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御 酒 の 話 36




チビチビ、酒ばかり飲む  酒が好き  納豆そば  そうのましてはいけない  硬水の酒  余談  宿の朝食のときの酒の味  としのくれに  九州で飲むと空を見る  鏡花の講演  酒と水がケンカした  さけはちょうし限り  私は酒を尊敬しているのである  この酒は賢い老人だ  一升の酒を飲まんよりは  もうございません  年間百五十何本  酒盗  ああいう味ではなかった  お酌  四つまでオッパイ、四つからお酒  ブルケ  小川芋銭先生と私  酒場と憂鬱  一 大酒のむべからず  酒つれづれ草    もう思ひ残すこともなかつた  吉野家にも散々通った  (10)大酒家の夫  酒の精  酒のサカナ  酒を飲まず、小食であり  小さな九谷のお銚子を一本  まったくそれは美味かった  十二月十二日  毎晩、一合づつ燗して、飲み習ふやうに  馬乳酒は夏の主食  忝いが迷惑  五日酔いの思い出  冬之部  十二月三日 月二十八夜  枯杜 遺懐  神々の生活に対するアイヌの考え方(1)    オモチャ箱  後水鳥記(4)  飲酒試験  アイディア一つ酒一本  フォールス・フロント  後水鳥記(3)  未成年飲酒  韻松亭  WHOの警告  キッソウチンキ  哀しみに酔ふといふ  一割くらゐはその晩に飲むくせ  盛年不重来  後水鳥記(2)  酒はなかだち  制限時間  京諸白  後水鳥記(1)  人くひ犬  美人と酒  母常に酒を好めり  酒と肴  森繁久弥(もりしげ・ひさや)  おじょめのお蔭  下戸の酒  洋酒和肴の邪宗門  方言の酒色々(35)  酒は諸道の邪魔  下戸の嘆き  相撲見物ほど素晴らしい酒のさかなはない  赤紙二枚とお神酒二本  27.風邪引きには壺を  及第する酒場  酒乱といふ本性  よっぱらい、よなし、よほお  他人に迷惑をかけるな  ○酒加十五  としま【豊島】  酒が相手になつてくれる  平野屋の蒙つた被害  上戸とか下戸とかいうことば  母が一パイどうだい  洒落唄  浮徳利  ネジアゲの酒呑  長谷夫人  ルバイ第二十二  「二度と酒はのみません」の三井弘次  近所の犬  酒歴一年生  酒歴のしみ  わたしには一定した酒友がない  納豆と酒盗  晩秋の酒  詠物女情    牧水の歌  珍酒、奇酒秋の夜ばなし  やがて天使のように見えてくる  577故郷や  一八〇〇年十一月六日より  蕎麦を食べ残す  毎晩  船の御用意は出来ました  十一月一日 木 二十六夜  サラ川(25)  まづめでたい  いまの粕谷さんの酒品の良さ  わが家の酒  尾頭八寸ばかりのこのしろ二枚で酒五合  降札と祝い酒  詩生晩酌  ビール二人で三ダース  〽酒はのみとげ 浮気をしとげ  史料四二 触書  底なしに呑む人  独立戦争の英雄たち  小林さんのスピーチ  お酒を飲むと、脳は萎縮する  休肝の大家  ◆酒は悲哀の階段を軋ませて  濁酒密造  皆川淇園酒詩  飲み食いあわせ  押川春浪と二将校の喧嘩  人間にきかないわけがない  黒糖焼酎  新粕  イカの粕漬  吉原揚げ  酒は気違ひ水也  大和菩提山・近江百済寺酒造りの消滅  滋養から離れた飲酒は悪癖  蚤のうた  酒をのむ 陶淵明が 物ずきに  理由  二人で酒を飲むことはしない  盃洗のもと  榎本健一(えのもと・けんいち)  サラコベ供養  ビールの町  適当に発展しているようだ  方言の酒色々(34)  日本国の"天地創造"の時期  酒の徳孤ならず必ず隣あり  新陳代謝  21.盗んだ酒はうまい  変な盛り上がり  やいつき、やだいじん、やぶら  サラ川(24)  どくろはい【髑髏盃】  群飲の禁  格に応じてつきあう  チリメンジャコに柚子の酢をしたたらせたもの  口合名尽児遊  打ち壊し  国民劇場、国民酒場、国民食堂  アメリカのビジネスエリート達  伊勢平氏はすがめなりけり(注)  伊勢平氏はすがめなりけり(本文)  ヤップ島のヤシ酒  〽飲んだお酒の  ルバイ第二十一  オミズ  二十三 子  ドブロクの密造元  むかしの人はやかましかった  じゃっぱ汁  酒飯論(4)  酒という字だよ  酔えれば何でもよかった  嫌いなほうではない  酒飯論(3)   酒は静かに  インバネス  九月二十九日 土 二十三夜  肩を落としたヤクザのような  祇園の先生  豪傑さん  酒飯論(2)  程々に静かに、ほどほどに声高に  軍隊  自我の分裂  酒飯論(1)  「ため」がない  近衛連隊  ボストンの青竜亭  酒はただ情をとかす役割  6.6兆円  波止浜章魚釣りの陶器  「梨雨」の断片  テレビ酒  505 秋晩題白菊  石炭よりアルコールを得る珍法  史料六 御達  酔枕窈窕美人膝  酔っぱらいの強気の弱気  枯れすすき  無名異焼の盃  不必要です、つまらぬ事です、無意味です  酒の為禽獣となる  某月某日  児島酒  三十滴  岡本楼の遊女長太夫  ずいぶん風流ですね  死にざま  ドン栗から作った焼酎  巌金四郎  川原町で酒屋  日本の御馳走は酒の肴  グルコアミラーゼ  燗酒の再評価  菊花の盃にて…  潦倒新停濁酒盃  特異動的作用  今日暫同芳菊酒  酒に酔うての虎の首  アユウルカ、子ウルカ、アユの内臓の石焼  一サケヲ聖人ト云フ名アリト云フ、如何。  54.ワインの中に真実がある  とくり【徳利】  ○無礼講事  目上の人  ○卯酒卅二  一つまみのズルチンかサッカリン  奈良麻呂の父親  まだまだ、まだまだまだ  八月三十一日 金 二十三夜  運動神経が七分  九月一日 土 二十四夜  口合のよき者  ボストンの乾杯  芋に酔い候は、酒よりはなはだし  脳の役には立ちません  夢の浮橋  崔敏童の詩  十日間大坂に流連  扁舟酔眠図  その昔本城あとの一奇談  行きつもどりつ  貫筒  銅鑼  サロン春  小村寿太郎円朝を励ます  490有明のこゝちこそすれ



むりに飲んだといふ屈辱感
夜の十一時すぎに、私は中野の宝仙寺前と言はれたあたりの電車道の居酒屋に入つて、一人で酒を飲んだ。私は異様なことをするやうな気がした。一人で酒を飲むといふことは初めてであつた。自分の考へるところのゆるしがたい自分と、現実の自分との間をもう少し引き離し、へだたりをつけたら気持が楽になるだらう、と私は思ひ、そのためには、皆がしているやうに酒を飲めばいゝ、と考へたのである。酒のやうな外的なもので解決がつくなどと考へた私はバカであつた。そこは、私よりももつと上手にさういふ場所で酒を飲む大工や労働者や職工たちを相手にする酒場であつた。しかしその日は客が少なかつた。だから、着物を着流しにして髪を長くのばし、眼鏡をかけた私が一人でそこで酒を飲んでゐるのは似合わなかつた。店のオカミサンがじろじろと私ばかりを見てゐるやうな気がした。私は自殺などといふことは全く考へなかつたのだが、そのオカミサンの眼つきを見てゐるうちに、オカミサンは、この人は自殺するのではないかしら、と思つているやうに感じだした。さう思うと、私は酔はなかつた。自然に、何でもなく見えるやうにと私は努力し、その努力のために、あの銚子と盃といふ形式が大変邪魔になつた。私は二本ほど酒をやつと飲むと、そこを出て、三十分ばかり、暗い裏町を歩きまわつた。私は、そんな風に見られながら、飲めもしない酒をむりに飲んだといふ屈辱感のため閉口した。酒を飲めばゆるし難いことがゆるされると考へたことの甘さから総てがまづくなつたのだと分つた。そして私は、苦しいことを酒を飲んでまぎらわすといふ習はしは実効のないものだと考えるやうになつた。(「我が文学生活Ⅲ」 伊藤整)


ルバイ第三十
頼みもせざるに、此処(ここ)へと何処(いずこ)より連れ来られ、  頼みもせざるに、何処(いずこ)へと此処(ここ)より連れ去らるるや。  あはれ、此の禁断の盃重ね、  その無礼(ゐやなさ)の思出を溺(おぼ)らせよ。
[略義]頼みもしないのに、此処へと何処(どこ)から連れて来られたのだろう。頼みもしないのに何処(どこ)へと、此処から連れて行かれるのだろう。此の無理無体な仕打(しうち)を忘れる為めに、「よせ。」と云われても、酒の盃を重ねるより仕方が無い。
[通解]此の世に生まれて来るのも、此の世を辞するのも、己が自由意思に反する以上、迫(せ)めて、生きて居る間だけでも、自由に楽しく暮さなければ。「夫れには酒を。」と云うのである。(「留盃夜兎衍義(ルバイヤートえんぎ)」 長谷川朝暮)


チビチビ、酒ばかり飲む
やがて、二十代の半ばに達する頃には、私も一端の酒飲みになつていた。牛肉屋の酒なんか飲めるかい、というようなことを考えていた。酒客の好んで行くような店へ出入し、黒松白鷹だの、菊正だのを注文して得意になつていた。酒飲みとしてナマイキ時代で、自分では酒の味がわかつたような気がし始め、酒のサカナも、ウニ、コノワタ、カラスミという類しか手を出さない。何も食わないで、チビチビ、酒ばかり飲む。そして何本空けても、ちつとも酔わないというところを人に見せたい。(「遊べ遊べ」 獅子文六)


酒が好き
その(三遊亭)圓之助の酒についてだがこれはもうほんとうに好きだったという以外にない。古今東西大酒のみの落語家が何人もいて、志ん生、松鶴、馬生などその逸話にこと欠かないが、そんな酒の上でのしくじりをふくめて、おのれの鬱屈とどこかでかかわりあってくるのが落語家の酒というものであった。圓之助の酒は、そんな落語家の酒とはどこかがちがっていて、ただただひたすら酒が好きだっただけなのである。三十年もむかし、安酒をくみかわしていた時分のことがいましきりに思い出されて、少しばかりつらいのだが、酒に対して意地がきたないと公言し、事実そうしたのみ方をしていたけれど、どうやらそれも「酒が好き」という本音をやつした彼一流の気取りであったように思われる。(「酒と賭博と喝采の日日」 矢野誠一)


納豆そば
さて納豆そばの楽しみ方ですが、まず、納豆を俎板(まないた)の上にのせて叩き、粗めに割ります。ただし叩きすぎて微塵にしてはいけません。丸粒の納豆を三~四片に刻む程度として下さい。その納豆を蕎麦猪口(ちよこ)に好みの量、約四分目ぐらい入れ、その上に水にさらしてパリッとさせたねぎの千切りを添え、ちょいと粋(いき)にみつばかパセリ、山椒(さんしよう)の葉などを脇(わき)に飾ります。薬味は断然練り辛子。これを薬味を入れる小さな皿にちょんと載せて脇添えさせます。これで準備は完了。お待たせしました。いよいよ納豆そばの賞味時間となりました。納豆の入っているそば猪口に適量のそば汁(つゆ)を入れ、軽くかき混ぜます。あとは通常のそばを召し上がるのと同じようにどんどんやって下さい。-
この納豆そばのいまひとつの楽しみ方は、酒の肴にすることです。日本酒の、できれば淡麗辛口あたりを熱燗にしまして(必ず熱燗にしてくださいまし。この肴の場合、ぬる燗ではちょいと締まりがよくない)、それをコピリンコと飲(や)りながら、肴の納豆そばをズルル、ズルルといただくのです。(「これがC級グルメのありったけ」 小泉武夫) 


そうのましてはいけない
私は酒が弱い方でないから、そして人に酒をすすめることは上手であるから、(幸田)露伴はいつも「そうのましてはいけない」といいながら相当のんだ。酔いがまわったとき自分の手の甲をみて、「どうも大変飲んでしまった」という。手の色で自分の顔色がわかるのである。私もその方法で自分の顔色を判断するようになった。(「遠いあし音」 小林勇) 


硬水の酒
たとえば、神奈川県の「いずみ橋」は、丹沢山系の伏流水で仕込んでいますが、その硬度はアメリカ硬度で140。日本では珍しい硬水で、お馴染みのミネラルウオーター「ボルヴィック」(約62の中硬水)より硬い値です。甘味を抑えた、引き締まった硬質な印象で、飲んだあとも舌に重みが残る感じがします。超硬水で知られるミネラルウオーター「コントレックス」(硬度1551)を冷やして飲んだあと味に、極端に言うと舌の両端にうっすらと苔が生えたような感覚を覚えるほどの重さを感じますが、その印象と似ていると言えば、感触をわかっていただけるでしょうか。ちなみに「いずみ橋」を燗にすると、重さはふっと消えて、締まった味の良さが生きます。熟成に耐える酒質だと思います。また山形県の「山形正宗」は奥羽山系の伏流水で仕込んでいて、硬度127。米の特長を生かした旨味の幅はありながらも、水晶を思わせるようなクリアでシャープな印象で舌の上を通ったあとに、自然塩をなめたときのような旨味が残ります。(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子) 


余談
これは余談だが、或る日、池上警察の巡査がやつて来て、これこれの男を知つているか、と聞く。なにごとかと思つたら、いつぞや屋台で私たちにからんだ兄(あん)ちやんが、なにかちよつとしたことで捕まつているらしかつた。あなた方二人が出してやれといえば釈放してもいいという。そこで、私たちは笑つて、柔道十五段と嘘をいつたのに恐れて逃げるくらいだから、大した悪漢でもないでしよう、私たちは別に恐喝されたなどとは思つていないし、大した罪をおかしたのでなかつたら出してやつて欲しいと答えた。それから四五日して、また別の屋台に二人で飲みに行つたら、おかみさんが、不服そうに、あんたたちには困ります、という。「あいつはわたしたち屋台仲間間の毒虫でした。たかりに来たり、お客さんにからんだりして、みんなが困つていたところ、警察にあげられたので、やれやれと考えていたのです。ところが、あんたたちが出してやれといつたとかで、すぐに警察から出て来た。まつたく、いらんことをする」私たちは苦笑した。しかし、そのヤクザはどこかへ行つてしまったらしく、その後は池上界隈に姿を見かけなくなつたということである。(「河童七変化」 火野葦平) 


宿の朝食のときの酒の味
そのなかでも「薔薇マサニヒラキ、春酒ハジメテ熟ス。ヨッテ劉十九、張大夫、崔二十四ヲ招キ回飲ス」と題する七言は、もっともぼくの愛誦する詩である。
甕頭(おうとう)ノ竹葉 春ヲ経テ熟シ
階底ノ薔薇 夏ニ入ッテ開ク
火ニ似タル浅深紅ハ架ヲ圧シ
餳(アメ)ノゴトキ気味緑ハ台ニ粘ス

試ミニ詩句ヲモッテ相招去ス
モシ風情アラバ アルイハ来ルベシ
明日早花 マサニ好カルベシ
心ニ同酔ヲ期ス 卯時ノ盃

竹葉青という酒が、春を経て、ようやく熟し、階段下のバラの花が咲く夏になった。炎のような紅い花のいろが濃淡とりどりに架にのしかかって咲き、水飴のような味の酒が台に粘ってたれているという第一首は、首尾よく、季節感を盛りあげて、思わずのどを慣らさずにおかない。親しい友だちに、詩筒を飛ばせて招いたが、風流心ありさえしたならば、喜んできてくれるかもしれない。朝の花の詩情は、また格別である。朝酒のうまさは、想像しただけでも、ぞくぞくするという第二首は、酒のみだけにわかる酒と友情の快さを歌っている。卯時の盃とは午前六時の酒という意味で、起きぬけに、ちょいと一杯ひっかける酒の味だ。卯酒まではいかないが、旅の楽しみのひとつに、宿の朝食のときの酒の味というものがある。これがあるばかりにぼくは旅に出るのが楽しみだといってもいい。ふだんにはできないぜいたくだからである。(「詠物女情」 奥野信太郎) 


としのくれに
衣食住もち酒油炭薪なに不足なきとしの暮かな
此のうたよみし師走廿五日、大久保といふ所にて宅地を給はりて住居を得たり。折からもちゐねる日にあたりしも、衣食住もちとつゞけしさとしにや。名歌のとくもあればあるもの哉。(あやめ草) 太田蜀山人 


九州で飲むと空を見る
面白いもので東京で酒を飲むと、つい下を見る、足許を見る、地面を見てしまう。大阪で飲むと、人間の、相手の顔を見てしまう。そこでつい惚れっぽくなる。九州で飲むと、何と、空を見る、空行く雲を見る。この分じゃ沖縄あたりで飲んだら上を見すぎて、引っくり返ってしまうかもしれない。しかし酒を飲み進めて行くと、まず土地が消え、次ぎに人が消え、最後に自分までもがどこかへ消え失せて、自他の別なき虚空のみが残るらしい。酒は虚空への通い路なのか。(「穏健なペシミストの観想」 高橋義孝) 


鏡花の講演
前田は学業も文学もともにだめではあったが、人柄がよかったので水上(滝太郎)さんは彼をうっちゃらずになんとか面倒をみてやられたらしい。そんあことから"ひとりぼっち"主催の文芸講演会が三田のホールで開催され、泉鏡花が講師として現れるという段に立ちいたった。鏡花の講演というのは珍中の珍だというわけで、さすがホールを埋めつくしての大入満員であった。その講演ぶりがすこぶるふるったものであった。大きな椅子の上に厚い座布団を敷き、テーブルの上には水のかわりに熱燗の銘酒"銀釜"を土瓶に入れてのせてある。鏡花は演壇に現れるや、いくらか面はゆいような様子であったが、やがてやおら座布団の上に端坐し、土瓶の熱燗をコップに注いで、ごくりごくりやりながら話をはじめてゆくうちに、いい塩梅に酔がまわり、すっかり調子が出てしまってそれはさながら鏡花文学を読むような、実に縹渺とした講演になった。紅葉の話から女の話、食べものの話と、実にまとまりのないものではあったが、そのまとまりのないところが、かえって美しい幻でもみているような、なんともいえない滋味沃々たるものを感じさせた。-
今から考えると鏡花の酒は、俗にいういい酒である。(「奥野信太郎著作抄 酔虎伝」)  「三田文学」の時 ジイド、鏡花 


酒と水がケンカした
酒と水がケンカしたというのです。まず水が自分の八つの効能をのべた。「一に清浄、二に清冷、三に甘美、四に軽軟、五に潤沢、六に安和、七に徐悪、八に増益、どうだい、これを水の八徳というんだ」と鼻を高くした。酒も負けていない。「君が八徳というなら、酒にだって八つ位の効能はあるぞ」といって述べたてた。「まず盃にそそがれた時のイロミ、盃を手にとった時のオモミ、唇へ近づけた時のカオリ、口に入れた時のヌクミ、口いっぱいにひろがるフクミ、のどを通り時のゴクリ、そして八番目には身体全体につたわって行くホロリ…」酒も水も互いに弁じたててゆずらない。あわやつかみあいにならんとしたら、そばにいた人間様が、重々しくこういった。「水も酒も、われわれは天の美禄として味わっているいや、なあ、お二人、水のいちばんうまいのは酒のあとの酔いざめの水、まあ、これだね。といって、酒なくて、何の酔いざめの水かだよ。まァ、ご両所、世の中とはそういったようなものじゃあるまいか」(「吉川英治氏におそわったこと」 扇谷正造) 


さけはちょうし限り
那珂川の外には涸沼(ひぬま)、久慈川、鬼怒川、千葉県との県境を流れている利根川にも遡上するけれども、それより以南の川では鮭は上らない。佐藤惣之助氏によれば、古来からの洒落に「さけは銚子かぎり」とあるが、これは「鮭は銚子限り」で「酒は銚子限り」にもじられ、鮭は利根川より以南に来ない。九月の末頃から十月にかけて秋晴れの爽やかな那珂川の面に鮭が銀鱗を潑剌と見せて漁獲されているのを観るとなんともいえない風趣がある。(「現代版 茨城名所図会 県北編」 山本秋広) 


私は酒を尊敬しているのである
私は、いつの日か、酒にのまれるような酒ののみようになつてみたいと思つている。酒をのんでも、のまれるな、ではない。酒さまのいう通りになるような飲みつぷりになつてみたいと、かねがね思つているのだが、そこまでの修行ができていないのである。いいかえれば、私は酒を尊敬しているのである。酒を手段や道具にしたくないのである。酒を利用して、酒の上で相手をやつつけたり、自分を弁解したり、またふだんは頼めないようなことを頼んだりしたくないのである。酒はよくしたもので、飲んでいるうちに、もうこのへんでおやめにしなさい、と徳利の方からいいだしてくる時機がある。その時機にこちらが、はいそうですか、では、というくらいになりたいのだが、なかなかそうはできないのが、さもしさというものであろう。(「朴の木」 唐木順三) 


この酒は賢い老人だ
◆「この酒は賢い老人だ」「洞穴に住んでいる予言者だよ」「…そしてこれは白い頚に掛けた真珠の頚飾りだ」「白鳥のようだ」「最後に生き残った一角獣だ」(「私」チャールズと友人セバスチアンが酒壜を空にして。イーヴリン・ウォー『ブライヅヘッドふたたび』吉田健一訳)(「ほめことばの事典」 榛谷泰明) 


一升の酒を飲まんよりは
弦斎は『食道楽』の広告の宣伝文も自分で書いている。春の巻では「此本一冊は鶏一羽を買ふよりも安し」という広告を新聞・雑誌に出すと、たちどころに予約だけで三千部近くに達したという。夏の巻は「一升の酒を飲まんよりは此書一冊を買ふに如(し)かず」。秋の巻は刊行が年末だったので、「お歳暮やお年玉のご進物には、弦斎居士の食道楽、春の巻、夏の巻、秋の巻を用ゐ給ふ程、貰ふ人に悦ばらるゝ事はありません」と、『食道楽』を進物として贈ることを勧めている。(「食道楽 村井弦斎」解説 黒岩比佐子) 


もうございません
先日、うちで友人と酒をのんでいたところへ、十返火葬場之守(肇)から電話がかかってきた。小島信夫がきているから、こないかというのである。小島さんにはまだお会いしていない。初めての人に会うのは、気が重い。断るような断らぬようなあいまいな返事をしておいた。そこへ中村下落合抜火葬場之守(武志)がやってきた。もう相当酒が入っていたせいか、私は意気大いに揚っていて、早速中村下落合抜火葬場之守に、十返さんの電話の趣を伝えて、大体、領民の分際で己のような大藩の大名を呼びつけるとは何事だと怒ってみせた。パッカードかクライスラー位を持って、恐れながらと迎えにくるのが当たり前ではないかといった。中村下落合抜火葬場之守も、その通りであるといって私に相槌を打ってくれた。そのうちちに次第々々に私は自分が本当に大名になったような気がしていた。更にそこへ来合わせたある出版社の若い人をもまじえて、酒をぐいぐいとあおった。そして天下国家を論じた。そうこうするうち卓上のさかながなくなったので、奥方を呼んで「下物を持て」といったら、「もう何もございません。たくあんでも持って参りましょうか」という返答なので、少し機嫌を損じたが、鷹揚に「では仕方がない、たくあんを持ってこい」と命じた。すると今度はどの徳利にも酒が入っていないことを発見したので、酒を持てといったら、奥方がこわい顔をして「もうございません」というので、大名の酒盛りは終ってしまった。(「この日この時」 高橋義孝) 


年間百五十何本
去年の暮れの酒屋の総〆を見たら、お酒が年間百五十何本。よく召し上がりますなあ、とおやぢさんが云つた。私一人で飲んだわけではない。お手伝ひもある。しかし実はそれは大した事はない。そんなことを云ひ立てれば、あまり外へは出ないにしろ、全くよその酒を飲まないわけではない。それはこの計算に這入つてゐない。のみならず、盆、暮のお中元お歳暮、年があらたまつてからの、年賀に貰ふお酒などが一寸胸算用して見ても二三十本はある。但し、貰つたお酒の銘が一一私の気に入るとは限らない。さう云ふのは酒屋で私の常用の口に代へて貰ふ。その手間は坂田のサアヸスで、ただだから勿論右の百五十何本の計算外である。それで考えて見ると、年間に私の咽喉を流れ過ぎるお酒の量は大体百七八十本、一石七斗か八斗ぐらゐの見当だらうと思ふ。-
戦後はお酒麦酒の内、今でも併用してゐるけれど、お酒の方を沢山飲みだした様である。一つは歳の所為もあるかも知れない。しよつちう飲んでゐて大体その量は一定して来た。飲みたいだけ飲んで、さう羽目を外す事はない。欲する所に従つて矩(のり)を踰えない趣がある。踰えなかつた合計が年間一石七八斗である。(「東海道刈谷駅」 内田百閒) 


酒盗
いきなりで恐縮だがノーヒントで出題だ。「酒盗(しゆとう)」ってなんでしょう。トラックで乗り付け、倉庫から銘酒をごっそり奪いさっていく盗賊団か。答えは四国は高知の名産、カツオの塩辛のことである。使用する部位はカツオの内臓で、最高級品ともなると「ジキ」という胃だけを使う。酒盗の名の由来は、土佐藩の第一二代藩主・山内豊資(とよすけ)という殿様が、食卓に出されたカツオの内臓の塩辛があまりにも酒に合うのでグイグイと飲み、「これだと酒がいくらでも飲める。酒を盗みおった。くるしゅうない、いまより酒盗というがよい」と語ったというのだが、ではそれ以前にはなんと呼んでいたのだろう。(「酒とつまみのウンチク」 居酒屋友の会) 


ああいう味ではなかった
私は、眠っているとき以外は一日そばから酒壜をはなさないが、日本酒はどうしてこんなに味がまずくなる一方だろう。からい日本酒がへって行くのはさびしいことだ。もし私の舌に狂いがなければ、いまの日本酒には、味をだすために化学調味料が使われているのではないか、という気がする。酒のうま味というのは、ああいう味ではなかったと思うがどんなものだろうか。先年、ドイツに帰国してしまったらライナ・ヴ-テノという知人が、日本の葡萄酒はドイツなみだ、とほめたことがあった。鵠沼(くげぬま)の友人の家で同人会があった日のことである。彼の舌はかなり狂っていた。ドイツではまずい葡萄酒ばかり飲んでいたらしい。その日私は、葡萄酒のことで彼と一時間あらそった。日本の葡萄酒は防腐剤くさくてのめないというのが私の偏見である。その日いらい、私は、ドイツ人はアメリカ人なみに味の判らない民族だ、という確乎たる信念を抱いてしまった。(「魚と酒」 立原正秋 「日本の名随筆26 肴」 池波正太郎編) 


お酌
ところで、私は誰にでもいやいやながらお酌をしているわけではない。相手によっては、心をこめてお酌しているつもりなのだから、ただ単に手持無沙汰の上のサービスと誤解されるのは迷惑なのだ。たとえば、百鬼園先生とかその他の親しい先輩、友人とは、酒席を共にするのは少しも苦痛ではない。むしろ楽しいのだ。近頃は、私の近所に住んでいる高橋義孝さんと、しばしば一緒に飲みに出かける。行先は、たいてい銀座二丁目、三共薬局の裏の路地にある「加六」という一杯飲屋だ。酒豪高橋さんのいうところでは、ここは明治三十何年かに開店した老舗で酒がうまいということだ。それに、五十八歳のおかみさんが、自分の娘と姪を相手に、のんびりと商売をやっているので、何となく好感がもてるのだ。加六では、高橋さんにお酌しながら、私は番茶ばかり飲んでいる。そして、高橋さんと同じように、くさやの干物や湯豆腐を食べている。高橋さんの方でも、また私に大変気をつかって、近所からアイスクリームやケーキを取寄せてくれるのだ。この不思議な組合せの私たちは、銀座の「加六」ばかりでなく、目白駅近くの「ミモザ館」や「オランジェ」というような小さいバアも回って歩く。ここでは、高橋さんはジンフィーズを飲み、私はジン抜きのジンフィーズすなわちレモンスカッシュばかり飲んでいる。(「著者多忙」 中村武志) 


四つまでオッパイ、四つからお酒
こんなわけで、わたしは四つの頃まで母のオッパイを飲んでいた。とともに、わたしは四つの頃からお酒を飲みはじめた。飲むと言っては大げさかも知れない、酒をなめはじめたのである。これにもワケがある。私の祖父は大の酒好きであって、朝から酒の気なしではいられなかった。うちの台所には、コモカブリ(正宗の四斗樽)がデンとすわっていた。祖父はその樽のノミグチをキュッとひねって、チュッと走り出る清酒をたのしんだと見える。で、わたしが母のオッパイを吸っているところへ、祖父はサカヅキをもってきて、酒をなめさせるのである。わたしは、右の手に母のオッパイをいじり、左の手に祖父のサカヅキを受ける。オッパイと酒と、さてどっちがうまかったかは記憶していないが、とにかく酒をしきりになめたことは事実らしい。で、孫自慢の祖父は、ウチの孫はオレの孫だけのことはあって今から酒がのめるということを、客の来るたびに自慢ばなしにしたものである。わたしの家は中買問屋であり、客は絶えず、座敷へあげて接待をした。父の留守のときは祖父が客のお相手をした。そのときは孫のわたしを呼んで酒をなめさせた。わたしが十代になってからのことだろうが、一月十一日の蔵開きの酒宴には、わたしも一人前の膳にすわり、客から「若旦那さんへ」と言って盃をさされる、それを見事に干しては返盃するのを一つの「芸」のようにめずらしがられ、こちらも好い気になって飲んだものである。中学時代には、酒好きの悪友があったのと、わたしの家の近くにはオデンヤのような屋台店が沢山出ていたので、友だちと飲み歩いて、酔って帰ってきても、決して叱られることはなかったものである。そのころは祖父も父も没していたが、母も酒には「理解」(?)をもっていたことだから…。(「人生は長し」 荻原井泉水) 


ブルケ
メソアメリカで古来宗教儀礼に不可欠であった酒をブルケという。竜舌蘭(りゆうぜつらん)の根本にできる球状の株ピニャに溜まる甘い液体(アグア・ミエル)を吸いあげて発酵させたヌルヌルとした醸造酒である。スペイン人入植以前には、一般の人びとは特別な祝祭の折にしかこれを飲むことができず、普段は神官や戦士、五〇歳以上の老人にのみ許されている、酩酊に対する統制のきいた社会だった。スペイン人のフランシスコ会士ベルナルディーノ・デ・サアグンは、先住民のあいだに残る異教的要素の根絶のために征服以前の文化を知る必要があると考え、綿密な調査をもとに『ヌエバ・エスオアーニャ総覧』を著したが、その労作によれば、もし隠れてブルケを飲んだことが明らかになると、一回目は鞭打ちの刑、二回目以上は村からの追放、何度も重ねた場合は死刑に処されるほど、厳しく飲酒が管理されていたという。今ではブルケリーアという専門の酒場でのみ入手でき、市場には出回っていない。(「世界に根づいたメソアメリカの嗜好品」 北條ゆかり 小長谷有紀 「嗜好品の文化人類学」 高田公理・栗田靖之・CDI) 


小川芋銭先生と私
「小川君とは俳人の方ですか」と私は聞いた。芋銭先生が画家であることを知らなかつたからだ。「いや、画家です。昨夕も大工町へ行つて酒に酔つて、芸者の半巾やいろいろなものへ河童を描いた。河童は天下一品です。お酒はいくらでも飲みます。この次の汽車ですから、君等をお送りして行かう」時間が来たので、いばらき新聞社を出た。新聞社から停車場は近い道のりである。果して芋銭先生が居られた。「君どこへ行く」芋銭先生が、私にさう言つた。その時、初めてお目にかかつたのであつた。目がお悪かつたやうに記憶して居る。風采は画家らしくない。三十二三歳位ゐであつたらう。芋銭先生も私も三等車であつた。車中で芋銭先生は酒をとり出し、しきりに飲んだ。私にも「酒はどうです」と、すすめてくれた。「飲みません」と言ふと、「こんなうまいものはない。酒を飲まぬとは、今の若いものは…」などと、それから、いろんな話をした。俳句の話、絵の話、そして、この頃は絵を専門に描いて居ると言はれて居た。芋銭先生は牛久で下車された。これが最初の印象であつた。(「小川芋銭先生と私」 野口雨情) 


酒場と憂鬱
酒場の時計は陰鬱な時計だ
この卓子(テーブル)をひつくり返して了へ
コップが
途方もなく臆病な金切り声をたてゝ壊れ
白い洋食皿が
げらげら笑つて壊れた
ソース瓶のソースの色が
オレの腐つた血によく似た色だ
×
いつでも いつでも
俺の顔をじろじろみる
卓子(テーブル)のもくめの奴がしやくに障る
まあよい…まあよい
俺は機嫌をなほして
五色の酒をつくらう
そしてはにかんだ女のやうにうつむいて
そつと呑まう
×
あれあれ
この室の中のお月様は
妙に青白いお月様だ
俺の舌をビフテキにして
刃のない洋刀で
ちび/”\刻んで喰ひたひものだ(「酒場と憂鬱」 小熊秀雄) 


一 大酒のむべからず
武を磨き、男を磨く、越後家中のあいだには、飲食についても、鉄則があった。心得として藩令に出ている箇条のひとつに。
一 大酒のむべからず、たとへ酔はずとも傍目より見て危ふし。且つは五臓の患ひとなる。
一 大食は、卑劣の至りなり。小我の快楽(けらく)に過ぎず。家来朋友と程々に楽しむを以って最なるものとし、独味飽慾(どくみほうよく)はいやしむべし。
一 総じて、飲食の事、能々(よくよく)つつしむべき也。もし病(や)まば一朝の戦陣に恥あり。もし命を落さば、忠孝二道にそむく。世々までのものわらい、家門の名折れ、合戦の場において功なきにも劣る。
これは藩士一般への上杉家家訓の一節に過ぎないが、謙信はなお、帷幕(いばく)の上昇の名を連ねて、 不識庵(ふしきあん)家中日用修身巻 という一種の武士道訓を藩の子弟たちへ示していた。(「上杉謙信」 吉川英治) 


酒つれづれ草
酒をまずいと思ったことがない。酒を悪いものと考えたことがない。それが僕の酒である。そのくせ僕は、三杯も続けて飲むと、すぐ酔ってしまうのである。けれど七、八杯でも悪くない、一合や二合ぐらいも結構いける。半夜よし、稀には話と相手によっては、徹夜もよし、又飲むなと云われれば飲まないでもよし、と云うのが僕の酒である。徹夜だけは、近年やらない。先輩三上於菟吉氏が病窓を閉じたせいでもある。おととしの夏頃だったか、日本青年団理事長の香坂昌康氏と、何かのはずみで飲むことになり、その日の午後四時に会う約束をして、緑風荘の一室でさしで飲み且つ話しはじめ、晩の十一時に同所を出るとすぐその足で両国の河畔へゆき、ここで又、水入らずで飲んだが、仕事があるからもう止めましょうかと云って戸外に出てみると、白々と明けた大川の鉄橋を、もう朝の電車が通っていたことがある。-そこらが徹夜の打止めかと思う。と云うと、僕はたいそう酒徒らしく聞こえるが、生理的には五、六杯がいい所らしい。そして飲むよりは、景色-また酒あるが為に聞ける話が好きだとみえる。(「酒つれづれ草」 吉川英治) 



なみなみ注(つ)げる杯(さかづき)を
眺めて眸(ま)みの湿(うる)むとは、
如何に嬉しき心ぞや。
いざ干したまへ、猶注つがん、
後なる酒は淡(うす)くとも、
君の知りたる酒なれば、
我の追ひ注つぐ酒なれば。(「杯」 与謝野晶子 「与謝野晶子全集」) 


もう思ひ残すこともなかつた
その中、満州事変から貿易が制限されて、シャルトルーズは輸入されなくなつた。私は暫くの間、同盟国だとか言つてゐたイタリアのヴェルモットで我慢しなければならなかった。戦争に没入すると、直にヴェルモットも飲み干されてしまつた。そこで初めて日本のウィスキーを飲み出した。サントリーを三越から取つてゐたが、間もなくこれも手に入り難くなつたので、そのころ京都の市会議員だか議長だかになつていた淀野隆三君の顔で、直接に京都から送つてもらった。酒も無かつたが、缶も無かつた時代なので、酒が到着するとすぐ缶を送り返した。空き缶なら縁の下にごろごろしてゐたからである。丁度そのころに、串田孫一君が土蔵のカーヴ(穴蔵)を開いて、その亡父君が愛蔵していた洋酒を私にも配給恵贈してくれた。ボルドーの各種の葡萄酒やライン葡萄酒や、特に、最後のオールド・パーにもお目に掛かれて、もう思ひ残すこともなかつた。 (「酒・酒・酒」 鈴木信太郎) 


吉野家にも散々通った
酒を飲み始めたのが昭和六、七年辺りで、その頃この写真に出ている吉野屋という、新橋駅の近くのおでん屋によく行った。井伏鱒二氏がその「厄除け詩集」でそこの主人に、春さんタコのぶつ切りをくれえと言って、われら万障くりあわせて独り酒をのむことになっているその吉野屋である。最初に連れて行って下さったのは河上徹太郎氏であって、もっと正確には、その時ここで始めて日本酒というものを飲んだ。吉野屋でその頃出していたのは何という酒だったか、もう忘れたが、二十歳になって飲み出したのだから、それが白鹿だろうと、菊正だろうと、直ぐに旨くなったりするはずがなくて、日本酒というのは水のようなものを一晩中、あるいはまだ外が明るいうちから飲み続けて、真夜中過ぎると気持ちが悪くなるものだと思っていた。大体、青春などというものが本当にあるのかどうか、医学上の問題を離れれば全く疑わしいと言わなければならない。子供は無邪気だと考えたりするのと同じことである。併しとに角、その青春に相当する期間は酒と付き合っているうちに過ぎたように思う。それでもう一度、吉野屋の話に戻る。何でもかでも飲んでいれば酒の味は解らなくても、眠くなることはなくて、頭もさえているのか、興奮しているのか見分けがつかない状態になるのが面白くて、吉野家にも散々通った。(「色とりどり」 吉田健一) 


(10)大酒家の夫
何かほかの嗜好物に転換させるか、もし万不可能な時は、妻自身大酒をのむか、但しはのみたる振ふりで酔よつぱらつて困らせて見せるか、知人の大酔家を、夫のしらふの時に夫の眼の前へ連れて来て見せしめにするかです。(「良人教育十四種」 岡本かの子) 


酒の精
『酒倉に入るなかれ、奧ふかく入るなかれ、弟よ、
そこには怖ろしき酒の精のひそめば。』
『兄上よ、そは小さき魔物まものならめ、かの赤き三角帽の
西洋のお伽譚(とぎばなし)によく聞ける、おもしろき…。』
『そは知らじ、然れどもかのわかき下婢(アイヤン)にすら
母上は妄(みだ)りにゆくを許したまはず』
『そは訝(いぶ)かしきかな、兄上、倉の内には
力強き男らのあまたゐれば恐ろしき筈なし』
『げにさなり、然れども弟よ、母上は
かのわかき下婢(アイヤン)にすらされどなほゆるしたまはず。
酒倉に入るなかれ、奧ふかく入るなかれ、弟よ。』(「抒情小曲集 思ひ出」 北原白秋)  


酒のサカナ
この頃、好きなサシミが、酒のサカナにならなくなった。まず、三片がいいところである。しかし、飯のオカズにするなら、うまいと思って食う。また、コノワタ、カラスミの類も、昔ほど魅力を感じなくなった。何で酒を飲むかといわれると、大変お恥ずかしい。油揚げとナッパと煮たようなものがよろしい。干瓢(かんぴよう)を薄味で煮たものなんかもよろしい。それから、秋田の枝豆(貯蔵品)なぞもよろしい。目下は、毎日、ソラ豆ばかり食ってる。この間なぞは、どうも食いたいものが、思い浮ばず、ヤケのようになって、ジャガ芋のゆでたにのに、塩をつけて食ってみたら、結構、酒のサカナになった。サカナを語る資格なし(「愚者の楽園」 獅子文六) 


酒を飲まず、小食であり
フロイスは信長に就(つい)て次のように書いていいゐる。「信長は尾張三分の二の主たる殿の二男で、その天下を統一し始めた頃は凡(およ)そ三十七歳であった。体格は中背で瘠形(やせがた)で、髯(ひげ)は少く、音声はよく響き、非常に戦に長じ、武術に身を委ね、威厳を好み、又賞罰に厳であった。苟(いやしく)も己れを侮る者があれば仮借しない。然し事柄によっては開闊(かいかつ)で、又慈心にも富んでいた。睡眠時間は少く、早起であった。貪(むさぼ)る心はなく、決断に富み、戦闘の術策に於ては甚だ狡猾であり、恐しく又強く怒る。但し必ずしも常に怒るのではない。部下の云う事に従うのは稀で、又多くは之を用いず、何人(なんぴと)も彼を恐れ又尊敬した。酒を飲まず、小食であり、起居動作は極めて鷹揚(おうよう)で、顔付は尊大であった。日本中の大名等に対して、何(いず)れをも軽蔑して、彼等と話すには、自分の部下に対する様であった。気宇が大きく、又忍耐に富み、戦が不利でも驚かない。理解がよく、判断は明確で、神仏を拝む事や、異教の卜占や、迷信的習慣を総て軽蔑した。名目の上では始めは法華宗に属しているやに見えたが、権勢の加わるに及んで、あらゆる偶像や神仏の礼拝を軽蔑し、又或る点では禅宗的見解を抱いて、アニマの不滅や、来世の賞罰等を考えなかった。その家居には、非常に清潔を好み、何物でも極めて気を配って順序よくした。又人が話をするのにぐず/\したり、長口上を述べるのを甚だしく嫌ったが、極めて卑賤な者や、最も卑しい奴僕に対しても心おきなく話をしかけた。特に好んだ事柄は、有名な茶の湯、良馬、利刀、鷹狩で、又上下の別なく、裸体で角力(すもう)をとるのを見て喜んだ。何人でも刀を帯びて彼に近づくのは禁物であった。然(しか)しどことなく陰鬱の暗影があつたが、困難な仕事にかかれば大胆で恐るる所なく、人々は言下にその命を奉じた」(「イノチガケ」 坂口安吾) 織田信長 


小さな九谷のお銚子を一本
随分以前のことにはなるが、亡くなった画家の佐藤泰治さんをまじえて、三人で食事をしたことがある。仕事の都合で、川端(康成)さんが四谷の福田屋に泊まっておられた時のことだ。三人は外でおち合って、まあ、寄ってらっしゃい、と誘われてそのままお邪魔した。離れの、美しい日本座敷である。食事をしましょうと言った川端さんが、「今夜はお酒の駄目な人ばかりですね、でも、全然飲まないというのもどうですか。」私もよく経験することだが、西洋料理店のことならまだいい、日本料理を目の前にして、酒の気もなく、食事をすることは、大変にむずかしい。なんとなく、形がつかない。とかく、忘れものでもしているような空気が、食卓に揺れたって来る。やはり、お銚子というものがないと、日本料理はさむざむしいようだ。「一本だけ、お酒をもらいましょう。」と、川端さんが言うと、係りの人が静かに笑って立った。やがて、膳が運ばれる。皿、小鉢は美しいし、料理も見事である。そして、女の人は正直に、小さな九谷のお銚子を、一本だけ運んで来た。何とも言いようのない笑声が、私たちの間に立った。いや、そればかりではない。盃に一杯ずつ注いだ酒が、どれもなくならないのである。十分ほど喋りながら箸を動かして、川端さんはお銚子をとりあげると、微かにふって見るような所作をして、「困りましたね。三人寄ってこのお銚子が空かないんでは…。」また笑声が、流れた。そしてたちまち、飯になった。(「酒場(バア)の果汁(ジュース)」 澤野久雄) 


まったくそれは美味かった
酔っぱらうと好い心もちのものだと知ったのは、一高の入試準備中に、当時売り出されたミュンヘン・ビールの小瓶を、オヤジに飲まされた時であるが、ほんとに酒が美味いなと思ったのは、大正三年の十二月、寒い秋田で一合十銭の地酒を、火燗で飲んだ時が初めといってよかろう。まったくそれは美味かった。四十六年後の今日、ハッキリ思い出せるくらいその味は素敵だった。そして、この時毎晩飲む癖がついたのである。酒量はまだあまり進歩しなかった。大正四年の夏、二度目の秋田行の時に、ビールを半ダース飲んで(二時間くらいの間に)ひどく酔っぱらったのであるから、大したことはない。しかし、酔っぱらっても昼間の興行に出演して、伊太利アンブロジオ会社作品「サタン」の説明をやってのけた。(「あなたも酒がやめられる」 徳川夢声) 


十二月十二日
昨夜は失敗した。飲みすぎて、今日は宿酔。朝、ぱっと眼がさめる。さ、仕事だと張り切るのだが、眼が真赤で、ノドが乾いていて-実際には仕事にならない。(眼がぱっとさめるのは、熟睡のせいか。)水をがぶがぶのみ、風呂にはいり、オートミールを食べてねる。部屋で一人で飲んで、宿酔とは-。これではまだ寝つけないと飲む。つい、それで飲みすぎるのだ。川端さんがこの間、川端さんの場合は酒でなく、睡眠薬をつい、これではまだ寝つけないと次々のんで、翌日がフラフラで-困ってしまうと言っていた。(「文壇日記」 高見順) 昭和37年です。 


毎晩、一合づつ燗して、飲み習ふやうに
岡榮一郎さんが、-といつてもいまの若い人は知らないかもしれないが、徳田秋声先生の親戚にあたり、漱石先生に可愛がられ、文藝春秋創刊当時の同人であつた岡さんが、私からこの話をきいて、男はやはり酒が飲めなくては、社会的に損をすると御郷里金沢の銘酒を二本贈つて下さつた。それを毎晩、一合づつ燗して、飲み習ふやうにといふ事で、長火鉢の横の猫板に、お銚子とお猪口がならび出したが、一合どころか、五勺のお酒も半分あまり、到頭ねをあげて、せつかくの御厚意を煮酒につかつてしまつた。わが家はそれで一生、酒には縁のないものと思つてゐたら、いつのまに、どうしてさうなつたかわけがわからないけれど、気がついた時には、旦那さんはいつぱしの飲み手になつていた。酒のうまいまづいは、酌をしてくれる相手によるといふやうな事まで云ひ出すやうになり、家の中では手酌を飲むのが一ばんよく、外へ出ては若くて美しくて、さうして酒の好きな芸者のお酌で飲むのが一ばんうまいといふ。つまり、色気のからんだ酒と、さもない場合は酒そのものの味だけをたのしむわけで、云はれてみれば、さもあらうかとうなづけはするけれど、酒の飲めない私には、さうして女である私には、その陶酔境はよくわからない。ビヤホールやレストランで、酒を飲む女はずゐぶんふえてきてゐるらしいが、しかしまだ、酒の飲めない女は社会的に損をするといふ事はないらしい。「だるま」へはいつて、酒を注文しなくても「酒も飲めないくせしやがつて…」とタンカを切られる心配はなささうである。(「待つ」 森田たま) 


馬乳酒は夏の主食
酒といってもアルコールは二パーセント程度で、酒好きの人にとっては酒と呼ぶほどのものではあるまい。モンゴルではそもそも酒とはみなされていない。マルコ・ポーロやウィリアム・ルブルクなどによるとされる一三世紀の旅行記に記録されているとおり、馬乳酒は草原のモンゴル人にとって夏の食事である。今でも夏の草原を訪問すると、現地の人びとは喉の渇きをおぼえるたびに屋内の涼しい場所に置いてある馬乳酒を自由に飲む。その姿は、私たちが夏になると随時、冷蔵庫をあけて冷たい麦茶を飲む様子に似ている。ただし、麦茶と違うのは、馬乳酒はカロリーが高い点である。ある調査によれば、草原部での成人男性が飲む馬乳酒の量は一日平均でおよそ四リットル。これだけ飲めば、一日の基礎代謝量が確保される。すなわち、これは嗜好品というよりもまさしく食料にほかならない。馬の群れを維持し、こまめに乳を何度もしぼっている地域なら、馬乳酒は夏の主食であるといっても過言でない。(「天と人、人と人をつなぐモンゴル人の嗜好品世界」 小長谷有紀 「嗜好品の文化人類学」 高田公理・栗田靖之・CDI) 


忝いが迷惑
ぼくが酒を少々嗜むということを伝え聞いて、お客様が手土産にお酒を持つてきて下さることがある。千万忝(かたじけな)い、千万忝いけれども、これはまことに迷惑である。それぼくの酒たる、一杯や二杯をああうまい、うまいですむ酒にあらず。一杯が二杯、二杯が三杯、二合が三合、三合が四合、一升が二升と、がまの油売りの口上ではないが、もういやだというところまで延々として続く酒なのである。だから、第一杯目を口に運ぶ時には、その日は仕事など一切合財もうだめだと観念しなければならない。一家大勢を養わねばならぬぼくのことだから、そう毎日がまの油式に酒を飲んでいるわけには参りません。お客さま御恵与の一升に手をつけたら、あともう一升は必ず喉に入れねばならず、それが入ればさあ外へ行こうということになって、大損をする。お客さまの御好意が仇となって、恨めしい気持で翌日目を覚ます。願わくばお酒を下さることなかれ。(「あたふたの記」 高橋義孝) 


五日酔いの思い出
戦後はじめての忘年会が、今この為体(ていたらく)になってしまった。-新婚早々の妻もいまごろ心配しているだろう。なんとか連絡をとりたいがその術とてもない。寒さがひとしお増している。こんなときうっかりねむると凍死するのだな。月並なことをいうようだが、軍服を着ていたころは死を怖(おそろ)ろしいとは思わなかった。だがこんなところで凍死するのは真平ご免だ。半ば捨鉢になった気持が、どこかで野宿をしようという覚悟らしいものに変わってきた。なんとなく人気のありそうな駅の付近を、離れる気にはなれなかった。遠慮なく動いて行く駅の時計が午前一時をまわっていた。人の話声に、ふと気がついてみると、買出客らしい人が数人焚火(たきび)をかこんでいる。急に人間世界に舞い戻ったような気がした。全然未知の人ばかりだが、不思議な親近感が湧いてきた。まだ暗いが午前四時だ。一番電車に乗ればやっと家に帰れる。ねむりこんでいる中に過ぎた数時間に比べ、この三時間たらずの長かったこと。夢中で家にたどり着いたが、なんともみじめなご帰還の姿だったあの寒空の野宿がたたって、ついに五日間寝込んでしまった。もう金輪際、酒は呑むまいと、殊勝らしい決心をした五日酔いの思い出である。(「大正っ子」 成毛収一) 


冬之部 
今朝の冬 酒蔵の祈祷しにけり今朝の冬     泊雲
冬雑    杜氏 冬百日酒を作れば帰るなり   湖村
年忘    飲め飲めと酒が物いふ年忘      鴬子
       暮四郎と朝三と酌む年忘        無事庵
       年忘まだ四五日は今年かな      九寸児(「続春夏秋冬」 河東碧梧桐選 「現代俳句集成」) 


十二月三日 月 二十八夜
朝、快晴、七時四度也。朝、新潮社佐藤俊夫さん来。おでん屋べんがら経営の相棒鈴木を伴ひ来る。中村はお米五升持参す。午後元の本社へ行く。合成酒の件にて庄野に会ふ為也。今日も未だ間に合はず、失望して帰る。お酒を飲まぬ事既に三十三日也。(「百鬼園戦後日記」 内田百閒) 昭和20年です。 


枯杜 遺懐
李長吉などと時代をほぼ同じくする晩唐の詩人枯杜は剛直で気節のあつた人と聞くが、その詩は豪放闊達なうちにその時代に共通した艶冶で退廃的な一面があつて世俗を顧みぬ奔放なものも見られるが「遺懐(懐(おもひ)を遺(や)る)」といふ一篇は、
落魄 江湖に酒を載せて行く
楚腰 繊細にして掌中軽し
十年 一たび揚州の夢覚む
嬴(か)ち得たり 青楼 薄倖の名を

うらぶれの酒や日ねもす
すがるなす腰や夜すがら
はかなかる十年の夢や
はなれ男(を)の名のみ残りて
蓋し酒食に沈湎(ちんめん)した昨の生活をかへりみていささかは誇りいささかは自嘲の意も無きにしもあらぬもの。亦、一種の酒と歓楽とに関はる詩である。(「私の享楽論」 佐藤春夫) 


神々の生活に対するアイヌの考え方(1)
神話は人間の村を訪れる神々の物語なのであります。ここでは、そのような物語の中に示されている神々の生活に対するアイヌの考え方を吟味して、そのような考え方が、どのような歴史的背景に於て形成されてきたものであるか、というようなことを明らかにしてみようと思います。神々の生活に対するアイヌの考え方は、次のように要約することができます。(一)神々は、ふだん、その本国では、人間と全く同じ姿で、人間とちっとも変らない生活を営んでいます。(二)神々は時を定めて人間の村を訪れます。(三)その際、神々は特別の服装を身につけます。たとえば、山の神ならば家の壁際の衣桁から熊の皮を取り下して身につけるのであります。(四)それから、神々は人間の村を訪れる時は決して手ぶらでくるなどということはない。山の神ならば、みやげに熊の肉を背負って来るのであります。熊の肉はアイヌのいう"カムイ・ハル"(kamuy-haru 神の持って来る食糧)であり、"カムイ・ムヤンケ"(kamuy-muyanke 神の持ってくるみやげ)なのであります。それで肥えた大きな神をアイヌは"シケカムイ"(sike-kamuy 荷物を背負った神様)などと名づけて大いに尊敬するのであります。(五)山の神はこのように熊の皮を着て、熊の肉を背負って、―いわば、おみやげの食糧である熊の肉を熊の皮の風呂敷に包んで背負って―人間の村の背後の山の上に降り立ち、そこで人間の酋長の出迎えを受けて、みやげの荷物である熊の肉の風呂敷包みを与え、その本来の霊的な姿に返るのであります。熊が人間に狩り殺されることを、"マラト・ネ"(marapto-ne)"賓客・となる"というのでありますが、それは山の神が、はるばる背負って来たみやげの食糧である熊の肉をそっくりそのまま人間に与えることによって、―すなわち、熊が死ぬことによって、―山の神は熊の肉体から解放され、その本来の霊的な姿に立ち返って、人間の酋長の家に"お客さんとなる"という考え方なのであります。(六)人間の酋長の家にお客さんとなった山の神は、そこに数日間滞在して飲めや歌えの大歓待を受けます。(七)そして人間の酋長からみやげの酒だの米だの粢(しとぎ)だの或は幣だのをどっさり頂戴に及んで、はるばる山の上にある自分の本国へ帰って行きます。(八)本国へ帰ると部下の神々を集めて、盛大な宴会を開いて人間の村での珍しい見聞談を語り聞かせ、人間の村からおみやげにもらって来た品々を部下一同にすそ分けして、神々の世界での顔を一層よくするのであります。以上が神々の生活に対するアイヌの観念なのでありますが、このような特異な神の観念は、はたして彼等の空想が産み出したものにすぎないのでありましょうか。(「和人は舟を食う」 知里真志保) 



太平洋戦争の前に四谷南伊賀町に住んでいて、ブルテリヤの黒一枚の中物で「三代目寿限無」という犬がいた。これも子犬の生まれて二十日くらいから戴いて家のなかで牛乳で育てた。犬にアルコール性の物を飲ませると大きくならないということを聞いたので、毎晩寄席から帰って一ぱい飲むときに膝へだいて犬にも酒を飲ませる。はじめは嫌な顔をするが、肴がもらいたいので膝へくるようになる。少し飲まして酔っぱらうと、あっちへヨロヨロ、こっちへヨロヨロ、ワンをさせても正確に発声できない。「ラーンン」と心持ち巻舌になる。犬は下で飼うより座敷で飼うほうが四六時中人間と接触しているためか利口になる。顔はブルドックで強そうな顔をしているが、下へ降ろすと近所の名もない雑種に噛みつかれて尻尾を巻いて逃げこんでくる。犬にも流行(はや)り廃(すた)りがあって、大正から昭和のはじめ頃までは、このブルドックが盛んであった。大正頃の川柳に、 ブルドック百円だして引きずられ  (「犬」 三代目・三遊亭金馬 「日本の名随筆76 犬」) 


オモチャ箱
庄吉の作品では一升ビンなど現れず概(おおむ)ね四斗樽が現れて酒宴に及んでいるから文壇随一のノンダクレの如く通っていたが、彼は類例なく酒に弱い男であった。元々彼はヒヨワな体質だから豪快な酒量など有る由もないが、その上、彼は酒まで神経に左右され、相手の方が先に酔ふと、もう圧迫されてどうしても酔えなくなり、すぐ吐き下してしまう。気質的に苦手な人物が相手ではもう酔えなくて吐き下し、五度飲むうち四度は酔へず吐き下している有様だけれども、因果なことに、酒に酔わぬと人と話ができないという小心者、心は常に人を待ちその訪れに飢えていても、結んだ心をほぐして語るには酒の力をかりなければどうにもならぬ陰鬱症におちこんでいた。だから客人来たる、それとばかりに酒屋へ女房を駈けつけさせる、朝の来客でも酒、深夜でも酒、どの酒屋も借金だらけ、遠路を遠しとせず駈け廻り、医者の門を叩く如くに酒屋の大戸を叩いて廻り、だから四隣の酒屋にふられてしまうと、新天地めざして夜逃げ、彼の人生の輸血路だから仕方がない。彼は貴公子であった。彼の魂は貧窮の中であくまで高雅であったからだ。(「オモチャ箱」坂口安吾) 


後水鳥記(4)
この日 文台にのぞみて酒量を記せしものは、二世平秩東作(へづつとうさく)なりしとか。むかし慶安二のとし、大師河原池上太郎左衛門底深がもとに、大塚にすめる地黄坊樽次といへるもの、むねと(宗徒)の上戸を引ぐしおしよせて酒の戦せしとき、犬居目礼古仏座といふ事水鳥記にみえたり。ことし鯉隠居のぬし来て、ふたゝびこのたゝかひを催すとつぐるまゝに、犬居目礼古仏座、礼失ン求ム二諸(コレヲ)千寿ノ野ニ一といふことを書贈りしかば、その日の掛物とはせしときこえし。かゝる長鯨の百川を吸ふごときはかりなき酒のともがら、終日しずかにして乱に及ばず、礼儀を失はざりけりしは上代にもありがたく、末代にも又まれなるべし。これ会主中六が六十の寿賀をいはひて、かゝる希代のたはぶれをなせしとなん。かの延喜の御時、亭子院に酒たまはりし記を見るに、其選に応ずるものわずかに八人、満座酩酊して起居静ならず、あるいは門外に偃臥し、あるは殿上にゑもいはれぬものつきちらし、わずかみみだれざるものは藤原伊衡(これひら)一人にして、騎馬をたまはりて賞せられしとなん。かれは朝廷の美事にして、これは草野の奇談なり。今やすみだ川のながれつきせず、筑波山のしげきみかげをあふぐむさしのゝひろき御めぐみは、延喜のひじりの御代にもたちまさりぬべき事、此一巻をみてしるべきかも。 六十七翁蜀山人 緇林楼上にしるす(太田蜀山人) これは蜀山人という武家による、町民讃美の文章と言えますね。 


飲酒試験
私が神経科の医局にはいって日も浅いころ、受持ちの患者さんにこの飲酒試験をやった。「先生、本当に酒がまずくなるのですか」とその人が訊いた。「そうです、だから二級酒でいいでしょう」と私はいった。-
困ったことに、いつまでたっても酒がまずくならず、苦しくもならないのであった。とうに彼は二合をのみほし、もう一合と請求をした。「この辺で様子を見ましょう。いくらか気分が悪くないですか」「いやいや、ちっとも、天国にいるような気分です」ついに彼は三合を飲みほし、ますます快げな顔をして、もう一合と要求した。私は残り少なくなってきた酒びんを情けない気持ちでながめた。「無理をしないがいいですよ。もうじききっと苦しくなるから」「いやいや、全然」ついに彼は用意しただけの特級酒をすっかり飲みほしてしまったのに、ほとんど不快感を覚えないのであった。私は半ば情けなく、半ば心配で彼の血圧を測ったり脈をみたりした。しかし彼はそんな私の気持などに頓着せず、のびのびとしたアクビをひとつすると、そのまま快げに寝入ってしまったのである。情けない思いで私は病室を出た。(「あくびノオト」 北杜夫) 


アイディア一つ酒一本
わたしは十月中旬からこの白亜に籠城して、開局の翌二十七年一月いっぱいまでは二、三回ほどしか帰宅できなかった。肌着やシャツ類は女房が運んできて、汚れものは一括して持ち帰るという、まるで巣鴨プリズンの戦犯さながらであった。「アイディア一つ酒一本」はこのころである。この会議なるものは、十二時過ぎから始まって開けがたの六時、七じごろがヤマである。というのは、わたしたち製作屋のもどってくるのがこの時間だったからだ。酒一本というと景気がいいが、なに宿の徳利(とくり)一本のことである。何にしても「感動的なタイトル」「ざん新なスタイル」をキャッチ・フレーズとして、スポンサー獲得はもとより、大目標であったNHKへのまっ正面切り込み作戦を遂行するというのだから、これくらいではまだまだオソマツのほうであった。ところで、この酒一本で出てきたアイディアの横綱級が例の「チャッカリ夫人とウッカリ夫人」(現在はウッカリ夫人とチャッカリ夫人)である。(「本番人生」 伊藤正弘) 民放創世記の逸話だそうです。 


フォールス・フロント
古典とされている西部のサルーンとは、そもそものはじめから一つの詐術であった。一八七〇年代の典型的な、通りが一本しかない西部の町では、どの建物もサルーンで、またどの建物も「フォールス・フロント」であった。フォールス・フロントというのは、平屋の丸木小屋や板壁の小屋の上に、ボール紙を糊づけするような要領で表だけはもう一階分付け足して素敵な二階建てのサルーンのように見せるものである。西部の人間のほら好み、誇張好みの性質とあいまって、フォールス・フロントは西部の町に映画のセットかポテムキンの村(書き割りの村)のような雰囲気をあたえた。それにしても、フォールス・フロントは誰を欺したわけでもないし、つくる方もそれは知っていたはずであるから、謎というほかない。横から見ればまことに他愛ない。上に乗っているインチキの部分はその下と背後にある本当の建物より二倍以上背が高いこともあった。それはまるで持ち主がつぎのように言いたがっているかのようであった-「当店は誇張しています、真面目にとらないでください」。規模の大きな有名な店の中には本当に二階をもっているものもあったことはあったが、そういうのは少数派にすぎなかった。まもなく、「フォールス・フロント」ということばは「サルーン」とほとんど同義語になった。(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳) 


後水鳥記(3)
大門長次と名だゝるをのこ(男)は、酒一升酢一升醤油一升水一升とを、さみせん(三味線)のひゞきにあはせ、をのをのかたぶけ尽せしも興あり。かの肝を膾(なます)にせしといひしごとく、これは腸を三盃漬とかやいふものにせしやといぶかし。ばくらう町の茂三は緑毛亀をかたむけ、千住にすめる鮒与といへるも同じ盃をかたぶけ、終日客をもてなして小盃の数かぎりなし。天五といへるものは五人とともに酒のみて、のみがたきはみなたふれふし(倒れ伏)たるに、をのれひとり恙(つつが)なし。うたひめおいく・お久は終日酌をとりて江の島・鎌倉の盃にて酒のみけり。その外、女がかたには天満屋の美代女、万寿の盃をくみ酔人を扶け得て、みづから酔る色なし。菊屋のおすみは緑毛亀にてのみ、おつたといひしは鎌倉の盃にてのみ、近きわたりに酔ふしけるとなん。此外酒をのむといへども其量一升にみたざるははぶきていはず。写山・鵬斎の二先生はともに江の島・鎌倉の盃を傾け、小盃のめぐれる数をしらず。帰るさに会主より竹輿をもて送らんといひおきてしが、今日の賀筵に此わたりの駅夫ども、樽の鏡をうちぬき瓢(ひさご)をもてくみしかば、駅夫のわづらひならん事をおそれしに、果してみな酔ふしてこし(輿)かくものなし。この日調味の事をつかさどれる太助といへるは、朝より酒のみてつゐに丹頂の鶴の盃を傾しとなん。一筵の酒たけなはにして、盃盤すでに狼藉たり。門の外面に案内して来るものあり。たぞ(誰ぞ)ととへば会津の旅人河田何がし、この会の事きゝて、旅のやどりのあるし(主)をともなひ推参せしといふ。すなはち席にのぞみて江の島・鎌倉よりはじめて、宮島・万寿をつくし、緑毛の亀まで五盃をのみほし、なお丹頂の鶴の盃にいたらざるをなげく。ありあふ一座の人々肝をけしてこれをとゞむ。かの人のいふ、さりがたき所用ありてあすは故郷に帰らんとすれば力をよばず、あはれあすの用なくば今一杯つくさんものをと一礼して帰りぬ。人をしてこれをきかしむるに、次の日辰の刻に出立しとなん。(太田蜀山人) 


未成年飲酒
最近の調査によると、法律上では未成年者は禁酒されているにも拘わらず、実は彼らの間に非常に深く、この悪習が拡まっていることが判った。ことに彼らの非行と飲酒との間には、非常に密接な関係があり、 凶悪犯では 四六・三% 粗暴犯では 三九・八% 犯罪少年全部では 二七・六% が、飲酒の結果犯罪をおかしているのである。(「母が子にかける橋」 中川秀人) 昭和37年の出版です。 


韻松亭
『不忍池を一望する素晴らしい眺めと鐘の音、当時は一時間ごとに、時の鐘をついていました。これを聞く風流は、明治の文化人の愛するところとなりました。とくに横山大観先生はここで酒を酌みかわすことを愛するあまり、ついに自分自身がオーナーとなって、心おきなくすごそうと、(上野)韻松亭を買い取ってしまいました。 しかしこの心掛けでは経営がうまくいくはずがなく、数年にして閉店、そのご私の祖父の手にわたって今日にいたったわけです』と現亭主の村上清治さん(70歳)は、『韻松亭由来記』で横山大観とのかかわりをのべている。(「水府綺談」 網代茂) 


WHOの警告
ちなみに、WHO(世界保健機構)では、二〇〇〇年代に入って次のように警告していました。
・アルコールは、六〇以上もの病気の原因である。 ・病気による社会的損失の四パーセントはアルコールが原因である。これは、高血圧(四・四パーセント)、タバコ(四・一パーセント)に次いで三番目に大きい。
・健康寿命を短縮する要因の九・二パーセントは、アルコールが原因である。 
・アルコールにより世界で一八〇万人が死亡した。これは、全死亡の三・二パーセントを占める。(死亡者二五〇万人、全死亡因の三・八パーセント=二〇〇四年)。 
・発展途上国では、寿命短縮の一三~一五パーセントは、飲酒に伴う事故である。 
・アルコールは、家庭内暴力の最大の原因である。 
・その他、経済的損失、未成年者への影響、妊婦への影響などの大きさは計り知れない。 
その後、WHOでは、二〇一〇年に「アルコールの有害な使用を低減するための世界戦略」を採択するなど活発に活動しています。(「記憶がなくなるまで飲んでも、なぜ家にたどり着けるのか?」 川島隆太・泰羅雅登) 


キッソウチンキ
そのあとで、私がやっと入手したのは「ブタノール」と呼ばれているガソリン臭い酒(いや酒なぞという代物ではない)である。たぶん、器用なやつが、ガソリンを加工してつくったものらしい。ところが、こいつを二三日飲みつづけていると、だんだん酒に対する欲情がうすれてゆくから不思議である。禁酒の誓いを立てるべき時があるとすれば正にこのあたりであるが、私はそんなことには辟易(へきえき)しなかった。同じ伊東にU君という飲み仲間の画家がいて、酒を探す彼の苦心にいたっては到底、私の比ではなく、ついに「ブタノール」も入手困難とわかると今度は、彼の友人である街の医者に事情をうちあけて、薬局にあった「クミチンキ」をゆずりうけてきた。これを少量、コップにたらし、その中に水を入れてかきまぜると、ビールみたいな泡(あわ)が立って、多少は、ビールを飲んだときと同じような舌ざわりをかんずる。こいつに味をしめた私とU君は、伊東じゅうに住んでいる知合いの医者にたのんで、ひそかに「クミチンキ」を手に入れ、数日間をビールの思い出に涵って過ごした。「クミチンキ」も、しかし、そんなに矢鱈(やたら)にあるわけではなく、ついに伊東じゅうの「クミチンキ」を飲みつくしてしまうと、U君は、今度はどこからともなく、妙なものを探しだしてきた。これも薬局にあったものであるが、「キッソウチンキ」といって、ヒステリーの鎮静剤の原液となるべきものだそうである。こいつもまた「クミチンキ」と同じように水に混入すると泡が立って、いささかビールのかんじを記憶によび起す程度の役目は果すのである。この「キッソウチンキ」を、ある日、とうとう二人で一本飲みつくしてしまった。一本といっても酒二合ほどの量しかないが、コップに滴らすのは、ほんのひと雫(しずく)であるから、まずビールにすれば二人で一ダースぐらいであろうか。飲みはじめたのが正午すぎで、飲み終わったのが夕方であるから正味三四時間というところである。この「キッソウチンキ」が、最後にいたって、とうとう本性を発揮したのである。二人とも、急に哀しくなってきたのである。いや、悲しいなぞという生やさしいものではない。気がついてみると、私もU君も、声をあげて泣いている。あとからあとからあふれてくる涙を、今や、どうしてもおさえようもないのである。(「酔中放談」 尾崎士郎) 


哀しみに酔ふといふ
祇園の白川のほとり大友(おおとも)という茶屋のあとに吉井勇の歌碑ができている。こよなく京都を愛し、昨年秋七十四歳で永眠するまで二十余年間、京都に住みつづけた。
わが胸の鼓のひびきたらたらり たらたらり酔へば楽しさ
林にたたへられたるうま酒の ゆたのたゆたにただよへる時
酒に酔ふいな哀しみに酔ふといふ 争ひおかし果しなければ(「日本の酒」 住江金之) 


一割くらゐはその晩に飲むくせ
東京では頼まれた原稿を雑誌社にとどけ、その原稿料を一割くらゐはその晩に飲むくせがついて、初めは酒専門の店で飲み、それから食べる家に寄つてさかなや飯を食べた後、酒場をだらしなく廻つて歩いても、正気を失ふことはなかつた。その頃のカフェといふものは今のキャバレイであらう。今のやうに酒場なぞも流行(はや)らなかつたらしく、夜更けたどの店にも、女の人が悄然(せうぜん)と座り客である私を見ても、お愛想一つ言ふでもなく卓上にかちんと音をさせてビールを置いて行つた。酒場ではたらく人達は些(ち)つと人気がなくなると直ぐ何か考へこんでしよんぼりしてしまうものらしかつた。三丁目の裏あたりからはしご酒をはじめ、新橋近くでその晩のはしご酒が終わるのがつねだが、あんなはしご酒をどうしてしてゐたかといふと、やはりその晩に見たい気のある美しい人が何処の店にもゐなくて、何も見られなかつたためではないか。(「生きたきものを」 室生犀星) 


盛年不重来 一日難再晨(盛年 重ねて来たらず 一日再びあしたなりがたし)
及時当勉励 歳月不待人(時に及んでまさに勉励すべし 歳月は 人をまたず)
うまさけを いさや酌みませ 若人よ このたのしみを 老いは待つべき
わかき日に またもやあわめやも うまさけに 酔ひたのしませ 時過きぬ間に
生けるうち 飲めるうちこそ いのちなれ あしたありとは なおもひそや(「玩物喪志」 坂口謹一郎) 


後水鳥記(2)
言慶[欄外。いせ屋言慶]といへる翁はよはひ六十二なりとかや。酒三升五合あまりをのみほして坐より退き、通新町のわたり秋葉の堂にいこひ、一睡して家にかへれり。大長[欄外。大坂屋長兵衛]ときこへしは四升あまりをつくして、近きわたりに酔ひ臥したるが、次の朝辰(たつ)の時ばかりに起きて、又ひとり一升五合をかたぶけて酲(ふつかよひ)をとき、きのふの人々に一礼して家に帰りしとなん。掃部(かもん)宿にすめる農夫市兵衛は一升五合も(盛)れるといふ万寿無疆盃の盃を三つばかりかさねてのみしが、肴には焼る蕃椒みつのみなりき。つとめて(早朝)、叔母なるもの案じわづらひてたづねゆきしに、人より贈れる牡丹餅といふものを、囲炉裏にうちくべてめしけるもおかし。これも同じほとりに米ひさぐ松勘といへるは、江の島の盃よりのみはじめて、鎌倉・宮島の盃をつくし、万寿無疆の盃にいたりしが、いさゝかも酔しれたるけしきなし。此日大長と酒量をたゝかはしめて、けふの角力のほてうらて(最手占手)をあらそひしかば、明年葉月の再会まであづかりなだめ置けるとかや。その証人は一賀・新甫・鯉隠居の三人なり。小山といへる駅路にすめる佐兵衛ときこへしは、二升五合いるゝといふ緑毛亀の盃にて三たびかたぶけしとぞ。北のさと中の町にすめる大熊老人は盃の数つもりてのち、つゐに万寿の盃を傾け、その夜は小塚原にて傀儡(くぐつ)をめしてあそびしときく。浅草みくら町の正太といひしは此会におもむかんとて、森田屋何がしのもとにて一升五合をくみ、雷神の門前まで来りしを、その妻おひ来て袖ひきてとゞむ。その辺にすめる侠客の長とよばるゝもの来、なだめて夫婦のものをかへせしが、あくる日正太千住に来りて。きのふののこり多きよしをかたり、三升の酒を升のみにせしとなん。石市ときこえしは万寿の盃のみほして、酔心地に大尽舞のうたをうたひまひしもいさましかりき。 太田蜀山人 まだあります。 


酒はなかだち
人に酒などすすむること、第一(だいいち)人にちかづく媒(なかだち)と成(な)る也(なり)。あながちそれにふける心にはなれども、風情(ふぜい)あれば人もこぞり、無音(ぶいん)も知音(ちいん)になり、友にしたしむ。
*伊勢貞親「伊勢貞親教訓」(長禄年間・一四五七~五九) 「媒」は、仲立ち。「無音」は、無沙汰をして、行き来のない人。「知音」は、知友。(「日本名言名句の辞典」 尚学図書辞書編集部・言語研究所) 


制限時間
それでもう一つ付け加へて置かなければならないのは、酒類を飲む時間には英国では戦争の前から制限があつて、これは確か午前十時半、或は場所によつては十一時から午後三時まで、それから午後五時半から十時半、或は十一時までだつたと思ふ。そしてこれは第一次大戦以来の習慣で、初めはその当時の手不足による止むを得ない処置だつたのが、かうしても客の方で制限時間内に大勢飲みに来て、売り上げに変わりはないことが解り、店のものが助かるので、今でもこれを実効してゐる。そして夏はいつまでたつても日が暮れないから、五時半から十一時まで制限時間一杯に飲んでも、東京で昼間から飲んでゐるやうなものなのである。(「英語と英国と英国人と」 吉田健一) 


京諸白
寺院酒造業は以上の如く、慶長の末年に至る迄に相並んで没落或は第一線より退いたが、そのたの都邑を立地とする旧醸造中心は、新時代の転移の裡にも依然としてその地位を保ち、或は転移に順応してますます隆盛を致した。殊に永き伝統を継ぐとともに、中世末近世初頭に於て技術的改良を成就し得た奈良は、新興酒造業地の輩出の中に伍して永く指導的地位を占めたのである。即ち奈良に於て創成せられた諸白酒は、天正の中頃以降続々と京都方面に搬出せられ、天野の名酒と比肩し代表的名酒と認められた。されば『雖云諸白・天野、多不譲者也』とは(鹿苑日録慶長八年十二月十二日条)、多種の酒の価値を決定する語となったのである。しかしなお諸白酒は天野酒を漸く圧倒し、近世酒造技術の軌範となるに至った。かくして中世以来柳酒の伝統を誇る京都も、その伝統を捨て、諸白酒の醸造技術に準拠し、慶長の半ば以降に於ては「京諸白」(或いは京両白としるす)を醸造するに至ったのである。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


後水鳥記(1)
文化十二のとし乙亥霜月(11月)廿一日、江戸の北郊千住のほとり、中六といへるものゝ隠家にて酒合戦の事あり。門にひとつの聯をかけて、不許悪客下戸理屈入庵門(悪客、下戸、理屈の庵門に入るを許さず) 南山道人書 としるせり。玄関ともいふべき所に袴(はかま)きたるもの五人、来れるものにをのをの酒量をとひ、切手をわたして休所にいらしめ、案内して酒戦の席につかしむ。白木の台に大盃をのせて出す。その盃は、 江島杯五合入 鎌倉杯七合入 宮島杯一升入 万寿無疆盃一升五合入 緑毛亀盃二升五合入 丹頂鶴盃三升入。をのをのその盃の蒔絵なるべし。干魚は台にからすみ、花塩、さゞれ梅等なり。又一の台に蟹と鶉の焼鳥をもれり。羹(あつもの)の鯉のきりめ正しきに、はたその子をそへたり。これをみる賓客の席は紅氈をしき、青竹をもて界をむすべり。所謂(いわゆる)屠竜公、写山(谷文晁)・鵬斎(亀田鵬斎)の二先生、その他名家の諸君子なり。うたひめ四人酌とりて酒を行ふ。 太田蜀山人 


人くひ犬
一西山公御家督御相続のみぎり、御家老ともに御対し御咄なされ候は、むかし或国に酒屋あり、わきの酒屋より、酒殊の外よく候故、諸人此酒を求むるによりて、家とみさかえ候所に、其家に飼候犬、いつともなく人くひ犬(人にかみつく犬)になり、酒買に来るものをひたとくらひつければ、酒はよく候へども、彼犬をいぶかしく思ひ、酒買に来る者、いつとはなく絶て、其家貧しくなり候と申事あり、其方なども、よく心得て、人喰犬になり申さず候様に、仕候へと仰られ候、(「桃源遺事」) 


美人と酒
将校用食堂でクリスマスの晩餐をとっているとき、パーカー大佐がいった。「ぼくは結婚するなら美人としかしない。先だっても映画女優を見かけたが、きれいだったなあ。知ってさえいたらすぐに結婚したいんだが」すると隣の軍医がいった。「わしの友人のショーがいうには、一生美しい女性といっしょにいたいと望むのは、よいブドウ酒が好きだからといって、年がら年じゅうそのブドウ酒を口いっぱいふくんでいたいと願うようなものだよ」「そんなことはないよ」と、少佐は反論した。「だって始終悪いブドウ酒を口いっぱいにしているよりは、はるかにましだもの」(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


母常に酒を好めり
もとより田畑も持ちざりしければ、人の田畑をうけ作といふことにしてつくれり、扨田をうたんとする日は、母ひとり家におらしめん事を痛み藁(ワラ)にて、おひなどのやうなる物をくみ、母をのせて負ひ、まへには農具をかゝへ、手には母の飢餲をたすけんがため、食物ならびにやくはんに茶をいれて携ゆき、其所にいたりぬれば、夏は涼しく、夏は涼しく、冬はあゝたかなる方を求めて、母をおろし、すべて田にまれ畑にまれ、一うね二うねうなひぬれば、母がそばへよりて、顔色をうかゞひ、ものいひなくさめ、茶酒食事など、望にまかせて、これをすゝめ、田畑をうしない申候、母常に酒を好めり、日毎に酒を求めたくはへて、とぼしからざらしむ、家にありては、日夜心をつくせる事、筆にも尽しがたし、時に延宝の初、西山公此事を聞召し及ばれ、南領に御出の節、彌作が門に御立より、彼者を召、金一トすくひ、左右の手をならべ、御もち候て、彌作が頭の上に御さしかさし、孝行の段、御ほめあそばされ、此金を以て、母をこゝろよく育べし、此金我があたふる所にあらず、天より汝にあたへ給ふところなりとて下され候、扨所の役人をめし、彌作すぐれて愚鈍なる者と聞召及れ候、此金人にうばひとらるゝこともあるべし、汝等よくはからひ田畑を調へとらすへし、又向後ねんごろに可仕由仰付られ候、其後儒臣に仰付られ、彌作が伝を御書きなされ候、(「桃源遺事」) この若者は愚鈍だったようで、その後の役人の対応も光圀は指示したということです。 


酒と肴
日本酒(甘口、辛口)、ウイスキー、葡萄酒(白、赤)、しょうちゅうなど各種について、酒と肴の適合性を試験し、また上戸と下戸では好みも違うので、各十人内外ずつ分れて好みをみた。食塩は一杯飲屋などでは、つまみ塩をそなえてあるくらいで、大体どの酒にも向くが、ウイスキーでは不味いという人が美味いという人より少し多く、白葡萄酒には向くが、赤葡萄樹には向かない。焼酎党には喜ばれる。砂糖は酒と反対の立場で、酒飲みの嫌いなものと思っていたが、案外絶対に嫌がられもしない。酒の肴に酢の物は良く使われるが、ビール、日本酒、白葡萄酒などでは大体良いが、ウイスキー、赤葡萄酒、しょうちゅうなどでは、あまり評判が良くない。酒の肴に塩辛などは喜ばれる。塩辛のうま味はアミノ酸だから、味の素で旨味を代表して試験してみたところ、意外にもどの酒にも落第。酒の肴にならぬという。辛味は唐がらしで代表して試験したが、なかなか成績が良い。ビールとか辛口の日本酒、しょうちゅうなどでは圧倒的に好成績。そういえば、上戸の中には唐がらしをかじりながら飲む人もあるのを思い出した。渋味はどうか、タンニン酸をうすくとかした寒天で試験したが、これはどの酒にも失敗、肴にはならなかった。苦味も全く駄目。ビールのほろ苦さなどは喜ばれるくせに、単味となると良いという人はない。試みに甘味、旨味、塩味など、さまざま組合わせてみたが、どうしても駄目。(「酒のさかな」 住江金之) 昭和41年の発行です。 


森繁久弥(もりしげ・ひさや)
大正二年大阪生れ。早大商科中退後、東宝劇団に入り、二年目にロッパ一座の俳優となったが、十四年AK(ママ)アナウンサー試験に合格、新京放送局勤務中終戦となる。二十一年裸一貫で引揚げて来たが二十三年、ムーランで演じた『太陽を射る者』の乞食役で認められてNHKの専属。以後、放送、舞台、映画で引っ張り凧。映画では概ね恐妻家のサラリーマンで、現代庶民のペーソスを描く。酒豪で、酔うほどに全ストを披露する奇癖がある。話術の巧みなところからAKの『喫煙室』で独特の味を出している。(世田谷区船橋町一一四)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。 


おじょめのお蔭
むかし、あるところに、仲のよい姉妹があった。ある秋の日、二人は栗拾いに行き、山奥に入って日が暮れた。向うの方にあかりが見えたので、たずねて行くと、大きな家の中から男が出てきた。宿をたのむと「泊っていげ」と申し入れてくれた。そして「酒買いに行っている」といって出て行った留守に、妹娘が次の部屋をのぞいてみると、人間が天井からさかさにつるされ、血をしぼられていたらしいので、びっくりした。男が帰ってきて夕飯の時、「ぶどう酒コ一つ飲ませる」といって姉妹に盃を出して飲ませた。妹娘は、「酒コはきらえだはで、飲めへん」といってことわったが、姉娘は酒がまわって眠ってしまったので、「早ぐ寝ろ」といって部屋に二人寝かせた。夜なかになっても妹娘は眠れないでいると、隣の部屋から、「寝らしたが(眠ったか)」というので「まだ寝ませんです」といった。妹娘は助けて下さいと神様に願って眠ると夢に神様があらわれて、「ここに槌を二つおいていぐから、身代りにして、入口のおじよ馬(め)(神馬)に乗って早く逃げろ」といったと思うと目がさめたので、姉をおこし、枕に二つの槌を二つねかせ、そっと入口に出ると、神様のいった通り、二頭のおじよ馬(め)がつないであったので、それにまたがってそこから逃げ出した。家の中の男がそれもしらないで、「寝らしたか」というと「まだ寝ませんです」と槌が答えたので、「何と寝つきの悪い子らだ」と起きてきて、寝床を踏みつけると、二つの槌がころんで出た。「逃げだな」と叫ぶと、鬼の姿になって二人の後を追いかけたが、二人の姉妹はおじよ馬(め)に乗って無事に家へ帰ってくることができた。(弘前市の話 話・平沢やえ 採話・斎藤正)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


下戸の酒
関西大学の最初の名誉教授となり、今年で十三回忌を迎える父は、とても善良な人だった。私が大阪高校にはいった時、父は私に、「学生の間は煙草と酒はのまぬように。」と注意したが、私が内証でそろそろ煙草を吸いはじめると、一応苦い顔をしながら、「煙草は少しくらいよいが、酒は絶対に飲むなよ。」と私に注意した。しかし、私が学校の同人雑誌の仲間たちと、高校生らしい乱暴な飲み方をして、酔って帰宅したり、酒の味を覚え出したのを知ると、今度は、外国嫌いの人であつただけに、「酒も少しぐらいはよいが、洋酒だけは飲むなよ。あれは頭にくるし、足を取られるからな。」と私に注意した。そういう人の好い父だった。近頃、私は時どき上質の葡萄酒やウイスキーを、疲労回復のために、グラス一二杯飲むことがあるが、そういう時、三十余年前の父の訓戒を、いくらかおかしく、懐かしむことがある。あの夜の父は、洋酒を口にしている私に、今度は、「洋酒も少しはよいが、安物は飲むなよ。」と注意しそうである。が、私は良い酒を少しだけ飲む習慣だから、父に叱られることもなさそうだ。(「人生師友」 藤澤桓夫) 


洋酒和肴の邪宗門
-君もわしのようなフリー・スタイルの酒のみの相手をするようになってからは洋酒和肴の邪宗門になってしまったなア! 
-朱に交われば赤くなるって、うちの父が言ってたわ。
-そういう君んとこの親玉だって、チーズを肴にして灘の生一本をきこし召すじゃないか。旨いと思えば、洋肴和酒も一向さしつかえないさ。わしはこの二、三年というものは、米食を廃して、パンばかり食べているから、パンとおかずの関係がすこぶる乱脈になってしまったんだ。パンを焼いて、その上にバタを塗って、その上にチーズを置いて、その上にさらに白菜のつけものを並べるのだからね。未ださしみをパンの肴にしたことはないが、鯛やヒラメのさしみなら、練ったアンチョビーを塗ればパンと調和しないとも限らないだろう。雲丹や醤油豆腐(シヤントーフ)がパンと俱(とも)に佳(よ)く、バタやチーズにおさおさ劣らぬことは今さら申すまでもない。こういうのも一種の精進料理でどっちかというと、若い者よりも老人向きではあるね。
-此のごろお酒の方はどうなの?ご病気の前よりはだいぶ量が減ったって小母さまがいってらしてよ。禁酒はとてもむずかしいって。
-禁酒?とんでもない。生命の水を断たれてたまるものか。自宅(うち)では、お酒として飲まずに、お薬としていただいているだけだ。毎日晩酌に、和酒なら一合、ビールなら小びん一本。「杯は、よし小さくとも、飲まん哉、我が盃もて」というミュッセの心持ちですな。
-うそばっかり。それは小母さまの手前でしょう。外では、相手さえあれば、昔と同じように一升酒だという評判よ。
-それはソ連式のデマにすぎない。
-それを否定なさる小父さまの抗議はアメリカ流のデマに似ているわ。
-人類救済の水爆も人工衛星も、流行に便乗して、不易(ふえき)を追放しはじめたからね。(「喰ったり、飲んだり、喫ったり」 辰野隆) 


方言の酒色々(35)
酒の味が変わる よれる
酒の味のこく み
酒の表面にいる小虫 めばい
酒の神 まつおさま/まつのーさま
酒の相手をすること あいこ/おあい(日本方言大辞典 小学館) 


酒は諸道の邪魔
 酒を飲むことは、どんな道であれ、その修行や達成の妨げになるということ。
酒は知己に遇(お)うて飲むべし
 酒は自分のことをよく知ってくれる友人と巡り会い、その友人と飲むのが一番である。(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


下戸の嘆き
家に帰つて十一時ごろになると、今までのぼせていた顔の血が手足に逆流し出す。頭寒足熱は最良の健康体であるはずだが、この場合のそれは一種の「早期二日よい」とも言うべき状態である。だから頭は貧血をおこしてズキズキ痛み、胸はムカムカする。ガスストーブで脳天を温めると、いくらか楽になるが、そんなことでは頭痛のおさまらない時もある。私は湯タンポを枕にして後頭部を温め、脳天にカイロを当ててタオルをターバンのごとく頭に巻く。そして掛布団の中から両手両足を出したまま、一時間も深呼吸をやる。すると辛うじて頭痛やムカツキが直つてゆく。ある晩この両方を試みたがダメ。そこで酒豪の友人の言葉、そういうときに迎え酒をやるんだを思い出した。しかし第一回の酔いのさめぎわにこの苦しみである。迎え酒のさめぎわには死なないとも限らぬ。そんな不安もあったが、その晩ズキズキとムカムカはひどかった。私は意を決して三つ星のコニャックをリキュールグラスにつぎ、恐る恐る口へもつていつた。アルコールの匂いが全身の嫌悪感を呼びおこした。目をつぶつて一気に生(き)のまま飲みほす。平素ならたちまち腹中ニ火がつくはずだが、その夜はビクともしない。こわごわ二杯、三杯。依然腹中は泰然じじやくたるものだ。しかも頭痛とムカムカがふえもしない。四杯、五杯とやるうち、「梅一輪いちりんほどのあたたかさ」という工合に、腹の中がポカポカしてきた。とたんに頭痛もムカムカも消えてゆく。私が勢いを得て十三杯目を終つたときには、ただもうコリャコリャという上機嫌になり、翌日の夜まで陶然と酔いつづけた。何とも手のかかった陶酔である。(「七曜日」 渋沢秀雄) 


相撲見物ほど素晴らしい酒のさかなはない
というわけで人さまに招待されて、お酒をがぶがぶのむのがいい。そうなると、相撲見物ほど素晴らしい酒のさかなはないということがわかるはずである。されば相撲の勝負もまたさかなだから、栃錦がすべろうが吉葉山がひっくり返ろうが、そんなことは全然問題にならぬ。人いきれがし、ゴザの臭やほこりの臭がし、足がしびれ、耳ががんがんし、窮屈で、小便に行きたくなったり、ねそべったりしながら、時には義理に土俵のほうを眺め、平素はもっぱら桟敷の美形に注目し、茶わんでぐいぐいのんでいればよろしいのである。出かけるのは十両の勝負がそろそろはじまろうとするころがいい。番組も取り進むころには、力士の顔などよく見えなくなるし、どっちが勝ってもかまわぬというおおらかな気持になる。第一もう土俵のほうに向いてすわってはいやしない。土俵が横手になったり、あるいは最悪の場合など自分のうしろになっている。だから勝負など、問題にもなんにもなりはしない。しかしこれが国民大会みたいなものではこまるだろう。それはさかなとはなしがたい。やはり相撲でなければいけない。芝居でもいけない。芝居見物は静粛を旨とするから酔うことと芝居見物は両立しがたい。相撲はこの点心配がない。最後の結びの一番など眼中を払底して、ふらふらと外へ出たときの酔心地は、味わった者でなければ通じまい。(「思想の抜け穴」 高橋義孝) 


赤紙二枚とお神酒二本
成之も早熟な子であったから、覚悟はしたに違いない。発症したのは嘉永五(一八五二)年十一月十三日である。猪山家としては、可愛い嫡男を死なすわけにはいかない。この日から、救命大作戦がはじまっている。まず父直之が役所にいって借金をした。その金で成之に「なし・みかん・たらこ」なんでも高価なものを買ってきて食べさせた。「さじ一本」を買った記録があるから、木製スプーンで口に運んでやったのだろう。医者は三人用意した。五回往診させている。ただ、医者に治せるものではなく、当時の風習に従って神に祈った。猪山家でも「赤紙二枚とお神酒二本」を用意して祭壇をつくり、疱瘡神を祭った。成之は天然痘と十八日間闘い、そして勝った。生き残ったのである。猪山家は神頼みもしているが、病気への処置が合理的であり、栄養のあるものを食べさせ、抵抗力を維持させたことが功を奏したといえる。(「武士の家計簿」 磯田道史) 


27.風邪引きには壺を、それでも治らなければ瓶を
 壺は薬壺を、瓶は酒瓶を指す。わが国にも卵酒という風邪の妙薬がある。 メキシコ
28.すべての悪にはメスカル酒、すべての善にも同じもの
 どちらにしても酒がいる。メスカルとは竜舌蘭から取った安酒。メキシコ(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


及第する酒場
そんなら、どんなのが及第かというと、酒場の在り場所としては電車通りでないことが絶対条件だが、それかといって、そのあたりに別に酒場が一軒もないというのでも困るのである。それは何もはしごを掛けるためではない。一軒だけでは一番大切な酒場のフンイ気というものが出て来ないからである。店のなかでは腰掛の安定感が第一条件である。女の年ごろも大切で、いちばんいいのは、芯はまだ子供だが、恋ごころというものを解し、映画女優を語らず、面丸満月の如く、眼は黒ダイヤ、声はやや男性に近く、盃をよく受けて、しかもなかなか酔わないというのが最もよい。酔うて多弁になり、しかも金切り声というのがいちばんわるい。年増ではあたまのいいことが第一条件である。次にお客の生活条件に或る程度の暖かい共感をもつこと。下手なお世辞をいわないこと。過去の苦い経験をじっとはぐくんでいるような女であること。お客のたちでいちばんいいのは、とにかく金持ち振らず、貧乏振らない人。専門のはなしばかりしない人。青年ならば酒を飲むこと自体に多少の羞恥を感ずるだけの心の動揺をもつ青年。老人ならば表情が明朗で、内心に多少の色気を蔵している人物。(「童心集」 深瀬基寬) 


酒乱といふ本性
私は真面目くさった人間だと人に思はれ、かつ酒のみではないと自分でも考へてゐるけれども、酒を嫌ひではない。むしろ酒が好きなのである。しかし酒を飲んで楽しくなることはめつたにない。私は他人と一緒に飲んでゐる時に自分の酒の限界をためした事はない。多分限界まで飲めば私は酒乱といふ本性を現はすだらう、と思つてゐる。きつと人を罵つたり、自分の心の痛い疵をあばき立てたリするだらう。さういふ状態に近づいた経験を二三度持つてゐる。私は酔ふに随つて不安になる。何か自分のまはりで物事が、否礼儀とか体面とか秩序とかいふものが、音を立てて壊れて行くやうな、居たたまれぬ不安を感じてくる。酒乱の徴候なのだらう。しかしたいていの場合、私は一人では酒を飲まないから、私がさうなる前に、一座してゐる人の誰かが酔つて来る。そしてその人は、酔はない時は決して口にしないやうなことを口にしはじめる。私は不安になる。そして私は、さういう人を見てゐるうちに、自分の酔ひが、自分から幽霊のやうに離れて、その人に入つて行くやうな気持で、取り残されるのである。それで中々酔つたといふ状態に達しない。それで私は、酒に強いとか、酔つて崩れる所を人に見せない、とか言はれる。(「我が文学生活Ⅲ」 伊藤整) 


よっぱらい、よなし、よほお
よっぱらい[酔っぱらい] 銅貨。[←色が赤い](強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
よなし2 ビール。麦酒。(強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
よほお2[四方] 枡。ます。[←よほう=四角](女房言葉)(江戸)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


他人に迷惑をかけるな
よく、酒の勢いをかりて、ふだんはいえないことをいってみたり、平常行えないようなことを実行したりする癖のある人がある。こういう人は、一般にいわゆる気が小さいとといわれるが、気が小さかろうと大きかろうと実際に他人に迷惑をかけたり、害を与えたりすることになるとやはり問題である。こういうことは、酒を飲むこととは本質的に事なるのであるが、酒という弁護人が登場すると、被告はたちまち無罪になってしまうというのでは、大げさにいうと社会秩序は保たれない。酒は飲むべし、飲まれるべからず、とはよくいわれる言葉である。こういった誰でも反対することの出来ない文句は、きわめて一般的な最大公約数をさしているので、いっていることはよく判っても、いざ実行ということになるとなかなか困難である。しかし、要は、これも他人に迷惑をかけるなということに尽きるようである。(「悪口雑言」 中屋健一) 


○酒加十五
昨日は今日の物語云、奈良の伊勢屋といふ酒屋、やす(安)酒には水を入て売ければ、或人是を買ひ、伊勢屋の酒はさん/"\あしきとて、狂歌をよみける。「酒の名も所によりてかはるなり 伊勢屋の酒はよそのどぶろく。」伊勢屋是をきゝ返し、「よしあしといふは難波の人やらん おあしをそへてよきをめされよ。」按ずるに、酒に水を入るゝは久しき事なり。日本霊異記に、酒ニ加ヘ水ヲ 多ク沽(う)リ多ク取ル直(ね)ヲ。霊異記攷(考)証補に、正法念経云。加-益水等而取酒価。と見えたれば、天竺にもするわざなり。[頭注]僧日蓮顕謗法抄云、酒ニ水ヲ売モノ。」もろこしにも亦あり。孔氏雑説に、俗言添黈(黄)。定斗反、以水投酒。謂之黈水ト。馬融ガ笛ノ賦ノ注。黈猶増益也。留青日札に、酒肆自古有之。所云沽酒市腊。是也。肆中ノ酒。先清後濁。先濃後薄。不独今時之弊。在唐已ニ然リ矣。韋応物カ詩ニ。主人無銭且専利。百斛一醸斯須美。初濃後薄為大偸(大泥棒)。飲者知名不味。是当時ノ酒。亦皆有名也。文苑英華五百四十三に、酒正以水入王酒判あり。(「梅園日記」 北慎言 日本随筆大成) 


としま【豊島】
②豊島屋の略称、-
田楽は豊島牡丹餅は吉原 何れも大きい
白酒もとしまの方は味が好し 年増に掛く
毛氈をまくつて豊島振舞われ 豊島屋の白酒を(「川柳大辞典」 大曲駒村) 


酒が相手になつてくれる
酒というと、酒が自分の前に置かれて、飲んでいるうちにいい気持になる。こんな旨い仕掛けというものはないので、その本当の味を楽しむ為にも、家を出る必要がある。家でならば、黙つて自分で一升びんを開けてお燗して飲むことも出来るが、自分の家というのは自分の感じが強過ぎる場所で、それ故に泰西名画の複写などを掛けて置いても、却つて邪魔に感じられることの方が多いものである。酒も同じことで、寝ても覚めてもお馴染みの自分の影を相手に飲むよりは、誰もが大体同じ人間になる街中に出て飲んだ方がいい。いつも同じ自分の世界を離れて、博物館で名画と向き合つたのならば、飲み屋でお銚子を取り上げる時、我我はもうベルが鳴つたなどということを気にすることはない。今度は自分ではなくて、酒が相手になつてくれる。日頃、頭の中で行われている対談は断たれて、ただそのままでいれば、それで寂しければ寂しさを感じる世界が開けて行く。(「甘酸っぱい味」 吉田健一) 


平野屋の蒙つた被害
昨年の十二月、私はある新聞の日曜附録欄にコントを発表して、近所の平野屋酒店にとんでもない迷惑をかけた。私が取消の文章をどこかに発表しないかぎり平野屋は困るといふのである。-
「こんなことになるとは気がつかなかつた。僕の手落ちだつた。災難だと思って機嫌をなおしてくれないかね」さういつて私がすこし面目ない気持になると平野屋も折れて出た。「さう出られるとそれまでのことですが、なにしろ家内の悪口のやうなことが書いてあるので家内が不憫です」平野屋は切抜きを読みなおほながら不穏な個所を指摘した。「彼女(平野屋の妻)は自分の裸体姿を鏡にうつし、粗末な衣物を着さえしなければ自分も美しい女であると考へ今度お湯に来るときには上等の衣物を着てくるつもりであつた……この文章について家内は腹を立ててゐます。家内は衣物のことなんかこれぽつちもいつたことはないし、それに子どもの怪我や店の修繕で衣物どころの騒ぎぢやあない。全く私たちは心細いことばかりで、私たち気の弱いものは損ばかりしていなくちあなりません」平野屋のいふ通り、平野屋は気の弱い人である。子どもがトラツクに轢かれる一箇月前にも、一台のトラツクが運転を間違つて平野屋酒店の土間にとび込んでガラス戸をめちやめちやにこはし、商品棚をひつくりかへし瓶詰めなどすつかり試しにして、その上隅の柱を折つてしまつた。(「風貌姿勢」 井伏鱒二) 一度この平野屋の場所を聞いて回ったことがありますがわかりませんでした。それにしても、今ならどうなったことでしょう。 


上戸とか下戸とかいうことば
上戸とか下戸とかいうことばは、もともとは、家の等級を言いあらわすものだった。『日本書紀』によると、持統天皇の五(六九一)年に、右大臣以下、諸官人に、位に応じて宅地を賜与したことを記しているが、無位の者にたいしては、それぞれの戸口のまにまに、上戸には一町、中戸には半町、下戸には四分の一町をあたえたという。これでみると、家族数の多いのが上戸ということになる。家族数が多いことは、俗にいう口数が多いの意味である。飲食のものをいれる口がたくさんいれば、上戸である。「口べらしに、娘を都会に奉公に出した」などといった、その口数で家々の等級が分けられるふうが、古代の律令体制国家の行政上、一つの基準にもなっていた。それは課役を負う基準としてである。だから、奈良時代、平安時代には、上戸とか下戸という言い方は、かなり言い馴れていたのではないだろうか。それが家族としての口数でなく、一人の人間で、酒盃を手にして口にする度あいいかんによって、上戸とか下戸とかいうように転用するに至ったのではあるまいか。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎) 


母が一パイどうだい
父の方は、少しは酒はたしなんでも、行儀のいい酒だったらしいが、母の家は、反対で、母の父が酒飲み、母も、女だてらに、酔うことが好きな酒飲みだった。母が私に酒をすすめだしたのは、未亡人になってからだが、自分が好きなものを、息子にすすめるというだけのものではなかつたらしい。酒害ということも、知らないのではない、それなのに、一パイどうだねと、私にいいだすのは、自分が、女の癖に酒を飲むのが、わが子に対して、キマリが悪かったのだと思う。毎夜、晩酌をやるのも、自分一人では、体裁が悪いので、息子を仲間にひき入れたかったのだろう。女の酒で、せいぜい、一合か二合で、結構なのだが、酒なしに済まされないといった酒だつた。そして酒はちつともウマくないと、よくいつていた。私の母であるよりも、徳川夢声の母であるべき人であつた。なぜといつて、私は、酒がウマい方の酒飲みになつてしまつたからである。(「遊べ遊べ」 獅子文六) 


洒落唄
愛知県の民謡には、こんなのがある。 姉もさしたに妹もささしょ。同じ蛇の目の唐傘を これは「なぞおんどう」の地方版というところ。 親の前でも指さしこんで、よいというのが酒の燗(かん)-
右の歌詞は、伊奈森太郎(もりたろう)氏の『民謡風土記』から拝借したが、同氏はこの類の民謡を、洒落唄(しやれうた)と名づけておられる。(「日本語のしゃれ」 鈴木棠三) 


浮徳利
露伴の酒好きはよく語られているが、一緒にのんだ人は少ないようだ。私の知ったころには、すでに露伴は自分から出掛けてのむということは少なかった。人に招かれることも少なかったし、招かれても応じることは少なかった。したがって毎日酒を嗜む露伴は、家で晩酌をやることになった。そのころ八代夫人は信州の戸倉にいたから、女中が露伴の身辺のことをしていた。露伴は茶の間の黒塗の膳に向かっている。膳の上には量の少ない料理がのっており、琥珀色になった象牙の箸がある。杯は葡萄酒のグラスであった。長火鉢の銅壺には徳利が斜めになって浮いている。それを露伴家では浮徳利と呼んでいた。主人は酒の燗がやかましい人であるから、家の人たちはチリチリしている。大きな徳利に一杯入れて一度に燗をして、のんでいるうちにさめるようなのを好まないのだ。或るときは不機嫌で意地の悪い顔をして膳にむかっている。或るときは機嫌がよくて顔も赤々としている。はじめのうちはグラスの酒は割合に早くなくなる。杯が空いたとき女中はすかさず酒をみたした。ぐずぐずしていると雨垂れ拍子が一番いけないといって叱った。一定の酔いにいたったとき杯を口に運ぶテンポはゆるくなる。そうして長い長い夕飯が始まるのだ。浮徳利の中には約三杯の酒が入っている。私はこの茶の間で何べんか酒のお相手をした。そうして感じたことは、露伴は最初に或る量までは割合に早くのむが、そののちは私たちのようにがぶがぶやらないということだ。一定の酔いが続いていることが好きであるらしかった。(「遠いあし音」 小林勇) 


ネジアゲの酒呑
家茂の死んだとき、将軍継嗣には慶喜以外、適当な人物はほとんどいなかった。田安亀之助(たやすかめのすけ)はわずか四歳であり、尾張藩の前藩主徳川慶勝(よしかつ)なども候補の一人にあげられたが、すでに藩主もやめていたので、万人の属目(しよくもく)したのは慶喜であった。ところが慶喜は、徳川本家の相続とこれと不可分の関係にある将軍就職を、容易に受けようとはしなかった。しかし多くの人びとの説得によって、まず徳川本家相続だけは承知した。なにゆえに慶喜は、このような態度をとったのであろうか、松平慶永(まつだいらよしなが)は「諺(ことわざ)にいう、ネジアゲの酒呑(さけのみ)にて、充分ネジアゲられし上、御請(おうけ)になるなり」と言っているが、直感的に慶喜の食指は動いていると見ている。慶喜は、困難な政局を前にして、多くの人々の推薦を得て、将軍職につこうと考えたのであろう。(「日本の歴史 開国と攘夷」 小西四郎) 


長谷夫人
長谷(健)夫人は夫があまり遅く酔つて帰るのが好きでないもつともどこの女房でも歓迎はしないが、長谷夫人のはすこし変つている。酔うと大声を発する長谷は、家にいる奥さんにすぐわかる。家の前まで来ると、長谷は急におとなしくなり、そつと格子戸をあける。そのときはすでに夫人の方では攻撃準備がととのつている。電灯は消され、暗黒のなかに、碁器をかかえた夫人が、夫が入つて来るのを待つている。バラバラと機関銃のように、碁石が長谷にむかつてとびはじめる。長谷は両腕で顔だけを掩い、抵抗せずに弾丸の尽きるのを待つ。長谷は私(インチキ四段)に五目の碁打ちなので、黒百八十一、白百八十、合計三百六十一発しか弾丸がないことを知つている。撃ちつくした夫人は、ふとんを頭からかぶつて寝てしまう。すると、長谷は電灯をつけ、散乱している碁石をひろいはじめる。一ヵ所によせてしまうと、今度は、白と黒とにわけ、碁器におさめ、自分も寝る。これは容易に真似のできないことで、私は酔漢の美談と考えている。(「河童七変化」 火野葦平) 


ルバイ第二十二
流れて已(や)まぬ歳月(としつき)の醸(かも)し出(いだ)しし  最美の酒に譬ふべき愛する人々、  ひと循(めぐ)り、盃乾(ほ)して、  一人、また一人、黙しつつ眠りに就きぬ。
[略義]絶えず流れて已(や)む事の無い「歳月」が、醸(かも)し出した一番好い酒にも譬えられる所の、我々の愛する人々は、酒が一循(めぐ)り、二循(めぐ)りすると、一人宛(ずつ)、静かに此の世を去って行った。(「留盃夜兎衍義(ルバイヤートえんぎ)」 長谷川朝暮) 


「二度と酒はのみません」の三井弘次
口癖は「二度と酒はのみません」ということは、酒でのしくじりは数知れずなのである。実際一日二十四時間のうち、まあ十時間は確実に酒をのんでいたと、みんながみんな口をそろえていう。戦前に、ちょっとした美人スターと最初の結婚をしたのが、そのスターがその時分はよくあった「出演者御挨拶」と称する映画館のアトラクションで神戸へ行ったとき、同行した二枚目役者とできてしまった。三井家が酒びたりになったのはそれいらいなんて噂もある。あくまでも噂なのだが、、そういわれてみると鬱屈を酒にまぎらわす人間の持つ、哀しみといっしょの凄みみたいなものが、三井弘次の芝居にはいつもあったような気がする。それでなくても見かけによらず気の小さいところのあったひとだから、一杯やらないことには仕事にはいれないのである。だから、セットにはいったときはもうへべれけなんてことがめずらしくもなんともない。テストの台詞の第一声から、どなるような大声をあげるから、録音機の針が大ぶれにぶれてしまう。録音技師が苦情を言おうものなら、「針がゆれるゥ、そりゃ機械が壊れてる」(「酒と賭博と喝采の日日」 矢野誠一) 


近所の犬
私が夜遅く買えるときには、路地のかどに近所の犬が顔をのぞかせる。大通りから私のうちまでの横町には、交叉の路地が二つある。私の足音で、一つ目の路地のかどに犬がちよつと顔をのぞかせて、「あ、あのかたか。」と云ふやうにすぐ顔を引込める。二つ目の路地のかどには、別の小型の犬がちよつと顔をのぞかせて、「まあ、よかつた。やつぱりあのかただ。」と云ふやうにすぐ隠れる。これが他の通行人なら、夜の十一時ごろ以後になると散々に吠えられるから気の毒だ。私だけは、長年にわたつて深夜の馴染だから、どんなに夜がふけてゐても、出迎へを受けてゐる。私が酔って帰るときの自慢の種にできるのはこれだけだ。どこの犬だか知らないが、近所の犬だといふことだけは確かである。(「還暦の鯉」 井伏鱒二) 


酒歴一年生
最近、ぼつぼつ化けの皮がはげかけて、なんのかんのといって飲む機会をもちだした。年齢のせいなのだろうか、お酒はおいしいと思うことがしばしばになりだしている。冬だったら、フグなんかで、洒落たおチョコで飲む日本酒-絶対、賀茂鶴がおいしい-。甘いカクテルは春がいい。アプリコット・ブランデーだの、ピンクレディだの、エンゼルキッスだの、ちょっと気どってマンハッタン、マティニ、みんな春のお酒である。夏はビール。あんまり好きではないけれど、咽喉のかわいている時に、冷たい生ビールをコップに二杯くらいなら満更でもない。その他なら、断然、オンザロック。ウイスキーのほうが私の体質には合っているらしい。秋はサワー類がおいしい。それと、老酒(らおちゆう)。-
要するに、私のお酒は、せいぜい酒の種類を春夏秋冬にわけて気どったようなことをいってみるのが関の山で、いってみれば酒歴一年生、もしくは幼稚園程度のちゃちな飲み助でしかないみたいだ。酔っぱらってクダを巻いたこともないし、外で前後不覚になったこともない。ただし、わが家では一度、調子にのってがぶ飲みをして天井が回転し出して仰天したことがある。宿酔というのも知らないし、ひっくり返ったこともない。せいぜい笑い上戸の気味があって、実によく笑う。(「旅路の旅」 平岩弓枝) 


酒歴のしみ
私の「酒歴」は、その点で、長く一つのしみもなかったと自負していた。それがこの正月、思いがけない失敗をしそうになった。飲みすぎてうっかり寝過ごしてしまったのだ。さいわい、さしておくれもせずに、教室にかけつけはしたが、わたしは自分の肉体的な「老い」を、いやおうなしに認めざるを得なくなったのとともに、一生、その自負をけがすことなく持ち続けた父に、やはり頭があがらないと思った。「江戸ッ子」だと自称する人種なんてものは、鼻持ちがならない人種だと思うが、どんなに苦しくても、「昨夕の酒は語らない」おきてを守り通した父は、やはり、その意味で、本筋の江戸ッ子だったのだと思う。苦しいには違いなかったのだから。(「酒、男、また女の話」 池田弥三郎) 


わたしには一定した酒友がない
お客は若い学者、新聞記者、作家といったところが多く、美術家では八木一夫氏が司馬遼太郎氏といっしょに来ただけだ。司馬氏とわたしが喋りまくり、八木氏はときどきこわいことをいうだけで、宮本武蔵が酒を飲んでいるみたいだった。『VIKING』の連中がきてもおおむね喋り酒で、歌を歌うとか余興をするとかいうことはない。つまりやぼな酒で、遊興といった感じはゼロである。一度、多田氏、橋本峰雄氏と、ご詠歌をうたう会をやって、おそらく近隣をおどろかせたと思うが、一度きりで中止となった。時にとんでもない大物めいた人が来ないでもなく、昨年末に松田道雄氏が来、北山茂夫氏が現れた。松田氏はウイスキーをかかえてのご来訪で大いに喋くり酒を楽しんだが、北山氏の場合は喋くりだけだった気がする。つまり、わたしには一定した酒友がないことになり、また一本さげてやって来る人はただちに酒友ということであるらしい。その酒友らの酒品や酒癖を列挙することはできない。というのは、わたしが酔っぱらって討死にしてのち、人々が引きあげるのがおおよそのところで、つまり、みなりっぱな酒品、酒癖らしいのである。(「八方やぶれ」 富士正晴) 


納豆と酒盗
納豆を、酒の肴を目的に和えてみてよく似合うのは、意外にも塩辛であることも発見しました。塩辛と申しましてもいろいろな種類があります。一番合いますのは「酒盗(しゆとう)」という奴(やつ)です。小田原産のカツオの酒盗(マグロの酒盗もなお結構)あたりを買って参りまして、納豆をかきまわして粘りを出すときに、醤油代わりに少しずつ入れてかきまわし、和えていくのです。納豆は小粒か挽き割り納豆がよく、納豆と酒盗の割合は好みとします。これを肴にして、辛口の純米酒あたりを熱燗(あつかん)にして、コピリコピリと飲(や)りながら、じっくりとわが人生をふり返ってみると、そりゃなかなかどうして、ぐっと感じるものがございますよ。(「これがC級グルメのありったけ」 小泉武夫) 


晩秋の酒
自分のことを酒好きだと思ったことはなかった。若い頃は、付合いでは飲んだが、自分から大酒を飲むというようなことはまったくなかった。酒がからだに合わない、と思っていた。それにはわけがあって、わたしが腸が丈夫でないせいだろう。わたしは、三歳の頃腸チフスを患って伝染病院に入れられ、動くと腸壁が破れて死ぬといってベッドにしばりつけられたことがある。また一九四五年から数年間、栄養失調気味の下痢がとまらなかった。今でも沢山飲むことは出来ない。ウイスキーだったら、一本を四回ぐらいにわけて飲むことになる。しかし、だんだん酒に親しみをおぼえはじめている。若い頃だったらウイスキーの銘柄による味のちがいなど、どうでもよあった。今は、ちがうものはずいぶんちがう、などと思うようになりはじめている。しかし深まってくる秋とともに飲みたくなるのはやはり日本の酒である。一人で部屋で仕事から解放されたあと、魚のひらきなど焼いて飲む。この時のものさびしさは、やはり捨てがたい。心もからだもつかれきっている時、その酒がうまいほど、魚がうまいほど自分が死ぬべき存在として生きているという強烈な実感にとらえられる。とくに闇夜で外がまっくらだったりすると、胸がつまってくる。私の父親は四十二で死んだ。酒を好まなかったが四十をすぎて飲みはじめた。あの人も、そんな思いをしたのだろうか。(「降りたことのない駅」 三木卓) 


詠物女情
ウイスキーにはイギリスの女の味、ビールにはドイツの女の味、ワインにはフランスの女の味、老酒(らおちゆー)には中国の女の味、そして日本酒には日本の女の味がするといったように、女について味というと、なにか猥雑なことは考えられるかもしれないが、そういった意味ではなく、たとえば、ウイスキーにしてもブランデーにしても、強い酔いはあっても、あとあとまで絡むことのないところは、イギリスやフランスの女のさばさばしたことに似ているだろうし、残酔が翌日までのこって、いつまでもくねくねとまつわりつく日本酒の味は、どこか日本の女に彷彿(ほうふつ)としたところがあるだろう。中国の酒が、やはりさっと酔って、さっと醒める。中国では酒を買うときに目方で量る。だいたい日本の一升が三斤であって、ちょっと呑む人だったら、一升はごく軽い。(「詠物女情」 奥野信太郎) 



樵雲楼といふ額は独立(どくりふ)の書にして鎌倉河岸豊嶋屋十右衛門二階にあり
生酔のたゞよふ雲にたきゞかる鎌倉河岸の秋のさかもり(放歌集)(大田蜀山人) 


牧水の歌
ところでしょっちゅう眺めている牧水の歌(お金に困った短歌ファンから譲られた 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり の軸)だが、感覚的にもすれっからしになっている私は、内心、文句ばかりつけているようだ。第一、酒を讃美するのが私にはうなずけない。私は酒が飲めないというのではなく、もっと積極的に酒が嫌いなのである。口にふくむと苦い。その苦さを我慢していると頭がガンガン痛くなる。酒がきらいなのはわが家の血統のようだ。三人兄弟の長兄だけは、晩年酒をたしなんだようだが、ある日自転車に乗って農村に行商に出かけ、脳卒中で自転車もろとも田圃(たんぼ)の畦道(あぜみち)にぶっ倒れ、三、四日間、戸籍不明の扱いをされたという。-
牧水の歌にかえるが、「白玉の歯にしみとほる」とあるのにもひっかかる。白玉どころか、汚れて歪(ゆが)んだ歯であることは中年すぎた日本人である場合、間違いないことだと思う。七十代の私など、総入歯である。「秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」という心境が分からないでもない。ただ、酒に甘えているような気分には、ひっかかるものがある。(「老いらくの記」 石坂洋次郎) 


珍酒、奇酒秋の夜ばなし
講演旅行のときに陳舜臣さんと味覚の雑談をしていて、たまたま私が東南アジアの田ンぼに棲むネズミの美味を説いたら、陳さんはその場で反応を示し、あ、そのネズミを酒に入れたのがあると、いいだした。ネズミが姿のままで酒瓶に入っているというのである。これにはおどろかされたが、茫然としてはいけない。鉄は熱いうちに打て。翌朝さっそく若干の研究費を封筒に入れて陳さんにさしだし、何とか一本買って東京へ送って下さいと申し入れた。陳さんは快諾してくれたが、東京へ帰ると、さっそく神戸から電話があって、陳さんが華やかな声をあげた。「…例のネズミ酒はレッテルを見ると、『田乳鼠』と書いてあるワ。田ンぼのネズミの子やね。そのほかにもう一本、もっと凄いのが見つかった。人間の胎盤を酒に入れたちゅうねン。こちらは瓶のなかは酒だけで胎盤は姿で入ってへんけど、レッテルにはそう書いてある。どんな薬効があるのか知らんけど、送ってみるよってに、飲んでごらん」驚愕、狼狽、感動の声で私は感謝して受話器をおき、書斎にもどる。さめた粗茶をすすりつつ、黄昏の窓を眺める。地大物博、奇想天外、非凡無類。??!!。産院に酒屋がくっつくとは… さすがである。さすが。(「開口閉口」 開高健) 



やがて天使のように見えてくる
いまは、初秋、暑さがまだしぶとく残っていて、疲労を深めるようだ。汗が顔にねっとりとはりつくようで、冷たい水で顔を洗いたくなるけれど、もう少しの辛抱である。ビールの最初の一杯が最もおいしく感じられるのもあとわずか。そのおいしさが有難い。酒が飲めるというのは、健康だということである。ビールだろうとウィスキーだろうとジンだろうと、場所が銀座のバーだろうと、新宿ゴールデン街だろうと、酒がおいしく飲めるというのは、世にも有難いことである。飲むうちに、酒場や飲屋の女性たちがいくら気が強くて、そして色気がなくても、やがて天使のように見えてくるのもこれまたうれしく有難いことである。このとき酒場という男の隠れ家で、ゆく夏を惜しむことになる。(「グラスの中の街」 常盤新平) 



577故郷(ふるさと)や酒はあしくとそばの花(安永三・八・一〇) 蕪村句集 秋之部
654秋風(あきかぜ)や酒肆(しゆし)に詩うたふ漁者樵者(ぎよしやせいしや)(安永三) 蕪村句集 秋之部
667鬼貫や新酒の中の貧に処ス
注667 鬼貫-元禄俳人。酒どころの伊丹の出。元文三年没。 蕪村句集 秋之部
375升呑(ますのみ)の値(あたひ)はとらぬ新酒(しんしゆ)かな(安永六・七・二〇) 蕪村遺稿 秋之部
385五六升(しやう)芋(いも)煮る坊の月見かな(安永七~天明三)
注385 芋煮る坊-芋頭を好んだ盛親僧都(『徒然草』六〇)の俤。 蕪村遺稿 秋之部 


一八〇〇年十一月六日より一八〇一年十月二十七日までに中国ジャンク船の輸出した商品
六番船        七   八    九   十    一    二   三    三   四  五  六  番外
昆布zee kroos 斤 198000 115400 201200 123400 182000 187500 130300 182000 28000 2100 19000 28000 15000
酒zackij    樽  -    -    8     -    15    -    10    17   12   5    12   10  15
醤油zooija   樽   -    -    -    -    -    -    5     15   5   2     5    2   3

一八〇三年五月九日より十月十五日までに中国ジャンク船の輸出した商品
七番船
昆布zee kroos 斤 35000 32000  35000  40000  40000  45000  54500  10000  91500  82800
酒zackij    樽  15   15     15    15    15    15     -    -    -    -
醤油zooija   樽   5    5     5     5     5    5     -    -    -     -(長崎オランダ商館日記) 


蕎麦を食べ残す
私がZ・K氏を知つたのは、私がF雜誌の編輯に入つた前年の二月、談話原稿を貰ふために三宿を訪ねた日に始まつた。其日は紀元節で、見窄(みすぼ)らしい新開街の家々にも国旗が飜(ひるがへ)つて見えた。さうした商家の軒先に立つて私は番地を訪ねなどした。二軒長屋の西側の、壁は落ち障子は破れた二間きりの家の、四畳半の茶呑台(ちやぶだい)の前に坐つて、髮の伸びたロイド眼鏡のZ・K氏は、綿の食(は)み出た褞袍(どてら)を着て前跼(まへかゞみ)にごほん/\咳き乍ら、私の用談を聞いた。玄関の二畳には、小説で読まされて旧知の感のある、近所の酒屋の爺さんの好意からだと言ふ、銘酒山盛りの菰冠(こもかぶり)が一本据ゑてあつて、赤ちやんをねんねこに負ぶつた夫人が、栓をぬいた筒口から酒をぢかに受けた燗徳利を鉄瓶につけ、小蕪(こかぶ)の漬物、燒海苔など肴(さかな)に酒になつた。やがて日が暮れ体中に酒の沁みるのを待つて、いよいよこれから談話を始めようとする前、腹こしらへにと言つて蕎麦(そば)を出されたが、私は半分ほど食べ残した。するとZ・K氏は真赤に怒つて、そんな礼儀を知らん人間に談話は出来んと言つて叱り出した。私は直樣(すぐさま)丼(どんぶり)の蓋を取つておつゆ一滴余さず掻込んで謝つたが、Z・K氏の機嫌は直りさうもなく、明日出直して来いと私を突き返した。翌日も酒で夜を更かし、いざこれから始めようとする所でZ・K氏は、まだ昨夜の君の無礼に對する癇癪玉のとばしりが頭に残つてをつてやれないから、もう一度来て見ろと言つた。仕方なく又次の日に行くと、今度は文句無しに喋舌(しやべ)つてくれた。四方山(よもやま)の話のすゑZ・K氏は私の、小説家になれればなりたいといふ志望を聞いて、断じてなれませんなと、古い銀煙管(ぎせる)の雁首をポンと火鉢の縁に叩きつけて、吐き出すやうに言つた。昔ひとりの小僧さんが烏の落した熟柿(じゆくし)を拾つて来てそれを水で洗つて己が師僧さんに与へた。すると師僧さんはそれを二分して小僧さんにくれて、二人はおいしい/\と言つて食べた-といふ咄はなしをして、それとこれとは凡そ意味が違ふけれど、他人の振舞ふ蕎麦を喰ひ残すやうな不謙遜の人間に、どうしてどうして、芸術など出来るものですか、断じて出来つこありませんね、と険しい目をして底力のある声で言つた。さんざ油を取られたが、そんなことが縁になつてか、それからは毎日々々談話をしてくれた。するうち酒屋の借金が嵩(かさ)んで長い小説の必要に迫られ、S社に幾らかの前借をして取懸つたのが『狂醉者の遺言』といふわけである。 (「足相撲」 嘉村礒多)  このあと犬の真似となります。 


毎晩
以前は一週間のうち、一晩か二晩は飲まない日があったのに、このごろは毎晩飲む。どういうわけか、そういうようになってしまった。我ながら奇妙に思い、ある夜、盃を前に控えて、傍の三男坊にこのことを話してみた。彼は「お父さまが毎晩飲むようになったのは、何ちゃん(三男坊の姉)がドイツへ行ってからじゃないか」と答えた。そういわれてみれば、若い身空で外国へひとりで出かけていった娘の身の上が実はやっぱり心配で、ついつい盃に手を出すようになったのだろうか。気持の表面では、少しも心配などしていなかったのだが。その娘はもうとうにに本に戻ってきている。それなのに夜ごとの酒盛りはまだ続いている。それが少しおかしい。(「穏健なペシミストの観想」 高橋義孝) 


船の御用意は出来ました
わが司令部に集る諸情報は仲々多彩でかつ正確であった。「今夕八時過ぎ、柳橋R亭に於いて犬養健、原田熊雄、志賀独眼老等会談する」同じく「柳橋では詩人の会の二次会あり」等々。気の早い新橋分隊はもう集合を終わっている。「船の御用意は出来ました」「では、出発!」直ちに船二隻に満載して、先ずわが方の柳橋水軍根拠地に向かう。「お兄さん!西条八十さんを征伐するの?」「お兄さんとは何だ。司令官閣下と云え。そして、皆、黙って付いて来い」この思い出の築地の古戦場、つわもの共の夢の跡は、今では埋め立てられて高速道路が走り、ダンプや大型トラックがうなりを上げている。しかし昔は堀割りで船が通り情緒があった。わが軍が上陸していきなり犬養の座敷に乱入すると、「いよう、派手だな。敗けた。敗けた」とあっさり兜を脱ぐ。彼も対抗上急に柳橋の一分隊を集めようとするがそう簡単にはゆかない。とどのつまり、R亭の大広間で両軍合同の大閲兵式ということになるが、この壮観さたるや、一寸目を見はらせるに充分だ。それから総員の「琴平船船(こんぴらふね/\)大合唱で幕というような順序で進行。全くいい気なものである。この話で亡兄から議長室に呼ばれたことがあった。「犬養達から聞いたよ。相変わらず変わったことをやってるなあ。一遍、火曜会(公侯爵)全員招待しろよ」「飛んでもない。人に見せる為にこんな馬鹿騒ぎは出来るものではない」侵入軍を引き揚げさせて、あと主客だけになると急に座敷がしんとする。それからが先輩達の話のぼつぼつ出だす頃合いになる。僕も大急ぎに冷酒一升程呷って皆のペースに追付いておく。原田熊雄先輩は、当時既に西園寺老公の私設秘書をしていたので、奥津からの直輸入でほやほやの耳新しい話の数々をこういう席できかされた。特に奇抜な、明治的なもの一つ二つはいまだに記憶に残っている。(「風雪夜話」 近衛秀麿) 


十一月一日 木 二十六夜
午前三時一寸前から雨やむ。朝は上天気なり。午前八時十八度。午後昨日の話(戦争中の市民生活に就き話を聞き度い)にて巡査迎へに来、五番町の四ツ角から米軍のトラツクに乗りて明治生命へ行つた。第二世を相手に下らぬ事を聞かれて疲れた。英語では話せず相手の日本語がたどたどしい為のこちらの疲労なり。終つてから歩いて出社す。中川部長より十一月末迄にて解嘱託の話あり。昭和十四年以来の郵船にて多少の感慨あれどもこの頃の時勢から考へてかねてよりその話のあるを期したり。村山山形土産のお酒を四合壜に一本くれた。晩酌して試るに稍甘口なれどもこの頃はそれも亦可なり。立派な酒品にて実にうまかった。(「百鬼園戦後日記」 内田百閒) 昭和20年です。 


サラ川(25)
部下連れて飲みに行っても話題無く 磯仁
マイブーム百均吉牛(よしぎゆう)発泡酒 斜楽
八時半検診前夜の「あと一杯」 神頼無
飲んでから今日の休肝思い出し 健康優良児
我が家どこ飲まずに帰って道迷う こんにゃく閻魔(えんま)
勘定と言えば回りは酔いつぶれ こてつ
酒を断ち宴会減るが友も減る 酒夜叉(やしや)
(「サラ川」傑作選 山藤章二・尾藤三柳・第一生命 選) 


まづめでたい
来客があつたり、たまには一緒に外(そと)出をしたりする時には、お相伴についでやることもある。さすがにかみさんといふものはありがたいもので、半分は義理でついでやつても結構嬉しさうに受けるから夫婦の献酬も悪くはないが、それを家庭にまでもち込む気にはならない。そんな風だから、私が外で大酔して帰宅しても、かみさんは一向怒らない。もつとも四十年近い結婚生活中、正体なく酔払つて帰つたことはまづないし、酒乱であばれた覚えもない。手がかかるやうな迷惑もかけないから、平気なのかも知れないが、ぐでんぐでんに酔つて帰れば帰るほど御機嫌がいいのは、多分さういふ場合は浮気とは縁がないと安心するからであらうか、それとも童心の亭主に母性愛を感じるからであらうか、とにかく酒の上であまりけんつくを喰つたことはないのは、まづめでたいといつていいだろう。(「おゆき抄」 塩田良平) 


いまの粕谷さんの酒品の良さ
いまの粕谷(一希)さんの酒品の良さからみると、これは想像もできないことだが、むかしの粕谷さん-というのは、わたくしが中央公論社に勤めていたとき、少し後輩として入社して来た二十代の粕谷さんは、必ずしも良い酒飲みとはいえなかった。はじめはじっと自分を抑えているが、ある限度を超えるとカッと燃えて、自分を抑えることができなくなる。あれは粕谷さんの<誇り>のなせるわざではなかったか。わたくしは粕谷さんの酒席の姿を見るたびに、杜甫が崔宗之(さいそうし)という酒仙を歌った、-「宗之(そうし)は瀟洒(しようしや)たる美少年。觴(さかずき)を挙げ白眼(はくがん)もて青天を望むに。皎(きよう)として玉樹(ぎよくじゆ)の風前に臨むが如し」という一句を思い出させられたものだ。そこには孤高の背筋をピンと伸ばした一人の青年思想家がいた。同時に自分の思想を平俗化させ、相対化の泥にまみれさせようとする編集者の使命感があった。その不均衡の上で、粕谷さんは悩んでいたらしい。粕谷さんの酒との戦いも、それと同じであった。粕谷さんがいちばんあこがれたのは、おそらくわれわれ俗人の酒の飲み方であったろう。聖と俗の境界線にこだわらぬ自由さがほしかったのではあるまいか。粕谷さんは酒との戦いに励んだ、とわたくしは仮想してみる。その戦場の一つが新宿の「風紋」だった、と、これもわたくしの仮想である。もちろん、現在の粕谷さんは聖俗自在の境地にある。したがって、最近の風紋における粕谷さんの酒境は、一段と立派になった。林聖子ママを中心に、われわれ弥次馬連と気軽な論争を楽しんでいる。失礼だが、粕谷さんの人相もよくなった。かつての憂えの翳(かげ)りが消えたのである。世を憂え、国を憂える熱い心くばりが、ようやく表情の裏に隠れたのだ。(「人生覗きからくり」 綱淵謙錠) 


わが家の酒
浅間ぶどう、またたび、地梨、五味子(ごみし)、すもも、ぐみなどなど…浅間ぶどうはこの数年不作で手に入れるのがむつかしい。今年など一本の木からほんの一粒二粒、まるで宝石のように貴重な心地のする紅紫色の美しい実を、半日かかってやっと掌にいっぱいほど採取した。粒よりの大粒を三十五度のホワイトリカーに漬け、密封して三年ほどしまっておき、やがてメドックかなにかのあき瓶につめてとりだす。五年ほどになるいい具合にアルコールの練れた浅間ぶどうの酒を、いつか遊びにきた芝木好子さんに氷を入れてすすめたら、慎重に口に含んでみて、少しばかり不思議そうにこういった。「あら、ほんと、ぶどう酒だわ」九月も十日になると浅間ぶどう、またたび、すもも、地梨などが漬けこみの季節になる。白いエプロンをつけて甕(かめ)や広口瓶を消毒し、一粒一粒をふきんで拭いて瓶のなかに並べてゆく作業はなかなかたのしい。夜はもう薪ストーブを焚いて、太い薪がとろとろと燃えるそばで、そういう作業をする。生きていることがほのかに楽しくなるのである。ある宵はストーブのかたわらで今年とりだす酒の味見をする。こんな風に書くと人は、酒好きなんだな、と私のことを思うだろう。父方の祖父は田舎相撲の力士で大酒のみだった。ところが父も私もからきしだめ。わずかずつ利酒(ききざけ)をしているうちに、ぼうっとなってくる。だから私の酒づくりはもっぱらひとに飲んでもらうためである。酒をたしなむ客がみえるととたんに元気づいて、「このお酒をのんでみて下さらない?どれとどれをブレンドしたら一番おいしいものができるか、試してほしいの」といふ。何度か自分でこころみてみようとしても、答えがでないうちにふらふらになってしまって、一度もうまくゆかない。私のためしてみた範囲では、すももをベースにしてまたたびをブレンドしたもの、梅かざくろをベースにして五味子をブレンドしたものが、たのしい味に思われた。五味子は秋もおそく霜にあたって熟しきった、珊瑚玉のように美しいものがいい。去年とりだした(まさか蔵出しともいえないし)分は、熟し方が若くてまずかった。管理人の細君の製品と比べてみると、あまりにも味がおちるので口惜しかった。今年はだから十月末の、夜はもうずいぶん冷える山へ、五味子の漬けこみのためにでかけた。(「柊の花」 大原富江) 


尾頭八寸ばかりのこのしろ二枚で酒五合
ただし(慶応元年)十月の辞表絡みの入京で、条約勅許後の下坂まで将軍の滞在が一カ月に及んだときは、様子が少し違った。直属家臣の宿が、去年の大火で焼けなかった周辺の村に割り当てられ、東塩小路村の若山要助がはっきりと「迷惑至極之事」と書いているから面白い。-
(十月)二十二日の朝は焼豆腐の平(ひら)・味噌汁・漬物で飯、この昼飯から要助家の客の分は要助家で炊いたらしい。夜は豆腐汁・干魚・漬物でやはり自家で焚いた。しかし二十三日の朝からはまた宿泊と炊出しの分離に戻り、膳部の代金は五百八十文で飯・汁・香之物あるいは焼豆腐の一菜だという。ただし家具・軒燈、大鉢、手桶、手塩などの費用も込みらしい。あまり粗末なので客のほうから「手賄い(てまかない)」としてくれと注文が出たというのは要助家で作ってくれという意味だろうか。二十五日朝から六百文の手賄。要助家で作って出す場合は工夫して一菜を加えているのだが「困り入り候事」と書いているので嬉しくはなかった。炊出と手賄が錯綜する上に、要助家では客が入替わった。二十三日午後に藤沢讃岐の守当人と与力上下十四人とが東九条村に移り、宿泊割当てが手直しされて要助家は同心五人となった。二十五日からの手賄というのは、この同心五人に対する措置である。その二十五日、同心五人のうち四人は二条城の城番なので弁当を三食分持たせた。家に残った一人には昼は善哉餅(ぜんざいもち)、夜は豆腐と焼物に湯葉と、なかなかの奢りである。嫌々泊めても日が経てば個人的に親しくもなる。要助は藤原讃岐守に七人と入替わった同心五人については個々人の名前を日記に書いた。また後になるほど料理に工夫を凝らすだけでなく、五人全員が早朝に二条城に出勤して帰った二十七日の晩には尾頭八寸ばかりのこのしろ二枚で酒五合を出した。(「幕末・京大坂 歴史の旅」 松浦玲)  若山要助日記に記載されたものだそうです。 


降札と祝い酒
初めは伝聞ばかり記録していた道祐町の小杉屋元蔵の近辺にも御札が降り始めた。(慶応三年)十月二十七日から二十八日にかけて六角通麩屋町西入ルの大国町に降った。御札が降った町々は踊りで大騒ぎ。二十九日には遂に道祐町にも「五人組近忠殿方」へ天照皇大神宮の御祓が降った。町中が浮かれ、元蔵も肴(さかな)としてハモ三尾とキス二尾、酒三升を届ける。大風の日だったが踊りは夜中まで弾んだという。十月は大の月で、翌三十日が晦日(みそか)、その晦日には近江出身の西村藤兵衛という大商人の家に毘沙門天の御札が降ったので、翌十一月一日、同家では祝い酒を呑み放題と広告する。これは大騒ぎになるだろう。-
京都では十一月の十日過ぎに最初の禁令が出た。「神降」を祝うと称えて華美の衣類、異形の風体で町々を踊り歩き、土足のまま座敷へ上がり深夜まで騒ぐのは迷惑を受けるもの多く産業にも差支える。祝い酒を振舞うのは構わないが、踊り騒ぐのは慎むようにというのだった。(「幕末・京大坂 歴史の旅」 松浦玲) 


詩生晩酌
空から落ちる運の矢を待つ
毎晩ゆっくり酒を酌む

膳の上には一二品
好みの小鉢とさかずきと

まわりに妻君
子らの顔

何よりの
これがさかなさ

口にも合うが
気にもいる
  大學(「父の形見草-堀口大學と私」 堀口すみれ子) 


ビール二人で三ダース
ビールを最も多量に飲んだのは友人とふたりで三十六本、三ダースである。大学卒業間際だった。記憶があいまいだが、友人は私の家の玄関から出て、門へ行くまでの御影石の甃石(しきいし)のところへ倒れて寝入ってしまったらしい。女中が見つけて、私にそう報告したのだから、私はそう酔っていなかったものと見える。酒量は何と言っても高等学校の三年の時から大学時代へかけてが最高だったろう。二十四時間ぶっ続けに飲んだこともある。一睡もしなかった。五十を過ぎて、少しは酒量も落ちるかとたのしみにしていたところ、少しの衰えも見せないので拍子抜けしている。(「おやじといたしましては」 高橋義孝) 


〽酒はのみとげ 浮気をしとげ
  儘に長生き しとげたい
〽赤い顔して お酒をのんで
  今朝の勘定で 青くなる(「都々逸坊扇歌」 常陸太田市秘書課広報係編集) 


史料四二 触書(ふれがき) 酒直段(ねだん)之義 兼(かね)て申触置候振も有之候処(これありそうろうところ)此節より上酒壱升ニ付代鐚(びた)百七拾二文売御済相成候条品々之義ハ何分吟味之上聊(いささかも)不正之様造酒屋等え無洩(もれなく)可被申付候(もうしつけらるべくそうろう)此段申達候以上 十一月十九日 鹿志村準蔵
史料四二 天保十四年 酒の値段 [大高氏記録四三] 天保十四年の酒の値段は、上酒一升につき公定で一七二文になったことが分かります。(「馬口労町物語」 水戸新荘公民館「馬口労町物語」編集委員会) 


底なしに呑む人
いくら呑んでも始終泰然自若として、さながらまだ呑まざるがごとく、それでいて底なしに呑む人がある。われわれが若いころよく御厄介になった故水上滝太郎氏は、実にこういう態の酒呑みであった。しかし水上さんは他人の酔態に対しては、実に寛大な人であったから、放言放談時に大声叱咤するに及ぶものがあっても、けっしてこれを咎めようとはしなかった。水上さんの流儀をふくむものに小泉信三先生がある。これまた端厳を持してけっして乱に及ばない。そして酒量は大概の席において座中第一とあって、二とは下らない。ぼくはもともと気分酒であって、ただ無性に酒席の雰囲気がうれしい方であるから、ほんの少量ですぐ酔ってしまう。酔うとむやみにうれしくなって、やたらはしゃぎたくなる。だから自分でもほんとうの酒呑みなどと決して思ってはいない。(「奥野信太郎著作抄 酔虎伝」) 


独立戦争の英雄たち
ベンジャミン・フランクリンや、ジョン・ハンコックの名前をとった旅籠もできた。これは、独立戦争の英雄たちを記念するのにまことにふさわしい方法である。サミュエル・アダムズは父のあとをついで酒造業に従事し、それを誇りにしていた。イスラエル・バットナム将軍も酒造りの息子で、自分でも狼将軍亭という酒場を経営した。トーマス・ジェファソンは、フィラデルフィアのインディアン・クイーン亭に陣どって独立宣言を起草した。フランシス・スコット・キイはボルチモアの泉亭の酒場(タツプルーム)で『星条旗よ永遠なれ』の詩を書いた。古き植民地時代のタヴァーンこそ、西部のサルーンの前身である。サルーンと同様に、それはすべての男にとって一切であった。(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳) 


小林さんのスピーチ
たしか、先生が亡くなられて一周忌の時だと思います。都内のホテルで、追憶のパーティが開かれた。川口松太郎氏が司会されて小泉信三博士、船橋聖一氏、大映の永田雅一氏などが、それぞれ挨拶されたのですが、この時の小林(秀雄)さんのスピーチは、今でも心にしみるものがあります。「…吉川さんが、亡くなられて、もう一年というのですが、私はちっとも、そういう気がしない。毎晩、吉川さんとおしゃべりをしているからです。というのは、私が酒が好きなものでありますから、いつか、小林君、君にいいものをあげよう、といわれて、志野の盃をいただいた。かわいい、見事な盃です。私は、その盃で晩酌をする。すると、吉川さんが私に語りかける。 -おい、小林、あの評論、ちょっと、僕には納得のいかないところがあるのだが。
ああ、この間のアレ、よかったね。 -パットの秘訣をおぼえたよ、それはね… という具合に、盃、一盃ごとにつぎつぎと吉川さんが、私にしゃべりかけてくる。それは、にぎやかな対話で…」江戸前のシャキシャキした淡々たる語り口の中に、先生と小林さんとを結ぶ、友情のキズナがひしひしと聞く人の胸をうって、何人かの人は目頭をおさえていたことを思い出します。(「吉川英治氏におそわったこと」 扇谷正造) 


お酒を飲むと、脳は萎縮する
私たちの最近の研究で、アルコールが脳にもたらす非常に怖い事実が明らかになっています。前頭前野が、お酒が飲む量に比例して縮んでいくことがわかったのです。一時的に大量に飲む、定期的に飲まない日を設ける、といったこととは関係なく、その人が生涯に飲むアルコール量が多ければ多いほど、脳は飲まない人よりも急速に萎縮していきます。それも、人間らしさの源である前頭前野の細胞から消えていくことがわかっています。萎縮するということは、脳の神経細胞が消えるのですが、要するに老廃物として分解されて掃除されてしまうのです。壊れ方は脳であれ、手足であれ、身体(からだ)のどの細胞も同じです。ただ脳の細胞は再生が遅い。ここだけがほかの細胞と違うのです。再生するのですが、とてもゆっくりなので、消えていく方がずっと速く、まったく追いつかないのです。私たちの研究では、その人がこれまでに摂取したアルコールの量に比例して、前頭葉の脂肪が特に顕著に減っていくことがわかっています。その理由までは解明されていません。(「記憶がなくなるまで飲んでも、なぜ家にたどり着けるのか?」 川島隆太・泰羅雅登) 


休肝の大家
吉田健一さんはあれだけの大酒家なのに、週に一日しか飲まない主義だつた。ああいふ規律を自分に課すことができるなんて、どんなにきびしい人だつたか、よくわかる。木曜日はその飲む日で、昼(ひる)ごろ神保町(じんぽうちよう)のランチョンといふビアホールに現れる。用のある(ないのもゐる)編集者たちが集つて来る。ここに二、三時間ゐて、忽然(こつぜん)と姿を隠し、どこかで英気を養つてから、夕刻、銀座のソフィアといふバーで河上徹太郎さんと落合ふ。そして二人でじつくりと飲みつづけるのである。この、木曜日一日だけといふきまりはキチンと守つていたやうで、普段はお家(うち)でも飲まない。寝酒もやらなかつたと聞きました。もし親しい友人のための会が木曜以外の日にあると、じつに嬉(うれ)しそうだといふもつぱらの噂(うはさ)だつた。わかるなあ、その気持つまり吉田さんは酒豪である以上に、休肝の大家だつたわけです。これほどの休肝家(といふ言葉はいま作つたばかり が、日本史はおろか世界史においてほかに誰かゐるかどうか、疑はしいと思ふ。あれだけ仕事をし、あれだけ飲みながら、六十いくつまで生きたのも、この休肝といふ秘術のせいかもしれない。偉いなあ。(「軽いつづら」 丸谷才一) 


◆酒は悲哀の階段を軋ませて/絶望の屋根裏に明るく洋燈(ランプ)を灯した/泪が黙つてその音を聴いてゐた(丸山薫「夜」『鶴の葬式』)(「ほめことばの事典」 榛谷泰明) 


濁酒密造
昭和五、六年ごろの、東北地方は、一帯の飢饉におそわれた。ふつうの年でも、娘を都会地に身売に出さなければ、くらしていけないような貧しさであり、その上飢饉であるからその生活は、とても、ひどかった。税金のかかった清酒や、ビールが飲めるのは、地主くらいであり、一般の農民は、自家でとれた米のくずを原料にした濁酒(だくしゆ)だけだった。脱税ではあるが、税務署に見つからなければ、ただで作れる。バレると、濁酒密造の罪といって、罰金刑になるが、納める金はないので、もう働けない老婆が、その罪の責任を負い、罰金何円につき、何日という計算をされて、監獄へ入れられた。わたしは、税務署の関係は全くないのに、山奥の農村へ出張して行くと、入口の農家が見つけて、火の見櫓の半鐘を鳴らし、村中に警報を出す。背広を着た見知らぬ人が来ると、税務署員とみとめて、濁酒のにおいのするもの一切をかくしてしまうのであった。村の宿屋(今でいえば民宿か)に泊って、酒を注文すると、一時間以上も待たされて、濁酒を出してくれる。実は、自分の家の裏小屋にあるのだが、いかにも、遠くから運んできたような格好をするだけであった。この酒は、文字通り、濁っていて、ウオッカと、牛乳のヤクルトを混ぜ合わせたカクテルのような味がする。普通とは、ちがった一種独特のうまさがあった。地元の老人は、米も食わずに、これだけを飲んで、生きていた人も居たという。醪(もろみ)のままの濁酒に栄養も十分にあったのだろう。(「旅と釣りと生活のユーモア」 上村健太郎) 


皆川淇園酒詩
鴨河(かもがは)の西岸の客楼(かくろう)に雨を望みて           一五鴨河西岸 客楼望雨
高楼に 酒を把(と)つて 蒼茫(そうぼう)を 望めば              一六高楼把酒望蒼茫
清簟(せいてん)も 疎簾(それん)も 片雨(へんう)に 涼し           一七清簟疎簾片雨涼
川上(せんじよう)の 晩来(ばんらい)は 雲の断(た)ゆる処(ところ)に   一八川上晩来雲断処
長堤の 十里は 斜陽に入れり 一九長堤十里入斜陽
◇一五 京都の鴨川(加茂川)の西岸の旅館に、雨を遠く見渡しての作。 一六 高い建物の二階座敷に、酒の盃を持って、遠くの、蒼々(あおあお)として広大な天空(蒼茫)を見渡すと。(遠くの空には、雨が降っている。)「把る」は、握るの意。 一七 (然し、)すがすがしい(清)、竹むしろ(簟)も、荒っぽく編んであるすだれも、客楼の一方にだけ、遠く降っている雨が見えるために、涼しく感じられる。「簟」は、竹や葦で編んだ敷物。「疎簾」には、葦すだれか、伊予すだれの、粗末なものであろう。 一八 (さて、川の上流に目をやると、)川上の夕暮れは、雨雲が切れて(空の見える)いる処に。「来」は助字。 一九 鴨川堤が、長々と遠く(十里)までも、夕日が(あかあかと)照している中に、はいって(照されて)いるのであった。(「五山文学集 淇園詩集(きえんししゆう) 皆川淇園(みながわきえん)」 山岸徳平校注) 


飲み食いあわせ
小山の妻君「そう伺(うかが)って考えてみると食物の作用は面白いもので、お豆腐と松茸というようなこともただ味を出すばかりでなく互(たがい)に化学成分を中和させる功があるのですね。よく世間のお豆腐で酒を飲むと酔いが遅いと申しますがやっぱりそんな訳(わけ)でしょうか」お登和嬢「ハイ、同じ道理だろうと存じます。松茸も人を酔わせるもの、お酒も人を酔わせるもの、お豆腐の蛋白質(たんぱくしつ)はその酔わせる刺激成分を吸収しますから酔いが遅いでしょう。しかしお豆腐が一旦(いつたん)吸収しても人のお腹(なか)で段々消化されれば吸収したものを吐き出しましょうけれどもその時間が長いため刺激の力を大層弱めます。お豆腐ばかりでありません。生玉子でお酒を飲んでも酔いが遅いと申します。それは玉子の蛋白質がアルコール分を吸収するからで、下戸(げこ)の人にブランデーを飲ませようとしては我慢(がまん)にも飲みませんが生玉子と混ぜてランプランという薬品にすると下戸でも楽に飲めます。それと同じように焼酎(しようちゆう)をそのまま下戸に飲ませられませんが焼酎の中へお豆腐を一日漬けておくと誰にでもその焼酎が楽に飲めます。その外(ほか)柿とお酒が一緒になると酔いが遅いと申しますし、酒に酔った時柿を食べると酔いが醒めるというのも柿の収斂性(しゆうれんせい)がアルコール分を吸収するからであの甘い樽柿はその作用から出来ています。外の果物を酒樽へ入れても酒の気をあれほどに吸収しませんけれども柿はあの通りすっかり吸ってしまいます。その外栃(とち)の木(き)の小楊枝(こようじ)を咬(くわ)えながら酒を飲むと酔わないとか、テンポコ梨の実を噛みながらお酒を飲むと酔わないとか申すのもやっぱりその物にアルコール分を吸収せられるからでしょう。それと反対に椎茸酒といって椎茸を酒へ入れて燗したり初茸や松茸を食べながらお酒を飲むと双方とも同じ性質だから酔いが激しゅうございます。唐辛子(とうがらし)や芥子(からし)でお酒を飲んでもその通り。魚類の腸(はらわた)なんぞは大概刺激性の強いものですからアラ酒といって甘鯛のアラへお酒をかけて飲むと早く酔いますし、松魚(かつお)の塩辛(しおから)の事は酒盗(しゆとう)という位ですし、海鼠腸(コノワタ)や海胆(うに)も酒を酔わせます。もっとも海胆は腸ではありません。海栗(かぜ)という貝の卵巣ですけれども刺激性が強いと見えます。何でも食物を料理する時は中へ入れる品物の性質を知っていてその配合を定めなければなりません。それが料理法の一番肝腎(かんじん)な処です」と嬢もまた時あって長口舌を揮う事あり。(「食道楽」 村井弦斎) 


押川春浪と二将校の喧嘩
押川春浪は可成酒くせの悪い方で酔うと能く喧嘩をした。が、彼の喧嘩は何人に向っても、全力を用いて断じて譲らなかった。かつて彼が上総地方から妻子と共に汽車で帰京した時の事である。酔うてうとうとと眠っていると、彼の側に乗り合わせていた二人の陸軍将校が、実に聞くに忍びないようなことを、喋々喃々と、然かも平気で語っていた。ふと、その言葉が耳に入った彼は、むくと身を起こし、一将校の胸に輝く金鵄勲章をつかんで、「このめんちみたようなものは何です」と言った。将校は烈火のように怒って、「陛下から賜った金鵄勲章を玩弄するとは何事だ」と恐ろしい剣幕で迫って来た。彼は平然として笑っていた。そして、「はは、これは金鵄勲章ですか、そうだとすると君は果たして此の金鵄勲章を佩用する資格があるのですか」と言った。将校は益々怒って、「帝国軍人に向って、無礼千万ではないか」と哮る。彼は尚笑って、「君ら二人が語り合った事は何です、あれが果して帝国軍人の口にすべき言葉ですか、金鵄勲章を佩ぶる者の言うべきことですか」と逆襲した。将校は猛然として起って、「何を無礼な、其の儘には置かんぞ」と言って、軍刀の柄を握り、今にも剣を抜かんと身構えた。乗り合わせた人々は、皆色を失った。さりとて口を出すことも出来ず、周章の態であったが、彼は夷然として起って、左腕を突き出し、「君には剣があるが僕には無い、先ず此の左腕を斬れ、之を以て闘わん」と。将校はその言葉に感じ、遽かに笑を湛えて彼の手を執り、「君は天下の快男児だ。願わくば御姓名を明かして下さい」と言って自から名刺を出した。彼は、稍気抜けの態で、「」なあに、名もない早稲田の書生ですよ と言ったが、「否、必ず名士でしょう、隠さず明かして下さい」将校は容易に承知しなかった。そこで、彼が、春浪であることを明かすと、「さてこそ貴下が春浪氏でしたか、まことにとんだ失礼をしました」「なあにかえって僕こそ」と先きの喧嘩はどこへやら、一見忽ち十年の友も啻ならぬ仲となって、両国駅に着くのを待ちかねて、仲直りの盃をあげ半日相対して会飲した。(「日本逸話全集」 田中貢太郎) 


人間にきかないわけがない
かつて首相をやった若槻礼次郎は天下一の飲み手とうたわれた。今は昔、ロンドン軍縮会議全権で行く時も灘の吟醸を数十樽携行して話題をまいたこともある。駒込六義園の裏に新邸を造ったとき、庭園に植える松を千葉県から馬車で運ばせたが、道中が長かったので馬が暑気あたりで倒れた。馬方が機転をきかせて酒を五合ばかり飲ませたところ、たちまち元気づいて無事に運びこんだ。この話をきいた若槻は大喜びだったが、まもなくその移植の松が枯れかかった時、早速思いついて燗さましの酒を毎日根本にかけてやったら、これもめきめき元気を取り戻して活着した。動物(馬)にも植物(松)にもこんなに利くのだから人間にきかないわけがない、という持論だった。晩年は合成酒ばかり飲んでいたそうである。彼に「酒の効用」という著書があるときいている。(「日本の酒」 住江金之) 沈黙の酒豪 若槻礼次郎の「酒の効用」 


黒糖焼酎
アルコール発酵の仕組みを思い返していただきたい。酵母の働きで、糖分をアルコールと炭酸ガスに変えるのがアルコール発酵でしたね。そして米麹は、それ自体は糖分を持たない米を麹の力で糖化させる働きをする。これも思い出しましたか。ということは、元々糖分そのものである黒糖に、わざわざ米麹を入れる必然性がどこにある-そんな疑問を持った人には素直に脱帽する。お見事ですと申し上げたい。米は製造上の必然性はどこにもないのである。ブロック状に成形された黒糖を溶かした溶液に酵母を添加すれば、米麹などなくとも黒糖の醪はできあがる。ではなんで不用な米麹を添加するかといえば、国税庁がそうしろと指導したからというのが正味の話である。日本の酒はすべて酒税を徴収する対象。定義から製造方法まで、酒税法で事細かに定められている。もし黒糖だけで蒸留酒を造ったら、それは法律的には焼酎ではなくスピリッツ扱いになる。いや、そうなってよさそうなものだが、スピリッツだとかかる税率もアップして、黒糖焼酎の製造者は販売上で大変不利なハンデを負ってしまうのだ。それでもお役所たるもの法律をねじ曲げることはできないし、例外を認めるわけにもいかない。そこで編み出したお役人ならではの裏技が「米麹使用」だったのである。(「酒とつまみのウンチク」 居酒屋友の会) 


新粕
酒ふねに 今年のもろみ はや掛かり このにひ粕の いできたりけむ
粕汁に 青き漬菜を 浮かべてぞ ふるさと振りの 朝げたのしむ
音にきく 灘のにひ粕 汁にして 生けるしるしあり 朝毎にをす
瓜や漬けむ なすびや漬けむ 汁にやせむと 妻ははり切りぬ うま粕たびて
温けき この日頃なり いましめて 酸くなせそ君が たびしうま粕(「玩物喪志」 坂口謹一郎) 


イカの粕漬
最近うまい物を食べた。私の家に函館生れの家事手伝いの娘がいるが、彼女の家からアワビとイカを粕漬にしたものを送ってきた。アワビの粕漬は、珍しくもないが、イカの粕漬は趣向がこらしてあって初めて口にするものであった。北海道へはしばしば赴き、函館へも十回近く行っているが、この食物にはお眼にかかる機会がなかった。筒状のイカの中に、イカの脚と人参がさしこまれていて、輪切りにし醤油を少したらして食べる。実にうまい。冷酒を飲んでこれを三、四切れ食べると、幸せそのものという気分になる。親しい編集者で食い物にうるさいKさん、Nさんなどに出してみたら、ひと口ずつ味わい、「これは大したものですわい」と、同じような言葉を口にした。函館の彼女にきくと、それは祖父が毎年作る由で、いわば自家製なのである。十本ほどもらったので、夫人が札幌生まれの友人の家に持っていったら、さすがに夫人はそのイカを知っていた。北海道では、決して珍しくない食物なのだろう。(「イカとビールとふぐ…」 吉村昭 「日本の名随筆26 肴」 池波正太郎編) 


吉原揚げ
吉原揚げというと江戸の浅草観音裏の吉原と思われそうだが、これはもっと古い元吉原、すなわち明暦の大火の後浅草へ移る前、今日の人形町の近く葺屋町辺にあったころの名物だ。吉原が浅草に移った後も、店は元地に残って関東大震災の少し前まで、小さな油揚げを竹のかご-ちょうど向島の長命寺の桜もちのかごのようなのに入れて売っていた。それにちょっと酒をつけて、火鉢の網にかけて少しこげ目がつきかけたところを、大根おろしと醤油で食べる。酒のさかなにもご飯にもたいへんおいしい。吉原揚げがなくなってから五十年以上たっているが、普通の豆腐屋の油揚げでも結構うまい。ただし豆腐屋を選ぶこと。油が悪いとどうにもならない。(「吉原揚げ」 坂東三津三郎 「日本の名随筆26 肴」 池波正太郎編) 


酒は気違(きちが)ひ水也(なり)。酒に酔(よ)ひ乱(みだ)れて気違(きちが)ひになり、人の前にて恥をかき、喧嘩口論し、人をあやめ自分も疵をかうむり、様々のわざはひをし出(いだ)し、身を失ひ家を滅ぼす也(なり)。
*伊勢貞丈『貞丈家訓』(宝暦十三年・一七六三)(「日本名言名句の辞典」 尚学図書辞書編集部・言語研究所) 


大和菩提山・近江百済寺酒造りの消滅
されば寺院酒造業も新興酒造業地の台頭等新社会情勢の推移の裡に漸く落伍して行った。天野金剛寺・大和菩提山・近江百済寺等のうちまず第一の転落者は近江百済寺であった。百済寺酒の名称は管見に於ては天文五年(1536)をもって最後とするが、元亀四年(1573)四月十一日織田信長は鯰江城一揆に同意の故をもって百済寺の堂塔伽藍を悉く灰燼に帰しているから(信長公記)、恐らくこの時百済寺酒造業は没落し去ったものと思う。また大和菩提山の醸造酒は興福寺関係以外の記録に於ては、一般に奈良酒の呼称の内に包含せられているため、菩提山酒造業が何時頃まで持続していたか詳ではないが、壺銭収納の記事を天正十二年迄あとづけることが出来(前述)、また「山樽」の称を文禄の末年に至るまで見出し得るから、(多聞院日記天正十六年(1588)九月朔日、十七年七月二日、文禄五年(1596)五月十四日条)、少なくともこの頃まで醸造が行われていたものと見るべきであろうか。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


滋養から離れた飲酒は悪癖
ワイン王国のイタリアでは、もちろん大量のワインが飲まれている。しかしほとんどが食事の席だけで、ワインにかぎらずアルコール類をそれ以外の場でガブガブ飲む人は非常に少ない。日本語には酒豪などという大酒をなかばほめるようなことがばあるが、わたしの知るかぎり、酒飲みをあらわすどんなイタリア語にもそんな語感をもついい方はない。一般に食事の滋養から離れた飲酒は、悪徳とまではいわないにしても悪癖(ヴィツィオ)であり、人間的弱点とみなされている。テレビのニュースで政治家などの汚職が報じられるとき、「彼もまた人間だった」というのがしばしばキャスターの結びの文句になるように、人間の弱点には理解のあるイタリア人のことだから、飲酒程度の悪癖で人をあからさまに責めたりはしないが、酒飲み人間のことを最低と評しているのを何度も聞いたことがある。酔っぱらうことはまた美学的にも問題であり、そんな姿をみられるのは不名誉である以上にまことにカッコわるいことだ。だから、女性はもちろんのこと、靴をピカピカに磨き上げたおしゃれなイタリア男がワインを飲みすぎて酔っぱらうというようなことはまずありえない。ファッションと酩酊はイタリアでは両立しないのである。そのためだろう、若い男たちはあまり酒を飲まない。覚醒の緊張感がカッコがいいのである。わたしのみるかぎり、年齢とともにおしゃれへの関心が低下すると、酒量が増えるようでもある。ほかにも、酒は飲めても、主義で飲まない「アステミオ」とよばれる人たちが、男性には少なくないことをつけくわえておこう。(「酔わないイタリア、酔うギリシア」 野村雅一 「嗜好品の文化人類学」 高田公理・栗田靖之・CDI) 


蚤のうた
なだ(いなだ) -蜀山人は酒の歌でもうまいのをつくっている。物語ができているんです。多摩川のどこかの堤防工事に彼が行っているとき、人夫を指揮しながらチビリチビリやっていたら、ノミがポンと跳んで盃の中に入った。そこで彼は早速ノミに向かって「盃に飛び込む蚤も飲み仲間…」(笑)。そして、「酒のみなれば殺されもせず」で結ぶんですが、そうしたらノミが返歌をしたというんです。「飲みにきたおれをひねりて殺すなよ、のみ逃げはせず晩に来て刺す」という(笑)。そこで、ノミの分際でこしゃくなことを言うというので、敷居のところでノミをつぶしたら、「口ゆえに引きだされてひねられて敷居まくらに蚤つぶれたり」(笑)。(「歳時記考」 長田弘・鶴見俊輔・なだいなだ・山田慶児) 


酒をのむ 陶淵明が 物ずきに かなふさかなの 御料理菊
水鳥の すがもの里の たそがれに 羽白のきくの 色ぞまがはぬ(七々集)
九月 菊に琴と酒壺
淵明が つくらぬ菊に 糸のなき ことたるものは 一盃の酒(七々集)(太田蜀山人) 


理由
酒を飲む理由は二つある-一つはのどがかわいているとき、つまりそれを癒すため。もう一つは喉(のど)がかわいていないとき、つまり喉がかわかないように。 -トーマス・L・ピーコック(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


二人で酒を飲むことはしない
そういう気持ちが云わせたものか、彼女はある日、旦那様に、「ボーイフレンドができちゃった」と報告した。妻の貞節を信じ切っているらしい夫を、ちょっとつついてやりたかったものか。夫は、妻の顔を眺めて、なにやら考えこむ風だったが、やがて、云った。「まあいいだろう。楽しくつきあいなさい。但し、二人で酒を飲むことはしないと、約束してくれ」この旦那様は、なかなかわけ知りであると、私は感服した。酒は、人の心の抑制をとり去る作用をする。自分でも気づかなかった意識下の思いが、酔ったとき、ひょいと顔を出すことがある。当人にも思いがけない過ちが、こんな時に起こる。"酒の上"という言葉があるが、じっさい、酒の上で、人格がまるっきり変わってしまう例もある。その女友達には云わなかったが、私の察するところ、その旦那様には、酒の上の苦い経験が、一つや二つ、あるのではないか。酒にも功罪両面あって、心して飲む必要がある。深夜、独り盃を傾けて、自分を解放している私には、右のような心配もない。近ごろはひたすら心が軽くなる域を通り越して、妙に昔のことばかり思い出すようになった。それも、楽しい思い出は滅多になく、悔恨ばかりが多い。あげくの果ては乱酔して、ステレオで新内流しなど聴きながら、いつの間にか涙している自分を見出す。そうか、これが泣き上戸というものか、とある時、気がついて、すると途端におかしくなって、しばらく一人、笑っていた。(「泣かない女」 安西篤子) 


盃洗のもと
もうひとつ、若い女性が日本酒を嫌がる理由に数え上げるのは、盃のやりとり、いわゆる献酬ということがある。もちろん、不潔だというのだ。そしてついでに、盃洗のきたならしさを言う。確かに、献杯だ、返杯だという盃のやりとりは、多分日本人独特の風習であって、独特だということは、それにはそれの起原が考えられることではあるが、きたないと言われれば、一言もない。盃洗も、小さな器に水を入れて、それを取り替えもしないで洗うのだから、これも確かに不潔には違いない。盃洗には、わたしはかねてから、疑問を持っている。さかづきあらひという語があるので、それをそのまま漢字にあてたのかもしれないが、もし、盃を洗うということばなら、洗盃と熟するはずだと思う。ところが、これについては徒然草に、「魚道」という語が出ていて、盃に酒を残し、それで口のついたところをすすぐのだと言うから、その酒を捨てるのが、今、盃洗と称する器のもととなったものかもしれない、と思っている。盃洗には、盃泉という字をあてた例もあるのだが、あるいは、廃泉などというあて字も、考えられなくはない。しかし、要するに、日本酒の献酬がいやだ、盃洗は不潔だということはわかるけれども、だから日本酒はいやだ、となると、日本酒としては、ずいぶん、迷惑な話だということになると思う。(「町っ子土地っ子銀座っ子」 池田弥三郎) 


榎本健一(えのもと・けんいち)
明治三十七年東京生れ。愛称エノケン。生来の腕白小僧で、眼玉の松ちゃんに憧がれ、十六歳にして映画俳優を志望して落第。止むを得ず新聞広告を見て故柳田貞一一座で採用された猿の役が巧く浅草の客に大受け、昭和七年座長となる。十年PCL(映画会社)の映画をキッカケに東宝傘下となり株式会社エノケン一座の社長もした。二十六年秋、特発性脱疽という奇病にかかり、呻吟したが、二十九年春どうやら快くなって往年の元気をとり戻し、映画にラジオに活躍している。酒量が、病気以前よりふえたとあって花島喜世子夫人を心配させている。(大田区雪ケ谷四五〇)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。 


サラコベ供養  枯骨報恩
むがし、あるどこに貧乏だ爺さまがあった。「今日ァ四月八日だしけゃ、一日家にいで、ゆっくり休むべ」と思っていたば、又用ァでぎで、外さ行がねばならなくなった。折角買っておいだ一升徳利下げで、途中でものむべと思って出がげだ。広い野原さかかった、爺さまは一杯のむべと、道の石さ腰かけで酒コのみながら、下見だば、「サラコベァ(どくろ)」おぢていだ。爺さまはびっくりしたども、「こりゃどした人のサラコベだがも知れないども、ちょうどいいどこだ、おれァ一人で飲むのァ嫌だしけゃお前さんも一つのんで、一しょに楽しむべァ」といって、盃に一杯ついだ酒を、そのサラコベにそそぎかけたり、のんだりして、唄コうだってまたまた出がげだ。そしたば、爺さま用たして、その日夕方そこを通ったじば、後から「爺さま、爺さま、ちょっと待ってけさい」とよぶ声ァした。見ると十七、八のきれいだアネ様であった。「今日はお前さまのおかげで、おもしろい目をしたので、その礼をしたくてお前さまば待っていたのだ。私は三年前の四月二十八日にこの野原で急病で死んだ娘でごあす。親たちは何も知らないで今も方々探しているが、縁がうすくて誰にも見付けられず、昨日までさびしく暮していたものでごあす。二十八日の法事の日には、何用おいでも、是非もう一度ここへきて私と一緒に親の家へ行ってくんさい」といった。爺さまは引きうけて、その二十八日の約束した日の朝のうちに、野原にきて見ると、きれいだ娘が出て待っていた。それから一緒になって野をこえだ隣の村に入って行った。娘の家にきて見だば、なんと大きい構えの屋敷で、村の人が大勢、娘の法事に寄り集まっていた。「俺ァとてもこの中さ入れません」と爺さまがいうと、「そんだら、わしの着物にとりついて入ればいい」といって、二人共誰にも見付けられずに、スルスルと中に入ることができた。二人は仏壇の間にすわり込んでいると、座敷には本膳がでて、お吸物も酒もある。爺さまは酒コのんだり、好ぎだ肴コとっていろいろ食った。座敷にいる坊さまや、親類のお客が、知らぬうちに自分の膳のものも酒もなくなるので、みんなで、不思議だ、不思議だと話し合っていた。その中にお膳を下げる段になって、一人の娘が皿をおとしてこわした。家の主人は、「大事な皿をとんでもないことをした」とひどく叱った。すると爺さまと一緒にきた幽霊の娘は、爺さまに「私はああいう所を見るといやだからもう帰ります」といった。爺さまは「そんだら、俺も帰る」というと娘は「お前さまはまだよいからここにいてくれ」といって、ひとりでどこかへ行ってしまった。娘が出て行ってしまうと、爺さまの姿はすぐみんなの目に見えてしまった。みんなはびっくりして、「お前はだれだ、いづの間に、どこから入ってこの座敷にきた」とたずねたので、もうかくすこともできないので、今までのことを話してきかせると、親類の者たちはびっくりし、主人夫婦はオイオイと泣き出した。では早速娘のいる野原へ私たちを案内してくれ、拝むたのむといわれたので、爺さまが先に立って親たちをはじめ親類すきま和尚さままでがそろって娘の骨拾いに行って、もう一度家から葬式を出して弔った。爺さまはそこの家の人たちに面倒見られることになり、一生安楽にくらすことができた。どっとはらえ。(上北郡百石町の話 話・四戸松三郎 採話・編者)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


ビールの町
鷗外は明治十九年(一八八六)の三月、ミュンヘン大学の衛生学教室に入り、主任教授の下で働いていたレイマン講師の指導下で『麦酒ノ利尿作用』(鷗外自身の日本語訳名)という仕事をした。同じ教室に、中浜東一郎がおり、ブドー酒、ビールなどの色素のことをも研究していた。鷗外はベルリンに去るとき、中浜に詩をおくる。その詩『今朝告別す僧都の酒』の自註にこうある。「民顕府之名。自僧字出。(monacs)有名于麦酒」(ミュンヘン市の名は僧院という意味の言葉から転化されたものだが、ビールの町でもあるという意)。(「ミュンヘン物語」 小松伸六) 


適当に発展しているようだ
この「酒」は、佐々木久子さんが、女手ひとつで創刊し、もう三十年も続刊されている雑誌である。原稿料のかわりに銘酒が届くのが、たのしみだという執筆者が多い。いろいろな人が、自分のゆきつけの酒の店を写真で紹介するのも、見ていて楽しい。今は方々の雑誌で、同じような頁を作るが、そういう企画のはしりであろう。この「酒」では、文壇酒徒番付というのを、毎年一回、ずっとのせていた。横綱以下平幕まで、東西にわけて、ずらりと作家や評論家の筆名がならぶ。その番付のランクは、これも執筆者としじゅう飲んでいる各誌の編集者や、月刊誌の文芸記者がきめるのだ。賑やかに飲みながら順位をきめてゆくのだろうが、幕内のどん尻に置かれた作家は、何となく、いやがった。じじつ酒量がすくなくても、恥ずかしいものなのだ。ぼくは大抵、前頭十二三枚目、番付の真中ごろだった。これでも実力以上に買い被られたと思っていた。ただ、コメントが人物が人物月旦をするので、ある年、こいつはまいったという感じの発言があった。「このごろは酒量も上った。適当に発展しているようだ」こっちも木石ではないが、発展という風説は、少々「家賃が高すぎた」(「思い出す顔」 戸板康二) 


方言の酒色々(34)
酒のもろみ たにまー/たりまー
酒のもろみをかき回す棒 かいぼ/かいぼー
酒の小売り店 いたかんば/うけざかや/うけし/うけしや/おけしょ/またろく
酒の肴 あしらい/あて/おしおけ/おつまり/おつもり/しおけ/しばて/しゅーち/しょーけ/つまり/といざかな/とぅいさかな/とりざかな/とんじゃかな
酒の味が辛い やぎつい(日本方言大辞典 小学館) 


日本国の"天地創造"の時期
例によって勤め先の同僚か、あるいはカメラマンとか、新橋から新宿へと流れるように吸いこまれていったのであろうと思う。そのときの乗りものはなんだったのか、都電もバスも思い浮かばないところをみると、たぶんダットサンか何かの、小型タクシーが、ようやく走り始めていたのではなかったろうか。フランスのルノーという、カブト虫に似た小型車が、すごくイカシタ乗りものとして私の記憶に残るのが、ようやく二十七、八年の頃だから、それ以前のアシのことになると、さっぱり思い出せないのだ。それはともかくとして、私はそこでやっぱり亭主を見つけ出しているのだ。いまのタカノのある辺りからは入って、右側に黒々と高く、コンクリートの塀のように焼け残った、もと「聚楽」の建物を伝って歩くと、どこからともなく漂うオシッコの臭いと一緒に、眼の前にハモニカを横にして、ずらりと並べたような、間口一軒ママあるかないかの小さな飲み屋が、ひしめきあうように軒を連ねていたのだった。なるほどねえ、これがハモニカ横丁か、それにしても、だれが名づけたのかしらないが、よくもいったものだ。どの店も、油じみたのれん、のようなものを、はたはたと夜風にはためかせて、その隙間からこぼれる裸電球の光を、侘びしげにちらつかせている。その僅かな光の中で、私はちゃんと自分の亭主の顔と姿をとらえているのだった。「や、や、こんなところまで来よったか」「そういうわけじゃないけど、×君たちに誘われてきてみたら、やっぱりあなたが座ってるじゃないの」そのときの亭主のお連れがだれだったのか、そこまでは憶えていないのだが、そこでおでん、のようなものをつつきながら、気がついてみると、いつのまにか私の連れたちは、私が入った店の隣へ入っていて、私たちは彼らと戸口越しにわいわいとしゃべり合っている。もともとがどの店も、いま思えば屋台に毛の生えたような飲み屋だから、右隣りの客も、左隣りの客も、互いに大声でわめき合いながら酒が飲めたのだったかも知れない。まさに何もかも混沌とした、これまた大げさにいえば、わが日本国の"天地創造"の時期だったような気がする。(「夫恋記」 十返千鶴子) 


酒の徳孤ならず必ず隣あり
 酒のよいところは、必ず飲み友達ができて、孤独ではないということ。 論語にある「徳孤ならず必ず隣あり」のもじりですね。
酒は先に友となり、後は敵(てき)となる
 酒は友達を作るきっかけとなるが、後ではその友達といさかいを起こす原因になるということ。(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


新陳代謝
「フケ?」おれは奇異な感じをおぼえた。見るとたしかにおれの目の前を、ふたつみっつ、白い破片が降りていくのだ。そのとき改めて気づいたのだが、おれの頭には、かなり長い間、フケなど存在しなかったのである。酒ばかり飲んで、ろくにものを食わないので、おれの肝臓は自らの細胞を再生し維持するために、ほとんどの蛋白質を肝臓へ、そして内臓系統へまわしていたのだろう。重要な部分へ優先的に蛋白質がまわっていった結果、表皮部分の新陳代謝などは一番後まわしにされたのにちがいない。(「今夜、すべてのバーに」 中島らも) 


21.盗んだ酒はうまい
 禁じられていることをおかして密かに味わう楽しみは大きい。 オランダ/ベルギー
81.隠れて酒を飲む者は千鳥足でそれと分かる
 酒はイスラムでは禁忌。悪事は必ず露見するということ。 セネガル(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


変な盛り上がり
野田 俺、酒を憎いんでいた時代があったわけ。それで酒の神様と芝居の神様が一緒だって知った時は、嫌だったね(笑)。何か、俺をバカにしてんじゃないかって(笑)。ほら、芝居をやった後とか、話をしたりするのに、酒を持って輪になったりして喋るのが嫌いだったんだよね。
高平 映画関係者や芝居関係者の酒っていうのは、何か違うんだよね。俺はもう帰っちゃうね。
野田 中上さんと初めて会った時にね、中上さん、「おめえら…」って、こういう口調だった(爆笑)。「おめえら芝居をやっているやつは、どうして一緒にワァーッと飲まなくちゃだめなんだ?」とか言われた。別に俺は、そんなでもねえんだけれどなって思ったけど(笑)。
中上 アハハ、そうだっけ?
野田 そうでした(笑)。
中上 俺なんかもの書きで、まわりにいっぱい編集者がいたって、やっぱり一人だよね。だから、ワァーッてやってるのが、うらやましくもあるんだよね。だけど、クソッ、こん畜生っていうものもある。「こいつら、ツルんでしかできないのか」っていう…。その二つが…。
高平 でも、暗い酒か、明るい酒か…。明るい酒っていうのは気持ちが悪いじゃない(笑)。芝居やってるやつとか…。
野田 芝居やってるやつは特に"個人"が弱いのが多いんだよな。
高平 見てると、変な盛り上がりがね。(「有名人」 中上健次・高平哲郎・野田秀樹) 


やいつき、やだいじん、やぶら
やいつき[合付き] 子分になる盃ごと。[付き合いの逆語]→あいつき。ずきさか。(香具師・やし・てきや用語)(大正)
やだいじん[矢大臣] 居酒屋で酒を飲むこと。[←居酒屋で酒を飲むのは随身者(=家来・従者)。随身者→随身門と洒落て、随身門に立っているのは矢大臣と発展](俗語)(江戸)
やぶら 焼酎→ちゅう。(強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


サラ川(24)
気にかかる酒の席での気にするな  隙間風(すきまかぜ)
乾杯の音頭は無口な人が取れ    生ビール
晩酌で鍛(きた)えた妻にからまれる  のん助
酒タバコゴルフも奪(と)られ次は何? 新治
結果見てまだまだ飲める人間ドック  読み人知らず
飲み屋にも自分だけの五つ星     勝手口(「サラ川」傑作選 山藤章二・尾藤三柳・第一生命 選) 


どくろはい【髑髏盃】
髑髏を以て作つた盃。「閑田次筆」に『織田信長公越前の浅井父子、浅倉義景等を討亡し、其の生首を盃としていふ、此三人われに大に苦労させし、今は思ふまゝなり、悦びの盃なりとて、柴田勝家をはじめ一座に是にて酒を賜ふ。明智光秀下戸なりしや辞して呑まざりしを、強て一盃を吞ましめらるゝに酩酊して迷惑せしこと見えき。戦国に趙襄子が首を飲器せしこと、又元呉元甫が髑髏盛酒飲晴風と作りしなど和漢同じ類ひなり。又浪華の士永田某は諸芸に通じ酒は大上戸なりしが、秘蔵の巨盃あり、髑髏を金箔にて塗りたるにて、八合入しなり』とある。
髑髏盃肴も荒れて骨ばかり 髑髏と骨の結び
髑髏盃是から骨と又こつ湯 同上(「川柳大辞典」 大曲駒村) 


群飲の禁
この貞観八年(866)という年に、「諸司書院諸家所々の人、焼尾荒鎮(しようびこうちん)ならびに人を責め飲を求め、及び臨時に群飲するを禁ずること」と題した太政官符が出た。正月二十三日、まだ応天門事件は起きる前だが、何とはなしに世間に不穏な流説が出ていたときである。そうした世情とも無関係ではない禁制らしいが、その内容は次のようになっている。 だいたい、奈良時代の天平宝字二年二月二十日の勅書で、民間が宴集してややもすれば秩序をみだし、あるいは同悪相集まってみだりに聖化をそしり、あるいは酔乱して節度をはずす、つい喧嘩口論からつかみあいになるので、道理にそむくこととして、酒は王公以下、祭りに供え、病患をなおす医薬に用いるほかは、飲んではならぬと禁じてある。しかるに、それ以来久しく経っている。現在は、その点乱脈になり、諸司諸家の人びとは新たに官職を拝し、初めて出仕するとき、中国の進士及第祝宴である「焼尾(しようび)」だとか、「荒鎮(こうちん)」(振舞い酒)だとかいっては、さかんに酒饌を盛りあげ、人にも飲ませては浮かれさわぐ習慣がある。これが積習常となり、度がない、招待した主人側は財を消耗し、よばれた客とても格別利があるわけではない。集会が約束通りいかねば争いになり、主人側の設けた馳走が不満足だと、きまってこれをののしりはずかしめる。ただに争論のもととなるのみならず、闘乱の淵源ともなるので、以前の勅文の通りに禁止したい。ゆるす場合でも十人以下の集会であり、飲酒が奢りにならないようにする。また諸家諸人で神祭りを行なうさいの宴会のとき、諸衛府の舎人(とねり)や放縦のやからが、酒食や物を求めるふうがある。けれども主の招きによるものでなく、客のような顔をして勝手におしいり施しを求め、それをことわれると、悪口雑言を並べて、神さまが怒るぞとばかり主人を恐喝するふうが近年ある。これなぞは、群盗にひとしい仕儀だから、今後厳禁にする。 というのである。このような禁制からうかがえるように、藤原氏の専制的な体制が確立しようとするこのころの猟官運動ははげしく、立身出世主義の傾向は強められていたので、出世任官したもののよろこびもひとしおで「焼尾」だ「荒鎮」だと酒をあおって、どんちゃん騒ぎするふうがあったのである。またそれをよろこぶふりをして、じつは嫉妬したりにくんだりするものが押しかけていき、ご馳走をせびるようなことがあったことも知られる。こういう乱痴気さわぎを招くような群飲が、政治的に利用される傾きもあったのではないかと思う。けれども、天皇を中心となって群臣を招き、賑やかに酒宴を催すことは、こんな禁制が出て後にもたびたびあった。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎) 


格に応じてつきあう
しかし、何といっても、わたくしに「賀茂鶴」の名をくっきり印象づけてくれたのは、尾崎士郎先生である。わたくしが賀茂鶴について語るとき、尾崎先生の名を逸するわけにはいかない。しかも尾崎先生は「酒にはそれぞれ格というものがあり、大関格の酒には大関のうまさ、前頭格の酒には前頭のうまさがある。たとえ前頭の酒でも、その格に応じてつきあえば、他の酒では味わいえない、掬すべき味があるものだ」と教えてくださった。これは尾崎先生の、単なる酒だけではなく、人間にたいする基本的姿勢である。酒仙のことばといってよい。そして先生は「賀茂鶴は酒の大関である」と喝破された。先生のおっしゃる<大関>とは、現在の制度とは違って力士の最高位であり、横綱は大関のうちの特別秀れた力士に与えられる称号だった時代の<大関>の意味である。晩酌の習慣のないわたくしが、稀にその気になるときは、賀茂鶴の冷(ひや)でグイ呑みして楽しんでいる。(「人生覗きからくり」 綱淵謙錠) 


チリメンジャコに柚子の酢をしたたらせたもの
友人は、しかし私の枕許で自分だけでそれを飲むのは気が引けるのか、庭の畑にしゃみこんでいる父の方を目顔で指しながら、「親父さん、いけるんだろう。一緒に飲んでもらえないかな」「いや、やめてるんだよ酒は。昔はかなり飲んだんだがね」しかし、そう言いながら私は、畑の方からチラチラこちらを見ている父に、なぜか声をかけてみたくなった。「おとうさん、仕事がすんだら、こっちで一杯やりませんか」父は、立ち上がって睨みつけるように私の方を見たが、ふと気弱な薄笑いをうかべて、近づいてきた。そして友人がコップに注いだ酒を手にとると、「うん、これは好い酒だ。うまい…」ひと口飲んで父は言った。恥ずかしさのためか、両頬が仄(ほの)赤くなっている。「いいでしょう。十二年ものですよ」友人が言うと、父は、「十二年ものか…。道理で」と、あらためて私と友人の顔を見較べながら、頬笑んだ。父は帰還以来、その日まで何箇月ぶりかで飲む酒だった。しかし父は、決して酒が嫌いになっていたわけではなかった。「お前も少しやってみたらどうだ」父は、飲みほしたコップを私に向けた。考えてみれば、私と父はこんなふうに酒を差し合ったことは一度もない。私は、友人の注いでくれた酒を少しだけ口に含むと、もう腹の中が熱くなり、やがて胸に何か昂揚したものがこみ上げてくるものを覚えた。あれから、もうかれこれ四十年になる。私自身、いまは当時の父を上廻る年になっている。父も母も、すでに二十年以上前に世を去った。そして私は、少しずつ酒を飲むことをおぼえた、決して強い方ではないが、以前母と暮らしていた頃のように酒が嫌いではない。しかし、それよりも私自身、驚くのは、むかし父が自分一人で肴にしていたようなものを、いまは私が好んでつまむようになっていることだ。さすがに、醤油につけたリンゴを肴に酒を飲む気にはならないが、高知から送ってきたチリメンジャコに柚子(ゆず)の酢をしたたらせたものなど、何物にもまさる好物になっており、柚子の香りとスコッチの煙臭いにおいとは、絶好の取り合せのように思っている。酒は、隔世遺伝の壁を少しずつ取りはらって、私にも伝わろうとしているのであろうか。(「父の酒」 安岡章太郎) 


口合名尽児遊
『口合名尽児遊(くちあいなづくしちごあそび)』と題する絵本がある。刊年不祥だが、かなり古いものと思われる。内容はわらべ遊びのことばなどを人名にもじった語路合(ごろあわせ)である。たとえば、 山の太兵衛しょは和平(わへ)ひとり(お山の大将は我一人) 藤次の塔と弥兵衛の塔と九郎兵衛て見れば藤四の塔がまだた嘉兵(かへ)/\はや酒(さか)の藤(とう)は坂八(さかや)のとうじゃ(東寺の塔と八坂の塔と比べて見れば東寺の塔がまだ高え、高えは八坂の塔は酒屋の塔じゃ) の類である。(「日本語のしゃれ」 鈴木棠三) 


打ち壊し
おもしろい話としては、打ちこわしと聞いてあわてた大商人が、これを免れようとしたが、結局どうにもならなかったというのがある。次の資料は、その様子をよく示している。「相模屋・坂本屋・壺屋等は、気がききすぎ、四斗樽の鏡を抜き、柄杓(ひしやく)を添、台え茶碗を並べ、差し置き、壺屋にては、戸板え握飯・煮染(にしめ)物を立派に並べ置き候ところえ、乱暴人共押し来り、口々に、此場に至り、言訳の為めにかく致し候とて、呑喰(のみくい)できるものかと申しながら、蹴ちらかし、踏飛ばし、さんざん荒らし候由、女郎屋・米屋・酒食の店、ほか重立(おもだち)候もの、都合四十七軒打ちこわし候由」(「日本の歴史 開国と攘夷」 小西四郎)  江戸最末期慶応年間の打ち壊しの風景だそうです。 


国民劇場、国民酒場、国民食堂
それが戦争中、改名されて"小学校"でなくなったとたんに、われわれがそこに美しい何かがあったように思いだしたのは、何よりもあの時代に私たちの周囲から沢山のいろいろなモノが毎日毎日、消えて失くなって行くのを切実に感じとっていたからだ。そんな時代に"国民"というのは、いかにもウツロにひびく言葉だった。国民劇場、国民酒場、国民食堂、これらはみんなロクでもないしろものだが、今やこれにもそれぞれ解説が必要だろう…。築地小劇場は、いわゆる"新劇の殿堂"で実際新劇はそこでしか見られなかった。それを"国民新劇場"に改名したのは、築地から新劇すなわち左翼演劇を追っぱらったということだ。それに続いて、こんどは軒に"おでん小料理"などと書いたチョウチンをぶら下げた一杯飲み屋がなくなって、店の前に客が行列して一人にコップ一杯ずつ飲ませる"国民酒場"になり、町の荷車ひきだの労働者だのが集る場所だった一善めし屋が、米も飯が出せなくなって代用食のゾウスイを行列した酒に一杯ずつ売るのが"国民食堂"である。(「父の酒」 安岡章太郎) 


アメリカのビジネスエリート達
君も知っての通り、ここ数年私は毎年定期便のようにアメリカへ出かけている。向こうの関連会社幹部との定例会議に出るためだが、行くたびに感じることの一つは、向こうのエリートビジネスマンといった連中が、どんどん酒を嗜(たしな)まなくなりつつあるという傾向だ。昼の会食でも、テーブルに着く前にカクテルの小パーティーがあるのが習わしなのだが、そのとき、つい去年まではドライマティーニを一杯で足りずに二杯傾けていた男が、ペリエのグラスを取るように変わっているのだからびっくりさせられる。だから、ドライシェリーやカンパリソーダを所望するのは我等日本人ばかりで、向こうはペリエでなければオレンジジュースと、言い交わしてでもいるようにアルコールには手を伸ばそうとしない。晩飯のときは、さすがにワインは断らないが、見ていると、最初に注がれた一杯だけで、注ぎ足しをさせることなどないというのが同席者のほとんどなのだから、一杯で足りるはずのないこっちとしては、大いに気がひける。こうしたアメリカのビジネスエリート達の変身傾向は、ここ十年流行ともいえる勢いで広がっているようだが、その根となっているのは健康管理の思想で、酒、タバコといった健康に害のあるとされるものは潔く遠ざけ、スポーツで肉体の老化を防ぐという禁欲的な生活信条に対する右へ揃えが、これほどまでに一斉に行われているのは驚異という他ない。(「男とは何か」 諸井薫) '90年の出版です。 


伊勢平氏はすがめなりけり(注)
二五 伊勢産の壺は酢瓶に用いる。伊勢平氏の本拠は今の津市付近だった。忠盛は伊勢平氏で、しかも眇目
(片方の目が細いこと)だったので、瓶子を平氏に、酢瓶を眇目にいいかけてからかった。 二六 桓武天皇のこと。 二七 昇殿を許されない地下の人としてばかり行動するようになって。 一 「は」は語気をはっきりさせる助詞として用いられた。 二 忠盛は無念だったが、どうしようもなくて。 三 その日も歌舞もまだ終わらないのに。 四 平安朝の語法ならば、「罷出らるとて」とあるところ。 五 主殿寮(とのもりよう)に属する身分の低い女官。 六 「たてまって」は「たてまつって」の音変化。 七 実はこのように恥かしめられたのだと本当のことを言いたい所だったのだが。(「平家物語」 高木・小澤・渥美・金田一編) あとで、殿上人が帯剣して公宴に列したと非難しましたが、預けた刀は木刀であることがわかり、かえって叡感にあづかったということです。 


伊勢平氏はすがめなりけり(本文)
忠盛(ただもり)御前(ごぜん)の め(召)しに ま(舞)はれければ、人々(ひとびと)拍子(ひやうし)をかへて、「二五伊勢平氏(いせへいじ)はすがめなりけり」とぞはやされける。此人(このひと)々はかけまくもかたじけなく、二六柏原天皇(かしはばらてんわう)の御末((おん)すゑ)とは申(まうし)ながら、中比(なかごろ)は都(みやこ)のすまゐもうと/\しく、二七地下(じげ)にのみ振舞(ふるまい)な(ッ)て、いせ(伊勢)の国に住国(ぢうこく)ふか(深)かゝりしかば、其国(そのくに)のうつはもの(器物)に事よせて、伊勢平氏(いせへいじ)とぞ申(まうし)ける。其上(そのうへ)忠盛(ただもり)目(め)のすがまれたりければ、か様(よう)にははやされけり。いかにすべき様(やう)もなくして、御遊(ぎよゆふ)もいまだをわ(終)らざるに、偸(ひそか)に罷出(まかりいで)らるゝとて、よこ(横)だへさゝれたりける刀をば、紫宸殿(ししんでん)の御後((ご)ご)にして、かたえの殿上(てん(じやう))人のみ(見)られける所に、主殿司(とのもつかさ)をめしてあづけをきてぞ出(いで)られける。家貞(いへさだ)待(まち)うけたてまって、「さていかゞ候(さふらひ)つる」と申(まうし)ければ、かくもいまはしう思(おも)はれけれども、いひつるものならば、殿上(てんじやう)までもやがてきりのぼらむずる者(もの)にてある間(あいだ)、「別(べち)の事なし」とぞ答られける。(「平家物語」 高木・小澤・渥美・金田一編) 


ヤップ島のヤシ酒
吊り下げた椰子のお椀には、ふつうひとつのウチフから、一昼夜で五合から一升(一・八リットル)のアチフがとれる。いいものは一升五合もとれるという。だから、このお椀を始終とりかえる。さて、この「お椀をとりかえる」が問題だ。ただの飲料としてのアチフだけを採りたいときは、お椀を必ず朝晩せっせととりかえねばならぬ。そして、アチフをとったそのお椀は木から下ろしたらすぐ真水か、内海の淡水でよく洗って、乾かして、たえず違う容器を交代で使う。これが肝要。なぜならアチフには発酵作用があり、長く昼すぎまで吊っておけばすぐ気違い水と変じてしまうので、これが厄介、実に始末に困ったものだ。余談ながら、イースト菌がないときアチフを使うと、ちゃんとパンが出来る。だから酒をつくるときは、容器を乾かしはするが絶対に洗わないで、次々と取りかえさえすればよろしい。こうして採れた酒、チュバはすぐにも呑めるわけ。呑めるが、おりが沈んで酒が澄むまでくらいはじっと浮き浮き待つのが紳士のたしなみというものだ。、どこにもそわそわ待ちきれない向きはいるとみえて、ちゃんと用意万端おこたりなく濾(こ)し器が工夫されてある。コプラ椀の尻へ矢筈に切った篠竹をさしてこれが漏斗(じようご)、花房を幹ごとくるんでいる椰子スクリーン<マラニウ>を椀の底へ敷いていそいそと濾す。いよいよ酒ができた、南国銘酒。天下一品の美酒。酒はみんなのものだから、むろん我輩ひとりでのむためにつくるのではないと、一応は書いておく。(「ヤップ島の物語」 大内青琥) スペイン、ドイツ、日本の植民地時代、「飲みもののアチフはよろしいが、朝採らなかったものはただちに棄てる」こととされていたそうです。 


〽飲んだお酒の
〽飲んだお酒の 回らぬうちに
  早くききたい 胸のうち
〽呑めぬを承知で 差したる猪口も
  見たいあなたの 桜色 子阿弥
〽ひやで一杯 神輿の下へ
  素肌突っ込む 夏祭り 五郎(「都々逸坊扇歌」 常陸太田市秘書課広報係編集) 杉山残華『都々逸読本』 


ルバイ第二十一
ああ、愛(いと)しき者よ、盃を満てよ。 「今日(けふ)」よりぞ、そは、往(い)にし悔(くい)と来らむ虞(おそれ)とを除かむ。 「明日(あす)」とや。さなり、明日(あす)の我は  昨日(きのう)の七千(ななち)の年を経し我ならむ。
[略義]愛人よ、波々と酒を注(つ)いで呉れ。酒は、「今日」から、過去の「悔(くい)」と未来の虞(おそれ)とを除いて呉れる。「明日」だッて?明日とも為れば、此の俺(おれ)は、アダムの創造から数えて七千年に為るだろう。
[通解]-其の過去に対する悔(くい)と、未来に対する虞(おそれ)とを「現在」から取り除いて、悔(くい)も無く、虞(おそれ)も無しに、悠々として、常に楽しく、唯一の実在である、「現在」と云う、絶えず移動前進して已(や)まない、飛箭(ひせん)の先端たる刹那を、思い残す所無く、感謝しつつ、享楽して行こう。何となれば、矢が地に触れた途端には、総べては過去に為ってしまうのだから…。明日とも為れば、明日は又「現在」で、只、「過去」と云う長い尾が、一日だけ長く為る計りに過ぎない。此のルバイに於いては、其の尾の長さを、オウマは、自分の生誕の年から数えずに、アダムの創造から数えて七千年と云ったのである。(「留盃夜兎衍義(ルバイヤートえんぎ)」 長谷川朝暮) 


オミズ
愛称はオミズ。気風(きつぷ)の良さもあって、誰からでも慕われた。ただそのことでそれでなくても経済観念に乏しい彼の浪費が、ますます無軌道になっていったことも否めない。ひとにおごられるのが大嫌いで、まだ売れていなかった頃からバンドマンを引き連れてはのみ歩いたものだが、スターになってこれに拍車がかかった。取りまきはふえる一方のところにもってきて、ご機嫌になって次なるところに移る途中で、見知らぬ客から声などかけられると、そのひとたちまでいっしょに連れて行ってしまう。のみだしたときには三人だったのが、夜のしらじら明けの頃には十数人の大一座なんてことが、何度もあった。のむのは高級ブランデーのレミーマルタン一本槍、ストレートでコップに注いで、ぐいぐいとやるのだ。(「酒と賭博と喝采の日日」 矢野誠一) 


二十三 子
酒客(しゆかく)1の子、多くは才無く行無し。2酒を其の本然の性3、これ適度に用ふれば人の血を動かし気を爽やかにして、随つて聡明を増すに近けれども、これを過度に用ふれば人の精を耗(へら)し気を尽して、したがつて聡明を奪ふに近ければ、日夜に沈湎(ちんめん)4酔酗(すいく)して精を耗し気を尽し、舌も縺(もつ)れ手脚の筋も弛み、あるひは心も上づり談笑の声も狂人調子(きちがひてうし)となるまで飲むやうなる酒客の子の、おのづから酒の影響を受けて生るゝも是非なき5ことなるべし。
注 1 酒客 酒飲み。 2 行無し 品行に欠ける。 3 本然の性 酒がもっているもともとの性質。 4 沈湎 酒におぼれふけること。 5 是非なき しかたのない。やむをえない。(「露伴随筆『潮待ち草』を読む」 池内輝雄・成瀬哲生) 


ドブロクの密造元
京都にいた学生時代、大酒を飲みたくなると行く店があった。夕方からの二時間くらいしか飲ませてもらえない店だが、よその店の何分の一もの安いドブロクが飲める。ドブロクの密造元で、裏の小屋に大きな酒樽があった。或る日はこの醸造樽のたががはじけ、庭一面、月光の下にドブロクの湖ができたものだ。警察に踏み込まれたら検挙されるわけで、表には提灯も暖簾もなく、ふつうの格子戸があるだけだった。早い店じまいも、夜おそくだと客の酔声が外へ洩れて危険だったからだろう。玄関をそっと開けて入ると、なじみの酒場のおかみさんと出くわすこともあった。買物籠に一升びんを何本か入れてきて、密造ドブロクを仕入れ、風呂敷で隠して店へ持ち帰り、ぼくたち客に売るのだ。そういう店ではコップ一杯(約一合)二十円、密造元では一升六十円だったから、三倍くらいの値で売っていたようだ。密造屋の奥座敷に上がってドブロクを注文する。単位は升だ。一升なり二升なり三升なり頼むと、薬缶に入れて持ってくる。なぜかどの薬缶もあちこちへこんでいた。どこかで使い古したのをもらってきたのかも知れない。ぼくはいつも最低の一升を注文した。それとモツだ。モツは西洋皿いっぱいに載せてあるのが二十円。七輪の網にのせて焼きながら食べる。盃にあたるのが、ラーメンの丼だった。どの丼もへりが欠けている。先客たちにまじって、ぼくはまず丼の盃になみなみと薬缶からドブロクを注ぎ、両手で持って一息に飲む。そうやって飲むとうまいのだが、別の下心もあった。「おっ、ええ飲みっぷりや。学生はん、一杯いこ」刺青の肩を見せて飲んでいるテキヤの中年男などが、まず、たいてい声をかけてくれた。ぼくは夏なら絣(かすり)の浴衣、冬ならどてらだったが、この密造屋では珍しい学生とすぐ見ぬかれる。(「「もの」物語」 高田宏) 


むかしの人はやかましかった
わたしなどの生まれる前からうちにいて、ほとんど父と一しょに育ったような番頭の一人は、よく言っていた。-だんなは強うござんしたね。三升酒を飲んでも、あくる日はケロリとして、買い出しにはおくれなかったからね。 父にいつかそんな話をしたら、なにもいつもケロリとしていたわけではない、ひどい二日酔いで、血をはきはき、車についていったこともあったという。そうしてよく言った。-むかしの人はやかましかったからな。 つまり、父が強かったからそんなことができたのか、そんな修行をしたから強くなったのか、それは結局、にわとりと卵の先後を論ずるようなものだが、しかし、このことだけは、わたしもいつか、ケンケンフクヨウしている酒飲みになった。これは、いやしくも酒を飲む者の「おきて」なのだと思いこんでいる。そしてもう一つ、父から自然に教えられたおきては、「酒の上だから」という弁解は卑劣だ、ということだ。(「酒、男、また女の話」 池田弥三郎) 


じゃっぱ汁
波の華舞う真冬の日本海に一番似合う魚といえばタラなのですが、この料理にはそのタラを一匹丸ごと鍋に入れて食ってしまうのです。タラといっても、北洋、オホーツクのスケソウダラ、つまり、辛子明太子(からしめんたいこ)の親のような小振りではありません。マダラといっても、大きいものでは一・五メートル、体重は実に二〇キロもある巨大魚です。腹部は大きくでっぷりと膨らみ、口も大きく、大食漢の面構(つらがま)えをしたふてぶてしい奴(やつ)ですが、これをブツ切りにして、肉も骨も頭も皮も内臓も全部捨てることなく鍋に入れ、豆腐や野菜と共に煮るわけです。内臓、とりわけ肝臓から出るあり余るほどの脂肪のためにギドギドになった豊満な味の鍋であります。ビュービューと吹雪いて怒濤(どとう)の如く海が荒れ狂っている鰺(あじ)ヶ沢(さわ)の海岸の、小さく鄙(ひな)びた宿屋の二階で、このじゃっぱ汁の鍋を囲んで、辛口の純米酒で飲んだあの一夜のことは、私の大脳辺縁系にインプットされ、いまだに喪失いたしません。(「これがC級グルメのありったけ」 小泉武夫) 


酒飯論(4)
いかなるなげきのある時も、心ぐるしきおりふしも、よろづわすれて心やる、さかもりこそはめでたけれ。まして祝のある時は、賀酒とてさけをまづぞのむ。上戸は酒にまどひつゝ、世さまわびしと申せども、生れつきたるひんふく(貧福)は、下戸のたてたる蔵もなし。夏六月のつきにも、しも月しはすのさむきにも、にはかにあたはら(腹)や(病)む時も、酒をのみてぞなをしける。たとひ失錯したれども、酒のゑひとてゆるされぬ。もとより我らは凡夫にて、無明の酒にゑひしより、さむるうつゝもえぞしらぬ。かゝるざいあく生死には、中々魚鳥さかなにて、酒をのみたるくちにても、みだの名号となふれば、不論不諍とすてられず。不間破戒ときらはれず。光明遍照十方の光に「いまる」イのる 事うたがはず。南無阿弥陀仏/\。長持が新酒も古酒もゑひぬればねぶつ宗をぞ深く頼める(「新校羣書類従」 編纂 川俣馨一) 酒ぼめの部分です。 


酒という字だよ
そして室を出ようとすると「ちょいとお待ち」といって立ちあがり、室の隅にある用箪笥の中から、紙の巻いたものを取り出して立ったままさらさらとそれをひらき、「これはどうだい」といった。何かの記号のようなものであった。「先生、何ですか」ときくと、「酒という字だよ」といい、熱心に説明をはじめた。この字がどのように変わっていったかを考証したのちに、中国の有名な学者がどのように書いたかを露伴自身で模したものである。巻紙は畳に渦を巻いた。室は暗くなっており、立ったままで露伴は説明を続けていた。巻紙の長さはおよそ三間に及ぶであろう。終わったとき私はそれをくるくると巻き返した。巻き終えたときにそれを内ポケットに入れて、「先生、これはぼくが貰います」というが早いか階段を駆けおりた。玄関で靴をはいている私に二階から露伴の声が聞こえた。「そうかえ、君は酒のみだからそれを持っていくというのかえ。」あとでわかったのだが、私の貰ったこの酒の字の巻物は、下書きであった。ところどころに朱が入っておりそれが趣を添えている。清書したのは、一度他家へいったが、今は幸田家に保管されている。(「遠いあし音」 小林勇) 


酔えれば何でもよかった
中島(らも) 僕は、日本酒がおいしいとか、ワインがうまいとか関係なかったな。酔えれば何でもよかった。人とは飲まへんし。だいたい仕事場で、一人で小説書きながら飲むんや。だいたい三合くらい飲んで、「あ、酔ってきたな」という感じがつかめないと書かれへんのや。あとはずーっとチビチビやりながら書くんやけど、一升くらいは空いてしまう。僕は酒、ほんまに強いんや思うねん。
阿部(登) 酔っぱらって書いているんか?『ガラダの豚』なんか、すごい緻密やんか。あんだけ長い小説書いとったら、やっぱり狂うわな。
中島 原稿用紙千四百枚やからねえ。ズーッと酩酊しながら書いてんねん。一晩に四十枚くらい書くやろ。次の朝、目ェ覚めて、読み直すとな、結構面白いんよ(笑)。誤字脱字を直して、それでOK。出来上がり。(「訊く」 中島らも) 


嫌いなほうではない
お酒、嫌いなほうではない。といえるようになったのはここ二、三年だろうか。父も母も、いける口で、当然飲めないはずはないのだが、先輩諸兄姉が、とかく子供扱いをして、あまり飲ませてくれなかった。パーティーでもバーでも、私がカクテルグラスを持とうものなら、「大丈夫か、無理をせんでもいい」「いいかげんにしなさいね。どうせ、美味しくって飲んでいるんじゃないんでしょう」と左右から牽制される。これでは、いつの間にか前に置かれているのはコカ・コーラのコップということになって、どうも思い切り酔った経験がなかった。いっそ一人なら、誰にも気がねなく飲めるだろうと、ひそかにわが家でもらい物のウイスキーやブランデーをなめてみたが、お酒というものは一人で飲んでらおもしろくもなんともない。旅先の京都のホテルで、夜、バーへ行ってみた。一人だからもちろん、酔っぱらっては困るし、酔うのが目的ではない。女のお酒がたいていそんなように、いわゆるムードという、飲んべえからみたら馬鹿々々しい気分を楽しむためである。アプリコット・ブランデーのオンザロックから始めて、どうやら調子がついて、ヘネシイのブランデーをおそるおそるなめていた。ちょうど隣の客は外人夫妻の、それもかなり老年の人たちで、しきりと話しかけてくる。もっとも最初は、老紳士のほうが私をみながらバーテンにしきりに早口でしゃべっている。なんだろうと見ていたら、日本では未成年に酒を飲ませてかまわないのか、と抗議していたのだそうだ。-
老夫妻は、しきりに日本古建築や歌舞伎についての感想やら質問やらを通訳つきで話しかけ、私もいい気になってブランデーをなめなめ、答えていたら、ひょいと目の前にコーラのコップがおかれている。あれっと気がついて、反対側の隣をみたら、従兄で映画のカメラマンをしているのが、苦虫をかみつぶしたような顔をしてすわり込んでいる。(「旅路の旅」 平岩弓枝) 


酒飯論(3)
下戸のまれ人得たるこそことばも心もなかりけれ。ゑしやくなげなるそらわらひ、実法ひたるかほつきは、くるひあはんとふるまへど、はがみてこそはみえわたれ。ゑひぬる後はさるねぶり(猿眠り)、たまたまのみてはひだるがる。かほづえ(顔杖)つきてひざをたて、あるにもあらぬけしきかな。さて又す(据)へたるさかなこそ、みぐるしきまでうせにけり。上戸のくはぬおろし(卸し)さへ、人めはかりてしのばかす。あはれ上戸のすき物は、たかきいやしきひざをくみ、そのさか月を取かはし、三度も五度も過ぬれば、あはひこふかき大ちやはん、くろぬり白ぬりあかうるし、わたとつくりの大がうし(合子)おもひおもひにはじめつゝ、しめのみあれのみ一口のみ、はつ春はまづににほふなる梅の花のみいとやさし。秋も「さが」イま のの草かれて、露なしうちふり一文字、げうだう(凝濁)なしのふりかつぎ、そはざし、ひらざし、ちがへさし、ゑひ数(す)かけとのおもひざし、送り肴の色々に、なき物やりもの引出物、くわんげん乱舞白拍子、たちまひ(立舞)ゐまひ(居舞)あづま舞、いまやうこ柳しぼりはぎ、神楽さいばらそのこまと、さるがく物まねいろいろに、こは(声)わざほねわざ力わざ、つくさぬ事こそなかりけれ。(「新校羣書類従」 編纂 川俣馨一) 


酒は静かに
二十代前後の三年間を学生として水戸で過ごしたが、その頃の鮟鱇(あんこう)鍋と鰹の刺身のうまさは格別だった。懐かしさからいまでもときどき、食べてみるが、ついに今まであの旨さにゆき当ったことがない。それで一杯-いや一杯なんていうものではなく、ガブ飲み。鍋にはアンコウが爪のかけらほども残っていないのに、酒は、それをエサにいくらでも飲めるというしだいだ。それから、秋のさんまのころ。水戸からゆっくりと那珂川に沿って海まで歩き、磯浜という名の漁港にでると海岸べりの料理屋の二階に上って、さんまを焼いてもらい、飲む。たいてい仲間の五、六人といっしょにゆくわけだが、酔うころには月が海に出る。さんまも旨いが、月光のなかで酔う気分は天下一品であった。青春だなあ、と誰かが叫んだりしたものである。そして、海岸にでて、歌を唄う。だんだん熱中してくると、裸になって、波に向って走る。全員、真っ裸で整列し、海に向って両足を踏ん張り、両手を高く上げて、ウオーウオーとおらぶ。コレをみよ、というわけである。コレもはつらつとしていた頃だ。-
十年ほど前の九月の終わり、私と家内は、青森県の俳句友達に誘われて、下北半島の尻屋崎に二泊してから、むつ市に入った。二人だけで先にゆき、待っていたが、なかなか後の人がこないので、そばの店に入って、烏賊の刺身と酒をたのんだ。下北の秋はすでに冷たい。その冷えびえとした午後の静けさのなかで、酒がじつに旨かった。家内も私もいささか酔ったが、静かに、ゆっくりと飲みながら、ああ、二人とも中年になったなあ、と思わず顔を見合わせたものである。それ以後、酒は静かにのむものと決めている。(「酒は静かに」 金子兜太 「日本の名随筆 肴」) 


インバネス
このごろ私は、夜ぶん一人で居酒屋へ行くときには、インバネスまたはモヂリ外套を着て出かけてゐる。すると割合に酔つぱらひがからまない。ことにインバネスを着ていると、よほどたちの悪い酔つぱらひでもからまない。私は昨年あたりからこれに気がついてゐた。しかし、何故あの古色蒼然たるインバネスが魔よけになるかはまだ極めない。ある酒屋のおかみにそれを云ふと、「時代の風潮なんでせう」と上品らしい口をきいた。それで少し酔つてからまた同じ話をすると、お上は面倒くささうに「それは幾ら酒癖の悪い酔つぱらひだつて、インバネスを着た人を見ると、自分のお爺さんを思ひ出すからでせう」と云つた。(「還暦の鯉」 井伏鱒二) 


九月二十九日 土 二十三夜
発熱、不出社。配給にて一級酒五合あり、冷やの儘にて熱気の咽喉をうるほし大体昼酒にて飲み終わる。燗徳利に一本一合足らず余すのみなり。午後、青木の弟来、すけ来。夕、藍野来。午前五時五度六分、八時六度二分、十時六度九分、十一時七度二分、午後一時七度六分、一時半山川アスピリン一包散薬なり、二時半七度五分、六時七度二分、八時七度二分、九時半六度九分五厘、十時十五分山川アスピリン一包、十時半同上一包。(「百鬼園戦後日記」 内田百閒) 昭和20年の出版です。 


肩を落としたヤクザのような
伊東静雄の酒の飲みっぷりを、肩を落としたヤクザのようなと批評した人がたしか有ったと思うが、これは日本酒の飲み方にそんな場合があったのかも知れない。大体がくたびれ屋みたいなところがあったから、肩をあげたり、肩を落としたり、体をまげたり、よく形がかわる方だった。ビールをビヤホールで飲むのには一頃よくつき合ったが、酔えば(酔わなくてもだが)短歌を朗詠したり、詩を朗読したりするのが好きといったところがあり、と同時に女の子に野卑な冗談をいうのも好きだったようだ。しかし、伊東静雄はことに相手によってやり口をかえるところもあったから、女の話に一向につりこまれないわたしへのイヤガラセとして、女給仕に変なことをいったのかも知れないとも思っている。酒を飲んでいて、ハーッと深い溜息をつくのは癖だったが、その癖は林富士馬にそっくり伝わっているようだ。-
酒の飲み方としては汚い風体の陽気な男が腹まきに札束をずっしりと入れて、女給仕を冗談でキャッキャッいわせながら、傍若無人に飲むといったあたりの形がまことに羨ましかったらしいが、本人はとてもその仁ではなかった。又、東京下りの円馬がひっそりしたおでん屋で黙々として飲んでいる、その形にもあこがれていたようであったが、これも本人はそういう形にはなれそうにもなかった。(「八方やぶれ」 富士正晴) 


祇園の先生
小石原(昭) 関西で遊んだといえば、亡くなった矢内原伊作さんは実は僕の祇園の先生なんですよ。
谷沢 ヘエーッ。そうですか。
小石川 『知性』の編集長をしているころに矢内原さんがそれはよく招待してくれたんです。招待したって、座敷じゃないんですよ。お帳場の引き出し階段の下のところで飲む。あそこは、そこまで行くのが大変なんです。何せあの人は祇園でいろいろ顔がききましたから。
谷沢 そうですか。
小石原 引き出し階段の下で、おかみさんのお酌で、お座敷の務めが済んだ行き帰りの舞妓、芸妓衆にサービスさせるなんて、あれ、一番モトがかかってますよ。(「人間万事塞翁が馬」 谷沢永一) 


豪傑さん
A社にMさんという"豪傑さん"がいた。酒が入ると、その豪傑に、さらにミガキがかかるのである。もうずい分前の話だが、Mさんが、有楽町のすしや横町の、ある飲み屋で、同僚たちと一杯やっていた。下のカウンターが混んでいたので、二階に席をとっていた。どういう話題がはずんでいたものかは、聞きもらしたが、いずれにしても、Mさんが豪傑談義に花を咲かせていたことは、間違いない。同僚の一人が、ふと二階の窓から下の道路を眺めながら、いったもんである。「よう、M君や、いくらデカイことをいったって、この窓から下へは飛び下りられまいが」もう、しこたま酒の廻っていたMさんは、返事もしないで、やおら立ち上がった。大体、豪傑といわれるご仁の、不言実行をモットーとしていることは、今昔を問わない。窓をガラリとあけるや、下をめがけて、まっすぐに飛び下りたのである。あっけにとられて、下の道路に倒れて、うずくまったM君を、瞬時は呆然として眺めていた同僚たちは、ハッと顔色をかえて、ドタドタドタンと階下に下りて、Mさんを抱き起こした。「無茶すんなよ」Mさんの顔をのぞきこんで、大声でどなった。「ウーン、てやァがんだァ、ウーン、後に引けるかってんだァ」"ウーン"は"痛え"なのだが、その"痛え"は、絶対に口に出してはいわなかった。大腿部骨折でしばらく社を休んで、当分が松葉杖をついて出社した。むろん出社するやいなや、松葉杖でどっこいどっこいと、足をいたわりながら、すしや横町へも出店して、なんちゅうこともない顔をしながら、盃を手にしたことはいうまでもない。(「エンピツ・酒・古道具少し」 佐々木芳人) 


酒飯論(2)
造酒正長持(みきのしょうながもち)申様(もうすよう) 酒のいみじき事は、みなむかしも今も事ふりぬ。さけをこのみてのむ人は、むかしは封戸(貴族)もましましき。後の世までもかはらけにならんとちかひし人もあり。竹を愛せし楽天も酒をのめとぞ詩につくる。別(わかれ)をおしみし詩の序にも、三百盃とぞすゝめける。桃李の花の盛には、天さへゑ(酔)へるけしきなり。花のもとにてすゝめける樽のまへなる春のかぜ、林間に酒をあたゝめて紅葉をたくもいとやさし。千とせ(千歳)の春のはじめには、屠蘇白散をのみぬれば、よろづの寿命をふくみつゝ、一里の中にはやまひなし。すべて酒をば百薬の長とぞいしもさだめける。されば萬の祝にも、酒をもちてぞ先とする。元服わたまし(引っ越し)詩哥(歌)の会むこ(聟)とりよめ(嫁)取いままいり、勝負のざしきにいたるまで、酒のなくてはいかゞせむ。中にも曲水重陽のえんくわい(宴会)ことにおもしろし。あるひはうかぶる鸚鵡(おうむ)盃、あるひはながれ(流れ)のらんしやう(濫觴)も、みなさか月のゆえぞかし。世継のおきなのことばにも、光さしそうふ盃は、もち(望)ながらこそ世をばふれ。源氏のおとこになりにしにも、みきとぞ是をすゝめける。さ衣の大将二の宮にさかづきそへてたてまつるなり。ひら人をつゝみしにも、うちよりさかづきいだしつゝ、わたれどぬれぬとかきつけて、ちの涙をぞながしける。さればこの世のゑいぐわ(栄華)には、酒に過たる物ぞなき。糸竹くわげんやさしきも酒もりにこそ興はあれ。雪月花をながめても、酒のなきには興もなし。されば天神地祇までも、さけを供することぞかし。人にちか付徳も有。我身をたつる功もあり。心をのぶる道もあり。いくらの美物ありとても、気味とゝのふるれうり(料理)まで、酒をはなれてかひもなし。(「新校羣書類従」 編纂 川俣馨一) 


程々に静かに、ほどほどに声高に
とにかく、どこでも何時でも、その人らしい落ち付ける場所で、程々に静かに、ほどほどに声高に談笑しながらお酒をたのしんでいる酒飲みが、私は好きだ。それと、せっかく、お酒を飲むのだから無趣味よりは多少とも心がけのいい人がのぞましい。むろん、変に通ぶったのは御免だけれど、木の香の、ほんのりと移っている樽づめのお酒に喜んだり、苦労して酒造家が名づけたのだろうから、銘柄にも少しの関心のあるほうが女性の酒のみとして優雅なのではないだろうか。「好きな人と旅行した旅先の土地で飲んだ想い出がなつかしいので…」という理由で、いつも賀茂鶴を愛飲している初老の婦人を知っている。彼女の感化で、私も実家の父の晩酌が、その銘柄だったりすると、、一杯だけおすそわけをもらって、本当にお酒はおいしいと思って飲んだりするものだ。(「随筆お宮のゆみちゃん」 平岩弓枝) 


軍隊
だから、私の酒は大いに愉快な、人、われともに大いに談笑するたぐいの酒であると自認している。それに私は女性の酔っぱらいは、サカリのついた猫のつぎに嫌いである。女性の酔っぱらいほど不潔なものはない。だから女性とはほとんど飲まない。つまり、私の酒は、まことに健全な酒であるといえる。このような酒の飲み方を私に教えてくれたのはだれか。軍隊である。軍隊経験者ならわかるだろう。〽腰の軍刀すがりつき や 〽俺が死んだら 三途の川でよォー 鬼を集めて 角力取るよォー など、豪快にうたいながら、飯盒(はんごう)の中盒(ふたママ)に、冷やの酒をナミナミとついで飲む、あの酒の味を思い出してほしい。(「おんな歳時記」 楠本憲吉) 昭和42年の出版です。 


自我の分裂
私は酒席に於て最も強く自己の矛盾を意識する、自我の分裂、内部の破綻をまざまざと見せつけられる。酔いたいと思う私と酔うまいとする私とが、火と水とが叫ぶように、また神と悪魔とが戦うように、私の腹のどん底で噛み合い押し合い啀いがみ合うている。そして最後には、私の肉は虐げられ私の魂は泣き濡れて、遣瀬ない悪夢に沈んでしまうのである。(「山頭火随筆集 赤い壺」) 


酒飯論(1)
夫(それ)我君の代をおさめ、民をあわれびおはしますこと、漢家の明王聖主のむかしはるかなれば、なずらへたてまつるにあたはず。本朝のえんぎ(延喜)天暦もこれにはいかゞとおがみたてまつる。御めぐみのかしこきには、民のかまどもにぎはひぬれば、ゑ(笑)みをふくまぬものなく、たのしび(楽しみ)さかへて、頌のこゑのみ耳にみ(満)てり。さるをこのほど三人のともがらよりあひて、をのをの心のひくにまかせてあらそふ。一人の男は造酒正糟屋朝臣長持(みきのしょうかすやのあそみながもち)とて、酒を飲ける大上戸なり。ひとりの僧は飯室(めしむろ)律師とて、小づけをこのむ最下戸なり。ひとりのをのこは中左衛門大夫中原仲成とて、酒も小づけもこのむ中戸なり。いづれもいづれも取々に、言葉を尽くして哥(うた)をよみ、後の世までもおもはれたるけしきなり。(「新校羣書類従」 編纂 川俣馨一) 


「ため」がない
ところが私などの「酒を飲む」は、これといささか趣きを異にする。私などはそれは、何々のい酒を飲むという、その「ため」がない。食事をいっそうおいしくする「ため」にとか、座の空気を愉快ににぎやかにする「ため」にとかいうような、「ため」がない。「ため」抜きである。強いて言うなら、酒を飲むために酒を飲むのである。さあそうなると、酒を飲むという仕事はとても片手間では出来ない。その時間の長短はとにかくとして、全生活と全精力と全人格をそこに投入しなければならない。「天丼はもう参っておりますけれど、その前におビールを少しいかがでいらっしゃいますか」などというような、なまやさしい酒ではない。従って、生活の中で、酒を飲む時間を、そうでない時間から厳格に区別する。今は酒を飲まないという時間には一滴といえども口にしない。いったん酒を口にしたら、私に限ってのことかも知れないが、それからあとの時間はすべて酒の支配下に入る。(「穏健なペシミストの観想」 高橋義孝) 


近衛連隊
最年少の議員として籍を置いた三年間、議会の開会中には全く身の置き場のない位、退屈な時間があった。そこで当時の「日本待合政治の本拠」、築地と柳橋の料亭に自分も負けぬ気になって基地を構え、ここで百計を巡らしては、色気などは全く抜きで陽性に動き廻ることにした。これも一寸、人のやらない規模でやったのだから愉快であった。手下には土地から選り抜きの気風(きつぷ)のよい江戸っ子芸者を集めることが出来た。それで皆から「め組」だとか「近衛連隊」などと呼ばれた。僕等もいい気なもので、参謀幕僚、各小隊長、情報将校などを勝手に任命しては張切っていた。特にわが新橋分隊はメダカのようにピチピチした半玉全員の十数名が動員リストに載っていた。これを率いて築地から船で柳橋に敵前上陸などという時には、第一皆が夢中になって後の約束の時間など、おかまいなしという風なことがよくあるので、方々の座敷から苦情が出たりなどした。それでも「仲々きれいなお遊びで」などとおだてる奴がいるので、こちらもいい気になった散財した。議員の歳費だけではこと足りなくてアメリカで稼いだ分まで足し前することもよくあった。(「風雪夜話」 近衛秀麿) 


ボストンの青竜亭
ボストン・ティー・パーティーの際に、インディアンに変装した男たちが出撃した足場は、ボストンの青竜亭である。南(ヴァージニア)ではパトリック・ヘンリーがハノーヴァー郡役所にあった義父の酒場でバーテンとして酒を注ぎながら、客たちに自由の一撃のために立ち上がれとアジっていた。ニューヨーク市の数マイル北方、ボストンとの郵便道路に沿っていたキーラーのタヴァーンの主人も、不敵な自由の子であった。かれは地下室で弾薬の製造をしていたが、それが元で英国軍の報復砲撃に会い、砲弾が木造の酒亭の梁にめりこんだ。ニューヨークには、色黒サム・フランシスのタヴァーンが今も残っている。この主人は、みずから独立の戦闘に従軍し、勝利ののち盛大な祝賀会を、クリントン知事を主催者としワシントン将軍を名誉の主賓としてその酒場の広場でひらいた。大きなタンブラーで一三回乾杯-新しく誕生した州の一つ一つに一回づつ-がおこなわれ、参加者の何人かはやや足許がおぼつかなくなり、一方国父(ワシントン)は翌朝を寝すごしてしまった。(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳) 


酒はただ情をとかす役割
私は酒を語る資格はない。酒席は決して嫌ひではないが、酒は好きでない。だから、家で晩酌といふものをしたことがない。独りで飲む気などは全然ない。呑屋や酒場などに出入りすることに於いては必ずしも人後に落ちないが、単独で飲みに入ることは全く無い。私には相手がなければ酒はうまくないのである。それも年をとると我儘になつて、誰でもといふわけには行かない。私とペエスがあふやうな男でなければ面白くない。実践の学長の守随先生などは好敵手で、かふいふのとチビリチビリやる分には宵の口から始発電車ぐらゐまでは未だ持ちこたへる元気がある。その上、傍らに二人の話の邪魔にならない程度の相槌をうつてくれる美形の的があれば、尚はずむといふものである。酒はただ情をとかす役割をするだけで、酒自身を味わつてゐるわけではないから、こんなのを好きとはいふまい。それに酒盃をとるにも間(ま)といふのが大切で、若い人からしつこく酬されたり酌をされたりすると、すぐ悪酔をするから、気性のあはない人や初対面の人と盃はかはすことはできるだけ避けてゐる。(「おゆき抄」 塩田良平) 


6.6兆円
日本でのアルコールに起因する疾病(しつぺい)・乱用による社会的損失は、約六兆六〇〇〇億円になるとの試算もあります。これらの対策のために税金が使われています。飲まない人たちが負担するのは、不公平きわまりない。酒税をもっと上げるべきでしょう。また、飲酒関連の事故・死亡は比較的若年層に多いようです。飲酒により、少数であっても若年者の死亡のリスクが増すとしたら、社会的損失でしょう。(「記憶がなくなるまで飲んでも、なぜ家にたどり着けるのか?」 川島隆太・泰羅雅登) 平成22年の出版です。 


波止浜章魚釣りの陶器
ここで話は安土(あづち)桃山時代にさかのぼる。豊臣秀吉は最晩年、茶器を全国に求めようと思ひ立つて、織田有楽斎(おだうらくさい)に言ひつけた。有楽斎の家臣、上田藤右衛門(とうえもん)なる者が九州のいろんな窯(かま)におもしろい器を作らせ、船に積んで大坂に向ふ。途中、海が荒れて、今治(いまばり)の近くの波止浜(はしはま)の近くの波止浜(はしはま)の小さな港に避難し、藤右衛門が某家に逗留(とうりゆう)してゐるうちに、秀吉が病死した。船長が悪い奴(やつ)で、船中の陶器数百点を奪ひ、そのうへ船を沈没させた。これが一五九八年(慶長三年)十月九日のこと。しかるに一八二七年(文政十年)五月、来島(くるしま)の漁師が章魚(たこ)をとつていると章魚の足にからみついて陶器があがつて来たんですつて。これはいいつてんで、それからは章魚に紐(ひも)をつけて海底におろすやうになりました。これを波止浜章魚釣りの陶器といふんだそうです。ハリー・パッカードといふアメリカ人のコレクターは、一九五七年(昭和三十二年)、四国に遊んだ折り、波止浜の人にこんな話を聞き、染付皿から雑器まで、百点ほどの章魚釣り陶器を見せてもらつた。このなかには、藤右衛門の船のものもあるかもしれない。肌(はだ)が海水にさらされたせいで、すばらしい滲透(しんとう)肌になつてゐる。そのときゆづつてもらつた格子(こうし)文のワイン・グラス型の盃(さかづき)は、いまメトロ美術館にある由。彼の著『日本美術蒐集(しゆうしゆう)の記』のなかでも、とりわけおもしろいくだりですが、わたしとしては気がかりなことが一つある。器を持つてあがつて来た章魚は、どうなるのだらうか。まさか、ワイン・グラス型の盃で一杯やるときの肴(さかな)になるわけぢやあるまいな。(「軽いつづら」 丸谷才一) 


「梨雨」の断片
酔って酔って酔っぱらった梨雨(リオ)の夜景です
銀河(あまのがは)は裸でねころんだ天女です
-ごめん下さい暑いから失礼いたします- 堀口大学「梨雨」の断片

これは作者の青年時代、父の任地であったブラジルの首府リオデジャネイロにあって、その地の夜景を歌った十二行中の冒頭の三句である。まずこう歌ったのち、地上の熱帯の夜らしい風物を描き歌ったのに対して、この天上裸婦図は地をおおって、銀河そのもののようにいかにも涼しげにすばらしく大きい。ところてんから天、銀河、滝などの連想は常識的であるが、銀河を裸でねころんだ天女とは形もあまり似ていないだけに、常識的ではなく、あくまで飛躍したトッピな詩的空想である。娼婦めいて放縦なこの天女が「ごめん下さい暑いから失礼します」と地上の女なみのあいさつをするに至っては、そのトッピさはまさに自乗する。今世紀の詩は、耳が貝がらになったり、銀河が娼婦のように横たわる天女になったりする超常識なところを詩情として出発している。いわゆる超現実(スールリアリズム)という詩風である。(「美と愛の世界」 佐藤春夫) 


テレビ酒
恥ずかしくも不快なことだが、近来からだを動かすことが次第に億劫になってきた。元来が外を出歩くことをさして好まぬ性分だから梯子酒などはしないが、この頃はますます引込み思案が昂じてきて、わざわざ外へ酒を飲みに出かけるというようなことがほとんどなくなってきた。六、七年以前に、思い切ってうちの旧式の台所を改造して、当節流行のいわゆるリヴィング・キチンというのにしたら、ここへ神輿を据えてちびりちびりやるのが大変工合がいいということを発見して、出無精がいよいよひどくなってきた。多くの場合、テレビ酒である。テレビジョンの画面を見ながら飲む、このテレビ酒というのは決してばかにならない。相当に果(はか)が行く。おもしろい野球の試合などだと、一升は軽い。もっとも一升のテレビ酒では、試合経過や勝負のことはあとの記憶に残らない。(「おやじといたしましては」 高橋義孝) 


505 秋晩題白菊
涼秋月尽早霜初  涼秋(りやうしう) 月(つき)尽(つ)きて 早霜(そうそう)の初(はじ)め
残菊白花雪不如  残(のこ)りの菊(きく)の白(しろ)き花(はな)は 雪(ゆき)も如(し)かず
老眼愁看何妄想  老(お)いの眼(まなこ) 愁(うれ)へて看(み)る 何(なん)の妄想(まうさう)ぞ
王弘酒使便留居  王弘(わうこう)が酒(さけ)の使(つか)ひならば 便(すなは)ち留(とど)めて居(お)かまし

505「秋の晩(ばん)に、白菊に題す」。- 一 九月の下旬ころをいう。- 二 雪の白さも、白菊の残んの花の白さには及ばない。- 三 老眼は憂愁のために視力も弱って、ときに幻視にかかって、虚妄の想像を現出することがある。(何の妄想を見るかというと、王弘の酒の使を幻に見るの意。)- 四 王弘のような酒をもたらす使ならば、とどめておきたいものだ。→補。

補注五〇五 陶淵明が九月九日、酒がなくて、家のめぐりの叢の中で菊を摘んで手にいっぱいにしてぼんやりすわりこんでいると、白衣の使がやってくる、王弘が酒を送ってきたので、さっそく飲んで酔ったという(芸文類聚、歳時部、九月九日所引続晋陽秋)故事による。王弘の使にことづけて、博多津から美野・久爾駅を経て、京より都府に至る赦免の使の幻影を空しく思い描いていたかもしれない。(「菅家文章」 菅原道真 川口久雄校注) 


石炭よりアルコールを得る珍法
理学士平賀某が、嘗(かつ)て英国大学に在つた時である。ある日、「石炭よりアルコールを得るの法如何」という試験問題が出た。学生はみんな頭をひねくって苦心惨憺したものである。「何々の薬品を加えて…」「石炭を灼熱して…」曰わく何。曰わく何と。何れも精密な答案を記し、中には数頁を費やして書いたものもあった。平賀は平然として大書した。「石炭売ってアルコールを買うべし」この答案を見た一教授は、呆然としてなすところを知らなかった。で教授会に持ち出したところ、「これは名案だ答案の第一だ」と、茶目な一教授が云ったものだ。すると一座は、「そうだ」「そうだ」と雷同した。ここで、諸教授は一斉にこの頓才ある日本の留学生を賞した。これより平賀の名は、嘖々として英国人に知られたとは一珍談。(「日本逸話全集」 田中貢太郎) 


史料六 御達 南御領之酒 御町内居酒屋共 数多買入候由 相聞候 右之内ニ 怪敷品も 在之歟ニ 相聞候付 以来右御領酒 買入候節ハ 何村誰方より 荷駄買入候と 申儀書附ヲ以伺出役所より之下知次第 買入候様 達可申候 尤南御領ニ 不限相成丈ケハ 郷之酒 不買入御町内之造酒ヲ 以渡世致候様 是又居酒や共え 相達可申候事 辰六月十七日
史料六 文政三年 郷村からの酒買入れの制限 [大高氏記録一六] これは藩より出されたお達しです。「潮来・牛堀などの現在の茨城町より南の南郡からの酒を町内の居酒屋が買い入れているようだが、この酒の中に怪しい品物があるように聞いている。今後右の南郡領内より酒を買う場合は何村の誰より幾ら買い入れるか、-(「馬口労町物語」 水戸新荘公民館「馬口労町物語」編集委員会) 


酔枕窈窕美人膝

酔うては枕す窈窕(ようちょう)たる美人の膝
明治の元勲、伊藤博文は好色にかけても英雄的であったが、酒に関する詩歌も多い。そのたとえの如く 酔うては枕す窈窕(ようちょう)たる美人の膝 醒めては握る堂々たる天下の権 豪気堂々大空に横たはる 日東誰か帝威をして盛ならしめん 高楼傾け尽す三杯の酒 天下の英勇眼中に在り これらの歌は明治時代の雄図を抱いた青年が好んで吟じたものである。(「日本の酒」 住江金之) 


酔っぱらいの強気の弱気
酒友といえば丸岡明を逸してはならない。昔かれは青山の穏田に広大な邸宅を構え、訪れると、みごとな酒器の数々を並べて美酒を酌んでのませるのがその常であったが、焼けだされて妻君の実家の二階に間借りをしていたころでも、酒の器はいつもみごとなものばかりであった。手まわしよく疎開の荷物のなかに酒器をいれることを忘れなかったにちがいないと、まずかれについてはいつもこのことが念頭に浮かぶ。神田の能楽書林に移ってからその地の利はしばしば銀座酔倦の夜ぼくをしてかれの家に泊る便を得しめた。いつのことであったかどこかの帰り三島由紀夫、角田源義、丸岡明とぼくの四人は、午前二時に垂(なんな)んとする神田の陋巷を彷徨し、ついに丸岡のよく知っている喫茶兼バーの二階に案内されて、そこに泊まったことがあった。丸岡の家はつい眼と鼻の先にありながら、かれは帰宅しないでよくわれわれ三人とともに、そのむさくるしい喫茶店の二階六畳で雑魚寝をしてくれたものと、これは実に感謝している。つまりはかれが酔っぱらいの強気の弱気ということがよくわかっていたればこそ、ここまでつきあってくれたものにちがいないと、そこに酒のみらしい温情を感じるのである。角川、三島なお今日の大をなさず、翌朝はタクシーを雇う金もなく、三島とぼくは憐れにも都電にのって神田から渋谷までの長丁場を帰っていったことはまさに感慨無量の一話に尽きよう。(「奥野信太郎著作抄 酒友列伝」) 


枯れすすき
ある結婚式によばれたスピーチはしなくてよいというので、宴会になると、ガブリガブリのみ出した。と、どういう手違いか、スピーチ半ばにして、その社長さんところへ指名がきた。本人、相当もうできあがっている(笑)立ちあがると、「ええ、みなさん、さきほどからお聞きしておりますと、どうも、お説教が多すぎる。で、私は歌を歌います」とやった。たぶん、めでたい歌でも出るのだろうと、会場はワァーと沸いた。ヤッコさん、やおら目をつむり歌いはじめた。しばらくしたら、まわりがシーンとしてきた。まるでお通夜みたいになってきた。-
「ああ、〽おれは河原の枯れすすき、同じお前も枯れすすき、どうせ二人はこの世では、花の咲かない枯れすすき」(爆笑)これでは、みんなが怒るのは、当たり前であります。(笑)(「吉川英治氏におそわったこと」 扇谷正造) 


無名異焼の盃
名にし負ふ 佐渡が島辺の 常山の たくみに成れる 朱(あけ)の盃
うま酒を もればほのかに 濡れわたる この盃の 赤埴(あかはに)の膚
九谷焼盃
降る雪の すがたを玉と ちりばめて い照りかがよふ これの盃
わたつみの あこやの玉の 盃は 琥珀の酒を もるべくあるらし(「玩物喪志」 坂口謹一郎) 


不必要です、つまらぬ事です、無意味です
話が前後するが、妻君が酒店をやっていた頃、すでに相当酔われた石川淳先生を、深夜に、文藝春秋社の人とお連れしたことがある。それからまた白馬(ホワイトホース)とかいうウイスキーを七分目おあけになった。朝まで隣の部屋でドタリ、パタリという音をきいたとこれは娘たちの話である。御本人はほとんど意識がなかったかもしれない。翌朝、朝風呂を立ててあげたら非常によろこばれた。方々で酒の迷惑はかけたが、こういう心届きははじめて、と妻君に礼を言われた。「わたくしも酒を飲めるようになりたいです」七分のお世辞で申し上げたら。「不必要です、つまらぬ事です、無意味です!やめときなさい」とたたみかけるように言われた。言われること、書かれるもの、どこまで本当かわからぬ淳先生の顔も、このときはたしかに真顔であった。尤もそれも私へのお世辞であったかもしれない。(「半眼抄」 若杉慧) 


酒の為禽獣となる
若(わか)き者(もの)は、酒の為(ため)に身(み)を亡(ほろ)ぼし、壮年(そうねん)の者は酒の為に家を失ひ、老いたる者は酒の為に色に婬(ふけ)り、恥を弁(わきま)へず畜生(ちくしよう)となり、人に生まれて酒の為禽獣(きんじゅう)となる。
*安藤昌益『自然真営道』(宝暦年間・一七五一~六三)巻四(「日本名言名句の辞典」 尚学図書辞書編集部・言語研究所) 


某月某日
浅見淵(ふかし)先生、夏堀正元氏、後藤明生氏と新宿「風紋」にて飲む。浅見先生にはじめてお目にかかりしは、七年前の夏、皆生(かいき)温泉で、小生その背中を流した覚えあり先生につげるも、御記憶あらず。後藤明生とさらに、大久保のお茶漬屋「その」へゆく、この女主人、高見順「如何なる星の下に」のモデルとされる方、以前、浅草のスタアダンサーであった。両名ともにかなり酔い、明生は、「ぼくは外地引揚げ者ではあっても、引揚げ派ではない」としつこくいう、果ては例によって軍歌となり、完全に喉をからせ、そのままもつれあって寝る。
某月某日
目覚めればすでに午前十一時、昏々と寝入る明生をたたき起こす、物音に女主人あらわれ、われ等二人のいびきにより、同じ家に伏す誰一人としてねむれなかったという。いびきだけは、いくら人にいわれても、申し訳なさの実感がない。どこへ行くあてもなきまま、温泉マーク街を根呆け眼(まなこ)で通り過ぎ、ホモと誤解されやしないかと、われつい伏目勝ちになるも、明生またしても軍歌を口にして屈託なし。有楽町「チボリ」にて夕刻七時まで昼ウイスキー、角瓶一本半を空ける。(「欣求穢土」 野坂昭如) 


児島酒
而して児島酒の醸造中心地はかつては児島半島の北岸児島湾に臨む「郡村」であり、その醸造水は対岸上道郡平井の井に仰いだもののようである。即ち『吉備前鑑坤』郡村の条に、 児島諸白 酒吉 日本国ニ知レル処也、昔上道郡有井、「禾壴」(ママ)山 今作平井 郡ノ向也、依之気味甘ク児島諸白ノ名今ニ於テ高シ、 とあり、また同所「平井ノ清水」の条にもまた、 俗有井、「禾壴」(ママ)山、謂平井山、其井彼ノ山南麓、伝曰、往昔児島ノ人此清水ヲ以テ造酒、其味美シ、遠近ニ称美ス、是ヲ児島諸白ト云、児島酒ノ名始爰ニ出、 としるしている。文禄四年岡山の城主宇喜多秀家は備前片上港の伏見某にあて、「分国中さけつくり候事、おか山の外にては令停止候、酒作度ものは岡山ニ可被出候、於岡山つくらせ可申候」と令しており、また享保九年岡山児島町の訴状によれば、「児島町元来麹職被仰付義者、御城下町始り申節、児島郡郡村より罷出、則郡町と申、只今之紙屋町之所江住居仕申候」と前記郡村より岡山城下への移住の事実を伝えている(拙著『近世城下町の研究』四八頁参照)。故に児島酒の名声の高まった慶長年間に於ては、恐らく城下の近郊たる平井の清水を利用して、岡山城下に於て醸造せられ、秀家及び池田氏の保護の下に、近畿方面への搬出が行われたのではあるまいか(鹿苑日録慶長二年三月廿二日条は宇喜多秀家より児島大樽拝領の記事なり)。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


三十滴
◆お前さんは、黄色のリボンを巻きつけた麦藁帽子をかぶり、ポケットに八百ドルばかりつめこんで、きれいな女の子と一緒に軽気球に乗つて飛びあがつたことがあるかね?この樽のやつを三十滴ばかり飲んだときの気分といつたら、まさしくそれなんだよ。(混合酒づくりのライリーがバーテンに。O・ヘンリー『失われた混合酒』 大久保康雄訳)(「ほめことばの事典」 榛谷泰明) 


岡本楼の遊女長太夫が部屋の額に
酒は是 百薬の 長太夫さん ひとつあがれと 新造かぶろ衆(六々集)
同人、ちよくにて酒をすゝむるとて
子は父の ためにかくして ちよくなれば はては茶碗で のまんとぞ思ふ
返し 愚按、はては茶碗でといふ所いかゞなれば、親わん蔵のをしへわすれず、と返し給へる欤(か)
ちよくの酒 のむにつけても 深川の 親椀蔵の をしへ忘れず(六々集) 


ずいぶん風流ですね
対談は約二時間半かかった。わたしは開始と同時に水割りウイスキーを飲みはじめた。二時間半の間に、何杯飲んだろうか。相手が飲めない小説家であれば、わたしの方も幾分加減があったと思う。しかし、相手もわたしと同等の飲み助であった。したがって、おそらく十杯は飲んだろう。対談が終ると、今度は日本酒が出て来た。-
もともとわたしは、チャンポンはやらない。特に三度目に胃袋から血を吐いてからは、心がけてそうしている。あとからいろいろ思い返してみて、血を吐いたのはいずれもチャンポンのみのあとだったことに気づいたからだった。そして、必ずそこに日本酒が混じっていた。-
ところでわたしが、対談のあと出された日本酒を黙って飲みはじめたのは、仲居さんの職業意識に同調したためではなかった。ふと顔をあげると、対談中には気がつかなかった桜の木が庭にあって、薄暗くなった庭に、その花びらが白く舞い落ちていた。少し風があるのか、花びらは右から左へ、斜めに散り続けていたのである。とたんにわたしは、グイと一杯目の盃をあけてしまっていた。あとはもう繰り返しである。仲居さんが注ぐ。わたしが飲む。また注ぐ。また飲む。一時間ぐらい、それを続けていた。そこへザルソバが出て来た。まことにうまいそばであった。わたしは、肴はほとんど食べない。料亭では、したがってわたしの目の前には、手つかずの皿小鉢がズラリと並ぶ。そのため、ずいぶん風流ですね、といわれたことがあった。目で肴を味わっている、というわけだったが、べつだん風流でそうしているわけではない。-
だから、そこで止めて置けば、上出来だったのである。しかしわたしは、そのあと車で新宿へ出かけた。(「分別ざかりの無分別」 後藤明生) そういうわけで、翌日宿酔状態で書いているのだそうです。 


死にざま
「ウィスキーで死ぬ人のほうが、弾丸に当たって死ぬ人より多いそうだ」「そうだろうね。けどきみだって、弾丸にあたるよりはウィスキーで死んだほうがましだろう」(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


ドン栗から作った焼酎
戦争のはじまったころ、鹿児島でも、アルコールが足りなくなった。米から作った焼酎(鹿児島では、ソーツーという)が、一ばんうまいのだが、米が足りなくなって、もっぱら、イモ焼酎でがまんをしていた。ところが、イモも配給になり、手に入らなくなってきたので、そこで出来たのが、ドン栗から作った焼酎であった。大酒のみのわたしにも、これには参った。ドン栗くさくて、口がつけられないのであった。東京では、そのころ、航空機燃料として、砂糖から作ったアルコールが、闇で流れていた。この方は、砂糖が原料なので、ドングリ酒よりもいけたものである。(「旅と釣りと生活のユーモア」 上村健太郎) 


巌金四郎(いわお・きんしろう)
明治四十四年東京生れ。明大中退後兜町で株式仲買人をやったこともある。昭和十六年、新聞広告を見てNHK放送劇団に入る。戦後、連続放送劇『向う三軒両隣り』の人力車夫坂東亀蔵をやって好評を博し、一回でも休むとNHKに『亀蔵はどうした?』という電話がかかったという。そのため、自動車事故で怪我をした時でも、局員に背負われてスタジオ入りしたこともある。大変な酒豪で、外で五合、帰宅して五合といわれている。(板橋区豊玉北三ノ二七)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。 


川原町で酒屋
むかし、秋田の沼の主から、一人の男が手紙を頼まれて、沼崎(東北町)の小川原村の姉沼へ、手紙を以て使いに来た。沼のほとりへ来ると大蛇が出てきたので、その手紙を渡した。手紙にはこの男を取って食えとあった。主の大蛇は、「遠くからここまで来たのに、どうして食れべ」つみつくりだからといって食わないで、「五戸の川原町へ行ってカマド(世帯)をもてば儲かるから行け」といって、その上、小川原たる松という名前までつけてくれた。若者は五戸へきて、川原町で酒屋をして大そう儲けて栄えたという。(三戸郡五戸町の話 採話・能田多代子)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


日本の御馳走は酒の肴
よしや西洋料理の主義が容易に行われんとしても僕は日本風の食事法を以て最も有害なものと思う。何となれば日本料理は酒を飲むために出来ているので飯(めし)を食べるためでない。その証拠に副食物(さい)のことを酒の肴(さかな)というではないか。中にはそうでないものもあるけれども重(おも)なる日本料理は酒の肴だ。その肴を一度に四つも五つも並べて主人と客は小さな盃(さかずき)でチビチビと酒を飲みながら三時間も四時間も膳の前に坐(すわ)っている。実に野蛮風な食事法といわねばならん。あの中へ西洋料理を出してみ給え。折角(せつかく)の御馳走が冷めてしまって脂肪分が白く皿の上へ凝結(かたま)ってとても二口と食べられたものでない。置いてある御馳走へは畳の塵(ごみ)が舞い上がって自然と溜(た)まるし、長い時間中には蠅(はい)が飛んで来て不潔な汚点(しみ)をつける。御主人が酒を飲む側で妻君が一生懸命に膳の上の蠅を追っているような事は毎度見受ける。よくあれで気味が悪くないね。いやしくも衛生思想があったらとてもあんな御馳走を食べられるものでない。日本料理の御馳走はお膳の番をしているのだ。熱い吸物(すいもの)を長く置いて冷めないように木の椀(わん)へ盛ってある。あれをいきなり飲んだら舌を焦爛(やけど)するぜ。盃の酒をチビリと飲んで碗の蓋を取って一口吸ってまた蓋をして酒を飲む。暫く過ぎて思い出した時分にまた蓋を除(と)って吸っても吸物が冷めてしまわないように木の椀へ入れてあるのだ。西洋料理のスープは直(す)ぐ飲んでも熱い汁(つゆ)が舌に中(あた)らないようにわざわざ浅い皿へ盛ってある。同じ汁物(つゆもの)を出すのでも一方は深い木の椀へ盛って何時(いつ)までも熱くしておくし一方は浅い皿へ盛って速く冷めるようになっている。まるで正反対だ。外の料理もその通り。日本の御馳走は酒の肴としてある。西洋の御馳走は独立の食物である。根本の大主意がそれほどに違うから僕は世人(せじん)にチビ飲流(のみりゆう)の食事法を廃して西洋流の食事法に改めんことを勧(すす)めたいね。(「食道楽」 村井弦斎) 


グルコアミラーゼ
デンプンはグルコースが多数連結して、あたかももグルコースの鎖が束になったような構造をしている。麦芽のβ-アミラーゼはそれを端から二個ずつ、マルトースとして切り出す。それに対して、カビのグルコアミラーゼは端から一個ずつ、グルコースとして切り出す。その結果、麦芽によって生じる糖はマルトースが主であり、麹によって生じる糖はグルコースが主である。だから、麦芽の酒はマルトースをベースとした酒、麹の酒はグルコースをベースとした酒ともいえよう。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


燗酒の再評価
そんな経緯があって、ブームが定着した今日、ようやく美味い酒の楽しみ方のバラエティーの一つとして燗酒が再評価されてきた感がある。現在では気鋭の蔵元からは、燗をつけて飲むことを前提とした銘柄も出されているほどだ。例えば「独楽蔵(こまぐら)・燗純米(福岡)」「琵琶の長寿・惚酔(ほろよい)(滋賀)」「福千歳(ふくちとせ)・ひと肌恋し(福井)」などである。「惚酔」のラベルには、「燗用旨酒」とあり、ご丁寧に43度というお勧めの温度まで記入されている。ぬる燗と上燗の間くらいの、確かに絶妙な温度である。(「酒とつまみのウンチク」 居酒屋友の会) 


菊花の盃にて…
お立ちやるか お立ちやれ 新酒菊の花
明治二十八年(一八九五)秋に作るところの夏目漱石の句で、わたしは佳句として好んでいる。「送子規」と前書きがある。送別の句である。この句碑がいま松山東高等学校の裏庭にある。姿かたちのよろしい碑である。この年の八月、日清戦争に従軍し病いで倒れた子規は、松山中学校で教鞭をとっていた漱石の下宿・愚陀仏庵に転がり込んできた。いらいほぼ二ヶ月近く二人は起居をともにする。漱石が本格的に俳句をつくりだしたのはこのときからである。前へ前へ出るタイプの子規に引っ張られて、田舎暮らしの無聊(ぶりよう)から「俳門に入らん」と漱石は創造のエネルギーを燃やしたのである。その師匠の子規が病い小康をえて東京へ帰ることになる。折から菊の美しい季節、新酒のうまいときである。東京生まれの漱石が松山に残って、松山生まれの子規が東京へ。境遇さかさまのおかしみもこめて。江戸っ子が松山弁で「いよいよ、出発でござるか」と、おどけた調子で、松山っ子の出立を見送るのである。その上に-、これはわが直感なんであるが、漱石は中国の「菊花の酒」の故事をふまえて詠んでいる。すなわち、菊は延年のめでたいものとされ、九月九日の重陽の節句に、菊花を酒盃に浮かべて高いところで飲むと長生きができる、という。それである。「子規よ、どうか菊花の酒を酌み、健康に留意して長生きしてくれ」と。(「ぶらり日本史散策」 半藤一利) 


潦倒新停濁酒盃
中国大陸で、唐の国が一番栄えた時期、盛唐と呼ばれたころの詩人の一人、杜甫は、「登高(とうこう)」(高きに登りて)という七言律詩(しちごんりつし)を作っています。中国では毎年旧暦の九月九日、重陽(ちようよう)の佳節には、近くにある小高い山の上に登って、酒ほがいを開く習慣があったそうですな。旧暦の九月九日といえば、今の暦で十月上旬か中旬にあたることでしょうか。秋晴れで大気が澄む日が多い。そこで杜甫も、近くの山の上に登って、一篇の詩をものにした。この詩が「登高」。八行あるその詩の、おしまいの二行にこそ、杜甫のその時の気持ちがよくこめられているんだそうですな。
艱難苦恨繁霜鬢 艱難(かんなん)苦(はなは)だ恨(くるし)む繁霜(はんそう)の鬢(びん)
潦倒新停濁酒盃 潦倒(ろうとう)新(あらた)に停(とど)む濁酒(だくしゆ)の盃(はい)
私は不遇な旅人だ。私の身の上にあるのは病(やまい)と孤独だけ。私の一生は艱難の連続。それで髪も霜のように白くなってしまった。つい潦倒(投げやり)に似た気持になりがちだ。それを紛らすために、濁り酒を呑みたい。だが病のために、ドクターストップがかけられている…。とまあ、こういった意味のこの二行なんだそうです。お酒が決して嫌いではなかった杜甫が、しかも九月九日の重陽の節句に潦倒新に停む濁酒の盃、と述べたんですから、その気持ちたるや、さぞ辛かったでしょうな。手前どもでしたら、ドクター・ストップも何のその、投げやりの気持になろうがなるまいが、新たに停む、ではなくて、新たに進む濁酒の盃、となりかねませんですな。はい。(「志ん朝のあまから暦」 古今亭志ん朝) 


特異動的作用
筋肉を伸ばしたり縮めたり、つまり労働しなければ脈拍も速くならないし、呼吸も速くなる道理がない。これが今日の栄養学の根本的な考え方である。ところがどうだろうか、静かに寝ているところへ人が来て、一合ばかりの焼酎を胃の腑につぎ込んでくれたらどんな結果になるであろうか。筋肉は全然動かさずに静かに寝ているのだから労働量はもちろん零である。労働が零だから脈は平静、呼吸も平静、吸い込む空気も普通、吐き出す炭酸ガスも普通でなければならぬ。今日の栄養学の根本思想では絶対に異常があってはならぬのである。ところが何と焼酎の一合もつぎ込まれたら異常はないどころの話ではない。心臓は早鐘のように鳴り、呼吸もフーフーである。空気では間に合わぬから酸素吸入がしたいくらいになり、吐き出す呼気は炭酸ガスで充満してくる。栄養学の根本思想は大番狂わせのメチャクチャである。いったいこんな見当違いの栄養学があるものだろうかといいたい。「まことに不思議な現象だ」と考え込んでいるのが栄養学者で、「当然の事じゃないか、何いってるんだい」というのが一般人の考え方である。どうもこの論議では栄養学者の方が負けらしい。酒精は普通の食べ物ではなくて一種の薬品だからそんなことになるかも知れぬが、普通の食べ物ならばそんな見当違いにはならないだろうなどと逃げることは許されないのである。酒を飲んだ時は、飲んでから数分の間に脈拍や呼吸が多くなって短時間で元通りになるが、肉や魚の場合は食べてから三〇分くらいたつと空気を多く吸い、炭酸ガスを多く吐き出し始める。そして三、四時間後にそれが最もはなはだしくなって、体が温かくなる。食べてから七、八時間たってもまだ肉や魚を食べた影響が消えない。酒は短兵急であり、肉や魚はスローバットステッディーであるというだけで、いずれも労働をしないのに労働したと同じようなことになってくる。筋肉は動かさずに静かに寝ていて、その通りである、どうも不思議だ。というのである。栄養学では、この不思議な現象に特異動的作用というむずかしい名をつけて不思議がっているわけである。この現象が発見されたのは明治四〇年代だったと思うが、自来、今日に至ってもまだこの謎は解かれていない。(「イモめし時代の雑記帳」 川上行蔵) 


今日(こんにち) 暫(しばら)く同(おな)じうす 芳菊(ほうぎく)の酒 明朝(みようちよう) 応(まさ)に断蓬(だんぽう)と作(な)って飛ぶべし
<解釈>今日はともかく、香り高い菊花の酒をくみかわしているが、明日の朝には、君は根の切れた蓬(よもぎ)となって、行方も知らず飛び去っていくだろう。
<出典>唐、王之渙(おうしかん)(字(あざな)は季陵(きりよう)六八八-七四二)の「*1九日送別」。七言絶句。『唐詩選』巻七。
*2薊庭*3䔥瑟故人稀 薊庭(けいてい)䔥瑟(しようしつ)故人(こじん)稀(まれ)なり
何処登高*4且送帰 何(いず)れの処にか高きに登りて且(しば)らく帰(かえ)るを送らん
今日暫同芳菊酒 今日 暫同 芳菊酒
明朝*5応作断蓬飛 明朝 応に断蓬と作って飛ぶべし
*1九月九日。重陽の節句。 *2薊庭 薊州。今の河北省薊県。北京の東。 *3䔥瑟 秋風のさびしく吹くさま。 *4且 しばらくは。ともかくも。ひとまず。 *5応 きっと…だろう。
<解説>重陽の節句に、友人が旅立つのを送る詩。重陽の日には高い所に登り、菊を浮かべた酒を飲む古くからの風習がある。寿命が延びるという。唐代の薊州は、東北の辺境の町である。その辺境の町に秋風が立つ頃、旧友が一人二人と去ってゆく。そして今日また一人、友人を送らねばならぬ。芳菊の酒をくみかわす束の間の喜びと、明日は断蓬の身となる人生の哀しさ。「断蓬」は、「転蓬」・「飛蓬」とも言い、よもぎが秋になると根が切れて、球状になって秋風の吹くままに飛ばされるのを言う。行方定めぬ旅人をたとえる。(中村嘉弘)(「漢詩漢文名言辞典」 鈴木修次編著) 


酒に酔うての虎の首
 酒に酔って、虎の首を取った話をする。酒飲みは気が大きくなって、とかく大げさな話をするものだということ。
酒の終わりは色話
 酒を飲んでいて、最後は色恋の話になることが多いということ。(類句)酒沈めば話浮く(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 

アユウルカ、子ウルカ、アユの内臓の石焼
加茂川の瀬にすむ鮎の腹にこそうるかといへるわたはありけり と古歌にありますが、アユの内臓の塩辛をアユウルカと言い、昔は腹薬だとまで称讃された者です。さらに真子も白子も塩辛にすると素晴らしい子ウルカとなります。アユの内臓の石焼は、刺身やすしにすると内臓が残りますので、直径三十センチぐらいの平らな石を真赤に焼き、その上に粒味噌で輪をつくり、その輪の中でアユの内臓を焼きながら、味噌で調味をして賞美するのですが、まことに結構な味わいで、盃を重ねたくなります。(「献立づくり」 辻嘉一 「日本の名随筆26 肴」 池波正太郎編) 


一サケヲ聖人ト云フ名アリト云フ、如何。 [14聖人]
スメ(清)ルサケノ名ナリ。酒ノ徳ヲホメテ聖人ト云フニヤ。魏(ぎ)ノ太祖ノトキ、天下ニ酒ヲトゞメラレキ。ソノ時キ徐邈(バク)ト云フ臣下、愛酒ノモノニテ、ワタクシニシノビヤカニ酒ヲタクハヘテノミケリ。趙達(てうたつ)ト云フモノ、公事ニヨテ徐邈(じよばく)ニトフベキ事アリケレバ、カノ家ヘニユキタルニ、ワタクシ酒ニノミ酔テ、心モ心ナラズナリニケルユヘニ、大事ノオホヤケ(公)事ヲイフヲバ、返事モツヤ/\セデ、中(ヤブラル)聖人ニトバカリイヒケリ。内裏ニマイリテ、カクト申シケレバ、御門ハラダ(腹立)ゝセ給テ、コハナニト云フ事ゾトオホ(仰)セラレケルヲ、鮮于舗(せんうほ)ト云フモノ申ケルハ、昔シサケコノムモノドモノ申ヲキゝ侍シハ、酒ノス(清)メルヲバ聖人ト云ヒ、ニゴ(濁)レル酒ヲバ賢人ト名(なづ)ク。邈ガヒトリエ(酔)イノ心ヲ申サムトテ云ヘル事カ、ト申シケリ。後ニ文帝位ニツキ給テ、又サケニエイタル事アリケルニ、一〇許昌ト云フモノガ又、中(ヤブラル)聖人ニカト一一曰(イヒ)ケルハ、トリアヘズ一二宿病ハ以テ醜(ミニクキヲ)見(レ)伝(カシズカ)、臣ハ以酔(エイ)ヲ 見(レタリ)識(シラ)ト一三ヘラズコタヘケレバ、帝大ニワラヒ給ヒケリ。ニゴレルヲ賢人ト云フコトハ、聖人ヨリハ今少シヒキヲトリ(引劣)タレドモ、ナヲコレモ一四イミジキ心カ。
一 三国時代魏の初代の天子。曹操、諡は武帝(一五五~二二〇) 二 禁酒令が出された。 三 三国(魏)志巻二七徐邈伝。 四 「はじめはしのびやかなれども後にはあらはれにけり」(愚管抄三) 五 「私飲至二於沈酔一」相当の訳文。 六 まったく。肯定・否定ともにかかる。「つやつや物も見えず」(徒然草五四) 七 「中毒・中風」と同様の用法。「身体髪膚をやぶりはづかしめずして」(貞享版沙石集三-七)。 八 「邈偶酔言耳」ととりなした。 九 魏の第二代皇帝、武帝の子曹丕。 一〇 人名にとっているが、「幸二許昌一」とあり、河南省許昌県のこと。 一一 文帝が邈をからかって問うた。 一二 「宿病」は「宿瘤」の誤。昔、春秋斉の閔王の后は、項に瘤のあったことで醜い「宿瘤女」として伝えられ、私は酔っぱらいということで御認識いただきました。 一三 何の気後れもなく。「祐慶はすこしもへらず」(盛衰記五) 一四 なかなかのものだという意。 ◇聖人(清酒)・賢人(濁酒)は以後、節用集類に引かれる。(「塵袋」 校注大西晴隆・木村紀子) 


54.ワインの中に真実がある
 酒中真あり。「酔った口はほんとうの口」(オーストラリア)。 ドイツ
55.酒の溺死者は水の溺死者よりも多い
 酒「上:夭、下:口 の」みはヤッコ豆腐とさも似たり、はじめ四角で、末はぐずぐず。 ドイツ(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


とくり【徳利】
錫の徳利の略称。-
上下で大屋徳利を下げて来る 何れも上下姿
我家の宝となさばやと徳利 空のもの持帰る(「川柳大辞典」 大曲駒村) 


○無礼講(ブレイカウノ)事-
爰(ココ)ニ美濃国(ミノノクニノ)住人、土岐伯耆(トキホウキノ)十郎一頼貞(ヨリサダ)・多治見(タヂミ)四郎次郎国長(クニナガ)ト云(イフ)者アリ。共に清和源氏(セイワゲンジ)ノ後胤トシテ、武勇ノ聞ヘアリケレバ、資朝卿様々(サマザマ)ノ縁(エン)ヲ尋(タズネ)テ、昵(ムツ)ビ近(チカヅ)カレ、朋友ノ交(マジハリ)已(スデ)ニ浅(アサ)カラザリケレドモ、是(コレ)程ノ一大事ヲ無(ナク)二左右(サウ)一知(シラ)セン事、如何(イカン)カ有(アル)ベカラント思ハレケレバ、猶モ能々(ヨクヨク)其(ソノ)心ヲ窺(ウカガヒ)見ン為ニ、無礼講ト云フ事ヲゾ始(ハジメ)られける。其(ノ)人数(ニンジユ)ニハ、尹(ヰンノ)大納言師賢(モロカタ)・四條(ノ)中納言隆資(タカスケ)・洞院(トウイン)七左衞門(ノ)督(カミ)実世(サネヨ)・蔵人(クラウド)右少弁俊基(トシモト)・伊達三位坊游雅(ダテサンミバウイウガ)・聖護院庁(シヤウゴヰンチヤウ)ノ法眼玄基(ホフゲンゲンキ)・足助(アスケノ)次郎重成(シゲナリ)・多治見(タジミ)四郎次郎国長(クニナガ)等也。其交会遊宴(ソノカウグワイユウエン)ノ体(テイ)、見聞耳目(ケンブンジボク)ヲ驚(オドロカ)セリ。献盃(ケンパイ)ノ一〇次第、一一上下ヲ云ハズ、男(ヲノコ)ハ烏帽子(エボシ)ヲ脱(ヌイ)デ髻(モトドリ)ヲ放チ、法師ハ衣(コロモ)ヲ不(ズ)着(キ)シテ一三白衣(ビヤクニ)ニナリ、年十七八ナル女(ヲンナ)ノ、盻形(ミメカタチ)優(イウ)ニ、膚(ハダヘ)ニ清ラカナルヲ二十余人、一四褊(スズシ)の単(ヒト)ヘ計(バカリ)ヲ着セテ、酌(シヤク)ヲ取(トラ)セケレバ、雪ノ膚(ハダヘ)スキ通(トホリ)テ、一五大液(タイエキ)ノ芙蓉(フヨウ)新(アラタ)ニ水ヲ出(イデ)タルニ異(コト)ナラズ。山海の(サンカイ)ノ珍物(チンブツ)ヲ尽(ツク)シ、旨酒(シシユ)泉(イヅミ)ノ如クニ湛(タタヘ)テ、遊戯舞(アソビタハブレマヒ)歌フ。其間(ソノアヒダ)ニハ只東夷(トウイ)ヲ可(ベキ)亡(ホロボス)企(クハダテ)ノ外(ホカ)ハ他事(タジ)ナシ。
注 二 清和天皇より出た源氏。土岐・多治見は清和源氏で美濃に住した。 三 子孫。 四 親しみ。 五 たやすく。 六 貴賤上下の差別なく相互の礼儀なしに催す酒宴。 七 藤原公賢の子。 八 聖護院の寺務を管理する僧職で法眼(法印に次ぐ僧位で、僧都にあたる)を兼ねたもの。 九 見聞きする世人を驚かせた。 一〇 順序。 一一 身分の上下。 一二 冠や帽子をかぶらず髻を人目にさらすこと。 一三 下着の白衣。 一四 練らない生糸(きいと)を織った布で作った単衣。 一五 漢の宮苑内にあった太液池の蓮。「太液ノ芙蓉未央ノ柳」(長恨歌)。 一六 うまい酒。- 一七 北条高時をさす。(「太平記」 校注 後藤丹治・釜田喜三郎) 


目上の人
韓国から日本社会に来た留学生が、日本の学生たちが教授の前でタバコを吸っている姿を見て驚くという話をよく聞くが、韓国では目上の人の前でタバコを吸ってはいけないという礼儀は守られている。酒も、目上の人につぐときは、両手をそえて勧めなければならないし、飲むときは、正面を向いてではなく、横を向かなければならない。「酒は大人の前で習え」という言葉があるくらいである。「長幼有序」「男女有別」という言葉で表されるように、年代差、男女差が強調される儒教的な社会規範、生活規定が遵守されている。なかでも酒やタバコに関する礼儀は、日本とは厳然とした差がある。儀礼の中では酒と茶の関係が注目される。仏教は茶礼をもって儀礼をおこない、基本的に禁酒である。日本でも寺ではおおっぴらに酒とはいわずに般若湯というが、韓国では「コクチャ」と呼んでいる。コクは曲がるという字を書いたり、穀物の穀を書いたり、どれがあたるのかは不明であるが、チャは茶である。新羅や高麗は仏教が隆盛した時代であり、茶の文化であった。しかし、李氏朝鮮の儒教文化は酒を重要視した。儒教の儀礼書である「朱子家礼(しゆしかれい)」のなかには、茶礼という言葉はない。正月あるいは旧暦の八月一五日などにおこなう祖先祭祀では、実際には酒を祖先に捧げるが、この儀礼を「茶礼(チヤレ)」と呼んでいる。仏教的な儀礼が儒教化された社会のなかにも残されているのであろうか。(「韓国における嗜好品」 朝倉敏夫 「嗜好品の文化人類学」 高田公理・栗田靖之・CDI) 


○卯酒卅二
この殿兼通公には、後夜にめすばうす(卯酒)の御さかなには、只今ころしたるきじ(雉子)をぞまゐらせおけるに、もてまゐりあふべきならねば、よひよりぞまうけておかれける。」ばうすを、一本には卯酒と書り。後夜は、雲図抄裡書に、後夜自子之刻。至丑二刻半とあり。されば夜中より卯の時まで飲む酒の意と聞えたり。然れども、卯酒は夜中より飲む事にあらず。朗詠集私注に、卯時飲酒。謂之卯酒とある説是なり。白居易が詩に多き語なり。中州集に、宋九嘉が卯酒詩に、臘蟻初浮社甕「上竹+下芻」。宿酲正卯時投。酔郷几几陶陶裡。底ナニ事形骸底ナニヲカヘン。東坡集。蘇軾が午窓座睡詩に、体適劇卯酒。李厚が注に、白楽天詩ニ。未カ二卯時ノ酒。神速功力倍センニ。これらを見てさとるべし。附識す。雲図抄裏書は、何に拠たるか。瑜珈論二十四に、言初夜者。謂夜四分中過初一分。是夜初分也。言後夜者。謂夜四分中過後一分是夜後分。とあるに拠れば、初夜は酉の初より戌の五刻まで、後夜は丑の五刻より寅の終までなり。(「梅園日記」 北慎言 日本随筆大成) 


一つまみのズルチンかサッカリン
小石原(昭) 僕らがその前に飲んでたのは、学校の化学実験室にエチルがあったんですよ。エチルは白湯を割りましてね、ズルチンとかサッカリンを入れるんです。もしズルチンやサッカリンがなくて飲みますと、液体は胃に行くけど、アルコールは鼻から抜けるんですよ(笑)。わかりますか、この感じ。
谷沢 ほうちょっとむずかしい。
小石原 何とも変な感じですよ。そこに一つまみのズルチンかサッカリンを入れますと、これが渾然一体となって胃に入るんです。
谷沢 戦争中にサトウハチローがインキを飲んだというんです。それで、アテナインキがいちばんこくがあったんですって(笑)。
小石原 もっとすごいこともしたんです。僕はね、広島でダイナマイトを食べましたよ。工兵隊の手伝いのとき、作業用のダイナマイトが手に入るんです。それをね、ナイフで削って食べると、チョコレートの味がしたんです。(「人間万事塞翁が馬」 谷沢永一) 


奈良麻呂の父親
この奈良麻呂の父親であった橘諸兄は、だんだん藤原仲麻呂に圧倒されてきて、世の中がおもしろくなかったのだろう。「大臣(諸兄)飲酒の庭、言辞無礼、稍反状有り」と、そのそばに仕えているものから、聖武上皇に密告した者がある。天平勝宝七(七五五)年のことで、『続日本紀』の天平宝字元(七五七)年の条にそのことが見える。当時上皇はこの告げ口を意に介さなかったが、あとで取り調べると、息子の奈良麻呂は兵器を備えて、仲麻呂の邸宅を攻める仕度をしているらしいことがわかってきたというのである。諸兄が鬱々としてたのしまず、酒を飲んでは不平不満をかこっていたというのは、実際のことだろう。それが謀反の意思に連なるのではないかと周囲に思わせたのである。そして結果は、息子の奈良麻呂における積極的な反意が露顕することになったのである。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎) 


まだまだ、まだまだまだ
『勧進帳』は、能の『安宅』の翻訳のようなものですが、山伏問答と、花道の片手飛び六法の引っ込みと「鎧に添いし袖枕」の弁慶の踊り、それから山伏と関守とのあの集団舞踊、それから酒を振る舞われるところで、「今は昔の語り草、〽あら恥かしの我が心、一度まみえし女さえ〽迷ひの道の関越えて、今また爰(ここ)に越えかぬる、〽人目の関のやるせなや〽あゝ、悟られぬこそ浮世なれ。」というところは『安宅』には無いところです。これはすばらしいと思います。長唄は、ここのところはかなり悠々と謡うわけですが、国立大劇場で実際に演じてみますと、それがたいへん長いわけです。だから普通だとすぐに次の酒を飲み始めるのですけれども、私がやったときにはちゃんと後に七代目幸四郎の後見を千七百回もつとめた団七さんという後見がついていてくれまして、一部始終教えてくれたのです。「はい、先生」とか、「まだまだ、まだまだまだ」とか、「はい、左」とか、「はい、右」というように合図で演じたのですが、演じてみて、たいへんだということがよくわかりました。そして延年の舞いになるわけです。盃をぽんとほおりまして、「流れに牽(ひ)かるゝ曲水の」、というところは非常に派手な舞いの振りがついていますが、この辺はだいたい能の『安宅』の舞いとほとんど違いません。(「江戸文化誌」 西山松之助) 勧進帳 


八月三十一日 金 二十三夜
風強く雲多し。朝九時頃から雨となり夕方まだやまず。午まへ出かけた。出社前に小林博士へ寄る。BD右一八〇左一七五。ヸタミン注射一。今年度の腸窒扶斯予防注射第一回、先年より毎年一回宛予防注射を受けてゐるが去年は一昨年より二十日許り遅れて五月二十六日金曜日第一回、同三十日火曜日第二回。六月三日土曜日第三回にて終つた。今年は去年より更に三ヶ月許り遅れた。小林博士の許にこの頃の情勢にてヷクチンが無かつたり空襲が続いたりした為なり。それから飯田橋より省線電車にて出社す。夕少し早めに帰る。唐助留守にお酒三合持つて来てゐた。予防接種の当日なれば一寸考へたけれど結局飲んでしまふ。(「百鬼園戦後日記」 内田百閒) 昭和20年です。 


運動神経が七分
健坊がお酒を飲みはじめた頃の話を、河上さんはこのように書いている。(「新潮」昭和三十年九月号『吉田健一』)「元来素質のある彼はちつとも酔はないので、一度私は、酒つてものは何度もゲロを吐いて苦しい思ひをしなければ、本当の酒飲みにはなれないんだぞ、といつてやつた。すると彼は立ち上がり、バーの梯子(はしご)段の上から天井を睨(にら)んで、鯨が潮を吹くようにゲロを吐いた。」上を向いて吐くなんてふつうの人には考えられないことだが、健坊にとってはそれは精一杯の表現であった。これはどこかに書いたことだが、小林さんは、文章を書くには「運動神経が七分、頭は三分」と言い切っていた。小林さんの体験から出た言葉で、運動神経が皆無といっていいほどの健坊は哀れであった。そういう話になると、志賀(直哉)先生でさえ大笑いをされた。「あの子は卵も割れないんだよ。家へ来て、すき焼きをした時、まわりが卵だらけになるので弱った」今では有名な逸話になっているらしいが、育ちがいいので卵が割れないと思うのは間違っている。育ちと卵はぜんぜん違う話なのだ。それに健坊だけが特別育ちがよかったとも思われない。彼の周囲にはそういう人たちは掃くほどいたが、誰にでも卵は割れたし、上を向いて吐く人もいなかった。白樺(しらかば)派の連中にしても、育ちの点ではみな健坊と似たりよったりである。(「夕顔」 白洲正子) 


九月一日 土 二十四夜
朝は夜来の雨なほやまず。こよひ炊事に難渋せり。去る八月一日夜の八王子の空襲にて大井は焼夷弾を腰部に受け負傷した由聞き、入院先を確めて来る様先日来唐助に命じておいた所なり。近い内に見舞に行かうと思つてゐたその本人が元気にやつて来た。今夕は大橋と一献の約あり。大橋はお祝ひの酒一升を持参する筈にて大いに難有いが、大橋と二人にて一升は丁度いいかも知れないけれど或は少少余る可し。そこへ偶然現はれたる大井なり。ただ大井となると三人にて一升ではおかつたるき事なる可し。然るに大井はその話を切り出す前に、配給の焼酎四合あれば持参して一緒に飲みたしと云へり。焼酎を足し前にすれば十分なり。大橋には出社後諒解を得る事にして今夕の一献に大井を招待す。大橋のお祝いに加へて大井の全快も祝す可し。大井大いに喜びて一先づ帰る。夕大橋より先に帰る。大井来てゐた。後から大橋来。御馳走品品あり。大橋持参の酒は白鶴にて一升二百八十七円五十銭の由なり。大井持参の焼酎は余り飲まず。お酒燗徳利に二本のこる。昔の朔日十五日の朔日の如しと云ひて二人共よろこぶ。就寝前より喘息苦し。(「百鬼園戦後日記」 内田百閒) 昭和20年です。 


口合のよき者
さらに古いところでは、鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)の『鹿(しか)の巻筆(まきふで)』に「口合のよき者」という用例がある。俄(にわ)か仕込みの大黒舞が、酒を飲んで、文句を忘れる。「ござった、ござった。なにがござった」というところを、ござった、ござったというばかりで、あとが出ない。寺の小僧は、「口合のよき者」だったので、大声で「何がござった」と大黒舞に浴びせかけた。そのためますます二の句が継げず、「そこにゆるりとござれ」と、恥ずかし舞をして逃げ帰ったという笑話。(「日本語のしゃれ」 鈴木棠三) 


ボストンの乾杯
一七六九年八月の一四日、自由の子達が大挙して印紙税に抗議するために、ボストンの自由の樹タヴァーンとドチェスターのロビンソンのタヴァーンに集結した。ボストンでは乾杯一四回、ドチェスターに移ってからさらに四五回乾杯した。ということは、大部分の反乱の指導者たちは一日の間に五九杯の酒を呑み干したことになる。ジョン・アダムスは日記に以下のように特筆している。-「自由の子達の名誉にかけて、私は酔っぱらった者、またはそれに近い者を一人も見なかった」。建国の祖たちのこのあっぱれな飲みっぷりには、現代の軟弱な酒飲みは男も女もただ唖然として感嘆するのみである。この大変な一日の最後の乾盃の言葉は、「報復を受けて当然のすべての輩(やから)共に丈夫な絞首索を!頑丈な断首台を!鋭い鉞(まさかり)を!」であった。(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳) 


芋に酔い候は、酒よりはなはだし
一橋慶喜などもこのような事態での撤兵には不満であり、肥後藩の長岡良之助(りようのすけ)にあてた手紙の中に、「総督の英気は至って薄く、芋(いも)に酔(よ)い候は、酒よりはなはだしきとの説、芋の銘は大島(西郷)とか申す由、実事に候哉(そうろうや)」と記している。たしかに西郷の手腕は、相当なものだった。(「日本の歴史 開国と攘夷」 小西四郎) 第一次征長の役の挿話です。 


脳の役には立ちません
人間の身体の中では、脳と心臓が最もエネルギーを使っています。ブドウ糖の代謝で見ると、脳では全体の約三〇パーセント以上が消費されています。心臓で、約一一パーセントです。全身の筋肉で約二〇パーセント消費されていると考えられていますので、脳がどれだけエネルギーを消費しているか、おわかりでしょう。ただし、単位体積当たりの消費量では心臓が一番で、脳は二番目になります。血液で運ばれた酸素とブドウ糖から、脳はATP(アデノシン三リン酸)を作り、これをエネルギーにしています。このエネルギーを脳は蓄えておくことができないので、常に供給され続けなければ活動ができません。糖尿病などによる低血糖は、エネルギーの供給低下を起こし、意識障害、さらには死に至ることもあります。低血糖はとても怖いものです。息を止めても二、三分は生きていられますが、低血糖は即、脳の死につながり、心臓も停止してしまいます。脳内では、神経細胞が活発に働く、つまり頭を使っているところで多く消費されます。お酒に含まれているアルコールは、カロリーとしては高いのですが、ブドウ糖に変化するわけではないので、脳の役には立ちません。(「記憶がなくなるまで飲んでも、なぜ家にたどり着けるのか?」 川島隆太・泰羅雅登) 


夢の浮橋
ところで一昨年わたしは、お酒に名前をつけました。金沢市鶴来(つるき)の蔵元が作った酒に命名を求められて、かうなれば飲むしかない、朝酒と昼(ひる)酒は主義としてやらないけれど、夕闇(ゆふやみ)迫ることから飲み出して、つひに夜半に至り、「夢の浮橋」と名づけたのだ。言ふまでもなく『源氏物語』の最後の巻名を拝借したのでありますが、これがよかつたのか、いま大売れに売れているといふ。デパートで見かけたら、話の種にお求めあれ。(「軽いつづら」 丸谷才一) 萬歳楽の酒名の一つのようです。 


崔敏童の詩
「一年始めて、一年の春有り。 百歳曽て、百歳の人無し。 能く花前に向うて、幾回か酔(え)わん。 十千、酒を沽(こ)うて、貧を辞する事莫かれ。」之は唐の崔敏童(さいびんどう)(第8世紀)の詩であるが、之を平易に訳して見るならば、「一年経(た)てば、必ず春が又遣って来るが、夫れが百年経(た)つと、扨て、百歳の春を迎える人は、古来、一人も無い。そう云う短い人生だから、こう遣って、花を見ながら酒を飲む機会なんて、考えて見れば、幾らも有りやしない。サア、ケチケチしないで、酒を一升(18リットル)買って来て、ウンと飲もうじゃないか。」不思議な位に、此の崔敏童(さいびんどう)の詩は、酒に関する限りに於て、オウマの思想と、全く一致して居る。(「留盃夜兎衍義(ルバイヤートえんぎ)」 長谷川朝暮) 


十日間大坂に流連
こんどは(三笑亭)夢楽が大阪へ行くことになった。ところが文化放送のレギュラーの仕事がはいって、戎橋松竹に十日間出演することができなくなってしまった。電話で断ればすむのだが、「今後のこともあるから、先方に出かけてあやまってこい」と、桂小文治が旅費を出してくれたのである。その頃はしっていた湊町線の夜行列車で夢楽が大阪へ行き、戎橋松竹へ顔を出すと、支配人が感激して言った。「落語家さんはええかげんなひとが多いのに、あんたみたいにきちんと挨拶に来てくれたンは初めてや。うちとこで宿とりますから、きょうは大阪見物してってください」その晩、宿に帰って、眠るにはまだはやいと思案していると、ガラス窓にコツン、コツン、と小石の当る音がする。誰か悪戯しているなと、どなりつけるつもりで窓をいきおいよくあけると下の道路に(笑福亭)松鶴が立っている。 ふだんは大声の松鶴が、ささやくように、「そこ借りがあって行けへんのや。おりてこんか」そのままのみに出かけて、気がついたら夢楽は十日間大坂に流連(いつづけ)していた。もちろん文化放送のレギュラーはパアになるし、こんなことなら戎橋松竹だって出演できたわけである。(「酒と賭博と喝采の日日」 矢野誠一) 


扁舟(へんしゆう)に 酔眠するの図                   扁舟酔眠図
日は 落ちなんを 何人(なにびと)ぞ 酒船を 停(とど)めたるは 日落何人停酒船
碧蘆の湾口にして 白鴎の前に                     碧蘆湾口 白鴎前
心を 用ふるは 釣魚(ちようぎよ)の楽(たのし)みに 在らずして  用心不在釣魚楽
世外なる 乾坤にての 一酔眠ならん                  一〇世外乾坤一酔眠
◇六 酒に酔って、舟中に眠っている人の図を見ての作。飲みながら、悠々と釣っていた人である。 七 夕日が沈んでしまうのに、誰であるのか、酒を載せた船を、碇泊させているのは。「停」は、暫く動かぬ意。 八 青々とした蘆(あし)の生えている、川の入江(湾)で、白い鴎(かもめ)の浮かんでいる前面に。この句は、「停めたるは」にかかる。「湾」は、海にも川にも用いる。 九 (さて、この酒船中の人が、)気(心)を使っているのは、(実は、)釣魚の楽しみにあるのではなくて。 一〇 俗世間を離脱し、それ(俗世界)以外の天地(世界)での、(何物にも煩わされない、)完全な酔眠なのであろう。「一」は、「専らなる・全き」などの意。-(「五山文学集 真愚稿(しんぐこう) 西胤俊承(せいいんしゆんしよう)」 山岸徳平校注) 


その昔本城あとの一奇談
寛永二年(一六二五)に屋形(やかた)を二の丸に移してからは、本城は淋しいところとなった。このところの奇談の一つに日暮れてここに行くと無髪となる、という話をきいた若侍、「何程のことかあらん」と行って独座する。親族の女性から「寒かろう」と酒がでる。飲むほどに高声乱舞したので不謹慎のとがめをうけ切腹のところ或僧の助命で剃髪。弟子となった。夢さめて頭をなでると一毛もなく面目(めんぼく)なしとて本物の出家(しゆつけ)となったという。(「茨城の歴史」 鈴木茂乃夫) 


行きつもどりつ
二、三人あつまって新年宴会としゃれこみ、みんないい機嫌になった。「どうだい、まだ今年はおいらんの玉顔をおがまねえが、これから景気よく出かけようじゃねえか」と、ひとりがいいだした。「よかろう、よかろう」と、みんなも二つ返事で賛成。さっそく柳橋から猪牙舟(ちよきぶね)にのった。「どうだい、川風が酔った顔にいい気持だな。堀までひとねむりしようか」と、みんなねてしまった。そのうちに、船は堀についた。船頭が、「もし、もし、船がつきましたよ」と客をおこした。「ああ、もう着いたのか。だが、すっかり酒がさめてしまったぞ」「おれもさめちゃった、どうだい、正月早々から女郎買いでもあるまい。これから家(うち)へ帰ろうか」「そうだな。酒がさめたら、家へ帰りたくなった。すぐこの船で帰ろう」「それがいい。それがいい。ところで、女郎買いに行かないとなると、だいぶ金がもうかったわけだから、一升買いこんで、船のなかでやらかそうか」「そりゃ思いつきだ」こういうわけで、さっそく酒と肴の用意をして、船を出した。そして、さっそく船頭も仲間にいれて、さしつおさえつ、一升徳利をあけてしまった。「こりゃ、いい機嫌になったぞ。どうだい、みんな、せっかく思い立ったのだから、このまま帰ってしまうのもおしいい。船をかえして吉原へくりこもうじゃねえか。それがいいな、船頭さん」「そうですね、じゃ、また堀へもどりましょうか」「それじゃ、もどれ、こどれ。早く弁天さまのお顔がおがみてえ」と、みんな浮かれたって、さっさと漕ぎもどした。が川風にふかれて、船が堀へつく時分には、もうすっかり酒がさめ、「おや、ここはどこだ。また堀へ来たのか。だが、酒はさめるし、家へ帰りたくなったな」「それがいい。おれも家に用がある。さあ、あとへもどしてくれ」だが、船頭が、きっぱりと、「いや、そうはできません」「どうしてだ」「だって、わたしはまだ酒がさめませんから」(「江戸小咄大観」 田辺貞之助) 


貫筒
十返舎一九には面白い失敗談がある。「馬子の歌袋」に記しているところでは、
一九が京都に遊んだとき、古道具屋から奇妙なものを買ってきた。火吹竹に似てやや太く黒漆塗(うるしぬり)で銀の金具がついていて紐を通すようになっている。江戸に帰って友人の蔦(つた)の唐丸に「一体、なにに使った物だろう」と聞くと、「おそらく酒の吹筒ママに使ったに相違ない」という鑑定に、一九も気をよくして大事に秘蔵しておいた。たまたま野出の某寺に行くとき、これに銘酒を詰めて行った。さて寺に着いて、いささか自慢でこの酒筒を取り出してチビリチビリ飲んでいたところへ、奥から出てきた住職が、「これは新しく造ったものか」ときくので、「かくかくの次第で手に入れた」というと、住職が「はばかりながら、これは貫筒という代物で宮中の儀式の時など長時間かかるので、公卿たちがこれを腰に提げて行って放尿する器です」とすっぱぬいたので、秘蔵の酒入れも台無しで飲んだ酒まで苦々(にがにが)しくなってきた(「日本の酒」 住江金之) 膝栗毛 


銅鑼
はじめて草盧に奈良美術研究会を開きしより今にして二十年にあまれり身は遂に無眼の一村翁たるに過ぎずといへども当時会下の士にして後に世に名を成せるもの少からずこれを思へば老懐いささか娯むところあらむとす
ひとつき の うまさけ くみて はる の よ を すずろに ときし なら の ふるごと
(ひとつきのうま酒汲みて春の夜をすずろに説きし奈良の古事) 会津八一  


サロン春
銀座でおおっぴらに飲みはじめたのは、どうも、早慶戦がきっかけだったと思う。つまりは、永井荷風にひんしゅくされた群の一人であったようだ。勝ったといっては飲み、負けたといっては飲み、野球が終わってからも、そんな日がいく日かあとをひいた。名も顔も知らない先輩がおごってくれて、われわれのグループも、銀座の町で離合集散をくり返した。そうした浮かれたような飲酒で出入りした店の一つに、交詢社の下の「サロン春」などもあった。当時「サロン春」といえば、第一流の店であって、とてもわれわれ諸生ッぽなどに行かれるようなところでもなかったし、また足ぶみをしようとも思わなかった。それが、先輩につれていってもらったというわけで勇気がでてきたのか、翌日はもちろん先輩抜きで、昨日つれて行ってもらった者たちだけででかけた。知恵のあるのが、「裏を返しにいかなくちゃいけない」などと言ったからである。すると、昨日われわれの席についた女性が来て、真顔で言った。-ここはまだ、あんたがたなんかが、自分たちだけで来るところではないの。一杯だけ飲ましたげるから、飲んだらお帰んなさい。(「酒、男、また女の話」 池田弥三郎) 


小村寿太郎円朝を励ます
ある時、大隈伯の邸に於て宴会が催された。その時の席には時の大政治家伊藤博文を始め、各省の大臣、次官、局長等が相連って、酒客歓を尽くし、其の余興として、円朝の講談があった。講談が終わってから、気軽な博文は円朝をかえりみて、「円朝、盃をやろう」と云った。だが円朝は恐れをなして、固辞して出なかった。すると席にあった小村寿太郎はまだ局長の椅子をも占むることの出来ない一官吏であったが、辞退する円朝に向って、「円朝、其様(そんな)に遠慮するに及ばぬよ。早く出て受けたまえ、この席では君が一番偉いんだ」とささやくと、円朝はペタリ頭をさげて、「へ、へ、恐れ入りました」と答えた。寿太郎はさらに、「そうだよ、貴様が死んだら、貴様の衣鉢を襲ぐものがあるか、どうじゃ」と聞く。「それがないので私も日頃残念に存じて居りまする」と答えた。寿太郎透かさず、「それ見ろ、其処が貴様がこの席で一番偉いところだ。此処に多勢並んで居られる元老なり、大臣なりが皆くたばっても、後にはより偉い後継者がいくらでも控えているぞ」と励ました。寿太郎が円朝を励ましたこの言葉は、取りも直さず、自分の他日の抱負を披瀝したものであった。(「日本逸話全集」 田中貢太郎) 


490有明(ありあけ)のこゝちこそすれ酒盃(さかつき)に一ひかげもそひていでぬと思(おも)へば 能宣(よしのぶ)
拾遺抄、雑上に「をみにあたりて侍りける人のもとにまかりてはべりけるに、女さかつきに日かげをいれて(一本「うかべて」)いだし侍りければ 能宣」 として出。拾遺集、雑秋にも出。「をみにあたりて侍りける人」は、小忌すなわち五節などの神事を奉仕する人。一日蔭葛(かずら)と、日影とをかける。 ▽酒盃に日かげかずらを浮かべて出したので、月光に日影が添うと思われて、有明月の心地がしたよとの意。盃に、月をいいかける。(「和漢朗詠集」 酒 川口久雄・志田延義校注) 

注・横書きなので、<またまた>といった畳語後半の繰り返し記号(く:くの字点)の表記ができませんので、/\で記しています。
 ・機種(環境)依存文字等は、?になってしまいますので、多くは「上:夭、下:口  の」のような表記にしています。
 ・旧字体の漢字は大体新字体にかえてあります。また、ふりがなは、かっこ書きにしています。
 ・ふりがなは適当に増減しています。

 ・資料のもつ歴史的意味を思いつつご覧になって下さい。