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御 酒 の 話 38




一四、酔っ払い、子供に泣く  410ぶんぶん酒  二〇 芋酒の方  説教の間  西と東でお酒の味が違う  葡萄の木  俺はにせものを見ていることが退屈なんだ  桃酒  家もたゝみてあり  いざ酒のかんせうじやうといふままに  蛙のピアノ  方言の酒色々(41)  相逢て一斗の酒ともに酔はずから  酔った母が彼に絡む  58.酒はよく事を成し  今は夜にめたと酔いたる我なれど    三蔵さん  ・純銀鹿の置物  寒造り渚の如く米沈む  酒なしには私の人生を語れない  めぐる杯 めぐるさかずき  高速歩いて帰ってテレビに映る  文弱による経済上の浪費  酒さけ 飲むほどに増す酔客の詩境  醒斎  二五里  一、御酒被下置候議  熱燗(あつかん)  最期に何を食べたのか  冬の酒句  〇玉子酒  夜明け酒  にひしぼり(新酒)  酒の欲しき顔  ぽん太  変わらなかったこと  いえのみ(家飲み)  一升くらいは平気  芥川龍之介「鼠小僧次郎吉」 日本酒  酒を讃める(2)  質屋と一九  汝れもまた夜あかしぐせか冬の蠅  酒は日本刀を液体にしたやうな者  はち巻岡田  唯一人で隅っこで  鈴木三重吉   仮託の法  年酒  君は一番強いよ  上戸(じようご)  有酒市脯近 盤飱比目魚  さけかす【酒粕】  とそ-迎春の屠蘇酒  手酌をしながら喋る  高井⇔五木  酔叟伝  231瓠葉  かすゆ酒  ハリウッドスターたち  漱石山房の元旦(2)  飲食門第十二  盃酌九巡、天明に及ぶ  番附会議  珍しい肴  漱石山房の元旦(1)  いいや出ます  屋根伝いに這い回った  水龍吟  あくきりゅう、アルハラ  三人の個性  朝子、新聞紙、早く持って来て  六、互いに売買して飲む  酒を譏った詩  409藪から酒  一八 肥後の麻地酒の方  酒だるを見せてもらおうかね  七五三  フリー・ランチ  酒好きの学者と酒嫌いの学者  うまいと云ふ点で私の嗜好に合はない    吉井勇 酒  酒を讃める  十返舎一九の逸話  よいかん、よいかん  方言の酒色々(40)  大食上戸の餅食らい  三州屋  57.ひとたび酔えば千の愁いを解く  ともべや【供部屋】  人性、時において定まらず  酒屋、甘酒屋の看板  父と酒  気が遠くなるよう  池田まっ青  先生とお酒  サバ水煮缶の薩摩揚  イヌ型とネコ型  新川  鶴酒  酒と女は  漱石門下のお山の大将  酒を飲まないで生きていても仕様がない  ああ降ったる雪かな  酒 さけ  長屋の酒盛  太宰治と酒  枝豆  104酒  私は運転手ではありません  青春と勇気の紋章  一五九 道隆、酒ヲ愛スル事  サフラン  人間の廃墟の上を蹂躙するなかれ  さけ【酒】  酔後  空は夕焼  アルコールと薬  奥野信太郎先生のお酒  食べる気がしない時のさかな  非ムスリム人口は約三パーセント  柔構造の禁欲  サリチール酸、乳酸  杉葉と笹葉  「酔っ払ったインディアン」の虚実  桃花庵の歌  喰はんか舟  隠居後、徳川光圀の酒  171南有嘉魚  泥鰌すくひ  七六 忠実、雅実ト白河院ノ御前ニオイテ  ちょうちん酒(提灯酒)  飲酒前世物語(2)  どんちゃん騒ぎ  二四二 憂うる時、酒を  珍しい宴会  八、三杯の酒のやり取り  飲み友達  楽しみに、又は道楽にお酒を飲むなど  小さな驢馬  上戸  400肥桶の酒(五七七)  主簿  方言の酒色々(39)  遠ク客ヲ送ルハ酒三杯ニ当ル  雀の酒盛り  一七 豊後のあさち酒の方  今朝有酒今朝酔  最初の二十四時間  ◆酒はこはくの色  7.ゴキブリはどんなに酔っても  ものしり事典の酒川柳  酒止めようかどの本能と遊ぼうか  どぶろく【濁醪】  柚味噌  武士の酒  ハーン  可盃(べくさかずき)  大伴旅人のものに匹敵する賛酒歌  伝説の中にも真実がある  やきとり屋  栃木山、常陸山  のみほしてから百メートル突っ走る  ワイン(2)  にんにく  小林、池島  リップ・ヴァン・ウィンクル  生鮭百本と酒五升  体温計  ワイン  165伐木  アルコールと作家たち  飲酒前世物語(1)  二二九 真に酒を嗜(たしな)む者は  二、まずい酒  悪い酒癖  味があまり落着いていないような気がする  231酔いざめの水  胎安神社  阮籍  酔客  一六 葡萄酒の方  二合ほどしか、飲まない  どうしても飲みたくなったら、俺はいつでも飲むぞ  陪 宴於偕楽園  ◆非の打ちどころがありません。  あれ  3分の1から2分の1  ピグミーの嗜好品  殺戮の酒宴  蒸留酒類にたいする物品税が法制化   金子十郎の酒  飲み残した一合  1049賦得還山吟送友人  人でない酒呑み  七七  方言の酒色々(38)  新酒五勺でも今がよい  32.最初は水とともに  冷酒か燗酒か  むだ口・駄ジャレ  ルバイ第三十六  盞(さかずき)  ガソリンと豚がよく合った  ないそん【内損】  駅前広場  坊主  伊藤家晴  東京夢華録  豚肉の薄切りと新ごぼう  酒前世物語  ヘンな気もち  その酒にその妓生  林十江  地域別の味の傾向  前有樽酒行 二首  夏の酒の肴  4 不死の酒  酒を語る  酒杉  弘融  與夢得沽閒飲且約後期  彦一の禁酒  父と母  酒ねだり  当座作の忍冬酒の方  千鳥足  7回入院(2)  中条流産科全書  朝の酒合戦  善酔  命名の依頼(2)  七回入院  後楽園  女房が  弱きもの、汝の名は人間  第五 酒  イオノコ  酒のない社会  酒をおしむ  酒場と南京玉  一四 山もも酒の方  山田錦(やまだにしき)  羊皮の革袋から毮り取った毛  岩見重太郎  ビーズ玉  にせものを見ていること    方言の酒色々(40)


一四、酔っ払い、子供に泣く
一人の酔っ払いが大通りで泣いていた。かたわらの人が変に思って、「いくら悲しいことがあっても、酒に酔って泣きわめくのはよくない」となじった。泣いていた酔っ払いは、「悲痛の情に堪えられぬのに、酔わずにおれないではないか」と言い返した。「なにがそんなに悲しいのか?」と尋ねると、酔っ払いは袖で涙をぬぐいながら、「子供をなくしたのです」と再び泣きだしそうに声をのんだ。「それはまことに悲痛なことだ。それでいくつの子供をなくされたのか?」と聞き返すと、その人は、ややしばらく黙っていたが、やがて、「今から九年たてば十歳になる子供が死んだのですよ」と言って口をつぐんだ。(「韓国風流小ばなし」 若松實編訳)


410ぶんぶん酒
収税吏が大きな樽(たる)を抱えてまごまごしている奴を捕えた。「樽をあけろ」「これは開けられまへん」「なぜか」「開けたら大ごとになります」「かまわん、開けい」といわれ、不承不承樽を開けるとワーンと蜂がとび立った。逃げまわる収税吏をつかまえて、「元通りにしてくれ」と男は要求して聞かなかった。(「日本の笑話」 宇井無愁)


二〇 芋(いも)酒の方
一、山の芋(いも)の皮を取り、厚さ分、中程に刻(きざ)み、いかきへ入れ、鍋の中に湯を沸(わか)し、いかき乍(なが)ら湯に漬け、熱茶三ふく食べ候間程置て、其儘あけ、滴(しずく)を垂(たら)し擂(すり)鉢にて能々摺(し)り、冷(ひ)え候程冷(さ)め候時酒を入れ、ねり酒の様にのべ徳利へ入れ置き、用の度々燗(かん)を致(いた)し候、五日程もこたへ(耐)申し候。(「食菜録」 徳川斉昭 石島績編著)


説教の間
教区民を見出すのがもっとも容易な場所は、古い酒場であった。ビールを吸いこんだソー・ダストも、バーボンの匂いも、さいころの響きも、神の使徒の意思をくじけさすことはなかった。概して、彼等は歓迎された。説教の間バーの営業は中止された。カウンターやボトル類は、毛布、テーブル・クロス、ベットのシーツなどありあわせのもので覆われた。壁にかかったけだるいヌードは目隠しされ、ポーカーのゲームは一時中止された。一八八〇年代に、ワイオミングを旅したある人は、サルーンのドアにつぎのような掲示がかかっているのを見ている- 次回の説教は土曜日 午後七時~八時 ダンス-スクエア・ダンス、ポルカ、ワルツ 午後八時~一一時 ポーカー 午後一一時~夜明けまで 酒は供しません!(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳)


西と東でお酒の味が違う
(達)「西の日本酒は濃厚でしっかり味って教えてもらったけど、わかるなあ。このあいだ大阪へ出張で行ったんですけれど、居酒屋で飲んだお酒が、みんな濃くてびっくりしました」
(山)「私もそんな経験があります。東北のお酒を1本も置いていない関西の居酒屋に、扱っていないのはなぜかと聞くと、味が無い、薄辛いからだという答えが返ってきたこともありました」
(勘)「関西はだしが濃いから、酒の味にも濃いものを求めるんじゃないかな。熟成タイプも好まれているね。うちの店には西も東もあるよ。料理に合わせて選べるようにしてあるんだ」
(山)「西と東でお酒の味が違うのは、酒米の特徴もあるかもしれません。山田錦や雄町は、もともと西の米で晩生。しっかりと味が乗ったお酒ができますし、熟成によって味に深みが出ます。対して、五百万石を代表とする東北や北陸などの寒冷地の米は早生で、すっきりとした味のお酒になります。山田錦などに比べると、早飲みタイプです」(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子)


葡萄の木
また別説には、ダイオニサスがギリシアに長旅し、疲れて石に腰かけ、足許を見ると美しい草が生えていた。これを採って持って行くうちに、日照りで枯れそうだから、鳥の小骨を拾ってその中に入れて行く。草が伸びて骨から出たので、獅子の骨を拾って入れた。草がさらに伸びたので驢馬(ろば)の大骨を拾ってこれを入れた。ナキシアについてこれを植えるとき、蔓(つる)が巻きついたまま、鳥の骨、獅子の骨、驢馬の骨も一しょに植えた。これが葡萄の木であった。それで葡萄酒を飲むと初めは鳥のように面白く歌い、つぎに獅子のように猛くなり、最後に驢馬のように馬鹿になるという寓話もある。(「日本の酒」 住江金之)


俺(おれ)はにせものを見ていることが退屈(たいくつ)なんだ。だから酔いたいのだ。酔いだけは偽(いつわ)りないからな。にせものに満ちている現実のなかでは、真実は酒の酔いにしかない
*梅崎春生『蜆』(昭和二十二年)(「日本名言名句の辞典」 尚学図書辞書編集部・言語研究所) 


桃酒
桃のえ(ゑ)み ふくむは酒の 栄花(えいぐわ)哉 大阪吉貞
花を見るは せんぱい(先輩)なれや 桃の花 天満安当
吞(のむ)人は 三日(みつか) へい(瓶)じ(濁ママ)か 桃の酒 大阪休斎
桃の酒に 世は皆(みな)酔(よへ)る 節供(せつく)哉 堺一武 (「談林俳諧集 ゆめみ草」 飯田・榎坂・乾校注)


家もたゝみてあり
○大師河原にて酒合戦せし所、今はその家あれど、家もたゝみてありと、里正六左衛門の話也。[欄外。名主四郎兵衛底広が家は、今はちいさくなれり。](「玉川砂利」 太田蜀山人)


いざ酒のかんせうじやうといふままに鍋をぞ掛くる自在天神 [室町殿日記・十一]
かんせうじやう=燗をしように。菅丞相(かんしょうじょう。菅原道真の異称)をいい掛けた。 自在天神=天満大自在天。道真を祭る天満宮の別称。自在鉤をいい掛ける。
さあ酒の燗を始めようということで、炉の自在鉤に燗鍋を掛けるとの意に、天満宮ゆかりの名を詠み入れた。細川玄旨をはじめとして諸大名が野駆けに出、芝生に席を定めて酒盛りを始めようとする時、玄旨が詠んだ。(「狂歌観賞辞典」 鈴木棠三)


蛙のピアノ 浅倉久志(翻訳家)
シャギー・ドッグ・ストーリーが好きだ。ふつう「ばかばかしいオチがつく長話」と定義されるジョークで、悪い意味にとられることが多いが、そのばかばかしさが逆にたまらなく良い。J・C・ファーナスという人が、この種のジョークの魅力を巧みに語った文章を書き、ある本※に収録された。それを買って読んでもらえば、きっと満足する人※※がいると思う。とりあえず、見本を一つ。今夜も常連が集って賑(にぎ)やかに飲んでいる酒場へ、トランクをさげた一人の男がやってきた。男は酒を一杯注文すると、やおらトランクの中からおもちゃのピアノを出してカウンターの上に置き、蛙を出してピアノの前に坐らせ、蝶を出してピアノの上に止まらせた。男の合図で蛙は伴奏をはじめ、蝶はひらひら舞いながら<マダム・バタフライ>のアリアを歌い出す。一曲が終わると、酒場の中はやんやの大喝采(だいかつさい)、いたく感心したバーテンが、それにしてもうまく仕込んだものですな、こんな芸ははじめて見ましたよ、と絶賛すると、男は答えた。「いやあ、たいしたことはない。実はチョウチョウのやつ、音痴でな、あのアリアは蛙が腹話術で歌ってたのさ」 ※『ユーモア・スケッチ傑作展3』(早川書房) ※※訳者のぼく(「とっておきのいい話 ニッポン・ジョーク集」 文藝春秋編)


方言の酒色々(41)
酒を飲みながらの話題 げーだい
酒を飲み残して盆中にこぼす むく
酒を飲み損なうこと さかはずれ
酒を飲む いれる/うちふろ を立てる/おなずく/のめたけ 生やかす/(はおり(羽織)(子))ばおり 被る
酒を飲むこと のみ(日本方言大辞典 小学館)


相逢て一斗の酒ともに酔はずから山おろし寒くもあるかな②(現代短歌大系) 與謝野寛
相つぎて友達失せぬ玉きはる命のありて朝の酒飲む① 小杉放庵
相集ひ酒を飲みしが告白のごとく一人が悲しみを言う⑦ 宮柊二
相ともに唄のひとつをうたひえぬ心さびしく酒のみにけり 小泉千樫
相共に無能の餓鬼と呼び合ひかくてこよひの酒も極まる④ 吉野秀雄(「現代短歌分類辞典 新装版12巻」 津端亨)


酔った母が彼に絡む KIRA87 12歳 女
半年ほど前、私は好きな人を含む学校の友人10人ほどと、その親とで、カラオケに行った。大人部屋と子供部屋に別れることになり、私は、絶好のチャンス!とばかりに好きな人の隣に座って、少々ブリッ子気味でアピールした。すると-、なにやら隣の大人部屋から騒がしい声が、どんどん近付いてくるではないか。そして、私たち子供部屋のドアが突然開いた。ドアの向こうには、-私の母親。顔は真っ赤で、とても酒臭い。母親はベロンベロンに酔っていたのだ。「ふぐぁー! ※□▲◎!!」母親が叫ぶ。周りの友達の顔は唖然。もちろん私もだ。これだけでも死にたい気分だったのに、母親は、私の好きな人に近付き、「おぅ、おぅ、イケメンがいるじゃねぇか。んだぁこの色男!」と言いながら彼に抱きつく。そして彼のファーストキスを奪ってしまったのだ…。彼はたしか、目に涙を浮かべていた。子供たちの顔は全員青ざめていた。次の日、学校に行くと薄情な友達に、昨日の事が学級新聞のネタにされていた。その後、彼にコクった(告白した)がフラれた。死ぬかと思った。(「死ぬかと思った8」 林雄司(Webやぎの目)編)


58.酒はよく事を成し、酒はよく事を敗(やぶ)る
 酒は仕事のためになることもあるし、仕事をだめにすることもある。『水滸伝』第4回では、これを引き、気の小さい者が大胆になったりすることをさとす。 中国古典


今は夜に めたと酔いたる 我なれど 酒が無ければ 断酒をぞする [永正五年狂歌合]
三番右。 めたと=無性に。やたら。 断酒=禁酒。
呑兵衛の俺だが、無い酒は飲めない。酒が無ければ、やむをえずではあるが、断酒をする次第だ。判詞に「されど餓鬼の断食(だんじき)と申事にて侍れば、心ざしふかからずやと覚え侍る」うんぬん。もともと食物にありつけない餓鬼が断食宣言するのと同じことだから、この禁酒は高くは買えないとの評。(「狂歌観賞辞典」 鈴木棠三)



ここに鈴ふる翁なにもの昨夜(きぞ)の闇に座して大きく酒くらい居し ふぶき浜
唇に人語を甦(かえ)す羞しさに直会(なおらい)の酒熱くありたり ふぶき浜
盃にあけびの花の浮かむまで酒(しゆ)のさびしさをきみに知るまで 晩花
つづれさせ-、あなしみじみと鳴く夜のいくさ好みの男(をのこ)らの酒 雪木
たのみあるつはものばらかあらざるか桜散る夜の雑談(ざふだん)の酒
蕨刺しに冷たき酒の青梅雨の淡きよろこびにひとりの夜あり 青椿抄(「最新うたことば辞林」 馬場あき子)


三蔵さん
例えば、私の落語仲間では、故三遊亭圓生師門下の三遊亭生之助さんが、私と同じアルコール類は駄目。ところがなぜか?彼ともっとも仲良くしている橘家三蔵さんが、大の酒大好き落語家。酒の駄目な生之助さんと、酒だけが楽しみの三蔵さんの仲の良さは、我々落語家仲間の七不思議の一つになっています。この三蔵さんや現在の橘家圓蔵師の師匠に当たるのが、もう亡くなって何年にもなるが、東中野にいらっしゃった先代橘家圓蔵師匠であります。この師匠もお酒はあまり飲めない師匠だったので、ご贔屓(ひいき)のお客さんとの宴席では、一緒に連れてきたお弟子の三蔵さんが遠慮して、ほんのお銚子一本だけ飲んだのに、師匠はびっくりしてしまいました。「ウチの三蔵は、大酒飲みで困った」などと、あちこちに触れ回って歩くのでした。(「蜀山人狂歌ばなし」 春風亭栄枝)


・純銀鹿の置物
明治三十四年(一九〇一)五月付け東京酒問屋組合からの礼状より、北仙は依頼されて清酒醸造家摂州西宮辰馬吉左衛門に純銀製の鹿雌雄二頭の置物を贈ったことがわかった。北仙は謝礼として、清酒「白鹿」二樽を贈られた。酒問屋組合は二十二名おり、礼状にはその総代の名が記載されている。総代は藤本商店、山星鈴木商店、山縣八重、鹿島利右衛門の四名である。(「北川北仙の調査」 清水恵美子) 水戸彫金師の初代北川北仙です。安かったのだなあと思います。


寒造り渚(なぎさ)の如く米沈む 山口誓子(やまぐちせいし)
酒蔵の仕込桶。正常な世界である。「渚の如く米沈む」は美しく、蔵のうちのきびしく張り切った空気まで伝えているようだ。(「句歌歳時記 冬・新年」 山本健吉編著)


酒なしには私の人生を語れない
私は昭和の年号と数え齢とが一致する。今年は昭和七十年だから数えの七十歳というわけだ。終戦の年が二十歳で、その年の七月に軍隊に入るのだから満年齢の十八歳。むろん応召の前夜は酒を飲んだ。いくら飲んでも叱る人はいない。おおっぴらに飲んでもよかったのである。その二年前ぐらいから酒は飲んでいた。しかし美味(うま)いと思って飲む酒、どうしても飲みたいと思って飲む酒ではなかった。台所に白鷹の樽が置いてあるから、面白がって舐めてみるという程度の酒だった。従って酒に関しては晩生(おくて)だったと自分ではそう思っている。実際、私の中学校時代にはなかなか豪の者がいたのである。もっとも酒の席に列(つら)なれば何かおいしいものが食べられるという気味あいもあったに違いない。台所にはサントリーの角瓶が一打(ダース)の箱入りになって置いてあったが、さすがにそれには手が出なかった。だから、戦後になって初めて飲んだ酒の記憶がない。酒は軍隊生活を通じてずっと続いている。終戦の翌年から私は働いていた。月給八百円のサラリーマンである。目白駅の崖っぷちにならぶ屋台店でバクダンを飲んで百メートル疾走するという馬鹿なことをやった。これは効(き)いたぜ。酒に目薬を垂らし飲むと酔うという話を聞いたが、さすがにそれはやらなかった。カストリ焼酎を飲んで翌朝目脂(めやに)でもって目が開かないこともあった。(「この人生に乾杯!」 「酒なしには私の人生を語れない」 山口瞳)


めぐる杯 めぐるさかずき  皆と心地良い連帯感に酔う
「春高楼の花の宴 めぐる杯影さして 千代の松が枝(え)わき出でし むかしの光いまいづこ」(「荒城の月」土井晩翠)の「めぐる杯」は、古歌に詠まれていた酒宴の用語である。『紫式部日記』には、若宮誕生祝いの歌として、「珍しき光さし添うめでたい杯は手から手へと持ちながらこそ千代をめぐらめ」とある。折しも望月(もちづき 満月)のさし添うめでたい杯は、手から手へと持ちながら、望月のように千年も巡るでしょう、の意味で、車座になって飲みあう「めぐる杯」は、西欧の乾杯に当たる。参加者の連帯感をも強める杯事(さかずきごと)の一種なのであろう。『源氏物語』(若菜・下)では、「杯のめぐり来るも頭(かしら)痛く」とあり、これは、酒の無理強いに困る場面だ。曲水(きよくすい)の宴(えん)にも「めぐる杯」があり、「散る花をけふのまどゐの光にて浪間(なみま)にめぐる春の杯」は『六百番歌合(うたあわせ 三月三日)』の藤原良経(よしつね)の歌。流れの波間を杯がめぐって来ることの楽しさで、中国から伝わった優雅な詩歌の遊びの情景である。(菅野)(「歌ことばの辞典」 片野達郎・佐藤武義)


高速歩いて帰ってテレビに映る 29歳 男 証券会社勤務
ハタチのときです。学校のクラスの飲み会でしこたま飲んだ僕は、終電がなくなったので歩いて家まで帰ろうとしていました。新宿から横浜まで。渋谷あたりまでは順調でした。コンビニでビールを足して、酔いも絶好調。横浜まで何キロあるかなんて関係ありません。きっと帰れる自信がありました。渋谷についていいことを思いつきました。-高速に乗ろうと思ったのです。もちろん歩いて。そのほうが早いと思ったのです。首都高に乗りました。料金所はどうやってクリアーしたんだろう…。覚えてないです。とにかく最高のテンションで首都高を走りました。もちろん自分の足で。すぐ横を通り抜けるカッコイイ車たち、クラクションの音、オレンジ色の照明…。すべてが映画みたいでカッコよかったのを覚えてます。高速に乗って少し経ったとき、パトカーがやってきました。すごく怒られました。保護されて警察署で始発を待っているとき、酔いがさめた僕は"ああ、死にかけてたんだな"とようやく自覚して、捕まえてくれた警察官にお礼を言って帰りました。後日、学校で友達が僕に言います。「あれ、おまえだろ?きのうテレビに出てたの!」どうやら『警察24時』的な番組に、酔っぱらいの困ったチャンとして出演してたみたいです。全国に恥をさらし、酒との付き合いかたを真剣に考えた事件でした。死ぬかと思った。(「死ぬかと思った8」 林雄司(Webやぎの目)編)


文弱による経済上の浪費
鎌倉では、「好色家」などといわれる酒の飲み屋が御家人相手に商売が成りたつほどに繁昌していた。泰時も相変らずよく酒をたしなんだ。しかしみだれることはなかったようである。あるときは、酒宴を自邸で催し、孫の経時を招き、文事を好んでよく武家の政道をたすけるように、などと説教している。そして、当時鎌倉の文化人として聞こえた読書家の北条実時とよく相談していくようにと、さとしている。経時は、次の執権に予定されていた人物だからである。何かというと酒を飲んだ泰時のもと、御家人たちも酒に目がなかった。以前のように、酒の飲み方も素朴でなかった。特定の飲み屋ができればどうしてもそうなる。そのため自分の家屋敷で飲むにしても、とりあわせの肴のことや周囲のしつらえにも、とかくおごったり華やかさを示すような配慮をする。このふうが一般化すると、幕府を支える御家人の気概が軟弱になる。泰時は、文事を尊重したけれども、あくまでも武門の振興のためであって、いわゆる文弱による経済上の浪費は、これをいましめた。だから、三浦、結城、小山事件のあったあとまもなく、十二月一日に、「酒宴経営」のさい、あるいはしゃれた上等の果物(くだもの)やつまみ肴を用意したり、衝立屏風の類に美しく図画を施したものを用いることを禁じ、将軍家の御所の他は相成らぬとした。当時のことばでいう「過ぎる差」つまりおごりぜいたくを、酒宴についても禁じたのである。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎)


酒さけ 飲むほどに増す酔客の詩境
すでに『古事記』に神酒(みき)をたたえる歌謡があるが、酒を歌った古代の和歌の白眉(はくび)は『万葉集』(巻三)、大伴旅人の「酒を讃(ほ)むる歌十三首」であろう。「賢(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔(え)ひ泣きするし優(まさ)りたるらし」、「言はむすべ知らず極まりて貴(たふと)きものは酒にしあるらし」。ところが『古今集』以降、王朝時代に入ると、酒を詠んだ和歌はぱたりと姿を見せなくなる。恋は目から、酒は口から、というが、あれ程無数の恋の歌を詠んだ王朝歌人は、目ばかりで口の方は全く駄目だったらしい。酒豪の公卿の記録は多いのに、歌の座で、李白や杜甫のように、詩酒相交わるということはなかった。歌の世界で酒が自由化されるのは近世に入ってからで、「さす竹の君がすすむるうま酒にわれ酔ひにけりそのうま酒に」(良寛)、「とくとくと垂りくる酒のなり瓠(ひさご)嬉(うれ)しき音をさするものかな」(橘曙覧(たちばなあけみ))など、愛飲家の珠玉は、やがて近代の若山牧水や吉井勇の愛飲歌へとつながってゆくのである。(片野)(「歌ことばの辞典」 片野達郎・佐藤武義)


醒斎              五岳
眠亦任不醒  眠リハ亦 醒(さ)メザルニ任(まか)ス
童子呼不起  童子 呼ベドモ 起キズ
酒亦任不醒  酒モ亦(また) 醒メザルニ任ス
先生常酔矣  先生常ニ酔フ
人或酔利名  人 或イハ利名ニ酔フ
不許入斯裏  斯ノ裏ニ入ルヲ許サズ
眠ったら覚めるまではそのままにしておくがいい。さいわい小僧は呼んでも起きて来ない。酒も醒めるまではほっておくがいい。だから先生はいつも酔っている。だが、同じ酔っぱらいでも、利益や名声に酔うような奴はここへ入って来てはいけない。-微妙かつ巧妙。醒斎は、醒メタル斎(ヘヤ)。(「日本詩歌歳時記」 実川栄次郎)


二五里
芋の話はこれくらいにして、策源和尚の話に似た逸話は、品川東海寺の沢庵禅師(たくあんぜんじ)についても伝えられている。ある人が、濁酒(にごりざけ)に十里酒と名付けて贈った返事に、禅師は、 十里とは 二五里と言へる 心かや すみがたき世に 身をしぼり酒 と詠んだという話が、菊岡沾涼(てんりよう)の編んだ江戸の地誌『江戸砂子(えどすなご)』(享保十七年著。明和九年増補刊)に見えている。『醒酔笑(しいすいしよう)』というすばらしい笑話の本を著した安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)も坊さんであったことと考え合わせて、頓智話の伝統が、僧院の中で維持されていた事実をうかがうに足る話柄(わへい)であったと思う。沢庵の機智にちょっと改作を加えれば、八里半にも十三里にもなるわけだ。事実、そのような改作の例があったことを菅江真澄(すがえますみ)という稀世(きせい)の旅行家が、『筆のまに/\』という随筆に書いている。それは遠い松前(まつまえ 北海道)の話である。この地は米のとれない、漁業一方の土地であったから、よそから移入される米を酒造用に使うことは藩令で厳禁されていた。そればかりでなく、濁酒を売ることも禁制であった。安永の頃とかに、酒という字に濁点をつけて、ひそかに看板にした者があったというのも、密売の苦心を示す話であったが、ある商人は「七里酒」という看板を出したという。これも二五里のシャレであった。掛け算と足し算の計算法の相違である。これと同じ手法は、実は中世のナゾダテ(ナゾナゾ)には幾らもあるもので、 十里の道を今朝帰る 答、濁り酒(二五里) 海の道十里にたらず 答、蛤(はまぐり)(浜九里) 三里半 答、寄り掛り(四里掛かり) といった類である。(「日本語のしゃれ」 鈴木棠三)


一、御酒被下置候議は 込筒打払畢て後 御使番を以て 御酒被下置候段 諸備へ相達 御本陣前へ相詰 布衣以上は於御前御酒御肴被下置 物頭已上は御旗柵内 平士は大御柵外へ樽二十指出置 頂戴仕候(「他藩士の見た水戸」 「水戸見聞録」 村上量弘(かずひろ))
「ご酒下され」の議は、込筒打払(追鳥狩という軍事演習で大砲や鉄砲を撃ったことでしょう)が終わって、お使い番をもって、ご酒を下され置いたことを、それぞれの部門へ伝達し、ご本陣前に詰めたお目見え以上の武士には、徳川斉昭の前でお酒とお肴が下され、物頭以上の武士は旗柵の内側、それ以下の一般の武士は柵の外へ樽20が出されて、頂戴した。といった意味でしょう。「騎士3千、雑兵約2万」ともいわれた参加者にとって、一人当たりとしてはごくわずかな量のようです。


熱燗(あつかん)
生涯も勝負ありたる燗熱く 加賀美子麓
熱燗、燗酒。冬、寒い日などに特に酒の燗を熱くして飲む。冷えた身体に飲む熱燗の酒は五臓六腑にしみ渡る心持がする。熱燗には、チロリと呼ぶ素焼の、燗徳利や、フラスコなどを用いることもあるが、普通、銚子を熱湯にやや長くつけておけばよい。三十余年ぶりに中学の同級会があった。それぞれに髪に白いものがとんでいた。灯の下にふつふつと煮える鍋を囲み、酒を差し交わし、少年の昔に還って肩を組み校歌を合唱した。かくして席は乱れた。そのとき、誰かがふっと呟いた。「もう勝負はあったんだ」心の中をどうっと音を立てて吹き過ぎる思いがあった。かなしさとでもいうべきか。あの顔この顔、そのどの顔の額にもまざまざと五十何年かの年輪が刻まれていた。それはもう、やり返しのきかない人生を引返すことの出来ない処まで来てしまった顔だ。盃の酒のみがいたずらに熱い。
熱燗や匿名批評を受けて起つ 吉岡句城
熱燗や母の忌母に甘え酌む 渡辺侃
父の忌や男の子ばかりの温め酒 青野沙人
熱燗や己を忌みしことも経し 小竹巳代治(「万緑季語撰」 中村草田男編)


最期に何を食べたのか
呼吸困難を訴える。心臓の苦悶を訴える。午後一二時三〇分、全く危篤状態に陥る。午後一時、夫れ迄、最期安楽にと注者を控えていたけれども、宮本叔(とし)博士来て、今から絶望するのは早ぎる。修善寺(しゆぜんじ)でも注者で助かったのだから、最期まで医者の義務を果たさねばならぬと励まし、再び一同は気をとりなおす。食塩注射をする。呼吸は穏やかになる。眼開いて何か食べてみたいと云う。赤酒一匙与える。「甘い」と云う。(中略)
耳慣れない「赤酒」とは、熊本の特産品で、もろみに灰を使うことが特徴。古酒になるとワインのように濃い赤色になる。加藤清正(かとうきよまさ)が朝鮮から持ち帰ったといわれている。江戸時代、肥後(ひご)細川藩が「お国酒」としてこれを保護し、他地域からの清酒の流入を禁止したことから、幕末まで熊本で酒といえば赤酒のことであった。昭和初期に一度製造が中止されたが、戦後復活し、現在はプロが料理酒として隠し味的に使うことが多いという。今は百貨店などで手に入るが、当時は全国的にポピュラーな酒だった、というわけでもなかった。前にも書いた通り、明治二九年に漱石は熊本の第五高等学校で教鞭をとっていた。新婚で初めて迎えることになった翌年の元旦や、新妻鏡子夫人と屠蘇(とそ)で祝い、雑煮を食べている。熊本では赤酒は、屠蘇として飲まれるという。このときに、漱石は赤酒と出合っているのかもしれない。しかし、その二〇年ほど後、東京の夏目家に、本当にこの赤酒があったかどうかはさだかではない。ひょっとすると、葡萄酒のことを、この証言の主である松根東洋城(まつねとうようじよう)は赤酒と記したのかもしれない。しかし、葡萄酒も夏目家にあったかどうか。今となってはさだかではないが、ともかく、漱石が最期に口にしたものは赤い酒であり、それについて漱石は「甘い」と一言もらしたのである。(「漱石のレシピ」 藤森清) 前半の部分は、荒正人の「漱石研究年表」です。


冬の酒句
酒あらば その社に入らん 薬喰ひ  嘯山 新選(冬)
酒買ひに あの子傘かせ 雪の暮れ  来山 今宮・故続五百(冬)
酒ぐさき ふとん剥ぎけり 霜の声   其角 句兄弟・五元拾遺(冬)
酒くむや 神の御留守の 笑ひ声    昌房 故五百(冬)(「近世俳句大索引」 安藤英方編)


〇玉子酒
寒卵といえば、忘れてならないものに、玉子酒がございます。湯吞に落とした玉子に、少々砂糖を加えて味をつけ、熱燗(あつかん)の清酒を注(そそ)いで掻きまわし、立ちのぼる酒の香りに噎(む)せながら啜る玉子酒の味は、寒い夜の、外出から帰って来た時など、何ともいえぬ結構なものでございます。玉子酒は、甘くて美味しいので、女性の口にも子供にも合うようですが、本当の酒好きの男性にはちょっと向きますまい。それでも、風邪気味の時など、玉子酒の熱いのを飲んで寝ると、抗ヒスタミン剤以上の効果がございます。但し、江戸の昔の玉子酒は、今とは少し作り方が違っていたようです。寛永年間に出来た『料理物語』という書物を見ますと、「玉子をわけ、冷酒(ひや)を少しづつ入れ、よく溶(と)きて塩を少し入れ、燗をし出だし候也」と書いてあります。 いざ一杯 まだきに煮ゆる 玉子酒 蕪村 というのが、それでございましょう。(「風物ことば十二ヵ月」 萩谷朴)


夜明け酒
「井伏先生!もうボツボツ夜があけますが!「-」「これで、おつもりです。」私は、先生の盃に酒をついだ。「何べんも云わせるんじゃないよ。酒は私がつぎます」「失礼しました。もうボツボツお帰りの時間ですが…」「帰りたくなったら勝手に帰ります。さっきのホシコはうまかったネ」「焼かせますか?」「君!眠たかったら、ねていいよ」私は数回、飲み屋へお供をした。腹をきめてかからねば、あのネッチリの夜明け酒にはついて行けない。今日こそはと私はこのゆっくり風を観察したんだが、あの"自分で注ぐ"ところが問題だと気がついた。酒が肝臓を通って-多分通ると思うのだが-要するに矢つぎ早に酒を流しこむ様な無謀はなさらない。ゆっくりと一杯の酒をたしなまれ、やおら五臓六腑を廻ってから二杯目に-、こちらはどうだ。"何を君はあわててるの…"とお叱りをうける程早飲みである。学生時代の悪い癖で、早く酔いたいの一心から特級も二級もない。流しこみに行こうか-でスピードをあげた。それを嘲笑う様に、「夜は長いんだ、酒はもっと利己主義で飲んだ方がいい」と諭された気もする先生だ。「先生、芝居はどうでしょうか?」「あれは、いくらとってるの?」「えっ!ああ入場料ですか、一等で六千円です」「いい値段だネ」「ハア、でも東宝は安い方です」「それから比べれば原稿料なんて安いもんだよ」「まだ、貰ったことがありませんので!」「君は倖せだよ」東のしらむ頃、お宅のそばまで車は行った。「運転手さん、なるべく手前で降りたいんで、その角のところでいいよ」あまりの清々しさに、私は一声歌が出た。「歌いたいだろうが、みんなこのあたり寝てるから!」「ああ失礼しました」「君はうまいね」「ハア」「歌の方は…」「私は-」「ああ一人で帰るから、有難う」(「井伏さんの横顔」 河盛好蔵編 「夜明け酒」 徳川夢声)


にひしぼり(新酒) 落栗を すびつに焼きて にひしぼり 飲みつつをれば 月も出にけり(調鶴集・秋) 井上文雄
冷酒        冷酒を 酌めば韮生(にらふ)の 山峡の 夜のさまなど 思はるるかな(天彦) 吉井勇
寝酒        算用(さんよう)を 夜おそく終へし 帳場にて 人手をからぬ 寝酒わがすも(しがらみ) 中村憲吉(「歌語例歌事典」 加藤克巳、桜井満監修)


酒の欲しき顔
其夜、(尾崎)放哉飄乎(ひょうこ)として訪ね来る、一年ぶりにて酒の欲しき顔なり。共に出でゝ余も亦やゝに痛飲す。
蛙なく木のはしの坊主で酔つてゐる   (荻原)井泉水(「層雲」大14.7)
放哉は京都に戻って暫くたってから、井泉水に伴われ、これからの落ち着き先についての相談をもちかけている。常称院の住職も過去のこだわりを捨てて、本気になって相談に乗ってくれたが、生憎なことに常称院専任者が決まったばかりであった。そこで、住職の勧めてくれたのが京都市下京区三哲にある浄土宗のお寺、龍岸寺の寺男の勤め口であった(荻原井泉水「京都より」「層雲」大14.9)。(「放浪の詩人 尾崎放哉」 瓜生鉄二) 放哉が小豆島に渡る前の話だそうです。


ぽん太
幕末に横浜で白人達がビール醸造所をつくつた。その系統をひいてゐる会社がポスターをつくるのに、日本美人のすばらしい写真を欲しがつたが、東西各国のだれの眼にも美女と見えるものといふ条件が難題で、どれもこれもパスしなかつた。清兵衛がその写真製作を買つて出た。"日本の女の美"がどんなものだか、広く異人さん達に思ひ知らせてやる気であつた。清兵衛はそのとき三十になつていた。モデル探しに清兵衛は時間をかけるに及ばなかつた。新橋の半玉で玉の家のぽん太ならと、初めから決めてゐた。ぽん太はそのとき十五歳、清国との戦争が終結となる前年の明治二十七年のことといふ。ぽん太の写真は大成功であつた、ひらいた扇を胸先にもつた大写しで、数の多いぽん太の写真のうち、最も代表的なものはこレであるだらう。(「素材素話」 長谷川伸)


変わらなかったこと
創業1505年、灘の名門酒蔵・剣菱酒造を取材した。歴史の名シーンを見つめてきたブランドだ。赤穂浪士が討ち入り前に飲み、江戸後期の著述家・頼山陽は幕府の咎めを受けそうな言葉を記すときにチビチビと飲み、土佐の山内容堂は、勝海舟から「脱藩した坂本龍馬という男を許してほしい」と頼まれたとき、下戸の勝に剣菱を飲ませた上で許したという伝説が残る。白樫政孝社長(40歳)に聞いた。剣菱が長く続いてきた理由は「変わらなかったこと」でしょう。家訓が3つあり、その第1が「止まった時計でいろ」なのです。流行はどれだけ追っても、一歩遅れてしまいます。遅れた時計の時間が合うことはありません。でも止まっている時計は、1日に2度だけ時間が合う。この家訓には「お客さまの好みは時代とともに変わるが必ず戻ってくる。だから自分の味を守り続けよ」という意味が込められているのです。ただしこれは「進化させない」ことを意味するわけではありません。海に舟を浮かべ同じ場所にいたいなら、時には潮目や風に逆らって一生懸命漕がなければならないはず。だから当社はいま、灘の酒に使う山田錦を守るため農業法人を立ち上げるなど「変えないための努力」を日々積み重ねています。剣菱は江戸の昔から株が売買され、オーナーが変わっています。私は白樫の家が経営を始めてからの四代目になります。学生時代まで「私のような者が跡継ぎでよいのか?」と疑問でした。経営はプロに任せるべきだと思っていたのです。転機は酒造組合の行事で酒の飲み比べをしたことです。他社さんの酒は甘かったり、花のような香りが強かったり……。一方、うちの酒は米の味が強く、酸味、辛み、旨み、甘みが複雑に絡み合う昔ながらの酒です。飲むとすぐ「旨いとは思うが、流行の味ではない」と感じました。そしてこの時、ふと思ったのです。プロの経営者は短期間で企業を成長させるのが上手な方が多いはず。一方、剣菱はそういう酒蔵ではありません。経営規模の拡大より「流行に流されないこと」「変えないこと」を尊び、経営に臨んだほうがよい結果が出せる企業なのです。こういった経営は、創業家の人間のほうが向いているはず。そこで父に「私にやらせてください」と頼み、今があります。『週刊現代』2017年12月23日号より


いえのみ(家飲み)
[名]家で友人が集まって酒を飲むこと。「宅飲み」とも言う。
いっぱいやる(一杯やる)
[句]酒を少し飲む。誘いのことばとしてよく使われる。 「いかがですか。一杯やりませんか?」 『へのへのもへじ』ハッタリ記念撮影・一(1952年)<林二九多>「一杯やろうや」(「日本俗語辞典」 米川明彦編)


一升くらいは平気
銀座に限らず、遠藤周作はよく飲んだ。しかもピッチが速かった。当時は四十代の半ばで、ウィスキーもずいぶん飲んだが、日本酒なら「菊正」が好きで、一升くらいは平気という感じだった。新宿の編集室の帰りにはよく「秋田」という原民喜の花幻忌会をひらいていたキリタンポの店に行き、二階の座敷でダミ声を張りあげて歌い、ときには茶碗を箸で叩いて歌った。「いーまは夜中の三時ごろ、デコボコおやじが飛び起きてー、ベンジョと寝床をまーちがえてー、あーっというまにネションベン」そして歌いおわると、「おい、これを『三田文学』の歌に採用しよう。諸君もベンガク二励みたまえ」もちろん、勉学ではなく便学であることはぼくれにはわかっていた。ウンコやオシッコの話をするのは、そうすれば猥談をせずに済むからだということもわかっていた。そして飲みおわって勘定を払ってくれる遠藤周作にぼくらが整列して礼を言うと、「ああ、働ケド働ケド我ガ暮ラシ…」と大げさに自分の手を見つめ、情けない顔をつくってぼくらを笑いに引きこむ。それは、相手に必要以上の礼を言わせまいとする独特のナックルボールだった。(「遠藤周作 おどけと哀しみ わが師との三十年」 加藤宗哉)


芥川龍之介「鼠小僧次郎吉」 日本酒
「番頭さん、鼠小僧の御宿したのは、お前の家の旦那が運がいいのだ。そう云うおれの口を干しちゃあ、旅籠屋冥利がつきるだろうぜ。桝でいいから五合ばかり、酒をつけてくんねえな」こういう野郎も図々しいが、それをまた、正直に聞いてやる番頭もまぬけじゃねえか。おれは八間の明りの下で、薬缶頭の番頭が、あの飲んだくれのゴマの蠅に、桝の酒を飲ませているのを見たら、何もこの山甚の奉公人ばかりとは限らねえ、世間の奴らの莫迦々々しさが、可笑しくって、こてえられなかった。-
鼠小僧は寛政七年(一七九五)うまれ。大名や旗本屋敷を襲い、一万数千両を盗み、天保三年、はりつけになった。貧民に金をめぐんだのは虚伝というが、史実を内在する虚伝もあるのだろう。四谷荒木町をふりだしに旅にでた鼠小僧。甲州街道で越後谷重吉と名のるゴマのハエと道連れになり、重吉の定宿という八王子の山甚にとまる。ほんものの鼠小僧とはしらず、重吉は鼠小僧をかたり、酒をただのみ。鼠小僧を英雄視する人たちと、鼠小僧の人気にあやかるゴマのハエをシニカルにかいている。人気はうつろいやすいもの。芥川龍之介は民衆を信用しない。義賊をきどっても、鼠小僧もゴマのハエも同じ盗人。貧者が富者から金品を奪ってよいとするプロレタリア意識は、芥川の思想に反する。にせものとほんもの、二人の鼠小僧にたいする作者の眼に愛情がかんじられない。飢饉で米がとれないのに、にせ鼠小僧が、米でつくった日本酒をのんでいる。飢饉の惨状をしらず、美酒をのむ将軍とかわらない。人の性に貴賤の別はない。米だけでつくった、アルコールをまぜない酒はうまい。酒はつくられた土地をはなれると、味がおちる。(「食卓の文化史」 秋元潔)


酒を讃(ほ)める(2)
第三群(三四五~七)では「値のつけられない程貴い宝も一杯の濁り酒にどうしてまさろう」、「高価な夜光の玉も酒を飲み憂さを晴らすのになんで及ぼう」と仏典にいう「無価宝珠」、漢籍に出る「夜光璧」にまさる飲酒の価値を賞賛し、「世間(よのなか)における悦楽の道でせいせいするのは酔い泣きすることであるらしい」と貴族の教養である詩歌管弦による悦楽を超えた人生の極地として「酔ひ泣き」を認めようとするもので、この連作の頂点を示している。最後の第四群(三四八~三五〇)は、仏教の輪廻(りんね)思想に『荘子』の故事をふまえて、「現世で楽しかったら来世は虫にでも鳥にでも私はなってしまおう」、仏教の生者必滅の思想を前提に、「生きている者は結局は死ぬのが理(ことわり)なのだからこの世にいる間は楽しく生きたい」と二首とも現世における楽しみを極めてみたいという願望を表現して、最終歌は「黙って賢ぶった振る舞いをするのは酒を飲んで酔い泣きするのにやはり及ばないことだ」と結ぶ。「酔ひ泣き」を「勝りたるらし」(三四一)とか「あるべかるらし(三四七)と断定を保留して「らし」と表現して来たのが、この歌に至って「酔い泣きするのになほ及かずけり」と確認を表現して心情の深まりを示している。全体の序の第一首と各群の第三首は関連性をもって連作の主題、「賢しら」に対する非難と「酔ひ泣き」の賛美をあらわしている。だが、この連作はその頂点に求めた「すずしき」境地とは逆に憂愁を漂わせている。「酔ひ泣き」の賛美が最終歌を除いては「らし」と表現されていたのは、それが旅人の志向する世界であったということで、旅人が「酔ひ泣き」の境地にあったのではない。むしろ醒めていながら愚痴の酔狂の世界を志向するところに旅人の悲しみがあったのである。志向の世界と対極にあるのが現実の「賢しら」である。賢良であるべき官人のこざかしく名利を求める自己本位なあり方に対する慨嘆が、自分もその一員であることを意識して揶揄的表現になったものであろう。基皇子の薨を契機に相つぐ中央の政治情勢を演出する藤原氏と追従する人々への憂憤、そして大伴一族の将来に対する危惧という精神的に閉塞された状態にあった旅人の心情表現が、「酔い泣き」の志向と「賢しら」の揶揄にとどまったのも致しかたなかったのかもしれない。(「憂愁と苦悩 大伴旅人・山上憶良」 村山出)  酒を讃(ほ)める 大宰帥大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三(6)


質屋と一九
さらにその年の夏のこと。一九が近江屋で金を借り、後から酒屋や薪屋などの掛売り金の督促状を質種として置きに来た。さすがの近江屋も怒り、さっきの金を返せと怒鳴るが、一九はすでにその金で酒と鰹を買ったあと。そそくさと逃げ帰る。近江屋はじきに一九が気の毒になり、貧しくても悠々たる生活ぶりが尊くも思われて、わびに出かけていく。すぐ仲直りして二人で飲み始め、さて近江屋が扇子を出して頼むと、一九はすらすらと書きつけた。「借金を質に置いても初鰹もとめてくはん利もくはばくへ」(「笑いの戯作者 十返舎一九」 棚橋正博) 「日本奇談逸話伝説大辞典」からの転載で、それに対して著者は、細部にわたって批判的に扱っています。


汝れもまた夜あかしぐせか冬の蠅
汝(な)れもまた夜あかしぐせか冬の蠅  私はこの句を最初みた時、徹夜仕事に倦(う)んだ時の発句かと思い、以後もずっと勝手にそう決め込んでいた。ところが父の死後、『吉川英治全集』の月報に、中野実氏が書いておられる文章を読んで、あっと思った。この句は、昭和十一年に、新橋の料亭で、中野氏と永井龍男氏と三人で飲み明かした時の句だというのである。中野氏が父を送って家へ帰るのはいつも元旦の朝だったと述懐しておられる。父も四十半ばの男盛りで、前の妻とはうまくゆかず、母と知り合う前後のことだから、気のおけない友人達と盛んに飲み歩いていたようだ。しかし、そうやって夜を徹して飲んでいても、そのころから父の酒が"舌洗い"だったことは、そのころまとめた『草思堂随筆』の中の「舌を洗う」という一章にその言葉が出ているのを見てもわかる。私は、せいぜい日本酒一合ほどの酒量の父が、各社の自他共に許す酒豪連に伍して、いつまでもつき合えるのを不思議に思い、一度その秘訣を訊いてみた。「僕は、何時間酒席に坐っていても、量はほとんど飲んでいないんだよ。ただなめてるんだ。すすめられた時でも、ちょっとなめてその分だけ足してもらう。それで結構酔えるし、酒の席には坐ったたけで愉快になれる性質(たち)だから、座も白けない。」という答えだった。(「父 吉川英治」 吉川英明)


酒は日本刀を液体にしたやうな者
父の父、つまり私の祖父は酒が強い人だったらしく、一升や二升は平気で飲んだという。その上、酔うと暴れたり、祖母に難題をふっかけたりする酒乱になりやすく、父も『忘れ残りの記』の中で、「(酒に酔った時の)暴虐な父の姿と、母の泣き顔の像とは、今でも絵に描けそうなくらい強い印象を網膜のうちにもっている」と書いている。また、祖父のそうした酒癖が、中流以上の生活をしていた家庭を没落させ、父が若いころ苦労しなければならなかった遠因にもなったようで、「酒は飲み方によっては」という警戒感を父は人一倍持っていたようだ。「酒は日本刀を液体にしたやうな者。あの清澄冷徹なるにほひ、芳烈無比な味、まちがふと人も斬る、自分も斬る」父は「酒に学ぶ」という随筆にそう書いている。(「父 吉川英治」 吉川英明)


はち巻岡田
番附審議会なる会合は、毎年晩秋のころ、一、二の例外があったが、殆どが銀座の松屋裏の『はち巻岡田』で催された。『はち巻岡田』は、先に述べた出雲橋の『はせ川』と並んで、文士が行くので有名な小料理屋であった。一階がカウンターとテーブル三席の小さなこじんまりした店で、二階が座敷である。入口に、かつてここを贔屓にした文人の俳句を染め抜いた紺暖簾が掛かっている。 雑炊を煮込むその夜のあられかな 川口松太郎 うつくしき鰯の肌の濃き薄き 小島政二郎 その他、俳人でもある久保田万太郎氏、久米正雄氏等の句がある。この俳句の四人のほか、水上滝太郎、小山内薫、岡田三郎助、里見弴、石川淳、河上徹太郎、吉田健一といった人たちが贔屓だった。創業者の岡田庄次氏が店を開いたのは、大正五年というから古いものである。店主の律儀な性格が、文人の客に愛されたという。戦争直後、岡田氏は亡くなり、未亡人があとを継ぎ、今は二代目の世代となったが、文壇の人には変わらず愛された。山口瞳氏などは、一家揃って贔屓にした。巌谷大四氏も、外出が出来る間は老体を運んだ。漫画家の杉浦幸雄氏、岡部冬彦氏も愛用した。(「さらば銀座文壇酒場」 峯島正行)  銀座復興(3)

唯一人で隅っこで
梅崎さんは酒をよく飲む。文壇中で有数な飲み手ではなかろうか。一滴も飲めなかった椎名麟三氏は梅崎さんから酒を教わったという伝説がある。両人とも家が附近だったし、文壇登場もほぼ一緒で仲良しだったからだ。梅崎さんの随筆を読むと、戦地で下士官になり、アルコールを飲むことを教えられ、メチルとエチルがあり、エチルを飲めばよいと知った。そして盛んに飲み、終戦後も巷にあふれたカストリをよく飲み、二日酔を繰返した。他人と一緒に飲むと調子が狂ってしまうから、なるべく一人で飲む方がよいという。-たしかに筆者など時折り梅崎さんと新宿の安酒場で会うが、何時も一人のときが多い。そしてハシゴ酒である。知人友人に会っても、決して仲間へはいったり、合流したりはせず、最後まで一人行動をとる。ときおり、酔っては友人の誰かれと文学や文壇についての論争をやっている。しどろもどろの口調で、仲々しつこくからんでくるのだが、たいていの相手は言い負かされている。また飲んでいて、虫の好かない人間がはいって来ると何時の間にやら消えてしまう。あっという間にいなくなるのだ。また一時間ぐらい同じ場所で飲んでいると、一時間ぐらい居なくなった梅崎さんがまたやってくる。つまり一時間のうちに、二、三軒廻って来て、もとの店へ帰ってくるのである。決して友人たちと賑わしくガヤガヤ飲むのではなく、唯一人で隅っこで、ぽつりぽつりと飲む型である。(「文壇の先生たち」 竹内良夫)


鈴木三重吉
酒の肴は鱚(きす)の二切れ一皿と、海苔と香の物ぐらいであった。京都流の薄味を好み、肴はなんでも小皿盛りで、昼間からダラダラと飲んだ。長男の鈴木珊吉の回想によると、故郷である広島の魚の干物、漬物、生牡蠣を好んだ。とくに漬物にはうるさく、「漬物」の作り方に関するエッセイは、食通の料理本並みである。川でとれる鮎の干物も好み、広島の友人から、産物が送られてくるのを楽しみにしていた。酒も広島の酒しか飲まず、醸造元より大量にとりよせて、よそで飲むときも、一升瓶につめて持ち歩いた。「もとは月に三斗飲んだが、今は体に悪いから月一斗くらいである。下物(さかな)はさっぱりしたものが一品あればよい。豆を一握り囓っても一升位飲んで見せる。併し何もそれは自慢にしている訳ではないから人が飲んで見ろと言ったって飲みはしない。飲むと書けないから、大抵いつも寝がけに飲む。朝は十一時まで寝る代りに、寝がけと言っても通例夜中の二時三時である。私は東京流の料理は好まない。甘いのが厭だ。上方流のあっさりしたものが好きである」(「文士の生活」)(「文人暴食」 嵐山光三郎) 漱石門下のお山の大将


仮託の法
露伴の説法の中に、「仮託の法」というのがある。これを具体的にいうと、たとえば私が、徹夜の遊びで、心身ともにすさんだ姿を、朝方、露伴の前にさらしたこともある。そんな時、露伴は一瞥のもとに、私のすべてを察してしまう。一瞬、するどい眼が、ぴかりと輝くが、あとは直ぐに温顔に返る。それから、やおら話がはじまるのである。これからが、「仮託の法」というやつで、すなわち、ある実在した人間の話に託して、私の姿をそこに照し出し、その人間がどういう境遇になっていくか、いろんな様子を面白おかしく語りながら、自然と私に強い反省を求めるという説法である。-
酒品について、露伴はよく引き合いに出したのが、明治の文人である、大槻如電のことであった。作詞、作曲、振付までやるという、表向きはまことに粋人にみえた。だが、この粋人が、自然、足のおもむくところは花柳の巷となるわけだが、この学者ほど酒癖が悪く、多くの女性を泣かせた男もいなかったそうで。本人は大の粋人気取りで、自作の歌をつくって、大通ぶりを発揮するのだが、やがては乱酔に及ぶ。そうなると、もう箸にも棒にもかかったものではない、大虎になってしまう。本人がどんなに大得意でも、周囲からは鼻つまみで、「如電さん」といえば、大虎の代名詞のようになってしまった。こんな男が、作詞作曲のたぐいから、振付までやるんだから、花柳界の中ではたまったものではない。粋の押売で鼻つまみの見本だ、と、これは酒癖と遊びのいましめを、「仮託の法」に託した、一つの見本であった。(「晩年の露伴」 下村亮一)


年酒
文鳥の嘴くれなゐによき年酒     熊沢鹿角
文鳥の飛びよろこべり年酒酌む   同
新酒
子と酌めば新酒の味を子は知れり  檀上堅(「夏草雑詠選集」 山口青邨編)


君は一番強いよ
自分で自分を指名して御苦労さんでしたと挨拶する謝恩会にしようということになった。赤坂でも新橋でもなく、烏森であったところが、たぶん味噌ということなのだろうが、お稲荷さんかなにかの近所の待合に集合した。五人ばかり芸者を呼んで大いに飲んだのである。そのなかの雀奴(すずめやつこ)というのが愛嬌があっていいということになって、太宰もぼくも亀井君も、ばかなことをいいながら大変に飲んだのである。それだけのことだが、そのときだけはさすがの太宰もかなり酩酊したらしかった。その帰途ぼくだけ駒込駅で下車したのだったと思うが、それから亀井君と太宰とは吉祥寺までの国電で、そうとう難行したらしいのである。こんなハガキが残っている。「先夜はやられました。日暮里で一やすみ、巣鴨で下車して一やすみ。亀井は吐き、私は眠り、共にはげましあって、やっと新宿から電車に乗り、こんどは私は電車の窓から吐き、亀井は少し正気づき、私は正気を失ひ、たうとう亀井に背負はれるやうな形で三鷹の家へ送りとどけられました。君は一番強いよ」さすがに太宰は、描写が巧いと思った。二人が交互に助けあっているところがよく表現されている。「君は一番強いよ。」は例のお世辞であるが、太宰の酒にもこんな夜はあったようである。(「太宰治おぼえがき」 山岸外史)


上戸(じようご)
酒を好む者を上戸(じようご)という。大鏡、巻五に、為光の長男誠信(さねのぶ)のことを「いみじき上ごにてぞおはせし」と評し、また、巻六には道隆のことを[男は上戸ひとつの興の事にすれど、過ぎぬるはいと不便なる折り侍りや]と評している。(「平安時代の文学と生活」 池田亀鑑) 呑んべい道隆


有酒市脯近 盤飱比目魚
尾州神辺(かんなべ)の菅茶山(かんさざん)が二月中旬に井沢蘭軒へ書いた手紙に、「蜀山人先生御病気のよし、御ついでに宜しく奉願上候。衰病は同病也、失礼ながら相憐候かた也」(鷗外『井沢蘭軒』)と見舞の伝言を依頼したが、南畝はずっと病床にあったわけではないらしい。それは肥前平戸藩主松浦静山の『甲子(かつし)夜話』からも察せられる。 寝惚(ねぼけ)先生は明和の頃より名高く世にもてはやされしこと言に及ばず。予も先年鳥越邸に招て面識となれり。夫(それ)より狂歌など乞とて文通・往来すること久。今茲癸未(ことしきび)の四月三日劇場にその妾を伴ひゆきたる折から、尾上菊五郎と云る役者寝惚が安否を問来れるに、即狂歌を書て与ふ、 梅幸が名護屋三本笠(からかさ)は ふられぬと謂(い)ふためしなるべし これより夜帰り常の如く快語してありしに、翌四日は気宇常ならずと云しが、又快よく、ひらめと云魚にて茶漬飯を食し、即時(そくじ)を口号(くちずさみ)し片紙に書す。
酔生将(はた)夢死、七十五居所(きよしよ)。
酒市脯(しほ)近、盤飱(ばんさん)比目(ひらめ)魚。
是より越え六日熟睡して起(ただ)ず、その午後に奄然(えんぜん)として楽郊(らつこう)に帰せりと聞く。この人一時狂歌詩の僊(せん)なり。
市村座へ妾(お番であろう)をつれて行って三日後に死んだというのである。平戸藩主松浦静山とは文化年間から知り、文政四・五年と続けて画賛をたのまれている間柄だから、信用できる。(「大田南畝」 浜田義一郎)


さけかす【酒粕】
酒をしぼったあとに残ったかすで、酒漬や粕汁に使い、焼酎の原料にもする。立原が、これを焼いて食べるおいしさを体得したのは、晩年である。粕汁は、魚の粗に野菜を加え、酒の粕を入れてとく。塩鮭の頭には大根が似合う。鰤の粗の場合は<味噌を少々加えると、これはまた素朴な味>になり、身欠鰊もおいしいと推薦している。(城)(「立原道明食通事典」 立原正秋文学研究会編著)


とそ-迎春の屠蘇酒
屠蘇はいつの時代から用いられるようになったか定かでないが、『公事根元』によれば遣唐使盛んなりしころに唐よりわが国に伝来したものらしく、嵯峨天皇の弘仁年間(八一〇~二四)に始まるといわれるから約千百三十年ほどむかしの事で、ずいぶんと古い嘉祝の為来(しきたり)である。屠蘇酒は瘟気(おんき)を除き、一人飲めば一家に病なく一家これを飲めば一里(さと)に病なしといわれる延寿の薬酒で、弘仁年間より元旦に当って、主上に屠蘇を奉った事が『江次第抄』(大江匡房の『江家次第』を抄出して一条兼良が解釈したもの)に載っており、これが民間にも伝わって歳首を祝し、一家一統の今年も無事息災ならん事を祈って用いられるようになったものである。 金泥の鶴や朱塗の屠蘇の盃 漱石(「俳諧たべもの歳時記」 四方山径) 飲食門第十二


手酌をしながら喋る
ぼくの中に残っている記憶だと、波郷の服装は白絣(しろがすり)でね、髪の毛長くして、食卓にこう片肘(かたひじ)ついて、徳利と猪口(ちょこ)だけです。何も食べる物は置いてありません。恐らく肴(さかな)はいらないんですね。波郷は、ひとり手酌(てじゃく)で吞(の)んでいます。それを皆で囲んで波郷の話を聞いています。波郷は手酌をしながら喋(しゃべ)る。私も中学生で、席の隅のほうから見ていました、「ああ、かっこいい人だな」と思いながら…。(「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」 金子兜太)


高井⇔五木
高井有一(たかいゆういち)さんの酒は、はたから見ると、きわめて陽性の酒のように見える。わきの下をくすぐられる少年みたいな、独特の高笑いのせいだろうか。グラスの運び方にもテンポがあり、最後までくずれない。その間に次から次へと物を食う。早口で辛辣(しんらつ)な寸言をはさむ。(五木寛之(いつきひろゆき))
しかし、[徹夜つづきで]撞かれたあげくの酒でありながら、私は、彼[五木寛之]が酔って居眠りをしたり、乱れたりしたのを見た事がない。(高井有一)(「酒の詩集」 富士正晴編著)


酔叟伝(酔叟(すいそう)の伝)
-酔っぱらいじじいは、どこの土地の男だかわからない。姓や字(あざな)を呼びもしない。いつも酔っぱらっているので、人呼んで酔っぱらいじじいと言う。一度、荊州澧州のこのあたりへ出掛けてくる。七梁冠をかぶり、ぬいよりのしてある服を着こみ、高い頬骨、広い頬。長いひげと太鼓腹。はるかに眺めやれば、まるで猛将である。年のころは五十すぎ、仲間もなければ弟子もない。手には黄竹の籠をひとつぶらさげている。一日中泥酔し、真昼間から寝ぼけており、百歩離れていても、酒の香りが鼻をつく。横町という横町、しらみつぶしに酒をあさり、またたくまに十軒以上はしごして、くだんのごとしという次第。(「近世文明選 近世散文集」 本田済、都留春雄) 「この書き出しは、意識して陶淵明「五柳先生伝」に倣っている。」そうです。


231瓠葉(こえう 風そよぐ ふくべの葉)
風そよぐ ふくべの葉
つみとりて 煮(に)る
あるじに 酒ありて
酌(く)み交(か)はし 飲まむ

小さき兎の首を
毛ながらに やく
あるじに 酒ありて
酌み交はし ささげむ

小さき兎の首を
毛ながらに やく
あるじに 酒ありて
酌み交はし むくいむ

小さき兎の首を
毛ながらに やく
あるじに 酒ありて
酌み交はし すすめむ
主題 宴飲の詩。いわゆる饗宴でなく、二三の友人を会して、兎のてり焼きで一杯という、くつろぎの会である。士人たちには、最も心のやすらぐ一時であろう。(「詩経雅頌」 白石静訳注)


かすゆ酒 いにしへの 人の飲みけん かすゆ酒 われもすすらん 此(この)よ寒しも(亮々遺稿(さやさやゐかう)・貧窮百首) 木下幸文
 ひとりして 我がくむ酒に かぎりなき 春の心は こもりける哉(浦のしほ貝・春) 熊谷直好(くまがやなほよし)(「歌語例歌事典」 加藤克巳、桜井満監修)


ハリウッドスターたち
アルコール中毒、少なくともアルコール中毒の噂があったハリウッドスターたちの名前を挙げるとかなり印象的な一覧表が出来る(例えば、W.C.フィールズ、バスター・キートン、ビング・クロスビー、ジョン・バリモア、ハンフリー・ボガート、スペンサー・トレーシー、エバ・ガードナー)、また映画監督達やその他映画に携わっている人びとの多くはアルコールの問題を抱えていた。しかし、おそらくどんなに多く見積もっても、ハリウッドのスター達の中でアルコール中毒だと考えられたのは、10パーセント足らずであっただろう。(「アルコールと作家たち」 ドナルド・W・グッドウィン)


漱石山房の元旦(2)
さうして方方廻つても、夕方余り遅くならぬ内に早稲田南町の漱石先生の許に廻る様に心掛けた。当時の気持では、漱石山房で年賀をしなければ年が改まつた様な気がしなかつたのである。学校の経験から云ふと、大学を出たものがすぐ高等学校の先生に赴任して来る事はしばしばある。つまり三年か四年の先輩が先生となる事は珍しくないのであつて、さう云う点から云ふと、小宮豊隆さんとか阿部能成さんとか云ふ人達は、私どもの先生になつたかも知れないのだが、今自分が五十を一つ越した歳で、その人達を見ると、大して違ふ様にも思はない。しかし漱石先生に年賀してゐる当時は矢張り大分隔てがあつた様で、歳の点だけでなく、漱石先生との関係で私よりもずつと先輩であつたわけなのだがその人達はお正月の席でもくつろいでゐた。私などは固くなつて、先生の前に新年の祝辞を云ふのであるが、漱石先生はお目出度いのか面倒臭いのか知らないけれど、ふんふんと曖昧な声をするばかりで甚だ心もとない。その内に屠蘇が出て、女中がお膳を持つて来る。お雑煮は毎年きまつて鴨の入つた汁であつた。大変うまい。しかしお雑煮と云ふ物にさう云ふ味をつけて、うまくしてあるのは下品な様な気がしたが、こちらの習はしであらうと考へて、いつもおいしく頂戴した。毎週木曜に先生の許に集まる時と大して変はつた話があるわけでもないけれど、ふだんは見馴れない様な、高名な人の顔を見る事もあつた。高浜虚子氏が来てをられて、漱石先生やその他の人人と能だか謡だかの話がはずんでゐたが、私は謡をうたふ人の気持が嫌いだつたので、つい傍から「謡は乙に澄ましてゐるからいやだ」と云ふ様な事を云つたら、高浜さんが私の方に向き直って、謡が乙だと云ふのは、それはどう云ふ意味ですかと反問されたので、忽ち詰まつてしまつた事もある。さつき云った小宮さんや安部さんと同輩の鈴木三重吉さんは大概いつも酔つ払つてゐて、どうかするとお正月の晩から泣き出したり、変に腹を立てて傍の者に八つ当りしたりした。さう云ふ時に、漱石先生はそれを聞いてゐるのだが、成り行きに任せて、知らん顔をしてゐるのである。早い客はひる前から来るのも有つたに違ひない。平生余り顔を見せない様な人もゐて、さう云ふ人人が入れ代はつたり、中にはその儘晩までゐすわるのもある中で、漱石先生はよく疲れず、みんなの相手が出来たものだと思ふ。(「漱石雑記帳」 内田百閒)


飲食門第十二
屠蘇白散(トソビヤクサン) 正月一日ニ 飲此ノ薬ヲ也 一人 飲ハ之ヲ 一家 無病 一家 飲ハ之ヲ 一里 無病也 自(ヨ)リ少 飲ハ之 然(シカフ)シテ後ニ 至ル老也(「下学集」 山田忠雄監修・解説) 室町時代中期に著された国語辞書だそうです。若い頃から飲むと良いということのようです。


盃酌九巡、天明に及ぶ
少年のときに酔っぱらいすぎた義満だが、いぜんとして酒好きで、たとえば康暦元(一三七九)年、義満が二十一歳の正月七日には、宮中に参内して、夜を徹する酒宴に加わっている。このように幕府の棟梁たる公方(くぼう)が、宮廷の主上たちと酒盃をかわしあうことは、従来無かったことだし、しかもこのときには、義満の方が天皇に酒をさしあげていない後円融(ごえんゆう)天皇がみずから義満に酌してやるほどに、親密なつきあい方だった。義満が公家ふうなものに、一種の憧憬をいだいていたことは、よく知られた事実だが、こうした酒を介しての公武の交わりも、義満の貴族趣味によるところが大きいのである。その後もしばしば参内して、天皇や上流公家の面々と飲んでいる。「盃酌九巡、天明に及ぶ」といわれるような、夜を徹して大酒を飲んだことは一再ではない。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎)


番附会議
「酒」の昭和三十三年の正月号に最初発表され、以後毎年新年号に発表され、昭和五十年まで続いた。これは結構マスコミの話題となり、世間の人にも注目された。しかし文壇人の神経を刺激するものでもあった。ところで、問題は誰が文壇人のランク付けをするかであるが、佐々木さんは、これを新聞、雑誌社の文芸担当の記者、編集者を毎年、何人かずつ選んで、それに当たらせた。その番附を作る番附会議なるものを座談会形式で開き、横綱から順々に決めて行くというやり方をした。その座談会のお喋りを、番附と一緒に発表した。出席者の名前は、最初に出してあるが、記事の中では、発言者はA・B・Cとアルファベットのイニシャルをつけて、誰の発言か、分からないようにしてあった。いま、毎年の座談会を読み返してみると、記者たちもずいぶん遠慮なくものを言っているのに驚く。当時は、作家と記者、編集者の間が密着していたことの証であろう。その審議委員も年がたつに連れて、新聞記者より雑誌の編集者に重心が移って行く。それも、先に述べたように、週刊誌を初めとする雑誌ジャーナリズムの拡大を反映しているといえよう。番附を編む基準はもちろん酒量であるが、酒品とか、酒場に通う回数とか、そのしごとぶりまで、はんだんの材料にしたようだ。(「さらば銀座文壇酒場」 峯島正行)


珍しい肴
戦国のけわしい風雲もどうやらおさまりかけた、天正二一(一五七四)年の正月元日。まだ岐阜の城にいた織田信長のもとに、その破竹の勢いに敬意を表すべく、京都や周囲の豪族たちが年賀の挨拶に来た。信長はめいめいに三献の酒を出してこれに酔いつつ、前途にたいする野望をいよいよはげしく燃やし、得意そのものであった。外来の年賀客が退出したあとも、うれしくてならない信長は、近習のものたちを集めて二次会に及んだのである。古今において、およそこれほどに珍しい肴はあるまいと思われるもので、また飲み直そうというわけであった。その肴というのは、何と浅倉義景と、浅井久政・長政の首であった。その首には、それぞれ金泥をべったりなすりつけてある。悪趣味の極みという以上の、非道の振舞いである。これを目の前に据えて、大いに飲み、謡いをうたう。『信長公記は、「千々万々目出度御存分に任せられ御悦也』と、信長の真骨頂を示した祝宴となった旨を記している。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎)


漱石山房の元旦(1)
近年は億劫になつて、年賀に出かける事もないが、それ以前はお正月と云ふと随分忙しかつた。今の気持で考へると他人の事の様に思はれる。大晦日は大概夜遅くなるので、寝不足の儘元旦の床を離れ、先づ恒例のお雑煮を祝ふのだが、私の家は昔からの仕来りで元旦味噌汁、二日は汁粉、三日になつて初めてすましと云ふ事になつてゐる。味噌汁の雑煮などうまかつたためしがない。元旦から時間にせかせか追つかけられて、フロツクコートを著て、学校の賀詞交換会に顔を出す。大礼服のたしなみがなかつたので参賀する事は出来なかつた。それから掛け持ちの市立大学の名刺交換会に廻り、どうかするとその席で飲み過ぎて、いい加減お正月らしくなつたりする。昔の先生や先輩の家にも廻らなければならぬものと考へてゐるので、出かけて行くが一軒一軒上がり込んでゐては間に合はない。人の家の玄関口をのぞいて歩くなど、余計な事だと当時の日記に書いてゐるが、全くその通りだと思ふ。郊外の大久保だの目白だのと云ふ所へ行くのは迷惑であつて、磨いた靴が台なしになつた。大正の初めの頃の事であるが、その時分荻窪とか世田ヶ谷とかは狐狸の住み家であつたのではないかと思ふ。(「漱石雑記帳」 内田百閒)


いいや出ます
たまたま元日に雨が降って、ことしは(しころをうつのは)ないだろうとの判断で誰も若手が来なかったのに、文我がひとりあらわれた。せっかく来てくれたのだからと、支配人が酒をふるまったのだが、これがよくなかった。誰も来なかったことが面白くないと、ぶつぶつ不満を口にして、その日の仕事先である神戸の国際劇場にたどりついたときは、もうへべれけで立っていられない。神戸の仕事は「お笑いトンチ袋」なる大喜利だから、文我が出なくてもなんとかなる。司会の桂米朝が「出んでもいい」と言うのに、「いいや出ます」と言いはって聞かない。「出ます」といったって、自分で袴をはくこともできない始末である。案の定高座ではなにを言っているのかわからない。最初は、その酔態を面白がっていた客のほうも、だんだんとしらけてくる。そんな気分を察してか、自分で舞台を引っこんでしまった。ほっとした残りの出演者で大喜利をつづけていると、わけのわからないことをどなりながら、また出てくるのである。(「酒と賭博と喝采の日日」 矢野誠一) 桂文我だそうです。


屋根伝いに這い回った
マーク・トゥエインは酒を飲むのは好きで、夜を徹してどんちゃん騒ぎのパーティの後、彼とアーテスモ・ウォードはヴァージニア市の屋根伝いに這い回ったという逸話もある。彼は酒を飲むことを恥に思っていたようだった。1860年代には、ほんの3カ月に一度酔っぱらうだけだと友人に手紙を書いている。「耳を傾けるに値する意見を言ってくれる人びとの方ヘ引き戻されるのだ」。彼は酒を飲むのは好きだと言ったが、「その滑稽な面にとり憑かれて」酩酊を助長したりはしなかった。彼は一度酔っぱらって拘置されたことがある。ある伝記作家は次のように記している。ある時だんだん彼の飲酒は健康法とごちゃまぜになり、眠りにつくのに温かいスコッチか、シャンペンあるいはエールかビールか-どの酒を飲むかは、その時々によって変わった-が必要だと思いこんだ。1863年に公表された手紙の中で、彼は考えたり書いたりする時のアルコールの効果についてのエキスパートではないと言っている。しかし、彼は2杯のシャンペンは「晩餐の後のスピーチには至福の刺激」であると思っていたけれども、ワインは「ペンについたおもりであり、インスピレーションが起こらない」と感じ、1杯飲んでも、その後は書けないと言った。トゥエンはアルコール中毒ではなかった。(「アルコールと作家たち」 ドナルド・W・グッドウィン)


水龍吟
歌が終わると龍王は機嫌よく盃を韓生に渡し、自分も笛を吹いた歌をうたった、水龍吟というその一節はこのような内容だった。
歌の中で酒盃を交わすと
香炉からは龍の香り
玉笛の音(ね)に雲は消え
波は砕け 風月は翻(ひるが)える
景色は悠久 人は老いゆく
歳月はまるで矢の如く早い
風流の味も夢のように過ぎる
歓びも しばし 煩悩を如何せん
西山のにぎわいは宵に消え
東山に丸い月 訪ね来る
盃揚げ あの月に訊こう
人の生き様 何遍 見たか
金の盃 典雅な酔い
かたじけなや 佳き客の力
十年の障(さわ)り 塵となりぬ
月が上がるよう 愉快に遊ぼう(「韓国古典文学選 龍宮の宴」 鴻農映二編訳) 李朝前期に金時習によって書かれた金鰲新話にある、文名の高かった韓生が龍宮の酒宴に招かれた話です。


あくきりゅう(悪気流)
[名]酒癖の悪い男。 『モダン語漫画辞典』(1931年)<中山五郎>「悪気流 酒癖の悪い男のこと」
アルハラ
[名](「アルコール・ハラスメント」の略)酒を飲めない人に無理に酒を飲ませること。1992年頃から言われ出した語。<関連語>アカラハ・エイハラ・セクハラ・チクハラ・パワハラ。(「日本俗語大辞典」 米川明彦)


三人の個性
かりに真っすぐエレベーターへ向かおうものなら、「お帰りなんですか」とぼくらは追いかけて恨めしそうな声をだした。すると苦笑しつつも仕方なさそうに、手で「来い」と呼び寄せてくれた。そして遅くまで飲むのである。一度、銀座のバーにも連れていってもらった。作家たちが集まるので有名なバーで、遠藤周作の編集長時代にそこの店から一ページ広告も取りつけてくてれていたのだが、その夜、店内には吉行淳之介氏と安岡章太郎氏の顔が見えた。「おお、遠藤か」と吉行氏が言い、安岡氏も場所を移動してきて、三人が同じ一画に席をしめた。第三の新人が顔を揃えた光景をぼくらは隅の席からなぜか呆れたように眺めていたが、三人はおたがいに話をするわけでもなかった。吉行氏は何人かのホステスに囲まれて、ちょっと危うい女の話をしていた。その横で安岡氏は立ち上がって一人でホステス相手に大声でシャンソンを歌って聞かせていた。そして遠藤周作といえば、店のママにさかんにウンコの話をし、ときどきぼくらを気遣うように相づちを求めた。それはいかにも三人の個性を見せつけた贅沢な光景だった。女とシャンソンとウンコ…ぼくは何か重大な昭和文学史の現場に立ちあったような気がして、この光景は忘れまいぞと自分に言い聞かせていた。(「遠藤周作 おどけと哀しみ わだ師との三十年」 加藤宗哉)


朝子、新聞紙、早く持って来て
萩原朔太郎は食事をするのが、下手であった。盃のお酒はなぜかこぼれることはないが、ほかのものはお膳の廻りに散り乱れるのである。犀星は食事が始まってある時間が過ぎると、「朝子、新聞紙、早く持って来て」と言うが、朔太郎が家に現れた時は、私は犀星のこの言葉を待つようになった。私が新聞紙を持って書斎に行くと、朔太郎は立って私を待っていた。私は目で犀星に、「ハギサクさんが可哀相じゃないの」と合図を送るのだが、犀星は煙草を吸いながら、薄暮の庭を眺めている。朔太郎のお膳と座布団を動かして、新聞紙五枚ほどを重ねて広げ、その上にお膳と座布団を置く。朔太郎は少し酔って来ると、顔が丸く見えるほど柔らかい表情で、全く気にもせず、「あさちゃん、ありがとう」と言って、坐り直すのである。朔太郎の傍らの煙草盆のなかの灰吹きには、吸口をくしゃくしゃに噛みつぶした朝日が、白い林のように立っている。私は犀星を横目で睨むのだが、犀星は畳が汚れるからやむをえないだろうという顔つきをしながら、朔太郎の煙草盆と私とを交互に見る。私はうなずいて、煙草盆を持って台所に行くのである。この新聞紙の手順のようなものは、朔太郎と一緒の夕食の時は、全く同じことが繰り返されるのである。(「父犀星の秘密」 室生朝子)


六、互いに売買して飲む
都に住んでいた金三と朱五という二人のならずもの、朱が、「われらは年が四十にもなろうとしてるのに、まだなんのまともな仕事もしないで、まことに世間の人たちに恥ずかしい。ためしに酒の商いをして、われら二人の間でも、誓って貸し借りなしで、銭のふえるのに任せてみたらどうだろうか」、と言うと、金も賛成したので、そこで一壺の酒を準備して、「そうぞうしいところでは、商いも落ち着いてできぬから、静かなところへ行くのがよいではないか」と相談がまとまり、北岳に登ってみたが、酒を商うにも人の姿は見受けられなかった。金三が、たまたま葉銭(yeob-jjeon)三枚を持っていたので、朱五にそれを渡して酒を一杯飲み、朱五も、またその銭を金三に渡して一杯飲んだ。このようにして、互いに酒を売り買いして飲んだ。夕暮れになって、朱五が、「おまえとわしは、まだ金の貸し借りはしていないのに、酒はすっかりなくなってしまい、手もとに残ったのは、たったの葉銭三枚だけだ。いったい、だれがわれわれの銭を盗んだのか、さっぱりわからん」そこで酒壺をぶっこわし、酔っ払って帰った。
注 北岳・・ソウル北方にある北嶽山をいう 葉銭・・昔の通貨で、平円形で中央に方孔のある一文銭をいう。
この話は、一杯一貫で酒の売り買いをした日本の落語「花見酒」と同じ内容であり、両者とも、まったく勘定はよく合っているし、むだはないと言うべきであろう。(「韓国風流小ばなし」 若松實編訳)


酒を譏(そし)った詩
酒は清んだのが喜ばれるが、そうすればどうしても味が薄くなる。濁ったのは嫌がられるけれども、味としてはその方がこくがある。これは誰しも知っていることである。しかし実際は清んでいながら、一見、濁酒のように赤味がかっていて、特別こくのある酒のあることについては、前人の著論にまだ十分尽くされていないようである。陸放翁(りくほうおう)は唐人が赤酒を好むのを譏って、李長吉(唐の詩人李賀)の、 瑠璃(るり)の鐘(さかずき) 琥珀濃し 小槽の酒 真珠の紅を滴らす という詩を引用している。(「老学庵筆記」巻五)だが私にいわすれば、これは宮中で作られる酒なのである。今日でも太常寺や光禄寺(註一)で酒を作る時には、麹(こうじ)を幾度も醸(かも)してその諸味(もろみ)を瓮(かめ)に入れ、同じことをなんべんか繰り返した後、醡(しぼ)りにかけて糟を漉(こ)すのである。いわゆる「九醞(きゆううん)の芳醴(ほうれい)」とはこれのことである。その色は黄赤色で琥珀のように濃く、水飴みたいにとろっとしている。そうして蘭蕙(らんけい)にも似た香気を放ち、その味は甜くて非常にこくがある。ほんの少し飲んだだけでもすぐに酔うのは、あくまで念入りに醸造せられ、またその材料にしても特別よいのを精選してあるためである。放翁はまた、唐人が甜酒や灰酒を好んでいたことをこきおろして、「みな解すべからず」といい、その例として杜子美(としみ 杜甫)の、 放(お)かず香醪(こうろう)の蜜の如く甜(あま)きを という詩や、陸魯望(唐の詩人陸亀蒙(りくきもう))の、酒の滴も灰の香も去年に似たり という詩を引いている。(同上)しかし、これも怪しむにたりぬと私は思う。大体、酒は幾度も醸しているうち、自然と甜くなるものだ。甕の底の近くに少量の炭や灰を入れるのは、湿気によって酒の味の悪くなるのを防ぐためなのである。もっともあまりたくさん入れてはいけないが。范石湖(はんせきこ 宋の詩人范成大)は、 旗亭の官酒はさらに灰多し といっているが、おそらくこれは宋の朝廷の南渡とともに、江南水郷に居住するようになった人々は、町で売る酒に、長く貯蔵がきくように灰をたくさん入れた。そのため、石湖や放翁はそれを灰酒だといってこきおろしたのであろう。今の紹興酒にしても、その点、やはり例外とはいえないようである。
註 一 太常寺・光禄寺-いずれも官署の名。それぞれ宗廟の礼儀および宮中の膳食張幕のことを掌る。(「中国古典文学全集 歴代随筆集 曬書堂筆録」 松枝茂夫他訳)清の郝懿行(かくいこう)による著作です。


409藪から酒
ぬけ酒(密造酒)の摘発に、収税吏がふい打ちにくる。きたとわかると大あわてで酒壺をかくすが、相手も目が早い。収税吏が婆さんをつかまえて、「このへんで酒を造っとるところはないか」と聞くと、「私とこで造っとります」「そこへ案内せい」というので、婆さんは裏の竹薮(たけやぶ)へつれて行った。「ここですわ。これみな私とこで造った竹です」「竹じゃない、酒のことを聞いとるんだ」「ああ、そうでしたかいな。酒のことなら知りまへんわ」-と、これだけ時間を稼(かせ)げば、かなりのぬけ酒がかくせた。(高知県須崎市)(「日本の笑話」 宇井無愁)


一八 肥後の麻地酒の方
一、上白米の餅 五斗
  上白の糯(うる)米
此二色別々の桶に入れ、寒の内に二返水にてあらい、初の一返の水を捨て、二返目の水を其儘七日置き、八日目に常の如く蒸し食にするなり、但し餅米と糯米とこしき二つにてめん/\に蒸し、同じ蒸し加減にするなり。
  上白こうじ 六斗、水 六斗
右麹を水と能くあわせ、扨二色の蒸し食、人肌に冷め候時半切に入れ、能く揉み合わせ、一夜置き明日臼にて搗申候、搗き加減は此の蒸し食の半分過ぎ潰れ申候程に搗き申候。七日の内一日に二度三度は手にて揉み合せ、上下へ攪拌(かきまわ)し温かなる所(ところ)に置き申候、扨(さて)て八日目に壺に入れ、板にて蓋を能く/\して、其上をかき、紙にてよく包み湿気の入(は)いらぬ様にして土に埋め候、是も来年の六月土用の内に口を開(あ)け候、豊後のよりは甘(あま)く候、色白き濁り酒也。(「食菜録」 徳川斉昭 石島績編著)


酒だるを見せてもらおうかね
いろいろともうやかましく始めたのを相手にもせず、黙々とたたずみながら、死骸から死骸へ、道から道へ、倒れているその位置とその道筋をしきりと見ながめ、見返していましたが、そのときはからずも目についたのは、一真寺の反対側の本港町の曲がりかどにある一軒の酒屋でした。寺の裏門からずっと出て、死骸を越えて、一本道をまっすぐたどっていったその曲がりかどに、杉の葉束の酒屋のしるしが、無言のなぞを物語り顔につるされてあるのです。「ウフフ。におってきたな」さわやかに微笑して、疑問の死を遂げているまんなかのふたりの死骸に近づくと、静かに名人はまず懐中へ手を入れました。同時にさわったのは金包み! 一方の懐中から切りもち包みが一個。あとの懐中からも同じく一個。双方合わせると五十両のおろそかでない大金が、がぜん出てきたのです。―しかも、その包み紙には、ぷーんと強い線香のにおいがある。「ほんとうににおってきやがった。酒だるを見せてもらおうかね」さかさにかしげて、何をするかと思われたのに、ぽつりと一滴受けたところは不思議にも親指のつめの上でした。―じりっとたまったかと見るまに、ぱっとそのしずくが散りひろがりました。せつなです。「毒だ。まさしく、毒薬を仕込んだ酒だよ」「はてね、気味が悪いようだが、そんなことで毒酒の見分けがつくんですかい」「ついたからこそ、毒が仕込んであるといったじゃねえかよ。どうまちがっておまえもお将軍さまのお毒味役に出世しねえともかぎらねえんだからね、よく覚えておくといいよ。つめにたまって散りもせず、かわきもしない酒なら毒のない証拠、今のようにしずくをはじいてしまったら、すなわち毒を仕込んである証拠と、昔から相場が決まってるんだ。―おきのどくだが、眼がついたぜ」(「右門捕物帖 開運女人地蔵」 佐々木味津三)


七五三
「酒は好きだったらしいですね。私は七五三に飲みますと云っておりました。多分朝が三杯で昼が五杯で晩が七杯だったのでしょう。小さな猪口(ちょこ)でチビチビやるのですからタカは知れておりますが、それでも飲まないと工合が悪かったのでしょう。『今日は朝が早う御座いましたので三杯をやらずに家を出まして、途中で一杯引っかけて参りました。申訳ありませぬ』と真赤な顔をしてあやまりあやまり稽古をしてくれる事もありました」-
 夕方になると翁は一合入の透明な硝子ガラス燗瓶に酒を四分目ばかり入れて、猫板の附いた火鉢の上に載せるのをよく見受けた。前記喜多六平太氏の談によると翁は七五三に酒を飲んだというが、これは晩の七の分量に相当する分であったろう。翁の嗜好は昔から淡白で、油濃いものが嫌いと老夫人がよく他人に吹聴して居られた。筆者も稽古が遅くなった時、二三度夕食のお相伴をしたことがあるが、遠慮のないところ無類の肉類好きの祖父の影響を受けた自宅うちの夕食よりも遥かに粗末な、子供心に有難迷惑なものであった。そのうちに翁は真赤になった顔を巨大な皺だらけの平手で撫でまわして、「モウ飯」と云った。燗瓶には必ず盃一杯分ばかり残していた。(「梅津只圓翁伝」 夢野久作) 梅津只圓は幕末・明治の喜多流シテ方能楽師だそうです。


フリー・ランチ
フリー・ランチというものが何処の土地で始まったものか、ということについては色々な説がある。一説によれば、その起源はニューオーリンズの交易酒場であり、そこでは二杯以上のカクテルを飲んだ客はテーブルの上に並べられたオクラ料理、牡蠣の燻製、豚の焼き肉などをセルフサーヴィスで食べてよい決りになっていたという。また、もう一説によれば、金鉱掘りの鉱夫たちがサンフランシスコの歓楽街の酒場に無料の食い物を備えさせたのが、そのはじまりだともいう。いずれに起源があるにせよ、サルーンのフリー・ランチは合衆国全域で神聖なる伝統となっていった。-
このすこぶる巧妙なからくりを要約すると、酒なりビールなりを二杯も飲めば食欲が増進し、その結果塩物類に手を出せば今度はおそろしく喉が渇く、というわけである。
(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳)


酒好きの学者と酒嫌いの学者
奇妙なことだが、私のみるところでは、酒好きの学者の研究では大抵酒が良い結果になり、酒ぎらいの学者の発表は酒が悪いとなっているようである。学者の研究なんて「そんないい加減なものか」という批判があるかも知れない。しかし、私はそれらの学者がけっして不当な研究をしたとは思わない。また主観が先に立って白を黒と報告したり、あるいは成果を曲げて発表したりするのではないと信じている。ただ酒好きの学者の実験で悪い結果が出たときは公表しないで、よい結果が出たときは鬼の首をとったように公表するのである。酒嫌いの学者の研究発表にも似たようなことがいえると思う。(「日本の酒」 住江金之)


うまいと云ふ点で私の嗜好に合はない
平生(へいぜい)の口と味の変はるのがいけないのだから、特にうまい酒はうまいと云(い)ふ点で私の嗜好に合はなくなる。
*内田百閒『新稿御馳走帖』(昭和四十三年)(「日本名言名句の辞典」 尚学図書辞書編集部・言語研究所)



今年は豊年だに、ちと酒をつくつてのまふ。貴様、米を出しやれ。おれは水を出さふ 友だち 水は有物(ありもの)、米は買はねばならぬ 其かはりに、出来た時上水(うはみづ)ばらり取て、跡はきさまにやらう。(「うぐいす笛」 太田蜀山人) 蜀山人の好みそうな題材です。 造り酒屋


吉井勇 酒
長崎の茂吉はうれし会へばまづ腎の薬を教へけるかも
病みあがりなれども茂吉は酒飲みてしばしは舌を吐きにけるかも
長崎の花月の酒の酔ひごこち夢見ここちにいまに忘れず-
吉井勇は明治四〇年夏、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎らと長崎、島原に遊んだ。引用歌は大正八年五月の長崎紀行。斎藤茂吉は当時、長崎医専教授。酔うと舌をなめる癖があった。(「食卓の文化史」 秋元潔)


酒を讃(ほ)める
この歌群は、従来の酒の歌が酒のもつ霊妙さを賛美したのとは違って、飲酒や酔狂が賛美の対象としているのが異色であり、十三首が連作として巧みな構成をもっている。冒頭の一首は「かいのない物思いをしないで一杯の濁り酒を飲むのがよいらしい」と全体の序となっている。物思いにとらわれる心を紛らわす方法に飲酒をあげるが、「清酒(すみざけ)」ではなく「濁り酒」を対象に掲げるのは、酒の効用と至高の価値を強調するためであり、さらに村田正博氏も指摘されるように、中国で名利を捨てて田園や陋巷(ろうこう)の生活に甘んじた隠士が濁り酒を愛したことを知っていた旅人は隠士の志にあやかろうとしたためでもあろう(「大伴旅人讃酒歌十三首」『万葉集を学ぶ』三)。あとは三首一組の四群からなり、各群は二首で漢籍仏典などに典拠をもとめて飲酒をたたえ、三首目で自分の心情を述べて締めくくり、主題を示している。第一群(三三九~三四一)は「酒の名を聖と名づけた昔の大聖人の言葉のうまさよ」と魏の徐邈(じよばく)が禁令をおかして酔った時に聖人にあたったと言った故事によって妙味ある隠語を用いた徐邈ら酔客こそ大聖であろうといい、「昔の竹林の七賢も欲しがったものは酒らしい」と聖賢の愛飲ぶりをあげて飲酒を賛美し、そうした「賢」とは正反対の「賢(さか)しみ」を拒否して、「賢(かしこ)ぶって物を言うよりは酒を飲んで酔い泣きする方がましらしい」と「酔い泣き」を肯定する。第二群(三四二~四)は「どう言ったらよいか方法のわからないほど極端に貴いものは酒であるらしい」と価値ある酒への傾倒ぶりを、「なまはんかに人間であるよりは酒壺になってしまいたい、そして酒に浸っていよう」と自分のなきがらが土と化して酒壺に作られるのを願った呉の鄭泉(ていせん)の故事に共感を寄せて表現し、これと対照的な「酒飲まぬ人」について「ああ醜い、賢ぶって酒を飲まない人をよく見ると猿に似ているかなあ」とその「賢(さか)しら」を貶(けな)すのである。「賢しら」の原文「賢良」が、人物才能にすぐれた官人の意味の「賢良(けんりよう)」にひっかけているとすると、讃酒の世界と対極的な官人の世界を念頭において揶揄していることになる(辰巳正明氏「賢良-大伴旅人論」『上代文学』三四)。  大宰帥大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首123456


十返舎一九の逸話
さて享和二年(一八〇二)から二十一年間にわたって出版された「東海道中膝栗毛」で、一九は滑稽本作家としての地位を確立するが、この作品の挿絵もまた、ほとんどが一九本人の筆によるものであった。その二十一年間は、一九もかなりの収入を得たが、掛取りに追い回されるのが常で、それというのも生来の酒好き遊び好きの上、仲間に気前よく奢るからだった。無欲の酒仙一九にこんな逸話がある。ある酒屋の主人が、正月に一九から屏風の絵に賛を書いてもらって大喜びし、「お礼がしたいが何がよろしいか」と問うと、一九はひたすら酒を所望した。主人の方もまた、酒なら無尽蔵にあるとばかり、一九の前へ樽ごと据えた。したたか飲んで、さて夜明け方、帰ろうとした一九は物置に据風呂の桶があるのに目をつけ、主人にねだる。主人は快く承知し、酒の次に風呂の好きな一九は喜んで、その桶を頭から被るとそのまま、初詣での人並みに賑わう往来へふらふらと歩み出た。一九の貧乏ぶりは凄くて、ある人が彼の家を訪れたところ、何もない部屋の壁に白紙を貼って、その上へ箪笥や床の間や違い棚を描き、後ろへ蔵の戸口まで描いてあったという。-
しかし、以上の逸話はいずれも、どうやら一九自身の作り上げた虚像であるらしい。(「笑いの戯作者 十返舎一九」 棚橋正博) 「日本奇談逸話伝説大辞典」からの転載で、それに対して著者は、細部にわたって批判的に扱っています。


よいかん、よいかん
山寺の和尚は酒が好きであった。小坊が寝るとこっそり酒をのんだ。一口のんでは「ああよいかん、よいかん」といって額をぴしゃりと叩いた。それをきくと小坊も飲んで見たくてしかたがない。そこで和尚の前に出て、名前をよいかんとつけてくれという。和尚はそれを許すと、その晩、いつものように和尚は寝酒を飲み始め、「よいかん、よいかん」と額をたたいた。よいかんはすぐ起きて、「何の用だべ」といった。和尚はおどろいて「何しに起ぎできたば」というと、「したて和尚様ァ今、よいかんてよんだべし」「うん、そんだそんだ、うがさも一杯飲まへべどもてせェ」といった。(南津軽郡藤崎町の話 話・祖母ふぢ 採話・編者)(「青森県の昔話」 川合勇太郎)


方言の酒色々(40)
酒を飲むさま つーりつーり
酒をよく飲む人 のみくち/のみてこ/ひだりあげ
酒を一日に何度も飲むこと いらじょーこ
酒を造る職人たちの二番目の地位の者 じょーだいがろー
酒を飲ませる店 ひきざかや(日本方言大辞典 小学館)


大食上戸(たいじきじょうご)の餅食らい
 「上戸」は酒飲みのこと。酒飲みはふつう餅や甘い物は食べないものであるが、大食漢で酒飲みの人は、平気でそういうものも食べるということ。(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子)


三州屋
又、同じ(木下)杢太郎の詩集「食後の唄」の自序の中には「広重、清親ばりの商家のまん中に、異様な対照をなして『三州屋』と云ふ西洋料理屋があつた」と書いてゐる。昔はこのあたりまで、思案橋、荒布橋を潜つた運河の水が伸びてゐて、三州屋はその水近く、昭和初年の錦絵好みの面影をたたへた家であつたのであらう。パンの会はこの瓢箪新道で最も隆盛を極め、ことに明治四十三年十一月の大会には「スバル」「三田文学」「白樺」「新思潮」の同人を中心に文人や画家の四五十名が集つて、近代文学史中空前絶後のスツルム・ウンと・ドランクを現出した。店の入口には物凄い半獣神のパンの姿を描いた会員の自製の大提灯がぶらさがつてゐた。その大会は渡欧する石井柏亭と入営する長田秀雄、柳敬助(洋画家)を歓送する会でもあつたが、その時祝入営と書いたビラ札に黒枠をつけて壁に貼つて、その下で詩人、作家、画家、演劇家、その他の文芸家など入り乱れての大饗宴をひらき、芸者を椅子にかけさせて異人張りのさんざめきを現出したため、その時来あはせた万朝報の記者によつて翌日の新聞にパンの会を非国民の会として誹毀された、所謂「黒枠事件」が起きたのであつた。あたかも幸徳秋水の社会主義者の一派が大逆事件によつて死刑の判決が下されたのと、同じ月であつた。然し又、この会で谷崎潤一郎と永井荷風とが初対面をしたことも今から思ふと重要なことの一つであつた。
あかあかと土蔵の壁に夕日さしこの新道のしづかなるかも
パンの会のころ恋しやと酒に酔ふ度ごとにいふ友なりしかな
酔狂もこよひは許したまへやと牧(まき)の御神に酒たてまつる
提灯に描きたる牧羊神(パン)の顔さむし身に染むものか秋の夜風は
これは当時の三州屋のパンの会を懐かしんだ吉井勇の歌である。(「新東京文学散歩」 野田宇太郎) パンの会参加記 三州屋楼上 大伝馬町の三州屋でもたれた「パンの会」


57.ひとたび酔えば千の愁いを解く 一酔解千愁
 これは現代の作家老舎の戯曲『茶館』に出てくることばだが、敦煌石窟から出た写本「酒茶論」にも、すでに「酒は愁いを消す薬」とある。 中国古典(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川)


ともべや【供部屋】
供の者が主人の帰りを待つ部屋。普通に供待と云ふた。川柳で詠むは多く吉原の妓楼に於ける供待部屋である。
供部屋は五丁の酒の噂をし 郭中を知って居る(「川柳大辞典」 大曲駒村)


人性、時において定まらず
(和田)義盛が死んだその日の夕方には、多くの武士たちが、おめでとう、おめでとうと、北条方にへつらいにくる。御曹司の泰時のところにも、たくさん集まってきた。当然、酒を出してのもてなしになった。その時、泰時は客人たちを前にして、ちょっと皮肉にも聞こえる話をしはじめた。 自分は、将来とも酒を飲むことを絶対に停止したいと思う。というのは、五月一日の夜から、しきりに酒を飲み続けた。深更になって、義盛らが襲撃してきたわけで、二日の日にもまだまだ酒気が残っていて、やっこら甲冑を着て騎馬したけれども「淵酔の余気に依り、忙然」だったのを悔やんだしだいである。それで今後は絶対に酒を断つと誓願しながら合戦したのだが、とにかく酔後だからやたらに喉(のど)がかわく。水を飲みたいと思ってさがしていたところへ、武蔵の武士葛西(かさい)六郎が、戦場用の小筒を持って来て、盞(さかずき)をさしだしてくれた。ゴクリ、とこれを飲んだときの喉のうるおいがたまらない。酒だったのだが、せっかくの誓願の決意はたちまちどこへやらだ。人の性質なんて、そんなもので、はなはだあてにならない、おもしろいことだと思う。けれども、ともかく今後は「大飲を好むべからず」と言った。-
けれども、自分でも、飲み助が禁酒など、守れぬものだとわかっているものだから、「人性、時において定まらず、比興(引きよう)の事なり」と、ひとりごとのように自嘲しているのである。事実、泰時はその後も酒との縁をきったようすがない。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎) 北条泰時


酒屋、甘酒屋の看板
これの二番煎じになるが、酒屋の看板に矢を出すことも行われた。これも人のいる(射る)ようにという意味だという(『還魂紙料(すきかえし)』)。酒屋の看板に、杉の葉の束(たば)を吊(つる)すのは、味酒(うまざけ)の三輪というナゾ。三輪明神の大杉の下をたずねて行って妻に逢うという説話も古くからあった。杉ばやしのある所に酒があるという意味で、これはずっと古く由緒のあるものということになる。-
甘酒屋の看板にも三国一の富士山をつかった。『綺語文草』三に『甘酒屋の行燈、昆布屋の看板、何れか富士にあらざることなし』とある。「三国一」にうまいというシャレ。富士山は一夜に出来たから一夜(ひとよ)酒にかけたとする説(『皇都午睡』)もある。(「日本語のしゃれ」 鈴木棠三)


父と酒
父は酒が好きだった。強くはなかったが好きだった。酒量は日本酒なら銚子一本が限度だったのではないかと思う。それでも仕事を済ませた後の夕食の膳には必ず一本のっていた。家族との食事では、その一本も飲まないうちに赤くなり、酔ってしまう。母が二、三杯、私が二、三杯助けるくらいでちょうど良い。実際、私は中学校ごろからそうやって父の晩酌につき合った。父は、「酒は、飲み方によって良くも悪くもなる」と、中学生の私に酒を飲ませるのも、"酒の飲み方"を教えるのだといっていた。一しょの夕食の時には、「どうだ一杯」と、一、二盃ついでくれ、母もそれを心得ていて、私が高校に入るころになると、父との夕食には、私の箸の前にも盃が一つ置かれるようになった。(「父 吉川英治」 吉川英明) いいとこ、五、六杯 舌を洗うために


気が遠くなるよう
しかし、ヤミ市で飲食するのは性に合わなかったようだ。十二月には京橋の道端で汁粉(しるこ)を飲んだあと、「ふとした出来心なれどもこんなお行儀の悪い事はよさうと思ふ」と書いている。だから百閒は、ヤミ市のカストリなどは飲んでいない。一九四六年、正月。元日に飲んだのは、合成酒一合、あまりに物足りない。「今年今月のお酒の運は如何なるか。この頃は欲しいと思つても思ふ丈無駄であり、一切世間まかせにて丸で見当がつかぬ」と思つたら翌日、知人が酒を五合譲つてくれた。「飛び上がる程うれしかつた。何よりもお酒にありついて初めてお正月が出来る。」。酒のない日が何日も続くと、日記も鬼気迫る様子になってくる。「身体の調子か時候の加減か二三日来お酒のほしき事常なら常ならず。あてにした話が外れて失望すると気が遠くなるようなり。手の平に冷汗がにじみ出る」。(「居酒屋の戦後史」 橋本健二)


池田まっ青
誘われて「いや」といったことが絶対になかった。ただでさえ酒好きであったところへ持ってきて、ひとり黙黙と飲むなんてのは性にあわないのである。大勢引き連れて、ハシゴして、午前さまなんてことのくりかえしで、もちろん勘定のほうはみんな自分のポケットから出ていくのだ。だから仲間うちの評判はすこぶるよく、かげ口、つげ口のとびかうこの業界で、池田操を悪く言うのはいなかった。-
カネは面白いようにはいってきたし、気風がいいからその面白いようにはいってくるカネで大盤振舞する。これではたまったものではない。月末になって気がつけば、メンバーに支払うべき給料が一銭もない。それでなくても色白の彼氏の顔がまっ青ォになる。かくしてついた綽名が、池田まっ青とシズム・キング 名付け親は、ジョージ川口あたりらしい。(「酒と賭博と喝采の日日」 矢野誠一) 「池田操とリズムキング」だそうです。


先生とお酒   剛山正俊
いつの頃か、先生が市ヶ谷合羽坂上の寓居に居られた時代で、多分昭和十二、三年頃、友人と二人で晩餐に招かれた。我々が先生のお宅を訪問する時は、酔余の揚句か、何となく出掛けてみようじゃないかとか、はっきりした理由の無い場合が多かったが、その時は先生が我々を呼んだのであるから相当の理由があったと思うが、今は記憶にない。一昔も二昔も以前の事だから先生も元気旺盛で、斗酒なお辞せず、興至れば秘琴を持ち出しては得意の曲を演奏し、先生独り悦に入り、更に時移れば、例の鉄道唱歌や、勇敢なる水兵などを隣近所の迷惑など一切おかまいなく、、主客ともども調子っぱずれの大声を張りあげて歌い、歌うというよりどなると言った方が当っているかも知れない。そして最後は何だかわからなくなって辞去するのが通例になっていた。この日も例外ではなく、好い機嫌で帰るだんになって玄関先で靴をはきながらどちらからともなく「新宿へ寄ろうじゃないか」と話し合った。先生には聞こえないように小声で話した積りが、先生が聞きつけたからたまらない。「おい、君達はこの家の酒肴では物足りないというのか。ここでは満足しないから他所で飲み直す所存であろう。失礼千万だ」と一喝され、言い訳もそこそこに退散した。又、これは終戦直後のことだが、当時、怪しげなウイスキーや酒が幅を利かせていた頃、先生がお酒に不自由をして居られると聞いたので、何かの話のついでに白鶴の蔵出しの特級酒があるから近日お届けしますと約束した。先生は日本酒なら月桂冠か白鶴の他は決して口にしないのを知っていたからである。それをつい雑用にまぎれて、失念していると或る日一通の葉書が先生から届いた。始めに用件が書いてあって末尾に「坊主ヲダマスト七生タタルト言フケレド、坊主ガ檀家ヲダマシマシタトキハドウナルノカ 呵々」とあった。恐縮して早速お届けして約束を果たしたが、その後も折にふれてその事を口に出されるのには閉口した。(「回想 内田百閒」 平山三郎編)


サバ水煮缶の薩摩揚
そこでだが皆さん、この水煮缶の中野サバたちを成仏(じようぶつ)させようではありませんか。この料理をつくることによって、豆腐を伴侶(はんりよ)に、サバ水煮の黄金色に満ちた薩摩揚げをつくります。-
この薩摩揚げはそのまま酒の肴にしたり、飯の菜にしてよろしいが、だいこんおろしとしょうがおろしを半々に混ぜた薬味をたっぷりとかけて、天つゆでいただくのもよい頭の使い方であります。
[材料]サバの水煮(缶詰)/にんじん/ごぼう/しいたけ/木綿豆腐/卵/海苔(のり)/片栗粉(かたくりこ)
[つくり方]①にんじんとごぼう、しいたけを千切りにして油で炒め、砂糖、塩、旨み調味料で味つけしておく。 ②サバの水煮を一缶開け、汁を除いて水気を切り、木綿豆腐一丁も水気を切ってから、この両方をミキサーにかけてトロトロにする。途中これに卵一箇と手ちぎり海苔一枚とつなぎの片栗粉(大さじ四ぐらい)を入れてさらにミキサーにかける。 ③これににんじん、ごぼう、しいたけを加え、適当な大きさの団子にしてから、色が濃くなるまで油で揚げるとでき上がる。(「これがC級グルメのありったけ」 小泉武夫)


イヌ型とネコ型
渡辺淳一氏は、酒飲みを二つの型に分けている。イヌ型とネコ型である。(「続酒呑みに献げる本」山本容朗編、昭和五十六年、実業之日本社所収)
 イヌ型というのは、人になつく。店よりそこに働いている女性を目当てに通う酒飲みである。あの店には、A子がいるから行く、というタイプ。忠犬ハチ公は、黙って主人の帰りを待っていたが、この忠犬飲み公は、主人の行くところ必ずついて行く。新宿から四谷、さらに銀座へ、A子の行くところならどこでも行く。これにくらべて、一軒、この家と決めたら、頑として動かない飲み助がいる。「僕は二十年前から、この店に来ています」などと、ひたすら古さを誇る。二十年前には、B子という美人がいて、十年前にはC子という女優の卵がいて、いまのD子は五代目で、この壁がレザー張りになったのは七年前で…」酔うと延々と店の歴史を語る。-こういう飲ん兵衛は猫に似ている。…ひたすら場所へ執着する。
 文壇人はどちらかというと、ネコ型といえるかもしれない。一度行くと、次にもそこへ行く。だれか友人や仲間を連れて来る。そして連れてこられた人も、またそこばかり行く。しまいに知り合い同士が、群れを成してしまう。それが文壇酒場の成り立ちであろう。猫は孤独者なのに群れを成すとはおかしいと言うかもしれないが、ものを書く人の孤独を忘れる場所なのだと考えれば好いのだろう。文壇人とその周辺人の行く酒場は、かくして限られる為、お互いの酒癖や酒量は、飲み仲間に知れ渡ってしまう。(「さらば銀座文壇酒場」 峯島正行)


新川
この下り酒を積んだ樽廻船は江戸湊に入り、隅田河口で荷を艀に積み換えて隅田川から新川へ入り、艀(はしけ)を酒問屋の蔵の並ぶ河岸へ着けた。  新川は上戸の建てた蔵ばかり  新川と号し番頭深い川  後の句は、茅場町あたりの酒屋の番頭などは新川をだしにして深川通いをするの意。新川には猩々庵という名高い蕎麦屋があった。  新川に猩々庵はうってつけ  「猩々」は能の曲名で、唐土の揚子(ようず)の里に、高風という孝行な酒売りがいた。その店へ近くの海中に棲む猩々が来て、酒を飲んで舞い戯れ、いくら飲んでも尽きない酒瓶を高風の孝行に賞でて与え、祝福するという筋。新川は酒蔵が軒を並べているので、猩々庵とはお誂え向きだといっている。「酒見世の軒を並べし新川に猩々庵といえる蕎麦見世」という狂歌もある。(「江戸隅田川界隈」 中尾達郎)

鶴酒
○鶴御成というのは、十月の隅田川、浜御殿の雁(がん)御成(おなり)、駒場野の鶉(うづら)御成、四月の千住(せんぢゆ)三河島の雉(きじ)御成とともに将軍鷹狩のひとつで、そのうちにも鶴御成はもつとも厳重なものとされていた。九代将軍が鷹狩で獲た鶴を朝廷に献上して御嘉納(ごかなふ)をうけてから、爾来年中の重い儀式となり、旧暦十一月下旬から十二月上旬までの、寒の入りの一日を選んで、鶴御飼場(おかひば)の千住小松川筋でおこなはれたもので、最初に捕へえた鶴は、将軍の御前で鷹匠頭(たかじやうがしら)が左の脇腹を切り、臓腑を出して鷹に与へ、あとに塩をつめて創口を縫ひ合せ、その場から昼夜兼行で京都へ奉る。街道筋では、これを、「お鶴様のお通り」といつた。その後に捕へた鶴の肉は、塩蔵して新年三ケ日の朝供御(あさくぎよ)の鶴の御吸物になるので、当日、鶴を捕へた鷹匠には、金五両、鷹をおさへたものには金三両のお褒美。鶴を捕へた鷹はその功によつて紫の総(ふさ)をつけて隠居させる規定。猶(なほ)、当日、午餐(ごさん)には菰樽(こもだる)二挺の鏡をひらき、日頃功労のあつた重臣に鶴の血を絞り込んだ「鶴酒(つるざけ)」を賜はるのが例になつていた。(「顎十郎捕物帳 丹頂の鶴」 久生十蘭)


酒(さけ)と女(をんな)は   清元菊寿翁 曲
三下がり〽酒(さけ)と女(をんな)は気(き)の薬(くすり)さ とかく浮世(うきよ)は色(いろ)と酒(さけ) さゝちょっぴり摘(つま)んだ悪縁因縁 なまいだ/\/\ 地獄(じごく)ごく楽(らく)へずっと行(ゆ)くのも二人連(ふたりづれ) わしが欲目(よくめ)ぢやなけれ共(ども) お前(まへ)のやうな美(うつく)しい 女子(をなご)と地(じ)ごくへゆくならば 閻魔(えんま)さんでも地蔵(じぞう)さんでも まだ/\/\/\/\鬼(をに)ころし(「小唄名曲集」 邦楽社編)


漱石門下のお山の大将
三重吉は浴びるように酒を飲んだ。漱石夫人の夏目鏡子の回想にこうある。「鈴木さんは御酒が好きで、のんで気持ちよく眠くでもなるならよいがのめばくだをまき、人につかかってこなければ承知のできないのには、だれもこまらされた事です。正月元旦と云えばいの一番に私の家に来てくれるのです。朝の十時頃から三四時頃迄つぎからつぎとくる人を相手に飲むので、ひる過ぎにはきまってだれかにつかかりはじめるので、おこるやら又なく事もあり、いろいろと変るのです。しまいにはもう面どうになって早く帰してしまおうと思い、車をたのみ玄関迄つれ出して外とうを着せようと思うと、手をだらっと下げて外とうをおとしてしまい、車にのせればおりてしまい、そんな事を二三度くりかえし、やっと乗せて門を引出す、やれやれとほっとしたものです」鏡子夫人はさらに、「でもふだんはやさしい人で、私の事でもよく気を付けてくれました。時にはなにかつまらぬ魚の干したのや、又他からもらったメロンです。ボクが食べるのはもったいないから奥さんに上げますなどと、よく何か持って来てくれました。九日会に来ても八時をうつと、もう奥さんくたびれたから帰ります、皆もかえれと、命令を下して引上げてくれるのですが、ようとくだを巻く事は少しも御遠慮なしです」と書いている。三重吉は漱石門下のお山の大将になろうとした。それが、たちの悪いからみ酒だから、嫌われた。三重吉と一番の親友であった小宮豊隆は、「三重吉は我儘(わがまま)で肝癪持(かんしやくもち)で酒にでも酔うと、手がつけられないほど、うるさい男だ」という。それで恐れをなして、だれも三重吉に近寄らなくなった。「三重吉は我の強い男だった。酒に酔うと、殊にそれが劇(はげ)しかった。そういう場合、三重吉は必ず一座の者に号令をかけて、すべて自分の思い通りに振舞わせなければ気がすまない。…何か少しでもご機嫌を損ざすような事でもあると、一座の誰かを目の敵に選んで、それに無闇に突っかかっていく」(『三重吉のこと』)(「文人暴食」 嵐山光三郎)


酒を飲まないで生きていても仕様がない
青柳は、随分前から糖尿病患者だったが、血圧も高かったらしく、五年ぐらい前に軽い脳溢血で倒れた。が、この時はのんの少し自宅で寝ていただけですぐ元気になり、すると前と同じように酒を飲みはじめた。(家で、一人で飲むのに、ビール二本、日本酒二、三本、ウイスキーも水割り四杯というたくましさ)。二年半ぐらい前だったかもう一度倒れ、が、今度も軽かったようで、はじめは謹慎していたようだが、徐々にまた飲みはじめた。去年の春(彼の家に近い、阿佐ヶ谷駅南側大通りの欅の街路樹が芽吹いていたのを覚えている)見舞い旁々彼の家を訪れたとき、彼は、「毎晩阿佐ヶ谷の飲み屋でビール一本飲んでいる。ビール一本だけじゃあんまりさびしいから、マダムにも一本飲んでもらったりしているがね。ほんとはビール一本じゃとても物足りないわけなんだが、それでフラフラに酔っちゃうんだ」と言っていた。少々呂律の怪しいところはあったが、この分なら先ず大丈夫だという印象だったが、多分それから半月ぐらいあとに、三度目の発作が起こったのである。そして、今度はそのまま死に至ったのであった。彼は夫人の禁止に対してもよく「酒を飲まないで生きていても仕様がない」と言っていたそうだが、あのビール一本も糖尿病もあることではあり、非常に有害だったかも知れない。ところで、彼の酒には骨董が付きものだ。「晩酌のときにぼくはよく美術品を眺めるんだ、酔っていると空想力が働いて、大したものでなくてもとてもよいものに見えてくる。好きなものを見ていると、向こうが助(す)けてくれるんで、いくらでも飲めるんだ」 と、彼が言ったことがあるが、まことに羨ましい境地で、或るとき私は彼の真似をして、つまらないゲテモノ(それしか私の所には無いので)を睨(ね)め回し乍ら晩酌したことがあったが、いっこうに酒ははずんで来なかった。(「回想の文士たち」 小田嶽夫)


ああ降ったる雪かな
露伴の句の中に、「ああ降ったる雪かな、詩かな、酒もかな」というのがある。ある冬の日、私はこの色紙を露伴からもらった。「何かの役にたてば」という添言葉がついて、与えられたのだが、それはある意味では、酒に化けてもよいという、露伴特有の思いやりが、含まれていたと、今では解している。この句ほど、露伴の生涯と、生涯を通じての心境を、そのままにあらわしているものは少ないと思う。雪となれば詩情が湧く、そこには酒がおのずからなければならぬ。心の向くままに酒をくみ、詩情の発するままに酔い、そして談ずる。こうした境地を露伴は真に味わい、生涯を通じてこの楽しみを忘れることがなかった。そこにはおのずから、犯しがたい酒品がそなわっていた。(「晩年の露伴」 下村亮一)


酒 さけ
日本酒のこと。藤村は父親のように酒は好きではないが、仕事が終わった後の一ぱいや、友人達と話ながら飲むのを好んだ。<友達と一緒になど酒を飲むのは好きであるけれども、しかし、執筆中には殆どやらない。>(私が筆を執る時・9-五二七)(「島崎藤村事典 改訂版」 伊藤一夫編)


長屋の酒盛
私の家は二畳に四畳半の二間きりである。四畳半には長火鉢、箪笥が二棹と机とが置いてある。それでお久と、おふくろと、お久の姉と四人で住んでいるのである。その家へある日、わたくしの友達を十人ばかり招いて酒宴を催したのである。まず縁側にゴザを敷いた。四畳半へは毛布を敷いた。そして真ん中に食卓をすえた。長火鉢は台所へ運んで、おふくろと姉とは台所へ退却した。そして境界によしず戸を立てた。二畳にお久がいて、お銚子だの、にものだのを運んだ。この催しについて妹から次のような手紙が来た。-「扨も本日は広々としたるお隠家には御盛大なる○○会御催しのよし誠に奇々妙々の事と存上候四畳半とは申せども平生は箪笥などにて三畳足らずのところ、いくら大目に勘定致し候ても一尺一人の割合、徳川家康は非常につつましく、座して半畳、ねて半畳、天下取っても二合半と申し候得ども、それどころに行かぬ事、然し長屋ながら酒一升ですね。私事御葉書頂きてより早速一畳の間に座って見積りました。然し川向ふの混雑知らぬ顔の半兵衛でその日の様子伺ふべく候。扨もおたのみのケット薄暗き路地の家に敷きある様なのは一枚有之候へども如何にも明るみへは出し兼ね候故御返事申上げず失礼致し候。○○様などは膝長くて一番場をおとりになることと案じられ候、オホホホホ」さて、当日の模様をざっと書いて見ると、酒のよいのを二升、そら豆の塩ゆでに、きゅうりの香のものを酒のさかなに、かんぴょうのかわりに、さんしょを入れたのり巻きを出した。菓子折を注文して、それを長屋の軒別に配った。兄弟分が御世話になりますからとの口上を述べに○○がしかつめらしい顔で長屋をまわったりした。すると、長屋一同から返礼に大皿に寿司を届けてくれた。唐紙を買って来て寄せ書きをやる。お久の三味線で○○が落人を語り、お久は清心を語った。銘々の隠し芸も出て十一時まで大騒ぎに騒いだ。時は明治四十三年六月九日。 ○ このはなしの中の手紙の主は、すでにご承知のように、妹の小学校教員もと子である。○○さんとの伏せた名は、もちろん永井荷風その人である。(「荷風耽蕩」 小門勝二) 年月日までは井上唖々の「長屋の酒盛」の引用です。 酒となる蚊帳


太宰治と酒
太宰は酒に強かった。これは、ほんとに強かったと思う。ぼくも多少は飲む方だから、その辺のことはわかるつもりだが、今日でもぼくは、太宰以上に酒の強い人間を知らないといいたい気持がある。それほど、太宰は、しっかりした酒飲みであった。意識の深さと酒の強さとは正比例しているものだと思っているが、太宰はほんとに酒に強かったのである。言葉をかえていうと、太宰くらい、あたりまえな調子で酒の飲める人間は、きわめて少ないのではなかろうかと思われたくらい、太宰と酒との関係には特殊なものがなかった。量はむろん、いわゆる一升酒以上の部類だったが、それでいて、酒豪というようなことも感じさせなかった。酒仙というようなしゃれた風情もなかった。酔って、歌ひとつうたうでなく、激越するでなく、笑い上戸になるでなく、いつも、あたりまえで、まじめに飲んでいた。これは、ほんとに酒に強い証拠である。東北人の酒飲みにはこの型が多いが、太宰はそのなかでも傑出した部類ではなかったかと思う。ほんとによく飲んだものだが、太宰が乱れたのをみたことはほとんどなかった。顔色にもでなかった方である。気分的な飲み方でもなく、ただ平凡に日常的な飲み方であった。水を飲むようななものだったといってもいいかも知れない。いい酒、わるい酒など、とくに選り好みもしなかった。これは、後年のことであるが、「山岸君、ちょっと待ってて、喉が乾いたから」いっしょに町を歩いていた太宰が、なにをするのかとぼくが立ちどまってみていると、さっと、脇にあった酒屋にはいっていって、コップでじつに軽くさっとあおると、すぐでてきて、「や、失敬した」と、また、二人で歩きはじめるというようなふうであった。夏だったが、「とても、喉が乾いてネ」それから、話のつづきをしたりした。その間、五秒とはかからないといいたいくらいの手軽さとすばやさとがあった。(「太宰治おぼえがき」 山岸外史)


枝豆
枝豆はいつのまにか、ビールのつまみに持ってこいの取り合わせになりました。枝豆にはビタミンB1とCが多く、とりわけビタミンC は一〇〇グラム中に三〇ミリグラムも含まれており、この量は、果実ではみかんに相当するほどのものです。これらのビタミンはアルコールの酸化分解を促進し、肝臓や腎臓(じんぞう)の負担も軽減させてくれるから、枝豆は酒に向く肴(さかな)というものであります。(「これがC級グルメのありったけ」 小泉武夫)


104酒
酒は和名「佐介」、万葉集に「さけ」とも「さか」ともいうのは「さかゆる」の義で、これを飲めば心の栄えるによりて「さかえ」の約(つま)りたるものであると賀茂真淵(一六九七-一七六九)はいう。古事記、雄略天皇の御製に「(前略)祁布母加母(けふもかも)、佐加見豆久良斯(さかみつくらし)」とあり、この佐加見豆は宣長のいうように酒のことで、栄水(さかえみず)なのである。この「水」を省いたのが「佐気」で、「ささ」というのも転語である。日本釈名、下巻の「さくるなり、風寒邪気をさくるなり」はいまとらない。また、神に奉る酒をとくに「みわ」といい、倭名抄に「神酒 日本紀私記云、神酒 和語云美和」とある。これは土佐国にある三輪川の水を用いて大神のために醸(かも)した酒が殊に美味であったことからいったとの説が、万葉集抄一に飲用された土佐国風土記に見える。また、古事記に御酒の二字を「みき」とよみ、万葉集にも「黒酒」を「くろき」「白酒」を「しろき」とよむように「酒」を「き」というのは古語であるが、その義は詳かではない。古事記、中巻、仲哀天皇の条に「許能美岐波(このみきは)、和賀美岐那良受(わがみきならず)、久志能加美(くしのかみ)」とある。久志能加美は「酒之上」である。古事記伝に引く横井千秋の説によれば「久志」は酒の本名にて、応神天皇の御製に「和礼恵比邇祁理(われえひにけり)、許登那具志(ことなぐし)、恵具志爾(えぐしに)、和礼恵比邇祁理」とある二つの「具志」がこれである。「具」と濁るのは上から続けるためである。神酒、白酒、黒酒などの「伎」はこの久志の約まったもの。「みき」は神に奉るをのみいうのではなく、天皇に奉るのも大御酒(おおみき)という。酒は神代において「八塩折(やしほをり)酒」、「甜酒(たむさけ)」などを製したことが記紀に見える。それゆえ古代よりその醸法があったものと知られる。(「平安時代の文学と生活」 池田亀鑑)


私は運転手ではありません
〇…某夜、氏(遠藤周作)のダイニング・ルームにいた。私は会社から持参した原稿料を、奥様が台所に立った隙に氏に渡すと、氏はすばやくズボンのポケットにしまった。産経新聞にエッセイを連載中で、私はその担当であり、原稿料は、三十万円はあったと記憶する。その夜、ともに町田在住の仏文学者の高山鉄男氏(現在慶大教授)と私は、深夜までご馳走になり、奥様が車で二人を送って下さることになった。酔っていた二人はすっかり恐縮し、奥様にお小遣いをさし上げる?ことにした。千円ずつ出し合って二千円を差し出すと、運転中の奥様は「結構です」と首をふられる。瞬間「おれが貰う」と横からさっと手が出て、二千円をポケットに入れた。助手席にいた遠藤氏であった。翌朝、お宅へ電話すると「おい、えらいことになったよ」と陰々滅々たる声が聞こえてきた。朝起きたら枕元に「思わぬボーナス有難うございました」と奥様の置き手紙があった。あわててポケットを探ったら前夜、私が手渡した三十余万円の大金が跡形もなく消えていた、という。以下は私の推察であり、氏が否定しないところを見ると間違いないと思うのだが、当夜家に帰った氏は奥様に怒られたのである。「私は運転手ではありません。なんですか送り料をいただくなんて。二人にお返しします。ポケットから出して下さい」酔っていた氏は、ポケットから二千円を出そうとして、大きい方まで一緒に出してしまったのである。(「文士とっておきの話」 金田浩一呂)


青春と勇気の紋章
私は若い頃に、泥酔して、待合の屋根に登り、月明の下に輝く、隣の待合の屋根を眺めてると、今飛びさえすれば、失敗なしに向こうの屋根に飛び移れるという確信を持った。それは、実行しようとして、女中や友人に引き止められたが、あの時やったら、案外、うまく飛べたのではないかと、今でも考えている。泥酔は、そういう確信を持たしてくれる。若い頃は、酒を飲むと、普通の倍ぐらい、体力が殖えたような気がした。ムヤミに駆け出したくなって、そのとおり実行してみると、非常に速力が早く、イキ切れなぞをしない。腕力も、倍加する。頭脳の働きが敏活を極め、ひどくカンがよくなり、むつかしい議論の核心をつかむ。体力が超人になったのではないかと、疑われるように、精神の方も、ことによったら、おれは天才なのではないかと、自惚れ(うぬぼれ)を生じさせる。そこが、阿片の陶酔なぞと、比較にならぬ魅力なのかも知れない。考えようによっては、イヤミな酔い方だが、その能力から遠く隔(へだた)った今日、ああいう泥酔は、青春と勇気の紋章のごとく、懐かしい。(「あなたも酒がやめられる」 徳川夢声)


一五九 道隆、酒ヲ愛スル事(巻二ノ六〇)
中関白以酒宴事。加茂詣之時、酔而寝車中、冠抜在傍。臨車之期入道殿被驚申而、以扇妻鬢。猶如水鬢。以二 八朝光済時等常為酒敵。仍曰、極楽ニ一〇按察小一條等アラバ可詣。不然者不願云云。
中の関白は酒宴をもって事とせり。加茂詣の時、酔ひて車中に寝、冠抜けて傍に在り。車を下りんと欲する期に臨みて、入道殿、驚き申されて、扇の妻をもって鬢(びん)を掻くも、猶(なほ)水瓶のごとし。朝光・済時等(ら)をもつて常に酒敵とせり。よつて曰はく、「極楽に按察・小一条等(ら)あらば詣(まゐ)るべし。然らざれば願ふに及ばず」と云々。
註 五 藤原道隆(九五三-九五)。その上戸ぶりについて、後の『古今著聞集』六一三話は、九八九年三月、一条帝の春日御幸に供奉した道隆が、すでに往路から「御車のうちに酒饌をまうけられて」藤原朝光や道長を呼び乗せて、「沈酔の事ども」があったと伝える。 六 四月中の酉の日に行われる加茂祭の前日の関白の加茂詣で、公卿以下の宮廷人・御幣・神馬・走馬・舞人・陪従の列を仕立てて参詣し、奉幣の後、東遊・競馬が催された。 七 藤原道長。道隆より十三歳年少。道隆の摂政・関白在任は、九九〇年五月-九四年四月(三日)なので、九九一-三年の加茂詣の折のことになる。道長、二五-二七歳。 八 道隆の二歳年上。九九一-三年には、大納言、按察使であった。 九 藤原済時。九九一年には五一歳。当時は、朝光と共に大納言で、道隆からは左大将を譲られたり、その娘定子の中宮(皇太后)大夫を務めたり、きわめて親近の仲。 一〇 朝光と済時をさす。(「古事談」 小林保治校注)


サフラン
ローマの博物学者プリニウスによると、当時、サフランには酒に酔うのを防ぐ効果があると信じられていました。一方、イギリスの薬に関する書物には、「感覚を敏感に、気持を愉快にし、眠気を追い払う効果があるが、多量に用いると脳に影響を及ぼす」と記されています。(植物公園物語第八話サフラン広報みと'17.11.1)


人間の廃墟の上を蹂躙するなかれ
一八一三年一月号の『フィランスロビスト』に載せた「泥酔者の告白」はすさまじいものである。クラップ・ロビンソンはびっくりしてゐる。
酒を飲んぢやいけないといふ論は、いつの時代にも、水飲み批評家たちの喝采を受けるが、酒飲みの本人にとってはさうはいかない。「悪いことはわかつている。それを直すことも簡単だ。飲むのを止めればいいんだ。いかなる力も本人の意思に逆らつて酒杯を面前に上げさせることはできない。盗むなかれ、嘘を吐くなかれ、といふのと同じにいくはずなのだ。」が、酒はさう易々とは止まらない。身体が欲してゐるのだ。君子たちよ、酒とはいかなるものかを先づ知つて、願はくは、「人間の廃墟の上を蹂躙するなかれ。」酒を止めることがいかに苦しいものか、僕は知ってゐる。僕は禁酒しようとして、殆ど狂せんとした。「僕らは弱いから酒がいるんだ。強い奴は別だ。酒など入つてゐなくても平気で世間をあるいてゐる奴らにくらべて、僕らは何か景気をつけなければ気がめいつて顔が上げられない意気地なしなんだ。何故酒を飲むかといふ、わけはそれだ。」
それからラムは自分が酒を飲むやうになつた一生の物語をはじめる。(「詩心私語」 福原麟太郎)


さけ【酒】
立原文学と酒は深い関係にある。自身が酒を愛したので、小説のあらゆる箇所に酒がでてくる。楽しい酒、哀しい酒、静かにのむ酒と、時と場合によって雰囲気が異なるが、酒はドラマの進行に必要な役割を担(にな)っている。「紬の里」のバーの女織江は、酒で軀があつくなってくると素足で雪の上を歩きはじめる。これは素朴な田舎の若い娘のイメージを彷彿とさせる。「舞いの家」の世津子は、酒がまわりだすと男に絡んで困らせる。「海と三つの短編」の「七号室」では、子供を失って悩んでいるらしい妻君が、終日ホテルで酒をのんで苦しさを紛らわす。また「春の鐘」では妻の情事を知った鳴海が、多恵に魅かれ、たゆとう心を酒に預けるくだりが書きこまれている。これらはみな作品に大切な要素になっている。また、酒と食べ物の関係を見逃せない。立原は、さまざまの洋酒を飲みつくした後で、酒に還ってきた、と言っているが、日本酒をのみながら肴を食べる描写が多い。「たびびと」では寒鰤(かんぶり)を肴にのみ、「美術」「枯山水」では鴨を肴に酒を酌む。鮟鱇鍋(あんこうなべ)をあたためて酒をのんでいたら、裏の家からモーツァルトの<ピアノ協奏曲ニ短調>がきこえていた(「美術」「モーツァルト魚」)と贅沢な酒もあり、蕎麦屋で酒を一本とざるそばをとった(「山椒の木のある家」)ときわめて庶民的な酒もある。昭和四十二年新春の文壇酒豪番付で関脇になった立原は、そのことを甚だ愉快であった、と述べている。当時の伝聞では、睡っているとき以外は一日酒をはなさない生活だった。辛口の日本酒を好んだが、酒なくて何の人生ぞ、と言った立原も肝臓と胆嚢をわずらい、昭和四十四年には酒量を減らしている。しかし、日本人としてはかなり多くの世界中の多種多様の酒を味わい、それを沢山の小説の中に鏤(ちりば)めた作家は、まず立原をおいて他にいないであろう。(今)(「立原正秋食通事典」 立原正秋文学研究会編著)


酔後 韓愈
煌煌東方星  煌煌(くわうくわう)たり東方の星
奈此衆客酔  此の衆客の酔へるを奈(いか)んせん
初喧或忿争  初めは喧(かま)びすくして或いは忿(ふん)争し
中静雑嘲戯  中ばは静かにして嘲戯を雑(まじ)ふ
淋漓身上衣  淋漓(りんり)たり 身上の衣
顚倒筆下字  顚倒(てんたう)す筆下の字
人生如此少  人生 此(かく)の如きこと少(まれ)なり
酒賤且勤置  酒は賤(やす)し 且(しばら)く勤(つと)めて置け
いつ、どこでのことかわからないが、ときなく宴会があった。ただ、宮中の御宴ではない。韓愈の親しい仲間が集まっての酒もりらしい。煌々と、すなわちキラキラと輝く東の空の星。東の空に星が輝いているのは、まだ夜中である。その真夜中に、この酔っぱらっているお客たちをどうしたものだろう。もう手のつけようのないほど乱れている。中ほどに静かになったと思うと、「嘲戯を雑(まじ)えて」いる。「嘲戯」とはからかうことだが、宴席では特に、女の子をからかう、ないしは口説(くど)くことをいう。宴席に芸者が出ていたので、宴の中ごろ、妙に静かになったと思ったら、隣にすわっている芸者を口説いているやつもあるというのである。「淋漓」は水にぬれてビショビショになること。身につけた着物は酒をこぼしてビショビショになった。それほど酔っていても、インテリの集まりだから、詩をつくろうなどと言って、字を書くやつがいる。ところが、筆をおろしても字が「顚倒」、つまりひっくり返って、まともに書けない。ここまで「衆客」の酔態を描写してから、作者の感想が提示される。「少」は「ほとんどない」、または「ごくまれだ」という意味で、つまり人生にこんな楽しい酒宴はめったにないというのである。「且」は「まあまあ」というほどの意味、「勤」はまめまめしくすることで、「置」とは酒を用意することだが、ここではテーブルに酒を持って来ることを意味する。すなわち酒は安いんだ。まあ何でもいいからせいぜい持ってこい、という意味になる。(「中国の詩人と酒」 前野直彬)


空は夕焼

空は夕焼 酒場は遠い
可愛女でも見にゆこか
コリヤ デカデカレンレン

可愛女に逢ひたさで見たさで
遠い酒場へ酒飲みに
コリヤ デカデカレンレン

何をくよくよ酒場の酒で
酔ふて恋した身ぢやないか
コリヤ デカデカレンレン(「おさんだいしよさま」 野口雨情)


アルコールと薬
前にも述べたように、アルコールは一部肝のMEOSと言う酵素系により代謝され、また、アルコールを大量にのみ続けることによってこの酵素系の量が増加し、その活性が上昇する。そして、この酵素系は薬物を代謝している酵素系(薬物代謝酵素)とおそらく共通のものであろうから、大酒家の肝臓は一般的には代謝する力が強い。また、もし完全に共通の代謝系であるとすれば、アルコールと薬物とは互いにその酵素系で競合する。したがって、大酒家は睡眠剤などの代謝が盛んであり、換言すればこれらの薬は早く代謝されるためにその効力が低くなる。薬の効き方が悪くなる。そして逆にもし酒をのんで薬をのむと、同じ酵素で代謝されるために、競合作用により薬の代謝がおくれ、薬の効果が強くなる。睡眠剤であればなかなか覚めず、極端なばあいは睡眠剤中毒のようなことがおこる。これらは、酒の直接の作用ではないが、大酒家が、あるいは酒をのんで薬をのむことは、以上のように薬の効果に影響を与えるので十分に注意する必要がある。(「薬と健康」 岡博)


奥野信太郎先生のお酒
権座の高級なナイトクラブよりも、むしろ庶民的なキャバレーを愛好されたことは前にちょっと触れたが、キャバレーのチェーンを経営している、キャバレー太郎こと、福富太郎氏は、たいへん先生を徳としているひとりであろう。福富氏は写楽に関する研究をつづけ、それに関する著作もあるが、先生の助言によって成功の緒口をつかんだという話を先生から聞いたことがある。こんどいっしょに福富氏の店へ飲みに行こうといっておられたが、実現する暇がないうちに先生は逝去されてしまわれた(ただし、昨年、渋井清氏先生の御案内でその店を訪ね、福富氏より歓待をうけた)。キャバレーというところは、誇張していえば雲霞のごとくにホステスがいて、それがデコルテを着てひしめいているから、さながら銭湯にいるかのような錯覚を生じさせる。この庶民感覚こそ、先生が愛してやまなかったものなのだろう。先生のお酒は梯子ではなかったが、二、三軒は廻るのである。そして最後は、渋谷では井の頭線入口の近くにある寿司屋に落着く。この店も一箇数百円などという馬鹿気た値段を売り物にするところではなく、もっぱら庶民相手の、ごくありきたりの寿司屋なのだ。こうした夜の巷の徘徊のお供をして、いかにも遊び馴れた先生の姿に接すると、人生、いかにすごすべきか、という問いに自ずと答がでてくるようであり、理屈をこねまわすのではなくごく自然に生き方そのものによって、私はまたもや先生の教育を受けている、と思ったりしたものだった。(『酒』昭和四五年七月号より転載)(慶応義塾大学文学部教授)(「奥野信太郎 回想集」)


食べる気がしない時のさかな
そういう私だって、少なくとも最初のうちはものを食べる。しかし少し酔ってくると、もうものを食べる気が起こらない。そういう時でも口にする料理は何だろうと反省してみると、まず第一は梅干である。梅干の一番簡単な食べ方は、そのままかじることである。手のこんだのは、梅肉(ばいにく)を裏ごしにして、鰹節(かつおぶし)の削ったのと、おろした山葵(わさび)と、細かくもんだ焼き海苔(のり)と、大根おろしを混ぜ合わせる。山葵は相当多量に入れる。その中間位のが梅干の吸い物である。これにも鰹節の削ったのを入れる。おわんの中に梅干を一つ入れて、それに鰹節を加え、熱湯を注ぐ。中の梅干しをはしで突きくずして、汁を飲む。梅干は別として、己のよく食べる酒のさかなは何だと女房にきいたら、手製即席の海苔の佃煮だそうである。焼いた海苔をもんで、鰹節を加え、醤油(しようゆ)を少しかけて、熱湯をちょっとかける。その熱湯の分量がなかなかむずかしい。あとは季節のもののはしりだそうである。そうだ、市場の肉屋さんで売っている一個三十円のコロッケ(この頃のことだから値上りしているかも知れないが)も酒のさかなとして乙なものである。(「酒の肴」 高橋義孝 「日本の名随筆26 肴」 池波正太郎編)


非ムスリム人口は約三パーセント
飲酒は、パキスタン社会ではごく一部の現象といってよいが、ここでもビールやウィスキーが生産されている。「ムスリムはお酒は飲んではいけないはずなのに」という疑問が湧いてくるが、これもイギリス植民地時代に導入されたものである。そしてクリスチャンやヒンドゥー、あるいは外交官や駐在員といった外国人の非ムスリムに購入が許されている(非ムスリム人口は約三パーセント)。この横流しを、酒好きのパキスタン人が手に入れているようである。ただ、金持ちや外国人居住者が、競争なく味もそこそこのパキスタン産を愛するわけもなく、たいていは海外旅行や出張の際に買い付けたり、互いに融通しあっている。北部の観光地であるフンザ谷には、「フンザ・パーニー(フンザの水)」として知られる自家製ワインがある。味の方は壜ごとに出来不出来があり、自家製ならではである。しかし、この名物も近年は入手が難しくなっている。農家ではこっそり作っているはずだが、「ワインの里」として内外に知れわたるのは、やはりよろしくないということなのだろう。(「パキスタンの嗜好品とイスラーム的慈善制度」 子島進 「嗜好品の文化人類学」 高田公理・栗田靖之・CDI)


柔構造の禁欲
まず肉食を止(や)めて、魚と野菜にした。大好物の日本酒を止め、醸造酒なるものも全部敬遠した。ただし、晩酌にグラス三分の一ていどの、薬ていどの赤ワインは許容。つき合い酒は原則として焼酎の湯割り梅干し入りと決めて、、現在までほとんど例外なく実行できている。おかげでその後痛風はなくなり、尿酸値も警戒ラインに触れることはない。日本酒を止めたとき、「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」とつくったことを思い出す。完全禁欲主義をよしとしない心意があったからで、逃げ口を作っておき、しかし、その逃げ口を使わないようにする柔軟な自己規制とともに暮らす。この柔構造の禁欲でないと禁欲は成就しないと確信していたからである。したがって酒は止めない。最小限に止(とど)める。(「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」 金子兜太)


サリチール酸、乳酸
私が四十四年に製出した強力「オリザニン」は未だ化学的純粹とは云はれなかつた。鳩の白米病を治癒するのに五―十ミリ瓦(グラム)を要したのである。それを結晶状に抽出しようと企て、大嶽、島村、鈴木(文助)その他多数の諸氏の助力を得て盛んに研究したのであるが、なか/\その目的を達せなかつた。その内、大正三年となつて、欧州大戦が勃発し、我国では染料や薬品の輸入が杜絶して大騷ぎをした。それで私等も化学者として默視するに忍びず、暫く「オリザニン」の研究を中止して、実験室の総動員を行ひ、先づ酒の防腐剤サルチール酸を造り、次で酒の酛に入れる乳酸やサルヴァルサン(六〇六号)の製造に成功し、またアンチピリンや人造藍(あい)などまで試みた。そんな事で四、五年は經過した。その間にまた私は二度も大患に罹(かか)つた。それで大正九年頃から再び「オリザニン」の研究を始めることゝなり、大嶽君が主としてこれを担当し、糠と酵母中のあらゆる成分を片づける意気込で多数の結晶成分を抽出し、その中には新奇なものも沢山あつたが、肝腎なBは、なか/\結晶とならなかつた。併し昭和四年になつて初めて二センチ瓦ばかりの結晶を得たので、大に勇気を得、更に一年余を費やし、翌五年の夏頃漸く〇・三瓦ばかり、立派な結晶を得、動物試験を行つて有效であることを確めた。この結晶は〇・〇二ミリ瓦位で鳩の白米病を治す力があるから、人間には一ミリ位で充分效くものと思はれる。この結果を、昭和五年十一月、日本学術協會で大嶽君が発表したので、引続き元素分析やその他の化学的性質を試験した。「オリザニン」の結晶を一瓦も作るには、少くとも数百貫目の糠より出発せねばならないが幸に三共会社から注射用の強力「オリザニン」を多量に供給されたから出来たのである。一方また大嶽君の実験の巧妙なのと、根気のよいのには驚くべきものがあつた。(「ヴィタミン研究の回顧」 鈴木梅太郎)


杉葉と笹葉
一 酒 延享の頃迄ハ 水を延、壱升代四拾八文、上諸白にて百文売候処、造作も上手に罷成、風味宜 高直ニ罷成候、寛延の頃迄ハ 濁酒売候店 有之候処、只今は濁酒売候店 無御座候。清酒ハ杉葉を看板に仕、濁酒は笹の葉を看板ニ出申候。(「延享常陸民間旧事」 「水戸歳時記」)


「酔っ払ったインディアン」の虚実
別名「強い水」(Strong Water)「熱い水」(Hot Water)とも言われる「ファイアー・ウォーター」を『オックスフォード英語辞典』で調べてみると「種類を問わず強い蒸留酒」という定義を与えた後に「もともと北米インディアンによって、あるいは付随して用いられ、主として、未開民族集団におよぼすアルコールの有害な影響に関して、もしくは、罵倒、からかいの表現として使われる」との説明を加えている。ちなみに、初出例はクーパーの『モヒカン族の最後』(一八二六)である。"fire water"なる言葉はアルゴンキアン族のウィスキーを指す言葉をそのまま英訳したものらしい(フレクスナー、一九五)が、いずれにしても、酒と先住民族との関係は、そもそも深い。とはいうものの、南部にいた一部の部族を別にして、元来、先住民族には酒を飲む習慣がなく、白人開拓民、毛皮商人らから飲酒の習慣を学んだようである。そうした白人はもともと荒っぽい飲み方をする連中であったし、取引を有利に進めたり、土地収奪のための協定をむりやり結ばせるため酒を利用した場合もあった。そのため、部族によっては大量飲酒によるさまざまなトラブルが生じ、彼ら自身の側からの抗議もあって、植民地が先住民族への酒類販売を禁止したケースも多い。その後の歴史をみても、悪名高い禁酒法の影にかくれて、先住民が、一八三二年から一九五三年の長きにわたって事実上の禁酒法下にあったことはあまり知られていない。(「酔いどれアメリカ文学-アルコール文学文化論-」 著者森岡裕一他4名)


桃花庵の歌
 唐寅(とういん) 原田憲雄(はらだけんゆう)訳
桃花の塢(おか)の 桃花庵
桃花庵裏(り)の 桃花仙
桃花仙人 桃うえて
桃の花つみ 酒にかえ
さめれば 花の前に座し
酔えば また寝る 花の下
うつらうつらと 日を送り
花ちり 花さき 年すぎて
花と 酒とに 死ぬもよし
馬車にお辞儀は まっぴらじゃ
おまえら方には 馬車の塵(ちり)
貧乏人には 酒と花
貧乏人と 金持は
天と地ほどの へだたりじゃ
馬車に乗る身の せかせかと
貧すりゃ のんびり おらが宿
あほうと 人の お笑いか
そういう人こそ 物しらず
豪傑どもの 墓のあと
田んぼになって 花も酒もなし(「酒の詩集」 富士正晴編著)


喰はんか舟
予は稚(おさ)ないころ伏見に往復したことがある。三十石は棹(さお)で押すか、綱で引くか、瀬の工合で共用したのである。一晩かゝつて伏見、大阪を連絡するのだから、今日の電車や汽車が網を張つた、スピード時代には思ひもよらぬ、遅い交通機関であつた。しかしそのころから大阪魂とでもいふべきものは、喰はんか舟の呼声に提唱された。喰はんか舟は食料品を載せた片家根の柴舟であつた。三十石を川中で邀撃して、乗客に菓子や酒を売付ける。「くらはんか、くらはんか、牛蒡汁、あん餅くらはんか、巻ずしどうぢや、酒くらはんか、錢がないのでようくらはんか」と叫んだ。船中で眠い眼をこすりこすり聞けば、いかにも横柄で、こんな奴の品物を買ふもんかと思はしむる。しかし売子をかすかな灯に照して見れば、しわくちや翁が、水洟(みずばな)たらして、舟を三十石に横付にし、物品と錢の交換を始める。錢は一度握つたら容易に離さぬ風勢で、喰はんか喰はんかと呼んでゐた。夜半空腹となつたころであれば、呼声に愛想つかしても買はないわけには行かぬ。末の句で錢がないのでよう喰はんかといはれると、意地にも買はざるを得ない。錢の価値をこんなに強調してゐるのは、大阪当時の精神を吐露してゐる。地獄の沙汰も金次第、錢のまうからない奴は相手にならぬ。錢の価値を知らぬ奴は世渡りができぬ。算盤珠のはぢけぬ奴は仲間に入れぬといはぬばかりの口調である。実に徳川の威令厳なるころ、この語調を弄して憚らなかつたのは、大阪気性に叶つたからであるが、さりとも口伝の家康に関する祕密の歴史があるからか、いづれにしても最初にこの特権を獲得した喰はんか翁は、凡人であるまい。(「大阪といふところ」 長岡半太郎)


隠居後、徳川光圀の酒
一 御酒を好て被召上。御在江戸にてハ、諸大名・麾下衆・京家者とも毎日の御客に、天下の大戸(上戸)に出合給ひて、恢量の御名を極め給へり。西山(隠居後の山荘)にてハ御老年の上なれハ、御壮年の時程ハ不召上。殊ニ江戸にてハ、御客衆しゐ(強い))被申ニ付、痛飲をも被遊し。西山にてハ、御家来御領内僧衆なと御相手になりけれハ、しゐ申事も得仕らす、御心のまゝにめし上られ候。されとも、普通の大戸とも皆沈酔、公ハ儼然としておはセし也。山中御慰事とてもなし、御酒に托して御閑寂を消セられし也。但必夜に限りて被召上たり。雨中にはたま/\昼めし上られし事もあり。さなき時はいつとても御夜飲也。(「玄桐筆記」 井上玄桐)


171南有嘉魚(なんゆうかぎよ 南には めでたい魚が)
南には めでたい魚が
びつしりとみちている
あるじには うまいお酒
客人(まろうど)は楽しみやまふ

南には めでたい魚が
びつしりとみちている
あるじにはうまいお酒
客人はよろこびたまふ

みんなみの 高杉に
ひさごがまといつく
あるじには うまいお酒
客人はやすらぎたまふ

ばたばたと鳩が飛ぶ
うちつれて飛んでくる
あるじには うまいお酒
客人は親しみたまふ
主題 興宴の詩。その家の主人たる君子を祝頌する。もとは嘉賓、すなわち祖霊の来享するのを迎える祭事詩であるが、君子祝頌の意を含む。(「詩経雅頌」 白石静訳注)


泥鰌すくひ
なほ、安来節にはつきものゝ「泥鰌すくひ」があることは周知の通りであるが、これもいつ誰が考案したものか全く判らぬさうである。太田氏はそれについて、「或る人は土壌掬(すく)ひ即ち砂鉄掬ひが元だと説くが、砂鉄を土壌ともじるのも如何やと思はれる。のみならず、川砂鉄の採取実況を見ても何等の暗示さへ与へられぬ。また高野辰之博士は其著『日本歌謡史』に鰌掬ひは『海老掬ひ踊』から来てゐると述べられてゐるさうだが、鰌と海老とは漁具も漁法も全然違ふのだから、博士の説には賛意を表することが出来ぬ。然るに私は嘗(か)つて渡辺お糸から、『昔は若い衆が鰌を掬つて来て酒盛りをしたものだ。そこで私が思ふには酒の座興に鰌掬ひの生々しい体験を歌に合せて踊つたのが此踊りの始まりではあるまいか』といふやうなことを聞かされたことがあるが、これは確かに郷土の風習に即した見方だ。現に私自身の見聞から云つても、私の郷里では盆踊りが済むと『笠破り』と称して連中は必ず溝川から泥鰌を掬つて来、また公然と野菜物を盗んで来て慰労宴を催したものだが、所謂『男踊り』の鰌掬ひは写実の儘で如何(いか)にも野趣に満ちてゐる」と、述べてゐる。かうしてみると、安来節と泥鰌掬ひとは中海といふ半淡半鹹の入海の水と、その水に近い田野と、安来といふ港とが自然とより集つてできたといふことがたやすく想像される。特に、水の上をわたつて聞えるときに、荒海でない内海のゆつたりした艪の音と、あまり明晰でない、しかし穏かな円味のある出雲訛りをもつてうたはれるときに、安来節の美しさと豊かさとはもつともよく現れるやうである。(「出雲鉄と安来節」 田畑修一郎)


七六 忠実、雅実ト白河院ノ御前ニオイテ盃酌ヲ給フ事(巻一ノ七六)
知足院殿、与二二久我大相国(しょうこく)白河院御前盃酌。関白二盃、相国三盃令飲給。其後院、今ハサテトテ令二三謝遣給。関白欲起退給之間、相国合眼於関白申云、猿楽ナドコソ給酒テイマ(今)ハイネトイフコトハ候ヘ云云。院令咲給テ又被盃。其度、関白二度相国五度令飲給。各退出云云。大相国猶オソロシキ人也ト知足院殿令語給云云。
知足院殿、久我の大相国と白河院の御前において盃酌を給ふ。関白は二盃、相国は三盃飲ましめ給ふ。その後、院、「今はさて」とて謝遣せしめ給ふ。関白起ち退かんと欲し給ふあひだ、相国、眼を関白に合はせ、申されて云はく、「猿楽などこそ、酒を給ひて今は往(い)ねといふことは候へ」と云々。院、咲(わら)はしめ給ひて、また盃を勧めらる。その度(たび)は、関白は二度、相国は五度飲ましめ給ふ。各々退出すと云々。「大相国猶(なほ)おそろしき人なり」と知足院殿語らしめ給ふと云々。
註 一 藤原忠実(ただざね 一〇七八-一一六二)。後二条関白師通(もろみち)の子。堀河・鳥羽両帝の摂政・関白。京都北郊の知足院に隠棲したので知足院殿、また宇治の富家(平等院の北)に別邸を営んだので富家殿とも。一一二〇年十一月、白河院の怒りをかって失脚し、院の崩御まで籠居。嫡男忠道と対立し、次男頼長を後援して保元の乱の一因を作る。 二 源雅実(まさざね 一〇五九-一一二五)。村上源氏、右大臣顕房の子。太政大臣(大相国はその唐名)。伏見久我に別邸を営み、初めて久我を称す。太政大臣在任期間は、一一二二-二四年であり、本話は同職拝任以前のことか。白河帝中宮(堀河帝母后)賢子、忠実の妻師子の兄で、『古事談』編者顕兼の曾祖父の長兄。 三 ことわって帰らせること。 四 即興の滑稽な物まねや言葉芸をいう。宮廷行事の余興や寺社の祭礼に行われていた。(「古事談」 小林保治校注)


ちょうちん酒(提灯酒)
飲めや唄えの盛宴もクライマックスに達すると、宵から始まった祝言も終りが近づき、明け方に近くなるのが普通で、恐らく時間も午前二時を過ぎる頃となる。それまでには、出し方の仲人から再三に亘って満献(まんこん 終宴)の督促があるのだが、貰い方では容易に聞き入れず、徹底的に馳走すべく時間を伸ばすのである。今ではこれも迷惑な話だが、当時の人たちにとっては、これも一つの儀礼であったのだろう。かくして、ようやく貰い方の仲人から、『それでは大変お粗末でしたがこれにて満献に致したいと思います。つきましては、まだ屋外(そと)も暗いので膳をさげた後「ちょうちん」を差し上げます。』と口上が述べられ、膳がさげられる。土産物が包まれ、(膳の料理を包んで土産物にする)膳部が片付けられて座敷が整理されると、酔い潰れた客も起きあがり帰り支度が始まる。こうするうちにも座敷には改めてチャブ台が運ばれ、卓上には海老や豆の煮染め、キンピラ牛蒡などの縁起をかついだ目出たい品々を盛った皿が出されて酒となるわけだ。いわば飲み直しである。この風習はいつの時代から始まったものか、知る人はいない。だが、その意味するものは、先の仲人の口上にもあったとおり、帰りの暗さを照す提灯にことよせ、いわば提灯代りの酒をいうことになるのだろうが、一面では、お客の中にまだ酔い足らぬ者がいたなら、この席で徹底的に酔わせよう。さもなければご馳走甲斐がないことになる…といった気持も含まれているようにも思われる。(「ちょうちん酒」 人見暁郎) 著者は茨城県桜川市の人です。


飲酒前世物語(2)
むかし、パーラーナシー[市]でウマダッタ王がクニヲオサメテイタトキ、ボーディサッタは、カーシ国の由緒正しいバラモンの家に生まれた。成長してから出家して仙人となり、神通をそなえ瞑想を得て、禅定を楽しみながら、ヒマラヤ地方に五百人の弟子たちとともに住んでいた。雨期になったとき、弟子たちは彼は言った。「先生、わたしたちは人里に行って、塩辛いものと酸っぱいものを食べて帰ってまいります」「私は、ここで雨期を過ごそう。おまえたちは行って、身体を養い、雨期が終わったらもどってきなさい」かれらは、「かしこまりました」と、先生にあいさつして、パーラーナシーに行って王の園林に泊まり、翌日、門の外の村を托鉢に歩いて、十分に食を得、またあくる日、町に入った。人々は、気持ちよく食事を与え、二、三日後に王にそのことを告げた。「王さま、ヒマラヤ地方から五百人の仙人がやって来て、園林に住んでおります。かれらは猛烈な苦行をなして感官を統御し、戒をよくたもつかたがたでございます」王は、かれらの徳を聞いて園林に行き、あいさつしてから、歓迎の意を表わし、雨期の四カ月をここで過ごすことを約束させ、彼らを招待した。かれらは食事を王宮でなし、園林に宿泊した。ある日、町では酒祭がもよおされた。王は、「出家者にとっては、酒は得がたいものであろう」と、最上の酒をたくさん供養させた。苦行者たちは酒を飲んで酔っぱらってしまい、園林に帰ってからも、あるものは立ちあがって踊り、またあるものは歌い、またあるものは踊ったり歌ったりして、ものをひっくりかえしてねてしまった。酔いがさめて目覚めたときに、この自分たちのふるまいを見聞きして、「わたしたちは、出家者にふさわしからぬことをしてしまった」と嘆き悲しんで、「わたしたちは、先生と離れているから、このような悪行を犯してしまったのだ」と、すぐに園林を出てヒマラヤ地方に帰り、資具を整えてから先生にあいさつして坐った。師から、「弟子たちよ、人里では、托鉢するのに疲れることなく、安楽に生活できたか、またなかよく暮らしたか」とたずねられると、「先生、楽しく暮らしました。しかし、わたしたちは飲んではいけないものを飲んで意識を失い、正念をたもつことができなくて、歌ったり、踊ったりしてしまったのです」と言って、それまでのできごとも告げ、つぎの詩を立ちあがってとなえた。
わたしたちは飲み、踊り、歌い、
そして泣いてしまった。
意識を失わすものを飲んで、
猿とならなかったのは幸せである。
ボーディサッタは、「先生といっしょに住まない人々は、このようになるものである」と苦行者たちを叱りつけてから、「以後、ふたたびこのようなことはしてはならない」と、かれらに訓戒を与え、たゆまず禅定を修して梵天の世界に生まれた。
[369]師はこの法話をされて、[過去の]前生を[現在に]あてはめられた。「そのときの仙人の群は仏弟子たちであり、その群れの長老は実にわたくしであった」と。(「ジャータカ全集」 中村元監修・補注) ジャータカは釈尊の前世物語です。


どんちゃん騒ぎ
ネヴァダ州ヴァージニア・シティーで、マーク・トウェインと、ユーモア作家兼講釈師のアーティマス・ウオードと他に二名の親友が、どんちゃん騒ぎをやった。アーティマス・ウオードが、立って乾杯しようといいだした頃には一同の中で立てる者は一人もいなかった。その時の店の一軒の勘定書きは二三七ドルになったが、これがなんと、上等のディナーが一人前三ドル、上等のサルーンの酒が一杯二五セント、という時代の金額である。(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳)


二四二 憂(うれ)うる時、酒を
悩みごとのあるとき、酒をあおり飲むな。腹の立つとき、手紙を書くな。(朱錫綬『幽夢続影』)
憂うる時、酒を縦(ほしい)ままにすることなかれ。怒る時、札(てがみ)を作(か)くことなかれ。
憂時勿縦酒。怒時勿作札。(「中国の古典 清代清言集」 合山究)


珍しい宴会
わが国で記録に残っている凝(こ)った宴会は、明和年間大坂高津新地に近江という富豪が、雪月花の宴を開いた。座敷の入口にしめ飾りを張り、門松を立てて正月の体である。座につけば蓬莱山、のし昆布、勝栗、榧(かや)など正月の一式をそろえ、まず雑煮が出る。芸妓が新調の春衣をきて大黒舞、春駒などの舞をまう。さて障子をあけると陰暦十月の末にもかかわらず、どう工夫したか庭には桜が満開、すべて陽春三月の趣向、しばらくすると明月が出て秋の景色、だんだん夜がふけると障子にバラバラと霰(あられ)の散る音がする。あけて見ると庭石も樹木も一面の雪、驚いていると夜明けになれば、座敷の真ん中が下からせり上がりとなり、大釜に蒸籠(せいろう)をかけ、湯気が盛んに立ち昇る。臼と杵があって芸妓たちが、たすきをかけて暮の餅つき、千石万石目出度しと歌い納めた。珍しい宴会であったが、このことが奉行の耳に入り、僭上の沙汰であるとして、主人も客も入牢を申しつけられた。(「日本の酒」 住江金之)


八、三杯の酒のやり取り
承教という勉学中の書生がなくなった。その隣に漆塗りを業とする者がいたが、承教とは平素からよく気の合う間がらで、たいそう酒をたしなんだ。ある日、一瓶の酒を携えてきて祭祀のお供えとした。まず酒を杯についで霊座にささげ、「いつも酒を飲むとき、必ずわたしに杯を勧めたから、まずわたしが先にいただきましょう」と言って、結局飲んでしまった。ついで杯に酒をつぎ、霊座にお供えをしてからしばらくして、「神が降臨されてお供え物を召し上がられるのは、わたしには見えないし、杯に残った酒がもったいない」と言って、これも飲んでしまった。さらにまた一杯ついで、手を挙げて霊座に向かい、「酬酌の礼としてわたしに順番が回ってきた」と言って、またまた飲んでしまった。三杯の酒を皆傾けて、一瓶の酒はすっかりからっぽになってしまった。そしてとうとうどこかへ立ち去った。(「韓国風流小ばなし」 若松實編訳)


飲み友達
車(しや)という書生は家が貧乏だったがたいへん酒好きで、夜は思う存分飲まないと寝られなかったので、いつも枕元の酒樽をからにしておくようなことはなかった。ある夜、眼がさめて寝返りをすると、誰かいっしょに寝ているようすであった。かけていた着物がおちたのだろうと思ってなでてみると、猫のようで、それよりも大きな毛の生えたものがあった。燈(あかり)でてらしてみると狐だった。酔っ払って、犬のように寝ているのである。徳利をしらべてみると、からになっていたので、車は笑って、「こいつはおれの飲み友達だ。驚かすのはかわいそうだ」と着物をかけてやり、肘(ひじ)をのばしていっしょに寝たが、化けるのをみようと思って、燈火を消さずにおいた。夜中になって狐があくびをしたので、車が笑って、「ずいぶんよく眠っていたようだね!」夜具をあけてみると、儒者の冠をかぶった立派な男だった。起きて寝台の前で礼拝をし、殺されなかった恩を謝した。車は、「ぼくは飲兵衛だから、みんながばかにするんだよ。きみはぼくの一番の知己だ。もしぼくの気持ちがわかってくれるなら、飲み友達になろうじゃないか」と言って、寝台にひっぱりあげてまたいっしょに寝た。そしてさらに言った。「きみ、しじゅうきたまえよ!心配しないでさ!」狐は承知した。車は眼をさましたときには、狐はもういなかったので、うまい酒を一樽用意して、ずっと狐のくるのをまっていると、夕方になると果たしてやってきた。膝を交えてたのしく飲んだが、狐は酒豪で話がうまかったので、もっとはやく会わなかったのを残念に思った。「たびたび、よい酒ををご馳走になるが、どうしてお礼しましょうか」と狐が言うので、車が、「たかが少しばかりの酒、言うがほどのことじゃないよ」と言うと、狐は、「しかし、君は貧乏書生だから、酒代がたいへんでしょう。きみのために、ちょっとばかし酒代の工夫をしましょう」と言い、翌晩やってきて、「ここから東南の方ヘ一里あまり行くと、道端に金が落ちているから、いそいでそれをとってくるといいよ」朝早くでかけて行ってみると、そのことばどおり二両の金が手にはいったので、よいさかなを買って晩酌のさかなにした。狐はまた、「裏庭に金が埋まっているから、掘るがいい」と言うので、その言うとおりにすると、果して百余貫の銭が手にはいった。車が喜んで、「さあ『嚢中自(おのずか)ら銭あり』だ、『慢りに酒を買うを愁うることなかれ』(唐の賀知章の詩の句)だよ!」と言うと、狐は、「いやぁそうじゃあない。轍(わだち)の中の水は、そういつまでも汲めるものじゃない。もっと工夫しなくちゃ」そして別の日に車に向かって、「町ではそばの値が安い。これは買っておけばもうかるぞ」車はそれにしたがってそばを四十石余り買うと、人人はみんな笑ったが、まもなくひどい日照りで穀物も豆類もすっかり枯れてしまった。そしてただそばだけが植えられたので、車は種に売って十倍もうけ、それからだんだん金持ちになって、肥えた田を二百畝かいこみ、狐にたずねて麦をたくさんまけば麦の収穫がよく、黍(きび)をたくさんまけば黍の収穫がよかったのでまいたり植えたりする時期は、すべて狐に相談してきめた。こうして日ましに親しくなり、狐は車の妻を姉さんと呼び、車の子をわが子のようにかわいがった。後に車が死ぬと、狐はそれきりこなくなった。(「聊斎志異」 増田渉他訳)


楽しみに、又(また)は道楽にお酒を飲むなど、飛(と)んでもない不心得(ふこころえ)である。
*内田百閒『青葉しげれる』(昭和三十九年) 「お酒と云う物は、或はお酒を飲むと云う事は、そんなどうでもいい話ではない」と続く。(「日本名言名句の辞典」 尚学図書辞書編集部・言語研究所)


小さな驢馬
小さな驢馬が早う走る。
一つの飯台に菜(さい)八つ、
三公呼んで来い、酒持って来い、
汝(われ)一杯、我(おれ)一杯、
おれ達ぁ兄弟分に成ろうじゃないか。(河南)三(「江南春 支那童謡集」 青木正児)


上戸
上戸と下戸、久しぶりで出合 上戸 どふだ。下戸のたてた蔵もないといふが、定めて餅ばかりくつて、人にいやがられるだらう。 下戸 そして、おのしはどふだ。 上戸 おれは見せを所々へ出した。 何見を 上戸 しれた事。小間物見さ。(「うぐいす笛」 太田蜀山人)


400肥桶の酒(五七七)
ご馳走になるばかりで人を招んだことのないキッチョムが、氏神のお祭りにいつも世話になる人たちを招んでご馳走した。招ばれた連中はこの時とばかりのむやら食うやら、用意した分をすっかり平げた。この調子だとどれだけのまれるかわからないのでキッチョムは、納屋(なや)から新しいおまるを出して寿司を盛りつけ、新しい肥桶に酒を入れて出した。客は一人帰り二人帰り、みな帰ってしまった。(分布)大分 (「日本の笑話」 宇井無愁)


主簿
本文 桓公(かんこう)の主簿(しゆぼ)の善(よ)く酒(さけ)を別(わか)つもの有(あ)り。酒(さけ)有(あ)らば輒(すなわ)ち先(ま)ず嘗(なめ)しむ。好(よ)き者(もの)は青州(せいしゆう)の従事(じゆうじ)と謂い、悪(あ)しき者(もの)は平原(へいげん)の督郵(とくゆう)と謂(い)う。青州(せいしゆう)に斉郡(せいぐん)有(あ)り、平原(へいげん)に鬲県(かくけん)有(あ)り。従事(じゆうじ)は臍(せい)に到(いた)るを言い、督郵(とくゆう)は鬲上(かくじよう)に在(あ)りて住(とど)まるを言(い)う。(術解篇9)
解釈 桓公(桓温)の部下によく利(き)き酒をする主簿(帳簿をつかさどり庶務を統轄する官)がいた。酒があるといつもまず彼に味をみさせた。彼は好い酒だと「青州の従事」ですと言い、悪い酒だと「平原の督郵」ですと言った。青州には斉郡があり、平原には鬲県がある。従事とは臍(斉)までとどくことを言い、督郵とは膈(鬲)膜にとどまることを言うのである。
背景 これは洒落を利かした言葉遊びで、「斉(せい)」は「臍(せい)」に、「鬲(かく)」は「膈(かく)」に通じて、好い酒は臍にまでしみわたり、悪い酒は膈膜あたりでとどまってしまうことを、地名にひっかけていったもの。(「世説新語」 目加田孚)


方言の酒色々(39)
酒やしょうゆ、肥料などをかき混ぜる道具 えびり/えふり/えぶり/えんぶり
酒や水などを勢いよく飲むさま びーびー
酒や酢などが、水っぽくなり、味が落ちる あふぇーゆん
酒や飯などを器につぐこと もーしつぎ
酒や薬品などの、水で薄めたりさいていない純粋のもの しーもく/しゅーもく(日本方言大辞典 小学館)


遠ク客ヲ送ルハ酒三杯ニ当ル
客があった。長っ尻をされて飯を出すはめになったら大へんだと思ったあるじ、「何もおかまいしませんでしたな。古人はうまいことをいったものです。遠ク客ヲ送ルハ酒三杯ニ当ル、とな。少し遠くまでお送りしましょう。」といいながら、しきりに客の袖をひっぱる。客はよろめき、笑って、「ま、まってください。わたしは、そんなにグイ飲みできません。」(笑倒)(「中国の寓話笑話篇」 村山孚)


雀の酒盛り
 まるで雀が酒盛りをしているようの意。小さな酒盛りの、にぎやかでやかましいことのたとえ。(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子)


一七 豊後のあさち酒の方
一、上白米 五斗(酒に入候一日前に 水に漬け 飯に蒸して 冷え候程 よく冷し。)
  麹(かうじ) 五斗(一日一夜水に漬け蒸(む)して麹「歹音」(ね)させ申候 酒に入れさまに一夜渋紙に拡げ能(よ)く冷し申候)
  水 四斗
右の飯に、麹を能く/\混ぜ合わせ、坪(壺)へ入れ 下から能く押し付けて 上まで入れ、少し中高に 押付け入れ申候、水を入れ候時、飯の上に 板を置き、其の上から 水をつぎ込み、飯の動かぬ様に 仕込み申候、壺平地より 七寸程深く埋め 蓋を能く仕り、渋紙にて 能く包み、其の上を土にて能く埋め申候、人の歩(ある)き候はぬ 屋根の下の 風の吹き抜き候所 能く候、寒の内に仕込み 来年六月土用の内に 口をあけ申候、酒の色は琵琶(びわ)色に濁り酒也。(「食菜録」 徳川斉昭 石島績編著)


56.今朝(こんちょう)酒あらば今朝酔わん 今朝有酒今朝酔
 唐の羅隠の詩「自遣」では、「明日愁いの来たらば明日愁えん」とつづく。明日は思わず、目前の酒を飲めという意。『西遊記』などの小説にもよく出てくる。 中国古典(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川)


最初の二十四時間
さて、これをお読みになってる方の中にも、アル中患者はいらっしゃると思う。俺も停酒てえものをやってみたい、と思し召す患者もいらっしゃると思う。左様、まず大切なのは、最初の二十四時間です、と申しあげておく。つまり、最後の一杯を飲んでからの二十四時間である。エチル・アルコールは二十四時間をもって、殆ど完全に体外に排泄されるからである。しかし、この二十四時間の終わりの方の数時間が、実にやりきれない気分である。ヒロポンでもヘロインでも、すべてそれらの有毒分子が、神経から去って行く時、患者は苦痛を感ずるものだ。半狂乱となって人を殺しても注射がしたくなったりする。アル中患者も、ついやりきれなくなって一杯やってしまう。そうなるとそれが、いつまでも続くことになる。二十四時間、たった二十四時間の辛抱である。ためしに、枕元に時計をおいて、針の進行を見ているのがよろしい。ほんとに二十四時間キッカリで、スーッと気分がラクになること請合いである。更にこれが四十八時間すると、また一段とラクになる。人間の生理というものは、大むかしから、地球の自転というものと深い関係をもちながら今日まで来たのであるから、二十四時間毎に一区切つくようになっているのである。だから更に更に七十二時間もすると、実にウソみたいに快適な気分になれる。で、肝腎なのは、最初の二十四時間であるが、もし食欲があったら飯を食うこと。それも脂っこい副食物などさけて、白い飯を胃袋に流しこむ。米という有難きものが、毒物を吸収してくれてラクになる。その時、吐きたくなったら吐くとよろしい。食欲がなかったら、妙な話だが砂糖湯をつくって、酒を飲むつもりでキューッとやる。気分がラクになること請合いである。有機化合物の分子式で、アルコールと砂糖を比べて見るがよろしい。殆ど同じものなのである。 (「あなたも酒がやめられる」 徳川夢声)


◆酒はこはくの色/深い香り/いかなる美女もこの魅力には及ばない/消えるな/酒よ/地の果てよ(もしりば)/酒よ/風よ/海よ/芳醇な香り/クレオパトラも地にひれ伏せ/世界は/一滴のコニャックにふるえる(宮原孝『タプカーラ』<13~15>)(「ほめことばの事典」 榛谷泰明)


7.ゴキブリはどんなに酔っても鶏小屋にの庭には近づかない
 誰がいちばん恐ろしいかはよく知っている。 ジャマイカ
74.馬の坂道と友達の酒とは無理強いするな
 友達に酒を強いるのは悪い日本の習慣、馬が坂を登るときは休み休み登るが、無理に急がせてはならない。 コロンビア(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川)


ものしり事典の酒川柳
梅多く酒に吞まれた話する 春嵐
茶椀酒本気になつて猫を蹴り 臥龍坊
コップ酒みごとに動く咽喉仏 裕侍
酒になり餅になる稲の穂並哉 呉逸(「ものしり事典 飲食篇」 日置昌一)


酒止めようかどの本能と遊ぼうか
私は六十代に入って間もなく、通風に四回やられた。歯槽膿漏(しそうのうろう)で総入歯にちかい状態になったのもその頃で、風邪をひきやすく、ギックリ腰も数回。それまで健康そのものだっただけに、かなりのショックを受けたわけだが、いよいよ後半生の構えを固める時期にきたと自戒して、とにかく化学薬品に頼らず、食餌(しよくじ)療法で痛風を抑え込み、体力の回復に努めることにした。そのときにできた句がある。
酒止めようかどの本能と遊ぼうか
五欲兼備、なかでも食欲旺盛(おうせい)な私にとっては、そうはいっても酒を止め、肉食を諦(あきら)めることは辛(つら)かった。そこで、醸造酒を止めて、蒸留酒少々とした。肉の代わりに鶏と魚。野菜、穀類、湯茶多量。なんとも物足りない。どこかうら淋(さび)しい。残るは、財、色、名(名誉)、睡眠の四欲だが、そのときの私に可能なのは、まことに貧弱ながら色、そして睡眠だったので、その双方で自分を納得させるしかない、と思った次第である。かくして健康の回復は得た。しかし、色は、現在にきて妙な状態にある。まず、その頃よりも色欲そのものは、むしろ旺盛になっているのだが、実行力は零(ゼロ)にちかい(すこしはざんぞんしているとは自負してはいるが、実行による精力喪失を恐れる気持ちがつよく、とても実行する気にはなれない。「節して漏さず」との先輩の言あり)。-その代わりにといってよいほどに想像力が旺盛となり、夢に見ることが多くなっている。さまざまな女性、さまざまな状態が出現するが、不思議に知らない人ばかりで、テレビで見た女優さんに似ていることが大半のようにおもう。記憶に残らない、一過性の女性たちで、そのさまざまな状態なるものも中途半端に終わる。一見、味気ない。しかし満足感なきにしもあらず。(「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」 金子兜太)


どぶろく【濁醪
濁酒の滓を漉さぬものゝ称。「きのふはけふの物語」に「酒の名も所によりてかはるなり、伊勢屋の酒はよそのどぶろく」などある。
どぶ六とおでんは夜のとも稼ぎ 共に擬人名語(「川柳大辞典」 大曲駒村)


柚味噌
あの赤穂義士の頭領・大石内蔵助(くらのすけ)も柚子が大好物だったそうな。そこで大井氏夫人は、秋のころに、熟した柚子をきざみ、味噌と合わせて摺ったものへ柿の肉を加え、よく練りあげた柚味噌をつくり、たくわえておく。内蔵助の晩酌(ばんしやく)の肴(さかな)は、この柚味噌一品のみであったという。元禄以前のころの、浅野家五万三千石の城代家老の、質素な暮しぶりが目に見えるようだ。(「小鍋(こなべ)だて」 池波正太郎 「日本の名随筆26 肴」 池波正太郎編)


武士の酒
ところが、案外に酒飲みに関する記録は乏しく、古代の公家の酔漢のような人物が見あたらない。さきにも、平将門とか藤原純友とか、またいわゆる源平の台頭期の武人が酒についての逸話を残していないことを指摘したが、鎌倉時代に入っても、その傾向がしばらくはある。武士が酒に強いから、さして眼にとどまる飲みっぷり、酔態を演じなかったのだともいわれるかもしれないが、実はそうではないのだ。平安時代あたりの武士は、まだ田舎くさい純朴さを具えていて、酒については古風を守っていたのである。古風な酒とは、時や処を選ばずにむやみやたらに飲むようなことをしない、祭りや重要な祝儀にさいしての宴会での酒を行儀よく飲むだけ、という酒である。公卿たち宮廷人には、もう飲み仲間といったようなものができていて、時も処もお構いなしに、相寄っては酒盃を廻し飲みしたものだが、当時の武士にはそういうところがない。また、いわゆる共同謀議を酒宴にかこつけてすることがたびたびであった公家社会であったけれども、武士だけでそういうことをしていない。鹿ヶ谷事件のように、院の近臣層の、反平家グループが催した謀議の酒に、若干の武士もまきこまれていたことがあったという程度である。酒で危うきに近寄らずという心がけがあったかのようである。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎)


ハーン
それは、トウモロコシを主として、コメやシコクビエからもつくられる濁酒(ハーン)である。「濁酒を飲むか?(ハーンガレ?)」は、マガール人の家を訪問したときにかけられる決まり文句だ。日本的な感覚でいえば「お茶かコーヒーでもいかがですか?」といった場面で濁酒は出され、出された方も負い目なくいただく。濁酒を蒸溜した酒であるロキシーと違い、それはただで飲むものなのだ。ハーンのアルコール度数は測っていないが、日本の濁酒よりも水っぽく、誰もそれを「酒」だとは思っていない。また、実際よほどアルコールに弱い人でない限り酔うことはない。だから、子どもにもすすめるし、子どもも平気で飲む。ハーンは老若男女の誰しもが、喉が渇いたときや、小腹が減ったときに、水やおやつ代わりにガブガブと飲むものなのである。簡単にそのつくり方を見てみよう。まず、乾燥させたトウモロコシの実を唐臼で挽き、それを箕で揺すって数種類のサイズの粒と粉、外皮や屑に選別する。こうしてできた挽き割りのトウモロコシ粒を茹で、筵に広げて粒麹を混ぜあわせ、素焼きの土器に入れて発酵させる。一週間ほどでできあがった濁酒は、飲むたびに小分けして水で溶き、よく手でもんでからザルで漉して飲む。その味は、カルピスのような甘みと白ワインのような酸味が程よく調和していて、清涼感がある。炎天下で一日働いて帰宅したときにのむ濁酒は、格別に美味い。これを、マガールの大人は直径一五センチメートル、深さ八センチメートルほどのアルミニウム製のボウルに、一度に軽く四~五杯は飲む。中座して小用にいくこともマナーに反しない。飲む方は満腹になるまで飲むし、飲ませる方は「腹が破裂する(ミブリ バッレ)」と音をあげるまで、強引にすすめるのがマガール流だ。一日二食の食生活にあって、間食として飲まれる濁酒は重要なエネルギー源になっており、いうなれば濁酒は「飲む穀物」なのである。濁酒が嗜好品らしくないのは、ある種の安らぎをもたらす点は合致するとして、それがあまり万人に好まれる飲み物であり、栄養やエネルギー摂取として実用的でありすぎることなのである。(「ネパール・マガール人の<嗜好品的なるもの>」 南真木人 「嗜好品の文化人類学」 高田公理・栗田靖之・CDI)


可盃(べくさかずき)
器物の銘に、シャレを使った例は多い。可盃(べくさかずき)というのがあった。形は図のように、底が糸底になっていない。伏せて置くより、置きようがないものである。しかも、突起した部分は管のようになっていて、底抜けだから、指でおさえていないと、酒が全部洩れてしまう。客はこれで酒をつがれたら、すぐ飲んで返盃(へんぱい)するより仕方がない。これに可盃と名付けた理由は、当時の日用文で可の字を使う時は、必ず文句の上におき、下には付かない。(たとえば「可被下(くださるべく)」の如く)つまり下に置かれぬというシャレである。こういう風流が案外流行したものと見えて、西鶴(さいかく)の『俗つれ/”\』や、当時の誹諧に出て来る。 我尻も可盃よきくの頃 素英 というのは、あちこちで酒宴があるので、尻がすわらぬという意味である。また、菊と可盃には、もっと古くからの因縁があった。『醒酔笑』五に、可盃に夏菊と名付けたという話がある。夏菊は、霜(下)に置かれぬというシャレ。(「日本語のしゃれ」 鈴木棠三)


大伴旅人のものに匹敵する賛酒歌
(九二)
おれは天国の住人なのか、それとも
地獄に落ちる身なのか、わからぬ。
草の上の盃と花の少女と長琴さへあれば、
この現物と引き換へに天国は君にやるよ。(以上小川亮作氏訳)
ほんの数章を引用しただけではあり、訳も原典によるといふ特色はあるが、まだ万全のものとも思へないが、オマル・ハイヤームの「四行詩集」といふものの香(にほひ)はこれでも察しはちつくと思ふ。これは大伴旅人のものに匹敵する賛酒歌といふだけではなく、一八六〇年にはじめて欧州に紹介され、特に英のフィツゼラルドの半創作的名訳が出て以来は快楽を謳った文学の古典として世界の耳目を驚かせて、名家の挿図や装幀による種種の豪華版が欧米の諸市で出版されたり、更にその愛読者たちがこの詩人の名を冠した学会やらクラブやらを結成するといふセンセイションが起こつた。オマル・ハイヤームに対するこの認識は正当なもので別に怪しむに足らない。怪しむべきは、むしろ我国で、幾種かの四行詩(ルバイヤート)集が翻訳されてなかには相当な名訳と評判されたものもありながら、常に一部好事家の間で行はれるだけで、四行詩(ツバイヤート)は我国では決して売れない書物となつてゐるといふ事実の方であらう。(「私の享楽論」 佐藤春夫)


伝説の中にも真実がある
何を飲んでいたか、ということはわかったとしても、どのくらい飲んだのだろうか、という疑問は残る。答は、浴びるほど、ということになる。鉱夫にしろカウボーイにしろ、「うがい程度で満足するような連中では」なかった。酒の中に真実がある、という。この諺が本当なら、伝説の中にも真実があるにちがいない- デッドウッドの町に入る街道を進んでいた馬車が、そこから出てくる馬車にでっくわした。出る馬車「何を積んでんだ?」入る馬車「ウイスキー二〇樽に粉一袋だ」。「なんだとお、そんなにたくさん粉もって何にするんだ?」 とか、 「旦那が毎日ウイスキーを一升づつお飲みになるのを、もしお父上がお知りになったら、なんとおっしゃったことでしょう」「きっとこの腰抜けっていわれたろうな」-(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳)


やきとり屋
やきとり屋はおそらく、戦後日本でもっとも成功した飲食店のビジネスモデルのひとつだろう。それは今日まで、さまざまなバリエーションをともないながら発展を続けてきた。今では忘れられているが、そのなかには「やきとりキャバレー」という業態もあった(図-10)。林忠彦(はやしただひこ)の有名な写真集『カストリ時代』には、現在の小田急デパートの裏手にあった大福キャバレーの写真が収められている。店頭ではもうもうと煙を上げてやきとりを焼いているのだが、看板には「豪華ストリップショー」とあり、入口ではドレス姿の女が客に愛想を振りまいているという、現代からみると不思議な光景である。(「居酒屋の戦後史」 橋本健二)


栃木山、常陸山
元横綱の栃木山も落ちついて飲めば、一日一斗五升は飲んだという。明治時代に鳴らした横綱常陸山、後の年寄出羽海は栃木山より一層強かったそうである、毎日晩酌にウイスキーの大瓶一本は欠かさなかった。大瓶一本は日本酒の一升三、四合のアルコール分だが、酔う程度はもっと強い。相撲協会理事長の出羽海親方の話では、「わたしの師匠(常陸山)は強かったですね。雨の日に一人でチビチビやっているときなど、二時間くらいで八升飲んだこともあった。それから思うと、私なんか比べものになりません。面白い話は私が十八のころ、茨城県の石岡に巡業に出た時、師匠がベルという自慢の犬を連れて行ったところ、土地の造り酒屋の主人も犬を自慢していて、犬の力くらべというか仕合をやったが双方とも強くて、とうとう勝負なしで引分けに終わってしまった。翌日、仲間の者たち五人で町を通ると、その犬が遊んでいたので、この犬は強いぞとほめたところ、酒屋の主人が出てきて、是非寄ってくれという。五人で五十銭しか持っていないから、とても寄るわけには行かないといったけれども、主人はむりやりに座敷に案内して酒を振舞ってくれた。それでまた犬をほめると、いくらでも飲めという。一時間ぐらいの間に、ほめては飲み、飲んではほめて、とうとう一斗三升ばかりただ飲みしました。それでも帰って相撲をとりましたよ」と愉快げに語ってくれたことがある。(「日本の酒」 住江金之)


のみほしてから百メートル突っ走る
その日銭稼業だが、演芸場、キャバレー、お祭りの余興、なんでもやった。なんでもやったが一回のギャラが五百円から六百円。そんな仕事が月に三回か四回では、これ、とても日銭なんてものじゃない。そんなわずかな金も、その日のうちにのみ代に消えて行く。実際、この時分の一葉の酒ののみ方には一種壮絶な気分がみなぎっていた。ないから少量でうんと酔える方法ばかり考える。焼酎に唐辛子を入れてのむまでは誰もが考えつくけれど、のみほしてから百メートル突っ走るなんてことをやるひとはあまりいない。酒屋で立ちのみをする。金を置く。コップが出る。酒屋の親爺がなみなみとそのコップに酒を注ぎ、壜をうしろの棚におさめてふり返るとコップは空になっている。これ奇術じゃない。(「酒と賭博と喝采の日日」 矢野誠一) 奇術の伊藤医一葉だそうです。


ワイン(2)
ホームズにとって長時間食事をとらないことは珍しいことではなかったが、料理やワインに対する知識が豊富で食通でもあったことは誰でもが認めるところである-食い道楽だというものさえいるかもしれない。『四つの署名』では、アセルニー・ジョーンズ警部を夕食に招いてホームズはいう。「あとは、是非われわれと夕食をともにしていただきたい、ということだけです。あと三十分で仕度ができます。カキに雷鳥(グラウス)がひとつがい少しはましな白ワインを用意いたしました」。「独身貴族」でもホームズは、数人の客のために豪華な食事の用意をしたが、それには「クモの巣だらけの年代ものの酒」もあった。ホームズもワインが好きなようで、多くのヴィンテージワインのなかでもクラレット(「ボール箱事件」)、モントラシュ(「覆面の下宿人」)、「シェーンブルン宮にあるフランツ・ヨゼフ帝の特別の酒蔵(セラー)」から出たものだといわれている美酒インペリアル・トカイ(「最後の挨拶」)など、おりにふれて飲んでいる。「アベイ農場」の事件を捜査していたホームズは、ワイン・グラスに残されたワインの表面に浮く澱に気がつき、これが有力な手がかりとなった。(「シャーロック・ホームズ百科辞典」 マシュー・バンソン編著 日暮雅道監訳)


にんにく
ここで、にんにくを主材にした実に簡単で素朴な酒の肴を一品伝授申し上げましょう。フライパンにバター大サジ一杯をのせ、バターがジュクジュクと溶け出したらにんにくの粒(薄皮をはいだ白い玉)を二十個ほど入れて表面がうっすらと色づいて焦(こ)げ始めるまで加熱します。下ろし際(ぎわ)に塩、こしょう、旨(うま)み調味料、刻みパセリを少々振って調味し、器に盛るときにパセリを飾りにします。実に簡単で素朴なつくり方ですが、にんにくのよさをそのまま味わえます。なお、これにアサリのむき身を加えて一緒に炒め焼きすると、いっそういばった肴になります。(「これがC級グルメのありったけ」 小泉武夫)


小林、池島
サントリーが出版した『洋酒マメ天国』という全36巻の豆本全集があるが、その19巻「サントリー談話室」というのは、飲み友達の酒の飲みっぷりを互いに批評させるという短文の集まりで、さすがに観察が面白(おもしろ)い。そのさすがにと思うところを拾っていったほうが、具体的でよくわかるし、また、愉快である。
小林勇[岩波(いわなみ)書店前会長]の酒癖の顕著なる特徴は、この「会いたかったろう。」の連発である。この時は、すでに相当メートルが上がっている証拠である。銀座のバーへ案内して、女の子のいる所で酒を飲むことを教えたのは、わたくしだが、この女の子を対手(あいて)に「おいお前、会いたかったろう。」とやると、たいていすれっからしのホステスも、目をパチパチする。(池島信平・文藝春秋前社長)
池島は頭の回転の早いことで有名な男だ。酒をのんでいても、もたもたしない。さっぱりしており、話がくどくない。人の悪口は言わないし、寛大で、親切で、平和主義者だ。(小林勇)(「酒の詩集」 富士正晴編著)


リップ・ヴァン・ウィンクル
「アメリカ生まれの小説で、何頁にもわたって千鳥足で歩きまわる酔いどれを初めて創造したのはアーヴィングだ」というフィードラーの指摘(フィードラー、五七)に敬意を表して、まずはワシントン・アーヴィングから始めよう。有名な「リップ・ヴァン・ウィンクル」(一八一九-一八二〇)は、そもそも、酒とは切っても切れない関係にある。口うるさい夫人のわめき声を逃れて彼が逃げ込んだ先はキャッツキル山脈の一つ。そこで彼が奇妙ないでたちで九柱戯にうち興じる男たちと出くわし、それがきっかけで、一晩眠り込んだつもりが、実は二〇年間眠り続け、ジョージ三世からジョージ・ワシントンへと二人のジョージの統治下をタイム・トリップしたという話はあまりに有名だ。問題は彼が眠り込むことになった原因が酒にあるという事実である。そもそも「彼は生まれつき酒好き」で、男たちが飲んでいた酒を無断で失敬すると、「すぐくりかえして飲みたくなり、一杯、また一杯と」(三四)飲む始末。おまけに、村の様子がすっかり変わってしまったことを知ったときの彼は、酒飲み特有の論理で、「昨夜のあの酒瓶がわしのあわれな頭を混乱させたのだ」(三七)と、すべて酒に責任転嫁する。まさに酒が引き起こした珍事がこの物語というわけである。(「酔いどれアメリカ文学-アルコール文学文化論-」 著者森岡裕一他4名)


生鮭百本と酒五升
とにかく、快風丸はここで交易を現実に行った。積んでいった米その他は、この地の産物と交換された。それは塩鮭二万本や熊やラッコ、トト(ママ)などの皮と交換されて船に積み込まれた。交換比率は「生鮭百本を米一斗二升に換し、糀一斗二升にも換し、その他酒五升にも、煙草一斤にも換し」といった具合であった。(「茨城の歴史をゆく」 鈴木茂乃夫) 快風丸は徳川光圀が蝦夷調査に行かせた三大船といわれた長さがおよそ70mある当時の大船です。


体温計
ところで、檀一雄はま新しい東大の制服制帽をつけて、ぼくの家に現れることによって、みずから東大生であることを証明した。その言うところを聞くと、いま卒業して来たという。卒業式に出るために制服制帽を新調するとは、変わっているなと思ったら、じつは入学と同時に新調したのを、質屋に入れっぱなししていたそうである。それにしてもあれだけ飲み歩いて、よくまともに卒業できたなと言うと、森さんとつき合っていて、まともに卒業できるはずがないじゃありませんか、と檀一雄はさも愉快げに笑っていた。当時檀一雄は落合にいたから、ぼくらは主として東中野に出、よく「香蘭」という店に行った。おかみは年増の割ときれいなひとだった。ある夜、太宰が旧に痛むと言いながらも脇腹を圧えて痛飲した。飲めば治ると思っていたらしいが、治るどころかますますひどくなり、ついに病院に担ぎ込まれて、盲腸だということがわかった。いつもツケで飲んでいたから、借金もだいぶ溜っていたのだろう。ぼくが檀一雄のところに遊びに行っていると、「香蘭」のおかみがちょっとした手土産を持って訪ねて来た。それとあからさまには言わなかったが、借金の催促だとはわかっていた。檀一雄は笑いながら愛想よく対応していたが、ちょっと額に手をあてるような仕草をすると、机の上から体温計を取って小脇に挟んだ。「熱がありますの」と「香蘭」のおかみが訊いた。「なあに、大したことはありませんよ」と、檀一雄は平然としていたが、「香蘭」のおかみは無理に取り上げて見て、四十度もあるじゃありませんかと言い、催促もせずに帰って行った。ぼくも愕いてその体温計を小脇に挟んでみたが、やはり四十度になった。檀一雄はだれがしても四十度になる体温計を持っていたのである。(「森敦全集第八巻 酒との出逢い」)


ワイン
ワトスンはいろいろの種類の酒を広くたしなむが、特にワインが好きなことで有名である。『四つの署名』のなかに、ワインのせいで口が軽くなり、長い間ふつふつとたぎっていた欲求不満を、つい口にしてしまう場面がある。「昼食のときに飲んだボーヌ・ワインのせいか、それとも彼の態度があんまり落ち着きはらっていたのに、ついむかっとしたためか、突然、もうこれ以上黙ってはいられないという心境になった。『今日はどっちなんだい。モルヒネ、それともコカイン?』と、私はきいた」。(「シャーロック・ホームズ百科辞典」 マシュー・バンソン編著 日暮雅道監訳)


165伐木(たんたんと 木を伐る)
2許許と 木を伐る
したみたる うまき酒
肥えたる小羊もて
をぢや人(びと) 招かばや
よしや来まさずとも
招かぬにあらずかし
清らに はき清め
御食(みけ) うちならべ
肥えたる肉もて
をぢや人(びと) 招かばや
よしや来まさずとも
我に咎(とが)あらじかし

3木を阪に伐る
したみたる うまき酒
御食(みけ) うちならべ
はらからも みな親し
民のあやまつは
ものにいやしき故ぞ
酒有らば したみ
酒なくば 求めよ
かんかんと鼓をうち
そんそんと舞ひ遊ぶ
いとま求めて
このしたみたるを飲みたまへ
主題 興宴の詩。-祭事後の饗宴と、その饗宴が同族和合の意味をもつことを教戒する。教訓詩としての性格を持つ。(「詩経雅頌」 白石静訳注) 一部分だけのご紹介です。


アルコールと作家たち
亡くなっている人だけに絞ると、およそアルコール中毒らしい人は2世紀にわたって6カ国で28人挙げられるであろう。ロバート・バーン、アルジェノン・スウィンバーン、ライオネル・ジョンソン、マルコム・ラウリー、アーネスト・ダウソン、ポール・ベルレーヌ、ディラン・トマス、イーブリー・ウォー、セルゲイ・エセーニン、W・H・オーデン、ジェームズ・ボズウェル、サミュエル・ジョンソン、アルベール・カミユ、G・K・チェスタトン、サミュエル・コールリッジ、アーネスト・ホフマン、ジェイムズ・ジョイス、アルフレッド・ド・ミュッセ、ギー・ドゥ・モーパッサン、フラン・オブライン、アルチュ-ル・ランボー、シャルル・ボードレール、ジーン・リース、フリードリッヒ・シラー、オスカー・ワイルド、ルイ・マックニース、そしてイツィク・マンガー(この中で唯一のユダヤ人)。14人は20世紀に執筆した人達である。(「アルコールと作家たち」 ドナルド・W・グッドウィン)


飲酒前世物語(1)
このように彼は瞬間にこの竜王を教化して、帰依と戒を受けさせて師のもとに帰った。シモマタ、バッダヴァティカーに思いのままに滞在してから、コーサンビーに行かれた。サーガタ長老が竜を教化したことは、全国に広まっていた。コーサンビーの町に住んでいる人々は師を出迎え、師にあいさつをしてから、サーガタ長老のまえに行き、あいさつして一隅に立ってこのように言った。あなたがたに得がたいものがあったら何でもわたしたちに言ってください。それをわたしたちが用意いたしますから」長老はだまっていたが、六人の群が言った。「友よ、出家者たちにとっては鳩色の酒が得がたく、またほしいものである。もしそなたたちが長老のために清らかな鳩色の酒を用意できるなら、[それはよいことだろう]」かれらは、「かしこまりました」と同意して、師を明日の供養に招待してから、町に入った。それから、「それぞれ自分の家で、長老に供養しよう」と澄んだ鳩色の酒を用意して長老を招き、それぞれの家で浄酒を与えた。長老は、酒を飲んでたいへん酔っぱらい、町から出ようとして門の途中で倒れ、ぶつぶつ言いながら横になった。師は、食事を終えて町から出ようとしたとき、長老がこのようなかっこうで横になっているのを見て、「修行僧たちよ、サーガタをつれていきなさい」と言って園林につれ帰させた。修行僧たちは、長老の頭が如来の足もとにくるようにしてかれを寝かせたが、かれは、ころがって、足を如来の顔にむけて寝てしまった。師は、修行僧たちにたずねた。「修行僧たちよ、サーガタが以前もっていたわたしにたいする恭敬は、はたしていまも、かれにあるだろうか」「いいえ、ありません。尊師よ」「修行僧たちよ、アンバの岸の竜王を教化したのはだれであるか」「サーガタです。尊師よ」「一体、いま、サーガタは、水に住む蛇すらも教化することができるだろうか」「いいえ、かれにはできないでしょう。尊師よ」「修行僧たちよ、飲んで意識をうしなうような、そのようなものを飲むのは、はたして正しいであろうか」「尊師よ、正しくはありません」そこで、世尊は長老を叱責し、修行僧に声をかけて、「強い酒を飲むことは、懺悔すべき罪である」と、戒条をもうけ、立ちあがって座所から仏の居室に入られた。説法場に集まっていた修行僧たちは、酒を飲むことを非難して語った。「友よ、酒を飲むということは大罪であり、そのために、知恵もそなわり、また神通力もあるサーガタが、師の功徳すらも知らないもののようになったのだ」師がおいでになって、「修行僧たちよ、いま何を話すために集まっているか」とおたずねになったので、「このような話です」と答えると、「修行僧たちよ、出家者が酒を飲んで、意識をうしなったのは、いまだけではない。以前にもそうであった」と言って、過去のことを話された。(「ジャータカ全集」 中村元監修・補注)


二二九 真に酒を嗜(たしな)む者は
真に酒を好む者は、気象が雄大であり、真に茶を好む者は精神が清らかであり、真に筍(たけのこ)を好む者は、身体(からだ)が瘠(や)せており、真に粗食を好む者は、志(こころざし)が高遠である。(朱錫綬『幽夢続影』)
真に酒を嗜(たしな)む者は気雄(すぐ)れ、真に茶を嗜む者は神清く、真に筍を嗜む者は骨臞せ、真に菜根(さいこん)を嗜む者は志(こころざし)遠し。 真嗜酒者気雄、真嗜茶者神清、真嗜筍者骨臞、真嗜菜根者志遠。
○骨臞-骨は骨格。体格。臞は、やせる。ほっそりする。清癯(せいく)になる。 ○菜根-野菜の根。大根やいもなど。または、粗末な食事。(「中国の古典 清代清言集」 合山究)


二、まずい酒
ある人、居酒屋にはいり酒を買って飲んだ。酒の味がひどくまずいので、主人に「酒の味がこんなにまずいのに、よくも人の銭が取れるものだ」と文句をつけると、主人がひどく腹を立てて、「こんなうまい酒を飲みながら、なんの難癖をつけるのか」とどなっておどしつけ、その男を縛り上げた。そこへやってきた客が、そのありさまを見て、その訳を尋ねると、縛られた人が、「酒の味がまずいと文句をつけたら、主人が怒ってこんなひどい目にあってしまった」あとからきた客人が、「それでは酒を持ってきてください。わたしが味見してから、どちらが正しいか決めたらどうか?」主人が、酒を客人に手渡すと、杯を上げて半分も飲に終わらぬうちに、両腕を上げて主人に向かって、「私も同じように縛ってくれ」主人は恥ずかしい顔つきで、縛った人を解き放してやった。
注・『笑府』(日用部)には、「酸い酒(酸酒)」として、おなじような話が出ている。(「韓国風流小ばなし」 若松實編訳)


悪い酒癖
その時は繆(びゅう)が気絶してからもう三日たっていた。家の者たちは酔いつぶれて死んだものと思っていたが、鼻からする息がかすかに糸のようにつづいていた。その日、息をふき返すと、たいへんな嘔吐(おうと)で、黒い汁を数斗も吐き出し、その臭いはかぐにたえなかった。吐きおわると、寝床がぐしょぐしょになるほど汗をかいて、それでやっとサッパリした気持になり、これまでの不思議な経験を家の者に話した。そうするうちに溝川で刺された処が痛み出して腫れあがり、次の日にはそこが瘡(できもの)になったが、幸いなことにそれでもたいへん潰(つぶ)れ腐(ただ)れもせず、十日たつとようやく杖をついて歩けるようになった。家の者たちがみんな、冥土の負債を返そうというので、繆がその入費を計算してみると、五六両の金がないと片づかないことが分かった。彼はそれを吝嗇(おし)んで、言った。「先日のことは酔ったあげくの夢幻(ゆめまぼろし)の世界のできごとであるにすぎないだろう。たとえそうでなくても、彼は内々でこっそり私を釈(ゆる)してくれたし、ふたたび閻魔王に知らせるようなことをするはずがあろうか」家の者は、是非にとすすめたが、彼は聞き入れなかった。だが心のうちでは心配だったので、もう思う存分飲むようなことはしなかった。町の友人たちも、みな彼の酒癖がよくなったことをよろこんで、だんだんいっしょに飲むようになった。一年あまりたつと冥土の報いもようやく忘れ、だんだん気がゆるんできて、もとの状態がまた萌(きざ)しはじめた。ある日、子(し)という人の家で飲んだとき、また主人をののしりちらしたので、主人は彼を外へほうり出して、戸を閉め、そのまま内へはいった。繆がバタバタ騒いでいるのを息子が知って、連れて帰ったが、部屋にはいるなり壁に向かって丁寧にひざまずいて、いつまでもあやまって、「すぐあなたへの負債はお返しします」というと、ばったり倒れた。見るともう息が絶えていた。(「聊斎志異」 増田渉他訳) 酒を飲んで酔っ払うと、ののしったりからんだりする繆が、それによるけんかで死んだが、先に死んだ伯父の計らいで紙銭を焼けば助かるということになり-。


味があまり落着いていないような気がする
黄酒(ホワンチウ)[酒精度の低い醸造酒]は比較的安いので、いつでも買って飲もうという気になる。しかし、そのほかの酒だって決して悪くはない。白乾(パイカル)[酒精度の強い蒸留酒。白酒]は私にはきつすぎて、飲んだ具合がなんだかこう口のなかに泡が立つようでいやだ。山西省の汾酒(フエンチウ)[白酒の一種。種々の薬材入りのもある]と北京の蓮花白(レンホウパイ)[蓮の花を入れた白酒]は少しぐらいなら飲めるが、それとてどうもあまり穏やかでないように思われる。日本の清酒はたいへん好きだ。ただなんだか新酒のようで、味があまり落着いていないような気がする。葡萄酒と橙皮(チエンピー)酒はどちらもよく口に合う。しかし私が一等いいと思うのはやはりブランデーだ。西洋人は茶の趣味は大して解しないようだが、酒ともなるとどうしてなかなか凝ったもので、決して中国に劣りはしないように思われる。(「周作人随筆」 松枝茂夫訳) 周作人は魯迅の弟です。


231酔いざめの水
そんなら酒は今日かぎり、キッパリとやめる。そのかわり酔いざめの水だけは、これまで通りのませてくれよ、なあ嬶(かかあ)。(兵庫県佐用郡)(「日本の笑話」 宇井無愁)


胎安神社
胎安(たやす)神社は、創建は古く、奈良時代の天平宝字(てんぴょうほうじ)六年(七六二)と伝えられる。創建の地は現在地とは違うが、その場所は不明。西野寺の現在地には、現社殿が江戸時代中期の建築であることから、遅くともそのころには存在したことがわかる。当初は、現在の千葉県香取市の香取神宮から祭神・経津主命(ふつぬしのみこと)を勧請し、さらに京都市右京区にある梅宮大社(うめのみやたいしゃ)の胎内安全の神・木花咲耶姫命を合祀した。梅宮神社は酒造りの神として知られる。現在は木花咲耶姫命の胎内安全の神としての性格が前面に出るが、当初は酒造神としての面にも期待が寄せられたようで、「安産育子酒造祖神」と刻された古い石柱が境内に現存する。(「常陽芸文11月号(№354)」)茨城県かすみがうら市西野寺434


阮籍
本文 阮籍(げんせき)、母(はは)を葬(ほうむ)るに当(あ)たりて、一肥豚(ひとん)を蒸(む)し、酒(さけ)を飲(の)むこと二斗(にと) 、然(しか)る後(のち)に訣(わか)れに臨(のぞ)み、直(た)だ云(い)う、窮(きわま)れり、と。都(すべ)て一(ひと)たび号(ごう)するを得(え)て、因(より)て血(ち)を吐(は)き、廃頓(はいとん)良久(ややひさ)しうす。(任誕篇9)
解釈 阮籍は母を葬るに当たり、一匹の肥えた豚を蒸して、酒を二斗飲んだ。その後で母との別れに臨むと、ただこういった。「おしまいだ。」一声、号泣したきりで血を吐いて、しばらくの間、気がぬけたようにぐったりとしていた。
背景 当時の社会規範として、父母の喪に服するための心得として、きちんと喪服を着用することや酒肉を口にしてはならないことなどの礼が定められていた。阮籍の態度はそれを真っ向から無視するものであったからこそ任誕(気ままで世俗の礼法などにはこだわらない)篇の逸話としてとられているのである。ただし、吉川孝次郎氏は「阮籍伝」の中で、世間一般の儀礼など無視しながらも母との最後の別れに臨んで「窮(きわま)れり」と号泣して吐血した阮籍を、「実は最も純粋な信条のもち主」であったとし、彼が世間の習俗にこだわらなかったのは、それがたまらない偽善として映じたからだと説明する。なお、母の死に関連した阮籍の逸話として、母の喪中に文王司馬昭の宴席で酒を飲み肉を食べ続けたこと(任誕2)、また同じく母の喪中に弔問客がやってきても酒に酔っ払って、ざんばら髪で足をなげ出して座りこみ、何の礼もしなかったこと(同11)なども知られる。(「世説新語」 目加田孚)


酔客
客たちが飲んでいるうちに、すっかり夜がふけてしまった。おひらきということになり、話は、誰の家が最も遠くて、誰の家が最も近いかということに及んだ。ひとりの酔客が、「そりゃあ、おれが一番近いさ。」というので、ほかの者が、「いくら近いといっても、ここのあるじほど近くはあるまい。」と口をはさむと、くだんの男、ゴロリと横になり、「あるじは、それでも、何歩か歩かねばなるまい。おれはここで寝るのさ。」(広い笑府)(「中国の寓話笑話篇」 村山孚)


一六 葡萄酒の方
一、能(よ)く熟したる葡萄一粒づゝにして押し潰(つぶ)し、汁を能く搾(しぼ)り、燗鍋(かんなべ)へ入れ、炭火の上にて、一泡煎じ其後能く冷(さま)し、冷(ひ)え候時焼酎にても、泡盛にても三分加へ申候。
一、龍眼肉、上の皮を焼酎にひた/\に漬け、三七日も置き候へば、醤油の如く出で申候、其時龍眼肉を取上げ、布にて、うるしこす如くに搾り候て粕を捨て、右葡萄の汁を混ぜて焼酎と龍眼肉の焼酎と二色を心次第に混ぜ申候、ぢんだ(「米甚」粏)の如く成り申候(著者註 ぢんだ(じんだは一種の食品、麹と塩とを糠に加へてならしたるもの、酢又は酒を加はて食す)(「食菜録」 徳川斉昭 石島績編著)


二合ほどしか、飲まない
そこへゆくと「飲む」方の話は、比較的、簡単である。しかし、これも、女と同様、私の人生に、大なる影響を及ぼした。考えてみると、もう四十年以上、飲んでいる。私は十六の時から、飲み始めたから、そういうことになる。こんなに長く飲んでは私の人生への影響を措(お)いても、私の脳味噌や、血管や内臓への影響が、考えられる。考えられるどころではない。先年の正月匆々(そうそう)、血を吐き、腹を切ったのも、酒が主因であったことを、認めざるをえない。元来、胃腸だけは、丈夫な生まれだったが、今は哀れな胃弱患者である。それでも、飲むことは、飲んでる。しかし、手術以後、酔うほど、飲んだことはない。二合ほどしか、飲まない。三合以上飲めば、酔ってくるし、酔えば、泥酔(でいすい)に至るまで、飲まずにいられなくなる。そこに一線があり、現在は、その手前でスゴスゴ引返すのである。まず、サケノミの敗残兵であり、現役の嘲罵(ちようば)を、満背(まんぱい)に受けるのも、やむをえない。もう、一生、泥酔する機会がないのかと思うと、寂しくならずにいられない。(「飲み・食い・書く」 獅子文六)


どうしても飲みたくなったら、俺はいつでも飲むぞ
前述の如く私は、何度も何度も禁酒を誓い、何度も何度もそれを破っている。あんまり何度も禁酒をするので、ある皮肉屋が、私のことをこれぞ本当の禁酒家だと云ったで、禁酒という文字に自分でもウンザリして"停酒"ということに致した。この文字に対して私はこう解釈している。 A 、周囲の情勢、どうしても飲まざるを得ない条件が揃ったら、これは仕方がない。いつでもそれに従って私は飲む。 B、私自身の感覚で、非常に飲みたくなったら、いつでも飲む。 誘因原因が、自他を問わず、飲まざるを得ない時は、いつでも飲む-、このイツデモ飲ムという考え方が、私の停酒期間を長からしめているのであろう。 -もう永久に禁酒だ! -死ぬまで一滴も飲まんぞ! こいつは一見いかにも立派でイサギよいけれど、元来人間なんてものが、永久にだの、死ぬまでだのと誓いをたてるのが、甚だ不自然なのである。初めっから無理である。-
-どうしても飲みたくなったら、俺はいつでも飲むぞ。 これが自然である。しかしこのドーシテモが意味深長だ。ドーシテモの限界をどこにおくかである。人間の心理とか、感覚とかいうものは、相対的なものであって、このドーシテモはココデスというハッキリした線はあり得ない。この線はすぐ鼻先にもあるし、それこそ無限の彼方にもあるわけだ。 (「あなたも酒がやめられる」 徳川夢声)


陪 宴於偕楽園
(偕楽園)開園の天保十三年から十四年にかけて(藤田)東湖は何度か烈公に従ってこの詩酒の会に陪席、公からの酒に快く酔って、その感想を漢詩『陪 宴於偕楽園』(別掲)に詠んでいる。
陪 宴於後楽園 名区幾度か空壇(くうだん)に委(まか)す。山水初めて供ふ仁智の看。風日美時酒に対するに堪へたり。烟波穏かなる処好んで竿を投ず。一遊もと是れ諸侯の度(おもむき)。偕楽須(すべか)らく知るべし百姓(ひゃくせい 庶民)の歓。恨まず筑峰暮色を催すを。頭(かしら)を回(めぐ)らせば城上月団々。 園地の原(もと)は箕川(見川)妙雲寺子院の住した所故に句を詠んでここに及ぶ。 藤田彪(たけき) 再拝具稿(「水府綺談」 網代茂)


◆非の打ちどころがありません。見事にして豪華。生き生きとした多彩なビロードのような味です。イギリス人だってテムズ河のほとりでこれよりすごいものは作れませんよ。(コニャックの産地でヴィオー親方は試飲する。ユベール・モンテイエ『死にいたる芳香』榊原晃三訳)(「ほめことばの事典」 榛谷泰明)


あれ
強い酒をよくもこんなに-と母はあきれることが多かった。父に劣らぬ酒豪らしい友だちが、やっとよろめきながら腰をあげて、危なっかしい足どりで引きあげたあと、寝についた父の翌る朝は、食事がノドを通りかねるようだった。そういう時に、母がこしらえたのは、即席のお汁である。当時の沖縄は、鰹節の製造がさかんで、主要な産地の一つだった。といって市場で買う鰹節は安くなかったので、食事がノドを通らなくなった父のためにつくるお汁は、ゼイタクな即席料理だったといっていい。なぜなら、削った鰹節をたくさん使わなければならないのである。ふりかけにするようなこまかい削りかたでなく、厚く大きく削ったのを量多く必要とした。たくさん削ったのを椀に入れ、醤油少々を滴らしてから、熱湯を注ぎこみ、さらに鶏卵一個を割って落とすと、蓋をする。しばらくそのままにして、蓋を取り、アツアツのお汁を父にすすめていたが、たまには母はわたしにもつくってくれた。鶏卵はほどほどの半熟状態になり、鰹節のダシで、お汁のおいしいこと無類である。いかにくたびれていても、このお汁で全身が活気づくのを感じるくらいの強いおいしさだった。睡眠不足で、目があかない場合だと、最初の一口で、パッチリと覚めたのである。カゼをひいて熱があり、ご飯も欲しくない時に、わたしは、あれを-とねだることがあった。残念ながらこの即席料理には名がなくて、あれで、でわかってもらえなければ、鰹節にお湯かけて-というしかなかったが、酒飲みにとっては、深酒をした翌る朝の、起死回生の妙薬だったと思う。(「酒飲みとぶうさあ」 小波蔵保好 「日本の名随筆26 肴」 池波正太郎編)


3分の1から2分の1
アルコール中毒は、それぞれの社会集団の中に均一に配分されているわけではない。女性よりも男性の方が、ユダヤ人よりアイルランド人の方が、聖職者よりバーテンダーの方がアルコール中毒者は多い。しかしおそらく他のどんな集団にもまさってアルコール中毒が現れる割合が高いのは、他ならぬ高名なアメリカ作家たちである。ヘミングウェイが言ったように、優れた作家のほとんどがアルコール中毒であるかはどうかは定かではないが、明らかにかなりの人たちがアルコール中毒である。過去100年間の有名なアメリカ作家の名前を列挙してみると、おおよそ3分の1から2分の1がアルコール中毒だと考えられるであろう。(「アルコールと作家たち」 ドナルド・W・グッドウィン)


ピグミーの嗜好品
ピグミーたちが容易に飲める酒はヤシ酒である。森のなかのラフィアヤシを切り倒して穴をあけておくと、樹液が出てきて発酵する。これを朝と夕方にその場所かで連れ立って出かけて飲むのである。よく出るヤシの木では一度にバケツ一杯以上の酒がとれる。一〇人ほどで分配しても一人一リットルは飲める計算である。アルコール度はビールよりやや低い程度ではないかと思う。酒というのは嗜好品であって、栄養とあまり関係のないものという考え方があるようだが、このヤシ酒は彼らにかなり栄養的に貢献しているのではないかと思う。彼ら、特に男性は、朝早く出かけていってこれをしたたか飲んで、夕方まで何も食べないのである。ときどき彼らとともに朝から飲んだことがあるが、午後まで空腹を感じなかった。それでまた夕方飲みに出かけると、一日中ほとんど何も食べないことになる。ただし、ヤシ酒はせいぜい二、三週間で涸れてしまうので、酒飲みたちはまたどこかでヤシが切り倒されないかと情報集めに奔走するのである。(「コンゴ民主共和国ピグミーの嗜好品-ハチミツをむさぼり、ゾウの脂を味わう」 澤田昌人 「嗜好品の文化人類学」 高田公理・栗田靖之・CDI)


殺戮の酒宴
ヴリシュニたちはバラモンたちに用意された料理と酒を猿たちにふるまい、酒に酔い痴れどんちゃん騒ぎをはじめた。バララーマまでもクリシュナの目の前で、クリタヴァルマン、サーティヤキ、ガダ、バブルたちと酒を飲みはじめた。そのうち酔っぱらったサーティアキが満座の中でクリタヴァルマンを嘲笑して、こういった。「クシャトリヤ(世俗的特権階級)たる者が、死んだも同然にぐっすり寝入っている者を殺すとはなんたる卑劣さだ。ヤーダヴァはお前のやったことを決して容赦しないぞ」ブラデュムラは彼の言葉を誉め、クリタヴァルマンを嘲った。すると怒ったクリタヴァルマンは、左手でサーティヤキを指差し、いった。「武器を捨てヨーガに入っているブーリシュラヴァスを殺したお前なぞクシャトリヤの風上にも置けぬわ!」その言葉に、クリシュナはクリタヴァルマンに憤りの眼を向けた。サーティヤキは、魔法の宝石シャマンタカをサトラージタ(クリシュナの主要な八人の妃の一人サティヤバーマーの父)から奪おうとした時、いかにクリタヴァルマンが行動したかを告げた。それをきいたサティヤバーマーは涙を流して怒り、クリシュナの膝に乗り、クリタヴァルマンへのクリシュナの怒りに油を注いだ。サーティアキは怒りに燃えて立ち上がり、宣告した。「貴様をドラウパディーの息子たち、ドリシュタデュムナ、シカンディンたちの後を追わしてやる。サティヤバーマーよ、こいつの生命も名誉ももうおしまいだ。よくみていろ!」そういうなり剣を抜き、一刀両断にクリタヴァルマンの首を切り落としてしまった。そして周りにいる者たちを次々に斬りつけていった。クリシュナは走り寄りサーティヤキを制止したが、ボーシャ、アンダカの面々は止めることのできない運命の手に操られ、手にした食器、酒びんなどを投げつけ、一斉にサーティヤキに襲いかかった。サーティヤキを救おうとルクミニーの息子ブラデュムナが割って入る。しかし多勢に無勢、奮戦空しく二人はその場で殺されてしまった。目の前で息子と無二の親友サーティヤキを殺されたクリシュナは激怒し、側に生えていた葦をむしり取り投げつけた。すると葦は鉄の棍棒となって人びとを打ち倒した。それをみたアンダカ、ボージャ、ヴリシュニたちも葦をつかみ取り相手構わず投げつけると、葦は鉄の棍棒となって人びとを死に追いやった。酒に目がくらみ、何も判らなくなった人びとの酒宴は今や殺戮の場と化し、次々と火中に飛び込む虫のように"死"の腕の中に飛び込んでゆく。運命の時が訪れたことを知るクリシュナは、鉄の棍棒を振りかざしたまま、一部始終をじっと見まもり続けていた。(「マハーバーラタ」 山際素男編訳) クリシュナはヴィシヌ神の8番目の化身とされる武勇の英雄です。


蒸留酒類にたいする物品税が法制化
政府がなければ人生はもっと住みよくなる、とはロシアの無政府主義者バクーニンのいう通りである。一七九一年三月三日、アレクサンダー・ハミルトンの発案になる、蒸留酒類にたいする物品税が法制化された。この税の目的は、独立戦争によって累積した政府の負債を償還することにあった。だがこの税がヴァージニアやケンタッキーの辺境にいた人々にあたえた影響は、独立戦争のそもそもの引金になった英国の印紙税法の影響と同じことであった。人跡まばらなケンタッキーの家々で、艶出(つやだ)しした銅の器具をそなえて二回蒸溜した精製酒を作りにかかろうと備えていた住民たちは、怒りに燃えて立ち上がった。各地で、収税吏が襲撃され、徴税用紙や領収証は盗まれ、その馬は耳をそがれ、馬車の車輪が砕かれた。。レキシントンでは、主任収税吏理の人形が縛り首にされたのち、ずたずたに裂かれて焚火の中に投げ込まれ、レッド・アイを飲んでそれを見守る大観衆はやんやの喝采を浴びせた。ペンシルヴァニア西部の四つの郡では、ライが生活の糧であり主な収入源で、入植者の怒りはついに大ウイスキー暴動とよばれる反乱にまで発展し、この鎮圧には正規軍の助けをかりなければならなかった。この時以来、市民は酒を一瓶買おうとするたびに不埒な税金を払わされ、また自分や内輪の友人が楽しむための強酒を自家製することも、法的にはもはや許されない仕儀となったのである。しかしながら、未開で野蛮で法のない「真の」西部は、以後も長い間依然として合衆国の外にあり、多種多様な自家製の強酒を、税金にも免許制度にもわずらわされることなく、享受しつづけた。(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳)


金子十郎の酒
わが国では「盛衰記」衣笠合戦に見えた金子十郎の酒はまことに勇ましく床しい詩である。金子十郎家忠と名乗りて一門を引具し、三百余騎入替へ入替へ戦ひける中に、人は退けども家忠は退かず、敵は替れども十郎は替らず、一の木戸口を破り、二の木戸口打破り、死生知らずに攻めたりける。城中よりも散々に射る。甲冑に矢の立つ事廿一。折り懸け攻め入りつつ、更に引く事無かりけり。城の中より提子(ひさげ)に酒を入れて、杯持たせて出しけり、城中より大介、家忠が許(もと)に申送りけるは、今日の合戦に武蔵相模の人々多く見え給へども、貴辺の振舞殊に目を驚かし侍り、老後の見物今日にあり。今日定めて疲れ給ひぬらん、この酒飲み給ひて今一際興ある様に軍し給へと言ひ遣したりければ、家忠冑仰ぎ弓杖つき、杯取り三度飲んで、この酒飲侍りて力を附ぬ。城をば只今攻落し奉るべし。其の意を得給へとて使をば返しけり。軍陣に酒を送るは法也、戦場に酒を請るは礼也、義明の所為と言ひ、家忠の作法と言ひ、興有り感有りとぞ皆人申しける。(「日本の酒」 住江金之)


飲み残した一合
昨夜(さくや)気分(きぶん)進まず飲み残した一合の酒を一升罎(いつしようびん)の儘(まま)持ち廻つた。これだけはいくら手がふさがつてゐても捨てて行くわけには行かない。
*内田百閒『新方丈記』(昭和二十二年) 空襲で焼け出された折のことで、酒好きを表白している。(「日本名言名句の辞典」 尚学図書辞書編集部・言語研究所)


1049賦得還山吟送友人  還山吟を賦し得て友人を送る
儒有高尚志           儒に高尚の志有り
不復事王侯           復(ま)た王侯に事(つか)へず
行将伸両脚           行(ゆく)々将に両脚を伸ばして
偃臥青山頭           青山の頭(ほとり)に偃臥(えんぐわ)せんとす
送君聊賦還山吟        君を送つて聊(いささ)か賦す還山吟
吟入白雲遶松林        吟は白雲に入つて松林を遶(めぐ)る
林間明月照苔径        林間の明月苔径を照らす
「シ閒」戸寥寥有誰尋      「シ閒」戸(かんこ)寥寥として誰有つてか尋ねん
中有粛然一茅屋        中に粛然たる一茅屋(ぼうをく)有り
枕流漱石水盈掬        流れに枕し石に漱(くちすす)いで水掬(きく)に盈(み)つ
北山駅路無移文        北山の駅路移文無し
南郭天籟鳴空谷        南郭の天籟(てんらい)空谷に鳴る
弾琴一曲酒一杯        弾琴一曲酒一杯
酔裏欲眠意悠哉        酔裏眠らんと欲す意悠なるかな
愧我年年費五斗        愧(は)づ我が年年五斗を費すことを
不知何日帰去来        知らず何(いづ)れの日にか帰去来(かへりなんいざ)(南畝集5)


人でない酒呑み
ある殿様が自分の使っている馬子が何時も酒をのむのでこれをとめようとして、馬子にいった。「あまり酒を呑むなよ。けんかや口論のもとにもなるし、第一酒呑みは人でない」とさとした。それから幾日かして久慈街道を通る時、眼下に見える鳥守村を見て殿様は、「おお、沢山の家があるわい。さぞかし多くの人が住んでいるだろうな」と馬子にいった。馬子は「いや三人しかおりません。あとはみな酒呑みですでァ」といった。(三戸郡階上村の話 採話・根岸有蔵)(「青森県の昔話」 川合勇太郎)


七七
崔北(チエプク)の字(あざな)は七七(チルチル)と言ったが、この名から彼の族譜を知ることはできない。字を七七というのは、北という字をばらして書いた破字なのだ。これは奇抜な着想だと言える。七七は画がうまいが、片方の目が斜視なのでいつも眼鏡をかけていた。酒がたいへん好きで、また旅行も好んだ。ある時、金剛山の九龍淵(クリヨンヨン)で酒に泥酔し、泣いたかと思うと笑い、笑っているかと思うと泣いたりして大声で叫んだ。「拙者、天下の名人が、天下の名山である金剛山で死ぬるのは本望じゃ」と、身をひるがえして淵に飛び込んだ。折よく脇でこの狂気の奇人を眺めていた者が水に飛び込んで、七七を救い上げたおかげで、彼は死を免れた。酒は一日に五、六升飲み、酒場で酒甕を抱えて鯨が水を吸い込むようにして飲みほしたというから、ちょっとやそっとの酒豪ではなかったようだ。家がひどく貧乏でいつも方々旅をしてまわり、北は平壌から南は東莢に至るまで、大小の都市をあまねく遍歴したが、七七が来たといううわさが立つと、ソンビ、地方の土豪はもちろん論、小銭のある者はみなわれ先に七七が泊まっている家におしかけ、さながら門前に市が立ったようだった。画を頼んだ者が山水画を求めると、むんずと筆を取り山だけ描いて、水は描かなかった。求めた人が「どうして山だけ描いて水を描かないんです。これが山水画ですか」と言うと、七七はすっくと立って筆を放り投げ、「おお、画を知らぬ者よ、紙の外は全部水なのだ」と言ってさっさと行ってしまったりする。(「韓国人と諧謔」 梁民基、川村光雅訳)


方言の酒色々(38)
酒の醸造の時、おけ一本ずつ毎日造り終えること ひじまい
酒もタバコも飲まない人 あまくち
酒も飲み、餅も食べる人 たいじきじょーご
酒やしょうゆの一樽 いっちょ(日本方言大辞典 小学館)


新酒五勺でも今がよい
 「五勺」は一合の半分。新酒はほんの少しでもいいから、今すぐに飲みたいものである。あとになってたくさんもらうより、少しでもいいから今手に入れるほうがよいというたとえにもいう。(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子)


32.最初は水とともに、その後は水なしに、最後は水のよう
 ブドウ酒を飲むときのありさまを言う。 メキシコ
33.焼酎で夕食を取った者は水で朝食を取る
 (ろくに食べずに)夕食代わりに焼酎を飲みすぎた翌朝の朝食は水だけ。二日酔いで固形物など入らない。相応の報いはくるものという意味。 メキシコ(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川)


冷酒か燗酒か
ところで、そのころ酒をくみあわすというときの酒は、冷酒だったのか、燗(かん)酒だったのかという問題がある。神事など儀式に伴う酒は、ほとんど冷酒ではなかったかと思うが、いっぽうで、客のもてなしなどに供する酒は、燗をしていたようである。『宇津保物語』の「蔵開」下の巻に、例の仲忠の父、酒好きの兼雅が、以前しげしげと通った女三宮のもとにいる左近という女房に、昔のことを思いだして、湯漬(ゆづけ)くらいサービスしてくれぬかと所望した話がみえる。そこで左近は御飯、おかずの仕度をして酒とともにさしだすのだが、「政所(まんどころ)より炭多く出して所々に火おこさせ」寒い冬の訪問をねぎらう。車に付き添って供してきた人びとにも餅や乾いた食物を出し、「酒樽に入れて据えてまがり(鋺)して沸かしつつ飲ます」とある。お鋺は、貝の器だったらしく、これに酒をいれ、火にかけて燗をしたのである。『宇治拾遺物語』の「大太郎盗人事」のうちにも、大太郎が昔馴染みの家に立ち寄ったとき、歓待し饗応した話として、「土器(かわらけ)参らせん」というわけで、「酒わかして、くろき土器の大なるを盃にして、土器とりて大太郎にさして、家あるじのみにて土器わたしつ」とある。ここでも燗酒を土器にくみいれてもてなしている。儀式ではともかく、普通の客人へのもてなし、とくに寒い冬の晩などには、平安中期以来、もう燗酒を出すことが、一般化していたことと思われる。ということは、酒が神事、行事などのハレの場でのものに限らず、接客のご馳走としてみられるようになりつつあったことを示すのである。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎)


むだ口・駄ジャレ
呑(の)み過ぎの毘沙門(びしやもん)(金杉正伝寺の毘沙門天)
酒に雀は品よくとまる(竹に雀は)(「日本語のしゃれ」 鈴木棠三)


ルバイ第三十六
思へらく、果敢無(はかな)き声して答へたる   瓶こそは、曽(かつ)て生き、飲みたりけめ。   あはれ、我が接吻(くちづ)けしその冷き唇ぞ   幾千度(ちたび)接吻(くちづけ)を取り交はしけむ。
[略義]思うに、果敢無(はかな)い声して答えた此の瓶(かめ)こそは、曽ては、生きて居て、盛んに飲んだのであろう、嗚呼、私がキスした其の瓶の唇は、何度と無く、キスを取り交わした事であろう。
[通解]瓶(かめ)を人間の屍(むくろ)と見て居るのである。此の瓶(かめ)に口を寄せると、冷(ひや)っとするが、其の瓶(かめ)の口も、曽て生きて居た時は、嘸(さぞ)かし暖くて、盛んに飲んだり、接吻もしたりした事であろうに、こう冷くなっては、もうお仕舞だ。之で見ても、生きてる内が花だ。サア、クヨクヨせずに、一杯飲もうじやないかと云うのである。瓶(かめ)を屍(むくろ)に見立てて、其の前で、一流の現世主義を説いて居るのだから痛快だ。(「留盃夜兎衍義(ルバイヤートえんぎ)」 長谷川朝暮)


盞(さかずき)
犬糞畠(いぬくそばたけ)一三
繁(しげ)り草
露に打たれて
腰かがむ。

親御の前に
侍(かしず)く児等(こら)は
盞(さかずき)捧(ささ)げて
腰かがむ。[一一二一-慶州]
(一三)犬糞畠=雑草の茂った荒地。(「朝鮮民謡選」 金素雲訳編)


ガソリンと豚がよく合った
小生、終戦の日は九州は博多にいた。その夜、痛飲した酒は、航空用燃料、ガソリンであった。肴は豚の刺身。モノスゴかったネ。しびれましたよ。終戦のショックと感動には、ガソリンと豚がよく合ったのだな。今にして思えば-。復員してからは、さすがにバクダンはよく飲んだ。バンジョーというメチール入りのウィスキーも飲んだ。ある日、目がつぶれて、なにも見えなくなった。「やられたか!」とあきらめたところ、やがてそれはおびただしい目ヤニの仕業であることが判明した。片目をあけるのに、ベリベリと音がし、一方の目をあけるのにベリボリボリバリと音がしたことを覚えている。(「おんな歳時記」 楠本憲吉)


ないそん【内損】
飲酒の為、腹内を損ふ事。「日本振袖始」に『腹痛頭痛の頭神、急難急病、内損外損云々』とある。
内損もする筈 家も蔵も飲み  飲むも飲んだり
内損は蔵も地面も飲んでから  同上(「川柳大辞典」 大曲駒村編著)


駅前広場
これらの空地は、物資を運ぶのに便利で人が集まりやすいという絶好のポジションだったから、戦後になると、当然のようにヤミ市が林立することになる。そしてヤミ市がその役割を終えて撤去された際、土地をもとの所有者に返さず、ここを利用して駅前広場が設けられたのである、計画をリードしたのは、東京都の建設局長を務めた都市計画家の石川栄耀(いしかわひであき)である。石川は、戦災を機に東京を大改造しようと考え、大規模な戦災復興計画を立案した。しかし現実には、終戦後の財政難から、計画はごく一部実現したにとどまった。東京の環状線をはじめとする主要道路のいくつかがいまだに完成せず、また環七沿いなどを中心に、危険な住宅密集地が広範囲に残っているのは、そのためといっていい(越澤明『東京都市計画物語』)。ところが新宿、渋谷、池袋の副都心を含む国鉄駅前の区画整理事業は比較的順調に進み、この過程でヤミ市の撤去された建物疎開跡地に駅前広場が生まれたのである。石川は都市における盛り場の重要性を強調し、街路の照明や休養娯楽施設を重視する「夜の都市計画」を提案したことでも知られる。駅前広場の実現を最優先したのも、その一環だろう。結果的にこれらの駅周辺には、アクセスがよく見通しのききやすい盛り場が形成載され、渋谷・新宿・池袋は副都心として成長する基盤が形成されることになった。私たちはその成果を、夜な夜な享受しているのである。(「居酒屋の戦後史」 橋本健二)


坊主
ある男、罪を犯した坊主を護送して、夜やどやにとまったところ、その坊主、酒を買ってその男にすすめて酔いつぶさせ、男の髪を剃って逃げうせた。男、酔いがさめて、部屋中坊主をさがすが見つからぬ。自分の頭をなでると、髪がないので、大声で叫んだ。「坊主はいた。しかし、俺はどこへいったろう?」 (「中国古典文学全集 歴代随筆集 笑賛」 松枝茂夫他訳)


伊藤家晴
本名が伊藤家晴。一九三四年、兵庫県城崎町というから、志賀直哉の小説の舞台にもなった温泉町で生まれている。父は旅まわりの一座やサーカスをとりしきる興行師だった。子供の頃に製図が好きだったので、豊岡工業高校で建築を学ぶ…と書けば、いかにも真面目な高校生活を送ったみたいだが、勉強にはあまり身がはいらなかったらしい。二つ年上の女子高生に熱をあげ、あえなく失恋。根がロマンティストで、文学青年の気味もあったから、失恋の痛手を癒すためにと、高校入学の前から口にしていた酒をあびるほどのむようになる。酒乱の高校生がやっとの思いで卒業したのが一九五三年、テレビの本放送が始まって、朝鮮の戦争に休戦協定が成立した頃である。(「酒と賭博と喝采の日日」 矢野誠一) 奇術の伊藤一葉だそうです。


東京夢華録
すべて酒店内で、酒の肴を売る料理人は、「茶飯量酒博士(ちやはんりようしゆはくし)」とよび、店中の小僧たちまでも、みな「大伯(にいさん)」とよんだ。さらに町方の女で、腰に青い綿布の手巾(てふき)をまきつけ、危髷(たかまげ)を結いあげ、酒客のため吸物をとりかえたり、お酌をしたりするのを、俗に「焌糟(おしやく)」といった。さらに町人で酒楼に入り、若殿原が酒を飲んでいるのを見ると、進み出てまめまめしくつかえ、物を買ったり、妓女を呼んだり、銭や物のやりとりなどをするものを「閑漢(のだいこ)」といい、また、進み出て吸物をとりかえ、酌をし、歌ったり、あるいは果物や香薬のたぐいを献じたりして、客が帰る際に金をもらうものを「斯波(たいこもち)」といった。また、下等の妓女で、呼ばぬのに向うからやって来て、客が飲んでいる前で唄をうたい、その場でわずかばかりの心付けをやると立ち去るのを「劄客(ながし)」とも「打酒坐(さけのざもち)」ともいった。それから薬を売ったり、果物・大根(中国では大根も果物として賞味されてる)の類も売り、酒客が買うと買わぬとを問わず座客にくばり、あとで金をもらうものを「撤暫(くばりおき)」といった。こうした連中は、どこの店にもいたものだ。(「中国古典文学全集 歴代随筆集 東京夢華録」 松枝茂夫他訳) 南宋の孟元老が、北宋時代の首都・開封(東京)を回想して著した書です。


豚肉の薄切りと新ごぼう
平鍋に酒と砂糖、みりん、醤油とだし汁で甘めにしたタレを入れ、豚肉の薄切りを敷き、上からさきがきした新ごぼうをまき、グツグツと煮ます。煮上がるころを見計らって溶き卵を一面に回しかけながら、いま少し煮て、微塵(みじん)に切ったみつばを散らしてでき上がり。これが実に旨いのですなあ。ごぼうのシャキリとした歯ごたえに豚肉トロリ、フワリとした感触。脂身(あぶらみ)から出てきたコクと正肉からチュルリチュルリと湧き出した濃い旨汁、新ごぼうならではの高い快香と、タレから来る食欲を奮い立たせる切ないほどの誘い香。これを肴(さかな)に、純米酒を熱燗(あつかん)にして飲んだ暑い夏の日の夕宴は、ほっぺた落としの味がしました。(「これがC級グルメのありったけ」 小泉武夫)


酒前世物語
これは、師がジェーダ林に滞在しておられたときに、酒を台無しにした者について語られたものである。伝えるところによると、アナータピンディカには、友人に一人の酒屋がいた。強い酒を仕込んで、黄金や金貨などを[代価として]とって売っていたが、[ある日]大勢の[の客]が集まって来たときに、「これ、おまえが代金を受け取って酒を渡しなさい」と、徒弟に命じて、自分は沐浴に出かけた。徒弟は、大勢[の客]に酒を渡していたが、人々がしばしば岩塩を持って来させて、かじっているのを見て、「酒は塩気がないのだろう。ここへ塩を入れてやろう」と、酒がめに一ますほどの塩を入れ、彼らに酒を渡した。彼らは、口いっぱいにふくむや、つぎつぎと吐き捨てて、「おまえは何をしたのだ」とたずねた。「あなたがたが酒を飲んで、塩を持って来させているのを見て、塩を足したのです」「愚か者め、おまえは、こんなうまい酒を駄目にしてしまったではないか」と、かれを叱り、つぎつぎに立ちあがって出て行った。酒屋は、帰ってみると一人も[客が]見えないので、「酒飲みたちは、どこへ行ったのか」とたずねた。かれは、そのわけを告げた。そこで、師匠[の酒屋]はかれを、「愚か者め、おまえはこんなに[良い]酒をだめにしてしまった」と叱りつけ、このことをアナータピンディカに告げた。アナータピンディカは、「これはわたしたちの話題になる」と、ジェーダ林へ赴き、師を礼拝して、このできごとを申しあげた。師は、「資産家よ、この者が酒を台無しにしたのはいまだけのことではなく、前世でも、やはり酒を台無しにしたのだ」と言って、彼に懇請され、過去のことを話された。 むかし、バーラーナシー[の都]でブラフマダッタ[王]が国を治めていたときに、ボーディサッタは、バーラーナシーで豪商となっていた。かれの近くに、一人の酒屋が住んでいた。かれは、強い酒を仕込んで、「これを売りなさい」と、徒弟に言って、沐浴に出かけた。徒弟は、かれが出かけるとすぐに酒へ塩を入れ、こうして同じく酒を駄目にしてしまった。さて、かれの師匠[の酒屋]は、帰ってきて、そのことを知り、豪商に告げた。豪商は、「利益になることを巧みにできない愚か者は、利益になることをしようとして、利益にならないことをするものだ」と言って、つぎのような詩をとなえた。
46利益になることを巧みにできない者によっては、
利益になる行ないも、幸せをもたらさない。
愚か者は利益になることを失う。
[徒弟の]コンダンニャが酒を[駄目にした]ように。
ボーディサッタは、この詩によって説法した。師は、「資産家よ、この者が酒を台無しにしたのはいまだけのことではなく、前世でも、やはり酒を台無しにしたのだ」と言って、連結をとって、[過去の]前世を[現在に]あてはめられた。「そのときの酒を台無しにした者はいまの酒を台無しにした者であり、そして、バーラーナシーの豪商は実にわたくしであった」と。(「ジャータカ全集」 中村元監修・補注) ジャーダカは釈尊の前世物語です。


ヘンな気もち
ラジオでも私は、それを三回ほどやっている。最もひどいのは昭和七年八月八日から三日間にわたり「珍釈西遊記」なるものが愛宕山放送局(NHK)から放送された。その第一日は沙悟浄の巻で、私の独演だったのであるが、この時もアダリンと酒の飲みすぎで、とうとう眠りから醒めない。仕方がないので古河ロッパ君が私の声色で四十分間やってのけた。亡妻の曰く、「あんなヘンな気もちがしたことないわ。部屋からはあんたのイビキが聞こえているのに、ラジオもあんたがやってるんですもの」と。当時はまだ録音放送なんてなかったから、実に気味が悪かったろう。(「あなたも酒がやめられる」 徳川夢声)


その酒にその妓生
むかしから平壌(ピョンヤン)は景勝の地であり、一日中遊覧客の絶えることがなく、官位にのぼれば必ず一度は行きたがるところであった。そこで、集まる人が多いだけに、また別離の涙にくれるものも多いもので、高麗時代の有名な詩人鄭知常(チョンチサン)はつぎのような詩を残していた。 雨歇長堤草色多 送君南浦動悲歌 大同江水何時尽 別涙年年添綠波(雨のあがった丘には草の色も蒼い。そなたを南浦に送ろうとすると口ずさむ歌も悲しくなる。大同江は流れながれて乾くときがない。毎年涙を流して水を増すからだ)詩はこうであるが、ある都の人が平壌に遊びに行って、監司(カムサ)にもてなされたとき、酒は水のように薄く、妓生(キーセン)までも別れるにおよんで涙も流さないので、あまりにも心残りがして、監司に尋ねた。「監司さん、鄭知常の詩とは大違いだから、今後は、この大同江の水もみんな乾くでしょうね」「どういう意味ですかね?」「まあ監司さん、考えてもみなさいよ。盃(さかづき)には酒に加える水があっても、人には波に加える涙がないんですから…。川の水がどうして乾かないことがあるでしょう」
監司(カムサ)-地方長官の観察使(「韓国笑話集」 李周洪)


林十江
水戸城下から太田・西山荘へ続く街道すじの額田の宿、そこの泉屋という宿屋の主人から絵を頼まれた十江だったが、離れの一室で毎日酒ばかり飲んでいて、一向に描こうとしない。イライラしながら主人が待っていると、ようやく「出来上がった」という声。行ってみると、ついたてに大虎が一頭描かれ「林長羽酔毫」という署名までしてある。が、虎には瞳(ひとみ)がなく、その理由を尋ねる主人に十江は「目玉を入れたらこの虎は逃げる」と一言残して、悠々と立ち去った。以来この虎の絵が評判になって、この宿屋は繁盛したという。(「現代に生きる鬼才の絵」 常陽芸文№38) 伊藤若冲などの流れの中にいる人なのでしょう。


地域別の味の傾向
東北 全体に軽くスリムで、透明感を感じる綺麗なタイプが多い。
関西 コクがあり濃醇で、甘辛は中庸。だしの効いた料理に合う酒が多い。
九州 濃醇で、甘味も酸もある、味のしっかりしたタイプが多い。

特徴の著しい県
甘口傾向 佐賀、長崎、大分、大阪
辛口傾向 高知、富山、東京、鳥取
濃醇傾向 佐賀、奈良、愛知、石川、島根
淡麗傾向 静岡、新潟、東京、岡山(「めざせ!日本酒の達人」 山同敦子)


前有樽酒行 二首  前に樽酒有るの行(うた) 二首  李白
其二           その二
琴奏竜門緑桐      琴(きん)は奏す竜門の緑桐(りよくとう)
玉壺美酒清若空    玉壺(ぎよくこ)美酒(びしゆ) 清きこと空(くう)の如し
催絃払柱与君飲    絃(げん)を催(うなが)し柱(ちゆう)を払って君と与(とも)に飲み
看朱成碧顔始紅    朱を看て碧(へき)と成し顔始めて紅(あか)し
胡姫貌如花       胡姫は貌(かたち)の如く
当壚笑春風       壚(ろ)に当って春風に笑う
笑春風舞蘿衣      春風に笑い蘿衣を舞わす
君今不酔欲安帰    君今酔わずして安(いず)くにか帰(き)せんと欲する
竜門は山の名。その山の桐は琴の材として最もすぐれていたという。柱はことじ。壚は土を累(かさ)ねて炉の形にし、上に酒甕をおいて酒を売るところ。
琴は竜門の琴を奏し、玉壺の美酒は清く澄んで底まですきとおって見える。琴柱(ことじ)を動かして絃をかきならし、君と酒を飲めば、朱が碧(あおみどり)に見えるまで酔って、顔も紅くなってきた。胡人の女は花のように美しい。酒場のスタンドで酒を酌みながら、春風に笑っている。春風に笑いつつ、うすものの衣をひるがえして舞っている。君よ、今ここで酔わずして、何処へ行こうとするのか。
これらの詩をよんでも長安の町の異国的な享楽がよく偲ばれるのである。(「唐詩散策」 加田誠)


夏の酒の肴
私としては、つい酒の肴ということになってしまうが、一度懐石料理で梅干しの吸い物を出され、それ以来自分でも試みている。茶碗むしなんか作る瀬戸物の小ぶりな器の中に紫蘇巻きの梅干しを入れ、鰹節でとっただし汁を少し入れて熱湯を注いで、しばらくそのままにしておく。鰹節のだしがめんどうなら、ごく少量の化学調味料でもいい。蓋をとって紫蘇をほぐして、梅干しを箸でくずして、熱いのは我慢して、少しずつ吸いながら酒を飲む。春夏秋冬を問うことなくこの吸い物はうまいが、特に夏がいい。口の中がさっぱりとして、あとの酒が活きてくる。それから心太(ところてん)の酢じょうゆがうまい。青海苔をもんだものをかける。忘るべからざるは、ねり芥子をそえることである。それから茄子のから揚げがいい。茄子は竪に二つ割りにして、細い鉄串で三ところぐらい穴をあける。これは皮のほうからぶすりとやったほうがいいらしい。串は身まで差し通して穴をあける。これをから揚げにするそのから揚げにみそをそえる。八丁みそがいいのだが、なければ赤みそでもいい。そのみそと等量ぐらいの砂糖を加える。味噌もちょっぴり加える。一度火にかける。それでできあがりである。このみそはともすれば辛くなるので、そうならないようにするのが肝心だ。摺鉢(すりばち)と擂粉木(すりこぎ)を用意してください。梅干しの核を捨てて身だけにする。これを摺鉢でよくすりつぶす。それに本山葵のすったやつを加えて、よくねる。私はこれを「ウメわさ」と称する。粉山葵では風味がないからだめだ。山葵はうんとたくさん入れる。酒の肴としては上々なるものというべきか。枝豆をゆでて、身を出して摺鉢でよくすり、塩と化学調味料を加えて、それを食べる。これはうまい。あえものをこしらえてもよいが、そのままのほうが私は好きだ。以上すべて私自身の手でつくる夏の酒の肴である。(「おやじといたしましては」 高橋義孝)


4 不死の酒
洞庭湖(どうていこ)(湖南省境)中の君山には『山海経(せんがいきよう)』によれば、帝堯(ぎよう)の令女二柱(ふたはしら)の神がましまして御名を湘夫人と申しあげるという。が一方、『荊州図譜』によると、湘君がここに遊ばれたことから、君山の名が出たのだともいう。この島からは湖水の下をうがって、一すじの道が呉(江蘇省)の包山まで通じている由。さて君山の最も高いところには数斗の美酒が秘められていて、これを手に入れて飲んだ者は、以後、死をまぬがれるという。この不死の酒を、かつて漢の武帝が、斎戒沐浴すること七日間、男女数十人を君山に派遣して、やっとのことで手に入れたことがあった。だが、帝が盃を手にしようとしたとき、東方朔(とうほうさく)が御前に進み出て、こう申しあげたのである。「やつがれは、かねてより君山の不死の酒を存じておりまする。これがまこと君山よりもたらされたものかどうか、利酒(ききざけ)を仰せつけさせてくださいませ」と、盃を受け取るなり、すかさず一息に吞みほしてしまった。帝が朔を斬ろうとすると、「私めをお斬り遊ばして、万一にも私が命を落とすようであれば、この酒はききめがないわけ。また、ききめがあるものならば、私を殺そうとされても死なぬ道理でございます」と言ったので、帝は朔をゆるしたのであった。(「幽明録・遊仙窟他」 前野邦彦等訳) 東方朔は「漢の人。文辞に長じ、武帝の侍中(じちゆう)として、滑稽の才をもって暗に帝の言動を諫めたという。」と解説されています。 酒宴 ○白酒


酒を語る
酒を作る方法も道具も、ごく簡単なものらしい。ただ、煮るときの手加減は、なかなか容易でなく、経験を積んだ職人でなければできない。普通、酒を作ろうとする家では、たいてい一人の男を雇い込む。それを俗に「酒頭工」といい、自分は酒の飲めない者が最上とされており、彼にもっぱら酒を煮る頃合を鑑定してもらうのだ。遠縁の親戚に当たる人に、私たちが「七斤公公」と呼んでいた人がいた-彼は私の母方の叔父の族叔であったが、叔父の家に日雇い職人となっていた。そこで叔母は彼を「七斤老」と呼び、ときには「老七斤」と呼んでいるのを聞いたこともある。こういった酒頭工が、毎年他家へ酒造の手伝いに行くのである。彼は刻み煙草が好きで、おどけた話をして聞かせ、よく麻雀をやったが、酒はあまり飲まなかった(海辺の人は茶碗で一、二杯やるぐらいでは飲めるうちに数えられない。市価に照らしても、ただの十文にも値しない酒だからだ)。そのため商売がたいへん繁昌して、よく、一、二百里も隔てた諸曁(しよき)や嵊(じよう)県[紹興の隣接県]あたりへまで呼ばれて行ったりしていた。彼に言わせると、それは実際まるで造作ないことで、缸のそば近く身を屈めて耳をすましていて、缸のなかで泡の立つ音がチタチタと、ちょうど蟹(かに)が泡を吹いている(子供たちはこれを「蟹が飯炊いている」と言う)ような様子の音を聞きつけると、すぐさまそれを取って煮さえすればいい。ちょっとでも早いと酒にならないし、ちょっと遅いと酸っぱくなってしまうのだという。しかし、どのへんがちょうど頃合なのか、ほかの者にはわからない。ただ熟練した耳のみがよく断定できるのであって、それはあたかも骨董家の眼が古物を鑑定するのと同様だ。(「周作人随筆」 松枝茂夫訳)  周作人は魯迅の弟です。


酒杉
大正十四年には二カ所から報告されている。その一つは新潟県魚沼郡城川村酒造家星野忠吉氏の酒蔵の脇にある二百年を越えた杉の老木が、その年の七月二十三日、突如として早朝から多量のアルコールを含む雫(しずく)が湧(わ)き出し、それが幾日もつづいたという。この木はこれが初めてではなく、十数年前にも約八合のアルコール分が出たことがあったそうだ。いわば常習の源泉樹である。酒蔵の近くに育ってきたので、長い間に酒のこぼれを吸ったのだろうという評判で、土地の小、中学校の先生、生徒をはじめ多くの見学者が引きも切らず、この家では木の周りに柵を結って見学者の整理をしたくらいだというから、よほどもの珍しがられたに違いない。ここの主人は樹液を瓶詰めにして、紀州田辺に隠棲していた世界的植物学者南方熊楠翁を訪れて、鑑定を乞うたが、この博学の南方翁も初めてであるから、米国に送って調べてもらうという約束をしてくれたが、その後のいきさつはわからない。この珍木は県の史跡名勝記念物調査会で酒杉として登録したが、おしいことに枯れてしまったそうだ。
いま一つはやはり同県中頸城郡吉川村倉茂嘉蔵氏の庭先にある杉の木である。同じ年の十一月一日ふと気がつくと、地上七尺ばかりのところに蜂が沢山集まっている。見るとなにか酒の香のする汁が出ている。試みに器をすけて見ると一夜に二合あまり出た。ふつうの酒にちょっと苦味があるていどで白く濁っていたという。前の星野家の杉は酒蔵の横だが、倉茂家の杉はなんの因縁もないところだから、木自体が生産したのに相違ない。いかにも不思議のようでもあるが、学術上考えられないことではない。(「日本の酒」 住江金之)


弘融
本文 弘文挙(こうぶんきよ)、二子(にし)有(あ)り、大(だい)なる者(もの)は六歳(ろくさい)、小(しよう)なる者(もの)は五歳(ごさい)なり。昼日(ちゆうじつ)、父(ちち)眠(ねむ)る。小(しよう)なる者(もの)、床頭(しようとう)に酒(さけ)を盗(ぬす)みて之(これ)を飲(の)む。大児(だいじ)謂(い)いて曰(い)わく、何(なに)を以(もつ)て拝(はい)せざる、と。答(こた)えて曰(い)わく、偸(ぬす)むに、那得(なん)ぞ礼(れい)を行(おこな)わんや、と。(言語篇4)
解釈 弘文挙(弘融)には、二人の子供があった。大きい方は六歳、小さい方は五歳であった。弘文挙が昼寝をしていると、小さい方が枕もとの酒を盗んで飲んだ。大きい方がこれを見て、「なぜお辞儀をして飲まないのか。」と言うと、小さい方は「盗むのに、どうしてお辞儀をする必要がありましょう。」と答えた。
背景 弘融(153~208)は、孔子二十四世(二十世とも)の子孫。学問を好んで積極的に後進を指導したので、その門には常に賓客が絶えなかったことが、『蒙求』巻下に「弘融坐満」の故事として載る。また詩文に優れ、後漢末の建安七子(けんあんしちし)の一人に数えられる。しかしながら、その才気が災いし、魏の曹操と合わず、捕らえられて処刑された。二人の子供は父弘融が捕らえられた時には九歳と八歳になっていたが、悠然と遊びに興じていたといい、弘融が使者に子供の助命を嘆願するのを聞いて、「豈(あ)に覆巣(ふくそう)の下(もと)に復(ま)た完卵(かんらん)有るを見んや(ひっくり返った巣の下に、割れない卵があるでしょうか)」といって伴に捕らえられたという(言語篇5)。(「世説新語」 目加田誠)


與夢得沽閒飲且約後期  夢得と酒を沽(か)いて間飲し、且つ後期を約す  白居易(はくきよい)
少時猶不憂生計      少時猶(な)お生計を憂えず
老後誰能惜酒銭      老後誰か能く酒銭を惜しまん
共把十千酤一斗      共に十千を把って一斗を酤(か)い
相看七十欠三年      相看て七十に三年を欠く
閒徴雅令窮経史      間(かん)に雅令を徴して経史を窮め
酔聴清吟勝管弦      酔うて清吟を聴けば管弦に勝る
更待菊黄家醞熟      更に菊黄(き)に家醞(うん)の熟するを待ちて
共君一酔一陶然      君と共に一酔して一たび陶然たらん
若い頃から家計のことなど気にしなかった私だ。老いて酒銭を惜しんだり誰がするものか。ともに一万の銭を出して一斗の酒を買い、互いに顔を見合わせればもう七十に三つ足らぬ年。のんきに楽しんで風雅な酒令に経典史書の文句を探し求め、酔って吟ずる声は管弦の音にまさる。いつかまた菊が黄に咲き、家でかもす酒が熟したら、君とともに酔って、陶然となろうじゃないか。
酒令というのは酒席でのあそび。ここは経史の文句をとり出して詩句を作ったり、謎を当てたりしたてママ遊んだのである。(「唐詩散策」 目加田誠


彦一の禁酒
年末の借金を女房が払ってくれた。彦一が毎晩十文ずつのむうちから、こっそり二文ずつ貯めておいたのである。彦一は感心した。二文ずつでこれほどたまるのなら、酒をやめたらどレだけたまるかわからない。思いきって禁酒することにした。一年たってどれほどたまったかと女房にきくと、一文もたまってない。「去年でさえ、あっだけたまってったじゃなかか。今年ゃちっとうう酒ばのまんだったけん、うんとたまっとるはずたい」というと、「ちっとんのまんだったけん、ちっとんたまらんだったばい」と女房はいった。(熊本県八代郡)(「日本の笑話」 宇井無愁)


父と母
父はよく酒を飲んだ。一人でも飲み客とも飲んだ。酔へば荒れて人にからむのが癖であつた。私たちにもしつこかつた。機嫌よく酔つてゐるときは話を聴かせてくれるにしても、浮きたつやうなおもしろさであつた。そのおもしろさが遂にをはりまで続いたことがなかつた。ひきこまれて夢中になつてゐるうちに泣かなくては納まらないやうな羽目にさせられてしまふ。だから用心をするやうな怯ぢた心になつて、子供ながらおもしろがりつゝも逃げ腰である。いくらどうしたつてだめである。終生父に酒はつきものであつたが、考へれば私も飲む父の姿をどのくらゐ見て来たことか。一生を通じてこの頃が一番荒れた酒の時代である。子供だつたからもあるが、私の父に対する恐怖は浸みついてゐる。それもその場限りの、からつとした、一気に来るものではなく、逃げて逃げて追ひつめられ、最後にがんとやられてしまふ。いはゞ道中の長い、殺気立つた恐怖であつた。父とはゝが一番凄く摩擦しあつた時代のせゐでもあらう。はゝは私の記憶の範囲では、かつて快く酒の給仕をしたことがない。しかめつ面と軽侮の色を遠慮なく見せてゐる。よくも飽きずにその都度あゝいふ顔を見せたと思ふほどである。つんとして絶対に冷淡であつた。めつたに酒の客の前へ行くこともなく、それでもさすがに人の前ではとりつくろつてゐるが、障子一枚内側には入れば憎悪といひたいほどの嘲りが出てゐた。(「みそつかす」 幸田文) 幸田露伴とその再婚の妻・八代(やよ)です。文は先妻・幾美(きみ)の子供です。

酒ねだり
酒好きの男が、道で友人に出あい、「お前の家で一ぱい飲ませろ。」という。友人、「おれの家は遠いのでね。」というと、酒好きの男、「なに、かまわぬ。いくら遠くだって、二三十里もないだろう。」友人がまた、「家はせまくてね。お客をするのに不都合だ。」というと、酒好きの男、「なに、かまわぬ。口をあけるだけの広さがあればいいよ。」友人がかさねて、「家には、徳利も盃も、酒の道具が何もないのだ。」というと、酒好きの男、「なに、かまわぬ。酒びんからじかに飲む。」(広笑府)(「中国の寓話笑話篇」 村山孚)


一五 当座作(づくり)の忍冬酒の方
一、焼酎 二升 忍冬 一両(但ほして)、いばらの花 一両(但ほして)、龍眼肉 百粒、肉桂 一両(皮を去り刻む)、右の薬を焼酎に浸し、二七日程過ぎて口を開け味醂酎を心次第さし申候。(「食菜録」 徳川斉昭 石島績編著) 徳川斉昭著ということになっている「食菜録」という本です。忍冬はスイカズラのことです。江戸時代は紀州の名産でした。1両は15g位のようです。


千鳥足
千鳥足の研究の前に普通の歩行といふことも一つの問題である。胎生学的に言ふと鳥類までは錐体外路神経系だけしかない。哺乳類以上になって錐体路神経系が出来る。人間でも歩行が出来るまでは錐体外路だけの支配しかない。歩行が出来る様になつて始めて錐体路神経系が完成される。歩行といふ様な運動は簡単で誰でも出来ぬ人はないが、その歩き始めを見、病的に錐体外路の故障のある人の歩行を見れば中々むつかしいものであることが了解される。だから鳥類では間脳支配だけで運動するが、人間などは其上位の大脳綜合中枢がある訳である。この上位中枢がアルコールで麻痺される。高度でなければ機能障害が起る。すると下位の統制調和、共同作業が困難になる。その為に自然に見る様な円滑な行動が不可能になる。併し酔つて居つても一生懸命に注意を集中すると酔どれが丸木橋を渡ることも可能である。大脳中枢が麻痺すれば歩行は出来ない。だから千鳥足は一部大脳中枢の機能不全の状態と言へる。駝鳥の様に歩行する鳥は別として、飛ぶ鳥でも、泳ぐ鳥でも歩行はあまり上手でない。特に千鳥と限定したのは如何なる理由に依るか明かでない。"鳥の川村博士に一度聞いてやらうと思つてまだ聞かずに居る"千鳥が歩いて居るのを見ても別に蹣跚蹌踉として居る様にも思はない。尚千鳥足の状態にあらしむる為にはアルコール中毒には限らない。一酸化中毒でも起る。もつと外の毒物でも惹起せしめ得ると思ふ。(「余白ある人生」 松尾巌)


7回入院(2)
さて、以上は私の入院歴であるが、入院してしまえば世間様にも、家内の者にも迷惑をあまりかけないことになる。問題は、入院していない時のアル中症状である。私の場合は暴酒するので、慢性でなく急性の症状を呈するのであるが、これが実に自他ともに、最大の苦しみを与えられる。自分が飲んで自分が苦しむのだから、これは一向に同情の余地がない。だだ(ママ)、同じアル中の仲間が多分分ってくれるくらいのものだ。とにかくそれは地獄の苦しみだというより他ない。全く自殺したくなるのである。現に私は、細い帯をとって、軒の横木に回して下げ、首をもって行ったことがある。その時、縁側からちょいと足を外せば、私はもう四十歳台でオサラバで、こんな原稿なんか書かなかったであろう。が、その時、子供のこと、妻のことを思って、とにかくもう一杯飲んでからだと、よろめきながら蒲団に戻って、ぶっ倒れてから酒を呼んだ。すると実に現金に苦しみがゆるやかになるのである。これがいけないのだ。一杯やれば、とにかくほんの一時でもしのげるということ、これがあるため、世のアル中連中は、いつまでも酒がやめられないのである。(「あなたも酒がやめられる」 徳川夢声)


中条流産科全書
「中条流産科全書」を繙くと-腹さし出し孕みたる者安産也。背へついて孕む者は必ず難多し。か様の者には惣じて呑ませよ。女の気太くなれば産は安きもの也。又身を大事に思ひ、身をつめ気を労するにより難産すること、是等には酒を進めよ-と、論じてある。この書を読んで私の老妻嘆じて曰く「わたくしも、若くて盛んに孕むころ、あなたと同じに夜毎にがぶがぶと、呷りつければ安産したものを」と。もう間に合ひません。(「垢石傑作選集 綺談篇」)


朝の酒合戦
翌早朝三時起床、いよ/\蔵男が活躍する醸造作業見物である。わし等が起きたときには、もう三十石も入らうといふ大きな蒸しがまに、醸造米が湯気を立てゝ蒸してある。それから、麹菌の振りまき、室収め、酒母造り、もろみ造りなどいろ/\。いふことはあまり手が混み、段取が多いのでわれわれ素人には、さっぱりわけがわからないのである。最後に蔵から出るとき、舟(圧搾箱)の口から、清酒が泉の如くちょろ/\と流れだしてゐる。それを一口、小杯にうけてのんでみた。これはまたあまりに濃い酒の泉で、索然としてかえって味がわからない。見物が終って朝の宴席へつくとそこで酒合戦がはじまった。朱塗の大杯が五、六個並べられた。わしはいきなり二升入を手にうけた。玉川一郎は一升五合入、麻生豊は一升入、敵である古沢徳治翁は二升入。いずれもさかずきの縁の辺まで波々と注がれた。わしも玉川も、きれいに乾した。ところが古沢翁は乾しきれないで、たじろいだ形である『もはやいけぬ』といって右の掌を横に振った。昨夕のそばのかたきをうったわけだ。(「鯰のあくび」 佐藤垢石) 山形県寒河江にある古沢徳治の古沢酒造への見学譚だそうです。


善酔
この眠りというのも、酒にわれを忘れる一種にちがいないが、眠らないで、起きていろいろな行動をしながら、われを忘れるのが真の酔態であろう。酒を呑むからには、いつ、どうして家に帰ったのか、わからないようなのが理想的だと、そういう粋人を羨ましく思っていたが、つい近頃、わたし自身、そういう経験をして、大いに満足であった。いつの間にか友人と二人きりになって、ある家へ行って酔態をさらしたのだが、そこまでは半分ぐらい覚えているけれども、どうして車に乗ったのか、いつ家に帰ったのか、全く覚えていない。それでも無事に自宅へ着いているから妙なものである。あとで聞くと、友人に大変手数をかけたらしい。こうなるともう大ドキドキも意識しない。近頃にない善酔であった。(『酒』昭和三十一年十一月号)(「わが夢と真実」 江戸川乱歩)


命名の依頼(2)
その後も、一回、命名を頼まれ、どうやら、それが私の職業のようになった。当時は、仕事もなく、その上、追放におびえる心境だったので、赤ン坊の名をつけて、タダ酒にありつけるのは、身分相応と思われた。昔、堀部安兵衛が浪人時代に、知らぬ人の葬式に出かけ、ふるまい酒を飲んで、トムライ安といわれた時分の気持ちは、こうもあろうかと、同感された。あの町には、私が名をつけた四人の子供が、もうそろそろ中学へ行く年ごろになっているだろう。皆、タダ酒にありつくために、名をつけた子供だが、それでも、名をつける時には、私の小説の人物の名を考える時と同様の苦心を払った。それだけに、良心に恥じない。(「飲み・食い・書く」 獅子文六)


七回入院
病気といっても、ここに記すことは、酒に関連した病気のことばかりであるが、私は酒のため今日までに七回入院している。第一回は、大正十三年の夏、飲みすぎのため腎臓炎と糖尿病を併発して、東大の稲田内科に二週間ほど厄介になった。第二回は、昭和七年ごろ、酒とウィスキーの肴に、アダリンやカルモチンを用い、ある晩のこと、アダリン二瓶、ヂアール二瓶、ベロナール一瓶(合計六十錠)、それにアスピリン十数錠を次々に呑みこんで、とうとう大森の安田病院に昏睡のまま担ぎこまれた。第三回は、昭和九年九月、妻に死なれてから食事を一切とらず、ウィスキーと酒を飲み続けて、大量の吐血をし、危篤状態におち入って赤十字病院に入院した。胃潰瘍であった。看護婦が二人つききりという重体だったが、アルコールを断つと忽ち健康を回復し、一ヵ月で退院した。第四回は昭和十年ごろ、酒と睡眠剤の飲みすぎで暴れ、姐やと門弟に縛りつけられ、近所のキリスト病院に入れられた。ここは一週間ほどで退院。第五回は、昭和十二年五月、ロンドンでウィスキーを飲みすぎ、軍艦で洗面器に八分目くらい、真赤なものを吐き、これまた危篤というので軍艦の病室に入れられ、一ヵ月ほどで回復した。もう少しで胃袋をチョン切られるところであった。第六回は、昭和十七年十一月、シンガポールで、悪い日本酒(熱帯だから防腐剤が多量使用されていた)に、オーストラリア産のウィスキーを飲みすぎて、またまた胃潰瘍になり、陸軍病院に入院した。丸い赤印がベッドにブラ下げられた担送患者だ。第七回は、昭和二十六年七月、京都で日本酒とウィスキーを飲みすぎ、黒い血便(タール便)が出て、築地の癌研究病院に入院、田崎博士診断の結果、十二指腸潰瘍と分る。NHKの連続放送が始まったばかりなので、二週間ほどで退院、手術は次の機会にのばしてもらった。(「あなたも酒がやめられる」 徳川夢声)



後楽園
武州小石川の御屋形の後楽園と号し給ふは、御父頼房公の御代に、大樹公(徳川家康)、度度此亭へ、御駕をよせられ候に付、御饗しの為に作らせ給ふ御園也、其地広うして、さま/\の御物すきあり、年をふるにしたがつて、木立繁り、いはほ苔むし、誠に深山幽谷のことくに見え、御池には、水鳥ども自然と住なり、巣をむすび子を生し、花を見すつるならひも忘れて、四時ともにすむ鳥多し、かゝる絶勝なるうへに、西山公(徳川光圀)古きをすて給はず、すべて唐めきたる事ともなり、園の入口には、から様に門を立、後楽園の三字を明(ミン)の(朱)舜水にかゝしめて額にかけさせ給ふ、西山公もとより寛仁の御度量ゆゑ衆人と楽を同うし給ふべきこゝろにや、賤しき者にても、御園一見を望み候へば、誰となく御見せ候故酒肴を携へ来り、御園に遊び申者、年々春夏秋冬にわたりてたえず、誠に此御園を始て見申候者どもは、別世界の思ひをなさずといふ事なし、されば御園を後楽園と号し給ふゆえんは、楽は天下におくれてたのしむの御心なり、(「桃源遺事」)


女房が
中谷宇吉郎博士は北大教授であるけれども、東京にいる時間の方が多いなどと人にいわれていたが、今はそうではない。戦後のことである。或る夜、澁澤敬三氏と三人で飲んでいた。どんな話をしていたかは記憶にないが、そのうちに気がついたのは、中谷教授がふたことめには「女房が」ということであった。そこで澁澤氏と私とは女房という言葉を禁句とし、もしそれを出したら千円の罰金にしようと提案した。中谷教授はおろかにもそれに応じてたちまち七千円の罰金を出した。その金をもって三人は新橋近くのバアへくりこんだ。そこでまた教授は「女房」をいい、残っていた二千円も提出しなければならなかった。もう財布には文無しだと見極めたときに、私たちは女房という禁句を解除した。中谷教授はやけくそになって「女房、女房」と三十ぺんくらい連呼した。中谷教授は酔えば「女房」をいうが、また、酒をのんで絵を描く楽しみを知らぬやつは可哀相なやつだという。私も同感である。 (「遠いあし音」 小林勇)


弱きもの、汝の名は人間
◆弱きもの、汝の名は人間、よくぞ発見せり、酒のみが汝以上と錯覚せしめ、これまで生きながらえさせてくれたのだ。酒なければ、二千数百年前の宗教時代、人類は、必当然、無比無情の正当性と思いに思いつめて、自己滅亡を必ずや敢行、実行したであろう。(埴谷雄高『螺旋と蒼穹』)(「ほめことばの事典」 榛谷泰明)


第五 酒
陣中に酒を用ゆる事は或る場合に必要もありますが、しかし酒を飲み過ぎると必ず身体(からだ)を害します。殊(こと)に冬の寒い時に酒を飲むのは非常の害があるので一時は寒気を凌(しの)ぐようでもその跡(あと)が一層寒気を感じて凍(こご)えたり病気を起したりします。食道楽の本文にもある通り酒でも食物でも程(ほど)と加減(かげん)を忘れてはなりません。(「食道楽」付録(戦地の食物衛生) 村井弦斎)


イオノコ
鮭の腹子、「魚」偏に「面」と書いてハララゴと読むが(料理の方ではイクラという)、私の郷里ではヨオノコと呼んだ。ヨオノコハイオノコ(イオは魚の古称)で、そう呼ぶのは、鮭がここでは代表的な魚だったからだろう。イクラの製法は百科辞典や食品辞典にたいてい出ているが、そこをに書いてあるように、網でこして粒々を分けるようなことは郷里ではやらなかった。それは家庭で作るためだろう。まず、ていねいに水洗いしながら、卵巣の袋を取り去り、粒々の卵を得る。水洗いの間に卵は白色になる。これを塩水に漬けると濃い紅色を発してあの宝石の粒になるのである。こうして陶器の壺などに保存されたイオノコは、正月のお雑煮にかけたり、他の食物に載せたりして用いられる。その時は、さっとゆでるので、ゆでたイオノコは乳白色の粒になり、その一か所に、ちょうど、眼球における黒目の部分のように、半透明な赤いところが出来る。歯でぷつんと噛み破ると、口中にとろりと半流動の実汁がひろがる。子供はこれが好きでたまらず、母にせがんでは、幾さじも雑煮の上にのせてもらう。塩漬けのままのハララゴを大根おろしで食べる方法は、もちろんあるのだが、子供には縁のないことだった。あまり強くないくせに酒好きな父が、ハララゴを一粒ずつハシで口へ運んで、舌でゆっくりつぶし、その口へ盃を持ってゆくのを、見守っていた記憶が私にある。(「鮭の小包み」 宮柊二 「日本の名随筆26 肴」 池波正太郎編)


酒のない社会
「どんな社会でも酒はある。酒のない社会は存在しない」という人がいるが、これは酒飲みの論理である。じつは世界には酒のない社会がいくつもあり、ニューギニア地域はその典型的な例である。パプアニューギニアでは、酒は基本的にはヨーロッパ人が持ち込んだ。ヨーロッパ人たちが自分たちが飲むために酒を持ち込み、それが現地住民のあいだにも広まったのである。ビールの他にもウイスキーなど強い酒もあるのだが、ビールがもっとも一般的である。おそらくは暑い気候のため、のどの渇きを癒すという意味でのビールがのむのに適しているし、他のものと混ぜる必要がないのも、普及した原因の一つであろう。もともと伝統的に酒はなかったので、その当然の結果として「酒を味わって楽しむ」という習慣がない。「酒を飲みながら、コミュニケーションを交わす」という文化もない。ここでの酒は「ひたすら酔うために飲む」という性格が強い。そこで問題になるのは、アルコールへの忍耐の個人差である。ビールの容器は、三五〇ミリリットル程度のビンか缶である。それを一本、飲むか飲まないうちに酔って吐き出す人もいる。かと思うと、アルコールに慣れて徹底的に飲む人もいる。三五〇ミリリットル入りのビンや缶を一時に、ひとりで一カートン、つまり二四本も飲みほしてしまうような人が現れる。じつはパプアニューギニアでは、都市を離れると冷蔵庫の普及はきわめて低く、冷たいビールを飲むことは期待できない。そんな地方では、われわれには「生ぬるくておいしくない」と思うようなビールしか飲めないのだが、それでもひたすら飲んで酔っぱらうのである。そしていうまでもなく、ビールを飲もうとすれば、金を払って購入しなければならない。そこで、給料が手に入ると、すぐにビールを買いに走るという現象が現れる。パプアニューギニアでは、二週間に一度の割合で給料が支払われる。オーストラリアに倣ったこの制度は「フォートナイト」と呼ばれていて、給料日は金曜日である。だから金曜日の午後は、どこの酒屋も大忙しになる。こうして酒宴が始まる。そして、複数の人が酒を飲んでいると、しばしばケンカが起こる。なかでも、高地の人は気性が激しいとされ、よけいケンカが起こりやすいという。そのため、高地では給料日には酒を売らないという規則をもうけた地域がある。また、多くの地域で、ホテルや専門の酒屋以外では酒を売らないという規則を定めている。(「ビンロウがなくなると暴動が起こる?-酒のなかったパプアニューギニアの今日」 豊田由貴夫 「嗜好品の文化人類学」 高田公理・栗田靖之・CDI)


酒をおしむ
あるけちな金持ち、お客をまねいたがそっと僕(しもべ)にいいつけ、「酒をあまりむだにするなよ。わしがテーブルをたたいたら、もってくるのだ。」これを耳にはさんでしまったひとりの客、席についてから、わざと主人にたずね、「ご母堂は、おいくつになられましたかな。」「はい、七十三歳になりますよ。」客はテーブルをたたいて、「それはそれは!」僕、音をきき、いそいで酒をもってくる。しばらくして、客はまた、「ご尊父は、おいくつで。」「はい、八十四歳になりますよ。」客はテーブルをたたいて、「なんとなんと!」僕、音をきき、また酒をもってくる。主人、それと気づいて腹を立て、「七十三だろうと、八十四だろうと、それだけ飲めばもういいでしょうが…。」(広笑府)(「中国の寓話笑話篇」 村山孚)


酒場と南京玉
おのれてふ男はついに酒をのむことを知りしがさびしさはます
冷えまさる秋の夜更けに酒のめば懐さむくなりにける哉
銀色の尻振時計(しりふりとけい)しりふるをみつつに酒をのめばさびしも
酒肆(さかみせ)の女のつなぐ青赤の南京玉はよくひかるかも
青赤の南京玉を灯(ひ)のもとにひとつひとつにつなぐ淋しさ
さやさやと秋の葉ずれの音たてて南京玉のよくころぶかも
栗色の丸テーブルに酒代(さかしろ)の銀貨ををけばころげたるかも(「短歌集」 小熊秀雄)


一四 山もも酒の方
一、 古酒諸白二年酒 八升
   山もゝ        一斗(但少しも古きは悪しく候、少し前方なるは、能々(よくよく)自然水にて洗ひ候へば水気無き様に日に干し申候)
   白砂糖       二升
   塩          一合(但少し控目に仕候)
右一つに致し壺へ入れ、板にて蓋を仕り口を能く張り、地に埋め、蓋の上に土一寸余り有程に埋め、其上にてわら二三束程焼き申候、其火のひとり(独)き(消)へ候程置き、其後蓋を掘り、涼しき所に置き申候、三七日過ぎ、酒を能く濾し、山もゝを布にて、漆(うるし)を濾し候様に搾り候て、糟を捨て申候、右の酒、来年迄も損(そこ)ね不申(もうさず)候。(「水戸烈公の医政と厚生運動」 石島績) 徳川斉昭著とされる「食菜録」です。


山田錦(やまだにしき)
酒造の王様と呼ばれる品種。しっかりとしたコクと複雑味があって、バランスもとれた気品が漂う酒になると言われています。飲んだあとの余韻は長く、熟成にも向くとされています。春先に出荷される搾りたての酒は、味の要素がバラバラでまとまりがなく、荒くなりがち。でも山田錦で造ったお酒は、若いうちからバランスが取れて、熟成させればさらに深みが醸し出されると言われます。造り手にとっては、特別なことをしなくても良い酒になり、多少の失敗をしても最終的には修復できることから、"造りやすい"品種と言われます。言わば酒米の優等生。純米大吟醸などトップクラスの酒や、純米吟醸、純米など上等な酒に使われることが多い米です。(「めざせ! 日本酒の達人」 山同敦子)


羊皮の革袋から毮り取った毛
-曽て、哲人アビュレの故郷なるマドーラの町に、一人の魔法をよく使う女が住んでいた。彼女は自分が男に想いを懸けた時には、その男の髪の毛を或る草と一緒に、何か呪文を唱えながら、三脚台の上で焼くことに依って、どんな男をでも、自分の寝床に誘い込むことが出来た。ところが、或る日のこと、彼女は一人の若者を見初めたので、その魔法を用いたのだが、下婢に欺かれて、若者の髪の毛のつもりで、実は居酒屋の店先にあった羊皮の革袋から毮(むし)り取った毛を燃してしまった。すると、夜半に及んで、酒の溢れている革袋が街を横切って、魔女の家の扉口迄飛んで来たと云うことである。 頃日読みさしのアナトール・フランスの小説の中にこんな話が出ていた。(「アンドロギュノスの裔」  渡辺温)


岩見重太郎
昔の豪傑で酒でしくじったのは岩見重太郎だという。狒々(ひひ)退治をしたり、山賊をやっつけたり、天の橋立で仇討ちしたり、武勇伝の第一人者であるが、後に大坂籠城の時には薄田隼人(すすきだはやと)と名乗り、一方の将として勇名を馳せたものである。博労が淵の陣を守備していた時、要害をたのんで陣を離れ遊女屋にいつづけをしていたところ、留守の間に蜂須賀勢に攻め落とされたのは酒の罪か女の罪か知るところでない。(「日本の酒」 住江金之)


ビーズ玉
疑い深いカウボーイは、ボトルを振ってみて「ビーズ玉」、つまり表面に出来る泡を確かめようとした。熟練すればこれで酒の強さがわかるとされていたのだが、弱い酒でも石鹸を使ってにせのビーズ玉を浮かすことができた。お客は「脂の沈む酒」をくれ、ともいったが、これは弱い酒では脂が浮かび、アルコール度が強ければ沈むといういい伝えがあったからである。かれらは酒に「洗礼する」、つまり水を加えるのを嫌い、ストレートで口のなかに放りこんだ。ある英国人が、トゥームストンのクリスタル・パレスで、気が急(せ)くあまりうっかりさんしょう酒一パイントに水を少々割ってくれと注文したところ、あわれにも拳銃を突きつけられて、生(き)で飲むかそれとも「頭の真中に穴をあけてそこから流し込んでやろうか!」とおどかされた。(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳)


俺(おれ)はにせものを見ていることが退屈(たいくつ)なんだ。だから酔いたいのだ。酔いだけは偽(いつわ)りないからな。
*梅崎春生『蜆』(昭和二十二年) にせものに満ちている現実のなかでは、真実は酒の酔いにしかない。(「日本名言名句の辞典」 尚学図書辞書編集部・言語研究所)



今年は豊年だに、ちと酒をつくつてのまふ。貴様、米を出しやれ。おれは水を出さふ 友だち 水は有物(ありもの)、米は買はねばならぬ 其かはりに、出来た時上水(うはみづ)ばらり取て、跡はきさまにやらう。(「うぐいす笛」 太田蜀山人) 造り酒屋


方言の酒色々(40)
酒を飲むさま つーりつーり
酒をよく飲む人 のみくち/のみてこ/ひだりあげ
酒を一日に何度も飲むこと いらじょーこ
酒を造る職人たちの二番目の地位の者 じょーだいがろー
酒を飲ませる店 ひきざかや(日本方言大辞典 小学館)

注・横書きなので、<またまた>といった畳語後半の繰り返し記号(く:くの字点)の表記ができませんので、/\で記しています。
 ・機種(環境)依存文字等は、?になってしまいますので、多くは「上:夭、下:口  の」のような表記にしています。
 ・旧字体の漢字は大体新字体にかえてあります。また、ふりがなは、かっこ書きにしています。
 ・ふりがなは適当に増減しています。
 ・資料のもつ歴史的意味を思いつつご覧になって下さい。