるうちに、いつしか雪がサドルに積もつてゐたといふもので、どういはれようと、その頃のわたしの自画像に間違ひない。(「飲食の歌から」 吉野秀雄) 


190 赤きは酒のとがぞ 鬼とな思(おぼ)しそよ 恐れたまはで われに相馴れたまはば 興がる友と思(おぼ)すべし われもそなたの御姿 うち見にはうち見には 恐ろしげなれど 馴れてつぼいは山臥(やまぶし)
注190 一興味深く思う、おもしろい。- 二 ちらっと見ること。 三 心やすい、かわいらしい。「壺」が形容詞化したものという。 四 ここは、山野に起き臥して修行する僧。「山伏」とも。-
現代語訳 190 顔が赤いのは酒のせいです、鬼だなどとお思いなさるな。恐れなさらないで、われに馴れ馴れしくしてくださるならば、おもしろい友とお思いなさることだろう。われもあなたがたのお姿をお見かけしたところでは、ちょっと目にはいかにもこわそうではあるけれども、慣れ親しんでしまえばかわいくてたまらないのは、それ山伏よ。(「閑吟集」 校注 臼田甚五郎・新間進一) 


歳末非常警戒
昨年の暮にはまたこんなのもあつた。阿佐ヶ谷のピノチオといふ支那料理屋で、自分ひとりだけの忘年会のつもりで、ひとり酒をのんでゐて終電車に乗りおくれた。円タクをひろつて青梅街道を荻窪の踏切のところまで来ると、三人の警官が大手をひろげてストップを命じた。歳末の物々しい警戒ぶりである。一人はドアの外に立つて見張番をつとめ、一人は提灯を私の鼻さきへ持つて来て、喧嘩腰で私に喰つてかかつた。「おい、こら、どこへ帰る。こら、早く云へ、どこへ帰る。」「清水町二十四番地。」「どこの帰りだ。」「阿佐ヶ谷のピノチオといふ店。」「酒をくらつたんだらう。」「さうです。」「さぞ温められてゐたんだらう。」「ストーヴでね。」「ストーヴではない。女に温められてゐたんだらう。」「本日のところ、その覚えはありません。」「いや、温められた。」「あいにく、ピノチオには女けはありません。店の主人が酒をつけてくれますよ。」私も酔つてゐたが、警官もたぶん酔つてゐたのだらう。さもなければ、筋合からいつて、そのやうに通行人に嫌がらせを云ふわけがない。警官は私に見きりをつけると、今度は運転手に「手帳を出せ」と云つた。「こら、運転手、お前はいままでどこにゐた。」「いままで私のゐたところですか。」「さうだ、早く云へ。」「群馬県高碕です。」「怪しいぞ。この車は東京の車ぢやないか。」「いま住んでゐるところは、駒込です。」「ばか、なぜそれを早く云はんか。手間をとらせるな。」途端に警官は手帳を運転手の顔に投げつけて「車を出せ、邪魔になる」と云つた。運転手は車を動かして踏切を越え、荻窪駅の前あたりまで来ると「ひどいことをするもんですなあ」と泣声で云つた。まだ年若い運転手であつた。子供がこらへ泣きするときのやうに、肩を動かし口から息を出すだけの声で泣きだした。私は泣き泣き操縦する運転手の車に乗つたのはそれが初めてである。運転手はたうとうたまりかねた風で、車をとめて泣きながら云つた。「ひどいことをするもんですなあ。私はこなひだ高碕から東京に来たものです。旦那、すみません。もう私は運転できません。ここで下りて下さい。代金はいりません。私はそこの屋台で一ぱいやります。」「もつともだ。むごいことをしたもんだよ。代金は払ふが、僕も降りていつしよに飲まう。」私は車を出て運転手といつしよに荻窪八丁通りの屋台店にはひつた。私は椅子代用のビール箱に腰をかけ「おやぢさん、酒をつけてくれ」と云つた。運転手も椅子代用の空樽に腰をかけ「私は東京へ来なけりやよかつたのです」と云つた。彼はときどきしやくり泣きをしてゐたが、酒がつきたときには泣き止んでゐた。それでも一と口か二た口のむともう赤い顔になつて、そろそろ酔つて来ると郷土名物の八木節をうたつてもいいだらうかと云つた。歌なんかうたふと警官に叱られるので私は止せと云つた。正式に云へば、この屋台店ではお客が椅子に腰をかけることを許されない。しかしビール箱とか空樽なら、ちよつとここに転がつてゐたから腰をかけてゐたといふ名目で、見廻りの警官に対して云ひのがれができる。それが規則であり、準規則である。夏なら反つて納涼的でいいが、師走の夜ふけには寒さが身にこたへる。こんな寒い思ひをしてまで酒をのむ必要がどこにあるか。ついその必要が生じる状態に立ち至るまでの話である。運転手は本当に酔つてしまつた。私が止せ止せといふのに、彼は低音で八木節をうたひだした。もともと私はこの歌を好かないし阿呆らしい歌だと思つてゐるが、運転手の酔ひたい気持になつた動機を知つてゐるので黙つてきいてゐた。歌が終ると私は運転手をそこに残して帰つて来た。運転手は車のなかで一と眠りすると云つていゐた。(「歳末非常警戒」 井伏鱒二 )


槍烏賊
まず冬場なら槍烏賊。そのままでも旨いが、たっぷり子を持ったやつを、円錐状の胴体の中に酢飯を詰めて貰う。店では「印籠」と符牒で呼んでいるが、酒の肴にはべらぼうに良い。折悪しくそれがなかったら、速吸の門(はやすいのと 東京湾口)の蛸。茹で足らねば固く、茹で過ぎれば味が無くなる。その中間で湯から引き上げた程のいい歯ざわり。(「たべもの快楽帖」 宮本徳蔵) 銀座あずま通りの新富寿しだそうです。 


浦なみの よるになるまて のむ酒は ゑひてたゝよふ ちとりあしかな
冬の夜は 身をあたゝめて わかし酒 さむる時なく ゑひにける哉
庭火たく そのほうつきの あかあかと ゑひて酒ふく 神楽笛かな(「狂歌酔吟藁百首」 暁月坊) 


禁酒時代
禁酒するときに、もっとも心配したのは眠れなくなるのではないかということだった。事実は反対で、よく眠れる。熟睡して、朝は六時半か七時には目をさます。夜は九時になると眠くなる。早寝早起きになった。腹が減る。たえず空腹感がある。それで、ついつい、柏餅(かしわもち)とか草大福とかを食べてしまう。これには注意しなければいけない。糖尿病であることを忘れてしまうのである。これを要するに、何だか少年のようになってしまった。あらわれたものだけでなく、心持が少年のようになる。酒を飲まない人は子供っぽいように見えたものだが、自分もそんなふうになった。むかし、「酒を飲まない人は人生の半分しか生きていない」と書いたことがある。洋酒メーカーの宣伝部に勤めていたので、そう考えたくなる傾向があったのだけれど、考え方としては変わっていない。実際に、酒場で多くのことを教えられ、小説の材料を拾った。いまは半分でも仕方がないやと思っているのである。酒を飲まないでいるのが辛(つら)いということはない。むしろ、なにかストイックな喜びを感ずることがある。また銀座の酒場なんかで、多数の文壇の人に会ってしまうとき、ああ、こいつら、明日はみんな宿酔の下痢便だな、と、なんだか得をしたような気分になる。そのへんが子供っぽい。(「禁酒時代」 山口瞳) 



注・横書きなので、<またまた>といった畳語後半の繰り返し記号(く:くの字点)の表記ができませんので、2回繰り返して記しています。
 ・機種(環境)依存文字等は、?になってしまいますので、「上:夭、下:口  の」のような表記にしています。
 ・旧字体の漢字は大体新字体にかえてあります。また、ふりがなは、かっこ書きにしています。
 ・ふりがなは適当に増減しています。