どんちゃん 小間物店 ルバイヤート(抄) 程赤城 酔飽淫臥 酒造株 アルカイオス 酒 甘い日本のアルコール対策 両親・家族についての歌 ▽屠所の羊 シラコの味噌煮 岩手県和賀郡立花村 宮澤喜一の酒 忘年会 まめととくり【豆と徳利】 『日本山海名産図会』にみる酒造生産工程(2) 読書家 銀盃 切落し 後撰夷曲集(7) ハイチでは 掛米液化装置 鮎貝槐園、海上の孤島より帰つて 貯蔵 鱧しゃぶ 熱々の肉豆腐が大人気 細雪(渋谷) 初代川柳の酒句(23) 枝豆 えだまめ 大関 五常内儀抄 コリャコリャコリャ餅食らわぬか酒食らわぬか いたみ【伊丹】 雪に旧師紹巴を訪ふの記 月下独酌 其四(一) チロリ とくとく ⦿あなどれない老化促進作用 玉子酒 たまござけ ひや酒やはしりの下の石畳 近世酒屋の規模 酒に対いては当に歌うべし、人生幾許ぞ 一人当たり酒消費 不作の年の酒 甘すぎない日本酒はいい △洗浄米 おん[恩] 思わぬ融合(3) おなじく 肴(2) 店内 酔えば天下を失う 審査の一部、二部 21日 みょうりが悪い その三「私の立場」 59.水でもワインでもない モトかき歌 52於金に答ふ 野分(のわき) 食物年表1000-1300 上戸 下戸 <解説>酒造りにおける蒸米、麹、水の割合 テーブルに一滴 田井柳蔵曾觴余於其宅 豬頭 廻船問屋 卓袱料理 やさしい禁酒のための16の決まりごと とげとり 大統領の弟の功罪 人民の敵 だるまのふね[達磨の船] 熟柿 じゆくし 酒に酔て泥となる 濁酒 思わぬ融合(2) 女楽のたのしみ 【第二〇七回 平成四年一〇月九日】 酒酣耳熱(シユカンジネツ) 15日 あたため酒 36酒を命ず 全国一を誇る越後杜氏 さじん-き[砂人忌] 符牒 (十五)さかひ 肴 △舂杵(うすつき) 村米制度 茶屋と酒 コニャック当主の批評は? 酒は天の美禄なり。 酒のうえの約束 結桶 煮酒 陶淵明詩片々(3) アル添純米酒 生姜酒 しようがざけ 995かまわない(L) 口腔ガン・食道ガン・喉頭ガン・S字結腸ガン ちろり コンプラ瓶 月下独酌 其三 (三) 麹室 泡消機(あわけしき) 槐園と、巣鴨に住みける冬。 ワラウ・インディアン 後撰夷曲集(6) またろく【又六】 『日本山海名産図会』にみる酒造生産工程 我が青春期 来会楽 一見客・常連客 妙な酒、妙な飲み方 岩手県上閉伊郡附馬牛村 すまんがかんべんしてくれ 鉄漿 かね 世に不益のこと多かるも 河太郎 食物年表(日本)(2) 春風馬堤曲 熱燗に雲丹 酒株 幸せな普通のドリンカー? 自堕落 生酒之事(2) 莫迦踊(2) 惜鱗魚 酒席の演説 思わぬ融合 一東奥濁酒ノ方 盃杯盞觴觶巵觥 旅中の飲食戒 高松まいまい亭 たるひろひ[樽拾ひ](2) 水屋の"水商売" 猿丸太夫 さるまるだゆう いしはらたらう【石原太郎】 ものうい酒 三ツ 御免酒 注文毎に、ありがとう 岸田屋(月島) 酔わぬというが酔うた 酒にかかわる四字熟語 痛飲三斗この一夜 盃洗と盃台 まさむね【正宗】 思わず笑みがこぼれてしまう極上の酒が手に入るマニアの酒屋 (四十)わかのうら 後宮職員令 あんか(行火) さすがに吟醸香には敏感 後撰夷曲集(5) 五升ほどの購入券 海雲 『吟醸酒誕生』 酒徳 横光さん 岩手県下閉伊郡船越村 ちょびりちょびり 柔道部退部 <人間味>-居酒屋の人々 口訳祝詞 脳萎縮 国外産日本酒を桶買いする時代! 鉄漿かね 女性のためのプログラムを 柚子の花 葡萄酒というものは 酒価 「トリスを飲んで…」、「人間らしく…」、アンクル・トリス- 格闘家の結婚式 942情愛 詶中都小吏攜斗酒双魚于逆旅見贈 しもんこなから 離脱症状の出現-依存症の完成 〇酒樽に餅 33腹愁 △米 かん-ぞう[肝臓]
どんちゃん
酒宴などで大きな声で話したり、、歌を歌ったり、踊ったりして、大騒ぎをするときの音。また、ママはその様子。「朝の3時半までドンチャン騒ぎです」(週刊現代00.12.16号)
◇参考 「どんちゃん」の「どん」は太鼓の「どん」の音。「ちゃん」は鉦(かね)(縁のついた円盤形の小型で平たい銅製の打楽器)の音を表したもの。江戸時代の国語辞書◆『俚言集覧(りげんしゆうらん)』に、「どんちゃん ドンは鼓声也、チャンは鐘声也」という説明がある。本来「どんちゃん」は、歌舞伎の合戦場面を盛り上げるところで打ち鳴らす音そのものだった。しかし、中には「あぁ百二十五両棒に振らうかと思へば、心は太鼓鐘よりどんちゃんします」(浄瑠璃)◆『車還合戦桜(くるまがえしがつせんざくら)』のように、心配事で心が乱れて胸がどきどきする様子に転用した例も江戸時代に見える。現代では酒を飲んで歌ってにぎやかに遊興する様子を「どんちゃん騒ぎ」という(まれに「どんちき騒ぎ」という場合もある)が、江戸時代には「どんちゃんつかす」あるいは「どんちゃんつく」などと言っていた。(間宮厚司)
◆俚言集覧 江戸時代の国語辞書。太田全斎(一七五九-一八二九)の著作『諺苑(げんえん)』に村田了阿らが手を加えて成立したもの。最終的な成立年は不明。書名は石川雅望著の「雅言集覧」に対するもので、その名の通り、方言、俗語、諺などを集めてある。地域としては江戸語が大半を占める。なお、写本として伝わっていた本書を明治期に井上頼圀らが増補改訂して刊行した『増補俚諺縦覧』がある。 ◆車還合戦桜 江戸時代の浄瑠璃。享保一八年(一七三三)初演。(「擬音語・擬態語辞典」 山口仲美編)
小間物店
「下戸の建てたる蔵もなしといふ。上戸は楽しみが多いから、ちと酒を呑んだがよい」「そんなら貴様は蔵を建てたか」「ヲゝ建てたとも。池田屋の蔵も伊丹屋の蔵も、おいらが寄つて建てた」「エゝへらず口ばかり。おいらは酒を呑まぬによつて、大晦日が楽だ。そなたの内のやうに懸取が降るとは違ふ」「いや蔵はひやうひやくだが、見世をば方〻へ出した」「何みせを」「小間物店を」(初登・安永九・上戸)
【語釈】〇ひやうひやく=滑稽、冗談の江戸語。(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)
ルバイヤート(抄) オマル・ハイヤーム 小川亮作(おがわりようさく)訳-
*
酒をのめ、土の下に友もなく、またつれもいない、
眠るばかりで、そこに一滴の酒もない。
気をつけて、気をつけて、この秘密、人には言うな-
チューリップはひとたび萎(しぼ)めば開かない。
*
われは酒店に一人の翁(おきな)を見た
先客の噂をたずねたら彼は言った-
酒をのめ、みんな行ったきりで、
一人として帰っては来なかった。(「酒の詩集」 富士正晴編著)
程赤城
北窓瑣言曰、程赤城年六十ニ過テ又来ル。イカナル故ト問フニ、第一日本ニ飯ニ馴レバ、彼国ノ飯ハ食シガタク、第二酒、第三味噌汁ナク香ノ物ナク、渡海シテ死ンマデ用ユベシト云、誠ニ米味噌ルイ、我国ニ長成セル人ハ其ヨキコトヲ知ラズ。長崎ヱ来ル唐人彼国ニテ勝レタル上戸モ、日本ノ酒ハ三ツ一ツモ飲得ズ。酩酊スト云フ。米穀万国ニ勝レテ精実ナレバ、酒モ味厚ク酔モ甚シ。(「楓軒偶記」 小宮山昌秀(楓軒)) 貝原益軒の自娯集にある文章のようです。
酔飽淫臥(スイホウインガ) 酒食満ち足りればすぐ横になる。酔っぱらいのだらしなさをさしている(「紅楼夢」一回)
酔歩蹣跚(スイホバンサン) 酔いすぎてよろめきながら歩き、通行の邪魔になること。和語で言う「千鳥足」そのもの。慣用成句である。
截髪易酒(セツハツエキシユ) 髪(かみ)を截(た)ち、酒に易(か)える。晋の陶侃(トウカン)の母が、自分の髪を売った代金で酒を買い、息子の客をもてなした故事から。(「晋書」陶侃)
杯酒解怨(ハイシユカイエン) 杯酒もて怨みをとく。差しつ差されつの間柄じゃないか、過去のこだわりなど水に、いや酒に流そう、という飲酒哲学である。(「唐書」張延賞)
把酒臨風(ハシユリンプウ) 自然の風光を愛(め)でつ、泰然かつ自若として酒盃に臨(のぞ)む。これ、悠々自適の境地あり神髄ならんや。(范仲淹「岳陽楼記」)
不勝杯酌(フシヨウハイシヤク) 杯酌に勝(た)えず。宴会でへべれけになり、お開きになって酌み交わす相手が誰もいない様子。(「史記」項羽本紀)(「日本文化総合辞典」 荻生待也)
酒造株
幕藩体制を維持するための主要な収入源であった米を原料とする酒造業は、米価調整の役割を果たすものとして重要視された。寛永末期の米価高騰の経験から幕府は万治三年(一六六〇)御触書を下し、酒造家に対し明暦二年(一六五六)まで遡り、毎年仕込みに使った酒造米の数量を申告させた。米価調整を目的とした酒造統制のための基礎調査である。これに基づき各酒造家の酒造米高と酒造家の住所・氏名を明記した酒造株札が営業鑑札として交付され、記載数量以上の米を酒に仕込むことを禁止した。この鑑札に記載された酒造米高は明暦の酒造株と呼ばれ「その何分の一造り」といった酒造制限が行われた。なお酒造株は実情に応じて何回か見直しが行われている。図1にみられるように、江戸時代を通じて、大坂相場にみる米価は寛永期の石当たり銀二〇匁を最低として最高は安政期の銀一七〇匁と大きな幅で変動しており、米の凶作は農村では一揆をひきおこし、米価の高騰は都市騒擾の引き金となっている。これに対処して幕府は寛永十一年から慶応三年までの二三四年間に約六一回もの酒造制限令を出しているが、制限解除令は僅か五回に過ぎない(柚木前掲書)。(「江戸の酒」 菅間誠之助)
アルカイオス
アママカイオスが生きた前七世紀末から六世紀にかけて、レズボス島は政治的抗争の真っ直中にあり、この島の権門の家に生まれた詩人は、守旧派貴族の一員として若きより政争に身を投じて亡命の悲哀を嘗め、やがてギリシア七賢人の一人として知られるピッタコスが政権を握ると流亡の生活を余儀なくされ、「赦(ゆる)すは復讐するにまさる」とのピッタコスのお情けでレズボスに還ることを得たが、志を遂げることなく終わったその生涯は挫折と失意の連続であった。慷慨(こうがい)の士としてのアルカイオスは、その野心や志を「政治詩」に託したが、それはこの詩人の酒の詩の上にも、当然のことながら色濃く影を落としている。後にホラティウスによって模倣されたことによっても知られる名高い一篇、
それよ、今こそは存分に酔い痴れ
力のかぎりをつくして
酒くらうべき時ぞ、
かのミュルシロスめが
死におったれば
は、詩人の政敵の僭主(せんしゆ)の死の報に接しての歓びを詠った作である。酒の詩としては甚だおだやかではないが、これがアルカイオスの酒であった。ちなみにこの一篇は、叛乱を起こした史思明が官軍に敗れたとの報に接した杜甫が、驚喜して「漫巻詩書喜欲狂/白首放歌須縦酒(漫(みだ)りニ詩書ヲ巻イテ喜ビテ狂セント欲ス/白首放歌シ須ラク酒ヲ縦(ほしいまま)ニスベシ)」と詠ったのと一脈相通じるものがある。いずれにせよ、政争に敗れ、みじめな流亡の境涯にあってアルカイオスが飲んだ酒の味は、「悪ヲ憎ンデ剛腸ヲ抱キ」官途に就くことを冀(こいねが)いながらも、志を得ずして一生を窮乏と流浪のうちに送ることを強いられた杜甫の酒にも似て、苦いものであった。レズボスの詩人もまた唐代の中華の詩人と同じく、いわゆる「悲酒」を汲み「痛飲狂歌空度日(痛飲ト狂歌モテ空シク日ヲ度(わた)ル)」ほかなかったのである。(「讃酒詩話」 沓掛良彦)
酒
一
一〇八五 酒は体の衰弱を扶(たす)け、病める体を養うものであり、愁えを散じ薬の作用をたすけるものであるから、常用すべきではない。酒が入れば饒舌になり、饒舌になれば身は破滅する。よくよく戒めなければならぬ。
二
一〇八六 人は酒を飲まなければ、いくつかの地位が得られる。志や知識が昏(くら)くならないのが一つである。時を廃し事を失することのないのが二つである。失言をしたり態度をあやまったりしないのが三つである。わたしはこれまでに篤実で謹厳な人が、酒を飲んだのち、狂妄な人間に変じてしまったり、勤勉力行の人が酔ったことからその職業を失うことの多いのを見て来た。ましてや、醜態の極みは、妻子からも訕(そし)られたり笑われたりで、親戚や知人からも畏れられたり憎まれたりするではないか。『北窓瑣言』に載せるところでは、陸相扆(い)のところに、士大夫の子が謁見を請うて来たので、酌を命じたところ、飲めませんといって辞退したので、陸が「誠にその言葉通りであるならば、すでに五分は人物を調べたことになる」といったという。おそらく常日頃、酒で後悔することが十分あったので、酒の為に困ることがなければ、自然とその半分を減じることになるからである。(「五雑組」 謝肇淛 岩城秀夫訳注)
甘い日本のアルコール対策
無理な禁止よりも安全な使用をという発想である。日本と比較すると信じられないような事態と思われるのではないか。この視点をアルコールにあてはめてみると、実は各国のアルコール対策とはすべてハームリダクションなのである。それにくらべ、わが国のアルコール対策は実に特徴的である。リダクションどころか、むしろ酒害を促進しているとしか思えないのだ。日本の薬物乱用の現状(まだ根絶をという対策が現実味をもっている)の背景には、アルコールに対する、これまた先進国では珍しいほどの「大甘」の対策がある。テレビのスイッチを入れれば絶え間なく流されるアルコールのコマーシャル、少なくなったとは言え、世界でただ一つの国にしか見られないアルコールの自動販売機(これが日本にしかないという現実を知らない人が如何に多いか)はそのようなアルコール容認文化の象徴である。つまり嗜癖の対象をアルコールという薬物に一点集中させることで、他の薬物の乱用を相対的に防いできたといえないだろうか。このような信じられないほどのおおらかなアルコール対策は、アルコール対策に国家を挙げて長年取り組んできた国からすればうらやましい限りだろう。フランスは国家をあげて国民一人当たりの飲酒量を減らすことに努めており、その成果は表にもあらわれているだろう。またポーランドでは酒税収入の一〇パーセントをアルコール対策にあてられることが義務づけられている。-
まず一つは、低成長、不況、リストラなどで行き場を失い家族回帰したサラリーマンたちが「家庭」という密室の中において飲酒問題を呈していないかという点である。これは児童虐待と同様、プライバシーという防御壁によって容易に外部には漏れ出ないだろう。第二は、アルコールという薬物から他の対象に「依存症」が拡大しているのではないかという点である。我々のセンターの相談内容もアルコール問題は今や少数派であり、ギャンブル依存や薬物依存の問題が増加している。つまりわが国におけるバブル崩壊ひいてはソ連の崩壊に伴う地滑り的変動が、従来のアルコール一極集中であった依存症の変貌を生んだのである。このようにまさに「依存症は世につれ」といえるのだ。(「依存症」 信田さよ子) 平成12年の出版です。
両親・家族についての歌(全八篇中より)
1
プートゥー(原注一)の街の酒で
ごましおのお舅(とう)さんを酔わせよう。
黒砂糖、白砂と糖と菓子で
義弟(おとうとう)と子どもを手なずけよう(原注二)
原著者注
一 プートゥー 包頭のこと。綏遠の西にある。
二 手なずけよう 夫につげ口をせぬように。(「オルドス口碑集 モンゴルの民間伝承」 A・モスタールト 磯野富士子訳)
▽屠所の羊
最悪の運命に陥って、自己の力で窮地を脱し得ず、みす/\死地に就く場合の事を、形容するに『屠所(としよ)の羊(ひつじ)』なる熟語を用ひ、其の悄(せう)然たる躊躇の重き足を想像せしめる。ところが此の憐(あはれ)むべき
羊を屠所に駆るは、薬酒(くすりさけ)を羊に飲ませて夫を焚殺(ほんさつ)し、人間の薬食(やくじき)の材料に此の惨忍を敢てしたものである。
【浄土勧化標目章】天竺(じく)には羊を殺して薬に用ふるなり、屠処(としよ)と云ふは羊牛馬等を殺す処也、扨て其の屠処にて羊を殺す時屠処に茂架籬(もがり)を結びて其の中に壺をいけて薬(くすり)の酒を壺に入れて、扨てそのもがりの外に薪を積みて、茂架籬の内へ羊を追入れて、薪に火をかけて羊をあぶる、羊あつく侍り、もがりの中をぐるり/\と巡り、息絶えんとすれば壺の酒を飲んで息をつぎ、終にあぶり殺さるゝなり、去れば羊を駆りて屠処にいたるに、其の羊の歩みに随ひて己が殺さるべき命のつゞまるがごとく、人の命根のつゞまるも同事也。
西欧の形容詞では、従順なる事を『羊の如く』といふくらゐに、温和な家畜を、かくも無慙に虐待し、熟語に作るに至つては、酒の罪も亦深しと云ふべきである。(「酒文献類聚」 石橋四郎編)
シラコの味噌煮
作り方 ①シラコは酒でさっと蒸し煮にする。 ②白味噌はメーカーによって塩分が違うので、みそ汁よりも濃いめの味にだしで溶き、①のシラコを温めて仕上げる。
材料(2人分) シラコ…200g 酒…大さじ3 だし…1カップ 白味噌…適宜
このつまみに、この1本 浦霞うらがすみ 生一本浦霞/宮城 日本酒度…+1 酸度…1.4 価格…2620円(1.8ℓ) ●宮城県産のササニシキを使用した純米酒。米の旨味が生きたふくらみのある豊かな味とほどよく溶け合う。冷やでもお燗でも愉しめる一本。(船来亭)(「酒のつまみは魚にかぎる」 堀部泰憲編集)
岩手県和賀郡立花村
69酒盛の時にとくに定まった食法がありますか
盃はどういう順に廻しますか。酌は誰がしますか。食物はどういう順序に出されますか。廻されるものを各自が随意に取りますか、それとも一定の人が分配しますか。料理は特定の食器に盛られますか。
〇オフクデン-客分の席次は年齢順に並ぶ。七合入れのタイサン(大拓)は最後に年長順に廻す。各自は二合五勺入りのお椀でやりとりする。アゲコ、ヘラワタシが酌をする。亭主役・フロバン・椀洗い・台所・水汲みなどの各役割が定まっている。家へ帰れば、穢れるといって梯子に入れてつれて行き、寒中でも水ゴオリをとらせた。料理番はミソ酒を飲む。十七日は茶振舞。この時は女の人をよぶ。オフクデンの時は女は家にいられないから、村中の女を一戸一人年齢順にならび、男が女に御馳走してねぎらう。年取をよぶ。
70酒盛の後でさらにアト祝イとかウチ祝イというようなことがありますか。それを何といいますか。
残りものはどうしますか。
婚礼の時は、翌日茶振舞・旦那振舞・御苦労振舞。葬式の時は精進あげ。
〇オフクデンの御茶振舞。余ったものは皆入れて、雑炊を作って食べてしまう。何も残らないものだ。終われば次の宿まで、仮装行列をつくってかぐらへようしで送る。熊野様がより多いといえば(一番先頭に熊野神社の掛軸を持った人が立って)その家に熊野神社の掛軸をかけて、酒盛りを始め、踊りをやる。その時の仮装には、雷・稲妻・天狗は作らなければならない。法師もついて来る。ほら貝を吹いてやる。オフクデンには金持ちの人でも、皆にいじめられて年齢順にやらなければならない。オフクデンの時だけは、年齢順に絶対服従。逃げて家に帰れば、梯子にしばってつれていき、北上川につれて来て水に入れる制裁があった。
71酒盛に参加する人はどういう人ですか。酒盛の性質によって違いますか。
男ばかり,女ばかりという場合がありますか。それはどんな場合ですか。参加すべき人がしなかったらどうしますか。
〇オフクデンは男のみ。この村では、この酒盛を中心に制裁が行なわれた。ヘラワタシが逆に方法を教えて仕方を間違った時、おこられる。
〇水ゴオリの時は、ギンミ役がある。よく議論がおこる。
72共同食事、酒盛の費用は誰が負担しますか。村、組ですか。各自の負担ですか。あるいは物を皆が持ち寄りますか。
オフクデンの費用は、全部あげこが、米と薪・味噌・漬物・お金(ふつう一人五、七円を出した)。講は米だけ持ち寄り(五合あるいは七合)、酒や野菜は宿の人の御馳走。全部の持ち寄りではない。サナブリの時は、米とぞうよせに(雑用銭)だけ持ち寄り、他は宿負担。講(こう)と党(とう)の区別は困難。観音講あるいは観音党といずれもいう。
88醸造業者でなく,濁酒が造られていましたか。それはどんな時に造られたでしょうか名称は何といいましたか。
村祭りの時には今でも造りますか。どうしてつくりますか。芋酒、焼酎など造られましたか。これらの酒類は個人個人で造りましたか、村とか組とかが共同で造りましたか。女は関与しませんでしたか。
メグリ酒(濁酒のこと、ドブロクともいう)今から二十年ぐらい前までは盛んに造った。この頃は清酒はなかった。年中きらさずに造った。ざるでこして、カンナベで沸して飲んだ。粕は漬物か塩引など漬けるのに用いた。
89一年のうち酒を飲む機会はどれくらいありますか。平均一戸当たりどれくらいの量を用いますか。
どんな種類の酒ですか。毎日常用する人が何人くらいありますか。飲酒家と酒嫌いの比率はどれくらいですか。大酒家というのはどれくらい飲みますか。軽い程度の酒の肴には何を用いますか。
年中行事の時はほとんど酒を用いる。法事・伊勢参り・帰りの同行(どうぎよ)祝いや、女の善光寺参りなどのような特殊な酒飲みの機会には「入れ石」といって新米の出た旧の十二月あたりに、米を酒屋に持って行って、必要な時酒をもらって来た。米一升にいくらか残りを買って酒一升と交換した。それでふつう一戸では一ダンぐらい(七斗ぐらい)は飲む(もと三斗五升俵二俵一ダンとしたから、それくらいの酒を代わりに飲んだ)。このほかになにか振舞があれば、その倍もいった。
〇ふつうは新酒(しんし)とて安酒を飲んだ。古酒の時は残りを多くうった。もと一戸一人ぐらいは毎日酒を飲む人があった。今は入り石を廃止したからあまり飲まない。もともとは濁酒であった(米で造った)。甘酒には稗とか、糯・粟・クダケなども入れた。
〇村には酒の嫌いな人が三分ぐらいはある。
〇大酒家とは一升以上ぐらい飲む人からいう。
〇軽い肴としては、買って来たものはないから、あり合わせの漬物ぐらいで出す。(「日本の食文化」 成城大学民俗学研究所編)
宮澤喜一の酒
そして、山崎(正和)を驚かせたのが教養人ぶりにも増して、酔態だ。山崎と宮澤が顔を合わせていた会合は京都の大徳寺で開かれていたが、宮澤はその場がよほど好きだったらしい。首相になってからも激務の合間を縫って、わざわざ京都に出向き参加していた。もちろん、一国の首相だけにふらっと遊びに行けるわけもない。SPのみならず、京都府警が総力を挙げて護衛するので、閑静な大徳寺周辺が警護でいっぱいになり、異様な光景が広がった。異様な光景は寺の中にも広がっていた。宮澤は毎回、ぐでんぐでんに酔っ払って、秘書官に抱えられて帰っていくものだから手に負えない。宮澤は造り酒屋の息子ということもあってか、酒には弱くなかった。酒をある程度飲まないと酔わないが、酔うまでは相手に絡み続ける。ある時点を境に目が据わり、相手が誰彼かまわず演説が始まる。結局、酔っても酔わなくてもどっちにしろ絡み続けているのだ。酒豪で酒乱という最も性質の悪い酒飲みともいえる。ジャーナリストの立花隆も「酒乱の域に達しないうちは、人にイヤなからみ方をする時間がえんえんとつづく」とかつて記していた。自民党のドンで懐の深さで知られた田中角栄に「二度と酒を飲みたくない」とまで言わしめているからよほどだったのだろう。(「政治家の酒癖」 栗下直也)
忘年会
忘年会が始まるのもこれからであるが、これは余り年の暮を感じさせるものではない。多勢の人間が集つて飲んでゐるのは、いつだらうと、多勢の人間が集つて飲んでゐるだけのことで、騒いでゐるうちに年の暮だが何だか忘れてしまふ。忘年会も、新年の宴会も、出版記念会も、お通夜も、初めの気分が少し違ふのは別とすれば、皆同じである。と言つても、別に忘年会に反対する積りはない。口実は何であつても、多勢の人間が集つて時を忘れる機会を作るのはいいことである。新生活運動といふのは、何のことかよく解らないが、恐らく、さういふ運動が必要な程年がら年中、振舞酒を飲んでゐる人種がゐるといふことなのだらう。それならば、我々が知つたことではない。それで少しでも酒代が安くなるならば、結構である。併しながら、年の暮の気分を味ふのに忘年会が不適当であることは、、前にも言つた通りであつて、それには一人か、二、三人の友達とだけで飲むに限る。東京も暖房に石炭を使ふやうになつてから、冬は外国の大都会並に夕方になると靄が掛る。秋とは格段の相違が感じられる位早くて、午後を地下室の事務所か何かで過して出て来れば、外はもう暗い中に方々の電気が付き、十一月も半ばを過ぎれば、人や車の行き来もどことなく慌しいのを不思議に思うひながら酒を飲みに行くのは、なかなかいいものである。年の暮には誰にも忙しくなるのは常識で、目が廻りさうで正月が来ることなど信じられないことがあるが、それでも酒を飲むのは年の暮が一番落ち着くやうである。一年間の仕事が兎に角、もう終りに近いと思ふからだらうか。年の暮が勝負の職業も無論、少なくはないだらうが、一年こつこつ何かやつて過す仕事で食つてゐるものにとつては、年の暮はもうその年が終つたに近い。文字通りに、年の暮であつて、それだけに、酒の味に、普通はない何かが染み込む。或は、酒の味はさう変らなくても、自分が酒を飲んでゐる姿が一歩離れた所から眺められると言つていいかも知れない。そしてそれまでにあつた年の暮のことが頭に浮んで来る(「師走の酒、正月の酒」 吉田健一)
まめととくり【豆と徳利】
東芥子之介と云ふ手品師が、よく使ひ分けた品。(けしのすけ参照)
豆と徳利で身上吹けば飛び 卑芸で身を落とす
豆と徳利どつちらもかたき役 同上(「川柳大辞典」 大曲駒村)
『日本山海名産図会』にみる酒造生産工程(2)
《醪仕込》
こうしてできた仕込酛を残らず三尺桶に集め、そのうえへ一定量の蒸米と麹と水とを三回にわけて加えていく。これを添えとも掛仕込ともいう。その最初の添加を初添えといい、さきの元に蒸米八斗六升五合・麹二斗六升五合・水七斗二升を加える。同じく昼夜二時(ふたとき)ごとにまぜ合わせて、二日目は添仕込をしないで休み発酵させる(踊り)。三日目に三尺桶二本に分けて、そのうえにまた蒸米一石七斗二升五合・麹五斗二升五合・水一石二斗八升を加えてかき混ぜる。これが中添え仕込である。翌日さらに桶二本ずつにわける作業をする。これを大頒(おおわけ)とよぶ。同じくこれも二時ごとにかき混ぜて、その翌日また蒸米二石八斗五升・麹一石六斗・水一石九斗二升の第三回目の添加が行われる。これが留添(とめぞ)えである。または仕廻(しまい・仕舞)ともいう。以上、酛・添えの蒸米・麹は合わせて八石五斗、水四石四斗となる。このあと発酵の状況に応じて櫂入れをして酒の成熟をはかる。この櫂入れの時期が酒質を決定する非常に大事な作業となるのである。以上が三段仕込とよばれる醪仕込の方法で、約一石の醪を培養基として、糖化作用と発酵作用を並行して進行させながら、一三石余の酒を製造していく合理的な方法である。この仕込工程では生産用具として桶が使用され、それはおのおのの用途に応じて半切桶・三尺桶・六尺桶などに分かれている。作業が細分化されるにつれて用具もまた使用に適するようにつくられていくのである。(「酒造りの歴史」 柚木学)
読書家
前述の「Kさん」の焼き鳥屋には、入店してから帰るまで、ずっと読書に耽っている常連客がいる。当然、酒とつまみは注文するが、何度も見かけているのに、彼の名前は聞いたことがないし、ほかの客と言葉を交わす場面も、一度たりとも目撃したことがない。そう書くと、ずいぶん冷たい人、または引っ込み思案な人だと思われかねないが、別にそのような印象もない。ただ、家に帰る前に、一杯やりながら静かに本を読みたいだけのように思える。読書を嫌がる居酒屋は少なくないし、(「ここは図書館じゃないゾ!」と)、とくに呑み屋や大衆酒場ではその方針は理解できる。だが、本を読める酒場もあるとありがたい。私自身もたまに、居酒屋のカウンターで酒を呑みながら読書や執筆に没頭することがある。だから、自己正当化という動機もあるかもしれないが、迷惑をかけない限り、周囲の会話に関係なく自分ひとりの世界に浸る客がいてもいいのではないだろうか。とりわか「Kさん」の店の読書家のごとく、ちょっと立ち寄って、カウンター席で一杯ひっかけながら少し本を読んで潔く帰るのは、居酒屋のうまい使い方のひとつだと思う。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)
銀盃
わたくしの酒の記憶はお神酒(みき)から始まる。父が樺太(からふと)で漁業に従事していたせいか、小学校時代のわが家は信心深かった。家のわりには立派な神棚や仏壇があり、年越しの夜や正月三が日などには、その神棚や仏壇、それに床の間に特別にしつらえた祭壇に、父が灯明をあげ、お神酒に供えて廻り、家族全員がお参りしたのちに茶の間に集まって夕食の膳に向かうと、母がわたくしにお神酒を下げて来るように命じるのが常であった。わたくしはお盆を持って父の供えたいくつもの銀盃を下げて来る。銀盃の酒は真冬の寒さですでに外側から凍りかけていた。それをストーブの上にのせると、銀盃に付着した部分から融けはじめる。わたくしはその一つを押し戴いて、まだカプセル状に外側の凍っているお神酒を口に入れると、氷の中に閉じ込められた酒が、-そう、ウィスキー・ボンボンを食べたときのように、サクッと氷の砕ける感じがして、酒の香りが口の中いっぱいにひろがった。わたくしはその冷たい酒を飲み込むと、神様が全身にゆきわたる思いがして、子供心にもある種の緊張感と安堵感を味わったものであった。(「酒との出逢い 尾崎士郎先生との出逢い」 綱淵謙錠)
切落し きりおとし
切落しどじゃうに酒をかけたやう 明三義4
【語釈】〇切落し=芝居の舞台の大衆席
【観賞】よく見える席で、しかも観覧料は百三十二文で安いため、非常に混雑するのを、鰌に酒をかけると鍋の中で盛りあがるように暴れるのにくらべて、おかしい。(「江戸川柳辞典 浜田義一郎編」)
後撰夷曲集(7)
或人酒は仏の戒めなれど酔の中の歓喜あるは仏性にもちかく覚ゆ かゝる御法もあるにやときこえければ
御法にも 上戸菩提と きく時は 下戸衆生等も 酒をのめ/\ 恩直
或人に酒しひけるに公用あるなどといひていなびければ
本歌 のみてよも あす迄去ば つらかりし 此夕暮に ゑはゞゑへかし(「新群書類従 後撰夷曲集」 市島謙吉編輯)
ハイチでは
現代でも地域によってはその名残が強く残っていて、例えばブードゥー教と呼ばれる民間宗教が広く信仰されているカリブ海の島国、ハイチでは、お酒を飲んで酔っぱらうのは、お酒の中に存在する悪い悪魔がいたずらするからだと信じている人も多いとか。では、そんな彼らがひどく酔っぱらい、翌朝二日酔いになったときにはどうするのか?何と、彼らは自分を酔っぱらわせた悪いお酒に、呪いをかけるのである。その内容は、酒ビンのコルク(フランス文化の影響が強いハイチでは、ワインが多く飲まれる)に全部で一三本のピンを突き刺すというもの。(「二日酔いの特効薬のウソホント。」 中山健児監修)
掛米液化装置 かけまいえきかそうち
従来の蒸米、放冷工程を廃止し液化槽内で液化酵素剤を作用させながら、白米を煮る(液化)原料処理方法をいう.液化酵素を効率よく作用させるため、丸粒白米を適度に破砕する必要があり、下記の2種類の処理方法が実用化されている.①湿式破摧法 浸漬した白米をミル装置で破砕する方法で、液化槽内に投入した丸粒白米を高速攪拌して破砕する.冷却装置、温度制御装置からなりミルで破砕されたスラリー状の米を熱水中で液化酵素の作用で短時間に液化させる. ②液化槽内高速攪拌破砕法 攪拌機付ジャケット冷却装置、温度制御装置からなり液化槽内で丸粒白米を攪拌機により破砕し、85℃まで昇温しながら、3~4時間で液化させる. 液化仕込みもろみは白米の溶解がすでに充分に行われており、もろみ初期から流動性が良いため、品温制御が容易でもろみ中のグルコースを制御することにより、もろみ管理を行う.ただし、もろみ中でこうじが沈降するため仕込みタンクに攪拌機が必要である.(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)
鮎貝槐園、海上の孤島より帰つて、仁川に在り。相逢て相抱き、共に泣下る。
相逢て、一斗の酒、ともに酔はず。から山おろし、寒くもあるかな。
仁川より、船便なし。船まつほど、あちらこちらと、飲みありくを、槐園、開港場に、『詩的』なるがある筈なしとて、諌(いさ)めて止まず。
せめて只、酒をかぶりて、ぬるまだに、涙あらせじと、思ふばかりぞ。(「現代日本文学大系 与謝野寛集 東西南北」) 槐園は、落合直文の弟です。
貯蔵
「貯蔵」ということも大事なんですよ。酒は生き物だでね。貯蔵の仕方は酒質(しゆしつ)にも大きな影響があるんだわ。だすけ、おらとこの蔵は貯蔵にも金をかけているんですよ。貯蔵期間は「普通酒」と「本醸造酒」は一四度くらいで三カ月から半年、「大吟醸酒」ともなれば〇度くらいで一年以上も寝かせているんだわ。貯蔵も、ただ大きなタンクに酒を入れているだけではないんだ。殺菌してから貯蔵タンクにいれるすけ、それだけの分量になると、殺菌で熱くなった酒がなかなか冷めないわけさ。それを放っておいたら、酒の劣化(れつか)が進んでしまう。だすけ、早く冷やしてやるために、熱い酒が入ったタンクの上からじゃんじゃん水を流す。そうすれば、すぐに三〇度以下に下がるから、後はゆっくり冷ましてやってもいいわけさ。貯蔵ひとつ取っても、それぐらい神経をつかっているんだいね。(「杜氏 千年の知恵」 高浜春男)
鱧しゃぶ
魚津屋の主(あるし)は「鱧は鍋に限る」といい、福森雅武の黒い土鍋を客の眼前に据え、熱々(あつあつ)の鱧しゃぶとして供する。特製の土佐酢が自慢で、これに大根おろしと梅肉を加えて供するのが魚津屋流だ。淡白のようでいて舌にねっとりとまつわりつくような濃厚さを秘めた鱧だが、こうすると一人一尾はアッという間に平らげてしまう。二尾あってもいいくらいだ。鱧の肝と白子と、それに「鱧の笛」と呼ばれる浮きぶくろを淡味(うすあじ)に炊いた一品で立山(たてやま)の吟醸を飲(や)っていると、次は鱧しゃぶの出しで鍋もそのまま豆腐をさっと煮て食べさせる。豆腐は口の中でとろける朧(おいぼろ)豆腐で、鱧のうまみをたっぷり吸い込んだそのうまさといったらない。これは何という料理かと尋(き)くと、主は首を振って「名前なんかない。こうして豆腐を食べたらさぞうまかろうなァと思って、まだ始めたばかりだから…」。(「うまいもの職人帖」 佐藤隆介) 平成9年の出版です。 魚津屋 京都市中京区壬生東檜町8
熱々の肉豆腐が大人気 細雪(渋谷)
飲み物のおかわりに燗酒(「関の春」二八〇円)を注文すると、奥の湯煎式の燗づけ器で、じっくりと燗をつけてくれます。燗がつくのを待ちながら、「今日はどの刺身がおすすめ?と聞いてみると、奥の厨房にいる店主から、「今日はカンパチもいいねぇ」という返事で、そのカンパチ刺(五五〇円)を注文。美しいピンクの刺身が出されます。へぇ。カンパチって、ブリやハマチなどに近い系統の刺身だと思ってたのに、こういうピンクの身もあるんですねぇ。そのカンパチ刺身で、燗酒をチビチビとやっているうちに、だんだんとお客さんも増えてきました。名物の肉豆腐、マグロ刺身がよく出ている他、冷奴(二七〇円)やポテトサラダ(三〇〇円)も人気があるようです。この店にはサラダ系の料理はポテトサラダしかないので、お店の人も、お客さんも、単に「サラダ」と喚んでるんですね。午後六時まで、ちょうど一時間の滞在は一七三〇円でした。どうもごちそうさま。《平成一九(二〇〇七)年一二月五日(水)の記録》 細雪(ささめゆき) 東京都渋谷区道玄坂2-8-9 [営業]17時~23時 [定休]土曜、日曜、祝日(「ひとり呑み」 浜田信郎)
初代川柳の酒句(23)
年わすれ生酔い水をあびせられ 五秀
生酔ともに百壱人リ置イてにげ 石斧
人知らぬくろう生酔いに金を借(ママ)シ 四眼
白酒の徳利(とつくり)へ下女きたなびれ 狐弟
よく酔せなつたと袖で二ツぶち 哥遊(「初代川柳選句集」 千葉治校訂)
枝豆 えだまめ 夏大豆
大豆の十分育たないのをいう。やわらかくていくらか甘味がある。莢ごと塩ゆでにして食う。→大豆(秋)
枝豆や酒さめまじく黙りをる 榎本冬一郎
枝豆や詩酒生涯は我になし 木下夕爾(「新版俳句歳時記夏の部」 角川書店編)
大関
大関は、正徳元年(一七一一)創業ですが、長い間、万両という商標で、酒を販売していたようです。大関になったのが、明治17年のことで、音が"大出来"に通じ、覇者を意味するところから名付けられたということです。現在、全国第五位の販売量を誇る大手の酒蔵ですが、34万石近い出荷量のうち、10万石近くが"ワンカップ大関"であるのも、特色のある醸造元といえます。-
三年物の古酒、大吟古酒(オーゼキグランド)や、辛口の酒、通(つう)。でかんた。そして最近のロッキングボトル。酒質と容器の両面から、消費者の好みを引き出すための努力は、ちょっと他の醸造元には、なかなか見られない積極性を感じます。(「灘の酒」 中尾進彦)
昭和56年の出版です。
五常内儀抄
酒は天の美禄(びろく)なり。少しのめば心を寛(ひろ)くし、憂(うれい)をけし、興(きよう)をやり、元気を補(おぎな)ひ、血気をめぐらし、人と歓を合せ、楽を助けて、其(そ)の益多し。もし多くのんで酩酊(めいてい)すれば、人の見る目も見ぐるしく、言おほくみだりにかたり、すがたも常にかはりてつゝしみなく、心あらくして狂するが如し。古人是(これ)を狂薬といへるもむべなり。其上(そのうえ)病を生じて、医(いや)しがたし。大なる患(わずら)ひとなる。わかき時より、多飲をいましめざれば、ならひてくせとなるもうらめし。こゝを以(もつ)て古語に「酒は微酔(ほろよい)にのみ、花は半開に見る」といへり。酒をのまば、微酔を限(かぎり)として、楽しみを失はざるべし。ほしゐまゝにのんで、苦しみを求むべからず。天の美禄として楽を生ずるめでたき物なるを以て、かへつて狂薬とし、大なる禍(か)をなして、憂を生ずるはむげの事なり。 『五常内儀抄』-
『五常内儀抄(ごじようないぎしよう)』写本一巻。五常の義を俗解したもの。その序文の下半に「仍て愚俗を勧めんが為に日本漢朝の証拠、並に内外典の本文を集めて、五常内儀抄と名づく、又は現当教訓抄とも云へり。只是れ愚昧の為めとする。賢眼に及ぼすことなかれ」と、記されている。末尾に少納言入道信西作とも或いは小松殿作とも言える由が記されている。『続群書類従』巻九四八、雑部九八に再録されている。(「料理名言辞典」 平野雅章編)
コリャコリャコリャ餅食らわぬか酒食らわぬか
淀の川舟の夜中上下する物枚方辺を過ぐる折、酒食を売る小舟近く寄り来て旅泊の夢を打ちさまさせ、コリャコリャコリャ餅(もち)食らわぬか酒食らわぬかと呼ばわり、近年は酒参らぬか餅参らぬかと改め呼べりとなん。餅は食らうべく酒は呑[の]むべきをかく罵[ののし]りては分別なきに似たれど、瑯琊代酔編十一の巻知レ来者逆の条に、如二沽酒市脯不一レ食酒非レ可レ食也[沽酒[こしゅ]市脯[しほ]食わざるごとき、酒食うべきにあらざるなり](略)とあるに同じ。(松屋筆記)(「飲食辞典」 白石大二)
いたみ【伊丹】
摂州に於ける有名な酒造地。池田を去る南方一里余、天正中、荒木村重の城地であつた。
俄雨 池田伊丹へ 足が生え 酒菰冠る人の形容
農民の 汗を伊丹で 又絞り 米を
伊丹から 積んで棹さす 花筏 花筏は酒の銘
俳人も 池田伊丹は 一本木 鬼貫は伊丹の酒造家(「川柳大辞典」 大曲駒村編)
雪に旧師紹巴を訪ふの記(松永貞徳)
今世上の賛嘆少し事さめて、さびしき時分なり。是(これ)(六)こそ心実のこゝろざしなれ。一貧一冨、人情世態、真偽尽く露はる。とて、丸が持(もた)せ(七)の樽開かせて、中椀(八)といふものを取出し、そこは下戸(げこ)なれば、独酌(どくしやく)せんとて、三盃まゐり、丸にさしたまひし程に、七八分受けてあけゝれば、驚き給ひ、一局折。さなたべそ、愛深くして慮至る。と申されし程に、丸さのみ下戸にて無かりしかども、物習ふ若き者の多くたべたらば、いかゞ思召(おぼしめ)され候はんかと、御前にては下戸と申侍りき、と懺悔申せしかば、其時打笑ひ給ひ、事は是余波、談は是真趣。そのかみ称名院殿(九)へ、昌叱心前(一〇)を召連れ参りけるに、露次にて、心前がいふやう、我をば下戸と御申あれといひし程に、其分に披露せしに、其後細〻(さい/\)伺候の時、昌叱とわれとは酔うて帰るに、心前一人素面(しらふ)(一一)にて寒かり、初より上戸と知らせ奉るべきに、悔(くや)しく下戸になり、今更貴人へ申直す事はならずと、不断腹を立てつぶやき侍り。実事実情。何事も有(あり)やうなるがよきぞ、たくみな事は後おほくは悪き事になるなり。説得て好し、おのづから是老宗匠の語気。我等が連歌に今まで付けおふせたると覚ゆるは、ある千句の中に
たゞ其まゝに世こそをさまれ よきにのみなさんとするはあしからん
と付けたりしを、世の人も感じけるとなり。句簡にして至理あり。
(六)罪を得、時を失ひて、世のもちゐも衰へたるところへ訪来りしこそ親切なれと悦べるなり。 (七)持せの樽は、貞徳が見舞にとて持行きし酒の樽なり。 (八)不明なり。不大不小の椀にや。 (九)称名院は右大臣三條公條なり。紹巴就て源氏物語を学ぶ。 (一〇)心前は紹巴の子、玄仍の号なり。 (一一)昌叱は紹巴の弟子にして、且又紹巴の子玄仍の妻の親なればかくいへり。(「文章講義」 幸田露伴)
月下独酌 其四(一) 李太白
窮愁 千万端 愁(うれひ)は千万、山ほど積り
美酒 三百杯。 美酒は僅かに三百杯。
愁多クシテ酒 少シト雖モ 愁は多くして酒は少なくとも
酒傾クレバ愁 来ら不(ず)。 酒を傾ければ愁は来ない。
酒ノ聖ヲ知ル所以(ゆゑん)ナリ 故に酒のすぐれた効能が知れるし
酒酣(たけなは)ニシテ心自(おのづ)カラ開ク。 痛飲すれば心は自ずから開ける。』(「中華飲酒詩選」 青木正児)
チロリ
いつの頃に居酒屋で使われるようになったかはわからないが、居酒屋ができた頃から銅製のチロリで温かい酒が出されるようになっていたようだ。チロリは銅壺(どうこ)で湯煎がしやすいように途中に段を付けており、蓋や取っ手もあって、当時は銅の一枚板で打ち出したに違いなく、一種の工芸品である。チロリから直接酒を注ぐのは下品とされ、宴席や高級料亭などでは、チロリで温めた酒を銚子に移し替えていた。居酒屋ではそうした手間を省いてコストを下げたものと思われる。京阪では、「たんぽ」と言い、現在もアルミ製チロリは、おでん屋で使われている。錫製のチロリもある。錫は不純物を吸収する性質があり、水を浄化するとされ、錫の花瓶は草花が長持ちするという。宮中三殿(きゆうちゆうさんでん)では錫製の御神酒徳利を使用しており、錫の酒器は酒の味を驚くほどまろやかにするとされている。だが、銅製のチロリで温められた酒は、金気(かなけ)がすると嫌われるようになり、やがて燗徳利に入れた酒が客に供されるようになると、それを銚子と呼ぶようになったようだ。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資)
とくとく
①液体が連続して滴り落ちる音。また、その様子。特に、容器の細い口から、酒などがリズミカルに流れ出る時に多く使う。「油壺の嘴(くち)からとくとくと飴色の種油をつぐ」(❖中勘助「銀の匙」)-
◇参考「徳利(とつくり)」は、酒を注ぐ音「とくとく」に接尾語「り」がついて生まれた語。 (佐藤有紀)(「擬音語・擬態語辞典」 山口仲美編)
⦿あなどれない老化促進作用
アルコールの老化促進作用も見逃すことが出来ません。大量飲酒によって全身が早期に老化を始めます。骨もスカスカになり骨折しやすくなりますし、心臓もその他の内臓も老化して行きます。三〇年も大量飲酒を続けていると五〇才の人が七〇才くらいに全身が老化していることも珍しくありません。アルコール依存症になってしまった人は寿命が非常に短いのです。さまざまな内臓障害や、酩酊時のアクシデントによってどんどん死んでいきます。それは、アルコール依存症の治療にあたっている私達を無力感に陥れる事実です。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二)
玉子酒 たまござけ
玉子と砂糖を加えて酒を煮る。酒精分が蒸発するので、下戸にもよい。冬の夜就寝前、風邪気味の時にたしなむ。
玉子酒つくる老い母だけの智慧 滝春一
母の瞳にわれがあるなり玉子酒 原子公平
玉子酒子として父に何をせし 葛山たけし
玉子酒皆相伴の早寝かな 西川さかえ(「合本俳句歳時記」)
ひや酒やはしりの下の石畳 其角-
大酒家であった芭蕉の最古参弟子で江戸っ子の宝井其角(宝永四年没)のこの句は、『五元集拾遺』の夏の部にあるが、季語である「ひや酒」は当時のメイド・イン京都の歳時記には登録されていない。前述の通りお目見えしたのは江戸後期だから、京都俳壇から見れば無季俳句である。だが新興の江戸俳壇のリーダーの芭蕉が、「季節の一つも探(さぐ)り出したらんは、後世のよき賜(たまもの)」(去来抄)と、新季語の開発を奨励していたので、京都の歳時記にとらわれず、「ひや酒」を夏の季語として詠んだのである。「走り」は戦前まで「流し」とも言い、台所や井戸端に設けた米や野菜や食器類を洗い流す木製の洗い台。何しろ其角は、
夏酔いや暁ごとの柄杓水
と詠んでいるほどの大酒呑みだから、冷蔵庫のなかった夏場は、冷たい井戸水を流す「走り」の下の石畳を、もってこいの冷やし場と、目を付けたのである。(「酒の歳時記」 暉峻康隆)
近世酒屋の規模
山城嵯峨天龍寺境内の酒屋角倉与吉郎の酒造高米は寛文五・六両年各々二百五十石を算した(京都帝国大学所蔵古文書集九、寛文八年三月廿六日付文書)。元禄十年以前某年の調査によれば、洛中洛外・八幡・山崎・井手村・醍醐・江州坂本に於て都合六百二十六軒の酒屋が存在していたが、その酒造高米は十三万三百九十三石余で、一軒平均の酒造高米は二百八石余であった(京都御役所向大概覚書六坤)。また元禄十年摂津池田郷の酒造高米は三十八軒にて一万千二百三十二石八斗五升、一軒平均二百九十六石余を算し、中にも満願寺屋九朗右衛門の如きは実に千百三十五石の醸造高を有していたのである。(池田酒史)。以上、京都・池田方面の酒屋の規模を見るに、一軒あたりの酒造高米は平均して二百石乃至三百石であった。酒屋一軒当たり平均醸造米高が二百石乃至三百石に相当する事実によって、近世酒屋の規模が中世に比して如何に大となったかを知ることが出来る。しかもこれは寛永十一年以来数次にわたる酒造量制限令が行われた後の数字である。故に酒造業興隆期である慶長・寛永頃の酒屋の規模も相当大なるものがあったと推測し得るのである。(「日本産業発達史の研究」 小野晃嗣)
酒に対(むか)いては当(まさ)に歌うべし、人生幾許(いくばく)ぞ。
<解釈>さあ、酒を飲んだら歌おうではないか、人の寿命は短いぞ。
<出典>魏、曹操(そうそう)(字(あざな)は孟徳 一五九-二二〇)の楽府(がふ)「短歌行(たんかこう)」二首<其の一>の第一・二句。『文選(もんぜん)』巻二七。『古詩源(こしげん)』巻五。
<解説>三国時代、華北に覇を唱えた魏の基礎を築いた曹操の二〇篇余りの詩歌の中で、最も人口に膾炙(かいしゃ)しているのがこの二句であろう。楽府というのは、もともと音楽に合わせて歌われたものである。この作品も、曹操が作って部下とともに宴席で歌ったものであろう。後漢の献(けん)帝の建安一三年(二〇八)冬、すでに華北に割拠していた群雄を平定した曹操は、孫権(そんけん)と劉備(りゅうび)の連合軍を撃破して全中国の覇権を掌握すべく、八〇万と称する水軍を率いて長江(ちょうこう)を下る。決戦の舞台は赤壁(せきへき)(湖北(こほく)省蒲圻(ほき)県の西北)である。緊迫感のただよう前夜、陣中の曹操が槊(ほこ)を横たえて作ったのがこの「短歌行」だとするのが、小説の『三国志演義』の設定である。なかなかみごとな設定ではあるが、正史の『三国志』にはこのようか記載はない。この作品の第七・八句には、「何を以(もっ)てか憂いを解かん。唯(た)だ杜康(とこう)あるのみ」(何によって憂いをはらしたらよいだろうかそれは杜康の名酒を飲むに限る)とも言う。「杜康」は伝説上の酒造りの名人、転じて酒そのものを指すようになった。このような部分だけを取り上げて見るならば、曹操は人生の短さ、憂いの多さを忘れるためだけに酒を飲もうと呼びかけているように見える。しかし、それでは作品の本旨を見失うことになる。この作品の末尾の「周公は哺(ほ)を吐きて、天下は心を帰(よ)す」(周王朝創業の功労者である周公旦(たん)は、食事中に口に含んでいた食べ物を吐き出しても来客に会うように心がけた、人材を失うことを恐れたからだ、そのようにして初めて天下の人々が心を寄せるようになったのだ)という二句が曹操の本心を語っていよう。憂いがあったら酒と歌の力を借りて、すぐにはらせばよい。人材を得て天下を統一するには、いつまでもくよくよしている暇はないのだから。曹操は遠大な理想を抱きつつこの句を詠じたのである。(後藤秋正)
一人当たり酒消費
一九二〇年までは一人当たり二~三リットル(100%アルコール換算)の間であり、それほど大きな傾向変動は見られない。 日露戦争~第一次大戦期にはやや落ち込んでいるが、これは後に述べるように、酒税引き上げの影響によるものであろう。一九二〇年以前の時期で、酒の総生産量は傾向的に増えているのに、一人当たりの消費量は必ずしも増えていないということは、飲酒人口が増えたことを示している。一九二〇年代以降は第二次大戦終了後まで、一人当たり消費量は減少し続ける。最低値となった一九四七年の一人当たり消費量は、〇・五リットル(一〇〇%アルコール換算)、ビールだと大瓶一六本程度となる。しかし、戦後はほぼ一貫して伸び続けた(一九九〇年代に入ると、低下しているようだが)。そして、今日では一人当たり消費量は約六リットル、ビール大瓶だと二一〇本である。これは赤ちゃんや下戸までも含んでの数値だから、大人だとこの倍にもいくであろうか。筆者などには大きすぎる数字と思えるが、これでも世界では第二三位程度、上位のヨーロッパ諸国では一〇リットルに達している。(「酒と経済」 宮本又郎) 1994年の出版です。
不作の年の酒
古来、酒造りに携わる人々の間には「不作の年の酒は良くなる」という言い伝えがある。米は、今も昔も変わらず主食として大変重要な作物であるが、今のように豊富にある時代は別として、昔はとても貴重なものであった。特に、不作の年は飯米として優先的に使用されるため、酒造りに回される米はさらに少なくなり、米粒一粒の重みは増してくる。酒造りにわずかの失敗でもあれば貴重な米が無駄になってしまうため、杜氏たちは特に慎重に酒造りに励むことになる。その結果、酒の品質が向上する、というのである。由来の真偽は別として、この言い伝えは、清酒の品質において、製造技術がいかに大きな影響力を持つかということを表している。(「新潟清酒達人検定公式テキストブック」 新潟日報事業社)
甘すぎない日本酒はいい-ギリシアの男性
ギリシア食品産業コーナーのジョリスさんは、日本に九年間もいるというだけに、日本語はぺらぺらで日本酒にもよく通じていた。吟醸酒を飲んで「今までに飲んだことのある日本酒は甘すぎたが、これならいける。飲んだ後にちょっと残る感じはあるけど、旨いと思う。ただ自分はワインを飲むことが多いからそれとの比較だ」という。熟成酒のほうは「これで原料が米?ふーん、米のクセだろうが、ワインの熟成感に比べると自分にはちょっと苦手だな」といった。私が苦手とする向こうのウゾーのような酒に馴染んでいるギリシア人とすれば、日本の味覚に対しては案外まともな感覚なのかも知れない。(「知って得するお酒の話 第十章 日本酒の味は世界に通用するか」 山本祥一郎)
△洗浄米(こめあらい)
初めに井の経水(ねみず)三八を汲涸(くみから)し新水(しんすい)となし、一毫(いちごう)の滓穢(おり)も去りて、極〻(ごくごく)潔(いさぎ)よくす。半切(はんぎり)一つに三人がかりにて水を更(かゆ)ること四十遍(へん)、寒酒は五十遍に及(およ)ぶ。
三八 経水 ここでは湧出してから久しく井底にたまっていた古い水のこと。雑菌を含有する。(「日本山海名産図会」 木村孔恭 千葉徳爾註解)
おん[恩]
<名>①恩恵。めぐみ。なさけ。親切。 ②恩義。「恩人」は恩をかけてくれた人。世話になった人。「忘恩」は受けた恩を忘れること。「恩知らず」は受けた恩に報いようとしないこと。その人。
祝杯に恩を沈めていませんか 八木千代(「川柳表現辞典」 田口麦彦編著)
思わぬ融合(3)
仕事の最中だという状況を忘れるほどに楽しく呑んでしまったのは、香川での雑煮取材である。雑煮は白味噌仕立てで、あんこ入りの餅が入っているのが特徴。汁もあんこも、かなり甘めだ。もともと、あんこをつまみに日本酒を呑むのは大好きなので、任務の直前に買ってかばんに忍ばせていた、西野金陵の「金陵」を開けてみた。果たして、甘味と甘味ががつんとぶつかり、さらにはしかと互いを抱擁し、もうたまらん状態に。長崎でもまた、甘味のパラダイスを見た。彼の地の料理は、全般的に甘い、。黒糖を使う鹿児島はコクが立つのに対し、長崎は白糖の澄んだ甘味が感じられる。酒もまた、ぷくっとした甘さを含むのだが、角煮をはじめ地元の料理とともに呑むと、透明感のある気持ちのいい甘味が際立つのだ。最近では、意外な発見も。地元の日本酒が充実した佐世保の鉄板焼きの店で、あれやこれやと頼んでいたところ、今里酒造の「六十餘州」を筆頭に、バルサミコ酢と巧みな融合を見せる。互いが自然に寄り添い食欲も酒欲もそそられた。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子) 思わぬ融合(2)
おなじく (卅五 くどき)
なごり尽(つ)きせぬ寝屋(ねや)の朝酒(あさざけ)うつ〻なや、さらばさらばと声もたえゆく野田(のだ)の原(はら)、送(おく)りかへせばひえの山風(やまかぜ)身(み)にしみて、菜種(なたね)の花(はな)もうらがなし(「若みどり」 塚本哲三編輯)
肴(2)
この江戸中期ごろからは、社交としての宴会も一層盛んとなり、芸の面からの肴ももっぱら幇間(ほうかん)や歌妓といった専門の者がこれに当たった。それが今日の芸者にもなり、宴席の最初の「肴舞(さかなまい)」がいわゆる「お座付き」となった。また、客に贈る品も肴であって、これは「引出(ひきで)もの」として今日の祝宴にも存続している。このころにはほぼ固定された酒宴での酒肴は、その後江戸後期、明治、大正、昭和、平成をへて令和の今日へ引き継がれている。(「日本酒の世界」 小泉武夫) 肴
店内
のれん越しに店内を見ると、なかの様子が見え隠れする。これに、客を誘いこむ力があるのだ。店内がすいていればしみじみと飲みたくなり、混んでいればわいわい飲みたくなるのが酒飲み。その心理を微妙に刺激するわけだ。また、はじめての店のとき、ドアを開けて入るのには、かなりの抵抗感があるが、のれんをくぐるのには、そういった抵抗感はない。要するに、店内をかいまみせることで、のれんは客を吸引しているのである。その最たるものが、一杯飲み屋特有の「縄のれん」。この場合、店内は丸見えだ。(「酒 面白すぎる雑学知識」 博学こだわり倶楽部編)
酔えば天下を失う
紹積昧(しようせきまい)が酔ってねて、皮衣をなくした。宋君から、「酔うと皮衣までなくすものなのか?」と聞かれて、かれは答えた。「それどころではありません。桀は酔って天下を失いました。『康誥(こうこう)』(註一)にも『酒を彝(つね)にするなかれ』とあります。酒をつねにするとは、さけびたりになることです。酒びたりになれば、天子は天下を失い、匹夫はわが身を滅ぼします」(説林 上)
註 一 「書経」の篇名。ただしこのことばはいま「酒誥」の篇に見える。(「古代寓話文学集 韓非子篇」 高田淳訳)
審査の一部、二部
去年から、醸造試験所も独立行政法人酒類総合研究所と変わり、鑑評会の出品方法もそれまでの各地方国税局の予選(?)を経た上位酒ではなく、、各メーカーの自由出品となったので千以上の出品酒が並ぶようになった。「去年から、出品酒の原料米別で一部と二部に分かれたんだ」「出品酒ってたいがいは山田錦なんだろ?」「まっ、ほとんどの蔵は山田錦を出してくるけどね。一部は山田錦の使用比率が五〇%以下か山田錦以外のお米、二部が山田錦の使用比率が五〇%以上か一〇〇%のものってわけさ。今年でいうと一部が七一点、二部が一〇二三点だったね」呑「そんな面倒くさいこといわないで、山田錦一〇〇パーかゼロパーでいいのにな」酔「ちょっと待ってくれよ一部、二部に分れるのは分ったけど審査はどうなってんだ」呑「そうだよな、別々に審査してるのか?」「去年は予審が別々で、結審が一緒、今年は予審も結審も別々だっていってたな。いくつかのメーカーに聞いてみたんだけど、そういった審査のやり方は事前に知らされていないようだね」呑「何で知らせないんだ?」酔「別々の審査って前もって知っていれば、山田錦以外の酒で出品する蔵がもっと増えるだろうにな」「前もって審査が別々だって分っていれば、山田一〇〇%なのにズルして、一部に出品するところがでてくるかも知れないじゃん。今年でいえば、一部の金賞率が〇・一四%、二部が〇・二七二%で断然山田錦の方が獲りやすいんだ。獲りやすい山田錦で、数の少ない一部に出品した方がずっと有利だろ」酔「そんなインチキする蔵ってあるのか」「そうは思いたくないけど、今の食品業界のインチキぶりを見てくると可能性ゼロとは断言出来んだろ」(「ツウになるための日本酒毒本」 高瀬斉)
21日 みょうりが悪い
あるホテルでの話である。政界の有力者が、大事な客を呼ぶというので、料理人がひと月も前からうでによりをかけて、ぜいたくな、手のこんだ料理を用意して、オードブルからアイスクリームまで、もちろんアルコールの方も、それに見合ってとりそろえた。ところが、主客とも、実に何でもなくペロリとたべてしまって、ボーイ長を呼んで、君、これじゃ足りないから、あと、とんかつをだしたまえ、と注文した。そして、びしょびしょにソースをかけ、びんづめの日本酒で、満腹しておひらきになった、という。ボーイ長はその話をして、お客さまのご注文ですから、とやかく申す筋合いではございませんが、みょうりが悪い話でございますねえ、と付け加えた。「みょうりが悪い」という昔のなつかしいことばは、こういう場合に使う。とんかつにびんづめの日本酒なら、何もホテルにひと月も前から用意させることはないのである。(「私の食物誌」 池田弥三郎)
その三「私の立場」
あまり、知られないようだが、夏目漱石の「創作家の態度」の中に酒問屋の番頭さんの話がでてくるところがある。それを読んだ時、私はこれはてっきり私の下手な酒の歌の場合だなと、ちょっと身につまされたことを思い出す。それは、漱石が好きな散歩の道すがらにでも見た日本橋の新川の酒問屋の店頭風景らしい。「目暗縞の着物で唐桟の前垂れを三角にはさんだ」江戸前の番頭さんが、むずかしい顔をして樽の酒を唎(き)いている。見ていると酒を口に含んでは、すぐに吐き出す。決して飲み込まない。ところが、番頭さんがわが家に帰り、「お神さんとお取り膳かなにかで晩酌をやる」。すると今度は決して吐き出さないばかりか、「ことによると飲み足りないで、もう一本なんて、赤い手で徳利を握って細君の眼の前へぶらつかせる」。漱石にとってお店の酒は、「非我」(客観?)であり、うちで飲む酒は「我」(主観?)であると見える。同じ酒でもそれに対する態度によって全く異なる世界がひらける。私など多少でも酒の科学をかじった者も、ちょうど漱石の酒屋の番頭同然、あちらを向いたり、こちらを向いたり、ただうろうろと酒のまわりをうろつくのみである。私にはお家に帰った時の番頭さんの歌はわりに作りやすい。場合によっては「紙をかくせかくせ」といわれるほど友を悩ますことさえできる。なんといっても作家の動機は感動である。この点、酒という感動の源があることは大いに助かる。それについては中国の古い文人の言葉に、人は酒を飲むに当っては、先ず飲まぬ先から酒を楽しむ心を起こすことが大切だという。なるほど、たとえ「やけ酒」の場合でも、いざ飲もうと初願すれば、その「やけ」の半分くらいはすでに事前に解消ということはありそうなことでもある。それに比べると、お店での番頭さんの場合はなかなかむずかしい。ドライな客観の中から、はたしてどのような感動的きっかけを引き出せるであろうか。そこへもってきて、およそ感動にも下級と高級、ピンからキリまでの別がある。ネコが魚の骨を見て感動するのとはわけがちがう。さて、そこでお前のお店の酒と、お宅の酒の歌のサンプルはといわれると、まことに困ることになるが、せめてこんなのはいかがでしょう。
うたかたの消えては浮かぶフラスコはほのぬくもりていのちこもれり(店)
たまきわるいのちのかぎりこひしきはこのひとつきのものにぞありける(宅)(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎)
59.水でもワインでもない
ロシア語で「魚でも肉でもない」。得体が知れない。 カフカース
60.ウオトカよ、こんにちわ 理性よ、さようなら
英語では「ワインが入ると理性がなくなる」。 カフカース
64.ワインと女とトランプが賢者を愚者にする
人間を堕落させる三悪。 ジプシー
65.金の盃に入った水よりも土器の中のワインのほうがよい
うわべの美しさよりも中味。 ジプシー
48.葡萄酒には香りがあり、パンには色がある
おいしい葡萄酒は香りで、おいしいパンはその焼きぐあいで分かる、というもの。 スイス(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川)
モトかき歌
灘では昼すりすましたモトを初夜と夜中に更にすり、モトかき歌を歌ふ。一人、「夜中起きしてモトかく時は」、和して、「親の家(うち)での事思ふ」、一人、「ヤーレソーレヂヤ、モトかく時は」、和して、「親の家での事おもふ」。また、「親の家(うち)での朝寝の罰で、今は朝起き夜なか起き」。(「日本民謡辞典 酒造りの歌」 小寺融吉)
52一於金(おかね)に答(こた)ふ
二船中(せんちう) 酒(さけ)を飲(の)み罷(や)んで
三向島(こうとう) 鯉(こい)に対(たい)して閑(かん)なり
四土俗(どぞく) 五挑者(はりて)多(おほ)し
六何(いず)れの駕(かご)か最(もつと)も往還(わうかん)す
一 芸者の名。三春行楽記-に「歌妓阿金(おかね)」としてしばしば見える。 二 隅田川の船遊びに芸者を呼び、酒宴をする。 三 船中での酒宴の後、芸者を連れて向島の料理屋に赴く。- 四 土地の風習。 五 物にしようと狙う者。 六 おまえを狙って、誰がもっとも足繁く来るのか。(「通詩選笑知」 大田南畝 日野龍夫校注)
野分(のわき) 野わけ 夕野分 野分晴 野分跡
秋の大風をいう。野の草木を吹き分けるの意から「野分」というのである。好日晴夜に轟々(ごうごう)とひびきつつ吹き渡る強風である。秋に吹く風であるから「秋の風」の中に含ませてもよいが、「秋の風」とは些(いささ)か趣が異なり、暴風めいた感じがある。「夕野分」「野分晴」などの語もある。「野分跡」は野分の荒した跡である。
野分来る港酒場に水夫混み 安藤凉二(「新改訂版 俳諧歳時記 秋」 新潮社編)
食物年表1000-1300
平安時代 1051 ・源頼義が前九年の役で、酒甕数十個を将士に与える。
鎌倉時代 1233 ・寺院における醸酒の初見(金剛寺)
鎌倉時代 1246 ・石清水八幡宮で麹の販売権を独占
鎌倉時代 1252 ・鎌倉の民家の酒壺を破棄し、諸国市酒を停止する(一家一壺のみ許す)
鎌倉時代 1263 ・太政官より興福寺宛に群集宴飲禁令を布告
鎌倉時代 1315 ・新日吉神社造営料として、酒屋に対して課税徴収の勅許を求める
南北朝時代 1339 ・酒素饅頭を元より伝える
南北朝時代 1365 ・酒麹役を課す
南北朝時代 1393 ・管領斯波義将が洛中辺土の酒屋役の制度を定める(「日本史分類年表 食物年表」 桑田忠親監修)
上戸
〇乱舞し、おそくまでつづいた酒盛りに、正体なく酔った者、なまじっか家に帰ろうと思い、たどるたどる歩いていたが、頃しも師走寒の前で、雪も霜も真白であった。水堀のあったのを渡りかかり、ひどく踏みまよって、深い所に入ってしまった。やっと首際ばかり、水に溺れながら眠っていたので、体を氷がとじこめたのかも知らない。家では人が皆帰ったのに、どうして遅いのかと、近所の者までよんで行って見ると、堀の方に、人の顔が見える。立ち寄って氷をうちわり、言葉をかけたところ、例の客人、「誰だ、夜もあけないのに門を叩くのは、けしからん奴だ」と言う。(「江戸小説集 醒酔笑」 安楽庵策伝 小高敏郎訳)
下戸
湯から上ると副長の巡見がすんでゐたから、浴衣に着かへて、又士官室へ行つた。軍艦では夕飯の外に、もう一つ晩飯がある。その晩はそれが索麺(さうめん)だつた。僕はそこで酒をすすめられた。元来下戸だから、酒の善悪は更にわからない。が、二三杯飲むとすぐ顔が熱くなつた。すると僕の隣へ来て、「二十年前の日本と今日の日本とは非常な相違です」と云ふ人がある。その人はシイメンのタイプに属さない。甚だ感じの好い顔をしてゐた。さうしてその顔がまつ赤になつてゐた。何でも国防計画か何かを論じてゐるらしい。
三
僕はいい加減に「さうでせう」とか何とか尤もらしい返事をした。「さうです。それは僕がですな、僕が確に保証します。いいですか、確にですな。」と、その人は、酔はない者にはわからない熱心さを以て、僕の杯と自分の杯とに代る代る酒をつぎながら、大分独りで気炎をあげた。が、生憎僕もさつきから、酔はない者には解らない眠気に襲はれてゐた所だから、聞いてゐる中にだんだん返事も怪しくなつて来た。それがどうにか、かうにか、会話らしい体裁を備へて進行したのは、全く僕がイエスともノオともつかない返事をして、巧に先方の耳目を瞞著したおかげである。その瞞着した相手の憂国家が、山本大尉とわかつた今になつて見ると、黙つてゐるのも可笑しいから、白状してしまふが、僕には、二十年以前の日本と今日の日本と、何がどうちがふんだか、実は少しも分らなかつた。尤もこれは山本大尉自身も酔がさめた後になつて見ると、あんまりよくは分らなかつたかも知れない。(「軍艦金剛航海記」 芥川龍之介)
<解説>酒造りにおける蒸米、麹、水の割合
<鴻池流寒造りの場合 (単位:合)>
酛 | 初添 | 仲添 | 留添 | 合計 | |
蒸米 | 600 | 1,000 | 2,000 | 4,000 | 7,600 |
麹 | 240 | 300 | 600 | 1,200 | 2,340 |
総米 | 840 | 1,300 | 2,600 | 5,200 | 9,940 |
水 | 720 | 900 | 1,440 | 2,410 | 5,470 |
①6斗酛とは蒸米6斗を使用する酛をいう。麹歩合=麹/蒸米 で表わし、酛は 240/600=0.4 で酛麹4割、一方、初添から留添までの麹はいずれも蒸米の3割で、掛麹3割という。
②汲水(くみみず)歩合は 水/蒸米+麹 で表わす。「斗水(とみず)」の仕込みとは、水と(蒸米+麹)が等しいこと。ただし本書で「何升水」というのは麹を除いて 水/蒸米 となっている。酛は 720/600=1.2 で、1斗2升水と称する。
③この酛は「6斗酛4割麹12水」と表現する。
④「垂り」は、 清酒/蒸米+麹(総米) で表す。この値が0.9の場合を9分の垂りといい、総米 9,940×0.9 で清酒8石9斗4升が得られることになる。(「童蒙酒造記」 吉田元校注・執筆)
テーブルに一滴
私が働いていたのは、追分に残るマーケットの中で、入口が千疋屋、その奥の山本山であった。千疋屋、山本山、とならぶとウソみたいだが、これが本物で、ときたま、日本橋の山本山の大檀那が遊びにきた。なんやかやで、一九五二年(昭和二十七年)から五五年(三十年)までアルバイトをしていた。山本山は茶と海苔を売る店だが、さらに奥は麻雀屋だった。たった一度だが、暴力団がいやがらせにきたことがあり、ベニヤ板の壁が破られるかと思うほど暴れた。麻雀屋はたちまち廃業し、沖縄料理屋になってしまった。アルバイトのあと、友達とよく、ここで泡盛を飲んだ。テーブルに一滴こぼして火をつけ、それから乾杯するのだが、よく身体がつづいたと思う。べつに泡盛が好きなわけではなく、安いからであった。(「私説東京繁盛記」 小林信彦・荒木経惟)
田井柳蔵曾(カツ)テ余ヲ其宅ニ觴(シヤウ)ス。今茲(コトシ)其ノ会飲ノ図ヲ製(ツク)リ、遙ニ寄セテ題ヲ索(モト)ム(田井柳蔵曾觴余於其宅。今茲製其会飲図遙寄索題)
当時ノ両鬢(リヤウビン) 綿ノ如ク白シ 当時両鬢如綿白
今当時ヨリ老ウルコト更ニ七年 今当時老更七年
眼愈(イヨイヨ)眵昏(シコン) 心愈(イヨイヨ)耄(バウ)ス 眼愈眵昏心愈耄
独(ヒト)リ余スハ酔後 語尤(モツト)モ顚(テン)スルヲ 独餘酔後語尤顚
自画に題を索めたとは、画讃(がさん)を書くことを求めたのである。あのとき黒かった両鬢は真っ白に化し、老眼はいよいよかすみ、気持はいよいよ老いぼれてきた。独りはっきりしているのは酔いぼけて、詩を題しようとしても言葉が顛倒してしまっているのです。「独リ余ス」とは、老耆(ろうき)の自分にはっきり残っているもの、という意(こころ)が籠(こも)る。それは詩を作ることだけだが、それすら語は狂してしまっている。願わくは君、これを諒恕(りようじよ)せよ、といった含意をこの結句に籠(こ)めたのである。 田井柳蔵、伝不詳。 (黄葉夕陽村舎詩遺稿(こうようせきようそんしやしいこう))(「古典詞華集」 山本健吉)
豬頭
豬頭(ちよとう)二法に「五觔(きん)(斤)の重(めかた)のものを洗浄し、甜酒(てんしゆ)三觔(きん)を用ふ、七八觔(きん)の者は甜酒五觔を用ひ、先づ豬頭を将(も)つて鍋に下し、酒を同じく煮、葱三十根、八角(八角茴香(ういきやう))三銭(一銭は一匁)を下して煮ること二百余滾(こん)なれば、秋油(醤油)一大杯、糖一両(一両は十匁)を下し、熟するを候(ま)つて後、鹹淡を嘗め、再び秋油を将(も)つて加減し、開水(かいすゐ)(熱湯)を添(ま)すこと、豬頭の一寸上を漫過せしめ、重物もて圧すことを要す。大火もて焼くこと一炷香(線香一本)なれば、大火を退出し、文火を用(も)つて細煨(ゆつくりに)収乾せしめ、膩(じ)なるを以て度と為す。爛後即(ただち)に鍋蓋を開けよ、遅るれは則ち油走(に)ぐ。一法は-」と。豚の頭は気永にゆつくり煮ると相場は極つて居る、諺に「事はゆつくり落着いてやれ」といふ意味に「火到豬頭爛(フオタオチウトウラン)」と謂ふ位である。之を直訳すると「豚の頭が好く煮えるまで」といふことになる。(「飲食雑記」 山田政平)
廻船問屋
大坂の伝法の廻船問屋の成立には、伊丹の酒造家の後押しがありました。伊丹の酒造業が活況を呈していた寛文期から元禄期になると、酒造家自らが廻船業にも進出しています。元禄十四年(一七〇一年)の記録では、伝法の廻船問屋の名前に小西新右衛門の名前がありますが、酒造りだけではなく、物流もコントロールしようと考えたのでしょう。本当の話かどうか分かりませんが、酒を途中でピンハネされないように自ら乗り出したとも聞いています。何故なら、江戸に運ぶ時に、荒波なんかに遭うと荷が落ちるんですね。それでは、全部をコントロールすることができない。どれだけ落ちたのか、どれだけ無くなったのか分からない。やはりそういうものも、きちっとコントロールしたいということで、物流業もやったということであります。(「トップが語る現代経営 不易流行の革新経営をめざす!」 小西新太郎)
卓袱料理
ただこれら卓袱料理は、あくまでも日本風にアレンジして、三都をはじめとする市中の店々で人々に供されたにすぎない。本格的なそれは、唯一の外国との窓口であった長崎でのみ行われていた。文政初年のころに編纂が開始された『長崎名勝図絵』には、「唐人の宴会」なる項があり、卓袱について次のように記されている。
およそシッポクに用ひる器物は箸(はし)・甆鐘(ちよく)・匙(さじ)・小碟(こざら)、人数に合はせ各位の前にこれを置く、菜碗(どんぶり)・小菜碟(しようさいざら)・饗味(りようり)の多寡(たか)に極めて、二十四碗」・十六碗・十碗・八碗・六碗等これを用ゆ。ただし小菜は四碟(よさら)・六碟(むさら)なり。外に蒸菓子一鉢を設く。菜碗は豚(ぶた)・鶏(にはとり)・家鴨(あひる)・野牛(やぎ)・羊(ひつじ)・鹿肉(しか)・鹿筋(ろくきん)・鹿脯(しかのほじし)・鱶鰭(ふかのひれ)・煎海鼠(いりこ)・海粉・風干鶏(ほしどり)・燕巣(えんす)・鳥類・魚鼈(ぎよべつ)・野菜の類を雑(まじ)へ用ゆ。およそ諸品を調和するに豚の煮出しを以てすること、我が国の鰹節(かつをぶし)を用ひるがごとし。小菜は塩辛、塩漬の類、豬(ぶた)の臘干(らかん)・鶏卵の塩漬・鶏の肝腸(きもわた)等を用ゆ。かくのごとく予め調味して、酒一行に菜碗一つづつを出だす。酒終へて飲食を出だし、その後菓子の鉢を以て菜碗に引き易(か)ふるなり。
本格的な中国式の卓袱で、先の『道聴塗説』の大菜献立とは肉類を豊富に用いている点で、大いに面目を異にするが、こうした宴席に長崎の関係する日本人が招かれて相伴に預かったに相違ない。それを見聞して料理技術を身につけた者が、京都の佐野屋嘉兵衛のように大都市で卓袱料理屋を開いたのであり、それを徐々に浸透させていく過程で料理の日本化がはかられたものと思われる。(「江戸の料理史」 原田信男)
やさしい禁酒のための16の決まりごと
指示その1 「やった!僕の人生はもう『破壊』という名の毒に支配されることはないんだ!」と考える。
指示その2 自分の決断を絶対に疑わないこと-失うものは何もないのだから。
指示その3 飲酒について考えるのを怖がらない。
指示その4 小悪魔の存在を忘れない(でも怖がる必要はありません)。
指示その5 禁酒をしたことを忘れた?でも心配しないで。
指示その6 禁酒の時期を先延ばししない。
指示その7 人生良い日もあれば悪い日もあることを認める。
指示その8 あなたが渇望感をコントロールしていることを忘れない(決してその逆ではないのです)。
指示その9 敵の死を悲しまない。
指示その10 ライフスタイルを変えない。
指示その11 友達に無理に禁酒を勧めない。アドバイスを求められた時だけ助けてあげる。
指示その12 生活の中の気に入らない部分を変えてみる-自分がもともと変えたいと思っているところだけを変えること。
指示その13 代替品を使わない。
指示その14 飲酒を連想させる物や状況と、お酒との結びつきを切っていく。そのプロセスを楽しむ。
指示その15 お酒を飲む人を絶対に羨まない。
指示その16 最後の一杯を飲む。そして一番大切なこと…人生を楽しむ!(「禁酒セラピー」 アレン・カー 阪本章子訳)
とげとり
一、身に釘針の類、又は木ノ「矛刂」などの立ちたるに、梨の樹、柿の樹、まゆみの樹、廿匁づゝ霜して味噌を少し丸して、これを酒にて和して温服す。刺物自から脱出すと云。但し三樹ともに萌芽の発せぬ候とすと也。(「白石先生紳書」 新井白石)
大統領の弟の功罪 副社長 B・カーター
<コメント>病と恐怖が理由で、ビリー・カーターは入院した。検査のために入ったのであって、多くのアルコール依存症者と同様、断酒の意志はなかった。検査の結果をつきつけられ、妻シビルが彼のもとを去るのではないか、それがマスコミに伝わるのではないかと恐れた。酒を飲む以前も以後も、マスコミは彼に対して、必ずしも公平ではなかったからだ。
▽ビリー・カーターが過去をふり返って一番心をいためるのは、シビルと子供たちを深く傷つけたことである。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー)
人民の敵 宮沢賢治(みやざわけんじ)
かれ草の雪とけたれば
裾野(すその)はゆめのごとくなり
みじかきマント肩はねて
濁酒(にごりざけ)をさぐる税務吏や
はた兄弟の馬喰(ばくろう)の
鶯(うぐいす)いろによそほへる
さては「陰気の狼(おほかみ)」と
あだなをもてる三百も
みな恍惚(こうこつ)とのぞみゐる(「酒の詩集」 富士正晴編著)
だるまのふね[達磨の船]
芦の葉を言う。達磨は一片の芦の葉に乗つて渡海したという伝説に基く。
①猩々はだるまの船を吹いて舞ひ (樽一六七)
①芦の葉を吹いて舞い興ずる猩々。 謡曲猩々-所は潯陽の、江の内の酒盛、猩々の舞をまはうよ、芦の葉の笛を吹き、波の皷をどうと打ち云々の文句取り。類句-あしの葉の笛とはきげん上戸なり(拾一二)-芦の葉の笛とは芦の葉を巻いて吹く胡人の笛。(「古川柳辞典」一四世根岸川柳)
熟柿 じゆくし
尊氏将軍五世の孫義政公の御時、洛中洛外酒を禁じ給ふ事あり。万阿弥とて同朋のさぶらひしが、いかゞして呑みたるやらん、つらもどこも赤漆にてぬりたる風情なるが、御前に跪きたり。大樹御覧じつけられ「おのれは酒をくらうた面ぞや」と仰せあれば「いや、余り寒きまゝ罷り出でさまに焚火にあたりてござる」と。「さらば爰へうせよ。かいでみん」とあり。是非なうて参りたれば「隠れがない、熟柿くさいは」と御諚の時、万阿弥「左様なる儀も御座候べし。柿の木を焚火にあたり参らせた程に」と。(醒酔笑巻五・寛永五・無題)
【語釈】〇同朋=鎌倉・室町時代に幕府の雑務を勤め、茶事を司った僧形の小役人。 〇大樹=征夷大将軍の異称。
【観賞】さすがお伽衆の先輩だけに機転のきいた言訳。この種の機智の咄は『笑府』の「糠」(細娯部)にもある。(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)
酒に酔て泥となる
[本朝俚諺]李太白詩集云、三百六十日、月日酔如レ泥
酒に酔ひ本性をわすれず
[和漢古諺、毛吹草、大倭故事]〇ナマエヒ本性タガハズとも云 今ナマエヒを昔は酒に酔といひしなり [平家物語]酒に酔共二三十人からめ取て六はらへゐて参り [和訓栞]エヒテ本性をタカヘヌと云ふ諺は文集、龍眠示二本体一、人酔顕二本心一といへり(「増補俚言集覧」 村田了阿編輯)
濁酒
濁酒ヲ用ユ。故ニ濁酒屋(ニゴリサカヤ)処々ニアリ。コレニ清酒ヲ和シタルヲ、四分一ト呼ブ。予ガ父ナド友ト飲ム。必ずコノ物ナリ。肴ハ鰹ノキラズスシナド上品ナリ。鵜殿平太衛門[割註]留守頭。」冷濁酒(ヒヤニゴリサケ)肴ハラツキヤウノ酢ヅケナドヲ用ユ。常曰、陣中ニテ温酒ハ得ガタシ。故ニ冷酒可ナリ。-
大薩摩芝居ニテ、饅頭ヲウル、又徳利ニ酒一合ホド入レ、白木ノ小重(コヂウ)バコニ豆腐ノデンガク四五入レ、何レモ幕間(マクアイ)ニ芝ヲ呼テ売ル。コノ外料理茶屋ナドハ無シ。[割註]猶多クアルベケレドサノミハ如何ト筆を罷(や)ム。(「楓軒偶記」 小宮山昌秀 楓軒)
思わぬ融合(2)
広島では、お好み焼きとともに至福が待っていた。かねて愛飲していた、相原酒造の「雨後の月」をお好み焼き専門店のメニューに発見。なんの気なしに頼んだところ、なんとびっくり。あの「おたふくソース」と絶妙に合う。甘味、辛味、酸味、苦味。味の混声合唱団ともいうべきソースを、しっかり受けとめたのだ。-
仕事の最中だという状況を忘れるほどに楽しく呑んでしまったのは、香川での雑煮取材である。雑煮は白味噌仕立てで、あんこ入りの餅が入っているのが特徴。汁もあんこもかなり甘めだ。もともと、あんこをつまみに日本酒を呑むのは大好きなので、任務の直前に買ってかばんに忍ばせていた、西野金陵の「金陵」を開けてみた。果たして甘味と甘味ががつんとぶつかり、さらにはしかと互いを抱擁し、もうたまらん状態。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子)
女楽のたのしみ
むかし、戎王(じゆうおう)が由余(ゆうよ)を秦につかわしたとき、穆公(ぼくこう)が由余にたずねていう。「わしはむかし道をきいたことはあるが、その実際を見たことがない。むかしの明君がどうして国を興しどうして国を滅ぼしたか、その様子をきかしてくれぬか?」「わたしのききますところでは、倹約によって国を興し、ぜいたくによって国を滅ぼすということです」「わしは恥をしのんであなたに道をたずねた。そのこたえが倹約せよとは何事だ」「わたしの承りますところによれば、むかし尭(ぎよう)が天下を治めたとき、土のかわらけでたべ、土のかわらけでのみましたが、南は交趾、北は幽都、東西は日月の出入りするところまで、みな尭に従ったのです。尭が天下を譲って舜(しゆん)がそれをうけますと、舜は食器をつくりました。山の木を切って材料にし、かんな・のこぎりをかけてきれいにし、その上に漆や墨を流し、御殿に運んで食器にしました。諸侯は尭よりぜいたくだといって、服さぬ国が十三ありました。舜が天下を禹(う)に譲ると、禹は祭器を作りました。外は黒くぬり、内はあかくぬり、無地の絹をしとねとし、蔣(こも)草の敷き物には飾りぶちをつけ、盃や銚子には色をぬり、酒樽や肉をのせる器には飾りをつけました。こうしていよいよぜいたくとなり、服さぬ国は三十三となりました。夏后氏が亡び殷の時代になりますと、天子の車を作って九つの旗を立て、食器にはほりものをし、盃や銚子には金銀をちりばめ、四方の壁には白土・赤土をぬり、しとねや敷き物には飾りをつけました。いよいよぜいたくとなり、服さぬ国は五十三となったのです。こうして、上に立つものがみな飾りを好んで、従うものがますます少なくなったのです。ですから、倹約が国を興す道だと申し上げました」由余が退出すると、穆公は内史廖(りよう)を召していった。「隣国に聖人があるのは、その敵国のうれいである、ときいている。ところが由余は聖人だ。心配だが、どうしたらよかろう?」「戎王のおるところは辺鄙で遠く、まだ中国の音楽をきいたことがない、ということです。ですから女の楽師を送って政治を乱し、また由余の滞在の期間をのばさせて、諌言をさせぬようにすることです。戎の君臣に溝ができれば、容易に事をはかることができましょう」「よかろう」そこで内史廖に命じて、女の楽師十六人を戎王に送り、あわせて由余の滞在期間の延期を求めて戎王の許しをえた。戎王は女楽をみると大いに喜び、酒宴を開いて連日音楽をきいた。こうして年の終わるまでそこを動かなかったので、牛馬の半ばは死んでしまった(戎は草を追って移動する遊牧民である)。由余は帰ると戎王を諌めたが、戎王が聞き入れないので、遂に戎を去って秦にもどった。秦の穆公は迎えて上卿に拝し、戎の兵力とその地形をたずね、よくしらべてのち、兵を挙げて戎を伐った。こうして戎の十二の国を合わせ、千里の土地を開いたのである。つまり、女楽に耽って国政を顧みなければ、国を滅ぼすことになるのである。(十過)(「古代寓話文学集 韓非子篇」 高田淳訳)
【第二〇七回 平成四年一〇月九日】
*「課題-俳句または川柳をつくる」 小鼓
*会場 兆屋
会員の中に俳句をやっている人がけっこういる。宗匠と呼ばれている人もいる。酒を飲むだけでなく、時には一句ひねってみるのも乙ではないかということになった。俳句じゃ難しいという声に応えて川柳でもいいとした。だが多くの会員は酒以外には興味がないらしく、めずらしく空席ができた。入選は「木枯らしや 駅に着きなばお燗酒」というのになったが、有名な俳句の盗作らしい。(「」幻の日本酒酔いどれノート) 篠田次郎
酒酣耳熱(シユカンジネツ)
飲んだ酒がよく回って耳までほてってきた。すなわち、かなりの飲酒を楽しんだこと。(魏文帝「又与呉質書」)
酒酔酒解(シユスイシユカイ)
酒の酔いは酒で解く。ということは、迎え酒を飲むこと。(「通俗編」飲食・酒酔酒解)
酒盃流行(シユハイリユウコウ)
宴席で杯がめぐるさま。酒盃の盛んな様子をあらわしている(「唐書」長孫無忌伝)
酒闌人散(しゆらんじんさん)
酒宴の盛りも過ぎ、波が引くように、人々が去り行くこと。和語でいう「宴(うたげ)のあと」の寂寥とした様子を示す。(「西廂記」長君瑞害相思雑劇)
酔怒醒喜(スイドセイキ)
酒に酔っては怒り、醒めてははしゃぐ。酔醒の二重人格ぶりをついている。(「国語」魯語・下)(「日本文化総合辞典」 荻生待也)
15日 あたため酒
きのうは旧の九月九日で重陽(ちようよう)の節句。きょうはその翌日で小重陽とか、後日(ごにち)の菊とかいう。小重陽とは、節句に招いた神との別れ、日本の民俗でいえば、神送りの日であろう。ものの本によると、九月九日は寒温の境の日で、「身肉のわかるる時」だと言う。それはともかく、この日に酒を飲めば病気にかからないと言われ、またこの日から酒を、温めて用いると言う。そうすると昔は、九月八日までは、お酒はおかんをしないで飲み、九日から、百薬の長として、あたためた酒をのんだということになる。私はネコ舌のせいか、どうもあつかんというのが苦手である。「おでん、かん酒」と特にいうくらいだから、お酒の本格の飲み方はひやだったのではなかろうか。もっとも、紅葉を林間でたいて酒をあたためた故事も古いから、おかんも古くまでさかのぼれはするだろうが。(「私の食物誌」 池田弥三郎)
36六酒(しゆ)を命(めい)ず 七豪適
尚(な)を八蒸籠(せいらう)の贈(をくりもの)有(あ)り)
九棒衝(つ)きの寒(さむ)さを憐(あは)れむなるべし
喧嘩(けんくは)の一〇茶(ちや)なることを知(し)らず
一一猶(な)を不意(ふい)に燗(かん)を直(なを)す
六 仲裁人が喧嘩の仲裁に酒席を設け、酒を注文する。季節は冬。 七 豪適。喧嘩するような威勢のいい連中。 八 饅頭などを蒸す容器。 九 六尺棒をついている自身番の番人。仲裁の席で再び口論が起こらぬよう、戸外で警戒している。その寒さを気づかって仲裁人が暖かい饅頭を贈った。 一〇 本気でないこと。仲裁人は、この喧嘩が酒肴にありつくために仕組まれたものであったことを悟っていない。 一一気をつかって突然冷めた酒の燗のやり直しをいいつけたりする。(「通詩選笑知」 大田南畝 日野龍夫校注)
全国一を誇る越後杜氏
新潟県内で最も古い造り酒屋の創業は、一五五〇年ごろと伝えられている。当時の酒造りでは、加賀(現在の石川県)から上方(近畿地方)にかけての地域から西国杜氏が招かれて行われ、杜氏以外の*1蔵人(くらびと)は地元から雇用されていた。このことから、西国の酒造技術を伝授されながら越後の*2酒男(さかおとこ)が育ったと考えられる。その後、関東や近県の出稼ぎ先で腕を磨いた越後の酒男集団は「越後杜氏」と総称されるようになり明治初期には全国一の人数を誇った。越後杜氏は、我慢強く勤勉、寡黙、実直な性格でまがい物を嫌う一徹な越後人気風と、優れた技術力が評価され、数多くの酒蔵で清酒造りの重要な役割を担うようになっていった。
*1 酒造りに従事する人の総称。 *2 杜氏を含めた蔵人。造り酒屋へ出稼ぐ酒造人の総称。(「新潟清酒達人検定 公式テキストブック」 新潟清酒達人検定協会監修)
さじん-き[砂人忌]
(名)一月十日(一九七九・昭和五四年)。川柳作家、近江砂人の忌日。
ひれ酒は砂人を偲ぶ夜の酒 岡本白露
さ・す[指す]
「飲み代(しろ)」は酒を飲むための金。
飲み代に置いた時計が二時を指し 二川三語(「川柳表現辞典」 田口麦彦編著)
符牒
酒屋 三 ウロコ 四 ツチ 五 ニテ 六 リヤウ 七 チエ 八 バン 九 キワ 〇 ヲンヤウ
料理店 一 ネ 二 コ 三 カ 四 ジ 五 レ 六 キ 七 ヤ 八 ク 九 ヨ 〇 ベ
以上は明治中期頃の日本商人日用重宝に載っていたものである。-
台詞といへば明治三十年六月の同じく風俗画報に寄席の楽屋で芸人仲間がつっかった符牒が記されている。-
酒に酔 フンタロウ
酒 セイザ(「符牒符号と隠語について」 湯浅五郎) 酒の異名
(十五)さかひ
こ〻は都(みやこ)の島原口(しまばらぐち)よさ、悪所倒(あくしよたふ)しのヲゝたれ/\も、あれはせうしめき/\なるまいな、いたりやさ、きたりやさ、うかすヲゝウゝ 酒(さけ)のとがあれば、さんしよめき/\(「若みどり」 藤井紫影校訂)
肴
面白いことに、「肴」は必ずしも食べものに限らなかった。平安時代から鎌倉時代を経て室町時代まで(八世紀-一五、六世紀)は、長上の者が部下を酒宴に招くとき、「肴」は衣類や武器(刀や鎧(よろい)、甲(かぶと))などの引出物をさしていた。また主従こもごも、酒宴で歌や舞を出しものとする風習があり、その歌や舞も「肴」あるいは「肴舞(さかなまい)」と呼んでいた。『古今夷曲集』に「肴舞の扇子の風もいやで候今を盛りの花見酒」とあり、歌舞伎狂言の『棒しばり』にも「肴に何ぞ小舞を舞へ」という台詞も見られる。この「肴」という字は、和銅六年(七一三年)の『常陸国風土記』あたりから登場してくる、実に古くからのものである。(「日本酒の世界」 小泉武夫)
△舂杵(うすつき)
「酉胎」(もと)米は一人一日四臼(ようす)(一臼一斗三升五合位)、酘米(そえまい)は一日五臼(うす)、上酒(じようしゆ)は四臼(うす)極(きわめ)て精細ならしむ。尤古杵(ふるきね)を忌みて是(これ)を継(つ)(搗)くに尾張の五葉(ごよう)の木三七を用ゆ。木口(こくち)窪(くぼ)くなれば米(こめ)大(おお)きに損ず。故に臼廻(うすまわ)りの者時〻に是を候伺(うかがう)也。尾張の木質(きしつ)和(やわ)らかなるをよしとす。
三七 尾張の五葉の木 五葉松を指すらしいが、尾張にはこの木は生育しない。木曽山に多いので、その管理をした領主が尾張藩であり、集材地が名古屋であったので、産地と誤ったのであろう。五葉松はヒメコマツともいい、葉が短く五葉に群生する。材は密で均質、かつ軟質で米を搗いても砕けないところから搗臼として賞美されたものであろう。(「日本山海名産図会」 千葉徳爾註解)
村米制度
明治維新後の民政安定によって、日本酒の需要が高まり、酒造家は良質の酒米を大量に確保していく必要があった。そこで、御影郷の酒造家嘉納治郎右衛門、泉仙介が明治二四、五年(一八九一、二)頃から、加東郡米田村上久米(かみくめ)部落との間で、相ついで西宮の酒造家辰馬悦蔵が美嚢郡吉川(よかわ)村市野瀬部落とそれぞれ酒米の取引きを始めた。これがいわゆる村米制度の始まりである。このとき決められた上久米での価格が、わが国における酒造米の基準となり、一般米よりも高く評価されることとなった。その後、周辺の各部落でも共同販売の体制がとり入れられ、酒米の品質改善、販路の確保に力が注がれ、明治四一年(一九〇八)、米穀検査法が施行されると、永続的取引きを重んずる両者の関係はさらに深まった。さらに、両者の緊密さはビジネスのみにとどまらなかったといえようか、大正年間の大旱魃(かんばつ)には、農家の人々は酒造家から揚水用ポンプを借り受けて被害をまぬがれ、病害虫防除のために酒造家から援助がなされたという。その他、神社仏閣の修復にも種々の寄進が行われている。一方、昭和一三年(一九三八)の阪神大水害に際して、被害を受けた酒造家はその復旧のため、村米地農家の人人による無報酬の労役協力を約一ヵ月間得ている。こうした両者の関係を如実に物語る証しが、昭和二二年(一九四七)、吉川町長谷(ながたに)に建てられた「酒造米記念碑」といえよう。それが戦後わずかに二年目の、まだ戦争の傷痕も生々しい時期であったことを思うと、その意味するものは大きい。戦後のなって、村米制度はなくなったが、これに代わるものとして、農家が良質の酒米を提供していくように、県、生産地、酒造家が一体となった兵庫県酒米振興会が組織された。(「灘の酒博物館」 講談社編集)
茶屋と酒
ただし、似た業種として茶を売る小屋掛けの店は十五世紀の前半にあらわれている。一服一銭と称する茶売りは、最初は寺社の門前にへっついを仮置きして湯茶を煮て、焼餅を菓子に参詣する人々に茶を売った。日が暮れれば道具は片付けて帰るような商人である。それが小屋掛けし茶を売るようになって間もなく、茶屋の裏に簡単な座敷を設けて女性がサービスにあたるようになる。こうなると茶だけを供していたとは考えにくい。おそらく酒の用意もあっただろう。つまり料理店と酒の結びつく以前に、茶屋と酒との結びつけができた。(「酒と社交」 熊倉功夫)
コニャック当主の批評は?-フランスの家族
レイモンド・ラニョーは、グランド・シャンパーニュの称号を持つコニャックの名門であり、そのオーナーと夫人、それに息子の三人が熱心にコニャックをアピールしていた。吟醸酒と熟成酒を試してもらうと、親子ともに吟醸酒のほうが好きだといい、これが日本の酒ねえ、と感慨深げだった。フルーティというのは誰しも口にすることだが、それがコニャックのオーナーの言葉だけに興味深い。ただ熟成酒については、よく熟成されているとはいったものの、総じて言葉数が少ないのだ。それが日本酒を口にしてのオーナー自身のカルチャーショックであれば願ったり叶ったりなのだが…。フランス人がかたくなに英語をしゃべらないのはご承知のとおりである。ワインに吟醸の香りが似ているからといって、フランスさえ攻めれば日本酒進出は容易であると考えるのは、浅はかである。彼らは味に対しても言葉以上にガードが固い。私はむしろ後述する南アフリカなどの"穴場"から攻めていくのも面白いのではないかと思っている。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)
酒は天の美禄(びろく)なり。
<解釈>酒というものは、この世で最高の天からの贈り物である。
<出典>後漢、班固(はんこ 字(あざな)は孟堅(もうけん) 三二~九二)撰『漢書』巻二四下、食貨志下の魯匡(ろきよう)(生没年不詳)の言葉。
<解説>酒には同じ『漢書』食貨志下の王莽(おうもう)の詔にある「百薬の長」(「嘉会(かかい)の好(こう)」と並んで用いられる)、陶淵明(とうえんめい)の「飲酒」詩二十首<其の七>にある「忘憂(ぼうゆう)の物」など、多くの別名がある。「美禄」も、本来は天から与えられたすばらしい賜り物の意味であったが、ここから転じて酒の別名となった。見出しの言葉に続く『漢書』食貨志の文章には、「帝王の天下を頤養(いよう)し、享祀(きようし)して福を祈り、衰(すい)を扶(たす)けて疾(しつ)を養う所以(ゆえん)なり。百礼の会は、酒に非(あら)ざれば行われず」(なぜならば、帝王が天下の人民を養い、供え物をし、神を祭って幸福を祈り、老いた人を助け、病人を癒やすためになくてはならないものだからである。また、いろいろな儀式の集まりも酒なしにはうまく行われないのだ)とある。つまり、酒の効能と価値を列挙して、これが欠くべからざるものであることを強調しているのである。しかし、これは為政者側の理屈であって、『漢書』食貨志には、当時、六斛(こく)六斗(約一三一リットル)の酒を醸すには、二斛の精製されていない米と一斛の麹(こうじ)が必要だったと記されているから、ろくに食事もとれない人々から見れば、かなりの米のむだ使いだったことも事実である。なお、『南史(なんし)』孔渙(こうかん)伝に、「太守、身は美禄に居(お)る」とある。「美禄」は酒の比喩ではなく、高い俸禄の比喩である。(後藤秋正)
酒のうえの約束
たしかに、民法九三条には「口にだした以上は、前言をひるがえすことは許されない」という意味のことが記されている。しかし、同じ九三条に、「話し手の真意を知っているとき、あるいは、本気ではないことが常識でわかるときは、意思表示は無効である」とのただし書きがある。つまり、「ああ、相手は酔って言っているな」ということが判断できるときは、その口約束は無効なのだ。とはいえ、いくら無効だからといって、無責任な口約束ばかりしていると、失うのは信用。(「SAKE面白すぎる雑学知識」 博学こだわり倶楽部編) 民法93条は「1 意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。 2 前項ただし書の規定による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗することができない。」です。
結桶
この醸造量の変化に促されて、甕にかわってあらわれたのが木製の結桶であった。この移行は既に中世末葉にその端を見出し得る。これは永禄九年の『御酒之日記』にも窺い得るところであり、『多門院日記』天正十年五月三日の条に「手作の桶酒上了、大略也、二斗ほとも在之」とある如く天正頃に於ては、かつては壺を使用していた多聞院も桶を採用している。しかし桶の容量もその初期に於ては比較的少量であった。しかし近世酒造界に指導的地位を占めていた奈良に於ては『多聞院日記』天正十年正月三日の条に、 昨夜タマカ(高天)布屋ノ若尼十七才トヤラン、十石計アル酒ノ桶ニ、灯明備之トテ、中ヘ落入、忽死了云々、浅猿々々、横死前業々々、 とある如く、天正年間すで既に十余石を有する酒桶もあらわれている。もっとも数十石入の結桶が甕にかわって醸造容として支配的な勢力を形成するのには、なお多くの年月を要したもののようである。(「日本産業発達史の研究」 小野晃嗣)
煮酒
初期の俳諧歳時記の『毛吹草』(寛永)や『をだまき』(元禄)に、旧四月で「煮酒」。後期の『華実(かじつ)年浪草』(天明三年)巻二・夏之部「夏日酒の気味を失はざる為に、煮酒の法を用ふ。京都是を酒煮と称し、此日酒肆親疎をえらばず価を得ず、ほしいままに酒をのましむ。是を酒煮の祝ひと云ふ」とある。-
門前の車とどろや酒を煮る 五空-
例句三の島田五空(ごくう 昭和三年没)は秋田生まれ。子規の尽力で同地の石井露月(同年没)と提携、秋田俳壇を支えた。何しろ秋田は酒どころ爛漫・両関・高清水・太平山などの銘酒が競っているので、火入れのすむのを待って、門前にはトラックが勢揃いして吹かしている、景気のよい状景である。(「酒の歳時記」 暉峻康隆編)
陶淵明詩片々(3)
有酒有酒 閒飲東窗
願言懐人 舟車靡従
酒ありて すずろに酌めば 友ゆかし 呼ばましものを 舟に車に
千秋万歳後 誰知栄与辱
但恨在世時 飲酒不得足
塵の世に 残す恨みは なけれども 飲みぞ足らはね あわのうまさけ(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎) 陶淵明詩片々(2)
アル添純米酒
何年か前、関信地方のある若い蔵元と話す機会があった。最近の日本酒の低迷状況を話したときのこと。「まだ、僕が醸造試験所の研究生だったときのことですけどね。試験所の先生についてある酒蔵に行ったんですよ。その頃、その蔵はちょうどアメリカにお酒を輸出しようとしていたんですよね。ついていった先生が蔵元に、『アメリカに輸出するなら純米酒しかダメだよ、アルコール添加したお酒は醸造酒として認められないからね』っていうわけなんですよ。アメリカじゃアルコール添加した酒はリキュールで、税金がうんと高くなるわけですけど、日本酒は醸造酒ということになっているんで税金は安い。だから、アメリカでは日本酒といえば純米酒しかないわけですよ。そしてその先生、こうもいったんですよ。『本当の純米酒じゃなければダメだよ、向こうじゃ分子検査すれば米から採れたアルコールか、添加したアルコールか分かるから、いつも売ってる純米酒じゃ絶対ダメだよ』って」「ちょっと待ってよ、それって…」「笑っちゃいますよね、その蔵の普段出している純米酒ってアルコール添加されてるってことですよね。指導している醸造研究所の先生ももろにそう話しているんですからね」「信じられないよな、純米酒といいながらアルコール入りとはね。しかも、指導している先生がそれを知っていても止めさせようとしないんだからな」「そんなことをしている蔵があったら犯罪だよ」といった蔵元がいたが、確かに信じられないことである。それから数年して関西のある酒販店から電話が入った。「せんせー、あの〇○が純米酒にアルコール入れていたことを認めましたよ」いやはや、耳を疑うというより、あの〇○がアル添純米を出していたということに唖然としてしまった。これは何年か前の話で、今はもうこういった混ぜもの純米酒はないと信じたいが、昨今の、食肉業、牛乳業、そして魚貝の虚偽産地問題、乙類焼酎への添加問題などを見ていると、日本酒業界にも同様な消費者への裏切りがあるのではないかという疑惑が浮かんでくる。(「ツウになるための日本酒毒本」 高瀬斉)
生姜酒 しようがざけ
熱燗の酒におろした生姜を落としこんで飲む。体は温まるというが、そううまいものではない。
圭角を もつて聞えぬ 生姜酒 高田蝶衣
生姜酒 貧土の農と 交りて 堀井春一郎(「合本 俳句歳時記 新版」 角川書店編)
995かまわない(L)
支配人 「駄目じゃないか、あんな酔っぱらいを泊めちゃ、ここは禁酒ホテルだぜ」
ボーイ 「なアに、大丈夫でさ。あれだけ酔っ払っていて、分かるもんですか」(「ユーモア辞典」 秋田實編)
口腔ガン・食道ガン・喉頭ガン・S字結腸ガン
アルコールとガンの関係も専門家の間では知られています。アルコールは発ガンのプロモーターの働きがあることが知られています。日本人のガンは消化器に集中しており、ガン死亡者の六割が消化器ガンです。その中でもアルコールが大きな因子となっていると考えられているのは、口腔ガン、食道ガン、咽頭ガン、S字結腸ガンなどです。大量飲酒者にはヘビースモーカーが多く、アルコールとタバコは相乗して発ガンを促進しています。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二) 平成7年の出版物です。
ちろり
ほんのちょっとの間。またわずかに、見えたり見たりする様子。「先客の二人がチロリと我々の顔を眺め」(❖椎名誠『新橋烏森口青春篇』)。室町時代から見え、すばやく行動する様子に言った。「功を成てちろりと帰るは天の道ぞ」(『❖論語抄』)
❖類義語「ちろりっ」 「ちろりっ」は、一瞬で動きがすばやい感じ。
◇参考 酒を入れ温める金属製の容器を「ちろり」と呼ぶのと関連ありという説も。(染谷裕子)
❖椎名誠 小説家・編集者。昭和五一年、『本の雑誌』を創刊。同五四年、エッセイ『さらば国分寺書店のオババ』を刊行、平易な言葉を用いた昭和軽薄体の作家として人気を得る。作品『新橋烏森口青春篇』『岳物語』など。(一九四四~) ❖論語抄 室町時代の抄物。孔子の言行を記した「論語」についての注釈書。清原宣賢などによるものが多数存する。(「擬音語・擬態語辞典」 山口仲美編)
コンプラ瓶
日本酒は、戦国時代にはオランダ東インド会社を通じて東南アジアに輸出されていた。江戸時代になると、出島のオランダ商人がヨーロッパにまで伝えた。交易品の仲買人をポルトガル語でコンプラドールといったことから、酒や醤油を詰めた高さ二十センチほどの波佐見(はさみ)焼の瓶(びん)をコンプラ瓶という。容量は五百ミリリットル程度で、コルク栓で密封していた。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資)
月下独酌 其三 (三) 李太白
酔後 天地ヲ失ヒ 酔後は天地の存在を忘れ
兀然トシテ孤枕ニ就ク。 しやうたいなく独(ひと)り枕に就き
吾身有ルヲ知ラズ 吾身の有るをも知らぬ
此ノ楽ミ最モ甚シト為ス。 此の楽しみこそ最も甚大なものである。』(「中華飲酒詩選」 青木正児著)
麹室
たとえばさ、このあたりは冬は雪がいっぱい降るし、夜になって急に冷え込むことがある。そういう晩には、いくら断熱してある「麹室(こうじむろ)」でも、「麹蓋(こうじぶた)」の積み替えをしたら、品温(ひんおん)が一挙に三度も四度も下がってしまうなんていうこともあるわけさ。一足す一が二ということなら、そんなことが起きるわけがないだんが、そうでないから、麹室であっても、そんげなことが起きてしまうこともあるんだいね。そんげな時にはどうするか。何でもかんでも品温を上げればいいということならば、室(むろ)を暖かくしてやればいいわけだすけ、簡単な話だということになるだんが、それでは、いい麹はできないんだわ。やっぱり麹菌が増殖していって、自分の力で品温を上げるようにせんば駄目なんだ。そこで麹室の人間は苦労するわけさ。また、知恵を絞り何か方法がないかと考えるわけで、経験がものを言うことにもなるというわけだいね。(「杜氏千年の夢」 高浜春男)
泡消機(あわけしき)
酒母の湧付休(わきつきやすみ)時期やもろみの高泡時期には盛んに炭酸ガスを発生し、泡は粘稠(ちょう)度を増して細かく高くなり、そのまま放置するとタンクの外に溢(あふ)れ出る.以前は竹の柄の先に数本の細竹をくくりつけた「泡消し」を用い人手で泡を攪拌(かくはん)して泡を消したが、現在では泡消機(高泡防止機ともいう)が広く使用されて夜間の泡消しの労力をはぶくのに役立っている.泡消機は小型モーターの軸の先端に放射状に細い金属棒がついていて、泡の上面で回転することにより泡の表面が破壊され、内部の炭酸ガスが放散されて回転面より上に泡が上がらない.泡消機は低速回転のためギヤーあるいはベルト方式でモーターの回転を落としたり、多極(18極)のモーターが使用されている.(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)
槐園と、巣鴨に住みける冬。
戸の雪は、我ぞはらはむ。ほだくべて、夕の酒は、君あたためよ。
肴には、鯨こそあれ。酒もよし。窓うつ雪のおもしろき哉(「現代日本文学大系 与謝野寛集」) 槐園は、落合直文の弟です。
ワラウ・インディアン
アメリカ大陸の先住民、ワラウ・インディアンの部族には、そんな酒飲みの夫と妻の立場関係を象徴するような、あるひとつの風習が存在するという。朝起きて二日酔いになっている夫は、何とその妻に、ミイラのようにぐるぐる巻きにしてハンモックに縛り付けられてしまうのだ。懲りずに深酒を繰り返すダンナへのおしおき…という意味合いももしかしたらあるかもしれないが、実はこれ、彼らワラウ・インディアンの二日酔い対策なのである。(「二日酔いの特効薬のウソ、ホント」 中山健児監修)
後撰夷曲集(6)
銚子口のいわし名物なれば
くむ酒も てうし口より 出にける 生鰯こそ よきさかななれ 高故
題不知
酒ならで 手なが蛸にも 酔たるは かまで何盃 のみこみしぞや 信俊
盃のさらに書付侍りし
盃を 題にすゑたる 歌なれば 左をあげて かくばかりなり 行風(「後撰夷曲集」 生白堂行風編)
またろく【又六】
一休が酔ひを買つた、三輪の里の酒屋の亭主。一休が或時また酔ひ伏して居る処へ、寺から小僧が来たので起すと、『極楽をいづくの程と思ひしに、杉葉立ちたる又六の門』と詠んで又六に与へた。
又六は門に天狗の巣をつるし 即ち杉葉の目印
又六が門に知章の緊ぎ馬 八歌仙中の知章
又六が見世に和尚の大鼾 是一休也(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)
『日本山海名産図会』にみる酒造生産工程
《酛仕込》酛仕込作業開始予定日の三日前に米を出し、、翌朝洗米して水にひたしておき、その翌朝蒸米して、これを筵(むしろ)にひろげて冷やし、半切桶八枚にわけていれる(寒酒のときは六枚にわける)。このときで米五斗に麹一斗七升、水四斗八升を加える。半日ばかりして水が全部吸収されると、手でかきまぜる。この作業を「手元(手酛)」という。夜にはいって櫂(かい)を使ってくだく。これを「山卸(やまおろ)し」という。それから昼夜一時(いっとき・二時間)に一度ずつかきまぜて(これを仕事という)、三日のちに二石入りの仕込桶へ残らず集める。このあと三日おいて発酵させる。これをおどり(踊り)あるいは吹切(ふききり)という。あわが盛りあがってくると、また半切桶二枚と二石入り桶一本の三つにわけ、筵で桶を包んでおく。およそ六つ時ばかりたつと、自然の温気を生じる。寒酒の場合は、このときあたため桶(暖気樽・だきだる)に湯を入れて醪の中へ入れる。この温気を生じたころをみはからって、櫂を入れてかきまぜながらさますと、二、三日の間に酛ができあがる。このように酛仕込作業の開始日を酛取・酛初めといい、新酒づくりがはじまる。(「酒造りの歴史」 柚木学)
我が青春期
つまり、新聞や商業的な文芸雑誌にお座敷を持つた連中が発起人になって、編輯者の注文に縛られずに、書きたい評論が書ける雑誌として「批評」が計画された訳である。先輩との繋がりも多くて(今ならばこれを、却つて窮屈に思ふ向きもあるのだらう。馬鹿げた話である)、創刊号には小林秀雄氏、第二号は柳田國男氏、三号には河上徹太郎氏を囲む座談会が載つて、以後、さういふ先輩を誰か一人呼んで座談会をやるのが慣例になり、それがかなり長い間続いた。横光利一氏や林房雄氏にも来て戴いたことがある。もつと通俗的に青春的な面から言ふと、同人費を多く集める必要などから、余り選り好みせずに同人を作つた為に、その中には色々なのがゐて、同人会は議論が百出して賑やかなものだつた。会は大概、その頃はまだ埋め立てていなかつた三十間堀の、「はせ川」の二階で開かれた。或る時、言葉といふものを何と見るかで、大論戦があつたのを覚えてゐる。要するに、言葉が文学の単位をなすものであるといふ意味で、これを一つの生命ある個体として扱ふ考え方と、言葉の本質は民俗学、言語学その他の学問で科学的に研究出来るものだといふ考へ方が激しく対立したのである。マラルメとマルクスの喧嘩のやうなものだつたから、結論は出なかつたが、そのために生じた反目のお蔭で科学派がいつの間にか「批評」から離れて行つたのは大助りだつた。そしてかういふ根本的である割合には損得と関係がない問題にあれだけ血道を上げられたのは、これは確かに我々が若かつたからに違ひない。この雑誌の同人と付き合つてゐる間に、酔つ払ふことを覚えた。議論をする時には大きな声を出した方がよくて、一番大きな声が出せるのは酔つ払つた時だから、いやでもこの術を教へ込まれたのである。尤も、「何をッ」といふ風なことを言ふのではなくて、「君はー、それならー、ヘルダアリンを何と思ふんだあー」といふ調子でやるのである。そしてこつちは酔つ払つてゐるから、相手を圧倒してゐるのが自分の精妙なる推論ではなくて、大きな声だといふことに気が付かない。だから、益々自分の論理を信じることになるのである。これも青春的なことであつて自分にも青春といふものがあつたことが染みじみ感じられて来る。(「我が青春期」 吉田健一)
来会楽
地酒店・来会楽(コアラ)は、その名の通り「来て会って楽しい」店。気さくな雰囲気に中で各地の銘酒が味わえる。酒を担当するママの知識は深く、素朴な疑問にも丁寧に答えてくれる。常時約40種の酒を用意。
住/新宿区舟町4-1 メゾン・ド・四谷1階 営/18時~24時(昼あり) 休/日、祝 電/03-3357-5060 ホームページ/なし 提供酒/黒松扇瓶取り大吟醸(1300円~)、奥播磨鑑評会出別仕込(1200円~)(「酒のつまみは魚にかぎる」 堀部泰憲編集)
一見客・常連客
「あっ!おいしい!『野鳥』にずっと来たかった!!、あ、よかった!! ほら、あなた、おいしいでしょ?!」 甲高い声で野暮なセリフを連発する唯一の女性客が、不運にも、私のすぐ隣にいた。六十歳前後の夫婦で来ていたが、旦那はほかの客たちと同様に静かに飲んでいた。彼が内心どう思っていたかは分からないが、あまり返事をしなかったせいで彼女の独り言が止めどなく私の耳を撃ち続けた。本当は、同じ一見客として、一喝してやりたかったが、何とか堪(こら)えることができた。その代わり、いつも持参している小さなノートに言いたいことを書き留めた-。「おい!ここは初めて入った店だろ?
周りの客がみんな静かに呑んでいることに気づかないかね?いい歳して、女子高生みたいにキャーキャー騒ぐなよ!ったくも!」(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)
妙な酒、妙な飲み方
私が酒と出逢ったのは、大学に入ってからである。いや、正確には酒とではなく、アルコールとだ。入学したのが農学部農芸化学科。まだご壮健の坂口謹一郎先生、そのほかの講義を受けた。たぶん皆出席のはずである。ほかに娯楽がなかったのだ。その結果、アルコールの製法を知り、人体内では炭水化物や脂肪も、最終的にはアルコールとなり、その燃焼で水と二酸化炭素となり、生命活動のエネルギーとなることも知った。やがて、実験をやらされるようになる。アルコールはたいていの化学実験に必要なものであり、かなりの量が存在していた。戦後であり、ペニシリンが神の薬のごとく思われ、国産化を急がせようと、優先的に回されたのかもしれない。もちろん、まじめに実験はやったが、そればかりとは限らない。アルコールをお茶で割って飲むやつがあらわれた。お茶でなくカラメル(砂糖の一種)とか味の素をまぜて少し高級なのを作るやつもあった。とにかく、いちおうの知識はあるのだ。そのため、私の旧友でメチルでからだをこわしたやつはいない。学術的な興味からか、イモを原料として糖化発酵をさせ、ドブロクまがいのを作ったやつがいた。蒸留すればイモ焼酎だが、そこまではやらなかったようだ。アルコールからのと一線を画したかったのだろうか。そのくせ、だれも自分の適量を知らないから、やっかいである。何かの会のあと、会議室でドストエフスキーについて朝までしゃべりつづけたやつには驚いた。私はある日、旧友と会うことになり、おたがいに持ち寄ったジンとサイダーをまぜて飲んだことがあった。けっこううまかったが、気がついてみると、どうしても立てない。腰が抜けたみたいで、あんな体験はそれ以前にも以後にもない。(「酒との出逢い 妙な酒、妙な飲み方」 星新一)
岩手県上閉伊郡附馬牛村
69酒盛の時にとくに定まった食法がありますか
盃はどういう順に廻しますか。酌は誰がしますか。食物はどういう順序に出されますか。廻されるものを各自が随意に取りますか、それとも一定の人が分配しますか。料理は特定の食器に盛られますか。
〇酒盛は無礼講といって席をわざとかえる場合が多い。
〇盃は大盃(一合ぐらい入る)
70酒盛の後でさらにアト祝イとかウチ祝イというようなことがありますか。それを何といいますか。
残りものはどうしますか。
祝事が済み、酒盛があると、翌日、後片付けに近所、近親者が集まって後引(コガ洗イ)などといって残りもので料理して一盃飲み合う。
71酒盛に参加する人はどういう人ですか。酒盛の性質によって違いますか。
男ばかり,女ばかりという場合がありますか。それはどんな場合ですか。参加すべき人がしなかったらどうしますか。
〇酒盛には男女いっしょになってする。
〇男ばかりの会では男だけ。
〇参加すべき人がしなければ迎えに行って連れてくる。
〇「おっつき」といって一盃(一合ぐらい)、「場所おくれ」といってまた一盃、「お持ち合い」といってまた一盃」,三度二三合ぐらい飲んで仲間入りする。
72共同食事、酒盛の費用は誰が負担しますか。村、組ですか。各自の負担ですか。あるいは物を皆が持ち寄りますか。
共同食事の時は持ち寄りの方が多く負担する。
持ち寄りできない酒のようなものは共同負担。
88醸造業者でなく,濁酒が造られていましたか。それはどんな時に造られたでしょうか名称は何といいましたか。
村祭りの時には今でも造りますか。どうしてつくりますか。芋酒、焼酎など造られましたか。これらの酒類は個人個人で造りましたか、村とか組とかが共同で造りましたか。女は関与しませんでしたか。
甘酒以外は知らない。
89一年のうち酒を飲む機会はどれくらいありますか。平均一戸当たりどれくらいの量を用いますか。
どんな種類の酒ですか。毎日常用する人が何人くらいありますか。飲酒家と酒嫌いの比率はどれくらいですか。大酒家というのはどれくらい飲みますか。軽い程度の酒の肴には何を用いますか。
〇酒嫌いは三割ぐらい。七割は飲酒家。大酒家は一度に一升ぐらい。
〇酒の肴は漬物。(「日本の食文化」 成城大学民俗学研究所編)
すまんがかんべんしてくれ
以下の増原恵吉(のちに第三次池田内閣で行政管理庁長官)と池田の会話は『池田勇人先生を偲ぶ』(編集世話人代表松浦周太郎・志賀健次郎)の増原の寄稿からの引用である。事務次官時代の話だ。香川県知事だった増原は香川に酒精工場の設置を許可して欲しいと大蔵省に陳情を重ねていた。何度目かの陳状に池田は「こいつは難しい。我慢してくれ」と難色を示し、増原は諦めざるをえなくなる。失意の中、翌日、香川に帰る汽車に乗ると偶然にも、母親の病気の見舞いに広島に向かう池田と乗り合わせる。横浜を過ぎると、酒瓶を持った池田が増原の席に来て「ひとつどうだ」となる。車内は混雑していたが、どうした加減が話が大変にはずみ、池田は冷酒をぐんぐんとあおって、二本目が空になる頃には、珍しく大変に酔ってきたように見えた。「君達東京へは何の用事で来たのだ」「何の用事はないでしょう。酒精工場を頼みに来たのだが、あんたが駄目だというのでスゴスゴ帰るところですよ」「なに酒精工場ー。うーんそうか」陳状は分刻みでくる時もあり、全ては覚えていられないだろうが、全く覚えていない。何度も陳状を重ねた末の、「何の用事で来たのだ」はこたえる。ここで一寸考え込んだ池田は、ぐっと茶碗酒を飲み干して「よし引き受けた。できるようにして上げよう」増沢はあれだけ頼み込んでも相手にされないどころか、昨日の今日で案件すら覚えていなかったわけだから半信半疑で何度も大丈夫か、酔っているだけではないですかと確認すると池田はこう言い放つ。「なに、酔っている。おれが酔ってなどいるものか。大丈夫引き受けた。もう寝ろ寝ろ」ここまで言われれば大船に乗ったも同じだろう。相手は時の大蔵次官である。だが、増沢は思い知らされる。アルコールを飲んでいた席の話は、話半分で聞き流さなくてはいけないのはいつの時代も変わらないことを。間もなく上京の機会に、増原は、次官室に御礼に出かけた。「酒精工場の御礼?それはどういうことだ。先夜汽車の中で…。ウーン」全く覚えていなかった池田はしばらく電話をかけて手を打とうと試みるものの、手立てはなかったらしく「すまんがかんべんしてくれ」」と謝ったという。もうちょっと頑張れよと思うも、池田という人はロジカルであり、正直にバカがついた男だったので、ムリなものはムリということだろう。(「政治家の酒癖」 栗下直也)
鉄漿 かね
つんぼかと のぞけばかねを つけて居る 六40
【語釈】〇鉄漿=お歯黒に同じ。
【観賞】かねをつける時は呼びかけられても返事ができない。鏡に向い歯をむき出して一心不乱、すさまじいばかりである。-
【類句】是ほどのんだら酔ふと かねへ入れ 一五37
(鉄片や酒を鉄漿の壺へ入れる)(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)
世に不益のこと多かるも
この日(千住の酒合戦)、酒はふんだんに準備され、供の者や近所の者にも振舞われ、さらには駕籠かきまでが酔いつぶれて、帰り客を送れない始末であったという。徹頭徹尾"遊び"の精神に徹した会で、招かれた文人たちも八百善に集うメンバーであった。化政期には、こうした酔狂な還暦祝いを思い付き、それを実行に移すような奔放な雰囲気にあふれていたのである。もっとも、平戸藩主を退いて江戸に隠棲していた松浦静山(まつらせいざん)は、この千住の酒戦の結果や鵬斎・南畝の詩文を、ある人から贈られた文として『甲子夜話』に写し留め、評して次のように述べている。 世に不益のこと多かるも、天の異行なるべし。聞たるは忘れ易く、棄たるは得がたし。無用のものも再(ふたたび)視んと欲るときは由なし。 藩制を預かったことのある冷静な知識人の眼には、無益の奇行に映ったにちがいないが、かといってまったくの無関心を装ったわけでもなかった。静山がこれを写し取った真意を知ることはできないが、明らかに化政という時代の世相を代弁する珍事であったことだけは確かであろう。(「江戸の料理史」 原田信男) 高陽闘飲序
河太郎
田辺意次の全盛期、安永年間のころ、大坂の富豪で河内屋太郎兵衛というものがいた。たいへんな遊び好き、大酒呑みだった。世に河太郎といえばかれのこととして知られた。あるとき、芸妓たちから住吉詣でに連れていってほしいとねだられた。かの女らに甘ったれられて、すぐ「よしよし」という男は、今の世にも少なくないが、河太郎はその実力十分であるだけに、ただ金を使うだけではつまらないと思ったのか一つの趣向をこらした。かれは一艘の屋形船にどっさり酒、肴を積みこみ、芸妓たちを乗せてはしゃぎながら住の江の岸辺にまでゆっくりと下った。岸辺に船を寄せると、うす汚い姿の男が数名菰(こも)をかぶって寝転んでいる。船中でかなり大酒を飲みほしていた河太郎は、かれらに声をかけ「みんなここに入ってきて酒の相手をせいや」というと、遠慮がちに船に乗りこんできた。河太郎はいい気持そうに、かれらを相手に盃のやりとりを続け、うまい馳走を食べさせた。芸妓連中は、このようすにすっかり酒もさめ、男たちのむさくるしさが鼻について何も喉を通らない。つまらないから皆岸にあがってしまった。残った男たちは酔うほどに三味線なども取ってひき、かつ歌う。それぞれ芸を演じるがどれも達者である。その芸のうまさ、おもしろさに、陸にあがった芸妓連も立ち去りがたく、のぞき見している。「いやー、よくやった。褒美を取らせるぜ」と河太郎は、風呂敷からかれらの人数分の衣類を出した。男たちは「大きに」と言いつつ皆川に飛びこみ身体を洗う。身体のあちこちに傷やただれにしていた肌だったが、何とこれこしらえもの、川でごしごしやって取り去ってしまった。さっぱりした身体になって、与えられた衣服を着ると、じつは当時名代の京都の太鼓持ち連だったという。すべて河太郎のしくんだ演出だったのである。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎)
食物年表(日本)(2)
平安時代 800 〇屠蘇が宮中で用いられ、民間にも広まる
平安時代 866 ・諸司の群飲、僧侶の飲酒を禁ずる
平安時代 878 ・酒税を徴収する
平安時代 900 ・重ねて、諸司、諸家、諸祭司などに饗応郡飲を禁ずる
平安時代 911 ・亭子院の酒合戦
平安時代 927 ・宮内省造酒司の御酒糟の製法が明示された(延喜式)
平安時代 951 ・源頼義が前九年の役で、酒甕数十個を将士に与える(「日本分類年表」 桑原忠親監修)
春風馬堤曲
〇店中有リ二二客一 能(ヨク)解ス二江南(コウナンノ)語ヲ一
酒銭(シュセン)擲(ナゲウチ)二三緡(ビンヲ)一 迎ヘレ我ヲ譲(ユズリテ)レ榻(タフヲ)去ル(「春風馬堤曲」 与謝蕪村)
熱燗に雲丹
ここで、氏の愛用のカメラ<プラウベルマキナW67>が故障した。氏は電話ボックスからカメラ屋に電話をかけ、私と編集者は寒風の中でふるえている。代りのカメラを届けて貰うことになり、それまでどこかで待機する羽目になった。補修工事中の昌平橋を渡り、そば屋で暖をとるつもりが、<かんだ藪>は休みで、だからというわけではないが、<まつや>に入った。いかにも下町の古い造りの店で、働く女性が親切である。蒼白になった私たちに、その席は風が入るから、などと注意してくれる。とにかく、熱燗に名物の雲丹。荒木氏はざるで酒を飲みたいと言い、ついでに天種(てんだね)を注文すると、女の人が、それでしたら、天せいろの方がお得です。ただし、海苔がかかっていません、と教えてくれた。須田町交差点に近いこの一角には、良い食べ物屋が焼け残っていて、この<まつや>と<藪>のほかに、鳥すきの<ぼ多(た)ん>、あんこう鍋の<いせ源>、洋食の<松栄亭>、私は関係ないが甘い物の<竹邑(たけむら)>-ざっと想い出すだけでこれだけある。近所で商売をしている人たちが羨ましい。(「私説東京繁盛記」 小林信彦・荒木経惟)
酒株
今も酒税というものがあり、お酒を製造したり販売するには、免許が必要です。江戸時代には、通貨の代わりをしたのはお米なんです。大名が何万石とか言われますが、石数はそのままお米の価値であり、貨幣の代わりをしていたことが分かります。それと同じことで、江戸時代にはお酒をつくる権利というものも、全部決められていたのですね。酒造株数によって、どれだけお酒をつくっていいか制限されていたわけです。例えば、寛文六年(一六六六年)には、伊丹での酒造株高は七万九千石余で、その当時、酒造株、すなわち酒造許可証は四十八株あり、酒屋の人数は三十六人だったということが記録から判明しています。そして、それから百七十年後の天保十二年(一八四一年)の記録によれば、酒造株高は十三万七千余石、、酒屋の人数は八十六人となっています。酒造りが盛んになっていたことが分かりますが、やはり今日と同じで、製造は許可制であり、製造には限度が設けられていたことが分かります。(「不易流行の革新経営を目指す」 小西酒造株式会社代表取締役社長 小西新太郎)
幸せな普通のドリンカー?
つまり、AA(アルコホーリクス・アノニマス)は全く同じ毒物を摂取している人々を、二つのグループに分けて考えているのです。かたや、お酒で人生破滅に追いやられたアルコール依存者。もう一方は普通のドリンカー:(ほどほどの量をたしなみ、摂取量をしっかりコントロールできる人たち。AAは、この段階の人たちはお酒から「利益」を得ている、とさえ言っています)。どうしてAAはこんな説を打ち出しているのか、二つの説明が可能だと思います。まず「アルコール依存者は先天的に体質が違う」という考え方。もう一つは「アルコール依存者は同じ病気の、より進んだ段階にいる人たち」という考え方。しかし、後者の考え方はあまり世間一般には受け入れられていません。何故でしょうか。お酒を飲む人は、自分がお酒が楽しいから飲んでいるのか、依存しているから飲んでいるのか、わからないで飲んでいる時期が何年かあります。AAによると、前者の状況にいる人は、利益がある時だけに時期と場所を選んで、普通にお酒を飲んでいる人で、後者の状況にいる人は、アルコール依存者です。バーナード博士によると、自分が後者だと気づくまでの、幸せな普通のドリンカーの期間は、二~六十年です。しかし、よく考えてみてください。初期段階には患者の全員がその症状から利益を得ることができ、一部の人だけ、突然その利益が悲惨な症状に悪化するような病気が、実際に存在しますか?症状が軽いからと言って、それが利益だとか幸せだなんて、おかしな話ですよね。もし、アルコール依存症がAAの定義するように治療法のない病気なのであれば、幸せな普通のドリンカーもアルコール依存者と同じ病気を患っていて、前者は症状が軽いのでそのことに気づかないだけだ、と考え方が筋が通ると思いませんか?(「禁酒セラピー」 アレン・カー 阪本章子訳)
自堕落
〇品行のよくない坊主がいた。一人の弟子に言う、「明日は吉野の花見に行こう。道のりが長いから、暁から起きて出発の用意をせよ」「心得ました」と早く起き、酒飯をととのえ、戸を叩いたところ、坊主、「まだ夜ぶかい」とて起きない。そこで、つねづね弟子にかくし、寝ざまに焼味噌といって鶏の玉子を用意し、これを肴にして酒をのむことを、内心癪にさわっていたので、この時こらえかね「夜は深いか浅いかは知らないが、焼味噌の父親は、もはや三番ないた」。(「醒酔笑」 安楽庵策伝 小高敏郎訳)
生酒之事(2)
一、生酒桶之事。大体三尺七寸能候。大桶酒重さ強(多)く勢強く常に沸合、殊に杉の香遠く候故、足弱く成也。惣而江戸積新樽、船中に揺(ゆら)れ、江戸にて積籠候へとも、来年迄も替る事無之候。依之、小桶持道理分明也。
〇生酒の桶 だいたい三尺七寸桶がよい。大桶を使うと、酒に重さがあり、勢いが強くて常にわき立ち、とくに桶の杉の香りが行き渡らないため、日持ちがわるくなるのである。概して江戸へ出荷する新しい桶の場合、船中で揺られても、江戸で樽を積み重ねておいても,翌年まで変質することがない。これによって、小桶のほうが酒がもつ道理も明らかである。(「童蒙酒造記」 吉田元翻刻・現代語訳・注記・解題)
莫迦踊(2)
しかし平吉が酒をのむのは、当人の云ふように生理的に必要があるばかりではない。心理的にも、飲まずにはゐられないのである。何故かと云ふと、酒さへのめば気が大きくなつて、何となく誰の前でも遠慮が入らないやうな心持ちになる。踊りたければ踊る。眠たければ眠る。誰もそれを咎める者はない。平吉には,何よりも之が有難いのである。何故之が有難いのか。それは自分にもわからない。平吉は唯酔ふと、自分が全、別人になると云ふ事を知つてゐる。勿論、莫迦踊を踊つたあとで、しらふになつてから、「昨夜は御盛でしたな」と云うはれると、すつかりてれてしまつて、「どうも酔ぱらふとだらしはありませんでね。何をどうしたんだか、今朝になつてみると、まるで夢のやうな始末で」と月並な嘘を云つてゐるが、実は踊つたのも、眠てしまつたのも、未にちやんと覚えてゐる。さうして、その記憶に残つてゐる自分と今日の自分と比較すると、どうしても同じ人間だとは思はれない。それなら、どつちの平吉がほんとうの平吉かと云ふと、之も彼には、判然とわからない。酔つているのが一時で、しらふでゐるのは始終である。さうすると、しらふでゐる時の平吉の方が、ほんとうの平吉のやうに思はれるが、彼自身では妙にどつちとも云ひ兼ねる。何故かと云ふと、平吉が後で考へて、馬鹿々々しいと思ふ事は、大抵酔つた時にした事ばかりである。莫迦踊はまだ好い。花を引く。女を買う。どうかすると、こゝに書けもされないやうなことをする。さう云ふ事をする自分が、正気の自分だとは思はれない。Janusと云ふ神様には、首が二つある。どつちがほんとうの首だか知つてゐる者は誰もゐない。平吉もその通りである。(「ひよつとこ」 芥川龍之介) 莫迦踊
惜鱗魚
鰣魚に「鰣魚(じぎよ)は蜜酒を用(も)つて蒸食すること。刀魚を治むる法の如くすれば便(すなは)ち佳なり。或は竟に油を用いて煎り、清醤、酒娘(しゆぢやう チウニアン)を加へるも亦佳なり。万(ばん)切りて砕塊と成し鶏湯(鶏のスープ)を加へて煮るべからず。或は其の背(肉)を去り、専ら其の肚皮を取らば則ち真味全く失ふ」と。鰣魚(じぎよ)はこのしろに似た形の魚で、大きなのは三尺に及ぶ者がある。日本動物図鑑には「ひらこのしろ」とある。海から江に上(のぼ)るのは晩春から初夏の候にかけて最も多い。昔から中国人自慢の魚で欧米人はマンダリンフィッシュと呼ぶ。(「飲食雑記」 山田政平)
酒席の演説
梁(りよう 魏のこと)王の魏嬰(ぎえい)が范台(はんだい 宮殿の名)で諸侯を酒によんだ。酒たけなわにして、魯(ろ)君に盃を取るようにいったところ、魯の君は起ちあがって席をさけ、まじめなことばを連ねたのである。「むかし帝王(堯帝)の娘が儀狄(ぎてき)に酒をつくらせ、非常にうまくできました。禹(う 賢臣、のちに帝王)にすすめると、禹は飲んでうまいと思いましたが、やがて儀狄を遠ざけ、うまい酒は絶って、『後世必ず、酒のために国を亡ぼすものが出るだろう』といいました。斉(せい)の桓公(かんこう)が夜中におなかがへってものたらなくなったとき、易牙(えきが 料理の名人)が煮たり焼いたり,五味(酸・苦・甘・辛・鹹)を調和してご馳走をたてまつった。桓公は十分に食べて、朝までぐっすりおやすみになったが、やがて、『後世必ず、美味のために国を亡ぼすものが出るだろう』といいました。晋(しん)の文(ぶん)公は南威(なんい)という美女を手に入れて三日も政治をなおざりにしましたが、やがて、南威を遠ざけて、『後世必ず、女色のために国を亡ぼすものが出るだろう』といいました。楚(そ)王は、強台(きようだい 強という高楼)に登って崩(ほう)山を見るや、左は揚子江、右は洞庭湖、これを眼前に徘徊していると、死も忘れるほどの美しさであった。やがて強台には登らないことを神に誓い、『後世必ず、高楼園池のために国を亡ぼすものが出るだろう』といいました。今日、ご主人の樽は儀狄(ぎてき)の酒であり,ご主人の美味は易牙(えきが)の料理であり、左の白台(はくだい)、右の閭須(りよしゆ 両方とも美女の名)は南威の美しさであり、前の夾林(きようりん)、後の蘭台(らんだい)は強台の美しさであります。これらの一つだけでも国は十分に亡びるものであるのに、今日ご主人は四つを兼備されている。戒めないでよいでしょうか」梁王は「うまいことばだ」と称賛し、つづけて酒をすすめた。(註一)(魏上)
註一 このような演説も酒興の一つなのであろう。お説教のおうむ返しが即ち主人の挨拶ぶりへの賛辞となっている。(「古代寓話文学集 戦国策篇」 西順蔵訳)
思わぬ融合
思わぬ融合に初めて衝撃を受けたのは、岐阜の高山でのこと。雪降る夜に居酒屋に入り、地元の蔵、原田酒造場の「山車(さんしゃ)」を燗で呑んでいたのである。濃厚な旨さがじ~んと五臓六腑にしみ渡る幸せにひたっていたところ、赤かぶの漬け物が運ばれた。かなりしっかり漬かったその赤かぶと酒を合わせたとき、一瞬言葉を失った。互いの濃い味わいががっぷり四つに組んだ後に、ミルキーな甘味が立ったのだ。魔法にかけられたかのようだった。名物の朴葉味噌とも、また然り。「山車」に限らず、岐阜の酒は山の美味と一緒に舞台に立つと、旨さがいっそう映える。滋賀の琵琶湖のほとりでは、鮒ずしと福井弥平商店の「萩之露」を合わせたときの衝撃が忘れがたい。双方、骨太な味わいがぐんぐんふくらみ、やがてほわ~んとした余韻を残し、その名残に誘われて、また1杯となった。一方で思わずうっとりしたのは、、宿の食事を終え、寝酒に喜多酒造の「喜楽長」を味わっていた際のこと。湖畔を巡る旅の途中、旬の桃を露店で買ったのを思いだしてかぶりついたところ、酒が含んだ酸の煌めきと桃の甘味、酸味がすうっと優雅に溶け合うではないか。まるで恋におちたかのような、甘味でロマンティックなときめきを覚えた。-
これからも、未知の発見は多々あるだろう。皆様もお気に入りの酒の故郷を訪ねてみてはいかがだろうか。いつもの食卓とはまた異なる、麗しき幸せと出会えるはずだ。(「ニッポン「酒」の旅」 山内史子)
一東奥濁酒ノ方 橋本市左衛門伝
元作リ
一米二升、水二升ニテウルカシ、其中ヱ小ザルニ飯ヲ汁椀ニ一盃ホド入。
右ノ通リニシテ二夜置キ、ブツ/\波立ツ時右ノ米ヲ揚テフカシ、尤ソノ飯モリノ儘上ゲ置ナリ。右ウルカシ水ヲコボレヌヤウニ蓄置キ、飯ヨクスマシ<サマシカ>糀一升六合右小ザル飯モ入レ、ソノ水ニテ作リ、桶ノ廻リナレテ離ルトキ添作リ込ヲスルナリ。
添作リ
米一升、水一升、糀八升。(「風軒遇記」 小宮山風軒)
盃杯盞觴觶巵觥
いつれもさかつき也 是ハ唐にて酒を盛器也 此方のさかつきハ大器なり (増)さかづき東西玉秦少游詩に病来拍飲東西玉とあり また玉東西、楊萬里詩に老大笑把東西玉といふ また金「舟力」、玉舟、長命觥ともいふ 李徳裕、東坡、張憲の詩に見ゆ(「増補 俚言集覧」 村田了阿編輯 井上頼囶、近藤瓶城増補)
旅中の飲食戒
一、旅行は兎角(とかく)暑寒をよく凌(しのぐ)べき也。就レ中(なかんずく)夏を心付(こころつく)べし。夫(それ)暑中は人々の脾胃(ひい)ゆるみて、食物を消化しがたし。因而(よつて)、しらぬ魚鳥貝類、筍(たけのこ)、菌(きのこ)、瓜、西瓜(すいか)、餅、強飯(こわめし)の類、多く喰(くら)ふべからず。夏は食傷より霍乱(かくらん)等発し、難義に及ぶことあり。春秋冬は、夏に準じ知べし。
一、空腹に酒飲へからず。食後に呑(のむ)べし。尤(もつとも)暑寒ともにあたゝめてのむへし。
一、道中にて焼酎(しようちゆう)を漫(みだり)に飲むべからず。中(あた)る人まゝあり。上製のものあらば少々呑むべし。尤(もつとも)夏のうち霖雨(ながあめ)、又は湿気多き土地などにては、焼酎、并(ならび)に泡盛酒等少々飲ば湿毒をはらふもの也。然(しか)れ共秋冬は呑べからず。- 八隅蘆庵『旅行用心集』(「料理名言集」 平野雅章編)
高松まいまい亭
穴子のうまみを生かしたもう一品は「鬼豆腐」である。一度下味をつけた木綿豆腐を、穴子の出しがきいた煮汁で改めて穴子の切身と共に煮る。「豆腐を二度炊きするのが秘訣で、精進料理をきちんと勉強した人間でないと、これは知らんだろうね…」と、主人はつぶやいた。天盛(てんも)りの刻み葱にたっぷりと一味をまぶしてあり、口中たちまち火事になるのが鬼豆腐たる所以だ。その辛さがなんともいえず快く、その分、どんどん酒が進む。(「うまいもの職人帖」 佐藤隆介)
たるひろひ[樽拾ひ](2)
⑨縁の下のぞいて歩く樽拾い (同)
⑩よこしまな美食などする樽拾ひ (樽一五)
⑪行きがけの駄賃はいらぬ樽拾ひ (樽一九)
⑫名句にはなるとは知らぬ樽拾ひ (樽二九)
⑬出格子を鳴らして歩く樽拾ひ (捨一九)
⑭樽拾ひ三ばい漬けのにほひがし (捨二〇)
⑮樽拾ひ芒をぬいてそれと出し (逸)-
⑨空樽なんかていねいに扱われない、縁の下などへぶち込んで置く家もある。⑩くすねた銭の使いようをおぼえてぶどうばかりではない。樽拾ひよこねはちつと早すぎる(逸)、などというのもある。⑪ついでに角のそば屋へ寄つてッてくれなどとただで使われる。⑫安藤冠里の句。雪の日やあれも人の子樽拾ひ、からの着想。類句-雪の日は文台にのる樽拾ひ(逸)。⑬拾った棒切れで出格子を摺り鳴らして行く子供らしいいたずら。⑭酒、醤油、酢などのまじつた匂いが発散する。⑮手のついた一升樽で貧乏徳利の原始形だから長屋住まいの者や武家の足軽部屋などでは十五夜の芒など捜ママすに利用した。類句-十五夜の花立御用取りに来る(樽二九)。十六夜(いざよい)の御用芒をひつこぬき(逸)。口小言御用枯野をぬいて行き(同)。花活けで取り集まらぬ樽拾ひ(同)。
⑯樽買ひにむだ足させぬやうに明け (樽初)
⑯この樽はコモ樽。樽買のことを考えて然るべきところにうまく穴を明ける。(「古川柳辞典」 十四世根岸川柳)
水屋の"水商売"
宮水の効用が確認されると、灘の西三郷(魚崎、御影、西郷)の酒造家も競うように使い始めた。しかし、牛車に宮水を詰めた水樽を積んで二里(8km)余りも離れた魚崎などへ運ぶと莫大な費用がかかる。そこで、牛車より大量に水が運べ、運賃の安い船を利用するようになったのである。また、酒造家以外にも、宮水地帯に井戸を持つ民家もあり、彼らは井戸を持たない酒造家に水を売るようになったが、これを「水屋」といい、灘のみ存在した珍しい商売であった。その後、明治大正を経て宮水地帯は北方に移動したが、その土地を持つ者が井戸を掘り、宮水を酒造家に売るという図式は変わらなかった。尽きることのない宮水を汲みあげて売るのであるから、思えばいい商売で、文字通りの「水商売」であった。昭和初期には、なお一〇軒の「水屋」があったが、結局、酒造家が「水屋」の土地を買い取り、「水屋」は井戸の管理料を受け取るようになって、「水屋」は消滅していった。(「灘の酒博物館 宮水ものがたり」 講談社編集)
猿丸太夫 さるまるだゆう
空尻(からしり)へ御侍を乗せ、品川の方へ行く。「旦那、よい序(ついで)でござります。海安寺の紅葉が盛り。ちよつと御見物なされませぬか」「夫はよかろふ」と行く。「これはどふもいへぬ。よく気が付いて案内してくれた。これについて一首読まふか」「それはよふござりませふ」「こふも有ふか。『奥山に紅葉ふみ分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋はかなしき』」「これは/\、近年の名歌でござります」「そんなら案内した褒美に一盃飲め」と、酒屋へ寄り、馬士はしたゝかしてやり、真赤に成つてゐる所へ、外の馬士が来て「権兵衛、日よりだな。大分なまが有るな」「なに、馬鹿な事をいふ。地切(じぎり)で呑む株(かぶ)はない」「そして誰が呑ませた」「この猿丸が」(大神楽・寛政三・紅葉)
【類話】高尾の歌(口合恵宝袋巻二・宝暦五)
【語釈】〇海安寺=海晏寺。紅葉の名所として知られた。
【観賞】侍は相手が馬方だから、百人一首の猿丸の歌を知るまいと、自作のように吹聴したのだが、馬方は百も承知だった。落語「猿丸」の原話である。(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)
いしはらたらう【石原太郎】
本所辺で名もない飲食店の事。向島に葛西太郎と云ふ料理茶屋があり、それは有名であつたが、これは石原町あたりの怪し気な家と云ふのである。
けちな連れ 石原太郎 などで飲み 笠井太郎と行かず(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)
ものうい酒 富士正晴
-
ものうさは
ひとり足(た)らえる酒心
影を相手に酒を飲む
話も声も無用にて
口は酒をばのむ道具
手は酒はこぶ道具なり
そういうお前は何なのか
わたしは酒を容(い)れるカメ
酒の匂(にお)いがしみわたり
つやつやつやとつやめいた
-(「酒の詩集」 富士正晴編著)
三ツ
一 酒を三ツと云事は、三輪川の水にて酒をカモスレバ清冽成よし、或抄に出づと尋ぬべし。杉林をしるしに立るも、此義による成べし。(「白石先生紳書」 新井白石)
御免酒
現在まで続く蔵のうちで、白雪に次ぐのが老松です。この酒には今でも朱刷で「御免酒」とレッテルに書かれていますが、これは、元禄十年(一六九七)伊丹の酒屋のうち、大手二十四軒に帯刀が許され、江戸幕府の「官用酒」となり、これを「御免酒」と称したところから生まれたものです。名字帯刀が許された酒屋は「御酒屋(おんさけや)」と呼ばれ、一般の酒屋とは区別され、格式も高かったといいます。「御免酒」の幕府納入が終わるまでは、他の酒は、町中で販売も許されなかったようで、その「御免酒」の中でも老松は「宮中奉納酒」また将軍の御膳酒として、格式も高く有名でもあったようです。元禄年間に版行されたといわれる「江戸積銘酒名寄番付」(約二七〇年前)によれば、老松は東の大関にランクされており、その頃の隆盛の様がよくわかります。(「灘の酒」 中尾進彦) 出版は昭和54年です。
注文毎に、ありがとう 岸田屋(月島)
燗酒をチビチビとやりながらゆっくり煮込みをつついていたら、皿の底の方の煮込み汁はだんだんと煮こごりのような状態になっていきます。こりゃまた相当濃厚なスープですねぇ。開店と同時に出してくれた煮込みでもこの濃厚さがあるというのが驚きです。燗酒は、今飲んでいる新泉(三三〇円)と菊正宗(三六〇円)とがあり、「お酒」とだけ注文すると、新泉のほうが出されます。その新泉・燗酒をおかわりし、二品目の肴選びです。月島あたりは築地も近いので魚メニューも豊富。子持ちカレイの煮付け(四五〇円)に、キンメの焼いたのや煮たの(どちらも六〇〇円)。となりのおじさんは銀ダラの煮付け(五五〇円)を食べてるなぁ。アナゴ煮付け(五〇〇円)や新サンマ焼き(五五〇円)もおいしそうだ。定番のくさや(五〇〇円)は、だれかが必ずたのむつまみ。くさやを焼く匂いが漂ってくると、「オレももらおかな」と便乗注文する人も多いのです。いわしつみれ吸物(二八〇円)や、はまつゆ(四〇〇円)も人気の品ですね。野菜類は、れん草おひたし(三〇〇円)や、もろきゅう(二〇〇円)、新しょうが(三〇〇円)、なす焼(三〇〇円)、枝豆(四〇〇円)など。この店で野菜類を食べることは少ないなぁ。今日は煮込みもネギ抜きだったので二品目の肴は野菜類にしてみましょう。お新香(三〇〇円)をお願いします!「ありがとうございます」ニッコリと注文を受けてくれたのは女将さんです。そして出されたお新香は、キュウリ、カブ、シソ漬け、菜漬けの四種盛り。しみじみと燗酒が進みます。(「ひとり呑み」 浜田信郎)
酔わぬというが酔うた
酔っていないというのが酔っている証拠である。とかく酔っていないというのが、これが酔っている証拠である。元禄時代の狂歌に、<我ながら酔わぬと言うが酔うた癖>とある。(「飲食事辞典」 白石大二)
酒にかかわる四字熟語
求漿得酒(キユウシユウトクシユ)
漿を求め、酒を得る。ただ飲み物を求めたのに、酒まで振る舞われた。すなわち、希望を超えた品が手に入ったことのたとえ。「豚蹄一酒」も類義。[「遊仙窟」]
琴棋詩酒(キンキシシユ)
琴を弾き、棋に興じ、詩を吟じ、酒を酌む。すなわち、風流を楽しむ贅をあらわす。[「通俗編」芸術]
金谷酒数(キンコクシユスウ)
詩作に興ずる酒宴において、即詠できなかった者に対する罰杯。不首尾の者は酒三杯を飲ませられたという、晋の石崇(セキスウ)の故事による。[石崇「金谷園詩」序]
載酒問字(セイシユモンジ)
酒をたずさえて行きて文字(学問)の教えを乞う。漢の揚雄の故事から。[「漢書」揚雄伝・賛](「日本の酒文化総合辞典」 荻生待也)
咸鏡道の山中、偶(たまた)ま、旧友某と逢ふ。某は、参謀本部の測量隊に従ふもの。
痛飲三斗この一夜(いちや)、
未だ酔はずと笑ひつつ
ふたり砂上にねころんで、
古詩うたひしも昔なり。
別れて共にいくとせを、
千里の旅に重ねけむ。
はからず今夜咸鏡の、
この山中に君を見る。
なほ忘れずや国の上、
いたくも君は痩せにけり。
いでや語らむ酒の前、
しば/\我は泣かむとす。
高麗の山壮なれど、
謀らむ人はいと稀に、
我党の策奇なれども、
用ゐる時期は既に過ぐ。
断髪嶺(だんぱつれい)にかかりしに、
郡吏(ぐんり)追ひ来て我に云ふ。
「これよりさきは虎多し、
夜(よる)ゆくことを戒めよ」、
虎はふせがばふせぐべし、
北夷の害は如何にせむ。
万馬あしたに南下せば、
八道みす/\血とならむ。(「東西南北」 与謝野寛)
盃洗と盃台
盃洗とは文字通り盃を洗う器である。集団で食事をする習慣のある日本では、神聖な酒を一つの盃で飲み合うことによって、心と心が結ばれると信じられてきたから、夫婦固めの盃や酒宴で大盃を回し飲みする風習があった。中でも酒席での献杯やお流れ頂戴といった盃のやりとりは日常的に行われてきたが、そのような盃の献酬のとき、取り交わす盃を洗うのがこの器で、磁製の丼または漆器の鉢である。江戸中期の『寛天見聞記』に「盃あらひとて丼に水を入れ」とあり、また『守貞謾稿』には「盃すましの丼は丼鉢の事なり」とあるように、昔は大きな丼や鉢を盃洗に使ったようだ。現在多く残っているのは、江戸末期や明治時代の盃洗で、特に料亭などで使われていたものには、美しく絵付けされた大鉢や漆器で造られたものが多い。、盃洗台に載せられて座敷に運ばれてくるときの舞台効果をねらった、観賞用としての盃洗も多かった。盃台は盃を載せる台のことで、盃台ということばは盃を敬い、それを支えるという心を表現している。桃山時代の七宝焼きの盃台あたりが最も古いものとされる。江戸を経て明治時代まで造られてきた、心なごむ飲酒道具の一つである。磁器製の盃台には伊万里、九谷をはじめ織部、清水、志野、萩、砥部(とべ)、信楽(しがらき)、平戸などのものが多く、また漆器では輪島、根来(ねごろ)、会津のものが目立つ。これらの盃台だけを展示した珍しい美術工芸館が和歌山市吹屋町の田端酒造㈱内に、かつてあり、約三〇〇〇点の盃台が収蔵されていた(現在非公開)。その中には、江戸初期の野々村仁清作、江戸末期から明治の陶工の真清水蔵六(ましみずぞうろく)作、江戸後期の名工の永楽保全(えいらくほぜん)作、江戸時代中期・後期の陶工の清水六兵衛作といった名作もあり、、珍しいものでは宝暦年間に平賀源内が製作した盃台も展示されている。(「日本酒の世界」 小泉武夫)
まさむね【正宗】
③灘の銘酒。天保年間、同所の山邑氏の醸造する処である。正しくは、せいしゆう、と音読するのであるが、この名が有名な為め、正宗は日本酒の代名詞として呼ばれる事さへあつた。また、各地其の名声を真似て、何の正宗と云ふ銘酒が後に沢山現はれた。
正宗を藁づとにして江戸へ出し 菰被(こもかぶり)にして(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)
思わず笑みがこぼれてしまう極上の酒が手に入るマニアの酒屋
酒本商店 | 0143-27-1111 | 〒051-0036 | 北海道室蘭市祝津町2-13-7 |
清水台平野屋 | 024-932-0373 | 〒963-8005 | 福島県郡山市清水台2-5-9 |
池田屋酒店 | 048-641-0272 | 〒330-0802 | 埼玉県さいたま市宮町1-107-3 |
長谷川酒店 | 03-3644-1756 | 〒136-0073 | 東京都江東区北砂3-24-8 |
味ノマチダヤ | 03-3389-4551 | 〒164-0002 | 東京都中野区上高田1-49-12 |
掛田商店 | 0468-65-2634 | 〒237-0067 | 神奈川県横須賀市鷹取町1-126 |
とちぎや | 0466-22-5462 | 〒251-0053 | 神奈川県藤沢市本町4-2-3 |
伊藤酒店 | 0259-74-2126 | 〒952-1508 | 新潟県佐渡郡相川町大字大間町6 |
高田酒店 | 0779-66-2890 | 〒912-0054 | 福井県大野市糸魚町1-45 |
酒福いずみ屋 | 054-259-3024 | 〒421-0115 | 静岡県静岡市みずほ5-3-8 |
ごとう屋 | 052-912-2222 | 〒462-0043 | 愛知県名古屋市北区八代町1-10-1 |
安田酒店 | 0593-82-0205 | 〒513-0801 | 三重県鈴鹿市神戸6-2-26 |
三井酒店 | 0729-22-3875 | 〒581-0085 | 大阪府八尾市安中町4-7-14 |
山枡酒店 | 0858-22-5871 | 〒682-0815 | 鳥取県倉吉市新陽町11-2 |
かごしま屋 | 093-293-2010 | 〒811-4303 | 福岡県遠賀郡遠賀町大字古賀648-2 |
井上酒店 | 0955-42-3572 | 〒844-0007 | 佐賀県西松浦郡有田町白川1-1-1 |
(「食べるな、危険!」 日本子孫基金)
(四十)わかのうら
常磐(ときわ)なる若松(わかまつ)の色(いろ)うるはしく、つゞく栄(さか)えはゆたかにて、幾代(いくよ)へぬらん住吉(すみよし)の、神のめぐみぞありがたき、みつの浦波(うらなみ)しづかにも、天照(あまて)らす日ののどかにて、都(みやこ)の富士(ふじ)の名高(なだか)さよ、もろこし船(ふね)のとほながめ、げに面白(おもしろ)の風景(ふうけい)や、須磨(すま)や明石(あかし)や和歌(わか)の浦(うら)、千里(ちさと)も見ゆる月かげに、友(とも)どちよりて汲(く)みかはす、命(いのち)ものぶる菊酒(きくざけ)に、つきせぬ代こそめでたき(「若みどり」 静雲閣主人編 塚本哲三編輯)
後宮職員令第三 謂。妃婦人嬪。此旡レ所レ掌。而処二職員一者。下有二十二司一。挙二其他者一。言二之職員一。-
酒司條 酒司
尚酒一人。掌ル二醸スルレ酒ヲ之事ヲ一。典酒二人。掌ル⏋同シ二尚酒ニ一。(「令義解」 黒坂勝美編輯)
あんか(行火(あんか))
酒母の加温に使用される暖気樽(だきだる)の代わりに酒母タンクの底から、あんか(おきごたつ用の炉)、火鉢、電熱器などで加温するいわゆるあんか酛が近年広く行われている.暖気樽を使用する方法と比べて多少温度の調節が取りにくいが、操作が簡単で労力を要しないこと、菌学的に汚染がないこと、酒母量の欠減がないことなどの長所がある.あんかをいれたタンクの下部は周囲に保温材を巻いて保温する.(「改訂灘の酒用語集」 灘酒研究会)
さすがに吟醸香には敏感-ドイツの男性
モーゼルのワイン業者であるブルクドルフさんの吟醸酒評は、「これまで飲んだことのある日本酒に比べるとすごく香りがいい。一般の日本酒よりも辛口ではないか。これが米でできているとは驚きだ」。熟成酒については、はじめに「プラムででも味をつけているのか?」と訊かれた。そんなことはない、熟成させただけだといえば、「樽で?」と重ねてきく。瓶での熟成だというと「非常に興味深いが、酒としてはun
usuai(アン ユージュアル)であり、自分とすれば吟醸のほうがいいと思う」とのこと。繊細なモーゼルワインを売り込みに来た業者にとって、吟醸のデリケートな香りにはやはり親近感をもったのではなかろうか。(「知って得するお酒の話」 山本祥一郎)
後撰夷曲集(5)
芋酒を のめばいもせの 中よくて 零余子(ぬママかこ)をうむと いふは真(まこと)か 沢庵和尚
酒盛の座にて
本歌 桜鯛 遠山鳥の 御肴に なが/\しひも あかぬ酒哉 金門
題しらず
大酒に 酢ママつぶるゝ 柿ならで じゆくし臭しと 人はいふ也 貞林
その昔 ぎやうに作りて なら酒を 搾りしかすが 山となりたか 正久
有馬山 いなの小篠が さゝならば たれも鼓の 瀧のみにせん 弘延(「後撰夷曲集」)
五升ほどの購入券
とはいえ,五高時代の恩師は池田が大蔵省に入って驚いたというから、入学後の池田の生活は品行方正とはほど遠かった。いや、当時のエリートらしからぬ姿だったという表現がふさわしいかもしれない。当時のエリート学生は遊びながらも学んだが、池田は本を全く読まなかった。ヘーゲルやカントよりも酒を好んだ。非常に即物的であった。後年、絵画を特に鑑賞したが、これは税務署長時代に学んだ税金取り立ての副産物である。勉強も熱心でなく、本も読まないとなると時間はある。暇があると人間はろくなことを考えないのはいつの時代も同じだ。ある時、蕎麦屋を開こうと屋台を借りて友人と店を開いたが、ただただ友人たちと酒を飲むだけになり、泥酔し、屋台を放り出して帰ってしまったという。とはいえ、これはあくまでも若気の至りだったのだろう。社会人になってからは乱れる場は少なくなった。池田は前述したように闘病生活が長く、地方を転々としてから本省に復帰した経緯もあり、勉強を重ねた。帰宅は早くても夜一〇時過ぎで、食卓に向かって銚子を二本空けるとやっと我に返ったという。出世が遅れたことや大雑把な性格も手伝い、慕う後輩も多かった。当然、コミュニケーションの場は飲み屋だ。飲めば決まったように、苦労人らしい池田の処世術が語られた。「田舎の税務署に行くとモテるから女には気をつけろ」「同じ芸者を呼ぶならば二回まで」[いくら飲んでも遅刻するな]。実際、学生時代は屋台を放り出して帰った池田だが、役所にはいくら前日に深酒しても遅刻しなかった。時にはハイヤーを飛ばしても上司より先に登庁した。出世する前は「酒の飲みっぷりが気に食わん」と酒席の第一印象で人を判断することもあったが、不思議とその判断に狂いはなかった。大蔵省の同期の呑み助仲間とは、第二次世界大戦の開戦までは徹夜の新年会を毎年企画していたというからいかに酒好きかがわかる。戦中や戦後すぐは呑兵衛によっては冬の時代だった。酒の供給が追いつかず、誰もが酒に飢えていた頃、池田は役職をいかして、ヤミの配給などに差配をふるった。池田内閣で建設大臣を務めた中村梅吉が軍需省の参与官だった一九四四年頃は会合を開こうとしたところで、酒が全く手に入らなかった。そこで当時、財務局長だった池田が酒好きだったことを思いだし、苦境を話したところ、五升ほどの購入券をもらえたという。中村は「つまらぬことのようだが、案外こんな些細なことについての恩義、感謝の気持ちというものは、一生忘れないものである」(『池田勇人先生を偲ぶ』編集世話人代表松浦周太郎・志賀健次郎、非売品)と書いている。(「政治家の酒癖」 栗下直也)
海雲 もづく 水雲
浅海の岩石などに着生する褐藻類で、東北地方の海岸をのぞいてはほとんど全国の海で産する。体は線状をなして細長く、多数の枝を不規則に出し、やわらかくきわめてぬるぬるしている。三杯酢にしてたべればことに風味がよい。塩漬けにして保存する。-
舗装せぬ 小路に飲屋 海雲和へ 志城柏(「合本 俳句歳時記 新版」 角川書店編)
『吟醸酒誕生』
【第二〇一回平成四年四月一七日】 *『吟醸酒誕生』出版パーティー *龍勢(広島)・月桂冠(京都)・両関(秋田)・香露(熊本) *会場 八起-
実業の日本社の伊藤善資さんが本にしたいと申し出てきた。それはこちらが願っていたことだ。大喜びで承知した。連載中は「吟醸酒ロード」という宇野編集長のつけた題だったが、彼女と伊藤さんと三人で飲みながら『吟醸酒誕生・頂点に挑んだ男たち』となった。さて、本が出れば出版パーティーなのだが今回は逆に趣向を凝らして小さくやることにした。なぜなら登場する主人公の酒銘柄が少ない。だから全国の蔵元にパーティーを知らせなくてもいい。それならこぢんまりとやろう、できれば安くやろう、集まるのはそれを望んでいる会員だけだから、出版パーティーの案内はこうだった。「史上最低の出版パーティー 会場はガード下、本はさしあげない、最低会費、だが酒は最高」そして本に出てくる主要四銘柄をそろえた。その夜、会場に珍客がやってきた。絶対来ないと思っていた「月桂冠」副社長栗山一秀さんである。なぜ来ないはずなのか、それは執筆連載中にイチャモンを付けられたからだ。本文中の「月桂冠・五〇〇石から一万石へ」は、明治一五年当時「玉の泉」といっていた「月桂冠」が大倉恒吉の手によって同四〇年には一万石を越す全国五指のトップ銘柄になる話だ。それを率いた恒吉を奔放な少年と描いた。それに対し、「どんな史料があって?」と聞いてきたのだ。いまから一二〇年前のこと。小説を書くのに史実記録が全部そろうはずはない。そんなトラブルがあった相手がパーティーに現れるなんて、まさか殴り込みじゃないだろう。彼はお祝いに駆けつけてくれたのであった。そして、「篠田さんは明治四〇年までの恒吉を楽しく描いてくれました。私は月桂冠五〇〇年の歴史をまとめております。恒吉のその後は私の編んでいる月桂冠五〇〇年史をごらんください」と結んだ。(「「幻の日本酒」酔いどれノート」 篠田次郎)
酒徳
この場所(昭和45年)で東前頭筆頭となった池波正太郎氏は努力賞をうけて、こう語っておられます。
銀座へ出て飲むことが増えた。ゆきつけの料理屋で日本酒を五合、それからバーで水割りかウィスキーソーダで何杯かのみ、又、日本酒に戻ってゆっくり飲む。このごろはほんとうに酒がうまくなった。酒友にいわせると、「ふだんよりはにこにこして人相がよくなり口数が少なくなり、むしろ気が長くなって、めったに怒らなくなり、極端にいえば別人のごとくよい人間に見えるよ」というのだが、さてどんなものか…
池波先生には"酒徳"という素晴らしい言葉をいただき、食文化の華であるお酒にとってこんなうれしい言葉はないと常に座右の銘としています。(「物議を醸した文壇酒徒番附」 佐々木久子)
横光さん
今の三愛の裏辺りになる所にその頃は竹葉亭があつて、横光さんによく連れて行かれた。ここもお得意だつた訳で、それまで鰻屋にそんなものがあるとは知らなかつた前菜風のものが色々出て来るのを珍しく思つたにも拘らず、ここで鰻を食べた覚えがない。そして我々は飲んだ。横光さんの仕事部屋での空気をそのまま銀座尾張町の竹葉亭の二階に移して、やはり誰も余り口を利かずに飲んでゐるのだから随分、陰に籠つた酒だつたのだと思ふ。横光さんがヨオロツパに行く少し前に、やはりさういふ小説家や画家の卵と横光さんを取り巻いて、そこの二階で飲んだ。西日が部屋一杯に差してゐる中で、画家の一人が半紙に筆で横山さんの似顔を書いてそれを皆に廻して見せた。中山義秀氏がそれを取り上げて、どこか不吉な感じがすると言ふと、この画家は横光さんの顔からさういふ印章を受けると答へた。その真面目腐つた口調が耳に残つてゐるが、つまり、その画家自身が余りぱつとしない人間で、そんな風に横光さんを取り巻いてゐると何となくさういふ返事が尤もらしく聞えるやうな、切羽詰つた気持ちになつて来るのである。皆が横光さんの上から重しを載せてゐるのに似てゐて、横光さんに不吉な所があつたなどといふのは当人の想像に過ぎない。併し横光さんはさういうのを煩さがつて追ひ払ふやうなことは決してしなかつた。(「ある時代の横光利一」 吉田健一)
岩手県下閉伊郡船越村
69酒盛の時にとくに定まった食法がありますか
盃はどういう順に廻しますか。酌は誰がしますか。食物はどういう順序に出されますか。廻されるものを各自が随意に取りますか、それとも一定の人が分配しますか。料理は特定の食器に盛られますか。
〇座席はやはり順序がある。神棚とか床柱にカミザ(上座)として上の人から順に、左右または奥の方より入口の方へ順につく。
〇盃もだいたいはじめはそのように廻す。酌はおもに女の若い人たちである。
〇酒と汁・副食物は先に出し、後からご飯とか、うどんとかを出す。
〇お酌する人が配る。
〇料理は特定の食器に盛られる。
70酒盛の後でさらにアト祝イとかウチ祝イというようなことがありますか。それを何といいますか。
残りものはどうしますか。
酒客や主人たちは、ときに二次会といって料理屋などへ行くこともある。
〇家族が,宴会の客が帰った後、手のつけられていない余ったものを取り揃えて食べる。
71酒盛に参加する人はどういう人ですか。酒盛の性質によって違いますか。
男ばかり,女ばかりという場合がありますか。それはどんな場合ですか。参加すべき人がしなかったらどうしますか。
結婚披露式などには関係者および近親者が列し、網の切り上げなどには大網から雇人全部である。
結婚披露式の翌晩はナンドイワイ(納戸祝い)といって友人たち(男)が集まり酒盛し、その翌晩はお祝いに来る女の子たちのご馳走で、その時はお酒を出すことがある。または卵酒を用いるようである。
72共同食事、酒盛の費用は誰が負担しますか。村、組ですか。各自の負担ですか。あるいは物を皆が持ち寄りますか。
皆が物を持ち寄ることは全然ない。
費用は各自負担の場合もあるが少ない。また村組・網元が出すこともある。
88醸造業者でなく,濁酒が造られていましたか。それはどんな時に造られたでしょうか名称は何といいましたか。
村祭りの時には今でも造りますか。どうしてつくりますか。芋酒、焼酎など造られましたか。これらの酒類は個人個人で造りましたか、村とか組とかが共同で造りましたか。女は関与しませんでしたか。
〇祭りの時もその他の時も、造り酒はしない。
89一年のうち酒を飲む機会はどれくらいありますか。平均一戸当たりどれくらいの量を用いますか。
どんな種類の酒ですか。毎日常用する人が何人くらいありますか。飲酒家と酒嫌いの比率はどれくらいですか。大酒家というのはどれくらい飲みますか。軽い程度の酒の肴には何を用いますか。
さけずきなひとはほとんどまいにちのむ。そうでない人はまず三カ月に一回くらいである(一年に三升くらい)。
〇清酒、または焼酎(少ない)である。
〇飲酒家八、酒嫌い二の割合である。
〇大酒家というのは二升くらいである。
〇酒の肴としては、漬物・魚の缶詰・おひたし・するめなどの塩辛・鮭・鱒の塩引。(「日本の食文化」 成城大学民俗学研究所編)
ちょびりちょびり
物事を少しずつ、何度か繰り返してする様子。「縁(ふち)の厚い大きな湯呑み一杯で尽きてしまう冷酒を、ちょびりちょびりと舌の先でなめずりながら」(❖島木健作『鰊漁場』)
❖類義語「ちょびちょび」
「ちょびりちょびり」がゆっくりと、割合長く感じられる時間にわたって繰り返される様子であるのに対し、「ちょびちょび」は,行われるスピードはあまり問題になっていない。(高崎みどり)
❖島木健作 小説家。農民運動から共産党に入党。その後検挙され、転向。獄中体験を綴った『癩』『盲目』で注目される。作品はほかに『再建』『生活の探求』など。(一九〇三~四五)
柔道部退部
酒とは二回、のめり込むような激しい付合方をした時期を持っている。一回は四高(旧制金沢高校)の卒業前の半年ほどの間である。当時私は柔道部の主将をつとめていたが、練習方法のことで先輩たち、-たいへんな数であるが、その先輩たちと意見が合わず、ために三年の部員全員が退部するの已(や)むなきに至った。退部したのは四月、全国高専大会の三カ月前であった。高校三年間をそれに賭(か)けていた仕合には出られなくなり、毎日のようにそこで過ごした道場とも別れなければならなかった。それから私はその年の全日本選手権大会(御大礼記念武道大会)に、石川県代表として出場することになっていたが、それも放棄した。四高柔道部を外れて、何の柔道ぞやと思った。四高柔道部退部は、私の若き日の最も大きな事件であった。そうしたことの余波が秋からやって来た。心からも体からも、何もかもが脱落してしまって、酒でも飲んでいる以外仕方がなかった。それまで柔道部員として酒とも煙草とも無縁であったが、その禁を解いた。酒でも飲んでいる以外時間の過ごし方がなかった。初めて酒場にもおでん屋にも入った。私ばかりでなく、一緒に退部した連中がみな同じような状態だった。正月休みも帰省せず、二日からおでん屋に店を開いて貰(もら)って、そこに入り浸っていた。酒を飲む度に吐いた。柔道の練習と同じだった。やがて酒が強くなった。卒業と同時にこうした生活とは離れたが、なかなか凄(すさ)まじい半歳だったと思う。二十二歳から二十三歳にかけてである。(「酒との出逢い 若き日の大事件」 井上靖)
<人間味>-居酒屋の人々
自宅近くに、二十人も入れない小ぢんまりした常連中心の赤提灯がある(のれんと提灯は白だが、雰囲気も価格も赤提灯並だ)。店内はかなりごみごみしており、いかにもローカルで庶民的な店という印象を受けるが、聞いたところによると、店主は以前、銀座の有名な料理屋の厨房を担当していたそうで、確かに腕はよく、手の込んだ美味なつまみを出してくれる。ある日、私が九時過ぎに入店すると、ほかの客は入口付近の座敷席でくつろぐ親子四人だけだった。半分横になっており、いかにもアットホームな雰囲気に見える。店主も隣に腰をかけて一緒に呑みながら会話していたので、きっと近所の友だちだろう。私がカウンター席に向かうと、店主はすぐに立ち上がり、カウンターの内側の厨房に戻り、バイトの女の子が飲み物の注文を取りにきた。その女の子が、まだ高校生にもかかわらず、きちんとした言葉遣いをしようとしていて、その姿勢が何とも頼もしかった。「ご注文はお決まりでしょうか」はともかく、頼んだビールを運んできたとき「ビールでございます」と言ったことに感心し、つい誉めてしまった-「君は高校生ですよね?しかし、それにしては言葉遣いがしっかりしているじゃないか。大学生のバイトでも『ビールになりまーす』とか平気でいっているのにな」と。すると、彼女はやや照れながら、「ありがとうございます。気をつけています。私もそういう言い方はちょっとおかしいと思っていますから」と答えた。まだ、酒も呑めない年齢ではあるが、周囲をよく観察し、自分なりに考えている。居酒屋の未来に、期待を寄せたくなるときもある。(「日本の居酒屋文化」 マイク・モラスキー)
口訳祝詞 大正十四年「国のかほろば」特別号
祈年祭
より集まつた神主(カンヌシ)・祝部(ハフリ)どもめい/\よ。聞かれよ」と此が、御口状である。
此時神主・祝部ども一斉にをゝと唱へること。他の「宣」といふ場合も、此例によるがよい。高天の原にお集まりになつていらつしやる朕の親愛なる神ろぎ神ろみの御命令に従つて、天つ社或は国つ社として讃美の詞を尽し奉つてお祀りした御神様方の御前に申し上げる次第は、「今年この二月にお種おろしなされようとて、神孫陛下の立派なお供へ物を奉るにつけて、あたかも今、朝日の豪勢な日の出であるそれの如く盛んに、讃美の詞を尽して献上致します次第」とこれが御口上である。
穀物の御神様方の御前に申すことは、御神様方が陛下に御授け申される所の晩熟(オソガ)りの穀物その米をば、人々が腕節まで泡(アブク)をかきたらす程、前股まで泥をひつかきよせる程にして取り扱ひ作る所の晩熟(オソガ)りの穀物その米をば、御神様方が八(ヤ)握りもある立派な穂に為立て、陛下にお授け申されたならば、御礼には、其初穂をば幾千粒幾百粒ほども「幾千杓子幾百杓子に盛りたてる程沢山に据ゑて献上して、又一方酒甕のへりのづぬけて高いものをとり据ゑ、其酒甕の腹一杯に酒を容れて、幾つも取り並べ、液体の酒としても、穀物の飯粒としても、両方ともに讃美の詞を尽して献上致しませう。お供へ物は、其ほか広い野原に生えるものでは、甘い菜・辛い菜。それから、青々した海上のものでは,広い鰭の魚類・細い鰭の魚、沖の海藻・岸の海藻の類迄も,残らずさし上げませう。又お召物では,立派な著物、きれいな著物・ごつ/"\した著物と取り揃へて、讃美の詞を尽して献上致しますつもりの、穀物の御神様の御前に只今はおしるし迄に、白い馬・白い豚・白い鳥なんか、いろんな品物を十分揃へ申して、この神孫陛下の立派なお供へ物をば、讃美の詞を尽して献上する次第」とこれが御口状である。(「口訳祝詞」 折口信夫)
脳萎縮
二日酔いの朝、あなたを襲う強烈な頭痛。そのとき、あなたの脳は確実に縮んでいるといえば、驚く人も多いだろう(案外、そんなものだろうと達観している人も多いかもしれないが)。京都府立大の小片教授が、マウスに大量のアルコールを一日投与したところ、脳細胞に含まれている「結合水」が六〇パーセントも失われることが判明。二日酔いの朝は、よくのどが乾くというが、それは体だけでなく脳にも脱水症状が起こっているというわけだ。さらに、べつな実験でも、脳細胞がアルコールづけになっていると、梅酒の中の梅のように脳細胞が縮んで、CTスキャンで見ると、とくに前頭葉に脳萎縮が起こることがわかっている。(「SAKE面白すぎる雑学知識」 博学こだわり倶楽部編)
国外産日本酒を桶買いする時代!
「今じゃ、日本酒はいろんな国で造られているんだぜ」と物知りのS。「韓国、中国、それにアメリカ、ブラジル、オーストラリア…。東南アジアのどっかででも造られてるんじゃないのかな」「えーっ、そんなにいろいろな国で造られてるんだ」Mが大袈裟に驚いて見せる。「そういえば、きょねんだったけな、岩手の酒蔵がオーストラリアに移って向こうで酒造りを始めるとかいうニュースがあったな」「『鈴蘭』だろう」「去年試醸されたお酒が商品として出回っていたはずだけど、今年はどうしたかな」「高瀬のところにも情報は入ってこないの?」「うん、鈴蘭の久滋社長とは長い付き合いで、今年の年賀状では頑張っていますと書いてあったんだけどね」久滋社長がオーストラリアに行く前に彼と荻窪の駅前の喫茶店で話したことを思い出しながら、ゆっくりとグラスのお酒を飲み干した。いろいろ悩んだ末の決断なのだから上手くいってもらいたいと思うのだが。「たくさんある外国産のうち、韓国産がけっこう日本に入ってきているんじゃないのかな。福岡の鷹正宗はちゃんと『韓国産』と書いて出しているし、奈良県の中谷酒造は中国で造ったお酒を中国産として販売しているけど、外国から桶買いしちまえば外国産の表示なしに混入できるみたいだよ。日本国内でA社がB社から買っても、B社のお酒が混じっていますなんて書かなくてもいいのと同じさ。農林水産省の品種認定や等級検査受けていないはずだから、『山田錦』を名乗れるかどうかという問題はあるけど、中国あたりで山田錦作ってそのお米で造ったお酒を輸入してるって話もあるし、そういったお酒を混ぜられても、消費者は確かめようもないよね」(「ツウになるための日本酒毒本」 高瀬斉)
鉄漿かね -
【類句】是ほどのんだら 酔ふと かねへ入れ 一五37
(鉄片や酒を鉄漿の壺へ入れる)(「江戸川柳辞典」 浜田義一郎編)
女性のためのプログラムを 禁酒の会理事 J・カークパトリック
私は、男女の混合グループでは、いろんなことが十分に話しあえないと考えています。秘密があるからではなく、男と女は、しばしば興味やフラストレーションが異なるからです。男性は「あの女はいつもおむつと洗濯の話しかしない」と言います。でもそれがその女性のフラストレーションで,逆に、男性のことを「あの人は,仕事、仕事、仕事。それ以外の話はないのよ」と言うでしょう。男や女に挫折感をもたらす事柄が、異性には退屈でしかない場合もあります。男女別のグループが,最初は非常にうまくいきます。決して男女のグループに反対しているわけではありません。しかし自立運動の内部では、男だけ、女だけのグループには大きな利点があります。AAが一九三五年から存続しているのに対し、私たちは一九七五年に始めました。それを思うと、女性禁酒の会は急速に受け入れられました。でもたくさんの女性が回復期にいるわけではありません。理由ははっきりしませんが、私には思いあたるふしがあります。私の感じでは、過去におけるほとんどのプログラムは無意識のうちに、男性向け、男性中心にできています。アルコール症はアルコール症である、でおしまいです。この病気に関しては、もちろんアルコール症はアルコール症です。しかし私たちが話題にするアルコール症とは、男と女のことでもあるのです。過去何年もこれを見過ごしてきました。男性の回復率は高く、女性の回復率は低いようです。治療士やカウンセラーは、女は不協力的で扱いが難しく、ノイローゼがひどく、あまりにも感情的であると、長年評してきました。誰ひとり「女性に対し、力が及ばないのかもしれない」とは言わない。しかしこれにも変化が見えはじめました。治療施設は女性のためのプログラムを宣伝しはじめました。当然そうあるべきです。変化しはじめましたが、もっといろいろなことをしなければなりません。今までアルコール症について語ることのみが重視され、男性アルコール症や女性アルコール症は重視されなかったのです。(「アルコール依存症」 デニス・ホーリー)
柚子(ゆず)の花 ゆずのはな 柚(ゆ)の花 花柚子(はなゆず)
庭園・畑地に栽培される樹勢の強い常緑小喬木。六月上旬葉腋ににおいのある白い花を開く。→柚子(秋)
柚の花や よき酒蔵す 塀の内 谷口(与謝)蕪村(「新版 俳句歳時記 夏の部」 角川書店)
葡萄酒(ぶどうしゆ)というものは,御婦人(ごふじん)よ、神が男に対してお与え下さった二番目の結構な賜(たまわ)り物(もの)ですぞ。
<出典>アメリカ、アンブローズ・ビアス(Ambrose Bierce 一八四二-一九一四?)『悪魔(あくま)の辞典(じてん)』ワイン(奥田俊介・倉本護・猪狩博訳)
<解説>つまるところ、神が男に与えてくれた最高の贈り物は女性であって、ワインはそれに次ぐものである、と女性を前にして言っているところに含蓄がある。このアフォリズムの前には、ワインを定義して次のような文言がある。「キリスト教婦人矯風会(禁酒運動を主目的として一八七四年、アメリカで創設された)の人間には[リカー]、ときには[ラム]という名で知られている発酵させたグレープのジュース」。これはビアス一流の諧謔(かいぎやく)で、この文言を除いてしまっては,このアフォリズムには何の痛烈さも面白みも時代背景もなくなってしまう。すなわち、このあとにくる「葡萄酒というものは…」という言葉は、そのまま受け取れば、女性を最高に評価しているように見えるが、前半とつなげてみれば、アルコール飲料をねじ伏せようとするご婦人方こそ、酒の上に君臨する、この世で一番の存在であると皮肉っていることがわかる。ワインを女性と結びつけたアフォリズムは、古来多々あるが、ビアスのような比喩によって結合させた人はいない。なおこのキリスト教婦人矯風会などの運動がかの禁酒法にまで発展したことを思うと、ビアスの炯眼(けいがん)には脱帽せざるを得ない。(見田盛夫)
酒価
資料によりかなり差があって、変動も大きかったことも考慮に入れる必要があるが、太田蜀山人が若き日の明和五年(一七六八)の価格を思い出しての記事に、「半紙の価十二文なり、夫より十四文、十六文、廿六文に至り、酒の価一升百二十四文、百三十二文を定価とす。賎きは八十文、百文もあり、中頃百四十八文、百六十四文、弐百文にいたり、弐百四十八文ともなれり」とある。文政七年(一八二四)の『江戸買物独案内』では多くの銘酒をあげ値を記しているが、一升に付き末広酒三五〇文、羽衣酒四〇〇文とあって、若干の値上がりを示している。『守貞謾稿』では、文政初年の頃、大坂での値段は極上品一升一六四文、江戸では二〇〇文より二四八文であったのが、天保の頃には三五〇、三八〇,四〇〇文にもなった、と記している。ほぼ同じ傾向といえよう。当時、いわゆる二八ソバというようにソバ一杯が一六文ということを考えると、その一〇倍から一五倍で、今でいえば三千円から五千円(一升)となろうか。これはいささか高すぎて納得できない。昭和初年の論文(石橋四郎「酒価の今昔と税制」)では、現今灘酒の相場が十駄一千円から千五百円であるのに対し、米価で比較すると、享保頃で一両が一石三斗、したがって一石は現今の四十五円余。又享保頃の一駄が大体十一両だから十駄で現今の円に直せば五百円。これに酒税三百二十円、樽代二百円を加えると千円強になるのでほぼ江戸時代中期と昭和初年の酒価は同程度と論じている。酒のクラスにもよるであろうが、こうしてみると平均的には酒の値段はこの五、六十年間に、他の物価との比較でいえば相対的に下がっているであろう。このことは酒の日常化には欠かせぬ条件である。(「酒と社交」 熊倉功夫)
「トリスを飲んで…」、「人間らしく…」、アンクル・トリス-
山口(瞳)の傑作コピーの代表は「トリスを 飲んで HWAII へ行こう!」といわれている。為替が自由化になる以前に企画された特売キャンペーン用のコピーだ。三十六年九月に使われている。が、いかにも山口らしいといえるのは、むしろこのほうではなかっただろうか。「野球中継が スポンサーのご厚意もなく 途中で打ちきられても、だな、 腹をたてるなよ! 紳士なら 野球通なら 思いをこめて トリスを飲もう 頭のなかで 自分の野球を組みたてよう 勝利を信じて トリスを飲もう!」これに対して開高(健)の傑作コピーはなんといっても「人間らしくやりたいナ」である。三十六年の作品だった。「『人間』 らしく やりたいナ トリスを飲んで 『人間』らしく やりたいナ 『人間』なんだからナ」-
柳原(良平)はこう回想するのだ。「開高のアイデアはどちらかといえば荒唐無稽、ホラ吹き男爵かタルタランのようなストーリーになってしまう。もっとも、デビュー時の飲むにつれて体がだんだん大きくなり、顔が赤くなるというのは彼のアイデアでした。山口は、反対にリアリズムで、新派のような粋な面を求め、なおかつデリケートな心理描写が多くむずかしすぎて、その意図をアニメーターに納得させるのに苦労しました。失敗し、おクラになった作品も少なくなかったですね。そうなると、酒井(睦雄)に頼ることになる。彼とのコンビ作品が最も多かったですね。彼は、開高の間の抜けた味と山口の人間臭さがちょうど混合した感じで、アンクル・トリスを生き生きとさせていました」(「サントリー宣伝部」 塩沢茂)
格闘家の結婚式
総合格闘技の世界では今もって非常に有名な笑い話となっているのだが、正道会館所属の空手家で、今も現役「K-1」選手として活躍する角田信朗氏の結婚披露宴でのことだ。そうそうたる面々が角田氏のお祝いに顔を揃える中、元UWF・RINGSの総帥で、現在「HERO'S」のスーパーアドバイザーを務める前田日明氏が、やらかした。パーティーがはじまるやいなや、いつもの調子でガンガン飲みまくる。そして、いい具合にほろ酔い加減になってくると、今度は新郎の角田氏にお酒を飲ませまくる。関係者の挨拶が一通り終了した後の歓談タイム、花束の贈呈、ウェディングケーキへの入刀。そのたびにグラスに並々とついだウイスキーを持ち、角田氏に「もう1杯行こうや!」。しかもそれに付き合うようにして(本当に付き合わされているのは角田氏なのだが)、自分もまたグイッと一気飲み…。こうしてパーティー終盤、すっかりできあがってしまった前田氏は、ついに暴れ出した!当然、格闘家だからその暴れっぷりもハンパではない!みなに取り押さえられ、パーティーはてんやわんやの大騒ぎになったとか。(「二日酔いの特効薬のウソ、ホント。」 中山健児監修)
942情愛
調べる人「-して、その方は、ウイスキーに毒薬を注入し、対座している良人が、その運命のウイスキーを飲み干した時、何とも感じなかったか?良人が死に直面しており、しかも刻々と迫る死について良人がいささかも気付いていないという事実は、その方に、同情の感を催させなかったか?良人が、その方の真向いに坐っている時、その方は何一つ感ずる所が無かったか?」
調べられる女「いいえ、御座いました。たった一度だけですが、良人がつくづく可哀相だと思いましたわ」
調べる人「して、それは如何なる瞬間であったか?」
調べられる女「はい、それは、あの人が毒薬入りのウイスキーを、もう一杯欲しいと、私に頼んだ時ですわ」(「ユーモア辞典」 秋田實編)
詶中都小吏攜斗酒双魚于逆旅見贈 中都ノ小吏ガ斗酒・双魚ヲ逆旅ニ攜ヘテ贈見(らる)ルニ詶(むく)ユ(中都の小役人が一斗ばかりの酒と二尾の魚とを旅館に携へて贈られた御礼に)ー
(一)
魯酒ハ琥珀ノ若ク 魯の酒は琥珀の如く
汶(モン)魚ハ紫錦ノ鱗。 汶(もん)河の魚は紫錦(にしき)の鱗。
山東ノ豪吏 俊気有リ 山東の豪気な吏員は機がきいてゐる。
手ヅカラ此ノ物ヲ攜(たずさ)ヘテ遠人ニ贈る。 手づから此の物を携へて遠来の我に贈つてくれた。』
(二)
意気相(あひ)傾ケテ両(ふたつ)ナガラ相(あひ)顧ミ 意気投合して双方とも好意を寄せあひ
斗酒 双魚 情素ヲ表ハス。 一斗の酒と二尾の魚に心情を表はす』
〇中都 今の山東省清寧道汶上県。兗州の西北に在る。 〇魯酒 魯は春秋時代の国名。今の山東省の中部。中都は古の魯に属するが故に其酒を魯酒と呼んだのである。 〇汶魚 汶(モン)水で取れた魚。汶水は中都(汶上)を流れる河。 〇斗酒 伊藤東涯の「制度通」に考へてゐる所では、唐代の一升は我国の二合半か三合に当ると云ふ。従つて一斗は三升以下に見てよいであらう。漢代の斗升は唐代の三分の一であるが、やはり「斗酒」と詩に詠じてある。酒量を云ふ時の単位たるに過ぎないであらう。 〇情素 心情と云ふほどのこと。
しもんこなから
居酒屋で酒をオーダーするときは、「二十四文を二合」などと酒の値段と量を言って注文していた。安酒を「四文二合半(しもんこなから)」とオーダーしていたが、一合四文の酒を二合半くれという意味である。「こなから」とは、酒が二合半という江戸言葉だ。時刻で一刻の四文ママの一を小半刻(こはんとき)(約三十分)と言うように、「小(こ)」は半分の意味で、「半」も半分であるから一刻(約二時間)の四分の一ということだ。したがって「小半(こなか)ら」は一升の四分の一をいう。現代人には、なんとも半端な単位と思われるが、当時は小判一両の四分の一が「一分(ぶ)」、一分の四分の一が「一朱(しゆ)」という、四進法で金貨を換算していたので、それほどに抵抗感はなかった。また、下級武士に給される一人扶持は一日に玄米五合で、朝夕に二合半ずつ二度に分けて食べたことでも、「こなから」は生活に溶け込んでおり、二合半を計量する「小半枡(こなからます)」も使われていた。ただし、一合四文の安酒は清酒ではなく、濁り酒の「どぶろく」だっただろう。明和年間(一七六四~七二)の清酒一合が二十四文ほどで、肴を三品も頼み酒を二合も飲めば、およそ百文程度の勘定になったという。(「江戸の居酒屋」 伊藤善資)
離脱症状の出現-依存症の完成
離脱症状はアルコールという依存性薬物の薬理作用の一つです。離脱症状が出現する状態を、身体依存の状態とも呼びます。先程述べたように、どんなにお酒が強くなってもアルコールの代謝はそんなに早くなるわけではありません。大量飲酒を毎日続けると、一日中アルコールが体から抜けない状態になります。つまり中枢神経が常にアルコール漬けの状態になります。この状態が長く続くと血液中のアルコール濃度が下がると離脱状態が出現するようになります。離脱症状は、落ち着きなさ、イライラ感、手の震え(振戦)、冷や汗、吐き気などです。下痢や胸苦しさ(心悸亢進)を伴うこともあります。離脱症状は先程の飲酒欲求や渇望感とも繋がりがあります。そして不思議なことは、この耐え難い離脱症状も、そこでお酒を飲むとピタリと収まることです。夜に毎晩大量飲酒を続けている人は、翌日の午後になると血液中のアルコール濃度が低下しますから、午後になると落ち着かなくなり、そこで何とかお酒を飲んで、離脱症状を収めなくてはならなくなります。ここから職場での隠れ飲みが始まりますし、終業時間になると飛ぶように職場から離れてまずは一杯ということになるのです。こうなると離脱症状を抑えるために、いつでも飲めるようにお酒を準備しておくとか、頭の中はお酒のことばかりが駆けめぐることになるのです。連続飲酒も、この離脱症状の苦しみから逃れる一つの方法でもあるのです。こうして、離脱症状の出現でアルコール依存は完成します。後は際限もなく飲み続けるしかありません。(「子どもの飲酒があぶない」 鈴木健二)
〇酒樽に餅
名残の友、四ノ五、何とも知れぬ京の杉重の前半には、次のやうに書かれてゐる。「春の海静に、日影も入相の比より、明石の俳友に招かれ、椎が本才磨同道にて、昼の桜を夜咄しの生花に見て、はや吉野は散てしまひ、奈良の八重桜も四五日の内を盛りとたよりの筆に、大墨但馬より報せて、俳諧好の僧中神主町には西流、西任、是非此春は待ける甲斐もなしとて、南都諸白と書付たる一樽はる/\送られけれど、我下戸なればさのみ嬉しからず、折節酒好の人にきこしめせとて封を切れば、酒樽に餅をつめて越しければ、上戸共驚き力を落しける。呑まぬを知りて此気の付所、当流の作意を語りければ、座中高笑ひしてそれは其日の客は不仕合、亭主は大慶、惣じて此程は世間気いたりて、大方の事はをかしからず」然るにこれと同じ話が、寛文十二年仲夏吉辰開板の了以の狂歌にも出てゐて、文章もそつくり其儘である。西鶴もやはりこんな事をするのか。「惣じて狂歌俳諧などは、作者が第一とかや。春雨のしつぽりとして物淋しきに、誹友打寄り、画の桜を、夜咄の生花と見て、はや吉野は散りてしまひ、奈良の八重桜も四五日の中を盛りと南都の友よりしらせける。次手に、南都諸白と書つけたる一樽、はる/\送られけるは、俳諧好ける人には、気がはたらかず、我等酒を好かぬ事は、日頃よく知りながら、名物なればとて、南都諸白うれしからず、今宵の客衆の仕合と、主不興ながら封をきれば、酒樽に餅をつめてこしけるにぞ、上戸ども驚き力をおとしぬ。主は機嫌にて、我等が下戸を知りて、此気のつくところ、天晴はたらきたる作意と、ひとり感じぬ。」(「西鶴語彙考証第一」 真山青果)
33五腹愁(ふくしう) 六反吐(どへ)
七先刻(せんこく) 尚(な)を生酔(なまゑ)い
八今夜(こんや) 又(ま)た若何(いかん)
九昨(きのふ)帰(かへ)りしに 相識(あいし)ること少(すくな)し
一〇早(はや)く已(すで)に座鋪(ざしき)多(をゝ)し
〇腹愁 8かも川の水ぞうすいといふ腹をいふ。 座敷多 げいしやのたぐいなるべし。
五 酒の飲み過ぎで腹具合の悪いこと。あちこちの座敷で酒を強いられる芸者を詠ずる。 六 「へど」と読むべきところを、原詩の作者「杜甫」をもじって逆に振り仮名をつけた。 七 先刻の座敷ですでに酔っぱらってしまった。「生酔い」は、少し酔うことにも大いに酔うことにもいう。ここは後者。 八 この調子では今夜はどうなることだろう。 九 昨夜はさんざん酔って帰って、何も覚えていない。 一〇 今夜ももう沢山のお座敷がかかっている。-
8 仮名手本忠臣蔵七段目に「喰らひ酔うたその客に、加茂川で水雑炊を喰らはせい」。「水雑炊」(おじや)は酔い覚めに適当な食事。(「通詩選笑知」 大田南畝 日野龍夫校注)
△米
「酉胎」米(もとまい)は地廻(ちまわ)りの古米(こまい)、加賀(かが)三二、姫路(ひめじ)、淡路(あわじ)三三等を用ゆ。酘米(そえまい)は北国(ほつこく)三四古米第一にて、秋田(あきた)、加賀(かが)等をよしとす。寒前(かんまえ)よりの元(もと)は高槻納米(たかつきなやまい)三五、淀(よど)、山方(やまかた)三六の新穀(しんこく)を用(もち)ゆ。
三二 加賀 現在の石川県南部。 三三 淡路 現在の兵庫県南部、淡路島の区域。 三四 北国 漠然と北方の諸国を指すこともあるが、京阪地方でいう場合は若狭、越前、加賀、能登など、主として冬季に京阪地方に出稼に来る人びとの出身地をさすことが多い。 三五 高槻納米 大阪府高槻市。高槻藩の納米であろう。大阪附近産米としてはもっとも早く出廻るものだからである。 三六 淀、山方 京都府淀。淀藩領の産米。木津川流域及び宇治川流域の米で、やはり早く出廻るのと、輸送に便なことから原料とされたのであろう。(「日本山海名産図会」 木村孔恭 千葉徳爾註解)
かん-ぞう[肝臓]
<名詞>内蔵の一つ。最大の分泌器官で消化・代謝・解毒などの働きをする。肝(きも)。
肝臓に会って一献ささげたい 大木俊秀
肝臓よ許せ許せと三が日 田口麦彦(「川柳表現辞典」 田口麦彦編著)