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御 酒 の 話 25




鶏の皮  俄分限  ソーマ酒とスラー酒  文芸首都社にて  豊島屋隣の居酒屋  ジャーディン・マセソン商会  百円札の束  かっぽお、かぶと、かんつ、きうまのり  芳年  翆仏  やアしばらく  祭酒、国子監祭酒、国子監  頼無き中の酒宴  鉄砲焼  書けません  マグロ大根  四高柔道部退部  酒盛が祭  引っ越す前の家  ブランデー二十杯  さら川(13)  弘前 藤田家  「飲中」の至福  タヌキ的  「酒のさかな」序  師は酒豪  稲芽酒  ウイスキー・タウン  地獄のトレーニング  葛飾中割で  配給の御蔭  光圀の特効薬  下市町  東京大正博覧会出品之精華(3)  飲むか、飲まぬか  三一二補注  ぬかりはあるもんか  天保九年戊戌  E 飲料(源氏物語)  カブト酒  人力車夫と車力  やはりよろしいふるさとの酒    日英通商条約  田家 王績  鳴り出でし雪雷を聞きながら  さけ 酒(名)  糟汁・酒がす  生酔の川柳(2)  鉄鉢酒  方言の酒色々(3)  講演嫌い  うまさけ(味酒)  草帚売り  さけのかす  団体旅行列車  菜の花  山陽と茶山  飲みやれ大黒  箒売り  しもつかれ(2)  十九世紀までの酔っ払い  はなし塚  甕の底に残った酒が一番うまい  青山の見た織田  アルコリカ  「酒みずく」(2)  御酒屋と町酒屋  酒虫  ケンズイ  ええじゃないか  酒は禍乱の因  熊本の芸者さん  土佐帰郷  うぐひすの巣立のさけの一銚子  アルコール中毒  酒質、酒染、杯凧、杯踊、杯影  一種一瓶、飲至策勲  薄い黄色液  葛水  辰野隆先生(2)  塵塚談 下  武玉川(11)  しおからは無季  アイシャドー  たつみ【辰巳】  酒沈めば話浮く  ラムの三角貿易  酒精・清酒・新酒等の方言  モリ  熊楠追悼座談会  さけのかみ、さけのすけ  三木清、阿部能成、斎藤茂吉  腐敗清酒からのアルコールの回収  馬のす  サロン・パリ  桃の節句に  人形  Sのおごり  一具庵化仏  茨城県輸出重要品調査報告(2)  アマンチコ、オショベカン、オトリカ  スズメ酔払う  練習の甲斐  酒の憎さ(卜養)  さらさらと霰ふる夜は  茨城県輸出重要品調査報告(1)    おく様の御酒  十分盃(2)  アクモチ、アカザケ  春日独酌  敵手はあらで  粘度の高い酒、黒酒・白酒  二日酔ひの研究  生酔の川柳  堂に入ったもの  文系食堂  下宿  興津河原の陣  津軽藩  はじめての酒  宿題  火事見舞の事  一円五十銭  ペイスケ  丸山にて大酒の事  贔屓の役者と盃  「ちゃん」  助三杯  貧乏酒井の用人征伐(2)  禁酒同盟はどこだ   川の字  シラス、タタミイワシ、チリメンジャコ  貴人御前ニテ酒ノ事  貧乏酒井の用人征伐(1)  武玉川(10)  この通りの中だけで生活できた  お芙美さん  吟醸酒の果実香  長いなア  さけ吸う石亀  さけ(名)酒  小説『夜の蝶』の誕生  幸徳幸衛  間鍋を喰うや蜜柑の小盃  香合の景品  魔女のはらわた  おなだどつくり  ラヴォアジェ、リュサック  盃をひよいとほうれば  コルサコフ症候群  よっしゃあ  勘違い  鰊の鎌倉焼き  いにしえけ  酒蔵見学から  酒の上  酒肴のもてなし(2)  鈴木信太郎、カミーユ  さけうたげ【酒宴】  酒は異物  酒粕入りふきのとうみそ  大酒飲みは貧乏にはなるが悪人にはならない  ある人小者に弁当持たする事  鼻緒の違った下駄  「酒みずく」  飲むと政治論  酒税法改正  鶴の友  さら川(12)  酒肴のもてなし  餅つきと酒盛りの料理  ジイド、鏡花  真田幸貫  鶏頭に隠るゝ如し  匏瓜仏  一対一  名無しの酒  さけごと【酒事】  東京大正博覧会出品之精華(2)  モジリアニ  猪口に二、三杯  バー Bar  方言の酒色々(2)  孫悟空の出発  時には二日酔い  漬菊  ほととぎす厠なかばに  煎り子  さけ【酒】(2)  女の無銭遊興  さか-かり  鬼熊  神酒  かいぼし  忠臣根津宇右衛門  [瓦礫雑考 下]酒  ノーベル賞はくたびれる  マルヴァジャ・ブドー酒  みんな飲んじゃったよ  梅酒  ハネムーン  ホーフブロイハウス  瓶をしぼる真似  一度酒を入れた樽は  飯と酒  酒が尽くれば水を飲む  桶はざま合戦  酒を飲むな、といわれる  酒ほしさ  「酒みずく」(3)  点滴  ミミズのとりかた  努力の人  池田衰微の一因  凍りかけたお神酒  けふといへばまためづらしき味酒の  あら玉の年を雲居に迎ふとて  長谷川邸での宴会  渡邉酒造店の正月料理  ナオライ  桃花村からの使い  酒ハ酒屋に  フグの身酒  禁断症状の一種  浅漬と酒を仕入れる泊まり番  ラツキヤウを喫はないもの  わるい癖  手前の駅  さけのまず餅をもつかぬ  亭子院賜酒記  瀧嵐  酒酔い泥鰌  民俗のなかにみる酒  「演劇と酒」(3)  陸稲みたいな作り方  石の会  さつのよは  酒山  天野廣丸  たちざけ【立酒】  ゴチョウ  酒が裏に入る  「酒」  子供の膳に酒なしの盃  酒があってこそ大町桂月  水という毒  鱈の料理  二日酔いになったことがない  酒づくりは哲学である



鶏の皮
私が(浅草)金田へ一番通ったのは、戦後、代が変わってからである。鍋の外に少し料理が出来るようになった。しかし私は頑固今も鍋だけを食っている。もう随分前のことだ。今はなくなった女中頭のおのぶという人は面白い女だった。あるとき客の噂などしていて、家へは三人いやな客が来ると、笑いながらいった。俳優の猿之助、もちろん後の猿翁だ。作家の船橋聖一、そして小林勇だという。猿之助は威張るということだった。船橋は、ケチだという。三人できても最初必ず二人前注文する。お代りもそのたびに一人前ずつする。少しも残らぬようにするという。それは合理的でいいではないかと私はった。次に何故俺はいやなのだといえば、ゲラゲエラ笑って、あなたは気ままだからよといった。「小林さんが来る」というと、私は大急ぎで板場さんにたのんで、皮を外のお客さんに出すのをやめて貰うのよ。皮ばかり食べて、酒のんでわがままだ、というのだ。私はいつも、もつと皮ばかり食っていた。その頃私は、他のお客は「かわどめだ」などと冗談をいっていた。私は鶏の料理を食わぬわけではないが余り好物としない。しかし皮は甚だすきだ。けれども、やせて、年とって、かたい奴の皮はいけない。よい鶏を扱っている店から皮だけ買ってきて、脂肪をぬいて土鍋で煮ながら食う。具は細かい葱がいい。葱は青いところも使った方が見て爽かだ。とろ火で少しずつ煮て食う。それだけの話だが、孤独者の酒の肴には甚だ親しい。(「厨に近く」 小林勇) 


五 俄分限(にわかぶげん)一二は一炊の夢一三
○越前より十介といふ米つき、江戸へ下りけるが、ある時、日本橋を通るとて、何かは知らず、足にかかるを取上げ見れば、財布なり。.さてこそと思ひ、取て帰り、まづ宿へも沙汰なし一四にして、心祝ひに、酒五合買ひ、亭主女房にもかまはず、大茶碗にてひつかけ、二階へあがりて屏風を立て、かの財布を取出して見ければ、小判六十両あり。「さてさてありがたや。もはや明日は国へ帰り、田地を買ひ、どうしてこうして」といひながら、一両づつめづらしく一五並べ、もてあそぶ内、そろそろねぶり出て、酒の酔ひまぎれに、たわいなく寝入りて、音もなければ、宿の亭主、ふしぎに思ひ、二階へあがり見れば、たわひなき体(てい)なり。あたりを見れば、小判だらけになりてあり。「これは」と、きもをつぶしながら、まず静かに取りあつめ、下へ降り、女房にも隠し居たりし所に、かの十介、目をさまし見てあれば、六十両の小判、一両もなし。「さてさて、これはやれやれ」といひければ、下より亭主、「何を十介はいふぞ。やかまし」といふ。「さればされば、もはやおれは、しあはせが直ろぞ。大分の小判を、ひたと並べて見ると夢を見た」といふた。
注 一二 急に大きな利益を得て大金持ちになること。俄長者。 一三 盧生の邯鄲の夢に因んで、人生の栄華のはかなく短いことの譬え。 一四 内緒。秘密。 一五 めってにないことで、うれしそうに。 一 寝入って正体がない。 二 原本「わ」とある。 三 びっしりと。(「元禄期 軽口本集 かの子ばなし」 武藤禎夫校注) 


ソーマ酒とスラー酒
古代インドの生活規範を定めた「マヌ法典」(紀元前二〇〇〇年頃編纂開始)には飲酒禁止の規定が記されている箇所があるが、場合によっては飲酒できる規定もあり、曖昧である。-
「三年間、或はそれ以上の間、彼に依存する者を扶養するに充分なる食物を有する者は、ソーマ酒を飲むに値ひす」(第十一章七)、「バラモンの殺害、スラー酒を飲むこと、(中略)大罪(マハーバータカ)と言ふ」(第十一章五五)とある。これによればスラー酒は絶対に飲用できないが、ソーマ酒は飲めるとも読める。スラー酒とは穀類や蜂蜜などを原料とする蒸留酒である(渡瀬『マヌ法典』、一二五、一五七頁)。だからソーマ酒のような醸造酒は適量なら飲んでもよかったのだろう。ソーマとは神に捧げる植物で、その茎を搾りミルクと混ぜてつくったのがソーマ酒であった。スラー酒もひそかに愛飲されていたらしく(小磯『世界の食文化 インド』、一〇一頁)、都市には居酒屋が多く存在していたものと推測される。(「居酒屋の世界史」 下田淳) 


文芸首都社にて
ある時北杜夫が友人の酒造家の息子と灘の生一本を下げてやって来て、「『文芸首都』の連中のあの酔態は何たるザマですか。あれじゃ首都社じゃなくて酒徒社です。今日は私が酒の飲み方を教えます」と、大口をタタキ、保高と三人で飲みだした。持参の酒は忽ちなくなり、追加追加とあとを引く。今夜は酒一辺倒である。若者二人は忽ち酔いつぶれ腰が抜け、廊下に這いだし競争でゲロゲロとやりだした。傍で保高は面白そうに笑いながら、やあ、酔っぱらったな、と一人飲み続けていた。その晩若者二人は我が家の一組の蒲団の中で眠ったが、私は二人の枕元に何十枚もの新聞紙を重ね、嘔吐に備えた。おかげで一晩中二人の寝床から、ゴワゴワという紙音がし続けた。二日程して北杜夫は、ハガキをよこした。-何たる醜態でありましょうか。私などはまだまだ牛乳でも飲むしかないようです、と。(「『酒』と作家たち」 浦西和彦編 「夫、保高徳蔵と『文芸首都』私」 保高みさ子) 保高徳蔵、みさ子夫妻は自宅を「文芸首都」社と、同人六、七十人のたまり場に提供していたそうです。 


豊島屋隣の居酒屋
…サテ異(おつ)だったのは鎌倉河岸の豊島屋(有名な酒店)の隣が居酒屋で、ソコでは湯筒(ゆとう)で酒を「上:夭、下:口 の」ましました。朱塗の湯筒へ御燗酒が入っていて杯(ぱい)一をキメルと、酒は豊島屋仕込み腹の虫がギュウと鳴きますくらいでした。年寄った上戸連は御存知でしょう。ソレから親父橋のワキの芋酒屋、コレはまた有名(なだい)なもので、新川の若衆(あらしこ)が来て飲(あお)るんですから、酒といったら天の美禄でした。芋酒屋というのは芋が名物、男の手代が紺の揃衣(そろい)で、酒をつぐンでさア面白い腰付(こしつき)で調子を取るんで。…そのまた誂(あつら)い物に対する懸声(かけごえ)がこうなんです。「あたりコロ一、デクナダ一枚」「ヤタつき一枚」なんの事かと思ったら「あたりコロ一」といのは突当りで、芋を一皿(ひとつ)だということで、デクナダというのは腰掛の出張(でぱつ)た所へも品物一皿という略し、ヤタとは豆腐の事なんでした。何だか余り饒舌(しゃべ)って咽(のど)がグビグビして来ました。ココラで一杯やりましょう。(「幕末百話」 篠田鉱造) 明治初期の東京の酒屋 


ジャーディン・マセソン商会
ジャーディン・マセソン商会は、洋酒の日本輸入元くらいにしか、今日の私たちに知られていないけれど、この時代には極東貿易に抜群の勢力を誇っていた。二人の共同出資で始まっている。ウィリアム・ジャーディンは東印度会社出身の医師であり、ジェームズ・マセソンはエディンバラ大学出身の紳士である。二人のパートナーはいずれもインテリなのだ。アヘン貿易は「一番安全で最も紳士的な投機」であると考え、ベンガル産アヘンの委託販売に専心した。一八三〇年代に毎年六千箱のアヘンを売りさばき、年間十万香港ドルを越える利益を得て、のちの発展の基盤を築いたことで知られている。(「「幕末」に殺された男」 宮澤眞一) 現在も存続するイギリス系の国際的大企業だそうですが、今はどんな洋酒を日本に持ってきているのでしょう。以前はホワイトホースなどの輸入代理店だったようです。 


百円札の束
山本周五郎にまつわる数々のエピソードを書いている木村久邇典という人が、はじめて山本に会ったのは(昭和)二十二年だった。そのときは、木村が勤務していた雑誌社で、山本に依頼してあった原稿の催促をするためだった。山本のところへ行く前に、木村は日吉早苗という知人の作家にくぎをさされていた。「山本君は酒をのむと乱におよぶ癖がありますからねえ、気をつけていったらいいですよう」ということだった。木村は、山本が気むずかしい人だの酒癖が悪いのと、まわりからもさんざんきかされていた。ところが会ってみると、初対面ながらも、山本は木村にあれこれと親しく話しかけてきた。-
ところがあるとき、風間(真一)が酔った勢いで「先月の小説はつまらなかった。山周のもんとしては愚作だ」と山本につっかかったことがあった。すると山本も、そんなつまらないものをなぜ載せた、と居直った。その気迫に風間は、読みようによれば面白いところもある。まあ面白きゃいい、とその分の稿料を置こうとしたが、山本はこんなものは要らん、っと風間の持って来た百円札の束を目の前で燃やしてしまった。これにはさすがの風間もうろたえた。土岐(雄三)はそのさまを目撃して、山本という人間の恐ろしさにうたれた。(「作家と酒」 山本祥一郎) 君帰りたまえ 


かっぽお、かぶと、かんつ、きうまのり
かっぽお[割烹]  酌婦。仲居。(強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
かぶと2[兜]  コップ酒。[←かぶと(=頭)へ来る?](香具師・やし・てきや用語、強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)
かんつ1  酌婦。[←燗壺握りの下略](俗語、強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
きうまのり[木馬乗り]  (居酒屋で)床几(しょうぎ)に腰かけて飯食すること。(俗語)(大正)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


芳年
一方、月岡芳年は一勇斎国芳の弟子で、明治十三年頃に根津宮永町三十五番地に移り、多分十八年ころ浅草に転居している。友人と酒を「上:夭、下:口 の」み、芝居が好き、遊芸が好き、かかわった女性は数知れず。赤貧洗うがごとき一人住みのくせして、昼夜根津の廓に入り浸りと孫弟子に当たる鏑木清方(かぶらぎきよかた)が書いている(絵具筥)。-
芳年に多少追加する。芳年という人は江戸っ子で口が悪く、人前で弟子を叱り、酒癖も悪かった。鏑木清方の師匠水野年方(二人とも谷中墓地に墓がある)などいつも皮肉を浴びて泣いていた。(「不思議の町 根津」 森まゆみ) 


翆仏
「秋風の、吹き寄せて来た夕闇の中から翆仏が現はれて、入り口の戸を引ぱった。-私です、へい、翆仏です、と静かな声でいった。来た時は、いつでもかういう調子である」と、百閒先生は翆仏が現われる時の風景を語っている。ところが、帰りが大変である。翆仏(百閒先生註「翆は酔に通ず。仏は払に通ず。翆仏は酔払なり、よっぱらい也」)の本性を現した蘭茶センセイは、夜更の玄関から押し出されても、往来の真中に立ってどなることをまだ止めない。馬鹿にするな、先生、おい、びくびくするない、家賃が溜っとるか、帰るぞ、いや帰らんぞう、ここまでビール一杯持ってこう、と喚きたてる。正月の年始の時に、玄関先にイッパイ履物が並ンでいたのを、この野郎と片ッぱしからそとにほうり出してしまった。お蔭で、年賀の客は、右と左の履物を揃えるのに、ひどい苦労をしたことがある。そンな酔っ払いの翆仏が、憎らしい程に、ゆきとどいた心の持主であった。十五円の金を借りたいというと、二十円もって来て呉れるのである。(「めぐる杯」 北村孟徳) 全日本空輸㈱の専務だった中野勝義だそうです。 勘違い 


やアしばらく
大佛次郎さんが町を歩いていたら、女の人がお辞儀をしたので、「やアしばらく」と挨拶して別れたが、それが自分の家のお手伝いだったのに、気がついた。その夜、したたか飲んで、大佛さんは帰宅した。この話をして、「酔ってでもなければ、玄関をはいってゆけません」 (「ちょっといい話」 戸板康二) 大佛さん  


祭酒、国子監祭酒、国子監
祭酒  ①→国子監祭酒 ②孔子廟を祭るときの主催者。 ③転じて、府学・州学・県学の長官をいう。
国子監祭酒  国子監の長官。学長にあたる。
国子監  隋から清までの間、国が挙人・貢生・監生を集めて勉学させた学校で、地方の府・州・県学に対し、中央にあって太学に相当した。(「聊斎志異(りょうさいしい)」 蒲松齢 原語略解 増田、松枝、常石訳) 


たのみなきなかのしゆえん【頼無き中の酒宴】
謡曲「羅生門」の詞句を換へた句。原文は『御酒をすゝめて盃を、とりどりなれや梓弓、やたけ心の一つなる、つはものゝ交り、頼み有る中の酒宴かな』である。
頼みなき中の酒宴は遣手(やりて)なり この婆興を殺ぐ(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


鉄砲焼
まことにその言のごとく、鉄砲焼をするには、早暁藪に入って、まだ露の上らない筍を掘り来り、その新鮮な筍を材料として、まず内部の節を抜き、その中へ酒しお、醤油を注ぎ込んで、切り口は大根で塞ぎ、「竹冠+擇」(たけのかわ)のついたまま、藁火の中に突込んで蒸焼にするのである。  筍を焼ける煙や若葉風 風化  焼き加減よろし、とみれば藁灰の中より筍を取出して皮を剥ぎ、よく洗って庖丁を入れて食膳に上するのである。これがいわゆる本格的の鉄砲焼きなのであるが、都会におっては藪から掘り立てという筍はちょっと望めないし、藁を焚くというのも場所などの関係で億劫であるから、私の宅では以前から蒸器を用いて蒸焼きにする。風味は藁火で焼いたものより少々落ちるが、その方が簡単であるし、その割合に香気も残っており、甘滋の味も豊かである。(「俳諧 たべもの歳時記」 四方山径) 


書けません
内田百閒さんのところに、戦後まもなく、当時創刊されたばかりの雑誌から、原稿を依頼に来た。「書けません」といって、ことわっていると、目の前にいる編集者のうしろに、もう一人の人物がいるのに気がついた。そのもう一人が、右手に一升びんを提げているのが見えた。「どうなさいました」と訊いたら、「困りましたよ、仏頂面をしようと思っても、一升びんが見えた時から、口もとが、つい笑ってしまうんです。」(「ちょっといい話」 戸板康二) 


マグロ大根
さあそしたらいよいよ『マグロ大根』だッ 大根を茹でている鍋に しょうゆと酒と塩を加えて 落としブタをしてさらに5~10分煮込んで味を染み込ませる この間にづけしたマグロを出して オリーブ油をたらして少し置く 次にフライパンを熱してこのづけを入れて両面をサッと焼く 柔らかく煮えた大根を皿に盛り その上にマグロと青ネギをのせて好みで黒コショウか七味をふれば 『マグロ大根』のできあがり!(「風流つまみ道場」 ラズウェル細木) 


四高柔道部退部
当時私は柔道部の主将をつとめていたが、練習方法のことで先輩たち、-大変な数であるが、その先輩たちと意見が合わず、ために三年の部員全員が退部するの已むなきに至った。退部したのは四月、全国高専大会の三ヵ月前であった。高校三年間にそれを賭けていた仕合には出られなくなり、毎日のようにそこで過ごした道場とも別れなければならなかった。それから私はその年の全日本選手権大会(後大礼記念武道大会)に、石川県代表として出場することになっていたが、それも放棄した。四高柔道部を外れて、何の柔道ぞやと思った。四高柔道部退部は、私の若き日の最も大きな事件であった。そうしたことの余波が秋からやって来た。心からも、体からも、何もかも脱落してしまって酒でも飲んでいる以外に仕方がなかった。それまでに柔道部員として酒とも煙草とも無縁であったが、その禁を解いた。酒でも飲んでいる以外時間の過し方がなかった。初めて酒場にもおでん屋にも入った。私ばかりでなく、一緒に退部した連中がみな同じような状態だった。正月休みも帰省せず、二日からおでん屋に店を開いて貰って、そこに入り浸っていた。酒を飲む度に吐いた。柔道部の練習と同じだった。やがて酒が強くなった。卒業と同時にこうした生活とは離れたが、なかなか凄まじい半歳だったと思う。二十二歳から二十三歳にかけてである。(「若き日の大事件」 井上靖 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


酒盛が祭
酒盛は共に酔う必要のある時の大切な行事で、これには唄と鳴りものがつかなければならない、という古い感覚をもっている島や山中の村がある(長崎県久賀島・徳島県祖谷山)。新潟県の佐渡では祭礼のことをフルメイといって、祭に来いということをフルメイに来てくれという。あそこの家では「ドタフルメイがあった」というのは、大かかりは酒宴があったということである。鹿児島県の硫黄島では又酒盛をマツリゴトといって、権現様に踊を奉納する日や雨乞・厄払・四大祝日がそれである。家の落成・入営・誕生祝・厄払祝・二十三夜待など個々の家の酒宴も凡てマツリゴトというそうであるが、酒盛-酒を飲むことが祭であった古風を保存していておもしろい。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 


引っ越す前の家
どんなに酔っても、泥酔して眠ってしまわない限り、自分の家に帰る道順は忘れないのである。もっと端的にいえば、家に帰る道順を記憶しているのは「海馬」(記憶に関する脳の一部分)というところに情報が入っていて、ここは新しい皮質ではないので、アルコールの影響を受けないのである。おもしろい実験がある。ある研究所で、最近引っ越した人たち一三人(たまたまそうなった)の人にアルコールを十分飲ませ、実験の謝礼をわたして、それぞれまっすぐに家に帰るようにたのんだ。(家にまっすぐ帰るのも実験のうち)すると、この一三人のうち九人が、引っ越す前の家に帰ったという。私たちの記憶のなかで生活上重要な情報は、さきに説明した海馬に入っている。家に帰る道順もそうなっている。ところが、最近ひっこした人は、新しい家の地図が十分に海馬に入っていない。そこへアルコールを飲むと、その新しい家のうろ覚えの記憶は側頭葉(脳の側方にある)に入っていて、そこはアルコールの影響でマヒする。そのため、古い引っ越す前の家の地図が出てきて、自然とそちらのほうに向いてしまうわけである。アルコールのしわざなのだが、なかなかユーモアのある話である。(「酒の人間学」 水野肇) 


ブランデー二十杯
有吉は、よく飲んでいた。一晩、ブランデー二十杯ぐらい飲んだ。彼女は、人をザックバランな開放的な気持ちにさせる雰囲気を持っている。酒場へ、有吉佐和子は、ある時は、NHKの探偵仲間の池田彌三郎など大勢と、ある時は、詩人の田村隆一と二人で入ってきたりした。すると、バーのなかが、パーッと明るくなる感じになるから不思議だった。(「ここだけの話」 山本容朗) 


さら川(13)
屋台酒紅一点もひけとらず もてない女
気が強く意志が弱くてまたはしご かげろう
酒の席上司の背広に注ぐビール 無礼講
酒に酔い妻の運転酔いがさめ ジャッキー
お立ち台おどるわが娘(こ)に酔いもさめ 藻いや代(「平成サラリーマン川柳傑作選」 山藤+尾藤+第一生命=選) 


弘前 藤田家
弘前の藤田半左衛門がブドウ酒の醸造を初めて行ったのは、明治八年であった。藤田家は代々清酒醸造を業とする素封家で、「白藤」の蔵元として知られていたが、家訓に「余財あれば物産となるべき事業を興すべし」とあるのに従って、ワインの製造を志したという。半左衛門にブドウ酒の醸造法を教えたのは、当時弘前に寄留していた宣教師アルヘーであった。-
藤田兄弟(半左衛門の息子)はその後、兄久二郎が清酒業のかたわらワイン醸造を。弟数次郎がヨーロッパ系品種の栽培にあたり、波乱の多い洋酒の揺籃期、ワインに手をだした者のほとんどが悲劇的な末路をたどったなかで、日本のブドウ酒業界最大の技術的課題である醸造用専用品種による高級ワインの製造にいち早く成功し、戦後、洋酒専業メーカーの驚異的な進出によよって、そのパイオニア的使命をまっとうするまで、事業を維持し続けたことは賞讃に値する。(「ブドウ畑と食卓のあいだ」 麻井宇介) 


「飲中」の至福
本を読む。しかしどこで読むか。明治の政治家で後に早稲田大学図書館長になった市島春城に「読書八境」なる随筆(『春城筆語』所収)がある。読書に最適の場所を八つ挙げた一文だ。その八つの場所とは、表現をすこし今風に変えると、旅中、飲中、喪中、獄中、陣中、病中、僧院、林泉。いちいち説明しきれないが、邪魔が入らず独りになれる場所ということで大体お察ししていただけよう。(「雨の日はソファで散歩」 種村季弘) 


タヌキ的
生前狸オヤジで通っていた銀髪赤顔の酒仙佐藤垢石の酒歴は徹底していた。私も一度ともに飲んだことがある。ところで故人に鞭打つわけではないが、飲み方は、いかにもタヌキ的である。飲み出したら、徹頭徹尾酒友におんぶされるつもりである。その友におんぶされる癖をつけたのは、まったく酒に飲まれたせいか、その飲まれた仕草が堂に入って、周囲の酒友になみなみならぬ友情を起こさして、垢石老すっかり友情に甘える味をしめ以来これに限るとさとたものか、この老人のグデングデンの世話をいとわぬ奇篤の士も世にはあるとみえて、ケッコウ垢石グデンが通用していたから、摩訶不思議の酒の世界ではある。垢石と最初にして最後の酒席を同じくした私は、酒の儀礼だから仕方なくほかの数人とともに、翁のはしご同伴の栄に浴したが、グテン老、グデンになればそれでよいのだ。会計もヘッタクレもない。あとはモノどもよきに計らえで、老狸抱えられるようにタクシーに乗せられてねぐらに帰るという筋。そのねぐらがきれいどころの二号のお住まいとも聞いた。(「酒味快與」 堀川豊弘) ただ酒 


「酒のさかな」序
熊本の田舎町で酒屋の伜に生れ、兄から「お前は大学に入って酒造りのけいこをして来い、卒業までに煉瓦造りの庫を十ばかり建てておく」といわれ、日本一の酒造りになって、日本の西半分は、おれの酒を飲ましてやるんだと、大きな夢をいだいて大学に入った。学校の勉強ははんぱにして、灘・伏見の酒倉に入り、倉男に混って酒造りにはげんだ。さて卒業はしたが、兄の約束した煉瓦の倉は一向に建っていない。仕方がない、台湾にでも行くかと行ってはみたものの、思ふ通りには行かない。学校に帰って研究生活をやって見たり、事業を計画してみたりしている中に、何時の間にか最も予期しなかった教員になってしまった。「事志とちがう」と言いたいところだが、幸にも醸造とか食品加工とか、自分の好きな学問を研究することができて、極めて楽しく暮らしている。全国酒造家の二割近くは自分の弟子である。これから五年十年たったら、酒屋の半分は自分の息のかかった者になるだろうと、若い日の夢をいまだに持ちつづけてる。(「酒のさかな」 住江金之) 住江金之 


師は酒豪
師(井伏鱒二)はたいそうな酒豪であって、底なし、時知らず、しかも酔って乱れずである。一八九八年の生れとあるから、当年とって七五才という高齢でいらっしゃるわけだが、豪酒、強記、博覧、ときたまチクチクと側近者を刺す厭がらせや皮肉の鋭さ、そのうえ山の湖へ遠走りして朝早く起きて冷たい水にたちむかおうという気迫…まことに恐ろしい。総合点として拝察するに、ざっと一五才から二十才くらいお若いのではあるまいか。だから、途中からぬけだすのがたいへんで、腰をあげにかかると見るとすかさず、私のような老人をひとりおきざりにしてどこへ逃げようというのですかと、やられる。やんわりチクリと刺されるのである。それにひるんで腰をおろすしてしまうと、底なし、時知らずである。午前様で、ひどい宿酔で眼をさまし、肝臓がヒリヒリするというぐあいになる。一度腰をあげたら何をいわれても聞かないことで、何やら恐縮して肩をすぼめ、できるだけ摩擦の少ない姿勢になり、眼を伏せて、ア、ア、アなどと口ごもりつつ、すばやくお座敷の出口のほうへすべっていく。耳のうえや後頭部の近くで何か声がするけれど、けっしてふりむいたり、たちどまったりしてはいけない。うまく脱出が成功して戸外に出られると、何か一仕事やり終えた気持ちになる。(「姫鱒」 開髙健) 


稲芽酒
国立民俗博物館の教授であった吉田集而氏はインドとビルマ(現・ミャンマー)の国境近くのナガランドで今も造られているという「稲芽酒」にその原点を見ています。西方で発見された麦芽利用のお酒(ビール)がこの地方に伝播し、それを稲作地帯であったナガランドの人たちが稲で代替できないかと考えるのは至極当然のことでしょう。しかし、稲芽自体には糖化酵素はほとんどないので、麦芽と同じようにはお酒にならないわけです。試行錯誤の結果、ナガランドの人たちは、稲芽に黴(かび)が生えたときにうまくお酒になることを知り、ここに黴利用のお酒が誕生したというのです。この方法が、雑穀と麦の地帯であった中国北部に伝わり、米から雑穀、麦に黴を生やして造るお酒に替わっていったというのです。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 酒一元説 


ウイスキー・タウン
昔、インディアンと毛皮などを取引する交換物としては、酒が最も歓迎されたものである。インディアンの指定居住地であったレキシントンという町などは、指定居住地内が禁酒であるために、そのすぐ外側に酒を飲ませるために出来たような町である。今でも、よく禁酒を条例で定めてある大学町に接した隣町では、その境界近くに酒場や酒販売店が密集している。こういった酒のために発生した町を"ウイスキー・タウン"と称しているが、こういた町は特に西部には多い。(「ウイスキーとアメリカの歴史」 「洋酒天国」 開髙健監修) もちろん今、こういうことはないそうです。 


地獄のトレーニング
よし、それでは、この年齢まで寄せつけなかった酒に挑戦してみよう。私はひそかに決意して、地獄のトレーニングを始めたのであります。かくて五年。努力こそは栄光への道。今では、なんと、ふつうの缶ビールを一本、あの三五〇㏄をこなせるようになったのです。こんなに飲んでいいのかしら!(「ご内聞に」 小沢昭一 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


葛飾中割で
舟端にこぼるる酒や浜祭
海苔が終わると春の葛飾浦はぼんでん祭だ。私は仲町青年団の役員舟に便乗させてもらうため四月八日朝七時半浦安行のバスにのった。八雲神社前の堀には美しく旗を押立てた新造船と太い松や丸太をつんだ青年団の船が待機していた。濃い春のもやが消えて快晴である。念仏講の婆さん達が岸に供花をたて鉦(かね)をたたいて施餓鬼の詠歌をやっている。この一年間に新造おろしをした舟が、美しく飾り、酒と若い衆を積んで景気よく水脈をつらねて沖に向かう。この日祭をやる仲町は西内浦の海苔場への航路「次郎澪(みお)」の澪木の立て替えをするのである。新造船が役員舟の指示した場所に、にぎやかな囃(はやし)と共に、御幣(ぼんてん)をささげ、澪木の棒杭を立てている。海面にその声がちかぢかとひびく。「今年はさびしいもんだ。大きな枝つきの澪木を自らの手で立てるのだろう。若くたくましい青年たちの手で、新しい澪木がたちまち立ってゆく。葛西ばやしの舟が近寄ってきた。一はやし終わると小鼓うちのおじさんが私に茶椀酒をつきつけた。「写真は後にして一杯行きねえ」(「江東歳時記」 石田波郷) 


配給の御蔭
だが、一頃までよく耳にしたが今は聞かれなくなったあのせりふ、「私が酒を飲みだしたのは戦時中の配給の御蔭ですよ」、これが私の場合も当てはまるのであって、ただしかし、なぜ人は「配給の御蔭で」酒を飲むようになったのか。食糧事情が極端に悪かったから何でも口に入れた、ということもあったであろうが、それよりも、惜しいから飲んじまえ、または飲まなきゃ損だというような心理がそこには働いていたように思われる。とにかく戦後間もない頃には、私は大変酒が好きな人間になっていた。-
長いあいだかかって、私は酒の味を探り当て来た。長い時間をかけた穏やかな鍛錬の甲斐あって、私のからだの肝臓を初めとする諸器官は、自然に酒に馴染んで来ているらしい。今の私は、どれだけ飲んでも酔わないというのではなく、その日の調子でちょうどいい加減に酔ったところへ来ると、自然に手が酒盃を置くようになっているようだ。(「配給のお蔭で」 木下順二 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


光圀の特効薬
光圀には、このほかにもうひとつの(二日酔い)特効薬があった。くず湯の一種で、光圀編の『救民妙薬』に「酒毒には葛の花かげぼし、粉にして、ゆニて用てよし」と披露されている。また「瓠苗花(ゆうがほのはな)かけ干粉ニして用吉」、さらに「茄子花陰乾粉ニして用吉」ともある。この葛は「諸毒解(しょどくけし)…葛根せんじ用て吉」としての効用もあるとしている。(「水戸黄門の食卓」 小菅桂子) 


下市町
割り箸の使い捨ては、清浄潔癖な日本人らしい考えで作られたもので、材料は主として酒樽に使った残木が多く、今も奈良県の下市(しもいち)の町でつくられております。下市はお箸の町かと思えるほど箸作りの家が多く、吉野杉の匂いがたちこめております。(「味覚三昧」 辻嘉一) 


東京大正博覧会出品之精華(3)
清酒『両関』 秋田県雄勝郡湯沢町 伊藤仁右衛門君
本品は精撰せる原料と、幾多苦心を重ねたる醸造法になれる芳醇にして灘地方生産品に比し毫(ごう)も遜色なきのみならず、一種独特の香気は飲用家の歓迎する所となり、近時其(その)販路頓に拡大せらるゝに至れり。本品が過去に於ける受賞の概略を記せば左の如し。 第五回奥羽五県聯合(れんごう)会共進会…一等賞 東京勧業博覧会…三等賞 第一回全国清酒品評会…一等賞 第一回秋田県清酒品評会…一等賞 第六回奥羽六県聯合共進会…一等賞 第二回秋田県清酒品評会…一等賞 第二回全国清酒品評会…二等賞 第三回秋田県清酒品評会…一等賞 第四回秋田県清酒品評会…一等賞 第三回全国清酒品評会…一等賞 第五回秋田県清酒品評会…一等賞 第四回全国清酒品評会…優等賞 而して今時博覧会に於ては名誉なる金牌を受領せり、以て其品質の優良なるを推知(すいち)す可きなり。君が清酒醸造の業たる明治七年の創始に係る、当時醸造法甚だ不完全なるを免れざりしを以て最も苦心を重ねしと雖(いえども)、尚且(なおかつ)殆(ほと)んど酒と称するに足る可きものをさへ得る能(あた)はず、茲(ここ)に於てか大に発憤し自ら杜氏を率ゐて其名産地たる灘に趨き熱心醸造法を学び、帰来是(これ)に由て醸造を試みしも尚好果を得ず、是即ち気候風土の異るに起因するを察し、苦心考究得るの結果初めて酒らしきものに至れり、是に於て益向上の歩を進めんことを期し、大蔵省醸造試験場の開設せらるゝや、講習生として家族を派遣し、熱心研究せしめ、学理を応用して専ら醸造法の改善に苦心せし結果、逐年好成績を挙げ、竟(つい)に理想的銘酒を得て名声を四方に馳せ以て今日に至れり、現に該地方に於ける酒造組合長として重きを為せり。(「東京大正博覧会出品之精華」 古林亀治郎 大正三年 「近代庶民生活誌」所収) 


飲むか、飲まぬか
だいたい、いまの人たちは、若くないのである。いっしょに飲んでいても、いつも、身構えている。年齢は二十三、四かもしれないが、考え方は、わたしよりよっぽど老けている。それこそ、酒席でうっかり仕事の話でもしようものなら、とたんにイヤな顔をする。急にモソモソしはじめ、そんなつもりで飲みにきたのではない、などという。-
じつをいうと、仕事をすることと、飲んで仕事の話をすることとは、もちろん、ちがうのである。うまくはいえないけれど、仕事をしているわたしは、ホントのわたしではないこともあるが、飲んで仕事の話をしているわたしは、まぎれもなくわたしである。どうも、それくらいの差はあるらしい。そんなわけで、飲んで仕事の話をして、仕事をしたような顔をするのも困るが、飲んで仕事の話もできないのは、もっと困る。それに、まことに恥ずかしい話だが、わたしがきみたちになにか与えるものがあるとしたら、それは、仕事の話を通じてしかないではないか。(「男の博物誌」 青木雨彦) '70年代の文章だそうです。 


三一二補注
この歌は、いわゆる千姫の吉田御殿の怪説と関係づけられている。すなわち、徳川家康の孫、秀忠の長女である千姫が豊臣秀頼に嫁し、元和元年(一六一五)大阪落城後、夫となるべき坂崎出羽守が憤死してから本田美濃守忠朝と再婚、その死後、家老吉田修理介の三番町の邸に館を建てて住んだ。世人呼んでこれを吉田御殿という。姫高台に出ては自ら往来の人を見、美少年を見れば即ち招き入れて、姫と共に長夜の飲をなしたが、一度招き入れた者はこの館から出たことがないという。(「山家鳥虫歌 近世諸国民謡集」 浅野建二校注) 「この歌」とは、周防の「吉田通れば二階から招く しかも鹿の子の振り袖が ションガヘ」です。 


ぬかりはあるもんか
昭和二十年の四月に田中(英光)が太宰(治)のところを訪ねたときには、太宰は夫人を甲府の田舎に疎開させて、小山清と二人で住んでいた。下戸の小山では酒の相手にもならず、太宰は一人でしぶしぶと葡萄酒を空けていたとき、田中が一升瓶を下げて行ったのである。お互いにその夜酒をくみかわしたあと、ぐっすりと眠り込んだときに空襲があった。家は一部がこわれた。三人は防空壕に逃げ込んだが、太宰がふと見ると、田中はがたがたふるえているではないか。田中は「上着を着てこなかったから、寒いんですよ」といって、まだあたりは爆撃の明るさの中を座敷へとって返した。そしてせめて、さきほど瓶に二合ほど残っていた酒を飲んでおこうと、瓶を持ち上げてよくよく見たところ、すっかり空になっていた。田中は再び防空壕へもどり太宰に、「お酒、全部、飲んでしまいましたね、ひどいなあ」
「そこはぬかりはあるもんか。先刻、防空壕にくる前に、残っているのをみんな飲んできたんだよ、ハッハッハ…」(「作家と酒」 山本祥一郎) 


天保九年[一八三八]戊戌(つちのえうぬ)四月閏
○酒入津(にゅうしん)尠(すくな)かりし故、市中に濁り酒を製して售(上:隹、下:口 あきな)ふ家多し。
慶応二年[一八六六]丙寅(ひのえとら)
○此の頃、濁酒(にごりざけ)世に行はれ、中汲みと称へ、これを醸して商ふ店次第に殖えたり。価の賤しきをもて下賤の飲みものとはなれるにや。「研北雑誌」に席琰「王炎 えん」謂レ人曰(せきえんいいていわく) 貧者以レ酒為レ衣(ひんじゃさけをもってころもとなす) といへるもげにさる事と覚ゆ。濁酒、一に濁醪(だくろう)、黄陪(おうばい)、単「酉労 ろう」などいへり。永正十三年御選謎合(なぞあわ)せに、「十里の道をさげ帰るにごり酒」、また沢庵和尚へ濁り酒を贈るとて、十里酒と銘を書きたりしかば、「十里とは二五りといへるこゝろかやすみがたき世に身をしぼり酒」(沢庵)(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


E 飲料(源氏物語)
上達部(かんだちめ)の注1平張(ひらばり)に物参り、御装束ども、注2直衣狩(かりぎぬ)のよそひなどに改め給ふほどに、注3六条の院より注4御みき・御くだものなど奉らせ給へり(行幸)
御みきあまたたび参りて、ものの面白さとどこほりなく、御酔泣どもえとどめ給はず(若葉上)
人々大御酒(おほみき)など参るほど(桐壺)
人々渡殿(わたどの)より出でたる泉にのぞき居て酒飲む(帚木)
注5人々に酒しひそしなどしておのづから注6物忘れしぬべき夜のさまなり(明石)(「源氏物語事典」 岡一男)
注1 幕を張って作る、棟のない狩屋。「物まゐり」は食事をなさり、の意。 注2 直衣か。一説に「きなを(着直)す也」(弄花抄)。 注3 源氏。醍醐天皇大原野行幸の際の「六条院(宇多法皇か)被酒二荷、炭二荷、火炉一具」(吏部王記)の記事に倣うか。 注4 「おほみき」の表記が普通。陽明本は「おほみき」。あるいは「おほんみき」(梅沢本栄花物語)と読むか。河内本は「おほみき御へとも、すみ、火ろなど」と、前注の吏部王記により近い内容を示す。「御へ」は「御贄(おほむべ)」で、食糧の意。 注5 源氏のお供の者たちに酒を無理じいじたりした。「そす」は動詞に付いて、「度をこして…する」の意を表わす語。 注6 ふだんの憂さを忘れてしまそうな。(「新日本古典文学大系 源氏物語」) 


カブト酒
円馬師匠は酒好きで、町廻りのときには真打ですから一番後からくる、ぼくは前座ですから、一番前へ並んでいますと後の円馬師匠が前のぼくの車まで馳らせてきて、ちょっと列から「ぬけろ」という。「何ですか」というと、この日中「シラフ」で、さらし物にもなれない、酒屋を見つけたから、一杯やって行こうと酒屋へはいって、カブト酒(酒屋の立ち飲み)を人力車夫にも飲ませます。そのあいだ、他の人は廻っている。こっちは酔いが廻ってくる。真打と前座が車の上で酔って寝てしまう。これを引く車夫が酔ってヒョロヒョロの千鳥足。今、町廻りはどの辺を廻っていますかと聞いて歩く。ようやく小屋へ着いたら、真打がいないので手打ができないと「するめ」と「冷酒」を前にして待っていたことがありました。これなぞは旅の「うい」ものの分でしょう。(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) 


人力車夫と車力
爰(ここ)に妙な現象がある人力車夫は大概酒「上:夭、下:口 の」みで其の仕事を仕舞つた時分には居酒屋へ這入つて蛤鍋(はまぐりなべ)かヌタか何かで二三合引懸る連中が多い之に反して車力とか馬方牛方などは道傍(みちばた)の大福餅か切餅を焼いて売(うつ)て居る屋台店へ寄(よつ)て餡(あん)餅を食ふ下戸が多い従(したがつ)て人力車夫の多い市中には居酒屋多く車力の多い橋の側や牛方馬方の多い田舎道には餅屋が多い是(これ)は余程面白い現象ではないか併(しか)し考へて見ると真ン更(まんざら)理屈の無いでも無い人力車は急いで走るゆゑ早速(てきめん)身体に奮発力を与へる所の酒を現物で飲み車力や馬方は緩々(のろのろ)と力を使ふ者ゆゑ先づ餅で之を食て其(それ)が麹になつて其が又酒になつて茲(ここ)に始めて身体に興奮剤となると云ふ順序で亦緩々と効力を現はす品で事足ると云ふ訳らしい=明33.2.9(「朝日新聞の記事にみる 奇談珍談巷談[明治]」 朝日新聞社編) 


やはりよろしいふるさとの酒
聞いて、妖怪たちは大よろこび、さっそく酒や果物を並べて、歓迎会を開き、椰子酒を石の碗になみなみとついで、差し出します。それを一口飲んだとたん、悟空は口をゆがめて、「まずい、まずい」すると、崩(ほう)、芭(は)二将(四健将の二人)が、「大聖さまは天宮で仙酒や仙肴を召し上がったので、椰子酒はお口にあわないのでしょうが、ことわざにも申しておりますよ。『味はよくともわるくとも、やはりよろしいふるさとの酒』ってね」「なるほど、諸君はさしずめ『懇意であろうとなかろうと、やはりなつかしいふるさとの人』ってところだな。わしは今朝、瑤池の中で頂戴したとき、見たのだが、あそこの長廊下には瓶(かめ)がたくさんあって、そのなかはみんな上等な酒なんだ。諸君は、まだ味みをしたことがないだろう。待っておれ、わしがもう一度行って幾瓶か盗んで来るから。めいめい半瓶ずつ飲めば、みんな不老長生だぜ」猿たちはうれしくてたまりません。悟空はさっそく洞門を出ると、また、とんぼ返りをし、隠身の法を使って、蟠桃会に飛び、瑤池の宮殿にはいりました。見れば、例の酒造り・粕運び・水酌み・火焚きの連中はまだ眠りこけております。悟空は大きなのを選んで、両脇に二つかかえ、両手にも二つひっさげると、雲を一回転させて、洞の猿たちのところへもどって来て、「仙酒会」を開き、それぞれ何杯か飲んで楽しみましたが、そのことはお預かりといたしましょう。(「西遊記」 呉承恩 小野忍・訳) 古巣では「大鉢・小鉢に盛った料理や椰子酒・葡萄酒、仙花や仙果」を飲食したというところもあります。 



字源 象形、徳利の形を象る、酒は秋八月黍が成熟して醸すより、転じて成熟の義とす、十二支の第十位に当て、律にては南呂、月にては陰暦八月、方位にては西、時刻にては午後五時に配す。鳥に対して酉を日読のトリといふ、干支(えと)に用ふる故なり(隹をフルトリといふ。舊の中に書けば也)。扁として鳥扁(とりへん)といふ。(「大字典」 上田萬年)
解字 象形。つぼの中に酒がかもされて、外へ香気がもれ出るさまを描いたモノ。シュウということばは、「てへん+酋」シュウ(しぼる)-「てへん+秋」シュウ(ひきしぼる)-就(ひきしめる)などと同系で、もと酒をしぼる、しぼり酒の意であったが、のち、それを酒の字で書きあらわし、酋はおもに、一族を引きしめるかしらの意に用いるようになった。(「漢字源」 藤堂明保・松本昭・竹田晃編) 


日英通商条約
この通商条約では貿易制限及び関税率が定められている。一八五八年一一月九日付の『ザ・タイムズ』によると、税率については三段階の関税率が設定されている。第一段階は、無関税輸入品で、鋳造または非鋳造の金貨、銀貨、日常使用する衣服類、家具、印刷物等で、第二段階は、五%輸入関税品で、建築用材、船舶用材、米、蒸気機械、乗り物類、塩漬け食品、パン、動物、石炭、木材、亜鉛、スズ、生糸、綿および毛製品等で、第三段階の三五%関税輸入品は、リキュール類である。上記に分類されていない製品はすべて二〇%の関税率が課されるものとする。日英通商条約は、日米通商条約と基本的には同じものであるが、日米通商条約は、当時のアメリカの極東貿易の性格を反映して、日本からの茶の輸入に関心が払われ、日本への輸出にはそれほど関心が向けられなかったため、関税率は二〇%という比較的高い水準に定められていた。これに対して、イギリスは日本への輸出に関心があり、日本の輸入関税をできるだけ低い関税率に抑えようとしたが、アメリカの先例が存在するために、それを踏襲せざるをえなかった。それでも、イギリスの主要輸出品である綿製品及び毛製品の関税率は、五%にするということに成功した。両国の輸出・輸入に関する関心の違いは関税交渉に現れており、経済発展の相違を反映したものである。(「『ザ・タイムズ』による幕末維新」 皆村武一)  「リキュール類」は条文では、「蒸溜或ハ醸し種々の製法にて造りたる一切の酒類」となっているようです。 


田家 ゐなか 王績
(一)平生 唯ダ酒楽                  平生 楽しみは唯だ酒酒
性(しよう)ト作(な)ツテ無キ能ハ不(ず)       性(くせ)になつて無くては すまされぬ
朝朝 郷里ヲ訪ヒ                   毎朝 郷里を訪ねさせ
夜夜 人ヲ遣ハシテ酤(カ)ふ。            毎夜、人を買ひに遣(や)る。』
(二)家貧ニシテ留客久シ               家が貧乏で久しく出稼してゐたので
精麤(せいそ)を道(い)ふに暇アラ不。        酒の良し悪しなど言ふ暇(ひま)はない。
簾(れん)ヲ抽(ぬ)キ持ツテ炬(キヨ)ヲ益ス     簾(すだれ)を抽き取つて炬(あかり)に添へる
簀ヲ抜イテ更ニ炉ヲ燃ヤス。            簀(すだれ)を抜いて更に炉に燃やす有様。
恒(つね)ニ聞ク飲足ラ不ト              常に飲み料が足らぬと家人に聞かされる
何ゾ見ン残壺有ルヲ                 何うして徳利に残りが有るものか。』(「中華飲酒選」 青木正児訳著) 


鳴り出でし雪雷(ゆきいかづち)を聞きながらきさらぎ蟹の甲に酒煮る 吉井勇
『人間経』より。蟹の甲羅酒を煮ながら、雪おこし(雪をおこす雷)を聴いている。北国の蟹を肴にしての吟詠か。急変する空の異変に、ひとり静かに酒を飲む、流離の作者のたたずまいが彷彿とする。(「句花歳時記 春」 山本健吉編著) 


さけ 酒(名)
米で醸造した飲料。清酒、濁酒などがある。
霧の山鳩酒とうどんの日の暮れに 金子兜太
邯鄲や滋養の酒を舌の先 村越化石(「俳句用語辞典」 石原八束・金子兜太監修) 


糟汁・酒がす
955人の賜びし酒糟(さけがす)炙り黒砂糖いまは無きかなとい欲(ほ)り侘びつつ(雪客(さぎ))一九五五 尾山篤二郎
956酒がすを鍋にはわかせ堅塩も得がてにするをあはれ酒糟(雪客(さぎ))一九五五 尾山篤二郎
957糟汁におもてふかるる夜のしじま狐のこゑはまた近づけり(市路の果)一九五九 木俣修(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


生酔の川柳(2)
生酔がのってわたし(渡し)の人がへり
生酔の供ものひろいひろい来る
生酔を勝手で娵はおかしがり
生酔をあつかわせてはとしま(年増)也
逃げ支度して生酔をじらす也
ばかな事生酔琴でおどる也
梅の盛りには生酔できぬなり
いふことをきかぬ生酔木から落ちる
たたぬ約束で生酔ちょき(猪牙舟)にのせ (「飲んだくれてふる里」 小宮山昭一) 


鉄鉢酒
そこで私は或る寺の住職に、こういうことはないかときいてみた。鉄鉢で酒を貰うことなどあるまい。それに僧は酒は禁じられているという。しかし私は、寒い雨の降る日、酒屋の店先へ来て経を誦している雲水に、店主が一盃の酒を布施したとて不思議はないように思う。そういう場合雲水は鉄鉢を用いる以外に方法はあるまい。「テッパ」は「鉄鉢酒」ではあるまいか。博雅の士の教えを受けたい。いずれにしてもコップ酒はうまいものだ。古今亭志ん生は有名な酒徒である。下谷の方の料亭に彼が呼ばれた。客は小泉信三、阿部能成、小宮豊隆、吉右衛門などであった。私は末席を汚していた。志ん生は一席伺い、盃を頂戴してから、別席で御膳を貰った。伜の馬生がいた。私はそこへ行って師匠の豪快なコップ酒を見た。酔っ払った志ん生が「お前さんは若いに似あわずいい酒だね」などといった。もう二十年以上前の話だ。(「厨に近く」 小林勇) 


方言の酒色々(3)
三、四月のころ、鰹漁の始まる前に、漁師が仕事の打ち合わせかたがた船主の家に集まってくみかわす酒 はなみざけ
水で割らない酒 むく/もく
水または他の酒を混ぜた酒 わりざけ
升や樽から滴り落ちてたまった酒 じょーぐだまり
手作りの酒 てしゅ
仏事の酒 ごまず
父親が亡くなった時、年の若い継嗣などが戸主会に出席させてもらうために差し出す酒 いっしょ-ざけ(日本方言大辞典 小学館)  

講演嫌い
熊楠が国学院大へ講演に出かけた時のこと、最初、一五、六人の集まりなら話しをするという約束だったが、行ってみると大講堂へ案内され、三〇〇人以上の聴衆がつめかけていた。熊楠はすっかりツムジを曲げ、「酒を持ってこい」と言い、酒をガブ飲みして、酔っ払ってしまい、何も言わずにサッサと降壇した。このように、熊楠は講演が大嫌いだった。一九一九(大正八)年八月二五日のこと。熊楠が高野山に登山したのを聞いた真言宗の管長土宜法竜が講演を依頼、しぶる熊楠にムリヤリ承諾させた。講演場所は大師教会堂で、五、六〇〇人の人々が集まったが、時間になっても講師が一向に現れない。あちこと探して、居酒屋で酔っぱらっていた熊楠を発見。抱きかかえるようにして会場に連れてきて、やっと聴衆に紹介しても壇上に登らない。冷水を飲んだりして一時間ほどしてから酔いをさましてやっと登壇した熊楠は「諸君は知るまいが、わが輩の家の酒はうまいぞ」と話して聴衆は呆然。そのあと、熊楠は急に泣き出したかと思うと、今度は前のテーブルを押しのけ、どっかと座り、「恒河のほとりに住居して 沙羅双樹の下で涅槃(ねはん)する」と口三味線でチンチンと歌い出した。アッケにとられた会場からは笑い声が起こり、気の早い聴衆は帰り出した。真っ先に会場から逃げ出したのは管長であった、という。(「ニッポン偉人奇行録」 前坂俊之) 


うまさけ(味酒)
 古語で神酒を「みわ」といったことから、「三輪」にかかる。また、「三室」「鈴鹿」「餌香(えか)」にかかる。『阿部』。
味酒三輪の社(やしろ)の山照らす 秋の黄葉(もみぢ)の散らまく惜しも(万・一五二一)
汝国名何問賜き。白く。味酒鈴鹿の国と白き。(皇大神宮儀式帳)
吾(わ)が儛「イ舞」(まひ)すれば 旨酒(うまざけ) 餌香の市(いち)に 直(あたひ)以て買はぬ(顕宗紀・即位前)
註 「うまざけ」が「三室」にかかるとする『阿部』の例示(万・1098)は、諸本では「味酒」となっている。
うまさけの(味酒の)
 「三諸(みもろ)」にかかる。三諸山は三輪山の別称。また、「み」と同音の「身」にかかる『阿部』。
うまさけ三諸の山に立つ月の 見が欲(ほ)し君が馬の音(おと)そする(万・2517)
生酔をわらはば笑へ味酒(うまざけ)のみをすててこそうかむ瀬の貝(狂歌・徳和歌・699)
うまさけを(味酒を)
 酒を「かむ」というところから、「かむなび山」にかかり、また「三輪」「三室の山」 にもかかる。
春されば 花咲きををり 秋づけば 丹(に)の穂にもみつ 味酒を 神奈備山(かむなびやま)の 帯にせる 明日香(あすか)の川の 速き瀬に…(万・3280)
味酒を三輪の祝(はふり)が斎(いは)ふ杉 手触(てふ)れし罪か君に逢ひがたき(万・715)
我(あ)が衣(ころも)色どり染めむ味酒を三室の山は黄葉(もみじ)しにけり(万・1098)
註 『岩波・新体系』は「味酒を」のところを「うまさけ」として「を」がつかないので『岩波文庫』の表記によった。(「私撰枕ことば辞典」 鏡山昭典) 


草帚売り
はゝきと云ふ草をもつて造る。江戸にてこれを売ること、竹帚と同じく荒物店以下これを並べ売る。京坂は荒物にもこれを売らず。いはんや担い売り専らにこれなし。かの地これを用ふは醸酒戸・醸醤戸等のみ。けだし酒醤ともにこれを製す家、各巨戸故に、多くは塁地にはゝきを植ゑてこれを用ふ。故に賈物にこれなし。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 


さけのかす【酒の糟】
たのしみは雪ふる夜さり酒の糟あぶりて食うて火にあたるとき(志濃夫廼舎 橘曙覧)(「日本歌語事典」 大修館書店) 


団体旅行列車
禁酒運動は思わぬ成果を生んだ。旅行業の創始者として有名なイギリスのトマス・クックは禁酒主義者であった。彼が居酒屋に代わる娯楽を提供する目的ではじめたのが、当時普及しつつあった鉄道を使った旅行であった。一八四一年、「全国禁酒大会」と、一八五一年の「ロンドン万国博覧会」に、団体旅行列車を使って乗りこんだのだ。彼は、旅行を酒に代わる娯楽にしようとした(角山・川北編『路地裏の大英帝国』、二三〇頁)(「居酒屋の世界史」 下田淳) 


菜の花
鍋に湯を沸かして塩を入れて菜の花をサッとゆでる 時間はほんの1分弱 すぐに冷水にとって水気をとる 幅広の昆布を酒で湿らせて 菜の花をはさんだら ラップでくるむ タイの刺し身には薄~く塩をして やはり昆布ではさんで ラップでくるんで菜の花といっしょに冷蔵庫に入れてかる~く重しをかけて 2時間から一晩ぐらい寝かせればOK それぞれ盛りつけてワサビを添えれば完成(「風流つまみ道場」 ラズウェル細木) 


山陽と茶山
京都に住んだ頼山陽(一七八〇~一八三二)が地元の酒よりも辛口の伊丹酒を愛し、伊丹酒と琵琶湖の魚が手に入る場所であれば仕官してもよいといった話はあまりにも有名だが、山陽は伊丹酒でも坂上氏の「剣菱」をいたく好んだ。「戯(たわむれ)に摂州の歌を作る」にはじまる詩を詠んだが、ここで「剣稜」の名が挙げられている。この詩がきっかけで「剣菱」の主人と交際がはじまり、好きな酒もたっぷり飲ませてもらうことができたのだから、いうことはない。彼の師菅茶山(かんちゃざん)は備後(びんご)神辺(かんなべ)の地に住み、穏やかな田園風景を詠んだ漢詩が多く、私は頼山陽よりも菅茶山を好ましく思う。茶山は、山陽は自分にしきりに伊丹酒を贈ってくれるが、「其の酒の勁烈なるは其の詩の如し」と評した。私自身は、あまりに才気あふれ、するどく、激しいよりは、穏やかな酒がよいが、一般にはこうした味が好まれた。「剣菱」は江戸っ子の間で人気が高かった。江戸の川柳に、 すき腹へ剣菱えぐるやうにきき というのがある。「剣菱」経営者が変わり、今では灘の酒だが、剣と菱を示す「(剣菱の意匠登録の模様)」の商標は引き継がれている。男性的辛口酒の「剣菱」しか飲まぬ熱烈なファンが今もいる。(「江戸の酒」 吉田元) 


一二 飲みやれ大黒歌やれ恵比寿 殊にお酌は福の神
普通、上の句が「飲めや大黒歌えや恵比寿」の形で、大黒舞唄や祝儀唄として広く全国に分布するもの。「福の神」はお多福(おかめ)とする説もあるが、ここは七福神の一である弁財天をさすか(『日葡辞書』)。地方によりオカの神、すなわちウカ(宇迦)の神(穀物の神)とも歌う。(「山家鳥虫歌 近世諸国民謡集」 浅野建二校注) 「山城国風」だそうです。 


箒売り
棕梠箒(しゅろぼうき)売りなり、三都ともに古箒と新箒と易(か)ふる。古き方より銭をそゆる。古箒は解きて棕梠縄およびたわし等に制し売る。また江戸には」竹箒をも担ひ売る。京坂には棕梠箒の他は担ひ売ること稀なり。竹箒は店に売り、草箒は酒造の他は用ふるも稀なり。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 


しもつかれ(2)
海のない県のため、肴は川魚と山菜が主流。清流でとれる鮎、いわな、やまめ、うぐい、鱒、春の山菜、秋のきのこなどが豊富。栃木県ならではのものとしては"しもつかれ"があります。正月の新巻の残りを塩ぬきして細かくきざみ、大根と人参は荒くすりおろし、節分の豆の外皮をとって酒かすで気長に煮込みます。まことに、素朴な料理ですが、なんとも酒に合い、この料理をつくる初午までの期間は酒かすが高くなるほどまで愛されています。(「酒博士の本」 布川彌太郎) しもつかれ 


十九世紀までの酔っ払い
一九世紀になるまで、大酒飲みはそれほど非難されなかった。伝統的農村社会においては、祭りの際の酔っ払いは当たり前のことであった。一八世紀ドイツの農村では宴会して酔っ払って礼拝に出たという記録もある。もともとキリスト教は飲酒に「甘い」側面がある。修道院で酒をつくり、ミサでは聖職者がワインを飲んだ。もちろん酒の害を説く人びとはいた。ヨーロッパ中世の修道院や教会では酒を飲めたが、泥酔すれば罰(苦行)せられるという規則も定められた。カール大帝は酔っ払って裁判することを禁じた(春山『ビールの文化史1』、八四~八五頁)。しかし、宗教改革者ルターやカルヴァンも禁酒を説いたことはない。なぜ近代になって、禁酒運動が展開されるようになったのか。それは蒸留酒の普及が原因であった。(「居酒屋の世界史」 下田淳) 


はなし塚 台東区寿二丁目九番七号本法寺
この塚が建立された昭和十六年十月、当時国は太平洋戦争に向う戦時下にあり、各種芸術団体は、演題種目について自粛を強いられていた。落語界では、演題を甲乙丙丁の四種に分類し、丁種には時局にあわないものとして花柳界、酒、妾に関する噺、廓噺(くるわばなし)等五十三種を選び、禁演落語として発表、自粛の姿勢を示した。この中には江戸文芸の名作といわれた「明烏(あけがらす)」「五人廻し」「木乃伊取(みいらとり)」等を含み、高座から聞けなくなった。「はなし塚」は、これら名作と落語界先輩の霊を弔うため、当時の講談落語協会、小咄を作る会、落語講談家一同、落語定席席主が建立したもので、塚には禁演となった落語の台本等が納められた。戦後、昭和二十一年九月、塚の前で禁演落語復活祭が行われた。塚には今まで納められていたものに替えて、戦時中の台本などが納められている。 平成元年三月 台東区教育委員会(現地解説板) 碑文を書いたのは鴬亭金升だそうです。 


甕の底に残った酒が一番うまい[台湾](残り物には福がある)
体には水が、命には酒が必要[伊]
薬屋へ行くより飲み屋へ行け[独](酒は百薬の長)
恋よりも酒に酔え[タイ]
子供と馬鹿と酔っ払いは真実を語る[ブルガリア]
子どもと船乗りと酔っ払いは神様が面倒を見てくれる[英](「世界たべものこたわざ辞典」 西谷裕子) 


青山の見た織田
織田(作之助)の友人であった作家の青山光二が、こんなふうにいっている。「酒に酔った状態の織田を見たことは、私は一度もない。酔うほど飲めるわけでもなかったし、飲んだとしたところで酔いはしなかった。もともと彼は、酒を飲んで酔う必要はなったのである。酔う必要から人は酒を飲むのかどうか、酒飲みではない私にはわからないが、少なくとも、酔うために酒を飲む場合があるのは事実だろう。ジャン・コクトオの『阿片』という書物に、日本人は常時阿片に酔っているような国民だという意味のことが、たしか書かれていたが、織田作之助という男は阿片だか酒だかわからないが、常住坐臥、寝ても醒めても、そういうものに酔っているかのような人間だった。彼の生活感情が、常人とは一ト調子も二タ調子も、完全に異なっていたこともを、かんたんに説明するのはむずかしいが、つまりは、酔っている者と醒めている者との違いであろうか。酔っているような生活感情の中で、現実を見すえるリアリストの眼だけが冴えて光っていた」(「織田作之助の酒」)昭和二十一年の晩秋、織田が亡くなるほんの二、三ヵ月前のこと、その頃織田は読売新聞の連載小説『土曜夫人』執筆のため、大阪から東京へ来ていた。ある夜、青山と並んで西銀座の「ルパン」のストゥールに腰をおろし、お互いに二杯目のダブルグラスが重ねられたことに、「酒量があがったなあ」と感心し合ったほどだったという。(「作家と酒」 山本祥一郎) 


アルコリカ Alkohliker(独)
正しくは常習飲酒家であるが、大酒飲みのことをいう。「私は一日二合しか飲んでいません」というのがその三倍以上飲んでいるとわかっていても、医者は患者さんに「そうですか」という。C型肝炎の診断が可能となって、アルコール性肝障害といわれていた中に、かなりC型肝炎が混じっていることがわかってきた。昔、原因不明の病気はみんな結核が原因といわれていたことと同じように、肝臓ではアルコールが大きな原因の一つと考えられていたが、そうでもないようだ。(「医者語・ナース語」 米山公啓) 


「酒みずく」(2)
朝はたいてい七時前に眼がさめる。すぐにシャワーを浴びて、仕事場にはいるなり、サントリー白札をストレートで一杯、次はソーダか水割りにして啜(すす)りながら、へたくそな原稿にとりかかる。原稿はずんずん進むけれど実感がない。嘘を書いているようで、「身區」(からだ)じゅうに毒が詰まったような、不快感に包まれてしまう。私はそれをなだめるために、水割りを重ね、テープ・レコードの古典的通俗的な曲をかけるか、ベッドにもぐり込んでしまう。いっそこの瞬間死んでしまえばいいのに、などと独り呟(つぶや)きながら。念には及ばないだろうが、死にたいなどと云う人間ほど、いざとなると死を恐れるあまり、じたばたと未練な醜態を曝(さら)すものだという。どんな死にかたをしようと、人間の死ということには変わりはないのだが、世のひとびとはそこに多くの関心をもち、褒貶(ほうへん)をあげつらう。やがて自分たちも死ぬのだ、ということは忘れて。さてひるになるが食欲はまったくない。そこで客が来れば大いに歓談してグラスの数をかさね、来なければ陰気な気分で、やはり水割りのグラスをかさねるわけである。-(「酒みずく」 山本周五郎) 


御酒屋と町酒屋
仙台藩では、藩の御用達(ごようたし)の御酒屋と町酒屋とに区別されていました。御酒屋の筆頭は奈良からきた諸白屋又右衛門で、南都流寒づくりの技法を導入し、広めてゆきました。町酒屋は、御酒屋より四年早い慶長九年(一六〇四)に亘理(わたり)にて創業し、現在も末裔が酒づくりを受け継いでいます。幕府の基本農政は"米遣いの経済"といわれます。仙台藩では"買米仕法"で酒造米を統制したために、酒造家は二重の重圧を受けることになりました。しかしそれが量より質を追求することになり、良米、良酒を産出する基となったといわれます。(「酒博士の本」 布川彌太郎) 


酒虫
長山(ちょうざん 山東省)の劉氏は、でっぷり肥っていて大酒飲みだった。独(ひと)りで酌(の)んでも、いつも一甕(ひとかめ)飲み干してしまうのだった。県城の近くの三百畝もの美田に、きまって半分は黍を植えていたが、家がたいそう裕(ゆた)かだったから、飲むことが苦にならなかった。ひとりの喇嘛(らま)僧が会って、体に奇病がある、という。劉が、「いいえ」とこたえると、僧はいった、「あなたは御酒を召しても、いつもお酔いにならんでしょうが?」「いかにも」「それが酒虫のせいですのじゃ」劉はびっくりして、すぐ治療を請うた。「なんでもありませんじゃ」という。こころあたりの薬を挙げて、「どんな薬がいるんでしょう?」ときくと、みな、いりませぬ、といい、ただ、日向(ひなた)に俯(うつむ)けにねかせて、手足をしばり、首から五寸ほど離して、美酒を器に入れて置いただけだった。時がたつほどに、咽喉(のど)がかわいて、飲みたくてたまらなくなった。酒の香りが鼻を刺し、欲望の炎(ほむら)がもえあがりながら、飲めぬのに身もだえした。と、咽喉が急にむずがゆくなって、なにやらげっと出てき、まっすぐ酒のなかに堕っこちた。縛(いましめ)を解いてもらって見ると、長さが三寸ばかりの赤い肉が、およいでいる魚のようにはいずり廻っており、口も眼もみんなそなわっていた。劉はおどろいて礼をいった。そして、金で酬いようとしたが、僧は受け取らず、ただ、その虫をいただきたい、といった。「何にするのです?」「これは酒の精でしてな、甕(かめ)に水をはり、この虫を入れてかきまわすと、たちどころに美酒(うまざけ)ができますのじゃ」という。劉が試しにやらせてみたところ、果してそのとおりだった。劉はそれからというもの、酒を仇(かたき)のように憎んだ。体はだんだん痩せ細り、家も、日ましに貧しくなって、やがては飲み食いもまかなえなくなってしまったのだった。異史氏曰く-日に一石飲み干しながら、その富を損ずることなく、一斗も飲まずに、ますます貧しくなっていったのである。してみると、飲み食いには、そもそも天与の数があるのであろうか?「虫は劉の福で、劉の病ではなかったのだ、坊主が見くびって、まんまと己(おのれ)の術にはめたものだ」といったものがあるが、そうだったのであろうか?(「聊斎志異(りょうさいしい)」 蒲松齢 増田、松枝、常石訳) 酒蟲 


ケンズイ
現に西部日本のケンズイという単語が、やはり普請(ふしん)見舞いを意味し、また九分通りまでそれだけの専用になろうとしている。私は四五年前に壱岐に遊んで、目のあたり実見してきたのであるが、あの島では今でも大工の棟梁(とうりょう)をなかなか大事にして、定まった賃銭以外に酒や俵物を贈る習わしもあるが、ケンズイはまたそれとは別に、新築の作業なかばに親戚の家から見舞いに持ってくる酒肴、時には米麦の食料までをもというと、山口麻太郎君の『方言集』に見えている。ところが同じ人の書いた『壱岐島民族誌』によれば、ケンズイは必ずしもこの大工振舞いのみには限らず、ドウブルイと称する参宮還りの祝宴や講中の加勢人を招いて、饗応することをケンズイ開きといっているのは、やはりそのもらい物が本来は調理品であったことを語るようである。(「午餉と間食」 柳田國男) けんずい 


ええじゃないか
『武江年表』によると、横浜でお札が降った。さらに遠州あたりでは、十五、六歳の美女が降ったとか、あるいは生首が降ってきたとか、むちゃくちゃなことが書かれている。京都では、美々しく飾った衣装で、踊り歩き行きつつ、「ええじゃないか、ええじゃないか、おそそに紙張れ、破れりゃ、また張れ、えじゃないか、えじゃないか」と歌って、市中は大いに賑わった。夜は八ツ(午前二時)ごろまで太鼓を打ち、囃し立てつつ、他人の家へ踏み込んでいった。そういう連中が押しかけて来ると、御神酒(おみき)と称して、酒樽を抜いて飲ませ、さらに食事をさせ、そして、さらにそれが進むと、やってきた連中は、卑猥な歌を歌いつつ、太鼓、笛、三味線など鳴り物で囃し立て、狂ったように踊り廻った。そのあげく、金持ちの家、あるいは米屋などに押しかけて、主食を強要したばかりか、さらにそこにあった金目のものを持ち去るとか、あるいは暴力の嵐が通り抜けたように家の中を荒し廻った。(「江戸幕府大不況の謎」 邦光史郎) 慶応3~4年の幕末混乱期におこった社会現象だそうです。 


酒は禍乱の因
アメリカ独立(革命)を引き起すには葡萄酒が指導的役割を演じたと云はれている。一七六八年六月九日、英国海軍が、ジョン・ハンコックJohn Hancock宛のマデイラ酒の積荷を拿捕した。ハンコツクは後の独立宣言の最初の署名者なのである。ハンコツクは其の帆船「自由(リバティー)号」Libertyとその積荷たる上等葡萄酒の返還を請求した。其の請求は拒絶された。そこで彼は、激昂せる市民達を招集し、船に乗り込んで之を力で取戻したといふ。(廿八ノ六)(Fougner著Along the Wine Trail)(p.71)(「酒の書物」 山本千代喜) 


熊本の芸者さん
宮城(千賀子) でも熊本の芸者さんにはびっくりしたわ。コップでお酒をポンポン飲んでいるんです。そしたら最後に大杯を持ってきて黒田節を踊るんです。で、私に酒をつげっていうの。こちらも酔ってたからドボドボついであげたの。そしたらそれを全部飲んで、「はい、ご返杯」っていうわけ。そのあとみんなで寄ってたかって、私にさあ飲め、さあ飲めと(笑い)。
出光(永) 私もそういう話を聞きました。ですからおもしろがって芸者さんに飲ませるからには、自分も飲む覚悟じゃなきゃ…。
宮城 そうなんですよ。
出光 私の知っている人で、こりゃ男の恥だと思って一気にグィーッと飲んだそうです。飲んだあと、あっそうだ、仕事を思い出した、といって帰ったんです。で、何メートルか行ってバタッと倒れた(笑い)。彼がいうには、とにかく芸者さんのいないところで倒れてホッとしたって、そのときは死にもの狂いだったそうです。
宮城 大杯には八合ぐらい入るんじゃないかしら。(「あの味 この味 ふる里 隠れ味」 渡辺文雄編) 


土佐帰郷
浜田の主人は求職中のの陸軍中佐であつた。眼の光の柔らかな淡白な人で、無事に苦しむ時には小供小供した唇から謡曲の文句を漏らした。桂月翁に劣らない酒豪で、翁の奥様が東京を出る際、『浜田さんもお酒がいけますから、毎日二人で飲まれちや、浜田の奥様にもすまない、』と云つて、心配せられた程であつてよく飲んだ。ある晩などは、飲んでゐる中に養生の話になつた。興に乗じた二人は素裸になつて、先づ桂月翁が拳(こぶし)を拵(こしら)へて、中佐の臍の下をぐんと押すと、中佐の臍がそのために上の方に向いた。『向いた向いた、臍が上へ向きや、まア大丈夫だ、』と云つた桂月翁は、傍にゐる中佐夫人と子息に向つて、『奥さんも坊ちやんも、お喜びなさいませ、』と、頭をがつくりさげて笑せる。すると今度は中佐が拳で桂月翁の臍の下をぐんと押す。『向いた向いた、お前も大丈夫だ、』と云ふやうな他愛ない酒興が何時までも続いた。(「随筆 酒星」 田中貢太郎) 大町桂月の土佐帰郷に伴ってきた時の滞在先でのことだそうです。 


うぐひすの巣立のさけの一銚子ひとくひとくと急ぎこそのむ [酒百首]
「うぐいすが巣から出て鳴きはじめる早春のころ、ひとく、人来と鳴くので、人が来ないうちにと銚子を大急ぎであける。」(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


アルコール中毒 Alcoolisms
フランスでは麻薬で一年に百人の死者が出る。アルコールで五万人が死ぬ。どちらの陣営にするか撰びたまえ。(コリュッシュ『四つ折りのフランス』一九八一)(「世界毒舌大辞典」 ジェローム・デュアメル) 


酒質、酒染、杯凧、杯踊、杯影
さか-じち【酒質】[名]酒屋で質屋を兼業するもの。質種(しちぐさ)に主として醸造用品や酒株をとる。またその質種。
さか-しみ【酒染】[名]酒のしみ。
さかずき-いか【杯凧】[名]凧(たこ)の一種。杯の形につくったもの。
さかずき-おどり【杯踊】[名](杯が踊るように、酒席の間を動き回るところから)にぎやかに杯をやりとりすること、にぎやかな酒宴などをたとえていう。
さかずき-かげ【杯影】[名](「さかづき」の「づき」に月影の「つき」を掛け、さらに円い形を月に見たてていったことば)月影。月。月の光。さかずきのかげ。(「日本国語大辞典」 小学館) 


一種一瓶、飲至策勲
一種一瓶
それぞれが一品の酒肴と一瓶の酒を持ちよって酒宴を開くこと。気心の知れた仲間同士が、持ちよって催す気軽な宴会のことをいう。
飲至策勲
古代中国で、戦争が終わった後、兵士が宗廟(天子の祖霊を祀る所)で酒を飲みながら戦功を策(竹の札)に書き記すこと。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


薄い黄色液
つらつら私が酒にどんな関係があったかを考えてみると、父が酒好きで、毎夜一合(一八〇ミリリットル)のお酒を楽しそうに飲んでいたのを覚えているくらいのもので、その父も幼少十二歳の時、亡くなって、一応酒との縁は切れたはず、ところが、ある時、近所の雛祭りに招かれて、その小さい猪口につがれてあった清酒をチョッピリ口にしてみて、あれだけ大人が好む物が少しも甘くもなく、ましてうまくもなく、何か薄い黄色液ぐらいのものであるのに驚いた。そのころ(明治四十二年)の田舎の上酒は一合九銭であったのを覚えている。中学、高校、大学もなんとなく過ぎ去って、いよいよ就職口を決める時期が来た。ある日(大正十一年)、保証人で醗酵学専門の恩師、高橋偵造先生から、教授室に呼ばれて、「いま、伏見のある大きな造り酒屋から求人があるが行っては…」とのお話である。当時造り高二万石というから、屈指の大庫であったに違いないが、なんだかそんなところへ就職しては、せっかく勉強した英語もドイツ語もなんの役にも立たなくなる。「欲をいえば、月給をもらいながら研究のできるといころを」とすこぶる虫の良いお願いをして、この件はお断りした。先生にしてみれば、経済的にどん底にいた私に収入が多く、楽な暮らしのできるところを、と選んで勧めて下さったに相違ない。それから数週間後、今度は「醸造試験所(大蔵省)へ行ってみては。ちょうど前任の人が兵役で空席となったので…。ここなら少しは研究もできよう」といわれる。その役所は、どんなところか皆目見当もつかなかったが、まァこの辺でとお受けした。(「さけ風土記」 山田正一) 


葛水
砂糖水というのは、つめたい井戸水に砂糖を入れて溶かすだけもの。折よく近頃は名水ばやり、水割りに使うばかりでなく、たまには砂糖水にしてご覧なさい。やたらと香料ばかりを加えた清涼飲料にくらべて、これほど純粋な飲みものがあったのかと、改めてびっくりすること受け合いだ。その砂糖水にホンモノの葛粉をまぜたのが葛水で、昔から二日酔いをさますのに効があるといわれている。もっとも葛根湯は解熱剤になるくらいだから、暑いときに渇をいやすだけでなく、ほかにも薬効はありそうだ。ただし、近頃では本葛といいながら、ジャガ芋から採った澱粉をまぜたのも出回っているらしい。その点、ご用心を。(「本当は教えたくない味」 森須滋郞) 


辰野隆先生(2)
先生もめっきり白髪が殖え、皺(しわ)も増し、見た目には老人くさくなられたが、酒量も一向減らず口数も減らぬ元気さは、弟子たる私にとって気強い限りである。若い時分スポーツで鍛えた身体はさすがにゴール近くになっても衰えぬものだと今にして感心するのである。先生のスポーツ精神は一種の健康法と結びついて、不老長寿の妙薬にまさる効果を示しているのだろう。世の老人に先生の健康法の一端を披露して、若さを保つ長寿を全うする一助ともなれば幸いである。先生はあれでなかなか神経質だが、決してクヨクヨしない。酒席でも陰にこもったり、シン猫といった味の全くない人で、勇ましく酒盃をあげる。そして大きな図体に酒気が廻ると、運動が始まる。つまり口を動かす。よく食い、よく喋る。最後に至るとほとんど喋るというより怒号するようにして声帯と咽喉に運動を与える。それでも物足りなくなるという歌い出す。あまり美しいお声とはいえぬまでも、その音程の精確なことは玄人に近い。先生は風丰姿勢とは似もつかぬ浪漫的精神の理解者であるから、音楽は古典主義でもないが、近代主義にも偏しない。どちらかといえば、ワグネリスム(ワーグナー主義)に近いのではあるまいか。義太夫は痴呆芸術なりと喝破して、山城小掾始めその道の人々を唖然たらしめたようだが、小唄でも都々乙(どどいつ)でも悉く音程正しいワグネリスムで歌われる。荘重な小唄、厳粛な都々乙。それから四肢の運動に移って、舞踊であるが、てんぽのおそい邦楽の伴奏よりは、洋楽の方が健康によい。主としてカルメンのトレアドールなどは勇ましく、消化、運動等には効目があるようだ。京都の仏蘭西文学者との交換会の時、島原のスミ屋へ招かれた。百目蝋燭をつけ、古風な広間でカルメンを踊られた時、妖気人に迫って一座はしんと静まった。黒く煤けた天井に奇怪な影がゆらめき、スミ屋の女主人は囁いた。「近藤勇はん以来の騒ぎやえ」(「私の人物案内」 今日出海) 


[塵塚談 下]
江戸中酒店、毎年十月大坂より新酒下り来ると、早速に場末の小酒店迄も、出入の屋敷並町屋までも、一升二升或は五合充も、洩さず相応に配り送りし事なり、文化五年辰年冬、新川新堀の酒間(ママ)屋共より、向後酒配り止むべきのよし、酒店へ触出し、それより一続酒配り止になりけり、(「古事類苑 飲食部十一」) 


武玉川(11)
悪るかたく突く棒は下戸也(下戸の番人は酔っ払いに冷たい)
もめ盃の酌に流れ矢(仲裁の酌人が絡まれているのでしょう)
馬喰町御捌(おさばき)誉て酒を買(訴訟に勝って祝杯を挙げる)
ちろりの最後逆さまにつぐ(最後の一滴まで)
一盃「上:夭、下:口 の」と母ハ梦介(ゆめすけ)(下戸の母)(武玉川(一) 山澤英雄校訂) 


しおからは無季
もう一つ、酒によく合う肴といえば、しおからである。なかでも、鰹のしおからは「酒盗」と呼ばれて飲み助に親しまれている。鰹は、初鰹とともに夏の季語だが、しおからは季語ではない。仕込むときには季があっても、結局は保存食だからだろう。したがって「酒盗」はむろん無季である。
とりあへず酒盗と告げて新酒かな 同(滋酔郎)
「酒盗」と書いて「しおから」と読ませることには無理がありすぎる。だから、しゅとう、しゅとう、と呼びならわしてだれもなんとも思わないけれど、字面(じづら)も感じが悪いし、口にして、すわりのいい呼び名ではない。客の注文をとりつぐ少女が、カウンターに首をつっこんで-「ね、しゅとうおねがーい」調理場にジェンナーでもいるみたいである。(「江國滋俳句館」 江國滋) 


アイシャドー
アラビアやエジプトの壁画などに描かれている女性は、アイシャドーを塗っていますが、これはお化粧のためというよりは、人間の目に産卵しようとするハエを追い払うためだったようです。ところで、このアイシャドーはアラビア語で「コホル」と言います。コホルはシャドーに用いた硫酸アンチモンの粉のことです。コホルに、英語の冠詞THEにあたる「アル」を付けると「アルコホル」になります。つまり、アルコールとは「アイシャドーの粉」という意味なのです。時代が進みにつれて、アルコールは、このような粉末を作る行程、特に「液体の蒸溜」を意味するようになりました。当時、蒸溜をするものといえばお酒であったため、いつしかお酒のことを表わすようになったのです。中世ヨーロッパにおいてもアイシャドーが貴婦人たちの間で流行したようですが、これは目にクマを作っているように見せて、男性にいかにもてたかを誇示するためだったとか…。(「雑学おもしろ百科」 小松左京監修) 


たつみ【辰巳】
②深川岡場所の異称。-
恋風も辰巳となればすごい也   辰巳風は凄し
茶より酒飲めるは江戸の辰巳也   喜撰の利かせ(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 喜撰法師の「我がいほは都の辰巳しかぞ住む」と、茶の喜撰をかけているようです。 


酒沈めば話浮く
杯を重ねていけば、浮いた話、色気のある話が多くなること。「沈む」という言葉には暗いイメージが強いが、こと酒に関してはその限りではない。「酒の終わりは色話」ともいう。(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 


ラムの三角貿易
ラムはヨーロッパ列強国の植民地政策とともに発展した酒であるから、この酒にはいつも暗い話題が多かった。アフリカの黒人を砂糖きび畑の労働者(奴隷)として船で西インド諸島に運び、空になった船には糖蜜を積んでアメリカのニューイングランドに運ぶ。ここにはラムの工場が多数あって、原料の糖蜜を降ろしたら、これに今度はラムを積みアフリカに戻る。そこでこのラムは黒人を買う代金に充てられ、黒人をまた西インド諸島へ運ぶ…の繰り返しで、ここにも植民地で有名な三角貿易の一例を見ることができるのである。(「酒に謎あり」 小泉武夫) 


酒精・清酒・新酒等の方言
【酒精】(本)つみ(南島(八重垣))。
【清酒】(本)ひのきいた(宮城県登米郡)・ひもち(熊本)
【新酒】(本)きんごめざけ(山形県最上地方)。
【極上等の酒】(本)ぬき(岡山県苫田郡)。
【上方酒】くだりしゅ(宮崎)。
【味の強い酒】(本)おにごのみ(野州日光)(おにころし)・おにころし(江戸)・(補)ひのくち。
【酒などの味の弱い】(補)なるい(「全国方言辞典」 東條操編) (本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録 


モリ
このモリは村人の共同飲食のことで一般に酒盛のことをモリという。長崎県壱岐島でも頭屋が講の宿をするのがお講モル、無尽の宿をするのが無尽モル、無尽の創立総会をモリタテという(続壱岐島方言集)。東京都下の大島の野増村では祖先の年忌の祭をして親族の家に餅などを配るのをモルという。奈良県宇智郡では酒食をおごることをオモルというが、名古屋地方でもおごりなさいということをオモリアーという。いずれにしても酒食を饗するのがモルで、沖縄には酒もりばかりではない、塩もり、水盛りの行事があって、これも塩をなめ水を飲み合う儀礼である。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 柳田国男による酒盛りの語源 


熊楠追悼座談会
それから酒の話が大いにはずんで爆笑が渦巻いた。得意のヘドの話も出た。「うっかり傍へ行くとヘドをはきかけられるので、酒の席では先生の隣へ行くのを敬遠した」と多屋がいうとみんな「その通りだ」とうなずきながら笑った。「酒はのまん、お茶は飲むんだとことわって酒をのんだ」と小畔がいうと上松が引きとって、「十七八の娘がおどおどしながら、はにかんでやるというような調子だった。匿していた酒を出して来て、そっと飲むときなど特にね」多屋はそうだ、とうなずいていった。「全くそんな所がありましたね。私の家へ来て下さった時なども、私が不在だと座敷へは上がらず家内と立話をしていられる」はじめ「今晩は傍聴さしてもらうつもりで出席しました」と挨拶した弟の南方常楠もみんなにとけこんで話しはじめた。常楠は南方より小柄で色白く穏和そうに見受けられた。「兄は純情だったと思います。あの大正のはじめ和歌山に米騒動が起って富豪や酒屋が征伐された。ある酒屋のごときは相当手ひどくやられた。その噂が田辺にも伝わったのです。翌朝-あの頃は汽船しかなかったと思いますが-早速私方へ来てくれた。そして「青岸から歩いて来ると巡査が誰何しよるし、『お前とこは一体どうなっているか』と思えば心配でならない。やっとここまで来れて安心だが、暴れもんは来なんだか」と非常に心配して聞いてくれたので「お蔭で襲われなかった」というと、「それはよかったと喜んでくれました。あの時は本当にうれしく兄貴なればこそと思いました」(「紫の花.天井に」 楠本定一)初七日を過ぎた昭和十七年一月十日に開かれた「南方先生を偲ぶ座談会」だそうです。 


さけのかみ、さけのすけ
さけのかみ①(造酒正)令制で、宮内省の被官である造酒司(さけのつかさ)の長官。正六位上相当。酒・酢などを醸すことをつかさどる。-②(尚酒)後宮十二司の一つである酒司(さけのつかさ)へ行って酒を醸すことをつかさどった。
さけのすけ①造酒司(さけのつかさ)の次官。定員二人。従七位下相当。-②(典酒)後宮十二司の一つである酒司(さけのつかさ)の次官。定員二人。-
さけかた【酒方】《名》室町時代、将軍が諸大名の邸宅に臨む時、諸大名家で臨時に命じて置いた役職。当日酒を供することをつかさどった。酒奉行。*飯尾宅御成記-寛正七年(1466)二月二七日「当日色々奉行<略>御酒方<霖侍者、但内々儀也。布施善三郎>」(「日本国語大辞典」 小学館) 


三木清、阿部能成、斎藤茂吉
三木清はある晩友人と銀座で酒を飲んだが、酔っ払った二人は銀座の表通りに座り、相手を前に置いて、「右や左の旦那様」と乞食のまねをはじめた。すると知人に見つかって、「先生、何をしているのですか」と横町へ引っぱって行かれた。
ある宴席で酔っ払った阿部能成は得意の謡をはじめた。そして鼓がないと、そばにいいた斎藤茂吉の頭を小脇にかかえて、これを打ちながら謡をうなった。茂吉は終わるまで静かに鼓のかわりになっていた。 


腐敗清酒からのアルコールの回収
関西では明治六年、大阪東区安土町橋本清三郎に始まり、明治一〇年、道修町の薬種問屋小西儀助がこれに続いた。小西は洋酒の模造時代を代表する先覚者の一人である。この頃、酒類の製造に用いるアルコールは輸入品が多く使用されていたが、洋酒の製造と前後してアルコールの製造も試みられている。-
ところで、小西儀助が試みたのは腐敗清酒からのアルコールの回収であった。その作業の有様を彼はこう語っている。「その時分は、酒屋の倒れたのを聞くと、すぐ機械を持ってそこへ行って、酒精の製造をしたものであります。例えば今日は丹波のどこそこの酒屋がつぶれたというと早速そこへ行って、酒精の製造を始める。こんどは兵庫の何某が倒産したと聞くと兵庫へ行くというふうで、絶えず機械を持って地方を回っている者が幾組もありました」。残念なことに、こうして取ったアルコールは品質が粗悪で、輸入酒精にはまったく太刀打ちできなかった。(「ブドウ畑と食卓のあいだ」 麻井宇介) 


○馬のす 部屋住作
今から岡釣にでも行かうと、釣道具を出してみれば、針の結び目から鼠めが食ひきつた。どうふぞ馬のすが欲しいと、たづぬる所へ、いなか馬が通る。これさいわいと、あとから尻尾(しつぽ)を二三本引つこぬく。友達が見ていて、「コレ、てめへもとんだ事をする男だ。馬の尻尾をぬくといふ事があるものか」「ムゝ、馬の尻尾をぬけば、どふする」「どうふする所か、とんだ事だ」といはれ、もふ釣りに行く気もなく、「コレ、どふぞその訳を言つて聞かせてくれ。一升買うは」「一升買うなら、言つて聞かせう」と、酒を取りよせ、まづ二三ばい飲む。「コレサ、気が落ちつかぬ。どふいふ訳だ」といへば、「そんなら言はふ。大事のことだ。馬の尻尾をぬこと、馬がいたがる*」。
注 七 「うまのす 馬の尾の毛なり」(『俚言集覧』とある。) 八 舟からではなく、陸上からの魚釣り。 九 釣り糸代用に。 * 落語「馬のす」の原話。(「化政期 落語本集」 武藤禎夫校注) 


サロン・パリ
足跡もなければ汚(し)みもない砂を踏んでいくと、やはり鮮烈な不安をおぼえさせる。そんな静かな、清潔な始源の渚にとつぜん、たった一軒、小屋が建っている。小屋の屋根は波形トタン一枚だが、そこに片仮名で字が書いてある。《サロン・パリ》と書いてあるのだ。微苦笑をこらえつつ小屋に入っていくと、バーだとわかる。よく陽焼けした、甘栗のような丸顔の、眼の黒い娘がでてきた、はにかみつつ微笑する。酒を、というと、大きなシャコ貝をとりだし、そこへ一升瓶から黒糖の焼酎をなみなみと注いでくれる。シャコ貝の殻には糸底などついてないから、両手で持たないことには酒がこぼれてしまう。一滴のこさず飲み干してしまうまで両手で持っていなければならない。つまりそれは南方の馬上盃である。黒糖からとった焼酎は素朴な酒で、口あたりは柔らかいけれど、シャコ貝一杯分を飲めば、弱い人ならたちまちくたばって寝こんでしまう。娘はそれを見て、いいお客さんだとよろこぶ。そんな島があるのだと、いつか奄美大島の名瀬へいって島尾敏雄さんと飲んでいるときに教えられたが、まだ私は訪れていない。(「開口閉口」 開髙健) 


桃の節句に
「母さんの雛祭りだ。この家の女っ気と言ったら、お母さんだけだ。お母さんは酒が駄目だからな。俺達で、白酒飲んで、雛祭りのお祝いをしてやろうじゃないか]おやじは湯「上:夭、下:口 の」み茶碗を三つ並べ、おやじの分には、なみなみと、僕達には三分の一ほどに白酒を注いだ。「よし、飲め」とおやじは言い、ごぶりと飲んで「げっ、甘えの甘くねぇの。胸が悪くなるぜ」と言ったら、「胸が悪くなるなら、無理して下さらなくてもいいんですよ。良ちゃん達、これ、お酒よ。子供じゃない、飲まないでよ」とおふくろが金切り声を出した。「いいじゃねぇか。大きくなりゃ、当然、うちの家系だ。酒を飲む。今から、練習しておいた方がいい。飲め」と顎をしゃくった。弟は飲まなかったが、僕は、みんな飲んだ。甘くて、いい香りで、ちょっとばかり口の中でぱっとなって、胃袋に入ったら、かっとして、うまい「もん」だなと思った。突然、顔が熱くなり、眼が回った。翌日から、この味と香りと目が回るのが、、わすれられなくなって、1ヶ月に一度くらいはおやじの日本酒や洋酒を盗んで飲んだ。酒を覚え、酒を楽しんだのは、この白酒に始まる。(「酒あるいは人」 池部良) 7歳の時だそうです。 


人形
古い時代の人の気持ちでは正月を正月どん、三月の節句を三月どんという村があるように、人形などつくらなくなっても目に見えぬ神を迎えて食物を供え、神人ともに一日を遊びくらしてやがて海の彼方に神送りするという祭だったもので、たとえ人形をつくったとしても簡単な藁人形ほどの草雛だったのである。ちょうど七夕様のように、雛祭もつくって、飾って、御馳走を供えて、祭って海川へ送ったのであるが、雛人形の工芸が発達するに従って非常に華麗に高価なものになったので、祭が済んでも海川に流すのが惜しくなったのである。そこで美しい本雛の他に土焼の安物の流し雛をつくったり(岐阜県)、又は本雛のわきに竹の骨に赤紙を張った一対の人形(ひとがた)を飾って、三日の夕方には、それに食物を入れた藁苞(わらづと)を添えて流すところさえ(鳥取県)できるようになった。あの美しい内裏様おひめさまをはじめとして、長柄の銚子で酒を酌む緋の衣の官女や管弦を奏する五人ばやしの酒盛は、さきに述べた所々の村人の、磯遊びや山遊びの光景を美しく描いた姿だったのである。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 


Sのおごり
私が一杯飲む間に、Sは三、四杯飲んでいた。早いピッチだ。そして、とつぜん、「帰るぞ」と言った。言ってから私の肩をぽんとたたき、「今日はお芽出とう。おれのおごりは旨かったか?」と訊いた。「はあ、有難うございます」と私は頭を下げた。その後なのだ。もう一度Sは、「おれのおごりだ」と言った。そうして、それにつづけてこう言ったのだ。「…でも、あいにくちょっと手持ちがないんだ。きみ、金持っているか?」小遣い稼ぎではなく暮らしの足しに働きはじめようとしている私に、そんなポケットマネーがあるわけなかった。「頼む。貸しといてくれ」Sは、屋台のおやじにではなく私に言った。世の中にそんなおごり方があることを初めて知った。でも仕方ない。成り行きはそうなったのだ。私は踏切を渡って家へ戻り、母のなけなしの金の中から二人分の飲み代を取って、払いに行った。Sはそれきりそのお金のことは、すっかり忘れてしまったらしい。(「Sのおごり」 畑山博 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 新聞販売店に就職したときの先輩店員のエピソードだそうです。 


一具庵化仏
これは別だが、汁粉に縁のあるのは「一具庵化仏(いちぐあんけぶつ)」の号で明治の『月並俳句集』に名を知られた村木某と言う人だ。化仏の号だけでは世を棄てている人らしく思われるが、月花(かげつ)の筵(えん)を離れると皇宮警手という八釜しい人になるのである。竹橋に入れば化仏師匠が厳然と立って警衛する姿を見て「オヤ、化仏さんによく似た人だ」と怪しんだ俳人が後に当人だと知って一時噂を高めた。なかなかの大酒家だけれど、この人の酒は、汁粉や菓子がなければ美味くないと言う上戸か下戸かわからぬ人であった。鹿の子餅、羊羹、大福など喰いながらグビリグビリと酒を飲む。五月の節句は都合が良い、柏餅を肴に菖蒲酒を飲む。或俳席で、汁粉と酒の飲み分けをして驚かした事もある。わざわざやるのではなく家でも酒屋と菓子屋の両花主(りょうとくい)になっていた。「どうして甘いものと酒を一緒にやるのです、酒の味が渋いでしょう」と問えば、「」その味が好いのです。口中に餡気(あんけ)のあるところへ酒が入ると、言われぬ味わいです と答えた。それで晩酌には菓子を欠すことが出来ない。餡気のない時は、砂糖をなめるかと思えば爾(そ)うでなく、小豆と砂糖でないと美味しくないらしい。(「明治のおもかげ」 鴬亭金升) 

茨城県輸出重要品調査報告(2)
八 製造費及収益ノ比較
 清酒一石ニ対スル原料、醸造費及税金ヲ合セテ三十円乃至(ないし)三十二円位ヲ要スルモノニシテ其実収利益ハ一割二分乃至三割位ヲ得ヘシト云フ
九 販出学及仕向地
 県外販出額ハ二万九千余石にして東京市ニ対スルモノ其大部分ヲ占メ是ニ次クモノ千葉及埼玉ノ二県ナリトス
十 相場
 上 一石ニ付 約五十円
 中 同     四十三年
 下 同     三十五円
十一 輸出状況
 本品ノ県外搬出高ハ逐年増加ノ傾向ヲ呈セリ殊ニ東京市ニ対シテハ水運及陸運ノ便最モ頻繁ナルヨリ近年著シク其額ヲ増加せり 販売手続は何レモ問屋ノ註文ニ応ジテ送荷スルヲ常トスレトモ中ニハ自己ノ支店若クハ販売所ヲ設ケ売却スルモノアリ輸出先ニ於ケル嗜好ハ近年漸ク需要者ノ所トナリ需要又増加ノ趨勢ヲ示スニ至れり
十二 長所欠点並改良スヘキ要点
 改良スヘキ要点ハ主トシテ原料ノ精撰ヲ為シ且ツ醸造法ニ改良ヲ加工費ヲ減ジ可成価格ヲ低廉ナラシムルニアリ[農商務省商工局「各府県輸出重要品調査報告」明治四十年刊](「茨城県史資料 近代産業編Ⅵ」) 


アマンチコ、オショベカン、オトリカ
アマンチコ 秋田県鹿角郡で粳米を蒸したものに倍以上の麹を入れて作り、漉して飲用したものをいう。おそらくカタネリのことであろう。
オショベカン 青森県三戸郡島守村(現・南郷村)で熱い酒の燗のこと。オショベ、オソベ、ウソベは口笛のことで、口笛を吹くように唇を尖らしてふうふう吹いて飲むからである。(しまもりの話)
オトリカ 伊豆諸島の神津島で、祭日に神主が作る甘酒のこと(食習手帖)。

(「分類食物習俗語彙」 柳田國男) 


スズメ酔払う
居候の咄で、若旦那がいろいろの発明をするくだりで、「雀を手捕えにする法として、味醂のなかへ米を漬けておいて、柔らかになったのを、雀のきそうな広場へまいてやると、それを雀が食べて酔った時分に南京豆をまいてやると、酔払った雀が南京豆を枕に寝る。そこを手捕えにする」といって客を笑わせていた。聞いたお客も咄のなかの主人とともに、「お前は長生きするよ、背中にお灸の跡がないだろう」といっていたが、それがあにはからんや、むべなるかなである。昭和三十三年の三月五日の東京新聞の夕刊に「スズメ酔払う」という見出しで、雀の手捕えの話が出ている。「五日早朝、鳥取市周辺の農協で、アルコールにひたした雑穀を餌に酔わして退治する珍しい方法が大成功を収めた。写真は雪の上へ酔って寝た雀」と御丁寧に写真入りででかでかと載っている。これは噺家の発明として専売特許でも取っておきたかったようなおもしろい話である。(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) 盲目の柳屋小せんの咄だそうです。 捕らぬスズメの味算用  


練習の甲斐
と或る日、石坂洋次郎先生のお宅を訪ねたとき「あたしはお酒が飲めないから社交下手で困っています。人にはそれぞれの生き方がありますから社交下手でも一向に差し支えないのだが、池部君の仕事にしても私の仕事にしても世間に認めてもらって、初めて仕事をしたということになります。自分だけで楽しむ芝居も小説書きも、それではプロとは言えません。社交術だけで世間を認めさせる、これは邪道も甚だしいが、あたしはそういう人達を羨ましく思うときもありますね。だから多少はお酒を飲めるようにしようと思っているのですが、駄目でした」とおっしゃったことがある。先生のお言葉の真意は計り損ねているが、伺ったお言葉を気に、無口解消を志し、酒を飲んで理性も知性も忘れて、世間とやらの中に入りこむ努力をしてみた。飲めない酒を飲む練習をした。案に相違して、練習の甲斐あって飲めるようになったのはいいが、飲酒の量は人後に落ちないほどになってしまった。だが、いくら飲めるようになっても、世間の中に器用に溶けこむことが今だに出来ず、石坂先生のお言葉を思い出しながら悩んでいる。(「酒あるいは人」 池部良) 


酒の憎さ(卜養)
一生を誤る酒のとがぞとは知らで好める人ぞ果かなき
二ぎやまかに酒宴のあとは袖の梅さます小間物喧嘩口論
三々に下戸を叱れる酒飲みは酒に飲まれて果つる身の上
四かるべきその人柄も盃に向えば変る人の面影
五無理とは口には云えど嬉しさを包みかねたる意地の汚なさ
六でなき人ときいては大方に酒で身を打つたぐい多きよ
七宝も飯なくしては茶椀酒見るもうたてのちろり燗鍋
八景の中に入りたる酒ばやし喰らい倒れは絵にもかかれず
九りかえし酔いの廻りて後先のくだらぬ事を賤のおだまき
十分の上にあとひく酒飲みは度重なればあとは内損(「酒鑑」 芝田晩成) 卜養とは、江戸初期の医師で俳諧・狂歌師だった半井卜養のことでしょう。 袖の梅  


さらさらと霰(あられ)ふる夜は竹の葉の名におふさゝにゑひはじめけり [酒百首]
「霰がさらさらと竹の葉を鳴らして降る夜、竹の葉とは縁のあるささ(酒・笹)をしずかに飲んでいると、そろそろ酔がまわってくる。」-竹の葉に霰降る夜はさらさらにひとりは寐べき心地こそせぬ(詞花、和泉式部)が作者の脳裏にある。寒夜、独酌のおもむきである。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


茨城県輸出重要品調査報告(1)
酒類
一 産額
 年次    数量 石     価格 円
 三十三年  九六五三二  二六〇〇七七四
 三十四年  八一一五七   二七三四九一七
 三十五年  九九七五二   二七五四八六〇
 三十六年  七三六六〇   二〇三〇五〇三
 三十七年  七八二六三   二三三〇五〇二
二 種類別
 清酒、和酒(焼酎、味醂、白酒等)
三 主要産地
 清酒及び和酒ハ県内各地ニ渉リ醸造ゼサル地ナキモ就中(なかんずく)新治郡石岡町、高浜町、真壁郡下館町。下妻町、猿島郡古河町等ヲ主とす
四 製造戸数
 戸数  三百一戸
 職工数 千五百九十九人[農商務省商工局「各府県輸出重要品調査報告」明治四十年刊](「茨城県史資料 近代産業編Ⅵ」) 



いふまでも無いと思ふが茅は酒をしたむに用ふる外に祭祀の時之を束ねて神前に立て、上から酒をそそぐ。其の酒が下方へ滲透してゆくのを神様が飲んだやうに見えるといふわけである。(「詩経随筆」 安藤圓秀) 古代中国での話ですね。 


おく様の御酒にこまった花戻り 明四宮1
花見酒に酔った奥方に困った句がある(「川柳集 狂歌集」 吉田精一評釈) 


十分盃(2)
ジュウブンパイ(十分盃) 一杯に満ちると、酒なり水なりが全部下へ落ちてなくなる仕掛けの盃。(「日葡辞書」)
むかし唐人の細工に十分盃とて、人の心をつもり物にして是をわたしぬ、月も満れば闕(かく)るの道理、万を見るに目八分にかまへてひとつも違いなし(西鶴俗つれづれ) 十分杯(じゅうぶんはい) 


アクモチ、アカザケ
アクモチ 熊本県阿蘇郡中通村(現・一の宮市)で、元日に飲む酒のことをいい、甘い酒という。これに屠蘇を入れる。他の村々でアカザケ(赤酒)というのもこれかも知れぬ。アクをまだ抜かぬ酒のことをいうのであろうか。同様のものを奄美大島ではモロハリといっており、鹿児島県から来たという(民俗学五ノ九)。
アサザケ 朝酒であろう。長野県南佐久郡で元日の朝に祝う屠蘇のこと。朝飲む酒はこの酒だけだからであろう。(「分類食物習俗語彙」 柳田國男) 


春日独酌 其二 李太白
(一)我 紫霞ノ想有リ         我は神仙を慕ふ心有り
緬(はるか)ニ懐フ滄洲ノ間。     遙かに滄洲の仙境を思ふ。
且(しばら)ク一壺ノ酒ニ対シ     まあ一壺の酒でも酌んで
澹然トシテ万事閑ならん。      あつさりと万事気楽に。』
(二)琴ヲ横たへて高松ニ倚(よ)リ  琴を横たへて高松に倚りかかり
酒を把ツテ遠山ヲ望メバ、      酒を飲みつつ遠山を望めば、
長空 去鳥没シ             空のはてに鳥は飛び去り
落日 孤雲還る。            落日に ちぎれ雲は還る。
但ダ悲ム光景晩ク          但だ悲しむは晩年となつて
宿昔 秋顔ト成る。          昔の紅顔も衰容と成つたことを。』(「中華飲酒選」 青木正児訳著) 


敵手はあらで
○所用ありてこの程動坂のほとりに行きしに、壁落ち柱傾き檐(のき)朽ち屋根破れて、人住むとも見えぬ家の裡に声するが訝(いぶか)しければ、近間なる友にたゞしけるに、さても其あばらやに翼を張るは蝙蝠(こうもり)ならず、鳶とは名のみ勇ましき四十男、のそりと出でゝはのそりと帰り、多くはあらぬ腹掛の底はたきて、皆酒にするものゝよし、面白きはこの男、人の前にては何事も言得ず、二才等が頤の先の指揮(さしづ)をも受けて、おいおいとばかり働けど、家に戻りて一盃二盃三杯目より大胡座(おおあぐら)、膳に向ひて其日の心に満たぬ事共諄々(くどくど)とならべ、漸く声高になりて、さあおれが相手だ、矢でも弾丸(たま)でも持つて来いと、たけり立つ勢ひ凄じく、初めはまことの喧嘩と疑はれしに、敵手(あいて)はあらでいつも一人なるに今は警官も立寄らず、やがて労るれば其儘寝入りて、あすはまた例のゝそりのそりと、こゝに久しく変らずとなり。(「あられ酒」 斎藤緑雨) 


粘度の高い酒、黒酒・白酒
「最初の酒は練ったような粘度の高いものやったようです。出雲や博多には練り酒があるけれど、それに近いもんです。皇室の新嘗祭(にいなめさい)では新米と、これを使って醸造した白酒(しろき)と黒酒(くろき)と呼ばれる酒が供えられますが、白酒は白濁した酒で、黒酒は白酒に久佐木という植物を蒸し焼きにして炭化させ粉末にした灰を加えた黒灰色の酒です。わざわざ色をつけたんは、ごく初期の稲が黒っぽい米やったからで、その頃に醸した酒を再現しようとしているんでしょうね」(「うまい日本酒はどこにある?」 増田晶文) 月桂冠の副社長だった栗山一秀の話だそうです。 


二日酔ひの研究
いちばん古い出典は、十六世紀(シェイクスピアのちよつと前)のジョン・ヘイウッドといふ詩人=劇作家があらはした、当時の諺の集録、『諺による対話』で、それには、-
「われわれを噛んだ犬の毛」といふのがあるのだ。これはもちろん、「われわれを噛んだ犬」を前夜の酒になぞらへ、その「犬の毛」前夜の飲み残しに見立てて、迎へ酒をやれば二日酔ひが直る(?)とすすめたもので、当時の医学書にも、酔つぱらひには翌日かうさせるといい、と書いてあるさうだ。しかし、前夜の酒はなぜ犬なのであらうか。(どうです、学問的な感じでせう。)これは単に犬と言つてゐるが、普通の犬ではなく、狂犬のことでどうやら中世のイギリスには、狂犬に噛まれたとき、その狂犬の毛を焼いて、水といつしよに飲めば(それとも傷口にこすりつけるのかな?はっきりしない)、狂犬病にかからなくてすむ、といふ俗信があつたらしい。毒をもつて毒を制す、といふ考へ方だと言つてもいい。あるいは、ワクチンのごく原始的な段階だと言ふこともできよう。それを比喩的に、二日酔ひと迎へ酒に当てはめたものにちがひない。この当てはめ方には、かなりの飛躍がある。この飛躍をたどるためには、昔のイギリス人は二日酔ひを一種の狂犬病のやうなものと見なしてゐたらしい、と考へるしかない。そして、さう思つて見る見ると、かなり似てゐるところもあるんですな。狂犬病といふのは、よくは知らないが、狂犬の唾液のせいで伝染するらしい。唾液といふのは液体であり、そして酒といふのも液体である。共通性がある。非常にある。それに狂犬病の症状としては、頭がひどく痛くなり、極度の食欲不振におちいり、むやみに水分を欲する、といふことがあげられる。実によく似てゐますねえ。これでは、医学知識の乏しかつた、中世からルネッサンスにかけてのイギリス人が、両者のあひだに関係があると考へても、無理はないと思ひます。ただし、狂犬病になると、水分を欲しながら水を「上:夭、下:口 の」み込むことができず、興奮、発熱、痙攣、ヨダレをだらだらたらす、などの極、つひに死ぬ、などといふのは違ふけれど。(大違ひである。大違ひであつてもらひたい。)(「二日酔ひの研究」 丸谷才一) 丸谷の説だそうです。 その犬の毛 


生酔の川柳
生酔に一理屈言ふ阿呆者
生酔に安い分別貸してやり
生酔の枕あてがい次第なり
生酔のつきのめされる形(な)りに寝る
生酔をふみ台にして花を折(おり)
生酔をかついで通るにわか雨
生酔を捨てたもつみのひとつなり
生酔をやれやれやれと落手する(「飲んだくれてふる里」 小宮山昭一) 


堂に入ったもの
東京都下の青梅市は多摩丘陵に発展した街であるが、ここに面白い酒のエピソードのあることを、酒友から聞いた。町はずれの多摩川に百メートルばかりの橋がかかっていて、その橋のたもとに一軒の小売酒屋がある。この店に、毎晩きまった時間に、橋を渡って町の風呂屋にやってくる爺さんがあった。元気な楽隠居といった風で、風呂の帰りには必ず酒屋へ寄って、焼酎一杯を楽しそうに引っかけて帰るのである。雨の日も風の日も一日もかかしたことがない。ある日の夕方、酒屋の主人が店先の掃除をしているところへ、いつものように爺さんが濡れ手拭いを片手にやってきた。永い顔なじみになっているので、主人はほんのいたずら心から、わざと大コップに水道の水をなみなみと注いで出し、だまって爺さんの様子を見ていた。ところが爺さんはいつもと変りなく、ぐうっと見事に飲みほして、すたすたと橋を渡って帰って行った。主人はあきれてしまったが、「まあいい、あしたきたら事情を聞いてあやまろう」とつぶやいた。翌日、爺さんがやってきたので、主人が昨日の話をきり出そうとすると、爺さんの方から、「昨日の焼酎はおかしくないかね。いつも一杯引っかけてこの橋を渡りきるころには、ぽかぽかと体が温くなり、好い気持になるんだが、昨日はなんともならなかったので変だと思っているんですよ」といった。そこで主人は、わけを話してあやまり、大コップ一杯をサービスして笑い合ったという。酒好きもこの辺になると、まさに堂に入ったものである。(「酒鑑」 芝田晩成) 


文系食堂
何に驚いたと言って、夏にビアガーデンをオープンすることである。私がいつも利用する文系食堂は、すぐ裏に東北大植物園があり、あたりは木々に囲まれている。その木々に灯をつけ、椅子とテーブルが並ぶ。一角には生ビールやツマミの売り場が賑やかだが、学生証で「成年」を確認しないとビールは売ってもらえず、そこは大学ならではだ。生ビールは三〇〇円、味噌お握り二〇〇円、焼きそば二五〇円、水ギョーザ一五〇円、玉コンニャク一〇〇円等々、値段も充実。夜のキャンパスで、研究室の灯を見ながら学生とあおるジョッキのおいしいことといったらない。私はこのビアガーデンの話を社会人にしまくり、絶交されかねないほどムカつかれた。(「食べるのが好き 飲むのも好き 料理は嫌い」 内館牧子) 五十代で東北大の大学院に入学した時の話だそうです。 


下宿
費を厭はざる出庁には、下宿(したやど)に入り召(めし)を出す待つ。暫時は茶のみなり。また長きは中食あるひは夜食を食すもあり。また酒肴求めに応じこれを出す。多くは召を待つの間、酒宴するなり。しかれども酒を茶に矯(ま)げる故に、銚子・鍋等の酒器を用ひず、茶を煎用の土瓶に入る。天保中府命後は、実に酒を禁止せしが、今は弛みてまた専ら宴をなす。下婢は美服を着し、紅粉を粧ひて、酒の酌食の給仕をするなり。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 江戸時代、訴訟の際に、当事者たちが宿泊する宿での風景だそうです。 


興津河原の陣
Q 一五六九年、永禄一二年の一月から有名な武田信玄が小田原城主の北条氏康と対戦いたしました。所は興津河原(静岡県)という所であります。遠くの山の上に陣をとっているのが北条勢であります。そして、武田の軍勢はこの興津河原に陣を敷いたのであります。時は一月、大変寒い時期でありました。三日月が出ていた寒い夜でございます。そこで信玄は部下の将兵に対して、酒を飲んでよいという命令を出しました。みんな喜んで飲みました。ところが、いくらお酒を飲んでも身体が温まりません。それを聞いた名将武田信玄は次のような命令を出しました。 ①それならば明日の決戦に備えてもっと飲んで落ち着いて寝るようにといった。 ②この河原でこれだけ飲んでも寒いのだから、山の上の北条勢はもっと寒いに違いない。おそらく山の上にいないのではないか。今のうちに突撃!といった。 ③これだけ飲んでも寒いのだから敵の北条もさぞ寒いであろう。北条に酒を贈ってやれといった。 さて、本当の命令はどうでしょうか。
A 信玄の予測通り山上に北条軍はいなかったので、この夜、山を占領して、この合戦を勝利に導きました。つまり正解は②番。(「NHKクイズ面白ゼミナール」 鈴木健二・番組制作グループ編) 


津軽藩
古来から各地方で酒づくりが行われていたと推測されますが、記録がみられるのは藩政以降。津軽藩の宝永二年(一七〇五)の記録には「禄高四、七〇〇石、酒米高六、三四〇石、酒屋二二六軒」とあり、同時代の他藩の記録とくらべると、半分の禄高で三倍の酒米を配していることがわかります。これは、良い米を産出したこと、そして岩木川系の良水が得られたことによる藩の計画的産業でした。当時、徳川幕府の太平洋航路に必要な新青森港開拓工事のための財政確保だったのです。(「酒博士の本」 布川彌太郎) 


はじめての酒
そんなわけで、少年時代は酒とは無縁。昭和十年ごろに小学生だ。当時は、酒屋の前を通と、独特のにおいがした。ミソも扱っていたせいかもしれない。いいにおいではなかったが回想すると、失われた日本のかおりである。いまでは、なつかしい。当時、遠足の時、綿にアルコールをしめらせた容器を持参した。消毒用の、小さなもの。それを吸ったら、珍しい味がした。酒と同成分とは、しるわけがない。富士登山をし、その山頂でお神酒(みき)をちょっと口にしたようだ。そのあたりが、最初の酒か。私の入った旧制中学は、むやみと健全明朗だった、かくれての酒やタバコなど、見たこともない。タバコも酒も、高価なものだった。タバコ好きな成人も、一日に六十本なんて、ほとんどなかったのではないか。それから戦争中になり、タバコも酒も配給制となった。旧制高校時代、ほかに楽しみもなく、一日数本の父への配給のタバコを吸いはじめ、当分つづくことになる。昭和二十年、大学一年の時に終戦。農芸化学にいたのが、運命の分かれ目である。実験用の純アルコールが、自由に使えた。お茶で割ったりしたものは、いつでも口にできた。しかし、現実には三カ月に一回ぐらいで、量もしれていた。アルコールをびんに入れて、友人を訪ね、サイダーで割って飲んだらいやにうまく、帰ろうとしたら、腰が抜けて立てなかった。危険も知ったわけだ。(「きまぐれ散歩道」 星新一) 


宿題
現在のビールの高値に苦しんだ今一人の男は、息子の通学している学校の校長先生へ宛てゝ手紙を書いた。
先生様お願いです。是から後は宿題には、モットやさしい題をお出し下さいませ。此の題は三日前の晩、宅の子供が持つて帰つたのです。「四ガロンのビーアをパイント壜に詰め替へると三十本で丁度だとすれば、九ガロンのビーアは、一パイント半の壜に詰めると、何本になるか?」私達二人は色々考へてみましたが、皆目出来ません。息子は泣き出し、此の問題が出来るまでは学校へ行かないと申します。そこで私は拠(よんどこ)ろなく九ガロン入りの樽ビール(a nine gallon keg of beer)を買つて来ました。それから私達は、家中に持つてゐた若干の壜だけで足りないから他家へ行つて沢山の葡萄酒瓶やブランデー壜を借りて来ました。二人でビール樽から壜へ注ぎ移しまして、十九本を得ました。そこで息子は其の十九本を答として書き入れました。是で合つてゐるのか、合つてゐないのか、私は知りません、注ぎ移してゐる中に、幾らかこぼしたんですから。追伸、次回の問題は、先生様お願いです。どうぞ水にして下さいましな、私はもうビールを買ふお金がないんですから。(p.46)(廿九ノ九)(「酒の書物」 山本千代喜) 


三 火事見舞の事
ある所に火事できけるが、隣へ大勢見舞ひて、もみ消したり。亭主いふやう、「隣まで焼けましたに、のがるることは、皆様の御影(おかげ)でござる。酒を参りませい」とて出しけり。「やかましき上に、御造作(ごぞうさ)でござる」といへば、亭主、「これはさて、何事もいたしませぬに、お礼でござる」といへば、抜けたる息子、進み出て、「その代に、そちの焼ける時に、こちから参りませう」といふた。
注 四 免れる。焼けずにすむ。 五 ごたごた忙しい。 六 手間。もてなし。 七 代わり。代償。(「元禄期 軽口本集 当世手打笑」 武藤禎夫校注) 


一円五十銭
入学して、高等学校というのは中学校と違うということを、最初つくづく感じたのは、入学歓迎懇親会というようなものがクラスで行われたときです。その時の会費が一円五十銭だったと思います。この会がちゃんとした料理屋で行われて、これまで見たこともない芸者という類の女の人が来てお酒のお酌をしてくれました。大体新潟高等学校は、やはり局地的な新潟県というものを対象にした高等学校であるので、入学者の大部分が新潟県人であって、その中で又最も勢力を張っているというか、威張っているのが新潟中学の出身者で、新潟中学で級長をしていたような人達がクラスを牛耳っていました。私と東京から来た一、二の者は異分子のような扱いを受けておりました。宴会が始まると新潟中学や三条中学あるいは高田中学の卒業生というようなその地の新潟の出身者がお酌に廻ってきます。私は中学四年終了だったので若輩でしたが、高等学校の生徒が酒が飲めないようでは一人前ではないぞと云ってかわるがわる酒を注ぎに来ます。私はその時始めて知ったのですが、それまで余り酒など飲んだことがなかったが、然し体質的に酒に強いということが判りました。みんなにお酌されても別に酔うということがありませんでした。そのうちに誰もお酌に来なくなりました。会費一円五十銭は当時大金でありましたが、私はそれだけの分を十分頂戴して帰ったわけであります。それから後というもの、あいつは酒が強いからお酌しない方がいいということになって、酒で攻められるということはありませんでした。(「あゝ玉杯に花うけて」 扇谷正造編 「校長から教わったもの」 中山恒明) 


ペイスケ
生きている「ペイスケ」と呼ぶアナゴの幼魚を下ろして酢に漬けて爆ぜさせ、辛子味噌であえて酒の肴にしたことがあった、あのうまさには正直言って驚いた。少し熱めにした純米酒の燗酒のお供であったが、互いに役者は悪くないので、いいわよいわよという工合になった。(「食あれば楽あり」 小泉武夫) ペイスケはノレソレともいうようです。 


十七 丸山にて大酒の事
ある者、友達あまたにて、丸山へ遊びに行けり。殊の外の乱酒になりて、座敷の隅々に寝(いね)てゐる者多し。その中に、ゐきり者ありて、「酒などに酔(え)ひてねるといふ事は、ひけた事じや。われらは「上:夭、下:口 の」めば「上:夭、下:口 の」む程、気がはつきとする」といひて、徒(かち)にてぶらつきて帰りければ、笑はぬ者はなし。初夜六時分の事なるに、祇園の松原下(さが)る所に、八文字屋のかかが、火をともし、茶を売りてゐたり。かの酔ひたる男、このかかを見て、つつしんでじぎをして通りければ、連れ、をかしがりて、「あれは誰じやと思やるぞ」といへば、ぬからぬふりにて、「ここな衆は、『男はじぎにあまれ』といふ事を知らぬか」といふ。また、祇園町に躄(いざり)一〇の乞食(こつじき)がゐたれば、づかづかと寄りて、「はて、御慇懃(ごいんぎん)一一な御人や。御手あげられませい一二」といふた。
注 三 熱り者。興奮して息巻く人。 四 肩身の狭い。負ける。 五 はっきりと。確かに。 六 午後八~九時ごろ。 七 京の有名な版元や島原の揚屋・染物屋の屋号だが、茶を売るのは未詳。八 時宜。辞儀。挨拶。 九 男は十分に謙遜の気持を持ち、遠慮しすぎるくらいがいいという諺。 一〇 足腰の不自由な者。 一一丁寧。躄で立てず手を突き跪くのを見て。 一二 「丁寧にお辞儀されては恐縮」の意の挨拶語。(「元禄期 軽口本集 当世手打笑」 武藤禎夫校注) 


贔屓の役者と盃
辰巳(たつみ)の女将(おかみ)が新富町(やぐらした)で初めて芸者に出た時分の芝居見物といったら、いまどきのひとには想像つかないものだったという。十三代守田勘彌(かんや)のお父さんで太っ腹の大策士の十二代目が新富座を持っていた時分(ころ)で、菊岡、新武蔵屋、猿家、武田屋、上総屋、魚十、梅林、魚島なんて芝居茶屋が軒をならべ、提灯をかかげて客を待っている。金子屋の千代という五十がらみのその時分の大姐さん以下売れっ子のきれいどころが、芝居のひらく朝の九時には芝居茶屋につめかける。お客のほうも朝のうちから茶屋に腰をおちつける。芸者相手にちびちびやっているうち、贔屓役者(ごひいき)の出幕(でばん)の知らせを受けると、一同ぞろぞろその贔屓の芝居にくりこみ、見物する芝居がはねるとふたたび茶屋に戻って、こんどはその贔屓の役者を茶屋に招いて盃をあらためたというから悠長なものだった。(「大正百話」 矢野誠一) 


「ちゃん」
その長屋の人たちは、毎月の十四日と晦日の晩に、きまって重さんのいさましいくだを聞くことができた。云いまでもないだろうが、十四日と晦日は勘定日で、職人たちが賃金を貰う日であり、またかれらの家族たちが賃金を貰って来るあるじを待っている日でもあった。その日稼ぎの者はべつとして、きまった帳場で働いている職人たちとその家族の多くは、月に二度の勘定日をなによりもたのしみにしていた。夕餉の膳には御馳走が並び、あるじのためには酒もつくであろう。半月のしめくくりをして、子供たちは明日なにか買って貰えるかもしれない。もちろん、いずれにしてもささやかなはなしであるが、ささやかなりにたのしく、僅かながら心あたたまる晩であった。こういう晩の十時すぎ、ときにはもっとおそく、長屋の木戸をはいって来ながら、重さんがくだを巻くのである。「銭なんかない、よ」と重さんがひと言ずつゆっくりと云う、「みんな遣っちまった、よ、みんな飲んじまった、よ」酔っているので足がきまらない。よろめいていてどぶ板を鳴らし、ごみ箱にぶっつかり、そしてしゃっくりをする。「飲んじゃった、よ」と重さんは舌がだるいような口ぶりで云う、「銭なんかありゃあしない、よ、ああ、一貫二百しか残ってない、よ」(「ちゃん」 山本周五郎) みんな飲んじゃったよ 


助三杯
 酒宴で、飲めない人のかわりに杯を受けるとき、続けて三杯飲むこと。
せこを入れる
 一種の無礼講。酒宴で席次、礼儀にこだわらないで飲むこと。
思いざし
 相手に思いをこめて杯をさし出すこと。
境飲(さかいの)み
 飲み納めの酒。これ以上は酒を飲まないこと。
ぞめき酒
 「ぞめき」は、騒ぐこと。浮かれ騒いで飲むこと。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


貧乏酒井の用人征伐(2)
手前は性来の乱暴者、他の勢は台所から打込む、手前は家根(やね)へ飛上り、瓦を剝いて天井から槍をズブリズブリと突立った。土山は鉄吉の注進で、襷(たすき)十字に綾取りて、秘蔵の槍を突立ていたけれども、多数の威(いきお)いを見て蒼くなり(まさかこれ程ではあるまいと思ったらしい)、裏木戸から逃出して、殿様の御寝間の縁の下に潜み、命乞いをしたんです。深夜のこととて土山の逃げたのを知らず、家(うち)をば滅茶滅茶にした。隣屋敷なんどでは大地震だと思った由、当の敵に逃げられ、家附家老藤居佐次右衛門が出立(いでた)って無難に鎮まりましたが、アトではガッカリして気抜けがしました。酔(えい)は醒める。不穏の騒ぎを後悔しないでもない。段々との御調べがあり、手前共は永のお暇(いとま)となりました。殿様はこの顛末を聞いて愕かれ、「いや吾が家来の内には忠義の者がある」と、被仰(おつしや)ったそうで、忠臣蔵の義士とお取違いにでもなったのでしょう。しかし乱入の罪で御暇となりましたが、暫時主人にありつくまで捨扶持として、三斗五升俵を一俵毎月浪宅に下さいました。ソレだのにこの事件公辺に聞こえたものか、酒井様は御役御免となりましたが、御気の毒でした。(「幕末百話」 篠田鉱造) 


禁酒同盟はどこだ
ロバート・シャーウッドは稽古へ急ぐ途中、フラフラしている男に無理やり引き留められた。安ウィスキーの、いとも香しい匂いがしみ込んでいる。「おい、禁酒同盟はどこだっけね?」「入るつもりかね?」彼は怪しむように聞いた。「ウィッ、とんでもねえ」よっぱらいは唸った。「辞めたいんだよ」(「笑談事典」 ベネット・サーフ) 


川の字
随分昔から一緒に飲み、食べ物屋へも案内されたが、粋な江戸前の料理屋などへは行ったことがない。最初に行ったのが、御徒町のポンチ軒という豚カツ屋、確かに肉が厚くて柔らかく日本一の豚カツではあった。氏はすしはのり巻と卵しか食わず、さし身も海老も口にしない。好物はカツレツにライスカレー。描く世界は狭く、市井の瑣事に限られているようで、氏の理解は広く、包容力の大なることを知れば知るほど底知れぬものがある。若い新夫人を迎えて久保田(万太郎)さんは今年還暦というのにますます元気で我等を安心させているが、御夫妻に未だお詫びをしていないのでここで陳謝の意を表する次第だが、その理由とは結婚の内輪だけの御披露の夜、仲人の故三宅正太郎氏や里見弴氏等々の通人がそれぞれ得意のノドをきかせたが、無風流な僕、何の芸もなくただ盃を重ねているうちに、何としても睡魔に襲われて目があいていられぬのである。里見さんが今日は眠らずに俺と一緒に帰れと諭されたに拘わらず、僕は遂に眠ってしまった。一代の失策と眼を覚ますと、僕は新郎と新婦の間に川の字になって眠っていたのである。行儀のよい新郎はネクタイをつけ、時計の鎖を胸につったまま安眠しておられた。(「私の人物案内」 今日出海) 


シラス、タタミイワシ、チリメンジャコ
東京・築地市場で海産物を専門に扱っている「まるみや」株式会社の斎藤健治さんに聞いた。シラス干しでおなじみのシラスは、白子と書く。もちろんシラスという魚がいるわけではない。カタクチイワシ、マイワシ、ウルメイワシ、シラウオなどの稚魚を総称した呼び名である。これらの稚魚はほとんど無色透明で、日本の近海や沿岸の海面近くを泳ぎ回っている。漁師は目の細かい長楕円形をした網を船で引き、一網打尽にする。網の口も海面の魚を捕りやすいように長楕円形をしている。シラス干しは、これらの稚魚をさっと湯通しして乾かしたものだ。身が白く濁っているのは湯通ししたためである。一般にシラス干しの名で売られているものは、前に挙げた魚のなかでもカタクチイワシの稚魚がもっとも多い。しかし、なかにはアユや、かまぼこの原料として知られているエソの稚魚も使われている場合もある。これらはカタクチイワシとほとんど見分けがつかないという。もっともこれらの魚は量も極めて少ないし、それだけのシラス干しをつくったら、とても高価なものになってしまう。次にタタミイワシ。これはその名の通り、イワシの稚魚が原料である。捕獲方法はもちろんシラスと同じである。イワシの中でもやはりカタクチイワシが多い。とれたての稚魚を枠に入れて押しをし、薄く平らにしてから天日で干す。稚魚が畳の目のように並んでいるところから、タタミイワシの名がついた。チリメンジャコも実は、使われている魚はシラスやタタミイワシと同じである。やはりカタクチイワシの稚魚が一番多い。ジャコという名前は雑魚(ざこ)からきている。チリメンは、稚魚を煮て天日に干した形が織物の縮緬のしわに似ていることからついた。(「安野光雅の異端審問」 Q:安野光雅/A:森啓次郎) 


一 貴人御前ニテ酒ノ事
太政大臣師長(藤原 もろなが でしょうか) 崇徳院ニ被召給テ。御前ニテ酒一盃ノタビ 舞踏。二盃ニ 詠ゼサセ給ヒ。三盃ニ 酔テ。守重(藤原盛重 もりしげ でしょうか)左衞門尉(さえもんのじょう)ノ時。鳥羽院ノ御マヘニテ シ井ヲサカナニテ御酒ヲ給タリケルハ。シ井ヲ カイツカミテ ミシミシトカミテ。カ子ノ御提(ひさげ =銚子)ナガラ(そのまま) 傾ブケテ。後ニ御提ヲハ狩衣ノ懐ニ懐中シテケリ。
スベテ貴人ノ御前ニテ。酒ヲ給ハレルニハ肴ヲクフベカラス。但時ノ珍物ナドニ手モカケヌヲ(ハ歟)カヘリテ法ナシ。テニトリテスコシハクフベシ。スベテ肴ヲ箸ニハサンデ。貴人ノ御前ニテ食事セヌ事也。又若ハ内々納涼ノ時ハ子細ナシ。(「群書類従 世俗立要集」) 「シ井」とは椎の実のことなのでしょうか。 


貧乏酒井の用人征伐(1)
頃は文久二戌(いぬ)年十二月十五日大奥において節分、毎年の御吉例でその時御年男を仰付(おおせつけ)られたのは手前共の殿様で、神田橋外の高七千石、酒井肥前守様でした。大奥の豆撒きすべて御儀式万端滞りなく相済みましたので、その御祝いとして家来一同の者へ御酒下されで、手前共始め一同酒井家奥書院で御酒を戴き、恐悦を申上げたまでは、よかったのですが酔(えい)が廻るに随って、大騒動を持上げました。そもそもこの酒井家は至って勝手不如意で、平素出入町人その外にも莫大な借財があって家来にも扶持切米(ふちきりまい)が不渡勝ち、ソレというのは用人の土山佐次馬というのが殿様の御妾(芸者小万)とグルで、こうした不始末を醸したものと一同胸に含んでいた。この男が国許(くにもと)知行所江州(ごうしゅう)へ出張して、百姓共より何分の金員を御用申付け来るといって、同地へ出張しながら、ものの半年も帰らず。家来は計り扶持といって、日々家内が升(ます)や箱をもって御台所から人数だけ一升とか二升渡されて来るという難渋極まった次第でした。知行所へ往って土山早く帰ればよいにと、誰一人思わぬものはない。国許へ探りにやった者もあったところ、国許は金を取立て、その金で伊勢の古市に赴き、遊惰に耽っているという音信(たより)があったから、「己(おのれ)不忠不義の獣武士(けだものざむらい)、今に見よ天誅を加えん」と待構えてこの御酒下されに至ったところ、土山先生伊勢古市の事は口を拭って知らぬ顔、若干の金を知行所から持って来て、大きな面をしていたから、家来の面々、「かかる芽出度(めでたい)時に辛い思いをさせてやれ」と申合して、御玄関のナゲシの槍や抜刀で、土山の宅へ押懸けるという間際に、小使いの鉄吉というのが裏切して、土山に注進したので「憎き奴、血祭に一番槍玉に揚げてられ」と尻を突き、痛手を負わす、御屋敷内は今にも戦争が始まるかの騒ぎ。(「幕末百話」 篠田鉱造) 


武玉川(10)
茶椀て「上:夭、下:口 のむ」も女一匹
上戸を分に思ふ雪ふり(雪見酒)
生酔の芸を仕舞(しまう)と蚊かたかり(静かになると蚊がたかる)
煩ふ奴(やっこ)さかづきて吞(病気になって小さなちょこで)
茶わん酒若い大屋に誉らるゝ(武玉川(一) 山澤英雄校訂) 


この通りの中だけで生活できた
「この通りの中だけで生活できた」と有坂さんがいうが、では昭和十二年ころ、この通りにどんな職種があり、それで生活できたのか、町並み調査から書き出しててみることにする。 米屋(吉為)、八百屋(八百右)、肉屋、魚屋、乾物屋、味噌屋、佃煮屋、酒屋(三河屋、北野屋)、豆腐屋(越後屋)、お茶屋、これらは食生活に必要な店。また家具屋(岡村)、電気屋、ペンキ屋(鈴木)、ほうき屋が住生活を、洋服屋(人見)、呉服屋、足袋屋(二見)、下駄屋(古賀屋)、細物(こまもの)屋(千島屋)、メガネ屋(芝田)が衣生活を支えていたようだ。さらに竹細工や飾職人、ブリキ職人、象牙職人もいて、この人たちも時に応じて町の人の役に立っただろう。おもしろいのは風鈴屋さんがあったこと。さらに、人力車屋、自転車屋が交通手段を、渡辺薬局と星野医院が健康をつかさどり、他にいかけ屋(鍋などのこわれたのを直す)、ラジオ屋、牛乳屋があった。娯楽生活では、すぐ近くに芙蓉館(映画館)、哥音本(かねもと 寄席)があったほか、通りの中にカフェ(みやこ、あいそめ)、ミルクホール、洋食大黒屋、鮨屋はすし仙、松野ずし、せんべい屋、芋屋芋甚、栄堂洋菓子店、ウナギ梅月、料亭山月などがあった。こうしてみると、たしかにこの通りだけで生活できる。(「不思議の町 根津」 森まゆみ) 根津・藍染大通りだそうです。北野屋は現存するようです。 


お芙美さん
お芙美さん(林芙美子)とは、ずい分飲んだような気がするが、実は、これは私の錯覚で、正確には五回ぐらいである。それもサシで飲んだのは一回だけである。それにも拘わらずひどく知己のような気がするのは、会ってのんだその時が、いつも何か、波瀾をふくんでいた日か、時であり、第二には、お芙美さんの、お酒の、飲みっぷりのせいだろう。たいていが、コップで、それも日本酒、おつまみは、葉トウガラシで、それらを箸でちょいとつまんではグーと一気に飲み乾す、その飲みっぷりの程の良さは、みていた、こっちが、「ウーイ」と、酔いがまわってきそうな、いわば、そういう飲みっぷりなのである。ずい分、文壇ののんべえさんたちと、いっしょに飲み、騒ぎ、歌い、わめき(これは余計なことだが)ちらしはしたが、飲みっぷりの良さではどうも永井龍男氏とお芙美さんにとどめを刺す。芳醇な酒の、それに合ういかにも芳醇な飲みっぷりで、見ていて、こっちが酔心地になる。つまりは、これも芸の一つであろう。一杯目を一気に半分ほどあけ、残りを二回か、三回かにわけて空にする。「お代り…」それをグーッと飲んで、三杯目。そのころから彼女ははれぼったいまぶたのあたりが、ポット朱がさして来る。元来は、肌の白いひとなのだろう、だから皮膚の下の血液が活潑に動いて来て、「ねエ、そうじゃない」と、まさか、流し目は使わないが、成熟した女の色気が漂って来て、「ハハア、これが"晩菊"!」と、しばしば思ったものであった。会う時は、たいてい飲んだ。飲んだいきおいで、ようし、いっちまおう、思いのたけを、ウップンをというところがあった。かずかずの人生辛酸をなめ、達者なやつの、意地悪のあばずれの利口者のといわれながらも、お芙美さんという人は、どうも、たいへんな、"照れ屋"じゃなかったかと思う。その"照れ屋"はいつも、そうだ、五十になっても、心の奥の方に、文学少女の焔をもやしていた。(「『酒』と作家たち」 浦西和彦編 「お芙美さんの酒」 扇谷正造) 


吟醸酒の果実香
さらに発酵温度の限界ともいうべき摂氏一〇度以下という低温は、醪の蒸米をさらに溶けにくくしていると同時に、清酒酵母の活動を抑えているのである。さてこうなると、清酒酵母はじつに困ったことになる。寒さのためにブルブルと震えながら、食べるものも少しずつしか溶けてこないので毎日空腹の状態。すなわち飢餓状態に陥る。しかしこのままでは死んでしまうから、何とかして生きるためのエネルギーをつくり出さねばならない。そこで清酒酵母はやむをえず伝家の宝刀を抜くことになる。何不自由なくぬくぬくと活発に動ける環境の時には、必要ないから使わなかった芳香エステル生成系(細胞膜に存在していて、果物風の芳香エステル成分を生成するアルコールアセチルトランスフェラーゼという酵素)を回転させてエネルギーをつくり出し始めるのだ。だから、吟醸酒の醪には果物の芳香が付くことになる。(「酒に謎あり」 小泉武夫) 


長いなア
久保田(万太郎)さんが鎌倉にいる時。横須賀線で東京に、毎日のように出て来た。「きょうは疲れているなと思う時は、戸塚と保土ヶ谷のあいだのトンネルが長いなアと思う」といった。「帰りはどうですか」というと、「夜は飲んでいるから、わかりません」(「ちょっといい話」 戸板康二) 


さけ吸う石亀(せっき)
人間の体内にあってさけを吸収する酒を吸収すると俗に信じられた。*咄本・くだ巻(1777)腹中「酒吸石亀(サケスフセキキ)などとて、上戸(じゃうご)の腹中には酒を好む壺か御ざる」(「日本国語大辞典」 小学館) 


さけ(名)酒
[稜威言別、四、ニ、汁食(シルケ)ノ転ナリト云ヘリ、志るけガ、すけト約マリ、さけト転ジタルナラム(進む、すさむ。さか志ま、さかさま。丈夫(マスラヲ)モ、まさりをノ転ナラム)酒ヲ、汁(シル)トモ云フ(其條ノ(二)ヲ見ヨ)上代ニ、酒ト云フハ、濁酒ナレバ、自ラ、食物ノ部ナリ、万葉集、二三十二「御食(ミケ)向フ、木「瓦缶」(キノヘノ)宮」ハ酒(キ)ノ瓮(ヘ)ナリト云フ、土佐日記ニハ、酒ヲ飲ムヲ、酒ヲ食(クラ)ふト云ヘリ、今モ、酒くらひノ語アリ、或ハ、さハ、発語ニテ、さ酒(キ)ノ転(さ衣、さ山。清(きよら)、けうら。木ヲ、けトモ云ふ)即チ、さ食(ケ)ト通ズルカ、沖縄ニテハ、さきト云フ。(栄(サカエ)ノ約トスル説ハ、理屈ニ落チテ、迂遠ナリ)]古言、又、酒(キ)。ミキ。ミワ。シル。ミヅ。アブラ。飲物ノ名、上代ニ、さけト云ヒシハ、濁酒(ニゴリザケ)ナリ。(其條ヲ見ヨ)今、単ニ、さけトイフハ、即チ、清酒(スミザケ)ニテ、後世ノ製法ノモノナリ、白米ヲ蒸シテ、麹ト、水トヲ加ヘ、掻キマゼテ、蓄(タクハ)フルコト数日ナレバ醗酵シテ、泡ヲ盛リ上グ、以上ヲ、元(モト)ト云フ、酒母 「酉余」 酵母 又、日ヲ定メテ、白米ノ蒸飯ト、麹ト、水トヲ加フルコト、三度ナリ、以上ヲ、添(ソヘ)ト云フ、「酘」 其間、常ニ掻キマゼテ、熱セシメ、コレヲ袋ニ入レテ、酒槽(サカブネ)ニ入レ、搾レバ成ル、其手続、日限、等、極メテ煩雑ナリ。凡ソ、酒ヲ作ルヲ醸(カモ)すト云フ、成レルモノハ、澄みて、淡黄色ナル水トナリテ、人、コレヲ飲メバ、酔フ。以上ハ、従来の醸法ノ大略ヲ述ベタルニテ、此外ニモ、数法アリキ、殊ニ、近年ニ至リテハ、又、種種ニ変ジタルモアリ。異名、九献。ササ。狂水(キチガヒミズ)。百薬の長。天之美禄。竹葉(チクエフ)。杜康。下若。般若湯。大乗水。玄水(ケンズイ)。歓伯。-
右ノ外、酒精ヲ含ム飲料ニ、何酒(ナニザケ)、某酒(ソレシュ)ト云フモノ、極メテ多シ、果実ニテ造ルモノ、蒸溜シテ造ルモノモアリ。(「新訂大言海」 大槻文彦 昭和44年33版) 


小説『夜の蝶』の誕生
川口松太郎が短編小説『夜の蝶』を発表するのは、「おそめ」が銀座に進出した二年後の昭和三十二年。『中央公論文藝特集』五月号に掲載され、六月には、単行本として出版された。物語の舞台は夜の銀座。ふたりのバーのマダムを主人公に、大村という女周旋人(スカウトマン)を狂言回しとして進んでいく。銀座のナンバーワンといわれるバー「リスボン」のマダム・マチと、京都での酒場経営に成功し銀座に店を開くことになった「おきく」のマダムお菊。「おきく」の開店以来、客の大半を奪われた上に、常連客で恋人の実業家・白沢の愛情まで奪われたマチは、お菊を激しく敵視する。銀座マダムとしての意地と競争心に、それぞれの恋愛が絡んだ争いが繰り広げられ、最後にマチとお菊は、カーチェイスを繰り広げた挙句、揃って事故死してしまう、という筋書きである。銀座に詳しい人が読めば、まずリスボンのマチは「エスポワール」の川辺るみ子、「おきく」が「おそめ」だと思うのは必定である。また、ふたりが取り合う白沢という男は白洲次郎がモデルであるとも思い至ることだろう。作者、川口松太郎は遊び心もあって、自分と親しい三人の出自、経歴、特徴を借りて小説を書いたのだった。どこまでが真実で、どこからが虚構なのか。小説が発表されてからというもの、銀座はこの噂で持ちきりになった。ここまでは、作者もある程度、予期したことであったろう。しかし、騒ぎは次第に大きくなった。というのも、『夜の蝶』が思いがけぬほどの評判を取るからだった。小説と同時に映画化が進められ、七月末日には封切られた。秋には新派の舞台にもなった。(「おそめ」 石井妙子) 


幸徳幸衛
もともと子供好きでなかった秋水は、この二人の少年の同行は重荷だったようで、シアトルに上陸すると、幸衛(ゆきえ)を村上白洋という人のところにあずけてしまい、主治医の息子時也をともないサンフランシスコまで旅をつづけている。秋水はここでは「移民」できた甥(幸衛)と、「留学」にきた自分のパトロンの息子(時也)への対し方を区別している。村上白洋のもとにあずけられた幸衛はその翌年の三月まで、学僕として苦労したようである。のちにサンフランシスコに出てきたのは叔父秋水の呼び寄せだが、すぐに幸衛はオークランドのさる白人家庭に、再び学僕として出されたようである。ここで幸衛は画家になることを志し、絵の勉強をはじめている。サンフランシスコには渡米後の秋水を世話した岡繁樹(おかしげき 秋水とは日本で平民社の同志であった)などがいて、幸衛の世話も見たようだが、秋水は渡米の翌年帰国してしまい、幸衛は全く身寄りのない孤独な画学生として、苦学せねばならなかった。幸衛が南カリフォルニアに移ったのは何日か定かではないが、一九〇六年(明治三十九)四月のサンフランシスコ大地震の後、当時北カリフォルニアに移住しているから、その頃だろうと思う。大逆事件を知ったのは二十歳のころで、幸衛はその頃夢を見た。秋水と握手しながら川をはさんで歩いていたが、だんだん川幅が広くなり、手は離れ、ついに秋水を見失うという夢だったという。その大逆事件は幸衛に大きなショックを与えた。その時から自分のペンネームを「死影」とした。大きな死の影の人生とという意味でもあろうか、死の影を背負って生きているということであろう。彼の人生はこれ以後、もう一つ歯車がかみ合わないような人生だった。当時の南加の文芸仲間の中では、相当の飲酒家だったといわれ、それで身をこわしたともいわれる。渡米してから一度も帰国しなかったが、やがてアメリカからフランスに渡り、一九二八年(昭和三)に、二十三年ぶりに帰国した。立派な画家として大成した幸衛の帰国を期待した郷里の人たちは、アルコール中毒で、放浪癖のおさまらない幸衛を見てがっかりしたのであった。十五歳で叔父秋水と共に渡米して、二十数年のアメリカ生活はまさにボヘミアンの暮らしであったようで、一度在米の日本婦人と一緒になり、子まで成したのであったが、家庭もこわれたままに酒に逃避してしまい、寂しいアメリカ生活の延長を、日本に持ち帰った幸衛であった。昭和八年二月二十六日に死亡、わずか四十四歳だったという。今は郷里の高知県中村市の墓地に叔父秋水の隣に並んで眠っているという。(「箸とフォークの間」 野本一平) 


間(燗)鍋を喰うや蜜柑(みかん)の小盃
 名句なり。(譬喩尽)(「飲食事辞典」 白石大二) 蜜柑の皮でつくった盃があったのでしょうか。 


香合の景品
Q 時は元和元年、一六一五年五月八日、大阪城は落城いたしました。東軍の武将たちは、これで戦さは終わったというので、香合(こうあわせ)という遊びをしました。その優勝者にはまわりの人が景品を出したのです。さて、武将の一人伊達政宗はどういう景品を出したのでしょう。 ①仙台から持ってきたナスのつけ物。 ②腰に下げていた、酒を入れるひょうたん。 ③馬具、鞍 さて、どれが景品でしょう。
A 伊達政宗は傷がもとで右眼の視力をなくしましたが、その勇猛さをもって独眼竜という呼び名をつけられた人です。政宗はただ勇ましい武将であったばかりでなく、茶を千利休に学んだほか絵や和歌などにもなかなかの腕前をみせました。香合なども彼のレパートリーのひとつだったと思われます。香合は香木をたいてその別をあてさせ、あるいはその優劣をきめさせる優雅な遊びですが、この席で政宗は賞品としてひょうたんを提供しました。しかもなんとそのひょうたんにそえて馬も差し出したということです。(「NHKクイズ面白ゼミナール」 鈴木健二・番組制作グループ編) 


魔女のはらわた
アニスの酒のために胸がむかついた。口なおしになにか辛口のものが飲みたいくらいだ。彼女は、うしろにある、酔っぱらいつくりの器械を横目でにらんだ。この大釜のような器械は、太った金物屋の女房のおなかみたいにまんまるで、鼻をつきだしたりくねらせたりして、彼女の肩のあたりへ欲望と恐怖のいりまじった戦慄を吹きつけた。そうだ、それは胎内の火を一滴ずつもらしている魔女かなにかの、からだのでかい淫売婦の、金属でできたはらわたみたいだった。大した毒の泉よ。こんな仕掛けなんぞ穴倉にうずめてしまうべきだわ。ほんとうにずうずうしくて、いやらしいんだから!が、それでもかまわない。そこへ鼻を突っこんでにおいをかぎ、そのけがらわしいものを味わってみたい気もする。たとえ舌が火傷(やけど)して、オレンジのように皮がむけてしまってもいい。「いったい何を飲んでるの?」と彼女は、男たちのコップの美しい金色に目を輝かせながら、ずるそうにたずねた。「こりゃあ、おまえ、コロンブじいさんの樟脳(しょうのう)さ…。かまととはやめろよ、なあ?いま味をみせてやるぜ」とクーポーが答えた。焼酎が一杯彼女のところへ運ばれてきた。最初の一口であごがひきつった。するとブリキ屋は自分の腿(もも)をたたいて、つづけた。「どうだい!のど笛が削られるみたいだろう!…ひと息にぐっとやんな。こいつを一杯やるたんびに、医者のポケットへはいる六フラン銀貨をふんだくってるようなものさ」二杯目で、ジェルヴェーズは、つらかった空腹も感じなくなってしまった。いまではクーポーと仲直りし、約束をやぶったことでもう彼を恨んではいなかった。(「居酒屋」 ゾラ 黒田憲治訳) コロンブおやじの居酒屋にはワインを蒸留する器械がうごいていたようです。すでにアルコールにおかされていた亭主クーポーの後を、妻のジェルヴェーズが追い始めるところです。 


おなだどつくり[小名田徳利] (名詞)句 口でいうばかりで実質が伴わないこと。[←口ばかり。小名田=岐阜県の地名](洒落)(江戸時代)
おもいざし[想い差し] 好きな人に盃を差すこと。(花柳界用語)(明治)
かき3[柿] 酒屋の奉公人。[←柿衣(かきそ)色の上っぱりを着ていた](俗語)(江戸)
かけどっくり[欠け徳利] 口の悪い人。[←口が欠けている=口が悪い](俗語)(江戸)
かたくち[片口] 差出口をきく・こと(人)。[←片口=醤油・酒などを樽から小出しに入れる陶製の器で、一方に長い注ぎ口がある。→差出口](俗語)(明治)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


ラヴォアジェ、リュサック
ブドウの果汁がワインになる醗酵現象の研究は近代科学の父・ラヴォアジェ(一七四三~一七九四年)によって大きく進展した。彼は醗酵現象を定量的に化学分析し、ブドウ果汁中の糖分は発酵の結果、二つの部分に分解して炭酸ガスとエチルアルコールになるという研究結果を発表した。これはその後、ゲイ・リュサック(一七七八~一八五〇年)によって修整され、一分子のブドウ糖は二分子のエチルアルコールと二分子の炭酸ガスに変化するという化学方程式で表されることになった。ゲイ・リュサックは現在、私たちが使っているアルコールの度数表示法を考え出した有名なフランスの化学者である。(「日本酒のすべてがわかる『本』」 穂積忠彦) 


盃をひよいとほうればわたしかへ いろいろがあるいろいろがある
酒宴の席で、踊子に盃をひょうと投げ渡すと、「私にさしてくれるのかえ」と、うれしそうな嬌声をあげる。宴まさにたけなわといったところである。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎-監修) 

コルサコフ症候群
振顫譫妄(しんせんせんもう)や、幻覚症は禁断症状だが、振顫譫妄状態にあるのは、もしも断酒しなければ、とり返しがつかないことになる。禁酒をあとに延ばせば延ばすほど、元に戻らないようになる。禁酒するとおきる振顫譫妄や幻覚症は、一時的な機能障害だが、さらに飲みつづけると、器質的な障害、元に戻らない障害が現れる。それが「ウェルニッケ脳炎」と呼ばれ、その症状がコルサコフ症候群といわれているものである。コルサコフ症候群は物忘れがひどくなるところから始まる。新しいことは何ひとつ覚えられない。ふつう、老化現象では、新しいことは覚えられなくなるが、過去のことで、印象の強かった人生のエポック(時期)はよく覚えている。コルサコフ症候群は、過去の記憶も忘れ去ってしまう。自分の過去を忘れ去ることは、現在の自分の存在を認識できないことになる。ただ、これには不安がない。そして記憶の空白は、空想で埋めていく。まったくでたらめな話をつくっていく。そして本人は楽天的なのである。脳に不可逆な変化が起きるので、治療によって完全に回復することはもはや期待できない。(「酒の人間学」 水野肇) 


よっしゃあ
そういえばまだ学生だった頃、西武新宿の駅で目撃した中年の酔っぱらいのことを思い出す。彼はこの上もなく上機嫌で電車に乗り込んできて、「ういいー、よっしゃあ」などと言いながら、勢いよく座席に腰を下ろした。ところが勢いがよすぎたため、座った反動で後頭部が電車の窓ガラスにバコーンと激突した。と同時に、あの硬い電車の窓ガラスが、コナゴナに砕けてしまったのである。すぐそばに座っていたぼくは、「どひゃあ!」と叫んで座席から飛び上がったが、ガラスを後頭部で割った当の本人は、「おり?おりー?」などと惚(ほう)けた声を出しながら、頭に降りかかったガラスの粉を払ったりしているのである。素面(しらふ)だったら、おそらく大怪我をしていたのではないかと思われる状況であっった。しかし酔っぱらいの彼は、傷ひとつ追うこともなく、そのままグースカ寝こんでしまった。(「考えるひと」 原田宗典) 


勘違い
『-「僕(「小説と読物」編集者)は六条さんは已に御承知の事と思ひましたから、私の方で雑誌で六条さんと岡さんと先生の座談会をしたいと云ったのです」「帝大の岡さんとは云はなかったのですか」「それは云はなかったでせう。何しろ六条さんがすぐ引き受けて下さって、僕の家の近所だから、今日帰りに寄って打ち合せて来ませうと云はれましたので」「成る程さう云へば岡の家は同じ駅で降りるのだから、近いと云へば近い」「ですから帝大の岡さんのお宅がすぐ近所だと云って居られたのと思ひ合はせて、僕はてっきりこっちの思ってる事が六条さんに通じたとばかり思ったのです」「もうしかし仕方ありません。それぢゃこの侭(まま)で今晩の座談会を進める事にしませう。一緒に座敷へ帰ってはをかしいから、先にいらっしゃい。」それから一寸間を置いて、私(内田百閒)も自分の席に帰った。「ああ失敬」と云って座に着き何喰はぬ顔で杯を取った。「もう(座談会が)始まるのですか」と岡が聞いた。さっきからの気疲れで、私の心はくたくたである。先ず上辺を糊塗して、ほっとした所でお酒を飲み始めたら、常になくほんのあっと云ふ間に酔ひが廻って、何が何だか解らなくなってしまった』酔いが廻って何が何だか解らなくなってしまうまでに、座談会がなかったという訳のものでもない。『貴君もどうやら重役にお成りになったものの、重役もケダモノの獣役だあネ』と先生が云った。それから暫く獣役談がはずんだと思っていたら、突然に、中野が破れ傘を開くような声を出した。それからが、忽ちにして、何が何だかわからなくなってしまったのである。先生は立ち上がって得体の知れない仕舞を舞い始めた。速記者があっけにとられて、鉛筆をさっさと仕舞い込んでしまった。(「めぐる杯」 北村孟徳) 六条=北村、違った岡=北村の友人、ヘリコプター輸送㈱常務中野勝義と、本来の岡=東大教授中野好夫だそうです。 


鰊の鎌倉焼き
元来鎌倉焼というのは伊勢蝦(えび)(異名鎌倉蝦)を殻の儘(まま)塩焼にしたものを云うのだが、蝦と鰊(にしん)との関係がどうも明らかでない。しかしたべる事には理屈は入らぬ殻後考を待つとして、まず鰊の新しいのを三枚に卸す。一方赤味噌に醤油、味醂を加えて味を調え、その中へ用意して置いた鰊を一両日漬け込み、味噌の風味が鰊に移れば網で焼いて皿に盛る。ところが即席という事になれば味噌を醤油と味醂で調えたものをドロドロに解いて、これを三枚に卸した鰊(大きければ適宜に切って)に満遍なく塗って焼けばよい。いずれにしても酒党は杯を重ねること必ずや繁く、食べる方が専門という人なれば、これまた飯椀のお代わりがきっと多い。(「俳諧 たべもの歳時記」 四方山径) 


いにしえけ ならけみやこけ やけざけけ きょうこのへんに におうげろげろ
<通釈>もう我慢できん。これは解釈する気にならん。勝手にやりなさい。
よそのいえ わがやをたちいでて ながむれば いずこもおなじ さけのむなかれ
<通釈>禁酒させられた亭主どもの嘆きであろう。(「裏小倉」 筒井康隆) 


酒蔵見学から
日本酒の会も-集-で飲むだけでは飲みたらなくなって、いよいよ"酒蔵"通い。(昭和52年)1月22日(土)午後、味のわかる飲んべい仲間、14人、(絶世の中年美人1人と酒も恥じらう18娘1人)赤羽駅集合。東京でただ1軒の小山酒造へ。ず昔風の待合室で3代目の社長小山新七氏の説明。◇明治10年に酒づくり開始。◇途中関東大震災、太平洋戦争もあったが、バッカスの守りがあったのか、建物の一部分が壊れただけで昔の姿を現在に残している。◇昔の思い出に、戦争直後の酒不足は酷く、近くに米軍のキャンプができ、そこへ出入りするパンパンの娘の政(性?)治的圧力は強く、交番のおまわりさんを連れて酒を売れと交渉に来たとか(おまわりさんいわくには、売ってやらないとおまわりさんの命が危なくなるような状況だったとか)。◇酒の命は水だが、地下130メートルから汲み上げている。(「幻の日本酒を求めて」 篠田次郎 「幻の日本酒の会を回想して」 田中栄治) 東京23区内唯一の酒蔵丸眞正宗・小山酒造だそうです。 


酒の上
酔つた酔つた酔申候処(よいもうしそうろうところ)実正(じっしょう)也、就(つい)て分別(ふんべつ)の儀はさめての上と寺岡氏(てらおかうじ)がアジな言分(いいぶん)、すゝいだ猪口ならさゝねばならぬさゝれた猪口なら受けねばならぬ、さいた受けたで斯(か)くの通りの千鳥足とは口悪め、風一陣さつと顔なでゝ行く気持のよさ、下戸共は知るまい、大分今夜は冷(ひや)つこいのが見舞はられるが、明日(あす)のしぐれの仕度(したく)と覚えた、やれお月様暈(かさ)召したの、いつ見ても野暮(やぼ)たらしい高く留まつて、吹晒(ふくさら)されて御坐るも役目ならば仕方ないが、おぬしも一旦波上(なみのうえ)の光る君と仇名(あだな)取られたからは、まんざらの訳知らずでもあるまい、酒は適薬一つあがらぬか、お持合せがあらば頂いてもよいとこどツこい水溜りを、酔つた眼(まなこ)によけて通るもおぬしのお蔭、-(「酒の上」 斎藤緑雨) 


酒肴のもてなし(2)
しかし、七十代の半ばを過ぎた海舟にとっての、「苦学」、つまりあの継ぎ剥ぎ細工はまだ終わっていなかった。旧主徳川慶喜と皇室の和解の儀式は、まだとりおこなわれていなかったからである。その日は、明治三十一年(一八九八)三月二日にやって来た。この日、徳川慶喜は、かつて自分の居城であった江戸城、つまり宮城に、維新以来実に三十年ぶりで参内した。彼は今や還暦をすぎ、その広い額には「光を韜(つつ)み迹(あと)を斂(をさ)め」た静岡閑居三十年の苦悩が、深いしわになって刻みつけられていた。彼を招いた主人役は、いうまでもなく明治天皇である。慶喜は、かつて彼を「朝敵」と呼び、その生命を要求されようとしたこともある天皇の前に、深々と頭を下げた。天皇もまた、このときすでに四十代の半ばを越えておられた。謁見が終ると、天皇は席を神殿の移され、侍従たちも遠ざけられて、ただ皇后のみが臨御されるという和やかな水入らずで、慶喜に酒肴をたまわった。皇后は御手ずからお酌され、慶喜はこの厚遇に恐懼した。この和解の儀式を周旋したのは、表向きは有栖川宮威仁(ありすがわのみやたるひと)親王ということになっていたが、実は伯爵勝安房である。海舟は当時すでに健康がすぐれず、赤坂氷川町の邸に万年床を敷きっぱなしして起居していたが、-(「海舟余波」 江藤淳) 


鈴木信太郎、カミーユ
 鈴木信太郎は洋酒党で日本酒はめったに飲まなかった。学生時代の友人の酔っ払った醜態をきらったためもあったが、日本酒を飲んだ翌日の小便の特別な悪臭も、彼を日本酒ぎらいにしたのだった。
 サルトルの恋人だったことのあるカミーユという女優がいた。彼女は酒好きでよく飲んだ。ある時すっかり酔っ払って舞台を出た。そして主役のかつらを見たとたんに笑い出し、そのかつらをはぎとってしまった。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


さけうたげ【酒宴】
我が宿のよもにぞ春はきにけらし酒うたげする声とよむなり(亮々遺稿 木下幸文)(「日本歌語事典」 大修館書店) 


酒は異物
酒は元々人類にとって異物である。肉を食べて栄養とするようには、酒の摂取は元々遺伝子にプログラムされていないし、お酒が発明されたのは定説ではたかだか数千年前で、それくらいの短期間では遺伝子は変化したりしない。たまたま人類に備わっていたアルコールを分解する生理能力によって、酒に適応して、酔いを楽しむことができたのだ。ただし、そこには個人差があって、毒性のあるアルデヒドが血の中に生じやすい体質の人とそうでない人がいて、いわゆる酒に強い人と弱い人ができるのだ。東洋人は西洋人と比べ、そうした生まれつきの酒に弱い人が多いことが知られている。こうした違いを、「進化」の観点からするとこんなふうにも考えられる。アフリカの牧畜民はみな長身であるが、これは乳児期が終わっても、母乳の代わりに牛の乳を飲み続けられる遺伝子を持った人が、多量のタンパク質で背が高く、強くなって子をたくさん作り、次第に社会の中で多数派になったのだ、と考えられる。ならば、酒が飲めた方が王さまのおぼえめでたく出世して、たくさんの子を産むと、その子が親の遺伝子を受け継いで酒が強いので、出世してまたたくさんの子を産み、、次第に酒の強い人が増えた。西洋ではこうやって飲んべえの天下になったが、日本などはまだ酒の歴史が浅く、未(いま)だに酒に弱い人が淘汰されずに生き残っている、と推論できないだろうか。いや、逆の推論もできて、社会が次第に高度になり、醒めた頭と健康が求められるようになると、酒の誘惑に抗することのできる、酒を飲まない人が次第に重きを成し、いま東洋は西洋に先んじてその方向に向かっている途中なのだ、と。(「一字一話」 船曳建夫) 


酒粕入りふきのとうみそ
じゃあまずは 乾いた布かキッチンペーパーで軽く汚れを落として 鍋に湯を沸かし サッとふきのとうをゆでて 水気をとって 包丁で細かく刻む みそと酒粕を用意して 両者を合わせて砂糖かみりんを加えてよく練って そこに刻んだふきのとうを加えて混ぜれば 酒粕入りふきのとうみその完成だ!(「風流つまみ道場」 ラズウェル細木) 


大酒飲みは貧乏にはなるが悪人にはならない[チリ]
同じ杯で飲む[英](同じ釜の飯を食う)
愚か者は賢く、酔っ払いは素面(しらふ)に、女は無口になろうとする[ジプシー]
顔は鏡で見、心は酒で見る[韓国]
隠れて酒を飲んでも足取りでわかる[セネガル]
悲しみを忘れるのにドイツ人は酒を飲み、フランス人は歌を歌い、スペイン人は泣き、イタリア人は眠る[英](「世界たべものこたわざ辞典」 西谷裕子) 


八ある人小者(こもの)に弁当持たする事
ある人、賀茂の芝原にて遊びゐたり。弁当ひらき、いろいろのさかな取りいだし、あれよこれよといふ折から、赤犬来りて、一つくはへて逃げた。旦那、「久三郎よ、あの犬めをすかし寄せて、くはせい」といひすてて、宮へ参りた。帰りて酒をのみ、「さかなを出せ」といへば、九三郎、「先に、『くはせよ』と仰せられましたにより、犬にくはせました」といふた。
注 三 久三、久七等と同様、一季奉公の下男の通名。 四 だまし。欺き誘い。 五 打て。なぐれ。 六 賀茂神社。 七 打ち叩くの「くはせる」を、肴の「食はせる」と錯覚。(「元禄期軽口集」 武藤禎夫校注) 


鼻緒の違った下駄
ユーモア作家の尾崎一雄氏が、ある座談会で酒友井伏鱒二氏と飲み合ったことを話している。ふたりが一緒に飲んで夜おそくうちへ帰るが、さて翌朝夫人が鼻緒のちがった片方ずつの下駄を発見した。いうまでもなく片方が昨夜飲んだ酒友のモチもの。これをとりかえるべく郵便小包で「捕虜交換」をやろうとしたが、これではあまり芸がなさすぎるから、面接して「捕虜交換」をしようじゃないかということで、また下駄を交換しながら一杯どころでなく大いに飲んだそうだ。結局この味が忘れられず、これからもこのテでときどき飲もうということで、双方が下駄をとえりかえにゆくといっては奥さんの目をゴマ化して飲んだらしい。(「酒味快與」 堀川豊弘) 


「酒みずく」
私はいま二週間以上も酒びたりになっている。いま書いている仕事のためにとは云わない、けれどもこの仕事は、半年もまえから計算し、精密なコンティニュイテイを作り、それを交響曲と同じオーケストラ形式にまとめあげた。そうして書きだしたのだが、作中の人物は半年以上ものつきあいであり、誰が出て来ても、みな古馴染(ふるなじみ)で、小さな疣(いぼ)や痣(あざ)や、めしの喰べかたや笑い声までがわかっていて、その男、または女の出番になると、うんざりして机の前から逃げだすか、酒で神経を痺(しび)れさせるほかはなくなるのである。いろいろ狼狽してみた。三浦半島へいったり、藤沢でだらしない遊びをし、二人の大切な友人に迷惑をかけたり、また華やかな街で五日も沈没したりした。はたから見れば、これらはたのしい贅沢としかうつらないだろうが、当人は一刻々々が死ぬ苦しみなのだ。声に出して「ああ死んじまいたい」と、のたうちながら喚(わめ)いたこともあった。-酒みずく、という吉井勇の歌があった。酒びたりになるほか、この世に生きている価値はない、というような意味の歌だったと思うが、もちろん正確ではない。違った意味の歌だったかもしれないが、いまの私にはそうとしか思えないし、今の自分をそっくりあらわしているように思えるのだ。(「酒みずく」 山本周五郎) 君帰りたまえ 


飲むと政治論
先輩を大事にする富島は、早稲田の頃から、劔木(けんのき)と関係があった。この人が、立候補した時、早稲田の学生だった彼は、帰郷して、トラックに乗って、応援した。今でも、そのときからのつきあいがつづいている。時々、電話をかけあって酒を飲む。この元文部大臣も、この後輩の人柄を好んでいるのだろう。富島の昔の友だちに、この春ごろ、次のようなことを聞いたことがある。「劔木さんが、政治家を引退した時、その後の地盤を、富島にゆずり、彼を政治家にしたい、ともらしている。すでに本人には通じている」というのである。しかし、富島には、目下その気がない。が、私の見たところ、富島は、政治好きのように思える。石原慎太郎とほぼ同じころ、文壇へデビューした富島には、石原に対しての対抗意識が強い。飲むと、政治論が出ることもある。ただ、どちらかというと、彼は反権力である。富島健夫の人脈では、まず、丹羽文雄。次に、意外だが、この劔木享弘(としひろ)があげられる。このコントラストが、いかにも彼らしいのだ。(「ここだけの話」 山本容朗) 


酒税法改正
日本の酒税法を見てみますと、清酒(日本酒)は「醸造酒」であるとはどこにも書かれてはいません。しかし、お酒に関する書物を見る限り、日本酒は醸造酒だと書かれています。世界のワイン、ビール、老酒などと並んではっきりと醸造酒だと記されています。9割がリキュールだというのに、たった1割をもって「醸造酒」といいたてているのです。"黒板"を"白板"といっているのです。正確には、平成18年4月いっぱいまではそうでしたと言えばいいのでしょうか。新しく改正され5月1日から施行された酒税法では、「三増酒」や「三増酒」を調味液として混ぜた、いわゆる「普通酒」は「その他の混成酒」(リキュール)となり清酒の範疇から除かれたからです。ちなみに新しい酒税法下での清酒の定義は、アルコール度が22度未満のもので ①米、米麹、水を原料とし発酵させこしたもの ②米、米麹、水および清酒粕その他の政令で定める物品を原料として発酵させこしたもの(その原料中、当該政令で定める物品の重量の合計が米<米麹を含む>の重量の100分の50を超えないものに限る) ③清酒に清酒粕を加えこしたもの となっています。ただし経過措置として今までの「三増酒」を混ぜた「普通酒」のうちアルコール度が22度未満で副原料の重量が米の重量の50%を超えない清酒は平成19年9月30日までは清酒とみなされますし、また第3条ロの規定に該当する酒類(純米酒ではない副原料を使用したもので前記の③でないもの)でアルコール度が22度以上のものなどについても同様に経過措置がとられるので、まだしばらくは図の白と黒の部分の割合(純米清酒:それ以外の清酒=1:10)は大きくは変わらないでしょう。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


鶴の友
さすがに今日は豆腐をお休みにしようと思う日は、肉屋で馬刺し、魚屋で適当な刺身を買う。合わせて千円ちょっと。いつもながら外で飲むことを考えれば安いものだ。馬刺しはニンニク醤油でそのままやる。刺身は、ときにアジなどを不器用ながら自分でおろしたりするが、少し前に、良心的な魚屋を見つけたので、そこで気むずかしそうなダンナさんがおろしたばかりの刺身を買えば、まず間違いがない。鍋に水をはり、沸かしていく間にビールを一本。沸いてきたらチロリを鍋縁にひっかける。燗がつくのはあっという間だ。つまみとチロリを卓に運び、腰を落ちつける。刺身をひとつまみして、酒をちびり。馬刺しをひとつまみして、酒をまたちびり。酒は、新潟の『鶴の友』がまだ残っている。純米でも吟醸でもないが、これがうまいんだ。燗に合います。小ぶりのチロリの酒などすぐになくなるが、そうなればまた立ってチロリを鍋縁にかけ、しばらく待つのみ。なにしろチロリで燗をつけるのが楽しくてしょうがないのだ。おもちゃを買ってもらったばかりの子供さながらに、チロリと遊んでいる。締めに茶漬けでもさらさら流し込むかなあ。そんなことを思いながらちんたらちんたら飲めば、五合くらいの酒をスルスルと飲んでしまう。よほどこの飲み方が性に合っているんだろう。(「全然酔ってません」 大竹聡) 


さら川(12)
コンピュータ打つ振りをして二日酔い St ONE
二日酔もったいないので三日酔 のんべい
飲屋から屋台に替えた自衛策 子沢山
「今日ひまか?」「酒か残業どちらです?」 パンプキン
年賀状困ったときの「また飲もう」 スパ-モンキー 


酒肴のもてなし
彼(徳川慶喜)の「出馬」を確信して、諸隊の長が持ち場に散ったすきに、慶喜は松平容保(かたもり)、同定敬(さだあき)、酒井・板倉両閣老、大目付戸川伊豆守忠愛(ただなる)、外国奉行山口駿河守直毅(なおたけ)、目付榎本対馬守道章(みちあき)らをしたがえて、夜陰に乗じて大阪城外へ出た。ときに正月六日(慶応四年)夜亥の刻(午後十時)ごろである。一行は衛兵に誰何されたが、だれかが、「御小姓の交替である」といったので深くはあやしまれなかった。やがて慶喜の一行は八軒屋から船に乗り、天保山に着いたが、今度は彼らの脱出を助けた夜の闇のっために開陽艦の所在がわからず、最も岸近くに碇泊していたアメリカ軍艦に迷い込んで一夜を明かした。この米艦の名は明かではないが、艦長は自室に招じ入れて、酒肴をもってもてなしたという。これもまた奇怪な話であり、一方で厳正中立を要求しておきながら、中立国のテリトリーである外国軍艦の艦内に、交戦状態である政権の一方の首長が、迷い込んだとはいえ一夜の宿を借りるとは、いかにも醜態といわなければならない。(「海舟余波」 江藤淳) 鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜が江戸に帰る際の話だそうです。 


餅つきと酒盛りの料理
同じ祝いの食物調整でも、餅つきと酒盛りの料理とは著しい差異があった。後者はその支度(したく)に参与した男女のために別に、「俎板(まないた)洗い」とか「樽底飲み」とか「瓶(かめ)こかし」とかいう機会があったけれども、それは普通には本宴会の翌日、慰労のような意味をかねて配給せられるのであった。ところが餅つきの方では主要な目的に先だち、多分は神様へのお供えをするよりも前に、竈(かまど)の前や臼のそばに働く人々が、てんでに手の窪の餅を食べたのである。(「身の上餅のことなど」 柳田國男) 瓶底飲み 


ジイド、鏡花
一九〇二年一月二十日のこと、ジイドは小説家のフィリップを訪ねた。彼はよろこんでジイドを町に連れ出し、安居酒屋に入り、ぶどうのしぼりかすからとった強い火酒をむりやりのませた。おかげでジイドはその日夜中まで頭ががんがんして困った。
講演ぎらいの泉鏡花はめったに講演をしたことはないが、芥川が死んではじめて全集が出た時だけは、講演をひきうけた。その席に彼は魔法瓶入りの熱燗を持って行き、それをチビリチビリのみながら、四十五分もの大演説をした。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


真田幸貫
ともかく、そういう父・(松平)定信の考え方にしつけれらたのだから(真田)幸貫が大名の子にしてはちょっと異色の存在だったということは言えよう。身の丈、六尺に近く、声は遠鐘のごとしと物の本にある。武術は、弓馬、柔・剣術、いずれも奥義をきわめ、木綿の着物・袴をつけ、供もつれずに江戸市中を闊歩するので、「若様、もしものことがありましては、私めが迷惑いたしまする」老臣の山口重大夫というのがときどき江戸屋敷を出て行く幸貫の後を追ったものである。「重大夫。今日は、おもしろいところへ連れて行ってやる」などと、幸貫は下町の片隅や両国の盛り場などにある汚い居酒屋へ重大夫を連れこんでは、「どうしゃ、うまいぞ、これは-」煮しめや濁酒(どぶろく)を食べたり飲んだりするのだ。「若様にも困りました」へいこうして、重大夫が主君の定信にこぼすと、「放っておけ。これからの大名は、その位でのうてはならぬ」定信は微笑して、重大夫に言ったという。(「戦国と幕末」 池波正太郎) 


鶏頭に隠るゝ如し昼の酒
戦場で読書の暇があろうとは思えなかったが、名著文庫の「芭蕉文庫」一冊だけは何とかして持って行きたいと思った。ところが一晩隣からお祝いに貰った麦酒を二本飲んだ勢で「鶴」の会員諸君に最後の言葉を書き、又一日鶴その他日頃交友の諸氏を草庵に迎えて酒をのんだり俳談をしたりしているうちに、鶴に深い未練愛惜を感じ断ち難い絆(きずな)を覚え、愈々(いよいよ)これからは自分の俳句を戦場で鍛えるのだと思い乍らも、一方もう何も彼も駄目だ、何かを得る為の一切放下ならば尊いけれど、自分は何も得るところのないものの為に生命を捨てるのだ。どうしても国家の為にという大きい考えになることが出来なかった。ただ未だ、這いも立ちも出来ない一人の子供の為に、俺は肥料になってやるのだと思うことで幾らか安心を覚えるのだった。友達が家にきて飲んだのは出発の前日で、繁りっぱなしの鶏頭(けいとう)で足の踏場もない庭に雨催いの空が暗かった。
鶏頭に隠るゝ如し昼の酒(「一冊の芭蕉全集」 石田波郷) 


匏瓜仏
九月十九日に糸瓜忌(へちまき)の催しあるは、其の道の知るところなり。其の糸瓜忌の前日、余輩金森匏瓜(ほうか)君の生前の供養を営むこととなれり。余が匏瓜君を知りてより五六年、酔へば必ず大正十年には死にますると云ふ。期日を問へば、九月十九日なりと云ふ。十九日は今も云へる糸瓜忌なり。読めたり、正岡子規の門下たりし君は、恩師の命日を己(おのれ)の命日と定めたり。七月のはじめなりし、匏瓜君を先達(せんだつ)とする俳句会の一行十余人、多摩川に鮎狩を催したるが、其の席上にて、いよいよ匏瓜君の生前の葬式を行ふことになり、余の名も発起者の中に加へらるることとなれり。場所は飯田河岸の柳屋という待合、期日は十九日を一日繰りあげて十八日の午前十時よりと云ふにぞ、驟雨模様の空を気づかひながら、八時過ぎ茗荷谷の草庵を出づ。新小川町のほとりに道寄する所ありければ、往き着きたるは十一時に近かりき。生仏の匏瓜君をはじめ、十余人の同人既に集りをれる中に、川柳久良岐翁の狂歌を書きたる半折二枚を、床に貼りたるが見ゆ。-
匏瓜は奥州石之巻の生れ、家は金物屋と云へば、役の吉次が血を引けるやも知るべからず。親子にして巨万の富を酒にかへたる奇人なり。年齢は何時聞きても二十八ですと云へど、戸籍の表は五十を過ぎたるなるべし。余は、「真箇(ほんたう)に死ぬなら、子規の扇面は、田中にやつてくれと、遺言状に書き置いてくださいよ、」と云ひながら追悼の句を書きたり。俳友にして会葬せざる者は、手紙や香奠を送り来れり。渡辺水巴子の香奠の表包には、『匏瓜仏』と書きたり。其の待合の娘の家よりは、稲荷ずしにお供物と書きて送り来れり。酒出て三味線鳴れば、匏瓜仏は廊下に出でて、都都逸踊と云ふのを踊れり。其の背はひよろ長かりし。(「随筆 酒星」 田中貢太郎) 


一対一
ソヴィエトと東欧諸国には私は一回しか行ったことがないけれど、東京でソヴィエト人や東欧人と飲むことは何度となく、数知れずあった。彼らもまた夕方六時以後に酒が入ると態度が一変し、ことに一対一で酒を飲み、その場に誰も同国人がいないとなると、痛烈な小話を聞かせてくれる。その小話はしばしばヒリヒリと鮮烈であるが、腹をかかえて笑ったあと、何やらウソ寒くなってくる。その背景の現実を考えようにもあまりにも想像を超えているような気がして、手がかりのない荒涼をつきつけられたように感じてしまうのである。(「食卓は笑う」 開高健) 


名無しの酒
やっとこさ最上階の六階に来た。どうやらここは、真ん中の廊下を境に、ふり分けの住居空間だったのではあるまいか。いまは三つある部屋の二部屋が小さな画廊になっている。残る一部屋が事務所兼キッチン。知る人ぞ知る画廊ビル中の第六天国である。物故した高名な美術評論家の女友だちが細腕一本で経営している小画廊。展覧中の作品もだが、ここに寄ると、だれかしら知り合いに会えるので、銀座に来るとつい六階まで登山するはめになる。事務所兼キッチンの方からどっと笑い声が聞こえてきた。のぞいてみると、案の定、知り合いの画家が何人かいて、コップに一升瓶からどぼどぼと注いで、「まあ、一杯」。一升瓶にはラベルがない。密造酒くさいな、と思いきや、それが今時はやりのジューシーな日本酒というのか、臭味がなくてすいすい喉を通ってしまうのが意外だった。聞けば、青梅在住の画家Yさんが地元の美術家(というより飲んべえ)有志と千葉の奥のほうに水田を借り、夏場は草取りなどにわざわざ千葉まで出働きに行って、ついに秋は豊作。できた米は冬場に地元青梅の蔵元で仕込んでもらって、自分たちの納得の行く酒に仕上げているのだそうだ。だからまだ名無しの酒だ。(「雨の日はソファで散歩」 種村季弘) 


さけごと【酒事】
名(名詞)「さかごと」とも ①酒を飲み交わすこと。酒宴。「太夫子の付合すこしもしらけず、酒事殊更(ことさら)につのりぬ[男色大鑑・八・三] ②茶事に対し、人々が集まったとき、茶菓をともにする程度に、簡略に酒を酌み交わすこと。「今宵の月に集銭酒「上:夭、下:口 の」んと、…いづれもに心よく酒事さすは、我に例をいふべし」[武家義理物語・一・一]」 (「角川古語大辞典」 角川書店) 


東京大正博覧会出品之精華(2)
清酒『神楽』、生引溜『「上:∧、下:小」印』 三重県三重郡四郷村大字室山 伊藤小左衛門君
清酒『神楽』は最も原料を精撰し、独特の仕込方法に依り醸造する所、芳醇毫も灘酒に遜色なき優良品なり。-
酒の醸造は安政二年に創まり、最近の年産千五百石に上り、販路は県内枢要地及、朝鮮、台湾、北海道、東京、横浜、濃尾地方に及び、製品は第四回内国勧業博覧会に於て二等賞を受けたるを始め受賞多し。-(「東京大正博覧会出品之精華」 古林亀治郎 大正三年 「近代庶民生活誌」所収) 


モジリアニ
アメデオ・モジリアニが、ほんとうに大酒を飲むようになったのは、第一次世界大戦がはじまった年からでした。彼は最初は義勇兵を志願しようとしましたが、戦争を憎む彼の思想は、それを許しませんでした。友人のキスリングもドランも、ヴラマンクも戦場に行ってしまいました。彼は戦争を忘れようと仕事にしがみつきましたが、日々流布される戦争のニュースは、彼が仕事にうちこむことを許しません。この苦しみと混乱からのがれようとして、やたらに酒をあおりました。そしていつも正体を失うまで酔ってしまうのでした。正気にかえるのがこわかったのです。ある朝早く…一晩中飲みあかしか彼は、酔っぱらって、大きな声で歌い、人々の眠りをさまたげました。夜あかしをしていた番人は、彼をつかまえて、身分証明書を見せろというと、彼は傲然と、「身分証明書?」「…」「この通り!」と、持っていたデッサンの一包みをさしだしました。いざこざの末、とうとう彼は警察に突きだされてしまいました。そしてたまたま内ふところに持っていた兄(イタリアのリヴォルノ社会党代議士)からの手紙のために、一晩警察のやっかいになりました。(「画家と酒と」 大久保泰 「洋酒天国」 開髙健監修) 


猪口に二、三杯
翌二十三日の朝九時、龍之介は目を覚ました。上機嫌であった。朝の食事はいつもより多く、夕方近く、二人の客が来た。階下の八畳で夕食を共にした。日本酒の徳利が二、三本並べられ、龍之介も猪口に二、三杯吞んだ。珍しく元気で話がはずみ、客は十時頃帰って行った。それから二階の書斎に入った龍之介は、書きものをしたあとで、短冊を一枚取り出して、それに 自嘲 水洟や鼻の先だけ暮れのこる 龍之介 と書いた。それを紙に包んで二階の書斎から降りて来ると、もう寝ていた伯母のふきの枕元へやって来て、小声で、「これを明日の朝、下島先生に渡して下さい」と言って、また書斎に戻り、聖書をひろげた。真夜中の二時頃、龍之介は二階から降りて来て、妻文子の寝ている蚊帳の中へ入って来た。文子が、いつものように、「あなた、お薬は?」と言うと、「そうか」と答えて蚊帳を出た。普段のように睡眠薬を吞んで、また蚊帳に入った。文子はその時、何とはなしに、はっとした。<夫は既に二階で睡眠薬を「上:夭、下:口 の」んで来たのではないだろうか。それを、私に、いつものように「お薬は?」と言われたので、反射的に、また飲みに行ったのではないだろうか。>胸さわぎがしたが、それをどうしても尋ねることが出来なかった。そのまま二人は深い眠りに入った。龍之介にはそれが永遠の眠りになった。(「物語大正文壇史」 巖谷大四) 


バー Bar
居酒屋は悪魔の告解室である。アルコール類の壁を背にし、カウンターに両肘をついて、「マスター」という人のよさそうな仮面をつけ、軽はずみな連中、ほら吹き、落ちこぼれどもの果てしない打ちあけ話を聞き出しているのは「奴」だ。(ジルベール・セブロン)(「世界毒舌大辞典」 ジェローム・デュアメル) 


方言の酒色々(2)
十分に酒を飲んだ上に、さらに飲む酒 うぃざけ
入棺に従事した人だけに出す酒 きよめざけ
入湯後の酒 ゆぼく
山に入る時に山の神に捧げる竹筒に入れた酒 つつざけ
大工が仕事に取り掛かる時の酒 ちょーのはじめ
上方産の酒 くだりしゅ(日本方言大辞典 小学館) 


孫悟空の出発
猿たちは美猴王(孫悟空)を上手に据えて、それぞれ年の順に下手に居並び、かわるがわる前に進んで、酒を捧げ、花を捧げ、果物を捧げ、一日じゅう、したたか飲みました。あくる日になると、美猴王は朝早く起きて、一同に、「おぬしたち、枯れ松を折って、筏(いかだ)を組んでくれ。それから竹を一本取って来て、棹(さお)をつくってくれ。また、果物の用意をたのむ。わしはこれから出発するからな」と言いましたが、果たしてだたひとり筏に乗り、力いっいこぎ進んで、まっすぐ大海に出、順風に乗って、南瞻部州の地へ向かいました。この旅たるや、まさに、
天産の仙猴 道行隆(さか)え 山を離れ筏に駕(の)って天風に趁(の)る 洋(うなばら)に飄(ただよ)い海(わたつみ)を渡って仙道を尋ね 志を立て心を潜めて大功を建つ-
(「西遊記」 呉承恩 小野忍・訳)  


時には二日酔い
こうした酒を相手に腕を上げた光圀だが、時にはこんなほほえましいひとこまもあった。相手はくだんの朋友、小城の殿様である。「之外大酒ニ而今漸々起あがり…」「一昨日は致大酒無十方躰ニ而御はづかしく候」。あるいは「実は夕べのことは飲みすぎてよくおぼえていない。いとまごいもしないで失礼した…」というような一文もみられる(「小城鍋島家旧蔵義公書簡について」)。「普通の大戸とも皆沈酔 公ハ儼然としておはセし也」という光圀であったが、時には二日酔いに苦しむこともあったのだろう。(「水戸黄門の食卓」 小菅桂子) 


漬菊
「漬菊」は次の通りである。
黄菊盛ナルヲホツシ生ニテ壺ニ入、サテ酒ヲ溜、軽キ押ヲ入置、用トキハ湯ヲ器物ニ入其中ヘ菊ヲ入洗テ、浸物、煮物、酢味噌ニテモ可レ食。(「加賀百万石の味文化」 陶智子) 享保14年頃、加賀藩の料理人・舟木伝内の著した「料理無言抄」にあるそうです。 


ほととぎす厠(かわや)なかばに出かねたり
というのは、西園寺公望公が文士を招待した「雨声会」に出席できないのをことわった夏目漱石の手紙の末に添えられた俳句である。日本演劇社で、昭和二十年一月二日に、新年の顔合わせがあった。戦争中だが、少将の酒を酌みかわしているうちに、渥美清太郎さんと安部豊さんが、些細なことから口論をはじめた。社長の久保田万太郎さんが、ちょうど手洗に立ったあいだの出来事である。一応おさまったところに、やっと久保田さんは帰って来たが、ぼくに、「ほととぎす厠なかばに出かねたり」とささやいた。(「ちょっといい話」 戸板康二) 酒のと出逢い 


煎り子
煎り子の頭と尾を折り取り、背と腹とに指をあてて強く押すと、骨と身二つ、または骨と背身の五つに割れます。これを清酒と淡口醤油に極々微量の米酢(よねず)を合した中へ、ヒタヒタに漬けて二日もすると、洋酒にもビールにも、勿論、人肌の御酒にもよくあう、洒落た一菜となってくれます。(「味覚三昧」 辻嘉一)煎り子は、カタクチイワシの幼魚だそうです。 


さけ【酒】(2)
酒にみだるるおのれ悲しきことありてただ意地づくの生となりはてむ(万春 山本友一)
昨夜(よべ)ふかく酒に乱れて帰りこしわれに喚きし妻は何者(晩夏 宮柊二)
穴ごもる如きを恋ひて人は来る貧しければ悲しければ酒あればはた(虚像の鳰 高安国世)
うちうちだからうちうちだからとくり返し碗に盛りたる酒をねぶれる(左右口 山崎方代)
何の主義もおぼろめきつつわが影が映(うつ)ろふ酒のこの小グラス(冷気湖 千代国一)
泡だちて昏るる麦酒にたぎつもの革命と愛はいづこの酒ぞ(子午線の繭 前登志夫)
酒やめむことを思へば新年(にいどし)の夜の頭蓋に雪けむり立つ(霊異記 前登志夫)
はらわたに花のごとくに酒ひらき家のめぐりは雨となりたり(滴滴 石田比呂志)
酒飲んで涙を流す愚かさを断って剣菱 白鷹翔けろ(エチカ・一九六九年以降 福島泰樹)(「日本歌語事典」 大修館書店) 


女の無銭遊興
函館の料理店久保方に来たりし三人の美人あり酒を命じ痛飲高歌屋壁皆震(ふる)ふ女中等驚いて其座に至る者なし既にじて忽然として声なし異(あやし)みて至れば隻影なし警官百方捜索之を捕らふれば三人共無銭遊興を以て北海道を荒し歩く者にして其首謀者は府下日本橋区中川アサなり-=明32.3.16(「朝日新聞の記事にみる 奇談珍談巷談[明治]」 朝日新聞社編) 


さか-かり【酒「酉凶」】[名]酒に酔って怒り狂ったようになること。酒癖の悪いこと。酒乱。
さか-かるこ【酒軽籠】[名]酒杯をのせた小さい軽籠のようなもの。軽籠に擬してこよりなどで作ったもので、杯を入れて運んだところからいう。
さか-くたびれ【酒草臥】[名]過度の飲酒で疲労が残っていること。
さか-ごころ【酒心】[名]酒を飲んで勢いのついた気持。酒機嫌。一杯機嫌。
さか-ごと【酒事】[名]酒を飲むこと。酒を飲みあうこと。さかもり、酒宴。さけごと。ささごと。
さか-こわい【酒強飯】[名](「こわい」は「こわいい」の変化した語)酒を造るために、甑(こしき)で蒸した精白米。冬期、米を水に漬けておいてから蒸す。(「日本国語大辞典」 小学館) 


鬼熊
お話ししよう安政二年の夏の事だ。朋輩三人と打揃い、屋敷を出て、下谷広小路雁鍋(がんなべ)に登(あが)り、一杯かたむけたが、傍(わき)にいた客が小塚原(こづかつぱら)に獄門の首があるという話から、一杯機嫌に乗じ、「サア見物に往こう」と、悪い思付(おもいつき)だ。勘定を払い、雁鍋を立出で、小塚原の御仕置場まで往った。その頃は大千住といって水戸街道だ。荷物問屋場があって、諸藩の荷物小荷駄馬が輻輳しているが、多くは「水戸御用」の荷物で飛ぶ鳥も墜とす威(いきお)い、虎の威を借る狐の馬士(まご)達が威張り様、武士(ぶし)も糞もない。三人は獄門を見て、小塚原貸座敷田中屋、大万(おおよろず)、若竹、辰巳(たつみ)、若松屋を素見(ひやか)し来ると連(つれ)の岡氏(うじ)は、一人の馬士にハタと突当る。酔いが発したところだから、馬士が手に持つ「御用」の小田原提灯はバタリ地に墜ちて灯火がプッと消えた。サア承知しない「水戸様御用の字が分からねえのは、田舎武士(ざむれえ)目腐(めくされ)武士、頓痴奇(とんちき)武士だろう」と悪口雑言、「サア千住の問屋場まで歩(あゆ)みゃがれ」と、一応は詫(わび)もしたが聞入れないのじゃ。詮方なく問屋場へ往く、一埒(いちらつ)を話し、「以後注意するように」と許されてしまって帰ると、馬士は後より追掛け来(きた)って、「役人が承知しても馬士仲間が承知出来ねエ。誰だと思う千住の鬼熊だぞ。このサンピン武士」と喰って懸り、酒代(さかて)にしようという剣幕。三人はモウこうなったら三十六計の奥の手、大御所様を極(き)めようと突然)(いきなり)鬼熊を突き倒して、一生懸命逃げ出したのじゃ。鬼熊とも綽名(あだな)される悪者が、ナニそのままにすべき、刎返(はねかえ)るや否や大声を揚げ「田舎武士、糞武士、臆病武士奴(め)、待ちゃアがれッ」と韋駄天奔(ばし)りに追懸け来った。三人各自散乱(てんでばらばら)、で岡氏は千住仲組の裏屋路次へ逃込み、三河島田圃(たんぼ)の方へ逃げるのを、鬼熊いずこまでもと逐込(おいこみ)来った。岡氏の狼狽、一つの路次へ入ると絶体絶命、袋路次で行当(ゆきあた)りバッタリ。名にし負う鬼熊という奴じゃから、大男で膂力(ちから)二、三人力もある。岡氏はここで組伏せられてしまった。モウこれまでと舌から鬼熊の脇腹を刺(や)った。「ヤッ殺すんだナ殺せ殺せ殺せ」と叫ぶ。ソコへ私(わし)は逃げ迷ったのと安否を気遣い引返したので、コハ朋輩の一大事と後から鬼熊をバラリズーンとまた斬った。刺されているのは知らなかったので…岡氏は漸(ようよう)起上ったから、二人連立ち、闇を雷(いなずま)と道灌山まで往った…。(「幕末百話」 篠田鉱造) 

神酒
ゴスイ 神酒のこと。沖縄では五水などの字を書く。島根県簸川郡国富村(現・平田市)の頭屋神事には御酒恵と書き、ゴスエという。十月十四日の頭屋の口明け行事にも、明日はゴスエを酌みますからおいでくださいという。御須恵桶という桶がある(おまつり二〇)
イチヤゴスイ 濁酒のこと。九州から沖縄にかけて分布する言葉。ゴスイは酒のことで、一夜にしてできる酒、すなわち甘酒のことである。同族の祭にはこれをもって酒宴をすることが多い。
ゴス 鹿児島県七島村の中之島では、神楽が年に二度ある。すなわち六月初申の日から十一月酉の日からの二回で、四日間の大祭がつづく。この始めの日をサカビヤキといい、次の日がゴスである。三日目がミヤヅクリ、四日目がオオマツリである。サカビヤキの晩、ホウリとエネシが酒を飲む(桜田勝徳氏調査)。ゴスは御酒のことと思える。またこの四日より前にヨセモノという日があって、供物を集め酒をしこむ。
グシ 奄美群島の沖永良部島で神酒のこと。宝島ではゴスイという。
キヨサケ 愛知県北設楽郡で一種の粟酒をいう。粟を蒸し、ホカイまたは重箱などにつめ、それに糀と少量の酒を加え、木の葉を蔽って一夜醗酵させたもの。したがって液体にはならない。祭の夜などにつくるという。(早川孝太郎氏調査)
カメカキ 高知県長岡郡国府村(現・南国市)で、頭屋でつくった酒を舁台に乗せて社殿に納める献甕式をいう(村史)
カケオミキ 新潟県中頸城郡犀浜で正月十日の夕方をフナダマサマの年夜といい、船頭が船に行って、艫の下、その他六か所に徳利から御神酒をかけ流し、煮染を飾ることをいう。これをするときエビスサマを二度繰り返して唱え、終わって合掌する(高志路六ノ五)
ナガシオミキ 宮崎県西臼杵郡高千穂地方で、神に神酒を注いで供えることをいう。主として水の神の祭に行うといい、カケグリより略式のものをいう。またカケグリは小正月に、ナガシオミクは大正月にするのが普通で、ナガシオミキをコボシホカイともいう。
ハコシ 鹿児島県七島の中之島で、年二度の大佐につくる酒をいう(桜田勝徳氏調査) 


かいぼし
ところで毎年暮れに近く、九州から「かいぼし」というものが送られて来る。小鯵の干物である。鰺にはどのくらい種類があるか知らない。しかしうまいのは小鯵である。私のもらうのは青竹の細いのに、十尾ずつさして乾燥させたものだ。体長はほとんど同じであるから、十尾が一本の竹に串ざしになっていると面白い形になっているが、よく見ると顔が少しずつ違っている。塩がきいていて、乾し加減がいいので、一寸あぶって食うと実にうまい。酒の肴にもって来いだが、無闇に食うわけにはいかない。(「厨に近く」 小林勇) 


忠臣根津宇右衛門
また俗書の説であるが、『護国女太平記』に、「綱重(つなしげ)公宇右衛門を御手討被成(ならせられ)、其後霊魂度々御諫言申上げるゆへ御心あらため、堅く御禁酒遊ばされける」とある。家宣(いえのぶ)の父、将軍職につけない綱重は、部屋住みの不満を酒色にまぎらわせていた。そしてそれを諫(いさ)める忠臣根津宇右衛門を手討ちにしたため、宇右衛門は幽霊になってまで何度となく諫言(かんげん)した。ついに綱重が心を入替え禁酒すると、宇右衛門の霊がまた現れてそれを祝し、子孫長久の守護を誓って消えた。そこで綱重は前非を悔い、子孫でもあれば過分に取り立てるべきところ宇右衛門は独身だったので、邸内に社を築き宇右衛門を祀った。それを根津権現の起こりであるとする。『文京区史』は、相模から武蔵にかけて作神をネと称し、収穫も終わった旧九月の子(ね)の日頃を祭日としていた、根津の宮も駒込あたりの農民に信仰されたネの神ではないかとする。(「不思議の町 根津」 森まゆみ) 


[瓦礫雑考 下]酒
摂津国伊丹にて造るよき酒に、星の井と名づくる酒あり、俗にこれを七ッ梅といふ、 樽つゝみたるむしろに七星をしるしにつけたるが、うめばちといふもん(紋)のかたちに似たる故なり、 星の井は井より名づけたる也、(「古事類苑 飲食部十一」) 


ノーベル賞はくたびれる
朝永の酒豪ぶりは有名で、日本酒ではもの足りなくて、ショウチュウを好んだ。昭和四十年にノーベル物理学賞を受賞したが、酒のせいで出席がパーになった。ノーベル賞受賞と同時に、あちこちからお祝いに酒がたくさん贈られてきた。ウイスキー好きの父親の弟と二人で祝杯をあげ、飲みすぎて、風呂場で転び、肋骨を六本折った。このため、受賞式には出席できなくなってしまった。朝永も内心、かたくるしい受賞式がイヤでたまからかったため、「これこそケガの功名」と喜んだ。ノーベル賞を受けた時、朝永は「喜びをかみしめてもう腹一杯だ」と言い、「ノーベル賞はくたびれる」とジョークをはいた。(「ニッポン偉人奇行録」 前坂俊之) 


マルヴァジャ・ブドー酒
トマスモアの『ユトーピア』の生まれた十六世紀のフランスに、作者不明の『パニュルジュ航海記』という珍書がある。パニュルジュという人物が、いろいろな、ふしぎな島を訪れる話であるがおのおのの島が皆何らかの意味での『ユトーピヤ』になっている。牛乳の河が流れ、バターの山がそびえている島があったり、焼鳥が空を飛んでいる島があったりして、空腹の時には思わず喉が鳴るようなことにもなりかねないが、女のまったくいない一種の不老不死の島の描写がある。皆が一種の不老不死を享受しているのであるから、母親となるべき女性が必要ないことは当然である。この島には、バターの山もあれば、牛乳の河もあるが、甘美な、マルヴァジャ・ブドー酒もこんこんと湧き出ている。さて、人々が老年に達して人生が楽しくなくなると、(このユトーピヤにも老衰の悲哀は存在するのである!)みずから志願して殺してもらう。さて、その殺されかたというのは、大樽に例のブドー酒を注ぎ、そのなかで溺死させてもらうという方法である。よい気持によっぱらった老人が死ぬと、死体を天日でほして、たらのひらきのようにし、ついでこれを焼いて灰にし、卵の白身と粘土でこねあげ、それを故人の生前の姿どおりにあらかじめ作られた型に入れ、葦(あし)を肛門にあてがい、息を吹き込むのである。すると、死んだ老人は元どおりの姿になり、しかも青年のような若さを取りもどしてよみがえるというのである。百回以上も、こうしたオペレーション(手術)を受けて、幸福にしている人々が何人もいると、作者は書いている。「このようなわけで、ここの住民はいつまでたっても滅びず、この国には女がいてもしかたがないことになる。これは大変ありがたいことである。なぜなら、人々は、いくら遊びほうけたり居酒屋へ通ったりしても、わが国で見られるように、こっちをなぐったり、せっかんしたりする伴侶(ベターハーフ)が全然いらないからだ」と作者は結んでいる。(「随筆うらなり抄」 渡辺一夫) 


みんな飲んじゃったよ
河盛 私はね、あなたのお書きになるものでは「さぶ」とか「ちゃん」が好きですね、とくに「ちゃん」というのは大好きです。あれに出てくる親父さん、天衣無縫というのは、ああいう人間をいうのだと思います。山本さんはああいう風な人物がお好きのようですね。
山本 あれは実話なんです。馬込にいたときに、水道工事の親父さんいつも晦日(みそか)の晩になると、ああやって帰ってくる。「みんな飲んじゃったよ」って帰ってくる。木戸があって、なかなか自転車がはいらないんだ。「一円五十銭しか、残ってないよ、みんな飲んじゃったからね」といって、自転車といっしょにたおれちゃう。おかみさんが出てきて、「ご近所に迷惑ですからね、はいって下さい」っていくらいってもね、「はいれないよ、みんな飲んじゃったよ」です。…(笑)最後に、当時三つくらいの女の子ですがね、「ちゃん、へえんな」っていうんだ。そうすると、はいって行く。だから僕は、裏のほうが家族の住まいなんで、そこへ行っちゃあビールを飲みながら待っているんだ。およそ十一時ごろになると聞こえてくるんだ。「みんな飲んじゃったよ、みんな飲んじゃったよ、一円五十銭しか残ってないよ」って。(笑)これがいかにもいい家族なんですね。
河盛 天使の家族みたいなもんですね。
山本 それだけが事実で、あとはフィクションです。(「作家の素顔」 対談 河盛好蔵 山本周五郎) 


梅酒
梅酒をつくるときにも氷砂糖をつかうが、これには、なかなか溶けないという氷砂糖の特性に、その理由がある。梅酒というのは、ジュースとはちがう。梅を熟成させなければならない。それには時間が必要なのだ。とくに梅酒の場合は、氷砂糖でないと、おいしくはできない。半透膜やら浸透圧、溶解速度という、理科の授業で習ったようなことが、その根拠である。梅の表皮は半透膜と呼ばれるもので、溶液を通過させる性質をもつ。その際、浸透圧が低いほうから、高いほうへと流れる。さて、梅といっしょに砂糖を焼酎の中に入れると、砂糖が溶ける。すると、濃度の高い溶液になるので、浸透圧も高くなる。最初は梅の内部のほうが浸透圧が高いので、アルコールや水分が、ウメの表皮を通過して内部に入るが、外の浸透圧が高くなると今度は梅の果実内のエキスが外に出てしまう。ところが、すぐにエキスが外に出てしまうと、おいしい梅酒にはならない。もっと時間をかけなければならないのだ。それには焼酎の浸透圧が、なかなか高くならないようにする必要がある。そこで、氷砂糖が登場するのである。これなら、すぐに溶けないので、焼酎の砂糖の濃度がなかなか高くならず、浸透圧も低いままである。梅がアルコールと反応して熟成するのを、じっくり待つわけだ。(「[モノの作り方]がズバリ!わかる本」 夢文庫) 


ハネムーン
新婚の甘い生活のことをハネムーンといいますが、このいわれをご存じでしょうか。文字どおり、蜜と関係があります。その昔、イギリスでは、結婚したばかりの新婦はある一つのことに精を出すのが習わしでした。蜂蜜を原料にしたミードという酒をつくることです。なんのためかというと、それを愛する花婿に飲ませるためです。どうして飲ませるかはいわずもがな、いまでも蜂蜜は精力増進にいいといいますから、つまり子づくりのためだったのです。この酒づくりは半月間つづけなければいけないしきたりだったそうです。(「雑学おもしろ百科」 小松左京監修) 


ホーフブロイハウス
一九二八年の飲食店は一万六〇〇〇軒あった。そのうち上・中流階級用のカフェが数百軒というから(シェベラ『ベルリンのカフェ』、一二頁)、レストランなどの数少ない高級店をのぞいても、大部分は大衆用居酒屋であったのだろう。パリにははるかにおよばないが「ベルリンっ子」も居酒屋好きであった。居酒屋で有名なのはミュンヘンの「ホーフブロイハウス」である。ここはもともとバイエルン王家の醸造所であったが、一九世紀になると一般に開放された居酒屋となった。ここで一九二〇年二月、ヒトラーが二〇〇〇人の聴衆の前で演説し「国民社会主義ドイツ労働者党」(いわゆるナチス)が成立した。(「居酒屋の世界史」 下田淳) 


瓶をしぼる真似
それで酒のほうはというと、諸君、それはセーヌ川の水のようにテーブルのまわりを流れていたのである。雨が降り、地面がかわいていたときの小川そっくりであった。クーポーは赤い酒がほとばしり出て泡立つのを見るために、高くもちあげて注(つ)いだ。そして瓶がからになると口をさかさにして、牝牛の乳をしぼる女の手つきで瓶をしぼる真似をしてふざけた。また一本口を切ったぜ!店の隅には瓶の死骸がだんだん積み上げられ、その墓場の上にみんながテーブルのごみくずを捨てた。ピュトワのおかみさんが水を欲しがると、ブリキ屋は怒って水差しを取りあげてしまった。堅気(かたぎ)の人間が水を飲むのかい?してみると、あんたは胃袋で蛙を飼うつもりだな?コップは一息でからになり、一気に咽喉のなかへ投げこまれた液体は夕立の日に樋(とい)をおちる雨水のような音をたてていた。安酒の雨降りだね、え?はじめは古樽の味がしたが、舌がすっかり慣れて、いまじゃはじばみの実のにおいだぜ。ああ!こたえられねえ!ジュスイットの連中がどうほざこうと、ぶどう酒ってのはやっぱり大した発明だよ!みんなは笑って、そうだそうだと言った。だって考えてみろ、酒がなくちゃ労働者が生きてゆけるかってんだ。ノアのじいさんはブリキ屋や仕立屋や鍛冶(かじ)屋のためにぶどうの木を植えたに違いねえや。酒は労働の垢をおとし、労働に休みをやって、なまけ者の腹に火をつけるのさ。それからあの道化者がわるさをしやがった時だって、なあ!王さまはあんたの伯父さんじゃなかったが、パリはあんたのものだったぜ。労働者が、くたくたに疲れ、一文なしで、ブルジョワどもに馬鹿にされながら楽しみのたねをけっこうふんだんにもっていると思ったら大まちがいだぞ!ただばら色の人生が見たいばっかりに時たま酔っぱらうのをいちいち文句をつけられてたまるかい!どうだ!近ごろじゃまったく皇帝なんてばかにされているのさ!そりゃ皇帝だって少しぐらいは酔っぱらいもするが、それでもやっぱりばかにうされてるのさ。ぐでんぐでんに酔っぱらったり、ふざけちらしたりできないだろうってわけだ。お大尽(おだいじん)なんて、くそくらえだ!(「居酒屋」 ゾラ 黒田憲治訳) 主人公ジェルヴェーズの祝名日晩餐会が延々と語られる章の一節です。 


一度酒を入れた樽はいつも酒くさい[独]
 一度酒を仕込んだ樽はどんない洗っても酒のにおいが染み付いて取れない。人はどんなに偉くなっても、生まれや育ちは隠せないことのたとえ。
飲む、打つ、買うは破滅への三重奏[英]
おいしい酒は三杯飲めば足り、うれしい言葉は三言聞けば足る[中国 ミャオ族](「世界たべものこたわざ辞典」 西谷裕子) 


飯と酒
S温泉へ向かう途中、男はこちらへ来る前に血へどを吐いたときのことを思い出す。男自身にさえ、自分はどうしてこれほど酒を飲むのかそしてしょうこりもなく血へどを吐くのかわからないというのが正直な気持なのである。男は、あのとき飲んだ帰りにひろったタクシーの運転手に、酔った機嫌で「どうして自分はこうまで飲まずにはいられないのか」と話しかけたのを思い出した。あのときタクシーの運転手がいうには、若い頃にはやはり自分も東京に出て、手っとり早く稼ぐのに飯場へ飛び込んだ。そこで焼酎の味を覚えたのだが、飯場の土方たちは飯と酒がなくなっちゃ働きませんね、といった。男は、「あっ!と思った。それから、なるほど、と非常に愉快な気持ちになったのをおぼえている。なあるほど、このおれも、飯と酒がなければ働く気になれない、というわけじゃないか。ただそれだけのことかも知れないではないか」と、急に気軽になる。その夜、男は血へどを吐いた。男は大学病院へ行き、検査をうけた。レントゲン写真の結果、男の胃の小彎部、十二指腸寄りの幽門部付近に、かなりの炎症の痕跡があることがわかり、その上、「やや捻転気味の牛角胃」 だということもわかった。(「作家と酒」 山本祥一郎) 後藤明生の「S温泉からの報告」にそって説明しています。 


酒が尽くれば水を飲む
酒がなくなったら、その代わりに水を飲んで満足するという意味。転じて酒を飲み尽くすと水でも飲む、というように酒飲みは飽くことのないことのたとえにいう。(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 


桶はざま合戦
永禄三年五月、今川義元隊大軍をひきゐ、織田信長をうつ。東照宮(徳川家康)此の時陣(ぢん)せさせ給ひ、丸根の砦を攻めおとし給ふ。今川家の軍兵も鷲津(わしづ)を攻落し、義元桶はざま(狭間)に著陣せらる。信長は素(もと)より鳴海(なるみ)に打て出、防戦せんとの志なり。老臣ども、大敵なれば清洲(きよす)を守り給へと諫むれども聞入ず、酒宴して猿楽の羅生門の曲舞(くせまひ)をまはせられし時、敵既に攻来る、と告来(つげきた)る。信長少しもさわがず、人間五十年、下天の内を競(くらぶ)れば夢幻(ゆめまぼろし)の如し、といふ処を、おし返しうたひて、忽(たちまち)螺(ほら)をふきたてさせ、物の具(ぐ)して主従僅(わずか)に六騎、歩卒二百人ばかりかけ出て熱田(あつた)の宮に詣で、願文(がんもん)を神殿に納らるゝ中(うち)に、軍兵追つゞき来りけり。源太夫の祠(やしろ)より東を見れば、鷲津丸根攻おとされたりと覚えて黒烟(くろけぶり)たちのぼる。浜手は潮(しほ)満たれば、笠寺の東の道を一文字にすゝむで、砦々の味方に使(つかひ)をはせ、其兵をひき具し、中嶋の砦に至りて、わが謀(はかりごと)は、今川の大軍悉(ことごとく)本道へくり出し、旗本小勢ならん所へ、山陰(やまかげ)より切てかゝり、忽(たちまち)勝負決をすべき、と大音声(だいおんじやう)にて下知せられしかば、士卒皆きそひいさみけり。旗をしぼらせ山かげより桶はざまに打向ふ。義元は駿州の先陣打勝たりと悦び、酒もりして有しに、折しも天俄(にはか)にくもり、夕だちうつすに似て風雷はげしかりければ、信長の兵かゝり来る物音も聞(きき)わかず。不意の戦にあわてたる計(ばかり)なれば、永野太郎作清久(きよひさ)一番に首をとる。義元の網代(あじろ)の輿(こし)を信長見て、敵の旗本疑なし、とて追たて追たて戦れしかば、義元も返し合せて戦れしを、服部小平太鎗(やり)つけ、毛利新助其の首をとりたりけり。左文字(さもじ)の太刀松倉郷(まつくらごう)の刀を分捕(ぶんどり)にすといへり。(「常山紀談」 湯浅常山 森銑三校訂) 


酒を飲むな、といわれる
「実は周五郎さんに勧められてクリスチャンになったが、六三郎(榎本 医者)さん、ほとんど教会へはいかないんだ。そのくせ、家では聖書を読んでいるらしい。教会の維持献金も相当多額にしている。わしは聞いたよなぜ教会へ行かないのですか」すると先生いわく、「教会へ行くと、酒をのむな、酒を飲むな、といわれるが、それがいやなんです。わし(南方)は吾が意を得たりと思ったよ。勿論わしはクリスチャンではないが、ロンドンにいた時、余り酒をのみすぎるというので、真面目なクリスチャンの男がわしをたしなめに来た。何しろわしは、街角にある酒屋という酒屋を飲み歩いたんだから、その男が注意したのも無理はないと思う。わしはいったよ『日本のクリスチャンは尻の穴が小さい。英国人なんか平気で酒を飲む。わしの前へ英国にいる日本人のクリスチャンを連れてこい、わかるまで説教してやる』と。この男はあきれて、帰って行ったがな。この事を榎本ドクターに話してやると、今度は先生わが意を得たりというように、わしの手を握って振ったよ」「まァ、悪い先生。ほどほどのお酒は仕方がないでしょうが、ひかえ目にして下さいよ。」(「紫の花.天井に」 楠本定一) 南方熊楠の逸話だそうです。 


酒ほしさ(秦生)
萊州(山東州)の秦生員が、薬酒をつくる時にあやまって毒味(どく)を入れてしまった。が、棄てるのが惜しくて、封をしてとっておいた。一年あまりたって、ある夜、たまたま飲みたくなった折、酒を手に入れることができなかった。そこで、ふと、とっておいたのを思い出し、封をひらいて嗅いでた。えもいわれぬ芳香があふれ出て、腸(はらわた)はむず痒くなる、よだれは流れる、とうてい我慢ができず、杯をとって飲もうとした。妻が一生懸命とめても、笑って、「飲みたい飲みたいと思いながら死ぬより、愉快に飲んで死んだ方が遙かましだ」といい、一杯飲んでしまうと、瓶(かめ)を傾けてまた注ぐのだった。妻はその瓶をひっくりかえした。酒が部屋中に流れる。秦は四つん這いになり、牛のように口をつけてそれをすすった。が、まもなく、腹が痛みだし、口がきけなくなって、夜中に死んでしまった。妻ははげしく泣きながら、棺材の用意をし、おいおい遺骸を納めようと思うのだった。と、その翌日の夜、だしぬけに身の丈三尺にたりぬ美しい女が入って来た。そして、まっすぐ霊前に近寄り、甌(かめ)の水を屍(しかばね)にかけると、ぱっちり眼を開けて、たちまち甦(よみがえ)ったのである。秦が叩頭してわけをきいたところ、「わたしは孤仙なの。たまたま良人が陳という家へはいり、お酒をぬすんで酔って死んでしまったので、救けにいった帰りがけ、偶然、お宅を通ったのよ。そうしたら良人が、自分と同じ病気なのに同情して、わたしに、残った薬であなたを救わせた、というわけなんです」といい、そのままみえなくなってしまったのだった。(「聊斎志異(りょうさいしい)」 蒲松齢 増田、松枝、常石訳) 


「酒みずく」(3)
午後四時になるとかみさんが晩めしの支度をしにあらわれる。私は相当以上に酔っているし、依然として食欲はないが、わが伴侶のあらわれたことで勇ましくなり、原稿を片づけてまずビールをあけてもらう。本当の気持ちはそれどころではない。渋滞して動かない仕事、その仕上がりを待ちかねている若い友のうしろで舌打ちをしている偉い人、その他もろもろの、印刷工場の植字さんの顔までが眼の前からはなれないのだ。-
私の胃は米とは不和で、パンかコーン類かオートミールかポテトを好む。一日一度の夕食を簡単に片づけると、一時間ばかりベッドにもぐり込み、起きるとまた水割りを啜りだす。かみさんは十時か十一時には自宅へ帰るが、あとはまた独りで水割りの濃いのを啜り、睡眠剤と酔いとで眼をあいていられなくなると、ようやく寝床へもぐり込む、といったぐあいである。それで終わればいいが、夜半すぎてから訪問者があるのには閉口する。優雅な女性が一人、ときには二人伴(づ)れで、ゆうゆうと侵入して来、電灯をつけて私の醜い寝顔を鑑賞し、そのけはいを感じて眼ざめると、謝罪めいたことを云って景気よく飲みはじめるのだ。(「酒みずく」 山本周五郎) 独居のたのしみ 


点滴
すると彼女は、美しい顔にニヤリと不敵な笑みを浮かべて言った。「オータニさんはまだまだですね。水さえ一滴も飲めないときに最高の対処法があるんですよ」それはナニ?と問う私を彼女はしばし焦らし、またニヤリと微笑えむ。ナニナニ?ちょっとお、教えてよ、ね、オセーテ!と叫びそうになったその刹那。「点滴です」彼女は一言、すぱっと言ってのけた。「点滴?」「そう、一発です」「一発ですか?」「霧が晴れていくような気分でございます」おお、見事な喩(たと)えだ。聞いている酔っ払いの頭の中もスキッとしてくる。なんでも彼女の勤め先には診療所があって、頼めばすぐに打ってくれるとのことなのだ。すげえな。この人は…。いつぁはオレも言ってみたいよ。「点滴をひとつ。今朝は三百ミリリットルで!」(「全然酔ってません」 大竹聡) 


ミミズのとりかた
ウォルトンの『釣魚大全』によると、ミミズのとりかたがやっぱり記してあって、塩水をそれとおぼしきところへまけばよいとある。これは簡単にやれるが、もう一つ、栗の葉をもみこんでにがくした水をまけばよいとある。これは近くに栗の木がなければ実行できそうにないから、むつかしい。また、ミミズに樟脳(しょうのう)や茴香(ういきょう)の匂いをつけたら大釣りができるとあって、井伏さんの随筆にも引用されている。井伏さんはどうやらそれをやってごらんになったことがあるらしいが、結果をおたずねしたところ、はかばかしい答えは得られなかった。しかし、私の若い友人の東條君が教えてくれたのはちょっと思いつきようのない方法で、ハイボールをまいたらテキメンだというのだ。映画の撮影をやっているときになにげなく庭の植込みのかげへ飲みのこしのハイボールをまいたら、たちまちミミズがぞろぞろと這いだしてきたそうである。細くてかわいいキジも、太くてあつかましいドバもいっしょくたになってピンピンもがきつつでてきたそうである。これなら手軽にできそうだから、そのうち一度ためしてみようと思う。(「開口閉口」 開髙健) 


努力の人
松本清張は、努力の人。体質的に飲めないというタチではない。が、酒徒番付では、下戸つまり砂かぶりに入れられていた。しかし、数回、番付に入ったこともある。「清張さん、飲むよ。あれ、愛敬会っていいよ。十両の筆頭にしてくれ」という審議員の発言があって、昭和四十年度には入っている。司馬遼太郎も、酒を一生懸命勉強した。松本清張も努力、勉強した。この二人は、酒の勉強ぶりばかりでなく、よく似ている。昭和二十八年一月、「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を受賞した松本清張。坂口安吾が強くこの作品を推した。推理小説ブームになり、忙しくなったころから、この人の酒の勉強が始まった。安吾未亡人がやっている銀座のバー「クラクラ」へ「僕は安吾さんの歿後弟子ですから」と通い出したこともあった。このころ「僕を、小説を書くマシンなんていう人もいるけれど結構、バーだって行っているんだよ」と、歎いていた。「酒も大分上達したよ。水割りウイスキー五杯ぐらいはいけるよ」と、いっていた。(「ここだけの話」 山本容朗) 


池田衰微の一因
満願寺屋は、その後「養命」という酒を出し、池田郷第一の富を誇ったが、江戸中期以後は衰え、それにかわって大和屋や鍵屋などが栄え、そういうこともあって安永三年(一七七四)満願寺屋の子孫は他家の栄えを憎み、「権現さまから御朱印状を頂戴したのは当家である」と幕府に訴え、その恩典を独占しようとした。他の酒造家三十七軒はこれにおどろき、「あの御朱印状は池田郷一円にくだされたもので、満願寺屋の独占すべきものではない」と争って出たため、幕府は二年にわたる審査の結果、喧嘩両成敗としてこの官許をあっさりとりあげてしまった。以後、池田郷は恩典をうしない、そういうことも一因となって年々衰微したという。もっとも池田衰微の原因のひとつは、やはり灘郷の勃興ということが大きいであろう。(「酒郷側面誌」 司馬遼太郎) 「以前、私は蕪村と呉春についてすこしでも多くのことを知ろうとしていたころ、その両人のパトロンが池田や灘の酒造家であったために、その土地のことなど多少調べたことがある。以上はそのころのノートにもとづいて書いたが、思いちがいなどがあるかもしれない」としめくくっています 


凍りかけたお神酒
正月になると、山形県出身の父はおそらくそれが庄内地方の習慣なのであろう、神棚とは別に床の間に天照皇大神をはじめいろいろな掛軸を下げ、その前に鏡餅を供えて燈明をあげた。その床の間をはじめ、神棚と仏壇を拝んで家族が茶の間に夕食にそろうと、「ケンや、お神酒を下げておいで」と、母が言う。わたくしはお盆を持って、奥座敷の床の間や、神棚、仏壇からお神酒を供えた幾つもの銀盃を下げて来る。父がそれらのお神酒を供えてから三十分もたっていないであろう。それなのに銀盃の中の酒はすでに凍りかけている。外側全体がカプセル状に凍って、内部にまだ凍っていない酒を包んでいる、といった状態であった。たばこをのんでも酒はのむな、と口癖のように言っていた母も、お神酒だけは「飲みなさい」とすすた。わたくしはストーヴの上に並べられた銀盃の一つを取り、ちょいと押し戴くようにしてから、融けかかったお神酒を口にふくんだ。口の中に入った氷のカプセルが融ける前に、歯と舌で軽く咬みくだくと、氷のとがった部分が舌を刺激し、サクッとした感じの音とともに酒の香りが口腔にひろがった。私はその冷たい酒を飲みこむと、神様が全身にゆきわたったような気分になり、ことし一年の無事息災が保証された思いで、ちょっと緊張するのであった。(「歴史と人生と」 綱淵謙錠) 


けふといへば まためづらしき味酒(うまざけ)の みは酔ながら 春は来にけり [酒百首]
「元日というと前夜から飲み続けた酒も何となくめずらしく感じられ、酔中に新春を迎えたのである。」味酒はみは(三輪)の枕詞。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 天廣丸の狂歌  


928あら玉の年を雲居に迎ふとてけふ諸びとにみき(御酒)賜ふなり(秋篠月清集(あきしのげっせいしゅう)・百首愚草)一二〇四? 藤原良経(ふじわらのよしつね)
929あら玉の春のはじめの杯に千とせんかげも汲みて見るべく(常山詠草(じょうざんえいそう)・春)一七〇五 水戸光圀
930あら玉の年の始めに千代といひてとるさかずきの珍らしきかな(千々廼屋集(ちぢにやしゅう)・雑)一八五五 千種有功(ちぐさありこと)
931新玉の年の始と豊御酒(とよみき)の屠蘇に酔ひにき病(やまひ)いゆがに(竹の里歌)一九〇四 正岡子規
932屠蘇すこしすぎぬと云ひてわがかけし羽織のしたの人うつくしき(紫)一九〇一 与謝野鉄幹
933豊酒(とよみき)の屠蘇に吾ゑ(酔)へば鬼子ども皆死しにけり赤き青きも(赤光(しゃっこう))一九一三 斎藤茂吉
934大土佐の干鰯(ほしいわし)をば焼きて酌む年祝(としほ)ぎ酒はまづしけれども(風雪)一九四〇 吉井勇
935世を忍ぶ二人ならねど松飾かそけき家にくみかはす屠蘇(仰望)一九二五 岩谷莫哀(ばくあい)
936新年(にひどし)の新日(にひひ)は来にけりと長寝(ながね)よりさめてぞ一人酒瓶(みか)の酒のむ(まんじゅさげ)一九二三 尾山篤二郎
937またひとつとりたくもなき齢かさねやむなく祝ふ屠蘇のめでたさ(籬雨荘雑歌(りうそうぞうか))一九六五 筏井嘉一
938焼酎に葱少しもてりあたらしき年のはじめとさらに勢(きほ)はむ(寒蝉集(かんせんしゅう)) 吉野秀雄
939炭坑の地底に水浸(みづ)く亡きがらを思へば屠蘇の香り切なし(青菅山(あおすがやま))一九八八 若浜汐子
940ことごとく日月はなごり元日の屠蘇も餅(もちひ)も別れをふくむ(鎮守)一九八九 上田三四二(「古今短歌歳時記」 鳥居正博・編) 


長谷川邸での宴会
一度だけ、それもたった一度だが、毎年の元旦、恒例の長谷川邸で行われる宴会の席上、先生に叱られたことがある。酒の上のことだから、つまらない言い合いが原因で、喧嘩が起こった。一人が起ちあがって、お膳を乗り越えてきたので、先生のとなりに坐っていたわたしが、双方をなだめて押さえた。そのとたんに、はなれたところにいたほかの二人が、小突き合いをして、うしろにひっくり返り、障子を破って、桟をこわした。とたんに、先生が立ちあがった。「なにをしてやがるんだ、手前たち。だらしのねえ、さっさと帰れ」先生の口から、威勢のいい啖呵が飛び出した。あとにも先にも、あんな歯切れのいい啖呵を聞いたのは初めてなので、座にいた一同はぴたりと静かになった。そのまま先生は、廊下へ出て、二階にあがってしまった。あとはお通夜のように、みんな黙りこんでいたが、三十分ほどして、先生は二階からおりてくると、静かに言われた。「いまは大きな声を出して、すまなかった」それから、またみんなのあいだで酒がまわったが、もうおとなしくなってしまい、さがぐ者もいない。おとなしくお開きになったが、おさまらないのはわたしで、みんなに八つ当たりをした。「おやじの前で喧嘩するとは情けない、こんな正月初めてだ」そのままわたしは、何人かを誘い、なじみの料理屋へ行って、また酒になった。その晩もあくる日も、酒びたりだったのだから、わたしの酒も賞められたものではない。拙宅へ年賀に来た客を、次から次へとその料理屋へ呼びよせ、飲み続けになっているうち、三日目の夕方だったろうか、噂を聞いた岩田専太郎画伯がその料理屋へやってきた。「元ちゃん、もう気が済んだろう」そう言われて、やっとわたしは腰をあげた。誰かがなだめてくれないと、腹の虫がおさまらなかったのであった。(「『酒』と作家たち」 浦西和彦編 「長谷川伸と酒」 村上元三) 


渡邉酒造店の正月料理
ぶり街道の道筋にあたる古川ではぶりで新年を迎え、寿ぐというのである。と、聞けば即行動したくなる。つてを頼ってたどりついたのは、飛騨の美酒「蓬莱」で名高い渡邉酒造店の社長夫妻。一年ほどやりとりするうちに、幸運にもわたしは年取りの食事におよばれしたのである。壱之町(いちのまち)の渡邉酒造店を訪ねると、表も内もお正月そのものだった。軒下の酒林にしめ縄を巻き、土間を掃き清め、たくさんの蔵の要所要所に榊(さかき)を立ててお供え餅を飾るといった具合。当主親子はパリッとした背広姿である。和服に割烹着で台所の女衆の指揮をとる夫人の顔も美しく高揚している。杜氏や蔵人は正月休みで明日にも故郷へ帰るそうな…その理由はのちほどご説明する。奥座敷では万年青(おもと)が銅の砂鉢にいけられ、三宝のお供え餅には橙がのって、引き締まった空気と時間が流れていた。蔵の神々と仏壇にお参りし、渡邉久郎さんが床の間を背に着席した。光子夫人、長男・久憲さん夫妻、次男・隆さんがつづく。五人の前に春慶塗の高足膳が置かれ、その周りに二の膳や盆が並ぶ。天井の電灯がすべてをあたたかく浮かびあがらせている。御神酒をくみかわし、父が今年一年の無事に感謝する。自家栽培した黒豆。田づくり。数の子。大根、椎茸、油揚げなどをおだやかにととのえた煮なます。山鳥を骨のまま叩いた団子を浮かべた吸い物。ねぎ味噌や切り漬けの朴葉焼き。光子さんが姑から伝えられた味はまだまだあるが、年取りの主役はぶり、それも生と塩ぶりの両方を使う。生ぶりの刺身、ぶり大根、塩ぶりの焼きもの。(「食の街道を行く」 向笠千恵子) 


ナオライ
私の方法では、最初に違った事実をくらべてみるのであるが、それもこまごまとしたこしらえ方などを問う前に、名前をきくだけで一通りの見当はつくように思う。九州の諸君には珍しくもなかろうが、あちらでは雑煮をナオライという土地が多い。これを土地によつて少しずつ訛(なま)って、たとえば熊本県の玉名郡ではノーリャー、肥前平戸でもノーリャーというのが正月の雑煮餅、福岡県の島々また蘆屋(あしや)では、三箇日(さんがにち)の雑煮をオノウライといっている。同県南部の山村などでも、ノウレェというのが雑煮を食うことであるが、これに伴うて必ず酒を飲むので、人によってはノウレェは酒を飲むことだと思っている者がある。佐賀県などの方言集に、オノーリャーは正月の酒のことだと説明しているのもそのためである。(「餅なおらい」 柳田國男) かつて、夜から1日が始まるという考え方があり、大晦日の夕食を新年の神祭りと正式な食事とし、元旦の雑煮は新年2回目の食事なので、神にあげた食物を取り下ろして食べたということから「ナオライ」というのだろうとしています。 


桃花村からの使い
なるほどと肯きながら箸を握ったら、村長が、突然として立ち上がり「乾杯(カンペイ)」と言った。村長の父と僕には白濁した翡翠に似た石の小さな盃が渡され、透明な酒が注がれた。村長が「カンペイ」と大声を出して飲み干した。僕は、毒殺の疑いを頭に描いて緊張していたが、村長の飲みっぷりの良さに、負けてはならじと、ぱっと咽喉に放りこんで、ごくっと飲みこんだら咽喉の管と胃袋が、焼けただれた鉄の棒を突っこまれたようになった。痛いのなんので、止めどなく咳こんだ。村長と村長の父はにこっと笑い、飲み干した盃の底を僕や隣のお客に見せた。お客も、ぱっと飲んでから盃の底を見せ合って、にっと笑う。僕も見真似で底を見せて、にこっと笑おうとしたが咽喉と胃袋の激痛に耐えかねて笑えなかった。乾杯は、間髪を入れず、何度の何度も重ねられた。僕は日本将校として、礼を失してはならじと思ったから、彼等の乾杯には同調した。三十八杯までは数えていたが、その後の記憶がない。翌日の昼少し前、前後不覚の目を覚ました。頭の中は百本の畳針で突き刺されているようだ。佐伯軍曹がドアーをノックした音に飛び上がった。「桃花村からの使いが手紙と酒瓶を置いて行きました」と佐伯軍曹が言う。手紙は、つまらない便箋に毛筆の漢文の紙が四隅まで詰まっている。頭痛が激しい。軍曹の助けを借りる。「昨日の、父の祝宴に御出席、感謝。隊長閣下の飲みっぷりがよく、いつまでも、盃をテーブルに伏せて乾杯を終わりにして頂かなかったため私の父と客の全員、酔いつぶれ今だに宴を催した土間に寝ています。あの酒は白乾児(パイカル)と言い乾杯の最初の一杯だけは飲み干し二杯目からは、嘗めるが如くして、嗜む酒です。御気に入った様子。二本、贈呈」とある。(「酒あるいは人」 池部良) 


酒ハ酒屋に
酒ハ酒屋に茶ハ茶屋に 今江戸餅ハ餅屋と云又酒ハ酒屋餅ハ餅屋とも云
酒ハ諸道の邪魔[太平記理尽抄京軍](「俚言集覧」 村田了阿編輯) 


フグの身酒
赤坂(小梅) 焼酎もけっこう飲みましたけど、フグの身酒(みざけ)というのは、最高においしいですよ。
渡辺(文雄) うん、あれはうまい。フグの身を熱い酒に入れて飲むんですよ。ひれ酒の要領で。
赤坂 昔はとてもぜいたくな酒だったんです。
 ▼ふぐ酒には、ひれ酒、身酒のほかに、白子酒というものもある。文字通り熱燗の酒にフグの白子を入れる。出来上がりはまるでミルクのようになり、これは少々しつっこいかなと、恐る恐る口にするとこれが意外や意外、見た目よりかはずっとさっぱりしている。しかしまあ、三杯が限度。(「あの味 この味 ふる里 隠れ味」 渡辺文雄編) 


禁断症状の一種
二日酔いというのは、禁断症状の一種ではないかという考え方が近頃は有力である。禁断症状がなぜおきるかというのは、まだはっきりしてはいないが、アルコールを飲むことによって、アルコールによって押さえられながらバランスの保たれていた状態が、急にアルコールがなくなることによってリバウンドが起きるというか、反発的に興奮状態がおきるのが禁断状態ではないかと説明されている。長い間大酒を飲みつづけた人が二日か三日ぐらい酒をやめると、禁断症状がおきるのはよく知られているが、二日酔いというのは急性におこる禁断症状の一種ではないかと考えられる。禁断症状ならアルコールを与えると治まるということになる。しかし、迎え酒をしょっちゅうするような酒の飲み方をしていると、肝臓や脳を悪くしてアル中への道を歩むことになる。(「酒の人間学」 水野肇) 昭和54年の出版です。 


浅漬と酒を仕入れる泊まり番 夢一仏
梨の花大工の酒に散りにけり 御風
安倍川はしらふ酒匂(さかわ)は酔ぱらひ (天明)
(「ものしり事典 飲食篇」 日置昌一) 


ラツキヤウを喫はないもの
桂月先生の出かけて往(い)つた時は、私も丁度往きあはしてゐた。夜八時比(ごろ)に往(い)つてみると、十一時に霊岸島を出帆する汽船で往くと云つて、令息達は一足先に電車でやり、桂月先生は伴れて往くことになつていゐる婢と二人で車の来るのを待ちながら、二人の客と話してゐた。一人は松本道別君で、一人は桂月先生の元からの友人で、今は太田中学校の教員をしてゐる伊藤薊山君である。薊山君は暑中休暇で出て来てゐる者であるが、遠慮のない仲だから主人公が留守になつても、未だ暫くは滞在すると云つてゐた。三人ともいつしょに酒を飲んだ跡らしい、皆赭(あか)い顔をして、大きな声で冗談を云つて笑つてゐた。わけて桂月先生は大酔淋漓と云ふ有様だ。私の顔を見ると『皆が面白くなくちやいけない、君も一杯飲みたまえ、』と云ふので、遠慮なく台所へあがつて、一升徳利とコツプを探して来て、中の間に据ゑた食卓の傍に坐ると、婢がラツキヤウ漬を出してくれた。何時か桂月先生が、『ラツキヤウを喫(く)はないものは、日本人ぢやない、』と云つた事を覚えてゐるので、『日本人の御馳走がありますね、』と云つてみる。『僕の留守でも一週間に一度で好いから、来て飲みたまえ、その代り花に水を遣つてくれなくちやいけない、』と話してゐるうちに、車が来たと知らせて来た。いよいよ出かける事になると、桂月先生は黄色な軍人の着るやうはゴム引の引廻しを手にして、『これは今度買つたが、便利だからね、』と云つて、もろ肌を脱(ぬ)いで、それをふわりと著(き)て、『これで往きやおまはりさんにも叱られやしない、』と笑いながら玄関をおりて車に乗つた。そこへ東行君が手荷物を引抱へて入つて来た。その夜から東行君と薊山君とが、桂月先生の家の人となつた。(「随筆 酒星」 田中貢太郎) 昭和9年の出版です。 


わるい癖
わるい癖のむとはつかへ手をかける 柳一三5(酔うと刀を抜く悪い癖)
酔ったのがつけかけをする年始帳 柳六32(酔っ払って年始挨拶の帳面に記帳)
昼三を生酔の時買いはじめ 柳一三(三分の女郎)
餅をやく匂ひで上戸いとま乞 柳二〇30(酒が出なくなる)
そら生酔でなんだ大三十日だと 柳一六33(酔ったふりで大晦日の掛取を撃退)
(「川柳集 狂歌集」 吉田精一評釈) 


手前の駅
渡辺(文雄) 北陸の片山津や山中は、関西方面のお客さんが多いね。ぼくはあそこへ行ったとき、びっくりしたんですけれどね。大阪あたりの団体客が、汽車の中で盛り上がっているわけ。それで片山津、山中のもうちょっと手前の駅から突然ドヤドヤッと、女中さんたちが乗り込んできて、「○○さんのご一行さんですか」と。そうすると、女中さんが持ってきた荷物をあけて、おしぼり、お茶、お酒を出すんです。
服部(良一) はあー。
渡辺 汽車の中でおしぼりを配ると、また一段と盛り上がるわけです。で、盛り上がったまま駅を下りて旅館に入り込むわけですね。関東じゃとてもマネできないね。(「あの味 この味 ふる里 隠れ味」 渡辺文雄編) 


さけのまず餅をもつかぬ我宿に年のひとつも御めんあれかし [新撰狂歌集、家なししそん]
「貧しいために我が家では正月に酒ものまないし餅もつかない。だから年を一つ加えることはかんべんしてほしい。」-作者の名は家無しの子孫の意であろう。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


亭子院(ていじいん)賜酒記 中納言(紀)長谷雄卿
延喜十一年歳次辛未ニ。夏六月十五日。太上(宇多)法皇 開水閣ヲ 排(ひらき)風亭ヲ。別(ことに)喚(めし)大戸(上戸)ヲ 賜以醇酒。盖(けだし)禅観(ぜんかん)之暇(いとま) 法慮(ほうりょ)之余(あまり)。遣(やり)避暑之情(こころを) 助送閑之趣也。然(しかして)応其選者。唯(ただ)参議藤原仲平(なかひら)。兵部大輔(たいふ)源嗣(つづく)。右近衛少将藤和兼茂(かねもち)。藤原後蔭(のちかげ)。出羽守藤原経邦(つねくに)。兵部少輔良峯遠視(よしみねのとおみ)。左兵衛佐藤原伊衡(これひら)。散位平希世(まれよ)八人而已(のみ)。並皆当時無双 名号甚高。雖酒及一レ石 如以水沃一レ沙(すなにそそぐ)者也。爰(ここに)有勅命 限二十盃。盃内点墨 定痕際。不増 不減 深浅平均。遞(たがいに)各称雄(ゆうと) 任口而(くちにまかせて)飲。及六七巡。満座酩酊 不噵(いわず)寒温。不東西。数(しばしば)称風 起居不静。其尤甚者(は)。希世偃-臥(えんがす)門外。次亦極(きわまれる)者 仲平 欧-吐(おうと)殿上。其余 我而(にして)非我 泥之又泥也。或魂消心迷 尸居(しきょして 死んだように動かない)不驚。或舌結(むすぼれ) 語戻 鳥囀(とりのさえずりか)難弁。至経邦 初雖快飲。意気湯湯 終事反写(吐くこと)。窮声喧喧(けんけん) 纔(わずかに)不乱者伊衡一人。殊(ことに)有抽賞(ちゅうしょう)一 一駿馬。又止十盃 不更復(さらにまた)酌。于(この)時光景漸暮 笙歌数奏。各各纏頭(祝儀)倒載而帰。有一病臣飲、独醒(さめ)具(つぶさに)見行㕝(事)。走筆 記之。嗟呼(ああ)始聞其名 皆謂伯倫再生猶難相抗。至其実 即雖病老半死 厥(それ)幾(ほとほと)可及。古之所謂羊公鶴者諸君之喩歟(たとえか)。(「群書類従」) 有名な逸話ですね。「寒温」は、挨拶の意、「羊公鶴」は「世説新語・排調に見える語。庾亮は殷軍浩がほめそやす劉爰之を幕僚にとりたてたが、期待外れだったので羊公の鶴とよんだ。昔、羊祜がもっていたよく舞うはずの鶴が、客の前でバサバサさせて舞おうとしなかったのに喩えたのである。」と、新日本文学大系「本朝文粋」の「亭子院賜飲記」にありました。 


瀧嵐
私たちは座につくと、すぐ持つて往(い)つた酒の包を解き、肴を出した。肴は土佐から取りよせた沙魚(はぜ)で、酒は四合壜が二本であつた。そこで一本の酒を温めてもらひ一本は冷酒で飲むことにして、これも袖に入れて往つてゐた盃へ注いだ。其の酒は大阪の税務監督局にゐる猪野々正治君から送つてくれたもので、それは今年の二府十県の品評会に用ゐたもので、皆名誉賞と優等賞に入つた物ばかりであつた。其の持つて往つたのは、私の郷里でできる『瀧嵐』と云ふ酒と、他の一本は奈良の酒であつた。私たちは瀧嵐を飲んでゐた。私の郷里には、此の瀧嵐の他に、司牡丹、富士川、仁淀川(によかは)、葉柳(はやなぎ)などと云つて、最近灘の酒を凌駕するやうなりつぱな酒が出来るが、殊に司牡丹と瀧嵐は癖がなくて良酒であつた。(「随筆 酒星」 田中貢太郎) 昭和9年の出版です。田中貢太郎は「旋風時代」の著者です。 


酒酔い泥鰌
その泥鰌(どじょう)、フランスにあるかどうかは知らないけれど、それを横浜の『金港亭』というレストランではフランス料理風のムニエルにして食べさせる。これなら素人でも作れる。泥鰌は、大ぶりのものを割いてもらい、塩と胡椒を薄く振って小麦粉をまぶし、バターのかわりにオリーブ油で両面を炒め焼きにする。『金港亭』では、その付け合わせとして、チキンのコンソメで煮含めた新牛蒡を添えてあった。泥鰌に牛蒡という取り合わせは、明らかに柳川鍋からの思いつきだが、ちょっと変わったフランス風料理になっていた。手軽なのは、小さな泥鰌の唐揚げ。蒲焼きやムニエルなら大きい泥鰌を開いて用いるが、唐揚げには小さいのを丸ごと使える。酒に酔わせてぐったりしたのをペーパータオルの上にのせて水気を切り、小麦粉をまぶしつけ、やや高温の油でカラッと揚げて紙に取り、食塩を振るだけ。骨が障らず、香ばしくてオツな味。次に、泥鰌の煮凝り。これも小さな泥鰌でよく、天汁くらいの出し汁をひたひたに注ぎ、煮汁がなくなる寸前まで煮て密閉容器に移し、完全に冷ましてから冷蔵すると、自然に煮凝りができる。これもオツなもの。(「本当は教えたくない味」 森須滋郞) 


民俗のなかにみる酒
民俗にみる酒は単なる嗜好品ではない。かつては、酒を飲む機会は神祭の日に限定されており、酒は神に供えるものであった。また、酒は決して一人で飲むものではなく、必ず人々が一堂に集まって飲むものと決まっていた。現在でも神事や人生儀礼あるいは人の接待などに酒はつきものである。神に供えられる酒はお神酒と呼ばれる。たとえば、島根県八束郡鹿島町の佐多神社の神在祭では、代々井上家が醸造する一夜御水(いちやごすい)と称するお神酒(甘酒)が神の目山の山上での神事で供えられ、祭主以下これを飲む。人生儀礼や宮座行事などの場では儀礼的に冷酒が飲まれる。そしてその後の饗宴の場では、燗をした酒が飲まれることが多い。儀礼の場での酒の飲み方は自由ではなく、座した者が一つの盃を回しながら、あるいは順番に酒をつがれて一人ずつ飲む例が多い。たとえば、三三九度では新郎と新婦が一つの盃から交互に酒を口にし、夫婦の固めを行うほか、新婦と義父母との間で盃を取り交わして親子の契りを結ぶなどする。親子成りと呼ばれる親分子分関係を結ぶ時にも親分と子分との間で盃を交わして親子の契りを結ぶ。このように人と人との新しい関係を結ぶ時に酒が用いられる。また宮座の行事においては、トウヤの指示によって始めの盃からトリの盃まで盃の順番に名称をつけて二十一回もの盃を座中に回す例(三重県名張市黒田)や「一献差しあげます」「二献」「三献」の順番に簡単な酒肴を口にしながら盃を回す例もある。ここでは酒が単なる飲み物として存在するのではなく、酒をつぎ、同じ盃を用いてそれを飲むことが儀式の一部となっており、座の人の連帯を強化している。また葬儀では、墓地にいる穴掘りの人足に喪主が一升酒を差し入れたり、野辺送りから帰った人に葬家の庭で酒を出して清めたりすることが行われる。酒には墓地や死者の忌み、穢れを清める機能があることがわかる。このように民俗のなかにみる酒には、新しい人間関係の締結と連帯の強化、死穢の払拭など多様な機能が存在する。-(関沢まゆみ)(「日本民族大辞典」 吉川弘文館) 


「演劇と酒」(3)
心の憂さのすてどころとして、もっともしみじみと見る者の胸をうつ場面は、川口松太郎作『鶴八鶴次郎』の終幕である。久しぶりにコンビを組んで絶賛を浴びた二人が楽屋にもどってくる、二人もおたがいに相手の芸をたたえる…ところが急に鶴次郎は鶴八の三味線に難癖をつける。鶴八は怒って飛び出していく…昔の喧嘩のくり返しである、と思っていると、次の居酒屋の場で、たずねあててきた番頭の佐平に鶴次郎は本心をうちあけるのである。「俺ァあの人を心底から愛している。だからこそあんな事をしたんだ。もし仲よくしていたら、あの人は芸の楽しさに引きずられて伊予善から出てしまうだろう…」あの人のいまのしあわせをそこねたくなかった、と言う鶴次郎に佐平は黙って杯をさす。酔いつぶれていく鶴次郎の耳に、流しの新内の声が悲しい。(「珈琲店のシェイクスピア」 小田島雄志) 


陸稲みたいな作り方
「田んぼに水を飲ますと土地が柔らかになるでしょう。そうしたら収穫のときにコンバインを入れると難儀するんですよ。だから苗が大きくなって出穂した後は田んぼに水を飲ませない。私たちが醸す米は水稲には違いないけど、実際は陸稲みたいな作り方をされておるんです。だけど去年は雨水が豊富だった。おかげで田んぼに保水力が生まれて、土が弾力に富むようになりました。そうなると米も硬くなりません。こては天の思し召しですなあ。それにやっぱり有機米はいい。化学肥料の米は確実に質が落ちるし、米自体が不揃いで脆いです」(「うまい日本酒はどこにある?」 増田晶文) 新潟県・河忠酒造の郷良夫杜氏の話だそうです。 


石の会
美味と風流を同時に追求しようといううらやむべき趣旨で結成された句会だと仄聞(そくぶん)する「石の会」のホスト・ホステス役である吉村昭、津村節子ご夫妻に、次の句がある。
酒は熱燗牡蠣は小粒なるがよし 節子
討入りはかくの夜なるかそばに酒(「江國滋俳句館」 江國滋) 


さつのよは まだよいながら やけぬるを きものいずこに われやどるらん
<通釈>気がつくと夜になっていて、警察で泊っていた。まだ酔いは醒めず、おれはやけっぱちだ。きものはどうしたのだろう。
きすぐれど いろにまけにけり わがさけは よもやひもだと ひとはおもわず
<通釈>酒に弱いので、飲むと情婦に負ける。おれがひもだとは誰も思わない。(「裏小倉」 筒井康隆) 


酒山
「酒山」は、『播磨国風土記』「印南郡」に出ている。なぜ、そのような地名がついたのか、その由来について、同書は次のように記している。
また、酒山あり。大帯日子(おおたらしひこ)の天皇(すめらみこと)の御世、酒の泉湧き出でき。故(かれ)、酒山よいふ。百姓(おおみたから)飲めば、即ち酔ひて相闘(あひたたか)ひ相乱る。故、埋め塞(ふさ)がしめき。後、庚午(かのえうま)の年、人ありて掘り出しき。今になほ酒の気あり。
大帯日子の天皇(景行天皇)の御世に酒の湧く山があり、周辺の農民たちが、それを飲んでは酔って乱闘したので、埋めてしまったが、後年になって掘りおこしたところ、なお、酒気が残っていたというのである。(「日本古代食事辞典」 永山久夫) 


天野廣丸
江戸時代鎌倉の住人で狂歌師だが酒を非常に好み、酔亀亭の号がある。彼は手から酒瓶をはなしたことはない。衣服の紋まで徳利を用いているが、こう酒を「上:夭、下:口 の」んでは堪らない。遂に酒のため全財産を失い、家の修理も出来ないある日狂歌の会を開いたが、この日は雨であつたところ雨漏がして室内で傘をさしておつたという位だ。彼には酒百首の吟があるが、その中で「くむ酒は是風流の眼なり、目を見るにも花を見るにも」が著名だ。文化六年三月二八日、年五十四歳で死去した。彼の辞世は左の通りだ。
心あらば手向けてくれよ酒の水 銭のある人銭のない人(「食味の神髄」 多田鉄之助) 


たちざけ【立酒】
旅行に出立の時に飲む酒、又は立ちながら飲む酒。「一代男」に『其のあけの日は、禿共が立酒、さいはひ関送りとて』とあり、「油地獄」には『つくも受くるも立酒を、お吉見つけて、そりゃ何ぞ、忌々しい』とある。
立酒は一ト口飲んであとを注ぎ 盃を持つた儘(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 習俗の酒 


ゴチョウ
新潟県の佐渡では、インキョ(分家)の普請の時には本家ではヨビゴチョウといって建築する家の主人と大工を招いてもてなす。客を招かないでその代わりに酒食を贈る時には、これをイレゴチョウという。 バンジョサンゴチョウだ ひのき提重に麦饅頭(佐渡の民謡) などはその風景をうたったもので、この贈物に対して、当家では、棟梁さんを御相伴に来てくれ、とヨビチョウに招き、木挽や石屋なども同席して宴を張る。岐阜県大野郡丹生川でも普請の場合に嫁や主婦の生家などの近親が、職人たちに酒を振舞うことがゴチョウで、家が離れていると普請家の近所の親類又は隣家を借りてそこに酒肴・餅・赤飯の類を持って来て振舞う。建築をはじめる前に普請家の戸主から「家をつくらせて貰いたい」という挨拶があるそうだから(ひだ五の一)、家を建てるには物質的にも精神的にも親戚からゴチョウをして貰う必要があったのである。牛腸・午餉の字をあてているが今日の御馳走という言葉がこのゴチョウから出ている。西日本では、これをザッジョという地方が多い。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 


酒が裏(り)に入(い)る
酒を飲んでも、少しも酔わず、かえって気が沈んでくる。「さだめて家内のものが心づかひをいたして居ませうと、不図ぞんじ出しましたれば、どうやら酒が裏に入るやうに覚えます」[鳩道道話・二上] (「角川古語大辞典」 角川書店) 


「酒」
酒に関して、私はずっと付き合いの悪い男であった。誘われてもあまりうれしそうな顔をしない。酒の席でもあまり飲まない。飲めないのではなく、むしろ強い。若いころから介抱の経験は豊富でも、介抱されたことは生涯一度もない。と、このあたりに付き合いの悪さが表れている。酔っぱらいが嫌いで、自分がそうなるのはもっと嫌い。だから、飲んでもしらふの顔をしているという、酔っている人には、そばにいられると煙たい存在だったのである。(「一字一話」 船曳建夫) 


子供の膳に酒なしの盃
私が小学校に入るかどうかという年令の頃、祖父の家ではよくお祝いの宴会を開いていた。何のお祝いだったか知らないが、広い座敷を三つくらいぶち抜き、ギッシリと客が並ぶ。-
小さな幼い私がなぜ覚えているかというと、祖父母はどんない幼い子供にもこの膳を置き、席を作ってくれたからだ。七歳の私だけではなく、四歳の弟も、五歳や三歳のいとこ達も、乳「上:夭、下:口 の」み児以外は全員が大人にまじって「自分の膳」の前に座わる。さらに、膳にのる料理も大人と子供はまったく同じであった。子供にはお酒は出なかったが、盃はちゃんと膳の上にあった。こういう扱いをされた時、子供の誇らしさといったらない。もしも、膳の上にのった料理が、子供用として別のものであったら、誇らしさは半分だったと思う。(「食べるのが好き 飲むのも好き 料理は嫌い」 内館牧子) 


酒があってこそ大町桂月
「断酒一年半で漸く節酒に移る。一酔陶然たる時に、詩思動き奇想天外より来たる。酒があってこそ大町桂月である。桂月より酒を奪い去ったら、桂月はあたかも寒厳にさらされる枯木のようなものだ」自らこういって漸く断酒を解いた。しかし節酒に移ったことを聞いて、家人や弟子どもみな眉をひそめた。そのなかでただ独り、桂月と肝胆相照らした杉浦重剛は、菅茶山(かんちゃざん)遺愛の三合八勺の瓢箪を彼の許へ贈って「これぐらいはやてtもよかろう」といって慰めた。ここがまた、酒味情味あふれるところである。(「酒味快與」 堀川豊弘) 


水という毒
水 Eau
禁酒主義者は水という毒の犠牲になった病人である。水はよく物を溶かす性質をもち、また腐食性が高いので、特によりすぐられて体を洗ったり洗濯をしたりするのに使われ、また透明な液体たとえばアプサント酒に一滴落とすだけでそれを濁らせるものである。(アルフレッド・ジャリ) (「世界毒舌大辞典」 ジェローム・デュアメル) 


鱈の料理
母は大きい俎(まないた)の上で、庖丁さばきも鮮やかにそして素早く、鱈(たら)を料理する。二匹の鱈のお腹には真子と白子がはいっている。ごく新鮮な白子は酢醤油でそのまま食べるが、とろりとした舌ざわりは妙味である。真子は日本紙にくるみ薄い皮が破れないように弱い火にかけうす味のお醤油、砂糖、味醂で味をつけて煮る。これは一センチほどの厚さに切り、お酒の肴にする。一匹の半分ほどはそぎ身のお刺身に作る。真子の煮たものをほぐしてほんの少量のおつゆをまぜて、そぎ身のお刺身をまぶしつける。これを金沢ではこつけといい、淡白ななかにも甘味の多いお刺身は、鯛と同じほど美味である。(「加賀百万石の味文化」(陶智子)中での「父犀星の贈り物」(室生朝子)からの引用) 


二日酔いになったことがない
話すと多くの人が驚くのだが、私は二日酔いになったことがない。飲む量が少ないわけではない。アル中に近いと思う人もいようが、そんなこともない。夕食後に原稿を書くのだが、しらふである。酔っての執筆は、一枚もない。午前二時ごろに一段落し、洗面か入浴のあと、一本のビールからはじめる。家族が眠っているので、ひとりでの酒、量もふえる。夕方からパーティーの時は、延々と飲みつづけ、二次会、三次会、帰宅。そして、また飲む。就寝儀式でもあるのだ。生まれつき、酒好きだったわけではない。酒もタバコも一切やらなかった。相談相手の先輩の影響か。(「きまぐれ散歩道」 星新一) 


酒づくりは哲学である
一方、「酒づくりは科学である」という声は聞かない。科学の内容がますます高度になり、醸造という仕事は自然科学の領域のなかで最も古典的な部分になってしまったからであろうか。今ではむしろ人文科学として取り扱ったほうが、その本質をより正しく理解できるのではないかとさえ思われる。酒づくりは技術の巧拙を評する前に、思想の有無を問わねばならないものと心得る。その意味で、どんなに高度な化学知識や技術に支えられても、ワインづくりの思想抜きでは、名手とはなれない。私的な感想を述べれば、「酒づくりは哲学である」と主張する技術者に、日本のワインをつくり続けてもらいたいものである。(「ブドウ畑と食卓のあいだ」 麻井宇介)