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御 酒 の 話 33



冬之部  酒の場のカラミ酒  ままや  セーブすることなく  俳友文憐に送った其角の書  アルコールは猛毒  ゴシップ  飲めるかな  飲むというよりすする  酒場での十夜  銘酒二石  酔郷氏之国  サラ川(21)  一滴も飲めぬ男  75-ねこのさいなん  内田と井伏の違い  箏曲「笹の露」  ハイデルベルクの学生牢  年に何回か  あすはビール無料  「ウルチキビ酒」の作り方  酒の力より理性と意思で  二日酔いゴルフ  酒飲みには天国  第三十八歌  なにもしちゃいませんよ  としわすれ【年忘】  正当みぞれ酒  酒の楽しみ  仏説摩訶酒仏玅楽経(7)  塩辛で日本酒  お父さんお酒は飲まないで  酒焼やすつくと立ちし年男  手に酒をかけて  酒は涙か溜息か  小さな盃  いま何時だ  一番の酒友達  十返舎一九の洒落と飄逸  Case04、05  酒徳利の話  酔いどれ天使  濁酒に都合よい容器  酒に溺れて父は黄色のまま果てる  専門が大好きと一致  オヤジ  ぜんぶ出鱈目  六十キロリットル  へい、お待ち遠おさま  四十一本用意するように  月下独酌  女給の飲酒禁止令  上手な酒の飲み方など私に講釈しないでくれ  酒の酌  宇宙人の酒  乗合盃音頭  酒は勝った時に飲む  タクシーの運ちゃんにウソ  回りの人の支え  マンハッタン島(2)  晴山にて  御酒之日記、ねりぬきの注  酒のアテ  御酒之日記に記載されたねりぬき  殺して飲む  品川月  辺縁系と前頭前野  ストローで飲む酒  三の輪の「中ざと」  人のもとへ酒さかなをおくるとて  地酒2  最近は四日に一本  今夜はこれでいかがでございましょうか  頼山陽ゆかりの剣菱  地酒1  若使栄期兼解酔  酒歴四十年  アイリッシュ・カクテル  酔って舞台で  六本木のホステス  37-さかずきのとのさま  笑話  横山泰三(よこやま・たいぞう)  ルドン  酔いが快く体中にみち溢れた感じ  また来てほしい客  「舂酒」の作り方(作舂酒法)  横山隆一(よこやま・りゅういち)  いいことは人に語るな  酒の後は麺や汁物がいい(藤)・麺類なんて女はいらない(小)  幻の銘酒"ひとひらの酒"  かくして私は  中風は下戸に少なく、上戸に多い  仏説摩訶酒仏玅楽経(6)  協会一号酵母  殺し酒ほどき酒  ハシゴ酒  岩村という人  暇乞い  醲献  方言の酒色々(27)  粘着語と孤立語  友情  十月二十七日  一宮市の八幡宮  薬の灸は身に熱く、毒な酒は甘い  別の世界への入口と出口  蒲生君平のマラソン  きき酒に使った酒  夾竹桃の咲いている間は  100.酒は貧乏人の外套  雀の酒盛り  穴蔵師  千ヶ滝山荘  月見の宴にひとり下戸なりせば  高陽闘飲序  高校の先生が自殺  ボードレール伝  メエタア・が・まわる、めぐりわか、もろしろ  (一〇一)をかし、左兵衛の嬶なりける  て【手】  自分の酒の飲み方  新宿酒日記  人は更に少きこと無し  酒は山を下りてこそ  古風な味  酒場  憂へ忘るといへど  *酒は猶兵のごとし  釜ケ崎以外に住んでいる人  人生が終わってしまったような気  地酒おやじ  えわじとて  いつも水で酔っている  酒に回される  ○うかむ瀬  看板娘を食っちゃった  七ツの時から  数十種の酒の肴  飲める肝臓  御酒之日記、ねりぬきときかきの火入れの注  父親に殴られて出血  御酒之日記に記載された練貫酒の火入れ  オクトーバーフェスト(2)  山形の地酒  かるが故に  「をみなへし」の狂歌  オクトーバーフェスト(1)  長屋王の年収  サルーンとは  万歳から乾杯へ  混本歌  モッチャリ酒  李白  秋之部  毎夜の私の儀式  道幅  アルコールは脂に溶ける  進士及第  赤提灯回遊録2  ネギマの研究  酒豪揃い  菊姫の山廃仕込純米酒  火野葦平(ひの・あしへい)  「カツレツ」屋  鼬の酒コ  わが酒  一日に三升  梯子酒と居座り酒  酒場好き  茶の人体に及ぼす作用  キャリア組  欲言無予和  慎み深い上にも慎み深く  徳島のすだちと、近海もののしんこ  一番安い酔い方  あかい酒と黒い酒  最初に行われた清酒の化学分析  常温での流通が主流  茶能散悶為功浅  続春夏秋冬 秋之部  見上げるとまんまるお月様  方言の酒色々(26)  馴染みの店  「つきだし」  9-うどんやうどん屋  水について  粕から焼酎・客人一杯、手八杯  官許  加える水の量   ドライ派の『アンクル・トムズ・ケビン』  99.飲むのは甘いが、払うのは酸っぱい  銭屋金埒のもとより  作秦州舂酒麹  九月十一日  梅蘭芳の「貴妃酔酒」  づぶろ【づぶろ】、づぶろく【づぶ六】  着流しの下駄ばき姿  秋夜宴山池  東の横綱が私  勘定は皆私が払う  諸君其まゝコレへコレへ  まあ、そんなことくらい、するかも  482生計抛来詩是業  山谷のアル中  桑酒、葡萄酒  嫌です  酒席における実地訓練  天高く酒ほがい  親子共同の酒場  アフター5  仏説摩訶酒仏玅楽経(5)  晴明  北京酔夢  酒場ぎらい  1-あおな青菜  酒飲むは、罪にて候か  弋言加之  オトーリ  ピルグリム・ファーザーたち  ジアスターゼで発酵  すべてを炒ってつくる麹  (2)阿寒の場合(3)  中川昭一さん(衆議院議員)の巻  泣き上戸一元論  昭和五十三年  黒はんぺん  看病  (2)阿寒の場合(2)  甕の月一升四百文  風流儒雅時によし  ユーコが選ぶ美味 日本酒 十五銘柄  晩稲  (2)阿寒の場合(1)  忘れる術  水樽  慰労の宴  酒の詩  人が質屋へ  仏説摩訶酒仏玅楽経(4)  飲み逃げの季節  土佐の南画家(2)  袴着の儀  (七六)をかし、男  ナダノ樽サケ木ノ香モタカク  酒は燗  初めての宴会  余生均しく逆旅  みきのちょくし御酒勅使  酒は個人的又は家長専制的  青年の流儀の末尾  ティベリウス







冬之部
年忘   年忘橙剝いで酒酌まん          子規
      年忘酒泉の太守鼓打つ          同
頭巾   酔ふて吟ず東坡の頭巾脱げんとす  子規
蒲団   微酔して蒲団の中に謡ひけり      波静(「春夏秋冬」 正岡子規、河東碧梧桐、高浜虚子共選 「現代俳句集成」) 


酒の場のカラミ酒
たいていは学生飲みのカラミ酒であった。すぐ意見が対立する。議論がはじまる。完全に勝つまで、わたしは追求をやめない。酒はそのための潤滑油であるにすぎない。あじなど、さっぱりわかりはしない。そして、酒場で議論するとき、わたしは一番生き生きした。だが、朝鮮戦争の終るころ、わたしは一人の友人に忠告された。「酒の場のカラミってのはね、相手の弱点が四つあれば、その一つだけは見逃してやらなくっちゃあ、ゲームでなくなって野暮だぜ。青っぽくて聞いちゃいられねえ」。-六〇年安保のときあたりから、酒に関する限り、わたしの戦後は終ったようである。友人の忠告がきいたわけではないのだが、以来私の酒は平和そのものである。おだやかに夜のふける時間の苦さばかりを飲んでいる。(「悲しささえも星となる」 宋左近) 


ままや
酒造りは、戦前までは、炊事係に至るまですべて男の仕事であった。女は酒蔵の中には絶対入れぬものとされた。お酒が腐るという。そやから幼い頃は精米所の米俵の上でつかまえをしたり、検査場をのぞいたり、大桶の中でごろごろ転がったりしても、決して蔵の中へ入ったことはない。おそらくわたしの母や祖母は、酒がタンクの中で泡立ちながら熟成してゆく楽しさなど、いっぺんも見ずに終わったのではないかと思う。蔵人の炊事係をままやとよぶ。それは初めて蔵入りをする一番年少の男の子の役に決まっていた。現在はどこの蔵でもたいていおばさんの役になっているが、昔は辛い新入りの苦行なのだった。京の言葉もわからぬ男の子に、家でやったこともない炊事のイロハを教えるのは、母が一番難儀した年中行事でもあった。(「私の手もと箱」 秋山十三子) 秋山は、京都祇園近くにある金瓢という酒蔵に生まれたそうです。 


セーブすることなく
それに、仰木(彬)君は、選手の指導に口を挟むことがまったくなかった。だからとてもやりやすかった。練習中、僕が選手とがっぷり四に組んで指導している時、彼は外野を黙々と走りながらこちらの方をじっと見ていた。練習後、同じ車に乗っての帰り道には、私のノートを片手に、幾度となく議論した。技術は私にまかせてくれた。無駄な練習はしない、という方針もよかった。今までいろんな監督を見て来た中で、やっぱり彼はオヤジを彷彿とさせるような、一流の監督だったと思う。一緒に三度のリーグ優勝と一度の日本一をなし遂げることができた。現役時代と合わせると、四度の日本一を仰木君と共に経験できたのは、本当に幸せなことだった。天性の人なつっこさを持った男だったから、オヤジやイチロー、野茂をはじめとして、男女問わず本当に多くの人が彼を可愛がり、彼を慕った。それだけに晩年になっても付き合い酒が多かった。セーブすることなく、いつもあおるように飲んでいた姿が浮かんでくる。(「見事な死 仰木彬」 中西太(野球評論家) 文藝春秋編)2005年12月15日(満70歳没) 


俳友文憐に送った其角の書
次の書簡は、其角が俳友文憐に送った書面であるが、彼の赤穂義士の快挙の有様が偲ばれて面白い。
歳暮の為御祝儀如例年(れいねんのごとく)、遠方の処、酒料一対、蕗(ふき)塩漬一樽、送り下され、幾久しく受納いたし候。御序(おついで)に御家内お残り中へも、よろしく御伝言可被下候(くださるべくそうろう)。然(しか)れば去る十四日、本所静文公に於て年忘の一興御催し有之(これあり)、嵐雪、杉風、我等も一席にて折りから雪面白く降り出し、庭中の松杉雪を頂き、雲間の月は晴間を照し、風情今は捨て難くして夜はいたく更けゆくまゝ噺も止み、折りふし静かなる文台の料紙片寄せ、四五人集まり、蒲団をかつぎ、夢の浮世といふ間もあらず、けはしく門戸を叩くものあり、両人玄関に案内しつゝは、浅野家の浪人堀部安兵衛、大高源吾にて候。今宵御隣家吉良上野介の屋敷へ押寄せ、亡君年来の遺恨を晴さんため、大石内蔵介始め四十七士、門前に佇(たたず)み、只今吉良氏を討亡し候程に、若(も)し近隣へのお好み武士の情万一加勢も候はゞ、末代の不覚と存奉候。願くば内を守り、火の元御用心下され候得者(そうろわば)、喜ばしく存奉候(ぞんじたつまつりそうろう)と、云ひも果さず、立出し姿神妙なること云ふべくもあらず。其角、幸ひ茲(ここ)にあり生涯の名残りを見んと門前に走り出で候へば各々吉良氏へ忍び入り申候程に、 わがものと思へば軽し傘の雪 と一句を吟じて内に這入り、門戸を閉ざし、塀越しに灯火をとばし終始の様子を覗(うかが)ふに、怖しさ骨身にしみいり、女の叫び童の泣き声、風飄(ひょう)として吹きさそひ、暁天に至り本懐既に達せしと見えて、大石主税、大高源吾、穏便に謝儀を述べたること遖(あっぱ)れ武士の誉といふべし。 日の恩やたちまち砕く厚氷 と申捨てたる源吾が精神、いまだ眼前に忘れ難く、貴公年来の入魂故、具(つぶ)さに認め進申候。早春の内、彼是お差し繰り御出府も候はゞ、彼落着を承り届け、無余儀(よぎなく)伏剣にも及び候はゞ、各々方に追善を願ひ相営み可申候。先づは余筆無之候間、他事は貴面の時に候。(「日本逸話全集」 田中貢太郎) 


アルコールは猛毒
アルコールは猛毒で、純アルコールを肝臓ガンの治療に使うほどです。ガン細胞を殺すほど毒性があるのです。それほどのものを、無自覚に飲むことは、あまりいいことではないのではないでしょうか。私(川島)は若い頃は飲みましたが、いまはほとんど飲まなくなりました。飲まなくてもなんの支障もないのです。本書ではあえて「飲めない派」の立場からコメントしましょう。ただし、嫌酒ではありません。お酒を飲む人に付き合って、朝まで議論することもあります。どうしても飲みたい人は飲んでもいいですが、それにしても飲み方があるでしょう、という立場です。(「記憶がなくなるまで飲んでも、なぜ家にたどり着けるのか?」 川島隆太・泰羅雅登) 


ゴシップ
ある年、向島の白鬚明神(しらひげみようじん)の氏子が幟一対(のぼりいつつい)を寄進する際、中沢雪城ともう一人の有名書家に一本づつ書いてもらつた。御礼を問ひ合せると、某先生の方は五両、雪城先生の方はいらないといふ返事。まさかさうもゆかないので、たつて伺ふと、三十両とのことで、氏子はびっくりしたが、仕方がないから払ひました。さて、祭礼の日には両先生をお招きした。某先生のほふは早く現れて早く引き上げたが、雪城さんはなかなか姿を見せない。夕刻、川下から屋形舟と屋根舟で、芸者の三味線ではやし立ててやつて来る者がある。これが雪城先生だつた。しかも舟には「雪城」といふ銘の菰被(こもかぶ)りを三丁積んでゐる。(当時は百樽(たる)まとめて注文すると、好みの文字を書いてくれた由(よし)。ただし三丁だけでも三十両近いとやら。)お酌の芸者まで引き連れての、ゆきとどきた挨拶であつた。軍医総監、石黒忠悳(ただのり)の自伝『懐旧九十年』に見える挿話(そうわ)である。馬鹿馬鹿しいゴシップと言いへばそれまでだが、江戸期の文化における書の位置をこれほどよく教へてくれる話はない。書は芸能であり、書家は役者に近いものであつた一般にゴシップは時代相をじつによく教へてくれる。歴史教科書が詰まらないのは、ゴシップが書いてないからである。(「軽いつづら」 丸谷才一) 


飲めるかな
おかしなもので、自分はお酒が飲めないのに、家のなかにお酒を飲む人が居ると、何となく酒にあう食べものの旨さがわかるように思う。蕗(ふき)のとうの煮びたしは肴(さかな)になるが、これで御飯をお代わりとはゆかないし、甘く煮たいもでお酒は出せない。こういう考え方は、日本酒を中心にした古いお酒の飲み方と言える。何時の世にも酒は百薬の長と讃えられるが、今は赤ワインが幅を利かせている。若い人は酒の肴と決めないで、自分の好きなものを、その時飲む酒に合わせて上手にえらぶ。先日若い女の人が集まって、有りもののワインに、持ち寄りの食べものをあれこれ試していたが、甘くないだし巻き卵は赤ワインにぴったりだと言う。旨味を持つ酒に比べて、酸味と渋味を含む赤ワインには負けるのではないかと思ったが、素直に合うのだそうだ。そう言われると、案外、鳥のスープで薄味に仕立てた聖護院大根で、グラスを重ねても良いかもしれない。昨年末、人と物のあふれ返るデパートの食品売場に居た。予定した最後の買物を終え、疲れきって品物が包装されるのを待っていた。それまで気が付かなかった香ばしい熱い油の匂いがしている。ああおいしそうな匂いだときょろきょろした。見ると人が嬉しそうに並んでいて、白い包みを受取って行く。そばのベンチに腰かけて、丸いおだんごを口に運んでいる人もいる。たこ焼き?いやそうじゃない。ガラスの向うのお姉さんが、片口からたこ焼き用の丸い穴に注ぎ込んでいるとろみある液体は、うどん粉を溶いたものよりずっと柔らかだ。あられ大の蛸(たこ)一個を入れて、ちょいちょいとひっくり返して明石焼きの出来上り、食べている人が何ともうらやましく、おなかが空いてきた。急いで家に買って帰り、まだ温かい明石焼きを口に入れた。卵焼きでもなく、茶碗蒸しでもなく、だし巻き卵のたねを衣なしで揚げたような今迄にない卵のうまさがあった。あ、これで一杯飲めるかな。(「手もち時間」 青木玉) 


飲むというよりすする
林芙美子が『放浪記』を発表したのは昭和三年。どん底の女の生活を書きながら、不思議にたくましく明るい筆致が不況時代の読者の心をとらえた。そのころ、芙美子は新宿区下落合に住む先輩作家の吉屋信子を訪れた。「林さんが愛酒家であることをその書くもので知っていた私はわが家で珍しき酒客としてお銚子や盃を出した。林さんはその盃を両手で捧げる恰好でそろりと口に近づけ、飲むというよりすするようにして、また間を置いてすする、お酒を貴重品扱いした飲み方だった」(吉屋信子『自伝的女流文壇史』)昭和五年、芙美子は落合に転居した。二度引っ越したがいずれも落合で、昭和二十六年、四十八歳で急逝するまで、ここが"古里"になった。(「江戸東京物語 山の手篇」 新潮社編) 


酒場での十夜
男はひどく興奮していた。「事態はそういう状況でありながら」彼は続けた。「蔓延する荒廃の発生から始まり、その力が猛威を奮うさまを一部始終見てきた者たちが警告を発してもなんにもならない。息子たちが堕落させられ、娘たちは破滅の脅威にさらされた若者の妻になるというように、すべてが危機に瀕した状態でありながら、人々は手をこまねいて、悪人どもの狡猾な計略から罪のない者たちを守ることが、はたして妥当かどうかをただ延々と議論している。悪人どもが、身勝手な目的を達成するために彼らを心身ともにぼろぼろにしようとしているのにです。法律家に悪魔の酒を取締まる立法を頼めば、狂信家とか、過激派とか、策略家とか呼ばれる。いやいや、酒の販売に余計な手出しをしてはいけない、というわけです。社会のもっとも大切で有益な人々が苦しむかもしれないが、酒販売人は庇護する必要がある、というわけです。たとえ、監獄や救貧院に人があふれ、花の盛りで散った若者や、傷心のあまり潰(つい)えた妻や母の屍(しかばね)で墓場が埋め尽くされようと、酒販売人の利益は確保してやらねばならないのです。連中に言わせると、改革は家庭で始めなければならないそうです。子供に禁酒教育をほどこせば、禁酒家の大人に育つ。酒を欲しがるものがいなければ、酒屋の商売はなくなるだろう。そして、たとえ改革が達成されるまで百年かかろうと、真の改革者が生み出されるまで、弱き者、疑うことを知らない者、道を踏み外した者たちが悪の餌食にされるのはいたしかたない、ということなのです。いやいや、とんでもない。悪魔の酒によって破滅させられたひとつの魂といえども、かけがえのない犠牲です。俗世間の利得など、一瞬たりと、それと比べられるはずもない。だのに、毎年、何千という若者が身を滅ぼしている。そして、もし社会が致命的な無関心から目覚めて、わが国土に病と破産と死をばらまいている腐敗した男どもを力強く取締まらねば、何万という規模でさらに多くの若者を失うことになる。私はこの話題になるといつも興奮気味でして」彼は自分を抑えるように言った。(「酒場での十夜」 T・S・アーサー 森岡裕一訳) 禁酒小説です。 ドライ派(禁酒派)の『アンクル・トムズ・ケビン』  


銘酒二石
(天狗党)一行が越前に入るころには、賊軍を討てという幕府の厳命にもかかわらず、戦う力のない沿道の小藩は、村々を焼き払って奥へ立ちのいた。天狗勢は深い雪の中で村に人影をみず、食なく家なく、橋の下に野宿をしたり、夜中たき火を絶やさず、辛うじて凍死をのがれる工夫をしたりした。一二月一一日、新保(しんぽ)につく。ここまで那珂湊から約二百余里、五〇日を費やした。ここへ加賀藩の大部隊が出てき、隊長永原甚七郎の思いがけない寛大で人道的な態度に一同感激する。新保は戸数三、四〇戸の寒村で、住民は皆避難して家になく、飢えも寒さも凌ぐによしなく、やつれ切った浪士隊の悲惨な状態を見た永原は、明日は闘わねばならない相手かも知れないが、武士としてみるに忍びないといって、一四日、白米二〇〇俵、漬物一〇樽、銘酒二石、スルメ二〇〇〇枚を新保の陣中に送った。当時一橋慶喜は朝廷の要請で将軍後見職となって京都にいたので、浪士隊は朝廷と彼とに訴えるために、上京に望みをかけていたのだが、慶喜としては、武装した反乱軍の入京を許すことは恐れ多いとして、水戸の御守衛隊を率いる実弟、烈公の一八男昭武と自分が大津まで出張して、浪人隊を迎え討とうと言った。浪人部隊は主君同然の一橋公に刃をむけることはできない、というので発信をやめ、一七日、金沢藩に投降した。(「幕末の水戸藩」 山川菊栄) 天狗党の最後は悲惨なものだったそうですが、こうしたエピソードもあったのですね。 


485酔郷氏(すいきやうし)の国(くに)には 四時(しいじ)ひとり温和(をんくわ)の天(てん)に誇(ほこ)る 酒泉郡(しゆせんくゐん)の民(たみ) 一頃(いつきやう)だにもいまだ沍陰(ごいん)の地(ち)を知(し)らず 煖寒(だんかん)飲酒(おんじゆ)に従(したが)ふ 匡衡(きやうかう)
酔郷氏之国 四時独誇温四沍陰之地 煖寒従飲酒 匡衡
江吏部集巻中「煖寒飲酒に従ふ」詩序。- 一 唐の王績が劉伶の酒徳頌についで酔郷記を書いた。なかに「酔の郷、その気和平にして一揆、晦明寒暑なし」とある。実在の地名ではない。 二 甘粛省のチュチェン。漢の武帝が開いた河西四郡の一。敦煌と蘭州との中間にある、いま人口六万。海抜一四九〇メートルの地。拾遺記に、一人の羌人がここの太守になった、彼は酒好きだったが、ここの泉を飲むと、酒のような味がしたという。 三 百畝の地。 四 底本「冱」を「冴」に作るが譌字。江吏部集によって訂。寒さと陰気とがかたくこおり結ぶこと。-
(「和漢朗詠集」 酒 川口久雄・志田延義校注) 


サラ川(21)
自販機の前で終わった忘年会         ドリーム停
本物のビール買ったら妻激怒          発泡美人
はしご酒連れの財布(さいふ)も気にかかる 林航路
飲み会に「フトコロキトク」のメール書き    平凡なパパ
車しか行けない場所にある飲み屋      赤切符(「サラ川」傑作選 山藤章二・尾藤三柳・第一生命 選) 


一滴も飲めぬ男
さて、私の二十数年来の友人である大内昭爾氏について書くことにするかれは早稲田大学在学中から同人雑誌に小説を書き、東京新聞その他の同人誌評で評価されていたが、その後、評論の世界に移り、現在に至っている。女子大学の副学長という要職にありながら、文藝春秋発刊の文芸雑誌「文學界」の同人誌評の担当者の一人でもある。かれについてのこととは、かれが一滴も飲めぬ男だということである。うまい副食物で御飯を食べることを楽しみにしていて、酒とは縁がない。ところが、長い付き合いであるのに、私は、そのことに気づかなかった。二十数年間、かれと数え切れぬほど小料理屋やバーなどに友人たちと連れ立って入ったが、彼は陽気に話し、笑って、最後まで付き合う。こちらの酔いがまわる頃には、かれの顔も赤く染り、眼も輝いている。私は、かれの酒は乱れることのない、いい酒だな、と、ひそかに感心していた。が、実際は、酒を一滴も飲まず、私たちに調子を合わせていただけなのだ。(「私の引出し」 吉村昭) 


75-ねこのさいなん 猫の災難
おれは肴なんてどうでもいいんだ。ところで、どんな酒買ってきたのかな。一口毒味をしてみよう。うん、いい酒だ。こいつはうまい。茶碗に一杯、一気に飲んだ。どうせあいつは一合でおつもり、おれが四合飲むことになるんだから、もう一杯飲んじゃえ。二杯目はぐっと味わう。うまい、ほんと、いい酒。おれは冷(ひ)やでもいいが、あいつは燗をつけるんだろう。火ぐらい起こしてやろうか。でも、酒ってやつはあとを引くな。飲み出すと中断が出来ないいよ。そうだ、あいつのために徳利に一合分取っといてやろう。そうすりゃ、あとは心おきなく飲めるってもんだ。あッ、イケネエ!バカにたくさん入る徳利だと思ったら、ほとんど畳へこぼしてた。もったいねえもったいねえ、吸っちゃえ、吸って、嘗めて、畳を押せば浸み込んだのが出てくるかな。おしいことしちゃったなあ!徳利も山盛りだ。燗をつけたらあふれちゃう。一口吸おう。あ、茶碗からとはまたちがううまさを感じちゃったな。もう一口吸おう。うまいうまい…。いけねえ、徳利一本カラにしちゃった。あー。急に酔いが回ってきやがった。空きッ腹だったもんな。あいつ、まだ戻って来ない。(「ガイド落語名作100選」 京須偕光) 友だちに酒を持ってこさせて、自分持ちの身のない鯛を、猫に身を持っていかれたことにして、それも買わせている間に。 


内田と井伏の違い
内田百閒は幼年時代から酒もタバコも自由にのんでいたが、あるとき小学校の先生から、子供の飲酒喫煙を禁ずる法が施行される旨を教えられた。それで家に帰るとお祖母さんに、そのことを報告して、自分用のタバコや煙管を排棄するように頼んだ。だが、お祖母さんは笑って取り合わないので、百閒は、もし自分がタバコを吹かせているところを巡査などに見咎められると警察に連れていかれる-と、泣いて頼んだので、やっとお祖母さんは子供用の煙管の始末を承知した由である。井伏鱒二氏にも、いかにも同じような話がありそうでいて、それが全然ない。明治三十一年生まれの井伏さんは百閒より九歳年下で、丁度生まれた頃に未成年者の酒タバコを禁ずる法律が出来たものであろう。(「まぼろしの川」 安岡章太郎) 未成年者飲酒禁止法 


箏曲「笹の露」
日本音楽の箏曲の一つにあるのが「笹の露」。その唄の文句のおしまいあたりに、〽…劉伯倫や李太白(李白)、酒を呑まねばただの人、吉野・竜田の花紅葉(はなもみじ)、酒がなければただのとこ。とあります。劉伯倫も李白と同ンなじように、中国歴史上の代表的な酒豪詩人なんだそうですな。ご存じ、吉野山は桜の、また竜田川は紅葉の名所として知られておりますな。その名所でさえも、素面で眺めりゃ、そんじょそこらにある桜と紅葉と変わりがない。それほど、この「笹の露」の唄の文句は、お酒とお酒呑みの人たちを讃えて(?)いるというわけです。箏曲「笹の露」の別の呼び名が、「酒」であるのももっともですな。(「志ん朝のあまから暦」 古今亭志ん朝) 


ハイデルベルクの学生牢
14世紀に、ドイツで初めての大学がハイデルベルクに作られた。中世においては、大学が学問の中心だった。大学に通うために、全ヨーロッパから、学生が集まった。京都大学にある哲学者の道のオリジナルの哲学者の道がここにある。ゲーテやヘーゲルが歩いた。旧大学校舎の裏に、学生牢の入口がある。18世紀から200年間にわたり、泥酔したり暴れたりした学生を、警察にかわって、大学が処罰するために使われていた。面白いのは、閉じ込められるべき各部屋に、「グランドホテル」や「パレ・ロワイヤル」といったロマンティックなネーミングがされていることだ。このことから考えると、学生たちは、ここに放り込まれるのを一種の名誉にしていた気配がある。-
大学のすぐ隣には、そもそも大学を作ったプファルツ選帝侯の居城、ハイデルベルク城がある。この城の地下には、直径7メートル・長さ(寝かせた形なので高さではない)8メートルのワインの大樽がある。ドイツというとビールという印象があるが、ドイツ国内の13の地域でワインは生産されている。ワイン作りの歴史は、実はフランスよりも古い。ワインはあまり寒い地方にはできないので、ドイツが北限だ。9割が白ワイン。シャンパンと間違えるような泡の出るワインもあり、飲みやすい。地下ホールで試飲して、試飲したグラスを持ち帰ることもできる。ワイン樽と、哲学者の道が共存するのが、いかにも学生街だ。(「ロマンティック街道で待ち合わせ」 中谷彰宏) 


年に何回か
しかし、平々凡々と生きているからだろうか、なじみの酒場のカウンターで一人で水割りなんかを飲んでいると、若いホステスに声をかけられる。あら、いたの?そういう挨拶はないだろうと思うのであるが、こんなとき、ママがすっと寄ってきて、きょうはゆっくりしていってなどと言ってくれるので、つい機嫌を直してしまう。ゆっくりしたって、別に何もないのであるが、そう言ってもらうのも勘定にはいってるんじゃないかと思いながら、ちょっといい気分になる。それで、二、三杯飲むと、ストゥールからおりて、バーテンダーに、じゃあまたと言って、店を出る。すると、先ほどの若い女が、あら、もう、帰るのと言ってくれる。ついでに、婉然(えんぜん)と笑ってくれる。いってらっしゃい、と後姿に声をかけてくれる。なんでこんな店に行くのかな、と自分でもあきれる。そこで、東北出身の同僚の口真似をして、ぼそぼそとつぶやく。それもエエンデナイノ。そのあとは、勢いである。何軒かまわって、気がつくと、五十近い女が一人でやっている台所みたいなバーでまだ飲んでいる。これは夏にかぎったことではなく、一年になんどかある。男って、一人で大酒を飲みたいときが年に何回かあるんですよ。(「グラスの中の街」 常盤新平) 


あすはビール無料
今にして思え一番取っつきにくいアイリッシュパブで「また来てもいい」といわれたことで、「オレも少しは人間的に練れてきたかな」と、当時二八歳の私は思った。そのパブには常時、「あすはビール無料」という看板が出ていた。それで翌日もパブに顔を出すと、同じ看板が出ている。つまり、いつ行っても、「あすはビール無料」で、永遠に無料ビールは飲むことはできない。これもアイリッシュジョークである。また、アイルランドには、シングルモルトを飲む時はほら話をしてもいいというローカル・ルールがある。たとえば、「私の先祖がガリバー旅行記の作者スウィフトの数少ない友人の一人で、ともにニュートンの悪口をいっていた」などと大風呂敷(おおぶろしき)を広げるのである。このローカル・ルールは日本にも輸入したいものです。(「酒道入門」 島田雅彦) 


「ウルチキビ(17)酒」の作り方(穄米酎法)
麹の手入れは前と同じようにする。粗麹一斗でウルチキビ六斗がこなせる。神麹ならばさらに力が強いので、力に応じて適当に加減する。麹を搗いて粉にし、絹篩で篩う。ウルチキビ六斗を用いて、水が澄むまで洗い、水に浸して一夜置き、翌朝、臼で搗いて「しとぎ粉(18)」にする。粉の一部で薄粥を作り、残り全部をこしきで蒸し、冷ましておく。麹の粉にむらができないようによく混ぜ、粥の温度が体温(19)ほどにさがったときに甕のなかに入れ、搗きつぶして柔らかくし、泥で密封する。もし密封が裂けたならば、再度封をして、気がもれないようにする。正月に作り、五月に開けてみて、酒になっていれば飲んでもよいが、さらに密封して七月まで置けば、完全に熟成する。絞らずにすくって飲むだけならば、三年間は変質しない。ウルチキビ一石で一斗の酒粕ができる。酒を取りつくしたときには、粕は甕の底にたまり石灰のようになる。酒の色はゴマ油に似て濃い。普段であれば一斗の酒が飲めるものでも、一升五合でやめる。三升も飲めば、深酔いをし、水をかけてやらないとかならず死ぬ。この酒を多量に飲み、酩酊して不覚になり、体が火のようになった場合には、熱湯を作り、冷水(20)で少し冷ましたものを酔った人に注ぎかける。湯をかけた場所はすぐに冷えてくる。からだを回転させながら顔や頭に注ぎかけると、しばらくして起きあがる。人に酒をすすめるときには、その人の酒量を尋ね、裁量してすすめる。もしその手続きを怠ると、口当たりがよいために自制できず、死ぬかもしれない。この酒は一斗で三〇人を酔わすことができる。この酒を手に入れて親戚や知人におすそわけすることを楽しみとしないものはいない。
注 (17) ウルチキビ-「穄米」。『要術』の第四章に黍および穄の栽培法が収載されており、西山は後者にウルチキビをあてている。黄河以北で古くから栽培されている穀類である。 (18) しとぎ粉-「餻粉」。「餻(こう)」は米粉を練って作った餅のことで、日本では「粢」と書いて「しとぎ」と読む。これに使う米粉を「しとぎ粉」という。「しとぎ」を布の上に薄く塗り、蒸すと米粉の薄膜ができる。乾かして保存する。ふたたび水分を与えて柔らかくしぎょうざ、のように具を包んで食べる。ベトナムやタイでは日常の食べ物である。 (19) およそ三七度であろう。酒作りに関与する酵母の生育に適する温度はそれよりやや低く、三〇~三三度である。 (20) さまし湯-「半熟湯」。熱湯を冷水でうすめ、手がつけられる程度(五〇~五五度)の湯。(「斉民要術」 田中静一、小島麗逸、太田泰弘編訳) 


酒の力より理性と意思で
私は男でも女でも、理性を失い、意志が弱く、他人を愛せない人間が嫌いなのです。そして、酔っ払いを見たびに、ああこのひとは酒に呑(の)まれた。「酒は泪(なみだ)か溜息(ためいき)か」という歌が昔流(はや)行ったけれど「酒は大蛇か大鰐(おおわに)か」と、心に一人でつぶやくのです。酒は飲んでも、呑まれてはいけないのです。ことに清々(すがすが)しく美しく咲いたサクラの下で、ベロンベロンになり、相手かまわず言いがかりをつけるなんて最低。バケツいっぱいの水を、頭からかけてやりたくなる。これは酔いを冷ましてやりたい親切ごころです。四月のお花見のころ、よく上野、渋谷などの盛り場から、電車の中に乗り込んでくる酔っ払いを、友人たちが介抱している姿を見ます。吐く人間もいてぞっとする。日本ほど酔っ払いに寛大な国はないのではないか。数年前のこと、カナディアンロッキー歩きをしてバンクーバーに来て、私はバーボンの「ワイルド・ターキー」の好きな息子のために、酒屋で二本買っていこうと思った。町の通りで酒屋の所在を聞いたら、二人の男にことわられた。「自分は禁酒連盟に入っているので酒屋の場所は教えられない」。一人は若者。一人は老人。三人目の若い娘さんに教えてもらった。他人に対して堂々と禁酒を守っていることを告げ、他人が酒を飲むのもやめよと言わんばかりの気迫(きはく)に押された。じつは私は、わりに酒に強いのです。娘時代は飲まなかったけれど、結婚の披露宴にシャンペン、紅白のワイン、ビール、日本酒と出たのを、のどが渇(かわ)いたのではじから飲んでしまい、仲人夫人が大振りの袖の袂(たもと)を引っ張って言った。「澄江さん、ご新婦はお水だけ召し上がれ」戦後になって、新聞記者、映画の脚本づくりなど、男の多い職場に入り、なにかと酒を飲む機会が多かったけれど、酔うほどには飲まなかった。他人の前で醜態(しゆうたい)をさらしたくないから。(「淑女の勉強法」 田中澄江) 


二日酔いゴルフ
(石原良純)二日酔いゴルフといえば、ヒドイ目に遭ったことがありますよ。
(地井武男)なにをしでかしたんだ。
 あるゴルフ大会のプロアマ戦、前日現地入りしたのがまずかった。完全酒漬け状態で朝を迎えたんです。
 お前、グリーンで吐いたのか。
 まさか。でも、"○○プロ、石原さん、誰々さん"なんてスタート案内のアナウンスが流れているときには、トイレで吐いていましたよ。テレビカメラに数百人の観客、酔いと緊張の中でのティーアップ。漫画じゃないけど、本当にボールが二つにも、三つにも見えたんです。ボールは思いっきりシャンク。テレビカメラのわずか数十センチにドスン。観客はウワー。同じドローのおじさん達はその日一日、口をきいてくれませんでした。
 当たり前だろ。お前ね、お父さんや叔父さんの名前を汚さぬように、気をつけろよ。(「遊びに行(い)こうよコール」 石原良純) 


酒飲みには天国
西洋では、アルコール中毒の人を除けば、酔っぱらって街中で倒れたり、電車の中で寝ている人をほとんど見かけない。ところが、どうだい。日本は。若い女性が深夜、酔っぱらって街をふらついていても大丈夫。電車で口をあけて寝ていても平気だろ。ニューヨークやパリなら、身ぐるみ剥(は)がされても文句言えないよ。下手すれば、ころされるかもしれない。でも日本じゃ、JRの職員が毛布かけてくれるんだから、ほんと安全な国なんだよ。酒飲みには天国だな、日本は(笑)。日本に来た外国人がまず驚くのが、公共の場で見かける酔っぱらいの多さだと聞いたけど、うなずくしかないな。(「詩人からの伝言」 田村隆一) 


第三十八歌
『ルバイヤット』で僕が好きなのは三十八番です。これは文語訳の方を引きましょう。
第三十八歌
絶滅のあら野に我等立てるひととき、
生(せい)の泉にうまし水むすぶ束の間。
見よ、星はいま空にしづみて、隊商は
「無」のあけぼのに旅を進むる、急げかし。
「うまし水」とは酒をいっているのだろうと思います。星がしだいに空から消えて、残るのは「無」のあけぼのですが、にもかかわらず、朝が来たのだ、気を取り直して「無」のあけぼのに旅を進めようというのです。生から死へと歩みを進める隊商が、ほんの一時「うまし水」を酌む貴重な瞬間のいとおしさ。「絶滅のあら野に我等立てるひととき」この一節は、初めて読んだときから僕の頭に不思議に快いものとして残りました。意味は暗いことをいっていますが、詩句は美しい。(「人生の果樹園にて」 大岡信) 


なにもしちゃいませんよ
近頃酒を飲んでいると朝方ぷっつりと記憶がなくなるときがある。まるでハサミで頭の中の回路を断ち切ったように記憶が失せる。頭の中がどうにかなってしまっているのだろう。しかし記憶というものもなければないでその方がいい時がある。夜明け方の酒場でいつも繰り返されていることは、ほとんどがどうしようもない戯言(ざれ)なのだから。困ったことに、私はこのどうしようもないことがたまらなく好きなのである。一見役に立ちそうに見えるものはほとんどくだらないものが多いのを私は何度も見てきた。物事がそうであるように、役に立つと言われる人ほど恐い存在はない。当人が自分は社会に何かしているとか、他人に何かをしてやっていると思い込むことほど大それた話はない。そういう人は、いつも他人に何かやっているという意識があるから、その行為に対して代償を求めるし報われなければ不平を言い出す。所詮人が出来得ることなどたいしたものではないのだ。何かが出来たと思うのは、ほとんどが錯覚で、 -なにもしちゃいませんよ。 そう考える人の方が私には信用できる。(「銀座の花売り娘」 伊集院静) 


としわすれ【年忘】
特に歳暮に設ける酒宴の称。一年中の労苦を忘れるとの意で、底抜けの騒ぎをしたのである。
年忘れわすれずとよい顔ばかり 何時もの顔触れ
年忘馬鹿につけたる馬鹿の顔  而して馬鹿騒ぎ
口ばかり九つといふ年忘れ    夜明迄騒ぐ
年忘隣はあるかないかなり    近所迷惑に騒ぐ
年忘隣でも今朝おそく起き     隣でも昨夜(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


正当みぞれ酒
ところが、本当のみぞれ酒は、江戸時代から奈良の名産で、俳句の冬の季語になっているという。芭蕉の門弟、内藤丈草の句に、 句撰(くえらみ)やみぞれ降る夜のみぞれ酒 というのがある。みぞれ酒は、寛永年間(一六二四~一六四四)にできたらしい。奈良猿沢池畔の酒造家浅田某が、池の水にみぞれが浮いているのを見て、思いついたそうだ。かき餅に焼酎を塗って乾かす作業を繰り返し、細かいあられを造る。これを酒かみりんに入れて密封し、成熟させる。このみぞれ酒を、明正天皇に献上したといわれている。このほか、もち米の麹を、酒に浮かべて飲むみぞれ酒もある。こんな話しを読んでいるうちに、一度、飲んでみたくなった。みぞれ酒に合う肴は、何だろうか。 こんにゃくのさしみもすこし梅の花 丈草の師匠、芭蕉の句だ。こんにゃくのさしみは、芭蕉の郷里、伊賀の料理で、仏事のときに使う。私も前に、食べたことがある。ふぐ刺しのように、薄く切って大皿に並べる。皿の模様が、透けて見えるようだ。ちょっと見た目には、ふぐ刺しそっくりだ。舌ざわりは、ひやっとしている。梅の花の咲いているころだし、みぞれ酒には、ぴったりかも知れない。(「にいがた菜時記」 三浦真)


酒の楽しみ
そこで僕は考えた。お猪口が問題なのだ。お猪口がさ。大ぶりの猪口で飲めば、当然、酒がなくなるのも早い。物理の問題だ。酒を飲めるのがうれしくて、つい焦(あせ)って飲んでしまい、そこまで気がつかなかった。小さくすればいいのだ。かくして、僕は思考を重ねた。どのくらいの猪口が一番いいか。あまり小さいと、人間がせこせこしているようでいけない。いかにも酒を嗜(たしな)んでいると見えるのがいい。そこで何種類かの猪口を買ってきた。こういうことになると、俄然、細かくなるのである。なにせ一合しか飲めないのだから。その結果、小さからず、大きからずの猪口が見つかった。それは、作家物の高い猪口でも、ごつごつしたぐい呑みでも絶対なく、ごく有り触れた普通の形の猪口。普通よりほんの少し小さいのが、僕にとっては、一番いいと思った。しかも色は白。大酒飲んでいた時は、猪口の色なんて気にしたこともなかった。しかし、今は、なけなしの酒を命がけで飲むのだから、(それほどでもないか)、ともかく、執拗にこだわるのだ。色は白で、口あたりのいい薄手の猪口。というと、陶器よりは磁器ということになる。かくて猪口も決まった。徳利もこだわると気が狂いそうになって、ストレスが増えるに決まっているから、今のところ猪口と揃いの白いのと、信楽の徳利を交互に使っている。夏の間はもっぱらビールを飲んでいたが、涼風が吹いて、台風も過ぎれば、いよいよ日本酒の季節である。ぬる燗でちびちびやっていると、心底、生きていてよかったと思う。小ぶりの猪口を口にもっていく瞬間、頭は何も考えていない。ただ飲むことに向かっている。そして酒が喉を通っていく。あああ。思わず叫んでしまう。これぞ無上の喜びだ。(「二丁拳銃でドカン!」 永倉万治) 脳溢血になり、医者から一合の酒を許されたのだそうです。 


仏説摩訶酒仏玅楽経(7)
故ニ 三百六十日。 四大 如シ泥ノ。 三萬六千場。 五欲 無(なし)起(こる)コト。 三代聖賢モ。 皆 依(より)テ此米汁ニ。 通ジ大道ニ。 合(がっ)ス自然ニ。 故ニ 得(うる) 阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)ヲ。(「仏説摩訶酒仏玅楽経」 亀田鵬斎 新編稀書複製会叢書)
このため、三百六十日、酔つ払つて体は泥のようであり、あらゆる場面において、色(見えるもの)・声・香・味・触という対象に対する欲望が起きることがありません。三代の聖人賢者たちも、皆なこの米汁によつて真理に通じ、自(おのずか)らなる天地の道理と一体となりました。そのため、無上の正しい悟りを得たのです。(「仏説摩訶酒仏妙楽経謹解」 石井公成) 


塩辛で日本酒
やはり私、ビールにはポテト類が一番だと思いますね。ワインにチーズが似ている。パリで、別に気取ってこう書いてるんじゃないですよ。でもパリで、安いホテルに泊まっている友人を訪ねて、そこら辺で買ってきたチーズを囓(かじ)りながらそこら辺で買ってきた赤ワインを飲んだ。これはもう、うまさピッタリ。日本酒と塩辛そっくり。その関係が。やっぱり長い間の歴史なんですよ。歴史の中でそういう絶妙な組合せが出来上がってくる。これからは学校の歴史の時間に、塩辛で日本酒を飲ませるべきです。これは日本史の時間。世界史の時間になってやっと、ワインにチーズ、ビールにポテト、ウイスキーに、なんですかねこれは、ウイスキーに合うものって、やはりこれは食後の酒だから、とくにはないんですね。ウイスキーにミネラルウォーター。まあストレートの場合はこれですかね。水がよく合う。日本にはそういう食後の酒ってとくにない。日本人は食後に寝ちゃうんですね、きっと。つまりちびちび食べながらちびちび飲んでいて、それがずうっとつづいて、だから食後というものがない。食後の酒がないということは、日本の食事の形態をあらわしているんです。なんて学者みたいに言いきれるかどうか、とにかく、少なくとも、日本酒の季節がやってきたのであった。(「常識論」 赤瀬川原平) 


お父さんお酒は飲まないで
幕末の疱瘡については、帝塚山(てづかうやま)大学の川口洋教授が検討されている。大名の子どももよく死んだ。若桜藩池田冠山の娘露姫は満五歳で疱瘡にかかって死んだが、家族が知らないうちに遺書を書いていた。ひらいてみると「お父さん(私が死んだら)お酒は飲まないで」と書いてあった。(「武士の家計簿」 磯田道史) 


酒焼やすつくと立ちし年男
盃に夜が溶けゆく志ん生忌
酔いしれてぐらりと鰯むしりけり(「寝るには早すぎる」 江國滋) 


手に酒をかけて
(小堀)遠州は太閤のお小姓であった。ある時太閤が諸大名を聚楽へ招待したことがある。立食で、強飯(こわめし)が出た。それを手掴みで食うのである。家康公が飯粒を指に付けて始末に困っておられると、遠州がそれを見て、ちょっとこちらへいらっしゃい、取って差し上げましょうと言う。家康公おいでになると、遠州は家康公の手に酒をかけて飯粒を綺麗に取った。家康公、うむこの小僧なかなか使えるわいとお考えになった。そこで、その後何かの機会に、家康公は太閤に、あの小姓をどうか私に頂戴したいとご所望になった。太閤は早速承諾されたが、なかなか人が悪い。遠州はそれまで一万石の大名であったのを、その時ぽんと五千石増して、一万五千石にして家康公にお遣わしになった。遠州はそれきり禄の加増はなかった。遠州は三代将軍の茶の師匠である。なかなか事務家であった。(「自叙益田孝翁伝」 長井実編) 


酒は涙か溜息か
昭和六年。明大のマンドリンクラブを主催していた古賀政男と、東京音楽学校の学生だった藤山一郎がコロムビアに入り、このコンビで「キャンプ小唄」「月の浜辺」をヒットさせた後の第三作が「酒は涙か溜息か」だった。ミリオン・セラーどころではなかったらしい。夜になると、日本中でこの歌が流れていたというから、いまのヒット曲とは、桁というよりは浸透度が違う。大ヒットした理由はいくつもあるだろうが、この歌の短さもきっとその一つだったと思う。七・五・七・五-俳句より仮名で七文字多いだけである。余計な言葉を削ぎ落とした、人生のエッセンスだけがここにはある。これ以上、何も言うことはない。今の艶歌は、一番だけで「酒は涙か溜息か」の四コーラス分ある。この時代の歌謡曲には、江戸以来の小唄・端唄の発想がまだ残っていた。《人に意見した妾(わし)が/今じゃわが身が恥ずかしい/思案の外(ほか)とはこのことか》の類である。短ければ短いほど粋なのだ。そして短い歌は、いつまでもいくつも残っている。-
横浜本牧の重村實という、一九〇六年生まれの方から、手紙と写真をいただいた。写真には、ハインリッヒ・フェザー(一八七七~一九六九)という人のお墓が写っていて、その墓碑銘に、何と《酒は涙か溜息か/心のうさの捨てどころ》という文字が刻んであるのだ。お酒が好きだった人なのだろう。そして、歌が好きだった人なのだろう。この歌が流行ったころは、五十を過ぎていた勘定になるが、横浜の酒場で杯を傾けながら、《酒は涙か溜息か…》と口ずさんでいたのかもしれない。短い歌詞だから、異国の人でも、すぐに覚えられたのだろう。遺言かどうかはわからないが、墓碑銘にするくらいだから、きっとこの歌は、ハインリッヒ・フェザー氏のマイ・ラスト・ソングだったに違いない。(「みんな夢の中 マイ・ラスト・ソング2」 久世光彦) 


小さな盃
大酒呑みの男が友達のところへ呼ばれ、盃が出たのを見たら、極く小さな盃だったのでたちまちわっと泣きだした。亭主がおどろいて、「いったい、どういしたのだ」ときくと、その大酒呑みが、涙にむせびながら、「この盃を見て、死んだおやじのことを思い出したんだ。おやじは、どこもわるいところはなかったのだが、ちょうど今日のように、よそへ呼ばれていって、小さな盃を出されたので、つい盃ごとのんでしまって、それが喉につかえて死んだのだ。それを思い出して、つい悲しくなっちまってな」(「江戸小咄大観」 田辺貞之助) 


いま何時だ
仕事で一緒になる機会も多くて、毎晩といっていいほど、小さん師匠にくっついては飲みあるいたものです。あれは私が結婚した頃で、ちょうど大学紛争の真(ま)っ只中(ただなか)のときだったから、昭和四十二、三年ぐらいでしょうか。新婚早々というのに、お酒を飲んで夜の十二時半に帰ってきたときのことこです。「いま何時だ」ふいに目を覚ました亭主に聞かれ、少し悪びれながら、「いま十一時半「一時間鯖(さば)をよんで答えると、安心したようにグーグー寝てしまいました。次に帰宅したときは一時過ぎでした。「いま何時だだ」「十二時」今度も亭主は小言一つ言わずにそのまま寝てしまいました。それをいいことに、こりゃいい按配だ。これからはずっとこの手でいこう、なんて独り合点(がてん)の気分でしたそして三回目。このときはもう三時半を回っていました。するとまた、「いま何時だ」ほい、きた、と思って、「いま二時半よ」「馬鹿言え、俺は二時半に寝たんだ」結局ばれてしまい、もう返す言葉がありません。そのうち牛乳屋の自転車がガチャガチャと音を立てて回ってくるのが聞こえました。「どうでもいいけど、お前、牛乳屋と一緒に帰って来(く)んなよ」この言葉は亭主の名言の一つなのですが、それほど一緒に飲み歩いていた相手というのが、小さん師匠だったのです。「伊豆栄」では、お互いの年齢のことから話がはずみ、師匠が知らないままにかかわってしまった二・二六事件のことになって、ついでながら私が生まれたのはその歴史的な事件が起きる三日前の昭和十一年二月二十三日ですが、皇道派の野中大尉の小銃隊にいた師匠は、そのとき配られたお握(おにママ)りを一つ手に持っていたそうです。「お握り一つで反乱軍の兵隊になっちゃったよ」と笑って話す師匠ももう八十一歳。昔は一緒に五合だって、一升だって平気で飲んだうえ、ご飯もよく召(め)し上がったものです。「師匠、お酒も弱くなっちゃいましたね」「何いってんだい。お前さんだって、あんまり食わなくなったじゃないか」お元気ではあるけれど、酒量が落ちたのを目(ま)の当(あ)たりにして、もう若くなくなったんだなあと思うと、寂しいというか、何だか胸が熱くなってしまいます。(「幸福(しあわせ)づきあい いい話」 内海好江) 


一番の酒友達
私の一番の酒友達は、なんといっても夫の池田満寿夫である。初めて二人で対談した時もたくさんウィスキーを飲み、機関銃のごとくしゃべり、一生のいい友達になれるに違いないことを信じたのだった。当時、お互いに男女の仲になるとは、思いもおよばなかった。ローマで再会した時も、連日連夜の酒盛り、大いに飲み、大いに語り合った。つまり、二人とも大酒飲み。というか、酒量が丁度同じ位だったのも、愛の芽生えるきっかけの一つだったと思う。一緒になってからもほとんど毎日二人で晩酌する。彼は一人で飲みに行ってしまうことなどない。できるかぎり二人でいられる時間をつくってくれる。一体何をそんなにしゃべっていられるんですか、とよく聞かれる。確かにもう十年も朝から晩まで顔をつき合わせていてよくあきないもの、と我ながら思う。しかし、現に話はつきなく、常にあれも言い忘れた、これもいい忘れたで他愛のない話もふくめて、年中べちゃべちゃやっている。これが二人とも、あるいは片方がお酒を飲めなかったらどうであったろう。私は、カップルである以上、飲むか飲まないかのどちらかに統一すべきだと思う。(「酒友」 佐藤陽子 「人生の風景」 遠藤周作他) 


十返舎一九の洒落と飄逸
膝栗毛の作者十返舎一九[天保二年(一八三一)歿年六十七]は、金があれば酒に代えるという酒好であった故其の家は荒れ果てて見苦しさは言いようもなかった。したがって、損じたる所には紙を貼り、又箪笥、花活、懸物の類は、皆これを描いて貼り付けていた。七月になるに、精霊棚も之を描き、朝は索麺を供えると言って、之を描いて貼り付け、晩には餅をささげると言って、同じく画いて貼り付けていた。また年の暮には、大なる台に三尺の鏡餅を載せた図を貼り付けるという風であった。殊に其の画が洒脱を極めていることは、恰も膝栗毛中の、自画の如きものであった。ある年の暮、一九は近所から風呂桶を借りて来て、翌日、元旦に若水を汲み入れて自ら湯をわかし、浴しおわって、「よい心地じゃ」とばかりのんびりと腹這いになっていた。其処へ常に親しくする近江屋某という者が、年始に遣って来た。一九は、先ず酒を出して、数杯を傾けて後、「時にお湯にお入り成されぬか」と大いにすすめた。あまりに執拗にすすめられて近江屋は、「それは御馳走であります」と言って、風呂場に入った。其の間に、一九は急いで小屏風を引き廻し、近江屋の脱ぎ捨てた紋付上下を着けて、家を脱け出で、そして近辺の家々を年始に、廻った。近江屋は斯くとは知る筈がない。湯より出て見ると、自分の衣服もなく、主人も居ない。其処で始めて気付き、「さては例のいたずらか」と思って、一九の衣服を着て、自分の家に帰って居ると、間もなく一九は上下のまま入り来り、「明けましておめでとう。お陰様で年始の廻礼も滞りなく」と挨拶すると、近江屋は、手を拍って打ち笑いそれより更に快飲したということである。(「日本逸話全集」 田中貢太郎) 


Case04 ビール、日本酒…お酌の仕方にルールが!?
取引先の人たちと飲み会の翌日、先輩から「おまえは酒の注ぎ方も知らないのか!」と怒られてしまった。べつにお酒をこぼして迷惑をかけたわけでもないし、相手に嫌な顔をされた覚えもないのに…。いったい僕のどこがいけなかったのか?
酒の正しい注ぎ方は、飲む酒の種類によって異なります。まず、いちばん無難そうに思えるビール。これにも正しいビンの持ち方があり、持ったときにラベルが上を向くのが正式な持ち方。日本酒の銚子は敬意を表して両手で持つ人がいますが、これは女性的。男性は片手で注ぐのが基本マナーです。ワインの場合は持ち方より注ぎ方が問題。ワイングラスの最もふくらんだ部分を上限にして注ぐのが基本。これらをふまえたうえで、注ぐタイミングに気をつけましょう。
Case05  意外!? お酌される側にも正しいマナーが!
立場柄、お酌する側に慣れてしまったせいか、お酌されるのが、どうも苦手。変にかしこまりすぎて、逆に「そんなに緊張しないで」などと気を遣われてしまったりして…。お酌される側にも正しいマナーがあるのでしょうか?
日本酒を盃で飲んでいる場合、お酌してくれる相手が目上の人の場合、盃を両手で支え「頂戴します」などの一言を添え、一口飲んでからテーブルに置くのが正しいマナーとされています。ビールもほぼ同様。これがワインになるとグラスをテーブルに置いたまま注いでもらうのがマナー。また、お酌をしてもらう際、グラスに酒が残っていても、それを一気に飲み干す必要はありません。一気飲みは酒を飲むマナーとしても体にとっても良くないことです。(「大人の酒・飲み方ルール集」  「大人の酒・男の飲み方」 宝島編集部編) 


酒徳利の話
そこで早速私の手作りの「食生活語彙群書総索引」を繰って見たが徳利の記録は大永七年(一五二七)までしか遡れなかった。そこで立ち上がって『日本国語大辞典』を調べたら、徳利の文献として『節用集』文明本(一四六九~八七)の土工李と『宗長日記』の範甫老人の酒徳裏にかかったものらしいが、出来上がったのは天文一六年(一五八八)頃らしいという。その文明本に土工李があっても、文明時代から長享年代にかけて、徳利があったという確証には、もう一歩というところである。『宗長日記』の範甫老人の酒徳裏は享禄四年(一五三一)八月十五夜のことでわずかに後世のことであった。『山科家礼記』の湯桶のやりとりの記録は寛正四年(一四六三)八月二九日の日記に始まり、最後は『言国(ときくに)卿記』の明応四年(一四九五)九月六日までである。その後見ないところから察すると、その頃から酒徳利ができたのかもしれない。実はこの項は、ここまで書いて放りだしておいた。それから一カ月近くたっただろうか、同じ『山科家礼記』を読んでいたら、偶然というか、問題にしていたトクリが見つかった。延徳四年(一四九二)五月六日のところである。こう書いてある。「今朝般舟院・楽林(綾小路有俊のこと)御斎、御汁二、菜三、トクリに酒一ツ」間違いなく酒の入っている徳利である。今まで徳利の初見は明確な年月日付の記録としては、上記享禄四年(一五三一)の範甫老人の酒徳裏だったが、今日ただ今からそれが延徳四年(一四九二)五月六日に更新されたことになる。私にとって大変嬉しいことである。さらに私に嬉しいのは、先の文章に、湯桶の贈答記録は「『言国卿記』の明応四年九月六日」が最後になっている。「その後見ないところから察すると、その頃から酒徳利ができたのかもしれない」と書いたことである。今発見した般舟院の御斎に出てくる徳利の記録は延徳四年だが、この年の七月一九日には改元されて明応元年になるのである。私の想像はわずか三年の違いでピッタリ適中したというのははなはだ嬉しい。(「完本日本料理事物起原」 川上行蔵) 


酔いどれ天使
ロシアでは「月曜日に作った自動車や家電を買うな」という。週末から日曜日にかけて、酔いつぶれた労働者が、二日酔いで仕事をするので、不良品が多いからだ。酔っぱらい天国を象徴する話である。そのロシアのエリツィン大統領が、酒びたりになっているらしい。米週刊誌が伝えた話によると、失敗談が数々ある。カザフ共和国を訪れたとき、エ大統領が、突然、記者会見を中止した。ウオツカを飲みすぎたのが理由だったそうだ。こんな失態もあった。暴漢に襲われたといって、ズブぬれで警察に駆け込んだ。おかしいと思ったら、酒のにおいがする。よく調べたところ、酔って川に落ちたものと分かった。つい最近も、国際オリンピック委員会のサマランチ会長との会談を、飲みすぎてすっぽかしたという。この種の話は、まゆにつばして聞いた方がいいこともある。エリツィン氏が大の酒好きだとしても、職務遂行の支障になっていない、というワシントン筋の話もあるからだ。あるいは、失脚したゴルバチョフ前大統領の側近が意図的に流した情報かもしれない。ただ、CISが、うまくいっていないことも事実である。価格自由化したまではいいが、食料難は、一向に解消しない。暴動寸前だ。黒海艦隊の帰属をめぐって、ウクライナと仲たがいが続いている。いらいらが高じて、酒量がふえたとしても不思議はない。わが宮沢さんにも、深酒の性癖があると聞く。「万物の長、百薬の長に負け」。お二人にささげたい古川柳である。(92.1.22)(「天地人」 和田満郎) 


濁酒に都合よい容器
宮中成年式用の酒器に酒海というものがある。これは丼ようの土器で、これに木の杓子を添えて酒を酌むようになっている。これはもっとも古い形であろう。濁酒に都合よい容器である。かように、杯では土器、塗杯、大猪口、小猪口となり、容器では酒海、瓶子、銚子、燗瓶と変遷があるのは当時の文化の程度と関係があるのはもちろんであるが、酒の状態、アルコール分の強さ、飲酒の風習とも密接な関係がある。たとえば、濁酒の濃厚なものでは口の小さい瓶子では出しにくいので酒海を用い、酒を温める風習が盛んになれば鉄鍋に口をつけ、これは進んで坐敷用の銚子となり、濁酒では筒状の口から出にくいので溝状の口としたが、直火よりも湯煎にした方が酒味を損しないので燗瓶となった。早燗をするために銅製、錫製のチトリも用いられた。(「日本の酒」 住江金之) 


酒に溺れて父は黄色のまま果てる  千葉風樹
だからどうだというのか。複雑な感情が交錯する。本望だったとするのか、父を反面教師とするのか、ぼくもまた、なのか。それとも父を憐(あわ)れんでいるのか。ここは思い切って「父」を「ぼく」または「おれ」という一人称にすれば、「酒」がぐっと生きてくる。酒と心中の心意気が出てくる。(「川柳新子座」 時実新子) 


専門が大好きと一致
私は日本の「酒呑み」という言葉に強い反感を感じる。それほど下等に見られたくない。そうかと言って「酒をたしなむ」などと気取った言葉もいやだ。酔は楽しい。しかし実は、私はむしろ酔いを憎む。世の大酔人の傍若無人の姿はむしろ鬼を思わせる。私は酒に酔うことがいやだから、酔わないことにしている。しかし友と酔心をともにするほど、人間として楽しい境界はない。この辺の差は言葉につくせぬほど微妙である。また私には他の人たちがまねのできないありがたい特権がある。それは専門の研究の一端が、大好きな酒とも一致することである。(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎) 


オヤジ
「オヤジさん、よく女が酒倉に入ると酒が腐るというが、ほんとかね」と、私が訊(き)く。彼は勿体(もつたい)ぶりもせず、また自由思想家的微笑なぞは勿論(もちろん)洩らさず、「ウソだね、ここの女中(おなごしゆ)もいつも倉に出入りするが、なんともないね」という如き否定のし方をする。そして、杜氏は蜜柑を喰わずというタブーも、結局、喰った後で手をよく洗えば差支えない。なぜならば、それは醸造に有害なる酸を除去するが故に-ということまで教えてくれる。彼らは夏期講習会で学ぶから、分析や反応試験もやれば、ボーメがどうの原エキスがこうのということも口にする。但(ただ)し町内会長が翼賛思想を覚えた時のような得々さは、微塵もない。科学も亦(また)職業的伝習の一なりという顔をしている。彼らは皆好人物で、四十がらみで、農村の匂いが強い。例外として、十八歳の少年が一人いる。この年齢から杜氏を志願する必要があるので、夏期講習会はいかに補助的であるかがわかる。また彼等の頭領(とうりよう)が一人いて、これをオヤジと呼ぶ。オヤジは醸造の責任者で、指揮者で、一切の方寸は彼から出る権力をもつと共に、昔は毎夜草鞋(わらじ)を枕頭に置き、酒腐敗の兆しあらば夜逃げをする覚悟を常とせし由(よし)である。(「モーニング物語」 獅子文六) 


ぜんぶ出鱈目
忠臣蔵の波瀾万丈の話なんてものは、池宮彰一郎氏によれば、ぜんぶ出鱈目といっていい、そうな。でも、遠く人形浄瑠璃や歌舞伎芝居にはじまり、面白くしてくれたのが講談で、これに明治末期から浪花節が加わる。さらに現代では小説に映画にテレビ。みんなで寄ってたかって、世界にも例をみない嘘か本当かわからない民族の一大叙事詩をつくりあげてきたのである。ところが、近頃はいらざる研究が進み、物語の虚実の腑分けがガッチリとなされ、たとえば「赤垣源蔵徳利の別れ」は真っ赤な嘘と相なる。本当の姓は赤埴(あかはに)、大酒呑みでなく盃一杯で真っ赤になる下戸であった、と。これでは夏目漱石の「減造の徳利をかくす吹雪かな」の名句が泣くというもの、といくらねばっても、いいかい、天保七年(一八三六)刊の為永春水(『梅暦』の作者ではなく、二世春水)の『伊呂波(いろは)文庫』で徳利の別れのないことは明かなんだ、と証拠を突きつけられ、探偵はスゴスゴ引き下がらざるをえない。(「ぶらり日本史散策」 半藤一利) 


六十キロリットル
我が国の最低醸造量が六十キロリットルだそうだから、単純計算でも約二十万本ということになる。要するに日本国で個人が自家製ビールをつくって楽しもうとするのは、不可能ということになる。最近何かというと「規制緩和」と言うが、外国向けでなく日本の庶民に対する規制も緩和すべきではないのか。もっとも外圧はあるが、内圧?はないのだろう。こんなところにも、日本という国が民主主義国家として非常に未成熟な面があらわれている。以前ボクのテレビ番組でとりあげたのが縁で文通したことがある故前田俊彦さんの「人間は自分で酒をつくって飲む権利がある」という主張も、結局変わった爺さんも居る程度の笑い話に終わってしまったような気がする。実はこれは重大な問題で、ここオーストラリアでは、自分でつくって自分で飲む(勿論友人と飲んでもかまわない)分には全く何の規制もない。但し、それを売るとなると認可を得なければならない。これが正当だと思いませんか?日本で規制緩和というと、六十キロリットルである。これは商売にしなければ成り立たない量だ。つまりいつも企業が先で、個人はあと廻しである。どこか根本的に間違っていると思うのですがねぇ…。(「愚直」 大橋巨泉) 


へい、お待ち遠おさま
それから何年か経過して、黒鉄ヒロシさんと高知を訪れた時のこと。仕事を終えて二人で一杯やることになり、あらかじめ聞き及んでいた小料理屋で待合わせた。私が先に着いて黒鉄さんを待っているうちに、その店の常備の酒は「土佐鶴」であることがわかった。私は「これは有難い」と一瞬よろこんだが、ふと、黒金さんは高知出身で、これも人気の「司牡丹」が実家であることに気付きハッとした。すぐ店の主人に、「司牡丹」もないとまずいと、わけを話せば、ではこれからすぐ酒屋へ注文してもらいますと親切だ。やがて、やがて黒金さんが現われ、ビールでゆっくりやりはじめた。このあと酒になっても、「司牡丹」と「土佐鶴」の二つが揃っているのだから鬼に金棒だ。「この店は両方あるそうですよ」私は、いつでも来いという調子で胸を張ったが、付け焼刃というものはもろいものだ。そのとたん、表戸ががらりと開いて、「へい、お待ち遠おさま、司牡丹で-す」と酒屋の若い衆が一升ビンをぶらさげて堂々と入ってきてしまった。その時の私の狼狽ぶりはどれほど滑稽だったことかと冷汗が出る。黒金さんは、すべてがわかったようににやりと笑っていった。「そんな、気を使わなくてもいいのに…」そう、酒を飲む時はあまり姑息な神経を使わぬほうがいい。(「私の酒の旅」 山川静夫 「日本酒の愉しみ」 文藝春秋社編) 


四十一本用意するように
ルイ十四世は、狩りにゆくときは、いつも、ワインを四十本用意させて、それをたずさえてゆくのが慣わしだった。しかし王自身はそれを飲むことはめったになかったので、このワインは王よりも、猟犬係、馬丁、酒保係といったお附きの者たちになっていた。王が飲まないことを見越して、一壜も用意しないで、代金だけ請求する悪質の酒保係などもあった。ある日王がいつになく渇きを覚えたので従者に向ってワインを一ぱい持ってくるように命じた。従者は困って、もう、一滴も残っていないことを言上すると、王は、「いつも四十本も用意させているではないか」と言った。「はい、陛下。しかしみんな空になっております」「そうか。これからは四十一本用意するように。そして、せめて一本だけでも朕のために取っておくようにしてくれ」と王は答えた。なかなかしゃれた王様であるが、どんな銘柄のワインを用意したかは、そこまでは伝わっていない。(「ワインと文学」 河盛好蔵 日本の名随筆「酔」) 


月下独酌
*我歌えば月は徘徊(はいかい)し、我舞えば影は凌乱す。醒時、同じく歓を交(ま)じえ、酔後、各々分かれ散ず。(独酌しているうちに月が出て、自分と月と影の三人で酒盛りをしている。「酒中の趣」を歌ったもの)
-李白「月下独酌」(「世界名言事典」 梶山健編) 


女給の飲酒禁止令
いまや女性の飲酒は当たり前過ぎて、そのことに眉をひそめでもしようものなら、逆に眉をひそめられる世の中だが、われわれが子供だった昭和十年の新聞には、こんな記事が載っている。それは、カフェーやバーで働く女性の飲酒に、警視庁が禁止令を出したというもので、その理由が次のように書かれてある。「客に強いられるばかりでなく、経営者が奨励するのと、歩合を目当てに酒を飲まないと稼ぎにならない(このあたりは六十年近く経ったいまもさほど変わらない)からだが、この酒のために健康をそこね、自堕落の道を辿る女給がふえ、さらに酒ゆえに見知らぬ男に貞操を奪われ死を以て清算した悲劇すら生むに至った。これ等幾多の弊害を防ぐため、女給の客席における飲食を禁止し、これに違反した者は、女給といわず営業主といわず、厳重処罰することにした」この記事をいま読んで、なんという堅苦しさと当時の警察の石頭を嗤(わら)うのは簡単だが、見方を変えると明治の男たちの女性に対する並々ならない優しさに敬意を覚える。女性解放論者にいわせれば、戦前の日本の男は、女性を玩弄物視して憚らない度し難い女性蔑視の典型ということになっているが、この「女給の飲酒禁止令」の理由は明らかにその逆で、フェミニストの言説を訊いているような錯覚さえ覚えるほどだ。(「畳の下の古新聞」 諸井薫) 


上手な酒の飲み方など私に講釈しないでくれ
酔っ払うのは、現実逃避だという意見もある。だが、僕にとっては酒が現実であり、酔うことは生きることから切り離せない。僕に、なぜ飲みすぎたり、あばれたりするんですか、という疑問を投げかけることは、鮭に、なぜ河をのぼるのか、と訊くようなものである。だから、酒の効用だの、上手な酒の飲み方の講釈は嫌いだし、酒のモラルだの大人の飲み方だのという理屈も信じない。生きることと同様に、酒を飲むことも、格好がいいことや愉快なことばかりではない。風格のある酒もいいけれど、無茶苦茶に酒癖が悪い人というのも、味があっていい。洒落にならない騒ぎをおこす人もいるけれど、そういう人にかぎって酒の相手としては最高だったりする。昔はトラ箱の世話になったことのない奴とは、友達づきあい出来ないと思っていた。(「グロテスクな日本語」 福田和也) 


酒の酌
酒の酌(しやく)九分(くぶん)に酌(つ)げよ夜(よ)八分(はちぶん)船七(せんしち)馬六(ばりく)子供五分五分(ごぶごぶ)
酒のつぎ方も時と場合によって相違があることを言ったもの。昼は九分目につぐのがよい、夜は八分目に、船の上では七分、馬上では六分に、子供には五分ということ。昼九(ひるく)夜八(よるはち)船六(ふなろく)[譬喩尽-六](「故事俗信ことわざ辞典」 尚学図書編) 昼九夜八船六 


宇宙人の酒
僕も酒の力を借りていつになれば完結するのかも分からない『死霊』を書き続けているわけだ。意識が醒めきった果てに想像力の飛躍が起きればいいわけだが、非現実を実現化させることは非常に難しいものだ。酒の力を借りれば、ひょっとして非現実へと飛躍できるのではないか、想像力につばさくらいかしてくれるのではないかと考えて、僕は酒を飲んでいる。文學の究極目的というのは存在しないものを作り出すこと、無い世界をあるかのように読者に思わせることではないだろうか。未来のある時、人類滅亡後の地球に宇宙人が訪れて、僕の小説を苦労して解読してみたら、「自分がよく知っている向こうの世界のことが書いてある」ということを発見しないとも限らない。僕は宇宙人の酒ということを考えることがある。なにしろ宇宙だからどれだけ強烈な酒があるのか想像もつかない。シベリアでさえ十メートル先の井戸水を汲みに行くのに、凍えないためにウォッカを一息に飲んでから外に出る。宇宙人が絶対温度三度の空間を百億光年旅してくるには、ウォッカの百億倍くらい強い酒を飲んでこなくてはならない理屈になる。本当に上質の酒を造ってくれないと、僕の『死霊』だって完成できない。日本人がスコッチを越えるウィスキーを造った時、本当に創造的な日本文学が誕生し、ドスとエフスキイを超える小説家が現れると僕はひそかに思っている。(談)(「アスクァイア」一九九二年一月号)(「螺旋と蒼穹」 埴谷雄高) 


乗合盃音頭
「伏見の月に秋風が、吹(ふけ)ども更に寒からず、着綿(きせわた)を暖(あたため)て酒をいざや汲(くも)ふよ、船頭も只(ただ)浮れ出(いで)、一河の流れ汲てこそ、廻る盃面白く、一番の新盃は、御代も納る萬歳の、年たちかへるあしたより、きみよく盃とらせられ、誠に面色若やぎて、愛きやう(愛敬)ありける、改めて次の呑 人の字脱歟 へさしければ、おさへたまつかせ髭奴、ふれやふれふれ、おふれ振り手の衆、是は都の花の伊達助殿は、はいと畏るひざの、さらでもさ鉢でも、山伏こそにきつと見て、三献々々五献六こん、納(おさめ)に八はい金剛童子、富士や千盃萬盃と、さつと一ト杓二杓三杓、盃を次の呑人へさしければ、是も呑人が白張に、烏帽子着ながら罷出(まかりいで)、これやこなたへ御免なれ、抑(そもそも)我は坂東常陸の国、鹿島立ち迚(とて)しんしやく手杓へ、さきに乗りし若比丘が、今の目元はな我が目元、一ツ参れとさしければ、そんならわしもちと燗々してほしいと引受て、是々そこな羽織さん、浅草さんとも附差(つけざし)に、さゝれて酒の香もわるく、宵から「舟孟」(こぶね)に片づいて、日和見て居る猿廻し、一ツ呑でも赤ツ面、山王の桜の盛に、猿がヤア三萬三千三百三十三ばいさいたげな、其中の一のちいさい小盃でも、猿の貌真此通りと引受て、足元はよろよろと、呑ぬ先からいざり松、短き足の不思儀の縁と、盃につれて廻るや西国巡礼、胸に木札のたゆる間も、さんやれさんやれ、只今の思ひざし下さるゝ、岸打浪や三熊野の、那智の瀧呑(たきのみ)「言風」々(ふうふう)の、声納る御代のへ、(浮れ草) 


酒は勝った時に飲む
酒の飲み方について一家言を持っている。「酒は勝った時に飲む」というものだ。「あくせく自適」に近づいてきて、多少幅が出てきたが、それでもこの基本からははずれない。ようするにヤケ酒、涙酒の類は飲まないということなんだ。そういう気分の時に酒を飲んでもうまくないし、酒に対して、申し訳ない。今日は気分がいいぞっていう時は銀座に行っても、「おい、もっとましな子来い」なんて陽気に騒げる。もっとも最近はそんな元気もなくなってきちゃったから、昔のことだけれどね。ところが元気のない時に、酒でも飲んで景気をつけようかと思っても、「はあ~あ」ってため息が出るか、「うるさいぞ、この野郎」ってケンカになるのがオチだ。だからこんな時は、家に帰って布団かぶって寝ちゃう方がいい。-
「オレか?オレはうめえから飲むんだ。酔うのはその付随(ふずい)なんだ」酒はうまいから飲む。その付随としてトロッとした酔いを楽しむ。この境地を楽しめなければ、酒飲みとは言えない。(「あくせく自適で行くんだ、オレは!」 加藤芳郎) 


タクシーの運ちゃんにウソ  26歳女
お水の花道が生業の私は、その夜も、ほどよく酔っ払いながらいつも通り、タクシーを拾いました。その夜のタクシーの運ちゃんは、ちょっぴりおしゃべりで「遊んできたの〜」なんて聞くわけさ。そんで「いぇ〜仕事ですよ〜」って言ったらおじさんビックリ!「え!お水さんなの?みえないねぇ〜」(そりゃ、ど〜もというべきかどうか、置いておいて…)「なんか事情があるの?まだ20そこそこでしょ?」とおじんさん。ちゅっぴり心配らしい(ただのお節介?)疲れて居た私に、ちょろっと悪魔ちゃんがささやいた。「ホントは今年26だけど、20で通るかな…。ついでにご期待どおりお涙頂戴話でもいっとくか!?(笑)」ってな具合で、かくかくしかじか話したところ、おじさんほんのり涙(苦笑)。その話は、タクシーの中だけで終わるはずでした。しかし、翌日、その運ちゃんが店に来てしまいました。死ぬかと思った。(「死ぬかと思った」 林雄司(Webやぎの目)編) 


回りの人の支え
月乃 中島らもさんとか赤塚不二夫さんが、魅力的に描かれるのは、じつはこの病気にとってはマイナスなんですね。僕、中島らもさんすごく好きなんですけど、本人の才能と、酒での奇行などが、ごっちゃにされていると思うんです。それに、亡くなったあとに、テレビでドキュメントをやると"支えていた周りの人々"が美談として紹介されてしまうでしょ。厳しい言い方をすれば、回りの人が支えていたから、死ぬまで飲んだんですよ。
吾妻 まさにイネープラーだよな。
月乃 そうですね。アルコール依存症者を善意のつもりで助ける-助けてしまう人たちをイネープラーって言いますけど、その行為は依存症を長びかせるだけですから。(「実録!アルコール白書」 西原理恵子・吾妻ひでお) 


マンハッタン島(2)
一六〇九年、ヘンリー・ハドソンはハーフ・ムーン号をニューヨーク湾にのり入れ、その土地の漁撈インディアン部族をたちまちブランデー漬けにしてしまった。一方インディアン部族はその部族の島をすぐにマナハッタニンク(マンハッタン)-「みんな気違いになる(つまり酔っぱらう)島」と改名してしまった。以上は何人かの歴史家の説である。もちろん異説もあるが。(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳) マンハッタン島 


晴山にて
酒は球磨焼酎。水や湯で割ったりしない、生(き)で飲む。盃は卵猪口(たまごちよく)。ちょうど卵を半分に割った形の白磁の盃で、模様もなければ糸底もない。つまり、置くと転がってしまう盃だ。注がれたら飲み干すしかない。手から離すわけにはいかない。そのうえ半卵型だからかなりの量が入る。相手から卵猪口一杯の焼酎を受け、飲み干してから相手に注ぐと、すぐに飲み干してもう一杯注いでくださる。これを飲み干すと次の人との献酬(けんしゆう)になり、また二杯の卵猪口を飲む。男も女も酒に強い土地柄で、献酬の速度がはやい。四、五十人の男女と盃を交わした。飲めば昔からの知り合いのような気になる。歌と踊りと弾む会話に、北嶽からの夜風。気分がいい。卵猪口の献酬がふたまわりめになる。村の大人のほとんどが集まった臨時のまつりが続いた。ぼくの歓迎にかこつけての大宴会だった。あとで聞くと、あの晩ほどの盛り上がりは、その後は祭礼の日にもないとのことだった。卵猪口の献酬をふたまわり半ばかり受けただろうか。ぽつぽつ人が減りだしたあたりはかすかに覚えていたが、いつのまにか酔いつぶれて座敷のまんなかに転がっていたのだ。若い頃は人並み以上に酒が強かったけれども、年をとるにつれて弱くなっている。卵猪口の夜は、もう五十に近かったから、途中でぶったおれたばかりか、つぎの日一日何ひとつ食べられず繰り返し胃液を吐いていた。だが忘れられない夜だった。村の人たちのあいだであの晩のことがなつかしく語られていると聞いたが、ぼくもそうだ。たった一晩のことだが、あのくらい思いっきり飲めば、皆百年の知己だ。(「「もの」物語」 高田宏) 熊本県球磨郡相良村の晴山(はるやま)という部落に生まれた、作家・小山勝清の生家を訪ねた時の話だそうです。 


御酒之日記、ねりぬきの注
注:ねりぬき(練貫酒)は博多と豊後の銘酒で清酒や焼酎をベースにして仕込みをする濃厚で粘りのある再製酒である。しかし、この練貫酒は醪を搾らず、その上に蒸米と麹だけを仕込む濃厚酒である。1段目は菩提泉式であるが、寒中に冷やし切った蒸米(1升)を使うので、乳酸性水を造るのに7日かかる。(菩提泉の項参照)ところである。その上、表面にかママ厚くかびが生えるので、それを取る必要がある。この酸性水を釜に入れ、8/10になるまで煮る。殺菌以外に何か目的があるのであろうか。2段目は残り9升の米を蒸し、熱いうちに温かい酸性水を1斗上から入れ、半時たってねり木を入れて引く。この仕込には麹を入れる必要があるが書き落としているようだ。そして一夜置いて冷す。これは菩提泉ときかきの結合である。菩提泉は以後のもろみの安全を図るためで、きかきは翌日の仕込みは汲水なしであるのに備えて早く軟らかくしておく必要があるためであろう。3段目は翌日蒸米6升・麹6升・汲水なしの仕込をする。櫂入れ後は7日間蓆で包んでおく。4段目は麹1升と菩提泉を取った時使った蒸し米1升をその上に置き、そして20日。まことに手のかかる仕込法である。仕込方法ははっきりしない所もあるが、次のようなものではなかろうかと思う。

(単位合)  水  麹  水  操作 
1段 (10) 酸性水を造る 
2〃  90  50?  100  酸性水を煎つめた湯 
3〃  60  60   
4〃  10  10  米は酸性水を造った時の米 
合計  160  120?  100   

麹歩合 42.8%? 汲水歩合 42.8% 2段目の麹を5升としたのはまったく推測です。あるいは4升かも知れない。もし原文通り麹なしとすると、4割3分麹(30%)である。前項によるとこれを5回も火入れをするというが、うまくできるのだろうか。(「『御酒之日記』とその解義」 松本武一郎) 御酒之日記に記載されたねりぬき 


酒のアテ
小染ハンはラジオで、毎日ちがった酒のアテの話をしゃべっている。料理をちょっとする人なら、聞いただけで、なるほど、それもそやな、と思い当たるような、味を想像できるもの。アテというのは大阪弁で、「酒の肴」の、サカナのことである。池上正太郎さんの小説には寒いときの湯豆腐がおいしそうに出てくるが、私も今夜は早春の湯豆腐、それにまだいけるカキの三杯酢、梅干しのたたき、これは「梅かつ」というビン詰めをもらったので、青ねぎをみじんに刻んでまぜたりして、これがいうなら、酒のアテである。お酒は伊丹の「老松」。(「芋たこ長電話」 田辺聖子) 


御酒之日記に記載されたねりぬき
一 ねりぬき 霜月ハ不作(つくらず)候 自正月(しょうがつより) 作酒に候、白米一斗計(はかり) 澄(すむ)ほと(程) 可洗(あらうべし)、此内を 一升取、おたい(ご飯)ニ すへ(べ)し、能ゝ(よくよく)さますへく候、ざるに入テ ひやし、米(ご飯にしない)の中ニ入テ くちをつゝ見テ(包みて) 七日可置候、七日ニ 当ル時、水ノ上ノ かひ(カビ)を 能ゝ可取、其水を 汲テ かま(釜)に 十分ニ 入テ 八分ニなる程 可煎、別の こか(桶)に むし候おたいヲ 其こかへ 可入、あつき時 可入候、煎たつ湯をハ 一斗はかりて 自上(うえより) 可入、其時 半時ほと 置テ ねり木(櫂棒)ヲ 入テ かくへく候、其時 取出テ 夜一夜 さますへく候、かうし(麹)も 白米も 六升合テ 作入候、日ニ二度つゝ ませへく(混ぜべく)候、わきしつまは(沸き沈まば) ねり木ヲ 可引、席(蓆 むしろ)ニて くちを七日つゝ 見て可置、以前 一升之おたいを かうし(麹)を合テ 造(ツクリ)入テある上ニ 可置、廿日、(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


殺して飲む
ところで、酩酊といえば飲酒もそのひとつであろう。古今東西どれだけの人びとが憂さばらしに杯を傾けて酔い痴れてきたことか。白楽天も「宜酔不宜醒」(よろしく酔うべし醒めることなきにしかず)と歌った。人は心疲れたときに、よりお酒を求めてきたにちがいない。その気持ちは非常によくわかるのだが、私がお酒(日本酒をはじめもろもろの)を愛するわけは、味としてたまらなくおいしいと感激するからであって、酔うこととは全く関係がない。かりにも酔いたくてお酒を飲んだことはただの一度もない。意識がモーローとしてしまってはもったいないしこわくもある。頭はあくまで醒め冴えかえっていて、かつ陶然と我を忘れるのが最高の境地であろう。だから気分転換や景気直しにお酒をガブガブ飲んで正体をなくすなどというのは邪道であり、お酒に対する冒瀆だと思う。そこで私は酔わないで美酒を心ゆくまで味わうために、殺して飲むことを覚えた。気を許さず溺れなければ、酔っぱらったりしないですむことを知った(酔ったふりはしばしばするけど)。(「『昭和マイラヴ』思い出すことの多き日々かな」 酒井美意子) 


品川月
品川の 海にいづこの 生酔が ひらりとなげし 盃のかげ(をみなへし)
夢想のうた
屠蘇の酒 曲水月見菊 年わすれまで のみつゞけばや(あやめ草)(太田蜀山人) 


辺縁系と前頭前野
辺縁系は、嗅(にお)いに関する部分や、長期記憶に関係している海馬、恐怖や攻撃性に関係している扁桃体(へんとうたい)などを含んでいます。こうした感情は、種の生存のためにあるのです。生き残るために「戦うか」「逃げるか」といった選択に迫られた時に後押しすると考えられています。辺縁系からの信号は、前頭前野もキャッチしています。「そのまま表現したらマズいぞ」と前頭前野が判断すれば、すかさず辺縁系に抑制をかけます。怒りの感情が出ても、前頭前野で「今はガマンだ」と抑制するので、態度や表情にはその感情の何分の一も出てこない、といったことができるのです。お酒はこの抑制をはずすのです。ところでこういった抑制はどのようにしておこなわれているのでしょうか。それは脳内の化学物質による神経細胞の抑制です。人の脳内では、神経細胞に化学物質をふりかけることで変化が起こります。脳内には抑制するためのとても強力な化学物質が存在しています。有名なのはGABA(γ-アミノ酪酸)です。これが脳の神経細胞に作用すると、神経細胞がまったく働かなくなります。働かせないことによって、脳内の細胞レベルのネットワークを抑制しているのです。この抑制機能が働かなくなると、脳は異常に興奮してしまい、極端な例では、てんかんの発作などになると考えられています。GABAというと「癒し(いやし)」の物質として、最近はこれを加えたチョコレートなどが売られていますね。しかし、もしも脳の神経細胞の興奮を抑えて「癒します」、などという宣伝があったらそれは大嘘(おおうそ)です。口から入ったGABAが脳の中まで届くことはありません。(「記憶がなくなるまで飲んでも、なぜ家にたどり着けるのか?」 川島隆太・泰羅雅登) 


ストローで飲む酒
その後首都カトマンズへ戻って面白い酒に出会った。-
待つことしばし、テーブルに運ばれたのは大きな鉢に山盛りになった穀物である。色合いからすると粟。それと一緒に竹のストローが一本とお湯がたっぷりついてくる。醗酵させた粟の上に湯を注いでアルコール分を抽出し、それをストローで吸うというわけ。こんな飲みかたをする酒は他に聞いたことがない。ストローの先に一工夫あって、水分は通るけれども小さな粟が一粒も入らない。それを鉢の底まで差し込んで、酒を吸う。最初は薄いが、次第に味もアルコール分も濃くなる。穀物の風味がそのまま残っていて、味が柔らかくて、実によろしい。粟の畑の上を吹く風が淡い酒に変わって、体内を満たしてゆくよう。最も濃厚な段階でも日本酒よりは薄い。いや、もっと濃かったかもしれない。どのくらい飲んでその酔い心地になったのだろう(ストローだから自分の口にどれだけ入ったか見当がつかないのだ)。水分が払底してストローがずるずる音をたてるようになったら、また立てる足す。最初に戻って楽しむことができる。食事をしながら飲むのにちょうどいい強さであり、チベット料理にぴったり合う味であった。酒というのはいつでもその土地の料理とセットになっている。(「むくどりは飛んでゆく」 池澤夏樹) 「後になってあれは食べたらどうなのだろうと気になりはじめた。」ともあります。 


三の輪の「中ざと」
わたしにとっての赤提灯の原点は、三ノ輪の「中ざと」なのであるが、その「中ざと」が先ごろ大改装して、新装開店した。一杯飲み屋や大衆酒場は、ラーメン屋などもそうだが。綺麗に改装したりすると、えてして味が落ちたりして失敗することがある。その点、今回の「中ざと」はじつに無造作に巧妙に改築されていた。小上がりと座敷を低くして、何気なくうまく配置してある。元・参議院議員・野坂昭如さんがちょうど直木賞をとる前後のことに、気の合った仲間たちと"酔狂連"と名づけたお遊びグループをつくっていたことがある。当時、「中ざと」はその活動拠点(?)だった。寒行、寒詣り-という趣向のときは、全員、ここの二階で、白装束、手甲脚絆に草鞋ばきの姿に着換えてから、列をつくって、団扇太鼓をトンツク、ドンドンとやりながら、浅草、銀座のネオン街にくり出したものだった。酔狂連のメンバーは、長老の殿山泰司さん以下。後藤明生、長部日出雄、佐木隆三、石堂淑朗、小中陽太郎、永田力、滝田ゆう、安達瞳子、金井美恵子、等々、いずれも錚々たる方々だった。しかし、当時はまだ皆さん、直木賞、谷崎賞などの名誉に輝く以前の方がほとんどで、そのお歴々が。毎月のように「中ざと」に集まっては、バカ騒ぎに興じたものだ。野坂さんがこの店の名物の煮込み(これが絶品。二五〇円)やどぜうの丸煮(これも独特で旨い。六〇〇円)をいつも二皿も三皿もお替わりして平らげていた姿が、昨日のように思い出される。(「浅草のみだおれ」 吉村平吉) 中ざとは、台東区根岸5-21-11 だそうです。 


人のもとへ酒さかなをおくるとて  可笑
初秋の 風もふくらに おね酒の 口にあはびの かひあらまほし
友とちひとりふたり目黒に詣けるにそのともひとりは上戸ひとりは下戸になんありける折から雨ふりければ  泥道すべる
村さめの さめるもあれば 酔もあり これやめくろの ふどうなるらん
やまひのゝちしはらく酒をやめ侍り  峯松風
下戸となる 我身ひとつを なけくなり ふたつみつよつ いつかのみたや(「徳和歌後万載集」) 


地酒2
川底村は沈んでいく
荒れはてた田んぼ河原よ
半片(はんわけ)の谷底月よ
水害で全滅した村よ
女の恋した若者よ
九重の天で星となれ

私は二合半の地酒で
意味もないことを想い
吊れかかった吊橋の下で
しみじみと酔っぱらって
呟くのである

川底村に沈んでいく(「現代詩文庫59井上光晴」) 


最近は四日に一本
山田(風太郎) アル中は、いまはどうなんですか?
中島(らも) いまは、ほどほどです。
山田 よくもとに戻ったもんですね。
中島 はい、なんとか(笑)。お医者さんに怒られながら、けっこう、がんがんと飲んでいます(笑)。
山田 いや、ぼくもねえ、旧制中学のころから毎日飲むけどねえ。この暮れに腰を痛めてね、三日ぐらい寝たんですよ。寝床で腹ばって飲むのはあんまりよくないね。ふだんもそんなにうまいと思って飲んでるわけじゃないけど。
中島 でも、うらやましいですねえ。三日でウイスキー一本のペースをもう五十年以上続けてらっしゃるのは。
山田 あなたの本(「今夜、すべてのバーで」)には、アルコール依存症の自己採点がありましたな。あれね、最高のところまでいってないわ、警戒警報ぐらい。
中島 あ、それはたいしたもんですわ。
山田 だからアル中ではないはずだけれど、自ら称して「アル中ハイマー」とは言ってるんだ(笑)。
中島 ぼくも飲めばまた一升ずつとか、連続飲酒で朝から晩までになってしまうから、一日三合にしていこうと、そういう状態です。
山田 昔は三日に一本だったが、最近は四日に一本とか、ぼくも減ってきましたよ。
中島 そんなとこで頑張られる必要はないですよ(笑)。(「風来酔夢談」 山田風太郎) 


今夜はこれでいかがでございましょうか
谷沢 瀬戸内寂聴とか円地文子とか女流作家を三人か四人、うるさ型ばっかりを舟橋聖一が自宅へ呼んだ。それでささやかな昼飯を食わした。しばらく話をしていると、奥方がしずしずと出てきて「今夜はこれでいかがでございましょうか」と奥方が献立表を持ってきた。それを舟橋が見て「よろしい」と。客は「あっ、今晩はご馳走してくれるのかな」と思いますよね。ところが、話をしているうちに話は途切れるし、もう出ていけがしの態度なので、「じゃあ帰りの車を呼んで」と。初めからご馳走する気ないんですな(笑)。そういうことを毎日やってるんだということを見せたいんですよ。それで舟橋聖一がいなくなって、文士が酒場で話題に窮するようになったというんです。それまでは文士が集まると舟橋の悪口さえいっとればよかった(笑)。(「人間万事塞翁が馬」 谷沢永一) 


頼山陽ゆかりの剣菱
驚いたのは、東宝映画の、柳小路の「この花」が頼山陽ゆかりの剣菱(けんびし)を置いてゐるという話から、突如、『日本外史』論になることだ。「山陽は日本外史を書くときに、たしかにこれを一つの読みものとして書いたにちがいない。少なくとも青少年のための歴史物語として、十分大衆文芸的な興味をもたせ得るよう、いろいろ工夫もし、苦心もしたことであろう。だから日本外史を、机に向かってしかつめらしい顔をして読むなどということは、けっして山陽の本意ではなかったろう。(中略)剣菱は、いうならばそうした大衆文芸的な味を持った酒である」中国文学の某大家が『日本外史』の漢文がいいなんてことばかり論じて、あの本の内容ないし語り口を批評しないことをわたしは惜しんでゐたが、中国文学の専門家である奥野さんがかう言ふのを聞いて非常に満足した。それに、口腹の喜びの話のなかに詩文のことがはいると、酒の味がいつそう深くなる。(「軽いつづら」 丸谷才一) 奥野信太郎が、「東京味覚地図」という自身が編集した本の、渋谷・世田谷のところで書いた文だそうです。 


地酒1
誰がこの地酒の深い
愁いをしるか
私と女は小麗田焼(おんだやき)の徳利(とつくり)で
四本のんだ
古ぬくい徳利の底を
黙って抱いていると
小指のつまさきから
じっとりと女の悲しみがつたわってくる

地酒こんこん
地酒は透きとおる九重の涙(「現代詩文庫59井上光晴」) 


484もし一栄期(えいき)をして兼(か)ねて酔(ゑ)ひを解(し)らしめましかば 四楽(しらく)とぞ言(い)つつべからまし三(さん)とは言はざらまし 同(おな)じ
若使栄期兼解酔 応言四楽不言三 同
文集「琴酒」- 一列子、天瑞篇に、孔子が太山に遊んで栄啓期にあった。鹿の裘(かわごろも)に縄の帯、琴をひいてうたっている。どうして楽しいのですかと孔子がきいた。そこで答えるに、万物の中で人と生まれた、楽しみの一。男女の中で男と生まれた、楽しみの二。九十まで長生きした、楽しみの三と。 ▽もし、栄啓期をして、酔うことの楽しみに解させて居たならば、「酒に酔うこと、楽しみの四」とつけ加えたことであろう。三楽にとどめなかったであろう。(「和漢朗詠集」 酒 川口久雄・志田延義校注) 


酒歴四十年
「お酒は毎日飲むんですか、どれくらい飲まれます?」とよく聞かれる。私はよほどの酒豪と思われているらしい。酒豪と言われるほどの実力はないが、お酒は好きだから、毎日おいしく楽しく飲んでいる。おいしく楽しく飲むから、かなり飲んでも二日酔いで苦しむこともなく、自分でいいお酒だと思っている。私がお酒を飲み始めたのは主婦の友社へ入ってからだから「料理記者暦四十年イコール酒歴四十年」である。入社した年の冬、初めてバーに行った。同期で入った男の子が連れて行ってくれたのだが、「へえ、ここがバーなの」とキョロキョロしながら、ハイボールを三杯飲んでしまった。ハイボールというのはウィスキーを炭酸で割ったもので、今はもう姿を消してしまったが、当時は一番おしゃれな飲みものだった。それをいきなり三杯飲んで、顔色にも出ないというので、連れて行ってくれた男の子が、がっかりしたような声で「ざるだな」と言ったのをよく覚えている。-
主婦の友社時代のこと。どういうはずみか三十分ぐらいの間にハイボールを六、七杯飲んでしまい、周りの人が皆、輪になって踊り始めた、ように見えた。目が回ってしまったのだ。あとで人に聞いたら、「お先に失礼」と元気に手を振って出て行ったというのだが、家に帰ってパタンと布団に倒れると天井もぐるぐると回っていた。翌朝、目が覚めたら、なんと敷き布団をかぶって寝ていた。新聞のウィスキーの広告を見てもむかついたくらいだったから、よほど骨身にこたえたのだろう。それ以外にはいわゆる二日酔いを経験した覚えがない。(「だから人生は面白い」 岸朝子) 


アイリッシュ・カクテル
客「アイリッシュ・カクテルをくくってくれんか」 バーテン「なんですか、それは」 客「ウィスキーを半分入れて、さらにウィスキーを注いだやつだ」(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


酔って舞台で
セーラー服は東大生になり、シャンソンコンクールで名をあげ、革命家と愛しあい、多くのヒットソングを歌い…。「私、新人のころ、永さんにひどくけなされたことがあるのよ!」もちろん、僕は憶(おぼ)えていない。彼女はけなされた時の場所から、僕の着ていたシャツの柄まで憶えていた。「それからしばらくして賞められたけど」僕は賞めたことも憶えていなかった。「永さん、最近はだれでも賞めているみたいね」皮肉もきつい。お父さんが亡くなった日に、約束だからと、僕のラジオにキチンと出演してくれた。セーラー服の登紀子さんは「お登紀さん」といういい女になった。酒に酔って舞台で寝てしまったこともある。それで許されるのは志ん生と並ぶことでもある。「いい言葉を読んだわ、若者たちの言っていることはほぼ間違っている。しかし若者が主張しようとすることはほぼ正しい」 最近、お登紀子さんに会ったときの言葉。セーラー服が重なっていい女がまぶしかった。僕もいい老人にならなければと思った。(「逢えてよかった!」 永六輔) 


六本木のホステス
古色蒼然といった感の否めない銀座はさておき、六本木のホステスさんなどはいたって普通の女性ばかり。昼間は学生やOLをやり、夜だけアルバイトという人が結構多い。感覚は街中を歩いている女性と変わらないから、話題のファッション、食べ物屋、海外旅行など、じつに多彩な話題を持っている。その手の話になると俄然目を輝かせて話し始める。1人が話し出すと他の女性も追随して盛り上がる。そのうち、我々の方にも話題を振ってくる。彼女たちの行ったことのない国に行ったことがあると話したりすると、やたらと興味を示してくるし、大人の遊び場についても関心を持って聞いてくる。私はお台場のヴィーナスフォート(若い女性向けの総合商業スペース)の経営に取締役の1人として関わっているが、六本木のホステスとのファッション談義で得た情報が非常に参考になっている。(「遊ぶ奴ほどよくデキる!」 大前研一) 


37-さかずきのとのさま 盃の殿様-
東作、盃担いでエッサッサ、花扇を訪れて殿様の愛を伝える。七合入りの大盃、花扇はうれしく飲み干した。ただちに御返盃。東作、盃担いでエッサッサ、箱根山中にかかった時、さすがに目が眩(くら)んだが、さる大名の供先(ともさき)を横切ってしまった。生麦(なまむぎ)事件の実例もあるように無礼討ちも覚悟の所業、ただし事情を聞いたその大名は感心した。自分は小身(しようしん)でそこまでは出来ないが、大名の遊びはさもありたきこと、我が身もあやかって御相伴(ごじようばん)を、とその場で盃に酒を注がせて飲み干した。東作が国元へ戻ってその次第を告げると、殿様は大喜び、その大名にもう一盞(さん)差し上げたいと再び盃を担がせた。が、どこの大名かわからない。盃を担いで、いまだに毎日探しているそうな。(「ガイド落語名作100選」 京須偕光) 六代目三遊亭圓生のおちのようです。 盃の殿様 


笑話
東坡(とうば 蘇軾)が閑居していたとき、毎日のように秦少游(注一)と夜に酒宴を張った。東坡が虱(しらみ)をとったついでに、「これは垢(あか)と脂(あぶら)から生じるものじゃ」というと、秦少游は、「いや、ちがう。綿が虱になるのだ」といい、二人は論争したが、久しく決しなかった。そこで二人はこう話を決めた。「明日、仏印(注二)和尚に問いただしてみることにしよう。理の正しくなかったものは、一席を設けて勝負をはっきりさせることにする」酒の酔いがさめると、少游は早速出掛けて行って、門を叩き、仏印に向かっていった。「たまたま東坡と会いまして、虱がどこから生じるか、論争いたしました。東坡は垢と脂から生じるのだ、と申し、わたくしは綿から虱になるのだ、と申しまして、双方の疑問が解けませぬ。そこでわが師匠に決めていただくことにいたしました。師匠、明日、もしおたずね申しましたならば、綿から生じるのだ、とお答え下さいますよう。勝ちがみとめられましたのちには、「食不」「食モ」(はくたく)(餅・団子の類)の会をすることにいたします」少游が帰ってしまって、しばらくすると、東坡がやって来た。そしてやはりさきほどの事を話して、虱は本来垢と脂から生じる、と答えて欲しい、と仏印に頼みこみ、冷淘(れいとう 冷麦の如きもの)の会をすると約束した。翌日になって果たして二人はあい会し、つぶさに論難の状を話した。すると仏印はいった。「これは、いと暁(さと)りやすいことじゃ。つまり垢や脂は身となり、綿は脚となるのでな。先に冷淘をご馳走になり、そのあとで「食不」「食モ」を頂戴しようかい」二公は大いに笑い、宴を設けて楽しんだ。
注 一 秦少游 一〇四九-一一〇〇。北宋、高郵の人。名は観。少游は字(あざな)。文詞にすぐれ、元祐の初め、蘇軾が、賢良方正を以て朝廷に推薦した。太学博士となり、国史院編修官を兼ねた。 二 仏印 宋の高僧了元の号。浮梁の人で、金山寺に住んだ。(「五雑組」 謝肇「シ制」(しゃちょうせい) 岩城秀夫訳 中国古典文学大系) 


横山泰三(よこやま・たいぞう)
漫画家。大正六年高知市に生る。帝国美術学校を中途でとび出し漫画集団同人となっているが、在学時代から漫画を描いていたというから、やっぱり彼らしく根っからの漫画人というべきであろう。兄の隆一は泰三を実業家にしてパトロンにしようと随分つぎこんだか駄目だったと聞く。それにしても幼稚園の子供でも描きそうな絵で堂々と朝日新聞の社会時評で三段四方をとっているなど、恐るべきものがあるが、それをささえているものは、彼のするどいジャーナリスティックなセンスとウィットによるものであろう。『プーサン』は彼の傑作。兄隆一と同じくベレー帽、酒、終電車の愛好家。(鎌倉市大町名越二四二一)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。 


ルドン
彼女には恐らく事業家としての才能はなかったに違いない。その店は決して景気が良くはなかったし、いつの間にかマダムも、店そのものも中野から姿を消してしまったからである。彼女は、若い学生たちのことを、年中ぐちりながら、それでも自分の同志と感じているようであった。彼女は私たちと共に酒を飲み、歌い、大声で歌うのだった。実際には中年に達していながら、その心情においては少女のような女性だった。私たちは時に十円も持たずに<ルドン>へ行き、マダムに頼んで店の名前を書いたプラカードを持たせてもらった。そのプラカードを肩にかついで数時間、中野駅前をうろついて帰って来ると、マダムは何がしかの労賃を払ってくれるのである。その金で私たちは酒を飲み、看板まで坐っていた。「しようがない連中ね」といいながら、彼女は私たちを追い出そうとはしなかった。そして、私たちは、その店に働く若い娘たちと、たちまち家族的な友情を持つことになった。(「風の幻郷へ」 五木寛之) 


酔いが快く体中にみち溢れた感じ
家ではいつも夕方犬の散歩をさせて帰って来て、暗くなってからのみ始める。ダラシない呑み助のせめてもの自戒として、日が暮れないうちは飲まないのをモットーとしているのである。鉄瓶で湯をわかし、燗をして、最初の一杯を口にふくむときの味わいが何とも言えない。自分はこの満足感を味わいたさに一日中我慢していたのだ、という気になる。これはどうやら酒呑みの共通の気持らしく、わたしの尊敬している有名な劇作家(特ニ名ヲ秘ス)なぞ、夕方の酒をうまく味わうために間食はおろか昼めしまで抜きにしているくらいだ。亡き小林秀雄も元気なころは、酒をうまくのむため出来るだけ水分を控えていたという。当然酒器もいろいろ凝って、黒高麗(こうらい)や古備前の徳利、古唐津のぐい呑、中国で買って来た昔の盃などいろいろ取りそろえてみたが、次第に酒量が衰えるにつれ盃はだんだん小ぶりなのになり、徳利はのんだ量が正確にわかるように(のみすぎないように)錫半の正一合入りの錫の銚釐(ちろり)を用いるようになった。これはお燗のつけ具合もいい。最初の一合をゆっくりのみ終ると体の中に酒がひろがった感じがし、気分がいくらか軽くなる。が、その程度ではむしろもっと酒をと体が要求しだすようで、二合目をのみ終った時ようやくああのんだという気分になる。三合目をさらに時間をかけてのみ終えたときやっと酔いが快く体中にみち溢れた感じになり、これが最高の瞬間だ。わたしの酒はある意味では眠るために不可欠な行事で、のんで酔いが充分回ったとき盃を置き、ふとんに入って、囲碁の古今の棋譜を一局追っているうちに眠くなってストンと眠りに落ちる。二十年来の習慣だから、今や酒なくして眠ることは不可能なのである。三十代に一時重症の睡眠薬中毒になって、これはいかんと切り換えて以来の酒で、酒呑みにもそれなりの必然性はあるのだ。(「人生のこみち」 中野孝次) 


また来てほしい客
であればこそ、自分が「また来てほしい客だ」と常連やバーテンダーに見なされるように振る舞いたいと思う。それがひいては自分を守ることになるから。たとえば、もし仮に戦争が起きたとする。戦争が起きないまでも、訪れている国と日本との間に何か外交的な軋轢(あつれき)があったとする。そんな時、その土地でいきなり反日感情が盛り上がったとする。日本人であるということだけで敵視される過酷な状況に旅人は置かれる。その時に「まぁまぁ、この人に罪はないじゃないか」と匿ってくれる人がいるかどうか。これが死活問題になる。そういう人との接触というものは常に必要です。「そいつは悪いやつじゃないよ。酒の飲み方を見てればわかるよ」と守ってもらえるようにしておく必要がある。訪ねた都市で私が徘徊酒、はしご酒をするのは、そういう含みがある。「いざという時に匿ってくれ」とは頼まないけれども、そういう含みがある。自分の身の安全保障を確保したいがために、せっせと飲みに出かけるのです。(「酒道入門」 島田雅彦) 


「舂酒(つきざけ)」の作り方(作舂酒法)
麹を細かく粉砕して、よく乾かす。正月末日、河水を多量に汲んで準備(3)する。井戸水の場合、もし塩分があれば、とぎ水や炊飯用には使えない。およそ麹一斗、キビ七斗、水四戸の割合で加減する。一七石入りの甕の場合にはキビ一〇石を用いる。それ以上だと、あふれる、麹を漬けてから七~八日で発酵を始めるから、仕込みをする。たとえ一〇石入りの甕であっても、最初の仕込みは蒸し返しのキビ飯二石とし、攪拌してはならない、翌朝、かい棒で軽く攪拌して自然に溶けるようにする。仕込みをしてすぐ攪拌すると、酒が混濁する。以後一日おきに最初と同じ方法で添え米をおこなう。第二回目の添え米(4)は一石七斗、第三回目は一石四斗、第四回目は一石一斗、第五回目は一石、第六回目は九斗、第七回目は九斗、最初の仕込みとあわせて合計九石となる。三~五日なめてみて味が調っていれば、酒造りは完了する。もし味が調っていなければ、さらに三~四斗を添え、数日を経てなお麹の力がつきておらず、酒が苦いようであればキビ一〇石を越してもよい。キビが多すぎると、酒は甘くなる。第七回目の添え米以前に酒が薄くさらさらしているのは、麹の勢力がまだ強いためで、前回の添え米と同じ量まで増やしてよいが、前回以上にしてはならない。要は麹の勢力が強ければ増量し、勢力が弱ければ減量する。十分注意して機を失わないようにしなければならない。もし五甕以上のように多量に作る場合には、炊きあがった飯を全部の甕に等分に入れなければならない。もし、入れかたが片寄ると、酒が平均にできあがらない。添え米の適期は寒食(5)以前である。もし、なにかの都合で遅れた場合、春の水は臭みがあるといっても使用できないことはない。洗米はできるだけ清潔な状態でおこない、つねに手を洗い、爪を切り、手に塩気があってはならない。さもないと、酒が動いて(6)、夏を越せなくなる。
(3)舂酒(つきざけ)-このように麹などをついて粉にし、仕込む酒はイフガオ族も持っている。 (4)添え米-「酘用米」- (5)寒食、晴明節の二~三日におこなわれる中国大陸伝統の民間行事である。晋の文公とその重臣であった介子推との故事によって、この日は火を使用しない。 (6)「要術」では、その状態の酒を「動酒」と称する。腐造酒、酸敗酒になることをいう。-(「斉民要術」 田中静一、小島麗逸、太田泰弘編訳) 


横山隆一(よこやま・りゅういち)
漫画家。明治四十二年の高知県生れ。昭和六年漫画集団を結成して、現在漫画集団の主導的地位にある。岡本一平に師事し、『フクちゃん』で一躍売り出した。彼の明瞭なアイデアが天下の人気をさらっている。『デンスケ』などその好例。模型機関車を動かしたり、モンタージュ写真を撮ったり、粘土をひねったり、天理教祖の脛の毛その他もろもろのコレクションなど、趣味も広いが、また八児のよきパパでもある。弟泰三とともに絶対取らないという謎のベレー帽と、自称『あわゆきのような親孝行』は有名。酒、終電車の愛好者であることも弟と同じ。(鎌倉市小町二一五) 


いいことは人に語るな   酒泉
むかし、あるところに娘があった。毎日山に柴とりに行っていたがある時、柴を刈っていると何かいい香いがするので、たずねてゆくと滝つぼから何かいい香いがするので、たずねてゆくと滝つぼから酒の香いがしているのであった。それを汲んで帰っていって爺様に飲ませると、とてもうまい。どうしたのだと訳をきくと、酒のわ泉の話をしたので、次の日爺と婆と二人で、その酒の滝つぼに行って汲んでみると、やはりあたりまえの水になってしまった。だから好いことがあったら人にしゃべるものではない。(北津軽郡金木町嘉瀬の話 採話・内田邦彦)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


酒の後は麺や汁物がいい(藤)・麺類なんて女はいらない(小)
最近はだいぶ様変わりしたようですが、女の酒飲みは、概して激しく乱れることはないし、まして、路上にひっくり返ったり、シャッターにもたれかかって、蛙(かえる)よろしくゲロゲロなんていう人も、男に比べればまだまだ少ないようです。酒を飲む商売の人を別にすると、女の人は、飲みたい人だけが飲んでいて、飲みたくない人は無理をせず、お茶ですませているようです。何事においても自然体なのですね、女の人は。だから、男が見せるような醜態とは無縁なのでしょう。男の酒飲みの多くは、身体が酒を要求する以前に、心が飲ませている、ということなのかもしれません。酩酊(めいてい)した男たちは、呑み屋を出た途端、なぜか空腹感に襲われます。腹がへったというよりも、胃袋がスカスカした感じになるのです。そんな時は、麺(めん)類、或いは汁物が最高の御馳走です。-
でも、ふつう、女は「ろくなツマミもなく飲み続ける」なんてことはめったにしないのだ。たいてい、しっかりとおいしいものをツマミとして注文し、食べ終えたら、また次のツマミを頼む。アルコールに胃や肝臓が悲鳴をあげないよう、身体をいたわりながら飲む。これ、常識。(「夫婦公論」 藤田宜永 小池真理子) 平成7年の出版です。 


幻の銘酒"ひとひらの酒"
先日、都内のあるホテルの寿司屋に行ったら、そこの支配人のMさんにいわれた。「ひとひらの雪を飲みませんか」一瞬、わたしはなんのことかわからなかった。「ひとひらの雪」というのは、わたしの長編小説の題名である。その小説を飲むなんて…。きょとんとしているとMさんが、「お酒ですよ」という。ますますわからなくて首を傾げていると、板長がやや縦長の缶を持ってきたが、そこに「ひとひらの雪」と書かれているではないか。いったい、これはなんなのか。呆気にとられていると、Mさんが心配そうにきく。「知らなかったのですか」もちろん知るも知らないも、そんな酒があることなぞ、きいたこともない。「まあ、一杯飲んでみて下さい」彼は缶をあけて、わたしのグラスに注いでくれる。不思議に思いながら飲んでみると、これがフルーティーであっさりとして飲みやすい。-
やはり不思議に思ったがこの謎はじきに解けた。同じ醸造元からもうひとつ、「うたかた」という名の酒も出ているというのである。「そうか…」わたしは安堵するとともに、少し不愉快になってきた。「うたかた」はやはり新聞に連載した、わたしの長編小説で、中年の男女の濃密な恋を描いたものである。-
難しいことはわからないが、一般に小説の題名には、特許権はないようである。-
その後、支配人は醸造元に連絡してくれたらしく、間もなくそこの社長さんから、お酒とともにお詫びの手紙が届いた。どうやら悪意はなかったようで、私はそれで納得したのだが、その手紙に、近々二つの銘柄は廃止にする予定です、と記されている。社長さんはかなり恐縮されているようだったが、わたしは別に、「廃止せよ」と迫ったわけではない。ただ、わたしの小説の題名からヒントをえたのなら、その旨、了解を求める手紙の一本くらいは欲しかった、というだけである。それさえあれば問題にする気はなかったし、わたしが苦心の果てに考えついた題名が、雪国の銘酒の名として残っている、と思うのは悪くはない。(「風のように・返事のない電話」 渡辺淳一) 


かくして私は
そうだ、はっきり思い出してきた。その日私は、先妻の墓参りに出かけるつもりが、ふらふらになって家にたどり着き、玄関に倒れてしまったのだ。家人が大声を出せども揺さぶれども、私はトドのように動かなかったらしい。午後になって目覚め、実家に電話を入れると、「まったく、お前という子は…」と母がタメ息をついた。一寸非常識だったかな。よせばいいのにその夜また私は酒場へ出かけてしまった。体調が良くなかったせいか、飲めども飲めども酔っぱらえなかった。ならそれで帰宅すればいいものを、こんなはずじゃあない、もう少し飲めば調子も上がってくるだろう、と努力を続けているうちに、気が付いたらへべれけになっていた。ここまで来れば、家に戻ってもほとんど相手にされる状態ではなくなり、それをいいことに、私はまた次の夜も新宿へ飲みにでかけた。-なにしろ今日は旗日だ。祝日だ。祝日ならば祝い酒だろうと歌舞伎町界隈(かいわい)を徘徊(はいかい)した。見上げれば、空はすでに太陽が昇っていた。足元もおぼつかないが、身体が借り物のコートのようにダブついてぶよぶよだった。家へ帰るタクシーの中で流れていたラジオ放送が、訳のわからない外国語に聞こえた。かくして私は病院へ送られた。(「銀座の花売り娘」 伊集院静) 


中風は下戸に少なく、上戸に多い
中風は、外の風にあたりたる病には非ず、内より生ずる風に、あたれる也。肥白(ひはく)にして気すくなき人、年四十を過て気衰ふる時、七情のなやみ、酒食のやぶれによつて、此病生ず。つねに酒を多くのみて、腸胃やぶれ、元気へり、内熱生ずる故、内より風生じて手足ふるひ、しびれ、なえて、かなはず、口ゆがみて、物いふ事ならず。是皆、元気不足する故なり。故に、わかく気つよき時は、此病なし。もし、わかき人にもまれにあるは、必(ず)酒肥満し、気すくなき人也。酒多くのみ、内かはき熱して、風生ずるは、たとへば、七八月に残暑甚だしくて、雨久しくふらざれば、地気さめずして、大風ふく如し。此病、下戸にはまれ也。もし、下戸にあるは、肥満したる人か、或(は)気すくなき人なり。手足なえしびれて、不仁なるは、くち木の、性なきが如し。気血不足してちからなく、なへしびるる也。肥白の人、酒を好む人、かねて慎みあるべし。(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂) 


仏説摩訶酒仏玅楽経(6)
酒仏 再ビ 白(もう)シテ仏ニ 曰(いわ)ク。 我 此(この)米汁。 即(すなわち) 除キ一切ノ 我想。 一切ノ 癡想(ぎそう)ヲ。 沃(そそ)ギ 煩慮ヲ。 陶シ 真性ヲ。 平視シ 高下 貴賤ヲ 法 合(がっ)ス 平等ニ。 又 於ニ 諸見動カサレ。 故ニ 心 無シ 罣癡(けいぎ)。 故ニ 無ク有(ある)コト 恐怖。 愛憎 喜怒 無(なく)起(おこる)コト 頓(とみ)ニ 脱シ 塵世(じんせい)ノ 羈紲(きせつ)ヲ 究竟ス 酔郷ノ 妙楽ヲ。(「仏説摩訶酒仏玅楽経」 亀田鵬斎 新編稀書複製会叢書)
酒仏は再度、仏に申し上げた。「私のこの米汁は、一切の我想、一切の痴想を除き、思い煩いを洗い流し、真なる本性を養い、身分の上下を等しくみなし、境地が平等に合致します。また様々な見解によって動揺されません。このため、心に妨げがないのです。心に妨げが無いから、恐怖が有ることがなく、愛憎喜怒も起こることがありません。汚れた世の束縛をすみやかに脱し、酔郷の玄妙な楽しさを究めます。(「仏説摩訶酒仏妙楽経謹解」 石井公成) 


協会一号酵母
明治三〇年代の後半になると、東京大学の高橋偵造教授(兼醸造試験所の嘱託)を中心として大々的な清酒酵母の分離が行われた。そのなかで、灘の桜正宗醸造元から分離された酵母が、明治三九年(一九〇六年)に「協会一号酵母」として日本酒造協会から頒布されるにいたった。こうして、野生酵母に依存していた時代から脱却し、純粋に培養された単一菌株を清酒醸造に使用する時代が始まったのである。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


殺し酒ほどき酒
一九七五年に大学を卒業した。その年はオイルショックのあとでひどい就職難だった。二月になってもまだ就職先が見つからない。ようよう叔父の紹介で小さな印刷会社に入ることができた。僕は背広にネクタイで走りまわった。上は一部上場企業から下はヤクザの会報誌まで。この会社の社長が無類の酒好きだった。僕はトリキンでしっかり修業しているのでよく誘われた。夕方、社長室からポロロンとウクレレの音が聞こえ出すと、"うわ。来た"という感じである。やがて社長が部屋から出てきて僕の後ろに立ち、「…どやっ」と言うのである。老松(おいまつ)町の割烹を皮切りに北新地のクラブをはしごする。だから僕は年の割には日本料理に対して舌が肥え、新地のクラブの何たるかもわかるようになってしまった。だが、それが楽しいわけではなかった。社長相手に飲んで楽しいはずがない。いつでも"殺して"酒を飲む。説教酒もありがたく拝聴する。そうしてヘベレケになった社長をタクシーに乗り込ませてお送りしてから、やっと自分に戻るのだ。そうしてその辺の屋台のような店で酒を飲む。殺して飲んでいた自分をほどくのだ。この会社にはまる四年いた。殺し酒ほどき酒を飲んでいたせいか、酒にはめちゃめちゃに強くなった。普通、人は飲み過ぎると吐いたり気分が悪くなったり天井がくるくる回ったり、足をとられたり、何らかの形でストッパーがかかる。それが僕にはないのだった。元来内臓が丈夫なのだろう。ボトル一本くらい飲んでも倒れるようなことはない。(「アマニタ・パンセリナ」 中島らも) 


ハシゴ酒
午後八時、たいていこの時間は飲んでいる。といっても私はお酒だけをクイクイと飲む性質(たち)ではないので、たくさんのおかずを眼の前に並べて、ゆっくりとお喋りを楽しみながら飲む。お酒は何でも好きだ。その日に食べたいものに合ったお酒ということになるので、和食なら当然日本酒。中国料理なら紹興酒、洋食ならワインということになる。楽しい相手がいるのが一番美味しく飲めるが、いなくても別にかまわない。おつきあいで意に染まぬ人と飲み食いするくらいなら、一人で好きなものを作り、レンタル・ビデオの映画でも観ながらちびちびとつまみかつ飲む方が、はるかに楽しい。お酒というと、つい先日亡くなった太地喜和子さんのことを思いだす。それほど深いおつきあいはなかったが、一夜、徹底的に飲んだことがある。彼女はハシゴ酒だった。席が温まると思うと、「さあ、次へ行きましょ」と、ひょいと腰を上げるのだ。私は居心地の良い片隅を見つけて、猫のようにゴロゴロ言いながらゆっくり飲むのが好きなので、ハシゴ酒は切なかった。けれども、太地さんは、席が温まってしまうのが逆に切ないタイプの人だった。どちらがより切ないか計りにかけて、その夜は彼女に譲った。次の時には、あなたの好きなところで、ずっと動かずに徹底的に飲もうね、と彼女は約束したが、結局、それを果たしてはくれずに、先に逝ってしまった。あの夜は大雨が降り続く嫌な夜で、ハシゴはほんとうに辛かったことを、昨日のことのように思い出す。(「風のエッセイ」 森瑤子) 


岩村という人
北海道長官は岩村(通俊) という人であったが、札幌の懇親会で酒がだんだん回ってくると、井上(馨)さんの前に坐った。井上さんに何かふくむことがあったとみえて、しきりに議論を吹っかけていた。すると山県(有朋)さんはじっとこの様子を見ておられたが、やがて、岩村、そういう議論をするなら盃(はい)を置きなさい。岩村は口まで持って行った酒盃(さかずき)を、手をぶるぶるとさせて下に置いた。山県さんというものはえらいものだなあと思った。(「自叙益田孝翁伝」 長井実編) 


暇乞い
旗本にもいろいろあって、も一人は大変な道楽者の酔人だったが、どうでも彰義隊に加わって戦うといって、友達がいくらとめてもきかない。最後に、タスキ鉢巻きりりしく、長い槍を小脇にかいこんで不忍の池に近い友達の家に、暇乞いといって顔を出した。上っている暇はないというのを、もうこれがこの世であえる最後だからほんのちょっと、とむりにひきあげ、早々に立とうとするのを、別れのしるしといってむりに盃をおしつけた。まだ早い、まだ早いといって盃を重ねるうちに、いい気持になってごろりと横になったかと思うと高いびきだった。やがてハッと目をさますと、もう上野の戦争は終っていた。彼は友達の計画の通り、のみつぶされて命をひろったのだった。日ごろの道楽が身を助けて、彼は吉原で一流のたいこもちになった。団十郎とか菊五郎とかが、お座敷で踊るとき、彼の三味線でなければ承知しないというほど、三味線は堂に入ったものだったとか。上品でにぎやかな座敷の空気は通人の彼でなければという極めつきのものだったとか。私が彼を見たのは明治の末、七〇をこして、いい隠居さんになっていたころで、丸顔でうすあばたの、丈の高い、やさしそうな老人で、彼と素人の後妻との間にできた息子は、東大の医学部を出て、まもなく博士だとかいうことだった。(「幕末の水戸藩」 山川菊栄) 


醲献
そして、昨年(平成17年・2005)の春、またまた、アルコール度の高い純米酒と出会います。38%という高いアルコール分を含んだ純米酒だというのです。琥珀色をしたそのお酒は、色だけからすれば、美味しそうな古酒といった按配(あんばい)です。飲んでみた感想は、確かに旨い、しかし、これは本当に日本酒それも純米酒なのか、という疑問が頭をよぎります。38度もアルコールがあるのですから、その飲み口は醸造酒というより蒸留酒に似ています。とはいえ、普通の蒸留酒にはない米の酒の旨さが口中に広がるのです。熟成した酒の持つ満足感が口から、喉から、胃の腑へと順次伝わっていきます。水で割っても、味崩れはありません。温めてみても、燗上がりの良さを認識させてくれます。聞けば、磨きの悪いお米で造った純米酒の無濾過原酒を、ゆっくり凍結させ、水分を抜き、半年から1年、25℃で熟成させたものだというのです。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 「醲「酉農」献(じょうこん)」という酒銘で、信州銘醸で販売されているそうです。平成18年の酒税法改正で、アルコール分が22度未満でないと清酒と呼べなくなったそうです。 


方言の酒色々(27)
婚礼などのある家に見物に来た人々に酒などをふるまうこと かどざけ/かどぶるまい
婚礼の時、来た嫁と聟の両親が酒を酌み交わすこと ちかずき
集まって酒を飲むこと によい/まんぱち/わりのみ
飲めないと断りながら酒をどんどん飲む人 ねじじょーご
飲める酒を飲まない しませる(日本方言大辞典 小学館) 


粘着語と孤立語
北京の町を歩いていて、道端で他愛もなく寝こけていたり、おや、向うから酔っ払いが千鳥足でやってくるぞというようなのをみかけると、それはけっして中国人ではなく、みなよその国の人たちであった。それもたいていは蒙古人か、朝鮮人か、あるいは日本人であった。はじめは別に気にもしなかったが、いつも酔っぱらいといえば蒙古人、朝鮮人、日本人にきまっているので、これはいったいどういうわけだろうと、つい考えるようになってきた。蒙古語、朝鮮語、日本語というのは、言語分類のほうでは、いわゆる粘着語であって、ウラルアルタイ語系に属するものといわれている。とすると、ウラルアルタイ語族というものは、酒を呑むとあんなにもとり乱したり、だらしがなくなるものとすれば、ウラルアルタイ語族の体質、すなわち粘着語をしゃべる人達の体の出来というものが、酒に対して抵抗が弱く、すぐ酔漢になってしまうような傾きがあるのかなとも思った。もちろん中国人でも酒を呑めば大いに気分高揚して、笑いさざめき、高声を発する。そして賑やかに拳を打つことは、もっともかれらの喜ぶところである。しかしそれは酒席において、室内においてのことであって、いったん外へ出たならば、みんなきちんとしてしまう。どうもぼくはその理由がわからなかった。粘着語をしゃべる人達が酒に弱く、孤立語をしゃべる人達が酒に強いだけでは、大した理由にもならないように思われた。(「玩具の記憶」 奥野信太郎) 

友情
財産を酒でのみつぶした男が江戸へ出て、ほうろくの行商をして、露命をつないでいた。ある日、日本橋の橋袂で、昔の飲み仲間が、これも財産をのんでしまって、江戸へ仕事をさがしに来たのと、ばったり出会った。二人は「これはめずらしい人に出会った」と、そこへすわりこんで昔を語りあった。そのうちに、ほうろくを三枚とりだして、地面に投げつけ、木っ端微塵にくだいた。そして、「このほうろくは一枚が十二文、三枚が三十六文だが、三十六文の酒をお前にご馳走したつもりで割ったのだ」といった。すると相手が「昔わすれぬその友情は涙が出るほどありがたい」と、厚く感謝し、「では、君の振舞酒に酔って踊る形にしよう」と、脇差をぬいてぐるぐるふりまわした。(「江戸小咄大観」 田辺貞之助) 


十月二十七日
去る二十五日、大徳寺本坊にて三獏院殿の法要あり(二十六日午後、陽明文庫参観、一条伯母、狩野博士、上田丹厓同行、狩野先生と、三獏院公の性格が文隆君に似たる所あるに非ずやと話す。誓紙あり、酒ひかへ申すべきこと、夜うかつにとまり申すまじきこと、とあり、又屏風に乱暴なる書あり、面白し)。(「細川日記」 細川護貞) 昭和19年です。 


一宮市の八幡宮
その甘酒を惜(お)し気もなくかけあうという祭が、尾張(おわり)一宮市の八幡宮の秋の例祭である。神社の神殿でとれた新米からつくった一〇〇キロもの甘酒を氏子たちがさんざん飲んだあげく、今度は裸の青年たちが七キロ入りの甘酒四樽、二八キロ入りの赤飯二樽を神前に供(そな)えてから惜しげもなくばらまいてしまうのである。これは豊作を神に感謝すし、いっしょにその恵みを味わおうというもの。(「珍祭奇祭」 ユーモア人間倶楽部編) 一宮市丹陽町重吉にある神社だそうです。10月第4日曜日に行われるそうです。 


薬の灸は身に熱く、毒な酒は甘い
 体に効く灸は熱くて苦痛を伴うが、体に悪い酒はうまい。(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


別の世界への入口と出口
いま、目の前にある一杯。それを空にしたときに訪れる喩(たと)えようもないものすごい淋しさと、裏側を満たしたいという強烈な想い。その前後にある一秒の何分の一かの間は、別の世界への入口と出口。一度味わったその感覚は、二度と消えることなく身体の中へ沈んでいく。逆に言えば、一瞬で思い出せるそれを以前と同じように消し去ることは不可能だ。消えたと思っても、意識の上には出てこない。そう、忘れているだけのこと。私の中の、アルコールに対する恨みや辛みや怒りの感覚も、それと隣り合わせで息を潜めている。潜めている時間が長いほど、潜ませている力が強いほど、その感覚の矛先は目標を見失い、少しずつ無差別になっていく。(「いっぱい」 おだりつこ) 


蒲生君平のマラソン
蒲生君平[文化十年(一八一三)歿年四十六]が日本橋に居を構えていた時のことである。去る人から万国地図を借りた。ところが友人某が来て、この地図を見て感心し、「之は珍しいものだ、暫ら借ママしてて呉れ」と云ってそれを持って行ったのである。其の後のこと君平は、別の友人二三が訪ねて来たので小宴を開いていた。ところへ折悪しく、「この使いの者へ、先達お貸しした地図を渡して呉れ」と地図の持主から使が来たのである。君平は又貸ししたことを今更悔いた。事情を云って使いを帰してもいいだろうが、それでは言に背く、「よし」とばかり彼は心に頷き、使を玄関に待たせて置いたまま、宴将に酣であるに拘わらず、裏口から脱け出し、友人の宅、高輪まで往復四里の途を韋駄天の如く走ったのである。そして地図を受け取って来て、更に飲み直したという。(「日本逸話全集」 田中貢太郎) 


きき酒に使った酒
戦争前までは東京で酒の値段を定めるには、毎年秋になって灘から送ってきたのを、新川(東京の酒問屋街)の主人番頭の中から、酒きき名人たちが集まって「きき酒」をして、飛切、極上、上等、並等と品定めをしたものである。酒をきくには、冷のまま口にふくむだけでただちに吐き出さなければならない。決して「のど」を通さないことで、喉(のど)を通したので酒の味はわからないものである。新川の初きき酒の時などは、この吐き出した酒が四斗樽何個となく出た。口に含んだとはいえ、次から次へと口に含むのであるから、唾液などは殆ど混じらぬ奇麗なもので、また清潔でもあった。そのころ、このきき酒に使った酒は、捨て値同様で下町の深川あたりの労働者相手の屋台店の専売?となっていたから、ここへ行くと安くて極上酒が飲めたものである。(「日本の酒」 住江金之) 


夾竹桃の咲いている間は酒の火落ちに油断がならぬ
「夾竹桃」はキョウチクトウ科の小高木で、夏の長い期間にわたって咲く。「火落ち」は酒が酸化して悪くなることをいう。酒造りで、夾竹桃が咲く夏の期間は酒が酸敗しやすいので注意が必要ということ。(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


100.酒は貧乏人の外套
 貧乏人は、オーバーを買う金もないほど貧乏しているくせに、不思議と安酒を買う金は工面してくる。もっとも貧乏人には外套は必要ないのかもしれない。酒が体を温めてくれるから。貧乏人と飲酒の関係を皮肉ったことわざ。 スウェーデン
99.水より酒に溺れる人のほうが多い
 この種の溺者がなんと多く見られることよ。 ルーマニア(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


雀の酒盛り

雀が 米倉 建てたとサ
なーんのこツた なーんのこツた
みそさざい

畑さ 干物 ほしたとサ
見たのか 見たのか
みそさざい

雀が 酒盛りしてたとサ
なーんのこツた なーんのこツた
みそさざい

酒樽 叩いて飲んだとサ
見たのか 見たのか
みそさざい   (「定本 野口雨情 第三巻」「青い眼の人形」未来社 青空文庫) 


穴蔵師
そういう店のうちで日本橋だからあったと思われるものはどういうものか、見てみますと、穴蔵師というのが随分出てきます。これは地下室をつくる人です。火事だ、ということになると、地下室にいろいろなものを入れたようです。落語に「穴泥」というのがあります。泥棒に入りまして、穴蔵に入っていくとそこに酒がありました。それでその酒を飲んでいるうちにいい調子に酔っぱらいました。そこへ主人が帰ってきました。おいまあ一杯というようなことになりますうちに、あれっ泥坊ということで、おかしく終わりになります。つまり江戸には、穴蔵・地下室が設けられまして、その地下室は、水がしみ込んだりするといけませんから、コンクリートはまだない時代ですから、タタキという独特の人工コンクリート、そういうものをつくる穴蔵師がいたわけです。この穴蔵師というのはおそらく江戸の日本橋界隈だけではないでしょうか。(「江戸文化誌」 西山松之助) 


千ヶ滝山荘
かみなりも 山のかなたに 去りぬれば 一人して酌む 酒もたのしき
明石の宿
いざ酌まむ このひとつき(一杯)の うまさけを 淡路鳥山 まなかひにして
病中閑事 深夜室内にて転倒す 昭和六十一年熱海にて
さけのめど からだにのこる いたみありて わすれかねつつ よをあかしぬる(「戦中戦後」 坂口謹一郎) 


月見の宴にひとり下戸なりせば
盃のめぐるを うはの空に見て ともにぞてれり もちづきの影 [我おもしろ、手柄岡持]
「宴席の人々は盃をめぐらしてよい機嫌になっているが、私はうわの空で、空ばかり見ている。空には酒より餅の好きな望月が照っており、私といっしょに照れている。」-照る・照れる、望月・餅好きの同音をたくみに利用したたくみに利用した狂歌である。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


高陽闘飲序
千寿駅中六亭主人、今茲年六十[欄外。中屋六右衛門、酒家ナリ。擁書漫筆ニモ此酒戦ノコトアリ。]於是開初度之宴、為闘飲之会、乃先期発招単、大集都下田間之飲客、如狂花 俗言波良多智上戸 病葉 俗言禰武利上戸 酒悲 俗言奈起上戸 歓場害馬 俗言利久津上戸 之類則概断、卜吉之日相会者凡百余人、皆一時之海量也、各々左右分隊相座、毎方一人升席、左右二人相対而挙白焉、乃立觴政、置録事而督之、嬌女三人侍其側而給仕焉、皆柳橋之名妓也、一人捧盃而進舎其前、二人各執注子、左右注之、其酒則所謂玉緑、即伊丹之上醸、其羹則鯉魚、即綾瀬之鮮鱗也、肴核雑陳、種々不一、其盃則描金彫鏤、実希世之珍也、自五升而登之、或一斗、或一斗二升、受三斗至大而已、或有一口吸尽者、或有数口而竭之者、大小之盞、一々傾其籌者、是為第一名焉、其余則次之為差、各々簿録、以課甲乙論贏、其籌不斗者、不此数、各々双手捧盃引満、轟飲不一滴、実如長鯨吸百川矣、観者皆吐舌、坐客喝采不已、至飲畢、衆莫多言喧嘩、皆致礼辞謝而帰、余亦酒人也、雖然吾自知其量之不一レ敵、退逃其隊、在傍而観之、乃歎云、古人謂酒有別腸者、如今日之人者邪、宋張安道劉潜石曼卿、日夜対飲、而不輪贏、明王漸白下道士、闘飲而定甲乙、水蓮道人輯酒顚、無懐山人著酒史、以述其事、為太平之盛事、不亦宜乎、嗚呼主人寿已六十、而又自祝此太平之盛事、則主人之先、其有天之美禄者乎、時文化十二年歳舎乙亥冬十月廿一日也 関東鵬斎老人興穉竜父撰(「一日一言」 太田蜀山人) 千住の中六亭主人が闘飲の会を開いた。看板に、怒り上戸、眠り上戸、泣き上戸、理屈上戸お断りとある。百余人の大酒飲みが集まった。柳橋の芸妓がつき、銚子で伊丹の上酒を給仕し、鯉のあつもの、綾瀬の鮮魚などの肴がだされ、彫金された盃が使われた。五升飲めた人が参加出来、鯨飲したが、多言や喧嘩も無かった。私も酒飲みだがとてもかなわなかった。主人も太平の盛事を祝った。時に文化12年(1915)。亀田鵬斎撰。 大ざっぱにそんな所でしょうか。そのうちに、この闘いのもっと詳しい蜀山人自身の酒戦記もご紹介します。 平成15年11月16日千住復古酒合戦 晩年の鵬斎 


高校の先生が自殺
中島(らも) だいぶ前やけどね、二十年ぐらい前やろけど、新聞読んでたら、高校の先生が自殺したという記事が出てて、墓場へ行って死にはったんやけどね、周りにウイスキーの空瓶が五本ぐらいあったんやて。そこでウイスキーを飲んで、「急性アルコール中毒で自殺した模様」と書いてあんの。びっくりしたわ。
ひさうち(みちお) それはやっぱり自殺なんですかね。ただ単に大酒飲みの先生が葉陰で一杯やってたっていうんじゃなくて?
中島 そんな明るい先生…(笑)。(「しりとり対談」 中島らも ひさうちみちお) 


ボードレール伝
しかし彼自身は本当に酒好きだったのであろうか。フランソワ・ポルシャの『ボードレール伝』を読むと、次のような面白い記述がある。「確かに、私の知っているかぎりでは、彼が酔っ払っているのを見た者は誰もなかった。彼はそこまで溺れるには、余りにも挙措動作に注意を払いすぎたのである。しかし彼は酒が好きで、そのことを匿さなかった。彼の友人たちの証言によれば若い時代に、毎日のように、また一日に何回もカフェに通っていた頃は、彼はいつでも判を押したように白葡萄酒を注文した。ある日、マクシム・デュ・カンが、夏の間だけ借りていたヌイイの田舎家に、ボードレールが訪ねてきたとき、主人は彼にビールをすすめると、彼はワインしか飲まないと言ってそれを断った。そこでデュ・カンはワインはボルドーがよいのか、それともブルゴーニュがよいのかと尋ねた。ボードレールはどちらでも悦んで飲むと答えた。そこでボルドーとブルゴーニュの両方を差し出すと、ボードレールは、一人で悠々と二本とも飲んでしまい、毫も乱れを見せなかった。彼はまるで車夫、馬丁のようにがぶがぶと飲んだと、デュ・カンは話している。おそらくそのとき彼は、自分と同じく周期性暴飲家だったアラン・ポーの飲みっぷりの真似をするつもりだったのであろう。なぜならこの訪問(一八五二年、三十一歳)の時期は、デュ・カンが編集長をしていた『パリ評論』に彼がこのアメリカの作家の作品について解説を書いたときと符合するからである。…この一八五二年にボードレールが、医者の言葉でいう《アルコール中毒》になっていたことをはっきりと示す徴候は、水を見ることが彼には神経的に我慢がならなかったことである。彼はデュ・カンに頼んでテーブルの上にあった水を入れた壜を片づけて貰っている。…まもなくボードレールは、ワインと並んで火酒やウイスキーやジンを愛用するようになり、また黒ビールが好きになった」云々。ボードレールに忌まわしい飲酒癖が出てきたのは、大酒飲みだった彼の情婦ジャンヌ・デュバルの感化であると言われている。(「ワインと文学」 河盛好蔵 日本の名随筆「酔」) 


メエタア・が・まわる、めぐりわか、もろしろ
メエタア・が・まわる[meterが廻る](動詞)句 酒が廻る。酒がきいてくる。(金属工用語)(現代)
めぐりわか[巡りわか] 濁酒。どぶろく。→わっか。(またぎ言葉)(江戸)
もろしろ[諸白] ①地酒。 ②密造のどぶ酒。[←諸白(もろはく)=精白米で造った上等な酒。それを読み変えて](強盗・窃盗犯罪者用語、やくざ用語)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


(一〇一)をかし、左兵衛の嬶(かゝ)なりける蟻腰(ありごし)の雪(ゆき)女と云(いふ)有けり。其人の家に、よき酒賣(う)ると聞て、上(うへ)にありける一〇酒奉行を、河豚(ふく)汁・一一学鰹(まながつほ)・烏賊(いか)・一二鯔(なよし)・一三まらうと・一四からすとなん、其日の料理(りやうり)にしたりける。興ある人にて、瓶(かめ)に酒を入たり。その酒の中に、一五甘酒・一六葡萄酒など有めり。酒の入(いる)事、三斗六升ばかりなん入りける。それを一七頭にて詠(よ)むに、一八詠(よ)み果方(はてがた)に、明石の眼張(めばる)など、一九主(あるじ)し給ふと聞て、持て来たりければ、二〇とらへて飲ませける。本(もと)より酒の事は飲まざりければ、二一すまひけれど、強(しゐ)て飲ませければ、かくなん、  酒瓶(かめ)の側(はた)に竝(なら)べる人を多み二二蟻の熊(くま)野へ参る二三なりかも  二四「などかくしも詠む」と云ひければ、「大酒の酔加(くはゝ)れる盛(さかり)に二五罷りて、二六藤絡(から)げの二七酒林を思(おもひ)て詠める」と云ひければ、皆人、二八げにもと思ひけり。
注 六 もと左兵衛府の役人の意の官名から出た人名。このような名を百官名という。 七 女房。妻。 八 蟻のくびれている腰のように細い腰をいう。 九 雪の深い時に現れる白衣白貌の女姿の妖怪。 一〇 宴会の時の臨時の酒の世話係。江戸幕府にも、御賄方の分課として酒奉行・塩噌奉行等があったが、ここはそれではあるまい。 一一 硬骨魚目まながつお科の海魚。摂津・和泉・紀伊・播磨沿岸で獲れ、美味で、膾・刺身・鮓・糟漬け等にする。真鰹とも書く。 一二 「ぼら」の異名。五臓に利くので薬魚といい、腸中の白子や子を乾した唐墨(からすみ)・塩引も美味で喜ばれる。 一三・一四 未詳。或は「まらうどがらす」で、上記の御馳走で客人をもてなす、の意か。 一五 糯米の粥に麹をまぜて造った甘い飲料。一夜の内にできるので一夜酒ともいう。三、四日かけて造るのを山川白酒といった(料理物語)。 一六 葡萄の実の搾り汁と清酒・氷砂糖の粉末とで醸造した酒(本朝食鑑、巻二)。 一七 「題」(写本)の誤刻。 一八 詠み終わる頃に。 一九 客を招いて御馳走なさると聞いて。 二〇 引き止めて。 二一 辞退したが。 二二 多人数が群集しているさまを諺に「蟻の熊野参りする如し」「蟻の熊野参り程」、更に略して「蟻の熊野参り」といった。 二三 有様。様子。 二四 どうしてこんな風に詠んだのか。 二五 参上して。 二六 藤蔓縛り束ねる事。 二七 酒屋の看板。杉の小枝を束ね、中央に割り竹または木を並べ、その上を縄できりきり巻き締めた毬(まり)形或は箒形を軒下につるしあ物。 二八 もっともだと。(「仁勢物語」 前田・森田校注) 


て【手】
①人間の上肢の称。
手を取れば生酔兎角振り放し  酔はぬ振り
手を蓋にしたので豆腐汁をだし 酒をやめて飯(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


自分の酒の飲み方
父も母も酒が好きだったせいか、私は、小さいときから、酒を飲んだ。飲んだといっても、高校を卒業するまでは、日本酒を猪口二二杯ほど、ビールをグラスに七分目ほどだった。大学生になって、本格的に飲みだしたが、いつも金に困っていたので、当然のことながら、フトコロ具合と相談して安酒をひっかける程度である。それでも、しぬのではないかと思うくらい酔っぱらって、吐いたり、のたうったりして、もう酒なんて二度とこりごりだと思ったのは、二十回や三十回どころではきかない。だから、大学を卒業して広告代理店に勤めだしたころには、<自分の酒の飲み方>というものを会得してしまっていて、上司や同僚に無理強いされても、飲んでいるふりをして、うまくいなせる方法も知っていた。(「生きものたちの部屋」 宮本輝) 


新宿酒日記
△月×日
「ほかに飲むところはないのかねえ」そんなひとりごとをつぶやきながら、いつもの居酒屋池林坊の扉を開くと、オーナーの太田トクヤが酒に濁った眼でにじり寄ってきた。「サーノさん、このごろ来ないじゃない」となれなれしい。「ここだけじゃないよ、飲むところは」とイヤミを言うと「犀門に行こう」自分の別な店に連れていくのだ。彼と知り合って早いもので一〇年が過ぎ去ろうとしている。このままずるずる交際していたら、新宿の彼の店四軒だけで他の飲み屋を知らないままに一生が終わってしまってしまうことになる。「オレ、帰るよ」プイと席を立つと「もう勝手なんだから」エレベーターの前まで送ってくれた。(「沢野ひとしのふらふら日記」 沢野ひとし) 


人(ひと)は更(さら)に少(わか)きこと無(な)し 時(とき)須(すべか)らく惜(お)しむべし 年(とし)は常(つね)に春(はる)ならず 酒(さけ)空(むな)しうすること莫(な)かれ
<解釈>人は二度と若いときを迎えることはない。だから、時を大切にする必要がある。また、一年はいつも春というわけではない。そこで、ゆく春の今こそ、酒を絶やさず楽しみを尽くさなければならない。
<出典>平安、小野篁(おののたかむら)(八〇二-八五二)の「*1春光細賦」と題する作。『和漢朗詠集』巻上、暮春の部。
人無更少時須惜 年不常春酒莫空
*1 春光細賦 「賦春光細」(春光の細(こま)やかなるを賦す)とあるべきであろうと、『日本古典文学大系』は注する。
<解説>再びは訪れることのない少年時代、それは世の、とりわけ人生に深い意義を見出そうとする多感な詩人たちにとっては潔く費やされてこそ輝きをもつものだろう。また、うららかな春の宵こそ、美酒に陶然となるにふさわしいにちがいない。詩人は、その人生が短くはかないものであることを強く思うがゆえに、与えられた僅かな「時」の充実を願って、かくうたうのであった。『文選(もんぜん)』の陸機(りくき 士衡(しこう))の「短歌行」に、「時は重ねて至ること無く、華(はな)は再びは陽(ひら)かず」(時無重至、華不再陽)とあり、同じく魏(ぎ)の武帝(曹操)の「短歌行」に、「酒に対しては当(まさ)に歌うべし、人生幾許(いくばく)ぞ」とある。また、謡曲「関寺小町(せきでらこまち)」には、「人さらに若きことなし、終(つい)には老いの鴬の…」と引用されている。(野地安伯)(「漢詩漢文名言辞典」 鈴木修次編著) 


酒は山を下りてこそ
少し前に、ある修験道の行者と会うことがあり、そんなにたくさん山に登っていたら、必ず霊力がついてくるというので、そういうものはひとつもついていませんと言うと、どんなことを考えているのかと聞かれた。早く下りて、お酒が飲みたい、トンカツが食べたいなどですと答えると、なぜ六根清浄、六根清浄と唱えながら歩かなかったのですかと叱られてしまった。それからまた、ずいぶん山に登ったけれども、やっぱり六根清浄とは口に浮かばず、お酒が飲みたい、ウナギが食べたいになってしまう。さて、そのお酒。私は山へ行く前々日頃から飲まない。山に登っている最中も、頂上に着いても飲まない。もっぱら、酒は山を下りてこそ飲むべかりけりである。(「野の花と人生の旅」 田中澄惠) 


古風な味
-いかがですか、このお酒…。 お内儀さんは白い手をのばして杯を満たした。 -これは醴泉正宗(れいせんまさむね)って、やはり地酒ですが、よそからみえた方々にも、わりに評判はいいようです。N教授はこう冒頭して、またもやぼくに酒を進めた。醴泉とはもちろん養老の滝につながる命名であろうが、制限漢字以前のむずかしい字が使われるところからみると、当節のものではないらしい。いわれてみれば古風な味である。古風な味というのはおかしく聞こえるかもしれないが、酒にはたしかに古風な味と近代的な味とがあるようだ。そしてこの酒は古風な味なのである。古風な味というのは、いいかえてみるとまた手がたい味ということにもなる。そのどこか気のきかない、それでいて手織りの紬(つむぎ)のような飽きのこないよさがある。このごろは、こうした味の酒が少なくなって、軽快な近代風の味の酒が多くなった。ぼくはこの酒を飲んで、その酔心地をたいへんいいと思った。そしてその酔心地がいいのと同じく醒心地(さめごこち)もわるくなかった。上等の紹興酒(しようこうしゆ)がやはりそうである。中国でも近来そうした紹興酒がたいへん少なくなったようであるが、それにつけてもこの酒は、はからずもぼくに上等の紹興酒を連想させたのであった。うつらうつらと気持ちよく寝床に横たわったまま、また中庭の植え込みの中から小鳥の声が聞こえてくるまで、ぐっすりなんにも知らないで眠りこけてしまったのである。(「寝そべりの記」 奥野信太郎) 


酒場
行きつけの酒場では、知った顔が必ず一つか二つあって、やっぱり来てよかったと思う。知った顔と話があるわけではない。とりとめもない話をしているうちに、時間が過ぎてゆくのが、なんとなく楽しいのである。考えてみれば、これは無駄なことだ。だらだらと酒を飲んでいる時間があったら、もっと建設的なことをしてはどうか。妻はそう言う。だから、あなたは出世に縁がないのだ、と。ひとこともない。ほんとうに、私は無駄なことばかりしてきた。酒場のはしごなんて、こんなに無駄なことはない。そうではあるが、どの町に行っても、酒場がある。赤ちょうちんがいくつも並ぶ横町がある。五階建七階建すべて酒場というビルが点在する通りがある。そういう一軒にふらふらとはいっていくのは、私が意志薄弱であるからだ。妻に言わせると、それがセルフ・コントロールがきかないということになる。だが、弁解すれば、壁にぶちあたったようなとき、頭のなかがもやもやしているとき、いささか自信を失ったとき、夜の巷に出かけていって、はしご酒をすると、翌朝は、さっぱりした気分になっている。ふっきれたのである。再び仕事ができるようになる。机の前にすわると、覚悟ができている。これは酒場でチヤホヤされたからでは断じてない。飲みながら、ぼんやり考えているうちに、諦めがつくというか、開きなおるというか、自分にできることをやるしかないと思いきわめるようだ。そして、自分にはちっぽけなことしかできないんだ、それでもいいじゃないか、と翌朝は少し寝不足でチクチクする目に目薬をさしてみる。(「夕空晴れて」 常盤新平) 


憂(うれ)へ忘(わす)るといへど、酔(え)ひたる人ぞ、過(す)ぎにし憂(う)さをも思ひ出(い)でて泣くめる。
*兼好『徒然草』(十四世紀前半)第一七五段「憂へ忘る」は酒の異称「忘憂」の訓読。
さは言へど、上戸(じようご)はをかしく、罪(つみ)ゆるさるる者なり。
*兼好『徒然草』(十四世紀前半)第一七五段「さは言へど」はここでは、何といっても、の意。「上戸」は、酒飲み。「罪ゆるさるる」は、多少の欠点や過失は許してしまいたくなる、の意。
近(ちか)づかまほしき人の、上戸(じょうご)にて、ひしひしと馴(な)れぬる、またうれし。
*兼好『徒然草』(十四世紀前半)第一七五段近付きになりたいと思っていた人がたまたま酒飲みで、酒のお陰ですっかりうちとけてしまうというのは、また嬉しいものだ。
かたはらいたきもの…思ふ人のいたく酔(え)ひて、おなじことしたる。
*兼好『徒然草』(十四世紀前半)第一七五段近付きになりたいと思っていた人がたまたま酒飲みで、酒のお陰ですっかりうちとけてしまうというのは、また嬉しいものだ。(「日本名言名句の辞典」 尚学図書辞書編集部・言語研究所) 


*酒は猶(なお)兵のごとし。
(酒は武器のようなもので、誤って用いると身を破滅させる)-李延寿「南史」
*人生意を得なば、須(すべから)く歓を尽くすべし、金(こがね)の樽(さかだる)をして、空しく月に対せしむること勿れ。
-李白「将進酒」(「世界名言事典」 梶山健編) 


釜ケ崎以外に住んでいる人
釜ケ崎で暴れ回ったりケンカをしたり、いろいろ問題を起すのは、意外なことに釜ケ崎以外に住んでいる人が多い。西成警察署内で酒の上で事件を起したり、警察に保護されたりした事例をみると、全件数の八十五%が釜ケ崎で発生している。その関係者の住所、職業を調べてみると、驚いたことに釜ケ崎で酒を飲んで暴れる者のうち、釜ケ崎に住んでいるのは二一・九%で、残りは釜ケ崎以外四三・二%、住所不定者三一・一%であった。酒ぐせがわるく、顔を知られた所では飲めなくなった者がここへ来て飲んで暴れるのか、ここの雰囲気にひかれてやってくるのか、そのほかになんともいえない理由があるのか。それはわからないが、よそからきて酩酊して暴れ回る人のために釜ケ崎の地元の人びとやまじめな労働者は、大へんな迷惑をこうむっている。釜ケ崎が他地区から入ってくる人に荒され、悪い評判をたてられるというのは、単に飲酒にかぎらず、他の問題でもそのような傾向があるが…。酒を飲んでは何回も警察のお世話になる人がいる。たとえば、三十九年の暮にある期間の調査によると、延べ件数にして三百五十件、実人数にして三百人、このうち約四分の一の人が繰返し警察に保護されている事実が明らかになっている。この種の人たちを、酔いがさめてから了解を得て診察したことがある。その結果、たびたび警察に保護されるような人は多分に精神衛生面の問題を含んでいることがわかった。ただ単に保護したり入院させるだけでは、この問題は解決しないのである。また、そういう人びとは、精神神経的な疾患以外に、肝臓の疾患、胃潰瘍、肺結核など別の病気が附帯していることは、いうまでもない。(「にっぽん釜ケ崎診療所」 本田良寛) 


人生が終わってしまったような気
初めて酒を飲んだ時のことを覚えている。いたずら程度なら中学生の頃に口にしているが、本格的に飲んだのは大学受験に嫌気がさした高校三年の時だった。不良仲間と大塚駅近くの大衆居酒屋に入り(いくら商売とはいえ、制服を着ている高校生に酒を飲ますのだから、すごいものだ。飲みたがるほうがいけないんだけど)、いきなり日本酒をコップに三杯続けて飲んだ。大人ぶって見せたかったのだろう。ところが飲めもしない酒を一気飲みしたものだから、しばらくすると頭がグルグルまわってきて、店を出ても足元がふらふらする。これでは電車に乗ることができない。仲間にかかえられて大塚から池袋まで歩いたが、私はぽーとして何がなんだかわからない。夜の街がぼやけて見え、体は宙を飛んでいるように軽い。あっちにふらふら、その度にあわてて支えてくれる。酔っているというのは怖いもので、途中でやくざにぶつかっても本人は電信柱にぶつかったつもりだから、このヤローッなどと言ったりする。仲間が平身低頭している姿が妙におかしい。もっとも家に辿(たど)り着いた時にはその愉しい気分も覚め、そうなると今度は気持ちが悪くなってくる。我慢できずに玄関前でばったり倒れ、結局は胃袋の底まで吐いてしまった。翌日は母親に謹慎を申し渡されたが、どのみち頭が痛くて学校に行ける状態ではない。終日、家で寝ながら、こんなに苦しいならもう二度と酒は飲まないと固く誓ったものだ。こんなものを大人たちはなぜ飲むのかまったく不思議だった。もっともその後もちびちびと飲み、高校の卒業式の夜は、池袋の今はない三業地の小さな居酒屋で飲んだ。飲むといっても二度と無茶飲みはせず、恰好(かつこう)だけである。晴々とした顔の同級生と違う場所にいたかっただけだろう。カウンターで友人と飲んでいると、気の遠くなるような未来があるくせに、なんだかもう人生が終わってしまったような気がしてならなかった。隣に座った筋者らしい中年男が「お前ら高校生か」と話しかけてきたので首をすくめたが、その凶暴そうな顔付きの男は「頑張れよ」と日本酒をごちそうしてくれた。東京オリンピックで首都が沸いていた昭和三十九年のことだから、もうずいぶん昔の話になる。(「中年授業」 目黒考二) 


地酒おやじ
-カーブは、いつ頃造られたのですか。
「十二年前ですね。その数年前にパリの下町の酒屋さんを視察に行って、小さい店でもみんな地下にカーブがあるのに感心した。こんなにワインを大事にしているなら、日本酒はもっと大事にしなければと思ったのがきっかけですね。日本酒はワインよりデリケートで高温と日光に弱いんです。生酒だけでなく火入れした酒でも、温かいところに置いておくとヒネたかおりがしてくるし、日にあたるとひなた臭という臭みが出る。そういうことをなくそうということで、酒のカーブを造ったわけです。メーカーには保存用の冷蔵庫がありましたが、小売店では冷酒の小瓶用冷蔵庫程度しかない頃ですね」
-蔵元にはよく行かれるんですか。
「ほとんど行きません。川上は見ないというのが僕の主義です。酒の流通業界は川上の方ばかり見ていることが多いけど、小売業は常に消費者を見ることが大事です。下の情報を上に上げるなら蔵元回りもいいんですが、それより、蔵元は流通を見なさいと言いたい、自分たちの酒がどんなところで売られているか、どういう風にお客さんの口に入っているかを見ないとだめですよ」(「地酒おやじのこだわりアドバイス」 構成・佐々木典男 「日本酒の愉しみ」 文藝春秋社編) 地酒おやじを自称する四谷鈴傳六代目の話だそうです。 


え(酔)わじとて あまりいとう(厭う)も けしからず そらさぬように 酒はのむべし(作者未詳『西明寺殿御歌』)
【大意】酔うまいと断り続けるのも失礼だから、礼をそらさないよう酒はのむべし、である。(「道歌教訓和歌辞典」 木村山治郎編) 


いつも水で酔っている
ぼくは酒が飲めない。これで煙草ぐらいは吸わないと、お天道様に申しわけない気がして、ヤニ漬けになっているけれど、たぶん、分解酵素に欠陥があるのだろう。それでも若いころには、見栄をはって、無理に人なみに飲んでいた(つまらんことだ)。最初に就職したのが札幌で、ただのビールを飲み放題という機会があって、つぶれて完全に飲めなくなった(貧乏だってブレーキになる)。今で言う急性アルコール中毒だろうが、友人に言わせると慢性アルコール中毒で、いまだにそのときの酔いがさめていないのだそうだ。それで、いつも水で酔っている。これには困ったところがあって、酒の席では先に酔ったほうが得だ。リタイヤしたり、寝てもよい。ところが、水で酔っぱらうのはオールマイティで、一番強い。それで、一番ひどい酔っぱらいとつきあうことになる。(「時の踊り場」 森毅) 


酒に回(まわ)される
《「回す」は、人や物事を思うままにする意》酒にもてあそばれる。酒のために本心を失う。酒に飲まれる。(「故事俗信ことわざ辞典」 尚学図書編) 


○うかむ瀬
浮む瀬と聞けば上ぼん(品)上戸なり、下品下戸には好物の、砂糖かたちにせつたい(接待)と、茶わかしてもまつかとあれば、しぶい顔して行き過ぎる、それにはあらで林間に、紅葉をたく接待の、酒は憂の玉箒木、秋の哀れも忘れ草、薬の水と菊の酒、聞伝へてや今日も又、五人六人又ひとり、旅の素面は冷酒に冷酒に袖や峯入の、花の吉野もかけぬけに、霞も汲で十二人、山伏姿待ちうけて、汲めども尽きぬさかばやし、けふの亭主がかん鍋の、つる水ならば我々が、名を盃にさし給へ、心得たりと推量も、違ひはせじと引受けて、さす盃にさゞ浪の、しわのよりしはごんのかみ(権頭)、かねふさ(兼房)さんと見受けたり、皺のよりしがかねふさならば、肴に出たる梅干も、みなかねふさか是は又、どこからひよつと出羽国、はぐろさんのほいほいに、たべすごしたる旅姿、いやいやそれは嘘らしい、今朝からめぐる盃に、ひぢをはりまの国そだち、つかみ豆腐の肴好き、もふさずとてもわしの尾の、十郎とこそさしあてる、よくもさいたりかしこくも、その盃のさしづめは、いづくそだちと見たるぞや、都人には色黒く、近江の人の色に似て、さんとう一の力強、物恐ろしきねぢ上戸、弁慶さんで有うとて、武蔵野でこそさしにけり、入乱れたる盃に、つゞけて九はい太郎さん、源八さんも息ついで、すけ八はいは亀井のごくらう、引つかけられる片岡へ、千鳥足とて武士も、(新八ブシ)物の哀れは知るものを、笑ひ上戸と理屈には、つまり肴の鱸さん、海老の役なる色上戸、いせの三ぶさん知るつてゐる、さて又ひとりぼんさんの、かくし上戸が禁酒とは、それこそおんしゆ海尊と、さす盃も大かたに、つもりたがるは富士の雪、これぞ駿河の二郎さん、判官様の御内には、皆どれどれも名の高き、つわものゝ交り、頼ある中の車座に、めぐる盃とりどりに、いざや酒をくもふよ、汲めどもつきせぬ泉の甘露、竹のしたたり代々こめて、さつさつの声松の風、その色かへぬへ、(「二見真砂」) 


看板娘を食っちゃった
私とT君とは、まず銭湯へいって、からだの隅々まで丹念に洗った。それから、都電通りの三河屋というちいさな酒屋の店先で、下地のコップ酒を立ち飲みしてから、急ぎ足であの店へいった。いつの間にか、どちらからともなく早足になるのである。そのころ、その店では、最も安い酒はお銚子一本七十円であった。だから、アルバイトの報酬半分だけでも、三本は飲めた。報酬の残りはどうするかというと、溜めておいて同人会費のたしにした。私は、大学二年生のときから、同じ仏文科の仲間六、七人と一緒に<非情>という名の同人雑誌を出していたのである。-
(後年)Sちゃんは、私のために特製のとんかつを揚げてくれた。「そういえば、Sちゃん、僕はこの店でとんかつを食べるの、初めてだよ。」「あら…どうして食べてくれなかったの?」「食べたくても手が出なかったんだよ、ふところが寂しくて。いつかは食べてやろうと思ってたんだけど、寮を出るまでとうとういちども食べられなかった。」「ははあ、それで腹いせに、うちの看板娘を食っちゃったのね?」(「時のせせらぎ 若き日の追想紀行」 三浦哲郎) 


七ツの時から
- 時に伊志井さんはいくつから飲み出したんです?
伊志井(寛) 七ツの時からですよ。(笑)家が料理屋でしてね。
鴨下(晃湖) この子の七ツのお祝いに飲み出したね。
安藤(鶴夫) 七ツになる子が凄い事云うた…ってね。
伊志井 手のつかない料理を持って来るんです。小さい部屋へね、そこへ好きな半玉なんかを連れて来てね、宴会ですよ、もっともその時は九ツになってましたがね。
鴨下 立派だね。
伊志井 その時分から飲んで、いまだに台詞覚えられないことがないから大丈夫だっていったら酒屋が喜びましたねえ。
渋沢(秀雄) 飲んでなかったらこうは科白は覚えられないっていえば、もっと喜んだ。(笑)
- その時、童貞だったの。(笑)
伊志井 もちろんですよ。
安藤 いやあぶねえもんだよ。(笑)
伊志井 昨年の正月号のアサヒグラフに酒仙ていうのが出ましたよ、十六人。吉井勇先生、久保田万太郎先生とそうそうたる中に役者で私が一人入っていた。そしたら隆ちゃん(横山隆一)が仙はまだ早い、寛はまだ仙じゃなくって、あたしもまだ仙人はいやだっていたんですけれどもね。その雉子を取りに来た人に「賀茂鶴」と「菊正」がうまいっていったんですよ。「賀茂鶴」からえらく喜んだ手紙が来ましてね。盆暮れに必ず二升ずつ届けて来るんですよ、いまだに…。(「うき世に人情の雨が降る」 安藤鶴夫) 


数十種の酒の肴
河原町通りの一本西側で四条から六角通りのあたりまで細々と続く"裏寺"は、本筋の寺町通りの裏という意味でこう呼ばれているのだが、まさに前述の条件にふさわしい安呑屋が軒を連ねている。その中の一軒、T亭が私の京都学の原点ということになる。店を入るとすぐが立ち呑みのカウンターで、勤め帰りの中年サラリーマンや労務者風の男たちがコップ酒をあおっている。その奥には二人掛け、四人掛けのテーブル席が七、八個、左側には上(あ)がり框(かまち)風の細長い座敷があって座卓が三つほど、そして右側の壁には何と数十種の酒の肴の値段札が一面に貼り出してある。その数の多さ、安さは驚きだ。しかも関東者の聞いたこともない名前がずらりと並んでいて、通い始めた当座はひと当り説明を聞くだけでも退屈することがなかった。(「風が見た京都」 中田安昭) はも、すぐき、あんぺい(安平)、魚(うお)そうめん、きずし、いぬき等が紹介されています。 


飲める肝臓
吾妻 西原さん自身は、アルコール依存的なものはないんですか?
西原 酒は飲みますよ(笑)。毎晩、三六五日飲んでます。でもγ-GTPは今のところ九〇ちょっとくらいかな。まあ、若いころほど飲めなくなったというのはありますね。赤ワイン半分飲んだらもう寝ちゃうとかね。寝酒、晩酌ですね。一本飲んじゃうこともありますけど。毎日飲まない、朝から飲まない。-
西原 あたしみたいなのは、酔っぱらいの先祖たちの遺伝子の結晶ですから。夫がγ-GTPが八〇〇だったとき、六年間ずーっと一緒に飲んでたあたしが一八でしたからね。六十以上で警告されるんで、あたし毎日あと三倍なまなきゃならないんだ。キツイなー、って。
吾妻 それは飲める肝臓だってことだな。
(「実録!アルコール白書」 西原理恵子・吾妻ひでお) 


御酒之日記、ねりぬきときかきの火入れの注
注:ねりぬきときかきの火入れの要領である。1番火は4月25日、それから1ヶ月毎に火入れを3回する。2番火は2回とも高温である。手引燗というのは湯の中に手を入れて熱いといって直ぐに手を引く程の温度である。「むかわり時」は来年の今月今日のことであるから、「むかわり時迄こらゑるなり」は一ヶ年は火持ち大丈夫の意味である。これは酒質を無視した徹底的火入れ法である。-(「『御酒之日記』とその解義」 松本武一郎) 


父親に殴られて出血  34歳 女
当時未成年だった私は、アルバイトの帰り、新宿の歌舞伎町で毎日のように呑んだくれておりました。その日もいつものようにベロンベロンになって、バイト先の男の子たちに両腕を抱えられて終電で帰ってきました。すると父が改札口で仁王立ちになって待っている。父は改札を出た途端、私をぐうで殴り、送ってくれた彼等に向かってひとこと、「こんな女とつきあうなっっ!」男の子は走って帰ってしまうし、私の口の中はパックリ切れて出血。父に連れられて口から血を流しながらもヘラヘラしている私を見て、娘を殴った父親に対してか、殴られてもヘラヘラしている娘に対してかは不明だが、、母は相当怒っていた。父に殴られたのはその時が最初で最後。痛くはなかったけど死ぬかと思った。(「死ぬかと思った」 林雄司(Webやぎの目)編) 


御酒之日記に記載された練貫酒の火入れ
一ねりぬき、又きかきの煎様、四月廿五日酒煎様(せんじよう)のミかん(飲み燗 お燗する位の温度)ニ(一回目)、五月二十五日てひきかん(手引き燗 熱くてすぐ手を引き出してしまう位の温度)ニ上ノ泡ヲ能ゝ(よくよく)可取(とるべし)(二回目)、六月廿五日如前(まえのごとく)飲かんニ此酒せんし(煎じ)(三回目)、凡(およそ)ハ七日口ヲつゝミて可置(おくべし)、(密閉して)いきを不出(ださざる)也、二番を煎之様、何(いずれ)も二様なからてひきかんニせんすへし、うへニにる(煮る)時あわ立は、泡ヲ能ゝ可取、むかわり時(満一年)迄こらゑるなり、口伝秘可秘、(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


オクトーバーフェスト(2)
この「オクトーバーフェスト」はもう一六〇年以上も続いている古くからの祭りで、毎年行われているこの一六日間の一大ページェントには、世界各国から六〇〇万人ぐらいの観光客がやってくるという。もちろんこの祭りに最も多く参加しているのはドイツ人だが、これらの人々がここで何をするかといえばとにかく毎日まいにちビールをのんで大騒ぎをしているのである。考えてみるとビール好きのぼくにとってはこれまはまことに魅力的な祭りである。そうして見ていると、ドイツ人というのは(アメリカ人もそうだが)本当にすさまじい食欲とビール飲量力(というのかな)をもっているのだ。たとえばここでは女でもビール好きな人は一日軽く一〇リットルはのんでしまうという。一九八一年の集計によるとこの一六日間のフェスティバルで飲まれたビールの量は四二四万リットルという。これが具体的にどのくらいの分量になるのかよくわからないのだが、一升瓶が一・八リットルであるからとにかく途方もないカサになることだけはたしかなのである。さらに一六日間でたべるソーセージは七〇万本、ニワトリは五六万羽という。なんだか社会の教科書みたいな話になってしまったけれど、ビールのつまみにはこのほかブルッツハという固い薄切りのパン、ラーディという薄く切った大根、小さな赤カブといったものもすさまじい勢いでたべている。(「イスタンブールでなまず釣り。」 椎名誠) 


山形の地酒
「まあ、ダニエルさん、飲んでけらっしゃい」とビール瓶を手元に差し出してくる。料理に口をつける前からコップにビールは注がれはじめる。「どうもありがとうございます」といって最初はビールを飲んでいたけれど、少したって地酒がうまいよ、というふうにいわれ、日本酒のほうに杯を替えた。山形の地酒なんですよといわれ、杯に注がれる。ボクがそれを口に運んで飲み込むさまをみんな固唾を飲んでじっと見つめている。飲んでみたらこれがじつにうまい。「おいしいですね」といったら、みんなが「オーッ」と拍手喝采。アメリカ人が地元の日本酒を飲んでくれて、しかもおいしいといってくれた。もうそのあたりからみんな盛り上がってきた。-
郷に入れば郷に従え。とにかくそれ(返杯)を一度やってみたら、今度はみんなが喜びいさんで一人ひとり同じことをしてきた。とにかくみんなと交わさなければいけない。一人でも残すと失礼になるといけないと思って、グイッ、グイッ、グイッという感じで飲んでいった。-
初めての宴会はどんどんと盛り上がりをみせ、ボクはすっかり出来上がり、そのあとはぜんぜん覚えていないところまでいった。どうやって家に帰ったかさっぱり覚えてないけれど、朝起きたら、自分の布団の中に入っていたから大丈夫だったんだなと考えるしかなかった。頭はもうむちゃくちゃだった。山県第二日目の県庁内の挨拶回りで、県知事に会ったり、学事課とか、そのほかの課の課長さんのところに挨拶回りをしたが、顔が真っ青になっていたのはいうまでもない。(「ダニエル先生ヤマガタ体験記」 ダニエル・カール) 県の英語教育指導主事助手になった時の歓迎会だそうです。 


かるが故に
演説は拙ではなかったが、少々堅くなる傾きがあって、縦横の座談に比べると、まるで物にならなかった。(国木田)独歩君があの小ぢんまりとした、そして広い額に筋を立てて、片足を立て、右手に盃を持って、「かるが故に…」と語り出すと、全く客を魅了せずにはおかなかった。-
酒は随分好きだったが、殊に酒の吟味がやかましかった。喰べ物もかえって苦情の多い方だった。(中沢)臨川君は同じ飲み手でも、割合に弱かったし、酔えば良いも悪いもなく、唯だガブガブやる方でした。(「独歩君の思出」 平塚篤 「明治文学回想集」 十川信介編) 


「をみなへし」の狂歌
三又(みつまた)の江のほとりにて並木五瓶(なみきごへい 歌舞伎狂言作者)にあひて
生酔の 八またのおろち 三ッまたで 五つの瓶に あふぞうれしき
市人の酒をのむをみて
寒き日は 酒うる門に むれゐつつ さかなもとめて ゑ(酔 餌)へる市人
柳橋にすめる雪といへる娘によみてつかはしける
しら雪の いとのねじめに 盃も みつよついつゝ 又六の花(「をみなへし」 太田蜀山人) 


オクトーバーフェスト(1)
ひととおりの紹介がすんでから「ではとにかく会場に行ってみましょう」ということになった。会場は市内にあるテレジアの牧場といわれるところだ。牧場といってもミュンヘンの鉄道中央駅から車で一〇分ぐらいのところだからほとんど市の中心といってもいい。この広場は長さ一キロ、幅五百メートルほどの広さで普段は駐車場と子供のあそび場になっているが、年一度のこのビール祭りになるとドイツのビール会社が東京都体育館ほどもあるデカテントをいくつも設置し、そのまわりにジェットコースターやメリーゴーランドなどがところ狭しとつくられて、たちまち巨大なお祭り広場となってしまうのである。ビール会社の大きなテントはつまりビアホールなのである。六〇〇〇種類はあるというドイツのビールの中でとくに大手ビール会社のビアホールテントが並ぶのだ。まずその中のひとつ、世界的に有名なローエンブロイのテントに入ったとたんにびっくりした。テントといっても骨組みは太い木と鉄の柱でできており、その組み立てには一カ月以上もかかる、という立派なものである。そうしてその中で本当に五〇〇〇人ぐらいの人がワイワイやりながらビールをのんでいるのだ。ビールは全部一リットル入りの、日本流にいえば特大ジョッキというやつで、それ以外には中ジョッキも小ジョッキもない、若い女もバアちゃんもみんなこの一リットルジョッキでウグウグとやっている。その会場のまん中にはプロレスのリングのような舞台がしつらえられており、その上には三〇人編成ぐらいの楽団が乗っている。そうしてすさまじい音量で豪快にドイツふうの「ビールをのめやうたえや音頭」というようなものをやっているのだ。ぼくはこれまでずいぶんいろいろなビヤホールおよびビアガーデンというものを見てきたがこんなに巨大なものを見たのはは生まれてはじめてだった。しかもこの広場にこういう巨大なビアホールが一一個所も並んでいるのだ。(「イスタンブールでなまず釣り。」 椎名誠) 


長屋王の年収
食糧品や食器類などの値段を記した内膳司の出納簿のごとき木片も見つかり、当時の物価を知る手がかりとなったが、やはり木簡の記述を根拠にして、奈良国立文化財研究所の寺崎保広氏が発表された長屋王の年収にも、眼をみはった人が多かったのではあるまいか。式部卿に任ぜられていた霊亀二年(七一六)、三十三歳ごろの王の年収は、別途収入まで併せると一億円に達したであろうという。新聞記者は、この記事にマンガ風な王のイラストを添え、「氷室(ひむろ)の氷でオンザロックをたしなみ、庭に観賞用の鶴という豪華な生活ぶりが、これで証明された」と、うらやんでいる。氷や鶴も、木簡の記載に拠ったのはいうまでもないけれど、なおつづけて、「彼の経済力の大きさが、藤原氏の陰謀により非業の死をとげる背景になったとも見られる」と解説したり、王の頭上に、藤ノ木古墳から断片が出土して話題になった王冠そっくりなかぶり物まで描いたのは、いささか勇み足、ないし、はしゃぎすぎというものだろう。(「長屋王と邸跡出土の木簡」 杉本苑子 「歴史の花かご」 吉川弘文館編集部編) 長屋王家木簡の仕込配合 氷室 


サルーンとは
新しい移住地のなかで最初に建てられる重要な建物は多くのばあいサルーンであり、ゴーストタウンになって最後まで残るのも、サルーンであった。こんな話がある。昔、あるセントルイスのウイスキー売りが大平原を牛車をきしませて渡っていた。途中で牛が倒れて死んでしまった。そこで酒売りは、地べたに酒樽をぐるりと輪に並べ、板片れにSALOONと書いて手近かの樹に打ちつけた。つぎの日から、かれとその商品のまわりに、町ができはじめたという。サルーンはときに町そのものでさえあった- 
ドッグヴィル ドッグヴィル
酒場が一軒 蒸留所が一軒
ドッグヴィルの町はそれで全部(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳) サルーンとは「その父親は古いロンドンのエールハウスであり、母親はニューイングランドの植民地のタヴァーンであった」ともあります。 


万歳から乾杯へ
「乾杯」をもって酒宴が始まる。それが伝統的な作法と思いこんでいる人も多かろう。しかし、意外にもその歴史は浅いのである。いつ誰が始めたのかを特定するのは難しいが、明治時代後期に軍隊の中で流行りだしたことは、ほぼ明かである。特に、イギリス海軍の影響が大きかった。-
それでは、万歳が、いつ乾杯にかわったのか。それを証する記録が乏しい。たぶん、ビールとグラスの普及があってのことだったのだろう。これも、明治30年代以降のこと。そして、正式な酒宴でなく、略式の酒宴でそうなったのではないか。万歳が国家や天皇に対しての発声であったとすれば、乾杯は民間の相互に対しての発声であった、ということになる。そこで、なぜ日本酒を用いる乾杯には発展しなかったのか。その兆しもあった。例えば、『上野に於ける東郷大将歓迎会及小笠原流凱旋式の図』を見ると、日本酒での儀礼が描かれている。「恭(うやうや)しく杯(つき)を挙げて神酒を受けて、茲(ここ)に式を終わり」とあるのだ。もとより日本酒は、「カミに供え、カミと共飲する」ことに始まる。乾杯の発声の前に「皆さまの御健勝と御多幸を祈念して」というのも、そこにカミの介在を黙認してのことだろう。ならば、日本酒で乾杯すべきなのだ。(「文明開化と「乾杯」」 神崎宣武 日本酒造組合中央会パンフレット) 


混本歌
ある人に 酒をふるまひけるに あたゝむるまもまたて ひやにてのみけれは  穿 砂
いれ上戸 かんをもまたす ひやてのむ くせのわるさよ(「徳和歌後万載集」) 

モッチャリ酒
私は、酒は、モッチャリと飲みたいわけである。とくに、「そのモッチャリと飲む、というのはどういう感じですか」とかもかのおっちゃんはきく。「さあ。私もよく分かりませんが、まあ、江戸っ子の飲み方と反対じゃないでしょうか」「江戸っ子はどんな飲み方してますか」「といわれても知らんけど、駈けつけ三杯、というか、高田馬場へひた走りする前の、安兵衛のような飲み方を想像します」私は無責任にいっている。「つまり、それに反してモッチャリ酒というのは、一口ふくんで舌にころがし、小染のよしなきおしゃべりに打ち笑い、古い歌謡曲に来しかた方行末を思い、人生の決算をし、また一口のむ、というような、といってべつにやけ酒でも悲しい酒でもなく、泣き上戸、怒り上戸でもない、憂いを払う玉箒(たまははき)でもなく、よけいユーウツになるかもわからへんけど、まあそれもエエなあ、と思いつつ飲んでいる、そういうどっちともつかぬ飲みかたが、モッチャリ酒です」(「芋たこ長電話」 田辺聖子) 


李白
李白の靴が
踏んづけたのは一匹の青蛙だった
しゃがみこんでみると
死んではいなかった
あどけないペルシャ娘の
澄んだ目をしている
「すまなかった」
李白は壺をかたむけ
酒を青蛙にたらし
ついでに
じぶんも一口呑む
かすかに鬱金の匂いがして
壺をかかえ
掌に
青蛙をすくいあげ
そろりッ
そろりッ と水のほうへ
死にに行く(「現代詩文庫60会田綱雄」) 


秋之部
相撲  剛の座は相撲となりし酒興かな       波静
天長節 卓上や菊の杯菊の酒            露月
     団欒や民喜びの菊の酒            碧梧桐
古酒  古酒の酔とまれといふに帰りけり      麦人
新酒  駕舁のすき腹に飲む新酒かな       子規
     酒の新たならんよりは蕎麦の新たなれ  子規
     樊川の老見えそめぬ今年酒        青々
     枯萩を折焚く宿や今年酒          同
     だぶだぶと桝をこぼるゝ新酒かな     牛伴
     憂あり新酒の酔に托すべく         漱石
     第一に几董が題す新酒かな        露石
     憂に堪へて市に出づれば新酒かな    白浜
     瓢成て入り七合や今年酒          純
     杖頭の金を費す新酒かな          白雨
     師の坊に新酒参らす古き壺         虚子
     菊咲いて自ら醸す新酒かな         同
     この願ひ新酒の升目寛うせよ       碧梧桐
鱸   鱸得たり帰つて酒のはかり事        紅緑
萩   色好む上方人や萩に酒            菰堂
菊   菊酒や高嶺の裾の一ツ家          桂堂
     歓楽や楼上の酒階下の菊          虚子(「春夏秋冬」 正岡子規、河東碧梧桐、高浜虚子共選 「現代俳句集成」) 


毎夜の私の儀式
ゆうがた六時、私は食卓に並んだ料理を見て考える。「きょうの料理だったら、よし、日本酒にしよう」そして、たとえば立山の二級酒などを、愛用の備前のとっくりに入れる。このとっくりは、約二合のお酒がはいる大型である。東京の家にいる時は、電子レンジに入れる。二分弱のタイマーを入れる。でも、この方法を、私はあまり好きでない。田舎の家にいる時は、大きな薪ストーブに乗せた、大型の薬缶に入れてお燗をする。田舎の家には、備前の大型とっくりがない。で、九谷のひょうたん型の大どっくりを使う。これだと一合七勺ぐらいはいる。つぎに、"ぐいのみ"を選ぶ。東京にも、田舎にも、それぞれ七種類くらいのぐいのみが置いてある。田舎の家では、小さな竹の籠に、七個がはいっている。そのうち半分は、私自身が焼いたものだ。毎日のことなのに、そして、七個のぐいのみが変わるわけでもないのに、私は毎日ぐいのみ選びをやる。その日の気分で、ぐいのみを決める。まず一杯を注ぐ。田舎の家だと、注いだあと、またとっくりを、ストーブの上の薬缶に戻す。こうして飲むと、お燗が冷めないのでうれしい。やっぱりお燗は、薪ストーブに限る。電子レンジはいやだな。さて、最初の一杯。おいしい!(ああ、私は健康だなァ)と思う。"しあわせ"って、たぶん、こういう瞬間のことをいうのだと思う。(「五十代の幸福」 俵萌子) 


道幅
市からの帰りに、千鳥足で歩いているアイルランド人を見るに見かねた紳士が、彼に声をかけた。「やあ、ダービー君。どうやらいまきみが歩いている道はきみが考えているよりはだいぶ長そうなようすだね」「まったくです。ただ私を苦しめているのは道の長さよりも幅なんですよ」(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


アルコールは脂に溶ける
脳の中の血管は、大事なものしか通さない性質があります。余計なものは通さないのです。そのため、脳に薬を入れようとしても、身体(からだ)のほかの部分のようには入っていきません。では、こんな危ない物質(アルコール)がどうして脳に作用するのでしょう。関所の役をする脳の血管も、脂(あぶら)に溶けるものは通してしまいます。アルコールは、脂に溶ける性質があるから通ってしまうのです。(「記憶がなくなるまで飲んでも、なぜ家にたどり着けるのか?」 川島隆太・泰羅雅登) 


進士及第
唐の進士は、合格者発表のあと、期集院に行き、金を出しあって盛んに宴会を開いた。一同の中から一名を録事に、二名を探花になってもらうように頼み、その他、宴会を主(つかさど)るもの、音楽を主るもの、酒を主るもの、茶を主るもの、といったたぐいは、みな同じ年の合格者で分掌した。名妓を広範囲からよび集め、名勝の地を探し廻って、一日として宴会をしない日はなかった。曲江の大会ということになると、前もって教坊に公文書を回し、天子に奏上して紫雲楼に臨御のうえ御観覧いただくようにする。長安の士女は都をあげて見物に出かけ、車馬で街は満ちふさがり、高官の家々ではおおむねこの日に婿えらびをした。というのも、名声と文物の盛と天下太平・人民和楽のさまを見るばかりでなく、人民が賤(いや)しい身分から身を起こし、青雲の高きに登ったのであるから、このような行事を盛大にして、後進を励ますようにしたのである。(「五雑組」 謝肇「シ制」(しゃちょうせい) 岩城秀夫訳 中国古典文学大系) 


赤提灯回遊録2
もっとも、少しく店内の広い、いわゆる大衆酒場といった感じの店のオヤジともなると、なるべく特定の客とは私語しない。あまり客と言葉のやりとりをしない、といった態度を明らかに見せているひともいる。よく知られる根岸の「鍵屋」のご主人とか、わたしの仲のよい三ノ輪の「仲ざと」のオヤジ(と言っても、わたしより若いのだが)などは、どうもそういったタイプのようである。「中里」のオヤジにいわせると、「親しいお客さんでも、とくにその人とだけ話しこんでいると、その人だけ特別扱いしたみたいな格好になってしまい、他の大勢のお客さんに失礼なんじゃないかな。それに、話なんかしてると、どうしても料理やお燗の具合がおろそかになるからね」とのことだ。こうしたストイックな姿勢のオヤジは、たいがいまた、たとえ自分が大酒飲みであっても、営業中は絶対に飲まない。「中里」のオヤジが、そうだ。店側に、そんなふうな規範みたいなものがあるのと同様に、客の側にも、それぞれの店の雰囲気に応じて、お客としてのルールないしマナーのようなものが自然にでき上がっているところが多い。そのへんのところがまことにおもしろい。(「浅草のみだおれ」 吉村平吉) 


ネギマの研究
ネギマといふ料理がある。葱(ねぎ)と鮪(まぐろ)だからネギマ。この命名法の単純さでもわかるよふに、至つて庶民的な、ざつかけない食べ物だ。鮪は中トロがいい。これをサイの目に切る。葱は白根を適当に切って置く。鍋(なべ)に湯と酒を合せて火にかけ、煮立つたところへミリンと醤油を加へ鮪と葱をすこしづつ入れながら食べる。薬味に七味唐辛子を振りかけてもいい。幕末のころ、長州の井上聞太(のちの大蔵大臣、井上馨)は江戸の市中を歩いてゐて、居酒屋でネギマの鍋の煮立つてゐるのを見た。食指すこぶる動いたが、残念なことに持ち合せが足りない。注文しなかつた。それが心残りだつたので、功成り名とげたのちネギマに凝つて、いろいろ研究した結果、スッポンのスープをだし汁に使ふネギマを発明した。徳富蘇峰は内田山の井上邸において御馳走(ごちそう)になり、実に結構だつたさうです。(「軽いつづら」 丸谷才一) 葱鮪の殿様 


酒豪揃い
昭和一二、三年ごろ、わたしがユナイトの東京本社勤めになったとき、東京の洋画宣伝部の連中が集まって、歓迎の酒席を設けてくれたことがあります。当時の宣伝部の人たちは、ほとんどが酒豪揃い。映画評論家の筈見有弘さんのお父さんで、天下の名宣伝部長と言われた筈見恒夫さんなどは酒樽の上であぐらをかいているような人。そんな人たちから日本酒をすすめられ、断われなくなって飲まされました。苦しかった。おトイレに行って二度も吐いてしまうし、やっとのことで下宿の部屋に戻ってきて寝ても、天井がぐるぐるまわっている。ああ、わたしは、折角東京に出て来られたのに、酒で死んでしまう、情けないと思ったことがあります。でも、今の宣伝部のみなさんは、わたしが飲めないことを知っていますから、すすめません。私の前だから猫をかぶっていて、よそでは怪気炎をあげているのかも知れませんけれど。(「日々快楽」 淀川長治) 


菊姫の山廃仕込純米酒
「菊姫」の数種類ある製品のうち、ぼくとしては、山廃仕込純米酒に特別の愛着を持っていた。酒の味を言葉であらわすのはむつかしい。亡くなった吉田健一氏は、旨い酒は何でも「水のようだ」と形容していたが、この山廃仕込は、香りをかぎ口にふくむまでは、かなり重く粘る感じなのに、咽喉を越す時は逆に軽くさわやかで、結局水にひとしくなる。実に不思議な酒だと思っていた。(「神々の魅惑」 川村二郎) 


火野葦平(ひの・あしへい)
本名玉井勝則。明治四十年一月福岡生れ。早大英文中退。呑魚庵と号す。家業は親代々から沖仲仕の親分である。最近の代表作『花と龍』は、家業にまつわる伝記的要素が非常に濃い。戦時中、同人雑誌に発表した『糞尿譚』が芥川賞となり、ついで従軍中に発表した『麦と兵隊』が作家的地位を決定づけた。『花と龍』『新遊俠伝』等に対する読者の共感は、多分に新講談的な要素をふくんでいるからとみられる。九州と東京にそれぞれ家を持っていて、その間を日航機で往復している。斗酒なお辞せざる酒豪で、興いたれば詩をかき、絵を描く。ことに河童の絵は、芥川龍之介とは違った面白味がある。(杉並区阿佐谷三ノ二七三)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。 


「カツレツ」屋
となると、思い出すのはかつて熱海にいた名人。看板は「とんかつ」と出ているのに、これぞ正真正銘の「カツレツ」屋だった。カウンター越しに見る調理場には揚げ鍋がない。あるのはフライパンだけ。どうです。これぞ潔く正しいカツレツであります。だって肉を焼く料理法がカツレツなんだから巨大な揚げ鍋に入れるわけがない。フライパンで焼くのが正調です。まずフライパンにラードをたっぷり入れる。そして頃合いを見てパン粉をつけた豚肉を入れ、あとは油の中に手を突っ込んで上からじゅうじゅう押す。ここ焼けていないなと思ったら、さらにじゅうっと押す。これの繰り返しでどこにも均等に熱が入る。もし厚い肉の中心に一ミリのレアの部分を作ろうとすれば、それがビシッとできる人だった。これをソースなんかかけないでバリバリ食べる。一に常温の日本酒、二にビールと言うのが相性だった。(「匂い立つ美味」 勝見洋一) 


鼬の酒コ   酒泉
酒の好きな爺様が年中山に薪取りに行っていた。あるところに行くと、酒の色コしている水が石の側から流れ出ていた。飲んで見ると酒であった。爺様はふくべに入れて持って帰って、婆様と二人で飲んだ。「これァ好(え)ェ」と思って次の日も汲みに行ったが、これ位では不足だ。うって湧けばよいと、どんと突いた。それは鼬(いだんぢ)の尻(けつ)穴から湧いていた酒だから今度は糞がモロモロと出て来た。爺様は欲したおかげでこんなになったと口惜がった。(弘前市種市の話 話・田中幸枝 津軽百話)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


わが酒
小学校に入る前に、屠蘇を舐めて酔い、近所の知り合いの家で眠りこけてしまったことを憶えている。五歳だったと思う。言えばあれが、飲酒に関しての私の最も古い追憶である。以来、六十八年、飲むと眠るというのが、私の酒であった。少年期は、しかし、タバコは吸ったが、酒は飲まなかった。元来、酒に弱い私は、隠し酒ができない。少量でも飲めば、たちまち顔に出てしまうので、中学を出るまでは、飲酒は控えた。旧制の中学を出ると、弱いのになにかにつけて飲んだ。飲んでは眠り、飲んでは眠っていた。よく吐きもした。あのころの酒は、何酒というのだろうか、ヤケ酒というのだろうか、青春の酒というのだろうか-。とにかく、飲まなければ飲まないで済む酒であった。飲まなくても済む、というより、吐くくらいなら、飲まない方がいい。あのころ、酔って紛らしたかったことがいろいろとあり、そのために飲んだということもあったが、まだ、依存症になっていたわけではない。だのになぜ、あんなふうに飲んだのだろうか。(「旅にしあれば」 古山高麗雄) 


一日に三升
-十年前に亡くなられた鈴木梅太郎博士は御親戚でしょう。
-僕の姉の亭主ですよ。理研酒を造った男で、酒豪でした。自分で造って、自分で飲むのだから、酒客と醸造元とを兼ねたような男ですよ。この義弟は四十代に腸を患って、自便が出なくなったので、腹に穴をあけて屎を排泄していながら、七十幾歳まで、酒を飲むことはやめませんでしたよ。彼の説によると、人間は一日に三升酒を飲んでいれば、栄養は充分で、何も喰う必要はない、と断言していました。(「凡愚春秋」 辰野隆) 


梯子酒と居座り酒
梯子酒にかけては、各界を通じて中野実の右に出る者はまずあるまい。一番驚いたのは、自宅の新築祝いにわれわれを招んでおいて、主人が梯子酒をして歩いていた時だ。こんな男がどうして家を建てる気になるかは、奇妙な処のある話であるが、反対に、呑み出した場所に根の生えてしまうのは清水崑君である。旅の宿でも東京の呑み屋でも、杯を手にしたら悠々迫らざる風格を呈する。妙なもので、こんな動きたがらない人の家の方は、鎌倉市の区画整理に引っかかって、最近家屋を削り取られた。-(「酒徒交伝」 永井龍男) 


酒場好き
私は土佐の生まれだし、ツラがまえからしてさぞかし酒豪、と思われがちだが、実は許容量がビールをスプーン一杯、というていたらくの弱虫である。奈良漬けでも酒かすまんじゅうでもワインゼリーでも、アルコールが入っている食べものには敏感に反応してすぐ真っ赤になるので、よくよく見すましてからでないとめったなものは口に入れられぬ。では酒場は嫌いかといえばこれが大好きで、飲ううべの友だちに誘われればどこのばーへな(り)とついて行く。酔いは人間の面の皮を一枚一枚剥ぎとってゆく感じがあるので、酒場は断然おもしろいし、その話を聞きたさにこちらはコップ一杯の水でどこまでもつきあうのである。といえば、男を観察するイヤなヤツ、と思われる向きもあろうが、こちらも場の空気と話の中身にすぐ酔ってしまってとろんとなり、のんべを上廻る酔態となるから面白い。(「女のあしおと」 宮尾登美子) 


茶の人体に及ぼす作用
茶は冷也。酒は温也。酒は気をのぼせ、茶は気を下す。酒に酔へばねむり、茶をのめばねむりさむ。其性うらおもて也。(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂) 


キャリア組
エッセイの材料にどうぞといって下さった方は、元高級官僚。ぼくはまったく知らなかったが、本省のエリートコースにある役人に多くは、依存症に近いんじゃないかとおっしゃる。退庁時刻になると、ノンキャリアの人たちは、いっせいに席を立ち家路へ向かう、キャリアはまた、気をそろえてロッカーや、机の抽き出しから、酒瓶を出すのだそうだ。そしてまずいっぱいひっかけて後、いわば残業にとりかかり、実のある仕事はこれから始まるという。予算編成の時期など、いったん銀座へくり出し、ひとしきり賑わって、またデスクに戻り、この飲みしろで、給料の大半は吹っとぶ。生活費は、親の財産なり、夫人の実家の援助でまかない、業種別に酒豪のコンクールを行ったら、高級役人が一位間違いないとのこと。田中角栄氏が大蔵大臣の頃、課長以上に盆暮れ、現金の御祝儀をくばり、以後、これが慣例になったそうだが、これはつまり酒代だったわけ、何故、エリートたちが、丁稚小僧じゃあるまいし、そんなもの受けとるのか解せなかったが、ようやくのみこめた。いわば当然の陣中見舞い。霞ヶ関近辺を通る時、よく、深更まで官庁の灯がともっていて、わが官僚諸君も頑張っておるなと、心強かったが、酒瓶かたわらにとなると、やや悲壮感も伴う、それなりにストレスがあるのだろう。この手紙の方は、在職中、異常はなかったのに、公団へ天下り以後、悠々自適とも申し上げかねるけど、年金生活の現在まで八年間に、入退院をくりかえすこと十四回。「週刊朝日の同じ号の『ハイ・メディック'86』で、木村繁氏が、『かつて日本には、アルコールによる肝臓病はほとんどないといわれていた』とおっしゃってるが、役人には、昔から、酒による肝硬変の死が珍しくなかった」とのこと。(「『AKK』二十過ぎてから飲みなさい」 野坂昭如) アルコール問題を考える会に寄せられた手紙だそうです。 


欲言無予和
言(い)わんと欲(ほっ)して予(われ)に和(わ)する無(な)く 杯(さかずき)を揮(あ)げて孤影(こえい)に勧(すす)む
解釈 (秋の夜長)何か言おうとしても私に答える人もいないので、杯をさしあげては一人ぼっちの私の影に酒をすすめるのだった。
出典 晋(しん)末宋(そう)初、陶潜(とうせん)(字(あざな)は淵明(えんめい) 三六五-四二七)の「雑詩」十二首の其二。五言古詩十四句の第九・十句。『陶淵明集』巻四。
風来入房戸     風(かぜ)来(ふ)きて房戸(ぼうこ)に入(い)り
夜中枕席冷      夜中(やちゆう) 枕席(ちんせき)冷(ひ)ややかなり
*1気変悟*2時易    気(き)変(へん)じて時(とき)の易(うつ)るを悟(さと)る
不眠知夕永      眠(ねむ)られず 夕(よる)の永(なが)きを知(し)らざる
欲言無予和     言わんと欲して予に和する無く
揮杯勧孤影     杯を揮げて孤影に勧む
日月*3擲人去    日月(じつげつ) 人(ひと)を擲(なげう)ちて去(さ)り
有志不獲騁     志(こころざし)有(あ)れども騁(は)するを獲(え)ず
注 *1 気 空気。 *2 時易 季節が移り変わる。 *3 擲人去 人間の意思を投げ捨てるように、歳月が無常に経過する。
解説 夜の次第にふけゆく時間にじっと身を寄せ、眠れない自分と自分をとりまく時間と空間とを凝視する孤独な営みのなかから、引用の詞句が生まれた。一人ぼっちの影に杯を傾ける姿をイメージして定着させることによって、見る者でありながら見られる者でもあることに立ち会う、真の孤独の相が浮き彫りにされてくるのである。(大上正美)(「漢詩漢文名言辞典」 鈴木修次編著) 


慎み深い上にも慎み深く
要するにどんな酒好きで、しかも酒量に自信があったとしても、人前で飲むときは、慎み深い上にも慎み深く、絶対に酩酊しないという飲み方を女の人はして貰いたい。そのためには、盃を口に運ぶピッチを出来る限り遅くすることだ。それと酒と水を交互に飲むくらいに、水を出来るだけ多く摂るよう心がけるといい。だいいち、若いお嬢さんが"駆けつけ三杯"ではないが、ガツガツと早いピッチで飲むのはみっともいいものではない。それに、自分に適った酒の飲み方というのは、そう簡単に会得できるものではない。何十年という歳月の間に、何度となく酒の上の失敗を重ね、それでもなお"酒品"の完成を見ることができないというのが酒飲みであって、まして女性には一度の失敗も許されないだけに、大いに傍目を気にして貰いたい。そして、くれぐれも「私は強い」などと慢心しないで欲しい。危なっかしくて見ていられない。(「愛について」 諸井薫) 平成6年の出版です。 


徳島のすだちと、近海もののしんこ
さて秋は酒飲みにとってこよなき季節であるが、私は何はさて措き徳島のすだちと、九月初め頃に出廻る近海もののしんこ(こはだの幼魚)とを秋の酒肴(しゆこう)の東西の両横綱に見立てたい。むろんすだちはそのまま食べるわけではない。いろいろな食べ物に汁を絞ってかける。しんこも東京風の握りずしのすし種として食べるのが最上であろう。私はすだちとしんこに全幅の秋を感じ取る。松茸(まつたけ)、栗、銀杏(ぎんなん)、里芋の新、さんま、柚子(ゆず)と、秋は酒の肴に事を欠かぬ。酒も秋口の酒には格別の風情がある。尤も私は春夏秋冬、いつ酒を飲んでも、うまいと思う。お酒とは半世紀の永きに亘っておつき合いをしてきたので、どうもこれはやむをえない。(「大人のしつけ 紳士のやせがまん」 高橋義孝) 


一番安い酔い方
「おお兄弟、奢(おご)ってもらえるんなら奢ってもらおうか」私も調子よくこう答える。身体から火のでるような激しい労働をして、還ってくるドヤには孤独しか待っていないのだ。どうせその後を歩くだけなので、私はドヤの下駄をはいた男のあとをついていく。私も同じ下駄をはいているのである。「今はたんまりあるんだがなあ、こんな時こそ安く酔える方法を教えてやっか。知っといたほうがいいぞ、兄弟」ことにはじめて会った他人は何を考えているのかわからないものだが、一杯奢るというからついてきた私に、男はいう。「安い酒を奢ってくれるんかい」只の酒ならなんでもよいのだと私は思い、私は納得した。「そうじゃない。安くて酔える方法だ」男は路地にはいっていく。屋台の焼鳥屋があった。椅子に坐るでもなく、男は屋台の親父にいう。「熱い焼酎二杯だ」小さなコップ一杯の焼酎が五十円だったと思う。一九七〇年のほんの少しあとの時代である。焼酎のコップがだされると、男は一味唐辛子の小壜を焼酎のコップに振る。私にも同じようにしろと強要する。コップの底には唐辛子の赤い層ができる。コップに人差し指をいれてかきまわし、唐辛子が沈まないうちに焼酎を一気にあおるのだ。突然奇声をだして走りだした男のあとを、私も追う。百メートルも全力疾走すると、したたか酔いがまわってくる。たしかに一番酔えるが、気分が悪くなるのが欠点だ。(「私の酒歴書」 立松和平) 


あかい酒と黒い酒
先日、仕事で新潟へ行った。友人におみやげでも、とホテルの売店をぶらぶら歩いていると「あかい酒」というものがある。「えっ?」と思った。「これ日本酒ですか」「ええ、紅麹菌というのを使って造るんです。自然の色なんですよ」そのロマンチックな色に惹かれて、友人のぶんだけでなく、思わず自分のためにも一本、買ってしまった。冷蔵庫できりりと冷やして、ガラスの杯にとぼとぼと注ぐ。赤といっても、ワインのような赤ではなく、紅茶の色を深くして、そこに赤いスポットライトをあてたような感じ。で、口に含むと、味はまさに日本酒なのだから、なんとも不思議な気分だった。実は私は、黒い日本酒というのも、飲んだ事が有る。日本酒の専門誌でインタビューを受けたときのこと。全国の地酒が置いてあるお店で、写真撮影が終わったあと、そこのご主人がちょっと声を低くして囁かれた今日は、ご来店の記念に、珍しいものをと思いまして…」ひゅーどろどろ、というBGMが似合いそうな感じで、おごそかに運ばれてきたものが「黒い酒」。俗に古酒と呼ばれているものである。正式名称は、長期熟成酒というんだそうで、三年、五年、十年、十五年…と、長い年月をかけて熟成させる。品質が悪くならないように、お米を磨く率をすごく高くするとのことで、管理にも細心の注意がいり、なかなか大変。手間ひまかけたぜいたくなお酒である。低温の蔵で保存したものは、それほど色に変化はないそうだが、常温で保存すると、だんだん赤茶から黒っぽい色になるという。私がごちそうになった古酒は、十年以上たっているもので、墨を薄めたような色をしていた。味は、一般の清酒を白砂糖とするなら、こちらは黒砂糖という感じで、かなり個性の強いものである。(「かすみ草のおねえさん」 俵万智) 


最初に行われた清酒の化学分析
最初に清酒の化学分析が行われたのは明治一〇年(一八七七)である。明治一〇年といえば、いまから一二〇年まえ、西郷隆盛が西南戦争に敗れて自刃した年である。分析者は明治政府のお雇い外人教師エドワード・キンチ博士。それによれば、日本花盛、花盛、色娘という銘柄の清酒成分は、それぞれ日本酒度が(+)一七、(+)一八、(+)一七、アルコール分が一七・三、一七・四、一八・三。エキス分が二・六、二・三、二・五であり、有機酸が〇・五三、〇・四一、〇・五五(現在の滴定酸度に換算すると九・〇、七・〇、九・三ミリリットル)である。前記の銘柄が外人向けの特殊な清酒であったかどうか定かでないが、当時はまだ酒質を自由に設計できるほど酒造技術も発達していなかった時代だから、おそらくは当時の清酒の酒質を反映したものであっただろう。とすれば、これでも清酒かと思われるほど、現在の清酒とはかけはなれていたことになる。ちなみに、平成七年度の市販清酒の平均値は、国税庁鑑定企画官室の発表によれば、アルコール分が一五・五、日本酒度が(+)一・六、滴定酸度が一・二である。日本酒度と滴定酸度がわかると、佐藤・川島の計算式によって「甘辛度」と「濃淡度」を求めることができる。それによれば、日本花盛、花盛、色娘の甘辛度は、それぞれ(-)八、(-)八、(-)九であり、濃淡度は七、八、九である。一方、平成七年度の清酒は甘辛度が〇・〇一で濃淡度が(-)〇・七七だから、現在の清酒と比べると当時の清酒は、超鬼ごろし級、味も超濃醇であったと推察される。そのうえ、有機酸がワイン並みに多いので、猛烈酸っぱい酒だったようだ。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


常温での流通が主流
昨今、搾りの段階での酸化や、火入れ殺菌後の急冷に気を遣ったり、貯蔵タンクごとポリ袋を被せ、窒素ガスを充填することで酸素との接触を断つという方法を採ったり(山形県の蔵元「竹の露」が最初に発案)、保冷庫をつけた営業車でお酒を運ぶとか、問屋を通さず直接小売店と取引することでクール便を駆使したりと、商品管理に関して気を配る蔵も多く見られるようになってきました。しかし、まだまだ、なんの工夫のないままの常温での流通が主流となっている業界です。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


483茶はよく悶(いきどほり)を散ずれども功をなすこと浅し 萱(くゑん)は憂(うれ)へを忘(わす)るといへども力(ちから)を得(う)ること微(び)なり 同(おな)じ
茶能散悶為功浅 萱噵忘憂得力微 同
文集「鏡を杯に換ふ」。- 一 慮同の新茶の詩に「一椀は喉吻を潤ほし、二碗は孤悶を破る。 二 わすれぐさ。毛詩、衛風の伯兮(はくけい)の伝に「蘐草(わすれぐさ)は人をしてよく憂へを忘れしむ」とある。
▽茶は心の悶えを消すというが、その効果は浅薄だ。萱草は人の憂えを忘れさせるというが、ききめは少ない(元詩では「ききめを発揮するのが遅い」)。とても酒のききめの神速には叶わないよ。(「和漢朗詠集」 酒 川口久雄・志田延義校注) 


続春夏秋冬 秋之部 
新酒    僧になる友に新酒をすゝめけり  波静
       新酒店財布鳴らして新酒店入りにけり  同
       宵々の二合のきめや今年酒  抱琴
       諾々と駒打ちたゝく新酒かな  鳥人
       新走長広舌を揮ひけり  楽南
       幟かく墨に新酒を濺ぎけり  素泉
       旧相知新酒を以て語りけり  蕗峰
       酔曲る鼻びしびしと新酒かな  奇遇
       酔ひぬれば下物もからし今年酒  湖村
       妻持て兄が帰村や今年酒  二星
       新酒酌む熊坂在りや十三騎  寒楼
       芒さす樽や新酒の贈り物  幾句拙
       山の婿七晩とまる新酒かな  春畦
       新酒店諸事御法度の城下かな  碧童
       草の戸に辰馬が新酒匂ひけり  碧梧桐
濁酒    どぶろくの境界発句の天下かな  碧梧桐
       貧の鬚伸びて濁酒を酌みにけり  同
猿酒    猿酒や炉灰に埋む壺の底  碧梧桐
秋風    秋風や酒に酔へれば泣上戸  里静(「続春夏秋冬」 河東碧梧桐選 「現代俳句集成」) 


見上げるとまんまるお月様
今年の中秋の名月は、早い夕刻から、秋空の下で友と酌み交わし、ほんのり酔いが回って来たころ、見上げるとまんまるお月様…そんな一夜はいかがだろう。思うに、最初の一杯は、冷ややかと思うくらいにぬる目のお燗。2本目は、舌に喉にちょうどよい人肌。そして3本目は、ちょっぴり熱めのお燗がいい。お酒が主で、肴は従が鉄則。海のもの(例えば戻り鰹のたたき)と山のもの(例えば里芋の煮物)が少しあれば、十分だ。万が一、甘党が月見団子を持って来たら?そんな時にもなぜか合う、軟水でつくられた純米酒を、私はみちのく秋田で見つけてある。(「日本酒はうまい!」 井上理津子 日本酒造組合中央会パンフレット) 


方言の酒色々(26)
酒宴の翌日、宴を小規模にして酒を飲むこと たるふるい
酒宴の酒を終わりとする つもる
酒盛りの時以外に酒を酌むこと かんきき
破談になって、婚約の時贈られた酒を返すこと たるがいし
船を造るため船大工と契約し、共に酒を飲むこと こやいり(日本方言大辞典 小学館) 


馴染みの店
じつは私も各料理ジャンルごとに馴染みの店を確保するようにしている。-
こういった店を用途に合わせて2軒持つと実に便利だ。1つめの店は、会社からさほど遠くない場所にあることが望ましい。忙しいビジネスマンにとって移動時間はできるだけ短くしたいもの。とはいえ、会社のある駅近辺は避けたい。とくに仕事とまったく関係ない友人とプライベートで会う場合、同僚や上司、部下と遭遇する可能性があり、せっかくのオフタイムをオンモードに引き戻させかねないし、会話内容にも気を使わなくてはならなくなるからだ。もう1軒の店はできれば自宅から徒歩圏内、少なくとも帰りの電車の時間やタクシー料金をさほど気にせずにすむ距離にある店にしたい。自宅近辺に馴染みの店を持つ楽しみのひとつは、1つめの店のケースと違い、地域の人々と交流を持てるチャンスを得られることだ。自宅と会社を往復するだけのことが多いビジネスマンの場合、地域に親しい友人がほとんどいないという人が多い。これではオフが貧しくなるし、会社を定年退職したあとの人生も存分に楽しめない。そのために自宅近辺の店を利用するのである。(「遊ぶ奴ほどよくデキる!」 大前研一) 


「つきだし」
私は日本酒党だから、小料理屋には入って、まず何よりの楽しみは、「つきだし」である。「小料理屋…」とあえて書いたが、私は、いわゆる、高級料亭は、あまり好まない。貧乏人の負け惜しみも幾分あるのかも知れないが、高級料亭の、やたらに技巧をこらして飾りたてた、おこないすました料理は、どうも性(しよう)に合わない。うつわばかりに凝った、妙に手のこんだ料理は、出されただけで食欲が半減してしまう。「つきだし」も、洋食の「前菜」のように小鉢ばかりでなく、他に余計な品までのせてくるので、殆ど残してしまう。そこへ行くと、行きつけの小料理屋ならば、こちらの好みを知っているから、季節に合ったものを、しゃれた小鉢に入れて持ってきてくれるから有難い。それは、いくらの時もあれば、あんきもの時もある。煮こごりのこともあれば、なますのこともある。あさりの佃煮の時もあれば、鰹の角煮の時もある。菜葉やいんげんのからしあえや小えびの煮たのが出ることもある。いかの塩辛もよく出るが、私は十年程前にいかアレルギーをおこしてから、食べられなくなったので(煮ても焼いても当たるのである)この頃は、店の方で別のものにとりかえてくれる。とにかく、この「つきだし」で、ちびりちびり酒を呑みはじめるのが、何ともいい気分でこたえられない。ほんのりと酔いがまわりはじめた頃に、いくつか注文した品が、だんだん出て来るというわけだ。-
外国には「前菜」はあるけこれど、「つきだし」はない。これは正に日本独特のものと言えるだろう。第一、洋酒はちびりちびり呑むものではない。一気にぐいと呑みほすものなのである。だから乾杯などということをやるのである。あれは一気に呑まなければ失礼なのだ。日本の酒は、なめるように味わうのである。だから盃が小さい。小さい上に、一気に呑みほさない。不快なことでもないかぎり、あおることはなく、静かに、ちびりちびり呑むのである。そのために「つきだし」という、いきな料理が出来たのだろう。(「蓄音機と西洋館」 巖谷大四) 


9-うどんやうどん屋
【プロット】「なァーべ焼ァきうどーん」「おうーい、うどん屋、待ってくれ」寒空に荷を担ぎ流して歩く鍋焼きうどん屋。呼ばれたから客だと思った。酔っ払いである。寒いから火に当たらせろ、のどがかわいたから水を一杯と註文、うどん屋もあとに期待をかけて精一杯のサービズだ。酔っ払いは上機嫌で本日自分が出席した婚礼の話をする。「おめえ、仕立屋の太兵衛知ってるだろ」「知りません」「そんなはずなねえ。世間を広く歩いている商売なのに」だって知らないよ、そんなこと。くどくどと婚礼の次第を語り聞かせて話は堂々めぐり、三度目になると、うどん屋にとっても仕立屋太兵衛宅の婚礼が我が事のように思えば思えるようになってきた。よろしく相槌を打てば酔っ払いはますます御機嫌になる。「なあ、うどん屋、めでてえなあ」「さようでござんすな。大変におめでとうござんす」「いやな言い方だな。大変に、なんて。めでたいなら、ただ、めでたいと言え」「じゃア、おめでとうござんす」「じゃあ、とは何だ。不実つな奴だ」もう婚礼の次第は聞き覚えてしまった。うどん屋は先回りして手短(てみじか)に言ってのける。「あ、おまえ、婚礼に来てたのか」水をもう一杯註文され、ハイ、お冷やと答えたら、からんでくる。「水掛け論というのはある。おヒヤかけ論なんてあるか、バカ」いい加減にしてくれよ。暖をとり、のどをうるおした酔っ払いは、うどんを断って行ってしまった。ああ、今夜は仕事の幸先がよくない。(「ガイド落語名作100選」 京須偕光) 


水について
原酒は決してうまいものではない。ちょいと飲むと、油の如く濃く、なにやら非常にうまいように感じられるが、論より証拠これを多量に飲むとか、或いは二、三日も飲み続けるかすると、忽ち飽きてしまう。酔心地また決して颯爽(さつそう)たるものではない。しかるに生一本であり、水を混ぜぬという先入主から、旨くなければならぬように考える人が非常に多い。だが、適当の酒-酒本来の風味と効用を最大限度に発揮するに適当なコンディションを与えられた酒とは、如何なるものかといえば、「つまり、水を割ることですよ」と、神官は宣託する。水を割った酒-つまり水酒、金魚酒の風味なんてものは、誰も辟易する。酒が配給になる直前の一時期は、日本始まって以来の水酒が出現した。ここの酒蔵の主人にきくと、彼自身六割の水を割った経験があるという。ひどいことをやったもので、それなら酒でなくて水である。水で儲けるものは医者という相場があるが、醸造元また然り。小売店がそれに水を割り、料理屋がまた割りをきかすに於ては、金魚の遊泳(ゆうえい)に適するが当然である。その種のシロモノは、水に酒を添加したものにすぎないが、杜氏神官のいうのは、まさに酒に水を割る意味である。「さよう、まず一割から一割五分というところですかな」それ以上は、水酒の部に入るらしい。-
そんな次第で、原酒を生一本と誤解して、それに限るなぞ通(つう)をならべぬことであるが水を割るということが、決して生優しい仕事ではない。一割とか一割五分とかいうのは無論原則であって、すべての酒倉の酒に応用されるわけのものではない。ある酒に、精密に計算して一割加水しても、風味を生じないこともある。九分がいい場合もあり一割六分がいい場合もある。問題は、ある程度の水を割らねばならぬということで、その水の割り方は杜氏の勘がきめる。(「モーニング物語」 獅子文六) 


粕から焼酎
 はじめは酒かすでさえ酔っていた人が、度の強い焼酎でなければ酔わなくなる。酒量が上がることをいう。
客人一杯、手八杯
 客が一杯飲むあいだに、主人は手酌で八杯飲む意。酒飲みが口実に酒を飲むことをいう。(類句)お客三杯亭主八杯 亭主八杯客三杯 亭主三杯客一杯(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子)  お客三杯亭主八杯 


官許
大正年間、北九州の地方都市のはずれで、わたしの父親は屑屋の親方をやっていた。盗品を扱うこともある。場所もまた国道沿いの峠にあって手入れのときの見張りに都合がよい。ということで、よく刑事がやってきた。田舎だから、すぐ酒の饗応をする。その席に生後二年前後の赤ん坊であるわたしが、ヨチヨチ歩きで御愛敬むすび(?)に現れでる。そのわたしに刑事たちがビールを注いだ。罪ないたずらである。しかも官許(?)。うまい、と赤ん坊が思ったかどうか。ともかく、わたしは飲んだ。いくらでも。異常体質であろうか。満四歳まで二年間、この修業は、いいや酒業は続いた。最後にビール瓶から注がれたのは、ひどくまずいものであった。「苦い!」と叫んだ。どっと笑い声があがった。渋茶であった。こみあげてきた憤りのようなものを覚えている。酒との本格的なつきあいが始まったのは、旧制高校にはいってからである。自活する必要があり毎晩家庭教師にゆく。帰りは夜の十時、必ず渋谷の百軒店の安バーにひっかかって、寮への御帰館は深夜。ある冬、高田馬場で早稲田大学の友人と痛飲した。帰りに百軒店の安バーへ挨拶。そこまでは覚えている。フッと目覚めた。寒い。そのはずである。気付けば、雪の中に寝ている。しかも、われながら呆れたことに素っ裸。(「悲しささえも星となる」 宋左近) 


加える水の量
コップ一杯の酒に対してティースプーン一、二杯といったごく微量の水を加える。すると、甘口の酒もその一匙(さじ)の水で辛口に変わったりする。同じ銘柄の酒も、加える水の量によって味が微妙に変わり、水のもたらすマジックに驚かされます。(「酒道入門」 島田雅彦) 


ドライ派(禁酒派)の『アンクル・トムズ・ケビン』
随分変わってしまってはいたが、男がライマン判事であることにやっと私は気づいた。五年のあいだに顔が無残にも変わり果てていた。以前の二倍ほどの大きさに膨れ上がっている。厚く飛び出たまぶたがとろんとした目を半分ほど隠しているし、腫れた唇と頬が享楽的な生活ぶりを印象づけていた。毅然たる人間性が今や獣じみたものにひれ伏しているといったありさまだった。彼は大きな声でもっぱら尊大かつ独断的な政治談義をしていたが、すべて過去の記憶に基づいてのものであり、誰の目にも彼の思考が現実味を欠いたものであることが分かっていた。ところがである。酒のせいで、いわば、まっとうな思考すらできなくなっていたのにもかかわらず、前回の選挙では、反禁酒勢力に担がれて楽々と国会議員の座を得ていたのである。彼は酒造家の利益擁護のための候補者だった。そして反禁酒派は容易に丸め込みやすい「無党派層」に助けられて法と秩序と禁酒、道徳の訴えを退けてしまった。ライマン判事を議員として国会へ送り出すことで、この地方は結局こう意思表示したことになる。「われらが選んだこの人を見よ。彼のなかにこの地が誇る生活原理と質の高さが示されている」と。ライマン判事のまわりにはすぐに何人かの男たちが集まってきたが、彼は禁酒派攻撃に躍起になっていた。彼らは以前から敵対していたが、前回の選挙では急速に勢いを拡大していたのである。選挙期間中、この一派が出した新聞で、ライマン判事の人物像、倫理観などがあけすけに議論されており、もちろん、それは、まわりから一目置かれる人々の間で彼の株を上げる類のものでないことは確かだった。(「酒場での十夜」 T・S・アーサー 森岡裕一訳) 「最強の宣伝となったのは、ドライ派(禁酒派)の『アンクル・トムズ・ケビン』ともいうべき『酒場での十夜』であった。」と、「大いなる酒場」にあります。 


99.飲むのは甘いが、払うのは酸っぱい
 飲むときは楽しいが、その飲代を支払うときは辛いように、酒は飲んでいるときは楽しいが、後で酒上での愚言、愚行を恥じ、辛い思いをせねばならない。酒はほどほどにすべきである。 デンマーク(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


銭屋金埒(ぜにやきんらち)のもとより
ふたつもじ(こ) 牛のつの文字(い) ふたつもじ(こ) ゆがむ文字(く)にて のむべかりける
返し
すぐな文字(し) 帯むすび文字(よ) お客文字(う 香道で客を省筆するとウと書くからか(大田南畝全集)) 字はよめずとも のむべかりける [おみなへし、赤良・蜀山人]
銭屋金埒(馬場金埒とも言う)から「こいこく」を肴にして酒をのもうと誘って来た。「徒然草」で恋のなぞ言葉だったのを鯉に転用したのである。これに対して蜀山人が「しやう」とつけたのは、鯉こくは鯉の濃漿(こくしょう)の略だからである。ただし、むすび文字とお客文字という即席字謎が分かるかどうか疑問だが、とにかく飲みに行くと返事したわけである。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 「ふたつ文字」=こ、「牛のつの文字」=い といったことのようですね。 


「秦州(1)舂酒麹」の作り方(作秦州舂酒麹)
この麹は七月に作る。節気(立秋)が早い年は満月前に、遅い年は満月後に作る。原料のコムギを大釜のなかで手を休めず手早く炒める。手を休めると熟成が不同になる。香りがついて、黄色になったらば、取り出す。焦がしてはならない。大釜から取り出し、箕で風選して夾雑物を除く、麹の粉砕が細かすぎると、えられた酒が漉しにくくなる。水をまんべんなく平均に加えてこね、こねおわった麹を一晩置き、翌朝よく搗いて、方一尺、厚さ一寸の木型に入れ、若者に踏ませて餅麹とし、孔を開ける(2)。数日前からよく乾かしておいたヨモギを蚕座の上に敷き、その上に麹を寝かせ、、ヨモギで覆う。ヨモギは下を厚く、上を少し薄くする。窓や戸口を密閉しておくと、二一日で麹になる。割ってみて、内部が乾き五色になっていれば、取り出して天日で乾かす。五色の黴がまだ生えていなければ、さらに数日置いて取り出す。何回も天日に曝してよく乾かし、これを炊事場の棚の上に積んでおく。この麹一斗でコメ七斗をこなせる。(田中、小崎)
(1)秦州。現在の甘粛省南部、天水地区をいう。 (2)五色の黴。必ずしも五色となるとはいえない。こだわるとすれば、白、灰、黒、緑、黄であろうか。菌糸が内部に十分生育していることを意味する。(「斉民要術」 田中静一、小島麗逸、太田泰弘編訳) 


(昭和十九年)九月十一日
(田中)然るに今にして考ふるに、戦争は最早負けなり。而して近々陸軍自らが手を挙げる時期となるを以て、其時近公(近衛文麿)は出でゝ時局を収拾せらるゝ必要あり。然れども今公が和平を云々することは、身辺危険なるを以て、出来るだけ強硬論を主張せらるべしと。(田中の)誠実の意面上に顕れたりと。(富田が田中と)十一時より三時迄会見し、帰途平塚駅にて将校演習より帰途の十数名の将校が、酒気を帯びたるに会し、中の知り合ひを、叱して、此の時局もわきまへず白昼より酒を呑むとは何事だと大声一喝し、「自分(田中)の如きは早くやめてよかつた。今に軍服等着られなくなる時が来ますよ」と云ひたりと。(「細川日記」 細川護貞) 富田健治が田中隆吉から聞いた話だそうです。 


梅蘭芳の「貴妃酔酒」
梅蘭芳は大正時代に、帝劇に招かれて、二度来日した。そのために、日本人は、バイ・ラン・ホウでなく、中国読みで、その芸名(メイ・ラン・ファン)をおぼえられたわけである。「貴妃酔酒」は、皇帝の訪れが今宵はないと聞かされた楊貴妃が、その憂さを晴らすために酒を飲むという一幕である。侍従の注ぐ酒を、身体を反らしてぐっと飲んだりする。杯を重ねるうちに、段々と酔いが、この美しい女の全身にまわってゆく過程が、完璧になされ、見ている私たちをも、陶酔(とうすい)させる。長い袖で、侍従の肩をポンと叩き、京劇の女形独特の流し目で見るといった表情、すこしよろめいてクルッとまわる風情(ふぜい)、つれない男(皇帝)を怨(うら)んでの独唱、何もかも、至芸だった。クライマックスは、左右に侍女と侍従をおき、その肩にもたれるようにして、酔い心地のきわまった楊貴妃が、とうとう、舞台にすわってしまう、この型も、おもしろい。最後に侍女にいたわれながら退場するまで、観客は、終始堪能させられたのである。梅蘭芳は、美貌で、鈴を張ったような眼をしていた。声も、しぐさも、京劇の正しい伝統を継承、大成した俳優で、そのおもかげは私たちの訪中した時、撮影していた「梅蘭芳的舞台芸術」に残されている(私は猿之助とともに、撮影所に行き、この女形にも会った)。歌舞伎とちがって、新中国は、やがて女形を女優に変え、いまでは、女の役は全て女性が演じる。私は女形の日没前の大輪の輝きを、上蘭芳によって、たっぷり味わったのだ。(南座小冊子88・5)(「六段の子守唄」 戸板康二) 


づぶろ【づぶろ】

づぶ六の略称。(づぶろく参照)
雪隠のいびきを見ればづぶろ也   眠って居る也
づぶろく【づぶ六】
酒にひどく酔うた人の擬人名語。
づぶろくの仕打は世々の鑑也    大石の祇園遊興
づぶろくに見せて心は酔もせず   同上
づぶ六を辻番手柄そうにしめ     たわい無き人間を(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


着流しの下駄ばき姿
石原八束氏の伝記によれば、詩人は必ずしもいつもひとりだったわけでなく、その店でずいぶん多くの人と会っていたらしいが、どういうわけか私が見かけたときはいつもひとりであった。それからその三好さんが、当時はまだ暗かった道玄坂(どうげんざか)を、着流しの下駄ばき姿で、蹌踉(そうろう)という言葉さながら酔ってゆらゆらと上ってゆく後姿を、見送った記憶がある。いかにも孤独漂泊の詩人といったその後姿を、三好達治といえば私はすぐ思いだすのである。そしてそのたびに「閑窓一盞(いつさん)」という詩が頭に浮かんでくる。
憐れむべし糊口に穢(けが)れたれば
一盞はまづわが腹わたにそそぐべし
よき友らおほく地下に在り
時にかれらを憶ふ
また一盞をそそぐべし(「三好達治随筆集」 中野孝次編) 中野孝次の後書きです。 


五言。秋夜山池(しうやさんち)に宴す。一首。
51 峰に対(む)かひて菊酒(きくしゆ)を傾(かたぶ)け、水に臨みて桐琴(とうきん)を拍(う)つ。帰(かへり)を忘れて明月を待つ、何(なに)ぞ憂(うれ)へむ夜漏(やろう)の深きことを。
五言。秋夜宴山池。一首。
対峰傾菊酒。臨水拍桐琴。忘帰待明月。何憂夜漏深。
注 山池は邸宅の庭園にある築山や池、林泉。「山池」の詩題は六朝より盛唐にかけて少なくない。韻は琴(キン)・深(シン)。○峰に-峰に対座して菊をいれた酒をかたむけ、流水に臨んで桐製の琴を弾じる(拍はうつ、たたく)。菊酒は菊花酒(菊の花と葉とを穀類にまぜて醸造し、九月九日の重陽節に不祥を祓うために飲む酒)。第一句は陶淵明の故事、第二句は伯牙・鍾子期の故事を下にもつか。- ○帰を-(よい宴なので)家に帰ることも忘れて、明月の出るのを待つ、どうして夜(漏は漏刻、水時計、時刻)の更けて行くのを憂えようか。(「懐風藻」 小島憲之校注) 


東の横綱が私
ある雑誌の目次で、元「酒」編集長の佐々木久子さんが「文壇酒徒番付」を書いておられるのを眼にしたので、早速本文をひらいてみた。誰が酒豪なのか、という興味があったからだが、驚いたことに西の横綱が藤本義一氏、東の横綱が私と書かれている。なにごとであれ上位に評価されるのはありがたいことだが、自分の酒量を思うと分不相応に感じられ落着かなくなった。佐々木さんは、私が毎晩、数種類の酒を飲むことに注目して横綱に推して下さったのだが、確かに私はその様なのみ方をしている。ただ、たとえさまざまな酒を飲むとは言え、アルコールの総量は少ない。まずビールの小瓶を一本、次ぎに冷酒二合、そば焼酎に同量の氷水を加えたもの二、三杯、仕上げにウイスキーの薄目の水割り三、四杯というところで、稀にはそれにワインまたは紹興酒が加わることもある。午後六時頃から五時間ほどかけて飲むのである。かなりの量ではないかという人がいるかも知れぬが、アルコール量としては濃いウイスキーの水割り五杯ほどではないだろうか。この程度の酒を飲む小説家は珍しくなく、私など番付に入る資格はない。二十代の時は、決して自慢にならぬことだが、焼酎をコップ十七杯飲んだこともあるし、小料理屋でお銚子を二十七本並べたこともある。現在まで千鳥足になったのは、この焼酎を飲んだ時だけで、翌日の夕方まで強烈な宿酔(ふつかよい)に苦しみ通した。まださけののみかたもしらなぬわかきゆえのぼういんだが、三十歳を過ぎた頃からは、そんな愚かしい飲み方はしない。酒は程々ということが習い性になって、年に一度おこなう健康診断んでも異常は発見されない。(「私の引出し」 吉村昭) 


勘定は皆私が払う
私は十六歳にして飲みならい、二十六歳から晩酌を続け、外国に行けば行つたでペルノオの如きに淫(いん)し、戦争となれば局方なぞを窮用し、考えてみれば、深い因縁であった。勿論、なんの自慢になる話でもなく、また自分自身それほどのサケノミとも思っていないに拘(かかわ)らず、もうここまで生きてきた後をふりかえってみれば、やはりアルコーリストの生涯のようなっものだった。バカな話である。酒を呼んでマイ・レディなぞ洒落こむことも可能だが、それよりも五百件ぐらいに及ぶ失敗の方が、いまは胸に応(こた)える。酒の上の失敗は人の知っている方が軽微で、われのみ知る方が深刻を極めるのであるが、それは都合がいいようでいて、結局同じことだ。勘定は皆私が払うのである。審判の時代である今日を迎えて、私のところへ多くの勘定書が舞い込むであろう。(「モーニング物語」 獅子文六) 


諸君其まゝコレへコレへ
竹隈へ来た翌年隠居を願つて其のち慎みが解けたから門人を集めて講釈をした、大分多勢集まつたやうで郷村よりきて塾生となつた者もある、ある日三四人で「やつこ豆腐」で酒を飲んで居ると名は忘れたが長州人であつた、添書きを以て尋ねて来た、先生いま酒をのんで馬鹿話しをして居る、外に座敷はないから仕様がない、ソコで皆(みな)この道具を持つて其方(そつち)の方(はふ)へいつて呉れ、廊下に立つて居てもよいト言ふので、徳利を両手に持つ者もあり、豆腐の鉢を持つひともあり、盆を持つもあり皆々縁端へ出て其儘(そのまま)立て居る、其跡へ客を通して初対面の口誼をのべ畢(おわ)つて、さて只今友人ども集つて酒を飲んで居ましたが、お差支なくバ此へ呼ますト言つたので、何卒(どうぞ)御遠慮なしにト客も挨拶をするト先生、諸君其まゝコレへコレへといつたから皆な徳利や鉢を以て這入こんでまた飲初ると云様な事であつた(遠山虚口舟話)(「水戸史談 庄司健斎君物語」 高瀬真卿) 藤田東湖の思い出話だそうです。 


まあ、そんなことくらい、するかも
酒を飲んだときに、あとで記憶がないということは恐ろしいことだ。そういう経験のしはじめのころは、もう気になって気になって、その時間自分がいったい何をしていたのか、裏づけをとるのに一所懸命だった。その夜に行った店、一緒にいた人などに「ねえ、あたし何してた?何か言ってた?」と聞きまわった。そして、こういうことをしてた。ああいうことを言ったと聞いては、落ち込んでいた。しかし、最近は違う。「あれえ、覚えてないぞ」と思っても「まあ、そんなもんだ」と気にしなくなってしまった。たとえ人から「こんなことをしてたぞ」と言われても、「えっ、それは大変」のすぐあとから、「まあ、そんなことくらい、するかも」が追いかけて来る。したこと言ったことが、何日も何日もあとになってから判明したりもする。最初は、これって老化現象のようなものかなと気にしたが、どことなく愉快であり、だんだん面白くなってきちゃったよっと。もちろん、わざとやっているわけじゃないんだけど、これは、最近の飲み友だちの人柄にもよるみたいなんだわ。みんなぱかぱか飲んで楽しんで、大騒ぎするやつばっか。漫画家のくせに、歌を歌って跳びはねて、水割り用の水浴びてたり、いつもブルースハーブ(ブルース用のハモニカね)持ってて突然吹きだしたり、どこでもすぐ寝こけて体じゅう落書きされていたり、それがその人たちの日常だってんだから、漫画家の生活も変わったものよ。なーんて、私も人のこと言えないことをいろいろやっているらしいし、全くしょうがないね。でも、自分のみっともなさを早く自覚するのも、社会人のワザのひとつかもしれない。いつだか近所の焼鳥屋で、どうみてもべろべろに酔っぱらっている女の子が「あたし、どんなに飲んでも酔わないの」って言い張ってたけど、ああいうののほうがはるかにまずい気がするよ。(「私の部屋に水がある理由(わけ)」 内田春菊) 


482生計(せいけい)抛(なげう)ち来(きた)つて詩(し)これ業(げふ)なり 家園(かゑん)忘却(ぼうきやく)一酒郷(さけきやう)たり 白(はく)
生計抛来詩是業 家園忘却酒為郷 白
文集「蕭処士の黔南(けんなん)に遊ぶを送る」。- 一四八五の酔郷に本ずく発想。 ▽老蕭郎の生活をうたう。なりわいのことはうちすててしまって詩を本業とし、家のことは忘れはてて酒をふるさとにしていりびたる。(「和漢朗詠集」 酒 川口久雄・志田延義校注) 


山谷のアル中
東京都監察医務院に勤務していた楫取正彦先生によれば、昭和五十五年から五十七年の三年間に、山谷の泪橋(なみだばし)交差点を中心に、半径五百メートル以内での行路変死者が二百三十六人もあった。四十から五十代の人が七十三・六パーセントを占めていたが、その内肝疾患が五十人、心疾患三十三人、次いで脳血管障害、脳外傷の順である。全てアルコールがらみの疾患である。(「断酒でござる アルコール呪縛からの脱出」 堀井度) 


桑酒
一桑の実を二升焼酎七合砂糖石五拾目右三品を一つにまぜて置(き)七日目にいかき(ざる)へあけ汁をたれとり○なり
葡萄酒
一ぶどうよく熟したるを皮を去りて汁四はい氷おろし三盃龍眼肉壱盃古酒三盃焼酎三ばい右一ツに合せ置七日を経てすふなり風を引ぬやうに口はりをして廿日程経てよし(「料理法集 料理酒之部(重宝記資料集成)」) 


嫌です
続いて、この欄のさし絵の長友啓典氏に電話を入れた。「いやあ、トモさんまいっちまった。明日ヨーロッパに行くんだけど、チケット代がなくて」「…」トモさんは黙っている。氏は昔貧乏で、黒田征太郎さんとはほとんどの酒場の飲み代を払わなかったと言う。二人の顔を見るとどこの酒場のママもドアに鍵をかけたくらいの貧乏だった(二人はその時ドアの下から鼠花火を投げ込んで、中で大騒ぎをしている隙に入ったと言う)。ならば私の心情も理解していただいて、あわよくば金も貸してくれるかも知れないと思った。「トモさんそれでさあ」「アンタ、金の工面がついたら、こっちにも少し回してや」そこで電話が切れた。私は自分の事務所に電話を入れた。事務所の女性の声は暗い。こっちの用件がわかっているからだろう。「本当に金はないのか」「ありません」別に喧嘩を売ってるんじゃないんだから…、作戦変更。「君のボーナスは大丈夫なのか」「はい、それは確保してあります」えっ。「すまんがそれを借りられないだろうか」「嫌です」彼女も人間が変わった。(「銀座の花売り娘」 伊集院静) 


酒席における実地訓練
酒とタバコとの決別はあちらのビジネス・エリートの新しい習俗だが、日本ではまだまだで、タバコをやめた人間は多いがアルコールも一緒に断ったという人はそれほどいない。そのせいか、男の世界における飲酒を伴うコミュニケーションは不景気にもめげず続いているようだが、それでも昔と今とでは随分と変わった。なにが変わったといって、日が暮れ、会社の退けどきともなると、誰いい出すともなく、以心伝心、「行くか」という誰かの呟きのようなひとこと一つで、ぞろぞろとつながって行きつけの飲み屋へ繰り込み、グラスを傾けながら会議の延長のような仕事関連のやりとりに時間を費やすのが、ついこの間までのアフターファイブのならわしだったが、近頃はそうはいかない。かりに「行くか」と声をかけても「応」と二つ返事で賛意を表明するのは、鼻の頭が赤くなりかかった酒好きの一部中高年社員だけで、若手のほとんどは聞こえないフリをして、そそくさと帰り支度を始める。彼等若手にいわせれば、勤務時間以外は自由であって、残業代もつかないのにダラダラ酒飲みの相手をすることはないという理屈なのだろう。まるで学校の退けどきのように、時間がくると遠慮会釈なくさっさと帰っていく。たしかに彼等の考え方は一見合理的であるかのようだが、そうすることによって少なくとも一つだけ、重要なサラリーマンとしての心得を身につけ損なうのは紛れもないことだ。飲酒という行為が、酒好きの仲間同士でワイワイガヤガヤと盛り上がるためだけならば、学生時代のコンパの経験だけで十分だが、一人の完成された社会人として、公私を含めたつきあいを過不足なく全うしていくためには、酒席における高度にして多様な心得を身につけておかなければならず、そのためには<酒席における実地訓練>を欠くわけにいかない。(「夕空はれて」 諸井薫) 


天高く酒(さけ)ほがい
天高く、といえば、その下に続く文句は、ふつう、馬肥ゆる秋、と相成りますな。あえて「天高く酒ほがい」と申しましたのは、秋の空が晴れ渡って大気が澄み切ってきますてェと、お酒の味がとりわけ美味くなる。お酒好き同士が道で、ばったり出会ったりすれば、「やぁ、お酒が美味いころになりましたなァ」「ご同様結構なことで」とかなんとか、挨拶を交わすこともあるようで、いえ、なに、お酒の好きな人たちでしたら、秋になろうがなるまいが、大気が澄もうが澄むまいが、そんなことはどうだっていい。四季を問わずの酒ほがい。いつでも大なり小なりの宴(うたげ)を開いて、祝っておりますな。酒宴といったって、必ずしも大勢が車座にならなくったっていい。テーブルを囲まなくったっていい。差し向かいでも酒の宴、一人でも、風景が、あるいは花が、あるいは己(おの)れの心が相手の、酒ほがいだってェこともあり得る。(「志ん朝のあまから暦」 古今亭志ん朝) 


親子共同の酒場
山頭火は県立山口中学に編入してから、俳句を始めた。明治三十五年早稲田大学文科に進み、その頃から酒を大いに飲むようになる。彼の文学的才能は群を抜いていたが、その頃の父の乱脈ぶりも盛大なもので、学費も満足には送れないほどになっていた。山頭火は強度の神経衰弱で、明治三十七年に早稲田大学を病気退学した。父はその頃、種田家を整理して隣村の酒醸場を買い受け、正一(山頭火の本名)名義で親子共同の酒場を始めた。ところが父はますます女に、子はいよいよ酒に耽溺した。そうした中で、父は山頭火を無理矢理に結婚させた。もう二十八歳になっていた正一が、飲み歩くのは、孤独のせいと思い込んでいたからであった。ところが山頭火は父とは違って、あまり異性には興味を示さなかった。そのころ運が悪く二年続きの腐造となった。これは酒造業として致命傷である。父子ともに家業を怠ったのでは、当然の破産である。時に大正五年であった。父は妾をつれて夜逃げをし、山頭火は妻子とともに遠く、同人を頼りに熊本へと落ちていった。みなから寄贈を受けて古本屋をやろうとしたが、うまくゆかなかった。彼は全てにおいて依存的であった。そしてこの依存心は終生変わらなかった。(「断酒でござる アルコール呪縛からの脱出」 堀井度) 


アフター5
アフター5をもっと有意義に使おう、こういうと多くのサラリーマンは、文化的な過ごし方をしようという提言と同義に受け取ってしまうが、それは誤解だ。酒は百薬の長ではないが、1日の疲れを酒で癒すのは、万国共通、とても楽しい時間であることに変わりはない。しかし、日本のサラリーマンと欧米のビジネスマンでは飲み方が異なる。日本では終業後に同僚と仕事の愚痴や上司の悪口をいい合う飲み方が日常化し、取引先と親睦をはかるのにも酒の席が活用されている。これは悪習以外の何物でもない。理由は2つある。1つは、自分のペースで飲めないことだ。こちらが誘った負い目、もう少し愚痴を聞いてあげようという情け、まだ聞いてほしいことがあるという未練…などの理由から、1軒だけで帰る、では終わらない。ついつい深酒してしまい、翌日はしばしば二日酔い。そして仕事に支障をきたし、必ず後悔する。2つめは、トラブルの原因をつくりやすいことだ。取引先との接待では、深夜まで何軒も店を回るうちに饒舌になっていく。お互いに打ち解けてきた、といえば聞こえはいいが、これは同時に余計な一言を口にしやすい状況ともいえる。日中、せっかく理想的な形で商談を運んだのに、酔った挙げ句に漏らした余計な一言で、相手に不信感を抱かせる、怒らせる…そんな悲劇が延々と繰り返されている。行き着く先はやはり後悔だ。日本型の飲み方でストレスを発散させるのは至難の業なのだ。(「遊ぶ奴ほどよくデキる!」 大前研一) 


仏説摩訶酒仏玅楽経(5)
須臾(しゅゆ)ニ 酒力 湧上(わきあが)リ。 昏昏騰騰(こんこんとうとう)トシテ 不レ弁(べん)ゼ二 四方上下一。 幕(まく)トシレ天ヲ 席ニシレ地ヲ 忘レレ物ヲ 忘レレ身ヲ。 耳 不レ聴(きか)二 雷霆(らいてい)ヲ一 目 不レ視(み) 泰山ヲ一。 直(ただち)ニ 入(いり)二 「酉毛」「酉匋」(もうとう)之勝地一。 得(えたり)二 大歓喜ヲ一。(「仏説摩訶酒仏玅楽経」 亀田鵬斎 新編稀書複製会叢書)
あつという間に酒力が湧き上がり、朦朧としまた高揚してきて東西南北も上下も分からない。天を幕とし大地を敷物としているような豪壮な気分になり、外界を忘れ我が身も忘れ、耳には雷の音も聞こえず、泰山も目に入らない。ただちに酩酊の佳境に入り、大いなる歓喜を得た。(「仏説摩訶酒仏妙楽経謹解」 石井公成) 


晴明
アレガ地酒(ジザケ)デ名高(ナダカ)イ村(ムラ)ヨ
花ノサカリニツメタイ雨デ
タビノ身空(ミソラ)ハ寒ウテナラヌ
坊ヤ何処(ドコ)ゾニ飲ミ屋ハナイカ
「アレガ地酒(ジザケ)デ名高イ村ヨ」

晴明 杜牧
晴明の時節雨紛紛
路上の行人(こうじん)魂(こん)を断たんと欲す
借問(しやもん)す酒家(しゆか)は何処(いずく)にか在る
牧童遙かに指す杏花(きようか)の村(「「サヨナラ」ダケガ人生(じんせい)カ」 松下緑) 「杜牧がこの詩を作ったころ、彼は池州(ちしゅう 現・安徽(あんき)省貴池県)の刺史(知事)の職にあったとされる。池州には「杏花村」という村があり、その地に「黄公酒壚(こうこうしゆろ)」という造り酒屋があって、杜牧はこの店の酒を好んだという」ともあります。別の説もあるそうです。 


北京酔夢
日本のシナリオライターで飲めないのは、八住利雄とわたしだけで、あとはそうとういける口である。中国のライターはみな酒豪で、茅台(マオタイ)を蛙のようにぱくっぱくっと喉へ放りこむのだ。この日は、朝から万里の長城を見学し、そのばかばかしいほどの雄大さに圧倒され、やや劣等感に沈んでの北京ダックだった。食後は紫禁城を見学することになっていた。万里の長城に対抗するには茅台ぐらい飲まなければ!突如私は亢(たか)ぶった。万里の長城のくねくねとうねって山の彼方に消えた姿がわたしをゆさぶった。わたしは決然と、恐ろしい杯をぐっと飲みほし、張天民の前にぐっと突き出した。「シンドーセンセイ、バンザイ!」と張天民は快笑して立ち「ニッポン、シナリオキョーカイ、干杯」と叫んだ。一同が応じた。こうなると対抗上日本側から「中国のシナリオに干杯」となる。もうとまらない。「中国のシナリオ・シンポジウム、干杯」「中国の友に干杯」「日本の友に干杯」八住さんが「新藤君大丈夫?」と心配そうに見守るなか、わたしはもはやヤケクソ、恐ろしい茅台を五杯も飲んだ。万里の長城が相手のせいか少しも酔った気がしない。おかしいぞ、もしかしたら、おれは実は酒飲みかも知れないぞと疑うありさまだ。兄貴は大酒を飲んで死んだ。北京ダックの店を出て紫禁城へ向った。おお、天安門、ちきしょう驚かねえぞ、そびえたつ巨大な楼門と甍(いらか)、なんだってみなこう大きいんだ。その瞬間、目の前の円柱がぐらっと傾いた。ややっ、地震か、立ち直ろうとしたが左右にゆれる、やっとおさまったと見ると、張天民と蘇叔陽が側面からがっちりと腕をとっている。足にきたのだ、茅台め、頭の中がかっかと燃えている、耳の中でじーんじーんと蝉が鳴いている。これはしたり、中日シンポジウムなるぞ、日本人として恥ずべき振舞いがあってはならぬ。ふんばったが、雲の上を歩くとはかくやとばかり。尿意を催してきた。下腹が突張り滝の如く下る感覚。せきとめねば…。「厠所(ツオスオ)」「厠所」と叫んだのは覚えているが、あとはもう洪水に押し流される夢を見ていた。(「歳月は風の吹くままに」 新藤兼人) 


酒場ぎらい
七〇年代も半ばを過ぎてから、外でお酒を飲む機会がめっきり減った。外国へ行っていたり、住居を都心から遠いところへ移したせいもあるが、やはり戦後三〇年を経て、行きつけのお店が消滅したり、店の主人の顔が変わったりしたためだろうと思う。それに飲み仲間が次々に消えてゆく。いちがいに老舗ならいいというのではないが、どうせなら古いお店がいい。主人や女主人の顔を三世代にわたって知っているようなお店なら、店に来る客種も三世代くらいにわたるから、老若が入り混って話題の幅がひろがる。スナックや大衆酒場というのにどうも足を運ぶ気がしないのは、一代で元を取ろうとする力みや、そこから客あしらいのゆとりが乏しくなって、コンピューターで利率計算をしているような能率性が空間を支配している息苦しさで気が休まらないからである。能率、能率とおっしゃるが、一席単位の回転率だかの餌食になっているのは、客である当方なのである。客はそこまで人が好くない。これが駅ソバだのい、立喰いラーメンだの、を売るお店ならそれでいい。短時間で一定の目的を果す能率性は、客のほうでもそのつもりで利用しているからである。お酒もソレ式がまだしもいい。酒屋の立飲みを軽蔑する人がいるが、私はそれほど馬鹿にしたものではないと思う。銘柄を選んで、コップの冷やを三口ぐらいツツーッと空けて、すっと出る。サラリーマン相手の、おかずの貼り札をやたらぶら下げて、本日のお推め品刺身盛合わせお徳用式の、大衆チェーン店の、連日宴会ずくめのような農村的雰囲気よりはよっぽどいい。あのおそるべき民芸趣味的大徳利でお燗した正体不明の酒のまずいこと、ものが食べたければ食堂へ行けばいいのにと思う。おかげで食堂がすいていて、しかも食堂なら一人客でも白眼視しないので、私は何でもない食堂やソバ屋でお酒を飲むのが好きだ。静かだし、だいいち昼間でも飲める。(「人生居候日記」 種村季弘) 


1-あおな青菜
【プロット】-
青いものに水を打ってくれたので風が快(こころよ)いと旦那は喜び、仕事着の汚れがついても構わないから、と植木屋に縁先の座をすすめ、自分の涼み酒を相伴(しようばん)させた。焼酎に味醂(みりん)を割った冷用酒・柳影。肴(さかな)は下に氷を敷いた鯉の洗い。ああ、上流の生活。「植木屋さん、菜をおあがりか」青菜のおひたし、いただきます、旦那の打つ手に応えて奥様が直々(じきじき)の御登場、しとやかに三つ指ついて、「鞍馬より牛若丸が出(いで)ましてその名(菜)を九郎(喰らう)判官(ほうがん)」「そうか。義経(止し)にしておきなさい」-菜がない。ならばよそう、の客前での見事な隠しことば。(「ガイド落語名作100選」 京須偕光) 


酒飲むは、罪にて候か
酒飲むは、罪にて候か。答う。まことには飲むべくもなけれども、この世のならい。 鎌倉、法然(ほうねん)(一一三三-一二一二)『百四十五箇条問答(ひやくしじゆうごかじようもんどう)』より。 ある人が法然に問うた。「酒を飲むのは罪でしょうか」と。法然が答えた。「本当は飲んではいけないけれど、酒を飲むのはこの世の習慣なのでねえ」 仏教徒のしてはならない五つの戒律の中に、「不飲酒戒(ふおんじゆかい)」というのがある。読んで字の通り、「酒飲むな」という戒である。出家者は出家の時、この五戒をまず受けなければならない。この質問に対して、出家者である法然の答えは当然、「飲むな」である筈だ。ところが法然は「本当は飲んじゃいけないんだけど、何しろ、世間のならいなのでね」、まことに曖昧な煮え切らない返事をしている。生まれつき酒の飲めない体質の人間なら何の苦痛もない不飲酒戒が、酒好きの人間にはとても辛い。昔も今も坊主の酒呑みは後を絶たないので、寺では般若湯(はんにやとう)などという名をつけて飲んでいる。法然自身は持戒に厳しく生涯不犯の聖僧であったし、おそらく酒も決して飲まなかったであろう。しかし戒を守りきれない破戒無戒の弱い凡夫をも慈悲の目で見ることが出来た。凡夫のならいで人は目前の欲や迷いにひかれて悪いと思いつつ罪をつくる。それを法然は「力及ばぬことにて候え」と、人への手紙に書いている。(『寂庵だより』「今月のことば」一九九五年八月)(「寂聴草子」 瀬戸内寂聴) 


弋言加之    弋(よく)して言(ここ)に之(これ)を加(あ)てば
與子宜之    子(し)と之(これ)を宜(よろ)しくせん
宜言飲酒    宜(よろ)しくして言(ここ)に酒(さけを)飲(の)み
與子偕老    子(し)と偕(とも)に老(お)いん
琴瑟在御    琴瑟(きんしつ)御(ぎよ)に在(あ)り
莫不静好    静好(せいかう)ならざる莫(な)し
いぐるみで鳥(とり)に中(あ)てて獲(え)たものを
調理して御馳走を作りましょう
それを肴(さかな)にして酒(さけ)を酌(く)み
そなたと偕老(かいろう)の喜(よろこ)びをつくしましょう
琴(こと)も側(かたわら)に離(はな)れずに
静(しず)かに和(やわ)らいだ音(おと)をたてる
賦である。夫が弋(いぐるみ)でうまく鳧や鴈に中(あ)てて獲物にして持ち帰ってくれば、私はそれをうまく調理して酒肴をこしらえる。夫も鳥の毛をむしり取ったり、首を割いたりして、何かと手伝うことであろうから、「子と之を宜しくす」という。鳥肉を調理してうまい御馳走ができたので、それを酒肴にして、夫と共に延寿(えんじゆ)の酒を汲み交わし、そなたと共に偕老(かいろう)同穴の契りを重ねましょう。琴も側にあって、その音も静かに和らいで、楽しい限りである。(「詩経」 高田眞治編訳) 


オトーリ
沖縄の宮古島には「オトーリ」という酒の流儀が根付いています。車座になって一つの杯を順繰りに回していく。注(つ)がれた酒{泡盛)は飲み干さなければ礼を失するという、過酷な酒の掟(おきて)です。このオトーリでも、必ず口上が述べられる。「親」が、ともに酒が飲める機会を得たことを寿ぐ口上を述べ、杯の酒を飲み干し、隣の人に渡し、その杯を酒で満たします。その人もまた口上を述べ、杯を空け、隣に回す。これを繰り返していくわけです。座を一巡して終わりかと思いきや、さにあらず。今度は親の隣の人が新たな親となって一巡する。つまりは参加者全員が親を務めるまで終わらない。その果てにはいかなる結果が待ち受けていようと、忘れられない一夜になることは間違いありません。(「酒道入門」 島田雅彦) 


ピルグリム・ファーザーたち
マックソーリーズというのは、ニューヨークでも最古の居酒屋の一つである。この店のことを書いた読物を私は数年前に翻訳した。あるビール会社がこの居酒屋の人気にあやかって、マックソーリーズ・エールという名前をビールにつけた。この居酒屋に行ってみたかったのだけれども、時間がなかった。それで、コーヒーショップでこの銘柄のビールにお目にかかったときは、じつにうれしかった。ビールというと、無知な私はドイツをすぐ思いうかべる。しかし、イギリス人だってビール好きだ。メイフラワー号のピルグリム・ファーザーたちがマサチューセッツ州のプリマスに上陸したのは、食糧を切らしたからだ。そして、ビールもなくなってしまった。このビールに不自由して、ヴァージニアまで航海する計画を変更したのである。メイフラワー号もピルグリム・ファーザーも遠い存在だったが、こういう話を聞くと、親しみがわいてくる。たかがビールを切らしたぐらいで、と思う一方で、彼等も人間なのだとおそろしく平凡なことを考えてしまう。(「グラスの中の街」 常盤新平) 


ジアスターゼで発酵
高峰(譲吉)は、日本の麹の酵母は十二パーセントのアルコールが醸すに堪えるが、アメリカのウイスキーを造る酵母は八パーセント以上の力はない。それだから日本の麹の酵母を持って行って、アメリカでウイスキーを造れば非常な事である。また玉蜀黍(とうもろこし)からジアスターゼを作ることを発明したが、これは消化剤で、実に世界的のものであるという。そういうことで、再びアメリカへ行くことになった。高峰がアメリカへ行って研究していると、ウイスキー業者がそれを聞いて、それは大変だ、そんな物を発明されては我々の事業をすべて奪われてしまう、高峰という奴を殺してしまえと言うて大騒ぎをした。妻君のおやじさんは大変高峰を愛して、このドクトルの研究は実に容易ならぬものである、これはどうしても成功させなければならぬと言うて、自分の財産を高峰の研究に投じ、一家を挙げて世話をした。高峰を殺してしまえという騒ぎの時は、家の数階上(うえ)の所へ高峰をかくまって助けた。(「自叙益田孝翁伝」 長井実編) 高峰の妻はアメリカ人だそうです。 


すべてを炒ってつくる麹
前章までの餅麹作りは、いずれも原料であるコムギを三分して、なまで、蒸して、また炒って作るものである。一方、この章の粗麹は、コムギのすべてを炒って細かくし、木枠で舟型餅麹をつくり、ヨモギのうえに寝かせる。神麹にくらべて作り方は簡単であり酵素力は落ちるという。この章では、この麹を使用して二六種の酒造法が述べられている。『東亜発酵化学論攷』によれば、糸状菌の生育にとっては、生のコムギがもっとも良く、蒸麦、炒麦がこれに次ぐという。餅麹の糸状菌はクモノスカビ、菌糸状酵母などであるが、コムギには遊離のアミノ酸が多く、これらが窒素源となって糸状菌はよく生育する。しかし、蒸すか炒るかすれば、コムギに含まれるタンパク質は熱変性し、クモノスカビの生育は悪くなる。米の場合も、蒸米にするとクモノスカビの生育は悪くなる。(田中、小崎)(「斉民要術」 田中静一、小島麗逸、太田泰弘編訳) 


(2)阿寒の場合(3)
この酒つくりの道具は神々のまつりに使う道具と同じようにていねいに扱われ、もう古びて使われなくなってしまった感謝の気持ちを持ち続け、そのへんにすてたりはしないで一定の場所に収めるが、このとき祈詞は女もあげてよいことになっている。女が祈詞をあげられるのは、これらの道具を収めるときと、イチャラバ(祖霊祭)のときくらいのものである。役目を終えた道具を収める場所は、ヌサのすみのほうにある。ヌサというのは、たくさんのイナウ(木幣)が飾ってある幣場のこおtである。アイヌの酒の原料はひえ、あわ、きびなどが使われているが、阿寒では麦と馬鈴薯の酒もつくる。大麦五合、中ぐらいの馬鈴薯一〇個、水が二升、それに米こうじが約六合とぬるま湯が八合である。大麦は洗っておき、馬鈴薯は皮をむき、粗くさいの目に切る。サケスウ(酒なべ)に大麦と馬鈴薯を入れ、水を加えて火にかけ、水気がなくなるまで煮る。それをサケカラシントコに入れ、中央をへこませて、ときどきかき混ぜながら人肌くらいになるまで冷やす。米こうじは木鉢にとって、ひたひたになるほどのぬるま湯を加えて混ぜ、約三〇分ほど炉端に置いておく。人肌くらいの温度になった馬鈴薯と大麦にこの米こうじを加えてよく混ぜ、表面を平らにしたあとふたをし、その上にきものを掛けて仕込む。このようにして、酒つくりは女たちの手によって行われる。昭和のはじめごろから、おかすことを禁ずる厳しい決まりごとも少しずつゆるんできたが、酒つくりの行事は女だけに伝承され、すべてまかされている。まつりの日、男たちは晴れやかにまつりの表舞台に立つが、女たちは目立たないところで、奥ゆかしく要所を固める。静内は織田(おりた)ステノさん、阿寒はおもに日川キヨさんからお話をうかがった。(「聞き書き アイヌの食事」 萩中・畑井・藤村・古原・村木) 


中川昭一さん(衆議院議員)の巻
(中川昭一)良純がこの前持ってきた吟醸酒も、うまかったな。
(石原良純)冗談じゃありませんよ。アレは宮城の蔵元にまで問い合わせて、ようやく手に入れた酒です。それを、あっっという間に五合瓶三本、全部飲まれてしまったんですから。
 まあまあ、いいじゃないか。チーズに、のりに、ビーフジャーキー。どこからともなくつまみも集まって、皆でおいしく酒を飲めたんだ。
 お言葉を返すようですが、あの酒は一人で飲んでもうまいんです。(「遊びに行(い)こうよコール」 石原良純) 


泣き上戸一元論
人間は、人間の条件運命は、要するに悲しむべきものです。酔っ払いの泣き上戸は、あれがありていに正直なところだと説く人があります。他の二癖、笑う者も怒るものも、更に強いて深酔いせしめれば、やがて泣き上戸に還元するだろうという一元論であります。そういうものかもしれません。(「三好達治随筆集」 中野孝次編) 


昭和五十三年
いま手許に残された毎年の番附表を見ていると、文壇作家の変遷ぶりがよく分る。昭和三十七年には有吉佐和子が西の小結で、技能賞になった。この年、世界的呼び屋(興行師)の神彰(じんあきら)と結婚し、話題をまいた。彼女の幸せの絶頂で、ひと晩にハシゴ酒をして、ブランデー一本を空けた、ともいう。梶山季之(としゆき)三十八年の新入幕で、前頭五枚目、『黒の試走車』でデビューして、殊勲賞を貰った。その翌年には小結で三役入りし、横綱を張ること六年、酒豪ぶりを発揮した。平日は朝からビールで始まり、ウイスキーの水割りを飲みながら原稿を書き続け、夕方になると、巷(ちまた)へ出撃した。梶山と並ぶ酒豪といえば、立原正秋である。四十一年の新入幕では十両七枚目だったが、次の場所には一足飛びの関脇に昇進した。この年に「白い罌粟(けし)」で直木賞を受賞した。そのあと七場所連続して、横綱の地位を守った。しかし、有吉も梶山も立原も道半ばにして、仆れた。「文壇酒徒番附」は二十年間続いて、その企画を終えた。文藝春秋主催の文士劇が幕を閉じたのはその翌年、昭和五十三年(一九七八)のことで、文壇そのものが終焉を告げる時代になった。(「ありし日の文士と酒」 大村彦次郎) 


黒はんぺん
売れっ子作家の村松友視氏と私は、静岡高校の先輩後輩である。愚兄賢弟の感があるが、不肖私が先輩である。彼が中央公論社時代からのつきあいで、共に酒好き、芝居好き。好男子の彼と酌み交わすと、なんとなく自分までいい男になっていくような気がして、実に気分がいい。彼が直木賞を受賞したときのこと。記念にぜひおごりたいというので、仕方なく郷里の静岡でごちそうになることにした。どこでも先輩のお好きなところでお好きなものをと、のたまうから、あれこれ考えたものの、貧乏性には、いざとなると高くてうまいものが思い浮かばない。静岡はイワシの"黒はんぺん"がうまいので、味自慢の「三河屋」というおでん屋で思いっきり食べて飲むことにした。さて勘定は、となって村松氏、ずしりと重い縞(しま)の財布、いや革の財布を手に身構えると、「二千二百円です」と拍子抜けの親父(おやじ)の声。村松氏、してやったり。「安いというのはたしかにいいが、時と場合による」と私は文句たらたらで、そのあとすっかり悪酔いしてしまった。今度何か賞をとってみろ、ただではおかないから、と愚兄は今から手ぐすねひいて待っている。(「当世やまとごころ」 山川静夫) 


看病
「どうだ、八公、だいぶ具合がわりいときいたんで、一人じゃ不自由だろうと思って、みんなで相談して、今夜は看病にやってきたんだ。食いたいものがあったら、遠慮なくいうがいい、なんでもこさえてやるから」「やあ、友達はありがたいな、三人ともとまってくれるのか」「そうよ、そのつもりできたんだ、薬でも白湯でも、のみたいものをいうがいい」こういう調子で、宵のうちはにぎやかに酒をのんでいたが、夜がふけると、みんなごろごろねてしまった。夜中に病人が眼をさまし、湯でも茶でも一杯ほしいと起したが、いくら呼んでも眼をさまさない。仕方がないので、自分ではいだして、火鉢のそばまで行くと、一人が眼をさまして、「おい、八公、ついでに、おれにも一杯くんでくれ」(「江戸小咄大観」 田辺貞之助) 


(2)阿寒の場合(2)
さて、酒ができあがると、いよいよ酒漉しである。酒漉しは、まつりの前日に行なうが、女たちは正装してこれに携わる。このときから女たちの気持は、もうまつりのなかに没頭する。まず、上座の前に置かれた道具類を前にして、女たちがシソ(本座)の脇(上手(かみて)のほう)に並ぶと、次のような歌がはじまる。 
トノト ソロマ     酒がこの座にあるよ
シラリ           酒粕を
シコ ヌムパ     しっかりしぼれ
しばらくは歌にあわせて手拍子をとっているが、一人が静かにシントコのふたをとる。ふたをシントコの脇に立てかけると、みなは手拍子をやめてオンカミ(礼拝)をする。カムイプヤラ(神窓)のほうに向かって一度、下座のほうに向かって、一度、下座のほうに向かって一度、そして、いまできた酒に対して一度、全部で三度オンカミをする。酒漉しはケマウシシントコ(脚つきの行器)のうえに木を渡して、その上にイチャリ(ざる)をのせて行なう。サケカラシントコ(酒仕込み用の行器)の中の酒をサケピサク(酒ひしゃく)でくんで、イチャリのなかに三回注ぐ。次にイチャリの中の酒を手のひらで静かにこすり、そのあと、軽くにぎった手でイチャリのふちを軽くたたき、酒の汁を下に落とす。そうすると酒汁とシラリ(酒粕)に分けられる。イチャリの中の酒粕は別のポンシントコ(小さな行器)に移される。このように酒を漉している間も、歌は間断なく続いている。その歌の調子を合わせてからだを動かす。酒漉しはAからBに、BからCにというように、持ち場持ち場を少しずつ変えて行なう。自分の作業が途絶えるときも、黙って立っていないで、必ず手拍子を打ち、からだを動かす。直接酒漉しの作業に手を触れていなくても全員が参加者で、サケカラウポポ(酒つくりの歌)を歌ったりする。じっとしている人は一人もいない。みんな確実に労働しているのであるが、それはほんとうに舞を舞ってでもいるように美しい。前述したように、別の容器に移されたシラリがある。そのシラリは、上座の方に座っている人から順にイメク(食糧の分配)される。このイメクは尊敬されている主婦の役目である。人々は手のひらにシラリを受け、オンカミしてからいただく。酒漉しが終わると、イチャリが空になったよというような動作をしながら、「イチャリ コテレケレ」(ざるを跳ねさせる)という歌を歌い、続いて次のような歌に移る。 
トノト メノコ     酒の女神よ
シラリ カ       酒粕さえも
イサム        なくなりました
この歌は本当に感謝をこめて歌う。そしてシラリがすっかりなくなると、イチャリにオンカミをしてからこのイチャリを収める。空になったサケカラシントコなどの道具も、捧げ持つようにしてオンカミする。このオンカミの頃から、手拍子は潮が引くように静かにしずまっていく。それがおさまると最後に、酒漉しはじめのときと同じようにオンカミをする。すると歌もぴたりとやんですべてが終わることになる。(「聞き書き アイヌの食事」 萩中・畑井・藤村・古原・村木) 


甕の月一升四百文
東湖先生が竹隈に居た時は己(おいら)の家に近いから、度々遊びに行たが、二人でいつも酒を飲む先生は貧乏で家内は八人暮し、それにいつも居候が居る、酒を飲むと云て鰯の「ヌタ」位が常式で「やつこ豆腐」極く上等で松魚の刺身位、先生は箸を以て刺身を一枚ツゝ喰ふのではない、皿を手に持ちペロペロと刺身を嘗(なめ)こんで仕舞ふ、酔ふと腕角力、枕引き、のちには長押へ両手をかけ足を縮めて長押渡りをする、面白い人で、其ころは三丁目に何とやら云た烟草屋、三浦屋だ、この爺が毎日先生の処へ来て焼芋屋の看版 だの、蕎麦屋の看版だの書いてもろふ、石塔を多く書たが石塔一本が四百文、粟野屋の甕(みか)の月と云銘酒が好物で、其酒が一升四百文であつたから一本一升と相場を極めたと云うことを先生が笑ひながら話された。酒の徳利を床脇の本函へ入れて置て、李白集と書てあつた、己(おいら)がゆくと本函の戸を外して其下の引出しから盃を取出すと云調子、(「水戸史談 庄司健斎君物語」 高瀬真卿) (遠山虚口舟話) 食べ方 8・4(夕) 


風流儒雅時によし
京師白河に、書画や篆刻(てんこく)を善くし、傭書(雇われて文書の書き写しをすること)を業とする彦四郎という者があった。彼一日嘆じて曰わく、「文雅を以てするが生計常ならず、只一人の老母にさえ孝養をつくすことが出来ない。わが生家はもと酒家であるから、むしろ酒を売って母を養うに如くはない」と、仍(よ)って貯えていた書画の悉(ことごと)くを売って、先ず酒器を購った。だが癖はすぐ抜けない。器物は皆珍とすべきもの、酒は、京摂の粋を備え、而も絹布を以て七度も漉した。それがために、その酒は芳醇でしかも烈しくない。醒めれば反って軽爽、少しも宿酔の患がない。店頭の暖簾には竹酔館の三文字を書き、別に左の如き招牌(かんばん)を掲げたものである。○此肆(このみせの)下物(かぶつ 酒の肴)。一則(いちにすなわち)漢書。二則雙柑。三則黄鳥一声。 ここに於て客は麕至(きんし)し、来客の絶ゆることがなかったという。(「日本逸話全集」 田中貢太郎) 売酒郎 


ユーコが選ぶ美味 日本酒 十五銘柄
以下の日本酒十五銘柄は、限定醸造の特殊品ではなく、どこでも手に入る、親しみやすいお酒を、あえて選びました。私も、ほとんど近所の酒屋で購入しています。-
李白(りはく) 島根県 田中酒造  蔵人(くらうど) 青森県 玉田酒造
大吟醸 てづくり七福神(しちふくじん) 岩手県 菊の司酒造
出羽桜(でわざくら) 山形県 出羽桜酒造 八海山(はっかいざん) 新潟県 八海酒造
天狗舞(てんぐまい) 石川県 車多酒造 越の鶴(こしのつる) 新潟県 越銘醸
浦霞禅(うらがすみぜん) 宮城県 佐浦醸 一人娘(ひとりむすめ) 茨城県 山中酒造
都美人(みやこびじん) 兵庫県 都美人酒造 窓乃梅(まどのうめ) 奈良県 窓乃梅酒造
玉乃光(たまのひかり) 京都府 玉乃光酒造 綾菊(あやぎく) 香川県 窓乃梅酒造
瑞鷹(ずいよう) 熊本県 瑞鷹酒蔵(「ブドウ酒とバラの日々」 松本侑子) 平成5年の出版です。 


晩稲
私は酒については、晩稲(おくて)であった。大学にいる時、一級上の池田弥三郎くんにつれられ、彼の生家の裏にあったカウンターの酒場にはいった。向うはもう立派な酒飲みだったらしく、水割りウイスキーを二つ注文した。飲み方も知らないから、グイと飲んだら、忽ち動悸が激しくなって、しゃがみこんでしまった。一向に酒の手があがらぬまま卒業して、社会に出たが、会社の忘年会といったものが、まことに苦手だった。しかし段々、ビールの味をおぼえ、酔いを快く思うようになる。戦争中はそれでも、配給として町内会から配られる酒は、近くにいて、酒をまことに好む父のほうにまわしていた。今思うと、あんな時に各世帯に、まんべんなく、酒を配給するというようなことが、どうして可能だったのだろう。そんな事情を正確に示した文章を私は知らない。私は久保田万太郎先生が社長をしている演劇雑誌社に招かれ、昭和十九年から二十五年まで編集長をしていたが、久保田先生は酒席を愛し、飲み友達をいつも相手に夜の数刻をすごす人だったために、私もつきあわされて、たちまち愛酒家の一人になってしまった。先生と銀座で飲んだあと、鎌倉の家まで、終電車で送っていくといった機会が、月に二、三度はある。鎌倉駅の脇の小さな酒場にもう一度寄るのが癖の先生の巨体を支えるようにして、材木座まで行き着くのが、大体午前一時、もちろん、泊まることになる。これが私と酒とのかかわりを、深めたのであった。そのころは、ビールを何本かとって、家の冷蔵庫に入れるようにもなっていた。(「俳句・私の一句」 戸板康二) 


(2)阿寒の場合(1)
酒つくりに参加できるのはすべて女である。とくに仕込みのときなどは、フチ(年輩の女性を尊敬をこめて呼ぶ言葉。おばあさま方)だけで、若い女は参加できない。使う道具類を洗ったりするのもすべてフチがする。からだをきれいにし、オリバク(おそれつつしむ)しながら酒つくりに携わる。酒をつくる場所はロルンソ(上座)で行なう。仕込み中はむだ口をたたかずに仕事をする。大きな音もたてない。酒つくりのときは、フチでもきびきびした動きをする。しかし、しなやかなからだで動きは優雅である。仕込みが終わるまでは、ほかの人が近寄ることは許されない。仕込みに使うサケカラシントコは、静内と同じようなたがのついたものや、大きいめのシントコなどでもよい。仕込み方は静内とほぼ同様だが、澳を入れることはない。このシントコに酒を仕込み終わると、男の着物を掛けておく、女の着物はどんなに立派でも使わない。部屋の温度やその年の外の温度によって、掛けるきものの枚数を決める。酒を仕込んであるシントコは、カムイプヤラ(神窓)の近くの宝物のたくさん積んであるそばに置いておく。仕込んだシントコの上には、魔をよけるために必ず刃物をのせておく。刃物といってもエムシ(飾り太刀)のようなもので、和包丁のようなものは使わない。もちろん仕込みをするときと同じように、仕込んだシントコのそばには近寄らない。どうしてもそこを通らなければならないときは、ラッチタラ、ラッチタラと歩く。よいお酒になるかならないかで、その年の吉凶を占う。酒が細かく泡立っているようならピリカトノト(よいお酒)になる証拠で、その年の狩りの獲物や、海の幸・山の幸にも恵まれるといって喜ぶ。酒が糊のようになっているようならだめである。こういうときには、あらためてコタンノミ(村のまつり)を行って実り多い年になるように願う。発酵が思うようにいかないとき、たとえば気温が低かったりするときは、シントコをカムイプラヤのところから炉端へそうっと移して温める。また、直径三寸くらいの石二、三個を炉の中で温め、それを中に入れて発酵を促したりする。(「聞き書き アイヌの食事」 萩中・畑井・藤村・古原・村木) 


忘れる術
「酒に溺れて、あなたは逃げているのよ。自分の弱さを忘れようとしているのよ」こういう馬鹿な女がいる。しかし逃げることを知らないで、人間が生きて行けるのだろうか。忘れる術を身につけないで、ずっと人間をやって行けるんだろうか。"今夜すべてのバーで"行われていることだけが、人間らしいとまでは言わないが、二日酔いの身体に鞭打って、一杯目の酒が腹にしみ込んで、やがて世の中すべてがバラ色に見えて来る瞬間を味わえないでいる人は、少し可哀相だと私は思っている。全員、酒場に集合。(「銀座の花売り娘」 伊集院静) 


水樽
脱税で最も巧妙な手口を使ったのは明治の中期、朝鮮向けに輸出した福岡県の某大酒造家であった。外国輸出の酒は税金をかけないのが通則であるから、輸出物となると税務署から相当する税金を戻してくれるのである。この酒屋は四斗樽何百本、何千本と朝鮮に輸出したのである。もちろん、この税金は税務署から戻してもらった。ところが、この四斗樽の中味は酒でなくて水を詰めてあったのである。税関ではまさか水とは思わないので酒として通した。朝鮮に陸上げすれば流してしまう。いくらでも需要はあるわけである。水を輸出して政府から金をもらったことになる。水樽の数に相当する酒樽は別のルートで内地に売られていた。この頭のよさというか悪知恵の働きぶりに舌を巻いて、当時の話題にのぼったものである。(「日本の酒」 住江金之) 


慰労の宴
昭和二十三年夏新潟県大瀁村鵜之木疎開先の庭にて大蔵省酒造講習会講師諸君の慰労の宴を張る。日暮涼風至り歓つくるなし
もろもろの造りの神の集まりて木の下かげに酒ほがいする
えだ豆の青きを酒のさかなにてさしつさされつ飲めば楽しき
四羽の鳥つぶして煮れどやせ鳥の肉のあらなく皮のみにして
大瀁の森をとよもす酒ほがい夕かたまけてにぎはひにけり
もろともによき酒造り教へつつこの世たのしくすごさなむかな(「採集の旅」 坂口謹一郎) 


酒の詩
酒の詩というのは、なかなか書きにくいものです。どんなにいい酒の詩でも、その味覚は酒そのものの味には及ばない。そのかわり、いい酒の詩は、酒そのものから離れた世界へ人を誘い出してくれます。酒は酒、詩は詩、しょせん別物である点では、恋愛詩と似たようなものでしょう。恋愛詩で人々に愛唱されるものは、多分圧倒的な比率で、失恋の詩、不孝な恋の詩に軍配が上がります。自分自身の恋愛はなんとか成就したいのに、読む立場に立てば、恋の勝利者の詩なんかいらないよ、という人が多いのです。同じ筆法でいえば、酒が好きでたまらない人、大酒飲みの人と、いい酒の詩の作者とは、必ずしも一致しないでしょう。まあ、李白(りはく)のような人もいますから、一概にそう断定はできませんけれど。だからいい気になって酒の詩など書くのは考えもの。そのくせ、書きたくなるのがまた酒飲みの弱いところで、僕もそのわなに何度か落ちています。

お恥ずかしいことですが、近年の作を一つ。
微醺詩(びくんし)
ゲーテはいった。
「よきものは少女のめくばせ
飲む前の酒のみのまなざし
あつたかい秋の日ざし」と

海山の静かな寝息もきこえるほど
五臓六腑に琥珀の液が
しみてゆく

始祖鳥が羊歯(しだ)かきわける
ジュラ紀のころの夕焼けに立つ

二十世紀に生きてたことがあつたのを
ふと思い出し
美しいものを次から次へと思ひ出し

憎んでいた敵たちとも
なつめの木陰のテーブルで
講和する気分

酒には品が大切だ

「微醺」、つかりほろ酔い気分(のため)の詩です。「なつめの木陰」というのは、日露戦争で乃木将軍とステッセル将軍が、「庭にひともと、なつめの木」の下で休戦協定を調印した逸話に基づくもので、僕らは小学唱歌でそれを習いました。二人の将軍はこのとき威厳をもってお互いに相手を讃(たた)え合い、ねぎらい合ったというのです。(「人生の果樹園にて」 大岡信) 


人が質屋へ
遠い昔、芥川賞をもらえて、やっと所帯を持てた。。私の頃の芥川賞は角力でいうと、どうにか前頭の末席になれましたという新人賞だったから、所帯を持っても生活は実に貧しかった。-
友人や編集者が来て根太の腐ったわが家で酒盛りがはじまると家人がそっと質屋へ行った。そのたび、実家から持参した着物が一枚、一枚、なくなっていった。(「万華鏡」 遠藤周作) 


仏説摩訶酒仏玅楽経(4)
爾(この)時 大地 六種 震動シ。 酒仏 従地 出現。 左手ニ 持(じ)シ蟹螯(かいごう)ヲ 右掌(みぎて)ニ 捧ケ 一大白ヲ 為(なす) 一声ノ 獅子吼(ししく)ヲ。 白(もう)シテ仏ニ 曰(いわく。) 世尊 。我ニ 有(あり) 一種ノ米汁。 実ニ 為(たり) 百薬之長能(よく) 慰諭(いゆ)ス 憂悶ノ 菩薩ヲ。 其(その)香 比(ひ)スルニ 於十方諸仏 人天之香ニ。 為(たり) 最第一。 即(すなわち) 引(ひき) 大白ヲ。 満(みたし) 米汁ヲ 蘸(ひた)シ 甲ヲ 献ズ 仏ニ。其香 普(あまねく) 薫(くん)ズ 無懐山 及 三千大世界ニ。(「仏説摩訶酒仏玅楽経」 亀田鵬斎 新編稀書複製会叢書)
その時、大地が六種に震動し、酒仏が大地から出現した。左手に蟹のはさみを持ち、右掌に大きな杯を持って、一声の獅子吼をなして、仏に次のように申し上げた。「世尊よ、私はある種の米汁を所有しております。まことに百薬の長であつて、悩みを抱えた菩薩を慰め癒します。その香りは、十方諸仏の世界や天間の世界の香に比べると、最上第一であります」と。さつそく大盃を引きよせ、米汁を満たし、爪が濡れるほどなみなみと盛って仏に献じた。その香りは、あまねく広がつて無懐山と三千世界に匂いわたつた。(「仏説摩訶酒仏妙楽経謹解」 石井公成) 


飲み逃げの季節
昭和二十六年から三年間ぐらいは、ぼくにとって、飲み逃げの季節であった。女はともかく焼酎なしではいられず、いっぱい三十円で表面に七色に虹の浮かぶ、いかがわしい酎にしろ、その三十円がないのだから、いきおい悪知恵をはたらかせる。必ずしもわれわれの独創ではないと思うが、飲み逃げのアイデアを、朝に夕に考えて、いま浮かぶだけでもかなり種類がある。まず飛行機というのは、四、五人で武蔵野館裏のマーケットで飲み、頃合い見計らって、ワッと思い思いの方向に走り去る。とっさのことで、主人が追っかけようとしても、眼うつりがする。その一瞬の差が、こちらを安全圏に置くのであったこの場合、全員の呼吸が合わなければ、つまり一人がフライングスタートをすれば、残る四人は、まず身ぐるみはがれてしまう。介抱逃げというのは、一人が便所にいく、残った者のうち、頃合いを見て「あの野郎また気分が悪くなったな」「よしゃいいんだよ、吐いてまで飲むことはないさ」と、気になるふりで受けこたえし、さらに一人、気が気でないように「おい、見にいってやろうよ」「いやだよ」と、やりとりの末に、二人が出ていく、このあたりで主人も少し不審に思いはじめる。残った二人は適当なことしゃべりつつ、一人が喉に指をつっこんで、本当に反吐(へど)を吐きはじめ、すると主人仰天して「表でやってくれ」というから、その店の近くで、しゃがみこみ、スキを見て駆け出す、なれて来ると、指を使わなくても、反吐の一つや二つ演じ得る。もっとも、あの頃の酎は、思い切って喉にほうりこめば、誰だってゲーッとなったけれど。(「飲み逃げのテクニック」 野坂昭如 日本の名随筆「酔」) 他に「喧嘩逃げ」、「ハイノリ」、「蛇つかい」などがあるそうです。 


土佐の南画家(2)
とにかく学校の先生が生徒の家庭訪問をして、そこで一杯お次で一杯と三十軒ばかりまわり、一斗五升ほど呑み干して歩いた豪の者がいたそうである。年に一度、県民ホールで"箸けん"大会があるという。この光景はまことに壮観で何十人という選手が観衆の大声援のもとに勝負をきそう。もちろん罰杯はつきものだ。予選をとおって決勝へ進出したものは、もうしたたか酔っ払っている。「見物人も呑んでるし、もう無茶苦茶や。満場これ酒、酒や」そうだろう。酒気で煮え立つような県民ホール。一度そんな光景をこの目でたしかめてみたいものである。そんな箸けん大会をいったい誰が主催するのか。言わずと知れた土佐の醸造業者である。(「寺内大吉・旅行商売潜行記」 寺内大吉) 


袴着の儀
「袴着(はかまぎ)の儀」をするまで、武家の子は町民の子に混じって遊んでいても見分けがつきにくい。四~五歳までは「髪置」のせいで、ヘアスタイルに少し違いがあるぐらいで、ほとんど一緒である。しかし、袴着を済ませて、数年たつと袴を着けて「手習い塾」に通うようになり、まったく姿が変わってしまう。武士の子は袴着から「武士の制服」を強制され、「自分は武家なのだ」と無意識下で自覚するようになる。幼児の脳内に身分意識の刷り込みが開始されるのである。袴着で注目されるのは、このときから大小二本の刀を与えられている点である。刀は高い。ちょっとした脇差でも銀一五〇匁はする。四歳の成之に「大小一腰」を与えたのは、またしても母方祖父の西永与三八であった。ちゃんと箱と袋もついている。このとき、成之は仕立て代をいれてワンセット三二匁の裃を新調してもらった。それを着せられて、碁盤の上に立たされ、父母親戚一同がみている前で、西永のおじいちゃんに帯を締めてもらう。これが袴着の儀式であった。袴着が無事おわり、成之は四歳にして二本の刀を持つことになった。刀を贈ってくれた祖父へは後日、成之自身がお礼に出向いて「酒三升と生鱈一本」を持参している。(「武士の家計簿」 磯田道史) 


(七六)をかし、男(おとこ)二二二條通(どをり)りより、二三御霊(れう)の宮の氏(うぢ)神の祭見(まつりみ)に行(い)きけり。二四近衛の町にて二五大きな人々の酒参(さけまい)り給ふついでに、御桟敷(さじき)より給(たまひ)て飲(の)み奉(たてまつ)りける。  二六大原(はら)や二七おつけの椀に今日(けふ)こそは二八奈良諸白を思ふまゝ飲む  とて、心にも嬉しくや思ひけん、いかゞ思ひけん、知らず。
注 二二 東は二条河原樵木町から西は寺町より堀川通りまでの東西の通り。 二三 上京区上御霊竪町東側にある上御霊神社と中京区下御霊前町東側にある下御霊神社。両社とも崇道天道・伊予親王・藤原吉子等八所の御霊を祭る。八月十八日が祭日。- 二四 上京区近衛町。室町通の下長者町から出水までと、その中間の東へ入る近衛突抜けを併せ称し、御霊町に東接した地域。中世以来近衛氏の本邸があったのでいう。天正年間町地となった。 二五 「大人」を訓じた語で公家の意か- 二六 大原椀。朱塗の椀の一種。(於路加於比、巻一)。「大原形 大原椀の朱を見立てたる物也」(雛形ゐ井ど草、巻下、宝永二年刊)によれば、大原椀に模した盃があったが、ここは大原椀のことであろう。 二七 女性語。汁。「おつけの椀」は汁椀の意。汁椀より小形で汁を盛る碗。「に」は「で」の意。 二八 奈良名産の上等の清酒。(「仁勢物語」 前田金五郎・森田武校注) 


ナダノ樽(タル)サケ木(キ)ノ香(カ)モタカク
ナダノ樽(タル)ザケ 木の香(カ)モタカク
マスニ満(ミ)タセバ 琥珀(コハク)ニヒカル
アルジナカナカ トリモチ上手(ジヨウズ)
マルデザイショデ 飲ムヨウナ

客中行(かくちゆうこう) 李白
蘭陵(らんりよう)の美酒鬱金(うこん)の香り
玉椀(ぎよくわん)盛(も)り来(きた)る琥珀(こはく)の光
但(た)だ主人をして能(よ)く客を酔わしめば
知らず何(いず)れの処(ところ)か是(こ)れ他郷なるを(「「サヨナラ」ダケガ人生(じんせい)カ」 松下緑) 


酒は燗
酒は燗…。まさにそのとおりで、お酒の命はお燗のぐあい一つにかかっているというのが私の長きにわたる確信である。俗に、燗は人肌、というけれど、そんな言葉にだまされてがいけない。人肌というのは、妙齢の熱きやわ肌から、半分つめたくなりかかった老いらくの肌まで、人によって千差万別なんだし、同じ一人の人肌でも、朝の体温と夜の体温ではちがうのだし、風邪でもひいたひには、さらにちがってくる。そんなあやふやなものをお燗の尺度にされては、お酒が泣く。一定不変であってこそのお燗である。自慢するわけではないけれど、私のお燗の腕前は相当なもので、せってくで一献する客人が、ひと口飲んで異口同音に「へえッ、これが二級酒?」という。(「寝るには早すぎる」 江國滋) 


初めての宴会
実は今も飲んでいる。本来私は、仕事中はまず飲まない。しかし、疲れて夜も真夜中を過ぎれば別である。私のアルコール歴は長いが、初めての宴会のことは、はっきりしない。覚えているかぎりでは、コンサートの打ち上げだった。当時まだ十二歳そこいらだった私に、皆は形式上グラスにブランディを、なみなみと注いで差し出してくれた。私は、コンサートのプリマだったから、まさか飲むとは、期待せずに。しかし、私は"できませんわ-、(ここで間をおき、飲むことは、のかわりに)断るのは-"と言ったのだった。この予想はずれの答は大喝采を受け、以後私は大酒豪という札つきになってしまった。そのせいか、気がつくと私の周りは全て酒大好き人間ばかり、男女問わず友達はみな酒飲みである。私の心のどこかに酒の味のわからない人と、話が合うはずがない、などと思うフシがあるのだろう。人は飲むと、より一層寛大になれる。また本心を垣間見れるような気もして信頼の情がわく。決して飲まない、もしくは飲めない方を信頼しないつもりはないが、結局時を忘れてどうこうするわけでもなし、理由なく会うきっかけもなくなってしまうのでおつき合いも続かない。(「酒友」 佐藤陽子 「人生の風景」 遠藤周作他) 


余生(よせい) 均(ひと)しく逆旅(げきりょ) 未(いま)だ死(し)せざれば 且(しば)らく陶然(とうぜん)たらん
<解釈>残されたこれからの人生は、いつでも仮の宿り。しなない間は、まあ酒でも飲んで、ほんのりと酔い続けていよう。
<出典>南宋、陸游(りくゆう)(字(あざな)は務観、号は放翁一一二五-一二〇九)の「病中」詩。五言律詩の第七・八句。「剣南詩稿」巻十六。
風雨暗江天 風雨(ふうう) 江天(こうてん)を暗(くら)くし
*1幽窓起復眠             幽窓(ゆうそう)起(た)ちては復(ま)た眠(ねむ)る
*2窮安晩境             窮(きゆう)を忍(あまん)じて晩境(ばんきよう)に安(やす)んじ
*3「りゅう」病壓災年         病(やま)いを留(とど)めて災年(さいねん)を圧(さ)けん
客助*4修琴料             客(かく)は琴(こと)を修(おさ)むる料(りよう)を助け
僧分賈薬銭              僧(そう)は薬(くすり)を賈(か)う銭(ぜに)を分(わ)かつ
余生均*5逆旅           余生 均しく逆旅
未死且*6陶然             未だ死せざれば 且らく陶然たらん
*1 幽窓 奥深く静かな部屋の窓。 *2 窮 貧窮 *3 「りゅう」病壓災年 今の病気だけを残して、厄年の災難を逃れようとする。「壓」は「厭」で、厄逃れすること。 *4 修琴料 琴を修理する料金。 *5 逆旅 はたご。 *6 陶然 ほろ酔いになること。
<解説>残された人生への思いをことさらに重苦しく言わず、しみじみとまたさらりと、ほろ酔いしつつ生きようと言う。官途の故に各地を転々と旅した詩人が、淳熙十一年(一一八四)故郷に退居していた頃の作。人は家郷にあってこそ、己の生を「逆旅」と身得るのだ。(安藤信広)(「漢詩漢文名言辞典」 鈴木修次編著) 


みきのちょくし御酒勅使
節会の時、参会した群臣に、天皇より酒を賜わる旨を伝える官人。「江家次第」三、踏歌に、御酒勅使を仰せ下す作法として、内弁が天皇に大夫たちに御酒を給わらんことを請い、許されれば参議一人を召してその旨を伝え、参議は外記に交名を提出させ、御酒勅使を任命するとある。また『江次第抄』一には、御酒勅使は、参議が勅を奉じて侍従四人を選び勅使となすとある。 参考文献 和田英松『(修訂)建武年中行事註解』(柳雄太郎)(「有職故実大辞典」 鈴木敬三編) 



*酒は個人的又は家長専制的なるに反して、菓子の流布には共和制の趨勢と謂(い)はうか、少なくとも男女平等の主張が仄(ほの)見える。
-柳田国男「豆手帳」
*酩酊は一時的な自殺である。
-バートランド=ラッセル「幸福の征服」(「世界名言事典」 梶山健編)


青年の流儀の末尾
一杯のグラスは君の抵抗にうなずいてくれる。最後にもう一言、すぐに酔う酒は覚えるな。

今日から酒が飲める年齢だ。苦い酒を覚えろ。酒のマナーは品性だ。でもひとりじゃないぞ。空には星もあるのだから。(「伊集院静の流儀」 伊集院静) 


ティベリウス
このようなことを考えていたときに勉強した研究書が、テオドール・モムゼン著の『Die Provinzen von Caesar bis Dioctetian』(ローマの属州、カエサルからディオクレティアヌスまで)である。その中に、ローマ人で始めてギリシアのオリンピア競技会で優勝した人は、ティベリウスであったと記してある。それは紀元に直せば後一年にあたり、四年ごとに開かれるオリンピア競技会では一九五かいめの年であった。オリンピアの競技会では毎回各種目別の優勝者の名が記録されるのだが、そこにティベリウス・クラウディウス・ネロの名もあるという。アウグストゥスの養子になる前の、ティベリウスの本名であった。それに紀元一年ならば、ティベリウスがロードス島に引退していた時期になる。ローマ側の記録にはないから、引退中の一私人として、参加したにちがいない。参加種目は、四頭立ての戦車競争。映画『ベンハー』では唯一豪快な場面だったが、あのシーンで展開された競技と同じものである。ティベリウス、四十一歳の夏の一事件であった。だがこうなると、身長は波よりは一段と高く、肩胸とも厚い頑強で均整のとれた体格、眼光は鋭いだけでなく視力も抜群、そして生まれてより病気知らずの健康の持主と評されたのも、一段と現実味を帯びてくる。ローマ人は葡萄酒を水や湯で割って飲むのが普通だが、ティベリウスはストレートでしかも相当な量を飲んだといわれるのも、体力が許したからだろう。(「ローマ人の物語」 塩野七生) 




注・横書きなので、<またまた>といった畳語後半の繰り返し記号(く:くの字点)の表記ができませんので、2回繰り返して記しています。
 ・機種(環境)依存文字等は、?になってしまいますので、多くは「上:夭、下:口  の」のような表記にしています。
 ・旧字体の漢字は大体新字体にかえてあります。また、ふりがなは、かっこ書きにしています。
 ・ふりがなは適当に増減しています。