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御 酒 の 話 29



とねがわ・に・する、とみち、とり・が・しめている、なあせる、にがきす  大田南畝の狂歌(2)  ますだ  藤浪博士より  ちやうあん【長安】  猩々と鶴  酒宴  蒲鉾  声帯模写  やどりぬる  コルシェルトによるサリチル酸の紹介  五三 ヨセフ夢を解く  ウコンの力のパワーも、ここまで  「水鳥記」の木尽くし  航空機用アルコールについて  榧森家    酒はおれのガソリン  夜食、夜酒  松の緑  さかずき、さけのかす、酒粕を水に溶かした飲料  題しらす  失はれた美酒  下町屋膳蔵  むかし大酒家  たいした男  昭和21年から26年にかけて  ノアの酒  泡盛譚  贋札  方言の酒色々(17)  酒とな  上方より酒船が入津  宿酔  原料特性  花婿のように飲む  酒飲(さけをたうべて)  金の杯に入った水より  京の納涼  多門院日記  百薬の長ど受けたる薬酒  龍力  煙草の吸殻  厚揚げの香味味噌焼き  どざえもんのかわながれ、どぞお、どみち  うっかりしていた裁判官のベスト  ちどりあし【千鳥足】  ケイマーダ  酒と宗教  西洋酒  一休山居し給ふ時  敵と舞踏す  おのづから酔ふ酒  ヒナ留君  夏の天神祭  済「眞頁」  浄酒、粉酒、白酒  ヲロシア女帝より  酵母という名称  一一六 和尚と小僧との話(酒と餅)  北山酒経の乾燥酵母  高知県  沽酒の禁  二重人格者としての人生  血であってくれますように  さかほがひ  酒直千代伝法  四歳のころ  四日市酒楼見菊池五山題詩、戯賦  居酒屋アルバイターの塩の使い方  江戸期酒造りの収支  さら川(15)  お盆の飯野村  チュ  御府内濁酒作人規制(2)  籠太にて  金陵  駱駝倶楽部  麹、麹のはな外  中汲、一寸一杯、いも酒   あいつら、肥ってやがるなあ  御府内濁酒作人規制  万太郎の酒句  ああ我れ誤まてり  鱈の白子  火の車と学校  7 小使役トミハセ  パブ(2)  腐ったものが368点  淫祠  方言の酒色々(16)  アルコール代謝  敏捷型と緩慢型  飲め、さもなければ出て行け  大田南畝の狂歌  高木健夫  たんで山の兎と狸  うまいビールよりよく売れるビール  高田なる  四万二千円  イサクその子を祝す  ○酒  秋鹿  つたいぼお、つぼ、てっぺん、てんや、とくりなげ  そこふかゞ一門吐血  ちしやう【知章】  茄子の山椒あえ  飲酒を戒む  酒やビールの中を泳ぎ廻る  題しらす  善法  酒の点で牧水の歌に直結  資格取得後の勉強  酔へ!  いきなり五合  三十三 酒客(2)  新生姜  三十三 酒客(1)  黒いきたない茶わん  武玉川(16)  造酒司跡  冷飲は脾胃をやぶる  一八七 酒飲み  料理 下谷上戸郎  成金の天地  狂歌酔吟藁百首(2)  酒に就いて  スナックの魅力  酒が臭くなつて来た  挙国一致  たで  チップ  幕末の打ちこわし  賦得酒無独飲理の現代語訳  長期熟成酒のタイプ  賦得酒無独飲理  秋田藩院内銀山  「御酒之日記」の一般酒  エツ  大谷嘉助  大根ステーキ 切って焼くだけ!  お宅の酒を飲ませてください  かんどくり、燗をつける道具、燗をつける  アリガトウ、ゴハン、サケ  春浪君の酒  袋洗ひの水の汁  元来がひとり酒  二日酔いのベスト、バーのベスト  骨吸物  ビール瓶  久保田万太郎の酒句  タピオカ  盃サカヅキ  free lunch  篠原泰之進  方言の酒色々(15)  酒中の妙趣  二つの酒のあいだ  初夏  はしご酒と臼  アルコール代謝の特徴  精進の酒盗人  酔っ払いの話と  林家三平  成形図説  ロトの娘たち  おいらんに  年季奉公  蓮花寺にて、奈良の酒家にて  ちっくり、ちゅう、ちろり・の・さけ、ちん  酵母のゲノム解析  たるひろひ【樽拾】  狂歌酔吟藁百首  酒席の会話はネコの毛か?  35酋長サケノンクル  少のんで不足  十三祝いの日  食味と酒造適性  越後・南部・丹波杜氏の出稼ぎ先  料理 辰巳屋吞七  おまえらは堕落している  酒と煙草に  酒殿歌  酒殿歌  中尾清麿  アナクレオーンを  酒諺集  大木代吉本店の料理酒  水鳥記序  酒屋の店印・後払いで酒をのむこと・酒屋の使用人・醗酵する  大木戸辺の酒店  「生」  ④店を出る  蛇之介  テンシンランマン  わがトラ箱記  ショウジョウバエと花酵母  新聞少年がからまれた朝  ③まずは黙ってお通しを待つ  釈奠の爵  強さを発揮できる環境  日本清酒発祥の地  山紫水明処  方言の酒色々(14)  涼葛豆腐  満盃で綴り字を読む  ②さあ、入店  あるじまうけ  出は士族で名主さまの伜  よく飲む者はよく眠り  火落ちの脅威  ビール、カクテル、シャンパン、オー・ド・ヴィー、ブランデー、ウイスキー、ラム酒のベスト  ①酒場を選ぶ  酒挨拶、酒水漬く、助三杯、せこ、せこを入れる  岡田酒粕  あんこうのとも酢  たく、たぬき・の・きんたま、たぼ、ちが  越後杜氏  酒が成る  たるぬけ【樽抜】  元禄十年の酒株改め  麹カムダチ  三田村豊さん  高校の修学旅行  新場の小安さん  初代川柳の酒句(8)  どうだ一杯やるか  酒を飲ませて自己の意に従わせること、酒屋・売酒屋、飲み屋・居酒屋、おでんかん酒屋  酒屋  日本酒開眼は遅かった  少名毘古那と須須許理  悪しき香を抜く  食べ方 8・4(夕)  蘿月  富貴地座位  柚子味噌のスモーク  アル添酒、三増酒  四斗の思い出話  方言の酒色々(13)  野風呂  酵母の増殖  酒と人間性  良い酒は藁束はいらぬ  京都の宿  大甚  湯ぼら  酒場にあつまる  第二百十五段  誹風末摘花  浅草の酒  不如来飲酒傚楽天体四





とねがわ・に・する、とみち、とり・が・しめている、なあせる、にがきす
とねがわ・に・する[利根川にする](動詞)句 酒を終りにする。[←利根川の川口にある銚子に掛けて「この銚子で終る」の洒落](花柳用語)(明治)
とみち①飲酒。 ②汁の実。→どちみ。(強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
とり・が・しめている[酉が占めている](動詞)句、状態態(ママ) 多人数が騒いでいる。騒がしくしている。[←とり=酒。しめる=廻る。酒が廻っている](強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
なあせる(動詞)①酒をのむ。②タバコをすう[←はなせる(話せる)の逆語ナハセルの訛](不良用語)(大正)
にがきす[苦きす]ビール。→きす。(強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)(「隠語辞典」 梅垣実編)


大田南畝の狂歌(2)
三月三日
盃を さすが女が 節句とて もゝのあたりに 手まづさえぎる(狂歌才蔵集)

不飲酒戒(ふおんじゅかい)
はらわたを くだす薬ぞ せんじやふ つねのごとくの 生姜酒でも(狂歌才蔵集)

山門五三の桐<さんもんごさんのきり>といへる狂言の名題によせて
葷酒<くんしゅ>でも なんでもはいる 山門に 五三のきりの こがね花さく(千紅万紫)

菊の花かきたる盃に
酒のめばいつも慈童<じどう>(能の菊慈童)の心にて七百歳もいきんとぞおもふ(千紅万紫)


ますだ
先斗町に"ますだ"という酒亭がある。今年三十周年を迎える"ますだ"は、京都文化人のたまり場であった。この店のおかみさんは増田好(たか)さん。昨年十一月、一か月ばかり病床に伏し、終に還らぬ人となった。このお好さんが、実に痛快な酒豪であった。カウンターの向こうに立って、お燗をしたり、肴を盛り付けたりしながら、チラリチラリとお客を見ている。「おかみさんも一杯どうぞ!!」馴染の新聞記者や学者先生、芸術家、作家、映画監督などが、ズラリと並ぶ十四、五人でいっぱいになるカウンターごしに、一斉に大ぶりの酒盃を差し出す。「そうどっか、へえ、おおきに」と、いってはグイ。「先生、しばらくどしたなあ、どこで浮気しておいやした?」と、いってはグビル。「佐々木はん、あんた一年に一度だけで、まるで七夕さんどすな。あきまへんでェ」と、いってはグイグイ。十四五人のお客から一杯ずつ献杯をうければ盃が大きいのだから、三合は軽く入る計算になる。夕方の七時ぐらいから深夜の一時ごろまで絶え間なくお客から盃をうけて、毎夜、一升近くは飲んでいたのではあるまいか…と想像する。このお好さんは、酔っぱらってくると、お客の傍にやってきて誰でも彼でも盛大にどやしつけるのである。カンラカラカラと高笑いをしては、、ドンドンと背中を叩くのだから、痛くて仕方がない。なにしろ本人は正気ではないのだから、手加減をして叩くということがない。老若男女を問わず叩きつける。(「あまからぴん」 佐々木久子) 私に合った店 瓢正とますだ 


藤浪博士より鴬の徳利を贈られけるに
酒のめばいつも心の春めくに徳利さへも鴬の声
酒一斗我事足れり春の雨
(短歌と俳句 大町桂月) 


ちやうあん【長安】
支那の旧都。洛陽と並んで史上最も著名な旧都で、漢代から唐代に至るまで千百年間、最も重要な都市の一つであつた。西漢、及び唐の帝都で、杜甫の「飲中八仙歌」には『李白一斗詩百編、長安市上酒家眠、天子呼来不上船、自称臣是酒中仙』とある。
長安の酒肆李白に倒される 毎日来て飲まれ
長安の酒肆一旦那李白様 第一の華客
長安の御用ふらすこ集めてる 白鳥に非す
長安のしけ塩豚で李白飲み 魚類払底
長安の居酒屋葱に羊なり 葱鮹に非す(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


猩々と鶴
伊藤整氏とは、北海道の講演旅行で短い時間酒席を共にしたことがある切りだが、伊藤熹朔を猩々とすれば、これは鶴が嘴に水をふくむような吞み方で、眼鏡の奥の眼を、杯ごとにパチパチさせるのが印象的だった。-(「酒徒交伝」 永井龍男) 


酒宴
雨の愚痴が止んだ
風が歌ひ出し
鴉が羽根を拍いて
もう夜が明けかかつた(「酒宴」 丸山薫) 


蒲鉾
或る冬のこと、利休が大坂から京都へ行く途中、河内の守口(もりぐち)の里に旧友があつて、かねがね一度お越しを待つ、と伝言のあつたことを思い出し、宿約を果たそうとして、夜更に大坂をたち、翌朝早く守口を訪ねた。すると、暁にもかかわらず、露地の掃除も行届き、主人、ようこそと、利休を茶室に通し、そのまま庭に出る様子である。何気なく窓からのぞいて見ると、暗がりを竹竿に行燈を吊つて、柚(ゆず)の木に熟(う)れた実を探すようであつた。さては、私をもてなすために庭の柚の実を取つているのかと、その詫びた心根を一段とゆかしく思つていると、案の定、柚(ゆ)味噌一品で懐石が出た。利休は快く酒一献を過ごすと、これは昨日大坂からの到来物でしてと云つて、亭主が、やおら、うまそうな蒲鉾を出した。柚味噌の侘びた趣向に引きかえて、この蒲鉾のおごりは、すっかり興ざめ、さては、今朝たち寄ることを誰か告げた者があつたので、掃除も行届き、このように蒲鉾まで用意したのだろう。庭の柚をちぎつたのも、不時の客にわざと驚いた作りごとに違いないと思つて、早々にその家を辞去した。果たして利休の察しの通り、その前の晩に利休に挨拶に来た者の注進が守口に届いていたという。(「茶 歴史と作法」 桑田忠親) 


声帯模写
昭和六年八月には、NHKのラジオに出現する予定になっていた夢声が、ひどく酔っ払って、自宅に眠りこんだままになってしまった。テープレコーダーなどというものなんか、まるっきりない時代なので、急ぎ代役を立てなければならないことになった。そのとき、久保田万太郎に指名されて、マイクの前に立ったのが、ロッパであった。四十分間というもの、夢声の声帯模写で、しゃべりまくって、聴取者にさとられなかった、という奇跡を演じた間柄でもある。(「ああ酒徒帰らず」 木村嵐) 


やどりぬる盃の影涼しさにまだよひながらあくる酒だる [雅莚酔狂集、風水軒白玉]
まだよひながらは「夏の夜はまだよひながら…」(百人一首、深養父)の夏の夜であることを示しつつ、酔った上になお飲みたがって酒樽をあける酒のみの心理を言っている。それは盃にやどる月の影の涼しさに、酒の興がいよいよまさるからで、友とくむ酒のたのしさもよく表わし得ている。佳作である。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


コルシェルトによるサリチル酸の紹介
サリチル酸の使用を奨励したのが、先のO・コルシェルトである。彼は、明治一二(一八七九)年三月二五日の『郵便報知新聞』紙上において「夏期日本酒ノ酸敗スルヲ防グ法」と題し、サリチル酸の防腐剤としての有効性をはじめて紹介している。
予(よ)嘗(かつ)テ聞ク。醸造家及ビ酒類販売家ノ夏月酒ヲ貯フルニ、其ノ酸敗スルニ由(よ)ツテ大ニ損財シ、之ガ為メ日本ニ於テ年々損失スル処ノ金額ハ実ニ巨大ナリト。(中略)此(この)損失ノ巨額ナルヲ以(もつて)予ハ務(つとめ)テ其酸敗ヲ防グノ法ヲ醸造家及ビ其販売家ニ伝告シ、其患を除カンコトヲ望ム。(中略)夫(そ)ノ法タルヤ、近年独逸(ドイツ)国有名ナル化学者ドクトルユルベー氏ノ試験シテ、世人ノ普(あまね)ク知ル処ナリ撤里失児(サリチル)酸ヲ施用スル、是ナリ。此撤里失児酸ハ効験ノ著キヲ以一般ニ採用セラレ、其作用ハ腐敗ヲ除キ、醗酵ヲ遏止(あつし)ス。-(「酒の日本文化」 神崎宣武) 


五三 ヨセフ夢を解く 第四十章
これらのことの後、エジプト王の酒人(さかびと)と膳夫(かしわで)がその主君であるエジプト王に罪を犯した。パロはこの酒人の長(おさ)と膳夫の長である彼の二人の廷臣を怒り、彼らをその侍従長の所に監禁した。[すなわちそこにヨセフがつながれていた獄(ひとや)に入れたのである。]侍従長は彼らをヨセフにまかせた。そこでヨセフは彼らの世話をしていた。こうして彼らはしばらくそこに監禁されていた。さて、獄につながれていたエジプト王の酒人と膳夫は二人とも同じ夜に夢を見、しかもそれがそれぞれ意味のある夢であった。ヨセフが翌朝彼らの所へ来て見ると、彼らはゆううつな顔をしていた。そこでヨセフは、[その主人の家に自分と一緒に監禁されていた]これらのパロの廷臣に、「何故貴君方は今日暗い顔をして居られるのですか」と尋ねた。彼らは答えて言った、「われわれは夢を見たのですが、それを解いてくれる人がいないのです」。そこでヨセフは彼らに「夢を解くことは神様の御力によることではないでしょうか。その夢をわたしに話して下さい」と言ったので、酒人の長はまずその夢をヨセフに語った。「夢の中で一本の葡萄の樹がわたしの前に立っていました。一〇その樹に三本のつるがあり、その葡萄の樹は見る見るのびて花を咲かせ、その実は熟してよい葡萄になりました。一一丁度パロの杯がわたしの手にあったので、わたしはその葡萄をとってそれをしぼり、パロの杯に受けて、その杯をパロの手に捧げたのです」一二ヨセフが彼に答えて言った、「その解き明かしはこうです。三本のつるは三日です。一三今から三日経つとパロはあなたの頭(こうべ)をもたげ、あたなをもとの位に返すでしょう。あなたはパロに酒をつぐ今までのお役目のように、ふたたびパロの手にその杯を捧げることになるでしょう。一四あなたに運がひらけた時、わたしのことを想い出して下さい。わたしに恵みを施して、パロにわたしのことを話して下さいそしてわたしをこの家から出させて下さい一五わたしはヘブライ人の地から無理やり連れてこられた者なのです。[ここでも何も悪いことをしないのに、この牢に入れられたのです。]」
注釈 「酒人」酒をつぐ役「膳夫」パン焼きの役が原語、勿論高官の役名。-(「旧約聖書 創世記」 関根正雄訳) 


ウコンの力のパワーも、ここまで
打ち合せと称して、坂崎重盛さんと『酒とつまみ』の大竹(聡)さんと一緒に浅草橋の立ち飲みワインバー「bevi」へ。あまりのメンツに、思わず、「ウコンの力"スーパー"」を投入。これで、準備万端。早い時期からの打ち合せだったためハッピーアワーに間に合う。ラッキー。まずは、生ビール。注文をうけるたびにグラスを再度冷やし直し、そして泡をなんども注ぎ直し。丁寧に丁寧に注いでくれます。こりゃあ、旨そうだ。チーズやらおつまみも数種類。坂崎翁のおもしろトークに笑いころげていたところに大竹さん合流。赤ワインで乾杯。ここは、カウンターの中で接客されているスタッフさんがべっぴんさん揃い。男性一人でカウンター立ち飲み、よさげだなあ。結構早い時間からお客さんが詰めかけている人気店のようです。赤ワインを数種類いただいた後は、浅草へ移動。浅草ホッピー通りの「居酒屋浩司」へ。もちろん、ホッピーで乾杯!オープンエアーも気持ちよさそうだなあ。大将から馬刺しの差し入れをいただく。ありがとうございます!そして煮込み。熱気むんむんの浅草ホッピー通り。いいですねえ。前日、吉田類さんと一緒に14軒も!はしご酒をされていたという坂崎さん。それでも、今日もすいすいとお酒を吸い込んでいらっしゃいます。さすが、巨匠。類さんに「坂崎さん、大竹さんと浅草にいま~す」とご連絡すると、神保町で呑んでいらっしゃるとか。類さんも異常に強靱な肝臓の持ち主です。類さんと合流することに。やっぱり「ウコンの力スーパー」をのんでおいてよかった(笑)。神保町「人魚の嘆き」へ移動。類さんにご挨拶したところで、記憶ばっさり喪失。ウコンの力のパワーも、ここまでしかもたず…。3大巨匠に囲まれたスーパーな一日。もっと研鑽を積んできますデス。(「Tokyo ぐびぐびぱくぱく口福日記」 倉嶋紀和子) 


「水鳥記」の木尽くし
山に山がかさなりて、大木は数しらず、えだをならべ葉をたゝみ、しげりあひたる其の中に、見てさへもうれしきは、まづわれに酒をしゐ(強い)の木や、こよひのとまりに上戸ばかりありのみ(梨の実)の、下戸はひとりも梨の木の、名をきくもいやのもち(餅)つゝじ、いつさて酒もりにあふ(会う)ち(センダン)の木、あくじをばみな下戸共にぬる(塗る)での木、われをば酒やのかたへひ(引)いらぎの、下戸のまへをばもはや杉(過ぎ)のかど、上戸は我を松(待つ)原の、しそんまで酒のむ事をゆずりはや、ならはゞ下戸も上戸になら(成ら)の木の、さかてをやすくうる(売る)しの木も有、下戸ははぢをかき(掻き)の木の、我らがよはひはながながしくもひさ(久)ゝぎの、思ふ事はおつつけあすならふの木も有り、女三の宮に心をかけし、そのゆかりにあらね共、人にかねをかし(貸し)は木の、金銀たくさんに黐(もち 持ち)の木なれば、物を杏(あん 案)ずる人もなくて、いつも心はさは(爽?)ら木や、われはこゝまでもはるばるとき(来)わだ(キハダ)の木かなと、にがにがしくも思ひしに、-(「水鳥記」 地黄坊樽次) 慶安年間記事 


航空機用アルコールについて
凍てた路端に
一升壜を一本置いて
小さな女の子が立つてゐた。
薄汚れたコツプをぼくに突きつけて
一ぱいどうですかと言つた。
九州の南端から帰つてきた友だちは
かへり見てぼくに言つた。
「航空機アルコールだ。害にはなるまい。」
ぼくは深い感動なしにそれを見ることが出来なかつた。
その水のやうにきれいに透き通つたものを。(「航空機用アルコールについて」 小野十三郎) 


榧森家
上方からの酒造技術導入が最初に実施されたのは恐らく仙台藩においてであろう。藩主が飲む酒を「御膳酒」、御膳酒をつくる酒屋を御用酒屋と呼ぶが、仙台藩では奈良出身の榧森(かやのもり)家が代々御用酒屋を務めた。初代榧森又右衛門が慶長十三年(一六〇八)、柳生但馬守の紹介で伊達政宗に是非にと召し抱えられ、「城内詰御酒御用」を命じられたのがはじまりである。その頃はまだ伊丹や灘が名醸地となる前で、酒といえば奈良県が第一等だったのである。城内三ノ丸の清水が湧く場所に五間×十六間の酒蔵を建設し、毎年四百五十石の酒造米が無償で与えられ、酒造用具一式、労働力、榧森の住居すべてが提供されるという破格の待遇だった。こうして仙台において奈良流の酒づくりが開始され、さらに榧森の推薦で奈良からほかに岩井家も呼ばれることになった。-
それでも榧森家は細々とではあるが、明治の初年まで藩主のための酒づくりを続けた。(「江戸の酒」 吉田元) 



お若 家に一匹トラがいる、それはおれだとさっきいったけれど。
五郎吉 何を隠そうこの檻(おり)はおれが酒をくらって狂人(きちがい)染(じ)みてきたら、お前に頼んどいて入れて貰う気で拵(こしら)えたのよ。
お若 ええ。
五郎吉 源大工はああいう奴だから、あとで判るから、黙って拵えてくれといったら忽ち承知して、夜業(よなべ)仕事にやってくれたが、さて出来あがって担ぎ込んできちまうと、こいつ、置くところがねえ、まさかとッさんやお袋に、食(くら)い酔って手に終えねえとき、おれを入れるための檻でございとは、いくら何でもいえねえからなあ。
お若 もし、五郎ちゃん、こんな物を拵えるほど自分の酒の上の悪いのに気がついていながら、どうしてお酒が断(た)てないんだろう。
五郎吉 面目ねえが、われながら始末に終えねえ。お前がまだお若ちゃんの時分から、酒のことじゃどのくらい意見されたか知れねえが、われながら骨身に沁みて判ってやがって、ツィ匂いを嗅ぐとカラ駄目だ。
お若 それじゃおとッさんおかッさんに済まないじゃありませんか。
五郎吉 済まねえともおおきに済まねえ。だから、こんな物を拵えたんだ、おれだって酒は断ちてえんだ、断とうといくらフン張っても、おれには断てねえ、酒の畜生め、ええ業(ごう)つくばりな、いつまでおれをいじめやがるんだ。(「檻」 長谷川伸) むかし大酒家 


酒はおれのガソリン
タイガースは、この年(昭和12年)西村幸生投手がすばらしい活躍をした。西村は関大出身で、沢村に負けない快速球を投げた。コントロールもよく、ドロップにも威力があって、東京六大学をなで切りにしたが、大酒家としても知られていた。遠征の汽車でも、食堂車に坐って飲み続けたし、ジャイアンツの選手が入って行くと、「あすは、おれがヒネッてやるからな」と豪語した。じっさい、西村は酒くさい息を吐きながらマウンドに上り、ぴたりと抑えてしまうのであった。ジャイアンツは、秋シーズンは、タイガースに一勝もあげられず、ことに西村には、七回戦のうち、四回までヒネられてしまった。年度優勝を決める決戦も四勝二敗でタイガースが制した。スタルヒンは第三戦に先発して8-2で負けている。「酒はおれのガソリンさ」という西村は、投手成績第一位を占めた。(「戦後人物誌」 三好徹) 大"酒仙投手" 


夜食、夜酒
夜食する人は、暮て後、早く食すべし。深更にいたりて食すべからず。酒食の気よくめぐり、消化して後ふすべし。消化ぜざる内に早くふせば食気とどこをり、病となる。凡(およ そ)夜は身をうごかす時にあらず。飲食の養(やしない)を用ひず、少(すこし)うゑても害なし。もしやむ事を得ずして夜食すとも、早くして少きに宜(よろ)し。夜酒はのむべからず。若(もし)のむとも少(すこし)のむべし。(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂) 


松の緑
(高知県)佐川から西へ六つ目の駅が須崎で、ここでは大正の初期、酒造技術史上特筆すべきことが発見された。それは酒作りの工程で、酵母の培養(酒母)という大切な時期があり、この時あまりに早く、乳酸菌による乳酸の十分にできぬうちに、酵母が繁殖するのを早湧きといって、たいへん悪兆としてきらわれる。ところでこの暖国でどの酵母も早湧きしない理由は何か。それは須崎の井水に多量の硝酸塩を含んでいて、それに細菌が繁殖して、亜硝酸という酵母毒を生産するからだということが、数人の技師(川島南海城、花岡正庸、善田猶蔵の諸氏)によって発見された。八軒の端緒となったのは松岡博さんの"松の緑"で、その井水を採取して分析してみたが、いまはとりたてていうほどの硝酸塩は認められなかった。(「さけ風土記」 山田正一) 松の緑は廃業してしまったようです。


さかずき、さけのかす、酒粕を水に溶かした飲料
さかずき(盃)*ちょく(本)おりべ(京都)・さま(南島石垣島)・ちんころ(岐阜市)・はいま(南島(琉歌))・はんまーぐゎー(南島島尻)
さけのかす(酒粕)(本)いたおみき(岐阜県吉城郡・徳島県祖谷地方)・よかんべ(福井県坂井郡)・わっきゃい(徳島県美馬郡)。
【酒粕を水に溶かした飲料】*しる(本)どべ(南部・岩手)。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録) 


題しらす  行安
同 汲かはすさゝのおなかにみちぬれは身をじゆくしとぞ我は酔たる

親しき方にて酒すゝめられけるに是は味なし彼はよしなといひけれはとかくいひて盃の数重なる事よと笑はれけるによめる
わたくしも難波にすめばすゝの酒よしやあしとてたべませいては(「古今夷曲集」) 


失はれた美酒     ポオル・ヴァレリイ
一と日われ海を旅して
(いづこの空の下なりけん、今は覚えず)
美酒(びしゅ)少し海へ流しぬ
「虚無」にする供物(くもつ)の為に。

おお酒よ、誰か汝(な)が消失(せうしつ)を欲したる?
あるはわれ易占に従ひたるか?
あるはまた酒流しつつ血を思ふ
わが胸の秘密の為にせしなるか?

つかのまは薔薇いろの煙(けぬり)たちしが
たちまちに常の如(ごと)すきとほり
清げにも海はのこりぬ…

この酒を空しと云ふや?…彼は酔ひたり!
われは見き潮風(しほかぜ)のうちにさかまく
いと深きものの姿を!(「失はれた美酒」 ポオル・ヴァレリイ 堀口大學訳) 


下町屋膳蔵
両ごく 亀清 よろづ丁 柏木 たかさご丁 萬千 かし丁 百尺 両こく 生稲 はま丁 大橋 かきから丁 福井 すわ丁 中安 まくらはし 浪花や かきがら丁 武蔵や ひもの丁 倉田 すみ丁 開花 かぶと丁 采芳 さが丁 勝五 八丁ぼり 松のや 花やしき 常盤 しろかね丁 山新 中ばし 巴や  よし丁 萬菊 ながとみ丁 永秀 かきから丁 蜂隆 すきや丁 玉川 両ごく 深川 やげんぼり 常盤 ほりえ丁 八百五 むろ丁 信松 てんま丁 桜や かきから丁 魚十  鈴木 九伊 中茶 菊本 今清 高砂-(「東京流行細見記」 清水市次郎編 明治文化全集) 


むかし大酒家
中村勘三郎さんは、むかし大酒家で、長谷川伸さんがそのために書きおろした「檻」の主人公のようなところがあった。大病をして退院して来てから、酒が体を受けつけなくなった。どうしたんでしょうといったら、「ぼくはね、こう思っているんです。酒を飲めない人の血を輸血されたんだろうって」(「ちょっといい話」 戸板康二) 


たいした男
吉永(みち子)と正人の結婚生活は22年間で終わる。別れを切り出したのは吉永だった。「たいした男だった。縁を切りたいから別れたかったんじゃないの。こいつはすごくいいやつだと思っているし、嫌いなわけじゃないんだよ」。きっかけは、吉永の母が亡くなり、家庭内の「すっげえ難しいバランス」が崩れたことだった。家族の関係が難しくなるなかで、吉永は正人に夫や父親としての役割を期待した。ただ、吉永によると、正人は恐るべき忍耐力でどんな現実をもありのまま受け入れてしまうタイプの人だった。期待しても果たしてくれない夫や父の役割も自分が抱えてやるんだったら、最初から期待しない方がよい。正人にこう切り出したという。「とても縁の深かった、これからも縁を続けていくであろう人として一対一に戻りたい。そうしたら、あんたと酒が呑めるようになるかもしれない。もう一回呑みたいとも思っている」と。正人は「そうかまた呑めるか」と答えたという。その言葉通り、2006年に正人が亡くなるまで、二人は折にふれて顔を合わせ、酒を呑んだ。(「あの人と『酒都』放浪」 小坂剛) 


昭和21年から26年にかけて
昭和21年(1946)から26年(1951)にかけて醸造試験所で毎年開かれた品評会で、この記録は元醸造試験所長・山田正一氏の著書『酒造』にしか書かれていません。後の彼の著書『さけ風土記』(昭和50年・毎日新聞社)の中には「全国品評会に代わって古酒の品評会が醸造試験所で行われた」とあります。右の表はその品評会の上位入賞記録ですが、昭和21年の「真澄正宗」が上位独占しています。これはその年の春、山田正一氏が「真澄」の蔵から芳香抜群の醪を採取し、その酵母を試験所で培養し、後にきょうかい7号酵母として頒布されているのですが、その醪を搾ったお酒が上位独占したということなのでしょう。この時代「献上酒」なるものがあったそうです。皇室に献上されるお酒です。昭和20年代の品評会の上位入賞酒が選ばれたとあります。この昭和21~26年に行われた品評会での上位入賞酒こそがその選考されたお酒だったのです。広島県・大藤酒造(平成13年廃業)にその証拠となる1枚の書状(159ページ)が残っていました。「旭菊水」醸造元の大藤直也社長によれば、献上酒は上位6点が選ばれたということです。昭和26年、「旭菊水」は確かに1位に輝いています。しかし、なぜこの品評会の記録が公に残っていないのでしょうか。日本酒造組合中央会の記録にももちろん残っていません。何か残してはまずいことがあったのでしょうか。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


ノアの酒
ノアは葡萄を植えて
その実で葡萄酒を作つた
血のやうに赤い葡萄酒が
すこぶるノアに気に入つた
ノアにはそれが人間の血なのである

すべての人間を殺して
自分ひとりが助かつた
あのこたえられない喜びが
人間の血である葡萄酒を飲むと
今ふたたびいきいきとよみがえる(「ノアの酒」 高見順) 


泡盛譚
ある日、この飲み屋に、珍しい人がぼくを訪ねて来た。隅田川のダルマ船の船頭さんである。ぼくは一時、かれの世話になって、一緒にダルマ船に乗っていたが、かれとは、両国、鶴見あたりを飲んで歩いた。一度かれが、泡盛の飲み試しをするというので、業平橋の泡盛屋で、当時のコップ(ラッパ型)でぼくが十杯、かれが十二杯飲んだ。もっと飲むというので、そろそろ危いとおもい、表へ連れ出して自動車に乗せたところ、走り出してまもなくのこと、ドアを開けて飛び出したりして、運転手とぼくを梃摺らせた。船頭さんに限らないが、いままでの経験で、深飲みする酒友の看護役が、いつもぼくなので、いつも会計をむこう持ちにして飲んでいる罰だとおもったりして、多少人生のさびしさを味わうことがある。ある夜、六、七人程の常連で、泡盛屋で、終電が逃げ出すころまで飲んだ。みんなはUさんに誘われて、かれの家へ行ったが、飲み疲れていたので、酒を中止し、一膳でも御飯にしようということになった。食卓のまんなかには、大きなどんぶりに一杯、魚の煮たのがあった。翌朝目が覚めてみると、膳のぐるりに、みんなは雑魚寝していたが、みんなが起きたところへUが来て、ひざまずいて云うには、「みなさんに昨夜はまことに失礼なことをして申しわけない。」と云って頭を掻いた。「実は昨夜のどんぶりは、間違えて犬の餌でした。なんとも申しわけない。」とまた頭を掻いていたのである。みんな顔を見合わせたが、難を逃れたのは、珍しいことに、ぼくなのであった。(「酒友列伝」 山之口貘) 


贋札
明治三年八月、横浜百三十四番地館にいた米国人ロー・ジルスという男はこの偽造を思いたち、同家に出入りする相州小田原宮の前の商人山岸鉄太郎と淺草山谷の商人七木文七に情をあかして、横文字の版木彫刻のできる男を雇いたいという触れこみで、やはり淺草の山谷にいた印刻師清五郎方の職人清水竜蔵と増田佐太郎を呼び、最初は本当に横文字の彫刻をたのんだが、ローは二人の勝(すぐ)れた技術を認めると一両札の版木を彫刻するようにいった。二人がふるえてあがって帰ろうとするとローはピストルを向けて蹴飛ばしながら一室に三日間監禁し、とうとうそれを承諾させた。そして一両札二十枚を偽造し、瀬踏みに鉄次郎と竜蔵と伝太郎の三人が、下町の飲食店で酒を飲んでその贋札で支払ってみると、すぐに贋札とわかって三人ともふん縛られてしまった。(「五十年前」 東京日日新聞社社会部編) 


方言の酒色々(17)
つまみや料理なしで酒だけを飲むこと てっぽー
めん類を食べた後、それを流し込むように大杯で酒を飲むこと ざいもくながし
一杯だけ一杯だけと言いながら、いくらでも酒を飲む人 いっぱいじーさん
一軒一軒順に酒を飲んで回ること たぐり
一番上座から、茶わんもしくは湯飲みを両側に回して酒を飲むこと みやげびらき
一滴も酒が飲めない しずく だえいけん(日本方言大辞典 小学館) 


酒とな、愛(う)い子(1)よ、それと真実と(P・L・Fアルカイオス三六六)
注(1) 酒酌ぎの少年奴隷(場合により良家の子弟のこともある)を指す。

酒は一にとつての覗きめがね(1)…(P・L・Fアルカイオス三三三)
注(1) 語義必ずしも明かでない。見すかすもの(小猿・窓の穴?)。(「ギリシア・ローマ抒情詩選 あるかいおす」 呉茂一訳) 


上方より酒船が入津
江戸の伊達浅之助は、八月四日(慶応二年1866)、「先月廿日頃公方様(徳川家茂)御誓去[逝去]之由、全(まったく)御病気に無之(これなく)、毒薬にても之事」との話を聞いた。納金に出た手代友七が、八日、将軍の跡目はたぶん一橋殿だなどと承って戻った。二二日、万年町の知人が店に来て、"鳶の者に代り乞食七〇〇人を長州へ遣わすと仰せ出されたが、おいおい行く者が減っている。この節長州勢が大敗北の様子なので、今月中にも戦いも片が付こう"と語ったが、浅之助には戦いの成行きは計りかねた。ようやく昨日、上方より酒船が入津して、酒値段がどんどん下がっているそうだ。(「珍聞事記」)(「幕末維新の民衆世界」 佐藤誠朗) 「珍聞事記」は、江戸本両替町で、質屋・両替屋をいとなんだ伊達浅之助という富裕な商人が残したものだそうです。 


宿酔
朝、鈍い日が照つてて
風がある
千の天使が
バスケットボールする。

私は目をつむる、
かなしい酔ひだ。
もう不用になつたストーヴが
白つぽく銹(さ)びてゐる。

朝、鈍い日が照つてて
風がある。
千の天使が
バスケットボールする。(「宿酔」 中原中也) 


原料特性
吟醸酒というのは、原料の特性を封じ込めることに力を入れて造ってるんです。世界中の酒を見回したって、フランスで新酒の利き酒会があると、オーナーや技術屋さんは「このブドウの品種はこうだ」ということを盛んに力説するわけです。まず、そのブドウの品種の特徴がきちっとでているかどうかを見てくれってことなんです。酒に原料特性が出ているかどうか。世界中の酒はみんなそうです。原料特性が製品に表れていることは大切なことなんです。だから、原料特性を頭から否定する考え方には、僕はついて行けなかった訳です。なぜ、米という穀類を使って、ワインのような柑橘系の香りを追っかけるのかという疑問。米を使ってそんな香りを追っかけなくたっていいんです。日本酒は、穀類を使った技術とカビを使った技術でできている。ヨーロッパにはカビを使った酒はない。カビによる糖化方法を使って、原料特性をできるだけ残そうと思ってできた酒がこうなった訳で、不思議でも何でもないんです。(「挑戦する酒蔵」 酒蔵環境研究会編) 白木恒助商店社長白木善次の濃醇型長期熟成酒製造の考え方だそうです。 


花婿のように飲む
【意味】酒のガブ飲みをすること。
【解説】婚礼の席では来客の席ではめいめい新夫婦の健康を祝って盃をあげる。花婿はそのたびに好意を感謝して盃を乾さなければならない。だから、少なくとも男の客の数だけひとりで飲むことになろう。大変な分量である。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助) 


酒飲(さけをたうべて) 拍子八
53酒をたうべて たべ酔(ゑ)うて たふとこりそ まうで来(く)ぞ よろぼひそ まうで来る まうで来る まうで来る
注53 一 「たぶ」は食うことにも飲むことにも用いる。「たうぶ」はその延音。 二 酔漢の擬声または擬態を表す語であろう。- 三 「まゐでく」の転。尊い所へ参上してゆく意。 四 「よろぼふ」は、よろめく、よろよろする意。禁止の意の副詞「な」を伴わないが、歌いやすいように省いたものか。- 五 繰返しの代りに天治本は「丹名丹名太利々良々」、『仁智要録』は「タリタナチヤラタラリララ」、『三五要録』の本説は「タリタンナチリヤラタリリララ」、藤家説は「タンナタンナタリリララ」、源家説は「タンナタンナンリチンナタリチリラ」とする。笛譜の唱歌を囃し詞風に入れたもの。(「催馬楽」 校注 臼田甚五郎・新間進一) 


金の杯に入った水より土器に入った葡萄酒のほうがよい[ジプシー]
グラスと唇の間でワインがこぼれる[独]
 ワインを飲もうとして、グラスを口に近づける間にこぼしてしまう。物事がもうすこしで成就するというときになって、問題が起きやすいものだというたとえ。
年寄りは古い葡萄酒と若い女房が好き[ルーマニア](女房と畳は新しいほど良い)
涙をワインに変えることはできないが、ワインが涙に変わることはある[独]
悪い日のベッドには葡萄酒の枕[スペイン](「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


京の納涼
十七世紀の中葉から幕末期にかけて、鴨川と河原は大きく変身したが、そのなかで最も多くの庶民をこの広場に招いたのは、「四条河原納涼」「糺河原(ただすがわら)納涼」で、これを忘れることはできないであろう。鴨川は中州が広大だったと先に記したが、この中州で祇園祭礼を前後して催されたのが「納涼」だった。中州の河原には床机が持ち出され、これに緋毛氈が敷かれて、小料理・酒・茶が出された。初期の照明は行灯(あんどん)が主流だったが、中期以降になるとロウソクによる提灯(ちょうちん)が増加し、光源の輝きが増量された。床机の上では芸妓の芸もあったが、落噺(おとしばな)しもたびたび披露されたという。ほとんど毎晩のように数千、いや万を数える老若男女が押し寄せにぎわったのである。期間は旧暦六月。最初に四条河原であり、のち祇園祭礼がすむと、糺河原に移った。約一ヵ月におよぶものであったが、そのにぎわいから多くの画題になっているものの、この伝統は現在も「鴨川の床(ゆか)」によって伝えられている。(「京阪水辺の遊宴」 森谷尅久 「酒宴のかたち」 玉村豊男編所収) 


多門院日記
-室町末期から江戸初期にわたって当時の醸造技術を伝えてくれるものとして『多門院日記』をあげることができる。これは、大乗院や一条院と同じように、奈良興福寺に所属する多門院の僧英俊らが記したもので、文明一〇年(一四七八)より筆をおこし、元和四年(一六一八)にまで及んでいて、戦国時代の社会経済に関する記述が多く、この時代の経済史を解明するうえできわめて貴重な資料である。-
それによれば、当時は旧暦の二月と九月の二回つくられ、それぞれ夏酒、正月酒と称されていたが、中世酒造業の主力は、むしろ夏酒にあったといわれる。またその醸造方法は酛造り・初添・中添・留添の三段掛法を採用している。そして夏酒では酛造りと初添の間に一五、六日より二〇日余の期間をおき、初添より中添の間は約一〇日間、留添は中添の翌日に行っている。酒あげは留添より約二〇日間を経過した後である。正月酒では酛造りと初添は約七、八日間をおいているが、初添・中添・留添は連日これを行っている。夏酒・正月酒において、醸造日数を異にしているのは、おそらく温度の差による発酵度の変化によるものであろう。ともあれ、この一六世紀半ばに、すでに三段掛法が行われていたことは。まず注目すべき清酒醸造技術の発展であったといえよう。(小野晃嗣著『日本産業発達史の研究』一七九頁) 酒を煮る 段掛け 


百薬の長ど受けたる薬酒のんでゆらゆらゆらぐ玉の緒 [万載狂歌集、から衣橘洲]
題、酒百薬長。長・丁度とかけ、「初春の初子のけふの玉はばき手にとるからにゆらぐ玉の緒」(萬葉集・家持)の末七を入れた歌。「百薬の長といわれる薬酒を、盃にたっぷり受けてのむと、命がゆらぐような酔心地である。」-悠揚迫らず酔中のおもむきをよんだ橘洲の佳作。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


龍力
清酒「龍力(たつりき)」の醸造元として知られる本多商店の先祖は、播州杜氏の総取締役として勤務していたとき、「本田君は播磨の出身だから鶴の一文字をあげるから播磨鶴という銘柄で地元で酒造業をしたらどうか」ということになり、現在の姫路市余部区上余部で酒造業を営むことになった。本田商店の創業者本田新二は次男であったので、分家し大正10(1970)年に姫路市網干区高田の現在の地で酒造業を始めた。(「株式会社 本田商店」 本田眞一郎 地域食材大百科第12巻) 


煙草の吸殻
それと同じ頃に大久保八右衛門といふ士(さむらひ)が住んでゐた。この男の下郎にひどく煙草の脂(やに)が好きなのがあつて、閑さへあれば、色々(いろん)な人から煙管(きせる)の脂を貰い集めて、それを碗に盛つて覆盆子(いちご)でも味はふやうに食べていた。それとよく肖(に)てゐるのは、松平大進(たいしん)といふ武士(さむらい)のやり方で、酒宴(さかもり)になると、極つて長蘿宇(ながらう)で、すぱりすぱりと煙草をふかし出す。そして煙草が半分ばかし燻(くゆ)つた頃を見計らつて、盃のなかにその吸殻を叩き込んで、ぐつと一息に煽飲(あふ)りつけるのだ。灰屋紹益(はいやじょうえき)が愛人吉野太夫の亡くなつた時、火葬にした灰を、その儘(まま)土に埋(うず)めるに忍びないからといつて、酒に浸してそつくり嚥(の)に下してしまつたのは名高い話だ。(「完本 茶話」 薄田泣菫) 


厚揚げの香味味噌焼き 山椒がピリッと香る
① 厚揚げを湯通しする。
② 厚揚げに砂糖と合わせた味噌を塗り、山椒をふりかけ、グリルなら弱火、オーブントースターなら5分ほど焼く。
③ 味噌の表面がほどよく焦げたら取り出し、盛りつける。
※味噌が焦げすぎないように注意!
※山椒の代わりに刻みネギやおろしニンニク、七味唐辛子や黒こしょうを使ってもおいしい!
Point1 湯通しは、酸化した油を流すための作業。ポットのお湯を使ってもいいのよ。新しい厚揚げならこの工程はいりません。
Point2 味噌はスプーンなどでのばして。甘口の味噌なら、砂糖なしでもいいかもしれないわ。(「R25酒肴道場」 荻原和歌) 


どざえもんのかわながれ、どぞお、どみち
どざえもん・の・かわながれ[土左衛門の川流れ](名詞)句 「上:夭、下:口 の」むだけ「上:夭、下:口 の」んで更に大いに食うこと。[←「上:夭、下:口 の」むほど「上:夭、下:口 の」んで杭(くい)に掛かっている](洒落言葉)(江戸)
どぞお1[土蔵]酒を造る店(俗語)(江戸)
どみち①飲酒。 ②汁の実。[←とみちの逆語かと思われるが、或はどみちの方が逆語かもしれない](強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


うっかりしていた裁判官のベスト
初代セント・レオナード卿(一七八一~一八七五)。彼は前イギリス大法官でしたが、ついうっかりして遺言状をどこかに置き忘れてしまい、彼が死んだ時には、遺志を書き記したものが何も残っていませんでした。彼の娘はまだ独身で、毎晩、ベッドに寝ている彼に遺言を読んであげるのが習慣でしたが、記憶力は父親ほどでなく、証人席で記憶に頼って遺言を暗誦した際にも、正しく言うことができませんでした。ところが弁護士は非常に頭の良い男だったので、かなり大きな音をたててコップの水を一杯飲みました。すると彼女は父が毎夜寝酒を飲んでいたのを思い出し、ついでに遺言の言葉を正確に思い出すことができたものですから、遺言検証を正しく行うことができたのです。(「ベスト・ワン事典」 ウィリアム・デイビス編 フェントン・ブレスラー) 


ちどりあし【千鳥足】
両脚を左右へ打違へて危なく歩く事の称。千鳥は前三指のみであるから、両足を打交へて走しり歩みが乱れるのである。酒に酔うた人、又は漸く歩き出した小児などの歩き方に云ふので、「新六帖」に『しほがれの難波の浦の千鳥足、踏みたがへたる道も耻かし』とある。
甘酒によばれ権蔵千鳥足 甘酒進じよの甘酒(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


ケイマーダ
燃えに燃えたのは、マドリードのケイマーダである。強い酒入りコーヒー。太ったコックが土鍋にザラメを山ほどいれて焦がしながら焼酎をザブリ。乱暴なのでこぼれて青く燃えだした。バタバタ叩いてまた注ぐ。またこぼれる。ついにテーブル掛が真赤に燃えひろがった。やっと彼は本腰になって消しとめてやり直し、熱いコーヒーを注いで持ってきた。たった一杯にこの材料と手間で、四百円!だがこれはトロリとうまく、どの高級ホテルにもない一期一会の味だった。(「酒は道づれ」 河竹登志夫) 


酒と宗教
酒の最も大きな得は、人間の心に寛容性を与へるといふことである。最も狭量な人間でさへが、酒を飲むと気が大きくなり、仇敵をさえも許す気になる。ピユーリタンの基督教徒が、人生や道徳について、病的に潔癖であり、少しの寛容性をも持たないのは、彼等が酒を飲まないことに原因してゐる。反対に酒が黙認されてゐる仏教徒は、すべての対蹠的なるものを、善悪一如として弁証論的に肯定するところの、その汎神論的な教養と共に、基督教に比して遙かに寛容性に富み、ヒステリカルの潔癖性を持つて居ない。その代わりに彼等は、酒を飲むことによつて、一層ひどく世俗化し、宗教人の純潔性を喪失して、狸和尚の俗物的苦労人になつてしまつている。(「個人と社会」 萩原朔太郎) 


西洋酒
小網町二弘明堂、尾張町清泉堂、南伝馬町大津屋が東方の三役、西方としては銀座三豊浦、同四丁目日野屋、南伝馬町二住吉屋、この外、雉子町に生松(せいしょう)堂などがあるが、近来名前の知れたものとしてはほとんど見当らない。(「五十年前」 東京日日新聞社社会部編) 


(第十一)一休山居し給ふ時にごり酒の問答の事
一休和尚山居しておはしませし時、したしく御出入申人御見まい申ける、折ふしにごり酒をまいりける所へ行かゝりければ、  山居して心すますと聞つるに にごり酒をばいかでのむらん  和尚其まゝ、  山居してのむべき物はにごり酒 とても浮世にすむ身でもなし  とあそばしける、(「一休関東咄」 近世文芸叢書) 


敵と舞踏す 7.26(夕)
仏蘭西の歩兵軍曹にジヤンといふ男がゐる。肝の太い、しつかりした、加之(おまけ)に教育のある男で、仏蘭西語と同様独逸語をも自由に操(あやつ)る事が出来た。一体語学が達者に出来るのは得なもので、、独逸のゲエテは他(よそ)の国の語(ことば)を一つ覚えるのは、やがて一つの世界を殖やすやうなものだと言つたかに覚えてゐる。世界を一つ殖(ふ)やすのも面白くない事はないが、それよりも真実(ほんとう)なのは、語学は一種の道楽で、これを習つておけば、自分の道楽心を満足させる色々の悪戯(いたづら)が出来るといふ事である。ある真夜なかの事、ジヤンは敵の偵察を言ひつかつて、独逸軍の塹壕から、漸(やつ)と十米突(メートル)ばかりの近間(ちかま)まで覗(うかが)ひ寄つた。すると何処かにこそこそ人の動く気配がしたので、ジヤンは蜥蜴(とかげ)のやうに地面(じべた)に腹をすりつけた。だしぬけに低い押し潰すやうな声で呼びかけるのが聞えた。耳をすますと、半熟(なまにえ)の仏蘭西語(ふらんすご)である。「おい、何だつて、そんなに静粛(ひつそり)してるんだい。僕は先刻(さつき)から君がやつて来るのを見てたんぢやないか。すると今地面に這ひ屈(かが)んだね。君を撃つと言やしまいし、僕はバヴァリヤ生れだよ。」「さうか、今晩は。」とジヤンは立派な独逸語で返事をした。「おいおい。」塹壕のなかからまた声が掛つた。「君は独逸語が喋舌(しやべ)れるんだね。一寸待つてくれ。今朋輩を起こして来るから。丁度今は士官が居ないから一等都合がいいんだよ。」ジヤンは幾らか心配な気もしたが、それでもじつと待つてゐる事にした。暫くすると、バヴァリア兵は独逸式の軍服と軍帽を持つて出て来た。そしてそれジヤンに被(き)せて、自分達の塹壕内に連れ込むだ。そこでは浴びる程うまい麦酒(ビール)を飲む事が出来た。ジヤンは酔つた紛れに変な腰つきをして舞踊(をどり)を踊つた。バヴァリア兵は低声(こごゑ)で歌を唱(うた)つた。いよいよお別れになると、彼等は色々な土産物をジヤンに呉れた。「今度またおいでよ。口笛で合図して呉れれば鉄砲なんか撃ちやしないよ。」彼等は十年の友達にでも別れるやうに言つた。「僕達はバヴァリア人だよ、仏蘭西は大好きなんだが、止むを得ず戦争(いくさ)してるんだからね。」(「完本 茶話」 薄田泣菫) 


おのづから酔ふ酒
飲み過ぎての失敗も多かったようで、そのたびに彼(山頭火)は自戒の念にかられながら、自分に言い聞かせるかのように、日記に次のようなことを記している。
酒は味ふべきものだ、うまい酒を飲むべきだ。 一、焼酎(火酒類)を飲まないこと 一、冷酒を呷(あお)らないこと 一、適量として三合以上飲まないこと 一、落ちついてしづかに、温めた淳良酒を小さい酒盃で飲むこと 一、微酔で止めて泥酔を避けること 一、気持ちの良い酒であること、おのづから酔ふ酒であること 一、後に残るやうは酒を飲まないこと(「酒を愛した山頭火の酒句集」 「夏子の酒 読本」) 


ヒナ留君
ふと見ると辻留の若主人ヒナ留君が坐っている。「こんな汽車駄目だよ、降りよう」といって説明したが、京都で仕込んだタネを今日中に東京へ運ばなければならない、という。見ると欲ばり婆さんの葛籠(つづら)みたいな荷物を三つも車内へ持込んでいる。じゃつき合おうと思って私もまたもとの席へ腰を下ろした。東京へ着いているはずの午後七時はとっくに過ぎている。それでも二人で食堂へ行ってハムサラダか何かでウイスキーの杯を重ねて気炎をあげているうちはまだよかった。二人は一と月前フランスの旅に同道し、ロアール河畔の古城を訪ね、パリで二三日飲み食いして来たばかりである。旅先で女房が外出から帰り、ホテルにいるはずの私が部屋にいないので、廊下でボーイに「うちの亭主(ムツシユウ・ジヤポネ)はどこにいる?」と聞くと、「ラ・バ」と答えてバーを指すので覗いて見ると、いつも二人で飲んでいたそうである。一応食堂を切りあげて車室に帰ってみると、通路も一ぱいである。渋滞した列車を間引くために、前のに乗っていた運の悪い客がこちらへ詰め込まれるのである。やがてヒナ留君は私の傍の通路に坐り込んで話しかけて来る。傍に婆さんが立っているので席を譲ってやったという。彼はそういう気のいい男だが、一つにはパリのホテルが柔らかくて寝心地が悪いので床の上へ寝ていたということもあるのだ。(「旅酒猟」 河上徹太郎) 新幹線が遅れたときの話だそうです。 


夏の天神祭
京から下って大坂にはいると、淀川は「大川」となり、大坂湾に突入する。この「大川」には「難波三橋」といわれた大橋が架かっていた。天満橋、天神橋、難波橋の三橋である。いずれも長さ二百メートルを超え、幅も五メートルから七メートルを超える大橋である。このあたりは一日数千艘が出入りするという、大混雑ぶりであったが、同時に春ともなれば、舟遊びに興じる人びとがあふれだしていた。ことに夏の天神祭の「船渡御(ふなとぎょ)」ともなれば、何万という人びとが両岸に押し寄せ、船を貸り切っての見物となった。もちろん、ただの見物ではない。新町(しんまち)の芸者衆をあげての諸芸つきの酒宴である。大川はまるで不夜城のように、熱踏にむせかえっていたのである。久須美某の『浪花の風』にはつぎのような記事がみえる。
遊船涼船抔(など)、屋形船を用ひ、弦歌等の催しにても、大小の太鼓は必ず用ひ、弦歌の一曲終りし処にて、太鼓を扣(たた)き立ること定例なり。ゆえに遊船、花見船抔にても、殊更かしましく、其上目立(ち)たる幕抔を張故、見馴れぬものは、一通りの遊船を看ても、川筋の祭礼にやと思はる事なり。(「京阪水辺の遊宴」 森谷尅久 「酒宴のかたち」玉村豊男編所収) 


済「眞頁」
むかし、中国では禅僧の殆んどは医者であったそうな。道士もまた医術を心得て、いかがわしい祈祷などして廻った記録がある。南宋時代の臨安(杭州)浄慈寺の済「眞頁」(さいてん)和尚などは、毎日、城内を治療して歩いている。何某丸というような薬も売り歩いている。売るといっても、和尚の場合は酒代にして、そこらじゅうで泥酔しているが、世にいう『西湖酔夢譚』『済顚道済語録』なるものは、殆んど医療伝法と托鉢の街座禅といってよい。(「心筋梗塞の前後」 水上勉) 


浄酒、粉酒、白酒
こうした酒は種類によって大幅な値段差があり、七六二(天平宝字六)年の資料では、米一升が約七文のときに浄酒(清酒?)一七文、粉酒一〇文、白酒一三文(天平宝字四年の造金堂所解(ぞうこんどうしょのげ)では五文)、古酒六文とあり、浄酒は米一升のじつに二・四倍もする高級酒であった。(関根真隆氏)。これに対し、値段の安い粉酒は近江の石山院の造営に関係した雇夫に、古酒は摂津国の役民に支給されるなど、"大衆酒"であった。もっとっも、有名な山上憶良の「貧窮問答歌」(『万葉集』五-八九二)にみる糟湯酒(かすゆざけ 酒糟を湯でよいたもの)も、糟一升の値段が米のそれと変わらないことをみれば、やはりぜいたくな品の一種といえるだろう。(「日本の古代 都城の生態」 岸俊男編) 


○ヲロシア女帝より漂流人送り届けの上使
アタム。キリロ。ウヰチ。ラクスマン
日本にて見れば山崎造酒時宗、父は久兵衛様と云がごとし 造酒時宗アタム 父は久兵衛様キリロウヰチ 山崎ラクスマン-
ピセナ 米   ハーリチヤ 喰物
ペリヤニカ 菓子  サハル 砂糖
ウイノ 酒  ホロシヨ 能い
ヒアレナ 酔  ホータ 悪い-(「甲子夜話続篇」 松浦静山) 酒はワインのことのようですね。 


酵母という名称
ここで一言お断りしておかなければならない。それは酵母にも二通りの使い分けがあることだ。一つは一般名称としての酵母、もう一つは特定名称としての酵母である。一般名称としての酵母は、分類学でいう六〇属、五〇〇種の微生物の総称である。分類学では、「酵母とはライフサイクルの大部分を単細胞で過ごし、主として出芽により増殖する真菌類」ということになる。しかし、本書で述べてきた酵母とは、一般名称を指すものではなかった。そのなかのただ一種、学名でいえばサッカロミセス・セレビジエ(Saccharomyses cerevisiae)のことである。この一種こそ人類に酒を与え、パンを恵んでくれた酵母であり、「酵母の中の酵母」である。だから、通常、単に酵母というときはこの一種を指していう。最近、ビールや清酒の宣伝などによく登場する酵母も、この一種のことだ。-
ところで、分類学でいう酵母とは、かなり雑多な集団である。たとえば、形態にしても無色で、楕円形のものだけでなく、赤色、黒色、黄色、レモン形、棒状、三角形など、さまざまな酵母がいる。デンプンやタンパク質を自ら消化して食べるもの、ペントース(五炭糖)類やメタノール、さらには石油まで食べるものまでいる。数は少ないが、病気やアレルギーを起こしたり植物病害の原因となるものもいる。酵母のことを英語ではYeast、フランス語ではRevure、ドイツ語ではHeheというが、これらはみな、「泡立ち」とか「突き上げ」を語源にしているらしい。酵母とは、本来、旺盛な発酵によって炭酸ガスの泡を出す微生物のはずだったのだ。つまり、酒を醸造しパンを膨らませる微生物に与えられた名称だったのだ。それが、分類学の体系化が進むにつれて、発泡しない微生物までが酵母の仲間に入れられ、いまやそれがほとんどを占めるまでになったのである。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


一一六 和尚と小僧との話(酒と餅)
昔々、或る所の寺に、一人の和尚と二人の小僧が住んで居りました。和尚は毎夜、小僧等の寝ましたあとで、酒の燗をつけ、餅を焼いて、さもうまさうに食べます。さうして酒の燗がつけば よかんよかん と言ひ、餅が焼くれば ぼてぼて と言ふを常として居ました。ところが或る夜のこと、二人の小僧は寝ながら其の様子を見て、どうかしてあの酒や餅を食ひたいものと頻(しき)りに考へた末、名をかへることになり、和尚の許しを得て、一人は上かん、一人はぼてと呼ぶことになりました。さうして其の夜も何時(いつ)もの通りに寝て居りますと、和尚は例の通り、酒のかんを付けて、上燗上燗 と言ひますと、小僧が はいはい、何の御用ですか と言つて、寝て居たのが起きて来ました。今度は餅がやけたので、ぼてぼて と言ひますと他の小僧がはいはい、なんの御用ですか と言つて起きて来ました。和尚は仕方なく、一人の小僧に酒を飲ませ、又一人の小僧には餅を食はせました。これから後は小僧にかくしてうまいものを一人で食べる事の出来なくなりました。(遠賀郡教育支会)(「福岡昔話集 全国昔話資料集成」 福岡県教育界編) 


北山酒経の乾燥酵母
もう一つ、泡を発酵を種とした記載が中国の古典にある。『北山酒経(ほくざんしゆけい)』(一一一六年)に「もろみの泡をすくって麹と混ぜ、乾かしておく(乾酵)。これを寒いとき行う仕込みに加えると(合酵)、必ず湧いてくる」とある。まさに乾燥酵母の利用である。顕微鏡のない時代に、酵母の存在を予知していたかのような記録である。(「日本酒」 秋山裕一) 


高知県
西原 私の出身の高知県はですね、日本で最初に断酒会ができた土地なんですよ。非常に飲酒に寛容な国でありまして、昼どころか朝から飲んでいる。漁師は朝に仕事が終わってしまうでしょ、だから昼には泥酔してそこらの溝(みぞ)でガーガー寝てるの。暖かいから死なないし。
吾妻 うちは北海道だから、同じことやったら、時期によっちゃあ即ルイベ、切ったらシャリシャリした感じになってしまう。
-では西原さんは、酔って倒れている人たちに慣れて育ってきた?
西原 高知はね、飲んだら泥酔しなきゃいけないんですよ。宴会で剛毅なことをすると人間の株が上がるんです。関西では"オモロイやつ"って人間として上でしょ。あれと同じなんですよ。東京の方って、お酒を嗜まれても上品でしょ。でも、高知ではすごく汚い飲み方をするんです。誰よりもはやく酔わなければいけない。だからうちの夫(鴨志田穣)が、昼から泥酔して寝ていても、それを普通の光景として私は眺めていたんです。それも長く病気に気づかなかった理由の一つかもしれませんね…。(「実録!アルコール白書」 西原理恵子・吾妻ひでお) 三ヵ月 


沽酒の禁
武家社会存立の指導的意識は道義の観念であった。この観念は武家法制の根底に横たわる思想である。過差の禁止、勤倹・礼節の厳守が式目に盛られて法制化されたのもここに発するのである。酒は抑制力を逸せしめ、節度・礼節を乱し、また武家をして困窮に陥らしむるに至るところもあるものである。従って道義の観念をもって武家社会統制維持の根幹と意識する鎌倉幕府首脳者の政策が、社会経済の推移に逆行して沽酒の禁を実施するに至るべきは自然の趨勢である。建長四年(1252)鎌倉の民家の酒壺を破却して沽酒を禁じ、また諸国の市酒を禁じたのを手始めとして(吾妻鏡建長四年九月卅日、十月十六日条)、爾来沽酒の禁は鎌倉幕府の伝統的政策となった。即ち文永元年(1264)には守護人並鎌倉地奉行に令し、「費麋尤甚」との理由をもって長く東国の沽酒を禁じ、また土「左:木右上:去、右下:皿」と称して筑紫より運送するところのものを禁じ(新編追加)、さらに弘安七年(1284)には越中・越後を初め諸国一同に(新御式目、新編追加)、同九年(1286)には遠江・佐渡両国に、また正応三年(1290)尾張に沽酒の禁の厳守を命じている。(新御式目)この種政策の実施は中世に於ける酒屋の普遍的発展には一つの大きな障碍であったことは肯定し得る。しかし一片の政令は経済的進化の歯車を逆転せしむべく余りにも無力である。幕府が沽酒の禁を繰り返して令したことは、政令の背後に酒屋の発達が顕著であったことを示すものである。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


二重人格者としての人生
酒飲み共の人生は、二重人格者としての人生である。平常素面(しらふ)で居る時には、謹厳無比である先生たちが、酔中では始末に終へない好色家になり、卑猥な本能獣に変つたりする。前の人格者はジーギル博士で、後の人格者はハイド氏である。そしてこの二人の人物は憎み合つている。ジーキルはハイドを殺さうとし、ハイドはジーギルを殺さうとする。醒めて酔中の自己を考へる時ほど、宇宙に醜悪な憎悪を感じさせるものはない。私がもし醒めてゐる時、酔つている時の自分と道に逢つたら、唾を吐きかけるどころでなく、動物的な嫌悪と憤怒に駆られて、直ちに撲り殺してしまふであらう。-
すべての酒飲みたちが願ふところは、酔中にしたところの自己の行為を、翌朝になつて記憶にとどめず、忘れてしまひたいといふ願望である。即ちハイドがジーギルにしたやうに自己の一方の人格が、他の一方の人格を抹殺して、記憶から喪失させてしまひたいのだ。しかしこのもっともな願望は、それが実現した場合を考へる時、非常に不安で気味悪く危険である。(「酒に就いて」 萩原朔太郎) 


血であってくれますように
あるスコットランド人が滅多にないウィスキーをフラスコに一杯もらい、ホクホクしながら夜道を急いだ。そのとき、突然車が猛烈なスピードでわきを通り抜け、彼はよけそこなって倒れてしまった。脚をしたたか痛め、ようようの思いで立ちあがると、びっこをひきながら家路についた。突然なにやら温かいものが脚を伝って流れるのに気づいた。「やれまあ、神様、どうか血であってくれますように」(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 「スコットランド人は、一般につつましいといわれる。悪い詞でいえばけちがだが、金銭に注意深いことは美徳である」とあります。 


さかほがひ      上田敏
一 阿古屋(あこや)の珠を
   溶きたる酒は
   のこさで酌まむ。
   ほせよさかづき
   ほせよ、ほせよ、觴(さかづき)。
   のめや、うたへや、
   うたへや、のめや。
   あゝ、おもしろ
   あゝ、おもしろの
   さかほがひ。
二 薫(かをり)はたかき
   さゆりの花は
   かざしにさゝむ。
   たをれ、かざしに、
   たをれ、たをれ、挿(かざし)頭に
   のめやうたへや、
   うたへや、のめや。
   あゝ、おもしろ、
   あゝ、おもしろの
   さかほがひ。
三 色さへ香(か)さへ
   妙(たへ)なるひとを
   あかずもこよひ
   みるが楽しさ、
   みるが、みるが楽しさ。
   のめや、うたへや、
   うたへや、のめや。
   あゝおもしろ。
   あゝおもしろの
   さかほがひ。(「上田敏詩集」) 


酒直千代伝法
前掲の『酒直千代伝法』には、次のように記されている。
一 火入は寒あけ百廿日、限れば百五日十日をかぎり、火いるれば、火の愁(うれい)又はあく味のぞくたよりあり、五月の湿気、六月の暑中かはり出るは、初火をくれ、二度火はやくきたる故なり、三十日または三十五日目入、三ツ火は六月下旬又は立秋に入留る。
一 秋春に不限(かぎらず)、なん時にても不造酒は、直に火を入てもつべし。
なお、正規の火入れ(通常、旧暦の五、六月)を待たずに、とくに腐敗が心配される酒の場合は、しぼりあげてまもない時期に、薄火(うすび)といって少し低い温度(四〇度前後)の火入れをすることもあった。
薄火とは夏の「上:夭、下:口」間(のむかん)程を言ふ也、是を密火(かくしび)とも言ふ也、是は煮中ヘ手を指入、釜の鍔際(つばぎわ)にて三篇四篇廻すに熱み応(たえる)程にもなく、或(あるい)は釜底にて応有の間(かん)也、足強き酒如斯(かくのごとく)入べし(『童蒙酒造記』)
また今日でも素焚(すだ)きといって、しぼりあげてまもなく、四〇度くらいで早期の火入れをするところもある。ただ、素焚きの目的は、殺菌よりも酒の熟成を早めることにあるようだ。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 


四歳のころ
四歳のころにアルコールをはじめて飲んだ。あまりに赤い顔をしてフラフラしていたので、てっきり病気だとおもわれ、ぼくは病院にかつぎこまれた。医者は首を傾(かし)げるばかり、熱はないが、息は荒々しい。看護婦さんが、甘く強い匂いがするぼくの息を嗅(か)ぎ、これはウィスキーボンボンをかなり食べたのでは、ということになった。胃を洗浄し病院で酔いを冷まして帰ってきたらしい。ぼくは北満州の牡丹江(ぼたんこう)に生まれ、六歳まで住んでいた。住んでいた街には、ロシア革命で逃れてきたロシア人がいた。そんなロシア人とのつき合いもあり、ウィスキーボンボンも手に入ったのだろう。(「世界ぐるっとほろ酔い紀行」 西川治) 


四日市酒楼見菊池五山題詩、戯賦    四日市の酒楼に菊池五山の題詩を見て、戯れに賦す。
駅道狭斜群黛鬟     駅道(えきどう)の狭斜(きょうしゃ) 黛鬟(たいかん)群(むら)がり
尋歓無夜不開顔     歓(かん)を尋ねて 夜として顔(かんばせ)を開かざる無し
花鈿籌酒還惆悵     花鈿(かでん) 酒を籌(かぞ)えて 還(ま)た惆悵(ちゅうちょう)
欠却題詩池五山     欠却(けっきゃく)す 詩を題するの 池五山(ちごさん)
宿場町の狭い裏町には、黒髪つややかなまげのおんなたちがひしめきあい、いとしい主(ぬし)さんを求めて、夜ごとに笑顔をふりまいている。花かんざしを数取りにして倒した銚子を数えていると、今までの陽気さがまたふさぎの虫に取りつかれた。それはここの壁にかきつけた菊池五山君が、この席に姿を見せないからだ。(「四日市酒楼見菊池五山題詩、戯賦」 頼山陽 注者 入谷仙介) 


居酒屋アルバイターの塩の使い方
東京・渋谷のNHKに勤めるK氏(三六)は、血圧が高く塩分を控えている身だが、<塩にはこんな使い方もあったのか>と、感心した事態に直面したのは、都心に激しい落雷があった七月の夜のことである。K氏は同僚三人と渋谷の居酒屋に入った。店内は二十代前半の若者でいっぱいで、話もよく聞きとれないほどの喧噪だった。「ほかの店へ移るのも面倒だし、三十分ほどできりあげるか」と、三人は出入口近くの席に陣取った。「こういうムードには、ついていけないねえ」などと話していると、脚長の若者が、口に手をあてて出入り口へと走ってきた。もどすためにトイレへ駆け込もうとしていたのだが、つっかけをはく直前、K氏のすぐ横のカーペットに吐き出してしまった。顔を見合わせて、うろたえるK氏らを尻目に、お店の学生ふうアルバイト君、「ああ、またやっちゃった」といいつつ、いきなり汚物に塩をまき始めたのである。一袋一キロの精製塩を一袋半、まんべんなく汚物にまぶしたところ、ヘドロのような汚物は完全に姿を消した。てきぱきと働くアルバイト君に感心しつつ、K氏らは酒を飲み続けたが、十分もすると、汚物はきれいに固まった。ちりとり代わりのトレイですくうと、汚物も悪臭も跡形無く片づいたのである。「若い客が多いでしょ。結構、多いんですよ、もどす奴が」といいつつ、アルバイト君、結局、汚物には一指も触れず処理してしまったのだった。(「デキゴトロジー」 週刊朝日風俗リサーチ特別局編著) 


江戸期酒造りの収支
酒づくりに占める米代については、宝暦から明和年間にかけて同じく近江出身の小野組『万歳帳』、享保十七年(一七三二)から宝暦四年(一七五四)にかけての井筒屋『勘定帳』を検討された宮本又次氏の研究があるが、支出中に米代が占める比率は七一~八五パーセント、また税金が八~一九パーセント、人件費を含む諸費用七~一一パーセント、残りが販売費で、いずれも人件費の額は大したものではない。一方、収入は酒のほかに副産物である酒粕と米糠(ぬか)の売り上げがある。それを合わせれば三百石規模の酒屋で、多い年には六百五十貫もの収益が上がるのだから、常に失敗して酒を腐らせる危険が伴いとはいえ、酒屋が儲かる商売であることは間違いない。それゆえに藩の財政危機ともなれば真っ先に目をつけられ、さまざまな名目で金をむしり取られることになる。たとえば日詰の井筒屋は、宝暦五~六年(一七五五~五六)の凶作に際して藩の物入りが莫大となったために、四百両もの「御役金銭」を上納している。(「江戸の酒」 吉田元) 1両を6,500文とすると、650貫は100両ということになりますね。 


さら川(15)
送別会明日は我が身の縄のれん 一五十五
昼行灯(ひるあんどん)赤提灯(あかちょうちん)で介護され 窓際父さん
リベンジと言えぬ上司のビールつぐ 千両主婦
転勤を飲み屋のママに教えられ 納得の行かぬ人
部下よりも礼儀正しい飲み屋の娘(こ) ショムニ課長
左遷地の地酒に口が合いはじめ 迷歩(「平成サラリーマン川柳傑作選」 山藤章二・尾藤三柳・第一生命 選) 


お盆の飯野村
外村政兵衛様ともご相談のうえ、一四日(明治元年1868七月)から元蔵は、戦火を避けて脇街道や山道を選び、荷物を江戸へ送り始めた。二本松領の外木幡村(東和町)の問屋へ通り荷の運上役銭を支払い、戻って飯野村(飯野町、旧幕領)升井屋に一泊した。盆会で、酒に酔った村人が大勢寄ってたんか[啖呵か]をするやら、おもしろい。宿へも近所の老婆たちが酔っ払って来て、たんかをしている。この辺りでは、男より女のほうが酒を多く飲むという。所変われば品変わるだ。一句出た。  ふつと出て 見ればこずへに 盆の月(「見聞日録」)(「幕末維新の民衆世界」 佐藤誠朗) 近江の商人・小杉元蔵の日記だそうです。当たり前ですが、旧盆ですね。 


チュ
北海道の道東、道北の海岸の漁師が、手慰みでつくり出したチュという、塩辛の一種がある。これは川へ上がってきたサケの肉と卵をとった後、腸も胃袋も一緒にトントンと刻み、麹で軽くつけたものだが、実に上品でうまい。サケの血管の大動脈を塩辛にしたのをメフンというが、メフンより臭くなくて、くどくなくて、端正な味がする。昨今ではビン詰めにしたものもあるらしいが、やはり本場で、本物をためすのがいい。(「知的な痴的な教養講座」 開高健) 


御府内濁酒作人規制(2)
濁酒手造、去る巳年(天保4年)以前より濁酒一方渡世(濁酒だけの商売)之者共ハ当分其儘(そのまま)ニ差置、午年(うまどし)○天保五年。已後より相始メ候もの、巳年已前より之もの共ニても片渡世有之候ものは、早々差止メ可申旨、当三○二。月十九日、於南御番所ニ仰渡之候処(おおせわたされそうろところ)、御支配御同役より右御申渡届行不申分も有之哉(とどけゆきもうさざるぶんもこれあるや)、可差止之内引続当時も渡世致居候ものも有之、又は相弛ミ(ゆるみ)此節渡世相始メ候ものも(にごり酒の販売を始めた者)有之由。早々支配名主より為差止申旨申通候様南御年番方御沙汰ニ付、御組合御支配限早々御差止メ可為候(おさしとめなさるべくそうろう)。此段御達申し候。以上。
六月十八日
当分 米掛り(「東京市稿産業篇第五十四」 東京都編) 二月十九日の規則はやはり守られていなかったようですね。八月十一日にも出ているようです。は注です。 


籠太にて
これをぜひ食べてくださいと、黒々と棘の濡れる大きな殻ウニが出た。福島県浜通りの松川でほんの一時期だけ採れるウニで、今がいちばんいい。「甘~い」ミホが甘い声を出す。それではと替えた酒「萬代芳(ばんだいほう)」(会津美里町)の「風が吹く」は文字通り風のような爽やかさ、新鮮きわまりない殻ウニにぴったりだ。しかし山里会津にはやはり地の逸品がある。代表が、身欠きニシンを山にいくらでもある木の芽山椒と漬けた「にしん山椒漬」で籠太(かごた)製はニシンの吟肌と身の赤の対比が美しい。藩政時代、木の芽の季節には新潟から若い娘が潮汲みの格好で天秤棒にニシンを担いで売りに来て、若侍が胸をときめかした。「みほちゃん、赤い蹴出しが似合うよ」ミホはまんざらでもなさそうだ。「こんど描かせてくれない?」「いいわよ」いずれ挿絵に登場するやも知らぬ。次の酒「国権」(南会津町)の「てふ(蝶)」はデリシャスで豪華。「白い蝶」を俳句に詠んだミホは気に入ったらしくうっとりとしている。これには会津坂下の日本一の馬刺しがいいだろう。赤身を特製のニンニク味噌で食べるのが会津流だ。(「居酒屋おくのほそ道」 太田和彦) 籠太は会津若松市栄町8-49にある居酒屋だそうです。ミホは同行の編集者です。 


金陵
製造元の故西野嘉右衛門さんは徳島小松島の人、天然藍を主としてつくる素封家であったが、いまはこれが化学染料に変わった。一方、酒造の方は、七代目が安永八年(一七七九年)阿波芝生で始められ、八代目が琴平の鶴田屋(はじめ鶴羽屋)で万治年間から始めた庫を買い入れて、寛政元年(一七八九年)六月三日から肩代わりして、作り始めたものである。店の人も技術者以外は徳島から派遣されていた。ちょうど関東などの江州店に似たものがある。先代の功労者、故鶴田順三さんは主人と同じ小松島の出、現支配人、目良茂さんは遠く南の牟岐出身である。いまは高松に本店をおき、広く酒類の販売も兼ねている。多度津新庫は広大な地の利を生かし、思い切った近代的設備で醸造を行っている。頼山陽が琴平曽遊のとき、中国の故都金陵(南京)に似ていることから、琴平を金陵と呼んだのに因んだ酒銘である。(「さけ風土記」 山田正一) こんぴらさんの御神酒がキャッチフレーズのようです。香川県仲多度郡琴平町623。 


駱駝倶楽部
それはまだ私が、盛んに暴れ酒をやつてゐる時代、よく横浜の関内あたりにも飲みに出懸けて往つたものだが、或る日某所に集つたのは、さつきも云つた田島淳君と(中村)秋湖君、それに赤ちやんと云ふ不思議な人物、私を加へて都合四人で、迎え酒をちびりちびりやつてゐるうちに、如何した話のきつかけからか、これからひとつ「升」の家を襲つてやらうと云ふことになつた。「升」と云ふのは、土地の幇間桜川升八のことで、桜川慈悲成の子孫と称する文学青年である。座敷で会ふと、久米さんが如何のと、豊富なる文壇的知識を披瀝した後で、「先生のところの滋さんは、今年四歳におなりですね」などと云つて、子供の名前や、年まで覚えてゐようと云ふ男なのである。「よからう。一つ不意に乗り込んで脅かしてやらう」と云ふことに相談一決。それから程遠くない「升」の家へ出懸けて往つた。が、往つて見ると生憎(あいにく)留守で、玄関の格子戸に堅く鍵が懸かつてゐたが、そんなことにひるむやうな連中ではなく、先ヅ赤ちやんが台所口の障子を外すと、そこからどやどやと家の中へ雪崩(なだ)れ込んだ。「こんな時にゐねえなんて、升の奴はよくよく運の悪いやつだよ。」などと云ひながら、茶の間にとぐろを巻いてゐると、赤ちやんが何処からか探し出して来たのは、朱鞘の大小と侍の鬘(かつら)。「こりやいいものがある。これを冠つてこれを差して、升八の跡へ引越して来ましたと云つて、近所へ挨拶に廻らうぢやないか」と、誰かが思ひ付いて云ひ出したので、早速下駄箱の中の板を外して、そてに秋湖君が達筆で、書きも書いたり「駱駝倶楽部。」これを表に懸けて、蕎麦屋から切手を取り寄せると、赤ちやんと秋湖君は、近所の芸者屋などに引越の挨拶に廻り、私と田島君は家に残つてゐたが、そのうち田島君は何と思つたか、さつき赤ちやんの外した台所の障子に墨黒々と、「恋しくばたづね来て見よ、信田の森のうらみ葛の葉」と、書きなぐつたものであつた。何しろ根が文学青年で、仕方なしに幇間をやつてゐると云ふやうな、洒落(しやれ)の分らない升八のことだから、近所の芸者家からの知らせの電話を聴いて、駆け付けた時の怒りやうと云つたらなかつた。秋湖君を思ふと、私の目には、「駱駝倶楽部」なる五つの文字が、墨痕淋漓として現はれて来る。(「酒客列伝」 吉井勇) 


麹、麹のはな外
こうじ(麹)(本)はな(愛知県知多郡)。
【麹のはな】(本)おげ(愛媛県大三島)。
【麹を醤油で掻いて一昼夜ばかり置いた物】(本)しょいのみ(長野県下伊那郡)。
【麹などの温気】(本)いき(鹿児島県肝属郡)。
【麹などをいれる浅い箱】(補)ろじ。
【麹室の壁間につめるわら等】(本)ふんごみ(新潟県頸城地方)。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録) 


中汲、一寸一杯、いも酒
中汲  二葉丁和田屋 スキヤカシ宇山 西コンヤ丁和田屋 六間堀三河屋
一寸一杯  京ハシ山崎 本郷いつくら横丁三うらや 小石川春日町いせや 人形丁うちだ 米沢丁四方
いも酒  トシマ丁鬼熊 カンタコンヤ丁カネイ  オヤチハシ山形 四谷?市 青山クボ丁山三いせや (「江戸五高昇薫」 嘉永五年) 人形町玉秀にありました。 


あいつら、肥ってやがるなあ
戦後派という言葉が出来た頃、いわゆる戦後派の人たち、あるいは近代文学派の人たちは、あまり酒類を愛好しなかったようだ。(今はそうでもない。)椎名麟三は、今は大酒を飲むようであるが、私が知りあったその頃は、全然飲まなかった。野間宏も瘠せていた。何の会合の流れだったか記憶にないが、そこらでいっぱいやろうというわけで、椎名、野間、埴谷雄高その他二三名で、新宿のある飲屋に入ったところ、先客が五六人いて、河盛好蔵、井伏鱒二、その他中央線在住の作家評論家が、ずらりと並んでカストリか何かを飲んでいた。私たちはその傍で、一杯ずつぐらい飲み、すぐに飛び出して他の店に行った。他の店に行って、異口同音に発したのは、「あいつら、肥ってやがるなあ」という意味の嘆声であった。それほどさように、当時の戦後派の肉体は、やせ衰えていて、彼等のボリュームに完全に圧倒されたのである。私は今、当時の野間や椎名の身体や風貌を思い出そうとしてもうまく思い出せないのであるが、その時の皆の嘆声だけは、ありありと思い出すことが出来る。それから十年経った今はどうであるか。十年の間にこちらの肉体はずいぶんふくらんで、野間、椎名、武田泰淳、中村真一郎と並べてみても、堂々たる体格ぞろいで、中央線沿線をはるかにしのぐだろう。今思うと、あの時の中央線沿線にしても、私たちの眼から見たからこそ肥っているように見えたので、その実はそれほどでもなかったのだろう。中肉中背か、それ以下だったかも知れない。とにかくあの頃は、肥っているといういうことはうしろめたいことであり、あるいは悪徳ですらあった。新聞の投書欄か何かで、外食券食堂の女中さんが肥っているのはけしからぬ、という意味の記事を読んだ記憶がある。肥ったって瘠せたって、当人の勝手である筈であるが、それがそうでなかったということは、いつまでも記憶されていい。(「悪酒の時代」 梅崎春生) 


御府内濁酒作人規制
御府内(江戸市中)濁酒作人、新規之分は勿論、都て(すべて)去巳年(みどし)○天保四年。以後之分は差止メ、巳年以前より之分迚(のぶんとて)も外商売有レ之ものは(濁酒販売以外の商売をしている者)全渡世ニ相離レ候筋も無之間 是又差止メ、巳年以前より濁酒一式之稼方致候者共は先其儘差置(まずそのままさしおき)、追て米価下直(値段が下がる)ニ相成 格別難儀ニ不及時節ニ至り候ハゝ右之分も差止メ、尤当時迚も是迄之作高より可成丈(なるべきだけ)相減候様(あいげんじそうろうよう)可致旨(いたすべきむね)、米方当分懸名主共えも申合、此もの共より銘々組合名主月行事(がちぎょうじ)共え申通、不行届之儀(ふゆきとどきのぎ)無之様(これなきよう)可致。
  米方当分掛り 名主
右之通申渡間、此もの共より先達て取調差出候濁酒手作稼之もの共 名前等夫々世話懸り名主共え申合、右申渡之通 相心得不行届之儀無之様可致。右之通被仰渡(おおせわたされ)奉畏候(かしこみたてまつりそうろう)。為後日(ごじつのために)仍如件(よってくだんのごとし)。
天保九戌年二月十九日(「東京市稿産業篇第五十四」 東京都編) 天保四年以前からにごり酒のみを販売していた者のみ量を減少させて販売できるようにしたおふれのようですね。米価が下落した時はそれも差し止めるとなっています。江戸でも濁り酒が売られていたことがわかりますね。は注です。 


万太郎の酒句
ほのぼのと酔つて来りぬ木の葉髪(流寓抄以後)
老残のおでんの酒にかく溺れ(流寓抄以後)
年々の酔ひどれ禮者待つほどに(流寓抄以後)
酒やめて酒の功徳の餘寒かな(流寓抄以後)
猫柳酒あッさりと止められし(流寓抄以後)(久保田万太郎全集) 


ああ我れ誤まてり
摂津の国の坊さん、檀家から貰った餅を一人でしまい込んでいた。細君がこれを見つけて、「カビが生えてしまうから酒を造ったら…」ともちかけ、壺の中へ酒を仕込んだ。しばらくたって「もう熟したろう」と考え、酒壺を覗くと、なんと、大小十数匹の蛇がとぐろを巻いているのである。さすが強欲の和尚も驚いて、人知れず山の中ヘ壺ごと捨ててしまった。それから数日たった日、山へ行った村の男三人が、その壺を見つけた 。一人がふたを取ってみると、酒の匂いがする。酒好きのこの男、二人が止めるのもきかず、腰の水飲みをだして一息ぐっと飲んでみた。とても旨い酒である。これを見た、二人は急に飲みたくなって、「毒酒で一人だけ殺して村へ帰るのも申しわけない」と次の一人も飲み始めた。三番目の男は正直者で「そう見せつけられたんじゃたまんねえ」ということで、三人は車座になって飲み、残りは村へ持って帰った。後日、この話を聞いた和尚は「ああ我れ誤まてり」と己の非を悟り、善根を積んだという…。因みに、蛇は酒を好み、蛇取りは、少量の酒を樽に入れ、山野におき、蛇が無数に樽に入ったところを捕らえるということである。(「酒鑑」 芝田晩成) 


鱈の白子
鮭の頭はもうこりたという向きには、そうだ、鱈の白子が安いではないか。百グラム三十五円を二百グラムきばる。煮つけかチリにもおいしいかもしれないが、今日は酒のサカナらしく、少しばかり高級にゆこう。二百グラムの白子をさっと水洗いしてドンブリに入れ、ニンニク、ショウガをおろしこんで、食塩をちょっと入れる。その上に、根深のネギを一、二本縦割りにしてならべ、もったいないような気もするが、お酒を少々ふりかける。さて、そのまま三、四十分蒸し器に入れて蒸しあげれば、真っ白に仕立て上がった極上の酒のサカナができ上がるだろう。少しずつ、切っては皿にだし、あとを冷蔵庫に格納しておけば、三、四日分の酒のサカナには充分なる。しかしまあ、太っ腹のところを見せて、妻君にもお裾分けとゆこう。一日でなくなったて、これは妻君が補充してくれることは、請け合いだ。(「わが百味真髄」 檀一雄) 酒と肴の相性 鱈の料理 


火の車と学校
草野心平さんは、はじめ水道橋のそばに、「火の車」という酒場を開いた。「火の車としておけば、税金をとりに来ないでしょう」その後、新宿御苑の近くに、「学校」という店を持った。「学校としておけば、家の人が安心して、来させてくれるでしょう」(「ちょっといい話」 戸板康二) 火の車 


7 小使役トミハセ
一家はまことに睦まじく暮らしていたが、五、六年ほど前に、父母とも亡くなってしまった。トミハセは、それ以来、すっかり力を落として、朝に夕に父母の墓へ行き、たださめざめと涙を流しては、なにごとか語りかけていたという。また、交易所に勤めている間は、朝夕に山の方ヘ向かっては、なにごとか言っているので、アイヌたちはふしぎがり、「おまへな、朝夕、なにを言っているのか」とトミハセにたずねた。トミハセは「別にどうということもない。今日は寒かった、今日は暖かかった、なんの仕事をした、どこへ行った、いま帰ってきたなどと、いちいち親に知らせているだけさ」と答えた。このため、たずねたアイヌたちは、彼の孝心に感動して、なにも言えなかったという。私はこのことを、去年、雨竜から増毛(マシケ)の信沙(ヌフシャ)というところへ越える際、トミハセを案内につれて行ったとき、他のアイヌから聞いたのだが、まだ、そのときは半信半疑であった。ところが、今年の五月、私が石狩に行ったとき、トミハセはチタラヤ(美しい模様を織り出した花むしろ。神酒を飲むときに用いる)一枚を持参して、去年、いろいろと手当をもらった礼を述べるのであった。そこで私も彼の誠実さに感心して、今回の調査にも案内して立ってくれるように頼んで引き受けてもらった。そして「みやげには酒を一升あげたいが、その酒は、ここで渡そうか、それとも大樽に入れて山に持参し、向こうに着いてから渡すのがよいか」とたずねた。するとトミハセは「それでしたら、山へ行ってからもらいたい」と答えるので、そのわけを問うたところ「山でもらえば、すぐに親の墓へ持って行けるから」といった。私が「それより、少しでも早く受け取って飲んだほうがよいだろうに」とからかったところ、彼は黙って、返事もせずに立ち去ったのであった。さて、私たちが山を越えて徳富に着いたので、約束どおり一升の酒を与えたところ、トミハセは、ただちにこれを父母の墓前に持参して供え、自分でも飲みもして、まことにうれしそうに拝んでから持ち帰った。そして、隣家のイレンカシ老人と叔父のイコレフなどを招いてこの酒を振舞い、これは私からもらったものであることを、すこぶるていねいに説明しては勧めていた。(「アイヌ人物誌」 松浦武四郎 更科源蔵・吉田豊 訳) 「蝦夷地の各漁場には、それぞれ酋長(おとな)、小使(こづかい)、土産取(みやげとり)という役のアイヌがい」たのだそうです。 


パブ(2)
パブといえば、イギリス人の社交の場として有名である。正式名称はpublic house。イギリスでも略してパブと呼ばれる。このパブは、現在では単に人々が集まって酒を飲み、話に興ずるだけの場所であるが、19世紀まではさまざまな役割を果たしていた。そのひとつが、教会としての機能。日曜学校や教会の会合がパブでおこなわれることもしばしばあり、お固い牧師さんですら、パブでビールを飲むことを勧めていた。パブはまた、職業安定所も兼ねていた。職探しの人々がパブにやってきて、酒場のママさんから仕事のあっせんを受けるのだ。賃金は銀貨で支払われるが、ジンの現物支給もあったそうだ。もっとも、銀貨をもらっても、その場で酒に換わってしまうことが多いのだから、同じようなものだったのだろう。しかし、このジンで賃金を払う方法は、1736年に法令で禁止されてしまった。(「ENGLISH 無用の雑学知識」 ロム・インターナショナル編) パブと教会 パブ 


腐ったものが368点
明治30年代前半の税務監督局データによれば調査対象801点のお酒のうち、まともなものが433点、腐ったものが368点とあります。これでは取れる酒税も取れなくなって当たり前、酒質の改善は緊急の課題だったのです。明治37年(1904)にできた醸造試験所は、この酒質向上を図るために作られたのです。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


淫祠
江東(揚子江下流の左岸一帯)の村落には、ところどころに廟(やしろ)がある。はじめは巫祝(みこ)どもが縁起をかつぎ出して、怪しげな霊験譚を作り出したのを、次第に村民が信心しはじめて、村じゅうで廟を営み、あちこちに建ちだしたのである。ある悪党が、そんなのはでたらめだとばかり、とある日の夕暮に、一杯ひっかけて廟にはいりこみ、さんざんに悪態を吐き散らした。巫祝たちはびっくり仰天、どうしたらいいか分からない。そこで集まって相談した。「われらはこの廟のために、たいへんな造作(ぞうさ)をかけた。もしあの男にしてやられたら、その話が遠近に伝わって、われらは形(かた)なしになる。」そこで夜を待って、うち揃って男のところへ出かけ、一切を打ち明けた。「われらの内情は、もう先刻ご承知の通り。もしも、われらの計らいを叶えてくだされば、十万銭のお礼をいたしましょう。」その悪党は大喜びで、「どうすりゃよいのだ」と尋ねる。そこで策を授けていうには、「そなたは明日早朝、また廟にはいりこんで、前と同じように悪態をつき、中にある酒の供物もみんな平らげなされ。そのあと直ぐに、枷(かせ)をはめられたようなふりをして、神に哀れみを乞(こ)うてくだされ。それで、われらの計らいは実を結ぶことになる。では、先に半額だけお払いしよう」その男は承知して、金を受け取った。翌朝、彼はまたもや廟の境内にやって来ると、上半身はだかになってわめき散らし、悪口雑言の限りを尽くして、とても聞くに堪えないありさま。廟の近辺の村民たちはびっくり仰天して、見物人が引きも切らず集まって来た。その悪党は、神像の前に並べてある供物に目をつけると、すぐさまお供えの酒をすっかり飲み尽くし、はては食べものまで、一つ残らず平らげてしまった。まもなく彼は体を前屈(かが)みにして、あたかも縛られているような様子になり、頭を地に打ちつけて罪をわび始めた。とたんに、黒い血がどっと口から吹き出し、体じゅうの穴からも流れだして、そのまま地に倒れて死に絶えた。村民たちはますます恐れかしこんだ。この話はその日のうちに隣郡へ伝わって、お祈りに来る者は雲のように集まった。廟の荘厳(しょうごん)はすばらしく美々しいものになり、巫祝たちの収入(みいり)は数えきれぬほどであった。それから数か月あと、例の悪党の仲間が、金の分配でいざこざを起こして、郡の役所へ出頭し、実はあの巫祝どもが毒を酒に仕込んで男を殺したのだと告訴に及んだ。引っ捕らえて調べた結果、みな罪を白状した。かくて首謀者は死刑となり、ほかの者は諸郡の徒刑場送りとなった。このあと廟の霊験は絶えてしまったのである。(巻十)(「梁𧮾漫志」 費兗(こん) 入矢義高訳 宋代随筆選 中国古典文学大系) 


方言の酒色々(16)
薄い酒 ごぜの小便
薄めていない酒 おり/げんしざけ
濁りのない酒 すみざけ/すみだけ/すむざけ/そみざけ
薩摩芋から造った酒 んむざき
いろりの灰の中に入れて酒を温める道具 いやし/えぶりがれ/ぎゃっと(日本方言大辞典 小学館) 


アルコール代謝
消化管から吸収されたアルコールは、門脈を経て肝臓に運ばれ、そこで代謝されるが、肝臓におけるアルコール代謝には、①アルコール脱水素酵素系、②ミクロソームエタノール酸化系、③カタラーゼ系の3経路がある.平常状態ではアルコール脱水素酵素系が全アルコール代謝の75%を、ミクロソーム酸化系が25%を担っており、カタラーゼ系の関与はほとんどないと考えられている.しかし、長期の飲酒によってミクロソームエタノール酸化系の酵素が誘導され、これによる代謝が50%を超えるようになる★5.
★5 ミクロソームエタノール酸化系の律速酵素は薬物代謝に関与するシトクロムP-450の一分子種の2E1であるが、この酵素は慢性飲酒により誘導される.アルコール脱水素酵素ではこのような現象は起こらず、慢性飲酒状態でもその代謝量に変化はない.いわゆる"飲みあがり"現象(お酒に弱い人が飲めるようになること)は、このP-450 2E1が誘導されることにより、より多くのアルコール代謝が可能になることが一因となっている.(看護のための最新医学講座5 日野原重明・北村聖 監修) ADHとALDH 


敏捷型と緩慢型
この酔つぱらいの状態に達すると、殆んどすべてのものがやたらに動きたがるものであつて、その行動の型を幾つかにわけることができるが、まず大ざつぱに二つの型、敏捷型と緩慢型にわけることができよう。武田泰淳は敏捷型の代表であって、知りあった戦後すぐの頃、一緒にのんでいる裡にあつと思うまに忽然と何処かへ消えてしまうことが屡々あつた。いなくなつたと思つていると、その消失期間に、付近で映画を観てきたりしているのであるから、深く酔つぱらつている訳ではない。つまり外向的な酔つぱらいの状態へ一歩踏みこんで動きたくなつた頃の最初の瞬間にはもはや彼は立ち上がつているのである。(「酒と戦後派」 埴谷雄高) 酔いの経過17に続く部分です。 


飲め、さもなければ出て行け
【意味】仲間の流儀に従えないものは抜けるがよいの意。
【解説】これはギリシアの法律から出たものである。ギリシアは小さな都市国家の集まりであったが、その国家を形成する少数の貴族は神々の祭りの日には広場に食卓をならべて神をたたえる宴会を開いた。その場合三人の当番が宴を司会したが、その命令どおりに酒を飲まないものは「飲め、さもなければ出て行け」といって追い出された。酒を飲むことが神をたたえることであったからだ。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助) 


大田南畝の狂歌
月前風
酔ざめの心もつきの椽さきに風のかけたるひとえ物かな(万載狂歌集)

浅草の酒家うかむ瀬といへるたかどのにて鮑の貝の大なる盃にて酒すゝめければ
生酔とわらはゞわらへ味酒のみをすててこそうかむ瀬の貝(徳和歌後万載集)

達磨
九年酒のつまり肴の座禅豆外に本来一物もなし(千紅万紫)(「大田南畝全集」) 浮瀬は難波の本家ではないようですね。 


高木健夫(たかぎ・たけお)
明治三十八年十二月生れ。福井出身。中国の北京法文学堂で学んだ大陸育ち。国民新聞を振出しに記者生活に入り、読売、大毎等を転々として昭和十年読売新聞新京支局長となり本社社会部次長を経て大新京日報、北京の東亜新報取締役主筆となった。新聞記者多しといえど彼のように内地と大陸を"時計の振子"のように往き来したものはないといっていゝだろう。戦後読売新聞に返り咲いて、論説委員、読売ウィークリー編集部長、出版局次長兼論説委員として『編集手帳』を書いている。斗酒なお辞せず、人のいゝ点、大陸的性格躍如たるものあり。『北京横丁』『北京百景』『生きている日本史』などで売り出し、最近はラジオでも活躍している。(目黒区大岡山二二三七)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。 

たんで山の兎と狸
兎は狸が水食(くら)いしているところをかいで打ち殺し、その狸をひっかついで百姓家へきて、がぎどァ(子供たち)遊んでいる処へ行き、鍋を借りて狸汁を煮て、おっぱら、さっぱら食って、子供たちにも食わせて、残りは婆どさ食(か)へろといった。そうして、兎が「んがど(お前達)家(え)で酒イ造ってねェど」ときくと、子供たちは「糠もり(もみがら置場)さ造っている」と答えた。そこで兎はそこへ行って、おっぱら、さっぱら飲んで寝てしまった。婆さま達が家へ帰ってくると、子どもたちが「誰だかっしコ汁(鹿汁)煮で食って、酒飲んでる」と教えたので、婆さまも糠もりさ行ってみたら、兎が酔って寝ていた。そこで婆さまは兎の尾をぴたっと捕えて、「かァー、こんじ(子どもの愛称)鉈持って来(こ)う」と叫んだら、こんじは篦(へら)をもって来たので、「えややァ、わがねェ奴だ、カァーんが押(おせ)えでいろ」と、こんじに兎を押えさせておいて、婆さまは自分で鉈を取りに立って行った。その間に兎はこうじさ向って、「んがの家(え)のてで(父)のきん玉ァどれ位ぐれィだけァ」とたずねるので、こんじは手を放して、「これ位だ」と手の仕草でみせたので、兎はその隙にぶんぐと跳ねて逃げようとしたので、婆さまは鉈を兎に投げつけると、それが尾っぽさ当って切れ、それで兎はごんぼ(短く)になったという。どっとはらい。(三戸郡五戸町の話 採話・能田多代子)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) この話の前半は、かちかちやまの形です。 


うまいビールよりよく売れるビール[英]
 人間の中身や実力といった真価よりも、名声のほうがものを言うことのたとえ。Better good sale than good ale.
他人のビールで婚礼する[ウクライナ](人の牛蒡(ごぼう)で法事する)
 自分で当然しなければならないことをするのに、他人のものを使ってすることのたとえ。「他人のピロシキで父親の供養」ともいう。
ビールは飲み干すもの、話をすっかり言うもの[チェコ]
若いビールは樽の栓をはじく[チェコ・スロバキア](「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


高田なるするがやといへる茶みせにて田楽くひけるに、とかう娘のもてなしければ
するが屋のふじな客にも盃のあいさうはよきでんかくや姫[万載狂歌集、芦葉]
駿河の縁語で、ふじとかぐや姫をいれたのである。「するが屋では不時の客に対しても、すぐに盃を出し、田楽屋の娘の愛想のよさは昔のかぐや姫を思わせるばかりだ。」高田の馬場の辺は江戸人の散歩地帯だったのである。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


四万二千円
先日も、柳家小さん師匠に空港でバッタリお逢いした。知人の娘さんが銀座でバーを開店した。一度は顔を出さなければと思っていたが、なかなか忙しくてゆけない。寄席の"とり"にまわった或る日、挨拶がてらに立ち寄った。時間もなかったので、ウィスキーの水割りを一杯だけ飲んだ。両隣に整形した女性が坐り、ジュース一杯ずつ飲む。ハムやらカマボコのつまみが出た。なんいも手をつけず「お勘定」を頼んだところ、なんと四万二千円とある。なにかの間違いではないかと、念を押してみたが、四千二百円ではない。思わず財布を押さえ、お金があったかなあ…恐る恐る中味を見たら五万円入っていたので、きっちり支払ってバーを飛び出した、とおっしゃる。一体どういう計算で、こんなべら棒な勘定がとれるのだろうか。非常に景気の良かった頃、銀座では水割り一杯を一万円から一万五千円ぐらいふんだくっていた。大企業や関連する企業の接待費として、じゃんじゃん伝票が切られたのである。つまり銀座では身銭を切って飲むお客はまるで相手にしないで、社用賊さまさまだったわけ。社用族とは書かない。あえて賊と書く。(「あまからぴん」 佐々木久子) 昭和62年の出版です。 


イサクその子を祝す
一八ヤコブはその父の所へやって来て、「お父さん」と言う。イサクは答えて、「ここにいるよ、お前は誰だ、わが子よ」と言った。一九ヤコブはその父に答えた、「わたしはあなたの長子エウサです。わたしはあなたがおっしゃった通りに致しました。さあ、おすわり下さって、わたしが捕ってきた獲物を召し上がって下さい。あなたの魂がわたしを祝して下さるために」。二〇イサクはその子に言った、「どうしてこんなに早く見つけて来たのか、わが子よ」。ヤコブは、「あなたの神ヤハウェがわたしのために備えて下さったのです」と答えた。二一イサクがヤコブに言う、「近くへ寄っておくれ。お前が本当にわが子エサウであるかどうかお前にさわらせておくれ、わが子よ」。二二そこでヤコブはその父イサクに近づいた。イサクはヤコブにさわって見て言った。「声はヤコブの声だが手はエサウの手だ」。二三イサクはヤコブであることを見破ることが出来なかった。その手が兄エサウの手のように毛深かったからである。[こうしてイサクはヤコブを祝福するに至った、]二四イサクは言った、「お前は本当にわが子エサウであるか」。すると、「そうです」と答える。二五イサクが言うには、「わしの所へ持って来ておくれ。わしにわが子の獲物から食べさせておくれ。わしの魂がお前を祝福せんために」。ヤコブが持ってくるとイサクは食べた。ヤコブが酒を持ってくるとそれを飲んだ。二六父イサクはヤコブに言った、「わたしに近づいて、わたしに接吻してくれ、わが子よ」。二七そこでヤコブは近づいてイサクに接吻した。イサクはその着物の香を嗅いでヤコブを祝して言った、「見よ、わが子の香(かおり)は ヤハウェの祝し給うた野の香のようだ。 二八神、君に天の露と 地の肥えたる所と 豊かな穀物と酒を与え給え。 二九もろもろの族(やから)は君にぬかずく。 君はその兄弟らの主となれ。 君の母の子らは君にぬかずく。 君を詛う者は詛われ 君を祝する者は祝される」。(「旧約聖書 創世記」 関根正雄訳) 


○酒
源氏物語常夏巻=(六條殿釣殿ニ大殿ノ公達ノ来リシ処)さうざうしくねふりたかりつるをり、よくものし給へるかなとて おほみきまゐりひみづめしてすゐはんなととりとりにさうどきつゝくふ
同若菜巻上=(源氏四十賀)御かはらけくだり若菜の御あつ物まゐる 御まへにはちんのかけばんよつおほんつき((細)御器(師)さらなどの類なり)どもなつかしくいまめきたる程に云々
同=御使にも女房してかはらけさし出させ給てしひさせ給(朱雀の御使へ紫より酒のませ給也)
同=さるべきからものはかりて御かはらけまゐる
同賢木巻=中将御かはらけまゐり給ふ(歌略)ほほゑみてとりたまふ(源氏盃を也)-(「飲食考」 正岡子規) 


秋鹿
「秋鹿」には、たっぷりとした旨味と、しっかりとした酸がある。お酒だけを単独で飲むと、やや酸が立っているように感じることもある。ところが肉料理と合わせると、酸っぱさは姿を消し、豊かな旨味を堪能した後には、口に残った肉の脂がスパッとクリアに消える。マジックのようだ。これほど料理の油脂をシャープに切る日本酒は珍しい。日本酒を敬遠する人は、飲んだ後にベタベタとして、口に甘味が残る感じが苦手だという。確かに、他の酒の後味はというと、ビールは苦みでサッパリするし、蒸留酒である焼酎は旨味成分が0に近いためスッキリする。赤ワインではタンニンが、白ワインは酸が脂分を切るので、料理を食べた後に口に残る感触はない。しかし日本酒はそれ自体、米や麹に由来するソフトな甘味や奥行きある旨味をたっぷり含んでいるので、肉や揚げ物など油脂の多い料理と合わせると、酒と油脂の相乗効果で旨さは爆発するが、味を切る要素が少ないため、飲んだ後にも脂分や旨味が残り、もったりと重く感じてしまうのだ。「秋鹿」は、米の酒ならではの豊富な旨味がありながら、日本酒らしからぬクリアな切れを持つ、希有な存在なのだ。(「極上の酒を生む土と人 大地を醸す」 山同敦子) 「秋鹿」は大阪府能勢町で造られる酒です。「醸し人 九平次」も同様のタイプの酒のようです。 


つたいぼお、つぼ、てっぺん、てんや、とくりなげ
つたいぼお[伝い坊] よっぱらい。(京都-強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
つぼ5[壺] 酒一升。(大工言葉)(明治)
てっぺん[天辺] 悪い酒。焼酎。[←あたま(=てっぺん)へ来る]→あたぴん。(駿河-強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)
てんや ①居酒屋。飲み屋。 ②盗んだ品物の運搬。(強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
とくりなげ[徳利投げ](相撲で)首投げの一種。《両手で相手の首を押さえて左右どちらかへ投げる》(相撲用語)(明治)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


二、大塚地黄坊樽次そこふか(底深)ゞ一門に吐血させ給ふ事附く底深ふくりうの事
さるほどに樽次の酒法、をんごくはたふ(遠国端島)にいたるまで、ことことくるふせしかば、をよぶもをよばざりけるも、みな此のみちにきふく(帰伏)して、なびかぬ上戸はなかりけり、されどもこゝに樽次をあざむくほどのくせものこそ出きたれ、たとへば武州橋の郡川崎のしゆく(宿)より二十町ばかりわきに、弘法大師の自作の御ゑい(影)たち給ふにより、大師がはらといひつたふとかや、この村に池上太郎右衛門尉底深とて無二無三の上戸有、我は唯我独酒と披露して、きんがう(近郷)の水鳥(酒飲み)等をことごとくしゐふせ、くがの猩々とおごりし所に、山下作内とてそこふかがいとこありしが、ある時江戸あか坂にて、ぢわうぼうにさんくはい(参会)して、其座より血をはきながら、戸板にのりてかへりけり、又そこふかがおいに、いけがみ三郎兵衛といふもの、りうぐはん(立願)のしさいありて、めぐろに参り、そのかへさに、かの地黄坊に寄あはせ、是れもおなじやうにとけつして、そんめいひぢやう(存命非常)のていなれば、そこふか大きにはらをたて、こゝにてはぢわうぼう、かしこにてはたるつぐとなのり、それがしが一門らに、血をはかせぬるこそきつくわい(奇怪)なれ、いかさまその御坊にも、血をはかせてくれんとて、蟷螂がをの(斧)をいからし、はやうつたちける処に、にはかにふうとくしゆ(腫)といふもの、もゝにいでぬれば、れうじ(療治)のためとて、その日のかどではやみにけり、(「水鳥記」 地黄坊樽次) 水鳥記序 


ちしやう【知章】
「飲中八仙歌」中の一人、賀知章。同詩に『知章騎馬似乗船、眼花落井水底眠』とある。
又六が門に知章の繋ぎ馬  又六は酒屋の亭主(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


茄子の山椒あえ
山椒あえ、これは酒の肴に特にいい。ごまあえ、味噌あえはご飯と合うが、これは酒の肴に作られたものである。丸型の茄子を半分に切ってそのまま茹で煮る。軟らかくなったのをまな板にならべ、もう一枚まな板をのせて水を切る。それを小口切りにして山椒醤油であえる。ほんとは実ざんしょうの皮だけ取って、ちょっといってすりつぶすといいんだが、京都の清水の七味屋の粉ざんしょうで間に合わせればいい。デパートに売っている。香りの高いことと涼しい刺激性は、一口食えば、お酒をくんでくれといわんばかりの風情である。(「味之歳時記」 利井興弘) 


飲酒を戒む
伜(せがれ)が大酒飲みて困ると、いつも御老母様がこぼされ候。嗚呼(ああ)貴兄は酒が大事にして、御母上様が大事にあらずと思ひ給ふ乎(か)。又貴兄は、昨年の肋膜炎を忘れ給ひたる乎。好きならば、酒を飲まるゝもよし、その為に早世せらるゝも貴兄に在りては、或は御本望なるべけれども、貴兄の身は、貴兄一人の身には候はず。若くして寡居し、貴兄一人を手塩に掛けて、育て上げ、貴兄を老後の杖とも柱とも頼み給へる御母上様の御心配は、如何ばかりかと、おぼし給ふ。小生とても酒の味を知らぬにあらず、又酒の微酔にとゞめ難きものなることも知らぬにはあらず候へども、決心次第にて、酒に飲まれぬ事は、出来得べきかと存候。其御決心が願はしく候。微酔の程度を守り給ふこと能はずんば、断然禁酒し給へ。
右の返事
(この手紙は、泥酔漢が、常識を失ひて、めちやくちやな事をかきたるに擬す。さめて後、大いに悔悟すと知るべし。)
天下でも取つた気になつて、鼻歌うたひながら帰り来り、おい酒と怒鳴る鼻先へ、あらはれたは君の手紙、開いてみれば、何だ、馬鹿馬鹿しい、酒を節せよ、御親切様、有難う、御言葉に従ひますると申上げたれど、腹の虫が承知いたさぬ。折角美人の酌でのんだ酒がさめた。あゝ、ああ、君も老いたる哉。も少し話せる男かと思つて居たが、こんな馬鹿な事云ふやうなら、今日限り、絶交だ。肋膜炎が何だ、死ぬことが何だ。母の孝養、これはちやんと棟に成算がある。僕がよつぱらふにはよつぱらふだけのわけが有る。そのわけが知りたけりや、三升樽さげて来い。ゑゝ面倒くさい、早く飲みなほしたい。これで、やめて置く。とにかくに泥酔しても、返事かくだけが、感心だらう。そこが上戸本性たがはずといふものだ。(書簡文作例 大町桂月) 


酒やビールの中を泳ぎ廻る
「イ」の部で凄いのは、なんといっても伊藤熹朔(きさく)氏である。「キサちゃん」の呑みっぷりは、いってみればアザラシやオットセイが、水の中を泳いでいるのと同様に、酒やビールの中を泳ぎ廻っている。アザラシやオットセイの体は、水と馴れ切ってしまって、どこまでが水なのか、ほっておけば解けてしまいそうにヌルリとした感じだが、キサちゃんの吞み方や酔いっ振りを見ていると、恰度そんな気がしてくる。-(「酒徒交伝」 永井龍男) 


題しらす
同 道すがら しどろもじずり 足もとは 乱れ初(そめ)にし われなら酒(奈良酒)に

酒宴半(なかば)にめしつかふ(召使う)ものゝ樽なる酒を有(あり)やなしやとふりて見けれは咄と笑ふかうちに客にてよめる  安継
同 樽のはら(腹) ふ(振)る酒きけば かすかなる 三かさものまは(ば) 頓(やが)てつ(尽)きかも(「古今夷曲集」) 元歌は「陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに  乱れそめにし われならなくに」と、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる  三笠の山に 出でし月かも」ですね。 「醒酔笑」の古酒 


善法
(村田)珠光の弟子に善法(ぜんぽう)という侘(わ)び茶人がいた。京都の粟田口(あわたぐち)に住み、酒の燗をする燗鍋一つしか道具を持たず、それで食事の湯を沸かし、茶の湯もして娯しんでいたのを、欲にけがれない、必ママの内のきれいな者であると云つて、珠光が褒めたたえた。(「茶 歴史と作法」 桑田忠親) 


酒の点で牧水の歌に直結
そのころの友人達はみんな酒につよかった。詩人の国吉灰雨、上里春生、伊波文雄、桃原思石、歌人の石川正秋、仲浜星想その他で、ぼくらは「琉球歌人連盟」を組織し、歌会を催してはよく飲んだ。その雰囲気は、先ず酒の点で牧水の歌に直結し、若さの点で、啄木の歌に直結していて、酔っぱらっては牧水や啄木を朗詠しながら夜の街を歩いた。なかでも、石川正秋の朗詠はみんなを感心させるものであったが、かれの作にも酒の歌が多く、「酔いしれる父に孕みて産みし子のその酒好きを憂い給うや」などと、母に捧げる歌もあった。酔っぱらってうたうと、おなかが空いてくるらしく、正秋はよくそば屋にはいった。そばを食べるときっと、帯をほどいてそれを酒の代りにしてそば屋において、前をはだけたまま家に帰るのも、彼の癖の一つみたいであった。かれが酔って帰ると、おふくろさんや妹さんが、必ず水を枕もとに置いた。水は二升入りほその手桶になみなみと入れてある。翌日目を醒ましたときに、かれはその水を呑んでは吐き出し、呑んでは吐き出すのであるが、かれ自身の解説によると、「胃袋を洗っている。」とのことであった。(「酒友列伝」 山之口貘) 


資格取得後の勉強
昨年の夏に利き酒師の資格をいただきながら、ずっと合格祝いをできていなかった。この日、ようやく、一緒に合格した日本アートグラファーの社長さんと一緒に祝い酒。お酒の大好き~の会長もご一緒。高田馬場「唐子炉(からころ)」さんへ。ここは会長・社長ご夫妻の行きつけのお店。会長がお店に入るやいなやお店のスタッフさんが「今日のオススメに日本酒は~」と説明される。おおっ。お店の顔ですね。会長は「鳳凰美田」、社長とあたしは55ホッピー×キンミヤ。合格を祝って乾杯!社長は合格後、呑んだお酒の記録や感想をちゃんとメモされている。すばらしい~。そう、利き酒師って、資格をいただいた後にどれだけ勉強するか、にかかっていると思うんですよねえ。いうなれば、自動車免許のようだと思っています。練習しなければ、腕も悪くなる。それがわかっていながらあたしは、相変わらず記憶なくしまくり。利き酒どころか泥酔酒。反省。会長・社長はものすごい大酒呑み。しかも気持ちのいいお酒です。この日も笑いながら、お酒がすすむ、すすむ。社長と一緒にあたしも日本酒に移行。こちらの日本酒は、お燗がちゃんとしているとのこと。まずは、会長と同じく「鳳凰美田」を冷やで。その後、ぬる燗で。そのまま、日本酒燗酒呑み比べまくりへ突入。「鳳凰美田」三合、「鬼ころし」三合、「一の蔵」一合、「越之景虎しぼりたて」二合、「〆張鶴」五合よく呑みました。お店にあるお酒を片っ端から呑みました。個人的には、「越之景虎しぼりたて」の燗冷ましが旨みがきれいに出て良い心地でした。(「Tokyo ぐびぐびぱくぱく口福日記」 倉嶋紀和子) 


酔へ!       ボードレール
常に酔つてゐなければならない。ほかのことはどうでもよい-ただそれだけが問題なのだ。君の肩をくじき、君の体(からだ)を地に圧し曲げる恐ろしい「時」の重荷を感じたくないなら、君は絶え間なく酔つてゐなければならない。
しかし何で酔ふのだ? 酒でも、詩でも、道徳でも、何でも君のすきなもので。が、とにかく酔ひたまへ。
もしどうかいふことで王宮の階段の上や、堀端の青草の上や、君の室の陰惨な孤独の中で、已に君の酔ひが覚めかゝるかして目が覚めるやうなことがあつたら、風にでも、波にでも、星にでも、鳥にでも、時計にでも、すべての飛び行くものにでも、すべての唸くものにでも、すべての回転するものにでも、すべての歌ふものにでも、すべての話すものにでも、今は何時だときいてみたまへ。風も、波も、星も、鳥も時計も君に答へるだらう。「今は酔ふべき時です!『時』に虐げられる奴隷になりたくないなら、絶え間なくお酔ひなさい!酒でも、詩でも、道徳でも、何でもおすきなもので。」(「酔へ!」 ボードレール 富永太郎 訳) 


いきなり五合
酒については僕の方が河上(徹太郎)より先輩です。その一年前僕は村井(康男)先生に初めて百軒店のおでん屋へ連れて行かれ、いきなり五合飲んで才能を示しました。そして時々酔払ってお酌だけしてくれる河上の鼻紙を嘲笑し、ますます「面倒な」質問を出して得意になっていました。しかし二年ばかり後、その頃僕は京都の仏文の学生でたが、夏休みに帰って見ると、河上は留守中俄然腕を上げていて、一升飲むようになっていた。そしてひどくからまれて閉口した憶えがあります。「何だ、この野郎、人がおだてればいい気になりやがって、甘ったれるな。いい加減にしやがれ」といった調子でありました。彼が随分我慢して僕をおだててくれていたのだということが、これで明瞭になってしまいました。(「文学的青春伝」 大岡昇平) 


三十三 酒客(2)
口約 酒客という者は、梁の市中の酒屋の杜氏であった。いつもうまい酒を造っていたので、それを売って、日に一万銭も稼いでいた。だが、過失を犯したために、主人に追い出された。ところが、その後、主人の造る酒は、すっぱく腐敗し、商売は行き詰まってしまった。梁の町なかの商人たちのうちには、娘と結婚させて、酒客を養子に迎えたいという者が多かったが、酒客は姿を消したかと思うと、またひょっこり現れた。その後、百年あまりたって、また姿を現し、梁の丞相(じょうしょう)におさまった。人々の芋(いも)や野菜をどんどん植えさせて、こう言った。「三年たったら、きっと大飢饉がやってくるぞ」と。はたして、酒客の予言どおりになったが、おかげで梁の民は飢え死せずにすんだ。五年たつと、印綬を解いて丞相をやめて立ち去った。どこで一生を終えたのか、知るものはいない。 酒客どの 才覚ひめて ひっそりと かりそめに 梁の市場に 酒を売る 真似(まね)のできない 秘訣は何ぞ 芳醇無比の うま酒よ 身を粉にして 時人を助け おかげでみんな 飢えをまぬがる 朝はやく 官服ぬいで 旅立ちぬ どこで命を おえたやら(「列仙伝 中国の古典」 尾崎正治・平木康平・大徹形) 


新生姜
新生姜が出るころになると、母が祖母に教わったという、新生姜の佃煮をつくりました。夜なべ仕事に、母とお手伝いさんが、ざるに山ほど洗った新生姜を、薄く薄く紙のように切り、薄い塩水にひと晩つけます。生姜の香りがむせかえるように夜通しにおいました。翌日、水で二度ほど洗い、たっぷりの水で二、三回ゆですて、ゆで汁に生姜の辛味がほとんどなくなっていたら水をきり、こんどは酒少々と、かくし味程度の黄ザラを入れ、つぎに醤油を加え、薄味でゆっくり煮ふくめると、薄茶色の歯ぎれのよい佃煮になります。(「ふるさとの料理むかし噺」 谷村寿子・中川紀子) 


三十三 酒客(1)
酒客者、梁市上酒家人也。作酒      酒客なる者は、梁の市上の酒家の人なり。酒を作りて
常美、而售日得万銭。有過而遂   常に美(うま)ければ、而(すなわ)ち售(う)りて日に万銭を得たり。過(あやま)ち有
之。主人酒、常酢敗窮貧。梁市中     りて之を逐(お)う。主人の酒、常に酢敗(さくはい)して救貧(きゅうひん)す。梁の
賈人、多以妻而迎之。或去或       市中の賈人(こじん)、多く女(じょ)を以て妻(めあわ)せて、之を迎えんとす。或
来。後百余歳、来為梁丞。使民益   いは去り、或いは来たる。後百余歳にして、来たりて
芋菜曰、三年当大飢。卒如其  梁の丞と為(な)る。民をして益(ますます)芋菜(うさい)を種(う)え使(し)めて曰く、
、梁民不死。五年解印綬。莫  
其終焉。                  「三年にして、当(まさ)に大いに飢うべし」と。卒(つい)に其の言(げん)の如くにして、梁の民死せず。五年にして、印綬を解きて去る。其の終わるを知る莫(な)し。
酒客蕭綷 寄沽梁肆            酒客蕭綷(しょうさい)にして 寄せて梁の肆(いち)に沽(う)る
何以標異 醇醴殊味             何を以て異(い)を標(しる)さん 醇醴味を殊にす 
身佐時 民用不匱            身を屈して時を佐(たす)け 民用(もつ)て匱(う)えず 
紱晨征 莫萃            紱(ひも)を解きて晨(あした)に征(ゆ)き 卒(いた)る所を知る莫(な)し
○梁 戦国時代、魏国を梁と呼んだ。現在の河南省臨如県の西に位置する。一方、漢代にも梁国があり、現在の河南省商丘市の南に位置する。ここは後者か。(「列仙伝 中国の古典」 尾崎正治・平木康平・大徹形) 


黒いきたない茶わん
広川の家は、朝から夜まで、訪客でにぎわった。食事どきになると、客たちといっしょに食事をとるのが広川の習慣だった。彼は、客には、ビールをふるまったが、自分は日本酒を冷やでのんだ。まるで物置から拾ってきた盃洗(はいせん)のような、黒いきたない茶わんに、広川はゴボゴボとつぐ。そして、両手で捧げるようにしてキューッとのむ。客はこの異様な状景に驚き、「先生、そのおわんは、どういうものなのでしょうか」と訊くと、広川は、「これは、ただの品物じゃねえ。わスが戦災をうけて無一物になったとき、隣りの人が恵んでくれたものだ。わスはその日のことを生涯忘れちゃならねえと思って、こうして愛用しとるんだ」と答え、うやうやしくわんに敬礼してから、こんどは、わんといっしよにもらったという五十センチはあろうかと思われる太い竹のハシで、めしをかっこむのだった。(「戦後人物誌」 三好徹) 第三次吉田内閣時、幹事長に就任した広川弘禅のエピソードだそうです。 


武玉川(16)
生酔の覚るまくらに棒を見て(覚めると自身番の棒が?)
玉子酒扨(さて)うつくしき夫婦中
主従酔て高い物買ふ(狂言にでもあるのでしょうか?)
異見が済むと母ハ燗鍋(甘い母親)
をつをつ酒を免す代脈(医師の弟子がおずおずと少し位ならと)(「武玉川」 山澤英雄校訂) 


造酒司跡
造酒司跡発見の遺構は、覆屋(おおいや)をもつ井戸二基、この井戸を流す排水溝、掘立柱の建物跡などで、井戸は分厚い板材をせいろ組みにした、一辺が三メートルのりっぱなものである。井戸水を流す溝からは「造酒司符(ふ)」「造酒司解(げ)」とか「酒米五斗」「親王八升、三位四人一斗二升、伎人六升」という、諸司からの酒の請求伝票、酒の種類を書いた木簡や、醸造に用いたとみられる須恵器大甕(おおがめ)などが大量に出土し、ここが造酒司跡と判明した。ここで発見した遺構は酒造りに必要な水を汲む井戸が主要なもので、造酒司の全容は残念ながら不詳だが、『続古事談(ぞくこじだん)』という鎌倉時代の資料に、平安宮造酒司では大甕を土中に掘り据えて酒を醸したことがみえるから、未発掘地にはたくさんの大甕を掘り据えた施設などがあるにちがいない。(「日本の古代 都城の生態」 岸俊男編) 掘り出された奈良の都 


冷飲は脾胃をやぶる
飯はよく熱して、中心まで和(やわ)らかなるべし。こはくねばきをいむ。煖(だん)なるに宜し。羹(あつもの)は熱きに宜し。酒は夏月も温なるべし。冷飲は脾胃(ひい)をやぶる。冬月も熱飲すべからず。気を上(のぼ)せ、血液をへらす。(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂) 養生訓(貝原益軒)3 


一八七 酒飲み
或る所に酒飲みがありました。それに子供が三人ありましたが、其の子が又大層大酒飲みでありました。或る年のお正月、一家の者が皆寄集りまして、今年程目出度い正月はないからお祝ひの酒を飲まう と言つて大層飲みました。其の中でも親が一番沢山飲みました。大層酔つて死んだやうになりました。三人の子供も親が死んだと言つて棺に入れて山にかいて行きましたところが、親は酔ひが醒めて棺の中から こらこら、こゝは何所か と言ひますと、子供が こゝは火屋(火葬場)であります と答へました。さうすると親父は ひやでよいから一盃呉れ と言ひました。(京都郡教育支会)(「福岡昔話集 全国昔話資料集成」 福岡県教育界編) 


料理 下谷上戸郎 
下や 松源   鳥八十   いよ屋  めうじん(明神) 開化  はたご丁 花清  めうじん 山戸  うへの 八百膳  下や 蓬莱  ゆしま 魚長  かんだ 旭  かんだ 柏屋  ゆしま 魚十  本がう 松吉  ゆしま 玉松  ねぎし 鴬春  王子 扇や   海老や  下や 姫松-(「東京流行細見記」 清水市次郎編 明治文化全集) 


成金の天地 6.19(夕)
島徳蔵氏は成金(なりきん)の一人(にん)である。最近弟の定治郎氏が、多額納税議員に当選したので、島氏はこの世界は神様が自分達の為に別誂(あつら)へに拵へたように思い出したらしい。「君、僕ももう旧(もと)の徳蔵ではないよ、お金は唸(うな)る程出来るし、加之(おまけ)に弟は貴族院に入(い)るし、何一つこの世に不足は無くなつたよ。」島氏は近しい者の顔を見ると、いつもかう言ひ言ひしてゐる、狗(いぬ)のやうに目頭に涙さへ浮べて。それを聞いた同じ仲間の某は、穴のあく程島氏の顔を見つめた。「それは結構だね。実際君はそんな幸福者(しはわせもの)だと自分で思つてゐるんだね。」「思つとるとも、全く幸福者だもの。」徳蔵氏は嬉しさが一杯で、泣き声をしながら言つた。「それぢや訊くがね、君はこの頃飯を幾杯位食べる?」某氏は脂ぎつた団子(だんご)のやうな鼻を、徳蔵氏の顔さきに突きつけた。「以前は六七杯もやつたつけが、今では三杯と定(き)めてるよ。」徳蔵氏は貴族院議員の兄様(にいさん)らしく、精々上品な口元をして言つた。「たつた三杯か、ところで…」某氏は厚い唇を舌なめずりしながら言つた。「次は酒だが、酒はどの位いけるな。」「酒もこの頃では余りやらん事に決めとるよ、まあ杯(さかづき)に五六杯といふところかな。」「杯に五六杯だつて。さうか。次にこの方は何(ど)うだな。」と某氏は太い指環(ゆびわ)のまはつた左手の小指を見せた。「小指」が何の符牒なのか、記者はよく知らないが、少なくとも「武士道」や「監獄」や「胃病の薬」のやうな、苦いもので無いらしいのは、それを見た島氏が飴のやうな笑ひを見せたので大抵察しられた。島氏は言つた。「その方も薩張りあかんよ。「さうか」某氏は気の毒さうな眼をして貴族院議員の兄を見つめた。「飯は食へない、酒は飲めない、加之にその方もあかんとなつて見ると、君は何が楽しみで幸福者なんだい。」「さうさなあ。」島氏は困つたやうに頭へ手をやつた。成程さう聞いてみると、幸福者だとも言へないらしかつた。飯と酒とそれから今一つの外には、別の世界のある事を知らないのが実業家の例(ならはし)だから…。(「完本 茶話」 薄田泣菫) 


狂歌酔吟藁百首(2)
春くれしきのふの酒のさけかしら けふはうつきの成にける哉
年ことに思ふやあやめのくすり酒 またはさつきのいつかのむへき
さみたれのなをふる酒のさかて川 しちもろともになかれてそ行
なく蝉のこはたかにこそ酔にけれ 日くらしさけの森の木のくれ
夏の身はまたゑひなからさめぬるは はらのいつくに酒やとるらむ
さりとてはけふまたしちやにやれ蚊帳 酒にそ我はくらはれにける(「狂歌酔吟藁百首」 暁月坊) 


酒に就いて
酒が意思の制止力を無くさせるという特色は、酒の万能の効能であるけれども、同時にまたそれが道徳的に非難される理由になる。実際酔中にしたすべての行為は、破倫といふほどのことでなくとも、自己厭悪を感じさせるほどに醜劣である。酒はそれに酔つている中が好いのであつて、醒めてからの記憶は皆苦痛である。だが苦痛を伴はない快楽といふものは一つもない。醒めてからの悔恨を恐れるほどなら、初めから飲まない方が好いのである。酒を飲むといふことは、他の事業や投機と同じく、人生に於ける一つの冒険的行為である。そしてまた酒への強い誘惑が、実にその冒険の面白さにも存するのだ。平常素面(しらふ)の意識では出来ないことが、所謂(いわゆる)酒の力を借りて出来るところに、飲んだくれ共のロマンチックな飛翔がある。一年の生計費を一夜の遊興に費ひ果してしまつた男は、泥酔から醒めて翌日に、生涯決して酒を飲まないことを誓うであらう。その悔恨は鞭のやうに痛々しい。だがしかし、彼がもし酒を飲まなかつたら、生涯そんな豪遊をすることも無かつたらう。そして律儀者の意識に追ひ使はれ、平凡で味気のない一生を終らねばならなかつた。酒を飲んで失敗するのは、初めからその冒険の中に意味をもつている。夢とロマンスの人生を知らないものは、酒盃に手を触れない方が好いのである。(「酒に就いて」 萩原朔太郎) 


スナックの魅力
「スナックってなかば見えないから入りにくいでしょ。それは家だからですよ」。「ぱじゃんか」のカウンターで、新装開店を記念して振る舞われた豪華なお膳を食べながら、都築が教えてくれた。取材で地方を歩くことの多い都築は、行った先で必ずスナックへ行く。田舎には、コンビニはなくてもスナックがあるという町もある。吞むと言えばスナック。店に行けば、年輩のグループがいて、若者のグループがいて、順番にカラオケを歌っている。子連れで来る客がいて、子供のためにママさんが焼きうどんをつくったりしている。「家族のように酒盛りする常連客のなかに、『すみません』と言って入っていくわけだから、敷居が高い。でも、こたつに入れてもらって一緒に吞んでいるうちに、家族の一員になるわけですよ」なるほど。スナックが家なら、ママはお母さん。そう思い、店内を見渡すと、それまでより落ち着いた気持ちになった。政子ママにカメラを向けると、「あまりアップにしないでね」とほほ笑んだ。「ふふふ」と言いながら、時折浮かべる笑みは若々しい。「ママさんもせっかくだから一杯どうですか」。都築が声をかけた。(「あの人と『酒都』放浪」 小坂剛) 都築は、都築響一。スナックぱじゃんか(中野区中野5-51-14)のママは稲垣政子(84歳)だそうです。 


酒が臭くなつて来た
そろそろ暑くなつて来たので、酒が臭くなつて来た。「急いで火を入れねばならん」と父は言つた。吉(徳広吉太郎)をやとうて、出口の杜氏さんの家に行つてもらつた。吉は若いとき家を飛出して、戻つてから毎日ブラブラして遊んでゐた。ぼくは彼について行つた。「あした火を入れに来てくれたよ」と吉は言つた。その翌る日から、杜氏さんたちがやつて来て、火を入れはじめた。数日かかつた。臭みが取れうま味が増した。分量は少し減つたけれど、値段は高くなるのであつた。これからの酒は、古酒といつた。火を入れた酒はいちだんと、コクが増して居た。(「造り酒屋」 上林暁) 


挙国一致          ルーキアーノス
皆が酔っぱらってる中で、アキンデューノスだけは
しらふで過ごすと言い張つた、
そいだもんで今度は、彼のはうが独りだけ
酔つてることに なつてしまつた。(一一・四二九)(「ギリシア・ローマ抒情詩選 献詩および諷刺詩」 呉茂一訳) 


たで
たでは丸葉と細葉とがあるが、丸葉がいい。あのピリッとした味は六月から九月まで十分楽しめる。焼き魚をたで酢で食べる。鮎にだけたでを独占させ必要はない。食欲のない時、味噌をくるんでちょっと焼いたので一杯やれば、なまけている胃袋もシャンとする。醤油で煮しめても、葉唐辛子と違った辛さが、酒杯を上る。早速種子屋へ行ってごらん。楽しみがふえるのである。(「味之歳時記」 利井興弘) 


チップ
一人のスコットランド人が寒さの酷しい日にゴルフをしていた。一周してキャディの手になにかをすべりこませて、親切にいった。「これで熱いウィスキーを一杯やってくれ」キャディが手を開いてみると、角砂糖が一個。(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 「スコットランド人は、一般につつましいといわれる。悪い詞(ことば)でいえばけちがだが、金銭に注意深いことは美徳である」とあります。 


幕末の打ちこわし
多摩郡南小木曽村小布市(こぶいち)の百姓(市川)庄右衛門は、いわゆる武州騒動を詳しく書き留めている。「六月十四日(慶応二年1866)、早朝に飯能宿へ打こわし来り、穀屋四軒こわしける。尤(もっとも)名栗谷、吾野谷、成木谷の者共大勢にて飯能酒屋八兵衛を初として打こわし[中略]十五日[中略]青梅へ通る。其道筋の村々人足を呼出し、不出(いでざる)者は打こわす、或は焼払と申故(もうすゆえ)、無拠(よんどころなく)皆々人足に出(いで)ける」-(「市川家日記」)
この年(慶応三年)二月、水戸上町(馬口労町)に住む呉服渡世大高織右衛門は、足利辺の難渋人の騒ぎ、鹿沼の酒造家打ちこわし、夜盗・盗賊の出没など、常州・野州一円の不穏な気配に神経をとがらせていた。三月二二日、上町相場人が鉄砲町会所で銭一〇〇文に米二合一勺売りを始めたところ、町名主の鑑札を手にした難渋人が一日に二〇〇〇人も来た。織右衛門は六月一四日、江戸からの便りで、京・大坂とも長州征伐の制札が下ろされ、米相場は大下落したこと、兵庫が開港されたことなどを知った。-(「水戸大高氏記録」)(「幕末維新の民衆世界」 佐藤誠朗) 


賦得酒無独飲理の現代語訳
酒は愁いを払う箒と名付けられ、また詩を釣る針と呼ばれています。愁いに沈んだ時に試しに酒を飲んでごらんなさい。独りで酒を酌んで、どうして愁いの慰められることがありましょうか。詩を作る時、もし一人で酒を飲んだならば、好い句を得ることはできません。諺に、「酒が酒を飲む」といいます。興が乗るのは、杯のやり取りのうちにこそあるのです。
私は古代中国の暴君のように、酒の池を掘りたいとか、酒粕の丘を築きたいとかいうような願いは持ちません。また、李白のように酒仙になりたいとか、劉伶のように酔侯に封ぜられたいとかいうような願望もありません。できることならば、詩文を作りながら酒を飲む宴を開き、優れた人々と詩を唱和しあいたいと思うのです。杯のやり取りをしても余興の規則などなく、宴席が入り乱れても罰飲のための大きな杯や竹の棒などが散らばっているということがないような、そんな酒宴を開きたいのです。そうした場で酔って気ままに筆を走らせれば、筆先から素晴らしい作が生まれ、その輝きが夜空に明るく光る北斗星や牽牛星をさえ射ることでしょう。そんな酒宴が開ければ、降り続く秋雨も歎くには足りません。その場では、詩情は繭から糸を引き出すように次々と湧き起こるでしょう。和やかな談笑が爽やかな風を生み、その風は「ひゅうひゅう」「しゅうしゅう」と吹いて、空を覆う雨雲を払い尽くし、見渡す限りの秋景色を目の前に広げ出してくれることでしょう。
◇天保二年五月に江戸を発って秋田に赴いた詩仏は、晩秋まで秋田に留まることになった。その間の秋田での作である。旅先で秋の長雨に振り込められた折、憂さ晴らしの酒宴が開かれ、その席で詠まれた作と思われる。(「賦得酒無独飲理」 大窪詩仏 注者 揖斐高) 


長期熟成酒のタイプ
長期熟成酒には淡麗タイプと濃醇タイプの二種類がある。白木さんが造る長期熟成酒は重厚な味わいの濃醇タイプのほうだ。平成元(一九八九)年醸造の「だるま正宗純米酒」は色調も濃く、中国の紹興酒に似た香りを漂わせている。口に含むとまろやかな酸味が広まり、のどごしも紹興酒に比べてすっきりしている。長期熟成酒をタンクからビンに移すときにかなりの量の澱(おり)が出る。実は白木恒助商店の澱は全国にファンがたくさんいる。「澱が出たら連絡してくれって、あちこちから頼まれています」(白木さん)澱にはアミノ酸がたくさん含まれている。普通の日本酒は澱を濾過して取り除いてしまうが、「うちでは濾過しません。貯蔵している間に澱の影響で酒の味に深みが出るからです」と語る。(「挑戦する酒蔵」 酒蔵環境研究会編) 


賦得酒無独飲理     「酒は独り飲む理(ことわり)無し」を賦し得たり
酒名掃愁箒        酒は掃愁箒(そうしゅうそう)と名づけ
又号釣詩鈎        又(ま)た釣詩鈎(ちょうしこう)と号す
愁裏君試飲        愁裏(しゅうり) 君試みに飲め
独酌豈慰愁        独酌 豈(あ)に愁いを慰めんや
吟時如独飲        吟時 如(も)し独(ひと)り飲まば
好句不可求        好句(こうく) 求む可(べ)からず
諺云酒飲酒        諺(ことわざ)に云う 酒 酒を飲むと
乗興在献酬        興(きょう)に乗るは献酬に在り
不願鑿酒池        酒池(しゅち)を鑿(うが)つことを願わず
不願築糟丘        糟丘(そうきゅう)を築くことを願わず
不願為酒仙        酒仙と為(な)ることを願わず
不願封酔侯        酔侯(すいこう)に封(ほう)ぜらるることを願わず
願開文酒宴        願わくは文酒(ぶんしゅ)の宴を開き
唱和共勝流        唱和(しょうわ) 勝流(しょうりゅう)と共にせん
献酬無酒令        献酬 酒令(しゅれい)無く
交錯無觥籌        交錯(こうさく) 觥籌(こうちゅう)無し
酔弄筆端花        酔いて筆端(ひったん)の花を弄(もてあそ)べば
光芒射斗牛        光芒(こうぼう) 斗牛(とぎゅう)を射(い)ん
秋雨不足歎        秋雨 歎くに足らず
詩思繭糸抽        詩思(しし) 繭糸(けんし)を抽(ひ)かん
談笑生晴風        談笑 晴風を生(しょう)じ
払払更「風叟」「風叟」  払払(ふつふつ)更に「風叟」「風叟」(しゅうしゅう)
掃尽満天雲        満天の雲を掃(はら)い尽して
展出万里秋        展(の)べ出(いだ)さん万里の秋(「賦得酒無独飲理」 大窪詩仏 注者 揖斐高) 


秋田藩院内銀山
慶長十七年の火事では九軒、翌年の火事で三軒の酒屋が消失しているから、院内銀山町に数軒の酒屋が存在したことは間違いない。まず鉱山と税金のことを述べておきたい。秋田藩では鉱山町から「運上諸役」というさまざまな税金を取り立てていた。これには、たとえば酒屋から徴収する「酒役」、麹屋の「室(むろ)役」のほか、「煙草役」「麹類役」、また遊郭には「傾城役」というように業種ごとに定められていた。当時秋田領にはなだ大規模な酒造家はなく、領内全体の酒造米高を年間二、三千石程度と推定する研究者もある。したがって「酒役」、つまり酒屋から徴収する税金が藩の財政に占める割合もそう高くなかっただろう。また、酒役は領内すべての酒屋に課されていたわけではない。当初は、土崎港や院内銀山など人が集まる場所に限って課されていた。元和五年(一六一九)までは、城下町の久保田ですら酒役はなかった。が、やがて周辺の村酒屋にまで課税が拡大されることになる。また藩では、「御払米(おはらいまい)」と称して藩の蔵米(くらまい 領地からの年貢米)を強制的に鉱山町に買わせていたが、この御払米は著しく高価だった。御払米以外の米を「脇米」と称し、その持ち込みは厳禁であった。(「江戸の酒」 吉田元) 


「御酒之日記」の一般酒
いまこの「御酒之日記」の冒頭にでてくる一般酒の醸造法を掲げると、次のとおりである。
抑(そもそも)白米一斗ひやす(冷やす)へし、明日ニ能ゝ(よくよく)むす(蒸す)へし、かうし(麹)ハ六升ツゝの加減、人はた(肌)にて合之作候、よい(宵)よりひやし候水と作入水ヲハ人はた(肌)ニて自上(うえより)一斗はかりて入候、席(蓆(むしろ)カ)ヲかふセ六日程可置、成り出キ候ハゝかくへし、懇(ねんごろ)ニ桶はた(端)まてかくへし、ひる(昼)ハ二度つゝかくなり、からミ(辛み)出来候は水かうし(水麹)をすへし、其時ニ如前ニ米一斗能ゝむしへし、其を能ゝさまし、わき候酒之中ニおたいを入候、自其(それより)而日ニ二度つゝかくへし、又、しつまは(沈まば)まぜ木ヲ可引、ふたを作らセよ、口伝(「日本産業発達史の研究」 小野晃嗣) 酛に一段だけ掛ける、二段掛けだそうです。 御酒之日記 


エツ
「エツ」は梅雨の一時期に限り、有明海から筑後川の下流地帯に産卵に登ってくる。「広辞苑」によると「カタクチイワシの近似種。食用。有明海特産」となっているが、世界中捜しても、中国のほんの一地域と、筑後川の河口付近しか、いないのである。こないだも團伊玖磨君と、「エツ漁」の愉快を味わったが、網の目に光る「エツ」の白い銀鱗の清涼感はなんともいえぬ。体長は、さあ、せいぜい十五、六センチから、二十五、六センチぐらいのものか。煮つけにもよろしいし、ミンチのフライにもよろしいが、やっぱり細かく小骨を切り、糸造りにして、タデ酢や酢味噌和えにするのがよろしいだろう。青紫蘇や、胡瓜の線切りなど添えて、酒のサカナにしたら、「エツ」の繊細な味が舌の上に、媚びり寄ってくる感じである。ケシの実を散らすのも、よいかもしれぬ。梅雨の頃、城島や大川界隈の料亭では、どこでも出してくれるだろうけれど、東京で喰べたい人は、八重洲と銀座の「有薫酒蔵」(271-八二三一、561-六六七二)に入り込めば、手軽に、空輸の「エツ」が喰べられるだろう。(「わが百味真髄」 檀一雄) 八重洲店は閉店したようです。 


大谷嘉助
"菊弥栄(きくやさか)"、大谷嘉行さんの父君、故嘉助さんは佐佐木信綱さんの高弟、 酒を造り代を重ねて住みつけば 主と呼ばれて蛇も住みつく 酒倉の屋根よりもやのたつみえて 暮れて行くなりかなかなの声 嘉行さんの祖父、嘉十郎さんは元、金助といい、明治三十四年ごろ東大で古在由直先生の助手をして、清酒の大敵、火落菌(清酒の腐敗を誘致する)の研究をいち早く手がけた。(「さけ風土記」 山田正一) 菊弥栄の㈱岡田屋本店の住所は島根県益田市染羽町5-7だそうです。 


大根ステーキ 切って焼くだけ!
① 大根は皮つきのまま、役2cmの厚さに切る。
② フライパンにサラダ油を引き、中火にして大根を並べ、アルミホイルをかぶせて中火~弱火で表裏各5分ずつ焼く。
③ ぽん酢を回しかけ、煮立ったら火を止める。あればゆでた大根葉のみじん切りを添える。
Poit1 焼き上がりはこんな感じ。皮は火が通るにしたがって、自然にむけてくるから大丈夫よ。
Point2 仕あげにぽん酢をひと回し。煮立って蒸気があがったら火を止めて。油となじんですこし煮詰まったぐらいがちょうどいいわ。(「R25酒肴道場」 荻原和歌) 


お宅の酒を飲ませてください
以前、わたしはイワナ釣りをしていたころ、関東から新潟、福島、山形…このあたりの山国を、川から川へ渡り歩いていた。そういう途中で、田舎の小さな造り酒屋をみつけると、入っていって声を出して挨拶して、名前は名乗らずに、「お宅の酒を飲ませてください。私は造り酒屋の内をみるのが好きでして…」とかいって相手をよろこばせて、一杯、二杯ありついたものだった。名を名乗らないのは失礼ではあったが、わたしはウイスキー屋の宣伝係としてかなり聞こえていたので、日本酒屋に憎まれていたこともあり、やむをえなかったんだ(現に、越乃寒梅の先代はわたしを憎んでいた。そのころ、越乃寒梅はまだそれほど有名ではなかったが、わたしはあるとき訪ねていって話しあい、飲みあって有無たいへん通じあって、以後、すっかり仲よくはなったんだが…)。(「知的な痴的な教養講座」 開高健) 


かんどくり、燗をつける道具、燗をつける
かんどくり(燗徳利)*ちょうし・とくり (本)かんしろ(熊本)・かんすず(岩手・宮城県登米郡・福島・茨城県多賀郡)・かんつぼ(静岡・愛知県北設楽郡・岐阜県山形郡)・かんぴん(大分・長崎県千々石・熊本)・たんぽ(大坂(浪花聞書)・青森・秋田・宮城・福井・和歌山)・はやすけ(大分県西国東郡・鹿児島)・ゆせん(津軽・秋田・宮城県加美郡)
【燗をつける道具】(本)かんじょか(鹿児島)・きびしょ(和歌山)・ちろり(大阪)・てしょ(奈良県吉野郡)・びんろーじ(新潟県西蒲原郡)。
【燗をつける】(本)かける(宮城・福島)。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録 


アリガトウ、ゴハン、サケ
外人さんが日本へ来て、アリガトウ、ゴハン、サケの三つの言葉を知っていれば、日本のどこへいっても、そう不自由はないといっているそうであるが、そのサケつまり日本酒はフジサン、ゲイシャ以上に現実的に日本の表徴のようなものになっているわけだ。(「酒味快與」 堀川豊弘) 昭和32年の出版です。 


春浪君の酒
(押川)春浪君の酒はどつちかと云ふと狂飲に近く、若し私にさう云つた傾向があるとすると、それはこの時代に春浪君から受けた影響が、い、あだに私の何処(どこ)かに残つてゐるものであつて、私自身としてはそんなところにも、懐旧の情を感ぜざるを得ない。しかしほんとのことを云へば、当時まだ血気盛んだつた私でさへも春浪君の酒には、多少辟易したものであつて、その中でも私が最もまゐつたのはやはりプランタンの一隅の、同じ卓士同じ椅子に腰掛けたまま、二日二晩まんじりともしずに、日本酒かウヰスキイならまだいいが、ベルモツトの相手をさせられた時であつた。今で云へばもうひどいスランプ状態、子供のことを云つて涙を零したりするのが、とても見てゐられなかつたが、今から考へて見るとその当時春浪君には、何か家庭的の深い悩みがあつたらしい。春浪君の酒は体で飲むのでなく気で飲むのだから、結局狂飲とならざるを得ないのであつて、ベルモツトがうまいとなればベルモツトばかり、ウヰスキイがうまいとなればウヰスキイばかり、徹底的に飲みまくつて倦むところを知らない。そのうちだんだん酔つて来ると、御多分に洩れない「憤り酒」で、慷慨又慷慨、それもまた尽きるところを知らないのである。(「酒客列伝」 吉井勇) 


袋洗ひの水の汁
酒の本場、伊丹の俳人鬼貫(おにつら 上島)の句「賤の女(しずのめ)や袋洗ひの水の汁」、この句は、当時伊丹の酒屋で新酒をしぼった酒袋を洗った水を、近所の女房たちが貰って帰り、亭主に飲ませる風習を詠んだものだといわれている。(「酒鑑」 芝田晩成) 

元来がひとり酒
どうも我が酒歴をふり返ると、悪酒の歴史ばかりで、戦争時代が過ぎると、今度はカストリ時代とくる。それまでにずいぶん口を慣らして置いたから、カストリというのも、それほど飲みにくいものではなかった。ただカストリの酩酊の仕方は正常な酒にくらべると、螺旋状にやって来る。ふつうの酒の酔い方を針金とするならば、カストリのは有刺鉄線である。だからそれでずいぶん失敗したけれども、その頃のかずかずの失敗は、思い出すだに自己嫌悪のたねとなるばかりで、書き気持にはなれない。私には酒友というのはいない。元来がひとり酒である。ひとりで飲む分にはペースが乱れないが、たくさんの人と一緒に飲むと、どうも調子が悪い。(「悪酒の時代」 梅崎春生) 


二日酔いのベスト、バーのベスト
二日酔いのベスト はっか入りのリキュールをまぜて氷と一緒によくシェイクしたフォーネット・ブランカ。
バーのベスト ロンドン、リバプール・ストリート・ステイションの一軒に限らず。(「ベスト・ワン事典」 ウィリアム・デイビス編 クレメント・フロイト) 


骨吸物
骨吸物(ほねずいもの)というのがあります。焼いたり、煮たりして食べた鯛の身ののこりの骨に、もう一度熱湯をかけ、骨からまた味をだして味わうのです。この食べ方は全国にあり、ある地方では、「医者いらず」と呼ぶそうです。「鯛の骨蒸し」というのがあります。大鯛の頭を半割(はんわり)にし薄塩をし、器にだし昆布をしいてのせ、豆腐やきのこ類をそえ、酒をかけて蒸し、ポン酢で食べます。酒客によろこばれる一品ですが、この鯛の頭も家庭では、もう一度だし昆布と煮出し、吸物につかう人もあるほどです。焼き鯛の鰭を焼き直し、お酒をかけてまわし飲みする鯛の鰭酒は、なかなかおつな味といわれています。(「ふるさとの料理むかし噺」 谷村寿子・中川紀子) 鯛のこつ酒 


ビール瓶
やくざ映画で、いきなりビール瓶を叩き割り、それを武器にして喧嘩をする映画がある。それを見た翌日、玄関のベルが鳴ったのであけると、両手に一本ずつビール瓶を持って酒屋が立っていた。反射的に、身構えたそうだ。(「ちょっといい話」 戸板康二) 


久保田万太郎の酒句
秋袷酔ふとしもなく酔ひにけり(流寓抄)
節分やはやくも酔ひしたいこもち(流寓抄)
夏の夜の性根を酒にのまれけり(流寓抄)
熱燗のまづ一杯をこゝろめる(流寓抄)
湯豆腐や持薬の酒の一二杯(流寓抄)
一ト猪口は一ト猪口と秋ふかきかな(流寓抄)(久保田万太郎全集14) 


タピオカ
しかし近年、蔵元によっては違う答が返ってきます。アルコールメーカーの人もこう言います。「廃糖蜜」も使っていますが、最近はそれより安い原料も使います、と。「タピオカ」がその原料なのですが、なぜ酒造業界ははっきりと言えないのでしょうか。なにも毒性のものを使っているわけではないのです。清酒といわれる9割近いお酒の中に使われているアルコールの原料の名前さえ言えないとは。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


盃サカヅキ
和名鈔瓦器(がき)類に。方言注。兼名苑等を引て。盃亦 作杯 一名 卮。盃之最小者 曰盞。並読てサカヅキといふと注せり。筑後国風土記に拠(よ)るに。古(いにしえ)の俗には。酒盞をば枳波(ウキハ)といひけり。日本紀には。築紫俗。号盞 曰浮葉としるされたり。さらばウキハといひしは。築紫の方言に出しと見えたり。ウキハといひしハは葉也。古俗酒をも葉に盛りて飲みけり。神酒栢(ミキノカシハ)といひしが如き是也。盞もと葉によりて。造り出しければ。かくいふ也。ウキは浮也。詳なる事は。「木解」(かしわ)葉の注に見へたり。サカヅキとは。サカは酒也。ツキとは古語瓦器を呼びツキといふ。高杯短杯等の如き也。和名鈔に見えしサカツキといふものも。今の如くに漆器なるものをいひしにはあらず。即今カハラケといふもの是也。カハラケといふは。カハラは瓦也。ケは笥也。古には凡(およ)そ食を盛るものを呼びて。笥といひけり。俗には土器を読みてカハラケといふ也。ツキとは古語に器を呼びてケといひ。キといひしかば。土をもて作れる器なるをいひしに似たり。土器(ツキ)の字をもてや呼びぬらむ。後俗又是によりて。凡そ器をよびてツキといふあり。飯次(メシヅキ)湯次(ユヅキ)なとといふ類是也。また鍾の字読みてサカヅキといふ也。即今瓷器(じき)にしてチヨクといふもの是也。鍾を呼びてチヨクといふは。福建及び朝鮮の方言なるを。近俗かの方言の如くに呼びし也。(「東雅」 新井白石) 東雅は、新井白石による語源解釈がなされた辞書だそうです。 


free lunch
free lunchを辞書で調べてみると、ランダムハウスでは「以前、バーや酒場で客集めのためあらかじめ用意した無料の食物」。ウェブスターには「以前、バーや酒場で飲む客にだされたビュッフェ・タイプの軽食」となっている。この言葉が生まれた背景には、1930年代後半から、1940年代にかけての禁酒法が廃止されて間もないころのアメリカがある(禁酒法の廃止は1933年)。禁酒法は廃止されたものの、州によってはバーでアルコールのみを販売するのを禁じ、かならず食べ物も供給しなければならない、という新たな法律をつくったところがあった。そこでバーや酒場の経営者たちは知恵をしぼり、この法律を逆手にとって客を集める方法を考えだした。それが、フリー・ランチ。"無料の食事"をエサに客を釣ろうとしたのだ。困窮者が街を歩いていると、ふと"Free lunch"と大きな看板をだしているバーを見つける。「これはありがたい。タダメシにありつけるぞ」と店にはいると、何のことはない、酒を飲まなきゃメシにはありつけない。結局、高くつくことになり、やはりウマい話などあるわけはないと思い知らされる羽目となる。と、まあ、こんな事情があってfree iunchは「世の中、タダメシのようにウマい話はあるものではない」という意味で使われるようになった、というワケなのである。(「ENGLISH 無用の雑学知識」 ロム・インターナショナル編) 


篠原泰之進
新撰組には「私事で斬り合いをした場合、その者を斃(たお)さず自分が傷を負うたらば切腹すべし」という内規がある。-
危い!と思った瞬間に、篠原は夢中で抜いて割って入ると、うまく先方の切っ先を払っていた。「拙者は新撰組の監察篠原泰之進である。ご相手になろう」と名乗りを上げると、相手もさすがに「大変な奴に引っかかった」と思った様子で、三、四歩退いた。そこへ突き入った篠原が正面から、一太刀浴びせる。うまく一番強そうな男の右腕を斬りおとす。他の二人は逃げる。こっちの二人も、ぬげた雪駄を捜してはき、こうなると大いに意気揚々として、引き揚げて、五、六丁歩いて来ると、篠原は右の股あたりから、脚のふくらはぎのあたりが、ひやりッとするのに気がついた。何だ、と思って、袖をまくって見ると、今まで気がつかなかったが、太ももから脚一帯がべったりと血潮で染まっている。「しまった、やられおった」篠原いささか狼狽して、段々調べてみると、袴の上のところ、背中を深く一個所やられている。手で傷所を捜しているうちに、指がずぶりとっと一寸あまりも傷の中ヘ入った。払って、踏み込んで斬った-ただ、それだけだと思っていたが、いつの間にかやられている。これには二人も弱った。私事の争い上に、しかも後傷(うしろきず)と来ている。正に切腹ものである。仕方がないから、駕を求めて一先ず近くの料理屋へ入り、ここで、篠原は切腹する覚悟を極め、その相談をしながら、町医者を呼んで手当を受けていると、急に酒が飲みたくなった。一期(いちご)の別れだ、さァ飲もうとなると、飲むも飲んだりまる二日。酔いつぶれて寝ている中に切腹の一件は自然止めにする事となり、そのまま平気で隊へ戻って、平気で酒をのみ、勤務もしていた。 (「維新前後」 東京日日新聞社社会部編)  


方言の酒色々(15)
墓穴を掘った棺を作った後で出す酒 どーぐあらい/どーぐきよめ
新米で作った酒 きんごめざけ
嫁迎えの時、嫁方へ持参する酒 むかえざけ
精進料理の宴会などの時、最初に御飯を軽く一膳出した後で出される酒 ちゅーしゅ
縁談を決める時に、もらう方が仲人に金品を托して相手方で飲む酒 たもとざけ(日本方言大辞典 小学館) 


酒中の妙趣
晋(しん)代の人の言葉に、「酒は兵のようなものだ。兵は千日も用いないで済ませるが、しかし一日たりとも備えなしでは済ませぬ。酒は千日も飲まずに済ませるが、しかし一たび飲めば酔わずには済ませぬ」というのがある。(注一)酒徒にはこの言葉を喜ぶものが多いが、しかし私からすると、これはまだ上乗の飲みかたではない。酒を飲む楽しみというものは、酔いかけてまだ酔っていない時の、とろけるような快さにこそ在り、あたかものびやかな春風に包まれているようなのが、まさに本当の味わいなのである。もしも、一たび飲んでそのまま酔っぱらい、酩酊して前後不覚となるのでは、いったい酒の楽しみはどこにあろう。(「梁𧮾漫志」 費兗(こん) 入矢義高訳 宋代随筆選 中国古典文学大系) 


二つの酒のあいだ
【意味】「ほろ酔い」と「泥酔」のあいだ、つまり「一杯機嫌」の状態をいう。
【解説】フランスの成句に「二つの水のあいだにある」というのがあり「水にもぐって泳ぐ」意味につかわれるが、この場合に身体は水の底よりも水面に近いはずである。このことから推して、「二つの酒のあいだにある」も泥酔よりほろ酔いに近いとされる。またこの成句は「二股膏薬をはる」意味にもつかわれる。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助) 


初夏
そら豆の煮物はおいしく、その手軽な煮方は、そら豆とひたひたの水と酒少々、砂糖、塩で調味して落とし蓋をして煮あげます。塩のかわりに醤油をとちゅうで落としてもよく、お総菜によろこばれます。堅くなって甘皮をとったものでつくる、お酒のつまみのうに揚げは、衣は小麦粉、卵、ねりうにに少々でつくります。また小海老と玉ねぎ、そら豆のかき揚げも季節の一品に。(「ふるさとの料理むかし噺」 谷村寿子・中川紀子) 


はしご酒と臼
ひとつの店にどっかと座り込み何時間も動かないで根がはえたような状態になって飲み続ける人を「臼」という。反対に腰の落ち着かない人、「ちょいと一杯のつもりはいつのまにやら」という人のはいご酒。はしご酒とは場所を変えて次々と飲み歩くという意味合いだが、それも本来は梯子酒と書くように、なじみの店を片っ端からにとつずつ、まるで梯子を一段一段ていねいに登っていくかのごとく、たずね歩いて飲むということである。(「夏子の酒 読本」) 


アルコール代謝の特徴
吸収されたアルコールの体内での代謝には以下のような特徴がある。
①摂取されたアルコールは大部分が体内で代謝され、代謝を受けずに肺や腎臓から排泄される量はごくわずか(2~10%)である.
②代謝の主要臓器は肝臓で、少なくとも80%以上が代謝される.
③代謝を調節するフィードバック機構がないため、アルコールは血中から消失するまで代謝を受け、生体に貯蔵されることがない。
④アルコール1gあたり7.1kcalのカロリーを有するが、エネルギー源としては非効率的であり、アルコール飲料はビタミンやミネラルなどの栄養素に乏しいため、栄養学的には見かけだけのカロリー(empty calorie)である★2.
注 ★2 食品交換表(日本糖尿病学会編)では、アルコール飲料は嗜好食品に分類されており、田の食品との交換はできないことが明記されている.栄養指導を行う際には、アルコール飲料を等カロリーの栄養素と置換しないように注意する必要がある.(「看護のための最新医学講座5」 日野原重明・井村裕夫 監修) 


精進の酒盗人
大根でいい、蕪がいい、二センチほどの角に切ってそのままもろみに漬ける。もろみは瓶づめ、缶づめでどこにでもある。早く味をしみこませたい時は、塩をふってしんなりした所でもろみに入れる。もろみを泥に見たててつけた名前のようだが、飯泥棒(めしどろぼう)、精進の酒盗人(ぬすっと)でもあるのである。(「味之歳時記」 利井興弘) 


酔っ払いの話と子どもの歌[エストニア]
 酔っ払いはろれつが回らず、何を言っているかわからないし、子どもの歌も調子外れで何を歌っているかわからない。意味不明で、訳がわからないことのたとえ。
酔っ払いはひっくり返ったときだけ改心する[スベロシア]
焼酎で夕食をとった者は水で朝食をとる[メキシコ]
アダムのビールにまさる酒はない[英]
 アダムのビールとは水のこと。水が一番の飲み物であるということ。また、水は生きる上で欠かせないもので、エチオピアには「水は食べ物の王様」ということわざがある。Adam's ale is the best brew.(「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


林家三平
林家三平師匠が肝臓ガンで亡くなられた。心からのお悔やみを申しあげたい。三平さんは、「お酒がいけない。お酒で身体の調子が悪くなった」と、五年ほど前ラジオ番組でご一緒したとき、そう私にいわれた。私は断じて違うと反論したのである。三平師匠のお酒の飲み方は、肴を食べないでウィスキーの水割りをガブガブとやる、という感じの飲み方だった。ピーナツやオカキ、さきイカというものだけで水割りを飲んでいたのでは、内臓のあらゆる部分がいかれてしまう。湯豆腐をつつきながら、日本酒をぬる目のお燗で、チビチビやる。酢のもの、いもの煮っころがし、小あじの酢づけ、などなどバランスのとれた肴を適当に食べながら、ゆっくりとお酒をいただかなければ「百薬の長」にはならない。(「あまからぴん」 佐々木久子)  林家三平の亡くなったのは昭和55年だそうです。


[成形図説(島津重豪著 文化年間)] 
古の神酒製る法は、吾沖縄にぞ遺りけらし、かの土音に神御気と称へり、こは神の御酒(みき)もて成れりと云の古語に由(よ)れり、其法十三四より十五歳までの女子の、端正なるを択て斉せしめ、甘蔗して歯を磨き、清水して口を洗ひ、粢(しとき)を咀嚼せしめて、醞醸(つくりもろみ)の中に投れば、一夜を経て成れり、其味甚甘美、酒色潔白なり、凡御気(みき)一升を造には、糯大上白米一升(搗粉なり)麦芽粉(ばこきのこ)五合、焼水八合、美水二合、絹篩にてとほし、煉調たるに、始糯米一升の中より一合許を分取置煉ず、生粉のまゝなるを嚼投也、此通証所レ謂古者㕮咀作レ酒、大隅風土記所レ載の口嚼酒、及竹内宿禰の歌に、此神酒を嚼けむ人と見えたる者なるべし、(凡其の女子の口気に由て御気の味或は甘く或は辛し、之を甘口辛口と云、今も酒味を云には、亦此より出たり、明世法録云、琉球国以レ水漬レ米越レ宿、婦人嚼以取レ汁曰二米奇一、米奇即御気なり)。(「酒の博物誌」 佐藤建次編著) 


二一 ロトの娘たち(一九ノ三〇-三八)
三〇ロトはツォアルから上って息女(むすめ)とともに山に住んでいた。彼はツォアルに住むことを恐れたのである。それで彼はその二人の息女とともに洞穴(ほらあな)に住んだ。三一さてその姉娘が妹娘に言った、「わたしたちのお父さんは年とっている。けれどもこの地の慣(ならわ)しのようにわたしたちの所に入(はい)る男の人はいないのです。三二さあ、お父さんにお酒を飲ませ、ともに寝て、お父さんによって子孫を得るようにしましょう」。三三そこで二人はその夜父に酒を飲ませ、姉娘がその父の所に入り、父と一緒に寝たが、ロトは彼女の起き臥しを知らなかった。三四翌日姉娘が妹娘に言った、「きのうはわたしがお父さんと寝ました。今夜もお父さんに酒を飲ませて、お前が入って一緒にお寝なさい。わたしたちはお父さんによって子孫を得るようにしましょう」。三五二人はその夜も父に酒を飲ませ、妹娘が行って父と一緒に寝た。ロトは彼女の起き臥しを知らなかった。三六このようにしてロトの二人の息女はその父によって身もごった。三七姉娘は男の子を生んでその名をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。三八妹娘もまた男の子を生んでその名をベンアンミと名づけた。彼は今日のアンモン人の先祖である。(「旧約聖書 創世記」 関根正雄訳) ロトはアブラハムの甥だそうです。 


おいらんにさう言ひんすよ過ぎんすよ酔なんしたらたゞ置きんせん[万載狂歌集、早鞆和布刈(はやとものめかり)]
禿(かむろ)が自分のつかえる遊女の客に向って、酒をのみすぎるなという言葉だけで一首としたところが独特の技巧で、吉原情緒が溢れるばかりである。作者早鞆和布刈は意外にも塙保己一で、彼は四方赤良とは読書の友として十数年前から交際があるが、このような歌を作るとは驚くほかない。群書類従出版の大業を成就したこの好学の盲人も、時代の影響は真逃れなかったと見える。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


年季奉公
ところで、落語や上方の人情喜劇に生きている、「年季奉公」とはどんなものだったのだろう。「年季奉公というのはね、奉公する本人の親と就職先とで話しあって、何年間でいくらというふうに、年限と報酬を決めるんです。いわば契約金。報酬のやり取りも親と奉公先とでするので、本人は知らない。主人からお小づかいをもらうくらいなんだね。年季中は、休みはお盆と正月に一泊の帰省が許されるだけ。その前の晩におしきせといって、縞や紺無地の筒袖の着物に帯、足袋、ぞうりもしくは下駄一式をもらって、新しい着物を着て家に帰ったもんですよ。二年目になると中番頭と言われて、着物が筒袖から袂(たもと)に変わり、番頭ともなると羽織がついたもんです。年季あけは当時一般に二十歳で徴兵検査のとき。無事務めあげたごほうびが主人側からあるものだった。私の場合は、京都奈良伊勢詣での旅行をお祝いにしていただいた。この蔵と吹上の実家しか知らない私にとっては、この大旅行は飛びあがるほどうれしいことでした。当時、京都御所も伊勢神宮も羽織袴かモーニングの礼装でなければ参拝できなかったんだが、私は持ってない。あなたのおじいさんが、これを着なさい、と自分のモーニングを持たせてくれて皮のトランクに一式詰めてその地その地で着替えして参拝したんです。-」(「四季の酒蔵」 小山織) 小山酒造社員、勝田(大正六年生まれ)の思い出話だそうです。 


蓮花寺にて中酌の酒の出けるによめる  新海
濁り酒のにごりにしまぬお心は中汲てこそしるき蓮花寺

奈良の酒家にて酒すゝめけるにとかく時宜しけれと後には大酒盛になりたりと人の語るを聞て  源有純卿
本哥 ならざけやその手作りを時宜せしはとにも角にもねち上戸哉(「古今夷曲集」) 古今夷曲集は、寛文年間に生白堂行風の編で刊行された狂歌集だそうです。 


ちっくり、ちゅう、ちろり・の・さけ、ちん
ちっくり ①警官に密告すること。 ②密告する者。(強盗・窃盗犯罪者用語)(大正) ③酒の密造をすること。(闇言葉)(現代)
ちゅう[酎] 焼酎。(俗語)(現代)
ちろり・の・さけ[ちろりの酒](名詞)句 長続きがしないこと。[←のじがない](洒落言葉)(江戸)
ちん5 酒を飲むこと。(強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


酵母のゲノム解析
酵母のゲノム解析は一九九六年二月に全部終了した。一六本の染色体DNAの塩基配列が、端から端まで決定されたのである。このゲノムプロジェクトは、欧、米、加、日の約二〇の研究機関が参加して行われた。一九八九年に開始されてから七年目の快挙である。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


たるひろひ【樽拾】
酒屋、醤油屋の小僧で、空樽を集めて廻る者。商売柄、裏口から突飛に這入り込むので、下女下男の濡れ場などに逢着する事がよくあつた。安藤冠里に、有名な樽拾ひの句があるが、この冠里はは奥州常盤平の藩主、(安藤)対馬守信友の号である。
樽拾いあやふい恋の邪魔をする 危ない逢引きの
樽拾ひよこへはちつと早過ぎる 何しても早熟
名句にはなるとも知らぬ樽拾ひ 安藤冠里の句
雪の日は文台に乗る樽拾い あれも人の子の句(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 話題になっている句は、 雪の日やあれも人の子樽拾い です。 


狂歌酔吟藁百首
飲酒も隔てぬ中のおもひさし かたなゝきまでゑひにける哉
濁酒すみかたき世になからへて いつまてとてか身をしほる蘭
数ならぬ身さへいかてゑひぬらん さけは人をもきらはさりけり
二日酔けふ三日の原あかすなを さかてにやらん衣かせやま
見るからにやかて上戸のほし病 みにてはなをるくすり酒かな
色をみてこゝろにかけてあく酒の さしたることはなけれとものめ
たくひなき大さかつきの酒をこそ 上戸の淵といふへかりけれ(「狂歌酔吟藁百首」 暁月坊) 


酒席の会話はネコの毛か?
ネコはもともと単独生活する動物で、とくにオスネコが他のオスネコとおなじ家のなかに住むという飼いネコの状況は、彼らにとって異常としかいえない。-
問題はどうやって折り合いをつけるかだ。-
一匹のネコがすでにそこに座っている。もう一匹はおずおずとそこに近づき、座っている猫の首のあたりの毛をペロッとなめる。相手がだまっていたら、もう少しなめつづける。すると相手もこっちを向いて、近寄ってきたネコの毛をペロッとなめる。こうしてしばしペロペロとやっていると、了解が成立する。二匹は毛を逆立ててフーッといがみあうこともなく、並んで座っていることになるのだ。-
人間はそれを酒席の会話でやっているのではないか?人間にはネコみたいには毛がないから、毛にさわるというのはまた別の意味をもってしまう。毛をなめたりしたら、重大なことである。そこで言語がその代わりをしているのではないか、というのがぼくの「言語=ネコの毛」論だ。毛のない人間は、言語を毛とおなじ意味に使って、お互いになめあい、それによって折り合ったり、あるいはもっと仲よくなったり、ときには肝胆相照らしたりしているのではないか?(「酒席の会話はネコの毛か?」 日高敏隆 「酒宴のかたち」玉村豊男編所収) 


35酋長サケノンクル
この地(新冠(ニイカツプ)場所)のアイヌはすこぶる山中の猟を好み、いつも弓矢を持ち歩いて、その性質は剛勇である。現在、この地の総酋長を勤めているのがサケノンクル、その名を日本語に訳すれば大酒飲みという意味だという。常に大酒を飲んで、酒さえあれば一粒の穀類も口にせずに十日も二十日も上機嫌で過ごしている。酒を飲むとふだんの十倍もの大力となって、大木や大石を持って力比べをすれば、村中だれ一人としてかなう者はいない。四百人あまりものこの場所のアイヌたちは、サケノンクルの一言に草木がなびくかのように従って、その命令にそむくもの、軽んじるものは一人としていないという豪傑である。年齢はすでに六十七歳、頭髪は秋の霜のように純白になっており、身の丈は六尺二、三寸(百八十四~六センチ)ほどもある。勇気凛々として、まだ少しも衰えをみせない。サケノンクルの幼いころ、間宮倫宗(林蔵)殿がその性格を愛して、山中探検の折に召し連れられた。そして別れにあたり一挺の墨を与えて、宝物に収める箱を作ったならばこの墨で塗るがよいと言われた。彼はこの今もその時の記念として大切に持っており、僅か十日ほど間宮殿に従っただけであるのに、その間、すこぶる親切にしていただいたと語っては、その墨に見入っていた。そして時々は木幣(イナウ)を削ってはその墨に供え、拝んでいるとのことである。私は七月はじめ、彼の家を訪ねて一泊し、各地のことを尋ね、また間宮殿の山脈水脈探検の話などを聞いて、大いに有益であった。そこで、この酋長の純朴さと、間宮殿の民衆に対するなみなみならぬ愛情とに感銘を受けたままを記しおくものである。(「アイヌ人物誌」 松浦武四郎 更科源蔵・吉田豊訳) 


少のんで不足
万(よろず)の事十分に満(みち)て、其上にくはへがたきは、うれひの本なり。古人の曰(いわく)、酒は微酔にのみ、花は半開に見る。此言むべなるかな。酒十分にのめばやぶらる。少(すこし)のんで不足なるは、楽みて後のうれひなし。花十分に開けば、盛過(さかりすぎ)て精神なく、やがてちりやすし。花のいまだひらかざるが盛なりと、古人いへり。(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂) 


十三祝いの日
十年を一昔とみれば、昔の昔の昔から、ぼくは酒を飲んで来たわけである。飲んで来た酒は主に泡盛で、生れが泡盛の産地の沖縄だからである。十三歳の時、十三祝いの日に酒を飲んで、千鳥足になったことを覚えているが、そのときに酒の味を覚えたのかも知れない。(「酒友列伝」 山之口貘) 


食味と酒造適性
もち米には粘りがあるが、これは、アミロペクチンという枝分かれ構造をもつ粘りのあるデンプンからできているためである。うるち米にはアミロペクチンも含まれているが、直鎖状のアミロースというデンプンから構成されている。アミロースの多い米は、炊いても冷えてくると早くポロポロになりやすい。インディカ種はとくにこの性質が強い。さて、これらの米を酒造りに使用する場合のことを考えてみよう。もち米は、蒸すと粘りがでて餅になってしまい、麹にすることができない。インディカ種の外米は組織が固く水を吸わないから、蒸してもすぐポロポロして乾いてしまい、麹にならない。この米の醸造への利用は、「二度蒸し」という特殊な蒸し方をするほかない。私の経験では日本酒用の蒸米としてうまくいったためしはなかった。新しい研究が必要である。短粒の内地米は、アミロースとアミロペクチンの比率が適当で、その蒸米は麹カビの生えやすい性質をもつ。食する場合には、アミロペクチンが少し多いほうが粘りがあって好評のようだ。コシヒカリやササニシキがこれで、北海道の「雪ひかり」や「きらら」などはアミロペクチンの多い品種への改良に成功した成果である。酒造好適米は食べてもやわらかく歯ごたえがないのでおいしいとはいえない。食味と酒造適性がぴたりと一致することはなさそうである。(「日本酒」 秋山裕一) 


越後・南部・丹波杜氏の出稼ぎ先
たとえば、三大杜氏集団に数えられる越後杜氏・南部杜氏・丹波杜氏に例をとると、越後杜氏の場合、明治中期ごろまではほとんどが上州(群馬県)にでていた。そのため越後では、酒造りの出稼ぎのことを「上州行き」と呼んでいたほどである。また、南部杜氏も、やはり明治中期までは、北は青森県、南は宮城県までにかぎられていた。とくに、仙台方面には酒蔵が多く、「仙台稼ぎ」といわれるほど格好の出稼ぎ先となっていた。丹波杜氏の出稼ぎ先は、もともとは池田(大坂)・伊丹・灘地方(兵庫県)であった。もとより、そこは大坂(阪)という大消費地をひかえ古くから酒造業のさかんなところであり、さらにそれが江戸への廻船が発達した江戸中期以降、丹波が地の利を得て、早くから労働力を供給することになったのである。しかし、今日では、その勤務地は広域にわたっている。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 


料理 辰巳屋吞七(たつみや のみしち)
ふか川 松本  平清 まくらばし 八百松  植半  魚十 やなぎばし 橋本 みめぐり 栢や  大文 もと丁 稲田 ふか川 倉田 八まん 万千 みどり丁 魚久 まつい丁 大吉 うおがし 魚彦 あいおい丁 魚新 さが丁 魚幸 ふか川 魚徳-(「東京流行細見記」 清水市次郎編 明治文化全集) 


おまえらは堕落している
こんな逸話がある。骨董の目利きとして知られた青山二郎が東京・京橋に開いたバーに、中也は毎晩通ったが、来る客来る客に中也が絡んだことから客足が遠のき、一説によると、そのせいで店はつぶれたのだという。中也は、酒場で知らない人同士の会話にも耳をそばだて、気に入らなければ、「おまえらは堕落している」と絡んだという。芸術論に我を忘れた。中也は身長1メートル50センチほどと小柄。「喧嘩が弱いのに、喧嘩っ早いから、すぐ負けるんですよ。だから一緒に吞んでいた友人はいつも止め役で、中也を介護しなければならないんです。」中也の文章に、ウイスキーや焼酎は登場しない。もっぱらビールと日本酒だったようだ。(「あの人と『酒都』放浪」 小坂剛) 中原中也の酒 怒り酒 


酒と煙草に
酒と煙草にうつとりと
倦(う)めるこころを見まもれば、
それとしもなき霊(たま)のいろ
曇りながらに泣きいづる。

なにか歎かむ、うきうきと、
三味(しやみ)に燥(はしや)げるわがこころ。
なにか歎かむ、さいへ、また
霊はしくしく泣きいづる。(「酒と煙草に」 北原白秋) 


酒殿歌

83酒殿(さかどの)は 広しま広し 甕(みか)越しに 我が手な取りそ しか告げなくに<或いは云ふ、「せぬわざ」>-

84酒殿は 今朝(けさ)はな掃きそ 舎人女(とねりめ)の 裳(も)引き裾(すそ)引き 今朝は掃きてき-
注 83 一 酒を造るための建物。宮廷の社殿は酒司(みきのつかさ)が管轄した。神社・貴族などでも設けた。「酒殿ヲ造リシ処ハ、即チ酒屋ノ村ト号(なづ)ク」(播磨国風土記・加古郡) 二 「ま」は美称の接頭語。「間(ま)」ではない。 三 ミは接頭語、カは容器のことで、水や酒を入れたり、酒を醸したりする大甕。 四 そうしなさいと言わないのに。「告げ」は神の意思の表示ともみられる。 五 末句の異伝。「しかせぬわざ」の略した形で、そんなことはしないことよ、の意。
83 一 「舎人部」の転ともされるが、「舎人社(をとこ)」(万葉集三七九二)に対して「舎人女」といったのであろう。尊貴の人に近侍して雑事に従う女。 二 女の裳裾引いて歩む姿は、上代人にとって優美な印象を与え、常套的表現となっていた。- (「神楽歌」 校注 臼田甚五郎・新間進一) 女と酒 


十分之一役米
松平定信による寛政改革もあって、酒造制限は寛政年間も継続された。享和二年(一八〇二)になって、出水、米価騰貴のため「十分之一役米」というものが酒屋に課せられることになった。酒造米の十分の一をあらかじめ供出させ、飢饉の際の備蓄米にしようという趣旨だったが、早くも翌年には廃止となった。今日まで残されている酒屋の陳情書によれば、事情はこういうことらしい。天明八年の酒株改めの際に申告された酒造米高というのは、幕府が二分の一とか五分の一とかの厳しい酒造制限を実施してくることをあらかじめ見越し、実際よりもかなり水増し申告されたが、十分之一役米はその申告高をもとに課されることになったので、酒屋はあわてたのである。為政者と酒屋の知恵比べだ。(「江戸の酒」 吉田元) 


中尾清麿
"誠鏡"の中尾義孝社長の父君、故清麿さんは醸造試験所、後に東大の坂口(謹一郎)教室に学び、そこで酵母の培養法を研究して、香りの高い果実酒酵母を清酒醸造に応用する高温糖化酒母という新法をあみ出し、昭和二十三年には、鑑評会で"誠鏡"を一躍日本一の銘酒に仕立て、その名を全国にとどろかせた。この方法は山陽、山陰はもとより、全国にいきわたるようになり、特に熊本県はこの手法を上手に取り入れて、後に"西海"、"香露"、"美少年"、"通潤"など、芳香の高い酒が輩出する因となった。(「さけ風土記」 山田正一) 戦後の吟醸酒の流れ 


アナクレオーンを              エジプトの太守ユーリアーノス
いくたびも、さう私は歌って来たが、塚のなかからまで 叫ぶだらう、「はれ、方々、さ、お飲みなされよ、かうした、灰の衣を召されぬうちに。」(七・三二)(「ギリシア・ローマ抒情詩選 献詩および諷刺詩」 呉茂一訳) 


酒諺集
赤鬚に酒見せるな ★赤ひげ者には酒好きが多い、という俗説による。
一杯は口汚し、二杯は咽喉(のどもと)知らず、三杯から後は言わぬこと ★酒の味覚の進み具合。気ままに過ごすと大酒になる、と。
煎酒(いりざけ)は九二一が伝 ★酒九・醤油二・酢一の割で調合する煎酒造りの法。
お情けよりも樽の酒 ★サケの音通洒落で、小銭を貰うより一杯のほうがよい、と。
霞を酌む ★飲酒の中国的表現。
借るは八合、済(な)すは一升 ★借りた金は利息分として多めに返すのが礼儀。 
 (「日本の酒文化総合辞典」 荻生待也編著) ★のついたものは、編者による略解だそうです。 


大木代吉本店の料理酒
大木代吉本店のもう一つの主力銘柄は料理酒だ。料理酒といっても醸造過程でアミの酸度を高くし、旨味成分をたっぷり残した純米酒のことだ。グルタミン酸やプロリン、アラニンなどの成分で構成されるアミノ酸は、米のタンパク質が酵素分解される過程で生ずる。-
大木代吉本店では、旨味のある日本酒を造るためアミノ酸度を高める発酵技術を取り入れている。もちろん、"濃縮純米酒"ではなく、純米酒として造ったが、飲み口が「まったり、濃厚、べったり」とした印象の酒は、消費者の嗜好に合わず、まったく売れなかった。この「どうにもならない酒」に目をつけたのが新潟の海産物メーカーだった。このメーカーは海産物の調味料として、毎年、タンク三本分の料理酒を買い取っていた。不思議なことに大木代吉本店の料理酒を使うと味が向上するだけでなく、防腐剤を使わなくても済むことが分かった。「飲んでおいしいし、調味効果も高い。アミノ酸など有用成分がバランスよく保たれている、究極の健康食品です」(大木さん)。その後、自然食品ブームなその影響もあり、全国の有名料理店や大手食品メーカー、首都圏の生協などからも注文が舞い込むようになった。しかも、料理店は和食に限らず、洋食からも求められるようになった。東京都渋谷区広尾のイタリア料理店「アクアバッツァ」のカリスマシェフ・日高良実さんは「イタリア料理の隠し味として素晴らしい。世界に通用する料理酒だ」と語ったという。料理酒は今では大木代吉本店の全石高約二千石の四〇パーセントを占める主力銘柄になった。(「挑戦する酒蔵」 酒蔵環境研究会編) 


水鳥記序
うれづれなるまゝに、日ぐらしさかづきに向ひて、心のうつるまゝに、よくなし酒をそこはかとなくのみつくせば、あやしうこそ物くるおしけれ、いでや此の世に生れては、下戸ならぬこそおのこはよけれと、よしだの兼好がいひをきし、とかくのむほどに、上戸の名はたつた川、もみぢ葉をたきて酒をあたゝめけんも、いづれわれらが先祖とかや、その子孫として今樽次と示現し、酒の縁起を尋るに、異国にて杜康と云ふ人の妻、癸酉(みずのととり)の年はじめて作りそめければ、三ずいに酉をかきてさけとよむ、是を水鳥の二字に通用して、かく名付たるべし、今此の品々をあらはすも、酒の一字をひろめんが為也、是かや釈尊法華八軸をとき給ふも妙の一字をのべん為め、それは一切衆生堕獄せん事をかなしみて、成仏なすべきための仏法、是は遍の下戸共の呑ざる事をなげきて、上戸へ引いれん為の酒法、かれは天竺にて釈尊のじひ、是は吾が朝にて樽次の情、国こそちがへ、世こそかはれ、人を教化して民をすくひ給ふ方便は、瓜を二つに割りたるごとくなれば、何れなら漬(奈良漬け)の類共思はるゝ、其上仏法には、飲酒戒とて酒呑む事をいましめけれ共、天竺の末利と云ふ女人には、釈尊みづから酌とつてしゐ給ふ、我はして人のぼらけやきらふらんと、世俗の諺ににたる教化なれば、用てせんなしとて、貴僧高僧よりあひ、終に此戒をのみやぶり給ふはだうり(道理)、かく五戒のうち一かいやぶりぬれば、あとは四海なみしづかにて、国もおさまる時津風と、うたひたのしめるも、是みな水鳥のわざなれば、かく名付侍るとぞ、(「水鳥記」 地黄坊樽次) 慶安年間記事 


酒屋の店印・後払いで酒をのむこと・酒屋の使用人・醗酵する
【酒屋の店印・さかばやし】(本)さかぼて(筑後久留米(はまおき))・ほて(九州(日葡辞書))。
【後払いで酒をのむこと】(本)ではい(宮城県加美郡)。
【酒屋の使用人】(本)くらまり(青森県北上郡)。
【醗酵する】(本)いきる(奈良県吉野郡)・くみる(奈良県宇陀郡・岡山・広島)・ねる(徳島県美馬郡・高知)・もえる(淡路島)・わく(秋田・岩手・奈良県北葛城郡)。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録) 


大木戸辺の酒店
又本文大木戸(内藤新宿)のから汁、腹の薬云々とあるが、『西駅竹枝』に
暁鴉声裡筍輿軽、郎去誰辺解二宿醒一、恰有三風流勝二玉糝「米参」一、旗亭先進雪花羹
大木戸の豆滓汁(かすじる)、他の茶肆、酒楼に比すれば遙(はるか)に早く店を開(あけ)て、帰客の卯飲(ぼういん)を待つ。朝帰りの客を待つ酒店にて、大木戸の辺、今も此類の酒店あり。(「権蒟蒻」 山中共古 中野三敏校訂) 山中の注部分です。 


「生」
「生そば」の看板を滅多に見なくなった。灘の生一本という言葉も減った。まして生醤油など。が、言葉もうつろいゆく生きもの、歎くわけではない。私はずっとナマビールだが父の代には「キビール」で、熱燗はアツガン、初恋の味もハツゴイだったというから、歌舞伎の生世話(きぜわ)物もそのうち「ナマセワモノ」になるかもしれない。(「酒は道づれ」 河竹登志夫) 


④店を出る
しかしそこで甘美さに流されないのが酒徒の矜持であろう。会話が盛り上がっても声を張り上げず、カラオケは強く勧められた時だけの数曲を歌い、女性客にはしつこく迫らず、「もう一軒」と誘われてもやんわりと断り、再びひとりで夜の帳(とばり)の街へ出て、客数の少ない侘しい酒場で弱い酒をすすって仕上げとする。できるならば終電までに酒宴を終えて電車で自宅へ向かい、一駅二駅前で下りて、遠い夜道をとぼとぼ歩いて帰る。寂寥感をもって酒場へ向かい、寂寥感とともに帰宅する。そしてひとり、冷たい布団にくるまって眠りにつく時、人生の意味や、酒と酒場がこの世に存在する意義に少し近づけた気になるのだ。(「場末の酒場、ひとり飲み」 藤木TDC) 


蛇之介
じゃのすけ。酒くせの悪い奴を俗に蛇之介という。出所は、前の八岐の大蛇が酒で失敗し、身を亡ぼしたことから…底抜け上戸のことをいう。甘口酒が流行しても、酒を甘く見てはならぬ。(「酒鑑」 芝田晩成) 


テンシンランマン
北京の東安市場の「和風」という日本料理屋に、先年招かれた。サシミや酢の物うや味噌汁もある。びっくりしたことに、秋田の「爛漫」という酒が、燗をして、卓上に供された。「日本から取り寄せているんですか」と通訳をしてくれている青年にいったら、「ハイ天津から、陸揚げします」「なるほど」「テンシンランマンです」 (「ちょっといい話」 戸板康二) 


わがトラ箱記
私はまだブタ箱というものの経験はないが、先日始めて警察のトラ箱という施設のお世話になった。その日は昼食に銀座のR屋に寄った。タンシチュウの類を赤葡萄酒で流し込み、コーヒーを飲んでいると、ここの常連の佐野繁次郎さんが見えた。誘われるままに同席し、愛用のブランデーを一本テーブルの上にあてがわれたので、つい私は手酌で杯を重ね、懐旧談を愉しんだ。思えば横光利一氏の『寝園』の話なんか、私は今文壇の誰よりもこの画家と話が合うのである。そこを出てからしばらく記憶が途切れる。気がついて見るとベッド、といいたいけど、医者の診察室にあって腹を診る時寝かされるあのリノリウム張りのベンチの上で寝ていた。枕許には水洗便所がむき出しであった。それはいいけど、壁も窓も扉も頑丈な金網ばりである。私はふとソルジェニチンの小説の主人公のような気がした。しかし扉は中から叩くとすぐ係官が鍵で開けてくれた。取りあえず水を一杯所望するとコップについで持って来て下さった。やがて係官は、「おうちで心配しているといけないから電話をかけて上げましょう」というので番号を教えると、女房は警察から電話だというので、その時初めて心配し、「で、今どうしてます?」と聞き返すと、「いや、もうキ然としていらっしゃいます」と答えたそうだ。そして警察官は、「一人で帰れるとおっしゃるけれど、やはり誰か迎えに見えた方がよくはないですか」というので、女房はそこの近くに住む妹に電話したら、夫婦が車で、迎えに来てくれた。義妹が「あには一体どうしていたのでございますか?」と聞くと、警官は、「いやなに、原稿が出来て届けたら気が弛んでお酒が過ぎたらしいのです」と答えたという。義妹はその先でどんな格好でつかまったかくらい聞きたかったのだが、警察官も、医者や待合のおかみのように、やたらに個人のプライナシーは人にしゃべらないというエチケットがあるのだろうか?(「旅酒猟」 河上徹太郎) 


ショウジョウバエと花酵母
長年の野生清酒酵母研究の中で判明したことは、野生清酒酵母は添加優良酵母を汚染し、製品の香味を害する悪玉タイプがおおいということでした。その中で、花から採取した酵母の中にこれまでの清酒酵母と比較し、さらに個性豊かで特徴のある菌株があることを発見したのです。ということは、過去日本人が日本酒を造ってきた中で使用してきた自然界の酵母は花から来ていたといえるかもしれません。日本酒の蔵には「蔵付き酵母」なる言葉がありますが、それらの酵母は小さなショウジョウバエが運んでくるといった先生がいます。蔵の近所の花を飛び回ったショウジョウバエが体に付けた酵母菌を運んでくるといった可能性は大きいと思いませんか。-
花酵母には「ナデシコ」「アベリア」「ヒマワリ」「カトレア」などなどがありますが、秋田県の地酒「天の戸」は町の花である「菖蒲」から採取した酵母を使った酒造りもしています。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


新聞少年がからまれた朝
東京・渋谷の広告代理店に勤めるH氏(三七)は、作家・安部譲二氏に似た風貌(ふうぼう)と体格の持ち主である。おまけに、すこぶる酒好きときている。酩酊(めいてい)状態になると、やたら怒りっぽくなる。それで、出入り差し止めになった飲み屋も三、四軒ではすまないし、ナマ傷が絶えない。なにしろ「安部譲二」が暴れるのだから、並の酔っ払いとは迫力が違う。深夜、地元の商店街のシャッターを軒並みたたいて回り、ひんしゅくをかったこともある。酔ったあげく乗り潰した自転車が三台。なくしたカバンは数知れず。先日は、ころんで後頭部を切り、五針も縫った。そんなH氏が、今でも初夏になると心を痛ませる事件がある。五年前のことだ。常々、夕刊の配達が遅いことに不満を抱いていたH氏は、その日、担当の新聞少年に出会った。「こらっ!晩飯に間に合うように配らんかい」と、一喝すると、少年は声も出せずに立ちすくんだ。「黙ってないで返事ぐらいしろ。だいたい、お前のところのP新聞は愛想がない。たまにはQ新聞みたいに、野球の切符やタオルくらい持ってきたらどうだ…」と、たたみかけた。ようやく少年は重い口を開いた。「あのう、お言葉を返すようですが、これ朝刊なんですけど…」とっさにH氏は、昨夜から朝方まで飲みっぱなしだったことを思い出した。「ウム、なあ、なんでもいい…」H氏は逃げるように自宅へ駆け戻った。以降、H氏は新聞少年に一言も文句をいっていないし、ずっとP新聞をとり続けている。周囲の人たちは、これがH氏が飲んだうえでの行為に唯一(ゆいいつ)、反省した希有(けう)な例と考えている。(「デキゴトロジー」 週刊朝日風俗リサーチ特別局編著) 


③まずは黙ってお通しを待つ
さて、席は決まった。その後どうするかである。ここでいきなりじたばた動くべきではない。手元にメニューが置かれていればそれを、壁に張ってあるものならチラチラ眺めて、店の者が声をかけるのを待っていればいい。この"待っている"間合いこそが、店側の人間が客の器を判断する重要な瞬間である。初めての店は緊張するので座った途端にキョロキョロして「ええと、レバ刺しと煮込みと板わさ!」とか「レモンサワーできますか?」などと素っ頓狂に声をかける一見客がいるが、この時、店側はおしぼりやお通しの小鉢を準備していたり、客が一見なのか、かつて誰かに連れてこられたリピーターなのか記憶の引き出しをひっくり返している状況だったりするので、段取りを遮断されるとあまりいい気持がしないし、「ちょっと待ってね、今お通しを出しますから」などとあしらわれても客として気持がそがれる。黙って待っていれば、店の人間はかつても訪れたことのある客ではないかと考えて、丁寧な対応をしてくれることが多い。だからカウンターやテーブル席に座ったら、余裕の表情で店の人間のほうが動くのを待っていればいいのだ。(「場末の酒場、ひとり飲み」 藤木TDC) 


釈奠の爵
「爵(しゃく)」(写真)は「酌」と同じ言葉で、「酒をくむ器」のこと。「さかずき」のことである。これに「玄酒」を入れて供える。玄酒と言うのは、水のことである。水のことを「玄酒」、即ち「黒い水」と言った。黄色をおびた普通の酒に対して、水を「くろ色の水」と言ったのである。お供え物は、人の手を息やかからないものを善しとしたので、普通の酒ではなく、ただの清い水をお供えするのである。(お茶の水の湯島聖堂にあった爵の解説) 釈奠(せきてん 孔子を祀る典礼)での祭器の一つだそうです。

 


強さを発揮できる環境
まず、酸素なしでも生育できる性質は、酸素がなければ生きられない微生物、たとえばカビ、キノコ、多くのバクテリア、藻類、粘菌などに対して有利である。微生物のなかには、逆に酸素が少しでもあれば生きられない種類がいる。たとえば、ビフィズス菌やクロストリジウム菌などだ。酸素があっても生育できる性質は、そのような絶対嫌気性バクテリアと棲み分けるのに役立つ。レモン並みの酸性は普通のバクテリアには耐えられない条件だが、酵母はそれに耐えて増殖できる。糖はほとんどすべての生物にとってよい食べ物である。しかし、ただ多ければよいというわけではない。糖尿病にみられるように、ヒトの場合も血糖値が高くなるといろいろな障害が現れる。微生物でも濃い糖分を苦手にするものが多い。しかし、酵母は高糖環境にめっぽう強い。しかも、酵母は大食漢で、一時間に自分の体重の何倍もの糖分をペロリと平らげる。この大食漢であることも、酵母の特徴といえよう。酵母は、糖分が十分にあれば、かるく一〇%以上のアルコールを生産する。しかも、アルコール耐性も強いので、アルコールを武器として生存競争を有利に展開することができる。以上をまとめると、酵母は、①酸素が乏しく、②酸性で、③糖分が高く、④アルコールが蓄積する、ような環境で強さを発揮することになる。これは、とりもなおさず酒類製造の環境である。逆にいえば、酵母はこれ以外の環境には弱いともいえよう。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


日本清酒発祥の地 にほんせいしゅはっしょうのち[食品]
日向の国(現・宮崎)は天孫降臨の地とされ、西都の都万(つま)神社で木花開耶姫(このはなさくやひめ)が造った甘甜酒(あまのたむざけ)が日本最初の酒といわれる。
[碑名]日本清酒発祥の地
 清酒綾錦 雲海酒造株式会社
[所在地]宮崎県西都市妻1都萬神社(「日本全国発祥の地事典」 編集・発行 日外アソシエート株式会社) 


山紫水明処
ところで、この十九世紀前半の化政期に、鴨川の遊所に別業(別荘)を構えた人がいる。頼山陽である。すでに紹介した「荒神河原」に面した「新三本木」である。この地が「新地」として開発された十八世紀の当初は、まだ旅篭屋二軒と記されるほどのものだったが、それがたちまちにして遊所として大発展をみることになった。舞い系の上品な芸を見せる芸者が出入りし、十九世紀にはかなり上層の人びとが出入りしていた。山陽は、ここに「水西(すいせい)荘」を構えたのである。文政五年(一八二二)のことだった。「水西荘」といえば、あまり聞きなれないむきがあるが、「山紫水明処(さんしすいめいしょ)」といえば、だれでもわかる。「山紫水明処」とは「水西荘」の離れ座敷を指していう。彼はこの「山紫水明処」に多くの文人を招き入れ、「煎茶サロン」を創りあげている。彼の交友関係はきわめてひろかったから、じつに多くの人びとが出入りしたという。煎茶が終わり、酒宴となれば、すぐそばの料亭から「仕出し」(出張料理)を頼めばよろしい。おそらく談論風発し、「文雅養性之場」としての「夜宴」が延々とつづけられたであろう。天保三年山陽はここで没しているが、このあいだに、それこそ延々たる大著『日本外史』『日本政記』を書きあげている。(「京阪水辺の遊宴」 森谷尅久 「酒宴のかたち」玉村豊男編所収) 


方言の酒色々(14)
結婚式が済んでから泊まり客に勧める酒 ねざけ
結婚式後の夫婦が床入りの前に寝室で飲み交わす酒 ねやさかずき
嫁や聟をもらう最初の交渉の時に飲む酒 くちわりざけ
嫁を送って行って帰った時に飲む酒 しったぐりさけ
嫁入りの荷物を担いだ人足などが帰る時に飲ませる酒 わらじざけ/わらんじざけ(日本方言大辞典 小学館) 


涼葛(りょうくず)豆腐 ひんやり、つるるん
① 豆腐は食べやすい大きさに切り、片栗粉をまぶす。
② ①を鍋に沸かした湯にくぐらせて氷水に取り、山椒(さんしょう)と塩を添える。
※ゆずこしょうや梅しょうゆでもおいしいわ。
P0int1 天ぷらの衣をつけるみたいにつけて、片端から鍋に入れていくの。片栗粉を溶かさずに、豆腐の表面にまぶしてハケではらうという方法もあるわ。
Point2 豆腐を氷水に取ることで、ゼリー状になった片栗粉が、ひんやりツルツルの舌ざわりに。
材料 絹ごし豆腐…1パック 片栗粉…大さじ3 山椒・塩…適宜(「R25酒肴道場」 荻原和歌) 


満盃で綴り字を読む
【意味】人の健康を祝って乾盃する場合、その人の名前の綴り字の数だけ飲みほすこと。
【解説】この奇妙な習慣はすでにすたれたが、十六世紀の詩人ロンサールに次の詩がある。「さて、みなの衆、忘れまいぞ、われらの心をひとつに結んだ、いとしい女の名を!親しい友よ、あの子の名の文字の数ほど、盃をあげようぞ。わしはここのたび、カッサンドルの名にちなみ、ここのたび飲むぞ。
【参考】Cassandreはフランス綴りでは九文字である。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助 


②さあ、入店
この店と決めたらいよいよ入店となるが、いきなり無遠慮に戸を開けてずかずか奧へ入るのではなく、まず店のドアを少しだけ開き、つつましく中をのぞいてみたい。店内が外観とまったく違った造作だったりすることもあるし、カウンターの中で働いている人々の顔も見られる。そこで、この店でよいという確信があれば、初めて堂々と入っていけばいい。予想と違う雰囲気があれば、静かにドアを閉めて退散する。そういうことをしてもまったくかまわない。自分に合う店を吟味することは悪いことではないし、店側の人間にとっても、いきなり横柄に入店し、望むものと世界観が違うことで不機嫌になる客を歓待するよりは、望み通りの店に入ってきた客をもてなす方が快適なはずだ。(「場末の酒場、ひとり飲み」 藤木TDC) 


あるじまうけ
最明寺入道(時頼)、鶴岡のの次(ついで)に、足利左馬入道の許(もと)へ、先づ使(つかひ)を遣(つかは)して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様(やう)、一献に打ち鮑、二献に海老、三献にかいもちにて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆弁僧正、主方(あるじがた)の人にて座せられけり。さて、「年毎に給はる足利の染物、心もとなく候ふ」と申されければ、「用意し候ふ」とて、色々の染物三十、前にて、女房どもに小袖に調ぜさせて、後に遣されけり。その時見たる人の、近くまで侍(はんべ)りしが、語り侍りしなり。(「徒然草」 吉田兼好 西尾・安良岡校注)  北条時頼の酒(2) 


出は士族で名主さまの伜
この良寛、出は士族で名主さまの伜(せがれ)、一八才のころ父の後を承けて帯刀もしていたが、ある盂蘭盆の夜、友と料亭で大尽気どりで、飲めや唄えの馬鹿騒ぎをして大金をつかい果してケロリ。翌朝帰途何をおもったか、とことこ近くのお寺に入って、惜し気もなくアッサリ頭髪を剃り落してしまった。「名主の家の昼行燈むすこ」というあまり有難くない尊称を誰からかつけられて、もっぱらボンヤリ息子とのみ世間でおもっていた良寛が、アッという間に丸坊主になってしまったから、どうもハナシがわからなくなってくる。坊主になるのが一番適していることを、良寛自身でよく悟っていた。その前夜は好きな酒に浸るだけ浸って、俗世間とのお別れの饗宴としたのだった。(「酒味快與」 堀川豊弘) 


よく飲む者はよく眠り、よく眠る者はよからぬことを考える[英]
酔っ払いが一本橋をうまく渡る[韓国](酔いどれ怪我せず)
酔っ払いが嘘を吐(つ)いたためしがない[英](酒は本心を現す)
酔っ払いに説教[スリランカ]
酔っ払いに文句を言うな[タイ](「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


火落ちの脅威
日本で火入れが行われるようになった初見は、一五六八(永禄一一)年の『多門院日記』で、「煮る」といったようである。フランスではパスツールが、ワインで火入れによる保存法を発明したのが一八六五年であった。その発見から一一年後に来日したイギリス人の化学教師アトキンソンは、一八八一年の著書で、日本では三〇〇年もまえから酒を加温してから貯蔵していることを驚きをもって記している。当時のやり方は、釜で直火で熱しており、温度は華氏一二〇~一三〇度(約五〇~五五℃)であったと書かれている。当時、火入れは漆を塗った釜で、直接に酒を加温して、樽や桶に移していた。木桶だから殺菌は不完全であるために、火落ち菌の増殖による白濁、腐敗(火落ち)は大変な脅威であった。灘の菊正宗㈱の江戸時代の記録文書に、火落ちをおこさず一年間を過ごしたときの杜氏へのボーナスの記録が残っており、今日の額にすると一〇〇万円を越える高額だったという(森太郎『酒造史研究会誌』九号 一九九一年)。(「日本酒」 秋山裕一) 


ビール、カクテル、シャンパン、オー・ド・ヴィー、ブランデー、ウイスキー、ラム酒のベスト
ビールのベスト サフォークのサウスウォルドのアドナムス
カクテルのベスト ローマのハリーズ・バーの「ベルリーニ」。新鮮な桃とシャンパンで作ってあります。
シャンパンのベスト ルイ・レーデレルのクリスタル・ドライ
オー・ド・ヴィーのベスト ポア・ウイリアム
ブランデーのベスト ドラマン
ウイスキー(モルト)のベスト クライネリッシュ95°プルーフ
ウイスキー(モルト)のベスト シバス・リーガル二十年もの
ウイスキー(ライ)のベスト オーバークロフト100°プルーフ
ラム酒のベスト ジャマイカの標準量以上のアルコール分を含んだもの(この島では「姑を侮辱する」として知られている)(「ベスト・ワン事典」 ウィリアム・デイビス編 クレメント・フロイト) 


①酒場を選ぶ
筆者が酒場を選ぶ際に第一に考えることは、まず古い店であるという点だ。これは築年数が長くワビサビ感のある店が好きだという理由が大きいが、もうひとつ言うならば、建物が古いまま営業している店は、改築のための経費をかけなくてもお客さんが来るから古い状態で続けていられると考えられるのである。経営者がたびたび変わる店はその都度改築を繰り返したりで、建物の外観がどこかよそよそしくアンバランスだ。壁や引き戸は古いのに暖簾はカラフルで新しいとか、店頭に張り出したおすすめの品書きが蛍光マジックによる丸文字とか、古い部分と新しい部分が混在している店はちょっと安心できないというか、純粋な興味よりも冒険心を強く感じてしまう。外壁にやたらおすすめの料理や高い酒のラベルなどを張っている店も、虚勢が見えるようでどうも好きになれない。良い店は一見、寡黙な外見をしているものだ。外見が古いままで一本筋が通っている店は、当たり外れでいえば、外れる確率が少ない。(「場末の酒場、ひとり飲み」 藤木TDC) 


酒挨拶、酒水漬く、助三杯、せこ、せこを入れる
酒挨拶 酒で客をもてなすこと。
酒水漬(さかみず)く 酒に浸ること。転じて酒宴をする。
助三杯(すけさんばい) 酒席で飲めない人を助けて、酒を飲むときには、続けて三杯飲まなければならない。これを「助三杯」
せこ 酒宴のときに、人々の間にたくさんの杯や銚子を置くこと。
せこを入れる 一種の無礼講をいう。宴会のときに席次や礼儀などにこだわらず、杯をやりとりすること。(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 


岡田酒粕
九十九夜かよひし人の足つよや見初めて我は腰をぬかすに[後撰夷曲集、酒粕]
深草の少将が小野小町のもとへ九十九夜通ったのは、よほど健脚である。私などは見そめると腰がぬけて、歩くどころではない。-作者岡田酒粕は酒の本場伊丹の人、重頼の門人である。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈)  


あんこうのとも酢
あんこうの肝を使って酢味噌をつくり、あんこうの七つ道具を食べるのが、水戸独特の食べ方「あんこうのとも酢」です。成魚の新鮮な肝はオレンジ色をしています。これに強塩をして十分に塩のまわるまでおいて蒸します。この塩の仕方が決め手なのです。安倍川塩といって、安倍川餅のきな粉のように、肝全体に塩をまぶしつけます。そしてこの塩がとけて流れだすまでおかなければなりません。肝からは生(なま)が抜けて、しっかりしまります。水洗いし、蒸気のよく上がっている蒸し器で十分に蒸しあげます。それはちょうどフォアグラ(料理につかうがちょうの肝臓)のようです。味噌は焼き味噌が一番です。祖母はかまどの前にかがみこんで七輪におき火をとり、木蓋に味噌を塗ってかざして焼いていました。弱火でていねいに焼いていました。水分がすっかりとんで、香ばしく色もこっくりした味噌と肝をすりあわせ、甘酢でのばしてとも酢をつくっていました。私は板の間にすわってすり鉢を持って手伝いました。今、便利なオーブンもありますが、とも酢づくりはどこかで、火にかざして焼いていたあの祖母の姿と重なりあってしまいます。黒い皮、真っ白な肉、コリコリした胃袋、鰓(えら)、鰭(ひれ)、プツプツした卵巣、オレンジ色の肝、そしてどうしても、緑のうご(おごのり)がほしいのです。「うごがなければダメ」といっていた伯父はお酒が大好きでした。(「ふるさとの料理むかし噺」 谷村寿子・中川紀子) アンコウのトモズ 


たく、たぬき・の・きんたま、たぼ、ちが
たく3[焚く](動詞) ①けしかける。 ②怒らせる。 ③抗弁する。[←たきつける] ④酒をのむ。[←石炭をたく](強盗・窃盗犯罪者、香具師・やし・てきや用語)(大正)
たぬき・の・きんだま[狸の睾丸](名詞)句 もう一杯。《お代わりを求める時の言葉》[←股いっぱい→又いっぱい](洒落言葉)(江戸)
たぼ2[髱] ①女[←日本髪で後ろの頚の上に張り出した部分をいうが、これは婦人だけに限られたため] ②酌婦。[←「酒たぼ」の上略。酒宴の席の女] ③私娼。(俗語)(江戸)
ちが ①酒。 ②酒を飲むこと。[きちがいみずの上下略語](強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


越後杜氏
そして、その地域名が杜氏の上に冠せられて、たとえば丹波杜氏、とか越後杜氏、南部杜氏などという呼称が生まれたのである。もっとも、時代により、その呼称に変化がみられる。たとえば、越後杜氏の場合、現在は新潟県下の杜氏すべての呼称となっているが、かつては郡単位に三島(さんとう)杜氏・刈羽(かりわ)杜氏・頸城(くびき)杜氏に三分され、さらに三島杜氏の中に野積(のづみ)杜氏・来迎寺(らいごうじ)杜氏などといったような集落単位の呼称もあり、それらを総括したのが越後杜氏であった。いまでも新潟県下の酒造地にかぎっては、そうしたかつての呼称が用いられている。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 


酒が成る
酒が、かなりいけるくちある。「まへのおんなが上戸で、迷惑致て去(い)なせたれば、又只今今のもさけがなる」(虎明狂=因幡堂)(「時代別国語大辞典室町時代編」 室町時代語辞典編集委員会 代表者 土井忠生) 


たるぬけ【樽抜】
酒屋の番頭などが私かに廓遊びをする事。
樽抜けを軽子猪牙から擔ぎ上げ 深川遊びの船から(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


元禄十年の酒株改め
酒株改めが実施された元禄十年には、実は食料不足だけが理由で酒造制限令が出されていたわけではない。調査の本当のねらいは、酒屋の造石高を把握して課税を強化し、幕府の財政を少しでも改善することにあったようだ。同年幕府は、造り酒屋に対して現行の酒価格の五割もの運上金(営業税・免許手数料など)を課することになった。このときの状況は東北の八戸藩の記録に詳しいが、大変な騒ぎだったようだ。江戸では十月八日、諸大名の留守居が勘定奉行萩原近江守に呼び出され、八戸藩からは柴田籐左衛門が出向くと、全国すべての造り酒屋に対して運上金、つまり営業税を課することになった。この運上金分を上乗せし、今までの五割増しの値段で販売せよ、とのことで覚書一通を手渡された。「酒の商売人が多く、下々の者がみだりに酒を飲み不届きである、値段を上げて酒を多く供給しないように」とある。財政上の理由のほかにも、庶民が酒を飲むのはぜいたくだとの為政者の考えが基本にあるようだ。しかし一気に五割増しとは大変な値上げである。すわ一大事とばかり、翌九日に覚書の写しが八戸まで飛脚で送られた。」この知らせが伝わると、八戸では酒をつくっても値段が高くなって売れなくなることを酒屋たちが警戒して米を買わなくなり、米価が急落した。結局、酒屋たちが自主的に生産を控えたため、期待したような税収は得られず、生産量が減って、酒価は高騰したが、それでも下々の飲酒がなくなるかというと、飲みたい者はそれでも飲むのが酒である。幕府のもくろみ通りにはいかない。非常に評判の悪かったこの運上金は、宝永六年(一七〇九)に廃止されている。(「江戸の酒」 吉田元) 


麹カムダチ
和名鈔に釈名を引て。麹は朽也鬱之。使衣朽敗也。カムダチといふと注せり。カムダチはカビダツ也。カビは殕(カブ)也。タツは起(タツ)也。蒸せる飯を「上:穴、下:音」(ムロ)にして。殕の起ちぬるをいふ也。旧説に。酒を醸するをカモスといふは麹也。米をカビさする也。と見えしこれ也。藻塩草にカブともいひ。カビともいひ。又カミとも。カモとも。カムともいふは。皆転語也。殕は和名鈔に。四声字苑に。殕は食上生白也といふ。今按ずるにカブといふと注したり。されど此(ココ)にしてカビといふもの。白を生じぬるのみをいふにもあらず。其物によりて。或は黄なる。或は白き。其色は同じからず。麹の如きは。黄なるあり。白きあり。紅なるあり。むねとは黄なるをもて正色となしぬれば。麹塵といふ色は黄なるをいふ也。今の如きは。麹をばカウヂといひ。麹塵をばキチンといふ也。梵語に迦毘羅(カヒロ)といふを。漢には青色といひ。又名劫畢羅。翻黄色といふ。迦毘羅劫畢羅。並に此にカビルといふ詞に相近し。これらたまたま其語の相似たる也。酒をカスミなどといひし詞は。此国に仏典いまだ伝得ざりし時より聞えたりけり。(「東雅」 新井白石) 


三田村豊さん
かつて、ここ(和歌山県)には三田村豊(故人)さんという負けん気の技師がいて、県産酒をここまで持ってきた大功労者であった。県酒造組合は住宅を新築し、退官後贈呈したという美談がある。(「さけ風土記」 山田正一) 


高校の修学旅行
高校の修学旅行の宿で大酔して体育の先生にからんだのが僕の酔っ払い人生の幕あけだった。「こらっ、△△。俺よりちょっと女を知ってると思って大きな顔するんじゃねえっ」と言ってからんだそうだ。その体育の先生にポカポカ殴られながらも介抱してもらったらしいのだが、何も覚えていない。相手が男気のある人だったので退学にならずにすんだのだろう。この醜態をさらしたのがくやしくて、それから毎晩酒を飲む「けいこ」をした。トリスのポケット壜一本で天井がまわっていたのが一日ごとに手があがっていき、二十歳くらいには一升酒でもへっちゃらになってしまっていた。(「『カチャカチャ酔い』について」 中島らも 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


新場の小安さん
いい顔役も沢山いたが、新場の小安さんはてえしたものでした。どんな喧嘩だってこの人の息がかかりゃ「うん」も「すう」もなく納まったものです。すしの立食いがその頃べら棒にはやっていやしたが、ある時一人の客が立食いで四ツやつけて四銭払って帰ろうとするから、すし屋が「四ツの中に四銭のが二ツあったから、金が不足です」というとその男は、「おれはどれも一ツ一銭だと思って食った、ゼニはそれっきりねえ」とこういうんです。江戸っ児は気がみじけえや、これをかたわらにいた若い衆が見て腹を立てて「「(ママ)すし」の値を知らねえ唐変木奴(とうへんぼくめ)」ってね。ポカポカこの客を殴った。客も強い奴で取組合っているところへ恰度通りかかった小安さんが、こいつを見ると客はおめえさん黒田清隆の殿様なのさ。びっくりして若い衆をだきとめて「馬鹿野郎この方のお顔を知らねえか」となぐりつけてしまった。黒田さんはあんな変わり者ですからかえって小安さんをなだめて「こいつは面白い男だ」と今の「しゃも屋」へ連れていって、うんと酒を飲ませたってことがありやした。-(魚河岸「樋長」、飯田徳太郎(八十一歳)談)(「五十年前」 東京日日新聞社社会部編) 


初代川柳の酒句(8)
馬に酒酔がさめると手におへず 素鳥(付け馬に飲ませたが、さめると却ってうるさい?)
生酔に成て陰間を壱度買 鼠弓(陰間買)
渋紙袋わきへよせ酒を出し 鼠弓(浪人の副業)
生酔か取つてハほふる放し亀 魚交(放生会での酔っぱらい)
下戸の連(つれ)ないと生酔立のまゝ 五扇(立てなくなるので、居酒屋では座らせないで飲ませる)(初代川柳選句集上 千葉治校訂) 


どうだ一杯やるか
恩恵といえば。もうひとつ特筆すべきは酒をおぼえたこと。成城へきてまもなく、夕食のとき父が「どうだ一杯やるか」という。相当の酒豪だった父が母に追加の一本をつけさせるための、策謀だったのかもしれない。が、酒の味は悪くなかった。「おどろいたね、この子はツーツーと飲んじまう。おいおっ嬶(か)ぁ、もう一本…」と拝む真似をして、父は上機嫌だった。五年ほど前ある随筆に「タバコは十五年前にやめたきり、吸いたいと思ったこともないが、酒の方は、飲みたくないと思ったことがない」と書いたら、酔客酒友の先輩岩崎友吉理博に、面白い表現だとおほめをいただいたが、その元は親孝行の晩酌相手。丈夫になったのも、じつはこの孝行の善果だと信じている。(「酒は道づれ」 河竹登志夫) 「旧七年制の成城高校尋常科-中学部-の三年のとき」だそうです。 


酒を飲ませて自己の意に従わせること、酒屋・売酒屋、飲み屋・居酒屋、おでんかん酒屋
【酒を飲ませて自己の意に従わせること】(本)ちょくしばり(大分県南海部郡)。
【酒屋・売酒屋】*つくりざかや(三一二ペ)(本)あげざかや(埼玉県幸手・熊本県南関)・いたかんば(淡路島北部)・またろくや(鳥取)・またろく(隠岐)。
【飲み屋・居酒屋】(本)ざるそば(神奈川県高座郡)・でごや(熊本)。
【おでんかん酒屋】(本)じょーかんや(大坂(浪花聞書))。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録) 


酒屋
或書に云(いはく) 酒ハ天竺の摩河娑利夫人(まかしやりぶにん)はじめてこれをつくるに 其年癸酉(みずのへママとり)なるがゆへに 三水(さんすい)に酉(とり)を書也 又云 堯(ぎゃう)の代(よ)に 継子(ままこ)をにくむ母の 飯(いひ)に毒をいれてあたへけるを 其子これをしりて 杦(すき 杉)の三本有(ある)所へすてけるを 雨露のしたたりにて 口さやくよき味となる これ酒也 其(かの)禹王の臣下 これを作る 禹王きこしめして 痛哉(いたましいかな) 末代此味にふけりて人をして迷乱すへしとなけき給へり 聖人の一言(いちごん)神のごとしとかや 京大坂奈良伊丹鴻の池等名酒品々にあり 酒造る男を杜氏 漉酌(ろくしやく)といふなり(「人倫訓蒙図彙」 作者未詳 元禄3年刊) 


日本酒開眼は遅かった
僕は15~16歳のころからお酒を飲みはじめ、以来ずっと飲み助できている。いまは思い出したくないほどのすさまじい飲み方もした。18~19のころに大関時代の吉葉山と飲み比べをしたのも、いまは思い出したくない"敗戦"の記憶だ。最近ではそんな相手が2人いる。一人は作家の丸山才一先生。丸谷先生の酒は品があって乱れず、どうしても僕はかなわない。「私は先生を酒飲みとして尊敬します」といったら、どうもあまりお気に召していただけなかったようだ。文学者としてでなく酒飲みとして、といったせいかな。もう一人は東尾修だ。彼は童顔でニコニコ笑いながら、フグのヒレ酒をいくらでも飲む。思わず「まいった」といってしまった。45歳のころ、「日本酒ってのはなんてうまいんだろう」と思った時期があった。それまでは世代特有の根強い外国コンプレックスのせいだ、「上等」な酒はスコッチやワインだと思っていた。現在ではお酒は飲む機会10回のうち7回までが日本酒になった。だから僕の日本酒開眼は遅かった。髪の毛が気になりだしたころからだから、ずいぶん遅かったといえる。日本酒の銘柄にはあまりこだわらないほうだが、最近、気に入ったのは山形の『雪自慢』と新潟の『久保田』。それと、これは自分の酒だと勝手に決めて飲んでいるのが『菊正宗』と『千福』だ。(「いい場所といい仲間と いい肴で飲む酒が一番だ。」 安部譲二 「夏子の酒 読本」) 


少名毘古那と須須許理
ここで興味深いのは、『古事記』にもある通り、少名毘古那(すくなびこな)神は海を越えて来た神であって、須須許理(すすこり)もまたそうであることである。須須許理すなわち少名毘古那神とするのは付会の説だとしても、少名毘古那神とは、身長の低い異民族の神々の総称であるとする説もある以上、両者の間に、一脈通じるものがあると思われるのは当然のことである。(「酒の博物誌」 佐藤建次編著) 


悪しき香を抜く
「日本酒改良実業問答」(明治二十二年)に、「酒の悪しき香を抜く秘密伝」というのが出ている。その方法とは、 一、極上杉の根木香 酒一石(一八〇リットル)に付目方四十匁(一五〇グラム)の割合を以て用ゆべし。但鉋(かんな)にて薄く削りて用ゆべし。 一生薑(なましょうが) 酒一石に付目方二十匁の割合を以て用ゆべし。但新薑にても古薑にてもよく、なるたけ薄く切りて用ゆべし。 [新酒を古酒にする秘密伝] 一 酒一石に付上木香四十匁用ゆ。但此木香は油気の極薄い目方の軽い上等杉の根を鉋にて薄く削用ゆべし。 一 酒一石に付生薑二十匁用ゆ。但薄く切りて用ゆべし。 とあり、また別の本には軽く木香をつけ、下等酒には強くつけるべし。上等酒には木香をつけるべからず、とある。これからみると、木香は不良酒の悪い香りをカバーする、つまり矯正法であった。(「酒鑑」 芝田晩成) 


食べ方   8・4(夕)
藤田東湖は貧乏だったから、酒の好いのが何よりも好物だった。(内証でで言つておくが、すべて富豪(かねもち)といふものは貧乏人とは反対(あべこべ)に酒のよくないのを好くものなのだ。)で、その好い酒を飲みたいばかりに、頼まれると蕎麦屋の看板だの石塔だのを平気で書いた。書の相場は酒の標準(めやす)に一本一升といふ事を極めてゐた。東湖は酒徳利(さかとくり)を座敷の本箱の中へこつそり忍ばせておいて、箱の蓋には生真面目に李白集と書いてゐた。実際李白集があつたら質に入れて酒に替へ兼ねない程の男だつたのだ。酒の肴にはやつこ豆腐か松魚(かつお)の刺身かがあつたら、猫のやうにころころ咽喉(のど)を鳴らす事が出来た。水戸には今だに東湖の模倣者(まねて)も少なくない事だから、さういふ人達にとつて、東湖が俺は鱲(からすみ)が好きだとは言はないで、やつこ豆腐で辛抱したのは、どれだけ幸福(しあはせ)だつたかも知れない。これにつけても追随者(エピゴーネン)を成るべくどつさり有(も)ちたいものは、食物(くひもの)も精々(せいぜい)手軽なところを選ばねばならない事になる。実をいふと、東湖はやつこ豆腐よりもまだ鰹(かつを)の刺身の方が好きだつた。好きだけに、それを食べるのに自分独特の方法を発明してゐた。それは一つ一つ箸で撮(つま)み上げる代りに皿を掌面(てのひら)に載せて、猫のやうにぺろぺろ嘗め込むでしまふといふ芸当である。(「完本 茶話」 薄田泣菫) 


蘿月
萩原蘿月(らげつ)という宗匠に、慶応で俳諧史を教わった。酒びたりの人で、教壇に、酒のはいった魔法瓶を持って上がったという伝説がある。俳諧史の単位をとりそこなった友人にたのまれて、大塚の家まで行った。玄関に立って、「先生いらっしゃいますか」というと、夫人が出て来て、「門の酒屋さんの二階で、寝ています」(「ちょっといい話」 戸板康二) 


富貴地座位
△酒之部
大上上吉 萬屋巳之助 飯田町
 其名は当地にかくれなきけんびし
真上上吉 内田清左衛門 神田
 お店の賑ひ買人はほんに満願寺
上上吉 鳥羽大和 南伝馬町
 むかしからきゝめのよいくすり酒
上上吉 岡本和泉 鉄砲町
 八百八町に評判のよい白酒
上上吉 四方忠兵衛 和泉町
 みその評判も四方にかゞやく明石
上上吉 山屋半次郎 浅草
 清き名のどこまでも通る角田川諸白
上上吉 大坂屋萬左衛門 浅草御堂前
 三国一りうのわこくあま酒(「富貴地座位」 作者不詳 安永6年刊) 


柚子味噌のスモーク
それはやはり柚子であった。柚子味噌にするように、傷のないのを八二くらいに切って、中味を出してその酸に八丁味噌をすって砂糖を入れて、充分練って元の柚子につめてふたをする、火の通るまで蒸して、藁のつとに入れて、かまどの上に一年ほどつるしておくと、こんなに小さくなってしまうんだそうですよ、とのことであった。それを半分に切って、からすみなどのようにうすくうすく半月形の割切りにすれば、実に天下の珍味である。「お行儀の悪いことですが、あればもう少しいただきたいんですが」「いや見て来ましょう」小さい皿に三切れのってあった。「どうやら、これで終わりのようです」しかし三切れの柚子味噌で結構一本は飲めた。(「味之歳時記」 利井興弘) 


アル添酒、三増酒
酒不足に対しては雑穀を利用することで解決を図ろうとします。たとえばコウリャンを70~60%くらいに精白して掛米の代わりにしてみたり、陸稲や糯粟(もちあわ)などを使用したり、はたまた麦で麹を作り、掛米に糯粟を使ってみたりなどと試みるのですが、アルコールがよく出なかったり、色や味に問題があったり、できた酒が老酒のでき損ないのような酒だったりと散々だったようです。そこで最後にたどり着くのが、アルコールで増量することでした。当時、葡萄酒の増量や腐造酒の品質矯正にアルコールが使われていることにヒントを得て、清酒用の醪(もろみ)に30%アルコールを添加することにするのです。この30%といの根拠は、当時、30%に薄めれば専売法からはずれるということと、現在のような密閉タンクもなっかったこともあり、火災発生や欠減防止ということから決めたようです。ただ、当時はアルコールの蒸溜精製技術が稚拙で、過マンガン酸カリを使い苦労して精製したということです。最初のアルコール添加(略してアル添)試験は、昭和14年(1939)に北支・青島千福工場で田中公一が行ったとされます。昭和16年(1941)、満州全蔵でアル添法が採用されたのですが、その添加時期もいろいろと試しました。-
その結果、上槽3日前というところに落ち着いたといいます。当時添加されたアルコールの量は、総米1500キログラムに対して、540~900リットルでした。ちなみに現在の本醸造酒のアルコール添加量は総米を1500キログラムに換算すると180リットルとなります。-
アルコールで増量したお酒を「第一次酒」と呼んでいたところをみますと、やはり清酒とか日本酒という言葉を使うのは憚(はばか)られたのでしょう現在の業界とは大きな違いですね。その後、ますます原料米の不測が深刻になりアルコールの添加量が増えていくのですが、それに伴い本来の日本酒の味が薄まっていくのは当然の成り行きです。そこで薄くなった分の旨味を補填するためブドウ糖、乳酸、コハク酸などを加えるようになります。これが「第二次増産酒」といわれた、「三倍醸造酒」略して「三増酒」といわれるもののでき上がりです。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


四斗樽の思い出話
近郊各地の小売店からの注文は電話ではいり、酒はすべて計り売りであったから、注文に応じて四斗樽に詰め、荷車にのせて自転車で引いて届けた。一駄というのは四斗樽二本のこと、片馬というのは四斗樽一本のことで、馬の背に振分けにして物を運搬した昔ながらの数量の荷丁なのだ。その四斗樽は新品ではなくて、すべて灘からの下り物の空いた酒樽を業者から仕入れて使っていた。ささらで水洗いをして、前の酒の匂い完全に取り去り、乾燥させておく。これをふたたび水をかけ湿気を与えてから、締め木と称するかまぼこの板のような木片をタガにあてて、木槌でタガを上にあげて締めあげる。こうしてタガを締め直して丸眞正宗を詰め、王子、滝野川、荒川、下谷あたりを中心にして、埼玉県の川口や大宮、神奈川県は横浜の小売店まで届けた。横浜に届ける日は、朝六時に出発して蔵に戻るのは夜九時ごろとなるのが通常であったという。(「四季の酒蔵」 小山織) 小山酒造社員、勝田(大正六年生まれ)の昭和初め頃の思い出話だそうです。 


方言の酒色々(13)
葬式の世話をした人が縁起直しに飲む酒 みあらいざけ
葬式の間に飲む酒 ゆがんざけ
葬式後に飲む酒 しょじあげ/たちは の酒
幾度か繰り返してかもした酒 はくざけ
結納の時に飲む酒 たのみざけ 


野風呂
今度親の法事を勤める為に郷里に帰った序でに、一日私の幼い頃育つた土地である風早の西ノ下に家族の者を引連れて行つて見ることになつた。-
例の大師堂の大松の下にある句碑の下に来て、先発として自動車で此処(ここ)まで来て居つた家内などとも一緒になった。其時一人の知らぬ人が慇懃に刺を通じたが、豊田翁の紹介する処に依ると、之は別府村の酒造家の猪野氏であつた。二十人足らずの一行は句碑の下に集つて、折角婦人之友社からよこした写真屋に写真を撮らした。それから海岸の方に出て見て、大潮であつて、潮が著しく退いてをるので浅蜊などを掘つて、子供達をしばらく遊ばせた。旧居の址は麦畑になつてゐるのであるが、路を距て向ひ側に一軒の茶店がある。其茶店に戻つて、そこの二階に一同が陣取つて暫く憩んだ。其時に、先きの猪野氏が又そこに見えた。さうして居ずまゐを正して私に挨拶するのであつた。それは、私が幼時この西ノ下に育つたといふことは、この村の子弟に何等かの感化を与へる事になるのださうで、昔、中江藤樹先生が別府村に居を卜して居られたことがあるといふ事がいゝ感化を郷党の子弟に及ぼすと同じやうな影響がある。其事を郷党の子弟に代つて挨拶をする、といふ改まつた演説であつた。私は只恐縮してそれを聞いて居つたのであるが、それが伊予とか松島とかいふ広い天地であると、余り晴れ晴れしすぎて、又其言葉もお世辞めいて聞えて嫌なのであるが、西ノ下とか別府村とかいふ小字の狭い土地であり、私にとつても懐かしい土地の事であるから快く聞いた。さうして猪野氏は一升瓶を五本ばかり持つて来て、それに野風炉といふべきものか洞で拵へたものに火が入つて燗の出来るやうになつてをる物を座敷に置いて、「実は海岸にいらつしやる時分にそこへ持つて行かうと思つたのでしたが、もうこちらへお帰りだらうとのことで、こちらへ持つて参りました」さういつて丁度程よい燗の出来た銚子をその野風呂の中から取出して、盃を私にさした。それは「雪雀」といふ名前の猪野氏が醸造してをる酒であつて、此頃のいゝ酒がめつたに飲まれない時に、純粋な甘露の味のする酒であつた。それから一同にもそれぞれ盃を配つて酌をした。それから酒の肴にといふことで目刺の焼いたのを沢山皿に盛つて出した。その目刺しがまた大変おいしかつた。(「樽を携へて」 高浜虚子) 松山市柳原123にある雪雀酒造㈱のようです。 


酵母の増殖
培地のpHは微酸性がよく、培養温度は二八~三〇℃、糖分は二%くらいがよい。酸素は十分に供給されるほうがよく育つ。好適な条件では、およそ一時間半ごとに二倍ずつ増えていく。だから、一個の酵母が一〇〇億個になるのも四十数時間しかかからない。わずか二日たらずで世界の全人口を上まわるほどの酵母が生まれるわけだ。しかし、無限に増殖できるわけではない。栄養分を食い尽くせば、当然、増殖は止まるし、アルコールが一〇%以上にも生産されれば、たとえ栄養源があっても停止する。さらには、酵母の数が増えすぎると自然にストップする。その限度はだいたい一ミリリットル当り数億個である。ただ、増殖が停止しても、酵母がただちに死ぬわけではない。清酒醸造などでは増殖は数日で終わるが、その後二〇日間以上もアルコール発酵を続ける。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


酒と人間性
酒は人間と同じやうに、醜悪で動物的である。酒は人間と同じやうに、無邪気で天真爛漫である。すべてに於て「酒は人間そのものに外ならぬ」(ボードレエル)それ故にこそ、人間性の本然を嫌ふ基督教が、酒を悪魔の贈物だと言ふのである。(「個人と社会」 萩原朔太郎) 


良い酒は藁束(わらたば)はいらぬ[仏]
 良い酒、また、良い物は宣伝などしなくても売れるということ。酒屋のしるしとして藁束を軒先に吊したことからいうもの。西洋ではほかに酒神バッカスにささげたところから、木蔦(きづた)が使われることが多い。→良いワインに蔦はいらない
良い酒は触れ役を必要としない[スペイン]
酔えば海も膝まで[露、ポーランド、チェコ]
 酒に酔うと、海も膝の深さしかないと思う。あとに続けて「酔いが醒めれば豚をこわがる」という。ふだんは気が小さいのに、酔っぱらうととかく気が大きくなる、酒飲みの本性を言い得て妙である。ポーランドやチェコでも同様にいうが、ロシアから伝わったものとされる。(「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


京都の宿
京都という所はもともと余り縁のない土地で、子供の時父親に連れて行って貰うと、お寺や古道具屋ばかり引張り廻され、腹を空かせてやっと食物屋にはいると、永い間待たされたあげくアッサリした魚すきが出たりして、魅力のない所だった。大人になっても、門口で匂いをかがされた位しか知らないが、ここ数年来の数少ない滞在の間に、これが京都ってものだな、という味を味わわせてくれた女が一人いた。しかし彼女は昨年ポックリ死んだ。私は人生いくつだかの愉しみの一つを奪われたように淋しい。彼女は佐々木晴といい、清水の下で旅館をやっていた。もと祇園出身の名流だそうだが、そんなことは私と関係ない。年の頃は…そう、私はいつか本人に聞いたことがある。「おハル、お前、歳いくつだい?俺の女房よりは若いけど、俺のオフクロよりは年上だって面してるな」「へーえ?さよか」彼女のこの「へーえ」という返事は、尻上りに「え」にアクセントがあって、肯定のの時も納得出来ない時もいつも使う。しかしそのいずれかは顔つきで分かるのだ。旅館といってが、ただの邸で、二階に洋間があったり、下に広間があったりするが、私が夜酔って帰って来ると、どこかに床がとってあるので、そこに寝て、朝起きるといつも風呂が湧いているからはいり、出ると寝室はどこだったかもう綺麗に掃除してあるので、どこでも好きな座敷に坐って迎え酒のビールを始めていいのである。ただし夜着いて駅からどこかへ飲みに廻ると、大変御機嫌が悪い。しかし一度宿へ着いて荷物を置き、大徳寺納豆なんかで一二本飲んで、それから出かけるとなると、イソイソと車や行き先の世話をしてくれる。私の不馴れな祇園など案内を頼むと、たいていのおかみは妹分だし、実に上手にとり持ちをしてくれて、こっちは何の気も遣わなくて飲んでいられる。遅くなるから先に帰れというと、帰って門をあけて何時でも待っていてくれる。外へ食べに行くのが面倒なときは、見計らいを頼むと、一流の店から得意な品を一つ宛とり、あとは自分で季節の野菜を上手に惣菜風に煮てくれる。つまり京都のものでしかも京都のどこでも食えない定食が出来るのだ。それでいて値段はべら棒に安い。その点宿料も同じである。勘定書を請求しても、半年位たたねば送って来ない。(「旅酒猟」 河上徹太郎) 


大甚
岐阜のことが気になりながらも、もう一軒つき合いなさいといわれるままについて行くと、これはまた変わったうちだった。「大甚」といって、市民というよりも町人といった近所の人達の飲む溜まりである(ただしこの種の店によそ者のインテリ・サラリーマンが集まるのは近頃一般の風潮である)。入ると大きな卓子に、たこ、しめ鯖、たにしの酢味噌、もろこのあめ煮などがおいてあって、好きなものを皿によそって席に坐る。お銚子は一合より大分大きいが、これを一升二升と数え、空になってもさげない。ただし酒は菊正に賀茂鶴で、それぞれ本場の味だったが、それこそ岐阜の酒でもおいたらどんなものだろう。こんな店が戦前は東京にもあった。四谷見附の「長野屋」、牛込見附つまり神楽坂の「飯塚」など、それぞれシステムは少しずつ違うが同じような実直な店だった。「長野屋」の、コの字をいくつもつないだような席の造りも面白かった。見附に多いのは、昔、供待ちの中間小物(ちゅうげんこもの)が利用したのだろうか。(「旅酒猟」 河上徹太郎) 名古屋の居酒屋だそうです。 ボラのへそ 


湯ぼら
それから秋になると浦戸港の中で唐綱で鯔(ぼら)の廻し打といふものをします。友達などと誘い合せて行つて、たくさんの船でぐるつと輪をえがいて、その中の鯔を追い込むやうにして打つのです。そして、その鯔を直ぐ船の中で、『湯ぼら』といふ料理にしますが、これは土佐独特の料理で、鯔を刺身のやうにして熱湯をくゞらせ、それに仏手柑や醤油などをつけて食ふのです。私は故郷に帰るとよくやりますが、秋の青く晴れ渡つた日、空に浮かんでゐる白い鰯雲を見ながら、廻し打ちをやつて捕つた鯔を、早速湯ぼらにして友達と一杯飲むのが、この上もなく楽しみです。(「随筆 酒星」 田中貢太郎 後書き「秋の故郷」 高知新聞) 田中貢太郎の聞き取りです。 


酒場にあつまる -春のうた-
酒をのんでゐるのはたのしいことだ、
すべての善良な心をもつひとびとのために、
酒場の卓はみがかれてゐる、
酒場の女たちの愛らしく見えることは、
どんなに君たちの心を正直にし、
君たちの良心をはつきりさせるか、
すでにさくらの咲くころとなり、
わがよき心の友等は、多く街頭の酒場にあつまる。(萩原朔太郎全集) 


第二百十五段
平(たいらの)宣時(のぶとき)朝臣(あつそん)、老(おい)の後、昔語(むかしがたり)に、「最明寺入道(北条時頼)、或宵(あるよひ)の間(ま)に呼ばるゝ事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂(ひたゝれ)のなくしてとかくせしほどに、また、使(つかひ)来(きた)りて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば、異様(ことやう)なりとも、疾(と)く』とありしかば、萎(な)えたる直垂、うちうちのまゝにて罷(まか)りたりしに、銚子に土器(かはらけ)取り添へて持(も)て出(い)でて、『この酒を独りたうべんがさうざうしければ(さびしくて、もの足りないので)、申しつるなり。肴こそなけれ、人は静まりぬならん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭(しそく)さして、隈々(くまぐま)を求めし程に、台所の棚に、小土器(こがはらけ)に味噌の少し附きたるを見出(みい)でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく数献(すこん)に及びて、興に入られ侍(はんべ)りき。その世には、かくこそ侍りしか」と申されき。(「徒然草」 吉田兼好 西尾・安良岡校注) 北条時頼の酒 


誹風末摘花
後家の供 くりでゆすつて 酒をのミ
酔た時 夜バいはよせと こりたやつ
酔やした なとゝ目元を とろつかせ
こもかぶり へこのを出して かしこまり
立チもせぬ ものを生酔と つゝける(鹿鳴文庫 昭和二十二年刊) 


浅草の酒
以上みてきたように、寺での食事に酒はつきものであった。もちろん江戸における最高の酒は上方から運ばれる灘・伊丹・池田の酒であった。しかし、江戸でも各所に酒造が行われ、なかには銘酒として有名な酒もあった。浅草寺の門前町にも、こうした銘酒の製造元があり、浅草寺の御用を務めていた。その代表的存在として、「隅田川諸白」の製造元の山屋半三郎と銘酒屋主水(もんど)がある。ともに浅草寺並木町の酒屋であった。諸白とはよく精白した糀(こうじ)と白米で造った上等の酒であるが、伝えによれば十八世紀ころ山屋が隅田川の水で造ったもので、これを喜ばれた浅草寺の公英僧正によって名づけられたものという。この酒は雷神門のそばで売られ、江戸の名物として評判になった。また「宮戸川諸白」という地酒もあった。宮戸川とは隅田川のうち浅草寺の境内のあたりを流れる部分の呼び名であるが、これは隅田川諸白よりは質の落ちた酒であった。宮様のお成りにあたって、これらの地酒をさしあげたという記録も残されている。文政十二年九月には、やはり門前の酒屋である並木町の大和屋久右衛門から寺に納める酒の値段を上げてほしいという願いが出されている。この秋は相場が上がっているので、翌年の二月まで一升二百文の並酒を二百四十八文にしてほしいというのである。文政十三年二月には元の値段に引き下げたが、十月になって、ふたたび値上げの願いが出された。浅草寺とこれら門前の御用達の酒屋とは密接な関係があり、彼らは寺の講の有力なメンバーでもあったのである。(「浅草寺の酒宴」 吉原健一郎 「酒宴のかたち」玉村豊男編所収) 


不如来飲酒傚楽天体四
莫作樵夫去 樵夫(しょうふ)と作(な)り去(ゆ)くこと莫(なか)れ
丁丁遠隔雲 丁丁 遠く雲を隔つ
下経脩蟒窟 下(しも)は脩蟒(しゅうもう)の窟(くつ)を経(へ)
上過餓狼群 上(かみ)は餓狼の群を過ぐ
費尽一身苦 一身の苦を費(ついや)し尽くし
纔供半日焚 纔(わず)かに供(きょう)す 半日の焚(ふん)
不如来飲酒 来りて酒を飲むに如かず
閑臥酔醺醺 閑臥(かんが)して酔いて醺醺(くんくん)たらん
○樵夫 きこり。 ○丁丁 木を伐る音。『詩経』小雅に「木を伐る丁丁たり」。 ○脩蟒 大蛇。 ○焚 煮炊きすること。炊事。 ○閑臥 のんびり横たわる。 ○醺醺 ほろほろと酔うさま。ほろ酔いかげん。白居易の「不如来飲酒七首」の第五首に「間坐して酔いて醺醺たらん」。 ○韻字 雲・群・焚・醺(上平声十二文)(「不如来飲酒傚楽天体」 大窪詩仏 注者 揖斐高) 



注・横書きなので、<またまた>といった畳語後半の繰り返し記号(く:くの字点)の表記ができませんので、2回繰り返して記しています。
 ・機種(環境)依存文字等は、?になってしまいますので、「上:夭、下:口  の」のような表記にしています。
 ・旧字体の漢字は大体新字体にかえてあります。また、ふりがなは、かっこ書きにしています。
 ・ふりがなは適当に増減しています。