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御 酒 の 話 28



蛇酒の話  食酒、献献、献献の酒盛り、ごんの字、戸大  酒のはじまり(2)  TTC上層法  不如来飲酒傚楽天体三  落柿舎の酒  雪ならば  酒を愛で、歌を詠み  とん平  春くれし  酒のはじまり(1)   不如来飲酒 傚楽天体二  三河佐久島  せい・ひく、せぬけ、そばや・の・とくり、たい、だいく・の・かわながれ  たるぬき【樽抜】  酒に就いて    百四段 人あまたつれて  酒造株  日本酒かワインを飲んだとき  武玉川(15)  機転  不如来飲酒一  差せば押さへる  憤り酒  プロトタイプ  鯛の皮の酢味噌あえ  良心的な店  久保田万太郎の酒句  山本久蔵の句碑  酒屋伊勢や  切符と配給制度  浮き鯛  コップ一杯のビール  級別廃止  呂洞賓の詩  花ざかり  円山下牡丹畑にて  政界  出版社のはしご  せきれいの智恵  羨望の極み  AZOLLA進化系  船津傳次平  井伏鱒二、井上靖、井上友一郞  酒は二三合を過さず  南北朝時代の闘茶の会  右コ左ベン  西川泊雲と小川知可良  酒七題(その二)葡萄酒  大吟醸は床麹でも造れる  誹諧新潮(2)  角打ちの会  酒も好み餅も好む者、酔うと系図を自慢する者、酒の中毒、酒をすすめる詞  瓦礫雑考  江戸順礼  天野山金剛寺の酒  ブタノール  愛瓢  スピリッツ  二度とはつれぬと  日本清酒発祥の地  呑み明て  ㈱灘琺瑯タンク製作所  ほろ酔いしめじ  夜逃げの日  春の杯・春の盃(4)  方言の酒色々(12)  『いづう』の鯖鮓  随筆 酒  春の杯・春の盃(3)  白酒売り  朝酒にして  よい酒からよい酢がとれる  桑原、三好、大岡  春の杯・春の盃(2)  川上義左エ門  さきはひと  高級料亭退治  雌山羊を踊らせる酒  津液と痰  二日酔いの治療ベスト  チクト先生  酒楼  行酒、唐徳利、重ね杯、京酒、下り杯  鼻はじき、ほおかむり  さかづき[酒坏](名)  美味 山の手や吞二  ぢわうばう【地黄坊】  我むねもけふはなやきそ  日本人を酒好きにした理由  三月六日[水]  曲水の宴(2)  「夫木集」(2)  呑みながら書く  桃の酒  清濁をわけてもてなす  酒臺 シリザラ  夫木集  曲水の宴  はうらつに  しょおちゆう、しろざけ・の・さかずき、すぎいた、ずきさか、せい  『日本橋』舞台稽古  思ひ出の酒(3)  盃をやろう  アスクレーピアデース  たるつぐ【樽次】  8年間で全量純米酒  酒豪の血筋  200日ぐらいはメイン銘柄  源五郎鮒の刺身  四角浮世はいろと酒  思ひ出の酒(2)  勧酒寄元九  武玉川(14)  洛中洛外の酒屋(2)  探梅  酒看都古、酒看都女  思ひ出の酒(1)  灘五郷酒造の発祥地  酒の害毒に関する講義  未定稿142  物価表 酒一斗  大根と油揚げ  寺の紅梅  土の見本    三軒の酒屋さん  酔中言  鶯宿梅  もと立て期間の短縮  禁酒を勧むる人へ  吸枠  さめのたれ  花婿ドノ来たらず  貧乏酒  単細胞生物の強み  東西女性タレント酒豪番付(2)  石黒敬七、阿部知二  ヴェルモット  第百七十五段(3)  日本酒に逆戻り  飲酒の憂患(2)  ウォッカのベスト  東西女性タレント酒豪番付(1)  受賞式前の半額前借り  第百七十五段(2)  割り干し大根  現代版酒茶論  きびのさけ[吉備酒](名)  行き倒れ人の場合  飲酒の憂患(1)  第百七十五段(1)  山梨県にて  麹の役割  樽タル  クチワリザケ  安芸郡土左をどり  辰巳新道  暗殺よけ  小瀬あきら(漫画家)  はじめ少しはうまい  台本  酒の想い出  冬の酒(4)  行脚の掟  酒屋と塙団右衛門  貧乏徳利の産地  「上:夭、下:口 の」ん兵衛の禁酒法  八十段 最明寺入道  ワインにハエ  ただ酒は甘い  誹諧新潮(1)  元禄以来酒造伝記録  古酒の炭酸割り  志都乃石室  世量酒神事  わしとお前は諸白手樽  自分をごま化す  やねやの熱燗  一四パーセントぐらい  造り酒屋  カニのフワフワ汁  酒で狂う、酔漢、酒飲みの怠け者、酒飲み  吉久保酒造(2)  狆の二日酔い  大酒飲みの血統  「明治のおもかげ」の見返し  長い長いトンネル  米舂水車  御党屋千度  煮白石  酵母に口はない  なめます  ヘビースモーカーで、大酒家  隠れ飲み  ず刺  方言の酒色々(11)  泥酔記  いっぱい入った徳利は鳴らん  酒が湧かない  川尻肉醤.  酒が過ぎると体をこわし  今日は河上、明日はジイ公  山里の華美な風潮  惣七親分  酒好きの福の神  十六の正月から  浅草寺の正月酒宴  罐ビールとオイル・サーディンの罐  松尾神社のお守り  人を見るなら酒と財布と騒ぎ方  いにしへの憶良がめでし  内外の敵  鳥の羽ばたき  猿の盃  かつぎ屋  第百二十五段  珍文名文年賀状  物もふと言ふは  大晦日の勘定取り  打銚子、うん飲み、大九献、大筒、御神酒箱  新川屋酒蔵  新川屋酒蔵  高温経過  第3世代の居酒屋  くみかはし  シモーニデース、読み人知らず  蓋麹法  足利幕府による酒屋課税(2)  城東の工場街の煮込みはなぜ美味いのか  純米酒と普通酒  晩酌を始めた  小梅の粕漬け  足利幕府による酒屋課税(1)  しも、じゃ、しゅうぎだる、しょおき・の・はらだち、しょおじょお  おい!オッさん!  胸の痛み  貧乏は過去の約束  豊海橋  出陣の宴  ヨーロッパの居酒屋  七十九段 平の信時朝臣  イラン青年の体当たり支払い術  冬の酒(3)  たるだい【樽代】  じゃっぱ汁  富士山測候所  犬の縫いぐるみ



37 蛇酒の話
平壌の東北東に孟山という所があります。昔、孟山に葛(かつ)という姓の一族が住んでいました。葛氏は葛哥島(かつかとう)という一つの離れ島を開いて、そこに住んでいたのでありました。ある年の洪水にその島が二つに裂かれてしまって、いまではその一方を義城里、一方を巣鶴里(そうかくり)といっています。葛氏がまだ葛哥島に全盛を極めていたときのことであります。ある年葛氏のある家で婚礼をしようというので、お上の禁令を犯して、お酒を裏の蘆藪(あしやぶ)の中にそっと醸(つく)っておきました。するとその一つの甕(かめ)のお酒の中に、一匹の蛇が落ちて溺れ死んでいました。これは困ったと思いましたが、そのまま放っておきました。いよいよ婚礼の日となりました。どこでもあることで、婚礼だなんていうと所々方々から、乞食なぞがやって来ることが常でありました。その日もどこから来たか、一人の病気でひどく困っている乞食がやって来ました。「どうかお祝いのお酒を一杯飲ませて下さいませんか」乞食はどうしても動きませんので、「そんならこの裏の蘆藪の中に入って行くと、お酒の甕があるから、それを探し当てて、いくらでもお上がりなさい」そういってやりました。乞食は丈の長い蘆の藪を分け分けやって来て見ますと、確かにそこには大甕が埋めてあって、お酒の香がぷんぷん鼻を衝(つ)いて来ました。乞食はお腹も空いていたし、お酒には渇えていましたので、喉(のど)をごくごく鳴らしながら、夢中になってお酒の甕にとりすがりました。「こりゃ有難い、まず一杯やろう」と、甕の中をのぞいて見ると、恐ろしい蛇が一匹死んでいるのが眼に入りました。「なんだ蛇が死んでいやがら、こんな物が飲めるもんか」折角喜んでおきながら、乞食はもう走り出していました。そしてまた婚礼の家にやって行って、「とてもあれじゃ飲めもしねえ。蛇なんか落ちているんだもの」「なに、お前たちのために、わざわざ蘆藪の中にあんなに酒甕を置いたんだのに、それを飲まずに不服をいうなんて実に不届きな奴らだ。」葛氏はそういって叱り付けるばかりで、他によい酒をくれそうもないので、乞食も仕方なしにまた先の蘆藪に引き返して甕の側に行きました。「俺の病気ももうどうにもならない、この通り衰弱もしている、到底助かる見込みなんざぁあるまい。いっそこの毒蛇の酒を飲んでひと思いに死んだ方がましだ」永い間の病気にすっかり参っていた乞食は、そう独り言をいいながら、がぶがぶその酒をたらふく飲んでしまいました。そしてそのままぶっ倒れて、まるで死人のようにその夜をそこに明かしたのでありました。翌朝葛氏が行って見ますと、乞食は前後も知らずに眠って居ました。と、どうやら鼻孔(はな)の辺がざわざわしているので、近寄ってよく見ますと、こは如何(いか)に、小さい小さい蛾が実に沢山数え切れない程うごめいていました。これはまあどうしたことかと見回していますと、そのとき乞食はぼんやり眼を覚ましました。そして見る間にめきめき血色もよくなって、いままでとは打って変わって実に健康そうな体になっていました。気持までも爽(さわ)やかになって、元気に立ち上がりました。それに引き代えて、いままで何ともなかった葛氏は、そのときから咳が出て来たり、気分が悪くなって来て、とやこうしている間に肺病になってしまいました。それがどんどん重くなって、日一日と痩せ細って参りました。とうとう一族の間にも伝染して、不思議にも僅かの間に、葛氏の一族は全滅して跡形もなくなってしまいました。後に残った乞食の仲間がそこに栄えて、以前の葛氏に増して盛んになりました。また姓を朴と呼びましたので、朴氏は今も孟山の四大姓氏の一つとなっているということであります。(「朝鮮の神話伝説 世界神話伝説体系」 中村亮平編) 


食酒、献献、献献の酒盛り、ごんの字、戸大
食酒(けざけ) 食事のときに酒を飲むことをいう。
献献 杯を何度のかわすこと。転じて酒のことをもいう。
献献の酒盛り 結婚の杯ごと。三三九度の杯。
ごんの字 五合酒のことをいう。
戸大(こだい) 大酒飲みをいう。(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 


三九 酒のはじまり(2)
そしたら父親も、「これはうまい。こんがなうまいものを飲んだのははじめてじゃ」と言うて、それを飲んだそうな。それから父親も、「これはええ薬じゃ。気分がようなって来た」と言うて、毎日少しずつ飲みよったら、身体も元のように元気になった。ごはんも食べるようになった。ある日のこと、息子が弁当を持って山へ行ったら、父親の話すのには、「今までわしは生きとったら、おまえに難儀がかかる。こんがなく(こんな所に)に隠れとることが、国の守に知れたらどんがなおとがめにあうかも知れん。早う死んだら迷惑がかからんと思うて、食を断って死ぬるつもりだった」そういう訳で木の洞に、日に日にべんとうを食わずに放り込みよった。そこへ洞の水がたまって薬ができたのに違いない。それからは、息子も我んくへ往(い)んで後にも、近所隣に体の悪い衆があったら、この薬を取って来て飲ました。そして、この話を聞いた衆は、みんな我手(わがて)にこの薬を作って飲むようになった。そのうち評判が高うなったので、このことがお上に聞こえた。ちょうど殿さんも身体が悪かったが、早速取りよせて、家来がこの薬を差し上げた。それを飲むとしっかり元気になった。それで「これからは、年寄りは大切にせんならん」と言うことになり、殿さんから、「こんがうまい薬を作る年寄は崖っこからまくってはいかん」という御触れが出た。それからは六十を越えた親でも、崖っこへ捨(し)ていでもかんまんようになったんじゃそうな。後になってこれがみんな"酒"というようになったが、文字がでけたとき、酒は酉(とり)が作りはじめたというわけで、水と酉と書いて"さけ"と読むように決めたんじゃそうな。(「東祖谷昔話集 全国昔話資料集成」 細川頼重) 


TTC上層法
よい日本酒を造るためには、製造工程中の微生物管理を徹底しなければならないが、野生酵母と協会酵母の判別は顕微鏡では不可能である。そこで、TTC上層法という、トリフェニル・テトラゾリウム・クロライドという試薬をまぜた寒天入り培地を使った方法をとる。もろみの酵母をグルコースなど栄養分を含んだ寒天培地で三〇℃に二時間保つ。すると野生酵母のコロニーはピンク色に、協会酵母は赤色に染色されるから、二日もあれば、目的の酵母が一〇〇%純粋であるか、野生酵母の汚染があるか見分けがつく。昭和三七年ごろかえら四〇年ごろにかけて、この酵母管理方法が普及し、野生酵母による酸味の多いもろみは姿を消し、品質は向上した。しかし一方では、均質化がおきてきた。(「日本酒」 秋山裕一) 


不如来飲酒傚楽天体三
莫学長生去 長生を学び去(ゆ)くこと莫(なか)れ
長生却足愁 長生は却って愁うるに足る
人民華表上 人民 華表の上
洞狄「シ覇」城秋 洞狄(どうてき)「シ覇」城(はじょう)の秋
丹桂猶煩伐 丹桂(たんけい)は猶(な)お伐(き)ることを煩い
蟠桃非易偸 蟠桃(ばんとう)は偸(ぬす)み易きに非ず
不如来飲酒 来りて酒を飲むに如かず
無事酔悠悠 事無(ことな)くして酔いて悠悠たらん
○華表 二本の柱の上に横木を渡したアーチ形の標柱。町や役所の入口などに門のようにして建てられた。- ○銅狄 銅で鋳造した人の像。銅人ともいう。宮殿などの飾りにした。 ○「シ覇」城 正しくは覇城。長安の東にあった地名。- ○丹桂の句 丹桂は桂の一種で、紅色の花を咲かせるもの。和名、きんもくせい。『酉陽雑俎』天咫に「月中に桂有り、蟾蜍有りと。故に異書に言う。月桂高きこと五百丈、下に一人有り。常に之を斫(き)る。樹創随いて合う。人の姓は呉、名は剛、西河の人なり。仙を学び、過ち有り。謫して樹を伐らしむ」とあり、この故事を踏まえた表現。 ○蟠桃 三千年に一度実が生るという桃。食べた人間は長寿を得るという。- ○悠悠 ゆったり、のんびりするさま。白居易の「不如来飲酒七首」の第二首に「相伴いて酔いて悠悠たらん」。 ○韻字 愁・秋・偸・悠(下平声十一尤)。(「不如来飲酒傚楽天体」 大窪詩仏 注者 揖斐高) 


落柿舎の酒
元禄四年四月十八日、芭蕉は京都嵯峨の落柿舎に入り、五月四日まで滞在する。『嵯峨日記』によれば、そこにも酒があった。「…唐の蒔絵書たる五重の器にさまざまの菓子を盛、名酒一壺盃を添たり。夜(よ)るの衾(ふすま)、調菜(てうさい)の物共、京より持来りて乏しからず。我貧賤をわすれて清閑に楽(たのしむ)」。そして凡兆羽紅の夫婦がそこに泊ったときには、夜中過ぎにみんなまた起きだして、「昼の菓子・盃など取出(とりいで)て」、朝方まで話しあかしている。それが四月二十日のこと。二十二日には「人もなく、さびしきまゝに」、「喪に居る者は悲(かなしみ)をあるじとし、酒を飲むものは楽(たのしみ)(を)あるじとす」と、むだ書きして遊ぶ。「喪に居る…」は『荘子』のなかの言葉である。芭蕉はその言葉に共感したのだろう。「酒を飲むものは楽あるじとす」、それはまた芭蕉の言葉でもある。(「食べる芭蕉」 北嶋廣敏) 


雪ならば いくら酒手を ねだられん 花のふぶきの 志賀の山駕 [万代狂歌集、馬場金埒]
志賀の山越えの花ふぶきは古歌にたびたびよまれている。もしこれが雪だったら駕(かご)かきから酒手(チップ)をよっぽどねだられることだろう。吉原への行き帰りのかごでさえ、雪が降ると酒手を請求するのだから。-風流を銭勘定の世界へ引きおろして見せたのである。『新古今狂歌集』には同じ題でつぎの歌がある。
雪ならばいくたび下駄をかへさまじ花をふみ行く志賀の山越(齢長人)(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


酒を愛で、歌を詠み
酒好きの万葉人はうれしいにつけ悲しいにつけ、折にふれては酒を愛(め)で、歌を詠んだ。『万葉集』の題詞をみるだけで、そうした歌をいくつも見つけることができる。「左大臣橘朝臣(たちばなのあそん)の宅に在(いま)して、肆宴(とよのあかり)きこしめす歌」(天平勝宝四年[七五二]十一月八日、一九-四二六九~七二)のように、家敷に聖武太上帝を招いた宴もあったし、「二(ふたり)、三(みたり)の大夫等の各々壺酒を提げて高円野(たかまどのの)に登り」(天平勝宝五年八月十二日、二〇-四二九五~九七)のように、季節のよい時には酒壺を携え、春日山の南につらなる高円山などにピクニックに出かけることもしばしばであった。宮中でも「五位已上(いじょう)を南苑において宴す。但し六位已下の官人および大舎人、授刀の舎人、兵衛らはみな御在所に喚(よび)て塩鍬(しおくわ)を給う。おのおのの数あり」(『続日本紀』神亀三年[七二六]三月三日)のように、元日、正月七・十六日、三月三日、五月五日、七月七日、十一月の大嘗祭(だいじょさい)の節日(雑令)、あるいは外国使節の来朝、そのほか慶時には宴を賜う例であった。「天皇中宮に御す。太政官および八省おのおの表を上(たてまつ)りて、皇子の誕育を奉賀し、ならびに玩好の物を献ず。この日、文武の百寮已下使部にいたるまでに朝堂において宴を賜う」(『続日本紀』神亀四年[七二七]十一月二日条)。これは翌五年九月に死去し、長屋王事件のきっかけになる基王誕生の宴である。(「日本の古代 都城の生態」 岸俊男編) 


とん平
彼(八木隆一郎)は明治三十九年、秋田県能代市に生まれた。その生いたちの記『わが母は聖母なりき』は、昭和十四年自ら脚色し、『母の絵本』の題名で、花柳章太郎によって上演され、戦後テレビ時代になって、二度連続ドラマとして放送された。彼は函館商業を卒業してすぐ代用教員を務めたが、文学を志して上京、水守亀之助の門に入って小説、詩を書き、昭和四年左翼演劇運動へ入った。その年の秋、国民新聞の懸賞小説に当選、三千円の賞金を得たが、たちまちのんでしまったという伝説があり、私が左翼劇場へ入った六年の末ごろは既に酒のみとして名が高かった。-
十七年後、彼が死んだあと、世話役の古川良範(ふるかわよしのり)が心配して「八木のツケのあるのみ屋を知っていたら教えてくれ」と言う。そこで「とん平」の女将(おかみ)にきくと、彼女は笑って手をふり「開店以来、一度ももらっていませんよ」と言った。しかし、彼の一周忌には、その女将が一升瓶をさげて来てくれた。(「しみる言葉」 阿木翁助) 


春くれし きのふの酒の さめがしら けふはうづきに なりにけるかな [万載狂歌集、暁月房]
前にあげた酒百首の中の一つである。「春の最後の日に飲んだ昨日の酒がさめてきて、頭がずきずきうずきながら、今日は卯月になった。」(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


三九 酒のはじまり(1)
とんとむかしもあったそうな。むかしは人間も年が六十になると、もう役にたたんきに、崖(たき)っこへ負うて行って、どまくり(転がす)よったそうな。それが殿さんの言いつけじゃきに、みんな殿さんの申し付けどおりに、六十になると、そこの息子は、親を崖っこへ連れて行ってどまくらなんだらやられる。ところがその時分にしっかり仲のええ親子があったそうな。息子は大変な親孝行で、父親は六十になったが、崖へ持って行ってどまくってしまうのはあんまりむごい。そんがなことは、ええせん。そんならちゅうて、いつまでも我んく(自分の家)へ置いといたらおとがめを受ける。しょうことないきに、誰っちゃ人の行かん山ん中ヘ負うて行って、岩屋に隠して置いたそうな。そして、日んにも、日んにも、父親の弁当をこしらえて山へ運びよった。岩屋まで行くと、「お父さん、弁当じゃ」と言うて渡したら、いつでもかけたように(きまったように)、「今食べたところじゃ。まだ腹がええ。そこへ置いて行け」と言うて、息子の前で弁当食べたことがない。息子は毎日、弁当持って山へ通いよったが、そのうちに父親はだんだんやせてくる。息子はもう心配でたまらん。ある日のこと「今日はちったあ具合がようなったか知らん。早うまし(元気)になりゃええのに」と思いもって、息子は岩屋まで上がって来た。そして父親に、「今日は加減はどうぞえ」と言うて、ちっとない岩に座って話をしよった。岩屋の前で木の洞から出て来た雀が二、三羽、もつれもつれになって、飛びかけては転び、飛びかけては転びしよる。「はて、不思議なこともあるもんじゃ。これはどうしたことか、合点がいかん」息子は見よったが、てんでその理由がわからん。そこで鳥の飛び出た木の洞(うと)をのぞいてみた。そしたら、洞の中から何ともいえんええ香(か)ざがする。そして、洞の底にきりぇな水がたまっとる。それを椿の葉ですくうて口の中へ入れると、何ともいえんうまい味がする。そして、それをぐっと飲み込んだら、ええ気分になって来た。「これは薬に違いない」と思うて、父親にもすくうて飲ました。(「東祖谷昔話集 全国昔話資料集成」 細川頼重) 


不如来飲酒 傚楽天体 二  来りて酒を飲むに如(し)かず。楽天の体(たい)に倣(なら)う(四首) その二
莫作書生去          書生と作(な)り去(ゆ)くこと莫(なか)れ
毎遭窮鬼煩          毎(つね)に窮鬼(きゅうき)に煩(わずら)わさる
家唯四壁立          家は唯(た)だ四壁立ち
食劣一箪存          食(めし)は劣(わず)かに一箪(いったん)存す
詩賦工無益          詩賦(しふ) 工(たく)みなるも益無く
経綸豈足論          経綸 豈(あ)に論ずるに足らん
不如来飲酒          来りて酒を飲むに如かず
混俗酔昏昏          俗に混りて酔いて昏昏(こんこん)たらん
○書生 学問をする者。 ○遭 受身の助字。 ○窮鬼 貧乏神。 ○四壁立 家には四つの壁だけが立っていて、家具が何もないさま。貧乏なことをいう。『史記』司馬相如(しばしょうじょ)伝に「文君夜亡(に)げ相如に奔る。相如乃(すなわ)ち与(とも)に馳せ帰る。家居徒(た)だ四壁立つ」とあるに拠る。 ○劣 僅かに。かろうじて。 ○一箪 箪は竹で作った弁当箱。わりご。わりご一つ分の僅かな飯。『論語』雍也篇に孔子の弟子顔回のこととして、「一箪の食(し)、一瓢の飲、陋巷に在り」とあるのに拠る。 ○詩賦 詩と賦。ともに韻文の一種。 ○経綸 天下を治める方策。 ○混俗 俗人と混じる。この一句、『老子』の「俗人は昭昭たるも、我れ独り昏昏たり」に拠っている。 ○昏昏 酔って眠りこんでいるさま。白居易の「不如来飲酒七首」の第四首に「眼を合わせて酔いて昏昏たらん」。 ○韻字 煩・存・論・昏(上平声十三元)。(「不如来飲酒傚楽天体」 大窪詩仏 注者 揖斐高) 


三河佐久島
上方から江戸への樽回船は、上方商人が和歌山や伊勢白子(しろこ)の船問屋から帆船を借りて用いた例が多かった。上方商人そのものが船を所有する例は少なかった、という。そのうち伊勢白子の帆船には、三河の佐久島の男たちが水夫(かこ)として乗りこんでいた。佐久島は、三河湾に浮かぶ小島で、おもに女たちが畑仕事や磯漁(いそりよう)を担当、男たちの水夫稼ぎがさかんであった。そして、佐久島は、男たちの乗りこんだ帆船の風待ちや避難に、そして補給に重要な島であった。(『一色町史』より)事実、島の中央部に大きな井戸があり、大量の清水が湧きでていた。現在もその跡が確認できる。そこで、島の長老たちが現在に語り継ぐ逸話がある。「佐久島の船頭たちは、余禄があった。船に抜け荷はつきものだ。酒樽から酒を二割方抜く。抜いた分は、水でうめる。四樽か五樽で一樽分余分ができるわけで、それが船頭たちの懐に入った。船に乗っているのは皆島の者だし、酒を抜く場所は地元だし、バレることはないだろう。この島では、江戸っ子は薄い酒を飲んでいた、といまでも陰口をたたいている」むろん、これを記録でたしかめるのはむずかしい。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 


せい・ひく、せぬけ、そばや・の・とくり、たい、だいく・の・かわながれ
せい・ひく{清挽く}(動詞)句 酒を飲む。(強盗・窃盗犯罪者、香具師・やし・てきや用語)(明治)
せぬけ[背抜け] 酒に酔った赤い顔。[←樽作りで、樽の側板は「甲付」といって外が白く内が赤いが、内の赤色が外まで出ていること](製樽工用語)(大正)
そばや・の・とくり[蕎麦屋の徳利](名詞)句 禁足されていること。[くくり付け]《だしを入れた徳利は屋台にくくり付けてあった》(洒落言葉)(江戸)
たい[鯛]①酒のさかな。 ②着かざった女。 ③被害者。[←うまいもの。](強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)
だいく・の・かわながれ[大工の川流れ](名詞)句 飲み流し。一座が順々に酒を飲んで行くこと。(洒落言葉)(江戸)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


たるぬき【樽抜】
酒樽に入れて渋柿の渋を抜く事。酒を他に移したばかりの樽なれば其のまゝ使用に適し、さもなくて古樽だと少量の焼酎を要するのである。
掛り人樽抜にして葬られ 酒樽の早桶で(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


酒に就いて
酒といふものが、人心の健康に有害であるか、もとより私には医学上の批判ができない。だが私自身の場合でいへば、たしかに疑ひもなく有益であり、如何なる他の医薬にもまさつて、私の健康を助けてくれた。私がもし酒を飲まなかつたら、多分おそらく三十歳以前に死んだであらう。青年時代の私は、非常に神経質の人間であり、絶えず病的な幻想や強迫観念に悩まされてゐた。そのため生きることが苦しくなり、普段に自殺のことばかり考へてゐた。その上生理的にも病身であり、一年の半ばは病床にゐるほどだつた。それが酒を飲み始めてから、次第に気分が明るくなり、身体(からだ)の調子もよくなつて来た。酒は「憂ひを払ふ玉帚」といふが、私の場合などでは、全くその玉帚のお蔭でばかり、今日まで生き続けて来たやうなものである。神経衰弱といふ病気は、医学上でどういふ性質のものか知らないが、私の場合の経験からいへば、たしかに酒によつて治療され得る病気である。一時的には勿論のこと、それを長く続ける場合、体質の根本から医療されて来るのである。つまり飲酒の習慣からして、次第に神経が図太くなり、物事に無頓着になり、詰まらぬことにくよくよしなくなつて来るのである。悪くいえば、それだけ心が荒んでくるのであらうが、神経質すぎる人にとつては、それで丁度中庸が取れることになつてゐるのである。(「酒に就いて」 萩原朔太郎) 



学生となり教師となつて、つきあひに酒を飲んだが、貧に苦しまされて酒をのみだした。それから今まで二十余年、ずうつと酒をのみとほしている。なかば心中の寂寥をなぐさめるためだ。酒を飲んで、一度も後味のよかつたことはない。いつもしくじつて後悔するばかり、それでも病にかかつた時以外、酒をよさうとしたことはない。ただ酒に勝ちたいと思つてゐる。人酒をのみ、酒酒をのみ、酒人をのむ、といふがまつたくその通り、これは泥酔家のほか知ることのできない悲しみである。生まれつきの酒徒でないかぎり、酒呑みはこの後悔をかさねつんで、やうやく酔境を楽しむやうに洗練され、飲酒道といつたものを、解してくるやうになる。昔の人は戦にのぞむ時酒をのんだ。武功をつんだ覚えのある侍は、瓢箪を腰にぶらさげて、戦場にかけだす際、必ず二、三杯の冷酒をかたむけたものである。死にのぞむ時もさうだ。人間は弱いものだから、恐怖にうちかつには、酒の力をかりるのが、最も手取ばやかつたのであらう。私が酒に勝ちたいと思ふのは、二十余年の念願であり抵抗でもあつた。賭博におぼれる者はやがて賭博に救はれ、女色にふける者は、いつか一種の悟を抱くやうになる。飲酒とても、同じやうな道理であらう。百害あつて一利なきもの、さうした無駄と愚さから、何かを獲得するといふのは、人生の面白さであり、人生の妙味と云つてよい。悪は善に反発するものではなくて、善のために悪が存在するといふ観かた、これが人の生きてゆく道である。(「酒」 中山義秀) 


百四段 人あまたつれて
人あまたつれて、見物にありきし。上林の辺にて、おのこの酒きげんに、禿(かぶろ)を押て、みぞはたを、ひたとはしらしむるを見て、「さきの井戸がわに行当り、すべりたをれて、かぶろを落すべし。しばし見給へ」とて立とまりたるに、また、禿を追て、はす。果して行あたり、酒よひもたをれ、かぶろもどぶのなかへころび入(いる)。思慮なこことゝ、皆人、我身を、かんず。
注 上林 角町南側、上林助左衛門方。 みぞはた 溝端 井戸がわ 井戸の汲み出し口として地上に出ている井筒。 はす 走らせる。(「吉原徒然草」 結城屋来示 上野洋三校注) この徒然草のパロディーを書いた来示は、其角の弟子で吉原の楼主だった人だそうです。 


酒造株
幕府の制定した酒造株にはさまざまな種類があるが、明暦三年(一六五七)にはじめて制定されたとされる酒造株は、酒造人を指定してその営業特権を保証するとともに、酒造で消費する米の量の上限(酒造株高)を定めた。酒造人に交付される鑑札は将棋の駒形の木製札で、表に酒造人名、住所、酒造株高何石、裏には「御勘定所」と書かれ、焼き印が押してある。酒造株は同一国内であれば、譲渡あるいは貸借も可能で、酒屋が経営不振に陥ったり、相続人がない場合、近隣の有力酒屋が酒造株を買い集めて、規模をいっそう拡大させる例がしばしば見うけられた。酒造株の鑑札に表記されている以上に米を消費することは原則として許されなかったが、酒造株高と実際の米消費量(酒造米高)とは一致しないのがむしろふつうで、しばしば酒造米高が酒造株高を大きく上回り、その隔たりは次第に拡大していった。(「江戸の酒」 吉田元) 


日本酒かワインを飲んだとき
私の場合、お酒の上での失敗はワインと日本酒を飲んだ時が圧倒的に多い。まずワインは最初から二、三杯までが何ともいえず心地よい。トロンとしてきて気分がふわっとハイになってくる。側(そば)に居る男性がみんな素敵に見えだす。とても優しい気持ちになる。しかし、過ぎたるは及ばざるが如し。グラスを重ねていくうちに、その気持ちがエスカレートして、感情の起伏が激しくなる。相手のちょっとした言葉にも反応してしまう。飲み始めが良いのは日本酒も同じことだ。とくに冷酒はスイスイ喉を通る。それがある量までいくと急に酔いが廻る。目が廻る。イヤ、目が座る。酔い方がどっしりと重く、腰に根が生えたようになる。急にはしゃいでみたり、訳もなく涙ぐんだりする。泣く、わめく、怒る、喧嘩を売る、相手にビールをかけるなどという人迷惑な失態は後から考えると、大体、日本酒かワインを飲んだときなのだ。(「決闘!」 阿木燿子 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


武玉川(15)
目の早さふたりに酒を買せけり(あやしい二人のそれぞれを脅して酒を買わせる)
堪忍のならむ所で酒かさめ(喧嘩寸前で酒が醒める)
尻目が持てありく盃(後に目を配りながらお酌してまわる?)
やよひ山下戸を日に当酒にあて(弥生山は春の山の意なので花見の風景でしょう)
朝顔ハ酒の呑れる花てなし(酒を飲むと朝早く起きられない)(「武玉川」 山澤英雄校訂) 


機転
あるイギリスの水兵が、休暇で国にもどり破目をはずした結果、ひどい目にあった。タクシーに乗ったまではよかったが、目的地に近づいたとき、一文無しなのに気がついた。したたか飲んだり食ったりしたあとだったのだ。しかしそこは一番イギリス海軍できたえた機転を働かすところ。「止めてくれ」と、彼は叫んだ。「ちょっとそこのタバコ屋でタバコとマッチを買ってくる。車の中で五ポンド紙幣を落としたんだが、暗くてみつからないんだ」彼は急いでタバコ屋に飛びこんだ。そうして振り返ってみると、案の定、タクシーは闇の中に消えていた。(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 「スコットランド人は、一般につつましいといわれる。悪い詞でいえばけちがだが、金銭に注意深いことは美徳である」とあります。 


不如来飲酒 傚楽天体         来りて酒を飲むに如(し)かず。楽天の体(たい)に倣(なら)う(四首) その一
莫作漁人去                魚人と作(な)り去(ゆ)くこと莫(なか)れ
全家寄小「舟刀」             全家(ぜんか)小「舟刀」(しょうとう)に寄す
竿糸下暁雨                竿糸(かんし) 暁雨(ぎょうう)に下し
蓑笠犯風濤                蓑笠(きりゅう) 風濤(ふうとう)を犯す
「上:竹、下:令」「上:竹、下:省」当難満  「上:竹、下:令」「上:竹、下:省」(れいせい) 当(まさ)に満たし難かるべく
「上:竹、下:高」枝到処労         「上:竹、下:高」枝(こうし)到る処に労す
不如来飲酒                来りて酒を飲むに如(し)かず
閑坐酔陶陶                閑坐(かんざ)して酔いて陶陶たらん
文政九(一八二六)年六十歳の作。五言律詩。『詩聖堂詩集二編』巻九。
○傚楽天体 白居易に「不如来飲酒七首」の連作があり、これに倣うの意。以下、第一句の「莫…去」の形は白居易の原詩の第一句の形を襲ったもの。 ○去 動作の継続や趨勢を現す助字。作…去で、なってしまうの意。 ○全家 一家をあげて。家中全部。 ○小「舟刀」 小舟。 ○竿糸 釣竿と釣糸。 ○蓑笠 蓑と笠。 ○風濤 風と大きな波。 ○「上:竹、下:令」「上:竹、下:省」 捕った魚を入れるびく。 ○「上:竹、下:高」枝 舟を操る棹。 ○来 誘う意を表わす助字。 ○陶陶 快く酔ってうっとりするさま。白居易の「不如来飲酒七首」の第七首に「穏臥して酔いて陶陶たらん」。 ○韻字 「舟刀」・濤・労・陶(下平声四豪)。(「不如来飲酒傚楽天体」 大窪詩仏 注者 揖斐高) 


三七一 差せば押さへる 押さへば飲めず 飲めば其の身の 仇(あた)となる サ ヨイヤナ
(柳亭)種彦本「サ ヨイヤナア」で、前歌と同じく「ヨイヤナ節」系のもの。盃を差しつ差されつする酒席の情景をうたう。「押さへる」は、相手の差そうとする盃をおし返してもう一度飲ませることだから、「押さへば飲めず」は、本心は飲みたい意を表わすユーモアか。また無理強いをされた酒が飲めない意にもとれる。『茶屋諸分調方記』巻九に「のんでさすに今一つとしひるを、おさへるといふなり。又つっかける共いふ」とある。(「山家鳥虫歌 近世諸国民謡集」 浅野建二校注) 


憤り酒
(中沢)臨川氏はどつちかと云ふと酒豪の方ではなく、二三本飲むと直(ぢ)きに淋漓たる酔態を見せ、それから先は杯(さかづき)の酒も殆どみんな零(こぼ)してしまふのだつたが、それでゐて目だけは炯々(けいけい)と輝いて来て、酔ふといつも極(き)まつて出る「馬鹿野郎」と云ふ怒罵の声が、相手関(かま)はず敲(たた)き付けられる。おそらくこの頃臨川氏と酒席を同じうしたもので、「君は馬鹿だよ」位の手柔らかなところから、結局この「馬鹿野郎」まで、いづれかの形で「馬鹿」と云ふ言葉を、浴(あび)せ懸けられなかつたものはないと云つてもいいであらう。それでゐて臨川氏は、持つて生れた徳があると見えて、私達が畏敬してゐたばかりでなく、教坊にゐる女達までが「神様」と云ふ渾名(あだな)を奉つて、酔つて座敷の真ん中に大の字なりに、ぐうぐう鼾をかいて寝てゐる周りを、ぐるりと大勢の女が取り囲んでゐる涅槃図のやうな光景に、幾度接したか分らなかつた。さう云ふ場合、「駄目よ、そんな大きな声を出すと、折角いい心持で寝てゐる神様が目を覚ますぢやないの」などと云つて嬌音艶(なま)めかしく心安だてに叱られるのは、いつもこつちの役廻りだつたのだから助からない。私はその後臨川氏とはかなり永い間杯盤狼藉の間に見(まみ)えてゐた。「馬鹿野郎」と怒鳴られたことも幾度あつかた分らなかつた。最初会つた時分は京浜電車の技師長だつたが、その後大阪アルアリに転じ、信州松本に居を移してからも、私は二三度訪ねて往つて、浅間諏訪あたりの温泉を、時局その他に憤慨しながら飲み歩いた。久米正雄氏名付くるところの「憤り酒」を私に伝へたものは、如何(どう)も(押川)春浪臨川の両氏らしいが、どつちかと云ふと私は臨川を宗(そう)としてゐるやうに思ふ。(「酒客列伝」 吉井勇) 


プロトタイプ
しかし、そういう店を何軒か飲み歩き、何十種類もの酒を試してみた結果、プロトタイプはひとつだということがわかった。すべての銘吟なるものは越乃寒梅の亜流なのだ。たくさんのブランドがあって、たくさんの良心があるだろうと思ってわたしは駆け付けてみたんだけれども、やっぱり「一犬虚に吠えて、万犬これに和す」のが日本だと分かった。どれを飲んでみても、ただひとつ越乃寒梅タイプの酒が在るだけなんだな。違いはきわめて微差でしかない。日本の酒飲みたちはこの微差を楽しんでいるのかも知れないけれども、日本酒そのものは、もっといろいろな味を生みだせるはずだ。昔はその冬の温度とか湿度とかによって、いい麹になった悪い麹になった、それで今年の酒のできがいいの悪いのと騒いでいたんだが、日本酒もいまや(ビールと同じことだけれど)完全に化学の手の陰の下にある。だとしたら、自分の思うままの味の酒がつくれなければウソである。(「知的な痴的な教養講座」 開高健) 


鯛の皮の酢味噌あえ
中位の鯛のうろこをはね、三枚におろし皮を引く。乾いたまな板にその皮をぴったりくっつけ、塩をパラパラッとふり、きれいなふきんを上からかぶせ、熱湯をその上からかける。これを線に切って酢味噌であえる。酢味噌は白味噌に玉子の黄味のゆがいたのをまぜ、とき芥子を入れて酢をまぜ、うらごしにする。鯛の皮をそれであえて、上から三ツ葉のみじん切りをふる。芥子が鼻をツンとぬけ、鯛の皮は舌ざわりのいい酢味噌で口一ぱいにうま味をひろげる。酒がそれを追っかける。古唐津の「皮鯨」のぐい呑みがいいんだが、博多の田中丸さんまで借りに行かねばならないから、玉露茶碗で代理をさそう。このごろのぐい呑み盃はちょっと高すぎる。上野(あがの)焼の玉露茶碗は上が少し重たい感じだが、釉(うわぐすり)が春らしいからよかろう。萩焼のなれたのも悪くない。あまり小さい盃だとおおどかに飲めない。(「味之歳時記」 利井興弘) 


良心的な店
戦争が進行してゆくにつれ、だんだん物資が少なくなる。酒もその例外でない。個人には配給制度になり、店には割当制となる。その割当量もだんだん減って行く。商人の良心、あるいは悪心というやつが、そうなると露骨に出て来るようになる。良心的な店は、客の都合やふところ具合を考えて、なるべく免税点(一円五十銭)以内で、客を満足させようとする。つまり貧しい酒飲みにとっては、肴というものはあまり必要でない。乏しいふところで酔うには、肴を犠牲にしてその分だけ飲みたい、ということになる。商人の側からすれば、割当の酒量はきまっているから、それをフルに活用して。つまり肴と抱き合わせにして、一儲けしたいというところなのである。かくして酒を飲むということは、楽しみにあらずして、戦いということになって来た。折角儲けのチャンスなのに、それを押さえて良心的営業をすることは、これは並たいていのことでない。すなわち戦争遂行につれて、良心的な店は寥々(りようりよう)たるものになった。その良心的な店を探すのが一仕事で、またその店が今日は休みか閉店か、今日は如何なる種類の酒を飲ませるか、ということを探るのが一仕事であった。そしてその良心的な店の前には、午後五時(六時?)の開店を控えて、行列が出来るようになった。私の手元に昭和十八年の日記があるが、それを読むと、酒の記事がほとんどを占めている。一週間の中五日は酒を飲んでいる。飲むだけではなくて、必ず酩酊している。酩酊せざるを得ないのは、時代のせいで鬱屈したものがあったからである。乏しい給料で、そんなに酩酊出来たというのも数少ない良心的な飲屋のおかげであり、そこで出した焼酎やドブロクや泡盛のおかげである。当時の私たちは、ビールや清酒は軽蔑して、あるいは敬遠して、これを近づけなかった。それらが酩酊をもたらすには、多額の金を必要としたからである。(「悪酒の時代」 梅崎春生) 


久保田万太郎の酒句
十六夜や直しに立ちし燗ざまし(草の丈)
ころあひにつきたる燗も夜寒かな(草の丈)
おでんやにすしやのあるじ酔ひ呆け(草の丈)
熱燗にうそもかくしもなしという(草の丈)
かけつけのこのわたさけはすこし無理(草の丈)
熱燗や手酌いかしき一二杯(流寓抄)(久保田万太郎全集) 


山本久蔵の句碑
この句碑は、天保五年(一八三四)にこの梅屋敷と関係の深い山本久蔵が建立したものです。文面は、 神酒ささぐ間に鴬の初音かな (麦住亭梅久) とあります。戦前には、谷も江戸時代の多くの句碑が残されていましたが、戦後の混乱期に姿を消してしまいました。 昭和六十三年 大田区土木部 大田区蒲田3-25-6付近 


酒屋伊勢や
鈴木三郎とはつ。路地一本を隔てた左側の酒屋で、一葉と母が空家さがしに家賃などをたずねた人。日記に「左隣りは酒屋なりければ其処に行きて諸事を聞く、雑作はなけれど店は6畳にて5畳と、3畳の座敷あり。向きも南と北にして都合わるからず見ゆ。3円の敷金にて月1円50銭といふにいささかなれども庭もあり」と書かれている。 上島金太郎氏寄贈(一葉記念館) 下谷龍泉寺町に住んだ時だそうです。 


切符と配給制度
開始年月    昭和16年4月
物資名     酒類
切符の発行形態 家庭用酒類通帳(家庭用品購入通帳/年2回)
割当量     酒720ml/6カ月(1世帯) ビール2~4本/6カ月(1世帯)(九段の昭和館にありました) 


浮き鯛
鯛のことを恵比寿様の柄頭(つかがしら)というが実にうまい形容詞である。鯛も寒いうちは外海の深いところで春を待って、この四月になると人間が教えなくても鳴戸の渦汐の激流を乗り切ってはるばる瀬戸内海へ子供を産みにくる。伝説によると神功皇后が三韓へ渡るときに瀬戸内海で酒樽を沈めたので、その酒に酔った鯛が今でも浮く。これを瀬戸内海で浮き鯛といって名物のひとつになっているが、瀬戸内海でなくとも釣り上げた鯛を生簀(いけす)へ入れておくと腹を上にして浮いている。舟頭が、「注射してやるべえ」と、細い芦か竹の節を抜いた鉛筆くらいの長さの物を魚の臍の穴へ突き通すと、スーッと空気がでて、クルリとかえってまともに泳ぎ出す。(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) 


コップ一杯のビール
「コップ一杯のビール」を英訳する場合、a cup of beerという人が多いが、これは誤り。正確には、cupは「陶器・金属製の容器」または「優勝杯」を意味し、a cup of coffee(tea)とは使うが、ビールを飲むときのガラス製のジョッキブラスなどはささないのである。正解はa glass of beerである。ビールと同じように、a whisky glass, a glass of wineなどのウイスキーやワインの場合も、glassを使いのが正しい。(「ENGLISH 無用の雑学知識」 ロム・インターナショナル編) 


級別廃止
平成四年四月から日本酒の級別制度が廃止された。この級別制度は、昭和一八年に国家財源としての酒税確保のために生まれた制度で、日本酒にランクをつけて、上等のものから潤に高い税金をとるしくみにした。品質の検査(級別審査)をして、品質のよさやアルコール分の濃さによって規格が定められた。(「日本酒」 秋山裕一) 


呂洞賓の詩
東林(とうりん)(注一)は、私の住んでいる山から東南五十里余りのところにあり、沈(しん)氏が代代ここの女池である名家である。元豊のころ(一〇七八-八五)、この家に思(し)という名の者がいて、字(あざな)は東老(注二)といい、かなりの蔵書があり、客人をもてなすことが好きな人だった。この東林は、銭塘江(せんとうこう)沿いの交通の要路に当たっているので、士大夫や遊人墨客たちは、この沈氏の客好きを耳にして必ず立ち寄ったが、彼の方でも、嫌な顔一つせずに人をもてなしていた。ある時、麻の衣に青い頭巾をつけ、回山人(注三)と名乗る者が訪れたが、なかなかに卑しからぬ人品であった。ともに酒を飲んだが、終日酔うことはなかった。日暮となって、その人は食べ残しの石榴(ざくろ)の皮を手にすると、絶句を一首、壁に書きつけた、 西隣は已(すで)に富めるも足らざるを憂う 東老は貧なりと雖(いえど)も楽しみ余りあり 白酒(にごりざけ)を醸し来たって好(よ)き客と縁(むつ)み 黄金を散じ尽くして為に所を収(あがな)う  のびやかに会釈すると、そのまま彼は門を出てゆき、石橋を渡って去っていった。あわてて追いかけたものの、もう姿はなかった。おそらく呂洞賓(りょどうひん)だったのだろう。当時、この詩に和して詩を詠んだ名士がたくさんあり、今も世に伝わっている。(巻四)
注一 東林 今の浙江省呉興県。 二 東老 王会の「回仙碑」(邵蘅の『蘇詩補注』には、もっと詳しく述べている-)「熙寧元年八月十九日、湖州の帰安県に、沈思という隠君子がいて、字は持正といい、東林に隠棲していたところから、東老とも称した。<十八仙白酒>を醸するのが上手だった。ある日、回道人と自称する客が訪れ、東老に会釈して一酔せんことを所望した、…」。 三 回山人 「回」という字は、「呂」の字の変形であり、つまり呂洞賓であることの寓意となっている。-(「避暑録話」 葉夢得 入矢義高訳 宋代随筆選 中国古典文学大系) 呂洞賓は、唐末に生まれた道士だそうです。 


花ざかり下戸も上戸ものみたべてひらかぬさきにさけさけという [卜養狂歌集]
酒・咲けの同音を利用したものだが、花が咲かないのに「花ざかり」はおかしい。半井(なからい)卜養(一六〇七-一六七八)の狂歌は初期の江戸で非常な歓迎を受け『卜養狂歌集』は菱川師宣(もろのぶ)の挿絵入で度度版を重ねたが。狂歌はあまりにも疵が多く、時として意味が通じないことがある。彼は二十代のころすでに堺屈指の俳人とされたが、本業は医師で、のち江戸に移って幕府の御番医師となった。職掌がら大名や旗本との接触が多く、上方の文人として迎えられ、狂歌などを乞われることが多かった。そうした場合の頓知の即吟が人を驚かした反面、粗雑なよみ口に陥ったのは是非もないと言えよう。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


円山下牡丹畑にて
四月一日(元治元年)、大塩屋で朝飯を食べて、布小・市兵衛・主人と連れだって帰った。それから「人恵」(やまけい)の二人とともに、住吉大神宮と四天王に参詣した。布小方に戻ってから、買い入れた「○十」(十は○の中 まるじゅう)絣(かすり)一九〇反の船積みの引合いに、大三へ赴いた。京の両替屋藤金が送った五〇〇両を受け取った。二日、「○十」絣三箇を大三へ渡し、「○十」絣代金五〇〇両余りを川元に払った。夕方、四人揃って本町橋船で上った。三日、伏見柴六で朝飯を済ませて、京へ入った。「人恵」主人が用意した円山下牡丹畑の席へ呼ばれた。料理人・仲居・太鼓持・コドモ(丁稚)らを含めて二七人が寄り集まり、大酒宴となった。そのあと祇園に詣で、六人連れで広島屋へ寄った。芸子一人、舞子三人を揚げて、酒盛りとなった。午後四時ごろ、定宿の近与へ行った。一息入れて、元蔵は、江戸から届いていた二〇〇〇両の手形を渡しにでかけ、その足で、「人恵」へお礼に参上した。座敷に上がって、またまた大酒興大はずみになった。忠七に送られて無事寄宿した。三月一八日から一六日間の旅と遊興の日々は、夢のように過ぎた。元蔵は、浮かぶままに思いを書き連ねた。
実に是ぞ日本一の楽しみなり、然るに今此事をふりかへりて喜ふに、苦に入て苦をしらず、楽に入て楽みをしらずと、珍味も度重ならば楽ならずといふが如く、今過去りぬれば昔夢の如し、此世の事は、楽みといふも実に苦しみの基ひなりけれ、何事も皆偽の世の中に、死ぬ斗(ばか)りはまこと成けり、此楽に付も、後世永世の楽みを忘るべからず。
六日に帰村した元蔵は、伊勢参宮中入用を精算した。元蔵の分は、五両二分と銭二〇〇文だった。四月・五月と、京・大坂を往き来し、絹太物・羅紗(ラシャ)・生金巾・服連(フクリン 毛織物の一種)・黒八(黒八丈。絹布の一種)などを商って、日を送った。物価の引き下げ、買い占めが厳しく触れ出されたため、商いはむずかしくなった。(「幕末維新の民衆世界」 佐藤誠朗) 近江の商人で、熱心な浄土真宗の門徒だった小杉元蔵の日記だそうです。 


政界
池田勇人 広島県第二区。-生家は酒造業。
戸塚九一郎 静岡県第一区。- 何の仕事もせず、チビリチビリと酒をのみ、四段の腕前の碁をたのしむ。それだけが彼の取柄らしい。
益谷秀次 石川県第二区。-大酒飲みで、ふんどしがゆるんでいるといわれるが総務会長でおさまっているあたり、ボーッとしているようだが、どこかいい所があるのだろう。
広川弘禅 (落選中) 彼はまさしく立志伝中の人で、酒屋の小僧や電車の車掌の経験もある。(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。政界の酒の部分だけです。 


出版社のはしご
ひとびとの気分が焼跡の瓦礫のごとく孤独に荒れていた戦後は、その泥酔が殊に極端になつた。田中英光はその作品のなかでカルモチンなら五十錠から百錠の間、アドルムなら十錠と書いているが、それは一方で睡眠のためにのむ量であり、また他方では酒をのむとき酔いを深める促進剤としての用量であつた。或るとき、私と関根弘は、焼酎をのむ合い間にアドルムを一錠ずつ容器から出してかじつている田中英光を驚きと不安の念をまじえて見守っていたが、酔つてくるにつれて男二人を一緒に抱きしめられるほど肩幅の広い上体がだんだん前のめりになり、その動作は試行錯誤の実験でもされているゴリラのようにゆつくりと動物的になつてきた。コップを持ち上げてのむということより、透明な液体をたたえたコップにゆらゆらと大きな上体が近づいてゆくのである。こんなふうに前のめりに蹲つた巨大な猿の奇怪な姿がテニエーの絵にあつたような気がするが、卓上のコップの方ヘこちらからゆらゆらと口を寄せてゆく段階になると、もはや危険信号なのである。もう出ようと闇の戸外へつれだし、六尺二十貫という軀を両側から支えて歩きだすと、彼は何所までもわかれたがらず、あすこへ寄ろう、ここへ寄ろうと、例えば筑摩書房とか真善美社とかすでに社員の帰つてしまつたその付近の出版社のはしごをしたがり、もしがらんとした社内に社員がいるのを見つけると、そこから出ている本をくれという癖があった。奇妙なはしごである。そして、その頃、彼の根城になつていた新宿まで本をかかえ、アドルムを囓り、闇につつまれた原始の叢林を歩いてゆくゴリラのようにゆらゆらと揺れながら帰つてゆき、そこで最後の泥酔の決算をしてしまうのが一日の旅程なのであつた。(「酒と戦後派」 埴谷雄高) 


せきれいの智恵
山の神が雪のために木の叉にはさまれた。鳥どもが集まってどうして助けるかを相談した。せきれいは酒のみのごろつきだから知らせなかったが、後でやって来て、鳥共を二手に分けて枝に並ばせ、その重みで助けてやった。山の神はせきれいに日本一だという墨付をくれた。せきれいは酒を飲み歩いてそれをなくし、舌うちしながら今も探しまわっている。(三戸郡南郷村中沢の話 採話・夏堀謹二郞)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


羨望の極み
私は綱八に行って天ぷらで夕食を食った。その頃綱八は新宿三越裏を桜製菓の方ヘ抜ける路地のとっつきの右側にあった小さな店で、私はよくそこに行って飯を食ったが、酒の飲めない私の食事は、十分か十五分位しかかからなかった。こんな晩は酒でものめたらいいのだが、と私は考えたのだが、猪口一杯の酒でも飲めない私は、どうしようもなかった。酒が飲める人間は嬉しいといって飲み、悲しいといって飲み、癪にさわるといって飲みしているが、飲むことによって、気分の転換がはかれるというのは羨望の極みであった。酒の飲めない私は、気分転換の方法がない。朝起きて憂鬱だと、昼も憂鬱、晩も憂鬱である。その翌日も、その又翌日も。そんな風にして行くと、一生気分の転換ができずに憂鬱かもしれない。事実四十台の半ばのその頃が、私は一番憂鬱だったであろう。五十歳を過ぎてからいつか私は憂鬱ではなくなり、年をとるほど明るく、むしろ楽天的といえるようになって来たけれども…。私は酒を飲め無いということは、何か一つの罰を受けているのではないかというようなことを、転換しようのない気分を持て余して考えたりした。どんな宗教にも酒はついている。しかし私には葡萄酒一杯さえも飲めないのである。(「続年月のあしおと」 廣津和郎) 


AZOLLA進化系
石田さんはまだ杜氏になって歴史が浅く、実力のほどは未知数だ。だが情熱と才能の片鱗が垣間見えるのは、2010年から発売している。「ふゆみずたんぼ生酛純米生原酒 木桶仕込」だ。米は、「竜王町酒米部会」の北川博巳さんと村田茂朋さんが、ふゆみずたんぼ(冬期湛水(たんすい))で育てた山田錦。ふゆみずたんぼとは、稲刈りをしたあと冬の間に田んぼに水を溜めて、農薬や化学肥料、畦(あぜ)も含めて除草剤を一切使わず、田を耕すこともしない農法だ。田んぼには蛙や虫、微生物が育ち、土はとろとろに改善されることで雑草を抑え、耕すことなく田植えができる。いわば自然の摂理に則った方法で、AZOLLA進化系と考えればいいのだろう。(「極上の酒を生む土と人 大地を醸す」 山同敦子) AZOLLAは、松の司(滋賀県竜王町)の「環境こだわり農産物」という県の認証をうけた米でつくった純米吟醸の名前だそうです。 


船津傳次平
東京への出発の日には、原之郷(現群馬県前橋市富士見町原之郷)の百姓たちは残らず見送りに集まった。老若男女悉く傳次平(でんじべい)の家を取り巻いて集まり、名残を惜しんだ。すでに八右衛門はなくなっていたが、息子の八太郎が近隣の者を指図して世話をやき、すっかり腰の曲がってしまった六郎次も杖をついてやって来た、前橋の駅まで二里半の見送りに行くと言い張った。 -東京と言ったって今日じゃへえそんなに遠くなことあるもんかよ。汽車で四時間半で行き着くんだぞや。と、傳次平は人々に鉄道の開通によって、東京がいかに近くなったかを説明したりした。 -役所にゃ休暇があるんだんべが、休暇には来られんだんべね? 人々は誰も誰もそのことを口々に言った。 -休暇にぁ帰って来るよ。暮れから正月には毎年帰って来るで。墓参りはしなきゃなんねえからのう。 -東京にぁいい酒があるだんべや? と、貧乏しているくせに酒が好きな喜平次がそんなことを言い出したのも、名残を惜しむ気持ちに堪えかねてのうえであった。 -おうよ、お前にゃみやげに上酒を一本提げて来てやることにしべのう。 傳次平も上機嫌で言い返した。酒となると傳次平も喜平次も兄弟分で、いずれ劣らぬ腕前であったのだ。喜平次はそれですっかり有頂天になったようで、気負いたって座敷から大きな行李をひッかついで庭へ出た。八太郎がそのあとから合財袋をかついで出た。 -じゃあみなさん、どなたも達者で百姓を励んでのう。 庭いっぱいにあふれた村の人々に傳次平は別れを告げた。(「船津傳次平」 和田傳) 「明治の三老農」といわれた船津傳次平(でんじへい)が、大久保利通から招請のあった駒場野農学校の教師就任を承諾して、上京する場面だそうです。 


井伏鱒二、井上靖、井上友一郞
そんな時代から、井伏さんとは呑んでいる訳で、いろいろと話は尽きないが、井伏という人がほんとうに酔った姿を見た記憶がないのを、いまさら不思議なことに思う。「この間、井伏さんが酔いましてね」という風な話は、この二、三年よく聞くし、「阿佐ヶ谷あたりで大酒呑んだ」子細は、随筆などで時折り読むのだが、井伏鱒二の酔態というものは、私の眼には浮かんで来ない。-
新聞社に籍を置いたことのある人の酒は、だいたいに於て荒いものだが、井上靖君の場合は正反対で、酔いと共に優しさを加えてくる。その上、人に招ばれた席なり店では、実に控えめにしか杯を重ねないが、自分で誘った場所へ着くと、俄然ピッチを上げ、人にもすすめるの癖を持っている。そのため、私なぞは随分得をしている。-
井上友一郞君も、酒豪の名は高いが、私の知っている限りでは、量に於ても姿勢に於ても節度をこえることはないようにみえる。-(「酒徒交伝」 永井龍男) 


酒は二三合を過さず
拝復。文章書翰詞林と、のべつに続きては、余りに味のなき心地いたし候。文章書翰大詞林としては如何にや。毎日七八町の石段を上りて伊豆山神社に詣づ。この上下が熱海などへ行くよりも、運動になり申候。かくて毎日必ず汗を出し申候。而して酒は二三合を過さず、且つ朝日(海上の)に向つて腹式呼吸いたし申候。近来頭は大に好く候。腹もよく候。之に乗じて、今しばし万事放棄、背水の陣に功を奏してひと先ず重荷を卸し、近き将来に於て、あらゆる文債を悉く償了すべく候。中山氏へよろしく伝言願上候。 十年の酔を温泉にさましつゝ 朝日に向ふ海岸の宿(大正二年十月十七日 田中貢太郎氏へ)(書翰 大町桂月) 


南北朝時代の闘茶の会
茶会が始まる。亭主や客の服装がまたすごい。十徳や半徳なんてものではない。いずれも金襴緞子の衣や袈裟を身にまとい、客は豹の皮の褥(しとね)を敷いた胡床(こしよう)の上に安座し、脇息(きようそく)によりかかつている。まるで、千光の仏が一堂に安座ましましたようで、あたりまばゆきばかりなり、と傍観者は批評している。-
かくして、茶会が終ると、亭主は改めて珍酒佳肴を出して、それから酒宴となる。闘茶は、四種十服を原則とするが、次第に茶種を加えて十種以上百種にも及び、服数も増して二十服以上百服に至つた寄合いもある。酒宴も度を過ごして、酒客一堂酩酊に及び、居ぎたなくその場に酔い潰れたり、中には深夜に目ざめて、ひとり台所に忍び入り、樽の酒を「上:夭、下:口 の」みほしたというような豪傑も出てきた。酒の飲めない奴は、バクチもやつたようだ。こうなると、茶会も、バクチの会か酒盛の前座か、わからなくなつてくる。しかし、南北朝時代の闘茶の会は、大体、このような、あられもないものだったらしい。が、中国渡来の珍しい遊びごととして、大いに流行したようである。(「茶 歴史と作法」 桑田忠親) 


右コ左ベン
居酒屋で飲む場合、楽しう飲むというのが客の心理だろうが、それが酔うにつれて客同士が喧嘩になったりする。その源は右コ左ベンにあるようだ。右コ左ベンしないこと、これが私の考える居酒屋でのエチケット第一条だ。もっとも、この右コ左ベンのよくないことは、居酒屋に限ったことではない。-
連れの多い居酒屋で、一人で飲むのは味気ないらしい。特にそっちでは議論、こっちで笑いというにぎやかさのなかでは余計そうらしく、つい縁のない隣客にも話しかけたくなるらしい。これが私の右コ左ベンで、おだやかに、また極く自然に話題の共通点をその独り客が感じたときはまあいいとして、他人の話に揚げ足のきっかけをつくって話しかけるのはエチケットを知らないこと。しゃべりたければ居酒屋のおやじとかおかみとかをつかまえへ話していればいいのである。(「居酒屋でのエチケット」 草野心平) 


西川泊雲と小川知可良
また福知山線で近くの氷上郡市島町西川謙三さんの造る"小鼓"は、地方の小庫ながら、東京に進出している。先代泊雲(亮三)さんは、俳句よみで有名。かの明治の画家、小川芋銭さん(茨城県牛久の人)と肝胆相照らし令嬢は遠く芋銭さんの令息、知可良さん(水戸市在住)に嫁いでいるが、小川知可良さんは税関の役人から戦争中酒造に転向した。箱こうじ法というこうじ作りの発明者で、いま、水戸のアルコール会社の技師長でありながら、"小鼓"の指導もしている。芋銭さんの画幅の真偽鑑定は、この人をおいては無理であろう。(「さけ風土記」 山田正一) 水戸のアルコール会社は明利酒類㈱で、小川知可良は小川芋銭の三男だそうです。 小鼓 10号酵母 


酒七題(その二)葡萄酒
父は甚だしく酒を愛し、慶応義塾が新銭座にあつた頃は、後進の書生に講義する時、土瓶に冷酒をしこんで番茶と見せかけ、飲みながら英書を読んでゐたさうである。私共が知つてからは、寝酒が何よりの楽みで、宴会で飲んで来ても、これだけは欠かさなかつた。食卓の上に黒漆の膳をのせ、何か肴を前にして、それにはあまり箸をつけず、手酌で陶然となつた。旅へ出る時は常用の酒を鞄に詰た。父は日本酒の味に惚込んでゐて、洋酒は好かなかつた。客の為に備へてあるのは、私共兄弟が勝手に飲んだ。私共兄弟が勝手に飲んだ。私共はちひさい時から、葡萄酒に砂糖を入れ、水を割つて飲むのを飲むのを好んだ。風邪を引くと、母がそれをあつい湯でこしらへ、レモンを薄く切つて浮かべてくれた。ハンケチを咽喉に巻かれたり、真綿を懐に抱かされたりして、それを飲み、頭から蒲団をかぶつて、ぽかぽかして眠つた事を忘れない。私は葡萄酒をグラスについ毎に、そのグラスのほとりに、若かつた頃の母の白い顔を感じるのである。(昭和六年十一月九日)(「都新聞」昭和六年自十一月十二日至十八日)(「酒七題」 水上瀧太郎) 

大吟醸は床麹でも造れる
当時、桝田さん(敬次郎 万寿泉社長)は「大吟醸は麹蓋で造る」という業界の常識に疑問を持っていた。若きエリート杜氏の三盃(幸一 さんばい)さんに「大吟醸は床麹でも造れるか」と尋ねた。三盃さんは即座に「床でも大丈夫」と答えた。さらに「蔵人に教えるには床の方が簡単」とまで言い切った。桝田さんは、自分の技術を後進に伝えようとする三盃さんの意欲に感服した。「吟醸酒造りに取り組んでからは、、『やっぱり床麹はだめだ』と言われないためにも、最初が肝心と思い、必死でしたね」その結果、昭和四七(一九七二)年、旧国税庁醸造試験所(現・独立行政法人種類総合研究所)の全国新酒鑑評会で初めて金賞を取った。それ以来、桝田酒造は鑑評会で金賞の常連蔵となり、その杜氏としての三盃さんの名声も全国に知れ渡った。(「挑戦する酒蔵」 酒蔵環境研究会編) 


誹諧新潮(2)
夕顔    夕顔に気安き酒の友来たり            松香
揉瓜    揉瓜や四十男の酒を妻              紅葉
名月    名月や大盃に望むへ(べ)く            活東
秋風    秋風の袂を探る捜る酒銭哉           紅葉
そゞろ寒  そゞろ寒猪口の小さきを鼻の先         竹冷
       そゞろ寒寒酒なと(ど)と買ふて呑飲もかいな 烏黒
今年酒  伊丹風の一句作らは(ば)や今年酒      知十(「誹諧新潮」 尾崎紅葉選) 


角打ちの会
四ツ谷「鈴傳」さんの「角打ちの会」に行ってきました。会費3500円で飲み放題食べ放題。お料理はお店の方々の心のこもった手料理の数々。牛すじ煮込みが旨かった~。飲み放題だったお酒のラインナップはこんな感じ。「スペシャル姿 中取り純米吟醸 雄町(鈴傳限定酒)」「スペシャル豊賀 特別純米 中取り無濾過生原酒(鈴傳限定酒)」「超☆房島屋(NO.9)(鈴傳限定酒)」「大正の鶴 特別純米 中取り無濾過生原酒(都内鈴傳限定酒)」「大倉 特別純米 無濾過生原酒 オオセト」「あたごのまつ 純米吟醸 本生おりがらみ」「龍神 雪霞」「大那 特別純米 初しぼり」「富久長 特別純米一番しぼり」「鏡山 純米酒 搾りたて」 個人的には、「超☆房島屋(NO.9)(鈴傳限定酒)」のお燗酒がめちゃめちゃ旨かった。常連さんたちのテーブルに入れて頂き、日本酒を堪能。常連さん達の二次会へも一緒に参加させていただく。初参加にもかかわらずあつかましいあたし。(「Tokyo ぐびぐびぱくぱく口福日記」 倉嶋紀和子) 


酒も好み餅も好む者、酔うと系図を自慢する者、酒の中毒、酒をすすめる詞
【酒も好み餅も好む者】(本)だいじきじょーご(筑後久留米(はまおき))。
【酔うと系図を自慢する者】(本)けーずじょーご(丹羽(俚言集覧))。
【酒の中毒】(補)さきがち。
【酒をすすめる詞】(本)きこんについで召しあがって下さい(新潟県頸城地方・愛媛県大三島・山口県豊浦郡)。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録) 


瓦礫雑考
木香といいて、よき杉木の根を削りたるを、酒の中に入るることもあり。また酒に用いる器物、みな杉にて造るものなれば、これらによりてかくするやともおもえど、なおよくおもうに、杉の葉を酒にひたすことは、味変りたるをなおさんとすることなり。また中品の酒は六、七月のころ遠方に運搬するには、途中にて損する故に、木香をば入るるなり。木香はよく酒の気味を助けて、そこなわぬものなれど、上品の酒は変ることなければ用いるに及ばず。(至って下品な酒には、蕃椒(とうがらし)をも入るることあり)(「瓦礫雑考」 喜多村信節、一七八四~一八五六)(「酒鑑」 芝田晩成) 


○江戸順礼
さけと紅葉 いづれあかぎの いろ競(くらべ) 赤城
興も夢も 新酒のゑいも さめが橋 丸山(「権蒟蒻」 山中共古 中野三敏校訂) 『猿乃人まね』にある遊里紹介の川柳だそうです。 


天野山金剛寺の酒
なかでも室町時代の公家・武家・僧侶などのあいだで評判の高かったのが、天野酒である。この酒は河内南部、現在の大阪府河内長野市の山中の巨刹である天台宗天野山金剛寺の酒である。天野酒として資料に現れるのは、室町幕府六代将軍足利義教が播磨の守護赤松満祐邸で暗殺された直後の嘉吉四年(一四四四)のころといわれている。応仁の乱の一方の立役者で、金剛寺のある河内国の守護でもあった畠山政長は、毎年のように天野酒を将軍に献上しており、当時の僧侶たちも、「比類無き名酒」とか、「美酒言語に絶す」など、最大級の言葉で讃称しているのである。豊臣秀吉もこの酒を深く嗜み、わざわざ朱印状を下して、「念をいれつめ候て」とか、「情を入るべきこと専一なり」(金剛寺文書)とかいって、伝統ある名酒の醸造に専念すべきことを命じているほどであった。(「酒造りの歴史」 柚木学) 


ブタノール
春に近いある晩、種ケ島は、街でブタノールを呷り、音無川の川べりを、すっかり、いい気持になって歩いてきた。ブタノールは最初、ガソリンのにおいがぽうんと来るのを舌の先でぐっとおさえ、においを克服しながら飲みつづけるところにコツがある。おそろしく寒い晩で、川筋を吹いてくる風が火照った頬にあたるごとに、ざらざらの無精髭を研ぎすました剃刀でひと息に剃りあげるようなこころよさがあった。雨曇りの闇夜であるが左手の川底の浅い流れだけが夜目にも白く光っている。ときどき正面からどっと吹きつけてくる風は、うっかりすると一歩踏みだした足を、そのままうしろへねじ戻してしまう。すさまじい風速で迫ってきたと思うと、それもほんの二、三分で、しゅっと消えてゆく。天城特有の木枯である。種ケ島の身体は、まるで宙に浮いたように、二、三歩前へよろけては、慌てて立ちどまり、立ちどまったと思うとぐっと押し出された。ああ、こいつは今に吹きとばされるな、と思っているうちに、時を外さず、どっと吹きつけてきた風に、あっというひまもなかった。種ケ島は自分の首をはなれた襟巻きが、ふわふわと虚空にゆれながら川の流れを目がけて舞い落ちてゆくのを見ただけである。(「三途の川岸」 尾崎士郎) 


愛瓢
箱崎の土佐藩邸は邸内が広くて、松、桜、楓などの樹木が多かつた。春の比(ころ)、付近の諸商人がお庭拝見の儀を願い出た、(山内)容堂は三日間縦覧を許すことにして、その日は門前に下足を置き福草履五百足を用意し、小供に投げてやる干菓子を一日五十両のわりに買はし、庭の其処此処(そこここ)には薦冠(こもかぶり)の鏡をぬいて柄杓(ひしやく)をそへてあつた。付近の人士は忽ち群集した。菰冠に渇を医するもの、手踊の興ずるもの、三絃を弾くもの、一瓢を携へて俳諧に遊ぶもの、それは三春行楽の縮図であつた。容堂は物見へあがつて愛瓢を傾けながらそれを見て楽しんでゐた。その愛瓢は頼山陽の賞玩してゐたもので、三合入の濃紫を紐に銀の口をつけ、その腹に金泥で、 許由之所捨 吾可以酔 と題したもので、それには山陽の落款があつた。容堂はその時、枕水亭の傍を歩いてゐる一人の女を見つけた。それは二十五六の昼夜帯をした、服装は賤しいが「糸朱」(きれい)な女であつた。容堂の傍には例によつてお茶坊主の二宮三敬がゐた。『三敬、あれを呼んで来て酌をさせよ、』三敬は云はれるままにその女を呼んで来た。女はおそるおそる酌をした。『その方は、所天(ていしゅ)があるか、』『はい、』『さうか、所天があるものを、ながくはおかれまい、』容堂はそこで女を返すことにして、三敬に云ひつけた。『三敬、あの銀の瓶を持つて来い、』三敬は命のままに持つて来たが、それは小さい方の瓶であつた。『けちなことをするな、』容堂は三敬を叱つておいて手文庫を持つて来さし、その中から二分金と一分銀を掴みだして、瓶へいつぱい詰めて女に持たして返したが、三四日するとその女が礼に来た。その時女は著飾つて一段と美しい女になつてゐた。女が帰つた後で容堂が笑つた。『昼夜帯の時より、よくないぞ、』(「随筆 酒星」 田中貢太郎) 


スピリッツ
英語で、酒のことを、スピリッツともいう。空港の税関で、「ハヴ・ユー・スピリッツ?」と訊かれた日本人、胸を張って、「ヤマトダマシイ」(「ちょっといい話」 戸板康二) 


二度とはつれぬと桜へ下戸くゝし 柳二〇2
つれの者の酒癖が悪く、人々に迷惑をかけるのを、下戸が見かねて桜の木にしばりつけ、もう二度とつれて来ないと言う。-その結果、翌年からは、
癖のある酒で花見をはぶかれる 柳一二35(「川柳集 狂歌集」 吉田精一評釈) 


日本清酒発祥の地 にほんせいしゅはっしょうのち[食品]

荘園で造られた米から僧侶が醸造する酒を「僧坊酒」と呼ぶが、創建当初・正暦寺はその筆頭であった。「三段仕込み」や、麹と掛米の両方に白米を使用する「諸白(もろはく)造り」など、近代醸造法の基礎となる酒造技術が確立されており、現代の清酒醸造法の祖とされる。
[碑名]日本清酒発祥之地
[所在地]奈良県奈良市菩提山町157正暦寺境内(「日本全国発祥の地事典」 編集・発行 日外アソシエート株式会社) 


呑み明て花生(はないけ)にせん二升樽
曰人(あつじん 遠藤)の『芭蕉翁全伝』によれば、元禄四年春、伊賀滞在中、尾張の人から濃酒(こいざけ)一樽、木曽の独活、茶一種を贈られ、門人多数にふるまった折の作ということになっている。そこに集まった人数がどれほどだったかはわからない。二升樽を余さず飲みあけようというのだから、かなりの人数だったのだろう。なかには酒豪もいたのかもしれない。芭蕉はどれくらい飲めたのだろうか。越人や其角ほどではないにしても、けっこう強かったように思われる。(「食べる芭蕉」 北嶋廣敏) 


㈱灘琺瑯タンク製作所
琺瑯の酒造タンクが出現するのが大正12年(1923)頃です。当初、灘で開発された琺瑯タンクは地元の灘ばかりか銘醸地であった伏見でさえも見向きもされずにいたのですが、この施設・特許を新潟の面々が買い取り、昭和2年(1927)、現地に㈱灘琺瑯タンク製作所を設立します。そこに、新潟銘醸「長者盛」の吉澤勇次郎社長が新社長に就任、専務には朝日酒造「朝日山」の平澤順次郎社長が、常務には試作者・片山全二氏が、取締役は田中大五郎「君の井」社長、監査役には最初にこの製作所に目をつけた㈱渡辺商店、渡辺定治社長が就任します。琺瑯タンクのメリットは洗浄の容易さはいうまでもなく、それまで木桶に吸い取られていたほぼ6%のお酒が欠減せずにすむということです。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


ほろ酔いしめじ 1分で作れる「割烹」の味
材料 しめじ…1パック、酒…大さじ1 塩…適宜、ゆず皮(あれば)少々
① しめじはいしづき(根本のかたい部分)を外し、房をばらす。
② 耐熱容器に①と酒、塩を入れ、レンジで1分加熱する。
③ あればゆず皮を細かく切って散らして完成!
※②ではアルコール分を飛ばすためにも、必ずフタをするとき隙間をあけておいて。ここが風味を左右します。(「R25酒肴道場」 荻原和歌) 


夜逃げの日
「もう一本ビールをのみますよ。栓抜きはどこにありますか?でも、目黒ならこゝから、たつぷり三里はある。夜逃げしたつて大丈夫でせう」「ビール抜きはスタンドの果物籠のなかにありますわ。どうぞ手酌でおのみになつてゝください。もう直ぐ、お相手にまゐりますから…」「僕になら、おしやれなんかしなくつてもいゝんだ。お化粧した女としゃべりながら酒をのむと、いつものみすぎて困る」「あたしの店の最後の日のカンバンを、あたくし、貧弱ながらせめて華やかにしたいんですの。お酔ひになつたお客さんを送り出して、最後の日のカンバンにしなくつちや。あたしだつてすこしは酔つて、どつとにぎやかなオールヴオアルつてな調子にやりたいんですの」「悲痛なものがあるね!多分日頃サアヴイスを怠けたんだらう」「最初のお客さんにはウインク、二度目のお客さんにはお客さんの希望次第で、冗談らしく握手して直ぐ手をふりほどいて笑つてゐましたが、三度目以上のお客さんにはウインクに逆戻りするといふ営業方針でしたの。こんなのはプチブル意識でせうね?」「どうしてどうして、一理あるやりかただ」さういふ談話が終ると、女主人は軽くおしやれをして店に現はれ、微笑しながらスタンドのところに立つた。「お待たせいたしました」そして彼女は瞳に技巧をこらして情愛を現はす表情をして見せた。これは彼女のウインクなるもゝの見本を示して見せたのかもしれなかつたが、私が酔つてゐても批判を誤らなかつたとすれば、彼女の表情や瞳の動かしかたは、この店にお客を吸引する役目をつとめるほどの商品価値を持つてゐるであらうとは思はれなかつた。こんなことでは、よほど手加減してお上手でも言はないかぎりお客たちはうまく酔へないであらう。私は頭痛がしはじめたのに気がついたが、酒をのむときには先づ顎のあたりが気持ちよく酔つて来なくては、酒が悪いかサアヴイスが悪いかそのどちらかである。(「居酒屋風景」 井伏鱒二) 


春の杯・春の盃(4)
1396 貰ひしは 密(ひそか)づくりの にごり酒 紅梅の花 見つつ飲まむか (紅梅) 一九四六 前川佐美雄
1397 娘(こ)の嫁ぐ 京にてどこか 木屋町の 酒飲みてをり ひとりになりて (詠吟) 一九七九 福田栄一
1398 酒をのみ 白い悲しみに 落ちてゆく 水のごとさむき 春のたそがれ (青の六月) 一九七九 加藤克巳
1399 あこがれの 時代(ときよ)は過ぎて 喉くだる 夜半一椀の 酒苦きかな (蝉声(ぜんせい)集) 一九七五 石田比呂志
1400 月下独酌 一杯一杯 復(また)一杯 はるけき李白 相期さんかな (直立せよ一行の詩) 佐佐木幸綱(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


方言の酒色々(12)
神輿が神社を出る時にふるまわれる酒 たちざけ
棺おけや葬式用の履き物の職人に出す酒 てあらいざけ
湯かんした後に身内の者が飲む酒 しまい/みあらいざけ
飲み残しの、燗の冷めた酒 かんざ/かんだ
葬礼の時、墓に持参する酒 のざけ(日本方言大辞典 小学館) 


『いづう』の鯖鮓
夕刻、たったひとりで現れた水上は気さくだった。部屋に通るなり、「おかみさん、『いづう』の鯖鮓を取ってください。それと、お酒を一本お燗して…」ほほえみつつ、それだけ言った。芸妓や舞妓はもちろん、綺羅びやかな料理の注文もなかった。酌人の依頼のないのは或る程度予測していたものの、献立についてはあれこれ楽しく空想していたので、いささか拍子抜けした。しかし、それも一瞬で、小末には相手の意図がありありと掴めた。心得て一礼して引き下がると、『いづう』に使いの人を走らせた。一方、自分は口当たりのよい伏見の銘酒を心をこめて燗した。古清水の鉢に盛られた鮓と、たった一本の徳利を目にするや、作家の目はいっそう優しく光った。「ありがとう。じゃあ、あとはひとりでやりますから」初めの一杯だけお酌をし、鮓に巻きつけられた分厚い昆布を慎重に剥がそうとする水上の手つきを視線の端を捉えながら、座敷を出た。手が鳴って呼ばれるまで、こちからからは襖も開けまいと決心した。客によっては無用に声を掛けず、清遊の境地に放置することこそサービスだと、長年の経験によって悟っていたからである。鮓と酒のみを前に座敷に坐った作家は、何を考えているのだろう。もとより本人以外に知る由もないことだけれど、小末には何とはなしに想像がつくような気がした。これは別のときだが、わたくしは東京四谷の文壇人の行くバーで、水上自身の口からこんな言葉を聞いた記憶がある。「大抵の男は祇園の茶屋に上がると、『この店で遊んだら、いくら勘定を取られるだろう』って思うでしょう。ところが、若いころのぼくは違っていた。『この店に雇われて働けたら、いくら稼げるだろう』と思ったもんですよ」(「たべもの快楽帖」 宮本徳蔵) 小末は、水上勉の泊まった京都祇園新橋のたもとにある「小末」の女将だそうです。 


随筆 酒
従つて米肉には甚だ感謝の念あれど、酒に対しては何等の同情もないので、酒が無くなつても別に慷慨もしなければ、禁酒の美風を盛んにしようと煩悶もしない。されば酒をよしともあしともいふ意見はなくて局外中立であつて、飲みたい人は勝手に飲めよ、飲みたくない人は無理に飲むには及ぶまいというふうに過ぎぬ。かの上戸連が下戸に酒を強ひるのは不都合な次第だが、禁酒の遊説も愚である。かの禁酒会位訳の分からぬ会はないので、此等は他人の快楽を奪はんとする不徳漢である。酒を呑めば病気になるから止めた方がよからうと、色色実例を挙げて尤(もつと)もらしくいふ人もあれど、禁酒するも亦病と死は免かる能(あた)はず、若し禁酒すれば千年も万年も長生し得べしといふならば、賛成してもよからうが、好きな酒をやめて五年や十年長生きしても、算盤が取れぬやうに思はれる。-
過ぐる日医師が予に一生酒と煙草を禁ぜよと勧告したが、予は酒はあまり好まぬから止めてもよいが、煙草は好きだから止めぬつもりだ。煙草は吾人貧民に低価にて快楽を供する恩人である。この恩人に背いて一年二年長命してもツマラない。吾人は禁煙して百年生きるよりも、卅年でニコチン中毒で死ぬ死ぬる方がうれしい。酒好きの酒に対する考へもかうであらうと、吾之を忖度(そんたく)する矣。(「酒」 正宗白鳥) 


春の杯・春の盃(3)
1385 かきながす は(巴)の字の水は 絶えはてて 空にのみ見る春のさかづき(夫木抄・春五・一七五三)一三一〇? 公朝(こうちょう)
1386 ひとりして 我がくむ酒に かぎりなき 春の心は こもりける哉 (浦のしほ貝・春) 一八四五 熊谷直好
1387 思ふどち ひとつ霞を くむがうちに はな鴬の よりなりにけり (千々廼屋集・雑) 一八五五 千種有功(ありこと)
1934 もの云へば 今日わがよよむ 舌の上に 酒しみ刺して心開かず (平明調) 一九三三 尾山篤二郎
1395 酒の慾を 卑しとせねば 大宮の 酒を酔ふまで いただきつ我は (晴陰集・<皇居立春>) 一九五八 吉野秀雄(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


白酒売り
白酒売り 春を専らとす。またこの賈の荷ふ所、必ず山川を唱す。桶上の筥は、硝子(ガラス)とくりを納む。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 


朝酒にしてやきのりの余寒なれ 小沢碧童
作者は碧梧桐四天王の一人。日本橋魚河岸の檀那衆だったが、根岸に隠居した。その根岸の里での江戸ッ子らしい生活ぶりがうかがわれる句。(「句花歳時記 春」 山本健吉編著) 


よい酒からよい酢がとれる
【意味】材料がよければ、たとえそれが変質してもよいものができるの意。
【解説】古代の酢は酒の変質したもので、そのためにフランス語では酢を「酸っぱい酒」vinaigre という。それに古代の酒は精製が十分でなくて、酸っぱいものが多く、酢になりやすかったという事実がある。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助) 


桑原、三好、大岡
この夏、僕は志賀高原で桑原(武夫)、生島(遼一)両先生に、三好達治先生を加えて、楽しく遊んだ。この取り合わせは、知らない人には少し妙に思われるかもしれないが、三好さんは桑原先生の三高の同級生で、そもそも京都へ行く僕に、桑原先生の紹介状を書いてくれたのは三好さんである。三好さんは大学は東大、つまり辰野(隆)門下で、僕は前から知遇をかたじけのうしていたのである。三好さんと僕とは考えてみると、随分一緒の時間を沢山持っている。最初はたしか佐藤正彰に紹介されたと思う。新宿の樽平が出来たての頃、一本二十銭の秋田の地酒を随分飲んだし、心悸亢進で伝研へ入院した時も、「よしのや」のスープを持って行った憶えがある。退院の時も、佐藤と二人で中谷孝雄氏の家まで、車で送って行った。京都でも三好さんはしばらく下賀茂にいたことがあり、新京極の正宗ホールで飲み(飲む話ばかりで、また桶谷先生におこられそうだが)鎌倉の下宿で襖一つ隔てた隣室に、ごろごろしていたこともある。(「わが師わが友」 大岡昇平) 


春の杯・春の盃(2)
1380 さかづきの 流れにうかぶ 今日なれば 酔ひても見ゆる 桃の花かな (教長(のりなが)集・春・一七〇) ? 藤原教長
1381 散る花を けふのまとゐの 光にて 浪間にめぐる 春のさかづき (六百番歌合) 一一九四? 藤原良経
1382 盃に 春の涙を注ぎける むかしに似たる 旅のまとゐ(まどい)に (式子(しょくし)内親王集・雑) ? 式子内親王
1383 花のもと 露のなさけは ほどもあらじ 酔ひなすすめそ 春の山風 (新古今集・釈教・一九六五) 一二〇五 寂然(じゃくねん)
1384 もろともに めぐりあひける 旅枕 涙ぞそそぐ 春の盃 (拾遺愚草・中・一七二六) 一二一六 藤原定家 


川上義左エ門
酒が描いた頼山陽にからまる史実がある。これは脚色されて舞台でもよく観る場面である。酒豪頼山陽は訪ねてきた心友の画家浦上春琴と酒を酌み交わしていた折、客の春琴はすっかり酔って、「酒、酒を持って来い」大きな声で怒鳴った。酔ッぱらうと主人も客人もない。-
そのときどうしたわけか、山陽の宅には女手が見えなかった。ただひとり、内弟子で、山陽に教わっていた旗本の子の川上義左エ門が居った。客人の春琴や主人の山陽まで「酒を酒を」と怒鳴るのを、川上は初め聞こえない風をして、次の部屋で本を読んでいたが、酒徒の癖でなかなかやかましいので、読書もできない。不承々々ふたりの席に出ていった。「何か御用ですか」と訊ねると、春琴は徳利をつきつけて、「何か用かとはなんだ、さっきから酒、酒と呼んでるじゃないか、これは君には見えないのか、ええ、君はアキ盲目か」酔ッぱらいは、同じ言うことでもトゲがある。川上も若い。これを見ると春琴から徳利をとるとみる間に、それを相手に投げつけたのだ。その徳利が春琴の顔にあたったので、顔は傷ついて血がにじみ出た。「川上、何をする、無礼ではないか」山陽は怒って怒鳴った。けれども川上は自若としている。「私は書生ではありますが、聖賢の道を学んでいる者です。しかるに私を酌婦かなにかのように目の前に徳利をつき出すのは、無礼ではありませんか。酒は酌んでも客は客らしく振舞うこそ」書生ッポながら、酒客には難物の理屈屋なので、主客両人は「あやまれ、あやまれ」ともっぱらあやまらして酒徒の面目を保とうとしたが、川上書生なかなかいうことを聞かない。とうとう「あやまれ」「あやまりません」から「お前出て行け」「いわれなくても、私の方から出て行きます」となり、こうして山陽と川上は、酒の上から不縁になってしまった。川上がその後、発憤して塾を開き、山陽に劣らぬ声望を得るようになった。(「酒味快與」 堀川豊弘) 遺児三樹三郎を川上に託すように遺言された山陽の未亡人が、涙と共に懇望したため、川上は男泣きしてそれを引き受けたそうです。 


さきはひと今日をなさむか薬瓶(やくびん)に入れ来し酒を梅観つつ飲む
二十二年の春、熱海梅林に遊んだ時の歌。ウヰスキーを薬の瓶に入れていつたのだらうが、第一は、事実そんな分量しか持ち合はせてゐなかつたせゐもあり、第二には、人にはやらぬこんたんでなかつたともいへない。しかし、初二句に、いくらかは明るい気分のよみがえるきざしが見えてきたともいへようか。(「飲食の歌から」 吉野秀雄) 


高級料亭退治
つぎに手をつけたのが、高級料亭退治であった。辻は、理由の如何にとわず高級料亭は閉鎖すべし、という案をつくり、拒否する参謀長を通りこして、軍司令官の畑俊六に直談判した。かねてから、高級将校連中の軟派ぶりをこころよく思っていなかった畑は、「よし、やれ」とそくざに決裁を下した。しかし、この命令は、必ずしも厳密に実行されたわけではなかった。ことに、上海では、海軍が艦隊勤務の特殊性を理由に、協力を渋った。海の上で何カ月も暮らしてきた将兵が、帰還しても骨休めをするところがないようでは、困るというのである。辻は上海へ赴いた・その晩、月の家から三軒の高級料亭がガソリンびんを投げこまれ、たちまち燃えひろがった。階上で飲んでいた将校たちの中には、大事な軍刀まで忘れて、命からがら逃げるものまであった。料亭の一軒は、本願寺の隣りにあり、寺には戦死者の遺骨が安置されていた。ある将校は、放火は辻の指示によったものとみて、くってかかった。「本願寺の隣に火をつけるとは何事か。英霊を冒瀆するものだ」「バカをいうな」と辻はどなりかえした。そして、「遺骨をわきに、酒をくらい女とふざけている方が、よっぽど冒瀆になる」とやりこめた。放火の犯人は、じっさいは辻の指示によったものではなかったが、相手は、辻だと思いこんでいる。辻は、自分ではない、とはいわなかった。料亭を焼き打ちしたのは辻参謀だ、ということになった。(「戦後人物誌」 三好徹) 「潜行三千里」の辻政信だそうです。 


雌山羊(めやぎ)を踊らせる酒[仏]
 樽詰めの酒のこと。かつてフランスでは酒は雌山羊の皮袋につめたが、八世紀ころになって、ぜいたくであるとして皮袋の代わりに樽が用いられるようになった。そこで、雌山羊は殺されなくてすむところから、樽詰めの酒を「雌山羊を踊らせる酒」というようになったもの。しかし、皮袋の臭い消しに松脂(まつやに)を入れた酒は風味がよかったために、上流階級では依然として皮袋が使われたようで、樽詰めの酒は下等とされた。(「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


津液と痰
津液(しんえき つば)をばのむべし。吐くべからず。痰をば吐くべし、のむべからず。痰あらば紙にて取(とる)べし。遠くはくべからず。水飲津液(すいいんしんえき)すでに滞りて、痰となりて内にありては、再(び)津液とはならず。痰、内にあれば、気をふさぎて、かへつて害あり。此理をしらざる人、痰を吐(はか)ずしてのむは、ひが事也。痰を吐く時、気をもらすべからず。酒多くのめば痰を生じ、気を生(のぼ)せ、津液をへらす。(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂) 


二日酔いの治療ベスト
文化的な居心地のよいウェスト・エンドのたまり場、ジュールスバーには特別の「回復用」のメニューリストがあり、午前十一時以降なら、セントジェムズバーの二日酔いたちは、そのリストの「ジュールス・リバイバー」「ウエークアップ・アンド・ダイ」「ハート・スターター」を飲んで回復し神の慈悲を信ずることができます。この最後の処方は言葉が恐ろしく聞こえるかもしれませんが、-ジン、水、かっ色の塩剤(玄人に言わせれば、エノのものではなくアンドリューのもの)-ジン・アンド・トニックに似て口当たりの大変良いものです。もちろんレモンのスライスを添えても悪くはないものです。迎え酒としての利点は、そのことを考えるだけで-あるいは興奮が心の琴線を刺激するものかもしれませんが、-酔客がグラスを手にする前にもうショックを与えてしらふにしてしまいます。保険局でも入手できるようにすべきでしょう。(「ベスト・ワン事典」 ウィリアム・デイビス編 シリル・レイ) 


チクト先生
『ひ(冷)やい、ひやい。けふはひやいきに、一ぱい飲うぢよるが、のうし』こんな古風な言葉を、その日常に持つ文士といふものはめつたにあるまい。平気でかういふ言葉を使ひながら銀座を飲み廻つてゐる。『おい、べつぴん、ちくと飲ませてくれんか』牛を売つての帰りの爺つさんみたいな風態で、のそりと大根河岸の、可川といふ小料理屋へ現はれる。そこで、可川の女給たちは、口を揃へて、『いらつしやいませ、チクト先生』この先生が、可川へ、自動車で乗りつけることがあるさうだが、そんなときは、先生決して、得意の時ではないと、女給たちはいふのである。『自動車で見えたら、きつと小遣ひがなくていらつしやる場合よ』『えゝさうよ、きつと、そいでもつて、煙草を買いにいくのよ』『あの先生のは煙草ぢやないわよ、たんばこだわよ』これは何の話だか、第三者にはよく判らないが、御当人に聞いて見ると、『うむ、僕は銭がなくなると、宿車に乗つて、可川へ煙草を買ひに行つてくるよ、ついでに、ちくと一ぱいやつて、帰りにバツトを二つ三つ買うてくる』といふことになるのである。かういう経済学は、とても算盤に合はないものらしい。だからあれだけの大家でゐながら、四六時中貧乏してゐる。賢夫人の苦心御同情に値するものがあると思はれる。(「随筆 酒星」 田中貢太郎 後書き「不経済な経済学者」 サンデー毎日) 


酒楼
誹人の句に曰く、鵑(ほとゝぎす)声を自由自在に聞く家は、酒肆(さかや)へ三里、腐(とうふや)へ二里。這れば是れ辺陬究郷(やまざとかたいなか)の景状を云ふ。維新以来人民大に開け、原野盛んに墾す。方今は田舎間と雖(いへ)ども、此の如き甚しき有ること鮮(すくな)し。況(いは)んや繁華此の地の如き者をや。酒楼の夥(おびただ)しき、東街西坊至る所に在らざるなし。割烹(りやうり)の美、調和(あんばい)の旨を以て、名を港内に轟かす者は佐野茂、富貴楼を以て第一とす。八百藤、相模屋之に次ぐ。西洋料理に至りては、開陽亭を以て最とす。日盛楼、西洋亭之に次ぐ。鰻肆(うなぎや)は則ち尾張、藤本、伊勢寅あり。肉舗(ぎうにくや)は則ち萬辰、吉村、若菜あり。鮓店は即ち蛇の目、湊鮓。麺舗(そばや)は則ち亀村、宝玉あり。利久の錬化(せんべい)、住田の若菜(くわし)、共に甘きを以て鳴る。客一たび手を拍つ、若しくは声一たび発せば、山海の珍味累乎(るいこ)として排し、続乎として列す。豪客若し酒香肴味(よいさけよいさかな)を嗜み、豪を燿かし、快を揮はんと欲する者は、宜しく彼の佐野茂、富貴楼の徒に就て飲むべし。貧生吾輩の如き、甘味粗悪(よしあし)を論ぜず、唯だ廉(やすく)酔はんと欲する者は、内田、魚源の輩あり。亦以て一時の鬱気を散ずるに足る。夫れ酒楼の客を招くや、其方一ならず。酒肴の佳なるを以て客を取る者有り、楼閣の美なると以て客を呼ぶ者あり。或は安直を以て招き或は曖昧を以て取る。其佳美安曖の別ありと雖ども、其利を得るに於ては則ち一なり。輓近(ちかごろ)各其気焔徒(いたづ)らに熾(さか)んにして、動もすれば其楼閣を華にして、其酒肴を美にせず、其価不廉極りて、意を客に用ひざる者多し。豈(あに)長久の利を得る者ならんや。而して其れ反覆して謂ふに当今天下の人士と無く、商と無く工と無く農と無く、皆其外飾を華にして、其内実を美にせざる者往々之あり。何ぞ唯だ酒楼のみならんや。日曜日、酒楼の熱閙(ねつたう)なる常に十倍す。其故何ぞや、此の日泰西(せいやう)休暇の制たママ倣ひ、各庁皆閉ぢ官員悉く休す(やすむ) 。或は酒莚を設け、或は出遊を促す。以て平日鞅掌(つとめ)の労を慰む。故に酒肴の佳なるを嗜みて、会席に赴く者あり。洋風の旨を好みて西洋料理に向ふ者あり。又鰻「魚麗」店に行く者、牛肉店に飲む者、鶏肉肆に至る者、蕎麦舗に往く者あり。楼上客満つ。酒肴排列し(ならび)、弦歌沸騰す(おこる)。客唯だ官員のみならず、士あり商あり豪農あり良工あり。酒閙(たけな)はに、興熟するに従ひ、其遊趣一ならず。首を傾け放歌する者あり、腕を組みて議論する者あり、或は怒り或は笑ふ。酒客の常言(じやうげん)に曰く、大戸(でうご)の心情(こゝろ)、小戸(げこ)知らずと。真に然るや否や。(「横濱新誌」 明治文化全集所収) 著者不明で、発行は明治10年だそうです。 


行酒、唐徳利、重ね杯、京酒、下り杯
行酒(かうしゅ) 饗宴などで、列座の人たちに酒を注いでまわること。
唐徳利(からどくり) 舶来のガラス製徳利のこと。歌舞伎の『助六』に、「からどくりに白酒を出し」とある。
重ね杯 旅立つときに飲む酒をいう。
京酒 下り酒(上方から江戸に下ってきた酒)に同じ。
下り杯 上方製の安物の酒杯のこと。(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 


鼻はじき、ほおかむり
娯楽のない人達が、食べる楽しみのなかに笑いをとりいれた郷土料理がいくつかあります。「鱶の湯ざらし」、別名を、「鼻はじき」といいます。宇和島は鱶がよく捕れ、人食い鱶のように大きくなく、体長一メートルほどの星鱶です。地方名を「てっぽう」、形が鉄砲ににているためで、特有の臭気があります。この鱶を丸ごとゆでて皮をとり、三枚におろし一口大にそぎ切り、流水につけてしばらくおき、塩熱湯で一片ずつゆで、流水でよくさらします。この魚の臭みを消す女房役の芥子酢味噌の辛さが笑いの種になるのです。さてお客がやってきて、鉢盛料理のまえに座り、ほろ酔い機嫌で、「鱶の湯ざらし」に辛子酢味噌をつけて。一片口に入れたとたん、辛味が鼻につんと走り鼻をはじき、思わず鼻をつまんで、「こりゃたまらん」と大あばれ。そして、「やられた」と大笑い。それを「鼻はじき」といい、この芥子はお客によって加減します。-
また、「ほおかむり」というユーモラスな料理があります。鰯を三枚におろし、酢でしめ、おからの甘酢いためをにぎって、鰯で巻くと横からみればちょうど、手拭(てぬぐい)でほおかむりしたようにみえるからの名前でしょう。(「ふるさとの料理むかし噺」 谷村寿子・中川紀子) 水鱶 


さかづき[酒坏](名)
さかずき。酒を飲むかわらけ。「春柳鬘に折りし梅の花誰か浮べし佐加豆岐(さかづき)の上に」(万八四〇)「みやびをの飲む酒坏にかげに見えつつ」(万一二九七)「其女矢河枝比売命令大御酒盞而献」(記応神ママ)「挙坏ヲ令飲」(景行記二七年)「皇太后挙觴(さかづき)ヲ以寿于太子」(神功記一三年)「金盞・銀坏」(遊仙窟)「觚 佐可豆岐(さかづき)」(新撰字鏡)「盃 字亦作坏、一名巵、佐賀都支(さかづき)」(和名抄) 【考】「坏」の字のみを用い、「杯」を用いていないのは、主に土器のさかずきを用いたことの反映であろう。(「時代別国語大辞典室町時代編」 室町時代語辞典編集委員会 代表者 土井忠生) 


美味 山の手や吞二
あかさか 八百勘 よつや むさしや うしごめ 求友  常磐 あかさか 吉池 さいはい丁 川藤 あかさか 稲本 ろっぽんぎ 萬亀 あかさか 岸尾 水たう丁 江戸川 うしこめ 吉田や いひだ丁 米三 あかさか 萬文 まえの丁 魚久 あかさか 八百辰  河内や  魚林-(「東京流行細見記」 清水市次郎編 明治文化全集) 


ぢわうばう【地黄坊】
江戸大塚の住民、地黄坊樽次。慶安二年四月、大師河原池上の大蛇丸底深と三日三夜の酒戦をしたと云ふのが有名になり、この記「水鳥記」がある。樽次、本名は茨木春朔、其の先は林家の門人で儒者であつた。樽次の代になつて酒井家の扶持を受け、雞聲が窪に居住した。-
地黄坊わざと三日三切れ喰ひ 三ケ日の雑煮
大根では呑めぬと地黄坊 地黄に大根を忌む(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) だいじやまる【大蛇丸】 


我むねもけふはなやきそ若草の餅もこもれり酒もこもれり [鳩杖集、豊蔵坊信海]
題、上巳(じょうし)、三月三日の節句である。春日野のけふはな焼きそ若草の妻もこもれり我もこもれり(古今)を転じて、草餅を食い、酒をのんだから、胸が焼けると困る、としたのである。信海(一六二六-一六八八)は男山八幡宮の社僧で江戸にもたびたび下り、幕府のため祈祷するなど、上層部との接触の多い名士である。がんらい男山には松花堂昭乗(滝本坊)がいて書道茶道その他に達し風流の伝統があるので、信海は文化人として名声が高く、特に狂歌の名が聞こえている。しかし作品は江戸初期の貴族の狂歌や貞門狂歌から一歩の出ず、本質的にはまったく変るところがない。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


日本人を酒好きにした理由
-いったいどうして日本人をこれほど酒ずきにしたのでしょうか。その一つは酒をつくる材料がたくさんあり、いくらでも酒がつくられたためでしょうが、もう一つは、外国では神の祭りのときなどにいけにえを神に奉る風習が盛んでした。それは動物を殺してそれを神にささげるというよりも、動物の血が神聖なもので、それを神に奉るためだったようです。日本でも今から一二〇〇年前まではやはり動物を殺して神に奉ったようですが、今から一〇〇〇年ほど前につくられた『延喜式』という法令集を見ると、神の祭りにいけにえは供えなくなっており、その代わりにお酒が供えられるようになっています。つまり、いけにえ血の代わりに酒をささげ、そのあとでみんなが飲むようになったものでしょう。(「食生活雑考」 宮本常一) 


三月六日[水]
あいかわらずDenmark Hillをぶらつきて帰る。此所(ここ)はRuskin*の父の住家なりしという。何処(いずこ)の辺にや。英国で女の酔漢を見るは珍しくない。Public Houseなどは女で一ぱいの処がある
注 四二12 John Ruskin(1819-1900) イギリスの芸術批評家・社会批評家。デンマーク・ヒルにラスキン公園がある。。(「漱石日記」 平岡敏夫編) 明治三十四年だそうです。 

曲水(ごくすい)の宴・曲水(きょくすい)の宴(2)
41 から人も けふを待つらし 桃の花 かげ行く水に 流す杯<三日>(新撰六帖・一・四七)一二四四? 藤原為家
42 いしま(石間)ゆく 花のさかづき 待てしばし まだ言の葉は かきもながさず<曲水宴を>(草庵集・春上)一三五九? 頓阿(とんあ)
43 めぐりあふ けふはやよひの 御溝水(みかはみず) 名にながれたる 花のさかづき<曲水宴を>(新葉集・春下・一五三)一三八一 花山院家賢(いえかた)
44 飛鳥川 八釣(やつり)の宮の むかしより 流れて久し けふの杯(東歌・春)一八〇一 加藤枝直(えなお)
45 曲水を 模したるみぎは(水際) 水よどみ 雲母(きらら)の如く ガソリンうかぶ(雪客(さぎ))一九六一 尾山篤二郎(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


「夫木集」(藤原長清撰、万葉以後の歌集)。三月三日、六百番歌合(2)
けふといへば 岩まをくだる 盃の さして誰にと 見えずとも有哉 季経
岩間わけ ながれもやらめ 盃は こころさせとも かひなかりけり 経家
岩まより 流れてくだる 盃に 花の色さへ うかぶけふかな 隆信朝臣
桃の花 枝さしかはす かげなれば 波にまがへん けふの酒盃 兼宗朝臣
盃の ながれと共に 匂ふらし けふの花さく 春のやまかぜ 信定(「酒鑑」 芝田晩成) 


呑みながら書く
「先生はどういうときにお酒を吞まれるんですか」そうたずねたときのことだ。「僕?どういうときじゃなくって。家に帰ったら、ずーっと呑んでます」と言う。数多くの著作を世に送り出している。自宅で遅くまで執筆をしているに違いないと思っていたので、驚いた。呑んだら仕事にならないのではないか?「家に帰ってから、論文書いたりしないんですか」と再び聞くと、「若いときから、仕事しながら呑んでる」と涼しげに言った。うーん、うらやましい。思わずそう口にすると、「あんたかて、そうやん」とすかさず切りかえされた。「今はもう年いったからあかんけど、50代までは酒呑んでいい気持になっても、頭は全然酔っぱらわないっていうのを明け方まで続けられた。修士論文も、24歳のときワイン呑んで書いた。この頃は酒に呑まれてしまうけれど…」(「あの人と『酒都』放浪」 小坂剛) お相手は鷲田清一だそうです。 


桃の酒
俳句では天明俳壇の三浦樗良(ちょら)に「桃の酒も李白は一斗例のごとし」(樗良発句集、一七八四刊)、『子規句集』(一九四一刊)には「桃酒や大事の大事小盃」がある。(「古今短歌歳時記」 鳥居正博)(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


清濁をわけてもてなす雛の酒 柳一三31
雛祭の客は白酒をのむ少女たちのグループと、清酒をのむおとなたちと二派にわける。-清濁あわせのむの成語を使った句である。(「川柳集 狂歌集」 吉田精一評釈) 


酒臺 シリザラ
和名鈔に。東宮旧事。弁色立成等を引て。酒臺。酒臺子。並読みてシリザラといふと注したり。シリといふは下(シモ)也。サラとは盤也。此もまた漆器也。其制の如きは。不詳。盤読みてサラといふ義は下に見えたり。(「東雅」 新井白石) 


「夫木集」(藤原長清撰、万葉以後の歌集)。三月三日、六百番歌合(1)
散花をけふのまどゐの光にと 浪間にめぐる春の盃 後京極摂政
酒盃の流れにつけて唐人(からびと)の 舟のりすなるけふをしぞ思ふ 法橋顕昭
行水にうかぶる花の盃や ながれての世のためしなるらん 中宮権太夫
唐人のあとをつたふる盃の 波にしたがふけふもきにけり 定家朝臣(「酒鑑」 芝田晩成) 


曲水(ごくすい)の宴・曲水(きょくすい)の宴(1)
37 ももの花光をそふる杯はめぐるながれにまかせてぞ見る <曲水のえん> (江帥(ごうのそち)集・春・四四)? 大江匡房(まさふさ)
38 さかづきを取るとは見せて手房(たふさ)には流るる花をせきぞとどむる (月詣(つきもうで)和歌集・三・一五九)一一二八? 澄憲(ちょうけん)
39 散る花をけふ(今日)のまとゐの光にて波間にめぐる春のさかづき (六百番歌合・春下)一一九四 藤原良経(よしつね)
40 から人の跡をつたふるさかづきの浪にしたがふ今日も来にけり <三月三日> (拾遺愚草・上・八一三)一二一六 藤原定家(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


はうらつにたのしく酔へば帰りきて長く坐れり夜(よ)の雛の前 宮柊二
 『多くの夜の歌』「雛祭以後」より。飾ったわが家の雛の前で、いよいよ楽しく、心を解き放っている。
白酒の紐の如くにつながれり 高浜虚子
 白酒は雛祭りの季題。あのどろりとした重たい酒を、「紐の如くに」とはうまい形容である。(「句花歳時記 春」 山本健吉編著) 


しょおちゆう、しろざけ・の・さかずき、すぎいた、ずきさか、せい
しょおちゆう[焼酎]高圧電流[←「度が高い」(←アルコール分が多い)から発展]→ど・が・たかい。(電工言葉)(現代)
しろざけ・の・さかずき[白酒の盃](名)句 ひどく生意気な奴。[←えらなめ。なめ=舐めること→なめくさり](洒落言葉)(江戸)
すぎいた[杉板] 中級酒。[←いた=酒。中級酒は杉板の樽に入れる]→ひのきいた。まついた。(強盗・窃盗犯罪者、香具師・やし・てきや用語)(大正)
ずきさか[杯酒] 兄弟分・親分子分の誓い。その盟約。[←さかづき]「ずきさかを水にする」(兄弟分・親分子分の誓いを破る)(強盗・窃盗犯罪者、香具師・やし・てきや用語)(明治)
せい[清] 酒商。[←せいざぶろお](操り人形師楽屋用語、演芸用語)(江戸)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


『日本橋』舞台稽古
昭和十三年の二月末日、明治座三月興行の新派『日本橋』の舞台稽古だった。客席中央の前から五、六列目の座席に、小柄な和服姿の泉鏡花先生が、チョコンと正座しておられた。傍(かたわら)に腰を下した品のいい老婦人が先生の奥様であった。私はそのときはじめて演出者の久保田万太郎先生から、助手としてこの老作家に紹介された。先生は大変ご機嫌で、椅子の上に正座されたまま、奥様御持参の魔法瓶から、熱燗のお酒をチビリチビリと召し上がっていた。(「しみる言葉」 阿木翁助) 


思ひ出の酒(3)
地下鉄横丁のボンソアールも、昔と今は場所が違ふ。昔は、地下鉄寄りの反対側にあつて、そのならびにジェー・エルといふ喫茶店もあつた。この店へは東郷元帥の孫娘が家出して、喫茶ガールに住込んで、新聞紙上を賑はした。そこのマダムは独身時分の武田麟太郎と一時、わりなき仲で、当時、店の常連だつた新田潤が、せんだつて、そのマダムのことを小説に書いてゐた。ボンソアールの前に三河屋という酒屋があつて、店で酒ものましてゐた。文芸出版で名のあつた竹村書房の親戚とかで、そんな関係もあつてか、文筆関係の客が多かつた。馬道の丸太格子の人気を一時は凌ぐ勢ひだつた。料亭の一直とか鳥の金田とか、-先輩作家は、ここらで浅草散策の足を休めてゐたかもしれないが、当時の若い私たちのたまり場にすることは不可能だつた。(「思ひ出の酒」 高見順) 


盃をやろう
寺田屋騒動の奈良原(繁)さんが先ず煉瓦地方方面では随一の遊び手、「盃をやろう」といって差出されると、酒をついだ底に二分金がちらちらしていて酒はのんでお金は懐紙(ふところがみ)を出して頂くという寸法ですが、私の母などは武家出ですから作法がわからなく、このお金を酒ごと飲んでしまったなんて話があります。-(新橋花月、平岡得甫老談)(「五十年前」 東京日日新聞社社会部編) 


アスクレーピアデース
飲めよ、さあ、アスクレーピアデース、何故のこの涙か、何を思い悩むのか。
つれないキュプリスが捕虜(とりこ)にしたのは、お前ひとりではあるまい、また、お前のためにのみ、意地悪い愛神(エロオス)が弓や矢を
磨ぎすましたのではあるまい。何故生きながら灰にかう塗(まみ)れてゐるのか。
飲みあかさうよ、さあバッコスの生(き)の飲料(のみしろ)を。夜明には指一ふし。
それとも復(ま)た閨にさそふ 灯火(ともしび)の影を見るまで待たうといふか。
飲み明かさうよ、さあ景気よく。いかほど時も経ぬうちに、
可哀や、長い夜をただひたすらに 眠るさだめの我等ではないか。(一二・五〇)(「ギリシア・ローマ抒情詩選 恋愛詩」 呉茂一訳) 同書の人名一覧にはアスクレーピアデースは、「有名な同名の詩人とは別の人。」とあります。 


たるつぐ【樽次】
江戸大塚の住人、地黄坊樽次。(ぢわうばう参照)
李白が来ると樽次が出るところ 白楽天に住吉神
樽次臨終升で飲む末期酒 小盃では足りず(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


8年間で全量純米酒
-私が蔵へ戻ったのは昭和五十年代のことです。慶応義塾大学の経済学部を卒業して醸造試験場へ入り、もう一回、慶応のビジネススクールに戻った後、金沢へ戻りました。戻ってきたころにはまだ若干、三倍増醸酒や、アルコール添加もまだ残っていたころです。それで父と一緒にやりだして、いかにして三倍増醸を早くやめるかという話をしました。最初のステップとしては、全量本醸造までは何とかいこうということで、それをやったのが今から十五年前でした。最初は、私の代はここまでで、私の次の代が全量純米酒にしてくれるだろうと思っていたのです。本醸造までは達成したけれど、全量純米酒にするのはいろいろ大変でしたから…。ところが、お客様に本醸造の説明をするときに、本醸造というのはアルコール添加をしているが添加量は少ないということを説明するわけですよね。そうしたら、結局、「良くないものが入っている」ということを逆に強調するような結果になってしまった。三倍増醸をやめて全量本醸造にしても、消費者はなかなか理解を示してくれませんでした。理解してもらうのには時間がかかって、これは理解されないなと思うようになった。本醸造ではだめだ。いくらきちんとした基準があっても、アルコール添加をしているのは事実だし、ここまできたのなら面倒くさいことはやめて、アルコール添加をすべてやめようってことにしたのです。結局、全量本醸造にしてから十年間で、全量純米酒に切り替えたことになる。うちの銘柄の「黒帯」は二年間熟成して初めて商品になります。だから、この二年間を差し引くと、たった八シーズンの酒造年度で全量純米酒にしてしまった訳です。(「挑戦する酒蔵」 酒蔵環境研究会編) 福光屋社長福光松太郎の話だそうです。 


酒豪の血筋
間違って、「ビール飲んだだけで酔っぱらった」などと言おうものなら、「いつからそんなに酒に弱くなったんだ」と叱られる。酒に弱いのは女じゃない、と信じている人(父親)なのである。こういった家庭環境、血筋は否が応でも人間に影響を与えるものだ。大学入学した年に合宿先でビールの大瓶八本近くを空け、意識不明になって以来、十五年。私は酒豪一族の名を汚さないよう、鍛練を積み、成果をあげてきた。その成果が上がり過ぎたのか、それとも体質なのか定かではないが、酔ってストレスを発散させる、という飲み方がどうもできない。酔っぱらわないのである。たまには日頃、言いたいと思っていたことをぶちまけ、「てやんでえ」と怒鳴ってみたい、と思っているのだが、どうもそうならない。いくら飲んでも、さほど顔は赤くならないし、舌ももつれない。ふつうに喋り、ふつうに笑い、ふつうにトイレに行くだけ。(「酒豪の血筋」 小池真理子 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


200日ぐらいはメイン銘柄
さて、おいしく日本酒を飲むコツだが、ひとつ自分の好みの銘柄を決めたらそれだけというのではなく、お酒を1年のうちで300日ぐらい飲むとしたら、200日ぐらいはメイン銘柄にして後は50日ぐらい違う銘柄、残りはいろいろな銘柄を飲む。そうすると、いろいろな蔵元の酒が楽しめるし、蔵元もまた栄える。これがいい飲み方かもシレナイ。極端にいえば、消費者全員が違うお酒を飲んだほうがいい。(「おいしい酒は一つではない。自分なりの「名酒」を探せ。」 稲垣眞美 「夏子の酒 読本」) 


源五郎鮒の刺身
鮒の網をほす町外れの漁村から舟をだしてもらふ。青芦の中をユルユルと湖中へこぎでる心地はとてもよかつた。江南さんの指図で、此の町中をかけづりまわつて、上等の酒をつみこんで下さった義弟さんの骨折に、おくれながらお礼がのべたい。鮒の網は、午後の四時ごろにおろしておいて、夜明けがたにあげるのださうだ。それが私たちをまちうけて、午前十時ごろの、陽のカンカンてるをりのひきあげだから、元気のいゝのは網をやぶつて逃走してゐる。残つてゐるのは戦ひにつかれて、死生一如とあきらめたのだから元気はとぼしいが、腹一ぱいに子をもつてゐて、鰹節のやうに堅くなつてゐる。何十年にわたる鮒網をあげて、太つたのを急場の庖丁で刺身にしてもらつて、一杯かたむけたをりのうまさときたら、不立文字、教外別伝、たゞ箸をとつた者だけが知つてゐる味であつた これを源五郎鮒といふ謂れは、近江一国の領主、佐々木が家臣に錦織源五郎なるものあつて、堅田で鮒をとつて禁裏へ献上する恒例であつた。いはゞ今日の漁業権をもつてゐたので、その名が鮒にクツついたのである。(「俗つれづれ」 永井瓢斎) 江州堅田だそうです。鮒寿司の原料でもありますね。 


四角浮世はいろと酒
○誠つくさば玉子さへ焼(やか)ば四角な屋台見世、天麩羅胡麻揚(てんぷらごまあげ)の匂には、をり介(すけ)丁稚(でっち)のこゝろを迷わし、
「女郎の誠と玉子の四角、あれば晦日(みそか)に月が出る。 「丸い玉子も切りよで四角、四角浮世はいろと酒  此等の俚謡より出でし文句。又天ぷら流行の時代ゆへ、両国辺にかゝる屋台見世ありしを云へるなり。胡麻揚と此頃はつけ云へるも面白し。天浮羅のみにては世人何んたるを解せざりしことか。此名称の起りに就ても種々の説あり。天竺浪人がふらりと工風仕出したる料理ゆへ天ふらと云ふと。又曰(いわ)く、フライ油揚の名より出しと。又云ふ、テンフラ国の料理法なりと。共古は油の天浮羅と書しより、アメフラの語と思へり。通人詞(つうじんことば)にてテンフラと云へることならずやと思へり。(「権蒟蒻」 山中共古 中野三敏校訂) 甘露庵山跡蜂満(さんせきほうまん)作『一向不通替善運(いっこうふつうかわりいせん)』を山中が注しています。 


思ひ出の酒(2)
久保田万太郎のひいきの甲子郎は、もとの場所に店を出してゐる。江戸つ子の主人は、相変らず威勢がいい。吉原の朝帰りの客で賑つてゐた三州屋も、国際通りのもとの場所にあるが、昔日の俤(おもかげ)は無い。この間、新派の柳永二郎に久し振りに会つたとき、柳さんと初めて顔をあはせたのは、この三州屋の二階だつたと思ひ出した。今は「サン」写真新聞の社長をやつてゐる中山善三郎が新派の脚本を書いた、その上演祝ひがここであつた時のことだ。その頃は、時々、ここでこんなやうな会があつたものだが、終戦後は一度もそんな通知を受けない。私たちも浅草から遠のいたが、今の若い作家たちが浅草へ飲みに行くといふことなどは殆んど無いのだらう。門跡裏のお好み焼きの染太郎は、今と昔とは場所が違ふ。いや、昔と言ふほど、ここは古い店でもないので、漫才の林家染太郎が戦争にとられて、その妻君が内職仕事として、幕内の連中を相手のお好み焼き屋を狭い路地の中の自分の家で開いたのは、昭和十三年頃のことだつた。私の友人の井上光が浅草の剣戟の脚本書きに成つてゐて、彼が、そこへ私を連れて行つたのは、開業直後だつたから、私も開業のいはれや時を知つてゐるのである。ここのことを私は「如何なる星の下に」に書いた。(「思ひ出の酒」 高見順) 


勧酒寄元九   酒を勧む。元「禾眞」に寄す   白楽天
(四)
俗ニ銷憂薬ト号ス            是は俗に憂消薬(うさけしぐすり)と呼んでゐる、
神速 以テ加フル無シ。         効能(ききめ)の神速(はやい)こと是に勝る薬は無い。
一盃 世慮ヲ駆リ             一盃で世のわづらひを追つ払ひ
両盃 天和ニ反ル。           二盃で天然の和気に返る。』
(五)
三盃 即チ酩酊シ            三盃で すぐ酔つぱらひ
或ハ笑ウテ狂歌ニ任(まか)ス。     笑うたり歌うたり口から出まかせ。
陶陶タリ復(ま)た兀兀(こつこつ)タリ  好い気持になり、そしてぐつたりとなる
吾孰(なん)ゾ其他ヲ知ランヤ。     吾輩何ぞ其の外の事を知らうや。』(「中華飲酒詩選」 青木正児著) 


武玉川(14)

下戸父に似て下戸母に似ず(母は下戸でも子は上戸)
静かに成て残る盃(宴会が終われば残る猪口徳利)
めてたく見へる朝の盃(大晦日から飲んだ元日の盃でしょうか)
五合徳利に妻の袖笠(飲ん兵衛亭主がはずかしくて袖で通い徳利を隠して酒買いに)
大さかつきを誉る追善(飲ん兵衛だった故人の法要)(武玉川 山澤英雄校訂) 


洛中洛外の酒屋(2)
それら(洛中洛外の酒屋)は洛中では、北では四条坊門、南は五条坊門、東は東洞院、西は西洞院のあいだの一郭にもっとも多く密集していたが、『庭訓往来』によれば、四条・五条の辻が商業繁栄の中心であり、酒屋もまたこの繁華街に集中していたことがわかる。さらにこのほか七条以北、大宮大路の東にもひろく分布しており、洛外では嵯峨・河東(加茂川東岸)・伏見などに多くあつまっていた。洛北の仁和寺門前には四軒の酒屋が散在し、嵯峨谷には天龍寺・臨川寺・二尊院・大覚寺などの大寺を中心に密集していた。酒屋役をかける単位となった酒壺数をみると、応仁の乱後の衰退期でも、多いものは一軒で壺数一二〇、少ないものでも一五ほどもっており、その経営規模は他の手工業などと比較にならぬ大きさである。これらの酒屋のうち、質量ともに著名なのは、五条坊門西洞院にかまえた柳酒屋であった。この酒造家の納める酒屋役は一軒で七二〇貫といわれたから、造酒量でも抜群であったが、その芳醇さも当時天下にひびきわたっていた。ある記録(『諸芸才代物附』)によると、 一さけの代、本の代古酒は百文別ニ五杓宛、新酒は百文別ニ六杓、吉分、次は七杓、 一やなぎの代、古酒百文別三杓、新酒百文別四杓、(小野晃嗣著『日本産業発達史の研究』一四五頁) とある。つまり銭百文で買える柳酒の古酒は、わずか酒杓三杯で、最高級だったわけである。(「酒造りの歴史」 柚木学) 酒壺一つ二〇〇文 柳酒屋 洛中洛外の酒屋 


探梅
また、こういう逸話もある。一人の老人が、片田舎の探梅に出かけた。すると枝ぶりのよい老木に梅の花が見事に咲いているのを見つけた。老人は梅の花の下にすわり込んで、瓠(ひさご)からちびりちびりと酒を飲み、ひとりで楽しんでいた。やがて瓠が空になると、梅の木の持ち主の家を訪ね、「あそこの梅の木を売ってはくれないか」とたのんだ。持主が二つ返事で承知すると、老人は金をはらって、帰ろうとした。売主はあわてて「もしもし、あの梅はどうなさいます。どうぞお持ち帰りねがいます」というと、老人は「たしかに梅の木を買いました。これは他に移されないように買ったのです。今年は十分眺めたからもう帰ります。来年、また花咲くころやってきます。その間、実を取ろうとあなたの勝手です」。この老人は翌年もやってきて、梅花のもとに莚を敷き、一瓠を開き、そして花をたんのうして去ったということである。(「酒鑑」 芝田晩成) 薄田泣菫の「茶話」に、この風流人は、「出雲松平家の茶道-岸玄知という坊主」だとあります。 


酒看都古、酒看都女
[古事記伝] 姓氏録、(右京皇別)酒部、同皇子三世孫、足彦大兄王之後也、大「隹鳥」(仁徳)天皇之御代、従韓国参来人(まゐこしひと)、兄曾々保利(えそそほり)、弟曾々保利(おとそそほり)、二人アリ、天皇、勅フニルト才(かど)、皆(まう)リト之才、令御酒、於是賜麿号(な)酒看都子(さかみつこ)トイフ、賜山鹿比咩(やまかひめ)号(な)酒看都女トイフ、因(かれ)以酒看都(さけみつ)、(同皇子とは、此ノ氏の右に挙たる、讃ノ(ママ)岐公ノ条に、五十香(いか)足彦命之後とある其なり、然れども、此は誤にて、讃岐ノ公も、神櫛ノ命の後なり、次に引たる、和泉ノ国ノ皇別、酒部ノ公の条の如し、なほ次にも云べし、さて右の文の内、印本には、人兄を、兄人と誤り、曾々の曾ノ字を一ツ脱(おと)し、都ノ字は、三ツながら、郎に誤れり、今は皆古本に依れり、皆ノ字は白ノ誤なるべし、さて賜麿と云より、下の文、まぎらはしき、記しざまなり、考ふるに、麿、又山鹿比咩と云人は、足彦大兄王の末にて、此氏人なりけむを、酒看都古、酒看都女と云名賜ヒて、曾々保利が造りたる御酒を、所聞看(きこしめす)事に、供奉らしめ給へるなるべし、看ノ字、メシとも訓(よむ)べし、御酒を所聞看事に、供奉る由の称なり、ミと訓ても、意は同じ)。(「酒の博物誌」 佐藤建次編著) 古事記伝の著者は本居宣長です。 


思ひ出の酒(1)
一葉公園の傍に住む所謂(いはゆる)浅草作家の野一色幹夫君を訪ねるため、この間、吉原を歩いて抜けた。仲の町の-昔、夏の宵にはぼんぼりの灯が並んでゐた通りが、殺風景なコンクリートの往来に成つてしまつた。江戸町のきく家も、もう跡形も無いのだつた。きく家に私が初めて行つたのは、左様、その時分浅草のアパートにゐた故武田麟太郎に連れられてのことと思ふ。二十何年か前だが、その頃既に、若い作家やジャーナリストの間で有名な飲み屋だつた。そこの姉妹が評判だつた。そこへ、川端さんと一緒に行つたこともあり、そのことを昭和九年の「文化集団」といふ雑誌に書いた覚えがある。終戦の年に、空襲で焼けるまでその店はやつてゐた。私たちの年ごろの者には、思ひ出の深い店である。浅草や吉原に縁遠い作家でも、きつと一度ぐらゐは、誰かに誘はれて足を運んでゐるにちがひない。先輩の大正作家の間では、浅草の飲み屋といへば、仲見世のみやこが馴染の店だつたやうだ。ここも、焼ける迄やつてゐた。最近、銀座に、このみやことゆかりのある、同名の店が出来たといふが、私はまだ行つたことがない。焼けて、無くなつた店と言へば、合羽橋通りのつた家が思ひ出される。ここも、のぞくと、きつと、誰かしら知つた顔がゐた。銀座あたりから、みな、わざわざここまでやつてきたのだ。たまちやんといふ可愛い娘が焼鳥をやいてゐた。この店の為に永井荷風が特に書いて与へた色紙が、焼鳥の煙にいぶされてゐたものだが…。(「思ひ出の酒」 高見順) 


灘五郷酒造の発祥地 なだごごうしゅぞうはっしょうのち[食品]
兵庫県灘一帯の酒造地を灘五郷と呼び、現在では西宮市の今津郷・西宮郷、神戸市東灘区の魚崎郷・御影郷、神戸市灘区の西郷を言う。「灘の生一本」でしられ、酒造に適した「宮水」が湧く。『延喜式』には新羅の国から毎年朝貢する使節を生田神社で醸造した神酒でもてなしたとあり、摂津国の生田、広田、長田および大和国片岡より持ち寄った稲五十束ずつを合わせ、二百束とし生田神社境内にて神職が酒造りをしたとある。これが灘五郷酒造の始まりとされる。生田神社境内にある末社・松尾神社には「酒の神」が祀られている。
[碑名]灘五郷酒造の発祥地
神功皇后の御外征以来、毎年三韓より使節が来訪しております。其の使者が入朝及び帰国するに当り朝廷では敏馬浦(脇浜の沖)で新羅から来朝した賓客に生田神社で醸造した神酒を振舞って慰労の宴を催しこれ等に賜るのが例でありました。この酒は「延喜式の玄蕃寮」によると生田、広田、長田(以上摂津国)片岡(大和)の四社より稲五十束ずつを持ち寄り、稲束二百束とし生田神社の境内で生田の社人に神酒を醸造させたもので、この神酒で新羅の要人の宴を賜ったと記されております。これが灘五郷酒造の始めと伝えられておりまして、酒造王国の発祥地は実は当生田神社であると言われています。以上により当神社境内に「酒の神」松尾神社が末社として奉斎せられております。松尾神社 御祭神大山咋神(おおやまくひのかみ)
[所在地]兵庫県神戸市中央区下山手通1松尾神社(「日本全国発祥の地事典」 編集・発行 日外アソシエート株式会社) 


酒の害毒に関する講義
真夜中、明らかに酔っぱらって足取りおぼつかない男を巡査が呼び止める。「ちょっと、お父さん、これからどこまで?」「やあ、お勤めご苦労様です、お巡りさん。自分は酒の害毒に関する講義を聴きにいくところであります」「こんな真夜中、誰が講義をすると言うの!?」「女房に決まっているじゃないですか」(「必勝小咄のテクニック」 米原万里) 


[未定稿142]
飲酒に就いて(新聞を見て訳す気になる。)[大正三年十月二十二日の新聞切抜貼付]
(秋の夕方)[マカルカ、といふ十二才の男の児とマルフトカといふ八才の女の児とが家から往来へ出て来る。マルフトカは泣いてゐる。パウルシカといふ十才の男の児が隣の家の前に立つてゐる。] パウルシカ、何所へ行くんだ。夜仕事かい? マカルカ、又へゞレケなんだ。 パウルシカ、誰がさ。ポロホール叔父さんがかい? マカルカ、当前さ。 マルフトカ、母さんを打(ぶ)つてる-。 マカルカ、乃公は今夜は家に入るのがイヤだ。爺は乃公もなぐら。(入口の段に腰を下ろす)乃公は夜どうし此所にゐやう。乃公は左うする。(マルフトカはシクシク泣く) パウルシカ、泣くなよ。心配しなくていゝよ。泣いたつて仕様がない。泣くなつて云ふのにさ。 マルフトカ、私が天子様だつたらお父さんにお酒をやる人を死ぬ位ぶつてやるわ。私はブランデーを売る人は誰れだつて許しやしないわ。 パウルシカ、許さない?だけど、天子様御自身だよ、酒を売る人は。天子様は自分の利益が減るのが恐(こわ)いから誰にだつて酒は売らせやしない。 マルトフスカ、そんな事、ウソよ。 パウルシカ、ふん!ウソ!誰にでも訊いて見な。なぜあれらがアクリーナが牢へやつたか?何故ってばあの女がブラデー(ママ)を売るので、あれらの利益を減らされるのがイヤだったからさ。 マルスカ、そりや本統の事か?乃公はあの女が法律に背いて何かをやつたと聞いてた。 パウルシカ、あの女が法律を犯したつていふのはブランデーを売つた事さ。 マルフトカ、私はあの人だつてブランデーを売るのは許さないわ。何でもイケない事をするのが皆ブランデーよ。お父さんだつて、時には大変いゝわ。而して左うでない時は誰でもぶつわ。 マルシカ、(パウルシカに)お前は余程不思議な事を云ふ。乃公はあした校長に訊いて見やう。あの人は知つてる筈だ。 パウルシカ、訊いて御覧、(翌朝、プロポール、といふマカルカの父は眼を覚ますと又酒で元気を回復しやうとした。マカルカの母は落ちくぼんだ眼をしてパン粉をこねた。マカルカは学校へ往つた。校長が学校の入口に登校する子供を見張つて腰かけてゐた。) マカルカ、(校長に近寄り様)どうぞ云つて下さい。ユージン、セミノウ[ママ]ッチ。或る奴が、天子様がブランデーの商売をしてゐて其為めにアクリーナが牢へ入れられたと私に云ひましたが、本統なんですか? 校長、それは非常に愚かな質問です。そんな事を貴方に話した人は誰にしろ、馬鹿です。陛下は何んにもそんな物をお売りになりはしません。総て天皇は決してそんな事はなさりません。アクリーナの場合としては免許なしでブランデーを売つて、皇室の歳入を減らしたから牢へ入れられたのです。 マカルカ、どう減らしたんです。 校長、酒精の税といふものがあるからです。一樽は醸造場でも高い価の物です。而してそれが一般に売られる時にはモットずつと高くなるのです。で、此差といふのもが国家の収入になるのです。一番大きい歳入は此酒精の税から来るので、それは何千万といふ高になります。 マルシカ、そんなら、人民がブランデーをモット飲むと、歳入はモット増えますか? 校長、左うです。若しも其酒精からの歳入がなかつたら、軍隊或は学校或は其他貴方達が必要とする総ての物を保つて行くものは何にもないでせう。 マルシカ、ですけど、若し総て左ういふものが必要なのなら、何故其必要な物の為に直接金を取らないのでせう?何故ブランデーでそれをとるのでせう? 校長、何故?それが法律だからです。それはさうとモウ生徒が皆入りました。さあ席へおつきなさい。(「未定稿 飲酒に就いて」 志賀直哉) 


物価表 酒一斗
応仁01 銭250文(からさけ)
文明10 銭200文
文明11 銭225~220文(不明)
文明16 銭200文
文明18 銭400文(柳・1荷につき)
大永05 銭140文(不明)
天文08 銭200文(吉酒)
      銭100文(下白酒)
永禄09 銭159~100文
永禄10 銭100文
元亀03 銭600文(越前・不明)
天正12 銭200文(不明)
天正13 米15~10升
天正14 米18~10升
天正18 銭460~400文
文禄03 銀4匁(古酒)
慶長01 米2.7升(諸白)
慶長03 米1.4~1.3升(1瓶につき)
慶長04 銀6.8~3匁
      米40升
(「角川日本史事典」 高柳・竹内編)価格は買値段で、不明は、売買・相場の不分明な場合だそうです。 


大根と油揚げ
しかし大根と油揚げは鍋物にするとしごくうまい。秋の夜ながを家族と鍋をかこみつつ飲む酒にはもってこいである。銀杏に切った大根と角に切った油揚げを、みりんと醤油で煮ながら一杯のむのである。家内にも小ぶりの盃をわたし、長男にも父親なみの盃を与えるのである。こんなご馳走の時はこちらから注いでやる。「お酌ずき」がご馳走である。話がご馳走である。この大根鍋には最後の楽しみがある、油揚げをきんちゃくにして、中にお餅を入れたのを作っておくのである。これは初めから入れておくが、最後まで残しておくのである。「まだ早い、早い」と酒をついでやり、柚子の皮をふりかけながら、「村瀬のカツ」の話でもしてやるのである。(「味之歳時記」 利井興弘) 


寺の紅梅
ある寺の紅梅、今をさかりと咲きければ、げに天神のめで給ひしも、ことはりに覚ゆ。旦那二三人参られ、木下陰(このしたかげ)に床(とこ)据へさせ、住持まじりに酒ごとして、旦那発句して、短冊付けらる。この頃はやりし忠信の祭文にて、 紅梅はまづは天しよくすがた哉 とせられければ、おどけたる住持にて、「さつても出来たり。いひんひ いひんひ」と三味(さみ)の相の手で笑はれた。
注 一 梅を好んだ菅原道真。 二 床几。縁台。 三 俳諧の最初の句。 四 浄瑠璃『吉野忠信』中の祭文「女郎名よせ」に「色は根本太夫職、さては天職姿なり」とある。天職は遊女の最高位太夫に次ぐ「天神」の別名。 五 さてもよくでかした。同じ「女郎名よせ」の最後の文言「さつても気味よし心地よし」を利かす。 六 語り終りの三味線の相の手を利かせた。
一(「元禄期 軽口本集 軽口御前男」 武藤禎夫校注) 住持の飲酒に対しては全くこだわっていませんね。 


土の見本
この頃、会社のビジョンとして設定していたのは、"世界のバーへ本格焼酎を"というものであった。これは「百年の孤独」の商品コンセプトでもあり、飲み手にも十分伝わる強いメッセージだっただけに、人々は熱狂したのだ。だが、世界へ出る前に明確にすべきことがあると黒木さんは考え始めていた。そのきっかけのひとつは、フランスのワイナリーを視察したこと。大きなカルチャーショックを受けたという。「数ヵ所の有名ワイナリーを訪問したのですが、まず案内されるのは畑です。そこで土壌や葡萄栽培の話を延々と続けるので戸惑いましたよ。しかも、目の前の泥だらけの汚い姿をして熱弁をふるっているのがオーナーだというんです。建物に入っても、入口にドーンと土の見本なんかが置いてあって、また自慢げにひとしきり説明される。そのあとでやっと醸造施設へ案内されるのですが、ざっと通り過ぎる程度、最後に試飲しておしまい。初めは驚きましたが、どこへ行ってもだいたい同じパターンの繰り返しです。そのうち自分の土地や畑を語りたいという彼らの姿勢こそ、素晴らしいと感じるようになった。同時に、原料を買ってきて酒にする焼酎メーカーは加工業者になってしまっているのではないかと自問自答するようになったんです。」(「極上の酒を生む土と人 大地を醸す」 山同敦子) 黒木敏之は、宮崎県高鍋町・黒木本店の4代目蔵元だそうです。 



一、累年世上殊の外(ことのほか)好美麗、人々之常服食、其等迄尽結構、遊山活計耳(のみ)致し、用の段内々及聞候、依之諸国諸所土民、思の外困窮苦労此事也、就夫(それにつき)諸士例月例日、登城之刻も且又参会之節も退綺麗、古上下(かみしも 裃)古着物、羽二重(はぶたへ)幷(ならびに)絹紬(つむぎ)、大小亦可為□、揃新舗服剣刀金銀用儀、一切停止に存之事、但シ、年始、謡初(うたひぞめ)、上巳、端午、七夕、八朔(はつさく)、重陽(ちやうやう)、玄猪(ゐのこ)の刻者(は)、依別各別ニ候、此外者、月次之諸礼諸儀振舞たりとも、新舗美食必不用事。-
一、四民共大酒不致、殊更(ことさら)武道心掛候面々、好人外之事。-
一、平生の膳皿、一汁二菜宛、自分にへらし、酒等一切禁申候間、諸大名、小名、旗本の調菜、且又農民の朝夕者、元より倹約尤之事。(「武士の分度生活」 「江戸生活のうらおもて」 三田村鳶魚 朝倉治彦編) 「榎本弥左衛門覚書」に記されている、天和の改革に出された定だそうです。 


三軒の酒屋さん
焼酎というよりスピリッツの域に入ったアルコール分六〇パーセントという猛烈に強い火の酒であります。泡盛と同じく米麹蒸留酒ですが、蒸溜して最初に出てくるところだけを酒としますのでアルコール度数が高いわけです。その「どなん」を造っているのが小さな小さな酒造店三軒。面白いのは古い蒸留器が島には一基しかないので、三軒の酒屋さんは、発酵を終えた醪(もろみ)を容器に入れ、そこまで運んでいって、共同で使っているのです。共同蒸留所。これ実はね、スコットランドと全く同じスタイルなんですよね。馬車に醪を積んで、蒸溜所に行って、帰りは樽に原酒を積んで蔵まで持ち帰る。シングルモルトの国の、そんな長閑(のどか)な風景のカレンダーを想いうかべるお父さんもいると存じますが、それと同じなんです。(「地球を肴に飲む男」 小泉武夫) 


酔中言
酒を飲み初めてから、二十何年かになる。自分ほど、忠実に酒に仕へて来た者は恐らくないと思ふ。従つて酒の上では随分我儘もし他人にも迷惑を少なからず掛けて来た。併し、自分が斯うやつて、作家として、何か書いてそれで生きて居られるのは、全く酒の神様のお蔭である。この頃、自分はよく談話を、いろいろの人からやらせられる。つまり、口述筆記なのである。元来、自分のやうな人間には、口述筆記などゝいふことは、全く不向な性質で、仮に好んでやつたにしても、それが自ら筆をとり原稿紙に書いたものゝやうに行かないのは、判り切つたことである。が、この頃では、それも酒の神様のお蔭で、出来るやうになつた。自分が初めて口述筆記をしたのは、一昨年、中央公論へ載った『酔狸-』の七十枚が皮切りだつた。これは、自分の小説がいつも短く、枚数が少ないので、稿料が沢山とれず、いつも貧乏してゐるので中央公論社で僕に少し金を多くとらせてくれるために、云はゞなさけで、やらせてくれたものだ。実際、この時など、自分は非常に助かつた。その時、筆記に来てくれた記者の苦心は、察するに余りある位だつた。大抵、口述するのは夜更けで、徹夜したことも幾度もある。シラフで、相手の顔を眺めながらでは、到底、口述など出来るものではない。で、僕は、宵から飲み初めて、もうどんなことも気兼ねしない程度に酔ひ切つた時分、初めるのである。筆記させられる記者こそ、全く堪らない。口述中の僕は、泥靴を穿いて廊下を、ドシドシ踏み歩きながら怒鳴るのだ。壁一重の隣家から『また初まつた』といふ声をよく聞いた。それどころか、すぐ裏に住んでゐた大工さんの夫婦の腹立ちは尋常ではなかつた。それもその筈で、昼の間、労働して来て疲れて居るのに、夜中、眠ることが出来なかつたのだから-。全く済まないと思つた。何でも睡眠不足のため、翌日、仕事場でよく怪我などをしたといふやうなことも耳にした。僕の友人が、こんな歌を作つてくれた。『宿酔のあした静かに胸を打つ、悔ゆべきことゝ愧づべきことゝ』(「酔中言」 葛西善蔵) 


鶯宿梅(おうしゅくばい)
 真の酒飲みに捧げます
① 梅干しの種を取り、ペースト状になるまでたたく。
② ①とほぼ同量のわさびを混ぜる。
梅の赤とわさびの緑を、梅に宿った鴬にたとえて「鶯宿梅」。私なら2合はいけちゃうかも。危険な肴です。(「R25酒肴道場」 荻原和歌) 


もと立て期間の短縮

年代    もと立期間 
 もと初め(月日)添初め(月日)   
日数(日)   
 寛政元(1789)      10.22~11.24  33
 文化10(1813)  10.26~11.17  22
 文政元(1818)  10.25~11.17  23
 文政05(1822)  10.05~10.27  23
 文政10(1827)  11.02~11.21  19

      (註)嘉納屋治郎右衛門前蔵「酒造書上帳」より.(「灘の酒」 長倉保 日本産業史大系) 


禁酒を勧むる人へ
早速、貴諭に従ひて、禁酒して、その旨を貴殿に御知らせ申し上ぐるが、理の当然とは万々承知致し候へども、一寸入りて(禁酒会に)、また出るやうにては、相すまず、いよいよ禁酒が出来ると確信が出来るまでは、おいそれと、うかとは申し上げられず。今日の処は、見ず知らずの人様より思ひがけなき、同情あつき御教訓をうけたまはりて、身にしみて、うれしう候との事だけを御返答申上候。外来、小生は意思の人にあらず、理性のひとにあらず、情にもろきものに候。従つて、理性に訴へて其非を知るも、物事によりては、惰性の致す所、一刀両断の事が出来ぬが、一大欠点に候。従来多くの酒場に出入りいたし、飲酒家について、いろいろ研究も致し候。同じ飲酒と申しても、いろいろ癖有之(これあり)、人は平生は自から矯(た)め居り候ふが、熟酔したる時に、その本性もあらはし申候。怒り上戸、泣き上戸、笑ひ上戸、いろいろ有之、狂ふ人多けれども、狂はぬ人も有之、節酒の出来ぬ人多けれども、出来る人も有之、小生は元来所謂(いわゆる)お目出度き人間、酒のみても、矢張りお目出度く、酔へばとて、怒ることなく、泣くことなく、笑い上戸にもならず、少し元気になり、にやにやと、おめでたく、終に眠り申候。言はば眠上戸とでも申すべきにや。それも、しんから酒が好きと申すでも無く、酒のよしあしも、よくはわからず。唯酔うて乱れざるを得意といたし候ひしが、病弱となるにつれて、身体心と伴はず、五六合以上に及ばば、ぐにやりといたすこと有之候。独酌なら、三四合以上(普通二合)は飲めず。それで、読書作文にも差支なく候。酒客に接しては情のもろきの致す所、又気のはづむの致す所、思はず飲み過す癖有之、為に二日酔もいたし候。それ故、止むを得ざる場合の外は、成るべく酒場に出でぬやうに致居候。共かくも、十数年来、病弱となり居れる身体を恢復することが、小生の身体上の一大急務に候。世には、『酒は憂の玉箒なり』とて、酒のみて、陽気になりて、元気になるを喜ぶ人も多く候ふが、小生は断じて取らず。飲んでも面白く、飲まずとも又面白きだけの修養は、自から致申候。青年時代には、一升内外の酒をぐつと一息に飲みて、而も心の乱れざるを自慢したることもある馬鹿者に候。-(書翰「禁酒を勧むる人へ」 大町桂月) 



吸枠
「吸枠(すいわく)」は、直径三五~四〇センチくらい、高さ二五センチくらいの大きさで、底の片すみに銅の管が取り付けられた桶である。じょうごに似た用途のもの。四斗樽の天板にあけられた口に吸枠の銅の管をいれ、そこへ試桶(ためおけ)から酒を注ぐ。かなり量がはいったところで才槌で樽の縁をたたき、その音で酒の量を推量し、注ぐ量を加減する。手慣れた従業員は音を聞き分けて吸枠に角度をつけ、満量と同時に吸枠をスッと離し、一滴も酒をこぼさなかったという。(「四季の酒蔵」 小山織) 


さめのたれ
鮫の肉を細長く切り裂いて塩干しにする。厚さは一センチほどの板状で、火にあぶると独特の風味がある。酒のつまみに良いのは言うまでもないが、小学校の弁当のおかずとしてどの家庭でも珍重されている。わたしの子どものころなど、お午(ひる)に弁当箱をひらいたら半分近くが鮫だったので、先生はじめ思わずどっと笑った覚えがある。地元では「さめのたれ」と呼ばれ、魚屋はもちろん、スーパーやコンビニでも売られている。単に塩を振り天日に干した「塩たれ」と、味醂に漬けて干した「味たれ」の二種があり、どうやら左党は前者を、甘党と子供は後者を好むようだ。(「たべもの快楽帖」 宮本徳蔵) 伊勢での話だそうです。 


花婿ドノ来たらず
啄木が盛岡中学校時代から、相思の仲であった堀合節子クンと晴の結婚式の当日のこと、盛岡ではすっかり準備が出来て、挙式するばかりになっていたが、肝心の花婿ドノがいっかな姿をみせないではないか。といって恋人を嫌って行方不明になったわけでもなさそうだというので、ここはすっかり悟りきっている花嫁クンも両家の人々も、啄木サン、どッかの樹の上に登って歌でもつくっているだろうから、まァいいや、やっちゃいましょうというわけで、珍無類の花婿なしの婚礼を済ましたものだ。一方、これよりさき、花婿君啄木は、媒酌人と結婚式万端の打合せも出来ていたわけだが、上野駅を発つとき、実は嚢中(のうちゅう)文なし。といって、金はありませんから結婚式を延ばしてくれというわけにもいかず、途方にくれた。やっと思いついたことは、仙台にいる土井晩翠氏に、金の無心をすることであった。然るに、幸か不幸か仙台に下車すると、詩人啄木先生ゴ入来というので、啄木を知るものみな寄ってきての歓迎ぶりである。魚心あれば水心で、懐中無一物をさらけだすわけにもいかず、近々恋人との婚礼だからと打開けもできず、「酒だ酒だ、酒もてこい」「さァ、飲め飲め」とセンセイらしく、見ンごとグテングテン。翌朝土井晩翠夫人が、啄木に頼まれて用意して持ってきた結婚費用の金が、そのままそっくり前夜の飲み料に化けてしまい、啄木先生もとの素ッ寒貧になってしまった。いくら天下の貧乏詩人でも、花嫁ご寮のオそばへそんな恰好でお目見えする心臓はなかったらしく、花嫁が待っている盛岡を素通りして郷里の渋民村に参上した。しかも金の調達が目的だったが、閑古鳥の鳴く声を聞きにきたとすっとぼけている。カレの懐中に閑古鳥が鳴いていることは告げないから、田舎の人は正直に「どうぞごゆっくりお聞きなされ」で、啄木をがっかりさせてしまった。(「酒味快與」 堀川豊弘) 


貧乏酒
年寄りの目ざめは早いが、その朝はそうでもなく、崖下の山水の溜まりで顔を洗うころには、家々からはすでに朝の煙がたちのぼっていた。亭主を山へ出してからひと寝入りして起き出た女たちが炊く煙だが、そのひと寝入りを男とすごした女たちも何人かあったにちがいない。おちこちの崖下や山陰に古びた杉皮屋根がさみしげに並び、その隙間からあがる煙も見るから貧しげで、まるで貧乏を絵にかいたような姿だが、それなりにみなそれぞれ生きてたのしむみちは講じているいじらしい姿にも見える。ゆうべも、けさがたも、ヒトの女房を寝取った男も、手前の女房は寝取られているだろうし、きょうも、ヒトの亭主が落としておいた炭俵を背負い出す女房が、手前の亭主が落としておいた炭俵をかつぎ出してきた女と肩を並べて坂道をおりてくるだろう。…貧乏はきつくとも、生きていくことはもっときついのだ。-いくつになっても、足腰立つうちは女は欲しかんべ?キチが身じまいをして帰りじたくをすると、友次はよれよれの百円札をその手に握らせ、-酒は、おれが買う。…また来てくれろよ。-ああ、来るよ。キチはその札をかたく握りしめた手を裏返しにして腰へあてがい、崖みちをおりて帰っていった。(「貧乏酒」 和田傳) 


単細胞生物の強み
酵母は試験官の中で静かに生育する。冷蔵庫中に保存すれば、食物もとらずに数か月は生存するし、マイナス八十℃のディープフリーザーや液体窒素中に凍結状態で保存したり、、凍結乾燥にして真空保存すれば、数年間から十数年は生き残る。じつは保存中にも徐々に死んでいくが、最初に耳掻き数杯分も保存すれば、その九十九・九九%が死んだとしても、数百万個以上は生き残ることになる。これが単細胞生物の強みである。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


東西女性タレント酒豪番付(2)
東方タレント *前頭 秋吉久美子(静岡) 桃井かおり(東京) 戸川昌子(東京) かたせ梨乃(東京) 冨士真奈美(静岡) 岩下志麻(東京) 高橋恵子(北海道) 美空ひばり(神奈川) 藤田弓子(東京) 長山藍子(東京) *小結 桜田淳子(秋田) *関脇 篠ひろ子(宮城) *張出大関 下重暁子(栃木) *大関 加藤登紀子(東京) 中国生まれ、講演会は称して「お登紀と酒の会」、コンサートではウイスキーグラスを片手にホロ酔いでやると乗りまくる。日本酒、焼酎、なんでもいらっしゃいの女傑だ。映画「居酒屋兆治」で高倉健のヤキトリ屋の世話女房を演じて好評だったのも酒好きのせい? *横綱 池波志乃(東京) 今売り出しの新進横綱、志ん生、馬生という酒仙の血統を継ぐ本格派。父親の馬生はミルクがわりに日本酒を飲ませたとか。亭主の中尾彬も名だたる酒豪で稼ぎは二人でみんな飲んじゃう。-私の体に悪寒が走った。冷や汗が流れる。先の事を考えるとその場に立っていられない。今年の風邪は悪性だ。(「食魔夫婦」 中尾彬) 


石黒敬七、阿部知二
さて石黒敬七さんだが、あのがっしりした体だし、ビールは確かに強い。ジョッキ片手に、いつも上機嫌で、望まれれば艶歌師の真似をする他に、大きな声一つ立てたことがないばかりか、ビヤホールなぞの客が、その辺で派手に喧嘩口論を始めても、素知らぬ顔で呑んでいる。-
阿部知二氏は、酔っている時も素面の時も額に八の字を寄せる。酒席では、特にその八の字が印象的で、こうしてさけは呑んでいるが、心は苦しいのだと無言で語っているように見える。知性派の作家の魅力は、あんな処にも表れるものなのかもしれない。-(「酒徒交伝」 永井龍男) 


酒七題(その一)ヴェルモット
すきとほるたかつきにヴヱルモツトをつぐ。透明ながら渋く古びた色を帯び、しかも光かゞやき、口に含めば甘くすつぱくほろ苦い味が幼い時の記憶をよび起す。私は麻布区飯倉三丁目犬の糞横町に生れた。満四歳にならないで芝に越したが、天文台のそばの旗本屋敷で門長屋のあつた事、台所に近い柿の木に赤く実のなつた事、庭の池にあやめの咲いた事、父と母の間に寝かされてゐる枕もとにヴェルモットの瓶があつた事だけは、はつきり覚えてゐる。父は酒を飲まなくては眠れない質(たち)で、晩年まで燗酒二合冷酒一合を寝酒にし、夜中に咽喉の乾くのをしのぐ為、枕頭には必ず水瓶が置いてあつたが、若い時はその外にヴヱルモツトを、寝そびれた時の用意に備へたのでは無いだらうか。幼い私が其ヴヱルモツトを飲まされた記憶がある。風邪を引いて寝てゐる時で、西洋崇拝の明治中葉の事だから、父も母も洋酒は薬だと信じてゐたのであらう。(昭和六年十一月九日)(「酒七題」 水上瀧太郎) 


第百七十五段(3)
かくうとましと思ふものなれど、四〇おのづから、捨て難き折もあるべし。月の夜、雪の朝(あした)、花の本にても、心長閑(のどか)に物語して、盃出(いだ)したる、万(よろず)の興を添ふるわざなり。つれづれなる日、思ひの外に友の入り来て、四一とり行ひたるも、心慰む。四二馴れ馴れしからぬあたりの御簾(みす)の中(うち)より、御果物(おんくだもの)・御酒(みき)など、四三よきやうなる気(け)はひしてさし出(いだ)されたる、いとよし。冬、狭(せば)き所にて、火にて物煎(い)りなどして、四四隔てなきどちさし向ひて、多く飲みたる、いとをかし。四五旅の仮家、野山などして、四六「御肴(みさかな)何がな」など言ひて、芝の上にて飲みたるも、をかし。四七いたう痛む人の、強ひられて少し飲みたるも、いとよし。よき人の、とり分きて、「四八今ひとつ。上少し」などのたまはせたるも、うれし。四九近づかまほしき人の、上戸にて、ひしひしと馴れぬる、またうれし。さは言へど、上戸は、をかしく、五〇罪許さるゝ者なり。五一酔ひくたびれて朝寝したる所を、主(あるじ)の引き開けたるに、五二惑ひて、惚れたる顔ながら、細き五三髻(もとどり)差し出(いだ)し、物も着あへず抱き持ち、五四ひきしろひて逃ぐる、五五掻取(かいとり)姿の後手、毛生ひたる細脛(ほそはぎ)のほど、をかしく、五六つきづきし。
注 四〇 たまには。まれには。 四一 一献を設ける。酒盛りをする。 四二 慣れ親しんでもいないお方のおられる御簾を垂れた席の中から。 四三 上品そうな声でもって。 四四 心の隔てない、友だち同士。 四五 旅人を宿す仮り小屋。 四六 酒のお肴に、なにかほしいなあ。「がな」は、願望を表す終助詞。 四七 酒を勧められて迷惑がる人。 四八 もう一ぱいいかが。盃の酒が減っていませんね。「上」は、酒を飲んで減った、杯の上の部分のことか。 四九 親しくなりたいと思う人が、酒好きで、すっかりうちとけて親しくなってしまうのも。- 五〇 罪がないと人に認められる者。 五一 他人の家で酔いつぶれてくたくたになってしまい、翌朝も寝ている部屋の戸を、その家の主人がひきあげたところ。 五二 まごついて、寝ぼけた顔つきのままで。 五三 髪の頭を頂きに束(つか)ねたもの。烏帽子もつけないで、細い髻をむき出しにし、衣服も着終らないで手にそれをかかえて持ち。 五四 引きずりながら。 五五 袖をたくし上げたうしろ姿や、毛のはえている、瘠せたすねの様子。- 五六 罪がない上戸に似つかわしい。 


日本酒に逆戻り
もっぱら洋酒一辺倒とおもっていたら、そろそろ人生のたそがれを身に感ずる頃、またもとの日本酒に逆戻り。酒造屋の伜(せがれ)に適応した徳利と杯を愛するようになった。やはり酒蔵の子は酒蔵の子らしく、しみじみ洋酒は親不孝であると悟ったのか、それとも洋酒よりは日本酒のスベテがよろしいことを、おくればせながら北原詩人やっと知ったのか。まァ親不孝者が洋酒遍歴の旅から、ひょっこり日本酒の酒蔵にある生家へ戻ったと考えればよいわけだ。やがて飲むわ飲むわ、「詩人白秋」は詩をかかなくなった。詩なんかおかしくってというわけで、ひたすら飲む方に寧日なし。「詩人白秋」でなく「酒人白秋」となったが、しばらくしてその「酒人白秋」に納まっているをイサギヨシとせず、次第に俗気が出て来て、たのまれれば酒造組合の歌でも、酒蔵の銘酒宣伝の音頭でも、何でもござれ式に、左手に杯を御(ぎょ)しつつ即興をこなした。だが、それから後、病気で禁酒を医師から宣告されると、素直に、悲しくも断酒したのである。(「酒味快與」 堀川豊弘) 北原白秋の酒句 白秋の酒倉 


飲酒の憂患(2)
然(しか)れ共(ども)吾人は又た世に多くの気の毒なる飲酒家あるを知るなり、気の毒なる飲酒家とは何ぞや、酒を飲むことに依(よ)りて僅かに一片の慰めを得るの人是れなり、酒に酔ふことによりて一時憂悶を忘るゝの人是れなり、飲酒によりて僅(わず)かに慰めらるゝの人は、是れ未だ適当なる歓楽の道を発見せざる人なり、酩酊によりて幸に憂悶を忘るゝの人は、是れ既に一種瘋癲(ふうてん)病の方向に其足を進めたる人なり、吾人は此の両者の唇頭(しんとう)より酒盃を奪ふの必要なることを信ず、然れ共之と同時に前者に向ては新たなる歓楽の具を備へ、後者に向ては其の憂雲を散ずべき晴風を送るの急務を解せざるべからず、故に立つて弘く禁酒の福音を宣(の)べんと欲する者は、酒の害を知るを以て足れりとせざるなり、先づ世路の艱難を知らざるべからず、人情の曲折を知らざるべからず、然らずんば何を以てか能(よ)く病める者の症源を探り、苦む者の患所を発見して、之を救済することを得んや、誰か禁酒党を指して不粋士の群集なりと云ふや、真正なる粋士にして始めて共に禁酒の妙味を談ずべきのみ、第二十世紀に於ける第三日曜日の朝(『国の光』九二号、一九〇一・一・三〇)(「飲酒の憂鬱」 木下尚江) 


ウォッカのベスト
しかしウォッカはどこでも作られており、スミノフなど今はイギリスでもアメリカでも革命前のロシアの形で作られていますが、これもベストに入ります。ウォッカの一番良いとことは、どんなに強いものでも二日酔いになることがないため、安心していつまでも飲んでいられることでしょう。それゆえ私は、スミノフの中でも最も強い、八〇度もある、ブルーをストレートかあるいは氷を入れただけで飲む習慣がつき、太ってしまいました。スミノフのホワイトラベルだとジンよりも少し弱く、シルバーはそれよりも少し強いのですが、私はブルーが好きなのです。ロシア人がキャビアをおつまみにするように、スモークサーモンやびん詰めのえびをおつまみにして飲むのは実においしいものです。(「ベスト・ワン事典」 ウィリアム・デイビス編 シリル・レイ)  詳しくは分かりませんが、スミノフのサイトを見ると、一番アルコール度数の高い銘柄はスミノフブルーという50度もののようです。 


東西女性タレント酒豪番付(1)
私は雪の舞う「宮泉」の一番蔵に入った。ここは「會津酒造歴史館」にもなっている。会津磐梯山宝のお山 笹に黄金がなりさがる 笹に黄金がなるとは嘘よ 辛抱する木に金がなる 杜氏たちの仕込み唄が響き渡る。今が丁度、本場寒仕込みの最中なのだ。糀(こうじ)だけで作った本物の甘酒を何度もおかわりするうちに風邪はどこかに逃げたらしい。調子が出てきた。館内は酒に関する全てが解るようになっている。おもしろいものが目に飛び込んできた-『東西女性タレント酒豪番付』である。西方力士いやタレントから紹介しよう。*前頭 金井克子(大阪) 浅野ゆう子(兵庫) 宮崎美子(熊本) 水前寺清子(熊本) 司陽子(鳥取) 都はるみ(京都)-引退 坂本スミ子(大阪) 京唄子(京都) 小柳ルミ子(福岡) 中野良子(愛知) 小鹿みき(大阪) *小結 田中裕子(大阪) *関脇 和田アキ子(大阪) *大関 太地喜和子(和歌山) 酒をガブ飲みすることを鯨飲などという。鯨といえば和歌山県の太地、出身地を名前にしたこの人、飲むほどに色っぽくなり最高潮に達すると周囲の男に当り構わずチュッチュッ。やや品位にかけるが次の横綱は確実。 *横綱 梓みちよ(福岡) 音に聞こえた女酒豪、みちよ姐(ねえ)さんが酔っぱらうとやたら気前が良くなる。ほめられたら最後、指輪や腕時計でもポンポン。博多女の鉄火肌で今や芸能界の姉さんとして自他ともに許す。それもこれも酒あってこそ、とこの道一筋。(「食魔夫婦」 中尾彬) 


受賞式前の半額前借り
時にこの間某新聞に私に関するゴシップがでていた。それによると、「…とりあえず受賞式前に半額前借りに出かけたものだ。異例中の異例とし願いはかなえられ、さてその金を懐にして、ちょっと飲み出したが滅多に懐中にしたことのない金で、大分気も大きくなり、いい気持で寝て、夜風に目を覚したと思ったら上野の山中、どこをどうして飲み歩きここへたどりついたのかさっぱり判らぬが、その時明瞭なことは五万円の夢もあえなく消えて、上着もはがされていたことだった」といふのであるが、よく創作したものだと感心した。威張るわけではないが、私は目下もその頃も靴もなく洋服ももつてゐない。受賞式のときも袴のない着流しだつた。ところがもつとうがつたのがゐる。高村さんを訪ねた二人の早稲田の学生が、受賞直後私が急逝したといつたのださうだ。さいうふハガキが高村さんからきたので、こつちもびつくりした。余談からもどれば、たしかに私は前借りのやうなことはした。新聞発表の前日であつた。けれどもその時は、受賞式のとき一人だけ減つたんぢや具合が悪いからとなだめられ、いかにも理に叶つてゐるので引きさがつた。(「火の車」 草野心平) 


第百七十五段(2)
一五人の上にて見たるだに心憂し。一六思ひ入りたるさまに、心にくしと見し人も、一七思ふ所なく笑ひのゝしり、詞(ことば)多く、一八烏帽子(えぼし)歪(ゆが)み、一九紐外(はづ)し、脛(はぎ)高く掲げて、用意なき気色(けしき)、日頃の人とも覚えず。女は、二〇額髪(ひたひがみ)晴れやかに掻きやり、二一まばゆからず、顔うちさゝげてうち笑ひ、盃持てる手に取り付き、二二よからぬ人は、肴取りて、口にさし当て、自(みづか)らも食ひたる、様あし。声の限り出(いだ)して、おのおの歌い舞ひ、年老いたる二三召し出(いだ)されて、黒き穢(きたな)き身を肩抜ぎて、目も当てられず二四すぢりたるを、興じ見る人さへうとましく、憎し。或(ある)はまた、二五我が身いみじき事ども、かたはらいたく言ひ聞かせ、或は酔(ゑ)ひ泣きし、二六下ざまの人は、二七罵(の)り合ひ、争(いさか)ひて、あさましく、恐ろし。二八恥ぢがましく、心憂き事のみありて、果(はて)は、許さぬ物ども押し取りて、縁(えん)より落ち、馬・車より落ちて、二九過(あやまち)しつ。三〇物にも乗らぬ際(きは)は、大路(おほじ)をよろぼひ行きて、三一築泥(つひじ)・門(かど)の下などに向きて、三二えも言われぬ事どもし散らし、年老い、袈裟(けさ)掛けたる法師の、三三小童(こわらは)の肩を押へて、聞えぬ事ども言ひつゝよろめきたる、いと三四かはゆし。かかる事をしても、この世も後の世も益(やく)あるわざならば、いかゞはせん、この世は過(あやま)ち多く、財(たから)を失ひ、病をまうく、三五百薬の長といへど、万(よろず)の病は酒よりこそ起(おこ)れ。三六憂(うれへ)忘るといへど、酔(ゑ)ひたる人ぞ、過ぎにし憂(う)さをも思い出でて泣くめる。三七後の世は、人の智恵を失ひ、三八善根を焼くこと火の如くして、悪を増し、万の戒を破りて、地獄に堕つべし。「三九酒をとりて人に飲ませたる人、五百生が間、手なき者に生(うま)る」とこそ、仏は説き給ふなれ。
注 一五 酒に酔った人の醜態は、他人のこととして見ているのさえ、いやなものだ。 一六 考え深そうな様子で、奥ゆかしいと思われた人も。 一七 何の思慮もなく、笑ったり、騒ぎ立てたりして。 一八 中古以来用いられた、かぶり物の一種で、紙で作り、漆で固めたもの。貴人は、平伏の際は、室内でも用いた。 一九 衣服の結び紐をときはずしてくつろぎ、裾をまくり上げて脛をあらわにし。 二〇 額と左右の鬢(びん)から、左右の頬あたりへ長く垂れた、二本の髪の毛。それを顔をむき出しに払いのけて。 二一 恥ずかしげもなく、顔をあおむけて笑ったり。 二二 -「口にさし当て」は、他人の口に押しつけ。 二三 遊芸を職業とし、宴席にも呼ばれて芸をする、法体(ほったい)の者。 二四 身をくねらせて舞っているのを。 二五 自分がえらいことなどを、そばで聞いているのもいやなくらいに、他人に話し聞かせて。 二六 下層階級の人。 二七 悪口を言い合い、喧嘩して。 二八 恥さらしな、情けないことばかり起って、終りには、相手がいけないと言う品物などを無理に奪い取ったりして。 二九 けがをしてしまう。 三〇 乗り物にも乗らぬ身分の者は、幅広い道路をよろめいてゆき。 三一 柱と板を心とした上を泥で塗り固め、屋根を瓦で葺いた土塀。 三二 言いようもない事。 三三 稚児-で、この法師に給仕する者。 三四 わけのわからぬこと。「かはゆし」は、気の毒で、見られたものではない。 三五 「夫レ、塩ハ食肴ノ将、酒ハ百薬ノ長、嘉会(カクワイ)ノ好」(『漢書』の食貨志)。多くの薬の中で、最もすぐれたもの。 三六 中国の古典で、酒を忘憂物と称したのによる。 三七 「後の世は」は、「万の戒を破りて」の次に置くと、解し易い。 三八 善い果報をもたらす善行。- 三九 「若(も)シ、自身、酒器ヲ過シ、人ニ与ヘテ酒ヲ飲マスレバ、五百生、手無カラン」(『梵網経』)。「五百生」は、衆生が、生死の迷いを重ねて、五百回も、次々に生れ変る、長久の間。(「徒然草」 吉田兼好 西尾・安良岡校注) 


割り干し大根
割り干し大根は、尻尾(しっぽ)から、ひものように切り目を入れて干したもの。やや固くても風味があり、もどしすぎないようにして、柚子や生姜、唐辛子など加えた三杯酢漬けは、お酒の肴や漬物がわりにぴったりです。(「ふるさとの料理むかし噺」 谷村寿子・中川紀子) 


現代版酒茶論
こんなことを云うと、酒党の人は、それは酒がいいにきまってるじやないか。昔から、酒は百薬の長といわれている。第一は、日本人は天の岩戸神楽(あめのいわとかぐら)のいにしえから酒なしでは片時もいられない。酒だ、酒だ。酒なくてなんのおのれが桜かな-と反駁するにちがいない。まことに、そうだ。人生は酒と女と金といわれている。詩人ボードレールも、ビー、ドランクン-と吟じている。バッカスの神の名は世に知られているが、茶の神というのは余り聞いたことがない。茶の詩を賦した釈皎然(しやくこうねん)よりも、酒の詩を吟じた白楽天の方がずつと有名だ。一服のお茶よりも一杯のお酒にひかれるのが、人情の自然である。酒も、少量飲んで、ほろ酔い気分になつたところはいい。人生の憂さも辛さも忘れ、恍惚の境に入る。しかし、それから二杯、三杯と杯を重ねるにつれて、陶酔状態から更に進んで、昂奮、麻酔状態に入る。そうして、三十六失の一失ずつ実行する結果となる。酒に女と金はつきもの、酒の失敗は女と金の失敗につながる。田も畠も売りて酒のみ亡びにし故郷びとに思い寄する日-。啄木の名歌を引くまでもなく、大酒のみの末路ほどあわれなものはなかろう。ところで、お茶には十徳はあつても、失敗ということは殆どないと云つてよい。昂奮したり、麻痺したりすることがないから、茶は女や金ともつながらない。お茶を飲みすぎて胃を悪くすることはあつても、そのために、女の問題を起こしたとか、借金で首が廻らなくなつたなどとは、聞いたことがない。第一、いくら茶ずきでも、渋いお茶が、一升も二升も飲めるものではない。酒と犯罪とは密接な関係があるけれども、お茶を飲みすぎて、人をなぐったとか、殺したとかいうことは、余り聞かない。新聞の三面記事を賑わすのは、得てして、お酒の方である。(「茶 歴史と作法」 桑田忠親) 


きびのさけ[吉備酒](名)
吉備の国(現在の岡山県の一部)で産する名酒。「吉備能酒(きびのさけ) 病(やめ)ばすべなし 貫簀(ぬきす)賜ばらむ」(万五五四)「如吉備「左:酉、右上:立、右下:口」(きびのさけ)、耿羅脯之類是也」(令義解賦役)「吉備酒是薬料、然官令例進」(令集解賦役) 【考】味醂に似た甘い味のものであったろうとする説がある。なお、第三例によって、薬用にも供されたことがわかる。(「時代別国語大辞典室町時代編」 室町時代語辞典編集委員会 代表者 土井忠生) 

行き倒れ人の場合
浅草寺は庶民信仰の寺として、多くの人びとに親しまれていたが、このことから、寺の境内に捨て子や行き倒れ人が少なくなかった。捨て子の場合には、寺では門前町の町人のなかから、乳の出る女性を探して養育金を支給して育てている。行き倒れ人の場合には、寺社奉行に届けを出し、検使の役人が出張してくるが、こうした役人の接待にも苦労があったようである。文政十二年九月二十四日の夜七時に行き倒れ人との届けにもとづき、寺社奉行の検使役人が寺へ到着した。前々日の夜に行き倒れ人があり、すでに門前町の町人であることがわかっていたのだが、少し傷もあったので検使を願い出たのだのだという。役人の到着後、一汁三菜と酒・吸い物・硯蓋物・鉢物などが検使役人ら三人に、一汁三菜と酒などが同心六人に出された。午前二時ころになり、おもなる三人には一汁三菜と湯漬けが出され、同心へも一菜の食事を出している。ようやく昼前にすべてが終了したのである。このときの堂番の記録によれば、同心たちは午後八時から午前二時まで「ダラダラ」と飲みつづけたため、浅草の銘酒「宮戸川」二升ではすまず、さらに二升を追加したという。このほか料理のため、味醂三合・酢七合・油・米などが消費された。代官所からは文具として西の内紙二帖・美濃紙一帖・半紙十帖が提供されたという。(「浅草寺の酒宴」 吉原健一郎 「酒宴のかたち」玉村豊男編所収) 


飲酒の憂患(1)
吾人は酒を飲むことを以て愚なりと思ふ、吾人は読まねばならぬ多くの書物を有す、考えねばならぬ多くの問題を有す、成さねばならぬ多くの事業を有す、何の余暇ありてか又酒を飲まんや、滔々たる世人は書物を読まずして酒を飲めり、否な、書物を売りて酒を買へり、此の如くにして如何でか駸々(しんしん)たる社会の進歩に後(おく)れざらんや、社会の進歩に後れたる人の手によりて事業の成効されん事を希望するは、猶ほ木に縁(り)りて魚を求むるが如きか、吾人は酒を飲むことを以て罪なりと思ふ、飲酒は身体を害し、精神を傷く、世上酒によりて毫(ごう)も心身を害することなしと抗弁する人よ、吾人は信ず、其人若し酒を飲まざりせば、其の肉体と精神と共に幾層の健全を保つことを得たりしを、人生の尊貴、何物か身体に勝(ま)さらん、何物か霊魂に勝さらん、日夜之を害して顧みざる者あるは、吾人の恐懼に堪へざる所なり、誰か飲酒を以て罪悪に非ずと云ふ (『国の光』九二号、一九〇一・一・三〇)(「飲酒の憂鬱」 木下尚江) 


第百七十五段(1)
世には、心得ぬ事の多きなり。二ともある毎(ごと)には、まづ、酒を勧めて、強ひ飲ませたるを興とする事、如何(いか)なる故とも心得ず。飲む人の、顔いと堪え難げに眉を顰め、人目を測りて捨てんとし、逃げんとするを、捉へて引き止めて、すゞろに飲ませつれば、うるわしき人も、忽(たちま)ちに狂人となりてをこがましく、息災なる人も、目の前に大事(だいじ)の病者となりて、前後も知らず倒れ伏す。祝ふべき日なれど、あさましかりぬべし。明くる日まで頭痛く、物食はず、一〇によひ臥し、一一生(しやう)を隔てたるやうにして、昨日(きのふ)の事覚えず。公(おほやけ)・私(わたくし)の大事を欠きて、煩ひとなる。人をしてかゝる目を見する事、慈悲もなく、礼儀にも背けり。かく辛き目に逢ひたらん人、一二ねたく、口惜しと思はざらんや。一三人の国にかゝる習ひあンなりと、一四これらになき人事(ひとごと)にて伝へ聞きたらんは、あやしく、不思議に覚えぬべし。
注 一 わけのわからぬ事。 二 これということのある度(たび)には。 三 むやみに。やたらに。 四 他人の見る目をうかがって。 五 むやみに。やたらに。 六 きちんとした人も。端正な人も。 七 身に障りのない人。健勝な人。 八 重病人- 九 ちょうどその日が、酔い倒れた人にとって他人から祝われるはずの日などであるなら。 一〇 -ここでは、二日酔いの状態。 一一 仏教の隔生即忘(きゃくしょうそくもう 凡夫が、生まれ変わる度に、過去・前世のことを忘れること)にもとづき、ここでは、二日酔いで、前世のことを忘れるように、昨日のことを全く記憶していないことを意味する。 一二 いまいましく、またうらめしく思わないだろうか。 一三 よその国にこうした習慣があるということだと。 一四 自分国にないよそ事として。(「徒然草」 吉田兼好 西尾・安良岡校注) 


山梨県にて
ところで山梨県できいた話ですが、この地方の昔の酒もりはおぜんの上にスエ、ツボ、ヒラ、シル、メシと五つの椀をのせ、それぞれ食物を出すのが普通ですが、それを食物は盛らないで、ぜんに椀だけのせて客の前におき、ちいさな椀にまず酒をつぎ、それを飲むと次の椀についで飲むというふうにして、最後におぜんの左手前にある飯椀で飲み、そのあと食事が出ることになっていたそうですが、酒ずきの人には酌人がはじめから飯椀に酒をつぐようにしたそうです。椀の中では飯椀がいちばん大きいのです。そのとき酌人は「左でお受けなすって…」といってすすめたといいます。大酒豪のことを左ききというのは、はじめからおぜんの左手前の椀で飲むからだということです。おそらくそういうことからきているのでしょう。(「食生活雑考」 宮本常一) 


麹の役割
さて、酒造りの第一のポイントとされている麹の役割について分析的に数値で示したいが、これが思うにまかせない。麹の役割は米を糖化・分解する役割のほかに、香気の生成にも関与するが、もろみという動きのある環境に左右されるところがあって、酵素力だけで割り切れない部分がある。一方、酵母の役割については、アルコール分をはじめとして香味に直接かかわってくる成分をつくるから理解しやすい。つまり、酵母の役割は外から見えやすい上衣のようであるのに対して、麹の役割は内にかくれた骨とか肉に相当するといえよう。(「日本酒」 秋山裕一) 


樽タル
和名鈔 漆器之類に。弁色立成(辞書名)を引て。酒樽 有足(あしある)酒器也。字 与尊(そんと)同 亦 作罇(そんと)。今 按 無和名。俗 称其声と注せり。尊はもと銅器也。和名鈔すでに漆器となし。後人読みてタルといひし事。並に其義 不詳。後俗また「木垂」の字を用ひて。酒器となし読むこと樽に同じ。「木垂」はもとこれ「上:竹、下:垂」楚之「上:竹、下:垂」に同じくして。酒器の名にあらず。其字 木に从(従)ひ 垂に从(従)ひぬるによりて。借用ひて読む事。垂の如くにして。酒器とは なしたる也。又和名鈔に「上:くさかんむり、下:将」魴切韻に。樽は酒海也といふ。今按ずるに。俗 所用罇と酒海と。各異なりと注したりき。さらば順(源順 和名類聚抄編纂)の比(ころ)ほひ。酒海といひしもの。漢にいふ所は既に同じからず。和名鈔には。酒海は漆器類に載たり。延喜式にも。内匠寮(ないしょうりょう)にして酒海を造る朱漆等の料(原料)。詳(つまびらか)に見えたれば。其漆器なること疑ふべからず。或説に。古制瓦器なる物ありといふ事あり。古の時ツボといふものゝ如きも。木をもて造れるあり。瓦をもて造れるあり。ナベといふものゝ如きも。銕(鉄)をもて造れるあり。瓦をもて造れるあり。これら其名は同じけれども。其質は各異なり。酒海の如きも。また木瓦の二式ありしも知るべからず。(「東雅」 新井白石) 


クチワリザケ
新潟県東蒲原郡東川村では二月一日に作る丸くして三本指でつまんだ形の団子をクチワリダンゴという。これをお宮に供え一同も食べるが、もとは奉公人がこの日の団子を食うとその一年間はそこで奉公するものとみなされ、嫁聟もこの団子を食った以上は向こう一年間は不縁ができなかった。口割りは馬に轡をはませる意味だろうが、同県北蒲原郡でも旧二月一日の奉公人の出代わりの日に団子粥を食わせて、これを轡団子又はクチワリ団子といった。ここでは結婚の約束酒もクチワリザケというそうである。三三九度の盃を軽率にとりかわす者がないように、一緒に飲みかつ食うということは相互の親近性を生じさせ、相互の連帯感を確認させることである。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 


安芸郡土左をどり
19 わしは酒屋の酒ぼてよ 中をいはれて門(かど)に立つ
20 わしは酒屋の酒柄杓 昼は暇ない夜(よ)さござれ
21 わしは酒屋のひとつ桶 中のよいのは人はしらぬ
注 五 「サカバヤシ 居酒屋の門口に取りつけるもので、木の枝を束ねて箒状に作ったもの。下ではホテという」(日葡辞書)  六 「いふ(言ふ)」(二人の間柄・関係を噂する)と「ゆふ(結ふ)」(紐などを用いて一つにゆわえまとめる)の意の掛詞。「われは酒屋のさかぼてよ 仲をいわれてはづかしや」(宮崎・西臼杵郡五ヶ瀬町鞍岡太鼓踊り・酒屋)-  七 「サカビシャク ココ椰子の形をした一種の容器で、柄がついており、酒を汲み取るのに使うもの」(日葡辞書)。「俺も酒屋の酒柄杓 昼は隙無し夜さ御座れ」(京都・与謝郡伊根町・花踊り・歌舞伎踊り)  八→三〇五、山家鳥獣歌・三六〇  九 「俺とお前と樽の酒 仲の良いのは人知らぬ」(兵庫・加東郡東条町秋津・百石踊・薩摩踊)(「巷謡編」 鹿持雅澄)  


辰巳新道
「昔はこの通りは、ヤクザもんが多くてね。喧嘩が多くて物騒な場所だったんですよ。騒ぎが起きて、私が仲介して収めたことも何回もある」あるスナックのマスターは静かに語った。物騒な時代だった。それはそうだろう。もともとこの通りは昭和二四年の東京都露店撤去令によって清澄通りの八幡参道に並んだ屋台・露店が移って来た場所。いわば江戸時代の色街跡に闇市が移ってきたのだ。奥まった場所の通りだけに、少しはヤバい部分がなければ商売は成り立たない。多くの飲み屋横丁は"地獄の一丁目"などと呼ばれた過去がある。高度成長時代の七〇年代からバブル景気の八〇年代にかけ、埋立て、地下鉄工事、ビル建設と、ここら一帯は未来都市TOKIOの最前線だった。工事現場から仕事を終えてやってくく猛者(もさ)たちが飲めや歌えの大騒ぎ、酔って暴れて喧嘩して、ヤクザが出てくる地獄の一丁目。危ないことも多いかわりに落ちる金も大きい。そんなワイルドなスナック全盛時代に下町情緒を求める男はいなかった。やがてスナック・ブームに夕暮れがやってくる。コンパ、キャバクラ、ランパブと、男の遊びは派手になった。スナック街・辰巳新道の灯も、ひとつ、ふたつと消えてゆき、寂しい通りになったのが八〇年代後半。バブル紳士たちの行き先はウォーターフロント芝・有明・海岸などに集中、江戸時代のウォーターフロント深川からは、もはや海はどこにも見えず、かつて蛤町と呼ばれ、目の前が海だった時代は遠くなった。ちょうどその時代、寂しくなった辰巳新道にポツリポツリとオープンしたのが今や主流となった居酒屋系の店である。オジサン客でごった返す人気居酒屋の多くが、ここで開業した理由を、建物が古く家賃が安かったからと語る。しかし流行とは不思議なもので、バブル崩壊とともに人々は豪華で高価な店や飲食店に背を向けて、庶民的で懐かしい路地の街並、店舗に興味を持ちはじめる。いわゆる「下町ブーム」の到来だ。辰巳新道は息を吹き返した。(「場末の酒場、ひとり飲み」 藤木TDC) 江東区門前仲町2丁目だそうです。 


暗殺除け
伊藤公はなかなかあそんだ。新橋、柳橋、どこでもあばれ廻った。丸山という男が、公の遊蕩に対して意見をした事がある。その言分が甚だ振るったもので、君は大政治家ではないか、そんな人物が、みだりに新橋や柳橋に出入りするのはよくない。むしろ随所に畜妾したらどうだ、というのだ。その時の公の返事が振るったもので、人間は境遇によってどうにでもなる、おれの今の月給では固定した妾宅なんか構えかねるというものだった。*公は酒もよく飲んだ。向島の私の別荘に、夜のふくるまで芸者をはべらせて飲んだものだ。芸者が帰ってしまっても独りでチビチビやった。その酒も飲みつくすと自分でノコノコ別荘の台所へ忍び入って酒を持出した。ある晩、台所の方でゴトゴト音がするので眼ざとい私の妻が眼をさまし「誰だ」と怒鳴ると「アッハッハ、おれだおれだ」と台所の隅で笑い出した。公が例によってオミキ泥棒をしていたのであった。*酒を飲んだのは、あながち好きというだけではなかった。一つには暗殺除けであるらしかった。当時は世間が血なまぐさく、沢参議が殺されたのをはじめ、著名の人物が暗殺された。まことに恐怖時代で、公は必ず午前三時ごろまでは酒を飲んではあたりに気を配りやっと三時すぎてから寝(しん)についていた。(大倉翁談)(「戊辰物語」 東京日日新聞社会部編) 大倉喜八郎の談話だそうです。 ブランデー伯の出典です。 


小瀬あきら(漫画家)
①好みの日本酒の味、タイプ、飲み方 きらきら輝く香り高い吟醸も、しっとりとやわらかい燗酒も好き。節操がないのが私の飲み方です。
②好きな日本酒の銘柄 『神亀』『三井の寿』『杜氏の詩』『義侠』『大七』『鷹男(ママ)』『宝寿』『磯自慢』『酔鯨』その他たくさん。
③日本酒によく合うと思われるつまみ 酒とつまみは夫婦のようなもの。それぞれに相性が合ったとき、最高の味わいが生まれる。だけど独身でもそれなりに楽しい。
④日本酒に対するこだわり こだわりはなるべく捨てたい。その時、その場所で、その人と、そのつまみで瞬間的に酒は輝くから。(「夏子の酒 読本」) 


はじめ少しはうまい
會津 私のははじめ少しはうまいがあとはからだが耐へるといふのでせうな。若い時のことをいへばこの間真だ大熊信常君と二人で四升の酒をのんで二合残つたね。それで私も向うも患ひましたよ。それはかういふのです。折々会ふとのんではゐるがどつちが強いかわからん。一応雌雄を決してみようぢやないかといふので酒をのまぬものを脇に立ち合はさしてはっきりと勝敗をきめることになつた。徳利を一本づつ持つてお互に注ぎつこする。それを脇で監督してゐるのです。途中から私はこれはいかんと思つた。と向うは殿様のやうにチャンと坐つてゐる。たうとう私はあげてしまつた。私があげ終ると向うもあげた。それから翌日目を覚ましてみると洋服も着たまま下宿の椅子に腰掛けてゐた。前後不覚になつたのはそれ一度きりです。(「都市と文化と酒」 會津八一) 


台本
先生(井上正夫)と一緒に出演した自殺志願者で二十歳の一高生が大泉滉(おおいずみあきら)、同じく二十歳の脱獄囚が金子信雄(かねこのぶお)、共に「文学座」の若手だったが、二日目の稽古の日、金子君が台本をもって来ない。「台本を忘れるとはケシカラン」と文句を言ったら、「実は昨夜、渋谷の屋台で一杯のんだんですが、お金が足りなかったんで、台本を見せて貸してくれといったら、オヤジが面白がって、よし、これを預かるからもっと飲んでけと…」金子君はニヤニヤしながら頭をかくのだ。これには有名な酒のみディレクター、今は亡き近江浩一(おうみこういち)君がすっかりよろこんで、「よし、君は見どころがある、もう一部やろう」と本を渡してくれたのだった。その夜の帰り、私は近江君と金子君を局近くの「中川」という店へともない、大いにのんで金子君の前途を祝った。(「しみる言葉」 阿木翁助) 


酒の想い出
で、あとから聞いた話をつなぎ合わせると、以下のようであったらしい。コップのウイスキーを空けると、私は立上がり、部屋中を歩き廻り、やがて、土色になって、風が無くなった時の鯉のぼりみたいに、出窓の手摺に倚りかかった。それから、畳に寝転がって、体を固くして苦しんだ。築地君が心配してそばへ来ると、彼に抱きついて、馬鹿力で緊めつけた。すると築地君は、これは警察官の経験から知ったのか、教えられたことなのか、私が抱きつくに委せて、緊めつけられていた。私は大兵の部類に属し、力も弱い方ではない。しかも、当時三十半ばだったわけだ。築地君も楽ではなかったろうと思って、あとから聞いてみると、そこは要領で、体を柔らかくして、相手の力をすかしながら、しかも相手のなすがままにさせておくものだそうだ。彼は、私の呻きの波に、自分の身のこなし方を合せ、機を見ては、少しずつ水を飲ませてくれた。また、私の心臓の不整脈を発見した。彼はそれを乱酔のせいかと思ったそうだ。しかし、それは一時的なものではなかったが…。このようにしているうちに、私の馬鹿力が緩んで来ると、築地君はタクシーを頼み、私を家まで送ってくれた。そして、蒲団に寝かせて、しばらく様子を見てから、帰宅したという。それは零時前後のことだったが、私は明け方まで苦しみ、吐血した。朝おそく目醒めた私は、枕やシーツに血が飛び散っているのを見た。やがて、親しくしている市立病院の副院長が来てくれ、葡萄糖の注射をした。宿酔に葡萄糖がこれほど効くものとは、その時まで私は知らなかった。(「酒の想い出」 小川国夫) 


冬の酒(4)
1424 酒のみて すさむことなきわれゆゑに 夜半のひそかなる 思ひ知らゆな (入野(いりの)) 一九六五 柴生田(しぼうた)稔
1425 冷やっこ するめのあしに 世忘れの ほのおの酒の 雪の夜である (心庭晩夏) 一九七三 加藤克巳
1426 夜毎飲む 酒をうとみつつ 諦めてしまひし 汝よ 胸乳衰ふ (鳥の棲む樹) 一九五二 千代国一
1427 喉深く 熱酣の酒 落しつつ 腹に沁みゆく までのしばらく (直立せよ一行の詩) 一九七二 佐佐木幸綱
1428 みぞれ降る ひとをおもわば 朝一合 夜五合(ごんごう)の 酒を飲むかも (晩秋晩夏) 一九七四 福島泰樹(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


行脚の掟
そういえば、鳥酔(ちょうすい)の『五七記』には芭蕉が示したという「行脚の掟」なるものが収められており、飲酒について芭蕉が次のようにのべたという。「好んで酒を飲むべからず。饗応により固辞しがたくとも、微醺(びくん)にして止むべし。乱に及ばずの節、幽乱起歳(誘乱起災か)の戒め、祭にもろみを用ふるも、酔へるを憎んで也。酒に遠ざかるの訓(をしへ)あり。つゝしめや」。もっともこの「行脚の掟」の信憑性については疑問があり、偽作ともされている。しかしそれ自身偽作だとしても、そうしたものが作られたからには、芭蕉が飲酒についてそれに近いような考え方をしていたかもしれないとの判断は可能だろう。(「食べる芭蕉」 北嶋廣敏) 


酒屋と塙団右衛門
備後の尾道に住屋といふ酒屋があつた。大坂陣の時、酒を積んで大坂を過ぎた。途中ある道で塙(はなわ)団右衛門に出会った。団右衛門馬上から声をかけ、「尾道に居た時には、随分世話になつたな。相変らず元気で目出度い」と言ひ捨て、鞭をあげて走り去つた。団右衛門が浪人として尾道に居た時、通ひつめた酒屋だからである。それにしても戦争中でも、まだまだ昔の戦ひには、のんびりしたところがあつたらしい。(「歴史随想集(戦国武士譚)」 菊池寛) 


貧乏徳利の産地
日本国中に広く分布する貧乏徳利には、美濃高田焼(岐阜県)、丹波立杭焼(兵庫県)、の陶器徳利と、有田焼(佐賀県)、波佐見焼(長崎県)の磁器徳利がある。こうした貧乏徳利は、本来は酒の運搬容器であるが、大人数で酒を飲むときには、そのまま羽釜(はがま)の湯につけて燗徳利に転用されることもあった。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 


「上:夭、下:口 の」ん兵衛の禁酒法
そこでまた禁酒してゐる私から、「上:夭、下:口 のん」兵衛の禁酒法を教へる。それはこうだ。『酒がほしいな』と思ふ時には菓子をたべるんだ。お茶をのむんだ。それから晩酌を思ふ時には、食卓に向つたら逸早く茶碗をとるんだ。そしてサッサと飯をくうんだ。空腹は酒を誘ふ、米粒で詰つとると、酒なんかのみたくないものだ。二杯三杯と茶碗を重ねたら、さきに酒が欲しいと思つたのが不思議な位、妙に酒欲減退するものだ。だから物理的にいへば、右で徳利をとる手を止め、左で茶碗をとりあげたら問題は解決する。要領はソレきりなもので、神の名において憫むべき君の「上:夭、下:口 のん」兵衛癖を清めさせ、改めさせ給わんことを願ふ必要はないのだ。それ位な芸当ができぬやうなら、武士の子を辞職するがいゝ。熟柿くさい啖呵を切るのは不心得だ。一日やつてみるがいゝ「吾勝てり矣」といつた誇がわく、そいつがとても嬉しくてね、『モウ一日やつてみい』といふ気になる。二日、三日、一週間もたつたら飲む奴の顔が馬鹿にみへる。そこまで来たら〆たものだ。屁理屈のやうだけれども、さうして、遂に忘酒の境にすゝまなくちや駄目だぜ。俺は禁酒してるんだと思ふ間は真物ぢやない。現にのまれぬ酒を思ふてゐる。彼女を想ふ時、爾、すでに姦淫せるがごとく、禁酒を思つとる間は、のめぬといふ酒を飲んでゐるんだ。だから飲酒も禁酒も忘れて平気でゐなけりやならぬ。忘酒の境に至れば、飲んで飲まず、飲ますして飲む。宴会でもあつたらお上がりなさい。そして翌日また忘れるんだ。いはゆる無礙自在といふ境地へ突入するんだ。やれないと思ふのは嘘だ。現に君より何年か永い間を、のんで来た自分にやれとる。やれとるからこそ、かうして原稿をかく隙があるんだ。(「俗つれづれ」 永井瓢斎) 昭和の初め、大阪朝日新聞で天声人語を書いていた人だそうです。 


八十段 最明寺入道
浅草院あん楽、八幡しやさんのついでに、鹿の武左衛門がもとへ、先(まづ)使を遣(つか)わして、立入られたりけるに、一献にどぜうの吸物、二こんにうなぎのかば焼、三献にかすてらにて止(やみ)ぬ。其座には亭主夫婦・多賀朝湖、あるじ方の人にて、座せられけり。さて、「おとしのよき珍ら敷(めづらしき)はなし聞(きき)たし」と申されければ、をかしき咄(はなし)、いろいろかたりて笑わせければ、女房・子どもまで紙ばなにて請(うけ)させ、後に遣(つか)はされけり。其時見たる人の、ちかく迄侍(はべ)りしが、語り侍し也
注 八幡 深川の富ヶ岡八幡宮。 しやさん 社参。おまいり。 鹿の武左衛門 本姓は志賀氏。「座敷仕形咄の上手」といわれ貞享・元禄(一六八四-一七〇四)ごろ活躍した話芸の達人。著書『鹿の巻筆』で、元禄七年から十二年まで、伊豆大島に流刑となった。日本橋に近い長谷川町に住んでいた。(元禄二年刊『江戸図鑑綱目』)。 多賀朝湖 多賀氏。後英一蝶。画師。他に「朝妻舟」などの作詞者とされる。 紙ばな 心付けを与える印として鼻紙を渡す。一枚を金一分に換えたという。(「吉原徒然草」 結城屋来示 上野洋三校注) この徒然草のパロディーを書いた来示は、其角の弟子で吉原の楼主だった人だそうです。カステラが肴になっていますね。 肴としてのカステラ 


ワインにハエ
世界各地を代表する面々がとあるレストランで一堂に会し、食卓を囲むことになった。全員がまずはワインを注文したのだが、なんと運ばれてきたどのグラスのワインにもハエが浮かんでいたのだった。スウェーデン人は、すぐさまボーイを呼びつけ、グラスのワインをハエもろとも捨てて、そのままそのグラスに新たなワインを注ぐよう要求した。イングランド人は、新しいグラスに新たなワインを注ぐよう要求した。フィンランド人は、グラスに手を突っ込んで中に浮かぶハエをつかみ捨てて、そのままワインを飲み干した。ロシア人は、ハエもろともワインを一気に飲み干した。中国人はハエは食べたが、ワインは残した。ユダヤ人は、グラスの三分の二まで飲み干した上で、クレームをつけて新たなワイングラスを持ってこさせた。ノルウェー人は、ハエを捕まえると、そそくさとそれをエサにして鱈を釣りに出かけてしまった。スコットランド人はハエを捕まえると、その首根っこを締めあげながら、「てめえ、飲み込んだワイン、全部吐き出さねえと承知しねえぞ」とくだを巻いた。アイルランド人は、ハエを取り出して細かく刻み、それをふたたびワインに混ぜ入れてイングランド人にプレゼントした。アメリカ人は、レストランに対して訴訟を起こし、精神的障害を弁償すべく六千五百万ドルを支払えと要求した。(「必勝小咄のテクニック」 米原万里) ビールにハエ 


ただ酒は甘い
私は、日本酒が甘くなってきたのは、ただ酒をのむ男が多くなってきたからではないか、と彼に言った。原因のひとつがそこにあるように思えた。戦時中、葡萄糖を使いだして酒が甘くなった、というのは技術上の問題であり、戦後やがて米に困らなくなったにもかかわらず、あいかわらず酒が甘いのは、やはりただ酒のせいではないか、と思えてならない。甘い酒を好む男が多くなってきたのは、ひとつの転向である。ひとたび転向してしまうと、抵抗に打ち勝とうと努力する感覚が鈍り、顔全体がたるんできて、筋肉の収縮がなくなってくる。甘い酒をのみ続けていると、努力感覚が欠如してくるわけである。銀座のバーでよくそんな顔を見かける。ただ酒は甘いからだろう。酒のみに罪なき原初の姿を求めても無理だ、といった声が出るかもしれないが、いくら酒をのんでも汚れに染まらない男はいるはずである。(「男性的人生論」 立原正秋) 


誹諧新潮(1)
初荷   酔ひたるを載せて初荷の帰る哉      大羽
屠蘇   差向ひ屠蘇祝ひ居る長屋かな       霞山
春の月  春の月酒の泉に浮ひ(び)れり        紅葉
青簾   青簾捲く満潮の酒楼かな           活東
甘酒   甘酒を酌み並へ(べ)たる茶碗哉      霞山
松魚   松魚買ふて債ある酒屋叩きけり      月人(「誹諧新潮」 尾崎紅葉選) 


元禄以来酒造伝記録
秋田県仙北郡中仙町長野は、大曲(おおまがり)から田沢湖線に乗って四つ目、羽後長野駅の近くである。ここの鈴木酒造店(「秀よし」)は元禄二年(一六八九)創業の古い酒蔵で、同家の所蔵する『元禄以来酒造伝記録』は、杜氏が自らの言葉で酒づくりの極意を語っている点で、他に例を見ない大変興味深い資料である。明和八年(一七七一)八月に熊谷亦兵衛なる人物が筆写したもので、原本は元禄年間に書かれたものと思われる。「右の秘伝書は大坂から下ったものである。その頃は大坂から杜氏がたくさん来たが、なかなか長続きしなかった。この書は原著者が五十年余かけて受け伝えた経験のほかに、工夫を巡らし、酒づくりのみに心を尽くし、善し悪しを尋ね、生涯をかけて伝えたものに自分の考えを書き加え書き記すものである」と最後に熊谷亦兵衛が記している。察するところ、原本の著者は大坂近辺で五十年にわたって酒づくりをしていたが、その覚書らしい。しかし筆者本の秋田における酒づくりの記述は、彼が元禄元年に体験したことなのか、あるいは後年の書き込みなのか、判然とせず、資料の取り扱いは慎重にする必要がある。本書の酒づくり法は元禄年間の大坂近辺、恐らく伊丹流であろうと思われる。(「江戸の酒」 吉田元) 


古酒の炭酸割り
金紋秋田さんの懇親会へ。インターナショナル・ワイン・チャレンジ2009の日本酒部門 最高賞チャンピオン・サケを受賞した熟成古酒「山吹1995」の試飲ができるとのこと。日本酒古酒にはまっているあたし、とても楽しみにしていた会でした。銀座「ラウンジ田崎」へ。昔ながらの雰囲気がある素敵なラウンジ。いぶりがっこなど、秋田名産の酒肴と共に、「山吹」ありました。社長さん自らが、参加者に給仕されていらっしゃいます。まずは、ストレートで。発酵がすすんだチーズのようないい香り。この独特の香りが大好きなんです。うん、これ、旨いなあ。と、ここで、社長さんから意外な吞み方をすすめられる。古酒の炭酸割りです。これが、旨いんですよ。ずっと入りやくsくなるんだけれど、ちゃんと古酒の香りは残っていて、でも重くなりすぎず、すいすい入っちゃう。なんとまあ、素敵な飲み方です。再度、生の古酒の味を確かめるために、ストレートで。で、また炭酸割りで。交互にいただきます。(「Tokyo ぐびぐびぱくぱく口福日記」 倉嶋紀和子) 


[志都乃石室(平田篤胤著 文化年間)]
サテ久斯(くしの)神ト申ス˥(こと)ハ、神功皇后ノ御哥ニ、此御酒(このみき)ハ、吾ガ御酒ナラズ久志能加美(くしのかみ)、常世ニ坐(いま)ス石立(いはたた)ス、少御神(すくなみかみ)ノ醸(かみ)シ御酒、云々(うんぬん)ト有ル、久志能加美、スナハチ酒之神(くしのかみ)デゴザル、サテ伎(キ)ト云(い)フハ、久斯ノ約(つづ)マリテ、共ニ酒ノ˥、カノ白伎黒伎(しろきくろき)ナド云伎、スナハチ夫(それ)デゴザル、サテマタ大穴牟遅(おおなむち)ノ神モ、御造リナサレタ˥ト見エテ、崇神天皇ノ御紀八年ノ処ニ、高橋活日(いくひ)ト云人ノ哥(うた)ニ此ノ御酒ハ吾ガ御酒ナラス、和(やまと)ナス大物主ノ醸(かママ)シ御酒、イクヒサイクヒサ、と歌ッタ˥ガアル、但シコレモ此ノ活日ト云人ハ、大三輪神社ノ掌酒(さかびと)ト為(なつ)テ居テ詠ダル歌ナレバ、殊(こと)サラニ其ノ神ニ係(かけ)テ詠ダノデモ有ウカデゴザル、其ハトモアレ、久斯ハ久須利(くすり)ト同言デ、久斯の神スナハチ薬之神デゴザル、扨(さて)ソノ医薬(くすし)ノ˥ハ、大穴牟遅、少彦名二柱ノ神ノ、御掌(つかさど)リナサル、訳ハ、既ニモ申シ、マタ下ニモ段々申スカラ、酒モ二柱ノ神ノ御掌リナサル˥ヲ、考ヘ合セテ知ガ宜イデゴザル。(「酒の博物誌」 佐藤建次編著) 


世量酒神事
江戸時代半ば頃には、すでに行われていたという濁酒(どぶろく)のでき具合(もろみの経過状況)から稲作の豊凶を占う風習が神事として伝わり、今日なお続けられているのが鷺神社(三次市十日市町)の「世量(よはか)り酒」である。毎年、元旦早々、前年に仕込んだ酒の甕(かめ)を開き、濁酒の甕を開き、濁酒のでき具合でその年の豊凶を占い、新しく酒を仕込み、本殿敷地の北西の一隅に埋めて、翌年の元旦まで一年間そのままにして置くのである。なお、同様の神事が庄原市東城町粟田に伝わっているが、こちらは秋の例祭に開くという。(「三次・庄原ふるさと大百科」) 「三次国郡誌書上帳」には「本殿西北方の地下一米に一斗の壺に飯、餅、麹を入れて埋め、一年間醸成させて元日に掘り出してその年の豊凶を占う」とありました。NHKのとりたてマイビデオで見て、三次市にお聞きしたところ、資料を送って下さいました。鷺(さぎ)神社は、三次(みよし)市十日市町1877にあるそうです。 


三六〇 わしとお前は諸白手樽 中のよいのは人知らぬ
「諸白」は、前出二八二番に注したように、白米と黒麹で醸した「片白」に対して、麹、米共に精白米で造った上等の酒。「手樽」は、柄が二本の角(つの)のように上に出た朱塗りの樽。手にさげるように造り、祝儀用。柄樽、角樽、柳樽とも。「中のよい」は、仲よしと中味のよいとを掛ける。酒造り唄から転用された祝唄か。(→補注)

補注 三六〇
類歌として、『巷謡篇』上・安芸郡土左をどり・まきが島「わは酒屋の一(ひと)つおけ、中のよいのは人は知らぬ」。『諏訪の民謡』祝唄・嫁入唄「わしとお前は手樽の酒よ、仲のよいのは誰も知らぬ」。『若越民謡集』福井県大野郡情歌「わしとあなたは斗だるの酒じゃ、中のよいこと人知れぬ」。-(「山家鳥虫歌 近世諸国民謡集」 浅野建二校注) 


自分をごま化す
してみれば、自分の家だと思ったのが、家でないことも明白である。種ケ島はわれに還った瞬間、汗びっしょりになった。記憶が一ぺんに、どっとよみがえってきたのである。彼は前の晩、不忍の池を前にする大きな旗亭の二階で呷(あお)るように酒を飲み、へとへとになってからも、いつもの調子で人に対する態度は少しも崩れなかった。彼が進んで出席したくない会合の席で、勢いにまかせて飲みつづけた酒であった。そういうときには豪快な飲み方によって、先ず自分をごま化してしまうにかぎる。繊細な神経や感情の動きに、いささかなりとも介入の余地をあたえないほど、野放図な態度に落ちついてしまえば。もはや、こっちの薬籠(やくろう)中の世界である。こういう場合には、自分の言葉や行動なぞは、綺麗サッパリ忘れなければならぬ。忘れていたら、何が起こったところで自分の関与するところではない。種ケ島音造は、当然忘れ去るべき筈だった前の晩の出来事を一つ残らず覚えていた。彼が記憶を喪失しているのは、一度、上野から大森の家の方角に向かって自動車を走らせていたのに、それが何故また、同じ下谷まで戻ってきたのか、-と、いうことだけである。(「三途の川岸」 尾崎士郎) 


やねやの熱燗
滋賀県の名刹永源寺の清流にそった永源寺町に、兵隊時分の友人今井彦太郎君がいる。本職は醤油屋である。外村繁氏と親類とか聞いた。京都の名高い呉服屋の「ゑり善」は叔父さんである。オットリした、良い男である。この屋号が「やねや」というらしい。この辺では「やねやの熱燗」といって、代々熱燗をすすめたらしい。 酒悪し せめても燗を熱うせよ(虚子) という句もあるから、あの辺の酒はあまりよくないのかな、などと思ったことであった。この今井君が「この辺では、味噌ざいは長者も及ばぬ、という言葉があるんですよ」と教えてくれた。たしかに日本人は醤油の子、味噌の子、漬け物の子である。味噌ざいは確かにうまい。もろきゅうは申すに及ばず、野菜の味噌漬け卵黄の味噌漬け、豆腐の味噌漬け、みなうまい。ガーゼを利用すれば、なんでも漬かるから妙である。(「味之歳時記」 利井興弘) 


一四パーセントぐらい
飲み心地のよいアルコール度は、人の好みにもよるが、一四パーセントぐらいである。したがって二級酒も、特、一級酒も燗をする場合、適当に水を割るべきで、その量は、特級酒、一級酒の場合は多くする。よく特級酒をそのままお銚子についで温めるのを見受けるが、決してうまい飲み方とはいえない。(「さけ風土記」 山田正一) 


造り酒屋
だんだん寒くなつて来たので、新酒が出はじめてゐるよう。その昔、大正の初め、ぼくの父たちが酒屋をやつてゐた時分、店先に竹が立つていゐた。からつ風にザワ、ザワと鳴つてゐた。この竹が新酒が出はじめたしるしであつた。この酒屋はもと、東に二里半(十キロ)の伊田部落の坂本さんの所有だつた。主人は入道のだんまりや、おかみさんは小柄で愛嬌よしだつた。坂本さんは手元が不如意になつて、酒屋を手離したくなつた。ぼくの父に、千二百円でどうぜえと持ちかけた。これより負けることはあるまいと、気構へを見せた。「百とよく相談しまして」と父は答へた。百は野並百太郎、母の兄、父と同い年であつた。その百太郎と二人が六百円づつ出すことに決めた。それで先方に承知してもらつた。税務署その他の公の名儀は徳広酒店にして、留守番は一年交代にすることになつた。徳広酒店は、前の酒店から「宝」といふ酒を受けついだ。小銭を入れる木製の古い手文庫に、「宝」の字が彫られていた。徳広酒店はやがて、「鶴井」とふ酒を造りはじめた。鶴井は背戸の田圃の隅つこにポコポコと湧いてゐる泉である。のちに鉛管で引つ張つて、庭の築山に噴水が噴き出てゐた。(「造り酒屋」 上林暁) 


カニのフワフワ汁
利根川の河畔でお百姓さんをしています茨城県行方(なめがた)郡の友人から電話が入りました。「ズガニいっぺとったがら食いに来ねえべか?都合つかねんならしゃあんめいが、もしすまならいっぺやっぺ」(訳:モズクガニを沢山捕ったので食いにきませんか?都合がつかないなら仕方ないが、もし暇なら一杯やりましょう)そこで私、ふっ飛んで行きました。なにせカニが大好きなカニクイザル(あだな)なものですから。で、彼が自慢の一品料理を見て凄いのなんの、仰天してしまいました。石臼の中に元気のいいカニを二十匹ぐらい入れて、驚くなかれ、何とそれを丸太棒で上から搗いて潰しているんです。ついにドロドロに潰れたところに味噌を加えてまた搗いて混ぜ、それを杓子ですくい取って沸騰している鍋の湯に入れたのです。ドロドロのカニのエキスは瞬時にフワフワと固まって、鍋全体に浮きながら拡がりました。ここで、鍋の火を弱めてからサイコロ状に切った絹ごし豆腐と斜かけに切ったネギを加え、酒少々を落としてから碗に盛って食べさせてくれたのです。題してカニのフワフワ汁。恐れ入りました。カニから出た甘味とうま味、卵巣やカニ味噌から出たコクなどが誠に調子よく乗り合いまして、私の頭の中の雑念をすべて払ってくれるほど、このフワフワ汁に没頭させてくれたのです。やや辛口の純米酒を、思いきりの熱燗でやったのも、見事大正解。(「地球を肴に飲む男」 小泉武夫) 


酒で狂う、酔漢、酒飲みの怠け者、酒飲み
【酒で狂う・酒乱】(本)さかめいる。(奈良・和歌山)
【酔漢】(本)いばらじょーご(岐阜県海津郡)・えーと(長崎)・くらいだおれ(愛媛県青島)・さかえと(仙台(浜荻))・さかよい(山形県庄内・新潟県北蒲原郡)・さけのよい(京都・香川県小豆島)・さんてつまごら(肥前唐津(物類称呼))・ずだいぼー(滋賀県甲賀郡)・ずだえぼー(福井県大飯郡)・どろんけん(福岡県博多)・どんだ(滋賀県伊香郡)・どんだくれ(栃木県河内郡・山梨・新潟)・やまいも()宮城県都城・よいぐらい(薩摩(物類称呼))・よたいぼ(三重県宇治山田)・よたんぼ(大坂(物類称呼))・よっきり(仙台(浜荻))・(補)よいど・よーたんぽ。
【酒飲みの怠け者】(補)どらんぼー。
【酒飲み・上戸・大酒家】(本)あぶ(南島喜界島)・くらいたくれ(茨城県行方郡)・さけぬすっと(高知)・しょーじょー(九州(日葡辞書))・すいじん(石見・広島)・せーぬみゃー(南島喜界島)・どんべ(富山県上新川郡)・びしゃーみ(南島八重山)。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録) 


吉久保酒造(2)
予言が当って、三年後の寛政二年には米穀商の粟野屋吉久保清三郎が「筑波の米と笠原の水」で丈夫な酒づくりをはじめた。明治中期には酒造家が水戸市内に二十数軒あった。明治三十八年にはこの組合(代表・渡辺惣右衛門)の傘下業者は十三店に減っている。昭和二年の市内業者の生産高をみると、清酒は二二七九石、十九万三七一五円、焼酎が三五石、三一五〇円である。また昭和三年の市内酒造りベスト4をあげると①吉久保酒造場(吉久保清三郎・本六丁目=寛政二年一月創業)九万二千円②滝田酒醤油醸造所(滝田春吉・向井町=明治40年10月創業)四万八千円③井筒屋酒醤油醸造場(湊宗之介・馬口労町=宝暦元年1月創業)四万一八五〇円④渡辺酒造場(渡辺惣衛門・馬口労町=天保9年11月創業)一万三〇〇円。滝田と井筒屋のこの生産額のうちには醤油もふくまれているので厳密さを欠くかもしれない。いま、県酒造組合水戸支部、水戸と東西茨木郡下の酒造家は13社、市内で醸造しているのは吉久保酒造と副将軍の明利酒類の二社。生産高は一万石である。-(一九八三・十二月十七日)(「水戸巷談」 網代茂) 吉久保酒造(1) 


狆の二日酔い
狆を飼つている友人がゐる。狆だらうと云ふと友人は、いや、ペキニイズだと云ふが、どつちだつて構はない。その友人の家の広い庭には、いろんな植物が植ゑてあるから、ときどき見に行く。植物を見て、その后で御馳走になるときは、その狆がいつも傍に坐つて、狆くしゃの顔をして此方を見てゐる。以前は五、六匹の猫がゐて、それが傍らに並んで坐つてゐた。猫にはみんなどこかの酒場の女の名前が附いてゐて、なかには知つてゐる女性の名前の附いた奴もゐる。何だか妙な具合だが、当人は五、六人の美女をはべらして酒を飲んでゐる気分らしいから、余計な口出しはしない。それがいつからか忘れたが、猫の替りにこの狆ころが酒の席に顔を出すやうになつた。犬だから別に口を利く訳は無いが、何となくお相伴と云ふ恰好で坐つてゐる。いつだつたか、この友人の家に行つて酒を出されて飲んでゐると、いつも傍にゐる狆が姿を見せない。-狆はどうしたんだい? -あそこにゐるよ。 見ると隣の部屋の卓士の下に、だらし無い恰好で寝そべつていゐる。おい、と呼んでも、日ごろ愛想のいい奴が何となくぐつたりとした様子だから只事でな無い。-どうしたんだい、病気なのかい? -なあに、あいつは昨日奈良漬を食つてね…。 これには驚いた。犬が奈良漬を食ふとは知らなかつた。 -ふうん、奈良漬を食ふのかね…。 -うん、あいつは奈良漬が好きなんだ。昨日は奈良漬を食ひ過ぎて、今日は二日酔いなんだ。莫迦な奴だよ。友人がさう云つたから、二度吃驚したが、狆ころの奴は話がわかつたかどうか、恨めしさうな顔をして此方を見てゐた。相当の重症らしいが、その顔を見たら何だか他人事とは思へないやうな気がしたから不思議である。(一九七七年三月)(「狆の二日酔い」 小沼丹) 


大酒飲みの血統
酒は血統で飲む。ぼくの場合は父の父親、つまり祖父が三十四歳のとき、葬式酒を飲み過ぎて帰る途中、川に落ちて死んだ。またぼくの母の父親、つまり母方の祖父は三十七歳から八十三歳で死ぬまで、毎日、一日もあけることなく日本酒を一升ずつ飲んだ。一カ月三十升、四十六年間で一万六千五百升を飲んだ。この酒代を払うために息子は土地を切り売りした。ぼくの父は十三歳から飲み、四十七歳のとき酔っぱらって雪道に眠り、死にかけたところを通行人に助けられた。両手が凍傷にかかって六年間、農作業ができなかった。ぼくの母も十歳から飲みはじめ、毎晩のように晩酌しつづけ、八十三歳でボケるまで飲んだ。晩年は毎日、日本酒、ビイル、ワイン、焼酎を混合して飲んでいた。ボケは酒のせいだと思う。その子供がぼくだから血統的に不足はなく、堂々と飲みつづけている。ぼくも三十歳代には一晩に日本酒を冷やで三升くらい飲んだり、ビイル二十本くらいあけたこともある。六十歳すぎてからは酒量が落ちて情けない。しかし何としても八十一くらいで死ぬ直前まで飲もうと思っている。(「大酒飲み」 小檜山博) 


「明治のおもかげ」の見返し
見返しは表裏ともに、「世の中は程にしておけ酒の燗茶も出過れば味がなくなる 八十六翁 鴬亭金升即興 印(金升)」と、瓢箪、猪口、急須、湯「上:夭、下:口 の」み茶碗を茶色地に白く抜く。(「明治のおもかげ 鴬亭金升」の解説 延広真治) 「明治のおもかげ」の見返しだそうです。 


長い長いトンネル
氏(徳川夢声)は「万芸に秀で、何が本職かわからない」といった英才。勲四等は粗末すぎた。しかし、夢声は「ノーメル賞」第一号だ。活弁時代、彼は汽車の場面が出てくると、「汽車はトンネルへと差しかかりました」と弁じて、電気を消して映写をストップさせ、酒を飲みに楽屋へ走り込んだという。そこで一杯引っかけて、弁士席に戻り、「長い長いトンネルを抜けた汽車は広い広い野原を走りつづける…」などと、また写し始めたというのである。トンネルがなくても汽車さえ出て来れば、酒にありつけたのである。(「酒鑑」 芝田晩成) 


米舂水車
享保八年(一七二三)の伊丹酒造仲間の「酒屋中極元一札」は、六ツ時から七ツ時までの一〇時間労働と古米五臼、新米六臼に一日の基準稼働量を取きめ、賃金協定によって働人の移動を抑えている。ここでは酒造蔵内部における舂米行程の併存と労働管理が酒造家にとって大きな問題となっていたことを告げている。しかし灘目に展開した酒造業においては、この舂米行程を酒造蔵外部に独自化していった。すなわち酒造蔵内部において酒造仕込と舂米とにわかれていた雇傭労働力の編成を地域的社会的分業にまで推し及ぼし、周辺の村落にまで生産力的基盤を広く深くしていった。いま灘目上灘郷に米舂水車が成立していった状況を天明八年の調査によってみると、上灘郷の酒造業の展開にあわせて、郡下一八カ村に七三輌の米舂水車が架設されていた。元来この地域は灘目絞油水車の中心地であった。そして享保期以降郡下六カ村に六六輌の絞油水車が存在していた。しかしこの年には、上灘郷に八一軒の酒造家が擡頭していたことによって、水車においても米舂水車がそれを凌駕しつつあった事情がわかる。(「灘の酒」 長倉保 日本産業史大系) 


御党屋千度
その最初の行事は、正月一五日の御党屋千度(おとうやせんど)である。これは、その年の祇園祭りの諸務がつつがなく果たせるように当番党屋組の戸主たちが、紋付羽織、股引、白足袋、草鞋姿で神社に参拝する行事である。そのとき、神酒(清酒)と重箱に詰めた料理(煮〆(にしめ)・田作り・数の子など)を党屋本陣から持参、これが神饌になり、そののちに直会食となる。社頭で祭典のあと、社務所で直会。小謡(こうたい)の『高砂(たかさご)』が奏されたところで、参列者の全員の杯に酒が満たされる。それを、チョウヅケという。次に、大盃が上座(宮司(ぐうじ))から順にまわされる。最後に上座に大盃がかえったところで、宮司が盃(神酒が満たされた大盃)を捧げもって退席、それで直会が終了する。小謡や囃子(はやし 大盃を飲み干すたびに囃す)が入るが、以上の祝宴は、あくまでも儀式として整然と行われるものである。最上座の宮司が退席、それが直会の終了を表わすのも作法にのっとてのことである。そのあと、参列者は党屋本陣からの迎え(組内の若者)を受けて党屋本陣に帰り、そこで本格的な祝宴が催される。これを、日待ちの直会とはいうが、組内の夫人たちも接待にでての一般的な饗宴となる。つまり、無礼講である。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 福島県田島町の田出宇賀(たでうが)神社で行われる、直会の儀と無礼の饗宴(無礼講)が分離されている、本来の形の例だそうです。 


煮白石
酒の肴に塩は最も要を得たものである。此の中の真味は到底下戸には解せられぬであらう。子供の時分、九州の田舎で往々「角打ち」と曰ふ酒の飲み方を見聞した。桝の角から冷酒を息も吐かず飲みほすのである。其の肴には塩を一つまみ嘗めるのが最も妙とされて居たらしく、それで酒屋の店先には大抵塩が器に入れて置かれてあるのを見かけた。後には桝はコップに代り、塩はかき餅代つて、野趣は俗趣に堕し、酒徒の味覚も鈍つたらしい。私も生来飲中の趣を解する方であるが、その時分はまだ子供で、遂に「角打ち」の妙味を体験せずにしまつたのは返す返すも残念である。然し塩の味は知つて居る。塩の肴で稍や凝つたのは「煮白石」と云ふ料理である。是れは昔北京大学教授の某君から教はつたのであるが、白川砂のやうな少し荒い目の砂を豚の油で炒りながら塩を加へて造つたもので、其の砂を嘗めて酒を飲むのである。仙人じみた名前は馬鹿に気に入つたが、未だ砂を嘗める大胆を持たぬ。やはり私は純粋な塩が好きである。晩酌には大抵欠かさず野菜の生に塩を付けて用ゐる習慣であるが、時々ただ塩のみ嘗めると頗る旨い。年来専売局監製食卓塩の恩恵を被つて居るので、此の機会に塩礼讃を一席講じた次第である。(昭和十三年十二月「専売」)(「煙塩閑話」 青木正児) 


酵母に口はない
ただ、ヒトはパンやご飯、肉、魚、野菜などを食べるが、酵母は食べることができない。「口がないから当然」と思うかもしれないが、口もないのに食物や作物を食べて繁殖するのが微生物である。この場合、「食べる」という表現は適切ではないが、つまり、自ら食物中のデンプン質やタンパク質を分解してから吸収するのである。デンプン質、タンパク質、核酸などは、大分子であるために、そのままでは吸収できないが、小分子の糖、アミノ酸、核酸塩基などまで分解されていれば吸収することができる。微生物は、そのためにデンプン分解酵素、タンパク質分解酵素、脂質分解酵素など、さまざまな分解酵素を体外に分泌する。だが酵母は、微生物としては珍しいことだが、それができないのである。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


なめます
土佐の人は、酒好きが多いという。「ショウショウのめます」というのは、二升のことだと、高知で聞いた。しかし、力士の酒量は、もっとすごい。ある力士が十両になった時、客に招かれて、どの位のむかと訊かれたので、「一升はのめます」といったら、先輩に叱られた。「二升までは、なめますといえ」(「ちょっといい話」 戸板康二) 


ヘビースモーカーで、大酒家
平民宰相として民衆から親しまれた原敬は大変なヘビースモーカーで、大酒家だったといわれています。おかげで2度ほど卒倒しているのですが、それでも習慣的な飲酒をやめただけで、宴席では付き合い酒を飲んでいたといいます。彼の養嗣子の話によれば「晩年、北海道に行ったとき、宴席で父の横に座って観察していると、出席者が次々と盃を持って父の前に現れ、盃を交わしていきます。父は注がれた盃をいちいち干しているのだから、胃の腑に流れこんだ酒の量は相当なものなのに、父の顔は赤くも青くもならずケロリとしている。私は父が大酒家だということを始めて知った」とあります。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


隠れ飲み
その頃は私も晩酌はビール一本くらいにしていたが、寝酒はウイスキーをボトル半分ほども飲んでいた。これではアルコール性肝炎になるのが当たり前である。妻は小さなびんにせいぜい水割り一、二杯の分を入れておいて、それ以上は絶対に飲むなと言った。しかし私は長年飲ん兵衛(べえ)で過ごしてきた習慣から、そのくらいの量ではストレスがとれずとても眠れない。何日もつらい思いをしたのち、私は妻が寝たのをひそかに確かめ、そっと台所へ行ってどこかにあるに違いないウイスキーのびんを探してまわった。ところが妻は神秘的才能で隠してしまっているらしく、どの戸棚、床下まで探しまわっても見つからない。そこで私は応接間に行って、客用の上等のウイスキーをそっと飲んだ。ところが妻はそれもたちまち察し、二日後の夜半応接間のドアを開けようとすると、鍵がかけられていてどうしても開かない。こうなると、さながら悪漢と名探偵の知恵比べになる。私の家の近くにとりつけの酒屋があるが、そこで私がウイスキーを買えばたちまちばれるであろう。だが、現在はうまい具合にビールの自動販売機がある。私はそこで缶ビールを買い、レーンコートのかくしに隠してうまうまと自分の寝床に持ちこんだ。夜半、妻が許してくれるわずかなウイスキーを飲んだあと、その缶ビールを飲むと、罪深い行為を自分がやっているという意識からか、余計陶然とした気分になれた。名探偵の妻がちっとも気づいていないようなので、私はその後もいい気になって缶ビールを買って飲んでいた。その空き缶はもう八、九個になっていたが、私はそれを洋服箪笥の衣服の下に隠し、いずれ妻に隠れて捨てに行こうと思っていた。そして一夜、私は寝室の安楽椅子の上に座ってテレビを見ていた。そこに妻がやってきて、私の衣服を整理しだした。私はヒヤリとした。妻はついに洋服箪笥を開け、中にあるせーたーなどをとりだしているらしい。缶ビールの空缶はその下に隠してある。私は登校拒否の生徒がおっかない母親に今にもその現場を発見されるような恐怖におののいていた。果たして妻は空缶を発見した。次の瞬間、妻は、「こら!」とか叫んで私の上にのりかかってきて首をしめた。そのあと、私たちは床にズデンドウところがって、お互い荒い息を吐いていた。つまり、華奢な安楽椅子の一本の足が、私の上に重なってきた妻の重量も加わって、ものの見事に折れ、二人とも転倒してしまったのである。(「マンボウ氏の暴言たわごと」 北杜夫) 


ず刺
「なまずの刺身」、略して「ず刺」はそれこそ瓢箪(酒)にピッタリだ。その味はテッサ(ふぐ刺し)、タイ、ヒラメの薄づくりよりも、むしろオコゼの刺身の味がする。脂肪分が少ない「なまず」は天ぷらにも合う、それをご飯にのせたのが「ズドン」、いや「ず丼」である。(「食魔夫婦」 中尾彬) 


方言の酒色々(11)
婚礼の際に、嫁見に来た者に飲ませる酒  がんどさけ
婚礼成立の酒  うけとりわたし
祭祀用の米と酒  んばなうざき
婚宴の終了後、帰る一同に出すどんぶり酒  すえひろ
陰暦九月九日、重陽の節句の酒  ちくうざき(日本方言大辞典 小学館) 


泥酔記
-私は酔つぱらつて居眠りしたときのことを述べなければいけない-私のうちは省線の荻窪駅の近くにあるが、市内で酒をのんで帰つて来るときには、私は電車の中で居眠りをして困る。すでに新宿駅のプラツトフオムでベンチに腰をかけたまゝ居眠りをはじめて、自分の考へでは電車に乗つてゐるつもりであるにもかかはらず、ときどき目をあけて見ても私は「しんじゆく」と書いてあるボールドを眺めているのである。さういふとき私は、この電車は進行してゐないのだらうと疑つたり、ドアをあけて外に出やうと思つたりする。けれど実際には、私はプラツトホオムのベンチに凭りかゝつてゐるのであつて、たうたう終電車に乗りそこねるという始末なのである。(「泥酔記」 井伏鱒二) 

いっぱい入った徳利は鳴らん
 中身が一杯入った徳利は音がしない。頭のいい人はむだなおしゃべりはしないというたとえ。
買酒(かいざけ)と牛の尾は届き次第
 買った酒はこれだけしかなくてと、客に少しだけある酒をすすめるときにいうことば。牛のしっぽは短いことから付け足しにいう。青森地方のことわざ。
駆け付け三杯
 酒の席に遅れて来た者に、罰として酒を立て続けに三杯飲ませること。仲間に入れるための一種の座興でもある。(類句)今入り三杯 遅れ三杯 遅参三杯 駆けつけ三杯4 遅参三杯12(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


酒が湧かない
さらに、次のような指導の事例も報告されている。「酒屋の坂本七郎右衛門のところでは、年末十二月二十日頃に九石仕込みで一本仕込んだが、自分が正月十日に年始の礼に訪れると、この酒が一向に湧かず、どうしたものかと相談された。『そういうことであれば、今晩は泊まって私が工夫してみましょう』と引き受け、大坂での師匠の教えにしたがい清酒三斗くらいをよく沸かして加え、櫂入れし、桶の真ん中を突き入れて、暖気樽二つに湯を手引加減(中に腕を入れ、三回まわして熱いと手を引っ込めるくらいの温度を指す)にして入れたものを桶の中に入れ、しっかり蓋をし、莚(むしろ)を掛けておいたら、夜中に沸き立って少し桶からこぼれた。この酒は上々のできであろう。しかしながら、夏まで持つかどうかは心もとないので、早く売るようにいって売らせた。このようなこともあるから、何でも聞かなければならぬのだ。七郎右衛門殿をはじめ、杜氏たちから厚く礼を述べられた。このことはあとで親しい人々には残らず話して聞かせた」(「江戸の酒」 吉田元) 『元禄以来酒造伝記録』にあるそうです。 


川尻肉醤
だが「川尻肉醤(たたき)」は「たたき」といってもカツオを三枚におろし、藁火で炙るという例のあのたたきではない。これは塩辛のことなのである。それがなぜ「川尻肉醤」と名づけられたのかというと、独特のたたき庖丁で、とりたてのカツオの身をたたいて作るところから、たたきと命名されたという。現在も肉醤を作った独特のたたき包丁は、川尻の旧家に保存されていると聞く。『日立市史』には写真もある。川尻肉醤は、毎年、初雪が舞うころに献上された。塩辛は今日では一年中作られ、市販されているが、本来、昔も今も冬の味覚であり、だからこそ川尻肉醤は半年あまりもじっくりと寝かせて、食べごろを待って献上したのである。光圀は雪見酒にこの川尻肉醤でいっぱい…そんなひとコマもあった。(「水戸黄門の食卓」 小菅桂子) 


3.酒が過ぎると体をこわし、腹立ちが過ぎれば心を痛める
 現代の日本ではあまりに自明のことがらであるが、これがことわざであることに、まだ救いがあるといえようか。 中国-ヤオ(瑶)族
46.おなじ甕(かめ)でちがった酒をつくるのはむずかしい
 おなじ酵母からはおなじ味の酒しかできないという意味か。個性や癖といったものも、時代や環境の制約からまったく自由というわけではない。 中国-トン(侗)族
52.魚と針は餌にかかってくるし、ことばは酒がひきだしてくれる
 中国語訳には「米酒」とあるが、イ族では老若男女の区別なく米かトウモロコシで作った酒を飲むという。 中国-イ(彝)族(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


今日は河上、明日はジイ公
青山(二郎)はやがて赤坂に一軒家を持ったが、我々は銀座で飲み飽きると退居してしけ込む。おはんさん(武原)はいやな顔もせずに、酒を出してくれるのだが、或る日こたつのそばに青山の日記があったので開けてみると、「ひとのうちへ、よる夜中だけ来るような奴とは、おれは合わないのである。結局おれの友達は小林(秀雄)一人だけじゃなかろうか。他の奴とは合わないのである」と書いてあった。われわれはただ青山がなつかしいから行くのであるが、その身勝手が彼には気に喰わなかったらしい。そういう時永井龍男がいると、ひと言洒落かなんか言って、さっと浅草の安待合へ連れ出してくれる。だから永井はおはんさんに評判がよかった。その頃我々の飲む酒は、大抵青山と河上(徹太郎)が払っていた。「今日は河上、明日はジイ公(青山)」と僕が言っていたとか。僕は忘れていたが、青山は憶えていた。後では高利貸から金を借りてまで飲ましてくれた。或る日の午後行くと、(その頃は四谷の花園アパートでひとり暮しだった)鳩居堂の罫紙に、利子の計算を細かく墨で書いて睨めっこをしていた。「大岡も飲んだくれてばかりいねえで、俺達が飲んでるところでも、小説に書いたらどうだ」と言うから、「お前さんが借金の勘定をしているところから書き出そうか」これは僕としては最大の讃辞のつもりなのだが、青山はひどくいやな顔をした。(「わが師わが友」 大岡昇平) 酔いはない酒 腹に据ゑ兼ねる事 物を買つた時の喜び 


山里の華美な風潮
一八六八年(明治元)正月、越後国蒲原郡北五百(いも)川村(現下田村)の庄屋藤田嘉源治は、とうに還暦を過ぎていたが、山里の華美な風潮を歎いて、こう書き付けた。"文政六、七年、自分が二〇歳のころ、厚畳を敷いている家は村に寺をふくめて四軒しかなかった。絹の下着を用い、雨戸を入れているのは一、二軒、屏風は三、四軒、弓張提灯や掛物は稀だった。清酒は用いず、手塩皿は平(ひら)の小さな瀬戸物で、夜は松節(松明(たいまつ)か)を灯した。それから四〇年ばかりの間に、たいそう華美になった。壁に上塗りをして、座敷には厚畳を用い、座敷・寝間まで雨戸を入れた家は、村に一五軒ある。炬燵(こたつ)着物は茄子紺微塵縞(なすこんみじんじま)、膳椀には雉子物を用いず、吸物膳椀は皆朱色だ。掛物は絹地で、書画も名人作を選ぶ。大方の家では雪隠(せつちん)をこしらえ、不用の脇差や槍・袖搦(そでがらみ)などを飾っている。提灯は弓張、傘は青天雨天とも蛇の目、女は緋縮緬お結(ママ)山笠である。この末四〇年も過ぎたら、どうなるのだろうか。恐るべし、恐るべし"(「幕末維新の民衆世界」 佐藤誠朗) 


惣七親分
先代の親方(杜氏)さんの時代に、惣七親分が訪ねてくるのも毎年正月だった。縞木綿の着物にウールの袂のある外套を羽織り、下駄ばきに手さげ鞄をさげて、蔵に現れた。親方さんはそのころ十五、六人いた蔵人から一五銭くらいずつ集めて親分にわたすのが毎年の習わしだった。蔵人から親分と呼ばれるこの人物は酒井惣七、越後屋惣七とも言われ、現在、熊谷市熊谷寺の墓地に、初代から六代の墓が残っているという。初代酒井惣七は宝暦年間に越後から現在の埼玉県熊谷市の蔵に蔵人として来た。後にここに定着して酒屋を営んだが、越後の蔵人専門の就職斡旋業に転じた。代々の親分に世話になった杜氏や蔵人は数知れず、墓石には二百名余りが寄進者として名前を刻まれている。今はもう整理されて見られないが、そのかたわらには歴代惣七が出稼ぎ中に亡くなった蔵人を葬った墓が二百基余りあったという。「越後杜氏の足跡」によると、越後のひとびとの関東の蔵への進出は、宝暦期から盛んとなり、慶応から明治にかけて最盛期を迎えたことがこの墓石から読みとれるという。親分は関東一円の蔵人の斡旋を仕切り、各蔵を回りいくらか徴収するかわりに、病気になったり仕事にあぶれた蔵人をひきとって世話をした。先代親方はこの親分の斡旋でこの蔵に来たわけではなかったが、ごく当たりまえのこととして、毎年親分に支払っていた。惣七親分が帰った後、親方さんは事務所としての帳場に「酒井さんが来ました」とさらりと報告するだけで、蔵元の立ちいる間柄ではなかったという。同郷人の互助会費のようなものであったかもしれない。(「四季の酒蔵」 小山織) 


酒好きの福の神
むかし野辺地のようなところに、一軒の酒屋があったが、ある正月のこと、何処からともなく一人の男がやってきて、「酒一升くれ!」といって、その酒をシアゲ(酒を入れる器、ひあげ)から呑みほし、金も払わずに行ってしまった。そこで倉廻りは、「どやたごたべ(どうしたこと)」と思って、この話を旦那どのにすると、「それァ福の神だべ、こんど来たら呼んで家(え)さ入れろ」といいつけた。すると、次の年の正月にも、また同じ男がやって来て、今度は「二升くれ!」といい、またシアゲから呑みほし、金も払わずに帰ろうとするので、倉廻りが、「旦那どのが用があるから上がれ」というと、雪靴をはいたまま、ノシノシと上へ上がってきた。旦那どのはおかしな奴だと思いながら、「お前は何処の誰だェ」きくと、「誰でもよい、こうして呑みに来る間はまだ好いのだ。十三日の日に酒樽三ツ店の前に出しておくとかまど(身上)はもっとよくなるぞ」といって戻って行った。どうもわけの分らぬこととは思いながらも、いわれた通り十三日に酒樽三つを店へ出して置いたところ、誰がいつ呑みに来たのかわからぬうちに、どの酒樽も、みんな空ッぽになっていたが、それからその酒屋は七代も栄えたという。(三戸郡五戸町町の話 採話・熊田多代子)(「青森県の昔話」 河合勇太郎) 


十六の正月から
海音寺潮五郎氏は、ある酒通の雑誌に「十六の正月から飲みはじめて、四十年の酒歴を持っているが、酒がうまいと思ったことはあまりない。その癖一升酒を飲む」と述懐している。こういう酒嫌いの酒飲みもいるから、まことに不思議である。(「酒味快與」 堀川豊弘) ちなみに、著者は酒が大好きな下戸だそうです。 


浅草寺の正月酒宴
文政十三年の例をみると、正月元日には新年の儀式があり、「天下泰平・国土安穏・五穀豊穣・当山安全」の祈祷のため、大般若経の転読がなされ、寺内の皆々に雑煮がふるまわれた。つぎに香の物と料理三種(「香三菜御料理」)と酒・煮物が出されている。翌二日には末寺の僧が別当代に年頭の挨拶に来て、雑煮と酒をふるまわれた。五日には三社の流鏑馬(やぶさめ)の神事があり、社人たちに「香三菜の御料理」(以下、「香三菜」と略す)と酒・煮物が出されている。六日は「御年越」、七日は七草粥のあとに同様の物が出された。また六日は山王講のため一山の僧が出勤したので、そのあと煮物・酒・吸い物・雑煮が出された。十一日は節分で、豆まきのあと酒・吸い物・煮物が出された。十四日は慈覚会(じかくえ)(開山会)のため、寺内一同に「香三菜」・酒・煮物が出された。正月一五日は小正月であり、小豆がゆのあと同様のものが出された。この間、十二日から陀羅尼経(だらにきょう)を一山の僧が交替で読む温座(おんざ)陀羅尼会が連日行われ、十九日に終了した。そこで、別当代・役者・供僧(ぐそう)をはじめ関係者へ「御料理本三菜」と酒・吸い物・煮物が出された。昼になり、陀羅尼講の町人たちにふるまいがあったが、これはのちにふれる。以後、連日のように講の町人たちへのふるまいがあった。二十日には賽銭の集計が行われ、手伝いの人足に酒が出された。二十一日には「椀吸御振舞(わんすいおぶるまい)」があり、一山の僧と寺領を管理する代官に対し、一汁・五菜・酒・吸い物・菓子・濃茶のフルコース料理が出された。これは「椀飯御振舞(おうばんおぶるまい)」ともいわれ、正月の行事が一区切りしたことへの慰労のようである。別の場所で、出入りの御用達の町人や代官の手代、名主などへも三菜・酒・吸い物煮物が出された。これなどは、寺の関係者の酒宴といってもよいだろう。二十五日には浅草寺と縁の深い大名である津軽家の依頼による大般若経の読誦(どくじゅ)が行われた。五月二十五日にも行っている。これらは例年の行事であるが、のちにふれる。こうして、正月の行事が終了している。(「浅草寺の酒宴」 吉原健一郎 「酒宴のかたち」玉村豊男編所収) 大盤振舞 


罐ビールとオイル・サーディンの罐
「俺ならもっと全然違った小説を書くね」「例えば?」鼠はビール・グラスの縁を指先でいじりまわしながら考えた。「こんなのはどうだい?俺の乗っている船が太平洋のまん中で沈没するのさ。底で俺は浮輪につかまって一人っきり夜の海を漂っている。静かな、綺麗な夜さ。するとね、向うの方からこれも浮輪につかまった若い女が泳いでくるんだ」「いい女かい?」「そりゃね。」僕はビールを一口飲んで頭を振った。「なんだか馬鹿げてるよ」「まあ聞けよ。それから僕達二人は隣り合って海に浮かんだまま世間話をするのさ。来し方行く末、酒味だとか、寝た女の数だとか、テレビの番組についてだとか、昨日見た夢だとか、そういった話をね。そして二人でビールを飲むんだ。」「ねえ、ちょっと待ってくれ。一体何処にビールがあるんだ?」鼠は少し考えた。「浮いているのさ。船の食堂から罐ビールが流れ出したんだな。オイル・サーディンの罐と一緒にね。これでいいかい?」「うん」「そのうちに夜が明けてきた。<これからどうするの?>って女が俺に訊ねる。<私は島がありそうな方に泳いでみるわ>って女は言うんだ。でも島は無いかもしれない。それよりここに浮かんでビールでも飲んでれば、きっと飛行機が救助に来てくれるさ、って俺は言う。でもね、女は一人で泳いでいっちまうんだ。」鼠はそこで一息ついてビールを飲んだ。「女は二日と二晩泳ぎつづけてどこかの島にたどりつく。俺は俺で二日酔いのまま飛行機に救助される。それでね、何年か後に二人は山の手の小さなバーで偶然めぐりあうんだな。」「それでまた二人でビールを飲むんだろ?」「悲しくないか?」「さあね。」と僕は言った。(「風の歌を聴け 村上春樹」) 


松尾神社のお守り
「食と農」の博物館(上用賀2-4-28)に3種類のお守りが展示してありました。
右に「酒造祖神松尾大神御守護」とあって、中央にそれぞれ「販酒守」、「醸酒守」、「服酒守」と印刷されています。きめこまかな配慮があるものと感心しました。松尾神社で800円で売っているそうです。できれば、「解酒守」も欲しいのですが…。 


人を見るなら酒と財布と騒ぎ方[ユダヤ]
水に水、酒に酒を加えたよう[韓国]
 水に水を加えても、酒に酒を加えてもなんにも変わらない。どんなに手を加えても、人や物事の本質は変わらないということ。
水は道を壊し、酒は人を壊す[モンゴル]
麦で作った酒に麦の匂いが抜けぬ[韓国]
 どんなに形は変わっても、元となると部分は変わらない。人の癖は境遇が変わっても抜けないものだというたとえ。(「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


いにしへの憶良がめでしかすと汁今宵はわれものまう雪の夜
昔露伴が雪の日に私に示した歌だ。大根、里芋、人参のあることを確かめ、冷凍庫に塩鮭の頭があったのを思い出した。酒粕の作り方など門前小僧で知っているのを苦笑した。(「厨に近く」 小林勇) 


内外の敵
およそ人の身は、よはくもろくして、あだなる事、風前の灯火(とぼしび)のきえやすくきが如し。あやうきかな。つねにつつしみて身をたもつべし。いはんや、内外より身をせむる数多きをや。先(まづ)飲食の欲、好色の欲、睡臥の欲、或(は)怒、悲、憂を以(て)身をせむ。是等は皆我身の内よりおこりて、身をせむる欲なれば、内敵(ないてき)なり。中につゐて、飲食・好色は、内欲より外敵を引入る。尤(もつとも)おそるべし。風・寒・暑・湿は、身の外より入(いり)て我を攻(せむ)る物なれば外敵なり。人の身は金石に非ず。やぶれやすし。況(んや) 内外に大敵をうくる事、かくの如にして、内の慎、外の防なくしては、多くの敵にかちがたし。至りてあやうきかな。此故に、人々長命をたもちがたし。用心きびしくして、つねに内外の敵をふせぐ計策なくむばあるべからず。敵にかたざれば、必(ず)せめ亡されて身を失なふ。内外の敵にかちて、身をたもつも、其の術をしりて能(よく)ふせぐによれり。生れ付たる気つよけれど、術をしらざれば身を守りがたし。たとへば武将の勇あれども、知なくして兵の道を知らざれば、敵にかちがたきがごとし。内敵にかつには、心つよくして、忍の字を用ゆべし。忍はこらゆる也。飲食・好色などの欲は、心つよくこらえて、ほしいままにすべからず。心よはくしては内欲にかちがたし。内欲にかつ事は、猛将の敵をとりひしぐが如くすべし。是(これ)内敵にかつ兵法なり。外敵にかつには、畏の字を用(もちい)て早くふせぐべし。たとへば城中にこもり、四面に敵をうけて、ゆだんなく敵をふせぎ、城をかたく保つが如くなるべし。風・寒・暑・湿にあはば、おそれて早くふせぎしりぞくべし。忍の字を禁じて、外邪をこらへて久しくあたるべからず。古語に「風を防ぐ事、箭(や)を防ぐが如くす」、といへり。四気の風寒、尤(もつとも)おそるべし。久しく風寒にあたるべからず。凡(そ)是外敵をふせぐ兵法なり。内敵にかつには、けなげにして、つよくかつべし。外敵をふせぐは、おそれて早くぞくべし。けなげなるはあしし。(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂) 


鳥の羽ばたき
大正六年の正月には、東京にゐて酒に痛めつけられるよりは旅行をして耶馬溪から彦山に登り、帰りは筑後川でも降らうと云つて、二人で元日の夜の汽車に乗つたが、九州は南国で暖かいと思つてゐる二人は、着る物も軽くして旅行に便利の宜いやうにしてゐた。其の晩はさすがに数日来の酒に飽いてゐるので、酒は買はなかつたが、朝になるとまた酒を買つた。そして、例によつて気焔をあげてゐると、車掌の方で桂月先生と云ふことを知つて後の展望車の方へ伴れて往つてくれた。すると桂月先生は鳥の羽ばたきするやうに両手をばたばたとやりながら、車掌をつかまへて御説法をはじめた。桂月先生に随従した者は、何人での此の御説法のお相伴をしなくてはならなかつた。私は二十年来其のお相伴をしてゐる。(「随筆 酒星」 田中貢太郎) 


猿の盃
旧幕時代、大小名の邸へ新春の祝儀に猿廻しが来て、猿に厩(うまや)の祈祷(きとう)をさせる。また芸をさせる。畢(おわ)って酒を出すと、猿曳(さるひき)は先ず猿に屠蘇を飲ませ、それから自分が飲む。その猿に出す盃を別に箱に入れて「猿の盃」と書いてあったのを、明治十八年頃、芝の村幸と言う古本屋に所望されて譲ったが、朱塗りの大盃に諫鼓鶏(かんこどり)の金蒔絵をした見事なものであった。後に去る骨董商の手に入ったと聞いたから、猿の盃で人間が酒を飲んでいるだろうと思った。(「明治のおもかげ」 鴬亭金升) 


かつぎ屋
「じゃ、おまいさん、商売おひらきだな。じゃあ、どうだい、ここであたしといっしょにさ、めでたいから、お正月を祝おうじゃないか。どうだ、このう、こっちのほうは」 「御酒でございますか。どうもたんとはいただけませんで。亀の子ぐらいなら」「亀の子ぐらい?言うことがかわいらしくて、めでたいな。そうか、おいおい、ちょいとしたくしておくれ。いえ、船屋さんがね、うん、お正月をあたしと祝うから、早く頼むよ。もうすぐ来るからね…できたかい。あ、ああ、こっちィ持ってきとくれ。さあ、さあ、やっとくれ。いや、いや、そこじゃあ遠いから、もっとこっちィ来ておくれ」「はあ、さよですか。それではおそばへつるつる寄っていきます」「いやあ、おい、うれしいね、おい。つるつる寄っていきますなんてえのはありがたいな。さあさあ、やっておくれ」「へえ、どうも、いただきます。ああ、どうもあいすいません。…ああ、こりゃけっこうな御酒(ごしゅ)でございますな。なんというお酒で」「亀の年」「さいですか。なんですか、万年生きるような心持ちがいたします。-」(「古典落語 かつぎ屋 三遊亭円窓」 落語協会編) 1月2日に七福神・宝船を描いたお宝という枕の下に敷いて寝る絵を売り歩くお宝売りと、縁起を担ぐ旦那とのやり取りです。 


第百二十五段
また、「人に酒勧むるとて、己(おの)れ先づたべて、人に強(し)い奉らんとするは、剣にて人を斬らんとするに似たる事なり。二方(ふたかた)に刃つきたるものなれば、もたぐる時、先づ、我が一〇頭(かしら)を斬る故(ゆゑ)に、人をばえ斬らぬなり。己れ先づ酔ひて臥しなば、人は一一よも召さじ」と申しき。一二剣にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりし。
注 七 飲んで。「たぶ」は、飲・食に通用する。 八 両刃(もろは)のついている刀。 九 もちあげる時。 一〇 底本の「頚」を他の二本により、「頭」と改めた。「頚」では無理な表現と思われる。 一一 まさか。よもや。 一二 理屈としては筋が通っていても、実際にやってみたのだろうかという疑問。(「徒然草」 吉田兼好 西尾・安良岡校注) 


珍文名文年賀状
毎年のことながら、私の友人知人の年賀状は実に面白い。彼らに無断で転載すると、きっと「ネタにした以上、メシおごれ」と言うだろうが、縁起を呼ぶような珍名文ばかりである。-
☆女友達 「明けましておめでとう。牧ちゃん、私は彼とダメだわ。別れ話が出てる。だけど彼と切れたら、私は奈落に落ちるわね…。散る時はせめてあたな、どん底酒でもつきあってね」よくもまあ、めでたい年賀状に「切れる」の「散る」の「別れる」のと、これだけ掛けるものだわ。あげく「どん底酒」ときた。-
☆週刊誌記者(男) 「賀正。体調万全、あなたと酒を飲む日を待っております。」酒で体をこわして入院中の時も、酒の話になると「体調万全!」と叫んだ根性の持ち主である。-
で、この際…恥ずかしいのだが…私自身にもそういう相手がいることを証明する年賀状を思い切ってご紹介してしまってよろしいかしら…。「謹賀新年。早いもので、運命の出会いから一年半。つつがなく心を深めあってこられたことを幸せに感じます」どうだ参ったか。私にだってこういう関係の男はいるのだッ。と言いたいが、実はこのコラム担当の編集者の五十嵐元治さん…。意訳すれば、「運命の出会い」とは連載を依頼された日で、「心を深めあって」というのはみんなで大酒ばかり飲んでいたこと、「つつがなく」というのは、酩酊状態ながら全員がつつがなく自宅にたどりつけたこと。まったく、新年早々、思わせぶりな文を書くな!(「朝ごはん食べた?」 内館牧子) 


物もふと言ふは ぞうにの 出るの也
年始帳に書かないで、物もうと案内を乞うのは、親しい人だから、雑煮を出してもてなすべき人だ。-年礼を早くすますため、親しい家も門口ですまそうとしても、
門礼(かどれい)で すまぬと亭主 そびき上げ 柳七29
飲む礼者 朝の勘定 大ちがい 柳六1
二三軒 よろよろすると 日が暮る 柳一四31
予定しただけ廻れなくなる。(「川柳集 狂歌集」 吉田精一評釈) 生酔の礼者 


大晦日の勘定取り
彼は、明治三十五年三月末に、福島県の禅寺で生れ、酒屋の店員などのアルバイトをしながら、駒沢大学に学んだが、卒業はしなかった。この時代の話だが、勤めていた酒屋の得意先に、葛西善蔵がいた。しかし、厳密な意味で、葛西がお得意といえるかどうかは疑わしい。なぜなら、広川が勘定を取りに訪れても、支払いは、すこぶる悪かったからである。大晦日、広川は、「今夜こそ必ずとってこい」と店主に命ぜられ、やむを得ずに葛西のところへ行ったが、どうせ払ってもらえないのに催促するのも無駄であるし、気の毒でもあると考え、町をぶらぶら歩いてて時間を潰(つぶ)してから帰った。店主の目からみれば、不良店員ということになるが、貧乏のつらさを知っている広川の、それはいわば仏心であったろう。(「戦後人物誌」 三好徹) 「策士-広川弘禅」の一節です。 


打銚子、うん飲み、大九献、大筒、御神酒箱
打銚子  柄を打ちつけてある銚子。長柄のついた銚子のことをいう。
うん飲み  ぐいぐいわき目もふらずに飲むこと。
大九献(おほくこん)  女房ことばで、大酒盛りのことをいう。
大筒(おほづつ)  酒などを入れる太い竹筒をいう。
御神酒箱  神社に参詣するとき、奉納する神酒二瓶を並べて入れ、背負っていく箱をいう。(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 


新川屋酒蔵
しん川 鹿清 しん川 鹿利 しん川 浅井 しん川 山五 しん川 三越 しん川 廣岡 しん川 横田 しん川 牧原 
小孝 高碕 伊市 小利 久野 鈴木 中野 三橋 平松
山脇 寺嶋 高井 高橋 説田 酒井 藤井 三橋 山本 主小 丸野 中井 増村 稲野
小常 鳥居 西沢 内藤 堀勝 井上 山本 平の 大塚 上野-(「東京流行細見記」 清水市次郎編 明治文化全集) 見出しは、その業界を行司役の名前(新川屋酒蔵 しんかわやさけぞう)にしてつけたもののようです。 


養福寺にて
○十二月晦日(みそか)、日暮里養福寺にて、自堕落先生戯れに葬式の真似をなし、踊り狂ひて耳目を驚かせり。同日四十歳にて終りしと見えたり。墳墓も同寺にあり(自堕落先生、通称山崎三郎右衛門といふ。不思庵、不量軒、捨楽斎、確連房等の狂号あり。性質気随(きずい)にして仕官を辞し、常に酒を好み俳諧をよくして蕉門に遊べり。「風俗文集」二冊、「不思庵労四狂」二冊刊行せり 。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 養福寺は、荒川区西日暮里3-3-8にあります。  「自堕落先生の碑」 


高温経過
麹の温度が、低温経過ではタンパク質分解酵素のプロテアーゼが強くなり(醤油の麹づくりに採用)、高温経過では、アミラーゼ、糖化力が強くなる(酒造用の麹)。近年の吟醸麹が高温経過に傾いているのは、糖化力を強くして、吟醸酒の味にふくらみをもたせるとともに、吟醸香のエステル生成には、ある程度の糖分が合成エネルギーに必要なためである。(「日本酒」 秋山裕一) 


第3世代の居酒屋
東京に第3世代の居酒屋が台頭しつつあると太田は言った。「鍵屋」のような老舗が第1世代、バブル前後の1980~90年代にできた第2世代、そこで修行した若い世代が開いた店が第3世代と。居酒屋第3世代はどんな店なのか。太田がその代表格と位置づける「釉月(ゆうげつ)」(中央区日本橋富沢町)で待ち合わせた。店主の金子祐二(38歳)は調理学校を出て、ホテルでフランス料理、割烹店で和食を学び、赤坂の居酒屋の厨房(ちゅうぼう)に立った後、5年前に独立した。太田を待つ間、てきぱきと仕込みをこなす金子にカウンター越しに聞いた。「和食でもフランス料理でもなく、居酒屋にしたのはなぜですか」。「うーん」と少し考えなた後、「自由じゃないですか、食べ物も飲み物も。ジャンルを気にして料理をつくってないし、刺身食べながらワイン飲んでもいい」居酒屋の料理は酒に合うかどうかが何より大事。面倒くさいルールはない。(「あの人と『酒都』放浪」 小坂剛) 太田は太田和彦です。 


くみかはし たべかさぬれば盃の 朱にまじはれる 顔の色かな[後撰夷曲集、良因]
「人と盃をかわし、盃の数を重ねると、朱に交われば赤くなると言うとおり、朱塗の盃のような顔色になる。」-作者良因は前に出た貞因の子で、狂歌を豊蔵坊信海に学んだ。この年良因は十九歳、後に言因、ついで貞柳と名を改めて浪花狂歌流行の中心的存在となった。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


シモーニデース、読み人知らず
          シモーニデース
大いに飲みまた大いに啖(く)ひ、さてまた
大いに他人(ひと)の悪口を
吐(つ)いたあげく、此処に、わし、ロドスの人
ティーモクレオーンは眠る。(七・三四八)

          読み人知らず
ちょつぴり啖ひ、ちょつぴり飲み、
さて大いに病気をしたあげく、
やつとこさと、だがとうとう私も死んじまつた、
みなも一緒にくたばるがいい。(七・三四九)(「ギリシア・ローマ抒情詩選 悼歌および碑銘」 呉茂一訳) シモーニデースは古代ギリシアの抒情詩人だそうです。 


蓋麹法
蓋麹法は、縦四十五センチ、幅三十センチくらいの木製の箱(麹蓋)に麹米を一升(一・五キログラム)ずつ盛り、蓋を積み重ねる。麹菌の繁殖状態に応じて麹蓋を積み替えることで温度と水分の調整ができる。箱麹法は、畳一枚位の大きな箱(麹箱)に麹米十数キロから四、五十キロくらいを盛る方法。また、床麹法は数メートルある台(床)の上で製麹を行うもの。これら(箱麹法と床麹法)は温度や水分の調整が難しいので、普通酒の麹づくりに使われることが多いが、桝田酒造(富山県富山市)の三盃幸一元杜氏は長年、床麹法で吟醸酒を造ってきたことで知られる。(「挑戦する酒蔵」 酒蔵環境研究会編) 


足利幕府による酒屋課税(2)
つづいて応安四年(一三七一)、後円融天皇の即位に際して、一一月二日足利幕府は諸国に段銭を課すとともに、土倉(質屋)から一軒ごとに三〇貫文、酒屋(造酒業者)から酒壺一つにつき二〇〇文ずつを借用という名目で徴収した。段銭は一段あたり五〇文から一〇〇文ぐらいのことが多いから、土倉は田三〇町歩から六〇町歩所有者に相当する勘定となる。土倉はその名のとおり土倉をもつ商人で、商人中のトップクラスに属するものであった。課税者にとって商業の地位が農業とならんで重要視されてきたことを示すと同時に、幕府税制上からみて、土倉課役と酒屋課役との分離を示す最初の文献であった点でも、注目されるところである。さらに酒屋税が酒屋一軒ずつの均等課税ではなく、酒壺という酒の容器にしたがって醸造石数別に課せられたことは、酒屋の間でかなりの格差があることを示しており、その点では、実態にそくした形で酒壺役は合理的な課税方法であったということができる。そして明徳四年(一三九三)に、土倉酒屋に対する課税規定が、「洛中辺土散在土倉并(ならびに)酒屋役条々」として明文化され、ここに幕府は社寺本所がその支配下の酒屋土倉に独占的に課税する権利を否定して、一般の酒屋土倉なみに幕府の徴税権に服すべきことを規定したのである。(「酒造りの歴史」 柚木学) 


城東の工場街の煮込みはなぜ美味いのか
しかし、もう少し違う切り口で、歴史的かつドラスティックな解釈をするならば、(墨田区)鐘ヶ淵、八広、立石などの一帯は、背景地にかつて屠場が立地していた歴史があり、それゆえに新鮮で質の良いもつ=内臓が供給されるルートを維持している、という要素もある。一九三七年(昭和一二年)に芝浦屠場、現在の東京卸売市場食肉市場に統一合併されて廃止されたが、明治後期まで都内にはいくつかの屠場が分散していた。そもそも屠場が設立される目的は、食用肉の加工精製という側面とともに、近代日本が軍国化してゆく中で、軍装や馬具として使う皮革製品の大量の需要が発生し、そうした国策的要請から牛や豚を屠(ほふ)る作業所が必要とされたのだ。そして昭和以前に屠場のあるところには皮革産業や油脂残業の工場も集中した。保存技術の拙かった時代において、傷みやすい皮や油脂を効率よく精製するためには、工場群は屠場の周辺に作るしかなかったのである。つまり屠場のある地域は必然的に工場街になっていたのだ。さらにそこから副産物として出る内蔵=もつ肉もさらに傷みやすいものであり、新鮮なものが入手できる地域にしか出回らず、限られた一帯にもつの調理法が成熟していくことになった。これらの状況から安く精のつくもつ料理に工場労働者が集まるようになり、この好循環が現在のもつ煮・もつ焼きのブームと高水準の地域の台頭という現象が生まれるのだ。鐘ヶ淵、八広、立石などでもつ料理がハイレベルになっていった背景にはかつて曳舟駅方面にあった寺島屠場の存在がある。寺島屠場は一九〇八年(明治四一年)から一九三六年(昭和一一年)まで操業していた。(「場末の酒場、ひとり飲み」 藤木TDC) 鐘ヶ淵通りは、「煮込み街道」とも呼ばれているそうです。 


純米酒と普通酒
私見としては、まず普通酒のレベルアップを目指してアル添の普通酒と三増酒をはっきり分けてほしい。常山や想天坊、大信州の普通酒はアルコール添加してあるだけだ。次いで、本醸造酒や特別本醸造酒の枠を取り払って普通酒にしてしまえばいいと愚考する。業界は純米酒の精米歩合を撤廃して「米だけの酒」も純米酒と認定したのだから、道理としては本醸造酒とアル添普通酒の一本化も通るはずだ。いずれにせよ、栗山のような杜氏が増えて普通酒が大きくレベルアップし、消費者も普通酒=パック酒という意識から脱したら、本醸造酒は立場を失って消えてしまうのではなかろうか。それとも業界の顰(ひそみ)にならえば、普通酒をなくして三増酒と本醸造酒にしてしまおうということになるかもしれぬが…。(「うまい日本酒はどこにある?」 増田晶文) 


晩酌を始めた
私は十年ほど前に。ピタリと酒をやめた。それまではまるでバッカスであった。斗酒なお辞せずで、しかも出来る限り酔うまいと胃から血の出るような苦労をした。こんな馬鹿な酒の飲み方はない。ある夜、とあるキャバレーの便所でタラタラと洩れるように出る朱色の小便にびっくりし、今日の働きがすべてこれか-と思うと急にやり切れなくなり、ピタリと翌日から酒を断った。-
ところが、ついこのごろ、晩酌を始めた。たった二杯のブランデーの水割り、あるいはお銚子の二本で真っ赤になり、食事がおいしく、また楽しめるようになったことだ。実は酒はこういう風に飲むものだったようだ。吐いて転んで泥まみれになり、喧嘩して血だらけになるのが酒の正しい飲み方ではないということである。私は昔からサービスマンで、酒席を盛り上げようと一生懸命であった。自分だけが楽しむために一人で酒を飲んだという記憶がない。ただ疲れるばかりだ。これでは全くおろかな酒で、酒にも嫌われ、好かれるはずがない。(「あの日 あの夜」 森繁久彌) 


小梅の粕漬け
〇をだわら(小田原)めい物の小梅づけを出す 松「ヲヤなんだへ 川「粕に漬けた小梅さ 松「わつちや又持遊(もちやそ)びにしたあまいだの桶か思ひしたよ。ホゝゝゝゝゝゝ
「あまいだの桶」とは解し兼るが、此頃の小田原小梅漬は粕漬にて、桶の形ち小さき早桶の様なるゆゑ、南無阿弥陀仏(なまいだ)と云へることか。玩物(おもちや)の早桶といへることならんか。(「権蒟蒻」 山中共古 中野三敏校訂) 山手の馬鹿人著『粋町甲閨』を山中が注しています。越生(おごせ)の中㐂屋で売っていました。 


足利幕府による酒屋課税(1)
鎌倉幕府の「沽酒(こしゅ)之禁」のもと、酒の販売が禁止されていたが、やがて一四世紀になり、武家と公家が対立するなかで、武家支配の抑圧が強まり、荘園が武家によって浸蝕されつつあった公家が、むしろ荘園年貢にかわる有力財源を酒屋に求めるにいたった。まずその最初は、新日吉社造営料として、また神輿修理費の調達のため、新日吉社に対し、正和(一三一二-一六)・元享(一三二一-二三)・建武(一三三四・三五)の時代にわたり、洛中ならびに加東(加茂川東岸)の酒屋に対し、課税金の徴収の勅許を求めている。これは酒造税ないしは醸造石税として定期的に徴収されたものではなく、あくまで神社造営ないし修理のための臨時的な性格のものであった。当時京都の町座商人は、商品種によって結束し、領主と仰ぐ権門・寺社に一定の課役を納めるかわりに、一定地域における特定商品の販売と、原料の購入の独占を認められていた。そして酒屋公事が禁裏経済の一財源として徴収されるにいたったのが、貞治年中(一三六二-六七)、大外記(造酒正)中原師連の申請により酒麹売課役を課したのにはじまる。(「酒造りの歴史」 柚木学) 


しも、じゃ、しゅうぎだる、しょおき・の・はらだち、しょおじょお
しも 酒類。(強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
じゃ1[蛇] 大酒飲み。(俗語)(江戸)
しゅうぎだる[祝儀樽] うさぎ。[←耳の長いのを祝儀の時に使う角樽に見立てて](三河-またぎ用語)(江戸)
しょおき・の・はらだち[鍾馗の腹立ち](名)句 鬼ごろし。《安物の強い酒の名》[←鬼殺しじゃ](洒落言葉)(江戸)
しょおじょお[猩々]①梅ぼし。(強盗・窃盗犯罪者用語)②酒「上:夭、下:口 の」み。[←色(顔)が赤い](俗語)(昭和)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


おい!オッさん!
そして私は、新派の柳永二郎氏に招かれ、その年の暮れ、松竹新派の作者部屋へ入る事になる。そのとき、三好さんにそれを報告したら、「井上さんの演劇道場ならいけれど、喜多村たちの新派には、久保田万太郎が"君臨"している。あの男は放送局の文芸課長で、新築地が仙台でラジオ劇を放送しようとしたら、前夜になって差し止めた元凶だ。ワルイ奴だから、君が脚本を書いても、決してあの男に演出はさせるな」と釘をさされた。私が新派に入ると、ある夜花柳さんが、「君の歓迎会をやるから、今夜芝居がすんだら待っててくれ」と言う。その夜連れて行かれたのは、日本橋の待合「藤むら」だった。行ってみると、芝居の早くすんだ喜多村緑郎先生が既にいて、その横には、三好さんが"ワルイ奴だ"と言った久保田万太郎がデンと座っている。その顔は写真で見ているので、すぐわかった。「これは嫌な事になった」と思って、立ちすくんでいると、花柳さんが、「阿木君は、久保田先生の横へ座れ」と場所を指定した。ままよと覚悟を決めて、私は久保田万太郎と並んで座った。そして…とにかく私は浴びるほど酒をのんで、その席に誰々がいたか、どんな会話が交されたか今では覚えていない。次の日、東京劇場へ出勤すると、奥役(今でいうプロデューサー)の中川雞声(けいせい)という老人が、「阿木さん、昨夜(ゆうべ)は困った事をしてくれましたね。今喜多村先生が『今度入った阿木という男は面白い奴だ。酔っぱらって久保田に絡み、おい!オッさん!などとやっていた。久保田の困った顔がまた面白かった』と言われたが、久保田先生は偉い人だから気をつけて下さいよ」とたしなめられた。私は首をすくめて恐縮したが、縁とは不思議なもので、そんな私をどうしたことか久保田先生が気に入られ、たちまち子分にされてしまって、折角、三好十郎さんが注意してくれたのにと、うしろめたい思いをした事だった。(「しみる言葉」 阿木翁助) 


胸の痛み
内科の専門医であるジョン・ステイジ・デヴィス博士の体験として、つぎのようなことがあった。デヴィス博士がマグロ釣りの競技会に参加したときの話だが、四百キログラムあまりもある大マグロが針にかかった。逃れようとして、その大マグロはいきおいはげしく海中をあばれまわり、デヴィス博士は、満身に力をこめて獲物を釣りあげようとした。博士は、急に胸のあたりにひどい痛みを感じ、そばにいた友人に、「酒をもってきてくれ。いそいで」とさけんだ。友人がもってきたのはウォッカ一瓶であり、それをデヴィス博士が口にあてた。数分たつと、博士の胸の痛みは去り、大マグロとの闘いをつづけることができた。それから四時間というもの、人間と大マグロとの勝負はつづいた。その間、いくどかデヴィス博士は、胸の痛みにおそわれ、そのたびにウォッカをグイとラッパ飲みした。そしてついに大マグロを見事に釣りあげることに成功した。そのときにはウォッカの瓶は、すでに空になっていた。けっきょく、これもアルコール分が強心剤として有効であることを示す一例である。アルコール飲料が心臓障害にきくのは、アルコールは血管拡張剤として作用するからであって、いわば血のめぐりがよくなるわけ。(「ウイスキーの効用」 向井啓雄 「洋酒天国」 開髙健監修) 


十一 貧乏は過去の約束
さる貧乏人、先の生(しょう)の約束とはいへども、これほどつらい事はないと、山崎銭原宝寺(やまざきせんげんたからでら)へ参り、観音様へ願をかけければ、ありがたや、御夢想に打出の小槌をさづけ給ひ、「何にても望みの物を、三度までは打出すぞ。三度打つたらば、あとはこちは知らぬ」との御霊夢。案のごとく、打出の小槌を授かり、早々下向せしが、頃は極月末つかた、あまり寒さに大地をうち、「諸白一升と干魚一枚」と打てば、案のごとく出たり。ありがたく思ひ、内へ帰り、先ず寒さをしのがんと、「紙子(かみこ)一つ」と打てば、そのまま紙子出にける。女房、これを見て、「さてさて、気のかなはぬ人かな。とてもの事に、絹のものを打出す事はならぬか」と叱りければ、この男、「何の大事か、へちまの皮一〇」といへば、そのままへちまの皮を打出した。
注 一前世。 二京都府山崎の真言宗補陀落山宝積寺の俗称。本尊は十一面観音像。寺宝に打出の小槌がある。 三陰暦十二月の異称。 四清酒。精白した米や麹で造った上等の酒。 五魚の干物 六思った通り。案の定。 七紙製の粗末な衣服。 八気に入らない。 九何が不都合か。 一〇何の役にも立たぬ、無価値なものの譬え。役立たずめ、という罵倒語。外皮や種子などを取り除いた後のへちまの皮は垢すりなどに用いる。(「元禄期 軽口本集 露休置土産」 武藤禎夫校注) 


中央区文化財 豊海橋 所在地 中央区新川一丁目 日本橋箱崎町(日本橋川)
現在の豊海橋(とよみばし)は、大正十五年(一九二六)五月起工、昭和二年(一九二七)九月竣工。日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋梁です。橋の歴史は古く、江戸時代中期には豊海橋(別名「乙女橋」)がありました。この辺りは、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸上げする所で、川に沿って白壁の酒倉が並んでいました。明治期に豊海橋は鉄橋になり、大正十二年(一九二三)の関東大震災で落橋してしまいました。復興局は新規に設計を土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田武雄が担当。隅田川支流の河口部の第一橋梁はデザインを一つ一つ変えて区別しやすく工夫していました。それは隅田川から寄港する船頭に対する配慮でした。福田武雄はドイツ人フィーレンデールの案出した橋梁デザインを採用し、梯子を横倒しにした様な外観で重量感ある豊海橋を完成しました。この様式は日本では数カ所あるのみで近代の土木遺産としても貴重な橋で、区民有形文化財に登録されています。 平成十四年三月 中央区教育委員会(豊海橋の解説板) 


出陣の宴
出陣の時肴組(さかなぐみ)やう、かりそめに肴を拵(こしら)ふる事、打鮑(うちあはび)二つ、勝栗(かちぐり)五つ三つも組むなり、出陣の時に、一に打鮑、二に勝栗、三に昆布、如レ是(かくのごとく)祝ふなり、うち勝よろこぶといふ心なり(中略)肴喰(く)ひ様、先出陣の時は打あはびを取りて左の手に持ち、ほそき方よりふとき方へ口を付けて、ふとき所をすこし喰切りて上の盃をとりあげ、酒を三度入れさせて「上:夭、下:口 の」みて、其の盃は打鮑の前辺にも置くべし、さて次にかち栗の真中に有るをとりてくひかきて、なかの盃にて酒三度入れさせのみて、其の盃を前の盃の上におくべし、扨(さて)次に昆布の有るを取りて、両の端を切りて中をくひ切りて、下の盆にて三度酒を入れさせて「上:夭、下:口 の」みて、其の盃を本の所へおくべし、喰ひたる残りの喰かけの肴は、膳の左の隅の辺におくべし、酒を盃に入れ様は、そゝと二度入れて三度めには多く入るべし、酒嫌ひなる人には「上:夭、下:口 の」み残さぬやうに少し入るべし、いつもそと一度入れたらば、くわへて二度参さすべし、以上三度三盃にて三々九度なり、酌くはへ共にしざるべからず、此の祝は大将一人へ参るなり、相伴はなし(「軍用記」)
ここからもわかるように、出陣の宴は、酒や肴を楽しんで味わうためのものではなく、宴というよりも、戦(いくさ)の勝利を祈願しての儀式であり、それなりに厳粛だったことがうかがえる。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 出陣の祝い 


ヨーロッパの居酒屋
居酒屋の歴史を、一二世紀以降のヨーロッパ文明圏と、他文明圏とを比較しながら眺めてみると、ヨーロッパ文明の特徴が浮かび上がってきたように思う。それは「農村への貨幣経済の浸透」と「棲み分け」である。農村への貨幣経済の本格的浸透は、非ヨーロッパ文明圏では、極端に言えば二〇世紀になってからである。(日本は一八世紀後半から一九世紀前半)。ヨーロッパでは一二世紀にはじまり、一六世紀にはかなり浸透していた。他方「棲み分け」はまず聖俗の分離である。つまり教会のもっていた俗なる機能を居酒屋に移したのがはじまりであった。こうして教会は聖性のみが残った。居酒屋のさまざまな俗的機能も、一九世紀以降、徐々に「棲み分け」していった。非ヨーロッパ文明圏では聖俗の分離、「棲み分け」はヨーロッパ文明の影響を受けるまでおこなわれなかったのだろう。私はこれらがヨーロッパ文明の世界制覇の大きな要因の一つであったのではないかと考えている。(「居酒屋の世界史」 下田淳) 


七十九段 平の信時朝臣(たいらののぶときあそん)
仏師の民部、わる口を語りし。「浅草院(せんそういん)あんらく、或宵の間(あるよひのま)、よばるゝ事有しに、『やがて』と申ながら、袴のなくて、とかくせしほどに、又使ひ来て、『はかまなどのさぶらはぬにや。夜なれば、ことやう也とも、疾(とく)』とありしかば、やぶれたる紙子(かみこ)はおりに、寝まきのまゝにて、まかりたりしに、かんなべにわかしざましの酒もて出て、『此酒を独りたべんはさうざうしければ、申つる也。肴こそなけれ、人はしづまりぬらん、あまりぬべき物やあると、いづく迄も尋給へ』と在(あり)しかば、しそくさして、くまぐまをもとめしほどに、台所の隅に、蛸のあし一本ありけるを見出て、『是ぞ求(もとめえ)へてさふらふ』と申しかば、『事たりなん』とて、数献(すこん)に及て、興にいられ侍りき。出家にも、かくのごとく成るものはべりし」と申されき。
注 仏師の民部 『万買物調方記』(元禄五年刊)「江戸にて大仏師」の項に、「石町四丁目、民部」とある。石町は日本橋石町。   浅草院あんらく 未考   或 底本「有」。青による。   よばるゝ 底本「よばる」。国、青による。  やがて 即刻参上します。  かんなべ 燗鍋。酒を暖める鉄製また銅製の小形の鍋。   さうざうしければ 淋しいので。   しそく 紙燭。細く削った松の木を焦がし油を滲ませたもの。持つ所を紙で巻く。室内用のたいまつ。  しかば 底本「かは」。青による。(「吉原徒然草」 結城屋来示  上野洋三校注) この徒然草のパロディーを書いた来示は、其角の弟子で吉原の楼主だった人だそうです。 北条時頼の酒 徒然草 


イラン青年の体当たり支払い術
日本語学校で学ぶイラン人のA君(二七)は、来日後一年たち、たどたどしい日本語ながら、一人で東京の町を歩けるようになった。三月初め、山手線内で親しそうに話しかけてくる一見、土建屋風オジさんと出会った。オジサンは五十歳ぐらい。「人との出会いを大切に」と、イランを出るとき大金持ちの父親にさとされたA君は、オジサンとすっかり意気投合、高田馬場で西武線に乗り換え、A君の住む田無へと向かった。A君の下宿の隣にある小料理屋で杯を傾けようということになったのである。少ししか飲めないA君を相手に、オジサンのピッチは上がるいっぽう。「チョット、トイレね」と身ぶりをまじえて立ち上がった。それから三十分、A君はひたすらオジサンを待ったがいっこうに現れない。「オナカデモ、コワシタノカナ」トイレをのぞいたが、姿は消えていた。やっとだまされたことに気づいたA君が、帳場で事情を話したところ、「ちょっと奥へ」と、事務所へ連れ込まれた。一八〇センチと大柄なA君だが、彼を上回る大男が四人。「二万四千円はキチッと払ってもらうぜ」「ワタシハ、オチョコ、イッパイシカ、ノンデナイ。ワタシガハラウノハ、フゴウリ」「何をいってやがるんだ」「ワタシガ、シハラウギムハ、ナイ」払え、払わぬのやりとりが続いたあと、A君はいきなり、ゲンコツで壁を力いっぱいたたきつけ、「コレデ、イチマンエン」次にヒタイをぶつけて、「モウ、イチマンエン」さらにヒザをぶつけて、「コレデ、サンマンエンダ」と叫んだ。ヒタイとヒザからにじみ出た血に息をのんだ四人組が、思わず、「ゆるす」と口走ったのは、A君の態度に鬼気迫るものがあったからだ。以後A君は、連日、夕方になると、その小料理屋でヤキトリをつまみながら、わずかの酒を飲むのが日課となっている。(「デキゴトロジー」 週刊朝日風俗リサーチ特別局編著) 


冬の酒(3)
1419蔵内に寒の空気の澄み徹れり灯(ともし)かかげて酒を見むとす(寒竹)一九二七 平福百穂(ひゃくすい)
1420酒の後 ほのにたゞよふ舌の香の うらなつかしさ くいのさびしさ(釈迢空(しゃくちょうくう)短歌綜集・拾遺)一九七七 釈迢空
1421算用を夜おそく終へし帳場にて人手をからぬ寝酒わがすも(しがらみ)一九二四 中村憲吉
1422すこやかにあらむと思へ胃に重く昨日の酒がなほのこりをり(平明調)一九三三 尾山篤二郎
1423み仏に供へし膳の菜をかててしみじみ嘗めつ合成酒二合(寒蝉集(かんぜんしゅう))一九四七 吉野秀雄(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


たるだい【樽代】
酒の代りに金銀を贈る事。「松屋筆記」に『今俗樽代といへるは、柳代といふべし。飯尾宅御成記』に折十合、柳代二千疋と見えたり。柳樽の代という心地 などとある。転宅の場合、必ずこの樽代を大家に贈つたものである。
樽代を二度むだにする賢女なり 孟母三遷の教
樽代を二度損をして徳に入り 同上
樽代で大家白酒などを買ひ 下戸の大家歟(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 以下のような樽代もあるようです。 樽代 樽代(2) 


じゃっぱ汁
同じ津軽には、これまた奇妙な名前の料理があります。「じゃっぱ汁」というのですが、この「じゃっぱ」は「おっけぱっと」に比べれば格段に男っぽい、いや骨っぽいとでも申すのでしょうか、あるいは粗っぽいというのだろうか、とにかくそのような鍋であります。波の華舞う真冬の日本海に一番似合あう魚といえば鱈(たら)なのですが、この料理はその鱈を一匹丸ごと鍋に入れて食ってしまうのです。鱈といっても北洋、オホーツクの助惣鱈(すけそうだら)、つまり、辛子明太子の親のような小振りではありません。真鱈(まだら)といって、大きいものでは体長一・五メートル、体重は実に二〇キロもある巨大魚です。腹部は大きくでっぷりと膨らみ、口も大きく、大食漢の面構えをしたふてぶてしい奴ですが、これをブツ切りにして肉も骨も鰭(ひれ)も頭も皮も内臓も全部捨てることなく鍋に入れ、豆腐や野菜と共に煮るわけです。内臓、とりわけ肝臓から出るあり余るほどの脂肪のためにギドギドしになった豊満な味の鍋であります。ビュービューと吹雪いて怒濤の如く海が荒れ狂っている鰺(あじ)ヶ沢(さわ)の海岸の、小さく鄙(ひな)びた宿屋の二階で、このじゃっぱ汁を囲んで辛口の純米酒で飲ったあの一夜のことは、私の大脳辺縁系にインプットされ、いまだに喪失いたしません。(「地球を肴に飲む男」 小泉武夫) 


富士山測候所
富士山測候所にはレーダードームだけではなく、臼(うす)と杵(きね)が備品として置いてあって、年の暮れのお天気のいい日に外でつく。遊びに行くところもない所員たちの、数少ない楽しみの一つだ。強力(ごうりき)がふもとから担ぎ上げてくれた餅米を、「圧力釜で炊きます。そうでないと炊き上がってもシンがあって、餅にならないんです」年平均気圧が平地のほぼ三分の二しかなく、水は摂氏八十三度で沸騰してしまい、ふつうの炊飯器では米が炊けないのだ。「アルコール類はたいていそろっていて、お屠蘇で祝いますが、ビールだけはいけません。泡ばかりになっちゃいますから」いきなり缶の口を開けると、これも気圧のせいで、中味が泡になって噴き出してしまう。用心して少しずつ開けても、グラスに注ぐと泡ばかり。「口の中まで泡だらけで、おいしくないんです。ただ、それでも山頂では回りが早くて、すぐ酔っぱらいます」 (「読むクスリ」 上前淳一郎) 標高3800mの酔い 


犬の縫いぐるみ
これも橋本円馬師の旅興行で、『丸橋忠弥』の堀端の場でぼくが犬に買われてでた。「チンチン」「お廻り」といろいろやって、片足上げておしっこの真似をしに大受けはよかったが、寒中犬の縫いぐるみだけで寒いので、師匠から幕前に一杯飲ましてやろうと酒を御馳走になった。楽屋のいろりに当たっていい気持ちに酔いが廻って寝込んでしまったころを、「出だよ、出だよ」と起こされて、あわててとびだしたが、でるのがおくれて松平伊豆守に吠えついた。見物は大笑いだが忠弥が納まらない。今頃でてきゃがってと蹴とばされて、書き割りの石垣を破いた。いや大失敗をした。(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) 

注・横書きなので、<またまた>といった畳語後半の繰り返し記号(く:くの字点)の表記ができませんので、2回繰り返して記しています。
 ・機種(環境)依存文字等は、?になってしまいますので、「上:夭、下:口  の」のような表記にしています。
 ・旧字体の漢字は大体新字体にかえてあります。また、ふりがなは、かっこ書きにしています。
 ・ふりがなは適当に増減しています。