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御 酒 の 話 24




さかい-だる  錫の大徳利  万竜  かなかなや  日本酒でイタリアンいかが?  天国と地獄  明良洪範二十  東京大正博覧会出品之精華  「気違い水」  美猴王出立  冬の酒  マッヂ  さすが道誉  漫画のよっぱらいそっくり  なるべく飲まない  ステファンヴィルの大時計  酒は一度飲んだらやめられぬ  ウイスキーボンボン  「文枝三遊に入るを許さず」  ビール凍る  一杯の酒に涙する  ドゥルノピヤーノフさん  柚子  古田晁の墓石  餅代  田o至喜  狸正宗  ラルフ・カポネ  青柳氏宅  把酒問月  方言のさけ色々  かんざましの利用法  東西之勢  金は火で試みて  さけ【酒】  もりもりもりあがる雲へ歩む  大阪色とこぢんまり  しょうが酒  料理茶屋の項  おおとら  酒徳の歌  ブドー酒の小ビン  γ・GTP  怒りの中で酒を飲み  酒場の紳士  日本酒をアメリカに  速醸「酉元」導入  東長  大こけ舞  役者  予審終結決定  神鞭知常  吟醸酒ブームの先導役  ウサ商会製  なめろう  質屋とジン酒屋  「絶望」と「酒」  コレ、マッコリ、ヨ  大変な努力  淵酔  辰野隆先生  居酒屋の始  さら川(11)  ひとりさめぬる  武玉川(9)  一升びん一本ずつ  古い禁酒令  辞典の「酒」(2)  じじい  かまくらへござれ  枡酒屋  門人無名子誌  酒語源説  力酒  大事の木  酒組  福田蘭童  辞典の「さけ」  まな板の  酒番侍従  悍馬  シードル酒  西山の雪  アリスティッポス、森田草平  こんか鰯  わが盃  亡師自筆ノ献立  ぬかみそを食べる  飲み馴れた酒じゃもの  出歯亀  鰹の皮の焼き浸し  明治29年頃の麦酒  「酒のみ数えうた」  古漬けの沢庵の食べ方  東京、ニューヨーク、パリ  さか-あい【酒相・酒間】  [摂津名所図会]六 川辺郡  香型  おでん酒酌むや  雄幸  たきすゐ【瀧水】  道誉の「ばさら」ぶり  聖月曜日  バーレル  ルスゴト  少し酒を飲み  源氏の井上評  七號  さかづきはめぐりてゆくを  明治末のアルコール工業  酒の報い(酒狂)  テムズ河の鯨  池田郷  隔世遺伝  山葵の叩き  マーガリンの小皿  「木枯の酒倉から」  どうも酔っ払ってくるみたいだ  越後湯沢駅  アルコールダイアリー  イカナゴ  三河屋  気持ちの良い歌声  宇王通火  「祝祭」文化と「饗宴」文化  どじょう買い  味醂を一升  島津久光聞きて  消憂、燕楽、祭祀の酒  あしき酒をしゐられてよめる  菊の酒  陸前高田「酔仙酒造」  金陵酒肆留別  あわれな酒にばかり酔ひ  たき【瀧】  「演劇と酒」(2)  オリメ  お情けより樽の酒  酒についての心得  元禄と幕末の復刻酒  数の符牒  無税  正攻法  いちばん良いブルゴーニュ  酒飲めば涙ながるる  ソフト化、ライト化  茶客調食  ビール牛(3)  ADHとALDH  酒は梅、魚は桜   お前も飲むかい  銀座裏のバー  よっぱらい  ポーの最後  ワンカップと塩  良き召使・悪しき主人  鯖と杣の天狗  雲丹がまだ残っている  モズクの酢  箒沢山荘  中野実と今日出海  「一杯ひっかける」  一文字のぐるぐる  酒が銚子一本十五銭  酒量  武玉川(8)  吉原おでん屋  固体発酵の窖  巨大なカベを破る  小分けする  仙台藩  七本目  よろこんでくりやれ  ビンの中  4と9の数字がつくとまずい  食がほそった結果  今だって酒臭え  お土産  大酒飲みの家老  口の職  「大波小波」  韓の昭侯、豊島与志雄、柳田泉  一杯入れば、しゃんとなる  旨酒無しと雖も  廿七八のころにや初て  お燗が出来ました  上戸あれこれ(2)  二人の酔っぱらい  将進酒  黒豆汁を交え  寒鰤をコチコチに  霰酒の話  大友  備後徳利  八百屋から売るとは  お墓したしくお酒をそゝぐ  えどすけ  八岐大蛇が飲んだ酒  「演劇と酒」  ナツメグとポルト  慳貪屋  青山侯の家臣  神酒どくり  翌朝起床するまで一三時間  生酔  ドイツ人の食生活  予行演習  したみ酒  酒の俳諧(2)  陶磁学者で陶芸家  白という字  酒屋の看板  3種の酒のブレンド  チンダ酒は飲んでいいんです  三片貨  二、三店  アルカリ性  肴のサンマ  「一気飲み」の盃  躁鬱  さら川(10)  酒に十の徳あり  三上戸  「歴史と人びと」  狼連  税務署長  武玉川(7)  ぽちゃん  イグ・ノーベル賞に推薦  長兵衛と十郎左衛門  日本酒の現状  米、作家 ヘミングウェー  友どち打むれて  李白の一升ビン  試料分析  周蔵と日蓮僧  黒岩さんと梶山さん  落語家三代蝶花楼馬楽  驍ソゃんはハシゴ  トルコ風の鯖の塩焼き  詩は詩仏  曼魚と白秋と三重吉  ◇八月一日  被災地の日本酒 仏で安全性PR  運転者の周辺者への対策  コーヒー泡盛  美少年  柱焼酎  養老の滝の自家用版  阿部能成、横光利一、中井正一・深田康算



さかい-だる【堺樽】[名]江戸時代、堺に産した良質の樽酒。また、その樽。一説に、奈良漬の一種。
さかい-のみ【境飲】[名]これを限りとし、以後飲まないこと。飲み納め。
さか-おくり【酒送】[名]旅に出る人を途中まで送り、酒宴を開いて別れること。
さか-がえし【酒返】[名]贈られた酒の返礼をすること。さかもどし。(「日本国語大辞典」 小学館)
さか-かしわ【酒柏】[名]大嘗祭の時、斎場から大嘗祭に至る行列中の男女が手に持つもの。ゆずり葉を一かさね四枚ずつ、四重ねを白木の竿に挟んだもの。(「日本国語大辞典」 小学館) 


錫の大徳利
「お酒」というと、錫の大徳利で黒松白鹿をだしてくれる。タコ、サエズリ、ゴボ天、ひろうす、小芋、竹輪、カマボコ、棒天、赤貝、鳥貝、アオヤギ、秋ならマツタケ、冬ならカキ、ほどよく煮えたそれらにピタリとあうのがその酒なのだ。その酒にそれらをピタリとあうのがその酒なのだ。おたがいに邪魔をさせあわないようにしてあるのだ。主人はムッツリとしているが、肩がそうつぶやいている。(「鯨の舌」 開健) 


万竜
江沢鉄太郎−彼もやはり落第生組だった。僕より一年上で、去年ようやく卒業して山形を去っている。江沢が入ってくるなり、「酒くれ」といった。万竜は空ろな眼で江沢を見上げてぼんやりしている。「どうした酒だ」「酒はないんです」「酒がないって?」鮨屋で酒がない−江沢はちょっとびっくりしや様子だったが、「じゃあ、握ってくれ」「飯もないんです」「なるほど…」江沢ははじめてそこいらを見回して、すし種もなく、何もかもが片づけられているのに気づいた。「今日は休みか」万竜(鮨屋)は首をふった。「はっきりしろよ。どうした、おやじ?」これが最後だと思うと羞ずかしさもなかった。万竜は一切をぶちまけた。「そうか、だが、おやじ、死ぬのは一日だけ待て」と江沢は云った。彼は財布から七十二銭とり出した。「僕の全財産だ。これで明日、米とまぐろだけ買って商売してみろ。ひもじくとも食っちゃあいけない」どうしてあのとき死ぬことばかり考えていたのか、死神にとりつかれるとはあんなときのことを云うのだろう。黒雲に覆われていたような嫌な気分が江沢の言葉でパアッと霽(は)てれね−と万竜が語った。「江沢君の言葉に従って米一升とまぐろ少々買ってきて翌晩、客を待った。まる三日水ばっかり「上:夭、下:口 の」んでいたから、御飯のにおいを嗅ぐと腹がぐうぐう鳴る。食いたくてたまらないのをじっと我慢したときは辛かったな。夜の十時ごろになって、江沢君が友達四、五人をつれてくにきてくれてよ。酒も一升持(たが)って、おやじ、開店祝いだといって…。「嬶は泣きだすし、俺も握りながら涙こぼれてよ」「そんなことがあったのかねえ」「その時、江沢君たちは自分が持ってきた酒を飲んで、その勘定まで払ってくれた。それで二円もうけたね。江沢君たち、それからまる一ヶ月、殆ど毎晩来てくれた。方々でも宣伝してくれたんだな、だんだん客がきてくれるようになってほっと息ついた。人間、落目のときに一番ひとの情けが解るもんだ。」(「あゝ玉杯に花うけて」 扇谷正造編 「二人だけの送別会」 戸川幸夫) 落第した戸川が鮨屋で聞いた話だそうです。 


かなかなや草田男を訪ふ病波郷
私は北支で肋膜炎をやり、満州で腹膜炎を併発したことがあるから、戦後の窮乏生活の中で自分は病人だという自覚はもっていたが結核に対する正しい知識を持たなかったものだから、年来の飲酒癖をあらためなかった。病巣の悪化に自らむちをあてていたわけである。草田男氏が学校(氏は成蹊の教授)から帰るまで夫人と話しながら待っていた。婦人の話は草田男氏の性格論、俳壇の雷同性等興味深いものがあった。その間に私は一本の麦酒をごちそうになった。私は運がよくて訪問のたびに麦酒、酒、ウイスキー等の配給に遭遇した。酒をやかんで温めて茶碗で飲んだこともある。婦人はクリスチャンで家庭内に飲酒の風をもたない。従ってくりやに酒器はないのである。私は異教徒であるがこの思わざる恩恵を天に感謝した。草田男氏の家を辞して私は電車に乗り武蔵野で下車した。今夕ここで仲間の座談会があるからだった。友人の画室で、酒とウイスキーが出た。百日紅に夕日があかあかとさし、近くの林から蜩(ひぐらし)の声がなみのように聞こえていた。集うのは同信の友、酒は一級酒、ウイスキーはサントリー。それにもかかわらず私のさかずきはあまり上がらなかった。味が舌にのって来ないのである。今思えば当然だ。右肺上葉に三箇の空洞があり、毎日七度四、五分の熱を出していたのだから、私はいつもに似ず激しい疲労を感じたのでさかずきを置いて「帰る」と言い出した。(「清瀬村」 石田波郷) 


日本酒でイタリアンいかが?
【ローマ=末続哲也】日本酒がイタリア料理にも合うことをPRするイベントが5日、ローマ市内で開かれた。地元の飲食業界関係者ら約50人が招待され、イタリア料理とともに日本酒を味わった。東京電力福島第一原子力発電所での事故に伴う日本酒の「風評被害」を一掃し、販路を拡大する狙い。在イタリア日本大使館と、イタリアの有力レストランガイド出版社ガンベロロッソが共催した。この日は、ポルチーニ茸(だけ)のリゾットに純米吟醸の冷酒、子牛のほお肉料理に山廃仕込みの純米酒、デザートのティラミズには熟成された古酒などが組み合わされた。料理ジャーアナリストのミケーラ・ディカルロさん(40)は「お酒がイタリアンに合うので驚いた」と語った。(「読売新聞」 H24.10.7) 


天国と地獄
ブラジルの紳士が天国に召された。そうしたところが、退屈で退屈でしょうがない。まことに結構なんだけれども、結構ずくめというのもどうしようもないもので、あくびばかり出る。それで、天国の端を歩いて行って、下を見下ろすと、地獄は暑いやら、煙たいやら、血が流れるやら、わめくやらで、えらいにぎやかで、面白そうに見える。その地獄の隅っこのほうで一人の男が椅子に腰かけて、テレビを見て、酒を飲みながら、横に女をひきつれている。そこで、ブラジルの紳士は、サン・ペドロ(ピーター聖人)に向かって、「あの男は、地獄であんなに楽しそうにやっている。オレは天国よりも地獄へ行きたいなア。替えていただけませんか」と言った。サン・ペドロがニッコリ笑って、「じゃあ、説明してやるけれど、あいつの見ているテレビ番組は<政府の窓>という広報番組で、横に座っているのは三十年来のカビの生えた古女房で、飲んでいる酒は国産ウイスキーだぞ。それでもいいのかネ」と言った。ブラジル紳士は、たちまち蒼ざめて、「やっぱり、天国に置いといてください」(「食卓は笑う」 開高健) 


[明良洪範二十]
本多平八郎政武ノ臣三浦中右衛門ト云モノハ、忠義無双ニテ経済ノ名人ナリ、○中略 酒ハ何方ニテモ多ク用ユルモノナリ、姫路は所柄別シテ酒ノ多ヲ見テ、此地ノ金銀他ヘ出ル事夥(おびただ)シケレバ、何卒(なにとぞ)此費ヲ省(はぶ)カン事ヲ考フルニ、土地ニテ酒造リセンニハシカジトテ、其事ヲ申立テ、若造リ損ジタランニハ、其罪アラント町中ヘ申付、其道々ノ人ヲ集メテ議シ、美酒ハ陶師(杜氏)ニヨルトイヘバ南都(奈良)伊丹ノ名アル酒造リヲ呼ビヨセ、第一米ト水ト次第ニ吟味シ、清水ヲ汲セ、マタ瀧水ヲ用ヒ、我身上ニカハリテ意ヲツクシ、ヨク出来テ汝等ガ徳分(もうけ)ナレバ、必念入造ルベシト下知シ、樽モ杉ノ上木ヲ以テ作ラセ、彼是骨折、世話致シアリケルニ、其誠信ニヨレバニヤ、美酒ドモ造リ出シテ、佳味南都伊丹ニオトラヌ上酒トナリ、値モ下直ニ売シメケレバ、土地大ニ其利ヲ得テ、今ハ姫路酒ニテ西国マデモ通用ス、其上米ハ皆大坂ニテ運送セシニ、酒ヲ造リ初メテヨリ、地払ノ米モ多キ故、米直段(値段)モ自然トヨロシク、土民ドモ潤ヒケル、(「古事類苑 飲食部十一」) 現在の地域起こしと同じですね。 


東京大正博覧会出品之精華
清酒 山形市旅籠町山形県庁内 山形県酒造組合
山形県の清酒は品質純良、香味芳烈、啻(ただ)に嶄然として東北各県中に一頭地を抜けるのみならず、之を灘、伊丹の夫れに比するも敢て遜色を認めず、同県に於ける和酒醸造戸数は、大正元年度に於て二百十六戸あり、労役者は一千五百五十五人を有し、其産額九万一千七百余石に達し、内清酒の産額は八万九千四百余石、価格四百万八千円にして、逐年増加の傾向あり、而して販路は奥羽各県及北海道を始め遠く、東京、千葉、神奈川、樺太に及び、明治四十二年に於ける輸出額は一万八千九百余石なりしに大正元年に至りて三万二千余石の多額に上り、尚漸次増加の趨勢あり、醸造高の多きは西田川、東置賜、米沢、西村山、東田川、山形等の諸都市にして、其他の都市に於ても産出せざる所なく、営業者は到る処酒造組合を設け、又之が聯合会を組織して必要なる施設経営を怠らず、県亦年々講習会を開き、試験醸造を為す等、当業者の指導奨励に努め、一意斯業の発達進歩を図りし結果、県下の酒造業は著しく振興し、声価亦漸く高きを加へ、大正二酒造年度の見込は正に九万二千五百石を算せむとする盛況を呈するに至れり、最近五箇年に於ける毎年の産額及輸出額左の如し。

 年次  産額    輸出額  
   石数 石  価格 円  石数 石  価格 円
大正元年   八九、四〇三  四、〇〇七、九三七 三二、二六五   一、四四〇、三一九
 明治四十四年  八六、四九四  三、六四〇、五三二  三〇、一六七  一、二〇七、七一八
 明治四十三年  七四、三八三  二、九三〇、六九〇  ニニ、五九五  八八二、四五四
 明治四十二年  六九、七八八  二、四一四、七八五  一八、九六七  七〇一、五六一
 明治四十一年  七三、七一八  二、五六二、六二六  一九、三八八  七三八、一四六

(「東京大正博覧会出品之精華」 古林亀治郎 大正三年 「近代庶民生活誌」所収) 


「気違い水」
それから、昭和二十五年頃のことだが、友だちと一パイのみ屋で、「焼酎をコップに二ハイ、ギューッと飲んだら、どういうことになるか」という下らぬことで、議論することになった。横にオカマがおり、「私がお金出すから、飲んでみなさい」というので、二人で焼酎をコップに二ハイ、ギューッと飲んでみた。十分位すると、僕は目が廻るし、歩けなくなってしまった。横にいたオカマは、いかりや長介に似ていて(というと失礼かもしれないが)、オカマにしてはバカに男性的なオカマだったから、なにしろ力がある。気づいた時は、オカマの家だった。ぼくの横に、もう一人男がいるので二度びっくり。「あら、目がさめたの、この人お客よ」と、いうわけ。あまりにも複雑なことになっているので、おどろきあわてて逃げ出したものの、外は午前三時頃で、電車もなにもない上に、お金も一文もない。しかたなく、夜明けの道をかえったことがあった。それから十五年後、四十近くなって、結婚式に、二級酒をたらふく飲んでよっぱらい、はじめて家内と寝たわけだが、前の方と、うしろの方とをまちがえて、あくる日父親に、「あるべきモノがない」という愚問を発したところ、「そのうちさがせば、どこかにあるだろう」という奇答をえて、お互いに奇妙に感心したことがあった。まったく、ぼくにとっては、酒は「気違い水」だ。(「気違い水」 水木しげる 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


美猴王出立
こうして美猴王が無邪気に楽しんでいるうちに、思わず三、四百年たちました。ある日、おおぜいの猿たちといっしょに楽しく酒盛りを開いているとき、ふと悲しくなって、涙をこぼしました。あわてて猿たち、進み寄って居並ぶと、ひれ伏して、「王さまには、なにをお悲しみになりますので?」「わしはこうして楽しんでいるときにも、さきざきのことが案じられて、悲しくなるのだ」猴王がそう言うと、猿たちは笑い出して、「王さま、それは足ることを知らぬというものでございます。わたくしどもは、こうして毎日楽しく集まり、この仙境に住まいして、麒麟の指図も認めず、鳳凰の支配も認めず、この世の王位にも縛られず、気随気儘に暮らしております。これが無上の仕合わせというものでございます。なにを案じてお悲しみになるのでございますか」と言えば、猴王、「いまは、人間の王のきめたおきてにも従わず、鳥や獣の威光も恐れておらぬが、これからさき、年をとり血気が衰えて来ると、閻魔大王が陰でコッソリ指図をするようになる。いったん死んでしまえば、この世に生まれた甲斐がない、天人(天上界の人の意)の列に入れてもらえないではないか」それを聞くと、猿たちは顔をおおうて泣き叫び、無常をなげかぬ者はありませんでした。すると列の中から一匹の手長猿が飛び出し、大音声をあげて、「王さまがそのように案じられるのは、いわゆる道心が生じたというもの。いったいこの世の五種類の動物のなかに、閻魔大王の指図を認めないすぐれた種類が三つだけございます」「どんな三つだ?」「仏と仙と神聖の三つでございます。この三つは輪廻をのがれ、不生不滅でございまして、天地山川と齢(よわい)をひとしくしておられます」「その三つはどこにおられるのだ?」「それは閻浮(えんぶ)世界の中、古洞仙山(こどうせんざん)の内におられます」それを聞くと、猴王は大よろこび、「わしはあす、おぬしたちにいとまを告げて、山を下り、海の隅、天の果てまで漫遊して、この三つをたずね、不老不死の術を学んで、閻魔の君の難をのがれることにいたそう」(「西遊記」 呉承恩 小野忍・訳) 孫悟空が旅に出るきっかけになったところです。 


冬の酒
1410酒のみて見ればこそあれこの夕(ゆふべ)雪ふみ分けて往きかふ人は (天降言(あもりごと))一八〇七 田安宗武
1411ためしとてかづくるわたにとり添へて酔ひをすすむる栢梨(くちなし)の酒 (琴後集(ことじりしゅう)・四・冬)一八一〇 村田春海
1412いにしへの人の飲みけんかすゆ(粕湯)酒われもすすらん此(この)よ(夜)寒しも (亮々(さやさや)遺稿・下・貧窮百首)一八四七? 木下幸文(たかふみ)
1413さむくなりぬいまは蛍も光なしこ金(黄金)の水をたれかたまはむ (良寛自筆歌・雑)? 良寛(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


マッヂ
(坪内)逍遙博士には、かねてより養女くにを士行(しこう)に妻あわす所存(つもり)があり、士行を急ぎ帰国させた理由(わけ)もこの縁談にあると言われていた。しかし、士行の帰国を待つより先に、紐育(ニユーヨーク)のマッヂ嬢から「あなたの妻より」と記した手紙(がいこくびん)が逍遙宅に到着していたのである。士行としても、倫敦(ロンドン)時代のマッヂとの一件を告白し、くにとの縁談は辞退せざるを得なかった。これが父逍遙の逆鱗に触れたのはいうまでもない。士行が余丁町の逍遙宅を離れ、溜池の佐藤別宅に居(すまい)を移した裏には、こんな事情が介在したのだ。逍遙夫妻は、マッヂとの引見をこばみつづけた。言語(ことば)、習慣(しきたり)が異なることを理由に余丁町の邸(やしき)に近づくことさえ許さなかった。父母の性格を熟知(しりつく)している士行としてはやむを得ない成行(いきがかり)ではあったが、マッヂにとってこうした仕打ちが面白かろうはずがない。「私は士行の妻として日本に来たのだ。坪内家がどれほどの名家か知らないが、こんな屈辱(はずかしめ)には耐えられない」と、自らの孤独をいやすためのアルコールとモルヒネづけの日々を送っているかにきく。(「大正百話」 矢野誠一)士行は、逍遙の兄の子で、逍遙の養子となった人だそうです。 


さすが道誉
南朝の軍隊が進撃してきて、(佐々木)道誉(どうよ)は一時、京都の屋敷を立ち退かねばならなくなったことがあった。そのとき、道誉は明けわたす屋敷をことさら美々しく飾り立て、乗り込んできた南朝の武将、楠木正儀(まさのり)をあっといわせたのである。客間には、大きな紋のついた畳を敷きつめ、壁には秘蔵の画幅をかけ、高価な唐物(からもの)の花瓶や香炉をならべ立てた。書院には王義之の書をかけた。寝室には、沈香の枕に緞子の夜具を揃えておいた。また三石入りの大桶に酒をなみなみと満たし、坊主をふたり配置して、この屋敷に乗りこんできた者に、まず一献をすすめよよ命じておいた。やってきたのは楠木正儀だったが、坊主どもの出迎えを受けて深く感じ、屋敷を荒らすどころか、やがて戦況が一転して退去するときには、自分も寝室に秘蔵の鎧と銀作りの太刀を置いていったという。この話を聞いた者は「さすが道誉、風流な者じゃ」とみな感心したが、なかには「道誉の古だぬきにいっぱい食わされて、気の毒にも楠木は鎧と太刀を取られてしまったよ」と笑う者もあったという。(「華やかな食物誌」 澁澤龍彦) 


漫画のよっぱらいそっくり
今まで、よっぱらって、自分でも、恥ずかしいと思ったことが、両三度ある。一つは、二十代のころ、ある高等学校の語学教師をしている自分のことである。教員の懇親会があって、飲めないお酒を、教練の軍人の先生にしいられ、大酔し、省線に乗ったものの、いつまでたっても、その当時僕が降りねばならぬ駅である水道橋駅へ着かないという珍事が起った。うっすらした記憶をたどると、乗ったのは、新宿で、車掌にゆすぶられて起きた時は、東京駅だった。そして、そのつぎは、立川で、ふたたび車掌に注意され、そのつぎにまた気づたら、またもや東京駅だったのである。しかし、これはいかんと思って、ようやく水道橋駅で下車し、ふらりふらりゆらりゆらりと歩きながら、当時住んでいた本郷真砂町の家へたどりついたとき、僕は、ただひたすら、ああよかったと思い、女房の肩につかまり、まず便所で、胸のしこりを吐き出し、どこかで眠ってしまった。翌朝、女房から聞いたところによると、帽子をあみだにかぶり、インバネスをひきずり、片手に折詰を下げ、まったく漫画のよっぱらいそっくりだったし、眠りにつくまえに、気まりが悪いらしく、へらへら笑ってばかりいたのだというのである。(「随筆うらなり抄」 渡辺一夫) 


なるべく飲まない
大好きな日本酒以外は、なるべく口にしないようにしよう。立食パーティーや、飲み放題がセットになったコースの宴会では、お酒を飲むのをやめにした。おしゃべりや名刺交換に忙しい場では、お酒がなくても高揚感があり、しのげるものだと気づいた。ふだんの飲み会で、最初の一杯は適当な日本酒を飲み、二杯目からじっくりと「何を飲もうかな」と決めることが多いことや、お酌をしてもらうとペースが速くなることにも気づいた。そこで、「とりあえず」の一杯をウーロン茶に切り替えた。−
こちらの盃が空になると、すぐに満たしてくれる人と同席するのも要注意だということや、複数の人とお銚子を共有するのは、飲んだ量を把握しにくくて危険だというのも実感した。−
また、近所のコンビニで缶ビールを買って飲むのは手軽だがそれだけに歯止めが利きにくい。徒歩五分圏にある三軒のコンビニでは、お酒は買わないことにしている。−
今日は飲まないと決めた日は、禁酒宣言のメールを送り、ソーシャル・ネットワーキング内で書いている日記に「今日は飲みません」と書き込む。−
写真の整理や、返事を書くべき手紙がたまってくると、「飲まない夜に片付けることにしよう」と、手持ち無沙汰を埋めるものとしてリストアップしておく。眠りにつくのに時間がかかる場合に備えて、ベッドサイドには軽く読める本を積んでおく。(「今日も飲み続けた私」 衿野未矢) 


ステファンヴィルの大時計
テキサス州のステファンヴィルの大時計は、町の誇りだった。というのは、それは夜でも電気がついていてはっきり見えた。町の住民が一人、千鳥足でポストの前にやって来ると、差入れ口に一ペニー投げ込んだ。彼は時計を見上げて大声を上げた。「ヨォッ!こいつぁ驚きだ。おれ、九ポンドも重くなっちまったぞ」 (「笑談事典」 ベネット・サーフ) 


酒は一度飲んだらやめられぬ
【意味】一度酒の味を覚えたものは、どうしても酒がやめられないが、他の悪癖もこれと同じだ。
【解説】ラ・フォンテーヌは『寓話』の「酔いどれと妻」で、「誰にも弱点があり、常にそれへもどる。恥も恐怖もこの弱点をいやしはせぬ」という冒頭で、酔いどれが酔って正体をなくしているあいだに、妻から墓廓へとじこめられ、気がついたとき、自分は死んで地獄へ落ちたと思ったが、それでもなお「酒もって来い」とどなりつづけた。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助) 


ウイスキーボンボン
どうやって、あの砂糖の殻の中にウイスキーを入れるのだろうか。注射器のようなもので注入するのか、あるいは入れてからフタをしてかためるのか。じつは、そのどちらでもない。砂糖の特性を生かした、製造方法があるのだ。まず、砂糖を水に溶かして煮て、濃い砂糖液をつくる。この中にウイスキーを入れる。そんなことをしたら混ざってしまうのではないか、と思われるかもしれない。たしかに、最初は混ざってしまう。しかし、これを型に流し込み、ゆっくりと冷やしていく。すると、液に溶けきれなかった砂糖が分離していき、外側に押し出され、やがて殻をつくるのである。(「[モノの作り方]がズバリ!わかる本」 夢文庫) 


「文枝三遊に入るを許さず」
大坂落語の桂文枝といった名人がが、その頃は柳派、三遊派と分かれていて、三遊派の噺家は、柳派へはでられず、また柳派の芸人も三遊派へ出演することができなかった。この文枝という人を大阪から呼んで、柳派で十五日間出演した後、三遊派で稼ごうというので、それはならぬと柳派からお差し止めになった。(葷酒山門に入るを許さず)−
古い音曲師で、歌もうまいし、声も良いのだが身持ちが悪く、酒ばかり飲んで、いつも金がない小半治という男を「小半治かたっけつ酒で虎」−《牡丹に唐獅子竹に虎》(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) 


ビール凍る
草津温泉(群馬県)と志賀高原の途中にそびえる横手山(二三〇五メートル)も、寒いところだ。頂上そばのノゾキ小屋に泊まっていたときのことである。一晩中ストーブを燃やし続ける室内は暖かいが、明け方近く、機関銃のような音に目覚めてしまった。初めは何が起こったかわからず、とまどってしまったが、あまりの寒さに別の部屋にしまってあったビールが凍り、びんが破裂してしまったのである。ビールはどのくらいの気温で凍るのか知らないが、バラック建て同様の小屋とはいえ、そこは室内である。翌日、その凍ったビールをかじってみた。まわりは普通の氷で、しんにビールのエキスが固まっているが、まずくて食べられたものでない。試みに暖めてみたが、それでもだめである。別の機会に、凍ったサイダーを食べたことがあるが、これならどうやらのどを通る。凍る寸前のビールを飲んだことがある。せんを抜いて、一気につげばまだしも、ちゅうちょしていようものなら、出てくるビールがつららのように凍ってしまう。こういうビールは、やはりまずくて飲めない。(「旅の歳時記」 山本「イ胥」) 


60.一杯の酒に涙する
 他人に対して公平にせず、一杯の酒を惜しむと怨みが生じて、将来涙を流すような禍が生じることがある。他人には公平に与えないと、後悔することになる。食い物の恨みは恐ろしい。 朝鮮
95.酒が熟れると篩(ふるい)売りが来る
 麹酒は篩で滓(かす)をこさねばならないが、酒が熟れた頃に、ちょうどうまく篩売りが来る。タイミングのまことにいいことを言う。「願ったり叶ったり」。 朝鮮(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


ドゥルノピヤーノフさん
たとえばロシア人のドゥルノピヤーノフさんは、「いやらしい酔っ払い」ということのようだ。これがドゥルノヴォさんだと「醜い」とか「いやらしい!」と、名前を呼ぶたびに呼びかけていることになる。そして、このドゥルノピヤーノフさんは、クラスノシチョーコフ(赤いほっぺた)さんと親友だったりするからおもしろい。(「世界の『人名』」 夢文庫) 


柚子
色づくとは緑から黄に染めかわってゆくことで、全体が黄色くなると、今度は皮肌と皮の内部とが分厚くなります。このことは柚子(ゆず)が自らを守ろうとする自然のいとなみなのでしょうが、十二月になるとさらに皮裏の白い綿状が多くなりおいしくなります。皮をよく洗って、そのままを小口切りに薄く切り種だけを取り去り、それへ白砂糖をふりかけて三時間もすると、ほろ苦い洒落た旨さとなり、酒の肴となります。(「味覚三昧」 辻嘉一) 戻


古田晁の墓石
十二月の初め、銀座のすし屋きよ田の若主人は、信州小野の古田の墓参に行って来たという。松本郊外のこの寒村が古田の郷里である。古田家はここの豪家であるが、余り大きな家で面倒になったのであろう。可愛がっていた料理屋に与えたのを、そのまま移築して、今はその料理屋が営業しているという。きよ田は、墓参しておどろいたのは、古田晁の墓石は酒でべとべとになっていたことだという。古田が酒飲みで、その飲みっぷりはいろいろの奇談として伝わっている。墓参の人たちは花より酒を持参し、墓前で一杯飲み、墓碑にかけるのであろう。(「厨に近く」 小林勇) 古田晁は筑摩書房の創業者だそうです。 


餅代
ところで、終戦後の国会議員は、以前と同様歳費と称してはいるが、月給をもらっており、、滞在費や交通費などの実費弁償ももらい、わずかではあるが、期末手当ももらっている。しかしそれだけでは、食ってはいけるかも知れないが、国会議員らしくやっていけないことは確かである。正月ともなれば皆お国入りをする。帰れば大勢の人が集まって来る。餅代もいるし、酒代もいる。選挙後初めての正月ともなれば特に物いりである。そんなところから、終戦後も餅代の風習は残ったが、保守合同後は各派閥の実力者がこれを出すように変わった。しかし党の近代化によって派閥を解消した今日、漫然とこの風習をそのまま党が引継ぐかどうかは、ここで考え直してみる必要がある。というのは、歳費も合理化され、党も近代化された今日、正月に党員の歳費で足りない金の性質は、国会議員の政治活動費であろうか、党員としての政治活動費であろうか、個人の政治活動費であろうかという事である。それによって負担者が異なって来るのである。−
そこで今年一年くらいは一度餅をつかず、餅を食わずに考えて見るのもよかろうではないか。そうすれば餅代がいらないだけでも、代議士も党も助かるというものである。(「政治家のつれづれ草」 前尾繁三郎) 


田o至喜
農事を見廻る役人がやつて来るので、酒食を供して饗応するのである。田oは農管をいふ。毛伝には「田大夫なり」とある。国語(書名)の周語にある「農大夫」と同意義であらう。此所にいふ「大夫」は通俗語で単に役人といふ程度の意に解して良いと思ふ。漢書高祖紀の師古の注に「大夫に朝廷爵命の大夫あり、流俗推重の大夫有るを知るべし云々」とあるによつてもわかる。「喜」は田oが農夫力作の状況を見て喜ぶとも解するが、鄭玄の箋には「喜、読んで「食喜」と為す。酒食を「食喜」するなり。中略又為に酒食を設く。其の事を勧むるを言ひ、又其の吏を愛するなり」とあり、又小雅甫田の詩に「曽孫来る。其の婦子を以て彼の南畝に「食盍」る。田o至りて喜す。其の左右を攘ひ、其の旨否を嘗む」とあるのと考へ合はせ、鄭箋の解に従ふのが妥当である。但し鄭箋にある「其の吏を愛するなり」といふのはどうだかわからない。恐らくは苛酷な供出を課せられることの無いやうに、御馳走政策で役人の御機嫌を取り結ぶのではあるまいか。然しこれは聊か穿ち過ぎた解釈かも知れぬ。(「詩経随筆」 安藤圓秀) 


狸正宗
雨が降ると天城は秋のように静かだ。山にかこまれた温泉宿の二階で、僕は若い美術評論家の下店(しもみせ)静市と二人ですつかり退屈してしまつた。朝起きると、先ず二人で「狸正宗」を飲む。「狸正宗」はよくまわる。(これは山の地酒に僕が命名したものであるが、後年、四国へ行つて鳴門近くの村落をあるき、居酒屋の障子に「狐正宗」と書いてあるのを見て、上には上があるものだと思つた)下店は小説家の廣津和郎氏のある翻訳事業に、フランス語の助手をつとめるために来ていたのであつたが、当の廣津氏が前ぶれだけで、なかなかやつて来ないので、−尤も長びく方が彼にとつては好都合であつたが、何しろ朝から酒ばかり飲んでいたところではじまらなかつた。二、三日の間は渓流に感心したり、釣りをしたり、プロステイチユートのいる家をつきとめたりしていたが、しかし、小さな村の地理に通暁すると、もう「雨に煙る翠煙」なぞは物の数ではなくなつた。ほろ酔いきげんで、話すことがなくなつてくると、彼は半紙をとりよせてさかんに画をかいた。かくのはきまつて南画風の瀧であるが、しかし、それがために宿では、彼はすつかり画の先生にされてしまつた。この「瀧」また途方もなく難解きわまるしろものであるが、それを僕が一杯きげんで宣伝する。もう女中達に一枚々々くれてやるくらいではおさまらなかつた。彼は自ら静山と号し、麓の町から唐紙と筆をとりよせた。(「人間随筆」 尾崎士郎) 


ラルフ・カポネ
アルフォンソ・カポネ、そうギャングの親分としてアメリカどころか世界中に名をはせたアル・カポネのおかげである。ところが、このカポネという名のために人生を心ならずも曲げてしまった人物がいる。アルの甥ラルフ・カポネだ。きちんと大学の工学部を卒業したのに、どこの企業も彼の名を聞いただけで採用を取りやめ、どこの企業も彼の名を聞いただけで採用を取りやめ、就職できなかったのである。しかたなく、ラルフはゲイブリエルと名を変え、シカゴにプレハブ住宅の工場を開くことで、どうやら安定した生活を手に入れた。妻と二人の子供をもち、これで人生は順調にいくかに思われた。ところが偶然に出会ったかつてのクラスメートが、彼の本名を触れ回ったため噂に尾ひれがつき、賭博場を裏で経営しているなどと悪意に満ちた話が語られるようになってしまった。当然工場の取引先は逃げ腰になるし、警察が調査のうえ事実無根と発表しても効果はなかった。そこで、名前を変えて今度は中古車置き場を経営したが、再び例の旧友があらわれて、本名を言い触らされてしまう。ついには妻子に逃げられてしまうことになる。結局ラルフが腰を落ち着けたのは、だれも身元など気にしないバーテンダーという職業。インテリの彼には居心地が悪く、最後はアルコールに溺れ三三歳でこの世を去った。(「世界の『人名』」 夢文庫) 


青柳氏宅
青柳瑞穂氏が酒に酔うと、まるで子供のように無邪気に燥(さわ)ぐところ、私はそんな青柳氏が好きである。本当に嬉しそうである。私達中央線沿線に住む作家やジャーナリストで催す「阿佐ヶ谷会」の会場は、いつも青柳氏のお宅である。主人役の青柳氏は出払っていて留守をすることもあれば、遅刻をすることもある。私が阿佐ヶ谷の飲み屋に行くと、「昨夜、青柳先生がお見えになっていましたわ」と言われることが度々である。いつもかけちがって、私は残念な思いをする。そんな時、前夜青柳氏が残して行った私の評判を、店のおかみから聞かされるのが常である。例えば私は「阿佐ヶ谷会」などで醜態を演じて、その度に詫び状を書く。青柳氏曰く、「上林は、詫状を印刷しておくといいんだ」と。また、私が雑誌記者と酒を飲んでいる時、飲み屋のおかみが二人、借金を取りに来たことがあった。借金が払えないで、私がはばかりへ行っている間におかみ達は帰ってしまった。記者も帰り、私は寂しくて、玄関の間にぶっ倒れて眠っていた。そこへ、青柳氏が新刊の『モウパッサン短編集』を持って現れた。その時のことを、青柳氏は飲み屋で言っていたそうである−「債鬼が帰ったと言って、泣きべそをかくのは、上林だけだ」 (「『酒』と作家たち」 浦西和彦編 「文壇酒友録」 上林暁) 


把酒問月 酒を把つて月に問ふ 李白
(四)古人 今人 流水ノ若(ごと)シ      古の人も今の人も流水の如く
共ニ名月ヲ看ルコト皆此(カク)ノ如シ。    皆此のやうに共に名月を看ながら去つて逝くのだ。
唯ダ願ハクハ歌ニ当リ酒ニ対スルノ時   唯だ我が願ふことは歌を聴き酒を酌む時
月光ノ常ニ金樽裏ヲ照サンコトヲ。      月光が常に金樽の中を照らしてゐてほしいばかりだ。
(「中華飲酒選」 青木正児訳著) 


方言のさけ色々
ごく上等の酒 ぬき
ぬるい酒 おぼろがん
もろみを絞った後の袋を洗った水に糟を加えて作った酒 かすじゃけ/かっちゃけ
よその酒宴に出てただで飲む酒 あぶらざけ
一日の仕事から帰って飲む酒 あがりざけ(日本方言大辞典 小学館) 


かんざましの利用法
かんざましの酒といえば気のぬけた風味の悪いものですが、そのまま捨ててしまうともったいないのでその利用法を二つ紹介します。一つは、お銚子のなかにかえして、その中に新しい杉ばしをたてて、おかんをしなおしてみることをおすすめします。杉のかおりで味がずっとよくなって、おいしくいただけます。もう一つは、たくさん残っている場合で、お酒一合に対して、大さじ五、六杯の砂糖をまぜて煮たたせた後に、再びさましてからみりん代わりに使うと重宝します。ただし、保存する場合には、必ず、三、四日ごとに火をとおすことが必要です。(「雑学おもしろ百科」 小松左京監修) 


東西之勢
また酒造てふものはことに近世多くなりたり。元禄のつくり高をいまにては株高といふ。そのまへ三分一などには減けるが米下直(安値)なりければ、その株高の内は勝手につくるべしと被二仰出一しを、株は名目にて、たゞいかほどもつくるべきことゝ思ひたがへしよりして、いまはつくり高と株とは二ツに分れて、十石之株より百石つくるもあり、万石もつくるもあり。これによつて酉年のころより諸国の酒造をたゞしたるに、元禄のつくり高よりも今三分一のつくり高は一倍之余も多き也。西国辺より江戸へ入る(り)来る酒いかほどともしれず。これが為に金銀東より西へうつるもいかほどといふ事をしらず、これによつて或は浦賀中川にて酒樽を改めなんといふ御制度は出しなり。これ又東西之勢を位よくせん之術にして、たゞ米の潰れなんとていとふのみにあらず侍る也。関東にて酒をつくり出すべき旨被二仰出一候も、是また関西之酒を改めなば酒価騰貴せんが為なりけり。ことに酒てふものは高ければのむことも少なく、安ければのむこと多し。日用之品之物価之平かなるをねがふ類とはひとしか(ら)ざれば、多く入来れば多くつゐへ、少なければ少なし。(「修養録」 松平定信 松平定光校訂) 


金は火で試みて人は酒で試みる。
 金属の善し悪しは火で熱してみるように人柄のそれは一杯の酒でみる方がよい。
酒に推参なし。
 杯のやりとりには身分の上下は不要。
酒外れはせぬもの、酒戻しはせぬもの。
 借りた酒を返したり、酒の返礼はしない。酒は素直に受けるもの。
葬礼九つ、酒七つ。
 葬式は昼の十二時、酒宴は午後四時から始める。昼酒は良くない。(「飲んだくれてふる里」 小宮山昭一) 


さけ【酒】
天照皇御神(あまてらすすめらみかみ)も酒に酔ひて吐き散らすをばゆるし給ひき(平賀元義歌集 平賀元義)
酒をあげて地に問ふ誰か悲歌の友ぞ二十万年この酒冷えぬ(紫 与謝野鉄幹)
気のふれし落語家(はなしか)ひとりありにけり命死ぬまで酒飲みにけり(毒うつぎ 吉井勇)
見てあればかごのこほろぎ、見てあれば杯の酒、やはり寂しき(旅愁 内藤ユ策)(「日本歌語事典」 大修館書店) 


もりもりもりあがる雲へ歩む
昭和十五年十月十一日午前四時(推定)、山頭火は一草庵で他界した。病名は心臓麻痺。この前日は、愛媛県護国神社の秋の大祭で、隣家の伊藤さんの老母やほかの人たちからも、御神酒(おみき)をいただき、山頭火は大喜びで朝から酔っていた。そして、一洵や灯火骨のところを訪れたりしている。夕方、すっかり泥酔、倒れて眠ってしまった。その夜、この庵での定例の句会が開かれたのだが、肝心の庵主は高鼾(たかいびき)の白河夜船なので、集まった人たちだけで十一時までやって散会した。こんなことはそう珍しいことでもなかったから、よく寝ているわい、とみな笑っていたことだろう。しかし、朝になっても庵主は起きてこなかったのである。コロリ往生と言うべく、放浪者望みどおりのまったく太平楽な最後だったのだ。山頭火の日記は、死の五日前の十月六日まで書いてあった。冒頭に「秋祭り」とあるかか、ずーっと祭りつづき。したがって山頭火は飲みつづけ、酔いつづけていたのであろう。(「放浪行乞 山頭火百二十句」 金子兜太) 


大阪色とこぢんまり
しかし、「ライオン」、「タイガー」が妍を競う華やかな時代は、大正十二年に発生した関東大震災により、一時中断される。銀座も多くの建物が倒壊し、また、そこから復興作業が進められ、カフェも蘇るが、年号が昭和に改まり数年経つ頃になると、銀座は新しい風俗に席巻される。大阪のカフェが次々と銀座に出店し、大阪風の商売を始めたのである。昭和五年に銀座入りした「ユニオン」「美人座」を筆頭に、どの店もそれまでにない女給の色気を前面に出した濃厚なサービスを売り物にした。銀座はあっという間に、この大阪色に染まってしまうのだった。「ライオン」も「タイガー」も大阪旋風に破れて銀座から姿を消した。なお「ライオン」は本格的なレストランとして上野に精養軒と名を改めて出直している。このような大形カフェの盛衰の陰で、「タイガー」や「ライオン」にいた人気女給たちが独立し、こぢんまりとした趣味のいい酒場、つまりはバーを開く流れが一方に生まれた。自分が女主人となり、バーテンダーを置き、女給を、数人置くだけの小さな酒場。その代表が今でも銀座に健在のバー「ルパン」である。この店は、カフェ「タイガー」で里見クらを魅了した人気女優の通称お夏、本名・高碕雪子が昭和三年に開いた店である。(「おそめ」 石井妙子) 


しょうが酒飲み逃げにする風邪の神
ショウガは熱帯アジア原産の多年草で、日本には縄文時代の終わりごろ、稲作文化に包含されて渡来したとみられている。邪馬台国を後世に伝えた『魏志倭人伝』の中にも、ショウガが出ており、女王卑弥呼も薬用または薬味などとして用いていただろう。ショウガは邪馬台国以来の「古代食」なのだ。(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 


料理茶屋の項
京坂は美食といへども鰹節の煮だしにて、これに諸白酒を加へ、醤油の塩味を加減するなり。故に淡薄の中にその物の味ありて、これを好(よし)とする。江戸は専ら鰹節だしに味醂酒を加へ、あるひは砂糖をもつてこれに代え、醤油をもつて塩味を付くる。故に口に甘く嘗(うま)しといへども、その物の味を損すに似たり。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 


おおとら[大虎] 泥酔者。よっぱらい。[←「笹に酔う」の洒落との説と、首を振るからとの説とがある](俗語)(明治)
おちゆうし[お中四] 料理こんだての一種。【さしみ・焼魚・口取と飯の四種で外に酒一本をつけたもの】[←「中通りの四つ物」の略称](料理)(明治)
おて[御手] 五。【酒屋などの符牒で、系統は不明だが極めて自然に作られたものだから、同一趣向のものが多い】[←片手の指の数]→かたて。かたこぶし。げんこ。おんて。げのじ。ごけ。(明治)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


酒徳の歌
さらに『續江戸砂子』にみられる酒徳の歌という数え歌は、十どころか万まであるからおもしろい。
一切(いっさい)のその味ひをわけぬれは酒をは不死の薬とそいふ
二くさ(憎さ)をもわすれて人に近づくは酒にましたる媒(ナカダチ)はなし
三宝の慈悲よりおこる酒なれば猶も貴く思ひのむへし
四らす(知らず)して上戸を笑ふ下戸はたた酒酔よりもおかしかりけり
五戒とて酒をきらふもいはれあり酔狂するによりてなりけり
六根の罪をもとかもわするるは酒にましたる極楽はなし
七(質)なとをおきてのむこそ無用なれ人のくれたる酒ないとひそ
八相の慈悲よりおこる酒なれば酒にましたる徳方はなし
九れすして上戸をわらふ下戸はたた酒をおしむかひけふ成けり
十善の王位も我ももろともにおもふも酒の威徳なりけり
百まてもなからう我身いつもたた酒のみてこそ楽をする人
千秋や萬才なとと祝へとも酒なき時はさひしかりけり(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 


ブドー酒の小ビン
いつの間にか、ぼくも酒が飲めるようになり、飲むと疲れが消え、陶然となるのを楽しむようになってしまっている。その病みつきは、どうもパリへ留学していたころ、食事ごと(朝めしは別にして)に出されるブドー酒の小ビン(一合か半合)になれてしまったことかららしい。精神的にも肉体的にも緊張した何時間かを送ると、体が疲れる以外に神経がピリピリしてくる。その時、少しアルコールがはいると、神経はゆるみ、つまらぬ煩いはまさにつまらぬものとして捨て去れるし、肉体は、目ざめたままで眠りはじめる。肉体労働者が夕方、酒屋でチューをぐいとひっかける気持は、よく分かるような気がする。ところで、ぼくの酒にたいする感覚は、晩学のせいか、てんでなっていない。日本製のポートワインの化学合成味と、フランスのブドー酒の自然味との差別ぐらいは分かるし、屋台で出される三級酒と、料理屋の一級酒との差も、おぼろげながら分かる。しかし、一級酒、特級酒の品種差別については、まったく発言権はない。「ちょっと甘口だな。」と友人が言えば、甘いように思うし、「こりゃ辛口だ。」と友人が言えば辛いような気にもなるという舌音痴である。(「随筆うらなり抄」 渡辺一夫) 


γ・GTP
アルコールによる肝障害の程度を反映する酵素に、ガンマーグルタミルトランスペプチダーゼ(γ・GTP)があります。大酒家で肝障害のある場合には、この値が非常に高く、酒をやめると急速に低くなり、再び飲みはじめるとまた高くなるという特性を示します。酒を飲んで、この酵素が上昇することが、そのまま酒による肝障害を示しているとは断定できませんが、少なくとも肝臓にある種の変化を与えていることは間違いありません。酒を飲むとγ・GTPが上昇する人では、この酵素の活性を測定することによって、どのくらいの酒を飲んでいるかのひとつの指標になります。酒をよく飲む人は、時々この検査をしてみるとよいでしょう。飲んだ次の日は必ずγ・GTP価が高くなるので驚くことはありませんが、酒をやめても低くならないと問題です。(「酒博士の本」 布川彌太郎) 基準値は50以下だそうです。 


怒りの中で酒を飲み、悲しみの中で沈黙するものは長生きできない[スロベニア]
居酒屋で飲む酒は家で飲む酒よりうまい[ルーマニア]
一緒に酒を飲まない者は泥棒かスパイ[伊]
一杯目は健康のため、二杯目は喜び、三杯目は心地よさ、四杯目は愚かさのため[ブルガリア]
憂さは酒の中で溺れない、泳ぎを知っているから[独](「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


酒場の紳士
しかし率直なところ、すでに上村一夫の絵と物語は往年の気配を失い、別人の書いた台本によりかかる傾向が露骨に感じられた。わたし自身、多少酒の入ったはずみを借りてそのようなことを口にしたと思う。むかしを思い出しましょう、なんならぼくが手伝いましょう、ともいったと思う。僭越なふるまいだった。手伝う、というのは自分に台本を書かせないか、という意味である。上村一夫は酒場の紳士としてつとに有名だった。酒量は並ではなかったがはめをはずすことは決してなかった。まァまァ、とか、そう力まずに、とか軽くわたしをいなし、やがてギターを手にして数曲歌った。彼はフラメンコギターの名手だった。それでもわたしは、かつての自分の生活の一部を淡く色づけてくれた作品群の作者と、したしく話せただけで満足だった。「あのね、量は思想なんですよ」と上村さんはいった。「どれだけのページ数を毎月こなせるか、自分自身で楽しんでいるところがあるんです。それからね。わたし、どんな原作をもってこられても文句いいませんよ。なんでも黙って仕上げちゃいますよ。職人なんです」自虐のトーンはなかった。むしろ強い自信が感じられた。(「ヘイ!マスター」 上村一夫 関川夏央) 


日本酒をアメリカに
ワシントンの酒屋では、日本酒を売っていない店は一軒もないそうだし、パーティーでもウィスキー、カクテルと揃えて、塩センベイと日本酒がいつも出る。十人中 九人までは日本酒を所望するそうだ。そこで、正月の酒をのみながら考えた。日本では外国から米を輸入しなければ食っていけない。一千万石は足りないのだ。所が、近年。アメリカの米の生産が急に増してきた。米国南部、加州あたりの一部では、水田米作が普及して、肥後の寿司米のようないい米が出来るようになった。そこでである。日本酒をアメリカに輸出して、その金で米を買うことをしたらどうだ。米をつぶして酒にして、そしてまた、足りない米をもらうということは、頗るヘンテコリンは話ではあるというものの、イギリスの最も大切な輸出品のひとつが、ウィスキーであることを考えれば、ちっともおかしくないことではないか。(「めぐる杯」 北村孟徳) こんなことがいわれる時代があったのですね。 


速醸「酉元」導入
蔵人のあいだに噂の真偽を知りたいという声が高まったので、茂吉(榊酒造杜氏)は大旦那に尋ねにいったが、庄一郎(榊酒造先代)にとってもこの話は寝耳に水だった。庄一郎はさっそく信太郎(榊酒造当主)を呼んで問いただした。庄一郎の険しい顔つきにもたじろがず、信太郎は眉一つ動かさずに言ってのけた。「噂は本当です。「上:夭、下:口 の」み切りのときに、きちんとお話ししようと思てました。今年の秋から、「酉元 もと」造りの一部を速醸に変えようと思うてます」庄一郎は顔色を変えた。一瞬絶句した後、有無を言わさぬ口調で言い渡した。「うちの蔵には、百五十年、蔵についてきた、榊だけの酵母がある」「はい」「外から酵母を買う必要はない」だが、信太郎としても、反対されるのは承知のうえで決断したことなのだ。おいそれと譲れるものではない。「純粋培養された、健全な酵母です」「お前はいったい何を考えとるんや。榊が蔵の酵母を捨てたら、それはもう榊の酒やない」「そうでしょうか」「なんやとっ!」激昂する庄一郎を尻目に、信太郎は落ち着きはらって先を続けた。「蔵の酒というものは、新しい人間が出入りしただけで変わります」庄一郎も座り直して、抑えた声で答えた。「そうや、微妙なもんや」「その年の気候によっても変わります」「そのとおりや」「そんなら、榊の酒て、いったい何ですか?」「杜氏の腕で、その年の蔵で、味わいも香りも変わる。それが榊の酒や。…酒は生きものなんや」「腐造を出しても?」「出さんのが腕や」「出させないのが技術です」「信太郎!」「酒質の安定こそが、これからの酒造りの命です。変わらない味と質さえあれば、需要かて必ず…」「要するに量か」「量だけやありません。速醸「酉元」は蔵人の労力も軽うします」「軽うして、そのうち必要なくなるか」「それが近代化です」父子はにらみあった。榊の酒を大事にする心は同じでも、世代も気質も違う二人だ。互いに信念を貫こうとすれば、衝突は避けられない。(「甘辛しゃん」  宮村優子原作 葉月陽子ノベライズ) 平生9年10月から放映されNHK朝ドラだそうです。 


東長
ねじを巻き直したら胃がきゅっと鳴った。そこで大村に寄り、大村寿司を買って虫押さえ。一切れずつ角に切れ目の入った五目ちらし寿司で、思いっきり大甘の寿司飯がこの街道にふさわしい。東彼杵(ひがしそのぎ)から嬉野(うれしの)に入ると佐賀県。嬉野温泉はきゅっと肌が引き締まるという名泉だが、今回はお湯も名物の温泉湯豆腐も見送って、旧道に折れて塩田町(しおたちょう 現・嬉野市)へ向かう。塩田川沿いのこの道こそ往事の長崎街道。有明海とつながっているため舟運で栄え、島原からの天草陶石で志田焼が焼かれた。醸造業も盛ん、となると気になるのが地酒の甘辛度。広々とした田んぼの傍らの瀬頭(せとう)酒造の門を叩いた。「東長(あずまちょう)」で知られる蔵元で、当主はおだやかなのに一徹な佐賀人気質を彷彿させる方。「アルコール発酵をほどほどにして、もろみからうま味を引き出すのが佐賀の酒。うちはほとんどの酒の日本酒度がマイナスなので甘口に分類されます。ふっくらした味が特徴です。もちろん糖添加なんかしてません」と断言する。手渡された一本は地元産山田錦の純米酒。昨夜の角煮が懐かしくなる芳醇旨口だった。(「食の街道を行く」 向笠千恵子) 長崎を起点にした「砂糖街道」の味は甘口だそうです。 

大こけ舞
このころの庶民の享楽気分は安永(一七七二〜八一)ごろに流行したという「大こけ舞」の文句によく現れている。
一に一日小言をいひ、二に苦い顔をして、三に酒はかぎもせず、四つ吉原ついに見ず、五ついらぬ世話ばかり、六つむせうに貯めたがり、七つ何にかに欲深く、八つ役者の名も知らず、九つ苦労に苦ばかりし、十ヲとうとう石仏、大こけ舞を見さいな。
おおこけとは大馬鹿、大阿呆という意味なんだから、終日小言を連発し、苦虫を潰したような顔をして、酒は不調法でございやす、吉原は粽笹の生えているところでございやすかと澄し込み、一文惜しみの百知らず、改鋳になった悪銭を後生大事に貯め込んで、憂さ晴らしの芝居もついぞ見ず、苦労ばかりをし尽くして、どんどのつまりが南無阿弥陀仏とは、これに過ぎたる大馬鹿の骨張はないと、江戸っ子らしい太平楽を並べ立てているが、当時の享楽的な刹那主義がよく窺われている。(「俳諧 たべもの歳時記」 四方山径) 


役者
勝新太郎がこんな話しをした。私はよく酔っぱらって帰る。入口でひっくり返ってみると女房(玉緒)が、口の中でグズグズ言っている。面白いから狸寝入りをしていると、いろんなことを言っている。「仕様のない男だ」とか「けったいな男」などと言っている。こないだ、やっぱり酔っぱらって帰ると、イヤなことを言ったので、女友達に電話をかけた。私は家の電話番号はよく知らないが、女友達の電話番号はソラで言える。そして電話をかけて「すぐ行くから食事(めし)の支度をしといてくれ」と言うと「どこからかけてる」ときくから、「家からだ。そばで玉緒がブスン面で突ッ立っている」と言うと、だしぬけに電話をきられてしまった。ばつが悪いから、つながってるフリをして、「そうか。湯の支度もしといてくれ」そう言って電話を切った、とたんに、私の眼から火が出た。というのは、女房が私の横っ面をなぐった。眼の前に立ちはだかった女房の形相、初めて私は真剣な恐ろしい女房の顔を見た。「オイ、いい顔だ!その顔、忘れるな!」と思わず言うと、女房が「ハイ」と返事をした。(「笑いのタネ本」 宇野信夫) 


予審終結決定
和歌山県西牟婁郡田辺町居住
平民無職業 南方熊楠
当四十三年
主文
被告南方熊楠を免訴放免す
理由
被告南方熊楠が明治四十三年八月二十一日午前十一時三十分和歌山県立田辺中学校に於て紀伊教育会の主催に係る夏期講習会閉会式場に闖入し、携うる所の信玄袋及び傍にありたる椅子等を投げつけ暴行をなしたる事実明瞭なるも、右行為は被告は当時酒のため中酒症にかかり、精神状態に障害を来し居りたるものにして、刑法上の責任能力を持っていたと認むべき証拠十分ならず、よって刑事訴訟法第百六十五条に基き主文の如く決定す
和歌山県地方裁判所田辺支部
予審判事 平田二郎
平田予審判事苦心の決定である。酒を飲んで正気を失っての行動なら誰も文句はあるまい。南方を助けるにはこの一手しかないと考えたのである。大逆事件の時の毛利に対する態度といい、この南方に対する態度といい、田辺裁判所は相当な権威と貫禄を示した。(「紫の花.天井に」 楠本定一) 南方熊楠の手紙 


神鞭知常
明治三十五年の夏、総選挙に落ちた神鞭知常(こうむちともつね)が京都に滞留してゐるうちに、彼の定宿である先斗町(ぽんとちょう)の西屋の下女が疑似コレラに罹(かか)つた為、五日間の閉門を食つた。他に泊り合せてゐた客も大分あつたのだが、大抵要領よく逃げてしまつて、一人だけ正直にやつてゐた神鞭が押込められた形であつた。神鞭は罪なくして見る配所の月といふ味をはじめて知つたが、こゝの配所はなかなか風流で、東山は眼の前に横はつて居り、鴨川の水は枕の下を流れる、夜になれば四隣に弦歌が湧くのみならず、彼に同情する人達から毎日ビールとか菓子とかいふ見舞が来る、宿の亭主は気の毒がつて、いつでも碁の相手をつとめるやうに都合してくれる、こんな有難いことはあるものぢゃない、と嘯(うそぶ)いて居つた。特に振つてゐたのは、宿の裏座敷が加茂の河原に臨んでゐるところから、こゝにテントを張つて、竹垣越しに面会事務所が出来る。方々からの見舞物は皆この事務所に置いて、見舞客が勝手に飲んだり食つたりすることにしたので、夕涼みがてらの来訪者が集つて来る。極めて陽気な交通遮断であつた。愈々(いよいよ)遮断の解除になる前夜の如きは、茶屋の女中とか芸妓とかまでがやつて来て、面会事務所は忽(たちま)ち小宴会場となり、三味線を弾くやつもあれば唄ひ出すやつもある。檻中の虎の如く座敷に閉ぢ込められた神鞭は、外に向つて大声で話しかけると、外からも負けずに大声で答へる。遂に興に乗じて、さアどうどす、あんたはんも何ぞお一つお発しなはらんかいなア、と檻中の人に迫るに至つた。(「明治の話題」 柴田宵曲) 


吟醸酒ブームの先導役
吟醸酒がどんどん育ってきて私の手元のファイルが陳腐化している。市販商品が次々に現われ、追加にいとまがない。昭和59年の春、この辺で市販吟醸酒のリストを新しく改訂しようと思っていたら鎌倉書房から本を書きませんかというお誘いが来た。中公新書『日本の酒づくり』は、日本酒も吟醸酒もわからない人に入門書として書いたつもりのものだ。鎌倉書房の『吟醸酒・全国市販吟醸酒カタログ』は、楽しい読み物として、商品として市場に出ているものを買うための参考書として書いた。前著はうんと売れた。本を出したことのある友人たちを羨ましがらせるほど売れた。後の本も値段の割にはよく売れたといわれている。私は著者として、両方同じくらい出ればいいと思っているのだが…。2冊の本は吟醸酒ブームの先導役としていささか働きがいがあったのではないか。『吟醸酒』の出版パーティーを開いたら、これが予想外の盛況だった。(「幻の日本酒を求めて」 篠田次郎) 


ウサ商会製
これから数十年たって第二次大戦直後の闇市にはアメリカ兵の氾濫といっしょにレッテルのどこかに"Made in USA"と刷りこんだマヤカシ・ウィスキーが流れたことがあった。当時は−いまでもあまり変わらないが−何だってかんだって"米国製"とあればありがたい一心で国民はとびついたものだったが、そこを焼酎屋はうまく利用したわけである。MPが踏みこんで訊問してみると、この焼酎屋のおっさんはあわてず騒がずレッテルを指さし、"USA"とレッテルに書いてありますけれど、よく見て下さい、UとS、SとAの間に点がありません。つまりこれはわが社の名をたまたま横文字にしたからこうなったので、米国製という意味ではありません。ウサ商会製という意味なのです。わが社は"宇佐商会"というのです。といって、その場を切りぬけたそうである。(「開口閉口」 開健) 


なめろう
なめろう…? まあ見てな アジを3枚におろして皮をむいたら タタキと同じように身を小さく切って 細かくきざんだ大葉 長ネギ ショウガと味噌を加えて ひたすらたたいては寄せ集め たたいては寄せ集めをくりかえして ペースト状になるまで練ったら 器に盛りつけてハイ『なめろう』の完成!(「風流つまみ道場」 ラズウェル細木) 千葉県の郷土料理ですね。 


質屋とジン酒屋
同じ麦から造つた酒でも、ジンは焼酎だから、酩酊主義の弊害を生み、大衆は貧窮して質屋とジン屋とが繁栄してゐます。そこで、Bickerdye,P.17には−前の「ビール大通り」に比べて、悪魔のジンが支配する騒々しい裏町を御覧なさい。小汚なさ、貧乏さ、ひもじさ、惨めさ、罪悪、といつたものが、画面一杯に描かれてゐます。こゝでこそ、質屋とジン酒屋とが繁盛するのであります。云々。
註。日本では酒屋が質屋を営み又は質屋が酒屋を営んだ例は多かつたことは著名な事実である。(嗜好卅二巻四月号参照)(「酒の書物」 山本千代喜) ウイリアム・ホガース描く、「ビール大通り」と「ジン小路」という風刺画説明の一部です。 


「絶望」と「酒」
○日本人は「絶望」を知らない。絶望するまでに諦観に入ってしまう。
○「絶望」は人間だけがもつことのできる黄金である。同じ意味で「酒」とよく似ている。
○人間は「絶望」し絶望から脱け出るたびに高められる。
○絶望は毒の如く甘い。(「断片-昭和二五年のメモより」 山本周五郎) 


コレ、マッコリ、ヨ
「ヘイタイサン、アメ、アルヨ」と白い朝鮮服を着たお婆さんが手招きをして寄って来た。飴?腹は空いている、寒かったし、で、お婆さんの誘惑に負け、腹巻きから、おふくろがお守り袋に入れてくれた百円の内、一円札を抜き取って「十銭、おくれ」と言ったら「ジュッセンカ。ヨシ」と言ったお婆さんは目の前にある土造りの家に駆け込んでいった。班長や将校に、見つからないようにと目配りしていたら、お婆さんが新聞紙に包んだ飴を持ってきた。「タイチョウサン。ミツカル、ナグルヨ。ハヤク、カバンシマエ」とお婆さんが言う。「わかった」と言って、一円札を渡そうとしたら「オツリ、ナイヨ」と大声を出した。そのとき、班長どのの「集まれ!」とどなる声が飛んできた。お釣りは貰いたいし、釣りはなし。まごまごしていれば「何してんだあ」と咎められて、ぶん殴られるに決まっている。身の去就に困り果て「お婆さん、お釣りは要らないよ」とお婆さんの胸の中に一円札を押しこんで、新聞紙にくるんだ飴を外套の前合わせの間に入れて駆け出そうとしたら、お婆さんに外套の尻を掴まれた。「コンナニ、タクサン、オカネ、イラナイ」「いいんだよ。手を放してくれよ」と僕は、声を詰めて叫んだ。「ジュッセン、クレ。一円、イラナイヨ」「とにかく放してくれよ。俺、十銭玉がないんだ。早く、行かないと、俺、殴られるよ」と言ったら「ヨシ、ワカッタ」と言ったお婆さんは外套を掴んだまま、振り返って、朝鮮語で喚いた。喚き終わったと思ったら、十五、六の男の子が両手に余る丼を、捧げるようにして持ち、中身を溢さない用心か、及び腰の摺り足でやって来た。「コレ、マッコリ、ヨ」とお婆さん。「アタシ、ヒミツ、ツクル。ミツカル、チョウエキ。コレ、三円分アルヨ。カラダ、アタタカクナルネ。ショネンヘイ、カワイソウ。ハヤク、ノメ」と言った。「ハヤク、ノメ」にせかされて、丼を鷲づかみにして、ごぼり、ごぼりと飲んだ。牛乳だとばかり思って、ごぼりと飲んだ液体は酒だった。胃袋が火傷したと思った。お婆さんは「ハヤク、ノメ。ミンナ、ノメ。コレ、ニッポン、ドブロク、オナジ。コレ、ノム、アタマ、ワルクナル。ワルイコト、ミナ、ワスレル、ヨ」と言った。やっとのことで飲み干したら、お婆さんは外套から手を放し「ヘイタイサン、ワカイ、ビョウキ、ダメ。シヌ、ダメ」と言ってくれた。駆けようとしたら、足が縺れてしまった。だが、広々とした温かい気持ちになったのは嬉しかった。(「酒あるいは人」 池部良) 釜山での出来事だそうです。 


大変な努力
ある時、婦人雑誌のインタビューで、東大阪市中小阪のお宅に司馬さんを尋ねた。夕方五時ぐらいの約束だった。自由に飲みなさいとナポレオンのびんをだされ、仕事がはじまった。人が、飲んでいるのは、気にならないと、司馬さんは、コップに、その高級ブランデイをつぐと、ガバアと、飲むと、首を前後に動かしながら、随分と酒は、努力したんですが、駄目ですなア、ウイスキーをダブル七、八杯も飲むと、眠くなってしまって、でも、上達したでしょう、といって笑っていた。私は、キタの酒場で、三時間たっても、へらなかったうすい、うすい水割りを思い出していた。いや、司馬さんにとったら大変な努力であったのだろう。(「ここだけの話」 山本容朗) 


淵酔
深く酔うこと。平安時代以降、朝廷で行われた恒例の酒宴。毎年正月と五節(一一月の丑・寅・卯・辰の日)の翌日、あるいは臨時の大礼などのあとに行われた。「えんずい」とも。
行酒
酒宴で、列座の一人ひとりにお酒をついでまわること。
酒(さか)挨拶
客を酒でもてなすこと。
旬宴
朝廷で催された年中行事。もともと月のはじめに行われていたが、のちに四月と一〇月だけに行われるようになった。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


辰野隆先生
よほど奥さまは御自慢と見え、酔えば必ず「僕の女房はね…」と始める。これがいわゆるのろけにはならない。必ず悪口だ。悪口かと思って聞けばやはりのろけである。つまり巧妙なるのろけである。年寄りがのろけをいうのは悪いものではない。それが直説法ではなく、間接に巧みにのろけるのだから、奥床しい。先生は口先では浮気者で、女性問題に関しては自由主義者が、行いはまるで反対、古風なまでに謹厳である。謹厳というのは道ならぬことはせぬということで、道にかなえば何でもするということになる。酒は幾らでも飲む。飲めば歌い、踊り、大兵肥満の円転滑脱に働かせる。洒落は口をついで出る。先生の酒席は甚だ陽気で、愉快である。しんみり四畳半の座敷に坐って浅酌低唱といったしゃらくさい趣味はない。何でもかんでも愉快な空気に包んで、楽しく一座を笑わせねば気が済まぬ。(「私の人物案内」 今日出海) 


居酒屋の始
飲み助にとつては頗る安上がりで便利な居酒屋は徳川時代の中期、すなわち宝暦の頃皇紀二四一一-二四 西暦一七五一-六四 からはじめて江戸に出来たものという。それが時好に適したので、たちまちどのような横路地にも出現して大歓迎をうけるにいたつたのである。−
居酒屋を出て行く薄つぺらな下駄 菊人形
居酒屋を尺八しんとさせて行き 青葉冠
巻舌の啖呵が鈍い縄暖簾 楽仙子(「ものしり事典 飲食篇」 日置昌一) 


さら川(11)
薬飲みドリンク飲んで酒を飲む 五時から男
ネオン街歌っているのは閑古鳥(かんこどり) 銀座のカラス
万歩計二〇〇〇歩足らんと飲みに行き 自己管理
お茶お花稽古のあとはビアホール OL
愚痴みんなボトルに入れてキープする 小松多聞(「平成サラリーマン川柳傑作選」 山藤+尾藤+第一生命=選) 


酒のみてみなもみじするその中にひとりさめぬる松もはづかし [酒百首]
「人がみな酒に酔って赤くなっている中に、ひとり酔わないでいると、紅葉の中に緑の松が一本あるように周囲となじまず、きまりがわるい。」−いかでなほ有りと知せじ高砂の松の思はむことももはづかし(古今六帖)を逆に、松もはづかしとしたのである。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


武玉川(9)
麓寺(ふもとでら)ちひりちひりと立田姫(秋に寺の大黒さんが飲んでいるのでしょうか)
よい事に追ハへられて酒に酔(おめでたいことが続いて…ということなのでしょう)
酒屋の数を「上:天、下口 の」んた順礼(飲んべいな巡礼)
声かわりにも酒を買せる(反抗盛りな息子に)
酒はつれなく廻るさかつき(面白くないときの酒宴なのでしょうか)(武玉川(一) 山澤英雄校訂) 


一升びん一本ずつ
私が東京税務監督局の直税部長だったから昭和十六年ごろのことである。世田谷の松原町三丁目に住んでいた。池田総理がまだ主税局の経理課長で、借家を出なければならなくなり、ちょうど私が引越そうと思って捜した近所の借家に入って来られた。そうでなくても毎晩のように二人で新橋か赤坂辺で酔うて帰るのだが、別々の日は先に帰った方が自分の家でおそい方を待っているのである。そうしてお互いに一升びん一本ずつ空けるのが、夜中の二時か三時、そのころから私もすっかり酒「上:夭、下:口 の」みになって晩酌をやるようになってしまった。(「政治家のつれづれ草」 前尾繁三郎) 


古い禁酒令
わが国でもっとも古い禁酒令は、大化二年(六四六年)に農民の飲酒を禁じたのに始まり、次いで天平年間に干ばつと疫病流行のため禁酒(七四六年と七五八年)したとある。当時この令を犯した者には官位五位以上では年俸一か年の停止、それ以下は免職、平民は体罰(棒で尻を一〇〇回たたかれた)という罰則があった。延暦九年(七八〇年)にも乱酒の流行で農民の飲酒の禁止、大同元年(八〇六年)九月には、左京、右京、木崎津、難波津の酒造家の酒甕(さかがめ)を封印して、酒を飲んだり売ったりしてはいけないという令までだしている。(「酒に謎あり」 小泉武夫) 


辞典の「酒」(2)
さけ【酒】(名)アルコール分を含む飲みもの。とくに、白米を発酵させてつくった日本酒。(「角川必携国語辞典」 平成10初版)
さけ【酒】@米・こうじで醸造した、わが国特有のアルコールを含む飲料。清酒と濁酒がある。日本酒。みき。Aアルコール分を含む飲料の総称。醸造酒・蒸留酒・合成酒・再生酒などに大別される。(「角川国語大辞典」 昭和57初版 時枝誠記・吉田精一)
さけ【酒】アルコール分を含み、飲むと酔う飲物の総称。特に、米で作った、日本酒のこと。(「岩波国語辞典」第六 平生14)
さけ【酒】《名》(複合語では、多く「さか」となる)@米を醗酵させて製するアルコール分含有の飲料、日本酒。室町時代頃から清酒もつくられるようになった。現代では主に清酒をいう。古くから、さまざまな異名で呼ばる。三輪(みわ)、三木(みき)、ささ、九献(くこん)、霞、三遅(みめぐり)、般若湯、硯水(けんずい)など。−A一般にアルコール分を含有する液体飲料をいう。合成清酒・焼酎(しょうちゅう)・みりん・ビール・果実酒類・ウイスキー類など多くの種類がある。−Bさかもり。酒宴。(「日本語大辞典」 縮刷版S55) 


じじい
「じじいは、酒が好きでしてね。酔って上機嫌になると、さあ見てくれ、といいまして、ぱっと着物をぬぎ、下帯ひとつの裸になってしまい、腰のあたりを手で叩(たた)きながら、さあ見てくれ、この通りだ、と得意になる。その腰のところには弾丸の痕(あと)が残っていました。維新のさわぎのとき、どこかの戦いで受けた鉄砲傷なのでしょうが、じじいは、この傷の痕をぴたぴたと叩いて、わしは、これでも御国のためにいのちをかけてはたらいてきた。この傷痕は、わしの誇りだ…と、威勢のよい声を張り上げたものです」祭りのときなどは、小樽の住之江町の遊里へ、少年の道男をつれて行き、芸妓をあげて大さわぎをする永倉新八であった。「ばばあは、そんなときいやな顔をしましたが、父は気前よく、さあ行っておいでなさいと小づかいをじじいにやっていましたよ」杉村道男氏は、なつかしげにそう語られた。(「戦国と幕末」 池波正太郎) 新選組の隊士の一人で、近藤勇が刑死した板橋の刑場跡に新選組隊士たちの碑を建てた人だそうです。 


かまくらへござれ甘酒進上なり 柳拾一39
鎌倉松が丘の東慶寺に入れば、追って来ても安全で、「ここ迄おいで、甘酒進上」というようなものである。
くやしくはたづね来て見よ松が丘 柳一八31
くやしさは在鎌倉へ書いてやり 柳拾一39
手紙を書いても手ごたえがないのだ。(「川柳集 狂歌集」 吉田精一評釈) 縁切り寺の東慶寺へ駆け込む女性をよんだ句ですね。 


枡酒屋
江戸では、小売酒屋を枡酒屋といった。その中でも、一七九一(寛政三)年以来とくに幕府の御用を務めたのが、御前御酒所(ごぜんごしゅどころ)の正法院八左衛門と茶屋治左衛門、御酒屋(おさかや)の高島弥兵衛と木津屋理兵衛であった。しかし、なんといっても江戸で有名な酒屋といえば、池田の下り諸白「滝水」を取り扱った新和泉町の四方酒屋、外神田の昌平橋外にあった内田屋酒店、それに豆腐の田楽と酒の安売りが当たった鎌倉河岸の豊島屋酒屋であった。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


門人無名子誌
我(が)風来先生(平賀源内)嘗(かつて)いへる事あり。豆腐は軟(やはらか)なるをいとはず、遊は和(くは)するを厭はず。しかはあれども若(もし)豆腐に一七膽水(にがみず)を入(れ)ざれば、一八練酒(ねりざけ)のごとく一九米「米甘」水(もろみず)の如く、遊の節々に二〇極(きまり)なければ、二一闇夜に鉄砲を放すに似たり。我に極(きまり)あれば先の是非自(をのずから)明(あきら)けし。酒の失(しつ)をしらざれば、酒を「上:夭、下:口 の」(み)て酒に「上:夭、下:口 の」(ま)れ、遊所の是非を弁(わきまへ)ざれば、遊所に行(き)て前後を忘ると宜(むべ)なるかな此言(こと)。
注 一八 白酒の類、濃く粘気あり、甘味に富む。博多練酒が有名。 一九 「米甘」は「さんずい+甘」に同じ。米の洗い汁。「さんずい+甘」水。 二〇 しまり 二一 あてどもなく行為することのたとえ。(「風来六部集 跋」) 


酒語源説
(1)シルケ(汁食)の転。上代酒は濁酒であったので食物に属した[稜威言別]。また、サは発語、ケはキ(酒)の転か[大言海] (2)米を醸してスマ(清)したケ(食)の意で、スミケ(清食)の義か[雅言考]。 (3)おもに神饌に供する目的で調進せられたものであるところから、サケ(栄饌)の転[日本古語大辞典=松岡静雄]。 (4)サケ(早饌)の義[言元梯]。 (5)スミキ(澄酒)の約[和訓集説]。 (6)サカエ(栄)の義[仙覚抄・東雅・箋註和名抄・名言通・和訓栞・芝門和語類集]。 (7)飲むと心が栄えるところからサカミヅ(栄水)の下略サカの転(古事記伝)。 (8)風寒邪気をさけるところから、サケ(避)の義[日本釈名]。また、暴飲すれば害となるのでトホサケル(遠)意からか[志不可起]。 (9)サは真の義[三樹考]。 (10)サラリと気持ちがよくなるところから、サラリ気の義[本朝辞源=宇田甘冥]。 (11)スマコメ(澄米)の反[名語記]。 (12)本式の酒献は三献であるところから、「三献」を和訓してサケといったもの[南留別志・夏山雑談]。 (13)「酢」の音Sakが国語化したもの[日本語原考=与謝野寛]。(「日本国語大辞典」 小学館) 


力酒
ところがそういう中にもある特殊な関係にある人々のみは、進んでこの「枕飯(まくらめし)」と相饗をしなければならぬ約束があった。湯灌(ゆかん)その他で納棺の世話をすべき者、及び「窪め」もしくは「床取り」などと称して、墓地の準備にかかる者、火葬の行われる土地では火屋の番人の類、こういう人たちはどうせ穢れるのだから、食事ばかり用心する必要もないという投げやりの意味でなく、本来は一度死者と同じ群に加わるべき人々にその役を勤めさせたのであって、後に卑賤の者や特別の恩誼を負う者が、その職分を引き受ける風を生じた時代より前は、むしろ喪屋に入りかつ忌(いみ)の飯を食うような続き柄の者であるがゆえに、こういう任務にも就いたわけである。この沐浴の掛(かか)りに飲ませる酒を、今でも「力酒」といっている土地がある。あるいは「浄め酒」ともいうものは、のちのちの感覚によった語かと思う。黒い木の椀で必ず一杯だけ、酌人(しゃくじん)には閾(しきい)を隔てて酌をさせる処がある。(「生と死の食物」 柳田國男) 死者が出た時に供える枕飯は、火や米を別にしたそうです。 


大事の木
『さうさ、大事の木だよ、おれが生きてゐるのは、この木のおかげぢやないか、』と云つて私も笑つた。おかげであるか無いかは判らないが、とにかく私は、長い間「木怱」(たら=たらのき)の皮を用ゐてゐる。書物や交遊の関係から、徹宵して酒を飲む習慣を持つてゐる私は、この七八年は絶対に大酒はしないし、またできもしないが、それまでかなり酒を飲んで、それが四五日も続くことがあると、きつと脚疾(かつけ)のやうな状態になつて、体がむくみ、肩が張つて、体をあつかふにもおつくふでたまらないことがあつた。某時(あるとき)それを高知新聞の支局長をしてゐた友人の酒枝烏川君に話すと、烏川君は、『それは、糖尿病ぢやないか、糖尿病ならいい薬がある、』ろ云つて、直径六七寸、長さ七八寸の木片を三つ四つくれた。それが「木怱」であつた。−
私は大正十二年の関東大地震の年、南支那を遊行した時にも、その翌年朝鮮から北支那を遊行した時にも、「木怱」の皮を持つて往つて飲んでゐた。「木怱」は温い時にはすこし飲みにくいが、冷たくなると生ビールのやうに一種の味があつて旨いから、夏など私は水のかはりにそれを用ゐる。酔ざめの水はもとよりである。(「随筆 酒星」 田中貢太郎) 


酒組
まず酒組では、堺屋忠蔵(丑六十八)が三升入り盃にて三盃。同六盃半が鯉屋利兵衛(三十)。これは「其の座にて倒れ、よほどの間休息致し、目を覚まし茶碗にて水十七盃飲む」。次に五升入丼鉢にて一盃半が天堀屋七右衛門(七十一)。この人は「直に帰り、聖堂の土手に倒れ、明七時迄打臥す」ちなみにカッコ内は年齢である。三十歳の鯉屋利兵衛がよし三升入り盃六盃半飲めたにせよ、六十八歳、七十一歳の堺屋忠蔵や天堀屋七右衛門一斗弱、七升強を一気に平らげて即死しなかったというのは信じられそうにない。(「雨の日はソファで散歩」 種村季弘)文化十四年に万屋八郎兵衛方で行われた有名な興行の感想です。 江戸の酒 大酒大食の会 


福田蘭童
彼は髪もまっくろで随分若く見えるが、私と同じ明治三十八年生れだ。しかし、彼は早熟で、十代の頃から大人とばかりつきあっていたので、彼の交友関係には、志賀直哉、安倍能成、又は吉川英治などという老大家が多い。飲むとそれらの人とのおかしな話を聞かせるのが、早口でややドモリ気味だから、相当の熟練工?でないと、ランドーの話を完全に理解する事はむずかしい。先日聞いた話を翻訳して紹介すると次のようになる。「この間ね、うちで仕事をしているとね、新しいお手伝いが、年よりの浮浪者みたいなのが来ました、というんでね、浮浪者なら断わりゃァいいじゃないか、一々言ってくるなと叱ったら、おもての方で犬まで吠えているんだ。お手伝いじゃ駄目か、と思って行って見たら驚いたな、志賀さんと安倍さんが立っている前でお手伝いが手をふってかえれかえれと言ってるんだよ。だけど、あの二人の姿も姿なんだよ。白い髭をボウボウにはやして、陣羽織みたいなのを着てさ、ステッキで犬を追っぱらってるんだもの。まちがえるほうがあたり前さ」尺八以外に鉄砲、釣、麻雀、花札、全部名人級なんだから驚く。ウチの息子も娘も、「福田さんはえらいよ、花札の模様を指でさわっただけでわかるんだから」と、オヤジの私よりもソンケイしている。いくら飲んでも乱れないから、酔ってるんだか、酔っていないんだかわからないところもエライ人だ。(「酔虎伝」 玉川一郎 「洋酒天国」 開健監修) 


辞典の「さけ」
さけ【酒】(名)米・麹で醸造した我が国特有の酒精飲料。清酒と濁酒とがある。(「言苑」 新村出 昭和14年80版)
さけ【酒】(サは接頭語、ケはカ(香)と同義)@米と麹で醸造した我が国特有のアルコール含有飲料。日本酒。Aアルコール分を含む酩酊性を有する飲料の総称。(「広辞苑」昭和47年第2版第6刷)
さけ【酒】《古形サカ(酒)の転》米などを醸して造るアルコール性飲料。「一杯の濁れる−を飲むべくあるらし」<万三三八>−(「岩波古語辞典」 昭和59年10刷)
さけ【酒】@白米を蒸して、麹と水を加えて醸造した飲料。清酒と濁酒とがある。日本酒。A酒精分を含み人を酔わせる飲料の総称。日本酒・ウイスキー・ウオツカ・ワインなど。「−飲み」「−がまわる」B酒を飲むこと。「−の席」(「大辞林」 昭和64年6刷 三省堂)
さけ【酒】@白米を蒸して、麹と水を加えて醸造した飲料。清酒と濁酒とがある。日本酒。A酒精分を含む飲料の総称。日本酒・ウイスキー・ウオツカ・ワインなど。Bさかもり。酒宴。「−の席」(「ハイブリッド新辞林」 '98年1刷 三省堂)
さけ【酒】@アルコール分を含む飲みものの総称。[参]製法によって醸造酒・蒸留酒・再製酒・合成酒に大別され、産地によって日本酒・洋酒・中国酒などに大別される。−A白米を発酵させて作った日本独特のアルコール飲料。アルコール分一三パーセント以上を含む。清酒と濁酒があるが、現代ではおもに清酒をいう。日本酒。みき。ささ。[参]僧の隠語では「般若湯(はんにゃとう)」という。(「学研国語大辞典」 平成9年) 


まな板の上へつがせる料理人 こみ合いにけりこみ合いにけり
宴席などへ出張の料理人(-)。家の者などが、「めでたい日ですから、まァちょっと一杯…」というのを、包丁さばきの最中なので、まな板のすみのほうへ盃を置かせ、それに酒をついでおいてもらう。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


さけばんじじゅう 酒番侍従
正規の侍従のほかに任ぜられ、宮中の酒宴において、勧盃の役などを勤めた。「さかばんじじゅう」ともいい、『北山抄』では「しゅばんのじじゅう」とも訓む。『延喜式』に、酒番侍従および次侍従は毎年十二人を定め、四人ずつ交替で一日の番を勤めること、『西宮記』や『北山抄』に、相撲の節や二孟の旬(しゅん)における酒番侍従の献杯・勧盃の作法が記されている。『松竹問答』には旬の節、紫宸殿へ昇って公暁に酒を勧める役だが、節会(せちえ)には酒番はないとみえる。(参考文献)『古事類苑』官位部一(柳雄太郎)(「国史大辞典」 吉川弘文館) 


悍馬
大正三年、中学を卒業して、六月二十五日に上京し、小杉未醒(後の放庵)の田端の家に身を寄せた。小杉はその前年までパリにいて、山本(鼎)のところへ送られて来ていた(村山)槐多の絵を見て驚嘆していた。「この少年は悍馬だ。君ならば或は御せるかも知れない」と、山本から頼まれていた。槐多は美術院研究生となった。その年の十月「庭園の少女」、「田端の崖」、「植物園の木」、「川沿ひの道」を第一回二科展に出品した。この頃から酒をあおるように呑み出した。そして風態などかまわず、制作に打ち込み、突然家を飛び出して、裸に近い姿で田端の道を歩いた。正に「悍馬」であった。(「物語大正文壇史」 巖谷大四) 


シードル酒(りんご酒) Cidre
シードルは、自分自身を省みさせ、真面目でかたくなでしっかりした人間にし、頭を冷やし、味もそっけもない理屈をこねさせる飲み物であり、利害の弁証法だけしか酔わせない飲物である。ビールを飲んだあとで人はヘーゲルについての論文を書き、シャンペンを飲んだあとでは馬鹿なことを言い、ブルゴーニュワインを飲んだあとで馬鹿なことをするだろう−シードルを飲んだあとでは賃貸契約書を書くことになろう。(ゴングール兄弟)(「世界毒舌大辞典」 ジェローム・デュアメル) 


西山の雪
或年の冬、水戸へ御出、一日二日御逗留有りしに、雪夥敷(おびただしく)降出ければ、その暮方御供人をも不催、西山の雪嘸(さぞ)有らん迚(とて)、其儘(そのまま)御笠をめし、草履をはかせ給ひ、御出有れけば 御前に候ひける者共三、四人随(したが)ひ奉りぬ。御出の跡(後)にて皆々承り、段々御供仕り候。西山公たうたう御馬にも召れず、行路の雪に興御催し被成、額賀[久慈郡、水戸より是迄行程三り半、是より西山へ二里]といふ所にて御供の者共に酒を被下、その内暫(しばらく)焼火に当らせられ、夫より又御歩行被遊、西山へハ暁懸て御着遊ばし、西山の雪御眺なされ候。(「水戸黄門の食卓」 小菅桂子) 『桃源遺事』にあるそうです。 


アリスティッポス、森田草平
ギリシアの哲学者アリスティッポスはある男が水泳が上手だといっていばると「魚のやることを自慢して、それではずかしくないのか」またいくら酒をのんでも酔わないと自慢した男には「そんなこと、ろばだってできることだ」
ある晩新橋の牛肉屋で飲んでいた森田草平は、手水(ちょうず)に立った時、部屋をまちがえて隣に入ってしまった。そこには慶応ボーイ達がいて、「このおやじ誰だ」「森田草平だ」「うそつけ、にせ物だろう」と頭をしきりにたたかれた。草平「ほんものだよ。ほんものだよ」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


こんか鰯
鰯の塩漬けをさらに糠(ぬか)と麹に漬け込んだ伝統食品。小口切りにして酢を振りかけたり、さっと焼いて食べる。こんか鰯とは粉糠(こぬか)鰯がなまったもの−
見た目は上品とはいいがたいが、糠のまろやかな味とその香ばしさがとても魅力的であり、よい意味で何ともひなびた感じでいい。塩味が強いので、血圧の高い家族のいる私は最近はあまり食べることができない。日本酒の好きな方は「おつまみ」によいといわれるが、私自身はあたたかいご飯と食べるのがとにかく美味しいと思う。(「加賀百万石の味文化」 陶智子) 


わが盃
かねてからぐいのみの良いのを欲しいと思っていたが、なかなか手にはいらない。李朝のがいくつかあるが、いずれも私の感覚にかなっていない。九月のはじめ、日本橋の美術商の店にたちよったら、おかしなものをひとつ見せてくれた。口径八センチ、高さ四・五センチの小さな器である。色は唐津焼だが、底に「上左上:一、上左下:人、上右:ト+下:○」と書いてある。日本のかな文字に相当する李朝時代にうまれたハングルの文字である。李朝の明川窯(がま)にまちがいなかった。ハングル文字がなければ朝鮮唐津とまちがえられそうな色合だった。同じのが二個あり、しかるべき人が所有していた品であった。ぐいのみとしてはすこし大ぶりだが、酒を七分ほどつぐと頃合の風姿になった。美術商のおやじは、前の持ち主が「上左上:一、上左下:人、上右:ト+下:○」を酒と解していた、と言っていたが、これはあてにならなかった。マッカリといって日本の濁酒(どぶろく)に似た酒をどんぶりでのむ国に、こんなぐいのみがあるわけがなかった。前の持ち主というのは、鑑定家としては一流の人であったが、ある点で私は信用していなかった。そこで私は李恢成氏に手紙を出し、こういう明川窯の品を二個求めたが、底にこういう字が書いてある、この字の意味を教示してほしい、とたのんだ。おりかえし李氏から返事があり、それは味噌という意味だ、と教えてくれた。そうか、と私は納得した。つまりこれは食卓に並べる小さな味噌いれの器だったのである。ある夕、私はこの二つの器を持ちだし、ひとつに酒をそそぎ、ひとつに切り胡麻をまぜた味噌をいれてみた。味噌を肴に酒の味をたのしんでみたのである。すこぶるぐあいが良い。(「美食の道」 立原正秋) 


亡師自筆ノ献立
もともと山国生れゆえ菌(きのこ)類にはくわしく、コンニャクとともに好物であり、月見の宴の直筆の献立が残っておりますが、なかなかのご馳走でありまして菌が四種のっています。
 八月十五夜(元禄七年)
一 芋 煮〆
  酒  吸物 つかみ豆腐 柚子
        しめじ 茗荷
一 煮物 のつぺい 生姜
     麩 こんにやく 牛蒡 木耳 里芋
中猪口 もみ瓜 くるみ  香の物
肴 にんじん き初茸  菓子 柿
  しぼり汁 すり山の芋 酢醤油
吸物 松茸  冷めし とりさかな
台貼紙に以下の書き込みがある。
是ハ赤坂庵ノワタマシ折節名月カケテ門人ヲマネキモテナサレシ亡師自筆ノ献立ノ破古也
芭蕉にとっては一生に一度かと思われる宴(うたげ)であったのだろうと想像され、その時に使われた足付の洒落たお膳が、今も上野に残っています。(「味覚三昧」 辻嘉一) 


ぬかみそを食べる
富島(健夫) 小倉では、漬物に使うぬかみそを食べるんですよ。
渡辺(文雄) ほうご存じでしたか。
夢楽(三笑亭) ぬかを食べるんですか?
富島 ええ、そうなんです。これは最高の珍味ですよ。
赤坂(小梅) 小倉に住んでいたころ、床(とこ)漬けといっていたわね。
夢楽 どうやって食べるんですか。
富島 ぬかと魚を一緒にして煮るんです。昔はちっちゃなイワシが多かったのですが、いまはサバを主に使っていますね。
赤坂 人によって味つけが変わるんでしょうが、私は醤油と酒、それに唐辛子を加えます。昔は床漬けというのが最高のごちそうで、出されるとうれしかったわね。
渡辺 なるほどねえ。だいたい普通の感覚からいけば、イワシのほうを食べると思うでしょう。酸味が骨を柔らかくして、においもとれてうまかろうと…。ところが違うんですよ。イワシは横へ置いて、ぬかのほうを食べるんです。もちろんあとでイワシも食べますよ。
富島 ぼくの場合は、味噌と砂糖、醤油で味つけをしましたね。これがこはく色になるんです。あめ色というか、これをご飯にこすりつけて食べたり、酒の肴にしたりするんですね。(「あの味 この味 ふる里 隠れ味」 渡辺文雄編) 


飲み馴れた酒じゃもの
よく芭蕉の作と間違えられる又玄(ゆうげん)の「木曽殿と背中あわせの寒さかな」の句碑(この句、正しくは「木曽殿と背中あわする夜寒かな」らしい)もあって、わたしはそのパロディ句「仁丹と隣りあわせの寒さかな」を思い出した。「ゼム君の申され候には」という前書きのあるこの句は、浅草田原町の仁丹の髭の元帥の広告塔となりに、かつてゼムという口中香錠の広告が建っていたものをよんだもので、盲目で足なえの落語家、先代柳家小せんの作だ。この廓ばなしの名手は豊かな詩心の持主で、
飲み馴れた酒じゃもの、
いま少し、もう少し、
飲みたいけれどオイテオコ。
生姜もてこい、湯漬けにしょ。
月も出ぬかや、風もこぬ、
鳴かぬ蚊が刺す、お時や打てよ。
おれのからだにゃ血があるか。
という哀切をきわめた詩の作もあって、それが小島政二郎の長編「円朝」に、円朝の作として盗用されている。(「目と耳と舌の冒険」 都筑道夫) 


出歯亀
亀太郎は四五年前東大久保四百九番地材木商村田繁次郎所有なる目下の家屋を借受けて転住せしが性来非常の横着者にて賭博及び酒を好み本年一月頃より植木職も頗(すこぶ)る閑となりたれば日々好める酒を飲みては為す事もなく暮し居たり、されば昨年三月以来家賃とては少しも支払はず家主も持て余し屡(しばしば)立退きを命ぜんとせしも罪なき母と嫁とに難儀を懸くるも気の毒なりと其儘(そのまゝ)に貸し置きたり然るに亀太郎は家賃のみならず付近の酒商三河屋へも再三一升二升と取寄せて飲み散らしたる酒代を支払はず又母ひさも定まりし仕事なく只(ただ)折々下女替りとして諸所に雇はるゝ事あるも矢張(やはり)手癖宜しからざる為め長く続きし事なかりしと−=明41.4.6(「朝日新聞の記事にみる 奇談珍談巷談[明治]」 朝日新聞社編) 確か大杉栄は、それ程出っ歯ではなかったといていたような気がします。「(女湯ののぞきを)通行人に見とがめられれば、へへへと笑つてお辞儀をするくらゐのもので、通称をカキ亀と云つたさうだ、出歯亀といふ名は警察で勝手につけたので、だから、幸田婦人の下手人でないことは確かだつた。」(「東京おぼえ帳」 平山蘆江)というものもあります。 


鰹の皮の焼き浸し
一日にたくさんの鰹を売る店では、そんな皮がたくさん残る。いわば廃(すた)り物だから値段はないも同然。だれが頼んでも快く分けてくれるにちがいない。物怪(もっけ)の幸いとばかり、ありったけ買いこむことだ。さて、たっぷり身のついた皮、長いのを二つほどに切り、皮目を下にして金網にのせ、焦げない程度にコンガリと焼く。なにぶん身が残っているとはいってもホンの三ミリほど、裏返す必要もなく、たちまち火が通る。焼けた皮は、食べやすい大きさに切り、煮切り酒で割った濃口醤油に浸しておく。煮切り酒というのは、小鍋に適量の酒を入れて火にかけ、沸騰したら火をつけてアルコール分を燃やしたもの。酒のもつ自然の甘味が醤油の塩からさを和らげてくれる。煮切り酒と濃口醤油の割合は、皮を浸しておく時間によって加減する。つまり、すぐ食べるなら酒の量を控え、何日かおくなら酒を多めにしないと塩からくなってしまう。これこそ、ホントの絶品。なにしろ、焼き浸しにした鰹の皮は、あのうまい皮下脂肪の固まりみたいなもので、酒にもよく飯に合うのも当然だろう。(「本当は教えたくない味」 森須滋カ) 


明治29年頃の麦酒
明治初年麦酒(ビール)の一度本邦に輸入せられしより年々其高を増し明治一八九年より廿一年頃は最も隆盛を極めたるの時期にして彼のストツクビールのみにても一ケ年殆んど六万ダース以上に達したり斯(か)く我国人の麦酒を飲料に供するの風追々増進するの傾向あるの機に乗じ当時内国に於いて麦酒醸造会社を創立したるは桜田、キリン、札幌又はアサヒあり廿三年以後に及んで恵比寿、浅田、大黒等の日本麦酒世に現出するに至り其(その)販路漸(ようや)く拡張せらゝに随(したが)ひて爰(ここ)に舶来麦酒の販路及需要額を減縮し現今に及びては舶来麦酒の輸入高其盛時の二十分に過ぎず。之に反し日本麦酒は近来需要次第に増加の実勢ありし上に日清戦争の影響として其進歩を一段助成し何れの麦酒会社も廿七年以来三割乃至四割の増石を為したる有様にて其原因主として軍隊軍艦の発着頻繁なりしと祝捷(しゅくしょう)、凱旋等の宴会を催すもの頻々たりし事其多きに居るべしと雖(いへ)ども亦彼の金貨騰貴よりして漸次外国に輸出せらるゝの数を増し現今は上海、香港、新嘉坡(シンガポール)、西貢(サイゴン)、馬尼拉(マニラ)及び朝鮮台湾等に販路を拡張するに至りし事も与(あずか)りて大に力あるや明かなり。斯(かゝ)る勢ひにして目下我国の麦酒醸造高は殆んど三万石内外の多きに達し猶前途頗る多望なりと云ふ。=明29.4.1(「朝日新聞の記事にみる 奇談珍談巷談[明治]」 朝日新聞社編) 


「酒のみ数えうた」
さて、私が勝手に題した「酒のみ数えうた」を披露しよう。男女四、五人くらいの席がいい。まず最初に割箸を二組と盃を用意する。用意などとあらたまらなくてもその席にあるのでもちろん結構だ。一人前つまり二本を中央で折る。しかしはなれてしまわないようにしておく。うたは、「一つとやあ、ひとつは一月のことなれば、ことなれば、門松、初日など、どでごんす」というのだ。歌いながら、箸と盃で形を作る。「どうでごんす」という時、得意そうに胸を張らなければいけない。それをやっている間まわりの人は自分の箸で皿などをたたいて調子を出し、「どうでごんす」といった時「ようできたア」とはやすのだ。その時演技者は盃をとり、人に酒をつがして、一気に飲む。次に「二つとやあ、ふたつは二月のことなれば、ことなれば、初午の絵馬など、どでごんす」とうたいながら形を作り、まわりの人は「ようできた」とはやす。そこでまた一杯飲む。「ようできた」を繰り返した方が具合のよい時はそうする。以下三つ、四つと同じように進め、一回ごとに一杯飲むのである。三つは「三月ひなまつり」、四つは「四月八日のおしゃかさま」、五月は「男の節句ののぼり」、六月は「神田祭のおみこし」、七月は「七夕さま」、八月は「月見の宴」、九月は「菊見の宴」、十月は「エビス講のタイ」、十一月は「おとりさまのくまで」、十二月は「餅つき」。(「厨に近く」 小林勇) 


古漬けの沢庵の食べ方
ついでに、古漬けの沢庵の食べ方。塩がきき過ぎた沢庵は、細ければ丸のまま、太ければ縦の半割りにして、一切れずつ切り離さないように小口から薄く刻んでいく。つまり、下手な人が刻むと、よく一枚ずつ繋がってしまうが、あの切り方を故意にすることだ。次に、その沢庵漬けを手の平で強く押しつけて右の方に倒し、こんどは細く切り離してしまう。この場合、同じく細く切るにも、塩気と圧しのきき方によって、太さを変えるべきことは自明の理である。細く切った古漬けは、水に漬けて程よく塩気を抜き、強く水気を絞って小鉢に入れ、醤油をたらし、粉にした鰹節を振りかけてガラガラ掻きまぜる。これが、またうまい。醤油を控えれば酒のつまみになるし、飯の菜にするなら醤油を多めにかければよい。(「本当は教えたくない味」 森須滋カ) 


東京、ニューヨーク、パリ
東京、ニューヨーク、パリはいずれも国際都市であるという事実ににもかかわらず、そこに住む人たちの多くは、いまだに伝統文化を反映する飲酒の習慣を持続している。しかし、ある程度の差異はある。我々はアメリカ人は一人当りの飲酒量が日本人より多いことを知っているが、ニューヨーカーは東京やパリに住む人たちほど飲まないようだ。東京人は、日本の他の市町村に住む一般の人たち以上に飲むし、ニューヨーカーはそうでないといえよう。ニューヨークに住むユダヤ人の割合は高いが、一般にユダヤ人は、他の市民ほど飲まない。あるいはまた、ニューヨークで調査対象にした人たちは、飲酒量を少なめにみるという偏りがあったかもしれない。一般にアメリカ人は日本人程頻繁に飲まないが、一度に飲む量は日本人より多い。今回の調査で発見された結果について、いくつかの異なった角度からも説明できよう。これら三都市での調査結果から、今後の新しい動向を顕著に示すものは見当たらなかった。健康に対する心構えは、ニューヨークとパリでは飲酒の習慣にある程度の影響は与えているが、日本ではきわめて少ない。全体として、将来に向けた新しい飲酒の方向より、むしろ過去からの継続のほうが強い、という点が今回の調査での驚くべき発見である。(「食文化の国際比較」 飽戸弘 東京ガス都市生活研究所編) '92の出版です。 


さか-あい【酒相・酒間】[名]宴席で杯のやりとりのとき、間に立って代わりに杯をうけるなどして、酒席のとりもちをすること。酒の相手。
さか-あぶら【酒膏】[名]濁酒(にごりざけ)。一説に、濁酒に浮かぶかす。
さかおい-なき【酒追泣】[名]酒を追い求めて泣くこと。非常に酒を欲しがること、また、その人。(「日本国語大辞典」 小学館) 


[摂津名所図会]六 川辺郡
伊丹 町名廿八、属邑(村)十二、川辺郡都会の地にして商人多し、京師(京都)大坂有馬三田等の駅也、
名産伊丹酒 酒匠の家六十余戸あり、みな美酒数千斛(石)を造りて、諸国へ搬送す、特に禁裏(御所)調貢の御銘を老松と称して、山本氏にて造る、あるひは富士白雪は、筒井氏にて造る、菊名酒は八尾氏にて造る、其外家々の銘を、斗樽の外巻に印して、神崎の浜に送り、渡海の船に積て、多くは関東へ遣す、(「古事類苑 飲食部十一」) 


香型
そのため中国の白酒(パイチユウ)では、それを分類するのに「香型(シヤンシン)」という分類法で行っています。例えば香りが非常に高く優雅でキメ細かく、馥郁としている酒は「醤香型(ジヤンシヤンシン)」に属します。中国の代表的白酒である茅台酒はこの香型に含まれる酒です。また「清香型(チンシヤンシン)」というのは軽く香しい芳香を持ち、乾いた感覚の軽快さと清々(すがすが)しい香りを持った酒をさし、その代表的酒が汾酒や西鳳酒であります。「濃香型(ヌウシヤンシン)」というのは最も香りが強烈で、飲んだ後も口に香りが長く残る酒のことで、五粮液がこの型に含まれる代表酒。そのほかに乳香型(ニイシヤンシン)、米香型(ミイシヤンシン)、複香型(フウシヤンシン)などがあります。とにかく、酒の分類を行うのに、酒の香りの特徴をつかんで、そのタイプによって行うなどという国は世界中でも中国だけであり、固体発酵ならではの事であります。(「中国怪食紀行」 小泉武夫) 


おでん酒酌むや肝胆相照らし 誓子
こういう無上の悦楽に水を差すものではない。とはいうものの、相手によりけりである。
牡蠣鍋に邯鄲照らすこともなし 比奈夫
父君夜半(やはん)を継いで俳誌『諷詠』を主宰する後藤比奈夫の句である。「相照らす」句と「相照らさない」句とを、中国の聯のように並べて掲げたらいっそうおもしろかろう。(「江國滋俳句館」 江國滋) 


雄幸
浜口の実父は水口胤平といい、有名な酒豪であった。雄幸が生まれて出生届を出す時、家で祝酒を飲みすぎて酔っぱらってしまっていて、「幸雄」と書くべきところを「雄幸」と書いてしまった。雄幸も南国土佐の生まれで、親の血を引いて酒豪で通っており、当時灘の酒が二円五〇銭だったが、一升五円という高級酒「松竹梅」を晩酌にやっていた。(「ニッポン偉人奇行録」 前坂俊之) 

たきすゐ【瀧水】
和泉町の四方の酒店で売出した銘酒。「江戸名物狂詩選」に『剣菱瀧水土蔵充、上戸往来嘗舌通、出店分家行処在、味噌亦似四方紅』とあり、赤味噌も有名であつた。
瀧水を桝で量るは和泉町  手で掬(すく)ふは養老瀧
瀧水は飲めども尽きぬ和泉町  謡曲猩々の文句
瀧水を裸になりて息子浴び  浴びる程飲む(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


道誉の「ばさら」ぶり
(佐々木)道誉の「ばさら」ぶりを伝える数々のエピソードが『太平記』に語られているが、その一つは次の通りである。あるとき道誉の一族若党らが鷹狩の帰り、妙法院御所の前を通りかかって、下部(しもべ)に庭の紅葉の枝を折とらせた。たまたま、それを見ていた門跡が驚いて、侍僧をはしらせて、「御所の紅葉を折るとは何ごとか」と制せしめた。すると下部は「御所とはなんのことだ。笑わせるな」とせせら笑って、さらに大きな枝を折ろうとした。そこへ妙法院に宿直していた叡山の荒法師があらわれて、さんざんに下部を打擲して門外へ追い出した。この事件を耳にすると道誉は大いに怒り、「道誉の家臣に対して何たる無礼か」と息まきみずから兵を動かして妙法院を焼きはらってしまった。妙法院といえば、もと比叡山延暦寺の別院で、皇室にもつながる格式の高い門跡寺である。さすがに困った幕府は、道誉を出羽の国へ流罪に処することにきめた。ところが、いよいよ配所に出発というとき、道誉は三百余騎の若党にそれぞれウグイスの籠を持たせ、道中には酒肴の用意をさせ、宿場宿場では遊女とたわむれながら、まるで物見湯山にでも行くように悠々として出発させたのである。しかも、若党のひとりひとりに猿の皮のうつぼ(矢を入れる容器)を帯びさせ、猿の皮の腰当てをつけさせた。猿は元来、比叡山の守護神たる日吉神社の神の使者として大事にされている。つまり道誉は比叡山を意識してわざと家臣にこんな恰好をさせて、山門を思うさま嘲弄したのである。(「華やかな食物誌」 澁澤龍彦) 


聖月曜日
封建制が崩れると、農民は都市へ職を求めて押し寄せた。都市が膨張した。職人であれ、工場労働者であり、下層民独自のライフスタイルが形成された。土曜日に職人や労働者は一週間分の賃金をもらうようになった。この週払いという給金システムは、一九世紀になって登場したものである。以前は、都市の徒弟・職人や農村の使用人は年季奉公で、一年に一回給金をもらっていた。あるいは日雇い労働者はまさに一日の仕事で、給金をもらっていた。一九世紀になると、日雇いという形態は存続するが、とりわけ都市の労働者は週給制となった。職人も以前のように親方の家に住み込みで働くのではなく、通いの労働者となった。彼らの唯一の息抜きの場所が居酒屋であった。土曜日に賃金をもらい、その夜、酒を飲んだ。日曜日も飲んだ。月曜日も二日酔いで仕事に行く気がせず、あるいはまた飲むためにもう一日、ずる休みした。この習慣は近世から存在していたが、都市化による労働条件の悪化と週休制の導入で一層増加した。「聖月曜日」は、フランスと同様、イギリスやドイツでもあった。ドイツでは「青い月曜日」とも呼ばれた。(「居酒屋の世界史」 下田淳) 


バーレル
バーレルとは、もともと樽という意味で、一八五〇年代のアメリカで石油を入れておくのに、ヨーロッパからのシェリー酒の空樽を使用したところから、これが単位の名になりました。(「雑学おもしろ百科」 小松左京監修) 


ルスゴト
九州の屋久島では旅に出ている人が一年以上にもなると、年一回は必ずルスゴトをするといって女達が夜集まってお萩・里芋などを食うが昔は酒も飲んだ。短い旅には一寸した留守見舞をもって行く(屋久島民俗)、これは陰膳に対して陰の祝宴といったようなものであろうが、交通の不便な時代には旅に生死をかけた一大事であったから、このようなことをして当人の健康を祝したのである。ぶじに旅から帰ったときの酒宴を東日本ではハバキヌギ、西日本ではドウブルイという地方が多い。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 


少し酒を飲み
少し酒を飲み、多く粥を食う。
多く野菜を食い、少し肉を食う。
少し口を開き、多く目を閉じる。
多く髪を櫛けずり、少し風呂に入る。
少し群集にまじり、多く一人で寝る。
多く書物を買い、少し宝石を蓄える。
少し名を挙げ、多く恥を忍ぶ。
多く善を行い、少し俸禄を求める。
自然のままに欲ばらず、淡々として生きる。こだわりを捨て去り、素直な心で日々を過せたら、生きることがどんなに楽になることだろうかということ。中国明代の陳継儒という詩人の記した『厳棲幽事』の中にある「多少の教え」より。(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 笹川巌のライフスタイル論に詩はあるそうです。 


源氏の井上評
そんな源氏(鶏太)の眼から見ても、井上靖あたりの酒の境地にはとうていかなわないことを認めている。「一般に井上さんの酒は、紳士の酒のようにいわれている。私は、文壇人の仲では比較的井上さんといっしょによく飲んでいる方だと思っている。しかし、私は長年つき合っていて、井上さんの乱れたのを見たことがない。いつも物静かである。そのくせ、すこしも固苦しくない。愉しいのだ。だから女たちもしぜんに集まってくる。私は、そういう井上さんをいつも冷静だと思っていたのだが、次の時に『あれからどうして帰ったんでしょうか。すこしもおぼえていないんですよ』とおっしゃることがある。そういうことのしょっちゅうの私は、とたんに嬉しくなってくる」(「井上さんお酒とゴルフ」)源氏が、しょうっちゅう自分がわからなくなるまで飲んでいるというのは、謙遜であろう。それにしても、雑誌『酒』の文壇酒徒番付で、四十四年までの数年間横綱をはり、四十五年からは自らその地位を辞退した、悠揚迫らぬ井上先輩の酒に対し、源氏が畏敬の念を抱きつづけていることはいうまでもない。(「作家と酒」 山本祥一郎) 


七號
蔵元が軒を連ねる諏訪市元町の宮坂醸造。蔵の酒と信州特産品が並ぶショップで迎えてくれたのは当主の宮坂直孝、公美さん夫妻。わたしは背中のデイパックから糸魚川のヒスイ海岸産の塩をとりだした。公美さんが「真澄」山廃純米大吟醸「七號」を枡に注ぐ。あふれるまで満たしてくれる。縁に塩をひとつまみのせ、口へ運んだ。初めは酒だけ舌へ、次は潤った舌に塩を微量つける。酒が甘い。不思議なことに、塩もまた甘い。美味とは、甘に尽きるものなのだろうか。荷を下ろしたボッカの気分になって、もう一口飲むと、急に体が軽くなった。(「食の街道を行く」 向笠千恵子) 糸魚川を起点にした塩の道探求での味だそうです。 


さかづきはめぐりてゆくをきりぎりすたれにさせとか鳴あかすらん [酒百首]
「秋の夜、人々と酒をのんでいると、どこかでこおろぎが、すそさせ、つゞれさせ、させさせと鳴いている。いったい誰に盃をさせと言って鳴きあかすのだろう。秋の夜の酒のおもむきは出ている。この盃は「荒城の月」のめぐる盃と同様に大きな塗盃で、後世の猪口ではない。」(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


明治末のアルコール工業
アルコール工業が、国家保護育成を受けて基礎を固めたことはすでに述べたが、それが急速に発展したのは、明治三七、八年戦役において、火薬原料としての必要性を政府が痛感したからであった。ところが、国内において、民間のアルコール会社が過剰生産に陥り始めた四二年頃から、台湾におけるアルコール事業が軌道にのり、これが内地へ移入されて、事態を一層悪化させた。だぶついたアルコールの使途として、イミテーション・ウイスキーはかっこうの目標となったのである。−
明治末葉、アルコール業界が直面した行き詰まり状態の危機は、アルコールに水を混和し所定の濃度にうすめたものを、焼酎として販売できるよう、法的な許可を得ることに成功して、からくも回避された。これが新式焼酎(焼酎甲類)の起源で、明治四三年、宇和島の日本酒精株式会社から発売された「日の本焼酎」をもって最初とする。−
「日の本焼酎」は、その関東一手販売権を握った四方合名会社自家商標「宝焼酎」にきりかえ、東京へ大々的に進出して非常な好評を博した。これが今日の宝酒造株式会社を築く基礎となったのである。(「ブドウ畑と食卓のあいだ」 麻井宇介) 


酒の報い(酒狂)
その時、繆(びゅう)が気絶してからもう三日たっていた。家の者たちは酔いつぶれて死んだものと思っていたが、鼻からする息がかすかに糸のようにつづいていた。その日、息をふき返すと、大へんな嘔吐で、黒い汁を数斗も吐き出し、そのにおいはかぐにたえなかった。吐き終わると、寝床がぐしょぐしょになるほど汗をかいて、やっとサッパリした気持ちになり、これまで不思議な経験を家の者に話した。そうするうちに溝川で刺された処が痛み出して腫れあがり、次の日にはそこが瘡(できもの)になったが、幸いなことにそれもひどく潰(つぶ)れ腐(ただ)れもせず、十日もたつとようやく杖をついて歩けるようになった。家の者たちがみんな、冥土の負債を返そうと返そうというので、繆がその入費を計算すると、五、六両の金がないと片づかないことが分かった。彼はそれを吝惜(おし)んで、いった。「先日のことは酔ったあげく夢幻の世界でのできごとであるにすぎないであろう。たとえそうでなくても、東霊は内々でこっそり私を釈してくれたのだし、ふたたび閻魔王に知らせるようなことをするはずがあろうか!」家の者は、是非にとすすめたが、彼は聞き入れなかった。だが心のうちでは心配だったので、もう思う存分飲むようなことはしなかった。町の友人たちも、みな彼の酒癖がよくなったことをよろこんで、だんだんいっしょに飲むようになった。一年あまりたつと、冥土の報いもようやく忘れ、次第に気がゆるんできて、もとの状態がまた萌(きざ)しはじめた。ある日、子(し)という人の家で飲んだとき、また主人をののしりちらしたので、主人は彼を外へほうり出して、戸を閉め、そのまま内へはいった。繆がバタバタ騒いでいるのを息子が知って、連れて帰ったが、部屋にはいるなり壁に向かって丁寧にひざまずいて、いつまでもあやまって、「すぐあなたへの負債はお返しします」というと、ばったり倒れた。見るともう息が絶えていた。(「聊斎志異(りょうさいしい)」 蒲松齢 増田、松枝、常石訳) 一度酒乱で地獄に落ちたものの、そこで顔の広い死んだ伯父に、許してもらうための工作資金を立て替えてもらい、現世で作って返すようにと生き返った繆の話です。 


テムズ河の鯨
すると南方が、「突飛なようですが山本先生、あなたは鯨がロンドンのテムズ河へさかのぼって来る話を知っておられるか」そう尋ねると、山本は、「そんな話、聞いたことありません。それがどうかしましたか」一体、この学者先生何をいい出すのか、というような顔をした。「鯨は、大小の船の行きかう、真水の川にのぼって来ると、身に危険のあることは十分に知っている。それでも上って来る。どうしてもそうせずには居れないのです」「なぜでしょうか」「それはこんな訳です。古い大きな鯨は胴体に、貝がつき、藻がつき、かゆくてならなくなるのです。そこで塩分のない水にのぼって来て、貝や藻をおとす。あまり度々も来ないが数年に一度くらい来る。中には年に一度大小つれだって来ることもある」「本当ですか、そんな事をすれば船にぶち当たったり、人に捕らわれたりする。先生の話だからまんざら嘘でもないでしょうが、ちょっと眉唾ものだな」「いや、いや、これは事実も事実、本に詳しく書いてある。見せてあげようか」「それには及びません。まァ信じることにしましょう」南方はニヤリと笑って、さて自分が酒をやめられない理由を説くのである。「わしが酒を飲むのは、全く鯨と同じなんですよ。ご存じかどうか知らないが、わしは研究に取りかかると、疲れるまで続ける。眠るのも二、三日に二時間か三時間ということがある」山本医師はその事をよく知っていた。だがそれがどうして酒を飲む理由になるのだろう。「うん、研究をやりすぎると、脳味噌にアカがたまる。この脳味噌のアカは、山本先生、あなたのような医師ではとれないのだ。腹に悪いものがあれば下剤でくだしますがね。そこで酒です。酒を飲めばアカが取れるのです。もちろん、深酒はあまりよくない。時には気狂いじみた事をします。古今東西、酒でしくじった例はまことに多い」 (「紫の花.天井に」 楠本定一) 


池田郷
家康の天下が成立したのは関ヶ原の役であり、それが確立したのは大阪ノ陣である。冬ノ陣のとき家康は大和から河内平野に入るべく、慶長十九年十一月十七日、関屋峠を越えた。そのとき峠の西のほうからいかにも富商といった町人のむれがあらわれ、「われらは摂津池田郷の酒屋満願寺屋とそのなかまでござりまする」と言い、御陣中のおなぐさみにといってたずさえてきた酒を献上した。むろん酒ばかりでなく、満願寺屋が音頭をとってかきあつめた多額の金子(きんす)を、「御陣中の費(つい)えの足しにでも」といってさしだした。すでに池田郷では家康の天下はゆるぎないとみて、いわば政治献金をしたのであろう。その時点での池田郷は、豊臣秀頼の直轄領であった。−
家康は大いによろこび。この池田郷に対して朱印状を下した。その醸造を優遇するだけでなく堺などと同様の交易地としてみとめるものであり、いわば政府公認の醸造地になったようなものである。(「酒郷側面誌」 司馬遼太郎) 


隔世遺伝
大学に入り寮での新入生歓迎パーティーの席で、今のと違って粗悪なアルコールに過ぎなかったショウチュウをペロリ一升近く「上:夭、下:口 の」んで私は顔色を変えなかった。大変なカマトトが入ってきたと上級生達に評判悪かったと後で聞いたが、酒「上:夭、下:口 の」みの才能だけはこれはやはり大したものであったと自画自賛したい。この才能は明らかに例の隔世遺伝というヤツに相違ない。弁護士であったが二度ばかり泥酔して法廷に入り、裁判官に追い出されたことがあったと聞く、私がこの世に来るのと入れ違いにあの夜へ行ってしまった母方の祖父は、私と人相から歩き方までそっくりなのであるという。この祖父はケンカの名人でもあり、書生時代に土方三人を相手に大立回りを演じて勝ったそうだが、文弱の私はその方面は全く駄目で、野坂昭如さんや黒田征太郎さんが酔えば必ず始める立回りを巨体を利して抑え込むだけである。(「ストリップとビアホール」 石堂淑朗 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


山葵の叩き
他に何の肴がなくても、山葵(わさび)が一本あれば酒が飲める。凸凹の根茎をたわしでよく洗って、皮は削らずにそのまま拍子木に刻み、一本ずつ噛みしめながら、飲む。さわやかな青い香りと、舌にひろがるほのかな甘みがたまらない。「山葵にはいっぱい凸凹があるでしょう。これは葉柄が脱落した跡の葉痕と、腋芽と呼ばれるものなんですがね。このイボイボを一つ一つていねいに削り取って集め、うんとよく切れる薄刃の庖丁で丹念に叩く。これに鰹節を削って混ぜ、ちょっぴり醤油を落とす。まァ一度やってごらんなさい。山葵ってこんなにうまいものかとしみじみわかりますよ。山葵の叩きっていってますがね…」と、教えてくれたのは伊豆湯ヶ島で山葵商を営む浅田信雄だ。(「うまいもの職人帖」 佐藤隆介) 一人酒は本山葵と煤竹箸 


マーガリンの小皿
この名残りもあって、杉村のカアチャンは私が”気違い水をおくれ”というと、"アイヨ"といって焼酎の一升瓶とマーガリンの小皿を持ってくるのである。山では偏食になり、栄養がとぼしくなって、何よりまず眼が弱りだす。肉をウンと食えばいいけれど、高いうえにカサばってならないし、永持ちしないから、マーガリンが一番だというのである。そこで小生はお箸にマーガリンをつけて、ペロペロと舐めながら焼酎をすするのである。ずいぶんいろいろなものを肴にして酒を飲んできたけれど、マーガリンはこれがはじめてのことで、学ばせるところがあった。ちょっぴり塩味もついているからわるくないのである。胃の防壁にもなって酒が悪モタレしないという功徳もある。(「開口閉口」 開健) 


「木枯の酒倉から」
俺の禁酒は、結局悲劇にもならず笑うべき幕をおろした。悶々の情に胸つぶし狂おしく掻(か)い口説(くど)くのは一人恋人だけであるということを、呪われた君よ、知らなければならぬのじゃ。冬はあまりにも、冷たすぎるものじゃよ。だから(聖なる決心よ!)俺はうなだれて武蔵野の夕焼けを−ういうい、酒倉へ、酒倉へ行ったんだ!断固として禁酒を声明をしたあの夜から、数えてみて丁度三日目の夕暮れだった。俺の目は落ち窪み、頬はげっそりと痩せ衰えて、喉はブルブルと震えていたが。ややともすれば俺は木枯に吹き倒されて、その場でそのまま髑髏(サレコウベ)にもなりそうに思いながら、ようやく酒倉へ辿りついてその白壁をポクポクと叩いたんだ。俺の悄然たるその時の姿は、「帰れる子」の報復すべき戯画であり、換言すれば下手糞な、鼻もちならぬ交響曲を彷彿させるそれら「さ迷える魂」の一つであったと、行者は後日批評している。とにかく俺はようやくにして二十石の酒樽に取り縋(すが)ると物も言い得ず灰色の液体を幾度も幾度も口へ運んだ。ああ幾度も幾度も…そんな風にして俺の神経の細い線が、一本ずつ浮き出してくるのを感ずる程「上:夭、下:口 の」みほしたのだが−酒は本来俺にとって何等(なんら)味覚上の快感をもたらさないのだ。むしろ概して苦痛を与える場合が多いのだし、それに酒はむしろ俺を冷静に返し、とぎ澄まされた自分の神経を一本ずつハッキリと意識させるのだがけれど−それでいて漠然と俺の外皮をなで廻る温覚は俺をへべれけに酔っ払わしているのだった。だから俺は酒に酔うのは自分ではなく何か自分をとりまく空気みたいなものが酔っちまうだと思っているのだが−そんなことを思い当てるときは、きまって足腰もたたない程酔いしれているのだ。(「木枯の酒倉から」 坂口安吾) 


どうも酔っ払ってくるみたいだ
淡谷(のり子) 青森もそうですね。アタシは、七歳ぐらいのときからお酒飲んでいましたの。子供たちだけ集まって酒盛りしたり…。小学校のときよばれましてね。おじいさんが学校に呼ばれて、先生に「どうも酔っ払ってくるみたいだ」と(笑い)。朝、冷や酒を飲んで学校へ行くの。だって冬は寒いでしょう。酒を飲むとあったまるの。(「あの味 この味 ふる里 隠れ味」 渡辺文雄編) 


越後湯沢駅
日本酒ファンにはたまらない駅がある。銘酒の里として名高い新潟県にあるJR「越後湯沢駅」だ。越後湯沢駅の構内には、一九九五(平成七)年七月一日にオープンした「ぽんしゅ館」という日本酒専門コーナーがある。そのなかでも特に人気なのが、「ていすてぃんぐGALLERY越の室」という利き酒コーナー。ここでは越後の蔵元一〇三軒の代表的な銘柄が利き酒できる。システムはこうだ。まず、利き酒希望者は五枚五〇〇円のコインを購入、備え付けのお猪口を一つ借りる。酒は銘柄ごとに機械に入っているので、自分が味わってみたい銘柄の機械にコインを一個投入して、でてきたお酒をお猪口で受けて飲むというしくみ。利き酒できる酒のなかには、幻の銘酒といわれる「越乃寒梅」もある。一般購入価格は、プレミアムがついて一升八〇〇〇円ほどだから、ここで飲めば、かなりおトク。また、久保田の大吟醸「万寿」のように、入手できたときだけのめるお宝モノの酒もある。ぽんしゅ館でしか味わえないオリジナル「雪のぬくもり」も人気だ。毎年一〇月の紅葉シーズンは中年客を中心におおにぎわい。冬のスキーシーズンには若い女性も沢山訪れるという。また、無料試飲会などのイベントもおこなわれることがある。ちなみに、いままでの利き酒最高記録は一杯約二七tのお猪口で飲んだ中年男性の一〇杯。(「駅」 夢文庫) 8000円という価格は、蔵元から定価販売された酒が、中間購入者の手を経て、酒税法違反で高額販売されていたようです。 


アルコールダイアリー
プチ禁酒以来、私のランナーズダイアリーは「アルコールダイアリー」になった。朝、起きるとゆうべ飲んだ量と、その時の状況 を思い出して記録し、続いて「今朝の気分」を書く。後悔する飲み方をしたのであれば「なぜ、飲みすぎたか」や「ラスとの一杯をオーダーしてしまった理由」をふりかえることにしている。(「今日も飲み続けた私」 衿野未矢) 


イカナゴ
イカナゴ(玉筋魚)は、硬骨魚目イカナゴ科の海魚で、関西ではカマスゴともいう。体長は二〇センチくらいまで成長するが、稚魚は一〇センチどまり。北の海で生まれ、遠く九州まで回遊するというから、小魚ながら天晴(あっぱ)れなものだ。京都や大阪では、瀬戸内海でとれた稚魚を釜ゆでにし、パックに詰めて売っている。それが極めて安い。買って帰り、少しずつ卓上焜炉(こんろ)で温めながら三杯酢(濃口醤油一、酸味のやわらかい酢一、出し一の割合で合わせたもの)をつけて食べるわけだが、これは酒菜として絶妙。(「本当は教えたくない味」 森須滋カ) 


三河屋
酒屋さんの中でも"三河屋"と看板を出した店を多く見かけます。東京二十三区だけでも百軒以上の"三河屋"さんがいます。なぜ、"三河屋"さんばかりが多いのでしょう。江戸の町では両替問屋からはじまって、薪炭商問屋まで、いろいろな同業組合を十個に分けました。これを「十組問屋」と呼び、この中には、当然、お酒、味噌、醤油の調味料を扱う組合もありました。この組合の人たちは、たまたま三河の国(現在の愛知県)の出身者が多かったことから、"三河屋"と名乗ったのです。(「雑学おもしろ百科」 小松左京監修) 


気持ちの良い歌声
夜中の庭では、木々が光って見える。ライトの光に照らされた、そのてかてかあおい葉の色や幹の濃い茶がくっきりと見える。最近、酒量が増えてから初めてそのことに気づいた。酔った目でその光景を見る度に、そのあまりの清潔さに胸を打たれてしまい、もうどうでもいいような、なにもかもを失ってかまわないような気がする。それは思い切りでも、やけくそでもない、もっと自然にうなずいてしまう、静かで清冽な感動を呼ぶ気持ちなのだ。このところ毎晩、そんなことばかり考えて眠りにつく。さすがに飲みすぎだからひかえようと思うのだが、そして昼間のうちは今夜飲む分をとても少な目に胸に決めているのだが、こうして夜が来ると、ビール一杯を皮切りにしてすぐに加速がついてくる。もう少し飲むと気持ち良く眠れるなあ、と思ってジン・トニックをもう一杯作ってしまう。夜中になるにつれて、ジンの分量が増えて濃い酒になる。昭和の生んだ最高の名菓、バターしょう油味のポップコーンをぽりぽり食べながら、私は思う。ああ、またこの段取りで今夜も飲んでしまったと。罪悪感を持つほどの量ではないが、気づくとなにかしらのビンが一本は空いているのには少し、ドキッとすることがあった。そしてぐでんぐでんのくるくるになってベッドに倒れ込む時、私は初めてその気持ちの良い歌声を聞くことができる。(「ある体験」 吉本ばなな) 


宇王通火
詰衿(つめえり)のホックを掛けてもらうのを最後に、伯父は左手を伯母の目の前に出す。出された手に、伯母は自分の袂で包んだ金ピカな短剣を手渡した。伯父は、受け取り腰に帯びる。桜のバックルが、がちりと締められるのを見届けた伯母は跪(ひざまず)いたまま後に置いてある春慶塗かなんかの丸いお盆を両手で持ち、伯父の胸の辺りに捧げた。お盆には舶来の空色の可愛いガラス瓶と、手のある鏡と、クリスタルガラスのかなり大き目なウイスキーグラスがあって透明な液体がなみなみと注がれてあった。伯父は、まず手鏡を持ちガラス瓶に薬指一本を伸ばして表面をひと撫でして、左右共に十センチはあろうかと思われる黒々とした八字髭に薬指の先をつけ、髭の角度と太さを手鏡を覗きこんで整えた。撫でつけたのはポマードだと知ったのは、東京へ帰る頃だった。「では勤務して来ます」と伯父は言い「いってらっしゃいませ」 伯父は、一旦、目を閉じてからウイスキーグラスを左手に抓み、左手で髭を下から押し上げて口を開き液体を放りこんだ。放りこんだ液体を、舌の上に止めることはせず、どどっと流しこむ。と思ったら伯父は、頭を激しく十回ほどふり、げぷっと変な音を立て一歩、半歩とよろめいて箪笥の上にある戸棚におでこをぶっつけ「いたッ」と咽喉の奥で悲鳴を上げてから、「留守中、なにかと気をつけなさい」と言って玄関に出て行った。この服を着せてもらい、げっぷを出し、よろめいておでこをぶつけるまでの行事は、寸分の狂いもなく毎日行われるのを、僕は見ている。「伯母さん、伯父さんが飲んだ水、あれなーに」と聞いたら、「強いお酒なんだそうです。あれを一杯飲むと大変元気が出るんだそうですね。もっとの従兵(水兵)がおしゃるには、大佐は車に乗られると、すぐに眠ってしまうということでした。たしか、うおづかとかいうお酒で、宇王通火とでも書くのでしょうか」と伯母。(「酒あるいは人」 池部良)小学校4年のとき、伯父の家で一夏過ごした時の思い出だそうです。 


「祝祭」文化と「饗宴」文化
ヨーロッパの学者たちは、しばしば文化をその食生活と飲酒によって特徴づけている。一緒に集まって食事をしたり酒を飲む人たちの文化は、「祝祭」文化と呼ばれる。地中海文化(イタリア、フランス、スペイン)や中国などは、この祝祭文化に属する。まず食事して、それから酒を飲む人たちの文化は「饗宴(シンポジウム)」文化と呼ばれる。シンポジウムという言葉はこんにち、学者たちが特定テーマについて討議するための正式な集まりを指すようになったが、元来この言葉は飲酒パーティーを意味していた。古代ギリシア人たちは、よく集まってささやかで簡単な食事をとり、そのあとで酒を飲みながら会話を交わすのが習わしだった。北欧文化(スカンジナビア、ドイツ、イギリス)や韓国が、この饗宴文化に属する。日本の場合は、祝祭と饗宴の両文化に属するように思われる。日本人は、宴会や祝日には飲み食いを一緒にするのが好きだ。また同僚と簡単な食を共にし、それから場所を変えて飲んだり歌ったりするのが一般的である。(「食文化の国際比較」 飽戸弘 東京ガス都市生活研究所編) '92の出版です。 


どじょう買い
これも、落語にあるが、寺男が門前町の魚屋へ徳利を持ってどじょうを買いに行き、「檀家の者ですがどじょうを売って下さい」といった。門前までくると子供がが大勢集まって、「やあ権助さんがまた徳利を持って内緒で御酒を買ってきたのだろう」「あれ子供というものはしょうがねえもんだな。徳利せえ持っていれば酒だと思う。酒ではねえ。このなかの物がおめえ達にわかるもんかね。もしこのなかに入っている物を当てたらなかのどじょう一尾やるべえ」(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) どじょうはなまぐさということですね。 


味醂を一升
相「何(ど)うか今夜不束(ふつつか)な娘だが婚礼をしてくだされ、これ婆(「相」の妻)、明日(あした)は孝助殿が目出度(めでた)く御出立だ、そこで目出度い序(つい)でに今夜婚礼をする積りだから、徳(娘)に髪でも上げさせ、お化粧でもさせて置いてくれ、其(その)前に仕事がある、此の金を襦袢へ縫込んでくれ、善蔵や、手前はすぐ水道町の花屋へ行って、目出度く何か頭(かしら)付きの魚を三枚ばかり取って来い、序でに酒屋へ行って酒を二升、味醂を一升ばかり、それから帰りに半紙を十帖ばかりに、煙草を二玉に、草鞋(わらじ)の良(い)いのを取って参れ。」(「怪談牡丹灯籠」 三遊亭円朝の咄を速記) 下戸の孝助のために味醂を買ったようです。どうみても、この咄の主人公は、幽霊に殺されたという萩原新三郎ではなく、幽霊になったという飯島露の父親平左衛門家来孝助のようですね。 


島津久光聞きて
すなわち駿府記の慶長十七年(皇紀二二七二 西暦一六一二)十二月のくだりに「二十六日、藤堂和泉守(高虎)出御前、島津陸奥守(宗久)献焼酒(あわもり)二壺 琉球酒砂糖五樽」と見え、また明良洪範には島津光久のことを記して「此泡盛(あわもり)貞享年中より公儀へ献上、ならびに諸役人へ進上物に成りければ、琉球製の物は、残りなく家中の者まで行届かざれば、薩州製をまぜて配当せんと、掛りの人々評定しけるに、久光聞いて、そは然るべからず、この泡盛は会宴の用にはあらず、薬用のものなれば、将軍家始め諸家にて重宝せらるる也」然るに効能薄き物を取りまぜて送ること詮なき事也、品を減じて少々宛(ずつ)配当するとも、効能うすきを交えて、配当する事なかれと云われけると也」とある。
泡盛に酔ひ飯盛を買に行き 古川柳
泡盛(島津)も茗荷(鍋島)もわつちや好(すき)んせん 古川柳(「ものしり事典 飲食篇」 日置昌一) 


消憂、燕楽、祭祀の酒
さて、これまで詩の辞句を引き抜いて煩雑な記述をつゞけて来たが、以上現れて来た酒に関する様々な分類を、風雅頌全体を通して回顧し、其の主なるものを取りあげて綜合して見ると
一 憂愁を消すための酒 之を一面から見ると、消極的な目的のために酔を求める心境であつてこの心境を歌つたものが、風に於て最も高率を示しており、雅頌に於ては殆どないと言つてもよい。
二 燕楽(えんらく) 公私を諭せず燕楽に関するものは、小雅が圧倒的に高率で、大雅之に次ぎ、風に至つて最も少い。
三 祭祀 頌が最も高率で、大雅之に次ぎ小雅は遙(はるか)に率が下り、風に於ては一つもない。
右の様に表れた内容上の分類の結果について考へると、種々の判断が自から生ずるではあるまいか。例えば其の一例として社会的な観点からすると、酒の酔をかりて現実の苦悩から一時的にでも脱却せんとする、生活に対する消極な態度が、国風の詩篇に存して雅頌に無いのは何故か。又宴を張つて君臣上下、親族知己などが、酒間に歓を尽すといふやうな、生活に対する積極的な趣が、小雅に多くて国風に極めて少ないのは何故か。こうした種類の疑問を推し究めてゆくと、国風の詩が生み出された世界と、雅頌の詩がつくられた世界との間に、何等かの相違のあることが想像せられる。端的にいへば、国風の中には、憾軻失意の人や、階級的に見て比較的下層な人々の生活を反映してゐるものが多く、雅頌には之に反する人々の生活する人々の生活を物語るものゝ多いことが推測せられる。(「詩経随筆」 安藤圓秀) 風は国風、雅は大雅と小雅だそうで、燕楽は酒宴のことだそうです。 


あしき酒をしゐられて(強いられて)よめる
この酒は 夏のかりねの床なれや かはうるさくて のみにくきかな [新撰狂歌集、さけみつ朝臣]
「この酒は夏の仮寝寐に似ている。香(蚊)がいやらしくて飲み(蚤)にくい。」−わざわざ仮寐としたのは、蚊や・蚊やりなどを用いないことを示すためである。第二次大戦中から戦後にかけての物資欠乏のころ、鼻をつまんで悪酒をのんだのを思いおこさせる。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


菊の酒人の心をくみて酌 立子
無数に存在するお酒の俳句の中で一番好きな句がこれである。星野立子さんは大虚子の二女、たしなみのほどが窺い知れる。(「江國滋俳句館」 江國滋) 


陸前高田「酔仙酒造」大船渡の新工場完成
大震災で全壊した岩手県陸前高田市の老舗酒造会社「酔仙酒造」の新しい酒造工場が同県大船渡市に完成した。22日に開かれた式典で新たなスタートを切り、品質向上を誓う社長。津波で犠牲になった社員7人や多くの善意に思いをはせ、工場の愛称を「不忘心蔵(わすれじのくら)」にするという。同社は、両市の八つの造り酒屋が1944年二合併した「気仙酒造」が前身。社屋は国の登録有形文化財で、敷地内の桜約100本が市民の目を楽しませていたが、そのほとんどを津波がさらった。跡には横倒しの酒造用タンクが散乱した。それでも、同社の金野靖彦社長(66)は震災直後に、「何かしなければ、死ぬまで後悔する」と再建を決意。同県一関市の別の会社の酒蔵を借り、昨年9月には酒造りにこぎつけた。−(「読売新聞」H24.08.23) 


金陵酒肆(しゅし)留別  李白              金陵の居酒屋で暇乞ひ
白門ノ柳花 満店香(かん)バシ               白門の柳花は満ちて店中が香ばしく
呉姫 酒ヲ圧(アツ)シテ客ヲ喚(よ)ビテ嘗(の)マシム。  南京娘が酒を圧(こ)して、一杯いかがと客を招く。
金陵ノ子弟 来リテ相送リ                  金陵の若者たちが来て送別してくれる
行カント欲シテ行カ不(ず) 各觴(さかづき)ヲ尽ス。   もう行かうと思へども行きかねて銘々酒量を尽す。
請フ君 問取セヨ東流ノ水ニ                 諸君よ問うてみたまえ東流の水に
別意ト之与(これと) 誰(いづれ)カ長短。          惜別の情と水の流れといずれが長いかと。(「中華飲酒選」 青木正児訳著) 


しわいやつあわれな酒にばかり酔ひ 柳二40
けちんぼは自分の銭では酒を飲まず、よそのお通夜や葬式へ行くと大いに飲んで酔っぱらう。けち話も古来の笑話が多く、落語にもしわい屋のたぐいがいくつもある。十七文字の川柳ではさすがに表現が困難なので、親父気質という形をとることが多い。(「川柳集 狂歌集」 吉田精一評釈) 


たき【瀧】
@養老の瀧の事。(やうらう参照)
孝行の恵は瀧を水にぜず  酒にする
孝の徳四方(よも)の瀧水ほどのめる 四方と云ふ酒店
酒の瀧元は孝子の身をしぼり 孝の徳の賜物
C四方酒店の銘酒、瀧水の略称。(たきみづ参照)
瀧の水飲んで親父はようろよろ 謡曲猩々の文句取
ほりものゝ文覚浴びる四方が瀧  文覚擬きの大入道(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


「演劇と酒」(2)
酒はまた、人と人とのあいだにあったわだかまりを洗い流す役目もはたす。シェイクスピアには酒が出てこない芝居を捜そうたって無理なくらい酒が出てくるが、ぼくとしては、ハムレットを殺そうとして毒を盛るクローディアスの杯や、キャシオーをおとしいれるために強引に飲ませるイアーゴーの酒や、バンクォーの亡霊を呼び出してしまうマクベスの乾杯などよりも、フォールスタッフやサー・トービー・ベルチ一派の健康な飲みっぷりのほうが好きである。と同時に、『ジュリアス・シーザー』のなかで、キャシアスとのいさかいのあと、「酒をくれ。このなかにいっさいの感情のいきちがいを葬ろう」と言うブルータスの台詞も好きである。『勧進帳』で富樫がすすめる杯も、激励の意を秘めながら表面的には和解のしるしであった。だが弁慶の場合、その飲みっぷりがあまりにも豪快であるため、酒を飲むというそのこと自体がドラマティックになる。ぼくが初めて見た弁慶は先代幸四郎であったが、大杯を傾けつつ次第にゆらゆらと揺らしはじめていくにつれて、こっちまで酔いがまわってくるような気がしたものである。(「珈琲店のシェイクスピア」 小田島雄志) 


オリメ
鹿児島県肝属郡百引で、初矢の祝又は矢開或はオリメというのは、生まれてはじめて猪狩にヤワケをしたものが、猟仲間は近親を招いて猪肉を振舞って酒宴をする。このオリメをせぬと、つまりみなに一杯飲んでもらわぬと、一人前の猟師ということができなかった。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 


お情けより樽の酒。情けの酒より酒屋の酒。
 口先だけより実際に役立つものの方がよい。
徳利に味噌を詰めるような人
 要領を得ない言動の人。
転(こけ)徳利に欠(かけ)徳利。
 口から出まかせ、口悪い人。(「飲んだくれてふる里」 小宮山昭一) 


酒についての心得
酒というものは、元気を盛んにするものだから、遊宴のときなどには、量をすごしてはならない。そのようなときには、かならず争いをしでかすものだ。厳重につつしまなければならない。しかし、軍陣やたか狩などのときには、下戸(飲めない者)でも、一杯飲めば勇気が湧き、ひと働きするほど、精が出るものだ。(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 家康の功績を記した「中泉古老諸談」にあるそうです。 


元禄と幕末の復刻酒
スカイツリー・ソラマチの問屋国分に白雪の酒蔵に伝わった酒造記録から醸造されたという復刻酒がありました。二種類あって、一つは江戸元禄の酒、もう一つは幕末慶応の酒。国分ブランドの缶詰を肴に元禄の酒を飲むこともできました。「琥珀色の濃醇甘口タイプ」でしたが、多分当時はもっと酸味の強く、船で運ばれる江戸ならではの樽香がついたものだったろうと思いながら飲みました。幕末慶応の酒は、現在一般市販されているらしい勘兵衛という国分オリジナル酒と元禄の酒の中間スタイルでした。(H24/10) 


数の符牒 数え歌系
1    2    3    4    5    6    7    8    9 
俵   笑   酒   中   如   才   事   敷   蔵   呉服商(明治)
   わらい           ごとく  さい  こと   しき
俵   笑   酒   中   女   才   事   敷   蔵   同(明治)
                 おなご
(「隠語辞典」 楳垣実編) 「是を大黒符牒といへり、一に俵をふまへてにて、俵は一といひ、二にはにつこり笑ふてにて、笑らひは二としるべし、余は是に准ず、」と、「摂陽落穂集」にあります。 


無税
明治時代酒の私造が禁止された時にも村の祭祀に用いる酒には特例を設けてこれを許可し、昭和年間に至るまで祭の酒だけは無税で造ることができたのである。戦時中も冠婚葬祭用の酒だけは特配していたのも、神事と酒の久しい伝統によったものである。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 


正攻法
ついでだから言わせていただくが、「口利 き」き酒会や販売促進の目的のパーティーでは、やたらと若い女に気を遣っている。しかし、招待されている着飾った女たちは、その場でこそ絶賛の嵐を巻き起こしているものの滅多に酒場で日本酒を注文しない。軽佻浮薄な私は、よく都会の人気スポットに迷い込んでしまうが、そういう場で彼女たちは大変高い確率でワインや焼酎を飲んでいる。喉もと過ぎれば、日本酒のうまさだけでなく賛辞も忘れてしまっているのだ。日本酒メーカーは、広告代理店やマーケティング会社の口車に乗せられてないけない。明らかに日本酒を普及させる姿勢が間違っている。日本酒が媚びへつらう必要はない。堂々と正攻法で臨めばいいのだ。本質を踏まえた酒を醸し、それを押し出す。もちろん居丈高になったり、依怙地に陥ってはいけないが、下心が透けて見えるのはもっともよろしくない。米を基幹にした日本の食文化の華、世界に類を見ない並行複発酵の酒という誇りを持ち、かつ謙虚に粛々と進むべきだ。(「うまい日本酒はどこにある?」 増田晶文) 


いちばん良いブルゴーニュ
一方、ルイ十六世は名だたる食いしんぼうだった。たまたまフランス大革命に際会したために、彼は多くのパンフレットのなかで、さんざんにこきおろされて、非常に損な役まわりを演じなければならなくなってしまったわけで、ルイ十六世といえばグルマン(食いしんぼう)というのが世間の通り相場になってしまったのである。王が国外亡命の途中、ヴァレンヌで捕えられ、乾物屋の町長ソースの家に連れて行かれたのは有名な革命史上のエピソードではあるが、この時も彼は食べるものがほしいといい出し、バンとチーズと、それに一本のブルゴーニュ酒とを手に入れた。そして我を忘れてむしゃむしゃ食っているとき、王権停止の政命をもった急使がパリから飛んできたというというわけである。「ああ、フランスに王がいなくなったか」とルイ十六世は長嘆息した。それから、こうつぶやいた。「この酒は、いままで飲んだうちではいちばん良いブルゴーニュだ。」ルイ十六世は葡萄酒マニアで、酒の鑑定にかけては玄人はだしだったといわれているので、こんな逸話が生まれたのであろう。(「華やかな食物誌」 澁澤龍彦)  ルイ十六世 パンを食べたい 


酒飲めば涙ながるるおろかな秋ぞ
昭和十四年(一九三九)九月十八日、風来居での句。前書に「自嘲一句」とある。いよいよ最期(さいご)の地松山に向けての旅が始まる。この五日前に山頭火は面白いことを書いていた。
今日も臥床、読書をせめてもの慰藉として。夜、樹明君来訪、停留所まで送る、酒をよばれた、いそがしい酒であつたけれどうれしい酒だつた。
われあさましく
酒をたべつつ
われを罵る(昨日今日生死の中の一句なり)
「生死の中の」などと例のごとく気取ってはいるが、「われあさましく」「酒をたべつつ」などとこんなにまで、酒を飲んでいる自分に対して当てつけがましく言うのもあまり例がない。やけっぱちの感じもあって、酒が相当身体にこたえてきているのではないかと思う。(「放浪行乞 山頭火百二十句」 金子兜太) 


ソフト化、ライト化
近頃、世界的な傾向として酒のソフト化、ライト化は健康志向の反映と解釈されているが、それは酒を飲みながら「酔い」との距離を保とうとする知恵であり、ハレの日の痛飲泥酔から、ケの日の「ほろ酔い」への移行現象といえよう。こうした飲酒態様の変化とチューハイ流行を対比すると、焼酎のソフト化、ライト化が独酌型の飲酒よりも、むしろイッキ飲みにみられる集飲型へ逆行して、飲酒文化の幼稚化をうながしたとみられる。(「ブドウ畑と食卓のあいだ」 麻井宇介) 少し前に、「集飲は『酔い』を目的とし、独酌は『酔い』に到達する過程に意義を見出す。」とあります。 


茶客調食
天保初め比(ころ)以来、会席料理と云ふこと流布す。会席は茶客調食の風を云ふなり。口取肴など人数に応じこれを出して、余肴の数を出さず。その他肴もこれに准ず。前年のごとく多食の者はさらに余肴これなく、腹も飽くに至らず。しかして料理はますます精を競へり。今世、会席茶屋にて、最初煎茶に蒸菓子も人数限り、一つも多く出さず。口取肴も三種にて、織部焼などの皿に盛り、これも数を限り余計これなし。口取肴の前に坐付味噌吸物、次に二つ物と云ひて甘煮と切焼肴等各一鉢、次に茶碗盛人数一碗づつ、次に刺身、以下酒肴なり。膳には一汁一菜、香の物。八百善、平清、河長等の後段の茶にも菓子を出し、その他は飯後の茶に菓子これなし。八百善以下三家、大略一人分銀十目[匁]。その他は銀六、七、八匁なり。浴室を設け酒客を入れ、余肴を折に納め、夜の帰路に用ひ流しの提灯(ちょうちん)を出すこと、毎戸しかり。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 


ビール牛(3)
いろいろとたずねてきくうちに、ビールの話になる。ここの牛は焼酎を吹きかけてマッサージをしたり、ビールを飲ませたりというのが有名である。"ワダキン・ビーフ!"と誰か外人がいえば、"ビア・ドリンクング!"とべつの外人がうけることになっている。専務氏の説明によると、牛にビールを飲ませるのは餌としてではなく、どちらかといえば薬としてである。便通をよくし、腸をととのえるためなのだそうである。牛の健康状態は便秘をしているかいないかを見て判断するのがいちばん手ッ取り早い道だけれど、それには糞を見るのが何よりである。おかしな糞をする牛にビールを飲ませると、黄いろい、いい糞になる。(「新しい天体」 開健)  ビール牛  ビール牛(2)  


ADHとALDH
二日酔のもとはアセトアルデヒドであり、肝臓内でのアルコールの代謝過程で生じます。アルコールの酸化によって生ずるわけですが、それにはアルコール脱水素酵素(ADH)、ミクロソームのエタノール酸化系(MEOS)、およびカタラーゼの三つが関与していると考えられています。しかし、アルコールの代謝の約八〇%はADHによるものと推測されています。(図8) ADHは、普通型肝ADHと、異型肝ADHの二種類があります。欧米人で一〇%から二〇%、日本人で八五%が異型肝ADHを持っています。異型肝ADHは、普通型肝ADHよりも三〜四倍も活性度が高く、したがって日本人にくらべて欧米人の方がアルコールの分解速度がおそいのです。アセトアルデヒドは、そのまま血中にとどまることはありません。アルデヒド脱水素酵素(ALDH)を触媒として酢酸に変わり、酢酸はさらに分解されて最後には炭酸ガスと水になってしまいます。ALDHにも普通型と異形型があり、欧米人の大部分はアセトアルデヒドが少量でも分解してしまう好感度の普通型です。日本人の半分は異型。アセトアルデヒドがある程度高濃度にならないと分解をはじめません。アルコールの分解がおそい普通型ADHと、アセトアルデヒドの分解が早い普通型ALDHを持つ欧米人がアルコールに強いことを証明している人もいます。欧米人は、アセトアルデヒドがゆっくり生じ、素早く分解されます。片や日本人の方はアセトアルデヒドをつくるのは早く、分解がおそく、高濃度のアセトアルデヒドがたまりやすい体質です。つまり、日本人は悪酔いしやすく、酒に弱いということになります。(「酒博士の本」 布川彌太郎) 


酒は梅、魚は桜
不鮮の鰹を食すると一種の蕁麻疹を生ずるが、場合によると麻痺性の中毒症状を呈することもある。これを却つて一つのプライドとした者もあつたというに到つては論外ではあるが、その療法は桜の皮を用いるのがよろしいといわれておつた。また当時二日酔の妙薬として知られておつた売薬に「袖の梅」と称するものがあつた。これと並び桜の皮の効用を詠んだ川柳がある。
酒は梅、魚は桜で酔が醒め
高徳は鰹に酔ふた振りで書き
等の句が残つているが、果して桜の皮に如何なる解毒剤が含有されているかは未だ研究して居らない。(「食味の神髄」 多田鉄之助) 後の句は、児島高徳(たかのり)が、桜の木に、漢詩を彫った故事によるそうです。 


お前も飲むかい
お酒を飲みは始めたのは、いつ頃だったかと、改めて考えても、さっぱり記憶にありません。物心がつく前から、父(金原亭馬生)のヒザの上にダッコされて、父の飲む合い間に「お前も飲むかい」という調子で、飲まされていたらしいのです。芸人の家だけに、人が集まる機械も多く、そういう時にお手伝いをしていると、ついつい飲まされてしまうのです。でも断らなかったのですから、子供の頃から、お酒は好きだったのでしょう。(「お酒が縁で」 池波志乃 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 出征軍人の言葉(馬生) よし子さん  

銀座裏のバー
鈴木 やっぱり妥協は許されない…。
吉田 絶対に許されないです。その頃でも、明日は日本人の指揮者だ、というようなときがあるでしょう。オーケストラのメンバーは銀座裏のバーでよく飲んでいるんですよ。一時、二時頃までも。ところが、明日ローゼンストック先生の練習だという晩には全員家に帰って寝てました。寝不足で下手なことをしたら怒られるから。七、八十人のメンバーになると、前の日飲んだ人もいるし、夫婦喧嘩してきたのもいるし、全部がいろんな心理状態で練習所へくるわけでしょう。それをぴたっとまとめるのは、怒る以外にないですよ。でも先生は、練習のとき、よくできないものでも本番で上手にやると、ネクタイをプレゼントしてくれました。(「続々 友あり 食あり また楽しからずや」 鈴木三郎助グルメ対談) フルートの吉田雅夫との対談だそうです。 


よっぱらい
「どうして己がこんなに酒が好きなのか、お前、知ってるか」「知らない。どうしてだい」「わからねえ。わからねえから、お前にきいているんじやァねえか」(「笑いのタネ本」 宇野信夫) 


エドガー・アラン・ポー(一八〇九・一・一九〜四九・一〇・七)
行き倒れたアメリカ文学の鬼才
一八四九年、ポーは生まれ故郷のヴァージニア州リッチモンドに帰った。十代の時の恋人でいまでは未亡人になっているセアラ・エルマイラ・ロイスターに求婚するつもりだった。相変わらず気分のむらが激しかったが、九月、心地よいパーティに出席したあとセアラに求婚し、受け入れられた。ポーは彼女に、ニューヨーク市に行って片付けなければならない仕事があると言い残して、同月二十七日の朝、ボルティモア行きの汽船に乗った。そこから北へ行く列車に乗るつもりだった。六日後、十月三日水曜日の昼過ぎ、ポーはボルティモアで行き倒れているところを、顔見知りのボルティモア紙の印刷工に発見された。破れた黒のコートと、体に合わない、他人のものらしいズボンを身につけ、傍らにはボロボロの帽子が落ちていた。病院に収容されたポーは、きれぎれの意識の中で低い声でつぶやいたり、ときには気違いじみた叫び声を上げたりした。行方不明になっていた六日間のことについては、はっきりした記憶はなく、また辻褄の合う説明ができるような状態でもなかった。日曜日、十月七日にポーは死んだ。死因はアルコール中毒とされているが、歴史家たちは、たぶん当時まだ知られていなかった病気、たとえば糖尿病とか脳腫瘍などが原因ではないかと考えている。ポーの葬式の会葬者は四人だった。親戚はポーのことを、彼の父親同様、アル中の恥さらしと考えていた。奇矯な行動もあって、ポーは文壇でもあまり好かれていなかった。彼の死について多少ともまともな記事を載せたのは、ジャーナル・オヴ・コマース誌だ。その死亡記事は次のように述べている、「彼が休息の場を見つけたのであれば幸いである。彼は心から休息を必要としていた」(「有名人のご臨終さまざま」 マルコム・フォブス、ジェフ・ブロック 安次嶺佳子訳) 


ワンカップと塩
夕方、私が港をブラブラしていると、岸壁にマグロ漁師の夫婦がしゃがみ、黙って海を見ているのに気づいた。きっと釣れなかったのだろう。二人の姿から、何となくそう思った。私がそっと立ち去ろうとした時、二人と目が合い、お互いに目礼した。ふと見ると、夫はワンカップの日本酒を飲んでいた。ツマミは塩である。それも手の甲のくぼみに塩をのせ、少しなめては酒を飲む。カッコよかった。赤銅色に日焼けした漁師が、塩をツマミに酒を飲む姿は、本当にヘミングウェイの世界だった。(「食べるのが好き 飲むのも好き 料理は嫌い」 内館牧子) 


良き召使・悪しき主人
アルコールは、良きサーバント(召使)ではあるが、主人としては悪い主人(バツトマスター)だ。しかし酒は、人類の文化に伴つて起る、一種の渇きを医するといふことは確かだ。その証拠には、多くの野蛮民族は、原始的な自然状態を脱するや否や、いろいろな植物性物質から、多少アルコール性のある飲料を製造するのをみてもわかるのである。云々。(「酒の書物」 山本千代喜) 


鯖と杣の天狗
「鯖は現代は小浜からは来ません。もっぱら太平洋側の焼津産で、朽木の魚屋が背割りにし、一塩してから売る。うちは五月に二百から三百匹買い込み、塩抜きしてから、塩と酒を混ぜたうるち米のご飯を腹に詰め、山椒と一味唐辛子を散らして桶で漬け込むんです」桶出しは発酵が十分に進んだ秋になってから。もち米でつくる家もあり、十月二十日の秋祭りには村民たちが味比べするそうな。なお、近年は祭りの日に〆鯖の生鮨(いわゆる鯖鮨)もつくるけど、「鯖はやっぱりなれ鮨だ」と断言する人が多い。今夜の宿はログハウスのペンション・ルシアン。料理がおいしいいとの評判どおり、鯖をアレンジしたスローフードで楽しませてくれた。〆鯖と九条ねぎを地味噌の酢味噌で和えたぬた、鯖鮨、へしこ、へしこピッツア。鯖は小浜まで来るまで走って買ったもの。昔は運ばれるのを待つだけだった山国の人々も今は海岸までぴちぴちを買いに行かれるのである。といっても肝腎の鯖はその浜の産ではなく、遠くから運ばれてきたもの。皮肉なことだ。ぬたと鯖鮨は、蜂蜜入りの酢でしめたレア加減が大人っぽい。鯖特有の情の深さが口中に響いてくる。薄濁りの純米生原酒「杣(そま)の天狗」と好相性である。ルシアン流のへしこは鯖の糠味噌漬風。唐辛子入り糠床にガーゼを包んだ塩鯖を一ヵ月ほど漬けたもので、切り身を焼くとおかずになり、薄切りはそのままで酒肴にぴったり。(「食の街道を行く」 向笠千恵子) 


雲丹がまだ残っていると徳利振り
乙な肴がこれだけあればもう一杯。雲丹は酒肴の横綱。
きく事に耳のいらぬは香と酒
香道は聞香といい、香りをかぐことを「聞く」、酒の味をあじわうときも「利く」という。
こしらへ喧嘩ちろり二つ見えず
わざと喧嘩して、酒燗の容器である「ちろり」を二つごまかす。
白魚と鰹新酒は江戸の花
江戸っ子が心おだやかでなくなる酒肴を挙げたもの。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


モズクの酢
モズクの酢は子供のころからわたしのもっとも好きなものの一つであった。酒を飲み習うようになってからはとくにそうである。そのころ三河湾の中で田原沖姫島付近でとれたモズクは、冬になると、田原の草市にたくさん並べられた。十二月から取れだすが、初冬のモズクは、細かくみじかくやわらかすぎて、酢に溶けてしまいそうで、たよりない。寒に入ると、つるつるしているけれども、一筋一筋が舌で識別されるほどで、まさにシュンである。海がぬるみはじめると、モズクもだらしなく太くなって、味がなくなる。だからわたしの家では寒中のモズクを何升も買うのがつねであった。(「カワハギの肝」 杉浦民平) 


箒沢山荘
次の桧洞丸への登りで、ついにわしはぶっ倒れてしまったのだった。這いずりながら登った。足が前に出ないのだ。靴ひとつ分しか前に出ない。死ぬ思いで桧洞丸を越えて、下る途中で夜になった。電池の失くなった、かぼそいヘッドランプの灯りで、ひたすらアンパンの名をつぶやきながら、桧洞丸を、わしは這いずり落ちた。その晩泊まったのは、箒沢山荘である。十年以上も前の洪水で流され、今はその山荘はないのだが、そこで、わしは初めて、アンパンを貪(むさぼり)り喰いながら、ビールのいっきのみをやったのだった。「ビール、好きじゃないんだよ」そういうわしに、飲め飲めとショージがすすめてくれて、わしはついに、そのビールをコップに一杯飲んでしまったのだった。美味かったよ。最高だった。痛いほど冷えたビールが、ごしごしと喉をこすって、食道から胃へ潜り込んでゆく。ひと口でやめるつもりが、そのまんま飲み干してしまった。(「悪夢で乾杯」 夢枕獏)18歳の夏だそうです。 


中野実と今日出海
爾来二十年、未だに彼とは遊び続けている。いい年をして遊び友達というのは可笑(おか)しいようだが、彼ほど遊びの好きな男はみたことがない。彼は若い時親爺から勘当になったそうだが、十九や二十で放蕩に明け暮れ揚げ句の果てに勘当になったといえば、大抵女に夢中になって家も身も顧みぬ蕩児のことに定まっているのだが、確かに蕩児には違いない。しかし一人の女にも嵌(はま)り込んだのではなく、ひたすら遊びが好きだというのだから呆れた男である。彼は酒盃をあげながら、ジャンケンポンをしても遊んでいたいのである。先夜、或る飲み屋で、ばったり彼と出会った。「いやアしばらく…」そのあとは二人で顔を見合わせて笑ってしまった。何故なら二人がこんな場所で邂逅したら百年目だということが暗黙の間に諒解されたからだ。ああ、よくも遊んだ、よくも飲んだものだと五体は綿の如く疲れ、ようやく家郷を思い出したのは、まさに銀座裏の飲み屋でめぐり会ってから四日目の夜だった。私の妻も、幾晩も家を明け遊び呆けて帰って来るなり一言「中野と会ってね」といえば、後の説明は不要である。(「私の人物案内」 今日出海) 


「一杯ひっかける」
しかし、生活や社会の変化が激しく、若い人に通じない部分がふえてきた。長屋、横町の隠居、付き馬、へっつい、岡ぼれ。形容詞で「一杯ひっかける」や「お茶をひく」などだ。説明してては、テンポが乱れる。(「きまぐれ散歩道」 星新一) 


一文字のぐるぐる
第二は「一文字(ひともじ)のぐるぐる」だ。一文字は古い女房ことばで葱のことである。熊本特産の細い葱(分葱(わけぎ)に近い)をさっとゆでて水にとり、しぼって淡口醤油をかけ、もう一度しぼる。白根の少し上で二つ折りにし、これを芯にして長い緑の部分をぐるぐると巻きつける。辛子酢味噌で食べるが、酒の友としてちょっと洒落た味である。一文字のぐるぐるは天明年間に細川重賢(しげかた)が倹約令を出したおかげで生まれたものでだ。材料が葱だけだから、これなら贅沢だと文句を言われる筋合いはない。案外、殿様自身もよろこんで食べたかもしれない。(「うまいもの職人帖」 佐藤隆介) 熊本名物の一つだそうです。 


酒が銚子一本十五銭
まったくもって可詩(おか)しな話だが、学生生徒の分際でありながら僕らは宴会というと必ず芸者を呼んで酒を「上:夭、下:口 の」む。酔っぱらって動けなくなると芸者たちが自動車で寮まで送ってきて、布団を敷いて寝かせて帰ったりしたもので、酒が銚子一本十五銭、芸者の玉代が一本で九十銭、半玉なら何時間おいても四十銭ぐらい。時代も好かったが人情もよかった。(「あゝ玉杯に花うけて」 扇谷正造編 「二人だけの送別会」 戸川幸夫) 


酒量
俺ねえ、一番飲んだときっていうのは、二人で八升、飲んだことあるよ。日本酒の一升瓶八本。ほんとだよ。富田(勝)さんっていう野球選手となんだけどさ。その店も、これは記録だっつってたよ。なくなっちゃったもん、一升瓶。竹をね、太い竹をこう伐ってね。そこへ酒入れて燗してね、そいでカッて飲むんだけどね。そいつが美味いとか言っちゃって。今考えりゃ、なにが美味いんだろうなあ。あくる日はさすがにボーッとしてたけどね。でも、そいでも仕事になったんだなあ。ひどいときはそういうふうに飲んで、明け方新宿のバッティングセンター行って、野球やってたってあるもん。ボコボコ打ってたんだって。みんな「バカじゃねえか。あの人」って。(「孤独」 北野武) 


武玉川(8)
下戸の差出を責る盃 雪町 (酔っていない下戸の差し出がましい意見を責める?)
上戸のぶんハ残る子の刻(ねのこく) 斗玉 (上戸は深夜になっても残って飲んでいる)
売喰の裏に淋しき捨徳利 長虹 (貧乏して売り喰いしている家の裏にはかつて使った徳利が)
紗綾ちりめんの中に盃 丘女 (さやちりめんに包まれた盃)
迎揃て下戸のぬき足 東垂 (迎えが揃って宴席が始まるので下戸は逃げ出す)(武玉川(一) 山澤英雄校訂) 


吉原おでん屋
かくして明治三十一年(一八九八)には、汁粉、うどん、おでんなどの屋台見世の総数は百六十五軒にのぼり、警察の取締りも一段と厳重(きびしいもの)になり、睦会なる業者の組合もできた。屋台は置き一間、縁台六尺と定められ、店の女が客と同席することも許されなかった。このため、屋台の女は堅いと、妙(おかし)な噂のたつこともなかった。ところが明治も四十三年(一九一〇)ともなると、このままでは屋台見世はすたれてしまうと、三日月屋というのが得(し)たり顔で若い女をやとって、縁台にすわらせた。これが、「店番の若い女は三日月屋」という地口(うわさ)にのぼるありさまで、三日月屋は屋台のおでん屋の人気を独占(ひとしじめ)する。こうなるとほかの店でもほおっておけず、競(こぞ)っていい女を店に置くようになるから、客はたがいに店番の粒より、おでんお味はどうでもいいといった本末転倒の様相を呈し、堅いで通っていた廓(なか)のおでん屋もうさんくさいことになってきた。店番に若い女が居るといないで、売上げにかかわるとあっては、せっかくこさえた組合の規定(さだめ)が無視されるのも時間の問題であった。それでも当初は器量の良い素人女に限られていたこの店番に、いつのまにか千束あたりの玄人(くろうと)筋がまじるようになってきた。この玄人の雇女(やとな)連中が、銅の鍋の大鍋の前にすわり、なんと千束式の呼びこみをはじめたのがきっかけで、昨今(ちかごろ)の吉原おでん屋繁昌記とな相成った次第。(「大正百話」 矢野誠一) 


固体発酵の窖(あな)
老窖(ラオチアオ ろうこう)の初めは、もちろん新窖である。その新窖を造る時には、掘った窖の底と壁を必ず黄泥を用いて地固めする。清浄な黄泥は今の酒厂から一〇里(約四〇キロ)ほど離れた五渡湲地方から採ってくるのだが、おもしろいことに、その黄泥には、現在活躍中で良質酒醸出の誉れが高い老窖の底にある黄泥部分を削り取って加えるのである。そしてよく混ぜ合わせてから、新窖に敷きつめてから足で踏んで固めていき、またそれで窖の壁も塗っていく。この新窖内の黄泥は七、八か月も経つと黄色から黒色に変わり、このあたりから酒造りに使用される。さらに一年経つと、黒色は白色になり始める。このころ、泥質も軟質から硬質に変わり、酒質もこれに従って向上する。さらに二〇年も過ぎると、泥の色は灰白色から再び黒色に戻り、同時に紅緑色の色彩を呈してくる。このころには泥の性質も無粘性に変わり、濃い「濃香型」の香りを出すようになるという。この後、一年一年と年数を積むことによって酒の品質は向上し、一〇〇年以上も経つと貴重というべき老窖に育っていくのである。(「酒に謎あり」 小泉武夫) 白酒(パイチユウ)の発酵窖 


巨大なカベを破る
燗をするのは大したことのない酒…そんな常識が、いつのまにか世間にはびこっていた。一方、グルメ・ブームとからんで大吟醸酒はさらに幅を利かせ、天下御免のいきおいとなったが、その渦の中でいつの間にか「越乃寒梅」の名が薄れていった。次々と金賞を受賞してデビューするスターの列の中から、「越乃寒梅」が宙に浮いている…そんな皮肉な傾向があらわれた。偽物の噂も、そういう最中のことではなかっただろうか。私は、そんな流れの中で、地酒ファンや吟醸酒ファンたちが、「越乃寒梅」を歯牙にもかけぬような言い方をするのが引っかかっていた。あの大手酒蔵の巨大なカベを、まず「越乃寒梅」が打ち破ってくれなかったら、そのあとにつづく銘酒の数々だって、陽の目を見なかったかもしれないではないか。そのことを、日本酒ファンは忘れてしまっているのではなかろうか。(「河童の屁」 松村友視) 


小分けする
酔いがまわっているために、「ここでやめておこう」という歯止めが利かないのだと気づいた美津子さんは、ワインをグラスに注ぐより先に、二五〇ミリリットル入りのボトルに満たし、冷蔵庫の奥にしまいこむことにした。翌日も新たなボトルから同じようにとりわけておき、翌々日は二本の小ビンを飲む。二本のワインを三日に分けて飲もうという工夫である。私も同じようなことをしている。ハーフボトルや一合ビンは割高だから、フルボトルや一升瓶で買いたくなるが、「限界以上のお酒がすぐ手の届く場所にある」のは危険である。リビング・ドリンカーにとって、お酒を小分けするという有効な手段と言えそうだ。(「今日も飲み続けた私」 衿野未矢) 


仙台藩
江戸幕府の酒造統制令についてはすでに話したが、これを受けて、全国諸藩でも城下、在方の酒屋に対し、その実施方を触れ出した。仙台藩においても、凶作のため一六九九(元禄一二)年に続いて一七〇一、一七〇二(元禄一四、一五)年に五分の一つくりを強行したところ、かえって密造、過造が多くなった。一方、一六九九、さらに一七〇八(宝永五)、一七一二(正徳二)年、藩当局の濁酒醸造禁止令にもかかわらず、領内の濁酒販売が繁昌するといった逆現象を呈した。その後、一七二三(享保七)年、濁酒屋では一軒当り一〇石までの醸造が許可されるとか、一七五五(宝暦五)年の酒造制限令の布告にもかかわらず、気仙沼などの漁師には手づくりの濁酒づくりが許されていた。また、濁酒がいかに庶民の間に浸透していたかは、一八二〇〜一八二四(文政三〜七)年の同藩の酒造米推定高五六万三四六〇石(八万四五一九トン)は、 @清酒造米高…七万二六六〇石(内訳、城下分一万二三〇〇石、在々分三万九六〇〇石、右糀分二万七六〇石) A濁酒造米高…四九万八〇〇石(内糀分八万一八〇〇石) で濁酒分が八七パーセントも占めていたことから察知される。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


七本目
昼間から酒は時間を忘れさせ、とうとう終電の時間を逸してしまった。「それなら泊まっていきなさい」というお父さんの言葉に甘え、さらに酒盛りは続いた。あれで夜中の三時頃であっただろうか。トイレに行こうと廊下を見ると、そこには空になった一升瓶が三本転がっている。−ええっ!調子に乗って、こんなに飲んでしまったのか。全く酒飲みは意地が汚い。自戒の念を抱きつつ、お父さんの前に座った。「すみません、勧められるままに飲んでしまって、今空いた一升瓶を見て驚きました」「いいんですよ、気にしなくて。いや〜楽しい、どんどんいきましょう」「いや、そろそろお暇しますから…」ここまで言って、そういえば終電を逃し、泊めていただく約束だった、ということを思い出した。ええい、こうなりゃままよ!あたしはコップに酒を注いだ。お父さんもそれに応える。そこにお母さんが現れた。「しかし、ふたりとも強いですね」という言葉が、朦朧とした頭では本気なのか皮肉なのかも分からなかった。お父さんが「どれくらい飲んだ」と、お母さんに聞く。「ええっと、空いているのが六本で…今飲んでいるのが七本目ですかね」(「酒にまじわれば」 なぎら健壱) 地方ラジオ局出演後、その女性アナウンサーのお父さんと飲んだ時の話だそうで、二日酔いの翌朝、お父さんは、六本銚子を持ってきてくれたそうです。 


よろこんでくりやれとみそへ一つさし 首尾の能(よい)こと首尾の能こと
無役の貧乏旗本に、やっと役がついたという場合であろう。「其方も喜んでくりゃれ」などと、貧窮の中を切盛りして来た用人へも、めでたく祝いの盃をさす。 ○みそ=味噌用人。旗本屋敷などの用人をあざけっていう語。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


ビンの中
せん索好きなお客がミセス・コーランに聞いた。「私がお台所で見たビンの中には何が入っていますの?」顔を上げもしないでミセス・コーランは答えた。「大方、主人のミルクでしようよ」 (「笑談事典」 ベネット・サーフ) 


4と9の数字がつくとまずい
国税庁の酒の鑑定を科学的な立場から検討してこられ、統計学の大家でもある佐藤信氏の面白い実験がある。同じ酒に1から10までの番号をつけ、適当に二つずつ組にしてどちらが美味しいか、という実験を数十人の人にテストしてもらった。同じ中身であるから差が出てはいけないのだが、統計処理すると有意差がはっきり出てしまった。これでわかったことは中身が同じてあるにもかかわらず、4と9の数字がつくとまずいと答える人が多く、5や3では美味しいと答える人が多いということである。この結果から好かれる数字を順にあげていくと、5、3、1、8、7、2、6、10、9、4という順である。これは日本人の数字の好悪の順を示しているのであろう。これは大変重要なことで、我々は物心がつく頃から5や3が好きになっているようだ。(「食文化・民俗・歴史散歩」 横田肇) 


食がほそった結果
私は大食の方だが、最近は年齢のせいもあって、すこし食がほそった。その代わりに、酒の量がほんの少しふえた。少ししか飲んだり食べたりしないようになると、却って味に神経が集中すると見えて、この頃は酒の銘柄にも気をつけるようになった。特に、ワインは目下、興味を持っており、以前は料理の注文だけして、酒は全くソムリエ任せであったが、最近はパリや南仏のレストランに入っても注意深くワインリストに目をとおすようになった。(「食べて儲けて考えて」 邱永漢) 


今だって酒臭え
また『悟られ坊主』という咄がある。表へ「南無大悲遍照金剛」といって坊さんが貰いにくると、内から、「でないよ、あっち行け、帰れ、通れ、やれないよ」というのを、奥から母親がたしなめる。「これこれ、そのように口汚くいうものでない。弘法様が今でも生きていて諸国を廻ると聞いた。ことによるとあのお坊様は弘法様かも知れない」表の坊さん「さてはこの家の老母に悟られたか」ふたたび息子が「何をいうんだい、この坊主この間居酒屋で酒を飲んでいやぁがった。今だって酒臭え、この辺を銭貰って歩く乞食坊主だ」「ほい、また悟られた」という落ちであるが、この咄を演っていると客間から、お客が他の客に聞こえるように大きな声で、「あの咄は、また悟られたというんだよ」と落ちを先にいってしまった。この場合グーッと詰ったが、「今夜はあのお客に悟られた」といって大喝采で降りてきたという。これは先代三升家小勝という人の事実談である。(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) 


お土産
九代目の団十郎が山内容堂の酒宴に招かれての帰り、「お土産がある」というので待っていたら出てきたのは車夫つきの人力車。さすが土佐のご隠居、やることが豪華だ。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


大酒飲みの家老
更に南方は故事を援用して役人たちを説得しようとした。
昔、伊勢の国に野沢という大酒飲みの家老がいた。事あるごとに酒の効用を説いて「上:夭、下:口 の」に耽ける。ところがこの家老が仕えていた殿様は賢い人だった。「のう野沢、その方はそれでもよかろうが、お前も子供がもしお前の真似をして大酒「上:夭、下:口 の」みになったらどうする」と尋ねた。すると家老は一言もなく、即日ぷっつり禁酒した。この熊楠自身も、随分聞こえた酒飲みだったが、一子蟇六(長男、熊弥の事)が生まれて以来、盃を顧みようとはしない(筆者註。これは真っ赤な嘘)、君子(くんし)たるもの台所に近づかないのは生きものの命を取るのを見たくないからだ。ショウペンハウエルは牛や馬が苦しんでいるのを見ると歯を食いしばってこらえたという。この郡、または町や村のお役人よ、自分の植えたもの、作ったものを他人に破壊されると面白くないだろう。自分たちが死んだ後で位牌を焼いたり、石碑を売りとばされたらどう思う?腹がたつだろう。その心から推しはかって村人の大切にしている神社を無理に合祀したり樹木を伐ったりしないことだ。(「紫の花.天井に」 楠本定一) 明治39年西園寺内閣が成立させた神社合祀令が実施されつつあったときのことだそうです。 


口の職
人は最も当(まさ)に口を慎むべし。口の職は二用を兼ぬ。言語を出(いだ)し、飲食を納(い)るる是(これ)なり。言語を慎しまざれば、以て禍(か)を速(まね)くに足り、飲食を慎まざれば、以て病を致すに足る。諺(ことわざ)に云う、禍(わざわい)は口より出で、病は口より入ると。
[訳文]人は最も口を慎まなければならない。口は二つの職務を兼ねもっている。一つは言葉を発することであり、他は飲食物を取り込むことである。人が言葉を慎まないと、禍を招くことがあり、飲食を慎まないと、病気になることがある。諺に、「禍は口より出て、病は口より入る」とあるのは、全く今のべた意味である。(「言志四録」 佐藤一斎 川上正光訳注) 


「大波小波」
源蔵ケ原の露地のおくにいたころは、もつとも意気軒昂たる時代で、ときどき電灯代も支払えないようなことも多かつた。私は机のはしに蝋燭を立て、正面に一斗甕をおいて酒を呷(あお)りながら原稿を書いていた。都新聞(現在の東京新聞)に「大波小波」という匿名欄が出来たのもその頃で、金がなくなると二枚半くらいの原稿を書いて東京へ出ていく。大森から新橋までの電車賃は五銭くらいだつたと思うが、ときによつて、そんな金もなくなつてしまう場合がある。私は平気で高下駄をはいて東京まで歩いていつた。高下駄しかなかつたからである。ところが、その日にゆくということを予約しているわけではないので、責任者のいないときもあり、止むなく、そのまま、また歩いて帰らねばならぬようなこともあつた。足駄は斜めにへつて、行くときとくらべると実に歩きにくかつたが私は平気だつた。(「人間随筆」 尾崎士郎) 


韓の昭侯、豊島与志雄、柳田泉
韓の昭侯はある時酒をのみ、酔ってうたたねをした。かぜをひいてはと冠係が上衣を昭侯に掛けた。昭侯はやがて目を覚まし、上衣がかかっているのを見て、「誰がかけたか」と問うた。そして衣係を職務怠慢で罰し、冠係を越権で罰した。
豊島与志雄は大の酒好きだったが、仕事の打合わせの会を料理屋ですることをきらい、「仕事は仕事、酒は酒」というのだった。そのくせ彼の家に仕事の打合わせに誰かが行くと、用件はきかずに酒を出し、「まあいっぱいのんでからでいいじゃないか」
柳田泉は一生酒もたばこものまなかった。友人が「しかし酒もたばこも交際の道具だから、少しはやりたまえ」とすすめると、「しかし酒とたばこだけの交際なんて、ロクなものはないよ」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


一杯入れば、しゃんとなる
外村繁氏は、多少アルコール中毒の気があるらしく、飲み初めに、盃を手に持つと手が震え、酒をこぼしてしまうことがある。一杯入れば、しゃんとなる。酔えば、母校三高の寮歌や、古い小学校唱歌などを歌う。色白くからだが華奢なので、女形の所作が上手である。「金色夜叉」のお宮を演じたこともある。外村氏は真に放心して、酒を楽しむ風である。先達外村氏を訪ねると、たまたま浅見淵氏、江口榛一氏が来合せていて酒宴の最中で、私も御馳走になった。新婚の夫人にも、その時初めてお目にかかった。既に酔っていた外村氏は、殆ど手放しで夫人に睦み、我々は散々当てられたものであったが、あんな風に当て気なく振舞える人は珍しい。(「『酒』と作家たち」 浦西和彦編 「文壇酒友録」 上林暁) 


旨酒無しと雖も
(詩経小雅)車○ はかねて待望の婦人を娶(めと)り得て、共に宴して喜び楽しむことが歌つてある。第三章には
旨酒無しと雖も これ飲まんことをこひねがふ
嘉「肴殳」無しと雖も これ食はんことをこひねがふ
徳なんじと與にする無しと雖も これ歌ひ且つ舞はむ
とあつて、殊勝な亭主ぶりを発揮している。(「詩経随筆」 安藤圓秀) 


廿七八のころにや初て
酒は、人にもよるべけれど、早くのみそむる(飲み初める)はあしゝ。翁(定信自身)は盃もつこともせざりしほどなりしが、廿七八のころにや初てのみゝし。是もかの心術にては、酒のむともゑはざる(酔はざる)べしと、覚悟して、うけの祝儀とて酒などもらひしとき、大なるこつぷをも得しかば、それにてうけてのみしを、人々初てみし(見し)こと故驚きけり。一升の余のみても心術乱れずといひしが、はじめ也けり。それよりおりおりのみしが、一ヶ月に二三度に過ず。その比は血気も交り、かの修行などをふくみて、ゑはざることなどをこゝろみしが、おほくのみては、よき事あらざりけり。次第に盃もちいさく(小さく)してけり。五十半ころよりは猶酒気を減じ、大豆汁をいれてのむも、心ちよき時は、一日置、二日置也。この比少し中暑(暑気当たり)すれば、はやめしくふ事平にかはらねど、肉と酒はいまに禁ず。(「修養録」 松平定信 松平定光校訂) 


お燗が出来ました
きよ 「マアマア左様お二人で賞美(ほめ)ッくらばかりしてお出なさらずと、お燗が出来ました。お肴の参りますまで御漬物(おこうこう)でも一口お上んなさいまし ト一一燗ぢゃうしを一二袴へ入れ、足なしの好風(いき)な台のうへに小品丼(ちいさきどんぶり)を色々ならべ、一四ひゃうたんの清(すま)しどんぶりへ水を入れ、かはひらしき一五猪口(ちよく)を二ッばかりならべ持出−
梅 「サアおまへのお好きな銀杏の多分(たん)とはいった玉子蒸(たまごむし)が来たから、沢山(たんと)おあんがんなさい。サアまづお猪口を トお熊に盃をさす。これよりいろいろ酒事(さゝごと)ある−
梅 「なんでもないのサ。マア上(あげ)ませう。そして最(もう)、余(あんま)り長座になつたネ。どふか日が暮る様だ。大そふに久しく遊びました トにはかにかへる身づくろひをして、きせるをしまひ、さかづきをあずけにせんといふ。
注 一一 燗銚子。銚子の形をした燗徳利。 一二 客にすすめる徳利を入れておく器。 一四 瓢箪形の盃洗(はいせん) 一五 『守貞謾稿』に「盃も近年は用ふこと稀にて磁器を専用とす(中略)。磁盃三都ともにちよくと云」。 
四 酒盛。酒席の応酬。
三 盃を伏せること。(「春告鳥」 為永春水 前田愛校注) 


上戸あれこれ(2)
笑上戸、かたくなる上戸、高慢上戸、いっこく上戸、跡引き上戸、ちびちび上戸、愚痴上戸、いじのきたなき上戸、さみしき上戸、、臆病上戸、しゃれ上戸、料理通の癖、物忘れ上戸(「酩酊気質」 式亭三馬) 上編の末尾に、後編の内容として紹介されているものです。「其の外種々おかしき癖をしるし、来年の春より売りし申候」とあります。 上戸あれこれ 


二人の酔っぱらい
酔っぱらいが二人、首までウォッカに浸って、めいめいの女房の貞節を自慢しあった。一人の酔っぱらいは、ある夜家へもどったらベッドに女房が寝ていて、そのよこにニワトリの羽根が一枚、落ちているのを発見したという。感心なもんじゃないか。おれがいないとき女房はニワトリと寝ているらしいぜ。それを聞いたもう一人の酔っぱらいは鼻を鳴らして、こういった。おれが酔っぱらって家へもどったらベッドに女房が寝ていて、そのよこで運転手が寝ていた。どうやらおれがいないと女房はトラックと寝てるらしいぜ。(「開口閉口」 開健) ロシア小咄だそうです。


将進酒 酒をささげ進むる歌 李白
(一)君見不(ず)ヤ黄河之(の)水 天上ヨリ来ル        君見ずや黄河の水は源を天上に発し
奔流シテ海二到リ復(また)回(かへ)ラ不(ず)          奔流して東海に至り再び返らぬではないか。』
(二)君見不ヤ高堂ノ明鏡 白髪ヲ悲シム            君見ずや高堂の鏡に映して悲しむ白髪も
朝(あした)ニハ青糸ノ如ク暮ニハ雪ト成ル。          朝には青糸(くろいと)の如く暮には雪となつたのではないか。
人生 意ヲ得テ須(すべか)ラク歓ヲ尽スベシ          人生は心まかせにして須く歓楽を尽すべきだ
金樽(きんそん)ヲシテ空シク月ニ対セシムル莫(なか)レ。  金樽を空しく月に照らさせてはならぬ。』
(三)天 我が材を生ズル必ズ用ヰル有リ            天が我が才能を生んだ以上必ず用ゐる所が有らう
千金散ジ尽シテ還復(なおまた)来ル。             千金使い果しても元通り またやつて来る。
羊ヲ烹(に)牛ヲ宰(き)リテ且(しばら)ク楽ミヲ為サン      牛を割(さ)き羊を烹て、まあ大いにやらう
会(まさ)ニ須ラク一飲三百杯なるべし。             すべからく一気に三百杯飲むべきだ。』(「中華飲酒選」 青木正児訳著) 


黒豆汁を交え
つねの茶は、五加茶といひて、枸杞(くこ)、桑、蓮、菊、茶この五いろのはをほしてせんじ用ゆ。たばこは、ふき(蕗)のはをまじへてすふ。手の麻痺をおぼえて、白牛酪を日々用ひしが、三四年にて全く治しぬ。こは清血の剤なれば也けり。おりおり今にても壽生丸用ゆることあり。寒中は必ず用ゆ。酒はつねに黒豆汁を交て用ゆ。熱毒を解し、溜飲を遂、小水を通ず。尤酒多くのま[さ]ず。おほくは二日をき三日をきに用ゆ。やむを得ざれば日々用ゆることもあれども、いとまれの事也。(「修養録」 松平定信 松平定光校訂) 


寒鰤をコチコチに
寒鰤をコチコチに干し上げて、それを拍子木に切って、サッと火であぶった、これは酒のサカナだろうが、飯のおかずにしてもうまかった。これは鯛めし楼での話。(「舌の散歩」 小島政二郎) 鯛めし楼は名古屋の老舗のようです。 


霰酒(あられざけ)の話
霙酒(みぞれざけ)ともいい、むかしから南都の名産であるが、これは酒のなかに糯米(もちごめ)の糀を浮かべたものをいい、その製法は伸餅(のべもち)をつくり、これを細かくきざんで焼酎に浸漬(したしづけ)にし、そうして乾燥と浸漬とをくりかえし、それに霰をつくつて酒に加えたものである。これは江戸時代のはじめ、すなわち慶長年間 皇紀二二五六-二二七五 西暦一五九六-一六一五 に奈良の町医者糸屋宗仙というひとが、猿澤の池に霰の浮動しているのを見て面白くおもい、その状(さま)を模して製造したのが起りだといわれている。
句撰みや霙降る夜のあられ酒 丈草
寒菊の露やそのままあられ酒 利昌(「ものしり事典 飲食篇」 日置昌一) 


大友
祇園を流れる白川沿いの茶屋街に強制疎開の立ち退き命令が下ったのは昭和二十年三月のこと。強制疎開とは、道路拡張のために、あるいは空襲による火災を予想し、強制的に家を撤去させ、空き地を作ることをいった。祇園で、その対象となった地域が秀の勤めた屋形・小勝の向かい、白川のせせらぎ添いに茶屋の続く一帯だった。指定された家々は、いやおうなく床柱に荒縄をくくりつけて引き倒された。その中の一軒に文人茶屋として知られた「大友(だいとも)」もあった。 かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕のしたを 水の流るる 現在、「大友」の跡地には、この茶屋を心から愛した歌人・吉井勇の歌碑が立てられている。「大友」は文人墨客に愛された茶屋として知られる。女将の名は、磯田多佳(たか)。祇園に生まれ芸妓となり、茶屋の女将になった人である。井上流の舞から三味線、浄瑠璃と、歌舞音曲はもとより、多佳は読書家としても知られ、和歌や俳諧また書画にも才を見せた。そのため女将を慕う人々が自然と集まり、茶屋「大友」は、一種の文化サロンとなったのである。夏目漱石、高浜虚子、谷崎潤一郎、里見ク、吉井勇ら、明治、大正、昭和を代表する文士たちが、この茶屋に通った。なかでも多佳と文豪・夏目漱石との交遊は有名だった。漱石は京都に逍遙すると、多佳を相手に多くの時間を過ごし、東京に戻ってからも幾通もの手紙を書き送っている。漱石が京都で定宿としたのは木屋町御池にあった旅館の「北大嘉(きたのだいか)」である。「北大嘉」は多佳の住まう「大友」と、ちょうど鴨川をはさんだ対岸に位置していた。「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに」という前書きに続き、漱石の作った句がある。 春の川を隔てゝ男女哉 今はもう旅館、「北大嘉」もなく、跡地には、この句が碑として建つばかりである。「大友」は昭和二十年三月、強制疎開により取り壊され姿を消した。明治十二年生まれ、当時六十七歳だった女将の多佳は、あまりの悲しみから「大友」の後を追うように、その二ヶ月後、息を引き取っている。(「おそめ」 石井妙子) 


備後徳利
貧乏徳利は備後徳利からきた、つまり備前産のものより品が落ちるところからという説が面白い。(「飲んだくれてふる里」 小宮山昭一) 「びんごどくり」が「びんぼうどくり」になったという説のようですね。


八百屋から売るとは俗の知らぬ事 柳五37
魚貝その他なまぐさものや酒は寺では禁制だが、実は八百屋が持ち込んで売る。これが俗の知らない真相である。僧に対する諷刺の一つは殺生戒を犯すことのばく露である。(「川柳集 狂歌集」 吉田精一評釈) 


お墓したしくお酒をそゝぐ
昭和十四年五月三日、南信濃の伊那での句。前書に「井月の墓前にて」とある。伊那女学校の教師・前田若水を訪ねて、案内してもらったのだ。この句に並べて、 お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました 駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね 供へるものとては、野の木瓜の二枝三枝 の三句もある。(「放浪行乞 山頭火百二十句」 金子兜太) 


えどすけ[江戸助]
 宴席で受けた盃を飲み干し、すぐに返盃して満々と注ぐこと。[江戸の商船は江戸の物産を満載して来て残らず下し、上方の物産を満載して帰る](大阪-俗語)(江戸)
えどだすけ[江戸助け]
 他人の受けた盃を「上:夭、下:口 の」みほして返盃すること。(俗語)(明治)(「隠語辞典」 楳垣実編) 


八岐大蛇が飲んだ酒
「おかぐらなぞ、来年でも、御覧になれますです。けれど、差し上げたい御神酒は、去年の新米で仕込んで一年目のもの。女で言えば、番茶も出花、そらあ、甘くて、爽やかで、咽喉越しのよろしい濁り酒なんでございますよ」おやじは、僕を、何の合図もなしに、肩から、すとんと地面に降ろした。「濁り酒って、どぶろくですか」「はい、かむながらに、当社で作りました」「かむながらに、ね。てぇと米を生娘が噛んで涎と一緒に壺に入れて」「いえ、いえ。そうは致しませんが、何しろ娘盛りの味の良さ。是非、御高名な先生に味わって頂きたいと存じまして」おやじは「行くぞ」の一声を残し、おじいさんを楯にして人混みに突入して行った。おやじは、社務所の縁側に胡座(あぐら)をかいて、きちんと坐った禰宜のおじいさんと向かい合った。さっき、八岐大蛇に、お酒を注いでいた巫女のおねえさんが大きな湯「上:夭、下:口 の」み茶碗をおやじに差し出している。「うまい、ですな。こらあ。娘盛りの甘さ、爽やかさとは、よく言ったもんですな」とおやじは言い、茶碗を呷った。おふくろと僕と弟は、おやじの前に立っていたが、縁側が高いから茶碗の中に、何が入っているか見えなかった。おやじは「うまい」、「うまい」を連発して、巫女さんに七杯もお代わりを頼んだ。七杯目を一口啜(すす)ったおやじは「ああ、いい気持ちになった。俺は、帰るぞ。御馳走になりま」と立ち上がりかけたら、つんのめって縁側から落ちた。不幸中の幸いか。おやじは額にかすり傷を作っただけだったが、腰がゆるんでしまい立っていられず、禰宜のおじいさんと巫女さんに担がれて境内を出た。−
僕は、ちょっとの間だったが、後に残って、縁側の転がっているおやじが飲んだ茶碗を取り、底に溜まっていた白く濁ってた液体を、人差し指の先に付けて舐めてみた、舌に乗り、口中に広がった甘くて、ぴりっとした感触は、得も言われぬ、夢を見るような心地のするものだった。(「酒あるいは人」 池部良) 小学三年生の時だそうです。 目出度いときは冷や 


「演劇と酒」
アリストパネスの『平和』で、長い戦争に飽きた農民トリュガイオスは天に登り、洞窟におしこめられている平和の女神を引き出そうとする。彼を助けるヘルメスがまず金杯を供え、
酒を注いで、今日、もろもろのしあわせが
すべてのギリシア人のために始まるよう祈る
と祈願してから、農民たちの手で無事女神は引き出されるのである。そう言えば、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が天照大神を岩戸から呼び出すべく踊ったときも、酒はちゃんと一役かっている。(「珈琲店のシェイクスピア」 小田島雄志) 


ナツメグとポルト
食味の本とくると眼がくらむぐらいの数になるだろう。ロートレックもこの本で見るとずいぶん励んでいる。彼は飲むほうもいそがしくて、カクテルを作るのが趣味であったが、ポケットにいつもナツメグの実とおろし金を入れて持ち歩き、ポルトがでるといそいそとおろし金をとりだし、ナツメグの実をそれですりおろし、酒にふりかけて飲んでいたそうである。ポルトにナツメグをふりかけるというのはいまではあまり聞かないことだが、この実の香りは高くて気品があるから、カクテルにはよく使う。(「開口閉口」 開健) 


慳貪屋
また貞享の書に、食見頓(けんどん)は金竜山、品川おもだかや、同かりがねや、云々。
慳貪(けんどん)の名前に云へるごとく、強いざるの意を表はし、始め蕎麦に号(なづ)け、次に飯に移り、また酒に移り、遂には見頓女郎など遊女にも号けたり。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 


青山侯の家臣
はじめの一つは江戸時代の武士で、青山侯の家臣だった。ふだんから豪傑肌の大酒飲み…。金があればあるだけ飲んでしまうので、家には一文の貯えもない。妻をめとらず、したがって子も持たず、召使すら傭(やと)うゆとりがなかった。つねに粗衣をまとい、家にころがっているものといえば欠け茶わんに割れ鍋ひとつ。弓、槍、剣術、なんによらず武芸に秀でているのが取り柄だが、毎日ぐでんぐでんに酔っぱらって出仕すら怠りがちだから、「目にあまる不行跡、許せぬ」と、お叱りの上、ついに首チョン…。浪人させられてしまった。やむなく彼は国許を出、いずくともなく退散する。あとに残された家と家財を、藩の役人が数名接収しに来たところ、こっけいなほど何もないガランドウの家の中で、たった一つ、厳重に錠をおろした戸棚を見つけた。「なんだろう」むりやり、こじあけてみると、雨漏りを用心してか古合羽で覆い、さらにその上に竹ノ子笠を乗せたものがある。むしり取った合羽の下からあらわれたのは、なんと、藍革で縅(おど)したりっぱな具足一領、今の今、研ぎあげたかと思えるような、斬れ味するどい太刀一腰、そしてその脇に、これもピカピカな新鋳(ぶ)きの小判が三十両、袱紗(ふくさ)に包んで置かれていたから、役人どもは肝をつぶして家老に報告する。家老から藩公のお耳に達し、「飲んだくれどころか、見あげた心がけの侍だった。召し返そう。ただちに追え」ということになって、街道の八方へ人が飛ぶ。ついに近江の草津宿でつかまえ、帰参させたばかりか、もとの俸禄にご加増の沙汰まで賜ったそうな。(「はみ出し人間の系譜」 杉本苑子) 伴蒿蹊(ばんこうけい)の「続・近世畸人伝」にある話だそうです。 


神酒どくり
神酒どくり きゃたつの上で ふって見る  柳二33
反り橋は 生酔の歯が たゝばこそ 宝十二仁5
のみにげを して薬種やで とそを買 柳九20
(「川柳集 狂歌集」 吉田精一評釈) 湾曲した反り橋は、酔っ払いが渡るのは大変 医者が年末の薬礼と引替に正月の屠蘇をくれるが、払わないで薬屋で買ってすますのである。 


翌朝起床するまで一三時間
アルコールがアセトアルデヒドを経て分解される速度は、だいたい六〇sの体重の人で一時間七g。日本酒の〇・三合に相当。これを基礎にして、次のような単純な計算を試みることができます。午後六時から飲みはじめて、一一時に就寝、翌朝七時に血中アルコールがゼロで気分よく目ざめたいとします。飲みはじめてから翌朝起床するまで一三時間あるので、その間に〇・三×一三、約四合分のアルコール処理が可能です。つまり四合近くは飲める計算になります。−
五時間も続けて飲まないで三時間ぐらいで切りあげるか、早い時期にペースをあげてあとになるほどペースを落とすという飲み方がベスト。酔うほどに調子がついて、ピッチをあげるのが一番良くないのです。(「酒博士の本」 布川彌太郎) 


生酔
したたか酔って足がひょろついて歩かれず、道ばたに倒れて、トロトロとして起きてみると日も暮れて、月影に自分の影法師は向うにうつる。「どうもどうも御馳走にあずかりました。おいとま申します」と影法師に丁寧に頭を下げて立ち上がり、又向うに自分の影法師のうつるのを見て、「これァどうも、御丁寧に−」(「笑いのタネ本」 宇野信夫) 


ドイツ人の食生活
ずっと前、ドイツのミュンヘンで典型的なドイツ人の食生活の一日、というのを体験した。ドイツ人が朝からビールを飲んでいるというのは本当で、勤め先に行ってもブルーカラーの労働者などは午前十時のイップクの時にもビールを飲む。それからひるめしの時にもビールを飲み、三時のおやつがわりにビールを飲み、夕方のめし前に家族と一緒に飲み、夜は親しい仲間と本格的に飲む−という具合だ。ぼくはビールが好きだが、このドイツ人の一日、というのを体験していたら夜九時頃にはもうだいぶヨッパラッていた。(「ひるめしのもんだい」 椎名誠) 


予行演習
内田百關謳カのお弟子さんで、日本国有鉄道本社に勤務している平山三郎君が「実歴阿房列車」という本を出した。それを読ンでいたら、第一〇〇頁に、こンな場面にぶっかった。昭和二十四年、先生は六十歳、還暦を迎えて華甲の宴が催された。秋には虎の門の晩翠軒でむかしの学生たちのお祝いの会があった。はじめお酒でその内にビールになり、陽気に歌いだす頃からウイスキーになった。先生が手洗いにたって戻ってきてみると、様子が少しおかしい。さっき迄がやがや「上:夭、下:口 の」ンでいた老学生が、一列にならンで、正面の椅子の上で白い布をかぶッている北村さんを、順順おがンでいる。その前にはご飯を丸く盛って箸が一本つッたッていた。先生の告別式の予行演習をやっているのである。本職の坊主になった剛山さんの枕経がいつまでもつづく。北村さんの白布をめくって、そこいらに残ったお酒の中に、割箸のさきをひたして唇をぬらしたら、うまそうに箸の先をペロペロとなめた。もういいよ、解ったぜ、と先生がいったら、北村仏むっくり起き上がって、先生、今晩はおめでとうございます。どうか長生きして下さい、といった−というのである。(「めぐる杯」 北村孟徳) 


したみ酒
注文すると、美しいグラスで恭しく酒が供される。西麻布の某店ではバカラのグラスが出てきた。なみなみと注がれた酒は表面張力の限界を超して下の受け皿にこぼれ落ちる。卑しい酒「上:夭、下:口 の」みの私は、受け皿に湛えられた余剰分を店側の好意だと喜んでいた。ところが昨今はこれがすっかり形だけのものと成り果ててしまい、サービスどころか皿の分も料金のうちという印象が強い。いきおい感謝の念は薄まるばかりで、それなら最初から大きな酒器に注げといいたい。何より、店内を観察してみると、多くの客が酒の処遇に苦慮しているのではないか。女性は例外なくグラスの底をハンカチで拭く。だが底の酒を拭っても皿は満杯なのでグラスを戻す場所がない。男性客もせっかくカッコをつけてデートしているというのに、唇を尖らせ、ひょっとこのような面相で受け皿に口を寄せている。(「うまい日本酒はどこにある?」 増田晶文) 


酒の俳諧(2)
下郎等に酒もり過ぎて鯖の鮨 几董
鮨を圧す我れ酒醸す隣りあり 蕪村
盃を重ねし舌や胡瓜揉み 失名
熱燗の舌に筋子をつびしけり 睡草
冷酒に大根おろしをなめにけり 朝輝
心太酒の肴にたうべけれ 召波(「俳諧 たべもの歳時記」 四方山径) 


陶磁学者で陶芸家
小山冨士夫は昭和五十年十月七日、土岐市五斗蒔(ごとまき)の沢の陶房で急逝した。享年七十五才。死因は心筋梗塞だった。彼は世界的な陶磁学者であり、また優れた陶芸家でもあった。こんなタイプの学者は、小山の前にも後にもいない。まさに、やきものを愛し、酒を愛し、そして人を愛した七十五年の生涯であった。小山は亡くなる二日前、川喜田半泥子の十三回忌のため津の千歳山に招かれ、広永陶苑で痛飲、その晩、無理やり車に乗せられ土岐まで送り返された。これが小山の最後の酒席となったようだ。小山は酒を飲めば徹底して鯨飲し、大声でイタリア歌曲を歌い、興に乗じて自作の短歌などを和紙や色紙に書きなぐった。そうしたエピソードは、彼と交遊のあった人から常に聞かされる話である。まことに天真爛漫というか、豪快奔放というか、金が入れば友を呼んでみな飲んでしまった。しかし、若い頃の彼は、厳格なクリスチャンで酒は一滴も口にしなかった。小山がはじめて酒を口にしたのは昭和八年、田澤坦の出版記念の祝賀会でのことだが、鯨飲するようになったのは、なんといっても永仁の壺事件(昭和三十五年)以降のことである。それ以前の厳格な小山を知る人の中には、事件以降に彼の性格が変わったという人もいるが、私は必ずしもそうは思っていない。確かに、事件以降、酒の飲み方は激変し、それまでと違って天衣無縫に振るまうようになったが、それは小山の内面に隠れてていたもう一人の小山が現れたのだと私は理解している。(「小山冨士夫随筆集 解説」 森孝一) 昭和8年、小山は33歳だそうです。 


白という字
さて灘の銘酒には「白鷹」「白鶴」「白鹿」などと白という字が附いたのが種々ありますが、これはみな、ハクと発音する事になつております。それはどうしてシロと言わないか研究して見ますと、白は要するに精白の意なのです。よい酒を醸造するには米の精白をよくする事が第一條件であります。(「食味の神髄」 多田鉄之助) 


酒屋の看板
紅葉山人が横須賀へ遊びに行つてゐると、宿の隣に洋酒屋が出来て、ペンキ屋が横文字の看板に筆を揮ったのがBoots & Shoesであつた。如何に何でも酒屋の看板に「長靴半靴類」はひどいといふので、紅葉が宿の者に話し、宿の者から隣に注意した。酒屋の方では横文字は一向知らず、一切ペンキ屋任せだから、早速ペンキ屋に掛合つたが、これも横文字不案内の点に変りはない。そんな事はない筈ですと、虎の巻に相当する手帳を繰(く)つた結果、右の頁が名酒の看板、左の頁が靴屋なのを、うつかりして左右を誤つたものと判明した。(「明治の話題」 柴田宵曲) 戻


3種の酒のブレンド
印刷会社勤務のOさんはきき酒については実績はない。しかし、この人だけの楽しみ方を1人実行している。3点の吟醸酒を楽しんだ後、3種の酒のブレンドを始める。このブレンドの腕はなかなかのもので、絶妙な味わいの酒をつくって、どうですかと私のところに持ってくる。(「幻の日本酒を求めて」 篠田次郎) 


チンダ酒は飲んでいいんです
鈴木 パンはあったんですか。
越中 江戸時代のパンは公式には長崎にしかないんです。なぜかといいますと、パンに葡萄酒はキリスト教に関係あるからです。しかしオランダ屋敷のオランダ人が「自分たちはパンを食べなくては生活できない」というので、幕府は一軒だけ出島の近くにパン屋を認めたんです。"パン屋"と書いてあります。そのパン屋は、朝何個焼いて納めると、その数がちゃんと書いてあります。ところがチンダ酒は飲んでいいんです。
鈴木 チンダ酒とは?
越中 葡萄酒のことなんです。葡萄酒は飲んじゃいけない、パンも食べちゃいけない。しかしチンダ酒は飲んでもいいというのです。チンダ酒とはチントピノーのポルトガル語のことなのです。チントは赤、ピノーは葡萄酒。だから日本語でいえば赤葡萄酒のことなんですね。結局は同じものなんですよ(笑い)。(「続々 友あり 食あり また楽しからずや」 鈴木三郎助グルメ対談) 「長崎学」の越中哲也との対談だそうです。 


三片貨
上機嫌の一人の紳士が、克己週間の企てに感動させられて、教区の牧師を訪れて、十志(シリング)六片(ペンス)の喜捨を申し出た。そのお金は悉(ことごと)く三ペンス銅貨であつた。此の喜ばしい喜捨に対して感謝した後、牧師は訊いた。『だが、どうして貴方は三片貨だけで持つて来たのかね』喜捨者、羊みたいな顔付で『私は毎日、ウヰスキとソーダとを大杯で三杯宛(あて)飲むのが習慣でした併(しか)し貴方の御熱心に感動させられましたので、何か止めなければ相済まぬと感じましたのです、そして三片銅銭はソーダを止めた金なんです』。(Humour,p.119)(卅ノ七)(「酒の書物」 山本千代喜) 


二、三店
いま酒を飲むといったらほとんど新宿である。それもほんの二、三のよく行く店ばかりで、もうそれ以上あらたに「飲み場所」を開拓していく意欲も熱意もない。この先住居や仕事場をどこかとんでもないところに移す、ということもないだろうから、この状況は当分続いていくのだろう。いいんだ、おれの人生はもう酒場はこの二、三店知っているだけでいいんだ。それで死んでくんだ、とこのごろフト思う。(「ひるめしのもんだい」 椎名誠) 


アルカリ性
小泉 あれはフランスを占領していたドイツ軍の一部の部隊がノルマンディにいたとき、雨霰のように連合軍の飛行機が爆弾を落としてきた。それを計算できなかったドイツ軍は敗走し、戦いは終わった。なんでそれまであまり爆弾を持っていなかった連合軍が、あんなに大量の爆弾を持っていたんだろうかと言いますと、それは簡単、また微生物です。そして原料は芋です。アイダホとかあのへんは大量にじゃが芋がありますからね。まず芋を硫酸で煮ますとデンプンが分解されてブドウ糖になる。それをカセイソーダ=石灰のアルカリで中和していって、普通はPH7ぐらいでおさめるところを、逆にPH9ぐらいのアルカリ性にまで持っていった。そこに、お酒をつくる酵母を入れますと、酸性のところだと酵母はブドウ糖をエチルアルコールにするのですが、アルカリ性のPH9ぐらいまでいくと、その酵母はブドウ糖を一〇〇パーセント、グリセリンにしてしまうのです。異常発酵といって、とんでもないものをつくってしまう。
南 普通ならお酒つくるはずの酵母が、グリセリンをつくってしまったと。
小泉 そうです。アルカリ性だと彼らはストレスを感じてお酒をつくらなくなってしまうんです。微生物は何も言いませんし感情もないけれど、生き物ですから、すごくストレスを感じるんですよ。
南 そのストレスで、また有用なものを生み出しちゃったのが面白いですね。
小泉 それで、そのグリセリンを硝酸と反応させれば爆発力の強いニトログリセリンになります。こうやって、芋から大量に爆薬ができるわけです。だから裏を返せば、戦争を終わらせたのは微生物ですよ、僕に言わせれば。(「発酵する夜」 小泉武夫) 南伸坊との対談です。 


肴のサンマ
「サンマの刺し身を買って来たぞ」「本当は丸ごと一匹買って来て自分で3枚におろして作るのが理想なんだけど」「新鮮なものなら切り身を買って来るのがてっとり早い さあまずは下ごしらえだ」「バットの上に刺し身をならべて」「うす〜く塩をふる」「このまま10〜15分ぐらい置いたら」「酢でサッと洗って」「これで下ごしらえ完了 じゃあ初めに昆布締めから」「まず幅広の昆布を2枚用意して」「片面を酒でサッとふいたら」「下ごしらえした刺し身の半分を」「昆布をはさんで」「輪ゴムをかけてラップで包み」「冷蔵庫で30分から1時間ほど寝かせる」(「風流つまみ道場」 ラズウェル細木) 


「一気飲み」の盃
ひょっとこ杯、天狗杯、おかめ杯の三つと、青い軸の小さな独楽(こま)がセットになっているのだが、実はこれ「一気飲み」の盃である。高知では今でもよく使われるそうで、何人かが集まったら、まず車座になるところから始まる。そしてジャンケンで勝った人が独楽の青い軸を持って回す。独楽は三つの面から成っており、A面にはひょっとこの絵が描かれている。B面には天狗、C面にはおかめの絵がある。回した独楽が止まって倒れると、ABCのどれかの面が上を向く。同時に青い軸も倒れて、車座になっている誰かの方を指し示すことになる。高知弁の説明書きには、「独楽が止まった時、青い軸が向いた方に座っておる人が、上を向いちゅう絵の盃で酒を飲むがぜよ」とある。たとえば独楽が「ひょっとこ」の面を上にして止まり、青い軸が指し示す位置に私が座っていたとする。そうすると、私はひょっとこの盃で酒を飲むわけである。「ひょっとこの盃は口のところに穴が開いちゅうき、酒がまけんよう人さし指で穴を押さえて、一気に飲まんといかんぜよ」なのだ。もし天狗が上を向いていたなら天狗杯で飲み、「天狗は鼻が曲がって置けんき、一気に飲まんといかんぜよ」となる。安心なのはおかめで、おかめ杯は小さい上に置けるので、これはホッと一息つける。とは言え。みんなが待っている以上、そうそうチビチビ飲んでもいられない。要はどれが出ても「一気飲み」をせざるを得ず、いかにも豪快な土佐らしく、また粋なお座敷遊びだ。(「食べるのが好き 飲むのも好き 料理は嫌い」 内館牧子) 


躁鬱
躁鬱で大きく移り変る北杜夫氏、例えばである。酒の方でも大きな差がある。鬱の時は、ほとんど外出しない。しかし、酒は飲む。マンガを見ながら、グイグイとやりだし、一晩ウイスキー一本をあける。それでも、躁の元気はかえってこない。そんな日が続く。躁の時は、外に出る。酒場でも元気な大声ではしゃいでいる。「億単位の金は問題じゃない」とか、「今度、小説を止めて石のカンヅメ会社をつくり、アメリカへ輸出して、大もうけする。そうしたら、チップ五千万単位であげるよ」とか、やたらと大言壮語。ついには、あやしげな歌と踊りにあいなるが、ご当人はおぼえていないらしい。(「ここだけの話」 山本容朗) 


さら川(10)
接待は三軒目でもまだ素面(しらふ) よみ人知らず
飲みながら胃ガンの話に花が咲く ブウフィブウフィガール
妻風呂へ待ってましたと盗み酒 のんべい紳士
下戸悲し金と時間の無駄使い ひさし
米を研ぎ炊きあがるまで一人酒 単身赴任(「平成サラリーマン川柳傑作選」 山藤+尾藤+第一生命=選) 


酒に十(とお)の徳あり
室町時代の狂言「餅酒」にある言葉。次のように十の徳をかかげている。 独居の友、万人と和合す、位なくして貴人と交わる、推参に便利、旅の食となる、延命の効あり、百薬の長、憂いを払う、労を助く、寒気の衣。 また、江戸時代の中期、柳沢淇園著といわれる『雲萍雑志』にも、次のように十の徳をあげ、酒を讃えている。 礼を正しうし、労を慰め、愁いを忘れ、鬱を開き、気を散らし、毒を消し、病を防ぎ、人と親しみ、縁を結び、人寿を延ぶ。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


三上戸
書けば自在にペンが動き、上演すればことごとく大当りをとるという、行くとして可ならざるはない状態にあった。そして彼は、ただ人間のありとあらゆる気分に、好奇心を燃やしさえすればよかった。こうしてさまざまなの姿を描きつくした彼は、のちにS・T・コールリッジによって、「千万の心を持つシェイクスピア」と言われることになる。だが、とぼくは思う、このあらゆる気分を味わいたいという願望は、ひょっとしたらシェイクスピアが三十二歳になって、つまり青春が足早に去っていくのを感じとって、ふともらしてしまった本音ではなかったろうか。もしそうであれば、ぼくにも実感としてよくわかる。という話をしたら、ある先輩が、「あんたは中年になってもまだ毎晩あらゆる気分を味わってますね、と言いたいんだろう」と言ってウィンクした。その前の晩、同じバーで、「あんたは酒が入ると五分おきに笑い上戸と怒り上戸と泣き上戸が入れかわるのであつかいにくいよ」とぼくが言ったことを覚えていたのである。(「珈琲店のシェイクスピア」 小田島雄志) 


「歴史と人びと」
ローマ時代、皇帝カリギュラの死後、その愛馬が執政官の一員の地位を得た。会議には出なかったが、象牙製の入れ物から草を食べ、金の容器でワインを飲むなどの、いい待遇を受けた。
中国の詩人、李白は幼時から学問にすぐれていたが、剣も巧みで、任侠の仲間に入り、殺傷事件も起こしている。神仙にもくわしく、小鳥を数千羽も操った。明るい性格で、むやみと女性にもてた。商家の出で、科挙を受験できなかったが、高官の娘と結婚した。しかし、出世がうまくいかず、各地を旅し、詩を作り、酒を好み、才能をねたまれ、入獄するなど、異色な人生。日本からの留学生、阿倍仲麻呂も友人のひとり。(「きまぐれ遊歩道」 星新一) 


狼連
それに一般の食卓から少し離れて、我々の特別席には菜っ葉服を着、頭を角刈りにした(吉邨の)次郎さん、咽喉まですっぽりかぶる細君の編んだらしいプル・オーヴァーを(モンマルトルあたりの兄(あん)ちゃんによく見受ける)着、大きく肥ったハッちゃん(サトウ・ハチロー)、それに天鵞絨(びろうど)の服か粋(いき)な縞物(しまもの)の着流しかの(宮坂)普九さん、久留米絣の私が(これが一番威勢がない)客席の方をじろじろ眺めているのが、他の目にはお雇いの用心棒に見え、人々は何となく不気味に思うものか、甚だ紳士的な態度を持していた。断るまでもあるまいが、我々は用心棒ではなく、むしろ客よりも無遠慮にお店の大事な女給さんをからかい、隙あらば手など握ろうという狼連であったのだ。もっとも我々の立場は朗らかにしているから威張ったものだが、決して他の客同様ではなかった。というのは、中央のジョッキは他のお客が飲み残したジョッキをさげる時、女給は必ずそこへあけて行くために置いてあるので、半分以上になれば、一座の兄貴分の普九さんがめいめいのコップに注いでくれる。上野三橋亭の生ビールは当時有名だったが、我々は泡立つビールは飲めず、狐色に澄んだ少しばかり気の抜けた飲み残しビールを飲むのだった。−
どうして我々に限ってこのような特権が得られたかというと、昔は観桜会、夏は納涼会、秋は観楓会、冬はクリスマスと四季それぞれに店の装飾を変えるので、画家図案科の次郎さんは斬新なデザインを考案するのである。メニュや立看板に洒落た詩のような文句を書くのがハッちゃん。主人に経費の交渉やら相談一切はマネージャー格の普九さん。そして赤青黄の提灯が出来て来ると、身軽な私が脚立(きゃたつ)の上に昇って、次郎さんの指図通りに釣る役目である。(「私の人物案内」 今日出海) 


税務署長
そこで、私は赴任後まもなく税務署員に、待合の女将の中で最も人柄もよく、誠実な人を教えてもらったのである。それは和歌山市付近によくある姓であるが、貴司という待合であった。私はある日女将をたずねて、実は私は月給が百三十五円であること、その中五十円くらい下宿代にかかること、従って待合の払いは毎月五十円くらいしか当てられないこと、遊びは短時間でもよいからできるだけきれいな遊び、無理のない遊びにして欲しいこと、さらに、芸者はなるべく一回ごとに人をかえて多くの芸者に顔を知ってもらうことを頼みこんだのであった。そうなると、顔はみっともないが人のよい女将はすっかり私の味方になってくれて、悪い遊びは強くないし、金のかかる遊びもやらせない。今夜はこのくらいにして、飲み足りなければ長火鉢のそばで飲ませるといったふうであった。幸いに一年くらいのうちに新内の芸者はほとんで一巡して顔なじみになってしまった。もちろんこちらは覚えないが、芸者の方はよく覚えてくれる。酒屋さんの宴会などでも芸者がまず顔なじみらしく挨拶に来るので、酒屋さんもなかなかあなどりがたい、すみにおけない署長だということになってしまった。(「政治家のつれづれ草」 前尾繁三郎) 


武玉川(7)
ちろりにて心安きをさかなにて(心安い友との話が肴)
初雪ハ降りそこないも酒に成(雪の多少は関係なし)
生酔の帯仕直して欲が知れ(酔っているようでも)
蠅の命も行く行くハ酒(酒も人間もといった気持ちでしょうか)
酒の肴に鼻をつまゝれ(肴が買えないので)(「武玉川(一)」 山澤英雄校訂) 


ぽちゃん
吾輩は我慢に我慢を重ねて、ようやく一杯のビールを飲み干した時、妙な現象が起こった。始めは舌がぴりぴりして、口中が外部から圧迫されるように苦しかったのが、飲むに従ってようやく楽になって、一杯目を片付ける時分には別段骨も折れなくなった。もう大丈夫と二杯目は難なくやっつけた。ついでに盆の上にこぼれたのをぬぐうごとく腹内に収めた。それからしばらくの間は自分で自分の動静を伺うため、じっとすくんでいた。次第にからだが暖かになる。目のふちがぼうっとする。耳がほてる。歌がうたいたくなる。猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。主人も迷亭も独仙もくそ食らえという気になる。金田のじいさんを引っかいてやりたくなる。妻君の鼻を食い欠きたくなる。いろいろになる。最後にふらふらと立ちたくなる。立ったらよたよたあるきたくなる。こいつはおもしろいとそとへ出たくなる。出るとお月様今晩はと挨拶したくなる。どうも愉快だ。陶然とはこんな事を言うのだろうと思いながら、あてもなく、そこかしこと散歩するような、しないような心持ちでしまりのない足をいいかげんに運ばせてゆくと、なんだかしきりに眠い。寝ているのだか、あるいているのだか判然しない。目はあけるつもりだが重い事おびただしい。こうなればそれまでだ。海だろうが、山だろうが驚かないんだと、前足をぐにゃりと前へ出したと思うとたんぽちゃんと音がして、はっといううち、−やられた。どうやられたのか考える間がない。ただやられたなと気がつくか、つかないのにあとはめちゃくちゃになってしまった。(「吾輩は猫である」 夏目漱石) 


イグ・ノーベル賞に推薦
ところでわたしがイグ・ノーベル賞に推薦したいと思つてゐるのは、『森浩一、食った記録』のなかの「食材の統計」ですが、これは一九八一年から二〇〇一年まで(森さんが五十二歳の年から七十三歳の年まで)の毎日の記録で、それぞれの食品が一年(一〇九五食)で何回になるかを年ごとにまとめたもの。加ふるに、食材ごとの二十一年間の平均値も算出してある。前人未踏の研究である。年ごとの移り変わりも興味深いものですが、ここでは平均値だけを写すと、 
蜜柑 一一六 柿 二四 桃 二二 さくらんぼ 一〇 河豚(身) 二〇 (皮のみ) 六 鱈(身) 一五 (子) 四四 はも(身) 二五 (皮) 七 鯛 七五 かれい 五二 しらす 五五 鰯 一〇五 昆布 一五七 のり 一〇七 もろこ 一六 鰻 二五 鶏卵 二五〇 牛 一三五 牛の加工品 二三 豚 六四 豚の加工品 九七 鶏 一〇七 雀 一 酒 二三九 粕汁 二八 飯 五九五 粥・おじや 七八 すし 八四 いなりずし 二一 カレー 三二 そば 三二 うどん 七一 パン 一五八 豆腐 一七五 コーヒー 一七五(「森浩一さんの研究を推薦する」 丸谷才一) 


長兵衛と十郎左衛門
水野十郎左衛門が(幡随院)長兵衛へ使者をよこし、「…もはや互いに争うべきものでもあるまい。旗本と町奴は和睦するべきである。それについて、久しぶりに酒くみかわしつつ、いろいろと語り合いたく思う。躬(み)どもが屋敷までおいでねがえまいか」と口上をつたえた。長兵衛は承知をした。配下のものや妻の阿金が懸命にとどめるのを振り切って、男の意地を立てぬき、死地へおもむく長兵衛のいきさつは、よく知られているところの「巷説(こうせつ)」だし、事実、長兵衛は水野屋敷へ一人で出かけて行き、殺されてしまっている。芝居でやると、長兵衛を風呂へ入れて裸にしてしまい、水野が槍をもって襲いかかるわけだが、実際は、酒宴の最中に多勢の旗本奴が襲いかかり、なぶりごろしにしてしまったともいわれる。ときに長兵衛は三十六歳。これが本当なら、どうも旗本奴は、武士のくせにすることが汚い。長兵衛の死体を筵(むしろ)にくるみ江戸川へ投げこむという、まるで犬の死骸をあつかうような仕方であった。この死体は三日後に、小石川・骭c橋の下へ流れつき、土地の者に発見され、浅草の長兵衛の配下が引き取った。別に、もう一つ、これは水野十郎左衛門の実弟・又八郎成丘(なりおか)の子孫の水野家につたわる説がある。それによれば、長兵衛を風呂に入れて殺したのは水野の家来たちで、そのとき水野は大久保彦左衛門と酒をくみかわしており、さわぎをきいて風呂場へ駆けつけて見ると、長兵衛はもう虫の息であったので、やむを得ず槍をもってとどめを刺し、家来二人の無謀な忠義立を叱責した。家来たちは申しわけのため、切腹したという。このほうが、何か現実性をもっているように感じられるのは筆者のみであろうか。(「戦国と幕末」 池波正太郎) 


日本酒の現状
酒蔵の経営を圧迫している一番の要因は、何といっても日本酒の消費が長期にわたって低迷し続けていることだ。国税庁の試料によると、清酒の消費量は一九七三年をピークにずっと減少し続けており、二〇〇二年にはとうとう九〇万キロリットルの大台を割り、全盛期の半分近くまで落ち込んでしまった。この長期凋落傾向はまったく回復のメドが立っておらず、〇三年度からは消費量で焼酎に抜かれるありさまだ。おかげで酒類全般における日本酒シェアは、とうとう一〇パーセントを切ってしまい、「日本酒=売れない酒」に堕してしまっている。九一年にはシェア一四・五パーセントを維持していたというのに。いやもっと言えば、現在は最盛期の半分しか消費されていないのだ。(「うまい日本酒はどこにある?」 増田晶文) 


米、作家 ヘミングウェー 一八九九−一九六一
元ヘビー級チャンピオンのジーン・タニーは時々、ハバナのヘミングウェーの家を訪問したが、二人で魔法びん一本分のダイリキをあけたときなど、誘われて素手のスパークリングの相手をした。あるときヘミングウェーが調子に乗って、タニーにハードパンチを浴びせた。怒ったタニーはフェイントをかけてヘミングウェーのガードを下げさせ、「二度とやるなよ」と厳しく言い放って顔に脅しの一発を見舞った。(「世界おもしろ雑科2」 ウォーレス、ワルチンスキー他) 


友どち打むれて
一四繋(つなぎ)馬の不遠慮なる、声色(こわいろ)浄瑠璃のかまびすしき、なま酔いの腕まくりと、未熟なる詩歌発句(しいかほっく)に、あたら桜を穢(けが)さんよりは、只(ただ)友どち打(ち)むれて、静(しづか)なる所に酒酌(くみ)かはしたるぞ、一五越(こよ)なふ奥ゆかしと見ゆ。或(あるい)は其日も暮方の一六朧月夜に、敷(しく)ものもなく独楽の樽枕に、いかなる夢を結(むすぶ)かはしらず、いびきの声の聞ゆるは、一七もぎどふにてまたおかし。
注 一四 青年武士の花見。 一五 甚だ。 一六 新古今、春上「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき」。 一七 無法。不作法。(「風流志道軒傳」 平賀源内 中村幸彦校注) 


李白の一升ビン
西脇順三郎氏はむつかしい詩をつくった人で有名である。そのなかで、いまでも記憶にのこる易しい詩の一節として、「囲炉裏で、アカシアの木を焚いていた 老人の 忘らるるとは−」というのがある。なんにも解らない二十二歳の私は、囲炉裏でアカシアの木を焚くつもりで、その小さな一軒家の六畳の間のまん中にあった掘炬燵のヤグラを取りはらったあとを囲炉裏裏仕立てにし、炭火をおこし、そこへ、鰯のミリン干しをかけ、酒だけは出雲銘酒の李白の一升ビンをそなえるという、そんな頭のおかしい二十二歳の高校生であった。図書館の書庫で、原先生が私を叱咤した当面の問題は、東京からはるばると山陰までやってきて、勉強もろくにせずに一軒家に引きこもったなり、鰯のミリン干しを食べていることではなかった。問題は、教室への出席日数が足りないということであった。「きみは、もう一日休むと、学校から退校になるのだよ。」−と、原先生は言いながら、しだいに、顔が蒼ざめてこられたことを、いまでもあざやかに記憶している。(「あゝ玉杯に花うけて」 扇谷正造編 「はぐくんでくれた自由」 田所太郎) 

試料分析

試料             日本酒度 アルコール分 酸度 糖分(エキス) 分析者
明治14年 菊正宗 +9 18.1 3.5 0.72 佐藤ら(昭53)
明治10年 +16 17.6 4.0 (2.48) キンチ
明治37年 優秀酒 +14 16.8 3.7 (3.5) 肥田
明治42年 +14 17.9 2.7 (3.3) 江田
昭和13年 市販酒上酒   -1.3〜-20.4[-11.2]   15.7 (0.165)   3.4 奥田
昭和13年 市販酒中酒 +5.4〜-22[-8.8] 14.0 (0.166) 3.1
昭和13年 市販酒下酒 +13.4〜-14.2[-2.4] 13.0 (0.161) 2.27
昭和50年 市販酒 -5 16.0 1.4 3

(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


周蔵と日蓮僧
讃岐国高松に津高屋周蔵という大酒飲みがいた。ふだんは人なみに肴を用意しちびちび飲(や)る。ところがいざ飲むとなると玄米に生塩を肴に、飲むほどにその数量いくらということをしらない。そこへある日、周蔵の檀那寺に日蓮宗の僧がふらりと訪ねてきた。かねて聞き及ぶには、この土地に周蔵という大酒飲みがいるとか。願わくは、その御仁と会って飲みくらべをいたしたい。周蔵、挑戦を受けて立った。しかしせっかくなので、この機会に近在の酒徒を集めて酒飲み大会を催してはどうか。諸方に呼びかけると、五十人ばかりの我と思わん大酒飲みが集まってきた。周蔵と日蓮僧が上の座をしめ、玄米と生塩を肴に飲みはじめ、ややあって「はや足れり」と盃を伏せた。「その升数をはかるに、壱斗四升八合とかや」。一人頭にしても七升四合だ。他の自称大酒飲みはどうしたか。あいだに二、三升は干したものの、頭痛や嘔吐の発作でみるみるバタバタ倒れていった。それを後目(しりめ)に、周蔵と僧は家までの一里あまりの道のりを、折からの雨に雨具をつけ足駄をはいて、「うちかたらひつゝかへりけるとぞ」。天保二年のことだそうで、江戸の国学者山崎美成の随筆集『三養雑記』にある話である。(「雨の日はソファで散歩」 種村季弘) 


黒岩さんと梶山さん
佐々木 黒岩先生っていうのは大変強かったですね。黒岩さんと梶山さんは文壇酒徒番付で横綱を張り合っていましたから。黒岩さんはレミ・マルタン一本槍。鬱状態の時は一晩に一本半。
山本 でもね、カラッとした酒で、大阪でも最後にはうたっている。
佐々木 それでいてひとつ冷めた部分がある。梶山さんは飲まれちゃってベロベロになるんですけれど、黒岩先生は決して乱れない。ご一緒に飲んでいると、何か底知れない深海みたいな所にずしっとのめり込まされるような感じ。檀さんとはまた違う感じですけれど。
山本 黒岩さんは株屋をやっていたでしょう。株屋の飲み方が残っている。(笑)僕は晩年の梶山さんはやはり酒乱だったと思う。
佐々木 一種のね。あの人は泣き酒なんですよ。つまり心許している人ばっかりの時にさめざめと泣く。やおっぱり一種の酒乱ですね。だけど、野坂さんというのは絡むわよ。平素はあんまりモゴモゴッて何言ってるか判らない所があるけれど、飲むと歌をうたう時みたいないきおいで絡まれる。(「酒徒恋うる話」 山本容朗VS佐々木久子) 


落語家(はなしか)三代蝶花楼馬楽
奇行こそ多かったが、読書家で俳句(ほつく)をよくし、本箱の扉には「軍書」「俳書」としたためてあった。いあにも落語家(はなしか)ならではの生活感(あじわい)あふれた句を詠んでいる。
五月雨ややうやく湯銭酒のぜに
古袷(ふるあわせ)さんなみあはす顔もない
そのあした天麩羅を焼く時雨かな−(「大正百話」 矢野誠一)  


驍ソゃんはハシゴ
驍ソゃん(横山隆一)はハシゴである。一つの家に三十分はいない。ニコニコ笑いながら、チョコマカと出はいりするクセがある。先日も一緒に歩いたが、何しろ、私と驍ソゃんでは身長で一尺あまりのヒラキがある。その驍ソゃんが先に立って、次から次へと行く。そのうしろをカバンをぶらさげた私がついて歩いているところは、正に用心棒である。そうして、飲みおわると、間髪を容れず、パッと払うんだから、その点でも、こちらはお伴である。驍ソゃんの方が顔なんだからしかたがない。困った、いい酒友である。(「酔虎伝」 玉川一郎 「洋酒天国」 開健監修) 


トルコ風の鯖の塩焼き
トルコのイスタンブールのガラダ橋のあたりに、鯖の塩焼きでアラクを飲ませる店が並んでいた。塩焼きは日本風でなく、鉄板の上に乗せてオリーブ・オイルで焼くスタイルだった。しかし、味わいとしてはあきらかに鯖の塩焼きなのであり、ノスタルジアもからんで旨かった。アラクは、ペルノーやアブサンの系類で、澄んだ液体だが水を加えると白濁して、好きな奴にはこたえられないが、苦手な奴は勘弁してほしいという匂いの、えらく度の強い焼酎的リキュールとでもいうのだろうか、これがまた、トルコ風の鯖の塩焼きに合うのだ。左手にアラクの入った小ぶりグラスを持ち、これに右手に持ったグラスの水を注ぎつつ飲むのだが、これについても地元のスタイルがあるのだと教えられた。右手と左手のグラスを顔の前で旋回させるようにして、水を注ぎ口に含むことをくり返す。これに鯖の塩焼きという肴を加えるのだから、かなりの熟練を要するのだが、何ともいえず気分のよい昼酒の飲み方であるのはたしかだ。(「河童の屁」 松村友視) 


詩は詩仏
れいの、太田蜀山人が、「詩は詩仏、絵は文晁に、狂歌俺れ、げい者小万に、料理屋御膳」と、文政年間の江戸の代表にあげた、詩の詩仏−大窪詩仏かかつて山本北山の孝経楼に学んでいたころ、小壺に酒をいれ、机の下においてチビリチビリとやっていた。或る日、詩仏の不在中、"校長"北山がこれをみつけ、学生にこごとをいった。『これは誰のじゃ?すべて小を好む者はともに天下の大事を論ずるに足らぬ。わが門に人物の小なる者がいるとは、嘆かわしい』あとでそれをきいた詩仏は、ふんぜんとして、すぐに大きな空樽を買って来て、自分の机上におき、少量の酒をいれて、きしきしと柄をぬいては小酌、酔って大声で詩を吟じたので、さすがの北山も大閉口した、という。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


曼魚と白秋と三重吉
(宮川)曼魚が(北原)白秋を連れて(鈴木)三重吉を訪れた頃、三重吉は明治大学の英語の先生をしていた。三人は意気投合して、早速酒を「上:夭、下:口 の」みはじめた。三人共酒には眼がなかった。だんだん酔いがまわってきた。三重吉と白秋とは、鉤(かぎ)の手に曲がった廊下から連んで小便をした。その時、三重吉が、「白秋よ、これで歌をよめ」と言った。白秋すかさず、「三重吉よ俺とお前の小便が十字となりてありがたしありがたし」と歌った。以来、二人は仲良くなり、三重吉は『赤い鳥』を出すにあたって、童謡面で協力を求めた。その創刊号に載った「栗鼠(りす)、栗鼠、小栗鼠」は、白秋の童謡の処女作であった。(「物語大正文壇史」 巖谷大四) 


◇八月一日
<此日、上様御重症、万一の節は、一橋様御相続、且、至急につき長坊(防)へ御出陣の趣、仰せ出す>しかしこれは、慶喜の本心が結局は将軍職にあることをかえってはっきりさせた。松平春嶽は<ねじあげの酒飲み>だと慶喜を評し、寄ってたかってねじあげられた上で、仕方なく酒を飲まされた恰好をとろうとしているのだと、慶喜の腹の底を見ぬいていた。じっさい、そのような芝居をうって朝廷、幕閤、大奥から無理矢理頼まれて将軍職に就いてやったという形をとらなければ、かつて家茂に先んじられた憤懣は癒やすことができなかったであろうし、反面、うっかり将軍になろうとすると、幕臣からも大奥の女性たちからも総スカンを食うことは目に見えていた。そのくらい自分が人気のないことを、慶喜みずから知っていた。それだけでない。彼の不人気なことは、彼の生家である水戸藩でさえ、同様で、市川派と称する反烈公主義者たちは、慶喜の将軍就任のときは自分たちの首がとぶときだと警戒していたほどである。(「歴史と人生と」 綱淵謙錠) 


被災地の日本酒 仏で安全性PR
【パリ=三井美奈】日本酒の安全性をアピールするイベントが21日、パリ日本文化会館で行われ、津波で大被害を受けながらも復活した岩手県大槌町の清酒「浜娘」などが披露された。イベントでは、日本側の酒造専門家が安全検査について説明した後、福島、岩手など被災地を含む全国の日本酒14銘柄を試飲した。フランスの飲食店・ホテル経営者、対日貿易関係者ら約130人が参加し、通信会社社長フィリップ・カトリーヌさんは「すばらしい酒を飲んで、日本は復興できると確信した」と話した。(読売新聞 H24.02.23) 


運転者の周辺者への対策
運転者本人が酒酔い運転の場合で、
 酒気を帯びて飲酒運転を行うおそれがある者に対して車両を提供した人の場合は、
  5年以下の懲役または100万円以下の罰金
 飲酒運転を行うおそれがある者に対して酒類を提供した人の場合は、
  3年以下の懲役または50万円以下の罰金
 車両の運転者が酒に酔った状態にあることを知りながら自己の運送の要求・依頼をしてその車両に同乗した人の場合は、
  3年以下の懲役または50万円以下の罰金
※酒酔い運動とは、飲酒により正常な運転ができないおそれがある状態での運転。
(「わかる身につく交通教本」 全日本交通安全協会) 平成19年9月19日施行の道路交通法だそうです。 


コーヒー泡盛
沖縄で「泡盛珈琲」というのが売られていたことを思い出したのだ。それはドリップバックになっていたのだが、説明書きには確かコーヒー豆に泡盛をしみこませ、粉末にしたとあった。その場合はあくまでも「泡盛風味のコーヒー」だが、私は逆に「コーヒー風味の泡盛」にしようと思ったわけである。作り方なんぞは自己流だが、梅酒を作るのと同じにやってしまえと、乱暴なことを考えた。大きな広口瓶に泡盛を入れ、氷砂糖を適当に放りこみ、コーヒー豆も適当な量を放りこんだ。すべて「適当」であり、果しておいしくなるのかまるで自信がなかった。二、三日すると、泡盛がコーヒー色に染まってきた。そして、三週間かそこらの頃、コーヒー豆を取り出した。これも果実酒を作る時は、実を取り出すことを思い出し、そうしてみただけのことである。ところが何と!この「コーヒー泡盛」のおいしさと言ったらない!ほとんどセクシーでさえある。私は寒い日の来客にはお湯で割り、暑い日には冷水か炭酸で割って出すのだが、誰にも大好評である。(「食べるのが好き 飲むのも好き 料理は嫌い」 内館牧子) 


美少年
熊本の銘酒に「美少年」というのがある。明治十年の西南戦争の西郷軍を題材にした熊本民謡「田原坂」 は、 雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂 で始まるが、二番は、 右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)にたづな 馬上豊かな 美少年 で、酒の銘はここからとっている。明治元年、江戸城総攻撃は勝海舟と西郷隆盛の談判により無血開城となったが、一矢むくいたい旗本の若い者達は彰義隊を結成し、上野にたてこもった。取り囲んだ官軍側は彰義隊と江戸市民を遮断したところ、六、七歳の少年が包囲網にひかっかり、薩摩軍の指揮官桐野利秋の前につれてこられた。桐野が「なぜ包囲網を突破しようとしたか」と聞いたところ「兄の彰義隊士に弁当を届けにいくところだ」という。そこで桐野はその少年に弁当を届けることを許した。倒幕軍総司令官大村益次郎の三方を囲んで一方をあけておく作戦と佐賀藩のアームストロング砲により、彰義隊はあっけなく敗走してしまったが、寛大な桐野になついたその少年は明治六年征韓論に敗れた西郷、桐野にしたがって鹿児島についていった。そして明治十年西南戦争で熊本城攻防戦の激戦地「田原坂」に十六、七歳になったこの少年は馬に乗って、さっそうと西郷軍の先頭に現れるのである。この美少年は三宅伝七郎といい、一説では敗報を西郷軍本営に伝える伝令役で、その情景を歌ったものという。(「食文化・民俗・歴史散歩」 横田肇) 


柱焼酎
柱焼酎とは、もろみ末期に焼酎を添加したり、また、新酒を入口桶に受けるときに焼酎を混和して酒質の強化をはかるという、柱焼酎の初見は、『童蒙酒造記』(巻四)の「伊丹流之「上:古、下:又」(こと)」条である。焼酎の添加、混和量は一〇パーセント程度で、そのため「風味酒(しやん)として足強く候」、つまり、さばけのよい、しかも火持のよい諸白が得られた。今日、アルコール添加の日本酒づくりを邪道のようにいう人がいるが、元禄のこうしたすぐれた技術を背景に日本酒が育成されてきたことを知ってのうえで、なおかつ公言しているのであろうか。 (「日本の酒5000年」 加藤百一)  


養老の滝の自家用版
最近何を食べても、カラダの中で酒になってしまい、いつも酔っ払っているという、養老の滝の自家用版、札幌の大石氏が話題の的となったが、治療に当たった北大の医師の話では、胃腸から出血するので手術した際、腸内部の所々に酵母の貯蔵場のようなものが出来たのが原因だとのこと。だから、澱粉質の食物を摂ると、酵母がそれをアルコール化してしまうので、腸に吸収されて酒を飲んだと同じ状態をひき起こすのだというのである。−
この例は名古屋にもあり、続いて千葉県にも発生、卵、魚などを食べると一時間後に息がアルコール臭くなり、顔も真っ赤になって千鳥足となり、四時間も酔っ払い続けるというので、鴨川町東条病院に入院、同院の橋本博士、千葉大相磯教授が検査した結果、やはり胃液や便に沢山の酵母菌が発見され、酩酊症と断定された。この場合は一年前胃の手術を受け、その際大量の抗生物質を使用したその副作用で、腸内の細菌が酵母菌と変わる菌交代症が原因とみられ、サッカロミイセス菌であることもつきとめられた。鶏肉の油いためを食べるとグデングデンに酔うし、五〇グラムの葡萄糖で一五分内に酔ったという。(「日本酒物語」 二戸儚秋) 


阿部能成、横光利一、中井正一・深田康算
阿部能成は酔うと鉄道唱歌をはじめから全部うたって、記憶力を誇示したのは有名だが、新橋の名妓達の戸籍も、彼は全部記憶していて、人を驚かしたことがある。
ある中華料理屋が腕自慢で、上海帰りの横光利一を招いて、上海の味と食べくらべてもらおうと歓迎会を開いた。横光はだまって料理を食べ、ただひとこと、「ここのビールはうまいですな」それはどこにでもあるふつうのビールだった。
ある時中井正一が酔っ払って、先生の深田康算に、「わたしの名前をショウイチ、ショウイチといいますが、本当はマサマズと申します」といってあいさつすると、やはりゴキゲンンの先生も、「わたくしの名をみんなコウサン、コウサンといいますが、本当はヤスカズと申します」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎)