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御 酒 の 話 35



蜂の喧嘩  友呼びて  ○八月二十三日 晴。  八月二十三日 木 十五夜  父も、父の父も  八月二十日 晴。  三徳  いい酒が安くて  女房思い  地方酒造業地の台頭  盃托銘 橋爪寛平の求に応ず  痔になるのはいやだ  近頃は相当飲む  居酒屋  シャンパンを一びん  文政三年 町内居酒屋の禁止  帰宅して、まず一献  三遊亭金馬(さんゆうてい・きんば)  田螺になった「米んぶぐ」  さらに数日の流連  キラー酵母  父の名代  方言の酒色々(33)  酔っぱらい運転  すぐ寝つくための処方  杯を返す  よい酒はよくなついたペット同様  奈良酒屋  日曜日  夏之部  ときより【時頼】  いいとこ、五、六杯  殿上の淵酔  錫の徳利  酒を届けて来た  面倒くさかった  六十歳からの酒飲み  三日月や つゐいり酒によいの程  夏之部  冷奴  書を読むは酒を飲むが如し  下学集(2)  七卿落  酒造従業員心得  みみっちくなった私の酒  ルバイ第八  醒めた呑兵衛・笑福亭松鶴(六代目)  居酒屋  納豆とイカ  トウガラシ  むかえ酒  親子酒場  金粉を飲んでしまう  四斗八升  旨いあいだだけたっぷり呑む  アセトアルデヒドの血管拡張作用  人前で泥酔したのは二度だけ  ◆今日はあたり一面きらきらしている!  新代議士の職業別一覧表  学校からの帰りがけ  自分の酒を飲んで礼を言う  立ちながら飲み  酒場は浴場  モデル料  一度アル中になりかかった  酒器愛すべし  日本酒という名称  過格魯児化鉄液(2)  アルコール不堪症  酔いざめ日記  酒飲めバ-芭蕉の一句  過格魯児化鉄液  酒の喧嘩  モンドセレクション  酔いを操る  ミュンヘン  ガクンと一段、酔いが来る  ばくち打ちとどさ廻りの剣術遣い  清正公酒屋  虚栄心  晩酌は欠かしたことがなかった  関羽と華陀  泥酔の中にあってだけ  カロリーの不足は酒で補うことができる  献立とは  こいつらよく飲むな  サラ川(23)  六兵衛  呉春  梅蘭芳に  翌日もくる。翌々日もくる。  家から刀を盗んできて売つて酒をのんだ  オレの焼酎(とうちゆう)!  対面三重で盃事  金太郎飴がまた出る父の酒  頭の中で猛烈にしゃべる癖    酒に交われば(2)  無理に瘠せたファッション・モデル  「良き贈り物」である強い酒類  胎児性アルコール症候群  ナバホの居留地の向う側  お盃を嘗める  489 王勣郷霞縈浪脆  六月三十日 月 十二夜  下品といわれるくらいの方がうまいんじゃないか  芥川と大鵬  酒席の接待について  飲中八仙歌(8)  口まめ  チビリチビリやりながら、相の手に箸を伸ばす  車夫を門柱に縛す  飲中八仙歌(7)  のまで死んだる義朝もあり  「お姉さん」の思想  六月二十四日 火 六夜  越の寒梅  飲中八仙歌(6)  止むるが張合に成る上戸の癖  二日酔  地方酒流入阻止の運動  居酒屋立身出世物語(2)  飲中八仙歌(5)  勝と亀文字といへるうたひめと  二十二 酒(3)  青い酒場  飲中八仙歌(4)  おそかったな  二十二 酒(2)  一龍斎貞丈(いちりゅうさい・ていじょう)  飲中八仙歌(3)  金になった坊様  ヤップ島のヤシ酒  嫁する日の心得 その七  泡なし酵母の分離  「丸と角」「赤と黒」「悪魔のぶつぎり」  飲中八仙歌 杜甫(2)  方言の酒色々(32)  小半ら酒一升  〽日曜大工に 一本つけて  37.酒に真実あり外  飲中八仙歌 杜甫(1)  どうじ【童子】  二十二 酒  だいぶん量が稼げます  〇濁醪  酒の力より理性と意思で(2)  賜酒  酒を愛するコツ  日本酒を使った伝統的な調理法(4)  上酒の基礎的条件  六月六日 金 十八夜  さかづきのわれてぞいづる雲の上  居酒屋にて  無限軌道風継続  六月三日 火 十五夜  前田利常  盞色々  松尾多勢子の婚家  食べる酒  多いときで一晩に五ヵ所くらい  ルバイ第七  日本酒を使った伝統的な調理法(3)  合成酒とネコイラズ  文憲先生加倉井君墓碑銘并序  利き酒では日本第一号の女性委員  日本酒を使った伝統的な調理法(2)  夕方戻ってくると  頼みはウィスキーだけ  婚儀  物凄い淋しさが在り、それを一周でも満たす方法  日本酒を使った伝統的な調理法  滋養の酒だけでも  ◆宋江は立ちあがり  泉山問題について  救民妙薬  静かに吟味しながら愛用  酔中酔余  七不堪    セイタカアワダチソウ  血統としては愛酒家の筋  いつも誰かと喧嘩  本を十部と、鴨一羽、酒二升  座敷わらし  某月某日  晩酌の習慣はない  説諭か強制か  不覚にも別れた人と酒に酔う  結婚式  酒にまじわれば(2)  なにをもって酩酊とするか  NN型、ND型、DD型  5月13日(旧暦)  この四つのもの  酒にまじわれば  「殺して飲む」  邑隣建徳非行歩  徳利ちがい  落ち着くまで  何も記憶が無い  真木和泉南洲に鉄拳を加う  酔起亭天の広丸の酒歌  お酒好って手に負えない  神さまの舌●北杜夫  一石一斗一升七合入りの朱塗の大杯  酒という気まぐれものにだまされて  聖者の酒  酒好縁半生(2)  酒乱のキング・オブ・キングス  青春の相当する期間  ふだん著の女美し玉子酒  酒のたしなみ  かたはらいたきもの  酒好縁半生  応仁文明の大乱  私の三分の理  賀三升初工藤  日本は酒を嗜む人のための天国  神々の酒盛  飯塚酒場(2)  ウィスキーのありか  私の酒  島田省吾(しまだ・しょうご)  瘤取り爺さま  飯塚酒場  八歳の教育  飲まないだけである  舌を洗うために  クソ蓋  春之部  蜂竜の盃    方言の酒色々(31)  酒飲みの資格  焼け跡で呑むヤケ酒が病みつきに  食酒は貧乏の花盛り  酒かバクチか  56.おはよう、酒よ、さようなら、理性よ  酒は食うために飲むのだ  でんがく【田楽】  樽干し場  よ・う[酔う](自動)  三増酒の製造はできなくなった  その期間は療養期間  飲み友達  ちょい呑み  今後、妓楼や旗亭に上ることをやめ  武烈天皇のこと  ルバイ第六  下学集  伊賀の忍者"飛び加藤"物語




蜂の喧嘩
徳川夢声さんがなくなられたのは、夏の暑い頃だった。もうまる三年経ってしまった。そのあとすぐ追悼の座談会がNHKのラジオであって、わたしは東京を離れていて聞いた。サトウ・ハチローさんが言った。話の泉かなにかの番組で、夢声さんが酔ってやって来て寝てしまって、仕方なしにほかの者だけで進行していたときに、「さしつさされつ」という題が出た。皆あれやこれやと言い合っていたら、突然目を覚ました夢声さんが、 -なに、さしつさされつ? 蜂の喧嘩。 と言って、またそのまま寝てしまったという。ハチローさんはそれを紹介して、あらためて感嘆していた。こういうのは諺として、今までにもたくさんある。しかし、多くは誰が言い出したともなく、作者不明、読み人知らずで伝わっていく。しかし、「蜂の喧嘩、で、さしつさされつ」というのは、夢声さんの名作の一つとして残るだろう。(「路地に横丁に曲り角」 池田弥三郎) 


友呼びて ともに酌まな むすべもなき 里にさびしく 一人して飲む
はんなりと 匂ふ春酒 花冷えに 障子に灯し ひとり酌むかな
 四十歳より酒を始めて健康を回復せしかば
酒によりて 得がたきを得し いのちなれば 酒にささげむと 思い切りぬる
一人して 酌むもたのしと いふわれを 妻はほほゑみて わき見こそすれ
まよなかの さけ知りそめて これの世に 生くるよろこび ひとつふえぬる
うまさけは どこで飲んでも うまけれど 山のわがやに しくものぞなき(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎) 


○(昭和十五年)八月二十三日 晴。
早すぎる早起き、そしてこの山麓のかはたれのよさはどうだ。やがて出かける、無水居でうまい酒をよばれる、それからがいけなかった、だん/\と酒をさがして-酔っぱらって和尚さんから少々借りて道後へ-更に一杯、おでんやでまた更に一杯、二杯、三杯-泥酔して路傍に倒れている所を運よく通りかかったお隣の奥さんに連れて帰っていただいた、いけない、恥ずかしい限りである、-私自身は、はっきり覚えては居ない-なおわるいじゃないか。馬鹿野郎!先夜は交番の厄介になって、これも運よく通り合した一洵老に連れて帰ってもらった所ではないか、阿呆め、年寄りは年寄りらしく振舞うたら如何だ、戦時ではないか、しっかりしろよ山頭火、自信のない生活は駄目だ、自分に自信が持てない人間はみじめだ、そしてそういう私ではないかよ!
八月二十四日 晴-曇り、午後小夕立。
昨夜の醜態を考えると、たまらない気持である、酒びんを傾けてぐい飲みをする、その元気で隣へお伺いしてお礼を申上げる、句集を差上げて、少しおしゃべりする。一洵老来庵、昨夜の酔態狂態を告白する、多少気持ちがよくなった、やれ/\という感じである、一洵大きいふところから澄太老の近著を出して、一度拝んで机の上に置いた、題して「日本の味」、それは澄太の味である、どんこ和尚の落ちついた甘味である、しんみり味った。夜、無水君来庵、「俳句研究」九月号を貸してあげる。
○人ごとに何か一つの癖はある-私のは酒癖だ、酒を味うならそれで宜しいのだが。-
○草は生えるがままに生えさして置け、虫の宿もよいではないか。(「一草庵日記」 種田山頭火) 


八月二十三日 木 十五夜
昨日のあらしは夜十時半頃漸くやんだのでそれから遅い晩飯を食べた。食べ終わった頃又吹き始めそれでは今静かだつたのは颱風の中心が通つたのかと気がついた。それ迄よりもつとひどくなり大荒れに荒れて午前零時頃が絶頂であつたかと思はれる。一時頃には少しをさまつたが小屋が横倒しにならぬかと心配した。一時半頃寝た。風は夜中にをさまつたが朝五時頃は未だ雨が降つてゐた。七時頃から霽(は)れる。薪がぬれてこひが火を起こすのが中中手間がかかる。朝飯は午まへ近くになつた。そこへ中村来、今日はお酒一升、白米一升余り、鶏卵五顆を持つて来てくれた。実にお礼の云ひ様の無い始末也。先日来弱つてゐるところにてお酒一升は元気を取り戻してくれる事なる可し。その外に刻み莨一袋も貰つた。先日来途切れてゐたところにてこれ亦難有し。午後出社す。一昨日受けておいた社用あり。帰る迄にすませた。夕大橋を同道して帰る。大橋は布佐から買つて来たらつきようとたうもろこしを持つてきてくれた。上がり口にてコツプの冷酒にて今日のお酒を大橋に供す。一升あれどもいつもの様な一献はせぬつもりなり。大橋帰りたる後の晩飯のお膳にて暫らく振りの晩酌をしたが三本か四本飲み好い心持になつた。一升が既に半分以上なし。(「百鬼園戦後日記」 内田百閒) 昭和20年 


父も、父の父も
もし、「酒歴」-飲酒の履歴-という語があるとすれば、わたしのそれは、その第一頁を、こう書かねばならないだろう。 昭和四年八月某日、父に連れられて、歌舞伎座に「唐人の吉」と「弥次喜多」とを見る。食事の時、はじめてビールをコップに二杯ほど飲む。 父はいわば大酒家でもあり、また愛酒家でもあったが、父の父は、やはり大酒家で、そのために早く世を去ったので、父のからだを心配して、祖母や母が、監視の目を光らせていたので、長らく父は、うちでは堂々とは飲めなかったらしい。わたしたちを、よくあちらこちらのレストランなどへつれて行ってくれたが、そこで楽しそうに父は飲んで、そして必ず最後には「平野水」を飲んでいた。サイダーと違って、あじもなにもないただの炭酸水などを、好んで飲む理由はわたしたち子どもにはわからなかったが、つまりは、酒のにおいを消していたわけだったのだろう。(「酒、男、また女の話」 池田弥三郎) 


○(昭和十五年)八月二十日 晴。
空が何ともいえない美しい朝であった。
○孤貧に撤せよ、それが私に残されたる唯一の道である。
○即景、即時、即物、即心である、あらねばならない。
○句作が心がまえとして
貧着の心を去れ。
心身一如たれ。
すなおであれ、強く強く、細く細く。…
○昨日は昨日の風が吹いた、今日は今日の風が吹く、明日は明日の風が吹こうではないか、今日の今を生きよ、正しく生きぬけよ。
○「青原白家酒。三盃喫了。猶道未沾唇」-無門関第十則 清税孤貧頌-
-来た来た、来ました来ました、Sさん有りがとう、あなたの友情が骨身に滲みます、-早速街へ局へそして方々へ-払えるだけ払い、買えるだけ買った、-払いたいだけは払えない、買いたいだけは買えない-のが、それがよいのであろう。
理髪、入浴、散歩-あゝさっぱりとした。
酒はうまい、うまいですなあ、-焼酎はいけませんぞ、一応帰宅した、それから無水居へ、店頭で快談更に和蕾店へ、更に更にどんぐり庵へ-夕食をよばれたりして、しゃべりすぎた。(「一草庵日記」 種田山頭火) 


三徳
権『ハゝア、白馬(しろうま)と申(もう)しますると…』良『神代酒(じんだいしゆ)、諸白(もろはく)じゃ』権『ハゝア、酒でござるか』良『さればじゃ』権『山門(さんもん)の入口(いりぐち)に、葷酒山門(くんしゆさんもん)に入(い)るを許(ゆる)さずと…』良『アハゝゝゝゝあんな堅苦(かたくる)しいものは、我(わ)れ我(わ)れ名僧知識(めいそうちしき)になれば、一向(こう)かまわぬのじゃ、さあ遠慮(えんりよ)なく、これは一口(ひとくち)に三徳(とく)ともいう、酔(よ)うて腹(はら)がくちくなって、温(あたた)まるというので、三徳(とく)と申(もう)すのじゃ。どうじゃ飲(や)るかな』(「講談全集 笹野権三郎」) 


いい酒が安(やす)くて幾(いく)らでも手に入(はい)り、貧乏人(びんぼうにん)でも酒だけは上等なのを飲むということであって始めて酒飲みという人種が出来(でき)るのである。
*吉田健一『舌鼓ところどころ』(昭和三十三年)
平素(へいそ)は渋(しぶ)いけれど酒が入(はい)ると甘(あま)くなるというので、秋水(しゆうすい)先生に奉った渾名(あだな)が「渋柿(しぶがき)」!
*荒畑寒村『寒村自伝』(昭和三十五年) 婦人運動家たちが社会主義者幸徳秋水につけたあだ名。「実に名評」と寒村は言っている。 


女房思い
話の途中で深沢(七郎)さんは、「このへんに花屋はなかったかな」と言った。それだけで意味が通じたのだろう。いつのまに抜けだしたのか女主人がフリージアとカーネーションとアスパラガスの花束を買ってきた。私は変なことを思いだした。去年の秋にも深沢さんは奥さんの誕生日だと言って早く帰ったことがあったのだ。「そうなんだ、それが本当の誕生日で、あと毎月女房の生まれた日の十九日には早く帰る約束になっているんだよ」「そうすると、祥月(しようつき)じゃないわけだ。」「うん、祥月命日じゃないよ、今日は、ほんとの誕生日ならもっと早く帰らなきゃ怒られちまう」深沢さんは、ごく当たりまえの静かな調子でそう言って五杯目の水割りを飲んだ。十時を過ぎていた。そこへ、四人づれの客がはいってきた。ちょうどいい潮時だと思ったので、深沢さんに合図して外へ出た。しかし、彼はなかなか姿をあらわさない。私はもう一度ひきかえしてドアをあけた。帰るなら同じ方向である。ドアを半びらきにしたところで深沢さんの姿が見えた。つまり彼は入口にちかいところに席を移していた。「帰らないの?」「うん、もうちょっと…」深沢さんのまえには新しくなみなみと注がれた六杯目の水割りが置いてあった。彼は女房思いである。駒下駄かなにかと小さい花束を買って七時頃に帰宅するよりも、そうやって飲んでいることによって、それは一層明確に証明されたように思う。その小さな酒場に寄ることは彼にとっては寄り道ではなかっただろう。私に話してくれたように誰かにお土産の由来を話したかったのだろう。(「ポケットの穴」 山口瞳) 


地方酒造業地の台頭
こうした大樽の出現を先容とした地方酒造業地の台頭の形勢は、天下統一がほぼ完成の域に達し、国内的には平和が完全に支配し、交通諸制度が完備するに至った慶長年代に於て確然たるものとなる。これら振興名醸地の代表的なるものとしては、備前児島・備後尾道・三原・伊予道後・豊前小倉の諸地方を指摘し得る。かの秀吉一代の盛宴たる慶長三年の醍醐花見に用意せられたる酒は、『太閤記』に、 名酒には加賀の菊酒、麻地酒、其外天野、奈良の僧坊酒、尾の道、児島、博多之煉、江川酒等を捧奉り、 とあるが如く<改訂史籍集覧第六冊四〇二頁>、旧来の名酒並に以上の振興名醸地の大半を網羅している。また、慶長の頃出来たと云われる『かくれ里』の大黒天の使者「穴住の次郎」の言に、 酒には天のしゆたみとて、その味ひ甘露の如く、是人間の内にして、奈良諸白、伊丹酒、浅茅、焼酎、忍冬酒、博多の練酒、南蛮酒、味醂酎などと雖も、更に是に及ぶ事なし、(岩波文庫『お伽草子』三三九頁)  とあるのもまた『太閤記』とともに近世初頭の名酒の如何なるものかを物語るものである。従来とてもこれらの酒は田舎酒の名称に於て中央市場に搬入されたのであろうが、今や大量的進出によって名醸地として一般貴顕の間に強く印象づけられるに至ったのである。また振興名醸地が内海沿岸並に西国を主としているのは、水運に依存することが最も大であり、水運の発達が内海に於て最高度に達していたためであろうと思う。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


盃托銘 橋爪寛平の求に応ず
さかづきを むかふの客へ さしすせそ いかな憂も わすらりるれろ
次第に酒がまはらば舌のまはらぬ事もあるべし。(放歌集)
居風呂(すゑふろ)の形したる燗風呂に
嘉肴冷酒燗無
此ちろり 外へなやらじ 湯加減も あるじの側に 居風呂の燗(六々集) 太田蜀山人 


痔になるのはいやだ
つぎに話は飛びますが、酒はお好きですか。
武者小路 飲まない。
-全然ですか。
武者小路 チョコに一、二杯は口にすることはあるが、飲みたいと思ったことはない。四十歳までは一滴も飲まなかった。
-珍しいですナ、三宅先生もノマヌ。飲めば飲めるのだが、飲んでも飲まんでも変わりがないからノマヌそうです。
武者小路 味はそうきらいではないんだがあまりキレイな話ではないがぼくは少しでも酒を飲むと痔になり、血が出る。飲まないとすぐよくなるんだが…。
-先生は痔なんですか。そりゃ初耳だ。
武者小路 酒を飲んだ時だけ。だから、大して飲みたくないのに、飲んで痔になるのはいやだから飲まない。心配するだけ損でしょう、また、酒を飲む会合の席にはほとんど出たことがない。
-酒が飲めないということで、不便は感じませんか。
武者小路 別に感じない。
-若い時から飲まなかったというのは先生が心酔していたトルストイの影響なんでしょう。
武者小路 そうです。ぼくの前では皆が酒を飲むのを遠慮していたくらいです。(「二人放談」 武者小路実篤 相手は野依秀市) 


近頃は相当飲む
ところで(目白会の)酒客だが、舟橋さんは一滴も飲めない。池島さんは脳溢血でちょっと仆(たお)れて、夕べは出て来たがジュースである。中村武志さんは最初の頃はまったくだめだったが、近頃は相当飲む。中村さんは慇懃鄭重を以て鳴る人だが、官を離れて、筆一本の生活に入ってからは少し変わってきた。酒を嗜むようになったのもその変化の一つである。そしてこの頃ではひどくいけぞんざいな口をきくこともある。それというのも、長年の宮仕えで、胸にいろいろなものがごちゃごちゃと鬱積していたのに、いまや自由の身となったので、今からこれまで我慢していた分を取り返そうというのではあるまいかそれからもう一つ、中年で文壇入りをしたので、やはり何かと胸の中がもやもやするのだろうと思う。しかし中村さんのように酒の勢いをかりて開き直ることのできる人はいい。羨ましい。(「おやじといたしましては」 高橋義孝)  


居酒屋
まだ女か と問いつめられて
血が騒いだ
祝いごとの
さんざめきのなかで
とつぜん 悪意を浴びせられたのだが
のぼりすぎる体温や
艶なる過剰を私は
口にするわけにはいかない
宴は たけなわである
皿に山盛りの
ぺらんぺらんしたハムも動きだすのではないか
宙にむかってフォークをかまえたのは
私の 華やかな影だ

二次会の
居酒屋に向かう道は
まっくらだった
古寺の長い塀が倒れかかってきて
塀あかりの
おぼつかない考えを踏んでいるのだった
前をゆくひとたちも
声高の背のあたりだけを固めて動いていくのである
昼ま
祝われたひとの持つ花束も
ぐらあり ぐらあり動いていく
深酔いの
真赤っかっかのカーネーション
連なって
尾けていくのよ あら
首が落ちている
(花の そんなもの拾ってはダメ)

居酒屋の
急な階段をあがると
ぽつんと一台 扇風機がまわっていた
折りたたみの座敷机の脚をのばして
座ぶとんを十二枚ほど配った
何人あがってくるの…
窓外に激しい水音がしている
身をのりだすまでもなく
すぐ眼下
一階の屋根瓦に
洗濯盥よりもっと大きい円形の水槽が設けられている
誰かがトイレで水を使うたびに
水面に落差の波がたち
調節フロートの
プラスチックの白いボールが
哀しそうに上下する

ねえ 見て
やっとあがってきたひとりの毛深いひとに
話しかけると
またもや なじられた
(指さしてはダメ)
長い塀の
塀あかりを私は不思議がったのに
塀のむこうは
いきなり
墓所であった(「現代詩文庫96 青木はるみ」) 


シャンパンを一びん
グラッドストンの侍医サー・アンドロー・クラークは、滅多にアルコールを処方しなかったので、この偉大な政治家は、クラークが禁酒家の医者だとばかり思っていた。あるとき彼がグラッドストンにブドウ酒を飲むようにすすめたので、この政治家は驚いてしまった。患者があまり見事な驚きを示したので、医者はつけ加えた。「ブドウ酒も時には仕事の助けとなります。それに、夕食後手紙を二〇通書かねばならないこともしばしばでしょうが、シャンパンを一びん飲むと、とても助けになります」「なんですって!シャンパン一びん飲んで、ほんとうに二〇通の手紙が書けるのですか?」と、グラッドストンがびっくりすると、クラークは落ち着いて答えた。「いや、シャンパンを一びん飲むと、返事を書こうが書くまいが、全然気にならなくなるんです」(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


文政三年 町内居酒屋の禁止
史料五 五月十九日御達之写 御町内 居酒屋共 并 料理茶や等ニて 諸士中え 致商売候義 不相成旨 先達 相違候所 近頃 不心得之者共 有之 猥ニ相成候よし 相聞 甚以 不束之至ニ付 此上 右等之義 於相聞ニて 厳重ニ申附様在之間 其旨 相心得候様 惣町え 屹ト 御達可在之候 以上 小室左吉 塙茂次衛門殿

史料五 文政三年 町内居酒屋の禁止 [大高氏記録 一六] これは町年寄あてに出されたものです。内容は「町内の居酒屋や料理茶屋には武士の出入りが禁止になっているのにも関わらず、不心得者がいて居酒屋や料理茶屋に出入りして酒を飲む者がいる。これからは一切武士の出入りを禁止するから、武士が来たら必ず断りなさい」という町奉行の役人の小室左吉より町年寄塙茂次衛門あてのお達しの写しです。なお、塙家の文書によりますと塙茂次衛門は宝永年間に町年寄になり姓を塙と改め、上市で初めて町年寄となった人です。この達しは町人は酒を飲んでもよいが、侍には居酒屋の出入りは厳重に禁止してあるから、侍が来たら絶対に断りなさいというもので、このような通達が出ることは、武士が通達を無視して居酒屋で酒を飲んでいたということが分かります。(「馬口労町物語」 水戸新荘公民館「馬口労町物語」編集委員会) 


帰宅して、まず一献
帰宅して、まず一献(いつこん)と入念に燗をして飲んだそのおいしさ。ほんとにまあ、川上さんの罰当たり!(川上貴久子は蔵元からの土産、爛漫の一升瓶を割ってしまった)と私はひとり呟き、次第にとろんとろんに酔って「覆水盆ニ返ラズ、これ、川上貴久子さんや」とくだを巻いた。いつまでも他人の一升瓶のことが気になっていたのである。二、三日してごく親しくしている人が来たので、大自慢で客間に瓶ごと持ち出し、電熱器に直燗用のお気に入りの焼きの、平ったい土瓶をのせて温めながら、ご馳走(ちそう)した。この客は、かつて北海道の取材旅行にゆき、地酒をしたたかふるまわれて蹌踉と帰途に着いた時、足踏み滑べらして何川だかに落ちた。アッと思った時は、肝心の取材入りの鞄(かばん)の方は手放し、あっぷあっぷしながらも貰って来た一升瓶だけ捧(ささ)げ持って、辛うじて這(は)い上がった時、一升瓶の無事を認めて先ず安堵(あんど)したという経歴の持ち主である。飲むほどに酔うほどに七分目はたっぷりあった"爛漫"は一しずくもなくなっていた。私は子供みたいにぷりぷりした。数日後、酒屋から同じ"爛漫"をとってみた。しかし秋田のお土産ほどのコクはなく、がっかりした。(「薔薇の小筺」 城夏子) 


三遊亭金馬(さんゆうてい・きんば)
本名加藤専太郎 明治二十七年東京生れ。寄席の隣ににあった夜学へ通ったばっかりに学問をやめてハナシ家になってしまった。十三歳にして既に一合の酒を軽くあけたという酒豪。はじめ講談を習って途中から落語に転じただけあって、くしゃみ講釈など得意。新作落語をよくこなす。趣味は釣で、その釣のお蔭で思わぬ大怪我をしてしまったが、病床でもノム真似と釣る真似をして妻女を涙ぐませている。再起を望むファン・レターが殺到している。(台東区中根岸町五一)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 3代目だそうです。昭和29年7月発行です。 


田螺(たつぶ)になった「米んぶぐ」    粟袋米袋
むかい、「あわんぶぐ」に「こめんぶぐ」という二人の姉妹があった。「あわんぶぐ」は前のおが様の娘であったので、まま母のために毎日虐(いじ)くられてばりいた。「あわんぶぐ」はおとなしい上に、綺麗であったので、なお更まま母の気に食わなかった。ある日まま母の自分の子の「こめんぶく」に綺麗な着物を着せで、お神楽をみに行った。その留守を「あわんぶく」にいいつけて、しかも二人で帰ってくるまでに、七尋(ひろ)のはたを織っておけといいつけて出ていった。「あわんぶく」はどうすることもできないので泣いていた。すると空から鳶が一羽、ツルローと鳴いておりてきた。「あわんぶく」の泣いているのをみて可哀相に思って、みるみるうちにからからと七尋の布を織ってくれた。「あわんぶぐ」は喜んで、「われもお神楽ァみに行ぐァ」と外に出た。しかしもしや母親に見つかったら大変だと思って、深あみ笠をしっぽどかぶって行った。ところが其の日、町のある大金持の造り酒屋のあん様が、お嫁をみつけに町を歩いていた。だんだんそのお神楽の人出の中を探していると、ふと自分お前にあみ笠をかぶってゆく娘をみつけた。顔を笠で隠しているのでなお見たくなって、笠をのぞくけれども、その娘は用心深く顔を見せない。しばらくついて行くと、どうしたものか娘は何かに驚いたように立ち止まって、笠をあげて向うをみた。あん様はその時始めて娘の顔をみたが、とてもきれいで、おとなしそうな娘であった。あん様はこの人なら嫁コにほしいと思った。その娘は「あわんぶぐ」であった。「あわんぶぐ」は沢山の人込みの中から、まま母と「こめんぶぐ」の姿らしいのをみつけたので、びっくりして笠をあげた時に、酒屋のあん様にみられたのであった。「あわんぶぐ」はこうして大金持の酒屋の家に駕籠にのせられで嫁に行った。残った妹(うば)コの「こめんぶく」はそれを見てうらやましくてたまらない。「おがさ、おがさ、われも駕籠さのへでけへ」とはだるので、おが様は仕方なく「こめんぶぐ」を鰯かごの中に入れて、田の畦(くろ)を引いて歩いた。「こめんぶぐ」は喜んでいたが、どうしたはづみか、田の中へかごのままひっくりかえってしまった。すると不思議にも、泥田にころげこんだ「こめんぶぐ」はたちまち汚い田螺(たつぶ)になってしまった。(南津軽郡藤崎町の話 話・祖母ふぢ 採話・編者)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


さらに数日の流連
当時(中川)紀元は谷中七面坂の中途に画室を構え、自然かれがもっとも足繁く通ったのは地理的環境の関係から、駒込の土地であった。動坂の方から神明町の花街にはいってゆく右側に、福寿といういぶせき呑み屋があったが、ここが紀元の巣であり、またわれわれの根拠地ともなった。福寿の二階は天井の低い六畳の間で、窓からはひろびろとした空地が望めた。うす汚れた畳のわりにりっぱな茶ぶだいがおいてあり、壁といわず床の間といわず、あたりは紀元描くところの画でいっぱいであった。当時かれは油絵のほかに水墨淡彩にも凝りだしていたので、そうした画の大部分はいずれも水墨画が多かった。ぼくたちはここでのみはじめると、それから都内遊行をはじめるのが常であった。下谷から講武所、講武所から中洲、中洲から麻布、麻布から四谷と、今から考えてもよくもまあこうものみ歩いたものだと、われながらあきれかえる。-
方々でさんざんのみ、さんざん喰った揚げ句、数日の後疲れはてて福寿にまいもどり、白魚のおろしあえとお新香ぐらいを前にして、熱い燗でのみなおすと不思議なように疲れがなおって、また元気が出た。元気が出るとじっとしてはいられなくなる。またもや王子の扇屋とか田端の自笑軒とか、足のむくまま出かけるや、さらに数日の流連がはじまるのがならいであった。(「奥野信太郎著作抄」) 


キラー酵母
おもしろいことに、キラー酵母はそれ自身が殺し屋の遺伝子をもっているのではなく、ある種のウイルスがそれをもっている。酵母自体が殺し屋なのではなく、酵母に寄生するキラーウイルスが殺し屋にさせるのだ。だから、協会七号酵母にそのウイルスを寄生させれば、協会七号が殺し屋に変身する。逆に、寄生したキラーウイルスを除去することもでき、除去すれば元どおりのおとなしい酵母に戻る。ただし、このキラーウイルスには、通常のウイルスのように外から感染する力がないので、戻し交配法、細胞質導入法、細胞融合法などという、手の込んだ技法によってキラーウイルスを細胞内に導入する必要があった。著者は、協会七号のキラー酵母をNIH(アメリカ国立衛生研究所)のリード・ウイックナー博士の研究室で育種した。育種を終えるとすぐにも試したくなり、研究室で清酒をつくってみた。清酒とはいっても、フラスコやビーカーを使ってのドブロク醸造である。しかし、そのドブロクは馥郁とした香りが立ち、味のバランスもよく、上出来に思えた。酒ができたことを知って、研究室のスタッフもゾロゾロと集まってきた。ただ残念ながら、リードをはじめ、ただ珍しそうに眺めたり、香りを嗅ぐだけで、口にする者は一人もいなかった。お陰で、東江昭夫博士(現在、東京大学大学院理学系教授)と二人だけで「うまい、うまい」といいながら飲み干したのである。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


父の名代
尤も、私が初めて酒に近づいたその淵源は、もっとずっと昔に遡る-恐らく、十一、二歳ぐらいだろう。私の父は体が弱かったので、父の名代で、よく親類に年始まわりとか使いに遣らされた。そういうとき、年とった伯母の一人は、古風に、私を一人前に迎えて、ちゃんと膳をだし、酒をついでくれるのだった。「伯母さんところで、お酒が出たよ、あのたこ酢はうまいなあ」と帰ってから、母に報告すると、この子は酒飲みになるね、とうちで笑われたものだが、それをまた伝えきいた伯母は、大変喜んで毎年必ずたこ酢といっしょに、酒を出してくれた。しかし、本当に酒を飲み、初めて大いに酔っぱらったのは、東京外語に入って、庭球部員になり、卒業生の送別会に出たときだったろう。浅草の「新常磐」という牛肉屋だったと記憶するが、十九歳のまだ初々しい少年を、先輩たちが面白がって飲ませ、意識もうろうとして、青山にあった家へどうして辿りついたか、殆んど自分でわからなかった。電車から降りてから、大きな溝のある路を、なんとかして溝に近づくまいと努力しながら(しかし、いつの間にか溝際へ足がむいているのだ)家に帰った。父が死んで間もない頃だったので、玄関の戸をあけた母が、酒気フンプンとしてよろめく若い息子を見て、実に複雑深刻な顔をしたことだけは、いまでもよく覚えている。(「詩人の庭」 安藤一郎) 


方言の酒色々(33)
酒などを杯にいっぱいつぐこと あぜごし
酒に水あめを溶かして温めたもの あめゆざけ
酒に酔う くらいこむ
酒に酔うことを言う山言葉 すてっぱら
酒に酔って上機嫌であれこれ言う いさむ(日本方言大辞典 小学館) 


酔っぱらい運転
毎日交通事故が絶えない。なかでも、なくならないのが酔っぱらい運転である。悲惨な事故を一瞬のうちにひき起こす。この酔っぱらい運転による事故をなくす画期的なアイデアを、私はゆうべ考えた。酔っぱらって運転するな-という前に、希望者には、酒を飲ませた上で、ライセンスの実施テストを行ってみては-という前向きのアイデアである。ウイスキー、日本酒、ビール、なんでもよい。好きなだけ飲ませてコースを走らせる。そこで合格点を取れればいうことなし、酔っぱらい運転OKのナンを、免許証の上にくっきりと押すのである。「どう、むしろ革命的といえるほどすばらしいアイデアだろう?」と、ゆうべ私がとなりに坐っている友人にいうと、彼もすばらしい案だ、と賛成してくれた。そして、我々二人は、そのアイデア誕生を祝って十何度目かの乾杯をした。だから、酔っぱらうというのはおそろしい。ほんきになって、すばらしいアイデアと思い込んだのだから。(「あとが記」 川崎洋) 


すぐ寝つくための処方
ひるは会社勤め、夜のわずかな時間を自分のしたいことに当てるわけですが、夜更(よふ)けまで机に向かったあとは、翌朝の出勤にそなえて、最低眠らなければならない時間があります。ぎりぎりまで起きていて、すぐ寝つくための処方上、お酒にたよることを知りました。これは歳月の教えかと思われます。覚えたのはお酒の味ではなく効用のほう。酔いの路線に横たわれば、身体は軽くあくる日へと運ばれるもののようです。夜半の三時ともなればこのくらい飲まなければだめだろうと、そそいだコップのウイスキーを飲み忘れたままいつか寝入って「朝見ると残っていたりするもの」と言ったら、異性の詩人がウウムとうなって、「いいねえ、実に愉快だねえ」。私には何が、どうしていいのであり、ユカイなのは判じ難いのですが、一人暮しの無残な女の明け方に、あきれては気の毒だと、思いやっての言葉かもわかりません。(「ユーモアの鎖国」 石垣りん) 


杯を返す
 注された杯の酒を飲み干し、相手にその杯を返す。返杯する。また、任侠の世界で、子分が親分に対して縁を切ることをいう。
杯を貰う
 相手が注いでくれた杯の酒を飲む。また、任侠の世界で、親分・子分の契りを結んで、子分になることをいう。(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


98.よい酒はよくなついたペット同様、扱い方しだい(オセロⅡ、ⅲ)
 ペットはfamiliar creature。酒ののみかたもひとつの技術と言いたいのでしょう。 イギリス
53.酒が体に入ると、理性は器に入る
 酒は気違い水。人、酒に呑まれる。 ドイツ(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


奈良酒屋
奈良にはうまいものはないとよくいわれる。では、味覚にかけて奈良は白痴かというと、奈良漬をはじめ霰(あられ)酒などがある。酒は奈良が本場で、特に正徳年間(1711-1716)には酒屋が六十軒あって、江戸に出店をもつもの十一軒、御本丸御用酒屋七人の内五人までが奈良酒屋といわれた。しかし、明治になってその名声を灘、伊丹、西宮、伏見に奪われてしまった。(「素顔の奈良」 吉村正一郎) 


日曜日
何年か前の夏、シナリオ学校の学生四人と新潟の粟島へ海水浴に行った。帰りは新潟市の市場近くのさる飲み屋で、さる銘柄の吟醸酒を味わうつもりで、新幹線の指定時刻の三時間以上も前に着いた。ところが曜日感覚の欠如している連中ばかりで、その日が日曜日であることに気づかなかった。当然、飲み屋はしまっている。アタマにきた。どの飲み屋でもいいというわけにはゆかない。その銘柄でなければ絶対いやなのである。大日本アルコール共和国の東京大使、池袋の甲州屋さんに電話してみたが、日曜に開いている店は知らないという。電話番号を教えてくれて、そこならその銘柄が必ずある、ただし酒屋さんだよ。正直がっかりしたが、まア汽車の中で飲むかと思い直して電話した。いきなりお上がんなさい、で二階へ。次いで二合瓶が七本ずらりと並んだ。味をみて下さいという。明らかにテストである。腹に力を入れて利き酒をした。学生たちも神妙にやってのけた。それぞれが正直に感想を述べると、ニヤッと笑って、問題の銘柄を出してくれた。奥さんが山のような枝豆を持って来て座りこんだ。たちまちひどく気分のいい酒盛りになった。だんなも奥さんも飲んだ。学生の一人が友人に会うことになっていた。ここへ呼びなさいよ、でこの男もやって来た。もうむちゃである。私たちが陶然となってくると、だんんなの目じりが次第にさがってきて、ひどくいい顔になる。また、ニヤッと笑うと、もっとうまい酒があるんだがね。その酒を頂いた。頭がおかしくなるほどうまい。こんな酒もあるんだなあ。私は日本酒は一期一会(いちごいちえ)だと思っている。うまかったら、とことん飲むべし。生涯、二度と同じ酒にめぐり会うことはないかもしれないのである。同じ銘柄でも断じて毎年同じ味ではない。三時間で三升飲みましたよ、と学生がいった。だんなは一円もとらない。後で礼の方法に頭を悩ませた。断っておくが初対面なのである。この酒仙の名は早福岩男さん。思い出すたびに、人生が楽しくなる。(「時代小説の愉しみ」 隆慶一郎) 


夏之部
176 主(ぬし)しれぬ 扇(あふぎ)手に取(とる) 酒宴かな(明和五・六・二〇)
 注176 手に取-底本「手取に」。『句帳』による。 蕪村遺稿 夏之部
178 昼を蚊(か)の こがれてとまる 徳利(とくり)かな(明和五・六・八) 蕪村遺稿 夏之部
226 仏印(ぶついん)の 古きもたへや 蓮(はす)の花*(安永三・五・九)
 注226 仏印-宋の禅僧。「仏印禅師、名ハ了元。東坡之ト遊ブ。時ニ金山寺ニ往ス」(『円機活法』九 禅僧) もたへ-瓮(モタヒ)。酒を入れるかめ。 蕪村遺稿 夏之部
270 雲の峰に 肘する 酒吞童子かな(安永六)
 注270 酒吞童子-丹波大江山に棲んだ鬼神。酒を好んだゆえにいう(謡「大江山」)。雲の峰を丹波太郎というところからの連想。 蕪村遺稿 夏之部 


ときより【時頼】
北条五代の執権、最明寺入道時頼。時氏の子で、名君の称があった。平宜時を召し、台所から生味噌を見付け出して、それで共に酒を酌んだ話は有名で、羸服して諸国を行脚し、民情を視察したと云ふ事実も人の知る処である。佐野の渡で雪に逢ひ、源左衛門常世の一夜の情を蒙つたと云ふ事は、謡曲「鉢の木」で謳はれる。
味噌をなめなめ時頼も数献なり 宜時と共に
粟の飯時頼これを御話し 一つ話として(「川柳大辞典」 大曲駒村) 


いいとこ、五、六杯
先生(吉川英治)の酒はチョコで、二、三杯、まあいいとこ、五、六杯というところでしたね。 舌ヲ洗ウ ということばを、先生はよく用いられましたが、まさに舌を洗う程度で、それでお料理をおいしく召しあがった。「扇谷君、僕は、いつ飲んでも酒はおいしくいただいている。というのは、(こりゃ、まずくなったな)と思った時には盃を伏せてしまうからだ」と、いつか、いわれたことがあるのですが、なるほど、これならお酒はいつ召しあがってもおいしいわけです。(「吉川英治氏におそわったこと」 扇谷正造) 


殿上の淵酔
宮中で賜わる酒宴を淵酔(えんすい)と称したほどに、酒宴はやはり酔うことで一座が共同の興奮を味わうことを目的としたものだといってよい。毎年十一月の中の丑の日、寅の日、卯の日と三日間にわたった五節(せち)の儀式で、天皇が五節の舞を見て、五人の姫の「帳台(ちようだい)の試み」という、姫たちの休むところを訪れまわる式があった翌日の、寅の日に行われたのが「殿上(でんじよう)の淵酔」である。天皇から酒を賜わるのだが、公卿たちは、かなり自由な服装で、しかも「五節の肩脱ぎ」といわれたように、上衣の肩を脱ぎ、所々押しまわる習わしもあった。「おして参らん」などと朗詠しつつ、五節の舞姫たちの部屋に押しかけたりする。淵酔には、隠座という以上の、いささか乱痴気さわぎに類するところがあった。三献まではともかく、それが果てると、「乱舞」になるという慣例で、押し歩きになったのである。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎) 


錫の徳利
いつだったか、長安一片の月の、その西安の町で、月に浮かれながら、きたない一杯飲屋に入り込み、土地のパイカルを、飲み合っているうちに、そこのオヤジが、何に感じ入ったのか、突然、(草野)心平さんと私に、錫の徳利を、ドカドカと惜しげもなく、記念に呉れはじめた。おそらく、心平という酔っぱらいが、この世でまたとなく、あのパイカル屋に似合ったから、店のオヤジがうわずってしまっただろう。(「来る日 去る日」 檀一雄) 


酒を届けて来た
中納言藤原家成という人があった。下野武正(しもつけのたけまさ)という鷹飼(たかかい)の話が、興言利口の部の初めの方に出ている。武正の身分は随身(ずいしん 近衛府の舎人(とねり))であったらしい。同じ部に、随身下野武守や、競馬に出場した下野敦末、善知識の府生(ふしよう)とあだ名された下野武景の名などが見えており、かれらは一族である。とにかく、武正と家成との関係は公式上の主従というのではないが、当時の言葉で家来(または家頼)と呼ばれる関係で、日ごろ武正は家成のもとに出入りしていたのであろう。家成に秘蔵の黒馬があった。武正はいつもそれを欲しがっていたが、家成は、「汝が欲しう思ふ程に、我は惜しう思ふぞ」と、シャレみたいなことを言って、やろうとは言わなかった。ある雪の朝、武正が家成邸に、鳥を枝に付けたのを添えて、酒を届けて来た。家成はさてはと思い、すぐ侍者に命じて、武正の服装を見させた。その復命によれば、武正は「褐(かち)返し(青黒に黄の勝った色)の狩衣(かりぎぬ)に、殊(こと)に引きつくろひて侍る葦毛(あしげ)なる伝馬(てんま)の不可思議なる」に乗って、雪の上に立っているという。それを聞くと、家成はがっくりとして、「この上は力無し。悲しうせられたり」とつぶやいたのである。うまうまと盗まれてしまったあとで、やらぬといっても、もう後の祭というわけなのである。(「日本語のしゃれ」 鈴木棠三) 


面倒くさかった
生まれてはじめて私が酒を飲んだのは、二十六歳のとき、文学で身を立てようと志して、同人雑誌文芸首都に加入したときである。-私はそこで"酒が強い"といわれたが、別に酒は好きでもないし、うまいとも思わなかった。要するに酒の味などわからなかったのである。酒の味はわからないが、生来の面倒くさがり屋なので、すすめられると飲んだ。飲め、飲まぬの押問答をするのが面倒くさかったのだ。「まあ、いっぱい」「いいえ、もう飲めないんです」「飲めないことはないでしょう。そういわずにさあ、これイッパイだけ受けて下さい」「でもダメなんです。もう飲みたくない」「そんなこといわずに、さあ、盃を受けて下さい…」こういう面倒くさいやりとりをしているくらいなら、飲んだ方が早いという気になる。これがボタ餅か何かなら困るが、酒で腹がハチ切れるということはまずない。そこでついいわれるままに飲んでいるうちに、私は酒豪といわれるようになってしまった。それから二十年、私は女としては酒を飲んで来た方だろう。二十年飲んで来て少しは酒の味がわかるようになったが、自分から進んで飲みたいと思うことは一度もない。いつもつき合いで飲む。ありがたいことには、この頃はワルすすめをする人が殆どいなくなった。-酒を悪くすすめなくなった日本人はそれだけ豊かになったのだろう。めでたいことである。(「破れかぶれの幸福」 佐藤愛子) 


六十歳からの酒飲み
私級(クラス)の酒飲みでは、銘柄よりも要するに飲み方ではないかと思う。私はこの山では先ず燗をつけ、冷酒にわずかに温度の加わったのを二杯くらい飲む。この味がなんともいえない。ほんのりと湧いてきてから銚子を薬缶から抜き、保温にたたえた別の丼のぬるま湯の中に立て、実にゆっくりと飲む。五、六杯までが本番、やがて銚子がぐらつきはじめる。あとは口いやしさだけのものだ。一口ごとに妙にからくなる。何か口にしたくなる。そこで口にする物は何でもよい。マヨネーズ、胡瓜、キャベツ、塩昆布、おかずの残り、何でも目の前にあるものだ。それでも残ると、飯のあと、冷めた一、二杯をぐっとと荒っぽく、これには一種の味がある。この話をしたら、梅崎君、青柳君、飯島君、声をそろえて、それはすでに酒飲みとしては一流だと言った。飯島君は一滴も飲まないくせに酒のことなら何でも知っている。不思議な御仁だ。私と反対に、以前は飲んでいて今は断酒した人ではあるまいか…?。(「半眼抄」 若杉慧) 


三日月や つゐいり酒によいの程
シャレは大切な技巧であるが、これに気を取られると、意味の通じない句ができる恐れが多分にあるという注意である。その失敗作たる「言葉のつづきをのみ粉骨(ふんこつ)して落着(らくじやく)せざる句」として、 名にしおはばてるいの太郎月もがな  からうすで米ふみ月のなぬか哉  三日月やつゐいり酒によいの程  など十句を掲げている。第一句は、照井太郎高春(照井氏は陸中照井から起こり、高春を祖とする)に、正月の異名の太郎月をかけたシャレだが、一句としては何の意味もない。第二句も、米踏に文月(七月)をかけて、七夕の七日に続けたもの。やはり内容のない句。第三句の煎酒(いりさけ)は、酒に醤油・塩・鰹節などで煮つめたもの。その酔と宵とを懸け、も一つ墜栗雨(ついり 入梅)にも掛かる。三日月は雛節供の意味であろうが、その月が西に入ると煎酒と、また掛けことばになっている。(「日本語のしゃれ」 鈴木棠三) 「毛吹草」にあるそうです。 


夏之部
163 兵(へい)どもに 大将瓜(うり)をわかたれし*(明和三・六・二)
注 163 兵どもに-越王勾践の故事のパロディ。「客醇酒一器ヲ献ズル者有リ。主人ヲシテ江ノ上流ニ注ガシメ、士卒ヲシテ其ノ下流ニ飲マシム」(『蒙求』勾践投醪) 蕪村遺稿 


冷奴死を出で入りしあとの酒 「ホトトギス」 明40.10
 冷奴死を出入りしあとの酒 『新春夏秋冬』夏
 冷やつこ死を出入りしあとの酒 「自選類語虚子句集」
 冷ややつこ死を出で入りしあとの酒( 『高浜虚子全集』十二巻) 


書を読むは酒を飲むが如し。至味(しみ)は会意(かいい)に在(あ)り。
酒は以て気力を養ひ、書は以て神智(しんち)を益(えき)す。
彼(か)の槽(そう)と粕(はく)とを去り、淋漓(りんり)其の粋(すい)を掬(きく)す。
一飲(いちいん)三百杯、万巻(まんがん)駆使(くし)す可し。 藤田東湖の酒詩 (「藤田東湖の生涯」 但野正弘) 


下学集(2)
榼 樽 棰 三字ノ義同シ也 但 棰ハ日本ノ字也
瓶子壺(ヘイジツボ)
提子(ヒサゲ)
銚子(チヨウシ)
(元和三年板下学集 監修・解説 山田忠雄) 


七卿落
その長州藩に対して、対峙の場所から退居すべしとの勅許が下った。勅命とならばこのさいもいたしたかたなく、東山の大仏妙法院に退居して、ここを本陣とした。三条実時をはじめとする急進派公卿、長州藩士、諸藩の尊攘派等、合わせて二千六百人、そこにおいて軍議が開かれ、今後の進退がきめられた。すなわち、いったん長州に退いて、再挙をはかることに決した。兵士たちは、白粥(しろがゆ)をすすり、庭に置かれた四斗樽入りの酒を飲んで、意気軒昂たるものがあった。八月十九日朝十時ごろ、ふりしきる前夜来の雨の中を、三条実美(さねとみ)・三条西季知(さんじようにしすえとも)・沢宣嘉(さわのぶよし)・東久世通禧(みちとみ)・四条隆謌(たかうた)・錦小路頼徳(にしこうじよりとみ)・壬生基修(みぶもとおさ)の七卿、長州藩兵らは、伏見街道を南下し、大坂から海路をとおって長州に向かった。いわゆる有名な七卿落(おち)であり、ここに尊攘派勢力は、京都から一掃された。(「日本の歴史 開国と攘夷」 小西四郎) 


酒造従業員心得
一、蔵内の親和 規律は正しく互いに礼儀を守り言葉に注意し明るい職場としましょう。
一、火気の用心 電気、油脂類(特に休憩室、釜場、精米場、麹室、酛室)の取り扱いやアルコールの管理に注意しましょう。
一、清潔と整頓 清潔を第一とし、機械器具は整理整頓、取扱いには細心の注意を払い大切にしましょう。
一、酒税法の厳守 諸帳簿の記載と緒届、申請は延滞なく、誤りのないよう、勿論故意の所為があってはならない。
一、清酒原料の保全 清酒諸原料の管理に留意し移動、火入れ等の輸送時貯蔵時の亡失には特に注意しましょう。
一、労病災害防止  老若を問わず健康には常に留意と検診を。作業時は雑談を避け、病気災害をなくしましょう。
一、技術の研究  研究は一生。常に研究を怠らず、精励して優良酒の醸出に努めましょう。 社団法人 南部杜氏協会 里見の自然 やす坊のフィールドノート 


みみっちくなった私の酒
しかし、私の酒好きも次第に抑制されて来そうだ。その原因は、銀座で飲む酒があまりにも高くなってしまったことである。私は、銀座で飲む場合、殆ど自腹で飲んでいる。二年ぐらい前まではどこで飲もうが、何軒のハシゴをしようが勝手放題であった。気にもとめたこともなかった。しかし、この頃、そんなことをしていようものならあとの払いがたいへんなことになると気がついたのである。私なんかたいてい「学割」にして貰っているらしい。だが、それにしても払う段になると顔色が変わりかけてくることがある。銀座が高くなったのにはそれ相応の理由があるのだろう。それはそうであったとしても、こっちが払い切れないようでは、かつては五軒まわったところを三軒に、十杯飲んだところを八杯に、そして高い店はなるべく避けるようにということになってくる。だから近頃の私の酒は、以前にくらべていささか、みみっちくなったのではないかと思っている。(「雲に寄せて」 源氏鶏太) 昭和46年の出版です。 


ルバイ第八
ナイシャブルにても、バビロンにても、
酌む盃は甘かれ、苦(にが)かれ、
「命」の酒はポタリ。ポタリと滲(にじ)み出で、
「命」の葉は一ツ、また一ツ落ち己(や ママ)まず。
[略義]ナイシャブルでも、バビロンでも、同じ事だ。飲んで見て、甘くても、苦(にが)くても、「命」と云う酒は、絶えず、一雫(しずく)づつ、滲(しみ ママ)み出し、「命」と云う葉は、是亦た、絶えず、一葉づつ、落ちて止まらない。何れは、零(こぼ)れ尽し、落ち尽くしてしまうのだ。(「留盃夜兎衍義(ルバイヤートえんぎ)」 長谷川朝暮) 


醒めた呑兵衛・笑福亭松鶴(六代目)
父親が酒好きだったから、日出男はものごころついた時分、すでに父の膝に抱かれながら晩酌のお相伴をつとめさせられた。そればかりではない。父親は色町へ行くにも日出男を連れて行った。可愛くてしかたなかったのか、まさか子連れの色町通いとはと、女房あざむく芸人ならではの知恵のしからしむところだろうか。かくして小学校へあがった時分には、五合のんでもどうもいうことなかったというのだから、これはもういっぱしの酒飲みである。授業を終えて家へ帰ると鞄をほっぽりだして、ひと風呂あびてから、近くの小店の関東煮なんかでじっくりのむのがこのうえない楽しみだったというのだから、末恐ろしい餓鬼である。(「酒と賭博と喝采の日日」 矢野誠一) 


居酒屋
先日友人に横浜旧市街の一風変った飲み屋へ案内された。「断っときますが、古臭い汚ねえ店ですよ、出すものが変わってるっていうだけでしてね。」と言われて連れていかれたのは、繁華街の裏側にある古びた仕舞屋(しもたや)ふうの家であった。看板も出ていないから、知らない者にはそこが飲み屋だとはわからないだろう。ふつうの家の玄関と同じ引戸をあけて入ると、土間に五、六脚の机と、奥に小さな部屋のあるだけの、何の変哲もない店だ。ただその店が変っているのは、お客に盛りきり三杯の酒しか飲ませない点で、坐るとまず小ぶりのコップになみなみと酒を注ぐ。一杯目にはオカラがつき出しに出る。二杯目には納豆。三杯目には鱈の切身入りの湯豆腐。それでおしまいであとはいくら頼んでも飲ませない。その点は実に頑固なのであった。しかも友人の話では、その店では一年中いついっても同じ三品のつき出しを出すそうである。「戦後すぐからだから、もう四十年も前か、それ以来ぜんぜん変っていないんだから面白いでしょう。」「いや、恐れ入りました。」カウンターの中にいるのは白髪の老婦人が二人と若い衆一人だけで、店内は静かなものだが、私たちが坐ってからまもなく店は一杯になった。ここはいつも満員だそうだ。別注文で友人は衣カツギを頼んだが、この芋も吟味したものらしくいい味であった。酒のいいのは言うまでもない。(「生きたしるし」 中野孝次) 武蔵屋という店で、平成27年7月31日に閉店したそうです。 


納豆とイカ
最近S 先生の家を訪れて覚えて来て、我が家の酒の肴の有力なレパートリーの一つとなったものに、納豆とイカの糸作りを適量の醤油とわさびを加えて混ぜ合わせたものがある。納豆は酒の肴としてそれ自体秀逸であるが、これ程他の物と組み合わせて新しい味を出す調和性に富んだ食べ物は少ないかも知れない。この性格は納豆についていえるだけでなく、イカについてもいえることかも知れない。最近私はイカの細切りに梅干を裏ごしにして醤油とわさびの適量を加えて混ぜ合わせると。おいしい酒の肴ができるという話を聞いたので、一度試みてみたところ予想にたがわぬ珍味佳肴となった。梅干といえば筍(たけのこ)の皮の一番やわらかい部分を細かく切って梅干の肉と混ぜ合わせると、酒の肴として大変おいしい。(「随筆 心の中の栖」 柏原兵三) 


トウガラシ
また、韓国では、嗜好品というよりも必需品と理解されているが、トウガラシについて触れておかなければならない。トウガラシは、韓国では一六世紀末に豊臣秀吉が攻めたときにもたらされたものというのが定説になっている。当時は、酒に入れて薬として飲んでいた。それが広く栽培されるようになる。韓国の栽培種は日本のものと違って、形が大きく、味もただ辛いだけでなく深みをもつものとなり、肉食文化と相俟って普及したという。(「韓国における嗜好品」 朝倉敏夫 「嗜好品の文化人類学」 高田公理・栗田靖之・CDI ) 

むかえ酒
宿酔(ふつかよい)をなおすには迎え酒を飲む以外に方法がない。絶対に無い。それもビールにかぎるというのが私の考えである。気分のわるいときにビールは飲めないという人がいるが、そういう人は、がまんして、鼻をつまんでも、ひと思いに呷(あお)るといい。この方法は私の発見ではないが、多くの人に教えて、多くの人に感謝された。具合がいいという。宿酔をなおすというのは、この場合。言葉がおかしいかもしれない。状態を昨夜の状態にもどすのである。昨夜はいい気分で飲んでいた。そのいい気分にもどせば、悪い気分が消えるわけである。終始ホロ酔いでいたいと言ったのは檀一雄さんだと思うけれど、私も全くその派の人間であって、宿酔のときにホロ酔いの状態にもどれば大成功である。(「天下の美女」 山口瞳) 


親子酒場
まだ午前二時前であり、ぼく自身は、そのまま家に戻るには早い同じクルマに乗り、青山学院の広い通りで、こちらだけ降りる。これも例によって「青い部屋」である。生憎(あいにく)戸川昌子女史の姿はない。めずらしく、こちらは一人だから、何かいいことにありつけるかもわからぬ。そんな算当のほうの空いた席に、腰かける。新入りらしい美女がくる。肩に手をかける。訊くと一週間ほど前に這入ったのだと言う。「レズの趣味あるの?」と訊く。「ない」と言う。しばらくし、隣の白い開襟シャツの若い客が突如、こちらに囁く。「しばらくでした。ご機嫌どうですか」知らない顔だ。酔顔にさだかに見えぬ。よくみると、なんのことはない。次男の隆二である。学習院の野球部にいたので、それが縁で、三菱重工に拾われた。現在は玉川のさきの、アパートに、女房と子供二人の暮し向きだ。滅多に合わないのである。ぼく咄嗟に「どこでお眼にかかりましたかね…」息子に会ったからと言って、急に彼女の肩にかけた手を、降ろすわけにもいかない。「親子酒場か」ふと感慨めいたものが、胸を走った。そのあと、息子の前ではあったが、ガヤガヤワイワイと騒ぎ、別れのあいさつも忘れて、「青い部屋」を出た。過保護は嫌いだから、仕方がない。午前三時。(「遊ばない人間(オトコ)に仕事ができるか」 田邊茂一) 青い部屋は戸川昌子が開いたサロンだそうです。  


金粉を飲んでしまう
或時烈公(水戸藩第九代藩主、名、斉昭)の正室、文明夫人(名、吉子)が特に杏所を召して別席で酒肴をもてなし、そのあとで、「甚太郎(杏所)、本日そなたを招いたのは極彩色の絵を描いて貰いたいからです。私のため念入りなものを一枚かいて下さい」と所望された。そこで杏所が「斯様(かよう)な結構の饗応に預り今更嫌とは申しあげられません」と奉答すると「それなら極彩色には金粉が必要であろう。これを遣わすから使用するように」といって、御自分で棚の手箱から両手に一杯の金粉をすくい奉書に包んで賜った。-彼は有難く頂戴して自宅に帰り、早速前祝いのつもりで一杯やっていると、そこへ松屋の主人が訪ねて来た。用件は借金の催促である。-「全く困ったナ、あれば幾らでも遣わすが無いものはやれぬ。然し拙者もお前にはいままで何かと随分世話になった。その恩人の窮状を知ってそのまま帰しては杏所も世間からわからぬ奴だとものわらいになる。幸い先刻御殿で頂戴した金粉があるから、これでも持って金にかえたらよかろう」と文明夫人から賜った件(くだん)の一包を松屋の主人に与えた。松屋も大層嬉んでそれを懐に辞去したが、やがて小半時(今の約一時間)もたつとまたやって来て彼の前に三両の金子を並べ、「先生アノ金粉を売りに参りましたところ、先方の話では頗ぶる上質だという事で思わぬ金になり、今までの貸しを棒引きにしてもこれだけ余分になりました。どうかお納め願いたい」という。杏所も日常金がある方でないから見栄にも取っておけなどとはいわない。「それはよかったな」位で懐に入れ、後で酒代に廻して、全部飲んでしまった。程経て依頼の絵ができ御殿へ差上げると、夫人も御機嫌斜ならず早速披いてご覧になったが、不図怪訝なお顔をした。それもその筈絵は成程希望通り極彩色にかけてはいるが、どこを見ても金粉が使用してなかったからである。それで烈公にその絵を見せ、わけをはなして「甚太郎はまことに怪しからぬ男でございます」というと、公も思わずアハハと哄笑して「甚太郎はそういう奴よ。定めしお前から金粉を絵の手間代に貰ったつもりで、みな呑んでしまったのであろう」と答えられたということである。(「昔語 水戸の芸苑」 伊藤修) 


四斗八升
当時、一升六十銭だった酒を、五十五銭にまけさせ、四斗八升の酒を届けさせた。残った金で、さかなを買うことになる。何がいいかと十六人にきいてみると、ミソと生ねぎがあればいい、という答えだ。酒がとどいた。菰(こも)かぶりに、一升びんが八本。それにミソと生ねぎがとどいたのが、午後の二時。「本当に、一滴残らず、明日の二時までに飲んでしまうのだぞ」「ああ、飲まんでか、ウジ(氏原氏)」「残していたら、お前たちで三十円を集めて、もってこい。マツムラ、いいんだな」「ああ、いいぞ、一滴だって残すか」氏家氏は、皆の酒もりがはじまった後、事務所を出た。彼はぜんぜん飲まないし、県庁に仕事があったからだ。翌日の午前十時、彼は事務所に、様子見にもどった。すると、十六人のうち、四人を残して、酔いつぶれて、その場にぶっ倒れて眠ってしまっていた。酒の方は、と見ると、すでに菰かぶりは空だった。八本の一升びんのうち、四本も空であった。しかし、四本は、手がつけられずに残っている。四人は、したたか酔った様子だったがまだ飲み続けている。その中に松村氏もいた「この四本、二時までに飲めるのか、マツムラ」氏家氏は、時計を見、四本の一升びんを指さしていった。「ああ、飲んでみせるぞ、ウジ」松村氏は、大分ロレツがまわらなくなっていたが、そう断言した。「よし、二時には、もう一度もどって来る。一滴も残すな」当時、県議をしていた氏家氏は、また県庁まで、仕事のためにでかけた。そして、二時ぴったりにもどってきた。今度は、残っていた四人もぶったおれ、誰一人として起きているものはいない。だが、一升びんのほうは一本残らず完全な空であった。四人をけっとばしたが、目を覚ますものもいない。ようやく、床屋をしていた村上某氏が目を覚ましたので事情を聞いてみた。そこで、最後の最後まで頑張り、最後の一升びんを空にしたのが松村氏であることがわかった。「十六人で、四斗八升でしょう。平均しても一人三升。村松は他の連中より一升以上は、確実に飲んだでしょうな」氏原氏は、その忘れがたい事件を、そう話している。土佐ののんべえのモウレツさを、感じさせる話だ。(「三言でいえば」 なだいなだ) 村松春繁は、アルコール依存になり、五回入院、二回自殺未遂を経験し、病気克服後は、A・A(アルコーリック・アノニマス)を全国的な組織にすべく奮闘した人だそうです。 


旨いあいだだけたっぷり呑む
酒の味を、すこしでも長く味わいたいばかりに、あらかじめ腹ごしらえをすることがある。ちょっぴり甘いもの、ちょっぴり脂濃いもの、時には相応の食事さえ済ませてから、好きな酒を旨いあいだだけたっぷり呑む。酔って崩れない。からだも壊さない。かんじんの仕事に差し支えない。私の酒は、無くて困る酒ではない、ひたすら好きな酒だから、酒をそこなうほどご大層な肴はいらない。なくて差支えない。その時の気分に応じた量だけ、つまり旨いと思う量だけ呑んで、すぐ机の前に戻れる。寝ても仕舞える。片手のあいたのをほどよく遊ばせるくらいの、箸など要らないちょっと塩味の摘まみが有難い。上田秋成は「生涯在酒」という印を用いたが、学者は彼が下戸だったと言う。そうではあるまい、旨い酒を旨い限り若いうちに呑み尽くして酒を卒業したのだろう。そう想って「生涯在酒」の四字を眺めていると、秋成の顔が見えて来る、そんな酒になりたい。肴の詮議に興味はない。(「牛は牛づれ」 秦恒平) 


アセトアルデヒドの血管拡張作用
アルコールは、体内でアルコール脱水素酵素によりアセトアルデヒドに分解されます。奥田(拓道)教授の研究チームは、ネズミを使った実験から、アルコールが血管、とくに細動脈を収縮させ、逆にアセトアルデヒドが血管を拡張させる作用を持つことを確認しました。これまで脳内の情報伝達を阻害する恐れがあるとされてきたアセトアルデヒドに、プラスの作用を見いだす画期的なものです。「一気飲みで顔色が青くなるのは、血中のアルコール濃度が高くなって血管が収縮するため。ゆっくり飲めば、アセトアルデヒドが血管を広げて血流をよくするため顔が赤くなるわけです。この結果からも、アセトアルデヒドができやすいように、くつろいで血管の収縮を抑えるような飲み方が望ましいですね」しかも、奥田教授は「アセトアルデヒドの血管拡張作用は、血中のアルコール濃度がかなり高くなっても変わらないはず」と指摘。酒飲みにはうれしい結果となっています。(「日本酒に含まれる有効成分の研究」 奥田拓道 日本酒造組合中央会パンフレット) 


人前で泥酔したのは二度だけ
そんなわけで、私は人前で泥酔することは滅多にない。そんな覚えている限りでは、二度だけだ。むかし一緒に暮した男が、酒癖が悪かった。二人でよそへ招かれて行った席で、彼がウイスキーをがぶ飲みし、やがて眼がトロンとすわりはじめた。一大事!とは思ったが、どうすればいいかわからない。私はやにわに彼の前のグラスをとり上げ、ぐいぐい空けてしまった。注がれればまた空ける。ウイスキーのストレートだからたまらない。たちまち気分がわるくなり、洗面所へ行こうと席は立ったものの、廊下へぶっ倒れてしまった。たちまち人が集まって介抱してくれる。モウロウたる意識の中で、これもひどく酔っているはずの彼が、「アツコ、どうしたんでしょう、どうしたんでしょう」私のまわりをうろうろしながら、オロオロと訊いている声を聞きつけ、ひどく悲しくなったのを覚えている。もう一度は、あれは好きな男ができたときだった。好きと云いたくて云えない。中野駅のそばの小料理屋で浴びるほど飲み、二、三軒梯子をした。それでもまだ、「好きよ」の一言が出て来ない。出るのはゲロばかり。それでも彼は、いやな顔もせず、つきあってくれたのだから、満更、脈がないわけでもなかったのだろうが、こちらからはそれ以上、どうするという知恵も出ず、それっきりになってしまった。(昭和四八年七月)(「泣かない女」 安西篤子) 


◆今日はあたり一面きらきらしている!/轡(くつわ)もない、拍車もない、手綱もないが、/さあ出発だ 葡萄酒の背にまたがって/夢のような神々しい空へ向って!(シャルル・ボードレール「愛し合う二人の酒」『悪の華』安藤元雄訳)(「ほめことばの事典」 榛谷泰明) 


○これらの新代議士の職業別一覧表は次のようである。
       自由  進歩    社会   協同  共産  諸派  無所属
社長重役 五七名 二九名  六名   三名  ―   一三名 一〇名
弁護士   一七名 九名    一九名  ―    ―   一名   三名
会社員   三名   三名    七名   ―    ―   一名   二名
医師    五名   一名    ―     ―    ―   三名   一名
農業    一四名 二一名  五名   六名  ―   三名   三名
役人    九名   三名    一名   二名  ―   一名   六名
漁業    三名   一名    ―     ―    ―   ―    二名
酒造家   一名   五名    ―     一名  ―   一名   二名
著述家   四名   二名    一〇名  ―    四名  二名   六名
教員    八名   三名    三名   一名  ―   二名   一七名
無職    六名   四名    四名   一名  一名  四名   六名
其他    一一名  一二名  三五名   ―    ―   八名  二〇名
僧侶    三名   ―     二名   ―    ―   ―    二名
 備考 「其他」には職業政治家をふくむ。
(「一票の教訓」 宮本百合子) (昭和21年)4月10日に行われた帝国議会(衆議院)議員の選挙です。 


学校からの帰りがけ
ただ一つだけ、まだどこにも書いていない話を披露させてもらうと、高校二年生のころわたしは、学校からの帰りがけ同級生三、四人と一緒にこっそり焼酎を買って飲んだものだ。昭和二十四、五年の話で、そのころ焼酎一升がいくらだったか思い出せないが、月に二、三度はそうしていたような気がする。福岡県の味木という町で、学校から遠くないところに丸山公園という桜のきれいな公園があった。そこへ三、四人で一升買って登り、弁当箱の蓋で廻し飲みするのである。飲み終わるとごろりと横になって暗くなるまで眠り、のこのこ山を降りてきていたようだ。(「分別ざかりの無分別」 後藤明生) 


自分の酒を飲んで礼を言う
吉田さんは聴き上手でもあって、大して話題もない若輩の話を面白そうに聞いて下さった。
林権助さんが公使で韓国に行っていたときの話、朝鮮浪人の某が、公使を招待するという。たびたびの懇請もだし難く、公使も仕方なく浪人の宅へ駕を枉(ま)げる。そこは老獪(ろうかい)なる某のこと、公使がおいでになるのだからと、公使の台所から、公使が灘から取寄せておいた樽の酒を貰って来てある。それとは知らぬ林公使、浪人のくせにいい酒を飲んでいると小首をかしげながら、ご自分の酒を飲んで礼を言って帰ったという話。林さんの「七十年を語る」という回顧録にあります、と申しあげると、「林さんは、私が初めて英国勤務になった時の大使でね」と面白がって下さった。(「豆腐屋の喇叭」 薄井恭一) 


立ちながら飲み
徳川幕府の末に、日本最初の遣米使節として、日米修好条約調印のため、太平洋を渡って行った一行の一人、小栗豊前守が書いた記録の一節に、パーティーのことを、「立ちながら飲み、立ちながら食い、あたかも車夫馬丁のごとし」と書いている。高つきのお膳の前に、かしこまって坐って、食事を頂戴するくせのついたお大名には、まことに、奇異に感じたのも無理からぬことであった。(「旅と釣りと生活のユーモア」 上村健太郎) 


酒場は浴場
私は、近時、酒場に関して、いささか開眼するところがあった。それは、俺は、いま、街道筋の小料理屋の奥座敷で飲んでいるんだぞという態度で飲むということである。喧嘩腰でなく、リラックスである。心理的には、某作家の姿勢に、いくらか近接してきたと思う。さて、そうやって飲んでいると、酒場は、戦場でなく浴場に見えてきた。そうだ。これは、銭湯である。田舎の温泉に行くと、脱衣場は男女別で、なかは一緒という所がある。あれだ、あれだ。芋を洗うようという形容もピッタリあてはまる。そうして、私は、観察するのではなく、他の席の痴態をぼんやり眺めながら飲んでいるのである。「イイ湯ダナ」オシボリを頭にのせたくなる。これは、まことに、けったいな眺めである。もともと密室で行われるはずのものが、ここではオープンになっている。昔の酒場は、椅子の背が高く、薄暗く、他の席が見にくいようになっていた。ちかごろはそうではない。見ようと思えば、あらかた見えてしまう。(「少年達よ、未来は」 山口瞳) 


モデル料
ところで、鰹(かつお)の季節、松茸の季節になると、私はまいとし二人の男から脅迫され、押しかけてきた二人に鰹を割き、松茸を焼かねばならない。二人の男とは高井有一と後藤明生である。あるとき私は自分の小説の中にこの二人らしき男を登場させたことがある。しかしその登場人物が二人であるという証拠はない。ところが二人は、あれは俺達をモデルにしたのだ、と言いはり、モデル料をよこせ、と言ってきた。仕方なく私は二人に松茸を焼いて酒をだした。私はそれで済んだと思っていた。ところが鰹の季節になり、またモデル料をよこせと押しかけてきたのである。この春は加賀乙彦を加えて三人で押しかけてきた。そういえば、加賀らしき男を小説の中に登場させたこともあった。モデル料は支払いすぎだ、と私は主張したが、彼等は、そんなはずはない、これくらいで追いはらおうとしてもだめだ、と酒を強要して動かないのである。仕方なく私はこの春鰹を割いた。彼等はそのとき秋の松茸を私に約束させて引きあげた。なんともたちの悪い連中で、この秋は虫の食った松茸を用意しようか、と私はいまから考えている。高井はウエッヘヘヘと笑い、後藤はイッヒヒヒヒと笑い、加賀は、俺は藪医者(やぶいしや)だから小説家になった、と三人そろって奇声を発するので、何とも始末におえない。モデル料として酒肴(しゆこう)を強要された金額は、すでに原稿料の数倍に達している。考えてみたら、どうもこれはおかしな話である。支払いすぎたモデル料をとりかえすために、もういちど、あのたちの悪い三人をモデルにして小説を書くべきかどうかを考えた。私は考えてみてやめることにした。連中はだんだんたちが悪くなってくるから、こんどは鰹や松茸ぐらいでは済まないかもしれない。こうして、昔は秋の酒というと閑静をたのしんだものだが、ここしばらくはあの三人のために静かな秋の酒はのぞめそうもない。(「坂道と雲と」 立原正秋) 


一度アル中になりかかった
友人の河野典生が、一度アル中になりかかったことがある。話を聞いてみると、幻視はなかったらしいが、全身を小さな虫が這いあがってくるような、実にいやな気分だったという。とにかくこの河野という男、実によく酒を飲む。それもジンである。ジンがアル中になりやすいことは、アメリカのアル中のほとんどがジン愛用者であることから考えてもほぼ確実であろう。いちどふたりで、夕方の五時から飲みはじめたことがある。七時ごろまではビールだったが、それからは彼がジン・ロック、僕がウィスキーの水割りに切替えたそしてそれが朝の五時まで続いた。最後は青山の「青い部屋」だったが、ぼくはもうふらふら、タクシーに乗ったまでは憶えているが、次に気がついたのは自分の家の布団の中で、もう昼過ぎになっていた。こっちは水割りだが、それでもダルマの一本は確実にあけているだろう。しかし敵はジン・ロックであって、これはストレートに近いわけだからアルコール摂取量はぼくの比ではない。その上ちっとも乱れていなかった。よく飲む上に、強いわけである。ふつうの人間があれだけ飲めば死ぬのは確実だ。彼の場合は意思の力で慢性アル中から逃れることができたわけだが、二日酔いで気分が悪いという人間のよくやることは迎え酒、あれは非常によくない。(「暗黒世界のオデッセイ」 筒井康隆) 


酒器愛すべし
もうよほど呑まぬ酒に酔いがまわって誰にも親しまれる徳利のいろいろを紹介する筆さきが怪しくなって来た。紙数も尽きているのを幸い、非難は覚悟で私が独合点に一等美しく好きと思っているものを二、三挙げて、お茶にしたい。第一にゆったりすわりのいい織部の大徳利。撫で肩の四方胴それぞれの面に、ぶどうめく房や葉だの、幾何的な植物模様や、瓔珞や、竪縞だのを描いた上へ独特の緑釉がたっぷり流しがけしてある。男の酒にさも大柄な風情が添う感じで、こんな徳利の出る酒席では大らかな笑い声が絶えないだろう。次に九谷民山焼き、瓢文瓢形の瓶(へい)かともいわれている大徳利が佳い。黒の骨描きの上に瓢の花を赤、葉を黄と緑、瓢は紫で描いた創意ゆたかな洒落た絵文様が図抜けて美しく、半磁質の胎土に黄白色の釉をかけてあるのが、三十センチ近い大物を静かに落着かせている。そして今一つ、老梅と水仙を描いた古京焼の角徳利を挙げるのは私のお国自慢にゆるして貰うとして、最後の最後に徳利ならぬ土瓶の酒はいかがなものか。名高い薩摩の黒ジョカは焼酎を温める器だが、酒にもよい。が、ここは豪快かつ贅沢に、光林梅を華麗に描き切った乾山作の手厚い土瓶に、たっぷり温い酒を容れ傍へ引きつけて置けるなら、どんなにか酒の肴が美味いことか。(「勝る花なき」 秦恒平) 


日本酒という名称
沖縄では、日本酒のことを、ヤマト・ザケと言っていた。馬の乗り方にも、ヤマト・ガケ(大和駆け)という名の走り方であって、沖縄在来のものと対比して、本州の方のを呼ぶときには、ヤマト何々を使っていた。つまり、和酒である。しかし、サケが日本酒と、しかつめらしく名を替えたのは、もう一つ理由がある。前に言ったように、日本人の生活の上に移り変わりがあって、酒類の中で占める日本酒の重みに変化がおこって、日本酒が、サケの名を独占出来なくなってきた、という背景がある。つまり、ワインやビールや洋酒などが、日本人の飲酒生活の中で、ぐっと消費の量を延ばして来たという、社会生活の移り変わりがそこにあることだ。(「町っ子土地っ子銀座っ子」 池田弥三郎) 


過格魯児化鉄液(2)
中川「こんな気味の悪いお酒をお料理に使いなすってはいけません。料理用のお酒は鍋で煮ますからなおさら悪い酒だと毒になります。鉄鍋で悪い酒を入れてある汁物(つゆもの)を煮ると自然と薄赤い色が付きます。醤油を沢山注(さ)さないのに色が濃くなって見ゆるのはお酒が変色するからです。決してお料理に悪いお酒を使ってはいけません。この気味の悪い色を御覧なすったら、モー再びこのお酒をお用いになさる気になりますまい」玉江嬢「ホントに気味の悪い色です。一つのお酒がこうなるのならまだしもどれも皆(み)んな色が変わりますね」中川「そうです。これは全体サリチル酸を混ぜてあるからです。-」
悪い酒は最初から混ぜてありますし、良(い)い酒でも途中で防腐のために多く混ぜます。サリチル酸やホルマリンを混ぜるのは酒の変敗を胡麻化(ごまか)すためですが双方とも人体に有害でサリチル酸は非常に消化器を害しかつ生殖力を減じます。故(ゆえ)に政府より固く禁じてあるのに今では大概な酒へ混ぜて売ります。最も憎むべき奸策(かんさく)は火を入れる代りに甘汞(かんこう)という大劇薬を交(ま)ぜるものがあり、その甘汞は酒の中で昇汞(しようこう)に変じて非常の毒となり、そんな酒を毎日飲むと生命を危くします。酒屋で上等の酒をくれろといっても悪い商人は多く生一本の酒へ外の悪い酒を混ぜてよこしますから酒屋の酒にこの薬で変色しないものが滅多にありません。悪い酒屋から買うと幾度(いくど)取り換えさせてもやっぱり変色性の酒を持って来ます。-」(「食道楽」 村井弦斎) 明治三十六年に報知新聞に連載された小説だそうです。 


アルコール不堪症
花大阪の頃の友人で中村卓というイラストレーターがいた。この男、酒が飲めない体質で、いわゆるアルコール不堪(しよう)症(alchol intolerance)、ビール一杯飲んだらもう真っ赤になって苦しくてしかたがない。それでも、つきあいがあるからちょいちょいカクテルなどを味わっていた。そのうち、カクテルを半分ほど飲むと、幻覚が見えるようになった。黒いドレスを着た、親指ほどの大きさの女の子が歌を歌っているというのである。これはあきらかに振顫譫妄の症状だが、本人はもちろん慢性アル中ではない。アルコール不堪症であるが為に、グラス半分のカクテルで幻視が起ったという、これなどは珍しい例であろう。だが最近は彼も、訓練でだいぶ酒には強くなった筈だから、幻視もなくなったのではあるまいか。(「暗黒世界のオデッセイ」 筒井康隆) 


酔いざめ日記
某月某日
…目が覚めた。しかし、前夜の後半からの記憶が、まったくない。昨晩、一緒に飲んでいた弘前大学の小山内時男先生に会って、わたしは弁解した。-どうも酒を飲むと、前の晩のことを覚えていないときがあって…。-いやいや、とくあることですよ。-なにかしませんでしたか。-べつに大したことはしませんでしたよ。 温厚な小山内先生はそう慰められ、本当かなあ…とおもっていたところで、あらためて本当に目が覚めた。つまりわたしは明け方の夢のなかで、前夜の失われた記憶を探っていたのである。時計を見ると午前七時。ここは弘前のホテルの一室で、昨晩は「葛西善蔵全集」編集の大仕事を終えられた小山内先生と、津軽書房の高橋さんと一緒に飲んだのだった。さて、目は覚めたものの、やはり前夜の後半の記憶はない。不安に怯えながら、その日の取材を済ませ、夜、飲み屋へ行くと、高橋さんがいた。ゆうべはどうも…と頭を下げて、恐る恐る昨夜の顛末を聞くと、「小山内先生と別れてがら、美人のいるどこさ行ったのは。覚えですべ?」と高橋さんは言う。「いや…」全然おぼえていない。「アレ!?」高橋さんは驚いて「あんだが、美人のいるどござ行きてえ、美人のいるどござ行きてえ、っていうもんだから、われが連れで行ったっけなあ」「覚えでねえ…」わたしは力なく首を振って「して、その勘定はだれが払ったんです?」「われが払いました」「それは困る」津軽書房の経営は楽ではないのである。「いや、勘定のことはともかく、われは面白ぐねえ」高橋さんは憤然としていった。「せっかぐ美人のいるどござ連れで行ったのに、それば何も覚えでねえづんだば、なんさもならねえでばな」-
高橋さんと別れてから、教えられた店に行ってみると、私の記憶はいっぺんに蘇った。店内の様子も、横に座った女性の顔も、はっきりと記憶の底に残っているものだった。わたしはなぜ、そのことを忘れてしまったのだろう。ひょっとすると男のなかに、前夜に会った美人のことを、一晩かぎりで綺麗さっぱり忘れてしまいたい、という心理があるのかも知れない。ホテルに帰ってから、わたしは東京の自宅に電話をかけて、送金を依頼した。電話の向うの声は、不機嫌そうだった。(「いつか見た夢」 長部日出雄) 


酒飲めバ-芭蕉の一句
さて「酒飲めバ(酒飲めバいとど寝られぬ夜の月)」の一句であるが、この一句については注目しなくてはならない前書きの一文がある。この一文は「閑居ノ箴」の題を付する。芭蕉自身が果してこのような題を付したかどうか明らかでないが、それはここでは問わない。芭蕉の門人の支考が編した『本朝文鑑』にかく題して収める。その一文を引くと次の如くである。「あら物ぐさの翁や。日此(ひごろ)は人のとひ来るもうるさく、人にもまみえじ、人をもまねかじと、あまたゝび心にちかふなれど、月の夜、雪のあしたのミ、わりなしや、物をもいハず、ひとり酒のミて心にとひ、心にかたる。庵の戸おしあけて雪をながめ、又は盃をとりて筆をそめ、筆をすつ、あら物ぐるおしの翁や」と。「あら物ぐさママの翁や」とは、芭蕉自らをいっているのであり、その翁は他人ではない。芭蕉は日頃は人との交渉をうるさく思い、「人来れば無用の弁有り」(『閉関の記』)というわけで、人と会ったりすることを極力避け、面倒に思った。そんな芭蕉であったが、「月の夜、雪のあした」ともなれば、月見の酒、雪見の酒を、親しい友と酌み合わせたいという気持をいだかないわけではなかった。ただそうは思っても独りである限りは黙って酒を呑むより仕方がなかった。その時、芭蕉はふと、もう一人の自分というものを見出した。そのもう一人の自分を心のなかで友として問いかけ、その友を相手にして語り合い、そして互いに盃を重ねた。その心中たるや、実に「妙」を極めた酒であったといわなくてはならない。やがて二人は手を取り合って庵の戸を押し開け、共々に庵外の雪景色を眺め、筆をとって一句を詠じた。「酒飲めバ」の一句はその所産と見られる。芭蕉はこの一句を詠ずると、そのとたんに独りに帰った。思わずその手にしていた筆を捨てた。その時の思いは、何と「物ぐるおしの翁や」と思わずにはいられないものであった。(「風雅と遊心」 古田紹欽) 


過格魯児化鉄液
中川「それならば私が今鉛筆で紙へ薬の名を書きますからこの薬を買わせて、ついでに中等の酒と下等の酒と五、六種類の酒をお買わせ下さい。薬は極(ご)く安いものです。二銭も買えば百回以上の試験が出来ます。薬の名は過格魯児化鉄液(かころーるかてつえき)即ちコロールカテツママのエキです。小さな罎(びん)へ一杯が二銭くらいです。-
程(ほど)なく使(つかい)いの者帰り来たり、玉江嬢は小さき罎(びん)に薄赤(うすあか)き水薬(みずぐすり)を納(い)れたるものを持ち来る。続いて下女が二、三本の徳利に各種の日本酒を入れて持出しぬ。中川は玉江嬢より小さきコップを四つ五つ借りて食卓の上に載せ「サア皆さんよくご覧なさい。小さいコップへ一つ一つお酒を半分ほど注(つ)ぎました。それからこうやってこの薬を一滴ずつ滴(た)らします。そうして箸(はし)でクルクルと掻(か)き混(ま)ぜますと、ソラソラ忽(たちま)ち色が変わりましたろう。墨(すみ)でも入れたように黒い色になりました。これは極(ご)く悪い酒です。この次を御覧なさい。これも黒くなりました。モウ一つ、やっぱり黒い。今度はどうでしょう。前のほど黒くないが紫色に変色します。ここへ出たお酒を試しましょう。これは変色しません。薄桃色になるのはこの薬品の色で、少しも外の色に変わりません。さすがに御主人のお飲料(のみりよう)だけあって純粋生一本(きいつぽん)の上酒と見えます。玉江さんお分かりになりましたか。この色を御覧なさい。気味が悪いではありませんか。お料理にもこの上等のお酒ばかり御使(つかい)でしょうね」玉江「イイエお料理には悪い方を使います。今色の変わりましたのがそうです」(「食道楽」 村井弦斎) 明治三十六年に報知新聞に連載された小説だそうです。 


酒の喧嘩
そこで、私はオモシロイことを考えついた。闘犬という犬の喧嘩があって、土佐犬などは有名だそうである。シャモの喧嘩の闘鶏、鹿児島には女郎蜘蛛の喧嘩があって、蜘蛛の糸で相手をしばってしまうステキな喧嘩があるそうで、みな、人間たちの見世物なのである。そこで、酒を呑むと、喧嘩をしたがる人間を枠の中に二人おいて、たらふく酒をのませる。そうして、口喧嘩でも、なぐりあいでもやらせて、みんなで眺める。勿論、テーブル、椅子は釘づけで、コップは紙のコップ。立案者の私が希望するのは、誰かそういう催し・見世物を見せてくれないものか。なるべく有名人で、酒の喧嘩にキャリアのある人に出てもらいたい。見物人は、けしかければおもしろい。(「夢辞典」 深沢七郎) 深沢は酒を飲まないそうです。 


モンドセレクション
日本酒のラベルには、公的機関からの受賞の事実を表記することができる。例えば「食品のノーベル賞」といわれるモンドセレクションでの金賞受賞をうたっている場合などがそうである。とはいえやたらと名前を聞くこのモンドセレクション、食品のノーベル賞という評価は自己評価にすぎないともいわれる。この団体はベルギーのブリュッセルに本部を置く、国際的あるいは地域的に流通している製品の品質を審査する国際団体だ。発足は一九六一年である。なにやら公的機関の雰囲気を漂わせる(?)モンドセレクションだが、EUもベルギー政府とも関係のない民間団体で、運営資金の大半は出品者の審査料でまかなわれている。となるとなるべく多くの客すなわち出品者を招致したいのがモンドコレクション側の本音だろう。また細分化されたカテゴリーの中の「日本酒部門」となると、日本以外からの出品はまず考えられない。歴史と権威を誇るモンドセレクションだが、どうやら受賞することが大変な関門だとはいえないようなのである。(「酒とつまみのウンチク」 居酒屋友の会) 


酔いを操る
こんなわけだから、酔わないで強いふりをすることは、わけはない。なるたけ長い時間をかけ、ゆっくりと、しかし一旦口に入れたら、一気に呑み込み、あらかじめ食事をしておき、風呂には入らず、厚着をせず、ホステスにもてないことを嘆き、悲しみ、ふて腐れ、世の中で一番嫌いな奴のことを考え、どてっとボックスに坐ったまま、煙草と餌を食べる時以外は体を動かさない。こうしていれば酔いなどは、そうやたらに訪れるものではない。さらにアルコールの耐容量は、原則的にはキログラム当りの量だから、体重が大きければ鬼に金棒である。酒の味もなにも知らない娘がガボガボ呑んで、ケロリとしている、などはこの例であり、大半の酒は口の中を素通りしているのである。私はかつて、前述の酒を最も吸収しやすい状態と、最もしにくい状態をつくって、酔うまでにどの程度の差があるものか、実検してみたことがある。この結果、サントリーのダルマ半分ぐらいの差は簡単に出ることが分った。だから私は、純粋に酒の量だけで番付が定まるものならば、横綱でも十両でも、自由自在になれるような気がしている。ただ一つ気懸りなのは、このごろ、酒の味を覚え、実験を忘れて、つい口の中に長く留める癖ができたので、来場所あたりに転落するかもしれない。(「雪の北国から」 渡辺淳一) 


ミュンヘン
バイエルン王国の首都ミュンヘンはビールの町であるといったが、昔はバイエルンもワインを飲む地方であった。しかしそれにかける費用が高すぎるというので、十六世紀にホーフブロイでビールをつくり、徹底的に庶民に奨励した。一一四三年につくられたフライジングのヴァイエンシュテファン大修道院の最古のビール工場は、現在、ミュンヘン工科大学の醸造工場となり、研究がつづけられている。ビールもワインもドイツでは、いや、キリスト教国では修道院の坊さんたちによって改良されてきた。日本では、おもてむきは葷酒(くんしゆ)山門に入るを許さずで、お寺ではゆるされない。いわんや酒をつくるお寺などきいたことがない。(「ミュンヘン物語」 小松伸六) 


ガクンと一段、酔いが来る
今は、なつかしい限りだが、芥川比呂志君は、飲んでいる時、ガクンと一段、酔いが来るのが、てきめんにわかった。「そうですよ」「そうそう」といった相槌を打っていたのが、「左様でございますか」と丁寧になると、一応、警戒しなければいけない。といって、そうなっても、ぼくには、いやな思いを、ついに、させなかった。ただ、芥川君は、二人の酔の程度がちがいすぎると、別れたくなるのだろうか、たとえば、タクシーが交差点の手前で停止している短い時間に、アッという間にひとりで降りてしまうことがあった。よく怪我をしなかったものである。(「思い出す顔」 戸板康二) 芥川比呂志の酒 


ばくち打ちとどさ廻りの剣術遣い
さて、ばくち打ちとどさ廻りの剣術遣いの話は、そちこちにある。新徴組の生残りだった千葉鳴鶴翁からきいたが、昔の武者修行と称して地方などを歩き廻った奴の半分は仕様もない奴でごろつきも同然だったという。天下の江戸だ、名人が沢山いる。本気で修行をする気なら江戸で腰を据えてやらなくては駄目だ。わざわざ地方へ行くのは、土地の親分のところへ草鞋(わらじ)をぬいで、子分達にまあいい加減にポンポンやって、後は酒をのんだり、白粉(おしろい)をべとべとぬりたくった女などをからかって、何日か滞在して、面白くなければひょいと外の土地へ流れて行く。親分は大抵見栄坊だ。外で悪口を言われるのがいやだからみんな草鞋銭は奮発する。子分達は元より本気で剣術を習うなんて気はない。稽古に強くぶんなぐられるのが辛いから先生先生といって、酒などをのみに案内して行く。行状が悪いから途中で病気をするものもある。村はずれの廃寺や辻堂などで哀れな最期を遂げる者も間々(まま)あった。(「よろず覚え帖」 子母澤寛) 


清正公酒屋
「-お前さんが五歳(いつつ)の時だよ、小僧と遊びに出したら火が付いたように泣いて家(うち)へ帰って来たんだ。なんで急に泣いているんだ。小僧のいうのには、虎屋の看板を、饅頭屋の虎の看板を見て火の付いたように泣きだしたんです、という。-」
「-そんなことで、一心不乱に清正様へ私が祈った、信心した。泣き止んだ。ケロッと治って、ニコニコ笑ってる。ああ、御利益だというんで、すぐ浜町へ人をやり、熊本へもはるばる代参を立てるという始末だ。そこで、清正様の木造をこしらえて、これを店へ飾って置くと、誰いうとなく、嘘か本当か知らない、酒を買いに来ると、清正公がニコニコ笑ったてえンだ。中にはゲラゲラ笑ったの、いろんな話に尾鰭(おひれ)がついて、遠いところから家(うち)の酒を、いえ酒目当てよりも清正公目当てに買いに来る様になったんだよ。誰いうとなく清正公酒屋というようになって今日のこの繁盛だ。ねえ。これだけになったのはこういう経緯(いきさつ)があるんだ。(「立川談志独り会第一巻 清正公酒屋」 立川談志) 酒屋と饅頭屋で、それぞれの子供が小さかったとき相手の店の看板を見て泣き止まなくなり、文句を言っても互いに降ろさなかったため口も利かなくなった。ところが酒屋の息子と饅頭屋の娘が相思相愛になり…という咄です。 


虚栄心
そういえばいつか毎日新聞のコラムに横山隆一さんが、「虚栄心」という題の、面白いエッセイを書いていられた。それは虚栄心もまた生活力の一つで、仕事の上でも酒の上でも、それがなくなれば、ただのじじいとなってしまうというような意味を書かれた、味わい深い短文であった。失礼してちょっと引用させて頂くと、若いとき、「『相当いけるでしょう』『酒ですか、ええ、まあ一升は』などといったため、無理をして呑むようになった。」というところがある。そして年をとられた近ごろも、つい虚栄心から、「またまた無理を重ねている。」と書いていられるのだが、あんな愉しそうに、にこにこと飲んでいられる横山さんのお酒でも、どこかにそうした見栄がひそんでいるものなのだろうか。でも私には、そうしたお酒にまつわる男の見栄は、やっぱり捨てがたい魅力として、胸をときめかせるものがある。(「夫恋記」 十返千鶴子) 


晩酌は欠かしたことがなかった
蔵六(大村益次郎)は酒は一、二合はたしなみ、晩酌は欠かしたことがなかった。肴(さかな)はたいてい豆腐だった。豆腐は安くて栄養があるといいながら、豆腐を肴に静かに、なめるように飲むのが唯一の楽しみであった。あるとき、兵学の門下生の山田市之允(やまだいちのすけ 顕義(あきよし))を招いてご馳走(ちそう)したことがあったが、市之允は肴の豆腐には手をつけなかった。蔵六は色をなして訓戒した。「豆腐は栄養がいちばん豊富だ。豆腐さえあれば、体が十分以上保つのに、うまくないといって、箸(はし)もつけないのは沙汰(さた)のかぎりだ」(「人物おもしろ日本史」 土橋治重) 


関羽と華陀
関平は多いに喜んで、すぐ参謀たちに引き合わせ、諸将ともども華陀を案内して本陣へ入った。関羽はひじの痛みに堪えかねていたが、士気への影響を気遣い、せめてもの気晴らしに馬良(ばりよう)と碁(ご)を囲んでいるところであったから、医師が来たと聞き、すぐ通させた。挨拶がすみ、関羽は座をすすめて、茶を出すと、華陀はひじを拝見しようと言う。関羽は肌脱ぎになり、ひじを差しのべて華陀に見せた。華陀「これは石弓の矢傷ながら、とりかぶとの毒を用いたと見え、その毒が骨にまでしみ込んでおりまする。すぐ療治いたしませねば、このひじは利(き)かぬようになりまするぞ」。関羽「手当てには何を用いる」。華陀「それがし、一つの法がござる。尻込(しりご)みなされませぬかな」。関羽は笑って「わしは、死をも恐れぬ。何で尻込みしようぞ」。華陀「それならば、奥まったところに柱を立て、柱に大きな輪を打ちつけ、将軍のひじをその輪に通し、縄でしばった上、夜具で顔をかくしていただきまする。それがし、鋭い小刀で肉を切り開き。骨についた毒を削(けず)り取った上、薬を塗り、糸で縫い合わせれば、だいじょうぶでござる。したが、気おくれめされませぬかな」。関羽「それはたやすいこと。柱も無用じゃ」と笑い、酒席を設けてもてなした」。関羽は五、六杯飲むと、また馬良に碁の相手をさせながら、ひじを差し出して華陀に切り裂かせた。華陀は、鋭い小刀を手にし、小頭(こがしら)に大きな鉢でひじの血を受けるように言いつけると、「さ、切りまするぞ。お心しずかに」。関羽「よいとも、切れ。思いどおりに手当して下されい。わしは世の俗人どもとは違うぞ」。そこで華陀が骨のところまで肉を切り開くと、果して骨は青くなっていた。小刀で骨をこそげるぎしぎしという音に、なみいるものは真っ青になって顔をおおうてしまった。しかし関羽は、酒を飲み肉をつまんで、平然と談笑しながら碁に打ち興じ、苦しい顔一つしかなかった。(「三国志」 小川環樹・金田純一郎訳) 


泥酔の中にあってだけ
バナナの皮ですべって転んでいる男と、それを見て笑っている男が、同時におれの中にいるのだ。苦痛に対する耐性を得るために、無意識のうちに自分をふたつに裂いたのかもしれない。このふたつの存在は互いを毛嫌いしているが、唯一、泥酔の中にあってだけ重なり合ってひとつのものになった。このふたつが溶解し合ったときにだけ、そこからほんものの怒りや悲しみがたちのぼってくるのだった。泥酔していないときのおれは、苦笑いだけが得意な、いわば感情喪失者だった。(「今夜、すべてのバーに」 中島らも) 


カロリーの不足は酒で補うことができる
というのは、有山恒博士の若い頃の研究に、鼠に酒精を飲ませる実験があって、その実験結果は酒精は栄養になるというのであったが、それから三〇年を経過したけれども、その間、誰もこの研究結果に文句をつける者がなかった。それからみると、学会でもこの研究結果に異存がないというわけであろう。私はもちろん有山博士の結果を信じて疑わない。有山博士は蛋白質やビタミン、ミネラル等は十分だが、カロリーだけは足らぬ餌で鼠を飼ったのである。鼠はカロリーが足らぬので成長はできないのであるが、それに酒精を飲ませてみると、それは健康に育って一人前ならぬ一匹前の鼠になったのである。酒は栄養になる。蛋白質、ビタミン、ミネラル等があれば、カロリーの不足は酒で補うことができる、というわけである。だから米の飯は食べなくて投手の勤まる人があっても、栄養学上からは何も不思議はないということになった。(「イモめし時代の雑記帳」 川上行蔵) 


献立とは
おいしい料理は、料理場に立つまでにあれこれと献立づくりに考え悩んで、完全な献立ができあがれば、その大半は約束されます。ところが、下戸の方には申訳ありませんが、献立とは、もともと酒をすすめる者の味の帰伏を決定するもので、江戸期の古文書に「祝賀の宴などの式を正(ただ)すに、式三献、七五三などの儀あり、皆、献の数によりて名づけたる也。献とは肴を出す毎に更にあらためて盃を勧むるをいふ。古来、三の数を喜びて、式三の時には三献を用い、猶ほ華奢の風の増加するに従ひて、五献、七献に及び、殊に三を三(み)たび重ぬるを目出度しとして、九献を進む。されば酒の異名を九献と呼び、江戸時代に至りても、婚儀の盃を三々九度といひならはせり。七五三は、七献、五献、三献を重ねるの儀にして、将軍家などには十七献を重ぬる事もありき」とありまして、必要以上に料理の品数の多いことを、ご馳走なりと思っていたようで、世の中も太平が続き、二の膳、三の膳などと豪華な歓待をしたのでありました。(「献立づくり」 辻嘉一 「日本の名随筆26 肴」 池波正太郎編) 


こいつらよく飲むな
中上 だから、話が楽しい時はさ、みんなが飲んでても、自分は水だけで酔っちゃう。
野田 そうそう。しかし、酒ほどすごい文化もないね。立派なもんだよ。
高平 盛り上がっている時に(その場に)入っていくってのは辛いね。仕事なんかで遅れたとかで…。
野田 うん、辛いね。本当に辛い。
中上 だけど俺、禁酒していると、(まわりを見て)こいつらよく飲むなあっていうぐらいに飲むね。
高平 バカじゃないかってぐらい(笑)。
中上 俺はそれまではさ、編集長が三時ぐらいに「もう帰ります」って言うと、「ふざけんなバカヤロウ。作家がつき合ってるのに、おまえが返るのか!」とか言ってたんだよ。
野田 その場に会ったことあるもん。俺(爆笑)。俺はわりと地味に飲んでたの。そしたら、すっげえうるさいのがグワァーッて入ってきてさ(笑う)。そのイメージがあるから、俺、びっくりしたよ、今日。(「有名人」 中上健次・高平哲郎・野田秀樹) 


サラ川(23)
飲み放題朝ひる抜いて悪酔いし 読み人知らず
割勘(わりかん)でいこうと上司先手打ち 鶴尾
居酒屋で言うな会議の席で言え 粋撤
酒・たばこやめた!今日からウツになり 小心者
依存症昔お酒で今メール かぐや姫(「サラ川」傑作選 山藤章二・尾藤三柳・第一生命 選) 


六兵衛
酒でわたしに忘れられない人は、晩年の三好達治である。東京渋谷の道玄坂下にかつて恋文横丁という入りくんだ露地があって、そこに六兵衛といういいスシ屋があった。値段も高いがスシ種も酒もいい店で、そこで何度か三好さんを見かけたのである。三好達治はいつも燻(くす)んだ色の着物を着て、ひとりで黙々とのんでいた。一種深沈とした感じが漂い、とても未知の若造が気安く話しかけられるような雰囲気ではなかった。あんな孤独さを滲ませて酒をのんでいる人を、私はその後見たことがない。年譜で調べると三好さんは当時まだ六十代前半の、決して年寄りという年齢ではないが、家族と離れて世田谷にひとり下宿していたようで、そういう生活からくる孤独感であったかもしれない。わたしの記憶に残っているのは、暗いそのころの道玄坂をからだをゆすりながらいかにも蹌踉(そうろう)といった感じでゲタの音をたてて帰ってゆく三好達治の姿である。三好さんがそれからまもなく亡くなられただけに、その孤独な姿が目に焼きついている。その三好達治は最後の詩集『百たびののち』に「閑窓の一盞(いつさん)」という詩を書いている。
憐れむべし糊口(ここう)に穢(けが)れたれば
一盞はまづわが腹わたにそそぐべし
よき友たおほく地下にあり
時に彼らを憶ふ
また一盞をそそぐべし
わが心つめたき石に似たれども
世に憤りなきにしもあらず
また一盞をそそぐべし
そういう孤独な詩だが、これが当時六兵衛で酒をのんでいた詩人の心であったかと思う。そしていまや三好達治の没年齢より四歳馬齢を重ねたわたしも、遅ればせながら詩人のこの心境に共感しつつ、毎晩晩酌を重ねているのである。わたしの尊敬する先師や友人の多くもすでに地下に在り、彼らを思い、また世に憤りつつ酔いを深めていく。老年の酒はおのずから深沈とした色合いにならざるを得ないのであろうか。しかしわたしはそういう気が決してきらいではない。(「人生のこみち」 中野孝次) 


呉春
「呉春」の名は江戸中期の画家で、四条派の祖松村呉春にちなむと聞くが、かつては伊丹や灘と肩を並べた銘醸地で、元禄期にすでに三十八軒の造り酒屋があった池田も、現在はこの「呉春」だけとのことである。もう二十年以上もむかしの話になるが、当時わたくしは中央公論社に勤めて、谷崎潤一郎の担当を命じられていた関係で、熱海や湯河原の谷崎家を訪れると、「綱淵さんは日本酒がお好きだそうで」と、よく酒をもらった。それがいつも「呉春」であった。「呉春」の蔵元西田秀生(ひでお)氏は大の谷崎ファンで、谷崎が関西在住の頃はつねに谷崎家に出入りしておられた。わたくしも一、二度、-もっともこれは谷崎先生の亡くなられたあとであるが、西田さんに谷崎関係のコレクションや資料を見せてもらいに、池田氏の「呉春」の酒蔵を訪れたことがある。「呉春」の原料はわが国最高の酒米といわれる岡山の<赤磐雄町(あかいわおまち)>である。しかも西田さんは、酒造りは企業化してはならないという信念から、「呉春が飲みたいといって買ってくれる人だけに飲んでもらえればいい」といって、派手な宣伝も配達もいっさいしない。谷崎家からもらって来た「呉春」は、われわれのあいだでは別格扱いであった。退社後、同僚を誘って新橋の<茶茶(ちやちゃ)>という飲み屋に持ち込み(この店は森繁久彌氏のマネージャーをしていた篠崎さんの未亡人が経営していた)、西田さんの人柄をしのばせるその味を有難がったのも、懐かしい思い出である。(「人生覗きからくり」 綱淵謙錠) 


梅蘭芳に
うれしや、うれしや、梅蘭芳(メイランフワン)
今夜、世界は
(ほんに、まあ、華美(はで)な唐画の世界、)
真赤な、真赤な
石竹の色をして匂ひます。
おお、あなた故に、梅蘭芳、
あなたの美くしい楊貴妃ゆゑに、梅蘭芳ン、
愛に焦れた女ごころが
この不思議な芳しい酒となり、
世界を浸ひたして流れます。
梅蘭芳、
あなたも酔つてゐる、
あなたの楊貴妃も酔つてゐる、
世界も酔つてゐる、
わたしも酔つてゐる、
むしやうに高いソプラノの
支那の鼓弓(こきう)も酔つてゐる。
うれしや、うれしや、梅蘭芳。(「梅蘭芳に」 与謝野晶子) 


翌日もくる。翌々日もくる。
その時、突然、北が私の山小屋にあらわれたのである。昨日まで先輩に道でペコペコ頭をさげていた私は、はじめて頭を下げなくてもいい友人に出会ったことを大いに悦び「友あり、遠方より、来たる。また楽しからずや」と手を打ったほどだった。しかし北は、礼儀正しく、ここで失礼すると答えた。聞くと、家族は東京に残して、すぐ近くの某家の一室を借り『楡家の人びと』を執筆中ということだった。私が「まあ、いいじゃありませんか」と奨めると、北はしばらく考えていたが、「そうですか。では五分、お邪魔しましょう」そう言って家のなかにあがってきた。私が高級なるウイスキーを出すと北は手をふり「かまわんで下さい。五分で失礼します」と叫んだが、無理矢理、一杯、注ぐと、「そうですか。では一杯だけ」そしてたちまち一杯、飲みほしてしまった。二杯目をつごうとすると、首をふったが、まもなく、「そうですか、では二杯で終わりにします」と言った。こうした動作がわれわれの間に幾回かくりかえされた後、北は六杯目、七杯目をいつの間にか飲みほし顔は赤黒くなってきたが、突然、今までの謙譲な態度がガラリと変り、ともすればウイスキーの瓶をもう引っ込めようとする私の手から(なにしろ、そのウイスキーは高くて私も惜しくなってきたのである)瓶をひったくり、ドクドクドクッとコップの一番上までついで「あんた、こんなものを飲んどるですか。ぼくは平生、フランスのコニャックの銘柄しか飲まんですぞ。人間、飲みものにケチケチしていてはいいもの書けんですな。ぼくはあんたや山口瞳と同じようにエロ場面など絶対、小説に書かんが、やがてみんながビックリする大場面を書く決心がありますぞ。火星の女と地球の男の恋愛場面ですな。これを読んだら、あんたたちは腰をぬかして驚くですぞ」レロレロの舌でレロレロロと三時間も演説し、のみならず、「いい匂いがする。何を食っとるですか、お宅は。ぼくも食ってやるですぞ」夕食も食べて引きあげたものだ。さあ、それからと言うものは翌日もくる。翌々日もくる。(「北杜夫氏の巻」 遠藤周作) 



家から刀を盗んできて売つて酒をのんだ
新潟中学の私は全く無茶で、私は無礼千万な子供であり、姓は忘れてしまつたがモデルといふ渾名(あだな)の絵の先生が主任で、欠席届をだせといふ。私は偽造してきて、ハイヨといつて先生に投げて渡した。先生は気の弱い人だから恨めしさうに怒りをこめて睨んだだけだが、私は今でも済まないことだと思つてゐる。先生にバケツを投げつけて窓から逃げだしたり、毎日学校を休んでゐるくせに、放課後になると柔道だけ稽古に行く。先生に見つかつて逃げだす。そして、北村といふチョーチン屋の子供だの大谷といふ女郎屋の子供と六花会といふのを作り、学校を休んでパン屋の二階でカルタの稽古をしてゐた。カルタといふのは小倉百人一首のことで、正月やるあの遊びで、これを一年半も毎日々々学校を休んで夢中で練習してゐたのだから全く話にならない。大谷といふ女郎屋の倅は二年生のくせに薬瓶へ酒をつめて学校で飲んでゐる男で、試験のとき英語の先生のところへ忍んで行つて試験の問題を盗んできたことがあつた。私が家から刀を盗んできて売つて酒をのんだこともあり、一度だけだが、料理屋でドンチャン騒ぎをやらかしたことがある。かういふことは大谷が先生であつたやうで、外に渡辺といふ達人もゐた。これが中学二年生の行状で、荒れ果てゝゐたが、私の魂は今と変らぬ切ないものであつた。この切なさは全く今と変らない。恐らく終生変らず、又、育つこともないもので、怖れ、恋ふる切なさ、逃げ、高まりたい切なさ、十五の私も、四十の私も変りはないのだ。(「石の思ひ」 坂口安吾) 



オレの焼酎(とうちゆう)!
駅前の広場ではまともに立ってもいられないグデングデンの夫を、両脇から先刻の電話のかたが奥さんと二人で抱きかかえて待っていてくださいました。思ったよりずっと若い、いかにも新婚のご夫婦でした。傍らにはうちの小さな息子がキョトンとして人形のように立っています。"とにかくお二人とも、うちまでいらして頂けませんか?"私はこの気持ちのよい若いお二人を、どうやっておもてなしすればよいかと、ビールやウイスキーやお菓子やおつまみや果物、くだらないものまでありったけお出ししてご接待をしていますと、ソファにのびてぐったりとしていた主人がどうしたことか急に元気づいてきて起き上がり、"お前はダレだ!"と口癖の科白でお客にからみ始めます。"おとうちゃま、あなたを助けてくださったかたよ、こんな好いかたがいてくださったんで、あなた命拾いしたんですよ。よくよくお礼をおっしゃらなけりゃ…""何を!オレが誰に助けられたって言うんだ。俺はだナ、誰の助けも借りはせんゾ。黒田三郎は独立独歩の人間だ!それをよくもおマエは-"立ち上がってお客に襲いかかりそうになったので、お客は恐れをなして腰を浮かします。私は恥ずかしさに赤くなりながら帰って頂くようにお願いしました。"すみません、いらして頂いて、かえって悪かったわ、本当にゴメンナサイ"とっさに私は隠しおいたるナポレオンを思い出し、主人の目を盗んで客に渡しました。すると、あとから玄関に躍り出てきた酔っぱらいが、客の腕のなかのナポレオンの箱をみるや怒りのためにどもりながら指をつき出し、"そ、それ、オレの焼酎(とうちゆう)!オレの、焼酎(とうちゆう)!"(「夫と酒瓶と私」 黒田光子) 子供の散歩という名目で、外で飲んで酔っぱらった挙げ句、駅で線路におちたところを助けてもらったときのことだそうです。 


対面三重で盃事
曾我狂言で、江戸歌舞伎らしい特色は、二人が揚げ幕から舞台に出てくるとき、対面三重(さんじゆう)という、曾我兄弟が出てくるところだけに弾かれる三味線が演奏されることです。その三味線に乗りまして、まず曾我の十郎が島台(しまだい)を持って出てまいります。弟の五郎のほうが主役でありまして、次に花道を荒々しく出てきます。五郎が出てまいりまして、そこで非情な勇みになります。花道へ出てくるときには、朝比奈三郎が呼び出します。この朝比奈が江戸歌舞伎ですから、私ども関西だとアサヒナと言うのですが、今でもアサイナと言います。この朝比奈が花道のところまで行って、「何と聞いたかいまの言葉。一﨟職の祐経どんが会つてやらうとぎやるほどに、おめず臆せず恥じらはず、急いでこれへのたくりつん出ろエエ」と関東言葉で申します。その朝比奈が糸鬢の変な格好をしておりまして独特の荒事言葉でやります。そうするとさっきの対面三重で二人が出てくるということになるのです。そしてそこで盃事になるのですが、その盃事のときに、近江、八幡という工藤祐経の二人の家来が盃をはこびます。兄の十郎は素直に盃を頂戴しますが、五郎はなかなか素直に頂戴いたしません。しかし兄に、粗相のないように盃を受けなさい、とたしなめられまして、五郎は合点だ、といって、五指を開いた左手を真横に強く工藤に突きつけ、右手を胸の前に五指を開いた工藤へつっかかる勇みの姿で有名な五郎のせりふをのべたてるのです。(「江戸文化誌」 西山松之助) 


金太郎飴がまた出る父の酒  高瀬霜石
じさま(祖父)の日露戦争から始まって、自分の戦争後体験に話がいたるころは、父も相当酔いがまわっている。判で捺(お)したような戦争話だけれど「うんうん」「ほうほう」と聞いてやる。父もとしだものなあ。どこを折っても金太郎飴のような父の話に、あたたかく接している作者の人柄がにじむ。
モノクロの記憶の中の赤い酒  泉組子
スマートな句だ。テレビのコマーシャル式の句だが、カクテルグラスにゆれる真紅の酒は鮮明だ。もう遠い記憶の中に、あなたも、私も、赤い酒があるはずだ。(「川柳新子座」 時実新子) 


頭の中で猛烈にしゃべる癖
独りで深く酔うと、ぼくは頭の中で猛烈にしゃべりはじめる癖がある。さらに酔うと、眼の前に誰か相手がいて、その人に向ってしゃべっているような、錯覚に包まれて、つい相槌(あいづち)を求めたり、あんたどう思う?なんて独り言を言ったりするんだ。そして不意に我にかえって、自分が独りで飲んでいることに気づいて、なんだか拍子抜けを感じたりするわけ。だいたい、独りでなくても、酒に酔うとぼくは果しなくしゃべりたくなる。事実しゃべる。ただし、酒場でホステスなんかがいるときは、我慢してしゃべらないように努める。そうしないと、ホステス相手におしゃべりの堰(せき)を切ってしまうと、識らぬ間に彼女を口説いて、面倒を起こすにきまっているからだ。もっとも、そうなるときまっていると、僕が勝手に思いこんでいるだけで、口説いてみたって相手が応じてくれるかどうかはわからない。猛烈にしゃべるということと、酔っているときに戸締りや火元の始末をすると、異常なほどしつこくなる、というのが、ぼくの酒癖なんだ。たったいままちがいなく閉めたガスの元栓を、くり返し、閉まっているかどうか確かめなければ気がすまない。ドアや窓の鍵も同じことである。だから時間がかかる。これはわれながらモノマニアックだと思う。そのくせ、酔って寝たばこをして、火事を起こしかけたことがあるのだから、帳尻が合わない。(「酒癖」 勝目梓) 



353酒十駄(じふだ)ゆりもて行(ゆく)や夏こだち*(明和八・四・一三) 蕪村句集 夏之部
箱根にて
405あま酒の地獄もちかし箱根山(はこねやま)*(明和五・六・八)
注405 箱根にて-『句帳』に前書なし。召波亭会、兼題「一夜酒」による作。 あま酒-箱根街道笈が平の茶屋の名物。(五街道細見記)。 地獄-硫黄の煙を噴く所。 蕪村句集 


酒に交われば(2)
酒をまったくのまぬ人に、早死にが多いという。独身者にも、それが多いとか…。それはさておき、いまの私にとって、酒はまさに、「百薬の長」に、なってしまった。小説を書く仕事は、どうしても運動が不足するし、中年になると、尚更そうなる。そうした躰の血のめぐりをよくするのは、酒がいちばんだ。酒あればこそ、食もすすむ。夕暮れに、晩酌をし、食事をすませてのち一時間ほどぐっすりねむる。これで、昼間の疲れが、私の場合は一度にとれてしまう。按摩(あんま)をする前にも、かるく酒をのんでおくほうがよい。効果が倍になるとおもう。仕事が行きづまり、苦しみ悩んでいるときは、決して酒に逃げない。こういうときの酒は、もっとも躰によろしくない。酒はたのしい気分のときにのみ、のむ。「それなら、あんたは毎日、晩酌をしているんだから、毎日たのしいんですか?」と、文藝春秋社の前社長・池島信平氏にいわれたことがある。「そうです。一日中つまらなかったというのは、一年のうち二日か三日ですね」といったら、「あんたは、ふしぎな人だ」と池島氏にいわれた。いうまでもなく、夜ふけから明け方まではたのしいどころではない。仕事中だからだ。この間は一滴ものまぬ仕事を終え、ベッドへ入る前に、軽くウィスキーを飲むだけである。(「池波正太郎自選随筆集」 池波正太郎) 


無理に瘠せたファッション・モデル
それはさておき、この頃はあまりに吟醸酒ばかりが、もてはやされ過ぎるのではなかろうか。私は勿論、吟醸酒も結構なものだとは思う。しかし仮に、日本酒が吟醸ばかりになってしまったら、これは何と淋しいことだろう。どうかすると吟醸酒というのは、べつにO君の話をきいたせいでもないが、何処か無理に瘠せたファッション・モデルを見るような感じがしないでもない。よく出来た吟醸酒でも、日本酒本来の豊かさや素直さには及ばないものがあるのではないか。(「父の酒」 安岡章太郎) 昭和53年に発表されたものだそうです。 


「良き贈り物」である強い酒類
しかしながら、この頃の酒飲みの間ではビールやエールは「良き贈り物」である強い酒類に比べるとつねに二流にすぎず、強い酒の方が寿命を延ばすのに良いと信じられていた。当時誕生したばかりの生命保険業者は、酒を飲まぬ者にたいしては危険料として一〇パーセントの割増料金を課したほどである。(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳) 


胎児性アルコール症候群
脳は胎児の状態でも、かなり早期に発達を始めます。まだ妊娠に気づいていない段階で、すでに胎児には脳が存在しているのです。受精後一八~二二日頃、妊娠一か月の終わり頃から二か月の初めあたりに、脳のもとになる部分ができます。妊娠二か月の中頃には、脳管と呼ばれる三つの膨らみができ、この一つがやがて大脳になるのです。妊娠四か月目には大脳は大きくなり、前頭葉なども形成されます。親の喫煙や飲酒の習慣は、このような胎児の脳にも影響を及ぼします。古くは一八九九年に、アルコール中毒の母親から生まれた乳児の死亡率が、アルコールを飲まない母親の乳児死亡率よりも高いことが報告されており、アルコールによる影響ではないかと見られていました。いまでは、胎児性アルコール症候群(FAS:Fetal alchool syndrome)がよく知られています。アルコール摂取歴のある母親から生まれた子に、特徴的な顔貌(がんぼう)(小さな目、薄い唇、長い人中(にんちゆう)、小頭、短い鼻、小顎(しようがく)、耳の変形)、発達不全、中枢(ちゆうすう)神経系の障害(学習、記憶、注意力、コミュニケーション、視覚・聴覚など)が見られるものです。(「記憶がなくなるまで飲んでも、なぜ家にたどり着けるのか?」 川島隆太・泰羅雅登) 


ナバホの居留地の向う側
ナバホの居留地の中では酒の売買は違法である。しかし、居留地の境界線の向う側にはインディアン目当ての白人の経営する酒屋がずらりと並んでいるのだ。約一五〇年前、長い攻防戦の末ナバホが合衆国政府軍に全面降伏した時、こんな条約を結んだ。「ナバホは白人の邪魔にならない所(つまり居留地)に移住する。その代り、アメリカ政府はナバホが生活できるように食糧、衣類、その他を与えるものとする」この条約は今でも生きており、ナバホたちは居留地にいる限り、様々な補助、生活保護を受けて「生きる」ことだけはできる。生活保護の小切手が送られて来る金曜日になると居留地中のナバホの男たちは最寄りの白人の町を大挙して襲撃する。目標はバーだ。翌朝、金を使いはたしてトボトボと居留地に帰る彼らの姿が見られる。(「ゆらゆらとユーコン」 野田知佑) 

お盃を嘗める
気がついた時には、晩酌をしている父の膝の中にちょこんと入って、父の前に並べられた酒の肴を口に入れてもらいながらお盃を嘗(な)めていました。染付や赤絵の小皿に少しずつ盛られたお酒の肴は、とてもおいしそうに見えました。「いけません、其れはパパのです」とよく母に叱られたものです。戦後まもなくの新潟県高田のころのことですから、お酒は、母の手づくりのどぶろくだったでしょう。子どもたちのためにとは派の里から送られてくるお米は、ほとんどが父のお酒になってしまったようです。ですから私にも父のお酒やお肴を失敬して嘗めるぐらいの権利はあったわけです。悪いお酒で何人もの人が病気になったり亡くなったりした時代に、一日だって父にお酒の不自由をさせなかったというのが母の自慢でした。(「父の形見草-堀口大學と私」 堀口すみれ子) 


489 王勣(わうせき)郷の霞(かすみ)は浪(なみ)を縈(めぐ)つて脆し 二嵆康山(けいかうさん)の雪(ゆき)は流(りう)を逐(お)うて飛(と)ぶ 保胤(ほういん)
王勣郷霞縈浪脆 嵆康山雪逐流飛 保胤
私注 「酔者水花 慶保胤」。 一 王勣が酔郷記を作ったのでいう。酔郷の意。彼は斗酒学士、五斗先生と号した。 二 嵆康が酔うと玉山がくずれるようだったのでいう、酔っぱらいの姿。ともに晋の竹林七賢の一。 ▽水亭に花を賞して酒を飲めば、花はまるで王勣の酔郷の霞だ、浪にもろく散ってひるがえる。花は嵆康のように酔っぱらった姿に散りかかり、さながら玉山の雪ととんで、水にうかんで流れ去る。(「和漢朗詠集」 酒 川口久雄・志田延義校注) 


六月三十日 月 十二夜
朝の内はなほ雨降る。後曇。午後運輸省行き、それから運輸相前のガード下のいつもの床屋へ散髪に行き、又運輸省に帰りて桜菊書院の残月、愛育社の長い塀の扉や表紙の題薟を書き、四谷迄平山と同車にて帰る。夕は清兵衛をよぶつもりであつたが差閊の事にて明日にのばす。青木同座にて麦酒四本御酒二合飲む。今日のこの二合と明後日に一合宛をどこで入手したかメモにつけ落しにて分明ならず。麦酒四本は配給なり、青木がゐる為に二本宛が四本になりたるなり、又門内井上より二本六十円宛にて入手す。(記入七月二十九日)(「百鬼園戦後日記」 内田百閒) 昭和22年です。 


下品といわれるくらいの方がうまいんじゃないか
どうも食いものは上品なのより、ちょっとくだけた、むしろ下品といわれるくらいの方がうまいんじゃないか、とわたしは思っている。むろんわたしの一人考えだが。むかし大山でスキーをした帰り米子で松葉蟹を一籠買って、寝台車の中でその蟹を肴に友人のプロスキーヤー笹川雄一郎と飲んだことがあった。あまりにいい味なのでしまいに甲羅に酒を注いで飲みだしたら、これまた絶品でこたえられなかった。-という話を随筆集にのせたところ、最近福井の方から、あれは土地では甲羅酒というとお手紙を頂いた。甲羅をがばっとはがして熱燗(あつかん)を注ぎ、中のもろもろが酒にほとびるのを待って飲む。これをやったらもう何も要らず、「蟹の足なぞ犬にでもくれてやれ」ということになるんだそうな。ただしこれは土地でもあまり上品な飲み方とはされておりません、とその方は付け加えていられたが。(「ひとり遊び」 中野孝次) 


芥川と大鵬
一度などは、銀座のバーで、ホステス達に囲まれて上機嫌だったのに、横綱の大鵬がはいってきたため、おんなたちがそつちへ去つて、一人か二人しか残らない。芥川(比呂志)さんはすつかりひがんで、ヒヨロヒヨロしながら大鵬に近づいて悪態をついたが、向うはニコニコしてゐて相手にならない。筆者は必死になつて止め、外へ連れ出した、とのことであつた。さて、そのゴシップが、いくら探しても見つからない。刊行の日取りが迫る。そこでわたしは柴田さんに、「芥川さんの所へいつて訊いてみろよ。知つてると思ふ」と言つた。すると柴田さんは、「わたしは芥川さんの担当編集者で、随筆集を二冊、出させていただいてます。そんな失礼なこと、できません」と言ふ。その気持ちはわからぬでもないが、もしもその随筆が見つかつたら、平気で本に入れるわけだから、その辺の論理は難解だつた。(「軽いつづら」 丸谷才一) 辻邦生との企画「エッセイ おとなの時間」に入れようと、矢代静一の書いたらしい、芥川比呂志の酒癖を書いた随筆を探した話だそうです。 


酒席の接待について
人を接待する場合、口頭でまず先方の了解を得た上で正式な招待状を発送するのが近頃のならわしで、そこには日時場所地図等が明記されているのが常だが、そうした招待状の発送はひと月以上前であることが多い。ということは、先方が失念していることもないとはいえないから、当日確認の連絡を入れて念をついておく必要がある。さらに、予定はしているものの、宴席の地図を紛失している場合もあるから、その辺もいま一度再確認しておかなければならない。ただ、「もう一度地図を教えて貰いたい」と先方に求められた場合、当日のことでもあり、「それではFAXで…」と言いたいところだが、面倒でも足を運んで地図を届け直した方がいい。なぜなら、FAXが失礼だからということではなく、接待を受けるということは、しばしば自分の会社の人間に知られては困る場合があるからだ。それをFAXで送りでもしたら、先方のFAXの設置場所にもよるが、誰の目につくか知れたものではなく、そのことでとんだ迷惑をかけることにもなりかねないし、そんなことになったら接待どころか逆効果になってしまう。同じ理由で、迎えに出向くのも時と場合によりけりで、先方によく確かめた上でないと、その親切がかえってまずい結果を招く。接待場所で客を待つ場合も、店の人間に言ってあるからと、座敷でのんびり待ち受けているよりは、店の外へ出て先方の到着を迎える方がさらに念が入っているし、先方が店を間違えて迷うということも防げる。(「男とは何か」 諸井薫) 


飲中八仙歌(8)
8 焦遂五斗方卓然  焦遂(しようすい)は五斗(ごと) 方(はじ)めて卓然(たくぜん)
  高談雄辨驚四筵  高談(こうだん)雄辨(ゆうべん)四筵(しえん)を驚(おどろ)かす(「唐詩選」 前野直彬註解)
訳 8 焦遂は五斗飲んで、はじめてしゃんとなる。そして高遠な議論と雄弁で、一座の人々を驚かせる。(「唐詩選」 前野直彬註解) 


口まめ
「おい、八公、おれはきのう大家さんへいって、いろいろお世辞をいったら、こんな上等な皮足袋をもらったよ」「そうか、そりゃとんだもうけ物をしたな。よーし、おれもいって、もらってこよう」それから、大家さんへいって、いろいろお世辞をいったが、なんいもくれない。だが、どうしてももらう気で、思いきりお世辞をならべると、大屋が、「お前はまったく口まめな男だなあ。酒でものませてやろうと思うが、酒はやれるか」ときいた。すると、八公が、いさんで、「ええ、酒ものみますし、皮足袋もはきます」(「江戸小咄大観」 田辺貞之助) 


チビリチビリやりながら、相の手に箸を伸ばす
まだ六月というのに、すっかり真夏の陽気である。暑いのはそれほど苦にならない方だから、こうして早く帰宅すると、パンツ一つで日の陰った庭に出て水を撒く、こんなことに楽しみを見出すようになったのも、老いてきたせいだろう。庭から上がるといよいよ食事となるが、今晩の献立を順番に並べよう。 酒一合(賀茂鶴) 焼き油揚げ 冷奴(豆腐半丁) 浅蜊佃煮少々 塩雲丹少々 焼き鱈子 グリーン・アスパラガス 摘み菜のおひたし 薄切り牛肉の網焼き、ポン酢醤油と大根おろし添え しじみの味噌汁 納豆 梅干 ご飯 おぐらアイスクリーム ざっとこんな具合である。やたら品数が多くて豪華に見えるが、これは料理のメニューでよく使う手であって、内実それほどのことはない。なに、ロクなものがない…?どう思おうとあなたの勝手だが、わたしは今日の晩飯はたいへん気に入っている。暑い日は、酒は冷やがよい。ガラスの器に入れて氷を浮かべ、それを小さな猪口でチビリチビリとたしなむ。猪口が小さいところへもってきて、氷が少しずつ融けて分量がふえるから、なかなか一合の酒が減らない。肴はカミさんがそのへんをウロついて買ってきたものに、冷蔵庫から取り出したもの…つまり有り合わせであるが、カミさんはわたしの好みをよく知っている。それをこうしてずらりと並べて、チビリチビリやりながら、相の手に箸を伸ばすのはまた格別である。(「深夜ひそかに鎌を研ぐ」 藤原武) 


車夫を門柱に縛す
(後藤)象次ママ郎が初めて元老院へ出仕する日のこと、朝早く綱引車に乗って蓬莱社に至り、礼服を着用せんとすると、車夫がうるさく酒代をねだって止まない。象次郎聞えぬ風をしていると、果ては冷語を発して侮辱するに至った。象次郎大いに怒って奮然力に任して綱を引きちぎり、二人の車夫を捕えて社の門柱に縛り、悠然として其処を立ち去った。(「日本逸話全集」 田中貢太郎) 


飲中八仙歌(7)
7 張旭三杯草聖傳 張旭(ちようりよく)は三杯(さんばい) 草聖(そうせい)伝(つた)わる
  脱帽露頂王公前 帽(ぼう)を脱(ぬ)ぎ頂(ちよう)を露(あら)わす 王公(おうこう)の前(まえ)
  揮毫落紙如雲煙 毫(ごう)を揮(ふる)い紙(かみ)に落(おと)せば雲煙(うんえん)の如(ごと)し
訳 7 張旭は三杯飲むと、草聖人とうたわれる名筆を後世に残す。王公の前をもはばからず帽子をとり、頭のてっぺんをむき出しにして、事を書いて見せる。だが筆をふるって紙の上に落とせば、そこには雲か霞がわくようだ。(「唐詩選」 前野直彬註解) 


(太田蜀山人が)名古屋の狂歌師、揮雲堂が禁酒したのに送った歌は、源義朝が尾張の野間で殺されたことにかけて
好きならば随分酒ものむがよし、のまで死んだる義朝もあり(「日本の酒」 住江金之) 


「お姉さん」の思想
河盛さんも、そういう歌より彼女は「みだれ髪」の恋愛歌人として評価せらるべきで、西欧の有名な女流詩人に伍してけっしてひけは取らないと、一首の歌をあげている。
ああ皐月(さつき)、仏蘭西(フランス)の野は火の色す。
君もコクリコ、われもコクリコ
コクリコとは雛罌粟(ひなげし)のことで、河盛さんは雛罌粟の漢字に括弧してコクリコと書いてあるが、振仮名を示しているのであろう。新聞の振仮名はこういう時にややこしくてうるさいが、この場合の火の色は何としてもコクリコでなくてはおさまるまい。それにつづいて、少年時代に大峰山(おおみねさん)で山伏の修行をしたことが出て来る。何しろ大変険しい山なので、河盛少年は途中で落伍してしまったが、その時助けてくれた上級生がいて、今でも深い感謝の念をもっている。その人が、後にあまり名誉にならぬことで社会の落伍者となっただけに、いっそう思い出が深い。「きっと優しい人だったのであろう」とつけ加えてあるのが印象に残った。昔、小林秀雄、青山二郎、河上徹太郎、大岡昇平などと毎日付き合っていた頃、河盛さんもその中にいられた。「お姉さん」という綽名(あだな)であった。酒飲み連中の切ったはったの修羅場(しゆらば)の中で、河盛さんだけが平常心を失わず、誰に対しても親切で、面倒見がよかったからである。今、ふと、その事を思いだした。何も難しいことは書いていられないのだが、晶子の歌といい、かの人生の落伍者といい、「お姉さん」の思想が行きわたっている。私も年をとって、やっとそういうことが身に沁(し)みて解るようになった。(「夕顔」 白洲正子) 


六月二十四日 火 六夜
曇時時日が射して蒸し暑く午下二十八度強、今年初めての高温也、暫らく振りに風強し。午後平山来。松浦嘉一来、上げなかつたが黒須の無事なる事を初めて聞きて安心せり。松浦は黒須と東京高等学校の同僚なり。来意は九日会の事にて、来る二十九日に代々木の初台の松浦の家に暫らく振りの会合をしようとの事なれども億劫にて出かける気にもならず、且つ森田草平が今疎開先から東京に帰つてゐるので出席するとの事なれば愈々同席する気にもなれざる也。こないだの平岩の話と同じ様な事がまた有りにけり。こひ番町小学校の女の小使よりお酒一升入手し来る、四百円也。夕青木帰来、夕お酒五合飲んだ、飲んで見たら合成酒であつた。(記入七月二十七日)(「百鬼園戦後日記」 内田百閒) 昭和22年です。 


越の寒梅
のど越しの 水に似しとや この酒を 越しの寒梅とは げにや名つけし
 旅先にて『越の寒梅』を送られて
名にし負ふ 豪雪衝きて 急便は 越の寒梅(うまさけ) 運びけるはや
たべ酔ひて 小夜の寝ざめも あやしきに なおひとつきと 冷やのまにまに(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎) 私も今、越乃寒梅 灑(さい)を飲んでいます。 


飲中八仙歌(6)
6 李白一斗詩百篇  李白(りはく)は一斗(いつと) 詩(し)百篇(ひやつぺん)
  長安市上酒家眠  長安(ちようあん)市上(しじよう) 酒家(しゆか)に眠(ねむ)る
  天子呼来不上船  天子(てんし)呼(よ)び来(きた)れども船(ふね)に上(のぼ)らず
  自称臣是酒中仙  自(みずか)ら称(しよう)す 臣(しん)は是(これ)酒中(しゆちゆう)の仙(せん)と
訳 6 李白は一斗飲めば百篇の詩ができる。長安の町なかの酒屋で酔いつぶれ、寝こんでしまうし、天子からお呼びがあっても、船に上ろうとしない。そして自分では、「手前は酒の世界の仙人でござる」などと言っている。(「唐詩選」 前野直彬註解) 


止(とど)むるが張合(はりあい)に成る上戸(じようご)の癖。
*近松門左衛門『堀川波の鼓』(宝永四年・一七〇七)上の巻 よせと言われると飲まずにいられない酒飲みの心理。
世(よ)の中(なか)で擦(す)れっ枯(か)らしと酔払(よつぱら)いに敵(かな)うものは一人もない。
*夏目漱石『明暗』(大正五年) 津田が小林に向かって言う言葉。(「日本名言名句の辞典」 尚学図書辞書編集部・言語研究所) 


二日酔
近頃、めっきり酒が弱くなった。一年三六五夜、アルコールが胃の腑を訪れぬことのないような暮らしを、ほぼ三十年にわたって送っているのだが、なに、量のほうはもともとたいしたことがない。いわゆる深酒はしないのである。なのに、めっきり酒が弱くなったというのは、もともとさほどではなかった酒量の、さらにはかが行かなくなったわけではなく、二日酔することが多くなったのである。余り二日酔には縁がなくて、飲み友達をうらやましがらせていたのだが、そうもいかなくなってきて、やはり年齢のせいだろうかなどと、つまらぬことを考える。二日酔の症状にも…と書きかけて、はたと気づいたのだが、「症状」というのは病気に対して使う言葉のはずである。二日酔は、自業自得であって、病気ではないとするむきもあるかもしれないが、あれは断じて病気であって、しかも僕のばあいは、きわめて重症なのである。どんなに重病かを説明するのに、適切なる言葉がまったくない。強いていえば、「ほとんど死んでいる状態」なのである。まだ、ほんとうに死んだこともないくせに、「ほとんど死んでいる」もなにもないようなものだが、実際にそうだとしかいいようがないのだからいたしかたがない。原則として、仕事は昼間のうちに片づけることと決めて、それを実行している身にとって、これはかなり困った事態なのである。(「門番氏の手紙」 矢野誠一) 


地方酒流入阻止の運動
ここに洛中酒屋の地方酒流入阻止の運動は幕府の財政政策(洛中酒屋土倉からの徴税が大きな財源だった)と一致し、奈良酒の搬入制限となり(古文書第九集)、また田舎酒の京都運入の禁止となったのである。(古文書第十四集永正八年三月廿三日付文書)。故に地方の名酒が盛んに京都貴顕の日記に見うけられるのは、京上商業によるものよりは、支配者側自ら地方より召上するものか、或は地方よりの贈答になれるものが多いのである。されば地方と都市との物資仲介機関である問屋は前述の如く、多くの産業部門に於て顕著な発展を見たのであるが、酒商業の方面に於てはただ直接消費者への転売業者たる請酒屋の発達を致したに止まり、酒問屋の成立を見ず、従って酒問屋の名称は全く中世文献上に見を得ない。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


居酒屋立身出世物語(2)
また一八世紀はじめの名女優とたたえられるアン・オールドフィールドも、居酒屋の出である。父を亡くしたあと、彼女は母といっしょに、セント・ジェイムズ・マーケットの「マイター」(司教冠)という店を経営している伯母ヴォス夫人の厄介になった。店がひまなときに、ボーモントとフレッチャー共作の『冷笑する女』という脚本の一節を朗誦するのをたまたま居合わせた劇作家のファーカーが洩れ聞いて、その発音、抑揚のみごとさに感心し、これをほめた。自慢に思った母親は、次の機会をとらえ、このことを店の常連で同じく劇作家であるヴァンブルーに語った。好奇心にそそられたヴァンブルーがアンを試してみると、フォーカーのめがねに狂いはなく、その朗読はみごとなものだった。そこでヴァンブルーは彼女をドルーリー・レーン劇場の支配人ジョン・リッチに紹介し、かくして名女優誕生となったわけである。(「イン イギリスの宿屋の話」 臼田昭) 


飲中八仙歌(5)
5 蘇晉長斎繍仏前 蘇晋(そしん)は長斎(ちようさい)す 繍仏(しゆうぶつ)の前
  酔中往往愛逃禅 酔中(すいちゆう)往往(おうおう) 逃禅(とうぜん)を愛す
訳 5 蘇晋は刺繍(ししゆう)した仏像の前で断食礼拝をしているが、酔っぱらうとときどき逃禅をきめこみたがる。(「唐詩選」 前野直彬註解) 


勝と亀文字といへるうたひめとゝもに、永代ばしのもとに舟をとゞめて酒くむ
酒かめも(瓶 亀文字) しばし舟とめ かつ(勝)酌(くま)ん 夏の日ざしの 永き代のはし(放歌集)
勝といふうたひめによみてつかはしける
盃も あさかの沼の 花かつみ かつみるたびに いつも生酔(放歌集) 太田蜀山人 


二十二 酒(3)
烟草は姑(しばら)く擱(お)きて論ぜず、世に酒を飲むを極めて健康に害あるやうに思ひて非常にむづかしく論ずる人あり。わらふべし。智者大師8の言に、身あるは即ち病なり9、とあり。身体ある以上は病もあるべし、生れたる咎(とが)には死することもあるべし。其の本(もと)をいへば酒の為にはあらず。聚楽(じゆらく)の第(だい)10の成りし時、奢(おごれ)るもの久しからずと貼札して嘲(あざけ)りしものありしに、秀吉笑つて、奢(おご)らざるものも久しからずと云ひしといふ。豪傑の一語、鉄鏃(てつそく)11鉄的12を貫くといふべし。酒を飲む者も病を得、酒を飲まざる者も病を得、伊達(だて)13の薄着も風をひき、野暮の厚着(あつぎ)も風をひくなり。上根上機14の人は酒を飲むも可、飲まざるも可、それより以下は、餅好きならば餅を啖(くら)ひ、酒好(さけずき)ならば酒を飲むべし。
注 8 智者大師 五三八-九七。南北朝、隋代の宗教家。天台宗第三祖。智顗(つぐ)の大師号。『摩訶止観』(五九四)を説いた。  9 身あるは即ち病なり 『摩訶止観』第八の下「病患を観ぜよ」に「病患の境を観ずとは、それ身あらばすなはちこれ病あり」とある。 10 聚楽の第 豊臣秀吉が京都に営んだ華麗壮大な邸宅。一五八七年に完成。以下のエピソードについては不祥。- 11 鉄鏃 鉄製のやじり。 12 鉄的 鉄のまと。 13 伊達 みえをはって。よい格好をすること。 14 上根上機 仏道修行して悟りを開くことができる人。 15 太平楽をいふ すきほうだいのことをいう。(「露伴随筆『潮待ち草』を読む」 池内輝雄・成瀬哲生) 


青い酒場
私の左の肺の先端には虫の喰った穴がある
静かに寝て眼をとじると その穴から
冬には木枯の遠くをわたる声にまじって
青い酒場のリキュール・グラスをすする音がする
ギタアを持ったやせて小さな男がひとり
夜更けの壁に背をむけて-
話をしようにも誰も居りゃしない
風とともに入ってくるのは凍えつきそうな悔恨ばかり

男は嗄(しわが)れたギタアの弦をはじいてみたり
不安げにちょっと頚をかしげ グラスの中の
病みほうけた自分の顔をのぞくのにも厭ると
いそいそと卓子(テーブル)の上を拭いていた

床に落ちた男の影の中には いつの間(ま)にか
一匹の犬が棲みついている
男のもてあました絶望を喰って太ってゆく 度し難い奴だ
私の胸の虫の喰った穴からは
そいつの苦しげな咳の音がする だが昼間
私はきちんとチョッキをつけ 上着を着て 街を歩く
楽天主義者然と
夜な夜な私はそいつに逢う 青い酒場で
私相応そいつも老けた だがいまだに死なない
そして時々 ずるそうににやりと笑う(「現代詩文庫37三好豊一郎」) 


飲中八仙歌(4)
4 宗之瀟灑美少年 宗之(そうし)は瀟灑(しようしや)たる美少年(びしようねん)
  挙觴白眼望青天 觴(さかずき)を挙(あ)げ白眼(はくがん)にして青天(せいてん)を望(のぞ)めば
皎如玉樹臨風前 皎(きよう)として玉樹(きよくじゆ)の風前(ふうぜん)に臨(のぞ)むが如(ごと)し
訳 4 宗之は粋(いき)な美少年、世俗を見下しながら青空を見やる姿は輝くばかりの白さで、玉のなる木が風に吹かれているよう。(「唐詩選」 前野直彬註解) 


おそかったな
いっしょに住んでいるマクレガー氏とマクファーソン氏は、禁酒することを誓いあった。しかしマクレガー氏はちょっと考えて、病気のときのために、ウィスキー一本だけ棚にしまっておいたほうがよいと提案した。三日後、マクファーソン氏は我慢できなくなっていった。「マグレガー、どうもちょっと気分が悪いんだ」「おそかったな、マクファーソン、ぼくは昨日一日じゅう気分がとても悪かったんだ」(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


二十二 酒(2)
酒を飲み飲まず烟草を喫し喫せずといふが如き些細の事にてその人の価値の昂(あが)りも下りもするに定まらば、その人の価値そもそもまた小なりといふべく、実に悲しむべし。酒を禁ずるも可(べ)からん、烟草を廃するも宜(よ)からん。酒烟草なんどの為に我が上を兎角云はれざらんほどに7価値を大(おほき)くせんと励むも宜からん。
注 7 云はれざらんほどに 人から言われないように。(「露伴随筆『潮待ち草』を読む」 池内輝雄・成瀬哲生) 


一龍斎貞丈(いちりゅうさい・ていじょう)
本名柳下政雄。明治三十九年横浜生れ。早稲田実業卒業。錦城斎典山に師事し、戦災で家が焼けるまで、自宅は二階がゆがむほど万巻の書物に埋まっていたという愛書家。挿絵画家の志村立美氏は小学校の同窓生で、その頃から二人は講談が好きだったが、志村氏はドモるので画家になり、彼は講談師になったという。ツヤ種も豊富なら酒量も相当。若手として期待されている貞花は彼の長男。(中央区銀座西八ノ九)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。 


飲中八仙歌(いんちゅうはっせんか)(3)
3 左相日興費萬銭 左相(さしよう)の日興(につきよう) 万銭(ばんせん)を費す
  飲如長鯨吸百川 飲(の)むこと長鯨(ちようげい)の百川(ひやくせん)を吸(す)うが如(ごと)く
  銜杯楽聖称避賢 杯(さかずき)を銜(ふく)み聖(せい)を楽しみ賢(けん)を避(さ)くと称(しよう)す
訳 3 左相は一日の遊びに一万銭を使う。その飲みぶりは大きな鯨が百の川の水を吸いこむようで、杯を口にしては聖人の境地を楽しみ、賢人はごめんだなどと言っている。
(「唐詩選」 前野直彬註解)(「唐詩選」 前野直彬註解) 


金になった坊様
貧乏たがりの爺様と婆様とあった。爺様は年の暮になると毎日門松売りに行った。いつも町へ行く途中にある川を渡る時、竜宮様さ門松あげるといって、一本ずつ投げ込んでから売りに行った。ある日あまり寒いので、煮売茶屋コで酒を飲んでいた。いい機嫌でいるとうす汚い座頭坊が通った。爺様は「こらこら、坊エ坊エ、汝(な)も一杯飲まねエな」と呼び入れて酒を飲ませた。爺様は松の売上代をすっかり飲んでしまった。爺様は、「汝(んが)寝るどごもながべァ、おらほさ来て泊まれ」といって連れてきた。婆様は怒って「米一つ買って来ねェで、こったら虱たかりの腐れ座頭つれできて、何にへァ」といった。爺様は、「婆ァ怒てるしけャ、坊ェ汝(んが)こごさでも寝ろ」といって土間の隅コさ莚をしいて寝せた。翌朝になって爺様は、坊は寒くて死んでながべかと思って莚をはいで見ると、沢山の銭が山盛になっていた。(三戸郡五戸町の話 話・藤村りゑ 採話・能田多代子)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


ヤップ島のヤシ酒
椰子の幹の末にはウチフと呼ばれる花房がつく。花を守っている皮が開くと淡黄色の花がさき、やがて実がつく。これを、まだ花の咲かないうち(咲く二週間ほど前がいい)、まず椰子ロープを一寸おきくらいの間隔できりきりと巻きつけ、しっかりと花が開かぬようにしておく。次に、ウチフの先端を刃物で、朝昼晩、一日三度こまめに切る。切りながら、三日置きに少しずつ、ウチフを下方へ曲げてゆく。ヤシ縄を張って、徐々に下向きに矯(た)めてゆくのである。一週間ほど経過してウチフが水平になったころ、この筒先へ椰子コプラの殻のお椀を吊り下げる。水平より下向きになると、いよいよ液が滴りはじめる。これが<アチフ>だ。採りたてのアチフは、ただ甘いだけでアルコール分はない。こののみものは老人、子どもたちにとって格好の飲料だ。酒が禁止の時代になっても、このアチフをのむことだけは無論禁じられなかったから、毎朝これを採ってのませた。が、つい朝"忙しさにとりまぎれて"昼すぎに採液したものをうっかり子どもにのませようものなら、たちまち酔っぱらってしまう。このわけはじょじょにかくが、こういうときはまことにもってしようがない。しようがないから大人がこっそりいそいで呑んでしまわねばならぬ。このお椀をつけるタイミングは、アルコール飲料を目的とする場合には、アチフが一分に五滴以上おちるようになってからでないと、どうも酒精が逃げてしまって美味しくないようだ。(「ヤップ島の物語」 大内青琥) 


嫁する日の心得 その七
七に曰、女は、つねに心づかひして、その身をかたくつつしみまもるべし。つとにを(起)き、夜わ(夜半)にい(寝)ね、ひるはいねずして、家事に心を用ひ、おこたりなくつとめて、家をおさめ、をりぬひ(折縫)、うみつむぎ(紡績)、をこたるべからず。又、酒・茶など多くこのみて、くせ(癖)とすべからず。淫声(いんせい)をきく事をこのみて、淫楽(いんがく)をならふべからず。是女子の心を、とら(蕩)かすものなり。たはぶれあそびをこのむべからず。宮寺など、すべての人の多くあそぶ所に、四十歳より内は、みだりにゆくべからず。(「和俗童子訓」 貝原益軒 石川謙校訂) 


泡なし酵母の分離
分離操作は次のように行えばよい。協会七号酵母の培養液をシリンダーに入れ、底から無菌的な空気を吹き込んで泡を立てる。その泡をシリンダーから噴きこぼさせ、泡とともに気泡吸着性の協会七号酵母を除去する。そのあとで残った液部の酵母を回収する。それを培養し、酵母を増やしてから同様の泡立て操作と液部の回収を行う。これを繰り返すごとに、気泡吸着性を失った変異酵母の比率が高まっていくだろう。以上はあくまでも予想であって、本当にそうなるかどうかは確かめてみなければならない。そこでまず、協会七号と泡なしA酵母を一億個対一個の比率で混合したモデル系をつくり、最初に凝集法を行ってみた。なお、協会七号はβ-アラニン培地という特殊な合成培地において、三五℃では増殖できない。一方、泡なしA酵母はこのβ-アラニン培地において三五℃でも増殖できるので、協会七号がいかにも多く混じっていても、泡なしA酵母だけを計数することができる。さて、凝集法を行う過程で、モデル系に混合した泡なしA酵母の数がどう変化するか、このβ-アラニン培地を用いて調べた結果、凝集・沈澱と上澄み部の回収操作を一回行うごとに、泡なしA酵母の比率が約一〇倍ずつ高まることがわかった。そして、操作を重ねていくうちに、八回目からは、凝集する酵母が極端に少なくなった。その時点の酵母を調べてみると、大部分泡なしAであった。こうして、最初は一億分の一しかいなかった泡なしA酵母が、大部分を占めるまで濃縮されることが確かめられたのである。しかも驚いたことに、そこには協会七号から生まれた泡なし変異酵母もいっしょに混じっていたのだ。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


「丸と角」「赤と黒」「悪魔のぶつぎり」
心平が詩作生活を支える方便として飲み屋を開いたのは有名な話である。まず昭和六年ころ麻布十番で「いわき」という屋号の焼鳥屋を始め、まもなく新宿角筈、いまの紀伊国屋書店の裏あたりに移った。詩人仲間の高村光太郎、知恵子夫妻も顔を見せた店である。昭和二十七年三月には、文京区の本郷初音町(はつねちよう)に「火の車」を開店した。真紅の地に「火の車」と肉太に書いた馬鹿でかい提灯をぶらさげた。ここには高村光太郎、豊島与志雄、林房雄、吉田健一、檀一雄などという名うての面々が現れた。「火の車」は昭和三十年春に新宿に移った。経営者が食通を自認する詩人とあって、酒の肴には「丸と角」「赤と黒」「悪魔のぶつぎり」といった珍品(?)が並んでいたが、経営は屋号通り火の車だった。(「江戸東京物語 山の手篇」 新潮社編) 


飲中八仙歌(いんちゆうはつせんか) 杜甫(2)
2 汝陽三斗始朝天 汝陽(じよよう)は三斗(さんと)にして始(はじ)めて天(てん)に朝(ちよう)す
  道逢麹車口流涎 道(みち)に麹車(きくしや)に逢(あ)えば口(くち)に涎(よだれ)を流し 
  恨不移封向酒泉 恨(うら)むらくは封(ほう)を移(うつ)して酒泉に向(むか)わざりしを
訳 2 汝陽王は三斗の酒を飲んでから、やっと朝廷へと出向く。その途中で麹(こうじ)を乗せた車に出あうと、思わず口からよだれを流す。そして酒泉に領地がえしてもらえないのを口惜しがる始末だ。(「唐詩選」 前野直彬註解) 


方言の酒色々(32)
酒と甘いものの両方を好むこと あめかぜ/あめかぜどーらん/そがりぼーこ
酒などのうまみ ご
酒などの二合五勺の半分 はんこー
酒などの五合 はんこ
酒などの樽 やまだる(日本方言大辞典 小学館) 


小半ら酒(こなからざけ)一升
 「小半ら」は半分の半分、すなわち四分の一のことで、一升なら二合五勺をいう。酒は二合五勺を一升分と思って飲め。酒の飲み過ぎを戒めていう。
杯に推参無し
 「推参(すいさん)」は差し出がましい、無礼の意。酒の席での杯のやり取りに、地位の上下などの気遣いや遠慮はいらないということ。酒宴での無礼講をいう。(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


〽日曜大工に 一本つけて
  女房若やぐ 湯のほてり 紫影
〽抱いて一生 貧乏徳利
  義理もちょいちょい 欠ける猪口 待人(「都々逸坊扇歌」 常陸太田市秘書課広報係編集) 石岡扇歌堂献額 


37.酒に真実あり
 酔った人は真実を語る。 ハンガリー
38.酒か水か決めよう
 はっきり決着をつけようということ。 ハンガリー
39.酒が入ると理性が出て行く
 酔払うと馬鹿になる。 ハンガリー
40.酒なしのもてなしはおそまつ
 大切な客はきちんと接待せよ。 ハンガリー
41.酒が無ければ水を飲め
 貧乏人は贅沢するな。 ハンガリー(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


飲中八仙歌(いんちゆうはつせんか)  杜甫(1)
1 知章騎馬似乗船 知章(ちしよう)が馬(うま)に騎(の)るは船(ふね)に乗(の)るに似(に)たり
  眼花落井水底眠 眼花(まなこくらみ)井(い)に落ちて水底に眠る
訳 1 賀知章が酔って馬に乗った姿は、ゆらゆらとして船に乗っているようだ。目がちらついて井戸の中に落ちても、水の底で眠っている(とはもちろん、誇張であろうが)。(「唐詩選」 前野直彬註解) 


どうじ【童子】
酒吞童子の略。-
祭文を語らつしやいと童子いひ 頼光の四天王達に
童子には当り武士には不老不死 四天王持参の酒(「川柳大辞典」 大曲駒村) 


二十二 酒
世に長生せんがために酒を禁ずる人あり、また令名1あらんがために酒を止(や)める人あり。供に愚に近しといふべし。古き詩に、存生不言、衛生毎苦2といふ句あり。唾を呑み舌なめずりをしながら飲みたき酒を飲まで、とても頼み難(がた)き身を百年二百年も保たんと欲(おも)へる心の中、いときたなし。又、有酒不肯飲、但顧世間名3といふ句あり。妙齢の女児の誰が思はくを羞(は)づるといふ事も無けれど、的(あて)も無き素色気(すいろけ)4にやうやく煨芋(やきいも)に遠ざかる如し。其の情また愍(あはれ)むべく笑ふべし。ただし飲食酔酗(すいく)5して累(るい)を親戚郷党に及ぼすものの如きは、飲まざるにしかす。それとても他人の口より汝酒を止めよと云はんは、やや酷(むご)かるべし。されど、理に於て純正なることを説き勧むるなれば情に於て刻薄6の嫌(きらひ)ありといへども、我はあへて彼の酔酗者をして酒を止めしめんと云はば、其は其の人の性質の自然に任(まか)すべし、傍より儞(そなた)の人をして酒を止めしめんとするは酷(ひど)しと論争するにも当らざることなり。
注 1 令名 名声。 2 存生不言、衛生毎苦拙 生を存することは言う可からず、生を衛すら、毎(つね)に拙なるに苦しむ。六朝時代の東晋の詩人陶潜、陶淵明(三六五-四二七)の連作詩、「形影神」(『陶淵明集』巻二)中の「影答形(影、形に答う)」に見える詩句。「はてさていつまでも生命を長らえるなど論外のことで、こちらは生命を養うことすら、いつもその拙劣さに悩んでいるありさまだ」(松枝茂夫・和田武司『陶淵明全集』一九九〇、岩波書店)の意。 3 有酒不肯飲、但顧世間名 酒有るも肯えて飲まず、但だ世間の名を顧る。陶潜の「飲酒」二十首中の「其三」に見える詩句。「道葬向千載、人人惜其情」につづき、「道がうしなわれて千年にもなろうというのに、世間の人は相も変わらず自分の気持ちを出し惜しみしている。酒があっても飲もうとしないでただただ世俗的な虚名を気にしているのだ」として、世間の評判ばかり気にして好きなことをしようとしない世間の人を笑った。- 4 素色気 みずぼらしい、色気がまだそれほどでない様子。 5 酔酗して 酒にふけって狂ったようになり。 6 刻薄 むごくて情がうすい。(「露伴随筆『潮待ち草』を読む」 池内輝雄・成瀬哲生) 


だいぶん量が稼げます
坂口先生に初めてお目にかかったのは、友人T君の結婚披露宴の席上である。私の真ン前に柔和と謹厳を兼備されたかにみえる老紳士が一人、端然と坐っておられた。T君は、私たちの間では、酒好きで知られた男だが、彼の家は両親ともプロテスタントの基督教徒なので、皮肉なことに、結婚式でも赤葡萄酒が一杯しか出ないことになった。ふだんから私は、昼間、酒を飲むことはめったにないので、その日も葡萄酒一杯あればそれで結構であった。ただ、結婚式ともなるとスピーチがつきものだが、あれは話をする人も、聞く人も、傍に酒がないと、全く手持ち無沙汰で仕方のないものだ。ふと見ると、私の目の前の紳士は、コップの水に葡萄酒を数滴たらしこんでは、スプーンでそれを搔きまぜて、ちょっと舐め、小首をかしげると、また二、三滴、葡萄酒を振りかけて、その薄桃色の水を口に含んで、極めてまじめに満足げな顔で、こう言われた。「このようにやりますと、だいぶん量が稼げます-」(「まぼろしの川」 安岡章太郎) 


○濁醪
誹諧新式に、どぶろくとあるを、誹諧通俗志には、余醿漉と見えたれども誤なり。[割注]是より前、大和本草 酴醿の下に、花白く千葉なり、云々。唐土には黄色あり。故に黄色のにごり酒を、酴醿醁といふ。日本にて山川といふ酒の如くならん。とあるは、唐土のことをいへるなり。」松岡怡顔斎の詹々言にも、ドブロクは酴醿緑の転語なり。といへるを、其子の松岡洙が按語に、ドブロクは、濁醪(ダクラウ)の転語歟とある説あたれり。濁醪の文字ふるくよりあり。和名抄に濁醪は毛呂美。本朝無題詩に、大江佐国ガ翫ブ卯ノ花ヲ詩に、尋-訪野村ヲ酔フ濁醪ニ。又藤原周光ガ屏風ノ詩題に、石瀬之辺。有釣漁人。濁醪満チ樽ニ。魚膾堆シ俎ニ。新猿楽記に、酒ハ濁醪。肴ハ煎豆。伊呂波字類抄太部、及び下学集に、濁醪。天文二年、尊海僧正。あづまの道の記に、醒が井の里にて、濁醪といへるをのみて云々。節用集大全に、濁醪白酒也。などとあるを見てしるべし。もとは、文選の魏都ノ賦。恨賦等に出たる字面にて、杜甫、韓愈、白居易、李賀、杜牧、皮日休などが詩にもあり。(「梅園日記」 北慎言 日本随筆大成) 


酒の力より理性と意思で(2)
いいお手本を示してくれたひとがいました。映画監督の成瀬巳喜男(なるせみきお)さんで、ビール一ダースは平気の酒豪と聞いたけれど、仕事が完成するまでは、夕食にコップ一杯一合の酒しか飲まなかった。酔うと仕事の邪魔になっると言って、。私も酔うと眠くなって仕事の邪魔なので、日本酒なら二合、ウイスキーはダブルで三杯と決め、それ以上飲まない。ことに山に登る前は、絶対に飲まない。八十歳を超えて酔ったと思ったのは、十年に一度くらいです。酒に酔ってこの世の憂(う)さを忘れるのと、酒などの力を借りずに理性と意思で、この世の憂さと対決するのとどちらがよいか。私は、酒に助けを求めるような、弱い人間になりたくないのです。(「淑女の勉強法」 田中澄江) 


賜酒
いわば古代天皇制国家を確立しようとした奈良時代には、天皇を中心に貴族官人が相寄って宴を催すことがしばしばあった。こういう体制のもとでは、朝廷での儀式と賜宴というものが、支配者層の人びと相互の間を秩序づける上に重要な意味をもっていたのである。賜宴ということばは、また賜酒ともいわれた。そのあとで引き出物としての禄を賜うということも伴った。天平二(七三〇)年正月十六日の宮中宴会では、ヒネリフミ(短籍と記す。福引き札のようなもの)を用意し、それぞれに、仁、義、礼、智、信の五文字のどれかを記しおき、これを参会の官人各自にひかせ、仁を得たものには絁(あしぎぬ)、義には糸、礼には綿、智には布、信には常布一反を与えたという(『続日本紀』)。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎) 宴会の記録 


酒を愛するコツ
酒に対しては礼儀正しくあるべし、と。つまり、酒を愛するということさ。男が女を愛するごとく。だから、酒を愛するコツは、酒と会話することさ。一人で酒を飲みながら、酒と会話する。ぼくのように、若い頃から酒と友だちになると、酒にも青春、壮年、初老、晩年があることが手に取るようにわかる。酒が老ければ、僕だって老ける。老ける、という言葉が淋しい響きを伝えるなら、熟成と言い換えてもいい。酒が老けるにつれ、ぼくには遠近法が生まれてきた。酒は、ぼくにとっては旅の車窓のようなものさ。過ぎ去って行く風景の光と影。それは、カメラのレンズではとらえられない。酒によって造形された肉眼のおかげで、ぼくは遠近法を自分のものにできたんだ。酒と会話をしてきて、ほんと良かったと思ってる。宿酔(ふつかよ)いでもがいたり転んで怪我(けが)もしたけれど、酒を愛することに、後悔したことはない。あなたも、愛する人と言葉をかわすように、酒とつき合ってください。そうすりゃ、誰でもマナーは良くなるんです。愛する人の前では、そうそう無礼はできない。そうだろう。なっ。(「詩人からの伝言」 田村隆一) 


日本酒を使った伝統的な調理法(4)
すっぽん仕立て(丸仕立て)
 多量の日本酒を用いた吸い物の仕立て方をいいます。すっぽんをはじめ、オコゼやコチなど、くせのある魚に用いられます。また、すっぽん煮といって、たとえば鶏肉と焼豆腐を、日本酒を主に、淡口醤油、みりん少量を加え、落としぶたをして煮立たせないように弱火でじっくりと火を通す調理法もあります。
玉酒(たまざけ)
 日本酒と水を合わせたもので、一般的には同じ割合で合わせます。魚を洗って臭みを取るときに使います。また、振り塩をしてしばらく置いた魚を漬けたり、冷凍酒などをこの玉酒の中に漬けて解凍します。こうすると魚のうま味が逃げないからです。「玉」は、多摩川の「多摩」をもじったもので、水の意味。「玉酒に漬ける」とか「玉酒で洗う」と言い、主に関東で使われる料理人言葉です。(「料理の魔術師「日本酒」活用テクニック」 日本酒造組合中央会) 


上酒の基礎的条件
勿論、酒にも流行がなくはない。例えば、江戸人は山吹色の軽い酒を好んだが、現代の嗜好は水の如く色薄く、しかも風味濃厚で、且(か)つ強い酒を喜ぶ。これは明らかに洋酒の影響であろうが、それだからといって、ツンとくる強さとか、しつこいゴク味が好まれる時は永劫(えいごう)にないのである。酒である以上、刺激性の酸の強いもの、苦味や渋味の強いものや悪甘いものは、悉く下酒である。野性味だとか、辛辣の気なぞというものは、文学芸術でこそ珍重するが、酒の方ではそんな大人げないことはいわない。酒の観賞はもっと見識があるので、すべて癖というものを嫌う。癖強きものはいかに純粋であっても地酒或いは二級酒とされる。といってボンヤリした酒は「押し」のない酒といって、酔わせる力を欠くから問題にならない。すなわち癖は嫌うが、個性は尊重する。甘口であれ、辛口であれ、蔚然(うつぜん)たる個性の生命なきものは上酒でない(福娘と菊正宗の並立する所以である)。どんな香味の特徴をもつにせよ、その酒はシャンとして、円味とフクラミがなければならない。前香と後味が爽やかで、フクミがなければならない。上酒の基礎的条件は玉のような味、匂い、色、舌触り、酔心地ということになる。結局、酒は上品温雅を大宗とするものである。その一筋のものである。その点、どうも政治や文学とはよほどちがうらしい。(「モーニング物語」 獅子文六) 


六月六日 金 十八夜
曇時時小雨、夜明けに喘息が稍はつきりと起こつたが間もなく治まる。午後国土交通省へ行く。昨夜の帝劇の切符が今日は鎌倉文庫から一枚来たが今日の日付也、平山にやりに行つたが平山は行かないと云ふので篠原に村山へ届けて貰ふ事にして平山と四谷駅迄同車にて帰る。夕、多田来、二人でお酒約九合か一升近く飲んだらし。多田をよんだのは随分暫らく振り也。買つて置いた玉子二十九顆を本復の祝に与ふ。就寝前エフェドリン一錠のむ。(「百鬼園戦後日記」 内田百閒) 昭和22年です。 


さかづきのわれてぞいづる雲の上
『吉野拾遺物語』一にも「宗房卿の秀句のこと」の一章がある。吉野の朝廷に弁(べん)の内侍(ないし)という美しい女官がいた。高師直(こうのもろなお)が想(おもい)をかけて奪取しようとしたのを、楠正行(くすのきまさつら)が救ったので、正行の妻にと御沙汰があったが、正行は「仮の契(ちぎり)をいかで結ばん」という名高い歌を奉って御辞退したという逸話の主である。ある夜、内輪の酒宴が催された時、内侍が持っていた瓦器(かわらけ)をふとしたはずみで取落し、瓦器は真二つに割れた。天皇の御機嫌がにわかに曇ろうとした時、内侍は咄嗟(とつさ)の機転で、「さかづきのわれてぞいづる雲の上」と詠んだので、たちまち機嫌を直されて、「誰か継ぎ給へかし」と、近侍の公卿に命じられた。藤原宗房がただちに「星の位のひかり添へばや」と、さらに縁起直しをしたので、興に入ることはなはだしく、夜明け方まで宴が続いた。(「日本語のしゃれ」 鈴木棠三) 


居酒屋にて
当然残業もないから。定時退社が毎日のことになるが、長年の習慣で、まっすぐ家に帰る気にはなれないし、そんなことをしたら、家で邪魔にされかねない。なにしろ"永き不在"ですでに居場所はあってなきがごとき状態だ。それに、そんなところへ日のあるうちから帰って身をもて余していたら、それでなくても侘(わび)しい思いでいるのに、それに輪をかけることになる。そんなとき、なんの気兼ねもなしに、「やあ」と声を発してのれんをくぐると、きまった自分の御座所があり、そこへ腰を下ろすと、黙っていてもおしぼりと一緒に好みの銘柄のビールがすっと出てくる。それが家だったら、家人の手前、ちょっともったいをつけたりという気遣いをついしてしまうのだが、行きつけの居酒屋には、そんな余分なポーズは必要ない。「今日は、アレないの」と一言発すれば、「アレ」がすぐカウンターの向うの"おかあさん"(女将は大げさだし、ママというには色気がないし、そう呼ぶしかないのである)には通じ、「今夜あたり見えるんじゃないかと思って、入れといたわ」と応じてくれる。そこでの二、三本の酒でホロリと気持も体もほぐれて、「じゃあ」と手を上げて帰るとき、伝票にサインなどする必要がないところも、こういう店のいいところだ。かなり飲んだつもりでも、たかだか五千円以内の勘定であり、しかもその払いといえば、盆暮二度ときまっていて、その間にうるさい催促はない。-現役から"予備、後備"に移ると、前にも述べたように、退社時間になってもその後これといった予定のないことがほとんどだ。だからといって、毎晩きまった店に真っすぐ行くのは、いささか業腹(ごうはら)というものだ。「あの人、よほど暇になったのね、行くところがないせいか、このところ毎晩くるわよ」などと、まさか陰口を叩かれているとは僻(ひが)まないものの、肚(はら)の中でそんなふうに思われていはしないかと、そう勘ぐるだけでちょっと意地を張ってみたくなる。というわけで、行きつけの居酒屋は一軒だけではならず、他に一、二軒のローテーションを持っておかなければならない。"現役はずれ"のいじらしい見栄ではあるけれど。(「いい一生とは何か」 諸井薫) 


無限軌道風継続
井上光晴は、硬直した党の弾劾者として登場し、社会の荒廃を一貫してうつ不屈な抵抗作家として、私達の前に大きく成長した。戦後文学は、一般的に、方法的自覚に支えられているけれども、井上光晴の新鮮な方法意識はそのなかでもずばぬけており、扱われる対象が多様になりゆくにつれて、彼自身の作品の範囲の多彩化とともに、いわゆる「知識人」ばかりでないところのわが国底辺における「彼達すべて」の抵抗の作品をさらにひきだすべく、一方は「辺境」、そしてまた「兄弟」の出版、他方は文学伝習所の全国十数箇所にも及ぶ広範囲な開設となったのである。これは底辺からの文学総立ち上がり運動の直接推進であるとともに、ただ一人の推進者である井上光晴だけの「全国駆けめぐり」が、彼の癌発見の手遅れと、また、第一手術後の癌増殖進行の見えざる経過を促進したのではあるまいかと、今にしては極めて無念に振り返られるのである。だいたい夜、十一時から十二時のあいだ、思いがけぬ土地にある文学伝習所から私は電話をうけたのである。北海道からでも九州からでも、すぐ間近の東京近郊からかけてくるような近接感が最近の電話の特徴で、まさか九州からかけているとは思えないほどの近さで聞こえるのである。どこかの飲み屋からかけてくる井上光晴は、まず、必ず「これから出るのは、美女ですよ」と井上式サービス宣言を私にし、私からは顔が見えない美女がつぎつぎと電話口にでて私と話すが、その間、井上光晴も伝習生諸君も酒をのみつづけて、酔っぱらっているのである。「酒は病気の軀に悪いからいいかげんにしてくれ」とそのとき私は井上光晴にいい、伝習生には「もう飲ませちゃだめだ」と告げると、「そんなおせっかいされると白けちゃうじゃないか」と井上光晴は酔ったままつねに怒ったのである。地方の伝習生達にとっては、井上光晴をかこんでの、たまたまの酔っぱらいであろうけれども、全国十数箇所にある文學伝習所をつぎつぎ訪れる井上光晴にとっては、つきることなき絶えざる酔っぱらいの深夜時間の連鎖として、それは「無限軌道風継続」となっているのである。(「螺旋と蒼穹」 埴谷雄高) 


六月三日 火 十五夜
曇時時微雨。この数日梅雨の如し。昨日の配給は月桂冠にて暫振りの芳醇也。昨夜は大分飲んだけれどまだ十分にある。午後出かけて運輸省に平山を呼びに行く。序に散髪した。夕、平山と帰りて約七合飲んだ。(「百鬼園戦後日記」 内田百閒) 昭和22年 


前田利常
若いころ酒が強かったのは、どうも祖先の遺伝らしい。金沢のおばばが渡してくれた直径三寸(約十センチ)の漆器の大盃がある。おばばというのは父方の祖母で、家に伝わってきたこの大盃を、孫でいちばん酒の飲める私に引き継がせてくれたのだ。古い木箱のふたに、「中納言様より拝領之御盃」と墨書きされている。赤漆の大盃のまんなかには加賀藩前田家の梅鉢の紋が入っている。虫の喰った書きつけが添えてあった。「盃之縁起」と題して、中納言様から盃を拝領した経緯を書いてあるのだが、判読してみると、祖先の一人が大酒飲みで、その飲みっぷりがみごとだというので殿様から大盃を下賜されたということだ。何かの功績でもらったものではない。ただ、酒がひどく強いという、それだけのことで拝領したのが、この大盃だ。後年、ぼくは江戸時代初期の色絵磁器古九谷をめぐる歴史小説(『雪古九谷』)を書くときに、加賀藩三代藩主前田利常のことをいろいろ調べていて、ぼくの祖先に大盃をくれたのがこの殿様だったと分かった。そして、利常なら、そういうこともあっただろうと納得した。(「「もの」物語」 高田宏) 


盞(さかずき)色々
建盞(ケンザン)
烏盞(ウサン)
馬上盞(バジヤウサン)
椰子盃(ヤシハイ) 椰ハ木ノ名也 横(ヨコ)ニ截(キツ)テ椰子ヲ 為ス盃(サカヅキ)ト 若(モ)シ以テ毒(ドク)ヲ 投(トウ)ズ盃中ニ 酒忽(タチマチ)ニ沸涌(ハツユ)シテ 令ム人ヲ無ラ一レ害(ガイ)也 然ルニ今ノ人 漆(ウルシ)スルハ其ノ盃中ニ 其レ失(ウシナ)フ椰子ノ之用ヲ也 柳子厚(リウシコウ)カ句ニ 云ク 挹(クミ)テ水ヲ 勺(シヤク) 仍(ヨル)椰(ヤ)ニ 是レ也 
湯盞(タウサン)(「元和三年板下学集」 監修・解説 山田忠雄) 


松尾多勢子の婚家
志士のほとんどは男子であったが、まれには女性志士も存在した。その中でもっとも著名な人は、松尾多勢子(たせこ)と野村望東尼(ぼうとうに)であろう。松尾多勢子は、信州伊那谷(いなだに)に生まれ、同地の松尾淳斎(じゆんさい)の妻となり、国学を学んで尊攘の思想を持つようになった。実家は豪農であり、婚家も製糸および酒造を営む豪家で、商業をとおして京都や畿内、横浜などとつながりをもっていた。彼女を尊攘運動にかりたてたのは、国学ということもさりながら、生産や商品経済をとおして、新しい社会を目ざす農村の動きをうつし出しているとも考えられる。(「日本の歴史 開国と攘夷」 小西四郎) 


食べる酒
フィリピン北部の山の中に住んでいるイゴロット族という人々のタポイという酒が最も食べるに近いらしい。サトウキビの汁と米で麹を作り、煎った糯米(もちごめ)を炊いたものに混ぜる。それを壺に入れてバナナの葉で蓋をし、三日置く。体験者の野村進(のむらすすむ)さんによると、これは「おかゆのようになったモチ米を、指やさじですくって口に運ぶのだから、まさに『食べる』という感じ」とのこと。(「むくどりは飛んでゆく」 池澤夏樹) 


多いときで一晩に五ヵ所くらい
中島(らも) 音楽関係って、夜遅いからね。
阿部(登) いちおう、いろんな人のところまわるやんか。まわるのは好きやから、多いときで一晩に五ヵ所くらい行く。行くと、やっぱり飲むやろ。安い店ばかりやけど、一軒目でまず焼酎四、五杯くらい。次の店で、「まあ軽く」とかいいながら、ビールの小ビンを二、三本。次ぎに行ったとこで、今度はブランデーになって、グラス四、五杯。次ぎ、またそのくらい。これ、よく考えたらすごい量になっとるわけよ(笑)。
中島 一升くらいすぐいくな。
阿部 俺の場合、これが単純にでかかったと思うわ。それである晩、仕事が一段落して、今夜はちょっとほっとしようと思うて、友達の店で飲んどったんや。そしたら、急に震えが来てな。マスターに「俺、震えてるかな」と聞いて、マスターが「いや、大丈夫です」と答え終わる前にパターン。気がついたら救急車の中や。
中島 フーン。あんまり飲んでへんのに昏睡が来たわけや。驚いたやろ。(「訊く」 中島らも) 


ルバイ第七
いざや、盃を満てと。春の火に
「悔(くい)」の冬衣(ふゆごろも)投げ入れよ。
「時」の鳥は、鼓翼(はばた)きて飛ぶ道の僅かなるに、
早も舞い立ちぬ。
[略義]サァ、盃に並々と注(つ)いで、「後悔」と云う冬着は、「春」と云う火の中になげこんで、焼いてしまうが好い。「時」と云う鳥は、もう、舞い上がっている。ホンの僅かな距離しか飛べないのに。
[通解]-そう云う意味で、此処では、人間の事を、「時」の鳥と云っているのである。飛び上がった鳥は、必ず又、飛び下(お)りなければ成らない。しかも「時」の鳥は、もう既に、空に舞い上がっているのだ。只さえ短い飛翔距離(ひしようきより)!夫れを。最早や相当、飛び過ぎたのだ。残る短い命を楽しく生きないでは嘘だ。サア、一盃遣って、折角、神の与えて呉れた此の現世を楽しもうでは無いか。之が、此のルバイ第七の真骨頂である。「後悔」をしない事。之も亦た正に、オウマの中心思想の一ツである。(「留盃夜兎衍義(ルバイヤートえんぎ)」 長谷川朝暮) 


日本酒を使った伝統的な調理法(3)
煎り酒(いりざけ)
日本酒に梅干しを入れて、弱火でゆっくりと煮詰めたもの。煮切りみりんや淡口醤油、かつお節、焼き塩などを加えることもあります。なますや酢の物に酸味の味つけをするときや、白身魚やエビなど、淡白な刺身のつけ醤油代わりに用いると、味がすっきりと引き立ちます。
酒八方(さけはっぽう)(酒塩八方(さかしおはっぽう))
だしに日本酒を加えたもので、主としてくせのある材料をあっさりと炊く場合に用いる八方だしの一種です。八方だしは、薄めの味に煮炊きするときに用いる、だしの分量が多い合わせだしのこと。「四方八方」に使えるということからこの名があります。一般には、だし八に対してみりん一、醤油一の割合で合わせ、ひと煮立ちさせて作ります。材料に応じて、日本酒、砂糖、塩などで味を加減します。(「料理の魔術師「日本酒」活用テクニック」 日本酒造組合中央会) 


合成酒とネコイラズ
小石原(昭) あのね、僕は広島高等師範学校でしょ。昭和二十二年ごろ、まだ阿川弘之さんは広島にいたんです。後に萬葉学会の会長になって、雑誌『萬葉』の編集長になった、天理大学教授の大浜厳比古(いつひこ)と阿川さん、それに小石原がつるんで飲んだ。そのころは駅前のバクダンですよ。バクダンというのは、ご存じのように合成酒の一升瓶、あれにほんの微量のネコイラズを入れて攪拌するんだとみんないってました。いずれにしましてもほんとに微量ですがね。
谷沢 ネコイラズ?(笑)
小石原 だからね。混ぜるためにいつも一升瓶を振って混ぜてたわけ。時々、事故が起こるんです。脂症のおかみやおやじがやってたり、だから汗をかいた指はこわいと、酔眼をこらして見ていたもんです。ボードレール翻訳の第一人者の村上菊一郎さん。彼がそのころ三原の図書館長をしてて、広島に飲みに来たんです。それで、バクダンで酔いつぶれてね、僕は死んだんじゃないかと思って青くなりまして、揺すったら、黙ってるけど、ムニャムニャと生きてるわけですよ。駅へ連れて行って三原に行く最後の汽車の連結器の横に彼を寝かせまして、風に当たったら酔いが覚めるかもしらんと。それで、その周りの人に「頼む、この人は図書館長で偉い人でね、三原に着いたら降ろしてくれ」と。「引き受けた」と(笑)。あの時代の日本のほうがいまより人間と人間の連帯感があったと思いますよ。(「人間万事塞翁が馬」 谷沢永一) 


文憲先生加倉井君墓碑銘并序
平居は夭々如(ようようじょ)なり。人に喜怒の色を見せず。是を以って賓客堂に満ち、杯盤狼藉(はいばんろうぜき)し、先生亦よく劇飲するも、猶(な)お乃(すなわ)ち温克にして資稟(しひん)は淡白なれば、毀誉の一切は懐(おもい)に関係せざるなり。(「文憲先生加倉井君墓碑銘并序」 興野輗 述 鈴木暎一 書き下し) 文憲加倉井砂山の運営した日新塾では、約30年間の間に1000人をこす塾生が育ったそうです。 


利き酒では日本第一号の女性委員
日本ワイン文化の会とか焼酎愛好家の会、日本酒連盟の会などいろいろお酒の会にも入っているが、十四、五年前、東京国税局の菅間(すがま)誠之助先生が鑑定官室長をなさっていたころに、「日本酒の審議官にならないか」というお話があった。正式名称は東京国税局酒類級別審議会常任委員といって、特級、一級のチェックをする仕事だった。委員の条件というのは、お酒が飲めることは当然として、味が分かる、酔わない、ということらしいので、父祖伝来のアルコール代謝能力に優れた体質がここで役立ち、十年間委員を務めた。戸籍謄本を提出したり、レクチャーを受けたりして、お役所の仕事は大変なんだなあと思った。前日は飲み過ぎないようにし、当日の朝は食事を軽くする。口紅、香水もご法度で午前十時から二時間ぐらいで三五〇種くらいの利き酒をする。国税局の中の会議室のような部屋に机が三列に並んでいて、利き酒用の蛇の目模様の茶わんにお酒が入って置いてある。一口飲んではすぐ吐き出し、級別の基準にあっているかどうか印をつけていく。飲み込まないようにするのだが、二時間もやっていると口の粘膜からもお酒が吸収されるので、中には頬が真っ赤になる委員もいた。だんだん舌がざらざらしてくるので、生たまごを含んで舌を洗うようにしたり、リンゴを食べたりしてちょっと舌を休める。おいしいお酒は「悪いなあ」と思いつつ、ついつい飲み込んでしまったりした。-とは言っても、利き酒では日本第一号の女性委員である名誉には変わりがなく、銀行の預金通帳に「大蔵省から一万なにがしかの振込み」とあるのも、何やら晴れがましいことだった。(「だから人生は面白い」 岸朝子) 


日本酒を使った伝統的な調理法(2)
酒塩(さかしお)
文字通り、少量の塩で味をととのえた酒のこと。下処理として材料を漬け込んだり、焼き物の仕上げに塗ると、味がととのい、上品な仕上がりになります。魚の切り身を酒塩に浸しておいてから焼くと、味と焼き色がいちだんと冴えてきれいに仕上がり、身も締まって一層おいしくなります。また、小鍋に酒塩を入れ、魚介類やきのこなどを加えてさっと火を通したり、串打ちしたイカに酒塩をかけてさっと焼き、そのあとにウニを塗る、酒塩につけて蒸すなどいろいろなようとに使われます。
酒煮(さかに) (酒塩煮(さかしおに))
たっぷりの日本酒を使って煮ること。味つけは塩だけで、日本酒の風味を最大限に活かす調理法です。醤油を使う場合は、極少量に控えて。(「料理の魔術師「日本酒」活用テクニック」 日本酒造組合中央会) 


夕方戻ってくると
酒を始めたのは十九歳の年で、戦争中だった。当時は学徒勤労動員令なんてものがあって、五校の文科生も佐賀の内海ぞいの小さな町に土方工事に駆りだされた。ところがわれわれの宿舎になった家がたまたま酒造家で、無償で働くわれわれをねぎらってか、夕方戻ってくると、その家の門口に大きな甕になみなみと酒を入れたのが備えてあったのである。一日中炎天下肉体労働をしてきてのどは渇いている。酒の上に浮いている木の柄杓でくくくーっとのむ快感は、生れて始めて知るものだが、こんなうまい飲物があったかという感じで、たちまち酒というものに馴染んだのであった。いまでもあのときの酒のうまさは忘れられない。(「人生のこみち」 中野孝次) 


頼みはウィスキーだけ
八年前、僕は日広エージェンシーを退社して「中島らも事務所」を作った。文筆で食っていくめどがついたからだ。社員はわかぎえふ嬢ただひとり。北浜にあるアンティークな建物の一室を借りて、ここで僕は一発目のキックを食ってしまう。連続飲酒におちいったのだ。きっかけは脚本に詰まったことだった。東京乾電池や原田喜和子、内藤陳らがホテルプラザで演じるミステリー劇だ。演出は大林宣彦。リリパット・アーミーはすでに旗揚げしていたし、脚本は何本も書いているので自信はあった。ところが、いざ書き始めてみるとさっぱり筆が進まないではないか。自分はギャグものは書けるがトリックものには全く向いていないことが、書き出して初めてわかった。事務所の部屋に閉じこもって、何日もうんうんいう日が長く続いた。飯も食わない。頼みはウィスキーだけだ。アイデアが湧くことをひたすら祈りつつ、壜からラッパ飲みをする。何時間か眠って、目が覚めたらひどい二日酔いなのでまたウィスキーに手を伸ばす。催促の電話がじゃんじゃんかかってくる。役者がみんな待っているので、途中まででいいから脚本(ほん)を送ってくれ、という電話だ。トリックができない。破れかぶれになってある日トリック「らしき」ものをでっち上げ、酔った勢いで二日間かかって脚本を書いた。上がったのは公演の四日前だった。当日、僕も出演の予定だったのでホテルプラザへ恐る恐る出向いた。まさか原田喜和子さんが僕を殴ることはないにしても、内藤陳さんには絶対殴られるな、と腹をくくっていた。会場ではその陳さんにいきなり会ってしまった。陳さんは僕をみとめると、ウィスキーの壜を手ににっこり笑って、「バーボン飲む?」もちろんいただいた。いただきすぎて自分の芝居のセリフを忘れてしまったくらいだ。公演は、小松左京氏の飛び入りもあったりして、大笑いのうちに無事済んだ。済んだのはいいが、すまなかったのが僕の連続飲酒である。朝起きると目覚めの一杯をきめるのが日常になってしまった。二日でボトル二本を飲むような生活だ。やがて失禁するようになり、トイレに行くのもだるくて起き上がれなくなった。栄養といえばたまに飲むミルクだけだ。そしてある日、目玉や顔色がまっ黄色になった。黄疸だ。僕は観念して病院へ行った。アルコール性肝炎だということで即日入院した。(「アマニタ・パンセリナ」 中島らも) 


婚儀
全国概ね同一の儀式を具ふるものにして今更めて説の要なしと雖も其間又自ら異る所あるも知るべからす先つ試に之を略叙せん 嫁娶の約成りたる時は媒人は朱黒塗の二樽に酒を充し「頭付き」の生魚を添へて之を新婦(婿養子の時は新郎)に贈る之を「締樽」といふ締樽既に了りて更に佳日を撰み婚儀の式を挙く此日新郎は媒人と共に衣、帯、麻、昆布、鯣、扇と彼の締樽と同形なる二樽に五合宛の清酒を満て之を携へて新婦の家に至る此贈品を「結納」といふ已にして新郎は媒人に先ちて辞し家に帰り熨斗目、褐上下を着け以て婦の其媒人と共に到るを待つ婦到たれば其輿を玄関口に据え郎自ら出てゝ其輿の棒に手を触るゝを待ち媒人其扉を開き綿帽子を婦の頭より蔽はしめ手を取りて之を其室に導く婦の到るや麻、昆布、鯣、扇と二樽の酒を持し来り之を郎に贈る是賀意を交換するなり已にして別に席を設け婦は其綿帽子を脱して郎と相対して座し中間に「島台」を置く「島台」は松竹梅鶴亀を模して積むに肴核を以てし附するに「雌銚子」「雄銚子」あり-(「水戸」 伊藤利男) 


物凄い淋しさが在り、それを一周でも満たす方法
飲んべえの私を知っている人は、変わらず誘ってくれるのだけれど、少しばかりの理解は何も知らない者への苛立ちを募らせ、酔っ払いへの嫌悪感となって現れる。哀しいかな、飲み会が楽しくなくなってしまった。いまでも、やめられるのか?という不安はつきまとう。もう一度誰もいない海の真ん中へ一週間で漕ぎ出す自信は、ある。何故アルコールがなくならないのか、真剣に考えたこともあったけれど、その答えは自分自身が解っている。あの物凄い淋しさが在り、それを一周でも満たす方法を知っている限り、なくなりはしないのだ。目の前の一杯。それが自分にとっていかに重いものであるのかを知っている人間が、毎日の暮らしの中で自分自身との壮絶な戦いを続けていることを知っている人がどれほどいるのだろう。勿論、いま声をかけてくれている相手と、かつての自分とのほとんどありはしない差に抱いている感情も含めて。(「いっぱい」 おだりつこ) 


日本酒を使った伝統的な調理法
酒蒸(さかむ)し 
 日本酒を使って蒸すのでこの名があります。材料は、はまぐり、あわび、白身の魚、貝類など。貝類など、貝類は「酒出し」といって、日本酒と煮出し汁とを同量くらいにし、塩味にして蒸します。魚は後述する酒塩をして蒸します。あわびも酒塩を入れた塩を入れた湯で10分間くらい茹でてから酒塩を振りかけて蒸すと、やわらかくおいしくなります。
酒煎(さかい)り
 魚介類や鶏肉などの生臭みやくせを除き、日本酒の風味を移すための調理法です。鍋に材料と日本酒少量を入れ、汁気がなくなる程度に煎りつけます。(「料理の魔術師「日本酒」活用テクニック」 日本酒造組合中央会) 


滋養の酒だけでも
するとある日のこと、横浜の貿易商が来て私に、葡萄酒、コニャック、シャンパン等を売って見ないかという勧誘をした。私は嘗て郷里に於てて禁酒会を組織した程で、飲酒の害は知りぬいてゐいたから、それを自分の店で売ることなど思ひもよらない。で、膠(にべ)もなく拒絶した。しかし彼はなか/\引退らない。私の最も気にしているところの例の店を指して、『あの店がミルクやジャムであれだけの安売をして立つて行けるわけをあなたは御存じですか』と、期するところあり気にいふう。つゞいて『それはこの洋酒や西洋煙草を売るからですよ、洋酒は大体卸値の二倍に売るもので、これあればこそ食料品の安売りが出来るのです、食料品は囮おとりですよ。』成程この説明で私の長い間の疑問は解けた。それならば進んで、その店の安売りを中止させる手段(てだては)―。勧誘子は更に語をついで『中村屋もせめて滋養の酒だけでも店において、他の品同様に二割位の利益で販売なすつてはどうです、さうすれば洋酒の客はみなこちらへ来るから、あの店の財源は忽ち涸渇する、それでは食料品の安売りも出来ないといふ順序でせう』どうだこの種あかしを聞いては、嫌でも洋酒を売らざるを得ぬであらう、と言はんばかりの説明であって、折が折とて私もこれに動かされた。それではと葡萄酒ほか二、三の洋酒を店におくことにした。さてお得意先へも洋酒販売のことを披露すると、翌日内村鑑三先生が入って来られた。『今日のあなたの店の通知、あれは何ですか。』内村先生は逝去せられて今年はもう八年になるが、故植村正久先生、松村介石先生と共に当時基督教界の三傑と称せられたもので、明治大正昭和に亘つて思想界宗教界の巨人であつた。殊にその厳として秋霜烈日的なる人格は深く畏敬せられ、自づと衆人に襟を正さしむるものがあつた。そして中村屋にとつてはじつによき理解者で、最初からの大切なお得意であつた。『私はこれまであなた方のやりかたには悉く同感で、蔭ながら中村屋を推薦して来ました。その中村屋が今度悪魔の使者ともいふべき酒を売るとは…私はこれから先き御交際が出来なくなりますが。』『酒を売るやうではあなたの店の特色もなくなります、あなたとしてもわざ/\商売を選んだ意義がなくなりませう。』私は全く先生の前に頭が上らなかつた。他の店の狡猾な手段を制するためとはいえ、つい心ならずも酒を売らうとしたのだ、全く面目次第もないことであった。私がそこでただちに洋酒の販売を中止したことはいうまでもない。(「一商人として―所信と体験―」 相馬愛蔵、相馬黒光) 


◆宋江は立ちあがり、辞退するのはおそれおおいので玉杯を受けとり、女神に向かって今度はひざまずいて飲み干した。その酒の香りのよさは、さながら醍醐(だいご)[乳製品、きわめて美味という]を頭から注がれ、甘露に胸をうるおされたかのようである。(梁山泊の義士宋江が九天玄女[女神]に酒をすすめられる。金聖嘆『水滸伝』佐藤一郎訳)(「ほめことばの事典」 榛谷泰明) 


泉山問題について
第一私どもの目からみると議会内の大蔵委員会という重要な新給与予算の委員会席上で、あんなに酔うほど酒がでるということがそもそもひどいことだと思います。なにもうちでのめない連中ではなし、ごあいきょうの程度をこえています。公務員法をむりやりとおしてはじめからきらわれている吉田内閣は新しい選挙をひかえて、いくらかでも人気をとりかえすために食糧問題や転入自由の景品をだしました。「住宅問題の解決や賃金問題の解決はぬきにして」きたるべき選挙に今日の政府は勝算をもっているかもしれない、それだから組閣のはじめに用心深くさまざまの疑獄事件にひっかかりそうな閣僚をさけました。社会党のくされぐあいがあんまりひどかったおかげで吉田内閣にそれよりはましな人のあつまりのような利益をあたえました。選挙をまえにして民自党はどんなにいい評判をとりたいでしょう、ところがおきの毒さまにも十三日の新聞にあらわれた泉山蔵相の事件のようなことがあらわれて最後の幕切れとなった。要するに吉田首相とその乾分(こぶん)は世界のブルジョア政治家も裏面でしかあらわさないような男としての醜態を参議院で演出してもう民自党に投票してくれないでもいいんだということを天下に声明しました。男が酒をのんで女にからむということは恐らく日本にだけ通用する乱行でしょう、なぜなら中国のブルジョア政治家は日本のよっぱらいをみて、あの人々はなぜ酒をのまないで酒にのまれているだろうと驚いていました。日本の封建性―殿様とだんな様との御乱行がいつもそのめしたのものや女に向ってあらわされるというなさけない習慣です。泉山蔵相のくだのなかで「新給与問題よりも山下春江(民主)女史の方がすきだということの方が問題だ」といったということが新聞にでていますが、これはなまよい本性にたがわず、本音でしょう。もちろんあとから本人にきけば「何もおぼえていない」でしょうが極東裁判で天皇が責任をもたないということを明瞭(めいりよう)にされて大変によろこんだのは誰だったでしょう、国民はそれをよくしっている。(「泉山問題について」 宮本百合子) 「酔虎伝」 


救民妙薬
(徳川)光圀公は藩内巡視によって、庶民が病気や怪我のときに、薬の入手や医者の治療を受けられないことを知り、藩医・穂積甫庵(ほづみほあん)(鈴木宗与)に命じ、簡単に入手できる薬草や入手は多少困難でも実効性がある薬草の処方を記した本『救民妙薬』を作らせました。-
元禄6年(1693)に出版された『救民妙薬』は、身近にある民間薬処方397種の使用法、特徴がまとめられ藩内のみならず藩外の人々にも読まれ、何度も版を重ね、明治・大正時代には活字本となって、病気の人たちの助けとなりました。(URL「いい水戸発見」 水戸商工会議所のホームページ)
目次百二十二 酒并燒酎(さけならびにせうちう)を呑(のみ)ての事
百二十二 酒并燒酎(さけならびにせうちう)をのミ湯にいるべからず
酒に関してはこれだけでした。 


静かに吟味しながら愛用
適量の日本酒を静かに吟味しながら愛用してゐれば、凡(およ)そ健康上の効用に此れ以上のものは無いといふことは古来から夙(つと)に云はれて居り、わたしなども身をもつてそれを明言出来る者であつたが、誰しも多くの飲酒者は稍(やや)ともすれば感情のほとばしるに任せては後悔の種を育てがちになるのも実にも通例の仕儀ながら、わたしも亦その伝で銀座通りなどをおし歩きながらウヰスキーをあをりつゞけたお蔭で、例に依つて例の如く、終ひに閑寂なる療養生活に没頭しなければならなくなつた。兎も角、十何年もの間それに親んで来たものが、一朝にして盃を棄てなければならないといふ段になると容易ならぬ騒動だつた。おそらくそれは失恋者でもあるかのやうな止め度もなく呆然たる日々を持てあまさずには居られなかつた。はぢめの半年は小田原の郊外に移つてゐたが古なぢみの酒友が仲善くて、返つて飲む日が多くなるので、いつそわたしは思ひ切つて、全くはぢめての土地である三浦半島に移つて、横須賀に寓居を定め、金沢、浦賀、三崎、城ヶ島、油壺などゝ、歩いては泊り、泊つては歩いた。恰(あたか)も、失恋にぼんやりしてゐる友達を慰めてやるかのやうに、酒を飲みたがらうとする自分に向つて、別の自分が親友となり、忘れ給へ、忘れ給へ、否応なく忘れるより他は何うするといふ術(すべ)のありよう筈はないんだもの…と忠告して、天気でありさへすれば散策へ誘ひ出すのであつた。一里や二里では次第に収まらず、やがて袋を背中につけ、地図をひろげ、薬用酒をポケツトになし―まこと、見るからに頼もし気なるハイカーに相違なかつた。わたしは中学生の時分から、植物や昆虫に通俗的な興味をもつたまゝ現在に至つてゐるので、何処に住んでも大概は何時の間にかあたりの山野を跋渉しつくしてしまふのが慣ひであり、この頃でも網と毒瓶ぐらひの用意は忘れなかつたが、そんなことよりも当時は酒を忘れようとする思ひの方が強かつたので、何は兎もあれひたすらに靴踏み鳴して歩きまはるのであつた。(「或るハイカーの記」 牧野信一) 


酔中酔余
しかし酒は全然飲まないわけではない。自己流に発明した、私なりの楽しい飲みかたがいくつかある。雨の日、昼間から温い湯をわかして風呂の中で飲む。雨の音を聴きながら、風呂の中でひとり陶然として温泉へ行ったような気分になれる。西部劇を見ながら飲む。ドラマの進行と共に、何だか自分がドラマの主人公になったように血が熱くなって最高に楽しい。トイレに入る前に飲む。私はわりあい便秘症なのだが、酒が入ると、不思議に便通がようなるようである。読みさしの本をもって、洋式トイレに腰かけていると、胃のあたりから全身に軽い酔いが瀰漫(びまん)して、用が終ったのに出るのを忘れてしまうことがある。ただしいずれの場合も、日本酒のごく少量でなければならない。日本酒は自分の好みであり、量が多いと眠くなってしまうからである。友人にこのはなしをしたら、「何だ、金のかからない飲みかたばかりだな」とさも軽蔑したように言われた。「酒のほんとうの味は、外で飲まなきゃわからねえ」と連れて行かれた先は、いかにもみすぼらしい縄(なわ)のれんだった。(「ロマンの寄木細工」 森村誠一) 


七不堪
父は客間に「七不堪」といふ額をかけて愛してゐたが、誰だか中国人の書いたもので、七の字が七と読めずに長の字に見え、誰でも「長く堪へず」と読む。客がさう読んで長居をてれるからをかしいので父は面白がつてゐたが、今では私がたつた一つ父の遺物にこれだけ所蔵して客間にかけてゐる。又父はその蔵書印に「子孫酒に換ふるも亦(また)可」といふのを彫らせて愛してをり、このへんは父の衒気(げんき)ではなく多分本心であつたと思ふが、私も亦、多分に通じる気持があり、私にとつてもそれらが矢張り衒気ではないのだが、決して深いものではなく、見様によつては大いに空虚な文人趣味の何か気質的な流れなので、私はいつも淋しくなり、侘しくなり、そして、なさけなくなるのである。私の父は代議士の外に新聞社長と株式取引所の理事長をやり、私欲をはかればいくらでも儲けられる立場にゐたが全く私欲をはからなかつた。又、政務次官だかに推されたとき後輩を推挙して自分はならなかつた。万事やり方がさうで、その心情は純粋ではなかつたと思ふ。本当の素直さがなかつたのだと私は思ふ。その子供のそしてさういふ気質をうけてゐる私であるゆゑ分るのだ。私の父は酒間に豪快で、酔態淋漓(りんり)、然し人前で女に狎(な)れなかつたさうであるから私より大いに立派で、私はその点だらしがなくて全く面目ないのだが、私は然し酒間に豪放磊落(らいらく)だつたといふ父を妙に好まない。(「石の思ひ」 坂口安吾) 



なみなみ注(つ)げる杯を
眺めて眸(まみ)の湿(うる)むとは、
如何(いか)に嬉(うれ)しき心ぞや。
いざ干したまへ、猶(なお)注がん、
後(のち)なる酒は淡(うす)くとも、
君の知りたる酒なれば、
我の追ひ注ぐ酒なれば。(「杯」 与謝野晶子) 


セイタカアワダチソウ
花を、酒を醸造するときの泡立ちに見立てて、さらに背丈が高いので「背高泡立草」。(草木染に利用されることもあり、染めるために煮立てると名前のとおりに泡が立つらしい。いろんな「泡立ち」)(URL「季節の花300」) 


血統としては愛酒家の筋
私は今まで、あまりお酒を飲んだことはないが、血統としては愛酒家の筋である。と言ふのは、男兄弟はいづれも相当の飲み手であり、曽つて、母の作る料理の味も、だいたい、酒飲みの好きさうなものが多かつた。今までもとても、何か晴れな席では、一杯の盃を受けるのは、別に苦痛ではなかつたが、忽ち、手の指まで赧くなるので、私は、美的観念から、さくら色以上の紅変をきらつて、お酒は飲まないことにしてゐたのである。ところが、だんだんと世間へ出る機会も多くなり、会食の場合も多くなるにつれて、私も盃三杯ぐらゐまでは、食欲とともに、充分消化できるやうになつた。-
ところが昨年、横浜の、昔からの旧い家へ食べにいつた時、ちよつとお酒を頂いた。その時私は、めつたに酒の名前などきいたことはないのだが、給仕の女中さんに、「これは、菊正? ですか…」「左様でございます。」いっぺんにぴたりで、自分でもをかしかつた。もつとも、今後のことはわからない。(「気のながい話」 中里恒子) 


いつも誰かと喧嘩
じつはつい先ごろ彼の文庫本のあとがきとして「河野典生論」をやったばかりなので、同じことを書けないからどうも書きにくいのだが、それ以外のことを書こうとすると、どうしても酒のことになる。ぼくは彼と一緒に何か食べたという記憶はひとつもない。一緒に飲んだ記憶ばかりである。そしてその記憶の中にいる彼は、いつも誰かと喧嘩している。これが困るのである。ジャズ仲間と飲んでいるうちは滅多に喧嘩しないのだが、場所が文壇バーであったり相手が文壇人であったりすると、彼はちょいちょいやる。傍にいるぼくとしては、たいてい困った立場になるのだが、しかし、喧嘩しはじめた彼を傍観している際の自分の気持ちをほじくり返してみると、いくぶんかは面白がっているところもあり、だからあまり非難することはできない。河野典生の場合はたいてい口論だけで、まだ文壇関係者と殴りあいを演じたことはないようだが、それでも彼の怒りの突発性とことばの凄まじさには、やっぱりはらはらする。もちろん彼が殴りあいをはじめても、ぼくは彼に助太刀する気は毛頭ない。この際はっきり言っておくが、彼が負けそうになり、とばっちりがこっちへきそうになったらぼくは逃げる。その逆に河野が勝ち、彼の相手がぼくも嫌いなやつであれば、どさくさまぎれに二、三回殴らせてもらうかもしれない。(「やつあたり文化論」 筒井康隆) 


本を十部と、鴨一羽、酒二升
その『浮世風呂』の三馬も、有名な山東京伝でさえ、作家だけでは飯が食えなかったのです。ですから、京伝は煙草屋をしておりました。『南総里見八犬伝』を著した滝沢馬琴が、原稿料で飯が食えるようになった最初の人だと言われています。『江戸名所図会』というたいへんな名著を書いた斎藤月岑は、本の前半十冊が出来上がりましたときに、本を十部と、鴨一羽、酒二升をその原稿料としてもらっただけでした。後半十冊の時は本十部と並の小酒樽こも包みと卵一ダースだったと、月岑の日記に書いてあります。お礼はこれだけでした。(「江戸文化誌」 西山松之助) 


座敷わらし
中島(らも) これはいいアイデアなんやけどね。もうそろそろ「支離滅裂」にいくか。いや、違う、「座敷わらし」や。見たことある?
ひさうち(みちお) いやいや。
中島 あのね、僕は三年ぐらい前に見たんですけどね、人の家へ行ってて、それでパッと見たら半透明の少女、子供みたいなのが座ってるんですよ。あ、おるな、という感じでね。怖くもなんともなかったけどね。
ひさうち それ、夢見てはったんちゃうの?
中島 いや、そうじゃないんです。鬱(うつ)病になって、鬱状態がいちばんひどかったときなんです。それで無茶苦茶酒飲んでたのは酒飲んでたけど、知人の家へ行って、部屋が三つあってそのうちの一間に座ってた。
ひさうち へえ。鬱いうのはべつに幻覚とか、そういうもんはないんですか。
中島 普通は出ないですね。でも鬱で怖いもんやから、アルコールを異常に飲んでたんですね。なんかそういうので幻覚を見たんかもしらんけどね。普通は押し入れがスーッと開いて、小っちゃいおかっぱ頭の女の子がスルスルスルッと来るらしいね。(「しりとり対談」 中島らも ひさうちみちお) 


某月某日
夕方五時半、神田神保町のうなぎ屋で、芳賀書店芳賀章氏、旧友の矢牧一宏と会う。随筆集出版の打ち合わせのためである。うなぎの肝焼で日本酒を飲む。八時、新橋田村町の中国料理店で、三木のり平氏と会う。「アサヒ芸能」の連載対談のためである。老酒を飲む。終わって、アサヒ芸能社徳間社長に案内され、銀座「プレジデント」へ行く。和製プレイボーイ・クラブとして売っている店で、兎の恰好をしたバニー・ガールがいる。ウイスキーを飲む。十一時半、アサヒ芸能社布留川君とその店の女性二人を誘って、鮨屋にゆく。日本酒を飲む。口説くつもりだったが、まとまらず。布留川君に誘われて、新橋のスタンド・バーへ行き、ウイスキーを飲む。一人で、このところ仕事場になっている山ノ上ホテルに戻り、バーでバーテン氏とブリッジをやる。バーボン・ウイスキーを三杯飲む。ブリッジで少々勝ち、機嫌よく眠る。その翌日。午前十時に目覚めてから、ひどい二日酔いであることが分る。嘔吐しはじめる。午後三時まで、嘔吐が間歇的につづき、その度に全身冷汗だらけになる。目下、胃カタルで河島クリニックの厄介になっていたことを思い出し、反省する。夜、八時、ようやく人心地する。こんな長い二日酔は、はじめての経験である。(「某月某日」 吉行淳之介) 


晩酌の習慣はない
酒という雑誌が毎年、暮だか正月かに文壇の酒徒番付を作って附録にしている。何人かの委員が座談会式の番付編成会をやって決めるらしい。昨年のわたしは、はっきりは思い出せないが、西の前頭の十何枚目かだった。東西は出身地で決めるらしい。私は福岡県の人間だから、西方というわけだ。-
小説の中にも、宿酔の話はずいぶん書いたし、商売相手の編集者と会って酒を飲まないということは、まずないようだ。その全員と飲むわけではないが、一日のうちに二人以上の編集者に会えば、どちらかの人とは必ず飲む結果になってしまう。また編集者に会う会わないにかかわらず、電車に乗って表へ出かけた日には、わたしは必ず酒を飲んで帰宅する。わたしは草加のわが家から東京へ出かけることを上京と呼んでいるが、上京すれば必ずどこかで飲むわけだ。しかし、どういうわけか、晩酌の習慣はない。自宅で飲むのは、来客のときか、徹夜で仕事をしたとき、寝がけに飲むだけである。(「分別ざかりの無分別」 後藤明生) 


説諭か強制か
そのように説諭か強制かは整然と切り離すことが難しいが、前者が徐々に後者に押される過程がアメリカ禁酒運動の歴史といっていいだろう。言い換えれば、日常的、個人的レベルの運動から、立法、行政という政治のレベルへと問題が広がるということである。ワシントニアン運動は助け合いの精神による酒飲み自身の自助努力に根ざした新しさのため、すぐに大きな広がりを得たにも関わらず、あくまで個人の意思に依拠して、法律を含む社会的措置を求める姿勢を欠いた非政治性ゆえに運動がすぐにしぼんでしまった。それとは対照的に、そもそも「家庭内の問題」としての大量飲酒に取り組んだ女性や聖職者を中心にした地域的な運動が、禁酒法の制定という明確な政治目標を掲げたゆえに全国的な政治運動へと発展したことは、説諭と強制の力学を明快に物語っている。家庭小説とジャンル的に交錯する禁酒小説が、道徳的説諭と法的措置というふたつの異質なモチーフを内包することも、そのことと無関係ではないのである。(「酒場での十夜」 T・S・アーサー 森岡裕一訳 解説) 


不覚にも別れた人と酒に酔う  北川弘子
「-酒を飲む」ならよくある図式。「酒に酔う」でどっとドラマ性が増した。「あんたその後どないしてんの」「いやまだ独りでゴキブリと暮らしているわな」…飲むほどに酔うほどに、男いとしさの情がふくらんでくる。それが未練だとは、作者自身もまだ気がついていない。(「川柳新子座」 時実新子) 


結婚式
披露宴では、ウエディング・ケーキなるものが出て、新郎新婦が、ナイフを入れる。これも、戦後輸入の慣習であり、ケーキの大部分は、菓子ではない造作物である。日本では、結婚の目出たい席で、「切る」という言葉などは、絶対禁句とされていたが、このごろは、気にする方が、時代おくれなのだろうか。先日は、ケーキの代りに、酒樽が出てきて、ご両人が、槌を持ち、鏡開きをした風景を見たことがある。ポンという音も、気分爽快であり、大拍手した。ボーイさんが、柄杓で木の桝に酒をつぎ、客席を廻ってきた。新しい樽の香りがして、昔なつかしさに堪えなかったが、同席していた若い連中は、桶(樽とは言わない)のにおいがついていて、材木くさいねと、顔をしかめていた。瓶詰めの酒しか飲まないので無理もないことである。ある披露宴で、酒が出なかったことがある。両家が、厳格なカソリック信者であったためである。日が沈みかけると、酒が飲みたくなったころのこととて、アルコールの禁断症状まで出そうなくらいになった。そのとき、ふと、主賓の坐らされている中央の丸テーブルを見ると、大野伴睦さんが、ウィスキーの瓶を持ちこまれて、同席のみなさんにすすめておられる。あらかじめ、酒の出ないことを、ご存じだったようである。となりのテーブルのわたしたち呑んべえ連中は、それを横からうらやましそうに、ながめているだけであったが、たまたま、同じテーブルにいた福田篤泰代議士がちょっと、トイレに行かないか」とさそってくれた。もちろん、トイレには入らない。階下のバーに腰かけてダブルを一ぱい引っかけた。そのうちに、このことを聞きつけた酒のみたちは、三々五々、トイレに立ち、中には、いい気げんで戻ってくる人も出てきたので、祝辞など、そっちのけになってしまった。むかしの婚礼は大へんだった。友人の参議院議員、熊谷太三郎氏が、昭和の初め、隣県の金沢市から、お嫁さんをもらわれたときは、福井の駅に着いたお嫁入りの道具を、四五百メートルはなれた熊谷邸までかついで行くのだが、その行列が、五、六歩歩くと、立ち止まって、荷を下ろし「重たい、重たい」と、大声で叫ぶ。お婿さん側は、その都度、チップを出したり、酒を飲ませたり、サービスをする。これが、大切な儀式の一部だったらしい。(「旅と釣りと生活のユーモア」 上村健太郎) 


酒にまじわれば(2)
なぜ、酒を飲むかといえば、もちろん酔うためなのだけれど、カミュの小説に、どんな知的な男でも、バーで隣りあわせになった男よりも、自分のほうが一杯でも多く飲めることを証明したがるものだ、という文章があって、これは、とても子供っぽい考え方であるけれど、ある意味では、真相を言いあてた言葉でもあるのだ。酒というのは、子供から大人になる時の、一種のパスポートのようなものだから、とかく、子供にかぎって、他人より多く飲めることを証明したがる。好きとか嫌いとか、楽しみとかの余裕もあらばこそ、早く大人になりたい一心で、わたしは努力してお酒を飲んでいたのだけれど、実際にまあ大人という年になってみると、何のために、つまらないことに努力したのだろう、という気持がなくもない。アルコール中毒にならない自信はあるけれど、わたしはどちらかというと酒乱気味かもしれなくて、だから、酒飲み人間には好意を持っている。酔うとかならず裸おどりなんぞをはじめる男なんてのは、どちらかというと嫌いではなく、酔っぱらった人間の言動を見ていると、つくづく人間というのは進歩しないものだなあと思って、ゾクゾクするほど嬉しくなる。ただただ陽気な酔っぱらいよりも、どこか凄惨な印象が漂っている酔っぱらいの方が、見ていて面白い。その意味では唐十郎には、必ず血を見なければおさまらない凄みがあり、野坂昭如は、プレイ・ボーイで有名になる以前の、心もとないすさんだ印象が出て来て、ますます口汚く早口になり、最近では口やかましいしゅうと的小言もまじる。加藤郁乎は不良少年、澁澤龍彦はサディスト、種村季弘は小言まじりの悪口、松山俊太郎は空手で、言っては悪いけど、どことなくインサンで、ただならぬ気配がある。こういうのを見ていると、酔い方の勉強にはなるけれど、はたして女が、インサンに酔っぱらっていいものだろうか、という思いもあって、やっぱり、よい酔い方が出来るようになるのは、女にはむつかしいようだ。男はどう酔っぱらっても、本質的に少年の可愛らしさといやらしさを持っているのだけれど。(「夜になっても遊びつづけろ」 金井美恵子) 酒にまじわれば 


なにをもって酩酊とするかの解釈も、大らかなものである-
たおれてもまた起きあがり
まだ飲める者は酔っていない
地べたに這って起きられず
もう飲めん者は酔っている
植民地時代の人間の一日は、「旦那、女房、その息子」用のウスケボーを混ぜたラムの目覚ましで始まった。オランダ人はビールが子供によい朝食だとした。熱いトディは痰(たん)を切り、風邪を治すのによいとされた。午前一一時になると、どちらさまも「一一時の苦酒」をゆっくり味わえるようにと、商店は店を閉めた。路傍の居酒屋に泊っている客は、朝は無料の酒を振舞われた。熱いフリップは子供の百日咳の妙薬とされ、ジョッキにミルクとウイスキーを半分づつ満たしたものは、乳の出の悪い母親に卓効があるとされた。多くの人々が水は身体に悪く、りんご酒は健康によいと信じていた。(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳) 


NN型、ND型、DD型
ADHの遺伝子型を調べた結果、民族差があることも知られています。日本人は約八五パーセントが活性型で、欧米人は約一〇パーセントの割合で活性型が見られます。つまり日本人の多くは、簡単にアルコールがアセトアルデヒドに変わり、アセトアルデヒドによる反応が出やすいわけです。ただし、簡単にアルコールが分解できるからといっても、大量のアルコールが入るとすぐに分解できないので注意が必要です。-
ALDHにもいくつかの種類があります。その中のALDH2(アセトアルデヒド脱水素酵素2型)が、お酒の強い弱いに関係しています。このALDH2には、活性型(N)と不活性型(D)があり、両親からいずれか一つずつ受け継ぎます。ですから人にはNN型、ND型、DD型の三つのパターンがあります。NN型は、アセトアルデヒドの分解が速く、たくさん飲めるタイプです。DD型はその逆で、アルコールを飲むとアセトアルデヒドの影響が強く出て、体質的にまったく受けつけません。ND型は、まあまあ飲めるけど強くないタイプです。先ほどのADHとの組み合わせでいうと、活性型のADH・NN型のALDH2は一番お酒に強いということになります。欧米、中東、アフリカでは、ほとんどの人がNN型ですが、日本人では五六パーセントがNN型、四〇パーセントがND型、四パーセントがDD型です。NN型は、アセトアルデヒドがすぐに分解され、アセトアルデヒドによる症状が出にくい。もちろん、飲み過ぎれば分解が間に合わなくなってきて、症状が出てくるようになります。(「記憶がなくなるまで飲んでも、なぜ家にたどり着けるのか?」 川島隆太・泰羅雅登) 


5月13日(旧暦)
竹酔日より七日の間酒やめければ
さつきまつ竹の酔日に酒やめば七賢人も中やたへなん(をみなへし) 太田蜀山人 


この四つのもの
吉田松陰
身はたとひ 武蔵(むさし)の野辺に 朽ちぬとも とどめおかまし 大和魂
この手の辞世は、どうも寂しくていけない。残つたものが読んで、気持がすつきりしない。そこで、もつと愉快になれるやうなものを詠まうとする。詠まうとするのはいいけれど、今度は狂歌になつてしまうんですね。
中山平四郎
酒も飲み うかれめも買ひ 文も見つ 家も興しつ 世に怨みなし
狂歌堂真顔
うまく喰(く)ひ 暖かく着て なに不足 七十(ななつち)ななつ 南無阿弥陀(なむあみだ)ぶつ
ぜんぜん文句はないことになつて、かうなるとまた、残るほうが馬鹿(ばか)ばかしくなる。その中間のところを上手に取つて、すこしは未練があるがまあいいや、みたいな辞世はないかと思つてゐたら、ありました。幕末の侠客(きようかく)の作であります。
新門辰五郎
思ひ置く まぐろの刺身 はつがつを ふつくらぼぼに どぶろくの味(「軽いつづら」 丸谷才一) 


酒にまじわれば
よくよく考えてみると、はたして、わたしはお酒が好きなのかどうか、よくわからなくて、もっとも、あんなものは、好き嫌いで飲むものではないから、好き嫌いとかは、別に問題になりはしない。ただ、わたしは酔っぱらいを見ているのが割合に好きな性で、こう書くと、いかにも自分は少しも乱れず、ひたすら、他人たちの酔った乱れを観察しているように聞えるけれど、どうして、わたしもかなり乱れるほうであるらしいのだ。らしい、というのは、乱れている時に、それというはっきりした自覚を持っているわけではなく、少し酔ったかな、という程度の気分でいるわけで、後から他人にあなたはこんなことを言った、と言われて、これは…、と反省するのだけれど、その時はもう手遅れで、一度なされてしまった行為はもう取りかえしがつかない。食事の時のワインをのぞけば、わたしは深酒を好むから、飲み友達というのも、必然的に深酒、酒癖悪く、酒乱気味というのが多いようだ。酒品という言葉があって、いいとか悪いとか言うわけだけれど、これの、あまりいいと思える人に知りあいはなくて、もっとも、シラフでなんか一度もあったことのない友達というものもいるくらいで、酒が入った時と入っていない時に、ガラッとかわってしまう人間がいるらしいけれど、それもわからない。-
飲みはじめると、朝までどころか、昼か、あるいは夜まで、ようするに二十四時間飲みつづけるみたいな飲み方を、女だてらにするようになってしまったのは、きっと、わたしがあまり若い男の子とつきあわないせいかもしれない。(「夜になっても遊びつづけろ」 金井美恵子) 殺して飲む 


「殺して飲む」
先年亡くなった某作家が、着流しで、草履を脱いで、椅子の上に乗ってしまって、横ざまに足をのばして酒を飲んでいるのを見たことがある。私は、酒場で、あんなふうに飲めたらどんなにいいだろうと思ったものだ。私は、十九歳のときに出版社に勤め、ずっと編集業を続けてきた。そう書いただけで、わかる人にはわかるはずである。私の酒は編集者の酒だった。「殺して飲む」のである。座談会の司会をやりながら、出席者と同じように飲み、同じようにつきあって酔わないという術が体に染みついている。私は「強い」といわれることがあるが、種類が違うのである。酒場というのは、私にとって職場と同じだった。知った顔に会うところである。職場であって、同時に、戦場である。同業他社の人に会う所である。いまになってわかるのだけれど、私の目は、観察する目になっていたと思う。「サワセテ四囲ヲ警戒シ」という目付きである。酒場で働く女の人に「怖(こわ)かった」と言われることがある。これじゃあ、万事につけて具合がわるい。思うに、私は喧嘩(けんか)腰で飲んでいたのだろう。編集者をやめて、次に勤めたのが、洋酒メーカーだった。酒場が職場であるという事情は少しも変らずに、こんどは、経営者、バーテンダー、ボーイ、女給にも気をつかわないといけないようになった。もし、酒場で失態を演ずるようなことがあれば、社内で大きな問題になってしまう。場合によれば取引が中止される。私はバーテンダーに呼びだされて怒鳴られたことがある。それは仕事上の問題で、後になって彼が同業他社の息のかかっている男であることがわかった。(「少年よ、未来は」 山口瞳) 殺して飲む 


488邑(むら)は建徳(けんとく)に隣(ちか)うして行歩(かうほ)にあらず 境(さかひ)は無何(ぶか)に接(せつ)してすなわち坐亡(ざばう)す 前(まへ)に同(おな)じ 後中書王(ごちうしよおう)
邑隣建徳非行歩 境接無何便坐亡 同前 後中書王
私注「入一酔郷一 贈納言橘在列」。作者は明らかでない。橘相公と注する本もあるが、在列も広相も後中書王が合わない。恐らく橘正通か。 一 建徳の国の略。無欲を象徴する。荘子、山木篇に「南越に邑あり、名づけて建徳の国とす、その民愚にして朴、私少(まれ)にして欲寡し」とある。 二 無何有の郷の略。無為を象徴する。荘子、逍遙篇に「今子に大樹ありて、その用なきを患ふ、何ぞこれを無何有の郷、広莫の野に樹(う)ゑざる」。 三 居ながら忘れる。荘子、大宗師の語。 ▽酔郷という土地は、建徳の国の村の隣で、ここへ行くには別段歩いて行くには及ばない。無何有郷に境を接していて、ここに入れば万事たちまちに忘れ果ててしまう。酒に酔えば、そこが酔郷だという意。(「和漢朗詠集」 酒 川口久雄・志田延義校注) 


徳利ちがい
備前は徳利の名産地。酒好きのおやじが、遺言して、おれが死んだら備前の国へほおむってくれ。そうしたら、行く末は徳利になって、年じゅう酒をのんでいられるからという願いだった。親孝行の息子は、遺言のとおりに、おやじの骨を備前へ葬った。そして、いまごろ、おやじさんはどんな格好の徳利になってるだろうと思わぬ日とてなかった。ところが、ある日、隣へ巫女(いちこ)が来たので、ちょうどいいからと、おやじを呼びだしてもらった。すると、おやじが、「せがれ、よくぞ呼んでくれたな。わしはお前のはからいで、いま徳利になっているぞ」「それは、それは。生前のご希望のとおりで、定めしご本望でしょう」「ところが、せがれ、徳利になるにはなったが、なんの因果か、醤油の徳利にされちまったんだ!」(「江戸小咄大観」 田辺貞之助) 


落ち着くまで
徳利も盃も多種多様で、幾らでもあるものだが、無論、たゞ見てゐればいゝわけの物ではなく、確実に手に入れなければ、幾らあつても無きに等しい日用品である。手に入れるには、こちらの都合もあり、向うの都合もあり、それだけでも面倒なものだが、さて手に入れてみても、独酌の相手として、落ち着くか着かぬか、確かめるまでに、相当な期間を要する。いゝと思つて買つて来た物が、一向馴染んで来ない事もあるし、つき合つてゐるうちに、意外に面白い話を聞く事もあるし、その点人間とあまり違ひはない。厄介な事は、まだある。この人間めいた徳利や盃が、当然、人間同士の酒の上のつき合ひいに介在して来る事である。焼き物好きの酒好きといふものは、私もさうだが、大体始末に悪いものだ。特に盃は形が小さいからいけない。何だ、こんなサカヅキで呑んでゐるのか、お前には、まだ早い、早い、などとぬかして、懐にねじ込んで持つて帰つて了ふ横柄な奴もゐる。と言つて、こちらにも覚えの無い事でなはいのだから、がまんせざるを得ない。酒で機嫌はよくなつてゐるから、あんまり賞められて嬉しくなり、ついやつて了ふ事もあれば、商売人と呑んでいて、法外な価を附けられ、うつかり手放す事もある。落ち着くまでには、いろいろ難関を突破しなければならない。(「栗の木」 小林秀雄) 


何も記憶が無い
いったい何をやからしたのか、リサイタルの会場である共立講堂の楽屋で、この催しをとりしきった浜垣氏が、「早く帰った方がいいですよ」といっていたことをまず思い出す、つづいてスポットライトの眩しかったこと、友情だか憐情だかで出演して下さった戸川昌子、青島幸男、三保敬太郎氏の、ほとほと呆れ果てた表情もよみがえる。「折角、頑張ってねっていったのに」娘が、北京ダックを食べつつ、つぶやいた。四月二十二日に行われたわがリサイタルにおいて、ぼくは完全に酔っ払い、大失態を演じたのである。少し飲まないと、ぼくはとても人前で唄えない、そしてこのことは、なにもぼくの素人臭さと関係ないので、ベテラン名手の中にも、コップ酒ひっかけて登場なさる方がいくらでもいらっしゃる。ぼくの場合、この量がむつかしい。少な過ぎると、なかなかノレないし、多ければ、さなきだに危き音程が狂う。常なら浜垣氏がそばについていて、調剤師の如く、微妙に塩梅してくれるのだ。しかし、当日、氏は他の心くばりに忙しく、もとより、ぼくも酒の量についてはよく心得ているから、慎重に胸算用働かせたつもりだった。楽屋には茶碗しかない、茶碗の水割りウイスキーというのは、いかにも颯爽としないから、ストレートで飲んだ、のみすぎてはならぬと、少しずつ注いだのだが、丁度ワンコそばみたいなもので、逆効果となった、なみなみそそげば、警戒心もたかまったろうに、ちょこまかと飲むうち、分量が判らなくなったのだと思う。楽屋に出入りする人たちをながめ、楽器の調子合わせるひびきに耳をかたむけ、これはいかにも賑々しくて、酒の肴にもってこいなのだ、開演が十分おくれたことは知っている、手なれたというか、喉になじんだ「マリリンモンローノーリターン」を唄って、幕が開き、ほぼ満員の客席にうぬぼれめいた気持をいだき、さて、後は、戸川氏と「バルレモアダムール」をデュエットしたまでが空白、この間二曲唄ったはずだが、何も記憶が無い。(「窮鼠の散歩」 野坂昭如) 


真木和泉南洲に鉄拳を加う
壮年時代の南洲(西郷隆盛)は豪気に満ちて寛容の量に乏しかった。かつて彼が勤王の志に燃え、国家の現状を悲憤慷慨して止まなかった頃、一夕勤王の人々と会飲したことがある。其の時、同士の者は相共に、「吾々は国家に尽くすことによって総てを全うするママ今日より一心同体となって生死を共にし、細故小嫌はお互に咎めないことにしよう」と云って誓った。人々は、肝胆相照らして盃を重ねた。酒酣(たけなわ)なる同士の長老真木和泉[文化十年(一八一三)-元治元年(一八六四)]が、突然立って南洲の頭上に鉄拳の一撃を加えた。南洲大いに怒り、満面に朱を注いで剣を取り、「老奴無礼」と言って、将(まさ)に真木を刺さんとした。此の時真木は平然として、「匹夫敢て小憤に忍びずして前誓を忘るだ、君はかような小器では、到底吾々と共に大事を成すことは出来ない」と云って大笑した。南洲は黙然として久しく言葉がなかったが、稍(やや)あって、「僕の過(あやま)りであった、これよりは謹んで貴下の教えを服膺(ふくよう)して、永く匹夫の勇を誡めるであろう」と言って陳謝した。其の後彼は敢て怒ることがなかった。(「日本逸話全集」 田中貢太郎) 

酔起亭天の広丸の酒歌
三合の酒のみあげてもろともに朝寝している貧乏徳利
杯の数も廻れば廻るほど廻って来たる酒酔の家
うちよりて酌みかはせたる人の丈(たけ)の五尺もあまる下戸の酒もり
まとゐせし下戸も上戸の人まねに飲みたる酒に猿となる顔(「日本の酒」 住江金之) 天広丸の狂歌碑 


お酒好って手に負えない
お酒ってとても、おいしい人にはおいしいらしい。けれども私みたい、おいしくない人にはちっとも面白くないしろものね。あつおは、私が十二月十六日土曜日に催したパーティで飲みすぎた。飲みすぎて、お便所に入ったら出てこない、お便所に入りたい人が本当にこまったの。約一時間はお便所で眠っていたのです。みんなが帰ったら、気分が悪いからと、私のとっておきの、アルフレックスの椅子の上に眠ってしまう。残っていた友達も、本当にみーんな帰ってしまっても起きないし、でも私は決心して、無理に起こして、家に連れて帰ったわ。ズボンをぬいだだけで、私のベッドにもぐって眠ってしまったの。次の日は気分が悪くって、ウイスキーのビンを見るのもイヤだからって、新聞紙でウイスキーの入っている戸棚に目かくししたぐらい。次の次の日の夜に、私が少しだけ遅く家に帰ったら、椅子の上にまたまたドデッと横になっている、まっ黒の人間がいました。その日は黒いセーターと黒いコール天のズボンだったから、大きなドデッとした体は少しあわれでした。少し起こすと、うるさい!とどなるのね。そして、も少しつっつくと、気分が悪いよおっていうし、ねエ、ほんの二、三日前の失敗なんてケロリっと忘れられるのね。「ねエ、バカみたいよ。もうウイスキー見たくもないっていったじゃない」っていったら、「ウイスキーじゃないもん、日本酒だもん」ヘラヘラ笑っていうんだから、手に負えない。お酒っていうのは、すばらしく魅力あるものみたいです。私も毎日飲んだくれてみたい。(「2杯目のトマトジュース」 大橋歩) 


神さまの舌●北杜夫
遠藤氏は神のごとき人物である。いや、神さまそのものである。なんとなれば、人をたぶらかす。私もホラはふくが、私のはすぐホラとわかるかわいいホラで、遠藤氏のホラは、本当に人をだまくらかす深遠なる術策に満ちている。私も幾十度となく見事にだまされ、どれほど迷惑したかわたらない。遠藤氏は、自らハイ・ソサエティに属するとおっしゃられ、北めはロウ・ソサエティ(もちろん世界中にこんな言葉はない)だから教えてやるが、例えば、俺の飲む酒はワインなら千八百五十年産のかくかく、ウイスキーならかくかく…とお告げをたれたまう。それはたしかに遠藤氏は知性にあふれた博識の貴族であられるが、こと酒に関するかぎり、こんなになんにも知らず、味もわからない人は全世界に稀である。葡萄酒の年代が一年ちがって、どういうことになるかも、まるきり御存知ない。ただひたすら古ければよいと思いこんでいるらしい。そこで、ぶっこわれかけたびんにカビをぬり、レッテルも汚しても文字もよめなくし、これに、水と赤インクをまぜ砂糖と塩と酢で味をつけ、トマトケチャップなども入れ、これは十八世紀のボルドーです、とうやうやしく差しだすと、遠藤氏は満悦してガブリガブリと飲みほし、いいやなるほど、おれはフランスでは主に十七世紀と十九世紀のボルドーを飲んでおったが、これはたしかにその中間の味だ、などと恍惚となさっている。常人ならすぐわかるSウイスキーの味すら、とてもわかるもんじゃない。私は無学な乞食だが、こと酒に関しては、カストリからウイスキーからコニャックから、一応は味わえる。いくらハイ・ソサエティの神さまだろうが、かくの如き遠藤氏と、お互いに酒を語るなんてこと自体大屈辱である。(「狐狸庵VSマンボウ」 遠藤周作・北杜夫) 聖者の酒 


一石一斗一升七合入りの朱塗の大杯
私が見た杯では東京都杉並区の名誉区長横田定雄氏方の八升入の杯である。漆芸無形文化財の高野松山が造った朱塗の大杯で、杯開きに後藤一雄という豪酒家が見事にこれをあけたという。かつて、私はこの話を某新聞の学芸欄に随筆に書いたところ、新潟市の人から新潟県魚沼郡川口村の旧家北村宏氏宅には一斗入りの大杯があって、これは会津公から頂いた物で先祖にこれをあけた人があると知らせてきた。実際に使用した杯で最大のものであろう。私はかつて一石一斗一升七合入りの朱塗の大杯を見たことがある。これは長崎市諏訪神社の絵馬堂に掲げてある杯で、実用したものではない。(「日本の酒」 住江金之) 


酒という気まぐれものにだまされてひともめいわきわれもめいわく
たのしみは何かと問はばうまさけをあるにまかせて飲みむらすこと
うまさけはまことこの身に百薬の長いのちのみづとあしたゆふべに
うつりゆく世相横目にこの余生いかに生きなむと盃に対する(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎) 


聖者の酒●遠藤周作
私は今日まで数多くの知人と酒を飲んだが、北杜夫氏ほど酒品のある人を他にしらない。温厚にして物静かで、育ちのよさを現す顔にはそこはかとなき憂愁を漂(ただよ)わす氏は酒席にあっても決して姿勢をくずすことはない。大言壮語することはない。私たちのように僅かな酒でたちまち天にのぼる気持になり、千人力だと錯覚し、躁病患者のごとく騒ぎまわりわめき、怒鳴る連中と違って北氏はゆっくりと、規則ただしく、酒を口にはこび、たえず微笑を口から消さず静かな口調で話をする。我々は君子(くんし)の酒の飲み方はけだし、北氏のごときを言うのであると思い、氏と酒くみかわす時は、孔子、孟子、二宮尊徳先生と酒を飲むような悦びを感ずるのである。そして北氏と酒席を共にした我々はいつもそのあとで呟くのである、「ああ、彼と、もう一度、飲みたい。彼の酒は静かだ」と。まこと、静謐(せいひつ)と温厚は北氏の人柄をあらわす二つの言葉である。氏はいつも静かである。言葉数も少ない。氏の最も嫌う酒席での悪徳はわめいたり、騒いだりすることだと我々、友人は知っている。我々は氏と飲む時でも持前の性格からすぐ騒ぎまわるのだが、氏がそれにたいし怒ったことを一度も見たことはない。人は人、我は我という心境でゆっくりうまそうに酒を飲んでいる。にもかかわらず、決して仲間からはずれることはない。氏が好んで色紙(しきし)に書く言葉は「閑寂と寡黙」とであると耳にしたことがある。最近酒徒番付などと称し、徒に酒量を誇る傾向があらわれたが、酒は何よりも酒品である。その意味で北氏こそ本当の君子と言うべきだろう。(「狐狸庵VSマンボウ」 遠藤周作・北杜夫) 


酒好縁半生(のんべえていしゆとうきしずみ)(2)
もっともあまり大きな声ではいえないが、私自身、よいお酒が大好物であるせいでもあろう。ましてハシゴ酒は、身体さえもつならこれ位楽しい心のうさばらしはないものだ。野暮という気にどうしてなれるだろう。ただし、わが家には子供がいて、朝は早く学校へ出さねばならないから、夜は十二時すぎればお先に失礼する。秘書兼家政婦兼運転手兼計理士兼栄養士兼看護婦兼…といったあらわざを手伝い抜きで致さねばならない生活だから、有難いことに横になるとすぐに熟睡してしまう。そうしてきっかり二時間、テキが玄関のベルをおす、私は熟眠の目を覚ます。一寸した特技ものだと内心その悲しき習性にギョッとすることなきにしもあらずだが、どんなにハシゴをしても午前二時になると酔っぱらい奴がわが家に向かってスタコラサッサという図柄も、これまた全く悲しき習性という外あるまい。また、自分でガッチリ鍵をおろさないと、どうしても安眠できないという私の性分も考えてみれば滑稽至極な苦労性、これも悲しき習性であるが、いたしかたないわけだ。(「他人からの出発」 牧羊子) 酒好縁半生 


酒乱のキング・オブ・キングス
ぼくのごくしたしい人にも酒乱が多い。ニホンの三代ママ酒乱といわれる男たちが、新宿ゴールデン街のせまい飲屋で、ぼくとならんで飲んでることもある。ところが、そういう有名な酒乱が、ぼくにはいっぺんも酒乱だったことがない。いつだったか、野坂昭如さんたちとおおぜいで玉の井で飲んだあと、浅草のべつの飲屋にいくことになった。それでタクシーをよんだのだが、そのうちの一台のタクシーだけは、ずっととまっていて、だれものろうとしない。ふらふら、ぼくがそのタクシーをのぞいてみると、映画監督の浦山桐郎がのってるではないか。浦山桐郎はれいのニホンの三大酒乱のひとりで、みんなこわくて、浦山桐郎のタクシーにはのらなかったのだ。しかし、ぼくは車内に首をつっこんでのぞいてしまったので、しかたなく、そのタクシーにのり、浦山桐郎のとなりに腰をおろした。ところが浦山桐郎は酒乱のけを見せるどころか、浅草につくまでたいへんにおとなしく、酔ってはいるが、まことにおぎょうぎがよかった。長部日出雄さんも、じつは三大酒乱のうちにかぞえられていたが、ぼくには、たいへんになごやかだった。ほかのもうひとりの三大酒乱も、ぼくと飲んでると、ほがらかで、いい酒だ。ところが、そんなはなしをすると、みんながわらう。「コミさんが相手じゃ、酒乱にはなれないよ」「へえ、そんなにおれの酒は徳と気品があるんで、酒乱でも感化するのか」とぼくが威張ったら、あきれられた。ニホンの三大酒乱でさえシュンとなるくらい、ぼくの酒乱はひどいってことか。これじゃ、スコッチ・ウイスキの名前じゃないか、酒乱のキング・オブ・キングス、王の中の王だな。(「日本の名随筆「酔」 キング・オブ・キングス-あとがきにかえて」 田中小実昌) 


青春の相当する期間
酒を飲み始めたのが昭和六、七年辺りで、その頃、吉野屋といふ、新橋駅近くのおでん屋によく行つた。井伏鱒二氏がその「厄除け詩集」でそこの主人に、春さん蛸のぶつ切りをくれえと言つて、われら万障くりあはせて独り酒を飲むことになつてゐるその吉野屋である。最初に連れて行つて下さつたのは河上徹太郎氏であつて、もつと正確には、その時始めて日本酒といふものを飲んだ。吉野屋でその頃出してゐたのは何といふ酒だつたか、もう忘れたが、二十歳になつて飲み出したのだから、それが白鷹だらうと、菊正だらうと、直ぐに旨くなつたりする筈がなくて、日本酒といふのは水のやうなものを一晩中、或はまだ外が明るいうちから飲み続けて、真夜中過ぎると気持ちが悪くなるものだと思ってゐた。大体、青春などといふものが本当にあるのかどうか、医学上の問題を離れれば全く疑わしいと言はなければならない。子供は無邪気だと考へたりするのと同じことである。併し兎に角、その青春の相当する期間は酒と付き合つってゐるうちに過ぎたやうに思ふ。(「<新編>三文文士」 吉田健一) 蛸のぶつ切り 


ふだん著の女美し玉子酒 『高浜虚子全集』十二巻
 ふだん着の女美くし玉子酒 「ホトトギス」大15.5 


酒のたしなみ
女ばかり四人連れで奈良のお寺へ詣で、その夜の宿で少々くみかわしているとき、ひとりが云い出した。「あるお席ですすめられて、初めてお酒を頂きました。ほろっとしてたのしい気分になりまして、これはいいな、とおもったのでございます。わたくしに、大変、悲しいことのあったときのことでした。そのときから、お酒を少し頂くようになりまして」優しい言葉づかいでそう云うのは、美しいことだった。彼女が、大変、悲しいことのあったとき、というその内容は私も知っている。女のひとの悲しいときは、夫の愛がほかに移ったときなのだ。彼女はそのときからお酒をたしなむようになったという。美しいひとが、ほんのり目のふちを柔らげてそう語ると、いよいよ美しく見えた。私などは親ゆずりでお酒がのめる。が、お酒が少しはいれば、おしゃべりが自由になるというたのしさを知って、ときどきは酔いたくなる。自分の窮屈さから逃げたいという気持らしい。もっとも私の、晩酌少々つづけるようになったのは、わが家で夕餉の膳を囲む家族が少なくなったときからのようだ。晩酌少々かたむけることで、相手の少ない夕餉が豊かになって嬉しい。(「随筆集 ふと聞こえた言葉」 佐多稲子) 


かたはらいたきもの…思ふ人のいたく酔(え)ひて、おなじことしたる。
*清少納言『枕草子』(長保三年・一〇〇一頃)九六段「かたはらいたきもの」は、わきから見て気がかりなもの。口出しできずに困るもの、愛する男がひどく酔って同じ事を繰り返し言うのは困りものである。(「日本名言名句の辞典」 尚学図書辞書編集部・言語研究所) 


酒好縁半生(のんべえていしゆとうきしずみ)(1)
まことに不調法な話で恐れ入るが、酒は飲まぬ、という一札を入れてもらって一つ屋根に住むことになった。私方の父が底なしの大酒飲みで、母の苦労の絶えまなく、と女の子であり、かつ長女のませぶりから、いつもそう母を憐れんできたためである。けれども、その私の勤め先が酒屋の研究室で、まだうら若かった御亭主どんが父祖代々の酒好きの血筋をひいておれば、もともと無理な話ではあった。十代のおわりは五里霧中、あっという間にすぎて、何やらあたりがようやくほのみえはじめてきた二十代の後半、ふと気がつけば、テキは悠々と、トリスを日に三本は殺しておる。ある日、ある時、動かしがたいこの現実に面(つら)つきあわされた時は、さすがに慄然とした。うまいこと条約破棄されてしまったのはいつ頃か。そちらの方は少しも気にならなかったのに、朝、昼、晩に一本ずつのトリスは、このまま行けば頭がおかしゅうなる、アル中ですね。どこまでつづくぬかるみぞ、母のくしゃくしゃの顔がチラチラしてきた。何とかうまいことなだめすかして、ビールか日本酒の度数におとす細工でもしなくてはとあせったものである。やめてもらいたいと思いつかないのがおかしいところだが。その頃はウイスキーにウオトカ、洋酒一点ばりだった。ウイスキーも、トリス全盛時代、うまい安いのキャッチフレーズで売って飲んでのなつかしい時代である。もっとも肉も魚も野菜もあぶらも存分にたべてくれるので、大いにたのむ心のゆとりがあったことも事実だが。酒飲みの煙草好き、不養生の割には長生きした父は、やはり実によく食べものをたべてくれたから、そのことが念頭にあっての思案かと思う。(「他人からの出発」 牧羊子) テキとは開高健ですね。 


応仁文明の大乱
室町初期に於ては、地方酒造業の発達もなお顕著でなく、洛中酒屋の競争者たるの地位を充分に有していなかった。しかるに、応仁文明の大乱は洛中酒造業界に「応仁一乱ニ土倉酒屋三百余ヶ所断絶」という大打撃を与え、地方酒造業はその虚に洛中に販路をますます拡大せんとしたのである。ここに洛中酒造業者の地方酒造業に対する対立的意識は一段と熾烈を加えた。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 酒壺一つ二〇〇文 


私の三分の理
泥坊にも三分の理ということがあります。私の三分の理をきいて下さい。このあいだ私はある席のテーブル・スピーチでこんなことを申しました。「…酒やたばこはからだに悪いと申します。いかにも悪いでしょう。だが健康に障害がおこったとき、酒やたばこをやめれば、その分だけ体力が増進して、病気も治るという見込がある。しかるに衛生上悪いことは何もやらない人間が病気にかかったら、手持が何もないということにならないでしょうか。酒たばこは事あるときの予備なんです。」これをきいて皆が大いに笑いました。しかし、冗談も休み休みにいうがいいとお思いになる読者があれば、次の話をおきき下さい。先日、私の家内が旅先で「ヨウ」という、腫(は)れ物の王様のようなやつを大腿部に出し、熱と痛みをがまんして帰京するとすぐに入院して手術をしてもらいました。何しろ腫れ物をえぐり取ったあとが拳(こぶし)のはいるほどの穴になり、其れがふさがるまで一カ月もかかりましたが、もう治りかけた昨今、彼女の食欲と元気の旺盛なことは旧に倍するぐらいです。つまり傷を治すために出したエネルギーが、からだ全体に及んだものと思われます。(「ドイツ文化と人間像」 相良守峯(もりお)) 昔の方ならドイツ語辞書を思い出しませんか。 


賀三升初工藤
一﨟工藤称別当 三升大入酒量無 天神七代唐天竺 日本市川団十郎(をみなへし) 太田蜀山人 


日本は酒を嗜む人のための天国
森安治氏が「酒とはなにか」という随筆の中で、昭和三十年に京都で起った殺人事件を紹介している。殺した方の男はカストリ八合、ビール一本を飲んでいた。殺された方の男は、犯人と飲み屋でたまたま出会っただけである。ささいな口論から刃渡り十三センチの短刀で脇腹を刺されて死んだ。刺した方は無罪になった。心神喪失の状態だったからというのである。花森氏はまた、この時の京都地裁の判決理由の一部を引用している。「まことにわが日本は酒を嗜む人のための天国である。現代文明諸国中酒を飲み過ぎ自ら招いて弁識能力を失い殺傷した犯人を法律を以てこれ程厚く保護している国は稀であろう」(昭和三十一年七月五日・京都地裁の判決理由から)(「暗黒世界のオデッセイ」 筒井康隆) 


神々の酒盛
自然がこうもにぎやかなので
神々は退屈しない
山脈が大あくびする 谷が生れる
河が思い出して流れはじめる
子供のように岩々とどなりあっている
大陸と大陸がおもいおもいに
陽気に声をかけあう
重大なことは何も起こりはしないさと
人間だけがみずからの醜さにふさわしく
もの静かだ 目立たぬように
だまって生まれ どこかに帰ってしまう
星がまばたきをする
蒼白く若い星が身をのり出して
愛してる なんて言ったのか言ってないのか
海は大陸を日夜なめる
森はおちついてゆっくりと平野にひろがり
樹々は手をつないで凛と立つ
草花とけもの達は
風をうらやましく思う
何故なら なぜなら…
自然がこうもにぎやかなので
神々はいつも浮かれている
俺がいっしょだと いっそう嬉しげだ
ひょっとすると 俺も
神々の仲間かもしれない(「現代詩文庫88関口篤」) 


飯塚酒場(2)
戦時中あるいは戦後の配給制度が、酒をたしなまない人を酒飲みにさせ、煙草をのまない人に煙草の味を教えた。それにちょっと似たような関係がここに発生してきた。人々は飲むために行列し、そして一回でも余計に飲むために、大急ぎで飲み乾して行列の末尾に奔った。どぶろくは味わうためにあるのではなく、早く嚥下させるためにそこにあった。飯塚のどぶろくは大変な熱燗だったからそれを他人より早く飲むのは、さまざまな工夫と技術と、咽喉や舌などの訓練を必要とした。妙な気取りというかダンディズムというか、そんなものがそういう具合にして行列の常連たちの間に、しだいに芽生えてきた。それは以前の楽に飲めた時分には絶対に見られなかったもので、つまり他人より早く飲むことを誇りにし、また走って他人より早く末尾につくことを偉しとする、それが一種のダンディズムの形をとってあらわれている。酒飲みくらべではあるまいし、早く飲むことが誇りになるかどうか、ちょっと考えれば判る筈なのだが、それはまたたく間に常連の一般的風潮としてひろがるようになった。(「梅崎春生随筆集」 梅崎春生) 


ウィスキーのありか
女房が亭主にくってかかった。「お前さんは年がら年じゅう、ポケットにウィスキーびんをしのばせているんだね」「じゃ、始終びんを口にくわえていた方がよいとでもいうのかい?」(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


私の酒
私の酒は浅酌低唱というわけにはいかない。頭を休ませるために、寝酒をたしなむが、時に街に漂流するのが好きだ。オデュッセウスの漂流は十年にわたったようだが、私の漂流はせいぜい二、三軒の梯子酒というところだ。しかし近年老いて、酒が翌日に残るようになっては、漂浪も終りに近い。時に酒場に碇をおろして、娑婆苦を忘れ、酔眼朦朧、ひとり仙客となるのを娯しむとは、情けないことだ。(昭和四七・四・一/『酒』)(「龍の落とし子」 瀬沼茂樹) 


島田省吾(しまだ・しょうご)
本名服部喜久太郎。明治三十八年十二月横浜生れ。大正十二年五月新国劇入座。無口で通っているが、好物の酒が入ると自説にものをいわす知性型の俳優。ゴルフ、野球なども結構こなすスポーツマンでもある。台詞(せりふ)をいうたびに口をまげる舞台の悪癖も度重なる映画出演で大分矯正された。(目黒区平町一一三)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。 


瘤取り爺さま
むかしあるところに、顔に瘤(こぶ)のある正直な爺さまがあった。ある日山へ薪とりに行っていると俄雨が降って困ったので、大きな洞(うど)木の中に入って雨やどりした。すると間もなく雨が止むと、天狗たちがおりてきて、酒もりをして踊りをおどった。洞木の中で見ていた爺さまは面白くなって、一人でとび出して天狗の仲間に入って一緒に踊った。天狗達は大喜びして、踊りが終ってから酒もりをやめ、「爺ァ爺ァ、んがお蔭で今日ァなもかも面白かったしけァ、また明日も来い。そのしるしにうっがの瘤よ預っておく」と顔の瘤をとってしまった。爺は大喜びで家に帰りその話をすると、隣の悪い婆がそれをきいて、「それではおらほの爺もやって瘤とってもらるべ」と思って、爺を山さやった。爺は洞木の中にないって、天狗たちのくるのを待った。そのうちに天狗たちがおりてきて、昨日の爺が来ればよいがと話しているところへ隣の爺が出て来て踊った。天狗は爺の踊りを見ていたが、あまり下手なので、「これァ、今日ァ爺ァ踊りァ下手くそだ。面白ぐなェしけャ戻れ。そらァ昨日あじがった瘤よ戻しッ」といって、隣の爺の顔へ瘤をぶっつけた。爺は左にも右にも瘤がついて、泣き泣き帰って来た。へだへで人真似するものでない。どっとはらい。(三戸郡五戸町の話 採話・能田多代子)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


飯塚酒場
この飯塚酒場に貧しい飲み手が蝟集してきた理由のひとつは、他の店にくらべて品物が潤沢であったからである。何故潤沢であったかというと、この店は政府の配給にたよらず、自から生産をしていたからだ。生産をしていたと言っても、原料の米は割当てにたよる他はないが、なにしろ生産の歴史が古いので、その実績を無視するわけには行かない。あの頃は、諸企業や事業の改廃統合は、おおむねその実績を第一としていた趣があって、実績というものがなければ、どうにもならなかった。実績は最大の強みであった。飯塚には徳川時代以来の実績がある。やすやすと配給を削減するわけには行かなかったわけだ。そこで彼等(つまりその頃権力を保持していた者ども)は、配給を削減しないかわりに、製品を自己の組織用に捲き上げることによって、実質的な削減をした。すなわち飯塚酒場は、毎日二石八斗乃至三石のどぶろくを税務署、警察、消防署などに納めなければならなかった。毎日のことだから、大変な分量にのぼるのだ。そして蝟集した善良な飲み手への配当は、日に一石から一石五斗、多くて二石ぐらいのものだったと推定される。一人当たり二合として、二合では千人ということになる。(「梅崎春生随筆集」 梅崎春生) 飯塚 


八歳の教育
八歳、古人、小学に入りし歳也。はじめて、幼(いとけなき)者に相応の礼儀をおしへ、無礼をいましむべし。此ころよりたち居ふるまひの礼、尊長の前に出(いで)て、つかふると退くと、尊長に対し、客に対し、物をいひ、いらへこたふる法、饌具(せんぐ)を尊長の前にすえ、又、取(とり)て退く法、盃を出(いだ)し、銚子を取て酒をすすめ、肴を出す法、茶をすすむる礼、をもならはしむるべし。(「和俗童子訓」 貝原益軒) 


飲まないだけである
体質的に、一滴も受けつけない人がいるが、私は、べつにそうではない。飲もうと思えば飲める。ただ、飲まないだけである。俗に、「飲む、打つ、買う」という言葉があるが、私は、学生時代に、ふと、-おれは、この三拍子そろった人生を送ったら、末は乞食になり下るな。 と思い、自分に「飲む」ことだけを禁じたのである。終戦後、間もなく、先年亡くなった評論家の十返肇と私は、ともに一滴も飲まず、銀座七丁目にあった「ローズ」という喫茶店で、コーヒーばかり飲んでいた。十返肇は、戦前すでに評論家として、一家を成していた。当時は、「十返一」という本名をつかっていたが、戦後のすざましいばかりの文学復興のバスに乗りおくれ、不遇をかこっていた。私は、勿論、全く原稿の売れない無名作家でしかなかった。ある日、その「ローズ」で、十返と私が、コーヒーを飲んでいる時、戦後にわかに名を挙げたT・Tという作家が、さっそうとして入って来た。T・Tは、十返とは、戦前からのふるい友人であった。「おい、十返、君は十返一などというつならぬ名では、もう評論は売れないぞ。新しい筆名をつくって、出直した方がいいな」T・Tはひややかにそう云った。「よけいなお世話だ」十返は、憤然となって、そっぽを向いた。その宵、十返は、私を誘って、新橋駅裏の焼跡に建ちならんだバラック小屋の飲屋のひとつに行き、カストリというドブロクの下等酒をがぶ飲みしはじめた。十返は、もともと、一滴も飲めない体質であった。その夜、十返は、へべれけになって、ぶっ倒れてしまった。その日から、十返は、毎夜、飲むようになったが、皮肉にも、「十返肇」と改名してからは、流行評論家になった。私は、かれが、次第に酒量を増しはじめるのを、眺めながら、自分の禁戒だけは、守った。十返肇は、一日で、ジョニ黒一本を空ける酒豪になってしまった。そのせいかどうか知らぬが、四十九歳の若さで、逝った。その例を、身近に見せられている私は、ついに、生涯、酒としたしむことのない人生を送ることになってしまった。(「どうでもいい事ばかり」 柴田錬三郎) ある日トツゼン 


舌を洗うために
「酒」という雑誌を送られた。題字を田中貢太郎が書いている、目次にならんでいる執筆者の顔もみな酒気紛々であるところに創刊の意気も見えるが、すぐ樽底になりそうな不安もないではない。時は晩春である。時勢は世界的に禁酒論者退場時代だ、欧洲の天地ではアルコールと火薬が人間にとって最も放擲しがたい魅薬になりつつある。×人にいうべき信念でないかも知れないが、僕は酒の害というものを覚えない。量は、三献でよし、半夜でよし、まれながら夜を徹してもよろしい。しかし、すすめる杯はのまない。のみたくなる時に杯を手にする。それも献酬する時のほかは決して、底までは乾さない。欲するだけを舌の上にうるおして止める。×二十四、五歳の頃から今日まで、僕には量というものが少しも変わらない。あがりもせねば下がりもしないのだ。一酌すれば明りの燭光を増したごとく周囲に清新を加えて来るが、荒(す)さびた心になろうとは思わない。微醺を尊ぶこと、ペンにインクをぬらす程度。×つよいばかりが酒のみではないと思う。僕は酒のみを以て自負している。酒を愛することでは人後に落ちないとしている。たとえば、将棋は下手であっても棋を愛すことでは負けないとしているように。×暢叙譜の愛酒の憲法は、読んで面白いが、あのうちの「酒飲む時」の憲法どおりにやると、僕など朝夕に飲まなければならないことになる。僕にも酒の憲法はあるが、その第一条は「舌を洗うために」である。僕の酒は自ら「舌洗い」と称しているからだ。×古人は腸を洗うといったが、僕には体力的にそうは飲めない。平常の舌滓を洗ってまず酒客との話に新語が吐きたいのである。味覚を研いで料理をあさることもたのしい。舌洗いならば三献でも足るし、また、酒の害を考えたこともない。(「草思堂随筆」 吉川英治) 


クソ蓋
高泡期に入道雲のように盛り上がった泡も、アルコール分が一五%になるころにはすっかり消えて、もろみの地がみえてくる。地の状態はさまざまで、裸の液面が見えることもあるが、「ちりめん」とか「渋泡」といわれる薄い膜が表面をおおったり、「飯蓋」といって蒸米や麹の抜け殻が表層に浮き上がることもある。いまではまったくみられなくなったが、昔は「クソ蓋」などといわれ、コップが乗るほどの厚い蓋がかかることもあった。こういう厚蓋がかかる場合には、きまって発酵が鈍くなり、酸が多く出て、香りも悪かった。この厚蓋の形成も酵母に原因があることが、醸造試験所の菅野信男博士によって明らかにされた。厚蓋を少しとって走査顕微鏡で観察すると、無数の酵母が繊維に結合している。発酵が進み、蒸米が溶解すると米の繊維質がむき出しになるが、一方、酵母のほうも時間がたつにつれて細胞表面が変化し、繊維と結合するタンパク質が露出してくる。その結果、米の微細繊維に酵母がびっしりと吸着して塊をつくり、それが炭酸ガスを含んで浮き上がるのである。酵母が厚蓋となって浮き上がれば、発酵も鈍くなる道理である。酵母が老化とともに繊維にからみつく性質は、野生酵母にあるだけで、協会七号などの優良酵母にはない。昔の清酒が猛烈に酸っぱかったのは、このような野生酵母が清酒をつくっていたことも一因であったろう。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


春之部 独活 独活膾余酔の人に勧めけり  師竹
夏之部 暑   酒蔵の老爺は暑し酒の番    一転
(「続春夏秋冬」 河東碧梧桐選 「現代俳句集成」) 


蜂竜の盃
大師河原村の名主池上太郎右衛門が家にて蜂竜の盃をみる。折から庭に牡丹の花さけり
蜂竜の盃とりてさしむかふ庭にも花の底深み草
あるじは水鳥記にみえし池上太郎右衛門尉底深が子孫なればなり。もし雅筵酔狂集の類ならば、花底山蜂遠趁人の句にもかよふべし。(玉川余波) 太田蜀山人 



酒は『百薬の長』といはれて居る。が、わたくしは『百悪の長』でもあると考へてゐる。酒が御神酒として、用ひられてゐるのはよい。また御神酒に準じた程度に用ひられてゐるのも結構である。昔からさうした意味での、酒のよいところは数限りなくあげることが出来る。これは酒のよいはうの話である。酒は一種の狂ひ水であるから、心のしつかりしたものが、少量用ひるくらゐはべつに大したことはない。これは酒を、呑むのである。酒を人間が支配するのである。しかし大半の人々は、どうも酒に呑まれてしまふやうである。物体の酒に人間が支配されてしまふのである。酒ずきにとつては、この呑まれてしまふところがよいらしい。しかしそれによつて他に害を及ぼしたり、翌日の仕事に支障を生じたりすることは、つねの日事変下を問はず、日本臣民として以ての外であるといはねばならぬ。わたくしはまだ酒が人体に益したといふことを聞かぬ。カロリーのたてまへから行けば米の何分の一かのカロリーはあるであらう。さうして、極く少量用ひれば体内の鬱気を散じてよいかも知れぬが、弊害は常に伴ふやうである。殊に豪酒や老人の酒はいけない。わたくしはよく『自殺したかつたら酒を飲め』といつてゐる。酒で己の感情を殺したり、虚勢を張つたり、肉体を損じ、無駄に時を費やすなどは、明かなる自殺、酒で買収されるものなどに至つては正に唾棄すべきであらう。(「憂国遺言」 田中光顕著者 田中直樹編者) 


方言の酒色々(31)
酒ができる うまれる
酒が体に回る しもう/しもる
酒が発酵する時、泡がこぼれないように立てておく板 あわいた
酒が飲める できる
酒としょうゆを等分に混ぜ合わせたもの ちゃんぽん(日本方言大辞典 小学館) 


酒飲みの資格
高等学校で酔っぱらいの校長さんが、入学式をめちゃくちゃにしてしまったというので、大騒ぎがもち上がった。はたして、とんでもない先生だとばかり非難がおこり、とうとうこの校長さんは辞表を出すにいたった。以前に議会で酔態をさらけ出した大臣(酔虎伝)があった国であるから入学式の演壇で酔っぱらい演説をした校長さんがいたとて、別に不思議はない。ただこの先生はたいへん酒が好きでありながら、酒を飲む資格がなかったというだけのことである。新聞の報ずるところにしたがえば、昼間全日制の入学式があり、その式後一杯やってそれから夜間の定時制でハメをはずしてしまったのだという。そして今春は土地のボスから強要されて三名の裏口入学があったということをべらべら演説してしまった。ただこれだけしゃべっただけではなく、実際はもっといろいろ醜態を演じたことであったろう。いずれにしても不謹慎この上ないことはいわないでもよくわかっている。しかしぼくはこの話から判断して校長さんの心事は多少同情がもてなくもない。それがどんなボスだか知らないが、三名のできない生徒を入学させたという良心の呵責と憤激が思わず酒の酔いとともに正直に口からとび出したことである。由来酒飲みは善人で気の弱い人間が多いのが常であるから、きっとこの校長さんもまたそうした類の一人であるに違いない。しかし惜しむらくは、彼は酒を飲む資格を欠いていた。酒を飲む資格とは、自分で自分の酒量をはっきりと知っているということである。-(昭和32.4.22)(「女へんの話」 奥野信太郎) 


焼け跡で呑むヤケ酒が病みつきに
焼け跡で呑む酒を何というか。文字どおり焼け酒なのだろうが、これが病みつきになった。隣家の八重桜が満開だった。来てくれた人、だれかれなしに引き留めて夕刻から呑み出し、何度か追加のツマミ類を買いに走った。茶の間の畳の上にじかにパイプ椅子を何脚か置き、人数がふえれば椅子組と新聞紙を敷いた座り組に分かれ、何やら毎晩のように宴会ムード。他人の不幸がオモシロイといえば、さしさわりがあるけれど、自分の不孝はオモシロイところがさしさわりなくあった。さしあたりスッテンテンで、そちこちで雨漏りの音がしていて、近所の電気屋が応急に取付けてくれた百ワットの裸電球を茶の間と台所に配し、ガラクタの谷間での談笑には味があった。車で来た人が、酒が呑めないからと出直して来たりした。非日常の持つ魅力の正体が私によくわかっているとは思わないが、破壊・廃墟をよろこぶ祝い事に似た原始心理があるらしい。見舞金や差し入れで生活には一向に困らない-。ビール二ダース、日本酒二本、安ウイスキー大瓶一本という日もあった。<もともと人間は裸で生まれてきたのではないか。裸になって何が悪い-変な居直り。着ぶくれて見失ったことだってあるだろうに>私が一番饒舌だった。歌など歌ったら放火と疑われそうなので、それだけは控えたけれど、談笑がはずんで宴は夜半まで続いた。(「ああ!!火事場のヤケ酒」 遊佐雄彦) 


食酒(けざけ)は貧乏の花盛り
 食事のたびに酒を飲んでいるようでは、金は貯まらず、貧乏から抜け出せないということ。
五合の酒は余るが一升の酒では足らぬ
 少しのものは自制が働くので残り、たくさんあるとなると安心して手をつけるのでかえって足りなくなることをいう。(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


酒かバクチか
男には「酒派」と「ギャンブル派」があるようだ。昔の映画仲間では、この二派がくっきり分かれていた。なじみのバーを何軒も持ち、灯ともし頃になるとアルコール恋しさでそわそわし始めるのは、誰と誰と誰というふうにはっきり名前が分かっていた。そして、この男たちは競馬も麻雀もやらなかった。たとえ知っていたとしても、付き合い程度にしかやりはしない。もう一つのグループは、ひたすらギャンブル。朝、会社に顔を出した時からメンバーを集める努力をし、もし四人揃わなかったら、ふてくされて花札やトランプをいじり始めた。したがって、飲みながら麻雀をやるようなことは、まれにしかなかった。いつもシラフで戦った。"飲む、打つ、買う"が男の代表的な道楽だと言われているけれど、それぞれに味が深く、三拍子揃った達人になるのは大変だと思う。ことにサラリーマンだと、時間的余裕もないし、経済的にも大変だ。三つとも手を出していると、生活にハタンをきたすか、どれ一つ深く味わえずに人生を終わらねばならない。映画人の場合、「酒派」は奇妙に出世し、会社の中で主要な地位をしめていくのも興味深かった。これに比べれば、「ギャンブル派」は常に兵隊であった。飲まない。だから買う方にも縁が薄い。ただただ打つのである。しかし、これも妙な仲間だったと言える。たとえば麻雀ならば、仕事が終わって大の男が四人で遊び始める。時ニは早朝の三時か四時になり、タクシーで家に帰る。交通費やら食事代やら場所代を払うと、勝ったとしても家計にくいこんでくる。でも何とか工面して翌日、翌々日と、四角な卓の前に集まるのであった。酒派の連中に言わせると、「不健康」であり、「無意味」であったかも知れない。しかし酒だって、それほどのものとは思えなかった。要するに男とは、常に満たされぬものであるらしい。それだからこそ、意味のないことに血道をあげてしまうのだ。(「ムツゴロウ麻雀記」 畑正憲) 


56.おはよう、酒よ、さようなら、理性よ
 この場合の酒は原語でrakijaラキヤと呼ばれる強い蒸留酒(プラム、葡萄などの果実からつくられる)。そのような"気違い水"を朝から飲めば、身を滅ぼす。 スロヴェニア
36.酒がものを言わせる
 素面(しらふ)でものが言えないだらしない人。 ハンガリー(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


酒は食うために飲むのだ
この時娘は料理と共に酒の銚子を持ち来(きた)り、「兄さんやっとお燗(かん)も出来ました。料理の方で火を使いましたからお湯が皆(み)んな冷(さ)めてしまって遅くなりました」と食卓の上へ置く。主人は深く飲まぬと見えて小さな盃へ半(なか)ばほど注(つ)がせ、「大原君、酒はどうだね」客「飲むさ、酒が来ればまた食べられるからね。僕は酒を美味いと思わん。不味くって我慢する方だが腹が張った時飲むと胃を刺激して再び食欲を起す。僕の酒は食うために飲むのだ」主人「何でも食う事ばかり。アハハお登和や、一つ御酌してお進(あ)げ」大原「有難(ありがた)い。この酒ばかりは特別に美味いよ」主人「上等の酒を吟味してあるからね」大原「ナニそいう訳(わけ)ではない、酒のお蔭でまた食べられる。豚饂飩も結構だね」(「食道楽」 村井弦斎) 


でんがく【田楽】
生味噌はけちと田楽にておごり 時頼生味噌で酒飲む(田楽は高時)
味噌で治まり田楽にて乱れ 時頼時代治世
田楽で飲んでる所ね鍋の蓋 九に一の新田氏(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


樽干し場
造り酒屋の大きな構えがあって、国道の曲り角に面して、その帳場やいくつもの酒蔵が並んで立っていた。その一群の建物は、壁という壁を、みな赤い土で塗ってあったから、これを中心に出来た二十軒ばかりの村落のあざなを赤壁と呼んでいた。私は、その赤壁で幼時を過ごした。広島県の備後の国の海岸である。冬になって瀬戸内海特有の、明るい、おだやかな日ざしが、この赤壁の酒蔵を親しみ深く照しつづける頃になると、この二十軒ばかりのまん中を曲って通ってゆく国道も白く乾いて人通りも減り、往還を自分たちの生活の中へ取り返したという気がしたものだ。酒蔵の国道に面した赤壁に沿うて、いくつもいくつも大きな酒樽が、横に倒されてならぶのである。きれいに洗われた白い杉の肌を、日にあてて乾かすためであるが、いずれも往還の方ヘ、さしわたし五尺もあろうかという大口をあけて、競争して太陽の光を吸っているような表情でならんでいた。あたたかな日光が、樽の中にたまっている。子供たちは、そのたまった日光の中へ入って遊んだ。実にさっぱりと美しい木肌であった。子供たちも、草履や下駄で中へはいる勇気はない。お座敷へ上るように、入口のところへ履き物を脱いだものだ。女の子たちはままごとをしたり、まりつきをしたりした。男の子たちは物語にふけった。それに飽きると、たち上って、両足をふんばって右左と運動をつけると、たちまち酒樽は、浪に漂う小舟のように左右に揺れだした。となりの女の子の樽に、ごつんごつんとぶち当たるのも面白かった。半日はそこで何かして遊べた。樽の中は明るい日だまりになっている上、中で日光が反射しあって、外よりももっと明るいように思えた。中は、ほのかに酒の香がただよっていた。じつにほのかにである。たしかに何十年、酒はいくら洗われても杉の板にしみ透っていたに相違ないのである。子供たちは、この清潔な板張りの小座敷の中にいて、酒の香をきいて、すこし興奮したのではなかったであろうか。(「変奏曲」 福原麟太郎) 


よ・う[酔う](自動)①酒を飲んで心身が正常でなくなる。-
酔えばまだ生きていて欲し 原節子 北原 草史
酔えばわが文学貧しなおも酔い    石曽根民郎
酔うてまた人が憎くて恋しくて     石丸 弥平
したたかに宮司も酔った本祭り    山崎涼史
縄のれん総理にしたい人と酔い    高峰 壽一
人さまの靴はいている酔っている   高橋 正二
酔い痴れてなお一本の葦である   野谷 竹路
ほろ酔いのうちは気になる腕時計  田沢良太
酔えばなお淋し酔わねばなお淋し  池田 呑歩
酔うたことはないと悲しいことを言う  三村 舞
酔うほどに無口な父の安来節     飯田 えみ子(「川柳表現辞典」 田村麦彦編著) 


三増酒の製造はできなくなった
現在では、二〇〇六年の酒税法改正により三増酒の製造はできなくなったが、アル添・糖類添加の日本酒が量的には主流であることには変わりがない。純米でも本醸造でもないこのタイプの酒を「普通酒」という。原材料で日本酒を分類すれば、「純米酒」「本醸造酒」「普通酒」の三種ということになる。(「酒とつまみのウンチク」 居酒屋友の会) 


その期間は療養期間
中島(らも) その人とも対談したんですけどね。ずーっと断酒してはるけど、飲み屋でやったんですよ、対談を。悪いことしよるなと思うたんやけど。飲み屋で対談で、奥さんが横にぴたっと座ってはんの。「旅行に行くときはいつも奥さん連れていくんだ。ブレーキですわ、こいつは」って。「ブレーキのない車はダメでしょう。私は自信ないからね、はっきりいって。だからいっつもブレーキをこうやって連れて歩くんですよ」いうてはったんですけどね。
ひさうち(みちお) 生死かかってますもんね、そんな人って。
中島 聞いたんですよ、「なんで生きてるんですか」って。そしたら要するに「私は三十六回入院しているから、その入ってる間っていうのは飲めない。その期間は療養期間になってるから、生きられるんだ」っていってた。問題はむしろ幻覚を見たり、変な行動をとることのほうにある、みたいな話だったですね。なるほどなあと思うたけど。いろいろ面白い話してましたよ。病院でも抜け出して飲みに行くんやて、何人かで。「ちょっと散歩に行きたい」っていってね。ただお金持たせたらワンカップとか買うから、お金は持たしてもらえないわけです。一銭もないのに、どうやって飲むと思います?
中島 そんなのない。墓場へ行くんです。(「しりとり対談」 中島らも ひさうちみちお) 


飲み友達
私は飲むか食べるかどちらかで、食前に飲む習慣はないし、飲みながら食べることも、酒のあとで食べるのも気がすすまない。飲みだしたら飲む一方がいい。ところが、飲むと食欲旺盛になるのが佐野洋さんで、それもどういうわけかまともな物は食べない。ナンキン豆なら、実を食べずに殻のほうを食べる。食べるというより、バリバリかじって飲みくだすと言ったほうがよさそうだ。紙のナプキンなどもうまそうに食べるし、麦藁のストローなんぞも大好物、日本料理のときは割箸をかじる。ひところの彼は鉛筆で原稿を書いていたが、書き減らす鉛筆の数よりかじってしまうほうが多く、胃腸によくないと気づいて、現在は万年筆に改めている。しかし、彼のいちばんの好物はビニールで、感触がまず快く、酒を飲んで昂揚するとつい手近にあるビニール製品を食べたくなるらしい。その被害はわが家のテーブル・カバーに及んでいるが、とにかくビニール製品なら風呂敷でも何でも結構、触っているうちに食欲をそそられ、少しずつちぎって食べてしまう。ビニールのベルトが流行った頃は、蕎麦みたいにベルトを飲みこんで出し入れしていたというから並みたいていの愛着ではない。まだ、人間を食べたくならぬだけマシというべきだろう。しかし酒を飲まないときの食欲は正常で、彼の家で晩飯をご馳走になったらおかずがビニールだったという話は聞かない。私は彼と飲んでいて、時おり食いつかれそうな気がして落ち着かなくなるが、いずれにせよ、このところ彼が原因不明のアレルギー症に悩まされているのは、妙な物を食べるせいに違いない。ことによると、ビニールが怒っているのだ。(小説新潮・一九六七年十月号)(「昨日の花」 結城昌治) 


ちょい呑み
次にことばを途中で略して、終りまで言わないのも、一種のみえであり、シャレの気取りであった。「思召はありま」「ちょっと一日ぶら下りだ」「ずい行(いき)のずい帰り」「ちょい呑み」「お忝(おかたじけ)」といったことばづかいがそれで、取巻きの幇間(ほうかん)めいたもののことばに多い。そそっかしい江戸っ子が、いよいよそそっかしくなるわけである。これを地口にしたものが、「大概なら買いの謙信」とか「忝(かたじけ)有馬(ありま)の水天宮」のような形で、むだ口として発展する。(「日本語のしゃれ」 鈴木棠三) 


今後、妓楼や旗亭に上ることをやめ
井上馨の伝記に次のようなことが書かれている。「井上が高杉晋作をさそって、京都に帰ったとき、三条通の旅館に入ったが、同藩士入江九一・野村和作の二人がやってきて、いまや藩主父子は一日中国事に力をそそいていられ、朝廷でも大いに心配されているときであるから、われわれ同志も、朝廷や君公のご苦心を察して、妓楼や旗亭(きてい)に遊んで、国事を談ずるようなことは慎まなければならない。だから今後、妓楼や旗亭に上ることをやめ、万一これに違反した者があれば、詰腹(つめばら)を切らすと約束した。貴君らもこの盟約に加入せよと。これを聞いて高杉は、大いに憤激し、ぼくらはすでに死を決して外国公使を斬殺して、攘夷を実行しようと考えている。切腹を恐れて、女郎買いをすることのできない軟骨漢が、なにごとができるか。ぼくはこれから率先して妓楼に上るだろう。いい終わってただちに立った。井上もまたこれに同意し、二人つれだってどこかへ赴いたので、入江・野村の勧告はなんの効果もなかった。当時井上ら同志の士は、狭斜(きようしや)のちまたで豪遊し、暴飲放論を常としていたが、みな攘夷実行の主唱者として、同志中でもとくに重きをなしていた」高杉は「三千世界の烏を殺し、主(ぬし)と朝寝がしてみたい」とうたって有名であるが、志士と女性との関係は、やはりその人その人によって異なり、かれらがのちに明治政府の顕官となり、あるいは話題の人物となっただけに、その華やかさが強調されたといえるだろう。(「日本の歴史 開国と攘夷」 小西四郎) 


武烈天皇のこと
武烈天皇のことなどは、まったくひどい。夏(か)の最後の王の桀(けつ)王、殷の最後の王の紂(ちゆう)王といえば、中国で堯(ぎよう)、舜(しゆん)と対比される悪逆の王の代表だが、武烈のことをそれで類推したかのような書き方である。おそらく王統がここで絶え、新たに継体(けいたい)天皇の王統が代るので、前記倭王朝終末の大王として、むざん極まる扱い方をしたのであろう。だから、『書紀』の記す武烈天皇については、眉につばして受けとるべきだが、この大王はいわゆる酒池肉林に没する生活をしていたように述べている。ここに書きうつすのもはばかりたくなるような、女性にたいする変態行為、己の美食をつくすが天下の飢えを忘れているとか、みだらな音楽であやしげな踊りを踊らせるとか語ったのち、「日夜常に宮人(女達のこと)と、酒に沈(あい)さまれて(酔うてだらしなくなるさま)錦繍をもって」寝所としているという。『日本書紀』にくらべると、『古事記』の武烈天皇観は、まことにさっぱりしたもので、そんな悪い印象を与えていない。『書紀』の編集者には、為政の君主と酒との関係一般について、よほど先入観があったのかもしれない。安康、武烈の両大王の不孝な最後を、酒に溺れてということにしないと、気がすまなかったのだろう。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎) 


ルバイ第六
ダビデの唇(くちびる)は鎖(とざ)されたり。されど帷神(かんながら)の
甲高(かんだか)き古語(ふることば)にて、「酒、酒、酒、
赤き酒よ。」と、鶯は薔薇(そうび)に叫ぶ、
淡黄(うすぎ)なる花の頬を紅(べに)に染むべく。
[略義]イスラエル王ダビデは弾琴の妙手だが、其の歌も、其の人亡き後は、再び聴く術が無い。然るに鶯は昔ながらの声で、「酒、酒、酒、赤い酒よ。」と、薔薇に向って叫んで居る。淡黄色の薔薇の花を真紅に染めようと、花の無情を怨みながら。
[通解]
-之は、薔薇に対する、鶯の恋の協奏曲(rhapsody)である。鶯の求愛に対して、薔薇は、赤き酒に頬を紅(くれない)に染める事も無く、冷然として居る。相変らず、薄黄色い顔色をして居る。恐らく鶯は其の儘、焦(こ)がれ死(じに)に死んでしまうのであろう。(「留盃夜兎衍義(ルバイヤートえんぎ)」 長谷川朝暮) 


下学集
糟(カス)粕 二字同也 
九献 日本世話(ワ 世俗で使われる言葉)酒ノ名也 三々九献ノ義也
歓伯(クワンハク) 酒ノ異名也云
青州(セイシユウ)従事(シ) 酒異名ナリ也 徹(テツ)スル𦜝(ホソ)ニ 義也 従事ハ官ノ名也
緑醑(リヨクジヨ) 酒也
聖人 呼テ清酒(セイシユ)ヲ 云フ聖人ト
賢人 呼テ濁酒ヲ 云賢人ト義也
虀(スイクキ) 濁醪(ダクラウ) 松醪(ロウラウ) 茆柴(バウサイ) 濁醪(タクラウ)也 丁酔(スイ)シテ而即チ醒(サ)ム 如シ焼(ヤイ)テ茆柴ヲ火便(フナハチ)滅(メツ)スルカ 故ニ云フ茆柴酒ト
忘憂物(バウイウフツ) 酒ノ異名也 飲(ノム)スヘレ酒ヲ 則チ 忘(ワス)ルレ憂(ウレイ)ヲ也
釣(ツ)ルレ詩(シ)ヲ鈎(ツリバリ)
掃(サウ ハラウ)愁(シウ ウレイヲ)帚(シウ ハウキ) 二ツ共ニ 酒ノ異名也
浮蟻(フギ) 酒ノ名也 酒ノ糟(カス) 点(テン)シテレ蟻(アリ)ニ 泛(ウカ)フレ盃(サカツキ)ニ 如シ浮蟻ノ 故ニ 云フレ尒(シカ)
肴 与(と)餚 同字 (「元和三年板下学集」 監修・解説 山田忠雄) ほとんど酒の異名の頁にあります。 


伊賀の忍者"飛び加藤"物語
(加藤)段蔵は郷左衛門に連れられて、(武田)信玄の居館、躑躅(つつじ)ケ崎に伺候(しこう)した。会うのは庭先だ。面会所に上げるのは、れっきとした武士だけである。本殿の縁側に布団を敷いて座った信玄の周りを近親たちが取り囲んでいる。凄腕(すごうで)といわれる忍者なので、警戒は厳重だ。信玄は四十歳くらいで、そのふくよかな顔は知的な感じがし、二重瞼(まぶた)の目には相手を見通すような強い光があった。「段蔵と申すか。面を上げろ。もっと近くへ寄れ」「へえ」少し近づいて顔を上げた段蔵を見て(上杉)信玄は謙信と同じように驚いた。無類の悪相なのだ。信玄はいった。「そのほうのことは聞いている。ひとつ腕を見せてくれ。あの横わきにある高塀を飛び越してみよ。みごとに飛び越せるかどうか」大名とはいえ、飛び越せるかどうかとは無礼な一言だ。忍者として異常な自信をもっている段蔵はかっとした。「仰せまでもありませぬ。あれくらいの子どもだまし」子どもだましという言葉で、段蔵は信玄にまず、しっぺ返しをした。それから、わきの塀に近づいて、「やあ!」と声をかけると同時に飛び上がったが、空中で身をひるがえすと、もとのところへ舞い降りた。「塀の向こうに、長い鉄菱(てつびし)がびっしり撒(ま)いてありましたので、舞い戻りました。わしだから、よいようなものの、ふつうの忍びでは命がありませぬ…」近臣たちから感嘆の声が起こった。段蔵は、卑怯な試し方、といおうとしたが、採用してもらいたいからやめにした。「うむ、みごとな腕前、感服したぞ」信玄が褒(ほ)めながら大きく頷(うなず)いたので、段蔵は採用が本決まりと思い、安心した。世間のうわさとは違って、謙信より信玄のほうがはるかに甘いと思った。いちおう、宿所に退(さ)がれ、というので、段蔵は郷左衛門に連れられてその屋敷に行った。段蔵は郷左衛門の屋敷を宿所とすることになったのだった。だが、信玄は甘くなかった。信玄は殺すのは惜しいという郷左衛門を、「あいつはいずれ逆謀するぞ、武田のようすもよく探るにちがいない」といって納得させ、近臣のエリートたちに命じて寝ている段蔵を斬殺(ざんさつ)してしまった。段蔵は郷左衛門の屋敷で、女中たちをそばにつけての酒、魚の接待にすっかり気を許したのだった。忍者はどんなときでも、またどんなことがあっても気を許してはならぬものだった。(「人物おもしろ日本史」 土橋治重) 

注・横書きなので、<またまた>といった畳語後半の繰り返し記号(く:くの字点)の表記ができませんので、/\で記しています。
 ・機種(環境)依存文字等は、?になってしまいますので、多くは「上:夭、下:口  の」のような表記にしています。
 ・旧字体の漢字は大体新字体にかえてあります。また、ふりがなは、かっこ書きにしています。
 ・ふりがなは適当に増減しています。

 ・資料のもつ歴史的意味を思いつつご覧になって下さい。