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御 酒 の 話 9


そば屋で酒  洋食論  天狗のかくれみの  モーツァルト  海中に投げ捨てられたフラスコ  江戸一  北極圏  煙突  父と母と娘  転向した禁酒会長  ビールで乾杯  朝ごみや月雪うすき酒の味  ひやでもいいからもう一ぱい  山下亀三郎と秋山真之  高杉晋作  柿の葉鮨  わかっていた  サラ川(2)  その犬の毛  おでん屋  坂上苅田麻呂  泉鏡花  酒のことわざ(11)  羽黒山・花祭り  若山喜志子  ホット・サケ  超特級酒のトロトロ  アフリカとお燗  冷やとお燗  橘 直幹  濁りかん酒  正宗白鳥のこと  疲労宴  諸白を飲みやれ  古田敦也  学徒出陣実況中継  漱石の酒  おでん燗酒  一般人名語録(2)  山内容堂  『落穂事跡考』  酔漢の迷惑な行為  泣き上戸  「さしつさされつ」と「飲みさし」  「酒中花」  アンダーソンとヘミングウェイ、十返舎一九  コニャックの匂い  下駄の履き違え  華燭の典…  今日出海のラジオ出演  サンセール  「酒樽」  雷電の酒  内田屋  たらちね  利きラーメンと利き酒  パンの会参加記  月・水・金と火・木・土  牡山羊と葡萄の樹  年上の門人  インドとソビエトの国境  井伏の甲州疎開    徂徠の漢詩  和田金神話  酒は日本酒  からすぐゎどうふ  小林如泥  酔った乞食  ビールにハエ  校正係エラスムスの食事  黒田征太郎  のんごろ  わっぱ酒  「父は永遠に悲壮である」  新年の酒俳句  近代の清酒製造業  噂をすれば影がさす  雨風  邱永漢の父  柳田の南方訪問  さけ【酒】sake  パブと教会  沢村貞子  灘の四つの御用酒  福富臨淵と杉浦重剛  酒の燗  三河屋の息子  殺気を帯びて  とりあえずの日本酒  飯寿司  わかれる  クラーク博士  実験(2)  実験  徳川家慶の酒癖  年酒  みかけ  伊勢丹レディ  照葉樹林の酒(2)  照葉樹林の酒  照葉樹林文化の遺産  「味のぐるり」にでてくる酒  酩酊の罰  酒肴と二日酔い対策  大町桂月、サミュエル・ジョンソン、小山内薫  アマカス  直木賞は肝臓の敵  おでん  三内丸山遺跡  ケンブリッジで見たこと考えたこと  アシモフの雑学  水の硬度、鉄  儀礼的狩猟  「腹に据ゑ兼ねる事−」  毒断ち  「堀端の場」  ブータンのツブ酒・チャン(2)  ブータンのツブ酒・チャン  京都の祇園祭  「手握り酒」と「酒骨」    高校生詩人  あまほん(2)  あまほん  三鞭酒  自然と闘う  江戸ッ子の正月  長谷川町子の逸話  歳時記の句  白川郷の濁酒祭り  電気ブラン(2)  小袖高尾  マレンコフ、牧野信一、鈴木三重吉  手術後の酒  俳句の手習  飲みながらの鉄斎  「伎楽面」展示解説  酒の肴  秦氏  スナック・M>のメニューの一部  酒の語源説  ゴードンの客  大酒大食の会  酒一合を梨にてのむ  ブーブ・ポメリー  大神と池田の悪口の応酬  納戸の冷酒  酔っぱらいのコント  イーストの入る工程がない  柳家小三治  ザ・ガードマン  黒眼鏡  ただし五合以上飲める人  ワインのぬる燗  蛙声会  末広鉄腸  橘家蔵之助  七月二十一日(日)  江戸英雄  虚空への通い路  フグのヒレ酒の好み  無筆  一般人名語録  カギはイメチェン  牡蠣  白鳥(と主人)  小田島雄志  2000年の日本酒  平賀源内の最後  灘の杜氏  荷風の反論  居酒屋伊丹屋  天愚孔平  居酒屋のよさ  酒の肴色々  サラ川  集団社会の論理  『論衡』  朝酒  イソジマン  苔に埋もれて  川柳の酒句(19)  伏見修理大夫  昭和の景況  酒光漫筆  『延喜式』(含、賦役令)にみえる日本海域の貢進食物  色川名人のこと  童子切安綱  沢村貞子の父  酔い  香典  宮戸川、都鳥  オイノス  実父川村庄右衛門  土佐日記  くりだす(繰り出す)  ボルドー液  紅糟  スッテン童子  ござねぶり(広島)  酒造好適米の格づけ  日本酒に醤油  嶺岡豆腐  三禁四乱  高輪大木戸  鈴木牧水・牧之父子の酒  酒好きでないが酒飲み  大坂屋茂十郎  吉原の盆燈籠  青い目をしたノンベー志士  弧を引くミント茶  ゴットフリート・ケラー・滝田樗蔭  中国での「酒の店」  財産目録  河野一郎  しらける  金沢ご馳走共和国  ぬ利彦  味醂四合  西瓜  小西新右衛門  酒のことわざ(10)  酒と怒りの関係  小指の骨折  酒の入らない熊楠  四の宮  方丈記について  お化け千匹  したみ酒の作法  ビールの原麦汁濃度から製品のアルコール度をみる方法  酒飲み十戒  象鼻杯  富士松  伊藤熹朔、川端康成  猩々緋で金持ちになること  海軍の酒風呂  三段目  獅子文六の飲み始め  上上吉諸白商い  「赤線忌」 泡なし酵母  髪の手入れ、ジュール  清酒という名称  井伏鱒二、武億  女房と酒  酒の肴にカステラを食す  素人鰻  物を買つた時の喜びとそれを売り払つて飲んだ時の喜び  沙嬉  酒飲みについて  杉の香を籠めたる酒  貸徳利  水入りお銚子  パリの栃木山  オチョコの置き方  いやいや三杯


そば屋で酒
そば屋に入ったらまずは冬は熱燗、夏はビール。肴は何にするか、これを考えるのが楽しい。常番はかまぼこ(板わさ)。通になると天ぷらを肴にじっくり飲む。私の場合は、単純におこうこ。そば屋のおこうこはだいたい白菜とたくあんと決まっている。これを肴にして飲む。これだけでは店の人に悪いのでもりそばを頼む。そばは最後まで手をつけない。目当てはそば湯。これを肴に日本酒をやる。冬は最高である。そして相撲が終って、最後にのびきったそばをすする。そば屋によっては肴にみそを出してくれるところもある。これも酒に合う。(「東京つれづれ草」 川本三郎) 


洋食論
○かゝる小料理屋の給仕人は大抵女なり。女にてもよろしけれど料理の名さへ分らぬ者の多きは閉口なり。銀座のライオンと雷門のヨカ楼とは女ボオイも相応に見なりを綺麗になしお客に不潔の感をなさしめざるは洵(まこと)に結構なり。されど五六人づゝ一団となりて椅子に腰をかけ雑談にのみ耽りゐて客の用を命ずるも聞こえぬふりなるは驚くの外なし。西洋にても田舎なぞに行けば女の給仕人を使ふカツフヱーあれど、客来る時は椅子にはつかず。給仕人は立つてゐるが客への礼儀なればなり。○女郎屋待合なぞは論外の場所なれども、其の場所には又それ相応の礼儀作法といふものがあり。さればカツフヱーにてもボーイは客の注文聞きちがはぬやうに耳を馴し勘定の節は剰銭(つりせん)を手早く持つて来るやうに致すべき事女中の勤めと知るべし。○給仕人への心付は西洋にては勘定あまり多からざる時は一割と云ふ定めなり。麦酒一盃五銭なれば已(や)むを得ず一銭を添へるなり。銀座辺にてはいかなる習慣なるや、ビール一盃飲みても十銭二十銭の銀貨を投出す人もあり。こは他人の懐中(ふところ)都合その人々の御勝手なれば山人の与(あずか)り知るところに非らず。(「洋食論」 」 永井荷風) 


天狗のかくれみの
昔、百姓の爺が山道を歩いていると、天狗どんが出て来た。その天狗が「おい人間、人間に逢うたのが百年目だ。一噛みに噛んでやるぞ」といった。爺さんは恐ろしかったが、心をすえて「どうせ噛まれるもんなら、天狗どんの芸をいっちょう見て死のうで」と言うと、天狗がそれじゃ見せてやると言うて、たちまち大木に化けた。爺さんがもう一つ見せてくれというと、今度は小さい豆になって見せた。それを拾って、口の中へ入れて、豆の皮をはいで、家へ持って帰った。その豆の皮を体にひっかけると、爺さんの体は分らぬようになってしまった。爺さんは「こりゃええもんが手に入った。この豆の皮をかぶって行けば何でも欲しいものが手に入るわ」といって大層喜んだ。その爺さんは酒好きなもんだから、豆の皮をつけて酒屋へ行ってひとりで酒を抜いて飲んだがちょっとも見つけられなかった。ある日、爺さんはその豆の皮を家に忘れたまま外へ行った。ところが家の者が知らずに釜の下にくべて焼いてしまった。爺さんは家へ帰って「豆の皮はどうした」と聞くとはじめは皆「知らん、知らん」といっていたが、「あれは釜の下にくべたんだろう」といった。爺さんは仕方なしに釜の下の灰をかき出して、体に塗ってしまって「これでどうか」と聞くと皆は「ひとっちょ(ちっとも)わからん」といった。爺さんは大喜びで酒屋へ行って、五尺の大桶の呑口をひきぬいて、酒を口にあててどんどん飲んでいるうちに酔っぱらってしまって酒屋の土間のところで大の字になって寝てしまった。それまではよかったが、爺さんは寝たまま小便をしたので、酒屋の者は「オヤオヤ何も無かところから水が出ちくる」といってみていると、小便のかかったところから灰がとれて体があらわれて来たので大騒ぎになった。そうして皆で爺を叩きのめしてしまった。(長崎県北高来郡 昔話研究二巻) (「日本笑話集」 武田明編著) 


モーツァルト
モーツァルトはビール好きだった。ウィーンの富裕な商人で、フリーメイスンの同志でもあった人に宛てた手紙では、たびたび借金を頼んだりしているが、「あなたのところでビールが無くなりかけていると知っていたら、あえて横取りしようとなんかしなかったでしょう。…またビールがお手に入りましたら、ほんのひと樽ばかり分けて下さいませんか−ご存じのように、大好きなものですから」(柴田治三郎編訳『モーツァルトの手紙』)とビールもねだっている。最後のプラハ旅行からウィーンに帰って二ヶ月後の寒い日、モーツァルトは行きつけの「金の蛇」というビアホールで、ふだんはビールを飲むのに、この日はワインを頼み、しかも手をつけない。なにかとモーツァルトの世話を焼いていた店の人が、心配そうに言った。「ひどくお加減がわるそうです、先生。プラーハへ行っていらしったそうですが、ボヘミアの空気が、先生にはよくなかったのでしょう。そんなご様子です。ワインをお飲みですが、それは結構です。多分ボヘミアでビールを沢山お飲みになって、胃をこわされたのでしょう。なに、大したことにはなりません、先生」この話から当時のボヘミア(チェコ西部)がビールで有名だったことがうかがえるが、それはともかく、モーツァルトはこの日から病の床につき、二週間後の十二月五日に三十五歳の生涯を閉じたのだった死因には毒殺説までふくめて百以上の説があるそうだ。少なくともビールの飲みすぎでなかったことを祈りたい。(「ビール大全」 渡辺純) 


海中に投げ捨てられたフラスコ
また碇泊艦から、ウイスキーやブランデイの空瓶を、日に何本となく海中へ捨てるのを見て、里人等は、実にどうももったいないことだと考えた。そこで役人の目にとまらぬよう、非常な危険を冒して、その空瓶を拾い上げ、綿にくるんで、桐の箱に納めたり、あるいはまたわざわざ江戸、大阪辺の親戚まで寄贈したりした。するとこれをもらった親戚故旧は、懇意な者を招待して、「ヘロリの黒船から、海中に投げ捨てたフラスコを御披露つかまつる」といって、いとしかつめらしく出して見せた。並み居る面々、妙な手付でその空瓶をヒネクリまわしながら、上客から順次に、一礼一覧して、しまいに亭主へ納め、亭主は多大の面目を施し、希代の家宝が一つ殖えたものと心得て、下田の親戚へ高価な品物を返礼したのは、まるで嘘みたような事実である。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) ペリー来航時の一挿話だそうです。 


江戸一
「江戸一」というコマーシャルは、酒販売からはじまった。江戸時代の「江戸一」は、現代でいったら「日本一」と同じである。文政年間(一八一八−一八三〇)の新川の河岸(現在の中央区新川のあたり)には、酒問屋が軒をつらね、各地から運びこまれてくる酒樽が、おびただしく積み重ねられていた。しかし、ほとんどの酒が無銘のために、売れ行きはかんばしくない。文化文政の頃になると、世の中はぜいたくが当たり前となり、現代と同じで、ブランド物でなければ人気は出なかった。売れずに雨ざらしになっている酒樽に注目したのが、本郷追分に酒店を持つ高崎屋長右衛門。それらの酒を残らず買い入れ、「江戸一」という商号をつけた。そして、  呑めや歌えや、汲めやくめくめ。  というコマーシャルを添えて売り出した。これが見事に当たって大人気。酒の売り行きもうなぎのぼり。「江戸一」をまねる店も、そっちこっちに出現した。しまいには酒だけではなく、醤油にも「江戸一」のブランドが出現した。(「たべもの江戸史」 永山久夫) 


北極圏
前田 いや、酒はないんです。北極圏へ行くと、いっさい酒はないんですね。特にイヌイットの人たちには、アルコールの歴史がないんですよね。だからとことん飲んじゃう。コントロールは利(き)かないんですよ。酒は点数制で、面白いんですけれど、グリーンランドのシオバルク、あそこはデンマークなんですね。コゲホーと言って王室がキオスクみたいなのをやっていて、シオラバルクにある唯一のストアが王室御用達というか、王室経営のいわゆる売店。そこで酒を売ってるんですね。たとえば十点の点数なら缶ビールが十本ぐらいもらえる。ウイスキーだったらだったら一本とか二本とか。みんな一ヶ月にいっぺん、点数をもらうわけですよ。そうすると二時間ぐらいで全部飲んじゃうんです(笑)。だからもうその点数をもらった日は大変ですよ。(「喰寝泄」 椎名誠) 椎名誠の対談相手、前田泰治郎は映像カメラマンだそうです。 


煙突
風俗画で思い出したが、江戸期の酒蔵の風景画をずいぶんとたくさん見た。そして気がついたことは、江戸期の酒蔵には、煙突がないことである。煙突のある風景画を、ついに一枚も見ることができなかった。あるとき不思議に思って、元禄期にすでに醸造業を営んでいたという、老舗の酒蔵に質問したことがある。応接間に掛かっている額の絵を指さしながら、「昔は煙突というものは、なかったのですか」「煙突というのは、あれは舶来品でしてね、明治維新の文明開化で、日本に上陸したものなんですよ。それまでは釜場の屋根に、煙出しがあっただけです。明治初期の煙突というのは、わたしにもよくはわかりませんが、おそらくレンガだったろうと思われます。レンガを積んでいって、鉄の枠をはめる、そういう作り方をしていたんでしょう」(「日本ぐるり酒蔵探訪」 桜木廂夫) 奴奈姫訪問の際の文章です。 


父と母と娘
いつも真っ直ぐにその大きな眼で相手を見つめながら話す母とは違って、父はシラフでは到底、人の顔をまともにまともにみることができなかったらしい。お酒を飲んで初めてスムーズに会話を持てるようになるというのである。よくいえば極端な照れ屋、悪くいうとどうにも困った自意識過剰ということになる。「太宰はひとたびお酒が入ると、実に楽しい明るい男になってね。それは太宰アワーと呼びたくなるものだった」そう教えて下さったのは、今は亡き九州男児の壇一雄さんである。大人になるにつれて、母方の南の血より父方の北の血を濃く感じるようになった。相手の顔はみることができても、声がでてこない。お酒を飲むと、心がひろやかになり声も大きくなるのだ。しかし、毎日飲むほどにはお酒は好きでない。そのうっぷんを、母に威張ることで晴らしていた。母も負けていなかった。九州女の母はいつも声が大きい。その大声で、娘にお説教するのである。母に突っかかっていったことは棚に上げて何と口うるさい母だろうと思っていた。その母が三年前の夏に入院すると、急に気弱になった。毎日、病室に見舞いにいく私を迎える母の顔は、私の幼いころより優しかった。しかも、いつも明るかったのである。その母が病室のベッドで毎日泣いていたということが、残された手帖からわかった。思いもかけないことだった。娘の前で涙を見せなかったとは、何とりりしい母だったのだろうと思った。(「気ままなお弁当箱」 太田治子) 


転向した禁酒会長
ノルウェーの禁酒連盟の会長ハルボンセン氏の乗っていた船が難破したときの話。急の知らせで駆けつけた救命艇が、氷のように冷たい海から彼を助けあげた。すでに意識を失っている彼の口に、何はともあれブランデーが注ぎ込まれた。気つけである。この妙薬のおかげで、ハルボンセン氏の心臓は再び鼓動を打ちはじめ、奇跡的に生命をとりもどした。酒というものの医薬的な効能を身をもって感じとった彼は、「生命の恩人にあいすまない」といい、体の調子が回復すると会長の椅子を投げうったばかりか、会そのものをも辞めてしまった。以来、”生命の恩人”をそばから離さず、親しくおつきあいを願ったとか。これはもうだいぶ以前にノルウェーのノイエ・イルストリールテ紙に掲載されていた実話である。(「洋酒こぼれ話」 藤本義一) 


ビールで乾杯
私どもが料亭などにお招きいただくと、ほとんどこちらの好みをご主人側が、お聞きにならないで、いきなりビールが登場して、最初はビールで乾杯といきましょうということになりますが、これは非常に不思議な習慣です。ドイツはいざ知らず、フランスなどではシャンペンは別として、発泡性の飲み物をいきなり食事の最初に飲んでしまうという習慣はほとんどありません。ビールではおなかがいっぱいになってしまいます。ところが、日本ではそのあとにウイスキーを飲むか、日本酒を飲むか、ブランデーを飲むかです。ブランデーを飲むというのは私たちの習慣からするとおかしい話ですが、ともかく最初の一杯はビールからというところが、さらにおかしいといえばおかしいと思います。(「だから日本は叩かれる」 ポール・ボネ) 後書きは、'87年です。ポール・ボネ自身の日本語で書かれた文章だそうです。 


朝ごみや月雪うすき酒の味
ノッケから「朝ごみ」とはそも何ぞや。滅多にお目にかからない語で、手近な前田勇編『江戸語の辞典』にも出ていない。探索することしばしで、やっと見つかった。『好色伊勢物語』(貞享三年=一六八六年版)にこうあるそうな。「朝込。凡そ島原の一番門といふ事あり。此町七ッ(午前四時)の鐘のなる也。初めて、よるの門を開く。宵に首尾なき男、此一番門に来たりて、夜の明け迄枕を並ぶ。これをあさごみといふとぞ」なるほど、とは思えど、まだしっきりこないところもある。さらに調べを濃密にしてみたところ、わかったことを報告すると−、昔の島原では午後十時頃に惣門を閉じてしまい、この直前に昼間だけの客とはサヨナラをし、門内に泊まりの客を入れる。そして午前四時に、夜泊まりの客と朝ごみの客とがもういっぺん交替したのであるそうな。ということは、朝ごみの客とは、明け方に人目を忍ぶようにして、まことに慌ただしくちょんの間で女に逢いにゆく男ということになる。江戸は吉原にも同様の作法があったのか。で、この句は月とか雪とか風雅と縁なき、忙しい逢う瀬を詠んだもの、ああ、シッポリ濡れる余裕もない、との嘆きの句ならん。「うすき」が風雅と酒の両方に掛かっている。『五元集拾遺』の冬の部にもあるので、雪が季語ということになる。(「其角俳句と江戸の春」 半藤一利) 芭蕉門の俳人、宝井其角の句です。 


ひやでもいいからもう一ぱい
酔ったふたりが、乱暴にかついでいきますので、樽におしこまれた願人坊主も苦しいから、うん、うんうなりながらかつがれてまいります。「この野郎、死んだくせに、『うん、うん』うなるなよ」「うん、うん、うん、うん」「うなるなってえのに…」「くるしいや」「ぜいたくいうねん。もうじき焼けばらくにならあ」「焼かれるのはいやだ」「なにをぬかしゃがんでえ。いやもくそもあるもんか」「おいおい、久六さん、よせよ、ほとけと喧嘩するなよ」「喧嘩するわけじゃねえけど、ぜいたくなことをぬかしゃがるからよ。こんちくしょうが」酔っぱらっていますから、ほとけがしゃべったのを、ふしぎだとも、こわいともおもいません。「おうおう、ついたmついた。安さん、あった、あった。まっくらなところにおっこってやがった」「こいつあ大きいな」「夜露でだいぶふくれやがった」「じゃあ、すぐに焼いてやろう。もう薪(まき)はつんであらあ」「そいつあありがてえ。うまくやってくれ」足のほうから火がかかると、もともと死んでいないんですから、願人坊主がおどろきまして…「あつい、あつい、あつ、あつ、あつ…」「やあ、はねおきやがった」「あつい、あついといったぜ」「やい、なんだって、こんなところへおれをいれやがった。一体(いってえ)ここはどこだ?」「ここは日本一の火屋(ひや)だ」「ああ、冷酒(ひや)でもいいからもう一ぱい」(「古典落語」 興津要編) 「らくだ」のさげだそうです。 


山下亀三郎と秋山真之
やがて製紙会社の臨時工、マンガン掘り、石炭商…と職業を転々とし、次第に故郷のこって牛のような、生来の負けん気を取り戻す。その過程で”運命の時”がめぐってくるのだ。それは、日露戦争の当時である。日本海海戦で、「天気晴朗なれども波高し」の名セリフを吐いたことで有名な聯合艦隊参謀秋山真之(さねゆき)中将との出会いだった。山下に情報というもののうま味を最初に教えたのも、この秋山だったといってよい。二人が知り合ったのは、山下にとって母方の従姉(いとこ)の長男・古谷久綱(第三次伊藤内閣の総理大臣秘書。のち政友会幹事)の紹介によるもので、赤坂のとある料亭で一献傾けたのが、そもそものはじまりだった。その頃、秋山は大尉の肩章をつけていた。酒豪振りにかけては二人とも甲乙をつけがたい。たちまち意気投合し、兄弟の誓いをたてたのだそうだ。さて問題の”情報”である。明治三十六年のある日、秋山は山下に向かって囁(ささや)いた。「おい戦争が近いぞ。借金してでも船を買っておけ」(「破天荒企業人列伝」 内橋克人) 愛媛県喜佐方村生まれの山下亀三郎は山下新日本汽船(現在はナビックスライン)の創始者だそうです。 


高杉晋作
加賀藩出身(家老横山家の家臣)で維新後は文部省・司法省に出仕した野口之布(ゆきのぶ)もまた、晋作と同時期に昌平黌(しょうへいこう)に在籍した一人だ。後年、特に親交があつかった晋作と芸州藩士星野文平との思い出を回顧している。(永山近彰編『犀陽遺文』明治三十四年)それによると三人は演劇を好み、しばしば黌則を破って観に行った。晋作が最も好んだのは、市川米升(四代目市川小団次)の芸だったという。あるいは三人は、共に酒を飲みに行くこともあった。しかし晋作の酒量は少なく、小杯(おちょこ)三ばいも飲むと、酔ってしまった。晋作は「酒楼が黌から近いと、帰る時に酔いがまだ醒めていないから、その勢いで激論するのが最も痛快だ。もし酒楼が黌から遠かったら、帰るころにはすでに醒めてしまっている」という意味のことを語ったという。あるいは漢学者三島毅(つよし)(中州)の回顧録では、晋作はよく酒を飲みに行ったが、帰ってくると喧噪(けんそう)きわまりなく、粗暴の一少年との印象を持っていたとある。(「幕末歴史散歩 東京編」 一坂太郎) 


柿の葉鮨
吉野の柿の葉鮨については谷崎潤一郎が『陰影礼讃』だったかに書いている。これは飯に酢を混ぜるのではなく酒で飯を炊く。それをさまして荒巻の鮭の切身で握り、柿の若葉で包んで数日間おしておく。すると酒が発酵して酢になる。じんべいを着はじめる頃(つまり初夏)がいちばんうまいという。今でも奈良あたりで市販されている吉野の柿の葉鮨というのがあるが、これは大分やり方が違うらしい。(「味の歳時記」 吉村公三郎) 


わかっていた
「原因がどこにあるか、どうもよくわからない」医者が、さまざまな検査のあとで患者に言った。「たぶん、酒の飲み過ぎじゃないかと思うんだがね」
「きっとそうでさあ、先生」と患者がいかにものみこみ顔で答えた。「ちゃんとわかっていましたよ。それで、先生がしらふのときにもう一度出直してこようと思うんですが。」(「ポケット・ジョーク」植松黎・訳) 


サラ川(2)
心身症投薬よりも赤ちょうちん のん平
人生が酔いつぶれてる終電車 スワン
自由席乗って差額で缶ビール 川柳取締役
居酒屋でせめてツマミはは出世魚 ハジメちゃん
つきあいと飲んで歌って腹さぐり 勇気マン(「平成サラリーマン川柳傑作選」 山藤、尾藤、第一生命 選) 


その犬の毛
「迎え酒」という呼び名もなかなかしゃれているが、国によっていろんな呼び名がある。イギリスでは[(take) the hair of the [same] dog that bit (one)]となる。犬に咬みつかれた時には、傷口を咬みついたその犬の毛でなでるとすぐに癒る、という言い伝えがイギリスにはある。他の犬の毛ではダメで、まして猫の毛やネズミの毛ではもちろんダメなのだそうだ。二日酔いというのは酒に咬みつかれたようなものだから、これを砂糖湯や重曹水を飲んで癒そうとするのは、犬に咬みつかれて猫の毛で傷口をなでるようなものでしかない。二日酔いを癒すにはやはり迎え酒をするに限る−というわけなのだそうだ。とすると、単に酒を飲めばいいというのではなく、前夜、ジン・トニックを飲みすぎたのだったら、迎え酒も同じジン・トニックでないとダメということになるのだろうか。(「言葉の雑学事典」 塩田丸男) 


おでん屋
小松 おでん屋というのはいちばん大衆向けの一杯飲み屋なんです。おでんを食わせるほうが主なのか、酒を飲ませるほうが主なのか…わからないところがあって。
 * 上燗屋という屋台でも、熱燗で関東だきを売ったので、大阪では関東だき屋を上燗ともいった。 宮本又次『大阪の風俗』毎日放送文化双書
石毛 おでんは必ずしも酒と結びついているわけではないんで、子供のころは関東だと屋台のおでん屋におやつを買い食いに行きましたね。(「にっぽん料理大全」 小松左京・石毛直道) 


坂上苅田麻呂
そこでまず漢(あや)氏系統であるが、彼らは壬申の乱に奮戦してやや地位を回復したけれども、その後しばらくは、とくに頭角を現すものはなかつた。ところが坂上(さかのうえ)犬養(いぬかい)が、聖武天皇に武才を愛されて、天平二十年(七四八)に他の同族の人々が達したことのない従四位下の位を与えられ、遂に正四位上まで昇ってから、坂上氏の政界における活躍がとくに目立つてくる。彼は天皇の病死に当つて、その陵に奉仕したいと乞い、「先代の寵臣、未だかくの如きを見ず。」と賞され(続紀天平勝宝八歳五月乙亥条)、のちに封戸百戸を与えられ、播磨守・大和守を歴任して、天平宝字八年(七六四)に八十三歳で死んだ。彼の子の苅田麻呂も武事にすぐれ、天平勝宝九歳(七五七)に橘奈良麻呂が時の権力者藤原仲麻呂を倒すクーデターを起こそうとしたときには、彼をはじめ武勇の者数人に酒を飲ませておいて、事件に馳せつけられないようにと図った。また彼はその後天平宝字八年(七六四)に、僧道鏡を除こうとして兵を起した仲麻呂(恵美押勝)と戦つて功を立て、大忌寸という特別な姓(カバネ)を許され、功田二十町を与えられた。琵琶湖上に追いつめられた押勝の首を斬つたのは彼の部下の石村村主石楯(いわたて)だつた。(「帰化人」 関晃) 「古い帰化人」坂上氏の話だそうです。 


泉鏡花
アメリカで『高野聖』を訳した女性が来日して、作者の泉鏡花を帝国ホテルに招いた。鏡花は一人ではいやだからと、長田幹彦に同伴を求めたが、忽(たちま)ち窮屈になり、中座して、長田と日本橋の料亭に行き、やがていつものように酔う。べろべろになった泉鏡花は、お前のことをほめていた田岡嶺雲(れいうん)の谷中の墓にゆこうといい出した。墓地に着くと、「ほら、お前が来たので、嶺雲の墓石が、喜んでつぶやいている」という。幹彦は相手が相手だけに、ぞっとしながら合掌していると、ほんとうに何か小声でいうのが聞こえ、石塔のうしろから、フラフラと酔っ払いが出て来た。(「最後のちょっといい話」戸板康二) 


酒のことわざ(11)
上戸に餅 下戸に酒(見当違いのたとえ)
上戸の額 盆の前(熱いもののたとえ)
上戸は毒を知らず 下戸は薬を知らず(酒のみは酒が毒になることに気付かず、下戸は酒が薬の役になることを知らない)
上州飲助(上州の人には酒の強いものが多いのをいう)
漿(しょう)を請うて酒を得(希望以上のよいものを得たことのたとえ。漿はおもゆ、飲み物)(「故事ことわざ辞典」 鈴木・広田) 


羽黒山・花祭り
式後、斎館勅使の間で、氏子数十氏と、ナオライ(精進おとし)の御馳走にあずかった。メニューはまず、名物の月山筍と油揚の煮つけ。これは根曲竹(ねまがりだけ)の若芽だが、アクがなく、柔らかく香気があって良い。天プラにも味噌汁にもサラダにも向く、という。谷川で冷し、酢醤油とカラシをきかせたトコロテン、フキと高野豆腐、春雨、民田茄子と豆腐の汁、赤飯、湯の浜でとれた鯛の塩焼き、寒の水(酒)は名の通りに「羽黒」で、他に「月山」「湯殿」の銘酒もあるという。(「庄内に探る密教の珍味」 宇能鴻一郎) 羽黒山・花祭りの直来の御馳走だそうです。 


若山喜志子
にこやかに酒煮ることが女らしき つとめかわれにさびしき夕ぐれ
さびしければ共にすすめて手にもとる 盃なりき泣かんぞと思ふ 若山喜志子
(「酒」 芝田喜三代) 若山牧水の妻の歌だそうです。 


ホット・サケ
熱燗を注げば素焼きのぐい呑みの土の時代が匂う深秋
 人肌程度のときは、唇になじむ感じの磁器もいいが、熱燗となると、私は素焼きのぐい呑みがいい。熱燗という飲み方は、繊細すぎるお酒には向かないから、杯も素朴なもののほうが合うような気がするのだ。お酒が、素焼きの肌に染みるような感じで、杯になる以前の、土の時代の話が聞けそうな気がする。
常温の冷やを好める男にて慰められも慰めもせず
 自分は、常温の冷やを好める女なのだが、相手もそうだと、これはプラスマイナスゼロというか、以外と張り合いがない。まったく同じタイプの人間というのは、特に男女の場合、毒にも薬にもならないものなのだ。その感じと、「常温の冷や」の馴染みすぎるほどの自然さとを、重ねてみた一首だった。(「百人一首」 俵万智) 


超特級酒のトロトロ
終戦になって東久邇内閣ができて間もなくのことだ。ボクが疎開地の会津から所用で上京すると聞いて、醸造元「会州一」の主人公が、「殿下は仙台にいられた時(第二師団長)よく視察にこられ、東山にも泊られて、うちの酒をおあがりになり、このうちへも見られました。こんど内閣をおつくりになり、さぞご心労のことと思いまして、私どもの酒を献上したいと思っていたのです。先生はパリ時代から殿下をご存じだそうですが、この際殿下に見舞いの酒を差し上げて下さいませんか。決して先生に重いめはさせませないよう万事手配しますから」とて、超特急酒のトロトロ一升ビンを二本託された。−大手町の日清ビルにある友人高広旦那の事務所へ行くと、僕の上京の目的の一部(酒献上の件)を聞き知った田原春次氏が待ち伏せしていて、「ダンナ、上京早々総理大臣に会えるなんて悪くないな。ところで僕にきょうはその酒とカバンを持たして、ダンナの供といった風にしてくれないか。そうすればいかなる守衛も文句はいうまい。実は今まで何べん殿下に面会を求めても、緒方(竹虎氏、当時の書記官長)までは行けるんだが、その先が駄目なんだ。ぜひ頼むよダンナ」僕も頼まれれば越後から米つきにくるというその越後の生まれだ。まして旧友の頼みとあれば否ともいえぬ。−
田原のダンナが殿下に会った一幕はこれで終わるが、当時の特級酒というものが、宝石よりも尊重されていたことを想起してもらいたい。(「にやり交遊録」 石黒敬七) 


アフリカとお燗
「アフリカ人はですね、冷たいものに弱いのですよ」「どうしてでしょう」「アメリカ人はですね、冷たいものに弱いのですよ」「え?」「信じられないでしょうが、アイスキャンデーなど口にすると、キャッと叫んでとびあがります。そのくせ、舌がやけどしそうな熱いものは平気です」「…」「食べものだけじゃありません。皮膚感覚そのものが、そのようになっているのですよ。氷が持てない。その代わり、グラグラたぎっている鍋がつかめるのです」「うーん。暑い国だから…」「キリマンジェロのような、高い山にしか氷や雪がない国ですからね。子供の頃から冷たいという感覚がないんですね」「なるほど、なるほど」これもまた、びっくりさせられたことであった。「モスクワっ子は、アイスクリームが大好きだと聞いていますが、あれは、寒い国に住んでいるからなのですね」「でしょうね」Fさんは頷き、「アフリカでは、ビールを暖かいまま持ってきますからね。最近では、日本人も増え、ビールは冷やしてと注文するものですから、やっとどうにか、冷たいビールが飲めるようになりましたがね」「じゃ、将来、日本酒が流行(はや)るようになるかも知れませんね。ウイスキーのオンザロックよりも日本酒の熱カンの方が、こちらの人の口に合うかも知れない」「それはまったくそうでしょうね」Fさんが保証してくれた。(「ムツゴロウの雑食日記」 畑正憲) 


冷やとお燗
味の成分、甘酸苦渋はそれぞれ温度によって感度が違います。たとえば、甘味は体温くらいの35℃あたりがもっとも感じやすく、冷たいと鈍くなります。酸味は温度にあまり影響されませんが、苦味は温度が低い方が感じやすとされています。香りは揮発成分ですから、温度が高い方が揮発量が多くなり感じやすくなります。そこで、香りでは重点をおく吟醸酒は温度が高いと香りを強く感じすぎ、低温では甘味感が押さえられ酸味のフレッシュ感が出てくることから、吟醸酒や生酒は冷やがよいことになります。酸味のきいたやや辛口で、秋冷期の熟成香のある酒は燗酒で飲むと、やや甘味を感じ、酸味感が抑えられ、落ちついた風味を感じます。戦前タイプの酒が燗酒で飲まれたのも分かるような気がします。(「お酒おもしろノート」 国税庁鑑定企画官監修) 正統的な解説です。 


橘 直幹
ところで、まん中のくびれたヒョウタンはユウガオの一変種だが、標準和名にもなっているこの名は日本人の思い違いの産物だ。漢字で書けば瓢箪、瓢はつくりは瓜でユウガオのこと、日本の古語のひさごでこれはよろしい。だが箪はたけかんむりで、弁当箱のようなごはんの器である。その出典は『論語』の雍也(ようや)編の孔子が愛弟子の顔淵(回)を讃えた言葉だ。「賢なりかな回や。一箪の食(し)、一瓢の飲、陋巷(ろうこう)に在り」である。竹を編んだ器の飯とひさごの椀の飲みものであばら家暮らしをしながら、道を楽しんでいる、偉い男だというわけ。ところが思い違いのもとを作ったのは平安時代の文人官僚の橘直幹(たちばなのなおもと)の「直幹申文」である。『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』に収められ、『和漢朗詠集』で有名になった貧乏暮らしを述べたその一節には「瓢箪しばしば空し、草(くさ)顔淵の巷(ちまた)に滋(しげ)し」とあって、『平家物語』の「大原御幸の事」にも引かれている。この「瓢箪しばしば空し」は飲みもの(瓢に入れる)、食べもの(箪に入れる)にもしばしばこと欠いたという意味なのだが、いつのまにか瓢箪の二字が一緒になってユウガオの実、それもまん中がくびれた一種のことになってしまったのである。この間違いは学者の間では古くから気づかれており、江戸中期の本草学者、寺島良安は、その大著『和漢三才図會』(正徳三=一七一二)で「ユウガオの実の中身を除いて器としたのが瓢、竹を編んで飯を盛る器が箪、一箪の食、一瓢の飲とはこの二物である。しかるに俗に苦瓢(ヒョウタン)を瓢箪というのは誤りである」と説いている。だが一度広がった誤解には抗しがたくヒョウタンの呼び名は標準和名としての市民権まで確立してしまったのである。(「食卓の博物誌」吉田豊) 



濁りかん酒
弘化二年(一八四五)二月には、博奕の流行、女髪結などの出現があり、召し捕りとなった。水野が辞職願いを出したのは、二月十九日であったが、すでに十七日には「何故哉(なぜか)此節世上にて御改革は最早(もはや)相弛(ゆる)」むとの声が市中に広まっていた。町奉行所の与力・同心による風俗・物価などの探索にもかかわらず、三月下旬には「東辻君(あずまつじぎみ)花の名寄(なよせ)」という夜鷹の出現場所一覧(場所付細見)が売り出され、人気を集めた。これには女性の年齢・善悪のマークなども記されている。その近辺では「夜鷹蕎麦(よたかそば)・茶めし・あんかけ豆腐・酢(すし)・おでん・濁りかん酒」なども大繁盛であったという。寄席も数百軒となったが、客が少なくつぶれる席も多く「百日ぜき」とよばれた。十月には深川に「すわり夜鷹」という岡場所の復活を思わせる遊女もあらわれたが、三日間営業して取り払いとなった。(「江戸の情報屋」 吉原健一郎) 藤岡屋日記に記された、水野忠邦による寛政の改革末期の様子だそうです。 


正宗白鳥のこと
私は正宗白鳥という人は岡山の人だから、きっと、灘の銘酒の醸造元の菊正宗の長男で、小説など書いたので家を追い出されて弟さんかなにかが家の跡をついで、自分は東京に来ているヒトだと思いました。念のために、「センセイは、菊正宗の、灘の菊正宗の本家の御長男ではないですか」とききますと、「ボクは知らんな−」というのでガッカリしてしまいました。また、お宅は洗足池のすぐ近くなのでお庭の中に洗足池から水をひいた池があって白鳥が泳いでいると思っていましたが、そんなところもありませんでした。私の想像していることは、みんなはずれてしまうのです。(「余録の人生」 深沢七郎) 「正宗白鳥という人がありました。私の小説がはじめて出たときホメてくれたのです」ともあります。 


疲労宴
夫方の家に嫁が入り、そこで行われる盃事の中心は、新郎と新婦の夫婦盃と新郎の両親と嫁との親子盃といった固めの盃で、三を吉数とし、三を重ねためでたい縁起として、三つの組の重ね盃で、三度ずつ三回盃を献酬した。三三九度である。披露宴に移る前に、参列者一同に盃が右回りに回され、次にその盃で婿の両親と嫁の間で「親子名乗りの盃」が執り行われると、いよいよ披露宴の宴となった。その後はだいたいが夜を徹しての祝宴が張られたわけで、この二日にわたる盃事を中心としたセレモニーで、新郎新婦の疲労度は極限に達するものであったようだ。当時の新郎新婦の中には、きっと「こりゃ披露宴じゃなくて疲労宴だわ」などと不謹慎なことを小声で語り合っていたカップルもあったことだろう。酒宴が終わって客が帰る際も、退出する嫁側の同行者には草鞋酒と称して、大きな盃で二盃以上の酒を飲ませたりした。(「食に知恵あり」 小泉武夫) 決め酒、お立ち酒、敷居酒 の続きです。 


諸白を飲みやれ
▲二人 千石の米ほね、萬石の米ほね、目近(めぢか)に持つて参つた。これこれ御覧候へ。げにもさあり。やよ、げにもさうよのげにもさうよの。 これを繰返し囃(はや)すなり。 ▲シテ 扨(さて)も扨も、面白可笑(おか)しい事かな。太郎冠者、次郎冠者めが、都でしたゝか騙(だま)されてうせて、囃子(はやし)「(はやし)物し来る。身共が機嫌を直さうという事であらう。これは出ずばなるまい。いかにやいかにや、太郎冠者、次郎冠者もよく聞け。千石の米をも、萬石の米をも、蔵にどうと納めて、鰌(どぢやう)の鮨を頬張(ほゝば)つて、諸白(もろはく)を飲みやれ。 ▲二人 目近に持つて参つた。これこれ御覧候へ。 ▲シテ 何かの事はいるまい。こちへつゝと持込め。 ▲皆 げにもさあり。やよ、げにもさうよのげにもさうよの。ひやろひやろ、ほつぱい、ひやろ、ひい。(「狂言記」) シテの大名に言いつかって、太郎冠者と次郎冠者が都へ身近籠骨を買いに行き、騙されて帰ってきます。騙した人から教わった囃子を二人でしたところ、大名は機嫌を直し二人に諸白を勧めます。狂言の擬音は面白く、お寺の鉦は、くわくわ、鐘は、じゃもう、きつねは、くわいくわい、犬は、びよびよ、ふくろうは、ぼろおん、鬼はわんわんといった具合です。 


古田敦也
それにしても昨年、首位打者をとった翌日すぐに私の昼のラジオに生でゲスト出演してくれたことがあるのだが、その時の酒くさかったこと。きっと朝まで勝利の美酒に酔っていたのだろう。生放送を10分遅刻してゼェゼェいいながらスタジオへ飛び込んできた時の、あの笑顔と酒くささを私は生涯忘れない。今年もうまい酒をタップリ呑ませてやりたいものだ。12時半に出番が終わった古田捕手、てっきりもう次の曲へ行ったものだとばかり思っていたら、私がしゃべり終わる1時までスタジオの外で待っていてキチンとあいさつにやってきた。「先程は遅刻して申し訳ありませんでした。来年もヤクルトスワローズ、応援よろしく御願いします」(「寄せ鍋人物図鑑 古田敦也」 高田文夫) 


学徒出陣実況中継
昭和十八年、神宮競技場での雨中の学徒出陣は、志村さんの名放送として名高いが、御本人の話によれば、本番五分前に、二日酔いの和田信賢(のぶかた)アナウンサーに頼まれ、とっさの代役で仕方なく、「東京帝国大学、早稲田大学、慶応大学、明治大学…」と、七十校余りの校名を片っぱしから読んだだけとか。これも、ハンドルの遊びなのだろう。(平成10年9月号)(「天衣無縫の人々」 山川静夫) 


漱石の酒
私はそんなことすっかり忘れてしまっておりますが、これも長谷川さんにうかがったところによりますと、なんでも晩御飯の時に、お猪口にいっぱいずつ酒がでたそうです。それがどういうつもりかたった一ぱいで、呑める長谷川さんのほうでは、手もなく呑んでしまわれて、飲ませてくれるならいっそ堪能するくらい飲ましてくれればいいのに、胸糞の悪いくらいに思って、けろりとしてらっしゃるのに、夏目はそれ一ぱいをのむのに小鳥が水をのむようにチビチビやっているのでなかなかなくならず、そうしてそれだけで赤い顔をしたりしてたそうです。それから私が主人だと思ってわざと肴の尻尾(しっぽ)をつけようものなら「尻尾は長谷川につけろ」てんで、いつも頭のほうを主張したそうです。そういえばこの肴のことはうろ覚えに覚えています。(「
漱石の思い出」 夏目鏡子 述) 長谷川貞一郎は五高の歴史の先生で、熊本時代の話だそうです。 


おでん燗酒
四谷見附の御堀端で、中間二人が「馬方蕎麦」がきたら食べたいものだといっているところへ揚幕のなかで、「おでん燗酒、甘いと辛い」という呼び声が聞こえて、富蔵のおでん屋が花道へ登場する。これがおでん屋の売り声である。「甘いと辛い」というのは、「甘い」が煮込みおでんで、「辛い」が味噌をつけた田楽である。本舞台の中間二人に富蔵は、「辛い」のと燗酒を出す。田楽はこんにゃくか芋で、味噌は、永代橋の「乳熊(ちくま)」で仕込んだという。中間が「味噌は乳熊にかぎるなう」といって、田楽が、味噌の味一つできまることを暗示している。(「芝居の食卓」 渡辺保) 「四千両小判梅葉(しせんりょうこばんのうめのは)」序幕の四谷見附御門外堀端の場で、富蔵は、千代田城の御金蔵やぶりの探りを入れるためにおでん屋になっているのだそうです。 お燗 


一般人名語録(2)
「お座敷に出るとき、パーティーに行くとき、一杯いただいてからまいりますの。そのほうが、艶っぽくなりますでしょ。着く時間を逆算して、えェ、ちょっと、いただきますの」
「五臓六腑にビールがしみわたるなら、五臓六腑を固有名詞で言ってみな。…言えないよ、ひとつだけ身体(からだ)にはないものが数えてあるんだから」
「アメリカのウィスキーでいうバーボンは、ブルボン王朝のブルボンです。ジャンヌ・ダルクのオルレアンという地方がありますね。その、ニューオルレアンが、ニューオーリンズですしね」(「一般人名語録」 永六輔) 


山内容堂
容堂は一代の酒客だ。一日に三升という。正味は一升位だったろうともいう。大いに談じながら盃をあげる。しゃべっているので一ぱいでかんが少し冷える。「銚子を持て」というから、それを下げて新しいのを持って来る。かんざましは飲まないから家来たちがこれを頂戴するという訳である。伊丹の剣菱春というのを好んだ。江戸にいて城へ登る時にも三合ほど入る瓢(ひさご)を忘れなかった。この瓢箪の絵を書くのがまた大得意で、勝海舟へ伊豆の下田でやった扇面にもこの絵に添えて「歳酔三百六十回、鯨海酔侯」とある。城へ出てだんまりで一日を過ごして下がって来るような時は酒の瓢をふって、「残っている」といってひどく不機嫌であった。(「よろず覚え帖」 子母澤寛) 鯨海酔侯 「酔って候」 


『落穂事跡考』
ところで、ある時−何年ごろか判っていないが、慶長十年(一六○五)に江戸城修築のため常磐橋内柳町に在った娼家が本誓願寺門前に移転を命ぜられた時に甚右衛門も名をつらねているところから見ると慶長十年よりはずっと以前、おそらく関ヶ原役の後ぐらいだと思われるが−家康がこの辺に鷹狩りに来た。少々つかれ、のどもかわいたので、この鈴ヶ森の娼家に休憩した。まさか鈴は鳴らさなかっただろうが、『落穂事跡考』には、「神君、此所の浜辺に牀机(しょうぎ)を置かせられ、夫(それ)に坐し給ひ、彼(か)の遊女どもに茶をはこばせ、召し上がられ、且つまたシャレコウベ(頭蓋骨)の盃にて御酒召し上がられ候こと御座候。其後、右廿五人の者共、御願い申し、今の京橋具足町(ぐそくまち)の東、葦沼(あしぬま)の汐入を拝領し築立候」とあり、ここが旧吉原になった、としている。(「江戸城」 戸川幸夫) 庄司甚右衛門の建言で吉原ができたという話の一つだそうです。


酔漢の迷惑な行為
一九八七年一月二十九日朝日新聞の「声」の欄に、暴力に正義感をもってたちむかい怪我をした気の毒な話がでていた。酔漢にからまれている女の人を助けようと、そのよっぱらいを制して怪我をさせられても、見て見ぬふりをする人が多いことがよく問題になる。かと思うと、女性をかばってよっぱらいを突き飛ばしたところへ電車がはいってきてひかれでもすると、正義感には一転して過失致死の疑いがかかる。また、「いじめ」られた窮鼠が猫を噛むように復讐しても、何等かの罪に問われるらしい。このところは釈然としないが、かりにその復讐を快挙として美化すると、そのまた復讐がなりたって終ることがない。だから刑法というものがあって復讐を代行するかたちをとっているのであろう。私刑をさせないためには、法が迅速的確に機能してくれないといけない。「見て見ぬふりをしないこと」と私刑は、ちがうようで似ているところがあるから気になるのである。酔漢の迷惑な行為や”いじめ”をやめぬものを保護するために復讐がとがめられるわけではない。弱いものをいじめるものは、「いつか復讐されることがあっても止むを得ない」ことを覚悟したうえでやらねばなるまい。(「算私語録」 安野光雅) 


泣き上戸
泣き上戸というのがある。実は、ぼくは十年前ぐらいは、泣き上戸だった。お酒を飲むと、やたらに泣いた。泣く、というのは、なかなか気持ちのよいものなのである。ひとしきり泣いたあとに、泣きじゃくりというのが残る。地震の揺りかえしみたいなもので、本震が治まったあとも、これが断続的に襲ってくるのである。この、泣きじゃくりもまた、とても気持がよいのである。感情の嵐が吹き過ぎたあと、バーの片隅で、みんなの軽蔑の視線を浴びながら、静かな、安らかな、すこし暖かい気持になって、カウンターに溜った水たまりを、指先でいじっていたりすると、突如この揺りかえしならぬ泣きかえしが襲ってくるのである。しばらくこの泣きじゃくりに身をゆだねていると、再び感情が高ぶってきて、またワーッと声をあげることもある。泣く原因というのは、これはもう全く瑣細なことで、泣くために泣くのであるから、もうなんだっていいのである。(「ショージ君のコラムで一杯」 東海林さだお) 


「さしつさされつ」と「飲みさし」
燃えさし 燃え残りのこと。途中で燃えるのを止めたものだから、漢字で書けば「燃え差し」ではなく「燃え止し」。「さしつさされつ」は、「差し」だが、「飲みさしの酒」は「止し」だ。常用漢字表では「止」の訓は「とめる」だけしか認められていないので、新聞などでは、仮名で書いている。「さし(さす)」は、動作を中止することを表す。単独では用いられず、ほかの動詞の連用形に添えて使う。「読みさし」は、読みかけで読了はしていない段階。「花はほのかに開けさしつつ、をかしき程の匂(におい)なり」(源氏物語 幻)は、わずかに咲きかけた美しさを描写している。(「日本語「ひめくり」一日一語 第2集 読売新聞校閲部) 


「酒中花」
隠れ咲く酒中花垣間見てしより
縁紅の酒中花にしばし息をのむ
たおやかに酒中花われをとりことす 風太−
ひと目見た瞬間、わたしは心臓をぎゅっと掴まれたような気がして、思わずハッと息をのんだ。中輪より小さめで半八重の牡丹咲き、白の花びらは刺繍でもしたようにエレガントな紅色に縁どられている。その道では紅覆輪(べにふくりん)という。紅がにじんだように細かい粉を散らし、あるいは繊(かぼそ)い筋のはいった花びらもある。開きかけた蕾(つぼみ)は、これまた紅の細い毛糸でかがったような縁が、ぶっちがいの重ね合わせになって何ともいえず可憐である。花の形といい彩りといい枝打ちまでが、数ある椿の中でも並ぶもののない雅(みやびやか)さである。アザレア(西洋つつじ)にも白の紅覆輪があり、花菖蒲にも「長生殿」という葡萄(えび)覆輪の花があるが、覆輪が太めで俗っぽく、到底わが恋人の足もとにもよらぬ。−
さて、恋いこがれた恋人の名は「酒中花」。(随想 酒中花」 杉村武) 


アンダーソンとヘミングウェイ、十返舎一九
 シャーウッド・アンダーソンがパリに来たときいて、アーネスト・ヘミングワイは彼の宿舎に出かけて行った。その結果をヘミングウェイは「二人は楽しい時を過ごした」と知人にいい、アンダーソンは、「アーネストはやって来て、『酒を飲みに行こう』と誘ってくれたが、二、三分話しているうちに、急に帰っていたよ。きっと彼は考えごとにふけっていたんだろう」
 十返舎一九がなじみの質屋に来、「これを質草に金を貸してれ」と風呂敷包みを出した。質屋は金を貸したが、一九が帰ったのち、風呂敷を開けてみると、酒屋、米屋、炭屋その他の勘定書と、借金の督促状ばかり。質屋はあわてて一九のところへ行き、「あまりにひどい。金を返して下さい」というと、「もう使ってしまったから返せぬ。初がつおを買ったんだ。『借金を質においても…』というじゃないか。お前も食ってけ」これには質屋も怒れず、いっしょに食べて飲んだ。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


コニャックの匂い
九段坂病院は二十四時間の看護体制だが、この種の手術の患者には、よく幻覚症状が起きるそうで、そのために家族が一晩中同室してもよいというようになっていた。夜になったらしい。何か強烈な臭いが鼻に入ってきた。ときどき酸素にかえて、痰を出やすくする不快な臭いの吸入器が鼻に当てられるが、それとは違う。もっと不愉快ないやな臭いだ。「なんだ、それは?」でない声を無理に出した。部屋のどこかで、「コニャックよ」とつれあいが言った。これもまた方角が分からない。「そんなものやめちゃえ」「こんなものでも飲まなきゃ、こんな所にいられないわよ」ガブガブ飲んでいるのではないだろうが、こういう状態の体には、コニャックの匂いがこんなにも強烈で不愉快だとは、想像もしていなかった。(「九段坂から」 岩城宏之) 頸椎後縦靱帯骨化症という病気で大手術をした後の、首を固定した状態での体験だそうです。 


下駄の履き違え
それから後は数年間、「竹の会」という「早稲田文学」の会で谷崎(精二)さんを中心に毎月のように尾崎(一雄)君に会った。この会に出ると、ときどき外村君が下駄を片方に取り違えて履いて行く。尾崎君も二度ほど取り違えて行ったことがある。もしかしたら私がその元凶であったかもわからない。外村君が間違ったときにはすぐまた別の会を催して、云わず語らずのうちに相手の忘れた下駄に取り換えて来る。尾崎君の場合は二度まで手紙で打ち合わせ、一杯屋へお互いに履き換えに行った。(「下曾我の御隠居」 井伏鱒二) 


華燭の典…
まづドイツ文学の高橋義孝さんのもの。
「I君は非常に優秀な青年で、かういふ男はぜひ、いいお嫁さんを世話したいな、とかねがね思つてゐました。ところが先日、手紙をもらつてびつくりしたんです。わたしのさういふ意向を無視して、独断専行、結婚するというぢやありませんか。わたしはすつかりヘソを曲げて、勝手にしろ、と心のなかでつぶやいたんです。腹立ちまぎれに、どうせろくでもない女と結婚するんだらう、なんて考へました。ところが、今日ここに参りまして、お嫁さんがきれいなのでまたびつくりし、予想がはづれたことにいよいよ不機嫌になつて、仕方ないからお酒をガブガブいただいておりますが、残念なことに、このお酒がまたたいへん結構なので、ますます機嫌が悪くなつてをります」(「男のポケット」 丸谷才一) 


今日出海のラジオ出演
今と違って、狭い部屋で、前列にセリフの多い連中が腰を掛け、セリフの少ない連中は後列にくッつくようにして立っていた。今日出海はセリフが一ト言か二タ言しかないので、部屋のスミに椅子をもらってそれに跨(また)がって、モタレに両手を載せてグッタリとそれへアゴを載せていた。放送が始まった。すると、我々のセリフの間を縫って、イビキが聞こえ始めた。言うまでもなく、我々のセリフを子守唄にして、今が心地よげに華胥(かしょ)の国へ遊びに行っているのだ。今でも、一緒に旅行すると、だれも今と一緒の部屋に寝るものはいない。そのくらい見事なイビキをかく。困ったことに、今は受け持ちのセリフがだんだん近付いてきた。なんとか聴衆に醜態を分からせないように起こさなければいけない。どうしたものかと気を使っていると、川口がつと立ち上がって、足音を忍ばせて今の傍へ寄って行った。が、マイクロホンが耳を「奇攴」(そばだ)てている以上、口を利くわけには行かない。黙って、肩に手を掛けて軽く揺すぶった。それで、酔眼を朦朧と見開いたまではよかったが、さすがにハッと自分の置かれた境遇を意識したのだろう。今はイキナリ椅子から立ち上がった。が、それがいけなかった。クラクラと脳貧血を起こして、バッタリそこへ倒れてしまった。(「食いしん坊」 小島政二郎)十三の星ガ岡茶寮で大酔した後、ラジオの「ドモ又の死」に出演した今日出海のエピソードだそうです。 


サンセール
サンセールのワインはいわゆるボーン・ドライ。骨(ボーン)までからからになるという意味かどうかはわからないが、極辛口の部類に入る。きりっとして、さっぱりしたワインである。さりとて肋骨が洗濯板−今やヤングは知らないか−のように見えるくらい痩せてガリガリというのではなくて、筋肉質の酒肉はきっちりついているから、ミュスカデより飲みごたえがある。基本的にはフレッシュ・アンド・フルーティーな辛口ワインだが、フラットとか凡庸なものになることが少ない。したたかな酸がしかりしたバックボーンになっているからだろう。きわだっているのがその香りで、それがお隣のフュメと区別する手がかりになる。カシスやツゲのにおいがするとか、チュベローズの香りがするという人もいるし、アカシアやエニシダの香りにたとえる人もいる。残念ながら、私は月下香(チュベローズ)なる香りはあまりよく知らないし、アカシアの香りも何回かしか嗅ぐ機会がなかったし(日本に生えているのはニセアカシアで、本物のアカシアではない)、エニシダといわれても面食らうだけだが、とにかくサンセールが特有な香りを持っていることくらいはわかる。サンセールには大きな醸造元はなく、ほとんど中小零細メーカーである。総面積二○○○ヘクタール、年生産量も一○万ヘクトットルくらいである。ミュスカデの二割くらいにしかならない。絶対的な生産量が少ないためか、幸いなことに今のところミュスカデのようにネゴシャンにそう荒らされていない。というよりは、ここの農家は誇り高いところが多く、たとえわずかな量でも自分で出荷したくて、ネゴシャンに売るのをいさぎよしとしないのだ。(「フランスワイン 愉しいライバル物語」 山本博) 


「酒樽」
あくる日亭主はマグロワール婆さんの中庭へ馬車を乗り入れると、鉄の箍(たが)を嵌めた小さな樽を馬車の奥から引き出した。そして中身が前日と同じ上等品であることを証拠立てるために、老婆に味を見させようとした。めいめいが更に三杯を重ねたとき、シコはかういいながら帰つていつた。「それでだね、これがなくなつてもまだほかにあるからね、遠慮は入らんよ。しみつたれたことはいわんから。早くなくなればなくなるほど嬉しいというものさ。」そういつてシコどんは馬車に乗つた。四日たつとまたやってきた。老婆は入口の前でスープのパンを切つてゐた。シコは近づいて挨拶すると、相手の息を嗅ぐために、近々と顔を寄せて話をした。アルコールがプンと匂つた。するとシコどんの顔が輝いた。「一杯御馳走してくれるかね?」そして二人は二三度乾杯した。しかしやがてマグロワール婆さんが、相手もいないのにひとりで酒びたりになつてゐるといふ噂がその辺一帯にひろがつた。度々台所や中庭や近くの往来で酔ひつぶれてゐるところを見つけられたが、そのたびにまるで死人のやうに正体のないのを、家まで擔ぎ込まなければならなかつた。シコはもう婆さんのところへ寄りつかなくなつた。そして婆さんの噂でも出ると、顔を曇らせて呟くのだつた。「あの歳でさ、あんな癖がつくなんて気の毒なことぢやねえか。おまけに歳を取つてるちうと、もうどうにも治しやうがねえからな。いずれ仕舞ひにや碌(ろく)なことにやなるめえぜ!」まつたtく碌なことにはならなかつた。冬になつてクリスマスの頃、したたかに酔つたまま雪のなかに倒れて、そのまま死んでしまつた。そこでシコどんは婆さんの地所を相続した。彼はこんなことをいつた。「阿呆な婆で、飲みさえしなけりあ、もう十年は生きられたのに。」(「酒樽」 モーパッサン) 樽の中身は極上の火酒(フイランヂス)だそうです。


雷電の酒
私個人としては雷電の顔、ヒジョーに好きですね。彼については楽しいエピソードがいっぱいあり、たおえば、お酒を二斗(三十六リットル)ペロッと呑み、鼻歌を歌ってユーゼンと帰っていったというのが、マア眉ツバもんですが似合っています。あとは彼は大変なフェミニストで、小娘が彼の胸をちょんと突っついたら、大げさにズデーンとひっくり返ってしまったとか、映画『007』のジョーズと金髪のおさげ少女のようで、こんな話、いいですね。(「一日江戸人」 杉浦日向子)


内田屋
外神田の和泉町に、四方の店と呼ばれる酒屋があった。ここの名物が、これも江戸地酒の「瀧水(たきすい)」である。古川柳にも取り上げられ、 瀧水を 升(ます)で量るは 和泉町  四方の瀧 飲めども尽きぬ 和泉町 と「瀧水」の評判がしのばれる。四方の店は、内田屋とも言い、伊丹から送られてくる「剣菱」の販売元にもなっていた。摂津国伊丹は諸白の本場である。剣菱は、平成の今日でも名酒として知られているが、江戸時代、内田屋が取り扱っていたのである。 すき腹に 剣菱 えぐるようにきき  剣菱を 墓へかけたき 呑み仲間(「江戸風流『酔っぱらい』ばなし」 堀和久) 四方九兵衛 江戸で有名な酒銘


たらちね
「あーら、わが君、あーら、わが君…」
「おやおや、またはじまった。ねむれやしねえや…しょうがねえなあ。なんべんもなんべんもわが君って、いってえ、こんどはなんの用ですい?」
「もはや日も東天に出現ましまさば、御衣(ぎょい)になって、うがい手洗(ちょうず)に身をきよめ、神仏仏前にみあかしをささげられ、看経(かんきん)ののち、ごはんめしあがって、しかるべく存じたてまつる、恐惶謹言(きょうこうきんげん)」
「おい、おどかしちゃいけないよ。めしを食うのが恐惶謹言なら、酒を飲むのは、よってくだんのごとしか」(「古典落語」 興津要編) おなじみの落語たらちねのおちの部分です。


利きラーメンと利き酒
お酒の品評会では、利き酒といって、お酒を口に含んで、ぺっと吐き出してしまう。飲んだら酔っぱらってしまうからである。それで、ラーメンも同じよーに、「利きラーメンとゆーのが必要である。バケツを用意してくだされ」と頼んだ。さっそくバケツが用意されて、そーすると、村上先生のお孫さんが、バケツの横を走りまわったりしだした。で、最初は、ラーメンを一口含んで、バケツに、「ペエッ」とやっていたが、すこしたまってくると、なんだかゴムヒモみたいなものがバケツの底にいるように見えて、非常に見苦しいうえ、お孫さんの教育上からも、一本ずつ食べよう、とゆーことになった。ところで、「中華三昧」が、なぜ意見が分かれたかとゆーと、じつは、評判はすごく良かった。メンがピーンとしていて、うまい。けれど、私は一二○円とゆー高い値段に反感があったので、もうそれだけで、どうにかして悪いところを見つけてやるもんねという感情がさきばしってしまったのだった。そのうち、ハッと気づいたのは、やっぱりメンを一本ずつ食べていくとゆー審査方法に問題があるんじゃないか、とゆーことである。「中華三昧」のメンは、あれをかたうでしたやつをドンブリ一杯食べてしまったら、ワゴムを噛み続けるよーで、最後にはアゴが疲れてしまうのではあるまいか。同じようなことは、酒の品評会でもいえるのではあるまいか。口に含んで、ぺっと吐き出しておいしい酒と、じっさいに飲み込んで、二杯、三杯と飲み、酔うほどにうまくなる酒とは、本質的にうまさが違うんじゃないか、とゆー気がするのである。(「新随想フツーの血祭り」 嵐山光三郎)


パンの会参加記
やがて食卓につき、酒はたしか、壜詰めのまま燗した日本酒やビールだったと思うが、忽ちの破れ返るような騒ぎになり、続いて酔漢(よっぱらい)続出した。坂本紅蓮洞(ぐれんどう)、伊上凡骨といった連中が、意味もなく、ただ感激に任せて、ウォー、ウォーと、文字通り獅子吼(ししく)しながら、そこら歩き廻るのが、馴れない身にはもの凄かった。永井荷風氏など、たぶんこれに恐れをなしたのだろう、いち早く姿を消した。頬を真赤にほてらせた小宮豊隆氏は、芳町の雛妓(おしゃく)を膝に乗せて、ニコニコニコニコ一人で嬉しそうだった。ルンプという、大学の教室でも見かけた独逸の青年もいたような気がする。谷崎、吉井、長田(秀雄)などの諸氏は、若手ながらも、相当自由闊達に振舞い、いい機嫌になっていたが、我々『白樺』の二人は、堅くなったきりで、遂に酔いそびれてしまい、手持ち無沙汰に帰ろうとすると、階段の途中に、柳敬助氏がうずくまって、頻りと苦しがっていた。暫く背中なかをさすったりしていてから、沙鴎と二人でおもてへ出ると、急に放たれたような気持になり、飲み足りなかった酒のつぎたしに、どこかへ廻った。…時に私は二十三、会衆中の最年少者だったかも知れない。(「里見ク随筆集」 紅野敏郎編) パンの会の歌 


月・水・金と火・木・土
「酒は、めったに飲まない。飲むのは、月・水・金と火・木・土だけだ」というのが、バカの一つ覚えみたいな、わたしの冗談である。そう言うと「じゃあ、日曜日は?」と訊く人がいるが、日曜は、週にいっぺんしか飲まない。−
酒はケンカを売ったり、女を口説いたりするために飲むものではない。そんなことをしたら、酒に申しわけない。あれは、あくまでも酔いざましの水を飲むために飲むものだ。(「ことわざ雨彦流」 青木雨彦)


牡山羊と葡萄の樹
葡萄の樹が芽を出す頃、牡山羊(おすやぎ)がその芽を食べていました。葡萄の樹は牡山羊に向かって「何故(なぜ)私を傷つけるのですか、多分若草が無いのでしょうね。傷つけられても、やはりあなたが生贄(いけにえ)にされるとき人々の必要とするだけの酒は差し上げますよ。」と言いました。この物語は、恩知らずで友人たちのものを詐取するしようとする者を咎めるのです。(「イソップ寓話集」 山本光雄訳)


年上の門人
この辺は当時ものすごく淋しいところで、書簡集の明治二十五年の項に、 栗の飛ぶ外に音無し庵の夜 の一句が記されている。その落ちた栗を翌朝拾って当時親しかった賀古鶴所(かこつるど)に届けたこともある。寂しすぎると婆やが逃げたあと、露伴の最初の門人、といっても露伴より年上の滝沢慎八郎が居候していた。号を羅文といい、根津の大きな酒屋相模屋の息子で、剣術をよくし、無縁の墓を掃除し、露伴と酒を酌んでも羅文の方が強かった。朝は師匠の露伴の方が先に起きて、たすき掛けで飯を炊いた。羅文は平気であった。ときどき根津の実家から昼食が届いた。(「露伴が谷中にいた頃−五重塔の話」 森まゆみ) 天王寺町二十一番地谷中長安寺前だそうで、解説板があるはずです。


インドとソビエトの国境
割合にすいている機内から、私はインドの上空独特の、もやとも砂塵ともつかないもうもうとした煙の下にかすんで行くインドを見つめていた。気がつくと、続さんが機内の通路をあわただしく走りはじめていた。他のスチュワーデスも急に顔色をいきいきとさせていた。国境の上空を通過したのだ。ソビエト領内に入ったのである。ということは、機内で酒を売ることができるらしいのだ。私は宗教的戒律の厳しさが、こんなところにまで影響しているとは知らなかった。オンザロックのダブルを注文すると、続さんは、さっきベジタリアンか聞いて回っていた時とは全く違った明るい表情で、まるで日本の女性がコーヒー茶碗を持つ時のように、小指をちょっと色っぽく曲げた手つきでグラスを渡してくれた。やはり、国を出ると開放された気分になるのは、どこの人も同じであるらしかった。私は妙なところに共通の存在感を覚えて、異国の空で心が温まった。(「ビックマン愚行録」 鈴木健二) 昭和52年発行のものだそうです。


井伏の甲州疎開
河盛 最初行かれたのも釣りのためですか。
井伏 そうです。宿も東洋館というところばっかり泊まっていましたが、戦争でシンガポールに行って来てからは、梅ヶ枝という宿へ行くようになりました。戦争中、甲府市外へ一年疎開しているときも、一週間のうち三日や四日は梅ヶ枝という宿へ行っていました。そして太宰(治)君、野沢純君などと飲んでいたんです。宿屋の帳場で。そこへ行くとヨッちゃんという、三十年勤続の女中がスペシャルという白ブドウ酒を一人に一本ずつ…商売ですけれども。とてもそんなもの普通手にはいらない。それからタバコも、そこのおかみさんの生家は桜桃つくっているんで、鉄砲虫を駆除するために、長年のお客のタバコの吸いがらを集めてカマスに入れていた。それをヨッちゃんが灰ふるいでカマスから出してきてくれる。それを僕たちは長ギセルで喫う。キセルで吸殻を喫うことは、昔の不良青年の言葉でゴウケツをやるというんですね。ゴウケツやってたら、一年間にカマス二俵吸った、太宰君と野沢君と僕と三人で(笑)。
河盛 甲州はお酒はどうですか。
井伏 地酒のいいのがありますよ。富水という逸品があった。それからサド屋の白ブドウ酒、これはいいものですね。(「井伏鱒二随聞」 河盛好蔵)


升(ます)
江戸時代、量目不正の升を作るとその罪、獄門。たとえ量に不足はなくとも、許しなく升を作っただけでも中追放。獄門とは、打ち首の上その首を台の上に三日二夜晒すという死罪の中でも酷刑だし、中追放といったところで、武蔵、山城、摂津、和泉,大和、肥前、甲斐、駿河の諸国と東海道、中仙道、日光道の街道筋への立入禁止だから、これも身の置きどころもない厳しさ。要するに、幕府は升の統一と専売を徹底させたかったのである。升座、すなわち京都の福井作左衛門と江戸の樽屋藤左衛門を指定メーカーにし、ここで製造され検印のあるもの以外はいっさい禁止、終始貫かれた大方針だった。両升座には、無検印の升の摘発もやらせている。いわゆる「升改め」。東三十三カ国は樽屋藤左衛門家が回って不正升を調べる。貨幣でさえも諸藩に藩札の発行を許して来たのだから、まさに通貨以上の厳しさというべきである。(「道具が証言する江戸の暮らし」 前川久太郎)


徂徠の漢詩
澄江(ちょうこう)風雪夜霏霏(ひひ)たり 一葉(いちよう)双奬(そうしょう)舟飛ぶに似たり 
自ら是れ仙家酒偏(ひとえ)に酔い 人の能(よ)く「炎リ」渓(せんけい)より帰ると道(い)う無し
雪が降りしきる夜、二挺立ての猪牙舟が一艘、吉原遊郭を目指して飛ぶように急ぐ。猪牙舟は、快速を売りものとする小ぶりの舟で、もっぱら遊所通いに使われた。その呼び名は、創始者の長吉に由来するとも、舳先の形が猪の牙に似るからともいう。遊里で客は、酒にすっかり酔い痴れてしまい、「今日はもうこれで帰ろう」などという者はあらわれまい。この詩は、晋の王徽之の故事をふまえている。王徽之は、月見の独酌を楽しんでいるとき、ふと「炎リ」渓に居る友人を思い出し、小舟に乗って訪ねたが、その門まで来ながら、気持は充たされたからと会わずに引き返したという。その世界では、あまりのめり込むことなく、あっさりと奇麗に遊ぶのが通人といわれる。それでは、王徽之を引き合いにだしている徂徠は、その世界に通じていたかというと、そうではなかったようだ。金華が、徂徠に供して隅田川に遊んだとき、からかうつもりで、「吉原はこの近くと聞きおよんでおりますが、どの辺りでございましょうや」と徂徠に問うたところ、向島の方を指して、「あの堤を日本堤といい、遊郭はその先にある」と答えるのだった。これはまったく見当違いもはなはだしい。謹厳にして品行方正な徂徠は、吉原を知らない。だが「知らぬ」とはいわない。金華は笑いながら、「先生は文言の上だけでなく、地理のことも妄説をなさいますね」と揚げ足を取り、興じたという。(「江戸諷詠散歩」 秋山忠彌)


和田金神話
荻 ビール神話の嘘だけは言っておかないといけないでしょう。あれは、かつて和田金が牛を一所懸命、特別飼料で育てていたら、ちょうど開高さんみたいな、理想的に横に広がってくれた牛ができたんですって。ところがそれがバタッと倒れた。なんでいかれたか。鼓腹症といって腸の中にガスがたまりすぎたんです。
開高 腸満腹や、早く言えば。
荻 そこで和田金の会長が、腸が詰まったのをスーッと通すクスリは何か、と考えて、お客さんの残すビールに気がついた。牛に飲ましたらどうや、と…。これが、うまくいった。要するに、鼓腹症を治すのにビールを飲ませたこともある、というのが大きく聞こえて、和田金ではビールを飲まして霜ふりを作っているということになっちゃった。話が全然逆なんですね。今では全然飲ませていないそうです。ただ牛はビール好きの獣ですってサ。(「快食会談」 荻昌弘)


酒は日本酒
此の後の私はどうなつて行くか、−今のところでは、成るたけ支那趣味に反抗しつゝ、やはり時々親の顔が見たいやうな心持で、こっそり其処へ帰つて行くと云ふやうな事を繰り返してゐる。
−私が此れを書いたのは五六年前のことだが、この誘惑は今も変りがないばかりか、却つてだんだん強められ、深められていくのである。子供の時分には刺身よりオムレツがうまかつたのに、今では全然反対である。いつぞや何かに書いたやうに、凡そ食い物のうちで一番まずいのは西洋料理だと思つている。酒も灘五郷の近くにあるせゐか、結局日本酒が一番うまいことになつてしまつた。全体日本人の皮膚の色を考へても、西洋の料理や食卓の器具は何だかしつくりとしない。(「饒舌録」 谷崎潤一郎)


からすぐゎどうふ
あしちびとは何か。これは、豚の脚先の煮込みであって、爪などもその儘(まま)の姿で煮込む。そいつを、丼一杯の飯の上にぶっかけてがつがつと食う美味しさは、実に何とも言いようが無い。その次に好きなのが”からすぐゎどうふ”である。これは、春になると沖縄沿岸に押し寄せて来る、日本で”あいご”と呼んでいる魚の子供を姿の儘塩辛にしたものを、冷たい豆腐の上に載せて食う、清涼料理である。あいごの事を、沖縄ではからすと呼び、その稚魚であるから、縮小名詞であるぐゎを付けて呼ぶ。このぐぁという縮小名詞は、よく使われて、可愛い娘の名前の後にも付けて、例えば、トモちゃんという娘を呼ぶ時は、トモぐゎと言った具合に使われる。さて、そのあいごという魚は、背鰭(せびれ)の第三刺が毒針になっていて、日本内地では、黒鯛釣りなどしている場合、若しあいごが掛かったなら、余程注意しないと危ない。刺されると非道い目に逢う。然し、関西では、この魚を狙う釣りがあって、餌は、酒糟(さけがす)を丸めたものが良いと言う。この魚は、酒呑みなのであろうか。そういう訳ではあるまいが、からすぐゎ豆腐は、酒、ことに沖縄の古酒(泡盛り)によく合う。(「舌の上の散歩」 團伊玖磨) 昭和54年出版です。


小林如泥
出雲国松江(島根県松江市)の小林如泥(じょでい)は細工名人として知られ、「出雲の左甚五郎」と呼ばれていた。宝暦三年一七五三)、大工の子として生まれたが、じつに器用で、茶箱や煙草盆、茶杓など、さまざまなものをつくった。当時の松江藩主は茶人として有名な松平治郷(はるさと、不昧)だが、彼は如泥の細工を高く評価し、天明三年(一七九三)、奥納戸として召し抱えている。その後、如泥は寛政四年(一七九三)、四十歳のとき、譜代格大工となった。如泥はたいそう酒好きで、酔うと泥のようになってしまう。城中でも酔いつぶれたことがあり、それを知った治郷が「如泥」の号をあたえた。細工の腕は非凡だが、相当な変わり者だった。つねに酒をのんでいたから、家計はいつも火の車。酒屋の支払いに困り、小さな亀の彫物を渡したこともある。ところが、大盥(おおだらい)に水を張り、その亀を入れたところ、たちまち亀が泳ぎだした。酒屋は亀を好事家に売ったが、如泥の酒代以上のお金を手にしたという。酒屋にいって立ち飲みするとき、如泥はいつも五枚の板を懐に入れて出かけた。酒屋に着くと、その板を組み立てて枡をつくり、酒を注いでもらう。板がぴったり合っていて、一滴の酒も漏れなかった、と伝えられる。(「大江戸<奇人変人>かわら版」 中江克己)


酔った乞食
普通みてはいやらしい、下品な顔、形、しぐさ、これらのものは、端正だとか、厳粛だとか、そういうものとは正反対なものである。ところが、或る進んだ美感をもつ画家がこれらのものをみる時、露骨なる美人の顔よりはむしろ深い美を感じる。レオナルド・ダ・ビンチが、グロテスクな顔を好んでかき、乞食を酒に酔わせておいて写生した話は有名な話である。この正反対なものを愛するということは、つまり、美が露骨にあらわれているものよりも、そういう醜いようなものによって感じところの美の方が、より深い洞察力によってでなくては見えないところのものであるからである。あらゆる美術家は、通俗さを恐れなければならない。(「岸田劉生随筆集」 酒井忠康編) 劉生調ですね。


ビールにハエ
こんな笑い話がある。これから飲まんとするビールに、ハエが一匹入ったとする。まず英国人だと、静かにワケを話してとりかえさせるだろう。フランス人となると、大袈裟になり、中身を床にこぼすかもしれない。お金を払って飲まないで店を出るのは、スペイン人で、いいかっこうの騎士道を地て行く感じ。ところがドイツ人になると,虫をつまみだして、黙って飲むだろう。ロシア人となると、ハエなどなにくわぬ顔で、そのまま飲んでしまう。ところで中国人となると、このハエをつまみあげ、しばし眺めてから、それを肴にしてビールを飲むという。さすが大人。さて、あなたなら。なに、英国式だって。大いに結構。だが、この英国式の場合はは、往々にしてビールを取りかえると見せかけて、眼のとどかないところで、ハエだけとりだすこと請け合いだ。(「食べものちょっといい話」 やまがたひろゆき)


校正係エラスムスの食事
エラスムスによれば、アルド社では自分の自作の校正、つまり筆者校正だけをしていたのだと言う。だが、実際は、筆者校正の合間に、アルド社出版の古典関係の書物のゲラ校正もさせられた。アルド社には、植字や印刷の職人たちの他に、校正係も常時雇ってあったのである。だが、当代の権威がそばにいるというのに使わないという手はない、とアルドも考えたのであろう。エラスムス自身が書いているように、彼は耳をほじくる暇もないほど”酷使”されたのであった。”酷使”の場所は、快適なホテルの一室などではない。印刷機のまわる音や職人の話し声のワンワンと響く、アルド社の片すみであった。エラスムスによれば、そういうところで仕事する彼に、アルドも、よくこんな場所でできるものだと、感心していたという。これだけでもエラスムスはには、流行作家の資格が充分であったと私は思うけれど。校正係となれば、食事時も、アルドの職人たちと一緒だった。食事は質素で、葡萄酒はしばしば水で薄められ、胃袋のためよりも頭脳のために良いというべきものだったと、エラスムス大先生は苦情を述べている。ただ、アルドのために弁解しておくと、彼は写本を集めるためにはどこへでも出かけ、いくらでも出すという人だったのだ、そのためみ一年間に費う金額は、ヨーロッパ貴族がエラスムスに与える年金の額よりも、時には多かったほどである。(「イタリア遺文」 塩野七生)


黒田征太郎
椎名 酒は強いんでしょう。
黒田 うん、やっぱり強いんでしょうね、飲みますよ。
椎名 朝までいっちゃうでしょう?
黒田 朝まで行きますねえ(笑)
椎名 延べ消費量は一日どれくらいですかね。ビールに換算すると…。
黒田 う−ん、ウィスキーに換算すると、年間少なく見積もって二百五十本くらいは行くかな(笑)。ただ、荒れる酒とかね、ぐちぐちいう酒というのは、ものすごくイヤヤなあと思う。それとかね、よく団体、ダンゴウになってしまって−団体で飲むのは好きなんですよ−帰りたいけどみんなが帰らへんから、とかいうのが嫌いなんです。もう。どこぞでバレてもいい、みんなが勝手に。そういう酒でないと、嫌いでね。(「男たちの真剣おもしろ話」 椎名誠)


のんごろ
「かんじゃく」は鹿児島や宮崎で「倹約」を意味します。「かんじゃくごろ」は、けちんぼうです。−
この言葉で思い出すのが、名だたるけちんぼうとして、鹿児島地方に語り伝えられている、日高山伏という修験者のエピソードです。ある日日高山伏は知人から大きな鯛を贈られました。ところが彼はそれを便所に捨ててしまいました。なぜかと言えば、久しぶりに味わうおいしい鯛に、ついつい米の飯が普段の量を越えてしまうだろうし、また、その後、口がおごって貧しいおかずが口に入らなくなり、ぜいたくになってしまうことをおもんぱかったのです。「かんじゃくごろ」の「ごろ」は、「けちんぼう」の「ぼう」に当たる言葉で、ほかにも、さまざまな言葉の語尾にくっついて使われます。 あさねごろ=朝寝坊。やせごろ=やせっぽち。ふゆっごろ=物事をおっくうがってやらない不精者。いやしごろ=食いしん坊。やせっごろ=何をやらしてもだめな、すぐに弱音をはくダメ人間。はらかきごろ=なにかというとすぐに腹を立てる短気者。のんごろ=飲んべえ。−(かがやく日本語の悪態」 川崎洋)


わっぱ酒
現在では、粟島のわっぱ煮は浜遊びの料理となって観光客にも楽しめるようになったが、もともとは弁当用の料理である。畑仕事、浜仕事に出かけるさい、飯を詰めたわっぱと、サイイレ(菜入れ)とよぶ味噌、漬物を入れた小形のわっぱをたずさえて行き、飯のときになると浜辺で鍋を使わない味噌汁をつくったのである。奈良県の菟田野(うたの)でも山仕事のさいに持参したネギや味噌と水を一緒にメンツウ(面桶)のなかに入れ、たき火でつくった
焼け石を放りこんで味噌汁をつくった、という。わっぱ酒というものを飲んだ。わっぱに酒を入れ、焼石を放りこんで燗をするのだ。わっぱ酒にすると、二級酒が特級酒の味になる、と粟島の男たちはいう。なるほど、焼石の香りが酒に移ってふしぎなうま味がひきだされる。(「食いしん坊の民俗学」 石毛直道)


「父は永遠に悲壮である」
たとえば、文学座にTという俳優がいる。息子さんが成長して、文学座の研究所に入った。それだけでもおそらく父親としてはなんとなく落ちつかない気分だろう。それに息子さんは、稽古のあとなど、遅くまで飲んでくるようになったのである。Tは、自分の昔の体験もあってか、ある夜、酔って帰った息子さんに、「酒と女には気をつけろよ」と忠告したという。息子さんに、そのときおやじさんはどんな顔をして言ったんだい、ときいてみたら、「おやじも酔っぱらっていました」まさに落語の『親子酒』である。(「ハムレットと乾杯」 小田島雄志) 「親子ともに大上戸」 


新年の酒俳句
酒もすき餅もすきなり今朝の春 高浜虚子       夜咄に三日の酒のはてしなし   石田波郷
酒少し楽屋に出たる三ヶ日    田中午次郎     昼酒を少しく女正月に        成瀬正とし
ひとり酌む骨正月の老たのし  桑山道明       古妻の屠蘇の銚子をさゝげける  正岡子規
ひとり飲む酒数の子の粒々も  佐野良太       酩酊の主に女礼者かな      青木月斗
筆始こめかみ酔ひて来たりけり 小林康治       神酒みたす青竹筒や山はじめ  阿部ひろし
万歳の酔うて居るなり船の中  久保田九品太    いささかの酒肴もありて謡初め  山口誓子(「新版俳句歳時記 新年の部 角川書店編)


近代の清酒製造業
まず、近代の清酒製造業は生産額が高く、国内有数の重要産業であった。例として一八七四(明治七)年の生産額を見ると、清酒は一九八一万五〇〇〇円で、製糸の七五二万二〇〇〇円や、織物の一八三九万三〇〇〇円よりも多かった。同様に、一九〇〇(明治三十三)年の生産額を比較してみても、清酒は食品加工業の中で最も高い一億五一四六万三〇〇〇円であり、製糸の一億六五五○万二〇〇〇円や織物の一億七七六四万六〇〇〇円と並ぶ高額を得ている。このような重要産業であるがゆえに、清酒製造業に関する既存研究は数多い。(「近代酒造業の地域的展開」 青木隆浩)


噂をすれば影がさす
陰で人の噂をすると偶然その人が現れること。
酒の肴に一番なのは人の陰口である。この陰口は悪意があればある程、場をなごませ酒をすすませ快い酔心地を誘ってくれる。これが第三者へのほめ言葉や賛辞になると、胃にはもたれる悪酔いはする。気の置けない仲間と呑む時には、この点を十分に配慮しなくてはいけない。数ある酒宴の中で、通夜の酒が一番まずいのはそこに故人への陰口が一つも出ないからである。(「悪魔のことわざ」 畑田国男)


雨風(あめかぜ)
「雨風」という言葉がある。国語辞典を引いてみると、項目の(三)に、「酒も菓子も好むこと。また、その人。両刀づかい。江戸時代、天保頃から使われた言葉」と語釈が出ており、用例として、「あんたは、雨風やなア、孰方(どっち)もいけるんやさかいえらい」、上司小剣の小説「父の婚礼」の一節が挙げてある。私は若い頃、大阪者の母親から、此の文例そっくりの口調でよく、「あんた、雨風嵐やなあ。少し控えなはれ」とたしなめられた。「嵐」一字多いのは、普通の「雨風」よりひどいと、老母がおもっていたのであろう。(「食味風々録」 阿川弘之) 梅垣実の隠語辞典には、「雨風うどん」とあり、俗語で、「甘い物も辛い物もどちらも食べること。」とあります。「上方落語『雨風』に、酒は水、餅は風、として出てくるところから使われはじめた表現とされる」と上前淳一郎の「読むクスリ」にあります。


邱永漢の父
私の生まれは台湾の旧都台南市であるが、父は商人で、金儲けの才能もあったが、大の酒飲みで、儲けただけ飲んでしまった。もっとも酒飲みといっても、酒さえあてがわれればよいのではなく、酒の肴については実にやかましかった。台南には東門と西門の両市場があり、父は自ら西門へ買出しに行き、母は東門へ行く。両方の市場から集めてきたものを父が自ら定めた献立に従って調理をする。現にいま私が借りているのと大差のないあばら家に住んでいながら、美食の点では人口十万余の町では右に出るものがいなかったのではないかと思う。−
美食家の例にもれず、父は毎日のように人をよんでごちそうをするのが好きだった。そんな環境に育ったので、私たちの兄弟はみな味については天才的(?)に敏感になり、後に私の姉や妹が目白の女子大に学んで、東佐与子女史のフランス料理研究室に入ると、名料理師になる素質をもっているとほめられたそうである。(「食は広州にあり」 邱永漢) 父は、邱清海、母は日本人で八重子だそうです。


柳田の南方訪問
明治四十四年一月、柳田先生は、高校時代からの親しい友人松本蒸治さんと、田辺に南方先生を訪ねられた。いうまでもなく初訪問である。が、奥さんを通じて、宿へあとで行くからといって会ってくれない。仕方がないので宿へ戻って待ったが、夜になっても現れない。ところが御本人は、もう宿屋へきていて、初めて会うのがきまりが悪いといって、帳場で酒を飲んでいたんだ。そのうちに酒のいきおいを借りて部屋に顔を出したが、松本君に困ったことをいったりして、学問の話なぞ一向にしなかった。翌朝ぼく一人で挨拶に行ったら、こんどは、おれは酒を飲むと目が見えなくなるから、顔を出していったって仕方がない。話ができればそれでいいんだと、いい加減なことをいって、掻巻(かいまき)を頭からかぶり、その袖口から覗いて話をした。奥さんが、いかにも困ったというような顔をしていた。ほんとうに変わっていたよ」と笑って話された。(「本屋風情」 岡茂夫) 岡が柳田国男から聞いた南方熊楠の話だそうです。ただ、「南方翁の日記には、柳田先生の田辺行は、大正二年十二月三十日となっており、翌三十一日田辺を発たれる前に、お一人で南方邸を訪れて面談されたことになっているそうで」す。


さけ【酒】sake
米、こうじで醸造のアルコール分をふくむ日本独自の飲み物。古語でキ(御酒)ともいう。
源>酒、栄、桜のサケ・サカ・サクは同根語。本来は栄エルの意のサカ。(「語源海」 杉本つとむ)


パブと教会
パブと教会がイギリス社会の母体である、とよく言われるが、たしかに両者には同質性がある。いずれも一つの共同体、縦糸と横糸とで織られたウールの呼吸している空間。もっとも教会に行くのは主として日曜日だが、パブはウィーク・デーのランチ・タイムと夜ということになる。教会には司祭がいるように、パブでは、マスターが司祭の役割を演じているような気がする。教会が家族という血縁にむすばれた共同体だとすると、パブは地域共同体とも言える。イギリスは、良い意味での階級社会、つまりわが国のように九○パーセントが中産階級の意識をもっているのではなく、それぞれの階級が独自の文化をもっている社会だから、パブにも文化的な階級性があることはいなめない。山高帽のクリスティさんに、何軒かのパブに案内されたことがある。彼はエジンバラ生まれの生粋の都会人で、おまけにウィスキー会社の販売の責任者だから、どのパブにはいっても歓迎されるし、常連のなかには幼なじみからクラスメート、エジンバラの市長までいる始末で、各種、というのは各階級の、という意味だが、この都市の紳士方が集まるパブ、知識階級がたむろするパブ、労働階級が骨休めをしているパブと、オールドタウンからニュータウンの、それぞれ特色のあるパブに、Sさんとぼくを連れて行ってくれたのだ。(「スコッチと銭湯」 田村隆一)


沢村貞子
私は月給をもらっている。なんとかして職業俳優にならなければ、お客にも撮影所の人たちにも、申しわけないと思った。仕事が終わって家にかえると、うつろな気持になやまされるのが苦しかった。胸の中にいつも涙がいっぱいたまっているような気持も、なんとかふりきりたいと思った。(からだで芸をおぼえるには、自分の生活をすっかり変えた方がいいかもしれない)ある日、とうとう思い切って古本屋を家へよんだ。そのころ、浅草の家から多摩川まで通いきれないので、上北沢に小さい平屋を借りて、お手伝いさんがびっくりするほど居間にうずたかく積んであった私の唯一の財産の本−それを一冊残らず古本屋に売り払ってしまった。−
その日以来、新聞も一面は読まず、撮影所でも、もっぱら役者仲間のむだ話にすすんでいれてもらった。今まで行ったことのない食事にも自分から出かけた。のめない酒も無理に飲んだ。お雑煮に味醂を入れても顔が赤くなる父親ゆずりの体質で、お猪口一杯でも胸が苦しくなるくせに、さされれば五杯も六杯も盃をうけ、物かげへ駆け込んでは、青くなって吐いた。ダンスホールにも通った。男優たちにまじって、新宿の赤線も冷やかしてみた。煙草ものみ、麻雀も教わった。めちゃめちゃだった。ただ、なんとかしていままでの自分の体質を変えようと必死にあがいていた。「やっと、つきあいよくなったね」撮影所の人たちは言ってくれたが、ときおりおそってくる虚脱感だけは、どうしようもなかった。(「貝のうた」 沢村貞子) その結果、「私はまだ若いんだもの−読みたい本は読み、したくないつきあいはやめた。それで一人前の女優になれなければ、女優をやめればいい…」と心に決めたそうです。 


灘の四つの御用酒
「惣花」、「月桂冠」、「櫻正宗」、「菊正宗」の四つの御用酒は、いずれも今では全国的に知られ、どこの酒屋でも買えるナショナル・ブランド。「惣花」は会社名ではないが、日本盛が製造するブランドとして有名である。四種類とも灘の酒である。(「月桂冠」の発祥の地と本社は、京都府伏見区だが、灘にも醸造蔵がある)。「灘の生一本」といえば、江戸時代から美味しい酒の代名詞であった。下り酒とも呼ばれ、灘で醸造された酒を江戸に運んだ樽回船は、歴史の教科書に載るほど有名である。皇室でも、その灘の伝統を重んじて御用酒に選んでいるのであろう。吟味された酒造米と灘の「宮水」といわれる名水で醸造された、灘の酒の伝統は今も生き続けているのである。しかし、この名誉を表立って宣伝に使えないのが、この四社の悩みだという。宮内庁御用達という表記をラベルに印刷したり、宣伝に使ったりしないというのが、酒造業界の自主規制だからである。(「宮内省御用達」 鮫島・松葉)


福富臨淵と杉浦重剛
福富臨淵は、洋行帰りの巨漢で、教えに行っている学校の教室で酒を飲むという奇人である。しかし、謹厳な杉浦重剛と、ウマが合った。福富が「杉浦に団十郎の忠臣蔵を見せたい」といって、芝居茶屋に招いた。杉浦が行くと、茶屋では、芝居を見に来た人とは思わず、「今幕があいておりますから、しばらくお待ち下さい」というので、杉浦は正座して、その座席で待っているうちに「忠臣蔵」は終わってしまった。福富が茶屋に戻り、「どうしたんだ」と訊いたが、もうどうにもならない。それっきり、杉浦重剛は、生涯、芝居を見なかったといわれる。(「新ちょっといい話」 戸板康二)


酒の燗
酒の燗の仕方はどういう方法がいちばんよいか、これは私の経験だが、わかした湯をいったん他の容れ物に移して、そこで燗をするのが、酒をいちばんおいしく飲む方法である。小さなやかんに酒を入れてじかに火をあてると、どうも味が苛酷になっていけない。わいているやかんの中に徳利を入れるのもよいが、この方法だと、やはり酒が急激にあたたまっていけない。酒はゆっくりあたためるのがいちばんおいしい。その意味で、わかした湯をいったん他に移し、その中であたためう方法がよいわけである。私は風呂にはいるときによく酒びんを抱いてはいる。こうしてあたためた酒は、最初の方法であたためた酒と味が同じである。しかしガラスの一升壜では酒がすぐさめるから、四合徳利がいちばんよい。二合や四合の徳利なら、民芸品で売っている店に足を運べば求められるであろう。冬の夜中、ついめんどうになって酒をじかにあたためることがあるが、どうもこれはいけない。二本目はきちんと湯の中に徳利を入れよう、と考えながら一本あけ、さて二本目をあたためるために台所に出て行き、そこでまためんどうになりじかに火をあててしまう。そして、どうも味がわるい、などと呟きながら原稿を書いているのである。われながらこれはいけない。しかし時間があるときはこうしたことはない。(「美食の道」 立原正秋)


三河屋の息子
「それからね、お客さん」「うん」「三河屋の息子、ってのがいるんですけどね、こいつも困る」「なに、それ」「たいてい夜遅くですけどね、酒飲んで、乗ってくる」「三河屋の息子が?」「杉並とか練馬方面に行くんだけれど、いまカネは持ってないと。だけど自分は三河屋っていう酒屋の息子だっていうんですね。家に着いたら料金を払うと。で、商店街に入って酒屋の前で止めさせるわけですよ。ここが自分の家だと。見ると、なるほど三河屋という酒屋がある」「それならいいじゃないの」「違うんですよ、それがウソっぱちで、そのままドロンしちゃう。常習犯なんで、あたしたちは警戒しているんですけれどねえ」「そうか、三河屋って酒屋は多いもんなあ」「たいていどこにもありますから」「おっと、そ、そこの交差点の手前で止めてよ。話が面白くて、乗り過ごしちゃうところだったよ」「お客さん…」「あ、いけね、料金払わなくちゃ」(「東京おろおろ歩き」 玉村豊男) タクシードライバーから聞いた話だそうです。


殺気を帯びて
折からバルチック艦隊が太平洋迂回で津軽海峡から日本海に入るかも知れぬという通達で、お城山にバラックの望楼ができて、海上を監視するのを見に来た熊野地の子供と新宮組の子供とが、本丸の石垣の上で取っ組み合っているのを大人が取り鎮(しず)めたという話も伝わって来た。町の博徒(ばくと)や子供たちが、この大戦でそれほどに興奮し殺気を帯びたのもあたりまえであったろう。町の温厚な紳士たるべき院長さんまで、旅順陥落の祝い酒に酔ってちょうちん行列のなかでつかみ合いをおっぱじめようというのだから。ちょうちん行列は、たしかに門松のとれた日、権現さまの境内であった町民の祝賀会ののち行われたとおぼえるが、その夜、九時ごろになって、父は酔いどれて十人ばかりの人々に擁し送られて家に帰って来た。父は非常な激昂で、人々が何となだめてもどうしてもきかないので人々も困り、迎えに出ている久志君に向かって、「君はだめだ。奥さんをお呼びして来給え」と言っていた。僕は久志君に代わって母を奥から門へつれて来た。母は先ず父を取り囲んでいた人々にお礼を言ってから、父に「どうなすったというのですか」「何の某(なにがし)をなぐって来てやった。まだ足らぬからもう一度行こうというのじゃ」「何でまたそんな?」父はもう答えない。そばから人々が代って説明したところでは、父ははじめ仲よく行列に並んでいた某氏と行列の途中から口論をはじめて、つかみ合いになりそうなのを遠く離してとめておいたが、行列がまた権現さまへ帰ると口論をむし返した末、父が某氏をなぐったのをなだめ引き分けて、やっと連れて来たという。「どうもお酒くせの悪い人で、皆さんにご迷惑をおかけしてすみません」と母は人々にそう言っている。そのそばから父は「おれは酔っぱらってなぐったのではない。間違った事を言うからなぐったのじゃ。言うことをよくわからせるために、もう一度行こうというのじゃ。戦争はまだやめられない、断じて…」と父はまたいきまきはじめた。(「わんぱく時代」 佐藤春夫)


とりあえずの日本酒
まだ夕方のちょと前で空いている。目的はそばである。本日のような場合はもう居直っているのだから、江戸っ子のふりをして、まずそば屋で飲むのである。トリワサを頼んだ。イタワサも頼んだ。これでチビリとお酒。ここで早くも日本人としての至福の感情がこみ上げてくる。日本に生まれて神田へ来てよかった。トリワサとイタワサぐらいどこでも口にはいる、と思うかもしれない。しかしここはれっきとした神田のそば屋。いずれは本命のそばを食べる。その大事を控えて、それまでの間ちょっとだけ椅子に腰を降ろしてチビリとお酒を。ここが違うのである。たんなる日本酒とおつまみではなく、とりあえずの日本酒からくるべきそばへ向けての豊潤なるパースペクティーヴ。玉子焼きも頼んだ。分厚い小判型をしていてここの特製である。表面中央に三つ葉が張りついていて、大根オロシ少々。鰊(にしん)の棒煮も頼んだ。このあたりでかなりそばに近づく感じ。鰊そばの鰊だけがビューンと出てきて、そこに日本酒が加わった口の中の化学作用がたまらない。日本酒との化合物で最高の素材はウニ。頼んだ。焼海苔も頼んだ。いちだんとそばに近づく。漆塗りの小さな長方形の容れ物に焼海苔はカサカサと。へりのところにちょっとワサビ。それを手に取った焼海苔でこすってお醤油にピラリ。口の中でパリパリ。その感触を縫いながら日本酒が朝霧のように漂いこれはもう完全に日本の宗教だと思った。そばが至近距離にあるのが感じられる。(「ごちそう探検隊」 赤瀬川原平) 神田まつやでの話だそうです。


飯寿司
「八丸」では高価な鮭を何千匹と買って樽におし込んだ揚句、保存の温度を間違えて、全部腐らせたり、発酵不十分で大半を捨てることもあるらしい。さらにポツリヌスのような細菌の繁殖にも十分注意しなければならない。失敗と反省をくり返しながら、ようやく満足できる製品をつくれるようになったのは、昭和三十年の半ばごろからである。わたしが口にして、その美味に感服したのはこのころであった。以上、ニシンの網元と飯寿司だできるまでのことを、少し長々と書きすぎたが、実はその消長がドラマチックだったので、小説に書こうと思って調べたことがあったからである。もちろんまだ書いてはいないが、飯寿司を食べる度に、いつも、ニシンとともに栄えて消えていった男達のことを思い出す。飯寿司は、サケとニシンと「魚雷」(ハタハタ)、「魚花」(ホッケ)の四種がある。いずれも麹とまじった軽い酸味と塩味が絶妙である。これを食べはじめると、わたしは必ず酒が飲みたくなる。初めは燗酒で次第に冷酒が欲しくなる。ここはあくまで酒で、ウイスキーでも焼酎でもいけない。まさしく「酒の肴」そのもので、それ以外の飲み物では絶対馴染まない。(「これを食べなきゃ わたしの食物史」 渡辺淳一)仲でも一番美味しいのはニシンだそうです。


わかれる
そのころはすこし仲よくなった青年に、私はスグ、いっていた。「残念だけど、お別れするわ。…美しい思い出があるうちに」そういうことをいった舞台装置は、当時はやった洋酒喫茶であった。まだバーの数も多くなく、女の子が入れるバーもなかった。女の子が洋酒の味をおぼえたのは、喫茶店経営の「洋酒喫茶」だったのである。水割りウイスキーはまだやっていず、炭酸で割ったハイボールやカクテルをみんな飲んでいた。女の子はフィズものや、ピンクのカクテルなんかに口をつけ、何やら解放された気になって、気分が昂揚(こうよう)したのであった。昂揚ついでに私は男の子をつかまえては、「お別れするわ…」とやっていた。男の子たちはさぞビックリしたことであろうと思う。何の気もなく、どちらからともなく「いこか」と洋酒喫茶へ来ただけ、「別れる」も何も、どだい、つきあいの実績あらへんやないか、何かカンちがいしているのちゃうか、(ずれとるなあ)とあっけにとられたに違いないのだ。でも私は、何べんか洋酒喫茶へ同行したり、本を貸し借りしたり、いっしょに映画を見たり、しただけで、もう「お別れ」ごっこをしてもいいような気になっていた。そんなことは男の子にはわからない。「何が、どや、ちゅうねん…」といったまま絶句している子もいた。(「おせいさんの団子鼻」 田辺聖子)


クラーク博士
「少年よ大志を抱け」…明治九年(一八七六)、日本政府の招きで来日し、札幌農学校(現在の北海道大学農学部)の初代教頭となったウィリアム・クラーク博士が残した、あまりにも有名な名言である。在職期間は短かったが、キリスト教主義にもとづく、新しい教育方針をとったクラークは、農学の分野にとどまらず、ひろく明治の文化や人々に大きな影響を与えた。キリスト教者の内村鑑三や新渡戸稲造らも、クラーク門下生である。クラークは、たいへんな酒好きだった。来日するにあたり、在日期間一年分のウイスキーをもってきたくらいだ。ところが、あざ、来日してみると、当時の生徒たちは意気盛んで、酒を飲んで暴れまわっていた。これを目にしたクラークは、断酒を決意し、もちこんだウイスキーを全部、教室に運ばせ、「私も好きな酒をやめることを誓う。君たちも誓ってくれないか」といって、金づちで酒瓶をこなごなにたたき割ってしまった。こうしたクラークの姿に、いたく感動した学生たちは「もう酒は飲みません」と誓ったのであった。(「酔っぱらい毒本」 青春出版社)


実験(2)
たまたまぼくの家に来ていた祖父が、新聞ごしに目をあげて言った。「そりゃあまずいことをしたね。ミミズがみんな死んじまうよ。霊界(エーテル)の物質なんだから」母は祖父のしゃれが分からず、彼をにらみつけた。祖父はパイプをふかした。「お前の化学式なんかで母さんをまごつかせちゃいかん。ただ、多目的興奮物質の一価基なんだって言えばよかったんだよ、坊主」祖父はまたパイプをふかした。「わしに言わせりゃだな、その実験に必要なのは逆流防止弁だぞ」ぼくは目をパチクリさせた。彼は話を続けた。顔は真面目だったが、目は踊っていた。「逆流防止弁は、炭酸ガスは逃がすけれど、外気から雑菌の胞子が入るのを防ぐんだ。これが入ると酸化の原因となるからな。わしの言っていることが分かるか」ぼくは弱々しくうなずいた。祖父は、ぼくをにらみつけた。「わしが十二の時から学校へ行ってないからといって、あのう…ええと…(彼はぼくの口真似をした)…有機化学について、わしに心得がないと思ったら大間違いだぞ」祖父は再び新聞に戻ったが、そのかげからこうつけ加えた。「…あとな、今度やる時は砂糖と干しブドウはあんまり入れすぎないことだな」急にぼくは宿題を思い出して、あわててその場を立ち去った。(「ニコルの青春期」 C・W・ニコル)


実験
こうした授業にいたく刺激されたぼくは、家の納屋の中で、大きなバケツにリンゴジュース、干しぶどう、砂糖、水、そして醸造用酵母菌をぶち込み、そのすさまじい調合物の醸造を試みた。やがてできたものは、確かにアルコール性の混ぜものではあったけれど、味はひどいことこのうえなく、あのフランスの素晴らしい白ワインなどとはくらべものにならなかった。そうこうしているうちに、ぼくの化学的試みは母の知るところとなってしまった。「バケツの中にあった、あのいやらしいもの、あれいったいなんなの?」「実験なんだ」パッと頭を働かせて、ぼくは即座に答えた。「何ですって−実験?」「ぼく、COHの製造について勉強しているところなんだ。宿題なんだよ」「何よ、その、シーツー何とかっていうの」母は目をキラリと光らせてたずねた。ここで『アルコール』なんて言葉を出したらえらいことになる。酵母って言葉だけでも、母は察しがつくだろう。「ええと…それはね…あのう…炭素の水酸化物なんだ。果糖なんかに酵素が作用してできるもんで、副産物として二酸化炭素ができるんだけど。とっても複雑な構造なんだよ、このエチル、あっ、ええと…二−炭素−五−水素水酸化物ってのは」母はそれでもなお疑わしげだった。「どうしてそんなことを聞くの?」ぼくは無邪気そうにたずねた。「庭に捨てたわよ、あんなもの」(「ニコルの青春期」 C・W・ニコル)


徳川家慶の酒癖
家慶(いえよし)はなかなかの大酒家であったらしい。『旧事諮問録』にある御次(膳部をつかさどる奥女中)の佐々鎮子の談に、「…それでございますから、慎徳院様(家慶)はお酒盛のとき私どもへ、甘いのがよいか辛いのがよいかと仰しゃいますので、甘いのと申しあげるとご機嫌が悪うございますから、辛いのと申し上げますと、お燗鍋で、お手ずからお注ぎ下さるのでございますが、それが大きなお吸物椀の蓋などでお受けするのでございますから、ザァッと強くお注ぎ遊ばすと、モウあなた、袂(たもと)の中までも流れ込むのでございます。それがまた大層お慰みになるのでございました。慎徳院様はそういうお方でございました」というのがある。どうやら家慶は酒癖も多少よくなかったようにも思える。「御膳酒と申しまて、真っ赤な御酒でございます。嫌な匂いがいたしましてネ。あれは幾年も経った御酒でございましょう」と佐々鎮子は語っているのだが、無理に相手をさせられる彼女たちも、さぞかし閉口したことであろう。(「江戸の二十四時間」 林美一) 12代将軍の酒癖は余りよろしくなかったようですね。


年酒 ねんしゅ としざけ
年始の客にすすめる酒。本来は数の子・ごまめなどを肴にした簡素な酒であるが、このごろは贅沢な善部を出す家も多い。祝いの意味だからそうむやみにすごさず、ほどよく切り上げるべきで、元日から訪問先の座敷で酔いつぶれたりする悪習はむかしはなかった。
盞の数をつくして年酒かな       青木月斗   馬に逢ひ年酒の酔いの発しけり 秋本不死男
酢牡蠣の酢灯に清らかな年主かな  原田浜人   息づかひしづかに父の年の酒 滝沢伊代次
大杯のあと覚えなき年酒かな     岡本圭岳   お年酒や思ひの外に深き酔 藤永誠一
低頭せり年酒の酔いの果にして   石田波郷   年酒また独りが楽し鵯谺 宮田要(「新版俳句歳時記新年の部」角川書店編) 去年(こぞ)よりも少なくなりし年酒のむ 我が少々寂しい年酒です。'07


みかけ
「シスター」司祭が修道尼にいった「みかけだけだとしても、悪は避けなければなりません」「それはどういうことですの」修道尼は心配そうにきいた。「あなたのサイドボードには」司祭はいった。「カットグラスの壜が幾つか並んでいますね。そしてそれぞれに強い酒が入っているようにみえる」「でも司祭さま」修道尼は抗議した。「あれは何でもありませんよ。あの壜がとてもきれいだったものですから、床を磨く液体とか、家具のつや出しなんかを入れておいたのです。ほんのみかけだけですのよ」「その点をわたしは言っているのです」司祭はいった。「わたしは、あやうくあの真んなかの壜のを一杯やるところだった」(「ポケット・−ク」 植松黎・訳)


伊勢丹レディ
本間さんはほぼ月一の割で花火(ハナカ)は横浜はずれの実家からクルマをぶっ飛ばして通勤。駐車のメッカと言われる靖国通りツバキハウス前のあたりに路上駐車し(伊勢丹近辺ではこのエリアが最も駐禁を貼られにくい、とされている。ファミリア、サニーのクラスが多い)、店がハネるや否や仲間とつるんで本牧あたりの馴染みのバーへと繰り出していく。「リンディー(その昔、七○年代前期、港の黒人たちが集うディスコとして幅を効かせていたハマのディスコ)とかも昔はよく行ったけどぉ、いまは暗いでしょ、あのパターンって。だからいまは行きませんけどぉ。名前は言えないけど行きつけの店があって、あたしと友だちで仕切ってよく二時、三時までパーティーをやったりしますよ」カフェバーとかよりは、居酒屋のノリの方が好きだという。新宿近辺だと「つぼ八」「池林坊」、六本木だとテレ朝通りの「ホナミ」、下北沢は「JACKPOT]といったところが威勢のいい伊勢丹ガールの集まる場所とされる。「シリンやインク(スティック)も一時は行ったけど、ああいうとこって、構えて入るって感じでしょ。あれがいまいち耐えられない」(「丸の内アフター5」 泉麻人) 飲酒運転厳禁です。


照葉樹林の酒(2)
つまりヒマラヤ、ジャワの餅麹の原型はシコクビエで作られたことをよく示している。後章で述べるように、シコクビエこそがすべての雑穀の共通分母的な役割をはたし、雑穀の指標となる穀類であることからみて、照葉樹林文化が雑穀栽培を西方から受け入れたとき。シコクビエを使用してコージによる酒づくりをはじめたと推定される。ちなみに、アフリカではシコクビエの芽生をつかって糖化する酒造りの方法がある。これらからみると、坂口謹一郎氏はタイ、マレー、インドネシアは中国酒の文化圏に属するとしたが、事実は中国酒は照葉樹林文化圏に属するとした方が、合理的であろう。こうしてみると、日本酒ではバラ麹ではあるが、コージを使う酒造りという点ではまぎれもなく照葉樹林的な酒である。(「栽培植物と農耕の起源」 中尾佐助)


照葉樹林の酒
コージには外型上「バラ麹」と、「餅麹」の二型がある。とはいっても餅麹はモチ型の固形物のつもりの字だが、中国語からみるとどうもよくない字だ。なぜなら中国語では”餅”はコムギ粉製品の通称で”月餅(ユイピン)”のようにつかわれるから、餅麹とはコムギ粉で作ったコージの意味になるからだ。しかしここではまあ醸造学の慣用にしたがって餅麹の字でいこう。ヒマラヤ地域やインドネシア、さらに中国酒のほとんどが餅麹をつかっている。ヒマラヤのダージリン附近ではこの餅麹がふつうに売られており、ムルチャ(Murcha)と呼ばれ、ジャワではラギー(Ragi)の名がある。ところが、シコクビエはヒマラヤ地域では酒原料の基幹になっており、そのベンガル名、低ヒマラヤの呼び名はムラ(Marua)で、アフリカ諸語にも通ずるシコクビエの最も広い通名と餅麹名が一致する。またインド文化の被影響地域のジャワでのラギーはインド国内でシコクビエに対してもっとも広くゆきわたった呼び方である。(「栽培植物と農耕の起源」 中尾佐助)


照葉樹林文化の遺産
照葉樹林文化の成立したのは西はヒマラヤ南面の中腹から、シナ南部、日本本州南半部にわたる地域で、そこは大部分が山岳地帯で、広大な大平野はほとんどないといってもよい地帯である。その地帯に生じた照葉樹林文化はきわめて山岳的な性格をもち、本来の形態は山棲の生活である。したがってその文化のもつ農耕文化複合も大平原のそれとは異なっている。そのようにこんにちもっとも交通困難であり、調査も不足している地帯に統一的な文化複合の存在を証するのは、この地域に発生した、またこの地域の特色である農耕文化複合の要素.の共通分布で、それは過去の文化遺産として把握され得るものがからである。茶と絹とウルシ、柑橘とシソ、それに酒などがその代表的文化遺産である。(「栽培植物と農耕の起源」 中尾佐助)


「味のぐるり」にでてくる酒
「酔心」を冷やでやりはじめる。そら豆の緑、ほしこの茶褐色が、目の前に。具合よくきいてきた。
ここのは多聞。ハマチの刺身、茶碗むし、天ぷら、こんなものを肴に、四人で何本飲んだことか。
だれかが、那須の一軒茶屋という店で仕入れてきた楽器正宗というのを出す。
ここの酒は賀茂鶴。店によって、さまざまな酒にめぐりあえるのが面白い。
「しぼりはここに来ている」といったら「それはおしぼり、これからやるのがしぼり」と。富の寿という酒。
菊正が段々きいてきた。
きょうは「惣花」という銘の「日本盛」のひやを、岩田藤七さんの、金色のガラスのぐい呑みに注いで。
ここの酒は富翁、かつての同僚、それは越中の人だったが、いつもこの酒をたしなんでいた。
ビールで一通りうるおわした後、店の名にもなっている酒の「白雪」を、すし種でかなり飲んだ。
三陸の「酔仙」と、秋田料理の功徳というもの。
鮎の塩焼き。今宵の酒は月桂冠とか。(「味のぐるり」 入江相政) 苔に埋もれて 昭和51年発刊。灘から地方へ酒の趣向が移り始めている頃の話ですね。


酩酊の罰
英国で、酔ぱらひに対する普通の懲罰として犯則者を足枷(ストック)(あしかせ)に掛ける方法が数百年間続いた。ニューベリーでは近く一八七二年に於てさへ此の足枷の刑を課した記録がある。ニューキャッスル・オン・タインでは、嘗(かつ)て極悪犯則者に対する懲罰として「酔ひどれの着物」(Drunkard's Cloak)といふ方法を採用した。酒樽に頭と手と脚とを出す穴を開けたのを着せて、町内を引き廻し、こんなエギジビシヨンを見て喜ぶ群衆の嘲罵(ちょうば)の曝(さら)し物にした。(樽酒仙参照)クロムウエルの軍隊に於ける懲罰は「木馬に乗せる」(riding the wooden horse)ことだつた。反則者の乗る木馬(wooden quadruped)は馬の背を尖(とが)らしてあり、反則者を馬の背にピッタリ密着させるために、屡々(しばしば)小銃を反則者の両脚に結びつけた。又罪状を示す為に酒徳利一対を首の周りにブラ下げてゐた。此懲罰を受けた数名の者が脱腸(ruptured)に罹(かか)つたことがあつたので、間もなく廃止された。(Humour,p.98)(廿九ノ十二)(「酒の書物」 山本千代喜 初版昭和15年)


酒肴と二日酔い対策
二日酔い対策−わが家でブルーマンディーの亭主、イギリスの古い諺からとったこの二日酔いを象徴する『青い月曜日』ということばを自分の小説の表題に選んでいるくらい、よほど、二日酔いにはつね日ごろ悩まされている宿六が、午前さまで帰館して、その日の午後、黄色い目をしょぼつかせて、亀が甲羅から首をのぞかせるように、夜具の中でもぞもぞしていたら、まず、熱い番茶に、自家製の梅肉をとかして飲ませます。ときには書斎兼寝室である階上の部屋から、「ウメチャ」とだみ声がさきに降ってくることもあるくらい。不思議によくきくそうです−私には二日酔いの経験がありません、したがって、これを服用するテキの言葉を間接的に伝えるしかテがないわけで−。それから暫時、ようやく幸せな空腹を思い出す段階になり、”ウメチャ”がきいたためですぞ。赤だし味噌、八丁と信州の三年もの、京都の白を合わせた自家調製で仕立てた、賽の目切り豆腐、油揚げのせん切り、薬味には葱の小口切りの実だくさんの味噌汁をすすってもらいます。味噌はかならず大豆味噌をつかうのが、アルコール発酵物を吸着させる目的にかなうわけで、米や麦味噌では効果はありません。この場合白味噌をあしらうのは、味に丸味と奥行をださせるため。豆腐、油揚げともに植物性蛋白質で、葱を頭痛をしずめてくれます。(「おかず咄」 牧羊子) この「亭主」はもちろん開高健です。


大町桂月、サミュエル・ジョンソン、小山内薫
 酒好きの多いわが国の文人の中でも大町桂月は第一人者だった。彼はいつも手離さず持って歩いていた竹のステッキは、中がくり抜いてあり、彼はそれに酒をつめ、気の向いたところでチューツとやるのだった。
 ある人が「酒のみのつきあいにはうそがない」と酒礼讃をするとサミュエル・ジョンソン「だが、しらふの時は嘘ばかりついて、ほんとうのことをきくためには、一杯のませなくちゃならない男とはつきあいたくないな」
 小山内薫はときどき自分の生活をふりかえって、頭を丸坊主にしては禁酒を声明した。知人たちは「また坊主になったのか」と笑って、あまり本気にしなかった。はたしていつも頭髪がもとにかえる頃には、酒盃も彼の手にいつか返っているのだった。(「ユーモア人生抄」 三浦一郎)


アマカス
甘粕。甘酒はもと堅練りが普通であるらしい。東日本を始めとして各地でアマカスまたはアマガユ(甘粥)という名が広く行われている。青森県津軽ではアマカイ、同地方の一部と秋田県仙北郡ではアマイ、同県下にはアマカスという所もあり、岩手県ではアマユといった(東北方言集)。福島県中部ではアマカス、アマガイという。秋田県の男鹿半島のアマカスの製法は一つの例だが、米をケメシ(粥飯)に煮て甕に入れてさましてから、同じ量の麹を入れて掻き混ぜ、何かかぶせて二日ほどおいてから食べるという(男鹿寒風山麓農民日録)。水に薄めて湯にして飲むのが普通だが、長野県諏訪の古い祭りでは、これを木の葉に包んで供えたことが記録に見えている(民間伝承八ノ八)。兵庫県印南郡地方で、正月十五日の粥をいい、前日の左義長の火で焼いた餅を入れる。この粥は歳頭という神役の家で炊き、昨日世話になった人々を招く(郡誌下)。この日頭渡しがあり、道具を引き継ぐ。広島県比婆郡で、ハンゲアマガイというのは半夏甘酒のことである。山口県大島郡では甘酒をアマガユという。熊本県球磨郡神瀬村(現・球磨村)では麹に麦を混ぜて作るイチヤザケ(一夜酒)を麦のアマカイといい、氏神や観音の祭りなどに村で作った。神をまつる酒という(山村手帖)。同郡五木村ではアマガイを盆の十三日に作り、十四日の朝精霊棚の膳に供える。長崎県壱岐郡でも甘酒をアマユあるいはイチヤザケといい、祭礼には必ず作るという(壱岐島民族誌)。同県対馬あたりのアマザケは固く、噛む(食べる)時は手に持つという。(「分類食物習俗語彙」 柳田國男)


直木賞は肝臓の敵
色川武大さんが待っていて下さるというので銀座の「まり花」に直行する。無遠慮に狭いこと極まりない店の中まで入って来たテレビや雑誌のカメラマンに、ちょうど居あわせた芦田伸介氏が「キミの社はワンカット五千円、そっちのテレビは十秒撮ると三万円」とギャラを要求して追い出して下さった。おくつろぎのところご迷惑をかけてすみませんでした。やがて黒鉄ヒロシ氏が自宅から駆けつけてくれて、後はもうドンチャン騒ぎ。篠山紀信、長友啓典の両氏が美女二名を同伴して新宿からご到着になったが、美女は別にお祝いのプレゼントではなかったらしく、ちゃんと連れて帰られました。カミさんと二人でフラフラと家に帰り着いたのが午前三時。ぶっ倒れるようにして二人とも寝る。翌日聞いたら、西本氏は朝六時まで飲んでいたという。直木賞が肝臓の敵であることだけは間違いない。(「だから何なんだ」 景山民夫)


おでん
それでも、二十五日の給料日に払うつもりでいたのが、何かの加減でそうはいかなくなったりすると、さすがに気がひけて、足が遠のくだけでなく、男はその前を通ることさえ憚って、わざわざ遠回りしてママと顔を合わせないようにして会社に出入りしたものだった。そんなときママは実にさりげなく電話を男に寄越して、「どうしたの、病気でもしたのかと思って。…そう、じゃあ今夜寄ってきなさいよ。え、支払い?莫迦ね、あなたのお勘定なんか当てにしてないわよ」と、明るく笑い飛ばすのである。男は五年ほどその出版社にいて、よそへ移っていったが、その間、年二回のボーナスでなんとかたまった勘定を整理するという、店にとっては歓迎出来ない客を続けたが、どんなに勘定が滞ろうがママはついに催促がましいことを一度も男に言わず仕舞いだった。それほどまでにしてもらったくせに男は勤めが変わると、ついつい足が遠のき、一年後にはぽっつり足を運ばなくなった。ときどき気にはなるのだが、その店のある界隈に行く用事もないまま三十数年が過ぎたあるとき、古い仕事仲間から電話があって「久し振りに飲もう」ということになり、先方が待ち合わせにその店を指定してきた。店の前まで来ると、路地はそのままだったが、両隣は小さいながらビルに建ち替わり、その間に挟まれてひしゃげそうに三十年の古びを見せて店があり、あの頃のままにおでんの匂いが道路に流れ漂っている。ガラスの引き戸を開けて中を覗くと、「いらっしゃい」という声と一緒に五十がらみの女の顔が男を振り向いた。どうも見覚えがあるのでよくよく見ると紛れもなく当時ここで働いていたアルバイトの娘だった。「暫く」と声をかけながら、腰を下ろすと、その頃は笑いかけたこともなかったその女がいかにも懐かしげに男に笑みをむけた。話によると、ママは三年前に亡くなり、店を引き継いだというではないか。「…あの頃、私アルバイトだなんて言ってたけど、実はあの人の娘だったんです。−」(「東京育ち」 諸井薫)


三内丸山遺跡
一九九三年九月、青森市の三内丸山遺跡の六千年前の地層から、大量の木の実のタネが出土された。「縄文前期に酒づくりが行われていたのではないか?」のニュースは衝撃的である。これまでは長野県諏訪郡富士見町にある四千五百年前の井戸尻遺跡から見つかった(樽形の)有孔鍔付土器が、日本最古の酒づくりの徴(しるし)と思われていたから、さらに一千五百年、時代が遡るのである。井戸尻の遺跡では、土器の内部の底にヤマブドウのタネがついていたところから、酒の仕込み容器だと推定されている。さらに、同じ竪穴遺跡から、杯と思われるカップ状の土器なども出土している。それでも確実な証拠ではないという。「日本の酒づくりは縄文後期のコメ伝来後に始まった」とする学説も有力である。青森の遺跡における「学問的仮説の立証」にはまだ時間がかかりそうであるが、私は酒づくりの曙とみていいと思う。(「酒と日本人」 井手敏博)


ケンブリッジで見たこと考えたこと
エマヌエルでは夕食を知らせる七時半の鐘が鳴り始める頃、フェローたちは黒いガウンをなびかせながら、ホールに隣接するパーラーに集まって来る。ここでシェリを飲みながらしばし談笑していると、やがてホールの扉が開き、給仕長が進み出てマスター(学長)に向かって夕食の準備が出来たことを告げる。マスターを先頭にフェローたちがホールに入ってハイ・テーブルの前に並ぶと、これを起立して迎える学生たちの中から当番が進み出て、ラテン語の食前の祈りをとなえて一同着席となる。ハイ・テーブルとは、ホールの一端の床が三十センチ程高くなっている場所で、フェローたちの席がここにある。ハイ・テーブルに座ることは大変に名誉なことで、通例学生や一般の客人は低いフロアの木製のベンチにしかつけないきまりなのである。ハイ・テーブルでは椅子も革製で背もたれがついており、食器類はすべて磨き上げた銀製で、ここで供される食事は質も量も学生席のものとは全く違う。学期中に二、三度ある宴会は別として、普通の日は前菜かスープで始り、肉料理に野菜二種、そしてスイートという三コースで、これにパンがつく。飲み物はワインかビールを選べるようになっていた。(「ことばの社会学」 鈴木孝夫)ケンブリッジ大学のエマヌエルというカレジのフェローの食事だそうです。客員フェローとして滞在した著者にとって十分満足できる味の水準だったそうです。


アシモフの雑学
 エッジウォーター大学の心理学者の研究。ある郡での一年間に起こった三四、三一八件の犯罪を分析。屋内、屋外での暴力、盗み、悪酔いなどの単純犯罪は、満月の前後に多く発生している。
 ウィスキーと甘口のベルモットのカクテル「マンハッタン」は、当時ニューヨーク市で人気の高い美女、ジョニー・ジェロームが作ったもの。彼女は一八七四年にイギリス人のチャーチル卿と結婚し、あのウインストン・チャーチルを生んだ。
 一三○○年ごろ、ヨーロッパでペストが大流行し、それにともなってアル中がふえ、病気がおさまったあとも、アル中は残った。酒に予防効果があるとされたのだが、現実にはなかった。しかし、酔いで不安をまぎらわせる役には立った。
 エスカレーターは、一九○○年ごろ、ロンドンのデパートにはじめて出現。乗って青ざめた人には、ブランデーを出した。(「アシモフの雑学コレクション」 星新一編訳)


水の硬度、鉄
硬度の高い水によって麦汁のpHが上げられると、その結果ビールは濃色化に進む。またpHが高いとホップの苦味を出しやすく、ホップの持つ苦味質の利用効率が上がる。それゆえ、硬度の高い水は「ホップ節約者(Hop-saver)と呼ばれる。ただし、ホップの香りが出しづらくなるという性質もある。逆に硬度の低い水では麦汁のpHは上がらず、麦汁も淡色、苦味質の利用効率は低いが、ホップ香は良くつく。それゆえ、硬度の低い水は「ホップ浪費者(Hop-waster)」と呼ばれる。前者にあたるビールの代表はミュンヘン・タイプの黒ビールで、ホップ香は弱いが麦芽香味を楽しむビールとなっている。「麦芽ビールMait-Buur)」と言ってよい。後者の代表はピルゼン・タイプの淡色ビールでホップ香が強く、シャープな切れ味が特徴である。それゆえに「ホップビール(Hop-Beer)」と呼ばれる。鉄は日本酒、ビール、その他の醸造物にとって悪者である。日本酒を黄褐色に着色し、また、重要な香味成分を酸化により変質・劣化させる。ビールの場合も日本酒と同様の害を加え、大事な白いジョッキの泡を褐色化し、台なしにしてしまう。(「酒の科学」 野尾正昭) 清酒と比較しながら読むと面白いですね。


儀礼的狩猟
このように儀礼的狩猟の慣行は、狩猟動物の減少や祭りの形式化、単純化の傾向に伴って、その形態を著しく変化せしめてきているようである。したがって、儀礼的狩猟慣行の比較研究を行うときには、その慣行の分布を追跡するだけではなく、その儀礼が変容することによって生じた習俗の存在にも注意を払わなければならないのである。かつてラーマン氏が指摘した北ベトナムのトンキン山地に住む焼畑民ムオン族の例もその一つである。そこでは旧正月に「収穫のための狩猟行」とよばれる一種の儀礼的狩猟が集団で行われていたが、今日では、それは宗教性を失い、狩猟のあとは飲めや歌えの酒宴になっているといわれている。(「照葉樹林文化の道」 佐々木高明) 「京都の祇園祭」 


「腹に据ゑ兼ねる事壁に書いてざまを見やがれと我ひと共に言はんと思うふ」
「今日は八月一日九十何度といふ熱サなり。女房は兄の子供と活動に行つて留守。廊下の窓を閉め扉を閉め中から鍵を掛ける。風なく西陽さして汗はだかでゐて血の様に吹出して来る。思へば腹の立つことなれ共、これでも人の顔見るよりは良し。我が家には常連とか謂(い)ふ友の来りてあたかもおでん屋の如く、俥(くるま)屋のろばたにたまる如く、用の無い人間に限つて四六時中現れ、現れたが最後落ちつきはらひて終日、これがまた同類の現れるのを首を長くして待つていゐるものだから、いゝ加減やり切れぬ。中には人を連れて来て酒を飲む常連もあり。先ず第一に金が無いから直ぐ様遠い処へ引越をするというふ訳にゆかぬ。引越が出来なければ腐つた人間が来る。腐つた人間が集れば酒になる。酒屋の勘定が夫婦喧嘩(げんか)の種になる。夫婦喧嘩をして迄(まで)酒を飲みたい友人に限つて年に数回しか来ない。常連が来て落ちつき払つてゐて困るから酒を飲む。全く意味がない。僕は人を訪ねることが殆ど無い。金が出来(あつ)たら、先ず第一に、遠い処へ引越して、会ひたきや此方(こちら)から出掛けたい、何と、そぢやないか長つちり−」こんな調子に延々とつづくのである。ところどころ日付は記してあるのだが、いつ頃どこで書いたものかさっぱり判らない。が、常連の名はのべつ出てくるので、おおよその見当はつく。大岡は昇平にきまっているし、永井は龍男さん、中原は中也、野々上は慶坊(慶一氏)、高橋はたぶんダダイストの信吉で、そのほか木村尚三郎、笠原、小沢、小田等々、私の知らない人たちの名前もある。野々上さんに電話をかけて聞けばすぐわかることだが、人をわずらわすのも億劫だし、この退屈きわまりない宣言を、あれこれ想像しながら考えてみるのも一興である。(「いまなぜ青山二郎なのか」 白州正子) 中公画廊での「青山二郎装幀展」に展示されていたものだそうです。


毒断ち
然(しか)れ共(ども)、是に大事は、毒断(どくたち)あり、○美食、淫乱、絹物を不断着(ふだんぎ)○内儀を乗物、全盛(ぜんせい)娘に琴、哥賀留多(うたかるた)○男子に万(よろず)の打囃(うちはやし)○鞠(まり)、楊弓、香会(こうがい)、連俳○座敷普請(ふしん)、茶の湯数寄(ずき)○花見、舟遊び、日風呂入○夜歩行(ありき)、博奕(ばくち)、碁、雙六(すごろく)○町人の居(い)合、兵法○物参詣(もうで)、後生心○諸事の扱、請判(うけはん)○新田の訴訟事、金山の中間入○食(け)酒、莨「艸+宕」(たばこ)好、心當(あて)なしの京のぼり○勧進相撲の銀本、奉加帳の肝入(きもいり)○家業の外の小細工、金の放(はなし)目貫(めぬき)○役者に見しられ、揚屋(あげや)に近付○八より高い借銀(「日本永代倉」 井原西鶴) 商売成功のべからず集です。


「堀端の場」
…まず今朝家(うち)で朝飯に迎い酒に二合飲み、それから角の鰌屋(どじょうや)で熱いところをちょっと五合、そこを出てから蛤(はまぐり)で二合ずつ三本飲み、それから後(あと)が雁鍋(がんなべ)にいい生肌鮪(きはだ)があったところから又刺身で一升、とんだ『無間の梅ケ枝(うめがえ)』だが、ここで三合彼処(かしこ)で五合、拾い集めて三升ばかり、これじゃあ終(しま)いは源太もどきで鎧(よろい)を質に置かざあなるめえ…(「古典落語 文楽集」 飯島友治編 解説) 歌舞伎『慶安太平記』(別名題)、「堀端の場」での、丸橋忠弥のセリフだそうです。


ブータンのツブ酒・チャン(2)
このツブ酒チャンの飲み方は、それをもういちど蒸留しアラー(蒸留酒)に加工して飲む場合とツブ酒をそのまま飲む場合とがある。面白いのはそのまま飲むときで、まず発酵したツブをトーチュウとよぶ小型の銅製のツボに入れ、その上に湯を注ぐ。その湯の中へチャン・ショウという竹製の小籠を押し込むと、漉されて籠の中へ酒(浸出液)が入ってくる。それをチャン・クーというヒョウタン製のヒシャクですくって飲むのである。ところが傑作なのはその次で、酒がなくなるともういちど発酵したツブに湯を注ぎ、今度はヒシャクの先の丸くなった部分をスリコギのように使って、発酵したツブをつぶして液をつくり、これをまたチャン・ショウ(小籠)で漉して飲む。これもなくなると、もういちど湯を入れ、またすりつぶして浸出液(酒)をとるのである。前後三回ほど浸出液をとると発酵したツブはもう粕になって終りだというのである。資料の一部として持ち帰ったトウチュウの底部をたしかめると、真黒に炭が付着していた。冬の寒い日などに湯が冷めないよう炭火を下に置いて温めながら、ツブ酒を漉して飲んだようである。わざわざ温めながら酒を飲むという習慣も世界的には珍しいもので、ブータンから中国をへて日本に至る地域に限られているのではなかろうか。(「照葉樹林文化の道」 佐々木高明)


ブータンのツブ酒・チャン
ブータンの古い文化中心の一つである、パロ盆地のある農家で調査したところによると、チャンをつくるには、まずハダカオオムギあるいはコムギをよく煮た後、竹製のムシロの上にそれをひろげて放冷する。そのときポーとよばれる麹(通常はシコクビエを発酵させてつくる)の固まりをもってきて、それをよくほごして炊きあがった粒のままのムギとよくませ合わす。それからこのムギと麹を混ぜ合わせたものを竹製の籠に入れ、その上を布でおおって二、三日おいておく。すると発酵がはじまり強い臭いがしてくるので、今度はそれを土製のカメにうつす。カメの口縁部には牛糞を塗って密封し、通常はそのまま一〜二ヶ月間発酵させるのだという。だが、ときにはそのツブ酒を一年以上もカメに密封したままにしておくこともあり、その場合には、カメの底に濃い液がたまるという。いずれにしても醸された酒は典型的なツブ酒である。(「照葉樹林文化の道」 佐々木高明)


京都の祇園祭
山鉾は広い電車通りから麩屋町(ふやちょう)から富ノ小路あたりの狭い小路へあとからあとから曲がって行くのだった。それをキッカケのようにして群衆は散り、一時はずしてあった電車の架線をまた釣って、間もなく電車が通るようになる。東京だったら、こう無事故で、こう短時間で済むまいと思う。いつも都踊を見るたびに、見物の出し入れのうまいのに関心するが、ああいううまさと言うか、訓練と言うか、そうしたものと何か関連があるように思う。やっぱり東京よりは文化の度が高いのだと思う。神田明神のお練りと来たら、時間的に言っても距離的に言ってもこんな短いものではなかった。前にも言ったように、囃子も血も沸かさせるようなリズムを含んでい、あの掛け声も「ヨーサのホーサ」式にノンビリとしていない。何か喧嘩の前奏曲−強いて言えば、そう言ったようなものが含まれている。しかし、最後的には、東京の人間は文化の度が低く、物に溺れ易く、京都の人のように切り上げ時を知らないのだと思う。私の見た範囲では、祇園祭に関係している人達で酒気を帯びていた人は一人も見掛けなかったように思う。長い伝統があって、一つの神事として敬虔な気持で取り行なうという心構えを未だに失っていないからであろう。神田祭ばかりでなく、東京のお祭にはそういう心構えは先ずない。遊びだ。そこに雲泥万里の相違が生じる根本的理由があるのだと思う。(「食いしん坊」 小島政二郎) 小島は、東京・下谷の生まれで、余り酒は飲めないそうです。


「手握り酒」と「酒骨」
江戸時代、酒粕は貴重な食べ物の一つであったので、これを今日のように「かす」と呼んで、良いところを取り去って後に残ったつまらぬものとか、「クズ」といたイメージの位置づけはしていなかった。であるから「手握り酒」(まだ十分にアルコール分があるし、液体でなく固体なのでこう呼んだ)とか、「酒骨」(魚も三枚に下ろせば中骨が残る。酒でも搾って残ったものは骨だという考えから付けられた)といった誠にもってイキな妙名を付けて呼んでいた。(「食あれば楽あり」 小泉武夫) ほんの少し味噌を混ぜ合わせた粕床に、ガーゼで包んだサバやアコウ(赤魚)を漬けたものを焼いて、ご飯のおかずにするとうまくて七転八倒するそうです。



賜与の易の字形が何を意味する形であるのか久しく疑問とされていたが、近年上海博物館に収集された徳鼎の銘などにその全形がみえ、それは酒を賜う形であることが知られた。従来所見の金文には、すべて省略形で書かれていたものである。文字には、はじめからそのような省略体のものを含んでいる。それは成立当時の文字が、すでに高度の抽象化されているものであることを示している。(「漢字百話」 白川静)
賜 形声。 音符は易(し)。易は賜のもとの字で、その形は右側に小さな把手がついている爵(酒器)の注ぎ口から酒杯に注ぐ形。注がれている酒もかかれている。−(「常用字解」 白川静)
易 会意。日と勿(ふつ)とを組み合わせた形。日(玉)がかがやいて、その光が放射する形を勿で示した。−(「常用字解」 白川静) 「賜」の易と、「易」とは違う字源なのですね。


高校生詩人
私もまた酒飲みであった。若い頃ほどではないが、今もなお酒を飲み、肝臓は保証しないとお医者さんに叱られている。もっとも、旧制高校でのコンパでは、ドブロクが主なものであった。このドブロクというものが曲者(くせもの)で、一升びんを持って汽車に乗りお互いに揺れていると、びんの中のドブロクが発酵し、口のコルクをはねとばして凄まじい勢いで吹き出したりしたものである。酒を飲むと、吐いたり逆立ちしたり妙なこともするが、突然に詩人になったりもする。私も高校時代、次のような和歌を作った。
 どぶろくの酸(す)きこそかなしよみがへるかのおもひでに酔(ゑ)ひ泣かむとす(「マンボウ人間博物館」 北杜夫)


あまほん(2)
長年のよしみによって、酒造会社の小売りを許してもらい、電話一本、小僧一人、店構えのない会員制の小売りは、といってももぐりの商いを始めた。これは、昭和十一年暮の新聞種になった。  酒仙・露伴博士の令嬢が酒店を経営  露伴博士の愛嬢、三橋あや子さん(三三)が、…夫君の幾之助氏と舛(ます)売の酒店を開いた。”結婚後九年になる奥さん業から街頭の出たんですよ”という。前掛姿で四合瓶一升瓶の瓶詰に大童(おおわらわ)だがさすが二ヶ月の訓練が板について来ている。  あやが前掛け姿で愛想を見せている写真には、談話もついているが、「…ブラブラしている生活よりも、引き締まってなんだか朗らかな気になっています」という言葉には、かえってつらい胸のうちがにじんでいまいか。そしてあやは、言葉通り、身を挺して働いた。四斗樽も、こつをおぼえて扱えるようになった。一升瓶もまとめて配達する。一度などは、ビルの五階へ六本一気に運びあげた。かつては露伴の娘、つい先だってまでは”あまほん”の御新造様だったが、こうなったら女人足でもなんでもいい。夕暮れ、配達の帰り、バスの窓から新聞社の電光ニュースが見えた。ロハン、と読めた。胸がとどろいた。大酒がたたっての脳溢血か。バスを降り無我夢中で引き返し、ニュースの繰り返しを待った。…ワガクニ、サイショノブンカクンショウと流れ出してきた。気を取り直して仕入先に行くと、若い者たちに、「大旦那様おめでとうございます。お祝い申しあげます」と口々に挨拶する。こんな時には、蕎麦でも菓子でもおごりたい。しかし、それが許されないふところを思わず押さえる。あやは、正に父のいった”洗うがごとき赤貧”の中にある自分に耐えた。父が文化勲章を受けた翌年の昭和十三年、いろいろとあった末、あやは、十年の結婚生活を協議の上解消し、家に戻った。(「明治人ものがたり」 森田誠吾) 


あまほん
しかし時満ちたのであろう。あやは結婚する。相手は、隅田川下流、新川の酒問屋”あまほん”(尼屋本店)の三男・三橋幾之助。江戸は新川の酒問屋といえば、「赤貧洗う」どころか、富商である。幾之助は三男だが、慶應義塾を卒業後、アメリカに渡り、商社で働いた経験もあり、今は、兄弟三人の合資会社の重役をつとめる。−
あや自身は元気だったが、”あまほん”という店の商いがおかしくなった。それであやも大変になったのである。大震災後の東京の市況は、無傷の関西に押されがちである。灘の蔵元を相手の新川の酒問屋も以前と同じ商法ではすまなくなった。だから一家をあげての建て直し、を口にはするものの、そうそう人の建て直しはきかないから、後手を引くばかりで日を送り、気のついた時には、大きな酒造会社に呑みこまれることになった。あやには、父親仕込の貧家の女房の勇気と知恵がある。しかし夫にはない。大様で、人当たりが柔らかくて、誰のいうこともよく聞くが、非常の時の男としては、弱すぎて、力不足で、いたわってやりたくなることもあるが、そんなことはしていられない。いろいろいやなことが起こるのは、夫のその弱さからなのだから、幼児(玉)をかかえる妻は、いいたくないこともいう。そのたびに、夫はともかく、あやが傷つく。そうなると、伝票一枚書くにも、レッテル一つ貼るにものんびりの夫に、いらだちがつのる。(「明治人ものがたり」 森田誠吾) 露伴と酒 


三鞭酒
いつぞや宮城検校のところで、人から貰つた、三鞭(シャンペン)酒が二本出て来た。しかし一本の方は中身が半分位しかなくて、飲みさしの様だから、これはどう云ふわけかと尋ねたら、去年とか一昨年とかの夜中に、検校が作曲の仕事に労(つか)れて二階から降りて来て、手さぐりでその壜を探し当てて飲んだのださうである。めくら探しでよく栓が抜けたものだと感心して、その時の模様を聞くと、鉄砲の様な音がして吃驚(びっくり)したけれど、中身は飲んだと云ふ話であつた。一どきには飲めないので、勿体ないから又栓をして、それ限り忘れてゐたが、もう飲めませんかと云ふので、それは駄目だらうと思ふから、女中に捨てさして、もう一本の方は今度私が来るから一緒に飲みませうと云ふ事にした。何日か後の夕方から出かけて行つたが、寒い晩なので、炬燵の上で御馳走をよばれた。それから三鞭を飲んで駄弁を弄してゐる内に、検校は足を炬燵に入れたまま、向うに横倒しになつて寝てしまつた。眠つてゐるのかと思つてゐたら、暫くすると三鞭のげろを吐いたので、家の人達から、私が余計な物を飲ましたと云ふ様な事を云はれて、閉口した。その時は前に大分お酒を飲んだ上だつたのでいけなかつたのだらうと思ふから、今度はさう云ふ事をしないで、もう一度更めて検校に然る可き三鞭酒を奉りたいものだと念願してゐる。(「御馳走帖」 内田百閨j 相手が悪かったようですが、宮城道雄は好きな割にはそれほど強くない酒飲みのタイプだったようですね。


自然と闘う
どのあたりにいるのかわからなくなった。しかも波はしだいに高くなる。ついに彼は死を引き受けることにした。家族にせめて自分の遺体を残すべく、彼は船倉にはいり、甲板に板を張って下から釘付けをしたのである。船を棺にしたのだ。私の知り合いの漁師は、友の遺骸と船を引き取りにいった。船は積丹半島に漂着していたのである。彼のせめてものもくろみは、うまく達成されたのである。「何が悲しいって、あんなに悲しかったことはなかったなあ。遺骸は別に送ったけど、船を積丹から礼文までひっぱってきたんだよ。すべて命あるものは死ぬからなあ」漁師はコップ酒を傾けながら、遠くを見る目つきをした。自然と闘って生きてきた人の深い翳りを見せてくれた。闘うならば、勝つこともあれば、負けることもある。北の海は恐ろしい。私は自然との最前線で生きている漁師が好きだ。北の海の恐ろしさと同時に、豊かさを知っている。生きるにはよい海だ。しかし、生きるためには、命をやりとりするほどの闘いをしなければならない、この話を聞いたのは、冬の漁師の家でだった。その浜には何軒か家があったのだが、その時には一軒しか残っていなかった。同居している母親や息子は、冬の間だけは人里にやる。漁師は奥さんと二人で家にいた。除雪されないので道路に車は通れず、孤立していたのだ。私は一升壜を二本さげ、雪を掻き分けて漁師を訪ねたのだった。私にしても、地吹雪の中を命懸けの歩行であった。漁師は前の浜でとった魚を山ほど用意してくれていた。私たちは暖かい薪ストーブにあたりながら一升酒をやったのだ。(「貧乏仲間」 立松和平)


江戸ッ子の正月
正月の初めは娯楽に乏しかったから、寺や社が賑わったのでしょう。だから、江戸の正月というものは、あまりおもしろいものじゃなかった。楽しみがなければ、酒でも飲むより仕方がない。これは家にいても、どこにいても、出来ることですから、めいめいの懐加減でよいほどに飲める。鼻の頭を犬に嘗(なま)められたり、膝っこを擦りむいたりするのが方々にいる。私の幼年の頃には、二三町も歩けば、四五人はおりました。酔っているから、酔ったはずみに喧嘩をする。この喧嘩がまた多うございました。これは、例の身上も軽ければ麻疹(はしか)も軽いという、気軽なベランメエ君が酔っ払うんだから、たまらない。たちまち喧嘩だ。この江戸ッ子が途方もなく買い被られておりますけれども、鼻息が荒いだけで、何もわかりゃしない。年中尻から下は開け放している、いわゆる半纏着(はんてんぎ)というやつで、その連中は、着物のことを長着(ながぎ)といっておりましたが、長着には一向に御無沙汰でありました。この着物なんぞ着たことのない手合が、飲んで酔っ払ってしまえば、喧嘩になる。一町行く間に、喧嘩の二つや三つないことはないくらいだったのです。これらがかえって、江戸の松の内気分、正月気分だったかもしれません。(「江戸の春秋」 三田村鳶魚) 鳶魚節ですね。


長谷川町子の逸話
人見知りが強く、恥ずかしがり屋なので、漫画家との交際も、ほとんどない。横山泰三、加藤芳郎らが、ある日、会合の帰り、突然、町子宅を訪れた。あわてふためきながら、ビールと、取り寄せた柳川鍋を饗した。彼らがお返しに町子を一流のバーに招待した。バーには生まれて一度も入ったことがない。出されたカクテルをレモンスカッシュと思い、かつ、グラスについていたマドラーをストローと勘違いし、口にくわえて吸い笑われた。(「百貌百言」 出久根達郎)


歳時記の句
年賀  年始帳 名までよろける いい機嫌  柳101
蛍狩り  ほたる見や 船頭酔て おぼつかな  芭蕉
八朔  八朔(はっさく)や かたびらさむし 酒酌(く)まむ  樗良(ちょら)
新酒  松風に 新酒を澄ます 山路かな  支考
富士見酒  上方の 高ね(高嶺、高値)に見える 富士見酒  柳78
餅焼く  餅を焼く 匂いで上戸 いとま乞い  柳20
興津要の「日本語おもしろ雑学歳時記」から拾った酒句です。


白川郷の濁酒祭り
元禄五年(一六九二)以降の幕領時代にいちじるしい重税がかけられ、囲炉裏の自在カギや組み障子にまで租税をかけたので、二百年以上の建物では俗に乞食障子という粗末な戸障子を用いている。このような食糧不足と重税の寒村で大家族をまかなうことは不可能なことで、分家となるべき若者たちは高山や富山方面に出かせぎに行き、年に一度の濁酒(どぶろく)祭りや報恩講のときに、散った一族の者が集まって来たという推測も一応成り立つのである。濁酒祭りは各集落ごとに八幡の社で十月中旬ごろ行れるふるまい酒で、他国者でもただ飲み勝手という開放的なお祭りである。酒税は免除されている。(注・近年は観光地としての白川郷に脱皮して祭りの催しも派手になり、隠棲の落人の里とは思えぬほどの大祭となった。昭和五十三年の濁酒祭りかの酒税は二九万一○○○円で、免税は昔の夢となった)(「味をたずねて」 柳原敏雄) 昭和40年出版の本のようです。


電気ブラン(2)
学生さん、そんなにぐいぐいやったあいけないよ。こいつぁねえ、ビールの合間にちびちびやるんだ、そうさなあ、小ジョッキがからになったとき、飲み終わるってえのが常道だ。浅草。雷門を吾妻橋に向かうと、左角に神谷バーがある。連日連夜超満員である。ご隠居さん、商店主、行員。OLの二人連れがいる。前掛けをしたおかみさんが、父ちゃんと差し向かいに座る。奥まったカウンターに、袖口から筋彫りをのぞかせた若い衆がいる。ジョッキを片手にくうっとやってから、左手で朝顔型の小さなグラスをひと口、じっくり味わう。この店の、というより浅草の名物、電気ブランである。茶色の、妙に甘くて、変にとろみがあって、薬草のにおいがする。奇っ怪な酒である。だれが決めたわけでもない。いつの間にか、そうやって飲むのが作法になった。ウィスキーの調子で飲むと、きまって近くにいる隠居ふうが注意する。うん、こいつぁ飲み過ぎると腰がしびれちまうんだ。ま、初めてなら二杯が限度だな。昔は三杯以上は売らなかった。アルコール度三〇度、グラス一杯が七○tである。ウィスキーに慣れた若者が、三杯や五杯でつぶれるとは思えない。なのに、客はしびれると信じ、事実、しびれてくる。(「下町」 朝日新聞東京本社社会部) バーの老舗 電気ブラン 


小袖高尾
子持高尾と仙台高尾と駄染(だぞめ)高尾と、ここに語る小袖高尾のあとさきは、判然しないままに書きとめておく。とにかく京町の、三浦屋の抱え娼妓であったことだけは、紛れもない。今でも芸者のハンカチなどを愛惜おかざる手合がある様子だが、昔も同じで、高尾と二三度馴染(なじ)んだ一遊蕩児が、高尾の着ている小袖をまきあげようという大それた望みを起した。欲しいものはくれというほかに、方法がないに拘わらず、この蕩児はくれといっても、高尾がくれないことをよく承知していたので、高尾のもとへ日頃出入りする太鼓医者の東庵に向って「なんとか名案はあるまいか」と談合した。東庵は横手を打ち、扇子をサッとひらいて、耳に口をよせ、二人の間に手筈が成立った。二三日して、十五日の紋日に、いつもの揚屋長兵衛方から高尾大夫を招き、東庵は客と高尾との献酬をしきりに斡旋した。客が、「昨夜の酒が、頭に残っているから」と辞退するのを抑えつけて、東庵は酌をした。その都度盃の酒がこぼれて、客の膝を濡らした。高尾は元来非常に物静かな女であったから、東庵と客が不自然にはしゃぐ様子を、興ざめ顔にながめていた。東庵は次第にテレてきたが、しかし乗りかかった船で、「ヤ、大層お召物が汚れましたな。これはとても召されますまい。大夫どのの小袖を一枚進ぜられませ」と切出すと高尾は落ちついて、鴇母(やりて)の万に命じ、宿から小袖の風呂敷包を取寄せた。それをひらくと、中から女物の浅黄の下着でなく、黒羽二重の石持(こくもち)のついた男物二枚襲(がさね)の小袖が、トロリと現れた。高尾は、客と東庵を七分三分の尻目にかけ、「あの、これを着替えなんし」と顎(あご)を軽くしゃくられたので、二人とも冷汗を流して降参した。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲)


マレンコフ、牧野信一、鈴木三重吉
 マレンコフという人民派の作家はつねづね「人民は愛すべきものだ」と情熱をこめていった。しかし、酔っぱらった町人がぬかるみにはまって困っていても助けようとせず「あんな奴をかいほうすればぼくのオーヴァシューズがだいなしになるよ」
 「心象風景」の作者牧野信一は、もろもろの奇行で有名だが、あるとき三好達治と酒を飲んで論議をし,なぐり合いをした。牧野は三好をなぐりながら怒鳴って曰く「やい達治、おれの打ち方には人情がこもっているが、お前の打ち方には人情がないぞ」
 大学を出ると鈴木三重吉は成田中学の先生になった。さびしい田舎町でこれから味気なく過ごすのかと思うとたまらず、酒を飲みにゆき、芸者を上げて青春に別離の宴だとドンチャンさわぎをした。翌朝校長のところに挨拶にゆくと、校長は不機嫌な顔で、「昨夜、どこかの馬鹿者がドンチャンさわぎで、眠れなかったよ」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎)


手術後の酒
それから、疎開をしたら、そこが酒のあるところで、散々飲み、戦後帰京したら、ヤミ酒というものがあり、座談会酒というものがあり、カストリの害を蒙らなくても、ついに胃潰瘍手術というところでへ、漕ぎつけてしまった。しかし、主治医の田崎博士という人が、癒(なお)ったら、酒は飲んでもいいという。病後の静養に、湯河原へ行っている間に、造血のために、キナ鉄ブドー酒を飲んだのが、キッカケで、また、飲み始めた。始めは、酒と水と半々にして、おカンをしたが、これが甘露の味だった。金魚酒なんて、料理屋で出されれば、腹が立つが、自分でこしらえると、別の趣がある。いつか、水を割らぬ酒に復旧し、今日に至っているが、さすがに、あの手術を転機として、飲み振りが、変わってきた。もう、私は泥酔するまで、飲まなくなった。飲めなくなったのであろう。泥酔の歓喜や、翌日の慚愧(ざんき)後悔は、高い山と深い谷で、燃ゆる血があって、跋渉(ばっしょう)できる。体のことを考える前に、燃ゆる血の欠乏で、泥酔が覚束(おぼつか)なくなった。手製のアペリチーフ一杯に、日本酒二陶。この辺が今の私の常量であり、飲めばたちまち眠くなって、テレビを見るのも億劫になる。飲めばたちまち外出がしたくなって、苦心惨憺の口実を女房の前につくったのも、はかない夢である。人間、そうは飲みきれないものだと、ツクヅク考えるのである。(「わが酒史」 獅子文六)


俳句の手習
酒をあしらってちょっと手習いしてみよう。
 屋台酒チトひっかけて蛙(帰る)かな
  (残業が終わって、いったんはまっすぐ家に帰ろうと思ったのに屋台の赤提灯が目について)
 酒の上栄螺(サザエ 些細)なことで逆上し
  (大日本酒乱の会会員)
 燃えたあとビールでぐっとヒヤシンス
 ウオツカのがぶ飲みをして腹河鹿(かじか 火事か)
  (いけませんね。そんな飲み方は、胃潰瘍の因ですよ)(ジョーク雑学大百科」 塩田丸男)
よい(酔い)俳句飲んでツクネばへのカッパ といったところでしょうか。


飲みながらの鉄斎
宝塚の清荒神に日本一の鉄斎の大蒐集があるという事は、かねてから聞いていた。片っぱしからみんな見たらさぞいい気持になるだろう。そんなことをしきりに空想していたが、間もなく、阪本さんの御好意で空想が実現できた。私は、そこで、毎日朝から晩まで坐り通し、夜は広間の周囲に好きな幅を廻らし、睡くなるまで酒を呑み、一切を忘れてただ見ていた。ここには何しろバラの扇面だけでも柳行李(やなぎごうり)にいっぱいある始末だから、とてもみんな見きれなかったが、それでも四日間に二百五十点ほど見た。帰りに京都の富岡家に寄り、そこでも二日続けて見せていただき、汽車に乗るとさすがに鉄斎はもうたくさんという気がした。(「真贋」 小林秀雄) 小林の酒は余りよいものではなかったようですが、酔眼での鑑識はどんなものだったのでしょうか。


「伎楽面」展示解説
N-223:伎楽面 酔胡従(すいこじゅう):
 酔胡(すいこ)とは酔っ払った西域の人を意味する。伎楽(ぎがく)では酔胡王(すいこおう)に従って6〜8人の酔胡従すいこじゅう)がふらふらと現れたらしい。泣く者、怒る者、口から息を吹き出すものなど表情はさまざまであるが、この面は機嫌よく笑っており、鼻が長く、肌は赤く塗られている。
N-231:酔胡面 酔胡王(すいこおう):
 酔胡(すいこ)とは酔っ払った西域の人を意味する。酔胡王(すいこおう)はその王様で、6〜8人の従者を従えてふらふらと現れたらしい。冠(かむり)をかぶり、鼻が長く、眉(まゆ)をややひそめている。(東京国立博物館法隆寺宝物館配布パンフレット) たまたま伎楽面室があいていましたので、しつこいですが…。展示伎楽面32の内、2面が酔胡王、10面が酔胡従でした。 伎楽での酔胡王と酔胡従 伎楽面

           
           酔胡王 N-223      酔胡従 N-231


酒の肴
酒の肴といった場合、食物だけでなく酒興を添える話題言動をさすことが多いのだが、こうした比喩的用法は、以外と早くからはじまっている。中世の物語『とはずがたり』(十四世紀初)に、酒席での歌舞を「御さかな」としるしており、中世末−近世には、「肴舞(さかなまい)」「肴浄瑠璃(さかなじょうるり)」とのいい方も出てくる。もうひとつつけ加えると、<肴>との文字面(もじづら)から私などは自然と魚類を連想する。しかしこの漢字自体は爻(骨)と月(肉)の合わさった形で、どちらかといえばスペアリブなどの獣肉の面影が強い。同じ字でも、日中双方の食習慣の違いが印象をも変えてしまうのだろう。(「ことばの散歩道」 阪下圭八)


秦氏
通説に従えば、秦(はた)氏の祖は秦の始皇帝の後裔と称する弓月君(ゆづきのきみ)で、応神天皇のときに、漢氏の祖の阿知作主(あちのおみ)より一足さきに、百数十県という多数の人民を率いて来朝し、養蚕・機織の業を以て朝廷に仕えた。秦氏のハタは従つて機織のハタの意である。そののち秦の民は各地に分散して諸豪族の所有に帰していたが、雄略天皇のときにこれを集めて秦酒公(さけのきみ)に与えたので、それから秦氏は大いに発展し、絹・綿・糸の生産に従事する全国的な多数の部民(秦部・秦人部)を従え、非常な、経済的な実力を蓄えたうえ、政治的、社会的にも秦氏にまさるほどの勢力を持つようになつた、ということになつている。ところがこの秦氏の歴史は、記・紀・古語拾遺・姓氏録などの記録を、そのまま認めて構成したもので、少し批判的な眼で見れば、いくらでも疑うことができる。−
京都盆地では、鴨川・桂川にわたる氾濫平野の開拓の主力となり、同地方に確固たる地方勢力を築いて、加茂・松尾・稲荷などの神社と深い関係を持つようになった。加茂神社では、鴨氏が秦氏の婿になったので、秦氏が禰宜(ねぎ)となつて祭を行うことになつたといい(秦氏本系帳)、松尾神社では大宝元年(七○一)に川辺腹の秦忌寸都理(はたのいみきとり)が日埼の岑(みね)から松尾に勧請して、子孫代々その祝(はふり)となつたといい−
他の帰化人の氏とくらべて、秦氏の特徴は在地的ということであろう。それは秦部の技術が一般化して、そう珍しいものでなくなり、糸・綿・絹の貢納が普通の農民にも広く課せられるようになつたため、その伴造(とものみやつこ)としての秦氏の存在意義が薄くなつたことが、一番大きな理由ではないかと思われる。(同)−(「帰化人」 関晃 昭和31年刊) それにしても、酒公という名前は大変気になりますね。 松尾神社 


<スナック・M>のメニューの一部
ビール(中ビン) 250   清酒(1級) 200   ウイスキー(白札) 200   ウイスキー(角) 250  
ウイスキー(オールド) 300   ブランデー(VSO) 300   カクテル 250〜300  
やきめし 250   お茶づけ 250   酒のさかな(各種) 150〜300  コーヒー 500   紅茶・ミルク 150  
ボトル  清酒1升 2000  白札 2200  角 3000  オールド 3500  焼酎1升 1500(「酒場の社会学」 高田公理) 昭和48年7月現在の価格だそうです。


酒の語源説
@シルケ(汁食)の転。上代、酒は濁酒であったので食物に属した<稜威言別いつのことわさ>。また、サは発語、ケはキ(酒)の転か<大言海>。
A米を醸してスマ(清)したケ(食)の意で、スミケ(清食)の義か<雅言考>。
Bスミキ(澄酒)の約<和訓集説>。
Cおもに神饌に供する目的で調進されたんものであるところから、サケ(栄饌)の転<日本古語辞典=松岡静雄>。
Dサケ(早饌)の義<言元梯>。
Eサカエ(栄)の義<仙覚抄・東雅・箋注和名抄・名言通・和訓栞・柴門和語類集>。
F飲むと心が栄えるところからサカミヅ(栄水)の下略サカの転<古事記伝>。
G風寒邪気をさけるところから、サケ(避)の義<日本釈名>。また、暴飲すれば害となるのでトホサケル(遠)意からか<志不可起しぶがき>。
Hサは真の義<三樹考>。
Iサラリと気持がよくなるところから、サラリ気の義<本朝辞源=宇田甘冥>。
J本式の酒献は三献であるところから、「三献」を和訓してサケといったもの<南留別志なるべし・夏山雑談>。
K飲めば心のサク(咲・開)ものからサカ(酒)が生じ、イが関与してサケとなったもの<続上代特殊仮名音義=森重敏>。
L「酢」の音Sakが国語化したもの<日本語原考=与謝野寛>。(「日本語源大辞典」 前田富祺監修)


ゴードンの客
こういったマダムとのつき合いのうち、ぼくは二夜とあげず「ゴードン」へたいてい看板に近い頃、顔を出して飲んでいたが、連載、単発常に文芸雑誌に作品を発表している小説家が、かなり酩酊状態で居座り、マダムに訊くと、飲んでいなければ筆の進まない作家も少なくないらしい。三人の名を挙げ「酔っ払っちゃいないわけか」「酔っていらっしゃるのよ、正気でなんて書けないって」その作品は、多くないが発表されると必ず話題になっていた。武田泰淳もその一人、関西の富士正晴、四十年春、一躍「剣ケ崎」で文名を高からしめた立原正秋は、執筆中盃を離さないと、これはぼくも聞いている。(「文壇」 野坂昭如)


大酒大食の会
文化十四年丙丑三月廿三日、両国柳橋万屋八郎兵衛方にて、大酒大食の会興業、連中の内稀人の分書抜
酒組
一、三升入盃にて三盃 小田原町 堺屋忠蔵 丑六十八
一、同六盃半 芝口 鯉屋利兵衛 三十
   其座に倒れ、余程の間休息し、目を覚し茶碗にて水十七盃飲む。
一、五升入丼鉢にて壱盃半 小石川春日町 天堀屋七右衛門 七十三
  直ちに帰り、聖堂の土手に倒れ、朝七時迄打臥す。
一、五合入盃にて十壱盃 本所石原町 美濃屋儀兵衛 五十一
  跡にて五大力をうたひ、茶を十四盃飲む。
一、三合入にて弐拾七盃 金杉 伊勢屋伝兵衛 四十七
  跡にて飯三盃、茶九盃、じんくを踊る。
一、壱升入にて四盃 山の手 藩中之人 六十三
  跡にて東西の謡をうたひ、一礼して直にかへる。
一、三升入にて三盃半 明屋敷の者
   跡にて少の間倒れ目を覚し、砂糖湯を茶碗にて、七盃飲む。
右之外酒連、三四十人計(ばか)り有之(これあり)候へども、二三升位のもの故(ゆえ)不記之(これをきさず)。(「兎園小説」 滝沢馬琴) 有名な一節ですね。このあと、菓子組、飯組、蕎麦組並んでいます。 江戸の酒(鯉屋利兵衛は1斗9升5合となります。私は小泉のいうように、必ずしもかなり薄い酒ではなかったような気がします。もっとも江戸の話というのはだまされないようによほど注意して読まなければいけませんが。)


酒一合を梨にてのむ
御守殿という旅舎に入る。白梅の五匁を女中に注文す。コヅメという。小詰の意ならん。亀の湯と号し、湯殿に亀のつくりものあり、その口より湯を吐く。膳の上は、さしみ、ひたしもの、お椀(魚肉、松茸) 親子煮、ビフテキ、香の物 なり、酒一合を梨にてのむ。芸者をよぶ、「一力」という十六歳の妓、まずい容姿なり。(「石瓦混淆」 長谷川伸) 「酒一合を梨にてのむ」の「梨」とは何でしょう。ご存じの方は是非教えて下さい。


ブーブ・ポメリー
昔、フランスに、ブーブ・ポメリーという奇夫人がいた。旦那のポメリー氏は羊毛が本業だったが、道楽に葡萄酒を扱っていた。彼は一種の潔癖家で、非沸騰性の赤葡萄酒の樽詰ばかりを愛用し、沸騰性のシャンペン酒はこれを忌避していた。夫人は、その反対の意見を持っていたけれども、ポメリー氏の生きている間は、黒葡萄酒から白葡萄酒を造ったり、炭酸ガスを含有させたりするのは、天を冒涜するものだという亭主の信念をくつがえすことはできなかった。一八五○年、旦那が死んでから、その本領を発揮したのである。そして葡萄酒とシャンペン酒の女王に飛躍したのであった。まったく、女は怖い。彼女は亭主の死ぬのを待っていたのではあるまいが、旦那の酒童が、たぶん、宇野と同様飲みすぎの胃潰瘍かなにかで他界すると、たちまち、その辣腕をふるいはじめた。(「酒童(しゅっぱ)伝) 火野葦平)


大神と池田の悪口の応酬
(一)寺々の 女餓鬼(めがき)申さく 大神(おおみわ)の 男餓鬼(おがき)賜(たば)りて その子産はまむ (池田朝臣某)
(二)仏造る 真朱(まそほ)足(た)らずは 水溜(た)まる 池田の朝臣(あそ)が 鼻の上を掘れ (大神(おおみわ)朝臣奥守(おきもり))
(一)(二)で問答の体をなし、いずれも相手の名をよみこみ嘲笑しあった歌だ。それぞれ、大神某はやせっぽち、池田某が赤鼻で聞こえていたのだろう。そこで諸寺にある餓鬼の像にかこつけ、あんたと似合いの女餓鬼が所望(しょもう)、やせを頂(いただ)きその子を産みたい、とまず池田朝臣が鉾先(ほこさき)をむければ、仏の真朱(赤い色の辰砂、金属仏にメッキする)の不足とあらばそっちの鼻を掘るがよいと大神朝臣もやり返す。およそ優雅をむねとする後世の和歌からは考えられない悪罵の応酬である。(「ことばの散歩道」 阪下圭八) 万葉集です。大神(おおみわ)は、酒の神の三輪神社に縁がある姓なのでしょうか、赤鼻ももちろん酒と縁がありますね。


納戸の冷酒
夜中の二時ごろ仕事を終って、ビールの小びんをのみはじめる。小びんでなくてはいけない、というのではないが、習慣で、そうなっている。肴は、大たい五種類ぐらい盆にならぶ。ビールをのみはじめると、二本が三本、三本が四本、まあ六本ぐらいで納まるときもあるが、このごろは悪い癖がついた。ビールだけでは足りなくなって、家人が風呂へ入っている隙をうかがい、階下の納戸へ忍び込み、冷酒を湯呑み一ぱい入れてくる。しかし、これは必ず家人に発見される。食事のお菜や、ビールの肴に、文句はつけないほうだが、どうも、うにだけは苦手で、いまだにいけない。食わず嫌い、というのではなく、何べん口に入れても駄目なのだから、仕方がない。そのくせ、塩辛、このわたなどは好きだし、前世でうにと何やら悪因縁があったのかも知れない。(「六本木随筆」 村上元三)


酔っぱらいのコント
小学4年生の時、運送屋をやっているけっこう金持ちの家の息子がいたけど、そいつの家に遊びに行ったらレコードがあって、その中に柳家金語楼さんの落語があった。金語楼さんが落語をしている姿は見たこともなかったけど、レコードを聞いているうちにおもしろいと思ったんだろう。2人でこれをやろうって話になって、学級会みたいなところで、コントっぽくして、やって見せた。たしか酔っぱらいの話で、どうやってコントにしたかは忘れたけど、それをやったことだけはしっかりと覚えている。それが僕の本当の初舞台だった。今も酔っぱらいのコントをやるのは大好きだけど、不思議なことに僕のお笑い人生の始まりも、やっぱり酔っぱらいのコントからだった。(「変なおじさん 完全版」 志村けん)


イーストの入る工程がない
中尾 米のめしは乳酸発酵しやすいものなんです。日本酒のつくり方でイーストの入る工程は旧法ではないのです。日本酒をつくるときデンプンを糖化するのはコウジでやるわけです。糖化したデンプンをこんどはイーストを入れてアルコール発酵させるわけで、そのイーストというのは売り物はいまはあるけれども、昔のつくり方じゃない。イーストをどこから入れるか。糖化したやつを酒蔵の中であたためてかき回している。そうするとまず乳酸発酵が起きる。それぐらい乳酸発酵は米に起きやすい。そしてすっぱくなる。それで雑菌のそれ以上の繁殖を止めている。そのうちに蔵の中にゴミになっているイースト菌が入ってくる。それがふえてくるんで、ぼくははじめ日本酒のつくり方を読んでどうしてもイースト菌が入る工程があらへんので不思議だ、不思議だと思った。それでイースト菌を入れないということがいまのアジアのコウジからつくる酒には共通している。コウジを糖化するところだけがある。  吉良 森の中にイーストがたくさんいるということですね。事実いるんです。  中尾 もちろんそのコウジにイースト菌が相当まじっていることもあるし、それからいま言ったように糖化の工程と発酵の工程と二段になるでしょう。それを一段でやるような菌をさがし出さなあかん。それはなんとベトナムからさがし出された。そいつが日本の戦争中にアルコールづくりをやったサツマイモのアミロ法で、あれはデンプンからアルコールを取る一番能率のいい技術になっている。ベトナムの菌です。(「照葉樹林文化」 上山春平編)中尾は栽培植物学と遺伝育種学の中尾佐助、吉良は植物生態学の吉良竜夫です。もちろんイースト菌は、酵母菌のことです。


柳家小三治
実はね、お酒も実は好きなんですよ。お酒も。だけど酒飲みではないんです。何かあれば飲むこともあります。うちにもあります。お客さんがきたときに。何でもあります。泡盛でもブランデーでもワインでも。でも、夜寝るときになって、それをちびちび飲んで寝ようなんていうのはまるっきりありません。自分一人でうちにいてのむなんてことは、絶対といっていいぐらいありません。ですが、お酒の味は好きなんです。ちゃんとおぼえてます。ですから、たとえば「越之寒梅」なんか新潟のほうへいって飲まされますと、おや?これァ最初のころに飲んだ「越之寒梅」と違うんじゃないの?これ、このごろなんかあやしいよね(笑)、なんてね、そういうことが好きなんです(笑)(「ま・く・ら」 柳家小三治)


ザ・ガードマン
昭和四十年四月にスタートしたテレビドラマ「ザ・ガードマン」は、その後七年間、三百五十回にわたって放送された長寿番組ですが、このドラマのなかには、一度として酔っぱらいの犯人や悪人が登場しませんでした。これは、番組のスポンサーが大手洋酒メーカーのサントリーであったためで、酔っぱらいを悪く描くことがタブーとされていたからです。なお、台本上のセリフにも気をつかい、「酔った席での争い」とか、「酔いにまかせて…」といったものは、すべてカットされたそうです。(「雑学面白百科 」 小松左京・監修)


黒眼鏡
ところが今度、叔父が酔払って親父の死んだときの話をしてくれて、これは興味をもって聞くことができた。亡父のエイスケは二十三、四歳で小説を書くことを一切やめて、それ以降は兜町に事務所を持って本格的に株屋をやっていたらしい。二十三歳で心筋梗塞で急死した。その通夜のときに、「東京では、半通夜というのがあるそうですから、これで…」と、叔父が口上を述べて、通夜の客がみんな引揚げた。そのあと、兜町の連中が、ちょうど夏だったので、揃いのゆかたに着替えて、帯を横に結んで一団になって戻ってきたそうである。帯を横に結ぶのは粋(いき)だということになっている。で、飲めや歌えのドンチャン騒ぎで夜を明かしたのだが、叔父貴も騒ぐのは嫌いでなく、一緒に徹夜で飲んだ。翌日、火葬場にたどりついたときには、もうフラフラになっていた。待合室で椅子を並べて、その上にひっくり返って寝ていたそうである。骨を拾いにきてくれた人たちが、それを見て、「さすがに兄弟ともなると、よっぽど悲しみが深いらしい。ホラ、立っていられなくて、グッタリと横になっていますよ」と話し合っているのが、二日酔いでぶっ倒れている黒眼鏡の耳に入ったという。(「悪友のすすめ」 吉行淳之介)


ただし五合以上飲める人
土佐の酒も何種類かあるが、一般におこなわれている地酒は辛口でさらりとしている。コハク色というあの色も土佐人の好みに適(あ)わないために脱(ぬ)かれていて、ビールのグラスに満たすと、ショウチュウのように透明である。熱く燗をしても日本酒特有のにおいが鼻に来ず、指を濡らしてもべとつかず、翌日頭に残ることもない。「仲居さん募集」などと、飲み屋街を歩くと、店さきにそんな紙がぶらさがっているが、ときに、「ただし五合以上飲める人」などという条件がついていたりする。土佐は女でも大したものだと思うが、しかしこの酒なら、私のように素人酒でも五合ぐらいは楽に飲めるようである。(「古往今来」 司馬遼太郎)


ワインのぬる燗
従ってまた、われわれは余りにも詰らないことに憤慨すべきでない、ということになる。下男がのろまだとか、酒の燗が生ぬるいとか、、机がぞんざいにおかれているとか、こういうことに腹を立てるのは正気の沙汰ではない。
 直訳すれば「ぶどう酒を飲もうとするのに(交ぜる)湯が温(ぬる)めだ」となる。一世紀のローマの風刺詩人マルティリアス『短詩集』によれば、当時は、ぶどう酒を湯で割って飲むことがよくあった。(「怒りについて」 セネカ)


蛙声会
京の雨は総じて静かに、まっすぐに降ると言われ、とりわけ東山一帯は風がないのか、しとしとと美しく降りそそぎます。そして、このあたりから小松谷へかけて東山ガエルの名所でもあります。小松の朝臣と呼ばれた平重盛は、知性の高い武人であったらしく、風流をも解し、全国各地の鳴き声の良いカエルを集めて楽しまれたそうです。その末裔が今もって住みつき、知る人ぞ知るの遠音に盃をあげ、蛙声会(あせいかい)という梅雨のころに美声を楽しむ会があり、京都らしい浮世離れの会だと言って喜んでおられます。(「包丁余話」 辻嘉一)


末広鉄腸
鉄腸末広重恭は、伊予宇和島の生れ、この年二十八歳である。早く父母を失ひ、姉に育てられ、十五歳の時宇和島藩の藩校に入学し、学問が抜群であつたので、二十一歳で藩校の教授になつた。その学問は陽明学系の漢学である。二十四歳になつた明治五年、東京に出て大蔵省の官吏となつた。明治八年、彼は「東京曙新聞」の主筆となり、入獄後、「朝野」に転じた。その漢文系の文章は雄壮で甚だ力に満ち、入社早々、朝野にあつて顕著な地位を得た。末広は酒が好きであつたので、柳北は戯れに、おれは下戸局長で末広が上戸局長だ、と言つて末広を重んじた。柳北は前から胃腸を患つてゐたが、後次第に肺を病むやうになり、酒を断つてゐた。末広は、「朝野」に入つてすぐ、再び政府を攻撃して入獄したのである。鍛冶橋監獄に八ヶ月入つてゐる間に末広は独習書によつて英語を学んだ。(「日本文壇史」 伊藤整) 朝野は、「朝野新聞」で、柳北は、朝野新聞を発刊した成島柳北です。


橘家蔵之助
大阪に橘家蔵之助という、こりゃァあたくしの兄弟弟子ですが。あたくしが義太夫を語っている時分にこの蔵之助という人が師匠の弟子となりまして、みんなが酒屋、酒屋といっていましたが…酒屋っていうのは酒屋かなにかに奉公していたんでしょう。噺をやって、そのあとで桃中軒雲右衛門というその当時から売り出しました、浪曲でございますが…浪花節(なにわぶし)と云った時代です。この人は、もうたいへんな宣伝をして、大きな劇場をあける、えらい人気があったもんで。その雲右衛門の真似をするんですが声も良く、なかなかその物真似がうまいんですよ。この蔵之助が前座で、ちょいとその楽屋でやったんで。「お、雲右衛門は上手(うま)いじゃないか。高座で演(や)ったって客はうけるから。ちょいと演ってみろよ」なんてンで…。「そうですか」なんてンで。前座にあがって噺(はなし)をして、そのあとで演りましたが、そうするとなるほど、上手いから客は前座でも、わァッと手を叩いてくれるというわけで。この人は長くはいなかたった。(「江戸散歩」 三遊亭圓生(六代目))


七月二十一日(日)
今朝は六時過まで何も知らずに熟睡した。起きて見ると今日はいゝ天気である。実に久し振りの事だ。海は大きなうねりのやうなものがあるけれども兎に角静かである。例の通八時半の自動車で出勤。今日は当直である。内御着帯式(うちごちゃくたいしき)が十時からお有りなので午前の海上御出ましはない。御式後、宮内大臣、侍従長、皇后宮大夫、侍医頭、武官長等の拝謁。皇太后宮よりも清水谷権典侍(ごんのてんじ)御使。午食は虎屋の御赤飯、御煮しめに惣花一本を賜はる。おいしいので沢山頂戴する。(「入江相政日記」 入江為年監修) 昭和10年の日記です。日本盛鰍フ惣花が使われている資料の一つですね。


江戸英雄
このころ山菜も楽しめる。山うどの生、たらの芽のてんぷらなど、天下の珍味だ。野鳥の声、清澄な空気、うまい水、若葉のかおり、野趣豊かな山菜、腹もよくすく、よくねむれる。ふた晩も泊ると俗務と街の騒音に疲れ切った心身が洗われたようにすっきりする。同好の友と夕べの探鳥のあと、アカハラのこえをききながら一杯やったときの私の腰折れ。
 湧く水に冷やす地酒の肴には山ふき山うど芹わらびなど (「探鳥」)−
趣味は前々から釣と百姓仕事に限り、ゴルフは敬遠していたが、友人の切なるすすめで、業務用として五年前から始め、週一回くらいはやっている。やってみると結構面白く、健康にも至極いいと思っている。煙草は全然のまないが、酒は三、四合のむ。ドック入りの結果、日野原先生のご注意でいまは一、二合にへらした。(「私のカルテ」) (「すしやの証文」 江戸英雄)


虚空への通い路
面白いもので、東京で酒を飲むと、つい下を見る、足許(あしもと)を見る、地面を見てしまう。大阪で飲むと、人間の、相手の顔を見てしまう。そこでつい惚れッぽくなる。九州で飲むと、何と、空を見る、空行く雲を見る。この分じゃ沖縄あたりで飲んだら上を見すぎて、引ッくり返ってしまうかもしれない。しかし酒を飲み進めて行くと、まず土地が消え、次に人が消え、最後に自分までもどこかへ消え失せて、自他の別なき虚空のみが残るらしい。酒は虚空への通い路か。(「言いたいことばかり」 高橋義孝)


フグのヒレ酒の好み
ヒレ酒というものがありますね。谷崎潤一郎さんが阪神間に住んでおられたころ、神戸の飲み屋で先生をよく見かけた人に聞きますと、この大文豪、店に入りますと、フトコロからやおら小さな紙包みを取り出して、板前さんに渡したそうです。紙包みのなかにはフグのヒレが入っていて、それでヒレ酒を作って差し上げたのです。ヒレ酒は酒好きの夫も試みたことがありますが、たしかにからだがあたたまるのですが、じつになまぐさいものです。フカノヒレの料理にしても、どんなにうまく処理されても、根はなまぐさいものであることに変わりはありません。(「美味方丈記」 陳舜臣・錦「土敦」)


無筆
親父は、息子が字がうまいというわけで、自慢してつれて歩く。あるところで、大きい字を書いてくださいという注文で、何の苦もなく、紙いっぱいに書いて見せた。「いやこれはよく出来ました。しかもこれは親父様の大好物の字じゃ」とほめたので、親父は顔を赤くして、うちへ帰り、「やいせがれめ。人様の前で、書く字も多かろうに、あんな字を書きおって、親に恥をかかせることがあるか」「あれは酒という字でござります」親父、にっこり笑って、「そうか。おらあ、女房のことでも書いたかと思った「−滑稽本『室の梅』(「話のたね」 池田弥三郎)


一般人名語録
「新体操の女の子を座視に呼んで、酒なんか飲みながらみたいね」
「あの人さァ、ウチの店に飲みに来たことなんか、一度もないのよ。それなのにあの人が死んだからって、どうして自粛しなきゃいけないの?」
「酒の量でしか気持ちを表せない人間もいるってことをわかれよ、ウィ−」
「酔っぱらいというものは、あれは、ばかでございます」(「一般人名語録」 永六輔)


カギはイメチェン
カリフォルニア州都のサクラメント近郊。すしレストラン「みくに」に、夕方からぞろぞろと人が集まってきた。日本の「桃川」を売りさばくジャパン・アメリカ飲料(オレゴン州フォレストグローブ)がセットしたサケセミナーだ。会費二十五ドル。あえて「冷や」しか出さない点がユニークな会だ。セールスマネージャーの高見広久さん(四三)が、数種類の冷やした「桃川」を手に説明を始めた。「これは吟醸酒といって、米を五○%削って造った高級酒。これはドライタイプ、これはにごり酒で、粗いフィルターしか通さないから色はミルキーでしょ」七十人の参加者は、うなずきながらじっくりと味を確かめる。ワインのテースティングをよく行くケン・ベネビデスさん(三○)と妻のクリスさん(二九)は「ワインは食事との相性を気にするが、サケはそれ自体で味わうんですね。飲むにつれて違いがわかってくる。勉強しました。でも、一銘柄でこんなに多種類の味があるとは…」と、顔を見合わせた。ジェリー・サイデンさんは「冷やは初めて。スムーズでドライ。これからは冷や党になるぞ」とグラスをかざす。(「海のかなたに蔵元があった」 石田信夫) 極熱のホット・サケがアメリカで変わりつつあるレポートです。出版は'97年です。


牡蠣
百箇以上は喰って、かなり満足したはずなのに、牡蠣とは消化のいいものである。船をおり、仙台にむけて車を走らせている途中で、まだ少々食べ足りなかったような気持になり、こんどは仙台市の目抜き通りにある「かき徳」に入ってみた。仙台で一流の牡蠣専門店で、出てきた料理はまことに洒落ていた。店構えに金をかけぬところのほうが、ほんとうに美味しいものを食わせるという鉄則は、仙台ではまだ生きているらしい。かたく蓋を閉ざした、生きている牡蠣を、ガス・コンロの網の上に置く。殻が焼けてしきりに弾(は)ぜ、やがて蓋との合わせ目から白い泡があふれて、炎にしたたる。そこでフォークをさしこんでこじあけ、身を塩からい汁ごと、唇を火傷せぬように吹きながらすすりこむのである。何の味もつけず、塩さえふりかけないのに、この自然の塩気だけの味は絶妙で、ぼくはまたしてもたちまち数十箇を胃袋におさめてしまった。もちろん銚子も、また何本かは倒している。さすがにこのあと出た牡蠣の土手鍋は、二つ三つつまんだだけで止したが、考えてみると今日は昼ごろから夜まで、牡蠣ばかり喰いづめに喰っていたのである。酒も一升以上は飲んでいたろうか。(「美味めぐり」 宇能鴻一郎)宇能はフランス人の胃袋をもっているようですね。


白鳥(と主人)
白鳥たちは死際(しにぎわ)に歌うということです。ところで或る人が白鳥の売られているところに来あわせて、非常に美しい声を持っている動物であることを聞いて買いました。そして或る日、酒盛りを催す時、傍(かたわら)近くやってきて、飲んでいるあいだ白鳥に歌を歌うように勧めてみました。しかし白鳥はその時には黙っていましたが、その後或る時やがて死ぬことを覚ったので、身の上を嘆きながら歌いましたから、その主人はそれを聞いて言いました。「そうだ、もしお前が死ぬ時でなければ歌わないのなら、わしは間抜けだったのだ、あの時お前に勧めはしたが、生贄(いけにえ)にしようとはしなかったのだから」こういう風に、人間のうちにも自ら進んで施そうとしないことを、いやいやながらなしとげる人があるものです。(「イソップ寓話集」 山本光雄訳)


小田島雄志
 小田島雄志(おだしまゆうし)が新宿でのんでいる時、「やア、コミさん」と挨拶された。田中小実昌とまちがえられたらしい。そこで、「ぼくは小実昌の弟です」といったが、先方は「うそつけ、わかってるんだ」という。結局その酔漢は最後まで、そう思い込み、満足して出ていった。小田島は俳優の演技がわかったという。つまり、その夜は、結局コミさんを演じてしまったのだ。
 小田島雄志とは十数年来の飲み友達だが、酔って酒席で居ねむりしたのをみたことがない。じつは寝てくれたら、こういうつもりなのだが。「雄志ここに眠れるか」(「最後のちょっといい話」 戸板康二)


2000年の日本酒
1年間に出荷される日本酒は101万kl、焼酎は77万2000klである。ビールなどを含めたアルコール全体では1010万3000klであることから、日本酒のシェアは10.1%。ちなみにビールは55.4%を占める。こおれを1.8lの大ビンに換算すると、日本人のおとな1人は、1年間で日本酒を5.6本、焼酎を4.2本飲んでいることになる。(数字はいずれも2000年)ただし、日本酒はピークだった1975年当時は236万klの出荷だったことからこの四半世紀で半分以下になったことになる。蔵元も3000以上あったのが1700を切っている。長期低落傾向にあるわけだが、それでも特定名称酒と呼ばれる”吟醸酒””大吟醸酒”といった差別化商品もあって下落幅は小さくなってきている。
月桂冠(京都、「月桂冠」「大吟醸酒」など)、白鶴酒造(兵庫・灘、「白鶴」「まる」「淡麗純米」など)、大関(兵庫・西宮、「大関」など)、西宮酒造(兵庫・西宮、「日本盛」)、黄桜酒造(京都、「黄桜」など)、朝日酒造(新潟、「久保田」など)(「業界地図が一目でわかる本」 ビジネルリサーチジャパン) 2004年版には日本酒の項目はありませんでした。


平賀源内の最後
高松藩家老木村黙老(もくろう)の『聞(きく)まゝの記』によると、ある大名の別荘修理の見積りをめぐって、ある男と源内が争いになった。だが、その年の十一月二十一日、源内は普請計画を見せながら自分の考えを話すと、男も納得し、二人が共同で普請することに話がまとまった。そのまま源内の家で和解の酒宴となったが、翌朝、目をさますと、計画書がどこにもない。逆上した源内は、男が盗んだと思い込み、斬り殺してしまった。しかしあとで探してみると、計画書は手箱の中から出てきた。源内は後悔して自殺を試みたものの、死に切れず苦しんでいたところ、役人がやってきて小伝馬町の獄舎に入れられる。やがて十二月十八日、源内はその罪も定まらぬうちに破傷風にかかり、安永八年(一七七九)、獄中で死んだ。まだ五十二歳だった。(「大江戸<奇人変人>かわら版」 中江克己)


灘の杜氏
灘が江戸積みの酒産地として発展を遂げるのは、十八世紀後半である。それ以前の労働力は、主として周辺の村々に頼っていたようである。ところが、十九世紀はじめになると、灘で技術を習得した杜氏や蔵人は、他国、それも遠くは千葉や茨城あたりまで、出稼ぎに行くようになる。灘の高度の技術は高賃金を生み、職人の放浪をうみだしたらしいのだ。そして本家本元の灘の杜氏は、こんどは播磨や丹波から来るようになる。天保年間(一八三○〜一八四四)にいたって、灘の杜氏はすべて丹波からの出稼ぎ杜氏によって占められる。逆に丹波杜氏の歴史をみると、すでに宝暦年間(一七五一〜一七六四)には酒つくりの出稼ぎが急増したとある。(「自然流「日本酒」読本」 福田克彦+北井一夫)


荷風の反論
菊池の徒はまた余が罪を鳴すに余の屡(しばしば)銀座街頭の酒館に出入することを以てす。是亦其の浅識自ら風流を解せざることを告白するものなり。風流の何たるかは詩文を学び人格を修練する者にして始て能(よ)く之を解す。酒は風流の一具なり。酒は風流を解する者にして始て其奇功神の如きものあるを知るなり。文筆の士天外の奇想を捉へむとして酔を買ふや、或は妓をして弦を撫せしむることあり或は婢をして壺を捧げ来らしむることあり。皆その時に臨みその処に従つて之をなす。他人の是非すべき限りのものに非らず。君見ずや李白は長安の酒家に眠り杜牧は揚州の青楼に唱ふ。而も史家の未曾(いまだかつ)て其罪を鳴して倨傲となし不遜となせしものあるを聞かず。頼山陽瓊浦に遊び倡家に淹滞して帰ることを忘る。而も当時の人其詩を伝称して深く其行を責めざりき。余は固(もと)より李白の才なく山陽の学なし。菊池の徒が余を嘲つて優孟の衣冠となすは可なり。然れどもその論旨を徹底せしめむと欲すれば余を責むるに先だつて青蓮樊川の詩を抹殺し詩仏山陽の行を責めざるべからず。アランポーの如きポールヴェルレーヌの如き西洋の酒豪に対しては更に悪声を放たざる可らず。余窃(ひそか)に思ふに菊池寛及其門下斗「竹冠+肖」の輩常に鼓を鳴して余を責るは、余の曾て寛が請を退けて其社に参加せざりしに由るものなるべし。(「文藝春秋記者に与るの記」 永井荷風)最近こういうけんかが少なくなったようで余り面白くありませんね。


居酒屋伊丹屋
私たちがいつも見るのは、宇都宮峠の後の、大詰第二場の伊丹屋の店先である。まず舞台の風景を紹介しよう。
本舞台上手(かみて)へ寄せて三間常足(つねあし:低い台)の二重、正面紺暖簾(こんのれん)左右腰羽目、此上(このうえ)法度書(はっとがき:おきて書き)の貼出し、下手(しもて)九尺平(ひら)舞台、酒肴(しゅこう)と書きし三尺の立障子(たてしょうじ)、内に小皿物を載せし台、盤台(はんだい)に鮪(まぐろ)のどて(大魚の背の切り身)、軒口に河豚(ふぐ)、蛸(たこ)などをつるし後に酒樽、舞台前下手に三人の仕出し○△□床几(しょうぎ:腰掛け)へ腰をかけ、小皿物にて酒を呑みゐる、下手に番公(ばんこう)肴をこしらへてゐる、若い者弥太、丁稚(でっち)三吉角盆(かくぼん)を持ち給仕をしてゐる、総(すべ)て柴井町居酒屋の体(てい)、角兵衛獅子にて幕明く、
江戸時代の居酒屋を目のあたりにするような道具の指定である。(「{芝居の食卓」 渡辺保) 河竹黙阿弥の「蔦紅葉宇都田峠(つたもみじうつのやとうげ」の舞台後半の居酒屋伊丹屋の様子だそうです。


天愚孔平
ある時、天愚(てんぐ)は酔った余りに、紀州藩邸に入り込んで、大声でわまきちらした。「われは、楠多聞兵衛(くすのきたもんひょうえ)である」と楠木正成の子孫らしいことを口にして、玄関で暴れた。いうまでもなく、多聞兵衛は正成(まさしげ)の名である。天愚が、正成その人であるという幻想を抱いたのかもしれない。紀州藩邸では、すぐに「出羽様ご家来の、天愚だ」ということは判ったので、誰も強圧的には扱わなかった。天愚は門脇の籠(かご)部屋に勝手に入ってわめきちらし、暴れたのであるから、ただではすまない。後日、紀州藩主は江戸城で治郷(はるさと)に会うと、「貴藩では、楠木正成と同じ名前のご家来を、お抱えになって居られるか」と皮肉まじりに問うた。治郷は、どうやら天愚の一件をすでに耳にしていたようだ。すぐに、あれだなと判った。治郷は、なぜか天愚に対してやさしかった。「わが藩には、楠田聞兵衛という者は居りますが、多聞兵衛という者は知りませぬ」と言ってとぼけ、天愚をかばった。そのためこの件は、これきりとなった。(「江戸奇人稀才事典」 祖田浩一 編) 松江藩松平治郷につかえた儒者だそうですが、孔子の子孫を名乗ったり、風呂入らなかったり、千社札をはじめたりした奇人だそうです。


居酒屋のよさ
居酒屋のよさは平等であることだ。なじみもふりの客もいない。金持ちも貧乏人もない。男も女もない。みんな平等。共通しているのは、みんなひとりでしみじみと酒を飲むのが好きなこと。一日の終わりにそうやって、よく働いた自分を祝福している。自分で自分を励ましている。しかもみんな自分のポケットマネーで飲んでいる。会社の接待で有名料亭に行って”行きつけの店”などといっている野暮な人間は一人もいない。わずか千円でも自分の金だ。文句はい言わせない。勘定するときに領収書をもらうやつはまずいない。Uで唯一困ることは、おばさんたちが忙しすぎて客の注文をさばき切れないこと。注文してもすぐにくるとは限らない。よく一、二品は忘れられる。といって催促するのも申し訳ない。そこで通い慣れた客は多めに注文しておく。それで丁度いい。客が帰ったあとに注文の肴が出てくることがよくある。そういう場合はどうするか?心配はない。おばさんは他の客に「イカ刺し、どなたかいりませんか?」と大声でいう。たちまち二、三人の手があがる。(「東京つれづれ草」 川本三郎) Uは森下町にある門前仲町Uの支店だそうです。


酒の肴色々
夏の富山みやげ「イナダの塩干し」は、ブリをたて二つに裂いて、頭をつけたまま天日に干して加工したものである、なかなかのぜいたく品で、一部左党には垂涎の珍味であることを付記しておこう。−
柔らかくてかおりのいいハマボウフウが自生していて、砂を深く掘り下げると水々しい葉茎がごっそりと出てくる。旅館に頼めば風味ゆたかなマダカアワビの三杯酢に、ゆでて酢どったボウフウを添えてくれる。そして暮れなずんだ丘の上で、灯台の浅い光が明滅するのをながめながら、一杯やるのも格別である。−
マタタビは猫の好む木の実で、梅に似た五枚の白い花びらが散ったあと、小指の先ほどにふくらんだ未熟な青い実をビン詰めにしたものだが、塩ぬきにして甘酢につけ直すと酒の肴になる。(「味をたずねて」 柳原敏雄)


サラ川
よせ鍋に ぐちも投げ込む 忘年会  平社員
忘年会 あの一言が 命取り  かんじ
二日酔い 上司床屋へ 平(ひら)端末へ  ピッカリコニカ
残業は お酒もでるのと 子に聞かれ  帰途残業者
縄のれん 「上役」という 肴(メニュー)あり  原丁八
飲めません 唄えませんも 最初だけ  ドラゴン
頃合いに 宴席立って 名課長  平総代
酒好きの 上司持つ部下 家庭不和  上戸下戸(「平成サラリーマン川柳傑作選」 山藤、尾藤、第一生命 選)


集団社会の論理
日本における、個人と集団の関係を説明するのはきわめて困難な作業である。たとえば、欧米では、夕刻五時の退社時間を境に、企業と社員の関係はぷっつりと切れてしまう。日本でも建前はそうだが、実際にはそうではない。会社の同僚や上役や部下と夕食をともにし、酒場に行くことも珍しくない。日本の企業は厚生施設が発達していて、社宅、社員寮、山の家、海の家などで、常に会社の人々と顔を合わす。春秋には社員旅行で会社ぐるみ、あるいは部局単位で温泉などに行く。こうした一連のことは、私たちの社会ではありえないことである。大部分のフランス人はバカンスのために働いていると公言してはばからないし、プライベートの時間に会社のことを考えるなど真っ平御免だと思っている。(「不思議の国ニッポンVol..3」 ポール・ボネ)'78年の話が今でもほとんどそのままに生きているのもすごいですね。


『論衡』
中国の哲学思想書『論衡』(紀元一世紀の著書)に倭人(わじん)についての注目すべき記事があります。「周の時、天下太平にして、倭人来りて暢草(チョウソウ)を献ず」とあるのです。中国の周の成王の時代(紀元前一○○○年頃)、倭人が献じた暢草とは、鬯草(チョウソウ)、鬱金草(ウコンソウ)、鬱金香(ウコンカ)とも呼び、芳しい香を放つ、目出度い草とされ、古代大変珍重されたのです。『論衡』には、この草が酒を醸造するに当って発酵を盛んにし、その芳香は神を祭る時にこの酒を地に注ぐと、神が香を慕って天上から降臨するほどあやしい力をもっているものだと記載されているのです。暢草は熱帯アジアの原産で、我国では沖縄、種子島、鹿児島最南端部ぐらいには自生していたかと考えられるのです。その珍重される暢草を紀元前一○○○年に周の成王に献じたということは、倭人が既に中国と交易を行い、中国の酒造りの貴重な原料であるとの情報を得ていたことと、酒に充分な関心をもっていたと考えられるのです。我国の酒と直接に関係するかどうか多少問題がありますが、ここらが和漢を通じて我国の酒に関係する最も古い記録といえましょう。(「古代の酒と神と宴 十二話」松尾治)


朝酒
男は小心だから、その月曜日朝というタイムリミットまでを無視する勇気はない。そこで土曜の朝を迎えると(さあやるぞ)と自分に言い聞かせ、机に向かい、そのあたりを片付け、筆記用具や資料類を整えるのだが、(ここまでくればもう安心だ、ではその前に一服)とタバコに火をつけ、せめてその間だけでもと、テレビのスイッチを入れる。こうなるともういけない、その一服が二服となり、(せめてこの番組が終わるまで)と仕事のスタートを先送りし、そのうち昼食、またテレビだ。−
夕方になる。酒である。プロ野球の中継が始まる、となるともう防ぎようがなく、男はまたウダウダと酔い、(なあに、明日目一杯やればなんとかなる)と、酔いに濁った頭で自分に弁解し、ついにエンピツを手にすることもなく寝に就く。翌日曜。待ったなし、時間一杯である。さすがに早めに起き出て、斎戒沐浴まではしないものの(もっとも沐浴は仕事以上の苦手だからやるはずもないが)、男は直ちに机に向かうと思うのだが、そこはまた男の行く手を阻む要素が頭をもたげる。それというのも男には、日曜の朝、起き抜けから朝食までの間に、何十年来の習慣となっている”朝酒”という、もはや家人も呆れて嫌な顔さえしなくなった悪癖がある。(なにも、週に一度のこの楽しみまで犠牲にすることはあるない)が、これを許したらもういけない。一杯が二杯、そして陶然として朝食。この後ごろりと再び布団の上に横たわるのもまた日曜の朝のならわしで、それを省略する勇気を持てない。それでも、三十分毎に起きなければと、夢寐の間にも心は急く。二時間後、さすが慌てて床を蹴って起き上がり机の前に坐るが、頭はまだ動いてくれない。(ではちょっと頭の準備運動)と、小説本でも聞こうものなら、前日のテレビ同様、もう一ページ、せめてこの章が終わるまでとふんぎりがつかない。その揚句、一睡もせず月曜の朝出かける時間のギリギリまで頑張らざるを得なくなる。(「東京育ち」 諸井薫)


イソジマン
「焼津になにかあるのかい」先生が聞き返してくる。「イソジマン(磯自慢)という小さな酒蔵がありますよ」「イソジマンねえ、おもしろいネーミングだなあ。どんな酒なの」「去年の純米酒はプラス十一、今年はプラス七、おせじにも華麗とは言えませんな。豪快で野性に富んだ酒質、と思ったほうがいいかもしれません」武田さんが適切な解説を加えている。「漁師の酒か」焼津の酒と聞いて、先生の感想も適切だ。土佐の辛口も有名だが、海の男には辛口が似合うのだろうか。優雅な甘口は必要ないのかもしれない。−
農夫は体力、忍耐力が要求されるため、糖の多い甘口を好んで飲み、漁師は肥満を嫌い、俊敏さ、機敏さを要求されることから、糖の少ない辛口を嗜好するのではないかと考えられるのである。−
先生が尋ねる。「突然行ってもいいのかね」「まだ、杜氏さんが来ている時期でもないから、案外のんびりしているかもしれませんよ。イソジマンの杜氏は船乗りですから」「それもおもしろそうだねえ。船乗りの杜氏なんて、いるんだねえ、フーン。−」(「日本ぐるり酒蔵探訪」 桜木廂夫) '86年出版の本です。


苔に埋もれて
苔の緑に、夕光がしみ込む。昨秋、苔の上に真紅に散っていた、オオサカズキの葉も緑。沢庵の軸、ヒメユリの花。茶席でのお薄もすんで、苔の中の飛び石を踏んで、庭づたいに別席へ。−
千葉県大原の十年の古酒を、オン・ザ・ロックで。日本酒を、酢にも変えずに、こんなに枯淡な味にするのは、どうやるものか。最高のしゅんというアイナメ。幼い時に、母がよく食べさせてくれたこのさかな、今はどういうわけか、料亭ではめぐりあえても、家庭の膳には、のぼらなくなった。前にもこの欄に、瀬川医博のぐい呑みについて書いたが、今宵もまたそれ。ここには、ホタルという透けた透けた盃がある。どうなっているのか、肌に薄いところができている。この類の一つに、銘を頼まれて私は「木漏れ日」と命じた。今宵は、終始ほとんど、フィンランドのガラスの小盃で、十年の古酒ばかり。(「味のぐるり」 入江相政) 古酒は、千葉県大原・木戸泉の「古今」のことで、昭和50年頃、本郷の知人の家での話とか。古今という名前も入江が付けたそうです。今年(平成18年)、デパートで古今の28年物が売られていましたが、この書かれているものではないようですね。


川柳の酒句(19)
李太白 一合づつに 詩をつくり(李白一斗酒百篇)
詩百篇 賦した翌日は きらず汁(きらず:おから、きらず汁は二日酔いの薬)
料理人 廻らぬ舌で ほめられる(酔っぱらい客にほめられる料理人)
あずけるの 嫌いな礼者 づぶに成(年賀の挨拶回りで次の機会にといわず行く先々で飲んで大酔)
呑む礼者 朝の勘定 大ちがい(挨拶の所々でのんで、当初の軒数にはとうてい届かず)
下戸の礼 四谷赤坂麹町(下戸なら新年の挨拶廻りの進むこと進むこと)(江戸川柳辞典」浜田義一郎編)


伏見修理大夫
これも今は昔、伏見修理大夫のもとへ、殿上人(てんじょうびと)廿(二十)人ばかり 押寄せたりけるに、俄(にわか)に さは(わ)ぎけり。肴物(さかなもの)とりあへず、沈地(ちんじ:沈香の木)の机に、時の(季節の)物ども色色、たゞをしはかるべし。盃、たびたびになりて、を(お)のをの たわぶれ いでけるに、厩(うまや)に、黒馬の額すこし白きを、廿疋(匹)たてたりけり。移(うつし)の鞍(予備の鞍)廿具、鞍掛(鞍を掛けておく四脚の台)にかけたりけり。殿上人、酔みだれて、をのをの此馬に移の鞍置きてのせて返しにけり。つとめて(翌朝)、「さても昨日、いみじくしたる物かな」といひて、「いざ、又、押寄せん」といひて又、廿人、押寄たりければ、このたびは、さる体にて(客人を迎えるにふさわしい様子で)、俄なるさまは昨日にかはりて、炭櫃(すびつ)をかざりたりけり。厩を見れば黒栗毛なる馬をぞ、二十疋までたてたりける。これも額白かりけり。(「宇治拾遺物語」 新日本古典文学大系) 修理大夫は、藤原頼道の三男俊綱で、豪邸に住んだ風流人だったそうです。今なら、20人の客に20台の車が用意してあり、翌日は別の20台が用意してあったということなのでしょう。


昭和の景況
街に灯(ひ)がつき蓄音機の響が聞え初めると、酒気を帯びた男が四、五人ずつ一組になり、互いにその腕を肩にかけ合い、腰を抱き合いして、表通といわず裏通といわず銀座中をひょろひょろさまよい歩く。これも昭和になってから新に見る所の景況で、震災後頻(しきり)にカフェーの出来はじめた頃にはまだ見られぬものであった。わたしはこの不体裁にして甚だ無遠慮な行動の原因するところを詳(つまびらか)にしないのであるが、その実例によって考察すれば、昭和二年初めて三田の書生及三田出身の紳士が野球見物の帰り群(ぐん)をなし隊をつくって銀座通りを襲った事を看過するわけには行かない。彼らは酔いに乗じて夜店の商品を踏み壊し、カフェーに乱入して店内の器具のみならず家屋にも多大の損害を与え、制御の任に当る警吏と相争うに至った。そして毎年二度ずつ、この暴行は繰返されて今日に及んでいる。私は世の父兄にしていまだ一人の深くこれを憤りその子弟をして退学せしめたもののあることを聞かない。世は挙(こぞ)って書生の暴行を以て是となすものらしい。(「『シ墨』東綺譚」 永井荷風) 永井荷風の酔っぱらい感1・ 


酒光漫筆
卒業してから暫くすると、陸軍教授を拝命したので、私は曲りなりにも、一人前になつた様である。当時はもう家でも酒を飲んでゐたが、その内にだれに教はつたか思ひ出せないけれど、大地震前の銀座の地蔵横丁にあつた「三勝」と云ふ縄暖簾に通ふ事を覚えて、自分で解るほどお酒の手が上がり、また飲み上手になつた。三勝の酒は白鶴で、嘉納から直接に取つてゐたものらしい。大変お燗に気をつけて、お客がこんで来ても、決して火にかけた鉄瓶や薬鑵には燗徳利をつけなかつた。一度わざとさうした燗と、向こうでつけてくれた燗とをその場で飲みくらべてみて見て、成るほどと得心した事がある。さう云ふ事で段段酒の味も覚えて来た。その当時から今日まで凡そ二十年の間、私はずつと酒に親しみ、その間に禁酒などと云ふ事は一度も考へなかつた。度を過ごしたり、羽目を外したりして、人に迷惑をかけ、自分でも前後を忘却した様な事がない事はないが、さう云ふ場合は矢つ張りお酒の外に何か原因があるのであつて、ただ当たり前に酒を楽しんでゐられる時は、いくら杯を重ねても、そんな事にはならない様である。(「御馳走帖」 内田百閨j


『延喜式』(含、賦役令)にみえる日本海域の貢進食物
出羽:甘葛煎、(米) 越後:甘葛煎、甘葛煮 越中:甘葛煎、胡麻油 能登:甘葛煎、胡麻油 加賀:甘葛煎、荏油、(米) 越前:甘葛煎、胡麻油、荏油、(米) 若狭:(米) 丹後:甘葛煎、甘葛煮、胡麻油、(米) 但馬:甘葛煎、胡麻油、「木曼」椒油 因幡:甘葛煎、胡麻油、海石榴油 出雲:甘葛煎(「古代大日本海域の食物とその貢進」 門脇禎二) 農作物・食物の加工品と、米のみをひろいました。ここにはまったく酒という文字が見られません。まだこの当時酒は生もので、遠距離の移動はできなかったということなのでしょうね。ちなみに延喜式には、朝廷の酒造りが記されていますので、貢進された米もその原料になっていたのでしょう。


色川名人のこと
報せはいつも突然だ。親しい編集者から色川武大さんの訃報が伝えられた。何処か遠いところで亡くなったということだ。常人では考えられない危うい均衡を保っていた色川さんだが、いつも不健康だったので、どのような状態が本当に悪いのか私にはわからなかった。色川さんと最後に会ったのは、海燕新人賞の選考会だった。選考が終わって酒場に場所を移し、五人の選考委員が一人二人と去っていく中で、最後まで残ったのは色川さんと私と編集部の寺田さんと田村さんだった。私たちは新宿の酒場で夜明けをむかえたのである。このときにも、色川さんは身体の不調を訴えていた。しかし倒れそうで倒れない人なのである。不調が人生の連れあいのようなもので、人のよい色川さんは結局朝まで私たちに付き合ってくれた。新人賞の選考会では衆寡敵せず私には意にそぐわない結果がでて、酒席も選考会のつづきのようになってしまった。私は自分の意見をいいつづけていたようだ。色川さんは突然大きな目を見開き、私の意見に賛成だとうなずいてくれた。それから照れたような視線を、薄暗い酒場のカウンターに落とした。選考会は七時間以上前に終わってしまっていたが、色川さんが賛成だといってくれたことが私には嬉しかった。(「貧乏仲間」 立川和平 1989) 色川武大はもちろん阿佐田哲也です。


童子切安綱
「ここには安綱(やすつな)の刀もありますよ。あの源頼光が酒顛童子(しゅてんどうじ)を退治した時に使ったという…」東洋部保存室長の井口安弘は、私たちが日本刀のコレクションの整理と展示替えを次に撮影予定であることを聞くと、こう教えてくれた。そして「備前長船(びぜんおさふね)の名刀や村正(むらまさ)も見逃がさないように…」と付け加えた。平安時代の中期、源頼光が丹波の大江山に住む酒顛童子を討ち取った話はよく知られている。その刀が備前長船の名刀や村正の妖刀とともにどうしてボストン美術館にあるのだろうか。日本刀の展示は工芸品ギャラリーのほぼ半分を占めていた。ガラス貼りの陳列ケースの中の刀は刀身を見せるように並べてある。日本刀剣・金工室長小川盛弘が展示替えの作業中だった。「安綱はこの刀です」。その刀は八○センチ余りで、白く鈍く刃がひかる。昨日作られたようにしみも傷もないみごとな刀だった。このいかにも切れ味のよさそうな刀が、酒顛童子を切り倒したのだろうか。「いや、この刀は同じ安綱でも酒顛童子を討ちとった刀ではありません。その刀は『童子切(どうじぎり)』安綱といっていま国宝になっている。もっともこの安綱も大変な名品ですよ」。(「名品流転」 堀田謹吾) 童子切安綱は伯耆国安綱がうったという日本を代表する名刀だそうで、上野の国立博物館にあるそうです。


沢村貞子の父
父、加藤伝太郎は、慶応四年の夏、江戸本所原庭町の酒屋、伊勢屋の長男として生まれた。「いろはにほへと」七棟の、俗にいろは倉とよばれた土蔵が、町人ながら格式をほころ大きな酒問屋だったという。九月になって明治と改元された。その年の暮れの大雪の夜、天狗党と称する二十人あまりの浪士が縄ばしごをつたわって天窓から居間になだれこみ、「軍用資金調達、静かにしろ」と刀をつきつけ、当主平八、その妻とし、その他の雇人を縛り上げたうえ、いろは倉をあけさせて莫大な大判小判をほとんど持ち去ってしまったそうである。そのために伊勢屋は傾き、傷心の平八はやけになって、芸者やすもう取りをひきつれて遊びほうけ、間もなく早世し、家は瓦解した。平八の妻としは長男伝太郎とその妹ひさの二児を抱えて、浅草にあった伊勢屋隠居所へ移った。明治五年の学制発布によって初めてできた浅草尋常小学校の第一回卒業生になった私の父、伝太郎は、伊勢屋再興の望みを小さな肩に背負わされて、商売修業のため、浅草猿若町にあった質店、佐野屋にあずれられた。(「貝のうた」 沢村貞子) 伝太郎は、結局芝居周辺で生きたようですが、自分の子供を役者に育て上げることに情熱を注いだそうです。


酔い
すると、どうだろう、イーニアス・マクドナルドがその著『ウイスキー』(一八三○年)で記述している世界が、ベッドにもぐりこんでいるぼくの脳髄に展開してくるではないか−「酔いは、思索をゆたかにし、明晰を生むにいたる。歌だってうたいたくなるかもしれないが、それとおなじくらい、議論がしたくなる。毛ほどの相違も気にかかり、無用な区別だてをしたがる気持が、酔いの心底にあるのだ。敵など眼中にない、誇大した直感力の威力のまえに、ヒエラルキーとオーソリティーは崩壊するのだ。酒こそ、破壊的批評の母乳、偉大なる抽象の生みの親である。それは演繹法のチャンピオンであり、プラグマティズムにとって、不倶戴天の仇敵なのだ。ソクラテス派の哲学のごとく、論理的帰結をめざして突進し、既成の、いかにも有用そうな虚偽を憎悪し、筋ちがいなものに唾をはきかえる。そして、人生の錯雑と逡巡をキッパリと秩序づける鋭いヴィジョンをもち、灰色の世界を断乎として白と黒に分割するのだ。」(隆一訳)(「スコッチと銭湯」 田村隆一)


香典
平凡なサラリーマンだった父は、夕食の食卓で三本ほどお銚子を実に楽しそうにあけるのがつねだった。その日の出来事や昔の思い出を語りながら、そこに登場する人物を目に見えるようにことばと身ぶりで描き出すのである。おかげでぼくは、スプーンを使わずいきなり皿に口をあてて豪快にスープを飲みほすという父の上司や、夕刊の著名人死亡記事を見て「あいつも死んだか」と言っては奥さんに香典を包ませそれで実は飲みに行っていたのに、ある日これという人がなくてやむをえず家にいようとしたら奥さんに「はい、お香典」と金を渡され、敵は知っていたのかと嘆息したという父の友人など、会ったことはないが町で会えばその人とわかるだろう、とおもったものである。(「ハムレットと乾杯!」 小田島雄志)


宮戸川、都鳥
雷門から隅田川沿いに少し歩いた下流に、馬頭観世音を本尊とする駒形堂がある。駒形の駒は馬。お堂の前を通る道が馬道。隅田川から観音像が拾い上げられ、それが浅草寺の起源であるが、そのおり、像を最初に祀った地点がここで、いわば浅草寺発祥の地である。その後、ここに、浅草寺の惣門(そうもん)が建った時期があった、という。その駒形町に、内田甚右衛門の酒屋があり、「宮戸川(みやこがわ)」と、「都鳥」という銘酒が売り出されていた。宮戸川は、隅田川の、浅草近辺での別名である。三屋戸川(みやこがわ)、とも称したという。 網舟で 呑んでいる酒も 宮戸川    都鳥 飲んで足まで 赤くなり  都鳥は、ゆりかもめの雅称で、足が赤い。鳥と酒銘を掛け詞(ことば)にして、都鳥のように足まで赤くなって、よちよち歩き、というわけ。(「江戸風流『酔っぱらい』ばなし」 堀和久)


オイノス
昔、ギリシア人はイタリアを、オイノス(ワイン)の国という意味で、エノートリアと呼んでいた。と言って、現代の長靴の形をしたイタリア半島のすべてではなく、マーニア・グレチアと呼ばれたギリシア植民地を指す名称であった。長靴の下三分の一とシチリアが、イタリアにおけるギリシア植民地であったのだから。このように呼ばれるくらいだから、良質の葡萄酒の産地であった。それもただ単に美味い酒を産するというというだけではなく、この一帯で産する葡萄酒は、ギリシア人の影響下にあった地域で産する物の最高級品とされていて、オリンピア競技の勝利者に供される葡萄酒の栄光を持ちつづけていたと言う。さしずめ「オリンピック御用達」というわけであったろう。ローマ時代に入ると、反対にギリシア産の葡萄酒のほうが珍重されるようになる。かつてのマーニア・グレチアはもちろんのこと、首都ローマ周辺も葡萄酒の醸造が盛んであったのに、遠方から運んでくるものを好むのは、今に至る外国製品好みと似た現象であるのかもしれない。ビールもあったけれど、これは奴隷の飲料とされていて、ちゃんとしたローマ市民は葡萄酒しか飲まないということになっていた。炎暑下で行軍の後のいっぱいのビールはさぞかし美味かったろうと思われるのに、ローマの武将達は、冷たい水で割った葡萄酒を飲んで、行軍の疲れを癒していたのである。(「イタリア遺聞」 塩野七生)


実父川村庄右衛門
守房はまた細心留意の人で、毎日日記を認め、いかに大酔した時でも、これを欠かさなかった。いまその記録を見れば、公事の勤務、世間の出来事、例えば文久銭の通用開始、大将軍の上洛並びに江戸還城のごときより往来の人、贈答の品または馳走の酒肴、菓子買入品の代価等に至るまで、丹念に記入し一切漏らすことはなかった。−
守房はまたすこぶる純情の人であった。先人知己の年忌には、親族故旧を迎えて祭事を行い、饗応贈遣をなすを例とした。また常に自ら酒を嗜みかつ人を呼んで痛飲した。大抵二三日ごとには、正宗三ツ割(およそ一斗入り)一樽ずつが、酒屋から運び込まれた。(「高橋翁の実家及び養家の略記」 上塚司) 川村庄右衛門守房は狩野派の御用絵師で、高橋是清の実父だったそうです。


土佐日記
廿二日に、和泉の國までと、たいらかに願立つ。藤原のときざね、舟路なれど馬のはなむけ(旅の出発を祝すこと)す。上中下(かみなかしも、身分の上中下)、酔ひあきて、いともあやしく、鹽海(しおうみ)のほとりにあざれあへり。−
廿四日。講師(かうじ、国分寺の住職)馬のはなむけにいでませり。ありとある上下、童まで酔ひ痴れて、一文字をだに知らぬもの、しが足は十文字に踏みて(千鳥足の如き状態)ぞ遊ぶ。
廿五日。守(かみ、後任の国守)の館(たち)より、よびに文(ふみ)もて来たなり。呼ばれていたりて、日一日、夜一夜、とかくあそぶやうにて、明けにけり。
廿六日。−今のあるじ(現国守)も、前の(前国守)も、手をとりかはして、酔ひ言(ごと)に心よげなる言(こと)して、出で入りにけり。
廿七日。−鹿兒(かご)の崎といふ所に、守(かみ)の兄弟(はらから)、又、異人(ことひと)、これかれ酒なにと(なんど)持ち追い来て、磯に下りゐて、別れがたきことをいふ。−
廿八日。浦戸より漕ぎ出でて、大湊をおう。このあいだに、はやくの守(以前の国守)の子、山口のちみね、酒よきものども持ち来て、舟に入れたり。ゆくゆく飲み食う。
廿九日。大湊にとまれり。くすし(国ごとに置く公の医師)、ふりはえて、屠蘇(とそ)、白散(びゃくさん)、酒くわえて持ち来たり。
二日。なお大湊に泊れり。講師、もの、酒、おこせたり。
四日。風ふけば、え出でたたず。まさつら、酒、よき物たてまつれり。(「土佐日記」 紀貫之 角川文庫) 年末年始(出発が承平四年(934)十二月二十一日)にかけてでもあり、しかも国守交替の時だけにこうしたことがあったのでしょうが、昔の人は気をつかったのですね。


【くりだす(繰り出す)】
葦平さんは僕の親分であって、僕らはみんな「葦平一家」と呼んでいた。魚が九州からきたといっては招集されて酒を飲む。九州の若松の宅へもよく行った。電話で「行きますよ」というと、すぐ電報を打ってくる。「ハヤクオイデ オイデ ハヤクオイデ」とか、「イツトキモハヤクオイデ フグガ マツテイルヨ」とか、いつも長い電文だった。葦平さんの家に泊まると、大広間に丸テーブルが五つ六つ、その上にフグ刺しの大皿がデーンと乗っている。僕と編集者の二人だけなのにと思ってきくと、「いた、君たちがきたからだよ」。僕らは床の間を背にすわらせら、やがて『九州文学』の連中がゾロゾロやってきて大酒宴となる。葦平さんの一声でみんなどやどやと繰り出して、「川太郎」でへべれけになるまで飲みつづける。(林忠彦「カストリ時代)(「『酒のよろこび』ことば辞典」 酒生活文化研究所:編) 葦平は、火野葦平、林忠彦は、坂口安吾のポートレートで有名な、「文士シリーズ」を撮影した写真家だそうです。 酒好きでないが酒飲み 


ボルドー液
ボルドーといえば、いわずとしれたワインの本場。ところで、いつもブドウの実の熟する頃になると、ドロボウがやって来る。そこで、ちょっくら案をねり、石灰と硫酸銅の混合液体をつくって、これを道路の両側に、撒布することにした。つまり、いかにも農薬か毒薬かが懸かっているように見せかけたわけ。ところが、折も折、それは一八八二年の十月末のことであったが、ひとりの男がボルドー地方のブドウ園を、視察していた。彼の名はミラルデ。ボルドー大学の植物学の教授である。彼は、ここ四、五年前から、ブドウ園一帯に蔓延しだした、伝染性の露菌病の予防対策におおわらわであった。そんなある日、とあるブドウ園で、彼は奇妙なことに気がついた。そのブドウ園も、やはり露菌病にやられて、葉もほとんどなくなっていたのだが、不思議なことに、道路に面しているところだけは、葉が青々としていたのである。ただし、葉の表面には青白い斑点がついていた。ミラルデ教授は、さっそく、いろいろと実験を行い、やはりこの硫酸銅と石灰の混和液が、露菌病などにききめがあることを確認した。一八八五年五月のことであった。ボルドー市には、フランスブドウ園の救いの神、ミラルデ教授の記念碑があると仄聞している。(「食べものちょっといい話」 やまがたゆきひろ) 露菌病はベト病ともいい、カビによっておこる、ブドウなどの葉がベトベトになって枯れてしまう病気だそうです。


紅糟
子供の頃、台湾には福州人がかなりいたし、福州料理に使われる紅糟(赤い色の酒糟(さけかす))は私の好物の一つでもある。福州には西湖大飯店という設備の良いホテルがあって、そこに着くと、すぐにホテルの人においしい店はどこかときいた。しかし、不得要領でやむなく自分らで町の中心をグルグルまわった。私にはおいしい料理を店の看板や構えを見ただけで嗅ぎわける能力がある。榕城酒家という看板を見て、「ここがいいんじゃないか」と言ってとびこんだ料理屋の料理は予想以上に素晴らしかった。紅糟鶏という鶏料理と仏跳墻(フツテイウチヨン)というアワビや貝柱やエビを素材にしたスープを食べるために、三日泊まっている間にもう一回、この店を訪れたほどである。(「旅が好き、食べることはもっと好き」 邱永漢) 紅糟(ホンツァオ)は、紅麹を米とともに発酵させた調味料だそうです。新潟の赤い酒も紅麹を使用しているそうですね。 中国での「酒の店」 


スッテン童子
銀座の縁日に見世物が御はっと(御法度)になったのはいつ頃からか、二十幾年前からのことだとは思うが、その前までは盛にいろいろの見世物が出たものだ。中にはあの生人形(いきにんぎょう)の大山スッテン童子−いうだけ野暮だが、われわれは彼(か)の大江山酒呑童子君をこう呼んだものだ−このスッテン童子君がフラフラする手付で大杯をかたむけるごとに顔色がかわり遂(つい)に角を生じ、駄々をこねあげくに後ろにどうとひっくりかえるとその緋(ひ)の袴(はかま)がそのまま赤い衣となってグロテスクな達磨(だるま)と変じヒョコヒョコとおどり出す。そのスッテンとひっくりかえるのが、スッテン童子たるゆえんのような心持ちがわれわれ子供心にしていたものだが、この見世物などに至っては誠にわれらファンを喜ばせたものであった。(「岸田劉生随筆集」 酒井忠康) この文の書かれたのは昭和2年だそうです。


ござねぶり(広島)
酒の座で最後まで残ってクダを巻いている飲んだくれを言います。長居の酒癖の悪い人として嫌われます。そういう人は全国にいるとみえて、各地におとしめた言い方があります。たとえば下関で採録した例に「みやがらす」があります。「宮烏」で、神社やお寺の供物を一時間でも二時間でも貪欲についばみます。そのいやしさ、尻の長さが比喩としてはまことにぴったりです。だから、「みやがらす」氏はみんなから嫌われて、「あいつはみやがらすじゃけえ呼ぶまい」と次の宴会にはお呼びがかからないということになります。福島では「ござっぱたき」と言います。昔は家の中は畳などなく板敷きで、お客をするときはござを敷いたものでした。宴会はおひらきになったのに、一人残ってだらだらと飲んでいます。家の人たちは早く後片づけをしたい。そこで、見せつけるように膳を持ち去り最後にござを端からくるくる巻いていって、その男を追い出し、ござをはたくのです。また、福島県の郡山には、「ひじきとおんつぁま後まで残る」ということわざがあります。(「かがやく日本語の悪態」 川崎洋)


酒造好適米の格づけ
米の格づけは農産物検査法という法律に基づいて行われ、酒造好適米はこの法律では醸造用玄米という名称であり、その規格は、下表のように水稲うるち米では4つのランクになっていますが、この上にさらに特等、特上の2ランクが追加されます。醸造用玄米は農林水産大臣が産地、品種を指定しますが、指定された米は産地品種銘柄米と呼ばれています。たとえば兵庫県山田錦、新潟県五百万石、長野県美山錦、岡山県雄町のように呼ばれます。米の成分は大部分がデンプンであり、70〜75%を占めていて、そのほか水分約15%、タンパク質6〜8%、脂質2%、灰分1%です。好適米はタンパク質が少なく、淡麗な清酒になりやすいのが特徴です。
農産物検査法による玄米の等級 水稲うるち玄米 1,2,3等 等外
                      醸造用玄米   特上、特等、1,2,3等 等外
(「お酒おもしろノート」 国税庁鑑定官監修、財団法人日本醸造協会編)


日本酒に醤油
東海林 いやね、日本人の料理というのは必ず醤油なんですね。ということは、すごい狭い範囲内で勝負しているわけですよ。
椎名 僕の知り合いにも、醤油があれば人生何もいらないっていうのが、けっこういますよ。クマさんなんてチリ紙をあぶって醤油をかけて食っちゃったり、肴がないときは日本酒に醤油をたらして味つけて飲んじゃったり(笑)。
東海林 醤油のこげる匂いには、必ず人類が寄ってくるっていいますね。お祭りのイカ焼きとかトウモロコシの匂いなんか。
椎名 醤油がなかったら、どうして生きていける(笑)。われわれも醤油について、もっと正しく評価しなくてはいけませんよね。この対談は醤油対談ですね。(笑)。(「男たちの真剣おもしろ話」 椎名誠) 東海林は、東海林さだおです。


嶺岡豆腐
豆腐と名乗りながらまったく豆腐とは関係ない珍品がある。嶺岡(みねおか)豆腐という。これは江戸時代から伝わる一種の乳製品で、本くずと当たり胡麻をよく練り合わせ、出汁でのばし、すっかりとけたら塩少々を加え、生クリームと牛乳を少しずつ混ぜ入れて鍋に移し、中火で約三十分間、木杓子で練りあげ、流し箱に入れて冷やす。できあがったものは純良の生チーズによく似ている。山葵醤油をつけて食べるのだが、ウイスキーの肴としては悪くないものである。(「梅安料理ごよみ」 佐藤隆介) 嶺岡豆腐は、清酒にこそよくあうものです。私の知っている食べられるところは、荻窪の四つ葉です。


三禁四乱
さて、新橋のホテルへ行ったのだが、なかなか姿をあらわさない。夕方から新宿のウナギ屋にいて、最初のうちはおっとりしていたが、六時過ぎると、なんとなくソワソワしはじめた、という情報が伝わってきた。さては、酒乱の状態になってしまっているのではあるまいか、と心配になってきた。「大丈夫かなあ」「だいいち、ウナギ屋というのが、なんとなく困りますなあ」「そうだ、ウナギ屋とは不吉だ」と、知合いのジャーナリストと話し合っていた。その人の見解では、ウナギで十分スタミナをつけて、突如大暴れということになる悪い予感がする、という。小生は、ウナギのぬるぬるとした肌と、蛇に似た頭のかたちが目に浮かんできてしまい、台風の前の不気味で不吉な静かさのようなものを感じていた。野坂昭如にいわせると、長部は「三禁四乱」の人物で、幾度も禁酒をおもい立つのだが、三日禁酒して四日乱酔してしまう、ということになる。ようやく現れた長部日出雄をみると、おめでとう、と言うのも忘れて、「おい、酒乱になっていないのか」というと、「いや、飲んでいないんです」まったく酒が入っていないことはないだろうが、すくなくとも、ニタリニタリの薄笑いの状態ではないので、安心して立ち話をして別れた。(「悪友のうすめ」 吉行淳之介) 長部が直木賞受賞した際の話だそうです。 長部日出雄の酒 



高輪大木戸
高輪大木戸も、はじめのうちは片側に町家があるだけで、片側はすぐ海に面していた。次第に両側に人家が建ちならび、休み茶屋が軒をつらねた。江戸から東海道へ旅立つ町人たちは、ここまで家人に見送られ、別れを惜しんだ。その休み茶屋も、文化文政のころには二階も出来て、江戸で通人といわれる連中が遊びにきた。ここで酒を飲み、芝口二丁目の初音屋(はつねや)という帳場の駕籠(かご)を呼んで、品川の廓(くるわ)に乗り込むのが、そのころの遊客の中でも粋人(すいじん)、ということにされていた。吉原も鼻につき、陰間買い(かげまかい)にも倦(あ)きて、品川の飯盛女郎を対手に、「これは江戸と違って、ちょいと乙でげす」と喜んでいた通人が多かったらしい。(「六本木随筆」 村上元三) 高輪二丁目の第一京浜ぞいに、今も石垣が残っています。


鈴木牧水・牧之父子の酒
父の牧水は下戸で、四十になるまで酒を口にしなかったが、庚申講の連中に加わり、すすめられて口にしているうちに段々飲めるようになった。その父が牧之に言った。酒はお客などにもてなす時に少しは飲んだがよいが、酒は禍いのもとであるし、自然と手の揚がるもので、遊所などへも誘われるもとになり、家を傾け、身を滅ぼすものだ。しかし四十を過ぎたら、少しは身の保養にもなるし、古くから詩人や歌人も賞翫しているものだし、過ごさぬように、乱に及ばぬようにたしなむがよい。それでも牧之は酒杯を手にせず、そんな時間があれば絵を描いたり、著作に専念したいと思った。しかし、四十過ぎてからは多少、体にもよいということで、お客があった時とか、祭りとか正月ぐらいにはほんの形ばかり口にした。(「江戸奇人稀才事典」 祖田浩一 編) 商売の傍ら「北越雪譜」を著した牧之と、その父の酒の話だそうです。


酒好きでないが酒飲み
私は文壇でも酒豪の部に入れられているらしいが、デマである。今は私は、日本酒は飲めないし、好きでない。もっぱらビールをたしなむが、そんなのは酒を解しない野暮人であって、ほんとうの酒飲みは日本酒の味を楽しむ。チビチビと舌で味わい、、咽喉(のど)を鳴らし、胃袋をあたためるのが真の酒徒であろう。しかし、私は酒が好きでないし、晩酌もしないし、幾日飲まなくても格別苦しいことはない。すこしまとまった原稿をとしこもって書いているときなど一週間も十日も一滴も飲まないし、それでなんともない。ただ、苦しんで一編の作品を書き終わったあと、冷たいビールを飲むときの味はなんともいえないから、まったくの下戸とはいえぬ。私は一人で酒は飲まない。味気なくて、酒の醍醐味などちっとも感じない。酒好きは一人でやることが楽しいらしく、李太白のような中国の大酒童には「独酌一樽酒」の詩句があるほどだ。私は友人たちとワイワイ言いながら飲むのが好きなのだから、独酌の味は知らない。酒好きは酒の肴の話をするのだが、私は話の肴にビールを飲むだけだ。そして、気の合った友だちと飲んで興がいたると、時を知らず、夜を徹することがあるから、酒徒のような錯覚を他人にあたえるらしい。だから、私は酒好きではないが、酒飲みといえるかもしれない。酒好きと酒飲みとは別ものだ。もっとも、酒好きで酒飲みを兼ねている者が多いが。(「酒童(しゅっぱ)伝」 火野葦平) 酒飲みの屁理屈の典型ですね。 火野葦平の酒 そら豆 パンの会の歌 



大坂屋茂十郎
文政二年(一八一九)六月には、茂十郎も十組上納金を三橋会所に流用したことなどを理由として免職させられた。そのとき料理の献立になぞらえた落首がある。
杉本茂十郎暇乞(いとまごい)振舞 献立 尤(もっとも)会所記(懐石)料理

  汁 ほうぼうのすりながし             とたん(投機)のさし金
向   丸でなげどうふ           茶碗物 しゅうをもやし         香の物  どぶづけきうりの家作
  飯身のおわり米(終わり・尾張)         なんと松露(しょうろ)           但、恥をかやくなり

                                                      そろばんの玉子焼
焼物 引きおひし              吸物  顔の赤みそ汁         取肴   うまにの長いも会所
    不鯛の味噌づけ                評判のわるいにきす           せいがのふとい葉

丼   ひがきのうん上にはなのり    但酒は 世間のいたみ(痛み・伊丹)にて
    つまらぬ三島のり                 其身のこもっかぶり    以上
(「江戸の情報屋」 吉原健一郎) 茂十郎は、松十組問屋を株仲間にした人物だそうですが、使い込みなどで免職されて、落首の対象になったそうです。


吉原の盆燈籠
吉原三大景物の二は、盆燈籠(ぼんどうろう)である。昔は六月晦日(みそか)の晩から七月十二日までと、七月十五日から同月晦日までと、都合二回に、中之町両側の茶店の檐(のき)から往還(おうらい)へかけて、人物、風景、花鳥などの形をした燈籠をつらねた。この燈籠の濫觴(らんしょう)は、享保十三年(一七二八)七月に、角町(すみちょう)中万字屋の玉菊という名妓の追善供養をして以来のことである。玉菊は中之町へ出るごとに、大禿(おおかむろ)には二百匹、小さい禿には百匹ずつの目録をあまた持たせ、あちらこちらの茶屋の床几(しょうぎ)へ腰をかけるごとに、この目録を纏頭(はな)にしたというほどの全盛で、河東節(かとうぶし)が大好き、大酒飲みで、ばかに気前がよかったから、楼主、朋輩、客、幇間、芸妓全体から衆望を収めていたが、享保十一年三月二十九日、二十五で酒に命を取られた。その三回忌に廓内で、河東節の名手の河東蘭洲が、揚屋町の三味線弾き河栄の宅で、俳諧師岩本乾汁(けんじゅう)が、新作の「水調子」なる追善の詞歌を唄い、当日来会の客人に、一つずつ箱提燈を持たせて帰したところ、その提燈(ちょうyちん)が当分家々の軒端に吊られ、「水調子」の中の、「いうた言葉を調ぶれば、泣くよりほかに琴の音も、二十五絃の暁に、砕けて消ゆる玉菊の…」という文句とともに、玉菊追慕の涙ぐましい情調が、廓内廓外へ行きわたって、翌年は茶店一統申合わせたように、白の切り子燈籠をともし、それから以後毎年秋風の頃、世直しの意味も含まれて、回り灯籠、総(ふさ)燈籠などの趣向を競うようになり、その間は子供芝居、曲馬、軽業のごとき催しも行われた。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 纏頭は、人に与える金品のことです。


青い目をしたノンベー志士
十月九日、サトウは江戸の自宅で、「大宴会」を挙行した。芝神明から、、芸者や幇間(たいこもち)さえ呼びよせている。夜中まで、「ドンチャン騒ぎ」をやらかした。外を遊び回るだけでは足りずに、フランチャイズしたのだ。翌十日、陸軍病院で日本人医師らと「快適な一夜」を送る。翌十一日、午に野津兄弟(のちの道貫・鎮雄)がきた。飲んだ勢いで、吉原へくりこんでいく。まだ明るい。「わいわいと」飲む。それから、新政府”御用達”の金瓶楼(きんぺいろう)へ移る。さらに前の店にもどった。「歌えや、踊れや」。そこへ、石神ドクトルの遣(つか)いがきた。席を換えて飲み直そう、という。河岸の料亭でまた、「大いに歌えや、踊れや」。堪能してから、芸者を引き連れて帰っている。いったい、サトウは日本酒をどのくらい呑下したのだろうか。外国人はたいてい、はじめはあまりお口に合わなかった。「彼イワク、コノ酒、飲ムコトアタワズ、乞ウ、甜醸(てんじょう)ヲ賜エ、ト」(『横浜記事』)辛くてダメだから、もっと甘口のをくれ、とある。当時の酒は、今のよりずっと辛かったはずだ。無理もないかもしれない。招待側はしからばと、養老酒を出した。味醂ベースに草の煎じ汁を加えた、いわばカクテルらしい。甘口だが、強い。客は「欣然」とした、とか。(「幕末酒徒列伝」 村島健一) 幕末のイギリス公使館の通訳だった、アーネスト・サトーの話だそうです。”ちょっと一升”の部だったそうです。


弧を引くミント茶
給仕の男は白シャツに縞のチョッキ、銀の縫いとりをした黒ズボン、宝石の飾りをつけた半月刀を腰にたばさみ、頭には真紅のターバン、口ひげをたくわえている。シェークスピアのオセロの従者を連想させる姿である。彼は左手に煎茶茶碗ほどのカップを客の数だけ乗せた銀盆を持ち、右手のポットからミント茶を注ぐ。ポットはお茶を注ぎながら次第に上へ、遂には頭上まであがり、お茶は美しい弧を描いてカップに納まる。アラブ流”白糸の滝”といおうか。彼はピタッとポーズを決めて、銀盆を差し出す。お茶は正確に八分目である。これに似た芸といえば、地中海の対岸スペインのシェリー酒の産地へレスやセヴィリアなどにもある、長い柄のついた小さな銀のひしゃくで樽から汲みとったシェリー酒を中空を舞わせて、シェリーグラスに受け止めるのである。どちらが本家か知らないが、見事な芸だ。(「味に想う」 角田房子) モロッコのマラケシュ地方の話だそうです。清酒でもこんな感じのサービスがあったら面白く…ないかもしれません。


ゴットフリート・ケラー・滝田樗蔭
ゴットフリート・ケラーがある夜よっぱらってチューリッヒの町を歩いていた。彼は道で出あった男にきいた。「ケラーはどこに住んでいますか」その男は笑って、「あなたがそのケラーさんではありませんか」 ケラー「それはわかっています。彼の家がわからないんです」
滝田樗蔭が酒をのみだすと、酒ビールちゃんぽんにがぶのみし、食物は二人前もたべ声色(こわいろ)・ドドイツなどをどなりまくるというありさまだった。これをみて人々は、「こういう俗物にどうして小説がわかるのだろう」とふしぎに思うのだった。(「ユーモア人生抄」 三浦一郎)


中国での「酒の店」
酒家          レストラン
酒店、飯店      ホテル
酒房、酒舗、酒肆  酒屋
だそうです。「おかず咄」(牧羊子)にありました。著者は開高健の夫人だそうです。


財産目録
ある郡の若い役人が、競売に付されることになった一軒の家の財産目録を作りに行かされた。ところが、三時間たってももどってこないので上役がその家に行ってみると、若僧は居間のソファーの上で眠りこけていた。しかし、彼が目録作成のためになみなみならぬ努力をしたことは、傍らに落ちている書類からも明らかだった。そこには次のように書いてあった。「居間。テーブル一、サイドボード一、手をつけていないウイスキー・ボトル一、」そして「手をつけていない」の部分が×印で消されて「半分入った」と書き直され、さらにそれも線で消してあって「空っぽの」に直してあった。そのページの一番下には、乱れた走り書きで「ぐるぐる回るカーペット一」とあった。(「ポケット・ジョーク」 植松黎 編・訳)


河野一郎
戦後政治の実力者、河野一郎は、もと朝日新聞の記者で、政務次官や大臣の部屋にズカズカ入っていっては、引きだしを勝手にあけて、中の書類を写しとるというような、大胆な人だった。その彼が、農相だった昭和三一年一○月七日、日ソ国交回復の歴史的な交渉のために、鳩山総理とともにモスクワを訪れていた。フルシチョフが歓迎の宴を張り、河野は彼の隣の席に座っていた。フルシチョフは、アルコールをグイグイ飲み、隣の河野にも「飲め、飲め」とやたらに勧める。ところが、河野はまったく酒がダメ。やんわりと辞退していたが、「これはミコヤンの郷里の、アルメニアのブランデーだ。これを飲まないとは失敬だ。君はミコヤンを侮辱するのか」と、まるでケンカ腰で突っかかってくる。しかたがないので、「よし、飲もう。そのかわり、飲めない酒を無理やり飲むのだから、こっちにも条件がある。君は僕のいうことを聞くか?」「よし、飲んだら君のいうことを聞こう」そして、河野は、日本の何倍もある大きなグラスにブランデーをなみなみと注ぎ、一気に飲みほした。満場から割れるような拍手を受けながら…。こうして、翌日からフルシチョフ・河野会談がはじまり、ついに、歴史的な日ソ共同宣言の調印式を迎えることになったのだった。(「笑 酔っぱらい毒本」 青春出版社)


しらける
トイレ中へは声の聞こえない家の間取りであれば、それはそれでまたいい、自分が世界からへだてられている間に、世の中はどう変動しているのであろうかと、イライラの極地を味わう。そうして、トイレから息せききって走って戻ってくる。テレビの画面は、思いも及ばぬ場面を展開していたりする。自分が見なかった数分間の画面が、神秘的に感じられ、取りかえしのつかぬ世紀の損失に思える。この感じがまたいい。ただCMも、何となくオサケを飲みつつ見ていると楽しい時もあって、飲んでいるときにオサケのCMが出てると、(見よ。広告にある通りの生活をしている。何というゼイタクなことだろう!)と満足したりする。私など昔感覚の人間は、ナゼカそんな気がする。−
私はウイスキーの広告のヘミングウェイシリーズが好きだ。あれは何べん流れてもいい。こういうお好みのCMのあと、もとの画面にもどってくると、かえってしらけてしまうことがよくあった。これはCMに没入して身を入れすぎたのであろう。身を入れて没入すると、ロクなことにならない現代では、しらけることは自己防衛の手だてかも知れず、テレビはそれを教育してくれているのかもしれない。(「おせいさんの団子鼻」 田辺聖子)


金沢ご馳走共和国
それから何か茶色みたいな、何とも書きようのないようなのがちょこっとお皿に載っていた。見るからに酒の肴なので、日本酒をクビッと飲んでからそれをつまんでみると、うまい。酒がうまい。近くの芸者さんに、それはフグの内臓の漬物だと教えられた。フグの内臓と言われて何だか犯人でもみるような気持になったが、それは三年間漬け込んであるのだという。三年間漬け込まないと売り出す許可が出ないのだとも言った。「許可が出ない」というところが、この物品に対してじつに説得力がある。それが口の中にひろがって、じつに貴重な味だ。いけない、書いていて日本酒が飲みたくなった。(「ごちそう探検隊」 赤瀬川原平)金沢で行われたフードピアでの話だそうです。長時間ぬか漬けにするとフグの毒が分解されるということのようですが、北陸のぬか漬け文化の一つですね。


ぬ利彦
春、秋の園遊会や、国賓を招いての晩餐会などでも、日本酒が出される。園遊会の時には、車五、六台分の日本酒が納入される。明治時代、日清戦争の勝利を祝って皇居前広場で祝賀会を開いた時には、瓶詰で二万本の日本酒が納入された。まだまだ、瓶詰の日本酒は珍しく、樽からの量(はか)り売りが主流だった時代である。その時二万本もの日本酒を納入できる問屋は、「ぬ利彦(ぬりひこ)」しかなく、ぬ利彦はそれをきっかけに宮内省御用達になったといわれる。(「宮内省御用達」 鮫島・松葉) ぬ利彦の創業は吉宗時代の享保2年で、その時の名称は「塗屋彦七」だったそうです。


味醂四合
六歳のみぎり、初めて酒を口にした、それというのも実は親孝行の所産である。「たわけもの、年端もいかぬわらべが酒飲んでなにが親孝行−」と憤られる読者には、ありのまま思い出綴るしかあるまい。その折り、口にしたのは、味醂四合、母にいわれてハイハイと、家から二丁あまりの酒屋まで、空ビンを持って買いに出かけた際の出来事なのが、もとはといえば親孝行の所業のせい、と断ったゆえん。酒屋の親父も「ボン、お使いか、親孝行やな」と感心してくれた。ここまではいいが、酒屋の注いでくれたものをみれば、なにやらトロリとして、通常の水ともサイダーともちがっている。もともと好奇心人一倍に旺盛で、いたずらな子であった。中身の正体をたしかめてくれようと、ビンの口をちょいと押し開けてみれと、プンと香る芳醇な香り、たまらずぐびっとあおってみると、これがうまい。もう一口、ついでにあともう一口…。(「酒・千夜一夜」 稲垣真美) 結局全部飲んでしまったそうで、それを見た母親は、目頭をぬぐって「血は争えぬ」と奥へ入ってしまったそうです。


西瓜
この西瓜、いまでこそ夏の風物詩に欠かせないものですが、中国では五代のころに契丹(きったん)から伝わったといいます。西からの渡来物であることは、「西瓜」という名称からもうなずけますが、五代といえばそんなに古いことではありません。唐のつぎの時代で、十世紀ごろになります。南方のかぐわしい茘枝の実を、早馬で取り寄せたという楊貴妃も、西瓜を食べたことはないのです。西瓜は夏バテ、暑気あたりに効くといわれています。腎臓炎に卓効があり、便秘にもよろしい。利尿剤として、黄疸にもよいのです。中国ではむかしから、二日酔いの妙薬とされ、西瓜の皮を乾したものを煎じて、清涼飲料にします。(「美味方丈記」 陳舜臣・錦「土敦」) そういえば、神田の万惣では、今でも西瓜糖を売っています。これには、表示法のこともあるのでしょうが、二日酔いのことは書かれてはいなかったようです。


小西新右衛門
−一夜越しのなすをもう一度煮立て、木じゃくし二本でなすの上下をはさんでぐっと煮汁をしぼり、おわんの真ん中へ二つ並べ据え、薄くず汁のあつあつをたっぷりよそい入れます。そしてなすの上に錦糸卵をふうわりと着せかけ、おろししょうがを多い目に添えてふたをします。なすは煮立つと鉄分が出て色変わりしますが、不思議に一夜越しにすると、おいしそうな紫色に戻っていて、錦糸卵との配色もよく、なすの味と薄くず汁の加減が、ぴったり調和すれば「なすのくず汁なんて」と、まずいものと決めてかかった人ほど、「天下の珍味なり」と、舌つづみをうたれましょう。この料理法は、伊丹の旧家で銘酒「白雪」の醸造元の小西様で教えていただきました。先代新右衛門様は、関西きっての大茶人でした。夫人は大多喜の城主だった大河内家の息女で、理研の大河内正敏様の妹君であり、隅田川畔の今戸の下屋敷で成長なさったと聞きおよびます。いずれ、江戸紫の若なすで作られた大河内家のお料理なのでしょうが、江戸時代の香味が残っているように思いました。おいしいという料理は、家代々に伝わる遺産でもあり、作る人の心次第だと感じました。(「包丁余話」 辻嘉一) きじ酒(2) 


酒のことわざ(10)
さしめのあい(「もう一杯いただきましょう「または、「もう一つつがしてください」という意味に使った遊里の流行語)
猿の花見(酔って顔があかいのをいう)
旨酒嘉肴(ししゅかこう)有りと雖も嘗めざればその旨さを知らず(ごちそうがあっても食べなければ、うまさはわからない)
酒中の仙(酒を飲んで世の中の汚れや心配をわすれて悠然としている人)
寿(じゅ)を上(たてまつ)る(杯を尊者にさし上げて、限りなく長生をなさるようにと祈る)(「故事ことわざ辞典」 鈴木・広田)


酒と怒りの関係
酒は怒りを燃え上がらせるが、それは酒が熱を高めるからである。各人の体質に応じ、酔っ払って沸き立つ者もあれば、ほろ酔いで沸き立つ者もある。また赤毛や赤ら顔の人たちが、どうして極端に激怒するのであろうか。その理由は外でもない、他の人々も怒るといつもそうなるような色を自然の体質としてもっているからである。つまり彼らの血は動きやすく、また不断に動かされているからである。しかし、自然の体質が或る人々を怒りやすくさせるごとく、幾多の偶然の原因が同様に働いて、自然の体質と同じ作用を起こす。すなわち、病気とか身体障害のために、右の状態になる者もあるし、また労務とか、連夜の不寝番や、眠られぬ夜や、欲求や恋愛のためにそうなる者もある。その他、体とか心を害するものは何ものにせよ、病める精神を不平に傾かせる。しかし、これらのものはすべて端緒、ないし原因に過ぎない。最も勢力のあるものは習慣であって、それが悪化すると、悪徳を育むことになる。自然の体質を変えることは事実難しいし、生まれたとき一度混合された元素を転換することも許されない。しかし、このことを承知していれば、火の特質から酒を遠ざけるのに役立つ。プラトンも子供には酒を禁ずべしと考えており、火で火を扇動することはは許さない。そのような特質の者には、食べ物でさえも腹いっぱい食わしてはいけない。なぜというに、体が脹れれば、心も体とともに膨張するからである。このような者は労働させて、疲労し尽くす手前まで絶えず働かせるがよい。その結果、彼らの熱が減殺されるようにするがよい。(「怒りについて」 セネカ) 「神農本草」 和漢三才絵図の酒 


小指の骨折
三島は大笑いして、「そりゃあります。といっても野坂さんの学識には遠く及びませんが」口調を改め、「僕にも『百万円煎餅』という小説があります」これは読んでいた。三島の短編中傑作の部類。だが、どう賞めていいか判らない、食事しながらの「対談」だったが、ぼくは飲むばかり、料理の終わったあたりで、「対談」も消滅、抹茶が運ばれて来た、三島は座り直し、作法通り飲み干すと、高橋に眼をやり、すでに帰りの車が待つらしい。「野坂さんは召し上がらないんだな」つぶやき、一礼して立った、ぼくと高橋は外まで送り、三島は車に乗りこむと、まっすぐ前を見すえたまま去った。「三島さんもちょっとひどいなぁ」高橋が、なぐさめる風でもなくいい、ボロボロにやっつけるというより、対談の態をなさない、三島の仕打ちを批判するらしい。ハイヤーで、麹町の、古い倉に住むという高橋を送り、家には戻らず、六本木の、二年前まで住んでいた辺りをふらつき歩き、出会い頭に肩のぶつかった若い男をなごった。男は腰を落とし、後へまわした両手で上体を支える、黒眼鏡、黒のスーツ、危ない筋の者とみなしたか身動きしない。タクシーで練馬の借家へ帰りつくと、右手小指が腫れ上り、耐えかねる痛み、骨が折れたのだ。「どうだったの?三島さんとの対談は」妻がはしゃいでたずねる。痛みもさることながら、折れたのは小指らしいが、右手である、字が書けないじゃないか、「とむらい師たち」、題名だけは決めていた「タウン」創刊号、書き下し三百枚一挙掲載の締切は、十月半ば、一枚も書いていない。(「文壇」 野坂昭如) 三島は三島由紀夫、高橋は中央公論の人だそうです。


酒の入らない熊楠
北 書簡などにも誇張して書いているところがあるようですが、それは困りものですね。 神坂 おそらく相手にサービスしているんじゃないかと思うのですが、それをうっかり鵜呑みにしたり、孫引きしたりすると、とんでもないことになる。とてもシャイな人だったのです。弟の常楠のところに行くのに、あいつをこうやってやっつけてやる。ああやってやっつけてやると、酒のいきおいをかりて奥さんの前で一時間ぐらいぶつ。ところが先方へ着く前に酒が切れておりますので、しゅんとなってしまい、一晩いてなにも言えずに、風邪をひいて帰ってきたとか…。 神坂 酒が入らないとだめで、女房子供の前ではすごく肩を張るのですが、そういうところがすごく気がやさしい。ただ怒りだすと、自分がわからなくなる。(「縛られた巨人」 神坂次郎) 北は、北杜夫です。


四の宮
ところが、本祭りだけにかつぎ出される四の宮というのは、いったん出御(しゅつぎょ)すれば、血をみずには納まらないとされた。ほかの三台より、ひとまわりもふたまわりも大きく重いこのお神輿(みこし)は、生きのいい若い衆の中でも、とりわけ、腕自慢、力自慢のあんちゃんたちが、「手前(てめえ)みてえにひょろっこい奴に四の宮がかつげるかい…どけ、どけ、俺にまかせろ」と、胸を叩いてかつぎまわり、男の子たちは、「俺も大きくなったら、四の宮かつぐんだ」と憧(あこが)れの眼で見送ったものだった。ワッショイ、ワッショイ−根かぎり、精かぎり。キリリとしめた鉢巻から、そろいの半天、真白なパッチまで、汗ぐっしょり。のどがかわけば、あっち、こっちのお神酒所の四斗樽(しとだる)から、かっこよく、柄杓(ひすしゃく)であおった勢いもあり−つい、ほかのお神輿と、さわっとか、よけたとか。はじめは他愛もないことから始まっても、そこは血気さかんな若い衆たちのこと、各町内自慢のお神輿までが、「今年はひとつ、うちの町内で四の宮にぶつかってやろうぜ」などと、はじめから喧嘩(けんか)をたのしみの組もあったりして−つい、怪我人が出るというわけだった。(「私の浅草」 沢村貞子) わたしのような田舎出の者には、東京の神輿はどうも軟弱に見えてしまいます。


方丈記について
「方丈記」で有名な安元の大焼亡も狂人から起こった。 成田兵衛為成という男が、叡山(えいざん)の神輿(みこし)に狼藉(ろうせき)を働いたという科(とが)で、伊賀国の所領に流されることになった。旅立ちの名残りを惜しもうと、同僚どもが寄り合い、酒盛を始めた。酒飲めば酔う習いだが、いずれも叡山宗徒に対して気が立っていた面々で、しだいに怪しい気持になってきた。成田の前に杯があった時、一人の男が、御下向のお肴を進上したいが、残念ながら、何もない、これで一杯召し上がれと言って、もとどりを切って投げ出した。見ていた一人が、これは面白い、拙者も負けぬと、耳を切って投げ出した。するともう一人が、大事の財には命に過ぎたるものはあるまい、これを肴にと、腹を切った。成田は驚き、とんでもない肴どもだ。帰り上ってまた酒飲むことも、よもあるまい、為成も肴を出そうと言って自害した。仰天した、家主は、後のたたりを思えば、生き残るかいなしと、家に火を放ち、火中に投じて焼けた。おりからの烈風で、火は都を総なめにしたと言う。(「源平盛衰記」) 「方丈記」は、現代ではもはや隠者の寝言として、顧みるものも少ないように思われるが、これは、やはり日本人の書いた最良の書の一つなのである。方丈という言葉は誤解されているようだ。都を逃げ出して日野山に建てた家が方丈というのではない。人間の狂気の広さに比べれば、人間の正気は方丈ぐらいのものだと彼は言っているのである。(「金閣焼亡」 小林秀雄)


お化け千匹
お化け千匹、という言葉をご存じだろうか。ミミズ千匹とは全く関係がない。これはシェークスピアが二日酔いの苦しさを表現した言葉である。たしかに、千匹のお化けに襲われたぐらい悶(もだ)え苦しむものだな、二日酔いというやつは。しかも治療法が絶対にないというのがいっそうせつない。シジミの味噌汁がいい、冷奴(ひややっこ)を三丁食えばたちどころになおる、水風呂に頭からつかって一分間ジッとしていればいい、屁の中にふくまれている水素ガスがよくきく、などといろんなことをいうけれど、実際にはどれも大した効き目はない。「人間はだれしも絶対に二日酔いの苦しみを味わうことなく大酒が飲めるチャンスが一度だけある。それな死ぬ前の晩に飲むことだ」ギリシャの哲人セリシウスのこの言葉こそ至言である。(「ジョーク大百科」 塩田丸男)


したみ酒の作法
居酒屋や立ち飲みの酒店などでは、枡を小皿にのせ、枡から酒を溢(あふ)れさせるように注いでくれることがあるが、枡酒をひと口飲んでから、こぼれた酒を枡に戻すのはミットモナイ。枡を片手にとったら、もう片方の手で小皿を持ち、一口で飲み干すのが作法。こぼれた酒はおまけなのだから、最初に一気に飲み干してしまえばいい。(「お酒を美味しく飲む裏ワザ・隠しワザ」 夢文庫) こういう作法って、誰が考えだすんでしょう。出典はどこか知りませんが、多分、最近いいだされたことのような気がします。


ビールの原麦汁濃度から製品のアルコール度をみる方法
名前の数字28は、原麦汁エキス濃度というもので、発酵前の麦汁にふくまれる糖分やタンパク質、ホップの香りや苦味の成分、ビタミン、ミネラルなど、麦芽とホップから抽出されたエキスの麦汁全体に対する割合を示す。たとえば、原麦汁エキス濃度二八%の麦汁が百グラムあったとすると、二十八グラムがエキスで、残りの七十二グラムが水というわけだ。大体の傾向として、原麦汁エキス濃度が高いほど、出来上がったビールのアルコール度も高くなる。ピルスナーの原麦汁エキス濃度は一一〜一二%くらいで、アルコール濃度は四・九%前後だが、エク28は原麦汁エキスもアルコール度もその二倍以上ある。濃くて強いわけである。原麦汁エキス濃度は、われわれ日本の消費者にはなじみが薄いが、ドイツのビールのラベルにはアルコール度とともに表示されていることがある。これはなかなか役に立つのだ。まず、原麦汁濃度でだいたいのアルコール度が推定できる。というのは、原麦汁すなわち発酵前の麦汁にふくまれるエキスの重量のうち、およそ三分の一がアルコールに変わり、三分の一が炭酸ガスになり、残りの三分の一がエキスのまま残るのがふつうだから、原麦汁エキスの数値を三で割れば、炭酸ガスの空気中への放出分による総重量の目減りは無視するとして、おおよそのアルコール度が分かる。しかし、これは、重量パーセントで、百グラム中のビールに何グラムのアルコールが含まれているかを示すものだ。アルコールは水より軽い(エタノールの比重は○・七九)そこで、われわれが用いている容量パーセント、すなわち百ミリリットル中のビールに何ミリリットルのアルコールが含まれているかに直すには、結局、原麦汁エキス濃度に○・四二くらいをかければよさそうだ。(「ビール大全」 渡辺純) エク28は、ドイツの「世界でもっともつよいビールの一つ」だそうです。


酒飲み十戒
(一)こちらの顔さえ見れば、たまっている勘定を思い出させるような顔つきの主人のいる料理屋や、飲み屋で飲んではいけない。さりとてまた、勘定を払おうというと、まあなんて水臭いことをおっしゃいます、というようなことをいう料理屋や飲み屋も、敬遠しなければならない。− (二)酒に文句をいってはいけない。− (三)型にはまった飲み方をしようと心がけてはいけない。− (四)自分はどこそこの何でないと酒がおいしくないなどというけちくさい根性ではいけない。− (五)ほかにも知らない人が飲んでいるような時は、きこえよがしの話はつつしむべきである。− (六)酔って寝た翌日、ゆうべのことを思い出しそうになったら、あっと声を立てるなり、頭を自分でごつんとなぐるなり、いきなり立ち上がるなり、急いでタバコに火をつけるなりして、ゆうべのことなど一さい思い出さないように努めるべきである。− (七)宴会などで、何か余興を求められた場合、最後まで断り通してしまうというような、高利貸みたいに頑固なのは見苦しい。 (八)酒に酔って、自分が身につけている品物を、人さまにやたらに贈呈するというのは、悪い癖であるから矯正するように心がけなければいけない。− (九)何事も引き際が大切だが、酒の席でもそうで、もう飲みたくなく、その席にいたくなかったら、挨拶はしないで、さっさと帰ってきてしまうべきである。− (十)友を選ばば、酒飲み十戒などということを考えるような人間を避けなければならない。−(「言いたいことばかり」 高橋義孝)


象鼻杯
もともとは、「碧とう(竹かんむりに甬)杯」と名付けられたが、飲む時の様子が、象が鼻をあげている姿に似ているところから「象鼻杯」と呼ばれるようになった。お手紙をくださった多くの方は、体験者だ。分類してみると、「大阪の万博公園」「志賀の草津市立水生植物園」「宇治の三室戸寺」−この三ヶ所が、象鼻杯の三大聖地(?)だということがわかった。いずれも、蓮の名所として知られたところで、年に一度ほどのイベントで、象鼻杯がふるまわれているらしい。なかには、イベントで味わってから病みつきになり、ホームパーティでは、必ず象鼻杯を楽しむという人もいた。これはなかなか盛り上がりそうだ。一人が味わうと、茎のところを順々に切っていくので、見知らぬ人同士の回し飲みでも大丈夫。植物という素材ならでは、のことである。肝心の味のほうだが、やはりお酒に移った蓮の香りが素晴らしい、という意見が多かった。(「百人一酒」 俵万智)  象鼻盃 碧筒杯 


富士松
▲冠者 申し殿様。 ▲との 何ぢゃ。 ▲冠者 これに、富士の御酒がござりまする。是を参りますれば、富士禅定(富士登山)なされたと同じ事でござりまする。 ▲との その儀ならば、一つ飲まう。急いで持つて来い。 ▲冠者 はつ。やいやい、女ども、頼うだお方のござつた。酒を出せ。何、酒がない。その土器(かわらけ)色も、茶の袷(あわせ)も、(質屋へ)持ててちゃつと代えて来い。▲との 太郎冠者めが いかう つまり居つたと見えた。 ▲冠者 はつ、一つあがりませう。 ▲との ふん、持つて来たか。新盃ぢゃ。一つ飲まう。やい冠者、聞くか。これにつけて、答和(上句下句の付句)を出さふほどに、句におつきやつたらよし、句におつきやらぬにおいては、松をば根抜(ねこぎ)にするぞ。 ▲冠者 はあ。 ▲との かうもをりやろか。手に持てる土器色の古袷。 ▲冠者 燗の加へて参りませう。 ▲との 急いで加えて来い。 ▲冠者 はつ。やいやい女ども、汝が物を高声(かいじあう)に云うにより、殿の聞かつしやれて、答和になされた。以来をちゃしなめ。はつ、加へて参りました。 ▲との して、今のはつけるか。 ▲冠者 何となされてござる。 ▲との 手に持てる土器色の古袷。 ▲冠者 酒ごとにやるつぎめなりけり と、致してござる。(「富士松」 狂言記) 主人に黙って富士登山に行って来た太郎冠者が、松をこいできたときいて、答和ができなければ松を根抜するぞと殿様。その間に、太郎冠者は、無いのに富士酒などと苦し紛れをいったばかりに、着物を質屋へ入れて酒を買う羽目になる。しかもそのことが、答和の材料にされてしまったものの、冠者はうまく下句をつけたという話です。


伊藤熹朔、川端康成
 舞台装置家の伊藤熹朔(きさく)さんが、新橋の駅で酔っているところを、新劇ファンの青年が介抱して、自分の家に連れてゆき、ひと晩とめたという話がある。戦後間もないことだ。佐貫百合人さん著、「蟻屋物語」によれば、その学生は後日、劇団民芸の演出家岡倉士朗さんに、しみじみ、いったそうだ。「伊藤先生って、ほんとにキサクな方ですね」
 川端康成さんは、酒が飲めなかった。バーにゆくと、いつもこう注文した。「ジンフィズ ウィザウト ジン」(「新 ちょっといい話」 戸板康二)


猩々緋で金持ちになること
万八が潯陽(じんよう)の江のほとりに住んだころ、酒を沢山蓄(たくわ)え置いたところ、猩々がやってきて思うままに呑み尽くし、前後も知らず寝入ったとき、この猩々をそっとはだかにしておく。酒のにおいに蚊がおびただしく集まり、からだ一面にとり付いて血をしたたかに吸い込み、蚊がうごけなくなったところを、羽箒(はぼうき)で払い落として、これを締め木で締めて血をしぼる。この血で猩々緋という深紅色の染料を作り、猩々緋のラシャとして売り出せば、黄金白銀は泉のごとく、万八歳の齢(よわい)をたもち、「尽きせぬこととて、めでたけれ」ということになる。(「話のたね」 池田弥三郎) 四方屋本太郎正直という人の書いた黄表紙「虚言八百万八伝(うそはっぴゃくまんぱちでん)」にあるそうです。  


海軍の酒風呂
いずれも、第一次大戦終了後、勝者日英米三大海軍国の間にワシントン条約が締結され、世界のネイヴァル・ホリデイと言われたのどかな時代の話である。俸給やボーナスを貯金に廻そうなどと、けちなことを考えるなという中少尉連中が三、四人一と組となって、入港地の海軍御用の旅館に乗り込み、四斗樽一本と湯船を二つ用意させる。風呂場に並べた片方の浴槽に四斗の酒をあけて酒風呂を立て、真水の風呂で暖まってからこちらへ入り直すと、香気馥郁(ふくいく)として実に心地よい晩酌前のほろ酔い状態が出来上がった。「四斗樽一本、二十四円でしたね」と、これは第二次大戦終結後二十何年目かに、古希を過ぎた先輩たちが私に聞かせてくれた、彼ら若き日の思い出話である。私どもが在籍した戦時中の海軍にも、兵食器でがぶ呑みする風習は残っていたが、何しろ物資欠乏戦勢は不利、酒豪士官のやることも、もう少し世知辛かったような気がする。(「食味風々録」 阿川弘之)


三段目
真鍮の大きなベルが鳴った。試合開始だ。あっという間に一段目の半分まで飲み進む。ここらへんは上等なウイスキーが並んでいる。モルトもあればブレンドのやつもある。ぼくはすっかり楽しい気分になってきた。イギリスでは飲酒の許される法定年齢は十八歳だ。ぼくはその時十九歳、自分ではいっぱしの酒飲みのつもりでいた。実のところ、それまで飲んでいた酒といったら、ビールとシードル、それにクリスマスにワインが少々といったところにすぎず、酒飲みだなんてとんでもない話だった。だがそのころのぼくは体重九十五キロ、大きく、たくましく、自信にあふれた若者だった。しかしその晩はローストトマトとゆでたジャガイモをたらふく食ったあとだった。これだけ食えば酒だって吸収されるはずだと、ぼくは思ったのである。(「ニコルの青春記」 C・W・ニコル) バーの三段全部のボトルのシングルを一杯づつ飲むことに挑戦した時の話だそうですが、さかさまに抱えたガチョウを、首を聞き抜いてしまったと勘違いするというエピソードを作りつつ、三段目で床に倒れていびきをかいてしまったということです。


獅子文六の飲み始め
私の飲み始めは、味もわからず、酔う作用に好奇心を湧かせた。十八歳の頃に、ソバ屋へ入って、天プラそばに一本を命じた。しかし、酒よりも天プラそばの方がうまかった。一合徳利が、半分以上残った。ふと考えついて、丼に残った天プラそばのツユの中に、酒を全部注ぎ、それを飲んでみた。これは酒よりウマく、また、天プラそばのツルそのものよりもウマかった。そして、そば屋を出てしばらく歩くと、腹の中が熱くなり、何やら気分壮大となり、愉快というべきものを味わった。これが私の最初に酔った経験だった。それから後は、手が上がるばかり。(「わが酒史」 獅子文六)


上上吉諸白商い
江戸入(いり)を急ぎしに、暮(くれ)て、行く當所(あてど)もなければ。東海寺門前に、一夜を明(あか)しけるに。其(その)かた陰(かげ)に、薦(こも)かふりて、非人、あまた臥しければ。春も浦風あらく、浪枕(なみまくら)のさはがしく。目のあはぬ夜半まで、身の上の事共、物がたりするを聞(きく)に。皆、筋なき乞食(こつじき)、壱(一)人は、大和の竜田の里の者。すこし酒造りて、六七人の世を、楽ゝとおくりしに。次第にたまりし金銀、取あつめて、百両になる時。所の商(あきなひ)まだるく。万事うち捨て、爰(ここ)にくだるを。一門残らず、したしき友の、色々申て、と(止)めける。我(われ)無分別さかんにまかせ。呉服町の肴棚(さかなたな)かりて、上上吉諸白(もろはく)の、軒ならびには出しけれども。鴻の池、伊丹(いたみ)、池田、南都、根づよき大木の、杉のかほりに及びがたく、酒元手を皆水になして。四斗樽の薦を身に被(かふ)りて」古郷(ふるさと)の竜田へ、もみぢの錦は着ず共、せめて、新しき木綿布子(もめんぬのこ)なれば、かへるにと、男泣して、是に付(つき)ても、仕付(しつけ)たる事を止むまじき物ぞ、といふ程よろしからず、よい智恵の出時はもはやおそし。(「日本永代蔵」 井原西鶴) 京の大店に生まれた放蕩息子が、家を追われて、江戸の下った時、聞いたという話です。


「赤線忌」
昭和四十三年の三月に、「線後十年−赤線忌」というのを吉原で催した。主催したのは、当時直木賞受賞直後の売れッ子作家だった野坂昭如さんを中心に気鋭の若手作家や編集者たちで結成していた”酔狂連”なる道楽グループ。毎月のように集っては、おもに落語ダネのバカバカしい趣向の会合を行い、一同ひたすら乱酔する、といった不思議なグループで、わたしも世話人みたいな役割を仰せつかっていた。−
当日は、あらかじめ京町二丁目の旅館「やなぎ」を借切っておいて、いろいろと趣向を凝らした。−
まず、その玄関脇の小部屋を、お内証ないし帳場に見立て、そこにお内儀というか女将役にした安達瞳子さんを座らせ、野坂さんと大阪からわざわざ上京してきた華房良輔さんが牛太郎ないしポン引き役に扮して「えー、お一人さん、ご案内−」とやらかしそうという仕掛け。二階の大広間を宴会場とした。何人もの各社の女性編集者などを口説き落とし、衣裳屋から借りてきたお女郎風の長襦袢にさせて、お呼びした吉行淳之介さんをはじめとする”お客さん”たちと大酒盛り。−(「吉原酔狂ぐらし」 吉村平吉) これに参加した”お客”は、吉行淳之介、梶山季之、川上宗薫、生島治郎、戸川昌子、永田力、六浦光雄、村松博雄、酔狂連では、殿山泰司、田中小実昌、後藤明生、長谷部日出雄、石堂淑朗、小中陽太郎、佐木隆三、金井美恵子といった人たちだったそうです。


泡なし酵母
泡なし現象はどうして起こるのであろうか。研究によると、高泡に酵母が多数吸着し、このため形成された泡は酵母によって一種の保護効果を受け、泡が消えにくくなるという。泡なし酵母でこの現象が起こらないのは、酵母細胞壁の構造の違いに理由がある。泡なし酵母の細胞壁は高泡酵母に比べてより親水性が高く、泡の成分に付着するより水溶液の方に移行する性質があるのだ。つまり − 泡なし酵母の場合、泡は発生するけれども酵母付着による保護がなく、すぐに消えてしまうのである。泡なし酵母は高泡酵母の突然変異で生じたものから選抜されたものであるが、紫外線照射により、高泡酵母から人為的に作り出されたものもあり、ともに実用に供されている。(「酒の科学」 野尾正昭) ホノルル酒造の刺激 


髪の手入れ、ジュール
 一八に九年に出た本による婦人の髪の手入れ法。毛根を強くするにはブランデーがいい。つやと美しさには、ニューイングランド産のラム酒を使うといい。
 イギリスの酒造業者のジュールは、エネルギー保存の法則を主張していた。一八四七年、それを論文にまとめたが、しろうとではと、どの学会誌ものせなかった。たまたま兄が音楽評論家として、マンチェスター新聞に寄稿していた。そこへたのみ、その地へ行って講演をし、全文を新聞にのせてもらった。支持者もあらわれ、重要性もみとめられ、彼はのちに英国科学振興会の会長となった。(「アシモフの雑学コレクション」 星新一 編訳) ジュールの法則の発見者はビール醸造業者だったのですね。 


清酒という名称
日本で清酒という名が定着したのは、比較的新しい。明治維新になってほとんどすぐ、一八七一(明治四)年七月、太政官布告「清酒濁酒醤油鑑札収与並ニ収税方法規則」が出された。誕生したばかりの政府財政を早急に補填する必要があったのである。明治政府の財政基盤となった地租改正が、この二年であったことから見ても、酒は税金をとる側にとっても「おいしい」ものであったのだろう。太政官布告では清酒と称したのは、濁酒以外の酒の集合的概念であったと思われる。日本の清酒の濫觴(らんしょう)は、戦国時代の末期の奈良における僧坊酒「奈良諸白」で澄み酒といわれた。その後の鴻池清酒発明伝説−丁稚が主人の叱責(しっせき)に怒って酒桶に灰を投げ入れたところ、酒が清澄となったという−は、もう少し後の話である。元禄時代となって、諸白酒は日本酒の主流となって、現在の清酒に引き継がれていく。酒の技術はそうであっても、名詞としての清酒が登場するのは江戸時代中期以降である。たとえば、十八世紀中頃の濁酒の製造を制限した仙台藩の文書「清酒屋濁酒御役相改候事」に、やっと散見される。それまで、諸白酒とか菊酒、練酒(ねりざけ)とかの名前は出てきても、総称としての清酒は文献に現れてこないのだ。たんに「酒」ばかりである。(「酒と日本人」 井手敏博)


井伏鱒二、武億
 大学を卒業してから、井伏鱒二は恩師の谷崎精二のところに年賀に出かけた。すると見知らぬ婦人が出てきて、上がれ上がれという。奥の部屋に通ると見知らぬ男たちが酒を飲んでいた。井伏はすすめられるほどに飲み、やがて気持が悪くなったので外に出てどぶに吐き、ふと表札を見ると、全然知らぬ名が書いてあった。谷崎は引越してしまっていたのである。
 昔河南に武億という学者がいたが、旅に出て友人の家で除夜を過ごすことになった。主人が「何か欲しいものがあったら遠慮なく」というと、武億は酒を乞うた。そこで美酒に肴をそえて出したが、これを飲み食いしていた武億が少々物足りぬ顔なので、友人が「何かまだ」ときくと、武億は「ではごめん」とあわわあ泣き出した。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎)


女房と酒
唯(ただ)女房と 酒うちのみて
南無妙法蓮華経と唱え給え
苦をば苦と悟り 楽をば楽とひらき
苦楽共に思い合わせて
南無妙法蓮華経と うち唱え 居させ給え
これ豈(あに) 自愛法楽にあらずや        日蓮   (「酒」 芝田喜三代)
「御さかもり 夜は一向に止め給へ 唯女房と酒うちのんで なにの御不足あるべし」 という日蓮の文もあるそうです。


酒の肴にカステラを食
長崎から広まり、しばらくして京都でもカステラが作られはじめ、その代表は五条烏丸西の一文字屋忠兵衛、油小路三条の万屋五兵衛であったという。五兵衛の店では、カステラを茶菓子だけでなく、大根卸しやワサビを添えて酒の肴にしても大変よろしいなどと宣伝していたという。これがヒントなのか、江戸末期ごろから備前岡山で「かすてら焼」というのが作られはじめた。魚肉に卵黄と砂糖を加えて練ったものを型に入れて、カステラ風に焼き上げた魚菓子である。こちらの方が酒の肴には似合いのように思える。万屋五兵衛が言った方法で私も本物のカステラに大根卸しを添えたり、ワサビで食べてみたところ、本当によい酒の肴になった。特に大根卸しカステラは焼酎に、ワサビ添えのカステラは日本酒の辛口酒を熱燗にした酒とウイスキーによく似合った。(「食あれば楽あり」 小泉武夫) 肴としてのカステラ カステラの効能書 


素人鰻
「どうだ、よい酒であろう」「へえ。いえ…いい酒にもなんにも、がぶがぶって夢中でやっちゃったんで…えっへっへ、味はこれからなんで…」「(あきれて)なんだ…そらよ(酒を注ぐ形)」「へいへい…へ…へ…、へへ、こりゃどうも相すみませんで…へへへへ、どうも相すみません。、へ…(ぐびぐびと飲み)…よいご酒でござんす。これならもう上々でござんす。こくといい、香りといい申し分ござんせんで…へえ。だいたいもう、こんな…(肴を食べながらの発音)酒つけてる見せ(うち)、たんとござんせん…へえ。これならもう客は大喜びで…へえ…いえ利酒(きざけ)は私(あっし)がしたんじゃござんせん…へえ。旦那にしていただき…とても、がぶがぶ飲るほうのくちでござんすから…ッへへ、よせねえもんでござんすねえ。どうかしてよしてえと思って、今朝ねえ、讃岐の金比羅様へ、ェェ、三年の間酒を あァ…ッ言(た)ッきり、あとが出ねえん。本当の断っちゃってから飲むってえと罰が当たりますからね、ェェ…三年の間酒を断ァァ…ッ言(つ)ったきり、あとむゥゥッとかみ込んじゃった (「素人鰻」 桂文楽) 酒乱のうなぎさばきの職人に酒を飲ましてしまって…という落語です。


物を買つた時の喜びとそれを売り払つて飲んだ時の喜び
ジィちゃんは『目の引越』の中でこのように語っている。「私の周囲と言へば総てこれ酔漢でした。私は物を売ることを否応なく覚えさせられました。だから、物を買つた時の喜びとそれを売り払つて飲んだ時のそれと、何処がどう違ふのか、この年になつて今だにはつきりしません。美を手に入れた喜びの方が、果して酒の味を知つた悪習より高級でありませうか。私は極めて自然に、一個の茶碗と一夏のヨット生活を交換しました。」その頃私は銀座で「こうげい」という店をやっており、毎日夕方になると和子ちゃんといっしょにタクシーに乗って現れたが、タクシー代にも事欠く始末であった。まして飲代(のみしろ)においてをや。それを払うのが私の役目だったが、ジィちゃんの態度があんまり自然で堂々としているので、当たり前のように思っていた。月謝と考えれば安いものだが、そんなことを考えるのさえケチな根性のように思われた。ふつうの男には中々出来ることではない。だが、出来ないというのも一種の虚栄心で、酒とともに美を飲みつくしてしまったジィちゃんには、とるに足らないことだったであろう。畸人といわれる所以だが、どんな人間でも、そういう風に何物にもとらわれず、自由に生きたいという欲望は、心の底のどこかに秘めているのではなかろうか。私が青山さんのことを、畸人とも変人とも思っていないのは、人間の持っている究極の理想を体現していたからで、彼自身が、「人が見たら蛙になあれ」と念じていたに違いない。(「今なぜ青山二郎なのか」 白州正子)


沙嬉
中国の字書『辞海』の附録に訳名西文一万三千語を録しており、固有名詞はみな音訳である。ゲーテを歌徳、カントを康徳というのは、いかにもそれらしいあて字である。索引を引得(インデックス)とするのは音義ともにえたものである。新しい語ではビタミンは維他命、モデルは模特児、しかしニュートンを牛頓というのは、この秀才に似ず、カレーライスを加利飯というのは、どうも毒物のようでいただきかねる。わが国の言葉の華訳では、南宋の羅大経の『鶴林玉露(かくりんぎょくろ)』の一本にあるという窟底(クチ)(口)・沙嬉(サケ)(酒)など、いくらか感じが出ている。明の嘉靖三十五(一五五六)年、わが国に使して大友宗麟のもとに滞在した鄭舜功(ていしゅんこう)の『日本一鑑』の巻五『寄語』に、音訳の国語四千三百を収めるが、その多失(トシ)(年)・亦急(イキ)(息)・耀邁(山)・などは、理屈をつけられぬこともない。十六世紀末の『日本風土記』にあげる紅面的倒(おめでとう)・千首万世(千秋万歳)などをみると、そのころから日本人は正月に酔い倒れていたらしい。(「漢字百話」 白川静)


酒飲みについて
酒飲みとは、まあざっと次のようなものである。水分を多量に摂りたがるが、その中にアルコールを含んだものを好む。これをガブガブ飲むと、或る者は上役の悪口を言いだし、或る者はおのれの悲運をなげいて涙をこぼし、もっとも多くのものは放歌高吟して威勢がよくなる。「おい、ママさん。この水割りは薄いなあ。まるで水を飲んでいるようだ」「ターさん、それは水そのものよ。あなたはそれ以上飲むと、やたらにからんで知りもしない客と喧嘩するから」「なんだって?水だと?それで高え金をとりやがると言うんだな?」「冗談言っちゃいけないわ。あたしは、ターさんの健康を気遣っているのよ」「そうか、おれがおっ死ねば、おまえの店の売上げは確かに減るからな」「さあ、ターさん、もう今夜はずいぶんお飲みになったから、そろそろお帰りなさい」「なにを!おれだけを追いかえす気か。ここで飲んでいる他の客は一体どうするんだ。ははあ、みんな、てめえのヒモだな」「ターさんは夕方から飲んでいるのよ。それに、あなたは飲みすぎると、そんなふうにからむからイヤだわ」「そうか、それほどまでにおれを侮辱するなら帰ってやる。もう二度と来るものか」とひょろひょろ立ち上がり、ドアをあけ、階段をおりようとして物の見事に転落する。「痛い、痛い、足を折ったあ」「ターさん、大丈夫?本当に足を折ったの?」「いや、まだ折れていないようだ、だが、ショックで完全に酔いが醒めた。おとなしくするから、もう一杯飲ましてくれい」(「マンボウ人間博物館 酒飲みについて」 北杜夫)


杉の香を籠めたる酒
「小弟の廿(二十)歳頃から今日迄の廿年間の生涯から夏目先生を引き去つたと考へると残つたものは木か石のやうな者になるやうに思ひます」と学友に書いている。「私にとっては先生の文学はそれ程重要なものではなくて唯先生其物が貴重なものでありました」。漱石といると、ふしぎに自分が善い人になった心持ちになる、とも書いている。「先生と対(むか)ひてあれば腹立たしき世とも思はず小春の日向」「杉の香を籠めたる酒ぞ飲めと云ひて酔ひたる吾を笑ひし先生」寅彦の言葉から。「自分の持っている定規に合うように人を強いる事を親切と心得ている人がある。こういう人の定規は不思議に曲がっているのが多い」(「百貌百言 寺田寅彦」 出久根達郎) 漱石の弟子と自他ともに認められた寺田寅彦は、漱石に「杉の香を籠めたる酒ぞ飲め」といわれたのだそうですね。


貸徳利
和尚、小僧に徳利を持たせ、どじょう買いにやり「必ず誰か聞いてもどじょうだといふな」とくれぐれも言付けてやったところが、ツイ酒屋のが「小僧どの、手にさげたはなんだ」といへば「当ててみろ一匹やろふ」(「道具が証言する江戸の暮らし」 前川久太郎) 貸徳利の項で紹介されている小咄です。ここでは、ツケの集金でまわる小僧さんが回収してまわった徳利で、通い徳利ともいった。得利、徳裏、曇具利などと書かれた徳利は、室町時代に忽然と現れたなどと紹介しています。 貧乏徳利 


水入りお銚子
吾々はひどく貧乏ではあったが楽しく文学をやった。貧乏であればあるほど魂は高揚する。あの当時ほど僕なども高邁な精神に生きたことはあるまい。原稿料はせいぜい一枚(二十字詰二十行)で一円五十銭ぐらいのものだった。その一円五十銭が自分の文章に払われるということは蓋(けだ)し文学をもって身を立てようとした吾々にとっては絶大な誇りだった。如何に永い間、三文にもならない文章をこつこつと徹夜して書いたかしれない。毎晩夜明かしをして三十枚ぐらいの短編を半年もかかって、しかも脱稿にいたらないのだ。青息吐息というのはこのていたらくだ。僕の知っている一人の作家は、お銚子の中に水を入れて、それを盃で飲みながら、一本の銚子をあけるのにどの位の時間がかかり、その間にどんなことを喋るかということを実験しながら、倦(う)まずに小説を書いていた。しかもその主人公は一人の酔いどれの他愛もない小説なのだ。そんな無駄みたいな苦労をしてまで文学の世界に沈潜していた。(「東光金蘭帖 佐々木味津三」 今東光) 今東光の友人で、兄の借金を背負い、何家族もの生活を引き取って死んでいった、佐々木味津三の逸話だそうです。



パリの栃木山
一九二六年といえば、今をさること三十三年だが、こういう古い時代の話でないと、ほんとうのことが書きにくい。この年の八月、故春日野親方が、横綱栃木山をやめて半年もたたないうちに、突然その堂々たる巨躯(きょく)を、モンマルトルの諏訪ホテルに現した。三カ月間の紳士扱いのロンドン生活は、ちょんまげを切ったばかりの栃木山には、甚だ住みにくく、明大の関教授に連れられて、憧れのパリへやってきた。ここなら誰に気兼ねもなく、酒、女、競馬と好きな情緒に思う存分ひたれるわけだ。着いたその日の夕方は、肩の張らない日本料理「ときわ」で、待望久しかりし本場のブドウ酒、赤白混ぜて十本を軽くやって、あっぱれ横綱ぶりを発揮したまではよかったが、翌日からはブドウ酒のことは口の出さず、もっぱらブランデー党になった。「ときわ」で、防腐剤入りの日本酒と混ぜてのんだので悪酔いしたのを、ブドウ酒のせいだと思ったのだろう。翌日僕が訪れると、「どうもブドウ酒って奴は腹を下していけないから、今日からこれにした」ともう半分減っている三つ星ヘネシーのびんを示した。(「にやり交友録」 石黒敬七) この頃既に、防腐剤が話題になっていたのですね。それにしても、酒を混ぜたということは、ワイン十本の外に日本酒も飲んでいるということですから、大したものです。


オチョコの置き方
どっちの場面も、メシを食ったり、酒を飲んだりしながら台詞を言わなきゃいかん。その時の小津演出は、箸の上げ下げからオチョコの置き方、ご飯をゴクンと飲み込む喉の動かし方まで決めていくものでした。あまり細かいので、なんだかロボットになったような気分になり、体を動かすとギシギシと音がするんではないかと、心配したほどです。もちろん、、僕はうまくできるわけがありません。特に二回目の場面で、箸を見て目線を箸の柄から先の部分に移動し、それから話し始めるカットが、どうしてもうまくいかない。何回やってもダメなのです。どうやら”タイム”がいかんかったようです。箸を見て「1,2,3」で話し出さなきゃいかんのに、僕がやると、「1,2」になったり、「1,2,3,4」になったりしてしまう。なんで「1,2,3」かはわからんのですが、とにかく「1,2,3」でやらなければいけないのです。わけがわからずにやったのに、出来上がったシャシンでそのカットを観ると、これがなかなかいいんです。久しぶりに息子に会った父親の喜びと、それでも一緒に暮らせん悲しみが、なんとはなしに伝わってくるのです。さすが小津先生だと、感心しました。(「大船日記」 笠智衆)


いやいや三杯(1)
両人対酌花開 一杯一杯復一杯 我酔欲眠卿且去 明朝有意抱琴来
という李白の詩を、コラムニストとして知られた故高木健夫先生は、
差しで飲むうち開いた花じゃ そこで一杯もう一杯じゃ 酔うた眠いぞバイバイじゃ 明日も来るなら琴持って来いや
というふうに訳された。けだし名訳であろう。「いやいや三杯」ということわざは、酒をすすめられて、「いや、もうけっこう」と辞退しながら何杯も飲むさまを皮肉っている。口では遠慮しながら、実際は厚かましいことのたとえである。「いやいや三杯十三杯」とも言うし、「いやいや三杯、逃げ逃げ五杯」とも言う。そうして、ひどいのになると、「いやいや八杯おお三杯」というのもある。ところで、わが悪友は、李白の「一杯一杯復一杯」を、「一杯一杯腹一杯」と読んだ。いや、もう一人の悪友は、「一杯二杯また三杯」とも読んだ。こうなると底なしである。(「ことわざ雨彦流」青木雨彦)