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御 酒 の 話 12 



我が家で呑む  つまり肴  縹醪酒  山葡萄酒  さけ  おあいそう  道隆  魯酒  一日二升五合  長夜の飲  アトキンソンの火入れ機  箱石の火入れ機  サラ川(5)  酒なおあたたかき  酒壺一つ二〇〇文  長部日出雄・豊田健次・三保敬太郎  宝暦の酒  三上於菟吉  ミネゾ  五月十八日  フラガール  オニールと酒  盃あれこれ  樽番船  植物人間  酒迎  お酌をしない料理屋  信楽のタヌキ  (2-1)+(2-1)=2  うたれたのは誰?  ニュー・ヨークのクリントン知事  酔酒蚶子  ノイローゼ  八ヶ岳  スイカとウォトカ  五月三十一日(水)  徳利入り浄瑠璃  向島の酒  たのし  四百年前のワイン  酒の研究  ソ連北欧の酒  土びんに般若湯  夏のイタチ  トックリ  祭酒  タイガー・ライオン・クロネコ  雪合戦  酔っぱらいの役作り  たこ梅  羽根つき唄  仏国の保命酒  固体発酵  三平汁  長範があて飲み  馬鹿囃子  筒井康隆  醸造酒・蒸留酒  良酒あらば飲むべし  酒類厳禁  そんなこと言ったか酔いの恐ろしさ  アリス・クーパー  pot  「幕末日本記」  猿廻し  そんなはずない  長鯨の百川を吸うが如し  キュルノンスキー  天界  リーダーズ英和辞典  弥五郎  十月十八日(東京)  110万ドルの訴訟  逆桶買い  深遠な哲理  丸干しイワシ  牢屋の酒盛り  子褒め  出典不明  お酒  胆斗の如し  果実酒(2)  桜井  三州屋楼上  果実酒  伊馬春部  殿さま粥  年齢  茶弁当  悲劇  ボケッとして飲む  昼酒  料理婿  毎月見聞録  一等水兵 七つの郷愁  大酒遊芸は末の身知らず  くだり塩  柊屋  無頼派  トラ大臣  帰朝の祝宴  日本酒  直し  「河野典生の酒」  上戸の火燵  わが墓碑銘  武勇伝  化けもの祭り  樽俎折衝  志ん生の呂律  麹座  居酒屋(明治語録)  酸っぱいどぶろく  上戸本性  シデムシの仲間  小声  薩長土  佐渡ぶんや紀行  田中と井伏  幸いなこと  『乾家横領兵庫の嵐』  ワイン造り  ゐなかざけ「花霞」引札  盃と口との距離  二日酔い鵞鳥  井原西鶴  神事角力  天王寺や五兵衛  炭焼きの正月  下戸内閣  川柳の酒句(24)  地酒をつまみ肴  小男  いい酔い方  善馬の肉は食いて酒を飲まざれば人を傷なう  銀座地蔵横町三勝  狸正宗  年間一石七八斗  初語  棒縛  あだ名の付け様  二宮尊徳  打身丸薬  「雨夜三盃機嫌」  尾崎放哉の酒句  好物  ひとり呑み  新旧のモンゴロイド  下戸会  茶碗酒  南蛮酒に酔いて  冷しあまざけ  猩々は血を惜しむ犀は角を惜しむ  ホジャさんと物乞い  地神踏み  禁酒(2)  白酒『白酒』  象牙の箸  環境  実は…  シコクビエ  一合一会  佐平  勉強  渇き  行動薬理学から  伊勢熊  先代猿之助  帰園田居(二)  フランス革命の発端  強飲国一宮案内  オケレハウ  日本酒党  雀百まで踊忘れず  やきとり吉田  葬礼九つ酒七つ  翁の肴  禁酒  絶食旅行  三井高俊  伊予・大山祇神社  トム・ペンターガスト  もう結構だ  ひとり亭  一見酒仙風   絶対のタブー   鷲尾嶽酒店  リルケの両親、サタデー・イヴニング・ポスト  八岐大蛇  酒花  Clalet  上等な阿片  茗荷屋  一勺三十文  酒は酒屋に茶は茶屋に  昆陽先生訳和蘭勧酒歌  女児紅と状元紅  餅酒  匂いセンサー  チェイン・インディアン  仏神  小酌ヲ命ジ  巧妙  黄門ばなし  平賀源内・小野田直武の出会い  二人の紳士  玉巵当無し  入学祝  強いる酒とトリップする酒  もっきり酒  ハイジャック  「…?」  米と酒、地震と麹室  御酒、鏡餅、蛤  歓喜に寄せて  勇の盃  豪傑三人  オランウータン  錐もみ  毒汁  トウコシャーン  どぶろく体験  江戸自慢  三上於菟吉  金は火で試み人は酒で試みる  私の場合  年五回  酒を好く虫   口の中   どう酒のおかげ  樽回船と菱垣回船  火の車  五十七歳  そこが男の手料理  乾杯の由来  パリの祝杯  インディアン  後光明天皇、伊達政宗、徳川家康  仕事酔い  お喜代とルパン  川柳の酒句(23)  手放せない  色気よりも飲み気  粕から焼酎  老武者  兄弟左右手也


我が家で呑む
そして、家で呑むとき。我が家だから安心して、ついだらしなく手酌でグビグビいきそうだが、それは愚の骨頂。我が家なればこそ、理想的な酔いを、日々探求できるのである。適当に呑んでいたのでは、呑むのではなく、呑まれることになる。過飲の常習により、酒量はおのずと増えるが、それは決して気持ち良く酔えているわけではない。寝転べば、即寝床の我が家こそ、落とし穴は、とてつもなく深いと知るべし。べし。べし。基本は、ちゃんと食べながら呑む。ちゃんと食べられなかったら、呑むのを止める。とにかく食べなくちゃ、駄目だ。食べたうえでの酒量を知る。おのれの酒量を知らない酒呑みには、酒を楽しむ資格はない。命をつなぐ食事、それを彩る酒。ブローチのないドレスはあっても、ドレスのないブローチはありえない。酒がブローチであり、食事がドレスだと、考えてほしい。(「杉浦日向子の食・道・楽」 杉浦日向子) 


つまり肴(ざかな)
【意味】酒宴がすむ予定の時にすまず、さかなが尽きていたし方がなく、さかなの追加をすること。打つ手が尽きて窮余の場合に、拙劣な策を出すことのたとえ。
手酌は五合たぼ一升
【意味】自分でついで飲む酒が五合飲めるところなら、女のしゃくなら一升いけること。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


縹醪酒
漢の王莽が下した詔書に「夫レ塩は食肴之将、酒ハ百薬之長」(漢書・食貨志下)と曰ふは万代不易の名言である。されば塩は古くから酒の肴にされてゐる。北魏の太宗が嘗て崔浩(さいこう)を召し、夜の更けるのも忘れて国事を談じた折、之に御縹醪酒(ひょうろうしゅ)十觚(こ)と水精戎塩一両とを賜うて「朕に取つて汝の言は此の塩酒の如き味がするので、汝と其の味を共にしよう」と曰つたと云ふ。(魏書・崔浩伝)北条時頼が味噌で酒を飲んだ話とよく似ているが、是は節倹の教訓話としてではなく、酒と塩との故事として寧ろ其の風雅が文人に注目されてゐる。「縹醪」とは如何なる酒か未詳であるが、その字義は淡青色のモロミ酒と云ふことで、「御」は天子の飲料たるを意味する。「觚」はサカヅキの名称で、相当の大盃であらう。「戎塩」は西戎即ち西方の蕃地に産する塩で、其の水晶の如く結晶したのを「水精塩」と称する。つまり岩塩の上等なのである。「一両」は凡そ十匁である。(「酒中趣」 青木正児) 


山葡萄酒
荻 これの産まれる池田町は元々山葡萄がはえる土地なんですね。
おおば 僕は小さい頃、山葡萄というのを取りまして、お袋や親父がこっそり密造酒を作るんです。とった葡萄に焼酎を入れて、ビンと蓋をしておきますと、、中でポッポ発酵する。それが、タイミングを外しますとバーンと破裂しちゃう。それに今度はお砂糖を入れて一升瓶に移して、お正月が近くなると、それが子供達が飲む山葡萄酒になるんです。綺麗な赤ワインで、お砂糖が入っているから僕ら飲みやすいんです。渋くて甘酸っぱいから。荻 酔うでしょう、やっぱり。
おおば まあ、ちょっと酔いますね。(「快食会談」 荻昌弘) おおば は、おおば比呂司です。これは法律違反ですからご注意下さい。 


さけ
親父は酒のさの字も嫌いじゃ、息子はぼうだら(一)。堅く、いましめて呑(のま)せぬゆへ、頃日(このごろ)の禁酒ぬけのした様になって居る折から、幸(さいわい)親父がいぬ間を見て、竹戸棚(二)を明けてみれば、とっくりと入て有るを引出し、一杯グット引かけ座禅豆(三)に舌打し、かゝる所へ親父が「ソリャ何しをる」息子「ハイ豆と徳利(四)でござい」
(一)酒に酔って、いつも寝ている形。干鱈のように垂直なり (二)戸棚の中を風通しよくする為に、中途棚に竹箕を敷いてある (三)黒豆を甘く煮しめた食品。座禅をする際に、小便を止めるために食う習わしあり、それより名が出たという (四)この頃江戸の盛り場に、豆蔵とて徳利と豆を使って手品を見せる芸人がいて評判であった(「江戸小咄集」 宮尾しげを編注) 


おあいそう
さて、この「おあいそう」とは勘定書きのことで、漢字で書くと、”御愛想”となります。愛想とは、”愛想がいい””愛想が尽きる”などと使われるように、人に対する好意や親愛を意味する言葉で、”おあいそう”も”愛想”に”お(御)”という接頭語を付けたものです。それでは以上の意味の”おあいそう”が、どうして勘定書の意味に使われるようになったのかといいますと、この言い方は明治時代に関西で生まれたようで、大阪方面では”愛想づかし”を略したものという説があります。しかし、今ではお客さんの方から言うことが多いのですが、本来は、店の人が勘定書きを差し出す時に使った言葉だといわれています。つまり、勘定書きを差し出すと、お客さんがいやな顔をして愛想を尽かすというわけで、”お勘定”とか”お会計”とかいうあからさまな言い方を避け、”愛想づかし”とシャレて言ったのが始まりです。関東では主に花柳界(芸妓の世界)で使われたのが最初ですが、今では一般化しているようです。「ことばの豆辞典」 三井銀行ことばの豆辞典編集室編) 


道隆
関白藤原道隆は大の酒好きだった。臨終のとき、極楽浄土に生まれるようにと西方に向かせた寝せ、「念仏申させ給え」というと、酒飲み仲間だったが今は亡き藤原済時(なりとき)と同朝光(あさとき)のことを思い出し、「あの男たちも極楽浄土におられるだろうか。おるならば念仏もしようが、おらぬなら、念仏を唱えたって仕方がないではないか」と言った。そして口をつぐんだ。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


魯酒
世間で普通一般に酒を客に出すとき、「魯酒」ですが…という。これは日本でいう「粗酒」ですが…と同じ意味で、うすくてまずいけれどもと、謙遜していう言葉である。その縁起は、昔楚王が覇権を握って天下に号令したとき、諸侯を招集した。この諸侯の会を催すのは、覇者の得意の絶頂である。当時魯の国と趙の国は優良酒の産地で共に楚王に酒を献上した。そのとき楚王の臣で酒を世話する役人が、献上酒と同様な優良酒を、自分にもよこせと賄賂を求めた。ところが趙はこれを拒絶したので、酒の主役は怒って、趙から献上した良酒を、魯の薄い酒とスリかえ、趙の国はこんな薄い酒しか、どんない請求しても献上しませぬと楚王に悪しざまに奏上した。王怒って趙の国の首都邯鄲を囲み、遂にこれを亡ぼした。この故事から「魯酒うすうして邯鄲囲まる」との言葉が生れ「魯酒」とは粗酒の代名詞となった。(「酒のみて日本代表」 奥村政雄) 


一日二升五合
牧水の酒はいつも静かなよい酒で、相当飲みすごしても乱れることがなく、酔えば酔うほどきげんがよくなった。東京の家にいるときは、友人がくると連れだって料理屋に行き、芸者もよんでにぎやかに飲んだり、あげくに遊郭にくりこんだりするのも好きだった。遊郭に行っても、さびのあるいい声で、女たちや友人を前に短歌の朗詠をしたり、木曽節やおけさ、江差追分などあちこちで覚えた民謡を歌ってしんみりさせたというから、酒品も上乗である。しかも、その酒量は並外れていた。たとえば大正一四年に五十日ほど九州旅行をしたとき、牧水自身、日記に次のように書いている。
『五十一日の間、ほとんど高低なく飲み続け、朝三、四合、昼四、五合、夜一升以上というところであった。而してこの間、揮毫をしながら大きな器で傾けつつあるのである。また、別に宴会なるものがあった。一日平均二升五合に見つもり、この旅の間にひとりして約一石三升を飲んできた』その二年後の夏にも九州各地を回り、このときにも一日平均三升を飲みつづけたというからすごい。文人には酒徒が多いが、その中でも牧水はやはり筆頭横綱であろう。(「酒・千夜一夜」 稲垣真美) 


長夜の飲(いん)
【意味】夜通し酒を飲み夜が明けても戸をとざしたままあかりをともして酒宴を続けること。
月雪花に酒と三味線
【意味】これだけそろえば、風流は満点であること。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


アトキンソンの火入れ機
火入れを二度、三度と繰り返さざるを得なかったのは、加熱処理後の酒を元の不潔な桶に戻し戻し、また囲桶の密封が不十分で空気と酒が接触しやすかったためであろう。アトキンソンはさらに火入れ装置の改良を提唱し、火入れ後の酒を不潔な桶に戻さないことと、雑菌侵入防止のための貯蔵桶一杯に酒を満たし空気と接触させないよう指示している。彼がユーイング(James Alfred Ewing 一八五五-一九三五)の協力により考案した新式火入れ装置の図が掲載されているが、酒をパイプで連続的に送り出し、貯蔵には上部空隙の少ない西欧式の横型樽用いるなど当時の最新式技術を用いている(三四)
(三四)アトキンソン著、中沢岩太、石藤豊太訳『日本醸酒編』一頁、東京大学(一八八一)
(「日本の食と酒」 吉田元) アトキンソンは明治七(一八七四)年に来日し、開成学校、東京大学で教えた英国人教師だそうです。(Robert William Atkinson 一八五〇-一九二二) 


箱石の火入れ機
さらに「火焚器械使用法」の項では、種々の改良火入れ機が諸先生方により発明されてはいるが、投下資本が莫大で実用化されておらず、また酒造家には従来火入れ釜改良の意欲が乏しいことを歎き、会津若松の酒造家と協同試作した簡易式火入れ機の図を掲載している(図6-3)。この機械は直火式だが、手動ポンプによって半連続式に酒を送るもので、火入れ後の貯蔵桶は従来の縦型であるが、温度計を備え従来法の欠点であった温度制御の不安定さ、酒と空気とが接触しやすい点を改良したものであった。ただしアトキンソン、コンシェルト、箱石らが考案した改良型火入れ機も業界で直ちに用いられるには至らず、ようやく一八九五年頃から湯煎、蒸気による二重釜入れ法、次いで蛇管式火入れ機が用いられるようになった。(「日本の食と酒」 吉田元)
箱石東馬は、福島県の収税吏で後に東北酒の品質改良に努力した人で、「実行清酒改良醸造法」(一八八九)の中で上記の火入れ機のことを書いているそうです。
そうすると、火入れ蛇管は、1895(明治28)年頃から使用され始めたということのようですね。ただし、一般に広がったのはかなり年月がたってからではないでしょうか。 

              (図6-3)



サラ川(5)
飲み屋でも女房の方が顔がきき 面痴庵
平等法女もストレスためて飲み 万年娘
うさばらし上司と飲んでうさたまる ダメ男
玄関の女房の影に酔いがさめ 早起き蜂
かんぱいのグラスを持たされ三十分 早く飲みたい人
(「平生サラリーマン川柳傑作選」 山藤章二・尾藤三柳・第一生命 選) 


酒なおあたたかき
曹操は、かんをさせた一杯の酒をつがせ、関公に、飲んだ上で馬に乗れと言ったが、関公は「酒は、まずついでおいて下されい、それがし、すぐに戻って参りましょう」と、幕を出るや、なぎなたをひっさげ、身をおどらせて馬に乗った。諸侯らは、関の外に太鼓の音大いにふるい、ときの声大いに上がって、天くだけ地くずれ、山岳もゆるがんばかりであったから、みなみな驚き恐れて、様子を聞かせようとしたとき、すずの音のひびきも高く、馬は中軍に駆けて来て、雲長(関羽のあざな)は華雄の首をひっさげ、地上に投げつけたが、酒はまだ温かであった。後の人の詩にこれをたたえていう、
威は乾坤(けんこん)をしずむ第一の功、轅門の画鼓ひびきとうとうたり。雲長さかずきをとどめて英勇をほどこし、酒なおあたたかきとき華雄を切る。(「三国志」 小川・金田訳) 


酒壺一つ二〇〇文
貞治年中(一三六二-六七)には、大外記(造酒正)中原師連の申請により酒麹売課役を課した。後円融天皇の即位に対し、足利幕府は諸国に段銭を課するとともに、土倉(質屋)から一軒ごとに三〇貫文、酒屋(酒造業者)から酒壺一つにつき二〇〇文ずつを借用するという名目で徴収した。土倉は土倉をもつ商人で、当時の商人中のトップクラスに属するものであった。一四世紀ころより、商品生産として酒造りが本格化した。室町幕府の財政を支えていた主なものは、酒屋土倉に対する税で、明徳四年(一三九三)に法的な明文化がなされている。応永三二年(一四二五)における洛中洛外の「酒屋名簿」には、合計三四二軒の造り酒屋が登録されており、その大半は土倉も経営していた。今日、北野神社に伝わっている。京都に酒屋が発展した要因は、一に酒米の確保、二に酒麹で、酒麹の製造・販売の特権は北野神社に属する座衆が独占していた。地方では、河内天野山金剛寺・大和菩提山寺・中川寺・近江百済寺などもあったが、なかでも天野酒は、室町時代の公家・僧侶などの支配階級のあいだで評判のたかかったものであった。天野酒とならぶ僧坊酒は大和国菩提山寺の酒であった。(「麹」 一島英治) 


長部日出雄・豊田健次・三保敬太郎
長部日出雄
'65-'70年 中間小説誌に執筆 早大  '70年以降 直木賞、芸術選奨文部大臣賞、新田次郎賞受賞、マックス・ヴェーバー研究の一書で、飲ん兵衛とのみ心得ていた者を驚倒せしめる。映画評論家として卓抜  現在(2002年) 断酒、酒乱のくりかえし。少しずつ断酒が増えている。また難しいテーマ研究中
豊田健次
'65-'70年 「文学界」編集部 早大  '70年以降 文藝春秋取締役、のちに退社。よく一人で飲んでいた  現在(2002年) 時に連歌を披露。ヒョイと辛辣なことをいう
三保敬太郎
'65-'70年 音楽家としてより、実業家への転身を考えていた。酒浸り 慶応  '70年以降 酒で身をあやまった。ともかくモテた  現在(2002年) 逝去。破滅派(「文壇」 野坂昭如) 


宝暦の酒
重要文化財渡邉家保存会 
新潟県岩船郡関川村の重要文化財渡邉亭の土蔵から発見された陶製壺入りの酒。箱書きには「宝暦六年甘露酒七合詰」とあり、宝暦6(1756)年に詰められた、現存する最古の日本酒とされる。1998(平成10)年、広島県の国税庁醸造試験所にて開封し、分析、官能評価を行ったところアルコール度数は2%だった。そして、分析の結果、原料は玄米、あるいは精白度の低い米で、度数は約15%、甘みと酸味の強い酒であったことが推測された。(「四大嗜好品にみる嗜みの文化史」 たばこと塩の博物館) 


三上於菟吉(2)
白井君と私が帰ろうとした時には、もう大分御酩酊で、白井君は私がつかまっている間にうまく帰ってしまったが、私は右の手首をギュッと握られて、「あなたと酒席を共にするのは初めてじゃないか。今夜は愉快にのみ明かそう。ここが気に入らなければ、席を他へ変えましょう」ニコニコ笑いながら、同じ事をしつっこく繰り返して言うのだ。「僕の飲めないことは、あなたも知っているじゃありませんか」そう言って、杯を受けないと、「ああ、そうか」と言うように、その時は杯を引ッ込めるのだが、すぐ忘れてまたさす。その間、私の右の手首を握って放さないのだ。その力の強いこと。埼玉生まれだけあって、骨太で、握力があった。私は酒飲みの、このしつっこさが大嫌いだった。同じ酒飲みでも、水上滝太郎の酒、久米正雄の酒、吉井勇の酒、里見弴の酒なんというものは、一切人に迷惑を掛けず、一座しても、こっちまで愉快に楽しくなるいゝ酒だ。そういういゝ酒飲みしか知らないので、私は三上君のような酒飲みをどう捌いていゝのか分らず、ホトホト途方に暮れた。何しろ私の手首を締め付けている彼の手を、何とかして放させないことにはどうにもならない。と言って、蛮力を揮わない限り、ちっとやそっとのことでは放しっこない。しかし、こうした席上で蛮力を揮うのは私の趣味ではなかった。芸者が何とか騙して手を放させようとしてくれたが、私の逃げ腰なのを見抜いているから何と言っても放さない。そこへ、今まで三上君の御馳走で外の座敷で飲んでいたらしい「女性」の古川修君が助け船にはいって来てくれた。この人は上戸を扱い慣れていて、じょうずに私から注意を外の方へ逸らしてくれた。おかげで、間もなく私は虎口を逃れて帰ることが出来た。今となっては、こんな思い出も懐かしい。(「食いしん坊」 小島政二郎) 


ミネゾ
こっちの知らねえうちに、あれに目をつけるてのは、さすが大先生だけあるよ、だが、こまった、こまった、ことわるほかあるめえ…父は、そういって、浮かぬ顔だった。おかしいわ、庭繁は植木屋でしょう、名ざしで懇望されてことわる手はないでしょう。あのミネゾ(イチイ)なら、ノーベル賞作家のお庭に行ったって、ヒケをとるはずないわ。わたしが、そんな生意気な口をはさむと、縫子はなんにも知らねえんだナ。ミネゾという木はナ、と父のはじめた説明によれば、-ミネゾは、広くいえば関東の特産だが、実際には信州、とりわけ安曇の気候風土が最適で、鎌倉なんかの海岸あたりじゃ枯れるかもしれねえ、まず枯れると見なくちゃいけねえ、それが心配さ…鎌倉との間で、電話による応酬が幾度もかさねられたが、つまり父が屈服させられたようだった。あの先生、見かけによらねえ強い人だね。一位のいのちは一位にまかせろというんだ。そういうと、なんと話しかけたって、返事もしねえ、こわい人のようだナ。一位のいのちは一位にまかせろたって…くれがたではあったが、父はわざわざ庭へ出て行って、まっ暗になるまで、ミネゾをながめ立ちつくしていた。よっぽど、せつなかったんだとわたしは思う。ミゾネはトラックにのせ、次兄の杉次郎が運転、父は助手席におさまり、ほかにもうひとり人足が相乗りで、運搬して行くことになった。出発に先立って、母が切り火をし、父はお神酒(みき)を根もとにそそいだ。残りをお燗して、みんなで一ぱいやって、送り出した。(「事故のてんまつ」 臼井吉見) 


五月十八日(万延元年)
(略)其向一面の川、町も畑も人家も皆一つ、人死数数知れず、人家皆流、誠に目の当てられぬ事なり、是非なく無理に呂久川より渡舟にのり、川も畑ものろ通り
五里に余り行、なます村に付合渡へ上り、腹は減る何ぞ喰物と探とも、水つきゆえ何も無、漸く雲助の喰牛房焼麩大根浅漬大豆煮染めは、喰なくてと喰はさる物を買い、酒二盃呑、それていきをつなぎ(略) (江戸へ下る途中、膳所でのことだそうです)
六月廿四日
(略)(渋谷屋敷の)小野田清助方にて居留り一盃出、馳走はあじの干物からスミ、又いさき・いもぜんまいの甘煮どぜう鍋にて振まわれ、七ツ時出立(略)百人町にて汁粉二つ喰、また坂下にて寿し二つ喰六ツ時帰着(「下級武士の食日記」 青木直己) 


フラガール
機械化によって苦境を脱することはできないか、との声もあったが、それには増資が必要となる。しかし代替わりした三世、四世の株主は、自分たちとほとんどかかわりのなくなった古い酒屋に、もはや関心を示さなかった。そんな折に持ち込まれたのが、米国タカラからの買収話だ。同社は「タカラみりん」の名称が「宝娘」「宝正宗」とぶつかり、かねてから商標権を手に入れたいと思っていた。話はすぐ決まり、三百万ドルで話は成立した。「一割配当をするのが精いっぱいで、もうけはない状態でしたからね。あのころ、いろいろインタビューをも受けましたが、古い酒蔵を守ろうとか、損しても頑張ろうとか思いませんでした。単なるビジネスの話ですから、感傷的な気持ちは今もないですよ」住田さんもまた、アメリカ人になっていたのだろう。ホノルルでの仕込みは、買収後もしばらく続いた。しかし、二瓶氏が去り、有能な技術者も去っていった。コスト、設備の問題も解決できず、六年後の一九九二年、最終的に醸造は打ち切られる。ただ、「フラガール」は死ななかった。日系人の愛着にこたえて、バークレーの米国タカラが銘柄とラベルを引き継いだからだ。それが「スターマーケット」や「利助」で見かけた酒だった。ハワイ王国が滅亡して、既に一世紀がたつ。しかし王国伝統のフラダンスは衰えず、いまもわれわれを魅了する。その生命力が「フラガール」には乗り移っているのかもしれない。(「海のかなたに蔵元があった」 石田信夫) 


オニールと酒
劇作家のE・オニール(一九五三年一一月二七日没)は一九三六年にノーベル文学賞を受賞するなど、多くの栄光に輝いているが、かれは無類の酒飲みでもあった。プリンストン大学の学生であったころから、オニールは酒が大好き。あげくの果てに、当大学の総長であったW・ウィルソンの邸の窓にビールのあきビンを投げたことによって停学処分をうけている。しかし、飲酒癖はなおらず、アルコール漬けになっても死にかけたこともあった。ニュー・ヨークでもマンハッタンの酒場に入りびたり、脚本を書きながらも酒を飲んだ。飲むと完全に前後不覚になり、友人たちにひきずられてやっと自宅にたどりつく、といったしだい。ところが、三七歳のとき、精神分析医にかかったところ、医師はオニールがエディプス・コンプレックスから逃れるために酒を飲んでいるのだ、と診断した。その診断結果を知ったオニールは、突然悟るところあって完全に禁酒し、その後六五歳でその生涯を終えるまで一滴の酒も口にしなかった。(「一年諸事雑記帳」 加藤秀俊) 


盃あれこれ
投盃(なげさかずき)の賽銭に。銚子のかはる経文を。有がたいとて手をたゝき。おがんで迯(にげ)る大盞(たいさん 大盃)も。 一遍まはる霊宝は。とかく左が利勝手(ききかつて)。まづ一番に中の関白。道隆公の烏の盃。出所を問へば大鑑。乃(すなわち)巻の六合入り二番は浪に兎の盃。和田が酒もり。小林の。あさく見えても七合入り。さて三番は碗久が。びつくり丸は八合入り。四番は乃地黄坊が。蜂龍いつはい一舛(いつせう)入り。五番は白菊君しらず。これ浮瀬(うかむせ)の手とりもの。吉野の蟹の盃は。顧太初(こたいしょ)が形をうつし。人のまねする鸚鵡盃(おふむはい)。飲ぬも鴛鴦(おし)の盃は。張姓李氏が思ひつき。彼(かの)李迪之(りてきし)が九品の内。蓬莱盞(ほうらいさん)に。海山螺(かいせんら)。舞仙螺(ぶせんら)。匏子巵(こしし)。慢巻荷(まんけんか)。金蕉葉(きんせうえふ)。玉蟾児(ぎよくせんじ)。李宗閔(りそうびん)が荷葉盃(かえうはい)。質におかねど流しつ受けつ。曲水の觴(さかつき)に。潯陽(じんよう)の江樽をそえて。月の鏡に蘆の葉の。呑口(のみくち)付し猩々盃(ぜうぜうはい)。和漢の霊宝数を尽して。恭(うやうや)しく餝(かざり)たて。(「胡蝶物語」 曲亭馬琴) 


樽番船

なかんずく彼女等の塩ッぽい血を湧かしたのは、毎年二月三日の交に催される、樽番船のヒーローたちであった。それは西宮港から積み出される新酒船の競漕で、第一着を占めた者に与えられる、有形無形の特権の一つであった。「番数とり進みまして」とあるその番数組のうちのペイペイですら、勝負に勝てば、少なくとも五人以上の芸妓がボーッとなって、櫓落し(やぐらおとし)の大タブサに、白い腕を巻きたがるというではないか。いわんや、旧幕時代の樽番線で、海のほまれとほこりとを、ただ一船に集め得るチャンピオンに対する、スベタ女郎のアクガレをや、ノボセ方をやである。この大仕掛の競漕は、もともと体育奨励のために、始められたものでもなんでもないが、結果においては、すこぶるオリンピックじみている。畳となんとかは、新しいがよしというけれど、ただにこの二つのみならず、酒の新しき、茶の新しき、堅魚の新しき、すべて江戸ッ子は、走りの味覚と見栄とに陶酔した。そこで江戸の酒問屋が、新酒着荷の半日を争うのは、商売上当然として、そのために生ずる、種々の弊害に自らたえられなくなった。ついに受荷問屋が寄合い、真正の一番着を公認する方法として、考え出したのが、例の樽番船の競漕である。西宮を出でて、観音崎をまわるまで、夜に日についで漕いできた樽船が、品川沖へ碇を投げ入れると、一人の船頭は、送り状をもって、すぐに茶船と称するハシケに飛びうつり、一散に回船問屋へ漕ぎよせる。一番船の荷を受けた江戸の問屋は、その船頭衆に対して、褒美の金子(きんす)、衣類などを出す。天保の改革で、一時取つぶしになった品川の宿場女郎が、復活して以後、この海のヒーローたちを優待し、以下諸国の同業者が、これに倣ったことはいうまでもない。しかしそれも明治の世態一変とともに消滅して、古き港の紅燈情話のみが残っている。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 


植物人間
北野 最近になって(ビデオで)見て、、「こんな顔でテレビ出ちゃったんだ、嫌だなぁ」ってショックでさ。相当判断力が鈍ってたんだね。脳も損傷を受けているとか、いろんなこと言われたし、悩んでる自分を自覚してるんだけど、それが夢なのか現実なのか分からなくなってくるんですよ。
阿川 怖いですね。
北野 体なんかすぐ治っちゃって、(退院して)三日後ぐらいから走ったりできた。ただ、頭の問題が怖くて怖くて、酒飲むと今だに、ホントはあのまんま病院で植物人間になってるのに、自分の脳が勝手に酒飲んで楽しんでいる世界を夢見ているだけだと思うときがあるから、気持ち悪いんです。(「阿川佐和子のアハハのハ」 阿川佐和子) 対談相手は北野武です。 


酒迎
酒迎(さかむかえ あるいは坂迎) 酒迎とは参詣など長旅から帰って来た友人、知人を途中まで迎え、無事を祝ってもてなす儀式だったが、段々と酒を飲む口実にされて、ごく近くへ出かけた場合も酒迎をしている。例えば文明六(一四七四)年五月一二、三日、言国は坂本から石山寺に参詣したが、帰って来ると友人たちが、「酒迎トテユトウ(湯桶)ヲコシラヘ、皆帰ヲトラ(捉)ヘ、酒アリ」(『言国(ときくに)卿記』文明六年五月一三日条)「無事でお帰り、まあ一杯」という訳である。湯桶とは湯や酒を注ぐのに用いる注口と柄のついた木製の漆塗りの容器である。言国は帰宅後、皆を呼び、早速返礼の酒宴が始まった。「酒迎かやし(返し)トテ、夕飯の汁、中酒(ちゅうしゅ)在之、」(『言国卿記』五月一三日条)中酒は食事の時に飲む酒。それから夜に入ってまた飲む。その翌日も昨日の返礼と称して朝飯時から飲み始めた。「一、今日又、朝飯汁、中酒昨日ノカヘシニ皆興行了、」(五月一四日)そして飯が終わったら酒桶を取り寄せ、本格的な酒宴となった。「飯以後二位ヲケ(桶)ヲ一取ヨセ、又酒を張行了、」(五月一四日条)まったくあきれるばかりの飲みっぷりであるが、足利将軍以下酒食に溺れる者が多かったこの時代の公家、武士たちの中にあっては、この程度はごく普通かも知れない。もっとも酒食の「色」の方については全然記述はない。しかい言国の名誉のために付け加えるならば、酒はよく飲んだが、笙の腕は天皇の御前で演奏する程であったし、毎日管弦の稽古は決して怠ってはいない。(「日本の食と酒」 吉田元)  酒迎え 


お酌をしない料理屋
宮尾 奥さんは客席にお出になりませんの。
辻 ええ、それが私、料理屋としては理想やと思います。そやけど昔は「左阿弥(さあみ)」とか「中村楼」とか、京都の料理屋がみんなうまいこといっとりませんねん。で、うちだけは理想的な料理屋をしようと、そんで私、吉田(茂)総理のとこへ、大磯へよう行ってたのでいっぺん相談に行ったらね、お酌をしない料理屋をやってくれとおっしゃったので、いまもってお酒つがんのですねん。そやさかい、なかなかうまいことお金儲かりません。昔は、たいがい宴会でもあったら、二十本酒が出たら二十五本つけますね、それが公然の秘密ですね。私は理想をもっぱらにしてきたので、そんなことは表面でいうたことないんですけど、苦労してますねん、今日でも。(「大人の味」 宮尾登美子 辻嘉一) 


信楽のタヌキ
居酒屋の前によく置いてある、徳利と通帳をぶらさげたタヌキの置物。外人観光客が見ると「ホワッツ・ザット」を連発してはガイドを困らせるそうですが、あの原産地は滋賀県の信楽町。日本六古窯の一つで、平安時代から続くやきものの里です。文献資料によると、はじめてタヌキの置物を作ったのは藤原銕造(てつぞう)という人。銕造さんは明治九年生まれ。五十八歳のころから八十九歳でなくなるまで信楽で作陶生活をしていましたが、タヌキを作ったのは昭和十年ごろからといわれています。幼いころタヌキが車座になって腹鼓に興じるのを見て、それに吉祥を予感したのが動機といわれますが、このへんの真偽は不明です。今日のように町をあげてタヌキ作りが始まったのは昭和三十年以降。このころから全国的に浸透し始めたようです。今では、伝統の信楽焼をしのいで、すっかり町の名産品になっています。小さいのは手のひらに乗る百円前後のものから、大きいのは二メートルをこえる二百万円のものまでいろいろ。町の人口は一万四千人。タヌキの総数はこの何十倍か何百倍。最近ではちょっと色っぽいメスのタヌキまで登場しています。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


(2-1)+(2-1)=2
田村泰次郎がある駅の待合室で女を待っていたが、ふと気がつくと、隣にも人を待っている老人がいて、それは青野季吉だった。彼は「キ、君も女を待っているのか。ボ、ぼくもそうだ」ところが二人とも待ち人来たらずで、ふられた男同士で酒場に飲みに行くことになってしまった。(「ユーモア人生抄」 三浦一郎) 


うたれたのは誰?
主人の大和田獏が、私もよく知っている友人と呑みに行ったときの話。まったくウソみたいなことなんですけれど、主人はもう必死になって、ほんとなんだよ、信じてくれよっていいながら、教えてくれたんです。いつものようにいい気分に酔った二人は、新宿で新しい店を見つけようと初めてのバーに入ったんだそうです。ところがそこは雰囲気のクラーいバーで、バーテンはいらっしゃいも言わずにジロッ。でもまあいいや。一杯呑んで出ようということでひとまず腰を掛けたらしいの。ふと見ると、店の隅ではヤクザ風の二人がヒソヒソ話をしていてなにやら不気味。それじゃやっぱり落ち着きませんよね。早々に席を立って店を出ようとしたら、これまたその筋の人風な若い人が店に飛び込んで来ました。主人達にぶつかりそうになったのに、あわてている様子であやまりもせずに例の二人のところへ行くと、「とうとう、うたれましたワ」ボソボソ話していた二人はさっと顔をあげると、「なんだと!!それで誰がうたれたんだ」ゾーッとした主人達、かかわりあいになっちゃいけないと立ち去ろうとしたら、その若い人、「ハァー、江川ですネン」(「うたれたのは誰?」 岡江久美子) 


ニュー・ヨークのクリントン知事
私たちはボストンから古い大砲を数門買ったが、それだけでは十分でないので、ロンドンに註文してさらに数門取りよせることにした。同時に領主に援助を乞うたが、このほうはあまり当てにならなかった。そうしているうちに、ロレンス連隊長、アレン氏(一七○四-八○、フィラデルフィアの裁判長)、エイブラハム・テイラー氏および私はニュー・ヨークのクリントン知事に大砲を借りる使命を帯びて義勇軍から派遣された。知事は最初はにべもなく断ったが、参議員と会食し、当時の土地の習慣にならってマデーラ酒を盛んに飲んでいるうちに、だんだんご機嫌がよくなって、六門貸そうと言い出した。さらに数杯の後には十門に増やしてくれ、最後にはひどく上機嫌で一八門まで承認してくれた。それは砲架のついた立派な一八ポンド砲で、ただちに輸送されて私たちの砲台にすえつけられた。戦いのつづいている間じゅう、義勇軍の団員はこの砲台で夜警をつづけたが、私もみんなにまざって、一兵卒としてきちんと当番を勤めたものである。(「フランクリン自伝」 松本・西川訳)フランクリンが、スペイン軍からフィラデルフィアを守る義勇軍に参加していた時の逸話だそうです。 


酔酒蚶子
鮨だねのなかでわたしのもっとも好むものの一つに赤貝がある。身も好いし、ヒモの好い。赤貝は中国にもある。遼寧(りょうねい)省の大連(だいれん)で鮨だねのように作ってもらって、これを肴に心ゆくまで盃を乾したことがある。しかし、上海でご馳走になった小型の赤貝の味はまた格別であった。赤貝は中国語で蚶子(ハンズ)と呼ばれ、古くから方々で養殖もされているが、浙江省の寧波(ねいは)の近海でとれるものが最上であると上海の食通が教えてくれた。「酔酒蚶子(ツイジウハンズ)」という名菜がある。名菜とはいっても、熱湯にくぐらせた小赤貝を酒と醤油にひたし、せん切りの生姜添えて出すだけだ。まことに素朴なものだが、新鮮な赤貝の味が生かされていて嬉しい。(「中国グルメ紀行」 西園寺公一) 

ノイローゼ
幸田露伴が内から戸を釘づけにして、居間に閉じ籠もったままになっているときいて、森鴎外や井上通泰(みちやす)らの友人が心配して出かけた。むりやりこじあけて入ると、「向島に花見に行き、風船売りの風船がふわふわしているのを見たら、この世がはかなくなった」という。友人たちは「まあ一杯やりに行こう」と誘ったが、露伴は絶食で腰がぬけていた。友人たちはそれを抱えて、近くの牛屋(ぎゅうや)に連れて行って、むりやり酒をのませた。すると、それっきりけろりと露伴のノイローゼはなおった。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


八ヶ岳
そういえばぼく自身も、八ヶ岳に山荘を建てる際に、人さわがせな神さまのせいで、ひどい目にあった。棟上げ式の時のことである。まず大工の棟梁から、この地方のしきたりを説明された。何でも二階建ての家の棟上げの時には、施主は一回中央に立ち、二階に上った棟梁の手によって御神酒をかけられるのが、古来からの伝統なのだという。「どうしても、というわけじゃないんですけれどね」と頭領は遠慮がちに言ったのだが、逆らっては後からヘンな目にあうのもイヤだから、ぼくは承諾した。御神酒をかけると言っても、まあお湿り程度のことだろうと、高をくくっていたのである。ところが一升瓶を手に二階へ上がった頭領は、一階に突っ立ていたぼくの頭に、「どばどばどばどばどば~ッ!」と思いっきり日本酒を浴びせかけた。んもう髪も服も、パンツまでズブ濡れである。本当はその日すぐに車に乗って帰るつもりが、着替えもないし、このままでは酔っぱらい運転としか思われないので、結局現地に一泊するハメになってしまった。まことにオーマイガーな気分であった。神さまはあんなことをすると、本当に喜ぶのだろうか。どうも納得がいかないのだが。(「笑われるかもしれないが」 原田宗典) 


スイカとウォトカ
子供のころは一つのスイカを半分に切って、スプーンで食べるのが最高の夢の一つだった。そんな幸運は三年に一回しかなかった。今ではスイカを一個買っても二切れぐらいしか食べないから、大半は腐らせてしまう。小家族にスイカ一個は食べられない。パリにいた時、友人がスイカのウォトカ割りを出してくれた。コップに氷を入れ、スイカの身をほぐして数切れ入れ、ウォトカを注ぐ。これは格好の飲みものであった。子供には良くないが、スイカを持てあましている家では、大人の飲みものとして、おすすめできる。他にスイカの利用法は知らない。(「おとこの手料理」 池田満寿夫) 


五月三十一日(水)
六時起き、快晴。洗面所の水冷たし、まだ当地は暑くならない。暑からず寒からず、ロケーションには、実にいい時だった。今日も能率が上がった。此の分なら、来月三日一杯には、アガるだろう。そろそろ土産物買い集めに苦労する。もはやロケの役が終った、黒川・鳥羽は、既に色々物資獲得、リュックに詰め込んでいる。夜、もう菊寿軒も品物が無いから、みさわ屋へ、黒川・月田・鳥羽を誘って行く。料理は此処も駄目、二三品しか出ない。酒は、いくらでもある。しびれる程飲む。ロケ隊長の氷室徹平君などは、「ああ此処は天国だ、酒がこんなに、いくらでも飲める」と言って泣きながら、飲んでいた。(同君は、戦後、酒のために死せり。哀悼)(「ロッパの悲食記」 古川綠波) 昭和19年会津での日記だそうです。 


徳利入り浄瑠璃
さる西国の人、大坂へ上られ、義太夫の浄瑠璃を聞く。何とぞこれを国のみやげにせばやと思ひ、大なる徳利に、おもしろき浄瑠璃を語り込ませて、口をしめ、奥方へのみやげにせられける。徳利の口を切りければ 是より浄るりの文句なり  りけりかなハりかばすふもかなかな と、二時(ふたとき)ばかりうなるやうに聞へて、しまいに 文句なり ちののそもてさ と、いふてしもうた。口から語り込んだゆへ、逆様(さかさま)に語り出したとは、あとに気がついた。(軽口花笑顔巻三・延享三・壺入の国みやげ)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


向島の酒
これは少し古い話だが或る時新参の勤番者が、二人連れ立って向島へ出掛けた。あちこち歩いているうち、或る立派な庭園の前に来掛った。二人は中を見ても宜かろうと思って、這入って方々見まわって、とある座敷の前へ来たのでそこへ腰をかけた。すると一人の女が出てきたので、『酒が飲めるか』と聞いて見た。女は『かしこまりました』といって奧へ行き、やがて酒肴を出した。十分に飲食してさて勘定をというと、女は『御勘定には及びませぬ』といった。うまい所もあったものと思いながら、二人は帰って、得々としてこの事を古参に話した。古参は不審を起し、向島にそんな所は無いはずだといったが、間もなくそれはその頃即ち十一代将軍の大御所様の御愛妾の父なる人の別荘とわかった。この別荘の主人は娘の舌を通じて隠然賞罰の権を握っていた。それで諸大名から油断無くここへ賄賂を送り、常に音問していたのである。勤番者風情でそこへ踏み込み、大胆にも飲食をも命じたというのであるから、藩の上下は顔色を失った。『どの藩の者ということを聞かれはしなかったか』と古参が聞くと、『なるほど代物はいただきませぬが御名札をいただきたいといったから、松平隠岐守(おきのかみ)家来何の某と書いて置いて来た』との答に、いよいよ騒ぎ立ち、藩侯にもどのような禍がふりかかろうも知れぬと、それからいろいろ評議をして、結局、留守居役即ち当時の外交官が、多額の金子を持参し、駕籠に乗り供揃い(ともぞろい)で向島へ赴き、そこの用人に会って、田舎侍がかくかくの粗忽(そこつ)を仕りましたる儀何とも恐入る次第で御座りまする、どうか御許し下さるようと、ひたすら詫びをして、金子を出した。用人は奧に入り、やがて出て来て、『主人こと今日は珍しい客来で興を催した次第で御座る。』といっただけであった。賄賂のきき目は実に鮮やかであった。留守居役は勇んで立帰り、一同も始めて安堵した。かの二人は割腹の覚悟をしていたが、まずまず命拾いをした。この二人のうち一人は私の父ぐらいの年輩で、吉岡某という者であった。今一人の名は忘れた。(「鳴雪自叙伝」 内藤鳴雪) 


たのし
酒が飲めることは、この世の中にもう一つ別の世界を持っていることである。いやな事件、不愉快なうわさも、酒が体にまわるにつれて、どこかこの世ならぬところに溶けてゆく。たばこがのめるのも、一つ別の世界を持ってることである。紫の煙のゆらめきを静かに見ていると、その消えて行くあたりに、この世ならぬ別の世界がほのかに見える。また、音の響きに聞きほれる耳を持っていることも一つの世界を持つことといえよう。音の恍惚にひたったことのない人や、酒、たばこののめない人は、いわば生きる世界がそれだけ一つずつ少ないわけだ。たのしいとは、そうしたたばこ(これは今日、世間では有害ということに傾きつつあるが)、お酒、音楽などに、恍惚と酔い、しびれるような身体的な満足、繰り返したい充足を得ることである。だから、『万葉集』の時代から、たのしとは、皆で円く座って、お酒を飲み歌を歌って喜びを尽くすときに使われた。『万葉集』の次の歌は九州の太宰府で大伴旅人(おおとものたびと)以下の役人たちが梅の宴をした時の歌の一首である。
毎年(としのは)に春の来(きた)らばかくしこそ(コノヨウニ)梅を挿頭(かざ)してたのしく飲まめ(飲モウ)(八三三)
しかし、こうしたたのしいという、およそ人間の本能の安らいだ充足の喜びを表すと思われる言葉は、不思議にも平安時代の女房文学-『源氏物語』とか、『枕草子』とかには、一度も出て来ない。(「日本語の水脈」 大野晋) 


四百年前のワイン
ヘンリー八世の治世には、それ(ライン・ワイン)はわずか一ガロン一シリングだったが、他の全ての物と同じように、エリザベス女王の時代にはずっと高くなった。十九世紀の中葉には、「オールド・ホック」は一ボトル十二シリングという驚くべき値段になった-現在の通貨では約五ポンドに相当する。これはあきらかにトロッケンベーレンアウスレーゼだった。事実、トロッケンベーレンアウスレーゼはその高い糖度含有のために、あらゆるワインの中でもっとも長く保存できるものだろう。シモンの記録によれば、一九六一年に、一びんの一五四○年ものシュタイン・ワインがワイン商人エルマンの事務所(現在ではルドルフ・ナッソー所有)で開けられたが、まだ生きており、大変飲みごろだったという。また、一方では、一八二二年と一八五七年のボトルは生き残れず、死んでただの濡れた屑になっていた。シェークスピアが生まれる四分の一世紀も前に造られたワインが、ヘミングウェイの死んだ年に飲むことができるとは、まさに驚嘆すべきことである。(「わが酒の讃歌」 コリン・ウィルソン) 


酒の研究
例えば-彼等の住居を杜氏部屋といって、酒倉の一隅にあるが、この地方独特の矩形の炉を切った周囲に国民服を着た彼等が胡座(あぐら)をかく。真っ黒に煤けた棚の上に、神様が祀ってあり、それが日本のバッカスで、京都の松尾神社の祭神であることも確実であるが、白銚は埃にまみれ、榊はカサカサに干涸らびている。またその横に、全国浪曲家番付というのも貼ってある。「オヤジさん、よく女が酒倉に入ると酒が腐るというのが、ほんとうかね」と、私が訊く。彼は勿体ぶりもせず、また自由主義思想家的微笑なぞは勿論洩らさず、「ウソだね、ここの女中もいつも倉に出入りするが、なんともないね」という如き否定のし方をする。そして、杜氏は蜜柑を食わずというタブーも、結局、食った後で手をよく洗えば差支えない。なぜならば、それは醸造に有害なる酸を除去するや故に-ということまで教えてくれる。彼等は夏期講習会で学ぶから、分析や反応試験もやれば、ボーメがどうの原エキスがこうのということも口にする。但し町内会長が翼賛思想を覚えた時のような得々さは、微塵もない。科学もまた職業的伝習の一なりという顔をしている。彼等は皆好人物で、四十がらみで、農村の匂いが強い。例外として、十八歳の少年が一人いる。この年齢から杜氏を志願する必要があるので、夏期講習会はいかに補助的であるかがわかる。また彼等の頭領が一人いて、これをオヤジと呼ぶ。オヤジは醸造の責任者で、指揮者で、一切の方寸は彼から出る権力をもつと供に、昔は夜草鞋を枕頭に置き、酒腐敗の兆しあらば、夜逃げする覚悟を常とせし由である。私の通った清酒「万楽」醸造所は、もとより灘伏見の大蔵元と異り、戦前も造石高三百石に過ぎない程度のものであるが、そうバカにできないのは、輓近、日本酒醸造法が非常に進歩して、地酒の向上著しきものがあり、この酒にしても、恐らく目下東都の座談会席上なぞに出てくるのより上等であろう。(「続飲み食い書く」 獅子文六) 疎開した愛媛での体験だそうです。蔵人のことを杜氏といっているようです。 


ソ連北欧の酒
ソ連でうまいものをあげろ、といわれたら、私はアルメニアのコニャックと、ピリメニと、アイスクリームをあげるであろう。-
ここで私はブルガリアの白ワインを試みた。ミスケットといって、背の高い細長い瓶に入っているのが上物らしい。非常にクールで、クリアともいえる味である。甘味がほとんどなく、のどから直接脳天に抜けてゆくような軽さである。-
私はここで、日本の商社の人と会い、プラムから作ったスリボバという強い酒をご馳走になった。癖があって、左党には興味のもてる酒である。ルーマニアに出発するときにはブランチェフ氏が、ブリスカというコニャックを二本、土産に呉れた。ブルガリアは小型のソ連といわれ、酒の製造でもコーカサスと競争しているが、このブリスカは、アルメニアの五ツ星に迫る濃厚な味であった。-
これでルーマニアのワインをいただく。カルパチアもやはり水がよく、ところどころに湧き水を飲む施設がある。したがって、ワインもよろしいわけである。-
こういうときにすすめられるのが、スリボビッツアである。ブルガリアのソフィアではスリボバと称して登場した果実酒であるが、ユーゴでは六十度以上の強いのがある。これを谷川の水で割って呑めば、ニジマスのバーベキューと釣り合うこと間違いなしであろう。-
私はテューボルグの小瓶で一杯やりながら、クロンボルグの王宮や、運河や港を眺めおろしていた。サカナは北欧風のオープンサンドとシチューである。デンマークのビールは、チェコのピルゼン風とは少し違う、なじみにくい人には薬くさい感じがするかも知れない。しかし、クールでくろうと好みといえよう。(「世界を食べ歩く」 豊田穣) 


土びんに般若湯
そのころは、お葬いでお寺へいきますと、かならずお菓子をだしましたが、これが高齢でお亡くなりになったとすると、かえってめでたいというんで、こわめしをだしたりしたもんで…つまり、赤飯でございますな。そして、土びんには、般若湯といって、お酒がはいっていまして、そばにつまむのなんぞおいてありますから、なかには、酔っぱらったいきおいで、遊郭へおしだすものもでてまいります。 吉原へまわらぬものは施主ばかり なんて川柳もありますし、 葬いが山谷ときいて親父行き なんてのもあります。吉原のそばの山谷あたりに寺がならんでいたので、葬いくずれがひっかかったのが多いところから、せがれのかわりに親父がいったわけで、まあ、なにしろ、昔の葬式はたいへんだったわけで…(「古典落語」 興津要) 


夏のイタチ
ガラリと戸を開けると、津軽特有の赤カブの漬物を山に盛って、めいめいが一升ビンを小脇に抱えこんで、もういい調子であった。私を見ると、大歓声をあげた。私には二升用意したとかで、栓が抜かれ、大きな丼になみなみと注がれていた。「みんな、ちょっと待てっ」私はわれわれの大誤算を話した。「ヒエーッ、どうしよう、委員長」太陽と米のメシはどこへ行ったってついて来るんだという意気に燃えて親許を離れているわれわれであったが、ついて来たのは太陽だけであったのだ。「仕方がない。あやまりに行こう」私は一同を引きつれて酒屋へ向った。酒屋と言っても終戦直後に酒など売っているはずがない。早い話がどぶろくの密造酒なのである。その家の前まで来ると、坐れと命令した。みんなが熱した道の上に正座してすわった。私はそこのオヤジとオカミサンを呼んで来て、戸口に立ってもらうと、私もすわった。「礼ッ!」みんな手を突いておじぎをした。私は事のすべてを話して、必ず返すからと許しを乞い、とりあえず一円五十銭を差し出した。「アッハッハッハ、いや!キモチのいー書生さん達だねス、どうぞ、飲んでけろや」オヤジは私の手を握った。わっと歓声があがって、みんなでオヤジを胴上げした。その夜、われわれは火を焚いて大ストームを行い、青春の魂を歌い、美酒に酔った。あの頃、はずかしさは無かった。いま、社会人となって恥を知った私は進歩したのだろうか、それとも退歩したのだろうか。ご判断を乞う。(「ビッグマン愚行録」 鈴木健二)寮に迷い込んだイタチを捕らえ、地元学生の15円で売れるという話で、先に酒を買ってしまったところ、夏のイタチなので1円50銭でしか売れず…。 


トックリ
やがて、なんでもやってみないことには承知しないマダム古東京人たちが、一斉にこのマネをはじめた。女の執念に不可能はない。山ブドウばかりでなく「イチゴ」や「山クワの実」でもやってみた。においこそちょっと違うが、どれもトロッとした舌ざわりだった。頭のいいマダムが、ふとそれに水を割ってダンナに飲ませてみた。ブドウ酒ができあがった。それから約四千年経って、国分寺町と狭山丘陵の一角で縄文時代の遺跡が発掘された。土器や石斧のかけらにまじって、ヤカンのようなドビンが現れた。横に、ちょこんとい吸い口が飛び出していて、なんとも奇妙な格好だ。しかしそれをみた国立音楽大学の甲野勇教授は「やっ、こいつはトックリだ」とさけんだ。(「武蔵野むかしむかし」 朝日新聞社編) 


祭酒
荀卿(じゅんけい)は趙の人である。五十歳のとき、始めて斉へ来て学問をするようになった。-
それで荀卿が最年長の師とされ、斉は列太夫の欠員を補充していたが、荀卿は三度まで祭酒(二六)に推されたのであった。
 注(二六)古代、会合や酒宴のおりに酒を神にささげる祭儀があった。その祭りをおこなうのは最年長者であり、これを祭酒という。ゆえに同列中の長者または主席をさすよび名であり、漢以後は官名となった。三度というのは、荀卿は常に斉にいたのではなく、よそへ行ったときもあったが、そこへ来ればいつも長老の座を与えられた意であろう。(『索隠』の説)。(「史記列伝」 司馬遷 小川・今鷹・福島訳) 


タイガー・ライオン・クロネコ
大都会のカフェーらしくいつも陽気に繁昌して、美人女給の揃つてゐるのは、尾張町の交差点近くにあるカフエ・タイガーだ。浅野総一郎家関係の経営で、さすが大カフエーだけありこゝなら信用して腰を落着けて飲むことが出来る。三十余人が赤青紫の三組に分れ、色々なタイプの女達が互ひに妍を競ひ合つて、おほように女と冗談を交はして、一夜の歓楽を追ふに最も相応(ふさ)はしい。そして彼女等が皆それぞれ一流意識を持つてゐるから、それを認める程度の愛嬌さへ客が見せれば、女達は割に高速度に親しんで来るのである。銀座のカフエーで、一番名士のやつて来るのは、先づこの店だらう。それだけに、チツプを一円やつても(銀座の表通りのカフエーに於ては、チツプの一円は常識である)軽く一礼する位のもので、梯子(はしご)段のところ迄送つて貰ふようなことは、一年通つても一円級では先づ絶望である。尾張町の角のカフエー・ライオンも、精養軒の経営だけあつて、卑俗なところがなく、夜は専らバーになるのだが、今は別にこゝの特徴や習慣というべきものがなく、たゞ大老舗として一方の信用を保つてゐるに過ぎない。女達も、タイガーに比べると、その容姿に於て余りに平凡であるが、しかしこゝは前から女給の監督が厳しいので、薄れながらに皆んな一種の品位は持つてゐる。面白味はないが、銀座で一番穏健なカフエーである。服部時計店の隣りに最近新築のなつた船のクロネコは外貌を大きな商船に象(かたど)つて、レストランとバーと、珍奇な設計を施して銀座カフエーの一名物になつている。規模の大きい点では東京第一といつていゝだらう。レストランは円柱を美術的にあしらつた広々とした大ホールであり、バーはイナイイナイ・バーと名称して以前のクロネコを全部包含した大きなもので、当局から注意を受ける前の計画が、バーを寺院になぞらへて女給に墨染めの衣を纏(まと)わせ時々お経を唱へさせるとかいふ珍趣向だつたので、それが駄目になつた今ではそこに特別の面白味のないのは当然かも知れぬ。丸山警視総監のカフエー弾圧から昭和四年九月十四日東京で始めて「学生服学生帽の御方は不本意乍ら御断り申候」と正面の硝子戸に麗々しく大きな札を張つたのは、実にこの船のクロネコのイナイイナイバーであつた。こゝの二階は男ボーイなのでバーとレストランと食堂と、一挙に銀座を席巻しようといふ深謀であるらしい。一見に価する。(「新版大東京案内」 今和次郎) 


雪合戦
人通りは極めて少くて、商店の窓や入口はすでに閉ぢられてゐた。私は何処か喫茶店でも明いてゐるところがあればいゝと考へついて、横町へまがらうとしたが、そのとき、いきなり私の前を走り抜けた一人の紳士があつた。私は驚いた。その紳士は急に立ちどまり、歩道に積もつてゐる雪を掴んで、それをボールみたいに固くまるめはじめた-その紳士といふのは、久米正雄氏であつたのだ。私は久米氏が雪合戦をしながら散歩してゐることに気がついた。横町から四人の若い紳士が走り出た。これは久米氏を追いかけて来たのである。彼等は手に手に雪のボールを持つて、まだ雪を固くまるめつゝある久米氏めがけ、その雪のボールを投げつけた。一つのボールは久米氏の帽子を雪の上に落とした。他の一つのボールは、久米さんの肩にあたり、他の一つは、逃げださうとした久米さんの背中にあたつた。四人と一人とでは、到底かなはない。彼等も久米さんも、酩酊してゐたのである。久米さんは帽子をかぶりながら、雪のボールを持つたまゝ逃げ出した。四人はしきりに雪を投げた。ところが、向うからやつてきた通行人に、四人のうちの誰かゞ投げた雪が命中した。それを見て驚き且つ恐縮したのも久米さんである。雪合戦がたけなはであるにもかゝはらず、久米さんは被害者(通行人)のそばに走りより、帽子を脱いで言つた。「すみません、すみません!なにしろ、みんな酔つてゐるものですから」被害者は顔をしかめたり微笑したりして、彼は立ちどまつてゐた。久米さんを追つかけて来た四人は、この好機会をえらんで、こゝぞとばかり久米さんの顔へ雪をなげつけはじまた。しかし久米さんは、それに応戦しようとはしないで、手まねで四人を制しながら、「君、それはいけない!通行人に投げてはいけない」そして被害者にむかひ、しきりに詫びを言つたのである。「すみません!なにしろ、この通りみんな酔つてゐます」(「文士の風貌」 井伏鱒二) 


酔っぱらいの役作り
ずいぶんいろいろな役をやったけれど、設定とか役を考える時に一番おもしろいのは、やっぱり酔っぱらいだ。酔っぱらいの人って、いろんなパターンができるから。同じ電車に乗ってくるのでも、作業着を着てる時とサラリーマンの格好では、酔っぱらい方が全然違う。台本では一行「酔っぱらいが入ってくる」と書いてあるだけだが、僕の頭の中では、この人は今日どんなことがあって飲んでて、それでどうなっちゃったのかというストーリーがちゃんと組み立てられている。何か頭にきたことがあって飲んだときと、いいことがあって飲んだ時では、相手に対する接し方がずいぶん変わる。頭にきてて飲んでる時は、そばにいるクラブの姉ちゃんぽいのに「オイッ、姉ちゃんよ、どこに帰るんだ!」って怒っちゃう。何かすごくいいことがあって、しかもクラブででももてて、若い子をちょっとさわってきたという酔っぱらいなら、電車に乗り込んでからも、若い女の子のそばに行って「ムフッフッ」とか言って、また足をさわったりする。クラブで飲んでた時の気分の延長なわけ。僕がやってるのは、その人物になりきるという芝居だから、ちゃんとバックストーリーを考えていると、自然に体が動いてくる。(「変なおじさん」 志村けん) 


たこ梅
入れば中は広くて、天井の下にコの字型の台が主人以下、四、五人のものが働いている四角い土間を仕切っているのを夕方の込んでいる時間には客が二重に取り巻いて、その又外に更に何人か席の空くのを待っている。ただもう飲んで食べたい気持ちが店一杯に漲っていて、騒々しいものさえ感じられない。どこか寂しくて賑やかなのが夜のおでん屋であるとはっきり思わせる(この店は四時前には開かない)。酒は一升は楽に入る錫製の壜が七輪に掛けた金盥に湯が煮立っているのに浸っているから円筒形の錫の塊を四勺で一杯になるように刳りぬいたものに注がれ、一杯で五十円、それと一緒に「酒」と焼き印が押してある木の札が一枚、台の上に置かれる。おでんは後に残った串で勘定して、どれも十円だから簡単である。この店の酒はそれまでは東京のおでん屋でしか飲んだことがないものだった。白鹿ということだったが、それならばこれは白鹿の特々級酒で、口当たりがいいので四勺を二口位で飲み乾すその味が曽て東京でも、辛口と呼んでいた酒そっくりだった。喉を通る頃から、自分は酒を飲んでいるのだぞという気分がどんと背中をどやしてくれる。(「食い倒れの都・大阪」 吉田健一) 


羽根つき唄
女の子供が、幾人か一団になって、羽根を突くのは、唄というほどのものでもないが、手毬唄のように違ったのが沢山あるのではございません。
一人来な、二人来な、見て来な、よつて来な、いつ来ても、むゥづかし、何(なァん)のやくし、この前ぢや十よ
およ羽根小羽根、酒やの猫が、田楽焼くとて、手を焼いた
風吹くな、なァ吹くな、水戸様の前で、銀羽根拾つて、およ羽根こゥ羽根
などと唄っていました。子供の羽根つきは、奇妙に夕刻が多かったのです。世間は師走の空だというのに、女の子供の屋外遊戯は、屈託がないからでもあろう。お正月に先立って、春を呼び寄せるようにも思わせました。(「江戸の春秋」 三田村鳶魚) 


仏国の保命酒
明治の初め、初めて巴里(パリ)に遊学したるころ、万里の故郷を恋想せるは、日本料理の得がたきに始まる。一日邦人(日本人)相会して日本料理を手製したりしが、野菜、魚肉はほぼ調い得たるも日本料理の眼目たる醤油の得がたきに窮し手を分ちて、市中を捜して、漸くリウドラベラーといえる所の商店にて、白瓶に盛りたる醤油を発見したり。当時同人の悦は趙璧を得たるに同じ。日本人、相伝唱してこれを得ることを競い、遂に一瓶二合入の価三円余に達したりき。これ徳川氏の中世より、オランダ人が東洋通いの帰り船に積み込みて、欧州に輸入したるものなりと云う。慶応元年なりしか、曽て徳川民部太輔(今の昭武君)が巴里に使するや、ナポレオン三世、彼を饗応するに、各邦人に対し卓上一瓶ずつの保命酒を供したりと。またこれ蘭人の輸入に係るものなり。これは昭武君より直接にききたる話なり。(「陶庵随筆」 西園寺公望) 


固体発酵
ではいったいなぜ、中国の焼酎だけが固体発酵の形式なのか。これについてはこれまで謎でよくわかっていない。有力な説の一つに「中国の水は醸造用水に適するものが少ないから」というものがある。しかし浙江省の紹興酒や福建省の老酒などのように、水を重要な原料とする酒も中国にあるので、そうとは一概に言えない。私は中国の酒の研究のためにこれまで六度ほど訪中したのであるが、どうやらその謎を解いたような気がする。実は意外にも豚肉の生産と関係がありそうなのだ。中国は、世界の豚肉生産量の実に四割近くも占める世界一の養豚国で、大量の豚肉を消費している。固体発酵を終えて蒸溜された後の糟(粕)には、豊富な炭水化物やたんぱく質、ビタミン類などが含まれていて、理想の発酵飼料ができていることになる。この栄養満点の産業廃棄物を、多産系で何でも食べる中国原産種の梅山豚(メイシヤントン)に食べさせる。すると豚はそれを食べて糞をする。糞は畑にまいて今度はコウリャンの肥料にする。何一つムダのないリサイクルだ。中国の人たちは、酒を造ると同時に実は肴となる肉も生産したわけだ。この知恵こそ、中国の健(したたか)さの一端を示しているのではないだろうか。(「食に知恵あり」 小泉武夫) 


三平汁
三平汁というのは酒の本粕を使って塩鮭の頭と大根と人参を入れた粕汁で、調味料を一切加えず、塩鮭から出る塩だけで味が付けてあるのはのっぺい汁と同じ趣旨からである。本当の所を言うと、この方が旨かった。食べものとしては、各種の汁の中で粕汁が一番心を温めるものを持っているのは酒粕が結局米であって、米の複雑な成分とその味が皆そこに出て来るからではないかと思う。言わば、米の中で一番旨い部分が固形物の限りでは酒粕になり、それに更に粕汁に入れたものの味や養分が加わるのであるから、これが我々の体を喜ばせるのは当たり前である。わた付きのたらば蟹にこの三平汁があって、僕は口直しにぜんまいの粕漬けでもあったら新潟ならばもう何も言うことはないという気がする。そしてそれはこの地方が海産物に恵まれている他に米が、従って又酒粕や味噌も我々東京人の想像を絶して優秀なのだということにもなる。(「新鮮強烈な味の国・新潟」 吉田健一) 


長範(ちょうはん)があて飲み
【意味】人のふところをあてにして、(ただの酒を飲もうとして)失敗することのたとえ。 長範=熊坂長範。大どろぼう。美濃国赤坂の宿で金売吉次をおそって、牛若丸に討たれたという伝説的人物。金売吉次が通るのを待ち受けて、一味が野原に集まって、「われらが宝を飲まばこそ、吉次が皮籠(かわご)を飲むなるに」と、のめや歌えの大酒盛りをしたが、その夜牛若に退治せられたことは、舞の本「烏帽子折」にある。(義経記では、長範ではなく、鏡の宿で藤沢入道一味を討つことになっている。牛若は、これから熱田に行って元服する)(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


馬鹿囃子
かくのごとくして、千住の青楼は、彼等に対してあれどもなきがごとく、葛西の風儀とは没交渉のものであった。稽古場には、

一、稽古場にて酒飲むべからず、朔日、十五日、二十八日、稽古仕舞ひ候て後は格別の事
一、喧嘩口論堅く禁制たるべし
一、稽古場にて安座(あぐら)かき申間敷事
一、世話役の外、其処はかう打つなどゝ多言致間敷事
一、仲間の中は折合能く可レ致候事
という制規がある。これも、賢明なる伊奈代官の、事に先立って拵えて置いたものである。かくて、一地方の人心は利導せられて、喜んで淫縦放逸に遠ざかった。牧民の職司にある者は、深く伊奈氏に鑑みる必要があろう。(「江戸の春秋」 三田村鳶魚) 千住に遊郭が出来たときに、伊奈代官が地元に馬鹿囃子を推奨し、多くの囃子方を誕生させ、それを山王祭に参加させることに成功し、青楼から地元民を遠ざけさせることができたという話だそうです。 


筒井康隆
しかし、そのご筒井さんの作品は、しだいに気ちがいじみたものへと進化していった。わが国はもちろん、外国にも例のない、妄想の権化のような作風となった。しからば、彼の酒ぐせもすさまじくなったかというと、さにあらず。二度と、あんな状態を拝見したことがない。持てる狂気を作品の中に封じ込める手法、それを彼が身につけたわけである。それゆえ、現実の彼は狂気の抜けがらで、人あたりのいい安心して飲める友人である。酒乱にもなれず、決して泥酔もできなのだ。そういう部分は、作品の方に移っていってしまった。これは作家に共通したことだろう。私が酔ってしゃべることは、私が小説に書かないことにしている、時事風俗にからんだ愚にもつかない問題ばかりなのである。もし筒井さんが見ていて面白い酒乱になるようなことがあったら、困ったことで、彼の作品のほうから狂気が失われてしまうに違いない。(「きまぐれ暦」 星新一) 


醸造酒・蒸留酒
きりがないのでこの程度にしておくが、情感とでもいうものがゼロなのである。アイディアとかウィットというののは、ドライにならざるをえない。ヒチコック的なものも、ブラウンもいずれもドライなのだ。別な形容をすれば、蒸溜されちゃっているのである。エッセンスだけが純粋に取り出され、どろどろした他の部分が除去されている。そこが特徴、どっちがいいの悪いのと、ここで判定すを下すつもりはない。同じブドウから作った酒でも、蒸溜しないブドウ酒と、蒸溜したブランデーとがあるようなものである。いずれかを特に好む人もいようし、同じように好むいようし、どっちもきらいな人だっていよう。蒸
溜しない酒と、した酒との二種あるということである。ただ、付随的な現象をあげれば、蒸溜しない酒の好きな人は、ブドウ酒も日本酒も、いろいろとうるさく、料理やムードまで気にする。蒸留酒とはウイスキーやジンもそうで、もっぱら飲むのが好きな人である。分散型と集中型というべきか。サール、アンゲラー、ボスク、トボール、トレーズなどの漫画をごらんいなれば、それがブドウ酒的、すなわち蒸溜せざる酒だとおわかりいただけるとと思う。(「きまぐれ暦」 星新一) 


良酒あらば飲むべし
酒は飲む人にとっては旅そのものの気がする。青年の酒、壮年の酒、老年の酒。その節がわりに、車窓の風景も変わってくる。酒を飲むことは、旅をすることだ。人生だって、旅ではないか。いちばん酒がまずいのは、ジェット旅客機だ。ローカル線の酒が一番おいしい。なぜって、酒は、その土地の文化の結晶だからだ。ぼくが心から尊敬する十八世紀の賢人、オクスフォード大学、クライスト・チャーチ学寮長をつとめたヘンリ・オールドリッチ博士の言葉を左に識す。
一、良酒あらば飲むべし。 一、友来たらば飲むべし。 一、のど渇きたら飲むべし。
(ここから声が小さくなる) 一、渇くおそれあらば飲むべし。 一、いかなり理由ありといえどの飲むべし。(「スコッチと銭湯」 田村隆一) 


酒類厳禁
たしかに、バクチ場で酒を飲ませるのも一つの手にはちがいないが、大トラになって暴れる奴が出てくるのが困りもの。江戸時代、佐渡の金山にあった鉱夫相手の半公認賭博場では酒類厳禁のきまりがあった。純粋にバクチだけを楽しませようというのか。このバクチ場にかかっていた絵看板が変わっていた。サカナが四匹並んでいるだけなのだ。上から鮭、鮫、鱈、鯉である。「酒、さめたら来い」という注意書である。(「ジョーク大百科」 塩田丸男) 


そんなこと言ったか酔いの恐ろしさ(渡辺蓮夫)
渡辺蓮夫氏は川上三太郎門下、『川柳研究社』代表。「まいにち川柳」(毎日新聞)の選者。お酒もいいが、こうなるから、こわいのである。それも、寄附の約束をしたとか、毛皮のコート買(こ)うたるというた、とか、とにかく、カネですむことをいうたのであれば、「まあまあ、ちょっと待ってんか、いや、うそついたんやない。そのうち、きっと」とごまかせる。しかし男と女のことであれば、言い逃れできなくなってしまう、「しーらんで、しらんで」というわけにいかない場合がある。酔いがさめた翌日、女に、「奥さんと離婚して、私と結婚する、いわはったやないの、酔うてたとはいわせまへん」それほどでもないのや。それをどういいつくろえばよかろう。背筋が冷くなってしまう。これが男の酔いの恐ろしさとすると、女のほうは、
ジンフィズがあやまちのそのはじめ(岩井三窓)
昭和三十年代にカクテルがはやって、「エンゼルキッス」や「ブルームーン」や「サイドカー」やとしゃれた名をつけて、色とりどりのカクテルを若い人は飲んでいた。このごろまた少しカクテルがはやりかけているようであるが、カクテルを飲むと、お酒を大切に飲むようになる。水割りはどうも、お酒をぞんざいに扱うようでいけない。カクテルというものは練達のバーテンさんがシェーカーを振って、分量もぴったし、色もあざやかに作ってくれるので、大事にゆっくり味わうという気分になる。しかしカクテルは口当りのよろしいわりに酔いが深く、ジンフィズなど、ほ仄(ほの)甘いのにつられているうち、いつかしたたかに廻ってしまう。ムーディーな音楽ともよ適うお酒だから、ご用心ご用心。しかしこれも若いうちのこと、飲みなれ、生きすれてくると、ジンフィズくらいでおどろかない。(「川柳でんでん太鼓」 田辺聖子) 


アリス・クーパー
なのに外タレだけは見ていないのは、もうひとつには「尻が重かった」せいだろう。チケット予約をして、当日厚生年金だのフェスティバルだの中野サンプラザだのに出かけていく、その「手続き」がうっとうしかったのだ。そんなわけで雌伏三十八年、万難を排し万障くりあわせて、ついにこのたび「外タレさま」を見ることができたのだった。この重い尻をついに上げさせた「外タレさま」とは誰か。「アリス・クーパー」さまなんである。あまた数あるロックミュージシャンの中で、アリス・クーパーさまだけは放っておけなかったのだ。それは自分といろいろ共通点があるからだった。もちろんデビュー当時からアリス・クーパーは好きだったのだが、アリスさまはその後アル中になって入院された。その辺、自分といっしょである。アル中で落ちめになったアリスさまは、その後ペットの錦ヘビともども、ジェイク・ロバーツというプロレスラーに雇われて、セコンドをしていた。プロレスマニアの僕はそんなアリスさまをよくプロレスビデオで見て感動したものだ。『パラダイム』というホラー映画に出たあたりにも親近感を覚える。というわけで初めて見た「外タレさま」のステージ、なかなか涙ものでした。(「しりとりえっせい」 中島らも) 


pot
pot の項で、「マリファナ、カンナビス」の欄に「in one's ~(s) 酔って」とある。たしかに in one's ~s という言い回しは、酔っているの意味だが、マリファナやカンナビスとはなんの関係もない。この場合の pot は酒を入れる深い盃、あるいは酒そのものを指す。この言い回しはすでに十七世紀には確立している。なお、OED(THE OXFORD ENGLISH DICTIONARY)ではin one's ~s と、複数形の用例のみを収めている。リーダース英和辞典がin one's pot 単数のみを示しているのは、明らかに不備。ところでOEDには詩人のことを potticall poeticall heades 茶化した愉快な例が載っている。これは一五八六年のもの。今日の綴りに直せば、 pottical poetical heads 。今日と同じく、当時も酒びたり頭の詩人が多かったのだろう。(「辞書はジョウスフル」 柳瀬尚紀) 


「幕末日本記」
一八六六年、イタリア政府は日本の開港場への出入りと、商館の設置をのぞんで海防艦マジェンタ号を日本へ派遣することとなり、V・E・アルミニヨン卿を全権に任命した。彼はこの任を果たし、帰国してのち、『幕末日本記』を執筆。その中の一節を紹介すると-。-
七月十一日(日暦五月二十九日)昼ごろ、税関の船着場から、彼は数人の武士(さむらい)を供にして海防艦の方へ向かってきた。四挺櫓の船が二艘、彼の舟に先立って進んだ。質素な小舟が普通の漁船と違うところといえば、船尾にひるがえっている白地に赤い丸の大君(タイクーン)の旗だけである。舟の中ほどが上席とされているので、役人たちはそこに腰かけていた。最初の小舟が艦の舷側に到着すると、二人の役人は甲板に上がってきて、すぐ丁寧に礼をすると、上役の来訪を告げた。左舷に並んだ衛兵たちは、伝令士官の号令によっていっせいに日本の役人に敬意を表した。さらに幕僚が一行を出迎え、太鼓が二回打ち鳴らされた。早川は予の部屋の入口にちょっと立ち止まって、腰にした日本の刀を外した。武装したまま他人の部屋に入ることは無礼とされているからだ。彼は愉快な顔つきをした小柄な老人であり、物腰すこぶる軟かで好々爺(こうこうや)といえる。二人の祐筆(ゆうひつ)が傍にいて覚書をつくり、こういう場合、欠くことのできない例の御目付もいた。御目付は会議の終わるまで黙り込んでいた。予は菓子、果物、葡萄酒、リキュールなどを運ばせ、トリノ産のチョコレートを少しずつみんなにすすめた。このチョコレートはたいへん気に入って、めいめいが紙に包み、懐中へ入れた。「私たちは帰宅してゆるゆると賞味いたし、あなたのご厚意を思いおこします」-さすがに日本人は奥ゆかしい。ものの考え方が万事このようである。いかにももっともな考えで、われわれが大いにご馳走になって帰ったとき、ご馳走をしてくれた人を思い出させるのは胃袋のもたれであるという場合も少なくはないのだ。(「洋酒こぼれ話」 藤本義一) 


猿廻し
お猿の背中に猿廻しといふ身で出かけたところが、猿廻し酒をのみすごし、大の鼻血。うしろの猿賢いやつにて ぼんのくぼの毛を三本引きぬくと、鼻血はとまつたが、つい猿廻しが猿になつた。猿は三本の毛を懐中にして「サアおれにおぶらつしいおぶらつしい」(笑門・天明六・猿廻し)猿は三本人間より毛が足りないと、ぼんのくぼの毛を抜くと鼻血が止まるということわざを使った小咄です。 


そんなはずない
彼女(卒業生の代表者)「私、貴女がお酒を飲むってこと聞いたんだけど」第二の彼女」そんなこと真赤なウソよ。だって私はお酒を飲んでいるところを誰にも見つかってないんだもの」 (「ユーモア辞典 参」秋田實編) 


長鯨(ちょうげい)の百川(ひゃくせん)を吸うが如し
【意味】がぶがぶと酒を飲むさまが、大きな鯨が多くの川の水を片端から飲みほすようである。【出典】左相日興費万銭、飲如長鯨吸百川、銜盃楽聖称避賢〔杜甫 飲中八仙歌〕 (「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


キュルノンスキー
あるとき、美食家で聞こえたキュルノンスキーが、友人と連れだって、コニャック地方の、ある酒倉を訪れた。そこで、沢山の樽に秘められたコニャックを、一つ一つ賞味する(デギュスタシオン)よういわれた。周知の通り、このときは、飲み干してはいけない。従って、グラスを傾けるごとに、心を鬼にして吐き出さねばならない。飲みすすんでいるうち、彼らは、ついに素晴らしいコニャックにあたった。そのときである。キュルノンスキーのなんともいえない声が聞こえた。「もう駄目だ。飲んでしまおう」(「食べものちょっといい話」 やまがたひろゆき) 


天界
ユダヤでは、タバーナイルの祭り(先祖の荒野放浪を記念する秋祭り)の最後の日はどんちゃん騒ぎが行われる。この日だけは教えに忠実な祭司もちょっとはハメをはずしても大めにみられることになっている。そこでこの日、ひとりの信心深いラビが、やはりちょっと飲みすぎてしまった。千鳥足で帰宅の途中、彼は橋の上で立ちどまって、眼下の流れを眺めた。なんたることだ、彼は見たものを信じることはできなかった。彼は欄干から身を乗り出して再びみつめた。まちがいない!そのとき、ひとりの警官が酔っぱらってふらふらしている老人が橋の欄干からいまにも落ちんばかりに身を乗り出しているのをみて叫んだ。「どきなさい。その手すりから離れなさい」警官はそのとしとったユダヤ人の老人のところに駆けつけた。ユダヤの長老は素直に警官の言葉にしたがった。「それでいい、爺さん、ここは見逃してやるから家へ帰りなさい」警官がいった。「それにしても恥ずかしくないのかい?いい齢(とし)をしてそんなに酔っぱらっちまって」「すいません、お巡りさん、すぐ帰りますじゃ。だけどひとつだけ教えていただけませんかな、あの下で光っているのはなんでしょうな」警官は下を見た。そこには月が映っていた。「月ですよ」警官がいった。「やっぱりそうじゃったか」老人はいった。それから恍惚とした様子で天をみあげた。「ヤーウェの神さま感謝いたします。わたしがこんなに高くまであがらせていただけるとは思ってもみませんでした」(「ポケットジョーク」 植松黎編・訳) 


リーダーズ英和辞典
リーダーズ英和辞典を壊してしまったのは、造本のせいもちょっぴりあるかもしれないけれど(もっと頑丈にできていてもいいと思う)、ひとつには筆者が英語を知らなすぎるからだ。このハンディーな英和辞典がとにかくなんでも収録してあるからである。引けば、まずたいてい見つかる。だから使う頻度も、ほかの辞書とは比べものにならいあい。たとえば-
Jimmy Woodser Jhon Barleycorn King Kong sneaky Pete Tom and Jerry Uzbek busthead doubling plonk third rail snake juice spuareface
以上の一ダースの語は、どれもなんらかのたぐいの酒である。そういうことがこの辞書ではすぐさまわかるのだ。 (「辞書はジョイスフル」 柳瀬尚紀) 


弥五郎
随筆『責而者草(せめてはぐさ)』(作者不詳)に出てくる人物だが、弥五郎は鯉とりの名人で、隅田川に入って鯉に抱きつき、生け捕りするのが得意だった。普通なら素手で鯉を捕まえるなど、容易なことではない。しかし、弥五郎の手にかかると、不思議にも鯉はおとなしく捕まった。彼は異常体質というか、体内に電気を発し、鯉をしびれさせ、動けなくしてしまうのである。生け捕りにした鯉は、忠勝に届けた。忠勝も「鯉は生け捕りにしたものが一番うまい」といって、弥五郎が捕った鯉を三代将軍家光に献上したり、諸大名への贈物にした。弥五郎は、あばれている腕自慢の力士を鎮めたこともある。丸山仁太夫は背丈が七尺六寸(約二・三メートル)、体重四十二貫六百匁(約百六十キロ)という巨漢で、怪力の持ち主だった。あるとき、丸山仁太夫が酒に酔い、大あばれしていた。むろん、だれも恐ろしくて手が出せない。そこに通りかかった弥五郎は、無造作に仁太夫の背中にしがみついた。すると、酒に酔って朱色に染まっていた仁太夫の顔はたちまち青ざめ、額に大粒の汗が吹き出し、全身が悪寒に襲われたかのようにふるえ出した。やがて仁太夫はばったりと倒れ、気絶してしまった。まわりで見ていた人びとは、「ほーっ」と嘆声をあげ、弥五郎を驚異の目で見つめた。巨漢の背中にしがみついただけで、卒倒させてしまったのだからそれも無理はない。(「大江戸<奇人変人>かわら判」 中江克己) 弥五郎は、寛永年間(一六二四~四三)、大老酒井忠勝に仕えた人物だそうです。 


十月十八日(東京)(明治12年)
本日、医学部の盛大な試験をおえたのち、一八名の学生が、八年という規定の全課程を修了した最初の卒業生として、学位免状を受け取るのである!かれ等は、わが国のドクトルに相当するという医学士の称号を得た。国家の真に必要とする人材を育て上げたことは、われわれドイツ人の大いに満足するところである。数々の演説。それから折詰め料理の立食。シャンパンが浴びるほど飲まれた。もちろん、強いワイン類になれない日本人は、すぐ酔っぱらってしまった。ほやほやのドクトルたちの舌は、みるまにろれつがまわらなくなった。あちらにも、こちらにも、シャンパン・グラスの折れた足が立っていた。やがて自分は家へ帰ったが、われわれが去ってから初めて、本当の酒宴が始まったのであった。(「ベルツの日記」 菅沼竜太郎訳) 


110万ドルの訴訟
また、『読売新聞』のワシントン特派員によれば、バージニア州の十九歳の娘は両親に連れられて別荘の保養に行き、別荘近くの船つき場で泳ごうとして飛び込み、怪我をした。これは「このあたりは水が浅いから気をつけるように」と注意を与えなかった両親の責任だとして、両親に対してなんと五百万ドル(約七億円)請求の訴訟を起こしているという。アル中になったサラリーマンが、これは社用接待が多かった業務のせいだとからと社長相手に百十万ドル(約一億五千四百万円)の訴訟を起こした例もある。昭和六十三年二月二日の『読売新聞』に、 市相手に1日平均55件 NY訴訟狂騒曲 という見出しで、ますますエスカレートするアメリカの訴訟狂ぶりに報道されている。(「言葉の雑学事典」 塩田丸男) 


逆桶買い
最近は。小さな蔵でも非常に多くの品種、銘柄の酒を出荷しているが、もともと生産量が少ないところへもってきて、それを多品種に分けるのでは品種ごとのコストが上がり採算を圧迫するのは目に見えている。さらに、そのような酒造りは、杜氏や蔵人たちに大きな負担をかけることになる。また、レギュラー酒については、酒税の引上げで、小規模な生産では採算を取るのが難しくなってきている。そこで、一つの方法として、自醸酒については各蔵が特徴を出しやすく、杜氏の技術を発揮しやすい高級酒に、思い切って品種を絞り込むことを勧めたい。そして、付加価値は低いが、ボリューム的には蔵元の経営を支えるレギュラー酒については、大手メーカーなどから買い入れる、いわゆる「逆桶買い」も一つの選択肢である。(「日本酒の経済学」 竹内宏監修・藤澤研二著) 


深遠な哲理
(昭和)二十二年ごろ、当時の大金侍従長がアメリカ人を官舎に招いた。なんでもいいから酒さえのめばいいというので私もやとわれて出席した。みんな酒をうんと飲んだから酒客ともに酩酊してきた。アメリカ人と大金さんは隅のほうで頭をつきあわせて懇談している。私はこれが気になった。大金さんという人は、実に今どき二人とはいないりっぱな人だけれども、英語はあまりりっぱでないのじゃあないか。へたなことをいうわけはないが、いうつもりはなくても、結果がまずいような意味にとられてはとりかえしがつかない。ちょうどその席に寺崎英成さんがいる。寺崎さんは陛下の御通訳をしている人である。寺崎さんに頼んだ。あれが心配で見ていられないから、ちょっと通訳して来て下さいと。寺崎さんは、なあによっぱらい二人にまかせておきましょうという。いやそんなことはいわないで、国の隆替に関するようなことになってはたいへんだからといったら、しぶしぶ出かけて行って通訳をはじめた。明くる日、大金さんはいっていた。あの男たいへん深遠なる哲理を説いているようだとと思って感心して聞いていたところが、寺崎がやって来て訳してくれたら、なんとつまらないよっぱらいのくだに過ぎなかった、と。いやがる寺崎さんに通訳なんか頼まなければ、そのアメリカ人も大金さんも、たがいになかなかあっぱれな奴だと、いまだに深く尊敬しているかもしれなかったのに。(昭和三十二年)(「侍従とパイプ」 入江相政) 


丸干しイワシ
「自分は丸干しイワシが一番好きだ」と常々おっしゃた総理がいらっしゃいます。池田勇人様が大蔵大臣の時でしたが、伊豆山の別荘を借りうけて、正月の三が日を静養なさった折、愚息義一が給仕頭をつれて、泊まりがけでお食事を担当いたしました。お誕生日に信濃町のお邸へあがったこともあり、実に庶民的というか率直におっしゃる野人的なお方で、今でもお慕いいたしております。一時、麦飯のことで失言問題になりましたが、ご本人は麦飯のおいしさをよくご存じなのでありまして、本当に正直なお方だったと存じます。今でも参りました者が、気さくなお方で、丸干しイワシは天下の美味だとか、その他いろいろと広島のご酒を召しあがりながら申されましたと、お人柄の思い出話をすることがあります。(「包丁余話」 辻留 辻嘉一) 


牢屋の酒盛り
「向う通り」は通常畳一枚敷へ八人詰める。それが入牢者が多くなると、「五の目」といって三人加えて十一人にする。だからむかしやくざなどの使う言葉に、混み合っているのを「五の目だね」というのがある。夜も昼もただ互いに押し合っているばかりで、寝ることなんかは勿論出来ない。自然、病人が出る。まず六人は「湿(しつ)かき」、二人は熱病、達者な奴は一人か二人だ。そこでいよいよ困って来ると、一番弱っている奴を夜の中にみんなで殺してしまう。しかし奴らだって人間だ。やっぱり気持ちは良くないから、次の日は牢内で酒盛りをやる。といってもみんなではない。役付でない奴らは舌なめずりをして見ているだけだ。酒が二束(わ)(一束は一分銀一つ)、さしみ(一束)、鮨が半束(はんぱ)(半束は二朱)。これを張番へ誂(あつら)える時に、牢名主から金を三分二朱渡す。これでやがて名主、隅役、隅の隠居が飲みはじめるのである。少し酒が回ると、畳を積上げて坐っている名主の前へ囚人を呼出して、芸をやらせる。祭文が上手だとか、講釈がうめえとか、かねてわかっているから、それをやらせて、上々で盃に一ぱいも酒を飲ませる位のものだった。牢屋には金さえあればなんでも入る。二分の買物をしても入るのは正味一分、二朱は使いをする張番、二朱は当番同心へ賄賂として渡る。だから牢屋同心は当番の時は、財布をカラにして出て来て夕方帰る時には、必ず多少の金を持ってきた。(「よろず覚え帖」 子母澤寛) 


子褒め
「ハイ十吉でございます。ご免下さりませ」隠居「ヲゝこれは珍しい。先ずお達者でめでたい」十吉「あなたはいつ見てもお若うござります」「イヤ若くもござらぬ」「デモ五十四、五にもおなりなされますか」「イヤイヤもふ七十でござる。しかし若いといはれるは嬉しいものだ。一盃飲ましやい。ソレお松、かんをしろ」と、たちまち追従は酒になり、十吉これはしめたものだと、日ごろは好きなり御意はよし、思ふさまひつかけ「コレハ有がたうござりました。またこの間に」と、そうそう暇乞して立出で「アゝまだちつと足らぬ。どこぞへいつて今少し呑みたいものだ。イヤあるある。太郎兵衛どのの内儀が産をしたといふ事だ。さらばよろこびに寄りませふ」と尋ね行き、十吉「太郎兵衛さん、おやどかな」太郎兵衛「ヲゝ十吉どのか、よくござつた」「承れば、御安産でお目出たうござります」「アイサ、わしも願いの通り男の子を設けました。コレ見て下され」と赤子のかいまきをとつてみれば、十吉「さてさて、よいお子様だ。もふいくつでござります」「イヤ、この男はとんだことをいふ。おとゝい生まれて、たつた一つだ」「それにしたはお若い。私はたゞかと存じました」(商内上手・享和四・ゆき過)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


出典不明
禁欲主義者で、もちろん酒をやらぬ向坂逸郎が東独を旅した。さる所で、マルクスがビールのジョッキを片手に談論しているレリーフをみつけた同行者が、鬼の首をとったように叫んだ。「先生、マルクスがビールを飲んでいますよ!」それを聞いた向坂、「これは、ビールを飲みすぎちゃいかんと説教しているところだ」(出典不明)(「とっておきのいい話」 山藤章二) 


お酒
ああ、でもお父さん(五代目古今亭志ん生)は、一度だけありましたけどね。昔、お相撲さんの双葉山と飲み較べをした時にね、あちらのお弟子さんに、「ウチの親方はそんなに強くないから、師匠、勝てますよ」とか言われて、その気になっちゃった。もちろん、勝負になんかならないですよ。相手はひと回りもふた回りも体の大きな力士なんだから。お父さんが一杯をガブッガブッと飲んでいる間に、双葉山はクイッと一息なんです。そいて、わけがわかんなくなるっくらい酔っ払っちゃって、どうにか家にたどり着いたときは、袴はずり落っこてるわ、雨に降られてずぶ濡れだわ、って状態でしたよ。馬生がね、お手洗いの窓から雪が降ってきたのを見て、それだけで嬉しくなって飲んじゃった、なんて話もありますが、お酒に一番執着のあったのは、やはりお父さんだと思いますよ。(「三人噺」 美濃部美津子) 


胆斗(たんと)の如し
【意味】きもたまが太くて、少しも動じない。 斗=十升入るます。酒をくむひしゃく。【出典】維死時見剖胆、斗胆豪心〔三国志 姜維伝注〕
遅参(ちさん)三杯
【意味】酒席に遅れてきた者は、すわるとすぐ三杯は飲む義務があるということ。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


果実酒(2)
ところが、もともと四十三度の強いスピリットに、多量の大蒜(にんにく)や人参を入れたものだから、刺激が激し過ぎて、とても咽頭(のど)を通らない。そこで、家人を薬局に走らせて、カプセルを買って来させて、それにスポイトで奇酒を注いで、嚥下(えんげ)することにした。そうすることによって、奇酒は咽喉を痛めずに胃に送られる事になったのだが、何しろカプセルが小さいために、幾つものカプセルに内容液を詰める作業が面倒でならない。そこで、今度は、自分で薬局に赴いて、もっと大きなカプセルを買おうと思い、薬局の主人に頼むと、前の物より少し大きな、ピーナッツ大のカプセルを出してきて呉れた。然し、何(ど)うも、それでも大きさが足りない気がして、もっと大きなカプセルは有りませんか、と訊くと、主人は、もうこれ以上大きなカプセルは御座居ません、と自信を持って答えて、訝(いぶか)る僕に、これ以上大きなカプセルが無い理由は、お判りになりませんか。これ以上大きくなれば、人間の咽喉をカプセルが通らなくなるからです、と説明して呉れた。僕は成る程と思って、ピーナッツ大のカプセルで我慢する事になった。実のところ、精力増進もさる事ながら、本当のところは、カプセル入りの奇酒を嚥下して数分すると、味わわずに胃の腑に入った奇酒の酔いが胃のあたりから頭に昇って来て、仲々にその酔心地が好く、結局、成る可く沢山の奇酒を呑みたいがために、巨大なカプセルがあれば良いと思った訳で、酔いを得たいがために、つい、人間の咽喉の限界を忘れた自分が愚かに思えて、こんな事では、精力の方も大して増進しそうにない、などと思いながら、毎朝起きると、カプセル入りの酔を製造するのが、僕のこの頃の日課の一つになのである。(「続々パイプのけむり」 團伊玖磨) 


桜井
十五年ほど前に店を閉じたが、かつて新宿歌舞伎町の路地裏に「桜井」という屋台まがいの小さな飲み屋があった。そこへは、三文文士がや放送関係の連中がよく通っていたが、その中のひとりに、今をときめく作詞家星野哲郎さんがいる。「桜井」はまことにせまい。七人も入れば寿司づめの盛況で、安い酒に世のうさをはらし、蛮声をはりあげて流行歌を伴奏なしで歌う人びとでムンムンする。ここで飲む人には一つのルールがあった。カウンターの椅子に腰をおろして飲んでいる人が途中で小便に立つ時は、あまりにもせまいため人のうしろをすりぬけて行く余裕がないので、他の客は立ちあがって、いったん外へゾロゾロと出なければならない、というルールがある。だから心やさしい客は、他人に迷惑を及ぼすような小便は出来るだけ我慢しなければならない。ある時、星野哲郎さんが飲んでいると、一番奥にいた客が尿意をもよおし、我慢の限界に達して、突然、「もう我慢出来ない!」と叫んだ。他の客に、いったん出入口から外に出てくれという合図である。これを聞いた星野さんは、たちまちこの一言をヒントにして詩を書いた。これこそ、「とても我慢が出来なかったよ」という北島三郎の大ヒット曲「函館の女」であった。それだけではない。飲み仲間をすべて露地へ出した客は「すまぬ すまぬ」をくりかえしつつ共同便所へたどりついたまではよかったが、梅雨時で湿気のせいか便所のドアが開かないのである。その客はあわてて、「おーい、桜井のかみさん、この便所の戸は開かねえぞ」と怒鳴った。店の中のお内儀(かみ)さんは、その遠吠えを聞いて平然と言った。「押しても駄目なら引いてごらんな」星野哲郎さんはこの言葉も聞きのがさなかった。そこで、さらさらと書きあげた歌が、あの水前寺清子の「おしてもだめならひいてみな」である。これも大ヒット曲となった。まるで、笑い話のようだが、私も「桜井」の常連の一人だったので、その話を番組の中で星野さんからうかがった時、まるで絵を見るように鮮明にその折の様子が目に浮かんできた。(「名手名言」 山川静夫) 


三州屋楼上
今からいえば十五年も前のことだ、たしか石井柏亭氏の洋行と山本鼎氏の除隊だったか入営だったが、とにかくそういう歓迎送別いずれかの会合を、当時、新興芸術のモンパルナスといった観のあった、例のパンの会で催した時の事だ。会場は小伝馬町の、たしか瓢箪新道とかいうのにあった西洋料理屋、三州屋の楼上だった。画家、小説家、詩人、評論家、随分大勢が集まって来た。主賓の二人は勿論の事、いま眼の前に、浮かんで来る色々の人の顔を並べて見るならば、一間だけの畳敷きになっていた所へ、堅い番頭さんといった風の和服で、蒲原有明氏が早くから陣どっていて、例の疳高な笑声を上げていた。北原白秋は、年少にして当時既に声名があった。酔って、例のシャム出来の仏像のような、腫れぼったいうす眼をしていた。小宮豊隆氏は真赫になって芳町の雛妓(おしゃく)を傍に引き寄せていた。伊上凡骨は、粉がふいたように蒼白んだ長面を振り立てて、盛んに訳の解らない呶号(どごう)をつづけていた。梯子段の途中に蹲(うずくま)って苦しんでいるのが柳敬助君だった。吉井勇も中心的人物らしく振舞っていた。無論小山内君もいた。与謝野氏もいた。和辻君も大人しく席に列なっていた。それから五郎丸という妓もいた。今の田村寿二郎氏夫人、-久喜久(ひさぎく)もいたかと思う。『白樺』からは正親町公和、萱野二十一、それと私と、こう三人行っていたが、菅野はともかく正親町と私は知った顔も少く、いわば味噌っ糟の態で、隅の方に小さくなっていた。一座の壮んな意気は-「芸術のための芸術」といった解釈においての、スヰ-トな芸術的興奮は、今思い出してもちょい気持ちのいいものだった。そういう壮んな雰囲気の中で、私は始めて谷崎(潤一郎)君と会ったのだ。(「里見弴随筆集」 紅野敏郎編) パンの会参加記


果実酒
先ず、石田さんに見習って、果実酒用の、アルコール分四十三度のスピリットを二十本ばかり買うと、禁止されている物以外の、手に入る果物を皆漬け込み、まだ余っているスピリットの壜には、大蒜(にんにく)を剝(む)いてしこたま仕込んだ。序(つい)でに、ずっと前、南米から帰った友人が、これを呑むと元気になるぞ、と言ってお土産に呉れた、鰐(わに)の膽(きも)だとかいう薄気味悪い物と、朝鮮の友人の呉れた、上等な人参二本と、海岸近くの崖に行って採って来た枸杞(こく)の実も、その大蒜の壜の中に投げ込んだ。そうして一ヶ月は暗い場所に置かねばならなかったのだが、その一ヶ月が待ち切れず、二、三日経った頃から、さて、何んな味になったものだろう、大丈夫かな、などと呟(つぶや)きながら、指先に付けて甜(な)めてみたり、猪口に注いで啜(すす)ってみたりしているうちに、結局一週間も経たぬうちに、驚く勿れ、十九本のスピリットは空になってしまった。考えれば当たり前の話で、僕は、焼酎が大好きなのである。従って、僕は、未だ匂いの付く前の果実酒を飲み乾すだけに終って、果実酒製造は失敗に終ってしまった。(「続々パイプのけむり」 團伊玖磨)残りの一本は、大蒜入りで、次の話に続きます。 


伊馬春部
同じ折口門下の池田弥三郎さんが亡くなった時に、NHKで追悼番組をつくり、山本憲吉、金田一春彦、森繁久弥の三氏に御出演いただき、私が司会をうけたまわった。これを伊馬先生は、駅前酒場の立飲みコーナーにあるテレビで御覧になっていたのである。
「先夜の追悼番組の折、都立大学まで帰って、あわててとびこんだのが、駅前酒屋の立飲みコーナー。テレビは早くもはじまっていて、シゲさん、憲吉氏、それに春彦せんせいときては、まずまずの超フィクサーメンバー。立飲みコーナーの御同役、見物人、しきりに森繁のヒゲと小生のソレを話題にするゆえ、手持ちのカメラのショットは専らシゲさんのアップに集中、ともあれザンネンなことでした。必ずや将来の塾長と期待してゐたのに…。肝硬変とはオソロシキ魔物にこそ! この立飲みコーナー、毎晩十一時までは確実に開けてある点、助かります。日本中の清酒がそろってをり、スコッチ、焼酎、何でもござれ、頼もしき限りです。昨今、ヒゲのせいで、九十パーセントまでが乃木さんそっくりといってくれます。いや、富岡鉄斎だといってくれたのはある陶芸家でした。リップ・バン・ウィンクルといってくれたむきもあります」伊馬さんはこんな手紙を私に下さった。「乃木さんそっくり」と他人様(ひとさま)から言われるのは、ことのほか御満悦の晩年だった。それにしても、池田さんの肝硬変を「オソロシキ魔物」と評しつつも、みずからは駅前の酒屋で自慢のヒゲをなでさすりつつ静に盃を傾けるとは、いかにも伊馬さんらしい。(「名手名言」 山川静夫) 伊馬春部(いまはるべ)は、最初のテレビドラマ「夕餉前」などを書いた作家だそうです。 


殿さま粥
白粥に葛あん(煮出し汁一カップに淡口醤油、塩、化学調味料で吸物より濃いめに仕立てて葛または片栗粉の水溶きを入れてトロミをつけたもの)をかける(葛をひいて幕内と洒落たもの)。お年寄りと二日酔いに最高。
旗本粥
白粥の土鍋に卵の黄身だけを落とす。主君を守るの洒落。(「新・口八丁手包丁」 金子信雄) 


年齢
私の母は、私が三十四歳のときに死んだ。母は、私が酒を飲むことを好まなかった。母は酒飲みがきらいだった。母は、お前さんは、ふだんは無口なのに、酒を飲むとおしゃべりになって面白くなると言った。面白くなるのが厭らしいと言った。私は、時に、大酒を飲んだ。それは、たいていは、高橋義孝先生の先生の奢りだった。母が私に大酒を禁止する時に、お前さんは、まだ一人前ではないからだと言った。高橋さんは一人前であるけれど、お前さんは一人前ではないと言った。四十五歳になった私は、いまでも酒を飲むし、時に大酒を飲む。ところが、私の内心において、私の酒を禁止する声がある。そんなことをしていいのか。体はいいのか。明日が大変だぞ。私は、なんら気が咎めることなくして大酒が飲めた期間は、いまから考えると、非常に短かったようだ。すなわち、私の「一人前の時」は、きわめて短かった。(「旦那の意見」 山口瞳) 


茶弁当
元禄三年(一六九○年)来日のケンプェル、下って文政六年(一八二三年)のシーボルト、どちらも長崎出島勤めの医者という名目で来た博物学者だが、さすが観察の目は鋭い。見たこと聞いたこと、詳細かつ膨大な記録をのこせたように茶弁当に注目しているのは面白い。ヨーロッパの王侯貴族も知らない便利な道具だというのだが、それもそのはず、旅先でいつでもあたたかいお茶が飲め、酒に燗がつけられるのである。しかしこれを担がされるほうこそいい迷惑。それ自体がいわば携帯焜炉(こんろ)、けっこう重いうえに四六時中お湯がシュンシュン沸いていなけれればならない。時には重箱や酒入れまでセットになったものもあり、なおのこと重いものになる。-
この格式張った茶弁当も、江戸も時代が下るにしたがって、いつとなく、まただれからともなく、次第に民具に仲間入りしはじめる。浮世絵などの花見にはまずこれが付き物、お大名のように金の定紋をつけたり銀の金具で飾ったりは抜きにし、こちらは実用本位の茶弁当である。 (「道具が証言する江戸の暮らし」 前川久太郎) 


悲劇
「私の人生は平穏とはほど遠いものだった」バーのカウンターに身をかぶせるようにして飲んでいた紳士が、偶然隣り合わせた男に言った。「私は三人の妻に先立たれた。最初の二人は毒きのこにあたって死んだ。三人目は、かわいそうに脳震盪が原因で死んだ」「脳震盪だって?」隣の男は小声で言った。「どうしてそんなことになったんだい?」「とても悲しいでき事だった」とやもめ男はため息をついた。「彼女はどうしてもきのこを食べてくれなかったものでね」(「ポケット・ジョーク」 植松黎 編・訳) 


ボケッとして飲む
僕はどちらかというと一人で酒を飲むことが多い。家でもレコードを聴いたりヴィデオを見たりしながらビールやウイスキーやワインを一人でちびちびと飲んでいるし、街にでても一人でふらりとバーのようなところに入って、二、三杯飲んで帰ってくる。もちろん僕は自閉症じゃないから-この前三年ぶりに業界のパーティーに出たら某女性作家に「なんだ、村上さんもパーティーに来るんだ。自閉症じゃないんだ」と驚かれたけれど-人と一緒に楽しく酒を飲むこともある。しかし回数からすれば一人で飲むことの方が圧倒的に多い。もともとつきあいがそんなにないうえに地方都市に住んでいたせいである。くりかえすようだけど僕はぜんぜん自閉症なんかではない。僕が自閉症だったら、村上龍は自開症である。もっともバーで一人で飲むといっても決してフィリップ・マーロウとか『カサブランカ』のハンフリー・ボガードなんかのようにビシッと決めてしんと酒を飲んでいるわけではなく、どちらかというとボケッとして飲んでいる。しんと酒を飲んでいるわけではなく、どちらかというとボケッとして飲んでいる。しんと一人で酒を飲むのと、ボケッと一人で酒を飲むのでは見た目にはずいぶん違う。阪神タイガーズに即して言えば真弓と岡田くらい違う。気障8きざ)なことも言わないし、トレンチ・コートの襟も立てないし、じっと虚空の一点を睨んだりしない。ただボケッとして酒を飲んでいるだけである。だから「あちらで寂しそうな目でマティニを飲んでいる方に私からおかわりを」なんて言ってくれる女性も現れない(現れるわけないよなあ)。(「村上朝日堂の逆襲」 村上春樹・安西水丸) 


昼酒
オートバイは、柳家小三治にとって趣味を通りこして「足」のようなものだ。四台あるそのオートバイ用に借りた駐車場に、昨年の春から秋にかけて、長谷川さんなる中年の男性が住みついてしまった。この長谷川さん、しごく礼儀正しく、家主(?)の小三治が顔を出すと丁寧に挨拶などする。べつに悪いことをするわけではないけれど、そう考えても住みついちゃうというのは理不尽なふるまいだ。だが、あまりにもあっけらかんとしたこの長谷川さんの態度を見ていると、なんだかとがめるのがいけないことであるような気になって、しまいには、長谷川さんが駐車場に住んでいるのが当然のような錯覚におちいったそうだ。なんだかイヨネスコや別役実の不条理劇みたいだが、事実なのである。かくなる上はと、『駐車場物語』なる体験的落語に仕立てたところ、これが大評判なのである。この長谷川さんが、昼日中から酒などやっているのを見かけた小三治が、「身体の具合が悪くないなら、少しは働いたら」と忠告したそうだ。「ハーイッ」と、とてもいい返事をしたのだが、それから一週間というもの顔を合わせても口をきいてくれなくて、小三治のほうが落ちこんじゃったというのがひどくおかしい。(「ベトナムの少女とバリの塩」 矢野誠一) 


料理婿
▲しうと 少しも苦しうござらぬ。好うこそ今日は御出なされた。やいやい、太郎冠者、盃を出せ。 ▲冠者畏つてござる。 ▲しうと さらば、婿殿から参れ。 ▲シテ いやいや、まず舅殿から参つて下され。 ▲しうと それなら、たべて進ぜう。太郎冠者、酌をせい。 ▲冠者 畏まつてござる。 ▲しうと さらば、この盃を婿殿へさしましよ。 ▲シテ 戴きましよ。扨も扨も、よい酒でござる。 ▲しうと 気に入つたさうな。も一つ進ぜ。 ▲シテ それなら、も一つたべましよ。飲めば飲むほどよい酒でござる。そのまゝいばらさかも木の様な酒(荊蕀逆茂木の如く刺すやうによくきく酒の意なるべし)でござる。祝うて三献たべなしよ。舅殿、おなも此中(このぢう)は、どうやら気色(けしき)がわるいと云うて、只梅漬ばかり食はれます。さらば、この盃を舅殿へさしましよ。もはや納(おさめ)になされ。 ▲しうと もはや参らぬか。それなら納めましよ。太郎冠者、とれ。やいやい太郎冠者、汝(なんぢ)に言いつけておいた物出せ。 ▲冠者 畏つてござる。 ▲しうと なうなう婿殿、この所の大法で、初めて婿殿には、包丁の手元を見ます。婿殿にも一手なされ。(狂言記) 舅は包丁(料理)の作法を望んだのに、婿は、だまされて貰って来た書き物に従って相撲の法を行い、てんやわんや。 


毎月見聞録
四月四日(大正五年)
夜十時頃陸軍戸山学校騎兵教授某神楽坂にて乱酔し芸者家町を抜刀にて荒れ廻る、巡査鳶(とび)の者大勢出でやつと召捕る、桜時なれば当世の籠釣瓶(かごつるべ 水も溜まらぬという意味の妖刀)とや云はん。
二月九日(大正六年)
本年白酒二割高にて一升一円十銭位。
十一月一日(大正六年)
麻布十番にさしかゝりたる馬士ブランデーを呷りし揚句一足も歩けぬやうになり車上に寝入りたれば馬は荷車を曳いて所構はず曳き廻りしを警官認め鳥居坂署に連行き保護し馬士は二日の朝御目玉を喰ひて放還さる。
(「毎月見聞録」 永井荷風) 


一等水兵 七つの郷愁
一昨日は第五十九回海軍記念日にあたる。各地で、勲章をもった海軍のえらい人々の集まりがあったようである。もと二等水兵であったわたくしごときまで、二つの会合に招かれ、そこでお酒をいただき、軍歌を歌ってきた。帝国海軍への郷愁のなせるワザか。 一、横になると即座に眠れた。どうしてあんなによく眠れたのか、不思議である。 二、よく食べよく走った。食べさせれば馬のように食い、何万坪の海兵団の練兵場を、毎朝三回も走った。 三、少量の酒で、よく酔った。配給の酒は大部分、下士官にまき上げられたが、残りの三勺くらいの酒で、陶然となった。 四、妻子扶養の義務がなかった。しかも手紙や慰問袋はさかんに来るし、こんなオヤジが大切にされたことはなかった。 五、「お国のためだ」で、全部カタがついた。簡単で、健康な精神生活である。 六、衣食住全部向うもちで、しかも何か特技を得た。わたくしはバス(フロ場)当番をよく命ぜられたので、上官の背を流す術に熟達した。「三助」なら、いまでもだれにも負けない。 七、そこには貧富、学歴の差別はなかった。忙しいから金をつかうヒマはない。ヘマをやれば、小学校出も大学出も、おなじように「アゴをとられ」、しかも太い「海軍精神体得棒」で、ぶちのめされた。壮絶である。(「歴史好き」 池島新平) 


大酒遊芸は末の身知らず
【意味】大酒をのみ遊芸にうつつを抜かすのは、わが身の将来について考えないしわざである。
玉の盃底なきが如し
【意味】①外見はよいが使うことのできない物のたとえ。②せっかくよいものであるのに、一つだけ欠点がある(物たりない)ことのたとえ。【出典】万にいみじくとも色好まざらん男は、いとさんざうしく玉の盃の底なき心地ぞすべき〔徒然草〕今有千金之玉巵(ぎょくし)、通而無当、可以盛水乎〔韓非子 外儲説右上〕 (「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 
 


くだり塩
東京の『中央区年表』の明治文化編(昭和四十一年三月刊)をみていたら、明治十一年のところに、「塩茶番」という見出しがあって、 ○東京府知事の命により下り塩の販売業者が、東京食塩問屋組合と東京食塩仲買組合を組織した。当時下り塩の買付相場は、問屋組合事務所のあった南新堀一ノ一の貸席「老松」で協商した。これを「塩茶番」といっていた。 という記事があった。「塩茶番」はさておいて、江戸が東京になって十一年たっても、まだ文化は西方からであって、いいもの、秀れたものは、「くだり」であった。これは業平あずまくだりのくだりで、都から鄙(ひな)へ、やまとからあずまへ、くだり油、くだり醤油、くだり酒、くだり諸白、くだり杯、くだり下駄、それにくだり役者まであった。(「暮らしの中の日本語」 池田弥三郎) 


柊屋
『翁草』という本に出ている本当の話だと思っていただきたい。この柊屋(ひいらぎや)と、いま一人名前を忘れたがひとりの禅門がいた。この二人が京に並びなき酒飲みで、ゆうに一斗を平らげたというから恐るべきものである。これが院の御所に聞えて、「これは珍しい、一つ朕のところで飲んでみせよ」ということに相成った。至尊の方は、いろいろのことに興味を示されるものである。ところが、柊屋、これを名誉なことに思わなかった。そんなことで招待されたのでは第一、飲んだ酒がうまくない。病気になったといってお断り申しあげた。いま一人の方は参上して、一斗の酒を飲んで、御感(ぎょかん)にいられたということであるが、『翁草』は、このとき柊屋が「余のことにて召されなば面目たるべけれども、酒にての誉れは恥なり」 といったと書いている。「酒にての誉れは恥」であるかどうか、これはなかなか難しいところで、それよりも、私のように、そのような場所で酒を飲んでみせることの味気なさを考えた方が酒飲みの真意を伝えているように思われるが如何。それが証拠には、この柊屋、矢橋の渡りを舟で渡るとき、酒屋の手代と賭をして一斗の酒を悠々と飲みほしている。みな飲んでしまったら只でさしげるといった手代は青くなってしまうが、そこで柊屋、さらに悠々として財布を出し、「いや、飲んだお代はさしあげますよ、アア旨かった」と足音も乱さず舟を下りてゆく。本当の酒飲みとはこういうものである。(「京都故事物語」 奈良本辰也編) 


無頼派
大河内 いわゆる無頼派の作家、坂口安吾、太宰治、そして織田作之助、この三人が終戦直後、ラジオに引っぱり出されたんですけども。ぐでんぐでんに酔っぱらって、とにかく番組にならなかったという話があります。それで私は織田作もだいぶ飲むのかと思っておりましたら、この間、織田作の回顧談を、青山光二さんというもう八十歳過ぎになられる作家から伺いました。そうしたら、織田作は一滴も飲まなかったそうです。なんか酒飲みだという雰囲気がありますが、実は一滴も飲めない。太宰と坂口はよく飲むんですが、まあ彼らがこの場合飲み過ぎたのは、酒が好きというよりはラジオ出演に緊張し、おたがいに照れ性だからなんですね。作家の場合、自意識過剰で飲む、というケースもないとはいえません。吉田健一さんの「饗宴」というエッセイに「犬が寒風を除けて日向ぼっこをしているのをみると、酒を飲んでいるときの境地というものについて考えさせられる」というのがあって、私は酒をたしなみませんが、まことに言い得て妙といった感じがします。(「下戸の酒癖」 玉村豊男編) 語っているのは、大河内昭爾です。 


トラ大臣
私は学生時代、撃剣の大将をしていたので、紋付羽織に黒袴といったいで立ちで、出かけた。江藤さんはしょっぱな、まず私の履歴書について、「文字を訂正してあるのはどういうわけか」とたずねられた。私は「こういったものは、一枚しか書きません。間違いましたので、訂正して置きました」と答えた。履歴書の上欄には、三字訂正として、訂正判をおしてあった。佐藤さんは、まずその点に、やや快心の面持ちであった。「酒飲むか」とjきいた。「飲む」と答えた。「どのくらいか」とたたみかける。「サア」と答えたら、「五合ぐらいか」というから、「五合ぐらいではネー」と笑ってやった。「修養としては、何をやっているか」とたずねるから、「先般からのお答えは、ことごとくこれ、修養の具であります」と答えた。「アナタはどうも温厚のほうではありませんネ」と言う。すかさず、「温厚といわれるほどの愚物でもありません」と応酬してやった。どうもとんでもない奴があるもので、これが入社の人物試験であった。受験者は一人残らず、法律問題を出されたそうだが、私には法律のホの字もきかなかった。もしそれをきかれたら百年目、とても合格などおぼつかなかったろうと思う。何しろ大学では、学校へ行ったのは、一年に一時間というズボラをつづけていたのだから、たまらない。いよいよ採用と決まって、嬉しい同士は、特に江藤さんをご招待して、日本橋蛎殻町の末広に、一席を設けた。江藤さんは、さすが、自分の育て児だけに嬉しそうだった。私も大いに飲み、大いに談じた。入社第一歩という矢先に、丼酒(どんぶりざけ)のグイ飲みをお目にかけたのには江藤さんも驚いたようだ。(「トラ大臣の名は消えがたし」 泉山三六) 三井銀行入社の際の逸話だそうです。 「酔虎伝」  


帰朝の祝宴
追懐は老者無上の慰楽となす所なり。明治四十一年秋、僕西洋より帰来し時木曜会の文人僕の為に祝宴を開かんとて、あゝでも無い斯うでもないと相談の末おもひおもひに姿をやつして上野停車場に集り、それより浅草辺を遊び歩きて一泊することゝなしぬ。九月半の事なり。花見時にもあらぬ白昼なれば、若し身分職業柄仮装を厭ふ者は会費の外に罰金五円を出してあやまる事になしたり。然るに当日午後の四時を期して上野停車場の待合室にに集るものを見れば会長巌谷小波先生を始めとして十四五人の会員一人として罰金を出すものなくいづれも車夫、牛乳配達夫、行商人等に身をやつしたり。その中にて小波先生は双子縞の単衣に怪し気なる夏羽織、白足袋雪駄にて黒眼鏡をかけし体、貸座敷の書記さんに見まがひたる。又、太田南岳の山高帽に木綿の五ツ紋、小倉の袴をはきて、胸に赤十字社の徽章をさげたる。この二人は最上の出来栄なりけり。同勢十四五人徒歩して浅草公園を一巡し千束町一丁目松葉屋といふ諸国商人宿に入りて夕飯を食し、さておもひおもひに公園の矢場銘酒屋をひやかすあり、玉乗り源氏節の踊を見に行く者あり吉原の女郎屋をぞめき歩くもあり、やがて松葉屋に帰りて一泊す。蒲団の不潔なるを恐れて外泊するものは亦罰金を取る約束なれば一同帰り来つてこゝに一夜を明し翌朝朝飯をすませし頃折好く表に紅勘(べにかん 長唄で流し歩いた人物)が三味線弾いて来りしを呼上げ祝儀を奮発していろいろの芸をやらせ、宿屋を引き上げて一同竹屋の渡しを渡り、桜のわくら葉散りかゝる墨堤を歩みて百花園に休み木母寺の植半に到りて酒を酌みつゝ句会を催したり。(「桑中喜語」 永井荷風) 


日本酒
少し効果的な言い方をすれば、われわれの生活の中にお酒という語はなくなってしまった。お酒といえばビールではなく、ウィスキーでもない。近頃ワインが行きわたって来たが、それもお酒とは言わない。「お酒を飲もうか」と言えば、日本酒のことにきまっていたのだが、この頃ではそう言わなくなってしまって、わざわざ日本酒という語を用いるようになった。しかし、日本酒などということばは、われわれの生活の中には昔はなかったと思う。ところがわれわれのことばづかいには、論理を追求する傾向があって、なかなか理屈っぽいところがあり、きちんとしようという働きがある。何も酒類というものは日本酒だけではないではないか。ビールもワインもウィスキーも酒の中である。だから酒といえばそれら全部がはいっているわけで、そのことばで日本酒だけを指すのはおかしいじゃないかというような理屈が働いてくる。そのために、洋酒だとかぶどう酒だとか、そういったものと区別して、今まで酒といえばそれですんでいたのに、わざわざ日本酒などと言い分けるようになったのだと思う。(「暮らしの中の日本語」 池田弥三郎) 


直し
上方見物をしようという江戸ッ子二人、大阪へ着いて宿へ泊まりました。「おいどうだい。一ッ風呂浴びてから、一杯やろうじゃねえか」「いいねェ」「酒は熱いから、なんか冷てえものがいいな。直しがいいかな」「じゃいまのうちに頼んでおこうじゃねえか。おいおいねえさん、あとで一つ、直しを頼まァ」「へえ、何でおます」「直しを頼んでくれ」「直しを…? へい」と言ったが、草鞋をはいて来た人が、どういうわけで直しを呼ぶんだろうと思ったが、向こうも商売ですから、直し屋さんを頼んできました。「あのう、直しがまいりました」「え、来た? あ、そうかい。なるったけ冷たくなってる方がいいんだけどなァ。首ッ玉に縄つけて、井戸ン中に少しぶらさげといてくれ」向こうが驚いた。客は徳利のつもりで言ったんですが、いくら暑い時分だって、首に縄つけて井戸にぶらさげられちゃ大変だてんで、顔色を変えて逃げ出したなんてえ話があります。同じ呼び方でもところによって品物の違いからとんだ間違いができるものです。*『てれすこ』(「噺のまくら」 三遊亭圓生)江戸で「直し」は、「味醂と焼酎を割ったようなもの」(大阪では「柳かげ」、京都では「南蛮酒」)、大阪の方で、「直し」は、雪駄の裏を直す、「直し屋さん」のことだそうです。 


「河野典生の酒」
じつはつい先ごろ彼の文庫本のあとがきとして「河野典生論」をやったばかりなので、同じことも書けないからどうも書きにくいのだが、それ以外のことを書こうとすると、どうしても酒のことになる。ぼくは彼と一緒に何か食べたという記憶はひとつもない。一緒に飲んだ記憶ばかりである。そしてその記憶の中にいる彼は、いつも誰かと喧嘩している。これが困るのである。ジャズ仲間と飲んでいるうちは滅多に喧嘩しないのだが、場所が文壇バーであったり相手が文壇人であったりすると、彼はちょいちょいやる。傍(そば)にいるぼくとしては、たいてい困った立場になるのだが、しかし、喧嘩しはじめた彼を傍観している際の自分の気持をほじくり返して見ると、いくぶんかは面白がっているところもあり、だからあまり非難することはできない。河野典生の場合はたいてい口論だけで、まだ文壇関係者と殴りあいを演じたことはないようだが、それでも彼の怒りの突発性とことばの凄まじさには、やっぱりはらはらする。もちろん彼が殴りあいをはじめても、ぼくは彼に助太刀する気は毛頭ない。この際はっきり言っておくが、彼が負けそうになり、とばっちりがこっちへきそうになったらぼくは逃げる。その逆に河野が勝ち、彼の相手がぼくも嫌いなやtyであれば、どさくさまぎれに二、三回殴らせてもらうかもしれない。そういう無責任なぼくではあるが、空気が険悪になってくるとやっぱりはらはらする。(「やつあたり文化論」 筒井康隆) 


上戸の火燵
ある上戸ども四、五人寄合ひて「今宵は夜寒なに、火燵(こたつ)に火を入れられよ」といふ。一人が申しけるは「火燵より酒一升御買ひあれ。打寄りたべ、我らが懐へ足御さしあれ」と申す。「この義よからう」とて酒取寄せ、いづれも飲みて、かの人の懐へ足ふみ入れ、そろそろ寝られた。ひといき寝て目をさまし、いづれも申しけるは「さてもこれは冷火燵じや」といへば、一人申すは「今五合かきさがいたらよかろう」というた。(露新軽口ばなし巻二・元禄十一・上戸の火燵)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


わが墓碑銘
一八四二年三月二十三日、スタンダール、パリに死す。その墓碑銘には、「生きた、書いた、愛した」とかいてあるというが、もしあなたなら墓碑銘になんと刻むか-朝日新聞が読者の投稿をのせている。「戦いの無い地へ旅立つ」(会社員・36) 「公害天国を脱し いま、清き楽園天国に向かう」(会社員・50) 「やっとあこがれの有閑マダムになれた直立猿人、ここに眠る」(主婦・51) 「めざまし時計よ、さようなら」(会社員・29) 「飲み、飲まれ、飲み終えた」(会社員・56)- (「ことばの情報歳時記」 稲垣吉彦) 


武勇伝
椎名 じゃあ、まずお酒から。武勇伝もありそうですし、相当飲むんでしょう。
前田 いや、自分は業界でも酒についての話は数え切れない人間で、ほとんど恥ずかしい話ばっかりなんです。
椎名 それはいいことです(笑)。
前田 朝起きて、「昨日、おまえはこういうことをしたんだぞ」と聞くたびに、一生山奥にこもりたいと思うことがよくありますよ。
椎名 最近も?
前田 ええ、つい最近、正道会館の角田選手が結婚式をやったときに、空手家の佐藤勝昭さんと二人でちょっと意地を張って、ベロンベロンになりましたね。勝昭さんはおとなしい酔い方をしたんだけれど、自分の場合はえらいハッピーになりすぎちゃって、両親への花束贈呈のときに四文字言葉を連発したりして、すごいヒンシュクを買いました (笑)。
椎名 それは覚えてないんですか。
前田 全然覚えてないんです。フルコースの中でステーキが、それを二口目食ったところまで覚えているんですが、それからパッと目の前が真っ暗になって、気がついたらホテルで寝てた (「喰寝飲泄」 椎名誠) 前田日明と椎名誠の対談です。 


化けもの祭り(山形県・鶴岡市)
何ともユーモラスなのが、鶴岡市の化けもの祭りです。六月五日に行われるこの祭りは、化けものの好きな子どもが聞いたら喜びそうなまつりである。お祭りの日には、老若男女はみな編笠覆面で顔をかくし、長じゅばんの尻をからげ、股引きにぞうりばきという見た目には、どこの誰とも区別のつかない姿で市内に繰り出す。できるだけ見破られないように、それぞれ工夫をこらして化けるのであるから、男が女になったりするのは、ごく当たりまえのことである。だから、地元の者でないものが知らずに出かけていって、いい娘がいるからなんてチョッカイを出すと、毛むくじゃらな腕でなぐられ、ケガするなんてことになりかねない。化け方がうまくて、もし三年間連続で、正体を知られないで通すと、何でも願いが叶うというのだから、うれしいお祭りである。野次馬根性をだして、お化けになんとか口をひらかせて、誰だか正体をみとどけてやろうとしても、お化けは絶対に口をきかない。そして、いつも酒と盃を持って歩き、道を通りかかった人に酒を進める。というのだからお酒の好きな人たちにはうれしいはなしである。だが、誰でもお酒をいただけるわけではない。お化けの気に入らない御人には絶対に飲ませない。なかには、御婦人専門に酒をすすめ、いやがるのを見てよろこんでいるいやらしいお化けもある。また飲ませてもらえない連中が、この野郎と思っても、どこの誰だかわからないので、どうしようもない。そこがお化けのつけどころかも知れない。なかには厚かましい御人がいて、お酒のおかわりを要求するが、お化けがくれないので、後を追いかけまわす光景もみられる。人間様はお化けを見て逃げるのだが、お化けの方が逃げるとは、なかなか傑作である。(「日本の奇祭」 湯沢司一・左近士照子) 鶴岡市観光連盟のホームページには、鶴岡天神祭の別名で、5月25日とありました。菅原道真が太宰府に流される時、見送りを警備に妨げられた人々が、身なりを変えて別れを惜しんだことに由来するということです。 


樽俎折衝(そんそせっしょう)
【意味】外交談判。酒席で談笑のうちに平和的交渉を行い、相手方の鋭鋒をさけて有利に妥結すること。 樽俎=酒だるといけにえの動物をのせる台。転じて公式の宴会または国際上の会見。 折衝=敵のついて来るほこ先をくじき止めること。転じて談判。かけひき。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


志ん生の呂律
吉村は、中学生の頃から寄席通いをしていたので、古典落語鑑賞会などというものを思いついたのだが、女子部員の父親が開業している歯科医院に落語家たちが治療に来ていると聞いて出演交渉に出かけ、第一回は志ん生、文楽、小文治という豪華メンバーを予定した。問題は院長の許可だが、安倍能成先生にお願いに行くと、「ずいぶんいい人たちが来てくれるんだね。是非やりなさい」と快く許可して下さり、乃木大将が院長時代に使っておられた金屏風まで貸して下さることになった、とかれは得意満面で報告した。菊の御紋章の幕のかかった舞台にその金屏風を立て、緋毛氈を敷き、厚い座布団の両側に燭台を置いた即席の高座へ、その後も、円生、可楽、小さん、柳好、柳橋などという一流の方たちがつぎつぎに出演した。私が目白駅まで迎えに行く役だったが、志ん生師匠を迎えに行ったとき、かなり酔っていて呂律(ろれつ)もあやしい有様、私は今日の落語会はどうなることか、と青くなったが、一旦高座の上ると軀もしゃっきりとし、顔も一変したのには驚いた。酔って御機嫌だったせいか、「宿屋の富」を一時間近くも噺した。古典落語鑑賞会は十回ぐらいも続いたが、吉村がある日寄席へ行ったとき、「この間学習院の菊の御紋章の幕の前で一席うかがいまして」と若手の落語家が言っていたそうで、まだそんな珍しい時代であった。(「女の引き出し」 津村節子) 吉村は、津村の夫の昭です。 

麹座
近世、各地に麹座というギルド組織があった。京都北野天満宮所領にあった西京麹座が最も知られている。彼らはコウジ製造を独占していた。造り酒屋にとってみれば、絶対に必要なコウジを、麹座に握られているのはおもしろくない。そこでコウジ室を造って自家製造をはじめたのである。麹座の独占は室町幕府の下知状によるもので、、政府公認にほかならない。造り酒屋はたまりかねて、お上に盾ついたのである。だが、麹座の養成によって、幕府役人立会いの下で、造り酒屋のコウジ室がすべて破壊された。争いはこれでおさまったのではない。時は文安元年(一四四四年)造り酒屋たちは比叡山延暦寺に駆けこみ、援助を求めたのである。財力においては、酒造業者のほうが麹座よりもはるかにすぐれているはずだ。きっと黄金と般若湯をたっぷり献納したのであろう。延暦寺は僧兵がいて、朝廷にたいしても不満があれば、日吉社の御輿をかついで強訴したキャリアがある。コウジ紛争は、ついに延暦寺と北野天満宮の争いとなり、御輿が登場し、あわれにも天満宮は兵火に焼亡し、造り酒屋は勝利して、コウジが造れるようになった。(「雨過天青」 陳舜臣) 


居酒屋(明治語録)
安直に飲める「飲み屋」で、縄のれん、赤提灯、一盃飲み屋、腰かけ飲み屋などの表現語がある。明治維新ごろは酒正一合四十文、居酒屋では「似〆」つき六十二文が相場。明治末期まで東京では看板に鬼とお姫様の絵を描いたものがあった。「お似〆」のしゃれで、江戸の訛り言葉ではシとヒを混同する悪いクセがあった。徳利は白無地で正味一合入と二合入とがあった。また、「半」と言って一合の半分(五勺)もあった。明治末期から大正初期にかけて、上野山下の牛肉店米久では「半」を出した。新橋の天ぷら屋「橋善」でも「半」をおいた時期があった。(「明治語録」 植原路郎)
 


酸っぱいどぶろく
この土地にはラジオも新聞もなかった。一冊の本すら目にすることができなかった。一日の労働が終わると粗末な夕食をし、ランプを消して眠るだけの毎日だった。早く寝床に入らなければ空腹で眠れなくなるのだ。月に一度だけ工場主からデンプンで作った酸っぱいどぶろくが支給されたことがあった。他に皆で金を出し合い、どぶろくを買い足して腹一杯飲むのだった。肴は凍った大根を薄く切り、醤油と大豆油でいためたものだけだった。その日は朝から行員たちは笑顔で浮き浮きしていた。仕事が終わるとすぐ休憩室で飲みはじめる。空腹の上にいぎたなく飲むので泥酔した。冬なのに盆踊りをしているうちに喧嘩が始まった。みじめな工員同士が殴り合いののしりあった。私は初めて飲む酒に悪酔いして吐いた。目が回って雪の中に寝込み、翌朝床の中で目が覚めると耳が凍傷にかかっていた。次の日、二日酔いで起きられず仕事を休む工員が多かった。工場の作業に支障が出るようになり、呆れた工場主はそれっきりでどぶろくを飲ますことをやめてしまった。(「酒場稼業四〇年 薄野まで」 八柳鐵郎)大雪山ふもとでの話だそうです。 


上戸本性
この「上戸本性」をもっとも典型的に具現し、酒の魔力を最大限に発揮して見せたのが、わが大酒童大淵絢一であり、また、その酒のために滅びて、酒の恐ろしさを最大限に示して見せたのも、わが酒乱詩人大淵絢一だ。彼がいつ詩人になったのか、私はハッキリ覚えていない。小学校の同級生だったが、中学は別になり(彼は若松中学、私は小倉中学)、卒業後は家業の自転車屋をやっていた。私は上京して、早稲田で勉強していたが、ある年の夏休み、久しぶりに会った大淵と飲んで、仰天したのである。赤ら顔の醜男で、目もどんよりと濁っている大男の大淵に、正直のところ、私は芸術的才能のひらめきをも感じず、足が長いので、自転車に乗るのには工合がよかろうくらいに考えていたのである。ところが、一升徳利片手に飲みだした大淵は、しだいに目を据えてくると、友人の悪口を言いはじめたが、やがて、おでん屋の小女に向かって、「鉛筆と紙を持っつ来い。」と叫んだ。そのときでも、まだ私は、彼が商売の自転車の計算でもするか、酒代の懐勘定でもするのかと思っていた。常連であるから、おでん屋ではずでに大淵の酒癖を知っていた模様だ、一升徳利は彼の愛用の唐津焼で、それを肌身放さず持ち歩き、冷やでガブ飲みする。日ごろはムッツリしている無口な大淵は、だんだんと饒舌になり、誰彼を罵倒した後、興に乗じて来ると、筆でカウンターや、壁、障子に、エプロン、鏡など、ところきらわず、詩を書きつけるという。そのとき、大淵の書いた詩「燃える氷河」は、遺稿詩集に載っている。(「酒童伝」 火野葦平) 


シデムシの仲間
奥本 蟻の巣の底に掃き溜めみたいな部分があるんですね。そこにいる蟻塚虫というか、蟻の巣の中で寄生生活をしている昆虫はたくさんいます。特にアフリカのシロアリの巨大な塔の中なんかは、それこそファーブルが何百人いても研究しつくせないぐらい研究材料があります。
椎名 そうですか。
奥本 ありとあらゆる甲虫から、蝶々の幼虫から、いろんなものが入り込んでいます。シデムシなんかもいましてね。あるシデムシの仲間というのは、身体からアルコールみたいな、麻薬みたいなものを出すんです。それを飲むと蟻は酔っ払っちゃうんです。まともな仕事ができなくなってほとんど子供の世話をしなくなるんです。だから、そういう酔っ払いの親に育てられた幼虫というのは、不完全な蟻になっちゃうんですね。それで最後には全滅してしまうんですけどね。
椎名 何か身につまされるなぁ(笑)。
奥本 それがアル中の本の中に引用されているんです。
椎名 アル中の蟻というのもすごいなあ。蟻だけの研究でも、まだ全然しつくせないんでしょう。(「喰寝飲泄」 椎名誠)奥本大三郎と椎名誠の対談です。 


小声
恥かしき客あり。振舞なかばに、「酒を取りて来れ」とありしかば、千代といふ下種(げす)、調子高に「かみさま、銭五十が酒をか、百の酒をか」と問ふ。興さめければ、そと呼び寄せ「人のある処にて、今のやうにはいはぬものぞ」と叱られしが、ある時五つ六つなる惣領の子、とりはづし井(井戸)にはまる。件(くだん)の千代、しづかに歩みより、耳もとに口をよせ、人の聞かぬやうに、「わかうさま(若様)の井戸へおちあつた」と。(醒酔笑巻六)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


薩長土
定説がある。「土人、酒を好む」どこかの秘境のお話ではない。土人とは、土佐人をさす。酒好きがお国ぶり、というのである。もっと具体的なのでは、「一に土州、二に薩摩」両者が三百諸藩中でも酒量抜群、と認定している。わけても、土人は東の正位置を占める。”審議会”は、長崎の丸山だった。三代遊里の随一がジャッジしたんだから、確かだろう。業者の目はきびしい。「長は詩吟、薩は妓、土は議論」酒風が、こう色分けされている。申すまでもなく、お三方ともほめてもらってはおらぬ。共通項は、ヤボテンとなる。評者は江戸の幕臣、とたやすく見ぬける。さらについでに、盛りつけると、「長はキツネ、薩はタヌキ、土はイヌ」大町桂月がカリカチュアライズしている。ただし、これは直接には酒につながらない。気質をいう。(「幕末酒徒列伝」 村島健一) 


佐渡ぶんや紀行
私は相川の陶工のひとり、長浜数右ェ門氏を訪ねた。氏の家は、ヨーロッパを思わせる急勾配の通りに面していた。そのときわたしの目の前には、実際にポンペイの町がちらついていたのだが、それはたぶん、かつては家々の立ち並んでいたはずの空き地が目についたためである。数右ェ門は、まごうかたなき芸術家の態度、風貌の持ち主だった。しばし、談笑したり氏の最近作を讃えたりしているうちに、昼食が出された。とても上品なオニギリと地酒の真野鶴の一升ビンからなるものだった。酒とその場の雰囲気のせいで、まるで自分が相川とその町の隠れた魅力の最初の発見者であるかのように、実にいい気分になってきた。食事をしている部屋の外に、隣家の銀ねずと化した下見板が見えていた。それがこのうえなく美しいものに思われたのだが、それもまた酒のなせるわざだったのだろうか。(「日本細見」 ドナルド・キーン) 


田中と井伏
井伏 あるとき田中(貢太郎)さんに「先生、なぜ僕にそんなによくしてくれるんですか」といったら、土佐弁で「おまえは酒の飲みっぷりがいいきに。さあ、ちくと飲みに行こう」(笑)
河盛 井伏さんがなかなか文壇へ出られないので、田中さんが「どうしておまえの小説は売れぬのかね」といった話を井伏さんが書いてられますね。あの言葉、実に情がこもっている。井伏さんの書かれたもので田中さんが出てくるものはみな実にいいですね。ジーンとくるものがあります。
井伏 今、かりに田中さんのうちで飲んでいるとしますね。そうすると、ふとその場に間が出来る。そんなとき、二度か三度「どうしておまえの小説は売れないんだろうね」といった。実際、売れないんだもの。(「井伏鱒二随聞」 河盛好蔵) 


幸いなこと
幸いなことに、私は二日酔いというものを経験したことがない。前の日のお酒が残っていた、朝起きてなんだか妙に楽しく、機嫌がいいことは、たまにある。つまり、二日目も酔っているという状態だ。(「百人一酒」 俵万智) 


『乾家横領兵庫の嵐』
彼は文久二年(一八六二年)摂津国八部郡(現在の神戸市)の小商人の家に三男として生れ、十二歳で当時、酒や味醂の醸造業であった乾(いぬい)商店に奉公に出た。幼名は鹿蔵(旧姓前田)である。暫(しばら)く乾商店で働いたのち、勤め先をかえ、金貸しなどを、転々とすることおよそ十年。再び乾家に舞い戻った。それより早く、乾商店では主人夫婦に子供がいなかったため、夫婦養子をとり、店を継がせることにしていた。ところが養子の夫の方が急死し、若い未亡人が四苦八苦で店を切り盛りしている。そこへ鹿蔵がタイミングよく戻ってきたというわけだ。さっそく鹿蔵は入婿と決り、三歳年上の未亡人と結婚した。そうこうするうちに、義父が死ぬ。労せずして鹿蔵は、当時の金で四十万円といわれる資産と事業を手に入れたばかりでなく、「乾新兵衛」の名を襲った。そして醸造業を続けるかたわら、彼自身の貯金を人に貸して利子をかせぐ仕事も始めたのである。ところが世間は、そういう二代目新兵衛の幸運が気にくわない。イヤガラセ、寄付の強要はまだしも、ならずものが強請(ゆすり)にやってくる。それを拒絶すると、近くの神社の境内に壮士芝居を呼び込み、『乾家横領兵庫の嵐』なる一幕ものを演じてみせたりした。新兵衛が乾家を乗っ取った、という中傷芝居である。彼はますます頑(かたく)なになり、以後、他人から求められても寄付話などには、いっさい耳をかさないことを主義とした。そうした生い立ちだけに、逆にひとたび人情の機微をついた搦手(からめて)からの攻撃にさらされると、ついフラフラとのせられる。寄付嫌いなのに、関東大震災に際しては海運不況期にもかかわらず、難民救済のために三万円の寄付を奮発した。(「破天荒企業人列伝」 内橋克人) 乾新兵衛は、乾汽船の創始者だそうです。 


ワイン造り
-食い意地の話でいくと、吉本さんがよくお書きになっている漱石と、それから宮沢賢治がいますね。賢治は粗食でベジタリアンというイメージが強いですけど、「雨ニモマケズ」の詩にある一日に玄米四合を食べていたというのは、考えてみればすごい大食漢ですね。
 あと味噌とね、少しの野菜を。宮沢賢治は大食漢であったでしょうし、それからやっぱりあんまり畑仕事に慣れていないというか、慣れていないのにそういうことをやったんですよね。だからお腹も空く生活をしていたんでしょう。花巻に残っている彼が住んでいたという家に行ってみたら、小屋に住んでいたって言うけれど、小屋じゃないですよ。おやじさんが残したはなれ家だと思いますけど、もっと大きないい家で、ちょっと下に行くと低地があってそこに畑があって、もう少し降りていくと、あの人がイギリス海岸なんて名前をつけた北上川が流れている。その川は地質学上、イギリス海岸に似ているのでそうつけたというところがありましてね。
-意外に西洋かぶれですね。白麻の背広を着てソフト帽をかぶったり、自作のネクタイをしたり、ワインも自分で造っていたそうですから。粗食とか東北というイメージが強いけれど、結構モダンな青年でしたね。(「吉本隆明『食』を語る」 聞き手 宇田川悟) 


ゐなかざけ「花霞」引札
大酒はもとより大毒。のまずにすむなら酒はのまぬが一番。もしのむなら安くてわるい酒は禁物。高くてもよい酒が結構なれど安くてよい酒なら尚ほ結構な道理でございます。岩代の田舎酒この花霞(ハナガスミ)はどんなに信用されてもよいほど醇良で価もまづ安い方。風味は人のすきずきながら古雅で精妙で灘とは又違つて趣がふかいといふ評判でございます。高くてわるい酒に悩まされてゐる方にはこのお酒をおすすめいたします。 (「高村光太郎全集」) 智恵子の実家長沼家醸造の日本酒「花霞」を頒布した時の引札だそうです。 


盃と口との距離
読人知らず
盃と口とのあびだ八里なり
    手からより 又 口からもより
(「吐雲録」和田垣謙三) 


二日酔い鵞鳥
ローマの食通として有名なアピキウス(同名の人が四人いた。チベリウス帝<AD一四~三七>時代の大富豪が一番知られている)は、自分で飼育させていた鵞鳥を殺す一日前には、その鵞鳥の首に美しいリボンと花を付けてやった。そのうえ蜂蜜入りのブドウ酒を、二日酔いする程大量に飲ませてやった。そうすることによってこの可憐な鵞鳥は、ほろ酔い気分で天国に行けるというのみでなく、二日酔いの肝臓はきわめて美味だったから、これこそ一石二鳥という訳なのだ。(「美食に関する11章」 井上宗和) 


井原西鶴
主を失った錫屋町の西鶴庵は、門人の北条団水が守ること七年、その間、遺稿のかずかずを整理刊行している。また十三回忌に当たる宝永二年八月には、京都から大阪におもむいて、西鶴の菩提寺誓願寺(南区上本町四)で法養と追善俳諧を興行し、追善俳諧集『こころ葉』を刊行している。その中の追善発句「幾秋を生きて居やらば下手であろ 湖梅(こばい)」に、次のような詞書(ことばがき)がある。
 下戸なれば飲酒の苦をのがれて、美食を貯えて人に喰わせて楽しむ。おもえば一代男。「酒のめばいとど寝られぬ夜の雪」と詠んだ芭蕉とは逆に、あれほど好んで酔態を描いた西鶴は、下戸であったのだ。だがうまい物を用意しておいて、人に食わせて楽しむという、心のあたたかい人柄であった。まことに一代男であった。(「元禄の演出者たち」 暉峻康隆) 


神事角力
宝暦年間(一七五一~六四)も倹約は強調されていた。宝暦一〇年九月九日の会所日記には、三嶋神社の祭礼について述べている。
 近例によって川原で神事角力(しんじすもう)が催された。去年迄は、村の仕出しで御家中の桟敷へ弁当を渡していたが、今年から差留めになった。藩士は弁当を自分で持参することに決まった。舎人(とねり 会所日記の筆者である家老の喜多川舎人。自分はの意味)と庄右衛門らが神事角力の検分に出張した。八つ時分(午後二時頃)にはじまり日没に終わった。角力取り達へも以前は村から酒樽や器を出していたが、今年はこれも差留めになった。
小松藩は飢饉の時であっても、離れて住んでいる親子や親類間の贈答に野菜だけは許していた。領民は副食として食べていたのであろう。(「伊予小松藩会所日記」 増川宏一、原典解説:北村六合光) 一万石という小さな小松藩会所日記だそうです。人口は1万人で、正式な武士は数十人だったそうです。会所とは藩の政務所です。 


天王寺や五兵衛
久須美祐雋(ゆうしゅん)の『浪花の風』によると、「豪家は鴻池屋善右衛門当時第一と称すれども、旧家に於ては天王寺や五兵衛に勝るものなし。天王寺屋は聖徳太子の頃より実子にて相続のよし。右故当地の町人子育無きものは、五兵衛に請て盃を貰へば出生の小児必ず成長すといへり。また平野屋五兵衛杯(など)も旧家にて、此家に鴻池屋善右衛門先祖より出せし酒の通帳を所持すといへり」とある。天明(1781-9)頃の大坂の長者番附を見ても、まだこの頃まで東方の大関は天王寺屋五兵衛、西方の大関は上田三郎左衛門で、鴻池は東方の関脇、三井八郎左衛門が西方の関脇である。近世前・中期における鴻池の格式と地位が判る。 (「鴻池善右衛門」 宮本又次) 


炭焼きの正月
炭焼きの正月の項をみると、「正月は里村に入て、みな弁慶が子孫なる顔を洗ひおとして、常の人顔となり、鉞(まさかり)に組藁(くみわら)の鞘(さや)をはめ、家土産(ずと)と榾(ほだ)切くべて余寒を凌ぎ、山物がたりに里の湛分酒(どぶざけ)をたのしみぬ。」と正月休みをのべ、炭焼のおかげで寒さを忘れることができ、鋳物師・鍛冶などあらゆる刃物を作る基となり、耕作の道具がすべてできるのも炭焼の功だとその徳をほめたたえている。(「江戸歳時記」 宮田登) 「正月揃」(貞享五年[1866])にあるそうです。 


下戸内閣
大隈首相曰く、「我内閣は下戸内閣なり、酒をあふつて空元気を付け、種種器用なる芸当を試みるが如きことは断じて為さゞるべし。」と。而して之を事実に徴するに、曰く海軍廓清、曰く小口保険、曰く政務官設置、曰く悪税減廃等、極めて真面目に著々として決行し又結構せんとしつゝあり。下戸は決行又結構と音相通ず。下戸内閣たると同時に、決行内閣結構内閣たらんことを希望してやまず。 (「吐雲録」和田垣謙三) ご本人は大変なのん兵衛なのですが。 


川柳の酒句(24)
のまぬやつ弁当くふと花にあき(お互いにけなしています)
上戸の人玉やったら跡を引(ひき)(酔っぱらいの人魂はやはりぐずぐずしていて帰らない)
雛祭り皆ちっぽけなくだを巻き(有名な句です)
火屋と聞き上戸の亡者よみがへり(火屋と冷やの聞き違い)
よひざめに土瓶のふたが鼻へ落ち
酔さめにこそりこそりとどろを干し(女房にみつからないようどろを落とす)
よったぞよったぞと来るはこわくなし
(「江戸川柳辞典」浜田義一郎編) 


地酒をつまみ肴
ある土地へ行けば、そこの名物で飲むのが旨い。それはその土地の名物と酒が合っているからだというのも理屈のひとつだが、その名物についてあれこれと言い合いながら酒を飲むところに、やはり味の芯があるのではないかという気がする。したがってこれを突きつめてゆけば、旅に行った先の地酒にはその土地とからんだ話がまとわりついているのであり、旅先での酒につまみや肴は必要なく、その地酒をつまみ肴にして地酒を飲めばよいと…これまたジョニ赤の貧乏性にもどってしまう情けなさだ。しかし、物事を突きつめるとこういうことになるのであり、山海の珍味なんぞと言うけれど、酒のつまみや肴は、酒を飲んでいる者同士の会話で十分ということもできるのだ。(「酒の上の話」 村松友視) 


小男
生まれ付きて小さきを、何とぞ背の高ふなるやうにと、神へ祈りけるが、夢中に童子あらはれ、「汝が望み叶へたくば、食を壱斗、餅壱斗、酒を壱斗、これを食してそのまゝ寝入るべし。目覚めたらん時、惣身だるくあるべし、随分その時上下へのびをせよ。蒲団の尺(たけ)にのびるべし」と告げ給ふ。ありがたし、その通りはからいけるが、生れ付いて酒ぎらひなれど、願ゆへ呑みしまひ、一向やくたいにて寝入、目覚め、だるきゆへ、のびして、嬉しやと立上がれば、始めより猶小さし。合点ゆかずと、後を見れば、かなしや、座ぶとんの上で寝た。(新撰咄番組巻五・安永六・一升入壺は一升)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


武玉川の酒句
盃だして叔父をしずめる
 叔父が小言でもいっていたのか。まあまあおひとつ、と酒をすすめる。むろん酒に目のない人物なのである。
禁酒して何を頼(たのみ)の夕しぐれ
 味気なさ。酒の上の不始末でもあって、止むを得ず禁酒したのであろうか。(「『武玉川』を楽しむ」 神田忙人) 

いい酔い方
久保田万太郎がちょうどいい酔い方を自覚したころ、よく口ずさんだのは、「ごめん下さい、花子さん」という歌だった。大きな鯛がめでたい席に出て来たら、こう叫んだ。「タイトト、メメコワイ」無邪気なものである。(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


善馬の肉は食いて酒を飲まざれば人を傷(そこ)なう
【意味】肉だけ食べて酒を飲まないのでは中途半端でよくない。肉と酒は付き物であるという意。ことわざの意味はそれだけの単純なものであったろうが、それが使われた時の故事のほうが名高くなった。秦の繆(ぼく)公の飼っていた良馬が逃げたのを百姓たちが殺して食った。役人が百姓を罰しようとした時、繆公は「古いことわざに、善馬の肉を食いて酒を飲まざれば人を傷なうということがある」と言って、かれらに酒を飲ませたうえで放免した。その後、繆公が晉との戦いで苦戦におちいった時、百姓たちが奮戦して繆公の恩に報いたという。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


銀座地蔵横町三勝
よくはやつた店で、いつでもお客がこんでゐた。季節によつて、からすみ、がざみなどを出し、お酒は白鶴の一点張りでお燗の加減が店の自慢であつた。お客が早くしてくれとせつついても、お燗番のおやぢさんが見たお銚子の肌で、気に入る迄は決してよこさなかつた。近くの築地に灘の加納の倉があつて、その倉から出た樽でなければ使はないと云つた。お客がゐる土間の横の上り口に長火鉢を据ゑ、胴壺(どうこ)のお湯でお燗をした。客がこんで間に合はなくなると、火に掛かつてゐる鉄瓶を火から下ろし、暫らくおいてから銚子をつける。土間が一ぱいで掛ける所がなかつた時、もう大分懇意になつてゐた私は、靴を脱いで長火鉢の傍に座り込んだ。早く飲みたいので、そこにあつた燗徳利を自分で取つて、火に掛かつてゐる鉄瓶につけたら、おやぢさんが、駄目です。そんな事をすると味が悪くなります。と云つた。しかしもうつけたものだから、その一本だけはそれで飲む事にした。飲んで見て、こんなに違ふものかと驚いた。その場で受けた実地教育で、お酒の飲み方、味はひ方が少し解つて来た。私のつけたお燗はぎすぎすして、突つ張らかつて、いつもの様なふつくらした円味は丸でなくなつていた。(「御馳走帖」 内田百閒)  


狸正宗
酒を飲む作家では、昭和十六年に死んだ土佐出身の田中貢太郎が著名である。この人が中心になって、「博浪沙」という月刊雑誌が出ていた。田中家には若い作家がしじゅう行って酒宴を開いたが、ある日尾崎士郎が台所にゆくと酒屋の御用聞きに、「一番いい酒と一番わるい酒を持って来い」といっていた。尾崎は、後のほうを飲まされたが、飲んでいると段々味がうすくなるような気がするので、「狸正宗」とひそかに名づけた。(「最後のちょっといい話」 戸板康二)  田中貢太郎の酒   田中貢太郎さんのこと   

年間一石七八斗
戦後はお酒麦酒の内、今でも併用してゐるけれど、お酒の方を沢山飲み出した様である。一つは蔵の所為(せい)もあるかも知れない。しょつちゆう飲んでゐて大体その量は一定して来た。飲みたいだけ飲んで、さう羽目を外す事はない。欲する所に従つて矩(のり)を踰(こ)えない趣がある。踰えなかつた合計が年間一石七八斗である。顧れば麦酒は大体五十年、お酒はそれより何年かは短いが、初めの内は勿論毎日飲んだわけではない。しかし学校を出てからは、即ちお酒を飲む資格を得てから後は、殆ど欠かした日はないだろう。杯かコツプかを手にしなければその日と云ふ一日が経たなかった様である。お酒の四十何年、麦酒の五十年、それに続いた空襲中は、餓鬼の様な気持ちで欲しがつても、世間に無い物を手に入れる事は出来なかつた。敗戦後の方が寧ろ事情は緩和した様で、どうにか日日をつないで行ける様になつた。甲州葡萄酒から採つた甲州ブランデーをお酒の代用にして随分お蔭を蒙つた期間もある。(「御馳走帖」 内田百閒)  


初語
つまり生まれてはじめて口にする文句で、言語学的にはこれを初語と名づけるらしい。たいていの人は生後かなりたつてから「ウマウマ」とか「タンタン」とか言うわけですが、大物となると誕生直後に然るべきことを立派にしやべるらしい。その代表はもちろん釈迦の「天上天下唯我独尊」です。よくは知らないが、孔子だつて、マホメットだつて、ソクラテスだつて、何かドスのきいたことを言つたかもしれない。うん、何となく言ひそうな気がするね。という事情を応用して、先年、イギリスの週刊誌「ニュー・ステイツマン」のパロディ遊び欄は、有名現代人の最初の言葉を募集しました。チャーチルは産湯を使ひながらどうつぶやいたかといふわけである。これが非常に愉快だったのですが、残念ながら一つしか覚えてゐない。覚えてゐるのは、ディラン・トマスといふ酔つぱらひの詩人の最初の言葉である。それは、「ママ、お酒!」といふのだつた。下らないと思ふ人もゐつかもしれないけれど、わたしはかういふのが好きなんです。(「犬だって散歩する」 丸谷才一)  


棒縛(ぼうしばり)
▲二人 つはものも交(まじはり)、頼(たのみ)ある中の酒宴かな。扨()さても扨も面白い事かな面白い事かな、 ▲主 両人の者共を留守においてござる。何として居る存ぜぬ。急いで帰らう。これは如何なこと。さかもりの音がする。謡をうたふ。あの如くに縛つておいても、まだ酒を飲みをる。悪(にく)い奴かな。 ▲やいやい あれを見よ。頼うだ人の影が盃の中へうつる。不思議なことの。身共の存ずるは、しわい人ぢやによつて、この様に縛つておいても、まだ酒を盗んで飲むかと思はるゝ執心が、これへ映るものであろ。 ▲太 さうであろ。 ▲シテ いざ、この様子を謡にうたはう。 ▲太 一段よかろ。 ▲シテ 月は一つ、かげは二つ。 ▲二人 みつ汐のよるさかづきに主のせて、主とも思はぬ内のものかな。 ▲何ぢや。主とも思はぬ。がつきめ。やるまいぞ。 ▲太 あゝ、許させられ許させませ。 ▲主 おのれ、まだそこに居るか居るか。 ▲シテ あゝ許させられ許させられ。 ▲主 やるまいぞやるまいぞ。(「狂言記」)主人の留守中、盗み酒をする使用人の両の手を棒に縛り付けて出たものの…という有名な狂言ですね。謡は「よるの車に月載せてうしとも思はぬ汐路かなや」のもじりだそうです。  


あだ名の付け様
しかし、後徳大寺左大臣実定は、大将だったころ「無明の酒」ということを歌によみこもうとして「名もなき酒」とよんで「名無しの大将」というあだ名が付いた。「無明」を「無名」と思い違えたのだ。この道の長者と言われた俊成でさえも「富士の鳴沢」をよむのに「富士のなるさ」とよみこんで失敗したことがある。「なるさは」の「は」を助詞と思いこんで、「富士のなるさ」ということばだと誤解していたのだ。これも「なるさの入道」というあだ名がつけられた。(「話のたね」 池田弥三郎) 「無明が人の本心をくらますことを酒にたとえていう語」と広辞苑にはあります。


二宮尊徳
田所老人が申すには、
灰塚は昔六十戸の村でしたが、天保十三年には二十戸になり、六町四反歩許りの手余り地が出来ました。尊徳先生の御仕法で、村方が立て直り、三十戸になりました。今日は灰塚一字に三十五戸あって、その昔は、三畝から二反歩持つ勘定です。尊徳先生は、朝起きて、飯を炊く隙を待つようではよろしくないといわれ、朝は、ただ湯漬けに焼き味噌、香物ぐらい、昼は必ず暖かい飯を食われました。田畠から帰る間に炊けば、耕耘の時を費すことはないと申され、もし夜食の飯のない時は、朝を待たずにすぐ炊かせました。酒を勧めれば湯吞みに一杯飲み、更に勧めればまた一杯、その余はもう十分だと言って断りました。灰塚の仕法は十年掛りだったのですが、朝晩桜町から通い続け、日々四里の路を往返して、一度も灰塚へ泊まったことがありません。(「江戸の春秋」 三田村鳶魚) 明治三十九年茨城県真壁郡五所村灰塚で尊徳を知っていた田所八郎平という老人からの聞き取りだそうです。  


打身丸薬
打身丸薬(うちみがんやく)は因幡の白兎説話で知られる因幡(鳥取県東部)に伝わる痛み止めの薬である。服用に当たり酒で服()のむという珍しい薬でもある。打身丸薬は鳥取県製薬協会が製造し、門前堂薬舗が発売している。門前堂薬舗の当主は門脇家で、鳥取の郊外、車で二〇分ほどのところにある摩尼()まに山・摩尼寺(天台宗)の門前に店を構えている。摩尼寺はこの地方の名刹として、因幡一円の信仰が篤く、特に春秋の彼岸会には近郷から参拝者が集まった。-
薬の成分は、ダイオウ、トウニン、寒梅粉である。ダイオウ(大黄。中国産タデ科植物の根茎)は、消炎、健胃作用があり、緩下剤として利用される。トウニン(桃仁。モモの種子)は、消炎・鎮痛・浄血作用がある。大黄と桃仁の併用で炎症をとり、血液の循環を良くして古い血をとるものである。この二つの成分を寒梅粉(もち米の粉)を使ってつなぎとした。小丸薬の必要量を酒または白湯で内服する。「お酒で服むのは、アルコールの力を借りて循環を良くしたほうが早く効くからです」と言うのは、門脇小太郎社長である。打撲傷に効くが、外用ではなく、服んで用いる。大工さんや土木業、農業など、怪我のしやすい人によく使われている。野球、ボクシング、サッカーほか、プロとアマを問わず隠れたファンが多い。(「日本の名薬」 山崎光夫)  


「雨夜三盃機嫌」
何につけても、元禄といえば、よいことずくめのように思われているが、屋形船などは、(贅沢禁止令で)著しい衰頽を見せている。三股・両国・駒形等へは、多数の屋形船が集って、時々別な世界が水上に出現し、物売船が群がりもしたのに、同じところへ三艘掛けてはならぬとあっては、延宝度の景気を夢にも見られない。それでも『雨夜(あまよの)三盃機嫌』(元禄六年版)に「武陽舟遊興」と題した狂詩がある。「遊宴頂上隅田溶、屋形冷(すさまじく)構(かまう)舟幾千、艶々幔幕翻二碧水一、爛々花火輝二九天一、艫(へさきに)唱レ雅(うたをうたふは)那辺(どなたの)腰元、舳(ともに)弾レ琴萁町(まめがらちやうの)御前(ごぜ)、味線(みせんに)語出(かたりだす)栄閑節(えいかんぶし)、小鼓(こつづみには)張揚(はりあがる)観世遷(かんぜがうつり)、弁当斗樽遣(やれ)颯々(さつさつ)、饅頭西瓜頭(ず)顚々(てんてん)」などというありさま、踊子は当時の流行(はやり)出しであり、目立っても見える美形を連れて新しがり、または、昔ながらの野郎帽子色鮮やかな少年俳優と挈(たずさ)えて、羨しがらせるのも一興、屋形船にはシンコネはない。天下晴れて五人十人に綺麗なところを乗せている。いか衰えても、「吹けよ川風、揚がれよ簀垂(すだれ)、中の小唄の主見たや」の模様はある。(「江戸の春秋」 三田村鳶魚)  


尾崎放哉の酒句
山の和尚の酒の友として丸い月がある
蛇穴に入るや身にしみ透る酒の味
雪とばす野茶屋酒にする
酒甕(さかがめ)に鶯の藪もるゝ日ざし
酔がさめ行く虫の音の一人となりて (「尾崎放哉全句集」 伊藤完吾・小玉石水編)  


好物
新参男、壱両が槙(まき)を半日で割つて仕廻ふ。旦那殿、男を呼び「でかした。そふかいがいしくなければ、おれが気に入らぬ。つめたい時分に大儀大儀、ほうばい共へのよき手本。ほうびをとらそふが、一番におのしが好きは、なんだ」「はい」「はて、いへよ」「はい」「はて、いやれよ」「ハイ、二番に酒でござります」(坐笑産・安永二)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


ひとり呑み
ひとり呑みのいい点として、まずまっさきに「自分が思い立ったらすぐに行ける」ということが挙げられます。-
さぁ飲もうと思い立って、ひとりでふらりと店に到着すると、今度は「混んでいても、スッと入れることが多い」という恩恵を被ります。店頭に何組かグループ客が待っている場合にも、「おひとりさん?じゃ、こちらへどうぞ」とかろうじて空いているカウンターの一席に通してくれたりするのです。-
そして注文。飲み物だって、食べ物だって、だれにも気兼ねすることなく、自分の好きなものを、すきなだけ注文することができます。しかも、出てきた料理は、完全に独り占めです!
ちびりちびり飲んでいるうちに、心地好い酔いの世界に入っていきます。ひとり呑みの場合は、この酔いの心地好さを思いっきり満喫することができるのです。-
「今日はもうちょっと酔おうかな」と、むしろ能動的に「酔い」をコントロールしながら、ざわめく酒場の雰囲気の中にどっぷりとつかっていく。これぞまさに酒場入浴です。こうやって、自宅への帰りに酒場につかっていると地元のこともよくわかってきます。(「ひとり呑み」 浜田信郎) 


新旧のモンゴロイド
さて、近年のハイテクを駆使した自然人類学の進歩はめざましく、日本人の起源についてもつぎつぎと新しい知見が発表されている。その中でも興味を惹くのは、現代日本人(アイヌ民族、沖縄人を含む)の祖先には、まず南方から北上してきた古モンゴロイドと、遅れて東北アジアから南下してきた新モンゴロイドの二大潮流があり、歴史的には縄文人は前者、弥生人は後者と縁が深く、地理的には列島の南北両端の住民に前者の血が濃く、中西部の住民に後者の血が濃いという指摘である。とりわけおもしろいのは、酒に強い弱いをきめるアセトアルデヒド分解酵素の能力を測定すると、古モンゴロイド的、縄文的形質の持ち主は強く、新モンゴロイド的、弥生的形質の持ち主には弱い人が多いという。以下は全くのしろうとなりの推論だが、これはアルコールに親しんできた歳月の差によるもののように思えてならない。今もヤシ酒利用地域にみるように太古から単発酵の酒を嗜んできた人たちの子孫と、厳しい環境の中ではるかに遅れてから複発酵の酒を飲むようになった人たちの子孫とでは、酒の強さに差が出るのは当然のように思えるのだがどうだろう。(「食卓の博物誌」 吉田豊) 


下戸会
下戸の人々寄ひ、大ふるまひしけるを、上戸ども腹を立て、門前に高札を建てたり。「源頼光の御親」と書きければ、下戸の人々不審に思ひ、尋ねに遣はしければ「たゞのまんじう」(軽口東方朔巻二・宝暦十二・下戸会) (「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 只の饅頭=多田満仲 


茶碗酒
東武伊勢佐木線鐘ヶ淵駅で降りて西へ徒歩数分、墨堤通りを越えると、旧木母寺境内の梅若公園(墨田区堤通2-6-10)中央に、高層住宅を背に榎本武揚銅像がある。大礼服に身を包み、右手に帽子、左手にサーベルを持ち、毅然と立つ姿だ。明治の終わり、晩年の榎本はこの隅田川堤、向島の風景を愛し、別荘を構えていた。将軍家の御成(おなり)屋敷だった百花園で茶碗酒をあおり、詩を吟じた。あるいは、騎馬で散歩することもあった。大正二年(一九一三)五月四日、旧幕臣江原素六(えばらそろく)らにより建てられた銅像(田中親光・藤田文蔵作)は、第二次世界大戦後の昭和二十二年(一九四七)、他の軍人像や忠魂碑と共に撤去の対象に挙げられ、審査がなされた。しかし榎本は海外侵略行為に関係なかったとの理由で、撤去から除外されたのだという。(「幕末歴史散歩」 一坂太郎) 


南蛮酒に酔いて
越後屋(カステラ屋)の前から烏丸通りの西側を歩いて二条を横ぎり、およそ十軒ほど上がった所に中徳という酒屋がある。間口はカステラ屋よりも二、三倍ほどあるが、格子の前に、南蛮酒、ねり酒、みりん、焼いう、と幅二寸五分ごど丈一尺ほどの板に文字を刻んで胡粉で塗った雅致のある古めかしい看板が四枚並んで懸っている。正月の中ごろだと思うが、烏丸通りのプラターナスの街路樹を電車の中からじいっと見入っていたとき、ふと前々から念をかけていた南蛮酒の看板のみが一枚特に目にはいったのであった私は今日こそはと二条で下車して歩をはやめてその酒屋へ入った。いきなり南蛮酒を一本と番頭さんに言った。私は酒屋に酒を買いにいったのはこれが生まれてはじめてである。壜詰めはございませんと番頭さんはことわった。一たいどんな酒なんだと私は尋ねた。まあ焼酎と味醂との間のものでございますという。私は少し失望せざるをえなかった。看板の並べあいでもすぐに察しられそうにもあったのだし、書物を見るなり人の話を聞くなりして自然会得がゆくはずであたのに、私は名にひかされて、何だかエキゾチックな香りのまだ失せないあるものを求め得るかのような気がしたので、突然飛び込んでしまったのである。店の中の右手に樽が四つ五つ並べてあるところに導かれていってみると、磁製の樽に呑口がついてあって、樽の全面には宝の一字と南蛮の銘とが印刷してある大きなレッテルがはりつけてある。番頭さんは、ずんずん呑口から茶碗に一杯注いでくれた。私は言った、ここでのむんじゃない、僕はもともと酒は飲めない方だ、ただその南蛮酒というのがなつかしいので買って帰ろうというわけなんだから、それを二合壜くらいに一本つめてくれたまえ、もし南蛮酒の銘のあるレッテルがはってあれば結構だがね。-(「琅玕記」 新村出) 結局、「南蛮の悪酒にゑいて冬ごもり と懺悔して、その後ある人の本に書いておいたような始末である。聞けば、南蛮酒は普通に柳影とも称え盛夏に暑気払いとして飲む焼酎まがいの酒だそうだ-」ということだったそうです。 


冷しあまざけ
浅草を歩いてゐたら”冷しあまざけ”といふ看板が目に入つた。その晩、九九九会でその話をした。”いまにホットなみつまめなんてものが出て来るかも知れませんよ。”と、それについていつたのを誰とする?-鏑木清方先生である。…(「浅草風土記」 久保田万太郎) 


猩々は血を惜しむ犀は角を惜しむ
【意味】それぞれに大切にし守るところのものがあるという意。 猩々=今日いう猩々は大形のさるで、ボルネオ・スマトラが原産地であるが、昔の人のいった猩々は想像上の怪獣で、人のことばがわかり、長い朱紅色の毛がはえ、顔は人に似て、酒が大好物でその血をとって猩々緋という色に染めるといわれた。 犀=犀のつのはアフリカ犀は二本だが、インド犀は一本で、これを犀角といって漢方では解熱剤に使う。【出典】猩々は血を惜しむ、犀は角を惜しむ、日本の武士は名を惜しむと申す事の候〔義経記四〕(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


ホジャさんと物乞い
ホジャさんはモスクでの礼拝を終えた帰り道、一人の物乞いが道に座っているのを見つけた。ホジャさんは物乞いに近づいて聞いた。「あなたは浪費家かな?」「はい、はずかしいけど、その通りです」「あなたはコーヒーを飲んだり、煙草を吸ったりしますか?」「はい、どちらも大好きです」「ではハマムに行くのは好きですか?」「はい。毎日行きたいくらいです」「もしかしてお酒を飲むことも好きですかな?」「お酒には目がありません」「まったく…」ホジャさんは首を横に振りながら、金貨を一枚渡した。物乞いは喜んでその金貨を手にした。ホジャさんがそのなな歩いていくと、また別の物乞いが座っていた。その物乞いは先ほどのホジャさんたちの会話をすべて聞いていた。ホジャさんがその物乞いに聞いた。「あなたは浪費家かな?」「いえ、私は浪費など致しません」「あなたはコーヒーを飲んだり、煙草を吸ったりしますか?」いえ、どちらもやりません」「では、ハマムに行くのは好きですかな?」「いえ。行きたいとは思いません」「もしかしてお酒を飲むことも好きですかな?」「とんでもない。私は神に祈りを捧げることが最高の幸せです」「なるほど、それはすばらしいですな」ホジャさんはそう言ってにこやかに頷きながら、銅貨を一枚渡した。物乞いは驚いて言った。「ちょっと待ってください!どうしてさっきのだらしない物乞いは金貨だったのに、私は銅貨なのですか?」するとホジャさんは言った。「さっきの彼はお金がたくさんいるようだったから」 (「世界のイスラムジョーク集」 早坂隆) 


地神踏み
嶺南地方(慶尚南・北道)では、上元(旧正月十五日)に「地神踏み」をします。地神踏みというのは地神を鎮める民俗遊びです。村の青壮年たちが集まって、士大夫・猟師などに仮装し、猟師は獣の毛で作った帽子をかぶり、銃を担ぎ背中の背負い袋には雉(きじ)を捕らえて入れ、猟をするまねをします。士大夫は冠をかぶって威容を整え、堂々と行列の先頭に立って歩きます。農楽隊がいろいろの農楽器を鳴らし、その後には村人たちが列をなして、村の富裕な家々を次々と訪ね地神を踏んであげます。大門の前に行って「主人、主人門をあけて下さい。旅のお客が入っていきます」といって一行が門内に入り、農楽をならし、庭・厨房・倉庫などをまわりながら踊ります。家の主は地神踏みの一行が訪ねて来ると、急いで餅と果物とお酒を用意して一行をもてなします。また、地神を踏んでくれてありがたいと、穀物やお金をあげて謝礼します。また、地神を踏めば、一年中一家安泰になるといわれています。(「韓国歳時記」 金渙) 


禁酒(2)
「聞きやれ。おれもこのごろきん酒した」「よくあるやつ。久しいものだ。きん酒のきんの字は近いといふ字か」「イヤ近いは古いによつて、勤めるのだ」(出頬題・安永二・禁酒)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


白酒『白酒』
そんな夜を救ってくれるのは、町の雑貨屋で三合ほどの酒が入り、一本が一元から四元程度の白酒である。何回か飲んでいると、やはりその味は素直に価格が反映されていることがわかる。五元を超える酒はやはり飲みやすいし、翌日に残らない気がしないでもない。最近の中国では、ワンカップ式の一壜一元の『清酒』とかかれた白酒が売られているが、これなどとんでもない代物で、封を切ったとたんに薬用アルコールの臭いまでしてくる。そこへいくと一壜五元を超えた白酒は、ラベルにも売ろうとする意志が読みとれるし、十元を超える酒になるとなまいきに化粧箱入りになる。しかし中国の酒というのは高くなればなるほど、壜に貼られたラベルに誇大PRが目立つようになる。四元ほどの白酒のラベルに、でかでかと、「XO」と書かれた壜を買ったこともある。栓をあけてみると、そこから漂ってくるのは白酒の匂いだけで、XOというのはあまりじゃない、とついひとりごちしてしまうような酒だった。酒の効能もオーバーで、「これを飲むと美女が飛ぶ」などと書かれていたこともあった。美女が飛ぶというのはいったいどういうことなのかと、どうってことない白酒を飲みながら、また悩んでしまうのだ。テレビで流されるCFも、バドワイザーまっ青のド派手なものが多い。蛇足かもしれないが、中国にはワインやウイスキーもある。中国には白酒だけではなく、黄酒(ファンチュー)、老酒といった連綿とした酒の文化があるのだから、わざわざ欧米のまねごとをしなくてもいいのにと思うのだが、それをつくってしまうのがアジア人というというものなのだろう。欧米の文化にしっかり浸ってしまった日本人にしたら、本当に蛇足なわけで、そんなものに手をださなくてもいいのに、と思うのだが、怖いものみたさ、というか、まずいもの飲みたさという遊び心も手伝って、つい口にしてしまうのである。(「アジア漂流紀行」 下川裕治)'97年の出版です。 


象牙の箸
殷の紂王(ちゅうおう)始めて象牙の箸(はし)を造る。箕子(きし)といふ賢人是(これ)を見て、『紂王驕(おご)りの心出来て象牙の箸つくる。是より又玉の杯を造るべし』といひしに、案のごとくに又玉の杯を造れり。是よりして段々美麗なる驕りをなせりと也。唐土の天子なれば、常に象牙の箸を用ゆといふ共驕といふべき程の事にあらね共、天子といへども古(いにしへ)は象牙の箸など用る事なく、竹又は木の箸を用ゆと見えたり。(「町人囊」 西川如見) 


環境
すべての人間の習慣は
環境によって支配される
バーミューダ諸島の人たちが
酒だるに寄りかかるのも
電柱が
少ないためだ (「また・ちょっと面白い話」 マーク・トウェイン) 


実は…
「トム」とスミス夫人が言った。「私、どうしようかしら?デザートにブランデーをかけた桃しか用意してないのに、牧師さんがいらっしゃるのでしょう。私、牧師さんがいらっしゃるなんて思ってもみなかったのよ。それに、牧師さんは大の禁酒家なんでしょう」スミス氏も同情したが、運を天にまかせようと言った。それでそのままにしておいたが、それがうまく図に当たった。即ちデザートになった時、牧師は全く桃を食べたことがないようであった。彼はこの半分の美味しさのものさえ、今まで食べたことがないと言った。そしてスミス夫人がもう少し桃を持ってきましょうかと言うと、「いや、もう結構です。でももしろよしかったら、すみませんがお汁の方をもう少しいただきたいんです」(「ユーモア辞典 参」秋田實編) 


シコクビエ
シコクビエは穀類としては非常にまずい穀類で、収量も悪いと思う。成熟期に畑へ行ってみても穂がパラパラッとしかない。そんな下等な作物が日本の山の中に入っているというんは、焼畑耕作といっしょに入ってきて、もうちょっと上等な農業が容易に到着してこないようなところに残った作物だったのではないかと思うのです。そういうものが日本に入り込んでいる。中国では全省どこでもあるそうです。これは、インドやヒマラヤでは大部分が酒になっている。味の点についてはよくわからないが。私は、このシコクビエは、東部アフリカの原産だという説です。アフリカでも西部へ行くと非常に少ない。全然ないということはないけれども稀になってしまう。アフリカでもシコクビエは酒に使うばあいが多い。酒のつくり方はアジアとだいぶ違っていて、あれを発芽させて、ビールをつくるときと同じ原理でつくる。もっともアフリカではコウリャンの類だとかトウジンビエなんかもみんなそういう方法で酒にしている。シコクビエはアフリカから日本までピシャリとつながるのは、北陸の焼畑のようなものに結合しておった。中国地方、四国、九州まで点々とシコクビエがみられるわけです。けれども農業上の地位はたいへん低い。(「照葉樹林文化」 上山春平編) 中尾佐助の発言部分です。 


一合一会
ワンカップ大関の広告で見かけました。 


佐平
男は、佐平といい、松浦屋という酒屋の番頭として店をきりもりしている。四十一といういいとしになるまでろくに女も知らず、奉公ひとすじにすごしてきたのが、あるときお彦の家の前を通り、稽古をつけている彼女の弾みやら容姿やらをみて惚れてしまった。当初、旦那が心配して医者を呼んだりしたが、やがて事情を知り、お彦に話をもちこむための手づるをさがした。ここで、「頭(かしら)」が、登場する。頭には名がつけられておらず、単に頭であるところがいかにもその職分らしくていい。お彦は、頭の妹分だという。頭にきてもらってつながりをきくと、お彦は両親もきょうだいもない身の上で、この町内にひっこしてくるにあたって頭を頼みとしたのである。頭の家に時々やってきては兄さんなどとよぶうち、”妹分”になった。こんな関係が、江戸の下町でありえたこともこの落語でわかるし、その関係を結びつけているモラルが、義理人情というものであった。頭も、旦那から頼まれた以上は、あとにひけない。佐平の病床を見舞った。佐平はていねいな物言いをする。「夫(そ)れが私の病の種でございます」というと、頭は実のある話し方だが、ことばはぞんざいで、「…お前(まい)の生命(いのち)にはかえられ無いから、何と云うか知ら無(ね)いが向うへ行って私が話をして見よう」という。番頭と頭のあいだに身分上のちがいなどないが、頭が人に立てられる稼業だから、佐平は鄭重にいうのである。もっとも頭は松浦屋の旦那に対しては、「宜(よ)うございます」などということばをつかう。頭は、”派手彦”の家にゆく。ここでは、兄弟だから、たがいにぞんざいなことばづかいである。頭は事情を話し、旦那はゆくゆく佐平さんに店の一軒も出させてやろうと想っている、佐平との年のひらきがありすぎるが、佐平があんなに思い染めているんだ、きっとお前を大事にするだろう。さらに頭は、  人一人助けると思って、嫌でも有ろうが、三日でも何とか一緒になって世の人を助けてくれまいか。何んとか美(よ)く生まれたが(美人にうまれたのが)災難と諦めて。  このあたりのセリフも、義理人情という道理から出ている。頭の辞(じ)は、まことに低い。「およしよ、阿兄(にい)さん」と、お彦は憎くもない相手と思って肚のなかでは承(う)ける気でいる。しかしここで頭に返事をしてしまえば、日ごろ、「姉さん」といって頼りにしている頭のおかみさんの立場を傷つけてしまうために、そういったのである。頭もそんなことはよく心得ていて大いにうなずいいたあと、念のために、  乃公(おれ)を助けると思って。お前(まい)の為に二人助かるのだよ。  ”二人助かるのだよ”というのがすごい。佐平のほかに自分も入っているのである。旦那に頼まれた以上、顔がつぶれるようなことがあっては、稼業が立たない。(「本所深川散歩神田界隈」 司馬遼太郎)「口演筆記・明治大正落語集成」にあるという、明治三十一年四代目橘家円蔵の「阪東お彦」の解説です。 


勉強
夜になると、二人で日本酒を一升づつ飲み、その後でウィスキーを一本あけるというならわしであった。当時の私にとっては、お酒を飲むことも「勉強」の一つだったので、好い気持に酔っ払ったことなど一度もない。刀剣の専門家の本間順治さんは(あの有名な酒田の本間家の一族だが)若い時にもっとしっかり見ておかなければならないものがあったといい、ジィちゃんはいたくそのことに共感していたが、何事も若い時に思う存分やっておかなくてはダメなのだ。たとえ思う存分やってみたところで、まだ足りないと思うのが老年というものなのだろう。(「いまなぜ青山二郎なのか」 白洲正子) 


渇き
呑み助の亭主に細君が言った。「あんた、ほんとにノドが渇いたときは、酒よりもただの水ほどいいものはないのよ」「そうかい」と亭主は言った。「どうやらおれはほんとに」ノドが渇いたことがないらしいな」(「ポケットジョーク」 植松黎編・訳) 


行動薬理学から
行動薬理学から依存症を説明すると、薬物を摂取した際には快感や嫌悪感を覚える。嫌悪感を生じる人は罰効果といって、徐々に薬物をやめてしまうことになる。快感は、受動快感と能動快感の二種にわかれる。受動快感は、たとえばタクシーの運転手さんが朝仕事から帰ってきてもなかなか眠れないため睡眠薬代わりにアルコールを飲むというように、自分にとって不利益なことを解消するために薬物を使用するもの。この場合はよく眠れるという快感を得る。能動快感は酒の味が好き、酩酊した状態が好きというように、薬物の持つ作用そのものに快感を感じるものである。どちらにしても快感を覚えることを報酬効果といい、このためさらに薬物の摂取が増えてくる。しかし途中で、快感がもっと欲しいという気持と、法的規制や社会的規律などからもうやめなければという気持が天秤にかけられる。自制心が勝てばそのままやめてしまうこともある。ところが、自制心が負ければ、快感だけを追い続け、とめどのない薬物の連用状態に陥る。この過程を強化という。一方、薬物と人間との関係ばかりでなく、図2のように個体側や環境側の因子に影響を受ける。報酬効果を得た人たちは、さらに薬物の連用が深まり、精神依存が起こってくる。一度精神依存が形成されると、薬物の中断が不快を引き起こし、不快感を回避するために薬物探索行動を起こすことになる。すなわち、行動薬理学的に薬物依存であるかないかを規定する条件は、精神依存なのである。(「嗜癖のはなし」 岩崎正人) 


伊勢熊
幕末になると、外国人が牛肉を食べるのになたって、文久二年(一八六二)、横浜住吉町の居酒屋伊勢熊で日本人向きの牛鍋屋を開業してから普及し、明治に入ると、東京でも、茅場町の米久、柳原の中川屋など、「御養生牛肉」の看板を掲げて人気を集めた。豚肉は、明治初期から、鍋料理よりも衣にパン粉を付けて揚げる日本独特の方法で普及したが、とんかつと称したのは、昭和四年、上野の「ぽんち軒」だという。大正十年、早稲田大学生中川敬二郎が、なじみの店でどんぶり飯にカツをのせ、ソースとメリケン粉を煮合わせてかけることを試みたのがカツどんのはじまりで、カツを卵でとじるカツどんを工夫する店も現れた。(「日本語おもしろ雑学歳時記」 興津要) 


先代猿之助(猿翁)
ところで、飲めない役者が酔っ払う役を、巧く演じるもので、先代猿之助はそうだった。男が女を観察して、女形の芸を作ったのもそうだった。昭和三十年に中国に行った澤潟屋(おもだかや)は、宴会の「乾杯」で困っていた。というのはその時演じて見せたのが大杯を一気に飲み干す「勧進帳」の弁慶だったからである。飲めないといっても、信じてくれないのであった。(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


帰園田居(二) 陶淵明
我ガ新熟ノ酒ヲ漉(コ)シ  (さて我家の出来たての酒を漉し)
隻鶏(セキケイ)近局ヲ招ク。  (一羽の鶏で近隣の人を招いた。)
日入リテ室中闇(クラ)シ  (日が入って室内が暗くなったので)
荊薪(ケイシン)明燭(メイショク)ニ代フ。  (そだを燃してともしびに代へる。)
歓ビ来ツテ夕ノ短キニ苦シム  (歓楽つきず夜の短きをかこつうち)
已ニシテ復(マタ)天ノ旭スルニ至ル。  (やがてまた朝日が登って来た。) (中国飲酒詩選 青木正児) 


フランス革命の発端
一般には、一七八九年七月十四日のパリ市民によるバスティーユ監獄の襲撃がフランス革命の発端とされているが、ヒュー・ジョンソンの『ワイン物語』は、その三日前にワインの密輸業者などに率いられた民衆が、パリの周辺に位置する関税門の一つを焼き払ったことを重視している。それに刺激されて翌日、翌々日と関税門の襲撃が相次ぎ、その延長線上にバスティーユの襲撃があるというのである。パリの入口には四〇〇年前からの多数の関税門が設けられ、特定の品に入市税を課していた。とくにワインの税率は高く、パリ市内のワインの値段は、周辺の農村の三倍にもなっていたのである。しかし、非課税特権を持つ貴族は、自由に安いワインを市内に持ち込めた。折からの凶作で、食べることも、ワインを飲むこともままならないパリの民衆が、不当な税をかける関税門に怒りの目を向けたのは当然だった。一七九一年になると、パリに入るワインに対する関税が廃止された。ワインが、規制を受けずに商品として自由に流通するようになったのである。しかし、入市税は重要な収入源であったことから、すぐにワインの関税は復活されることになり、一八八二年には半額になったものの、一八九七年に撤廃されるまで続いた。(「知っておきたい「酒」の世界史」 宮崎正勝) 


強飲国(ごういんこく)一宮(いちのみや)案内
彼(かの)案内の阿爺(おやじ)といつぱ。こいつもおなじく酒糟漢(のたまく 酔漢)にて。ひよろひよろ足を踏とゞめ。抑(そもそも)こゝ(一宮 いちのみや)に鎮(しずま)りましますは。南山壽星の大神。漢土唐(もろこしたう)の帝(みかど)のとき。人間(じんかん)に出現して。只(ただ)一息に百盃の。酒を苦もなく飲給う。酒毒のぼつて一夜の中(うち)に。天窓(あたま)忽地(たちまち)長くなりし。そのお頭額(つむり)に象(かたど)りて。陶(とくり)を造りはじめたり。相殿(あいでん)は山田の大蛇(おろち)。稲田姫の色気より。食気(くひけ)がよいと御託をあげ。唐の芋にはあらねども。八頭(やつがしら)を振立て。八甕(やはら)の酒をかつくらひ。素戔烏(すさのを)の尊(みこと)の為に。尻を砍(き)られ給ひしより。酒買て尻切らるゝといふ世話は。日本神代(につぽんしんだい)の時より起る。儀狄(ぎてき)は唐山(もろこし)禹王(うおう)のとき。はじめて生酔を造酒屋(つくりざかや)。杜康は杜事(とうじ)の親方株。劉伯倫は底抜けにて。陶淵明は五舛(ごせう)先生。李白一時四百盃。斗酒学士とは一斗の酒を。一日を缼(かゝ)ず飲し。唐の王績(おうせき)の綽號(あだな)にて。麯生(きくせい)秀才とまうせしは。葉法善(せつぽうぜん)を酔(よは)せんとて。現化(げんげ)し給ふ酒の神。和田酒盛はみな後そん(存)じ。樽次(たるつぐ)は大塚に。世をさけ好の医師(くすし)にて。大師河原の底深と。酒戦の高名揭焉(いちじる)く。十六人の酒の弟子を。引つれて此国へ。跡たれちらせし神たち也。とろれつもまわらぬ長物語に。夢想兵衛は退屈して。こゝより案内の阿爺をかへし。行こと十町あまりにして。天酒山美禄寺といふ大刹(おおてら)あり。大門の辺(ほとり)には。許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるす)といふ。戒壇石をによつきりたて。いと神々しき酒林。(「胡蝶物語」 曲亭馬琴) 


オケレハウ
それに先んじて。一七九○年頃に太平洋の航海の途中にハワイに立ち寄ったイギリスの蒸溜業者ウィリアム・スティーブンソンは、ハワイで豊富に産出されていたタロイモ(現在では「ティ」と呼ばれる)に目をつけた。タロイモを原料にして蒸留酒ができないかと考えたのである。ところが当然のことながらハワイには蒸留器がない。そこで目をつけたのが捕鯨船で油を煮つめるのに使っていた鉄鍋だった。スティーブンソンは鉄鍋を使って簡単な蒸留器をつくり、酒をつくったのである。ところが試しに飲んでみると、なかなかいける。そこで、商品化されることになり、ちょっと奇抜な名前がつけられた。醸造、蒸溜に使った鯨油用の鉄鍋が豊満な女性の尻に似ていたことから、この酒を「オケレハウ(ポリネシア語で「鉄の尻」の意味)「と名づけたのである。この名前はちょっと品がないので、「オケ(oke)」と略称されることも多い。 (「知っておきたい「酒」の世界史」 宮崎正勝) 


日本酒党
椎名 お酒は何でもこいのくちですね。
加藤 僕は本当のこと言うと日本酒が好きなんです。よく立食パーティーなんかで水割りが出るでしょう。最初は飲むんだけどあれじゃおさまらないんですよ。一日が終わらない。どっかで日本酒を飲んで頭をバカにしねえと駄目なんだ。
椎名 パーティーというと、大抵ウイスキーの水割りですね。どういうわけなんですかね。
加藤 ときどき枡酒なんかが出たりするところもありますよ。ところが、あそこで枡酒で酔っ払っちゃうのは全くつまんないんだよね。やっぱり日本酒というのは座敷に座ってゆっくりしないとね。
椎名 会場の入口でお銚子とお猪口を出してくれたらどうですかね(笑)。
加藤 そうですね、広い会場のあっちこっちで「どうですか、まあ一杯。いや、まあドーゾ「なんてさしたり、さされたりして(笑)(「喰寝飲泄」 椎名誠)加藤芳郎と椎名誠の対談です。 


雀百まで踊忘れず
人間はいくつになっても小さい時からの癖はぬけないものである。
ピョンピョン小刻みにはねて歩く雀をみて子供が言った。「雀はいいなあ。いつも楽しそうに踊っている」ジグザグ小刻みによろけて歩く千鳥を診てお父さんが言った。「千鳥はいいなあ。昼間っから酒が飲めて」(「悪魔のことわざ」 畑田国男) 


やきとり吉田
カウンター前のケースの中には、竹の子かつぶし煮、ぜんまい、わらび、とうがんなど、野菜の煮物がずらりと並んでいる。おばあちゃんは口で哲学をブチまくりつつ、指先でゴロゴロとつくねを丸めて串にさしながら、開店三時間前の仕込みにわき目もふらない。この店に出勤するのが毎日午後二時すぎ。仕込みを終えて開店するのが六時。閉店十一時。そのあと表通りが静まるまで明日の下ごしらえや帳面つけをやって、深夜にタクシーで山の手のマンションにご帰還。香をたいて部屋にくつろぎ、ひと風呂あびてぐっすりとお休みになるのが午前三時。週休二日。土、日は軽井沢にある千坪の別荘で、別荘番の若夫婦にかしずかれて小鳥の声をききつつ長唄のおさらいをすませ、再び月曜から例によって例のごとく毎日が回転しているんだそうである。連休は勉強のために全国各地のうまいものを訪ねるというこの生活を維持するほどの売り上げが店からあるのか、あるいは別途に莫大な資産があるのか、そんなことは知らないけれど、とにかく悠々自適のやきとり屋一代である。お客は古い人で三十年来のおなじみだし新しい人でもすでに常連といわれる人ばかりで、フリの客はほとんど来ない。「こないだ文六さん(獅子)のご長男が大学に入られてネ。『ボク、今日はじめてお酒飲むんだ。お母さんにきいたら、おばちゃんのところへいって飲ましてもらいなさい、っていわれたから』なんてお見えになったわヨ(「銀座ゆうゆう人生」 上坂冬子) 銀座裏のやきとり吉田のおばさんだそうです。ただしこの対談は'72年5月の「銀座百点」に載ったものです。 


葬礼九つ酒七つ
【意味】葬儀は十二時ごろ、宴会は午後四時ごろにというのが通例であるとの意。
即時一杯の酒
【意味】今すぐ一杯の酒を飲むほうがよい。張季鷹(張翰)が、死後の名誉より、今の一杯の酒のほうがましだといった故事。【出典】張季鷹縦任不拘。時人号為江東歩兵、或謂之曰、卿乃可縦適一時、独不為身後邪。答曰、使我有身後名、不如即時一杯酒〔世説新語 任誕上篇〕(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


翁の肴
店のテーブルに置いてある品書きには、始め言ったようにざると田舎以外何も書いてありません。もちろん酒の肴のありません。ただし、お酒を頼まれた場合は、日本酒に焼きみそ、ビールには塩豆をお出ししています。塩豆は目白の豆屋さんのもので、東京時代から使っています。僕が気に入っているものなんです。焼きみそは、西京みその粒みそに、削り節、葱、そばの丸抜き、大葉を刻んで練り混ぜ、小さなへらに塗り付けて、炙(あぶ)ったものです。大葉の代わりに茗荷、蕗の薹(ふきのとう)など季節のものを入れてもいいです。これは一茶庵で覚えた仕事です。香ばしくて、日本酒にはよく合います。山葵の残った部分を薄切りにして、醤油とお酒に漬けた秘密の肴もあります。秘密というのは、これは奥さんが作っているんですが、時によってしょっぱすぎたり、味が薄かったりする。しょっぱいと出せないんです。それに、たとえばお酒のお代わりをした方とか、そんな時に臨機応変に出しているので、知らない方も多いらしいからです。(「そば屋 翁」 高橋邦弘) 


禁酒
「おぬしは酒をやめたじゃアねへか」「さればよ。願立てをして、五年が間禁酒をした」「そりやア不自由であらふ。なんと、十年の禁酒にして、夜ばかり飲んだらよかろう」「それもよかろうが、いつそ二十年の禁酒にして、昼夜のむべいか」(太郎花・寛政三)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


絶食旅行
田丸直貞や山口清明のようにやむを得ず絶食旅行に出た人間は例外としても、明治も初年には絶食旅行が大いに流行したらしい。それかあらぬか『断食絶食実験譚』の挟み込み広告には、宮崎来城の『無銭旅行』、『乞食旅行』だの、鉄脚子の『野宿旅行』、『貧乏旅行』だのという本がずらずらと並んでいる。書生たちは練胆を目的として競って遠方に無銭旅行に出た。飲まず食わずが原則だが、浩然の気を高めるためか、お酒だけはいくら飲んでもかまわなかったらしいのが、面白いと言えば面白い。(「食物漫遊記」 種村季弘) 


三井高俊
天和二年(一六八二)十二月の焼け出され組で男を上げたのは、川向こうの芭蕉だけではなかった。こちらは江戸のど真ん中、日本橋本町一丁目、二丁目にあたる両呉服店を焼け出され、芭蕉が疎開先の甲州から帰ってきた翌三年五月ごろ、今の日本橋室町一、二丁目に当たる駿河町に進出した三井家中興の祖、越後屋呉服店主こと三井八郎兵衛高利(たかとし)もその一人であった。高利の父高俊(たかとし)は、一城の主(あるじ)であったという越後守高安の子で、慶長七年(一六○二)に伊勢松坂に居を構え、質屋と酒屋を兼業した。越後屋の屋号は先祖の名を偲んだものである。高利は高俊の男子四人の末子として生まれ、寛永十二年(一六三五)十四歳の時、供の下男を一人つれて江戸へくだる時、母の殊法(しゅほう 法名)は元手として金十両分の名産木綿を駄馬につけて与えている。現金で渡すより、仕入れ値の松坂木綿をその分だけやれば、それが二倍にも三倍にもなることを教えるためであった。商人としての門出の第一歩に、高利は商い心を母に教えられたのである。(「元禄の演出者たち」 暉峻康隆) 


伊予・大山祇神社
大三島という島は、昔から有名な大山祇神社という社があります。この神社は伊予の一宮で、海上安全、漁業満足、長命開運、造酒守護の神様として知られています。それで、古くから瀬戸内海を通行中の武人は、この神に海上安全の祈りをして、鎧や太刀を奉納して行きます。神社として日本中で、太刀として国宝になっているのが、一番多いので名高いです。平の重盛、重成、河野通有、源義経の奉納した鎧や胴、腹巻、兜というのがたくさんあります。日本で一番古いという、沢瀉威鎧(おもだかおどしよろい)は殊更に有名です。(「旅に拾った話」 宮尾しげを) 愛媛県今治市大三島町にある神社だそうです。 


トム・ペンターガスト
「シカゴにアル・カポネ、ここカンザスにはトム・ペンダーガストがおりまして、これがために両市では大変にジャズが盛り上がりました。」「ほうほうほう」「といいましても、このペンダーガスト、ギャングというわけではなく、酒の醸造場を持ちセメント会社を一手に握り、民主党のボスで、ハイウェイの建設をやり、ナイトクラブを援助し、オールナイトで出来るように法律を変えてしまうことのできる実力者というわけでございます」「やはりギャングではないですか」「ま、一九三八年に脱税で逮捕されるし、その前の三三年には禁酒法も解除になるから全盛期はこのあたりまでなんですが、自分の選挙地盤を譲って政治家にしてやったのが、後の大統領トルーマンだったという事実もございます」「ほうほうほうほう」「とにかく、こういうのがミズーリ州全部を支配しているわけですから、全米大不況の三〇年前後、カンザスは不況知らずの歓楽の不夜城、ジャズのメッカとしてその名が轟き、ありとあらゆるジャズ・ミュージシャンが押し寄せて来て、しかも仕事のない奴がいなかったと申します」(「アメリカ乱入事始め」 山下洋輔) 


もう結構だ
スイスのチューリッヒへ一人の傭兵がやって来て、とあるやどやに入り、亭主に宿を頼みました。亭主は承知しました。夜、食事のときに亭主は傭兵にひどく酸っぱいワインを出しました。これはできの悪い年のもので、これを飲むとみんなが「もう結構だ。このワインはなんて酸っぱいんだ」と言いました。それでその年のワインは「もう結構だ」と名づけられたのです。さて傭兵は食事をし、その酸っぱいワインを口に含むと、言いました。「ぺっぺっ、亭主、このワインはなんて酸っぱいんだ。」亭主は答えました。「手前どものワインは何年か経ってやっとうまくなるワインでして。」傭兵は言いました。「亭主、このワインは、たとえ杖にすがって歩くほど年を取ったって、うまくはなるまいよ。」(「道中よもやま話」 イェルク・ヴィクラム 名古屋初期新高ドイツ語研究会訳) イェルク・ヴィクラムは、16世紀ドイツの作家だそうです。 


ひとり亭
むかし、北野新地あたりに、中年の女性がひとりでやっている酒亭があった。この店の肴は伊豆から取り寄せたワサビ一品で、摺りおろしたワサビをなめながら、酒をのむ。しずかな、この酒亭の名を[ひとり亭]といった。二十何年も前の私は、ここで一升のんでも平気で、翌日は芝居の稽古ができたものだった。先日久しぶりで大阪へ出向いた折に[ひとり亭]を探しまわってみたが、どこにあるのやら、新しいビルディングの群れは、ささやかな酒亭などを押しつぶし、消滅させてしまったのであろうし、いまは、あのような、女ひとりが気ままにやれた商売など、存在をゆるしてもらえぬ世の中になってしまっている。(「むかしの味」 池波正太郎) とんでもない肴 


一見酒仙風
いかにも飲みそうでいて、全く飲めないという人がかなりいる。大分前にアサヒグラフで、船橋聖一だの、先代市川猿之助だの、そういう下戸の写真を出して、タイトルは「一見酒仙風」というのだった。(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


絶対のタブー
いつか煙草の葉を買いつけに、世界を飛びまわっている商社の人の話を聞いたことがあったが、最大の悩みは、夜の酒だといっていた。煙草の葉を買いつける連中は、大体メンバーがきまっている。煙草会社や煙草ブローカーなのだが、この連中は、蜂の蜜を追う商人たちのように、煙草の葉の採れる時期を狙って、南米からインド、アジアまで移動してゆく。夜は各地で、あたかもメンバーズ・クラブのように相集うて、酒を飲むのだが、絶対のタブーが「泥酔と猥談」なのだそうである。ひとたびこのタブーを犯してしまうと、翌日からだれも話しかけてこなくなる。こちらが話しかけても、返事が返ってこない。つまり「はぐれ狼」にされてしまうのである。「酔っぱらわないことに苦労します。夕方、パンを食ったりして、腹を作ってから出かける。酒に弱い日本人は、空きっ腹に飲んだら、たちまち酔っぱらってしまう。泥酔しますからね」酒席をつきあわなくては商売にならず、といって酔えないのは、随分辛かろう。(「地球 味な旅」 深田祐介) 


鷲尾嶽酒店
大谷は明治十四年、富山県砺波郡正得村(現在、富山県小矢部市水落)の貧農の長男に生れた。郷里を食いつめ、二十銭を懐中にして東京に出てきたのは明治四十四年、すでに三十歳になっていた。人夫、精米所店員…と、転々するうち、大柄な体格と馬鹿力を見込まれて角界(稲川部屋)に入り、「鷲尾嶽」のしこ名で幕下五十枚目から振り出した。そして。それから三年もしないうちに負傷し、相撲取りを廃業する運命になったことは先に述べたとおりである。が、彼には腕力だけではなく、商才もあったようだ。角界を退いたあと開店した酒類販売店を「鷲尾嶽酒店」と命名し、自らもわざとチョンマゲを残したまま商売に精を出した。いつか顧客は、店主の彼を「チョンマゲ屋」と呼んでひいきにするようになる。鷲尾嶽酒店が成功したのはもう一つ、彼の「前金商法」がうけたからでもあった。彼は、「開店そうそうにつき資金不足。代金前払い客には特別割引き致します」とPRした。酒屋というものは、売掛金の回収不能で倒産する例が多いことを、彼はよく知っていたようである。かくて現ナマ第一主義は成功し、やがて国技館の中にも出店を持つようになる。(「破天荒企業人列伝」 内橋克人)ホテルニューオータニを創立した大谷米太郎の前半生だそうです。 


リルケの両親、サタデー・イヴニング・ポスト
 リルケの両親は虚栄がひじょうに強かったので、客間の壁にかけてある青銅の飾皿はじつは紙の張り子だったし、客に出す葡萄酒は瓶だけの銘酒で、なかみは偽物というありさまだった。その上リルケは女の子に扮して客の前に出させられた。
 謹厳で聞こえたサタデー・イヴニング・ポスト紙が、第一回は女秘書と社長が夜ふけに酒を飲んでい、第二回は二人で朝食をしている小説をのせた、すると「エロ小説をのせるとは」と投書がさかんにきた。編集長は非難に答えて「小説の人物たちの、紙上以外の行動には、責任を負いかねます」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


八岐大蛇
4どっちも好きで大蛇(おろち)はしてやられ(明二梅3)
 前句 あぶなかりけりあぶなかりけり
高天原(たかまがはら)を勘当追放された素戔嗚尊(すさのおのみこと)は、出雲の国に降り、簸(ひ)の川の上流で脚摩乳(あしなづち)と手摩乳(てなづち)という老夫婦と出会う。彼等は最愛の娘である奇稲田姫(くしいなだひめ 櫛名田姫)を、八岐大蛇(やまたのおろち)の生贄(いけにえ)として差し出さねばならぬと、大変に嘆き悲しんでいた。素戔嗚尊は、大蛇を退治するために、八つの瓶に酒を満たして置き、その樹上に姫を昇らせて置く。姫の姿が酒の表面に写って見えるという仕掛けである。頭が八つある大蛇は、瓶に頭を突っ込んで酒を呑み、酔っぱらって寝てしまう。素戔嗚尊は、それを切り刻んで退治する。「どっちも好きで」とは、大蛇が酒も女も両方好きであったがために、という意味である、「してやられ」は、うまく騙し取られるということで、酒色のために身を滅ぼされたということを、当時の俗語を使って表現している。人間の世界も酒と色に溺れる人は多いが、大蛇もまたその通りだったのである。一種の教訓めいた語義を秘めて、妖怪変化である大蛇も、世俗的な欲望から逃れられなかったという諧謔である。前句は「あぶなかりけりあぶなかりけり」で、もう少しで姫が生贄になるところだったとも、酒色は身を破滅させる一因であるとも、その両義に付いていると思われる。「神代にもだますは酒と女なり/四七27」(「江戸川柳」 渡辺信一郎) 


酒花
日本では米の花は「こうじ」である。そこで調べてみると、中国にも酒花というものがある。これは近づいてきたなと思ったら、なんと酒花はビールの原料ホップのことであった。」古詩では、酒の表面に浮かんではじける泡を酒花と呼んだこともあったらしいが、いまではホップでしかない。麹という漢字も注目を要する。麹という字が中国ではもう廃され、麯の簡体字である曲が使われていることはすでに述べた。(「酒と日本人」 井出敏博) 


Clalet
尚精養軒出張店のバーには西洋酒の名を和英両様に掲げあるが、其中の葡萄酒に対して”Clalet”とあり。こは羅典(ラテン)のClarus即ち英のClear仏のClairにして我国に於ける濁酒に対する清酒の清の意なれば勿論Claretとあるべき筈のものなり。然るに帝都に於ける西洋料理店の開山とも云ふべき精養軒にして尚斯く常用西洋酒の名を誤るは、其語源等にはClearならずと見ゆ。(「吐雲録」和田垣謙三) 現在一般的には、ボルドーの赤ワインをいうようです。 


上等な阿片
宗教は世人の阿片だ…いまでは経済学が愛国主義とならんで人びとの阿片となっている…性交はどうだ、これは人びとの阿片だったろうか?だが酒はまたとない阿片だった、まったく上等な阿片だった…とはいえ、人びとのもう一つの阿片であるラジオの方を好く人もいる。 アーネスト・ヘミングウェイ「賭博師、尼僧、ラジオ」(「ポケットに名言を」 寺山修司) 


茗荷屋
寛文六年(一六六六)の建立で、都有形建造物に指定されている雑司ヶ谷鬼子母神(豊島区雑司が谷3-15-20)の門前に、茗荷屋という酒楼があった。大門を入って、ケヤキ並木のすぐ左手あたりで、裏は板橋道に面すという、かなり大きな店だったようだ。当時の主人は吉川幸吉といい、侠気の人だったが、明治になって間もなく廃業したという。明治元年(一八六八)二月十二日(十・十三日とする文献あり)、茗荷屋に須永於菟之輔(おとのすけ 伝蔵)・本田敏三郎(晋)・伴(ばん)門五郎(貞懿さだよし)・田中清三郎ら一橋家ゆかりの士を中心とする十七名が集まった。彼らは上野に謹慎した主君である慶喜の復権、助命を話し、格別の決議をせずに散会した。この一団が、やがて彰義隊の母体となっていく。(「幕末歴史散歩」 一坂太郎) 


一勺三十文
「松の酒屋や梅壺の 柳の酒こそすぐれたり」と、いうのがある。狂言「餅酒」のなかにある文句だ。柳の酒というのは、京都の五条通西洞院(にしのとういん)西南の面に店を構えた中興(ちゅうこう)四郎左衛門のところで売り出していた酒である。足利義政などが呑んでいた当時最高の酒だった。この酒の値段が残っている。一勺三十文という。当時、米一升二十八文だから、ずいぶん高い酒だった。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 餅酒 


酒は酒屋に茶は茶屋に
【意味】物事にはそれぞれの専門家があること。 餅は餅屋
酒人を酔わしめず人自ら酔う
【意味】酒を飲んで酔うのは酒の罪ではなく、自分の罪である。【出典】酒人を酔はしめず人自ら酔ふ。色人を迷はしめず人自ら迷ふ〔忠臣水滸伝前編二〕(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


昆陽先生訳和蘭勧酒歌
さて吉宗公在職最後の延享二年には、恒例のごとく三月一日に蘭人の謁見があり、貢物には猩猩緋(しょうじょうひ)や大羅紗や海黄(かいき)の更紗(さらさ)というお定(き)まりの染色物を主とし、外に酒二壺があった。将軍への暇乞いが六日とある。酒はチンタ葡萄酒かアラキ焼酎のたぐいであったろう。青木昆陽が蘭人に会見して蘭語を学んだりしたのは、遅くとも寛保二年春を始めとし、本年まで四年つづいている。前年の延享元年には『和蘭文字略考』三巻の業績ができたほどである。その延享二年の三月一日ないし六日さてはそれらの前後若干月のうちに、彼は蘭人や通詞について「和蘭勧酒歌」を訳出したのであった。甲比丹(カピタン)はヤコップ・ハンデル・ワァイであった。野呂元丈の『阿蘭陀(オランダ)本草和解』の識語によれば当年随行のオランダ外科医はムスクルス、大通詞は末松徳左衛門、小通詞は楢林重右衛門であった。昆陽先生に「和蘭勧酒歌」の義訳を助けた人々はこれらの内外人であった。その歌は原題には単にドリンクリードすなわち飲酒歌となっている。第一曲以下原文はここに略して大意訳を左に録する。第一曲 これは酌する人酒をつぎ盃のふちまで酒をつぎ勢よく飲し酒の色みごとなるかなと云ふことなり 第二曲 これは盃まはるによりて盃をさすと云ひて手取詞を用ゐて戯るゝなり。 第三曲 これは盃を唇につけて盃の底までのこらず飲みたれば喉(のど)をあけて見よ酒が喉へ入りたると云ふことなり。 第四曲 これは酒を飲みをはり盃をさかさまにして見せて私はまだ酒が飲みたきと云ふことなり。(「新編 琅玕記」 新村出)  


女児紅と状元紅
「陳年」はこの紹興酒を造った中国人の名前ではない。これは「年を陳(つら)ねる」と読む熟語。つまり「年を重ねた」という意味。今日の日本語で言うならば「熟成」ということになる。この紹興酒という酒は、寝かせることによって美味しさを増す醸造酒である。紹興の人々は子どもが生まれると、うるち米を蒸し、麦麹(マイチュー)と紹興の上流にある鑒湖(えんこ)の清水を混ぜてこの酒を造った。女の子のための酒は「女児紅(ニューアルホン)」と名付けられ、男の子のためのものは、「状元紅(ジュアンユエンホン)」と呼ぶ。これをカメに入れ、蓮の葉でふたをして、庭に埋めるのである。カメは柔らかい土で造られた土器、それに石灰を塗る、表面がゴツゴツしたカメはこの石灰を通して中の紹興酒をじっくりと熟成させるための空気を吸収する。ふつう日本の中華料理屋で出される紹興酒は五年もの、中国の安い料理屋で出されるのは三年もの、良いものを選べば、十五年、二十年と「陳年」したものである。しかし、この「陳年」は、長ければいいというものではもちろんない。先に「子どもが生まれると…」と記したが、この酒は女の子の場合には彼女が嫁に行くときに、男の子の場合は科挙に合格したときに、庭から掘り出して、家族親戚を招いてお祝いに振る舞うというのが、本来の紹興酒の飲み方だった。したがって女性の結婚適齢期、子どもの科挙及第というのが、この酒の熟成の目安とされたわけである。昔の女の子はだいたい十五歳になると、嫁ぐのがふつうであった。二十歳まで結婚をしないなどという女性は、ほとんどいない。こう考えると、おそらく紹興酒というものは、十五年くらいの「陳年」が最も美味しさを醸し出す熟成期間なのではないかと思うのである。紹興には、二百近い紹興酒工場があると言われるが、その中でも「慶湖」というブランドはジャッキー・チェンも愛飲するものだとか…。(「漢字ル世界 食飲見聞録」 やまぐちヨウジ) 


餅酒
▲シテ 大空にはびこるほどの餅もがな、生けるを一期かぶり食はん。 ▲奏者 一段とでかした。今一人の者も詠め詠め。 ▲アド 畏つてござる。かうもござりましよか。 奏者 何としたぞ。 ▲盃は空と土との間(あひ)のもの、富士をつきずの法(はう)にこそ飲め。(富士を杯台にする意と云ふ) ▲奏者 これも一段でかした。やいやい、重ね重ね歌が出来た。これへ寄り、三盃飲うで、その後は、洛中を舞下りにせい。お暇(いとま)下さるゝぞ。 ▲二人 はあ、ありがたうござる。 ▲奏者 さあさあ、身共が酌してやろ、飲め飲め。 ▲二人 扨も扨も、忝いことかな。 ▲奏者 もはや御暇遣さる。また来年参りませい。▲二人 はあ、忝うござります。もはや御暇申します。 ▲シテ 何と何と、めでたい事ではないか。 ▲アド なかなか、その通りぢや。 ▲シテ いざ、めでたう和歌をあげて帰らう。 ▲アド 一段よかろ。 ▲シテ 謡 松の酒屋や梅壺の。 ▲アド 柳の酒こそすぐれたり。 ▲年々に、つき重ねたる舞の袖。 ▲二人 かへす袂(たもと)やねすらん。やらん(やんらの誤りか)めでたや、抑(そもそも)酒は百薬の長として、寿命を延ぶ。その上酒に十徳あり。旅行に慈悲あり。寒気に衣あり。水山に便(たより)あり、さて又餅は万民に用ひられ、白金黄金所領もち、白金黄金所領の上に、たゞかねもちこそめでたけれ(「狂言記」)年貢の加賀の菊酒と餅を納めた百姓が、めでたいと酒を勧められ、そして、大きな歌をと所望されて詠んだものです。 


匂いセンサー
東京工大の森泉豊栄教授らは、匂いセンサーを用いてウイスキーの匂いの識別をおこなった。五種類の銘柄のウイスキーを匂いセンサーにかがせ、それぞれのウイスキーが各センサー膜にどういう応答をひきおこしたかというパターンを、コンピューターに覚えさせておく。ついで、検査すべき銘柄のウイスキーの匂いをかがせると、九割以上の確率で、ウイスキー銘柄が正しく判定された。よほどウイスキーにうるさい人でも、五種類のウイスキーの銘柄を匂いで当てるのはむずかしい。匂いセンサーよは人よりすぐれたきき酒能力があるということになる。匂いセンサーはこうした飲食物に応用されるだけでなく、大気中や室内の悪臭に対する匂いセンサーとしての応用が期待されている。使用する脂質膜の種類を選べば、匂いに対する識別能は、もっと改良されるものと思われる。(「味と香りの話」 栗原堅三)平成10年の出版です。 


チェイン・インディアン
パラグァイ、カイピペンディ渓谷のリオ・パパピティ河畔に住む、チェイン・インディアンは水を飲まない。かれらは一生水なしですごすが、これはかれらの住む渓谷で入手できる水には塩分があり、とても飲用にはならないからだ。その代わり、この土地ではトウモロコシが豊富に栽培されており、土人たちはトウモロコシで風味のよいビールをつくり、これを水の代用品として飲んでいる。(「奇談千夜一夜」 庄司浅水) 


仏神
目黒の不動へ近所の仏神達、振舞に呼ばれ、盃なかばに、なにやら、なまぐさひにおひがするゆへ、台所をのぞきみれば、魚籃と蛸薬師、火にあたつて居る。(近目貫・安永二・仏神)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


小酌ヲ命ジ
皇漢薬については「古方薬議」の中にくわしいが、同じ著者の「年譜抄」に、号を栗園といった宗伯の経歴と、天保年間から明治維新にかけての世相、自分の診た病気の投薬法などが記してある。巻末に「コノ書ハ明治二年﨟月十八日卒業ス、スナワチ小酌ヲ命ジ、小詩ヲ賦シ、以テ子弟ニ示ス」とあって、漢詩が書いてあるが、浅田飴の始祖、宗伯五十六歳のときであろう。信州筑摩郡栗林村に生れ、はじめて十三の年に医学を習い、明治二十七年、八十一歳で世を去るまで、西洋医学を排し、皇漢学のために一生をささげ、東宮侍医までつとめたが、書き残したものを読むと、国事、というよりも徳川幕府のために、ずいぶん奔走している。(「六本木随筆」 村上元三) 


巧妙
中年の男があわただしく酒屋へ飛び込んできた。「向こうの油屋にいた女が-旦那が死んだということで-気を失って-早く-早くブランデーをくれないかね-早く-」そこで酒屋の主人は、早速コップ一杯の酒を彼に手渡した。するとその中年男は、それを持って酒屋の店先から数歩行くや、ぐっと一息に飲み干してしまった。「ああ」と彼は言った。「これで大丈夫だ。良くなったぞ。とにかく俺は人の不幸を見るに忍びんのだ」そして彼はチョッキの裾で濡れた手を拭いた。「ああ、これでだいぶ気分が良くなったぞ」」(「ユーモア辞典 参」秋田實編) 


黄門ばなし
水にされるところを人間にしてくれた、三木仁兵衛の恩義を、光圀は終生忘れなかった。仁兵衛の子三木別所高之が大病にかかった時、公は親しく別所の宅を訪い、枕許にすわっていろいろと慰めたのち、懐中から小さな杯を出し、「別所は酒がすきだから、追ッつけ酒肴をつかわすであろう。その節、この杯にて少々飲むがいい。そして子供にもたべさせるがいい」といった。別所は重き枕を上げて、その杯を押しいただいた。病人に毒な酒も、このように用いれば、薬になったろう。ただし、公自身も大酒ではあったが、時と場合によっては、一滴も口にしなかった。公は領内巡視の節、駕籠に乗ることはまれで、大抵は徒歩か馬であった。雨雲風霜にもめげず、薄着してあるいた。大雪の旅には家士どもをいましめて、酒を禁じたが、ひそかに酒を用いた者は凍傷にかかった。それからまた精進日には、別間に入り、一汁一菜の粗食をとり、役人に命じて、酒倉に封をさせ、調味の酒も禁じ、自分は日光月光をさけて、室外に一歩も出なかった。朝からでもいける人にとって、この慎みは、容易なことではなかったろう。また公は常々、「陣中で酒を用いるは、よろしくない。酒の勢いをかりて勇気を振うは、武士の恥である。それ故万一のこともあらば、酒は禁制なるぞ」、と物語った。上戸党の恐慌は、一通りではなかった。敵は恐るるに足らぬが、禁酒が何よりこわいと思った、そのかわり公は、酒の座の非常に面白い人であった。女は余り近づけず、「これをつつしむに色にあり」と口癖に言い、男色を禁じて女色を奨励するも、毒をもって毒を制するのだぐらいに考えていた。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 


平賀源内・小野田直武の出会い
秋田へは、秋田藩の鉱山コンサルタントとして行っている。源内ひとりではない。そのころ知られていた熟練山師・吉田理兵衛に同行したのである。このことにあたっての秋田藩との根まわしは、田沼意次の用人・千賀道隆が間に立っている。源内が秋田でどこをどう歩き、何をしたかについては、芳賀徹氏がその評伝で見事に生き生きと描いている。必要なことだけを言おう。源内は滞在した造り酒屋で一枚の絵を見た。その人物に会いたくなった。それからというもの、その人物・小田野直武は、秋田諸方をめぐる源内にずっとつきそっている。源内は彼に鏡餅を上から見た絵の描き方を教えた。源内と直武と、どちらが絵がうまいかといえば、断然直武の方がうまい。(「江戸の想像力」 田中優子) 


二人の紳士
ある外国の雑誌にこんな漫画が出ていた。酒場で二人の紳士が殴り合って、二人とも延びている、介抱しているボーイさんが、こんなことを言っている、「だからあれほど申し上げたじゃありませんか、うちで平和論だけはお断りしています」と。誰だって笑うのです、ただし、二人の紳士の喧嘩ならば。しかし、漫画から、政治的党派への道は、ただの一歩だ。頭数によって保証される政治的イデオロギーという制服をつけた集団の対立へ進むのに、何一つ面倒なことはない。そうなるともう笑い事ではない。平和か、しからずんば死か。そういうことになります。ところで笑いはどこへ行ってしまうのか。どこにも行きはしない。私たちの健全な判断とともに私たちの心のなかにとどまって、才能ある漫画家の作に出会えば、いつでも笑い出す用意はしているのである。この笑いは、イデオロギーの配分を受けて集団化しようなどとはけっしてしないものです。私は自分でおかしいと判断し、一人で笑えば、それで十分だからだ。(「政事と文学」 小林秀雄) 


玉巵当無し(ぎょくしとうなし)
【意味】玉のさかずきに底がない。①臣下の申し上げた事を君主が他に無造作にしゃべることのたとえ。②りっぱなものに致命的な欠陥があることのたとえ。「玉の盃底なきが如し」
酒は肴 肴は気取り
【意味】酒はさかながよくなければうまく飲めない。酒のさかなは酒席の趣向がよくなければつまらない。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


入学祝
長女佐和子、ぶら下りの格好にて慶応文学部の入学試験にパス。娘の受験に関しては、遠藤が色々助言してくれた。その親切はありがたく思っているけれども、別に金を積んで裏口入学をさせてもらったわけではない。にもかかわらず、遠藤より電話あり、「二百万円ほど届けてもらおうか」よってあり合わせの品物をやたらに袋につめこみ、目録を作成する。「一、故ケネディ大統領御愛飲テネシー産ヰスキー 一瓶 一、故ドゴール大統領秘蔵本朝甲州産白葡萄酒 一瓶 一、英国王室御用極上ハバナ葉巻 一箱 一、皇室御用達特製洋生菓子 一折 一、紀州徳川家御好ミ鳴門鮮若布 一包 右時価総額弐百万円豚女佐和子入学内祝トシテ及御届候間芽出度御受納被下度候 昭和四十七年三月吉日 後学 阿川弘之 雲谷斎遠藤周作先生」 町田へ行くに遠藤夫婦留守。帰って残りの白葡萄酒で娘を相手に一杯飲む。遠藤から電話がかかって来る。「お前、あれ、ハワイで買って来た免税品ともらいもんばっかりやないか。こっちもなあ、浩宮様御愛用三色アルミ弁当箱いうの、お祝いに届けたるわ」(「また酒中日記」 吉行淳之介編) 


強いる酒とトリップする酒
小松 ボルネオに行くと、よそ者が来たら、かめに入った酒をストローで飲ませるという話を岩田慶治氏(国立民族学博物館名誉教授)が書いていたね。葉っぱにようじを刺したのが、かめの底に置いてあって、それが見えるまで吸わなきゃならないんだって。次の家に行くとまた同じことをしなくてはならない。客に酒を出すことで、お互いの胸襟を開こうといったような意味があるんだな。 *岩田慶治『カミの誕生』淡交社
石毛 酒を強いるというのは日本もだいたい同じ文化なんだな。酒のもう一つの役目はトリップ剤。このごろはわれわれは酒でトリップしないようになったけど、昔はお祭りのときのもので、らんちき騒ぎをやって、普段日常的な生活から別の世界へトリップする。そのための材料なんだね。(「にっぽん料理大全」 小松左京・石毛直道) 


もっきり酒
荻 北海道から提げてきたサケで、「大隈」さんに前菜を作って頂いたんです。
おおば 酒はモッキリで頂きます。
荻 モッキリって?
おおば 一升瓶からコップに注いで飲むやつをモッキリ酒と言うんです。いわゆる飯場とか漁場から入ってきた言葉のようです。盛りきり酒のことです。北海道弁とうのは、一カ所スポンと抜くんですよ。
荻 料理のほうは、まず右が氷頭なますです。まだ、ちょっと早いかもしれない。(「快食会談」 荻昌弘) おおば は、おおば比呂司です。 


ハイジャック
しかし、実はこの言葉は一九二○年代の後半、アメリカの禁酒法時代に生まれた口語で、「(輸送中の貨物、とくに禁制品・密輸品を)強奪する・(乗り物を運航中に)乗っ取る」という意味です。禁酒法のために酒は高く売れる、そこで、密造・密輸の酒を積んだトラックをギャングが襲撃する…ピストル・機関銃を構えて「ハーイ・ジャック!!」ハイ(hi)はヘイ(hey)と同義語で、他人への呼びかけ語。ジャックは一般にjack and jill(太郎と花子、または男と女)とも使われ、男性を指す代名詞です。というわけで、”ハイジャック”は、獲物は飛行機に限らず、トラック、船、列車、どれにでも使えるわけですが、ハイを「高い」の意のhighとも綴るので、空=飛行機の意と解釈されて、そこからシージャック、カージャックと派生語の傑作が生みだされています。(「ことばの豆辞典」 三井銀行ことばの豆辞典編集室編) 


「…?」
あれはインドの北部のジャンムーの街だったろうか、そのとき僕は、カメラマンの阿部稔哉君と一泊五十ルピーの安宿にいた。夜になり、なにもすることがない僕らは酒でも飲もうかということになった。といっても僕らが持つ金は相当に少なく、酒屋で買えるのはポケットサイズのわけのわからぬウイスキーらしきものだった。それを部屋で飲んだのだが、一口啜(すす)ると、僕らは、「…?」と顔を見合わせた。酒は酒なのだが、いったいなんの酒なのか想像もできないのである。「ま、酒は酒だから」と僕は自分を慰めるしかなかった。カンボジアの『ロイヤル』といい、インドの酒といい、それは外観こそウイスキーに似せてはいるものの、中身はまったく違うもののようだった。妙に軽い口あたりで、別に飲めないわけではないのだがなにか実態がないのである。しかしれは、僕らの舌がヨーロッパに生まれたウイスキーの風味に毒されすぎているためかもしれなかった。日本人は、やれ何年物だ、二十年も寝かせた年代物だ、などと得意気に話すのだが、果たしてそれが本当においしい酒だと思って飲んでいるのだろうか。アジアの酒があってもいいのだし、もっと誇っていいのだと思うのだが、日本人も含めてアジア人というものは、その酒瓶のデザインから風味までウイスキーを真似ようとするのである。それを後進国の性(さが)だといってしまえばそれまでだが、だから僕らも戸惑うのである。その国のスタイルの瓶に入っていたら、僕らはウイスキーという先入観を捨てて飲むことができると思うのだ。(「アジア達人旅行」 下川裕治) 


米と酒、地震と麹室
一六四一 寛永一八 農村の酒造を禁じ、醸造業者に対しては酒造額を半減するように命ずる。
一六五八 万治元年 不作につき酒造を制限する。
一六七○ 寛文十年 米不足となり、全国の酒造を出来秋まで禁止。
一七○四 宝永元年 酒造の制限を命じ、新規の販売、酒造屋の新規開業を認めず。
一七八六 天明六年 酒造を通常年の三分の一に制限。
一八○六 文化三年 豊作のため米価下落、江戸市中商人に買置きを命ず。酒の仕込みを自由とする。
一八五五 安政二年 十月、江戸および近国に大地震。圧死者およそ十万。本郷辺の麹ムロところどころ崩れて即死者あり。(「たべもの江戸史」 永山久夫) 酒関係のみひろいました。 


御酒、鏡餅、蛤
「としとし、正月二日には、御酒、鏡餅、蛤(はまぐり)の三種たてまつる御吉例(ごきちれい)にて、すなはち、その日この三種を神供にたてまつらせたもう、これらのいさをしをもて、としとし御下行に米をたまふ事、今に至りてたへず」こういうのですから、三種を持っていくと、天皇手ずから御下米があった、つまりお米をもらったということでしょう。また、「しかのみならず、正月二日にはまへの年の新嘗会(しんじょうえ)に帝手つから供したまひし御洗米をは内侍所にして道喜父子にたまふ事」、つまり前の年の新嘗祭でとれた米を手ずから内侍所で道喜父子に天皇がくれた、ということが書いてあります。(「和菓子の京都」 川端道喜) 川端家の家系を綴った『家の鏡』という史料にあるそうです。 


歓喜に寄せて
数々の歴史、晴れ舞台を彩ってきた<第9>を皆様と。この大曲、古典派交響曲としてのの体裁(第3楽章まで)と、気宇壮大な祝祭カンタータ(第4楽章)の趣を併せ持つ。交響曲に声楽を導入した最初の作品ではないものの、<第9>がロマン派以降の各国作曲家に与えた影響は計り知れない。第4楽章の歌詞は、フランス革命の直前に書かれ、当時の若者の思潮とも共鳴したフリードリヒ・シラー(1759~1805)の「歓喜に寄せて」に基づく。この人間讃歌は、もともとはシラーが友人の結婚式のために書いた酒飲み唄である。(クウォーターズクラブ チャリティーコンサート冊子) 


勇の盃
水戸光圀は酒好きであった。民政の視察に出るとき、必ず立ち寄る家があった。つねに酒が用意されているのだ。酒盃は三つ重ねだったが、その盃に「智・仁・勇」の文字がそれぞれ記されてあった。」光圀は、その中勇の盃を用いるのが慣わしだった。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 水戸中納言 末期の酒 別春会  


豪傑三人
玄徳は幼い時、近所の子供とこの木の下であそびながら「おれが天子になったら、この馬車に乗るんだ」と冗談を言っていた。おじの劉元起が、かれのことばに感嘆して「この子は、世の常のものにはなるまい」と言い、玄徳の家が貧しいので、しじゅう金を出して助けていた。十五の年、母親が学問させに出したが、かれは鄭玄・盧植を師に仰ぎ、公孫瓚らとは友として交わった。劉焉(りゅうえん)が義勇兵募集の高札を出した中平元年に、玄徳は年二十八歳であった。かれは高札を見終わって、憤懣やる方なく、溜息(ためいき)をついていた。その時、かれのうしろから鋭い声で「立派な男が国家のためにはたらこうともしないで、何を溜息なんぞつくのだ」というものがあった。玄徳がふりかえって見ると、これは身のたけ八尺、頭は豹のごとく目はまんまるく、燕(つばめ)のおとがい、虎のひげ、声は雷(いかずち)のごとく、荒れ馬の勢いがある。玄徳はその人並みすぐれた姿に見とれ、名をたずねると「それがし姓は張、名は飛、あざなは翼徳と申し、代々この涿(たく)郡に住まい、田地もいささか持ってはいるが、酒を売り豚肉をあきない、もっぱら天下の豪傑と交をむすんでいるもの。今しがた、おん身が高札を見ながら、溜息をつかれた有様に、おもわず声をかけたのでござる」。玄徳「それがし、もとは漢室の一門にて、姓は劉、名は備と申す。このごろの黄巾(こうきん)の賊が反乱をはじめたと聞いて、賊を破って民を安からにしたい志はありながら、力及ばぬをなげいたのでござる」。張飛「それがし、いささかの資産を持ちます故、それを出して義勇兵をつのり、おん身とともども事を挙げたく思いまするが、いかがお考えなさる」。玄徳いたく喜んで、村の酒屋へ連れて入り酒をくみかわしていた。そこへ一人の屈強な男が、一台の手押し車を押して来たが、店の戸口に止まると、中へはいって腰をかけ、酒屋のものに「早く酒を持って来い、おれは急いで城内へ行って、義勇隊にはいるんだから」と言いつけているのがあった。玄徳が見やると、その男の身のたけは九尺、ひげの長さ二尺、顔は熟した棗(なつめ)のように赤黒く、唇は、朱のようにあかく、鳳凰の目、蚕のような眉毛、人品すぐれ、威風凛々たるものがあった。玄徳はすぐさま自分の席に迎えて、姓名をたずねると、「わたしの姓は関、名は羽、あざなは寿長と申し、のち雲長と改めました。河東の解梁(かいりょう)県のものです。ところの豪族に、人もなげな振舞、目にあまる奴があったのを、打ち果たしてから、方々をわたり歩いて五、六年になります。賊軍討伐の兵隊をつのっていると聞きまして、それに加わるため参ったのです」と言う。玄徳がそれを聞くと、自分の心中を打ち明けたから、雲長は大いに喜び、連れ立って張飛の屋敷におもむき、旗揚げの協議をした。張飛「おれの屋敷のうらに桃園(ももばたけ)がある。ちょうど今花ざかりではあるし、明日そこで、天地を祭り、われら三人、兄弟のちぎりを結び、力を合わせ心を一つにしようじゃないか。大事をはかるのは、それからのことだ」。玄徳・雲長、声をそろえて「それがよい」と答えた。あくる日、桃ばたけの中に、金銀の紙銭、天を祭る白馬、地にささげる烏牛(くろうし)など、供え物の支度(したく)をととのえ、三人が香をたき、再拝して誓のことばをのべるよう「ここに劉備・関羽・張飛の三人、姓は同じくないけれども、すでに兄弟のちぎりを結ぶからは、心を一にし力を合わせ、苦難にあい危険にのぞむものを救いたすけて、上(かみ)は国家の恩にむくい、下(しも)は民草を安らかにしたい。同年同月同日に生まれなかったのは是非もない。ねがわくは同年同月同日に死にたい。皇天后土(こうてんこうど)の神も照覧あれ、もし義にそむき恩をわすれることあらば、天の罰をこうむるであろう。誓い終わると、玄徳を兄、関羽をその次、張飛を一ばん弟と定めた。天地の祭りを終えると、さらに牛をころし酒の支度をして、村の勇士らを集めると、やって来たものは三百人あまり、みなこの桃ばたけで痛飲し酔いつぶれた。(「三国志」 小川・金田訳) 三国志演義の発端場面です。 


オランウータン
オランウータンが日本に初めてやってきたのは、寛政四年(一七九二)のこと。オランダ人がボルネオから連れてきたものです。松浦静山の『甲子夜話』によれば、このオランウータンは「足よりは手ほほど長し、酒ならびに湯を好む。寝る時は枕を用い、もし枕なき時は手枕などを致す。こもをいうこと人間に等しく、音声を変ること之なく候えども、蕃語にて一向に通じ難く候」。当時の人々は、オランウータンがあまり人間に似ているので、人間の一種と思ったらしく、その名も「西洋人間」と呼んでいました。毛深き異様な顔をしたこの「西洋人間」に、通詞(通訳)が日本語を教えたという、愉快な話も残っています。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


錐(きり)もみ
酒を一升買ひに行く。番頭、呑み口へ枡をあてがひけれども出かねる故、上方へ息出しをもむ。秘事はまつ毛(秘事は案外身近なところにある)にて、呑口より滝の如く出る。かの酒買、涙を流す。「お前はなぜお泣きなされます」「聞いて下され。拙者が親が三年以前、小便つまりにて相果てました。息口をもみましたら、助かりませう」(坐笑産・安永二・昔の後悔) (「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


毒汁
ソクラテスは虐待されたと君は考えるか。国が作ったあの毒草を、不老長寿の薬でも飲むように飲み干して、死の間際まで死について論じたからといって、彼は酷い仕打ちを受けたのであろうか。血液が凍り冷気が体内に入るにつれて、脈拍の動きが徐々に静まったからといって、ソクラテスのほうが、あの連中よりもどんなにか羨むべき人物であろうか。玉杯に美酒を注がせ、男妾に-何でも言いなりになるように仕込まれ、男らしさを抜き取られたか、男か女か分からないような者に-黄金の鉢で氷水を捧げさせ、水割り酒を作らせたような連中よりも。こんな連中は、飲んだ酒を全部へどに吐いて、げっそりした顔つきで自分の胆汁の苦みを何度も味わうことだろう。しかしソクラテスは、毒汁を楽しそうに喜んで飲み干すだろう。
*ソクラテスが死の直前牢獄内で、数人の友人たちと魂の不死について語ったのち飲んだ一杯の毒にんじんの汁。その時の状況はプラトンの『パイドン』が物語っている。(「神慮について」 セネカ 茂手木元蔵訳) 


トウコシャーン
水口のいう「姫」を「まろうど」へ招き、さらに、父に背き、兄と家を出て、信濃町のマンションで安達流からの独立を計る、瞳子の住いへ押しかけ、飲む。二日と空けずのこと、酒の肴は常に卵の燻製、大きな桶の素麺、佐木隆三が、 今日も一日ご安ジェンと、製鉄所の唄をうたい、鍛えた体と威張りつつ、四股を踏んで、板一枚下はコンクリート、踵の骨にヒビを入らせ、ぼくが瞳子を背負い、一節太郎「浪曲子守唄」を唄う。水口はもっぱら、今後の計画を兄に訊ね、瞳子はニコニコ笑いつつ、水割りを果てしなく飲みつづけた。大晦日、数寄屋橋のソニービル、一階展示場で、父の椿から、桜へ移った瞳子が、新年の。、まだ三分咲き、桜の大枝を活ける手伝い、終わって一同、細い蕾二つ三つ付けた枝を拝領、佐々は外へ出ても、「トウコシャーン」怒鳴りつづけた、誰も、前回と同じく直木賞には触れない。(「文壇」 野坂昭如) 


どぶろく体験
-酒を飲んで一番苦しかったのが、そのどぶろくの体験ですか。
どぶろくですね。それはみんな一通りはやっているんでしょうけど。もっとひどいやつがいて、宮城県の古川(現大崎市)というところに田舎があるやつが、夏休み、故郷に帰るのに歩いてゆっくりと帰るんだとか言って。ところが、そいつが夏休みから帰ってきたら、とにかく俺は幽霊になったらしいぞと。歩いて帰る途中で、農家でどぶろくを振る舞われて、いい気になって飲んだら、とにかく七転八倒でほんとうに苦しい。やっとの思いで家に帰ったら、おふくろさんが、「おまえ、夕べ帰ってきたぞ。おまえが二階からとんとんとおりてくる足音がしたんだとか言うんだって。それがちょうど、どぶろくで七転八倒したときに該当するんで、俺、やっぱりどうも、そのときは幽霊で出てきたらしいとか言っていましたけれど。それぐらい苦しいんですね。口当たりがいいものですから、いい気になって飲むとそうなっちゃうんです。適当にやめないとだめなんですね。そういう極限まで酔っぱらった失敗というのをしたこともありましたね。(「吉本隆明『食』を語る」 聞き手 宇田川悟) 


江戸自慢
現在でも、仕事を終えた後に飲む一杯の酒は私たちの楽しみ、明日への活力を与えてくれます。その事情は勤番侍も一緒です。江戸における酒は、長い間池田や灘から運ばれるいわゆる下り酒がもてはやされ、江戸時代後期には年間百万樽の酒が船で江戸に運ばれたと言います。しかし『江戸自慢』によれば、江戸の酒でも上等のものは口当たりも良いとしていますが、値段が非常に高く、その上酔いが醒めるのもいたって早いということです。二日酔いの心配は無用ですが、鯨飲の人間は、たちまちに財布の底が空になって、しまいには借金の淵に沈むと飲み過ぎに注意を喚起しています。昔も今も飲み助の事情は変わらないようで、耳の痛い話です。原田氏は、安価な火酒(しょうちゅう)を半盞(はんさん)も買えば肴もいらず、酔いも長く続いて土器に盛った味噌の肴も倹約になって経済的だと力説します。(「下級武士の食日記」青木直己) 紀州藩の付家老安藤氏に仕えた侍医原田某が参勤交代による江戸生活について書き残してた『江戸自慢』にあるものだそうです。 


三上於菟吉
白井(喬二)君の紅葉館が宴会とすれば、三上(於菟吉)君のここ(中洲の有名な料理屋)は最初から二次会といった感じだった。初めから三上君は酔っていたように見受けられたところから察すると、前の晩あたりから中洲のどこかへ来ていて、会のためにこゝへ席を移したと言うのではないかと思う。三上君は私の前へやって来て、「三田の貴公子が、早稲田田圃のカエルと付き合ってくれますか」このセリフを二度も三度も繰り返しては、杯を私に強いた。私が杯を返すと、芸者になみなみとつがせて、グッと一ト口に呷る。チビチビと味わう法ではないらしい。見ると、一ト口に呷(あお)った杯の雫(しずく)を、油を付けずにうしろへ掻き上げた丁度脳天のところへ、一ト振り二タ振り垂らしてからまた人に杯をさす変な癖のあるのを発見した。そのせいかどうか、その辺の髪の毛が薄くなっていた。(「食いしん坊」 小島政二郎) 


金は火で試み人は酒で試みる
【意味】金属の質は火で熱してみればわかり、人の本性は酔わせてみれば知れる。【参考】人は財を用って交わり金は火を用って試む〔明心宝鑑〕
聞かずの一杯
【意味】酒を人に勧める際に、辞退されても最初の一杯だけは、かまわずついでよいということ。【出典】-〔俚言集覧〕(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


私の場合
私の場合、上司たちはやはり仕事を楽しみ、会社と製品に誇りを持っていればこそ、愛用教育をしたのだと思う。私が今もってキリンビールを飲み、三菱パジェロを運転しているのは、そんな彼等が好きだったからかもしれない。そして先日の夜、三菱時代の女友達ばかりが数人で集まり、食事をした。そのうちのA子だけは、今も三菱重工に勤めている。ウエイターがビールの銘柄を質問するや、A子は言った。「キリンラガーとアサヒスーパードライを二本ずつ」どうしてアサヒなのかと驚く私たちに、A子は当然のごとく言った。「アサヒがビールのタンクを三菱重工に発注してくれるのよ。だから、今はみんな必ずアサヒビールも注文するわよ。ありがたいもの」聞けば、三菱重工では今も「グループ製品愛用」と、「顧客製品愛用」は変わらないと言う。そして、A子は笑って言った。「でも二銘柄にすると、困ることがあるのよ。キリンを飲んでる人とアサヒを飲んでる人がわからなくなっちゃってね。それでラガーのグラスにスーパードライをつぎ足したりするのよ」最近は私もキリンとアサヒを半々に註文する。その上、アサヒビールの樋口廣太郎会長にお会いしたとき、「三菱重工にビールタンクを発注してくださったそうで、ありがとうございます」と、ついお礼を言っていたのだからトラウマは深い。(「きょうもいい塩梅」 内館牧子) 


年五回
さてこのようにしてあつめられた三〇〇〇人の内訳をみると、まず西郷隆盛と川路利良がそれぞれ一〇〇〇人ずつ鹿児島で募集した。川路はのちにヨーロッパ警察制度を見聞して司法の専門家になったが、西郷としたしい薩摩人。したがって、のこり一〇〇〇名が他府県から採用されたとはいうものの、東京の治安はほとんど全面的に薩摩の手に委ねられたといってよい。だいたい、「オイコラ」と呼びとめることばも鹿児島弁。鹿児島では「これ、ちょっと」といったような響きなのだが、江戸文化のなかではえらく尊大にきこえた。三〇〇〇人の邏卒は東京府下の六大区にわけられ、さらにその大区はそれぞれ一六小区に分割されて小区ごとに屯所を置いた。屯所に駐在するのは三〇人ていどで、ここを末端基地として「巡邏査察」にあたる、というわけ。その屯所がのちに「交番」に進化してゆく。邏卒の勤務規律はきわめてきびしく、全員が屯所に合宿。家族があっても外泊禁止。そのうえ勤務外のばあいにも制服を着用しなければならなかった。酒を飲むことがゆるされるのは正月や節句など年に五回だけ。そのきびしさゆえに、邏卒は市民からあつい信頼をうけることができた。そのうえ、邏卒が携帯をゆるされた武器は木製の三尺棒一本だけ。江戸の与力同心の時代から、武士が刀を帯びて巡察するのが日本の司法の伝統だったから、警棒一本というのは大革命であった。(「一年諸事雑記帳」 加藤秀俊) 


酒を好く虫
凡(およそ)強飲国(ごういんこく)の人の腹には。酒を好(すく)虫が生(わい)て。鯨鯢(くじら)の潮を吸ふごとく。上から篩(す)ふ故。脾胃(ひい)には納(い)るゝ限りがあれど。酒ばかりは疆(かぎり)なく。一斗も二斗も飲ことは。みな彼(かの)虫の所為(しわざ)也。すべて人の腹中には。九ッの虫あり。伏虫(ふくちう)といひ。肺虫(はいちう) といひ。胃虫(いちう)といふ。鬲虫(かくちう)といひ。赤虫(せきちう)といひ。蟯虫(ぎやうちう)といひ。肉虫(じくちう)といふ。又尸虫(しちう)あり。この虫。人と共に胎内(たいない)より生ず。又寸白虫(すんぱくちう)あり。以上十一種。或は白虫(はくちう)は酒を好むといふ。凡そこの虫ども。腹中にあるとき。上(かみ)の旬(とをか)は。頭上(かしらうへ)に向ひ。中の旬は中に向ひ。下(しも)旬は下に向ふ。この故に腹薬(ふくやく)するもの。月の初(はじめ)。四五日の間。五更の時に用ひざれば効(しるし)なし。昔扁鵲(へんじやく)の弟子に。扁知己(へんちき)という藪医(やぶい)あり。酒毒の人を殺すを愁ひて。月上旬(つきがしら)に馬の涎沫(よだれ)をとり。或は蜀水花(うのはな)を酒に浸し。殊に大酒の人に與(あた)へて。彼(かの)酒を飲せしかば。その人立地(たちどころ)にから下戸となりて。亦(また)酒塩だも得飲(えのま)ず。その人酒飲ずなりて。元気漸(やうやく)に衰へつゝ。物忘れして愚蠢(すこたん)となりぬ。人是(これ)を見てよいよいといふ。その身に于(おい)ては却(かへつて)わろし。これ角を伐(きつ)て牛を殺し。枝を檠(ため)て樹を枯(からす)に異ならず。されば酒を削(けずり)客を正せし聖人も。乱酒の病は済(すく)ひがたし。(「胡蝶物語」 曲亭馬琴) 


口の中
話が与作師匠のこととかけはなれるが、ある幇間がこんな話をしていた。吉井勇先生がまだ元気のころ、幇間をお伴につれて遊びまわっているうちに、軍資金が全く乏しくなって来た。遊びもここいらが切りあげ時と、お伴の幇間が先生にそのことを話した。ところが先生、その幇間にむかって「おいお前、ちょっと口を開けてごらん!」と言った。なんのことかと口を開けて見せると、その口の中をのぞきこんでにやりと笑ってこう言ったそうだ。「おい、金歯があるじゃァないか、その金歯でまだ飲めるよ!」(「浅草寿司屋ばなし」 内田榮一) 


ぶどう酒のおかげ
バスの中で、いわしのカンづめにされたような状態にあると、荷物を持って乗りこむ人を非難がましく人々が見るのを、私は、日頃、よく目にしている。娘を先に乗せ、続いて私が乗りこむや、ぶどう酒のビンは触れあって、車内にカランカランと弾む音を響かせた。ほら、きた!私の前にいた人々が、いっっせいに後を振り返った。その振動で、また、ぶどう酒のビンが鳴る。私の後に乗りこんだ主人の両手にあるビニール袋から出るカランカランという音は、もっと威勢がいい。意外にも、振り返った人々の顔は笑っていた。主人の隣りにいた人が、「オヤ、オヤ、ぶどう酒ではありませんか」と言うと、運転手が「一杯やりたいですね」と相づちを打つ。すると、運転手の後にいた人が「何を言っているのですか、運転中は禁酒ですよ」と、わざわざ大きな声で言う。「私が持っているのは、うまいぶどう酒ばかりですよ。バスを止めてみんなで利き酒といきますか」と主人が言うと、私たちのまわりにいた人たちは男女を問わず、みんなエビス様のような顔になった。ぶどう酒のビンが鳴る音は、車内になごやかな空気を吹きこんだ。混んでいる時は、子供のランドセルの角があたっても、目を三角にする人がいるし、五〇歳ぐらいの女性と小学生の男の子が席を奪いあう風景も見られるパリのバスの中で、まわりの人々がほほえむのを見たのは、予期せぬ嬉しいことであった。ぶどう酒のおかげである。フランス人とぶどう酒の関係がいかに深いかということを、この日、私はしみじみと感じさせられた。(「パリからのおいしい話」 戸塚真弓) 


樽回船と菱垣回船
しかるに享保十五年(一七三○)十組問屋のうち、酒商だけは積荷に関する不平があって、袂をつらね、十組問屋から脱退し、別に自分等の専属の回船をもつようになった。樽回船が、すなわちそれである。その樽回船は間もなく酒にかぎらず、すべての貨物を積んで、ヒガキ(菱垣)船と競争し、漸次勢力を得てきた。安永二年(一七七三)幕府は樽回船の積荷の種類を限定し、今後鑑札を要することとした。この干渉の結果、タル回船は一時衰えて、ヒガキ船が栄えたけれど、いつしかまた衰えたので、文化五年(一八○八)に、町方用達杉木茂十郎が奮起して、ヒガキ回船の諸規則を改正し、組合仲間を拡張し、やや勢いを盛返した。このようにある時代以後は、タルとヒガキと、一張一弛のさまで、大阪、江戸間の海上権を争ううち、天保度の改革を食って、十組問屋は解散し、海運界が一時闇になった。いうまでもなく、十組問屋を失ったことは、ヒガキ回船の大打撃だった。タルの方は、安永二年の干渉後、天保四年、鰹節問屋と塩ざかな問屋と、それから幕府御用菓子の砂糖仕入れ人の、砂糖十万斤とにかぎり積んでもいいが、その他は猫一匹、積むことまかりならぬこととなった。しかもその積荷を改める権利を、ヒガキ回船側の問屋にかぎっていた。かりに大阪から、タル船が品川へ着くとすると、タルの船頭は、一通の送り状を、ヒガキ組の問屋に示して、貨物と引き合わせてもらった上で、いよいよ抜け荷がなしときまったら、実際の受荷者たるタル回船問屋へ、今一通の送り状とともに渡すのである。同じ船でも、ヒガキが保護せられ、タルが圧迫されたことは、あたかも明治十五六年頃、三菱の船と御用船とのごとき関係であった。半官業たるヒガキが衰えて、民業たるタルが栄えたさまがちょうどそれであって、三菱はあの時、海坊主といわれたけれど、それは乱暴な官権をひっくり返す、海坊主のごときものが、本当に太平洋にいるかも知れないのであった。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 樽廻船  


火の車
草野心平は、新宿御苑の近くで「学校」という飲み屋を開業していたが、その前に後楽園の筋向こうで店を持ち、その時は「火の車」という名前だった。『火の車』というエッセイ集もある。なぜこんな名前にしたのですかといったら、「こうしておけば、税金がかからないんじゃないか」と答えたが、結局タップリ徴収された。(「最後のちょっといい話」 戸板康二)  草野心平の酒  


五十七歳
宮尾 遊郭へ。
辻 遊郭へつれて行ってふるえてる男が楽しいでんので。たいがいは洗礼を受けますのや。私は家でずっと大きくなったさかい、二十六歳まで知らなんあの。これも大体おくてでございます。そやさかいとくにそういうようなことは先生に聞かんならんと(笑う)
宮尾 お許し下さい。ほんとうに私、なんにも。ずーっと一種のタブー視するといいますか、そういうことでございましたでしょう。結婚は二回致しましたけれどそういう固い固い考え方がございますので、それが一昨年のお正月頃、突然お酒を飲みはじめましてね。ですから五十七歳にしてはじめてお酒を飲み出しました。この頃バーに行くようになりましてね、男の人たちがバーで遊ぶ生態というものを、はじめて見ましたの、好奇心で。(「大人の味」 宮尾登美子 辻嘉一) 


そこが男の手料理
そこで思いついたのが、「梅干しの酒煮」である。わが家で出来る最も単純で簡単な高給懐石料理である。柔らかい梅干しを酒だけでとろ火で五時間ほど煮込むのである。梅干し十個に対して酒は二合位であろうか。梅干しがかぶる位の酒の量でよい。すっぱみが薄れ、酒の味がしみ込む。-
「実はですね」と次にデスクのW氏が気まずそうな口調で言い出した。「ほら、梅干しの酒煮ですが、あの通り二合の酒で煮たら二時間で酒が煮つまり、こげてしまった、とわざわざ聞きに来た読者がいたんですよ。実際に五時間も煮る必要があるんですか」まず私の男の手料理を実行してくれ、その結果を報告してくれた読者に感謝したい。「いや実はですね。梅干し十個に対して酒の量は五合以上必要なんです。しかし、それじゃ読者がショックを受けるんでね、ちょっとひかえたというわけです」そう弁明してから次のように強調した。「酒のダシが煮つまったら、そこで火を止めればいいんです。煮る時間は一時間でも、二時間でもいいんですよ。そこが男の料理でしてね。臨機応変に、対処してもらいたいですね。」随分勝手な注文だが、男の手料理とはかくなるものなのだ。(「おとこの手料理」 池田満寿夫) 


乾杯の由来
英語では乾杯のことを「トースト」といいますが、この言葉はイギリスの古い習慣に由来しています。その習慣とは、ハチミツ酒を入れた杯に、トースト・パンをちぎって入れ、「トースト!」といって、トースト・パンのかけらが杯の底に落ちてくるまでに、一気に酒を飲みほすというものです。乾杯のときの言葉で有名なのは、『ガリバー旅行記』を書いた作家、ジョナサン・スウィフトが考えた「残る人生をつつがなく全うされますように」ですが、世界で最も多く使われるのは「あなたにの健康を祈って」というもの。なお「カンパイ」を、ドイツ語では「プロージト」、フランス語で「ア・ボートル・サンテ」、スウェーデン語で「スコール」、ロシア語で「ナズドロービエ」といいます。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 


パリの祝杯
あれはパリに着いた明くる日の晩くらいではなかったかと思う。私は、同じ時期に留学することになった三人の仲間と、パリ十四区ダンフェール・ロシュロー広場の近くで待ち合わせて、広場の一角に面したカフェに入った。これから一年間の実り多い留学を祈念して、祝杯を挙げようという心算である。パリの街並みを見渡せるガラス張りのカフェのテラスで、私たちは乾杯した。よく冷えた白ワインを一本テーブルに置いて、乾杯を繰り返しながら私たちは飲んだ。一本が二本、二本が三本、三本が四本、四本が…五本か六本になる頃までは、記憶があった。冷えた白ワインほど、スイスイと喉を越し易い酒もない。銘柄は、ミュスカデ。ロワール産の安い酒だが、フルーティーでドライで、実に飲みやすい白ワインである。何本飲んだのだろうか。後年、何度か議論したが、だれもおぼえていない。そのときの勘定をだれが払ったのかも、一人としておぼえている者がいない。おぼえているのは、翌朝になって、ポリスに引きずられてダンフェール・ロシュロー広場の片隅に四人が寄せ集められたことだけである。したたかに飲み、酔って、きっとカフェのオヤジに追い出されたのに違いない。私たちは、そのまま、カフェの前の舗道にゴロリと倒れて寝こけていたのだ。それを朝になってやってきたポリスが見つけて、邪魔だからと私たちを広場の隅のほうに引きずっていってゴミのように積み上げたというわけだ。私はズルズルとパリの舗道を引きずられながら目を醒ました。そして、寄せ集められてから、もう一度、眠った。 (「食いしんぼグラフィティー」 玉村豊男) 


インディアン
この種族の連中は非常に酒に酔いやすく、酔うととても喧嘩っぽく乱暴になるので、私たちは彼らに酒を売ることを厳禁した。するとこの禁止に対して苦情を言ってきたので、会議中に酒を飲まずにいたら、用件が片づき次第うんとラム酒を飲ませようと約束した。彼らは酒を飲まぬと約束し、かつその約束を守った。約束を破ろうにもラム酒は手に入らなかったのだから。会議はすこぶる順調に運んで、双方満足のうちに終った。終るとラム酒を要求したので出してやった。それは昼過ぎのことだった。彼らは男女子供とも百人近くの人数で、町を出たばかりのところに方形の仮小屋を建てて住んでいた。晩方になると、彼らのところからひどい騒ぎが聞こえてきたので、どういうことかと思って委員たちが見に行った。すると広場の真中に大篝火(かがりび)を焚き、男も女もすっかり酔っぱらって、口喧嘩をしたり殴り合いをしたりしているのだ。彼らの黒ずんだ半裸体は薄暗い篝火にわずかに照らされ、燃えさしを手に互いに追いかけ打ち合い、恐ろしい叫びを立てているさまは、私たちが頭に描く地獄の姿そっくりの光景だった。その騒ぎは静めようがなかったので、私たちは宿舎を引き上げた。夜中ごろ何人かやってきて破れるように戸口をたたいて、ラム酒をもっとくれと要求したが、私たちはとりあわなかった。次の日、彼らはあんな騒ぎをしてすまなかったと気がついたのだろう、長老を三人よこして詫びを言ってきた。口上を言った男は自分たちの過ちを認めはしたが、それもラム酒のせいだと述べ、さてその上で、ラム酒に罪のないことを言い解いて次のように言ったものである。「万物の創造主である偉大な神は、すべてのものを何かの役に立つように造り給うたのです。何の役に立つように作り給うたにせよ、作られたものは常にその目的のために用いなければなりません。ところで、神はラム酒をお作りになった時に次のように仰せられました。インディアンはこれを飲みて酔うべきなり、と。ですから、その通りにしなければならないのです。」(「フランクリン自伝」 松本・西川訳) 今も昔もモンゴリアンは酒に弱いようです。 


後光明天皇、伊達政宗、徳川家康
後光明天皇は大の酒好きであられたので、ある者がそれをいさめた。天皇は怒って、刀に手をかけられた。廷臣は「君主御みずから臣下をお斬りになった話は知りません。はじめて御手ずから後成敗は光栄でございます」といったので、天皇は刀から手を離し、奥に入ってしまわれた。
ある時伊達政宗は家光に酒をふるまわれたが、深酔いして寝てしまった。下乗札より先までは乗物は入れられぬきまりになっていたが、急病人という扱いにして、特に玄関までカゴを入れて、政宗を帰宅させた。ところがそれ以後、政宗は「特別のお許しが出た」と下乗で下りず、乗物のままずっと入る習わしにしてしまった。
駿府の安倍川近くの遊女町に、「旗本の若者たちが遊びに行き、徹夜で飲んでいるとのことでございますが、きつく禁止致しましょうか」と家康に老中が言上した。しかし家康は笑って「いや、それは不寝番がたくさんいるのと同じではないか。何か大事があれば、すぐ駆けつけて来るのによいではないか」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


仕事酔い
「いやあ学生の頃からビールが好きでしてね。ビール会社に入れば安く手に入ると思って就職したんですよ…」と橋本氏も笑うが、いくら朝っぱらから試飲と称してビールが好きなだけ飲めても、やはりどうもワリが合わないように思う。カーッと照りつけた真夏の夜に巨人戦観ながらゆったりビールも飲めないなんて、僕が大のビール党だったら、仕事とはいえそんな生活耐えられない。テレビが死ぬほど好きだった奴がテレビ局に入って忙し過ぎて好きなテレビが観られなくなるのと同じで、やっぱり一番好きなことは仕事に選ばないほうが幸せ…かも知れない。-失敗したと思いません?好きなビールを売る商売選んじゃって?「大笑いしながらジョッキの乾杯している席の脇で、店長と相談すすめてるなんてときは、思わずチクショーと思いますけどね。でも酔えない酒飲みながらポンポーンと二軒くらい話まとめると、いつの間にかいい気分になってんですよね。アルコールだけじゃ味わえない仕事酔いってやつです」仕事酔いで下地をつくっておいて、家に帰ってゆっくりとアルコールに浸(つ)かる。僕の心配をよそに、橋本氏はそんなビール営業マンの生活に満足している風であった。今夜はエビオスを何錠飲んで眠るのであろうか。(「丸の内アフター5」 泉麻人) 


お喜代とルパン
有楽町に「お喜代」という飲み屋があった。おかみさんの名前ですかと客が尋ねたら、「私は寝坊なので、主人が毎朝おきよ、おきよといって起すんです」
同じく銀座の「ルパン」は開店の時、イギリスの貴族グロスター殿下が来日していたので「グロスター」とするつもりだったが、「やめたほうがいい」と警察にいわれ、盗賊の名前にしてしまったのである。もっとも、ロンドンの蝋人形の館、マダム・タッソーは、二階に貴族、地下に悪人の人形が陳列されている。(「最後のちょっといい話」 戸板康二) 


川柳の酒句(23)
生酔(なまよい)の女房寝声で礼を言ひ(深夜へべれけ亭主を送ってきてもらって、寝ぼけまなこで礼を言う奥さん)
抜けたあす旦那に樽を拾わせる(酒屋の樽拾いが伊勢に向けて抜け参りに行ってしまった)
居酒屋でねんごろぶりは立てのみ(常連客は座りません)
居酒屋のねんごろぶりは味噌をなめ(これも常連客です)
農民の汗を池田で又絞り(農民の汗の結晶米を酒にしてさらにしぼる)
のむやつらとは下戸のいふ言葉也(「江戸川柳辞典」浜田義一郎編) 


手放せない
山ほどのスコッチウイスキーの箱と一緒に離れ小島に流れ着いた男二人が、ご機嫌で瓶を片手に、救助に来た男たちに向かって、「あんたたちの船はどこへ行くんだい?」「ニューヨークだよ」「じゃ、帰り道に拾ってくれよ。それまでに、このウイスキーをかたずけておくからね」 (「ユーモア辞典 参」秋田實編) 


色気よりも飲み気
離れ小島に住む難破船から来た男は、また新たに難破船から樽にすがって流れ着いた女を助けた。女「ここに何年いらっしゃったの?」男「八年間ですよ」女「ひとりぼっちでね。それじゃ貴方は八年間も持っていなかったものを手に入れるのよ」男「この樽の中に酒が入っているのか??」(「ユーモア辞典 参」秋田實編) 


粕から焼酎
【意味】最初は酒かすにも酔った人が、後にはしょうちゅうでなければ酔わぬように、酒量があがること。
かつえて死ぬは一人飲んで死ぬは千人
【意味】飢え死にする者は少ないが、酒を飲みすぎて死ぬ者はまことに多い。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


老武者
▲立衆 これはこの辺(あたり)に住居(すまひ)する者でござる。夜前この宿へ、さる稚児(ちご)の宿を取られたと申す。承れば、殊の外美しいと申す程に、皆々同道いたし参り、盃を望いたさうと存ずる。皆々ござるか。 ▲立衆 なかなか、これに居ます。いざ、同道致し参りましよか。 ▲立衆 さあさあ、ござれござれ。何かと申す内に、これぢや。ものもう。案内も。 ▲やど 表に案内がある。どなたでござる。やあ、いづれも何と思うてお出なされた。 ▲立衆 その事でござる。夜前これへ旅の稚児の著(つ)かれたと申し、若い衆が聞き及うで、盃をしたいと申されます程に、なにとぞ好い様に云うて、盃をさしてたもれ。頼みますぞ。 ▲やど 如何にもその通申して、随分なるやうに致そう。それに待たしめ。 ▲立衆 心得ました。 ▲やど 三位殿、それにござるか。定めてお草臥(くたびれ)なされう。さうあれば、この辺の若い衆が、お稚児の事聞き及うで、盃いたしたいと云うて参られた。此方(こなた)、よい様に云うて、盃をさして下され。 ▲三位 これは思ひも寄らぬ事でござる。さりながら、この辺の若い衆なら、某(それがし)が受けとりました。盃を致させませう。こちらへ通させあれ。 ▲やど それは、近頃過分にござる。こちへ通しましよ。なうなう、若い衆、ござるか。 ▲立衆 これに居ます。 ▲やど その通申してござれば、三位殿が受けとつて、盃をさせうと申されます。こちへ通らせられ。 ▲立衆 それは、まづ満足いたした。通りましよ。さあさあ、皆々ござれござれ。 ▲やど さらば、お稚児様から参つて、若い衆へさゝれよ。 ▲稚児 三位、これを飲まうか。 ▲三位 いかにも、参つて若いしゆへ遣され。 ▲やど さあさあ、若い衆、お稚児様の盃ぢや。戴かせられ。 ▲立衆 扨も扨も、是は忝(かたずけな)い。さ、ちと詠ひましよ。 ▲謡 ざゞんざあ、浜松の音はざゞんざあ、いざ、此盃をお稚児様に戻しましよ。お稚児様へ申します。受け持ちました。肴を舞を一つ舞はせられ。(「狂言記」)中世にはこんな風俗があったのですね。この後、老武者が盃を断られてどたばたに…。 


兄弟左右手也
兄弟喧嘩(けんか)をしている所へ、隣の師匠来り「これ亀松殿も竹二郎どのも、さてさて悪い事じゃ。喧嘩はせぬもの、兄弟は左右の手の如しとあるではないか」弟「そんならおれらの手に違ひはないかへ」師「知れた事、兄は右の手、弟は左の手とあります」「兄貴が右の手で、おれは左の手かい」「はてくどい。それに違ひはござらぬ」「道理で兄貴は下戸だが、おれは酒が好きだ」(遊子珍学問・享和三・兄弟左右手也)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編)