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御 酒 の 話 30



酔醒  一般の人の食ってならぬ品々  さら川(17)  菱垣樽船積荷規定廃止  美久仁小路  少年時代には、もう軽いアルコール中毒  酒の配給の始  酩酊と夢中飛行  買役の諸注意  変わらないこと  蓮根論争  二日酔いのベスト  つまらぬ酒  酒の害  脳波と酒  金賞受賞点数  「穴」が容器  パールハーバー、バンザイ  「新潟の酒」  社日  ひょうたんの酒  ローカル線  はしごになる癖  酒場にて  中国式と日本式酒造法の相違点  としごろとりつけなる人  三分の一以上  蝋山政道  いざり長者  母様の涙  甘口の酒しか飲めない  おみき徳利、焼酎の徳利、錫製の徳利  私はコウダンシ  まる3昼夜  ちう  さけ|酒(東南アジア)  尾崎一雄、大岡昇平、桶谷繁雄  二二 日常生活・宴席と談合  冷や酒化  全国新酒鑑評会  腹鳴りのする時、食べてならぬ物  方言の酒色々(20)  編集長 倉嶋紀和子  お楽しみ入院  上戸と泥棒上戸  酒に水を割る  8.酒が入ればことばが出る  水をもて来い、酒をもて来い、  超扁平精米  偶有名酒  酒を飲まざる人間からは  波きり不動の前なるそば屋にて  男はつらいよの酒  風邪の治療のベスト  呼吸系代謝と発酵系代謝  のむ、のんたろお  酒にゑいくだまく人は  ちょくし【勅使】  大伝馬町の三州屋でもたれた「パンの会」  菩提「酉元」  誘い上戸  誹風末摘花(2)  芋酒、ドングリ酒  ツグミとロウジ  情気ある奉行の判決  リュリュー  「足持ち」がよくない  おでんや  窓の梅  醍醐天皇の訓誡十二条  とくり(徳利)  酒七題(その七) バナナ酒  酒七題(その六) 老酒  天広丸の狂歌碑  ○無理酒  ここは、酒場じゃありませんよ  宝島  (十五) わらぢ銭たしなむ  酒七題(その四) ウヰスキイ  東京を発つ  吟醸酒締め出し  方言の酒色々(19)  飲みながら描く  折田要蔵  博多の練貫酒  ぼくの原点  口と盃のあいだには多くのことが起こる  野菜鍋  おばあさんと孫  枝鶴  親しい友だちとの酒は  ものの味  二六 小左次の涙酒  決闘を申しこんできた  水戸より塩からを  自分なりの言葉  から誓文  ねこ・お・だく、のきさめ、のみきり、のみや  冨水  ちやうめい【長明】  盃の蒔絵を見侍りて  たった一度の前後不覚  秋の酒・濁れる酒・にひしぼり(4)  「長座」にならないよう  酒の罪④  【酒有別腸】  東歩八十五首の中に三条  酔来飲酒酔来睡  酒の罪③  秋の酒・濁れる酒・にひしぼり(3)  ほとんど覚えていない  【不飲酒戒】ふおんじゅかい  木津川の水くさ酒  四六時中酒びたり  さかつきはめくりてゆくを  高砂の焼きアナゴ  酒の罪②  次天頼韻二  月見酒下戸と上戸の顔みれば  秋の酒・濁れる酒・にひしぼり(2)  漁師たちの訴え  御葬いだか結婚式だか  酒の罪①  きつかさや  天 劉伶を生み  飲過ぎ  柿ひたし  酒のないところに愛はなし  酔漢の今昔  光久  親父さんの話  酒のあとさき  さけのみが酒にのまるる世の習い  九一 酒飲みの失敗  小粒金  宿酔  一円五十銭  不慮の災難  アメリカ大明神  仁勢物語  日本酒はお猪口に二杯  酒宴  「ビール」はドイツ語  大将と蠅  B.Y.O.B  いい店  喧嘩口論は酒の下物  きく月の月見は もちの月ならず  西南の蛮族  宇宙最後の酔つぱらい  オッサンの教えてくれるもの  (八)酒屋の八蔵  さけ 酒  酒造につき達し  青野季吉(あおの・すえきち)  鬱病とアルコール  残りの半分  鬼の申し子  アル添の平均  土蔵課役と酒屋税との分離  お前はぶきっちょで駄目だ  かいずの干物  喜久酔の専務兼杜氏  さけ|酒  メコンウィスキー(2)  金沢のおでん屋  ミルク育ち  【酒】しゅ  三店  千日前「叩き売り」専門店  酒造制限緩和令  ここだと思うそのここ  センベロ  酒食したのちの注意  酒浸り  葷酒山門に入り浸り  天の美禄の味  酔える者の車より  都々逸  立石  大田南畝の狂歌(3)  能書  茶山鵬斎日本橋邂逅  *制御しがたいものを  酒飲まうよ、さ、灯ともしを  あやまりも  酒中花  十八、そこふか降参の事  大七  お通夜で  法律上の言葉の定義のベスト  お蔦  さかつきを  正座をし背すじを伸ばして  二三 飲量・食料  酔虎伝  酒神  ドイツ語の「買う」とは「ワインを買う」ことだった  練貫  神力  夕方になると仕事を切りあげ飲み始める  独酌(大田南畝)  酒飲みは不可解だ(2)  盃にみつの名をのむこよひ哉  チチャ  逸題  酒飲みは不可解だ(1)  酒と風紀  昭和十年代の酒類行政(2)  変わらないための努力  神田村総鎮守権現社祭礼九月六日  火落酸  食味評論家 吉田健一  昭和十年代の酒類行政(1)  ○白酒  (七) 大上戸の咄し  二三 酒泉(若返り水)  鼠と罰金  消臭  男子には必ず酒は飲ますべき  アルコールの罪  会津藩の藩営酒造  戯作摂州歌  酒都・城島  サルをアル中にする方法  造酒司の訴え  ライスワイン・オールド  グレさんの五十銭  ちょうし、ちょく、底の深い猪口  玉や、ウーイ  酒には寛大  さら川(16)  チップ  醸造試験所で開かれた品評会上位入賞酒  各地の風習(成都)  新南雪  方言の酒色々(18)  行つたり来たり  天保11年諸国酒造制限緩和令  中野好夫(なかの・よしお)  聖堂騎士のように飲む  ヤシ酒に酔って  飯塚  さかづきを月より先きにかたぶけて  山田錦は痩せた土で作る  酒卓の歌Ⅰ  酒卓の歌Ⅱ  蚤と虱のできたわけ  富貴とは  17 いざりのウエンボ



酔醒
なつかしい世界よ!
わたしは今酔っているんです。

下宿の壁はセンベイのように青くて
わたしの財布に三十銭はいっている。

雨が降るから下駄を取りに行こう
私を酔わせてあの人は
何も言わないから愛して下さいと云うから
何も言わないで愛しているのに
悲しい…

明日の夜は結婚バイカイ所へ行って
男をみつけましょう…

私の下宿料は三十五円よ
ああ狂人になりそうなの
一月せっせと働いても
海鼠のように私の主人はインケンなんです。

煙草を吸うような気持で接吻でもしてみたい
恋人なんていらないの

たった一月でいいから
平和に白い御飯が食べたいね
わたしの母さんはレウマチで
わたしはチカメだけど
酒は頭に悪いのよ-
五十銭ずつ母さんへ送っていたけど
今はその男とも別れて
私は目がまいそうなんです
五十銭と三十五円!
天から降ってこないかなあ-(「酔醒」 林芙美子) 


一般の人の食ってならぬ品々
凡(すべ て)の人不食物、生冷の物、堅硬の物、未熟物、ねばき物、ふるくして気味の変じたる物、製法心に不叶物、塩からき物、酢の過ぎたる物、「食壬(にえばな)」を失へる物、臭(か)悪(あし)き物、色悪き物、味変じたる物、魚餒(わざれ)、肉(の)敗(やぶれ)たる、豆腐の日をへたると、味あしきと、「食壬」を失へると、冷たると、、索麺に油あると、諸品煮て未熟、有灰酒、酸味ある酒、いまだ時ならずして熟せざる物、すでに時過(すぎ)たる物、食ふべからず。夏月、雉不食。魚鳥の皮こはき物、脂多き物、甚(だ)なまぐさき物、諸(の)魚二目同じからざる物、腹下に丹の字ある物、諸(の)鳥みづから死して、足伸ざる物、諸(の)獣毒箭(矢)にあたりたる物、諸(の)鳥毒をくらつて死したる物、肉の脯(ほしし)、屋漏水(あまだまりみず)にぬれたる物、米器の内に置きたる肉、肉汁を器に入置(いれおい)て、気をとぢたる物、皆毒あり。肉、脯(ほじし)、並に塩につけたる肉、夏をへて臭味あしき、皆食ふべからず。(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂) 強い酸味(醸造途中で多酸となったり火落ちした酒や蔵出し後火落ちした酒)を消す(蔵元も流通業者も)ために灰を入れた酒は、かなり普及していたでしょうから、下級の酒はあまり飲むなということなのでしょうか。また、酸味ある酒はそうした処理のしていない酒なのでしょう。 


さら川(17)
大酒を飲んで小さい事を言い よし女
熱燗に喜怒哀楽をそっと入れ どんぐりっ子
リストラで忘年会の妻を待ち 喜多八
忘年会酔いが覚(さ)めたら新年会 二日酔い男
(「平成サラリーマン川柳傑作選」 山藤章二・尾藤三柳・第一生命 選) 


菱垣樽船積荷規定廃止

一、十二月十七日夜八ツ頃、今夜四ツ時遠山左衞門尉○景元、町奉行(遠山の金さんですね)様 於御白洲仰渡候(おおせわたされそうろう)趣ニ付、御印形御持参、明十八日五ツ時 無遅滞 呉服橋外三川屋善兵衛方へ可参旨(まいるべきむね)両行事より廻文ニ付、行事(組合の幹事役)罷出候処、左之通被仰渡
一、菱垣樽船積荷物之儀 規定有之処、此度問屋組合等 令停止(ちょうじせしめ)、諸品素人直売買勝手次第之旨申渡候ニ付、菱垣樽船積荷物之儀ハ勿論、是迄之規定ニ不抱(かかわらず)荷主船主相対次第 弁理(便利)之方へ積込、無差支様 運送可致(いたすべし)。尤菱垣文政度紀伊○紀伊藩主松平斉順。殿より借渡有之候 天目船印 差障之儀(さしさわりのぎ)有之間、以来相用ひ申間敷候。右船印 早々紀伊殿え返納可致候。右之通被仰渡候間、元組合仲間之者共え申伝え、組々行事共御請証文取差上旨 被仰渡畏候。依て如件。
十二月十八日
組々 惣連印
右之通被仰渡承伏、調印致候事。
天保十二丑十二月
元行事 大和屋 九郎左衛門 はせ川 治郎吉-
  -水野家文書上疎覚書首都大学東京図書館所蔵(「東京市稿産業篇第五十四」 東京都編) 十組問屋が解散させられ、問屋組合員以外でも菱垣廻船、樽廻船どちらの海運を使用することが出来ることとしたときの資料のようですね。 樽回船と菱垣回船(こちらも是非読んで下さい) 

美久仁小路
橋本はグラスに入ったビールをおいしそうに呑み干すと、"講義"を始めた。敗戦後、空襲で焼け野原となった東京では、延焼を防ぐための建物疎開で空き地だった駅前にヤミ市が形成された。池袋駅東口にも木炭や石炭のカスで固めた地面にバラックや露店が立ち、配給物資の不足で飢えた家族のために食糧を買い求める人でごった返す。だが、1949年に始まった戦災復興の区画整理で店は立ち退くことになった。美久仁小路料飲商店会の前会長、小路で飲食店「ずぼら」を営む小野博(52歳)によると、45人の仲間が集まり、雑木林を切り開いた土地に1軒あたり10平方メートルほどの店舗を建てたのが、小路の始まりだ。できた当初は周囲に何もなく、お客さんを拾いに駅に出なければいけないほどだったが、高度成長期を迎えて街の発展とともに小路もにぎわうようになる。1978年にはサンシャイン60が完成。大型開発が進むと大勢に作業員が店に押し寄せた。「ふくろ美久仁小路店」の女性店員は「バブルの頃は気性の荒い客同士が店内でしょっちゅう喧嘩していた」と振り返った。「当店内では大声、喧嘩、ゆすり、たかり、携帯電話の使用等、他人に迷惑をかけることはつつしんでいただきます」。入口脇にはそんな張り紙もある。(「あの人と『酒都』放浪 橋本健二」 小坂剛) 橋本のすすめる店の一つ、ふくろ美久仁小路店は東池袋1-23-12だそうです。 


少年時代には、もう軽いアルコール中毒
ユトリロは子供のときから赤ブドウ酒に親しみ、少年時代には、もう軽いアルコール中毒にかかっていたそうな。心配した母のシュザンヌ・ヴァラドン(優れた女流画家でもあった)と、義父のムージス(後に離婚)は、「ともかくも、この少年の興味を酒以外のものに向けさせなくてはなりません。たとえばどうですか、お母さん、あなたの絵の具で絵を描かせてみては…」という医者のすすめによって、ユトリロへ先ず画用紙と鉛筆を与えたのだった。「いやだ。ぼくは絵なんか大きらいだ。どうして、絵なんか描かなくちゃならないんだ」ユトリロは母を罵り、容易に承知しなかった。それを母親と義父が強引にすすめ、ついに、ユトリロ少年は、家から追い出されないため、そして、ときどきブドウ酒をひそかに飲む機会を得たいがために、絵を描きはじめたのである。これで、ユトリロはフランスが誇る画家となるべき第一歩を、いやいやながら踏みだしたわけだが、アル中のほうは、ひどくなる一方だった。(「夜明けのブランデー」 池波正太郎) 「小さいころから祖母に育てられたユトリロが、神経質で夜もよく眠らないものだから、祖母はスープにワインをまぜて、のませたりした。これが、ユトリロのアルコール中毒のはじまりというわけだ。」ともあります。 


酒の配給の始
昭和十三年皇紀二五九九西暦一九三九 十二月十五日に長野県上田市郊外神科村の産業組合が全国に魁(さきが)けして清酒、木炭、砂糖、マッチ等の切符制による配給を実施したのを嚆矢とする。なお東京市では十六年五月から酒の切符制による配給を行うようになり、市内の学生を除く二十五歳以上の男子の家庭に一人当り月四合を配給したが始まりである。
生酔のたえて久しき配給日 昌坊
茶椀酒慰められて涙含(ぐ)み 小次郎
酔ざめの猿臂(えんぴ)をのばす枕元 飴ン坊
自動車の方から除ける千鳥足 六歩酔
足の毛を引けば生酔よせえやい 鯛坊(「話の大事典」 日置昌一) 


酩酊と夢中飛行
酒に酔つている時は、その酔中の気分や人生観を、醒めてから後も、恒久に続けて行きたいと思ふ。酔つぱらつてる人々は、いつも心の中でかう決心する。よし!明日からは心機一転して更正しよう。再度もはや、くだらぬ事にくよくよしたり、小心で吝々してゐるところの、平常の自分に帰りたくない。永久に自分は、今のこの酔中の気分を続けて、明朗豪快な人間に生れ変らうと。そして百度も心に誓ひ、それが必ず実現され得ることを確信する。だが翌朝になつてみれば、そんな酔中の決心などは、どこかへ霧のやうに消滅してしまふ。そして現実社会のセチ辛い環境や、生きるための処世術やに支配されて、卑屈に上役の機嫌を取つたり、僅かばかりの金利に吝々したりするところの、平常通りの詰らぬ社会人になつてしまふ。丁度それと同じ心理を、ひとはよく空中飛行の夢で経験する。夢の中で、自由に空中を飛び廻つて居る時、たしかに自分は、その飛行術の微妙な秘訣を、身体の要部に体得して、前人未踏の新しい発見をしたやうに考へる。その時また、ふとそれが夢であるかも知れないと考へる。だがたとへ夢にしても、自分の体得した秘訣だけは、まちがひなく確かであり、決して忘れる筈が有り得ない。よし!明日になつたら、早速一つやつて見よう。たしかに今度こそは、飛べるにちがひないと考へる。だが目が醒めた瞬間、地球の引力の法則が、現実的なる物理学上の事実として、身体の重みにかかつていることが直覚される。そして夢の中の考が、すべて皆馬鹿馬鹿しくなつて来る。丁度、酔から醒めた翌日、現実の社会の物理学的な法則が、すべての酔中の思想を否定し、馬鹿々々しく思ふののと同じやうに。(「個人と社会」 萩原朔太郎) 


買役の諸注意
また、買役は仕入れのために大金を動かしていましたので、次のような諸注意が与えられています。
・絹宿の座敷に、みだりに人寄せをしないように。
・遊芸や勝負事、大酒を飲むこと、おごりがましいことは堅く慎むように。
・ほかの店の衆と同道する時には、万事控えめにするように。
・無用の人と付き合うと、好ましくないことがしばしば起こりがちなので慎むように。
・ただし、人を選んだり嫌うのではなく、徳のある人や手本になる人と付き合うのはかまわない。
・あちこちの市では慇懃に挨拶し、問題を起こさないように注意しなければならない。
・外出の際は、きちんと断ってから出かけるように。
・何事によらず、関係者と相談の上で行動するように。
・脇から臨時のことを頼まれても、自分の一存で取り計らうことはよくないので、時によっては江戸表に通達して、その指図に従って取り計らわなければならない。
実体としては、その逆の様子が見られがちだったのでしょう。買役の羽振りはかなり派手で、江戸店を通さない独断も見られたのかもしれません。(「江戸奉公人の心得帖」 油井宏子) 呉服商白木屋の仕入れ担当者に対する心得だそうです。 


変わらないこと
会社でつらいことがあっても、老舗の酒場に来るとちっぽけなことのように思えた。古くから呑兵衛に愛されてきた大衆酒場は、どこも昔ながらの雰囲気を残している。「会社で常に変化を求められているせいか、時代を経ても変わらない店に行くと、リセットできるんです」。そんな浜田の言葉に共感した。変わらないことも案外大変だと、浜田は言う。まるます家は、家族や親類を中心に運営し、「欲の皮を突っ張らず、だれでも楽しんでもらえる値段でやってきた」と松島。ウナギが品薄で高騰した2012年夏、「大変心苦しく申し訳ございません」という張り紙を出し、値上げに踏み切った。松島は「できれば値上げしたくなかった」と表情を曇らせた。(「あの人と『酒都』放浪 浜田信郎」 小坂剛) ひとり呑み 赤羽駅前の居酒屋 


蓮根論争
石川淳もこの頃は、美しい、そして酒量においても飲みっぷりにおいても彼にひけをとらない奥さんを連れ歩いているが、戦前はよく一人で、というのは相手もなしに、出雲橋のはせ川で飲んでいた。窓の外は、今埋立てられてビルが建っているが、その頃は三十間堀で、たまにアベックが貸ボートで通ったりした。淳さんはその窓際で、東の空の夏雲にうつる夕映えを眺めながら、鰹の刺身か何かで一杯やっていた。しかし知り合いが別のテーブルへ来て下手に話がはずんだりして来ると、突然「馬鹿野郎!」と大喝して仲間に入ってくるので、その酔っていることが分るのであった。ある時、そんな形で私は小林秀雄とさしでいた。そしてたまたま蓮根を食べながら、それが好物の小林はかくちのしなの品評を始めた。すると向うから淳さんが、「そりゃ、不忍の池のが一番さ」と口を出した。この二人のからみ上戸の話がもつれるには、あと一、二回の応酬でこと足りた。小林は、「おい徹ちゃん、こんな馬鹿がいちゃ、酒がうまくねえ。出よう」といい捨てたまま、表へ出た。私は不様な恰好で後を追った。(「旅酒猟」 河上徹太郎) 


二日酔いのベスト
ジーヴスはパーティー・ウースターに生卵の1個分全部ウスターソースで味付けして飲むように処方したとか。アルコールの入っていない飲みものをたくさん飲むことです。きびきびした歩調で歩いてから、肉かまたはイーストのエキス(塩分とカリウムを強化したもの)を湯気の立つほど熱くしてコップ一杯飲みます。アスピリンは頭痛に効きますが、胃を悪くするということをお忘れなく。いま言ったこと以外に他の人がするようなことは絶対にやらないと誓って下さい。(「ベスト・ワン事典」 ウィリアム・デイビス編 リチャード・ゴードン) 


つまらぬ酒
私が酒を飲むようになったのは、中学の三年か四年頃、その名も腹立たしいやら恨めしいやらの大東亜戦争の最中で、同級生がつぎつぎに軍隊へ志願していった時代だった時代だった。芝高輪の泉岳寺のとなりの義士祭の歌などを歌っていた三流校で、陸士や海兵を志願したって合格しないから、みんな特幹か予科練である。今にして思えば自殺志願みたいなものだが、当時は愛国心というものがあって、親の歎きもきかばこそ、オリンピックの旗ならぬ日の丸の旗をタスキがけにして、坊主あたまの小僧っ子がいそいそと死地へ赴いた。やがて私も志願したオッチョコチョイの一人だが、出征前夜には必ず送別会があった。送別会といっても、ヨーロッパへ行ってうまいことをやってこようという今どきの外遊とはわけがちがう。サヨナラの手を振ったら、二度と生きては会えぬ送別会で、祖国のためとおだてられ勝手に志願したものの、タスキ掛けの顔は一様にどこか落着かなかった。こうなったらドンチャン騒いで、酒の勢いで送ってしまう以外にない。闇酒を買い集めての酒盛りである。酔わなければ騒げないから、うまいも不味いもなくただひたすらに飲んだ。ほとんど体力の限り飲む。そして丼を叩いて歌いだす。踊り出す奴もでてくる。タスキ掛けの少年はそれを静かに見ている。"ああ、あの顔であの声で""若い血潮の予科練の…"やけのやんぱちみたいだが、みんな一所懸命に歌っていた。軍歌というやつは、どういうものか哀調を帯びる。少年たちの口をついて出るのは、軍歌と、それからエロ歌ばかりだった。童貞のまま往って還らぬ友人がいる。出征前夜に女郎屋へ上り、もう思い残すことはないと宣言して往ったが、無事に生還した友人もいる。あの頃の、多くの顔が忘れられない。(「つまらぬ酒」 結城昌治 日本の名随筆「酔」) 


酒の害
講師は、飲酒の害について聴衆に説明していた。「意とするところをわかり易く説明しよう。ご覧のとおりここにふつうのミミズがいる。さあ水の中へ落としますよ。ほらまだ生きて元気がよい。つぎに水からとり出しウィスキーの中ヘ落とします。さあどうなりますか。ほら死にました。質問は?」一人の男が立ち上がってたずねた。「そのウィスキーの名を教えてくださいませんか?」「ジュニー・ウォーカー」「ありがとう。帰りに一本買います。長年蛔虫で苦しんでいますので」(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


脳波と酒
酒を飲んだ時の脳波の動きは、次のような傾向で変化して行く。一、飲み始め時にはα(アルファ)波の出現が多くなり、瞑想時のような脳波を示す。 二、酒を飲むにしたがい一時的にα波が減少し、β(ベータ)波の出現が増え、興奮時のような脳波を示す。 三、酩酊状態にはいると、不規則なα波が出現し、眠気を催した状態のような脳波を示す。 四、さらに飲むとδ(デルタ)波が出現し始め、睡眠時のような脳波を示す。この頃になると、意識の消失が起こり、記憶が残っていないような状態になっている。(「日本人と酒」 別冊歴史読本) 


金賞受賞点数
ちなみに平成5年5月に行われた平成4酒造年度(平成4年7月1日~平成5年6月30日)の第82回全国新酒鑑評会で出品されたのは865点。この点数にしても醸造試験所によればしぼり込んだ結果の数字だという。実際に応募を希望する点数はそれをはるかに上回る。審査日程は予審・結審・念審の3段階があり、予審を通過して入賞酒と認められたのは411点、とくに優秀であるとして金賞を受けたのは292点だった。(「こんなにおもしろい日本酒の最新エピソード」 「夏子の酒 読本」) 


「穴」が容器
ところで、容器という点では中国の銘酒、茅台酒(マオタイチュウ)の醸造が傑作だ。この場合には、大地を二メートルほど掘り下げた「穴」が容器となるのである。素掘りの穴だから液体がしみこまないかと気になるが、その心配はいらない。固体状で発酵が行われるからだ。その醸造方法は次のようである。まず、蒸した高粱(カオリャン)を穴に投げこみ、その上から曲(小麦と大豆などの生粉を練って固め、クモノスカビなどを生やしたもの)の粉砕物をふりかけて混合する。この作業を繰り返し、原料を積み込んだら、その上に土をかぶせて踏み固める。そして、そのまま放置するのである。土で踏み固めるのは、空気を遮断し、酸素欠乏の環境をつくるためだ。しかし、液体に比べれば、原料とともに持ち込まれる原料ははるかに多い。そのため、初期に酸素を好むバクテリアや雑酵母までが増殖し、いろいろな代謝産物を生成する。やがて酸素が消費されると、酸素のいらないバクテリア類が優勢を占める。遅れて酵母が主導権を握るようになり、アルコール発酵が進んでいく。こうして二か月くらいたったら、穴から中味を掘り出し蒸溜するわけだが、その蒸溜法がまた変わっている。発酵物をセイロに乗せて蒸すのである。その蒸気を集めて冷やすと、アルコール度の強い蒸留酒が得られる。このような蒸留方法も固体発酵だからこそ、できることだ。ただ、液体発酵に比べると歩留りが悪く、そのため蒸溜したあとの残物を次の仕込みの原料に混ぜて再使用される。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 固体発酵 白酒(パイチユウ)の発酵窖 固体発酵の窖(あな) 


パールハーバー、バンザイ
3年ほど前、アメリカの西海岸を中心に、「パールハーバーPearl Harbor(真珠湾)」や「バンザイ(万歳)」といったカクテルが大流行したことがある。「パールハーバー」は日本製リキュール"ミドリ"をベースにパイナップル果汁、ウオツカをブレンドしたもの、「バンザイ」も日本製ウオツカ"樹氷"をベースにした強いカクテルだ。ミドリは年平均80パーセント増、樹氷は年平均20パーセント増という具合に、ともに爆発的にアメリカで売り上げを伸ばしていった。車や電化製品のみならず日本製品は"カクテル"の世界まで進出している。(「ENGLISH 無用の雑学知識」 ロム・インターナショナル編) '87年の出版物です。清酒をベースにした、サムライとかグリーン日本等といったものもあるようです。 サキーラ 


「新潟の酒」
新潟へ帰ることはめったにないが、先年村山政司氏等の個人展を新潟新聞楼上に開いたとき、私も三週間程新潟に泊った。展覧会より呑みまわるのが忙しくて商売のような有様だったが、驚いたのは新潟の酒が安くてうまいことだった。屋台店の酒すら充分のめるのである。和田成章氏の案内で「おきな」という待合で鯨飲(げいいん)した時は待合酒の素晴らしさ一驚した。我々の考えでは菊か桜か白鷹(はくたか)のそれも純粋な生一本だろうというのであったが、訊いてみるとこれが地酒の朝日山であった。この数年来新潟の地酒宣伝特売というようなものが時々東京で行われる。かねがね「おきな」の朝日山が念頭を離れなかった私は酒友十数名を待たしておいて特売所へ駈(かけ)つけ一升詰を五本仕込んで意気揚々と戻ってきた。飲んでみると甘いばかりで、てんから飲めない酒である。非常に悪評であった。この正月古田島和太郎氏が朝日山の一斗樽を送ってくれた。期待していなかったのだが、飲んでみるとうまい。特売展の朝日山のあくどさはないのである。一円七十銭と値段のせいかも知らないが、察するに特売展の朝日山は二流品としか思えぬのである。-
尾崎士郎氏が月々の酒代に怖れをなして相談をもちかけてきたので義兄の紅村村山真雄氏が「越の露」の製造元であり、かねて知人関係へは一斗十円でわけてくれる例があったところから、紹介した。これが非常に好評で、尾崎方で一杯グッとひっかけた輩(やから)がわれもわれもと紹介状を書かせにくる。地酒宣伝の功績甚大なものがあるが、私のは売元の方が損をしている酒なので自慢にならない。(「新潟の酒」 坂口安吾) 


社日
唐宋以前は、みな社日(注一)には針仕事をやめたものだが、それがなにから始まった習慣かわからない。わたしが「呂公忌」をしらべてみたところでは、「社日には男女とも一日仕事を休む。そうしなければ、耳がよく聞こえなくなるからだ」と書いてあった。それで始めてわかったことだが、俗伝で、社日に酒を飲むと耳の遠いのを治(なお)すことができるというのはこのためで、針仕事を休むのもやはりその故である。
注一 立春後および立秋後の第五の戌の日。春を春社、秋を秋社といい、この日には土地の神を祀って、豊作を祈る。(「五雑組」 謝肇「シ制」(しゃちょうせい) 岩城秀夫訳 中国古典文学大系) 


ひょうたんの酒
昭和十六年十二月八日か、あるいはその前日、私は所用でで上京したついでに、目白の坪田(譲治)先生のお宅をお訪ねしている。甘味や酒の手に入らなかった時代であったが、先生はとっておきの葡萄酒(ぶどうしゆ)をだしてすすめてくださった。先生は、酒や果物や餅菓子(もちがし)等もお好きであった。当時、文学青年の私は、上京して先生に、文学や作家のあれこれについてお話を承(うけたまわ)るのが何よりもたのしみであった。その日も、私はせきこむように、だれ彼の作風について先生の感想を求めていた。先生は、チビリチビリ貴重な葡萄酒を舌の先で賞味されながら、ぽつりぽつりと私の質問に答えてくださった。そのうちに、「あの作家の童話は小説臭い」という表現をされ、その後、二、三の作家の童話が、いずれも「小説臭い」ということになってしまった。そのとき、先生は、「それにしても、この葡萄酒はキナ鉄臭いですね」と仰言(おつしや)って大笑いになってしまった。ある年の夏、先生は白馬へ仕事にお出かけになっていた。その夏、私は大川悦生(えつお)と信州御代田(みよた)の井幹屋(いげたや)という宿に泊まっていた。その宿には、「名代うなぎ丼(どんぶり)」の看板もかかっていた。白馬にいられるセンセイと連絡がついて、東京への帰途、私たちの宿に立ちよっていただくことになった。先生が到着されたのは、ちょうどお昼ごろだった。私たちは「名代うなぎ丼」を召しあがっていただいた。先生はたいそう喜んでくださった。それで、大川悦生先生が、「この家のうなぎは特別にうまいでしょう」というと、先生は、ニコニコしながら、「東京のうなぎの方がうまいよ」と仰言(おつしや)った。あるとき、雑誌「びわの実学校」の編集会議で目白のお宅へよせていただいたことがある。会議の後で酒の席となった。先生は、若い者たちに、酒をふるまわれるのがお好きであった。先生は一升(しよう)びんから、いったん大きなひょうたんに酒を移し、ひょうたんから徳利に酒を注(つ)いで御自分がかんをしてくださった。そして、こう仰言った。「酒はいったん、ひょうたんにいれるとうまくなるそうです-。」それからもう一言つけ加えられた。「酒は、もともと、ひょうたんにいれなくてもうまいものですよ。」(「赤道の旅」 庄野英二) 


ローカル線
アルコール発酵、すなわち、グルコースがエタノールと二酸化炭素まで分解される過程は、エネルギーを放出する化学反応である。そこで生じたエネルギーは、主としてATPという高エネルギー物質に蓄えられる。アルコール発酵の一二段階の化学反応のうち、一〇段階目にできる物質は、ピルビン酸という有機酸である。グルコースからピルビン酸にいたるまでの代謝経路は「解糖系路」と呼ばれ、ヒトから微生物まで、ほとんどの生物がもっている。いわば代謝の幹線ルートなのだ。それに比べると、ピルビン酸からエタノールにいたる残りの二段階は、短いローカル線のようなものである。解糖系路はピルビン酸の先で、さらに「TCAサイクル」という、もう一つの幹線ルートにつながっている。つまり、二つの幹線ルートがピルビン酸のところで連結している。したがって、グルコースが解糖経路によって分解され、ピルビン酸が生じたときに、ピルビン酸がTCAサイクルに流れれば、最終的に二酸化炭素と水まで分解されるが、ローカル線に流れればエタノールが生じるというわけだ。さて、ピルビン酸がTCAサイクルという幹線環状ルートに流れれば、ローカル線に流れたときに比べて一〇倍以上のエネルギーが発生するが、そのラインは酸素(O2)がないと遮断される。だから、酸素のない条件では、解糖経路によって生じたピルビン酸はローカル線に流れるほかないわけだ。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 呼吸系代謝と発酵系代謝 


はしごになる癖
試合は一対零で巨人が負けた。私は酒は強い方ではないが、ナイターの微風に吹かれていると、ビールがのみたくなるもので、球場でまずのみ、そして、なんとなく試合が物足りず、ちようどまだやつていた高山とムーアとのボクシングの試合を大きなうなぎ屋のテレヴィで眺めながら、また、ビールをのんだ。ちよつと酔うと、私ははしごになる癖があるが、川崎球場へあまりくる機会もないだろうからと勝手な理由をつけて、一軒のバーへはいつたのである。私はバーほどつまらぬところはないと内心は思つているのであるが、酔つてしまうと、絶えず反対行動を取るようになるのであつて、三軒のバーを隣から隣へ歩いて、駅へきてみると、時計が十二時十分前をさしていた。探偵小説を読んでいると、関係者がよくそれはちようど何時何分だつたとか何の日だつたとか話しており、私がそこへ捲きこまれたときは決してそんなことを記憶してないだろうと一種の恐怖感を覚えるほどであるが、この日は珍しく、一対零で巨人が負け、ムーア、高山戦があり、時計は十二時十分前と、すべての記憶のデータが揃つていたのであつた。ところで、私の記憶はそこまでである。これからは、何かの犯人でない証明は自ら出来なくなるのである。しかし、中央線に乗らねばならない私は一応東京駅で乗り換えたらしい。非常に混んでいるひとびとのあいだで電車の床へ腰をおろしたか、入口の脇で座席に背をもたせたか、記憶の裂け目から、そうした瞬間だけがぼんやり思い浮かべられる。そして、ふと、目を覚ますと、私は無人の座席に長く横になつて寝ており、ちようど向いに腰掛けている一人の人物が、もつくりと頭を擡げた私を見て微笑を浮べ、その背後に、ゆっくり移動しながらはいつてくるプラットフォームに新宿駅の表示が見えた。私が飛びだすと、午前七時であつた。(「無記憶型」 埴谷雄高) 


酒場にて     中原中也
今晩あゝして元気に語り合つてゐる人々も、
実は、元気ではないのです。

近代(いま)といふ今は尠(すくな)くも、
あんな具合な元気さで
ゐられる時代(とき)ではないのです。

諸君は僕を、「ほがらか」でないといふ。
しかし、そんな定規(ぢやうぎ)みたいな「ほがらか」なんぞはおやめなさい。

ほがらかとは、恐らくは、
悲しい時には悲しいだけ
悲しんでられることでせう?
されば今晩かなしげに、かうして沈んでゐる僕が、
輝き出でる時もある。
さて、輝き出でるや、諸君は云ひます、
「あれでああなのかねえ、
不思議みたいなもんだねえ」
が、冗談ぢやない、
僕は僕が輝けるやうに生きてゐた。(一九三六・一〇・一)(「中原中也詩集」 未刊詩篇) 


中国式と日本式酒造法の相違点

          中国式   日本式
 主原料 麹  小麦  米
 掛米  蒸しもち米  蒸しうるち米
 麹のカビの種類  リゾープスカビ  黄麹カビ
 製麹期間  約4週間  2日間
 酒母  酒葯(米粉を主体として薬草を加えた小麯)餅麹の場合もある)  純粋酒母を培養(古くは水酛、生酛:自然発酵母集殖法)
 酒の貯蔵期間  3~5年(またはそれ以上)  1年

(「日本酒」 秋山裕一) 


としごろとりつけなる人
としごろとりつけなる人(集金人)の、酒のあたひとり(集金)に来りければ、みなすましけり(支払いを済ました)、さてさかや(酒屋)、 すりきり(素寒貧)と 名にこそたてれ さけくらひ いつもまれなる 銭も持けり 上戸かへし、 けふこずば あすはよそへぞ やりなまし やらずはありとも さかなをか(買)はまし(「仁勢物語」 近世文芸叢書) 


三分の一以上
「-われわれの間に穴蔵があるように、彼らの間にもきわめて大きな穴蔵があり、たいへん大きくて奇怪なほどの大樽がある。それらの大樽は非常に高いので、上部から酒を取るには梯子でのぼって行く。また、シナ、コーリアおよび日本は酒の使用量があまりに多いので、日本では国土の産出する米の三分の一以上が造酒に用いられると断言できる。そのことが民衆の日常の食糧として十分な米がない理由となっている。もし酒、酢、味噌その他米を消費するいろいろな物を米から造らないならば、十分であろうに」(『日本教会史』 土井忠生ほか訳、岩波書店)(「江戸の酒」 吉田元) 一五六六年頃来日したというロドリゲス(ポルトガル人、一五六一?~一六三四)を中心に編纂された記録集だそうです。 


蝋山政道(ろうやま・まさみち)
お茶の水女子大学長。明治二十八年高碕の酒屋に生る。蝋山三兄弟といって秀才揃いを出した名門である。東大法科卒。小野塚喜平次、吉野作造に見込まれて政治学を専攻、東大助教授になったが、昭和十四年彼の兄事していた河合栄治郎が自由主義思想の故に経済学部を追われるや、彼も講壇をすて、政治評論と著述に従う。戦時中は近衛新体制に接近、比島軍政部でまる一年働き、戦後は右社のブレーンとして活躍した。中央公論社長夫人島中雅子は彼の娘である。その娘が幼稚園から専攻科までお世話になったお茶の水女子大学に、今度は、彼が学長となって予算分捕りの世話をするのも因果である。(中野区桃園町三八)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。「高碕の酒屋」は、今の美峰酒類㈱の地にあった酒蔵 (蝋山酒造)で、廃業した福達磨(群馬酒造㈱)の親族だったようです。 


いざり長者  躄長者
むがしァあったぢ。あるどごね、たき子てへるいい娘ァあったぢ。なんぼねなっても嫁もらいァ来ないへで、どったらどこでもいいァ、嫁買いァ来るようねて神様さ五日籠ったぢ。へでも何もおどァ無いへで、もう二日たして籠ったぢ。七日の間も寝ないへで、とろとろ寝入ったぢ。したけァ、夢の中で「橋の下でいざりさ嫁ね行げ。金持ねなるすけャ」てへたぢ。娘ァ家さ来てきれいなあねさまねなって、「わァ、町の方さ行ぐへで、来なくても尋ねな」てへって出がげだぢ。橋まで来たけャ、わらしャどァ、「まだァ、いざりさ悪戯すべァ」ていだったぢ。そこであねさまァ、「こらどァ、わもへであべ」て、かだって橋の下さ行ったけャ杖ふり廻したぢ、わらしャどァ、「あ、おごた、おごた」ておごらがしたぢ。したけャ、あねさまァいざりさ、「わァ、神様さお籠りしたけァ、橋の下のいざりさ嫁ね行げばいい、金持ねなるてへたへで来たえ」てしゃべったぢ。へでもいざりァ怒って、「いらない」てへったぢ。そごさ今だら、巡査みんたァ役人ァ、「こら、こら、何さわいでらっけ」て来たぢ。あねさまァ、前のごとよみんなしゃべったぢ。そやてそのいざりァ、あねさまよ嫁ね貰ったぢ。役人ァ「嫁もらたへで、何が仕事見つけでやったらよがべ」てへたぢ。その時、あねさまァ川原さ水汲むべと行ったけァ、酒樽ァ流れで来たぢ。それよ拾って来て、あねさまどいざりど呑んだぢ。いざりァ湯さ入って、髭すったけャ、いい男振りねなったぢ。いざりァ行李もってらったぢァ、中ね金五百両入ってらったぢ。今度ァそれで、酒屋始めだり家建でだり、屋敷買ったりしたぢ。したけァ、あねさまァ生まれた方の村でァ、「かき子ァいざりさ嫁ね行ったぢァ、行って見べァ」て、その酒屋さ行ったぢ。行げば酒一ぱいづつ呑んで来るぢ。そやていっとぎ間に金持ねなったぢ。いざりザなおったぢ。橋の下で拾った樽コがら、三年売っても酒ァ湧いたぢ。いざりの生まれ家ァ金持だったぢ。家がら出はるとき五百両貰って来たったぢ。いざりの生まれ家でァ、その話をきいで、舟さ来だの金だのを積んで、「おらァ息子ァいだがえ」て来たぢ。何でもその酒樽コァ、それがら何年経っても、湧いで酒ァきれながったぢ。その樽コァ授がったのだぢ。(八戸市田面木の話 採話・菊池久雄)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


母様の涙
ハウプトマンの『沈鐘』を読むと、鐘師のハインリツヒが山の上で怪しい女と酒を飲んで踊つてゐると、村に残した子供二人が、大事さうに小さな瓶を提(さ)げて坂を上つて来る。壜のなかには何があるのだと訊くと悲しさうな顔をして、「母様(かかさま)の涙です」といふ条(くだり)がある。(「茶話」 薄田泣菫) 


甘口の酒しか飲めない
それから、年長者で、酒飲みの講釈をしてくれる人も、本人は好意だろうが、多きに迷惑だ。どんな美禄(びろく)銘醸といえども、私自身の好みに合わなければ縁がないので、私は灘(なだ)の近くに住んで、ふんだんに美酒に恵まれているのであるが、その中の甘口の酒しか飲めない。そんなのは、ホンモノの酒じゃないよ、といわれても、辛口は飲めないのだから、仕方がない。「酒の味をおぼえたら、次は男の味だよ」とえせ通人の指南もいそがしいことだ。しかしこれも、たまに独酌的に、片思いをしてみても、私は貫禄がなくて、間がぬけてさまにならず、相手が吹き出すのではあるまいか。さっき、酒を独りで飲むことは無い、と書いたが、機会があれば飲むので、決してひとりで飲むのがきらいではない。そんなに多く飲めるわけでもないので、それに飲まないと差支えるという程でもないので、飲まなければ飲まないで、何か月でも過ごせる。ホンモノの酒飲みではない証拠であろう。しかし、また、日本酒といいブランディといい、ないとなると、淋しいことだろう。(「言うたらなんやけど」 田辺聖子) 


おみき徳利、焼酎の徳利、錫製の徳利
【おみき徳利】(本) おみきすず(茨城郡北相馬郡・飛騨・愛知県知多郡・和歌山・淡路島・鳥取県気高郡・愛媛県松山・大分)・すず(神奈川県高座郡)。
【焼酎の徳利】(本) がら(熊本県球磨郡)。
【錫製の徳利】(本) おみきすず(奈良)。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録) 


私はコウダンシ
講談の一竜斎貞山さんが、酔っ払って、交番の前を通る時、誰何(すいか)された。「お前は何だ」「私はコウダンシ」「ばか野郎」と叱られた。(「ちょっといい話」 戸板康二) 


まる3昼夜
青島さんは、麹室と呼ばれる小さな部屋にこもり、すべて手作業でまる3昼夜(約72時間)かけて麹を育てている。私の知る限り、麹造りにかける時間は、長いとされる吟醸酒の場合でも、48~60時間前後である。72時間は半日~1日長いことになる。青島さんは、麹造りに、なぜこれほど長く時間をかけるのか。「菌糸が蒸し米にしっかりと食い込んだ強い麹を造りたいので、種麹菌はごく薄めにまき、時間をかけて育てています。そう、種を薄まきにして、どっしりと土に根を張る強い稲を育てるという松下さんの考え方と、原理は同じです」その考えを聞いて、青島さんが取り組む米栽培と酒造りが、私の中で一つの線でつながった。(「極上の酒を生む土と人 大地を醸す」 山同敦子) 松下(明弘)は、喜久酔の酒米を有機農業で栽培している農家だそうです。 


ちう
酒を ちう
肴を こん
盃を とうはん
盃をさしたを めんとん(「聖遊郭」) 宝暦七年(1757)の出版物のようです。 


さけ|酒(東南アジア)
東南アジアにみられる伝統的な酒は、大きく分けて2種類とみてよいであろう.すなわち、大陸部を分布の中心とし、米(または他の穀類)を原料とし、カビ(黴)を用いて発酵させた酒と、島嶼(とうしよ)部を中心とし、ヤシ類の樹液を原料とし、酵母で発酵させたヤシ酒である。シコクビエなどの雑穀で造る酒もあるが、東南アジアの伝統的な酒は米を原料として、草麹とよばれるスターターを起発酵剤とする点に特徴がある.草麹は、さまざまな植物を粉にし、穀類の粉にまぜ乾燥させたもので、その乾燥の過程で、酒造りに必要なカビがつく.ただし、この技法はヒマラヤ山麓から中国南部にかけてみられるものであり、米を原料とする酒は、東南アジア起源というわけではない.インドネシアやマレー半島でタペとよばれる食べる酒がある.蒸した赤米を発酵させたもので、現地では菓子とされるが、アルコール分を含んでいる.酒を禁じるイスラム教徒の少ないバリ島では、夕べから滴り落ちる液体を集めてブレンという酒を造る.この食べる酒は、インドシナ半島や中国西南部の少数民族にも分布する.ヤシ酒は、サトウヤシが中心であるが、その他ココヤシ、ウチワヤシ、クジャクヤシ、タラバヤシ、ニッパヤシも用いられ、それらの雄花穂を切断して樹液を集める.この液はほとんど糖からなり、東南アジアでみられる黒砂糖の多くはこの樹液を煮つめてつくったものである.この樹液は自然に存在する酵母、あるいは残しておいた酒に存在する酵母で発酵させて酒にする.この酒の起源は、米の酒とは別系統であり、おそらくは、東南アジアあるいはインドで独立発生したものと考えられる.現在ではイスラム化された地域を除いて、島嶼部のほとんどでヤシ酒が造られている.なお、米の酒やヤシ酒から、アラブ起源と考えられる蒸溜法を用いて、蒸留酒も東南アジア各地で造られている.ミャンマー(ビルマ)からベトナムに至るどの地方でもかつては酒造りがみられたが、酒は植民地政府の税の対象とされ、禁造酒法が制定され、結果として多くの伝統的な酒が消滅してしまった.それに代わって、近代的な工場生産による酒が売られるようになった.東南アジア諸国では、とくに都市部の最も一般的な市販の酒はビールである.(吉田集而+石毛直道)(「東南アジアを知る事典」 石井米雄他監修) 


尾崎一雄、大岡昇平、桶谷繁雄
ついこの間、尾崎一雄は飲酒家に一流作家はないと云う新説を発表して、われわれを戦慄させたばかりである。
大岡昇平とは、青山学院の同級生以来のつきあいで、あの広い額に酒の廻ってくる様子が手に取るように眼に浮かぶ。酒の上も柔和で、表情に笑いを絶やさないが、相手の出よう一つで、いつでも表へ出るだけの度胸を蔵している。人前では云い難いことを、ズバリと云ってのける大胆さは、酔っても酔わなくても同じだが、酔余に得意の碁を用いて相手を口惜しがらせるのも、酒のさかなの一つであるらしい。
酒好きの数はどうあれ、酒杯を手にして、見るからに幸福そうな人はそう沢山いるものではないが、桶谷繁雄教授に限って、不機嫌な様子を示したことはない。趣味にも衛生にもかなって、字引から抜け出したコンホタブルという単語が、酒を呑んでいるような感じがする。「おねんね」なぞという可愛らしい言葉を使ったりする程、幸福そうな酒客である。(「酒徒交伝」 永井龍男) 


二二 日常生活・宴席と談合
たいていは日の出のあとまでつづく睡眠から醒めるや、ただちに彼らは沐浴(もくよく)する。沐浴に湯を用いるのことが多いのは、彼らにおいては、年の大部分を冬が占めるからである。沐浴を了(お)えて食事を摂(と)る。ひとりびとりに別々の坐席と、めいめいその卓(つくえ)がある。次いで仕事に、また同様にしばしば宴席に、彼らは武装して出かける。昼夜を飲みつづけても、誰ひとり、非難をうけるものはない。酔ったものの常として、たびたび起こる喧嘩は、悪罵、争論に終ることは稀(まれ)に、多くは殺傷にいたって熄(や)む。しかしまた仇敵をたがいに和睦せしめ、婚姻を結び、首領たちを選立し、さらに平和につき、戦争について議するのも、また多く宴席においてである。あたかもこの時を除けば、他のいかなる時にも彼らの心が、単純な思考をめぐらす程度にさえ、ほぐれることはなく、偉大な思考に堪えるまでに熱する時がないかのごとくである。飾らず偽(いつわ)らざるこの民は、その時、自由に冗談さえ言い放って胸の秘密を解き開き、こうして今や覆いを取られ、露(あら)わになった皆の考えは、次の日にふたたび審議される。したがって双方の機会のもつ効果は十分量(はか)られ発揮される。-すなわち、彼らは本心をいつわることが不可能なときに考量し、過(あやま)つことができない時に決定するのである。(三)
註 (三)このあたりの記述は、ヘロドトスのペルシア人についてのそれ(一、一三三)に、似ている。宴席の間に重大事を議する習いは、広く他の民族の同様の場合のように、一種の祭祀的な行事であった。犠牲を供して、神の前において、神をつうじてたがいに結ばれた席(宴席)においては、たがいの間に欺瞞はありえない、と考えられていたからである。もっとも、この宴席も毎日あったのではない。タキトゥスが「しばしば」というのは、一定の日、または特定の事件のために集まる時を指す。そしてそれは貴族、自由民の会合であったのであろう。(「ゲルマーニア」 タキトゥス 泉井久之助訳注) 


冷や酒化
映画評論家の荻昌弘氏(故人)は一九八〇年頃、「清酒は世界的動向として、冷や酒化するのではないか」といっていた。日本酒の甘味がしつこく口の中に残る戦後の酒には閉口したものだと、私に語ったことがある。(「利き酒入門」 重金敦之) 


全国新酒鑑評会
戦後復活した全国清酒品評会は昭和33年の第4回大会で終わってしまいましたが、現在まで90数年、ほぼ1世紀にわたって続いている全国的な鑑評会があります。明治44年(1911)に始まった「全国新酒鑑評会」がそれで、先行して開かれた「全国清酒品評会」が秋の隔年開催であったのに対し、こちらは毎年春に新酒を対象として開かれたものでした。毎年醸造される清酒の品質を全国規模で調査研究することで、醸造技術及び品質の実態と動向を明らかにし、清酒の品質向上に貢献することを目的として、北区滝野川の大蔵省醸造試験所で始められました。以来、昭和20年(1945)、終戦の年に同試験所が空襲に遭ったときと、平成7年、同試験所が東広島市に移転(現・酒類総合研究所)した年の2回の休止以外はずっと続いてきているのです。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


腹鳴りのする時、食べてならぬ物
暁の比(ころ)、腹中鳴動し、食つかえて腹中不快(こころよからざれ)ば、朝食を減ずべし。気をふさぐ物、肉、菓など食ふべからず。酒を飲(のむ)べからず。
酔の残る内に食べてならぬもの
飲酒の後、酒気残らば、「食羔(もち)」・餌(だんご)・諸穀食・寒具(ひがし)・諸果・醴(あまざけ)・「酉緑-糸(にごりざけ)」、油膩(ゆに)の物、甘き物、気をふさぐ物、飲食すべからず。酒気めぐりつきて後 飲食すべし。(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂) 


方言の酒色々(20)
大漁などの祝い事に酒を贈ること たるいれ
引っ越しをした時、近所の人を呼んで酒などを出すこと おちゃより
水や酒などが濁っているさま ごもごも
火葬に参列した人々に酒をふるまうこと ひやみまい
少量の酒を飲む へそ にひく(日本方言大辞典 小学館) 


編集長 倉嶋紀和子
くらしま・さわこ◎1973年、熊本市生まれ。源氏物語にあこがれてお茶の水女子大学文教育学部国文学科に進学し、同大大学院で平安時代の婚姻制度を研究。卒業後、出版社でF1速報誌の編集を手がけた後、『古典酒場』を創刊。老舗酒場の歴史や人模様、流行するカクテルの誕生秘話など酒場通をうならせる内容。著書に鯨飲馬食の日々をつづった『Tokyoぐびぐび口福日記』(新講社)。(「あの人と『酒都』放浪」 小坂剛) 


お楽しみ入院
母には喘息の持病があったので、以前からよく入院していました。でも、私はそのかなりの部分が、「仮病」に近かったのでは無いかと睨んでいます。日比谷にお気に入りの病院があって、つまらなくなると入院してしまう。そして病院の食事にはほとんど手をつけず、夜に病室を抜け出して行きつけのお店に行ったまま門限を過ぎてしまい、閉め出されてしまう。あるいは、病室で友人と鍋を囲んでいて、病院から大目玉をくらったこともありました。病院をホテル代わりとでも考えていたのではないでしょうか。私はこれを「お楽しみ入院」と呼んでいました。(「見事な死 白洲正子」 牧山桂子(長女) 文藝春秋編) 


上戸(じようご)と泥棒上戸(どろぼうじようご)
酒を好むのを上戸、酒がダメで甘いものを好むのを下戸(げこ)という。酒飲みが甘いものを好まないということはないが、ふつうは辛党(からとう)一本槍となる。なかには両方好む人もいて、むかし、そういう人は泥棒上戸と悪口をいわれた。おししいものを二つながら味わうのはずるい、という発想からのものであろう。ところで、泥棒は泥坊とも書く。坊さんが泥酔するのではなく、「こそ泥をするヤツ」をさす。泥は身持ちが悪い意で、坊は親しみや軽蔑の気持ちを込めていう「人」のことである。(「仏教珍説・愚説辞典」 松本慈恵監修) 盗人上戸 


酒に水を割る
【意味】興奮をさまし、激しい決意をやわらげ、中庸の域にもどること。
【解説】葡萄酒に水を割って薄めて飲むことはギリシア人の発明に成るというが、ギリシア人はこれを神意にもとづく結構なことだと思い、「バッカスの激しさを水の精との交らいによって静める」(プルタルコス)とか「酒乱の神を下戸の神によってなだめる」(プラトン)とかいった。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助) 


8. 酒が入ればことばが出る ベトナム
 酔いがまわれば馬鹿なことをいいだすこと。
9. ラマは羊を殺せても 弟子は酒も飲めない チベット
 尊敬すべきラマのなかにも、わるいのがいる。
26. 人に大麦がなければ 鬼に酒があたらない チベット
 チベットの酒はチャン。大麦からつくる麦酒だが、日本のどぶろくに似ている。大麦がなければ鬼の好きな酒もできない。鬼神よ、酒が欲しければ、どうか災害をもたらさないように。(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


水をもて来い、酒をもて来い、
 おい、小姓(1)よ、
それから、花の咲きそうた挿頭(かざし)を
 わしらに
もて来てくれ、ああ、持つて来るのだ、
 これから一つ
恋神(エロース)どんと、取つ組み合ひを
 してやるほどに。(ベルク・アナクレオーン六二)
注 (1) 酒つぎの少年(奴隷が多い)。(「ギリシア・ローマ抒情詩選 あなくれおーん」 呉茂一訳) 古代ギリシアでは、ワインを割って飲んでいたようですが、これをみると、薄めたワインを持ってくるのではなく、宴会場で割って飲んでいるようにみえますね。 


超扁平精米
どの蔵も精米については品質を保ちながら、いかに効率的にできるかに頭を悩ませている。この大七酒造も同様だった。そんな中、一つの論文が太田さんの目にとまった。「日本醸造協会雑誌」に掲載された東京国税局鑑定官室長の斎藤富男さんの論文だ。その論文によると、従来の精米は米を球形に精米する方法がとられているが、元々、米は楕円形なので、その長い方向の部分のデンプンが無駄に削られてしまう一方で、厚み部分がほとんど削られていない。理想の精米は米粒表面から等厚に削る「扁平精米」だ。この精米方法に強い関心を持った太田(英晴大七酒造社長)さんは、さっそく斎藤さんを訪ねた。平成五(一九九三)年のことだ。その後、大七酒造はこの精米方法に傾倒していく。そして、何度も精米試験で試行錯誤を繰り返し、最も効率的な扁平精米技術、いわゆる「超扁平精米」を確立した。(「挑戦する酒蔵」 酒蔵環境研究会編) 


偶有名酒
偶(たまたま)名酒(めいしゆ)有(あ)り、夕(ゆう)べとして飲(の)まざる無(な)し、影(かげ)を顧(かえり)みて独(ひと)り尽(つ)くし、忽焉(こつえん)として復(ま)た酔(よ)う。
<解釈>たまたま名酒があるので、楽しく飲まない夕べはない。自分の影をかえりみながら一人で飲みほすと、たちまち酔ってしまうのだった。
<出典>晋(しん)末宋(そう)初、陶潜(とうせん)(字(あざな)は淵明(えんめい) 三六五-四二七)の「飲酒」詩二十首の序文。「陶淵明集」巻三。
偶有名酒 無夕不飲 顧影独尽 *1忽焉復酔
*1 忽焉 たちまち。焉は、然と同じ。
<解説>陶淵明の伝記には酒にまつわるエピソードが多い。しかし、昭明太子から「篇々酒有り」(「陶淵明集序」)と評されたわりには、李白などと比べて詩の中で酒がうたわれることは多くない。この「飲酒」と題された二十首も、酒自体をうたうのが目的ではない。どちらかといえば、酒と詩(表現行為)との関係が淵明的関心であったようだ。序文では引用の句に続けて、「既に酔うて後、その輒(たび)に数句を題して自(みずか)ら娯(たの)しむ。紙墨遂(か)くて多きも、辞(ことば)に詮次(せんじ)無し。」と言う。「既に酔うて後」楽しむことに、意があるのである。「五柳先生伝」にも「期は必酔に在り」と見えていた。「忽焉として復た酔う」こと自体の酒の楽しみである。したがって、酒を作品の題材にすることが目的なのではない。酒に酔うことによって獲得される自在なる本来的な生-そういう生の表出が、淵明にとっての詩の一端であった、ということになろうか。(大上正美)(「漢詩漢文名言辞典」 鈴木修次編著) 


*酒を飲まざる人間からは思慮分別は期待されず。
-キケロ「断片」
*花は半開を看(み)、酒は微酔に飲む。この中大いに佳趣(かしゅ)あり。
-洪自誠「菜根譚」
*酒はなにものをも発明しない。ただ秘密をしゃべるだけである。
-シラー「ピッコロミーニ父子」
*酒は茶の代わりになるも、茶は酒の代わりにならぬ。
-張潮「幽夢影」(「世界名言事典」 梶山健編) 


波きり不動の前なるそば屋にてそばを食(と)うべて
うちよする客にそばやのいとまなみ切りし手ぎはのふとうこそあれ [万載狂歌集、酒上ふらち]
「押し寄せる客でそば屋がいそがしいため、そばを切る手際がわるくて太いそばになってしまった。」-主題の波切不動は高野山にあるのが有名で、「海遠し浪切不動とはいかに」という川柳があるが、この句は江戸の大塚にあった浪切不動であろう。波の縁語に不動・太うをかけただけの平凡な作である。酒上不埒(さけのうえのふらち)は黄表紙作家恋川春町の狂名。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


男はつらいよの酒
だが「男はつらいよ」の渥美清扮するフーテンの寅こと車寅次郎は別である。寅さんには水割りの類(たぐい)は似合わない。旅先の安宿の食卓にはいつも徳利が並び、葛飾柴又の寅屋に帰ってきてもほとんど日本酒を飲み、言いたいことを一席弁じていい調子である。「寅次郎夕焼け小焼け」では下町の大衆酒場で徳利並べて酔っぱらっている。別の席で宇野十吉扮する老人がひとり黙って日本酒を飲み、金も払わずに店を出ていこうとする。店の者が、おじいさん、お金を払っていきなよ、というと彼はふりむいていい放つ、「金は持たん」。店の者の非難が集中する。この老人、実は画壇の最高権威といわれた画家だったのだが、誰もそうは思わない。寅さんはまた早トチリ、彼を家に帰っても誰からも相手にされない貧しい孤独な老人だと思い込み、珍しく飲み代が懐にあったのか、老人を呼び寄せて、まあ一杯やんな、と酒をすすめてなぐさめる。これがあとで思いがけない方向へと発展していくのであるが、この場面は決して洋酒であってはならない。大衆酒場独特の日本酒がとりわけ興趣を盛り立てたのである。「浪花の恋の寅次郎」のマドンナ役は松坂慶子、寅さんが瀬戸内海で知り合った美女と再会したのは大阪、彼女は新天地で芸者をしていた。寅さんはたちまち彼女に惚れる。彼の泊まっている木賃宿は奇妙な家であり、帳場の横にはいつも笑福亭松鶴扮するヘンな男が茶椀酒を前に置いて座っている。多分冷や酒の入ったこの小道具の茶碗が妙に効果をあげている。山田洋次は酒を一滴も飲まないのだが。-(「日本映画の中の日本酒」 田山力哉 「夏子の酒 読本」) 


風邪の治療のベスト
ウイスキーを1本と帽子を持ってベッドへ行き、ベッドの柱に帽子をひっかけて、その帽子がゆらゆらと動いて見えるようになるまでウイスキーを飲みます。こうすれば風邪のことは忘れてしまうでしょう。これ以上、効果的な治療法はありません。(「ベスト・ワン事典」 ウィリアム・デイビス編 リチャード・ゴードン) 


呼吸系代謝と発酵系代謝
酸素を吸って行う「呼吸系代謝」は、化学式で表せば次式のようになる。C6H12O6(グルコース)+6O2→6CO2+6H2O この式からわかるように、呼吸代謝では一分子のグルコース当り六分子の酸素(O2)を消費して六分子の炭酸ガス(CO2、正しくは二酸化炭素)が生じるが、アルコールは全く生成しない。一方「発酵系代謝」を化学式で表せば、次式のようになる。 C6H12O6(グルコース)→2C2H6O(アルコール)+2CO2 すなわち、、一分子のグルコースが酸素をまったく消費せずに、二分子のアルコール(正しくはエタノールまたはエチルアルコール)と二分子の炭酸ガスに分解される。この両代謝系は、一分子のグルコースから生成するエネルギー量が全然違う。呼吸系代謝のほうが、一〇倍以上も多いのだ。言い換えれば、発酵系代謝によって呼吸系代謝と同じだけのエネルギーを得るためには、一〇倍以上ものグルコースを食べなければならないわけだ。この差は、グルコースが完全に分解されるか、不完全に分解されるかの違いによる。呼吸系代謝では有機物であるグルコースが、無機物である炭酸ガスと水までに完全に分解される。これは、いわばグルコースの完全燃焼である。一方、発酵系代謝の場合には完全に分解されず、有機物としてアルコールが残る。不完全燃焼では、当然、エネルギー効率も悪いわけである。酵母も、本当は酸素を十分に吸って、経済的に生活したいのかもしれない、そうすれば、食べる量も少なくてすむ。しかし、それでは私たち人間が困る。私たちが欲しいのは炭酸ガスと水ではない。そのためには、ぜひとも酸素の乏しい環境で生活してもらわなければならない。種類醸造は、なぜ深い桶やタンクを使って行われるのだろうか。それは、たんに、酒をこぼさないためではない。酸素の供給を少なくして、酵母にアルコールをたくさんつくらせるためなのだ。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


のむ、のんたろお
のむ1[「上:夭、下:口 の」む](動詞)(あいくちなどを)懐中にかくして持つ。(やくざ用語)(明治)
のむ2[「上:夭、下:口 の」む](動詞)客から受けた売買注文を正式に市場に出さず、他の売買注文などにして、客から預かった証拠金を不当に流用し、取引所の税や手数料を着服する。(相場用語)(明治)
のんたろお[「上:夭、下:口 の」太郎]木戸銭をごまかして着服する木戸番。[←のむ=着服する]→げんすけ。[劇場用語](江戸)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


酒にゑ(酔)い くだまく人は 何事も いざしらいとの みだれごころよ(石田未得(みとく)『吾吟我集(こぎんがしゅう)』七)
【大意】酒に酔っ払って、とりとめのないことをくどくどいう人は、(さて醒めると)知らぬ、覚えがないという。岩に砕けた滝の水のような、なんと乱れた心であることよ。古来、酒について訓戒の多いのは、それだけ酒が人を毒するからである。 古人罰酒の法あり。三合を飲酌(いんしゃく)の限りとす。 もしこの法を失う時は家を乱し身を亡ぼす。 箕子(きし)一たび嘗(な)めて延齢の良薬と賞し、二度なめて心を擾(みだ)す媒(なかだち)とおどろき、三度なめて国家を失うの基と悟れり。労なく憂いなき時は飲むべからず。(『雲萍雑志』) 日に三合を限度とした人がいたのは、家を乱さず身を亡ぼさぬため。また、中国の古代、はじめて酒を飲んだ箕子の古事をあげ、疲れた時、気分の重い時以外に酒を飲むなとしている。しかしまたその反面、酒には徳があるとして、同じ『雲萍雑志』はその十徳を挙げている。いわく 飲酒の十徳。和を正し、労をいとい、憂をわすれ、欝(うつ)をひらき、気をめぐらし、病をさけ、毒を解し、人と親しみ、縁をむすび、人寿を延ぶ。 また言う。 酒はいかほどの大酒にて痛飲したりとも、一睡して精神をだに静むる時は、和して身を損ずるにいたらず。酔いてこれがため犯され、心を騒がすか、または女色におぼるるが故に、精神消耗して心膀を破り、瘀濁(おだく)胃中に痼疾(こしつ)となりて血道を腐敗す。曳いては腎をやぶるに及べり。(「道歌教訓和歌辞典」 木村山治郎編) 


ちょくし【勅使】
①美濃国養老の滝に下つた勅使。瀧水が孝の徳に依り酒に化したと云ふので、実見のために下され、遂に霊亀三年を養老元年と改元させられた。(やうやう参照)
孝の徳勅使の供はようろよろ 滝の水に酔う
勅使までほくほくとする孝の徳 数杯掬(すく)ひ飲んで
勅使の供はまんがち(慢勝ち)に飲んでみる 我勝ちに滝を(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


大伝馬町の三州屋でもたれた「パンの会」
永井荷風もまた発禁処分につきまとわれた作家だが、明治四十三年十一月二十日に大伝馬町の三州屋でもたれた「パンの会」の大会に顔を出した。「刺青」を発表したばかりの谷崎潤一郎は、その会で荷風にはじめて接した。「青春物語」には、そのときの有頂天ぶりが書かれている。
唯私は宴が闌(たけなは)に及んだとき既に甚だしく酔つ払つて、間もなくその辺をうろつきながら、誰彼の差別なく取つ掴まへては気焔を挙げた。勿論私ばかりではなかつた。酔つ払ひの筆頭は井上凡骨君であつた。此の人の態度は鮮やかなもので、彼が奇声を発しつつ何度も椅子から転げ落ちた格好は今も私の眼底にある。その外、吉井、北原、長田などと云ふ酒豪連も悉(ことごと)くどろんけんのなつた。小山内氏も酔つてわれわれ後輩に向つて如才なく油を売つてゐた。
与謝野鉄幹、蒲原有明、それに「自由劇場」を旗揚げした小山内薫、永井荷風の率いる『三田文学』の連中や、創刊したばかりの『白樺』や『新思潮』の若手までが加わったこの会は、石井柏亭の渡欧、長田秀雄と柳敬助の軍隊入営の送別会を兼ね、芸者や半玉までも出て大宴会になった。しかしこのどんちゃん騒ぎにも黒い影が差す。「祝長田秀雄柳敬助君之入営」と大書された文字を、いつのまにか黒枠で囲った者がいて、それが翌日の『万朝報』に「非国民」の標(しる)しと喧伝されたのだ。折から、幸徳秋水らの大逆事件の予審判決が出、社会主義への弾圧が徹底をきわめていた。これを機に「パンの会」はその勢いを次第に失ってゆく。(「酒と芸術の日々」 鈴木貞美 「酒宴のかたち」玉村豊男編所収) パンの会参加記 


菩提酛
この諸白が始まったのと同じころ、それまでいっぺんに仕込んでいた酒造りから酒母づくりを独立させて、仕込みが二段掛け(『御酒の日記』一四世紀)から、三段掛け(『多門院日記』一四七八から一五〇年間の日記)となる。その母体となったのは菩提泉(ぼだいせん)という菩提山正暦寺(ぼだいさんしょうれきじ 奈良市)で造られた銘酒のもろみといわれる。この菩提泉は大正時代の水「酉元 もと」の造り方とまったく同じであるから、よくよく伝承されたものである。先に紹介した小野(晃嗣)氏の著書(「日本産業発達史の研究」)にその造り方が書かれているので要約してみたい。白米を水に漬け、そのなかに少量のご飯を入れて、三日くらいおくと濁って泡もたってくる。これをざるで濾して、白米は蒸し、麹と濾過した水で仕込みをして、七日間くらいで酒にする。当時は菩提泉を酒として飲んだのであるが、次第にちゃんと発酵しているもろみに蒸米と麹を掛けていく酒造法が工夫された。したがって菩提泉を菩提「酉元」あるいは水「酉元」というようになったわけで、酵母を自然に集殖する「酉元」づくりという日本酒独自の技法が生まれた。約七〇〇年まえのことである。(「日本酒」 秋山裕一) 


誘い上戸
落語家だって人間だから、いくら貧乏だといっても、酒を好む人はたくさんいる。一例をあげれば、「野ざらし」で人気のあった春風亭柳好は、やはり相当以上の酒飲みであった。非常に明るい人柄で、「野ざらし」などでも、やたらに歌を歌いすぎて、しんみりした話が、なんだか尻きれトンボのだらしない話になってしまったが、それはそれで、人気のあった人である。その柳好を戦時中に、お座敷に呼んでくれるひいきがいて、よく、寄席を休んでしまう。あまり、たび重なるので、席亭が、「どういうわけだ、困るね」といや味をいうと、キョトンとした顔をした。「へえ、さいですか。いいですか。お客がね、お料理屋に呼んでくれるんですよ。なんにもない時代だッてのに、いろんなご馳走がワッと出てきて、お酒をガブガブ飲ませてくれるんです。きれいな妓が、あーら柳好師匠、いっしょに飲みましょうよッてんで、さしつさされつ。あんな気分のいいものもなあ、ないッ。それが、どういうわけだッての。困ッちゃうね。一歩譲ッて、ダンナだッたらどうします。そんなところ、行きませんか」と釈明した。席亭も、ついつられて、「そういうとこなら、わたしも行くよッ」といったというのだが、この場合、これはウソであろう。戦後、柳好は酒が出回るにつれて、ますます飲むようになり、高座が終わると、だれかれを、誘って出かけて行った。それは飲むということを、考えるだけで、うれしくなっちゃう、いわば、誘い上戸というタイプにまで、昇華した。そういうときの名言が、いまだに記憶されている。「酒なんてもなァ、ひとりでのむもンじゃァありませんよ。これからね、腹を切ろうッてンじゃないんだから」(「ああ酒徒帰らず」 木村嵐) 


誹風末摘花(2)
して居たに違ひハないと御用いひ(酒屋の丁稚)
十二もんほどのきけん(機嫌)でけころ出る
けつをされますととくりを取て来ず(薩摩屋敷)
生酔本性たがハず二番する
大一座下戸ハ女郎をあらす也(鹿鳴文庫 昭和二十二年刊) 


芋酒、ドングリ酒
さらに、昭和一八(一九四三)年になると、政府は需要に応じた清酒増量と味覚安定のため、清酒およびその醸造段階における醪にアルコールを加えたアルコール添加酒(いわゆるアル添酒)の製造にふみきった。当時、そのアルコールは、主として国内産の甘藷(かんしょ)や糖蜜からつくっていたが、やがてそれに限界がくると、ドングリの実からアルコールを製成するようになった。当時、小学生がドングリ拾いに動員されるようになったのは、そうした事情による。なお、アル添酒は、その原料により、「芋酒」「ドングリ酒」などと呼ばれたものである。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 


ツグミとロウジ
翌朝は早かった。「来るぜ、来るぜ」とたたき起こされ、寝ぼけ眼をこすりながら、小屋から這いだしてみると、まだ満天の星である。しかし、地平の果てのあたり、ウッスラとした一条の曙光があり、やがて朝嵐の声が湧いてくる。と思っているうちに、「キイキイ」「キイキイ」と小鳥の鳴き声が聞こえ、谷の風と揉み合うようにひるがえりながら飛ぶツグミの群が、峠に向かって押しよせてくると思ったら、バタバタ、バタバタ、網の目に落ちていった。まったく、際限がないのである。そのうちに、あたりは、まばゆいモミジの朝焼けになり、遠く雪をかぶった山いただきが見えてくる。私たちは路端に坐って、そのツグミを炙(あぶ)り焼きながら、朝の酒にしたが、あんなツグミは、もう生涯二度と喰べられるものではない。その昔、ツグミは嗣身(つぐみ)といって、延命の願いをこめながら、正月の膳にならべて喰べたものらしく、十月のなかば頃、シベリアから渡ってきて、十日、二十日あまり、落ち穂を拾ったツグミが、桁違いにおいしいわけだろう。ツグミのハラワタの塩辛も、またコッテリと脂がにじんでおいしかったけれども、その合い間合い間の口直しに、焼いては喰べるロウジの口ざわりが、なんともいえぬほど、すばらしかった。ロウジは、関東の北の方で「黒ッ皮」と呼んでいるキノコだが、木曽の山奥では、どの家でも、乾燥して一年分の使い量を貯蔵しているようだ。しかし、戦前のツグミのうまさの思い出などいさぎよくあきらめたほうがよさそうだから、昨年の十一月には、解禁の日を待って、笛吹川畔のキジ鳩をせしめに行った。(「わが百味真髄」 檀一雄) 


情気ある奉行の判決
天保丙申年[七年(一八三六)]の十一月十二日の夜、神田鍋町から火を発し、縦三町横二町余に亙大火があった。火元は酒屋で、過失の届書を出した。ところが年の頃三十三四歳の一婦人が、「鍋町の火事は私が火を附けたのでございます。御法通りに罰して下さい。殊に数十人の焼死者もあったことですから、到底其の罪をを遁れることは出来ません」と、町奉行所に駈込み訴え出でた。奉行は早速其の婦人を白洲に喚出して、何故放火したか其の理由を訊ねた。婦人は泣きじゃくりながら申立てた。「あの鍋町の酒屋というのは、私の叔父でございます。この頃、物が高くなったので、女一人の手で、老母の口を養いかね、あの叔父の処に参って三両の無心を申し込んだのです。叔父は金を貸してくれないばかりではなく、他人の前で散々な悪口雑言を浴びせました。私は一途に口惜しくなって火を附けました。一時の怨みを晴す為に、沢山の関係のない人々に迷惑を掛けましたのは、何とも恐れ入ります」と。奉行は之を聞き、酒屋を呼び出して調べて見ると事実に相違がない。するとこの奉行は名奉行だ、直ちに右のような判決を下した。-既に放火犯の科ある以上は法は曲げられない。御法の如く火刑を申し附くるのであるが、親を育むという情から起ったのは不憫の至りであるから依って、養老金三両を貸しつかわす。それに就ては毎年一朱ずつ(今の六銭五厘)の金を返納し、悉く返納した上で御法に拠って火炙の刑に処するであろう-と云って、町内預ということになった。三両の金を一朱ずつの年賦とすれば、償還しつくす迄には四十八年の歳月を費やさねばならぬ。そて故、火炙の期までというと、この婦人が八十二三歳になった時出ある。その奉行は彼の孝心を愛で、体のよい無罪としたのであった。(「日本逸話全集」 田中貢太郎) 



リュリュー
さらにそれまでの錬金術を体系化し、その中で蒸溜を、物質の精に迫る有力な手法と位置づけたのが、アルノーの高弟リュリューである。論文の正式タイトルは「真正なる化学哲学の操作に関して平易に記述せるマジョリカの最も学識の高い哲学者ライムンドゥス・ルルスの実験」という。フランス名レイモン・リリューはスペイン領バレアス諸島のマジョルカの人である。彼によると、まず地上の万物は土、水、空気、火の四元素からできているが、実はその他に極めて微量ながら第五元素(quint essence)を含んでいる。それは生きている銀であり、天使の体を構成している原形質と同種のものであるこの物質が地上の万物の生成、消滅、復活を司り、特に人間の生命、活力の原動力を握っているのは、天がそれを通して我々の運命を支配するからである。錬金術とは、この第五元素をとり出して他の物質に添加することでその価値を高め(卑金属を貴金属に高め)、あるいは人間に与えて病を治し、不老長寿の目的を果たす。そして、不老長寿を与える元素として最もふさわしいものがワインからとり出される第五元素即ち「生命の水」であると、このように説明するのである。(「寝ざけ 朝ざけ はしご酒」 飯島英一) 


「足持ち」がよくない
酒の貯蔵は、寒明け百五日目頃に一番火入れ、それから四十日後に二番火入れ、さらに四十日後に三番火入れを実施する。酒のできがよければ、これで秋までもつはずだが、悪ければ四番火入れを実施しなければ駄目で、一回火入れするごとに酒の量が一割減るから、夏酒は高価になるだろう。 
いずれにしても自分の酒は下り酒ほど「足持ち」がよくないと、酒の保存性が劣ることをはっきり認めている点が興味深い。(「江戸の酒」 吉田元) 関東御免酒造りににたずさわった武蔵国幡羅(はたら)郡下奈良村(埼玉県熊谷市大字下奈良)の名主、二代目吉田市右衛門宗敬(むねたか)の記録にあるそうです。 


おでんや
東大前の「呑喜」は。おでんのタネとしての大根や、ふくろを初めて出した店で、ちくわぶの元祖(?)である白ちくわも食べることができます。阿佐ヶ谷では女将ひとりが切り盛りする二軒のおでん屋が有名。一軒は店に入ると、おかあちゃんに「お帰りなさい」と迎えられる老舗「米久」で、もう一軒が関東風・関西風両方のおでんを一度に楽しむことができる「花泉」です。北区には赤羽の「丸建水産」のように、おでん種を販売しつつ、その傍らで立ち飲みのおでん屋もやっている店が何軒かあって、それぞれ人気を集めています。(「ひとり呑み」 浜田信郎) 


窓の梅
佐賀を越して次の駅久保田の海岸に、県下一の銘醸を造る古賀酵一郎さんの"窓の梅"がある。先代は醸一郎さんで親子二代酒に縁の深い名を付けている。入口の塀の白壁は、高さ一メートルくらいのところに黒いしみが見られたが(いまはない)、先年の大水のとき漁船の油が流れて、汚れたためとのことであった。全国名誉賞を二回も続けてとった(同格に"賀茂鶴"と秋田の"両関"とがある)。座敷の床の間に「年々栄えて名さえ無い、香り心地なる窓の梅が香」とあり、鍋島閑叟(かんそう)公の歌ったものを、そのまま酒銘にしたという。酒造りの古い写本があり、先々々代が一冬、灘に修行に行き、その有様を書き残したものだという。(「さけ風土記」 山田正一) 


醍醐天皇の訓誡十二条
醍醐天皇は深く百姓を憫みたまい、寒夜の凍餒(とうだい こごえ飢えること)を察したもうた聖帝である。帝は常に、「威厳が外に現れると、人はよくその言うべき事を言い得ぬ故、朕(ちん)は人に接するごとに、必ず顔を和(やわ)らげている。かくすれば、忠義な言も聞くを得て、朕も大いに得るところがある」と仰せられて、戯臣が物事を奏上するごとに、必ず龍顔を和げて、その奏上をお聞きになったという。また嘗て、左の如き十二か条を作らせ給うた。 一、酒を嗜(たしな)む勿(なか)れ 二、多言する勿れ 三、自家の事を妄(みだ)りに他人に語る勿れ 四、好んで人の不善を説く者を避けよ 五、甲乙隙あり、己れ乙と善ければ、進退行止、眼を甲に注ぐべし 六、狂態の徒を友とすること勿れ 七、大いに怒ること勿れ 八、大いに怒ること勿れ 八、恪謹篤厚にして慢逸の心を生ずること勿れ 九、車駕衣服華美を競うこと勿れ 十、妄(みだ)りに他人の物を借りること勿れ。已(や)むを得ずして之を借らば日を限りて之を返すべし 一一、之を知るを知るとせよ、知らざるを知らずとせよ 一二、人と対話する時他を見ること勿れ(「日本逸話全集」 田中貢太郎) 


とくり(徳利)
*かんどくり・つぼ(本)ずず(森岡(御国通辞)・仙台(浜荻)・庄内(浜荻)・上州(常古路言葉)・秋田・山形岩手・宮城・福島・茨城県多賀郡・岐阜県郡上郡・富山・石川・和歌山・奈良県吉野郡・徳島・高知・島根・大分)・つぼ(岐阜県大垣・長崎県五島)・ぼち(下総(物類称呼)・茨城県北相馬郡・千葉県香取郡)・(補)ぼち。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録) 


酒七題(その七) バナナ酒
仏蘭西の農民が林檎酒をたくはへ、薩摩人が芋焼酎を造り、或は山家の桑酒木瓜(ぼけ)酒、夫々の酒を手造りする風習は、今も諸地方に行はれる。私の母は毎年梅酒を造り、暑気はらひに用ゐてゐる。拙宅でも伝授をうけて試みるが本家の程うまくない。それでも自慢で客にすゝめる。たしか地震の翌年だつた。銀座のうまいものや、はち巻岡田が魚をさげて遊びに来た時、いつぱい飲ませてみた処、これも飲めるがバナナ酒もよござんすと教へてくれた。瓶の中にバナナを切込んで密封し、土中に埋る事三年にして、いゝ酒が出来ますよと云ふのである。三年間土の中に埋るといふのがお伽噺の面白さを加へて愉快だ。早速実行した。しかし三年は長い。おい、きつかりやつとのおもひで三年目にあけてみると、中はすつかり黴がはえ、水気などは一滴もなかつた。これは、はち巻の教へ方が悪かつたのではなく、こつちのやり方にぬかりがあつたのであらう。琥珀の酒を湛へる筈だつた瓶(かめ)は庭の隅に見捨てられ、やがて蟋蟀(こほろぎ)の住家になつた。(昭和六年十一月十四日)(「都新聞」昭和六年自十一月十二日至十八日)(「酒七題」 水上瀧太郎) 


酒七題(その六) 老酒
シヤンパンや葡萄酒のいいのは味はつた事が無いから、大きな口はきけないが、さほど苦労せずに吾々の手に入る酒の中では、日本酒と老酒(ラオチユウ)が一番うまい。蘭陵美酒鬱金香といふのは此の酒のやうに想はれるが、水滸伝の豪傑魯智深や武松が肉饅頭を肴に大杯を傾けたのは、高粱酒のやうな強烈なやつであらう。老酒では上品過ぎる。私が老酒の味を激称するので、支那の土産にくれる人もあるが、我家の惣菜ではうまく飲めない。こつてりした支那料理でこそ、酸味を帯びたこの酒が口を清々しくしてくれて、底の知れない含味(ふくみあぢ)が生きて来るのだ。どこの家でも老酒には氷砂糖を入れるのを本道のやうに心得、それを拒むと田舎もの扱するが、あれは悪酒をごまかして飲む一手に過ぎないので、すぐれたる老酒に甘味を加へるのまもつたいない限りである。いつだつたか、久保田万太郎氏の御馳走で、浜町の待合を直して開業した家へ行き、老酒を命じたところ、冷いまゝ持つて来たので、燗をしてくれと頼むと、あら御燗をするもんですか、皆さんこのまゝ召上がりますがと云つた。天網恢々疎而不洩(てんまうくわいくわいそにしてもらさず)この家は間もなくつぶれた。(昭和六年十一月十四日)(「都新聞」昭和六年自十一月十二日至十八日)(「酒七題」 水上瀧太郎) 


天広丸(あめのひろまる)の狂歌碑


「くむ酒は 是 風流の眼(まなこ)なり 月を見るにも 花を見るにも」と彫られています。向島の白鬚神社(東京都墨田区東向島3-5-2)にあります。 


○無理酒 本てうし
「腹の立時茶碗で呑(のむ)を、呑メぬ呑メぬ、のめぬ酒なら助(すけ)ても見よか、いやなら酔興じやおかしやんせ、おつとそこらが口舌の種となる、「箱根八里は馬でも越せど、越すにこされぬお泊りなませ、いやなら酔興なこさしやんせ、おつとそこらがおしやれの種となる、(浮れ草 文政5年刊) 


ここは、酒場じゃありませんよ
戦争中、ロケーションに行った俳優やスタッフは、宿に着くと、すぐ酒をさがして歩いた。ある薬局に、「養命酒」を見つけた俳優、酒好きなので、その店先で、栓をぬいて、らっぱ飲みにして、「ああ、うまかった。もう一本」薬局の主人が、苦い顔をして、いった。「ここは、酒場じゃありませんよ」(「ちょっといい話」 戸板康二) 


宝島
(沖縄の)南方諸島の中でも有名な宝島では、かつて文化映画で紹介されたことがあるが、この島では今でも祭礼の数日前に、婦人が岩陰にかくれて噛んで造るそうである。この酒を味わった人の話では、ただ甘いだけで、アルコールの気は感じなかったというが、おそらく実感であろう。大隅半島の東河岸の村でも、祭の酒をこの方法で造るところが現存しているそうである。(「日本の酒」 住江金之) 昭和37年の出版ですが、もとになった著作は、昭和6年のものだそうです。 


(十五) わらぢ銭たしなむ
さるこあげ(小揚 荷物を運ぶ人夫)酒のみにて、ならぬ中から毎日酒かふて飲みけるが、殊更(ことさら)此比(このごろ)は酒のねだんもあがり、こあげもすくなければ、女房うとましくおもひ、しかりけれどもきかずして、ひたすら酒手をつかひけるゆへ、ある時女房、てつきり今宵は寒き程に、又酒であらふと思ひ、銭のあり所をかくして置ければ、こあげどの(殿)内儀のねいる時分にそろそろおきて、銭をさがしいだし、こし(腰)につけ買に行かんとして、徳利をさがしける音にて女房驚き、火をともして見れば、亭主うろうろと物さがす、女房、それは何をさしやるといへば、いや物がないといふ、ものとは又とくりがなたづねさしやるかといへば、いやそれではないといふ、まづそのこしな銭は何事ぞといへば、さればとにまよふたさかいで、どこへゆかふやらしらぬによつて、まづ銭をこしに付たといはれた、(「露新軽口ばなし」 近世文芸叢書) 


酒七題(その四) ウヰスキイ
今こそ亜米利加(アメリカ)は呪(のろ)ふべき禁酒国となつたが、二十年前私が渡米した頃は、街の角々は大概酒場が占めていた。ところが、私の住んだマサチユセツ州ケムブリツヂは其頃から禁酒地で、酒屋は一軒も無く、旅舎(ホテル)でも飲食店でも酒は売らなかつた。酒の飲みたい時は、鉄道でボストン市迄でかけなければならないのであつたが、学資が乏しく、おもふにまかせなかつた。私は安物のウヰスキイをボストンで仕入れて来て、鍵のかかる曳出(ひきだ)にかくし、夜中ひそかに楽んだ。何故ひそかに飲まなければならなかつたかと云ふと、ニユウ・イングランドの頑固な宗教心に凝り固まつてゐた下宿の婆さんが、極端に酒を罪悪視してゐたからである。この若者はおとなしくして勉強家で、煙草も吸はず、酒も飲まない、玉に瑕(きず)は基督教徒で無い事だと、婆さんは口癖のやうに近隣の人々へ私を紹介した。私は今、ウヰスキイを飲む度に、お前も基督教徒になつてくれ、さうでないと吾々と同じ天国へは行かれないと、別離の涙を流してくれた般若のやうな婆さんの顔を中心に、亜米利加時代の貧乏生活を思ひ出して憂鬱になる。(昭和六年十一月十二日)(「都新聞」昭和六年自十一月十二日至十八日)(「酒七題」 水上瀧太郎) 


東京を発つ
 夕刻香港着九竜の一ホテルに宿る
とつくにの はつのやどりの 郷愁を 酒にやるべく 酒をのみぬる
イタリヤ
 テラ教授に
とつくにの さけきはめむと この君の あつきなさけに たよりぬるかな(「世界の酒の旅」 坂口謹一郎) 


吟醸酒締め出し
日本酒造組合中央会の記録では、品評会の復活は戦後昭和27年(1952)となっています。戦後、品評会の復活論が清酒業界に盛り上がるのですが、一方で戦前に品評会をボイコットしようとした大手酒造メーカーらは、戦線の経験からして当然復活には消極的だったと思われます。吟醸酒志向の地酒酒蔵と品評会の場での品質競争をしたくない勢力との綱引きがあったのでしょう。それでも結果的に(財)日本酒造協会(現・日本酒造組合中央会)が主催して開催されるのですが、その復活目的として市販酒の品質向上が挙げられ、出品酒に多くの規制が設けられることになります。「過度の高度精白米の使用による一部の特吟的醸造を排し、清酒全般の酒質を向上させ、本来の濃醇味に富み消費者に愛好される市場価値の高い酒質とする技術の改善と経営合理化に資する」ものとされ、精米歩合70%以上、粕歩合30%以上、アルコール分18~20%と規制されるのです。2回目からは粕歩合は現在の普通清酒並みの27.5%にされ、アルコール分は16%となります。このほかにも、吟醸酒の少量仕込みを排するための、出品酒貯蔵量の下限も決められるのです。完全に吟醸酒締め出しのための規制を作っての品評会復活だったのです。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


方言の酒色々(19)
大きな宴会の後、門口で帰りかけた客に大杯で無理に酒を飲ますこと かねんとりー
山の切り始めの時に、酒を山へ持って行って飲むこと ちょーなだて
子弟が教師の所へ吸い物から餅、酒に至るまでを贈ること ぜんたて
大杯で酒をひと息に飲むさま ぎったり
口移しに酒を飲ませること くくんざき(日本方言大辞典 小学館) 


飲みながら描く
吾妻 一回目の失踪以前からすでに徴候はありましたね。もう飲みながら描いていましたから。
西原 飲みながら描けるんですか?
吾妻 それをやったら最後だけどね。末期症状にかなり近づいきていたのかもしれない。普通の人は仕事中は飲まないでしょ。
西原 飲酒運転しているのと一緒ですよ。酒飲んで真っ当な仕事ができるわけがない。
-アシスタントが同じ部屋にいて、先生だけが酔っ払ってるわけにいかないような気もしますけれど。そうでもないんですか?
西原 何を言ってるんですか。アル中が人目を気にするわけがない!ねぇ。
月乃 そうですね。アル中は飲むことに全力です。(「実録!アルコール白書」 西原理恵子・吾妻ひでお) 


折田要蔵
その頃松屋におみきという娘があったが、折田(要蔵)がそれを寵愛して居たのを川村(純義)と三島(通庸)とは予(かね)てから心悪(にく)く思って居た様子であったが、自分が一橋家から命令があって京都へ帰るという前晩に、川村と三島が来て、送別のために雑魚場(ざこば)の茶屋で酒を飲むから一緒にゆけというから、自分はその趣を折田に話して許可を受けた上で雑魚場の料理屋へいった。そこで三人鼎坐(ていざ)して、飲んだり歌ったりいずれも熟酔の上、夜の十一時頃自分は松屋へ帰ってきた。その前に三島は席を立って帰ったが、何故先へ帰ったかと思っただけで別に仔細があろうとは思わなかったが、松屋へ帰って折田にただいま帰りましたといってその席をみると、席上は盃盤(はいばん)が微塵(みじん)に打割ってあるし、殊に松屋の娘は眉間(みけん)に微傷を受けて鉢巻をして寝て居り、折田は茫然(ぼうぜん)として割れた盃盤の間に坐って居るから自分も興が覚(さ)めて、先生、これは一体どうしたのですかと尋ねて見ると、折田は満面に怒気(どき)を含んで、今三島が来てこの通りの乱暴を働いて帰った、(渋)イヤそれは以(もつ)ての外の事だが、全体何の原因で、(折)聞けば足下が京都に帰るについて送別のために酒宴を催したということだナ、(渋)その通りであります。それゆえ先刻先生に御話し申して出ました、(折)その離盃(りはい)に熟酔して来て、三島めがこの通り乱暴をしたのは、察するにその席上において乃公(おれ)の身の上について讒謗罵詈(ざんぼうばり)を極めた上の事であろう。さすれば足下とても三島の同類と見做す、というから自分は怒った。実に怒った。(「雨夜譚 渋沢栄一自伝」 長幸男校注)幕府から摂海防禦砲台築造御用掛を命じられた、薩摩の折田要蔵の人物を探るために渋沢がその内弟子になった時の逸話だそうで、結局、折田は、自分の誤解を認めたそうです。 


博多の練貫酒
博多は京都より僻遠の地にはあったが、中世有数の国際貿易港として中央と交通頻繁であったため、練貫酒は京都方面の貴顕の間に知られていたものと見え、『蔭涼軒日録』の筆者は文正元年(1466)の条に、「筑築前国博多以名酒而称練緯(ネリヌキ)也、古来門(聞)其名」と記している。(正月十日条)。この酒は奈良並に天野の名酒の風味に似(同上二月一日条)、かつその性は「濃醇」であり、「雖歴万里於数旬之間、其味不変」であったため、支那渡航者はこれを舶載したとのことである(碧山日録応仁二年正月十七日条)。以上の事実と当時の小歌に、 うへさに人のうちかづく、練貫酒の仕業かや、あちよろり、こちよろよろよろ、腰の立たぬはあの人のゆゑよのう、 とある点より見て(岩波文庫本閑吟集)、アルコール含有量が大にして、耐久性の大なる酒であったと思う。この練貫酒は永くその名声を維持して、近世に至った(実隆公記永正五年六月廿日、六年八月十日条、後法成寺尚通公記永正十四年三月一日条、言継卿記天文五年二月廿三日、十四年四月廿八日条、策彦和尚入明記初渡集天文十年七月三日、九日条)。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


ぼくの原点
やがてぼくは自前で新劇やストリップも見はじめ、いつのまにか新聞雑誌に劇評など書くようになった。ある夜、これはどこかに書いた話だが、新大久保の飲み屋で、いっしょに飲んでいた友人に、「観客席におけるぼくの原点は、六代目(菊五郎)、田村秋子(新劇女優)、桂文楽、ジプシー・ローズ!」とわめいたら、隣のボックスにいたおじさんが立ちあがり、「おい、あんた、六代目とジプシーをいっしょにするのか」と、ものすごい目つきでにらみつけてきた。ストリッパーといっしょにされたら、六代目ならなぐりつけてくるだろう、という考えが一瞬頭をよぎった。だが酔った勢いもあって、「ぼくにとってはそうです」と負けずに大声で答えた。するとそのおじさんはいきなりぼくに抱きつき、「ありがとう、ありがとう…」と泣き出した。とまどうぼくに、当時水原まゆみの芸名で日劇ミュージック・ホールにでていたママが説明した。「このかたね、ジプシーさんのご主人よ」(「客席の父」 小田島雄志) 


口と盃のあいだには多くのことが起こる
【意味】よいことにはとかく邪魔が入りやすいの意。酒をついで口へもって行くのは何でもないように見えるが、不測の事件が起こって、その酒を飲めないことがあるというわけ。
【参考】『好事魔多し』
 外に ついだ酒が飲めない 盃と唇のあいだは遠い などがあるそうです。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助) 


野菜鍋
土鍋に昆布をしくのは湯豆腐と同じ要領である。しかし大根や蕪の野菜の時は生米を大スプーン二杯程度布に包んでいっしょに煮る。昆布はひろがって来たら上げておく。お米のほうは十五分以上煮てから上げる。大根や蕪はあまり厚くならない程度で、大きければ縦の四つ切り、小さければ半分に切って小口切りにする。お米のねばりとこんぶの味の出たところへ、うす切りの塩ざけか塩ぶりを鍋の底へ沈めて、上へたっぷり野菜を入れる。その時塩小匙一杯程度入れておいて蓋からプーッと湯気が出てくるのを持ちつつ盃をあげていると、新鮮な野菜の香りがただよってくる。そこでまたまた一杯と飲んでいるとプーッとふいてくる。これをポン酢で食べるのである。酒をうまく飲むにはもって来いである。素朴な淡白な味は酒の味を邪魔しない。身をふるわすほどの味でない。声を立たせるほどの味でもない。しかし酒の味をいただく味である。酒を犠牲にする味でない、酒を包容する味である。(「味之歳時記」 利井興弘) 


おばあさんと孫
100メートルぐらい離れた丘の麓のゲルに住んでいる、三歳ぐらいの女の子と、五歳ぐらいの男の子、そのおばあさんがやって来た。女の子は、「おしん」というらしい。モンゴルでも、日本のドラマ「おしん」がテレビで放映されて、人気を博した。女の子が主人公のおしんに似ているので、皆は「おしん」と呼ぶのだとおばあさんがいった。話はちょっとそれたが、おばあさんが飲み、男の子も飲み、「おしん」は、おばあさんにだっこされまま馬乳酒を飲んでいた。いくらアルコール度が、2パーセントとはいえ、ちょっとおどろいた。だが、この馬乳酒は、ビタミンCが普通の乳の四倍もあり、ミネラルや栄養素も多いのだという。(「世界ぐるっとほろ酔い紀行」 西川治) 


枝鶴
夏に金魚を飼うというのも、涼を求めての工夫ですな。金魚屋では、たらいごとに一銭、二銭、三銭という値札を載せてた。(三代目笑福亭)枝鶴(しかく)という人の句に「浮かされた値札に金魚甘んじて」とあってね。なかなかええなと思った。この人は岸本水府(すいふ)主宰の番傘川柳社(ばんがさせんりゅうしゃ)に参加して、川柳の方でも名が通っていた。私の師匠四代目桂米團治(よねだんじ 一八九六~一九五一)と同世代。花柳(かりゅう)から戦中、枝鶴になり、昭和二十一(一九四六)年、メチルアルコールの中毒でかぞえ年の五十二歳で死にました。(「米朝よもやま噺」 桂米朝) 


93.親しい友だちとの酒は一口飲めば体じゅうに知恵がみなぎり、にせの友だちとの酒はたくさん飲めば計略にはまる
 おなじ酒でも、ためになる酒とためにならない酒があるのは、悲しいことですね 中国-ハニ(哈尼)族
35.刀をだめにする竹の節、人をだめにする酒
 飲酒に対する戒め。 ビルマ
83.ヤシ酒に酔って水牛泥棒がばれる
 酔った勢いで調子にのって、以前水牛泥棒をしたことをしゃべってしまった。銚子にのってボロを出す。ヤシ酒(toddy)はオウギヤシ(ビルマ名タン)の新芽からとった液が自然発酵したもの。 ビルマ
(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


ものの味
酒のうまい季節になった。冬のビールも、ストーブをどんどんたいた暖かい部屋で飲むと、うまいものだが、普通の日本家屋では冬はまあ、酒といふところだらう。などと書くと、いかにも酒飲みのやうだが、私はさう酒好きなのではない。この場合の酒とは日本酒に限定されるものでなく、酒一般の意味である。ある席で、このことを言つたら、まわりの人がいつせいに、ウソつけといつた顔をした。私が酒飲みなのは酒が好きだからなのだとみなは思つてゐるやうだ。さう思ふのはその人たち自身、酒が好きで酒を飲んでゐるからだらう。だが私は酒飲みであつても、酒好きといふのではない。ではなぜ酒を飲むのだらう。酒がさう好きではないが、酒に酔ふことは好きなのである。酔ふために飲んでゐる私は、しよせん酒の味がわからない人間である。わからないから酒好きではなく、酒好きではないから酒のほんたうの味を知らないのだらう。その席に青野季吉氏がゐたが、血圧が高いので青野さんは酒をやめてゐる。医者から禁じられたのだ。「飲んだら死ぬぞとおどかされた」と青野さんは笑って言った。「さうでも言はないと、飲むからでせう」と席のひとりが言つた。青野さんは、これはほんとの酒好きである。日本酒が好きである。洋酒なんてものは、つまらんねと言ふ。(「ものの味」 高見順) 番付批評 


二六 小左次の涙酒
婆様が死んで、爺様一人と孫一人の暮らしがあった。孫は毎日山へ薪(もや)刈りに行って、その薪を売っては爺と過ごしていた。爺は何よりも酒が好きで、孫の顔さえ見ると、「小左次(こさじ)、酒を飲みたいなア」と言った。小左次は薪を売った金で、毎日竹筒(たかつつ)ン棒へ一本ずつの酒を買って来て爺に飲ませてやった。すると爺はいつも「あア、うまいなア」と言ってはそれを飲んだ。小左次は爺の嬉しがる様を見ると、まっとよけいに買ってきてやりたいもんだと思っていた。ある日、小左次が山奥へ薪刈りに行ったらば、喉が渇いてならぬので、岩の端(はな)の水の湧いてる所へ入って掬(すく)って飲んだらば、どうもその水は酒に飲める。ハテなと思って何度掬(すく)って飲んで見ても、どうしても色も香いも酒である。それから小左次は明日(あした)家を出る時、二合徳利を一本持って行って、帰りにその水を注(つ)いで来て爺に飲ませて見ると、爺は「うまいなア、諸白の酒だ。こんなうまい酒を汝(われ)ァどこから買って来とオ」と言う。小左次が「どこそこの酒屋から買って来とオ」と言うと、爺は「うまいよオ。これだけあればせエさい(腹いっぱい)ある」と言って大喜びであった。小左次はそれからは毎日、山奥でめっけた水の酒を徳利に注いで来ては爺に飲ませていた。そのことが大へん評判になって、とうとうお上(かみ)にも知れ、小左次はお上へ呼び出された。「その酒を注いで来て見せろ」と言うので、小左次はいつもの徳利へ山奥の水の酒を注いで行って見せると、お上の豪(えら)い人がそれを飲んで見て、「確かに諸白の酒に飲める」と言った。それからお上では、「お前の孝心によって水ン酒になっとオだから、これッからは『小左次の涙酒』という酒れいを下げてやるから酒屋をしろ」と言った。それから小左次は酒屋を始めて、その水の酒を売ったらば、大へん繁昌して大(いか)い酒屋になった。(昭和五年十一月一日 河野けさ婆様)(「甲州昔話集 全国昔話資料集成」 土橋里木) 


決闘を申しこんできた
亡くなった坂口安吾が、尾崎士郎とはじめて会ったときの、その出会いのありさまが痛快だから、ちょっと引用してみると、「ぼくが尾崎士郎先生とどういう因果で友達になったかというと、今から凡そ十年、いや二十年ぐらい前だろう。私が『作品』という雑誌に『枯淡の風格を排す』という一文を書いて、徳田秋声先生をコキ下ろしたところ、先輩に対する礼を知らない奴であるとフンガイしたのが尾崎士郎で、竹村書房を介して、私に決闘を申しこんできた。場所は帝大の御殿山。景色がいいや。彼は新派だ。素より私は快諾し、指定の時間に出かけて行くと、先ず酒を飲もうと飲むほどに、上野より浅草へ。吉原は土手の馬肉屋、ついに、夜が明け、また昼になり、かくて私は家へ帰ると、血を吐いた。惨又惨。私は、尾崎士郎の決闘に打ち負かされた次第である」決闘の場所が、安田砦にまぢかい御殿山であったり、飲み明かした場所が、吉原土手の馬肉屋であったり、なんとも痛快至極で、もし、この両雄が生きていたら、ひょっとしたら、安田砦に馬肉の差し入れぐらい手にしてかけつけたかもわからない。(「わが百味真髄」 檀一雄) 


水戸より塩からを竹の筒にいれて賜りければ
塩からを一筒われにくれ竹のよゝのねざゞの肴にやせん [万載狂歌集、藤本由己]
くれ・呉竹、よ・夜、根笹・寝酒と竹の縁語をたくみにあんばいしている。「塩からを一筒、ある人がくれた、毎晩寝酒の肴にしようと思う。」(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


自分なりの言葉
たとえば甘口で知られる「村祐(むらゆう)」(村祐酒造・新潟県)の味わいは、和菓子に使われる高級砂糖の和三盆を思わせますし、「而今(じこん)」(木屋正酒造・三重県)の甘味は、ほどよい酸を伴っているので、熟したフルーツのように感じます。辛口タイプで言うなら、「神亀」(神亀酒造・埼玉県)はズドンと酸で断ち切るような後味の辛さがあり、「宝剣」(宝剣酒造・広島県)はスパッと刀で切ったようなシャープな切れ味を感じます。甘い、辛いも、こんな風に自分なりの言葉で語ったほうが楽しいと思いますが、いかがでしょう。(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子) 


から誓文
四方赤良(よものあから 太田蜀山人)左に盃をあげ、右にてんぷらを杖つきて、以(もっ)てさしまねいていはく、来(きた)れわが同盟の通人、汝の耳をかつぽじり、汝の舌をつん出し、つゝしんでわが御託(ごたく)をきけ。いにしへ天地いまだわかれざる時、混沌としてふはふは(ふわふわ)のごとし。その清<すめ>るは上りて諸白<もろはく>となり、濁るは下りて中汲<なかくみ>となる。酒はこれきちがひ水と、天竺の古先生が一国<いつこく 一刻>な事いつても、また百薬の長「与欠」(か)半「与欠」(丁か半か)と、きれかはつたる飛目あり。鄭声<ていせい 鄭の国の歌謡>は淫なりと、宇宙第一の文にかきなんしても、とかく浮世はつゝてんてんとは、由良(ゆら 由良之助 仮名手本忠臣蔵)殿の金言なり。凡(およそ)わが同盟、どうまいつた孝弟の実事<じつごと>に、風流のやつしをこぢつけ、意気でも慷慨でもなんでもかでも、よりどつて一九文、詩歌連誹のめりやすに、琴碁書画のはやし方、拍子をそろへてうつてをけ。もしきんならば汝を用ひて褌<ふどし>とせん。もし酔ひつぶれば汝を用ひて袖の梅とせん。もし巨川<おほかは 隅田川>をわたらば汝を用ひて猪牙舟<ちよきぶね>とせん。今日の事四盃五盃ですまず、一盃々々また一盃、ねぢあひへしあひする事なかれ。畳にこぼす事なかれ。飲食する事ながるゝがごとくにせよ。そら時宜をして侮る事なかれ。もし酒つ(尽)きば銚子をかへてもつてのめ。もし肴あらば懐中箸を出してもつてゆけ。つゝしめや。この盟にあづかるもの十余人。酒上熟寝(さけのうえのうまい? 狂名)をはじめとして、即坐に酒を下す事、滝のごとし。時に安永三年甲午(きのえうま)。(「四方のあか」 太田蜀山人) 


ねこ・お・だく、のきさめ、のみきり、のみや
ねこ・お・だく[猫を抱く](抱く)句 酒の原料の玄米を盗む。(酒造職人用語)(大正)
のきさめ[軒雨]頭にくる安酒。→あたぴん(俗語)(昭和)
のみきり[呑切り]小便。[←酒屋にて樽の呑口(下にある液体を出す口)から酒を出すこと。](酒屋→製樽工)(明治)
のみや[呑み屋]①取引所員・株屋の不正をなす者。もぐりの取引所員。→のむ。(相場用語)(現代)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


冨水
ところで何て酒だい?ほほう「冨水」…フスイ…はて?もしかしたら…山梨のあの秋山酒造店の、え、あれなの、へええ、あれがこれなの…。もう一杯注いでくれよ。ええっと、確か、昭和五七年の国税局清酒鑑評会で、「富水制天下」が優良清酒の部で、「辛口富水」で吟醸辛口清酒の部、「やわくち富水」が純米やわくち清酒の部と、それぞれ優等賞をかっさらって三冠王達成の、へええ…。で、これは「冨水原酒」てえの?ちょいと甘い嫌いはあるが、旨いね。二級たあ思えないよ。あそこは特級と一級に「富」、二級に「冨」の字を使って区別してるそうだねえ。(「BAR酔虎伝」 酒口風太郎) すでに廃業した秋山酒造は、秋山裕一の実家だそうです。 ホノルル酒造の刺激 


ちやうめい【長明】
②鴨の異称。鴨長明に掛けたものである。
長明と号して蘇武の茶椀酒 蘇武は雁(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


 盃の蒔絵を見侍りて  人 世話成(ひとのせわなり)
さかつきの うらは蒔絵の 鳥なれは(ば) おさへる人も さす人もあり
 菊印の酒を人のもとにおくるとて  猿丸里太夫
あくるたび どくどくどく(オノマトベと毒)と 音あれと(ど) 薬ときく(菊と効く)の 酒印かな
 題しらす
一とせは 酒にひたりて 過してき この世はさめて 夢にそ(ぞ)ありける
 雀酒盛(すずめのさかもり)
もとよりは 雀はさゝ(笹と酒)か すきなれは(ば) ゑさし(餌差し)の竿に さい(し)つさゝれつ(「徳和歌後万載集」) 

たった一度の前後不覚
むかしから、私は前後不覚に酔いつぶれてしまったことがない。いや、たった一度あるが、そのはなしは後にのべる。-
十八、九のとき、友人二人と、浅草の千束町の小料理屋で、夕方からのみはじめたことがある。このときも愉快にのんだわけだが、二、三軒まわったことまでは覚えていても、その後がわからなくなってしまった。翌朝、私は、夏草の中に寝ていた。目ざめて、そこがどこなのか、すぐにはわからなかった。着物も手足も露に濡れて、泥だらけになっている。半身を起すと、何だか、山のようなものが見えた。立ちあがって、よろよろと歩き、場所をたしかめたら、何と、中央線の浅川駅の裏手だったのである。浅川は八王子の二つ先で、いまの高尾駅がそれだから、山も見えるわけなのだ。狐に化かされたような気もちだったが、おもわず、ぞっとしたのは、身につけていた着物の左の袖(そで)、たもとのあたりが鋭利な刃物で切り落としたように、消えているのを発見したときだった。このときは、ほんとうに酒が怖くなってきた。東京へもどり、前夜、共にのんだ友人たちに尋ねると、「君は、大勝館(浅草の映画館)のところで、一足先にごめん、といって、さっさと帰って行ったのだよ」と、いう。いわれても、わからなかった。いまもって、わからない。つまらないことかも知れないが、この一夜の出来事は、私の酒に対する考え方を相当に変えた。(「夜明けのブランデー」 池波正太郎) 


秋の酒・濁れる酒・にひしぼり(4)
1833 奥の宮の雨の茶店の甘酒を飲みて思ひぬただ過ぎしこと(詠吟)一九七九 福田栄一
1834 妻子らと酒汲む常のあはれさを知りて老ゆらし人といふもの(九歌)一九六七 山本友一(ともいち)
1835 眼の前に大きなる手のぐらと揺れ光りこぼるる白濁る酒(鳥の棲む樹)一九五二 千代国一
1836 胃はいまはよれよれの布一枚のそを酒漬にせば寝れぬを(αの星)一九八五 岡井隆
1837 暗き灯(ひ)の下に酒飲むとり入れを終へて肉厚くなりしてのひら(風塵)一九七三 板宮清治
1838 徳利の向こうは夜霧、大いなる闇よしとして秋の酒酌む(火を運ぶ)一九七九 佐佐木幸綱
1839 生きていれば蟹美酒(うまざけ)を頒(わか)ち合い秋の夜長の灯(ともしび)なるを(福島泰樹歌集・夕暮)一九八〇 福島泰樹(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


「長座」にならないよう
地方から顧客が仕入れなどのために江戸へ出てきた時には、その担当手代たちが出迎えて、いろいろな世話を焼いている様子がうかがえます。店の座敷で「御茶・御たばこ」を出して、商談に取り掛かります。次々に反物を見せて値段の折衝をします。商談が成立すると、得意客を店の二階へあげて御酒を勧めます。『定法』や『永録』には、「二階座敷ニ而(にかいざしきにて)饗応(きようおう)」する時には「長座」にならないように、つまりあまり長居されないように気をつけるようにと書かれています。そして、二階では商いをすることを「見合(みあわせ)」るように、とあります。酒が入った上での商談は後で混乱を招くことになり、ということでしょう。(「江戸奉公人の心得帖」 油井宏子) 呉服商白木屋の文書から読み解ける内容だそうです。 


酒の罪④
三十一、明智(みようち)ある長者の信用を失う。三十二、涅槃(ねはん)から遠ざかる。三十三、凶暴、痴態の因縁になる。三十四、現世では短命で、死んでからは地獄に墜ちる。三十五、万一、人間に生まれ変わっても、凶暴な者になるのをさけられない。このような多くの害があるので、とくに僧籍にある者の飲酒は禁じられたのである。(「仏教珍説・愚説辞典」 松本慈恵監修) 


【酒有別腸】しゆうべつちよう<酒に別腸有り>
酒の収まる腸はまた別の腸である。[従容録九十九示衆]
「上:其、下:木」有別智、----。[資治通鑑後晋紀](「禅語辞典」 入矢義高監修者 古賀英彦編著者) 「-」のところに、「酒有別腸」が入るようです。 


東歩八十五首の中に三条   知真
あさ酒に またゑひもせす 京をいてゝ ふむあし 一二三条の橋

あづまに侍りける比(ころ)すみた川のほとりまつさき(真崎)といふところにて四方赤良(よものあから)あけらかんこう(朱楽菅江)須原の迂平なとゝ酒のみて   業寂 僧都
ふるさとの みやこ鳥をも うちわすれ まつさきにゑふ すみた諸白(「万載狂歌集」) 


酔来飲酒酔来睡 此法不仙又不
百両黄金何可換 従来此是我家伝
という、いかにも酒仙に撤した詩をつくって、酒と共に生きる己を自讃していた。酒の飲み過ぎにもかかわらず、長命を保ち、晩年に医師井沢蘭軒に厄介になっていたが、酒を飲むことを禁じても守れまいと見たのか、最後まで酒を飲み続けていたという。いよいよ今日あたりは死ぬだろうと自覚したとき、朝早くから大きな硯にたっぷり墨を浸ませ、茶番用の引き幕を取りださせて「今日は是限り」と大きく書いた上、その日のうちに七十四歳で没した。文政九(一八二六)年のことである。(「酒に撤する奇人たち」 和歌森太郎)  酔いきたりて酒を飲み酔いきたりてねむる この法、仙にあらず禅にあらず 百両のこがね何に換うべき 従来これわが家伝 とでもよむのでしょうか。 


酒の罪③
十九、法を尊敬しなくなる。二十、僧を尊敬しなくなる。二十一、悪人と仲間になる。二十二、善の者を遠ざける。二十三、破戒の者になる。二十四、慚愧(ざんき)の念がなくなる。二十五、欲情が抑えられなくなる。二十六、異性に放逸になる。二十七、他人に憎まれ、嫌われる。二十八、親族や友人から嫌われる。二十九、よからぬ行為が多くなる。三十、よい行為を捨てる。(「仏教珍説・愚説辞典」 松本慈恵監修) 


秋の酒・濁れる酒・にひしぼり(3)
1826 さけ のむ と ひそかに いでし やま でら の かど の をばし(小橋) に かぜ ひき に けむ(山光集)一九四四 会津八一
1828 牧水も逝きて今年の秋さびし旅にゆけども酒に酔へども(鸚鵡杯(おうむさかずき))一九三〇 吉井勇
1829 酒のむも腹にあること打あけむ友は年ごとまれらになりぬ<中秋一日>(まんじゅさげ)一九二三 尾山篤二郎
1830 唐くにの李白の酔ひを偲ばする月の桂のにごり酒これ(堀口大学全歌集・下)一九七六 堀口大学
1831 かくり世の空ふく風ようつつには唇(くち)にふれくる酒のつめたさ(後藤茂歌集) 一九七六 後藤茂
1832 虫が音は月の光に鳴きつぎぬ枝豆を食ひてからき山の酒(天沼)一九四一 吉田正俊(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


ほとんど覚えていない
先日、わたしの主催した二十人程の小宴があって、その会の進行の、前後三時間ほどを、幹事がそっくり録音して、記念に持って来てくれた。それを聴き直して驚いたことは、終りの方の五、六十分は、ほとんど覚えていないことばかりであった。言った、言わないの言い合いも、家内とならば水掛け論で、だから一方的に言い通すことも出来るけれど、こう科学的な物的証拠を提出されては、のがれぬところと覚悟するより仕方がない。かくのごとき、全面的な記憶喪失一時間の証拠物件を耳にして、大げさに言えば、愕然と色を失い、がっくりと自信をなくしたのである。こうなると、大酒家の先輩に向って、やれおとぼけだの、狸だのといった批難を浴びせたのは、全くの認識不足ということになって、非礼のほどを、お詫びしなければならないということになる。そしてさらに、酒の上のことだから勘弁しろなどという弁解は許さない、という父の庭訓も、それは酒中の言動の全面的記憶喪失などということのない、酒の強さが前提になっていなければ、守り通せることではないのだと気が付いた。ましてや、酒が可哀相だ、などということは、そう誰にでも、安直に言うことの出来ることではないのだと、しみじみと考えさせられた。酒中のことを完全に覚えていないということが、第一、酒に対して失礼だということになる。(「無心の酒」 池田弥三郎 日本の名随筆「酔」) 


【不飲酒戒】ふおんじゅかい
酒を飲むことを禁ずる戒め。在家・出家の別なく、これを規定する。在家人にとっては五戒の一つ。酒は仏道修行の邪魔になるばかりでなく、人の心を狂わせるものだからである。禅寺ではしばしば「葷酒山門に入るを許さず」と石に刻んで標示する。実際には「酔っぱらってはいけない」という教えとして説かれている。(「仏教語大辞典」 中村元) 


木津川の水くさ酒
奈良のわたり木津といふ所に知人ありて立よりけるにもとより酒好むをしれりけれは盃もて出なから折ふし美酒侍らす水くさき酒なりといへれははやうけもちてよめる 宗丹
木津川の水くさ酒と人はいへど宇治栂尾の茶にはましたり(「古今夷曲集」) 


四六時中酒びたり
去年の秋の末、高井有一が泊まったとき、二人で長夜の宴をはったが、彼は途中で睡ってしまった。仕方なく私はとなりの部屋で酒をのみながら原稿を書き、二時間ほどして水のみにおきてきた彼とまた飲み、しばらくして彼が睡ると私もまた独酌で原稿を書き、といった具合にして朝を迎えたことがあった。彼は朝早く大阪に帰るので、私は彼を送り出したあと、雨戸をしめ、夜のような気分で飲みつづけた。すなわち長夜の飲である。そしてやっと睡りにつき、午後にいたって目がさめ、庭の菊がきれいだから目ざめの酒ということになり、とにかく私の酒はこんな四六時中酒びたりのことが多い。(「長夜の酒」 立原正秋) 


さかつき(盃)はめく(巡)りてゆくをきりきりす たれにさせとか鳴(なき)あかすらん
盃もかたふ(傾)きながらあき(秋)の夜の なかなか(長々)しくものむ上戸かな
酒にうかふ月影なからのみいるゝ 上戸のはらそ(腹ぞ)山は(ば)かりなる
酒のみてみなもみち(紅葉)するその中に ひとりさめぬる(赤くならない)松もは(恥)つかし(「狂歌酔吟藁百首」 暁月坊) ここでうたわれているキリギリスは、コウロギのようですね。 


高砂の焼きアナゴ
例年、晩秋の頃になってくると、大阪のBさんから、高砂の焼きアナゴを送っていただくならわしだ、などと虫にいいことを書いてしまって、なんとなく催促がましく気がひけるが、秋が深まってくると、その高砂の焼きアナゴを、ぼんやりと待っている自分に、気がつくのである。この焼きアナゴは、まったくおいしい。輸送の途中、少なくとも三、四日の日数は経過しているだろうから、その味も、香も、うるおいも、二、三割がたは落ちているはずなのに、ちょっとあぶって、酒のサカナにすると、アナゴってこんなにうまいものだったのかと、いまさらのように思い直すような気がされる。晩秋から、冬にかけての、わがオゴリは、アナゴだけでも充分であったといったふうの、平凡な嬉しさがこみあげてくるから不思議である。東京のそこここのスシ屋でも、握る前に、アナゴのタネを煮返してくれたり、あぶったり、叩いたり、おいしいアナゴはずいぶんと多いが、どういうわけか、私はあまりスシメシを好まない。さりとて、アナゴだけをサカナに所望して、スシ屋の店先で飲んでいるのもなんとなく気がひける。それに江戸前の握りズシのアナゴは、タレをつけると、酒のサカナには少々甘すぎるし、ワサビ醤油で喰べると、少々なまぐさい。やっぱり高砂の焼きアナゴが、私の酒のサカナには、恰好なのである。日数がたっていて、味も、香りも、うるおいも、二、三割がた落ちているかもしれないのに、それを一人あぶって、深夜、酒を飲んでいると、アナゴはじつに、それだけで充分なものであって、ほかにもう、なんのツケタリもいらないような、アナゴの三昧境に入った心地になる。申し忘れたが、Bさんから例年、私のところに送って貰う焼きアナゴは、高砂の下村商店の焼きアナゴのようだ。(「わが百味真髄」 檀一雄) 


酒の罪②
七、得るべきものを得られず、持つものを失う。八、秘密を漏らす。九、生業がなりたたなくなる。十、酔って失敗を重ね、憂愁のもとになる。十一、能率が低下する。十二、健康が損なわれる。十三、父を敬わなくなる。十四、母を敬うことを忘れる。十五、僧を侮(あなど)る。十六、バラモンを尊敬しなくなる。十七、長者や先輩を尊敬しなくなる。十八、仏を尊敬しなくなる。(「仏教珍説・愚説辞典」 松本慈恵監修) 


次天頼韻二     天頼(てんらい)の韻(いん)に次(じ)す(四首のうち一首)
傍山海駅二千家    山に傍(そ)う海駅(かいえき) 二千の家
水面作田船作車    水面を田と作(な)し 船を車と作(な)す
秋浅盤無魚斫雪    秋浅くして 盤(ばん)に魚の雪を斫(き)る無く
年豊樽有酒過花    年豊(ゆた)かにして 樽に酒の花(か)に過ぐる有り
○海駅 海辺の宿駅。出雲崎は漁港であるとともに北陸街道の宿駅でもあり、また日本海の海運の中継港としても栄えていた。 ○二千家 出雲崎の家数の概数をいう。家数が多く繁栄しているさまを表現するもの。『間叟雑録』によれば、「戸数千五百ばかり」。 ○魚斫雪 斫は、切る。雪は、雪のように真っ白な鱈(たら)の身を指している。鱈はこの地の名産のひとつで、冬になり雪が降り始める頃から水揚げされる。 ○過花 度をすごす。『葛原詩話後篇』巻一に「酒酩酊ニ至レバ、眼中チラチラトシテ花ノチル様ニ覚ユ。ソノ眼花ソ生ズル期限ニモ過タルホドニ酒ヲノムヲ、酒過花ト云」とあり、陸游の「己酉元日」(『剣南詩稿』巻二十)の「桃符(とうふ)は筆を呵して写し、椒酒は花(か)に過ぎて斟む」を引く。(「次天頼韻」 大窪詩仏 注者 揖斐高) 


月見酒下戸と上戸の顔みれば青山もあり赤坂もあり [万載狂歌集、から衣橘洲]
題山手月。江戸では武士の住宅の多い比較的高い地区を山の手、町民の多い低地を下町と言った。赤坂・青山は山の手に属するので、青い顔も赤い顔もあると地名をよみ込んだだけのことである。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


秋の酒・濁れる酒・にひしぼり(2)
1819 折る人の老いせぬ秋の露までに千歳をめぐる菊のさかづき(宝治二年百首・秋)一二四八? 藤原俊成女(むすめ)
1820 行く末の秋を重ねて九重に千世までめづる菊の盃(続千載集(しょくせんざいしゅう)・秋下・五六八)一三二〇 花園院別当典侍(はなぞのいんのべっとうのすけ)
1821 にほどりの葛飾早稲のにひしぼり(新搾り)くみつつをれば月かたぶきぬ(賀茂翁家集・秋)一七九一 賀茂真淵
1822 若草のつまをみつぼの新(にひ)しぼりここの度まで重ねつるかな(千々廼屋(ちぢのや)集・雑)一八五五 千種有功(ありこと)
1823 菊の上の露ばかりをば重ねつつくめば薬の酒とこそきけ(千々廼屋(ちぢのや)集・雑)一八五五 千種有功(ありこと)
1824 落栗をすびつ(炭櫃)に焼きてにひしぼり飲みつつをれば月も出にけり(調鶴(ちょうかく)集・秋)一八六七 井上文雄
1825 誰か来ぬか われに酒あり 月もよし 李白の伴(とも)よ 門敲(たた)かぬか(独木舟(まるきぶね))一九三五 田中常憲(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


漁師たちの訴え
また(元禄一五年)十月二十一日の(八戸)浦通(うらどおり)の漁師たちの訴えは、「先年元禄八年の飢饉の際には濁り酒づくりが一旦禁止されたが、願い出により許可された。今年も御法度(ごはつと)ではあるが、漁師は水上で仕事をするから少々食事をしなくとも濁り酒さえ下されば寒さを防ぐこともできるので、湊(みなと)通りに濁り酒二軒を開業していただきたい。決して商売にはせず、自家用に飲むものだから」と述べている。濁り酒は漁師、農民にとっては冬の防寒あるいは滋養のために必要だったという理由づけは、東北地方の文献資料を読んでいるとよく出くわす。濁り酒には為政者も比較的寛容で、あっさりこうした願い出を許可することが多い。そこでこの年、湊で一軒、白金村で一軒濁り酒屋が営業をはじめた。その規模は一カ月に七斗五升入りの米三十駄(一駄=二俵)とし、麹づくりは先に生活の困窮を訴えてきた麹屋又四郎が当たることになった。(「江戸の酒」 吉田元) 


御葬いだか結婚式だか
しかし、こんなのはまア罪の軽い方で、長野から二十数キロも山の中に嫁いだ姉の姑が死んだときのことだ。葬儀が終わった晩、働いてくれた近所の人々を慰労する席上、一座のじいさんばあさんへのサービス過剰で、私は散々(さんざん)に酔っぱらったあげく、じいざんばあさんも酔っぱらわせてしまい、御葬(おとむら)いだか結婚式だかわからなくなったそうだ。次の朝、目覚めると、大いに気分がいい。しかし、同じ部屋に寝ていた叔父にきくと、えらい騒ぎだったという。あんなりにぎやかなので、姉の夫である喪主が、「姑ばあさんが死んだのを嫁の弟がよろこんでいるようで工合悪い」と怒り出したのだ。ところが、姉の夫の弟が「なあに八十ばあさんの葬式などお祝いも同じだ。それに阿木君は近所の人を慰労して酔っぱらったんだからいいではないか」と反論し、兄弟喧嘩になってしまったそうだ。その義兄も数年前亡くなってしまって、流石にその葬式には、私も酔う気力がなかった。今になって考えると、あれほど盛大に酔うというのは、限界を越すほどのめる気力体力があるということなんだろう。(「しみる言葉」 阿木翁助) 


酒(さけ)の罪(つみ)①
酒には穀酒、果実酒、薬草酒があるが、いずれも人の心を動かして人を動乱させ、行動を放逸(ほういつ)にするので、すべて有害である。その罪状は次のように三十五挙げることができ、不飲酒戒(ふおんじゅかい)が定められた。一、現世に財が尽きる。二、病気のもとである。四、裸になっても恥と思わない。五、醜名を馳せて悪評のもとになる。六、正しい智慧を隠す。(「仏教珍説・愚説辞典」 松本慈恵監修) 


189小 きつかさやよせさに一しさひもお
注189一「思ひ差し」は酒席で特に相手を指定して盃をさすこと。「実兼は傾城(けいせい)の思ひ差ししつる。羨しくや」(問はず語り一)、「只今の笛の殿に思ひ差し申さう」(幸若舞曲・烏帽子折)。
現代語訳189思いざしにして、さしてくだされ、盃を。
さかさまに「思ひ差しに差せよや盃」と読む歌。『奥義抄』などに見られる廻文歌(かいもんか 上から読んでも下から読んでも同音になる歌)の系統をひく言語遊戯の一。逆に読むことは、もとは言霊(ことだま)の信仰にもとづくものであろう。のちには恋の暗号にまで変化してきた。(「閑吟集」 校注 臼田甚五郎・新間進一) 


天 劉伶を生み
酒を以て名と為す
<解釈>天帝が劉伶をこの地上に生み、飲酒を私の名誉としたのだ。
<出典>西晋(せいしん)、劉伶(りゆうれい)(字(あざな)は伯倫(はくりん) 二一〇?~二七〇?)の無題即興詩。『世説新語』任誕篇。『晋書』劉伶伝。四権絶句。
天生劉伶   天 劉伶を生み
以酒為名   酒を以て名と為す
一飲一斛  一(ひと)たび飲(の)めば一斛(いっこく)
五斗解酲  五斗(ごと)にして酲(てい)を解く
婦人之言   婦人(ふじん)の言(げん)は
慎不可聴 慎(つつし)んで聴(き)くべからず
*1 一斛 十斗。約二十リットル。 *2 酲 わる酔い
<解説> 劉伶が竹林の七賢の一人である。ある日酒が欲しくてたまらず妻に頼んだところ、酒器をこわして「飲み過ぎです。長生きできません。酒を断って下さい。」と戒められた。彼は言う、「自分だけの力ではやめられない。神に祈って誓うとしよう。お供えの酒肉を用意してくれ。」妻はいそいそと準備する。そこで祈って言ったのがこの詩である。「女房の言うことに貸す耳はない。」そう言うと酒を飲み、肉を食べて、もう陶然と酔っていたという。飲んべえの面目躍如だが、中国での評判はあまり芳(かんば)しくない。この故事は、消極的で退廃的(たいはいてき)な人が飲酒によって現実から逃避するのに喩(たと)える、というのがその評価である。(後藤秋正)(「漢詩漢文名言辞典」 鈴木修次編著) 五斗の迎え酒 


飲過ぎ       10・18(夕)
英吉利にヂヨージ・モーランドといふ画家が居た。一生に三度恋をして、そのうち二度までは他(よそ)の家(うち)の女中を相手だつたといふから、相応(かなり)だらしのなかつた男に相違ない。モーランドは一生借金に苦しめられ、債権者に拘引されるのが怖さに、後には蝙蝠(かうもり)のやうに夜分しか外へ出なくなつたが、然(しか)しさういふ間(なか)でも好きな酒だけは止(よ)さうとしなかつた。モーランドが自分で書残した日課表といふものがある。それを見るとかうだ- 朝食(あさめし)には ラム酒と牛乳 ホーランド酒 午食(ひるめし)前には 珈琲一杯 ホーランド酒 ポルタア酒 シユラブ酒 エエル酒 ホーランド酒と水 ヂンヂヤア入りのポートワイン ポルタア酒  午飯(ひるめし)からその後にかけては ポートワイン ポルタア酒 パンチ水 ポルタア酒 エール酒 阿片と水  晩食時には ポートワイン ヂンと水 シユラブ酒  就眠前(ぜん)には ラム酒 とかういう順に杯を煽飲(あふ)つたといふから、朝から晩まで酒に浸つてゐたものと見て差支(さしつかへ)なからう。道理で自分の選んだ墓の銘には、「この下に酔どれの狗(いぬ)横(よこた)はる。」と書き残してあつた。酒といふものは、禁酒論者が言ふやうにまつたく肉体(からだ)には良くないらしいが、その代り精神には利益(ため)になる事が多い。杯のなかには、女の眼や立派な書物のなかに見られるやうな、色々の世界が沈んでゐる。だが過飲(のみすぎ)は過読(よみすぎ)と同じやうにどうかすると身体(からだ)を毀(こは)す事が多い。-モーランドは少し飲み過ぎたやうだ。(「完本 茶話」 薄田泣菫) 


柿ひたし
果物と酒については、古くは公家などの遊戯の一つだった「蹴鞠(けまり)」の息切れの薬として登場してくる。蹴鞠とは、ご存知のように小玉スイカほどの鹿の皮で作られた鞠を、地面に落とさないよう蹴り挙げて円陣を組んだ中で回していく上流階級の遊びだ。この時、夏は氷室に囲った氷を、冬は「柿浸しの酒」を、息切れの妙薬として用いるのが習わしであったという。「柿ひたしという酒、常の酒につるし柿を浸しておいて飲むことなり。飲むときは水でうすめて用う。鞠のとき息切れに何よりも効果がある」(『遠碧軒記』)(「日本人と酒」 別冊歴史読本) 


*酒のないところに愛はなし
-エウリピデス「バッカス」
*一壺の紅(あけ)の酒、一巻の歌さえあれば、それにただ命をつなぐ糧(かて)さえあれば、君といっしょに、たとえあばら屋に住もうとも、心は王侯の栄華にまさる愉しさよ!
-オマール=ハイヤーム「ルバイヤート」
*酒は口を軽快にする。だが、酒はさらに心を打ち明けさせる。こうして酒は一つの道徳的性質、つまり心の率直さを運ぶ物質である。
-カント「人間学」(「世界名言事典」 梶山健編) 


酔漢の今昔
酔漢に対する日本人の挨拶は「景気が好い」といふ言葉で表現される。日本人の酔つぱらひ共が、公然として都会の街路を徘徊するのは、その一つ「景気の好いところ」を友人や仲間に見せてやらうとする、詰らぬ虚栄心にも原因して居る。それは江戸封建時代の経済組織が、職人等の町人階級に法治した習慣の名残りである。だが経済状態の変つた今日では、逆にさうした酔漢共が、失業者の不景気や自暴自棄を表象する。それで今日の酔漢共は、自他共に顰蹙され、羞恥深くなつてるのである。(「個人と社会」 萩原朔太郎) 


光久
「夏子の酒」(講談社刊 モーニングKC)の第八巻に、酒屋・甲州屋の元主人、小玉光久氏のエピソードが紹介されているが、彼は昭和六一年(一九八六)に病で他界するまで、各地の蔵を訪ね歩き、販売不振の小さな蔵元を励まし、良質の地酒を東京に浸透させようと努力した。地酒の紹介というより、当時本来の日本酒の良さを知ってもらう努力と願いは、苦難の連続だったらしい。詳しくは今も東京・池袋にある甲州屋を訪ねていただきたいが、ブランの力のある大手メーカーの酒は、販売店にそれほど日本酒の知識がなくても商売にはなる、が、地方の酒に関しては、売り手が蔵元を熟知し、地酒についての愛着と信頼がなければ買い手に購買意欲を起こさせることはできなかった。消費者に対してすべての責任を負う覚悟が必要だったのである。当然、プロとしての知識が必要で、利き酒の確かさが要求される。十年ほど前、なかなか理解されなかった「地酒・日本酒」のよさがようやく理解され始めた頃、この世を去っていった児玉氏を偲んで、「梅錦」の山川酒造(愛媛)が「光久」という銘柄を造った。ラベルには児玉氏が好きだった、種田山頭火の句、「ゆうぜんとして ほろ酔えば 雑草そよぐ」が詠み込まれている。(「日本人と酒」 別冊歴史読本)平成6年の出版です。 


親父さんの話
親父さんの話で思い出したが、この「飲み食い旅行」のことをいつか私が老母に話したら、健坊(吉田健一)との酒づき合いのほどをよく知っている母は、「吉田さんと一緒で大丈夫?」と、大いに私の健康を心配していた。この話を当の吉田君にしたら、彼は、「そうですか。僕は親父にいったら、『川上君と一緒か、それはいい』と大変喜んでいましたよ」と答えた。つまりこれがそれぞれ一人になった女親と男親の違いというものであろう。もう一つ彼の親父さんの話をすると、この親子である時こんな会話があったそうである。親父「川上君って、シェリイを飲んだり鉄砲を撃ったり、大変だろうね」(註、ウイスキーを飲んだりゴルフをしたり、といわない所にご注意。)息子「ええ、だから葉巻を買う余裕がないらしいですよ」御蔭でそれから何ケ月目かごとに几帳面に、宛名を自筆した葉巻の小包が大磯から届くようになった。名士というものはこんな場合一度か二度は思いつきで送ってくれるけど、後は忘れるものだのに、吉田茂氏はここ二三年ずっと私の乏しい消費量を以てしては葉巻に不自由させないのである。(「旅酒猟」 河上徹太郎) 


酒のあとさき
私は日本酒の味はきらいで、ビールの味もきらいだ。けれども飲むのは酔いたいからで、酔っ払って不味が無感覚になるまでは、息を殺して、薬のやうに飲み下しているのである。私は身体は大きいけれども胃が弱いので、不味を抑えて飲む日本酒や、ビールは必ず吐いて苦しむが、苦しみながら尚(なお)のむ、気持よく飲めるのは高級のコニャックとウイスキーだけだが、今はもう手にはいらず、飲むよしもない。ジンやウォトカやアブサンでも日本酒よりはいい。少量で酔えるものは、味覚にかかはらず良いのである。酔うために飲む酒だから、酔後の行状が言語道断は申すまでもなく、さめれば鬱々として悔恨の臍(ほぞ)をかむこと、これはあらゆる酒飲みの通弊で、思うに、酔っ払った悦楽の時間よりも醒めて苦痛の時間の方がたしかに長いのであるが、それは人生自体と同じことで、なぜ酒をのむかと云えば、なぜ生きながらえるかと同じことであるらしい。酔うことはすべて苦痛で、得恋の苦しみは失恋の苦しみと同じもので、女の人と会ひ顔を見ているうちはよいけれども、別れるとすぐ苦しくなって、夜がねむれなかったりするものである。得恋といふ男女二人同じ状態にあるときは、女の方が生れながらに図太いもので、現実的な性格がよく分るものであり、だから女の酒飲みが少いのかも知れぬ。(「酒のあとさき」 坂口安吾) 昭和22年の文章だそうです。 


さけのみが酒にのまるる世の習いのまれぬようにのむか酒のみ(小山駿亭『心学いろはいましめ』)
【大意】酒のみが酒にのまれる世の習いと、この手の酒のみが世に多い。これ酒のみよ、のまれぬようにのむかのまぬか、これどうじゃ(のまれぬようにのめないならば酒のむな)「前(さき)へ行くのは酒屋の御方(おかた)、後(あと)から来るのが狼(おおかみ)、狐」(『たとへづくし』)というのは、酔うてよろよろよろめき歩く男への子どものはやし文句で、狼、狐は、あとからわざわいが付いてくるの意である。「酒は酒屋にあり、布子(ぬのこ)は質屋にあり」これがいけない。布子は木綿の綿入で普段着だろうから、これまで質に入れて酒の料にかえ、さてこの男、あとをどうする。(「道歌教訓和歌辞典」 木村山治郎編) 


九一 酒飲みの失敗
村の酒屋の酒背負(しょい)人夫の与十という男が、常に酒樽を背負って隣村の精進(しょうじ)や念場(ねんば)へ届けていた。この男は生来酒好きで、いつも途中の峠にかかると、背中の樽を下ろし、栓を抜いてその酒を飲み、代りに峠に湧く清水を詰めて、不足した分を補っていおいた。ところがある時渇水期で峠の清水が涸れ、盗み飲みした酒を補うことができず、与十は応急の策として、自分の体内から出る黄金水を樽の中へ注いでこれを補い、そ知らぬ顔で指定された家へ届けた。その家はちょうど何か祝いごとでもあるか、大勢の人寄りで取りこんでいたが、早速にその樽を開いて「ご苦労だっとオ、さアお前も一杯やれ」と件(くだん)の酒をすすめられた。与十もこれには閉口して頻りに辞退したが、彼の酒好きは向こうへもちゃんと知れているので、「好きな酒づら、一口飲め」と強(た)ってすすめられ、とうとう自分の小便の入った酒を飲まされてしまったということである。(「甲州昔話集 全国昔話資料集成」 土橋里木) 



小粒金     10・13(夕)
府の土木課事件の予審決定書を読むと、芸妓や娼妓やが賄賂として取引されたと明かに認(したゝ)めてある。むかし松平伊豆守[信綱]が、ある時将軍家光の御前に出るのに、白い徳利を一つ持参してゐた。目敏(ざと)い将軍家は直ぐにそれに気が注(つ)いたが、何喰はぬ顔をして、伊豆の素振(そぶり)を見てゐた。すべて将軍家とか、大家(たいけ)の旦那方とかいふものは、出入の者が白い徳利を持つてゐようと、短銃(ピストル)を持つてゐようと、成るべく見て見ぬ振をしなければならぬ。もしか咎(とが)め立(だて)をして、「進上物でさ。」と目の前に差し出されでもすると、それ相応の挨拶をする面倒を見なくてはならぬ。伊豆守は膝の上に白い徳利を抱き寄せて、将軍家の顔を見た。「私(わたくし)さる者から、昨日古今無類の名酒を貰ひ受けましたから、上覧に供へようと存じまして、唯今これへ持参いたしました。」将軍家の目は初めて気が注いたやうに白い徳利の上に光つた。「古今無類といふか、珍しいものぢやの。」「御覧下さりませ。」と伊豆守は、徳利を逆さまに畳の上にぶち撒けた。零(こぼ)れ出したのは灘の生一本と思ひの外、山吹色をした小粒金はちやらちやら音を立てて、畳の上を転がつた。「ほほう、結構な名酒を貰つて、羨ましい事ぢやな。」将軍家は白い歯を見せてにやつと笑つた。「しかしそれには返礼をしなければなるまい、返礼には何をするつもりなのぢやな。」「さあ、その返礼でございますて。」伊豆守は態(わざ)と呆(とぼ)けた顔をしてみせた。「返礼には伊豆ほとほと持参して居りまする。恐れながらこれは御上(おかみ)へお願ひ申し上げますより外に致し方も御座りますまい。」将軍家はお八(や)つの菓子を貰い損ねた子供のやうに、態と外(そ)つ方(ぽう)を向いた。「乃公(おれ)は知らぬぞ。名酒を貰つたのは其方(そち)ぢやからの。」伊豆守を声を立てて笑つた。「それでは致し方も御座いません、名酒はその者へ返し遣はす、と致しませう。」かう言つて、伊豆は掌(て)を拡げて畳の上の小粒金を拾ひ集めた。小粒金は悪戯(いたづら)つ子のやうに指の叉(また)を擦りぬけて転げ廻つてゐたが、それでも終(しま)ひには素直に元の徳利に納まつた。白い徳利は急にまた酒の入つてるやうな顔をした。芸妓と小粒金と物にも色々あるが、どちらも酒でないのは同じだ。(「完本 茶話」 薄田泣菫) 


宿酔
朝、鈍い日が照つてて
 風がある。
千の天使が
 バスケットーボールする。

私は目をつむる、
 かなしい酔ひだ。
もう不用になつたストーヴが
 白つぽく銹びてゐる。

朝、鈍い日が照つてて
 風がある。
千の天使が
 バスケットボールする。(「中原中也詩集」 山羊の歌) 


一円五十銭
若いときには、もっと乱暴で、お腹をこわして、半月も寝たきりになった。なんといっても、働き手に寝られっぱなしでは、収入がなくなってしまう。かみさんのりんが、ひどい工面をして、一円五十銭という金をつくって、「お医者へ行ってきておくれ」と渡した。志ん生は、いわれたとおり、医者へ行くと、待合室に、病人が大勢待っていた。これじゃあ、しようがねえ、と、もともとあまり好きな場所ではないから、すぐに回れ右。そして因果なことに、酒屋の前を通りかかったから、フラフラッと、吸い込まれるように、店に入り込んだ。「これだけ、金があるン。飲ましてくれ」と、飲みはじめた。一円五十銭、たちまち飲んで、いい気持になって帰宅した。その志ん生を見て、かみさんは、押入の前に坐って、風呂敷包みをつくりはじめた。涙ぐんで、実家へ帰るつもりだった。ところが驚くなかれ、その酒がきいたのか、お腹のほうはピタリと治ってしまった。以来、志ん生は、自分のからだに、よほど酒が合っていると信じ込んだらしい。(「ああ酒徒帰らず」 木村嵐) 


不慮の災難
ラブ・マクナブが、耳がしもやけにならないように耳まで深く帽子をかぶったほうがよいと注意された。「いや、私は事故以来耳あては使わないことにしているんです」「どんな事故でしたか?」「ウィリー・トムソンが、一杯のまんかと私にすすめてくれたとき、あいにく聞こえなかったんですよ」(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


アメリカ大明神
一〇月一二日(文久三年)のこと、通旅籠北新道のしゃも鍋屋で、横浜で稼いでいた大工二人と「は組」鳶政が、三人連れの侍と酒に酔って言い争い、鳶政が首を切り落とされた。大工と鳶は声高に次のようにあてこすったという。 なんと横浜は有り難ひではなひか、誠にアメリカ大明神だぜへ、おひらは異人屋敷の仕事で大分工面を能(よく)したのに、いまいましい浪人共が騒々しいので、仕事が隙(ひま)だから、みんな銭をかくして仕舞(しまつ)た、ちと静に成(なる)と、江戸に異人館が出来るのに、浪人共之騒ぎで、御普請も御差留だ、馬鹿馬鹿しい、惣体二本指(にほんざし)は気がきかねへじゃあねへか[中略]気のきかねへ間抜のやつらは侍よ。 「九分通りは皆々難渋するのだ」と言いくるめる侍たちが共感する横浜鎖港などは、思いもよらぬことなのだ。(「藤岡屋日記」8)(「幕末維新の民衆世界」 佐藤誠朗) 


仁勢物語
むかしおとこ、ほうかぶり(頬被り)して奈良の京かすが(春日)のさとへ、酒のみにいきたり、そのさとにいとなまぐさき魚、はらか(鱒のこと)といふありけり、此男かうて(買うて)みにけり、おもほえずふるぎんちやく(古財布)に、いとはしたぜに(銭 小銭)もあらざりければ、心地まどひにけり、おとこのきたりける、かりきる(借り着る)ものをぬぎて、魚のあたひ(代価)にやる、その男しふぞめ(渋染め)のきものをなむきたりける、  春日野の さかなにぬぎし かりぎもの(借着物) さけの(飲)みたれば さむさ(寒さ)しられず  となむ、またつ(注)ぎてのみけり、酔ておもしろきことゞもやおもひけん、  みちすがら しどろもじすりあしもとは みだれそめにし われならざけ(奈良酒)に  といふ歌のこゝろばえなり、むかし人は、かくいらちたる(せっかちなといった意)のみやうをなんしける、(「仁勢物語」 寛永年間(1624~44) 近世文芸叢書)

むかし、男、初冠(うひかうぶり)して、奈良の京(きやう)、春日の里に、しる(領有する)よしして、狩にいにけり。その里に、いとなまめいたる(たおやかな)女はらから住みけり。この男、かいま見てけり。おもほえず、ふる里(さびれた旧都)に、いとはしたなく(身の置き場がない)てありければ、心地まどひにけり。男の着たりける狩衣(かりぎぬ)の裾を切りて、歌を書きてやる。その男、信夫摺り(しのぶずり)の狩衣をなむ、着たりける。 春日野の若紫のすりごろも しのぶの乱れかぎり知られず となむ、おいづきて(大人ぶって)言ひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ、 みちのくのしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに 乱れそめにしわれなかなくに といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなむ、しける。(「伊勢物語」 平安時代 石田穣治訳注) 


日本酒はお猪口に二杯
かつて、一升壜を空にするほどの酒豪であった私は、三十代の後半に体調をくずしてから、ほとんど酒が飲めなくなった。が、仕事のあとは、今でも酔いに身をまかせて眠りたい。日本酒はお猪口(ちよこ)に二杯、ワインはグラス半分。水割りは水にウイスキーをたらしてもらう情けないていたらくとなった私に、酔いをあたえてくれるものとして残されたのは、大ジョッキ一杯まで回復したビールだけなのである。(「お茶を飲みながら」 北原亞以子) 酔虎伝  


酒宴
斜陽紅映酒旗低       斜陽紅に映じて 酒旗低(た)る
食「木盍」帰時袖各携    食「木盍」(おり)を 帰る時に 袖に各々携うるは
都為妻君留割肉       都(す)べて妻のために 割肉を留むるなり(注一)
自拚空酌酔如泥       自ら拚(うちす)つ 空酌(のみつく)して酔うこと泥の如くなるに
酒をたしなみ、歌舞を好むことは、魏志・(後)漢書に、すでにいっている。いまでもやはり古風のとおりで、およそ副食品の費用は、主食品よりも多く、宴会の費用は家庭の費用より多いという。宴会のときは、みんな注意して、あまりムシャムシャ食べないで、吸物などをすこしすすり、あまりは折りづめにして、たもとにいれて家にもちかえり、妻子に食べさせる。また、旅行用の木製の二、三段になった、食物をいれる箱があるが、遊山の時携帯に、はなはだ便である。
注一 東方朔が武帝に召されて肉をもらうことになった。まてどくらせど担当者が来ない。朔は剣をぬいて、肉をきりとり、それを妻君のみやげにと、もちかえる。のち帝にとがめられると、「帰って妻君におくるは、また何ぞ仁なるや」としゃれとばした。(「日本雑事詩」 黄遵憲 訳者 実藤恵秀・豊田穣) 


「ビール」はドイツ語
いずれにしても、MDc.((中世)オランダ語)bierはMHG.((中世)高地ドイツ語)bierの借用であり、且つIt.(イタリア語)bierraはF.(フランス語)biéreのヴァリエイションにすぎないから、「ビール」がドイツ語として形成された言葉であることはまちがいない。現在のビールが、ドイツを発祥の地としている事実と符合する。(22頁)ただ、古ゲルマン時代における名称は不明である。タキトゥスの「ゲルマーニア」にも特定の呼称は記述されていない。現在遡り得る最古の語源は、ラテン語の「飲む」を意味する動詞bibereまでである。つまりこのビベーレが、僧院ラテン語ビベールMonL.(教会ラテン語)biberをへてビールへと変形していくのだが、それは、この語が中世初期、主にラインとその支流々域に建てられた多くの僧院で話される過程で発生した。最初はまず、bibereの語尾の-e-が脱落する。アクセントが第2シラブルの-e-にあるため、語尾の発音はもともと弱かったはずだが、その傾向が更にすすみ自然と綴字もそれに歩調を合わせた結果であろう。更に何年かの間に、語中の-b-が省略されて現在のbierという形に変化し、同時に名詞「飲み物」の意も持つようになった。そして、bierが、その魔術的な魅力の故に、専ら麦酒だけを限定的に指すようになるのにそう時間はかからなかったであろう。つまり「ビール」が麦酒の名称となったのである。(「寝ざけ 朝ざけ はしご酒」 飯島英一) 二三 飲料・食糧 


大将と蠅
秋山(好古 よしふる)氏は日露戦役当時馬に乗りくたびれると、よく楊(やなぎ)の木の下に、粗末な卓子(テーブル)をおいて、麦酒(ビール)の盃(はい)をふくんだものだ。そんな折には土地名物の青蠅がやつて来て洋盃(コツプ)のふちで逆立ちをしたり、とんぼがへりをしたりした。秋山氏はそんな事には頓着なく、洋盃(コツプ)を唇にあてると、蠅ぐるみ麦酒(ビール)の泡をぐつと一息に飲むだ。そして爛(ただ)れたやうな舌のさきで、口のなかの蠅を一匹一匹押し出してはそれを指さきで撮(つま)み出して、机の上に並べたものだ。蠅は羽が濡れてゐるので、暫くは卓子(テーブル)の上を這ひまわつてゐるが、羽が乾くと、そのまゝすうと飛んで往つてしまつた。すこし酔がまはつて、物が面倒くさくなると、秋山氏は口のなかの蠅など頓着なく、一息に洋盃(コツプ)をあふりつけるので、蠅はそのまゝ咽喉を滑りおちて、この手強(てごは)い軍人の胃の腑にもぐつて往つた。(「茶話」 薄田泣菫) 大当たり ビールにハエ 


B.Y.O.B.
何年か前の『週刊朝日』に興味深い投書が載っていた。バンクーバーに住んで2年目の女性が、カナダの友人からバーベキュー・パーティに招待されたという。案内状のPS(Postscript追伸)のところに、B.Y.O.B.と書いてあった。彼女は勝手に、Bring Your Own Boyfriendの略だと思いこんで、ボーイフレンドを同伴して出かけたそうである。しかし、その場に行って慌ててしまった。こんもりと盛られた牛肉の皿を見て、Bring Your Own Beefだったと考えたのだ。だが、これは本当はBring Your Own Booze(or Bottle)の略であり、非公式の案内状で「お酒(booze)持参のこと」の意味で使われているのが正しい。様式のパーティになれていないと、気軽に用いられる略語にもともあどってしまうものだ。でも、日本語でいう「○○持参」という略した言い方に相当すると覚えておけば便利だ。(「ENGLISH 無用の雑学知識」 ロム・インターナショナル編) 


いい店
ひと言で言えば、ストイックというか、自分にきびしいというか。そんな店には、どこか、いい加減なことを許さない、凛(りん)とした雰囲気が漂っています。そんな軽い緊張感を慕って、地元の常連さんたちが毎日のようにやって来るんですね。緊張感がない店は店内の空気がダレて、変な酔っ払いが幅を利かせるようになってしまい、普通のお客さんたちには居心地が悪くなってしまいます。しかし緊張感があり過ぎると逆にまったくくつろげません。軽い緊張感を維持し続けることが非常に大切なのです。(「ひとり呑み」 浜田信郎) 


喧嘩口論は酒の下物
だんだん酒がまはつて来た。(鈴木)三重吉氏の語調や態度の何処となく棘々(とげとげ)したところが現はれ始めた。徐(おもむ)ろに氏を観察しながら、此の唯我独尊癖(へき)には世間に対する不平が籠(こも)つてゐるのではないかと思つた。飲むに従つて、氏の言動が漸(ようや)く露骨になつて行つた。僕に話しかけたり、盃をさす度ごとに、『おい百姓!』といふ言葉が度々氏の口から漏れるやうになつた。『ははあ先刻小宮(豊隆)氏が、注意してくれたのは是れだな』と思つたので、僕は気にも留めずに、盃を重ねてゐた。そのうちに三重吉氏の百姓呼ばはりが愈々猛烈になつて来たので、僕は一応注意を促した方がよささうに思つた。相手が怒つたら怒つた時で、それから先の出様もあると肚を極めると、僕は自分の語彙の中から特に念入りなフイガロ式警語を択(えら)んで、思ふところを開陳するに及んだのである。『おい、三重吉つあん!今日、おめえと俺とは初対面なんだぜ。ところで、さつきから俺のことを頻りに百姓々々つて言つてゐるが、全体俺の何処が百姓なのか、一寸説明して呉れねえか。』と先ず恭(うやうや)しく伺ひをたてると、三重吉氏は長年の喘息(ぜんそく)で少し出目になつた目玉をぎろつかせながら、『百姓いふたら百姓ぢや、何処から何処までも百姓ぢや。』と盃を僕の目の前に突きつけて『飲めいふたら飲めえ!』と愈々(いよいよ)語気が鋭くなつた。こいつあ、なかなか話が面白くなつて来たわいと、僕は益々ガヴロツシユ的礼譲を発揮して言上することにした。『ふうん、さうか。それぢやあ僕の方にも言ひてえことがあるぜ。僕の面つきやからだを眺めて百姓といふなら、おめへから言はれねえうちに、此方から先に承知なんだが、何処から何処まで百姓だといふなら、僕の方にも些(ちっ)とばかり文句があるんだ。おめへ今、「飲めいふたら飲めへ!」とか何とか云つたね。が、そりや一体何処の国の何て村の言葉だい、血統(ちすぢ)は熊襲(くまそ)だが、これでも生れは赤坂で氷川様の氏子なんだ。あんまり気の利(き)いた江戸つ子ぢやねえが、それでも生れてこのかた、俺の近所ぢあ、おめえのやうな糞尿(こえたご)臭せえ言葉は聞いたことがねえぜ。今、酒を飲んでるとこは日本橋だ。さつきから酌をしてゐる女達の言葉にも別に訛(なま)りのねえところを見ると、いづれこの界隈の女達だらうが、こいつ等が俺の言葉とおめへの言葉とを聞き比べて、どつちが都の弁舌だと思ふか知つてるかい。「飲めいふたら飲めへ!」なんて、ちやんちやん坊主のラヂオ体操ぢやあるめえし、そんな掛け声ぢやあ、盃の酒が腐らあ。何とか都らしい言葉で、俺が「よし来た」とか「あいよ」とか快く引受けられるやうな酒のすすめ方をして呉れねえか。黙つてるとこを見ると、何にも言へねえんだな。それぢやあ、俺が教へてやらうか。「飲めつてつたら、飲まねえか」とか、「まあさ、飲みなよ」とか…ねえおい、さうだろう。「飲めいふたら飲めえ!」ぢや、一向グビがノドノドしねえや。』と、まあ斯う云つた工合で、僕流の駄弁(ペラ)ティックを僕流のフオネティックで御教授に及んだわけであつた。これには流石の唯我独尊先生もことの外御立腹の様子に見受けたが、斯(か)かる慇懃(いんぎん)な売言葉になると、僕には学校の講義より遙かにアツト・ホオムなので、レジヨナリスムの文学者は、一寸たぢたぢの気味だつた。一時、座が白けて、酌をしてゐた女たちはきよとんとしているし、豊隆氏は豊隆氏で、『たうたう始めやがつた。だから言はないこつちやない。』といった顔つきで苦り切つてゐた。その夜我々は竟(つい)に三重吉氏の愛息の修学問題には触れずして、結局、いい気持ちで、泥酔して別れた。それが、『千代紙』の作者と僕との最初にして、而(しか)も最後の会見であつたのだ。もしこれが甘くも辛くもない、国際連盟のやうな、お座なりの挨拶で終始したのなら思出にも何もならなかつたらうが、幸ひにも初対面の二人に『この野郎、こん畜生奴』といふ非妥協性があつたので、唯一度の縁(えにし)からも縷々(るる)として尽きぬ懐かしさわ湧いて、それが『千鳥』や『山彦』を慕ふ情けと溶け合ふのである。(「鈴木三重吉との因縁」 辰野隆) 下物 


きく月の 月見は もちの月ならず 籬(まがき)に花の さけや盃 [後万載集、あけら菅江]
十三夜月。「九月の月見は十三夜で、望月でないから餅とは縁がない。垣根の菊よさけ、酒を盃にみたせ。」-菅江には風狂の精神があって、とくに笑を強調する歌風ではないが、おのずから微笑させられる。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


西南の蛮族
子が生まれると、牛と酒を用意して、妻の父母のところは挨拶に行く。父母も初めは怒ったふりをして拒絶するが、近所のものがなだめると、その祝儀を受けとる。酒は鼻で飲み、一飲みで数合も平らげる。その酒は「釣藤酒」というが、どういう酒なのか分からぬ。酔うと男女うち連れて踏歌する。農閑期には百人から二百人が組になり、手をつなぎ合って歌う。数人が笙(しょう)を吹きながら、その先頭に立つ。木蔭(かげ)に酒缸(かめ)が貯えてあり、腹がへっても物は食べず、缸から酒を汲んで好きなだけ飲む。飲んだらまた歌う。夜になって疲れると、そのまま野宿である。三日目になっても飽きないと、五日目か七日目にやっと解散して家に帰る。(「老学庵筆記」 陸游 入矢義高訳 宋代随筆選 中国古典文学大系) 


宇宙最後の酔つぱらい
戦後、神戸にいた島尾敏雄が上京したとき、普通はこちら側に何人かの友達が一緒にいてがやがやと話しあうものだが、そのときは、かなり夜遅く或る店にひとりでいた私と、また、ひとりではいつてきた彼が思いがけず出会つて、のみはじめたことがある。彼はたいへん控えめに静かにのむ。日頃はすぐ酔つてくる弱い私も、それにつられて静かにのんでいると、どうも日本の国内のどこかでのんでいるのではないようだ。といつて、それが何処かといえば、外国の何処でもなく、いつてみれば、特殊な色と香りと音をもつたこの現在の周囲の空間が次第に後景へ退いてい行つて、あのボードレールのanywhere out of the world になんだか近くなつてくるようか気がする。やがて私達は立ち上がつて闇の中に出て行く。彼は何処までも歩く。はじめは彼の肩にかけられている小さな鞄が、歩くたびにかたんかたんと音をたてて闇の中の私達の歩行をリズミカルに調子づけているが、やがて、その響きも耳から消えて、私達が粘つた濃い闇の中を何処までも歩いてゆくと、どうも私達自身が深く、静かでのつぺらぼうな闇になつているような気持になつてくる。酒をのんで歩くのは、堀田善衛につきまとつている習性であつて、彼の場合はひとびとを眺めながらいわば都会の群集であるひとびとのなかを歩く。しかし、島尾敏雄が歩くのはひとのいない場所である。闇の匂いをかぎながら、闇の肌を撫でながら、何処までも歩く島尾敏雄につくそつていると、やがてこの人物がいわば物質の根源に酔いしれて歩いているのだと解つてくる。これは私達のあいだに数少ない、たいへん珍重すべき最後の酔い方であつて、宇宙最後の酔つぱらいとして、彼を讃歌したい気分を私は抑えることができないのである。(「洋酒天国」自三三年九月号至三四年九月号)(「酒と戦後派」 埴谷雄高) 


オッサンの教えてくれるもの
屋台に首をつっこんで飲むコップ酒も、教えられてから大好きになった。どうして私はこう、主体性がないのであろうか。オッサン(夫)の教えてくれるもの、みな、大好きなのである。「酒も飲まんと何の人生じゃ」と海坊主はいう。私は毎晩、酒を飲むのを教えられ、これまた大好きになった。この家へ来た当座、彼の枕元(まくらもと)に、いつもお盆にのったアルミのやかんがあるので、ふしぎに思っていたが、それは、夜中、のどが乾いたときにやかんに口をつけて彼が飲むためであったのだ。私もためしにやってみたら、じつに美味い。酒を飲んだ夜のやかんの水は、これはもう甘露である。こればっかりは、「女だてらになんだ。男のマネをするな!」と叱られた。(「言うたらなんやけど」 田辺聖子) 平成4年に書かれたものだそうです。 

(八)酒屋の八蔵
かうじ町(麹町)六丁目伊丹や(屋)が内之、越ケ谷と云在郷より十八九なるでつち(丁稚)をおきたり、まめやかにはたらきければ目をかけてつかいける、有時酒樽ののみぐちをあけさせ、酒をだせと云つけゝれば、口はあけましたれど、酒は一しづくもでませぬと云、ことはり(理)なりあたまにきりもみせよといわれて、上に錐もみをするよりはやく、みなぎり落る瀧のごとし、八蔵よりぼう(棒)ほどなるなみだをながして、しばしはおきもあがらず、ていしゆ(亭主)おどろきて、いかなるゆへなればとしさい(子細)をとへば、酒につけておや(親)がなつかしう御座りますと云、わが親祖(おやぢ)は上戸であつたかといへば、いやわたくしがおやはしようべん(小便)がつかい(え)てし(死)にましたが、おやさへいきておれば江戸まで奉公にはまいりませぬ物を、しりませいでのこり(心残り)おゝい、あたまにきりもみをしたらば、しぬまいものをといふた。(「枝珊瑚珠」 近世文芸叢書) 


さけ 酒
穀類あるいは果実を発酵させて造ったアルコール含有飲料。中国では新石器時代すでに醸造が始まっていたが、唐代に至るまでは麹(こうじ)で穀類を直接アルコール化した主成分の低い醸造酒で、今の黄酒(紹興(しようこう)酒など)である。『周礼(しゆうらい)』「天官」の「酒正(しゆせい)」に、「式方(醸造法)を以(もつ)て酒材を授く」とあり、後漢の鄭玄(じようげん)の注は「作酒には既に米・麹(きく)の数あり、また功沽(こうこ 精粗)の巧あり…秫[もちきび](じゆつ)・稲は必ず斉[そろっている]、麹・「上:くさかんむり艹、中左:𠂤、中右:辛、下:米 げつ」[穀物の芽]は必ず時あり、湛(しん 水漬け)・「食喜」(し 炒飯)は必ず潔、水泉は必ず香、陶器は必ず良、火斉[火加減]は必ず得」という。古代には「事酒」「昔酒」「清酒」を「三酒」と称したが、その違いは主として醸造期間の長短である。焼酒[焼酎]は南宋になってから現われた。(一説に、元代に始まるという)。明の李時珍『本草(ほんぞう)綱目』巻25に「焼酒は古法にあらざるなり、元の時より始めてその法を創る」とある。果実酒は後漢ごろすでにあった。『太平御覧(たいへいぎよらん)』巻972は『後漢書』引用して、「扶風の孟他(もうた)、葡萄(ぶどう)酒一斛(こく)を以て張譲(ちようじよう)[権勢を振るった宦官]に遺(おく)り、即(すなわ)ち以て涼州刺史となる」という。(「新編中国文史詞典」 孟慶遠・李敏・鄭一奇・夏松涼編 小島晋治他訳) 


◆酒造につき達し
立花出雲守殿 御渡被置候由(おわたしおかれそうろうよし)、御書付一通、御目付 丸毛勘左衛門殿 御達候旨(おたっしそうろうむね)
諸国酒造の儀、天明六午年(うしどし)以前迄 造米の穀高を以、勝手次第酒造可致候。其外隠造は勿論、休株の分 酒造候儀、弥(いよいよ)以堅可相禁旨(もってかたくあいきんずるべきむね)、御料は其所の奉行御代官并(ならびに)御預所、私領は領主地頭より申渡、造高相改(つくりだかあいあらため)、取締等の義は是迄(これまで)の通 相心得可申付候(あいこころえもうしつけそうろう)。
右の趣可被相触候(おもむきあいふれらるべくそうろう)。
十月四日(寛政七年)(「街談録」 太田蜀山人) 蜀山人は、明らかに酒の話題を選んでとりあげているいるように思えます。 


青野季吉(あおの・すえきち)
明治二十三年二月、新潟県の生れ。大正四年早大英文科卒。読売新聞を振り出しに各新聞記者を経て、大正十年頃より文芸評論に気鋭の筆を認められて、『種蒔く人』『文芸戦線』等プロレタリヤ文学の闘将として活躍、検挙されて後転向、文学界同人、早大講師と多彩な歩みを見せて、二十三年ペンクラブ副会長、二十六年文芸家協会会長となる。白髪をオール・バックにして、名酒に耽溺して来たが、高血圧からその酒も断った。文芸評論に喬木の如き自信と情熱をほとばしらせながら、満面を紅潮させて、『さ、さ、再軍備には、ぜ、絶対』と平和論をどもりきかせて、曽ては、新宿辺の屋台店で語る好々爺でもある。(世田谷区世田谷三ノ二二四一)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。 


鬱病とアルコール
吾妻 俺の場合は鬱病があったから。鬱病とアルコールって、一番悪い取り合わせだって聞きましたけどね。
西原 ダメになる仲良し、バリューセットっていうやつですね。
月乃 嫌なバリュー(値打ち)ですね。鬱先アル中なのと、アル中後鬱と分かれるんですけれど、吾妻さんは鬱先のようですね。
吾妻 正確に言えば俺は躁鬱なんだけどね。調子のいいときはもう、ふざけちらしていた。
西原 鬱ってから飲むか、飲んでから鬱るか。
月乃 今も躁鬱はあるんですか?
吾妻 ありますね。すごくサイクルが短いんで、一日の内に何度も落ちこんだり上がったりしますよ。まあ神経科が処方した薬があるんで、抑えてますけれどね。あんまり強い薬は飲んでいないので。(「実録!アルコール白書」 西原理恵子・吾妻ひでお) 


残りの半分
たてつづけに三四杯飲ませましたが、女も三四杯腹にはいって、あだし心をおさえきれず、欲情のほむらを燃やしながら、しきりにむだ口をたたいております。武松はあらかた察しましたが、うつむいたまま、相手にしません。やがて女は立ち上がって、酒をあたためにゆきました。武松は部屋で火箸を取って火をかき起こしております。しばらくすると、女は一本つけてもどって来ました。そうして片手に銚子を持ち、片手を武松の肩に置いて、「二郎さん、こんな薄着じゃ、お寒くないこと?」武松はもうだいぶむかむかしていて、かまいつけません。女は返事がないのを見ると、さっと火箸をひったくって、「二郎さんは火の起こし方が下手(へた)ね。あたしが起こしてあげるわ。火鉢みたいに熱くしたらいいんでしょ」武松はよほどいらいらしてきましたが黙っております。女は武松のいらだちに気がつかず、火箸を捨てて、一杯つぐと、一口あおって半分あまし、武松のほうを向きながら、「あなた、思し召しがあったら、この残りの半分を飲んでちょうだい」聞いて、武松はさっとひったくり、床にぶちまけて、「嫂上(あねうえ)、こんな恥知らずなまねはおよしなさい」というなり、手で一押し、あやうく女を押し倒すところでした。それから、かっと目をむいて、「わたくしはこれでも、ひとり立ちの、一人前の男です。みだらなことをして人の道にそむくような犬畜生ではありません。-」(「金瓶梅」 小野忍、千田九一訳) 


鬼の申し子      蛇婿入 姥皮型
むかしあるところに子供がない婆さまがあった。どうか子供が一人ほしいものだと、村の鬼神様のお宮に願をかけた。満願の日、鬼神様があらわれて、「ふびんだから娘を一人授けてやるが、十三になったら戻してもらってもよいか」といわれたが、どうしても欲しかったので、その約束して女の子を授けてもらった。爺さまも婆さまも喜んで、女の子を大事に育てているうちに、はやくも約束の十三年は経ってしまった。鬼神様に返す日がきたので、三人は抱き合って泣いていると、鬼神様の使いの鬼がやってきて、連れて行かれる事になった。爺さまは娘に一本の徳利を渡して、「これはつきでもついでもなくならないという、私の家の宝物だがお前くれてやる」といって持たせてやった。使いの鬼は娘をつれてをつれて、鬼のかしらの所に行くと、お祝いに酒もりをするといって鬼の子分どもを沢山よび集め、薬罐を出したので娘は徳利を出して、その薬罐につぐと、いくらついでも、ついでもとくとくとくと徳利の酒はいくらでも出てくるので、沢山の薬罐に酒が一ぱいつまった。「これはいい土産をもってきた」と喜び、人の骨などを肴にしゃぶりながら、大さかもりが始まって鬼たちは酔つぶれた。娘はそのすきにこっそり逃げ出し、山の中を歩いているうちに日が暮れて、一軒の家に着いた。-(「青森県の昔話」 川合勇太郎) このあと、もらった「婆の面コ」をつけて汚い姿をして、長者の家で働くようになるが、面を取ったとき、長者の息子にその美しさをみられ、その嫁になったという筋です。 


アル添の平均
吟醸酒は、米の精白度によって大吟醸(精米歩合五〇パーセント以下)と吟醸(六〇パーセント以下)の二つのカテゴリーに分けられ、それぞれ純米と醸造アルコールを添加したものの二種がある。添加する醸造アルコールは白米重量の一〇パーセントを越えないという規定がある。この規定によれば、一・八リッヨル瓶で二割五分ぐらいまでアルコールの添加が許される計算になるが、本醸造では一二パーセント、大吟醸だと五~六パーセントぐらいだろうう。(「利き酒入門」 重金敦之) 


土蔵課役と酒屋税との分離
かかる税制上の欠陥にもかかわらず、その初期に於て、酒屋税の設定を見ざりし所以(ゆえん)のものは、『建武式目条々』に「近以義時・泰時父子之行状、為近代之師」と記すが如く、武家は依然として鎌倉幕府の伝統的な道徳規範の厳守を理想としたがためと思う。しかし幕府財政の破綻によって、ついに鎌倉時代以来の沽酒の禁の政策を放棄し、一転して酒屋税の設定に至らざるを得なかったのである。応安四年(1371)後円融院御即位に際して、十一月二日足利幕府は諸国に段銭を課するとともに、洛中辺土の酒屋土蔵別に三十貫宛を、また酒壺別二百文を課したことは、幕府税制上、土蔵課役と酒屋税との分離が文献に見える最初のものである。(花営三代記十一月二日、吉田家日次記十一月十六日条)。この「酒壺別」課役には留意を要する。-
而してこの禁裏の酒屋税は酒屋一軒宛の均等課税であり、醸造量に順応する石税ではなかったように思う。しかるに、武家政権によって行われた応安四年の課役に至っては、酒屋一軒宛均等課役にあらずして、酒屋の有する壺を課税単位とするものであった。即ち税制技術に於て禁裏の酒麹役より一段の進歩を遂げた合理的なものであった。しかし応安四年の課税は臨時的なものであって、経常的課税が既に成立していたか否かは未だ明瞭を欠く。しかし臨時的課税は何時しか経常的課税となり、両朝合体によって足利幕府の政権が確立するに至るや、明徳四年(1393)、禁裏酒麹役の制度を徴し、土倉酒屋に対する課税規定を明文化したのである。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


お前はぶきっちょで駄目だ
そんな父(三木のり平)も六十を過ぎると体力の限界を感じるようになったんでしょう、九一年に、早変わりが多くてハードな『雪之丞変化』を最後に喜劇の舞台を引退してからは、たまにテレビドラマでお爺さん役をやるか、舞台の演出をするか新劇の舞台に出るかくらいで、仕事を徐々に減らしていきました。その間に母も亡くなり、僕も家を出てしまったので、父は一人で暮らすようになってしまいました。それでも僕は様子を見に行くことすらしませんでした。顔を合わせれば「お前はぶきっちょで駄目だ」とか「いい加減役者をやめなさいよ」とか、ひどい事ばかり言うに決まっていましたから。父が自宅のある四谷近辺の飲み屋を何軒もはしごして無茶飲みしていたのもこの頃だったと思います。一人の家に帰りたくないがために飲み続ける、そんな孤独な酒がどれほど身体を蝕んでいっているのか。もうやることはやったから酔いつぶれて死んだっていいと思っていたのかしれません父の没後、自宅の部屋におびただしい薬があるのをみつけましたが、病院では父は点滴や投薬のたぐいを一切拒否していました。おかげで危篤状態に陥ったのは「三月(みつき)」という宣告を受けてからほんの数日後のことでした。(「見事な死」 小林のり一(かず 長男・俳優) 文藝春秋編) 


かいずの干物
伊勢湾口の狭い地域だけで味わえる珍品に、ほかにもうひとつ、かいずの干物がある。かいずとは黒鯛の幼魚を指し、大阪などでは茅渟(ちぬ)と呼んでいる。ちっぽけで見映えがしないにもかかわらず、れっきとした鯛の系統で由緒正しいところから系図と名づけられ、それが訛ったといわれるが、こじつけの嫌いがないでもない。地域も限定されるけれど、旬も短く、九月の終わりからせいぜい十月いっぱいをはずせばお目にはかかれない。もし幸いにしてその季節に伊勢へ行く機会があったら、何をおいても食べてみる価値はある。十一月に入ると成長し、もはや一人前の黒鯛として刺身にするほかなくなる。魚の思春期ともいうべきときだけ独特のフェロモンが分泌されるのだろうか。一種名状しがたい、甘くやるせないセクシーなかおりを発する。なにせ小さいので、食べられるところはほとんどない。頭と尾を取り去れば、骨の上についた僅かな肉が残るに過ぎない。それでも、人びとは喜んでかぶりつく。秋のただなかにいるのを実感するとともに、自分にも遠く過ぎたにせよ青春があったとの懐旧にひたる。伊勢では素人の釣り自慢も容易に捕ってきては庖丁を握って開き、天日に干す。かおりの飛ぶのも早いので、女房を急(せ)き立て熱燗をつけさせる。(「たべもの快楽帖」 宮本徳蔵) 


喜久酔の専務兼杜氏
こうして世界八十数ヵ国を旅して、異文化を肌で感じた経験から、グローバルに活躍できる場をめざすようになる。卒業後は、証券系投資顧問会社に入社。機関投資家の資産を預かって運用するファンドマネージャーの仕事に就く。その後、退職して1993年に世界の金融業のメッカ、ニューヨークに渡った。現地では証券アナリストとして一生かかっても使えないような金額を動かし、高額な収入を得て、休日はカリブ海でクルーズを楽しむ生活を謳歌していた。「遠くアメリカまで来て、静岡の家業からは完全に逃げきったと思ってました」だが、2年目が過ぎた頃から疑問を感じるようになる。日々の暮らしに充足感を得られなくなってきたという。「究極の合理主義を追求しながら金儲けする仕事は、刺激的でした。でもどこか虚しさがあるのだろうか。お金は生きるために必要な道具であり、手段に過ぎないのではないか。そうだとしたら僕の存在価値とはなんだろう。地に足をつけて生きていきたい。そのためになにをなすべきか。そしてそれをなす場所は、ニューヨークではないはずだと悩むようになりました」自分の生き方を模索するなかで、故郷の酒造りのことに思いを馳せるようになった。それを青島さんに気づかせてくれたのは、母の寿子さんからの手紙であった。(「極上の酒を生む土と人 大地を醸す」 山同敦子) 静岡県藤枝市「喜久酔(きくよい)」の専務兼杜氏となった青島孝が故郷に戻るきっかけだそうです。 


さけ|酒
アフリカには古くからアフリカ独自の酒が存在した。現在でも、主原料を生産できる農耕民の間では、自家醸造による酒が広くつくられている。家庭でつくられる酒を糖分からつくる酒と澱粉からつくる酒に分けると、アフリカには澱粉、それも穀類の澱粉からつくる酒が圧倒的に多い。澱粉からつくる酒つくりの過程は、澱粉の糖化とアルコール発酵の2段階に分けられる。澱粉の糖化には、発芽させた穀類の種子のもつ糖化酵素を利用する方法が最もよくみられる。糖化のためのこうじには、モロコシ、シコクビエ、大麦などがよく用いられる。アルコール発酵は自然酵母に頼るが、酒の搾りかすを加えることもある。原料の澱粉にはモロコシ、シコクビエ、トウモロコシなどのイネ科の穀類のほか、キャッサバ澱粉なども利用される。発芽させた種子を乾燥して粉にひき、それに水を加えて数日置いた後で煮たもの(酒のもと)を自然発酵させるのが、最も簡単なアフリカビールの製法である。水を加える際に穀類の粉を増量したり、煮た後で酒のもとをもう1度乾燥させて保存することもある。ホップに相当するものはふつう加えないが、エチオピアの大麦の酒<タラ>にはクロウメモドキ科のゲショが加えられる。タラは半透明に近くなるほど濾(こ)されることがあるが、アフリカの酒の多くは穀類の粉が混じったどろどろした状態で飲まれる。ストローの先に濾し器をつけて飲んだりもする。なお、アフリカには日本の酒のように澱粉の糖化にカビを利用した発酵酒はないとされてきたが、近年の研究によりアフリカ独自のカビ発酵酒の可能性が示唆されている。糖分からつくる酒としては、蜂蜜酒(エチオピアのタッジなど)、バナナ酒(コンゴ民主共和国のカシキシなど)、ナツメヤシの果実の酒や、各種のヤシの樹液を発酵させたヤシ酒がある。葡萄酒のような果実酒はアフリカでは発達しなかった。蒸留酒は、アフリカでは比較的新しく普及した酒の加工方法であり、アラキ、ワラギ、コニャギなどの呼称は西アジアと共通している。スワヒリ語ではチャンガー、ポンベ・モシ(煙の酒)と呼ばれることもある。近年、ケニアのように自家酒造を免許制にして、結婚や葬式などの特定の機会にしか家でつくる酒を許可しないところもでてきた。これには、アフリカでの酒の飲まれ方がしだいに変わってきたことがその背景にある。アフリカに限ったことではないが、本来、酒は、成人式、葬式、結婚式などの通過儀礼や播種、収穫、雨乞いなどの農耕儀礼に欠かせぬ要素であった。あるいは共同労働の際にふれまわれ、家庭での日常食の1つであった。それが、金銭で売られる酒が出現するとともに酒の飲み方、酔い方が変化してきた。エチオピアの南西部では、ここ10年程の間に、市(いち)の規模拡大と常設化にともなって、人々が酔うことのみのために酒を飲むようになってきた。これは、もともと酒をもたなかった狩猟採集民も共通する現象である。現在では、商品としてアフリカ各国で生産・販売されている酒は、量も種類もたいへん豊富である。瓶詰めのビールはどこの国にもある。なかにはケニアのラガービールのように世界的にも有名な商品もある。また、ワインをつくっている国も数多く、有名なものには、北アフリカ諸国やエジプトのワイン、タンザニアのドドマワイン、エチオピアのアワサワインなどがある。(重田眞義)(「アフリカを知る事典」 小田英郎他監修) バナナの酒 ヤシ酒 シコクビエ アフリカの酒づくり 藍の醗酵 ヤシ酒(2) チブク 平和バー トルカナ族 


メコンウィスキー(2)
そのメコンウィスキーは、小麦やライ麦などではなく、米で作られているという。米で作った酒とエチルアルコールをブレンドし、サトウキビでできたモラセス・シュガーで甘味と色をつけるのだ。かなり甘いのはそのせいだ。飲みやすいのでホイホイと口にぶち込んでいくと、悪酔いすること間違いなしだ。その外にも「ホントン」と「サンティップ」などのアルコールがあるが、どうもいま一つである。(「世界ぐるっとほろ酔い紀行」 西川治) メコンウイスキー 


金沢のおでん屋
ここ片町から香林坊が金沢の夜の繁華街だ。香林坊交差点を入った小路の風格ある木造二階建のおでん屋「高砂」は湯気のしみた店内の艶に、いい匂いが漂う。「ふかし、って何ですか?」ミホの訊くおでん種「ふかし」は金沢のおでん鍋に欠かせない、はんぺんのようなもので、丸谷才一『食通知つたかぶり』に『はんぺんは嫌いだがこれはいける』と書かれる。出汁は昆布・鰹節に牛スジも入る関東関西ミックス。高砂は豆腐や大根にはゆるい柚味噌たれをかけるのが特徴だ。梅貝は注文ごとに特大を煮て中をひねり出す。これにイワシとメギスを合わせたイワシ団子で金沢おでんは完成する。ツイー。おでんには厚手コップ酒。寒い日に待たせないよう燗酒はポットに入り、注文すればすぐ出る。金沢はおでん屋が多く、「高砂」は昭和十一年開店。「赤玉」は昭和二年、近くの「菊一」は昭和九年。以前菊一の主人から「飲食街はおでん屋の多い町と、焼き鳥屋の多い町の二つに分かれ、金沢はおでん」と聞いた。確かに金沢に焼鳥屋は少なく、主人言うには、昔の金沢は学生の街で安くて腹のたまるおでんは喜ばれたと。(「居酒屋おくのほそ道」 太田和彦) 


ミルク育ち
ミルクで育った池島信平も、大した呑み手になったものである。陽気で闊達で、一つ処にジッとしていられないような、開けっ放しな酔っぱらい方で、会合など一枚なくてはならぬ顔だが、昔は社内左党番付の端にも乗らない弱虫だった。本郷の北星舎という、大きな牛乳屋の息子だけに無理もないが、恐らく社中日記を引っくり返してみても、信平が酒の上でどうしたこうしたと云うゴシップは出て来ないだろう。-(「酒徒交伝」 永井龍男) 


【酒】しゅ
①仏典では酒は三つに類別されろ。食物からつくったスラー、果物および植物や茎や根を原料にしたマイレーヤ、以上の二者がまだよく醗酵しない状態ではあるが人を酔わせるに足るマディヤの三種。また穀酒・果酒・薬草酒の三種とすることもある。酒は、平静な心を散乱させ、あやまちを犯す原因となるので、出家・在家に共通に戒律で禁じられている。五戒および十戒の第五、具足戒の九十単堕の第五十一、菩薩四十八軽戒の第二に不飲酒戒があげられている。『長阿含経』に説く六失、『四分律』に説く十過、『大智度論』に説く三十五過、『沙弥尼戒経』に説く三十六失などは、すべて飲酒の結果生じる過失を列挙したものである。②飲酒のこと。(「仏教語大辞典」 中村元) 


三店
しかし、文人の風流趣味として意識的にこの煎茶法を創めたのは、江戸初期の漢学者石川丈山であつたといわれる。丈山は、比叡山麓の一乗寺村に詩仙堂を営み、詩友数人を集めて煎茶を楽しんだというが、その間に、承応三年に明の禅僧隠元が来朝して、黄檗宗を伝えると共に、諸種の煎茶器を持つてきたので、それを動機として、明代の煎茶法がわが国の禅僧や文人墨客の間に流行したのであつた。丈山は、また、東本願寺の枳穀第(きこくてい)の茶席を設け、丸炉(まるろ)の煎茶を行つたといわれるが、間もなくこれを改造して三店(さんてん)を建てたのである。三店とは、酒店、飯店、茶店の三つをいい、この三店に客を招いて、煎茶式の闘茶会を催している。(「茶 歴史と作法」 桑田忠親) 


千日前「叩き売り」専門店
たとえばカセット・コーダーとライターと腕時計を盆に乗せ、普通に買えば全部で三万はするというあたりから話を始める。しかし当店は金融品を扱っているから、ドーンと安く買ってもらえるのだと、値段を下げていく。「さ、二万五千円から二万や。な、二万、あかんか。おい、頼むデ、しっかりしてや。これだけの品、二万では買えんデ、ホンマの話が。ええっと、そしたらここにボンベ、な、ガスのボンベもつけて、一万五千。一万五千でどうや!」どなっておいて客を見まわし、ニヤッと笑って声を落とすのである。「近頃、ちょっと酒飲みに行ってもそれくらいはかかるデ。え、それで次の日に何が残る。何も残らん。残るモノというたら、むなしさだけやないか。口の中酸っぱあいツバが出てきてなあ…」その点この品物は…と、カネの生きた使い方を勧めるのだが、いやあ、残るはむなしさだけという科白(せりふ)は効きますなあ。誰にもその経験はあり、そのとき確かに酸っぱいツバを飲み込んで、俺は阿呆や…と悔やみますからなあ。しかも、そのあとこの兄ちゃん何と言うか。買おうかな、どうしようかなと迷いの表情を示す客を見つけるや否や、その男に言うような言わないような、駄目押し六分に批評が四分という微妙な口調でもって、こうつぶやくのである。「ここまで来たら決心はもうすぐや。なあ、いま、自分との戦いが始まってるねやろ。わかるデ、その気持」決心しなければ自分で自分に負けることになる…と、なぜかそう思い込ませて、声をださせてしまうのである。「そしたら、もらおかいなあ…」 そして、その決心が間違っても変更されぬように、次の瞬間バタバタバタッと店の奥へ走り、大声で報告する。「社長ォ、社長ォ、買うてくれはりましたあ。一万五千円のお買いあげっ」(「むさし日曜笑図鑑」 かんべむさし) 


酒造制限緩和令
天保十二丑(うし)年九月廿(二十)八日、水野越前守○忠邦、老中。殿御渡。
町奉行え(へ)
諸国酒造之儀 半高酒造可致旨 去子年(さるねどし)○天保十一年。相触候処、当丑年之儀は 諸国豊熟之趣ニ付、追て 及沙汰候迄は 去巳(み)年○天保四年。以前迄 造来米高之内 三分一相減、三分二酒造可致候。尤(もっとも)隠造過造(密造や酒株記載数量を超す製造)等 無之様 取締方之儀は 都(すべ)て 是迄之通 相心得、弥(いよいよ)厳重改方 可申付候。若(もし)隠造過造等 いたすニおゐてハ、其ものは勿論 其所之役人迄 吟味之上 急度(きっと)可申付候条、心得違 無之様 可致候。右之趣 御料私領寺社領共 不洩(もれざる)様 早々可触知もの也。
九月
右之通可相触候。   -天保撰要類集第六ノ中旧幕引継書国立国会図書館(「東京市史稿産業篇第五十四」 東京都編) 酒株記載製造量の2/3までは製造を許可するという御触れのようですね。 


ここだと思うそのここ
今でも山村のどこかでは、秘密のドブロク工場が、こっそりと隠密の醸造をくりかえしているに相違ないけれども、私の幼年の頃には、村のたいていの家は、、自家密造していたものだ。酒を饗応されるといえば、その家でつくった自家製のドブロクをご馳走になるにきまりきっていた話であって、瓶づめの市販の酒や、ビールや、ウイスキーが、山村の中にまで、ゆきわたるようになったのは、ほんのこの頃のことである。どこの家だって、白米を薄いお粥にたきこんでこれをさまし、それにほとんど等量のコウジを入れてよく混ぜ合わせ、甕だの樽だのにつめて、ふとんにくるんみこんでおいたものでだ。毎日まぜ合わせてやると、段々に甘くなり、極上の甘酒ができ上がる。さて、大きな一升徳利に湯を入れて、その甕の中や樽の中に浮かべておくのである。こうして、内と外から、ほどほどにぬくめてやると、発酵し泡立ってきて、段々と苦くからい酒の原酒の味になってくる。ここだと思ったら、徳利でぬくめることをやめて、さまし、コウジと、白米のオコワを入れ、水を足す。一日に、一、二度まぜ、また二、三日たってから、コウジと、白米のおこわと、水を足す。こうして上々のニゴリザケができるわけだが、「ここだと思うそのここ」が秘中の秘であり、第一、日曜料理にドブロクなどつくったら、たちまち、お手々がうしろにまわりますぞ。(「わが百味真髄」 檀一雄) 


センベロ
「センベロって、本当のセンベロの酒場ってどんなんなんですかね。1000円でべろべろですよ。3杯くらいじゃ、べろべろになんてならないですよね。センベロ特集みたりするけど、どこも体験上、センベロにはなれないですよぉ。あの記事作っている人は、下戸なんですかね?」と、普段疑問に思っていることを話し始め、脱線しまくり。(「Tokyo ぐびぐびぱくぱく口福日記」 倉嶋紀和子) 


酒食したのちの注意
酒食の後、酔飽せば、天を仰(あおい)で酒食の気をはくべし。手を以(て)面及(び)腹・腰をなで、食気をめぐらすべし。(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂) 


酒浸り
読者の皆さんにしても、家の前の舗道(ほどう)を、尾羽(おは)打ち枯らし、腹をすかせてしょぼしょぼと歩いていく男を見て、それが自分の若いときの住所録にある知人だったと気がつくことがあるだろうか。今ではだれもがこの男を避けて遠ざかり、男の方はかろうじて餓死をまぬかれているなどと、いったいだれが信じられるだろうか。悲しいことに、こうした経験はさして稀なことではない。世間にざらにあることといえよう。しかし、その原因のほとんどが「酒浸(さけびた)り」から-思慮分別を忘れさせ、妻子も友人も、幸せも仕事も地位も投げ出して、人を堕落と死に向かって猛進させる、あの毒薬を求める狂気の悪癖、「酒浸り」から生まれているといってよい。こうした者の中には、不運、災難、困窮などによって堕落し、いつしか「酒浸り」の悪癖に染まっていった者もいる。人並みにもっていた財貨を失い、愛する者たちを死に追いやり、それでも悲しみを悲しみと思わず、したたかに生き延びて、やがて自業自得、狂気を発し、ほんものの気違い人(びと)になっていく。しかも、ほとんどは、ほとんどの者たちは、そうなると知りながら、ひとたび陥れば二度と立ち上がることのできない陥穽(かんせい)に自ら落ちていき、深く深く沈んでいき、ついには再起不能となっていくのだ。(「第12話 大酒飲みの死」 チャールズ・ディケンズ 藤岡啓介訳) 


葷酒(くんしゆ)山門(さんもん)に入(い)り浸(びた)り
よく禅宗の寺の山門前に「不許葷酒入山門(葷酒山門に入るを許さず)」と大書した石碑が建っている。臭味のある野菜(五辛(ごしん))を食べたり飲酒した人は寺内に入ってはならないということだ。ところが、庫裏(くり)の坊さんはといえば「許されざる葷酒山門に入る」と漢文の読みを変えて、平然と晩酌を楽しんでいる。そういえば、本の編集会議のとき「禅宗の坊主を呼んで酒を出さないとは何事だ」と編集者をどなりつけた人がいたとか。(「仏教珍説・愚説辞典」 松本慈恵監修) 


天の美禄の味
千島列島の中でも、ウルップ、シモシリなどは千島側に属していても別に問題とするには当たらないが、この択捉島は、わが根室(ネモロ)、斜里(シヤリ)、国後島なとど僅かに隔てるだけである。もしも、その地の住民に、わが国の影響が及んでいなかったならば、なにかのときにはどれほど後悔しても甲斐はあるまいと、これらの人々は幕府に強く進言して、摂津国兵庫の海運業者、高田屋嘉兵衛の船を択捉島に通わせたのであった。これによって同島の、これまで肉を食べ毛皮を着ていた住民も、はじめて木綿を着、穀類を食べ、天の美禄(酒)の味を知るようになって、まもなく、わが皇国の文明に浴するようになったのである。
また、本土においては、どのような土地にも弘法大師、伝教大師、行基菩薩の巡行の跡が残り、仏教の影響が根づよいが、この島には少しもそのようなことがなかったのは、われらにとってまことに幸せであった。そのおかげで、衣服の襟は右合わせにせよ、日本の言葉を使うようにと教えれば、疑うことなくそれに従って風俗を改め、次第にわが国の恩恵のもとに生きるようになったのである。ところが文政五年壬午(みずのえうま)(一八二二)、同島の実権が悪徳商人どもの手に移ってからというものは(文政四年に幕府直轄から松前藩支配になる。)、漁業がさかんになるにつれ、アイヌたちは昼夜の別なく責め使われるようになった。夫たちが山仕事や漁撈に出たあとは、妻や娘たちは乱暴され、その無軌道ぶりはとうてい書き尽くせぬほどである。もし、これをいやがる者があれば、十日も十五日も一粒の米も与えずに氷雪の山に追いやって薪を取らせ、または荒れ狂う海に舟を出させて転覆沈没させる。まことに三百三十六カ所あるという地獄の鬼どもの責め苦にもまさる残虐さで酷使するために、たまたま妊娠した者も流産し、病にかかった者はそのまま死ぬなど人口は減るばかりとなって、去る辰年(安政三年、一八五六)に再び幕府ご直轄となるまでの三十年足らずの間に、四百三十九人となったという。(「アイヌ人物誌」 松浦武四郎 更科源蔵・吉田豊 訳) 


酔(よ)える者(もの)の車(くるま)より堕(お)つるや、疾(はや)しと雖(いえど)も死(し)せず。
<解釈>酔っぱらいが車から落ちると、たとえ車が疾駆していても死ぬことはないものである。
<出典>『荘子』達生第十九-
<解説>前後不覚に酔っぱらった者が、溝に転落するなどの事故にあっても、不思議と怪我しないで助かったという話を、私たちはよく耳にする。荘子のこの言葉も、それに類するものであるが、酔っぱらいがなぜ死なずにすむかを、彼は次のように説明する。 乗るも亦(また)知らざるなり。堕つるも亦知らざるなり。死生・恐懼(きようく)(恐怖の感情)、その胸中に入(い)らず。この故(ゆえ)に物に「あ」いて慴(おそ)れず。 すなわち酔っぱらいは、どんなことに出くわしても、酒の力で恐れようとしない、つまり、酒の力を借りてその精神が全うされているから死なぬのだというのである。そこにいささかの恐怖の情が入れば、緊張が全身を硬直させて、死につながる結果を招くと、荘子は考えているのであろう。さて、荘子がか言う真意は、どこにあるであろうか。酒の力で精神を守ってさえこうであるからには、天の力で精神を守る者に加えられる危害はあるはずがないというのである。(沼口勝)(「漢詩漢文名言辞典」 鈴木修次編著) 


都々逸
〽ぬしの弊癖(へいへき わるいくせ)酒さへのむと口実(こうじつ いゝぐさ)ならべたて
〽浮ぬ盃鼓舞するやうに娜(あだ)な弦妓(げんぎ げいしや)を呼よせる(「未味字解 漢語都々逸」 山々亭有人 明治文化全集) 明治3年刊だそうです。 


立石
「立石こそ東京の酒都。独自の酒文化が花開いたガラパゴス諸島です」。そう言って、はばからない藤原(法仁)に立石を案内してもらった。立ち食いずし、おでん、鳥のから揚げ、モツ焼き、シシカバブ…。駅周辺はB級グルメの名所として知られるようになり、週末には遠くから足を運ぶ人も少なくない。藤原がある日「穴場」として紹介してくれたのは、駅北側の狭い路地にある居酒屋「とっちゃんぼうや」。テーブル二つにカウンターの小さな店だが壁や天井にメニューが所狭しと貼ってある。オムライスから焼き鳥、馬刺し。「全メニューを制覇しようと思ったら、20年はかかりますよ。」と藤原はうそぶいた。店主の高橋昭博(62歳)によると、メニューは70~80種類。同じ材料でもいろんな料理に使っているのだという。(「あの人と『酒都』放浪」 小坂剛) 


大田南畝の狂歌(3)
葛飾蟹子丸<かにこまる>大のしやにてたはれ歌人をつどふまゝ、一筆かいて君奈斎<くんなさい>のもとめいなみがたく、右に筆をとり左に盃をとりて、諸白<もろはく>のすみだ川にうかばんとなり
みさかなに大のしあはび蟹よけんかつ鹿早稲のにゐしぼり酒(千紅万紫) 


能書   9.20(夕)
むかし長崎の訳官に、深見新右衛門といふ男が居た。怖(おそろ)しい能書で、一度筆を持つと、平素(ふだん)の温和(おとさし)さとは打つて変つた力のある文字をさつさと書いてのけたものだ。新右衛門がある時、旗本の某(なにがし)を訪ねると、予(かね)てこの男が能書の噂を聞いてゐた某は、「ようこそ、おわせられた。」と言つて、貼り立の立派な屏風を座敷に担ぎ込んできた。「何でもよろしい、一つ記念の為に書いて貰ひたい。」一頻(しき)り酒がすむと、新右衛門は筆を執り上げて屏風に向つた。たつぷり墨汁(すみ)を含ませた筆先からは、色々(いろん)な恰好をした字が転がり出した。どの字も、どの字もが濁酒(どぶろく)にでも酔つぱらつたやうに踊つたり、飜斗返(とんぼがへ)りをしてゐたりした。「素晴らしい出来だ。千万忝(かたじけな)い。」と旗本は丁寧に礼を述べたものの、何が書いてあるか何(ど)うしても読み下せなかつた。新右衛門に訊いて笑はれるのも業腹(ごうはら)なので、どうにか了解(のみこ)めたやうな顔をして、「いや全く素晴らしい出来だ。」と同じやうな事をまた言つて、嬉しさうに声を立てて笑つた。それから二月ばかりして、新右衛門はまた某の邸(やしき)へ来た。そして座敷に飾りつけてあつた先日(こないだ)の屏風を不思議さうに凝(じつ)と見てゐた。「結構な出来だ、誰方(どなた)の蹟(て)でせうな。」と独語(ひとりごと)のやうに言つてゐたが、暫くするとちよつと舌打をした。「一字も読めない、怖ろしく達者に書き上げたものですな。」旗本はそれを聴くと、猫のやうに目を円くしたが、直ぐまたあの当時読み下さなかつたのは、自分の頭が悪かつた故(わけ)ではなかつたと気が注(つ)くと、額に手を当てて満足さうに深い息をした。(「完本 茶話」 薄田泣菫) 


茶山鵬斎日本橋邂逅
文化十一年(一八一四)九月二十日のこと。鵬斎は日本橋の百川楼で開かれた書画会に出席したが、酔いがまわったので途中で退席し、日本橋上に出たところ、遅れて書画会にやってきた老人に出くわした。初対面ではあったが、鵬斎にはそれが、備後・神辺(かんなべ)に住む大詩人菅茶山(かんちゃざん 一七四八~一八二七)だとすぐにわかったらしい。そこで鵬斎は快哉を叫び、茶山の手を引いて、ふたたび百川楼にもどったのである。会場には大田南畝、菊池五山、大窪詩仏、市河米庵など、江戸文化史を彩るそうそうたる詩人、画家、書家が居並んで、茶山先生を迎えたという。このときのことは、鵬斎・茶山ともに忘れられない出来事として詩に賦している。東西を代表する詩人の日本橋上の奇遇は、当時の江戸文人のあいだでも大事件だったらしく、谷文晁は『茶山鵬斎日本橋邂逅図』を描き遺した。この出会いは、江戸文人の交友の広さとネットワークの緊密さを物語るものであり、江戸文化の一つのハイライトでもあったろう。まさに詩と酒とが文人たちを結びつけ、そのネットワークを緊密にしたのである。(「墨水詩酒の宴」 寺岡襄 「酒宴のかたち」玉村豊男編所収) 


*制御しがたいものを順にあげると、酒と女と歌だ。-フランクリン=アダムス「古来からの三つのもの」
*家内の酒杯の一杯は健康のもの、二杯は快楽のもの、三杯は放縦のもの、最後のものは狂気のものとして飲む。-アナカルシス「断片」
*その酒の力、その酒の甘さ、その酒のよろしさ、お前の血のうちに不死の生命(いのち)を育(はぐく)まん。-ヴェルレーヌ「知恵」(「世界名言事典」 梶山健編) 


酒飲まうよ、さ、灯ともしを
何で待ちやる、日はあと指一ふし。
それ大盃を、愛(う)い友よ、
筐(かたみ)から とり出せ、酒とふものを
セメラヤと大神(ゼウス)との子(1)
憂さを払へと 人間に下されたげに。
それ注(つ)いだり混ぜたり、三つ一にして、
縁のとこまでなみなみと、
して次から次と 盞(さかづき)を追ひ巡らせう。(P・L・Fアルカイオス三四六)
注 (1)ディオニューソスすなわちバッコス、酒神である。(「ギリシア・ローマ抒情詩選 あるかいおす」 呉茂一訳) 「三つ一にして」は、水を三分の一加えるということでしょう。 


あやまりも けがもさけより おこるとぞと 思い出(いだ)して 斟酌(しんしゃく)をせよ(作者未詳『西明寺殿御歌』)
【大意】酒を飲む前に、失敗も怪我も酒から起きると思いおこし、ひかえめにせよ。(「道歌教訓和歌辞典」 木村山治郎編) 


酒中花
庭の。たき火の。しろじろとあけぼの知らす鶏(にはとり)は。そのきぬぎぬに引きかけて けさは。にくまぬ声ぞかし。しきせ小袖の一重(ひとかさね)。これも祝ひと。着そめては。また脱ぎかゆる とりどりの。思ひつきなる礼出たち 禿(かむろ)は対(つゐ)の裾模様。梅は光琳 あふぎやぞめの 柳さいしく。はづれ雪 白きはしゆすの ひときりやう。染めぬ手がらは この廓(さと)の。素顔。素足に初春の 改りゆく ものごしは 今日(けふ)一日の。神ことば 面白の有様や。酒にうかめる花の紋。二つ瓶子(へいじ) 三つ瓶子(へいじ) しやく取る禿(かむろ)の手もたゆく。大洲流(おほすながし)の なみなみと 受けてこぼさぬ。盃に 開いて散るや はな空穂(うつぼ)。酒に力を借すとてか 風のさそへば 自(おのづか)ら。かをりもこゝに いたら貝 ひとつ。ほしては思ひざし 抑へられてはあちら向き。左巴に。右巴 まはらぬ女郎の片意地は。しにせの。とらが 石だたみ。へりへこぼすを 咎(とが)められ。網の手合はせ。つなぎ馬 大一大万大吉と。呼ぶにのみこむ。煙草盆 きせるのらうの 竹の雪。草の煙のたなびきて 白一文字 輪ちがひは 空に別れて。月と星。迎ひ酒なら も一つと また傾くる盃に 手のまひ鶴の 両翼(もろつばさ)。千歳も二人 をりゑぼし 君が言葉を。立烏帽子。〽東金の茂右衛門女房はよいよめご 里の勤めをいつか放れて 心のまゝに 末の落葉を誰か知る。知る人ぞしる酒機嫌。花さへ酔を催せり。(河東節) 河東節は、「江戸浄瑠璃の一派。十寸見河東(ますみかとう)が享保(1716 1736)年間に創始、五〇年ほど隆盛。のち旦那芸としてのみ存続。優美で渋く、生粋の江戸風。」と広辞苑にあります。 


十八、そこふか降参の事
かやうにみな(皆)よは(弱)りゆけば、こよひのせいぶ(勝負)はいかがあらんと、たるつぐ(地黄坊樽次)もいさむこゝろは し給はず、其のころいけがみ(池上太郎左衛門大蛇丸底深)がたに、田中のないとく坊のみひさ(内徳坊呑久)とて、大さん(大盞 おおさかずき)とつてのつはもの、きんがう(近郷)にかくれなき、きやく僧(客僧)のありけるが、こんども一ばんに はせくはゝり、数度の手がら、ならぶものなかりしが、たびかさなればよはりけるにや、そこふかにむかつて申(もうす)やう、たるつぐはきゝしにまさる大しゆ(大酒)にて、いまだちつともよはり給はず、そのうへ、いひきらひ(木下本兵衛飯嫌)、さけ丸(佐々木弥左衛門酒丸)などゝいへるくせもの、かたわきにひかへ見えて候ぞかし、しかるにみかたは、大ぜいなりとは申せども、へろへろ上戸のはむしや(端武者)にて、かの人々に、たてあはんずるものはなし、あまつさへそこ深も、何とかしたまひけん、こよひはおく(臆)して見え給ふなり、かく申すそれがしも、よひ(宵)よりすど(数度)のせりあひに、はげしくこみつけられ、今はぜんご(前後)をぼう(忘)じて、ゆみ(弓)もなきうつぼ(靫)ばかりつけたるていなれば、もはや御すけ(助)申事もなりがたし、此の時節をうかゞひ、たるつぐおこりいで給ひなば、そこふかの御いのちもあやうく、このないとく坊も、つゐにはないそん坊になるはひつぢやう(必定)なり、たゞと(疾)くとくかうさん(降参)し給へとて、小がひな(小腕)とつてひつたてれば、ちからなくそこふかも、たるつぐの御前にひざまづき、今よりのちは、御もんぐあい(門外)にこま(駒)をつなぎ申さんとありしかば、樽次大きにうちわらひ、さてはそこふかどのも、今はそこあさになりけるよとあざむかれる、そのころいかなるものゝわざにてか有けん、一しゆ(首)らくしゆ(落首)をぞたてにける、 池上にすめる大じやと聞ぬれど 酒呑む口は小蛇なりけり 扨(さて)たるつぐは、今こそほんまう(本望)とげぬとて、かんこく(函谷)のせきにもあらねども、鳥をかぎりに大しがはら(大師原)をたち出て、みなみがはらにがいじん(凱陣)し給ふ、きのふまでもけふまでも、おに神といはれしそこふかも、わづか三時のうちに、せりかち給ふぞおそろしき、(「水鳥記」 地黄坊樽次) 慶安年間記事 


大七
福島県の安達太良山は日本百名山の一つだ。豊かな伏流水に恵まれたこの山の麓に大七酒造はある。その歴史は古い。伝承によれば、清和源氏の流れを汲む太田家が、十七世紀前半の寛永年間に、伊勢の国から三兄弟で二本松の地にやって来た。三兄弟はそれぞれ酒造業を営み始め、領内きっての商人になったといわれる。そして宝暦二(一七五二)年、太田三良右衛門栄親が分家して創業したのが、現在の大七酒造の始まりだ。太田家は三代目以降、「七右衛門」を代々襲名するようになった。昔は銘柄を「大山」としていたのを、大正七(一九一六)年七月七日に七右衛門にちなむ名として「大七」と改称された。(「挑戦する酒蔵」 酒蔵環境研究会編) 


お通夜で
「池田勇人さん?これもいい人だッた。播磨屋(初代中村吉右衛門)のひいきでさ、播磨屋がなくなッたとき、おくやみに行ッたら、池田さんがいてね。大蔵大臣てンで、そう、羽織ハカマできてた。あ、(古今亭)志ん生くん、ご苦労、こんどキミ、いっしょに飲もう、ッてンだ。大臣がお通夜で、そんなこというかい。でねえ、あとで、ほんとにご馳走してくれた。こっちは、相手が大蔵大臣だから、安心して飲んだね。池田さんも強え。こっちも、すっかりいい気持ちンなっちゃいまして…。なかなかやりますね、かなんかいっちゃってね」(「ああ酒徒帰らず」 木村嵐) 


法律上の言葉の定義のベスト
判事ダーリング(後のダーリング卿、一八四九~一九三六)の言葉。「酔っぱらいとは酔っぱらっている人のことである。」(「ベスト・ワン事典」 ウィリアム・デイビス編 フェントン・ブレスラー) 


お蔦
お蔦 ちょいとちょいと、弥あさん、又暴(あば)れるのかい、親ぶんに叱られるよ。
弥八 お蔦の阿魔か。この嘘つきめ、親分は家(うち)にいたぞ。
お蔦 そうだろう。さっき帰るといって出て行ったもの。
弥八 嘘をつけこの阿魔。渡し場へ行って、ふんどし担ぎを叩ッ挫け。(駈けだしかける)
お蔦 ヘン何だい、あたしが怖(こわ)くって手出しがならないんだろう、ホホホ。
弥八 そうぬかせば、畜生、みんな、阿魔から先へ叩ッ挫け。
北公 だってお前、あの女には家のがお前。(鼻の下へ指を二本やり)じゃねえか。
良公 怒(おこ)られちゃ詰まらねえから止せ。
弥八 渡し場へゆけ。それゆけ。それ行け、それ。
お蔦 (鼻唄に小原節をうたいながら、手をのばして酒徳利と盃洗をとり、盃洗に冷え燗の酒をつぐ。窓に腰かけ酒を呷(あお)る)(「一本刀土俵入」 長谷川伸) 横綱志願の茂兵衛に金をやって逃がしたお蔦の酒です。 


夏月 山手白人
さかつきを月よりさきにかたふけてまた酔はからあくる一樽
七夕酒  馬蹄
けん酒にかちては指をおり姫のつもる思ひをうちはらふらし
山手白人
桂男は下戸か上戸かさかつきの影とは見えてもち月の空
生酔見月  卯雲
ひとつ過ふたつ過たる生酔は三ツはかりには月も見るらん
山手月  から衣 橘洲
月見酒下戸と上戸の顔見れは青山もあり赤坂もあり
月前風  四方 赤良
酔さめの心もつきの縁さきに風のかけたるひとえ物かな(「万載狂歌集」) 


正座をし背すじを伸ばして
小川国夫さんの正しい人だ。一昨年晩春に、群馬県前橋市で開かれた「小川国夫文学展」を、若い友達に誘われて見に行き、その夜の赤城温泉の宴会にも出た。同時に、装画展をやっていた司修ざんも参加していた。舞台のある大広間で酒を飲んだが、顔馴染みの編集者が大勢来ていて楽しい夜だった。時間は、1時間、2時間と経過し、カラオケの時間になり、小川さんは、一つオハコがあり、それを強要する声もあった。しかし、この人は、見た感じでいうと、ずっと正座をし背すじをピーンと伸ばして、温和な顔つきで酒を飲んでいる。私は時間を見計らって、部屋に引き上げたが、それでも12時近かった。しかし、まだ小川さんは姿勢正しく飲んでいた。朝、7時頃だろうか、小川さんから電話がかかってきて、部屋へ来ませんか、と呼び出しコール。行ってみると、もう酒盛りが始まっている。「何時までやりました」と聞いたら、「4時かな5時かな」と頭をヒネッていた。その年、小川国夫は63歳であった。(「小説家の知られざる酒癖」 山本容朗 「夏子の酒 読本」) 


二三 飲料・食料
飲料には、大麦または小麦より醸造(つく)られ、いくらか葡萄酒に似て品位の下がる液(一)がある。(レーススおよびダースウィウス)河岸に近いものたちは(二)、葡萄酒をさえ購(あがな)っている。食物は簡素であって、野生の果実、新しいままの獣肉(三)、あるいは凝乳(四)。彼らは調理に手をかけず、調味料も添えずに飢えをいやす。しかし、彼らは渇き(飲酒)に対してこの節制がない。もしそれ、彼らの欲するだけを給することによって、その酒癖を擅(ほしいまま)にせしめるなら、彼らは武器によるより、はるかに容易に、その悪癖によって征服されるであろう。(五)
註 (一) ビールの類である。このほかに蜂蜜からの酒類もあったが、タキトゥスは書き洩らしている。ビールを永持ちさせるためにホップの類の「にが草」をまぜることも知られていた。蜜酒は蜜と水とを煮沸したから発酵させる。タキトゥスはここに、ビールについて、それが葡萄酒に似てcorruptus(堕落させられた)液だと、特にことわっている。いずれ下等な酒だ、という価値判断が加えられていたのであろう。この語を「発酵させられた」の意味にとる人もある。誤りである。あらゆる酒は、発酵を経なくてはならない。 (二) 原文はproximi ripae「河岸に近きものたち」。この河岸を単にライン(レーヌス)河岸と解するひともある(Goelzer)。しかし実際において、ダーヌウィウス(ドーナウ)河域からの交易も多かった。特にその河岸にあって、イタリアとバルト海を結ぶ街道、およびドーナウに沿って東西に走る街道との交差点にあったカルンyントゥム(Canuntum)-ヴィーン(Vindobona)の東方、もとのケルト族のカルニー蛮族の都、紀元前一五年以来、ローマの州領パンノニアに付加された-は、対ゲルマーニアの軍事とともにまたその商事の中心であった。ここでも葡萄酒の輸入、またゲルマーニアからの瑪瑙などの輸出は盛んであった。また由来も古い。ローマの商人は、南方の商品と交換に奴隷を買い入れ、珍奇な物産を持ち去った。葡萄酒は南方から輸入されたが、これとともにその名(ラテン語vinum→ドイツ語Wein,英語wine 等)もはいって来た。これらを扱う小商人(小間物を売り、かねて飲酒させる)がラテン語においてcaupōと称せられるところから、今のドイツ語のkaufen「買う」、ver-kaufen「売る」の語ができ、またデンマーク語のkΦbe「商う」、そして地名KΦben-havn「コーペンハーゲン(商都の意)」ができた。caupōは古く英語にはいってceap「取引、購入」となり、これに形容詞がついて「よき取引」(=安価な)という成語ができ、これから「よき」が落ちて、それだけで「廉価」を意味する今のcheapがあらわれて来た。 (三) -要するにゲルマーニーは、ローマにおけるように、生肉をしばらくのあいだ「熟(う)ませる」ことを知らなかったというのであろう。- (四) -主としてチーズ-。 (五) もちろん、これはローマが政策としても行っていた事実である。(「ゲルマーニア」 タキトゥス 泉井久之助訳注) 


酔虎伝
が、私だって、はじめから下戸だったわけではない。三十代なかばまでは、ビールはのどの渇きをいやすもの、酔うには少なくとも日本酒五合が必要という酒豪だったのである。あれは、三十二、三の頃ではなかったかと思う。同人誌の仲間だった女性四人で、飯田橋か水道橋駅近くの居酒屋へ行った。なぜそこへ行ったかは覚えていない。合評会の帰りであれば高橋三千綱らの男性がいた筈だし、後楽園球場へ野球を見に行った記憶もない。横丁の看板を見つけ、男性の姿ばかりが目立つその店へ、「ま、いいか」などと言いながら入ったような気がする。一階の椅子席は満員で、二階へ上がった。二階は小部屋になっているのだが、どこも二組か三組のグループが押し込まれていて、私たちの入った部屋には、ごく若い男性が四、五人、丸いテーブルをかこんで日本酒を飲んでいた。当時の私は、洋酒を飲まない。熱燗を頼んで、友人達はビールを頼んだ。ところがどう間違えたのか、燗徳利が三本、ビールが一本はこばれてきた。それも、瀬戸物の狸が下げているような巨大な燗徳利である。取り替えてくれるように頼んだのだが、仲居さんは私たちが数を間違えたのだと強情を張った。面倒くさくなって、私達の方が引き下がった。ビールを追加して、酒は残して帰ろうと思ったのだ。思ったのだが、友人達がビールからチュウハイにうつった時には、三本の徳利はほぼ空になっていた。相部屋の若い男性が、法政大学の学生であるとわかったのは、その頃である。六大学野球が慶応大学の優勝で終り、早稲田大学の腑甲斐なさを歎いた私に、彼らが「早稲田の学生さんで?」と声をかけてきたのだった。そのシーズンの法政は、早稲田が慶応を破れば優勝であった。これで盛り上がらぬわけがない。日本酒を飲んでいた彼等のために追加を頼むと、またなぜか三本の巨大徳利がはこばれてきたが、もうそんなことは知ったこっちゃない、さしつさされつ、気がついた時には全部が空になっていた。-
翌日、忘れ物を取りにその居酒屋へ行った友人の話によると、巨大徳利には三合の酒が入っていたという。(「お茶を飲みながら」 北原亞以子) 


酒神
わがゆく路に花を散らせ。
この新しい穀物と葡萄の祝祭(まつり)!

何処かで滾々と泉が湧いてゐる。
麺麭が焦(こげ)る。
蜜蜂たちの純粋な琥珀色の興奮。

穀物の黄金なるを待ちて久しく、
はや太陽は葡萄のうちに醸されつゝある。(「酒神」 吉田一穂) 


ドイツ語の「買う」とは「ワインを買う」ことだった
ローマのワイン商人も、自国の軍にワインを売りこむだけではあきたらなかった。兵士の尻馬にのって、身分の高いと覚しきゲルマン人の家から琥珀や毛皮を奪う日もあるし、戦いが一とくぎりつけば、同じ相手と平和的な商売の交渉をはじめた。琥珀や毛皮の対価はもちろんワインである。もともと粗衣粗食を意に介さないゲルマン人だったが、酒には目がなかった。粗末な蜜酒かドロドロのビールしか知らない舌が、明るい太陽の熱と光をふんだんに吸った甘美なイタリア・ワインを味わったとき、はじめて楽園の存在を信じたとしても無理はないだろう。-
カウポ-。天の美禄(ワイン)を売り歩く商人がそう呼ばれることを知ったゲルマン人達は、やがて、彼らからワインを買い求める行為を「カウポする」(kaupa 紀元後ほぼ一世紀頃)と称するようになる。-
特にはっきりしているのはその語尾である。-en,-an,-on等、それぞれの支族の言語体系に組み込まれ、一般の動詞と同じ語尾を与えられた。それは更に北上して、北欧語の中にも浸透していった。何年かの後、交易の対象が、ワイン以外にも陶器、ガラス器、金属加工品等に拡がると、それらを購入する行為にもこの語が使われるようになった。「ワインを買うkaufen」行為を表す語の意義領域が、「一般に何かを買う」行為にまで拡大されたのである。(「寝ざけ 朝ざけ はしご酒」 飯島英一) 


練貫
188 上(うへ)さに人のうち被(かづ)く 練貫酒(ねりぬきざけ)のしわざかや あちよろり こちよろよろよろ 腰の立たぬは あの人のゆゑよなう
注 188 一 上に、の意か。「上様」「憂さに」などの諸説がある。 二 高貴な女性などは外出の際に顔を隠すために衣を頭からかぶる。ここは練貫酒をかぶり飲む意をかける。 三 「練貫」から「練貫酒」を導く。練貫は生糸を経(たて)、練糸を緯(たて)にして織った絹布。練貫酒(練貫・練酒とも)は白酒の一種で、筑前博多の名産。「遠国なれども筑前に練貫」(御伽草子・酒茶論)。 四 酔態を表す。「間(あひ)の物で十盃、三斗入りで十四盃、縁日にまかせて二十四盃飲うだれば、…左へはよろよろ、右の方(かた)へはよろよろ」(虎寛本・地蔵舞)。
現代語訳 188 上にみんなが被いている練貫小袖のような練酒を飲んだせいであろうか、こちらへよろよろよろ、足腰が立たないのは、あの方のせいですのよ。
語句に不明のところがあるが、女の歌とみたい。「腰の立たぬ」のは泥酔のゆえであろう。(「閑吟集」 校注 臼田甚五郎・新間進一) 


神力
「純米生 神力(しんりき) 無濾過氷温貯蔵」の小売価格は、1,800mlで3,000円、720mlで1,500円である。地元では神力を育ててその米で酒を醸造し酒を楽しもうという仲間の会も立ち上げられられた。会の名はその名も「土米酒人倶楽部・神力(どめすとくらぶ・しんりき)」。復活米を使った清酒神力ができるまで、土にまみれ、米を育てるなかで自然に向き合い、杜氏に行き会うことで伝統技術に触れて、酒を飲む喜びを分かち合うための会である。春6月の田植え、秋11月の稲刈り、冬酒蔵の仕込みの見学、春3月の試飲会が行われる。会費は年間1,000円、年4回の会報を発行している。(「株式会社 本田商店」 本田眞一郎 地域食材大百科第12巻) 大正8年には水稲作付け反別の約五分の一を占めていたものの、その後栽培されなくなった神力を酒米として復活させたのだそうです。 


夕方になると仕事を切りあげ飲み始める
吉村昭の晩酌の流儀は、いちどつき合ったことがあるけれど、風格も貫禄がある。越後湯沢がマンションブームで"東京都湯沢町"なんて騒ぎが起こる少し前だった。吉村さんは、そのマンションの一部屋を買って、それ以来、ときどき休息に出掛けていた。新潟講演へ行って、現地で泊まらず、その部屋までもどってくるのだ。そして、酒がうまい、という。地元湯沢の『白瀧』、六日町の『八海山』を愛飲していると聞いた。さて、格調高き吉村さんの晩酌の流儀。夕方になると、仕事を切りあげる。食堂に隣接した畳の部屋で、ビールを飲みはじめる。大相撲と、毎晩一通りを嗜むことになる。あり合わせで何でも、芋なんかも肴になる。まったく古典的な酒飲み、彼は福井の酒『一本義』を愛飲していた時もあった。(「小説家の知られざる酒癖」 山本容朗 「夏子の酒 読本」) 吉村昭の作法 私がお酒を飲む時 

独酌(大田南畝)
そんな交際好きの南畝だけに、仲間の墨水賞月(隅田川観月)の宴をうたった詩は数えきれないが、ここに南畝の漢詩を一つあげるにあたって、あえて二十五歳のときの「独酌」の詩を選ぼうと思う。
独酌望青天  独酌 青天を望む
青天何所識  青天 なんぞ識(し)るところぞ
唯憐濁酒杯  ただ憐れむ 濁酒の杯の
不帯浮雲色  浮雲*6の色を 帯びざることを
李白にも「月下独酌」という有名な詩があるが、安永二、三年ごろの南畝には、なぜか独酌の詩が多い。そんなときには、にごり酒を好んだらしい。この詩の行間には、下級官吏としての鬱屈と狂歌仲間との酒遊びに明け暮れることへの悔悟の念がにじみ出ている。
注*6-「論語述而編」に出てくる孔子の言葉。「不義にして富みかつ貴きは、我において浮雲のごとし」とあり、自分となんの関係もない、はかないもののたとえ。(「墨水詩酒の宴」 寺岡襄 「酒宴のかたち」玉村豊男編所収) 


酒飲みは不可解だ(2)
酒飲みの友人が昔、わたしの家に泊まった。わたしの家にはほとんど酒がない。妻も飲まないのだ(妻の美点は、わたしの知るかぎり一度も放火や殺人を犯したことがない点である。もし飲んでいたらこの美点もなくなっていただろう)。友人のためにビールを三本、投げ売りのワインを一本買った。それに、ビンに三分の二残った状態で十年ほどじっくり熟成させた来客用のウィスキーがある。いざ飲み始めると、それではとても足りなかった。彼はそれらをあっというまに飲み尽くすと、台所を探し、調理用の酒、ミニチュアボトルのリキュール類をすべて呑み干し、古くなりすぎて捨てようと思っていた残り物の日本酒まで飲んでくれた。家にはアルコール分を含んだものといえばヘアトニックしかなくなり、わたしはみりんをすすめたが、友人は不可解にも断った。もしみりんを飲んでいたら、酢、しょうゆ、天ぷら油、灯油の順に飲ませるところだった。なぜこうまで飲むのか。多くの場合、分からないという答が返ってくる。推測するに、何も分からないまま酒を飲んでいるのだろう。あるいは、酒飲みであることの嫌悪感から逃れるために飲んでいるのであろう。担当の編集者は「いやなことを忘れるために飲んでます」といい、「本欄を担当してから酒量が増えました」と付け加えた。そのほか、「酒飲みでなければ人間ではない」という勝手な理論を作る者や、しょっちゅう二日酔いになっているのに「明日の仕事のために酒が必要だ」と主張する者もいる。(「ソクラテスの口説き方」 土屋賢二) 


盃にみつの名をのむこよひ哉
盃の下ゆく菊や朽木(くつき)盆
草の戸や日暮てくれし菊の酒
最初の句には「霊岸島に住ける人みたり、更(ふけ)て我草の戸に入来(いりきた)るを、案内(あない)する人に其名をとへば、をのをの七郎兵衛となん申侍(まうしはべ)るを、かの独酌の興によせて、いさゝかたはぶれとなりしけり」との前書きがある。こよひ(今宵)は、今宵の月の意味で、八月十五日の名月のこと。貞享二年、深川芭蕉庵での作。このとき芭蕉は「雲折折人をやすむる月見哉」という句も詠んでいる。月見をしながら、一人で酒を飲み、そんな句を詠んでいるところへ、七郎兵衛という同じ名前をもつ三人が訪ねてきたので、いささかたわむれてこの句を詠んだというのである。重陽の節句(九月九日)は菊の節句とも呼ばれ、今ではほとんどすたれてしまったが、昔はその日に菊花を盃に浮かべて飲む風習があった。それを菊酒といった。古代中国の習俗にならったもので、菊酒を飲めば齢が延びるとされた。二句目の「菊」はただし、朽木盆の模様としての菊である。朽木盆は滋賀県高島郡朽木地方から産した塗盆で、桜や菊の漆絵を描いたものが多かったという。菊の模様のある盆に盃をのせて酒をそそぎ、それがこぼれるさまを表現したものである。『俳諧当世(いまよう)男』ではこの句は重陽の部に載っており、また『続深川集』には「重陽」の前書きがある。延宝三年の作だが、この句がどこで詠まれたものかはわからない。三句目は元禄四年の作。『笈日記』には「九月九日、乙州は一樽をたづさへ来りけるに」という前書きがある。その年の九月九日、すなわち重陽の日、芭蕉は大津の義仲寺無名庵に滞在していた。今日は重陽の節句である。芭蕉はそのことを充分に承知している。世間の人々は朝から祝いごとをしている。自分もそうしようか。だが何を祝えばいい。とりたてて祝うこともない。菊酒でも飲もうか。ところで酒はまだ残っているだろうか。そうこうするうちに夕暮れにやってきたのかこれからゆっくり夜を通して酒を酌み交わそうという考えからなのか。彼らは菊を浮かべて飲んだのだろうか。それともそのままそれを菊酒として飲んだのかもしれない。このとき乙州は芭蕉の句に「蜘手(くもで)にのする水桶の月」という脇句を付けている。(「食べる芭蕉」 北嶋廣敏) 


チチャ
アマゾン流域では、いまでも口噛みのチチャ(酒)がつくられている。その製法は、じつに原始的だ。まず、キャッサバの根茎(イモ)を水で煮て、口でよく噛む。そして、唾液が混じった咀嚼物を鍋に吐き出す。それをかき混ぜて放置するうちに、唾液のアミラーゼがキャッサバのデンプンを消化し、糖分が生じる。その糖分を食べて乳酸菌や酵母が自然に繁殖し、発酵が始まる。四、五日もたつとアルコールが二、三%の酒になるので、それを濁ったまま飲んでいる。口噛み酒は、地域や部族によって、キャッサバだけからつくるもの、トウキビからつくるもの、その両方からつくるものなどいろいろあって、薬草やスパイスを加えて飲まれることもあるようだ(佐無田隆 日本醸造協会編、八五巻、二二六頁、一九九〇年)。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) SAKI 


逸題
今宵は仲秋明月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ

春さん蛸のぶつ切りをくれえ
それも塩でくれえ
酒はあついのがよい
それから枝豆を一皿

ああ蛸のぶつ切りは臍(へそ)みたいだ
われら先づ腰かけに坐りなほし
静かに酒をつぐ
枝豆から湯気が立つ

今宵は仲秋明月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒を飲む(新橋よしの屋にて)(「逸題」 井伏鱒二) 


酒飲みは不可解だ(1)
人間には二種類ある。酒を飲まずかつ上品で「土」で始まる名前の人間と、それ以外の二種類である。わたしは前者だ。後者の人間が不可解でならない。わたしは酒を飲むとすぐ頭が痛くなり、気持ちが悪くなる。だが、酒飲みは義務でもないのに酒を飲み、わたしにはとても耐えられない生理的苦痛に耐えている。その上、酔った見苦しい姿を世間にさらして評判を落とすことにも耐えているのだ。尊敬してもいいほどの忍耐力だ。ただ、何もしないで三十分じっと座っていることもできない人間が、酒を飲むときだけ我慢強さを発揮するのは、不可解である。不可解なのはそれだけではない。彼らは、酒を飲んで羞恥心を失い、礼儀を失い、公徳心を失い、他人への配慮を失い、理性と感覚を失い、金を失い、家族の愛情まで失っているが、こういうものがはじめから不足している人間に限って、酒を飲んでさらに失おうとしているのだ。よく酒を飲むと地が出るというが、酒を飲んで善人が出てくる例は皆無だ。もともと人格に問題があると疑われている人間が、何のために、どこから見ても問題のある人間になりたがるのか、不思議だ。(「ソクラテスの口説き方」 土屋賢二)


酒と風紀
酒は阿片と同じく、ある特別の部屋の中で、同じ享楽を味ふ人々とのみ、他から隔絶して飲むべきである。ひどく酩酊した人間は、決して街路に出てはならない。酔ぱらひは、男女間の性事と同じく、主観的には快楽であるけれども、客観的には醜態であるからである。花見時の日本人のやうに、白昼群集の見て居る前で酒宴したり、泥酔して街路を彷徨したりするのは、夫婦間の性事を公開すると同じやうに、社会の慎み深い風紀を紊乱し。羞恥心を麻痺させることから、文明の礼節を破壊するものである。欧米の文明圏が、彷徨する酔漢に対して、法律上の罰則を課してゐるのは当然である。酔つて婦女子と戯れることが、習慣的に黙認されていることから、実に酔はない人間までが、酔漢を装つて街上に悪戯をするのを、公衆と法律とが、平然として看過してゐる日本人は、すくなくともこの点の道徳感性に於て、未だ文明人のレベルに到達して居ない。(「個人と社会」 萩原朔太郎) 


昭和十年代の酒類行政(2)
さらに、それを追いうちをかけるように、昭和一四(一九三九)年、一一月二四日、米穀搗精等制限令が公布された。いわゆる白米禁止令である。これは、飯米を七分搗き以下とすることで、一三〇万石の節約をはかろうとするものであった。当時の新聞は、これを「黒い餅でお正月」という見出しでセンセーショナルに報じている。こうした状況下では、酒造業界も、清酒減産に抵抗する余地などなかった。そして、以後昭和二二年度まで清酒の減産は続き、結局最終的には、使用原料米数では昭和一二年の約九パーセントに、清酒製成数量では一一・六パーセントにまで落ちこんだのである。その比率が同じでないのは、アルコール添加による増醸が行われたからである-。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 


変わらないための努力
現代は、会社にいても、普通に暮らしていても、日々、変化(世の中の環境変化への対応)が求められています。ところが、酒場は、そういう時代がからこそむしろ変化しないことが求められている世界なのです。毎日行く人にとってはもちろんですが、何ヶ月ぶりかで行っても、何年ぶりに行っても、前とちっとも変わらない人が居て、前とちっとも変わらない料理を食べることができて、お酒を飲むことができる。まさに万古不易(ばんこふえき)という言葉を具現化したような「変わらないための努力 」をしてくれているのです。たとえば横浜・野毛にある「武蔵屋」は、年中いつ行っても、三杯のお酒を飲む間に、玉ネギ酢漬け、おから、鱈(たら)豆腐、納豆、お新香という変わらぬ五品の肴が出されます。しかもそれを何十年も続けている。「武蔵屋」ほどでないにしろ、古くから続く酒場は、ほぼ同じような不変の美学を持っているように思います。(「ひとり呑み」 浜田信郎) 


神田村総鎮守権現社祭礼九月六日
303 酒屋酒屋か 七(なゝ)酒屋 中の酒屋の 姫こひし
304 わしは酒屋の 一〇酒林(ばやし) 中(ナカ)を 一一いはれて門(かど)に立つ 門に立つ 門に立つ 拍子
305 一三わしは酒屋の一ッ桶 昼はひまない夜(よ)さござれ 夜さござれ 一四拍子
注 九 七は数が多いこと。「酒や酒やは多けれど」(藤田小林文庫・雫踊・五島踊) 一〇 酒屋の門口に立てた店の目印。杉の葉などの枝を束ねて戸口に立てた。後には杉の葉を球状に結び軒につるした。酒箒(さかばはき)に同じ、- 一二 二人の仲を噂されて腹が立つ(門に立つ)意を掛ける。「あれは酒屋のさかばやし 仲をいわれて角が立つ」(愛媛・西宇和郡瀬戸町大久・しゃんしゃん踊・五島踊)。「我は酒屋のさか林 よるも夜中も門にたつ」(滋賀・草津市上笠・雨乞踊・小原木踊)。 一三 滋賀・宮崎・大分・熊本・鹿児島など広く分布。「われは酒屋の一つおけ 昼はひまなし夜おじゃれ」(鹿児島・大島郡三島村硫黄島・太鼓踊り)。 一四 朱注「拍子脱歟」により補う。(「巷謡編」 鹿持雅澄) 


火落酸
真正火落菌は、どんな気むずかしい菌でも生育するビタミンやアミノ酸類をすべて含んだ「完全合成培地」にも生育しない。ところがこれに日本酒を入れると、高橋(偵造)教授の指摘する通り育成してくるのである。この事実から、日本酒中の火落ち菌の生育に必要な物質は、これまで発見されていない新物質で、日本酒造りに関与している微生物がつくる物質だろう、と田村(學造)氏はあたりをつけた。そこで、火落ち菌を用いるバイオアッセー法で、いろいろな微生物の培養液の中に火落ち菌を生育させる成分を探したところ、酒造用の麹カビが多量に生産することがわかり、この麹カビの培養液から有効物質を純粋分離して、炭素原子が六つでできている新物質を発見した。これを「火落酸」と命名した。この物質はちょうどそのとき、アメリカのメルク社のフォーカス氏らの研究の「メバロン酸」と同一物質であることがわかり、共同発表というかたちで発表された。一九五六(昭和三一)年のことであった。(「日本酒」 秋山裕一) 


食味評論家 吉田健一
彼は文芸評論家の外に食味評論家というのを兼業している。この商売は、全国から名物の到来物がたくさんあって傍目(はため)には羨ましいが、何しろもとでになる胃袋は誰でも同じだから、商売が繁盛するとその肉体的負担は大変なものらしい。でも彼の家へ行くと、酒瓶などが台所にはいり切らないで、階段の隅に一本ずつ列んでいたりする。世に食通という人種はたいていいやらしいものだが、彼は幸いにしてそういうものではない。ただ彼は食意地にかけて、貪婪(どんらん)であり、厳正であり、感激性があるのだ。いつか彼が文藝春秋に全国食べ歩きを連載していた時、私は時の編集長池島信平にいったことがある。「健坊ってうまい奴をつかまえたものだよ。あいつは別に味が分るってのじゃないけど、うまいものを本当にうまいと思って食べる情熱を持っている奴だ」と。池島君もこのことを認め、同時に自分のこのプランを自慢していた。吉田君のこの態度は同時に彼の文学鑑賞にも共通するのである。共に体当りなのだ。いつか中村光夫がうまい形容をしていたが、それは吉田君がボードレールやシェイクスピヤのソンネを暗誦する時、ちょうど名酒を喉の奥で転がして味わっているように口ずさむ、というのである。そして今の場合私はその逆をいいたいのであって、彼にとって名酒は名詩と同じようにとっくり噛みしめて味わいが尽きないものらしい。(「旅酒猟」 河上徹太郎) 


昭和十年代の酒類行政(1)
昭和一二(一九三七)年、日中戦争に突入した日本は、第二次世界大戦が終結する昭和二〇(一九四五)年まで、戦禍の時代を送ることになる。そのあいだ、日本の各産業は、戦時体制のもとに種々の統制を強いられた。むろん、日本酒業界も例外ではない。「未曾有(みぞう)の非常時局下」という言葉が巷(ちまた)に流れ出した昭和一三(一九三八)年、酒造組合は、国家による統制の開始にさきがけ、自主的に新酒造年度(一〇月一日から翌年九月末日まで)ら一三パーセント減の生産統制を行う決定をした。その対象は、清酒・焼酎・味醂であり、このうち焼酎と味醂については、最終的に二〇パーセントの減産と確定している。そうした酒類減産の目的が食糧としての米の確保にあったことはいうまでもない。戦時下における物資の欠乏時代にあっては、当然のことながら、嗜好品である酒よりも主食としての米の確保の方が重要視されたのである。やがて、酒造米二〇〇万石の削減案が国家総動員審議会において可決され、昭和一四酒造年度の清酒生産は半減するにいたった。ちなみに、昭和一二年度の原料米は約三七四万石で清酒数量は七八万七七〇〇キロリットル、昭和一三年度が原料米約三四五万石、清酒製成数量七一万四一〇〇キロリットル、それが昭和一四年度には、それぞれ約二〇〇万石、四四万一五〇〇キロリットルに減っている。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 


○白酒
「そもや此富士の白雪と申は、昔々駿河の国、三保の浦に伯凌といふ漁夫、天人と夫婦に成り、其天ツ乙女の乳房より、流れ出たる色を見て、作り初めし酒なればこそ、それからどうしたへ、第一寿命の薬にて、さればにや東方朔は、此酒を八ぱい呑で八千歳、又浦島は三杯呑で三千年、三浦の大輔百六つ、さつてもさつても寿命の長き、富士の白酒々々々々、(浮れ草) 


(七) 大上戸の咄し
去者(さるもの)嵯峨へ行しが、夜にいれどもかへらず、親心許(もと)なくおもひ、友達どもを呼あつめていひけるは、伜(せがれ)今朝より嵯峨の一門どもかたへまつりに行しに、今までかへらぬは若気ゆへ、道にて喧嘩などして切ころされても居るやらん、太儀ながら各(おのおの)我等と同道してたぎたまへ、やうす(様子)見てまいらふといふ、いづれも聞て尤(もっとも)なり、去座(いざ)同道いたすべしとて、続松(たいまつ)とぼし行ければ、西生河原に「イト」臥たる者あり、松明(たいまつ)振上よく見ればむす子なり、大きに驚きゆり起し、或はよびいけて見れど息もせず、親仁(おやじ)嘆き悲しみけれども甲斐もなし、友達ども歎きは理(ことわ)りなれども、頓死と申こともみなみな定りことなり、もはやかへらぬ義じや、兎角(とかく)葬送のいとなみめされよといふ、親仁(おやじ)涙をさへ、萬事能(よき)やうに各をたのむといふ、其時みなみな談合しけるは、どうしても此西生河原で火葬にせずばなるまい、しからば此死骸を宿まで持てかへらうより、今夜爰(ここ)へ寺の御坊を呼よせ沐浴させ、すぐに爰のをんぼを頼、今宵火葬にせうといふ、皆々尤と同心して寺へ人をはしらせければ、御坊はせ来り、髪をそれ湯灌せよとて手取足とり沐浴して、をんぼを雇、火屋へすぐに死骸を入火をかけゝれば、其とき此死人火の中より躍いで、是は付火か手過が、やれ火事よ火事よと叫喚(さけ)んでかけ出た、親仁をはじめみなみな肝をつぶし、宿へつれてかへつた、大上戸故殊外酒に酔て、さがより帰るとて西生河原に酔ふしたりしが、火をかけられて正念をそられしほどに、本のごとく髪をはやさんとしけれども、火葬のとき悉あたまは焦て髪一筋もはへず、薬罐の尻のやうになりしまゝ、是非なく十徳を着る、(「噺物語」 近世文芸叢書) 


二三 酒泉(若返り水)
昔々大昔、何千年何万年という昔、ある所に大層年よりの一人者の爺さんがおりました。子どもが欲しくてたまらないので、毎日毎日神様に子どもを授けて下さいといって拝んでいました。ある日、お爺さんが山へ薪(たきぎ)をとりに行きますと、空がどんよりと曇り、雨がざあざあと降り出しました。爺さんはあわててあたりのほら穴の中に入りました。するとどこからともなく、お酒のにおいがします。あたりを捜しますと目の前の小さな穴の中にいっぱいお酒があります。舌をつけてぺろぺろなめ始めますと、顔はたちまち赤くなり、しわがなくなり腰はぴんと伸(の)り、二十歳くらいの若者になりました。若い爺さんは喜んで穴の中を飛び廻っていますと、そこへ大きな大猿が小猿を二匹連れて帰って来ました。大猿は爺さんと酒を見て大変怒りますので、爺さんは、ペコペコ頭をさげて、「お酒はいくらでもやるからこらえてくれえ」といいましたが、なかなかこらえませんで「お前の家にある柿の木を木ごめくれ」といいます。爺さんは猿に柿の木をやつてこらえて貰い、隣の娘を嫁に貰って子どもも八人できて、安楽に暮らしたそうじゃげな。(御調郡向島町立花 清水庄太郎話す)(「芸備昔話集 全国昔話資料集成」 村岡淺夫) 


鼠と罰金
文学博士芳賀矢一氏は、酔つ払つてよくいろんな失敗(しくじり)をする。尤も芳賀氏の説によると、それは酒のさせる業(わざ)で、芳賀氏自身の知つた事では無いさうである。さもありさうな事で、酒は酒飲み自身の知らない色々な善(よ)い事をするものだから、少し位悪い失敗があつたつて少しの差支もない。ある夜芳賀氏は、例(いつも)のやうに酔つ払つて家に帰りかかつてゐた。氏は国文学者だけに、きつい西洋酒に食べ酔ゆた時でも、頭のなかでは紀貫之や、本居宣長や、動詞の下二段の働きやを、自分の友達か何ぞのやうに考へてゐるものらしかつた。暫くすると、氏は小便がしたくなつたのに気がついた。ソクラテスが説教をするのに大道(だいどう)を選むだやうに、酔ツ払ひは尿(しゝ)をするのににそれぞれ恰好な場所を知つてゐる。「誰だ、そんな所で不作法な真似をして。」だしぬけに眼の前で怒鳴つた者があるので、芳賀氏は紀貫之にでも出会つたやうに、身繕(みづくろ)ひをしてとろんこの目を見はつた。相手は交番の巡査だつた。土佐日記の著者や、水のなかの蛙(かはづ)に比べたら少しばかり詩才に欠けてゐる男の一人だつた。芳賀氏は罰金二十銭を言ひつかつた。二十銭は博士にとつて堪へられぬ程の負担であつた。何故といつて、芳賀氏はその晩財嚢(ざいなう)には何一つ持ち合せてゐなかつたのだから。氏は名刺を取り出して、自分はかういふ者だ、明日の朝まで待つて欲しいと言つて、漸(やつ)と巡査を納得させる事が出来た。克明な巡査は、夜が明けると、態々(わざわざ)芳賀氏の玄関まで罰金を受取りに出掛けて往つた。氏は夫人の財布から二十銭銀貨を一枚借り出したが、それを渡さうとすると、肥大婦(ふとつちよ)の下女がどうしても言ふ事を肯(き)かなかつた。下女の言ひ分はかうである。-自分はいつも鼠を捕(と)る度に、交番に持つて往つて、あの巡査に渡すが、一度だつて金を受取つた事はない。それを思へば檀那様の一度の小便位は黙つて見逃してもいゝ筈だといふのだ。巡査も理由(わけ)を聞いてみると達(たつ)て罰金を取らうとも言へなかつた。で、一寸帽子に手をやつた。そして、「さやうなら。」と言つて帰つて往つた。「さやうなら」といふのは、困つた者に取つて一番都合のいゝ言葉である。(「完本 茶話」 薄田泣菫) 


消臭
それはともかくも、問題は、なぜ燗酒の習慣が生まれたか、ということである。もちろん、その第一は、暖をとるためであっただろう。しかし、それだけの理由であるなら、夏場の燗酒などありえないはずである。しかし、われわれは、夏にも燗酒を飲む。もっとも今日では生酒(きざけ)が普及しているのでそのかぎりではないが、かつてはそうした傾向が顕著であった。すると、そこには当然別の理由も求められるはずである。それは、ある期間おいた酒が持つ臭味を消すためではなかったか。かつて、冷蔵庫の未発達なころ、生酒の飲みごろは、ごくかぎられた期間である。その期間をはずした酒は、すべて火入れを経て出荷される。とくに、夏場の酒は、数回の火入れを経ているわけで、それはいわば燗ざましのような酒であった。そんな酒を飲みやすくするために、燗の習慣が生じたとも考えられるのではあるまいか。そして、それは、そうした酒を売るために酒屋の商法から広まったものではなかったか、と考える。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 


男子には必ず酒は飲ますべき
予が中の内野平助[養子なり。実家は城氏]、大目付として当夏出府す。この度勧進能に予(よ)往(ゆき)しに、渠(かれ)を誘て俱(とも)に見物せしむ。桟敷(さじき)にて酒盃献酬の際、平助曰。臣が祖城右京は、法印公(松浦鎮信)朝鮮に渡らせ給しとき、先手(さきて)を命じられ、弓炮の兵卒を随へしが、或る合戦に討死す。因(よっ)て其子源左衛門年十七、尋(つい)で家卒を率へ渡海せしかば、法印公直に父が兵卒を授け、又先手を命ぜらる。家伝の説に、朝鮮の戦場にて人衆を立堅(タテカタメ)しとき、御使番、騎馬にて乗り廻り、今は敵合ひ何町に及ぶと告げ来ること櫛歯の如し。然るに程なく先手矢合せに到らんとして、使番又このことを告れば、皆人覚へず武者慄(ブルヒ)いでゝ、膝甲(しつかふ)して構たる[膝甲とは、居敷(ヲリシキ)膝を堅(タテ)臂をつき、槍ぶすまを為(セ)しを云。又膝甲とは、鋭身にして甲(カブト)膝に臨むゆゑなり]。甲(カブト)の錣(しころ)胴に触てがらがらと鳴音(ナリオト)し、甚だ見ぐるしかりしに、このとき酒飲(ノミ)し者は皆々少しも慄(フルハ)ず、膝甲のまま進出進出て、各一番槍を心がく。武夫酒勢を頼みて勇進するには非ざれども、男子には必ず酒は飲ますべきこと也迚(とて)、子孫に示さんが為(タメ)一つの盃を貽(のこ)す。其盃今に伝ふ。されば臣も酒は辞せず迚、数盃を傾けき。帰宅して盃図を上る。曰。左の如く朱漆にて猩々二つを蒔絵して、一つは柄杓を執り、一つは酒盃を持つ。聞ても勇壮なる談なり介利(けり)。(「甲子夜話続篇」 松浦静山) 


アルコールの罪
裁判官が被告に向かいきびしきいった。「いいかね。すべてはアルコールだ。きみがこんなひどい姿になったのも、みなアルコールのせいだ」「そうおっしゃってくださってありがとうございます。裁判官殿」と、男はホッと一息つぎながらいった。「ほかの人は残らず、みなぼくが悪いんだというんです」(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


会津藩の藩営酒造
天明の大飢饉以後、寛政年間に入っても幕府は酒づくりを厳しく制限していたが、『家世実紀』(寛政三年十二月晦日条)によれば、会津藩では酒づくりを統轄する幕府の勘定奉行との交渉によって、従来の酒造三分の一造り分のほかに特別枠として寛政元、二年は八千二百四十石、三年も五千五百石を認められており、藩営酒造工場はこの特別枠と関係がありそうである。特別枠を認めてもらう理由として、会津領は四方が険阻(けんそ)な山坂で難所が多く、他国と違って雪の季節、米を廻米として輸送しにくい事情があること、領内の作柄がよいこと、米価の安定をはかりたいことなどが述べられている。こうした準備を経て藩営酒造工場が動き出したものであろう。寛政五年十二月には、大坂流酒造法でつくられた「地製之上酒」を藩主に献上したところ、大変賞讃されたので、以後御膳酒とする旨の記事がある。ちなみに藩主はそれまでは江戸の名酒「隅田川」を召し上がっていたとある。-
藩営酒造工場の結末がどうなったのか、以後『家世実紀』にな記述がないが、酒の江戸移出はかなわずとも、会津藩の品質向上にはずいぶん寄与したはずである。酒蔵は今日会津酒造博物館にその一部が残されている。(「江戸の酒」 吉田元) 


戯作摂州歌                         戯に摂州の歌を作る
兵可用                             兵 用うべし
酒可飲                             酒 飲のむべし
海内何州当此品 海内(かいだい)             何の州か 此の品(ひん)に当るや
屠販豪侠堕地異                       屠販(とはん) 豪侠(ごうきょう) 地に堕(お)つるや異(い)なり
腹貯五州水「シ念」「シ念」                   腹に貯う 五州の 水「シ念」「シ念」(だんだん)たるを
阿吉不肯捐与人                       阿吉(あきつ)は 捐(す)てて人に与うるを肯(がえ)んぜず
阿藤営宅城如錦                       阿藤(あとう)は宅を営み 城 錦の如し
竜顚虎倒両逝波                       竜顚(りゅうてん) 虎倒(ことう) 両(ふた)つながら逝波(せいは)
戦血満地化嘉禾                       戦血(せんけつ) 地に満ちて 嘉禾(かか)と化す
伊丹剣稜美如何                       伊丹の剣稜(けんびし) 美は如何(いかん)
各「右:酉、左:将-丬」一杯能飲「上:麻、下:公-\」  各(おの)おの一杯を「右:酉、左:将-丬」(そそ)ぐ 能(よ)飲む「上:麻、下:公-\」(か)
いくさの場によし、酒飲むによし。天下にどの国がこの国と肩を並べられよう。親分衆の豪気な侠(きお)いは生まれ落ちた時から人と違う。それもそのはず、腹の中には五カ国を集めた淀川のお水をだぶだぶ貯えているのだから、お吉めはこの地をいっかな人にくれてやろうとはしなかったし、お藤(とう)めは屋敷を構えおったが、それは錦のようにけっこうな城であった。竜も虎もひっくりかえって、今となっては双方とも波野去るように消えてしまい、いくさで流されて地面いっぱいに広がった血は、よき穀物となった。伊丹の剣菱のうまさはどうじゃ。おのおの方に一杯注いで進ぜるが、飲みめさるのか。
◇この詩には次の後書きがある。「余此の詩を書して摂人に与ふ。剣稜の主人偶(たま)たま見て奪い取り、すなわちその酒を贄(みやげ)として来りて謁(まみ)ゆ。交りを定むるは此れより始まる」、すなわち、この詩がきっかけとなって、剣菱の主人との交際がはじまったのである。(「戯作摂州歌」 頼山陽 注者 入谷仙介) 


酒都・城島
筑後川沿いに下ると、酒都・城島で、かつて九州一の造石高を誇り、いまは大型屋外タンクまで備えて、全国にその技術を誇る富安本家の"花の露"があるが、近くの首藤謙さんの"有薫"、二宮啓克さんの"比翼鶴"、三潴町に移って蒲地龍雄さんの"池亀"、高橋信次さんの"繁枡"と名のある庫が並び、九州灘の観がある。富安本家、靖雄社長の令弟、行雄さんは九大名誉教授で、若いころ清酒が腐敗するときの悪臭の本体が、ジアセチルという化合物であることをつきとめた。このへんはまた三潴杜氏の出身地でもある。(「さけ風土記」 山田正一) 


サルをアル中にする方法
月乃 サルをアル中にする方法ってあるんですよ、知ってます?
西原 サル?
月乃 そうです。サルにカテーテルを取り付けて、ペタルを踏むとお酒のビューッとでる装置を作って、その使い方を学習させるんです。やっぱり個体差もあるらしいんですけれど、はじめはチョビチョビ飲んでいても、ある破壊点みたいなものがあった、それを超えるとペダルをめったやたらな勢いで踏むように、つまりアルコール摂取がとめどなくなる。その瞬間が依存症の境目だって話があるそうですよ。(「実録!アルコール白書」 西原理恵子・吾妻ひでお) 


造酒司の訴え
禁裏に於て、孟春正朔(初春正月)より歳暮除夜に至る間、恒例・臨時之仏神事、月次日次(つきなみひなみ)の公事雑務に、酒・酢を貢進するをその職分とした造酒司(みきのつかさ)は、従来山城・大和・河内・和泉・摂津・近江・若狭・加賀・播磨・備前・備中・備後等十二箇国より納物を徴し、その費としていたのであるが、漸く諸国の宰吏、或は参期免除と云ひ、或は造作の成功と称し納物を対捍(年貢の徴収に応じないこと)するに至った。かくて嘉禄二年(1226)には宣旨を下してこれを督促するところがあった。しかしこの督促も大勢如何ともなし難く、諸国の納物は全く絶えるに至ったのである。仁治元年(1240)造酒司は再び嘉禄の宣旨に随い、厳重なる督促の御教書下されんことを訴えたのである。既にこの時代に於ては、商人に対する課税は前述の如く相当の発達をしていたので、造酒司は経済の逼迫に迫られ、ここにはじめて酒屋が自己の財源たりうることを意識し、訴に際し、厳重なる督促に御教書を下されない場合には、洛中酒屋より屋別酒一升の上分を徴することを許されたいと歎願附言したのであった。この歎願に接した朝廷首脳部の間に於ては、酒屋役の徴収許可の可否については意見が分裂する。左大臣・按察使・堀川中納言は、経済的情勢の転移を認識することなく、因循にも新儀なりとしてこれに反対し、吉田中納言・大倉郷等は現実に即してこれを裁可すべしと主張した。この朝議の結果については記載なきため不明であるが、恐らく因襲に泥む公家はこれを却下したものと思う(平戸記仁治元年閏十月十七日、十八日条)。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


ライスワイン・オールド
飲んで驚いて、感心して、「なぜ、これを売らないんですか?」と訊くと、黙って薄笑いしながら引っ込める人、頭をかく人、いや酒税が問題でしてとモゴモゴいう人。いろいろであった。今後の日本は(大地震と大恐慌がこなければ)社会の全分野において、年々歳々、高級志向は上昇線をたどる一方だが、造り酒屋の蔵の隅に寝かせてあるあの種の-その酒屋独自の味をもったオールドがやがて世の中に出て来るんではないか。少なくとも、わたしは酒屋なら一本一万円、二万円で"ライスワイン・オールド"を売り出すだろう。日本酒のオールドは、ホント、いいぞ。日本民族であることに、誇りを覚えたくなるほどだ。せめて、日本酒のオールドででも誇りを回復したいもんである。みててみろ。何年もしないうちに、日本酒のレア・オールドが市場に出てくるぞ。あれはいいもんだ。その日を待ちつつ。(「知的な痴的な教養講座」 開高健) 平成2年の出版だそうです。 


グレさんの五十銭
一生轗軻孤独に過ごし、汚ない下宿屋の一室に住んでゐたが、別に貧乏を苦にしないで、文士の会合や新劇の楽屋にも顔を出し、金のないときには遠慮なくごく恬淡に、「おい、五十銭くれ」といふのが常であつた。必ずいつも要求するのは五十銭だつたので、「グレさんの五十銭」といふとかなり有名で、五十銭銀貨を手にすると、喜んでどこかの一杯飲み屋に出かけて往つた。彼は容貌は怪奇であつたが、その性格は弱く、やさしく、誰からも親しまれる人間味の深い好人物であつた。私が最初会つたのは、与謝野鉄幹先生のお宅だつたが、その時分には、垢じみた着物とよれよれの袴をはいてゐたのに、その後新劇の楽屋に出入りするやうになると、誰かに作つてもらつたロシア風の黒いルバシカを着て、得々として女優などにからかつてゐた。松井須磨子を呼ぶのに「おい、お須磨」などと言ふのは、おそらく彼一人だつたらうとと思ふ。-
昔の酒は懐かしい。昔の寄席も懐かしい。(阪本)紅蓮洞のことを考へると、昔の酒の友だちも懐かしい。「紅蓮洞を思ふ」と題した歌が数首あつたのを思ひ出したから、最後に一首書きつけて置く。
秋来れば紅蓮(ぐれ)の翁の古袷など目にうかび酔ひがたきかな(「酒客列伝」 吉井勇) 


ちょうし、ちょく、底の深い猪口
ちょうし(銚子) *かんどくり(本)からから(宮崎県都城・鹿児島)・かんし(広島県府中)・ちょーしなべ(熊本)・ちょこ(伊豆大島)・はやすけ(大分県西国東郡・鹿児島)・ゆせん(津軽・秋田・宮城県加美郡)。
ちょく(猪口) *さかずき(本)のぞき(薩州(物類称呼))。
【底の深い猪口】 (本)のぞきじょく(江戸(物類称呼))。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録) 


玉や、ウーイ
六代目菊五郎一座の地方巡業で、大酒のみの尾上華幸という女形が、舞台に出る前、一杯ひかっけて、お蔦の姿で、花道を出て来て、「玉や、ウーイ」(「ちょっといい話」 戸板康二) 


酒には寛大
小学校四年ぐらいに正月の屠蘇がうまいと感じた。四歳のときの苦い経験から、普通ならアルコールに対して嫌悪感(けんおかん)をもち、嫌うようになるものだろうが、ぼくはまったく反対であった。四年生ぐらいになると、しばしば盗み飲みさえしていた。それから中学生のころになると大工さんと飲んだことがある。稼業(かぎょう)が製材所であったから、大工の出入りがあったからだ。家がどんどん建っていった。家ができると棟上げの祝いがあるのだが、子供がそんなところで一緒になって酒を飲んでいたなんて、不思議な光景だっただろう。父親もそこにいた。いろいろなことに厳しかったのに、なぜか酒には寛大だった。高校生のころは、一カ月に一度か二度ぐらいは友だちと一升瓶を手元に、すき焼きをして飲んだ。すき焼きと酒とは、なんと贅沢なといわれそうだが、紀州は魚も豊富にあるのに、どうしたわけか牛肉の消費量が全国一だったのだ。だから酒はすき焼きをして飲むものだと思っていた。大学では、連日学校へも行かず酒を飲み毎日、二日酔いだった。あまりにも酷(ひど)い生活を送っていた。(「世界ぐるっとほろ酔い紀行」 西川治) 


さら川(16)
会社では雑魚だがバーでは右大臣   猫背の男
非常食酒とつまみは確保する   愁(うれ)いなし
二千年酒も備蓄にそっと入れ   ゆうれい
酔うと出る俺が出世をしない理由(わけ)   二級酒党
晩酌に毎日通う販売機  五十路
食べて糖飲んで血圧吸えばガン   棒観人(「平成サラリーマン川柳傑作選」 山藤章二・尾藤三柳・第一生命 選) 


チップ
チップの語源はto incur promptness(物事を迅速に進める)の頭文字だという説もあるが、一般にはtip、先っぽ、一端の意味からのほうがポピュラー。tipには酒代の意味もある。ちょっと1杯分くらいがチップの目安だ。つまり、酒代の一部に、くらいの意味から、と考えることもできる。アメリカだったら1ドル~2ドル、イギリスなら1ポンドくらい、フランスなら10フランくらいをさりげなく渡すとよい。(「ENGLISH 無用の雑学知識」 ロム・インターナショナル編) '87年の出版物です。 


醸造試験所で開かれた品評会上位入賞酒(昭和21年-26年)
        第1位         第2位        第3位         出品点数
昭和21年  真澄正宗(長野)  真澄正宗(長野)  真澄正宗(長野)   387
   22年  岩の井(千葉)    五橋(山口)      明眸(愛知)      244
   23年  誠鏡(広島)       明眸(愛知)      真澄正宗(長野)
   24年  真澄正宗(長野)  明眸(愛知)      誠鏡(広島)      387
   25年  誠鏡(広島)      神楽盛(岐阜)     大悦(広島)
   26年  旭菊水(広島)    菊の世(愛知)    賀茂鶴(広島)(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 昭和21年から26年にかけて 


各地の風習(成都)
浣花渓(かんかけい)(注五)の流れは、成都から下って寺院(原注、その名を忘れた)まで約十八里あるが、太守は飾り立てた舟に乗って、この流れを下る。両岸には住民が楼(やぐら)を組み立て、錦繍を飾りつけているが、太守の舟がさしかかると、楼の上で歌や舞いが演ぜられる。すると太守は簾(すだれ)をかかげて見物し、金や絹の褒美(ほうび)を取らせる。また大船に公庫の酒(注六)が用意してあり、すべての遊覧者について、一人に一升ずつ酒が支給される。こうして日暮になると、陸路を取って成都の町に帰るのである。また騎射に巧みな騎兵があり、太守が町を出るたびに、常にその先頭を疾駆するが、その道筋の両側に、桟敷が五、六段に組み立てられていて、人はその上に立って黒山になって見物するのだが、人の頭だけしか見られないので、「人頭山」という名がついている。やはり男は左に、女は右に分かれて見物する。重陽(ちょうよう)の薬市(くすりいち)の日になると、城門の物見楼(やぐら)の外側から玉局化(注七)に至るまでの五つの門に市が立って、あらゆる薬や犀(さい)の角や麝香(じゃこう)の類が山積になって売られる。成都府の監察官たちは、みな武装して取締りに当たる。また五門の下に数十斗の酒の大甕をしつらえ、ひしゃくが置いてあって、道人(どうじん)と名乗る者なら誰でも勝手に飲んでよいことになっている(注八)。こうして市は五日間つづく。
注 五 浣花渓 成都の西を流れる川。錦江とか百花潭との呼ばれる景勝の地。 六 公庫の酒 宋代では酒は政府の専売で、その醸造と販売は公営企業として行われていた。民間業者に委託する場合でも、一定の統制下に置かれた。 七 玉局化 未詳。- 八 道人と名乗るものなら…なっている。 古くから道家は深山にわけ入って薬草を取り、それによって自らの養生長命をはかるとともに、衆生の済度にも用いた。行ないすました道士や隠者は薬の業者から特別な扱いを受けた。この成都の薬市は、宋代の各地方の市のなかでも特に有名で、諸方から業者が雲集したし、また道士などが自ら調製した生薬を売りに来ることも多かった。(「雞肋編」 荘綽 入矢義高訳 宋代随筆選 中国古典文学大系) 


新南雪
酒飯堂さらさらのマスターが泡盛「新南雪」を手にこんな話をした。平成五年、戦後最悪の冷害凶作となった岩手県は種籾も確保できず、翌年の田植えは不可能となり、知恵を絞った農政局は、収穫のはやい「岩手34号」を一月に種を蒔けば四月に刈り入れできる沖縄で増やし、翌年の田植えに間にあわす妙案をたてた。南の果ての石垣島に飛び懇願すると、おおらかな島人は「同じ農家として」島農地の五分の一にあたる一番良い田を提供。翌年四月、収穫した種籾を持った石垣島の人々が花巻空港に下り立つと、山のように集まった岩手の農家の人々がいっせいに日の丸の小旗を振って迎えた。その年岩手は大豊作となり、岩手米は存亡の危機を免れた。以来、岩手人は石垣島を恩義に感じ、それに応えて石垣島の「請福酒造」はその岩手の米で泡盛を仕込み「南雪」と名付けた。「新南雪」は交渉を担当した岩手県農協の人が請福酒造に特別に造ってもらった限定五十本だ。「その泡盛です」ツイー…。温かみのある柔らかな味は米によるのだろうか。盛岡で泡盛を飲むとは思わなかった。サウス・ミーツ・ノーツ。「南雪」米を南の島の雪にたとえたネーミングがすばらしい。フキノトウ、たらの芽、浅葱の山菜天ぷらがおいしい。さくくても春はそこに。(「居酒屋おくのほそ道」 太田和彦) 酒飯堂さらさらは、岩手県盛岡市内丸6-14だそうです。 


方言の酒色々(18)
人にたかって酒をよく飲むこと すすけざけ
人の受けた酒を助けて飲むこと きょーすけ
二人差し向かいで酒を飲むこと さしあい
二日酔いの時また酒を飲む やき を掛ける
二合入りの酒一本 いっきょく(日本方言大辞典 小学館) 


行つたり来たり
彼は、謂わゆるはしごの部類に属して私をひきまわすが、数年後の或るとき、逗子の彼の家へ私を連れて行くといつて、深夜二時半頃の新宿でタキシーをひろつたことがあつた。深夜の国道をつきはしるのは気持がいいものである。深夜までの仕事がようやく終つたのちの若い男女が道ばたでつつましく会つている姿が映画の移動撮影のように幾組も眺められる。ところで、堀田善衛はまだ運動が足りないように、私に横になつて寝ろといいながら、疾走中の車のなかを、後部の席と運転手の席のあいだを行つたり来たりするのである。運転手の座席の背を跨ぐとき彼の延ばした足が運転手の横顔にぶつかりそうになるのであるが、彼はよつてもつて起るかもしれない生命の危険などに気もとめないで、私も映画の一場面でも観ているように彼の細い足がフロント・グラスの方ヘゆつくり延ばされるのをぼんやり見ているのである。こうした彼におびやかされたせいかどうか解らぬが、その運転手は逗子へ行く地理などまるで知らず横浜の先で漠として車も通らぬ途方もない淋しい地点へ迷いこんでしまい、やつとほかのタキシーを探し出して乗り移らねばならなくなつたのであつた。(「酒と戦後派」 埴谷雄高) 


天保11年諸国酒造制限緩和令
諸国酒造之儀、三分之二 減石 可レ致旨(いたしべきむね) 去申年(ひつじのとし) ○天保七年。 相触候処(あいふれもうしろうろうところ)、追々(おいおい) 米穀も潤沢いたし候趣、追て及沙汰ニ候(おってさたにおよびそうろう)迄は、去ル巳年(みどし)○天保四年。 以前迄 造来米高之内 半高相減(はんだかにあいげんじ)、半高酒造 可致候。 尤(もっとも)其国柄ニ寄 減造申付候儀は 勝手次第ニ 相心得(あいこころえ)、隠造過造(密造、酒造株高を越える醸造)等無之様(これなきよう) 精々(せいぜい)心付、 厳重ニ改方 可申付候(もうしつくべくそうろう)。 若(もし)隠造過造等 於致は、其ものは勿論、其所之役人迄 急度(きっと) 可申付条(もうしくつべきじょう)、心得違(こころえちがい) 無之様(これなきよう) 可致候。 右之趣、 御料 私領自社領共 不洩様(もれざるよう) 早々 可相触候(あいふるべくそうろう)。
十一月
右之通 従(より)二町奉行所 被仰渡候間、町中家持は 不申、借屋店借裏々迄 可相守旨 町中不洩様 可相触候。
十一月五日
-撰要永久録御触事巻之四十七東京都公文書館所蔵(「東京市稿産業篇第五十四」 東京都編)
「(天保十一年)十一月五日 幕府、諸国酒造高の制限を緩め、天保四年以前の造高の半分にすることを命じる。」と表題にあります。は注です。 


中野好夫(なかの・よしお)
明治三十六年八月、兵庫県の生まれ、大正十五年東大英文科卒業。英米文学文芸評論を専攻、地方の中学校教師を経験、東京高師教授を経て東大教授となったが、昭和二十八年春『大学教授では食えない』と退職、ジャーナリストとして活躍している。大体が野党的存在、アカデミズムの殻のなかにとじこもるには闘志がありすぎる。一面、きわめて常識人、その毒舌も正義派らしくふくむところがないからさっぱりと聞ける。人柄といえよう。器用人であり、才筆をふるう随筆などには信者が多い。昭和二十九年一月末、文藝春秋特派員として日航機『シティ・オブ・トウキョウ』の招待客となり渡米した。酒をたしなみ、興至れば渋いノドで小唄の一つも口ずさむ。近著に『世界の文学』『良識と寛容』など、訳書にサメセット・モーム、スティーブンスンなどのものがある。(杉並区井荻三ノ一一一)(目黒区大岡山二二三七)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。 


聖堂騎士のように飲む
【意味】酒のガブ飲みをすること。
【解説】聖堂騎士団は一一一八年に創設され、十字軍で勲功をたてた騎士的な宗教団体であったが、後しだいに富と勢力をます。放蕩に耽って解散を命じられた。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助) 


ヤシ酒に酔って水牛泥棒がばれる[ビルマ]
 ヤシ酒を飲んで酔っぱらった勢いで、昔水牛を盗んだことまでしゃべってしまう。調子に乗ってぼろが出ることのたとえ。ヤシ酒はナツメヤシやアブラヤシなどの樹液を醗酵させて作った酒のこと。
全能の神は人を真っ直ぐに立たせるが、ラム酒は人を立てなくする[ジャマイカ](「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子)(「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


飯塚
その昔、神楽坂の坂をあがったあたりの露地に「飯塚」というニゴリザケ屋があって、店の趣がドッシリと古めかしく、そのスタンドでニゴリザケをコップ飲みするのが、わたしたちのときたまの優雅でおだやかな日の飲み方であった。私たちというのは、太宰治と私のことだ。「飯塚に行こう!」という日は、たいてい、荒れの少ない、機嫌の上々の日であって、スタンドのニゴリザケを四、五杯静かに飲んで、おだやかに引き揚げていったものだ。「飯塚」で、荒れたり、狂乱したりしたことは一度もない。あそこのニゴリザケは、いったい、どこのなんというニゴリザケを、飲ませてくれていたのか、知りたいものである。残念なことに、「飯塚」は、戦後ニゴリザケの一杯飲み屋を廃業してしまって、今では、同じ場所でただ、酒の販売店に変わってしまった。わたしだって、毎日ニゴリザケを飲みたいとは思わないけれども、広い東京に一軒ぐらい「飯塚」のようなニゴリザケ専門のスタンドがあって、ときたま、心静かに、ニゴリザケを飲んでみたいものである。(「わが百味真髄」 檀一雄) 


さかづきを月より先きにかたぶけてまだ酔ながらあくる一樽 [万乗狂歌集、山手白人]
題、夏月。夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらん(古今、深養父)をふまえて一転したのが手腕である。「月が傾くよりさきに盃を数かたむけて、飲み尽くしたので、酔いは廻っているがもう一樽の口をあけた。」いかにもたくみな処理だがクロスワードパズル式の知的遊戯という感じもある。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


山田錦は痩せた土で作る
永谷氏から初めに教わったのは、肥料を抑えること。それは今まで奥さんと社長(現在の会長、裕明さんの父、佳明さん)の2人がやってきたことの正反対だった。-
永谷氏は、酒造りの指導者の国税庁の鑑定官であって、農業の専門家ではない。代々の農家である奥親子に対して「山田錦は痩せた土で作る」と指導しても、素直に聞けなくても当然だろう。半信半疑だったものの、永谷氏の熱意を感じ、元肥から窒素を抜いて、水も少な目にしてみることにする。また、穂肥はやらないことをきめたる。その年は台風に見舞われ、強風が吹いたが、山田錦は倒れなかったのだ。永谷正治氏が説いたのは、山田錦は原種に近い稲であるということだ。山田錦は「山田穂(やまだぼ)」という在来種を母として、雄町から選抜された丈の短い「短桿渡船(たんかんわたりぶね)」を父親として生まれた。大正末期に交配されたあと、品種の選抜・固定が行われ、品種登録されたのは1936(昭和11)年。何代も交配を繰り返して作り上げたほかの品種に比べると、野性的な性質を持っているという。(「極上の酒を生む土と人 大地を醸す」 山同敦子) 「秋鹿」が自家栽培している山田錦だそうです。 


酒卓の歌Ⅰ
酒の壜を海に抛れば
壜は沈まず
波に頬よせ 流れて行つた

いつの日 詩(うた)の翼生やして
雲に啼き掌に帰へりこん(「酒卓の歌Ⅰ」 丸山薫) 


酒卓の歌Ⅱ
帆の卓布(シーツ)
藻の花 飾り
貝殻の杯 飲み干さん
陽の雫 風の雫
滴る鹹き思ひ出の泪の雫(「酒卓の歌Ⅱ」 丸山薫) 


蚤と虱のできたわけ
親父が死んで、かがとわらしど二人、小屋コに入って暮していた。山ガラガラと鳴らして来た鬼婆が、掛げむしろをゲロッとはいで、「あぱー(おっか)」といった。あぱは、「わーいおこねな」というと、「吾(わ)、今夜(こにゃ)遊ぶね来た。糸(いど)うるがしておいだな」という。あっぱはおっかねのでだまっていると、「四結び、五結びばり、うるがへ」といった。「糸アうるげだ」というと、「そだら此処(こ)さ持てこい」といってむちゃ、むちゃ食った。「明日の晩(ばげ)、まで、十結びもうるがしておげ、吾(わ)、家さ行ぐ」て、行ってしまった。あばはうるかしておくと、また、山をガラガラと鳴らしてきた。「糸うるがしておいだな、あぱー。こちゃ持て来い」といった。そして両膝をたててむちゃ、むちゃと食った。「明日の晩(ばげ)も来るはで、酒一斗買っておげ」といった。あぱが買っておくと、又晩に来た。「あぱー、酒買ておいだな」というので、「買ておいだ」というと、「布(ぬの)なんぼ欲(う)しば」ときくのであぱは「何ぼでもええ」というと、腹の中から「ふとーしろ(一尋)、ふたーしろ(二尋)」と布を出し、十ひろも出して、「あぱー、今度(こだ)酒持て来い」と樽(たろ)さ口つけで、どくどく、どくどくと飲んで、ごんごんと眠ってしまった。かがはわらしと二人で「これさ寝ろ」と長持に入れ、湯を煮たてて鬼婆にかけると、「あぱー、ちかちか虫コ刺すんだじゃ」といった。あぱな「今えぐなべね」と、ぐわだぐわだと湯をわかしてどうどとかけたら音がなくなって死んでしまった。二人は萱原へ持って行って、「蚤になれ、しらにになれ」とたたいた。下へぼたぼた落ちたのは虱になり、上にぴんぴんはねたのが蚤になった。虱や蚤が人を食うのはむかしの鬼婆であったからで、萱の赤いのは鬼婆の血だからだ。(中津軽郡西目屋村砂子瀬の話 採話・森山泰太郞)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 「大江山の酒顚童子が殺されるときに、死んでも人はくわずにはおかぬといった。その血が化して蚤となり、焼いて粉にしたのが虱となった(五所川原市・内田邦彦)」という話もあったそうです。 


富貴とはこれを菜漬けに米のめし酒もことたる小樽ひと樽 [万載狂歌集、へつつ東作]
下の句のたるの押韻が印象的だし「富貴とはいかなる状態を名づけたものかというと、菜ッ葉の漬物、米の飯、それに酒の小さい樽が一樽あればそれで十分だ。」いわゆる足るを知る人生観で、東作は事実そうした生活ぶりの人であった。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


17 いざりのウエンボ
宗谷(ソウヤ)の交易所にウエンボといって年齢三十七、八歳、足腰が立たず、用便のときはいざって用を足すという男がいた。この者は、もともと大工だが、片手間に彫物を彫ることが好きで、人からそれを頼まれると、その値段は酒できめ、金銭は少しも欲しがらない。もし金銭を与えて細工を頼むと、すぐさまそれを酒に代え、それを飲んでからでなければ仕事にかからない。毎日、酔っていないことはなかった。暖かいときに着物を着ているのを見たことはなく、生涯、酒さえ飲めれば幸せという、この世を悟りすまして暮らしていた。この者はいざりでありながら、家の棟に登り降りするのに梯子を伝うさまは少しも不自由がなく、また家の棟にあがって柾板で屋根を葺くさまは、ふつうの人と少しも変わらず、屋根の上での仕事ぶりは、まことに人の目を驚かせるみごとなものである。また、広野に放してある馬をアイヌたちが捕えようとしても、馬が逃げ走って捕らえられぬとき、ウエンボが出ていって、草の陰から回り込んで馬に近づき、轡(くつわ)を噛ませると、馬を取り逃がすことが少しもない。そのため、この漁場では、馬を捕えそこねたときには、きまってこの者が出ていくというが、まことにおかしな話ではないか。(「アイヌ人物誌」 松浦武四郎 更科源蔵・吉田豊 訳) 




注・横書きなので、<またまた>といった畳語後半の繰り返し記号(く:くの字点)の表記ができませんので、2回繰り返して記しています。
 ・機種(環境)依存文字等は、?になってしまいますので、「上:夭、下:口  の」のような表記にしています。
 ・旧字体の漢字は大体新字体にかえてあります。また、ふりがなは、かっこ書きにしています。
 ・ふりがなは適当に増減しています。