表紙に戻る
フレーム付き表紙へ

御 酒 の 話 7


金箔酒  神聖ローマ皇帝のヴェンツェル  おでんと湯豆腐  幕末の斬られ酒  スター誕生  酒についての思い出の数々  風邪退治は多酒多様  煖酒(あたためざけ)  荻舟による秋田の酒  一箪の食、一瓢の飲  富永仲基と玄旨法印  キョーサイ、汝を玉にす  「暫(しばらく)」冒頭  チャイコフスキー  力道山の酒  雑炊、二日酔いの特効薬  左うちわ  プリュイエール・シャンピエの頃  鯨飲会  マンボウ人間博物館  川柳の酒句(18)  須原屋の土産  ヒロ公  酒蚤(さけのみ)  「ビール15年戦争」の切り抜き  慳貪酒  若者遊びコトバ  酒の代わり  安藤野雁、池島新平  新作いろは  皇室の人々は皇居でクコの実を栽培して食べている(信用度60%)  箱根での武勇伝  「たけくらべ」中の泡盛  バイシン  ワインのお燗  甘党北斎  一番安全な道  ゲーテとケストリッツァー・シュヴァルツビア    梅の花見と鰻  酔い醒めの部屋温うして師走かな(ヒ)  酒のことわざ(7)  「おふくろ」  白洲次郎の酒  お燗の殺菌作用  食後酒の値段  議員でもやる  京都でよそ者扱いされない唯一の場所  長崎の鐘  指樽  行雲流水  都市化、近代化と酒  サカズキ  頭の柿の木(1)  頭の柿の木(2)  桜酒  仏手柑  酒党と餅党  神楽河岸  西鳳酒  美酒(うまざけ)の歌  洞庭湖に遊ぶ 酔後  下賜の盃  百姓と運の女神  鳥井と春団治  最後の一杯  三つの美  脇差  團伊玖磨の酒  汁粉  うるかは良薬  反対じゃないか  枕山と鶴皐  熊楠の帰国  那須の與一  ブルーマー夫人  田中小実昌の酒  ドンカン  頭骨  カローラン、米元章  《だんろ》  芥川比呂志の酒  上方落語協会会長・笑福亭松鶴  阮籍の「詠懐詩」  阮籍の酒  独酌の境地  カラオケ3曲歌った直後  高杉晋作作詞  流行三人生酔  ウィスキーの起源−推論(2)  ウィスキーの起源−推論(1)  酒のことわざ(6)  大酒を岡にてふせぐ  酒の詩歌  無線電話  二日酔い処方  朝呑童子  ペッグ・タンカード  百万分の一の違い  選挙と酒  「にごりえ」のお力の飲みっぷり  一人酒は本山葵と煤竹箸  俵万智作・酒銘の回文  墓泥棒  酒の格言  酵母の学名  田中貢太郎さんのこと  右利きです、でも夜は左  バナナの酒  東京の郷土料理店史  大酒飲みのツケやっと見つけた解消法  日本酒の悪戦苦闘  進物切手  銘醸地の新説  横山隆一の酒  「プラザ」  酒の未来(2)  陶淵明 雑誌  御読初と御裁初  葡萄の美酒 夜光の杯  天女の酒造り解釈  泡盛酔談  酒のかす  勧進帳  山屋豆腐  文字言葉  アルコールに対する態度の変化  川柳の酒句(17)  白州正子年譜一九五六年  フクロウの目玉は二日酔いの特効薬である(信用度5%)  天野屋の土室  ラオスでの飲み方  小妻温酒勧調羮  ホモ・ビネンシス  今日出海と井伏鱒二  新宿のライオン  利きビール  お追従者の、二枚舌の、ご機嫌とりの、欲深か者  東大寺の結解料理  葱鮪の殿様  酔いはどこでわかるか  早稲酒や  荒畑寒村の思い出  法師物狂(一名 法師が母)  粗相のはなし  第1回万博にて  ニューヨークふらふら  限界点  ラッセル、ボッティチェルリ、フォークナー  《えんかい》  酒のと出会い  佐藤垢石  力士修業心得  作法不作法  洋酒異変『ダルマ』消え始める  ホノルル酒造の刺激  冬至のゆず湯  川柳の酒句(16)  酒・酢・醤油の商標  パンとビールの棲み分け  国民飲料  蕎麦 杉浦流  三歳の初体験  坂口五峰  自身番  錫の酒器  眠る盃  メコンウイスキー  狸の使い(2)  狸の使い(1)  へなちょこ(2)  夏に涼を呼ぶ酒  小林秀雄の酒  時々思い出して、くすくす笑う話  日本は、社会全体がアルコールに依存?  馴染(なじみ)  飲めぬ性  大阪の物干し  八達  正月の大奥配膳  飲み屋に関する歩兵操典  酒の未来  短歌行  大語録(2)  田中正造の酒肴  「日本酒」のウンチク  飲み屋のツケ  晩餐会の飲物  飲めば都かアル中患者ヘアトニックで乾杯  酒飲んだらマスク  訓令を忘れた大使たち  「続食日記」  武田信玄陣中に酒をふるまう事  酒とワープロと男と女  にごりえ  銘酒店  大正復刻酒  片仔こう(へんしこう)  川柳の酒句(15)  試し酒  思い出した  藤田東湖の酒  角屋先生  「キプロスふらふら」  茶壺  夫と妻  盃の殿様  漢方の盲点  紅雪  四迷、草平と漱石、耕筰  ギリシアでの酒の名言(2)  青山二郎  ”王冠遊び”に商魂乗り出す  酒を飲む話  女と酒  タラスの住民  志野の盃  酔蝶花  死骸取捨ての方への酒代  五合徳利  梅崎春生の酒(2)  マアバル地方  悪坊  自身番  月が出た出た  高橋是清の酒(6)  隅田川(3)  合成酒  左慈  生き血を飲む  四代目圓生  閑静を好む(「笑府」)  職人の「遍歴」  大語録  伯母が酒  真崎で豊島屋を云ふ下卑たこと  都内の酒場数ランキング  十五年のロス  きき酒のこつ  居酒屋の営業時間  川柳の酒句(14)  アルコール漬け  梅原龍三郎  ボーマルシェとイソクラテス  ウォツカでの自殺未遂  国連カクテル  虎耳草 くぐって帰る いい機嫌  熊楠・ロンドン時代の日記  仰天・文壇和歌集(3)  黄ばんだ清酒



金箔酒
おめでたいときには、酒に金箔を浮かべたり、料理に金箔をふりかけたりする。慣れない人は「金箔をそのまま食べても、大丈夫なのかな?」と思ったりするが、隣の酔っぱらいのおじさんに、「体にいいんだから」とすすめられたりする。たしかに、亜鉛や鉄分などの金属は、体に重要な栄養素である。金箔もまた、本当に体にいいのだろうか?現実には、金箔は体にとって何の効能もない。金箔を食べても、人間の胃液では金箔を溶かすことはできない。金箔を溶かせるのは、濃硝酸と濃塩酸との混合液である「王水」だけで、胃液に含まれる塩酸やペプシンでは溶けない。また、腸でも消化できないので、結局、金箔は入ったときと同じ状態で、大便として排出されていく。つまり、金箔は毒にもならない代わりにクスリにもならない。単に、おめでたい雰囲気を演出するだけの役割なのである。(「どうにもヘンな疑問」 雑学博士協会) 同じ本に、現在世界で確認されている金の埋蔵量は、約七万二○○○トンで、これは今まで産出された総量の半分で、海底にはまだ大量にあるだろうと記されています。なににせよ、ラーメンに金箔をかけて食べるとか、酒に金箔を入れて飲むといった、もったいないことはひかえるべきでしょう。


神聖ローマ皇帝のヴェンツェル
一三九七年五月、シャンパーニュの首都ランスに、ボヘミア王で神聖ローマ皇帝のヴェンツェル(ヴェンセスラス)が訪れた。彼はフランス王シャルル六世と協定を結ぶため以前から同国に滞在していたのだが、古都ランスがすっかり気に入ってしまった。それは、十四世紀のはじめに塔の部分を除いて完成したゴシック建築の代表、壮麗なランス大聖堂のためではなく、それまで聞いたこともなかった、同地方の地酒のせいであった。ちょうで新酒が出まわった季節でもあり、彼は毎日三時間、教会の九時課(午後三時)の鐘が鳴ると飲みはじめ、夕べのお祈り(午後六時)の鐘が鳴るまで、美味に酔いしれた。そして協定書の調印がすんでも、なおその後一年間「骨休め」としてランスに滞在して飲みつづけた。結局彼は、協定書の作成に一年、内容の「吟味」に一年、そして「骨休め」に一年と、都合三年間もランスにいつづけしたため、ドイツの選定公諸侯は怒って、この国政放置のノラクラ神聖ローマ皇帝をクビにしてしまった。一四○○年八月二○日のことである。しかしシャンパーニュ産の葡萄酒が国際的に知られるようになったのはこのヴェンツェルの御陰であり、彼はその後も一四一九年に没するまで、ボヘミア王として、チェク人をドイツ人から守るのに尽力した。(「葡萄酒今昔物語」 木村尚三郎)


おでんと湯豆腐
このおでんというものは、誰が考えついたものなのか知りませんが、なかなかすばらしいものですね、ご主人。奥が深くて含蓄に富んだ食べ物だと思いますよ。言うならばごった煮にすぎないわけですけれども、だからといってみな同じ味に染まるかというと、決してそうはならないところが偉いじゃないですか。大根は大根特有の味を失わないし、竹輪は竹輪でおのれの味をちゃんと保っている。それでいながら、ひとつ鍋で煮られているすべてのものがうま味を出し合って、さらにそれぞれがそのうま味で個性を磨いて向上する。けれども大根も竹輪もコンニャクも厚揚げも、すべてはおでんの味として統一されているわけですよね。わたくしたちの社会の人間関係も、こうありたいものだなあ、と思うんです、わたくしは。おでんを食べるたびにそう思います。それにくらべると、湯豆腐というのは孤独で独善的ですね。他のものを寄せつけないといいますか、何かと席を同じにして馴染み合うということをしません。そりゃたしかに、ダシにコンブを使ったり、薬味があったりはしますが、あれはあくまでも添え物でしょう。主役はあくまでも豆腐だけですからね。あの潔さもわたくしは好きです。(「酒飲みのひとりごと」 勝目梓)


幕末の斬られ酒
八郎はどんなものでも、手あたり次第にかぶりまくった。かぶれる限りは、なんでも乗っける。あらゆる他人を、すべて自分のために利用した。筋合いもルールも、ありゃしない。義理も人情も、頓着なし。けろっとして、ズロキった。当然手がこんでくる。こみすぎて、あげくに酔っ払わされて、斬殺されてしまった。斬られ酒のほうでも、メイン・サンプルにあげられよう。彼はノンベーというより、愛酒家だったとされている。”白馬”ことドブロクを、とくに好んだらしい。庄内の出にふさわしい。あれはソフトタッチだが、ほんとうは強い。−
長崎で、彼はブドウ酒を振舞われた。が、「苦酸、のむべからず」 あとで、悪口を書いている。 うなずける。ドブと比べたら、ワインはまさにエグくて酸っぱかろう。清酒党なら、「飲むべからず」ってほどの違和は感じないのではないか。竜馬などは、喜んで飲んでいる。徳川慶喜も某日、松平春嶽とシャンパンを楽しんだ。もっとも、八郎のワインくさしは攘夷屋のポーズとの見方もある。(「幕末酒徒列伝」 村島健一) 新撰組、清川八郎の話だそうです。


スター誕生
スターはどこで誕生するのだろうか。一九二○年代から五○年代までは、映画、特にハリウッドからスターが誕生した。六○年代以降は、ロック・ミュージックやテレビがスターを誕生させている。しかしそれ以前の世紀末には、スターは酒場から生まれたのであった。今ふりかえってみると、十九世紀の世紀末ぐらい、酒場がエンターテイメントと芸術のセンターであったことはなかったことにおどろかされる。ロートレックからピカソにいたるまで、カフェやキャバレーの情景をたくさん描いている。これほど酒場が描かれた時代もないのである。ここが世紀末の演芸と芸術の発生地であり、ここからスターが誕生したのである。アリスチード・ブリュアン、イヴェット・ギルベールなどの酒場のスターの形姿は、ロートレックの筆によって不朽のものとなる。ロートレックは酒場のスターを美しく飾りたてたりしない。彼は、時に辛らつに、グロテスクに、リアリスティックにスターを描く。なぜなら世紀末のスターが歌うのは、人生そのものであるから。(「酒場の文化史」 海野弘)


酒についての思い出の数々
私は、青年時代、駒形のすぐ裏にある三筋町の易者の二階を借りて住んでいたので、歩いて百五、六十メートルしかないどじょう屋は、自分の家の食堂みたいなものだった。この店も、昔は、表の店だけしかなく、それが、二百畳近くもあろうかと思われるほど廣かった。大衆的な親和感もそこから湧いてきたものであろうが、ほそ長い台の両側をうずめている客の前には、銚子がふえるごとに、何合、何合と書いた、大きな札が立てられる。客のあまりにたてこんでいないときには、その札を遠くから見渡しただけで、あいつは八合飲んだな、いや、あいつは一升だ、−いやいや、あんなところに一升二合飲んだやつがいるぞ、というようなことがひと目であかるのである。酒徒といえども、おのずから見せ場所というもののあることは当然であろう。一合、二合と書いた札を前にして坐っている男は、思いなしか肩をすくめているようなかんじである−(「酒についての思いでの数々」 尾崎士郎) どじょうのことを少しも書かない酒豪尾崎はさすがです。


風邪退治は多酒多様
鹿児島出身の女性は、「焼酎のお湯割りに、しその葉を入れて飲めば、翌日はケロリよ」と言っていたし、フランス好きの友人は「向こうで一般的というわけではないけど、僕はヴァン・ショー(赤ワインをあたためたもの)だな」と言っていたし、別の友人は「エッグノッグの温かいの。それを出してくれるバーは最高」と言っていた。イギリスびいきの友人は「なんたってグロッグ!」である。これはラム酒に砂糖とレモン汁を加え、熱湯で割ったもの。十八世紀イギリスのエドワード・バーノン提督が、水兵たちに生のラムを飲ませず、レモンとシュガーを入れてお湯(または水)で割ったものを与えた−という故事によるそうだ。グロッグは彼の愛称とのこと。(「百人一酒」 俵万智) 玉子酒の他に紹介されているものです。エッグノッグは、ブランデー(ラム、ウイスキーでみ)に卵黄、牛乳、砂糖(ハチミツでも)を加えた飲物だそうです。


煖酒(あたためざけ)
燗酒については『三養雑記』(天保十三年刊・山崎美成著)巻煖酒(あたためざけ)に、「三唐の白楽天が、題仙遊寺詩(せんゆうじにだいすし)に、林間煖紅葉葉酒(りんかんにさけをあたためもみじをたく)といえる句、朗詠(和漢朗詠集)にも載せて、人のしるところなり。酒をあたゝめて飲めること、むかしよりのならわしなれど、今世のごとく、四時ともに常にあたゝめたるにはあらず『延喜式』内膳司(ないぜんし)の土熬堝(どごうくわ)(陶製の壺)は、今の燗鍋にて、上古よりその器もあれど、煖酒(あたためざけ)は重陽の宴より、あたゝめて用ゆるよし、一条冬良(ふゆら)公の御説のよし『温古日録』に見えたり。徳元の『初学抄』に、扇は四時ともに用ゆるものなれど、夏の季なるよし、近ごろ酒も四時ともにあたゝめ飲めど、あたため酒といえば、冬の季になるなりとあり。さて酒のかんに、今燗という字をかけるは俗字なり。酒をあたゝむること、冷と熱の間に温むるといふことにて、間を字音によびて、かんとはいへるなり。燗は字書によれば、音闌(おんはらん)、爛と同じ」とある。(「日本酒のフォークロア」 川口謙三)


荻舟による秋田の酒
地酒で早く優良と定評のあつたのは広島であつた。東京はもとより圏外であつたから、明治から大正初期にかけて、一般に用いられたのはかなり悪酒だつた。そこをねらつて進出したのが秋田で、先づ「両関」が宣伝し、ついで「爛漫」が競争した。江戸時代以来の声価になれて、東京を甘く見た灘の醸造家と、それに輪をかけた問屋筋が、長夜の夢をむさぼつていた間に、先づ反抗のノロシを揚げた秋田は、みずから地酒の秋田と名乗りかけて、本場灘を向うに廻し、実質で来いと挑戦したのが、後から考えると何といつても、酒造革新の先駆であつた。悪酒にならされた一般の東京人には、甘口の酒が珍しく、そしてうまいと思われた。秋田の酒は甘口だつた。−
秋田県の醸造試験場長を長く勤めて、秋田酒の恩人といわれた某氏はは、当時全国の技術者会議が関西で催された時、先輩格の「菊正宗」の技師長から、「お前が甘口を奨励するものだから、日本中の酒が悪甘くなつたと攻撃されて恐縮した」と頭をかいていたのにも接した。(「荻舟食談」 本山荻舟)


一箪の食、一瓢の飲
「賢なるかな回や。一箪(たん)の食(し)、一瓢(ひょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)に在り。人は其の憂いに堪(た)えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や」(雍也(ようや)篇) 顔回が素朴な生活をしながら学問を楽しんでいるのを称賛したくだりだが、箪とは竹のわりごの弁当箱、食とは御飯をさす。瓢は酒を入れるひょうたんではなく、ひさごを二つに割った椀で、一番単純な食器だ。王侯や士人の食事でなく、この顔回の暮らしを孔子は称賛している。(「中国酒食春秋」 尾崎秀樹) 確かに、金谷訳注の「論語」の解説も、「竹のわりご一杯のめしとひさごのお椀一杯の飲みもので」とあります。残念ながらこの場合、「一瓢の飲」は酒のことではないようです。顔回は、もちろん、孔門十哲第一位の人です。


富永仲基と玄旨法印
黄檗山の大蔵経八千巻の翻刻を校合した富永仲基は、その名著『出定後語』の中で、殺生飲酒の戒は何処にも無く、ただ楞伽経に「種々放逸の酒」を戒めているだけだと言つている。−
三宝の慈悲よりおこる酒なれば尚も尊く思ひ飲むべし 玄旨法印
この坊さんは、仏道と酒道との不二一如を主張している−(「酒とやまと魂」 山本蘆葉)
富永仲基は江戸中期の儒学者、玄旨法印は和歌に長じた戦国大名・細川幽斎のことのようです。昭和16年出版の本ですが、表紙の裏側には、茨城県の「志ら瀧」と、「吟勢」という酒のレッテルが印刷されています。


キョーサイ、汝を玉にす
遠藤 エッ、お宅に風呂はなかったんですか。−
岩川 それがですね、風呂はガス代がかかるから沸かさない。
遠藤 うーん。
岩川 阿部さんは自宅の風呂でゆっくり手足を伸ばすなどということは、とうとう死ぬまでできなかったようですね。−
岩川 阿部さんの甥御さんが書いたものによると、「焼酎にタクアンというようなものがとても伯母(阿部夫人)は好きだった」となっていますね。たしかに粗衣粗食の人だったでしょう。(「狐狸庵対談 怪女・快男・怪話」 遠藤周作) 阿部さんとは、阿部真というNHK会長だった人、対談相手の岩川は岩川隆という作家だそうです。どちらもすごかったということなのでしょう。


「暫(しばらく)」冒頭
奴(やっこ)一 江戸の 歌舞伎の 吉例(きちれい)に、 一座も 極(きま)る 顔見世月。
奴二 一番太鼓 二番手と、 繰り込む 奴(やっこ)の 大鳥毛。
奴三 ふるさとは 雪かあられ酒、 寒の師走も 捻じ切りに。
奴四 いつもなじみの 下馬先で、 盛切酒(もっきりざけ)の 飲仲間。
奴五 ぐっと一杯 二合半、 ぶんぬき 釘抜(くぎぬき)中抜(なかぬき)の。
奴六 草履も 投げの 玄関先、 お髭の塵取り 機嫌取り。
奴七 名を鳥毛とは 縁喜もよく、 今日を曠(はれ)なる 伊達道具。
奴八 渡り拍子の 音(ね)に連れて、 めでたき時に 相変わらず。
奴一 勇み勇んで。
八人 振り込むべいか。(「暫」 服部幸雄編著)


チャイコフスキー
チャイコフスキーは、弟の穴トールにこんな手紙を書いている。「私は避けなしではいられない。それをほんの少しよけいに飲まないと平静になれないのだ。(ブランディの)びんを見て、ある種の喜びを覚える、そんなひそやかな飲酒に馴れてしまった。私はいま、一杯ひっかけてこの手紙を書いている」彼はリラックスした状態になるため、生涯を通してアルコールに親しんだ。だが、そのくつろいだ状態の中で作曲したのである。(「わが酒の讃歌」 コリン・ウィルソン)


力道山の酒
ぶすりと不機嫌そうに唇をむすんだ力道山が、奥のテーブルでひとり飲んでいる。この人は怖かった。酒乱だったからだ。いつも低い唸り声をあげている傷ついた猛牛みたいなチャンプを、店中の誰もが嫌がって恐れていたが、私は率先してその傍らに行った。嫌なものに女主人の自分が相手をする他はない。「おい」たちまち手を逆手に捩じりあげられる。さっさとお代わりを持ってこい、遅いな。わかりました、だから離して。離してだと、嫌なのか。いいえ、オーダーをしてきますのでちょっと。じゃいうことをきくか。ええききます。何でもか、じっと私の顔に眼を据えていったあと、突き放すように掴んだ手を離した。二の腕にうす赤い跡がついている。ちらと私の方をみてから奇妙に照れ臭そうな表情になり、にやりと笑った。含羞(はにか)んだ少年みたいな口許(くちもと)だ。ひどい寂しがりやなのかもしれないと思った。(「ザ・ラスト・ワルツ 『姫』という酒場」 山口洋子) チャンプは、チャンピオンのことです。


雑炊、二日酔いの特効薬
二日酔いで食欲がないとか、胃が疲れて、もたれ気味だという時、私には特効の料理がある。これといった材料を用意しなくて良い。鍋にだし汁を入れて、味噌を溶かし、食べ残しの飯をひたひたに浸るぐらいに入れてグツグツと時間をかけて煮る。いわゆる雑炊を作るのだ。煮上がる直前に、溶いた生卵を二個ぐらいかけて、すぐにかき混ぜ、かつお節をなるべく多く加えて、またよくかき混ぜて出来上がりだ。パック入りのかつお節なら、けちけちせずに五袋ぐらい加えるのがよい。やや冷ましてからご飯茶わんに盛り、ゆっくり、じっくり味わうと、あらあら不思議なことに、ついぞ今まで食欲がなかったのに、パクパクと三杯は胃袋めがけて超特急。(「食あれば、楽あり」 小泉武夫) 鉄の胃袋でも二日酔いになることがあるようですね。水雑炊


左うちわ
左手でうちわを持ったら、右手は何に使ったのだろう。さかずきを持つのであろうか、美女でも抱くのであろうか。色々想像されるが、どっちにしろうちわを左手で使っても、ギッチョの人間でないかぎりあまり涼風がくることは期待できない。どうもこれは、左手でうちわを使うことではないらしい。まず、右側が庭になっているへやを想像する。そういうへやの床の間を背にしてすわり、右手にさかずき、左手に美女、これはいい。そのほかに左側にもう一人はべらせるのだ。それにうちわをもたせて涼しい顔をしている、これが左うちわで、つまり「左からうちわであおがせること」と解してはどうだろうかという説が、最近名古屋ことばの会の佐藤中正氏から提出されている。(「ことばの歳時記」 金田一春彦) 最近といっても昭和40年の最近です。多分これは現在の通説でしょう。


プリュイエール・シャンピエの頃
プリュイエール・シャンピエの頃には、冬にはワインをあたためて飲んでいたのをご存じの方も多いかと思う。そして、ワインがなくなると、お湯を食卓に出していたのだが、同じように、貧富の差なくワインを盃ごと火に近づけて(今日、コニャックでそうするように)あたためていたばかりでなく、よく焼いたカリカリのパンをワインの中にひたして、ワインの温度をあげたり、赤く焼いた鉄の薄板を入れたり、お金持ちになるとあつくした金の板、貧しい人々は真赤に焼いた木炭をつっ込んだりしていた。とどのつまり、ワインをあたためるだけの目的でワインをお湯でわるということまでしていたようだから、ワインの味そのものの値打ちなど二の次だったことであろう。(「料理人の休日」 辻静雄) プリュイエール・シャンピエという人の1560年初版の「デ・レ・キバリア」という本にあるそうです。


鯨飲会
ある日水野が鯨飲会の当番にあたった。その頃男伊達(おとこだて)の反抗気分は、着物の裾へ鉛を縫いこみ、ピンと蹴出す幕外六法式の歩きぶりや、市川の荒事に見るような言葉づかいのみでなく、各自輪番の鯨飲会で、真夏に大火鉢を抱えて、寒い寒いといったり。厳寒に障子をあけ放って、暑い暑いといったりする、時候否定の悪洒落にも、不平の一端が現れた。殊にふるったのは、食膳に上る珍味であった。水野はその晩来客のために、土龍(もぐら)の汁と、蛙の膾(なます)と、蚯蚓(みみず)の塩辛と、百足(むかで)の吸物とを用意した。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 不良旗本・水野十郎左衛門と、町奴の巨擘(きょはく)・幡随院長兵衛との話の一部です。市川は歌舞伎の団十郎のことでしょう。


マンボウ人間博物館
阿呆について ある飲ん兵衛は、白ネズミに酒を飲ませて酔っぱらわせると、その毛が赤くなるのか、又飲酒のために気が変になるかどうかはまだおれにはわからぬと、深刻な顔をして言う。
ケチについて 利口なケチは銀座、新宿にたむろする乞食の子分になる。乞食は、高級レストランや残飯や飲み残しの酒を手に入れ、一般庶民より贅沢な食事をしている。従って、たいていの乞食はケチの子分を持っていて、親分と呼ばれている。
天邪鬼について 「あなたの肝臓検査の結果は実に悪い。これ以上酒を飲んだりしたら、本当に生命とりになりますよ」と医者に言われ、「なあに、あのヤブめ。おれさまにはおれさまの生き方があるんだ」とほざき、その夜は大酒をくらい、酔ってすっころんで頭を打ち、そのままお陀仏になってしまう。(「マンボウ人間博物館」 北杜夫) 月産700枚の雑文の一部だそうです。


川柳の酒句(18)
見世中を雪にしておく居酒のみ(店に飛び込み雪を落として酒を飲む)
ばかめらと雪見の跡にのんでいる(雪見に参加しない人は暖かいところで飲んでいる)
雪見酒いらざる下戸のまじり事(下戸は寒い雪見酒には参加しない方がよい)
酔がさめると嘘をつく工夫なり(奥さん対策)
酔いさめて見れば陰間を抱いている(男色の気があったということでしょう)(江戸川柳辞典」浜田義一郎編)


須原屋の土産
幸成は日記を遺している。それによると、天保四年も押しつまった師走二十五日、小春日和の上天気の中を、須原屋の主人と番頭がこの日の日本晴れに劣らぬニコニコ顔で『名所図会』の初刷り前編十冊を、斎藤家に持ち込んできたことがわかる。礼ごころを兼ねたおみやげは、鴨一羽に隅田川という名の清酒二升…。豪華ホテルに人を集めての、出版記念パーティーなどやらない。大著述の完成にしてはつつましい心祝いだ。そのかわり須原屋は、葺屋町の芝居へある一日、斎藤家の家族を招待している。幸成と妻おれん、母おひさ、長谷川雪旦とその妻女、息子の雪堤も同道して観劇を楽しんだ。後編の初刷りが出来あがったときも、だれよりもまっ先に須原屋は、墨の香匂うそれを十部、斎藤家に持参している。お礼は酒の小樽のこも包みに、鶏卵一折り…。前回同様ささやかな品である。さらに天保九年の正月、幸成個人の著述『東都歳事記』が刊行された際は初刷り二十部に、鰹節一箱を須原屋は持ってきたし、斎藤家ではその返礼に、百花園から仕出し料理を取り、葭町(よしちょう)の芸者お民、お市の両名を出張させて須原屋と長谷川父子を自宅に招いてもいる。関係者こぞっての、よろこびと和気が眼前に浮かぶようだ。(「東京の中の江戸名所図会」 杉本苑子) 3代約30年間ににわたって書き続けられた、「江戸名所図会」発刊の際の話だそうです。当時の贈答の感じが分かりますね。斎藤幸成は神田雉子町名主で、号が月岑(げっしん)、長谷川雪旦、雪堤父子は挿絵を受け持ちました。


ヒロ公
千葉県船橋市の船橋駅「みどりの窓口」前に住居を構える浮浪者、自称「名無しの権兵衛」氏(推定年齢六十)がその犬と出会ったのは昨年九月ごろのある晩だった。−
「家があるんだろ。帰れっ」氏が大声をあげると、なにをカン違いしたか、ヤクザ者がからんできて、氏を突き飛ばそうとした。犬が猛然と襲いかかり、一撃で男を退散させたのである。その晩から氏と犬は、「みどりの窓口」前で一緒に寝るようになり、氏は拾ったという由来から、犬を「ヒロ公」と呼ぶようになった。−
そのヒロ公が、忽然として姿を消したのは一月中旬だ。氏が語るところによれば、こうである。「その晩、オレはベロンベロンに酔って、京成神宮下駅のほうに歩いていたんだ。そしたら、後から車でも来やがったのか、突き飛ばされて前に転んでよ。そのとき、ヒロ公がバッとオレをかばってくれたのよ。気がついたらもう死んでたぜ。オレはヒロ公を抱いて一晩中泣いたぜ」氏はそういうと、オイオイ泣きじゃくり、急にプイと横を向いたきり寝てしまった。キオスクのおばさんによると、その晩以来、氏は一度もワンカップ大関を買いに来ない、とのことである。(「デキゴトロシー」 週刊朝日風俗リサーチ特別局編著) 昭和五十八年の話だそうです。


酒蚤(さけのみ)
服部応賀(はっとりおうが)文・河鍋暁斎(かわなべぎょうさい)画の『文名皆化 和談三才図笑』は、江戸時代中期の図説百科『和漢三才図会』のパロディ版である。この本で暁斎は一○○点に及ぶ世相風刺の戯画挿絵を描いている。−
「酒蚤」も「虫類の部」の一図。あちこちハシゴをして帰ってきた酒飲みが、女房におこられて小さくなっている様子をノミとそっくりな恰好の描いている。動物描写の名手は、小さなノミの生態までもしっかり見ていて、人体をパロディ化している。(「近代日本漫画百選」 清水勲編)


「ビール15年戦争」の切り抜き
「俺がアサヒビールに来た本当の理由は、再建のためじゃないんだ。本当はな、幕引きをするために、俺はアサヒに乗り込んだんだ。」(樋口)
「スーパードライが品不足の間、埋め合わせになったのが他社のドライビール」(二宮)
「連結ベースの有利子負債は私が就任した九二年末の段階で一兆四一一○億円にも達していた。この年のアサヒの連結売上高は九四九○億円。」(瀬戸)
「よし、これで勝てる!」「はい生ビールという我々の土俵にキリンが上がってくれましたから。これで戦えます。」(瀬戸、二宮)
発泡酒が発売された当初、「ビールのまがい物」などと発言した瀬戸でも、「いいものをつくれば、きっと認められる」との思いが山下にはあった。(「ビール15年戦争 すべてはドライからはじまった」 永井隆) アサヒの側の話です。


慳貪酒
「けんどん(慳貪)」の名称については、古くからいろいろの説があるが、「つっけんどん」という言葉があるように、「けんどん」の語義には「そっけない」という意味も含まれている。「けんどんそば」についていえば、「慳貪」と書いて、飯でもそばでもうどんでも一つの器に盛り切りとし、一膳いくらと値段をきめて売り出し、しかも二杯目をすすめないことであった。元禄以前に品川あたりに慳貪飯(または飯慳貪、慳貪弁当)ができ、さらに慳貪酒から慳貪女郎も出現したという。押し売りしない、掛値しないという意味であった。(「江戸巨大都市考」 北島・南)


若者遊びコトバ
クダマキトカゲ【OL】酒を飲むと威勢がいいが、部長の前に出ると逃げの一手を決め込むダメ社員のこと。
スクランブルのお好み焼き【東大生】酔っぱらって食べ物を落とす行為。
セッチャン【若者】世の節子さんには悪いが、この場合は、「酒を飲むと節操がなくなって、すぐやらせてくれる女」のことを指す。
ふっとぺろん【居酒屋従業員】すぐ酔ってしまうこと。(「若者遊びコトバ事典」 日本ジャーナリスト専門学校 猪野ゼミ編) 平成6年の出版物ですので、多分全部死語でしょう。


酒の代わり
ある人、三度の食事ができず、夫婦空腹をかかえて寝床につく。女房がしきりに嘆くので、亭主、「今夜はつづけて三度曲どりをして、三度の飯の代わりにしようじゃないか」女房、いわれたとおりにした。あくる朝起きると、頭はふらつき、眼はかすみ、足元もすわらぬので、女房に向い、「こいつは豪気だな。飯の代わりになるばかりか、酒の代わりにもなる。「(中国笑話選・飯と酒の代わり)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)


安藤野雁、池島新平
江戸末期のの歌人で国学者の安藤野雁(のかり)は、かる子という女と所帯をもった。野雁は酒好きだったが、女も酒好きで、彼は「よい相手ができた」とよろこんでいた。しかし、朝寝坊の野雁が昼近く目をさますと、かる子はもう湯どうふで酒をのんでいるという有様で、借金だらけになってしまった。そこで彼は、かる子に「出ていってもらいたい」というのがめんどうだと、自分で家を出てしまった
池島新平にある人が「どうしてお前はバーが好きなのだ」ときくと、「それはバーがあるからだ」といっていたが、「それは文士先生たちがくるからね。まあ、柳の下へ行けばどじょうがいるだろうとね。そうすれば仕事の話もすぐできるし…」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎


新作いろは
あしたはあしたの てんきになあれ  いのちみじかし たすきにながし  うみのあおは そらのあお  えいがはうつる よもすがら
おにさんこちら ふくさんあちら  かきくえば かねがいる  きのうのともは きょうのてき  くもはゆく かわはながれる
けんきんに ぜいきんなし  こいは まんびょうのもと  さけは まんびょうのくすり  しなぬが ほとけ
すしずめの なみだ  せいくらべ はしらのきず  そらのかなた さらばあとむ  たってるものは なんでもつかえ
ちりもつもれば やまよりたかし  つめのあか くちににがし  てんはひとのうえに ひとをつくる  としよりの いやみず
ないそでふるも たしょうのえん  にがいから くすり  ぬけたくいは うたれぬ  ねこのみみに こんばんわ(「散語拾語」 安野光雅) と、続いていきます。


皇室の人々は皇居でクコの実を栽培して食べている(信用度60%)
薬用としての果実酒の中では、クコの実をつけるクコ酒が効果の点で抜きんでている、とされる。精力剤としても一級品だ。確かにクコの実はそれそのものが栄養に冨み、古代中国では仙薬として珍重された。平安時代の薬学者で竹田千継という人は毎日クコ飯を食べ、クコ酒を飲み、クコの葉を浮かした風呂に入ったりしていたために、九十七歳になってもまだ、髪の毛が黒々としているほど若々しかったという。もっとも、それをもれ聞いた天皇から、内裏の薬草園でクコを栽培する役をおおせつかり、また側近としても用いられていたため、忙しくなってクコを自分で食べたり飲んだりできなくなり、とたんに年をとって二年で死んだ、とあるから気の毒なことであった。千継の功労か、クコ酒は日本の皇室においてその後もずっと用いられていたようで、太平洋戦争前、皇室で栽培されたクコの木の株を、国民たちに分け与えるという行事が行われたという。新聞医広告が載って、応募した当選者に配られたそうだ。(「トンデモ一行知識の逆襲」 唐沢俊一)


箱根での武勇伝
開くれば明治二十一年の正月元旦である。皆早く起きて、急いで屠蘇と雑煮を持って来いと命じた。私は体格もよかったし、例によって大飯食い、大酒飲みだ。まず屠蘇をやって、雑煮を食い、それからまた酒を飲んで時の移るのを忘れておった。すると、午前十一時ごろになって突然加藤正義が、われわれの部屋にやって来て、「君たち、乱暴もいい加減にしておけ」という。「何だい」と尋ねると、「自分は家内と娘を連れてやって来たが、今日は元旦だから早く雑煮を持って来いと宿屋に命じた。ところが一向に持って来ない。再三催促するけれどもそれでも持って来ないから、どういうわけだと小言をいったら、実はあの部屋にいるお客さまがあとからとお代わりを命ずるので他に出す暇がないのですという。雑煮がいつまでも出来ないから子供がとうとう泣き出した」といって」ふくれている。まあ元気にまかせて、よほど食べたと見える。宮島も酒を浴びて大変元気を出していた。元旦匆々から品川さんに会ってそんなことを話すのもどうかと考えてわざと差控え、二日の朝、四人連れで品川さんの部屋に行き、わが殖産興業のために是非とも、もう一ぺん農商務省へ出て戴きたいと懇願した。(「高橋是清自伝」 上塚司編) 下野していた品川弥二郎を説得するために箱根へ行った時の話だそうです。四人とは、前田正名、武井守正、宮島信吉と、高橋だそうです。


「たけくらべ」中の泡盛
いそがしきは大和尚、貸金(かしきん)の取たて、店への見廻り、法要のあれこれ、月の幾日(いくか)は説教日の定めもあり帳面くるやら経よむやら斯(か)くては身躰(からだ)のつゞき難しと夕暮れの縁先(えんさき)に花むしろを敷かせ、片肌ぬぎに団扇づかいしながら大盃に泡盛をなみなみ注がせて、さかなは好物の蒲焼を表町のむさし屋へあらい処をとの誂(あつら)へ、承(うけたまわ)りてゆく使い番は信如(しんにょ)の役なるに、其(その)嫌(い)やなること骨しみて、道を歩くにも上を見し事なく、筋向ふの筆やに子供づれの声を聞けば我が事を誹(そし)らるゝかと情なく、そしらぬ顔に鰻屋の門を過ぎては四辺(あたり)に人目の隙をうかゞひ、立戻つて駈(か)け入る時の心地、我身限つて腥(なまぐさ)きものは食べまじと思ひぬ。(「たけくらべ」 樋口一葉) 信如は大和尚の子供です。かつての泡盛への僻見を意識して書いているのでしょうが、今や隔世の感ありといっていい時代ですね。


バイシン
八杯目か九杯目にはいったころ、我慢の限界に達した。そいつは酔ってまわりにからむようになっていて、追っぱらうには具合を悪くするしかないと思った。−それもすみやかに。アルコールではとても用は足りない。さっさと家に帰ってベットにはいることを望みながらバイシンを取りだし、つぎのカクテルのなかに数滴垂らす。グラスを手渡しながら言った。「わたしのおごりよ。どうぞ召し上がれ!」そいつは飢えたハイエナのようにグラスをひっつかんだ。チップも出さず、それまでと同じように三口で飲みほした。(ただ酒だからといってチップを置かない客がいるが、その心理がいまだに理解できない。酒が降って湧いたわけでもないのに−バーテンダーはみなサービスに対するチップを、それも多めのチップを期待している、ただで飲ませてやったんだし。言うまでもなく、バイシンを垂らすにはあまり胸は痛まなかった)。数分すると、彼はふらふらしだし、顔が青くなった。わたしは言った。「あら、顔色が悪いわ。飲みすぎたんじゃない?」「ちがう!すぐに良くなる」三十秒もたたないうちに、そいつは何も気づかずに飲み騒いでいる人たちをかきわけてトイレに走った。(「酒場の奇人たち」 タイ・ウェンゼル) バイシンは、ファイザー社の目薬のようです。


ワインのお燗
ブリュイエール・シャンピエの頃には、冬にはワインをあたためて飲んでいたのをご存知の方も多いかと思う。そして、ワインがなくなると、お湯を食卓に出していたのだが、同じように、貧富の差なくワインを盃ごと火に近づけて(今日、コニャックにそうするように)あたためていたばかりでなく、よく焼いたカリカリのパンをワインの中にひたして、ワインの温度をあげたり、赤く焼いた鉄の薄板を入れたり、お金持ちになるとあつくした金の板、貧しい人々は真赤に焼いた木炭をつっ込んだりしていた。とどのつまり、ワインをあたためるだけの目的でワインをお湯でわるということまでしていたようだから、ワインの味そのものの値打ちなど二の次だったことであろう。(「料理人の休日」 辻静夫) ブリュイエール・シャンピエの「デ・レ・キバリア」の初版本は、1950年だそうです。


甘党北斎
作品の豪快さ、男性的な筆法のの勁(つよ)さから想像すると、酒豪のイメージが浮かぶけれども、北斎は酒を飲まない。餅菓子好きの甘党であった。煙草もたしなまず、人の吸う煙さえ大きらい。茶も粗葉で満足して、上等な玉露など買ったためしがなかった。法華の門徒で、ときおり池上の本門寺、掘ノ内の妙法寺などへ参詣したし、家の柱のやや高い所へ蜜柑箱を打ち付けて日蓮上人の像を安置し、口には法華経の”阿檀地(あだんたい)”の呪文をぶつぶつ唱えていたが、一生のあいだ、もっとも恐れていたのは火事で、火よけのお守りを描いて頒布したこともあったらしい。(「江戸を生きる」 杉本苑子) 残念でした。


一番安全な道
酔っぱらいもときには思慮をはたらかすことがある。あるいは、これからお話しする人のように、よい思いつきをすることも。この人は町に出かけたその帰り道、ふつうの道の上を歩かず、よりにもよって、道のすぐそばを流れている小川の中を歩いていったのだ。そこへ、なにか困っている人や酔っぱらいを見るとすぐ世話をやかずにはいられなくなる世話好きな人が通りかかって、さっそくこの酔っぱらいに手をさしだそうとした。「もしもし、あなた、川の中を歩いていらっしゃることに気づかないのですか。道はこっちですよ。」こう彼が言うと、酔っぱらいは、「ふだんは私も乾いている道の方が歩きやすいと思うんですがね、今日はちょっときこしめしすぎたもんで」と答えた。「それだからこそ、あなたを川から助け出してさしあげようというのです」とその親切な人は言った。「いや、私もそれだからこそここにいるんです。だって、川の中を歩いてて転んでも、道の上へ落ちるだけですが、道の上を歩いてて転んだら川の中へ落っこちてしまいますからね」と酔っぱらいは答えて、人差し指で自分の額をとんとたたいた。まるで、こう見えてもこの中には酔いばかりではなく、ほかの人には考えもつかぬことが、まだ入ってたんですよ、と言わぬばかりに。(「ドイツ炉辺ばなし集」 ヘーベル作)


ゲーテとケストリッツァー・シュヴァルツビア
年老いて、体調を崩したゲーテもこのビールで栄養をとっていたらしい。最近、ラベルが壮年のゲーテの絵姿のついたものに変わったようだが、瓶の首にはゲーテの友人の言語学者でベルリン大学の創立者でもあったヴィルヘルム・フォン・フンボルトの手紙が添えてある。宛先はわからないが、そこにはこんなことが書いてある。「ゲーテはまるで食欲がなく、ブイヨンも肉も野菜も受けつけない。ビールと小さなパンで生きていて、朝から大きなグラスでビールを飲み干しては、ケストリッツァー・ビールの黒いのを飲むべきか薄茶色のを飲むべきか従僕と相談しているのだ」。ゲーテが七十四歳のときの手紙である。ビールのおかげかどうかわからないが、ゲーテがあと九年間生き長らえたのは確かだ。(「ビール大全」 渡辺純)



病気も、神聖病といわれるような原因の知れないものは、これを祓う以外には方法はなかった。(医)の最も古い字形は医である。それは區と同じように、匿れた秘密の場所に、呪器としての矢をおいて、その呪能によって邪気を祓う意象の字である。その呪能を刺激するために、これにも殴撃を加えた。それは「医殳」(えい)である。「医殳」はうめくような悪声をいうとされているが、祈るときの般若声とみてよい。医術はその当時、呪医・巫医の司るところであったから、「医殳」の下に巫をつけ(た字)とし、のち、酒を百薬の長というので、醫の字が生まれた。いまや当用漢字は巫や酒を廃し、殴つことを廃して医となった。太古の呪術の姿にかえったわけである。「漢字百話」 白川静) 古代中国の精神世界にせまった白川静の説ですが、醫の古字が医というのは面白いですね。こうした事例は沢山あるようです。


梅の花見と鰻
ある人のもとに花見にまかりけるか うなきを 手つからやきて 酒すゝめければ   あけら管江
36 目の前で手つから さくや このはなに 匂ふ うなきの 梅か かはやき
【さく】梅が咲く意に、鰻を割く意をかける。 【このはな】此の花(梅の雅称)にこの鼻の意をかける。 【梅かかはやき】梅が香に鰻の蒲焼きの意を掛ける。
「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」(『古今集』「序」)を本歌とする。(「万載狂歌集」 宇田俊彦校注)


酔い醒めの部屋温うして師走かな(ヒ)
夜半、ふと目が覚めて、冴え冴えと寝床に取り残さる事がある。そんな時は、布団の上で、湯呑み一杯の冷やを、唇を湿らす程度に、ゆるりゆるりとやる。喉が動くほど一度に呑んでは駄目で、とにかく、恐ろしくスローに、身の回りの空気を動かさない加減で、酒を体内に送り込んで行く。庭の苔に霧吹きで潤いを与えるようにすると、食道から胃までの粘膜が、ほのぼのと暖まって来るのが分かる。この酒がうまい。この酔いが、快い。やがて、東の地平が、藍布一巾流れ、それが見る間に浅葱(あさぎ)に変わるのを、やわらかな気持ちで眺めながら、布団にもぐる。それからの眠りが、悦楽。これが、一番うまい呑み方でだある 。(「呑々草子」 杉浦日向子)


酒のことわざ(7)
壺中(こちゅう)の天(別天地、酒を飲んで世を忘れる楽しみ)
こなから酒 一升(二合五勺の酒を一升と思え。こなからは、ならか[一升の半分]の半分で二合五勺)
虚無僧燗(こむそうかん)(熱燗。『虚無僧は尺八を吹き吹き食う』にかけたしゃれ)
衣の裏の珠(友人の家で酒に酔い、前後不覚の間に友人は貴重な珠を酔っぱらいの衣の裏に縫いつけた。それを知らないで極貧の生活をしていたが、後に、宝を持ちながら悟らないでいることを友人から教えられたという法華経にある比喩譚)(「故事ことわざ辞典 鈴木・広田編)


「おふくろ」
「よし子」と、義妹に云った。「ますじに、酒を飲ませてやってくれ。あんまり飲むと毒じゃから、徳利に一つだけわかしてやってくれ。」義妹は竈の下を燃しつけて、戦争前に近所の人が除隊記念にくれた銚子を鍋のなかに立てて燗をした。盃も同じく除隊記念にもらった土産物で、聯体旗と海軍旗を交差させた図が書いてある。ぎらぎら光る水金で第四十一聯隊という文字など書いてある。この家では古い徳利や猪口などはどこかに蔵っていて、法事のときにも来客のときにも決して使おうとしないのだ。私は三本や四本の酒では酔えないが、お袋は私が銚子の酒を半分ぐらいまで飲むと意見するような口をきいた。「ますじ。そうそう酒を飲むと毒じゃがな。人が見ても、みっともないし、酒飲みは酒で身を誤るというての。」それで私は一本だけで止そうとしたが、母はそれで満足するのではない。「お前は酒が飲めるというのに、一つだけで止めることはあるまいが。飲めるのに、無理せんでもよかろうに。飲めるんじゃもの、もう一つだけなら飲んでもよかろうが。よし子、もう一つ酒をわかしてやってくれ。」もう飲む気がしなかったが、せっかく義妹がわかしたので飲んでいると、お袋はまた酒を飲むと毒じゃと云った。それで私が二本目で止そうとすると、お前は飲めるのに止すことはあるまいと云った。結局、三本、四本と飲んで行き、飲めば飲むほど地味すぎる気分に陥込むことになって行く。お袋は酒のみの倅に酒を飲ませたいが、酒なんか、見るのも嫌な義妹に遠慮して余計なことを云ったのだろう。(「おふくろ」 井伏鱒二)


白洲次郎の酒
しかし白洲には白洲なりの考えがあり、悠々とポルシェを足代わりに使った。彼にとってポルシェは乗るに価する自動車だった。そこには優秀な機械に対する彼なりの畏敬の念のあった。欧州をグランド・ツーリングした際に、ベントリーに対して懐いたと同様の。好きでもないのに見栄や体裁で黒塗りの高級車を買う連中を蔑んだ。会社や官庁の当てがいぶちならまだしも、プライベートで乗り回すなら、自分の好みを克明に表すべきだと考えていたのである。また、祇園で名妓をはべらし、大いに酒を飲んだ。それでも滅多に酔うことはなかったという。たまに酔うと日本語より英語が飛び出し、日本語の語彙が減ってしまうのは長い英国留学のせいである。それでも分別を失わず、いい酒であったと彼女たちは言う(前掲,『太陽』)。(「白洲次郎の生き方」 馬場啓一) 「軽井沢のゴルフ場に頑固者の支配人がいて−」という話を聞いたことがありますが、それがこの人だったようです。


お燗の殺菌作用
今から三十年も前に、ある栄養学者が興味ある研究報告を発表した。「わが国の酒宴の席では、互いに杯のやり取りをする風習があるが、あれは衛生学上甚だおもしろくない。病原菌の口移しがないとはだれが保証できようか」とした上で、「だが諸君、安心されよ」として発表したものが、たいそう酒客を喜ばすものだった。その発表とは、「冷酒の中にチフス菌、コレラ菌、赤痢菌を入れると、各々の菌は二十〜九十分間もそこで生きていたのに、ぬる燗(四○度前後)では四分以内で全滅。ややぬる燗(四五度ぐらい)では即死または一分以内に全滅。熱燗(五五度)では即全滅した」というものであった。昔のように杯のやり取りする酒宴の燗酒は、殺菌効果という意味で衛生学上からも理にかなったもののようであった。(「食に智恵あり」 小泉武夫) '96年出版のものだそうです。


食後酒の値段
現在、デパートでシャルトルーズは五千円程度で手に入る。くだんのレストランで一杯二千五百円で飲んだのは、おそらくシェフ自身がフランスから持ち帰ったものなのだろう。一杯二千八百円也のマールも、「マール・ド・シャンパーニュ」あたりで、指定名称権を得ている銘酒に違いない。まっとうな暮らしをしている立場からすれば、高すぎるといわざるをえない。一皿五千円程度の料理に一本一万円のワイン、さらに二千円以上もする食後酒ともなれば、やはり奢侈ということになってしまう。よくレストランの酒の値段は原価の三倍といわれる。しかし、食前酒や食後酒の値段には、もっと機に臨み、変に応じた値段とサービスがあってもいいように思う。日本のフランスレストランが最も遅れているのは、一にこの点にあるのだ。(「気分はいつも食前酒」 重金敦之) マールはワイン粕ブランディーといったもののようです。食後酒はともかく、フランス料理ではワインは料理と同額、懐石的料理では、酒は料理の半額といった感じでと聞いています。日本料理が高いのか、清酒が安いのか、どんなものでしょう。


議員でもやる
戦前も戦後も地方は中央へ人材を供給するばかりであったから、地元に残る人間は少ない。残ったとしても、県庁や教員といったところだから、ブラブラしている酒屋の旦那は「政治でもやる」のに最適だった。「あんた、議員でもやったらどうだい」と誘われて、道楽のひとつのつもりで政治屋を開業するという寸法である。天下国家をどうこうしたいという野心は希薄だから、危険性は小さいかもしれないが、やはり「政治家」にはなれない。そのかわり地主の特性として、「自然には逆らえない」という思いの美徳はもっているのである。酒は酒屋の主人の性格が表れるそうで、旦那が国会議員をやっている蔵の酒は、ごく一部の例外を除いて、総じて旨くない。(これは私の主観であるが、紛うことなき客観的事実と言っても断じて間違いではな。(「酒と日本人」 井出敏博) こんな見方もありそうですか。


京都でよそ者扱いされない唯一の場所
京都市内の飲み屋は、四条から三条にかけての木屋町、先斗町(ぽんとちょう)界隈にかたまっている。店の格はピンからキリまで厳然とあるのに、店構えは同じである。旅の者が「どの店が安いか」と判断するのは困難である。その構えというのは、「うなぎの寝床」のように、間口は狭く、奥に向かって細く長い。長いカウンターには詰め込めば二十人近くが収容できる。木屋町筋の高瀬川に沿った洋酒飲み屋の「酒房X」は、地元の大学生、教員、サラリーマンといった人々が京都弁で気焔をあげる場所になっているが、観光客の一見(いちげん)さんがフラリとはいってくることもままある。一見の客がカウンターに座ると、すかさず、バーテンや、居合わせた学生たちが男女を問わずサービスにつとめ、盛んに、京都のホットニュースや、トピックスを語って、「心安う長居のできる雰囲気」をつくり出すのである。新入り客、それも旅の人だと分かると、かなり酒が進んだところで、バーテンが学生のほうへ目配せしてカウンターを、「パンパン」と掌(てのひら)で叩く。その合図は、次のようなサインである。「学生たちの多くの部分を割り引き、その分を、舞い込んできたよそ者のお客さんに請求をする」このルールのせいか「酒房X」には観光シーズンにはもちろんのこと、年中といっていいほど、学生ふうの男女がたむろし、よそ者も、京都では例外的に、なれなれしく、しかも親切に客仲間からサービスを受ける。(「デキゴトロジー」 新潮文庫)


長崎の鐘
門田勲さんが、造り酒屋に見学に行くと、この家では、酒を作る工程にそれぞれ由緒ある労働歌があって、それに合わせて仕事することになっていると聞かされた。なるほどと思っていたが、ある場所にゆくと、中から「長崎の鐘」の歌がきこえる。戦後に藤山一郎さんが歌った歌である。ハテナという顔をしたら、さっきの人が間の悪そうな顔で、いった。「ここでは、桶のフタを洗っているだけなんです」(「新ちょっといい話」 戸板康二)


指樽(さしだる)
千余年の昔、『延喜式』によると時の政府は都に近い十五カ国に年々たくさんの樽を納めることを命じている。東は三河、遠江、西は阿波、伊予のあたり、はるばる海を渡り山を越えて運び込まれたこのおびただしい数の樽は、いったい、何に使われまたどんな形のものだったのだろうか。指樽は、手樽、柄(え)樽、角(つの)樽、平樽…と数ある樽の中ではもっとも古式を残したものといえる。それなればこそ、しきたりを重んずる婚礼などにもっぱら使われてきたのだろう。普通は一対が一荷、祝い事のある家にこれで酒が届けられた。江戸時代も半ばを過ぎるころになると、さすが室町の遺風を伝えるこの指樽もだいぶもの珍しいものになっていたらしい。何人もの学者が後世のためにと称して姿かたちを記録に残していてくれている。(「道具が証言する江戸の暮らし」前川久太郎)


行雲流水
男はたしかに凡夫にすぎない。ソノ子のお尻の行雲流水の境地には比すべくもないものである。水もとまらず、影も宿らず、そのお尻は醇乎(じゅんこ)としてお尻そのものであり、明鏡止水とは、又、これである。乳くさい子供の香がまだプンプン匂うような、しかし、精気たくましくもりあがった形の可愛いいお乳とお尻を考えて、和尚は途方にくれたのである。お釈迦様はウソをついてござる。男が悟りをひらくなんて、考えられることだろうか。亡魂この地にとどまり、前歯に恨みの三十万を書きしるして、夜ごとに骨壺をゴソゴソ騒がせるという吾吉は、男の中の男かも知れない。明鏡止水とはいかないが、ウスバカにしては出来がよい。和尚は骨壺に、初めは親愛の情をいだいたのである。けれどもドブロク造りが忙しいので、お経はよんでやらなかった。(「行雲流水」 坂口安吾) ほれた娼婦のソノ子に振られて、勤務先の金を持ち逃げした揚げ句に自殺した吾吉の骨壺を語っている部分です。この短編は昭和24年のもののようですが、その頃は、多分安吾の知り合いの和尚さんもどぶろくをつくっていたのでしょう。


都市化、近代化と酒
都市化、近代化、あるいは不安定感情を持つ社会への変化度は、タバコ消費の実態、特に消費本数の変化や、甘味嗜好度などによってかなり的確に測定しうるのではないかと考えられる。ただ、同じ嗜好品でも酒は必ずしも情緒不安定と一致しない。それは、アルコール飲料がカロリー源食品であり、嗜好品とはいうものの食品の一つであるからである。その点で、タバコと大きな違いが見られる。酒が、歴史的にみても、ストレスのない社会で、広く愛用されていたのをみても、他の近代社会の進展と共に嗜好される嗜好品とは、少し異なるジャンルに入るものであると思われる。しかし、ストレスの時代には、また、酒も、それなりの嗜好が、ストレス緩和のために用いられることは否定できない。「たべもの嗜好学入門」 河野友美) 最後に釘はさされていますが、酒党には多少うれしい説ですね。


サカズキ
太古にいてはおたがいの血をすすりあったものだが、血よりも味のいい酒という液体の発見以来、杯を用いる風習が普及した。痛くない点でも進歩である。日本人は、人間というものを信用しない。すべての他人および自分自身を信用しないのである。したがって契約の精神が皆無という、たぐいまれな特質を持っている。万事うまくいっているとはいうものの、それではあまりにもかっこうがつかないので、杯をもてあそぶことにより、その空白を埋めているのである。欧米の秘密結社にあっては、ものものしい入会儀式がおこなわれているという。だが、日本の公然にしてあいまいな結社にあっては、容積数立方センチの液体入れでたりるのである。質量共に劣るが、数でははるかにまさる。杯のやりとりした回数を総合計すれば無限ともいえるほどで、それによっておぎなわれている。(「にっぽん人間関係用語辞典」 星新一)


頭の柿の木(1)
昔、あったじもな。旦那衆(侍)の下男がおがみ様(おかみさま)がら江戸の旦那様の所さ使にやられるど、その往来にいづれでも寄って酒を飲む茶屋があって、飲んでは酔ったくれで店先で日暮まで寝ていた。茶屋の嬶様(かかさま)に、「さあ遅ぐなたから起ぎて行げ」といわれて急いで帰るのであった。ある日、その下男はいつもの通り、酔ったぐれで店先ぎさ寝ていると、近所の和子(侍の子)たちが五、六人づれで茶屋さ来て、柿を食いながら寝でいる下男の禿頭(はげあたま)さ柿の種をびたびたとぶ附けたども、下男はそれを知らないで起こされて帰って行った。ところが下男の禿頭さ柿の木がおえで、いつの間にか柿が生って赤ぐうんだから下男はこれをよいことにして茶屋さ来て、「嬶様し、俺の頭がら柿をとって、それあだい(価)飲ませてけろ」とて、酒を飲んで酔だくれで、また日暮まで寝で行った。(日本昔話集成四五六・額に柿の木)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫)


頭の柿の木(2)
それを見だ和子たちは、その下男が店先で寝ている間に、鋸(のこぎり)で頭の柿を根本から伐りとると、下男はそれとも知らないで、嬶様に起こされで帰ったが、いつの間にか、今度は柿の木の伐株(きりかぶ)さ わかい(ひらたけ)が沢山おいだので、下男はまた茶屋さ来て、嬶様にそのわかいを取ってもらって、それを酒代にして酔たぐれで店先ぎさ寝でいた。するを和子たちが来て見て、その伐株を木割で掘りとって頭さ穴さあげでやるど、下男はそれを知らないで帰ったが、雨の降る時など何もかぶらないで、外さ出て歩ぐど、その穴さ水は溜って、いつの間にか鰌(どじょう)がぢっぱり(一ぱい)ふえだ。それを下男はよいことにしてまた茶屋さ来て、嬶様に鰌をとってもらい、酒代にして酒を飲み酔たぐれて店先ぎさ寝ていたら、和子たちは手をあまして、それがあらかは(からかう)ながっだどさ。どっとはらひ。(日本昔話集成四五六・額に柿の木)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫) 岩手県紫波郡煙山町採集の民話だそうです。落語「あたま山の花見」に似たものです。


桜酒
「表と裏と同じ画家が描いたものですかね」直感だけでそう町氏に聞いた。「さすがに、現職の画家ですなおっしゃる通り、時代は同じでも違う画家です」町氏は図星をさされたことにあわてる様子もなく、さらりと答えた。「すると、二枚の絵をこういう具合に表装したのは町先生ですね」七助が勘のいいところを見せた。それには町氏はわざと答えなかった。花見とはこの全裸美人の桜花の刺青を鑑賞することだったのか、と私はふと考えた。しかし、すぐには口に出さなかった。まだなにか仕掛けがありそうな気がしたからである。裏側の裸体の方を出したままで、町氏は座にもどった。「こりゃすごいや。美人の陰毛を眺めながら、酒盛りという図ですな」七助が、ほとんどこちらが考えた通りの科白を言った。仲居が酒と料理を運んで来た。各自の前につき出し、さし身が並べられ、ふたをした茶碗が置かれた。盃をふせたままになっている。「ではお酌を」仲居が徳利を手に持った。こちらが盃を手にすると仲居が言った。「茶碗の方でどうぞ」盃を置き、茶碗のふたをとった。仲居が酒をつぐ。と、底の方から桜の花片が浮かび上がってきたのだ。甘い化粧のような匂いが鼻にふわっとくる。「これは…」驚きの声をあげると、「桜酒ですよ」と町氏が言った。(「さくらづくし」 池田満寿夫)


仏手柑(ぶしゅかん)
幇間の大先輩に幇間たるものの秘訣を教えて下さいと頼むと、「大体お客様を喜ばせるには、機転ということが一番大事です。たとえば今頃だと、仏手柑がシュンだから、いくつか買って袖の中に隠しておき、お酒を召し上がっている時にそっと割って、お客様のお一人お一人に差し上げ、『お客様は通でいらっしゃいますから』というんだ」その男、教えられた通りにしたが、酒たけなわになっても、一向に仏手柑をくばろうとしないので、老幇間がそっと「早くしろ」と促すと、「さっきから割っているんですが、まだその袋が見えませぬ」 注 仏手柑というから、蜜柑みたいに、中がいくつも分かれているだろうと思った。それが失敗のもと。(「笑府」 松枝茂夫訳) 仏手柑は、手のように先の割れた蜜柑の一種で、その香りの高さには驚かされます。焼酎に漬けて香りを楽しみます。


酒党と餅党
4,酒税はだれが納めるか …唯今の酒税は一石に付き二十円だから一合に付き弐銭、盃一杯が三、四厘に当り、これが集まりて一年間一億円余になるわけであります、皆様ご承知の通り目下の欧州戦争では英国のみにても毎日七千万円の金がいるからこれを一年に積もれば二百六十億円となる 我が国とても同じこと、一朝東洋に変事ある場合は一年に何十億円の金が要るか分からぬからかかる場合に処して一石の税金三拾円の酒でも四拾円の酒でも平気でこれを飲み干す程の、蓄積と奉公心とが無くてはならぬのに、唯今の処一石二十円の酒さえこれを飲み得ず、こそこそと密造するようでは、甚だ頼み甲斐のない事だと思います。 5,税金は何が一番多いか …我が国で二十個師団の兵を備え置く為には一年に八千万円を要し、六十万トンの海軍を保つには一年に五千万円を要するから、結局酒税と砂糖税だけあれば、陸海軍を備え置いて余りあるわけで、尚平らく言えば吾人は大いに働いて大いに益し、大いに酒を飲み、大いに砂糖を嘗めて、陸軍も海軍も酒党と餅党でこれを強大にしてして行くことが出来る勘定になっているけれども、一方経済と衛生とを度外視する訳に行かないから、節制中庸を得べきことはもちろんのことであります。(「酒のみの社会学」 清水新二) 大正6年に地方税務署から出されたものだそうです。


神楽河岸
材木屋さんが立ち退きを拒否して、水辺の景観論争が一時起こった飯田橋の北岸は、町の名を新宿区神楽河岸という。神楽河岸の道路を一本へだてて北側は、同区揚場町。神楽河岸は今、都市再開発の建設工事現場になっていて想像もできないけれど、ここは昔、実際に河岸(荷揚げ場)があって、神田川から飯田堀へ入ってきた荷船、屋形船などが着いた。その唯一の証拠として、白壁のはげかかった古い土蔵が五棟、道路にそって建っている。土蔵の持ち主は、灘酒・白鷹の関東総代理店、升本総本店。五代前の初代升本喜兵衛は江戸末期の文政五年(一八二二)に生まれ、のち酒商と不動産業とで明治時代の百万長者になっている。灘からはるばる廻船で届いた酒樽が直接、店の前に揚がった、と古い店員の間にはまだ話が残っている。(「神田川」 朝日新聞社会部) 今の飯田橋ラムラのあるあたりのようです。升本はどこかに吸収されてしまったのでしょうか。


西鳳酒(シイホンチュウ)
中国の国家名酒の一つに「西鳳酒(シイホンチュウ)」というのがあります。有名な茅台酒と肩を並べるぐらい中国では名の知れた高級酒で、アルコール度数六十五パーセントもある蒸留酒です。その西鳳酒を入れて何年かじっくり熟成させる容器は、豚の血が関係しているのです。その容器のことを「酒海(チュウハイ)」と呼び、柳の枝で編んだ巨大な籠(かご)に、血料紙という豚の血と石灰とを混ぜてこしらえた丈夫な麻紙を内側から何重にも糊付けしていってつくり上げた容器です。昔、中国の古老が独創したものだそうですが、血料紙などという紙を貼ってつくった酒の容器ですから、そう大きなものとは考えづらいでありましょうが、実は小さいものでも五百キロの酒を貯えることができ、大きなものになると何と五トンもの酒が入るほどであります。この容器を「酒海」と名付けたのも、酒を海の水のごとく満々と湛えて貯えることができるという、容器の大きさから付けられたものなのです。この酒海に蒸留したての西鳳酒を入れておきますと、酒は血料紙に固定されている豚血中のミネラルと接触し、その反応で特有の熟成が進んでマイルドさを増し、芳醇化が促進されていくのです。つまり豚の血は最高級酒の熟成促進にも使われているのでした。


美酒(うまざけ)の歌
万葉調を主唱した真淵に、万葉歌人にならってか、酒を賛美する歌がある。「美酒の歌」である。
美(うま)らに 喫(おやら)ふる哉(かね)や 一杯二杯(ひとつきふたつき) ゑらゑらに 掌底(たなそこ)拍(う)ち挙ぐるかねや 三杯四杯 言直(ことなお)し 心直しもよ 五杯六杯 天足(あまたら)し 国足らすもよ 七杯八杯
真淵の酒量はわからないが、こよなく酒を愛する気持ちを、古風で奇抜な表現で、のびのびと歌いあげている。庭には梅や桜も植えられているようだが、この歌は月見というよりは「花見の酒を思わす歌である。(「江戸諷詠散歩」 秋山忠彌)
にほどりの 葛飾早稲の 新しぼり 酌みつゝおれば 月かたぶきぬ といううたもあるそうです。


洞庭湖に遊ぶ 酔後
戔リ却君山好 (君山を 戔リ却サンキャクするが好し) 君山を戔リケズりとってしまうのがよい
平 鋪湘水流 (湘水を 平鋪ヘイホして 流れしめん) 湘江の水を、平らかに鋪シきのべて、流れさせよう
巴 陵無限酒 (巴陵ハリョウ 無限の酒) ここ巴陵の地の、無限の酒を飲んで
酔 殺洞庭秋 (酔殺スイサツす 洞庭の秋) 洞庭湖の秋景色の中で酔いつぶれよう(「李白詩選」 村松友久編訳)
さすが白髪三千丈の李白の詩ですね。


下賜の盃
幕府は朝廷に福の参内(さんだい)を強要した。彼女が参内した寛永六年(一六二九)十月十日、公卿の西洞院時慶(ときよし)はその日記に、「稀代儀也(きだいのぎなり)」と、ふきこぼれるような不快をこめている。幕府としては、福という庶民を参内させることによって、公家の誇りをくだくつもりだったのだろう。福その人にどんなつもりがあったのかよくわからないが、彼女にすれば、江戸城大奥における自分の権勢と才覚をもって天皇をひるがえしてみせる自信があったはずである。が、さすがの彼女も、宮中の儀礼には、歯が立たなかった。参内したものの、みかどは御簾(みす)のかなたにあり、彼女からことばを発することもできず、そのうち長橋の局(つぼね)という者がすすみ出て、下賜(かし)の盃というものを福にとらせた。福が、天盃に唇をつけると、儀式はそれでおわった。結局、みかどは福の強行参内によって幕府への積年の憤りを爆発させ、ほどなく譲位した。福の強行参内はむしろ朝幕の間を冷えさせただけでおわった。(「本郷界隈 街道を行く37」 司馬遼太郎) 福は、徳川家光の乳母・春日局、退位したのは後水尾天皇。幕府がその権威を示すために、宮中から紫衣(しえ)を許された禅僧たちに対しそれを無効とし、抗議した沢庵禅師らを流刑にしたため、後水尾天皇が退位することを宣言、驚いた秀忠が送り込んだのが福だそうです。


百姓と運の女神
或る百姓が地を掘り返していると、金を掘り当てました。そこで彼は恵みを与えて下さったのは地の女神だと思って、毎日この女神にお神酒(みき)を上げていました。と、運の女神が彼のもとに現れておっしゃいました。「そちは私がそちを金持ちにしようと思って、そちに贈った私の贈り物を、何故地の女神のお陰にするのか。この好い時節が変って、金が他人の手に落ちるようなことになったら、その時そちが責めるのはきっと運の神の私だろう。」 この物語は、恵みを与える人が誰であるかをよく見きわめて、その人に御恩返しをしなければならない、ということを明らかにしています、(「イソップ寓話集」 山本光雄訳)


鳥井と春団治
サントリーの鳥井信治郎は、初代桂春団治のはなしを、じつによく知っていた。「そんなにおぼえるほど、寄席にかようひまがあったんですか」と尋ねたら、「ひとりでしゃべっているのを聴いたんですよ」「?」「春団治の家が、うちの隣でした」(「最後のちょっといい話」 戸板康二) それにしても、よくそんなひまがあったものです。


最後の一杯
その老人がバーの隅っこで一人で飲んでいたことは、二人とも知っていた。因縁でもつけにきたのか、と初めは警戒した。ごつい手をしていて、身なりもインテリには見えない。しかし、おじいさんは白いひげを夕日に染めながら、底抜けに明るい調子で続けた。「今日は金曜日、ペイデーなのさ。さあ、店へ戻って一杯おごらせてくれ。そうすれば君たちも、この街にいい印象を持って日本とやらいう国へ帰ってくれるかもしれんからな」きっと老人は隅のほうから、二人が額を寄せてなけなしの小銭を数えているところを見ていた。よほど貧しい旅人に見えたのだろう。彼自身、決して豊かではない。それでも飲み足りなそうなこちらにおごってくれようとしている。(「読むクスリ」 上前淳一郎) 昭和三十九年のワシントンで、当時三十代で関西放送部長だった人の体験談だそうです。


三つの美
「居酒屋にいちばん大事なことは、酒や肴の安いことさ。そのほかには、三つの美だな」「なんですか、三つの美とは?」こういう場合、恵一はまばたきもしないで老亭主を見つめる。すると、相手は珍しくニヤリと笑い、指を折って見せる。「美人、美味、美技さ」「前の二つは分かるけど。…あとの美技ってのは何ですか?」「亭主のワザだよ。…分かんないかね?」「へえ?」恵一は首をひねった。老亭主のどこにワザがあるのか見当もつかなかった。亭主は客達のほうへ目をとめたまま、低い声で言った。「いいかい。あの真ん中の客は、あと二度、猪口(ちょこ)に酒を注ぐと銚子(ちょうし)がカラになる。その隣の客の銚子には、まだ三分の二残っている」「ああっ」恵一はようやく気がついて、息を呑んだ。「お客は、あたしが銚子を燗して出すのを、黙って受けとればいいのさ。阿吽(あうん)の呼吸とでもいうのかな。その分、気持ちよく落ち着いて飲んだり話したりしていられる。…もっとも飲みすぎないように、こちらが適量を用心しなくちゃならないがね」(「居酒屋志願」 内海隆一郎)


脇差
昔、ある所に、金銀米銭豊かに、心正直で礼儀正しく、慈悲心があって、欲心もそれほどない町人があった。あるとき、お城に御用があって参上したとき、若侍たちが、この町人の腰の脇差を見せてほしいと頼んだ。「どうぞご覧下さい」と見せたところ、「なんと品のない脇差だ。これが何の役に立つ」と嘲笑され、町人が言った。「三ず、と銘をつけて、重代の宝でございます」「三ずと申す、その由来はいかに」「切れず、貫かず、値高からずの、ずが三つでございます」と答えたので、一座が大笑いになった。そこで町人が、「お笑いになってはいけませぬ。皆様方のお腰のものに劣らぬものは別に持っております。それは、火の用心がよい蔵に酒を多く造って入れ、暴利をむさぼらず損をせず、売る者も買う人もよく、世間が富貴安穏にあるようにと、朝夕に祈っておりますので、金銀にもこと欠かず、他人にうらまれることもございませぬ。この心がけこそ町人の魂と言うべきでしょう」と語ると、一座はしんみりと聞き入った。この一言、当世町人の鑑とすべきであろう。(「可笑記」 渡辺守邦訳)


團伊玖磨の酒
僕の二十代は酒には全く無縁だった。祖父も父も一滴も酒を嗜まぬ人達だったから、家庭に酒らしい酒が無かった事も手伝って、それに、二十代の半ばに独立してからは極貧の限りだったし、極貧の中で勉強と創作に時の総てを奪われていたので、正直、酒どころでは無かったのである。三十代になって、徐々に大掛かりな曲を書いては演奏するようになると、目の前に現れて青二才の僕を指導し、引き立てゝ呉れた先輩はどういう訳か蟒蛇(うわばみ)のような人達ばかりで、その先輩の蟒蛇達は、一人宛(ずつ)、或いは時に依っては束になって僕に酒を勧め、「酒ぐらい呑めなくては将来が覚束無い」「特訓を施す必要がある」「酒が呑めないようでは海外に雄飛は出来ない」揚げ句の果ては、「酒が呑めなくてどうして良い作曲が出来ようか」などと李白のような事迄言い出して、純情だった僕を賺(すか)し、威(おど)し、あの手この手で苦しがる僕に酒を教える義務感に奮い立ち、こちらも嘔吐・悶絶を繰り返しながら特訓を受けて立ったので、どうやら三十を少し許り越えた頃には、一人前かその二・三倍位は酒を呑めるようになって、夜な夜な銀座辺りの酒の匂いのする湿った路地から路地を彷徨する身となった。大蟒蛇達が、山田耕筰、近衛秀麿、伊藤道郎、伊藤喜愬といった尊敬する先輩達だったために、特訓を断る事が出来なかった事が理由でもあった。(「なおかつ パイプのけむり」 團伊玖磨)


汁粉
中年までは甘いもの一本槍で、アルコールときたら奈良漬けをかじっても顔が赤くなるなんていっていたのが、ある日突然大酒のみになっちまったなんて例は、身のまわりを見まわしてもいくらでもある。落語協会会長の柳家小さんは、「斗酒(としゅ)なお辞せず」といった風格ある酒のみだが、これが三十歳くらいまでは、一滴もやらなかったとだいぶ前にきいたことがある。それまではいったいなにが好物だったんで……とたずねたら、師匠、ぼそっとひとこと、「お汁粉」と答えたものだから、こちらは思わずふきだした。どうものん兵衛にとって、あの「お汁粉」というやつ天敵のようなところがあるようだ。(「落語長屋の四季」 矢野誠一) 先日寄った飲み屋さんでは、仕上げにこれを出して、「酒の後のお汁粉もなかなかのものでしょう」といっていました。そうなんだろうなとなんとなく納得しながら食べてきました。


うるかは良薬
うるかも亦、一種の良薬である。私が病気静養のため、狩野川で釣を垂れていた際、随行した家内が、急に腹いたを起して困ったことがあったが、稚児ヶ淵の釣宿の老主人が出して呉れた渋臭いいるかを、小盃に半杯ほど喰べさせたところ、忽ちにして、快復してしまった。驚くべき効能である。鮎の喰べる水苔により。うるかもいろいろ味が違う。秋田の瀬見温泉の流れに育った水苔がナンバー・ワンだ、と説く人もある私の浅い経験から云えば、「落ち行く先は九州相良(さがら)」とうたわれた人吉の町から三里ばかり川下に天狗岩というところがあるが、あの辺のものがよいようだ。昔、加藤清正がやってきてこれから川上には人は棲んでいないだろう、と云って引きあげたところだと云われる。このあたりのものが、なぜうまいのか、清正にでも聞かないかぎる、理由(わけ)が判らない。殊に金子(きんこ)うるかに至っては、長良川のものや高梁川のものの遠く及ばない気品を備えているのが奇妙である。(「酒のさかな」 林逸郎) 胃腸の弱い酒のみにむいた肴なのでしょうか。もっとも良薬ふところにもにがしとか…。著者は東京裁判で弁護人の一人となった人だそうです。


反対じゃないか
二人の一杯機嫌の男が、夜、千鳥足で公園を歩いていた。ひとりが水たまりのなかに映っているものをみていった。
「おい、おれがみているあれは何だ」
「月さ」連れが答えた。
「なんてこった」男がいった。「それじゃいったい、おれはどうやって立っているんだろう」(ポケット・ジョーク 角川文庫) これは一杯機嫌ではなく、泥酔ですね。


枕山と鶴皐
昔大沼枕山(ちんざん)と皆川鶴皐(かっこう)とが、酔歩蹣跚(まんさん)として、向島の夜桜を賞するうち、ハグれてしまい、枕山は花守の家に泊めてもらい、鶴皐は橋場の渡しの水際にうたた寝をした。夜中に、「オヤ、寝小便をたれたかな」と思って起上がると、鶴皐の腰から下は上げ潮に浸っているのであった。見ると無数の白魚船が、星のように散っていた。「オーイ白魚船−」と妙な呼び方をして、一隻の船を呼び、漁獲全部を仕舞ってやり、鶏鳴(けいめい)の頃家に帰りついた。さっそく枕山を迎えにやると、枕山も夜桜の風(風邪)をひいて、クサメをしながら帰ったところだった。鶴皐は上げ潮の腰湯で冷えきっていた。二人の詩仙は蒼い顔を見合せて、杯をあげながら、白魚の吸物をチュチュすすった。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 白魚を一隻とは大散財、よほど不漁だったのでしょうか。


熊楠の帰国
《…小生ロンドンを去るに臨み、角屋(居酒屋)の亭主、酌女(しゃくおんな)ども別れを惜しみ、椅子に居据(いすわ)ったまゝ動かぬにより、領布(ひれ)捨(振)山の昔を思い、石にでも成りはせぬかと問い合わせしに、毎度ながら余り尻が永いので、各々帰宅の道の遠きを案じ容易に動かれぬとの苦情、それではとヤオラ戸外に出ずれば、毎屋半弔旗を掲げ候。扨は南方先生の去るを悲む古意かと思いきや、女王の倅が死んだのと、イタリー王の鉄砲疵のお弔いの為と聞き、飲む人も飲まるゝ酒も諸共に、如露如小便応作如是閑…略)》(福本日南への書信)(「縛られた巨人」 神坂次郎) 明治33年(1900)9月1日にロンドンを発ったそうです。熊楠の日記や手紙の類は、彼の超人的な記憶力のために割合信頼されるようですが、結構創作の部分も多いようです。しかし、酒の飲みっぷりの表現にはうそはないように思えませんか。


那須の與一(なすのよいち)
その時與一、潮(うしお)を掬(むす)んで手水(ちょうず)とし、眼を塞(ふさ)ぎ、南無帰命八幡大菩薩、別してわが国の那須はゆうぜん大明神、本国に還さんと思召(おぼしめ)さば、この矢外させ給ふなよ、若し射損ずるものならば、弓三つに切り折り、海中に飛込み、毒龍となつて、源氏方の氏神にさゝはりを為さん事必定(ひつじょう)なりと眼(まなこ)を開き見てあれば、浪風とうとしづまつて、扇も射よげにこそ見えにけり。その時與一、小兵(こひょう)とは云ふ條、三人張に十三束(ぞく)、よつぴいてひゃうと射た。この矢過(あやま)たず、扇のくまでをひいふつと射切つて、鏑(かぶら)は海に入り「皆紅(みなくれない)の扇は、春風に一揉(も)み二揉み揉まれ、雲にあがつて海にざつぷと入る。その時平家は舷(ふなばた)を叩いて、射たりや射たりと感じければ、源氏は箙(えびら)を叩いて、射たりや射たり與一とて喜ぶ。その時判官(ほうがん)餘りの嬉しさに、小額(こびたい)はつたと打つて、いとほしの與一や、よう射させた、けなもの、こちらへ来て、餅を飲うで、酒を食へと御諚あつたとぞ申しける。(「狂言記」) 最後のところの注には、「飲むと食ふとを聞違へて言へるが狂言也」とあります。


ブルーマー夫人
一八五一年、万国博覧会で賑わっていたロンドンに、アメリカから数人の珍しい客が訪れた。アメリカにおける禁酒運動とフェミニズム運動の指導者として知られたアミーリア・ブルーマー(一八一八−九四)と、彼女の仲間たちである。一行は、古い制度に縛られていたイギリスの女性たちの間で、意義ある啓蒙運動をを展開できるはずであった。ところが彼女らは、少なくともロンドンのジャーナリズム界からは、風刺の対象としてしか注目されなかった。その頃に流行していたイギリスの婦人服−とりわけ次章で取り上げるクリノリンとは、あまりにもかけ離れた、奇抜な服装をしていたらである。日本でもなじみの深い「ブルーマー」が、ブル−マー夫人に因んで一般化したことはいうまでもないが、この衣装の発明者が彼女であったというのではない。それを最初に考案したのは、リビー・スミスというアメリカ女性であった。長いたるんだ東洋風のパンタロンと短いスカートから成るこのスタイルは、やがてリビーの従姉妹で、女性解放運動に熱心であったエリザベス・ケイディ・スタントンの関心をひきつけるところとなり、彼女を通じて、ブルーマー夫人に伝えられたのである。ブルーマー夫人は、当時彼女が編集に当たっていた禁酒とフェミニズム運動のための雑誌『ザ・リリー』にこの服装を紹介、たちまちのうちに大評判となって「ブルーマーズ」という名称が生まれる結果になった。(「パンチ素描集」 村松昌家編) ちなみに、クリノリンは、「フープを数段に組み立ててこしらえた、硬いペチコーチ」だそうです。


田中小実昌の酒
ちゃんとしたレストランだから、メニューがくばられる。かたい、りっぱな表紙のメニューで、かなり重い。マコはいいかげんな(失礼!)女なのに、メミューはしっかり読んで、ぼくのぶんまで注文してくれる。だから、マコはナヴィゲーター(航海士)、とアックイはわらって言う。このとき、みんなまだ酔っておらず、わりとマジメな顔でメニューを見ていた。ぼくもメニューの表紙を開いていたが、読んではいない。そのうち、マコがさいしょに、そしてみんなも気がついた。ぼくが読んでいないはずで、かたくりっぱで重い表紙だが、なかのメニューは、ぼくのだけはいっていなかかったのだ。「よく、人をみているわ」とマコが皮肉る。「コミさんはどうせメニューなんか読まないから、表紙だけで、メニューはいれてないのよ」このときたべた料理は−。帆立貝と白い豆。インゲンとはちょっとちがう、と言う人もいる。クラムソースのスパゲティ。エビのスパゲティ。仔牛のフィレ・ミニヨン。生ハムのプロシュート。生肉をクレソンに包んだもの。そのほかにもあれこれ料理があって、白ワインを四本は飲んだ。四本は多い。しかもそのあとにも、ほかのバーでたくさん飲んでいる。(「世界酔いどれ紀行 ふらふら」 田中小実昌) ニューヨークのバロロというイタリア料理店での話だそうです。


ドンカン
翌日は、十一時に平甚(ひらじん)へ行った。黙っていると酒が出てきた。ソバ屋で酒を飲むのが好きだと言ったのだから仕方がない。その積翠(せきすい)が結構である。郡上八幡ではぬる目の燗のことをドンカンと言う。平甚の徳利には、ぬるいほうがうまいのだから文句を言うなという意味のことが焼きつけてある。私なんかもこれには賛成で、土地の人は、それだけ地酒に自信を持っているのだろう。しかし、高田先生に、おいドンカンと叫ばれると、坐っていても一尺ぐらい飛びあがりそうになる。(「酔いどれ紀行」 山口瞳) 郡上八幡にての酒記です。平甚は有名な蕎麦屋で、積翠は、平野本店の清酒、高田先生は、地元の案内役の一人、地元の高校の先生だそうです。


頭骨
人間の頭骨は、コップに使われることが多かった。クロマニヨン人の時からだ。意味があってか、便利さのためかは不明。
中世では儀式の時、聖人のそれを杯として使った。詩人バイロンは、それでワインを飲んだ。アフリカの一部では今も使われている。(「アシモフの雑学コレクション」 星新一 編訳) 織田信長  しゃれこうべ杯 バイロン この話題は多いようですね。


カローラン、米元章
 十八世紀初め、アイルランドにカローランという吟遊詩人がいた。酒好きで飲みすぎ仆(たお)れたが、なお「酒、酒」というので、やむを得ず一杯注いでやった。しかし彼は、もうそれを飲む力がなく、杯に唇をふれて、「この親友にキッスもせずに死なれるか」
 宋時代に米元章という優れた書家がいた。彼は気の合った友人をよび、酒を飲みながら、書を書くのが好きだった。書を書くための紙を山と積み上げ、酒壺をずらりと並べ、猛烈なスピードで飲んだり、書いたりし、両方ともなくなるまで続けるのだった。彼が猛烈なスピードで書きまくるので、彼のそばに坐って彼のために墨をする少年は、くたびれてのびてしまうほどだった。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎)


《だんろ》
124 暖炉に薪を積み上げて、冷えをゆるめよ、またいつもよりたっぷりと、なあタリアルクス、四年もののサビニのうま酒を、二つ耳の壺に入れて、出してくれや。     ホラティウス『詩集』第一巻9.5
今は冬、家にこもり、暖炉を燃やし、酒を酌み、ほかのことはみな神様におまかせするがよい。明日はいかになどと尋ねるな。若者にのみ許される楽しみを楽しめ、と歌う。(「ギリシア・ローマ名言集」 岩波文庫)


芥川比呂志の酒
ところがここに酔わねば、まことに紳士であるが、一度、酔いがまわると、怒り上戸、喧嘩上戸、はしご上戸の三つを兼ねられる御仁がいられる。皆さま御存知の新劇俳優、芥川比呂志氏がそれである。私は芥川氏とは大学の時から先輩後輩でもあり、かつ演劇を手をとり足をとって教えて頂いた師弟の関係なので、度々酒席にもお供したのであるが、いつも泣かずにはいられなかった。まず第一に帰りましょうと申しあげても帰られない。アッチに行きコッチに寄り、無理に車に押し込めば、出鱈目の方向を運転手に教え、寝静まった街をぐるぐると引きまわされ、やっとの思いでお宅までお送りすると、今度は車の窓にしがみついてお降りにならず、指一本一本もぎはなすようにせねばならぬというわけなのである。(「あいつの酒癖」 遠藤周作)


上方落語協会会長・笑福亭松鶴(しょかく)
実はこの人、二度会長になっている。最初の会長、わずか十日間で、林家染丸に譲ってしまったのである。−
十日目の楽日をむかえた。勘定取りの方も、今日こそは取らずば帰らじの決意を秘めている。その数も、初日の数倍にふくれあがった。さすがの松鶴も観念したのか、「ほなら、高座終るまで、みんな楽屋で待っといて」 和服、洋服、色とりどりのきれいどころがおしかけた松鶴の楽屋、ときならぬ訪問客の香水のにおいが充満し、なんともなまめかしい風情。いかなることにあいなるか、かたずをのむほかの芸人の心配をよそに、舞台を終えて、悪びれる風もなく、楽屋に戻った鶴松、部屋のスミからスミまでゆっくり見回すと、口を開いた。「端から端まで、かためて…」と、ここで一息つくと、調子がもひとつ、ぽォんとあがって、「ないッ」 立派なものである。ないものからは取れない。しぶしぶきれいどころが帰ったあと、ぽつりといった。「わて、会長やめるワ。毎日これじゃ、若いもんにしめしがつかへん」(「酔いどれ貴族・笑福亭松鶴」 矢野誠一) 六代目笑福亭松鶴の逸話だそうです。


阮籍の「詠懐詩」
実際の生活ではたいへんな飲酒家であったとされる彼の「詠懐詩」に、酒の字はほとんど現れない。其の三十四の「觴(さかずき)に臨(のぞ)みて哀楚(あいそ)多く、我が故時(こじ)の人を思う、酒に対して言う能(あた)わず、悽愴(せいそう)して酸辛(さんしん)を懐く」と、其の六十七の「堂上には玄酒(げんしゅ)を置き」というのが、その乏しい例であるが、前者は四言の詩に「觴に臨んで膺(むね)を拊(う)ち、食に対して餐を忘る」というのとともに、飲むを欲せざる酒であり、後者は形式主義者の応接室にある酒、しかも玄酒といえば実は水である。要するに飲酒のたのしみを歌う句は、皆無である。(「阮籍の『詠懐詩』について 吉川幸次郎) 「五言詩は、阮籍において、知識人が、その人生観世界観を歌い得る文学となったと共に、知識人がもっとも正直にその心情を吐露すべき文学形式となる伝統も、ここに成立した」と、「詠歌詩」が中国の詩の世界におけるエポックとなったものであると吉川幸次郎は書いています。


阮籍(げんせき)の酒
彼は、常識をこえた大酒のみであった。彼が晩年、欣然として、歩兵の校尉(こうい)という官に就いたのは、その役所の倉庫に数百石の美酒がたくわえられてあることを耳にしたからだという。−
彼は生前の母に対して至って孝行であり、母が死ぬと大へんやせおとろえたが、平気で酒を飲み、肉を食った。さて、いよいよ埋葬という日、それはかずかずの喪の儀式の中でもことに重要な日であるが、その日、彼は油ののった子豚をむしやきにし、二斗の酒を飲んだうえ、母のひつぎに別れをつげた。そうして、−だめだ。とただひとこというと、血をはいて、ぶっ倒れ、半病人のようになった。−
時の実際の主権者である司馬昭は、その息子の司馬炎の嫁として、阮籍の娘を迎えるつもりであったが、阮籍が六十日間も酔っぱらいつづけていたので、そのことを切り出す機会を逸したという。−(「阮籍伝」 吉川幸次郎) 数々の逸話を残す、竹林の七賢の一人、阮籍の酒話です。「白眼視」の「白眼」もこの人ですね。


独酌の境地
一人で何か旨(うま)いものを食べてゐると、手を動かしながら口を利かなければならない面倒も忘れて、誰か相手が欲しくなるものであるが、飲むのは一人でも充分に楽める。食べるのには限度があつても、飲む方はいつまでも続けられるといふこともあるだらうし、飲むのは食べるのと違つて我々の頭にも働き掛ける。我々が疲れを忘れれば、頭が働き出すのは当然であつて、その為に一人で飲んでゐると言つても、必ずしも一人でゐるのではない。誰だつたかが、人間はいつも未来か、過去のことを考へてゐて、現在に生きてゐることは余りないとどこかで書いてゐる通り、我々は現在、自分が置かれてゐる状態に縛られてはゐなくて、過去にも、未来にも道が開けてゐることは、つまり一人でゐる訳ではないといふことにもなる。過去には死んだ親しい人たちや、自分がした仕事があり、未来には、少なくともその果てには静寂が我々を待つてゐる。そして酒を飲んでゐる時はあくせくとそんなことを考へてゐるのではなくて、我々は現在にも生きてゐる。文天祥だつて、結構、独酌の境地にあつたかも知れないのである。(「三楽」 吉田健一) まさに吉田節です。文天祥は、南宋末の宰相で、元(げん)に捕らえられ、土牢中で「正気の歌」をつくった人だそうです。


カラオケ3曲歌った直後
二十四日午後七時四十五分ごろ、静岡県賀茂郡東伊豆町稲取一六二四の一、ホテル「銀水荘」で、川崎市中原区○○、農業、○○(六七)が宴会中にカラオケで歌を歌い、席にもどったところ突然倒れ、脳内出血で間もなく死亡した。下田署の調べによると、○○さんは同区内町内会連絡協議会の役員五十人と一緒に一泊の慰安旅行にきていた。以前から血圧が高く、宴会で日本酒約○・九gを飲んだうえカラオケで三曲歌うなど張り切りすぎたらしい。(昭和58年11月25日 毎日夕刊)(「B級ニュース図鑑」 泉麻人) 原文には本名が書かれています。いつも思うのですが、○・九gという表現ははいただけませんね。


高杉晋作作詞
晋作は、練達の文人でもあった。飲みながら即興で作詞する俗謡は、センスにあふれている。有名なのは、
三千世界の烏を殺し 主(ぬし)と朝寝がしてみたい
まことに、乙な味がある。
苦労する身はなに厭(いと)はねど 苦労し甲斐があるやうに
ままよ三升樽横手にさげて やぶれかぶれの頬かぶり
いなせなもんだ。(「幕末酒徒列伝」 村島健一) 「おもしろきこともなき世をおもしろく」の高杉晋作の辞世の下句に、「住みなすものは心なりけり」をつけた野村望東尼を、上句を冒涜していると村島が罵倒しているところの一部です。


流行三人生酔
「腹たつも 笑ふもな(泣)くも 御馳走は ゑらゐ(えらい)なまつ(鯰)の 焼肴なり」とある「流行三人生酔(なまよい)」は、大地震によって得した者、損した者を三人上戸の形式で描いている。すなわち、貸家や商品を失った金持商人は「腹たち上戸」、震災のために客足がとまりすっかりさびれた花街(はなまち)芸者は「なき上戸」、復興のために仕事がふえた職人は「わらひ上戸」の三態である。まさに震災後の世相を風刺している。(「近代日本漫画百選」 清水勲編 岩波文庫) 解説されている漫画は、「筆者不詳 『流行三人生酔』(鯰絵) 安政2(1855)年」というものだそうです。三上戸とは、いうまでもなく、泣き、笑い、怒りの三つの上戸です。


ウィスキーの起源−推論(2)
カミニウスが錬金術の研究者となったのをみずから認めたのは、やっとダムフリーズの父の家に帰ってからだった。「私の主な研究対象となったものに対して父がこれほど断乎と反対したので、私は悲しくなった。私の研究は永生と賢者の石の探求にあるというのに」 ここで説明しておかなければならぬが、錬金術師というのは、非金属を黄金に変えようと考えたほど無知な初期の科学者にすぎなかったのではない。錬金術師の真にめざすところは、宇宙との神秘的な一体感を経験することなのであり、黄金は精神的な完成を象徴しているのだ。カミニウスがこれを信じていたことは彼の原稿から明かである。一二九七年の六月、長いお祈りと斎戒沐浴の後で彼は「秘密の仕事」を開始した。彼の記録によれば、九月初旬に彼は「純度も強度も非常に高い霊薬(エリクサー)」を作り出したという。この「霊薬」とは何であったのか。彼はそれを説明してはいないが、彼の原稿から察すると、証拠は今や歴然としている。彼はあの一瓶の「サケ」を蒸留して、少量の米穀アルコールを作り出したのである。それはほんの数滴でしかなかった筈である。清酒は一瓶しかなかったのだから。(「ウィスキーの起源−推論」 コリン・ウィルソン サントリー博物館文庫7) ただし、この資料を筆者に提供した人は、いかさまであるといっているそうです。


ウィスキーの起源−推論(1)
現在ではとても考えられないことだが、たいがいのヴェニス人はマルコ・ポーロの驚愕すべき旅行談を信じようとしなかった。彼は途方もなく遠い国のことを語る男ということで「マルコ・ミリオンズ」(百万マルコ)の名で知られるようにさえなった。だが、ジョハネス・カミニウスは彼の話を信じた。カミニウスは前々から、錬金術が中国で発源したという噂(それは現代の調査によって確認されている)を聞いていたのである。こうしてカミニウスはマルコ・ポーロを捜し当て、一二九六年の前半の半年間、二人は互いに離れられぬ仲となった。その後ポーロは対ジェノア戦争に出陣して捕虜となり、獄中であの有名な旅行記を書いたのである。カミニウスのほうはスコットランドへ帰国した。そのとき、ポーロ達が中国から持ち帰った土産の一つである清酒を一瓶、携えてきたのである。「この<サケ>はキャセイの海岸の沖にあるジパング島で初めて作られたものである」とカミニウスは書いている。ジパング島とは、むろん日本のことだ。(「ウィスキーの起源−推論」 コリン・ウィルソン サントリー博物館文庫7) 有名な旅行記は「東方見聞録」、キャセイは中国のことだそうです。


酒のことわざ(6)
こけ徳利で出放題(こけ徳利は倒れた徳利、口から出まかせをいう)
小言は言うべし酒は買うべし(悪いことは遠慮なくしかり、そのかわりよいことはほめること)
乞食酒(口の卑しい酒飲み。無代の酒ならかんざましでも飲みたがる類をいう)
五十煙草に百酒(五十歳になるまで煙草を、百歳になるまで酒をのまない意で、一生の禁酒禁煙)
碁上戸(碁打ちと酒のみにはあとを引く悪癖があること)(故事ことわざ辞典」 鈴木・広田)


大酒を岡にてふせぐ
大岡はかさかき女郎もう勤はならぬ という落首もこの(享保)十八年(一七三三)かあるいはさほど遠くないころのものである。「かさかき女郎」とは梅毒をわずらった遊女のことで、大岡忠相も同様で、もはや使いものにならないという意味である。痛烈な批判である。元文元年(一七三六)は、大岡忠相が大名となり、寺社奉行に昇進した年である。異例の出世であり、以後このようなことはついになかった。ところが世評は以外と冷たいものがあったようで、同年の「元文世説」に、 去る文字の句の中へ入れて 酒をにてふせぐ浅ましや 度(おちど)のをしらぬなり というのがある。町奉行の地位を去りゆく大岡に対し、自己の失策をそのままに知らぬ顔をして出世していったというのであろうか。「越度」とは貨幣改鋳の問題を指すのであろう。当時の落首は城中の人事について詳しい情報をもつ者、政治の裏面の事情に通じた者がつくったと思われるものが少なくない。(「江戸巨大都市考」 南和男) 享保十八年は、米価高騰による江戸で初めての打ちこわしのあった年だそうです。


酒の詩歌
すがた見の 息のくもりに 消されたる 酔ひのうるみの 眸(まみ)のかなしさ(石川啄木)
少女言ふ この人なりき 酒甕(さかがめ)に 凭(もた)りて眠るを 常なりしひと(吉井勇)
ほのかにも 袂にのこる 酒の香の かなしきがごと 春はくれゆく(木下杢太郎)
独居は なにかくつろぐ 午(ひる)たけて 酒こほしかも この菊盛り(北原白秋)
黄菊白菊 酒中の天地 貪ならず(夏目漱石)
熱燗や 状書きさして とりあへず(久保田万太郎)
大雪や 噺(はなし)の中の コップ酒(正岡容)(「日本酒入門」 中尾進彦)


無線電話
アメリカの名優ジョン・バリモアとリチャード、ベネットは、偶然ロンドンであい、痛飲した。翌朝ベネットは目を覚ますと頭が重かった。フト「バリモアは無事ホテルに帰れたろうか」と心配になり、電話した。数分たったがバリモアは電話に出てこない。しかしベネットが電話機に「もしもし」と怒鳴ると、バリモアの声で「もしもし」という答がもどってきた。「元気かい?」「ああ元気だ。君は?」「ぼくも元気だ。すぐ君のところへ行くよ。君は部屋にいるの、それともロビー?」「わからないよ」「いったいどこにいるんだ!」「ここだよ」そういいながらバリモアはベネットのベッドの下からはい出してきた。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) くれぐれも携帯で話していると錯覚しないでください。


二日酔い処方
アメリカのワラウ・インディアンの処方はそれに比べるといくぶん実際的だ。二日酔いになったら、奥さんに頼んで、ハンモックにミイラのように縛りつけておいてもらうのだそうである。苦しさのあまり暴れたり、あるいは迎え酒に手をのばしたりしないような生活の知恵だろう。同じくハイチのブードゥー教のまじないによる二日酔いの治療は、自分を酔っ払わせた酒に呪いをかけるというもので、酒ビンのコルクに、十三本のピンをつきさす、ということだが、これは酒をうらんで、次回からあまり飲まないようにする効果はあるかもしれないが二日酔いの、二日酔いの症状を軽減させるとはとても思えない。(「トンデモ一行知識の逆襲」 唐沢俊一) フクロウの目玉の続きです。


朝呑童子
慶応四年(一八六八)一月三日の鳥羽伏見の戦いは、戊辰(ぼしん)戦争の発端となった内戦だが、このときにはたとえば「大江山朝呑(ちょうどん)童子退治の図」と題したかわら版が出されている。大江山(京都府加佐郡大江町)の酒呑(しゅてん)童子伝説に仮託し、十五代将軍徳川慶喜(よしのぶ=けいき)を「朝呑童子景鬼(けいき)」として、戦いを報道したのである。かわら版には痛烈で、自在な批判精神もあった。江戸庶民はかわら版を片手に、縁台などで語りあい、ときにはよく書いてくれたと、拍手喝采した。(「お江戸の意外な生活事情」 中江克己) 今なら、「逆劣勢殉死郎の図」とでもいったところなのでしょうか。


ペッグ・タンカード
九五九年にイングランド王となったエドガーは、エイル・ハウスがあまり乱立したので、一つの村に一軒にするよう命じた。この王様は、国民が飲みすぎるのを心配していたようで、ペッグ・タンカードというのをつくらせた。これはタンカード(大コップ)にペッグ(栓)をつけたもので、このペッグによって、一回に、全体の八分の一しか出てこないようになっている。タンカードには二分の一ガロン入っているので、その八分の一、つまり二分の一パイントずつ出てくることになる。タンカードは手から手へ渡されて回し飲みされる。エドガー王は、一人が一飲みに、二分の一パイント以上飲めないようにしたのであった。ところがこれが逆効果で、ペック・ドリンキングといった飲み競べのゲームができてしまった。一人が一飲みで、二分の一パイントを干すと、ペッグをねじって、相手が二分の一パイントを飲む。このように交互にくりかえして、相手がダウンするまで、飲みつづけるのである。何ペッグ飲んだかを自慢するようになる。「テイク・ヒム・ダウン・ア・ペッグ・オア・トウ」(彼のの高慢な鼻をへし折る)といういい方があるのも、一目盛か二目盛、彼より多く飲み勝つことからきているのだろう。(「酒場の文化史」 海野弘) イギリスの1パイントは、0.568リットルだそうです。


百万分の一の違い
大蔵省の醸造試験所には、きき酒の専門家が嘱託になっているから、その専門家に合成酒の甘味の鑑定を頼んだことがある。だいぶ良いところまで近寄って来てから、最後に合成酒を調合する室と、鑑定の室を別にして、鑑定家にはどれだけ何を入れたかわからないようにして、百万分の一だけずつ甘味を増して行って、ついにこれでよろしいときまった。しかし一回ではその時の口の加減もあるからというので、やはり別の室で、きまった調合から、百万分の一だけ甘味を減らしたものを造って鑑定を乞うと、甘味が足りない。逆に百万分の一だけ多くしてみると、これは甘すぎるという鑑定には、故鈴木博士初め、ただただ驚くのほかはなかった。(「味覚」 大河内正敏) 理研でおこなわれた合成酒味作りの際の体験談だそうです。


選挙と酒
五日にはマンチェスターへ行ってクインス・ホテルに泊まった。ちょうどグラッドストーン内閣の選挙中で確かそこがグラッドストーン自身の選挙区であったと思う。酒場へ行っても、只今(ただいま)は選挙中だからといって、医者の指図で病人に飲ませるもののほかには酒を売らなかった。私もその取締りの厳なるには一驚した。そこでは取引所、職業学校、市長等を見学した。(「高橋是清自伝」 上塚司 編) 「専売商標保護に関する現法実視(げんぽうじっし)の為 欧米各国へ被差遣候事(さけんされそうろうこと)」という太政官辞令を受けて、明治18から19年にかけて、高橋が特許法の視察旅行をしたときのイギリスでの話だそうです。


「にごりえ」のお力の飲みっぷり
下座敷はいまだに客の騒ぎはげしく、お力の中座したるに不興(ぶきょう)して喧(やかま)しかりし折から、店口(みせぐち)にておやお皈(かえ)りかの声を聞くより、客を置きざりに中座するといふ法があるか、皈つたれば此処(ここ)へ来い、顔を見ねば承知せぬぞと威張(いば)りたてるを聞き流しに二階の座敷に結城を連れあげて、今夜も頭痛がするので御酒の相手は出来ませぬ、大勢の中に居れば御酒の香に酔ふて夢中になるも知れませぬから、少し休んで其後は知らず、今は御免なさりませと断りを言うてやるに、夫れで宜(い)いのか、怒りはしないか、やかましくなれば面倒であらうと結城が心づけるを、何(なん)のお店(たな)ものゝ白瓜(しろうり)が何(ど)んな事を仕出しませう、怒るなら怒れでござんすとて小女(こおんな)に言いつけてお銚子の支度、来るをば待ちかねて結城さん今夜は私に少し面白くない事があつて気が変つて居ますほどに其気(そのき)で付合て居て下され、御酒を思ひ切つて呑みまするから止(と)めて下さるな、酔うたらば介抱して下されといふに、君が酔つたを未(いま)だに見た事がない、気が晴れるほど呑むは宜いが、又頭痛がはじまりはせぬか、何が其様(そん)なに逆鱗(げきりん)にふれた事がある、僕らに言つては悪るい事かと問われるに、いま貴君(あなた)には聞て頂きたいのでござんす、酔うと申(もうし)ますから驚いてはいけませぬと嫣然(えんぜん)として、大湯呑(おおゆのみ)を取よせて二三杯は息もつかざりき。(「にごりえ」 樋口一葉)これで一つの文章です。


一人酒は本山葵と煤竹箸
部屋で一人で飲む時は肴なしが多いが、あれば嬉しい一品に、本山葵(ほんわさび)がある。本山葵を鮫皮で、のの字のの字に、優しくふんわりおろしたのをもぐさの形に猪口に盛る。それを、細い煤竹(すすたけ)の尖った箸の先端に、胡麻粒ほどに取り、酒の合間に口に含む。舌の味蕾が洗われて、視界が晴れるように、すっきりと呑める。これは嬉しい。
新酒利(き)く 佳き事ばかり 思い出し(ヒ)(呑々草子」 杉浦日向子)


俵万智作・酒銘の回文
・しきりに飛び、いい人に「力士」(しきりに飛ぶ人って、誰?)
・麻矢子と「男山」(麻矢子って誰?)
・「越の寒梅」晩夏のシコ(越の寒梅が、お相撲さんだったら、ということで)
・「久保田」の打撲(久保田の人、ごめんなさい)
・遺産が多い、おお「関西」(関西は、福井県の地酒です)(「百人一酒」 俵万智) 酔った時の作でしょうか。


墓泥棒
「わたくし夫婦は已に十年余りも墓荒しを商売としていましたが、今度ばかりは恐らく一身の破滅を来すであろうと、内々覚悟していました。と云うのは、わたくし夫婦が墓をあばく時には、必ず酒を用意して行って、先ず墓の前で火を焚いて其の酒を温めます。それから徒党の者共が墓を開くと、我々は棺の蓋を開けて死人と酒の遣り取りをするのです。即ち先ずわたくしが酒を把って、『客人が一盞頂戴いたします。』と云って飲みます。それから『御主人も一盞お飲み下さい。』と云って、死人の口に一杯の酒をつぎ込みます。その次にわたしの女房が一杯飲みます。こうして一巡済んだ後に、わたくしが、『この酒の代はどこから出るのだ。』と云うと女房が『それは主人が出すに決まっている。』と云って、死人の衣類や宝物を奪い取るのです。云わば一種のまじないのようなもので、斯うして置くと決して露見しないのでした。ところが、こんどばかりは不思議でした。棺をあけると、死人は紫衣を着けて玉帯をしめていて、その風采がさながら生きているように見えたばかりか、わたくしが例に依て先ず一杯を傾け、それから『御主人もお飲みなさい』と、その口のなかへ酒をつぎ込むと死人は笑いだしました。(「綺堂随筆 江戸の思い出」 岡本綺堂) 唐の廬子の「逸史」にある話だそうです。盗賊には色々な迷信があったようですね。


酒の格言
滅びようとしている者には強い酒を心の苦しむ者には酒を与えよ飲めば貧乏を忘れ悩みを思い出すこともない 箴言31:6-7
酒飲みに労働は災いなり オスカー・ワイルド
わたしが酒を飲むのは、他人を興味深い人間にするためさ ジョージ・ジーン・ネイサン
酒を飲む人がうらやましい。彼らは少なくとも、すべてをなんのせいにすれば知っている オスカー・レヴァント
忘れるために飲むなら、どうかそのまえにお支払いを あるバーの店主
アルコール中毒者とは、自分より酒を飲む人間をきらうやつのことだ デュラン・トマス
「酒場の奇人たち」(タイ・ウェンゼル)の各章トップにおかれた格言です。


酵母の学名 Saccharomyces cerevisiae
ビールとパンは同じ酵母で発酵させることができるのである。それは、学名をサッカロミュケス・ケレウィシアという酵母である。この学名のうち「サッカロ」は「砂糖の」という意味だ。人工甘味料のサッカリンや、「砂糖」の意味のイタリア語ツッケロ、フランス語シュクール、英語シュガー、ドイツ語ツッカー、ロシア語サーハルなどはみな同根で、もとはアラビア語のスッカルに由来するそうだ。「ミュケス」は「キノコ」(広くいえば、カビ・キノコ・酵母などの菌類)を表す。「ケレウィシア」は、ラテン語で「ビール」を指すが、さらに分解すると、農業・穀物の女神で麦・パンの象徴ともなる「ケレス」と「力」を意味する「ウィス」とが合体した言葉である。したがって全体としては、「『穀物の力』なるビールを生み出す砂糖好きのキノコ」ということになる。この名がつけあっれたとき念頭にあったのは、ビールだろうが、「穀物力」の一種である日本酒も、果実酒のワインも、サッカロミュケス・ケレウィシアエによる発酵で酒となる。「ビール大全」 渡辺純) サッカロミセス(サッカロマイセス)・セレビシエ(セレビシアエ)などともいわれるようです。


田中貢太郎さんのこと
或るとき徳川夢声氏が、田中さんの書く小説について、こんな噂をしたことがある。「田中さんの小説のなかに出てくる人物は、たいていのものが、大酒をのみますな。怪奇小説のなかのお化けさえも酒をのみますな。いつか田中さんに会ったとき、田中さんの書くお化は酒をのむからちっとも怖くないと僕が云うと、登場人物に酒をのませなくては、物語の運びがつかないと田中さんが云うのですな。これには、さすがの酒のみの僕も一ぽん参らざるをえない。怪奇小説の中の、お化けにまで一ぱいお酌をしてやらないと、恰好がつかないんだろう。達人と云っていいのか、何と云っていいのか、まさに酒仙といった風格ですな。」田中さんは酒の席で、あんまりお酌をしないようであった。また文学自体についても、あんまり饒舌に弄することがすくないようであった。要するにその酒席の雰囲気が煮つまるように、率先酒杯を手にしている趣で理屈なくにぎやかに呑むのが好きであったように思われる。(「井伏鱒二文集 思い出の人々」 ちくま文庫) 田中は土佐出身の小説家で、井伏らと「博浪沙」という随筆誌を出したりしているそうです。


右利きです、でも夜は左
白洲(次郎)の内臓はひどいありまさだった。胃潰瘍が進んでおり、心臓も肥大化して脈拍は乱れ、腎臓もやられている。手の施しようがない。医師の説明に夫人はうなずいた。これまであまり身体が頑健だったため、逆に限界ギリギリまで酷使してしまったツケが一度にきたのだった。丈夫な人間にはありがちなことである。病室で看護婦が白洲に尋ねる。右利きですか、左利きですか。利き腕を確かめたのだ。白洲は真面目くさってこう答えた。「右利きです、でも夜は左」これが最後の言葉だった。野暮を承知で解説すると、夜は左利きとは、夜は酒を飲む、つまり左党だと伝えたかったのである。(「白洲次郎の生き方」 馬場啓一) 白洲はケンブリッジ大学を出て、帰国後商社などに勤務したりしたが、戦中は農業に従事、戦後は吉田内閣の外務大臣に就任して、GHQにいうべきは堂々と主張した人だそうです。夫人は正子です。(先日、高島屋で正子展をやっていました。)


バナナの酒
東アフリカのウガンダでバトロ族が造る「アマルワ」という酒。かなり臭みを持つが、その醸し方も面白い。まず原料の未熟青バナナを大量に採ってきて、地面に掘った大穴に投入する。これにバナナの葉をかぶせ、さらに土をかぶせてからその場所でたき火をして地熱を上げる。そのまま放置して五日後、バナナを掘りおこすと、未熟バナナは黄色に熟し、糖分が高まっている。バナナの皮をはぎ、今度はそれをバナナの葉で底や壁面を覆った別の穴に入れる。適量の水を加え、人間がその穴に入って足でバナナを踏みつぶし、バナナジュースをつくる。ジュースは木をくりぬいた丸木舟型の発酵だるに入れ替えて発酵させる。発酵開始の時点で、もう過熟バナナのにおいや酵母、酪酸菌といった微生物の作用で、かなり強烈な臭みが付いている。それからさらに五日ほど、自然の状態で発酵させると、最後には鼻をつくチーズのような強力なにおいが出来上がる。味は甘酸っぱく実に上品だが、においはどぎつく、まさに美女と野獣が同居したような酒だ。アルコールは五%くらいで、臭みに慣れれば大変健康的でおいしい。(「食に智恵あり」 小泉武夫) くさやの酒版といったところなのでしょう。


東京の郷土料理店史
いま、私の手もとに二冊の本がある。一九五六年(昭和三一年)に出版された、『東京名物誌』(魚住書店)と一九六○年(昭和三十五年)の『東京たべあるき−百円からのうまいもの』(北辰堂)だ。両書とも東京案内書だが、これを見ると、一九五○年代後半には、東京に郷土料理の店はほとんどなかったことに気がつく。銀座では四丁目の「仙台酒場」、七丁目の「樽平」、新宿東口の「秋田」ぐらいが、それと知られた店ではなかったか。いずれも、その地方の地酒と山菜などを出す、どちらかというと料理よりも酒を主体とした店だった。九州は有明海のムツゴロウやオキウトを出す「有薫酒蔵」が銀座二丁目に出たのが五九年、わっぱ飯と南蛮エビの刺し身が売り物の新潟料理「まつ井」が、平河町に出たのは六五年だから、東京オリンピック以後のことだ。その後、六○年代後半にはいると、郷土料理の店の隆盛は目を見張るばかりで、ついに七一年には、品川駅前のホテルパシフィックの和食堂には加賀料理の「大志満」が進出した。母体は、山中温泉の旅館「山水閣」だったが、東京のホテルに純然たる一地方の料理だけで店を出したのは初めてのことであった。(「気分はいつも食前酒」 重金敦之)


大酒飲みのツケやっと見つけた解消法
婦人モノが主の出版社に勤めるA氏(三三)は、独身時代から大の酒好きであった。夜、海や山の珍味とともにおいしく酒を飲むために、朝食を抜き昼もザルソバですませ、空腹状態にしておくほど徹底し、一七○センチ、八二キロの体格を誇っていた。酒肴にも非常にうるさく、女子社員に伝授するほどで、本の企画も料理ものばかりである。三年前、氏は四谷に非常にツマミのうまい小料理屋を見つけた。七、八人入れば満員の小さな店で、ママも決して美形とはいえなかったが、氏はそこで、ほとんど毎晩、鯨飲馬食を続けた。ツケはたまる一方で、二百万円を突破した今年三月、さすがにきっぷのよさが自慢のママも堪忍袋の緒が切れ、「どうするのよっ」と怒った。その晩、氏はかなり酔っていて、以下はほとんど記憶にないが、いきなりこう叫んでママに抱きついたらしい。「ママ、おれと 結婚してくれ!!」かくて、二人はツケ帳消しを条件に結ばれた。ちなみにママは氏よりひと回り年上の四十五歳であり、いまでは店をたたんで、氏の友人に自慢のご馳走する世話女房になっている。(「デキゴトロジー」 朝日風俗リサーチ特別局 編著) 昭和58年の「事件」だそうです。


日本酒の悪戦苦闘
都内のホテルの宴会係マネージャーに、パーティーで清酒を置いてくれるように「陳情」にまわると、「お燗をつけるのが面倒でね…」とか、「あのお銚子とお猪口がパーティーにはどうも…」などと言う。「冷やしてグラスというのはどうでしょう。グラスとか提供いたしますよ」と言っても、ノラリクラリである。なんのことはない。本当の理由はほかにあったのだ。ウィスキーの水割りと清酒とでは、利益率がまるっきり違う。七四○mlのウィスキーから水割りは三十五〜四十杯つくれるので二万円ほどの売り上げになるが、一八○○mlの清酒では十二、三杯がせいぜいだから六千円にしかならない。これでは「置いてくれ」と頼む方が厚顔である。「燗はつける手間が面倒」はたんなる言い逃れであって、慇懃無礼な回答だったのだ。「だけどお客様がオーダーされれば、いつでもご提供するようにはしています」当たり前である。ビールの利益率は清酒よりいいわけではないのに「ビールで乾杯」するのは、お客様がビールを要求するからである。(「酒と日本人」 井出敏博) 著者は、以前、日本酒中央会にいた人だそうです。


進物切手
お婆(老妻のこと)は留守故(ゆえ)、鐐(りょう=桑名で預かっている孫の名)に水車へ行、酒取てこられるかと問へば、酒ぐらい取て来るとも云(いう)故、徳利を風呂敷に包み、酒札二升の内一升取てまた札を持つてくるだぞと云付てやる。直(ただち)に行て来る。風呂敷端の方持走てくる故、徳利の口より少し出、風呂敷じくじくする様になる。へその緒切て初て酒取て来た迚(とて)、お婆にほまれらる(「道具が証言する江戸の暮らし」 前川久太郎) 桑名藩下級武士の父子が交わした手紙形式の日記、「桑名日記」の、父(桑名)から子(柏崎)へあてた弘化二年(1845)二月八日頃の部分だそうです。預かっている孫娘に、初めての酒の買い物をさせたというほほえましい話ですが、酒札は、今の商品券で、二升分の内半分だけ品物に変えてもらったということで、当時の切手といわれていた商品券の使われ方のさまだそうです。


銘醸地の新説
全国の地方酒を飲み歩いて私は、私なりにこれこそは天下の美禄(びろく)であると思った酒の分布を地図の上に赤でしるしをつけてみた。すると意外なことに気がついた。その美禄の産する所は、広い平野のただ中ではなく、山の中腹でもない。山脈のふもとで平野、または海浜の接点に多いということである。いつだったか寒いころだった。昔ののんべえ仲間の県立博物館のの堀江自然課長と電車の中で会ったが、その時地方酒礼賛を読んだという話のついでに、美禄は先に書いたような所で多く産するといった。彼は「そこそこ、それは花崗岩地帯であり、赤松群生地帯でもあるんだ」と示唆してくれた。花崗岩よりにじみ出る水が酒によいのか。またたしかに松茸(まつたけ)のとれる地方の地方酒はうまかった。(「日本酒のフォークロア」 川口謙二) 南斜面で花崗岩質の土壌の山麓にある、適度に落ち葉の積もった20年生位の赤松林が、松茸の成育にむいていると聞いたことがあります。


横山隆一の酒
 坂口安吾と出会った横山隆一・泰三の兄弟がさそわれて、夜おそく、坂口家に行って飲み直したことがある。通された部屋は廃品回収業者の仕切場のように、乱雑だった。そこを片づけて、すわらせてもらって、大きなビンにはいった焼酎を飲んだ。当然泊まることになったが、坂口安吾がびっくりした。隆一さんが洋服の下に、派手なパジャマを着ていたからである。
 だいぶ前のことだが、横山さんが、物置を改造して、ホームバーを作り、酒を一人で楽しんでいた。朝出かけようとすると、四人の子供が玄関に見送りに来て、声をそろえて、挨拶した。「マスター、いってらっしゃい」(「新ちょっといい話」 戸板康二)


「プラザ」
出版社の人間が、世間一般のサラリーマンと比べて酒好きなのか、それとも、組織秩序の締めつけがゆるいのか、とにかく、日暮れて外が暗くなると、抽出しからこっそりウイスキーの壜をとり出し茶碗に注いでチビチビと始めるのが、どこの出版社にもいるものである。しかし本当に残って仕事に励んでいる人間にとっては目ざわりこの上ない。まして、そんなのが寄り集まって声高に雑談にふけられては、バカバカしくて、やってられない気持ちになる。このグラビアに紹介された雑誌社では、それならいっそ、昼間はオープンスペースの応接空間であるロビーを解放し、会員制のクラブさながらに、飲みたい人間はそこに自分のボトルを持ち寄って、堂々と飲ませるようにしよう、という英断?を実行に移したのだ。名づけて、「プラザ」。こうすれば、仲間うちで飲屋にに出かけたそのツケを、接待費に見せかけて会社で落とさせるという「蒸気もれ的出費」の抑制にもなると考えたのかも知れない。だが、「このせっかくの親心も、日本的サラリーマンの生態特性にに必ずしも適合していなかったのか、半年もするうちに、この「プラザ」に集まる人間は殆どいなくなり、自然消滅の形になってしまったという後日譚を耳にした。(「男の止まり木」 諸井薫)


酒の未来(2)
じつは私は、未来には酔っぱらい禁止令が施行されるのではないかと思っている。より高速な乗り物が出現したら、酔っぱらい運転も大変なことになる。コンピューターを扱う人が酔ってボタンを押しちがえたら、大きな混乱がまきおこる。冷静さと精神の集中が必要な社会なのである。そうなったら酒の産業がつぶれる、と驚く人がいるにちがいない。しかし、飲むなでなく、酔うななのである。そのような時代になれば、急速に酔いをさます薬品ができることはまちがいない。仕事の時に酔っていなければいいのである。酒の産業はいまの倍以上に伸びることとなろう。バーで飲んだら、薬で一瞬のうちに酔いをさまして、高速自動車で帰宅する。だが、なにかものたりなく、もう一回あらためて飲みなおすはずである。自宅で飲んでいる時も、外国からのビジネスについてのテレビ電話がかかってきたら、酔いをさまして対応し、すぐあと、またはじめから飲みなおす形になる。消費者もそれで満足する。どこかおかしい気もするが、人間とはもともと不完全なもので、だからこそ人生が楽しいのだ。(「きまぐれ博物誌」 星新一)


陶淵明 雑誌(そこはかとなく)十二首の二
得歓當作楽(歓を得ては 當(まさ)に 楽しみを 作すべし)(愉快なことがあれバ楽しみをなすべきだ)
斗酒聚比鄰(斗酒 比鄰(ひりん)を 聚(あつ)めよ)(一斗の酒で近隣を招集せよ)
盛年不重来(盛年 重ねて 来たらず)(若い盛りは二度とは来ない)
一日難再晨(一日 再び 晨なり難し)(一日に二度の朝があるわけはない)
及時當勉励(時に及んで 當に 勉励)(時に後れず、せい出して遊ぶべきだ)
歳月不待人(歳月 人を 待たず)(歳月は人を待ってくれない)
(「中国酒食春秋」 尾崎秀樹) 西暦400年前半、東晋の陶淵明の詩だそうです。


御読初(およみぞめ)と御裁初(おたちぞめ)
元日は諸儀式のために、将軍夫妻もお疲れであるから、将軍は表へ、御台(みだい)様は大奥へ、わかれわかれにはやくから御寝になる。しかし二日になると、御台様は、形式ばかりの御書初、御読初、御裁初をすませ、御裁初の御祝儀として、呉服の間の女中一同、十二三人へ御酒下されがある。この御読初は、『古今集』か『後拾遺和歌集』などを一枚ほどムニャムニャと読み、御裁初は、呉服の間から捧げる織物を御年寄が選定して、裁台上へのせると、御台様はその前に坐して、素袍(すおう)大紋などを裁つかのごとく、鋏を使う真似をする。女は読み書き縫物が大切なるぞ、との心持であるが、正月二日以外に、御台様が、将軍のためにも、誰のためにも、みずから手を下して、裁ち物、縫い物をされることは、実際にないのだから、書初、読初は別として、この裁初だけは、真に型ばかりの虚式である。女中達はそんなことはどうだってかまわない。鋏や針をお持ち遊ばしたって、御台様などに何がお出来になるものかと、高をくくっている。そうしてこんな面白くもない儀式をさっさと片づけて、はやく御酒が下ればよいと思っている。御酒下されは、御裁初のお祝の名儀ではあるが、事実は、呉服の間の女中ばかりでなく、ほかの部屋部屋の女中も参加して、おおげさな祝宴会がはじまる。この祝宴は、公然の秘密として、御台様も、将軍も、御微行(おしのび)で隙見を遊ばさせる。天下御免の無礼講、日頃型の中にはまっている奥女中たち、この時とばかり羽目をはずして発展する。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲)



葡萄の美酒 夜光の杯
葡萄酒は貴重品であった。唐が現在のトルファン盆地にあった高昌(こうしょう)国を併合するまで、葡萄酒はなかったといわれる。『唐書』にも、高昌国滅亡後のこととして、−京師(長安)、始めて其の味を識(し)る。 とある。高昌が滅びて、そこに唐の安西(あんせい)都護府(とごふ)が置かれたのは、貞観十四年(六四○)のことだった。並州(へいしゅう)城内での宴会は、長史(ちょうし)張嘉貞(ちょうかてい)が天兵大使を兼任したことを祝うためにひらかれた。玄宗皇帝開元五年(七一七)のことである。葡萄酒は増産されたかもしれないが、まこのような大宴会に出されるほど普及はしていない。(「中国畸人伝」 陳舜臣) このとき、王翰の有名な詩がつくられたとしています。 葡萄の美酒 夜光の杯(はい)  飲まんと欲すれば 琵琶(びわ)馬上に催す  酔いて沙場(さじょう=砂漠)に臥すとも君笑うこと莫(なか)れ  古来 征戦 幾人(いくたり)か回(かえ)る 


天女の酒造り解釈
荒塩村に来たところの天女が、此処で、老夫婦の今度の所置に就いて、熟慮して見ると、これは、今まで思ってゐたやうに、決して老夫婦の不人情や、非道ではなく自分の平生の心掛けや、態度が、酒の新塩のやうに粗野で、粗雑で、全く、荒男(あらしを)のやうに乱暴であつて、早く云へば、酒の飲み過ぎであり、ひどいアル中であつたから、遉(さす)がに深切者で、お人好しの老翁老婆も、もう、すっかり持てあましてしまつたので、之は全く、自分の方が悪かつたのであると云ふことに、気が付いたと云ふ事であらうと思はれる。それから槻(つき)の木に拠(よ)つて哭(な)いたと云ふのは、潜然と酒盃を愛撫し愛惜して、別れを惜しんで、泣いた事と解せられる。酒盃は、ツキ(杯、坏)と、昔は云つたのである。哭木は「無き酒」で、今は最(も)う、自分が朝夕親んだ、酒杯をも投げ捨ててしまつたし、最早自分に取つては永久の酒無しデーであることよと、嘆き悲しんだ意であらう。(「酒とやまと魂」 山本蘆葉) 天女の酒造りには、こんな解釈もあるようです。昭和16年の出版です。


泡盛酔談
それから牛込で、こらァあたくしではない先代ですが、飯田橋のところに昔、何という名前だったか知れないが泡盛を飲ませる店(うち)があったそうですが。沖縄ですか、あの泡盛というお酒は。たいへん強い酒で、父親(おやじ)も若い時はかなり酒を飲んだものですが大失敗をしました。そしてやはり掛けもちの途中、先刻申しあげた牛込亭という席をつとめるので、飯田橋から牛込亭まではいくらもないわけで、まだ日が暮れてから間もなくだそうですが、そこに居酒屋があって飲んだんだそうです。ところがまァ、一杯飲んできかないし、もう一杯ぐらいはよかろう。もう一ぱいぐらいは、てで大分飲んだらしいんです。それから牛込亭へ行こうというんで、ぶらぶら歩いたんですが。その日はちょうど雪が降っていまして、そうして当人はしっかりしているつもりで牛込亭へ歩いていって、入ろうと思ったらば閉まっちゃってる。どうしてだろうと思って、表戸もすっかり閉めているんで…今夜は客が来ないんで途中でよして寝ちゃったのかしらん。そう思って、それからまたぶらぶら出て電車に乗ろうと思ったが、電車がないってです。(「江戸散歩」 六代目三遊亭圓生) どういうわけか、泡盛にはこの種の話が多いようです。


酒のかす
貧乏で酒はあまり飲めない男、酒のかすを餅状にかためたのを二つほど食っただけで、酔ったような気分になるのだった。たまたま友人に出会って、「君、朝から飲んだのか」ときかれ、「いや、酒のかすを食っただけだ」と答えた。家に帰って妻にその話をすると、「そんな時にはお酒を飲んだというものです。少しは体裁も作らなくちゃ」といわれ、夫、なるほどとうなずいた。さてまた外出してその友だちと出会い、前と同じことをきかれたので、「酒を飲んだ」と答えると、「燗をしてか、それとも冷でか」と問いつめられ、「いや焼いて飲んだ」と答えた。友人笑って、「やっぱり酒のかすだな」やがて家に帰り、妻そのことを知り、「お酒なのに、なんで焼くだなんておっしゃるのよ。燗をして飲んだといわなくちゃ」と咎める。夫、「よし、こんどこそわかった」また同じ友人に会ったので、きかれるまでもなく、さっそく自慢たらしく、「僕、こんどの酒は燗して飲んだよ」という。友人、「君、どれくらい飲んだ」ときくと、指を出して、「二個」純粋無垢の人間が、つまらぬ女のお仕込みを受けてダメになってしまった。(「笑府」 明朝末期の笑話 松枝茂夫訳) これは、笑話のパターンの多くが中国から伝わったという典型的な例でしょう。


勧進帳
富樫 客僧達、暫(しば)し暫し。(ト思い入れ) (トこれにて皆々入れ替わり、よろしく住まう) さてもそれがし客僧達に聊爾(りょうじ=失礼なこと)を申し、あまりに面目もなく覚え、麁酒(そしゅ)を一つ進ぜんと持参せり。イデイデ、盃(さかずき)参らせん。 (ト、土器を取り上げる。軍兵甲、酌をする。富樫飲んで、弁慶へさす) 弁慶 有難の大檀那、御馳走頂戴仕(つかまつ)らん。 《唄》実(げ)に実にこれも心得たり、人の情けの盃を、受けて心をとどむとかや。 (ト、盃を受け、よろしくあって) 《唄》今は昔の語り草、あら恥かしの我が心、一度まみえし女さえ、迷いの道の関越えて、いま又ここに越えかぬる、人目の関のやるせなや、アゝ悟られぬこそ浮世なれ。 (ト、この内、軍兵甲、同乙を相手に盃事あって、とど葛桶の蓋を取り、両人の吸筒の酒を残らず注ぎ、ぐっと飲み、酒に酔ったる思い入れにて) 《唄》面白や山水に、面白や山水に、盃を浮かべては、流(りゅう)に牽かるる曲水の、手まずさえぎる袖ふれて、いざや舞を舞おうよ。−
 《唄》虎の尾を踏み、毒蛇の口を遁れたる心地して、陸奥の国へぞ下りける。(「勧進帳」 服部幸雄・編著)勧進帳最後の部分です。


山屋豆腐
山城と武蔵の間(あい)に豆腐見世 という句がある。これは、吉原の京町一丁目と江戸町一丁目とのあいだの揚屋町にあった山屋市右衛門の店の豆腐を詠んだ句で、山城は京町を、武蔵は江戸町を意味していた。『吉原大全』(明和五年)巻四の「吉原名産」というくだりにも、「あげや丁(町) 山や市右衛門製する豆腐いたつて極品なり、世に是を 山やどうふ とて賞翫す」とある。ただし、『北里見聞録』(文化十四年)巻七には、「当時は山屋市右衛門、鈴木屋清右衛門とて有り」とあり、のちには二軒の山屋豆腐があったことがわかる。 夜桜におぼろ豆腐で飲める也 銀世界山屋の豆腐売り切れる 花見酒、雪見酒に欠かせぬものは山屋豆腐だった。(「江戸食べもの誌」 興津要)


文字言葉
女房詞の文字言葉には、色々あるようです。あもじ(姉)、いもじ(イカ)、うもじ(内方、宇治茶)、えもじ(エビ、エソ)、かもじ(髪、母)、くもじ(還御、漬物)、こもじ(鯉、小麦)、さもじ(サバ)、すもじ(すし)、そもじ(あなた)、たもじ(タコ)、つもじ(ツグミ)、ともじ(父)、にもじ(ニンニク)、ぬもじ(盗人)、ねもじ(練貫、練り絹、ねぎ)、はもじ(恥ずかしいこと)、ふもじ(鮒、文)、ほもじ(乾米)、めもじ(会うこと)、ゆもじ(湯かたびら)などがあり、また、おめもじ、おはもじといったおをつけたものや、しゃもじといったものもあるようです。それではクイズです。ひともじ(一文字)は、「き=ネギ」、ふたもじ(二文字)は、「ニラ」です。では、みもじは?味噌でした。さて、酒はというと、「くもじ(九献から)」「おくもじ」、肴は「さもじ」だそうです。


アルコールに対する態度の変化
今回の国際会議では、WHO(国際保健機関)の精神保健の担当官からも、「アルコールは健康にいい」といった言葉が聞かれ、これまでとは風向きがかなり変わってきたことを感じさせました。それにしても、以前WHOでアルコール問題の担当官をしていた、私もよく知っているイギリス人が、WHOをやめてアメリカに渡り、ワシントンでウイスキー・メーカーのロビイストの仕事をしていることには驚きました…。しかし、そうしたことからいえるのは、アルコールに対する各国の態度、政策の基本にどうやら変化が生じつつあるようだということです。アルコールをただただ悪者にしておくのではなく、アルコールの持つ効能をもっと積極的に評価しなくてはいけないという考え方が力を持つようになっているのです。(「酒飲みの社会学」 清水新二 1998年出版) 今後アルコール問題が本格的になりそうな日本の場合はどう考えるべきなのでしょうか。


川柳の酒句(17)
髪結床 御用 勧進帳を読み(床屋で、御用=酒屋の丁稚 が、伊勢参りの抜け参りをしようと、趣旨を勧進帳のように読み上げる)
駄々っ子に 柄樽(えだる)を付ける 初の午(うし)(初午=二月の初めの午の日 から、寺子屋が始まる。師匠への礼として角樽入りの酒を贈る)
草履取 よろけるなりに 供(とも)をする(千鳥足の主人に従って歩く草履取りも、それにあわせて蛇行してお供する)
煮売屋の柱は馬に喰われけり(芭蕉の「みちのべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり」のもじり)(「江戸川柳の謎解き」 室山源三郎)


白州正子年譜一九五六年
一九五六年(昭和三一年) 四六歳
このとしより、「こうげい」の直接指導にあたる。以後一○年あまり、多くの染色作家を発掘し、その指導に努める。この頃、青山二郎、毎日夕刻五時になると「こうげい」に現れる。白洲の回想によれば、「五時頃になると、きまって晴れやかな笑顔で、奥さんと二人連れでやってきては、日本橋の道具屋を廻り、行きつけのバァを何軒も梯子して、帰るのは明け方になった」という。その結果不眠と深酒がたたって胃潰瘍になる。(「心に残る人々」 白州正子年譜) 「お酒が入ると、打って変わって大胆となる」白洲は、青山のかっこうの話し相手だったのでしょう。夫の白洲次郎と青山はどうだったのでしょう。


フクロウの目玉は二日酔いの特効薬である(信用度5%)
たぶん、酒と言うものが発明(あるいは発見)されて以来、人類は二日酔いに苦しんできた。大博物誌という著作を残した古代ローマのプリニウスは、その本の中に、二日酔いの特効薬をいくつか列記している。それによると、ローマワインの飲み過ぎには、森へ行ってフクロウの巣を見つけ、その中の卵を二個、生でのむといいのだそうだ。聞いただけでゲッとなりそうだが、しかし森へ散歩に出かければ、適度の運動で発汗がうながされるだろうし、新鮮な空気をたっぷり吸うことにもなる。また、生卵はかっこうのタンパク質である。案外、この民間療法はいいところをついているかもしれない。別のローマ人によると、本当に二日酔いにいいのはフクロウの卵ではなく、フクロウのひな鳥の目なのだそうだが、これはいくら恵まれていた古代ローマ時代とはいえ手に入れるのが難しかったのではあるまいか。ほかの鳥でなく、フクロウがやたらもてはやされているのは、そのパッチリした目が、二日酔いのドンヨリした目を明るくしてくれるというイメージなのだろう。(トンデモ一行知識の逆襲」 唐沢俊一)


天野屋の土室
(神田)明神の表参道−大鳥居のすぐわきに、参詣客らに甘酒をふるまう店がある。屋号を「天野屋」という。自家製の納豆や味噌も売っている。かわら屋根、白い壁の時代がかった構えだ。甘酒や味噌の原料であるコウジは、いまでも、店の下に広がる土室(つちむろ)でつくられる。深さ六メートル。小型エレベーターでおりると、まるで迷路のように、横穴が五つの方向に伸びている。どの穴も高さ一・五メートルほど。腰をかがめて前へ進む。台の上に白くふやけた米が積まれている。甘酸っぱい匂い。薄暗く、生あたたかい。地下水のしたたる音が大きく響く。赤土のむきだした穴は、一○○年以上も前の弘化年間(一八四四〜四八)に武家出身の初代が創業したころからのものという。広さは、九○坪くらいある。五本の横穴それぞれに、乾(いぬい)、大、中、東、辰巳と名前が付く。長い間、女人禁制でもあった。主人、天野亀太郎さんは四代目。「素掘りしただけの穴なのに、頑丈そのものに出来ています。あの大震災のときは、入り口のところがちょこっと崩れただけで、中のほうは傷みませんでした。」。八○才を過ぎた亀太郎さんにかわり、最近は息子の弥一さん(五一歳)たちがもっぱら土室にもぐる。ほぼ四日がかりでコウジがつくられる。最初に、うるち米を水につける。次の日、水を切って蒸したあと、コウジ菌をまぜいれ、床場というところでひと晩、寝かす。そのあと、いよいよ横穴にいれ、二日かけて熟成させる。初冬から春先にかけての五ヶ月はとくに忙しい。一帯は、ゆるい傾斜で神田川に迫る本郷台地のはずれにあたる。関東ローム層が部厚く堆積し、穴を深く掘っても水はあまり出ない。醸造学の研究者にいわせると、天野屋の土室あたりの地温はつねに一五、六度で安定し、コウジの発酵に最適だ。神田明神から湯島にかけて、ひところ十数件のコウジ製造元があった。(「神田川」 朝日新聞社会部)


ラオスでの飲み方
壺に酒を八分目ほど入れて、その上に棕櫚(しゅろ)の葉を被せ、そこに吸酒管という、酒を飲むための特殊な管を差し込んで、その管で酒を飲むのです。吸酒管は、二メートルもある細い竹の節を上手に抜いてから、火に当てて曲げたもので、一度つくると何年も持たせます。そしていよいよ酒盛りの始まりです。酒の入った壺に吸酒管を十本ほど差し込み、それを取り囲むようにして酒盛り参加者が床に座りました。酒を吸い合う仲間、つまり酒壺仲間というのでしょうか、それは長老の老女、主人、長男、私と仲間四人、道案内をしてくれたラオスの友人二人の合計十人で、めいめいは自分の吸酒管に口をつけて飲むわけです。先ず、長老が歓迎の言葉を述べ、それでは、ということになって、長老から時計の針の方向に一人ずつ自分の名前などを言ってから吸酒管に口をつけ、酒を吸いこみますこうして全員がセレモニー的に酒を飲み終えると、あとは自由に吸酒管から酒を吸い飲みすることができます。 − 酒はとっても甘くて、そして少し酸っぱく、ちょうど日本酒にカルピスを加えたような風味でした。この酒の造り方は、煮た粳(うるち)米と蒸した糯(もち)米を半々に混ぜ、それに水と麹を加えて五日位発酵させ、それを濾してから、自家製のメコンウイスキーを加えたものだとのことでした。(「アジア怪食旅行」 小泉武夫)


小妻温酒勧調羮
早趨官府晩詩盟   早(つと)に官府に趨(おもむ)き(お城勤め) 晩には詩盟(詩の友人達との寄合)
境到雖殊各有営   境到(きょうち)殊(こと)なりと雖(いえど)も 各々営むこと有り
藍輿夜帰寒月底   藍輿(らんよ=かご) 夜帰る 寒月の底
小妻温酒勧調羮   小妻(しょうさい=わが妻) 酒を温めて 調羮(ちょうこう≒暖かい酒の肴)を勧む
晩年の太田南畝(蜀山人)の日常を詠んだ漢詩だそうです。子供に恵まれなかった南畝は、死去3年前の72歳までは、お城勤めを続けていたそうです。


ホモ・ビネンシス
日常の生活はどの時代にもきびしいものだった。現在でも大多数の人間にとってはそうである。どのようにして人間が槍やすきや、ひきうすの石を発達させてきたかを理解するのはやさしい。しかしどのようにして、詩や哲学や数学といった日々の生活にかかわりのないものを創り出したかを理解するのはむずかしい。私は厳粛にその答をいおう。それは精神を解放する不思議な力を持ったあのアルコールがあったからである、と。−
ワインは、超然としていること、潜在能力の知覚、”仮象の世界”を創り出し、これが、今度は、楽天主義と勇気、すなわち進化に第一に必要なものを創り出すのである。もし、私の推論が正しいとするならば、重要な脚注が付け加えられるべきである。人間はホモ・サピエンスであり、ホモ・ファーベル、つまり社会的動物、道具を作る動物であるばかりではない。人間は根本的に、ホモ・ビネンシス−ワインを作る動物であると。(「わが酒の讃歌」 コリン・ウィルソン) 結論の部分です。


今日出海と井伏鱒二
今日出海から聞いた話。
むかし、酔った井伏鱒二と酒場を出てきたところで、井伏が持っていた蛇の目傘を正眼にかまえ、「寄らば斬るぞ」といった。今も、適当にそれを受ける形をする。その間を制服の巡査が通りながら、
「やめなさい。あんた方も、見れば教養のありそうな人たちじゃないかね」(「最後のちょっといい話」 戸板康二)


新宿のライオン
ライオンは、もともとは新宿御苑のそばで「八州鶴(やしまづる)」という酒の店をやっていた岡部氏の姉上が飼っておられた。姉上が亡くなったあと、岡部氏が引き継ぎ、のちにライオンごと中野へ引越したのだが、私の見た当時は百キロ近い体重があった。詩人の草野心平氏がはじめられたバア「学校」が近かったこともあり、草野氏もライオンのことをご存じで、エッセイもあるから調べてみようとおっしゃる。(「新宿のライオン」 向田邦子) 中央線の窓から見た、「お粗末な木造アパートの、これも大きく開け放した窓の手すりのところに、一人の男が座っている。 − その隣にライオンがいる。たてがみの立派な、かなり大きい雄のライオンで、男と並んでい、外を見ていた。」という不思議な光景を書いたエッセイから、その後分かったことだそうです。「学校」は「火の車」のあとに開店した店だそうです。串田孫一の「電車から見えた」にもあります。 


利きビール
これと思う人を選び出すと、さらに高度なテストを受けてもらう。「五銘柄のビールを二本ずつ、つまり計十本、目の前に置きます。これを飲んで、どれとどれが同じ銘柄か、当ててもらうのです」 − 」そうやって選び出された人が三十人いて、エキスパートと呼ばれる。本来の仕事をしながら、重要な試飲をする半ばプロだ。」この人たちは、 − 視聴覚教室のように、隣席と隔てられた椅子にきちんと坐り、二十近い細かい質問への回答を、コンピュータに打ち込んでいく。もはや単なる好き嫌いでなく、コクまろやかさ、喉ごしの感じ、ホップのきき方など、専門的に答えなければならない。「口の中の感度が一番すぐれているのは、昼食前なのです。ですから、厳密な試飲のときには午前中にやります」利き酒の場合は、口の中に少量の日本酒を含んだあと、吐き出してしまう。ところがビールは、喉ごしの味わいが重要だから、必ず飲まなければならない。しかもちびり、ちびり、とやるわけにいかない。ビールは、ぐっ、と一気に飲むものだからだ。「ちいさ目のコップ八分目ほどなんですが、それでも何杯も続けて、ぐっ、とやりますから、はらがだぶだぶしてきて」昼食どころではなくなる、とエキスパートさんの話だ。(「読む薬」 上前淳一郎) キリン本社試飲室で、素人社員対象に行われているパネラー制度だそうです。'90-'91年頃の話だそうですから、今行われているかどうか…。


お追従者の、二枚舌の、ご機嫌とりの、欲深か者
昔、ある人の言うに、当世の人々が、あの男は賢明有能で英知を持っていてすばらしい、とほめる人をよくよく観察すると、みな、お追従者の、二枚舌の、ご機嫌とりの欲深か者である。なぜならば、家老や近習衆の言行をうかがっていて、大仰おにほめ上げ、おかしくもないことをも高笑いして迎合する反面、目下の侍や農民、町民を無慈悲に酷使、搾取して、蓄財に余念がない。精を出すことはといえば、遊山行楽に遊女若衆のうわさ、同僚のわる口、家老や近習衆が上戸だと知ると、「酒ほどすばらしいものはございません。憂いを払う玉箒(たまはばき)と言って、昔から賢人のたしなむものです。一ぱい聞こし召せばよろすの苦労を忘れ、憂気を散じ、血行を促し、まこと、百薬の長でございます」と誉め、下戸と知ると、「「酒ほど害のあるものはございません。血気を乱し、肝臓をいため、不慮の恥をかくばかりではなく、酔いの余りに命を失ったりする基です」とけなし、好きでもない餅を食ってみせ、飲みたくもない茶を飲んで、「餅は老若とも筋肉の働きを盛んにし、茶は腹中の濁気を清め、病を除きます。まことに酒の十損、茶の十徳でございます」と誉めちらす。(「可笑記」(寛永年間出版) 渡辺守邦 訳)


東大寺の結解料理
寺の坊らしい沈んだ空気の中を、そこはかと無く木蝋(もくろう)の匂いが漂っている。黒装束の二人の給仕人が、影のように棒(ぼう)の物と呼ばれる錫の大徳利を捧げ持って現われ、荒筵(あらむしろ)の上に置かれた手向山(たむけやま)八幡宮を描いた古い屏風の前にその一対を供えた。手向山八幡宮は東大寺の鎮守である。三宝の上に供えられた錫の大徳利の口に差してある巻き奉書の白い筒が、百匁蝋燭の鈍い光の中に二本浮かび上がった。東大寺に平安か鎌倉の頃から伝わる結解(けつげ)の宴は、先ずこの寺の鎮守に神酒を捧げる儀式から始まった。黒装束の給仕人は、薄暗い空気の中を、手の動き、足の動き、総べての身の運びを全く一人のように揃えながら静かに消えた。献立は棒の物の儀式で始まる初献七品、貳献(にこん)五品、参献五品、その最中(さなか)に度々奨められる酒、並びに終りの菓子と抹茶から成り立っていた。(「なおかつパイプのけむり」 團伊玖磨) 東大寺、昭和の大改修の法要でうたわれた、「大仏讃歌」をつくった團らが招かれた宴の様子だそうです。このあと、献立が書き連ねられています。


葱鮪の殿様
さる殿様が家来を連れて雪見に出かける。向島にむかおうと、上野広小路を通りかかると、一軒の居酒屋から美味そうな匂い。「苦しうない、案内いたせ」と、縄のれんをくぐり、「床几(しょうき)をもて」と命ずるのだが、あるのは醤油樽の腰掛け。「町人どもの食しているのはなんだ」「葱鮪でございます」「しからば、そのニャーとやらをもて」江戸っ子の早口でいう「ネギマ」が殿様には「ニャー」ときこえる。「酒をもて」「御酒でしたらサブロクが三十六文。ダリで四十文で」「しからば、ダリをもて」この葱鮪と酒にすっかり満足した殿様。あくる日、庭の景色などながめながら酒盛りをすることになり、「料理は葱鮪がよい。酒はダリをもて」などと符牒を使って悦(えつ)に入っている。料理番が驚きながら葱鮪をつくって差しあげつと、殿様「醤油樽の腰掛をもて」(「落語長屋の四季の味」 矢野誠一) 古今亭今輔がいなくなってからは、柳家小満んがこの落語を語るそうです。ダリは多分、「くだりもの」(灘物)の隠語でしょう。


酔いはどこでわかるか
ある晴れた日曜日の午後、年とったドイツ人と末っ子の息子が村の居酒屋にすわっていた。父親は豪快にビールをあおりながら節度ある酒の飲み方について講釈していた。「絶対飲み過ぎてはいかん。紳士はちょうどよいところでやめるもんだ。酔っぱらうなんて紳士の面汚しだ」「はい、お父さん。でもちょうどよいかどうかはどうすれば分るんですか?」老人は店のすみをさして言った。「あそこにふたりの男がすわっているだろ。あれが四人に見えたら、おまえは酔っぱらっているってことだ」少年は長い間じっと指先の示す方向を見つめていたが、終わりに、困惑した様子で言った。「で、でも、お父さん、あのすみにはひとりしかすわっていないんですが…」(「ポケット・ジョーク」 植松黎 編・訳)


早稲酒や
雨乞いの句のほかに、其角は今一つ三囲(みめぐり)神社の狐婆のことを詠んでいる。
早稲酒(わせざけ)や 狐呼び出す 姥(うば)がもと
というのがそれである。元禄の頃、三囲神社の境内に、一対の老夫婦が住んでいた。亭主の方は、この話に無関係であるが、婆さんの方は関係が深い。誰もこの老婆の前半生を知る者はなかった。参詣人が願いの筋を申しのべると、老婆は田圃(たんぼ)の方へ向いて、拍手を二つ三つたたく。するとどこからともなく、一匹の白狐が飛んできて、婆さんから参詣人の願いの筋を聴取り、またどこともなく姿を隠す。この白狐は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)の遣わしめの狐であって、婆さんとはいわば同僚の関係であり、婆さんをへて進達する願い事は、たといそれがどんなに欲張った不条理な申し分にもせよ、かならず神様まで、この狐から取次いでもらえるものと信ぜられた。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 早稲酒は秋の季語だそうです。ちなみに有名な雨乞いの句は、夕立や田もみめぐりの神ならば です。これでふった雨も狐のおかげでしょうか。


荒畑寒村の思い出
南方先生はまた大酒家で、泥酔して帰宅すると反吐(へど)を吐いて寝てしまう。雇い婆さんがそれを掃除すると、反吐に生ずる菌を研究するのを台なしにしたと、怒られたという話である。真偽のほどは知らず、ともかくもさまざまな伝説につつまれていたので、私は南方先生をよほどの奇人だと思っていたのである。ところが、私が牟婁新報を去ってから、博文館発行の雑誌『太陽』に、南方先生の『十二支考』の連載がはじまった。その考古学、歴史学、民俗学、動植物学を網羅し、文字通り学は東西に渉(わた)り識は古今を貫く底(てい)の考証論文は、一世を驚倒させたもので、日本の読書界にはじめて南方熊楠という名の金字塔が確立された。(「縛られた巨人 南方熊楠の生涯」 神坂二郎) 当時、熊楠のいた田辺に新聞記者として住んでいて、ニアミスで終わったらしい荒畑寒村の自伝にあるものだそうです。


法師物狂(一名 法師が母)
▲女房−なう、市兵衛殿、何処(どこ)でその様に酔はつしやれたぞ。情(なさけ)なやや。呑む者は畜生でも呑むが、盛らつしやる人が恨めしい。▲市兵衛 やい、其処(そこ)な女め。盛らつしやる人こそは、結構な人なり。情ないとぬかいて、男の咽(のど)を止め居る。出てうせ居れ。▲女房 なう市兵衛殿、去(い)ねならば去なうほどに、暇(いとま)をおくしや。▲市兵衛 いや、暇を欲しがりやる上掾iじょうろう)様の顔はいやいや。▲女房 なうそのいな事いはぬとも、急いで暇をおくしやいの。▲市兵衛 をゝ、何なりとも、おのれが欲しいものを取つてうせい。▲女房 をゝ、その一腰(帯刀)をおくしやいの。▲ 市兵衛 をを、去る女(め)に何が惜しからうぞ。さあ、取てけ。女房を去つたれば、心がすつきりとした。まづちと寝ませうず。▲女房 妾(わらわ)は暇を取りましてござるが、一人ある かな法師(子供のこと)が、継母(ままはは)にかゝらうと思へば、悲しうござりまする。さりながら、まづ父様(とっさま)の方へ向けて帰りませう。(「狂言記」) 酒盛りの「盛る」が動詞として使われていますね。この後、酔いのさめた市兵衛は追いかけて、「女房を先に立て、我が家に帰る嬉しさよ、嬉しさよ」となります。


粗相のはなし
満州から帰れないときに、向こうで芝居をいたしました。えェ『転々長英』という、藤森成吉という先生がお書きになりました脚本ですがこれを演った。で、あたくしは坊主頭の医者でございまして、そこへ高野長英が、伝馬町の牢が焼けるんで切りはなしになって、その医者のところにたずねてくるという…その時に、女房に酒を持ってこいという。と、お盆の上へ徳利とお盃をのせて持ってくる。ところが二日目でしたか三日目でしたか、どうしたことかばたッとはずみでこの徳利がたおれましたんで…。本当なら酒はどくどく…そこへこぼれるわけで。そのまんま芝居をつづけるてえとなんかおかしなことで…その時とっさに、「御前はどうも粗相でいかん。燗(つ)け直してこい」ッてんで、お盆を、あたくしは突っ返した。と、女房が「はい」と言って下がりました。その間に高野長英と二、三…台詞(せりふ)もなにもない。まァ、捨て台詞というんですが、なにか言っている。そこへ二度目に徳利を持ってきた。そこで長英に酒を飲まして、これは何ごともなかったわけで…。そのまんまで芝居をつづけてしまうと、お客から見るとどうもおかしなことになりますから…。(「圓生古典落語」 集英社文庫) 「九番目」のまくらの部分で語られた自身の思い出話です。


第1回万博にて
場面−博覧会の軽食堂 客 「ビール一パイント頼むよ、おねえさん。」 女店員 「おいてないの。ウェイハースつきのストロベリー・アイスクリームならあるけれど。」
明らかにシリング・デーのひとこまである。はるばる田舎から特別割引運賃の万博見学団体列車に乗ってやってきた二人−歩き疲れたところで好きなビールでのどをうるおしたいと思って、軽食堂を探し当てたところが、アイスクリームだとは差がありすぎる。博覧会開催中、場内は禁酒禁煙、アルコール類の持ち込みいっさい禁止という規定になっていた。仕方なく、この二人も水でがまんしなければならなかったのである。(「『パンチ』素描集 19世紀のロンドン」 村松昌家編) 1851年ロンドンで開催れされた始めての万博での酒と煙草への対応は、今より徹底していたようですね。シリング・デーとは、一シリングの割引料金で入れた日だそうです。パンチは150年間続いた英国の絵入り風刺週刊誌です。


ニューヨークふらふら
エル・ファーロをでて、どこにいったのか?ソーホーの、西ブロードウェイの通りとブルームの通りの角にあるバーにでもいったのかもしれない。ひとつむこうの街角のスプリング通りのバーのトイレも借りたことがあるが、このバーは上品だけれど、ブルーム通りのほうがぐっとくだけて、ぼくたちみたいな酔っぱらいもいる。木の床で、タイルの床のほうがもっと古いバーだけれど、ざっくばらんでしかも歴史がありそうだ。ニホンのほうがアメリカよりうんと歴史は長そうでいて、東京で百年以上つづいている飲屋なんてありゃしない。ところが、ニューヨークでは五十年、百年以上たったバーもめずらしくなく、しかもしっかり現役で、あいかわらず客で込んでいる。(「ニューヨークふらふら」 田中小実昌) 確かに「飲み屋」に関しては古い店は少ないようですね。根岸の鍵屋が創業江戸末とのことですが、初めは酒の小売店だったそうで、居酒屋になったのはずっと後のようです。


限界点
ドスト氏が、アハアハと笑いだした。ある人は、お流れ頂戴と言いだしたら、もう駄目である。そこが別れ目である。また、ある人は歌い出す。さらに、また、ある人は、そこにあるお菜を箸でつまんで、他人の口にいれようとする。パラオは、右眼を閉じて、左眼を大きく見開いて、頬をふくらます。ひとそれぞれ、そこが限界点であるのだが、今から酔うぞという宣告であるのかもしれない。ドスト氏は、突如として笑いだす。いかに不機嫌なときであっても、飲んでいると、いつかはそうなる。笑い上戸と言うべきかもしれないが、これは、まあ、良い酒だと言ったほうがよいだろう。(「酔いどれ紀行」 山口瞳) ドスト氏は、木彫家の家関頑亭だそうです。私の知っている人で、高いところから飛び降りるという危険な限界点をかかえた人がいました。


ラッセル、ボッティチェルリ、フォークナー
 AEの筆名で知られたアイルランドの詩人ジョージ・ウィリアム・ラッセルは禁酒主義者で、酒は一滴も口にしなかった。人に酒をすすめられると彼は、「ありがとう。だがね、わたくしは生まれつき、酔っているんですよ…」
 われわれの知っているルネッサンス画家の名前は、ほとんどみなアダナの方で、ボッティチェルリ=小樽、フラ・アンジェリコ=天使のような僧、マサッチョ=デブというようなわけである。かれらの本名の方は,ほとんど知られていない。
 フォークナーは現代社会の醜悪・頽廃・絶望などを書き、ヘミングウェーなどとともに「失われた世代」の作家といわれた。しかし、彼も時には大酒を飲んで、デカダンスぶりを見せたこともあったが、彼の実生活はがいして堅実で、頽廃ぶりはうかがえなかった。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎)


《えんかい》
私としては、ギリシア人の宴会で守られている、あの決まりが人生においても守られるべきであるように思われる。つまり、《飲むか、さもなければ、立ち去るべし》という決まりである。  キケロ『トゥスクルム荘対談集』第五巻41.118(木村健治訳)  キケロはこう説明している:「対等に他の者と飲む楽しみを享受するか、そうでなければ、まだしらふでいる時に酔っぱらいの暴力に巻き込まれないように、先にその場を立ち去るべきである。かくして、逃げ出すことによって、耐えられない運命の不正を避けることができるだろう」。(「ギリシア・ローマ名言集」 柳沼重剛) 飲むか飲まないかどちらかにせよというのは、東洋流中庸とは対極にあるもののようですが、酒を飲むことに関しては、二者択一の方がよいのでしょう。


酒のと出会い
大学生時代、酒はまったく飲めなかった。勤め人になってからでも、一向に進歩はなく、戦争中に配給される酒は、父親に届けていた。だから国民酒場に行列した経験もない。そんな男が酒の味を知ったのは、昭和二十五年までいた日本演劇社という雑誌社が、久保田万太郎(社長)、渥美清太郎(編集部長)という愛酒家ぞろいだったためで、会議はたまたま酒が手にはいったときという、不思議な職場だった。つまり、ぼくは編集会議をしながら、酒量がすこしずつ殖えていったわけだ。久保田さんは、会議のあと、ぼくをつれて、銀座や新橋を二三軒歩く。それからぼくを誘って鎌倉まで帰り、駅前でもう一軒寄って、家に着く。杯をグイと飲み干して、さす癖にある社長だから、すこしずつでも通計すればかなり飲んでいるので、送り届けたからといって、もう東京には帰れない。そのまま、泊りこむ。社をやめるまで、これを続けた。その後、自分にも行きつけの店ができ、段々店がいろいろな場所に点在し、劇場のかえりに新橋でまずのみ、渋谷に行って二軒、時にはそれから新宿にまわったりした。思えば、そのころは四十になるかならないかならない年ごろで、元気なものだった。(「酒との出会い」 戸板康二)


佐藤垢石
垢石(こうせき)は、何回か首を切られたことがある。本社(報知新聞)の整理をやっていた時代、酒を飲み始めたら、三日でも一週間でも社を休んでしまうから、仕事にならない。仕事をすればするで、出鱈目をやるので、とうとう首になってしまった。ところが翌日になってみると、ちゃんと自分の机に坐っている。後任者が来て、「どいてくれよ、俺がやるんだから」というと、「そんなこたあないよ、俺だよ」と澄ましたものである。後任者は止むを得ず、隣の席に座っている。その翌日はまさか出ては来ないだろうと思うと、また自分の席に座っている。いつもは一番遅いのに、こういう時は真先に出社して、支社から来た記事を整理したりなどしている。そんなことで、とうとう居すわってしまった。いつもこんな風にして、首がつながった。考えてみれば、呑気な時代だったわけである。(「愛すべきドロ亀・垢石一代記」 木村義雄) 佐藤垢石は、昭和31年に68歳で没した、報知新聞記者から文筆業に入り、雑誌「釣り人」を創刊した人だそうです。


力士修業心得
第1条 相撲は日本の国技と称されていることを忘れないこと。 第2条 国技相撲を修得する力士の言動は衆人の範となるよう心掛けること。 第3条 社会人として目立つ力士は財団法人日本相撲協会員であるという誇りを持って行動すること。 第四条 社会道徳は勿論、一般常識に欠ける言動を慎むこと。 第五条 服装を正しくすること。 第六条 相撲は礼に始まって礼に終るを精神としている。土俵上は当然のこと、日常に於いても同輩 先輩に正しく挨拶をすること。 第七条 禁酒、禁煙を守ること。 第八条 休養があって激しい稽古もできるのであるから、早寝、早起の習慣をつけること。 第九条 勝負の社会では人より多く稽古することによって成功することを忘れないこと。 第十条 病気、怪我は進歩の大敵であるから常に摂生に心掛けること。 第十一条 摂生には注意しても、怪我、病気を恐れず、人間には精神力の偉大さのあることを信じて稽古に励むべきである。(国技館相撲教習所) 禁酒ですか…。


作法不作法
酒を飲み始めた頃、お銚子から相手の盃に注(つ)ぐときに、これが新しい銚子ならば先ず自分の盃に少しこぼしてから相手に注ぐのが本当だと教へられたことがある。何故さうするのか、ごみでも浮いてゐたら、それを先にこつちの盃に取る為なのかも知れないが、これを実行してゐる人はこの頃余り見受けない。葡萄酒ならば勿論(もちろん)、新しい瓶をその度開けるので、それを先ず自分のグラスに注がせる。これはごみ除けよりも、味を見て、まずければ別なのと取り換へさせる為である。併しこれだつて、必ずしも行はれてゐる訳ではない。(「作法不作法」 吉田健一) 実際、徳利から酒を注いだところ、青カビがでてきたという経験が私にはあります。


洋酒異変『ダルマ』消え始める
「ダルマ」で親しまれたサントリーウイスキーの特級オールドが、なぜか、店頭から姿を消し始めている。「このところ、まるではいらないんですよ」と店のタナをにらむ東京・新橋の酒小売店の主婦。大手のデパートまでが、「年内分しかない」「ケース売り(十二本)はやめ、バラ売りにして販売制限をしている」という。とりわけ深刻なのはバーやスナックで、両国方面のあるバーの経営者「ダルマ」を探して毎日、何軒もの酒屋を歩き回っている、と嘆く。当のサントリー会社は「昨年を大幅に上回る量を出荷しているのに」と不思議そうだが、原因としては電力・石油削減によるびん不足説、「値上げ近し」の買いだめ説などがささやかれている。(昭和48年1月26日 朝日) (B級ニュース図鑑」 泉麻人) 第一次石油ショックの際のニュースだそうです。清酒も、回収される壜がなくなり不足するのでは、といわれていたような気がします。


ホノルル酒造の刺激
ホノルル酒造は日本にも刺激を与えた。「今だから言いますが、ハワイに負けてはいけない、と一生懸命でしたよ」と元国税庁醸造試験所長で日本醸造協会会長の秋山裕一さん(七○)が明かした。「泡なし酵母」のことである。一九六一年にホノルル酒造で見つかった酵母には、醗酵中に泡をほとんど出さないという驚くべき特徴があった。従来の酵母は、醗酵が進むにつれ、タンクの中でシャボン状の泡を大量に発生させる。この泡のために、タンクの効率も、作業能率も落ちていた。「手元には日本で見つかった泡なしを持っていた。しかし二瓶さんから『比べてみてくれ』と頼まれたハワイの酵母で試験してみると、醗酵力といい、香りといい、酸味の度合といい、日本のよりずっと優れている。『いい酵母ですね』と申し上げた。しかし、二瓶さんのをもらったのでは、こっちのメンツが立たない。必死になって研究しましたよ。そして十億匹に一匹という泡なし酵母を分離する方法を開発しました」それは一九六九年(昭和四十四年)ごろだった、と秋山さんが回想する。ホノルルでの発見より十年後のことである。(「海のかなたに蔵元があった」 石田信夫) 秋山は泡なし酵母を世に出した人です。


冬至のゆず湯
そのころは物価が安いので、風呂のなかには柚が沢山に浮かんでいるばかりか、心安い人々には別に二つ三つぐらいの新しい柚の実をくれたくらいである。それを切って酒にひたして、ひび薬にすると云って、みんなが喜んで貰って帰った。なんと云っても、むかしは万事が鷹揚(おうよう)であったから、今日のように柚湯とは名ばかりで、風呂中をさがし廻って僅かに三つか四つの柚を見つけ出すのとは雲泥の相違であった。冬至の日から獅子舞が来る。その囃子(はやし)の音を聴きながら柚湯の中に浸っているのも、年の暮れの忙(せわ)しいあいだに何となく春らしい暢やかな気分を誘い出すものであった。(「江戸の思い出」 岡本綺堂) 「そのころ」とは、明治10〜30年頃のことだそうです。柚湯の日には、銭湯の番台に三方が置かれ、客は入湯料に少々上乗せしたおひねりをその上に置いていったそうです。


川柳の酒句(16)
見世中を 雪にして行く 居酒のみ(雪の中を飲みに来て、店中に雪をふりまいている)
ばかめらと 雪見の跡に のんでいる(わざわざ寒い中雪見なぞに行かず家で飲めばよい)
雪見船 いらざる下戸の まじり事(酒で体を温められない下戸は雪見船には不用)
酔いがさめると 嘘をつく 工夫なり(家に帰ってなんと言い訳をしよう)
酔さめて 見れば陰間を 抱いてゐる(ゲー 男娼と寝ている… )


酒・酢・醤油の商標
明治十八年一月に商標条例付則追加案を作成して、これを参事院の会議に附することとなった。この会議には畏くも明治大帝陛下が親しく出御(しゅつぎょ)になった。陛下の御隣は議長、私はその時特に参事院員外議官補に兼任せしめられ、議長の隣席に立ってこの案の説明に当った。私はその時、まず商標と暖簾(のれん)の異なるところ、例えば「正宗」といえば、普通世間では優等酒という一般的の意味に用いられて、すでに公知公用のものである。故にこれを登録商標として、専有物にすることは出来ない。しかし酢の商標で「丸勘」とか、醤油の商標で「亀甲万」とかいうものは、広く世間に需要されてはいるが、これらはその商標によって直ちに醸造元を想像するように、一種専用のものとなっているから、まさに商標として保護すべきものであると述べて、美濃紙に、丸勘、正宗、亀甲万の図面まで書いて説明した。その結果、元老院会議も幸いにして無事通過した。後になって、高橋が、陛下の御前で、正宗や丸勘の図面を振り廻し、大声を揚げて説明した姿とてはなかったと大評判となった。(「高橋是清自伝」 上塚司編) 高橋是清は商標法の生みの親ですが、かくして、桜正宗は正宗の商標登録が出来なかったわけです。


パンとビールの棲み分け
純粋令はその後ドイツ中に広まり、現在もドイツのビールのラベルには、「これは一五一六年の純粋令に則って醸造されたビールである」と誇らしげに記されている。いや、ドイツばかりか、日本をふくめ、諸外国のビールのなかにも、純粋令に従っていることを宣伝文句としているビールは少なくない。だが、純粋令には品質向上のほかに、もうひとつ目的があったといわれる。それはパンにまわすべき小麦とライ麦をビールに奪われないようにするためであった。言い換えれば、それまで縄張り争いをくりかえしてきたパンとビールの棲み分け図ったのだった。パンに向かない燕麦も使用を禁じられたのは、農耕馬や軍用馬の飼料としてとして確保したがったのかもしれない。(「ビール大全」 渡辺純)


国民飲料
国民飲料といものは、その国で一番余計消費するアルコール含有飲料と解すると、その国の主食物を潰して、国民飲料を造っている国は世界中で日本だけのようだ。小麦を主食とする国では大麦から、果物から、米を主食とするところは黍や、芋や、その他の穀類、果物等からそれぞれの国の国民飲料は造られている。だから米が足りなくて、一部に餓死する人まで出ている今日、米以外のものから、アルコール飲料を国民に供給することが何故考えられないのであろう。炭坑に酒を配給して増産を図るくらいだから、今さら酒を飲むなとは無理な机上の空論に過ぎない。酒がいけなければ、今まで許して財源にしたほうが悪いのだ。(「味覚」 大河内正敏)


蕎麦 杉浦流
勝手寄りの席へ、入口が眺められる角度で座り、そこから先は、先代桂文楽の高座の如く、マクラからサゲまで。一句一語変わらぬペースの動作がはじまる。「燗なし、徳利で一本。もり一枚」昨今「冷や」は冷酒と混同される憂いがあるから「燗なし」。「徳利で」とは、コップ酒を忌避して。コップ酒はすいすい減って行く様が丸見えで寒い。流行りの吟醸酒に使うガラス徳利も、同じ理由で好まない。徳利の減り具合を、手酌の度に推量しつつ、盃でやるのが落ち着く。そして冷え切った際の初っ端は、燗より常温の方が、芯の暖まりが速やかで優しい。凌ぎの蕎麦味噌や、くらげ和えを、箸先で嘗めて半分やる内に、せいろが来るから、酒の残りは、うっちゃっといて、蕎麦へ取っ掛かる。薬味なしに、三、四本ずつ、つゆに下三分の一顔見せ、するするたぐってよそ見せず食べ進み、後半、本山葵を蕎麦猪口へ溶き(大苦手の葱は視界外に遠ざける)、つゆの饒舌なハーモニーと戯れる。簀子に、はだら一並べになったら止め、残した酒へ戻る。蕎麦は、箸で丁寧に、重ならないように広げながらならしてほっぽらして置く。徳利を空けたら、ぬる燗一本注文。盃で蕎麦湯を一、二盃飲み、盃を暖めて待つ。燗が来たら、ほど好く水気が失せ、心持ち白っぽく膨らんだ蕎麦を、今度は直接蕎麦猪口へ入れず箸先をつゆに浸し、一、二本を一口にまとめ、噛み締め食す。先刻の蕎麦と相変わり、芳醇な甘さと味わいの立つ肴となる。蕎麦をつまみに、ぬる燗一本。(「呑々草子」 杉浦日向子)


三歳の初体験
場所は仙台。祖父母の家に親戚一同が集まって、祖母お手製の夏みかん酒を飲んで盛り上がっていたときのこと。私は初孫で、親戚中の人気者だった。「万智ちゃん、これおいしいよ」−近くにいたおじいさんが、最初の一口を飲ませてくれたらしい。「…いける!」。その味に魅せられた私は、こっちのおじさんから一口、あっちのおじさんから一口、というように渡り歩いていったのだ。それぞれは「一口ぐらい」という軽い気持ちだったのだろうが、一口が十口ぐらいになったところで、さすがに酔っぱらったのだろう。私は赤い顔をして、はあはあ息も荒くなり、ぐったりしてしまったそうだ。「あら、この子、熱があるんじゃない?」「ほんと、体がほてっているわ」「こんなに急に熱くなって、救急車呼んだほうがいいかもよ」−団欒の場が一転して大騒ぎ。が、そのうちおじさんが気づいた。「なんか万智ちゃん、酒くさいよ」(「百人一酒」 俵万智)


坂口五峰
かつて、五峰、春城、印人 濱村蔵六、相会(あいかい)して、談 蔵書印におよぶ。春城は子孫これを宝とせよといふやうな常套語にあきたらず、さきに中井敬所に依って 得其人傳不必於子孫 といふ一印をえてゐた。しかしまだ意にみたない。五峰すなはち一語を撰ぶ。 子孫換酒亦可 の六字であつた。これはながく春城愛用の印となつてゐる。(「諸国畸人伝」 石川淳) 坂口五峰は、出奔して中村敬宇の同人社に学び、故郷の新潟で「米穀株式取引所」の頭取の代理となり、といって決して相場に手を出さなかったという士魂をもった人で、坂口安吾の父親だそうです。県会議員になったり、新潟新聞に関係したそうです。前の9字は よい人がいたら譲っても可、後の6字は 売って酒に換えても可 ということでしょう。一度は見てみたい蔵書印ですね。


自身番
自身番の役割はさまざまで、町内に不審の者が立ちまわれば、捕らえて自身番にとどめておき、奉行所へ訴え出た。 −容疑者の取調べに使ったり、人別帳(戸籍簿)の記入や整理も行った。同心が持ってくる差紙(奉行所からの出頭命令書)を受け取り、家主を通じて本人に渡すのも自身番の仕事だった。多くの自身番には、屋根の上に半鐘を吊した火の見梯子(はしご)が設けられていた。火災が発生すると、その梯子にのぼって半鐘を打ち鳴らしたのである。自身番には、町内の消火に使う纏(まとい)、鳶口(鉄の鉤をつけた棒)、竜吐水(放水ポンプ装置)、玄蕃桶(水を運ぶ桶)などを備えてあった。火消人足は半鐘が鳴ると、まず自身番に勢揃いし、火消道具を持って火事場へ押し出した。そのほか、自身番は町内の寄合相談などの場にも使われた。やがて規律が守られなくなり、開け放っておくはずの障子を閉めて、町内の連中が酒を飲んだり、碁や将棋に興じるなど、町内の社交場と化すところもあった。同心が市中の巡回で自身番に立ち寄るときも、外から声をかけ、なにごともないとわかると、そのまま通り過ぎていった。自身番の乱れについて、いくども戒められたり、飲食の禁止令が出たが、厳格に守られなかったようだ。(「お江戸の意外な生活事情」 中江克己)


錫の酒器
(ストックホルムの)デパートの地階では、丁度、スウェーデンの錫製品の展示をしていたので、興味深く見て廻っているうちに、丁度手頃な酒器を見付けたので、それを買うことにした。錫は酒を美味しくするという事を、前に、香港の食道楽の友人が教えて呉れた事を思い出したからである。その時、友人と僕は、香港の「大上海(ダーシャンハイ)」という料理屋で、秋になると産地の上海から送られて来る大閘蟹(ダーツァーハイ)に舌鼓を打っていたのだが、話が紹興酒(シャオシンチュー)の銘酒、香雪(シャンシー)と花彫(ホアチャウ)の事になった時、友人が酒壺(チューウー)を爪で弾きながら、矢張り酒は錫の酒器でないと美味くないですよ、錫は昔から言われる通り、酒を美味くし、酒の毒を消すのです、と説明したのを思い出したのである。(「も一つ パイプのけむり」 團伊玖磨) 團はその酒器にスコッチウイスキーをいれて飲んだそうです。


眠る盃
「荒城の月」は、言うまでもなく土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲の名曲だが、私はなるべく人前では歌わないようにしている。必ず、一ヶ所間違えるところがあるからである。「春高楼の花の宴」 ここまではいいのだが、あとがいけない。「眠る盃 かげさして」と歌ってしまう。正しくは「めぐる盃 かげさして」なのだが、私にはどうしても「眠る盃」なのである。(「眠る盃」 向田邦子) このほかに、「嗚呼荒城の 夜半の月」を「弱の月」、「泣くな小鳩よ」を、「泣くなトマトよ」などが紹介されています。私も、「戻ってみれば こはいかに」(「浦島太郎」)を「恐い蟹」、「今こそ別れめ いざさらば」(「仰げば尊し」)を「別れ目」だと思っていましたが、こうした話は誰もが、幼いころの思い出として持っているものですね。


メコンウイスキー
造り酒屋というより農家のようなところで、中年の夫婦が二人して酒を造っていました。原料は米で種類は蒸留酒。造り方は、米を蒸して醗酵容器の大きな壺に入れ、それに麹を加え、さらに水を少してそのまま置くと一週間ぐらいでアルコール発酵が終わりますから、それを蒸留して米焼酎を造るのです。つまりメコンウイスキー。麹は日本のように米の一粒一粒に麹カビを生やしたタイプではなく、蒸した粉砕麦を水で饅頭型や煎餅型にしてからクモノスカギを生やした麹です。また、蒸留するための蒸留器は、実に原始的なものでありました。私がその家を訪ねて行った時には、ちょうど蒸留していましたので、蒸留器の垂れ口からポタポタと落ちてくる酒を舐めてみますと、それはかなり舌を刺すような荒々しい辛口アルコールで強烈なものでした。(「アジア怪食紀行」 小泉武夫)  「鋼鉄の胃袋」「走る酒壺」「味覚人飛行物体」等、多くの別名を持つ著者の食の冒険譚の、ラオスの部です。


狸の使い(2)
「では、道草を食わないようにな(障子を閉めて座に戻る)」「あの狸、どこで仕入れたんです」「先月、浅草寺参詣の帰り、狸が子供にいじめられているいるとこに通り掛かって、気の毒に思い、助けてやったところ、恩にかんじたものか、わたしの傍らから離れなくなった。それ以来こうやって…おおそうか。早かったな。ご苦労ご苦労。米さん、済まないが障子を開けて徳利を持って来なさい」「(疑わしそうに障子を開けて徳利を持つ)おい、重いよ。本当だよ、こりゃ。棟梁、狸が酒を買ってきた」−
「さよう。もうお判りだろうが、あらかじめこの懐中ボトルに酒を入れて、懐に蔵(しま)っておいたのだ。この中の酒を縁先の徳利に移しただけの、実に簡単な手品だ」−
「お前達は知るまいと思い、十方舎一丸という人が書いた<手妻早伝授>という本に載っていた手品をちょっと試しただけ。ほんの座興だ」(「泡亭の一夜」 泡坂妻夫) 落語と手品をミックスさせた新趣向の新作です。


狸の使い(1)
「そこに、空の徳利があるだろう。中には何も入っていないんだろうな。うん、それでよい。障子を開けて、その徳利を縁先に出しておきなさい」「…へへえ。こうですか」「さあ、狸や。升屋を知っているな、ご苦労だがその徳利を持って、酒を買って来てもらいたいな…うん、そうだ」「狸が何か言っているんですか」「お前達にの耳には聞こえまいが、わたしの耳には、ちゃんと聞こえる」「へえ」「そうしたら、障子を元の通りにぴったり閉めて、覗いちゃいかんよ。こうしておくと、狸が升屋へ…なになに、ああそうか。これは迂闊(うかつ)なことをした」「何と言いました」「お銭(あし)がないが、木の葉を使いましょうかと言った」「それはいいや。旦那その手をちょいちょい用いますか」「そんなことをすれば酒屋が気の毒だ。(懐を探り、銭を掌(てのひら)に載せる)これだけあればいいでしょう(立って障子を開ける)」「旦那も無駄なことをするねえ。せっかく狸がああ言うんだから、木の葉で間に合わせりゃいいのに」(「泡亭の一夜」 泡坂妻夫) 新築祝いの旦那の家。供に連れておる狸に酒を買いに行かせようと旦那が提案して…という新作落語です。


へなちょこ(2)
その1−「明神のがけ土をこねて、開花楼の初代が猪口を焼いたんです。遊び半分で、お多福の絵も自分で付けた。けれど、いざお酒をついだところお酒がじゅうじゅう吸いこまれ、ぶくぶく泡が立つ。変な猪口だから、へなちょこ、と客が膝を叩いて笑い合った。明治の初めのことです」(神田育ちの江戸図研究家、三彩堂無斎さん) その2−「明治も末の日露戦争のあと、名だたる文人が開花楼に集まり戦勝祝いをやった。一人が道の途中、掘りだされた粘土をすこしひろってきて猪口を作ったというのです。ところが、粘土が軟らかすぎたのか、変な形になってしまった。へなちょこ、と一同大笑いしたのが始まりです」(「神田の開成中学で学んだ食味評論家・多田鉄之助さん) 開花楼一家から、さらに異色の人材が出ている。NHKの会長、坂本朝一氏である。(「神田川 朝日人文社会部」 新潮文庫) 残念ながら開花楼は廃業してしまったようです。


夏に涼を呼ぶ酒
暑くなると涼を求めるのはいつの時代でも同じ。平安時代の『延喜式』に醴酒(れいしゅ)というのがあって、これは宮廷の貴族たちが夏に飲んだ酒であった。六月一日に造り始めて七月三十日にはシーズンが終わる酒で、まさしく盛夏の酒であったが、その飲み方がふるっている。主水司(もいとりのつかさ)が管轄する氷室(ひむろ)から運ばれてきた氷を酒に入れて、それを水酒(みずざけ)と称して楽しんでいるのである。平安時代の貴族たちが真夏にオンザロックで暑気払い。浪漫じゃないですか。(「食に智恵あり」 小泉武夫)


小林秀雄の酒
向う(中国)で、文学者大会を開くというので、先ず、久米正雄、そうして小林秀雄が上海へ向かった。ところが、文士達は何もしないで毎日酒ばかり飲んでいる。のみならず、ある公の席上で、小林さんが酔っぱらって、時の文部大臣の立場にある人をなぐるという事件が起きた。事実は、親愛の情をしめすあまり、撫ぜたり叩いたりしただけだが、軍人や役人にしてしてみれば同じことである。侮辱を与えたという理由で、小林さんは帰国を命じられ、計画した大会はお流れになった。これは、その頃、私達まで耳に達した有名な話である。(「心に残る人々」 白州正子) この文章の主人公は、岩田幸雄という人物で、大会がご破算になったあと、日中を結びつけるためにということで、小林に当時の金で200万というありったけの金を用立てようとしたという義侠心に富んだという人物です。


時々思い出して、くすくす笑う話
むかし親しくつきあっていた書店の主人が飲みにゆくと、酒亭で、私に税金の話をする。それも、自分が税務署の役人だと、店の人に思いこませたいフシがある。店のほうも、何となく丁重に扱ってくれる。そう信じているわけだ。ある時はじめて私の連れて行った店で、例によって、それをはじめた。するとカウンターの端にいた先客が「税務署の方ですな」と声をかける。「ええ、まあ」「どこの税務署ですか」「この近くの」すると相手は目を丸くして、「おや、どこの課だろう。私もここの税務署の者ですが」(「最後のちょっといい話」 戸板康二)


日本は、社会全体がアルコールに依存?
日本の社会は公私両面にわたって、酒に深く依存しています。むしろ、酒抜きでは社会そのものが潤滑に機能しないフシすらあります。そこで私は、そうした日本の飲酒文化と社会のしくみを「アルコホリック・ソーシャル・システム(ASS=Alcoholic Social System)と呼んでいます。ASSとは、次のようなことを言います。@飲酒と集団的に共有された酔いのどちらかに対しても寛容な飲酒文化 Aアルコールが社会の組織化に決定的な役割を果たしている B許容と統制が同時存在する統合メカニズム D以上の四点は、女性にはかならずしも当てはまらない 平たく言えば、アルコール抜きでは社会が十分に機能しないほどに、アルコールが社会的に重要な比重を占めているということです。しかも、日本の場合、飲むことだけでなく酔うことまでが含まれています。(「酒飲みの社会学」 清水新二)


馴染(なじみ)
夜鷹(最下級の街娼)のなじみ客、「これ、おぬしは、、どふして、このやうな商売をする」「アイ、わたしが親は、もと歴々(身分の高い者)で御ざんしたが、訳あって、こんな身に成りやした」「コレ酒買った。一ツ盃呑みやれ。こんにやくの田楽を肴に」と差し出せば、戴いて、つまみ切って食ふ。「ハテ、昔はむかし、今かふ成っては、食いついて食つたが能い」「わたしや、歯が御ざりやせん」。(安永五年六月序『高笑ひ』) こんにゃくをちぎって食べるのは、育ちがよかったからではなくて、老齢ゆえとは、まことに色気のないはなし。(「江戸食べもの誌」 興津要)


飲めぬ性
大晦日の夜、一本の酒と一鉢の豆腐を石敢当(せきかんとう)に供え、主人は拝み終わって、犬がそばにいるのを見て、童子にはやく片づけるようにいいつけるようにいいつける。そこで童子、酒をもって家の中にはいり、また出てさて豆腐をしまおうとしたら、すでに犬に食われてしまったあとであった。主人叱りつけて、「ばか野郎、さきに豆腐をしまえばよかったのだ。犬は酒を飲まんのだから。 注 石敢当とは、百鬼を鎮め、災いを除けるまじないに、辻などに立てた石柱のこと。「泰山石敢当」などと書いてある。(「笑府」 岩波文庫) 先に豆腐を片づけさせたら、酒は頭の黒い鼠に引かれていったでしょうし、一緒に片づけさせたら童子が転んで両方ともダメになっていたでしょう。「笑府」は中国・明朝末期の笑話集です。


大阪の物干し
大阪では物干しというところへたいへん金をかけるのです。何故(なぜ)かというと関西は暑いところですから、夏なぞ太陽が沈むと物干しへあがる。薄べりを敷き、その上へ座布団を敷いてテーブルを置き、酒なぞを飲む人があるのです。屋上の部屋といった具合ですね。だから金をかけて立派な物干しを作るので向うの屋根にの上にも、こっちにも大きな立派な物干しがあって、お互いに顔を見合せて「いやァ、今晩は」「おう、これは暑いこってすなァ…」なんてンで、一つの見栄に物干しを作るので、だから東京の人には馬鹿げているように思われるかもしれませんが、大阪の人はずいぶん金をかけたものを作ったんですね。(「江戸散歩」 三遊亭圓生) 江戸は長屋前の縁台に腰掛けた団扇片手の夕涼みですね。


八達
西晋時代、竹林の七賢がもてはやされたが、東晋になると、「八達」がもてはやされた。達とは、勝手気ままに振舞うことで、礼教を無視して、自由の境地に到達すると称した人たちを指した。胡母輔之(こぼほし)、謝鯤(しゃこん)、阮放(げんぽう)、畢卓(ひったく)、羊曼(ようまん)、桓彜(かんい)、阮孚(げんふ)、孟光(もうこう)といった人たちである。ときには光逸(こういつ)、王澄(おうちょう)、沙門于法龍(さもんほうりゅう)を加えることもあった。儒の礼教は、たしかに人びとを、がんじがらめに縛りつけ、精神的な囚人にしていた。いちどそれを釈(と)き放ち、のびのびと自由をたのしみたい。−人びとはそう思い、自分たちにかわって、それを実行する人に拍手を送ろうとしている。西晋のころの竹林の七賢に、人びとは自分まで解放された気分になり、称讃を惜しまなかった。だが、東晋の八達はどうなのか?干宝(かんぽう)が恥じるべきは彼らだと言ったように、ただの酒飲みであり、行儀が悪いだけである。七賢のことを「竹林の会」という。竹林に集まり、音楽を楽しみ、哲学を語り合ったのである。それにたいして、八達のことは「芳樽の友(ほうそんのゆう)」と形容される。酒樽を囲み、泥酔してしまえば、音楽も哲学もなくなるのである。(「中国畸人伝」 陳舜臣) どこでも後発グループは多少劣るということなのでしょうか。


正月の大奥配膳
正月元旦の御屠蘇の式であるが、その配膳は、やはり御中老によって行われる。将軍と御台様は、平生琴瑟(きんしつ)相和すと和せざるとの論なく、差向いにお褥(しとね)の上に坐って配膳のおわるのわ待たれる。差向かいといっても「八寸を四寸ずつ」占領するお取膳などと違い、一間以上もはなれて、婚礼の席のように端座しておられる。まず、口祝いの台といって、藁七筋、昆布、梅干、数の子、勝栗、譲り葉、南天の葉など、喰べられもしない縁起物をのせた台が出て、そのつぎに、十二組のお菓子が出る。榧(かや)、胡桃(くるみ)、栗、柿、饅頭、山の芋、まで加えて、ともかく十二種類揃えてある。これも別段うまそうなものはない。そこへ銀製三つ組のお盃と、鶴のお吸物が出る。別の御中老は、うやうやしく昆布、熨斗(のし)、勝栗など、これもまた喰えもせぬ物を、土器(かわらけ)へ盛って出すと、またほかの御中老は、大根、牛蒡(ごぼう)、焼豆腐、芋、昆布、鮑(あわび)、梅干、数の子などを、土器にとりわけ右の雑煮にそえて出す。すると将軍と御台様とは、いかにも仲のよさそうな形式において、屠蘇の盃を献酬してから、雑煮椀の蓋をとり、三椀までかえる。雑煮がすむと、今度は本膳、二の膳、三の膳、四の膳、五の膳が、後から後から運ばれる。その献酬の給仕は、年寄二名の指図で、中老二三名、若年寄、御小姓などがつとめる。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 雑煮三杯の外には箸を付けないのだそうです。


飲み屋に関する歩兵操典
夕方になると、いつ声がかかるかと身構えて待ったものだ。だからといって、幇間(ほうかん)ではあるまいし、「今夜あたり、どこぞへお供したいもんですね」なんぞと謎をかけるのはもちろん、顔色にも出すまいと心掛けたものだ。そして声がかかると、ただ一声「ハイ」と答える。かりに友人と約束があろうが、「今夜は早く帰るからね」などと家人に言ってあったとしても、それらのすべてをその瞬間に潔く裏切って悔いてはいけないのである。それは仕事以上に仕事だからである。従って、いくら待ってましたと思っても、そのまま嬉しさを顔に現わすことさえも慎んだのである。(「男の止まり木」 諸井薫) 会社の上司からの飲みに行こうというさそいに対する心得です。当たり前というかすごいというか。


酒の未来
醗酵学者と、徳利や杯の収集家とは別次元の存在のごとくなっている。酒の音楽の研究家もまたべつな次元である。酒学会でも作り、あらゆる関係者をまとめたらどうだろう。そうすれば、酒の未来図が自然に浮かびあがってくるというものだ。思いつきにたよっていたのでは、出る智恵ももたかがしれている。たとえば、ある酒については、気温と湿度がどれくらいの時に飲むと最もうまいかという基準がはっきりしたとする。壁のダイヤルをあわせれば、室内のコンディションがそうなり、こころよく飲めるのだ。冬にはあつ燗というのにこだわることもない。室内を高温にして、ひやで飲むのだってもっと日常的になっていいはずである。ムードの要素は温度だけではない。部屋の周囲の壁、さらには天井や床までがすべてカラーテレビ画面になる時代も、そう遠い未来ではないはずだ。となると、スイッチひとつで、いかなる光景にも身を置ける。月影のさす梅林だろうが、紅葉の山中だろうが、パリのテラスだろうが、お好みしだい。立体音響で音が加わり、空気調節で花のかおりをただよわせるのも自由。せまい殺風景な室内で飲むよりは、いい味わいになろうというものだ。はやりの言葉でいえば、飲酒空間の開発ということになる。また、エレクロトニクスによる健康診断が普及すれば、その日のぐあいに最も適した酒の種類と量が指示される。変に悪酔いすることもなくなるはずだ。(「酒の未来」 星新一) 文庫本の出版が昭和51年ですから、もう半分以上は未来になっているということでしょうか。


短歌行
酒に対(むか)いては当(まさ)に歌うべし (さあ酒を飲んだら歌おうではないか)
人生は幾何(いくばく)ぞ (人間の寿命は短い)
譬(たと)えば朝露の如し (それはあたかも朝露のようにはかないのだ)
去りし日は苦(はなは)だ多し (過ぎ去った日々は苦労が多かった)
概して当に以て慷すべし (胸をはり心をはずませて)
憂思(ゆうし)忘れ難し (憂いを忘れ去れば良いのだ)
何を以てか憂いを解かん (どうやってその憂いを解けば良いのか)
唯だ杜康(とこう)有るのみ (それは酒を飲むことだ)(魏の武帝・曹操の「短歌行」の冒頭だそうです。「中国酒食春秋」 尾崎秀樹)


大語録(2)
酒池肉林【しゅちにくりん】 「イスラム世界では酒は呑めませんが、そのイスラム教徒でも外国に行けば、もう酒池肉林が大好きですからね」 * 「目には目を! 歯には歯を! ヘソにはヘソを! チンポコには○○○○を!」
ジョーク【joke】 「オーストラリアでは最初の挨拶というジョークがあります。 バースでは『お生まれはどちら』 アデレートでは『教会はどちら』 メルボルンでは『出身校はどちら』 シドニーでは『儲けていますか』 ブリスベーンでは『まあ一杯』 といいます」
長寿のコツ【ちょうじゅのこつ】 「おふくろは九十三歳だよ。病院で医者がいうんだって。お酒と煙草をやめれば長生きするって。…九十三歳だよ」
平均寿命【へいきんじゅみょう】 「酒、煙草ねェ。平均寿命をすぎたらそろそろはじめようと思ってます」(「大語録 天の声地の声」 永六輔)


田中正造の酒肴
鉱毒事件で、今様(いまよう)佐倉宗吾といわれた田中正造は、栃木県下都賀郡の郡長をしていた吉屋信子さんのお父さんの家に、よく来ていたそうだ。酒を出すと、こういった。「肴はいりません。青トウガラシをやいて、ミソをつけて下さい」 幼女時代の吉屋さんが、その姿を見ていて、後年思い出してこういった。「いいおじいさんでしたよ。サインしてもらいたくなるような」(「新ちょっといい話」 戸板康二) 足尾鉱山の鉱毒問題解決に生涯をかけた人らしい酒肴です。


「日本酒」のウンチク
どうやら「日本酒」というものについては、国民総ぐるみで、ウンチクに語り耽(ふけ)ってきたようなのである。たとえば、日本酒の独創的といわれる技術である並行複醗酵方式は、麹によって糖化醗酵を行うアジアの酒一般に見られるところである。また、この醗酵形式によって、「醸造酒としては世界でも類(たぐ)いまれな高アルコールができた」と語るのだが、中国の紹興酒にはそれ以上のアルコール度数のものもある。麹が散麹(ばらこうじ)であること、麹菌がAspergillus oryzae(アスペルギルス オリゼ)でることを「独創的」の根拠にする向きもある。しかし散麹は中国の米麹でも使われているし、麹菌も日本にしかないというようなオリジナルなものではない。(「酒と日本人」 井出敏博) お国自慢はときとして偏狭に陥る危険があり、国際化した現在は、特に気をつけなければならないことのようです。


飲み屋のツケ
1年以上、飲み代のツケのたまった客で、一度も払わない客に、ママがはじめて請求書を送った場合(飲食店のツケの時効は1年で、この請求書は時効を過ぎている)
@「来月払うからそれまで待ってくれ」と電話 飲み代の存在を認めたもので、支払い義務をまのがれない
A「飲み代なんて踏み倒すのがオレの流儀だ」と電話 飲み代は時効にかかっていることを主張しており、支払い義務無し
B「とりあえずこれだけはらっておく」と内金2万円を払う 未払いを認めたののとみなされ、残金支払いの義務をまのがれない。(「民法おもしろ辞典」 和久峻三) 何となく釈然としないようなしたような…。


晩餐会の飲物
ちなみに一九七五年五月、イギリスのエリザベス女王が来日されたときの宮中晩餐会のメニューをもう一度思い出してみよう。 清羮(スッポンのスープ) 鱒冷製(キャビア添え) 鶉(ウズラ)詰焼(フォアグラ詰め) 羊肉焙焼 サラド 氷菓(レモン・シャーベット) 後段(デザート) ワイン 白=モントラッシェ1966 赤=シャトー・ラフィット・ロシルド1964 シャンパン=モエ・エ・シャンドン・ドン・ペリニヨン1964 さらに八六年の五月、東京サミットを終えた先進七か国、EC首脳らを招いて開かれた天皇陛下主催の宮中晩餐会のメニューは次のようなものだった。 清羮(海燕の巣) まながつおの酒蒸し、白芋添え 羊肉の蒸し焼き、温野菜添え サラダ アイスクリーム(富士山型) 果物(メロン、いちご) <飲物> ▽食前 ドライ・シェリー(サンデマン・ドライ・ドン=スペイン) トマトジュース(国産) フレッシュ・オレンジジュース(アメリカ) ジン・トニック(ビーフィーター=イギリス) ベルモット・オン・ザ・ロック(ガンチア・エクストラ・ドライ=イタリア) カナディアン・ウイスキー(クラウン・ローヤル=カナダ) ▽卓上 日本酒 白ブドウ酒(ベルンカステラー・ドクトル1982=西ドイツ) 赤ブドウ酒(シャトー・マルゴー1979=フランス) シャンパン(モエ・エ・シャンドン・ドン・ペリニヨン1976=フランス) ミネラルウォーター ▽食後 コニャック(ヘネシー・エクストラ=フランス) リキュール(コアントロー=フランス、ピペルマン=フランス) スコッチ・ウイスキー(バランタイン30年=イギリス) バーボン・ウイスキー(オールド・グラン・ダッド・スペシャル・セレクション=アメリカ) ジン・トニック(ビーフィーター=イギリス) コーヒー(ブレンド) 紅茶(リプトン=イギリス) 日本茶(煎茶)(「気分はいつも食前酒」 金重敦之) 清酒業界の強い働きかけもあり、確かエリザベス女王のときはじめて清酒が使われたような気がするのですが…。


飲めば都かアル中患者ヘアトニックで乾杯
関東地方の某精神病院のアルコール中毒患者専門病棟で、ベロンベロンに酔いつぶれた患者一人と、ほろ酔い機嫌の患者数人が発見され、病院当局を狼狽(ろうばい)させた。というのは、同病棟には慢性アル中患者四十五人が入院しており、アルコール類の持ち込みが不可能な状態だったからである。病棟の入口は厳重に施錠され、医者と看護士以外は立入禁止。むろん患者の外出も禁じられ、新たに入院する者もボディーチェックを受け、すべての所持品は病院の管理下におかれていた。買い物も、看護士に頼む状態で、病院当局が患者たちから事情を聴取しても、「酒飲みてーな、飲みてーな」と繰り返すだけでラチがあかず、結局、所持品を一つ一つ徹底的に調べ上げた結果、意外な真犯人が浮かびあがってきた。それは「ヘアトニック」だったのである。ヘアトニックは、アルコール度九五パーセント前後である。患者たちは、即席サイダーの元である「炭酸の粉末」を看護士に買ってもらいこれを水に溶いて炭酸水をつくり、それでヘアトニックを割った「トニック・フィーズ」を車座になって楽しんでいたのである。(「デキゴトロジー」 週刊朝日風俗リサーチ特別局編著)


酒飲んだらマスク
「忘年会のシーズンなど、飲んで夜遅く帰るときに(マスクを)かけると、風邪の予防になります」アルコールが入ると、皮膚や粘膜の血管が拡張する。その状態で、乾いた冷たい夜空の下を歩けば、鼻や咽喉(のど)から体温が逃げ、しかも乾燥してくる。「感冒のウイルスは、低温と乾燥の二つの条件がそろったときに暴れ出します。酔ってフラフラ歩いているのは、ウイルスに活躍の舞台を提供しているようなものなのです」そこでマスクをかければ、冷たい夜の空気を直接吸い込まずにすむ。しかも、自分の吐く息でガーゼは湿ってくるから、鼻や咽喉の乾燥が防げる。網の目からウイルスが侵入してくるのは仕方ないとしても、おとなしくさせておくことができるのだ。「同じ理由から、夜勤明けなどで早朝に帰宅するときも、マスクを忘れないで下さい」早朝は一日の内でもっとも気温が低い。ウイルスが元気になる。朝帰りするときなどは、こちらの身体は疲れているから鼻や咽喉を暖かく保護しておかなければいけない。(「読むクスリ」 上前淳一郎)


訓令を忘れた大使たち
食事をしに食卓につくと上等この上なしという酒が出された。大使がたは役目を思い出すことよりも酒の方が好物だった。二人は酒壜に向かって攻撃を開始した。飲みに飲み、あおりにあおったので、食卓が終わったときには、その用向きを思い出すどころか、どこにいるやらもわけがわからず、昼寝してしまった。長いこと眠ったあげく、すっかりどろんとした目を覚ました。一人が相手に「君まだ用事を覚えているかい」といった。相手は答えた、「ぼくは知らんね。僕の覚えているのはこの宿屋の酒ほど上等の酒を今まで飲んだことがないちゅことだけだよ。飯を食ってから今までなんにもおぼえがない。今だにどこにいるのかよくわからん」(「ルネッサンス巷談集」 杉浦明平訳」 二人の大使がアレッツォの司教の所に派遣されるが、肝心な伝達事項を忘れ、司教に謁見したところ、聡明な司教から「さあ帰って、あのわたしの子供たちにいってやって下さいな、皆のためになることでわたしのできることならどんなことでもいつでもして上げるつもりです。」との名返答をもらい、おかげで二人はその後多くの公務をおび、何度も市長や長官になったとさ、という話です。イタリア・ルネッサンス期、ボッカチオらと同世代のフィレンツェ商人によるの市井小説です。作者は、フランコ・サケッティです。


「続食日記」
×月×日 帰宅して、夕飯は、蛤を入れた湯豆腐。湯豆腐には大根をうすく切ったものを入れると、豆腐が白くふっくらと、おいしく煮える。まことに食物の取合わせはふしぎなものなり。冷や酒を茶碗で三杯。 ×月×日 夕飯は、先ず鶏肉の細切れで水炊きをやる。葱と豆腐、人参の細切りを入れる。まことにうまい。ウイスキーのオンザロックスを三杯。 ×月×日 夕飯は、小さめなポテトフライと生キャベツで、ウイスキーのオンザロックスで三杯。ひじきと油揚げの煮物とトリ貝も出る。飯は、しじみの味噌汁と漬物で食べる。 ×月×日 夕飯は酒二本で、豆腐とタラとホウレンソウの小鍋立て。 ×月×日 夕飯は、貝柱と三つ葉のかき揚げ冷酒茶わん三杯。それと青柳をさっと焙り、ワサビ醤油で食べる。(「続食日記」 池波正太郎) 酒のところだけの抜粋です。家ではこんなものだったのでしょう。


武田信玄陣中に酒をふるまう事
永禄十二年正月の寒いころ、甲州武田信玄は、駿河国興津(おきつ)河原に出陣して、今川氏真(うじまさ)、北条氏康(うじやす)公父子の連合軍と対陣した。折から浜風烈しく吹き、耐えがたい寒さであったが、信玄公は酒だるをたくさん取り寄せて、大釜をしつらえてかんをさせ、自分も一杯きこしめし、侍衆に向かって、「思うさま飲め」と下知すると、武田の軍勢は思うさまがぶ飲みする。やがて信玄公が、「酒を飲んでも、まだ寒いか」とたずねると、「もはや寒くはござりませぬ」「これでもまだ寒く候」など、さまざまに言うものがあった。信玄公はそれを聞き、「さらば酒のさめぬうちに、山上の敵陣を攻めとれ」と、先手衆(さきてしゅう)を薩「土垂」(一文字)山(さつたやま)に繰り出すと、その山の陣に敵の侍は一人もなく、十人ほどいた小者を蹴ちらして、陣屋を破壤し、武器兵糧をやすやすと奪いとるのに成功した。ここに知略にすぐれた信玄公の面目が表れている。思うさま酒を飲んでさえ寒さを耐えがたいのだから、酒も飲まずに高い山の陣に留まっているのは苦しかろう。さだめし敵は麓へ下って夜を明し、暁の寒さに油断して、山上の陣屋を空にしているに違いない。もし在陣していたとしても、暁のこの寒気で、手足こごえて、行動も鈍い、と軍略をめぐらしたのである。(「可笑記」 渡辺守邦 訳)


酒とワープロと男と女
「二週間前会社の忘年会のときのことです。ふと気づくと四次会で、私は山下君っていう二歳下の男の同僚とふたりきりでワイン専門のバーにいました。もうふたりともかなりの酩酊状態でした。そんなとき、彼が言ったんです。『先輩、おれのワープロ、マイケルって名前なんだけど、そろそろ適齢期なんです。誰かいいワープロがいたら紹介してやってくれませんか?」って。私、このセリフ聞いたとたん、ガハハハ笑いして、「うちにいい娘がいる。ものすごく美人だぞ」って言ってやりました。そしたら急に話が盛り上がって、お互いのワープロをお見合いさせようってことになったんです。−
「ステファニーをマイケルのところにお嫁にやることが決まりました。私の心は嬉しさでいっぱいになりました。でも、突然悲しさがこみ上げてきたんです。私のかわいい、かわいいステファニーがいなくなるとさびしくなる。夜のおしゃべりの相手がいなくなる。私が涙ながらにそれを話すと、ステファニーがこう言ってくれました。『私の嫁入り道具として、ついてきなさい』」「…」「私、今、ステファニーとマイケルの新婚家庭に置いてもらっているんです。山下くんといっしょに」「それじゃあ、ステファニーとマイケルの愛の巣の住所を教えて。結婚祝いに清酒『素直じゃない』を送るから」(「ショートショートの広場」 阿刀田高・編)


にごりえ
店は二軒間口(にけんまぐち)の二階作り、軒には御神燈(ごしんとう)さげて盛り塩(もりしお)景気よく、空壜(あきびん)か何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて帳場めきたる処もみ(見)ゆ、勝手元(かってもと)には七輪(しちりん)を煽(あお)ぐ音折々に騒がしく、女主(あるじ)が手づから寄せ鍋茶碗むし位はなるも道理(ことわり)、表にかゝげし看板を見れば子細らしく御料理とぞしたゝめける、さりとて仕出し頼みに行(ゆき)たらば何とかいふらん、俄(にわか)に今日品切れもをかしかるべく、女ならぬお客様は手前店へお出かけを願いまする(男のお客様だけ当店へおいで下さい)とも言ふにかたからん、世は御方便(ごほうべん)や商売がらを心得て口取り焼肴とあつらへに来る田舎ものもあらざりき、(「にごりえ」 樋口一葉) これが「銘酒店」で、にごりえの舞台です。それにしても、日本語はなんと大きく変わってきたのでしょう。


銘酒店
私娼窟(ししょうくつ)年度から見る次の「銘酒店」と呼ぶものは、殆(ほとん)ど名の示す「銘酒」設備はないと共に、家の構造はそれだけ手数が省けるので、それだけ「三畳敷」構造の方に力を分けることが出来たろう。早くいえば、家の中にその「小間」が増えることとなった。やがてこの構造の推移・変化が、銘酒店に、入口の窓辺に特にいうところの「目ばかり窓」を備えた、そこに女の座る方三尺の「職場」を案出するに至って、最近世私娼窟の原型がそこに出来ることとなった。この方三尺の呼び込み窓(目ばかり窓)に臨んだ職場は、余人が立入って意味のない、そこの座る「女」だけの専用のもので、建築構造として職業意識が強い。−近代的なものである。女が障子の腰ガラスを通じて目ばかりをやっと下界から見られるような位置に、いい代えれば、それほど窮屈な外界との交渉遮断の位置に、おしこめられたのは、一つには監督当局のそういう方針に従ったものであったが、…(「新編 東京繁昌記」 木村荘八) 銘酒店の前の年度は「矢場」だそうです。


大正復刻酒
それではいよいよ、大正復刻酒のテイスティングである。復刻酒には2種類あり、辛口が日本酒度プラス8、甘口がマイナス12と、かなりかけ離れている。精米歩合はどちらも60%だ。まずは辛口から。やや黄色みがかった色、香りは強くなく、かすかに柑橘系の香りが感じられる程度。味はキリッとしたキレのある飲み口で、酸味が強い。日本酒というより、白ワインに近い。次は甘口。辛口より色は薄いが、香りは高く、日本酒らしい香りがする。味も辛口より丸くふくよかだが、やはり酸味が強い。酸味があるので、日本酒度がマイナスでも、甘くてベタベタした感じはまったくない。味や香りのバランスは甘口のほうがいい。「すっごく個性的でおいしいです。こんな日本酒は、今まで飲んだことがないですね−。特に甘口のほうがウマイ!」「お酒の味がわかる方は、甘口のほうがいいとおっしゃいますね。でも、ラベルだけ見て辛口を買う人が多いんです」それは、みんなが「酒は辛口がいい」と信じ込んでいるからに違いない。「同じ材料なのに、どうして甘口と辛口にこれだけ違いが出るんでしょうか」「ま、簡単に言えば、蒸米の吸水率を上げて柔らかめにし、かつ麹菌をたくさん生やせば糖がたくさん出て甘口になります」(「ニッポン全国酒紀行」 江口まゆみ) 秋田・刈穂の蔵で醸造した大正時代に使用された酵母を使って醸造した大正復刻酒の試飲記です。'99年からは精米歩合80%の甘口を醸造したそうです。


片仔こう(へんしこう)
旅から旅の多い僕を心配して、家内は薬を持たせる。その薬には何種類もがあって、風邪を引いたとお思いになった時は、いゝですか、この中国の「銀(走羽)(一字)」を四粒宛呑んで下さい。お酒を呑み過ぎたと思った時には「片仔(ン廣)(一字)(へんしこう)」を削ってオブラートで包んで少量宛呑む事、肩が痛んだ時はこの「筋骨寧」を二、三錠宛、お腹が変な時には「ファイナ」を三錠、急な下痢には「ハロミン」を一カプセル、そして心臓がおかしいとお思いになったら、此処に「六神丸」と「牛黄清心丸」を入れて置きますから、適量お呑みになるよう、小さな怪我の時のための沃度丁幾(よーどちんき)とバンド・エイド、包帯も入っています。(「なおかつ パイプのけむり」 團伊玖磨) へんしこうは、薬用人参、麝香(じゃこう)、牛黄(ごおう)、蛇胆(じゃたん)などを配合した漢方薬だそうですが、かなり高価なもののようです。


川柳の酒句(15)
御門番 酒の切手が 物を言い(商品券は武家に出入りする商人にとって袖の下用の必需品のひとつだったようで)
居酒屋の見世で呑でる矢大臣(酒樽に腰掛け、片足であぐらをかいたような姿で呑んでいる)
茶を飲んで 間ィもなく来る やなぎ樽(水茶屋:江戸時代の喫茶店 で見合いをして、すぐに樽入れとなった恵まれた人)
女房を湯にやり 亭主酒をのみ
不都合さ 亭主湯あがり 女房酒(どちらも 湯ぼぼ酒まら をよんだ句)(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)


試し酒
ある大家の主人が、客に来た近江屋の下男の久造が大酒のみで、一度に五升はのむときいて、「もし五升のめたら、お前さんに褒美としてお小遣いをあげよう」ともちかける。久造がのめなかったら、近江屋が二、三日主人をどこかに招待する約束である。「弱ったな、おらのめなきゃァおめえさま散在ぶつだな…旦那さま、ちょっくら待ってもらいてえ、おら少しばかり考えるだよ」と、いったん外へ出た久造がしばらくして戻ってくると、「のましてもらうべえ」と、一升入りの大盃につがれた酒を五杯のみほしてしまう。「いや恐れ入ったな、あたしの負けだ。さあ久造さん、これは約束の小遣いだ。少ないが取っておくれ。ところでお前にちょっとききたいんだが、さっき考えるといって表へ出たな。あれはいくらのんでも酔わない禁厭(まじない)なんだろう。それを教えとくれよ」「うわッはははッ。あれァなんでもねえだよ。おらァ五升ときまった酒ェのんでみたことねえだ。心配でなんねえからな、そいから表の酒屋へ行って、試しに五升のんできたよ」(「落語長屋の四季の味」  矢野誠一) この有名な落語は、今村信雄によって昭和の初めにつくられた新作落語だそうです。


思い出した
酔っぱらって帽子をどこかに忘れてきた男、教会に行ってクロークルームから一個、頂いてくるのがいちばん手っ取り早いと考えた。教会に入ると、ちょうど牧師が十戒について説教しているところだった。説教が終わり、牧師がまわってくると彼は立ちあがって牧師にあいさつした。「尊師よ、あなたはわたしを罪から救ってくれました。わたしはここに入ってきたとき心中では罪を犯すつもりだったのです。わたしは帽子を盗もうと考えていたのでした。しかし、あなたの説教を聞いて、わたしは改心したのです」「それはよかった」牧師がいった。「それであなたは、わたしの説教のどこのところで心を改めようと思ったのですか」「それは」男が答えた。「あなたが”汝(なんじ)姦淫するなかれ”といわれたときでした。わたしはそのとき、帽子を忘れてきた場所を思い出したのです」(「ポケット・ジョーク」 角川文庫)


藤田東湖の酒
弘化元年(一八四四)五月、水戸烈公は冤罪(えんざい)を蒙って、小石川砲兵工廠のところの上屋敷から、駒込の中屋敷へ幽閉されると同時に、重臣以下もそれぞれ罰せられ、藤田東湖もただちに上屋敷内の寓居に蟄居(ちっきょ)を命ぜられた。それから間もなく、雨の晩に護送して、小梅の下屋敷、すなわち枕橋の邸内に移された。−
東湖は、小梅の幽居においても、相変わらず飲んだ。しかし彼は微禄な上に、郷里の水戸には家族が多いから、思う存分に飲むには、経済が許さなかった。一回の晩酌一合と決めて、例の忠助に頼んで、十日ぶん一升ずつ買わせた。貧乏をして酒の量はつめても、その質を落とすことは、東湖の潔しとせぬところであった。浅草風神雷神門前の四方(よも)という酒屋でつくる銘酒隅田川をとりよせて、微醺(びくん)を楽しんだ。またこの銘酒のことを墨水春と支那風に呼んで、詩に詠じた。頼山陽が、伊丹の醸にあらざれば、口にしなかったのとよく似ているが、東湖は山陽よりはるかに貧乏だった。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 砲兵工廠は今の後楽園、小梅は墨田区向島内だそうです。


角屋先生
熊楠はこの部屋で、日南に顕微鏡をのぞかせ、動植物の両性を具えている標本の不思議を見せたり、外出すると行きつけの居酒屋(パブ)で、馬の小便のように生ぬるいビター(イギリスの生ビール)を振舞ってくれたりした。が、それが一杯や二杯ではないのだ。町々の角ごとにある居酒屋を片っ端から飲み歩いていくのである。この壮大なハシゴ酒にあきれた日南は、《(熊楠に)角屋先生の尊号を上(たてまつ)った。彼は飲んで其の儘(まま)之(これ)を甘受した。》が、この旧友日南のロンドン滞在も十日ばかりでおわる。別れの日、熊楠は顔を見せなかった。さびしさが更に濃くなるからであろう。そのかわり、一通の、手紙が届いた。(「縛られた巨人 南方熊楠」 上坂次郎) 福本日南は福岡出身のジャーナリストで史論家です。熊楠ロンドン時代の逸話の一つです。


「キプロスふらふら」
ビールやブランデー・ソーダのあとは、白ワインのアルシオネ62。大壜をまた二本飲んでしまう。キプロスの白ワインはみんな飲んだが、味が淡白で、さらっと喉とおりのいワインが、マコもぼくも好きだった。ニホンのレストランで、みんながありがたがって飲むようなワインは、ぼくたちの口にあわない。そして、チャーチル・ホテルにもどり、ふかみのあるインテリアのバーにいったのだが、マコとぼくでやたらにのんだらしい。七十五ポンドも飲んだ。一アメリカ・ドルはキプロスのお金では四十四セントぐらいにしかならない。だから、七十五ポンドというと、一晩に百五十ドル以上飲んだことになる。ホステスや女のコなんかいないところで、ただ飲むだけで百五十ドル以上というのは正気の沙汰ではない。バーで二十ドル飲むのはたいへんなことなのだ。それなのにマコとふたりで百五十ドル以上とは…。自分たちのことなのに、ほんとうにもうびっくりしたなあ。しかも、レストランで白ワインを二本に、ビールやブランデー・サワーを飲んだあとなのだ。(「キプロスふらふら」 田中小実昌) 何だかよく分かりませんが、とにかくすごい量のようですね。


茶壺
▲壺主 ざゞんざ、浜松の音(おと)はざゞんざ(酒宴の歌)。あゝ、いかう(大変)酔うたことかな。 ▲ふし めがゆくゆく、御目(おめ)がゆき候。扨も扨も、平常(いつも)は道が一筋あるが、あゝ、幾筋も見ゆる。これでは行かれまい。まずちつと、や、えいとな。あゝ、寝た。 ▲すり 罷出(まかりい)でたるは、心も直(すぐ)にない者でござる。さやうにござれば、此中(このじゅう)は何とを致してやら、仕合(しあわせ:めぐりあわせ、運)が悪(あ)しうござる。今日は昆陽野(こやの:伊丹市だそうです)の市に参り、何にはよるまい、さわたつて(かかりあうこと)、仕合を致さうと存ずる。いえ、こゝな、何者やら、道端に伏せつて居(お)る。行て見て参らうず。扨も扨も、寝て居るこそは道理なれ、はれ、きつう酔うて居る。見ればよささうなものを背負うて居るが、あれをば、どうぞこつちへつれましたいと存ずるが、まづ起して見ませう。やいやい、街道ぢゃが、起きて行かいでな。これは扨、賢いことをして居る。まだ片一方の連尺(荷物を負う具)を放さぬ。某(それがし)も、片一方を掛けて、彼処(あそこ)に伏せりませうず。、や、えいとな。(「茶壺」 狂言記) 酔って道で寝ていた、茶壺運びの背負い具の片一方にすりが体をかけたことから、争いとなり、目代に訴えたが、茶壺を目代にとられてしまうという狂言です。酒壺だったらと思うのですが…。


夫と妻
なんだか悪い予感がしてきた。家人が酔っぱらってきたようなのである。こういうことは夫婦でないとわからない。「おそろしいことになりますよ」私はドスト氏に言った。五年ほど前、家人と二人で銀座の小料理屋で飲んでいた。その日、私は胃の調子が悪くて、あまり多くは飲めなかった。そのぶんだけ、家人が飲んだ。なにしろ、いちど酔いつぶれてみたいと言っているくらいに、強いことは強いのである。胃の薬を買ってきてくれと、と、私は家人に言った。「いいの? 虎を野に放つようなものよ」そう言って家人は出ていった。薬局はすぐそこの角にあるのに、なかなか帰ってこない。…帰ってきたとき、家人は、違うドレスを着ていた。それ以後、銀座で二人で飲まないことにしている。(「酔いどれ紀行」 山口瞳) この夫にしてこの妻(治子)ありということなのでしょう。ドスト氏とは、木彫家の関頑亭だそうです。


盃の殿様
「おう、その方であるか。三百里の道を十日にて勤むると申すか。さようか。しからば、この盃を花扇が元へ持参いたし、この方一人(いちにん)にて寂しゅうていかん、よって相伴(あい)をいたすように、その方使いにまいれ。よいか」「ははッ」これから、ご前をさがると、すぐ盃をかついで、「えっさっさァ…」と駆け出したが…なにしろ、三百里の道を十日で往復する。と、一日で六十里でございますが、今でいうと二百四十キロ…そんなに歩けるものではなかろうと思うが、しかし本当にあったそうですね。昔、名古屋のそばの熱田というところに、速足(はやあし)の人がありまして、この人は六十歳位になったとき、朝六時ごろに熱田を出まして京都まで行って買物をして、夕景の五時ごろに帰ってきたという。もっとも若いときは、この人は百里歩いたといいますから、四百キロでございます。たしかにどうもそういう速足の人があったので…、えェ扇屋へまいりまして、早速東作がかようかようと告げると、花扇がそれへ出てまいりまして、涙を流し、「かずならぬわたくしをさほどまで思召し下さる…まことに冥加にあまる次第でございます。平生、お酒はたしなみませぬが、どうぞこれへ」(盃を両手にする)と、この七合入りのお盃へ、なみなみと注がして、ぐうーッとこれを飲んで、「このお盃を、殿はんへ(と渡す)」「ははッ」(受け取る)こいつをかついで、「えっさっさァ…」と駆け出す。(「圓生古典落語 盃の殿様」 集英社文庫) 領国へ戻った殿様と江戸吉原の遊女花扇の盃のやりとりを語った、六代目圓生の落語の一節です。


漢方の盲点
中国の歴史、漢詩の中で酒をたたえたものをあげればきりがない。しかし不思議でならないのは、酒害に対する漢方の処方がないことである。飲み過ぎによる肝臓疾患とか、二日酔いに対する処方はあってもアル中に関する記載はない。漢方の歴史に詳しい東京銀座の玄和堂診療所の寺師睦宗所長も酒害に対する漢方の処方はないという。なぜ、漢方は酒害を治療科目から外したのか。興味あるところである。「闇が怒った小仏宿」によると、日本では江戸時代にアル中の妙薬「紅雪」が市販されているのを見ても、中国漢方に酒害が欠落しているのは、東洋医学の盲点ではなかろうか。それにしても、漢方の本場の中国が酒害の養生を顧みなかったのは、なお疑問だ。この疑問をとく手がかりになる文献も見当たらない。(「嘉永六年のアルコール中毒 笹沢佐保」の解説 甲斐良一) 酒害は病気とみられていなかったのか、酒害に薬はないと考えられていたのか。それにしても、漢方には酒害に対する薬なるものはなかったのでしょうか。


紅雪
高崎から二里半、十キロで金古(かなふる)である。この金古宿の天田家に伝わる秘薬が、『紅雪』だったのだ。『紅雪』の処方は門外不出、一子相伝とされていた。江戸時代には秘薬、妙薬、神薬として天下に聞こえ、その効能は抜群と評判だったのである。 御免紅雪之儀ハ由緒有テ辱(かたじけな)クモ御上々様へ奉リ候処、効能格別御賞遊バサレ、之ニ依テ御紋、法橋位ノ御免許ヲ蒙(こうむ)リ、御薬調進御用仰付(おおせつ)ケラレ… 効能は治煩熱、利五蔵、除毒熱、治感傷、脚気、頭痛などいろいろとあるが、解酒毒(げしゅどく)つまり、酒毒を抜く薬としても最良だと、内藤了甫も折紙をつけていたのである。江戸、大坂、越後に、『紅雪』の取次店が設けられていたが、このところ需要が多すぎて、簡単に入手できなくなった。取次店では買うこともできないし、姫四郎が上州の金古まで突っ走ったのは、そのためだったのである。当時としては『紅雪』ほど、複雑な処方の漢方薬はほかになかった。朴消(ぼくしょう:自然の硫酸ナトリウム)、羚羊角(れいようかく)、黄岑(おうしん)、升麻(しょうま)、赤芍薬、人参、檳榔子(びんろうじ)、生甘草、枳殻(からたち)、淡竹葉、木香(もっこう)、山梔子(くちなし)、桑白皮、葛根、蘇木、木通(あけび)を細粉とし、水二斗五升が九升になるまで煮詰めて濾過する。更に手を休めずに掻き回し、冷えるのを待って蒸留器へ移し、麝香(じゃこう)、辰砂(しんしゃ)、竜脳を加えて蒸留し、その結晶を採取する。これが天下の妙薬『紅雪』だったのだ。(「姫四郎医術道中 闇が怒った小仏宿」 笹沢佐保) 辰砂のためなのか字の通り赤かったのでしょう。本当にきいたのでしょうか。


四迷、草平と漱石、耕筰
前年の夏に中国から帰って以来、仕事したくとも原稿はほとんど売れず、くさっていた二葉亭四迷は明治三十七年元日の日記に句を二つ書いている。「年たつや世をすて世にも捨てられて」「元日やうき我は屠蘇も味ははず」
森田草平が何か意見をいうと、漱石はいつも反対するので、「先生の反対は反対せんがための反対だ」と不平をいった。すると漱石「君のようにビールをのめば必ず小便が出るものだとばかり思っているようではダメだ」
山田耕筰はたびたび痔をわずらった。ある時「これで酒をやったら二年ももたない」と医者にいわれた。「どうせ二年ももたない生命なら、いまさら酒がやめられるか」と酒もやめず、忙しく演奏旅行をしてあるき回っていたら、いつのまにか痔はなおっていた。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎)


ギリシアでの酒の名言(2)
何でも覚えている奴と飲むのはごめん(作者不明叙情詩断片 1002)
喉(のど)がかわいている者には、千万の賢い忠告よりは、一杯飲ませる方が大きな喜びになる。(ソポクレス断片 763)
飲め、遊べ、人は死ぬもの、地上ですごす時の間はわずか、死んだが最後、死は不死ときている。(アンピス 喜劇断片)
(「ギリシア・ローマ名言集」 柳沼重剛編) こういう古代の名言を見ると、すでに言葉とはすべて語り尽くされてしまっているのではないかと思わざるをえません。


青山二郎
彼の友人の一人が大仁だか修善寺に原稿の仕事をを持って宿屋に籠(こも)っていた。伊東から天城山を登れば直ぐに来られるだろうと伊東に住む青山へ電話をかけた。彼は喜んで承諾した。もう一つ友人は青山にも原稿を書かせようという下心があった。彼は稼いで暮さねばならぬ身分でもあり、また財産を当てにしても生きられぬ時代になって来たからである。ところで友人は宿屋の二階から今に来るかと自動車の音のする度にのぞいてみていたが、彼の姿は容易に現れぬのである。二日目だか三日目に荷物を満載してヨタヨタと坂道を登って来た自動車から青山は降り立った。ほんの数日一緒に過ごすつもりだった友人は面喰らった。引っ越して来たかと思われるばかりの荷物である。青山は宿に備えつきの茶器では茶は飲めぬのである。茶器一式を持参したのは勿論だが、部屋のニセ物の掛け軸を眺めて過ごすことも堪え難い苦痛である。愛蔵の軸二三本も用意して来た。古畳も気に喰わぬとあって、茶人用の毛氈まで持って来たのだから、着物その他の所持品が山をなしたのは当然である。荷物をほどいて、ほどよく置いてみると、粗末な湯の宿の一室は忽ち趣を変え、青山家の一室と化して見違えるばかりになってしまった。そうなれば、味気ない原稿書きなど出来たものではない。「あいつの性は直らないよ」と友人は匙を投げて、二人は毎日飲んで過ごしてしまった。(「飲む打つ買うの天才・青山次郎」 今日出海) 友人とは小林秀雄だそうです。


”王冠遊び”に商魂乗り出す
酒ブタ遊び−。東京と近県の子供たちの間で大流行しているこの変わった遊びに目をつけて、東京都渋谷の西武百貨店が、十日から酒ブタの無料プレゼントを始めた。山と積まれた一升ビンの王冠は一万個。子供たちや、せがまれた母親たちが行列。酒ブタ遊びのブームのおかげで、酒ビン倉庫に忍び込む小学生がふえて困っているビン商連合会は「なにもデパートまでがあおらなくても」とシブイ顔。都教育庁指導部も「教育的にはあまり感心しない」と批判的だが…。酒ブタ遊びとは酒びんのキャップのコルクの部分を取除き、残った金具の部分をハジき合って、相手のを裏返しにしたらイタダキというメンコオとおはじきを一緒にしたようなもの。昨年暮れごろ、都心の小学校からはやり出し、いまでは近県にまで及んでいる。(昭和44年5月11日 毎日新聞)(「B級ニュース図鑑」 泉麻人) そういえば、このブームは、かなり地方へ広がったと聞いた記憶があります。


酒を飲む話
今から思ふと、食べもののことや酒を飲む話を書き始めたのは、かういふものを書いてゐれば誰からも尊敬される心配はないし、その上満腹感だとか、二日酔ひだとか、人に軽蔑される筈のことなら、それを承知で誰にも気兼ねしないで本音が吐けると考へてのことだつたやうである。人類を愛し、国連に関心を持つといふ風なことを並べれば、直ぐに人類を愛して国連に関心を持つ人間に祭り上げられさうで、こつちの方でもそれだけの覚悟をして掛からなければならないが、フランネルを十日ばかり酢に漬けて置いて、胡麻の油で揚げたのは実に旨い、あれを一反か二反、食べたいものだ。といふ種類のことは、こつちが言ひたいことを言つて原稿料を稼ぐだけですむと計算したのだつた。それに、人間には苦悩に就て書きたい本能があるらしくて、ベエトオヴェンも苦悩なら、食べ過ぎの二日酔ひ、或は二日か三日、何も食べずにゐるのも苦悩である。嘘だと思ふならば、一度やつて見るといい。(「当て外れ」 吉田健一) なぜ食べ物のことを書くことが軽蔑されるのだろうと不思議に思うのが、現代ということなのでしょう。


女と酒
女が酒の醸造を掌(つかさど)つたことは、近昔の文学では狂言の「姥(うば)が酒」に実例がある。無頼の甥が鬼の面を被り、伯母の老女を脅して貯への酒を飲むのである。それから又加賀の白山の菊酒の由来として、昔或美女が路傍の家で酒を売つて居たので、男たちが皆迷ひ、村の女が怒つて火を掛けたという伝説もある。上代の例としては日本霊異記に、紀州に酒を造る女のあつた話が出て居る。独りそれのみならず、延喜式に見えて居る宮中の造酒司でも、その酒造り役は女だつたやうである。
 酒殿は けさは な掃くきそ(掃かないでください) 舎人女(とねりめ)が 裳(も)ひき裾(すそ)ひき 今朝は掃きてき
 といふ催馬楽(さいばら)の酒ほがひの歌なども伝わつて居る。トネリメは即ち刀自(とじ)であつたらうと思ふ。刀自といふ名前は其造酒司にあつた三つの大酒甕の名として残つて居たのが、後三条院の御時かの火災に割れてしまつたことは、たしか古事談に出て居る。(「女性史学」 柳田國男)


タラスの住民
タラス[タレントゥム]の住民たちは、早朝から酒を呑みだし、市場の賑わう頃には酩酊する習いであったという。また、キュレネ人ははなはだしく贅沢に溺れた結果、プラトンを招いて法律制定を依頼しようとした。しかしプラトンは、彼らがそもそも昔から遊惰な民であるという理由でそれを断ったという。(「ギリシア奇談集」 アイリアノス) 注によると、タラスは、長靴型イタリア半島の土踏まずのところにある町、「市場の賑わう頃」とは、午前10時頃のことだそうです。文脈からすると、タラスも贅沢ゆえに、ということなのでしょう。古代ギリシアの話というよりも、近年日本人の話のような気がしませんか。


志野の盃
大分前だが、壺中居(こちゅうきょ)の広田熙(ひろし)さんが、志野ぐいのみを見せてくれたことがあった。どこがいいのか、例によってわからないが、私はひと目見るなりとびついてしまった。が、それは既に売れてしまっており、買えなかったので、後で、小林秀雄さんにそのことを話すと・「あんなものが、お前さんの手に入りますか。生意気なことをいう」と、叱られた。ハハァ、そんなにいいものか、とはじめてわかった次第だが、口惜しくもあり、ほしくもあり、いつかは自分のものにして、自慢してやろうと思っていた。この、人に自慢するという楽しみがふえると、よけいほしくなるものだ。が、中々手に入らないのは、小林さんのいわれるとおりだった。ところが、先日私の息子が来ていうには、広田さんの家へよばれて、近頃買ったという志野の盃でお酒を飲んだ。ただし、「お母さんには黙ってらっしゃいよ」といったという。アレだ。すぐわかったので、とんで行った。はじめは言を左右していたが、何時間もねばると、ようよう奥からサラサの包をかかえて出て来た。見せてくれるのなら、もう半分こっちのものだ。わくわくして見てる前で、熙さんは、太った手でゆっくりと包をとき、箱から出して、台の上に置く。私はすぐとろうとして、手をのばしたが、ひっこめた。これはどうしたことか。たしかに、あのぐいのみに間違いはないのに、はじめて見た時の感動は湧かないのだ。見れば見るほど、美しいものだが、感心することと、ほしいということは、別物であるらしい、「ごめんなさい、あたし、やっぱりいらないわ」そういうと、熙さんは、さもあらんという顔付きで、いった。「そうですね、これは何処へ出したって、立派なものです。わざわざお買いになる必要はありません」(「心に残る人々」 白州正子)


酔蝶花(すいちょうか)
今年、中庭と玄関の脇の花壇には、去年の秋に零れた種子が沢山の芽を出した。僕はその芽を庭や窓の下にも移した。そして、今、この不思議な形をした花は、家のあらゆる場所に陽光を受けて咲き匂っている。この種類は、酔蝶花の名がぴったりの、夕方咲き始める時は濃い桃色で、朝の陽が射すと花弁が白く変わり、その繰り返しを続けて行く種類で、夜の花の色が美しいので、窓下に植えたものを室内の灯(あか)りで毎晩見るのが楽しみである。−窓の外の桃色の花を眺めながら、窓の中のこちらも杯を執って酒の香を楽しみ、一夜明けて朝日に白く変わった花を見ながら、こちらも素面(しらふ)で書き物に従う毎日を繰り返しながら、この花と僕の間には共感があるようである。(「も一つ パイプのけむり」 團伊玖磨) フウチョウソウ(風蝶草)科の草本で、長いシベが特徴だそうです。朝日酒造では、この名前の純米吟醸酒を販売しているようです。


死骸取捨ての方への酒代
義士が引上げの際、表門から出るのをまって、大石三平、佐藤条右衛門、堀部九十郎および近松の忠僕甚三郎の四名が、蜜柑と餅を寄贈したのは、兼春稲荷のある辺であったろうかと思われて、ここに義徒と準義徒が互いに相慶賀し、蜜柑の皮をむいてやったり、もらったり、功名話を聴かされたりするさまが目に見ゆるようである。例によって、餅や蜜柑で我慢できぬ連中は、近所の酒屋に飛びこみ、大高源吾は、「死骸取捨ての方への酒代」とした金二両の一封をそのまま亭主に与えて、酒樽の鏡をぬかせ、 日の恩や忽ち摧(くだ)く厚氷 とやると、富森春帆、 とび込んで手にもたまらぬ霰かな と和し、大高子葉再び、 山を抜く力も折れて松の雪 と送れば、春帆はちょっと呻吟して、 寒鳥の身はむしらるる行方かな と酬い、まるで臨時俳句会をひらいたつもり。そうして自分の死骸片付料を、全部自分で飲んでしまった。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 赤穂浪士引き上げの際の話だそうです。吉良邸跡地は不浄地とされ、武士の引き取り手がなく、ただ同様に民間に払い下げられたそうです。購入者は自分では住まずに貸そうとしたそうですが、借り手はつかず、仕方なく邸宅を壊して売り払ったそうですが、薪にしても売れなかったばかりでなく、吉良邸の材木が混じっているのではと、古材相場まで暴落したそうです。


五合徳利
大阪の洒落(しゃれ)言葉が、「当世大阪藝人ツッコミの話藝」(谷沢永一)に、色々取りあげられていました。
赤児(あかご)のしょんべん→ややこしい(ややご しい)、牛の尻(おいど)→物識り(モーの尻) うどんやの釜→言うだけ(湯ゥだけ) 傘に天狗風→調子に乗っとる(舞い上がっとる) 清正の雪隠入り→遣りっ放し(槍離し) 猿の病気→聞きづらい(キキ辛い) 雪駄の土用干し→意気揚々(反り返っとる) 手水鉢(ちょうずばち)の金魚→癪(杓)にさわる 鯰の子ォ→口ばっかり はやらぬ問屋→似つかぬ(荷着かぬ) 紐(ひぼ)のない眼鏡→鼻にかけてる 深草の名物→内輪(団扇)ばっかり 等々
酒に関係しそうなものには、 五合徳利→一生つまらん(一升詰まらん) 樽屋の前掛け→忘れとる(輪ァ摺れとる) 安物の味醂→ちと甘い がありました。


梅崎春生の酒(2)
梅崎さんの恐怖症をアルコール中毒のせいだという説もある。中毒かどうかはしらず、梅崎さんはお酒が好きで、われわれにフザケたことを話し掛けてくるのは、いつも多少は酔っぱらっているときだった。しかし私などの知らないところに、もう一人のマトモな梅崎さんがいたことは充分に考えられる。いや酔っぱらっているときの梅崎さんにさえ、その中にもう一人、どうしようもないほどハッキリ目醒(めざ)めた人間がいて、それがシラフの人間でも忘れているような不安を呼びかけてくる。−
亡くなる半年まえごろから、梅崎さんは医者に禁酒の忠告をうけていた。しかるに梅崎さんは書棚ウラだの、本の函(はこ)の中だの、あちらこちらにポケット瓶のウイスキーを陰トクして、奥さんの目をかすめては飲んでいたという。−そんな話は、何か梅崎さんが自作自演の滑稽劇をやっているというふうに聞こえてきた。だいたい、「禁酒」というもの自体に、どこか滑稽なひびきがあり、私たちはそれを梅崎さんのユーモアとカン違いしていたのかもしれない。いや梅崎さん自身でさえ、家の中でのカクレンボしながら飲む酒に、0対0で進行する試合の退屈さをまぎらわせようという心算(つもり)があったのかもしれない。(「良友・悪友」 安岡章太郎)


マアバル地方
セイラン島(セイロン)を出帆して、約百キロ西へ行くと、マアバルという大きな地方[インド半島東南海岸]につく。大インドともよばれ、大陸であって、インドでも最もよい地方である。−
男女ともに一日に二回、水で全身を洗うことになっている。行わないものは異端者と見なされる。食事には必ず右手だけをもちい、左手では決して食物にさわらない。清潔なことや繊細な仕事には必ず右手を使い、不潔なことや身体の不潔な部分をあらう場合などには左手を使う。液体を口にするときは必ず特別な容器をもちい、各人が自分用のをもっていて、他人のを使わない。飲むときも、容器を口につけず、頭の上にあげて、口に流しこむ。容器をもっていないと、酒などでもその手にそそぐから、手をコップにしてのまなければならない。犯罪者には厳罰が科せられ、厳重な禁酒が行われている。(「東方見聞録」 マルコ・ポーロ 青木富太郎訳) 犯罪者に酒を飲ませないというのは興味深いですね。


悪坊
▲悪坊 なうなう御坊(ごぼう)、さる御方(おかた)で酒を飲うだが、我(おれ)は酔わぬと思へども、歩かれぬほどに、手を引いておくれやれ。 ▲僧 いやはや、手は引きませうが、その長刀(なぎなた)がいかう(たいへん)あぶなうござりまする。 ▲悪坊 ふん、杖についたがあぶのうおぢゃるか。持ちやうがおぢゃる。こうでは何とおぢゃる。 ▲僧 は、いやはや、それでは気遣(きづか)いもござりませぬ。 ▲悪坊 御坊(ごぼう)、か(抱)いこうだ長刀の出様(でやう)は、早からうか、遅からうか ▲僧 何とござりませうぞ。 ▲悪坊 手を離しやれ。一手使うて見せう。 ▲僧 は、いや、おかしやれませう。 ▲悪坊 はて、離しやれてや。 ▲僧 はゝ。 ▲悪坊 御坊、して、今のさへやうが面白うおぢゃる。その傘(からかさ)の切口を見せう。 ▲僧 はて、置かつしやれませい。 ▲悪坊 あゝ、使はうと思へども、酒に酔ふたによつて、脛(すね)がながれて使はれぬ。これでは行かれまいほどに、ちとこの所にまどろも。御坊、この小袖を跡に打ち掛けて、腰を打つてくりやれ。 ▲あ。 ▲悪坊 やい其処な坊主、今のは何といな打ちやうぢゃ。おのれ坊主でなくば首を刎ねうずれども、ゆるす。来てとくとくと打ち居れ。 ▲僧 あ。扨も嬉(うれ)しい事がござる。まんまんと寝入らせました。扨も扨も憎い奴かな。何と致したものでござろう。あゝ、思いついた事がござる。(「狂言記」) このあと、僧は、悪坊の長刀や衣を奪ってしまいます。悪坊は、発心して僧となります。


自身番
自身番は武家地に辻番があるのにたいして、江戸市中の警備にあたるために、各町内に設けられた番所だ。当時、地主自身が交代で番所につとめたところから、自身番と称された。しかし、のちには地主に雇われいる家主(いえぬし)や町で雇った番人、書役(かきやく)がつとめるようになった。−
多くの自身番には、屋根の上に半鐘(はんしょう)を吊した火の見梯子(ばしご)が設けられていた。火災が発生すると、その梯子にのぼって半鐘を打ち鳴らしたのである。自身番には、町内の消火に使う纏(まとい)、鳶口(鉄の鉤をつけた棒)、竜吐水(りゅうどすい:放水ポンプ装置)、玄蕃桶(げんばおけ:水を運ぶ桶)などを備えてあった。火消人足は半鐘が鳴ると、まず自身番に勢揃いし、火消道具を持って火事場へ押し出した。そのほか、自身番は町内の寄合相談などの場にも使われた。やがて規律が守られなくなり、開け放っておくはずの障子を閉めて、町内の連中が飲んだり、碁や将棋に興じるなど、町内の社交場と化するところであった。(「お江戸の意外な生活事情」 中江克己)


月が出た出た
月星夜我は酒呑む女かな(ヒ)
月見。三池炭坑で月見なんて、我ながら惚々(ほれぼれ)する思い付きだ。−
市内大牟田市)の割烹で、有明の珍味を肴に、空の藍が深まるのを待つ。メカジャ、ウミタケ、コウカイ、アゲマキ、ワケ、クツゾコ、マジャク。見たこともな聞いた事もない魚貝が、続々。うまし安し人情濃し。その名も「三池」という地酒(でしゃばらず後口さらり、おっとりしたオボコイ酒である。ひと口で瓶から手が離れなくなる)で、サノヨイヨイである。−
夜這星有明に見つ二合半(ヒ)−
「何が釣れるんですか」後から尋ねたら、オッサン、網落っことしそうにギックリするから、こっちも半歩飛びすさってしまった。岩と見えた隣のオバサン(夫婦らしい)が振り向きもせず、「ジガゴ。イカの小さいの」と答えてくれた。少し離れた場所に、ポと並んで腰を下ろし、紙コップに「三池」を汲む。肴は昼間買った博多明太子。良夜哉。サノヨイヨイ。(「呑々草子」 杉浦日向子) ポは杉浦より酒の強そうな、旅に同行した女性編集者だそうです。また、夜這星は流星のことだそうです。


高橋是清の酒(6)
(酒を飲みすぎて喀血してから)約一週間ばかりすると、気分も良くなり、座敷の中ぐらいは歩けるようになった。自分の部屋は二階に在ったが、下の方では、毎晩教員や幹事などが集まって、鯨や鶏や松茸などで飲っている。しかしどうしたわけか、病後というものは、その臭いがいかにも厭になった。ことに酒の臭いが何ともいえず嫌になった。病気はだんだんによくなたので、入浴をして、久し振りに下へ降りて、部屋の障子を開けて見ると、例によって教員たちが飲んでいる。「先生一杯いかがです」というから、「いや、もう私は臭いから厭になった」というと、その内の一人が、「臭いが厭になったら鼻を摘んで飲みなさい」としきりにいうので、鼻を摘んで飲んだらなかなかうまい。二杯目からは鼻を摘んでもうまくなって、とうとう性こりもなく、また酒飲みになってしまった。(「高橋是清自伝」) (5)の続きです。


隅田川(3)
嘉永元年(一八四八)の『酒飯手引草』を見ても、同町(浅草並木町)には、御茶漬料理の三分屋儀兵衛、玉屋儀兵衛、玉の井藤助、田舎庵、玉の尾忠兵衛、花岡まき、どぜうの山城屋十兵衛、おかめずしの富岡屋民蔵、都ずしの山城屋弥吉、生そばの十一屋長治郎などの名が並んでいる。
徳利の中で浪打つ隅田川(柳74)
隅田川樽の中迄浪の音(柳155)
などの句に詠まれる有名な銘酒「隅田川」は、同町の山屋半三郎方から発売された。(「江戸小咄散歩」 興津要) 商売上手だったのか、実際にファンが多かったのか、清酒隅田川の川柳は多いですね。


合成酒
食糧問題に対する鈴木博士の憂国の至情から、湧いて出た合成酒を、旨くないと言って飲まずにいられようか、とは上戸党である私の耳への囁きであった。初めのうちは強いて飲んだ。米を潰して造った清酒はいっさい口に入れまいと決心したのである。饗応になる席でも、何の席だろうが、合成酒でなければ盃を手にしなかったから、馴れの嗜好は合成酒に限るようになったが、合成酒が足りなくなったと聞いて、一人でも多くの同志を殖やそうとふたたび清酒に戻って一ヶ月も経つと、清酒の味がだんだんに出てきてまた旨くなった。三、四年前からまた清酒を止めて合成酒に戻ったら、清酒はもう口にするのも厭になった。顧みると合成酒の研究の初めから、それが社会で飲まれるようになるまでには、すでに二十六、七年の歳月が流れている。しかし研究は一日も休むことなく、改良に改良が進められている。終戦後に故博士の甥の鈴木正策博士が、近ごろとくに進んだ合成酒を叔父に飲ませたかったと述懐されたくらいである。(「味覚」 大河内正敏) 米が主要食糧であり、しかも貴重であった時代、オリザニン発見の鈴木梅太郎が、大正10年に米を原料としない合成酒の工業化に成功しました。そして、この本は、理研グループの総帥であった大河内が、戦犯として収容されていていた巣鴨監獄で、戦後の日本再興を夢見つつ書いたものだそうです。


左慈
左慈の不思議な術については、さまざまな話が伝わっている。『後漢書』をはじめ、いろんな書物にのっているのを読めば、高級な奇術を使ったのではないかという気がする。迷信や邪教をきらった曹操は、左慈の術は邪道であろうとおもって、彼を殺そうとしたという。左慈はすぐに曹操の心を察して、−お招きをうけましたが、このあたりでお暇をいただきたい。 と、申し出た。 −どうしてそんなに急ぐのか。 曹操のこの質問に、左慈はあっさりと、つぎのように答えた。 −殺されそうになっていますので、逃げ出したいと申し上げただけでございます。 そこで送別の宴となった。曹操はまだ左慈を殺すことをあきらめていない。このような術はきらいだが、それを自分のライバルに利用されるのもいやである。つまり、殺すしかなかったのだ。左慈は、杯を分けて飲みたいと申し出た。一つの杯を二人で飲むことが当時よくおこなわれていた。おそらく毒殺防止のためであろう。左慈は簪(かんざし)を抜いて杯の酒を仕切ると、不思議なことに数寸のすきまができて、彼が一方を飲むと、半分残ったのである。さすがの曹操も、その半分を飲むのが気味悪かったとみえる。しばらくためらっていると、左慈は、 −では、残りもちょうだいいたします。 と残った酒を飲み干し、杯を棟(むね)めがけて投げあげた。杯はふわりふわりと浮き、落ちそうで落ちない。満座の人はその杯をみつめている。やがて、杯が床のうえに落ちた。気がついてみると、左慈のすがたはもはやなかったという。(「中国畸人伝」  陳舜臣)


生き血を飲む
外人にとって日本人の危険は、裏返せば「日本人側」にとっても同じコワサであって、外人は個人としては「六響手槍」−と訳した−の拳銃(ピストル)を、一団としては艦砲射撃の「おおづつ」を持つと共に(当時日本の南端ではそれが彼我(ひが)の「戦闘」もあったのである)。車をひく牛馬を屠(ほふ)って常食とし、人間の生血−それはブドウ(葡萄)酒であるが−を飲む。日常鋭い「刃もの」を使って食事する毛臭いモノである。−これが近隣に来り、かつ住むのであるから、今の基地問題よりも刺激はだだごとでなかったろう。(「新編 東京繁昌記」 木村荘八) 攘夷思想の蔓延していた開国時の日本を語った、画家のことばです。


四代目圓生
この梅の家へ行くのに、四代目圓生という人がかけもちの都合でどうしても一軒抜かなきゃァならない。本郷に若竹という席があって、これは東京でも指折りのお客の来る席で、それからこの梅の家はお客の来ない方では指折りで、けっして他にひけは取らないというほど客が来ない。どっちか抜かないと、トリ席へ四代目圓生が間に合いません。そのときに若竹をぬいてこの梅の家をつとめたという。これは一つ話になっている。どうしてか…客の来る方を休んでしまって、いやどうも無欲で偉い人だと云ってほめましたが、それにはこりゃもう一つつとめた理由(わけ)がある。というのは、梅の家の方は必ず毎晩、楽屋へ圓生に一合のお酒をつけて、ちょいッとしたつまみをつけてお盆の上へのせて、「召上がっていただきたい」といってもってくるわけで。四代目はたいへんお酒の好きな人で、いわばこのお酒が飲みたいからそこをつとめたんだ、というわけで。ところが若竹をつとめた方がはるかに金がとれて、一合どころじゃない。もっとどっさり飲めるわけなんだから勘定ずくなら梅の家をぬいてしまった方がいわけなんですよ。しかし、「あすこの席はおれを大事にしてくれる」つまり自分が酒が好きだから、わざわざああして持ってきてくれる。その親切にほだされて行ったというわけで。(「江戸散歩」 三遊亭圓生) 明治37年に亡くなった四代目圓生を六代目圓生が語ったものです。


閑静を好む(「笑府」)
ある人、いたって閑静なのが好きなのだが、あいにく住居が鍛冶屋と鍛冶屋の間にはさまっていて、朝晩やかましくてやりきれず、「この二軒が引越してくれたら、一杯おごってもいいんだが」といつもいっていた。ある日、二人の鍛冶屋がいっしょにやって来て、「このたびわたくしども引越をすることにしました。かねがね引越ししたら一杯おごるとおっしゃっていましたので、特にご挨拶に参上しました」という。「いつ?」と聞くと、「明日」と答えたので、大いに喜び、さっそく大盤ぶるまいをした。さて酒がすんでから、「して、どちらへ引越されます」ときくと、「わたくしはこの人の家へ、この人はわたくしの家へ」 自分が引越せば何もかも好都合なのに(「笑府」 馮夢竜撰) 


職人の「遍歴」
職人の特徴のひとつは、まず、広範囲にわたって”遍歴”するところに求められるという。つまり仕事を求めて全国を放浪するのである。逆にいえば、自由に諸国を通行する特権が、職人には与えられていたとみてよいだろう。さらに職人は、年貢などを免除された田畑が保証されていた。また、職人は「座」という組織をつくり、ほとんどみな武装しており、かれらはその専門的な技能を通して、朝廷や寺院、神社などにつながっていたという。思えば、酒つくりの杜氏が頭、麹屋、もと屋などの酒男をひき連れ、いまなお、全国の酒蔵を《遍歴》している事実は、ここにみる中世前期の職人のすがたを彷彿とさせるものがあるのではないだろうか。わたしたちは杜氏集団が、この国の技術、芸能の歴史の深部から生じたものであることを知るのである。しかし、いま、わたしたちが職人ということばで連想する大工、建具屋、焼き物屋、染め物屋などのひとびとは、放浪、遍歴をしていない。かつて全国を股にかけ、その技術や芸をもてわたり歩いていた職人が、定着をしたのはなぜだろうか。反対に、おそらく酒つくりの集団だけが二十一世紀をまじかにひかえた現在も、なお遍歴をつづけているのはなぜなのだろう。(「自然流『日本酒』読本」 福田克彦・文)


大語録
依存症【いぞんしょう】「私はアルコール依存症じゃありませんヨ、アルコールが私に依存しているだけですよ」
飲酒運転【いんしゅうんてん】「飲むなら酔うな、酔うなら飲むな」 「オーストラリアでは、酔っ払い運転は禁止ですが、酒気おび運転は許されます。酔っていなきゃいいというのは合理的だと思いますね」
酒【さけ】「日本酒って言葉をはやめてほしい。酒でいいんだよ、アチラの酒なら洋酒。それでいいんだよ」 「品評会用に出す酒がありますよ。お呑みになってください。いちばんうまい酒です。品評会で優勝した酒と同じ名前で市販する酒は、中身がまるで違います。なんのための品評会なんですかねエ」(「大語録 天の声地の声」 永六輔)


伯母が酒
▲甥 罷出(まかりい)でたるは、この辺(あたり)の者でござる。某(それがし)が伯母は、酒屋でござる。何時も某に、初酒をくれらるゝやうにござる。最早(もはや)あがり(酒が出来上がった)時分でもござるほどに、参り食べうと存ずる。とかう申すうちに、これでござる。伯母様、内にござりまするか。 ▲伯母 甥殿か、ようおぢやつたなう。何と思うて、お出やつたぞ。 ▲甥 されば何時ものごとくに、最早あがり時分ぢやと存じ、初酒をたべに参つてござる。 ▲伯母 甥殿、今年はこの辺に、めでたいおしゆくらう(年寄り)が、あつたによつて、初酒をおましたわいの。 ▲甥 はあ、それや、めでたうござりまする。 ▲伯母 さらばいの。 ▲甥 したらば、二番酒をたべませう。 ▲伯母 いや、今年は縁起をかへて、わがみ(お前)には盛らぬほどに、重ねておぢや。 ▲甥 はあ、その義なら帰りませう。(「伯母が酒」 狂言記) 飲ませてもらえない甥は、鬼の面をかぶって再び伯母の家に行き、おどして飲みますが、酔っぱらって寝てしまい、正体がばれて、「ああ、恥かしや。免(ゆる)さつしやれい」と逃げていきます。


真崎で豊島屋を云ふ下卑(げび)たこと(柳15)
という句があるが、この句には、真崎田楽と、鎌倉河岸(千代田区内神田一、二丁目のうち)の酒店豊島屋の田楽の違いが詠まれていた。すなわち、真崎のそれは、 田楽は一本が二百程につき(明六・信) の句もあるように、甲子屋(きのえねや)のごとく、吉原の山屋の豆腐を利用したぜいたくな食べ物で、なかには芸者連れなどもいたのだから、高価だったのだが、豊島屋のそれは、俗に馬方田楽と言われ、一本二文で大型だったから、 田楽を持って馬方しかりに出(明四・松) 田楽を食い食い放れ馬を追ひ(安元・梅) などの句もあった。(「江戸食べもの誌」 興津要) 真崎は今の南千住の真崎稲荷にあった田楽茶屋で、豊島屋は白酒で有名な今に続く酒屋だそうです。豊島屋は今でいうB級グルメといったところなのでしょうか。でも吉原のものが本当においしいものだったとは思えません。


都内の酒場数ランキング
東京23区の中でいちばん酒場・ビアホールの多いのは、新宿区。東京最大の歓楽街・新宿のほかに、学生街・高田馬場を抱えているだけに不動の1位だ。2位は、新宿を激しく追い上げている港区。六本木のほかに、赤坂、麻布など全域的に急成長している。新宿区より”単価”の高い店が多いだけに、はっきりした統計はないが、売り上げでは新宿をすでに抜いているようだ。3位は意外なことに大田区。これは面積が広いうえに、蒲田、大森など中堅どころの飲み屋街をそろえているためだ。4位は池袋を擁する豊島区。5位は銀座のある中央区。6位は渋谷区。7位は品川区だ。このあたりは僅差で、毎年のように順位が変動する。少ないのは、千代田区、墨田区、目黒区、荒川区あたり。もっとも少ないのは文京区で、新宿区の隣なのに、酒場の数は約7分の1しかない。(「東京 無用の雑学知識」 ワニ文庫) いつの数字かわかりませんが、この本の出版は平成2年です。 


十五年のロス
この間文化放送にたのまれて自分の半生を語る羽目になったが、その時私は、酒のためのロスが積もり積もって十五年位になったと話した。三百六十五日をを静かな晩酌で過すなら宿酔にもならずしたがってロスもないわけだが、私のように乱暴な学生飲みをつづけてきた人間にとっては一年は二百日だったり二百五十日位だったりである。その他の日々は使いものにならない宿酔だった。それを指折り数えてみると割引しても十五年位になった。これはひどいロスをしたものだと冗談ではなく暗然たる気持ちになった。記憶はもともと悪い方だが、年来よけいひどくなっている。そのくせ英語も中国語ももう少しみっちりやろうと思いたったのは去年の暮で辞書などを手に入れたりした。ロスの十五年間をそれに当てたらなどと思っても後の祭りである。五十五歳の発心では情けないが、それでも今後のロス分をなくしてそれに当てたら、まるっきりのロスよりましなことはたしかである。「酒味酒菜」 草野心平) 飲めなくなってきてはじめていえることなのかもしれません。若くて飲める人は、飲まない時にどんな大事なことができるんだといいたいでしょうね。


きき酒のこつ
「なぜ当たるんですか!?」と驚いてくださる方のために少しだけそのこつをご披露しましょうか。検索をするんです。北か南か、季候はよかったか悪かったか、どんな土で育ったか、等々。ワインはそのパターンの組み合わせですから、その条件を消去していく。そのためには栽培とか醸造とか、気候風土とか、そういう面の勉強をしなくちゃいけない。その組み合わせの紐をほどくと、こういうパターンはオーストラリア、このパターンはなんの品種、このパターンはどのぐらい熟成したものということがわかる。そんなにむずかしくはないんです。もちろん、普段いろいろなパターンをテイスティングして感覚で覚えなくちゃいけないんですけれども。で、そういうパターンをクリアしていけば、たとえ過去にそれを飲んでいなくても、これはチリのワインだってわかる場合があるんです。逆に、これを飲んだことがあるかどうかの質問にお答えするのは無理です。(「ソムリエのひらめき」 田崎真也) 清酒にも応用できるでしょうか。いずれにせよ意識的に余程たくさんきき酒の機会をもって味の比較することが必要のようですね。


居酒屋の営業時間
居酒屋といえば、夜になって営業するものと思われがちだが、江戸の居酒屋は飯屋との兼業が多いこともあって、昼夜を問わずに店を開けていたし、しかも年中無休だった。なかには早朝から営業しているところもあって、朝湯帰りに立ち寄る者もいた。いまとはちがって、夜になっても行灯(あんどん)の光しかないから店内は薄暗い。土間中央の梁(はり)には八間(はちけん)を吊してある。八間というのは平たい大型の釣行灯(つりあんどん)で、円形や八角などの紙張りの笠の下に油皿を仕掛けたものだ。八方を照らすものの、光量は乏しく、手さぐりでチロリ(酒を入れる金属製の容器)や猪口(ちょこ)をとりあげなければならなかった。(「お江戸の意外な生活事情」 中江克己) 江戸も後期の話のようです。昔の人は薄暗い中でも現代人よりずっと目はきいたという話はきいたことがあります。


川柳の酒句(14)
橘と 桜は御所の 御酒徳利(右近とたちばなと、左近のさくらは、おみき徳利のように対になっている)
生酔(なまよい)は 見附を出ると またうたひ(見附は江戸の監視所なので、通り過ぎてから中断した謡いを開始する)
武者はなほ 酒まできつい 三河もの(三河武士は酒の鬼ごろしのようにきつい)
餅を焼く匂ひで上戸いとま乞(上戸は餅は嫌いということになっていますが…)
甚寒に 酒暖て 紅葉鍋(林間→じんかん ニ酒ヲ暖メテ紅葉ヲ焚ク 白楽天の詩)
(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)


アルコール漬け
それ以来隻脚侯(せききゃくこう)の名は世界的に謳(うた)われ、侯自身もまた脚(あし)が利(き)かなくなると、口の方は益々達者になり、早稲田邸における大隈侯の地位は、いながらにして私設首相たるの観を呈していた。かく残る隻脚は一年増光栄に輝いたが、男爵によって斬りとられた方の隻脚は無位無爵のままアルコール漬けとなって、順天堂外科参考室の棚の上に陳列され−
翌朝、偵吏が踏みこんだ時に、お伝は少しも抵抗せず、素直に引かれていった。それから足掛四年間、市ヶ谷監獄に繋がれ、明治十二年一月三十一日午前十時、大吹雪の荒ぶ中で七之助の名を呼びつつ、断頭台の露と消えた。二十九歳二ヶ月−三十に踏みこむ年をして、処女のごとく水々しい彼女の肉体が、警視庁第五病院で解剖された。美しい皮膚にも、肉にも、髪の艶にも、まだ一点の衰微が近よっていないのには、専門家も舌をまいた。彼女の徹底的悪美生活の中心となれる肉体の一部分は、今も東大法学部の参考室に、酒精漬けになっている。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲)
前半は爆弾で片足を失った大隈重信、後半は毒婦といわれた高橋お伝の話だそうです。


梅原龍三郎
話をなさりながらも梅原さんはウィスキーを手から離さず、しかもきまってストレイト(生 き)です。はじめはよそから貰ったといって、日本の特別製品を開けてくださいましたが、「やはり日本の物は淡々としすぎている。お品はいいけれどね」とスコッチにかえて初めて落ち着いたという風です。仕事のあいまにもあがるそうですが、好い気持ちになってはダメだし、そういう点で浦上玉堂も(この人はしじゅう酔っぱらって描いたので有名です)しらふの時の絵は一段と優れていると言われました。お酒を注いで下さる時気がついたのですが、ふつうの画家の手というものは繊細で神経質なものなのに、梅原さんのはぼってりした上、鍬(くわ)でも握りかねない強さが感じられます。(「心に残る人々」 白州正子) 梅原は、煙草は大変なもので、おきているあいだ中きらしたことがなたったという話も聞いたことがあります。98歳まで生きたそうです。


ボーマルシェとイソクラテス
重病のコンティ公がボーマルシュに「わたしの体は戦争と酒と色でこわれているからもうだめだ」というと劇作家「お父上は二十一回戦争に出て七十八歳まで、大伯父様は毎日シャンペンを六本ずつ飲まれたが八十四歳まで、そしてお母上は六十九歳まで長命なさいましたよ」
ある宴席で人々が雄弁家のイソクラテスに演説をたのんだ。しかしかれは断った。この話を聞いたプラトンは「それはよかったな。あの長口舌をブタれたら、酒がみんなさめちゃっただろうからね」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎)
ボーマルシェは「セヴィリアの理髪師」「フィガロの結婚」をかいた劇作家だそうです。イソクラテスは、読む弁論を研究し、教師として活躍した人だそうです。


ウォツカでの自殺未遂
終戦の時は奉天にいました。無条件降伏と聞いて、カッとしちゃったのだね。無条件降伏とは、なんと情けないことだ。女子供は青酸カリを持ち、男は出刃包丁を持って敵に向かうということになった。向こうが戦車で来るというのに、やくざの喧嘩じゃあるまいし、出刃包丁なんて冗談じゃないんだが、人間気が立っている時は仕方のないもので、私も自殺しようという気になりました。腹を切るのは痛いし、切るものもないし、そこで医者に青酸カリを貰いに行ったら、断られてしまった。そこで、ウォツカがあったのを幸い、これを飲んで死んじまおうと思ったのです。ウォツカは一本飲むと耳が聞こえなくなるといわれる位に強い酒ですが、それを一晩に六本飲んでしまった。そして、ひっくり返って、そのまま死ぬ筈だったのですが、目を覚めてみると生きている。胸が焼けて、気持ちが悪くてどうにもしょうがない。水を飲みたいけれども、向こうは水が悪いから、飲むと死んじまう。七転八倒の苦しみをしているうちに夜が明けて、体はもとに戻ってしまった。それっきり未だにケロリとしている。私は余程体が丈夫に出来ているんですね。(「酒と女と貧乏と」 古今亭志ん生) 五代目志ん生の話ですが、飲み始めは13,4歳だそうで案外遅いような早いような。でも、悪い水を飲まなかったことはなによりでした。


国連カクテル
終戦後、ぼくがアメリカ軍の将校クラブでバーテンをしていたころ、毎晩つくっていたUNITED NATION(国連)カクテルのことをすしゃべる。ちょうど国連機構ができたころで、世界での新しいかがやかしい希望だった。この国連カクテルにはウィスキー、ジン、ウオツカ、カリブ海のラムにギリシアのウーゾなどもはいっており、各国の酒の勢ぞろいといったところ、だから国連の名前を冗談につけた。キプロスもギリシア系住民とトルコ系住民のれいの紛争のあと、たぶん停戦の合意ができただけで、その停戦監視のため、国連軍がいる。もう二十年以上もたつ。国どうしや民族のことは、とほうもない忍耐がいる。いや、国連カクテルなどときこえはいいが、将校クラブの客が残したいろんな酒をバケツにぶちこんだだけだ。こんなものでも、バーに近よれないガードナー(庭師)などのとことにもっていくと、よろこばれた。(「世界酔いどれ紀行 ふらふら」 田中小実昌) ちりなみにウーゾは、ハーブ入りのワインを蒸留したギリシア産地酒で、うめると白濁するそうです。


虎耳草(ゆきのした) くぐって帰る いい機嫌(安六・五五会)
原句の、上五は、「雪の下」。湿った土や岩の上に自生する多年草。てんぷらにして食用。咳止め、しもやけ等の薬草でもある。漢名はコジソウ。座五が「いい機嫌」だから酒を飲んでのことである。「佳肴珍味を盛り並べ四文一」(九二・40)・「煮売屋へなんだかんだと聞いて寄り」(二・19)・「黒鯛をたてものにする煮売見世」(九・36)の、煮売屋・煮売見世で、柴村盛方の『飛鳥川』(文化七<一八一○>年)に、小さな桶に入れて売り歩いたのが屋台見世になり、「煮肴にしめ菓子の類、四文屋とて両国は一面、柳原より芝までつゞき大造(たいそう)なる事也。」としている。「四文一」は四文銭一つで一皿?の安価。「珍味佳肴」は反語的用法。二篇の句は「今日の肴はなんだ」と客が聞いている景。九篇の「黒鯛」はこのころあまり上等な魚ではなかったのか。「たてもの」は、主役。そんな店に、「煮売見世何の為だか虎耳草」(一二・8)と鮑の貝に雪の下を植えてぶらさげていたらしい。(「江戸川柳の謎解き」 室山源三郎) 居酒屋の入口に看板代わりにぶら下げられてた雪の下のを酔っ払いがくぐって帰っていく風景だそうです。


熊楠・ロンドン時代の日記
「到処(いたるところ)零落、泣く外なし…」
「加章(人名)を訪い、ホイスキーの(飲)み、大酔乱言して帰る」
「予 (富田方にて)麦酒のむ。細井に喧花(けんか)ふきかけ闘んとす。一同押止む。大霧咫尺(しせき:近い距離 を)不弁(べんぜず)」
「予、大飲、前後不知(しらず)、後にきくに、家出る時倒れかかりしという」
「加藤方に之(行き)、飲酒。余 得意の「龍動(ロンドン)水滸伝」を演ず。それより酒屋(パブ)に之、又飲酒」
(「縛られた巨人 南方熊楠」 神坂次郎) 熊楠の一生はエピソードだらけといったところですが、日記に関しても、1年分をすっかり記憶していて、一気に書いたこともあったというはなしもあるそうです。


仰天・文壇和歌集(3)
あの賞を取ったあいつの作品より取らぬおれの本の方が売れていると言う君の酒は五杯目である
あの作家(ひと)と一緒に考えてやったネタ他誌で読み 深酒の編集者(きみ)の哀れ
おれはこいつがベストセラーを出す前にくどいたんだぜと編集者(きみ)は飲むたびに言う
「あの原稿はボツにしました」二日酔いの臭い息を吐きながら言うんじゃない
「仰天・文壇和歌集」(夢枕獏)の編集者を詠んだものです。


黄ばんだ清酒

舞台になっているのは、韓国の西南部、全羅南道長興郡のある漁村。そこでは、正月十四日の夜に、豊漁を祈る海神祭が催され、村人も、また、各戸それぞれに、この祭礼を行う。中年の漁師ソンマンの家でも、一月も前から、この儀式のために、妻は体を清潔に保ち、なにくれと準備をする。そして、当日になると、「妻はかれの前に祭礼をすませた膳をそのまま差し出した。ききょうや、ぜんまい、ふくべ、大根などのあえものの匂いが妻の乳房や髪の毛で嗅ぐ体の匂いのようにかれの心をぐっと熱くした。かれは歯を食いしばった。妻はかれがこの膳を片付けている間に家を抜け出す考えをしているかもしれない。箸を持った。ちょうどひもじいところだった。漁汁(貝類を入れたスープ)の実をつつこうと思ったが、妻が酒瓶をもってきた。それには黄ばんだ清酒がいっぱいみたされている。かれは盃をあげた。陰暦の正月十四日の祭礼にのむ酒は耳が良くなる酒だといわれる。この酒は大人たちだけがのむのではなかった。人々は小さな子供たちにも一口ずつのませたのである。耳が悪くなるなという意味からだった。世の中の動静に暗くなるなという意味でもあるのだろう」。(「グルメのための文藝読本」 篠原一士) 韓勝源(ハンスンウオン)の「海神」の一節を篠原が紹介しているところです。この「清酒」はどんなものだったのでしょう。