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御 酒 の 話 18



全国神酒鑑評会審査カード  三重吉  杜氏の話  浜下りの儀式  第四十四段  内田と鈴木、宮城  こちらの客  未成年飲酒  天狗酒盛  待合  チョコレートや大福  級別  盃を肩から渡すあんま取  トゥアック  村垣日記  山陽  口割酒  ニサヲ  波銭  他所の徳利より  あごの酒浸し  ワラスポ  忘れもの  頼さんのおしもの  錆鮎  来た  百鳥の  弥兵衛の妻  秋興  洗練の歴史  灘高、報徳学園、甲陽高校  村上信夫  酒造制限令  シャンペンのラッパのみ  差し入れ  青みどろのお酒と硝酸酒  万の文反故  どろめ  満殿香酒  立ち飲みの日  福島正則  三五二杯のビール  二十年間の風邪  プロリルエンド・ペプチダーゼ阻害物  毒の試  四割減産  「酒倉」  くるみ酒  鮭のお酒づけ  四つの目  葛西善蔵の酒(4)  アニス油  酒づくり神事  ほがい(2)  遊子方言  御殿山  新夕刊  十一月三日(東京)  よし子さん  桜内氏  亀塚  四斗樽でカクテル  婚姻儀礼の諸相  認知症  翁像賛  今も昔も  夜明けあと(6)  サンマの腸  もうかの星  一晩で約二本  祈年の祭  大天狗小天狗  なだ万でのドンチャン騒ぎ  当選に狂喜  花を蓄こと  酒席の邦楽  さすたけの  一万五千年の刑  ショーベンサイド  いかの塩辛  中呂村  甘粕スタンド  真奈美さんの酒  栓抜きがない  城主祭  ラオ・ヤードン  咸臨丸の積込品  わが酒歴  能舞台  中学生の飲酒  水鳥の祭  心ゆくもの  宿下  百閧フ逸話  安政誉大盃  下賜木杯を返上  伊勢神宮の使用土器  截髪  寿司屋のお酒  所かわれば  酒とかけて  土曜の夜  あれば飲む  うなぎ屋のおこうこ  幾日飲む  萬亀楼  須須許理の酒造り  でびらかれい  武玉川  僕は田中英光です  造酒司酒殿坐神  軽井沢にて  つくろうや  六十両  夫婦固めの盃  のぞき  駿河大納言忠長  ウサガミソウレ  一盃呑と衣ぬぐ僧  夜明けあと(5)  うき巣  サン・マロ  横臼  冷酒清兵衛  原田甲斐の祖父  五合宛  忘憂君怒曰  花子さん  酒ほがい  葉山嘉樹、長谷健  代官と徳利の首には  辨館  暑気払い  トカイ  船に酔ひ 酒がすぎ原七十郎  安倍晴明物語  体を預ける  三死に一生  居酒屋の看板  木製瓶子  灰釉瓶子  此村に  酔うを悪みて酒を強う  芝峰類説  江戸小咄本の名称  大山の阿夫利神社  重陽節  椰子酒  酔うために飲む  ヘミングフォード・グレイ村  三代高尾  御綱柏  土佐佐川  大御酒の柏  伊勢神宮の神酒(3)  アメリカの飲酒  ジャニス・ジョブリン  初代川柳の酒句(2)  太平山  欧州大戦  鹿茸  梅干し  ビール納品  酒桶いろいろ  酒は酒なり  酌人の目もとにしほがこぼるれば  富の札  鬼飲・了飲・囚飲・鼈飲・鶴飲  独居のたのしみ  夫婦けんくわ  ワカメ  蒸し時間  大"酒仙投手"  小痴楽と金遊  飲酒のアメリカゼーション  御遺告  杉の門序  冷や  ビール牛2  三好達治  事件記者  [八五]海賊を見る  ジャワの武田麟太郎  豪傑酒  ワイン騎士団  なぜ酒を飲むか  エポペ  マグロ  こうしう  どやし  閑情記趣(2)  児玉花外  剣菱  津の国の  白鷺も紅葉の中ハ酔て飛び  病況概要  玉乃海  コロリ予防の薬酒  麦酒の一報  駿河国安倍の市  楽しきかな刑務所  燗のぐあい  アサヒスーパードライ  我が禁酒やぶれごろもになりにけり  未成年者飲酒禁止法(2)  清水如水の宅地  「うまい」か「うまくない」か  梔子・薔薇・牡丹  不幸の幸福  八行  硝酸塩の作用  よした!  鯛のうろこ  製麹機  DOV他  柳亭小痴楽  誓文  胎児性アルコール症候群  楽老庵主像賛  「下級武士の食日記」(2)  身欠き鰊  相撲と歌舞伎  くいくい  楽天主義と厭世主義  プロリルエンド・ペプチダーゼ  仕出屋  ”四季醸造”  強い酒  朴加大に留まる  スタルヒン  酔いどれ怪我をせず  ロンダ  盗人の寄合  タイ・ウイスキー  半切の大文字  家斉  とびろく  ブフェトル・ドナレア  そばで酒  イアサ  川竹  付き合い程度の人  御盃たもれいよ  原始的な酒  松島屋  猪名川  菊の花  尾崎さん  阪神が優勝した年  阿波踊り



全国神酒鑑評会審査カード
香り 良い−普通−悪い
特性 調和 上立ち香 含み香 ソフト 華やか 優雅 個性的 その他
指摘 不調和 酸臭 ジアセル臭 木香様臭 酢エチ臭 ろか臭 生老香 その他

味 良い−普通−悪い
特性 ふくらみ 濃醇 軽快 きれい なめらか 後味良 適熟 その他
指摘 うすい くどい 雑味 酸うく 渋味 苦味 味だれ その他

総合評価 すばらしい−良好−無難−なな難点−難点(「酒を語る」 斎藤茂太・佐藤陽子・野白喜久雄・栗山一秀・濱本英輔) 


三重吉
鈴木三重吉が神経衰弱で閉じこもっていた下宿へ、ある日師の漱石がぶらりと訪れて、五十円の俸給袋をそっくりわたし、ちと吉原でも遊んで来いと言ったという。後年酔っぱらうたびに三重吉がこの話をするので、とうとう小宮豊隆がたまりかねて、「それは嘘だ!」と言ってしまった。漱石の気性からして吉原へ行けなどというはずはないというもので、並いる他の門下生も小宮に賛成した。すると、「わしのいうことを信じてくれない」と三重吉が泣き出して、一同大いに閉口した。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


杜氏の話
おらがもっと若かった頃のこんだが、春になって野積(のづみ)に戻ってきた杜氏さんたちが集まって、造りの話をしているのを横から聞いたら笑ってしまうね。「あんたのところの酒はいいね。」なんて聞いても、まともに答える人間なんかひとりもおらんかったわ。ほんとのことは、まず言わん。嘘ばっかり言うんだ。ムジナかタヌキかというようなもんだったわ。聞かれたほうが言うのは、本に書いていることだけなんだ。酒造りの教科書に書いてあるようなことしか言わない。だすけ、本に書いてある通りにやったって、なーに、いい酒ができるわけがないんだ。聞くほうも答えるほうも、それを知っていて、本の通りのことを言うんだわ。ほんとのことは誰も言わない。(「杜氏 千年の知恵」 越後「八海山」杜氏 高浜春男) 越後杜氏は、三島(さんとう)、刈羽(かりわ)、頸城(くびき)の三流派があり、高浜は三島杜氏に属する野積杜氏だそうです。 


浜下りの儀式
(奄美の)浜に上がると、宴会の仕度が進んでいた。豊みどりさんと円山さんの奥さんの志津子さんが、手際よく魚をさばき、かまどで火を起こしている。普通、浜で宴会するのは、一年に一度、五月半ばの浜下りの儀式だけなのだそうだ。これは豊作と豊漁を祈ってクワズ芋の葉に害虫を包み、後ろ向きに海に流した後、酒盛りをするのが本来の形である。が、今日は、特別に私のために用意して下さったのである。ブダイの酢味噌あえ、ブダイの味噌汁、刺身などをつつきながら、栄えある島酒・黒糖酒をまわす。当然お次は、歌に踊りだ。(「旅ゆけば、酒」 大岡玲) 


第四十四段
むかし、あがたへ行く人、馬のはなむけせむとて、呼びて、うとき人にあらざりければ、家刀自、盃ささせて、女の装束をあづけむとす。あるじの男、歌よみて、裳(も)の腰にゆひつけさす。
 いでて行く君がためにとぬぎつれば われさへもなくなりぬべきかな
この歌は、あるが中におもしろければ、心とどめてよまず、腹にあぢはひて。
現代語訳
昔、地方の任国に赴任する人に、送別の宴を張ろうということで、招いて、遠慮のある間柄の人ではなかったので、主婦が、盃をすすめさせて、女の装束を与えようとする。(それを見て)主人の男が、歌を詠んで、裳の引腰に結い付けさせる。−(旅立って行くあなたのためにと脱ぎましたので、私までも裳=喪<悪いこと>がなくなってしまうに違いないことですよ)この歌は、数ある歌の中でも趣のある歌だから、念入りに吟じたりせずに、腹の中で味わって(理解するがよい)。(「伊勢物語」 石田穣二訳注) 


百閧ニ三重吉、宮城
 ある時内田百閧ェ鈴木三重吉をたずねると「席をかえて飲みなおそう」ということになった。三重吉は書生に「やい松本!支度をつかまつれ!」と命じた。やがて支度はでき、百閧ヘ弓張提灯(ちょうちん)を持ち、松本は刺股(さすまた)をついて荒木町の花柳街へねりこんだ。
 ある晩一人で仕事をしていた宮城道雄は、夜中に何か飲みたくなった。手さぐりで台所の戸棚をあけてびんを一本とり出した。かたい栓を苦心してやっとぬくと、「ポン」と大きな音がし、音楽人をおどろかした。それはシャンパンだった。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


こちらの客
弥「何にしろ二人りの禿(がき)ハよく柿喰(くふ)がきだと地ぐりて
北「コレサふたりの禿(がき)が柿を喰(くふ)より隣の客ハよく楮幣(さつ)を繰(くる)客だ
弥「こちらの客ハよく酒を「上:天、下:口」(のむ)客がきいてあきれらア(「西洋道中膝栗毛」 仮名垣魯文) 有名な弥次さん北さんの孫同士だそうです。 


未成年飲酒
それでは、どれくらいの未成年者が酒を飲んでいるのでしょうか。1998年の調査では、中学生男子で7.3%、中学生女子で3%、高校生男子で24.8%、高校生女子では10.5%が頻繁に酒を飲んでいました。一回に飲む酒の量が多い「問題飲酒群」は女子の方が男子より多く、これは注目すべき問題でしょう。未成年者の飲酒が懸念されるのは、知能機能に重大な障害をおよぼす危険性が高いからです。(「美しくなる日本酒」 滝澤行雄) 


天狗酒盛(てんぐのさかもり)
公暁 忝(かたじけ)ない。
霧太(天狗) その銚子、杯。
 ト、大杯、銚子を持つてくる。ト、霧太郎、腰より金の瓢箪を出(い)だし銚子の中へ赤い汁を入れる。してう(しちょう)と云ふ鳥の生血をもつて、山の神を従へ、封じ込めたる毒気の露、酒に移して飲めば、通力自在、心のまま。この酒を与へるが、魔術を与へる天狗酒盛り。てうど注げ。
公暁 ハア。
 ト酒を注ぐ。霧太郎、飲む。
霧太 サア、一つ、飲め。
公暁 忝ない。
 ト受ける。霧太郎、注ぐ。公暁、飲む。と、天地を見渡す思ひ入れあつて、
霧太 アゝ清(すず)しや。この酒を飲むと否や、心かるがる、世界万国、一目に見え、雲に乗じ、霞に横たはる我が心。(歌舞伎「霧太郎天狗酒盛」 並木正三 宝暦11年) 実は魔術を行う力をそぐための酒だったのだそうです。 


待合
併しこれで終わったのではない。一通り廻ってしまって夜が愈々更まだけて来ても、行くところはあった。大体、バアや蕎麦屋にしても真夜中過ぎまでやっていたが、夜明かしをするのは無理で、それには待合があった。この頃の待合はどういう風になっているのか解らないが、その頃は夜明かしで飲む為に待合というものが出来ているようなものだった。少し懇意な所ならば、玄関に立った途端に察してくれて、酒やビイルの用意をしてくれた。そしてそれが待合というものかどうか知らないが、こっちが寝ると言わない限り、女中さんとか仲居さんとかいうのが朝まで付き合ってくれて、それが出来ない時はビイルを山程運んで置いて行ったから、朝までそれを飲んでいればよかった。外が明るくなって来て、障子を開けると、廊下にビイルの空き瓶が林立しているのを何度も見たことがあるのを、今でも覚えている。ということは要するに、これが多くの場合、先輩に連れられての無我夢中の飲み歩きでだったのであるから、最後にどこかの待合に辿り着いてから大概、一度はもうどうにも気持が悪くて吐いたことを意味している。(「飲む話」 吉田健一) 


チョコレートや大福
お酒は毎日飲んでいました。その上、つまみにチョコレートや大福といった甘いものを好んでいたのです。母は心配しましたが、飲まないでといったところで聞く耳を持たない人でしたから、こっそり水で薄めておいたものです。晩年になればなるほど、水の量が増えていきました。困ったのは、お客さんが来ると、父が自分の酒をお客さんに勧めてしまうことでした。でも父のことは皆さんご存知でしたから、水割り酒を飲まされても父の前で文句をいう人はいませんでした。ただ、父のほうがお客さん用のお酒を飲んでしまい、気づかれてしまったことがあります。でも、母に怒ったりはしませんでした。(「血族が語る 昭和巨人伝」「榎本健一」 榎本知恵子) 


級別
等級による表示は、戦争が激しくなり、財源確保のために昭和一八年から始まる。それ以前の昭和一五年に「特等酒・上等酒・中等酒・並等酒」と分類区別され、一八年に「第一級・第二級・第三級・第四級」と等級区分され、そして戦後の昭和二四年になって「特級・一級・二級」の級別表示になったのである。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


盃を肩から渡すあんま取(とり) ひゞきこそすれひゞきこそすれ
一盃やりながら、いい機嫌で肩を揉んでもらっている。「どうだい按摩さんも一つ」と、肩ごしに指してくれた盃を、ぐっとほして「どうも有難うございます」と、肩の後から盃を渡す。 ○あんま取り=揉み療治を業とする人。按摩。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


トゥアック
時々無性に椰子酒(トゥアック)が飲みたくなる。椰子酒というと椰子の実ココナツの果汁から造られると思っている人が多いが、実際は樹液がほとんど。たまに若いココナツの果汁や蕾を切って出る樹液を発酵させるものもあるが大部分は砂糖椰子の樹液から造る。夕方切り口に竹筒をぶら下げておけば、翌朝には美味しい微発酵のジュースがとれ、午後には立派な椰子酒となっている。−
南インドではターディと呼ばれる。TODAYと書くので、毎日のように「上:天、下:口 の」むものだと思いこんでいる酔っぱらいが、私を含めてたくさんいた。ヴァラナシ(バナーラス)やカルカッタ(コクコタ)、ボンベイ(ムンバイ)でもちょっと町を離れたら呑めるが、なんといっても本場はケーララ(椰子)州。本場といわれるアレッピーを中心として至る所にターディー・ハウスがある。二〇年以上前、港町コーチンにいたときなど毎日のように通っていた。ビールの空き瓶で五〜六ルピー。当時のレートで一〇〇円もしなかったと思う。肴もココナツオイルで揚げた魚や、キャッサバの天麩羅。ついてに建物も椰子の葉で葺くという、環境すべて椰子尽くし。三本も空ければもう駄目だと追い出されてしまうのだが、なあに次の店に行けばまた呑める。(「粋音酔音」 星川京児) 


村垣日記
やがて統領立(たち)て食盤(しょくばん)を打鳴らせば、はるかむかふ(向こう)に立たる人受て又打鳴らせば、胡楽(こがく)止(やみ)、席中静になれば、統領何か大声にいと長く述れば、席中一同に立て大声を三度発し(イツピンワーと云(いう))一同に盃をかたむけて手を打、あるは食盤を打鳴らし、胡楽も始り其声耳を覆ふばかりなり、こは何事やらしらねど、人の真似して酒を「上:天、下:口」(のむ)もいとおかし、後に通弁者に聞(きけ)ば、日本使節来りけるを悦(よろこび)て、我大君を祝し奉るといふ事を述しよし也。又統領立て始に同じくすれば使節を賀し、条約取結の事を祝すとて盃をかたむけたり。やゝあつてタッテナル立て、おのれ等に代りて華盛頓(ワシントン)の大統領を祝して盃を傾ける、夫(それ)より各国のコンシュル等互に賀し、席中の末々まで思ひ思ひに言葉を設けて祝し盃を傾けるが、祝詞の優劣に寄て手を叩(たたく)はよし、盤を打つは次なるよし。サンパンの酒の瓶の口を切(きる)音は砲声にひとし、席中かまびすしき事言語に尽し難し。(村垣日記)(「幕末遣外使節物語」 尾佐竹猛) サンフランシスコでの使節歓迎会だそうです。また、日記を書いた村垣範正は遣米使節の副使だそうです。 


山陽
彼の幸運は篠崎小竹に、伊丹の酒造家、原佐一郎を紹介して貰ったことによって、向こうから転がり込んできた。原は老柳と号して、剣菱の醸造元である。山陽が老柳に送った手紙は実に三十幾通も残っている。その殆どが、酒が欲しい、その為に何でも求めに応ずる、その潤筆料を酒に代えたいといつも繰り返している。例えば次の如しである。「…轍鮒之魚、御救い被下度(くだされたく)、何銘の酒にてもよろしく候…(略)…酒くれる主えよろしく、拙書(せつしょ)気に入らねば書改め申すべく候、かような事ついに言わぬ男、酒故なればこそ、慙汗(ざんかん)々々」同じく仲介。労を執(と)ってくれていた老柳に、「要用といえば外の事にあらず、酒也。さぞ御ぬかりもあるまじく候へ共、かの柿記潤筆分、何卒(なにとぞ)早々参り候よう、御掛合い被下度、もはや甚(はなはだ)出口ほそく相成(あいなり)…」要用といえば外の事に非ず。酒也。とは正にそのものズバリの名句だし、「出口ほそく相成」とは山陽の心細くなった顔も想像されて、大いに愉快である。「…菓子料三百疋(ひき)被下、是は何の為ぞや、とんと面白からず候、(略)只今は貴家の一斗、泉川(酒の名)二斗あり、一丁御張込み可被下候」として菓子料は返すといきまいている。酒ならぬ金を贈られて不興の趣が「是は何の為ぞや、とんと面白からず」の句によくでていて、思わず微苦笑を誘われる。(「京の酒」 八尋不二) 


口割酒
「本当に全部飲まなきゃなんないの?」彼は私に念を押したのだった。四年間恋人同士だった私たちは、彼の北海道への転勤を機に結婚を決めた。二人の出逢った東京からはるばる私の実家の山形へ、結婚のあいさつのために向かったのだった。実家のある山形では、結婚する前に「口割酒」という風習があり、嫁をもらいにきた男に、父親が酒を飲ませて相手の本音、本心を聞き出すのだ。そして相手が酒を飲まなかったり(飲めなかったり)、残したりすると話はもちろんなかったことになる。ビールならともかく日本酒がほとんど飲めない彼にとって、私が話すこの風習はまさに地獄のように聞こえたらしい。家に着くと、両親、弟がそろっており、早速、酒が出されてきた。まぁ一杯と茶わんになみなみとつがれ、横目で彼の顔を見るといつもと違って緊張しているのがよくわかる。飲めるのだろうか、先にあまり得意でないことを両親に話しておけば良かった…、と考えているとその時、すっと彼の手が酒の方へ動き、ゆっくり味わうように飲み干したのだった。そして一言、「お嬢さんと結婚させて下さい」。父も飲み干し、「こなだ娘だけんど、気持ちぢだけはいい娘だ。よろしぐお願いします」。一気に場が和らぎ、その後は晴れて夫婦となった。(「口割酒」 斉藤由樹 「多酒彩々」 サントリー不易流行研究所・編) 


358 ニサヲ 女房が酒を勧めて老いを知る[折句袋]
深酒をしてもいつも女房に叱られていたが、いつの間にか酒量もおち、飲む機会も無くなって、おれも真面目になったなと思っていたら、晩酌でもと勧められ、女房に労られるほど歳をとったことだと、はっと気の付いたことだ。(「大阪宝暦折句秀詠」 鈴木勝忠) 


波銭
その後明和四年(一七六七)から使われた四文銭は総じて好評だった。直径が一文銭より四ミリくらい大きく、裏面に青海波(せいがいは)の模様が彫られているところから、もっぱら波銭(なみせん)と呼ばれていた。この四文銭は、いささか大げさにいえば値段革命をまきおこした。文銭でやりとりする値段が、四の倍数になっていったのである。たとえば串団子。松浦静山の見聞随筆『甲子夜話続篇』(巻四十一)に、『世に串ざしの団子、一串に五団を貫くこと尋常にして、一団一銭に換ふ。然るに此頃、一串四団を貫くことに成りたり』、その理由は「明安(明和安永)頃、四当銭(四文銭)行はれし」からで、「是より世上一般に及ぶ」と記している。つまり五個ざし五文だったのが四個ざしで四文、こうすれば一文銭五枚が四文銭一枚ですむ。これがうけたのである。いま串団子のほとんどが四個ざしなのは、四文銭の出現に始まったようだ。他にそばが十六文、そば屋の上酒一合が四十文、風呂銭(大人)が八文、髪結い代が三十二文などなど、四の倍数値段が多い。(「大江戸浮世事情」 秋山忠彌) 


他所(よそ)の徳利より内のきっくり
【意味】よその物では、どんなによい物でもなんいもならない。つまらぬ物でも自分の物ならたしになること。 (「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


あごの酒浸し
「あご」は焼いて、熱いうちに身をほぐして骨を抜き、酒に浸して食べるのが私の食べ方。冷めるとすぐ固くなるが、それを田麩状にくだいて、振掛にするもよい。焼きあごといって、十センチ位の小さなものを焼いたものもある。これは煮出用である。もう長くわが家では冬季には味噌汁の煮出として欠かすことのできないものとなっている。(「飲食有情」 木俣修) 「あご」はとびうおのことだそうです。


ワラスポ
唐揚げも昔からあるワラスポ料理だ。塩をかけてレモンをキュッと絞ると、焼いたワラスポに負けず、ビールのつまみに最高である。焼きしろ、唐揚げにしろ、骨ごと食べるのでカルシウムをたっぷり摂取できる。前海ものの料理が自慢の「郷土料理うたげ」では、左党なら見逃せないメニューを提供している。「うちではワラスポ酒が人気です。三センチぐらいに切って、フライパンで炙ってから、熱燗に浸して飲むんですよ。日本酒が格段においしくなります」(「日本全国奇天烈グルメ」 話題の達人倶楽部編) 有明海で獲れるワラスポはムツゴロウに近い種類ではあるものの、見た目はかなり異なるグロテスクなものだそうです。 魚谷の手軽に出来る酒色々 


忘れもの
私が疎開先で家内を亡くし、鎌倉に帰って再婚したとき、久保田(万太郎)さんは私の家内のために一句下さった。それは盆の月という句で、家内が四人の子供を持った私のところへ来たのをほめてくれた句で、 盆の月光を雲にわかちけり という俳句である。ちょうどその宴は満月であり、巴里祭の日であった。この日、深田久弥さんが復員して私の宴にかけつけてくれた。民楽園という鎌倉の中華料理店を会場にした。中野實さんの世話で、その会がどれだけ盛会であったか、私のノートを見ればわかるだろう。今回特に発表しよう。 民楽園 遺失物表 一、玉川一郎 帽子、上衣、靴、ズボン下、ズボン 一、草野心平 帽子、眼鏡、手帳 一、大島十九郎 眼鏡 一、深田久弥 帯、復員証明書、貯金帳 一、林房雄 扇、きせる 一、中野實 上衣、靴 一、小林秀雄 上衣 一、田河水泡 定期券 一、高源重吉 ライター 忘れもののなかった人は、永井さん、川端さん、久保田さん、久米さん、里見さん、大佛さん、高見さん、中山さんである。このとき、二百円の会費をとったのが一生の不覚だった。(「フクちゃん随筆」 横山隆一) 


頼さんのおしもの
さて頼さんのおしもの(召し上がり物)は、 川魚に赤味噌 葱小口切り 慈姑(くわい)の丸だま 大根豆腐に 雲丹(うに)うるか 駱駝に瓢箪 伊丹酒 と、祇園の芸者・幾松が俗謡に唄ったくらい。−葱小口切り、にはじまって、雲丹うるか、山陽は"酒知り"だったといえる。そこで"駱駝"だが、これは駱駝のスキヤキを食べたというのではない、駱駝の背にはコブが二つ、そこで当時は夫婦同伴を意味した。というのは、山陽は妻女・梨枝といつも一緒に行楽して、その仲のよさが評判だったからで、幾松が軽く揶揄してそう唄ったものであろう。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


錆鮎
皿の上なる
錆鮎の
うつつともなき身の細り。
その残り香に
今夜(こよひ)酌む
酒はたちまち冷えもこそゆけ。(「飲食有情」 木俣修) 揖斐川上流で、旧友に書いた即興だそうです。 


来た
で、酒を飲むと、アルコールの作用によって、素面のときは神経Aと神経Bと神経Cの順番でつながっていた回路が、ある条件のもとで一瞬ポンッとはずれて、AからCへダイレクトにつながってしまったりすることがあるらしい。これが鍵なのである。よく、酒を飲んでいるときに、素面のときには思いも付かなかったすばらしいアイディアがひらめくのは、実は、こんな風に頭の回路がちょっと切り替わったときなのである。この状態を、酒飲み用語では「来た」状態という。ただし、この状態はいつも得られるわけではなく、時間、酒の種類と分量などの条件が、ぴたりと合ったときにだけ訪れるといわれている。偶然起きることもあるけれども、必ずしもいつも起きるわけではない。なぜこのようなことをいうかというと実は夕べ、ついに「来た」のである。それもとてつもなくスゴイのが。もう、来た、来た、来た、来まくった。これを発表すればギャグ漫画の歴史が塗り替えられるようなものすごいアイデアだ。こんなすごいの、天才はらたいら以外に思いつくヤツはいるはずもない。シメシメ、やったぞと思いつつ、ぼくは床についた。そして、今朝。さあ、やるぞ、と机に向かったのだ。んが…。出てこないのである。昨日思いついたすごいアイデアが。ただそれを思いついたという記憶だけがはっきり残っている…。そこでハッと気がついた。あのアイデアは脳味噌の回路が切り替わった状態で記憶されているわけだから、あれを引き出すには、もう一度回路を切り替えてやる必要があるのではないか…。仕方がない。今日も仕事をさっさとかたずけて、あの店で回路が切り替わるのを待つことにしよう。(「今夜もハシゴ酒」 はらたいら) 


百鳥(ももとり)の木(こ)伝(つた)うて鳴く今日(けふ)しもぞさらにや飲まむ一杯(ひとつき)の酒
これは春の山房に定珍がたずねてきた折の作で、このとき、定珍は冷静に、「さすたけの君の庵(いほり)に来て見れば春ものどかに百千鳥(ももちどり)鳴く」と詠じている。いずれの場合でも、酒は定珍が徳利に詰めて持参した品に違いない。定珍は村でも指折りどころか、飛びきりの大旦那であるから、家に酒、酒菜(さかな)は常に絶やさなかった。(参考第一七図)「うま酒と酒菜しあれば明日もまた君が庵に訪ねてぞ来(こ)む」と気を引いてみせると、良寛は忽ち大喜び
うま酒に酒菜持て来よいつもいつも草の庵に宿は貸さまし
と応えて、筆を走らせている。(「新修 良寛」 東郷豊治) 


弥兵衛の妻
四月のある日、町内に住む人がやってきた。「うちの伜が勤めとる造り酒屋の"若"が、お嫁さんを探しとんさるが、お宅のお嬢さんをと思いまして…」運命の神様が私の肩にとまって方向を決めた瞬間であった。相手は、県北美作に何代も続いた「御前酒」蔵元の長男、辻弥兵衛。真庭郡の勝山の酒屋というのも、私の今までの生活にはなかった言葉であったが、私が知らなかっただけで二代前には双方に縁談があり、今も共通の親戚があるそうだ。とはいえ、当の本人はまったく未知の人である。五月初めに、その人と母親が我が家を訪れた。彼は背が高く、音楽好きで、旧制高校から京大、大学院と進んで、そのまま学校に残って助手をしていたとのことだった。私が聞いていた話では、助手をしているという現在形であったので、「京都に住んで大学教授のお嫁さんもいいな…」などと考えていたのだが、戦局が厳しくなり、やはり長男として家を継ぐべく郷里に帰らざるを得なくなったらしい。その点が若干というか、かなり大きく違っていたが、頭のいい男性に惹かれる傾向のあった私は、ひょっとすると…と思った。(「わたしゃ、まあ いいほうでさア」 辻美津子) 


秋興
221林間に酒を煖(あたた)めて紅葉(こうえふ)を焼(た)く 石上(せきしょう)に詩を題して緑苔(りょくたい)を掃(はら)ふ 白
▽(私は山寺の秋をたずねた。)わたしは林のなかで紅葉をかきあつめて、それを焚いて酒をあたためる。わたしは石の上の緑の苔を掃いおとして、その上に詩を書きつける。(「和漢朗詠集」 川口久雄校注) 一番有名な白居易の詩ですね。 


洗練の歴史
この洗練の歴史は、長く、かつ複雑である。しかし、伝統的に消費されてきたアルコール飲料の種類によって、今日の世界を二つのタイプの文化に分けることができる。ワイン文明と、ウイスキー文明と呼ぶものとの二つである。ウイスキー文明という大雑把な一般化をお許し願いたいが、これはサケなど米からつくった酒、スコッチやアメリカのバーボン、カナダのライなど各種ウイスキー、ジンなどの蒸留酒、つまり穀物の発酵によってつくるすべての酒を指すものとする。−
話をわかりやすくするために、一つの例をとろう。今日は日曜日。アンドレ・ヂュポン氏は、車の渋滞をものともせず、友人達とパリ郊外へ散策にくりだす。ドライブの目的は、まず間違いなく、上等のぶどう酒を地下の酒蔵(カーブ)にストックしてある気のきいたレストランでうまい食事を楽しむことだ。この昼食こそ散策の焦点であり、このハイライトを中心に彼らの日曜の遠出は組立てられる。ムッシュー・デュポンは、ワイン文化の典型的代表である。しかし同じ日曜日、東京のスズキ氏やポートランド(アメリカ、オレゴン州)のジョン・スミス氏はどうしているだろうか?彼らもまた、車で遠出しているなら、渋滞にあっているだろう。しかし、賭けてもいいが、彼らの目的は、「シェフが得意のパリ風オマール(伊勢エビ)を出してくれる」上等なレストランへ出かけ、おいしいワインで昼食を取ることではないはずだ。彼らの目的は、地方の名所旧蹟だったり、湖で舟遊びをすること、あるいは単に、ちょっと息抜きに都会の外へ出ることにあるだろう。(「文化としての酒について」 ピエール・ブリザール サントリー博物館文庫) 


灘高、報徳学園、甲陽高校
東大へ大量の合格者を出し、偏差値の高さでは全国的に知られる灘高(旧制灘中)は、昭和二年(一九二七)に白鶴、菊正宗、桜正宗の共同出資により創設されたことはよく知られているが、他にも、高校野球で有名な報徳学園高校は、御影の酒造家・大江市松によって、明治四十四年(一九一一)、報徳実業学校として開設されたもの。また、昭和二十年代、野球少年の憧れの的で、阪神タイガースの強打者だった、別当薫の出身校として知られる甲陽中学(現)甲陽高校 も、大正九年(一九二〇)、白鹿によって創設された学校である。灘中の出身者は多士済々だが、なかでも作家・遠藤周作と俳人・楠本憲吉はよく知られている。(「日本酒おもしろ雑学事典」 講談社) 


村上信夫
村上 私は酒はかなりやるんですよ。テキーラから焼酎までなんでも。この頃は量が減りましたが、晩酌はビール一本飲んで、日本酒だったら一升。
小泉 それは大酒飲みというより、うわばみ…。
村上 以前はそれこそ角瓶を一日に一本。月給が上がってからは家内がダルマにしてくれましたけれど(笑)。今でも家に帰ってからはまずビール。そしてウイスキーのボトルは四日ともたないし、ワインは一本では足りないです。
小泉 今年八十歳になられたと伺ったんですが、まだまだ現役でバリバリやっていらっしゃる。(「発酵する夜」 小泉武夫) 帝国ホテルの総料理長だった村上信夫との対談です。 


酒造制限令
先にも述べたように、飢饉の際には贅沢を禁じられるが、その最たるものは酒であった。すでにT−三の「酒・茶・煙草」でも述べたように、近世初頭に生産された米の三分の一以上が造酒に用いられるために民衆の米が不足する、というような厳しい状況下にあった。酒にまわす米を食用とすれば、食料不足が解消に向かうのは当然の道理である。このため近世最初の大飢饉である寛永の飢饉時には、全国の幕府領に酒造制限令が発布されているが、これはもっとも政策的に対処しやすい措置であった[藤井・一九七六]。以後も飢饉時には、しばしば酒造制限令が出されている。しかし、これは単なる上からの押し付けだけではなく、村落レベルでも積極的な対応がなされた。出羽国村上郡では宝暦や天明の飢饉の際に、名主たちが集まり、申し合わせに背いて酒を造ったり買ったりする者を処罰する旨を定めた点が注目される[今田・一九八七]。(「江戸の食生活」 原田信男) 


シャンペンのラッパのみ
「おい、ムッシュー・ヤマガタ、こんな話をしっているか。ムッシュー・ポワンはな、朝起きると、すぐにだぞ、シャンパンをスルスルッとラッパのみしていた。それも、マグナムをだ」(一九八六年七月五日、マダム・ポアンが亡くなった。丁度そのとき、ポール。ボキューズ氏は大阪にいて、私にこんな話をしてくれた。そうそう、アンリ・ゴー氏も同席していた)(「美味学大全」 やまがたひろゆき) 


差し入れ
私も当時は漫画集団の仲間と、その他大勢で今さん達と一緒に出たこともあった。今さんは芝居の演出を永年手がけていられるだけに、役者になってもツボを心得ていて舞台度胸も玄人はだしであった。大抵のものは日頃あつかましいいようでも舞台に出るとすっかりあがってしまって、覚えたはずの台詞も忘れること度々である。度胸をつけるために楽屋で差し入れの酒を飲みすぎるので、余計な失敗をやらかしてしまう。中山義秀さんが白虎隊の隊長で、はるかに鶴ヶ城を伏し拝みながら大鼾(おおいびき)をかいて寝込んでしまったり、清水崑さんが鳥羽の僧正の高価な衣裳を墨だらけにする始末になるのである。(「わが酒中交遊記」 那須良輔) 文藝春秋社主催の文士劇のエピソードだそうです。 


青みどろのお酒と硝酸酒
ラプンツェルは、首肯(うなず)きましたが、その後、王子は魔法の家で、たいへんやさしくされましたが、生きた心地もありませんでした。晩の御馳走は、蛙の焼串、小さい子供の指を詰めた蝮(まむし)の皮、天狗茸(てんぐだけ)と二十日鼠(はつかねずみ)のしめった鼻と青虫の五臓とで作ったサラダ、飲み物は、沼の女の作った青みどろのお酒と、墓穴から出来る硝酸酒とでした。錆(さ)びた釘と教会の窓ガラスとが食後のお菓子でした。王子は見ただけで胸が悪くなり、どれも手を附けませんでしたが、婆さんと、ラプンツェルは、おいしいおいしいと行って飲み食いしました。いずれも、この家のとって置きの料理なのでありました。食事がすむと、ラプンツェルは、王子の手をとって自分の部屋へ連れて行きました。ラプンツウェルは、王子と同じくらいの背丈でした。部屋へはいってから、王子の肩を抱いて、王子の顔を覗き、小さい声で言いました。「お前があたしを嫌いにならないうちは、お前を殺させはしないよ。お前、王子さまなんだろ?」(「ろまん燈籠」 太宰治) 


万の文反故
このほか、西鶴文学には美食談がいろいろ出てくるが、その頂点を示す美食物が登場するのは『万(よろす)の文反故(ふみほうぐ)』巻一の四の「来る十九日の栄耀(えよう)献立」だろう。商人が日ごろ出入りする富豪の旦那を船遊びに招待するについて、当日の馳走内容を知らせて伺いを立てたのに対して、先方の番頭からその献立に批評的な指図がなされているという手紙の形式をとっている。
「格別にお心遣いの献立をお見せくださいました。船遊びには贅沢すぎる物です。諸道具その他は、船遊びですから面倒なものです。旦那もこのごろは病後ですので、美食をお好みになりません。無用と思われる料理に、批評を加えることにします。大汁に雑魚(ざこ)をごったに入れるのはいちだんと結構ですが、竹輪と皮鰒はおのけください。ごたごたしすぎます。膳の割鮎(さきあゆ)の膾(なます)は見合わせてください。川魚が重なります。めいめいに杉焼きをお出しになるとき、この割鮎の膾をにつけてお出しください。その杉焼きも鯛と青鷺の二品にするようお申しつけになってください。煮ざましに真竹(まだけ)の筍一種というのはしゃれてよいものです。割海老に青豆のあえ物、吸い物は鱸(すずき)、蜘蛛腸(くもわた)、引肴に小鯵の塩煮、たいらぎの田楽、また燕巣(えんず)に金柑麩の吸い物はは結構です。誰にもみそ汁の吸い物はおやめください。酒三献あって膳をおさげになり、後段には寒晒粉(かんざらしこ)の冷やし餅、また吸い物はきすごの細作り、酒一つ飲まれた後で早鮨をお出しください。その際、旦那は蓼は食べられません。山椒とはじかみとを付け合わせてお出しください。その後で日野の真桑瓜(まくわうり)に砂糖をかけて出してください。茶は菓子を抜き、一服ずつ立てきりになさるがよろしい」(「食の文化考」 平野雅章) 


どろめ
どろめはカタクチイワシやウルメイワシ、マイワシなどのイワシ類の稚魚の総称で、全長一、二センチほど。体は白っぽい半透明で、銀色にキラキラ光る目玉の中に大きな黒目がギョロリ。−
どろめの食べ方は基本的に生食である。かなりいたみやすい魚で、しかもワタごと食べるのだから、生きの良さが何より肝心だ。水揚げされてから食べるまでの時間は、短ければ短いほどいい。抜群のうまさにも関わらず、いまだ全国に流通しないのは、ここに理由があるのだろう。ごく小さな魚ながら魚体はしっかり締まっており、新鮮なものなら一匹一匹を舌の上で感じられるほどだ。生でまるごと食べても臭みは全くなく、酒の肴として極上品である。たれは二種類ある。一つはユズの絞り汁を利かせた酢醤油。もうひとつは高地独特のもので、ニンニクの葉のすりおろしを加えた香り高いヌタである。生食の他、煮立てた鍋に投入し、溶き卵を回し入れて醤油で味付けした汁も抜群にうまい。(「日本全国奇天烈グルメ」 話題の達人倶楽部編) 高知県での呼び方だそうです。 


満殿香酒
小泉 中国の貴州省には昔「満殿香酒(マンデエンシャンチュウ)」という幻の薬酒がありまして、これが素晴らしい芳香なんです。白酒に八十七種類のお香が入っていて、八十種の植物香と七種類の動物香。
荒俣 麝香(じゃこう)とか抹香(まっこう)、マンボウなんかから油をとるんですね。
小泉 さすが博物学の世界権威、一つ言ったら百返ってくる(笑)。それがですね、百年前に造るのをやめちゃったんですが、最後の七本だけ残っていたんです。で、その酒には面白い効能書と杯がついていて、曰く「この酒を付属の杯で朝晩二回飲み続ければ、五日目には体から香の匂いを発し、十日目には衣服にも匂いが染み込み、風上に立つとあなたの体から出る素晴らしい匂いに誘発されて風下の人たちが集まってくるだろう」と。
荒俣 だんだん恐くなってきた。
小泉 「十五日には住んでいる家にも匂い立ち、その匂いは八里四方に及ぶ」と続く。さらに、「二十日目になると、川で行水したり手を洗ったりするとその川の水は香水になる。そして二十五日目には、赤児を抱くと、その赤児は大人になるまで香の匂いが付く。そして三十日目、もう明日から飲む必要はない。なぜならあなたの体からすべての病気が抜けたから」と書いてあるんです。
荒俣 匂いを体の中に入れて邪気を払う、気を治す。まさにアロマテラピーですね。
小泉 そう。もちろん私も飲んでみた。そしたらどうなったと思います。先生、翌朝トイレに行ってびっくりです。小便からお香の匂いがしてきた(笑)。(「発酵する夜」 小泉武夫) 荒俣宏との対談です。 


立ち飲みの日
「1」が並ぶ11月11日は人の立ち姿が似ていることから「立飲みの日」として、葛飾区の京成立石駅周辺の居酒屋やバー6店が、自由にはしごできるイベントを開き、大勢の酔客でにぎわった。=写真=。立飲みの日は、地元の居酒屋ライター藤原法仁さん(47)らが提唱。これに賛同した店が4枚つづりで2000円のチケットを売り出し、チケット1枚で串揚げやポテトサラダなどの料理と飲み物を提供した。割安とあって行列ができる人気ぶりだった。(読売新聞 2010年11月12日) 


福島正則
福島正則は幼名市松、尾州二寺(ふたつてら)の人、父は新左衛門正光と言う事になっている。しかし、、新左衛門は正則の実父ではない。市松の実父は星野某、清洲の桶大工だった。市松は十四歳の時長柄川(ながらがわ)の辺(ほとり)で、泥酔していた足軽と喧嘩し、持っていた包丁で足軽を刺し殺した。−何だ、人を殺すなんてことは、武士でなければむつかしいかと思ったら、大した事はないな。よし、おれも侍になってやろう。と志を立てた。−
正則が生来粗暴で、殊に酒乱の気味があり、しばしば家士を無益に殺傷したり、家康の覚えめでたい池田輝政と仲悪しくたびたび争ったことなども、彼の運命にいくらかの影響を与えているのであろう。しかし、彼が家士一般の心を得ていたことは、広島城収公の際の行動をみても明らかであるし、戦国大名の一人として、特に言うべき粗暴であったとも思われない。(「大名廃絶録」 南條範夫) 


三五二杯のビール
エッセン(ドイツ)の鉄道線路工夫フーゴー・スピールマンとハンス・ガシュゲの両名は些細なことで、フランス側の官権に捕らえられ、五か年の禁固刑に処せられた。一九二三年一一月二四日、五か年の刑期をおえて、ルール地方のフランス刑務所からでてきた両人は、さっそく、エッセン駅近くのビアホールに乗りこみ、鉄道の仲間や鉄鋼労働者にとりかこまれながら、御意にかなった仕事にとりかかった。二人はその日の午後四時から飲みにかかり、あくる朝の九時までに、驚くなかれ、なんと三五二杯のビールのジョッキ(半リットル入り)をかたむけつくした。この鯨飲で、フーゴーの体重が二ポンドふえて一九二ポンドとなり、ハンスは二ポンド減って、一六八ポンドになった。(「奇談 千夜一夜」 庄司浅水 編著) 


二十年間の風邪
文久二年十一月のことであった。宮城国、遠田郡中津山に住んでいる、宇角喜多助という仁、風邪をひいた。あとからあとからイロイロの病気にかかって、二十年も寝たっきりで、ついに明治になって死んだ。"風邪は万病のもと"というが、こうしたひとは、ままある。しかし、宇角喜多助という人、この間、一粒の飯も食べず、一服の薬も飲まず、ただ、毎日、中くらいの盃で酒を一杯飲むだけであった。死んだときは、まるでミイラのように、皮が骨にくっついていたという。「蒐集記録」に載っているこの話には、何も枯れるように死んだからというのではないが、"枯淡"なあじがあるようである。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


プロリルエンド・ペプチダーゼ阻害物
私たちの記憶や学習機能に重要な役割を果たしているのが、大脳の海馬という部分にあるバソプレッシンという神経ホルモンです。この物質を分解するプロリルエンド・ペプチダーゼという酵素が働きすぎると、記憶や学習能力が低下することがわかっています。実際に医薬品業界では、認知症の治療薬として、このプロリルエンド・ペプチダーゼ阻害薬の開発が行われています。最近になって、月桂冠総合研究所が、日本酒の成分にプロリルエンド・ペプチダーゼの働きを阻害する3種類のペプチド(たんぱく質の酵素)を見つけました。そこで、このペプチドをマウスに与えて学習能力のテストを行ったところ、ペプチドを与えたマウスのほうが、与えないマウスよりも記憶や学習する能力においてまさっていました。つまり、ペプチドが記憶や学習に有効なことが確認されたのです。日本酒から見つかったペプチドが健忘症に有効であることは、今やアメリカやイギリスなどで大きな話題となっています。(「美しくなる日本酒」 滝澤行雄) 平成18年の出版です。 


毒の試
[九] 後藤又兵衛は大志ある男なりし。始(はじめ)黒田長政に仕えたりしが、長政筑前を賜はりて移封せしとき、又兵衛云(いふ)には、かゝる辺鄙(へんぴ)に邑(ゆう)する(領地を持つ)うへは大業成るべからず迚(とて)、黒田家を辞(じし)て浪人と成り居しに、大阪にて浪人を聚(あつむ)ると聞て復び秀頼に仕へ、軍利あらずして竟(つひ)に打死にし身果ぬ。大志の弊とや云べき。又朝鮮え初て諸軍渡りて上陸すると、辺民悉(ことごと)く逃散(ちょうさん)して皆空家なり。兵卒その家に入りてみるに、壺瓶の類、酒盈満(えいまん)せり。時に何人(なにひと)か云出しけん。これ毒酒にして人を殺(ころす)の計なりと。諸人聞て懼(おそ)れ、渾(すべ)て飲者なし。又兵衛が曰く。仮令(たとひ)何にせよ渇(かわき)を凌(しの)ぐに足れり。若(もし)又毒あらば我先登して飲(のみ)死すべしとて、引受け引受け飲て、美味云べからずとて舌打ちして居ければ、諸卒これを視(み)て、われ先にと群飲して、益々鋭気を添しとなり。世諺に謂ふ毒の試(こころみ)とは是より始ると云。(「甲子夜話」 松浦静山 中村・中野校訂)巻二十二 


四割減産
日本経済が軍需インフレから物資不足に向かうのは昭和十二年頃からですが、食糧としての米を確保するため、昭和十四年の収穫から清酒は四割もの大減産を強いられます。昭和十五年には、ビールも十五パーセント減産になります。そして昭和十六年からお酒はすべて切符制となり、配給された切符を持っていなくてはもらえなくなりました。この切符は他人に譲渡できず、譲渡がバレたら配給を止められます。そこで、せっかくの配給だから活用しなければ損、と考えた人が多かったようです。配給は、長い目で見ればビールの消費層を拡大することになりました。清酒は大減産ですから、酒飲みはアルコールに飢えています。そこに配給切符が来ますから、日本酒党も選り好みしてはいられません。配給してくれるならビールでもありがたく飲もう、となるのです。(「とりあえず、ビール!」 端田晶) 


「酒倉」
芦屋には洋画をかく青年が二人いた。私はそれらと一緒に、深江にゆき酒倉をかいた。はじめて油絵をかいた。その年、巽画会に洋画部が出来、岸田劉生、高村光太郎、藤島武二などが審査するということであった。その時分の出品画はみな小さかった。「酒倉」は四号の小品であるが、岸田劉生の目にとまって入選した。こういうきっかけで私は絵をかき出した。(「腹の虫」 中川一政) 大正三年のことだそうです。 


くるみ酒
くるみはそのほかにくるみ油がとれ、鉱物質を含んでいるが、酸敗しやすいため注意しないといけない。またくるみの葉をせんじてその汁を内用すれば結核、貧血などによいと言い、外用とすれば目薬にもなり、湿しんなどもきくと言う。フランスの農村では今日なおくるみ酒などを作り、胃腸薬として使っているそうだ。(「食味ノオト」 山本直文) 


鮭のお酒づけ
わき道にそれるが、十年余り前のこと、太平山の小玉さんを所用でたずね、昼食をよばれた時、先代社長からお茶づけならぬ鮭のお酒づけをごちそうになったことがある。お茶の代わりにご飯に熱燗をたっぷりかけていただくのである。こちらはいける口であるからおいしく食べたが、さすがは酒豪ぞろいのお国柄と感心した。しかしいくら雪国でもお酒づけをいつもやっているのだろうかと今も不思議に思っている。(「あゆ酒」 室賀定信) 


四つの目
へべれけに酔っぱらったニュマがバーにはいってきて、やっとのことで椅子にかけるとフレッドにむかっていった。 −ウィスキー、ストレートでたのむ。 −ニュマさん、そんなにお飲みになってはいけませんよ、とフレッドはウィスキーを注ぎながらいった。きょうはもうこれだけにしていただきますよ。いつかの晩みたいに、お宅までお送りするんじゃとてもやりきれませんからね。おくさんには、いやみをいわれるし。でも、おくさんの怒るのも無理はないと思いますよ。 −うるせえ!と、ニュマは、ウィスキーをひと息に飲みほしてやりかえした。おれが酔ってることがどこでわかるんだ?おれはそんなに飲んじゃいねえぞ。 −じょうだんじゃないですよ。しらふのときとまるっきりべつじゃありませんか。 −べつだと?おれはちゃんと考えて飲んでるんだ。 −何いってるんです。もう物が二つに見えてるくせに! −二つだと!このばかめ!ほら、黒ねこがはいってきたから見ろ、おれにはちゃんと目が二つ見えらあ!これが四つに見えるまではだいじょうぶだ。 −だめですよ、そんなこといったって。いまのねこははいってきたんじゃなくて、出ていったんですぜ。(「ふらんす小咄大全」 河盛好蔵訳編) 

葛西善蔵の酒(4)
これは一度見舞に行かなければならないと思うと、私はじっとしていられなくなって、或晩本郷の下宿に葛西をたずねて行った。「中央公論」の編集長の伊藤君が、葛西の「酔狸洲七席七題」の口述を筆記しているところであった。私が彼の部屋に入って行くと、「おお、広津、とうとう来た、広津はやっぱり来た」と葛西は云って立上がるなり、私の抱きつき、とべろべろと私の頬を舐めまわすのである。葛西はべろんべろんに酔っていて、息は酒臭かったが、小説で読むと、彼は結核で盛んに血を吐いているとある。その血を吐く口で、頬を舐めまわされるのはやりきれたものではない。結核菌が顔中にべたべたくっつく気がする。「もう解った、解った」と云いながら、私は彼の近づけて来る口を両手で遠ざけた。それからやっとおちついて、彼は彼の座に戻り、私は伊藤君の横にすわったが、葛西の机の上には線香立があり、彼は伊藤君に口述筆記をさせる間、時々線香立に線香を立て、一寸黙祷するような恰好などをするらしい。酒を飲み、線香を立て、彼流のとりとめのないお喋りをしながら、時々気が向くと、さて口述筆記となるのであるが、それはほんの数行で、又酒を飲み、線香を立て、黙祷し、駄弁(だべ)り、そして気が向いた時、続きを口述するという風らしいので、筆記原稿はいくらも進まないらしい。こうして毎日葛西の口述筆記をしにやって来て、彼の野狐禅的な気焔をじっと聞いていなければならない伊藤君の忍耐は大変なものである。おせいさんはと見ると、鎌倉時代と同じ善良な顔をして、しかしその頃から見ると、大分世帯やつれをみせながら、部屋の隅にしずかに坐っていた。(「年月のあしおと」 広津和郎) 葛西善蔵の酒(2) 


アニス油
アラックそのものは無色透明だが、現在はカシのたるにつめて貯蔵するために、たるの色が染みだして淡い黄褐色のものが多い。一般に特有の酸味を持ってクセは強いが香辛料をたっぷりと使ったインド料理や脂っこい中東の料理には不思議とよく合う。また、香りづけのために香草アニスの種子やウイキョウなどを加えるが、水で割ると酒に溶けだしている成分、とくにアニス油が化学反応をおこし、コロイド状に白く濁るのが特徴だ。水が少ないと薄桃に近い白色だが、さらに注ぐと白さを増し、逆に割りすぎると灰色になってしまう。色の変化が楽しめるという点では、ニガヨモギを溶かしこんだフランスの蒸留酒アブサンに似ているのかもしれない。(「世界地図から食の歴史を読む方法」 辻康夫) 


酒づくり神事
酒づくり神事の古態は、和歌山県秋月の旧官幣大社日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)両神宮所蔵の古文書から知ることができる。酒づくり神事は、まず神人らが深夜仕込み水を汲む「神酒水迎え」から始まる。二日目が「御麹合せ祭」で、小麦もやし(種麹)、蒸米、臭木(くさぎ)灰を混ぜてねせる、つまり麹つくりである。麹合せから三日目が「白神酒造(しろみきつくり)祭」で、酒甕に水、米麹、蒸米を仕込み、続いて「黒神酒(くろみき)造祭」が吉日を選んで行われた。これは、白神酒の中に臭木灰、それに甘みをつけるために米麹、麦芽を加えた。これら一連の酒づくり神事は、すべて当宮の酒殿で行われた。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


酒ほがい(2)
かの人の 涙の酒に酔ひけるよ 人は知らじな 酒のかなしみ
諾(う)とも云ひ 否(いな)とも云へる まどはしき 答を聴きて 酒に往(ゆ)きける
杯の なかより君の 声として あはれと云ふを おどろきて聴く
君なくば かかる乱酔なからむと よしなき君を 恨みぬるかな
さな酔いそ(酔わないでください) 身を傷(やぶ)らむと 君云はず 酒を飲めども 寂しきかなや(酒ほがい 吉井勇) 


遊子方言
[新ぞう]わつちに、差(さし)なんせ と、引きうけ、うまそふにのむ所へ [やりて]来る いや のみなんすの といふて、客にむかいて 御出あそばしましたか。すつきと御足が遠く成なんしたの [客]いやこれはこれは かゝ様どふじやどふじや。一ッ飲(のみ)給へ飲給へ 茶屋を呼び、ひそひそといふ [茶屋]これ申(まうし) 御しうぎが御ざりましたぞへ [やりて] はははゝ お有(あり)がたふ御座りんす。私はまあ行ッて参りましよ [新ぞう]今の盃あぎんしよ(あげましょう) ○此所へ、一〇台の物、菓子、重箱のふたををとれば、あたゝかそふな物、方々より持来る [客]さあさあこれほど御肴が出た。一一おさへますおさへます。いや おみよ、お秀、いやあ呂州丈、さあ御出(いで)御出。なに今の盃は、こふおまはしおまはし
八 すきと。すっかり。 九 祝儀の金。 一〇 大きな台にのせて飾りをつけた料理。 一一 さされた盃を受けず、さした人に返すこと。(洒落本「遊子方言」明和七年 丹波屋利兵衛 中野三敏校注) 


御殿山
新町名の実現に奔走したのは評論家の亀井勝一郎である。昭和十二年、この地に居を構えた氏は、二十九年、市町名整理調査委員会に委嘱されると、由緒ある地名を、と猛烈に主張して住民の拍手を浴びる。「以来、町内会の集まりにも気軽に顔を出され、ドデーッとすわり込んで腰が立たないほど飲まれました。わが町名は先生のご遺産」と建具職人の服部喜久男さん(五八)。氏は四十一年に歿した。(「東京地名考」 朝日新聞社会部) 吉祥寺の御殿山です。 


新夕刊
部下が部長より偉いことをいったり、とにかく上下ないことはたしかであった。漫画部は私と清水崑ちゃん、田河水泡さんと弟の泰ちゃんであった。社説は河盛好蔵さんも書いた。このとき、吉田健一さんはいった。「新夕刊は新聞史としては残らないが、文学史としては残るね」漫画家の矢崎武子女史が疎開先から私をたよって上京したが、住むところもないので永井さんにたのんでこの新聞社に入れた。役目は受付である。すでに売り出していた漫画家の矢崎女史を受付にしたのも、この新聞社は人材があまりすぎて、入口まではみ出しているぞと見せたかったからである。ある日矢崎女史が、腹が立ったことがあるからやめたいと私のところへ来た。泊まりの林房雄さんが夕方になると酒をつけろとか、肴を買ってこいとか、女中みたいにつかうという、私は矢崎さんにいった。「林さんはあなたをためしているのかもしれないから、親切にしてやりなよ。平気な顔をして酒のカンをつけてやりなさいい。林房雄が文豪になったら、あなたはそれをおもしろく書けるし、貴重な文献になる、」矢崎女史は思い止まった。(「フクちゃん随筆」 横山隆一) 昭和21年1月に児玉誉士夫らによって創刊された夕刊紙で、その顔ぶれには、小林秀雄、林房雄、永井龍男、秋山安三郎、吉田健一、河上徹太郎、亀井勝一郎、大岡昇平がいたそうです。 


十一月三日(東京) 明治三十七年
今日、御宴の席で自分も気のついたことだが、以前と違って、酒はあまり飲まれなかった。ほんの少数の人々だけが、しきりに杯を重ねていたが、従来はそれが普通だった。ことにそれが著しかったのは、砲兵と海軍の上級士官のあいだで、かれらは酒飲み全盛時代に生まれ−自分も親しく観て知っているが−以前は全く鯨飲したものだ。若い士官連中のあいだでは、ほとんどアルコールをたしなまないのが普通となったようだ。悦ばしいことには、ドイツの陸軍でもまた、明らかにそうなったらしく、士官として演習の際、アルコールなしで済ませることを、もはや恥じなくなった−非常な進歩だ。これは何も、勤務の終わった後で、一杯のワインかビールを賞味するのを排斥するものではない。ただ、これらの飲物を、どの食事の際にも「不可欠」となす観念を打破する必要があるだけだ。ミュンヘンですら、ビールの消費が減じたそうだ。もしこれが、現在の量の四分の一に減じたら、大変結構なことだが。それでもなお、各人には十分のはずである。なかんずく、世の親たる者は、子供にアルコールを与えぬことを、厳しい定めとなすべきだ。自分は決して、国家や警察の力が、個人の生活に干渉することを好むものではないが、しかしこの点にも、確かに感謝の余地があると思う。さらに、ビールを百か百五十グラムくらいの、きわめて小さいコップから飲む習慣を付けるべきだ。経験から自分の知るところでは、こうすればビールは本当にうまいのだ。乱暴に大量を一飲みする悪習を棄てれば、はるかによく風味が楽しめる。日本でもドイツでも、飲酒上の風習を変えることにより、飲物税に非常な打撃を来すことだろうが、これは差障りのない方面で補うことができると思う。要するに、国民の健康なるものは決して、増収のためにあえて犠牲にしても差支えないような代物ではないのだ。(「ベルツの日記」 トク・ベルツ編 菅沼竜太郎訳) 


よし子さん
「夕べは寒梅が手に入ったんで、ついのみすぎちゃってね」と、二日酔いには見えない得意顔で話す中尾(彬)さん。それもそのはず、当時の「越乃寒梅」は幻の酒といわれ、手に入らない酒だった。「あらそう。寒梅ならいつでも飲めるお店があるんだけど行ってみます?」こんな時、自分お手柄でもないのに自慢するのが人の常だ。「えーっ!なんていうお店?どこにあるの?」慌てて書くものを探す彼を見て好意を持った。台本の裏に店の地図を書きながら、料理に関する蘊蓄を聞いてちょっと惚れた…。私は小さく自宅の電話番号を書き添えた。その店は四谷荒木町の割烹「よし子」。神田明神下の芸者だったよし子さんが店を出すとき、ご贔屓筋の酒蔵のご主人から「うちの酒をおいてくれないか」と申し出があった。その頃は幻どころか東京ではまったく無名のお酒だったが、よし子さんは「折角、声をかけてくださったのだから」と、寒梅だけを置くことにしたという。越乃寒梅を最初に取り上げた『酒』の編集長・佐々木久子氏はこの店の常連だった。−
初デートの日、よし子さんから貰った藍の紬を着て、約束の三十分前にカウンターについた。よしこさんは何も聞かずに、紅色の小花を挿したお銚子を隣の席に置いてほほ笑んだ。二十七年前の十月、よし子さんがいなかったら私たちは今、夫婦だったろうか?(「食物のある風景」 池波志乃) 


桜内氏
政界から初の日本酒大賞をうけられた桜内(義雄)氏は八十三歳ですが、若い頃からお酒一本槍の大酒豪で、今も酒盃を離さない生活をしておられます。司会者が酒量のほどをお訊ねしました。「おいしいな、と思う間はやめません。だから、一升飲む日もあるし、三合でやめてしまう日もありますな…。ご飯は一切食べませんよ(笑)」と冷やした吟醸酒をうまそうに召し上がっていました。(「今宵も美酒を」 佐々木久子) 平成7年度の日本酒大賞だそうです。同時受賞者は岡本綾子だそうです。 


亀塚
済海寺(さいかいじ)の北に隣りて、隠岐家(おきけ)の別荘の地あり(昔は竹柴寺の境内なりしを、御開国の頃、地を割りて、隠岐家の別荘に賜ふ。ゆゑに、このとき亀塚は、隠岐家邸(やしき)のうちに入りたりとぞ。その塚のかたはらに、その主の建てられたる亀塚の碑と称するものあり)。相伝ふ、往古(そのかみ)、竹柴の衛士(えじ)の宅地に酒壺あり。そのもとに一つの霊亀(れいき)棲(す)めり。後、土人(土地の人)崇(あが)めて神に祀れり。いつの頃にやありけん、あるとき、夜もすがら風雨あり、その翌日、かの酒壺、一堆(たい)の石に化せりといふ。また、文明[一四六九−八七]中、太田道灌[一四三二−八六]この地に斥候(ものみ)を置き、その亀の霊あるをもつて、これを河図(かと)と号(なづ)くるといへり(済海寺の山号を、亀塚山(きちょうざん)と唱へしとなり。いまもなほ、土人は亀塚の済海寺と呼べり)。(「江戸名所図会」 斎藤月岑(げっしん)) 済海寺は港区三田にあるお寺で、亀塚公園が隣にあります。 


四斗樽でカクテル
このアベックは、そこらのバーではない。焼け出された銀座のベテラン・バーテンダーたちが集まっていた。あの時代に、安くて本物のハイボールが飲めるから、戦場のようにこんでいた。この日、私はほかの用でここへ来た。日比谷の松本楼の社長が、日比谷映画劇場の隣にある建物の二階へ、漫画集団の事務所を無料で置いてあげてもいいという噂をたしかめに来たのである。アベックのバーテンが間をとりもってくれたのである。噂は本当の話で、間もなく集団の事務所をそこに置いたが、それはそれとして、アベックで感心したことがある。バーテンを訪ねて勝手に奥の調理場に行って、あっとおどろいた。顔もよく知っている一流のバーテンがずらり並んで、その前に四斗樽が置いてある。若いバーテンダーが向こうハチ巻きで、大きな棒をさげて立っている。樽の中へいろいろの銘柄の(と書くと、知ったように見えるが、名も知れないような)ウィスキーをぶちこんだ上、氷のかたまりをほうりこみ、わっしょい、わっしょいとかき回していた。バーテンは、ころあいを見て、ひしゃくでちょっと口へふくんで「いまだっ!」と叫ぶ。さっと氷をとって、すばやくひしゃくで、ひやしたコップへ移す。そのストップの声が技術で、一秒でも遅れたら水っぽい酒になる。私は感心して見ていた。そして、そのコップの一つを取り上げて飲んでみた。最高の水わりである。この店がはやるわけがわかった。戦後のどさくさとはいいながら、四斗樽でカクテルを作って、いまのへたなバーテンよりもうまい酒を作っていた。(「フクちゃん随筆」 横山隆一) 


婚姻儀礼の諸相
●座席の上座に本家の主人・婿の父・仲人・親戚の順で並び、嫁は席の中段にすわり、婿は祝宴に出ないで、台所で酒の燗番などをしているのが普通だった。嫁がすわると、五色の餅を一同に出す。次ぎに本膳が出る。二度目の吸い物が出ると盃事が行われる。ここで夫婦の三々九度の盃・兄弟の盃・親戚の盃をかわして終わる。(青森県/森山泰太カ)
●嫁はニワから上がりすぐ納戸に連れて行かれる。納戸で三々九度の盃事をするのが本当で、そのとき婿は嫁に、嫁は婿に酌する。そばにいるのは仲人だけ。(岩手県柴波町南日詰/森口多里)
●婿方では、嫁をダイドコロにみちびく。そこで嫁に笠をかぶせ、杓子で水を飲ませる。家に入ると、いろりを回ってザシキにおちつく。そこでまず仲人立ち会いでウケトリワタシのことがあり、ついで酒宴にうつる。夫婦盃(三々九度の盃)は別室で床入れの際仲人と見参のヨメゾイ(みとどけ役)の立ち会いで行うのが古い形のようで、婿はもっぱら接待に努めたり、ダイドコロに居たりした。(宮城県/竹内利美)−(「三三九度」 神崎宣武)『日本の民俗』(全四七巻 第一法規出版)にあるそうです。 


認知症
けれど、酒好きにとってはうれしいことに、認知症の予防に飲酒が効果を発揮することが、これまでの研究で報告されているのです。オランダで、55歳以上の約8000人を、6年間にわたって追跡調査したところ、酒を適量飲む人がアルツハイマー病にかかる確率は、酒を飲まない人よりも40%も低かったのです。さらに、脳血管型認知症全体では、発症のリスクが70%にまで下がっていました。フランスでは、ワインと認知症の関係について研究が行われています。65歳以上の3777人を3年間追跡調査したところ、赤ワインを毎日3〜4杯(日本酒で2〜3合)飲んでいる人が認知症になる確率は酒を飲まない人のなんと4分の1以下。ワインに認知症を予防する効果があるのはあきらかですね。(「美しくなる日本酒」 滝澤行雄) 


翁像賛
詩家に李白うして謫仙(たくせん)とよび 俳門に桃青うして祖翁と称へり
かれも三石の奈良茶を味はゞ さらに百盃の酒にかふべし(「鶉衣」 横井也有 石田元季校訂) 芭蕉像の賛だそうです。 


今も昔も
今日の新聞紙は事ある毎に訪問記者を人の家に派遣して意見を叩き談話筆記なるものを作らうとする。併し此の筆記が正確につくられたことは、わたしの知るかぎり一度もないことで、いつも記者の随意にその私見を挿加へたものが紙上に発表せられる。これはわたくしの喜ばざるところ。従つて記者の来訪を拒絶せむとするには平生より新聞社に与からぬやうに心懸けて置くのがわたくしの取るべき必然の道となるわけである。曽(かつ)てわたくしの旧友の中に酒癖のよくない人があつた。酔へば必怒を発するが決して同席の友と争ふのではない。怒を発する時争ふ相手は必巡査を選ぶのであつた。其人はたびたび拘留された。わたくしは其の醒めてゐる時諄々として其のなす所の愚劣なるを説き、且又、何が故に巡査と争ふかと問ふと、彼は唯ふだんから癪にさはるからさと微笑するばかりであつた。市中の電車に乗ると口角泡を飛ばして車掌と争つている乗客を看ることは珍しくない。傍に立つて事件の何たるかを窺(うかが)へば大抵争ふにも及ばない瑣細な事のみである。怒号する乗客も心の中ではつまらない事だと知りながら其場の勢已むことを得ず激語を放つてゐるのかも知れない。わたくしの此の草稿の如きも、相手のない独喧嘩(ひとりげんか)の馬鹿々々しいことは、車掌と路傍に口論するが如きものかもしれない。(昭和二年十月)(「新聞紙について」 永井荷風) 


夜明けあと(6)
明治三十九年 京都。結婚記念の盃を進呈し、格の上の人には失礼と、怒られた人がいた。(日本)。
明治四十年 北海道、旭川の連隊。三十七名の兵が夜間に外出し、飲酒しておおさわぎ(平民新聞)。
明治四十一年 日比谷公園で増税反対大会ありと、大ぜい集る。しかし、主催者は出現せず、酔っ払いがさわぎ、妙な形で終る(東日)。
明治四十一年 国語調査会。酔(ゑ)うは酔(よ)うなどに統一案を出したが、解決はいつのことか(東日)。(「夜明けあと」 星新一)


サンマの腸
サンマの腸は、イワシなどと比べても苦味が柔らかい。それは細長い体型でありながら、食べたものの消化、排出が早いためであるらしい。それゆえ、サンマの腸ファンは多い。筆者は、アユのような骨抜きにしたサンマの身をほぐし、腸と大根おろし、少量の醤油と酢で和えながら食べるのが好きだ。この食べ方なら、山廃造りの純米酒のようにコクのある酒を45度くらいに燗して酒のふくよさを最大限に引き上げてから味わうことで、料理の味と調和する。(「『和』の食卓に似合うお酒」 田崎真也) 


もうかの星
もうかの星。サメの心臓。「どうすんの、これ」「新鮮だから、刺身でイケルよ」「薄切り?ワサビ醤油でいい?」「より、ポン酢がいいかもね。にしても、サメ、なんで川を遡上したのかな。世をはかなんだのかね」ずっしりした心臓を、ザルに移すや、シンクに血がぶわっと、大輪の牡丹(ぼたん)と咲く。きれいだ。こわい。「水で洗わない方がいいよ。かえって生臭くなるから。まんまでね」「ええっ、まんま?」艶々(つやつや)ピカピカの、真紅の心臓。包丁を入れる俎板(まないた)が真っ赤に染まる。カウンターの三人が固まる。「食べんの、これ?」「あたぼうよ!」ヤタさんは、こともなげに、切り分けられた心臓をパクリ。「うまい。なつかしいなあ」「おまえんとこだと、いつもこんなもん喰ってんのか?」「いつもじゃない。ハレの日さ」「くせもないし、いけますよ」さばいた亭主が云うので、皆、恐る恐る手をのばす。つまむ途端、割箸の先に、じわりと血が滲(にじ)む。(「ごくらくちんみ」 杉浦日向子) 


一晩で約二本
ここに世界一のレストラン「ピラミッド・ポワン」が引退して、このヴィエンヌに住居をもった。ところが、彼の腕と味をなつかしむ人たちの来訪が相つぎ、引退しても料理をつくらねばならぬ羽目に立たされた。たまりかねたポワンは、自宅を改築し、はるばる訪ねて来てくれる人たちのために、再び包丁をとったのである。さまざまな花の咲き乱れているポワンの店を眺めながら、フランス料理の旨さに酔い痴れていた。ワインもコニャックも、この店特製の物であり、フランスのどこを探しても市販はされていない。店自身が、質の良い葡萄を作る農家と特約し、年季の入った優秀な醸造技師に、とくに念入りに醸造させているとのことであった。支配人の曰く、この店の料理に合わせてワインをつくらせているのであって、ほかのどこの料理にも、このワインが合うというわけではない、という。ワインはともかく、一九二〇年製というコニャックが滅法おいしかった。これまで私の飲んだブランデーのなかには、これほどに旨い物はなかった。二十代の終わりから三十代のはじめにかけて、私はブランデー一本槍だった。若さにものをいわせて飲みあさったのである。一晩で最高に飲んだのは約二本。味もなにもあらばこそ、ストレートでただがぶがぶ飲みをしていたのである。われながら無鉄砲でこわいものしらずというほかない。あまりおいしいコニャックだったので、是非わけてほしいと懇願したのだが、「駄目だ」と即座に断られてしまった。門外不出のコニャックであった。つまり、この「ピラミッド・ポワン」まできて、この店のフランス料理を堪能していただくお客さまのためのお酒である。売るためのお酒ではない、というのである。(「酒と旅と人生と」 佐々木久子) 


祈年(としごひ)の祭
一七御年(みとし)の皇神等(すめがみたち)の前に白(まを)さく、皇神等の一八依(よ)さしまつらむ奥つ御年(おきつみとし 稲のこと)を、一九手肱(たなひじ)に水沫(みなわ)画(か)き垂(た)り、二〇向股(むかもも)に泥(ひじ)画き寄せて、取り作らむ奥つ御年を、二一八束穂(やつかほ)の茂(いか)し穂に、皇神等の依さしまつらば、二二初穂をば、二三千頴(ちかひ)八百頴(やほかひ)に奉(たてまつ)り置きて、二四「瓦+「髪の左上」」(みか)の上(へ)高知り(たかしり)「瓦+「髪の左上」(みか)の腹満て双(なら)べて、二五汁にも頴(かひ)にも二六称辞(たたへごと)竟(を)へまつらむ。大野の原に生(お)ふる物は、二七甘菜(あまな)・辛菜(からな)、青海(あをみ)の原に住む物は、二八鰭(はた)の広物・鰭の狭物(さもの)、二九奥(おき)つ藻菜(もは)・辺(へ)つ藻菜に至るまでに、御服(みそ)は三〇明(あか)るたへ・照るたへ・三一和(にぎ)たへ・荒(あら)たへに称辞竟へまつらむ。御年(みとし)の皇神の前に白き馬・白き猪(い)・白き鶏(とり)、種種(くさぐさ)の色物(いろもの)を備へまつりて、皇御孫の命(すめみまのみこと 天皇)のうづの幣帛(みてぐら)(貴いたてまつりもの)を称辞竟へまつらく」と宣(の)る。
一七 穀物のみのりをつかさどる神。 一八 お寄せもうしあげるであろう稲を。 一九 手のひじに水のあわがついてさがって。 二〇 前に向いている股に、泥が寄りついて。 二一 長い穂のりっぱな穂に。 二二 最初の収穫。 二三 たくさんのイネの穂。 二四 瓶の上に高くもりあげ、瓶の中にいっぱいにしてその瓶を並べて。 二五 酒にも飯にも。 二六 神前にさしあげてたたえごとを申そう。 二七 あまい菜とからい菜。 二八 はばの広い魚とはばの狭い魚。 二九 沖の方の海藻と海岸の海藻。 三〇 光沢のある織物。 三一 やわらかい織物、あらい織物。(「古事記 祝詞」 倉野憲司・武田祐吉校注) 「のりと」だそうです。 


大天狗小天狗
かつて吉井勇大人が結婚した時、久米、里見、田中(純)が祝いに行き、二日半で四斗樽をあけた話は英雄部落にいまだ美談として残っている。この塁を摩すものは出ぬようだ。或るおヒカリ様の狂信者が、鎌倉というところは頼朝以来碌なことをしていないから、諸々の悪霊が谷七郷にうようよしている。大天狗小天狗どもがはびこって酒色に溺れているとは少し大袈裟だが、少なくとも酒の方は確かである。私などは酒量は少く小天狗烏天狗の域にも及ばない。人並に酒席を待っているだけで、タワイもないものであう。(「私の人物案内」 今日出海) 


なだ万のドンチャン騒ぎ
受賞式は小さかったが、「三田文学」の先輩たちと「構想の会」の若い小説家と「現代評論」の評論家たちとがお祝いの会をやってくれた。「おめえ、文士というのはな、金にきたなくちゃいけない。賞金は今夜、全部使え。それが文士だ」とその席で先輩の一人(たしか柴田錬三郎氏)が私に命じた。そんなら、ということで楠本憲吉にたのみ、憲吉の実家であるなだ万でドンチャン騒ぎをやった。なにしろ廊下で安岡章太郎と吉行淳之介とが運動会をやっていたほどだった。しかし芥川賞をもらったからと言って今の作家とちがい仕事がどっと来るわけではなかった。友人たちも皆、貧乏だった。何度も書いたことだが、吉行淳之介が箸で茶碗を叩きながら、「ああ、天井からバラバラと銭が落ちてこんかなア」と歌うように呟いていたが、私も同感だった。(「落第坊主の履歴書」 遠藤周作) 


当選に狂喜
長崎県下西松浦郡伊万里に於て、戸長の改正選挙をなせしに、旧戸長本岡儀八は懇意の人々へ頼み廻りて曖昧なる投票をさせ、自分が又々選挙されしかば天へも昇る心地して大に喜び、其の役場をも憚らず、芸妓を二名呼寄せて、飲めや謡(うた)へと愉快をつくしつゝ一夕の栄華は夢と覚(さ)め、忽(たちま)ち他より差当を入れられ、又郡役所へも伺書を差出したる者ありて、前の投票は取消となり、更に投票の儀を再達されたる由。
戸長 本岡儀八 右者本月一日投票開札候後、戸長役場へ芸妓等を呼込、酒肴乱座に渉り、恥辱をも顧みず、不品行の甚だしき事、言語に絶へず、又戸長役所をも憚らず、芸妓等の楽をなし、以てのほか貸座敷同様の取りあつかひを為しても人民保護の役場なるか、殊に今般神選の投票人なるに、当前の事に候也。<明治一三・一〇・二、朝野>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


一一二 花を蓄こと。
桜のはな(花)をしお(塩)にし、壺にたくはへ、ふん(封)つけてを(置)きけり。まれ人のおはするころなどと思ひ置たり。夏のころ、まれびとおはしけれど、酒もくみ給はねば、かゝるおり出さんも、玉のさかづきのなにかといはんこゝちすればとて、いださず。またこと君き(来)給ひしには、酒このみ給えど、みやび好み給はぬものに、いかでとてふん(封)きらず。秋の末つかたになりければ、このごろかへり咲とて、こゝかしこの枝に、はかなけれども、さくこともあれば、これもそれと思はんは、いとうらみあればとて出さず。しはす(師走)のころ、例の草木うるかたには、桜はさらなり、藤なんどもさかせてうりひさぐといふをきけば、いかゞはせむ、それとひとしからむもいと口おし、こん春もはやちかし、さればとて、たくはへ置しはなを、むげになすべくもあらずとおもへど、まれ人におはせねば、せんかたなく、只酒のむ人の来りぬるとき、ふん(封)きりて花をとり出したれば、まらうど打みし斗(ばかり)にて、やがてくひさしながら、「これはしほけ(塩気)あるはな(花)なり。このごろさるかたにて酒をのみしとき、盆にうへたる桜を出したまひしかば、盃にうけてのみぬ。花はしおけなきこそよかりけれ」といひしをききて、なみだおとしてくひけるとかや。(「花月草紙」 松平定信 西尾実・松平定光 校訂) 


酒席の邦楽
なかでも三味線は歌、語りと切り離しては存在しないといってもいいほどで(実際に三味線の器楽ものCDを作ろうとして、お手上げになったという経験があるのです)、当然のごとく粋筋とはべったりの関係。小唄、端唄、都々逸はもとより長唄だって「元禄花見踊」だもの。義太夫、常磐津の浄瑠璃だって同じ。清元の名曲「北州」の作曲者は、元は吉原の芸者であったとのこと。もっともそれが災いしてか、明治になって学校教育から邦楽全般が外されてしまったのは困ったものである。三味線=きれいどころ、悪所という連想が世の奥様方を怒らせたのだろう。もっぱら酒席で楽しんでいた明治政府の高官たちは、邦楽の将来なんか考えやしなかったに違いない。小学唱歌はお雇い外国人の都合でアイルランドとスコットランドの民謡を選び、教育、教養としての音楽は西洋古典を選択する。(「粋酒酔音」 星川京児) 


さすたけの君がすゝむるうま酒にわれ酔(ゑ)ひにけりそのうま酒に
この歌の前に、だいぶん乱れた筆跡で、どうやら、「限りなくすゝむる春の盃は千歳を延べる薬とぞ聞く」とよめる定珍の一首がある。なあに、酒は百薬の長ですよ。もう一献、いかがです、などと昔も今に変わらぬ上手を言いながら、しきりと良寛に盃をすすめている情景が目に見えるようである。ちぢけて
また、すゝめ給へけれバ、盃をとりて
さすたけの君がすゝむるうま酒にさらにや飲まむその立ち酒に
と良寛がしたためている。「飲ま」は、はじめ「よは」と記したのを消し改めている。立ち酒というのは越後のならわしの一つで、客がいよいよ出立ちという際にさらに飲ませる酒のことで、名残りを惜しむ意味と、冬期には体を温めて外気の寒さに堪えさせる用意と、ふたつを兼ねている。(「新修 良寛」 東郷豊治) 


一万五千年の刑
ドイツ、マインツ市のビール醸造家オットー・ノッドリンクは、醸造税違反のかどで告発され裁判の結果八千二百万マルクの罰金刑に処せられ、もし罰金が払えぬ場合は、一日十五マルクの割合で刑務所で服役せねばならなかった。ノッドリンクには八千二百万マルクなどいう大金を支払う資力はなく、一九二七年刑務所入りをしたが、刑期はなんと一万四千九百七十五年に達した。(「世界奇談集」 R・リプレー 庄司浅水訳) 


ショーベンサイド
浅草雷門の、あの朱塗りの門をくぐらずに、門の右手の露地を入ると、すぐわきに小さな公衆便所がある。とりあえず、連れションをし、手を洗うと、川島さんはおもむろに、ちん・ぺたんと歩き出す。公衆便所の隣の家というか、猫の額ほどの庭の一部を徴用され公衆便所にされた形の仕舞屋(しもたや)を、私達は「ショーベンサイド」と呼んでいた。「ショーベンサイド」実はもぐりの飲み屋で、川島さんが浅草で飲む日には、きまって手初めに立ち寄る家だった。公衆便所につづく生垣が三間ほど、正面には木戸もない柱だけの門、釘で打ちつけた表札には、ただ「斎藤」とだけ書いてある。五人も靴を脱いだら一杯になってしまう狭い三和土(たたき)、とっつきが三畳間、そこへコートなど丸めて置き、まっすぐ障子を開けると、三坪の台所。木口は並だが、小綺麗に磨き上げた板の間に、てんでに座布団をあてがって陣取ると、ひょいと宮口精二に似た小柄な五十がらみの親爺(おやじ)さんが、大抵土間に居て、ペコリと会釈をし、格別川島さんに愛想笑いをする風もなく、やおらお燗の仕度を始める。川島さんが、どうしてこんな仕舞屋の台所で飲むようになったのか、本人に聞いても、ニヤニヤ笑っているだけ、お相伴をした中平や生駒に聞いても皆目判らずじまいだったが、兎も角(ともかく)、不思議な家だった。生駒などは、「ショーベンサイドは小道具に凝(こ)ってるよ」と推奨していたが、気のきいた小さな器に、切り干しやら、白子と生姜(しょうが)の煮つけやら、蓮根の薄切りの白煮など、手づくりのつまみを、ほんのちょっぴりずつ五品ほど、銘々の前に並べ、お銚子だけは、二合も入る昔風の大きなものを使っていた。(「東京百話 天の巻」 種村季弘編 「サヨナラだけが人生だ」 井上和男 昭和44年) 


いかの塩辛
小田原といえば、"小田原提灯"から"小田原評定"という言葉まで、世間でよく知られているものが少なくないが、なんといっても一番の名物は「いかの塩辛」である。このヒット商品は、江戸時代、大酒飲みの美濃屋の五代目・吉兵衛が生み出した。ある年、小田原はイカの大豊漁だった。しかし、江戸時代にも需要と供給の原則は働いていて、相場は大きく値くずれし、漁師たちはその処分に困っていた。そんなとき、千鳥足で街を歩いていた五代目は、タダ同然のイカを山ほど買い取った。もちろん五代目も、翌朝、目がさめて自分のバカさかげんにあきれたが、そこはなかなかの切れ者、コマ切れにしたイカを四斗樽に塩漬けにした。ころあいをみて食べてみたが、なにせ塩辛い。そこで試しにこうじを混ぜて三、四日おいて口に含んだところ、これが絶品。今流にいえば、"窮極の風味"というところか。もともと初代・美濃屋吉兵衛は、浅井長政の末裔、美濃・浅井一族だったが、浅井が織田信長に滅ぼされたあと、北条氏に招かれ小田原に梅干しなどの漬物屋を開いた。そしてヒット商品をあみ出した五代目は、「名物いかの塩辛かつおのたたき、相州小田原筋違橋みのや吉兵衛」の大看板を出し、今なお続く小田原名物「いかの塩辛」をゆるぎないものにしたのである。(「ヒット商品笑っちゃう事典」 モノマニア倶楽部[編]) 


中呂村
飛騨国益田郡萩原郷の中呂村(現岐阜県萩原村)は、海抜四〇〇〜五〇〇メートルの飛騨川沿いに位置し、比較的水田に恵まれた村高一八九石、戸数三三戸ほどの村で、代々肝煎り(きもいり)を務めた大前家には、複数の婚礼献立や法事の食事内容を記した文書類が伝わる。その行事食を考察した江原絢子(あやこ)氏の研究に拠って、もっとも豊富な内容を持つ安政四(一八五七)年の事例を紹介しておきたい[江原・一九九一b]。まず最初に「落着き」として、新婚夫婦の盃の前に、客に小海老・結び昆布の吸物と酒が出される。本座敷での祝盃には、三方(さんぼう)に永熨斗(ながのし 熨斗鮑)が添えられ、田作(たづくり)・数の子の丼、鮎・鰤(ぶり)と巻鯣(するめ)の取肴、袱紗(ふくさ)味噌の吸物に、金海鼠(きんこ)・百合(百合根か?)・梨の実の硯蓋(すずりぶた)、小こん(不明)・土筆(つくし)の三杯酢の中皿、山鳥・蒟蒻(こんにゃく)・葱の大平が並べられた。膳部に入ると、飯・汁に膾(なます)と坪、改敷(かいしき)に香の物が付き、これに引き物として千代久(猪口)・平・炙(あぶり 焼物)が出され、強鉢・台引・茶碗と続く。食後は再び酒宴となり、式三献の形式で、初献が吸物・三ツ丼、二献が吸物・広蓋、三献が吸物・刺身・水の物となって終了する。これらの献立には、容器のみの記載も多く全容は明かではないが、右に見たように、基本的には通常の婚礼献立に変わるところはない。山鳥・土筆・鮎などに、多少地方色は見られるが、海老や鰤・刺身といった明らかに商品流通によるものが用いられている。山村といえども里山では、一般の農村と同じような婚礼料理が、豪勢に振る舞われたのである。(「江戸の食生活」 原田信男) 


甘粕スタンド
テレビを珍しく見ていたら、「下町の逆襲」とかいうタイトルで、このところ寂れる一方の浅草や上野が繁栄をとり戻そうとして、PR会社の協力などでいろいろやっている模様が紹介されていた。その中に、浅草ひさご通りの古い酒場「甘粕スタンド」のオバちゃんが出てきて、毎度ながらのご機嫌斜めな調子で、「浅草の良さなんて若い人なんかに分かるわけがない。だからムリしてまで来てもらいたいとは思わない」といった意味のことを言っていた。これは確かに正論であって、人が来てくれないからといって、今の浅草のように、どの店も七時過ぎたら、真っ暗というのでは、宣伝したところで、若い連中が来るはずもないし、まかりまちがって来たところで、あの一時のカフェバー・ブームのようなもので、半年もしないうちに飽きられて元の木阿弥であろう。客なんて、ヘタに媚びたところで、裏も返してくれるかどうか怪しいものである。「甘粕スタンド」のように、無愛想を通りこして、客に小言ばかりいっているような店だって、どこか店としての迫力ないし魅力があれば、店はいつもほぼ満員だ。とにかくしょっちゅう機嫌の悪いオバさんだから、くれぐれも気をつけるように、おでんを取ったら汁も残さないように、客のセルフサービスとなっているつまみの器は動かさないこと、取ったら余さないこと…などと注意して、ある若い編集者を連れて行ったら、彼はすっかりビビってしまい、つい遠慮がちな口のきき方になった。その結果は「お客ならお客らしく、そんなにペコペコしないでよ」と、結局叱られた。(「銀座の酒場 銀座の飲り方」 森下賢一) 


真奈美さんの酒
益子の陶芸家で高名な坂田氏が「貝作」の器を作っている。坂田氏はまた酒客としても知られており、その推薦の酒ならば間違いないはず、と開店当初から「谷乃井」なのだそうだ。「ふだんはお店では勿体なくてあまり使っていないんですけれど」という坂田氏作の大ぶりの盞を特別に出してもらって、真奈美さんとぐいぐい飲んだ。真奈美さんの酒は陽気な酒で、ピッチも女性にしてはかなり早い。こんなところでバラしてしまったら、もう二度とつきあってくれないかもしれないけれど、彼女、酔っ払うと「真室川音頭」や「トンコ節」を歌って踊るのですよ。エエッ、あの冨士真奈美さんがが! とびっくり仰天する人も多いだろうが、そこが彼女のいいところだ、と私は信じている。(「美女・美食ばなし」 塩田丸男) 赤坂・貝作での対談だそうです。 


栓抜きがない
文化協会の人がこの寝台車にビールを四本運びこんでくれた。まだ珍しかった中国で行き届いたサービスだった。ところがこのビールのサービスがいけなかった。酒豪の草野さんの酒慾を呼び起こす結果になってしまった。「ビールをあと二本ほど頼みます」それまでは檀さんも私も賛成した。濱谷さんは下戸なので酒に興味はないらしい。協会の人はあと二本のビールを持参したが、「隣は全部中国人が乗っていますので静かに願います」と上手な日本語でいい足した。ところが二本を飲みほすと草野さんが再び大声で協会の人を呼びはじめた。檀さんと私がとめても駄目であった。協会の人が困ったような表情で現れると、「ビールあと一本」草野さんの声は掠(かす)れたハスキーな大声であった。協会の人はしぶい顔で一本のビールを届けた。すると今度は「栓抜きがない」というドラ声が飛んだ。私はその時草野さんに向かってもっと大きな声で怒鳴っていた。「いいかげんにしろ、ここは日本ではないんだぞ!」それ以来草野さんは私のことを那須火山脈とよぶようになった。(「わが酒中交遊記」 那須良輔) 昭和三十一年、中国側から招待された、文化使節団の一部で、ウルムチへ向かった草野心平、檀一雄、濱谷浩と、那須の4名の逸話だそうです。 


城主祭(告祀・安宅・城主クッ)
十月になると、各家庭では、城主祭を行います。城主祭の日取りは干支が午(うま)の日または吉日を択んで行うのが一般的です。城主はその家の守護神のことで、城主祭は家内の無事平安を祈る行事です。城主祭は新穀で酒を醸し、シルトック(甑で蒸した餅)を作り、色とりどりの果物を供えて、城主神に祭祀をするのですが、その場合、主として主婦が中心になって行います。財力のある家庭では巫女(みこ)を呼んでクッ(巫者が行う厄払いの儀式)をする場合もあります。御神体は、白い紙を刻んで、家の最も中心である梁木の上に保存する場合が多いのです。城主祭を、地方によっては城主クッ・告祀(コサ)・安宅とも呼びます。城主祭は、以前は都鄙を問わずほとんどの家庭でやりましたが、いまはその習俗がだんだん廃れています。(「韓国歳時記」 金渙) 


ラオ・ヤードン
ウッドの「行きつけの店」は、薄暗い路地裏にあった。暗闇の中で、クリスマスツリーにつける電飾が、わびしげにチカチカとまたたいている。近づくと、路上に一組の椅子とテーブルがぽつんと置かれていた。その奥が店になっていて、屋根の下にいくつかの席がしつらえてあったが、客はだれもいなかった。店先には、赤い布で蓋をしたガラスの広口ビンが五つほど並び、赤い液体が入っている。どうやらこれがお酒らしい。さおのわきに、木の実ナナに似た色っぽいママが立っている。あ、怪しい…。出された酒は、ルビー色でほんのり甘みがあった。これぞまさしく、探し求めていたラオ・ヤードンではないか。こんな怪しいところで飲む酒だったのか、これは。「いやー、この酒大好きなんですよ。アローイですなー!」と言ったら、ウッドは大喜び。トイさんは「あら、これはレイバー(労働者)のオヤジが飲む酒なのに!」とつっこみ、座は一気に盛り上がった。そのあとは、飲めや歌えの大騒ぎである。(「女二人東南アジア酔っぱらい旅」 江口まゆみ) タイのランバーンだそうです。 


咸臨丸の積込品
また積込品に付てはポーハタン号の分は明確でないが、咸臨丸には米七十五石の外−
醤油  七斗五升(一日一人五勺宛) 用意共二石三斗
味噌  六樽        香物 同上
焼酒  七斗五升 一日一人五勺宛 同上 一石五斗
砂糖  七樽        茶  五十斤
小豆 二石         大豆 二石
胡椒 二斗         唐辛 五升
蕎麦粉 六斗        麦  四石
引割麦 二石        葛粉 二斗
松魚節(かつおぶし) 千五百本
梅干 四壺         酢 六斗
塩 三俵         塩引鮭 (以上海軍歴史に拠る)(「幕末遣外使節物語」 尾佐竹猛) 620トンの咸臨丸乗組員日本人90名ぐらいの食料だそうです。外に外人が10名くらいいたそうです。焼酒(焼酎)が記されていますが、清酒の名前が出て来ませんね。 


わが酒歴
大学に入学した祝いに、父親のいきつけの飲み屋につれていかれた。いくらでも、飲めるだけ飲んでよいといわれた。悪酔いをさせて、酒の苦しさを体験させようというのが、親爺の教育的配慮にもとづく策略であったようだ。この作戦は裏目にでて、十数本の徳利をからにしたのち、わたしが大酔した父親をかついで帰る結果になった。(「わが酒歴」 石毛直道 「多酒彩々」 サントリー不易研究所・編) 



能舞台
私にとって能の楽しみは、こうした舞台に直接接することのほかに、その時の記憶を脳の中の劇場でもう一度再演してみることにもある。よい舞台を見て帰宅し、家人が寝静まったあと一人机に向かい、あるいは独酌しつつ、今日のお能ではこんな鮮明な型があったとか、あの装束の模様にはこういう暗喩が秘められていたなどと、ゆっくり思い描く。「独坐観念」というお茶の方の言葉があるそうだ。お茶会が済んで、亭主は遠く去ってゆく客を見送り一礼し、茶室に戻って一人端座して自分のために茶を点てて服し、今日の茶席のことをあれこれ思い出し噛みしめながら観念するのが、茶の無上の喜びだという。私の「能の愉しみ」には、この独座観念に似たところがある。美しい能の舞台が終ったあとには誰にも会いたくない。静かに退去し、さっきの舞台の余韻を壊さないように帰路につく。そしてぬる燗の徳利を一本載せた箱膳の前に座して観念する。微醺をおびた脳の中には能舞台はあっという間に組立てられ、笛のヒシギが吹かれさっきの能が上演される。(「独酌余滴」 多田富雄) 


中学生の飲酒
直近一ヵ月で一回以上お酒を飲んだ、と回答した中学生は約三割。しかし、問題はその酒の入手経路です。実に、親からが六割弱。そして兄姉からが一割強。家の中にあったのが一割強。つまり八割が自宅なのです。これまでの未成年飲酒問題で槍玉に上がってきたのは、もっぱらお酒の自動販売機でした。しかしこの調査では、自販機と酒販店内購入を合算してもやっと一割です。先輩や友人から、という回答はさらに少ないのです。ということは、親御さんからよく聞かされる「悪い仲間にそそのかされて」というセリフは根拠は薄弱となりますね。いや、もっとはっきり言いましょう。要するに、親が飲ませているのです。外で飲むなよ、と言いながら自宅での飲酒を許す親。お祝いだから乾杯くらい、と子供にお酌する親。飲んでいる現場を見ても注意しない親。そもそも子供の飲酒に気づかない親。自分で稼ぐまでは発泡酒で我慢しろ、と的外れな小言を言う親。この発表以外にも、いろいろな話をお聞きしています。(「もっと美味しくビールが飲みたい!」 端田晶) 平成19年に書かれたものだそうです。 


水鳥の祭
大師河原の酒合戦として有名な、江戸慶安期に行われたという酒の飲み比べを現代のお祭りにした、「水鳥の祭」を見てきました。江戸側の地黄坊樽次(じおうぼうたるつぐ)が、川崎側の大蛇丸底深(おろちまるそこふか)に門下を引き連れて挑んだ酒合戦を復元したといったものです。京急東門駅前から出発した江戸側が、川崎大師で川崎側と合流し、門前で口上を述べ合った後、門前と、川崎大師駅前、ごりやく通りで、大盃の飲み比べをしがら、最後に若宮八幡の神前で、和解の盃をするというものでした。今年(平成22年)で16年目になる祭りだそうです。毎年10月の第三日曜日に行われるそうです。若宮八幡は、川ア市川崎区大師駅前2-13-16にあります。なお、水鳥は、さんずいと酉(とり)で酒という字になることによります。 池上氏 三浦樽明の墓 



若宮八幡 第16回水鳥の祭 和解の盃

心ゆくもの
清少納言が心ゆくもののひとつに数えた「夜、寝起きて飲む水」は、梅雨じめりの頃の水や寒の水ではなく、そぞろ寒の水ではなかったろうか。このことから、『枕草子』の作者は、酒をたしなんだのではなかろうか、と推測する学者もいるくらいで、川柳に詠まれた「命なりけり小夜(さよ)更(ふ)けて水の味」は、確かに「酔いざめの水、下戸知らず」の類であるかもしれない。(「食の文化考」 平野雅章) 


宿下
宿下(やどさが)り供の呑(のむ)内ふみを書き せわな事かなせわな事かな
御屋敷奉公から、実家へ宿下りで帰って来た娘。平素何かと世話になり、また今日は我が家まで付き添ってくれた供の者に、酒肴を供して一休みしてもらっている間、手早く、お仕えしている主人宛、無事生家へ帰着の一報を認める。折り返し御屋敷へ戻る供の者に、託すのである。 藪入(やぶいり)の供へは母がのんでさし(柳初465)(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


百閧フ逸話
酒と共に小鳥を愛した百閧ヘ、昭和二十年の「東京焼盡(しょうじん)」の夜、一合の酒の残っていた一升瓶と、目白の籠を両手にさげて、猛火をのがれたのであった。その姿は、あたかも仙人のようだったろう。−
ある旅の時、当時あった一等車の座席券をぜひとってくれというので、散々苦労して、とにかく券を確保したが、列車が出るとすぐ食堂車にゆき、延々とそこで杯を重ねている内に、目的地に着いてしまったという伝説がある。−
酒量はかなり多かったが、しばらく飲みたいビールが手に入らないので、我慢していると、人から一ダース届いた。百閧ヘその夜、七本飲んだ。「ビールの飲みだめですか」と訊いた人に、百閧ヘこう答えている。「いや、これはビールのなかった時の分を補っているのです。前借りではありません」(「ぜいたく列伝」 戸板康二) 


安政誉大盃
武田の遺臣、馬場三郎兵衛は才助と名乗り内藤紀伊守家中に足軽として住み込んでいた。井伊掃部頭が客に来たが、豪酒の殿様なので相手を勤められる者がいない。この時三郎兵衛が御前に召され大盃を数献見事に飲み干して、面目を施したが、直孝の眼力は鋭く、才助の眉間の向う傷について問いただすので、以前は武田の家老で、井伊の赤備えを破ったことがあると告白する。喜んだ直孝は所望して家来に貰い受け重用したのだが、「安政誉大盃(あんせいほまるおおさかづき)」はこのことを仕組んだ芝居である。(「日本酒物語」 二戸儚秋) 


下賜木杯を返上
下戸「言燕」席に侍(はべ)りて献酬に苦しみ、乞食駿馬を貰(もら)ふて持て剰(あま)すなどは有難迷惑の一例なるが、日本禁酒会会長林蓊氏は水害義捐の賞与として木杯を下賜されたるを、禁酒並に民力休養の主意に悖(もと)れりとて左の書面を附し之を返上したりと。
先年本会より愛知県下水害者救助として贈金せることに対し、此度木杯賞与の御沙汰に付き、不肖会長の名を以て本日参庁して之を承る、然れども我(わが)日本禁酒会の主義は務(つとめ)て飲酒を禁ずるに在りて、其個人的団体上の誓約より禁酒するは今専ら運動する所にして、且(かつ)法律よりして之を禁酒せんとするは将来運動の方針とする所なり、かの人民の特別の労に酬ひ、或は之を奨励するの趣意に出でゝ古来賞与の国典の設あるは不肖(ふしょう)能(よ)く之を承知するなり、然れども今熟々(つらつら)各国の典例を按ずるに未だ酒杯を人民に下賜するの事あるを見ず、否酒は濫飲(らんいん)に流れ易く産を失い身を亡ぼすの基なり、今之を人民に下賜するは民力養生の徳義に於て決してあるべからざることなると信ず、事の道理右の如くなるを以て不肖は深く賞与恩命の意を遵奉するなれども禁酒主義上及び民力養生の意よりして、謹んで之を辞退する也。 明治廿四年十二月二十一日 日本禁酒会々長 林蓊 印 愛知県知事岩村高俊殿<明二五・一・八、朝野>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


伊勢神宮の使用土器
現在一年間に使用する土器は、六寸土器が二千三百枚、四寸土器が一万八千八十枚、三寸土器が約二万枚である。これはカワラケで、儀式帳の片佐良(かたさら)や酒杯にあたるもの。三寸とか六寸とかは焼き上げる前のサイズであるから実寸はそれより小さく、三寸土器は直径八センチ、四寸土器は十二センチ、六寸は十八センチほどである。このカワラケの使い方は、六寸土器には餅(十枚を一盛りとする場合)、アワビ、タイ、イセエビ、マスの切り身などを盛る。四寸土器には、飯、餅(五枚を一盛りにするとき)、コイ、フナ、ムツ、アユ、スルメなどの干魚、海藻、野菜、果物などのお供えするのに用いる。三寸土器は、飯、塩、白酒、黒酒、冷酒、清酒などを盛る。外に御盃台が一万四千余個、御箸台が二千三百個、御水碗が二千三百個、御酒壺が約三千個、土堝が十二個である。御盃台は三寸土器のカワラケを置く台で、由貴の大御饌みは四種の神酒を三献ずつお供えし、そのほかの祭典にも醴酒、清酒を三献か、清酒のみを三献必ずお供えするから数量が多くなる。御箸台は盃台と同じにつくり、箸が置きやすいようにつまんである。このほかにも饗膳用の盃台である耳皿があるが、この数は含まれない。御水碗は水碗で飯茶碗のような御水をお供えする器である。簡単な轆轤(ろくろ)を用いた手びねり細工であるから、少々いびつで素朴な味がある。御酒壺は横瓮といわれて神酒や御水を入れ、カワラケなどに注ぐのに用い、壺の横に注ぎ口がちょこんとつく。(「伊勢神宮の衣食住」 矢野憲一) 


截髪
「截髪(せっぱつ)」とういふ語句がある。もともと「髪」を「截(き)」 るとのいひで、二文字の熟語である。むかし晋の時代、ある賓客が陶侃(とうかん)の家に突然立ち寄ったのだが、苦しい家計で接待もままならぬ。そこで陶侃の母が髪を截り、これを「売りて酒肴に易へ、楽しみ飲みて歓を極」めたといふ故事からきてゐる。(「まづ一献」 森田忠明) 


寿司屋のお酒
酒といえば、日本酒、ビール、ウイスキー、ワイン、焼酎とさまざまですが、私の店では、酒類は日本酒とビールの二本立てに決めております。もともと、握り寿司は屋台から発生して現在のような内店(うちみせ)でカウンターを置くようになったのですから、初期の寿司店はお茶で寿司を楽しむというふうになっていたのです。昔、寿司屋で酒を注文すると「酒を飲むならそば屋に行け」といわれるほどだったそうです。寿司屋が握り寿司だけを提供するのではなく、刺身、酢の物などのつまみものを提供するようになってから、寿司屋で新鮮な魚介類を召し上がりながらちょっと一杯という風潮が拡まり、なかには「私は寿司屋へ週三回ぐらい行くが、寿司を食べたことは一度もない」なんてまったく見当違いの自慢をしているお客様の話を聞くこともあります。それぞれのお店の方針で、提供するほうとされるほうが互いに納得していれば良いことなのですが、私の店では酒類はあくまでも食前酒と考えており、少々のつまみもので酒を楽しんでもらうことには異議は申しませんが、寿司を食べることが出来ないほど飲みすぎる方は遠慮していただくように考えています。(「弁天山美家古 これが江戸前寿司」 内田正) 


所かわれば
ふたりの酔っぱらいが往来でぱったりと出会った。すると、そのひとりが空を指ざして相手に向ってたずねた。 −あれはお日さまかね、それともお月さまかね。 −おれにはわからんよ。だってこの町へやってきたのは始めてだからね。(「ふらんす小咄大全」 河盛好蔵訳編) 


酒とかけて
 美しい花にとまる蝶々ととく 心は、百薬の長(シャクヤクの蝶)
 日傘ととく 心は、ハレの日にかかせません
 うそつきととく 心は、ベロベロ(二枚舌)
 停電した冷蔵庫ととく 心は、こり(氷)ない
 将棋の駒ととく 心は、瓢箪にもはいります 


土曜の夜
ポーランド人はあまりウォトカをよく飲むので土曜の夜は売ってはいけないという法令が私の訪れた年の冬にはでていた。なるほど社会主義国で夜ふけに酔っぱらいが街灯に巻きついているのはこの国だけで見ることである。おまけにこの国のウォトカは、"ヴォトカ・ヴィヴォロヴァ"(精選ウォトカ)印など、すばらしくうまいのである。寒い夜にはなくてはならないガソリンである。何度も私は酒屋で買ってブリストル・ホテルへ持ちこんだ。ソヴィエトへ輸出してるくらいなんだからといってポーランド人は力む。そこで土曜の夜ウォトカを買えなくなった飲みスケたちはどうしたかというと、きわめて当然のことをやった。金曜の夜に買うのだ。散歩のときに注意して見ていると、なるほど金曜の夜の酒屋はぶどう酒なんか見向きもしないウォトカ飲みでいっぱい混雑していた。そして土曜の夜は、やはりちょういちょい酔っぱらいに出会い、ぶつかるたびに笑わせられた。(「世界カタコト辞典」 開健・小田実) 


あれば飲むなければ飲まぬ濁り酒 五郎八茶碗に二つ三つ
(濁り酒があると飲むが、ない時は飲まない。五郎八茶碗−江戸初期肥前[佐賀県]の高原五郎八によって作られたという大型の染付磁器。後に大きく粗末な染付の飲食茶碗の通称となった−に二杯三杯ということだが、酒好きの親爺が、酒のある時は二、三杯飲んで百姓仕事に精をだすという歌意が気に入り、五男に−五郎八にかけて−嫡、次、三、四男をおいて跡を継がせたという)(「日本酒のフォークロア」 川口謙二) 


うなぎ屋のおこうこ
うなぎというのは脂があって、しつこいものでしょう。だから、あれを本当に食うためにはそれなりにこっちの状態をね…。ぼくなんかをよく連れていってくれた人たち、おこうこも食べさせてくれなかったよ。まあ、だけど、おこうこぐらいで酒飲んでね、焼き上がりをゆっくりと待つのがうまいわけですよ、うなぎが。そこへ刺身が来たり椀盛りが来たりして、それを食べてからなんて言ったら、いいかげんうなぎに対する味がうんざりしてくる。だけどこの頃は、ちゃんとした座敷で食べるとみんなそうだよ。昔は、うなぎの肝と白焼(しらや)きぐらいしかないですよ、出すものは。東京のうなぎ屋はね。その代わり、やっぱりおこうこは漬けてあるからね、まず、おこうこもらって、それで飲んで、その程度にしておかないと、うなぎがまずくなっちゃう。(「男の作法」 池波正太郎) 


幾日飲む
宋の張安道、字は方平。未だ進士に及第しない時、甚だ貧乏であつたが、然し意気豪挙で、未だ嘗(かつ)て少しも卑下したことはなかつた。劉潜・石延年・李冠と飲むに、何杯飲むなどとは言はず、ただ*幾日飲むとのみ言つた。
註*「東坡題跋」巻二に此の事を載せ、而して謂ふ、欧陽州は盛年時には能く百杯飲んだが、それでも常に張安道に困らされたと。(「酒「眞頁」(しゅてん)」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 


萬亀楼
(京都市)猪熊(いのくま)通り出水(でみず)上ル蛭子(えびす)町、このあたりは西陣もはずれに近く組紐を作る家が多い。この町に、元禄の頃から萬屋(よろずや)という大きな酒屋があって、料理屋を兼営していたが、天明の大火に遇って全焼し、再建したあとは料理を専業とした。当時のあるじの名が萬屋亀七、「萬亀楼」はこの人の通称から採った名前である。幕末には長州藩の侍も来たし、近くの所司代の侍も来た。長州侍は若いがみな金回りがよいので、料理屋にはよい客だった。刀箪笥(だんす)が用意してあって、腰の物は預かるしきたりだったが、酔っぱらった長州侍は、抜身をぶら下げてはいって来る。通ると畳の表がすうっと切れていったりする。恐ろしかったが騒ぎ立てずに迎えておくと、帰りぎわに畳を新調しておつりが来るだけの金を置いていったそうである。職人の町の中にあるこの料亭に、有職生間(いかま)流の式庖丁が伝わっている。あるじの小西重義さんが、その二十九代正保を名乗る家元なのである。(「東京の老舗 京都の老舗」 駒敏郎) 


須須許理の酒造り
つぎに須須許理(すすこり)が日本酒づくりの始祖だとか、あるいは彼が米麹利用の酒づくりを初めて日本へ伝えたなどという人がいるが、これらはいずれも虚説にすぎない。というのは、須須許理が来朝した応神・仁徳朝といえば、日本列島が江南から稲作農耕文化を受け入れてからすでに六〇〇〜八〇〇年もたっているので、米麹利用の酒づくりはすっかり日本に定着していたはずである。一方、朝鮮では当時、米のバラ麹も利用されていたかもしれないが、華北系のクモノスカビのモチ麹利用の酒づくり方式であったと思われる。したがって、須須許理が天皇に献上した酒は、朝鮮系のモチ麹利用の酒であった可能性が高い。とすれば、前述の巷説はいずれも否定されるであろう。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


でびらかれい
でびらは瀬戸内に棲息する魚であるから、関西以西でなければ、ほんものが手に入らないだろうと思うが、私は佐世保とか長崎とかでよく手に入れたし、その干物の干されている場面も何度か眼にした。長い串に頭を貫いて十枚十五枚と並べ、その両端を縄に連ね、何段にもして吊りさげて干すわけだが、風通しのよいところに吊るして、できるだけ短い時間に干しあげるのがコツであると聞いた。そうして干しあげたものは、身が白く透きとおって、清冽な感じである。いうまでもなく火に炙って食べるわけだが、火にかける前に庖丁の背で背骨をたたいておくと、骨離れがよい。まだ熱いうちに骨や頭を剥げばきれいに身だけのこる。私はそれを酒にひたひたに浸し、ほんの二、三滴醤油を加えて食べるのを最高としているが、醤油だけを用いたものが一般的であろう。(「飲食有情」 木俣修) 


武玉川
張合のなき盃ハさし向ひ (並んだ方がよいのでしょうか)
下戸独(ひとり)恋の証拠に頼 (たのま)れる(下戸はいつも損な役割)
禁酒して何を頼の夕しくれ (生きている甲斐なし)
生酔の心ハ直(すぐ)に道を行 (心と体は別)
うき事のためにちびちび呑み習い (下戸の訓練でしょうか)(「武玉川」 山澤英雄校訂) 


僕は田中英光です
私は徴用から帰つて来ると、半年ほど東京にゐて甲府市外に疎開した。ある日、甲府の町の行きつけの宿に行くと、帳場の人が、いま田中英光さんといふ珍しく背の高い作家が二階で大酒を飲んでゐる、と云つた。きのふ太宰さんに案内されて来ると夜ふけまで飲んで、太宰さんが帰つてからもまだ飲んで、今朝からまた独りで飲んでゐるといふことであつた。まだ田中君を知らなかつた私には何の関係もない事である。それで私が帳場で独り飲んでゐると、二階で手を敲く拍く音がして「おうい先輩、先輩々々」と云ふ大声がきこえた。つづいて、どたどたと階段を踏み鳴らして来る足音がして、雲つく大男が帳場に顔を出した。その男は、「やあ、先輩、いやつしやい。僕は田中英光です。いつしよに飲みませう」と云つて、私を掴まへて一気に二階へ運び上げた。相手は大男の大力で、こちらが抵抗することなど論外である。そのときの感じを云へば、(英光は階段を上から下まで一またぎにして、私を階下の部屋から二階の廊下に置きかへた)といふようなものであつた。田中君は女中に、どつさり酒を持つて来いと命じた。きけば会社勤めの課長職を止して退職手当をもらつたので、甲府でそれをみんな費ひはたすつもりだと云つた。満州に行くことにしたので、太宰さんにお別れに来たのだと云つた。この宿の女中は大変に感じがいいと云つた。その女中が好きになつたと云つた。それもみんな、座興に云ふのだらうと思はれたが、いちいちこちらで「さうか、さうか」と頷いて見せなくては気に入らない風であつた。何か憑かれた人のやうな印象もうけた。大男だが子供つぽい顔で、まだ口もとや双の頬に幼などきの面影が残つてゐるやうな初々しさも感じられた。(「文士の風貌」 井伏鱒二) 


造酒司酒殿坐神
平安京の造酒司(さけのつかさ)に祀る「坐神九座」の出自と神徳については、最近つぎのことが明らかになった。 @「二座 酒弥豆男(さけのみつおの)神・酒弥豆女(さけのみつめの)神」は酒造用水を守護する男女二神であるが、各神の出自は不詳である。 A「四座 竈神」はカマドそのものよりも釜を神座とした忌火(いみび)神で、大陸渡来の蕃神であった。 B「三座 大邑刀自(おおたわめ)・子邑刀自(こたわめ)・次邑刀自(つぎたわめ)」は酒甕(さかがめ)の神であるが、その出自は定かでない。 古代の酒づくりにおいてなにが重要視され神聖視されていたかを知るうえで、「造酒司酒殿坐(います)神九座」はまことに示唆的な神として興味深い。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


軽井沢にて
玉村 やっぱり、水上先生の顔を見ると、編集者っていう感じになりますか。
村松 なに言われても怒られているような感じがする。
玉村 直接の担当者だったわけですよね。
村松 もちろんそうだよ。「一休」を『海』に連載していただいていた時の、担当といっても下っ端なんだけど、毎回三百枚ずつの原稿を、何回か受取りに…。
水上 そういう時期でしたね。
玉村 それは京都で執筆を…。
水上 いや、軽井沢です。それで彼はねえ、いいことか悪いことかは預けるけど、太地喜和子君がちょうどきていたところへ、校正刷りを届けにきてね、で、一晩飲むんですよ。私は原稿の手入れをしている、二階へ上がって。その間に、一本空けるんだよ、二人で。ナポレオン一本だよ。
村松 ぼくはそのこと書いたことあるんだけど、銘柄を違えて書いたら、あれナポレオンだよって…。
水上 そういう人ですよ。
村松 で、朝、水上さんと顔が合ったから、昨日、四時まで太地喜和子さんと飲んでて…って言ったらさ、喜和子さん出てきて、昨日六時まで飲んでたんですよ、って。(「下戸の酒癖」 玉村豊男編) 


つくろうや
「飢餓」の状態から一応脱すると、次に欲しくなるのは「酒」である。といっても酒と煙草が捕虜に支給されることはない。だが、煙草はさまざまなルートから少しは入り、まわしのみなどする。だが酒だけはない。私は通訳をしていたので、米兵から缶ビールをもらったことがあった。当時の日本には缶ビールはなく、これが生まれてはじめて見た缶ビールであった。作業が終わってから恐る恐る缶をあけ、みなで一口ずつまわし飲みをした。そのときは思わずくらくらしたほどであった。食事に「味気がない」理由の一つは「酒」がないことである。するといつしか「つくろうや」ということになる。軍隊は便利なところで、醸造学(?)をやった人もいれば、現場で酒を仕込んだ本職もいる。もちろん密造で、水運び用の小ドラム缶一個を巧みに手に入れ、米と乾ぶどうとイーストを入れ、水を加えて密封した。醸造の力は恐ろしいものでこのドラム缶はふくれあがって、上下が丸く突き出してしまった。栓をあけようと、少しゆるめるとその隙間からシューシューとビールのように泡を吹き出す。それを一人が毒味をしていった。「いける」。そしてわれわれはキャンーン・カップに白い液体をわけてもらい、その夜は文字通り飲みあかした。これは前述の缶ビールのまわし飲みを除けば、前後始めて飲んだ酒であった。その味は今はもう覚えていない。(「飲食の出発点」 山本七平) 終戦後、フィリピンの収容所での体験だそうです。 


六十両
越前から十介という男、江戸でどこぞへ奉公しようと宿に泊って町をあるいて、日本橋のところで財布を拾った。なかはずしりと重い。これはありがたいと酒を買って宿へ帰り、財布のなかから小判を六十両あまりをだして座敷中にならべて、酒を飲み、酔うほどに眠った。宿の主人がそれを見ていて、小判をすっかり盗んだ。十介、酔いからさめた座敷を見まわすが小判は一枚もない。十介はそこで、はたとひざを打ってひとりごとをいった。「おれの運のわるいのも、これで直る。あんなにたくさんの小判を拾った夢を見たのだから…」 (「小ばなし歳時記」 加太こうじ) 


夫婦固めの盃
●新郎新婦の前の案(机)の上に三方が二台。一の三方には、カワラケ(一般的には白磁の平盃)が三つ。二の三方には、懐紙に肴三品が二組。
●巫女二人がそれぞれに雄銚(おちょう)、雌銚(めちょう)を持ち、新郎新婦の前に立つ。
●新郎が一のカワラケを両手で持つ。それに巫女が雄銚で神酒を注ぐ。それを、新郎が三口で飲み干し、カワラケを三方に返す。
●新婦がそのカワラケを両手で持つ。それに巫女が雌銚で酒を注ぐ。それを、新婦が三口で飲み干し、カワラケを三方に返す。
●二のカワラケは、新婦から新郎の順。したがって、注酒も雌銚、雄銚の順。飲酒の作法は同じ。
●三のカワラケは、一のカワラケと同然に新郎から新婦の順。したがって注酒も雄銚、雌銚の順。飲酒の作法は同じ。(「三三九度」 神崎宣武) 小笠原流では男女の順が逆だそうで、神主の著者は、それでよろしいとしています。 


のぞき
猪口の異名。ヌタなどを盛った時、のぞき込むようにしないと中身がよくわからないというしゃれ言葉。 (「明治語録」 植原路郎) 


駿河大納言忠長
いずれにしても、家光が断固として譲らないので、重次(阿部対馬守)はやむなくお受けして、高碕に赴き、城主安藤重長に面会して、将軍の意志を伝える。安藤は悲痛な顔をして聞いていたが、「貴殿をお疑いする訳ではないが、これほどの大事、将軍家のお墨付を賜らねば、承伏致しかねる。将軍家におかれても、もしかして、貴殿出立の後で、思召しを変えられ、大納言の御命をお助けなされようと考えられたかも知れぬ。いずれにしても、将軍家のお墨付を頂かねば」と言う。重次は、成程それももっともなことと、直ちに、江戸に引返した。内心、家光が翻意するだけの時間を稼ぐつもりだったに違いない。しかし、家光は即座に直筆の命令書を手渡した。こうなっては已むを得ぬ。安藤重長は、将軍のお墨付を見ると、涙を流して、「−御痛しいこと−阿部殿、しばらく私にお任せ下され」と言ったが、その翌日、忠長の居館の縁近くに、軒の高さまで板囲いをさせた。それとなく、忠長に、事態の切迫を報らせようとしたのである。忠長も、敏感にそれを推察した。その日一日、書類などを火に入れて焼き捨てていたが、夕刻になると、侍臣たちもそれぞれ退出し、御前には小童一人が残った。忠長は、酒を運ばせて静かに飲んでいたが、やがて、その童に向かって、「酒をもう少しもって参れ、それに何ぞ下物(さかな)も探してくるがよい」と命じた。小童が厨房に行って、酒と肴を用意して戻ってきたが、部屋に一足ふみ入れると、−うわっ と悲鳴をあげた。忠長は肌を脱いで、突っ伏しており、その白い肌着が真紅に染まっていたのである。短刀が頸(くび)の半ばを貫いていた。寛永十年十二月六日、忠長二十八歳。(「大名廃絶録」 南條範夫) 徳川忠長は、二代将軍秀忠の次子で、配流された高碕城でのことだそうです。 


ウサガミソウレ
「召し上がれ(ウサガミソウレ)」といって差しだされた盆の茶碗をみると、いやそれは水ではなく、白い液状の中に米粒の混じっている地酒でありました。もうあれから十年たちました。そして十年後のいまもな、おママそれが昨日あったことのように忘れられないと私がいうのは、渇きをいやしてくれたあのときの「栄え水」の味ではなく、実はこの老婆が、申しわけなさそうな表情をしながら、私にこぼした愚痴がありました。なんでも戦争のおわったころまでは、酒のつくり方というのはきまっていて、村中の若い女たちが米を噛んで、その噛んだ米を醗酵させて酒をつくったといいます。それももちろん、稲の収穫祭に限られていましたが、これが衛生上よろしくないと禁止されてから、砂糖を入れてみたり、化学調味料を入れてみたりして、いろいろ工夫をこらしてみても、噛んでつくったほどの味のいい酒はできないものだそうです。「だからごらんなさいよ、色合いはおなじでも、味はけっしてむかしのものではありませんから」と、老婆は最後にそうつけ加えてさびしそうに笑った。(「陽気なニッポン人」 酒井卯作) 昭和40年出版 


一盃呑(のむ)と衣ぬぐ僧
情景の活きているうまい句である。檀家を訪れ読経のすんだあと、膳部が出て、さあおひとつと酒を勧められた。いける口である。心やすい間柄の家である。どうぞお楽になさってといわれて、それではと衣をぬいだ。ゆっくり御馳走になりましょうという気分である。(「『武玉川』を楽しむ」 神田忙人) 


夜明けあと(5)
明治三十三年 稲妻小僧。処刑執行。被害にあった各地、安心会を催し、餅や酒で祝った(国民)。
明治三十五年 東宮御所の建築工事。請負った三好組と原田組が、定礎式後の酒宴で、大げんか。百余人が、なぐりあい(時事)。
明治三十七年 日比谷公園で、戦勝祝いに十万の人出。提灯行列、花火、爆竹、軍楽隊。大量の酒の寄附。大混乱となり、死者二十人(東朝)。(「夜明けあと」 星新一) 


うき巣
蕪村と浮瀬(うかむせ)といえば、京都の角屋に伝わる「うき巣帖」のことに触れないわけにはゆかない。これは小豆色の緞子(どんす)表紙、縦一七・七センチ、横二〇・八センチ、折本仕立ての一帖で、角屋所蔵のアワビの大杯「うき巣」に付属しているものである。「うき巣」は長径二〇・六センチと一四・八センチとの大小二枚のアワビの穴を金泥で塞(ふさ)ぎ、一部に蒔絵(まきえ)を施した美しい酒盃である。浪花(なにわ)の奇杯「浮瀬」と並び称すべき名盃として、蕪村が「うき巣」と命名した。それは「うき巣帖」巻頭の次の序で明らかである。
むかしむかしうら嶋(しまが)子、龍(たつ)のみやこに至りて乙姫に配偶す。あらふる眷属賀を献ず。おのおのかしらに鱗甲をかざりとす。それが中に大なる貝をいたゞくもの有。光輝人を射る。浦島子、心にこれを欲す。終(つい)に得て水の江の浦にうかぶ。浪花のうかぶ瀬是也。後又乙姫俵藤太を迎て宴(うたげ)す。玉盃を出して酒をすゝむ。藤太、其盃の美なるを愛す。別(わかれ)に臨で乙姫許多(ここだ)の宝物を将(もつ)て藤太を送る。其貝すなはち其一ツなり。伝えて今徳野が家に蔵(おさ)む。予に其銘を乞ふ。予おもふ。浦島子ハ与謝の海に得たるをもて、うかぶ瀬といふ。藤太は鳰(にお)のうみにこれを得たり。それうき巣と呼(よば)ん歟(か)。一盃一盃又一盃、長く子(し)が家に伝て、しらず幾万盃ぞ。酔蕪村漫書(みだりにしょす) (大谷篤蔵氏編著『島原角屋俳諧資料』)(「浮瀬 奇杯ものがたり」 坂田昭二) 


サン・マロ
フランスの漁港サン・マロの漁夫たちは、漁期のはじめに捕獲した魚は、けっして手元にとどめず、のどから酒をそそぎこんだ上でふたたび海に放してやる。これはほかの魚たちが、帰ってきた魚たちの酒の香をかぎ、じぶんたちもそのご馳走にあずかろうとして、海面にあつまってくるにちかいないと、漁夫たちが考えてのうえのこととされる。(「奇談 千夜一夜」 庄司浅水 編著) 


横臼
又吉野の白梼上(かしのふ)に横臼(よくす)二〇を作りて、其の横臼に大御酒(おほみき)を醸(か)みて、其の大御酒を献りし時、口鼓(くちつづみ)二一を撃ち、伎(わざ)二二を為(な)して歌曰(うた)ひけらく、 白梼(かし)の上(ふ)に 横臼を作り 醸みし大御酒 うまらに二四 聞(きこ)しもち食(を)せ まろが父(ち)二五 とうたいき。此の歌は、国主(くず)等(ども)大贄(おほにへ)二六を献る時時、恒(つね)に今に至るまで詠(なが)むる歌なり。
二〇普通の臼より低くて横に長い臼  
二一口から音を出して拍子を取ることであろう。 
二二所作を演じて。 二四美味しく召し上がれ。 
二五マロは自称。私のお父さん。ここは(応神)天皇を親しんで言ったのである。 
二六大贄は朝廷に献じる土地土地の産物。(「古事記 祝詞」 倉野憲司・武田祐吉校注) 


冷酒清兵衛
遠州見付宿に冷酒清兵衛という人がいた。本名は植村清兵衛である。徳川家康が武田信玄の勢いに打ち破られて、浜松に逃げ帰る途中で、小休止し、一杯の酒を所望した。元気をつけようと思ったのだろう。そのとき、清兵衛が出したのは冷酒であった。そこで家康が「熱燗の酒が欲しいのじゃ」というと、清兵衛、「このようなときは熱燗の酒は飲まぬものでござります」といって、そのまま飲むようにすすめた。後のことを考えると、「やはり、そうであったか」(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


原田甲斐の祖父
山形県置賜(おきたま)は、もと仙台伊達藩の領地であり、かの山本周五郎作『樅の木は残った』の主人公原田甲斐の祖父がいた。居城地は小松(現川西町)であり、慶長年間、地主の佐藤権兵衛に、米で売るよりは酒を造って利をあげよ、と酒つくりをさせたという文書が残っている。(「酒と旅と人生と」 佐々木久子) 


五合宛
取肴(とりさかな)二ツ。鉢「肴殳」(はちさかな)二ツ。これを三匁積りにして。上下とわ(分)くれば。三八 二十四匁。酒は一銚子。五合宛(あて)にして。主従三人で。十銚子を輒(たやす)くかゆべし。この酒五升。一升につき二百八拾文にして。壱貫四百十六文。引物の菓子は。壱分饅頭三ツ。大落雁二ツ。花ぼろ一ツ。一人まへ。七分にして。三七 二匁一分。(「胡蝶物語」 曲亭馬琴)貪婪国で遺失利益を坊さんが計算しているところです。 

忘憂君怒曰
忘憂君(ぼうゆうくん)怒曰(いかりていわく)。 汝(なんじが)饒舌 如鸚鵡(オウム)ノ叫煎茶ト上レ人ヲ(ひとをおそれずしてオウムのせんちゃとさけぶがごとし)。汝纔(なんじわずか)ニ 知小 而 不知大(しょうをしりてだいをしらず)。 世尊ノ曰。 酒ハ者甘露ノ良薬ト。 又 波斯匿王(はしのくおう)末利(まつり)夫人 犯ス飲酒ヲ。 世尊曰。 如此ノ犯戒シテ 得大功徳。 又曰。 菩薩 以酒ヲ 施人。 於仏 無過(あやまち)カ。 又四天王 有天漿(てんしょう)。 名(なずけ)テ 為花酒ト。 又阿修羅 以四大海ヲ酒ト。 而飲之猶不足(これをのみてなおたりず)。 阿修羅此ニ飜シテ 云無酒ト。 上 自(よ)リ四天王 下 至マデ阿修羅界ニ 悉(ことごとく)用酒。 如来蔵中。 酒之徳 惟(こ)レ夥(おびただ)シ。 未茶徳。復六教不茶。(「酒茶論」 群書類従) 忘憂  


花子さん
この先生の気前のいいのは酒場の相客に対してだけではない。顔見知りの花売りが、売れずに困っていると、行きつけの酒場に連れてきて、知っている人たちに買わせようとする。毎度のことで誰も買わないと、店に立てかえさせて、自分が残りをみな買ってしまい、ほかのバーに配りに行く。花売りだけではない。以前にはよく銀座でチューインガム売りを見かけたが、それも残りをみな買って、バーで会う人に配ってしまう。この人は名刺を配るのも好きで、よほど親しくなるまでは、何回でも名のっては名刺をくれる。ぼくも当初M先生の名刺は十枚以上ももらった。よく「私の会社は銀座からも近いから、一度昼間会社のほうに遊びに来てください」と誰でも誘う。ある人が、あまり熱心に誘われるので訪ねてみたら、昼はうって変わって謹厳そのもののような態度なので、お茶一杯でほうほうのていで逃げ出してきたという。ぼくも、今もってよくお誘いをうけるが「そのうちにぜひ」というだけで敬遠の一手である。人の名はみごとに憶えない人で、自分でも自覚しているから、美人に会うと、「私はMといいますが、貴女はあまりおきれいなのでこれからは花子さんと呼ばせてください」とセマる。花子は先生がお宅の池に飼っている自慢の鯉の名であり、誰でも美人を見ればみな花子だから、絶対忘れる心配はない。初対面でなさそうな美人に出会ったら先生は、「これはこれは花子さん。またお会いしましたね」とすまして言う。(「銀座の酒場 銀座の飲り方」 森下賢一) 


酒ほがい
よろこびの極(きはみ)となりしかなしみの極に二人また酔ひにける(痴夢第二)
あはれにも男はかなしうま酒の香を慕ひつつ君をこそ思へ(痴夢第三)
海出でて酒場に入ればわが椅子の主(ぬし)まちがほにあるがたのしさ(夏のおもひで)
酒びたり二十四時(とき)を酔狂に送らむとしてあやまちしかな(酒ほがい)
覚めし我酔ひ痴(し)れし我また今日も相争ひてねむりかねつも(酒ほがい)(「酒ほがい」 吉井勇) 


葉山嘉樹、長谷健
 葉山嘉樹(よしき)は色紙をたのまれると、「万人が菓子をもつまで菓子をくうな」とよく書いた。これを書く時、彼は菓子をくいながらのこともあったし、酒をのんで酔っぱらっていることもあった。
 長谷健は酒に酔ってくると、故郷の柳河の詩人白秋の傑作をうたうのだった。「ゲズゲズの花がせえたよ。白か色か花がせえたよ。ゲズゲズのいげは痛かばん、青か青か針のいげばん」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


代官と徳利の首には縄の付くもの
代官が預かり役であるのに自分の領地のように振舞って罪に問われ、とっくりが口の所をなわでしばってつり下げられるように、なわ付きになる。岡谷繁実(おかやしげざね 一九二〇年)の『名将言行録』の「徳川家康」に、<又曰く、古諺(こげん)に、代官と徳利の首には縄の付くものなりと言うことあり、代官役する者は、大名狂言の役者の様なるものなり、烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)着て、太郎冠者、次郎冠者召し連れ出たる、実に大名の様に見ゆれど、其(その)狂言終れば旧(もと)の何右衛門何兵衛になる、代官又此の如し、預り所は己(おの)が知行の様に思いて支配する故に、百姓共は殿様と言い女房を奥様御前様抔(など)と尊称する故に、自然と奢(おご)り出、家内万事大名風にて預り物の年貢金遣(つか)い散し、三年目の勘定には、四年目を取り繰り、先繰(せんぐり)に間を合わせ候故、早速には引負(ひきおい)は知られざるもの故に、油断して代官上げ惣勘定(そうかんじょう)の刻(きざみ)、大分の引込俄(にわか)に驚き親類縁者の助力を頼み、手前財宝を売却しても間に合わざる時、首に縄付くものなりと。>とある。(「飲食事辞典」 白石大二) 


辨館
この士多(しい・とう Storeから)とよく似た機能を持つ店に<辨館 ぱん・くぅん>がある。看板にComprador(買弁!)などという横文字がついているところをみると、もともとは輸入品の卸問屋だったのかもしれないが、たんに士多を大がかりにした店と考えてよい。規模としては士多と超級(スーパー)市場の中間に位置する。士多とのちがいは、<麺麭(パン) みん・ぱう>やくだものなどのナマものもあつかっていることで、そのぶん雑貨の比重は低い。忘れてはならないのは、豊富な酒類のストック。中国酒からナポレオン、クールボァジェまで、辨館にない酒は香港のどこをさがしてもないと思ってよい。辨館はたいてい夜遅くまでやっているので、寝酒を切らせたひとには重宝だ。(「香港 旅の雑学ノート」 山口文憲) 


暑気払い
味醂に焼酎をまぜたもので、関東では「なおし」関西では「やなぎかげ」という。酷暑の季節に盃一杯は悪疫を防ぎ、暑気当りを防ぐと言われた。明治初期には東京の下町には、「暑気払い」を贈る習わしがあった。使いの者の口上にも型があって、「暑さきびしい折柄、御尊家様、お変わりございませんか、お粗末ではございますが、本日暑気払いの品進上に伺いました。何卒お納め願いたく存じます」これは若い店員などの口上けいことして使にやらされたものである。(「明治語録」 植原路郎) 


トカイ
料理は、ドナウ河の鯉のスープである。トマトのピューレを入れたスープで、これは東洋と言うよりやはりウィーンふうの味つけである。音にきこえたトカイの白は、この鯉料理とよく合う。まさにクールで、ただ、冷んやりとして、呑んでいるのかいなにのかわからぬような舌ざわりであるが、やはりこんこんとしてコクがある。(「世界を食べ歩く」 豊田穣) 


船に酔ひ 酒がすぎ原七十郎
次のような落首(らくしゅ)もある。− 船に酔ひ 酒がすぎ原七十郎 七百石を 川へ進物 これは明和元年(一七六四)八月の事件である。書院番・木造(きづくり)七左衛門、京極伊兵衛、西ノ丸小姓組・宮城仁十郎、小姓組・杉原七十郎らが打ち連れて浅草川(隅田川)で水練の稽古をするという名目で、朝船を乗り出した。ところが実際は、船に芸者を呼び入れて酒を飲み、夜遅くまで涼んでいたのである。そのうちに杉原七十郎が酔払って船から河中に落ち、そのまま溺死。しかも他の三名はそれに気づかず、ドンチャン騒ぎをつづけていた。やがてその事故に蒼くなった三人はこれを秘密にし、番頭(ばんがしら)や評定所にも好い加減なことを申し立てていたが、ついに事実が露見して、十月七日に士籍を剥奪されている。<直参旗本>といえば、将軍直属の武士軍団として最も名誉あり、誇り高い存在であった。それが十代(将軍)家治のころになると、かくも士道不覚悟な事件が頻発するようになっていた。(「聞いて極楽」 綱淵謙錠) 


安倍晴明物語
道満(どうまん 晴明の弟子)は、かつて遣唐使として唐に渡った吉備真備が持ち帰ったという秘伝書『金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)』が晴明の所有する唐櫃(からびつ)に納められているのを梨花(晴明の妻)から聞き出し、そのすべてを写し取る。晴明が宮中での夜宴で酒をしたたか飲んで帰宅すると、道満が「夢のお告げで『金烏玉兎集』を授かった」という。酔いがまわった晴明は、「そんなことはあるわけがない」と一方的に反論し、ついには言い争いとなった。「どちらが本当か首を賭けよう」道満は書き写した『金烏玉兎集』を見せ、勝ち誇って晴明の首を斬り落としてしまう。晴明は伯道(雍州荊山に住む師)が説いた三つの戒め(「七人の子供が生まれようとも妻には気を許すな」「大酒を飲むな」「一方的にまくし立てて後に引けなくなるような議論はするな」)に背いて命を落としたのだった。そのころ、唐・荊山(けいざん)の文殊堂が原因不明の火災で焼亡し、師の伯道(はくどう)は晴明が死んだと悟って急ぎ来日する。晴明が道満に殺されたと知った伯道は五条河原で柳の木を墓標とした晴明の墓を発見すると、それを掘り起こし、一二本の骨、三六〇の小骨を拾い集めて生活続命の法を施して晴明を蘇生させた。−(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 江戸時代の仮名草子だそうです。 


体を預ける
かと言って、飲んでいる時も四方八方に気を配っていなければならないということはない。だから、犬が日向ぼっこをしている様子を忘れてはならないので、気を配るも、配らないもないのである。犬は体中に日が当って、日光が毛を通して皮膚まで差して来るから、我が代の春を歌って寝そべっている。そういう時、犬を抱き上げて見ると解るが、日向ぼっこを暫くしていた後は、肉まで温まって柔らかくなっている。そしてそれを見ていても、別にだらしないという感じはしなくて、ただ如何にも気持がよさそうなだけである。犬は日光に体を任せているとも言えるので、我々も酒を飲む時に、その意味では酒に体を預けて少しも構わない。寧ろそうすべきであり、酒に寄り掛かるのと体を預けるのでは、話が違う。身の任せ方にも色々あるのである。(「飲む話」 吉田健一) 


三死に一生
しかし、私に関してはそうでもなかったのだ。私は午前四時半ごろに眠り、正午ごろに起きるという日常である。だが、結婚式のために当日は、十時までに式場へ行かねばならぬ。したがって、前日は早く眠らねばならぬ。早く眠るために、私は睡眠薬を飲んだ。しかし、習慣というものは強力で、なかなか眠くならない。睡眠薬をさらに飲み、効果をあげるため、酒を飲んだ。それでも、まだ眠くならず…。「あつい」と叫んで、私は飛びあがった。右腕に熱を感じたのである。見ると、ふとんが燃えている。いつのまにか眠り、タバコが落ちて燃え移ったのだ。あわてて、やかんの水をかけて消した。しかし、ぬれたふとんでは、その上で寝るわけにもいかない。コンクリの屋上に運び、べつなふとんを敷いてねた。するとまもなく、家人が、屋上でなにか燃えているとさわぎだした。消えたと思った火が、またくすぶりだしたのである。ふとんの火は油断できぬものだと実感した。こんどは徹底的に消し、また酒を飲み、やっと眠ることができた。あとで考えると、九死に一生だった。もう一錠よけいに薬を飲んでいたら、熟睡していて目がさめず、大火事に発展し、とりかえしのつかぬことになっていたかもしれない。(「三死に一生」 星新一) 十三日の金曜日で仏滅の日に結婚式をあげた高斎正の仲人になった星の、挙式前夜の出来事だそうです。新郎新婦はその後なにもかも順調だったそうです。 


居酒屋の看板
細身の柳の木に凭れて配給の煙草「スピア」を唇に挟んだら、真向かいの石に腰を下ろしていた教官が、「池部、お前の後方百五十メートルにある土造家屋の軒に吊されている丸い鞠(まり)のようなもの、何だか知ってるか」と聞く。振り向いて見たが見当もつかない。「わかりません」と言ったら、「あれはな、居酒屋の看板だ。杉の葉みたいなものを丸めて作ってある。俺は入ったことはないが、あの前を通るとな、豚肉を細く切って、何かの野菜と一緒に油で炒めた食いものを見かける。出来上がりは、どうなんだか知らんが、実にうまそうな大陸的な匂いがする。いかにも中国四千年の悠久の匂いだ。日本軍もあれだけバイタリティのある食べものを食わせてくれれば、力の出しようもあるし、考え方も違ってくるだろうしな」(「風の食いもの」 池部良) 昭和17年北中国での話だそうです。 


木製瓶子
一方、漆工の分野でも瓶子が見られ、古い例としては、陶磁と同様に鎌倉時代初めのものと思われるものに、奈良の手向山神社が所蔵する桐竹鳳凰紋蒔絵瓶子が、南北朝のものに奈良の菟田野水分(うだのみくまり)神社にある貞和2年(1346)「御供酒瓶子」の銘がある黒漆瓶子がある。両瓶子とも、後に作られるものと比べると、口が大きく、胴締めもゆるやかでゆったりとした器形である。前者の方は、後の瓶子の元となるかとも思われるが、この時期の類品が少なく談じ難い。後者の方は、東大寺にある油壺と類似する器形である。(「酒のうつわ」 板橋区立美術館) 


灰釉瓶子(かいゆうへいし)
日本陶磁で現存する瓶子(へいし)は、古瀬戸に見られ、岐阜県の白山神社から出土した一対灰釉瓶子がある。この瓶子には、正和元年(1312)銘と御酒器の文字が刻まれ、神饌具として使用されたことがわかる。この瓶子は、古瀬戸最古の年紀銘瓶子として基準作品となっている。古瀬戸は、すでに知られるように、鎌倉時代に中国から持ちこまれた宋・元代の磁器を模して一躍有名になった窯であり、瓶子についても同様でなったであろう。(「酒のうつわ」 板橋区立美術館) 


此村になんと酒屋はござらぬか よいかげんなりよいかげんなり
江戸郊外に野がけ(ピクニック)に出かけた連中。うららかな陽気に、携帯の酒もすっかり飲みつくし、もっと酒はないかとばかり、出会った土地の物に、酒屋の有無をたずねる。 手をわけて酒や尋る野がけ道(柳五335)(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


酔うを悪(にく)みて酒を強(し)う
【意味】酒に酔っぱらうことはいやだと思いながら、しいて飲む。心と実行が全然違うことのたとえ。【出典】今悪死亡 而楽不仁 是猶悪酔而強酒〔孟子 離婁上篇〕(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


芝峰類説
李朝中期の一六一三年、実学者で号を芝峰(しほう)と称した李「日卒」光(りさいこう)が、「芝峰類説(チボンリュソル)」とよばれる百科全書を編んだ。この書こそ、朝鮮半島におけるトウガラシの存在に初めて触れた文献である。その食物部の章に「南蛮椒(トウガラシ)には大毒がある。倭国(日本)から初めてもたらされたため、俗に倭芥子(ウェギョジャ ニホントウガラシ)ともよばれるが、最近ではたまにこれが栽培されているのをみかける。酒屋では焼酎(ソジュ)に加えて売っており、これを試飲したために死んだ者も少なくない」と記述され、食用どころか猛毒扱いされていたらしい。当時は、日本人が朝鮮民族を毒殺する目的でおそろしい毒草を持ち込んだという、まことしやかなうわさまで流されたという。このように毒草としておそれられたため、トウガラシを料理に使うという発想へ切り替わるには、その後およそ一世紀の歳月を要した。(「世界地図から食の歴史を読む方法」 辻原康夫) 


江戸小咄本の名称
「百登(なり)瓢箪」(元禄十四)、「軽口 あられ酒」(宝永二・露五郎兵衛作)、「軽口浮瓢箪」(寛延四・探華亭羅山作)、「軽口福徳利」(宝暦二・故応斎玉花編)、「くだ巻」(安永六・漕喰月風作)、「御笑(ごしょう)酒宴」(安永八・放口斎千沖作)、「珍説交肴」(安永八・浜川砂水撰)、「おとしばなし 菊寿盃(きくじゅのさかずき)」(天明二・伊庭可笑作)、「富久喜樽」(天明二)、「笑上戸」(天明四)、「三国一流落志噺止 醴上戸」(寛政二・黄中注軒作)、「落語 樽酒聞上手」(寛政元・千代女画)、「和良嘉吐 富貴(ふっき)樽」(寛政四・曼鬼武作)、「百生(なり)瓢(ふくべ)」(文化十・瓢亭百成作)、「落語 富久喜多留」(文化十一・立川銀馬作)、「面白し機嫌上戸」(文化十四・十返舎一九作)、「落咄 口取肴」(文化十五)・十返舎一九作)、「升おとし」(文政十・林家正蔵作) (「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 「所収書目解題」にある酒関係の名前のついた文献です。 


大山の阿夫利神社
神奈川県大山の阿夫利神社では、毎年天狗講が催され、関東、東北地方の蔵元から奉納された数百種の清酒の一升瓶が、神前に林立しているのだけでも観ものであるが、祭典式事が終わると、「口利」き酒会が開催されるのが例で、レッテルを隠し、特、一、二級を判断して当てるのであり、講中は酒豪揃いなので、却ってなかなか的中しないらしいのが、もう一つの観ものなのである。筆者も勧められたが「口利」きの方は敬遠して、呑み放題の飲み方の方に廻った。(「日本酒物語」 二戸儚秋) 


重陽節(チュンヤンジョル)
朝鮮半島で重陽日(九月九日)を俗節としたのは、中国の民族からきたものですが、この日「登高」といって高いところに登って一日を楽しみ、菊花を観賞する行事が行われました。その起源には次のような言い伝えがあります。後漢のとき、桓景という人に隠士黄房長が「九月九日に汝南の地に大災害がおきるから、お前は家族をひきつれて赤い袋にゴシュユ(呉茱萸。中国原産、果実は香気と辛味がある)の花を入れて腕にかけて山に登り、菊花酒を飲めば、その禍をまぬがれることができるだろう」といいました。桓景がその通りにして、夕方家に帰ってみると、家中の家畜がみんな死んでいました。その後九月九日になると男は山に登り酒を飲み、女はゴシュユの袋を身につける風習が始まったといわれています。重陽節には、韓国の多くの家庭では、菊の花を糯米の粉とまぜて団子を作って食べ為す食べます。また、酒に菊の花びらを浮かばせて香りを楽しみますが、これを菊花酒といって昔から愛用されています。(「韓国歳時記」 金渙) 


椰子酒
椰子の木から採れる水で椰子酒を造った。白濁した日本の濁酒のような酒だ。この水を採るには開花する直前でなければ駄目だから、沢山の量は採取できなかった。椰子酒を暗い処に置いておけば酢が出来る。煮れば砂糖が出来る。椰子は便利な樹だ。(「風の食いもの」 池部良) 


酔うために飲む
日本人の多くは酔うために飲む。うれしいといって飲み、悲しいといっては飲み、しゃくさわるといってはやけ酒を飲む。酔い心地、ほろ酔い気分を味わうために飲んでいる。西洋人の飲み方はこれと違って、理屈っぽい。つまり合理的である。食前には食欲促進酒、食卓では食卓酒(主としてテーブルワイン)、ごちそうの途中では、後段酒(シャンパン酒やリキュールワインなど甘口のぶどう酒)、食後には、消化を助けるための消化促進酒というぐあいである。(「食味ノオト」 山本直文) 


ヘミングフォード・グレイ村
ヘミングフォード・グレイの村に住んでいたときのことである。ある日私は、ケンブリッジの友人の家の夕食に招かれていた。前の日にでも用意しておけばよかったのだが、忙しくて手土産のワインを買っておくのを、私はつい忘れてしまっていたのだ。村にただ一軒あるパン屋と酒屋をかねた店に行き、カウンターの背後の棚にずらりと並べてあるワインの一つをゆびさし、それを土産用に紙に包んでくれというと、禿げ頭のオヤジが、首を横に振り、時計を示しながら「見ろ、この時間は酒を販売することは法律で禁じられている。残念だが、売ることは出来兼ねる」と言った。他にも用事があって、酒の販売が解禁になる時間まで待っていては、約束の時間に間に合わない。さて、困った、と私はため息をついた。オヤジは、暫く黙って私の様子を見ていたが、ふと思い付いたように「そうだ、ちょっと待ってろよ、そこに」というと、踵(きびす)を返して裏の物置の方へ引っ込んでいった。まもなく、彼は手に小さな段ボールの箱をぶら下げて戻ってきた。「アー、規則で、どうしてもワインは売ることは出来ないのだが、アイスクリームなら売ることが出来るよ、それでよいかね?」そういって、オヤジはさっき私がゆびさしたワインの瓶を、さっと棚から抜くと、緑色の紙を巻き付けて包み、いましがた裏の物置から持ってきた段ボールの箱に入れて、蓋を閉め、「このアイスクリームは、ちょっと値が張るがね、エヘン…、七ポンド五十ペンス、いいかね、これはアイスクリームだからね」といって、私に手渡した。手渡すときに彼は、ちょっとあたりを見回すようにした。私が、その親切に礼を言おうとすると、いいからいいから、というように左手をふり、「Thanks a lot!」と小声で言った。その段ボール箱には、なるほど、大きくアイスクリームと印刷されていた。
*其後、このうるわしい酒規制法は、あえなく改悪され、従前よりもずっとゆるめられてしまった。そのため、四六時中だらしなく店を開けているパブもふえ、よからぬ風潮が瀰漫(びまん)しつつあるのは、まことになげかわしい。(「イギリスはおいしい」 林望) 以前イギリスでは、「パブなどで、酒を販売する時間は一日八時間半以内ということになってい」たのだそうです。 

三代高尾
承応明暦(一六五三〜七)の仙台高尾とも島田高尾ともいう名妓である。この時代の末に吉原は浅草に移っている。高尾は、御印籠の蒔絵師で西条吉郎兵衛という者と深く馴染みを重ねた。吉郎兵衛は盃に高尾自作の発句を書かせ、それを蒔絵にしたという。その蒔絵の盃を都帰(みやこかえり)りという。自作自筆の発句は 汲みかわす おなさけふじのうら葉かな この名器の名のいわれは、どうしたことか、盃が河東節の十寸見蘭洲の手に渡り、それが京島原の吉野大夫へ移り、その吉野大夫が新町の高円(たかまど)へ送り、高円から高尾へ戻って来た。そこで「都帰り」の名がついたのだという。(「江戸街談」 岸井良衛) 飛脚泣かせ 


御綱柏
此れより後時(のち)、大后豊楽(とよのあかり)したまはむと為(し)て、御綱柏(みつながしは)を採りに、木国(きのくに)に幸行(い)でましし間に、天皇(すめらみこと)、八田若郎女(いらつめ)と婚(まぐは)ひしたまひき。是に大后(おほきさき)、御綱柏を御船に積み盈(み)てて、還り幸(い)でます時、水取司(もひとりのつかさ)に駈使(つか)はえし吉備国(きびのくに)の児島の仕丁(よぼろ)、是れ己が国に退(まか)るに、難波の大渡に、後(おく)れたる倉人女(くらびとめ)の船に遭ひき。乃(すなわ)ち語りて云(い)ひしく、「天皇は、此日(このごろ)八田若郎女と婚ひしたまひて、昼夜戯れ遊びますを、若(も)し大后は此の事聞(きこ)し看(め)さねかも、静かに遊び幸行(い)でます。」といひき。爾(ここ)に其の倉人女、此の語る言(こと)を聞きて、即(すなは)ち御船に追い近づきて、状(ありさま)を具(つぶさ)に、仕丁の言の如く白(まふ)しき。是に大后大(いた)く恨み怒りまして、其の御船に載せし御綱柏は、悉(ことごと)に海に投げ棄(う)てたまひき。
一 御酒宴。 二 延喜式の造酒司に「三津野柏二十把」、皇大神宮儀式帳に「直会ノ酒ヲ采女二人侍リテ御角柏ニ盛リテ人別ニ給フ」とある。この三津野柏・御角柏と同じ。紀伝に「此柏は葉三岐にてさき尖りたれば三角の意なるべし」と言っている。五加(ウコギ)科の常緑小喬木ノカクレミノで、葉は三裂または五裂する。(「古事記 祝詞」 倉野憲司・武田祐吉校注) これも葉が盃になっていますね。 


土佐佐川
佐川は、四国山脈の水を集めた仁淀川の中流沿いに広がっている。海抜一〇〇メートルの盆地にある。夏は朝夕涼しく冬は凍てつく。空気は清澄で水がよい。酒造りの条件が備わっているのである。この町で、はじめて醸造が試みられたのは、いまから三百七十年余り昔のことだった。当時、山内一豊は遠州掛川から土佐に封じられ、首席家老の深尾重長に、佐川の領地が与えられた。その折、深尾氏に従って佐川へきた酒屋が、この地で酒造りを始めたのである。以来、佐川には伝統を守った醸造法が続けられてきた。そして大正七年に五軒の造り酒屋が結集して、現在の酒造会社を設立し、近代的な経営に踏みきっている。本来の佐川人気質から見れば画期的なことだったらしい。昔から佐川人は、人が右といえば左を主張し、左といえば右という天の邪鬼的な気質で知られている。−
酒造りを主産業とする佐川は、文教政策も重視してきた。そのために、多くの学者や芸術家など、傑出した人物を産んだ。世界的な植物学者・牧野富太郎博士も、佐川の造り酒屋に生まれている。(「探訪ふるさとの味」 柏原破魔子) 佐川の酒蔵は司牡丹だそうです。 


大御酒の柏
爾(ここ)に建内宿禰(すくね)大臣(おほおみ)、大命(おほみこと)を請(こ)へば、天皇(すめらみこと)即ち髪長比売(かみながひめ)を其の御子に賜ひき。賜ひし状(さま)は、天皇豊明(とよあかり)聞し看しし日に、髪長比売に大御酒(おほみき)の柏を握(と)らしめて、其の太子に賜ひき。
(「古事記 祝詞」 倉野憲司・武田祐吉校注) ここでの大御酒は柏の葉にのるのですから、どろどろの固形物のようですね。 


伊勢神宮の神酒(3)
現在の神酒は三節祭に限り四種(白酒、黒酒、清酒、醴酒)、そのほかの大御饌には醴酒と清酒の二種で、毎日の日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)には清酒のみが、いずれも三献ずつ、酒壺から三寸土器のカワラケに盛られて御盃台にのせて、すべての神饌の最後にお供えされる。
清酒は歴史も新しく、神宮では醸造できないから灘の白鷹株式会社で謹醸されている。この清酒がお供えされるようになるのは明治以後である。
白酒はいわゆる濁酒(どぶろく)で、黒酒はこれにある植物の木の枝を灰にして加え、灰色に着色したものであるが、この植物がなんなのか担当する人しか知らされず、秘伝とされている。おそらく薬草の灰のアルカリで酸味を中和させることにあろうが、先に書いた白と黒の組み合わせのように、ここでも白黒二色をそろえることに奥深い意義があるのであろう。
醴酒は一夜酒(ひとよざけ)ともいい、甘酒の素のように米粒がブツブツしていて、飲むのではなく御箸を用いてカワラケに盛る酒である。
現在は六月、十月、十二月の各一日に内宮神楽殿の隣にある御酒殿神社で御酒殿祭し、四日市市垂坂町の麹協同組合から献納される忌(いみ)麹をお供えして、酒作物忌が奉仕した故事を受け継いでよい白酒・黒酒ができますようにと祈り、あわせて全国の酒造業界の発展を祈願し、新宮新田で収穫し、御稲御倉に奉納してあったお米を厳選し、忌麹と外宮の上御井(かみいい)神社の御水を用いて忌火屋殿で、この日から十日間かけて醸造する。
忌麹が四日市市から納められるのも、江戸時代から朝明(あさけ)郡の垂坂御厨と、河曲(かわわ)郡の玉垣御厨の麹が用いられていた由縁である。
酒は大昔から人がつくるものではなく、神がつくられたと信じられ、神は神の憑代(よりしろ)とされてきた。なぜならお米と麹を混ぜて数日するとあたかも生きているがごとくブツブツと醗酵する、まさに神業である。しかも何時もでき具合が異なり、人の力ではいかんともすることができない神秘の産物であった。私どもはいまも神宮の神酒は、御酒殿の神がつくられると信仰している。さらに日本酒は米からつくるのであるから、神酒は米をお供えする同義であるのを忘れてはならない。(「伊勢神宮の衣食住」 矢野憲一) 


アメリカの飲酒
したがって、一九三三年の禁酒法の廃止もアンチクライマックスだった。大恐慌で、政府は酒税を必要としたし、国民は職を必要とした。いま、アメリカ人は酒を飲むことについてアンビヴァレントな気持ちを抱いている。好ましくも厭らしいもの、痛しかゆしといったところなのである。彼等は国や親に対するように、酒に愛と憎しみを抱いている。しかし、飲酒はアメリカの「基準」になったと『アメリカの飲酒』の二人の著者は書いている。(「晴れた日のニューヨーク」 常盤新平) マーク・エドワード・レンダー、ジェームズ・カービー・マーティン共著の『アメリかの飲酒』にあるそうです。 


ジャニス・ジョブリン 米、ロック・シンガー 一九七〇年没
ジョブリンの遺言状は、ヘロインの過剰摂取による彼女の死が事故でなかったらしいことを示している。死の二日前にジョブリンは遺言状を書き変え、「私がこの世を去ったあとで友人たちが乱痴気パーティーを開けるように」と、客のリストと二五〇〇ドルを残した。ジョブリンがよく出演したカリフォルニア州サン・アンセルモのライオンズ・シェアという居酒屋で、夜を徹したアルコール飲み放題の「さよならパーティ」が開かれたのは、ジョブリンの遺骨がマリン郡の上空を飛ぶ飛行機から撒き散らされた数日後のことだった。(「世界おもしろ雑科2」 ウォーレス、ワルチンスキー他) 


初代川柳の酒句(2)
大風に包まれて行(ゆく)樽ひろひ  春松  (冬の風が吹く中を酒屋の樽拾いの子供が歩いて行く)
生酔をひよつとおさへてもてあまし  春松  (酔っぱらいをかかえたものの…)
生酔が後ロ(うしろ)を向くと皆ンな迯ケ(にげ)  雅情  (酔っぱらいの攻撃を受けないように)
さう飲まれてハ合はぬから寝せに来る  未青  (むやみに飲まれると財布が大変になるので)
徳利へ火を打かけるざつな事  五扇  (徳利をそのまま火にかけて燗をするという酔っぱらい)(「初代川柳選句集」 千葉治校訂) 


太平山
開隆山と同じ時代に、秋田出身の力士で"太平山"というしこ名の三段目がいた。お酒の好きな人なら、秋田出身で太平山と聞けば、すぐにピンとくる。太平山は秋田産の酒の銘柄である。しかしこれも開隆山と同じで、しこ名としては立派に通用するものだった。(「相撲百科」 もりたなるお) 開隆山は昭和三十年代半ばから昭和四十年代のはじめにかけて活躍した力士だそうで、後援者が開隆堂という出版社の社長だったそうです。 


欧州大戦
「汽笛一声新橋を」と明治五年九月から新橋横浜間が開通し、二十二年に至って東海道線が全通した。しかしやはり富士見酒的見解が荷主にも問屋にもあったため、依然として汽船による海上輸送が大部分を占めていた。それが欧州大戦の結果大好況時代となり、海外への輸送で船会社の利益は莫大なものがあり、大正七、八年までの海上輸送の低料金が一躍はねあがった。そこで、遂に関西の生産地も東京の問屋側も、多くは汽車による輸送にふみきらざるを得なかった。すでに旧新橋駅は東京駅の設置に伴い大正三年十二月から汐留駅と改称、関西方面の物資を一手に引き受ける貨物専用駅となったため、ここにどっと関西からの物資が集まった。酒樽ももちろん汐留着になった。汐留駅に下された酒樽は築地川をハシケにつまれて、今の中央区役所や築地警察の前を通って隅田川に出、新川に到着という形になっていた。しかしこの風景も昭和十年頃までである。トラックには勝てなかったのだ。隅田川をのぼる酒樽、それも築地川の埋立と共に我々の視界から消えさって、遠い追憶の世界のものとなって行く。(「江戸風物詩」 川崎房五郎) 


鹿茸
平安時代の薬書『薬経太素(やくけいたいそ)』は後世の偽撰といわれるが、鹿茸(ろくじょう) についての記述がある。鹿茸は、表面の毛を焼いて除き、薄切りにして酒に二晩浸したものを焙(あぶ)ってもちいるとあり、腎臓や膝の無力(萎) 、腰痛に効くと記されている。『和漢三才図会』も、鹿茸は「筋肉を強化し、精をつけ、血液や髄を補養する」とのべている。(「食の万葉集」 廣野卓) 鹿茸は鹿の袋角を乾燥させたものだそうです。 


梅干し
かつて「日の丸弁当」というのがありました。戦争中に育った人は、この弁当をよく食べたものです。昔から、梅干しは戦争に欠かせない兵糧の一つで、武士の携行食でした。西南の役の時、熊本城を包囲した西郷軍を攻めた官軍は、梅干しをなめ樽酒を柄杓からグイと飲んで果敢に戦い、遂に西郷軍を蹴散らしました。福岡県の醸造元は、せっせと熊本へ梅干しと樽酒を運んで、大いに儲けたといいます。(「今宵も美酒を」 佐々木久子) 


ビール納品
ついでにいうと、これらビール会社が各系列下のパブに酒樽を配って回るところは、それ自体一つの見もので、これらの金文字を歴々と揚げた巨大な荷馬車が、横に三頭並んだ太くたくましい栗毛の馬に曳かれて蹄(ひづめ)の音も高く早朝のロンドンを行くところ、または時代錯誤の蒸気自動車が、凄まじい蒸気を煙突から吹き出しピストンをがちゃつかせつつ恐るべき低速で進んで行くところなど、是非にも一見の価値がある。(「イギリスはおいしい」 林望) イギリスのビール会社系列のパブへのビール樽納品風景だそうですが、今でもまだやっているのでしょうか。 


酒桶いろいろ
してこの酒桶にはその大きさによって呼称があって、「六尺」という底板の直径が六尺あって二十四、五石(約四・五キロリッター)入り、「細(ほそ)」は高さは同じでも細くなって十三、四石(約二・五キロリッター)入り、「三八(さんぱ)」というと直径三尺八寸で約六石(約一キロリッター)、「壺台」というとこれは「酉元(もと 酒母)」を仕込むために用いる約二石五斗(約四五〇リッター)入り、「半切(はんぎり)」というと生「酉元」というと生「酉元」用や洗い物用に使うたらい様のものです。(「酒おもしろ語典」 坂倉又吉) 


酒は酒なり
私ははじめて酒をのんだ少年時代をおもいかえすことがしばしばある。そこには反省を含まない純粋経験があった。やがて青年になり大人になり、酒はやがて思惟の反省の飲物となった。なにかと理由をつけて酒をのんだ。こうした酒はやはりいけなかった。こうした酒には悔いばかりがのこる。酒は酒なり、といった境地に達したのは四十歳をすぎてからであった。酒の辛さ、うまさが身にしみてきたのである。去年の秋、九州の日田を訪れたとき、広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かんぎえん)に足を運び、彼の筆跡などを見ているうちに感ずるところあり、帰宅して彼が書きのこした本をすこし読んでみた。なにか<約言>という本があり、そのなかに、 道を指して、これを道と謂(い)ふ。なほ車を指して、これを車と謂ふがごとし。 という実に平凡な一句にぶつかり、これが本当だろう、と思った。文字が正確に見えてきたのである。胸にしみてくる言葉であった。このとき私は、酒は酒なり、というおもいにいたった四十歳の頃をふりかえり、酒をのむのもひとつの道ではなかろうか、と考えた。(「男性的人生論」 立原正秋) 


酌人の目もとにしほがこぼるれば 手許の酒は雫なりけり
(ある大名の小姓が燗酒を運んできて、注ぎ口から酒をこぼしたので、大名の機嫌をそこねた。そこでこの作者がこれを詠んだところ大名が機嫌をなおしたという。しほがこぼれるとは愛嬌がこぼれるという意)(「日本酒のフォークロア」 川口謙二) 


富の札
この水茶屋の一軒に、本郷の加賀様の足軽体の男が奥で遊んで帰った。あとに、紙入れが落ちているのに気がついた女は帯を締める間も忙しくあとを追いかけたが、右へ行ったのか左へ出たのか、それすらはっきりしない。紙入れの中をあらためて見ると、谷中感応寺の富(とみ)の札が一枚はいっていた。自分だけで承知をしているのも嫌なので、親方に預けて、待つともなしに、その足軽のくるのを待っていたが、とうとう姿を見せないうちに、富の日が来てしまった。気にもなるので感応寺へ行ってみると、よりもよってその札が一の富に当っていた。あわてて帰って親方に告げたが、直ぐに金に替えもしないで、或いはひょっとすると男のくるのを待ったが遂に姿は見せなかった。親方は親方で、加賀の屋敷は勿論のこと、分家の屋敷にまで行って、男を探し歩いたが名も判らないのでは、これも雲をつかむようなことなので、判らずじまいに終ってしまった。親方は、兄貴分になるような人にも相談したが、どの人も「それこそ感応寺の仏の加護であろう」と言う。親方は心気一転、水茶屋をやめて感応寺の門前に、その金子を元手にして、その女を女房にして酒屋の店を出した。女も人の女房になれることを、ひどくよろこんで、朝は早くに起きて、白粉(おしろい)気なしに素人になってよく働いた。二人の真面目さが報われてか、店は繁盛をして相当な暮しにまでなった。これは感応寺の院代の話である。(「江戸街談」 岸井良衛) 上野広小路にあった、八重の桜を塩漬けにした桜湯を出したという、水茶屋での話だそうです。 


鬼飲・了飲・囚飲・鼈飲・鶴飲
宋の石延年、字は曼卿。豪放にして飲を好み、蘇舜欽たちと一時(ひところ)飲酒を以て相競ひ、奇趣を縦(ほしいまま)にした。名づけて鬼飲・了飲・囚飲・鼈飲・鶴飲と曰ふ。鬼飲とは夜に燭を焼(とも)さず飲むこと。了飲とは飲むときに挽歌(葬式の歌)をうたひ泣きながら飲むこと。囚飲とは頭を露(あらは)し囲坐(くるまざ)になつて飲むこと。鼈飲とは毛の敷物で身を包んで飲むこと。鶴飲とは一杯飲んでから樹に登り、下つて再び飲むことである。[増補]一説に、髪を露し跣足(はだし)で械(かせ)を着けて坐つて飲むことを囚飲と謂ふ。藁束(わらたば)の中から首を出して飲み、飲んで復(また)引込めることを鼈飲と曰ふ。(「酒「眞頁」(しゅてん)」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 


独居のたのしみ
仕事は午後四時が終りで、夜に机へ向うことは年に一回か二回にすぎない。徹夜などですると、必ず失敗してしまうので、近年はぜったいにしないことにしている。−四時になると家人が来て夕めしの仕度をする。私はビールをコップに二杯飲み、このとき魚か肉の前菜をを摘む。夕めしも生野菜の皿は欠かさないし、魚、肉、卵などの料理も少量ずつしかとらず、米のめしは五日に一度くらいであり、めし茶碗に半分以上は食べない。寝るときには腹がすきかげんになっているようにあんばいする。そのほうが朝のめざめがこころよいからである。食事のあとシェリーかポルトを一杯、二杯、そしてウイスキー・ハイボールを二、三杯で仕上げをし、十時前には寝てしまう。客があると酒の量が多くなるが、客さえなければたいがい同じ量だし、独りのときは(たまに家人が来ない場合)更に平生の半量しか飲まない。−この、午後四時から寝るまでの時間は、家人と二人だけでなるべくばかな話に興ずる。仕事のことには触れないし、家人がまたとんでもない話を展開するので、その中からしばしば仕事の材料が得られる。下町者の小説の過半は、家人の経験や、見聞したことから材を取ったといっていいだろう。私が横になるのを見届けてから、家人は自宅へ帰るのである。(「雨のみちのく 独居のたのしみ」 山本周五郎) 


夫婦けんくわ
「また隣で夫婦喧嘩をはじめたそうだ。こまったものだ。毎日毎日の夫婦喧嘩に、モウとりさへに(一)行(ゆく)もめんどうだ、全体もとが焼きもちから(二)おこる事だらう」といへば「ナニサ、今日は酒からおこったさうさ」
(一)仲裁に同じ。マアマアと両方を取り押さえるの略 (二)相手をうたがって、しっと心の高じたこと、焼酎を焼くという(「江戸小咄集」 宮尾しげを 編注) 


ワカメ
このほか、特殊なものとして、島根県日御崎(ひのみさき)を中心にして作られる「のしワカメ」がある。これは「あぶりワカメ」ともいい、紙のように薄くのばして乾燥させたもの。それを和紙にのせ、遠火にかざしてあぶり、酒のさかななどにする。そのほか山陰地方では、「きざみワカメ」を郷土食としている。干し上げた新ワカメを細かく刻み、少量の醤油と酒をまぶしつけただけのもの。暖かいごはんに振りかけたり、おむすびにまぶしたりする。酒のさかなやお茶漬けの具にしても風味がよい。(「探訪ふるさとの味」 柏原破魔子) 


蒸し時間
私が醸造試験所へ入った昭和二八年頃は、もちろん一時間蒸していたのであるが、強い蒸気で十分にというのが一般の考え方で、米に性根を与えるために、といった日本刀をつくるときのような人間的な考え方の説教を聞かされたこともあった。一方、山田(正一)先生は燃料節約の主旨から、五分間蒸し、五五分留釜という試験をしている。小穴(富司雄)先生は吟醸米は一〇分くらいでよいとしている。これについては、次のようなことがあった。仕込みの近づいたある日、私は山田先生から「秋山君、二〇分蒸しでやってみなさいよ、大丈夫だから」といわれた。私も結婚したばかりであり、新宿近くから朝四時、五時にでかけてくるのはたいへんだったので、三〇分でもゆっくりできるのは有難かった。「では、そうさせていただきます」ということになった。やってみるとオーケーで、一時間蒸しと何ら差がない。それなら理屈をつけなければいけない、と試験にとりかかったわけである。三分、五分、一五分、二〇分…と蒸し時間と蒸米の糖化性との関係を試すと、一〇分くらいでは成績に良・不良のふれがみられたが、一五分くらいから、いつやってもほぼ同じ結果が得られた。これで二〇分蒸せばいける、ということに確信がもてるようになった。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


大"酒仙投手"
いかに大"主戦投手"であったかわかるが、同時に彼は大"酒仙投手"だった。酒が大好き。巨人に勝つと賞金十円をもらって、屋台のおでん屋に行き、全部使い果たして、ほろ酔い機嫌で合宿に帰ってきた。そのころ屋台ではお銚子一本三十銭だったから、十円使い果たしたとなると、三十本(三升)は飲んだことになる。"酒仙投手"のあだ名はこういう実績から生まれた。選手権試合は、いまの日本シリーズと同様に、東京の後楽園、西の甲子園という巨人とタイガース双方のフランチャイズで行われ、東京での試合を終ると、両チームは呉越同舟で東海道線の特急「つばめ」で西下した。巨人の水原、三原といった主力選手が食堂車に行くと、すでにそこではタイガースの"酒仙投手"西村幸生が、テーブルにお銚子を並べていた。その数無慮数十本。おまけに東京から大阪まで八時間の車中飲みっぱなしである。これをみて、巨人の選手たちは、「明日は西村も二日酔いで投げられまい」とホクソ笑んだ。ところが、翌日グラウンドに出た西村は、またも沢村に投げ勝って、巨人軍の面々をくやしがらせた。(「酒・千夜一夜」 稲上真美) 


小痴楽と金遊
小痴楽と金遊はいつも誰かを捕まえてお旦(旦那)にして飲んでいる。或る日、飲み屋で飲んでるやつをお旦にしたあげくお旦の家までついていっちゃった。そしたら、なんとお弔い。聞いたら、女房に死なれてやりきれなくて悲しくて独り飲み屋で飲んでいたという。それを二人は取り巻いちゃった。行ったら通夜の客がみんな帰って、子供が二人位牌の前でショボンと涙ぐんでいる。仕方なく香典千円置いて帰ってきたって。何か哀愁のある「チョイトいい話」だ。(「談志楽屋噺」 立川談志)  


飲酒のアメリカゼーション
独立戦争当時のアメリカ軍は軍隊生活に慣れさせようと兵隊に強い酒を四オンス支給しているし、農民は雇人に定期的に酒をあたえている。教会や家を建てるのも、作物のとりいれも、また祝いごとも、酒がなければできなかったという。現在からみれば大酒飲みも当時はごく当り前の酒飲みだった。にもかかわらず、植民地時代において、アルコールは社会問題になっていない。差別のない社会だったから、市民を押さえつけることができた。独立後、事情が変わってくる。独立によって社会的な規制がゆるやかになり、個人の自由が尊重されるようになった。アメリカ人は自由への渇望をアルコールで癒しはじめる。著者たちによれば、「飲酒のアメリカゼーション」である。その一つがワインやビールからジンやラム、ウィスキーへの移行だった。男が酔っぱらっても、それはその男の問題だった。社会的問題ではないし、酒が悪いのでもなかった。飲酒のデモクラシーの現れと考えたのである。酒を飲むのは男らしさの表現であり、飲んで騒ぐのも元気のしるしだった。しかし、酒飲みの天下がいつまでもつづいたわけではない。一七八四年、ベンジャミン・ラッシュという医者が、アメリカ社会を脅かす病気として攻撃した。南北戦争のころは、ラッシュの意見に同調するアメリカ人がふえて、飲酒は社会的なステータスを失いはじめる。(「晴れた日のニューヨーク」 常盤新平) マーク・エドワード・レンダー、ジェームズ・カービー・マーティン共著の『アメリかの飲酒』にあるそうです。 


御遺告
酒づくりが大規模に行われると共にその弊害も次第に目立つようになり、有名な河内の天野山金剛寺も後には僧侶たちの申し合わせによって酒づくりを中止した。僧侶の飲酒も結構盛んで、京都の東寺では南北朝時代の延文三(一三五八)年、寺院内外での碁、双六、僧坊に女人を入れることと共に飲酒を禁じた。真言宗の宗祖弘法大師空海の『御遺告(ごゆいごう)』縁起第一七、一八、一九でこれらの行為は禁じられていたのであるが、但し飲酒については空海は、青龍寺の恵果と順暁阿闍梨の言葉として次のように述べている。「大乗の人々に説かれた慈悲の教えによって病を治療する人には塩酒(塩と共に酒を飲むこと)を許す。これによってまた集まったついでに酒を勧めあってしばしば飲むようなことをしてはならない。もし、どうしても酒を用いなければならないことがあれば、寺外から酒瓶(さけがめ)でない別の容器に入れて来て、茶にそえてひそかに用いよ云々。(一二)」延文三年の布告は、近頃大師の遺誡はすたれて飲酒は「高声強言放逸濫吹(らんぼう)、逆耳驚目、道俗軽賤之基、修学怠惰之源」であると嘆き、これを禁じている。しかし僧坊によって一切停止のところと、西院のように秘用(茶にそえて飲むことか)を許す僧坊とが区別されている点が面白い。違反者は事の軽重によって処罰すると述べている(一三)。こうした布告を出さねばならぬほど寺院内の飲酒の弊害、風紀の乱れは問題化していたのであるが、これは宗教、宗派を問わず解決は難しかった。
(一二)弘法大師空海全集編輯委員会編『弘法大師空海全集第八巻』、六九頁、筑摩書房(一九八五)
(一三)「東寺僧坊法式置文案」、『大日本古文書 家わけ一○の二 東寺百合文書ほ』、五五五−五五七頁、東京大学史料編纂所(一九二九)(「日本の食と酒」 吉田元) 


杉の門序
季真は金の亀を解き、祐乗は銅の猿を彫つて、酒手に宛(あ)てし風流は伝ふれども、酒屋はいづこの誰にてか有りけん、いざ白雲の跡だになきを、独り賢き聖(かしこきひじり 一休)の歌に、又六が名をしられたる酒屋冥加こそ有難けれ。さるから其(その)名を慕ひ継ぎて、こゝに酒屋の新見世(店)あり。いでかの五文字のたうとさ(尊さ)には、にくしあるじの高ぶりて極楽の出店とも思へるならん、姿も木の端の法師にぞ有ける。世に此得意を附けむとて、撰集一部を思ひ立つ事あり。只(ただ)是酒腸の有なし(有無)を問はず、月花の方人を求むるとぞ。さればこそ此庵の夕顔に隣れども碓(カラウス)のおとも響かず、酒桶の一ッもあらず、「土盧」(酒売場)に文君が色もかざらず、お菊と呼ぶ娘もなし。人見よや、悟れる目には七宝の台(うてな)もかゞやかず、菩薩の音楽も聞かざれども、杉立てる門の極楽となれば、杖頭に銭をかけて、迷ふ人は迷ひもすらむ。只己身の弥陀唯心の上戸と悟らば、売らぬ酒屋の酒にも酔ふべしとぞ。 月花の下戸に案山子(かかし)や酒ばやし(「鶉衣」 横井也有 石田元季校訂) 「極楽をいづくの程と思ひしに杉葉たてたる又六が門」は一休の句と言われているそうです。  


冷や
その一方で、理解されなくなった言葉というものもあって、身近なところでは「冷や」という言葉がそれだ。この頃、特に若い人々が行くような騒がしい居酒屋などでは、この言葉は通じない。不用意に「お酒は冷やを一合」などと言うと、いきなり「冷酒」というのを持って来られたりするので、やや気分が食い違う。もちろん、私は冷酒も好きだし、吟醸酒を冷やした、その味わいも好きだけれども、気分と相手と料理によっては、普通の、どうってことないお酒を、冷やで、いい加減に飲みたい時もあるわけだ。そこにいきなりずいずいと冷酒がやって来ると、気が散る。そこでまぁ、「この店は、冷やという言葉を知らないな」と見当がつく時には、「あのね、つまりね、置いてあるそのままの、室温状態で持って来てもらえばいいんです」などと予め説明することになるが、そうやって言葉を費やして説明する時に、ふと国語辞典のことを考える。きっと将来は、「冷や」という言葉は、私が言ったような説明が、語釈として掲載されることになるのだろう。(「酔っ払いは二度ベルを鳴らす」 東直己) 


ビール牛2
うまく時間をあわせてドライブしたから、丁度夕暮れの空腹時に、伊勢の松坂に着いた。早速、「和田金」の主人の好意により、日本残酷物語の牛諸君にお目にかかることにした。自動車は、松坂の細くてうねる町中を抜けていって、牛舎はその、町はずれの田んぼの中にある。見事なアメ牛共が、清潔な牛舎の中に並んでいた。さて、その一頭を裏に引き出し、例のビールを飲ませるわけだが、私の差し出しているビール瓶を横くわえに、あっという間に二、三本を飲み乾した。一気に吸い上げて、泡だけ瓶の中に残す。フーフーと、酔っているのかどうか、足もともあやういが、おそらく濃厚飼料と運動不足で、歩行もあやういのであろう。(「美味放浪記」 檀一雄) ビール牛 和田金神話  


三好達治
その昔、彼が陸軍の学校を出て朝鮮の辺境守備隊にいた頃、一匹の子猫が迷い込んできた。それが残飯を与えて育てているうちに、猫は次第に成長し、遂に虎になったという話を聞いた。子猫は虎の子だったのだ。三好らしいが、また話が出来すぎているから嘘かも知れない。ともかく奔放のようで律儀なところもあり、講習会の教員室に目覚まし時計を持ち込んでくる教師は、三好以外にはまずあるまい。私も人並に結婚し、人並に新婚旅行をした。熱海箱根という誰でも行くところへ行って、二、三日で代々木の新居(空き家の時に佐藤の斡旋で見に行ったが)に帰ってみると、すっかり片付き、玄関に新しい下駄箱まで置いてある。が、それよりも目につきたのは式台の上に一斗樽があることだ。茶の間にこれまた新しい箪笥、茶箪笥が置かれ、餉台長火鉢に赤い夫婦(めおと)座布団、ここに三好と佐藤が坐ってさしつさされつで上機嫌である。私たち夫婦は全く他人の所へ来たようで、客蒲団に坐り、「まあ、一杯やれよ」と二人から杯を頂戴した。若い時虎の子を飼った三好は長火鉢の前に坐って既に夫子(ふうし)自ら虎になり、未だ手つかずの一斗樽があるぞと、腰をあげようともしない。一斗樽を飲み切るまで帰るまい。遂に二階の一間に新郎新婦と三好と三人で寝た。妻は未だ男の裸体を知らぬのに、三好は遠慮深く寝巻を辞退して素ッ裸で寝、朝ともなれば、そのまま起き出て、屋根で日光浴をしている。そしてまた酒である。この客人は何日新婚の邸宅に居続けをしたことか。(「私の人物案内」 今日出海) 


事件記者
B「テレビの記者を見ていてうらやましいのは、原稿を書いてて、一枚も書きそこないをしないことだね」
C「それより、よくいつも酒がのめるな。ああいう店がないもんかな。勘定のサイソクはしないしさ」
坪内「わたしもお店でよくお客さまから聞かれますの。新聞社の人たちというのは、本当にあんなに酒をのむのかね…」(坪内さんは銀座裏で小料理屋をやっている)。
A「各社の連中が、いっしょに酒をのむということはまずありませんね。安保騒ぎが一段落したときに、クラブでみんなが一緒にビールをのんだが、あのときがただ一度だな」(「東京だより」 朝日新聞社編 『事件記者』門田勲) NHKテレビの「事件記者」を題材にした話し合いです。B、Cは朝日新聞の警視庁担当記者、坪内は「おとか」の女将だそうです。 


[八五]海賊を見る
唐加島より多可沙只に向う海中、前路に石島あり、望めば烏の頭の如し。仁輔曰く、「此(ここ)は乙亥年の回礼使梁漢城需海賊に遇(あ)いし処なり。其の時吾随(したが)い来りてこれを見き。賊船一艘(いっそう)彼の小島に隠れ、漢城の船進み去らんとするや、賊船出でてこれを執(とら)え、載(の)する所の礼物(れいもつ)および過海粮より衣服・船隻に至るまで、全く奪えり。回礼使と軍人とは皆害せず、棄ててここを去る」と。予これを聞きて惶心あり。俄(にわ)かにして吾が船に向い来る。疾(はや)きこと箭(や)の如し。衆曰く、「此れ海賊なり」と。鼓を撃ち旗を張り角を吹き錚(かね)を鳴らし甲(かぶと)を被(かぶ)り弓を執りて立つ。予もまた甲を衣(かぶ)りこれを望見するに、小船の中に人立つこと麻の如し。我が船停帆徐行し、亮倪および宗金の船を待つ。俄かにして二船来るに及んで、賊船これを望み、北辺に縁(そ)い西に向いて過ぎ去る。吾れと二船の一行と、害を免かれ過ぎ帰(ゆ)くなり。船賊来る時に一小船あり、忽ち出でて随い帰(ゆ) く。人言う、「彼の賊船の相戦う時、崖上の賊の酒を載する船なり」 と。−
一−安芸国高碕(広島県竹原市)。 二−一三九五年。 三−梁需が回礼使として日本に遣され、「海上に於て豪賊の刧奪に遇い、僅かに死地を脱れ、赤躬にして至」ったのは、太宗十年(一四一〇年、庚寅)である。− 四−国使が携えてゆく贈り物。 五−渡海のための食糧。 六−恐怖心。(「老松堂日本行録−朝鮮使節の見た中世日本−」 宋希m 村井章介校注) 


ジャワの武田麟太郎
「武田麟太郎といふ徴用作家は、夜ふけになると、こつそりと宿を抜けて出て、警戒線を突破するのが上手でした。立入り区域外に出て行つて、森のなかなんかのみすぼらしい現地人の家で、現地人といつしよに酒を飲むのです。あの人の正式な任務は、遊園地のやうなところの芝居小屋を見てまはつたり、売物台のラムネが腐敗してゐないかどうか調べたり、さういふ監督をするのがあの人の任務でした。それで、現地人と知りあひになる率が多いのです。つい仲よくなつて、酒を飲みに訪ねて行くのでせう。しかし、警戒線を破るのは、なかなか生やさしいことではないのです。あの人は、ちよつと見たところ、漠然としてゐるやうに見えますが、あれでなかなか用意周到です。前もつて、たとえば今日の何時から何時までは、何という兵隊が歩哨に立つかそれを調査して、その歩哨の生活や気風を調べます。出かけて行く時刻には何という兵隊が歩哨にたつかそれを調べます。もし自分にわからないときには、ほかの兵隊にたづねます。その性格に応じ、たとえば気の小さい兵隊が歩哨に立つときには、大まはり道をして匍匐前進などをやつて警戒線を越える。大まかな気分の兵隊のときには「やあ御苦労。」と声をかけたりなんかいして、悠々と歩いて行きます。その熱意と、ねばり強さ、それから細心の注意、判断力、一方また大胆に進み出る決断力。ところがその目的は、現地人の家で拙い酒を飲んで、どつさり金をやつて来ることです。町の気のきいた料理屋で飲めば、自由に上等な酒が飲めるのに、それも経済といふことを考へたことでもなし、何といふ無駄なことに精魂を打ちこむ人でせうか。あと引き上戸だといつてみたとしても、翌日になつて白面で出かけて行くのですから、あと引き上戸ともいへないです。もつとも、きつ粋といふやうなものを、ぎりぎりのところ覗ふとしたら、あれもまたジャワでは一つの方法であつたかもしれないですね」 (「文士の風貌」 井伏鱒二) 井伏が聞いた戦中ジャワでの武田麟太郎だそうです。 


豪傑酒
どの人物も、むやみに飲み食いをするが、一例を挙げれば、主役のひとり、武松が卑劣な乗っ取りをした蒋門神をこらしめるために、目指す料亭へ出かけるくだりである。大した距離でもないのに、途中で目につく居酒屋へ入っては、どこでも大碗に三杯ずつ飲み、全部で十何杯も平らげるが、これだけでも、すごい量になる。そんなに飲んで大丈夫かと、案内役が心配すると、それに答える武松のセリフがみごとである。「酔って腕がなまってしまうとご心配ですが、ところがどうして、わしは酒がはいっていないと腕がふるえないんです。一分の酒なら一分だけの腕、五分の酒なら五分だけの腕、十分の酒を飲めば、どこから出てくるのかわからぬほどの力が出てくる。酔って肝が太くなっていたから、景陽岡であの虎を退治することができたんです。あのときはべろべろに酔っていたので、よく手が出たし、力も湧けば勢いづきもしたんです」さて、料亭へ着くと、また酒である。「二角持ってこい。味見してやるから」と命じる。角の原義は、四升入りの酒器の名で、二角ならば八升酒ということになるが、実際、武松が飲むわけではなく、一口飲んでは、味にイチャモンをつけるためである。いよいよ乱闘がはじまり、たっぷり酒の入った武松の力の見せ場である。まず、女主人が血祭りになる。「武松は片手で女の腰をひっつかまえ、もう一方の手では髪飾りを粉々に握り砕いて髪を鷲づかみにし、帳場越しに吊り出したかと思うと、いきなり酒甕にむかってぽんとほうり投げた。どぼんという音とともに、可哀そうに女は大酒甕のなかへまっさかさま」(引用文は駒田信二訳)(「世界文学『食』紀行」 篠田一士 『水滸伝』) 


ワイン騎士団
中世、西欧では商工業に従事する人びとはギルド(同業組合)をつくるのが習わしであった。とくにワイン業者のそれは、スペイン語でコフラディアcofradia(騎士団)と呼ばれ、はなはだ権威のあるものであった。結成は十四世紀に遡る。騎士団に入会しようとする者は入会資格を審査されたのち、古参団員から厳しい試験を課せられ、また水を飲んだらどんな悲惨な結果が待ちうけているかを聞かされたあと、生涯、水を絶つことを誓わなければならない。定められた儀式がすむと、大式典長官が新勲爵士の肩をぶどう樹の幹で軽く打ち、抱擁し、叙勲し、正統なる騎士団員であることを記した風格のある羊皮紙の証書を贈られ、ワインを飲み回し、夜の果てるまで祝典が繰りひろげられる。ワイン騎士団の活動は、現在ではその宣伝が主たるものである。著名人が来訪すると、その土地のワインを供し、能書きを述べる。その存在は、土地のベンディミアvendimia(ぶどう収穫祭)には欠かせない。その年のぶどうの女王を選ぶのも彼らの権利のうちだ。ある年、バルデペーニャスの祭りを見ていたら、女王より美人が選に漏れたことがあった。どうやら"袖の下"の問題らしいと、土地っ子は嗤っていたが…。(「スペインうたたね旅行」 中丸明) 


なぜ酒を飲むか
十八世紀イギリスの人文学者、ジョンソン博士がある日、友人のウィリアムズ夫人と話していた。ウィリアムズ夫人は、先だって彼女が催した晩餐会について語っていた。「殿方も幾人か出席なさっていましたわ」彼女はいった。「とてもたくさんお酒を召し上がっていたようでした」彼女はそれからこういってその話をしめくくった。「どうして殿方は、あんなふうにご自分を獣にまでおとしめるような振舞をなさって楽しまれるのか、わたしにはとても理解できませんわ」ジョンソン博士が答えた。「奥さん、男たちは自分を獣にまでおとすことによって、人間であることの苦痛から逃れようとしているのです。あなたのように明敏な方が、それを見抜くことができないとは、その方がわたしには不思議ですな」 (「ポケット・ジョーク」 植松黎 編・訳) 


エポペ
新宿役所通りのビルの中にエポペという小さなスナックがある。そこに体躯堂々と書きたいが最近は太り気味の一仏蘭西人がおりチョッキと蝶ネクタイをつけ、器用にシェーカーをふっている。この外人バーテンはネランという神父さまである。ネラン神父は在日三十年、「イエス論」という質の高い神学の本を書いた神学者で東大や慶応でも教鞭をとっていたが、考えるところがあってもう十年前から新宿の一角でシェーカーをふっている。「日本人は酒を飲まないと本音を出さん。私は本音で日本人と話したい。だからバーかスナックを作る」彼から店を開く動機を聞かされた時、彼の友人でもある三浦朱門と私とは反対をした。我々は彼の学識の深さを知っていたからそれを他に役立てるべきだと思っていたのである。しかしこの神父は頑固者でいつものように自分の考えを実現した。今では彼の店で若者やサラリーマンや女子社員が酒をのみつつ談論風発、宗教や恋愛を論議している。ネラン神父は若かりし頃、私と三雲たちがリヨンで留学している間、蔭になり日なたになって助けてくれた人である。(「落第坊主の履歴書」 遠藤周作) もう店はなくなてしまったようです。 


マグロ
マグロ<赤身>
日本酒派には、細かく刻んだワサビとともに"ヅケ"のような食べ方がいい。旨味が強調されるので、より相性が良くなる。タイプは、酸味のしっかりした山廃造りの純米酒。それを10度から15度くらいに軽く冷やし、若干、酒の酸味を引き立てるような飲み方をするとよい。
マグロ<中トロ>
日本酒に合わせるなら、赤身同様に出汁(だし)や酒、醤油などに漬け込んでおき、山廃造りの純米酒かふくよかさを備えた純米酒を、よりまろやかに味わうため40度程度のぬる燗にするとよいだろう。
マグロ<大トロ>
それでは、日本酒ならどのような酒が合うのだろうか。洗い流す?発想ならば、本醸造の冷酒でよいが、トロの脂の風味をより楽しむのであれば、甘口と称されるタイプで、数年間熟成させ、ほんのりと山吹色に変化しナッツ様の風味が備わっているような、長期熟成酒などがよいと思う。(「『和』食卓に似合うお酒」 田崎真也) 


こうしう
東国には とうぐは(冬瓜) をとうがん とはねてよび 又 大こん をば 大こ といふこそをかしけれ それにつきて摂州伊丹にては古酒をoこうしう又旦那をoだんなん 大坂にて朝夷奈(あさいな)をoあさいなん 京にて坊をoぼん 畿内にて牛蒡をoごんぼ 又にんじんをoにじ播磨にて粟(あは)の穂をほう 又ゐんらうをoゐんろ伊勢にて米一斗をoいつとう二斗ゥなどゝいへるたぐひ 諸国かぞふるにいとまあらず(「物類称呼」 越谷吾山 東條操校訂) 


どやし
水上 「葷酒山門に入るを許さず」といって儒教の影響もあったのかな。酒飲みは犯罪だったのですが、ところが禅宗では月に一度、お酒を飲んでいい日があったんです。その日は、酒だけでなく女性も買いにいけるという、堀を乗り越える日です。なんというのだったかな…そうそう、どやし、といったな。「どやし」という日があるんです。
玉村 無礼講ですか?
水上 そう。僧堂には接心明けというのがあります。接心とは、座禅を組んで、朝から晩まで公案をもらって、老師の前でかしこまっていなければならない修行です。年に一回あります。これが明けた日は、祇園や先斗町は賑やかになるんです。
玉村 接心の期間はどのくらいですか?
水上 一ヵ月くらいかな。明けると、(京都の)五山の雲水が暴れる。早慶戦の夜の様子を、昔銀座のビアホールで見たことがあるけれども、「ああ、これは接心明けだな」と思いました。様子が似ていますね。だいたい禅宗では酒は修行の外(そと)にあるようにいっていました。悟りを開くのに酒は邪魔だったんじゃないかな。そう決めてしまったお釈迦さまが悪いんだよ。(「下戸の酒癖」 玉村豊男編) 


閑情記趣(2)
蘇州城には南園と北園と二ケ所あり、菜の花が黄色に満開するとき見物に行くのだが、惜しいのはそこにはちよつと一杯やれるやうな酒店がないことだ。折詰を持つて出かけたとしても、冷酒で遊山といふのではまことにもつて興ざめである。でその附近に飲み屋をさがして飲まうといふ案も出たが、やはり何といつても花を見ながら熱燗でやる楽しみには及ぶべくもない。さてどうしたものかと思案投げ首の際、芸(著者の妻)が笑ひながら、明日みなさんで割前金さへお出しになれば、わたくしが自分で爐火をかついで来てあげませうといふ。一同は笑つて、結構ですなといつた。一同が帰つてから、君はほんとに自分で行くつもりかと尋ねると、いいえさうぢやないの。市中を「食昆」飩(ワンタン)売りが触れ歩いてゐるのをよく見かけますが、あの連中のかついでゐる荷には鍋や竃(かま)はもちろんそのほか必要な物は何でも揃つてゐるやうです。あれを雇つておいでになつたら如何(いかが)でせう。料理の方はわたくしがちやんとこさえておきますから、彼所においでになつてからちよつと鍋で煖めていただければよろしいし、お茶もお酒もそれでわけなくできましてよといふ。酒とお茶のはうはそれで間に合ふだろうが、お茶をわかす道具はどうするのときくと、素焼の甕を持つて行つて、甕の柄に鉄叉を通して、その鍋をはづして行竃の上につるし、薪の火でお茶をわかせば、それで間に合うわかですわ。私は手を拍(たた)いて名案だとほめた。(「浮世六記」 沈復 佐藤春夫・松枝茂夫訳) 乾隆27年(1763)年に生まれた沈復の自叙伝の一節です。 


児玉花外
酒仙児玉花外は、バイロンばりの詩人で、明治大学の校歌「白雲なびく−」を作歌して千円貰った。今ならば五万円位になるであろう。それも飲み尽くし、文字通り酒と詩と赤貧とで討死した。妻子のない気安さからも、老躯を養老院に託して、ここで純乎(じゅんこ)たるその一生を終えたのである。(「酒雑事記」 青山茂) 


剣菱
灘の銘酒。かつて将軍家御用とあって、コモをかぶって橋の下に寝ている連中も剣菱のコモというと、敬意(?)を表したもので、川柳にも「剣菱を着た奴上の座に直り」とある。橋の下にも上座があったものらしい。(「明治語録」 植原路郎) 


津の国の
○津の国の中島のえい、中津川原を堰(せ)きかねて、土持(つちもち)は得持(えも)たいで、せに持(もち)(五)は堰き越す、畚(むこ 上:ム 中:大 下:田 もっこ)の畚の其の下にこそ、千(ち)ん鳥(どり)足(六)はふね、あゝえいやらさらつとんと、えいやらさらとんととさとえいとな、えいさらえ
(五)せに持ち、銭持と解す、また先(セン)持ちにて、先棒を擔ぐ者と云ふ 
(六)足はふね、足は踏めの訛(なまり)、仕事の隙に酒に酔ふ意、「唐臼の代のちんどり足を踏め」(芭蕉貝おほひ)(「松の葉」 藤田徳太郎校註) 


白鷺も紅葉(もみじ)の中ハ酔(よう)て飛び
見渡す限りの紅葉だ。見事な景色である。白鷺もその赤い色に染まるかと思うようだ。情景はまったく違うが色が映るという意味では<もみをぬふお針四五はいのんだやう>(「柳多留」)がある。(「『武玉川』を楽しむ」 神田忙人) 


病況概要
ドクトル稲玉の「病況概要」はこのようなものだが、なお「付記」として続いている次の数行、とくに最後の一節は、じつに文字通り画竜点睛の感がある。
九月十九日、御葬儀ノ日、近親ノ方々最後ノ告別ニ際シ御柩ノ硝子ノ小窓ヲ開キタルニ、滅後三日ヲ経過シ而モ当日ノ如キハ強烈ナル残暑ニモ係ラズ、殆ンド何等ノ屍臭ナク、又顔面ノ何処ニモ一ノ死斑サヘ発現シ居ラザリキ。(斯ル現象ハ内部ヨリノ「アルコホル」ノ浸潤ニ因ルモノカ。)(「或る主治医の記録」 大岡信 「酔っぱらい読本」 吉行淳之介監修) 若山牧水です。 


玉乃海
玉乃海は前の年寄片男波である。昭和十五年の夏に大相撲が上海巡業を行った。戦地の将兵慰問である。当時は福住の名で取っていた玉乃海は、上海で酒に酔い大暴れをした。兵隊を何人も投げとばす大立ちまわり演じたが、その場はおさまった。内地へ帰ってからそのことが問題になった。憲兵を三人投げとばし、叩きのめしたという報告書が、現地から陸軍省に届いたのだ。相撲協会に圧力がかかり、玉乃海は協会から破門されてしまった。髷を切るのを待っていたように徴用令がきた。太平洋戦争がはじまって、玉乃海はガナルカナルへ持っていかれた。軍属とは名ばかりで、飛行場の人夫だった。マラリアにかかり、栄養失調で送り返されたときは、元力士は蚊とんぼのように痩せ細っていた。この幽鬼のような男に軍は召集令状を出し、中国へ運ぶのである。捕虜になった玉乃海は脱走してシベリア送りをまぬがれる。這いずるような逃亡をつづけて内地に辿りついた玉乃海は、なんとかして相撲協会にもどりたいと思ったが、永久追放処分を受けているからどうにもならないのである。それでもこの男は諦めなかった。九州にいてアマチュア相撲を取りつづけた。売りこんで学校や会社の相撲コーチをやった。そして絶えず相撲協会と連絡することを忘れなかった。復帰したい一心の執念である。そうして五年がたった。昭和二十五年の春、大相撲は人材を必要とするから、もどってこい、という連絡が、二所ノ関親方(玉ノ海梅吉)から届いた。躍り上がって喜んだ玉乃海は、昭和二十五年夏場所、幕下最下位から再出発した。玉乃海は優勝一回、殊勲賞二回、敢闘賞三回の成績を残した。引退して片男波部屋を興し、横綱玉の海を育てた。波乱に富む相撲人生である。(「相撲百科」 もりたなるお) 


コロリ予防の薬酒
蘭医二宮涼閣はコロリ予防の薬酒を新製して、その調合法を発表した。
 (コロリ予防薬酒)コロムボ、幾那(キナ)、肉豆○(くさかんむり:上 うかんむり:中 元攵:下)、唐縮砂、各細末、赤葡萄酒、アルコール 右漬出し毎日三度四十五滴づゝ、上酒一杯に加へ食前に用ゆ。酒を嫌ふものは、香気ある煎茶に滴し用ゆ、小児は五六滴より十四五滴まで、歳に応じ薬汁に和し与ふべし。
 なんだか利きそうもない薬である。思うに二宮涼閣は、自分が飲(い)ける口なので、かようなアルコール本位の飲みものを考案したものであろう。漢方医もま負けない気になって、いろいろの模索的の処方を試みた。しかし適薬と認むべきものを発見することはできなかった。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 幕末にコレラが流行したときのエピソードだそうです。 


麦酒の一報
麦酒の一件につき又一報を得たり。或人日本にて製したる麦酒若干(じゃっかん)本を、一本十二銭五厘の安価にて、麦酒商人に売捌(うりさば)かんとせしに、麦酒商人は、日本人の手より買取ることを嫌ひ、十二銭にても十銭にても、引取ることは好まずとハネつけたり、依て此製造人は、已(や)むを得ず、横浜の西洋人に談判して、一本十二銭五厘の割合にて売渡したり。西洋人は六銭二厘五毛の口銭を取りて、直に之を日本の麦酒商人に十八銭七厘五毛の割を以て尽く売捌きしが、日本の商人は悦んで之を引取りたり。かかることは当時何品に限らずありがちのことにて、今日よりこれを顧みれば、発憤を禁じ得ず。(「明治事物起原」 石井研堂) 

駿河国安倍の市
市には市司(いちのつかさ)という管理者が置かれ、商人から一定の手数料を徴収している。計量に使用する度量衡器も、毎年二月に大蔵省(諸国は国司庁)の検定を受けさせている。これも、商のトラブルを防ぐためで、現代の計量法の規制と変わらない。市は正午に開かれ、日没前になると太鼓が九回ずつ三度うたれて閉市をつげた。(『養老関市令』)。
市では、仕切られた区画によって販売する商品が定められている。藤原京の市では、出土した木簡から、穀物(コメ・ムギ・アワ・マメ)、魚介類(干アワビ・干イワシ)、野菜(アサツキ・ダイコン・サトイモ)、海草類(ワカメ・ミル)、山菜(ワラビ)、果実(クリ・干ガキ)、酒などが売買されていたことが確認される。(「食の万葉集」 廣野卓) 


楽しきかな刑務所
一八五四年、イギリスのランカシャー州ニュー・ミルズのトマス・ハンドフォードは、この地方の刑務所をこよなく愛し、これを買い取って自分の住居にした。彼は泥酔者兼密猟者として、この刑務所にしばしば厄介になったことがある。その後飲酒と小さな犯罪からすっかり足を洗い、まじめに働き十年後には、かつて厄介になった刑務所を買い取るに必要な資金を貯えることができた。彼は買い取った刑務所を自分の住居とし余生をそこでおくった。かつての刑務所はいまもなおハンドフォード家の所有するところとなっている。(「世界奇談集」 R・リプレー 庄司浅水訳) 


燗のぐあい
昔、文壇の酒の雄、鈴木三重吉と、画壇の酒の雄、牧野虎雄と、鈴木家で酒の手合せをやつたことがあり、そのとき酒の肴として用意されていたのは、もろきう数本だけであり、それをさかなに、三、四時間飲み合つたが、そのとき牧野虎雄が舌を捲いたのは、初めから終わりまで、酒の燗のぐあいが全部同じであつた、ということをどこかで読んだ記憶があるが、「燗」にたいするこれだけの配慮は、飲屋のマダムや他人に望むのは無理だとしても、自ら燗する場合は、そういう配慮も亦たのしい限りである。(「雪明りの燗」 小田嶽夫 「酒恋うる話」 佐々木久子編) 


アサヒスーパードライ
近年大ヒット商品といえば、誰でも思い浮かべるのが「アサヒスーパードライ」だろう。業界3位に低迷していたアサヒビールのシェアをいっきに広げ、2位に躍進する原動力となったのが、このビールだった。しかし、このスーパードライ、最初に提案されたときには、経営会議で発売を却下されたのである。というのも、当時(昭和61年)、同社では、新発売の生ビール(通称コクキレビール)のセールスに全力を傾けている真っ最中。とにかく時期尚早ということで、発売は見送られたのである。しかし、"味"に自信を持っている開発スタッフは、その後も何回か上程。経営陣に試飲させたところ、やっとGOのサインだ出たのだった。あとは社内でも誰ひとり、予想しなかったほどの売れ行きをみせ、一躍"時代の商品"へ。ちなみに、「この味が、ビールの流れを変えた」というコピーは、発売のGOサインを出した樋口廣太郎社長みずから考えたという。(「ヒット商品笑っちゃう事典」 モノマニア倶楽部[編]) 


我が禁酒やぶれごろもになりにけり
ある時「向島の眺め」という狂文を書いた返礼に、神田昌平橋付近の料亭に招かれ、例のごとくヘベレケに酔って明神坂まできた。どうしてもあの坂が登りきれないで、路傍の石に腰かけ、そのまま熟睡して夜霧に目がさめて、帰宅したのは明けがたであった。このことを門人等が聞きつけて、四五人打ちそろい、意見にきた。「先生、あまり召しあがっては、おからだにさわります。かつまたお身分にもさわります」とニガリきった。「お身分か。はッはッ…、しかし毎度の意見で、面目ない。この後は断然禁酒する」と何度目かの誓いを立てた。門人等は、くれぐれ念を押して去った。入れちがいに肴屋が、初松魚(はつがつお)を持ってきた。「飛切り上等の初松魚、一杯召上がれますぜ」というのを、蜀山人はたった今の誓いを忘れてしまった。刺身に作らせて、グビリグビリやっているところへ門人たちが、引返してきた。蜀山人は、先手をうって、「鎌倉の海より出でし初松魚、皆武蔵野のはらにこそ入れサ、むつかしいことはいいッこなし、君等も一杯どうだネ」と盃を差した。門人等は、「先生、只今お誓いになりましたのは」「わるかった、許してくれ、おわびのしるしに」と筆をとり、我が禁酒やぶれごろもになりにけりさして下さいついで下さい と書いて示した。つまり誓いを破ったのを、詫びているのではなく、誓いを立てたことを、詫びているのであった。門弟はあきれて去った。(「江戸から東京へ」 矢田挿雲) 


未成年者飲酒禁止法(2)
下って明治の末に、未成年者禁酒法が制定されることになりましたが、その当時の議会の質疑応答によりますと、「芸妓などが酒席で飲まされるのは違法かどうか?」「いや、業務用は已むを得ますまい」「神事用の御神酒は?」「それも特別の場合ゆえ、未成年者でもよろしい」という抜け道がはじめからできていたようです。またこの法案に先立って。有る代議士が堂々と酒の功徳をたたえこれに反対したとのことです。(「酒おもしろ語典」 坂倉又吉)  施行は大正13年だそうです。 未成年者飲酒禁止法 


清水如水の宅地
横山町に住みけりといへり。如水は藤根堂(とうこんどう)と号す。狂歌に名あり(つねに酒をたしめり[嗜めり]。酔はざるときは、しほしほとして、猥(みだ)りに言語(ごんぎょ)を発することなく、酒を飲むときは、のびのびとして勢ひよく、はひあるきければとて、人名付けて藤根堂と呼びけるとなり。按(あん)ずるに雄長老(ゆうちょうろう 英甫永雄[英甫永雄、一五四七−一六〇二。臨済宗の僧]・卜養[半井卜養、一六〇七−七八、幕医]、また、近くは九州の甚久(じんきゅう)法師[一六四八−一七二一]など、おのおの狂歌に名ありて家集(いえのしゅう)もあれど、この如水は名さへしる人まれなり)。如水一時(いちじ)、大和国法隆寺に蔵するところの賢聖の瓢(ひさご)といへる器物を見て後、瓢に彫物(ほりもの)をすることを得たり。しかも鈍刀を用ひて、その巧(こう)もつとも絶妙なり。よつてその需(もと)め多かりければ、この瓠瓜(ひさご)のために、身を押さへられたりとの意にて、みづから迷淵蟠鯰侯(めいえんばんねんこう)とぞ名のりける。住家より東に薬研堀(やげんぼり)といふところあり。その辺(あた)り知る人のもとに行きて、楼上より遠近(おちこち)を見やりて、 見おろせば気の薬なり薬研堀月は白湯(さゆ)にてかげは水にて また、あるとき、漁夫(ぎょふ)の辞(ことば)の意をよめる、 世はすめり我ひとりのみ濁り酒(にごりざけ)酔ふて寝るにてさふらふの水 享保十三年戊申[一七二八。正しくは、正徳六年(一七一六)]正月三日朝起きて、 公事(くじ)喧嘩(けんか)地震雷火事晦日(みそか)飢饉煩(わずら)ひなき国へゆく かくよみて、同じ五日の暮れ方、剃頭(さかやき)、湯あみし、太神宮を拝し奉りしままに、終はりをとれり(行年七十二歳。いまも浅草金竜寺に墓碑あり。石をもつて瓢(ひさご)の形に造立す。如幻菴(じょげんあん)東湖(とうこ)老和尚、この如水が臨終の記をかかれたりといへり。按ずるに、墓碑に一陽如睡(じょすい)とあり。水・睡同音なれば、その臨終の相を表して、没後文字(もつごもんじ)を改めしならんか)。(「新訂 江戸名所図会T」 一古夏生 鈴木健一 校訂) 


「うまい」か「うまくない」か
私は日本酒はたまに少量しか飲まない。ビール、ウィスキー、ハイボール、ブドー酒、あとはシェリーとかポルトとか、ドム・ブランディの類を食事の前後に少量やる、という具合であるが、味とか質とかを吟味する能力は殆どない。「うまい」か「うまくない」かで区別するだけだ。それは若いじぶんに、「フランスのヴァンを飲むなら安いのに限る、高価な品は送られて来る間に味がおちる」からだと、長くフランスにいた美術評論家Y氏に訓されたことによるらしい。(「あまから」、昭和三十六年一月)(「雨のみちのく 独居のたのしみ」 山本周五郎) 


梔子・薔薇・牡丹
私にとってはみんな酒の肴である。自分がつくった順番から書いている。梔子(くちなし)は夏の花だが、あの白いビロードのような六弁花はいい香りがする。これを二杯酢にして三時間ほど。容器は青系統の無地の皿、それにとって日本酒の冷やかウイスキーのあいだにつまむ。芳香と舌ざわりとサッパリした味がいい。薔薇は目下、畑のへりに三列、三十三株あるので色とりどりの花にめぐまれていることになる。五月頃の薔薇は大きいのになると直径十二、三センチになる。春のように大輪ではないが、秋も冬も夏も、先ずは四季を通じて大概は咲いている。その花びらを失敬して、これも二杯酢にする。更に砂糖を少しふりかける。容器は花の色によって然るべく按配する。ガラスの容器が薔薇には一番無難のようだ。ただ梔子にしろ薔薇にしろ、その原色を大事にしたいから醤油の代わりに塩を用いることもある。牡丹は十二株、黒紫、白、真紅、ピンク、黄色などがある。咲きかけのは残酷だから間もなく離れようとしている花弁を採って、これもサッと湯通ししての二杯酢、そうして酒をちょっぴり入れる。−
牡丹は毒気が少しばかりある気がする、これらを肴にしての独宴を重ねても私は未だ死んではいない。(「口福無限」 草野心平) 


不幸の幸福
酒のうまさを知ることは、幸福でもあり不幸でもある。いわば不幸の幸福であろうか。とは種田山頭火が日記に書きつけていた言葉だ。酒好きの山頭火は、そのようなことを考えながら、托鉢の旅をつづけた。寄付の多かった日には眼を輝かせて酒を買うのだが、その酒の美味さが、ついに度を過ごしてしまうことがあった。それでも度を超さない酒は、彼の心を慰めなかった。不幸の幸福である。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


八行
酒に八行あり。茶に十徳あり。酒を酌(くん)で。人を愛するは仁也。盃をあげて。客を饗(もてな)すは信也。酔て身を忘るゝは勇也。賓主(ひんしゅ)相譲るは礼なり。本性を錯(たがへ)ざるは智なり。「酉呈」(やみ)て相勦(いたわ)るは義なり。もし此八行を欠くときは。その本乱れて。末をさまらぬ盃あり。狂(みだ)れてきのふの非をしらざれば。尻の居(すわ)らぬ高脚杯(こつふ)あり。酒筵(しゆえん)に招れて。遅く到るときは。信を失ひ。酔て相争ふときは。義を失ひ。醒(さめ)て勧解(わび)るときは。勇を失ひ。酩酊して相罵るときは。仁を失ひ。強(しひ)て飲せんとするときは。礼を失ひ。酒量なくて過すときは。智を失ふ。されば懊(あやまち)を覚り非をしるは。酒にしくものはあらず。小人罪なし。盃を抱きて罪あり。且(かつ)その咎(とが)は酒にあらず。飲ものゝ賢愚にあり。人「手偏+呉」(あやまち)あるときは。これを酒に帰す。酒の故に免(ゆる)さるゝときは。飲ざるにます福(さいはひ)あり。己(おのれ)をしらざるものは。改るによしなし。かゝる白物(しろもの)も。醒てはじめて。その非をしるは。酒の徳なり。人その乱酒の醒たるごとく。日々におのが非をしらば。過(あやまち)をふたゝびするものはあらじ。(「胡蝶物語」 曲亭馬琴) 


硝酸塩の作用
具体的な水の効能としては、生「酉元 きもと」や山廃「酉元 もと」の早湧き防止効果があげられる。これは仕込水中の硝酸塩が還元されて亜硝酸になり、これが酵母増殖抑制作用をもつためである。温暖な土佐の須崎市で、安全に山廃「酉元」がつくられてきたことが、井水中に含まれていた硝酸塩の作用の発見につながったもので、後世、安全醸造のために大きな貢献をした。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


よした!
A「僕が酒を飲むと仕事をするのが嫌になるんだ。だから、モウ断然よした」
B「偉い!飲むのをよすとは偉いぜ!」
A「いや、君、仕事の方さ」 (「ユーモア辞典」 秋田實編) 


鯛のうろこ
活きのよい鯛は、身の刺身はもちろん、どんな料理法にしても鯛の旨味が堪能できます。また、頭の潮汁(うしおじる)は酒蒸し、つけ焼きにする兜焼きとそれだけで一品となり、中骨は塩焼きに、内臓は掃除をしてしょうが煮や塩辛に、白子はさっとゆでてポン酢に、真子(まこ)は炊いたり、塩辛にするなど、捨てるところがありません。おもしろいのはうろこを洗ってざるに上げておき、一六〇度くらいの油で揚げて軽く塩をふりかけていただくと、これはもう、乙な酒の肴となります。(「辻留のおもてなし歳時記」 辻義一) 鯉のうろこもいいですね。 


製麹機
最も神秘的な製法の一つである麹づくりでは、昭和三四年頃に、名古屋の河村稔氏らが通風式の品温コントロールによる自動式の製麹機を実用化した。麹づくりの機械化は醸造試験所の創立当時からのテーマで、高野淳治氏によって図面が引かれたことがあった。それから五○年経って、にわかに実用化が計られ、普及したものである。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


DOV他
リゾープス濁り酒(DOV どぶ)は、醸造試験所の佐藤信氏と大場俊輝氏の開発した酒ですが、見学者用に試験所では二〜三年に一回は製造させられました。カビの一種のリゾープスで麹を造るのですが、この麹菌は生米に生えるので、リゾープス菌をあらかじめ液体培養しておいて、平べったいタンクに生の白米を入れ、これに培養した菌をよくまぶして、室温に一夜置いておくと次の日に麹ができ上がります。この麹を使用して普通の酒仕込みの要領で、醪を造ります。十日間くらいで、アルコールが八パーセントくらい出たら醪の温度を低くして、炭酸ガスが逃げないように粗漉(あらご)しします。そして壜詰めしたらお湯の中に瓶を沈めて温度を高くして火入れ殺菌します。そうするとガス入りの「リゾープス清酒」の完成です。リゾープス菌で造る清酒は、酸味が効いて、冷やして飲めば清涼感があり、おいしいものです。これを改良してリゾープス薄濁り清酒も製造しました。粗く搾った清酒に炭酸水を加え、薄濁りとしたもので、さっぱりとして、見学者からの評判もなかなかのものでした。ほかにも醸造試験所では、私の研究室以外にさまざまな製品の研究開発がおこなわれていました。仕込み水の一部を酒で置き換えて仕込んだ味の濃い佐藤先生の「貴醸酒」、シャンパンの製法を清酒に応用して発泡性の清酒とした大塚先生の「サケ・ムスー」、清酒ベースリーキュールとして、吉澤先生の研究室で開発された「サムライ」、「ピンクロック」、酵母の性質を利用した大内先生の「桃色にごり酒」などいろいろありました。(「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 


柳亭小痴楽
酒で死んだ小痴楽だったが、アルコール類はビールしか飲まない。しかし相手はビールといっても半端じゃない。ガブ飲みだ。私の家に来て大ビンを二ダース飲みやがった。小痴楽曰く、ビールは俺にとって薬だという。少しぐらい腹が痛くてもビールを飲めば治っちゃう。「早い話が兄(アニ)さん、ビールは俺にとって薬だよ」。そして言ったネ。「健康保険で売らねえかねェ」って。いい発想だ。(「談志楽屋噺」 立川談志) 


誓文
ところが、なんとこれが禁酒の誓文であった。しかも、読む程に、実に上手な節酒の誓いであることが読めたのである。簡単に、現代風に、要約してみると、「生来酒を好み、時には、甚しい故、家業を守れなかったら恐れ多い。依って、禁酒致す可き筈だが、兎角、移り替る心故、好きな道にひかれて、偽りになっては申訳ないから、左の条項の通り取り極め申します。 一、隔日に相用い、決して大酒はしない。休日(酒を飲まぬ日)に酒席があっても、付合いだけのこととし、盃取り上げても、酒気廻ることは堅くいたしません。 一、翌日振舞事あるのが知れたるときは、その日は見合わせて禁酒、決して二日続きにて飲酒はいたしません。 一、よんどころなく断ること出来ず、禁酒の日に止むを得ず飲んだときは、翌日から二日、休日(禁酒)いたします。右の条目、心得違いない様に、終命を限りに、堅く相守り申します」という次第で、御先祖霊前に禁酒の誓をたてるが、誓を破ったら、宜しくお見守り下さいという節酒の誓であり、これは、原文のまま、銀座のバーでも、壁に張りつけるのも一興と、大いに感心したものである。(「節酒」 西川五郎 文藝春秋巻頭随筆'66.6) 叶シ川の九代目甚五郎重善による天保九年(一八三八)「御先祖様代々諸霊様宛」「誓文」だそうです。 


胎児性アルコール症候群
「酔っぱらってナニをすると、おかしな子ができる」といわれていますが、これはまんざらウソでもありません。特に女性の方に問題があります。ふだん酒をよく飲んでいる母親からは、胎児性アルコール症候群の子供が生まれやすい、というのです。これは、国立武蔵療養所神経センターを中心とする、全国の大きな病院約二千五百の調査結果から判明しました。この、胎児性アルコール症候群の子供たちには知能障害があり、その半数は知能指数が五十一−七十五(百が平均)で軽度の精神薄弱、残りはそれ以下。さらに、出生時の体重も二千五百グラム以下が半数を占め、三分の一が小頭症でした。妊娠中に酒を飲んだら、必ず異常児が生まれるというわけではありませんが、飲まない人に比べて、その危険性ははるかに高いことは確かですから、飲酒はつつしんだほうがいいでしょう。(「雑学おもしろ百科」 小松左京・監修) 酩酊児  


楽老庵主像賛
滄浪(そうろう)の月す(澄)めらば酒におしむべし、くも(曇)らば茶に遊ぶべしと、二ッの間になぐさむは楽老庵のあるじなり。これをゑがき是に賛して、 酒に待ち茶に待ちかへて月二夜 といへるは、その友紫隠里の某がもとめに応ずるなり。(「鶉衣」 横井也有 石田元季校訂) 


「下級武士の食日記」(2)
十一月十九日
終日雨天。朝本屋来る。さて今日は少々風邪気身ゆえ中七に酒弐百文の買、焼とふ婦(焼き豆腐)はうれん草(ほうれん草)のしたし物にて呑、大に酔、八ツ時頃宿状着、夕方叔父様は湯屋え御出なられ候
七月十六日
晴天大暑し、叔父様房助豊吉予五人連にて、浅草広小路鏑川堂えたむしりやうじ(田虫療治)当に出かける、まず上野手前にて餅を喰ひ、それより浅草にて月若にてそばを喰、それより医師の方にて療治を見物いたし貰、観音え参詣おばけの見せ物を見物いたし、その所より少々夕立いたし、少し向にてあなこ、いも、蛸甘煮にて酒呑飯を喰、それより吉原見物に行、初ておいらん道中を見る、西瓜一切喰、それより両国橋へ行(角力の見物など略)
九月九日
(略)節句の事ゆえ、直助薬喰し、小豆の煮汁と小豆共に少々貰、赤飯を焚く、至極よく出来候然ところ、時期にて魚類はこれなく淋し、鰹節にて祝ひ候、また夕飯に酒を一合奢り、焼きとふふにて呑(略)(「下級武士の食日記」 青木直己) 


身欠き鰊
さて、去年の春だったか、弘前の鉄道線路に近いノレン街(というより、半屋台のような汚い飲屋街だが)で、ボンボン燃える石油ストーブにあたりながら、飲んだ地酒の暖かさが忘れられない。相客達は大抵、身欠き鰊を長いまま、焙りもせずに、味噌をからませてサカナにしているから、驚いた。大まかで、放胆な、津軽人の磊落(らいらく)さである。私も負けてはいられないから、その身欠き鰊を所望して、酒のサカナにしたが、なるほど、うまい。うまいばかりじゃない。爽快な気持ちになってくる。(「美味放浪記」 檀一雄) 


相撲と歌舞伎
九代目団十郎が伊藤博文の宴席に招かれて、その末席に座った。相撲の大達という力士がその足の指に杯をはさみ、団十郎に「飲め」といったという。そんなことが許される雰囲気が残っていたのである。相撲は歌舞伎より二年早く「天覧」があり(明治十八年)そのことで芸人を見下していた。(「芸人その世界」 永六輔) 


くいくい
酒といえば、私は先付の時には、喉(のど)にしめりをくれるためにビールをすこし頼んだのだが、森(瑤子)さんは、「私は、はじめからお酒にして頂戴。いえ、お燗はしないの。グラスに氷を入れて、ひやで持ってきて」と言い、くいくい、と見ていても気持ちのいいテンポでグラスを傾けていた。私はわりあいゆっくりと盃を重ねていくほうである。(「美女・美食ばなし」 塩田丸男) 


楽天主義と厭世主義
ある人がバーナード・ショーに楽天主義と厭世主義について聞いた。ショーの答。「酒が半分入っているビンをテーブルの上に置いてみればすぐわかるさ。『しまて、まだ半分ある!』というのが楽天主義者。『しまった、もう半分しかない!』こういうのが厭世主義者だ」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


プロリルエンド・ペプチダーゼ
私たちの記憶や学習機能に重要な役割を果たしているのが、大脳の海馬という部分にあるバソプレッシンという神経ホルモンです。この物質を分解するプロリルエンド・ペプチダーゼという酵素が 働きすぎると、記憶や学習能力が低下することがわかっています。実際に医薬品業界でへ、認知症の治療薬として、このプロリルエンド・ペプチターゼ阻害薬の開発が行われています。最近になって、月桂冠総合研究所が、日本酒の成分にプロリルエンド・ペプチダーゼの働きを阻害する3種類ののペプチド(たんぱく質の酵素)を見つけました。そこで、このペプチドをマウスに与えて学習能力のテストを行ったところ、ペプチドを与えたマウスのほうが、与えないマウスよりも記憶や学習する能力においてまさっていました。つまり、ペプチドが記憶や学習に有効なことが確認されたのです。(「美しくなる日本酒」 滝澤行雄) 


仕出屋
さっきも書いたが、京都で嬉しいのは、仕出屋が発達していることだ。例えば、「菱岩」や、「いづう」や、「河しげ」の半月弁当等。それを抱えて、あとは一瓢の酒。高雄の神護寺に出かけたり、嵯峨の二尊院に出かけたり、大原の寂光院を訪ねたり、醍醐の醍醐寺を訪ねたり、石川丈山の詩仙堂を訪ねたり、京都は物見遊山の、その言葉がぴったり似つかわしい行楽が出来る町である。(「美味放浪記」 檀一雄) 


”四季醸造”
栗山 ええ、江戸末期から、酒屋は、寒造り一辺倒になってしまった。寒造り以外で酒造りをしたら、幕府がだめと言うものだから、寒造りしかできないものだと思ってしまったんですね。しかし、歴史をたどってみると、江戸以前は、四季醸造をやっているのです。特に夏に酒を造っているわけです。なぜかというと、日本の神祭りは農業神を祭るのが多いですね。台風があったり、水害や、干ばつや、今年みたいな冷夏など、こういうものは全部神様の仕業と考えたのが古代ですから、それなら神様を慰めねばいかん。慰めようと思ったらお祭りせなあかん。お祭りするためには酒を造らないかん。この三段論法で、とにかく夏に酒造りをしていました。しかし、夏の酒造りは、腐敗し易く酸っぱい酒ができやすかった。それを神様に供えたんでは申しわけないというので、暑いときに、どのようにしたら良い酒ができるんだろうかと一生懸命、造り方についていろいろな工夫をしています。それで日本の酒造りは発達したんですね。にもかかわらず江戸の後期から寒造り一辺倒になったんです。(「酒を語る」 斎藤茂太・佐藤陽子・野白喜久雄・栗山一秀・濱本英輔) 


強い酒
尤も、幾ら優秀な酒でも、ただひたすらに度を過すことを願って飲んでいれば、しまいには酔い心地どころではすまなくなる。どんなことになるか、具体的な例を挙げて説明すると、今は銀座の松屋裏にあるはち巻岡田という小料理屋がまだ尾張町の千疋屋の所から入った横丁にあった頃、ここの菊正は強いので知られていた。勿論、まだ酒の中に政府の命令でアルコオルを入れたりしなかった頃のことで、全く米だけで作った酒が強烈なのだから、これは得難い飲みものだった。一口含むと、目が覚めるようなのである。そしてこの店の仕来りでは、客が空けたお銚子は下げずに空のまま、卓子に出しておくことになっていたので、客が自分が何本飲んだか、勘定するのに都合がよかった。所で、そういう強い酒だったから、これは先ず五本飲めば充分だった。そしてそれを十本、つまり一升飲むのがこっちの長い間の念願だったのである。それも、こうした大変な酒のことだから、時間を掛けて飲めば充分にたのしめた筈なのであるが、生憎、その頃の岡田は午後もかなり遅くなってからでなければ店を開けなくて、そして割合に早く店を締めた。又当時、これ程の酒は他所のどこにも売っていなかったから、一升飲みたければどうしてもそれを岡田の限られた営業時間内に飲まなければならず、それで無理することになったのである。五本までは、いつもやっていることだから何でもなかった。併しそろそろ急がなければならなくなって、六本、七本と飲んで行くと、いつも決まって七本目と八本目の間で辺りの景色が俄に霞み出し、卓子の上に並んだお銚子が観兵式を始めて、その後て歯を食い縛って追加を注文しても、もう卓子のお銚子が八本になったとか、十本になったとかいうことを確認することが出来なかった。或る時、一度だけ、間違いなく十本目と数えるだけは数えて、それからどうしたか、全然覚えていない。併し、店で後で聞いた話を綜合すれば、生ける屍となって家に帰ったらしい。(「酒と人生」 吉田健一) 


[五四]朴加大(はかた 博多)に留まる
−老元帥、管領民部少平万景をして、夜酒二十桶を呈し、魚果を排(なら)べて去らしむ。翌日の夜、新探提もまた万景をして酒十五桶を呈せしむ。元帥、或いは探提と称し、或いは節度使と称す。老元帥は父にして原義珍、新探提は子にして原義俊なり。国主義持は義珍の三寸少子なり。−
三−管領とは、九州探題が博多の都市支配のために置いていた"石城管事"のこと。− 五−将軍足利義持。 六−三寸は伯叔父、少子は末の子。(「老松堂日本行録−朝鮮使節の見た中世日本−」 宋希m 村井章介校注) 


スタルヒン
私は父のことが知りたくなって、当時の関係者に話を聞くなどして、伝記の形で『白球に栄光と夢をのせて』など二冊の本にまとめました。今も新たに取材しているところです。ところが、死についての謎の部分があるのです。公には、旭川中学校時代の同窓会があって、そこで酒を飲み、そのまま車を運転、世田谷の三宿で、二子玉川行き玉川電車に衝突、直接の死因はハンドルが胸に突き刺さったため、となっています。しかし、調べてみますと、その日は同窓会などなかった、という証言が出てきたり、あったけれど酒は飲んでいなかった、いやビールを一ダースは飲んでいたなど、まちまちなのです。何より、なぜ三宿にいったのかがわかりません。家への帰り道とは、まったく方向が違いました。知りあいがいたわけでもありません。母は「自殺したに違いない」と悲観的でした。球界を去ってから、薬屋を始めたのですが、父はたとえボール拾いでもいいから野球の世界に残りたかったのです。それさえかなわなかったことを悔やんでいたのではないかと母は思っていました。でも真相はわかりません。私が今も野球にまったく興味がわかないのは、父の突然の死のせいかもしれません。(「血族が語る 昭和巨人伝」「ビクトル・スタルヒン」 ナターシャ・スタルヒン) 


酔いどれ怪我をせず
【意味】酔っぱらいは案外大けがをしない。無我無心の者は、かえって致命的な失敗をしないもの。【参考】酒の酔い落ちても怪我せず (「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


ロンダ
また、恋人の家の窓辺まで歌い奏でながら練り歩く、いかにもスペイン的な光景も「ロンダ」という。この場合、恋人のためにロンダしてもらった男は、「全員に酒をおごる」pagaar una ronda のが習わし。(「スペインうたたね旅行」 中丸明) 


盗人の寄合
盗人共寄合をつけて、十余人寄合て酒盛をして、大きに騒ぎちらし、段々仕まいになりて、銀の盃が紛失して、亭主大きに腹を立て「コイツラは憎い奴だ。人のうちへ寄合て酒を喰ふて、人の物を盗んだ。これほどの心底をあかし合ふた中に、盗人があらふとは思わぬ」(民和新繁・安永十・盗人の寄合)(「江戸小咄辞典」 武藤禎夫編) 


タイ・ウイスキー
まずはタイ・ウイスキーの代表格「メコン」から。国産第一号のウイスキーながら、いまだに人気ナンバーワンを誇る酒だ。実はこれ、ウイスキーと称してはいるものの、原料は麦でなく米である。もち米とエチルアルコールをベースに、砂糖キビのモラセスで味をつけた、独特な酒なのだ。系統としてはラム酒に属し、専門的にはアラックと呼ばれる。だから、ウイスキーだと思って飲むと、ぜんぜんウイスキーっぽくないので、期待を裏切られることうけあいである。似たようなタイ・ウイスキーには、「ホン・トン」と「セーン・ティップ」があるが、「メコン」の完成度の高さに比べたら、イマイチだ。やはり「メコン」が一番うまい。(「女二人東南アジア酔っぱらい旅」 江口まゆみ)  メコンコンウイスキー  


半切の大文字
そこへ杜氏さんが用意が出来たことを知らせに来たので再び酒蔵へ行く。そこへ出してある半切(はんぎり)を指して、奥さんが、「大文字の晩は、これに映すんどす」と言われる。成程、それはいかにも京都の酒屋さんらしいと思いながら、私は写真をとらせて貰った。
(「京の酒」 八尋不二) 京都吉田河原町にある富士千歳・松井酒造での風景だそうです。 大文字  


家斉
家斉(いえなり)もまた、初代家康を見習ったらしく、寝床でがんばるだけでなく、健康にも細心の注意をはらった。毎朝、庭を散歩し、乗馬や打毬で汗を流し、冬でもできるだけ薄着を心がけた。とくに馬術は巧みで、鷹狩りにいっても、老練の鷹匠ですらかなわないほどの奥義をきわめていたともいう。また、安房嶺岡の天領で育てていた乳牛からとったバターやチーズを食ずるなど、食べ物にも気をつかった。酒は好きだが、三杯以上は絶対に飲まなかった。ほとんど完璧な健康管理である。これで大奥にせっせとかよったのだから、なにか胸うたれるものがある。(「徳川四百年の内緒話」 徳川宗英) 


とびろく
○畿内にて。ごやをぎと云(いふ) 江戸にて。ときんばら又。ぼたんばなといふ 西国にて。きくいばらと云 案(あんずる)に 花は白牡丹(しろぼたん)に似て小なる物なり 故にぼたんばなといふ歟(か) 又とびろくといへる酒は此花の色に似たりとて 或は「酉余」「酉靡」漉(どびろく)或は「酉余」「酉靡」緑等の説有 松岡氏 とぶろくは 濁醪(だくろう)の転語かといへり 文選 に濁醪 にごりざけ と訓ず 関西にては どびろく と云 関東にては どぶろく とも にごりざけ 共いふ 松岡氏の説によるべきか(「物類称呼」 越谷吾山 東條操校訂) 


ブフェトル・ドナレア Bufetup "Dunarea"[ルーマニア語] <意>居酒屋ドナウ亭
「あら、あそこに小屋がある」彼女が歩きだしたので私は雑草をかきわけかきわけ、あとをついてゆく。堤の上に一軒の小屋があり、灯がついていた。二、三人の人もいるらしい。居酒屋である。渡しの客が休憩するところである。看板が傾いて、灯に照らされている。「ブ…フェ…ト…ル…」私が読みかけると彼女が早口でいった。「ブフェトル・ドゥナレヤ」「ブフェトル・ドナレア」「ブフェトル。もう一度いってごらん」「ブフェ。ブフェトル」「おつぎ。ドゥナレヤ」「ドナレア」「もっとやわらかく。ドゥナレヤ」「ドゥナレヤ。ドゥナレヤ」「そう。いいわ」「ドゥナレヤ、ドゥナレヤ!」「おぼえがいいわ、私の蚊」「ドゥナレヤ!」「もういいわよ」「ブフェルト・ドゥナレヤ!」小屋の中は狭いが明るい灯がつき、よごれた横縞の水夫シャツを着た二、三人の男が荒れたテーブルに肘ついて酒を飲んでいた。スモモのブランデーの"ツイカ"である。薄い黄いろをしているが、乾いて強く、ひなびた香りのする酒である。私は荒れたテーブルに肘をついて二杯飲み、水を一杯飲んだ。やがて河原から運転手のイオンがあがってきて自動車を渡し舟に積みこんだといった。体が温まってきたので私はたちあがり、快活に、「ラレヴェデーレ(さようなら)!」といって小屋からでた。彼女を追ってごろた石につまずきつまずき堤を小走りにかけおり、へんな泥の匂いのする、まっ暗な、広くて速くてたくましいドナウの岸にたった。(K) (「世界カタコト辞典」 開健・小田実) 


そばで酒
「盛りそばで酒を飲むのはいい…」というようなことを通(つう)ぶった人がよく言うでしょう。だけど実際に、通じゃなくてもいいものなんだよ。だから、そばで酒を飲んでもちっともキザじゃないんだよ。ぼくも好きですよ。(「男の作法」 池波正太郎) 


272 イアサ 居住居の味な女房を酒ばやし
酒屋の看板は杉の玉[さかばやし]であるが、それよりも客寄せになるのは、だらしない崩れた座り方をする女がいい。それが評判になれば拝観の男が押し掛けるものだ。(「大阪宝暦折句秀詠」 鈴木勝忠) 


川竹
その黙阿弥は「三題噺高座新作」俗に「和国論」という狂言で大当りをとった時、ひいきから引幕を送られた。作者に幕というのは異例に属する。謙虚な彼はひたすら断ったが、俳優や興行師がすすめてそれを受けさせた。川竹という銘酒は、彼に贈るために、その時新造されたものである。「大盃」「丸橋忠弥」「新皿屋敷」等の脚本でそれぞれ成功した。この二世劇作家は、性来酒も煙草ものまなかった人である。それにこの「川竹」酒の贈物は、少々皮肉であるが、彼は切手を拵えて、諸方へ配ったという話である。(「酒雑事記」 青山茂) 


付き合い程度の人
まったくの下戸ではないが、付き合い程度の人に曲亭馬琴がいる。ある好事家の集まりで酒宴となり、馬琴も酒をすすめられたが、 雨がへるのむくちなはにつらなれどわれ下戸なればすこしなめくぢ と詠んだ。くちなはとは朽ち縄(くちなわ)すなわち蛇、そして蛙と蛞蝓(なめくじ)のいわゆる三すくみを巧みにとり入れ、飲める口した面構えの仲間に連なっているものの、自分はせいぜい舐(な)めるぐらいだといっている。(「大江戸浮世事情」 秋山忠彌) 


御盃たもれいよ
○鹿児島の館、情(なさき)ある館、御盃(おさかづき)たもれいよ、それ琉球で語ろ、御盃たもれいよ、それ琉球で語ろ、一の枝引けば二の枝靡(なび)く、靡けや小松一の枝、つりりんつりつりゝんりん、つりゝりつのりつりつつりゝん(「松の葉」 藤田徳太郎校註) 


原始的な酒
ワインというのはアルコール類の中でももっとも原始的な酒であり、極端なことを言えば足で葡萄をふみつぶしただけでできてしまう。酵母が葡萄の表面にそもそもついているので、日本酒やビールのように複雑な工程を経る必要は、本質的にはない。この「原始性」こそ、十四歳の時に南フランス産の、おそらくはコート・ド・プロヴァンスのロゼに出あって以来、私をワイン信者にしてしまった基本概念であるのだ。したがって、その製造過程に限って言うなら、「超近代的」とか、「安定した品質」、あるいは「外的条件に関係なく」、そしてもちろん「大量に」といった形容がついた場合、必然的に眉をひそめて疑惑の顔付きになってしまうのである。たとえば、私がカリフォルニアのワインとあまり折り合いが良くない−家族経営のいわゆるブティック・ワイナリーで出来たものには、例外がある−のは、それは美味しくないからではない。むしろ値段が比較的リーズナブルで、しかしいつでも極めて「安定」して美味しいからなのだ。アマノジャクな言い方になってしまうが、たとえ悪かろうが良かろうが「驚き」の感じられないものに私は惹かれないし、第一、欠点のないクールな"友人"と付き合えるほどオトナでもない。(「旅ゆけば、酒」 大岡玲) 


松島屋
酒は少年のころから味をおぼえ、二十を過ぎると、酒量はけたはずれであった。ひいきの客の家に泊めてもらった夜半に、どうしても飲みたりないので、台所の土間の隅にある四斗樽から盗み酒で一升ものんだ。そのあと、栓をうっかりゆるめたままだったので、酒はすっかり流れてしまったが、「あかんなア」と旦那は苦笑いしただけだった由、昔の金持ちは、太っ腹だった。大阪にいた松島屋のゆきつけの茶屋は北の新地では「中島」と「平鹿」、南では「大西屋」に「丸屋」、新町では「竹の家」、これを「お宿坊」というのである。東京の明治座や歌舞伎座に出ている時は柳橋の芸者とは浜町の「弥生」、葭町(よしちょう)の時は、茅場町の「新富久井」、新橋では、築地の「新喜楽」、三十間堀の「蜂龍」、山下町の「とんぼ」がお宿坊だった。どの土地にも、お気に入りの女がいる。梯子酒のくせがあるから、東京では、一軒の茶屋で夜半すぎまで、弟子たちと飲み、それから二頭立ての馬車二台を雇い、一座の人たちを分乗させ、吉原にくりこむことになる。吉原は「泉虎」という引手茶屋で、新橋から連れて行った芸者と、吉原の芸者を合流させ、どんちゃん騒ぎが白々明けまで続くのが、珍しくなかった。(「ぜいたく列伝」 戸板康二) 十一代目片岡に左衛門のことだそうです。 


猪名川
池田、といえば、稲野屋次郎右衛門という酒造家があった。ところが、三年つづいて酒を造り損ない、とうとう破産してしまった。そこで、次郎右衛門は女房のおしげと一子次郎吉を、おしげの兄のところへ預け、『池田では。まさか天秤棒も担げないし、日雇人足にもなれない。江戸ならば池田屋とは知る者もない。とにかく、何ンとかして身の恰好をつけて来るから、それまで何分よろしく頼む』と、江戸をめざして出立した。懐中には僅かばかりの路銀しかないので、諸万事、切り詰めて、ようやくのことで平塚の宿(今の神奈川県平塚市)に来、林屋という宿屋に泊まった。真夜中−相模灘の波の音と松風にフッと目をさまし手洗(ちょうず)にゆくと、パチパチ…と物のはぜる音がして林屋の広間のほうが真紅!『火事だァーッ』というので大騒ぎとなり、次郎右衛門が身の回りの物を持って外に出ると、もう林屋はすっかり火につつまれて、隣家の近江屋という宿屋も火の海。次郎右衛門は、呆然と立ってみていたが、ヒョイと近江屋の下座敷をみると、六十すぎのお婆ァさんが、煙にまかれて、どうしていいのかヨロヨロしていたが、やがてバッタリと倒れた。われを忘れて、飛び出した次郎右衛門、無我夢中で煙をくぐって老婆を小脇に抱え込み、再び往来(おもて)に出てみると、火のてはもう八方に延びて、ぐずぐずしていると、逃げ場もなくなる。(平塚は危ない。ひとまず大磯に逃げよう)老婆を背負って大磯宿に引き返し、成瀬屋という旅館に入った。この老婆、江戸横山町二丁目の山城屋善助という大きな木綿問屋の実母で、箱根の湯治の帰りの奇禍だった。次郎右衛門は二、三日、老婆を静養させて一緒に江戸へ上り、無事に送り届けた。これが縁で、山城屋が"恩返し"の世話を焼き、「稲野屋」という酒屋をひらくことができた。造り酒屋の出身だけに、江戸中の酒をのみ歩き、江戸人の嗜好にあった酒を研究・調合、生まれ故郷の池田のまちを流れる川の名をとり、酒銘を"猪名川(いなかわ)"−これが忽ち売れて、二年間に、すっかり身上をたてなおし、妻子を呼びよせて山城屋とは親戚づきあい。或る日のこと−伜の次郎吉が店番をしていると、二人の侍が入ってきて、『猪名川を飲ませろ』という。『てまえどもは、居酒はやりません。猪名川ごひいきは、有難い仕合せですが、半丁ほど向うに居酒屋があります。そこに猪名川は廻ってありますから…』と断ったがダメ。猪名川の菰冠(こもかぶ)りに手をかけようとしたので、次郎吉がチョイと侍の胸をおすと、樽を洗う溜桶の中に、ザブン!怒った侍二名、ダンビラをふりかざしてかかって来ようとしたとき、『危ない。あっちにゆかっせ』と、間に入ったのがときの大関・境川浪右衛門。侍二人は、ほうほうのていで逃げていってしまった。『あんたが稲野屋の息子さんか。いい身体をしている。相撲取りにならんかい?』といったのが縁で、境川に入り、銘酒"猪名川"をそのまま名乗って、猪名川次郎吉。のち、江戸の花形相撲といわれ、東の大関まですすみ、酒と共に名力士の名をひびかせた初代猪名川がこれである。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


菊の花
まず「菊の花」と呼ばれているものから説明しよう。これは少なくとも江戸時代には行われていたという、由緒ある遊びだ。ただし、優雅な名前に似合わず、なかなかタフなものである。まず、宴席に集まった人数分の盃を用意して、それを盆の上に伏せておく。で、その中の一つだけに、菊の花を隠しておく。菊がなければ他の花で代用してもかまわない。盃の乗った盆は、「菊の花、菊の花」というお囃子と手拍子に合わせて、参会者の手から手へ渡され、各自、これと思った盃を上向けにしていくのだ。盃の下から菊の花が出てきたら当たりで、その人は、それまでに開けられた盃に酒を満たして、全部飲み干さなければならない。つまり、盃を使ったロシアン・ルーレットのようなものである。残りの盃が少なくなればなるほど当たる確率は高くなり、また飲まされる酒の量も増える。やはり土佐だなあと思うのは、女性もこれに喜んで参加することと、当てた人間のほとんどが、いやがりもせず、むしろ自分から進んでなみなみと盃を満たし、それを飲み干すという点だろう。(「今夜もハシゴ酒」 はらたいら) 高知のお座敷遊びだそうです。 


尾崎さん
昭和二十九年七月某日、私はスタジオのエレベーター前で、イライラしながら独文学者・随筆家の高橋義孝さんを待っていた。「世相診断」と題する座談会で、すでに時間が来て他の三人の出席者はスタジオの椅子に着いているのに、司会者の高橋さんが現れないのである。急に司会者を欠いたこの放送にはヘンな穴があくかと、私は何べんも時計を見ていた。そのうちやっと、高橋さんが姿を見せた。かなりオミキが廻っている様子である。しかもどういうわけか、その横にこれも酒で朦朧とした作家の尾崎士郎さんが立っている。彼は今日の座談会のメンバーではない。高橋さんは、「やあ中村さん、今夜は尾崎さんを連れて来ましたよ。話が面白くなります。さあ行きましょう」といいながら、尾崎さんの肩を押し、あっという間にスタジオに入ってしまったのである。椅子に掛けた尾崎さんは、座談会のテーマも何もあったものではない。ただ前後にフラフラしている。今から尾崎さんをスタジオの外に連れ出すのは、容易なことではない。「時間だ、えいやってしまえ」で放送はスタートした。わけの分からぬうちに連れられて来た尾崎さんは初めのうちは眠っているかの如く黙っていたから、座談はまずは無難にすべり出した。当日朝の新聞にモスクワ帰りの国会議員の談として、「ソ連にも銀座美人に近い女性が現れている。しかし日本の女性の方がはるかにキレイで、令嬢と女中ぐらいの差がある」と出ていたのが話題となった。だがそのやりとりの途中、突如として尾崎さんが目を覚まして怒鳴ったのである。「問題は腰だ。腰の座らぬ女はダメだ!」女性を交えた座談会の出席者は唐突たる尾崎発言に唖然とし、話の腰を折られてシーンとなってしまった。尾崎さんと高橋さんはここへ来る前に、横綱審議会か何かに出席して一献聞こし召していたのであり、尾崎さんの頭の中にはまだ相撲のことがあったらしい。その尾崎さんを面白そうに眺めていたのは、高橋義孝さんただ一人であった。(「『ラジオと酒』二題」 中村新) 


阪神が優勝した年
如月 これも十年近く前、もっと前かしら?阪神が優勝した年の話。
O研究員 十二年前です。
如月 ちょうどあの年の夏に、大阪で芝居やってたんですよ。扇町ってとこにある小劇場でやってて、ウメチカ(梅田地下道)をズーッと通っていって地上に出たあたりなんですけど。芝居終わるとお客さんが道に出てワイワイガヤガヤ、良かったら「良かった」って言うけれど、悪かったら「ウォーッつまらんかった!」なんて言いながら帰る。そういうところで、ウメチカにおりたとたん阪神ファンとか酔っぱらったのがシャッターが降りた前で酒くりだしてるんですね。そこへ芝居のお客が一緒になって、飲んでいるところへ役者がやってきてみんなで最後は六甲おろしを歌うっていう…。これは楽しかったですね。あの空気は忘れられないですね。芝居終わって街に出たら、人がみんなハレ状態。どこに行っても座り込んで酒飲んで笑って歌っている。それは楽しかった。あの時一週間芝居したのは、忘れられないくらい楽しかった覚えがあります。でもね、その年しかできなかったんですよ。
玉村 毎年やると、阪神ファンは身体がもたない。(「下戸の酒癖」 玉村豊男編) 如月小春の語りです。 


阿波踊り
えらいこっちゃ えらいこっちゃ 踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊なにゃ損々
という名調子で、天下にきこえたこの阿波踊りは、その昔、蜂須賀家政が徳島城を築いた落成と平和を祝って、城下の人びとに酒肴をふるまった。そのただ酒に酔った人びとが「めでたい、めでたい」とばかり手ぶり、身ぶりよろしく夜のふけるのも忘れて踊りぬいたのがはじまりだといわれている。(「日本の奇祭」 湯沢司一・左近士照子共編)