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御 酒 の 話 19



企業化  三津五郎さん  原翁「昔がたり」  足利将軍義輝饗応の料理  「やし酒飲み」  上手な言い訳  洞天瓶  酒飲んで(10)  一献料  沈黙主義者  都鳥  トリス  飛鳥山賦  亀は万年  酒代になった仙高ウんの絵  面白く酔ふ女房に子がなくて  長い酒歴  延享年間記事  花長者  中沢道二  月次献上  酒蔵あれど餅蔵なし  お通しの意味  ホッブス、長谷川健  モフア酒  酒飲んで(9)  錫の徳利  ピスコ  三十歳を過ぎてから  春の酒の肴(2)  味の記憶(1)  羅浮  隔日宴会  二三  従道侯  酒は酒  奈良漬け(奈良)  チューを迫り  『二日酔い読本』  フィラデルフィアにて  無敵の酒飲み  適正飲酒の10か条  鮎酒、う酒  酒飲んで(8)  魚酢  酔いどれ天使  中村六郎  ブラッスリーの誕生  「三本飲んだら飲ませないでね」  駒ケ嶽国力  餅酒(2)  倉敷  スクナヒコ神  柿は二日酔いに効く?  酒塚  デンマークの食卓文化  2300年前の酒  酒飲んで(7)  教会と酒屋  啓帝の盛宴を見る  桃の酒  パンを食べたい  神田松鯉先生  わたしの父  桶 をけ  アラックの語源  師匠藤原審爾  酒みづくらし  酒ほがい(3)  小説の二重売  太地と関根  酒飲んで(6)  イサキの塩焼き  滋養飲食物  学生時代  林房雄  麦酒五十三本  酒も飲まぬのに、酒を吟味して用意  愚行  加工  訛語雑字俗用集  酒飲んで(5)  相性  センチュリー・クラブ  純米酒らしくない純米酒  毛根  江南ルートと楽浪・南鮮ルート  夢声の飲み方  元祖ファストフード  奈良本辰也  第六十九段  酒飲んで(4)  二十種飲みくらべ  ノサト    長谷川平蔵  早田万戸  ラオ・カーオ  寛永年間記事  清酒成分あれこれ  白酒の発酵窖  買収饗応のお礼広告  百閧フ逸話(2)  酒飲んで(3)  御三卿  ミコヤン流  ボンベ  マタドール  江戸五高昇薫  家へお帰んなさい  初雪や  酒飲んで(2)  ときには朝酒  ミス  オムシャ  酒飲んで  酒浴  賀茂長丸  崑ちゃんの酒  飛鳥山  仁番、亦の名は須須許理  火が入つた  横山エンタツ  これでは帰せぬ  江馬細香  <全国優質酒>十種  マッカリ  酒殿  福の神  咸臨丸とポーハタン号  盃事  「しゃ」や「しか」のいる部屋  シハタ  強情王ルイ  凱旋遺聞  カド焼き  前野村清水  畦は造酒連れ  青梅粕漬け(埼玉)  飲むもの  文蝶  ジョンストン日記  強者  手酌をすると貧乏する  一本だけ  一九三九年当時  拍子木でつつついて見る酔だおれ  フグ卵巣の粕漬け  明けずの間  お婆さま  安来節  軍人の商売人  酒豪番付  金重陶陽  五人男の捕り手  鴨四羽百文  みそとせ  半六つ  雪に伏す  とんちりほう  三河屋のおやじ  われ酔ひにけり  木村  張旭  末広がり  ウイマム  アイヌの人々の嗜好品  商品経済  ジョンソン博士の続き  ポリフェノール  限定吸水  回し呑み  狐音  茶碗酒  本物の卵  大こけ舞  杯酒を愛し、銭を愛さず  参賀の祝酒  剣舞  春風亭とん橋  蕗のとう  しぼれるはず  オーヴェルニュ  ルイ十五世、ジョンソン博士  造石山寺所符案  マンボウ  椒酒  正月二日の節  大臣大饗  つや女  ネギミソ  丸漬け  猿用の盃  三重吉と譲治  味酒  一遍聖絵  喰いたい放題  夜明けあと(7)  前頭十二三枚目  味酒  ワセダ中退・落第  スペインのぶどう酒税  もどり酒  最低五、六軒  辻晋堂  ちょこざい  いつせう  フクラギ  猪口 ちよく  鶏卵を肴に酒を飲む  有孔鍔付土器  坂本紅蓮洞  かもとかもめ  角田川あゆめあゆめと酔だおれ  第六十段  堀田善衛  病引用食料飲料  或る主治医の記録  弥彦の神様  造り酒屋の歌    トンガラシのぶっかけ  初代川柳の酒句(4)  みそ豆  大町桂月の豪傑振り  はそう  弱さの鎖をたちきる法<その1>  又も見ん  昆布と味噌  陸軍の演習  富士川  碧とう杯  有難い!  一本だけ  伊豆・来宮神社  「禁酒の心」  サカムカヒ、ヲチツキ  飼い猫  日本酒の飲み方  正宗  湿気文化、乾燥文化  二代目愛造  あご  画惨  屋ねから落た人と酒もり  田子奄記  酒とかけて(2)  山海漬け(新潟)  赤米  年わすれ劉伯倫はおぶはれて  飲む前に  ロハで大損



企業化
あの、名酒・奈良の諸白についで、京・難波・江戸の三都市を風靡したのは、摂津の猪名川上流の伊丹・池田諸白、それに鴻池・富田酒でした。明暦三年(一六五七)、はじめて酒株が制定された当時、池田郷の総酒造米高は三八軒で一一、二三二石。一軒平均二九六石。そのうち、満願寺屋九郎右衛門の一、〇三二石を筆頭に、千石酒屋が四場を数えました。元禄十五年(一七〇二)の株改めの際には、伊丹酒は"惣白米"八一、七七三石、諸白酒にして五万石の醸造高を誇りました。最高は一文字屋作右衛門の二、四八八石、木綿屋七郎右衛門の二、一二一石だったといわれます。一方、元禄十一年、幕府が調査した全国造酒屋の酒造米高は、一場あたり三三石四斗にすぎず、いかに伊丹・池田郷が企業としての大造酒酒屋へといち早く脱皮したかが理解されます。摂津・灘目の造石高は、寛文六年(一六六六)の第一次株改めの際には、わずか八四〇石にすぎません。ところが、元禄十二年(一六九九)には、魚崎村・山崎の十兵衛の五八一石三斗九升六合を筆頭に、最低は二ツ茶屋の善兵衛・怒仙の三石二升二合であったことが記録されています。(「酒博士の本」 布川彌太郎) 


三津五郎さん
もうずいぶん前になるが、歌舞伎役者の先々代の坂東三津五郎さんが、というよりフグ中毒で亡くなられたので有名なというほうが通りよくなったお方に徴古館でお目にかかり、学芸員の私に神宝の機織具の扱い方を見事な手つきで教えてくださったが、そのとき祭器具が展示してあり、酒壺が並べてあるのを見られ、「骨董屋にこれを何度も私はつかまされてね、高い値で買いましたよ」と笑って話された。三津五郎さんは骨董好きだったから、骨董屋が上得意といろいろ古物を持ちこむ。この素焼きの土器を土中に埋めたり、いろいろ工夫して古色をつければ「珍品の弥生式土器」となる。目利きの三津五郎さんも若いころはそう信じて、気前よく大枚をはたいたそうだ。何度もというのは、贋物とわかってからもその時代づけの努力と姿のよさにほれこんだこと、そこに少しは買ってやらないと持ってきてくれませんよ、と語られたのがついこの前のように思われる。(「伊勢神宮の衣食住」 矢野憲一) 


原翁「昔がたり」
南の筆頭与力に佐久間彦太夫というものがありました。これは、わたしの親戚に当たりますが、なかなか出来た人で、しかし、この人でさえ、昼も夜もなく客を集めて、酒に浸り、屋敷を出て帰る者は、一人として酔っぱらっていないものは無かったそうです。芸者の来ない夜は一と夜もなく、この人、鬼と言われる位に厳しい人でしたが、それで小鼓を打ち、舞もなかなか上手だったと言うことで−
江戸の安穏を預かる与力同心がこんな事になっている。(「続ふところ手帖」 子母澤寛) 戊申物語などで有名な原胤昭から聞いた昔話だそうです。 


足利将軍義輝饗応の料理
永禄四年(一五六一)三月三十日、足利十三代将軍義輝が三好義長邸を訪れた時の料理献立が残っている。(「三好筑前守義長朝臣亭之御成記」掲載)
式三献お手かけ二重瓶子
おき鳥 おき鯛
初献 とり ざうに
    亀の甲
二献 のし 鯛
 つべた(つべた貝)
三献 するめ
  たこ ひしほいり
  しほ引 やき物 おけ(桶)
 おゆづけ あへまぜ くご
 一 かうのもの かまぼこ ふくめ(ふくめ鯛)
 二 たこ くらげしる たひ にし からすみ ゑび あつめ(集汁) こざし くぐい
 三 かざめ とり こひ 酒びて
 四 かひあはび くじら おぢん
 五 すし うづら こち いか
 六 はむ ゑび あかがひ
 七 くま引 ふな しぎ
御くはし(菓子) きそくこんきやくふ きそくくるみ うちぐり のり 山のいも むすびこぶ くしがき からはな みかん−(「味の日本史」 多田鉄之助) 以下十七献まで続きます。 


「やし酒飲み」
父は、わたしにやし酒を飲むことだけしか能のないのに気がついて、わたしのため専属のやし酒造りの名人を雇ってくれた。彼の仕事はわたしのため毎日やし酒を造ってくれることであった。父は、わたしに、九平方マイルのやし園をくれた。そしてそのやし園には五十六万本のやしの木がはえていた。このやし酒造りは、毎朝、一五〇タルのやし酒を採集してきてくれたが、わたしは、午後二時まえにそれをすっかり飲みほしてしまい、そこで、彼はまた出かけて夕方にさらに七十五タル造っておいてくれ、それをわたしは朝まで飲んでいたものだった。そのためわたしの友だちは数えきれないほどにふくれあがり、朝から深夜遅くまでわたしと一緒に、やし酒を飲んでいたものでした。ところで、十五年かかさず、このようにやし酒造りは、わたしのためにやし酒を造ってくれたのだが、十五年目に突然父が死んでしまった。父が死んで六ヵ月たったある日の日曜の夕方、やし酒造りは、やし酒を造りにやし園へ行った。やし園に着くと、彼は一番高いやしの木に登り、やし酒を採集していたが、その時ふとしたはずみに木から落ち、その怪我がもとでやしの木の根っこで死んでしまった。(「やし酒飲み」 エイモス・チュツオーラ 土屋哲訳) 「この世で死んだ人は、みんなすぐに天国へは行かないで、この世のどこかに住んでいるものだ」という故老の言葉を思い出して、主人公はやし酒造りを探しに旅に出ます。 


上手な言い訳
さて、上手な言い訳の参考にするなら、やはり政治家でしょう。そこでまず、酒を擁護したベンジャミン・フランクリンの一言をご紹介します。「酒に害はなく泥酔する人に罪がある」ピューリタンの影響が強かったアメリカでは、お酒自体が白眼視されることがありました。そこで、お酒の害はあくまで一部の不心得者に限定されるのだ、と防衛戦をっておく必要があったのですね。さらに表現に工夫を加えて、数多くの酔っ払いを誰一人非難しなかった知恵者が、エイブラハム・リンカーンであす。「酒が有害であるなら、それは毒だからではなく、素晴らし過ぎてつい飲み過ぎてまうからだ」お上手ですねえ。(「とりあえず、ビール!」 端田晶) 


洞天瓶
(クワク)夫人(楊貴妃の姉)は屋梁(うつばり)の上から鹿の腸を半空に懸けて、宴会の際は人をして屋上から酒を腸中に注がせ、其の端を結んでおき、飲まんとするとき解いて盃の中に注いだ。之を洞天聖酒将軍と号し、また洞天瓶とも曰つた。[酒中玄](「酒「眞頁」(しゅてん)補」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 


酒飲んで(10)
酒飲んで閻魔の尋問想定す
酒飲んで少し足りぬが丁度良い
酒飲んで酔える楽しさいつまでも
酒飲んでそのままゆきたい遠つ国
酒飲んでうかぶ川柳月並み調 


一献料
網野(善彦) 一献料というのがありましてね、「酒を一献進ぜましょう」というのですが、荘園の支配者が幕府に何かを訴えますね。そのとき幕府の奉行には必ず一献料を持っていくわけですよ。「賄賂」ですね。でも、これは公的な「賄賂」で、奉行は一献料、酒肴料という名目で「賄賂」をもらうのは当然の収入となっているのです。奉行は幕府から給料をもらっているわけではありませんからね。領地は保証されていますが、それだけではたりないので一献料をもらうのですが、これは当然幕府には報告しません。こういう伝統は日本ではほんとうに古くからあって、今にいたるまで延々と続いていますね。代官が貴人のためにもてなしたと先ほど言いましたが、百姓も同じようにもてなしをやっています。江戸時代の百姓もたいていは裏はそういうことをやっています。代官が調べに来るでしょ。そうするとどこまで代官に見せて、どこまでごちそうして帰すかというマニュアルができています。すべてを見せるなど絶対にしません。(「下戸の酒癖」 玉村豊男編) 


沈黙主義者
もつとも、沈黙を酒の肴にするといふ手もありますね。南西部のカウ・ボーイは黙つて飲むのが掟だつたさうで、酒を注文するときしか口をきかなかつたさうである。サン・アントニオのある酒飲みは、「バーボンを発明した奴は天才だ」と何度もくりかへしながら酒を飲み、ほかは何も言はなかつたといふ。この手の沈黙主義者は日本人にもゐますね。わたしは以前、青木雄造(東大教授だつた)、高橋雄一(東大教授である)といふ二人の英文学者といつしよに一晩、酒を飲み、ところがこの二人が日本英文学界で一二を争ふ口数のすくない人たちであるせいで、間がとれなくて非常に困つたことがあつた。ああいふのはチーズも焼鳥も食べずに飲むやうなものだ。しかも、この二人の学者が、黙々と杯を傾けながらむやみに酒が強いのだから、わたしも釣られてしたたか飲んでしまつた。酩酊を他人のせいにするのは男の態度としてよろしくないけれど。(「犬だって散歩する」 丸谷才一) 


都鳥
江戸から東京へのころ、隅田川の水で酒がつくられころの思い出の酒である。浅草は山屋(現在は食料品店)が売り出したもの。隅田川のどの辺の水を使ったものか判明しないが、ともかく水のきれいな川であった判る。−(「明治語録」 植原路郎) 宮戸川、都鳥 江戸の地酒 明治になってもあったのでしょうか。 


トリス
小泉 いや、正確に言うと、もっと(笑)。僕が高等学校の時に、ものすごく生きがいい、というか、良過ぎてちょっとヤクザみたいな先生がいたんです。当時蒸気機関車で通学していましてね、その数学の先生が必ずトリスのポケット瓶を持っていたんです。
東海林 ああ、こういう湾曲した?
小泉 そうです。それを朝の通学の時間にチョビチョビ飲みながら「俺はこれを飲まないと良い講義ができない」とか言って。僕たちを見つけると「ちょっと来い、来い、お前らも飲め。俺の杯を受けられないのか」なんて怒ったりしてね。
東海林 僕も初めて飲んだのはトリスでした。大学へ入って二十歳(はたち)ぐらいの時かな、八王子のトリスバーで。家が酒屋だったので、レジのお金を誤魔化して五百円持っていくと、五十円のストレートがきっちり十杯飲めた。おつまみは塩豆で、これはタダ。明朗会計ですね。ほとんど毎日行っていました。
小泉 あの時代はほとんどトリスでしたね。僕の酒遍歴では、その前は赤玉ポートワイン。
東海林 高校生のときかな、父親が入院して付き添いをしていた時にボトル半分くらい飲んで、腰が抜けた記憶があります。そうすると赤玉から入ってトリスというコースは、小泉さんも僕も同じですね。(「発酵する夜」 小泉武夫) 


飛鳥山賦
けふはこの事かの事にさはる事あり、あすは飛鳥山の花みんみんと、心に過ぐる日数もやゝ弥生の廿(二十)日あまり、尋ねし花は名残なくちりて、染めかはる若葉の其色としもなきを、春を惜む遊人は我のみにもあらず、爰(ここ)に酒のみかしこにうたひて、此夕暮に帰るさわす(忘)るゝも、中々心ふかきかたにおもひなさる。
ちり残る茶屋はまだあり花のもと(「鶉衣」 横井也有 石田元季校訂) 


亀は万年
大家(おおや)の息子の婚礼。色直し、寝間の盃もすみ、屏風を引廻して息子と花嫁のむつ言。床の間の島台には鶴と亀、高砂の尉(じょう)と姥(うば)。尉はつくづく羨ましく、「おばば、若いうちよのゥ。そなたもちとこっちへおじゃ」「何を言わんすやら。人が見たら、よい年をして笑われるわいのゥ」いちゃつくのを見ていた亀が、「鶴、つる」と呼ぶ。「なんじゃ、亀」「見ろ、あの尉と姥のいちゃつき。若いということはよいものじゃなァ」(「笑いのタネ本」 宇野信夫) 


酒代になった仙高ウんの絵
聖福寺の近くにある中奥堂町の万屋は評判の酒屋であった。今日の酒屋と大衆酒場とを合わせたような店で博多の庶民の間に大変人気があった。毎日押しかけてくるお客の中に「岩根」という、のんだくれがいた。姓を一丸といって生来純情な男で非常な孝行者であった。ところが親孝行はしたし酒は飲みたしで一方立つれば一方が立たぬ、このジレンマになやんだ彼が大変な迷案を考え出した。いやたしかに彼としてはこの上もない名案であった。それは仙高ウんに絵を書いてもらって酒代にしようという魂胆である。「おしょうさんもし、又すんまっせんが今日も一枚へッ…」頭をかきながらやってきながらやって来る彼に、「うんよか、墨ばすんなイ。」仙高ウんは気軽に筆を走らせた。仙高ウんは彼の飾り気のない気性と純情な親孝行を愛した。万屋の後を継いである今の加野家で、数年前、酒代になったこれらの絵を実に数十枚も見せてもらった。(「仙黒S話」 石村善右) 


面白く酔ふ女房に子がなくて
子の無い淋しさが句の主眼ではなく、面白く酔うのが中心であろう。所帯くさくなく、気軽でさばけたたちだ。気分よく飲むが、大酒のみというのではない。(「『武玉川』を楽しむ」 神田忙人) 


長い酒歴
長い戦歴、いや酒歴で黒星が二つあるのだが、それぞれサントリー・オールド一本を三十分で飲み干した若気の至りによる自爆と、一升の酒を五分で腹中に収めたあとトイレで寝てしまった土佐の夜という、いわば国内での敗戦だ。フィンランドでは体重の合計が三百四十七キロになる巨漢三人と渡り合って勝ち、スコットランドでは著名なウイスキー蒸留所の工場長をへたばらせたこの私の泰然自若・自信満々が、明敏にして誇り高い中国の方々に気づかれずに済むはずがない。早速にこやかな笑顔のうちにも満々の闘志を秘めたカンペイの応酬が開始された。武器は、中国が誇る男の酒・白酒(パイチュウ)。物によってはアルコール度数五十度を超えるこの酒を、ストレートで何杯も飲む。旨い。が、きつい。私のお気に入りは五糧液(ウーリャンイー)という銘柄だが、これを一本二本と空けるのはなかなかの難事なのだ。−
ただ一人の落伍者もなく日本国の尊厳を保ちえてよかったよかった、と私は胸をなで下ろしたのだが、その傲慢に中国の酒神はちゃんとした罰を用意してくれていた。(「旅ゆけば、酒」 大岡玲) 


延享年間記事
△山下敝膝(まえだれ)(一ト銚子足に恨(うらみ)やこぼれ萩、牧童。図中に花屋と云ふ暖簾あり。土妓の類歟(たぐいか)、未だ考へず)。−
「上:竹、下:均」庭(きんてい 「喜遊笑覧」の著者)云ふ、山下敝膝は売色なり。名づけて是をけころと呼ぶは略呼にて、蹶ころばしなり。此の句「一銚子足に恨」とは、けころばしたるをいへり。こぼれはぎは脛のあらはるゝを云ふ。斯くばかりあらはなるを、など考へざる歟。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 前半は著者斎藤月岑のもの、後半は、「上:竹、下:均」庭による書き込みだそうです。延享二年の江戸の流行物を集めた「時津風」にあるものだそうです。 


花長者
品川焼酎 いづ由     スキヤバシ 矢野白酒    豊嶋丁 鬼熊豆腐酒
第六天 鹿嶋升酒    六軒堀 米新中汲      西両国 大橋居酒
芝大門 あま酒丸大   並木 いなり屋年中白酒  オヤチハシ 三河屋白酒
外神田 玉川升酒    ゴフク丁 和田中汲      橋場 三河屋居酒
雷門 あま酒三河屋   ヨコ山下 いなり屋年中白酒
(「花長者」 慶応元年(1865)一枚刷り) 人形町・玉秀のウィンドウにありました。 


中沢道二
「堪忍のなる堪忍が堪忍か、ならぬ堪忍するが堪忍」と叫んだ心学者の中沢道二(どうに)は有名人になったが、岡山藩主の池田治政はこれが気に入らない。「講話をききたい」と屋敷に呼び、半日以上も放っといたあげく、宴席に引きずりこんで酒を無理強いした。怒った道二が席を蹴った瞬間、「ならぬ堪忍するが堪忍」の大合唱。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


月次献上(つきなみけんじょう)
鍋島家以外の諸大名からも、特産品が徳川家へ献上されていました。干し鮑や昆布、鰹節などの乾物類や飾り太刀(木太刀をきれいな鞘に入れた形式的な太刀)は普遍的にどの大名からも献上されていますが、享保3年の「武鑑」から特徴的なものをご紹介します。(適宜読みやすいように漢字・仮名を置き換えています)。
尾張徳川家:宮重大根、蜂屋枝柿、岐阜鮎、美濃紙、上條瓜 紀州徳川家:忍冬酒、蜜柑
薩摩島津家:するめ、琉球布、琉球泡盛、串あわび 福岡黒田家:博多練り酒、博多織帯、素麺 土佐山内家:土佐色紙、蜜柑、鰹節 甲斐柳澤家:甲州柿、同葡萄、郡内嶋(嶋=縞。織物) 奥州弘前津軽家:オットセイ、鮭(戸栗美術館解説シート) 鍋島家では「花毛氈、生蜜、梅干、土器、焼物、白蜜」だそうです。 


酒蔵あれど餅蔵なし
(「酒蔵」を酒飲みが建てた蔵として)酒飲みが建てた蔵はあっても、飲まない者が建てた蔵はない。「下戸の建てたる蔵もなし」と同様、酒代を節約したからといって裕福になるとはかぎらないという酒飲みの自己弁護である。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


お通しの意味
お通しの意味は、一般的には料理が出るまでの「つなぎ」と言われています。句悪が注文した料理が来るのを待つ間、お酒のアテとして気軽につまめるものを提供するという意味です。確かにそういう一面もありますが、本当の狙いは「席料を取る」ことにありそうです。客が頼んでもいないものをただ出すだけで、一人当たり二百円から五百円程度の売上げを店側は自動的に計上することができるのです。客単価が三千円の居酒屋であれば、三百円のお通しは実に売上げの十パーセントを占めることになります。(ちなみに大きな声では言えませんが、それに対する原材料費は限りなく安いはずです)モノを出さなくてもテーブルチャージやサービス料という名目で合計額の十パーセント程度を取る店もありますから、お通しの実態はやはり「席料」という見方が正しいと言えるでしょう。(「『お通し』はなぜ必ず出るのか」 子安大輔) 


ホッブス、長谷川健
 イギリスの哲学者ホッブスはある時自慢していった。「わたしはほど好い飲みての見本だ。なぜならば私は今までの長い生涯中に、百回と酒をのんだことはないからな」
 長谷健は酔ってくると誰かれをつかまえて「おう、しらばく」と「暫く」をわざとひっくりかえしていうくせがあった。それは毎日あっている男でも、数時間前に別れた相手だろうとかまわなかった。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


モフア酒
インド・ビハール州のサンタル族には花から造る珍しい酒がある。ものの本によれば醸造酒は米から造るが、蒸留酒はモフア(MOWA)という花の花弁から。木の実からはモフア・バターと呼ばれる油脂を取り、花は食用にするという。乾燥させて粉にして焼いたり、カレー炒めにしたり、時には新鮮なまま食べるというから酒ができたっておかしくはない。モフアはアカテツ科の木で、枝の先にたくさんの花が密集して咲いていたものを集める。こんなにありがたい木である。当然モフア酒の起源の神話も生まれている。人間を幸せにするために何かいいものはないかと探していたリンゴという神様が、ふとモフアの木の側に来ると、木の空洞に水が溜まっていた。そこに落ちたモフアの花が発酵して、集まったモフアの鳥たちが「上:天、下:口」(の)めや歌えの大騒ぎ。これを持ち帰った神様が、人間に与えて感謝されたという。まあ、これも一種の猿酒神話。味の方は花の香りを湛えてなかなかのもの。(「粋音酔音」 星川京児) 


酒飲んで(9)
酒飲んで強いヨハン・シュトラウス(酔わん・酒徒らうす)
酒飲んでころんだ不美人コロンブス
酒飲んで飲み過ぎたので首都カイロ(酒徒帰ろ)
酒飲んで忘れたいのに忘られず 自分は忘れ友は逆
酒飲んでなくす時間と財布・靴 


錫の徳利
酒徳利は昔は錫でつくったものを尊んだようである。これはもともと中国から学んだことで、錫は酒とあうのか、錫の徳利や酒盃でのむとおいしいし、腐敗をとめ、毒をけすといわれている。宮中では今でも錫の徳利をつかっている。先年宮内省で御酒をよばれたことがあるが、天正ころの形をした三、四合はたっぷり入る錫の徳利だった。天正のころの備前の火襷(ひだすき)の徳利が、これと同じ形の徳利である。冬の寒い夜など宮内省の役人が酒がほしくなると、「御錫を一本」とたのむそうである。鹿児島の錫がいいのか、ある友人から錫の酒わかしをかってきてくれとたのまれたことがある。口の広い手のついた片口のような尖った注口のある錫の酒わかしはそこここの酒場でよく見る。しかし、錫の徳利は宮内省をのぞいてはもうあまり街では見かけない。(「徳利と酒盃」 小山冨士夫) 十二月十五日(月) 


ピスコ
忘れていたがクスコの酒のことも書いておかねばなるまい。クスコの露店では、ピスコという蒸溜酒を売っている。何の木からとるのか名前を忘れたが、日本で売っているメキシコのテキーラに似て、ドライでさわやかな舌ざわりである。このピスコが”クスコ風ダイコンのおでん”によく合うのである。(「世界を食べ歩く」 豊田穣) 


三十歳を過ぎてから
我が友人たちは酒の前に飯を喰うということを堕落と考えるのだ。飲めない私としては、酒の席を共にしても、一緒に酒は飲めないわけだから、それは適当に付き合って、あとは食事に切り換えたい。ところが私が飯物を注文すると、彼らは途端に冷たい目で見るのである。「お前は軟弱だ」とまで言ったりする。酒が一番で飯はその次、というものでもない。彼らは酒を浴びるほど飲み、食事もあきれるほど食べる。ただ、酒→飯というその順番が頑固なまでに決まっていて、それを犯してはならないのである。酒を飲み終わって、そろそろ食事という時に、気分の悪くなった私が飯をパスすると、今度は飯を頼まないということに「軟弱なやつ」との評価が下されてしまう。まったく困った友人たちだ。私が酒に強くなったのは三十歳を過ぎてからである。「本の雑誌」を創刊してアルバイト学生たちと付き合うようになった頃から、毎日飲むようになり、そうなるとコップ一杯のビールでダウンしていたのが不思議に思えるほど、途端に酒量が上がってしまった。毎日飲み続ければ、誰でもそうなるかもしれないし、あるいは私がもともと飲む体質だったのかもしれない。(「酒と家庭は読書の敵だ」 目黒考二)  


春の酒の肴(2)
玉葱の酢味噌かけ
中くらいの大きさの玉葱一個をスライス、軽く色が変わるくらいまで熱湯で茹で、冷水をくぐらせてざるに上げる。若布はもどして食べやすく切る。玉葱と若布を器に盛って酢味噌をかける。桜海老をいろどりに添えてもよい。
干海老のピーマン詰め
ピーマンは洗って、ヘタのところを横に切り落とし、種を除いて遠火であぶる。少し焦げ目がついたら、熱いうちに表皮を布でこすってむく。桜海老は、胡麻油少々を熱して手早くいため、塩、胡椒をふってピーマンに詰める。−(「新・口八丁手包丁」 金子信雄) 


味の記憶(1)
私と酒というものの間に縁が生じたのは女学生の頃、父のところへ見える賀古さんという人に、母に命ぜられて日本酒と焼海苔の小皿を運んだ時である。運んだだけなら縁はないのであるが、よろず食いしんぼうの私はどんな味のものかと好奇心を起こし、廊下でそっと掌の平に一二滴落してなめたのである。すばらしく美味しいものであった。次に縁の出来たのは結婚宴の夜だった。ヴェルモット用の小さな台つき洋杯(コツプ)にボオイが注いで行ったのが、すぐに日本酒と判った。私は隣にいた花婿にも誰にもわからぬように素早く二三度口へ運んだ。築地の精養軒でその日、つまり大正七年十一月二十七日にどんな銘柄の日本酒を出したかは知り得ないが、実においしかった。それとは知らぬ私の父(森鴎外)はシャーベットに洋酒の入ったのだ出た時、席を立って私の後へ来て「おまり、それには酒が入っているから食うな」と注意したのは、おかしかった。(「貧乏サヴァラン」 森茉莉) 


羅浮(らふ)
【意味】広東の東方の増城・博羅(はくら)両県の境に、羅山・浮山の二山が並んであるのを総称して羅浮山という。浮山はもと蓬莱山の一部が海に浮かんで移動したものだという伝説もある。ふもとに梅花村があって、隋の趙師雄という人が、ここで酔ってうつらうつらとしているうちに夢を見た。日暮れに酒屋で休んでいると、薄化粧で芳香を放つ美人が出て来たので、意気投合して酒を注文し、ふたりで飲んでいると、壕゚の小童が来て加わった。大いに笑ったり歌ったり舞ったりした後に別れを告げて寝た。気がつくと、風雨が起り東は白んでいた。自分は梅の大樹の下に居り、婦人は梅花からの精であったという。〔柳宗元 龍城録〕これから清楚な美人を羅浮の少女などといい、梅の多いところを羅浮郷という。(「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


隔日宴会
毎朝五時の起床は卅年来かかしたことがない。洗面後、少量のウヰスキーを飲む。心身爽快、五、六枚原稿書きをやり、六時朝食。味噌汁二はいに、かるく二、三ばい飯をやるが、なるべく野菜のとりたてをモリモリ喰ふ。お天気のときは鎌倉駅まで廿五分乃至(ないし)卅分ぐらゐかけて、ゆっくり歩いて必ず八時の電車に乗る。−
ヒルはザルそば一つに生玉子一つが萬年かはらない。ヒル食後は絶対にお茶も水も飲まない。夕食のビールが楽しみだから喉をかわかしておく為で、勿論お客様にお茶はださせない。夜の宴会は、隔日以外ぜったい出席しない。どんなに大切な相手でもことわる。そのかはり宴会ではガブガブ飲む。ビールの半打、酒の一升ときには二升はやるだらう。気がむけば二次会、三次会もやる。宴会のないときは、四時頃かへっちまふ。正五時には、どうしてもビール一本いれぬと喉が承知しないからだ。自宅の夕食はソレコソみもので、今ならトマトの二つ、レタースの半分は必ず喰ふ。(「馬づら」 菅原通濟) 


二三
一九三二年、酒の密売屋"ダッチ"・シュルツは、ニューヨークの二三番通りで二三歳のヴィンセント・"マッドドック"・コールを暗殺させた。一九三五年一〇月二三日、シュルツ自身も暗殺され、犯人のチャーリ・ワークマンは二三年の懲役刑を宣言された。(「世界おもしろ雑科2」 ウォーレス、ワルチンスキー他) 


従道侯
西郷従道侯が海軍大臣としてフランスに赴いた時、ツーロン港で歓迎会に臨み、演説を求められて、已むを得ず「今夕はありがとうございます」と一言云つた。通訳はこれを敷衍(ふえん)して数百言を述べたので、向うの新聞は驚嘆し、日本の大臣の演説はかねて拵(こしら)へてあるので、海軍大臣はその第何号といふことを命令したのであらう、さうでなければ簡単な一語が、あゝ長くなる筈がない、と書いた。侯は通訳に向つて「よか頼む」と云つただけだといふ説もあるが、要するに一語に尽き、通訳が滔々と述べたことは疑ひを容れぬ。同じ人がロシアで露帝に謁見した際には、軍事上の話から、日本の軍人は平素何を最も好むか、と問はれたが、侯は言下に「それはやはり酒と女であります」と奉答した。一座の者呆然たらざるなしとあるが、これは日本人だけの事か、そのまま直訳して露人をも驚かしたのか、その辺はよくわからない。(「明治の話題」 柴田宵曲) 


酒は酒
山本左七という大酒飲みの話である。屋敷の庭には藤がよいというので、藤棚をこしらえた。藤は根元に酒をかけると、殊の外に良い花を咲かせると聞いて、酒を取り寄せたが、元来が酒好きなので、藤の根元にやる前に、先ず一杯と自分が飲んだ。飲んでみると、これを藤にやるのは勿体ないと思った。藤にはやらないで、全部自分が飲んでしまった。そして藤には一升五十文ほどの悪い酒を取り寄せた。さて、その酒を藤にやる段になると、いくら悪い酒でも酒にかわりはないからと、これも藤にやらないで自分が飲んでしまった。ついに酒の粕を買って来て、土にまぜて、それを藤の根に埋めることにした。(「江戸街談」 岸井良衛) 


奈良漬け(奈良)
材料 うり 酒粕 焼酎 砂糖 みりん 塩
各地に伝わる粕漬けの本家ともいわれ、灘の酒どころに上等の酒粕ができたことも産物となり得る条件。うりは種子をとり、塩に漬けたあと陰干しにする。焼酎でのばし、砂糖、みりんで調味した粕に漬ける。営業用のものは、塩漬けの塩分を抜くために何回も新しい粕に漬けなおす。最後に砂糖、みりんなどで調味した上粕で本漬けにする。あめ色の奈良漬けが出来上がるまでには三か月ほどもかかる。(「探訪ふるさとの味」 柏原破魔子) 


チューを迫り、ことわられるとしつこく絡む
知り合いから男性を紹介され、初めてのデートの日。緊張のあまり昼頃からお酒を飲み、待ち合わせの時間がドンドン近付き、でも、さらに飲み進んで、待ち合わせには2時間の遅刻。速攻で謝って居酒屋へ行き、お酒が飲めないという彼を前に飲みを再開。翌朝、彼の家で目覚め、そのまま2日ほど滞在しました。カラオケ、彼の家、コンビニと記憶が断片的で曖昧。彼から聞いた情報によれば、居酒屋でチューしまくり、チューしないと「何でできひんの?」とかなりしつこく絡み、ベロベロ状態なのにカラオケに行って、また飲んで、さらにチューを迫り…。散々やりたい放題した揚げ句、彼の家に連れて行けと命令。家に着いた途端、「酒がない」と文句を言い、コンビニ巡り。そのときの彼が今の旦那です。最近では少量ですがお酒をたしなむようになりました。我が家では「酔ったもん勝ち」みたいな感じです。(龍虎苺※$凵M13 35歳 女)(「酔って記憶をなくします」 石原たきび編) 


『二日酔い読本』
酒呑みの諸氏におくる『ハングオーヴァー・ハンドブック』という本が出た。著者は出版社を経営していたデービッド・アウターブリッジ。会社を売って、田舎へ引っこんで、この『二日酔い読本』を書いた。二日酔いにならないための名士たちの忠告も収録してある。酔っぱらったままでいること−ディーン・マーチン。死ぬ以外に二日酔いはなおらない−ロバート・ベンチリー。前の晩に飲むな−ウィリアム・F・バックリー。「あなたの限界を知りなさい」と料理の権威ジュリア・チャイルドは戒め、酒に関する名著を書いたキングズリー・エイミスは、セックスにはげむことをすすめる。漫画入りの愉快な一冊だ。著者(四十八歳)は二日酔いをなおす百種類の方法を公開する。効きそうな(酸素吸入)のもあれば、あやしげな(腋の下にレモンをこすりつける)のもあって、この本そのものがこの因果な病気に効きそうだ。自分はミルトン・フリードマンではないが、アメリカの経済を助けている、と著者は考えている。二日酔いで欠勤していたサラリーマンがこの本を読んで、出勤するようになるからだ。(「晴れた日のニューヨーク」 常盤新平) 


フィラデルフィアにて
桟敷様のものを設け見物の街人、蟻の如くに群がり道路に混雑し、又は屋上に登り木に登り、時の声をあげ、冠物(かむりもの)を振り両国の小旗を振り、或は我朝人の車に投じなどして祝す事、ワシントン及びボルトモーの二街に三倍すべし。又街家には我朝の笠及び縫絹塗物等を棹(さお)に付け、五六階の高き所より是を出し、両国の旗章を建連ねて振るものあり、手をあげて招くものあり、其様言語に尽し難し。(航米日記)
一人の酩酊漢は一日本人と会話しつゝありし間に不注意に拳銃を発射したり。その日本人はそれを以て彼を殺す企てなりと考へて非常に怒り、刀を抜きて加害者を目がけて突進したる程なりき。彼加害者は傍観者なかりせば疑もなく馘首せられしならん。(ハーパー週報)(「幕末遣外使節物語」 尾佐竹猛) 遣米使節歓迎のフィラデルフィアでの逸話だそうです。後半のようなこともあったそうです。 


無敵の酒飲み
一方、ある会社の営業部長であるヤマノさんも「記憶をなくしたことはない」という人だが、彼はまた、ちょっと傾向が違う。彼は非常に謹厳実直、という感じの中年男性で、お酒を飲む姿勢も正しく、いつもきちんとしている。相当の量を飲むのだが、乱れた姿を見たことがない。ところがある夜、ちょっと楽しそうな感じになって、珍しくカラオケで歌った。曲は「有楽町で逢いましょう」で、なかなかうまかった。みんなが拍手すると、嬉しそうに頭を下げた。で、二週間ほどして、別なスナックで会ったので、「ヤマノさん、歌がなかなかお上手ですね」と誉めたら、ヤマノさんは私の顔を真正面から見て、「イヤ、私はカラオケで歌ったことはないよ」ときっぱりと言い切ったのである。なるほど、あの時は、酔っ払っていたんだな、と私は初めて知った。ヤマノさんは、「記憶をなくしたことを認識しない」という、独特なタイプであるらしい。この人は、無敵の酒飲みだと思う。(「酔っ払いは二度ベルを鳴らす」 東直己) 


適正飲酒の10か条
笑いながら共に楽しく飲もう
自分のペースでゆっくりと
食べてから飲む習慣を
自分の適量にとどめよう
週に二日は休肝日を
人に酒の無理強いをしない
くすりと一緒には飲まない
強いアルコール飲料は薄めて
遅くても夜12時には切り上げよう
肝臓などの定期検査を (国税庁 厚生労働省 社団法人アルコール健康医学協会) 


鮎酒、う酒
早速、村の男たちがやってきて、川で釣れた鮎を、囲炉裏(いろり)の炭火で焼いてくれる。塩焼きと素焼き、両方焼く。塩焼きはそのまま皿へ。天然の鮎は姿もすらりと美しい。素焼きは青竹の筒へ。そのへんに生えている竹をスパッスッパッと切ってくる。田舎の、五十代六十代の男らは、見とれるほど器用に小刀や鉈(なた)、鋸(のこぎり)を使う。頃合いの長さの青竹、斜めに削いだのへ、素焼きの鮎を入れ、そこへ熱燗をジュッ!とそそいで、これがすなわち、<鮎酒>である。これはしっとりと旨い味わいの酒だ。<う酒>というのもある。鰻を焼いたのへ熱燗をそそいだもの、これはフグのヒレ酒と同じく、陶器の大ぶりな湯「上:天、下:口」(の)み、または茶椀を用いて、しばし蓋(ふた)をして味と香気をなじませる。これはまったりとした、奥ゆき深い酒になる。時にはこれをどんぶりにそそいで、まわし飲み、というのも田舎の風流である。(「小町・中町 浮世をいく」 田辺聖子) 


酒飲んで(8)
酒飲んで二度乗り越して元の駅
酒飲んで逆立ちをして酒断ちだ
酒飲んでほろ酔い深酔い三日酔い
酒飲んででてくる酒場の馬鹿力
酒飲んで老後頼みの妻に酌 


魚酢
卯時(ボウジ)偶(タマタマ)飲ンデ斉時ニ臥ス
林下ノ高橋 橋上ノ亭
松影 窗(マド)ヲ過ギテ眠リ始メテ覚メ
竹風 面ヲ吹イテ酔イ初メテ醒ム。
荷葉上ニ就イテ魚酢(ギョサク)ヲ苞(ツツ)ミ
石渠中ニ当ッテ酒「缶并」(シュヘイ)ヲ浸ス。
生計ハ悠悠 身ハ兀兀(コツコツ)
甘従(カンジュウ)ス妻ガ喚ンデ劉伶ト作(ナ)スニ。
洛陽の楽天(白居易)の邸には大きな池があり、そこには三つの島がつくられていて、太鼓橋が三島をつないでいたという。その橋の高くなったところに亭(ちん)が設けられていて、ここで、酔後の朝酒(卯酒)を一杯やろうというのである。五行目に「魚酢」という文字があるが、これは、日本でいえば琵琶湖名物の鮒鮓のようなナレズシの意で、中国ではかなり古くから、これを酒肴に用いたもののようである。鮒であったかどうかはともかく、河魚に塩をしたのち、これを飯で漬け、飯が酸敗して、魚に酸味がついたところで、飯を棄てて、魚だけを食べるのである。この魚鮓を蓮の葉に包んだものを肴にし、池の水に冷やした酒瓶から酒を汲みながら、朝の涼風を満喫するのは、なんという幸福のきわみ!細君が「あなたみたいな酔っぱらいはどうしようもない」と、ガミガミわめきたてたところで、平気の平左とうそぶいていられるのは、まさに楽天の名前を地で行くうれしさである。因に、劉伶は晋代の有名な酒飲みで。、酔っ払いの通称になっている。(「世界文学『食』紀行」 篠田一士 「橋亭卯飲」 白居易) 


酔いどれ天使
そんな父も、たまにはお酒に飲まれて帰ってくることがあったのです。ある晩のこと一人の若い男性に付き添われて帰ってきました。話を聞くと、電車を降りたとき(当時は路面電車でした)足がふらついて線路に倒れたそうです。ちょうど父の後に降りたのですぐ助け起こし、心配だったので家まで送ってきたとのことでした。が父の姿をみるなり笑ってしまったのです。背中に空の一升瓶を背負い、くだまく酔っ払いと一緒に歩くなんて恥ずかしかったでしょうに、親切に家まで送り届けて下さって本当にうれしくおもいました。名前と住所を尋ねても謙遜して教えてくれず立ち去っていったのです。朝になり、すっかり酔いが醒めた父は「昨夜良い若者を見つけたので聟に連れてきたがあれはどうなった」というではないですか。どうやら送ってもらう道すがら意気投合したらしいのです。その後、私の勤務する病院に外来患者として受診にみえた時に偶然にも再会したのです。そこで初めて名前を知り、あの時のお礼を述べたりしているうちに父と同様意気投合するようになり、一年後に私たちは結婚しました。お酒に飲まれた父ではあったが、良い婿殿を見極める目は酔っていなかったようです。私たちを引き逢わせた父は天使の役目をしたことから酔いどれ天使様と言われていたのです。(「酔いどれ天使」 藤居清子 「多酒彩々」 サントリー不易流行研究所・編) 


中村六郎
ガスを使わず焚きつけるから赤松だけで焼成する六郎窯の窯焚きが終わると登窯を遠巻きに一升瓶が防波堤を造るほどだった。六郎作のぐい飲みは大きい。陶陽から、「鼻の入らんようなぐい飲みはおえん!」といわれたからだという。六さんは、朝めし前に少量のツマミと味噌汁、そして酒一合を飲む。好きな銘柄は「剣菱」だ。それから仕事をして、十時になると二合の酒で一休み。また仕事して昼には二合の酒、そして仕事をして二時にまた、二合、夕方、仕事を終えて二合、これで一升瓶は空っぽになる。そうこうしているうちに、飲み友達が現れる。「徳利の味を出したければ、一石の酒を通さなければならない。一日三合を徳利に飲ませれば一年間で一石となる」と六さんはいう。昼間、常に一升を空け、悪友とともに飲み明かすこともしばしば、夜も一升を空けてしまう。遊ぶことは大好きだったという六さんだが、それを「豪快でおおらか」な酒器の造形に生かした。防波堤のように並んだ空の一升瓶は六郎窯の入口に表札変わり居座り、多いときには三百本を越えたという。(「酒豪の作る酒器」 黒田草臣 しぶや黒田陶苑)金重陶陽に弟子入りした中村六郎だそうです。原文では「飲」という字には、「上:天、下:口」が使われています。 


ブラッスリーの誕生
「そうです。一八七〇年の、フランスとプロシア(ドイツ)の戦争。あれが、パリにブラッスリーが誕生する契機になったのです。ビスマルク率いるプロシア軍の迫害を逃れて、なんと十三万人という大量のアルザス人がフランス国内各地、とりわけ首都のパリに逃げ込みました。そのときに、一部の者が、パリにドイツ風のビヤホールをつくった。それが今日のパリのブラッスリーのはじまりです。あの戦争以前は、パリでは樽出しのビールなんかのめなかったんですよ。薄暗いカフェの片隅でピカルディー産のなまぬるい瓶詰めにありつくのが関の山でね。つまりアルザス人のおかげで、パリジャンは冷たいおいしい生ビールが飲めるようになった、というわけです」パリのアルザス=ロレーヌ県人会のミッシェル・ホカ会長は、細身の神経質そうな紳士である。ベージュ色のスーツをきっちりと着こなし、軽く歌うような独特のアクセントのフランス語を話す。ベルギー人のフランス語にも似ているが、これがアルザスの訛(なま)りなのだ。(「パリのカフェのつくった人々」 玉村豊男) 


「三本飲んだら飲ませないでね」
なかには自分の適量をちゃんと知っているという偉い方もあります。私の店に毎日のように来てくださる方でそんな人がいました。「私の適量は三本なんです。私は酒も好きだが寿司も食べたい。美味い酒を飲みすぎると寿司の味がわからなくなっちゃう。そこで提案だけど三本目の酒を出したらもう絶対に酒を売らずに寿司を売ってください」店に入って席につくなり、初めから自分の適量を宣言するのです。「だけど三本飲むとちょっと酔いがまわって、どうしてももう一本飲みたくなる。そのもう一本を飲んでしまうとせっかくの寿司の味がわからなくなる。絶対に飲ませないでくれ」と必ず念を押すのです。そして本当に三本飲んだあと、「ねぇ、もう一本ちょうだいよ。一本だけ、おちょこに一杯でもいいからさぁ」とねだります。「だめ、約束したんだから絶対にだめ」と、寿司をお出しすると残念そうに寿司を食べて帰られるのです。そして次に店にいらっしゃると、「こないだはありがとう。おかげでおいしい寿司が食べられたよ。今日も三本飲んだら…」と、同じ宣言をして、同じように四本目のおねだりをして帰る。店にいらっしゃるたびのことなのでした。(「弁天山美家古 これが江戸前寿司」 内田正) 原文では、「飲」という字に、「上:天、下:口」が使われています。 


駒ケ嶽国力
駒ケ嶽国力という力士は、明治から大正にかけての大関である。酒びたりの生活を送ったために、横綱になれる力を持ちながらフイにした力士だ。酒好きの駒ケ嶽は、大正三年の四月に茨城県牛久沼の居酒屋で、大好きなもろみ酒を一升枡で呷(あお)った。いい御機嫌で次の興行地へいく荷馬車の上で大の字になり、ガタゴトと揺られていくうちに、体内のもろみが発酵し、内臓破裂で死んだという。荷馬車の上で、夕陽に当たったためだと記録にある。(「相撲百科」 もりたなるお) 

餅酒(2)
加賀 登場。当座で まかり出たる者は、加賀の国のお百姓でござる。毎年上頭(うえとう)へ御年貢と致いて、実相房の菊の酒を、大晦日(おおつもごり)ざかいに持って上り、元朝(がんちょう)のお祝にささげまするが、去年は木の芽峠の大雪にささえられ、当年まで遅なわってござれども、「上頭はいつもお正月じゃ」と申すによって、ただいま持って上ろうと存ずる。−
加賀 「飲み臥せる」。
奏者 繰り返し吟じて(以下も同様) 「飲み臥せる」
加賀 「酔(えい)のまぎれに年一つ」。
奏者 「年一つ」。
加賀 「打ち越し酒の二年酔(にねんえい)かな」、と仕(つかまつ)りましょう。
奏者 一段とよう詠んだ。サアサア、汝も飲め。(「狂言集」 小山弘志校注) 餅酒  


倉敷
港抱く町にひらけたる近代を朱(あか)き煉瓦の壁(へき)に嗅ぎゆく
甍高き米穀の倉酒の倉いく代(よ)富み来し家居(いへゐ)ひそけし(「飲食有情」 木俣修) 倉敷での詠草です。 


スクナヒコ神
ところが、オオモノヌシ神と併記されているスクナヒコ神のほうが、本来の酒神であった可能性がある。なにしろスクナヒコ神は、豊葦原に国づくりをしあぐねていたオオクニヌシ神(オオモノヌシ神の和魂(にぎたま))に、さまざまな生活技術を伝授して国を築く力になった産業神であり、薬神としても崇められている。酒が薬としての一面をもっていたことからも、スクナヒコ神が酒造技術をつたえた本来の神であろう。『古事記』仲哀記にも、つぎのような歌謡が記されていて、造酒を司るのはスクナヒコ神だという。 この御酒(みき)は わが御酒ならず 酒(くし)の司(かみ) 常世(とこよ)に坐(いま)す 石(いわ)立たす 少名御神(すくなみかみ)の 神寿(かんほ)き 寿き狂ほし 豊寿き 寿き廻(もとお)し 献(まつ)り来し御酒ぞ 乾(あ)さず食(お)せ ささ(「食の万葉集」 廣野卓) 


柿は二日酔いに効く?
効果があります。柿にはタンニンが含まれています。タンニンは二日酔いの原因であるアセトアルデヒドと反応する性質があり、結合してそれを体外に排出する作用があります。また柿に含まれているカタラーゼ(過酸化水素を水と酸素に分解する酵素)がアセトアルデヒドの分解を助けると考えられているそうですから生柿、干し柿を問わず二日酔いに効果があります。(「ねぎを首に巻くと風邪が治る?」 森田豊) 


酒塚
今この日緬寺に、立派な御堂まででき、その中に安置してある酒塚は、もともとは伊豆の下田にあったものを、瑞光師が、酔後の夢の中に枕頭にあらわれた妙齢の美女(実は酒の女精)の涙ながらの願いを聞き入れ−本当かな? 譲り受け、この寺に移したものですが、その後毎年四月には全国の酒屋や料理屋に呼びかけて、沼津三大祭の一つという「酒塚まつり」を盛大に行っております。その祭典委員長は酒で大蔵大臣をあっさり棒にふった今は亡き酒仙、故泉山三六先生でした。この酒塚は全国に点在する各種の酒塚の中でも出色のもので、それは宝暦八年(一七五八)備前の人、飛山長左衛門が全国二十二カ所を回って酒の徳を讃えて建てたものの内の現存する一つですが、この酒塚は石で刻んだ五重の塔になっていて、一番下の台は丸い膳、その上に樽、その上に瓢箪と積み重ねてられてあって、頂上には盃が逆さ帽子のように乗せられます。そして瓢箪には、 ふうたい(風体)にこのみをのんでしまへともしるしはあとにのころママひょうたん 樽に くわっけい(活計)はすこしのむのがよいものに、たるほとのめばよいすきる□□(かな) 挽臼は(略) 膳には ごくらくをねがわばいそげ一とのみのきえぬうちこそのちのよのたね(外略) と、酒にちなんで仏教の因果律を説いています。(「酒おもしろ語典」 坂倉又吉) 静岡県沼津市にある寺だそうです。 


デンマークの食卓文化
昔の日本のサムライ同様、スカンジナビアのバイキングたちは、酒をこよなく愛した。遠征から帰ったばかりのバイキングが、長い木のテーブルに山と積まれた魚や肉の料理をたらふくたいらげたあと、角(つの)の杯に注いだ"ミョッド=mjod"(バイキングの飲む強いビールのような酒)を次々に飲み干す。それは男らしさの象徴だった。現在でも、スカンジナビアと日本の酒の飲み方には、いろいろ似たところがあるが、むしろその違いを述べるほうがいいだろう。違いの一つは、飲む時間である。日本人は原則として、仕事のすんだあとしかやらないが、デンマーク人は機会さえあれば時を選ばない。これは問題の種にもなる。たっぷりとした昼食を、ちょっぴりともいえぬ量のビールで流し込めば、当然、あとの仕事の能率に影響するからだ。例えば、工事現場にビール片手の労働者、というのはデンマークではごくありふれた風景である。工場の監督たちはずっと前から、工員たちが仕事時間中に飲みすぎる、と文句を言っている。これに対して「事務の連中や支配人たちだって、同じくらい飲んでいる」というのが組合側の答えだ。たぶんその言い分は当たっている。日本人は、偉大なアメリカのジャーナリストで言語学者H・L・メンケンの唱えた主義−「自分は陽の明るいうちは一滴も飲まないが、夜になったら絶対にすすめられた酒を断らないことにしている」を信奉しているように思える。(「デンマークの食卓文化」 ポール・E・S・ニールセン サントリー博物館文庫) 


2300年前の酒
発掘されたどっしりした立派な二つの青銅壺に入っていた酒は、銅のために青色を呈していたと書いたが、その分析値は故宮博物院院刊一九七四年四号によると、アルコール分は〇・〇五パーセントと二千年の間に蒸発してないに等しいが、酸は〇・三九と〇・三パーセントで乳酸が主で酪酸、カプロン酸が検出されており、酒石酸がないことから乳酒か穀類の酒だろうとされている。発掘担当の劉氏の講演によると、この壺をあけたとき、居合わせた皆が、「これは酒だ」といったという。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 二三〇〇年ほど前に栄えた中国中山王国の王墓から発掘されたものだそうです。 


酒飲んで(7)
酒飲んで限度と本性早く知れ
酒飲んで気がつきゃ家に帰ってる
酒飲んで見れば豚児は鹿児島産
酒飲んで見ても愚妻は あといえず
酒飲んで寝起きの水はアクアビト 


教会と酒屋
キリスト教会は宿屋の厩(うまや)から始まった。そして今日迄、宿屋は教会の物質的な複写(material counterpart)として吾等の心の中に映じてゐる。即ち宿屋が無情な肉体(the mortal)を必要に応じて済度し、力を附けてくれることは、丁度、教会が不滅の精霊(the Immortal)をば救済し、力を附けるのと同じである−トーマス・バーク(Thomas Burke)。(The Humour of Drinking,p.77)(廿九ノ十二)
宿屋(酒屋)礼讃の大文字として必らず引用される文句である。(「酒の書物」 山本千代喜) 


啓帝の盛宴を見る
諸侯の前にはまずフルーツが出た。それは桃、棗、榛(はしばみ)、おにばす(上:くさかんむり、下:欠)、栗などであり、そのそばには虎の形に固めた黒塩と白塩、米を蒸して作った点心の類がいろいろと並べられた。これは皆、竹で編んだへん(たかつきの一種)に盛ってあった。食器の進歩も素晴らしいものがある。漬物のニラ、同じく塩漬の菖蒲の根、兎の肉の塩辛、鹿肉の塩辛類は黒塗りで四角のタカツキに盛ってあった。これらは、酒のサカナであるから随所に盛ってあり、自由にとり分けられる仕組みになっていた。またテーブルとテーブルの間では、牛豚羊魚介類などを煮込んだスープが沸き上がっていた。当時の記録には、清汁と濁汁との区別さえあったという。酒は先帝禹(う)の時代に儀狄が創作したというが、それはドブロクであったらしいが、大きな酒ダルになみなみの入っていた。また、その会場の中央あたりには大きなマナ板が据えてあった。そしてその上には大きな牛が百頭分、生のまま載せてあったという。そのマナ板がいかに大きかったかが想像出来る。これらの事柄は三千−四千年以前の、日本の高天原の時代、あるいはそれ以前の話であるから、はっきりした現代文字の文書はないが、当時、甲骨文字というのが用いられていて、それで書いた内容が、近頃その文字の読み方がかなり進んだので、おぼろげながら次第に解明されて来たのである。(「味の日本史」 多田鉄之助) 


桃の酒
そんな弥生の初めに迎える行事が桃の節句です。桃の節句、雛祭りは、少女の成長と幸を願う行事で、朱の杯に注いだ白酒に、桃の花びらを一つ二つ浮かべると、それだけで華やいだ気分になります。桃の花には、美顔作用があるといわれています。特に、色白にする作用があるとされ、酒に浸して飲むと、顔色を潤すとか。女のお子さんの節句にふさわしい花といえます。(「辻留のおもてなし歳時記」 辻義一) 


パンを食べたい
ルイ十五世の治世は、日を追って財政上の苦しさが増し、その後を受けたルイ十六世はもう難局を乗り切る力がなかった。この国王は、父王のような美食家ではなく、太陽王に似てただの大食家でしかなかった。あんまり食べるので、側近が心配して節食をすすめても、「腹いっぱい食べるとよく眠れる」と、いうことをきかなかったという話がある。また革命政府の法廷で裁判を受けている最中に「パンを食べたい」といって審理を休ませ、死刑の判決が下っていよいよギロチンにかけられるという時も、これが最後とばかりカツレル六片に鶏肉、卵をたっぷりたいらげ、白ぶどう酒二杯、赤ぶどう酒一杯を飲んだ。大食家にはじない最後だったようである。(「食味ノオト」 山本直文) 


神田松鯉先生
神田松鯉先生、「大太刀を一(ひと)っぱらいするってえと敵がドッと逃げる、二(ふた)っぱらいするってえとまた逃げる、三(み)っぱらいするとほとんどいなくなって、四っぱらいには困った」とか、−(「談志楽屋噺」 立川談志) 講談師松鯉の入れ事(いれごと)だそうです。  


わたしの父
わたしの父も天性の酒豪で十四から七十八歳まで酒の切れた日はなく、末期の水も酒でこの世とお別れをしたという豪の者であったが、その最後には、「人の喜びや悲しみを酒に訓えてもらえ」というひと言を遺して逝った。(「清閑清酔」 吉野孝) 


桶 をけ
○上下総州及武蔵にてoこがといふ 江戸にて四斗樽 京にて四斗をけと云(いふ)を 総州四斗こがといふ すえふろおけを すえふろこがなとゝいふ 常陸にてoとうご 豊州及肥前佐賀にてoかいといふ 長崎にてoそうと云 大イなるを ふといそう といひ 小なる物を ほそいそう と云 (「物類称呼」 越谷吾山 東條操校訂) 


アラックの語源
ところでアラックの語源だが、古代ペルシア語の「乳」を意味する「ラク」にはじまるといわれる。のちに、このラクはラテン語にとりいれられて、乳酸を意味するラクトや乳糖のラクトース、和製英語のラクトアイスなど、さまざまな言葉に借用された。日本語の酪製品や酪農の「酪」もじつはラクの当て字で、どうやら発祥は同じだろうと推測されている。ものの本によると、乳を発酵させて乳酒(ちちざけ)をつくったことから、ラクまたはラケは酒という語へも転じたとみる説もある。(「世界地図から食の歴史を読む方法」 辻康夫) 


師匠藤原審爾
私の師匠藤原審爾さんは、若い頃に肺と肋骨を大切除し、それから胆嚢だの膵臓だのなんだかのを取り、全身手術だらけ、残っている内臓の方がすくないという。それでも寝るのは一日おきぐらいだった。その頃、毎日のように寝るのは自堕落だ、といって叱られたことがある。間隙を縫って腸チブスにかかり、面会謝絶を押して病室に入ると、私を連れて窓から逃走して新宿に「上:天、下:口」(の)みに行ってしまったという人である。近年は糖尿と肝硬変という診断が加わったが、ちょうどその頃、石川県鶴来の名酒"菊姫"の味を知り、二十年来断酒していたのを振り切ってまた酒呑みになってしまった。(「喰いたい放題」 色川武大) 


酒みづくらし
即(すなは)ち天皇(すめらみこと)歌曰(うた)ひたまひしく、 ももしきの一四 大宮人は 鶉鳥(うづらとり)一五 領巾(ひれ)一六取り懸けて  鶺鴒(まなばしら)一七 尾行き合へ一八 庭雀一九 うずすまり居て二〇 今日もかも二一 酒みづくらし二二 高光る 日の宮人(みやひと) 事の 語言(かたりごと)も 是(こ)をば といたひたまひき。
一四 大宮の枕詞(まくらことば)。 一五 鶉の鳥のように。 一六 領巾は婦人が肩にかける白い布で、ここは御饌に奉仕する采女がかけたのである。従って上の大宮人は、宮廷奉仕の女官(ここでは采女)と解すべきである。 一七 セキレイのように。 一八 尾は女官の裳裾(もすそ)であろう。 一九 庭の雀のように。 二〇 今姑く雀が群がるように大勢群がって居ての意とする。 二一 モは感動の助詞。カモは疑問の助詞。 二二 酒水漬くらしで、酒にひたっているらしい。 二三 かがやく宮仕えの人たちよ。(「古事記 祝詞」 倉野憲司・武田祐吉校注) 「事の 語言も 是をば」 は、囃詞(はやしことば)だそうで、かたりごととしてこれをいいます といった意味のようです。 


酒ほがい(3)
酒飲まずなりたる吾を寂しまず 土佐の海見れば酔へるがごとし
旅をしてよきものを見てよき人と 語りてさらに長生きをせむ
宗坦も酒をやめたりわれもまた 酒をやめたり渋茶うましも
少女言ふ この人なりき 酒甕(さかがめ)に 凭(もた)りて眠るを 常なりしひと(吉井勇) 


小説の二重売
真山青果は、医者の代診から、成り上がった小説家で、自然主義勃興の勢に、一躍当時若手の大家となった。昔の今も、売っ子になるとついのぼせ上がるもので、彼も酒の代に詰って、小説の二重売をしたのである。といえば大層きこえが悪いようだが、同じ原稿に「弟の碑」「紫」とそれぞれ二つの題名を付けて、別々の本屋へ持ち込み、稿料を貰った。これは直ぐに他のものを書いて摺り替えるつもりが、呑んだくれているうちに、その二つながら、同じ月の雑誌に出てしまった。今日と違って世の中は相当義理堅くあったから、彼は追放ということになったが、当人も肝にこたえて引下がり、横浜の本牧に籠居してひたすら罪を悔いた。そのうち文芸雑誌から閉出されている身の、止むなく、演劇画報の誌上を借りて、小山内薫に対しての公開状「自由劇場に与ふ」を発表した。小山内は同じ誌上でこれに答える。かくすること数ヵ月、彼の精進と研鑽とは示されたが、それ位では、まだやすやすと文壇復帰は、許されなかった。敗残の彼の身柄を拾ったのは芝居道だった。(「酒雑事記」 青山茂) 


太地と関根
話のついでに、太地(喜和子)さんに、「あなたはどのくらいの酒量なの」と訊いたら、一本指を立てた。反問したら、「ボトルが毎日一本」というのだ。おどろいて、「ほんとうなの?」と確かめたら、関根(恵子)さんが「じゃア、私の倍じゃないの」といった。この楚々たる女優が「二日に一本」というわけだ。まったく、カブトを脱がずにはいられない。(「酒席の紳士淑女」 戸板康二 「日本の名随筆 酒場」) 


酒飲んで(6)
酒飲んで誓いし禁酒覚えなし
酒飲んで十鳥百鳥千鳥足
酒飲んでこりたともいえずこりずともいえず
酒飲んでお酌上手にうけ上手
酒飲んでとっくり聞いて はいさよう(徳利、盃) 


イサキの塩焼き
そして、塩焼きと酒の相性であるが、この塩焼きという調理法は、和食というよりもインターナショナルな調理法であり、最も原始的な調理法であるといえる。したがって、世界のあらゆる酒と合う可能性がある。中国の白酒も、東ヨーロッパで飲まれるラキアというブランデーの1種も、スコッチもビールもそれぞれの相性を楽しむことができる。そして、もちろん日本酒も。イサキの塩焼きならば、軽すぎず重すぎず、香りは華やかではなく穏やかなタイプを。そうなると、精米歩合が60%以下の特別純米酒のようなタイプが合う。(「『和』の食卓に似合うお酒」 田崎真也) 


滋養飲食物
明治の初期、邦人補精滋養の飲食物として、まづビール、ソツプ、牛肉、鶏卵等をあぐるが一般なり。その例として、九年二月版『凸凹』に、「日本酒は滋養にならぬぞ、ビールのめのめ」、また十一年版の「議論競」に、「第一安上がりだ、からだには妙薬、かしわのソツプ」、一五年版『新古』蚕卵紙の言に、「どうしたのか、ひとく力ぬけがしてならねへ、牛や卵でも食つて、力をつけてへものた」。(「明治事物起原」 石井研堂) 


学生時代
生母と死別し、私は養子にやられた。養子先が、空襲で全滅、再び生家にかえってきたのだが、特にその境遇が私を酒に追いやってとは、どうも考えにくい。大学入学式の日に、私はその近くの喫茶店で甲州産葡萄エキスとやらを飲み、大学創立者の銅像の下に倒れ、鯨の潮吹きの如く反吐を中空に放ち、夕刻目覚めたら顔面に半ば消化された胡瓜がはりついていた。授業中の教室に廊下の窓から入りこみ、老いたる講師の禿頭をポンとたたいた。講師はただちに講義をやめ、以後一時間半にわたって、めんめんと酒毒の学生にうったえたという。論より証拠の私は、教壇にうち倒れて高いびき。(「酒をやめる理由はないヨ」 野坂昭如) 


林房雄
彼は二宮尊徳のように朝まだきに起きて原稿を書く。大抵の作家の二倍は書いて疲れない。いや、疲れた彼を見たことがない。酒も二、三人前は飲むし、遊び事も人後に落ちぬ。これは誉め言葉でもなければ、貶(けな)しているのでもない。ただ呆れているのである。−
出獄の日、出迎えの細君と伊豆の温泉へ行った。バスの前方にかけ、窓外の景色に見惚れていると、あちらにもこちらにも「酒は源氏、力正宗」の広告が目につく。「おい、俺は刑務所であのレッテルを貼って暮らしていたんだ。今日は思う存分飲ましてくれよ」いが栗に刈った異形の大男が大声で叫んだのだから、バスの乗客はビックリして遊観気分も失せたらしく沈黙してしまった。そしてかかり合いになるのを恐れるごとく、視線を向けるものもなかったと彼の細君が述懐していた。まったく吃りながらせき込んで彼が絡み出すと、かかり合いになるのが面倒になる。彼もその習癖を悟って、近頃は三味線を習い始めた。少し酒が廻り、そろそろ頭が冴え始めると三味線を手にし、細君が小歌を歌って鋭鋒を転訛する。文字通り琴瑟相和するの図である。
(「私の人物案内」 今日出海) 「酒は源氏」 


麦酒五十三本
どこへ行っても、旅先でどうしてこうもよく飲む男なのかと、自分でつくづく思う。麦酒五十三本の記録を作ったのも、山陰の皆生温泉であった。飲みすぎて泊まっているホテルがどこだか分からなくなったことが、名古屋と福岡で一度ずつある。初めて行った土地だと、無性に車を走らせたくなる。そのくせ、車の中ではただ眠っているだけなのだ。翌日は、二日酔いで辛い。旅先では、頭が痛いなどと言って午後まで寝ているわけにもいかない。自由な旅行は滅多になく、スケジュールが組んである旅が多いので、尚更である。(「酒のない国」 笹沢佐保 「酒恋うる話」 佐々木久子編)  日々疲々 


酒も飲まぬのに、酒を吟味して用意
そんな父親(檀一雄)に育てられたものだから、子供の頃から食べるものと言えば、すべてが酒の肴のようなものばかりであった。父の好みの酒の肴が、毎日の食卓に並ぶのである。勿論、子供の僕は、酒を飲むわけではないのだが、腹が空くと酒の席へ加わり、肴を啄んでは腹を満たしていた次第である。習慣というものは恐ろしいもので、酒を中心とする生活が続くと、どうしても食卓に酒がないと、落ち着かなくなってしまう。しかし、実際に酒を飲むことに関しては、何回試しても駄目なのである。日本酒を一合飲もうものならば、一人で一升あけてしまったように酔ってしまう。ま、安上がりと言えばそれまでだが、酒のある風景が好きなだけに、残念で仕方ない。そこで、致し方なく、飲む方は専ら友人共に、まかせてしまうことにした。でき得る限り旨い酒を用意しては、友人達をもてなすことが、無上の喜びと言えるであろう。そこで、酒も飲まぬのに、酒を吟味して用意する、という不思議な現象が、我が家に於いては起こるのである。(「好「食」一代男」 檀太郎) 


愚行
酒のためにやった愚行は酒の酔いがさめると共に、身をさいなむ。私は自分がそれほど酒癖の悪いほうではないと思うが、酒癖が悪くない私でも思い出すと恥ずかしいようなことが幾つあるかわからない。真夜中、眠っていて、ふと目がさめた時にその愚行の一つが急に記憶から蘇ってくることがある。そんな時はいたたまれない気になって、「あーッ」とか、「ぎゃーっ」とか、ワケのわからぬ叫び声をたててしまうのだ。それも家中にひびきわたるような大声で…。(「落第坊主の履歴書」 遠藤周作) 


加工
これは、どっちも簡単に酒の肴になるものだけれど、デパートや乾物屋から買う壜詰の塩辛は鰹にせよ烏賊にしろどうもまずい。仕方ないから、ウチでたべる場合はそれにいくらか加工して、めしや酒の肴にする。たとえば鰹の塩辛の場合、瓶から丼にうつしそれにレモンの汁をしぼり、パセリの微塵切りにしたのをまぶす。時にはレモンの代わりにブランデーとか日本酒をたらしたり、時には味醂をまぜたりするが、塩辛の赤っぽさの中に微塵になったパセリの高ェまじっているのははみた目にもそうわるくない。パセリの代りに、柚の皮の微塵切りを入れてもいい。烏賊の塩辛のほうにはパセリの微塵切りなど入れないが、酒類と味醂を入れるとすこしは味にコクがでる。しかし、どっちみち大していただける代物ではない。(「口福無限」 草野心平) 


訛語雑字俗用集
いつぺい   よふ    なまよい   いちめえ
一盃      酔     生酔     一枚
イツパイ    エイ     ナマエヒ   イチマイ(「西洋道中膝栗毛」 仮名垣魯文) 上が訛語だそうです。 


酒飲んで(5)
酒飲んで聞いてばかりは腹ふくる
酒飲んで肴は餅で仕上げは茶
酒飲んで腰がすわると目もすわり
酒飲んで失敗談が自慢なり
酒飲んで必死でたぐる言ったこと 


相性
各人がビール、清酒、白ワイン、ウイスキーの水割りの四種の酒と、日ごろ食卓に出る八種の食品との相性を調べた結果、ハム、はんぺんはすべての酒に合うこと、清酒はウニ、かまぼこ、ノリ、漬物とよく合うがチーズ、カレーとは合わず、ビールは相性が極めて良い食品が少ない代わりに相性の悪いものもなく、白ワインはチーズ、ハム以外で合うものがなく、水割りウイスキーはワインと同様ですが、かまぼこと相性が良かったといいます。次の研究は四十四の肴と三タイプの日本酒の相性を調べた結果です。淡麗タイプの清酒に相性が良いのは白身刺し身、酢ガキ、山芋千切り、イカ刺し身、貝の刺し身、湯豆腐、赤身刺し身、焼き魚、このわた、ナメコおろしで、相性が悪いのはチョコレート、ぎょうざ、ビーフシチュー、エビチリソース、ホルモン焼き、辛子メンタイ、ジンギスカン。辛口タイプの清酒に相性が良いのは、アンコウ肝煮、カツオたたき、豚角煮、焼き鳥、豚カツ、ホルモン焼きで、悪いのはチョコレート、野菜サラダ、ポテトチップ、たくわん、ピザ。甘口タイプの清酒に合うのはきんぴらごぼう、石狩鍋、野菜煮物、酢ガキ、焼き魚で、合わないのは赤身刺し身、白身刺し身、ステーキ、ビーフシチューとなりました。(「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 


センチュリー・クラブ
ところで、諸君がもし太平洋から昇り、大西洋に沈む太洋ママを見たいなら、パナマのセンチュリー・クラブをたずねるがよい。そこでは理想的な眺めと、理念的な眺めとを二つながら得られるだろう。ご承知のようにパナマの運河地帯−運河の両側八キロの地帯−はアメリカ領で、その他はパナマ共和国の領地である。センチュリー・クラブはちょうどその分岐点に建てられている。だからアメリカに禁酒令が施行されていた当時、運河地帯に建てられたクラブの表口は、あきらかに禁酒の扉にとざされていたが、パナマ共和国に属する裏口はバッカス(酒の神)大歓迎というわけで、ここではすでにそのころから裏口営業オー・ケーと、大っぴらに行われていたわけである。さて、パナマではどうして太陽が太平洋から出て大西洋に沈むのが見られるのか。それを理解するには、パナマ運河の地勢を知る必要がある。同地方の地図を見れば判るように、パナマ運河は決して東西には走っておらず、北西から南東に向かって走っている。そのため、太平洋側の出口バルボアは、大西洋側のクリストパルよりもはるか東である。一献きこしめす人は、クラブのベランダ椅子に腰をおろし、冷たい空気にふれながら、チビチビやるのがいい。(「世界奇談集」 R・リプレー 庄司浅水訳) 


純米酒らしくない純米酒
やっぱり「精米歩合」だわね。とくに五〇パーセントを超えたら、五一パーセント、五二パーセントと一パーセント刻みで酒が変わってくるのがわかるというほどのものだでね。たとえばさ、六〇パーセントぐらいの精米歩合にして長期低温発酵で、純米酒らしくない純米酒を造ろうとしても、第一に米が溶けていかないわね。いくら「酵母」を変えようが、「もろみ」の温度をちっとばかり高くしようが駄目だ。温度を高くして米を溶かそうとすると、今度は「雑味」が出て、「上:天、下:口」(の)みにくい酒になってしまう。やっぱり吟醸酒並みに五〇パーセントの精米でないと、おらたちが考えているような純米酒はできないんだわ。 (「杜氏 千年の夢」 越後「八海山」杜氏 高浜春男) 


毛根
栗山 アセトアルデヒド分解酵素のU型の欠損率が民族によって違います。モンゴル系はこの酵素を持っている人が少ないですね。このごろ毛根から簡単にU型を持っているかどうか判定できるのですよ。
佐藤 毛根でどうしてわかるのですか。
栗山 毛根から遺伝因子を調べるとわかるんです。おもしろい話ですが、縄文人は、ヨーロッパ人と同じように酵素力が強いんですよ。その一方で、弥生人は弱いのです。(「酒を語る」 斎藤茂太・佐藤陽子・野白喜久雄・栗山一秀・濱本英輔) 


江南ルートと楽浪・南鮮ルート
−前漢、後漢を通じて古代中国では高粱、粟など雑穀類を原料とした酒に比べて、米の酒は第一等の酒であった。とすれば、楽浪交易に従った倭奴国の古代航海者は、しばしば彼の地で第一等の米の酒に陶然となり、その原料である稲米を対楽浪交易の重要商品として位置付けしたのは当然であろう。この際、おそらく彼らは米を原料とした酒造りの方法などを倭国にもたらす役割を果たしたものと思われる。一方、江南ルートで渡来した水稲作りとそれに随伴した米からの酒造りは、すでに倭国に広く伝播していたと思われるので、江南ルートと楽浪・南鮮ルートの酒造り技術は倭国において互いに接触する機会をもった。こうして米を基幹原料とした「倭国ノ酒」が倭国の人の手によって醸造されたのであろう。(「日本の酒造りの歩み」 加藤百一) 


夢声の飲み方
活弁時代に酒の味を覚えた父は、よく酒を飲んでいました。その飲みっぷりには鬼気迫るものがありました。飲み始めると切りがなく、吐いては飲み、吐いては飲み、それで意識が朦朧としてくると、今度は幻視、幻聴を覚えて、突然、障子に頭から突っ込んだこともあります。たとえ睡眠不足であっても、二日も三日も飲み続け、体力に限界がくるとバタッと倒れ込み、そのまま前後不覚になったことも一度や二度ではありません。そんな調子でしたから、身体から酒が抜ける暇もなく、番組出演中に舌が回らず話が支離滅裂になったこともあったそうです。酒を飲みすぎた父は、ずっと胃潰瘍を患っていました。好奇心旺盛な父は胃潰瘍を"雑学"として詳細に調べ上げ、酒を飲み始めた私に「胃潰瘍は三回までなら大丈夫だ。それを治そうとして胃を切ってはいけない。胃潰瘍は胃を切らなくても治る」と、懇切丁寧に解説してくれたことがあります。胃潰瘍についての知識を"雑学"として極めた父は、胃に異常が発生して酒が飲めなくなると、よく「第一次停酒期間」「第二次停酒期間」と自ら定めて、ある一定期間だけ酒を断っていました。ところが、昭和二十六年に十二指腸潰瘍を患った父は、それがもととなって大出血してしまい、癌研究所付属病院の先生に「飲み続けると致命傷になりますよ」と脅かされ、ついに酒をやめる気になったようです。それでも「死ぬまでに、もう一度酒を飲むぞ」と、たまに決意表明をしていました。大酒飲みで、その面では母に散々苦労をかけた父でしたが、酒そのものはあまり好きではなかったんじゃないか、という気がします。父はよく「酒を飲まなければ、酒飲みの気持ちは分からない」「好きで仕事をしているわけではない」といっていました。父が浴びるように酒を飲んでいたのは、そうしないと仕事が続けられなかったからかも知れません。(「血族が語る 昭和巨人伝」「徳川夢声」 福原一雄) 


元祖ファストフード
寛文元年(1661年)、江戸・瀬戸物町の信濃屋というそば屋が画期的な商法を思いついた。それまでのそば屋というと、給仕がひとりひとり客の相手をしてそばのおかわりや酒の注文を取るシステムだった。信濃屋はこれを、給仕はいっさいない、そば、酒などは一杯こっきりの盛り切りシステムにしたのである。さて、評判はというと、もともと気が大きい江戸庶民は以前のシステムだと散財することが多かったので、サービスが悪いと不平が出るどころか、かえって倹約にいいと、前よりもお客が増えたのである。この信濃屋のシステムはなにかと似ていないだろうか。そう、単品売り、セルフサービスといえば、現代のファストフード商法の原形なのである。まさに元祖ファストフード商法は江戸のそば屋・信濃屋にあり、なのである。(「ヒット商品笑っちゃう事典」 モノマニア倶楽部[編]) 


奈良本辰也
現代京都の酒豪番付を作るとなると、奈良本旦那は一方の横綱である。飄々と立って、得意の奈良本ぶしが出るまでには、相当の量のガソリンならぬアルコールを必要とするようだ。昔、わたしのやっていた雑誌に、資料欄を受持って貰っていたことがあって(恐らく奈良本門下の若い人がやっていたのだろうと思うが)奈良本旦那の名前は存じ上げていたが、いつ頃から酒友となったか、考えてみると一向に判然としない。前記三氏同様「大ごみ会」のメンバーだが、その外、酒をのむ会の至るところで顔を合わせることとなった。まことに、酒あるところ、奈良本辰也あり、である。旦那の酒は明朗にして闊達、いささかのかげりもなく、奈良本ぶしの名調子は、正に東に森繁ぶしあれば、西に奈良本ぶしあり、といっていい。但し、最近ますます旦那の下腹が大きくなり、酒のタンクも大きくなったとみえ、わたしなどは旦那とトコトンつきあっていたら、必ず二日酔いということになる。(「京の酒」 八尋不二) 


第六十九段
男、いといたう泣きてよめる、    かきくらす心の闇にまどひにき 夢うつつとは今宵定めよ    とよみやりて、狩にいでぬ。野にあれど、心はそらにて、今宵だに人しづめて、いととくあはむと思ふに、国の守、斎(いつき)の宮の頭(かみ)かけたる、狩の使(つかひ)ありと聞きて、夜一夜酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へ立ちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せど、えあはず。夜(よ)やうやう明けなむとするほどに、女方よりいだす盃の皿に、歌を書きていだしたり。取りて見れば、    かち(徒歩)人の渡れど濡れぬえにしあれば    と書きて、末はなし。その盃の皿に、続松(ついまつ)の炭して、歌の末を書きつく。    また逢坂(あふさか)の関は越えなむ    とて、明くれば尾張の国へ越えにけり。
現代語訳
男は、たいそうはげしく泣いて(次の歌を)詠んだ、−(昨夜は私も、悲しみに胸がいっぱいでまっ暗になってしまった心の闇の中でなにがなんだか分かりませんでした。昨夜のことが夢の中でのことであったか現実のことであったか、今夜またおいでになった上ではっきりさせて下さい)と詠んで(女のところに)送って、狩に出かけた。野の中を(狩をして)あちこち歩きまわってはいるは、心は上の空で、せめて今夜だけでも人の寝静まるのを待って、すぐにも逢おうと思っていると、(その夜にかぎって)この伊勢の国の守で斎宮寮の頭(かみ)をしている人が、狩の使が滞在していると聞いて、一晩中酒宴を催したので、全然逢うこともできないで、(しかし、実は)夜が明けたら尾張の国に向かって出発することになっているので、男も人知れず血の涙を流して悲しんだが、逢うことはできない。夜がそろそろ明けようとする頃に、(その宴席で)女の御座所の簾の中からさし出す盃の台皿に、歌を書いてさし出した。(男が)手に取って見ると、−(徒歩で旅人が渡っても濡れることのない、そんな浅い入江でしたから−私たち二人の中もほんとに浅い御縁でしたから)と書いてあって、下の句はない。(そこで男は)その盃の台皿に、たいまつの燃え残りの炭で、歌の下の句を書きつける。−(きっと再び逢坂の関所を越えましょう−あなたとお逢いしましょう)と詠んで、夜が明けると尾張の国にに向かって(国境を)越えていったのだった。(「伊勢物語」 石田穣治訳注) 


酒飲んで(4)
酒飲んで吐くな眠るなくだまくな
酒飲んで二倍に水増し体験記
酒飲んでもう一軒と女房言い
酒飲んで酔わない人の不経済
酒飲んで盃はでる口もでる 


二十種飲みくらべ
佐藤陽子さんは食いっぷりも申し分なかったが、それ以上に飲みっぷりがお見事であった。酒は私は菊正宗の燗をしたのを頼んだが、陽子さんは冷酒がいいと言う。「冷やですと『雪中梅』になりますが」「あ、それ、私の一番好きなお酒よ」新潟へ仕事で言った時、泊まったホテルに、越後の名酒が二十種そろえてあると聞いて、全部持ってきてもらい、しっかりと飲みくらべた。その時、断然いいと思ったのが「雪中梅」で、以来、酒は「雪中梅」の冷酒にきめているのだという。「ほかのお酒は、飲まないんですか」「そんなことはありませんよ。九州の中津で、幻の焼酎とか言われている『邦美人』というのを飲みましたが。一升壜で五、六万円もするんですって」(「美女・美食ばなし」 塩田丸男) 


494 ノサト 呑む事と細工とは妙(みょう)年よらせぬ [同(続折句袋・安永八)]
名人気質の職人をほめたもの。あんなに年をとっても、酒の量と腕前だけは昔のままなのはさすがに鍛え方が違うなあ。仕事をはなれたら、よぼよぼしていても、呑んで仕事に掛かると別人のようにしゃんとする。(「大阪宝暦折句秀詠」 鈴木勝忠) 



酔っ払って帰ると、妻が憂鬱になる。呑まないと夫が憂鬱になる。 (「ユーモア辞典」 秋田實編) 


長谷川平蔵
その記録とは、『よしの冊子』である。なかに平蔵の仕事ぶりやその評判、人物評などが随所に載っている。たとえばその一つ。「町々にても、平蔵様々々々と、嬉しがり候由(よし)。尤(もっとも)平蔵気取巧者(きどりこうしゃ)にて、能(よく)人の気を呑込(のみこみ)、借金抔(など)多く相成候事は、少しも厭(いとい)申さず、与力同心へも、酒食抔を与へ悦(よろこ)ばせ、又は夜中抔、囚人を町人抔が、連(つれ)て参候へば、早速受取せ、扨(さて)そば抔を申付、右振舞(ふるまい)候よし。飯を出し候ても、冷飯に茶漬抔では、人も嬉しがり申さず故(ゆえ)、一寸そばやへ人を遣(つかわ)し、そばでも出し候へば、町人は御馳走の気に相成、恐入有難がり候由」(「大江戸浮世事情」 秋山忠彌) 


早田万戸
[三七](二月)二十日愁美要時(すみよし 対馬)に泊せし時早田万戸(そうだばんこ)美多羅二夜来りて酒を設く 夜深く呼(よびごえ)急にして船中に上れば 酒桶魚盤は竹蓬に列(なら)びたり 語音異なると雖(いえど)も屡(しばしば)爵(さかずき)を呈す 嗜欲は胡為(なんすれぞ)自(おのずから)同じからざらん
二 早田万戸三美多羅−早田左衛門太郎。早田氏は対馬の浅茅(あそう)湾を中心に蟠踞し、倭寇の頭目的存在だったという。李朝成立後、対朝鮮貿易において左衛門太郎が宗氏に匹敵するほどの大物として活躍、とくに一四一八年に宗貞茂が死んだ後は貿易の主導権を握り、「馬島は凡(およ)そ事皆此の人より出づるに似たり」([三八])とまでいわれた。万戸は元来モンゴル軍制において数千名の軍団の統率者を呼ぶ名で、これが高麗を経て李朝に受けつがれた。つまり左衛門太郎は朝鮮から万戸という官職をもらったわけで、こうした人々を受職倭人という。(「老松堂日本行録−朝鮮使節の見た中世日本−」 宋希m 村井章介校注) 


ラオ・カーオ
「ラオ・カーオを知ってるか?」すると太った兄ちゃんは、意外なことを語り出した。「もちろん。ウチのおじさんがこの近くで造ってるよ。僕らはこの辺に住んでるんだ」兄ちゃんはチャングと名乗り、この店の人はみんな自分の親戚なのだと言った。彼のおじさんは今、六五歳。昔からずっと酒造り一筋で、三〇歳になる息子も酒を造っている。彼らが造っているのは、ラオ・カーオのなかでもラオ・トゥランという、アルコール度数七〇度のとても強い種類の酒らしい。チャングによると、ラオ・カーオの造り方はこうである。まず、もち米を蒸して、二一日間おく。それを煮て蒸気を集めると酒ができる。このときの蒸溜のしかたで、アルコール度数に七〇度、四〇度、三五度、と差ができて、一番強いのがラオ・トゥランなのだという。「おじさんに会いたい、酒造りの様子が見たい」「それはトップシークレットだ。ポリスに知られたら捕まる」と、ガンとして受けつけない。「ではその酒がほしい」と言ったら、二人はなにやら相談して、結局、ウェイターのおじさんがバイクで取りに行くことになった。待つこと一五分。ビニールに入った一合くらいの透明な酒が到着した。さっそく試してみる。ん?ほとんど匂いがない。喉にカーッとくるが、ほんのりと甘みがあり、ふわっと米の香りがする。これまで飲んだラオ・カーオとは全然違う。私はM子と顔を見合わせた。「ウマい!ウマすぎる!」(「女二人東南アジア酔っぱらい旅」 江口まゆみ) タイ、スコータイのオールド・シティーでの体験だそうです。 


寛永年間記事
「あづまめぐり」に、寛永の頃のはやり物といへる件(くだり)に、もろはく、たんばたばこ、ひごきせる、観世かしまひ、今春(こんぱる)かうたひ、さんとめしたの羽折(はおり)を、夏冬にかけて用ふるよししるせし。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 寛永は1624-1644です。もろはくは、諸白で、麹米、掛米ともに精米してつくった酒です。 


清酒成分あれこれ
日本酒は米を原料として、米麹で糖化させ、酵母でアルコール発酵させて造られることにより、米、米麹、酵母に由来する豊富な成分が日本酒および酒粕の中に存在することになります。その主な成分には、ビタミン、ミネラル類のほか、ペプチド、必須アミノ酸(体内で合成することができないため、食べ物などからとる必要のあるアミノ酸)、タンパク質などがあります。これらの成分は、全身の新陳代謝を高める働きがあります。その代表的なものが先ほどあげたペプチドです。ペプチドは、タンパク質が分解されてアミノ酸に変わる過程で作られる物質です。このペプチドが肝臓の機能を高める働きがあることや、血圧を安定させるのに有効であることが、東京農業大学の小泉教授や月桂冠研究所の研究により、明らかになりました。秋田大学の滝澤教授らは、日本酒の成分がガン細胞の増殖を抑制するという研究成果を、また清酒の適量飲酒が肝臓ガン、肝硬変を予防する可能性があることを発表しています。愛媛大学の奥田教授は、酒粕中には、ガン細胞の中に含まれるトキソホルモンの働きを妨害する物質が含まれており、ガン患者の激痩せを防ぐ効果のあることや、ガン細胞を殺すナチュラルキラー活性を増大させる効果のある物質が存在していることを学会で発表しています。国立ガンセンターの平山博士も十七年の疫学調査の結果、毎日、日本酒を飲む人は全く飲まない人に比べ大腸ガン、胃ガンにかかる危険性が少ないと報告しています。このほかに、清酒中のイノシトールというビタミンには、脂肪肝、肝硬変の予防、動脈硬化予防、成長促進作用が知られていますし、フェルラ酸には、老化の原因となる活性酸素を除去する作用があります。(「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 


白酒(パイチユウ)の発酵窖
醗酵窖(はっこうこう 窖は あな)は古いものほどよいが、それは、そこの窖の土壁や土床には酵母を代表として、名酒を醸すのに不可欠な優れた発酵微生物叢(ミクロフローラ)が多数あって、これが製品の優劣を決定させる大きな要因ともなっているからである。そのため、新たに醗酵窖を掘ると、古い窖(これを老窖(ラオチイヤオ)と呼ぶ)の土や壁を少しとり、これを新しく掘った窖の土で培養した後、新窖の側壁や土床に塗りつける。名の通った老窖になるまでには少なくとも二〇年以上はかかり、古い窖の酒ほど値段も高くなっていく。固体発酵が終ると、窖の上に積みあげた土を除き、窖のなかから醗酵を終えてアルコールの匂いがプンプンとたつ発酵物を掘り出す。この個体状の発酵物を酒「左:酉 右上:立 右下:口」(チユウベイ)と呼ぶが、酒「左:酉 右上:立 右下:口」にはアルコール分が五−八%も含まれている。これを蒸溜用甑(こしき)に入れて蒸溜するが、この時も中国特有の蒸し方で合理的に行っている。まずこれから仕込む固体発酵の原料を蒸溜用甑に入れ、この上に醗酵を終了した固形状の酒「左:酉 右上:立 右下:口」を重ね、底から蒸気を送って蒸すのである。その蒸気は蒸留器に付属されている冷却器に導かれ、冷却されて蒸留酒がたまる。こうすることにより、次に仕込む原料が蒸されると同時に、醗酵を終了した酒「左:酉 右上:立 右下:口」が蒸溜されるから、まさに一石二鳥といううまい方法である。(「醗酵」 小泉武夫) 


買収饗応のお礼広告
非常に痛み入るならんと思ふは御馳走の御礼といふ「静岡大務」の広告なり。
遠路の処金玉の御身をも顧みず態々御出張相成、美酒佳肴を以て御饗応被下候段(くだされそうろうだん)有難、幾重(いくえ)にも御礼申上候。偖(さ)て御依頼有之候(これありそうろう)改進党員丸尾文六氏選挙の義は、上に厳然たる法律あり、下に確乎たる精神主義あり、僅(わずか)に御馳走の御顔に免じ投票致候義は真平(まっぴら)御断り申上候。乍併(しかしながら)御馳走の儀は年中間断なく御振舞被下候共否やは不申上候、右御礼旁(かたがた)御返事如斯に候。 第四区吉田村初倉村 正義選挙民<明治二五・二・一六、東日> 《解説》「静岡大務」とは「静岡大務新聞」のこと。(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編)  

百閧フ逸話(2)
(内田)百閧ヘ酔うと、宮城宅の襖(ふすま)をはずして宮城の寝間の蒲団の上にのせたり、方々の部屋の電球を片っぱしからゆるめたり、ゴミ箱をどこかへはこんでしまったり、長い棹で外から雨戸を叩いたりした。そういう遊びが、百閧フたのしい時間であった。百閧ヘ、しかし泥酔、酩酊ということは、決してなかった。ある時、昼間から食堂でビールをしたたかに飲んで大声を出している三人連れを苦々しく思ったが、ハッと気がついたら、「自分もウヰスキーをのんでいた」。
百閧ヘ老年の衰えを感じ、ずっと引きこもっていて、眠るように、目を閉じた。その直前、ストローでシャンパンを一口、愛用の煙草ピースを一服吸い、その煙が灰皿からのぼっている時、しずかに息を引きとったという。(「ぜいたく列伝」 戸板康二) 


酒飲んで(3)
酒飲んでくどいうるさいしつっこい
酒飲んで三杯目にはぐいと出し
酒飲んで財布を忘れ我忘れ
酒飲んで後悔後を絶たずを知り
酒飲んでかくて今宵も過ぎにけり 


御三卿
そういうわけで、少なくともわたしが大人になったあたりからは、《徳川家》ということで想像されるような贅沢の経験はまったくといっていいほどない。「徳川家御用達というような店はないのですか?」と訊かれることもあるが、そういう店もほとんどない。ただ、戦後も、和菓子は三田通りの大坂屋さんというところにときどき頼んでいた。ここ出身の江戸時代の俳人だった秋色女(しゅうしきじょ)という人にちなんだ《秋色最中》は有名である。この店はいまもこぢんまりとお菓子屋さんをつづけていて、知る人ぞ知る名店になっている。日本酒などもとくにこれという銘柄はない。一橋家の方に聞いたら、最近、元一橋領の播磨で土地起こしの一環として清酒をつくりはじめたとのことである。その名も「一橋」というらしい。そういえば、一橋家の元当主はお酒が好きな方だった。田安家に関係するところでは、そういうものは聞いたことがないので、わたしとしては感心するしかない。(「徳川四百年の内緒話」 徳川宗英) お秋の酒句 秋色  


ミコヤン流
遠慮のいらない非公式の食事だから、よく食い、よく飲み、よく談じ、興は尽きない。食後婦人連中は日本間の別室へ案内し、いよいよミコヤン氏との対談となった。彼は言分の言わんとする処を包みかくすことなくまくし立てる。我々は、見栄も体裁もない。お互いに相手方の思惑等は少しも考えずに、しゃべる、飲む。大体九時半頃に切り上げる予定が、十時になり、十時半になり、十一時になっても議論は平行して一致しない。が兎も角私は病身を忘れて、二時間余り話つづけ、極めて愉快に人間ミコヤンさんと会談することが出来た。野暮な政治経済論の内容を発表することは避け、彼の極めてユーモラスな話をしるすと、「自分の生れはコーカサスである。コーカサスには古来百歳の長寿を保つ人が多々あって、近代医学を修得した医者がその長寿の秘訣を知る為に、百二十歳の兄弟の家を訪問した。そしてあなたは酒を飲みますかとの質問をした処、否私は若い時は飲んだが今は飲まぬと答えた。医者はわが意を得たりとしてOKをした。次に婦人関係について質問したところ、私は五十年前に妻を失い、以来独身であるとの答えに医者は再びOKをした。その時、隣の室で、ドタンバタンの大騒動がはじまった。医者があれはなんですかと訊ねると、百二十歳の老人はおもむろに答えた。「あれは私の兄の室で、兄は二歳年長の百二十二歳であるが、大酒飲みで時々酔っ払い、近頃結婚した若い細君と痴話喧嘩をしているのである」近代科学者は概ねこのお医者さんの域を脱せぬ…それでは宇宙旅行は出来ぬと言わぬばかりの頗る示唆に富んだ話であった。(「人間ミコヤン」 高碕達之助 文藝春秋巻頭随筆'61.11) ミコヤンはかつてソ連の副首相だった人だそうです。 ザハラ・キウト 


ボンベ
ボンベ bomba(bombe)[ルーマニア語] <意>爆弾、居酒屋、女のいる飲み屋(隠語)
金と赤で燃え輝くカルパチア山脈の秋のなかを走っていたら、ある村を通りすぎしなに、タバコ屋のような一軒の古い家があった。イオンは指さして、昔はああいうのがボンベだったといった。"ボンベ"は爆弾という意味で、昔の隠語では飲み屋のことを爆弾とはうまいことをいうものだと感心した。日本だって戦後にはバクダンというすごい悪酒があって、闇市で飲ませたものである。こと女と酒になるとどうしてこう国境がなくなるのだろうかと、その力の透明な普遍性におどろかされるばかりである。…(K)(「世界カタコト辞典」 開健・小田実) 


マタドール
さて闘牛だが、六組のチームが現われ、それぞれマタドールがうでをふるう。一刀で牛をたおすと、牛の両耳をもらう。これが場外ホームラン。ちょうど両耳をもらう場面にぶつかった。マタドールは客席に向かって、手をふって拍手に答える。すると酒袋がどんどん投げられる。その中の一つをあげて飲む。どうやらその酒の持ち主はスポンサーらしい。マネージャーらしい男が、投げられた酒袋をえらんでマタドールに渡すからである。まあ、通りすがりの旅行者は、そんな目で見るべきではなかろう。(「フクちゃん随筆」 横山隆一) 


江戸五高昇薫
一寸一杯   
京ハシ 山崎     本郷イツクラ横町 三うらや    小石川春日町 いせや
人形丁 うちだ    米沢丁 四方
いも酒
としま丁 鬼熊    カンタコンヤ丁 カネイ      オヤチハシ 山形
四ツヤ 山(?)市    青山クホタ丁 山三いせや
(「江戸五高昇薫」 嘉永5年(1852)一枚刷り) 人形町・玉秀のウィンドウにありました。 


家へお帰んなさい
はじめの一年ぐらいは泊まらせないからね。「家へお帰んなさい…」と言うからね。「お母さんが心配するから、家へお帰んなさい」ってね。だから考えてみりゃおふくろだって安心なわけですよね。変なところで変なことするよりは。当然、向こうが年上でしょう。こっちが十六、七ぐらいですよ。いまの二十五、六と違って、本当にオトナだからねえ。自分がこの人を男にしたという誇りみたいなものがあるから、酒の飲みかたからいろいろ注意してくれるんだよ。「あしたは土曜日だけど、あなた、どっちへいらっしゃるの?」と言うから、友だちとちょっと宴会があるんだと言うと、「たくさんおすごしになるんだったら、行く前に盛りそばの一杯もあがっていらっしゃい」とか、あるいは、「右の肋骨(あばら)の下が肝臓ですから、これを押したり離したりしながら飲むといいのよ…」と教えてくれる。いまは洋服だからこんなことをやっているとみんな見られちゃうから、他のお客に失礼でしょう。昔は和服だからね、ふところ手をして押してればわかんないわけだよ。左手で飲むぐらいなもんでさ。「いつ左ききになったの?」なんて、よく言われたものだけれどさ。(「男の作法」 池波正太郎) 吉原でのことだそうです。  


初雪や
「ああ、初雪が降った。風流人はすべて、歌に詠み、詩を作って楽しむであろう。おれも発句でも作ってみよう」と熱燗をちびりちびりやってこたつに当って窓のところで雪景色を見ていると、顔なじみの野菜の行商人がきた。「もし、旦那さま、何をごらんになっておいでなさいますか」「うむ、初雪ゆえに発句を作った。初雪や人の足あとあざみの花、とはどうじゃ」「なるほど、雪の上に、人の足あとが、あざみの花のようですか。私も一句やりましょう。いかがでしょうか。初雪や人の足あと小判形、というのは」「なぜ、人の足あとが小判形か、とんとわからぬ」「なにね、私はわらじをはいておりますから」 (「小ばなし歳時記」 加太こうじ) 


酒飲んで(2)
酒飲んでみたいと思いし頃恋し
酒飲んでもう一杯が命取り
酒飲んで家妻子供金と地位
酒飲んで残した壜と恥の山
酒飲んで蔵が建ったと計算し(酒代の累積) 


ときには朝酒
大御酒(おおみき)を三杯五杯(みつきいつつき)たべ酔ひぬ酔ひての後は待たで注ぎける
さけさけと花にあるじを任せられけふ(今日)もさけさけ明日もさけさけ
というのが収められている。そして、後の戯歌に、「岩室の酒禅師君の許(もと)にまかりけるに、酒ばかりすゝめらるゝを」という前詞が附されている。これらを見ても、三杯で済ませたとは思われない。ときには朝酒を嗜んだ形跡もあり、
御手帋(てがみ)のおもむき拝見仕候。けさまことに野僧もい(脱)たふ酔候まゝ、なにとぞ重ての(脱)ことになし可被下候。早々以上。良寛。
という宛名のない書簡が阿部家に残っており、「野僧も」の「も」の一字にわけがあるのであろうけれど、朝酒に酔うたことに間違いはない。しかし、節度は正しく弁えて決して乱れなかったようである。解良栄重、「師、常ニ酒ヲ好む。シカリト云ドモ量ヲ超(こえ)テ酔狂ニ至ルヲ見ズ」と書いているのはほんとうであろう。(「新修 良寛」 東郷豊治) 


ミス
琉球列島の最南端にある八重山郡波照間村は、直接戦争の被害のなかったところですが、戦後になってから極度の食糧不足と、その結果から生ずる疲労状態に輪をかけるように蔓延したマラリヤで、一日に何人もの死人が出たところです。墓地にいたる島の路を葬列の通らない日はなかったといいますが、抵抗力のない老人と子供は、そのもっとも大きな犠牲者だったのです。その老人たちの大部分が死に絶えて、古風な仕きたりが影うすくなっても、この人たちが伝えてくれた米や粟を噛んで酒をつくる方法だけは、最近までほそぼそと続けられていました。これは離島であるという不便さが、かえって禁令の目のとどかないという点でめぐまれていたのです。年に一度、やはりさきの名護の場合とおなじように、六月に行われる稲の収穫祭のために、島の若い女たちが米を噛むためにあつまってきます。神酒(おみき)とはいえ、この祭りの日に島の人たちが飲むだけの酒をつくるためには、ずいぶんの量の米を噛まなければなりません。そのためには、一人でも多くの女性を動員する必要があるのです。ここではこうしてつくられる酒をミスと呼んでいますが、まず材料を一時間ばかり水に漬けてから臼でつき、熱い湯の中にこれを入れます。やがてこれをあげてまた水で冷やし、それから口で噛むのです。噛んだあとはフルイにかけないと、カスが口にさわるために、神様ならぬ男どもがいやがるそうです。この噛んだ材料を一昼夜ほどおくとやや甘くなり、それがやがて渋味にかわるころを見計らって神に供えるといいます。材料はほとんど米と粟が半分ずつで、時には粟だけのときもあるそうですが、この渋味のある酒も、飲めば結構酔うとのことでありました。これはおそらく、日本における古風な酒つくりの、最後の姿なのかもしれません。(「陽気なニッポン人」 酒井卯作)  昭和40年出版 


オムシャ
またオムシャは、最上徳内が『蝦夷国風俗人情之沙汰』に一節を設けて、「日本の士来ると聞ばヲムシャといふ事を催す(略)高貴の賓客を尊崇の饗応に興行す」と記したように、アイヌ側のもので、面会の挨拶、物品の贈与、酒宴の三要素からなる再会儀礼と考えられている。しかし近世後期に、和人との間で行われていたオムシャには、蝦夷地の役人がアイヌの長老たちをもてなす場合と、各場所で請負人たちが年中行事アイヌの人々を慰労する場合とがあった。前者は役人の巡回時などに催されたが、先のウイマムと混同されて和人への拝謁儀礼となった。これに対して、後者は、いわば私的なもので、それぞれの場所で漁期の終わりなどに、大いに酒と食物を与えて働くアイヌを慰労したが代わりに掟書や日常的諸注意を読み聞かせており、むしろ懐柔や服従を目的とする支配儀礼の色彩が濃かった。たとえばネモロ(根室)場所では、毎年七月の下旬に周辺のアイヌを呼び集めてオムシャを行って、一人に清酒三合と一汁一菜の料理を振る舞い、女子供の分も与えた後に、御法度の趣を申し渡している。こうした傾向は、蝦夷防備との関連で、幕府が蝦夷地を直轄して以来、とくに顕著になるという指摘がある[菊池・一九八八]。(「江戸の食生活」 原田信男) 


酒飲んで
酒飲んで忘れ上戸となりにけり
酒飲んでいらぬ付録の二日酔い
酒飲んで泣くもからむも芸のうち
酒飲んで飲まれぬほどのていたらく(老化)
酒飲んで死んだはおろちとどぜうなり(八岐大蛇とどじょう屋のどじょう) 


酒浴
江戸時代初期、この地(日本橋人形町3-8 玄冶店跡)に住んだ幕府の典医岡本玄冶(げんや 一五八七〜一六四五)にちなんで玄冶店という。玄冶は実名は諸品、京都に生まれ、曲直瀬(まなせ)道三のもとで医学を学んだ。元和九年(一六二三)、三代将軍家光の招きで幕府の医官となり、法眼から法印に進み啓迪院(けいゆういん)と号した。寛永六年(一六二九年)将軍家光が痘瘡(とうそう)を病んだとき、万人が躊躇(ちゅうちょ)した酒浴(しゅよく)を勇断施術、全快に導いて一躍名を高めた(「寛政重修諸家譜」)。 (「中央区の文化財(一)」 中央区教育委員会) 


賀茂長丸
上三味賀茂長丸とは、京都賀茂別雷(かものわけいかずち)神社(上賀茂神社)の祠官、賀茂季鷹(すえたか)の狂名である。季鷹は歌人として化政天保期の京文壇に名声があり、狂歌の作も多い。
貝の事は両宗匠(蕪村・月居)の序に尽きたれば、中々にとていはず。我七十賀を浪花(なにわ)のうかぶ瀬にて、こゝらのみやび人をつどへて、名だゝるさかずきをひねもすめぐらせし時、菊桐の大盃をもて出(いで)て一首とこはれしかば
 菊桐は太閤さまのやうなれバ 大さか盛といふべかりけり
又住吉の松にてつくりし、是も大盃の出しに
 よやへんと云は酔たの酩ていを 致したと云はまだよはぬ也
 千代や経ん万代やへんよやへんと くだを万喜画の墨のゑの松(『島原角屋俳諧資料』)(「浮瀬 奇杯ものがたり」 坂田昭二) 


崑ちゃんの酒
(清水)崑ちゃんの酒は腰をすえて飲む徹夜酒であった。酔うほどにざんばら髪を片手の指でつまんだりなでたりするポーズは中山義秀さんや小林秀雄さんの所作のようでもあるが、元祖は横光利一さんの流れだという説もある。酔って出る崑ちゃんの得意の歌は、彼の故郷長崎弁のマダム・バタフライと、ディアポロであった。しかもどの歌も唄う合い間に必ずハイハイという調子を入れるのである。 (「わが酒中交遊記」 那須良輔) 


飛鳥山
濱本 飛鳥山という酒−あれを出品なさっているんですか
野白 そうです。
濱本 醸造試験所であれだけのお酒に詳しい方々がお酒をつくられて、なお金賞がとれないというのはどういうことかという気もするんですが、それは、もともと醸造試験所では鑑評会で入選するためのお酒を造っておられるわけじゃなくて、研究のために造った酒をたまたまお出しになるということなんですね。
野白 そういうことです。ここ一〇年間の出品を見ますと半分は入賞しています。研究を進める上で、試験所にとって自信になっていると思います。
佐藤 毎年、大体何点ぐらい出されるんですか。
野白 二、三点ですかね。(「酒を語る」 斎藤茂太・佐藤陽子・野白喜久雄・栗山一秀・濱本英輔) 


仁番、亦の名は須須許理
(応神天皇は)又百済(くだら)の国に、「若(も)し賢(さか)しき人有らば貢上(たてまつ)れ。」と科(おほ)せ賜ひき。故(かれ)、命(みこと)を受けて貢上れる人、名は和迩吉師(わにきし)。即ち論語十巻(とまき)、千字文(せんじもん)一巻(ひとまき)、并(あは)せて十一巻(とをまりひとまき)を是の人に付けて即ち貢進(たてまつ)りき。此の和迩吉師は文首(ふみのおびと)等の祖。 又手人(てひと)韓鍛(からかぬち)、名は卓素(たくそ)、亦呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上き。又秦造(はたのみやつこ)の祖、漢直(あやのあたへ)の祖、及(また)酒を醸(か)むことを知れる人、名は仁番(にほ)、亦の名は須須許理(すすこり)等(ども)、参渡(まゐわた)り来つ。故(かれ)、是の須須許理、大御酒を醸みて献りき。是に天皇(すめらみこと)、是の献りし大御酒(おほみき)に宇羅宜(うらげ)て一八、 宇羅下三字は音を以ゐよ。 御歌曰(よ)みしたまひしく、 須須許理が 醸(か)みし御酒(みき)に 我酔ひにけり 事無酒(ことなぐし)一九 笑酒二〇に 我酔ひにけり二一 とうたひたまひき。如此(かく)歌ひて幸行(い)でましし時、御杖を以(も)ちて大坂の道中の大石を打ちたまへば、其の石走り避(さ)りき。故、諺(ことわざ)に「堅石(かたしは)も酔人(ゑひびと)を避く。」と曰(い)ふなり。
一八 心を浮き浮きと浮き立たせて。 一九 無事平安な酒。 二〇 顔もにこにこと笑いを催す酒。 二一 この歌は旋頭歌である。(「古事記 祝詞」 倉野憲司・武田祐吉校注) 


火が入つた
事実、うまいものを食って、芝居を見て、吉原に遊んで、「明日は明日の風が吹く」「宵越しの金は持たぬ」と太平楽を叩いて、気軽に呑気にその日を送っていればそれでよいのである−そこが江戸町人の気前であり、江戸っ子の意気であった。しかも、これは安永天明頃の世相でもあった。庶民の間にも、食べものについての鑑賞力が進んで、材料についての鑑別が鋭くなり、それほどたいした通人とも思われない客までも、
「この酒には火が入(はい)つた。料理番へさいいつて、口をかへて来てくんねぇ」(『遊婦里会談』)などという。それゆえに仲町の尾花屋などでは、とくに茶船で酒を取り寄せたりした。肴や口取りについてもやかましく、
「鮑の切りやうが薄いぞ、鰈の煮付に生姜が濃いさぁ、飲めぬはぇ」(『永代談語』)(「食の文化考」 平野雅章) 


横山エンタツ
親父は酒好きで、晩酌なんていうものではなく、台所に樽酒を置いて喉が渇いたら水みたいに冷や酒をあおってました。一日に軽く一升はあけてました。宴会など外で飲むのが嫌いでよく自宅で飲んでいましたが、親父が酔っているのを見たことはありません。亡くなる前の晩も一升五合ほど飲んだらしいんですが、そのときはさすがに酔ったようです。翌朝いつものように冷や酒を一杯飲んだんです。そのお酒をもどしたので、もう一杯持ってきましょうかと家人がたずねたところ「もういらん」と答えてそのまま死んだんです。それが最後の言葉でした。あれだけの酒好きが最後に酒でうがいして死ねたんですから大往生だったと思います。(「血族が語る 昭和巨人伝」「横山エンタツ」 花紀京) 


これでは帰せぬ
とあるカフェーで、カンバンの時間になった。ボーイが仲間にいった。 −なんだってあすこにいる男にもうカンバンですっていわないんだ。おまえは、さっきから五回も起こしているが、やっこさん、そのたびにまた寝こんじまうじゃないか。 −だってしかたねえよ、おれが起こすたびに、あの人は勘定を払ってくれるんだから、とその仲間は答えた。(「ふらんす小咄大全」 河盛好蔵訳編) 


江馬細香
(頼)山陽を記して細香(さいこう)を逸しては、わけ知らずと思われるかも知れない。山陽が名声を博しない放浪時代、美濃大垣の江馬(えま)氏に泊まったことがある。一介の貧書生に過ぎなかった山陽は江馬の娘に恋をした。それが細香で、彼女も憎からず思ったのだが、彼女の父は見くびっていたので、あんな男に娘はやれぬ、と一蹴した。然し、細香はせめてお弟子の端にでも加わりたい、と希望し、山陽もそれを容れて、以来、山陽の死ぬまで十八年もその仲は続いた。この細香がなかなかの酒豪で、山陽と会えば必ず共に飲む。しかも、細香の妹で、他へ縁付いているのが実家へ帰った時、妹が帰って来たので酒飲み相手が出来、退屈しないですむ、という意味の詩を山陽に送っているから、妹も大した代物だったらしい。山陽と細香がただの師弟の間柄でなかったらしい事は彼女の手紙に、自分の署名を「頼細香」と書き、宛名「江馬山陽先生」としているなどにも窺うことができよう。細香は山陽を訪うために十八年の間に七度往来した。そして細香が最後に京を去って故郷へ帰る時、山陽は送って琵琶湖畔の唐アの松下に到り、ここで別れを告げたのだが、これが二人の別れとなったのであった。(「京の酒」 八尋不二) 


<全国優質酒>十種
この八つのほかに、一九六二年に選ばれた<全国優質酒>十種というのもある。こちらには四川省の<五糧液 んー・りょん・ぢっ>、山西省の<竹葉酒 ちゅっ・いっ(ぷ)・ちゃう>、山東省の<青島 ちん・とう>「口卑」酒(ビール)など、香港でもよくお目にかかる銘柄が入っている。北京の<夜光杯紅葡萄酒 いえ・くぅん・ぷい・ほん・ぽう・とう・ちゃう>あたりは、味はともかく名前がロマンチックだ。(「香港 旅の雑学ノート」 山口文憲) 八大名酒   


マッカリ
李朝になると酒も変わったのか、酒器の形もくずれてくる。今、朝鮮人が主としてのんでいる酒は、マッカリといって、どぶろくをうすめてすっぱくしたような酒を、茶椀や丼になみなみとついでがぶがぶとのんでいる。浅川巧著『朝鮮陶磁名考』によると、高麗茶椀とよんで茶人が古来尊んでいる井戸(いど)、雨漏(あまもり)、堅手(かたで)、刷毛目(はけめ)の類の茶椀は、茶椀でも飯椀でもなく酒をのんだ器だろうと書かれている。マッカリが李朝のはじめころからあったとすれば、酒は茶椀より小さいものではのまなかったろう。(「徳利と酒盃・漁陶紀行」 小山冨士夫)  


酒殿
桧皮葺(ひわだぶき)の屋根と直線と、白壁に柱と桁の直線がくっきりと浮き出た上古建築の構造美をもった奈良、春日大社の酒殿(さかどの 国宝)は、八五九(貞観元)年に創建されたという。神職の方によると、酒殿は東西二室に別れ、土間はなかば埋れた大甕(かめ)があり、その上の桁の神棚には酒神二座が奉斎されている。この大甕は朝鮮産で高さ七五センチメートル、口径五〇センチメートル、なお、同系の甕が数個あるという。かつて神酒つくりに使われたのがこれらの甕であろう。『延喜式』(巻一、四時祭)によれば、春日祭の神酒つくりは、原料の黒米(玄米)ばかりか、調布、匏(なりひさご) 、杓(えりひさご)、「上:竹、下:羅」(したみ 大笊)、韓竈、酒缶(さけもたい)、酒壺などが官給され、なお官派遣の醸酒女(さけつくりめ)一人、駈女(かけめ)二人の手で神酒つくりが行われた。神酒つくりは、竪臼で黒米をつく作業から始まる。 楽浪(ざざなみ)や 志賀の辛ア(からさき)や 御稲(みしね)舂(つ)く 女の佳ささや 其もがな 彼もがな いとこせにせむや (「神楽歌」) つき上げた酒米は箕(み)でふるい、洗い、浸けてから韓竈蒸す。酒殿は酒神の座であるから、常に清浄さが要求された。忙しく立ち働く彼女らの長い裳裾(もすそ)で、酒殿は清掃されたようになるのを、神楽歌の「酒殿歌」は歌う。 酒殿は 今朝はな掃きそ 裳引き裾引き 今朝は掃きてき 麹つくりが終ると、酒甕への仕込み作業がこれに続く。当社の神酒つくりは、このような手順で行われたであろう。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


福の神
▲利兵衛 こなたも某(それがし)も富貴になりたい事でござる。参る程にこれでござる。 ▲両人 只今両人の参る事、別の事ではござらぬ。何とぞ富貴になして下されませ。南無福の神 南無福の神。 ▲利兵衛 豆をはやしまう。 ▲八兵衛 心得ました。 ▲利兵衛 福は内 ▲八兵衛 鬼は外。 ▲福の神 福はこゝにこゝに。 ▲両人 はあ、これはどなたでござるぞ。 ▲福の神 このところの福の神、御酒(みき)を上げませ。 ▲両人 畏まつてござる。御酒でござる。 ▲福の神 南無日本の大小の神祇、別しては松尾大明神、これは福の神がたべるです。さて、汝等富貴になりたいと云う事か。 ▲両人 はあ。 ▲福の神 富貴になるは、持たいではかなわぬ物がある。それを持つたか。 ▲両人 何でござりますぞ。 ▲福の神 それならば、富貴になるやう、語つて聞かせん。 謡 いでいで、このついでに、たのしうなるやう、語つて聞かせん。朝起をして慈悲あるべし。夫婦(めおと)のなかに腹たつべからず。人の来るをもいとふまじ。われ等がやうなる福伝(福の神)に、いかにもおぶく(めでたい品?)をけつかう(用意)して、さて中酒(なかざけ)には古酒(ふるざけ)を、いやというほど盛るならば、盛るならば、たのしうなさではかなしふまじ。(「狂言記」) 


咸臨丸とポーハタン号
たとえば福沢諭吉の『福翁自伝』を読むと、サンフランシスコに直航した咸臨丸乗組みの一行が、アメリカ人にホテルに招待されて、はじめてシャンパンを飲まされてびっくりする場面がある。<徳利の口を開けると恐ろしい音がし>たのである。その音をピストルと間違えて、思わず腰の刀に手をかけた者もいた、という話も遺っている。いっぽう、ポーハタン号の使節の一行がシャンパンを飲まされたのはハワイのホノルルに寄港し、国王の宮殿で高官たちに会ったときである。<盤上にコップを銘々に与へてサンパン酒をすゝめける>と、副使村垣淡路守の日記にある。しかし、村垣は別にこれを驚いたとは書いていない。すでに飲んだことがあったからであろうか。このとき同行した仙台藩士玉虫左大夫の『航米日録』によると、まだ太平洋の真ン中にいた二月三日の正午に、ポーハタン号は祝砲二十一発を撃っている。これは初代アメリカ大統領ワシントンの誕生日の祝砲である。この祝賀会ビールも出ている。玉虫は<又酒一壺(いっこ)アリ、ビール(酒名)ト云フ、一喫(いっきつ)ス。苦味ナレドモ口ヲ湿(うるお)スニ足ル>と報告している。これが玉虫のビールの初体験だったわけだ。(「聞いて極楽」 綱淵謙錠) 


盃事
ここまで、「盃事」は日本文化というべき契約儀礼である、と確信して筆を進めてきた。それは、以下の理由による。(一)そこでの飲酒作法が「三口」とか「三度」とかに定式化していること。 (二)それに用いる専用の酒器が発達していること。かわらけや塗りものの平盃、それに雄銚・雌銚(おちょめちょ)に代表される注酒器がそうである。 (三)盃事を行ったあと、その盃を当事者の一方が持ち帰ること。それを近親者に披露し、神棚に納めるのが一般的である。 これほどに盃事を発達させた民族社会はあるまい。もちろん、酒が酒宴に欠かせないハレの飲料であることは、多くの民族に共通する。また、酒を飲む前に酒杯を目線に掲げて相互に無事を確認することも、また多くの民族に共通する。それに、ひとつの器で酒を飲みかわすことで親交を深める、そのこともかなり多くの民族が伝承する。さらに古くさかのぼれば、いずれの民族社会でも酒は儀礼にともなって発達した形跡がある。が、盃事をもって契約文書を交わしたと同等の、あるいはそれ以上の固い約束が成立したとする、その制度化と今日への伝承は日本以外ではありえまい、と思えるのである。(「三三九度」 神崎宣武) 


「しゃ」や「しか」のいる部屋
日本酒は、飲んでいる人のいる部屋の香いもきらいである。昔の新橋や柳橋の芸者、又は素晴らしい役者、噺家、即ち、二通りの「しゃ」や「しか」のいる部屋なら、(昔、芸者や役者を「しゃ」、噺家を「しか」と、洒落て言ったのである)そういう部屋に坐ってもいいが。そういう人間が起ったり、坐ったり、お酌をしたりするのを見るだけで、粋な美しさがあるにちがいないからだ。(「貧乏サヴァラン」 森茉莉) 


394 シハタ 祝言の場へ身揚りで大蛇来る[折句袋]
大蛇は、大酒飲み、また、嫉妬で狂った女[日高川の清姫のような]。花婿と末の約束を交わしていた遊女が、裏切られたと知って結婚式へ眼をつり上げて乗りこんできたのである。それも一日置屋から休みを取って来たのだから、只ではおさまらない。(「大阪宝暦折句秀詠」 鈴木勝忠) 「身揚り」というのは、遊女が揚代を自分で負担して仕事を休むことだそうです。 


強情王ルイ 一二八九−一三一六
ルイ一〇世はボール遊びをして汗をかいたあとの冷たいワインを飲みすぎて肋膜炎を起こし、それがもとで亡くなり、その短い治世(一三一四−一六)を終えている。(「世界おもしろ雑科2」 ウォーレス、ワルチンスキー他) 


凱旋遺聞
日露戦争の凱旋祝賀会が上野で催された時、外神田では広小路に接待所を拵へて、講武所の紅裙(こうくん)連が控えてゐたけれども、将軍達は皆馬車で通過してしまふので、すつかり当てが外れてしまつた。すると清水晴風が、わしがきつと馬車をとめて見せる、馬車がとまつたら皆でやつてくれと云ひ出した。東郷大将の馬車が来ると、いきなり馬に取付いて離さぬものだから、御者が弱つてひツぱたいたが、晴風は少しも驚かない。彼は玩具博士で知られたけれども、元来荷馬車の親方だからである。そのうちに紅裙煉瓦押寄せて、東郷大将を馬車からおろし、万歳々々で盃を献じた。(「明治の話題」 柴田宵曲) 


カド焼き
もう春はそこまできている。せつない冬から解放された農民たちは、誰いうともなく歓びにふくれた心を持ち寄って食行事を行うと、斎藤仁氏(山形在住・味覚評論家)は書いておられる。その一つは、山形県最上地方でやる「カド焼き」。北海道から船で酒田港に運ばれたカドニシンは、僻村(へきそん)の隅々にまで売り歩かれる。そのニシンを一尾ごと竹の箸にさして円座を作り、そのど真ん中に、自分が焼いた炭を俵ごと火をつけて、その炭火でニシンをじゅうじゅう焼きながら酒を飲むという。ニシンは海の魚、約半年ぶりにみる海の幸である。丸ごと食べて蛋白質を補給し、米づくりにかかる体力をたくわえるのであろう。お酒に酔って、手拍子と共に”新庄ぶし”や”真室川音頭”が歌われるのだが、こう書いただけで、その歌声が聞こえてくるような気がする。地酒と民謡と、伝承の食べ物と、しっかりと地に足のついた人たちの誇らかな宴でもある。(「酒と旅と人生と」 佐々木久子) 


前野村清水
板橋というところは、宿駅の中に長さ九間の板の橋が架かっていて、それが境で上宿と下宿とに分かれている。そのために宿駅の名となったといわれている。この西の方に前野村という広い村があって、この前野村に、街道から四、五町も入ったところに小名(こな)を清水と呼ぶところがある。古くに、この村に貧しい一人の農夫がいて、年老いた父親と二人で暮らしていた。その老父は元来、酒が大好きではあるが、何分にも貧しいので酔う程に飲んだことがない。ところが、ある日、その父親が酒に酔って家へ帰って来た。体中が酒で煮しめたように匂うというのである。そこで伜(せがれ)が父親に、そのわけを尋ねると、道を歩いていると、どこともなくいい匂いがするので、その匂いの方を探してゆくと水が湧いている。どうやら匂いはその水らしいので飲んでみると日頃飲みたりない酒なので、つい飲みすごしてしまったという。伜は不審に思って、父親とその所へ行ってみると、まさしくその辺は酒の匂いがする。試みに伜が飲んでみたが酒ではなく水である。不思議に思って父親が飲んでみると、酒である。この先の道の北側を一丈ほどなだらかに降りると幅二、三間、長さ十余間深さ一尺ほどの池があって、よく見ると西の崖下に水口らしいものが二カ所ある。清水はそこから湧いているらしい。どんな日照りにも涸れるということがないし、水が軽く、茶をたてて飲むとうまい。その酒好きな老父は、死ぬまで、その清水を酒としてよろこんだ。(「江戸街談」 岸井良衛) 


畦は造酒連れ
江戸人は言葉遊びが好きだった。地口もその一つで、大いに流行した。元の文句には、ことわざがよく使われている。「稼げばたまる」(急げば回る)、「安倍川餅も好き好き」(蓼食う虫も好き好き)、「坊主の手から数珠がもる」(上手の手から水が漏る)、「畦(あぜ)は造酒(みき)連れ菜は畑」(旅は道連れ世は情)、「立って禿(かぶろ)の戸をしめて」(勝って兜の緒をしめて)、「九月朔日(ついたち)命は惜しし」(鰒は食いたし命は惜しし)、「湯屋転び寝起き」(七転び八起き)といった調子。(「大江戸浮世事情」 秋山忠彌) 


青梅粕漬け(埼玉)
材料 青梅 酒粕 塩 砂糖
梅どころの埼玉県越生(おごせ)などで作られる。主に大粒の白加賀を使う。塩で二、三日下漬けしたあと、調味した粕床に漬け込む。梅干しと違って、生梅の歯ごたえがある。
ほととぎす漬け(静岡)
材料 うりの粕漬け しその葉塩漬け しその実 木の芽など からし
藤枝の宿が発祥地。自家製の漬けものでお茶漬けを振舞われた旅の武士が、その味に感激し、ほととぎすのさわやかな鳴き声になぞらえて名付けたもの。塩漬けにしたあと粕漬けに作ったうりを細かく切り、からしをたっぷり加えてしその実や木の芽を混ぜる。塩漬けにしたしその葉で小さな細巻きに包む。(「探訪ふるさとの味」 柏原破魔子) 


飲むもの
「酒は書いたり論じたりするものではなく、飲むものである」と誰かが名言を吐いていたが
確かに酒は語るものではなく、飲んで、飲んだことも忘れるものなのかもしれない。(「銀座の酒場 銀座の飲り方」 森下賢一) 


文蝶
文晁の生活は、まことに、スゴカッたらしい。毎日、鮮魚を日本橋の河岸から運ばせ、酒は伊丹の"文蝶"−これは、文晁の、江戸はもとより日本中にひびいいた名声にあやかろうとしてつけれらた酒銘だった−が、菰かぶりでデンとすえつけられているといったぐあいであった。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


ジョンストン日記
正月二十一日、村垣(範正)、小栗(忠順)の両使から(ポーハタン号)船長以下に、絹に漆器などを贈つたのであるが、
 彼等は漆の非常に立派な盃を一組づゝ、各船員一同にお土産として贈ったが、是等は皆一纏(ひとまと)めにして表に干魚の皮の小片を附し、紙の紐で結んだ一つの箱に納めてあった。高貴の方々から物を贈るときは如何(いか)に些細(ささい)の品物でも礼式として斯ふせねばならぬのである。(ジョンストン日記)
これは熨斗(のし)の説明である。(「幕末遣外使節物語」 尾佐竹猛) 


強者
私の前の会社の上司で強者(つわもの)がいました。朝、気づくと車窓から日本海が見えたそうです。埼玉方面を通る「急行能登」というのに、なぜか乗ってしまったみたいです。所持金が5000円だったので、富山駅で降りて駅員に事情を説明。「もういいから戻ってくれ」と呆れられ、1銭も払わずに関東に戻ったとのこと。会社には午後そのまま出社してきました。彼いわく、「軽井沢あたりなら日常茶飯事。駅員とも顔なじみ」とのこと。−(ささでん 32歳 男)(「酔って記憶をなくします」 石原たきび編) 


手酌をすると貧乏する
自分でついで酒を飲むようでは、貧乏する。酒は、人といっしょに飲むものである。それを、ひとりで飲むようでは、自分ひとりで飲むということで、酒のために貧乏する。太田方(ほう)の『諺苑(げんえん)』(一七九七年)には、このことわざをあげて、その下に、次のように注記する。<手酌とは手づから酒をつぎのむを云う。酒は、大方、人と「イ具」(とも)に酌むものなり。然(しか)るに、独り飲む者は、亦(また)、人とも飲むなり。是、貧の本也。故(ゆえ)に、かく云うなり。>(「飲食事辞典」 白石大二) 


一本だけ
いまでは女房がいないと、好きな日本酒も飲めない有様だ。日本酒を飲み始めると、際限なく飲んでしまうので、女房に禁じられているのである。そのかわり、女房がいるときは、一本だけ許してもらっている。おねだりすると、「しょうがないわねえ」といいながら、もう一本もらって、結局二本。でも女房がぼくの体のことを心配してそうしてくれるのはわかっているから、ぼくも全然いやな気はしないのである。むしろ、今のぼくは女房がいなかったら漫画が描けないかもしれない。いや、それどころか、呼吸すらできないかもしれない。それほど、彼女にだらしなく甘えてしまっているのだ。でも、ここまで甘えられる男も、幸せだと内心思っている。(「今夜もハシゴ酒」 はらたいら) 


一九三九年当時
一九三九年当時、マンハッタンのアパートは月平均三十ドルから五十九ドルで借りることができた。いまは一千ドル近いだろう。一流ホテルでも、プラザ・ホテルは一泊七ドル五十セント(現在百二十五〜二百五十ドル)、ウォルドーフ・アストリア五ドル(百五〜百八十五ドル)である。レストラン案内のページをのぞいたら、日本料理の店が三軒あった。DARUMAとMIYAKOとSUEHIROである。いずれもスキヤキとサケ(ライス・ワイン)を売物にしていたらしい。(「晴れた日のニューヨーク」 常盤新平) 1939年に出版されたニューヨーク案内本『WPAガイド・トゥ・ニューヨーク』にあるそうです。 


拍子木でつつついて見る酔だおれ せわな事かなせわな事かな
夜廻りの最中、往来に引っくり返っている酔払いを見つけた番太郎。万一、行倒れになっていては、あとの始末がまた大変である。ちょっと拍子木で突っついてみて、様子をうかがう。すてごの場合と同じである。−(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


フグ卵巣の粕漬け
石川県金沢市周辺の美川、大野、金石地区や、能都地方でつくられている伝統的発酵食品に「フグ卵巣の糠漬け」がある。有毒な原料を用いる点できわめて特異であり、その有毒物質を微生物によって無毒化し、食品にするという点で奇跡的である。この地区は明治初期よりフグの糠漬けの製造が盛んで、マフグ、ゴマフグ、サバフグといった猛毒フグがその原料となってきた。毒のない肉身を糠漬けするならわかるが、ここでは猛毒を持つ卵巣を糠漬けにしてしまうのだからまさき驚嘆に値する。フグの卵巣には、猛毒テトラドトキシンがあるのは周知の通りで、大型のトラフグの卵巣一個でおよそ二〇人を致死させるというから猛毒なものである。ところがこれを醗酵によって解毒し、食べてしまうという発想は世界に他例はなく、生活からでたものとはいえ強烈である。まさに漬物王国日本ならではの発想と知恵から生まれた発酵食品である。その製造法はまず、卵巣を三〇%以上の塩で塩漬けし、そのまま半年から一年間保存する。塩漬け後、二−三ヵ月で塩を替えて漬け直すこともある。一年ほどすぎてから卵巣を取り出し、糠に漬け込むが、この際、少量の麹とイワシなどの塩蔵汁を加える。こうして重石をして二年間以上醗酵、熟成させ、このまま糠漬けとして、あるいはさらに酒粕に一ヵ月ほど漬けて粕漬けとして出荷する。(「醗酵」 小泉武夫) 


明けずの間
[二八]大阪の御城内、御城代の居所の中に、明けずの間とて有りとなり。此処(ここ)大なる廊下の側にあり。こゝは五月落城のときより閉したるまゝにて、今に一度もひらきたることなしと云(いふ)。因(よっ)て代々のことなれば、若(も)し戸に損じあれば版を以てこれを補ひ、開かざることとなし置けり。此は落城のとき宮中婦女の生害せし所となり。かゝる故か、後尚(なほ)その幽魂のこりて、こゝに入る者あれば必ず変殃を為すことあり。又其前なる廊下に臥(ふ)す者ありても、亦怪異のことに遭ふとなり。観世清九郎の弟宗三郎、かの家伎のことに因て、稲葉丹州御城代たりしとき従い往たり。或日丹州の宴席に侍りて披酒し、覚へず彼廊下に酔臥せり。明日丹州問(とひて)曰く。昨夜怪きことなきやと。宗三郎、不覚のよしを答ふ。丹州曰。さらばよし。こゝは若(もし)臥す者あればかくかくの変あり。汝(なんじ)元来此ことを不知。因て冥霊も免(ゆる)す所あらんと云はれければ、宗三聞て始て怖れ、戦慄居る所をしらずと。(「甲子夜話」 松浦静山 中村・中野校訂)巻二十二 


お婆さま
で、そのお婆さまが眠るのだ。十時を過ぎる頃になると、ウトウトし始めて、十一時には、ぐっすりすやすやと、とても気持ちよさそうに、カウンターに突っ伏して眠ってしまう。そのうちにピクリとも動かなくなるので、客たちは、生きているかどうか確認しながら、おでんを食べ、酒を飲むことになる。もちろん、客自らがおでんを鍋から取って食べ、自分たちで燗をして飲むのだ。自分でちゃんとメモをつけ、いくら飲み食いしたかを計算するのが、その店の飲み方だった。客たちがパタパタッと入れ替わり、最後に一人残されでもしたら、えらい災難だ。お婆さまは、どうも戸締まりや火の始末が心許ないので。だが、起こそうとしても目覚めないので、彼女が自然と目を覚ますまで、店番をしていなければならない。で、お婆さまが自ら「う〜ん」と目を覚ましたら、しばらくの間、彼女の意識がはっきりするまで待って、その後、帰った客たちが置いて行ったメモと金を渡し、おでんを一度煮立たせてから火を消して、戸締まりもして、お婆さまを家までタクシーでお送りしなくてはならない。−
建物ごと、あの店はなくなり、お婆さまにも会わなくなって久しいが、とりあえず、どこかで元気に新聞を読んでいるんだろうと、私は思っている。(「酔っ払いは二度ベルを鳴らす」 東直己) 


安来節
あの時に、暖気(だき)入れたが「酉元」(もと)となり  添い寝で泊めた櫂ありて、 今じゃ醪で蔵住居、 変りゃせまいぞこの名酒(なさけ)
という安来節は、酒を醸造する時の用語が、実にうまく読みんであるのに感心した。(「日本酒物語」 二戸儚秋) 


軍人の商売人
その時車内の左の端にでもいたのか、一人の軍曹が千鳥足でやって来て、私たちと将校たちとが向い合っている間を通って行った。丁度生意気盛りな中学生がやるように、外套に腕を通さずそれを肩に引っかけ、軍帽を阿弥陀にかぶりながら、ふらりふらりと私達の前を通り過ぎ、私達が腰掛けているところから四、五間行った右側に腰を下ろし、「おうい」とろれつの廻らない口調でいいながら、一人の軍人の肩にしなだれかかった。その時になってそこにもう一人中尉の肩章をつけた将校がいたことに始めて私は気がついた。酔っ払いの軍曹は、その中尉にしなだれかかりながら、筋向うの三人の将校が始めて眼に入ったというように、「あ、いけねえ」と呟いて、三人に向かって挙手の礼をしたが、指をのばさずに手の甲を丸くしたまま、阿弥陀にかぶった軍帽の庇までちょこんと挙げただけのもので、丁度招き猫の手のような恰好であった。三人の将校は眼でうなずいただけで、この不作法を別段とがめ立てようとはしなかった。下士が将校にこんな礼の仕方をしたら、昔なら将校が怒ったものであるのに。−そういう軍隊らしい規律が大分乱れて来たのかも知れない、と私は考えた。それともう一つ、軍曹が中尉の肩に朋輩らしくしなだれかかるということも、階級制度のきびしい軍隊としては、奇異な感じがしたが、その方は直ぐ解釈がついた。それは中尉も軍曹も同期の幹部候補生だったのだが、一人が将校となり、一人が下士に止まったのであろうと。二人の年齢も同じ位であった。相模原に来ると、三人の将校が下車した。すると軍曹にしなだれかかられていた中尉がふらふらと立上り、下車して行った三人の方を窓からのぞくようにして見送り、それから乗客の方を振向いて、「今下りて行ったああいうのがね、あれがほんとうの軍人さんだ」とおどけた調子でいい出した。この中尉も大分酔っていた。「こちとらはね、ほんとうの軍人じゃないんでね。なまじっか身体が丈夫に生れついたんで、それで引っぱり出されたというわけさ。あっはは、ほんとうだよ。こちとらはほんとうの軍人じゃないんだよ。今下りて行ったああいうのが、あれがほんとうの軍人の商売人さ」そのいい方に乗客は笑い出した。(「続年月のあしおと」 広津和郎) 

酒豪番付
雷電 横綱 酒二斗(36リットル)
一ノ矢 大関 酒一斗二升(21.6リットル)
大達 関脇 酒一斗一升(19.8リットル)
朝汐 小結 酒六升(10.8リットル)
      ビール36本
−雷電の酒二斗というのにも、誇張の臭いがする。一ノ矢、大達のケースも、にわかに信じられない。伝聞や巷説によった記録なのである。
−酒豪番付の小結につけた朝汐は、明治後期から大正にかけての力士だ。飲んべいであったのは確かだが、この分量はどうだろう。(「相撲百科」 もりたなるお) 


金重陶陽
しかし、はじめて独酌用のぐい飲を作ったのは金重陶陽である。斑唐津ぐい飲を見本にして作ったのは昭和十二年頃であった。当時、人から「ぐい飲ってなに?」といわれ、「酒盃だよ」と答えたという。「酔心」など、しぼりたてのきき酒によばれるほどだった陶陽はお燗したものを正座して、自作のぐい飲でいくら飲んでも矍鑠(かくしゃく)としていた。一升以上飲んだところに碁の相手が来たので碁の相手になるも勝ってしまうほど、いくら飲んでも酒に飲まれることはなかった。上京のたびに岡山から東京まで夜行列車の三段式寝台車のベットに胡座をかき、退屈なので一晩中、飲み明かし、翌日、デパートの個展会場でケロリとしていた。(「酒豪の作る酒器」 黒田草臣 しぶや黒田陶苑)「上:天、下:口」の「のむ」という字を「飲」に変えてあります。 


五人男の捕り手
話をちょっとわき道へそらせていただくが、五人男の捕り手では思い出がある。昭和二十七年の三月に、歌舞伎座で文士劇の白浪五人男が上演された。戦後第一回の文士劇であった。そのときの捕り手は文壇の人たちで漫画集団の隣の大部屋へはいった。陣中見舞いに行ってみると、みんな不平である。文士劇の配役は仕方ないが、五人男になったからといって個室を占領したり、差し入れが多かったり、厚い座ぶとんを二枚も敷いたり、まったくけしからん、とおこっている。この部屋には酒が一本もこない。われわれを大部屋扱いにしたら五人男をほんとうに召し捕ってやる、と不穏であった。集団にはたくさん酒があった。芝居前に飲むと台詞を忘れるが、捕り手なら少々のんでも大丈夫だと思って、私は酒を二、三本運んだ。足りなければ集団へおいでよ、おかずもあるよといったら、しばらくして四、五人が集団へ遊びにきた。さて、幕があくと私の心配が本当になった。五人男の台詞を捕り手が勝手に先にいうのである。五人男のほうがこんどはカンカンになるという文士劇再開の裏話となった。(「フクちゃん随筆」 横山隆一) 漫画集団だの文士劇といっても、若い人には分からないでしょうね。 


鴨四羽百文
平城京跡から出土した木簡には、「鴨四羽百文」とあり、鴨一羽が二五文で売買されている。一〇〇文では酒が一石買えたので比較的高価である。カモやキジの肉は部位にもよるが、ニワトリにくらべると脂質が約六分の一で、タンパク質は約一・五倍あるので、淡白な肉質が好まれたと考えられる。(「食の万葉集」 廣野卓) 


みそとせ
(七)またある人、年ごろ酒のみ過(すご)したるが、その毒にて、や(病)めるありけり。くすし(医者)みて、「此薬の(飲)みなば、年月つ(積)もらばいゑぬ(癒える)べし」といふをききて、「さ斗(ばかり)長く薬のむことならば、いゆるともなにかせん」といふを、くすしききて、「酒のみ給ふも三十とせ斗になりなん。その毒の凝りたるをとかんに、みそとせ(三十年)へ(経)なばといふともことはりなしとはいはじ。毒を久しく用ひたるを、くすりいさゝかのみていやさんと思ふはいかにぞや」といひけり。(「花月草紙」 松平定信 西尾実・松平定光 校訂) 


半六つ
さてこの「三升樽」ですが、もっぱら祝儀用に使われたもので、角樽、柳樽ともいわれますが、またの名を「半六つ」ともいいます。そもそも、樽の代表はいうまでもなく四斗樽です。ですから、四つ割は一斗入り、六つ割は六、七升ぐらい、八つ割は五升入り、そして六つ割のその半量すなわち三升入りが「半六つ」というわけです。(「酒おもしろ語典」 坂倉又吉) 


雪に伏す箱根の竹の下かげに 隠れてひさぐ一夜酒
(作者は平秩(へずつ)東作。尾張の人。名は立花懐之。内藤新宿で馬宿を営み稲毛屋金右衛門とも号した。この狂歌の前に「箱根をゆくに、あま酒売ばかりは雪にうづもれで小屋にをりて売るを見て」とある。歌意は雪の日でも箱根越えをする旅人は多い。その人々にとって甘い甘酒売は地獄に仏の思いだろう。箱根竹といって竹の多い山であり、竹を岳にひっかけている。また一夜酒は一夜でできる甘酒のこと)(「日本酒のフォークロア」 川口謙二) 


とんちりほう
まあそれはいい。今夜はとんちりほうだ。豚肉とほうれん草の鍋、これをぽん酢でいただくもの、土生姜(しょうが)と大蒜(にんにく)をひとかけらずつ、鍋に入れるのを忘れぬこと。昆布だしを張るが、そのとき清酒もすこし。豚肉に風味が出てくる。薬味はあさつきを刻んだものや柚子(ゆず)の皮のせんぎり。酒の肴は梅たたき(梅干しの果肉をみじんにして青紫蘇を加え、山葵(わさび)をおろし、胡麻、花がつおをまぜたもの)に、なまぶしと焼豆腐の炊き合わせ。それは日本酒に適(あ)う酒の肴でっしゃろと思われる向きもあろうが、お湯割りの焼酎は融通無碍で、何にでも適うのである。(「小町・中町 浮世をゆく」 田辺聖子) 


三河屋のおやじ
三河屋の主人は四十五六だったでしょう、痩せた小柄な「身區」(からだ)つきで、酒焼けした色の黒い顔に、下町の鳶の親方といったふうな、ちょっと苦みばしった感じがあり、あいそ笑いをすると白い歯が見えた。私は東京の銀座で育ったが、下町にはよくみかける、いかにも酒屋のおやじらしいおやじであいそ笑いも世辞の口ぶりも、さっぱりして歯切れがよかった。こういう人柄に加えて、彼はじつに気前がよく、思いやりが深く、そうして酒呑みの心理のわかる男であった。−いまでも貧乏に変わりはないが、当時の私は文筆生活をはじめたばかりだし、馬込ぜんたいが貧乏の黄金時代で寄ると触ると呑んでばかりいた。こっちが寄らず触らずにいても、先方から寄って来、触って来るわけで、二人や三人ならまだいいけれど、ときには夜の十一時すぎてから、七八人で押しかけて来るのである。「君のところの水はうまいから一杯飲みに来たんだ、水でいいんですよ」と吃りながら言うのはその一団の侍大将であるが、誰かということはここに書くまでもないでしょう。むろん、他のときには私もその一段の末尾につながって、誰かのところへおしかけるわけである。こういう状態が殆ど連続していたから、なによりも溜るのは酒屋の勘定であった。いま考えても、酒屋の勘定以外には苦労したことがないような気さえするくらいで、大晦日になってもとうてい払いきれるものではない。まだうまい言訳もできない口でへどもど陳謝すると、三河屋のおやじも一瞬はまずい顔をみせる。商法の駆け引きではなく、実際におやじのほうでもまずい事情だったのだろう。しかしすぐにこやかになって、正月は酒をどのくらい届けたらいいか、と訊くのである。前述のとおりの黄金時代だから、酒は幾らあっても足りることはない。五升でも一斗でも欲しいところだが、勘定を払いきれない立場だから、では二升ばかりなどと言う。すると、晩になっておやじが二升届けて来、十二時ちかくにまた五升届けて来る。「どうせ要るんでしょうから」と言った言葉を、私はいまでも忘れることができない。これは私のところだけではなかったようだし、こういうことでしょうばいが繁昌するというのは物語の世界に属することであろう。私でさえ十五円くらいの勘定が溜っていた。かの侍大将の金額も侍大将その人から聞いた記憶がある。そのほかにどれほど溜められていたかはわからないが、これらの債権を自分の背中ひとつにぜんぶ背負って、或る夜ひそかに、三河屋のおやじは夜逃げをしてしまったのである。(「雨のみちのく 独居のたのしみ」 山本周五郎) 


われ酔ひにけり
常磐木(ときわぎ)の ときはかきはに ましませと 君が祝(ほ)ぎつる 豊御酒(とよみき)に 豊御酒に われ酔ひにけり その豊御酒に
新室(にひむろ)の 新室の 新室の 祝ぎ酒に われ酔ひにけり その祝ぎ酒に(第六図)
よく似た旋頭歌(せどうか)であるが、重畳の形式がいかにも酔余の吟詠らしい。前者は定珍に与えたもの、後者はどこかで新築祝いのふるまい酒をよばれたときの詠である。(「新修 良寛」 東郷豊治) 


木村
私は黒沢君、谷口君と毎夜のように玉の井へ通った。私たちは応召者へのテレかくしか、それとも一種の衒気(げんき)か、玩具(おもちゃ)屋か駄菓子屋かで、一個十銭のボール紙製の防毒マスクを買い、それを被(かぶ)り「勝って来るぞと、勇ましく…」と歌いながら、迷路へ突進した。迷路の中央には、幅の広い改正道路がつらぬいていた。そこから、ふたたび路地に入る角に。おでんと焼鳥を食わせる屋台があった。たしか、木村と名乗る店だった。オヤジと話をしているうちに、奇縁というか、むかし私の親戚の店に勤めていたことがわかった。それからは、無理が効いた。夏になると、屋台の前に縁台が三つばかり並んだ。おでんの代りに、とうもろこしを焼いている。それを、ハーモニカのように食いながらビールを飲んだ。私たちは、この木村を拠点として、おでんや焼鳥、そして、とうもろこしを女のいる小さな窓口に配給して歩いた。こうして、すっかり顔になってしまったのである。とうもろこしが、一番受けた。彼女たちの郷愁をそそったのであろう。木村からちょっと入ったところの窓口に、びっくりするような美人がいた。齢(とし)は十八歳前後であろうか。水蜜桃のような頬をした清楚可憐な少女であった。とても、こんなところにいるような女とはおもえない。横浜生まれで、フェリス女学校を出たということである。そういえば、どこか異国情緒をもっていて、竹久夢二の絵のようである。それから半年ほどのち、徳田秋声の長男の一穂と熱烈な恋をして、心中をはかったり、足ぬけししたりして新聞の社会面を賑わしたことがある。木村のトイメンの角に、花柳病院(はなやぎではない)があった。そこは検黴(けんばい)もするが、女たちが自営上、利用しているところでもある。私たちは、いつの間にかこの病院に屯(たむ)ろして、前の木村から酒や肴を取り寄せ、飲むことになった。黒沢君の傑作「酔いどれ天使」は、案外、ここから想を発しているのかもしれない。(「東京百話 天の巻」 種村季弘編 「戦色玉の井」 山本嘉次郎) 


張旭
唐の張旭、字は伯高。草書を善くしたが、毎(つね)にお大酔してから筆を下したり或は頭を以て墨を濡らして書く。やがて酔いが醒めてから自分で眺めて、神秘だ、復(ま)たと出来ない、と感心する。世の人は「張「眞頁」」(気違いの張)と号(よ)んだ。李「斤頁」(キ)の詩に「張公ハ性 酒ヲ嗜ミ、豁達(カツダツ)ニシテ営ム所無シ。(中略)頂ヲ露(あらは)シテ胡牀(コシヤウ)ニ拠リ、長叫ス三五声」(張君は生まれついての酒ずきで、胸寛(ひろ)くして生計を謀ること無し。頭を露はして胡牀(しょうぎ)に腰かけ、長く叫ぶこと三声五声。)と云つてゐる。(「酒「眞頁」(しゅてん)」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 


末広がり
果報者 さてもさてもめでたいことでござる。太郎冠者が、某の機嫌を直そうと存じ、囃子物を致いて参る。めでたいことでござるによって、急いで内へ呼び入りょうと存ずる。 太郎冠者の方を向いて いかにやいかに太郎冠者、たらされたは憎けれど、囃子物は面白い。内へ入って、 どじょうのすしを ほう、ほうばって、諸白を飲めやれ。 素袍の右肩をぬぐ 
太郎冠者 これも神の誓いとて、我もかさをさそうよ。(「狂言集」 小山弘志校注) 末広がりが何か知らないで、都へ買いに行き、だまされて高い傘を買わされてきた太郎冠者でしたが、だました商人から、主(果報者)が怒った時にと教えられてきた囃子物を披露した時のことです。 


ウイマム
まずウイマムとは、松前城下においてアイヌが藩主に拝謁する際に、干鮭や熊皮を献上して酒や米、麹などの下賜をうけるもので、これに杯事(さかずきごと)が伴う儀式を指した。そうした現象面から、「御目見」が転訛したものとされていた。しかし、近年の研究では、もともとアイヌ社会の公的慣行の一つで、言葉自体は交易を意味し、その活動の際に行われる饗応を含む交換儀礼と理解されるようになった。寛文年間のシャクシャインの乱を契機に、アイヌが献上品を携えて松前に「御目見」に伺い、わずかな酒肴と下賜品を受けるようになったという[稲垣・一九八五]。(「江戸の食生活」 原田信男) 


アイヌの人々の嗜好品
最後に、アイヌの人々の嗜好品や食土について見ておこう。和人は、アイヌ社会にアブラシャケと呼ばれる清酒をもたらしたが、もちろん製法まで伝えたわけではない。ただ米の酒については、最上徳内の『渡島(おしま)筆記』に、「人もし米を与ふれば、則(すなわち)濁醪(にごりざけ)を醸て、飯につくること稀(まれ)なり」と見える。また『蝦夷談筆記』には「酒は好みて給申候。下戸は大方無レ之候。此方より持参候酒を代物替に仕給候。又あま酒を作り、此方にも振舞候。役人などは給不レ申(たべもうさず)候。軽き者共は給(たべ)候儀も有レ之由の事」とある。この「あま酒」は濁り酒のことであろう。こうした濁り酒をヤヤンサケというが、トノトもしくはアシコロとも呼ばれた。稗・粟・黍・玉蜀黍(とうもろこし)・米などを用い、これらを搗いてから大鍋で煮て粥とし、冷ましてから自製の粟麹や稗麹などを加えて、サケカラシントコという酒造用の桶に入れて仕込むと、一週間くらいで濁り酒ができるという[林・一九六九a]。稗・粟で造る酒が古くからのもので、特に稗の酒が本式はものとされていた。ただし酒の醸造は祝祭時に限られた。この祭礼の時に用いる祭具に、イクパスイ(神棒篦)がある。これは"飲む箸(はし)"の意で酒を捧げる箸を指す。神に祈る場合に、この箸の先に盃の酒を浸して、空中に撒くことで、神々に捧げる。これによって人間の願い事が、神に伝わると信じられている。こうした神への祈りの後で、人間が御神酒(おみき)を飲むことになるが。この時には、台であるオユシベから、酒を飲むためのトゥキすなわち杯(つき)が落ちないように、イクパスイで押さえるようにして飲む。このイクパスイの材料には、柳や板谷楓(いたやかえで)などが用いられた。なお裏側先端には、パスイパルンペ(箸の舌)もしくはパスイサンペ(箸の心臓)と呼ばれる三角形の窪みを作る。このイクパスイには、実にさまざまな美しい彫刻が施され、模様のみならず熊や船をかたどったものや漆を塗ったものもある。アイヌの人々も酒を大いに楽しんだが、何よりも丁寧に酒を神に捧げることが、彼らにとってもっとも重要だったのである。
さらに『北海随筆』には、「煙草と酒を好み、漁猟の獲物はみなこれに尽せり」と見え、また『夷諺俗話』にも、宗谷での話として「交易をなすに、夷(えみし)とも会所へ来りて、たとえば煎海鼠(いりこ)百出し、アブラシヤケと望めは、清酒三盃遣(つかわ)す。但壱盃といふは弐合五勺入椀にて斗るなり。タンバコと望めは烟草一把にいりこ百五十なり」とあり、煎海鼠などの海産物と引き替えに、米・麹・酒・タバコなどとの交換が行われていたことがわかる。(「江戸の食生活」 原田信男) 


商品経済
網野(善彦) ところがこういう酒宴に対して、権力者が「沽酒禁制」を出します。沽酒、つまり酒の売買を禁ずるという法令で、これは鎌倉時代から見られます。なぜこうした法令が出るかというと、酒を飲みすぎて領地を売ってしまうように、酒におぼれることに対する禁制ですね。酒屋が高利貸しを兼ねているので、それに対する統制として徳政とセットで沽酒禁制が鎌倉時代にはしばしば出ています。しかし室町時代には出ていません。室町時代は酒屋・土倉から税金を取っています。商業、金融業が財政的基礎になっているのです。日本の政治の基調は農業が中心で、土地から税金を取るというやり方をやっていますが、実態はご覧の通り、たいへん発達した商品経済でした。今でも教科書には「中世の農村は自給自足であり、商品経済は十分発達していなかった」などと書いてありますが、これをご覧いただければそれが嘘であることは明白です。封建時代は自給自足だという常識は今でも根強くありますが、室町時代に入るか入らないかの段階でこのぐらいの流通はあったんです。 (「下戸の酒癖」 玉村豊男編) 


ジョンソン博士の続き
そこで、余は『今一杯、クラレツトを飲んでから、判定してください』といつた。彼は頭を横に振つた『君、クラレツトは子供用の酒だよ。ポートは大人用だ。しかし英雄たらんと欲する者は(微笑しながら)宜(よろ)しくブランデーを飲むべしだネ…』。(Juniper's "The True Drunkard's Delight.")(卅三ノ五)(「酒の書物」 山本千代喜) ルイ十五世、ジョンソン博士  


ポリフェノール
さて、赤ワインには、動脈硬化を予防する善玉コレステロール(HDLコレスレトール)を増加させるポリフェノールという物質が多く含まれており、白ワインに比べて、10倍以上存在するともいわれています。ポリフェノールという物質は、動脈硬化を予防することにより、高血圧、心臓病、脳梗塞の発症をくいとめることができます。ワインを一日に3〜5杯飲む人は、飲まない人に比べて、循環器系の病気での死亡率が約半数に低下するといった報告もあるようです。その他にも、赤ワインには、レスベラトロールという物質が存在し、がん予防にも効果があるといわれており、鉄分が多く含まれているため、貧血や血行をよくする働きもあります。赤ワインに含まれるポリフェノールの量が、さまざまなメディアにも報道され赤ワインを飲むことが、新たな健康法として確立されつつあることを知っている方も多いかと思います。ただし、赤ワインもお酒であることは間違いないので、飲み過ぎには注意が必要ですね。(「ねぎを首に巻くと風邪が治るか?」 森田豊) 


限定吸水
精米をどんどん進めて、七五パーセント以上に白くしてゆくと、当然、米の成分も少なくなる。そうすると米の吸いすぎが起こることになる。そこで適正な吸水率を確保するために、浸漬時間を短縮して「限定吸水」を行っている。ところが、五〇パーセントにも及ぶ高度の精白米になると、白米水分は一〇〜一一パーセントくらいになるから、一〜二時間も浸漬すると四〇パーセントも吸水して、ご飯のような蒸米になってしまい、よい吟醸酒にはおぼつかない。そこで実際には、ストップウオッチを片手に、一〇分あるいは一二分間浸漬ということをやる。米の面(つら)をみながら浸漬時間を決めるから、いつも経験と勘がものをいう。そこで、私どもは勘に頼る吟醸づくりからの脱却を目ざして、前記の理論から白米水分を調節してやれば、十分に浸漬してもよい蒸米が得られる理屈であることを実践に移したのである。五〇パーセント精白米をいろいろな水分に調整して浸漬吸水試験をすると、七五パーセント白米と同一水分では吸水率が三パーセント多くなる。したがって、同一吸水率にするには白米水分を一パーセントよりもう少し余分にしてやるとよいことがわかった。そして、白米水分調節機を手製した。これは密閉保存した箱に、加湿器(ネビライザーとヒーターとファン)を取り付け、一夜ゆっくりと加湿して、水分一〇パーセントの白米を一五パーセントにしてやる。こうすると白米は、一時間浸漬という吟醸米では、これまで考えてもみないような長時間浸漬で二六〜二八パーセントの吸水率を得ることが出来、よい蒸米が得られる。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 白米水分が一パーセント増減すると、吸水率は三パーセントの幅に増幅されて増減するという関係があるのだそうです。 


回し呑み
何人か集まってビールを飲んでいる時、すすめられて若い妓が、一口飲んで、「もう、だいぶいただいたヮ、もう、とても駄目よ、姐さんすけて(助けて)」と、隣りへ渡す時、コップのふちを人さし指と親指とでピンとはじく。このしぐさは、盃洗で清めるつもりを現している。川柳に「回し飲みコップは軽くはじかれる」(寿山)このような風俗もだんだん見られなくなった。(「明治語録」 植原路郎) 


狐音
崑ちゃんの俳号は「狐音」で木津年(きつね)の鳴き声である。鎌倉に雑草句会というのがあって、崑ちゃん夫妻も私もその同人であった。崑ちゃんはこの句会のほかにも俳句の会に参加していたらしく、作品はとみに上達していた。狐音という俳号は崑の発音に通じるものだろうが、終戦直後に崑ちゃんと狐の話が伝わっている。鎌倉の材木座に住んでいた崑ちゃんが、駅の周辺でしたたか飲んで、深夜ふらふら歩いて帰って行ったことは友人達が知っていたが、友人の一人が崑ちゃんの後を追って若宮大路を海岸の方に歩いていくと、一の鳥居(鶴ヶ岡八幡宮)の近くの空地のくさむらの中から、対話しているような人ごえが聞こえるので、のぞいてみると、雑草の中に崑ちゃんが一人座していて、「やーしばらくぶりだナ、ああそうか、まあ飲めよ、オーイ、酒どんどん持ってきてくれ」と一人問答しているという。下駄は空地の入口にきちんと揃えてあって、崑ちゃんの所作は料理屋の座敷にいるみたいだったそうである。あとでこの情景を友人達から聞かれても、崑ちゃんは全然覚えがないといっていた。これ以来、崑ちゃんは鎌倉の狐に化かされたそうだ、ということになったが、狐音という俳号もそこいらから出たのではないかと私は思っている。(「わが酒中交遊記」 那須良輔) 


茶碗酒女の屑も面白し
茶碗でぐっと飲むのはむろん素人女ではない。遊女、踊り子、茶屋女などで、よほどの大酒家か、やけ酒かであろう。すさんだ心境で、女の中の屑とみられただろう。しかしそれなりの姿態もあり魅力もある。「待乳山に客待つ女、寒さをしのぐ茶碗酒」、と俗謡にあるような底辺の女らしい味もある。<癪ざんす青ィ筋迄つぎなんし>(「柳多留」)。湯呑茶碗の上端に青い線のはいったものがある。なみなみとついでくれ、というのだ。<青ッ切り襟へ半分首を入れ>(同)。青っ切りとは青い線までついだ酒である。それを前にして襟元をゆるめ、がっくりとうなだれて、片手の先も胸にさしこんでいる姿は浮世絵である。(「『武玉川』を楽しむ」 神田忙人)  


本物の卵
龍光先生の思い出はいろいろ、たくさん、ありまして…。ベロベロに酔っぱらって高座へ出た、新宿末広亭だ。その頃、いまのように何時(いつ)でも何処(どこ)でも酒が飲めるってな時代じゃあなし、酒は貴重品、めったに飲めない(安酒は別だが)。そこで芸人、「どうだい師匠、先生、一杯いくかい」と推められると、アトの舞台のことよりも、目の前の飲める酒に誘惑(まけ)て、つい一杯、いや二杯、なに結局はベロベロと相成る。龍光先生とても同じくの態(てい)だ。手品のテーブルの上にお盆を置く、グラスの中に水を入れたのを五個置いて、その上にまたお盆をのせて、その上にまたまたプラスチックのグラスを置いて、またお盆を置いて、その上にトランプを丸める。トランプを丸めた上に生卵を置く。わかるかなあ、つまりこう、こうだ。そのプラスチックのコップというのは、掌(てのひら)に余るぐらいの大きさがあるわけ。それをはさんでいる二つのお盆ごとポーンと下の水の入った五つのグラスに飛ばす。二つの板と真ん中のプラスチックのグラスとトランプが飛んで、卵が五つ全部ボンって入るという芸なんだが、それを、その日酔っぱらって上がってやったからたまらない、ブァン!とやったから卵が全部飛んじゃった。高座はメチャメチャ。それでも卵が下のグラスに二つ入った。そうしたら先生、悠揚迫らず、「本物の卵を使ってることがわかったろう」ってね、引っ込んだ。前座の私しぁ高座の卵の掃除が大変だった。でも凄かったなァ、とその時私は驚いた。その時、私は十七歳。(「談志楽屋噺」 立川談志) 手品のアダチ龍光のことだそうです。 


大こけ舞
安永九年(一七八〇)にできた落首に「大こけ舞」というのがある。当時の江戸っ子気質、心意気を示したもので、
一に一日小ごといひ、 二ににがい顔をして、 三に酒はかぎもせず、 四つ吉原ついに見ず、 五ついらぬ世話ばかり、 六つむせうにためたがり、 七つなにかによく深く、 八つ役者の名も知らず、 九つこくうにくばかりし、 十ッとうとう石仏 大こけ舞を見さいな。
というもので、芝居を知らず、吉原を知らず、酒を飲まず、金を溜めるものを大こけとけなしたのである。(「食の文化考」 平野雅章) 


杯酒を愛し、銭を愛さず
「杯酒を愛し、銭を愛さず」と歌った陸奥宗光は実生活でもケチなほうではなく、金に困っている同志には惜し気もなく金をやり散財している。そんな陸奥ではあるが、花柳界では、「くれそうでくれぬむつの金」と唄われ、しぶいことで評判になった。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


参賀の祝酒
雪の間の車寄せから参内。控えの間で同列の誰彼と祝賀を交わしているうちに九時すぎて雪の間に案内され、両陛下に列立で拝謁、賀詞奉呈、陛下から親しくおことばを受けて退場するというのがその儀である。そのあと別室で祝酒をいただくのであるが、私はいつも四人の席である室でいただくことになっている。同席の人々は年々一人二人変ることもあったが、何年も同じ顔触のこともあった。元経団連会長石坂泰三氏、そして元東大教授で内科の泰斗沖中重雄氏といった人などはその後者である。石坂さんは吉井勇の中学の同級生で、三十八年の歌会始に召人となった人。その日、召人、選者の控室で、吉井さんから紹介されて以来、知を得ていたが、その後参賀の祝酒の席でまた会うことになった。亡くなった吉井さんの話などを聴くことが楽しかった。沖中博士は二十七年、東大病院の沖中内科に一ヵ月入院して世話になった方である。  豊酒(とよみき)をたまはるがままに飲みほして頬を染めたり喜寿の博士も  この博士は誰であったか。今急に思い浮かんでこないが、その席でいただく惣花の香薫は限りなくめでたいものなので、ついいただき過ぎるということになったりもした。さて卓に並んだ料理は民間でも三種のさかなと呼んで行われている数の子、黒豆、田作(ごまめ)の皿に橙釜(だいだいがま)の膾(なます)。この釜には貝柱、柿、大根おろしが入っている。そして紅の蒲鉾、鮭の雲丹(うに)焼、若鶏の松風焼、金団(きんとん)を詰めた小箱と菱葩(ひしはなびら)と名のついた和菓子が添えられている。皿のものと膾はその場でいただくのだが、あとは、函入(はこいり)の煙草とともに白布に包み、家包(いえづと)としていただいて帰るのである。美しい薄手の磁の盃をいただくのも常である。十一時近く退下して、こころよい微醺の身を車にゆだねて家へ帰る途中、つい居眠ってしまったりするようなことはしばしばであった。(「飲食有情」 木俣修) 


剣舞(けんぶ)
由来 幕末の頃、江戸昌平黌の学生が、酒に酔った勢いで詩を吟じながら剣を抜いて踊ったのが剣舞のはじまりといわれる。
内容 刀剣を抜き、詩吟を合わせて舞う舞である。当初は大道の芸であったが、明治・大正期になると、もっぱら高座で演じられるようになった。(「盛り場の民俗史」 神崎宣武) 


春風亭とん橋
持っていた一万円札を食べちゃって勘定払えなくなっちゃったとか、金魚を呑み込んじゃったとか、朝之助と二人でベロベロに酔っぱらって、国会の周囲に植えてある蘭を引き抜いて捕まっちゃって、警察に連れていかれた。「名字は何てんだ」「大和(だいわ)」「大和?名前は」「タクシー」「どういう字を書くんだ」「片仮名でタクシー」「いい加減にしろ、この野郎」トラ箱にぶっこまれちゃって、朝が来て、味噌汁の中に味の素を入れろと言ってまた怒られた。そこで酔っぱらって落語を一席やったらしい。それが朝日ソノラマにトラ箱風景の一部として出ちゃった。それを万遊の歌六が買った。「なかには素人で酔っぱらって落語やる人もいます」ってナレーションが入ってる。素人になっちゃった。それがとん橋。(「談志楽屋噺」 立川談志) 後の先代小柳枝だそうです。  


蕗のとう
わたしが自分をいい酒呑みと自負できるのも、常に美味しい酒を呑める手立てを自分で整えるということに尽きる。即ち佳肴である。蕗(ふき)のとうのなめ味噌を黒塗りの深小鉢のまん中に、ほんのひと盛り、或いは黒の猪口の底に見えるほどの盛り付けでもすれば、この一品の有無は食卓の贅というか晩酌の春の佳肴として、膳を確かにすることは間違いない。−
わたし自身、こんな山の幸にも工夫を凝らし、わたしの味を作る。山では四月の初旬、残雪や氷の底に蕗の花の芽(白)の固い頃、これを摘んできて湯掻いてあくを抜いた後摺鉢に入れ、少量の砂糖・酒・辛味噌を加えて摺る。最後に黄粉(きなこ)を入れ味の再調整をする。(「清閑清酔」 吉野孝) 長野県の佐久の花が普段酒のようです。 


しぼれるはず
酒場でふたりの力自慢の男がいろいろ手柄話をしていた。ほかの客はさも感心したようにふたりのようすをながめていた。 −ガルソン、ビールを一杯とレモンを一つくれ、とひとりがいった。ガルソンがそれをもってくると、男はビールをぐっと飲みほし、からになったコップにレモンを押しつけて一杯分のレモン・ジュースをしぼり出した。客たちは感心してうなった。 −こっちにもビールをひとつくれ、ともうひとりの男がいった。かれもビールをぐっと飲みほして、さっきのレモンのしぼりかすを手にとって、さらに一杯分をしぼり出した。きもをつぶした客たちは、こんどはうめき声もたてなかった。と、そのとき、となりのテーブルから小柄な、やせた、猫背の、年輩の男が立ちあがってこっちにやってきた。そうしてこういった。 −わたしにもやらせてもらえませんか?二番目の男はハッハッと笑いながら、その男にレモンの皮をわたした。ガルソンが三番目の空のコップをもってきた。するとくだんの小男がレモンの皮をしぼると、みるみるコップはジュースでいっぱいになった。かれは、一礼して手をこすりながら店を出て行った。ふたりの力もちは、口をあんぐりあけたまま顔を見合わせていた。 −いったいあのおいぼれはだれなんだ?と、やがてひとりがいった。たいした怪力だぜ。あんなのに会ったのははじめてだ。するとガルソンがういった。 −あの人ですか、あれは税務署の役人です。(「ふらんす小咄大全」 河盛好蔵訳編) 


オーヴェルニュ
パリに旅行したことのある人なら、カフェのギャルソンの小粋な姿に、ああ、これがパリなんだな、と感動をあらたにした経験があるに違いない。が、そう、実を言うと…なのだが、あの洒落て小粋なギャルソンは、もともとはオーヴェルニュの出身なのである。そうそう、あの、ド田舎の…。いや、もう少し正確に言おうか。現在、パリのカフェ、ブラッスリーの経営者のうちの八割以上が、、オーヴェルニュ人である。使用人、ギャルソンの出身地に関して正確な数字がつかみ難いが、やはりオーヴェルニュ人が多数を占めていることはたしかだ。だからあなたが、「いかにもパリ!」と感じたカフェのギャルソンが実際にパリジャンである可能性は一、二割。すべて、といわなくても、まず、"十中八、九"彼はオーベルニュの田舎から出稼ぎに来た男である確率が高いのである。(「パリのカフェをつくった人々」 玉村豊男) 


ルイ十五世、ジョンソン博士
 ルイ十五世にある臣下がたずねた。「同時に大勢の婦人を愛せるものでございましょうか」酒好きの王は答えた。「もちろんのことじゃ。わたしたちはボルドー酒もブルゴニュー酒も同時に同じように愛してるではないか」
 ある時ジョンソン博士はボズウェルと食事を一緒にしたが、ボズウェルが「クラレット酒は良い酒だ」というとジョンソン「あれは子供用の酒だよ。弱すぎて、あれで酔おうとすれば、酔う前にクラレットで溺死してしまうさ」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎)


造石山寺所符案
「造石山寺所符案」(七六二(天平宝字六)年)の雇工、雇夫への酒の給与法はちょっと面白い。辛酒(からさけ)一升(現行枡七二〇ミリリットル)に水四合(現行枡二八八ミリリットル)を加えたものを人別三合(現行枡二一六ミリリットル)隔日に支給せよというのである。辛酒はアルコール分や酸度の高い辛口酒の意か、大陸直輸入の造酒法による酒かは判然としないが、外四割も和水した薄い酒が支給されたことが知られる。 (「日本の酒5000年」 加藤百一) 


マンボウ
また、太地の町の中に「ふさ屋」という小さな旅館があり、そこの気さくなオカミさんが作ってくれたマンボウの刺身は珍しかった。刺身と云っても、マンボウの肉は水っぽくって、包丁など通せないらしく、細かく裂いたままである。その水っぽい、透明の白身を、生姜醤油で喰べると、スッと味が後頭部に抜けていくような感じである。「ふさ屋」のオカミさんはまた、そのマンボウの肉を肝で和えて味噌煮してくれたが、これがまた不思議な味がした。酒のサカナにきわめて好い。(「美味放浪記」 檀一雄) 


椒酒
屠蘇酒も民間につたわって正月の祝い酒と理解されているが、これも中国から伝来した薬酒である。『四民月令(しみんがつりょう)』によると、漢時代に椒酒(しゅくしゅ)というサンショウの実を浸した酒があり、元日にこれを飲むと、「身を軽くし、老にたえうる」といわれる薬酒で、屠蘇酒の原形といわれるものである。中国の南北朝時代末期になって屠蘇酒になるが、サンショウの実や赤小豆、大黄(だいおう)など八種類の薬種を温酒に浸して、薬効成分をアルコール抽出したものである。『延喜典薬式』には、「悪気(あくき)・温疫(おんえき)を治(なお)し、邪風(じゃふう)・毒気を辟(さ)く」とあり、元日に飲めば、その一年は無病ですごせると考えられていたようである。(「食の万葉集」 廣野卓) 


正月二日の節
網野(善彦) 太閤検地までは三百六十歩ですから、その後の三百歩よりも少し広いです。代は五十代が一反とお考えください。山畠は損得が半分になっています。あまり長いので略しますが、こういう手続き、納物の確定を百姓の名ごとにまずおこない、それからその年ごとに請け負う百姓の変わっている散田についても同じような手続きで納物を決めます。その上で田地からの収入について決算をやります。定田のなかで損田、得田がそれぞれ書いてありますが、百姓名分と得田からの納分を合わせると、「以上、納分五拾四石四斗二合」となります。それに続く「交分」は付加税で、それを合わせた「以上延米」がその年の米の収入分です。このようにその年の損田、得田を決めるときには、代官は百姓と交渉しているのだと思います。決して上から押しつけるだけではダメなのです。そのことがよくわかるのは「徐」の部分で、これは必要経費です。まず「御年貢収納之時御倉付下行之」とありますが、年貢が蔵に納められる倉付(くらつき)のとき、代官は百姓に「まあ、一杯飲め」と言って酒を出すのですね。その時の接待費として「弐斗」を経費として落とせるのです。また「正月二日の節」、つまり正月にも百姓と大宴会をやります。そのための支出として清酒が「七斗」で、白酒が「三斗」、餅代が「弐斗」、飯料が「三斗」と、相当の量の米を経費として年貢から差し引いています。新見荘(にいみのしょう)は大きな荘ですから百姓もたくさんいるわけで、その全部を接待するのでしょうね。正月に百姓が代官のところで酒を飲んで大宴会をやるのは百姓の権利です。(「下戸の酒癖」 玉村豊男編) 1333年備中国新見荘の年貢などの決算書を読み解いて見えてくる風景だそうです。 


大臣大饗
平安王朝の華やかな行事の一つ「大臣大饗(おとどのおおみあえ)」には、大臣就任の際の「任大臣の大饗」と、毎年正月の「正月の大饗」とがあった。この儀礼は、招待客が参入して大臣を拝す「拝礼の儀」、威儀を正して酒席につく「宴座(えんのざ)」、その後席を移しての「隠座(おんおざ)」の三部から成立していた。宴座は公宴的な正式の饗宴で、隠座は私宴的な二次会的な饗宴であった。朝廷からの下賜品も多少あったが、莫大な出費を必要とした大臣大饗は、平安後期には「臨時客」といって小規模、略式化された饗宴に変わっていった。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


つや女
江戸時代にも長寿の人がけっこういた。たとえば、天保十四年(一八四三)、百十六歳のつや女。この年の正月に、つや女の立ち姿入の刷り物が世上に配られた。これを戯作者柳亭種彦こと笠亭種秀こと笠亭仙果が、『雅俗随筆』の中で紹介している。つや女は出羽国酒田の人である。その食生活は、四つ時(午前十時ころ)と七つ時(午後四時ころ)の二食で、夜には食事をしない。量は不明だが、「酒餅などは、二三杯、四五切に限りたり」とある。昼寝はどうかわからぬが、就寝は子(ね 午前零時ころ)で起床は寅(とら 午前四時ころ)だという。若いころ病弱だったつや女は、「養生にてかく長命せしなり」と記している。(「大江戸浮世事情」 秋山忠彌) 

ネギミソ
私のような酒呑みにとって、正月は朝から公然と酒を呑めるのが愉快だ。昼までにすっかり出来あがってよいつぶれて寝てしまうなんて実に自堕落で浅ましくて、いやなもんですな。二日以後になると、年始のお客さまが見えたり、こっちが出かけたりで、酒の切れ目がない。これが六日もつづくとやはり年のせいか体がだるくなって、七日にはおかゆを食べたくなったりする。飲みすぎ、食べすぎで胃腸をこわすなどと実にバチ当たりな話で、申し訳ないが、実際問題として、こわれた胃腸はまず修復してやらねばならぬ。道徳的な論議は、胃腸の健康を取り戻して尽くした方が、建設的な結果を生むようである。こんなときにはいろいろな手だてがあるのだが、最近若いもんと話していてネギミソを知らぬ若い衆が多いのを発見したので、健康食品としてのネギミソをここで復習することにした。まず、良いミソを用意する。甘口のミソは良い結果をもたらさない。赤黒くて、少し渋みがあるくらいがいい。ネギは青いところも白いところも細かく刻む。それをたっぷり。カツオブシもしこたまかく。以上三者を練る。三者の分量の割合は各自の好みで定めればよろしい。試行錯誤を経てこそ自分の好みに合った美味を発見できるのはいずれの場合も同じことである。人によっては、それに醤油や酒を加えたり、ゴマを加えたりもする。あえて邪道とは言わないが、私はしない。これで出来あがり。すぐに食べてもよいが、冷蔵庫に一日寝かせると味がこなれ一層うまくなる。このまま小皿にとってちびりちびりなめながら酒を呑むと、一合や二合はまたたく間である(おっと、これでは胃腸修復の趣旨に反することになってしまいます)。(「美味しんぼ主義」 雁屋哲) 


丸漬け
宝船を敷いて寝て朝になった。亭主大よろこびで仲間を集めて正月三日の朝方から酒を振るまう。「なんで、このようになされるか」ときかれて、「さらば、新春(はる)そうそう、目出たい夢を見ましたから」「どのような夢でござるか」「うむ、丸漬けの夢じゃ」「丸漬けがなぜ目出たい」「されば、昔から、初夢には、一富士、二鷹、三、南無三、まちがった」(「小ばなし歳時記」 加太こうじ) 


猿用の盃
しかし、昔は、人間は、人間だけが盃を使ったわけではなく、正月、大名邸などへ猿廻しが来ると、ちゃんと猿用の盃が用意されてあって、これで猿が祝い酒をのんでは、『ウィ』とばかり、次ぎの邸へと廻っていったものだという。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


三重吉と譲治
鈴木三重吉は酒を飲むと意地の悪い毒舌をふるう悪癖があった。ある年の正月、坪田譲治は鈴木家に年始に行ったが正月酒に酔った三重吉に、例のようにからまれて、正月早々泣いて帰らねばならなかった。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


味酒
額田王の近江国に下りし時作る歌、井戸王(ゐのへのおほきみ)すなはち和(こた)ふる歌
味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(さ)けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべきや
[大意]三輪の山よ。奈良山の山の間に隠れてしまうまで、道の多くの曲がり角ごとに、よくよく見て行こうと思う。その山を、無情にも雲が繰り返し隠してよいものだろうか。(「万葉集一」 高木・五味・大野校注) 額田王(ぬかだのおおきみ)の歌にある、「味酒」という枕詞(まくらことば)の使用例ですね。 


一遍聖絵
たとえば、鎌倉初期の世相を描いた『一遍聖絵』には、筑前の武士の家での酒盛り風景がある。それをみると、酒杯(さかずき)は大ぶりなものがひとつ。色の調子からしても土師器か須恵器とみてさしつかえあるまい。それも、当時の実用的な普及からして、ほぼ須恵器とみてさしつかえあるまい。酒が入っているのは太鼓樽。当時は、側板をつないでタガ(竹ノ輪)でしめる、いわゆる桶や樽をつくる技術がまだ未発達であった。そこで上部に口をつけただけの、いうなれば太鼓を転用した酒樽が用いられていたのである。そこから長柄の銚子に酒を移す。銚子で酒を杯に注ぐ。銚子は、その色の塗り分けからみて漆器であろう。なお、この形態の銚子が、現在、日常の実用からは離れて結婚式の盃事にのみ伝わっているのである。床の上に掻敷(かいしき)が二枚。それに、肴が直にのっている。三品、どうも魚や肉の乾きもののようだが、それ以上はよくわからない。もう一枚、小皿を置いた掻敷がある。醤(ひしお)でも入っているのだろうか。−
こうして絵巻物に描かれた酒杯をみてみると、銘々に用意されたものではないことに気づく。いずれにも共通する大ぶりの酒杯がひとつ、あるいは二つ。その杯をまわして飲む。つまり、巡盃による共同飲酒が当時の宴席での一般的な習慣、とみてとれるのである。(「三三九度」 神崎宣武) 


喰いたい放題
今年の一月一日は、大晦日の夜にジャズの人たちやコメディアンとはしゃぎ騒いで朝まで飲み廻ったので、なんにも食欲のない一日だった。どうもつくづく老いたものだと思う。私は酒がなければ居られないというほどではないけれど、飲めば量はいける方で、人前で酔い痴れた覚えはあまりない。若いときは丸二日くらい飲み続けないと飲んだ気がしなかった。それが、ひと晩飲みあかしたくらいで、翌日はくたくたに疲れたままになる。(「喰いたい放題」 色川武大) 


夜明けあと(7)
明治四十四年 有力代議士の人力車ひきが集り、宴会。大演説あり、芸あり、酒も充分(読売)。
明治四十五年 某代議士、泥酔し議場で大声。退場と言われても、大あばれ。休憩となり、各派が協議中、当人は控室で大いびき(読売)。
(「夜明けあと」 星新一) 


前頭十二三枚目
この「酒」は、佐々木久子さんが、女手ひとつで創刊し、もう三十年も続刊されている雑誌である。原稿料のかわりに名酒が届くのが、たのしみだという執筆者が多い。いろいろな人が、自分のゆきつけの酒の店を写真で紹介するのも、見ていて楽しい。今は方々の雑誌で、同じような頁を作るが、そういう企画のはしりであろう。この「酒」では、文壇酒徒番付というのを、毎年一回、ずっとのせていた。横綱以下平幕まで、東西にわけて、ずらりと作家や評論家の筆名がならぶ。その番付のランクは、これも執筆者としじゅう飲んでいる各誌の編集者や、日刊紙の文芸記者がきめるのだ。賑やかに飲みながら順位をきめてゆくのだろうが、幕内のどん尻に置かれた作家は、何となく、いやがった。じじつ酒量が少なくても、恥ずかしいものなのだ。ぼくは大抵、前頭十二三枚目、番付二段目の真中ごろだった。これでも実力以上に買い被られたと思っていた。ただ、コメントが人物月旦するので、ある年、こいつはまいったという感じの発現があった。「このごろは酒量も上がった。適当に発展しているようだ」こっちも木石ではないが、発展という風説は、少々「家賃が高すぎた」 (「酒席の紳士淑女」 戸板康二 「日本の名随筆 酒場」) 


味酒
「味酒(うまざけ)」が、三輪山の枕詞になったのも、古代から酒にまつわる伝承が少なくないからで、同社では、十一月十四日の「酒まつり」には、直径一メートル余り、重さ一二〇キログラムの杉玉が社殿につるされる。酒造家にも、「しるしの杉玉」、別名「酒ばやし」というボール状にした杉葉の玉を授与しており、これを軒先につるして酒造元の印にする。(「食の万葉集」 廣野卓) 



ワセダ中退・落第
そしてこの、俺は記憶力がわるい、忘れてはたいへんだとあまりに考えこみ、心配しすぎたことが、結局は初舞台をメチャメチャにする原因となった。記を強くもつためにのんだウイスキーの分量をあやまったのだ。五月二十三日、演芸場昼の部のいちばんにわれわれの漫才は出演することになっていた。舞台の袖から客席をみれば、せいぜい五、六人、いずれもお年寄りの姿があるだけ、にもかかわらずぼくの満身これ心臓と化した如くドキンドキンと鼓動がひびいて、もうお題目のように、「エーワセダ中退でございますゥ」をくりかえし、その他の台詞はまるでとりとめなく前後にキレギレにしかうかばぬ。起きてすぐ飲み、野末宅で飲み、さらにウイスキーの小瓶をしのばせて楽屋に入り、その小瓶ももはや残り少なくなっていた。野末はなれたもので楽屋のおばさんに煙草などをあげて、ごきげんをとっている。「エーワセダ中退でございますゥ、それから彼がワセダ落第といって、それから−」いよいよ開幕のベルが鳴った時、ぼくは錯乱状態にあったといっていい。実をいうとこの記念すべき初舞台を、ぼくは断片的にしか思い出せないのだ。(「漫才師落第記」 野坂昭如) 中退は野坂昭如、落第は野末陳平だそうです。 


スペインのぶどう酒税
カルロス三世はこの(プラド)遊歩道に沿って、植物園、天文台、自然科学史博物館を造る計画も立てた。道路もひろげられ、こんどはまともに舗装もされた。街灯も設置された。こうした都市計画の費用を捻出するため、カルロス三世はぶどう酒に税金をかけ、こういったものだ。「諸君、じゃんじゃん飲み給え!諸君が飲めば飲むほど、町は美しくなるのだ」(「スペインうたたね旅行」 中丸明) 在位1759-88年のスペイン国王だそうです。 

もどり酒
あるとき人の悪い客がママに入れ知恵して、「あいつは必ず戻ってくると焼酎のお湯割りだから、一回、焼酎を入れずに白湯を出してみたら」とそそのかした。ママもノって空き壜に水を入れて待機していると、果たして、その客がもどってきた。そこで、水のお湯割りを出すと、客は全然気づかず、けっこうジョークなどを言っていたが、やがて、お湯割りが効いてくるころあいには、いつも通り、舌がもつれてラ行の発音が怪しくなり、ついに寝てしまった。典型的なパブロフの犬である。しばらくしてママが彼を起こすと、「お勘定」と言う。「あら、今日はもういいのよ。さっきいただいたわよ」と言うとその客は、「払ってないよ、まだ。あれっ、ママ今日は酔ってるな」と言ったので、隣で見ていた人の悪い客もついにこられきれず噴き出した。(「銀座の酒場 銀座の飲り方」 森下賢一) 


最低五、六軒
「タロー。新宿へ行くぞ」と呼び出されて、僕はこの(車購入)大スポンサー(檀一雄)のために「ハイ」と言わざるをえない。そのうえ新宿に行ってからが大変だ。「今日は、息子のお許しを得て酒を飲むんだ。ベロベロになるまで、飲み明かすぞ」と、くったくなく、飲んでいる。息子をボディーガードにしてほど心強いものはなかったらしい。自ら新宿の裏通りを、「ダン街道」と名付けて、最低五、六軒はハシゴをして廻るのである。僕は車があるので飲めない。父はまた、はしゃぎにはしゃいでいる。夜が白みはじめた頃になって、ようやくご帰還命令だ。家に帰ると、一晩中父に付き合っていた僕は、ただもうグッタリと眠ってしまう。夕方になると、また、父からの出発命令だ。(「好「食」一代男」 檀太郎) 


辻晋堂
人が聞いていようがいまいがボソリボソリと話している。そういう風の新晋堂さんは芸大教授で彫塑家である。あんな調子で、どうやって「講義」するのかと思うが、案外に講義などもうまいというから、人は見かけによらぬものだ。素面(しらふ)の時は謹厳にして寡黙(尤もそんな時はあまりお目にかかったことがないが)だが、一度バッカスの恵みに浴したが最後、トタンに君子豹変して、やたらに若い下村良之介などを呼び出しては、とめどなく梯子となる。骨董屋で明治時代の大礼服を見つけると、それを着て師走の町を闊歩したり、法螺貝を買っては勇ましく吹き鳴らして、宵の祇園をおどろかしたりする。恐らく後世の史家は、彼を「昭和奇人伝」の一人に加えるに違いない。(「京の酒」 八尋不二) 


ちょこざい
「(名)チョコチョコ才。コザカシキフルマヒ。サシデガマシキコト。又、スバシコキモノ。」と大言海にはあります。
「【猪口才】さしでがましいこと。なまいきなこと。こりこう。」と、広辞苑には猪口の項にあります。
雰囲気としては、前者はチョコチョコに、後者は猪口に傾いているようですね。 


いつせう
ざん「茶屋せへ君が請合(うけあふ)なら即刻発しやうモウ今うつた鐘が九字だろう
そう「九字を去ツてエゝ漂泊すウ奥羽旅(おううのたび)イゝゝゝゝカサア進撃するにハモウ一杯傾けべし ヲイヲイねへさん極熱で一合(いつせう) 一合を一升とかざりていふこと食店の常なり はやくそして五分 ねぎを云う と香の物をくれヨ(「西洋道中膝栗毛」 仮名垣魯文) 作品中で、「安愚楽鍋」の宣伝をしているところで、吉原へなだれ込もうとする、総髪とざんぎり二書生の会話です。 


フクラギ
十二年前の師走。機会あって富山県氷見市でブリ定置網に同行した。前夜の激しい風雨は収まったものの、弱い気圧の谷が通過とあって、しぐれ模様で波もやや高かった。午前五時、漁港を出発。空は墨をひいたように暗く、海も青黒く濁っている。そんな海面に波しぶきを上げながら漁船三隻は一路、漁場へ向かった。走ること約二十分、目的の定置網に到着。早速、長さ二百メートル、幅九十メートルの身網の網揚げだ。網が次第に狭められ、激しく水しぶきが飛ぶ。だが、この日はブリは不在。フクラギ特有の青緑色が網を埋めた。フクラギ六千八十キロ、カツオ三千四百キロの水揚げだった。激しい作業を終えた頃、しぐれ空も一変。東に見える立山連峰から折しも朝日が昇りつつあった。波立つ海面に光の帯が走り、大海原の向こうに刻一刻と白雪の三千メートル級の峰々が輝きだした。正に一幅の絵だ。そんな時、後部甲板でフクラギ数匹を刺身に。大きなドンブリ数個に山盛りにされ、しょうゆと刻んだユズの皮がかけてある。車座の真ん中にはガスストーブ。湯飲み茶碗と刺身の鉢が回され、やかんから酒が注がれる。「さあ、飲んでくれ」。船頭の勧めで一口飲む。熱燗は口から喉、喉から腹腔までゆっくり、あまく熱くして行く。五臓六腑に染みわたるとはこのことか。こりこりと硬くて甘い刺身。朝食抜きのせいだけではない。新鮮な魚の味が口内に広がる。獲りたてのフクラギの刺身に芳醇な酒。舞台は朝日さす海上だ。魚市場のある漁港までの宴。(「こころに残る酒」 米澤保 「多酒彩々」 サントリー不易流行研究所・編) 


猪口 ちよく
○薩州にてoのぞきと云(いふ) 江戸にても底深きをoのぞきぢ[ち]よくと云 又福建及朝鮮の方言に鐘(かね)を呼て ちよく と云(「物類称呼」 越谷吾山 東條操校訂) のぞき 


鶏卵(たまご)を肴に酒を飲む
鶏の卵をゆでて酒のさかなにして、酒を飲む。安楽庵策伝(一六四二年)の『醒酔笑』に、<常々弟子に隠し、寝(い)ねざまには焼き味噌と号して鶏の玉子を調(ととの)え、肴に用いて酒を飲む>とある。
鶏卵(たまご)をゆでて食う
鶏の卵をゆでて食べる。鶏卵はなすづけのように見えたようである。無住法師(一三一二年)の『雑談(ぞうだん)集』に、<或上人(あるしょうにん)鶏の卵(かいご)を取りて、ゆでて食いけるが、小法師に隠して、茄子漬と名付けて、食しける。>とある。料理の方法によって、焼きみそのように見えたか。安楽庵策伝(一六四二年)の『醒酔笑』に、<寝(い)ねざまには焼き味噌と号して鶏の玉子をととのえ、肴に用いて酒を飲む>とある。(「飲食事辞典」 白石大二) 


有孔鍔付土器
液果類を原料とした液果酒の仕込容器として紹介した新道一号竪穴跡の有孔鍔付土器も、さらにこれらの土器に付随して発見された壺型土器なども、すべて奇妙なことに、蛇をモチーフにした浮髟カが土器全体を抱くようにしている。この蛇の浮髟カ様が酒造りと何か掛かり合いがあるのか、それともほかに呪術的なものに由来するのか、何としても気味の悪い表現である。それにしても蛇とか、トカゲなどをモチーフとしたこれら浮髟カ様は狩猟民のものではなく、明らかに植物を基調とし、定住を必要とした生産文化を持った人々のものであったと思われる。(「日本の酒造りの歩み」 加藤百一) ヤマブドウの酒 


坂本紅蓮洞
坂本紅蓮洞は明治大正文壇の雑文家、というより、貰い屋といった変人だったという。さすがに品(しな)がよく、自分からくれとは一遍もいわなかったそうである。そのためあらゆる文壇の会合、新劇の楽屋はことごとく木戸御免で、誰にも「グレさんグレさん」と可愛がられたとのこと。半白の蓬髪へ、古びた鳥打帽を頂きどこへ出てもそれを脱がず、胸元のシャツの釦(ぼたん)をいじりながら、世を愁い、罵っていた。言語は一として飾り気なく、何人に対しても、一人称は俺、二人称はお前、三人称は野郎ども、と、一様の表現よりしなかったという。酒仙というか、どのような時でも酒の気を絶やしたことはなかった。(「酒雑事記」 青山茂) 


かもとかもめ
鳧「医殳:上、鳥:下」(ふえい) (けい)ニ在リ 
公尸(し)来リ燕シ来リ寧(やす)ンズ。
爾の酒 既ニ清ク
爾ノ「肴殳」(さかな) 既ニ馨(かぐわ)シ。
公尸 燕飲シ
福禄来リ成ス。

鴨と鴎が水中に居る。そのやうに
公尸(かたしろ)が宴会(さかもり)に来て安らかにしてゐる。
王の酒は もとより清く
王の肴は もとより香る。
公尸は振舞の酒を飲んだ、
幸福は来つて汝を成功させる。(「中華飲酒詩選」 青木正児) 周詩で、詩経の大雅にあるそうです。 


角田川あゆめあゆめと酔だおれ せわな事かなせわな事かな
隅田川河畔の向島また橋場近辺は、当時、行楽の客で賑わった。ここからは吉原も近い。この隅田川で、いい気持ちに酔っぱらい、病気の梅若丸を無理矢理ひったてた人買いの信夫(しのぶ)の惣太よろしく、「さあ歩め歩め」などと、自分の足どりも覚つかないくせに、吉原に繰りこむつもりでわめいている泥酔の者もいる。まことに世話のやけることである。 すみだ川今もあゆめといふところ(拾四) ○あるむ=足をはこぶ。特に江戸語としては、遊里などへ一緒に出かけようと誘う時の語。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


第六十段
むかし、男ありけり。宮仕へいそがしく、心もまめならざりけるほどの家刀自(いへとじ)、まめに思はむといふ人につきて、人の国へいにけり。この男、宇佐の使(つかひ)にて行きけるに、ある国の祇承(しぞう)の官人(くあんにん)の妻(め)にてなむあると聞きて、「女あるじにかはらけ取らせよ。さらずは飲まじ」と言ひければ、かはらけとりいだしたりけるに、肴なりける橘をとりて、  五月(さつき)待つ花橘の香(か)をかげば むかしの人の袖の香ぞする  と言ひけるにぞ、思ひいでて、尼になりて山に入りてぞありける。
現代語訳
昔、男がいた。宮廷勤めにあわただしい日を送り、妻に対する気持ちも誠実でなかった頃の(その男の)家庭をあずかる妻が、誠実にあなたを愛しましょうという人に従って、地方の国へ去って行った。この男が宇佐の使になって都を下って行った時、(途中の)ある国の奉迎役の役人の妻になっていると聞いて、「女主人に土器(かわらけ)を取って酒を勧めさせよ、そうしないと飲まない」と言ったので、(もとの妻が)土器を取って(御簾の外に)さし出したので、酒の肴として出されてあった橘の実を手に取って、−(五月を待って橘の花のかおりをかぐと以前馴れ親しんでいた人の袖のかおりがすることだ−あなたの方はお忘れか)と歌を詠みかけたのではじめて、(もとの夫だと)思い出して、尼になって山寺に籠って余生を送った。(「伊勢物語」 石田穣治訳注) 家刀自と酒という言葉が並んで出てくるところに何かつながりを感じませんか。 


堀田善衛
こんなこともあって、いつの間にか堀田さん一家は毎年クリスマスの前夜には私の家を訪ねるならわしになった。私はできるだけ自分で釣った魚を用意して酒の肴にした。彼は富山県の生まれで、少年の頃から日本海の美味な魚を食べていたせいか、釣りたての魚の料理を喜んだ。私も堀田さんもクリスチャンでもないし、なにもクリスマスイヴに集まることはないのだが、正月では改まって面白くないので、イヴを理由に飲もうという訳である。それとさっきのべたように私が釣り好きなので、釣った魚を食べさせたいという自慢もある。彼は酒であればなんでも飲むから気持ちがいい。私は和風料理が好きなので、最初日本酒を出すが、彼も私に同調して日本酒で料理をもりもり食べてくれる。あとはウイスキーになるが、今度は世界中の話題を肴にウイスキーを一本ぐらい軽くあけてしまう。(「わが酒中交遊記」 那須良輔) 堀田善衛です。 


病引用食料飲料
明治戊辰六月中、横浜太田病院に収容せる官軍方患者百九十八人を治療中、日々多量に要せし飲食品は、
 シヤンパン 七十瓶くらゐ、セリホーシ 四十瓶くらゐ、ブランデー 十五、七瓶くらゐ、牛肉 五十斤くらゐ一斤価七匁づつ、豚肉 同 同金三朱づつ、鶏、鶏卵等 にて、同治療の薬用酒類としては、シヤンパン、セリホージ、ブランデー、ジン、オールトン、ビール、リキウ酒、ブドウ酒、日本酒等を使用せり。(都鄙五、八号)
当時の陸軍負傷兵または病兵の治療のために用ゐたりといふ西洋酒数は、前述の諸項何かの誤伝にあやずやと思ふ節多し。掲げて後日の再考に待つ。(「明治事物起原」 石井研堂) 


或る主治医の記録
昨日朝までは病人も私も大した病気ではないと思ひ込んでゐたので、そこに突然飛びこんで来た看護婦の目からみれば、それまでのすべての処置が愚かしくをかしい物に見えたに相違ない。その上胸に氷を置き、絶対安静を強いられてゐる病人が起き上らなくては食事がとれないなどの我儘な仕ぐさは看護婦の立場としてどうして黙視することができよう、しかし持田看護婦を私は偉い人であると思つた。「それではかうなさいませ」と云つてそろそろと起上がらせ心のゆくやうにお酒を飲ませてくれた。私は看護婦のその時の態度に尊敬すべきものを見た。「あゝこれでこそお酒の味もある、寝てゐて吸呑みなんかで飲ませられてはたまらない」といふ声はしわ嗄れて力ないものではなかったが満足らしくきかれた。(「或る主治医の記録」 大岡信 「酔っぱらい読本」 吉行淳之介監修) 若山牧水夫人・喜志子の「病床に侍して」にあるそうです。 酒のこぼれ話 


弥彦の神様
おらの故郷の野積(のづみ)では、弥彦(やひこ)の神様が野積の衆に酒造りを教えてくれた、だから野積は杜氏の里になったという言い伝えが残っているわ。酒造りが複雑で難しい仕事ですけ、とても人間が考えたものではないろう。これは神様が教えてくれたこんではなかろうか。そういうがんで、神様が酒造りを教えてくれたという言い伝えも生まれたのじゃないかね。(「杜氏 千年の知恵」 越後「八海山」杜氏 高浜春男) 


造り酒屋の歌
北原白秋氏の「造り酒屋の歌」がある。
水きよき多摩のみなかみ、南むく山になぞへ、老杉の三鉾五鉾、常(とこ)寂びて立てらくがもと、古りし世の家居さながら、大うから今も居りけり。西多摩や、造酒家は門櫓いかめしく高く、棟さはに倉建て竝(な)め、殿づくり、朝日夕日の押し照るや、八隅かがやく。八尺なす桶のここだく、新しぼりしたたる袋、広庭に干しも切(つら)ぬと、咽喉太の老いしかろも、かうかうとうちふる鶏冠(とさか)、尾長鳥垂り尾のおごり、七妻の雌をし引き連れ、七十羽(ななそは)の雛を引き具し、春浅く閑(しず)かなる陽に、うち羽ぶき、しじに呼ばひぬ。ゆゆしくもゆかしきかをり、内外にも溢るれば、ここ過ぐと人は仰ぎ見、道行くと人はかへりみ、むらぎもの心もしぬに、踏む足のたどきも知らず、草まくら、旅のありきのたまたまや、我も見ほけて、見も飽かず眺め入りけり。過ぎがてにいたも酔ひけり。酒の香の世世に幸(さき)はふ、うまし国、うましこの家(や)ぞ、うべも富みたる
反歌 酒の香さびて名も古りにけり 西多摩の山の酒屋の鉾杉は 三もと五もと青き鉾杉(「日本酒物語」 二戸儚秋) 青梅市沢井にある小澤酒造で大正一二年に詠まれた歌(「多摩の浅春」と題して、長歌集「篁」所収)で、反歌の石碑が酒蔵に建てられています。 



「平面へ平面へと、移動するエネルギーの法則だがね」「うんうん」小林さんのその時の説明はこんなものではなかったかも知れない。一切これは私の記憶で小林さんに文責はないが、それからおよそ一、二分して後、小林さんがエントロピーに就いて証明したことだけは、間違いなく彼の責任である。私は次ぎの瞬間、引き窓から月夜の空を見上げたような…、いや、そんなまとまった感覚はもっと後になってからで、忽然として私は別世界にいた。つまり、小林さんに何度目か寄り添って行った私は、八幡様添いの深いきっ立ての溝の中に、そのまま墜落していたのだ。しかも、どういうはずみか、あお向けに空を見て、長々と浅い水に漬っていた訳だ。軽い脳震盪の頭が、やがて流れに冷やされると、ビルとビルの間の夜空のような遠さに、鎌倉の月夜が見えてきた。「ははァ、落っこちたんだな」と、その時思ったが、どうしていいのか早速の判断は出て来ない。チョロチョロと水の音があり、体の裏側全体がひどく涼しい 。すると、ビルの間の夜空に、ぬーっと黒い頭が現れて、静かにこっちを見下ろしている様子だ。「落っこっちゃった」そのままあお向いた姿勢で、私はそう云ったかも知れない。「…大丈夫か?」小林さんの短い言葉が、冷静に上からかけられた。「そうか、起きなきゃいうけないんだった」と覚って立ち上がると、溝は深くて肩の処まであった。(「酒徒交伝 抄」 永井龍男) 小林は、小林秀雄だそうです。 


トンガラシのぶっかけ
戦後三年たっていたが、配給の方は、キューバザラメに、椰子粉に、ナツメの乾したのが月のうち半分以上をしめていた。そこで、悪い先輩におしえてもらったのが、ラーメンで焼酎を飲むことである。−メチルで目がつぶれたり、死んだりした時代のこととて、むろん、眼と鼻にツンツンしみ、電灯にすかすと、ギラリと五彩の膜がういてみえるバクダンというやつである。これを眼をつぶって飲み、モヤシだけのラーメンをかきこむと、腹はいっぱいになり、すぐぶったおれて眠れた。もっとも毎晩となると、かなり出費がかさみ、昼飯をがまんしなければならないこともあった。−つまり、一日ラーメン一ぱい、焼酎コップ一ぱいでくらしていて、それでラグビーなどやっていたのだから、まったくあのころは、どうなっていたんだろうと思う。そのうち体の方が酒になれてきて、一ぱいではぶったおれないようになる。その時また、悪先輩が−とにかくそのころは、悪先輩がやたらにいた−それじゃ飲んだらすぐ鼻をつまんで走ってみろ、といった。赤トンガラシをふりかけて飲むことも教えてくれた。−なるほど、これはきいた。焼酎よりも腹のふくれる、ドブロク、朝鮮濁酒(マツカリ)の類が出まわるようになっても、トンガラシをぶっかけては、走るのがしばらく酒をのんだ時の習性となっていた。(「飲んだら走る」 小松左京 「酒恋うる話」 佐々木久子編) 


初代川柳の酒句(4)
散る迄ハ樽まだ明カぬ明カぬ 燕子 (四斗樽なのでしょうか 桜の散るまでは空になりそうにないということでしょうか)
わしはのミますがと姑(しゅうと)娵(よめ)へいゝ 眠狐 (あんたの分はないヨということでしょうか)
生酔(なまよい)ははなしうなぎをミんな買 魚交 (生き物を放す放生会のウナギをありったけ買う気の大きくなった酔っぱらい)
恥な事茶屋盃も出さぬなり 五楽 (金がないのか 茶屋に掛けが残っているのか)
見ともなき鑓(やり)を持せて酔ツはらい 春松 (みっともない槍はすぐ分かりますね)(初代川柳選句集上 千葉治校訂) 


みそ豆
朝食の常番「みそ豆」は、簡単にいえば「茹でた大豆」だ。一晩水につけて戻した大豆をコトコトと柔らかく茹でて、器に芥子醤油を用意し、その中に熱いままの豆を掬(すく)い入れる。青海苔をちょいと振って、食べる時に芥子醤油がからむように混ぜる。これを熱いご飯に納豆のようにのせていただく。芥子醤油を多めにしてご飯に混ぜ込むと、もうひとあじ美味しくなる。混ぜご飯と違い、醤油が生のままなので熱いご飯と相俟(ま)って香ばしく、大豆はホッコリとして甘味が立つ。薬味に刻み葱を入れる人もいつが、家では青海苔だけだった。好みの問題だが、納豆のように個性を主張した味ではないので葱はきつ過ぎるように思う。この醤油を混ぜてしまった「みそ豆」をわざと残して晩酌につまむ、というのもなかまかオツなもんだ。冷めていく時にうまい具合に醤油が滲(し)みて、煮豆とは違う味つけのお豆が出来上がっている。甘味は入っていないし、溶き芥子が味を締めて酒の肴にはぴったりだ。味が均一ではなく、中まで沁み込んでいないので、大豆本来の味が損なわれていない。これを小綺麗な小鉢に入れて楊枝の先で一粒ずつ口に入れ、コップ酒を一口…熱燗や冷酒ではなく辛口の日本酒を一升瓶からそのまま注ぐのがいい。(「食物のある風景」 池波志乃) 


大町桂月の豪傑振り
雑司ヶ谷に新居を構えた大町桂月君は、人に逢ふ毎に頻(しき)りに新居の暖かい事を吹聴するが、扨(さ)て実際は別に暖かくも何ともない。不思議な事だと聞いて見ると、同君が前に居た家といふのは障子も襖(ふすま)も骨ばかりで、居ながらにして月も見られゝば雪も嘗められ、風など無論吹通しであつた。其中で鍛ひ上げた躰であるから、普通の家である新居も、何となく暖かに思はれたのだそうだ、同君は「幾許(いくら)家が暖かでも酒が無くちや矢張り寒いです」と云つてるとか。<明四二・一二・二一、読売>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


はそう
朝鮮では今でも、瓢箪の横に穴をあけて管を突っこみ、中の水を吸いとる方式の吸い壺というのがある。これを日本では「瓦泉」(はぞう)といい、和字をあてる場合には半挿(はぞう)と書く。なぜ「挿す」という字を使用するかというと、先に述べたように器の側壁に管を差しこみ、吸うからである。そういう形の遺物は多数発掘されていて、主として五世紀の終わりから八世紀ごろまで量産された陶器として、全国に広がっていたことが証明されている。半挿の起源は瓢箪形の果実だったのだろうが、出土品には、上にラッパ状の口を広くひらき、球形の壺の脇に孔があいている。ときにはその孔に挿す管を安定しやすいように、短い縁をつけたものもある。この孔に挿す管は竹か、オオタニワタリという羊歯(しだ)類の葉を管状に丸めたものだった。(「食物と日本人」 樋口清之) 一般的には「はそう」というようで、竹などをさして、注器として使われたようです。考古学辞典には、「竹管で吸う」というのは俗説とあります。 


弱さの鎖をたちきる法<その1>
近頃の、ノンベイはまやかしのエチケットにごま化されて、きわめておとなしくなってしまいました。しかし、、酒の醍醐味は、泥酔にあります。前後不覚、、意識錯乱こそがバッカスの恵みなのだ。水割りウイスキーなどという、甘酒シロップみたいなものは口にせず、生のままのウイスキー、焼酎をぐいぐいとあおり、時至ってバタリとブッタオレてこそ、酒徒といえましょう。そして喧嘩口論、放歌高吟、からむもよし、ぶちこわすもよし、反吐をまきちらしながら、壮絶に飲むのです。夜ともなれば団地はすべてトラ箱と化し、盛り場は闘牛場の如くやかましく、女子供は押し入の中にただふるえて難をとる。戦後、アメリカから入った文化の中で、この水割りほど害毒を流したものはないといっていい。人間なんてなんのために酒をのむのか、酔うためであります。水割りはどうも、酔いよりも、ムードをたしなむための飲料であるらしい。あんなものは、娘がお正月に飲むオトソみたいな感じで、実になんともいやらしい。男性はすべてかくの如く毎夜泥酔してしまえば、彼等のむかえる朝の、いかに残酷であることか、まごう方なき二日酔いのただ中に、全員がほうりこまれる。二日酔いは、神様が人間に与えたもうた、またとない反省の場といえます。痛むあたま、地熱のごとき体の火照り、けだるさ、その中で、人生を考えてほしい。必ず、思い当たるはずです。(「プレイボーイ」 野坂昭如) 


又も見ん栄華の夢の五十年 粟餅食わず酒を飲み飲み
(作者は四方赤良−太田南畝の号。別号に蜀山人をつかう。「婆阿−江戸市ヶ谷住の通称桑名屋与左衛門−五十の賀によする祝といふことを」とある。この狂歌は中国、唐の邯鄲の夢という故事からきている。廬生(ろせい)という青年が趙の邯鄲に行き、道士の枕を借り栄華の夢をみたが、さめてみるとなにもなく、その夢も粟飯が炊き上がるまでの短い時間にすぎなかったという話を土台とした狂歌で、粟餅としたのは婆阿が酒客であり酒に対して飯とせず粟餅としたものである)(「日本酒のフォークロア」 川口謙二) 


昆布と味噌
若布の兄弟分みたいなカチンとした板昆布を二センチ角位に切って、その板昆布の間に味噌を薄くはさんで、それを金網で両面焼く。すると味噌に昆布の味がしみこんでうまい。すこし甘いのを好きな人は味噌を味醂でのばしたのを、おせんべいに刷毛で醤油を塗るように薄く塗りこんで、それをやっぱり同じように焼く。人それぞれの好みに応じて、どうでにでもやればよい。飲みながら焼き、焼きながら飲む。独酌の時なんかいい。(「口福無限」 草野心平) 


陸軍の演習
勝山から四十キロメートルほど奥の蒜山(ひるぜん)高原には兵舎もあって、陸軍の演習が続いていた。そのたびに町には兵士の宿舎の割り当てがあった。うちはたいていの場合、連隊長の宿舎にになり、兵士も含めて大体いつも三十名くらいが宿泊した。そしてたいていの連隊長は大酒飲みで、私はほとんど夜通し部屋へお銚子を運び、料理を追加した。兵士たちは、ふじさんの指揮で女中たちがキリキリ舞いをしながら給仕した。また、翌朝彼らは三々五々時差出発するので、台所陣は徹夜で弁当造りをした。酒好きの人には六合入りの水筒に酒を入れてあげるようにと義母が言い、蔵人の中には、「わしらの食い分は少のうなってもよろしいけェ、兵隊さんにあげてつかーせエ!」と叫ぶ者もおり、家中が昂揚した雰囲気に包まれていた。しかし、あれほど飲み続けていた連隊長は、出発のときにはその気配も見せず、直立不動で敬礼し、毅然としていたのはさすがであった。そのときに副官で来ていた若い将校の馬上姿に惚れて、隣の娘さんが結婚したという話もあった。(「わたしゃ、まぁ いいほうでさァ」 辻美津子) 


富士川
酒に酔ひ頚赤くしてひとりをり檻に遊べる鶴の如くに
酒倉にならべし樽に日あたりて今年の冬は暖かきかな
小夜更けて火鉢のかげに覗きをり酒一杯に満てる一升壜
竹林に朝日かがやきたんたんと鼓のごとく樽たたくなり
おもしろやわが酌む酒は燗徳利斜になりて浮び来たれり(「雨過天晴」 中川一政) 


碧とう杯
歴城(今の山東省済南)の北に使君林(知事の森)が有る。魏の正始年間(西紀二四〇〜二四八)使君の鄭公愨(こうこく)が夏の三伏の際、毎(つね)に部下の官僚を連れて此処に避暑した。大きな蓮(はす)の葉を硯格(硯を置くわく)の上に置き、それに酒二升を盛り、簪(かんざし)で葉に穴を穿(うが)つて柄を通ぜしめ、ぐるりと葉を上に屈げて象の鼻のやうにし、次ぎ次ぎに廻はして茎の端から吸はしめ、名づけて碧「上:竹、下:甬」杯(へきとうはい 高フ筒の杯)と曰つた。歴城の人々が之を学び、酒味に蓮の移り香がして、水より冷たいとて流行した。 註○原文は不備であるから、訳文には原典たる「酉陽雑記」酒食篇所収の全文を用ゐた。(「酒「眞頁」(しゅてん)」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 象鼻盃  


有難い!
医師「お前さんはいける口かね?」
患者(嬉しさに思わず椅子から立上がって)「ええ、やりますとも!どんな酒でも好きですから、その種類は貴方にお任せ致します」 (「ユーモア辞典」 秋田實編)


一本だけ
前述の「週刊新潮」に「毎夕のように、杉並区天沼の”陋屋”からステッキをつき、ペチャンコの鳥打帽をかぶつた上林(暁)さんは、阿佐ヶ谷界隈を飲み歩いた」と云つてある。事実その通りだが、上林君は他の文筆業者たちと違つたところが一つあつた。第一回目に発病してから後は、「酒は一本ぐらゐで止すできです。一本だけならよろしいでせう」と医者に云はれたので、素直なことの好きなこの人は医者の云ふ通りにした。阿佐ヶ谷南口の飲屋で一本飲んで、その帰りに北口の飲屋で一本飲んだ。一本の掟は正しく守られたのである。阿佐ヶ谷方面を暫く遠慮する場合には、荻窪南口の飲屋で一本飲み、北口で一本飲んだ。翌日、またその店に来る理由を慥へるため、お銚子一本の代金を借りて翌日払いに行つて一本飲んだ。しんから酒を好いてゐたやうだ。(「文士の風貌」 井伏鱒二) 


伊豆・来宮神社
禁酒といえば−神社の氏子らが揃って或る期間、禁酒をするところがある。伊豆の東海岸・峯温泉の東北"来宮神社"がそれで、ここの氏子は、毎年十二月十七日から二十四日までは「酒精進・鳥精進」といって、絶対禁酒すると共に、小鳥を獲らない。もし、この禁をおかすと、必ず火の祟りがあって、大は火災、小はその人の着物が焼けるという。いわれというのは、来宮神社の祭神・杉鉾別命がすこぶるつきの酒好きで、酔ってはところかまわず寝ていた。或る日−いつものようにイイ気持ちで寝ていると、突然、野火が起って、命の周りに燃えてきて、『こりゃァ、大変だ!』と気がついて飛び起きたときは既におそく、焼死のウンメイになってしまった。ところが、そのとき、何千、何万と知れぬ小鳥の群がいずくともなく飛来して、近くの河津川流れにサッと飛びおりては、羽を濡らして来、雨のように羽から滴(しずく)をおとしたのだ、さしもの野火もこのために消え、命は危ないところでイノチを救われた。そこで、(危難に陥ったのは酒のため、救けられたのは小鳥のため…)と、禁酒をし、小鳥を獲らないことにした−というのが「酒精進・鳥精進」の起りだというのである。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


「禁酒の心」
たまに酒の店などへ行ってみても、実に、いやな事が多い。お客のあさはかな虚栄と卑屈、店のおやじの傲慢貪欲、ああもう酒はいやだ、と行く度毎に私は禁酒の決意をあらたにするのであるが、機が熟さぬとでもいうのか、いまだに断行の運びにいたらぬ。店へはいる。「いらっしゃい」などと言われて店の者に笑顔で迎えられたのは、あれは昔の事だ。いまは客のほうで笑顔を作ってくるのである。「こんにちわ」と客のほうから店のおやじ、女中などに、満面卑屈の笑をたたえて挨拶し、そうして、黙殺されるのが通例となっているようである。念いりに帽子を取ってお辞儀をして、店のおやじを「旦那」と呼んで、生命保険の勧誘にでもきたのかと思わせる紳士もあるが、これもまさしく酒を飲みに来たお客であった、そうして、やはり黙殺されるのが通例のようになっている。更に念いりな奴は、はいるなりすぐ、店のカウンタアの上に飾られてある植木鉢をいじくりはじめる。「いけないねえ、少し水でもやったほうがいい。」とおやじに聞こえよがしに呟いて、自分で手洗いの水を両手で掬(すく)って来て、シャッシャと鉢にかける。身振りばかり大変で、鉢の木にかかる水はほんの二、三滴だ。ポケットから鋏を取り出して、チョンチョンと枝を剪って枝ぶりをととのえる。出入りの植木屋かと思うとそうではない。意外にも銀行の重役だったりする。店のおやじの機嫌をとりたい為に、わざわざポケットに鋏を忍び込ませてやって来るのであろうが、苦心の甲斐もなく、やっぱりおやじに黙殺されている。渋い芸も派手な芸も、あの手この手も、一つとして役に立たない。一様に黙殺されている。けれどもお客も、その黙殺にひるまず、なんとかして一本でも多く飲ませてもらいたいといと願う心のあまりに、ついには、自分が店へ誰かはいって来ると、いちいち「いらっしゃあい」と叫び、また誰か店から出て行くと、必ず「どうも、ありがとう」とわめくのである。(「禁酒の心」 太宰治) 昭和18年の作品だそうです。 


サカムカヒ、ヲチツキ
こんな調子で酒を飲んでいるわけですが、ふつうの人たちがどういうふうに酒を飲んでいたかについては、資料A(次頁)の『高山寺古文書』をご覧ください。4 これは美濃国の小木曽荘(おぎそのしょう)の、元徳元年(一三二九)の資料です。小木曽荘には三つの保があって、ここでは永野保について見ていきます。この保は岐阜県の山の中で、京都から下ってきた使いを迎えて現地の荘官と百姓がもてなしをしており、そのもてなしの費用を記載したのがこの史料です。まず「サカムカヒノ代」、これは酒迎ひで、境迎えともいって、使いが境まで来たところで出迎えて酒をはじめいろいろな肴を出してもてなします。それから、「ヲチツキノ代」は酒迎ひが終わったあと、落ち着いてから三日厨(くりや)といって、三日間はもてなしをするわけです。「ヒルワウハム」とあるのはふつうは昼食は食べないんですが、三日厨の間は昼ももてなしたわけです。その三日厨のときの宴会の酒や肴の中身が記されており、「酒平子(へいし 瓶子)廿七」とあります。酒には、清酒と白酒があり、これはかなり前から分かれていますが、この時は清酒を平子十八も出していますね。清酒は一平子別六十文、白酒は平子九でその三分の一の値段です。やっぱり非常に重要な宴会の時には、清酒をきちんと出していたのです。それから鳥は多分雉だとおもいます。(「下戸の酒癖」 玉村豊男編) 網野善彦の話です。 


飼い猫
さる知名の紳士、ご本人はアルコール類をたしなまれないが、飼い猫はウイスキーが大好物。霊長類の人間の特色は、同じ飲物、食物でも味覚を楽しみ、観賞することであって、他の動物に真似のできないデリカシーを持っていることである。「三時の飲物はコーヒーにしましょうか」、こんな会話は人間だけの話である。この家の猫は来客を大歓迎するそうである。ふだん食卓にでないウィスキーがだされるからで、ウィスキーを食パンにひたして貰って賞味する。あげくの果ては酔払って寝込んでしまうそうだ。下戸のご主人は、飼猫がウィスキーをたしなむばかりで、「上:天、下:口 のみ」助共から犬猫にも劣るといつもひやかされている。(「あゆ酒」 室賀定信)  


日本酒の飲み方
一、大吟醸酒
酒の芸術品とも呼ばれるもので、香りが華やかで、味は上品です。グラスを冷やし、酒も冷やして飲みたいものです。杜氏さんの顔を思い浮かべながら、酒造好適米、酵母について語りながら飲めば、一段とおいしさが増します。食前酒として、一、二杯飲むのに最適です。つまみはとくにいりませんが、豆腐、白身の魚の刺身があれば言うことはありません。
二、純米酒
米・米麹に水を加え発酵させてろ過したもので酒造場の個性が最も現れているものです。精米歩合、貯蔵年数などにより、飲み方が変わってきます。精米歩合が五十パーセント程度で、新酒であれば、大吟醸酒と同じような飲み方がよいでしょう。ぬる燗で飲むのもよいと思います。貯蔵年数が三年以上であれば、ぜひ燗して飲んでください。つまみは、中華料理や肉料理、うなぎの蒲焼、ぶりの照り焼きなどしつこいと思われる料理がよく合います。精米歩合七十パーセント程度で、夏を越したくらいの酒ならば、冷でも燗でもおいしくいただけます。つまみは煮物、焼き物、揚げ物などがよく合いそうです。
三、本醸造酒
すっきりとなめらかなタイプの酒ですから、和食全般と相性があります。夏は冷で、冬は燗が一般的ですが、年中燗という人もいます。(「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 


正宗
汽車といえば鈍行列車が多かったころには、駅売りが繁盛した。呼び声に特徴のあったのは、「ビールに正宗」。この「正宗」は酒銘で刀鍛冶の正宗とは関係がない。臨済正宗という禅語から取ったものだという。正宗(せいそう)は本源、正統派という意味で、正宗は酒の代名詞とさえなった。日露戦争ごろには、正宗の極上酒一升七十銭程度。安酒は四、五十銭のものであった。 (「明治語録」 植原路郎) 


湿気文化、乾燥文化
東海林 麦系は香ばしい文化だし、なんでも香ばしいものを好む。米系は常に濡れた、湿気のある世界ですからね。
小泉 まさに、それが僕の持論なんですよ。匂いもそうで、お香は湿った世界で、香水は華々しい乾燥した世界です。それが酒造りにも影響していて、東洋はカビを使うけれども、ヨーロッパやアメリカはカビが全然いないので、仕方がないから麦に芽を出させて酒を造ったわけです。そういう意味では、乾燥で生まれた酒を湿気文化にうまく融合させたのが、日本のウイスキーです。
東海林 湿気文化のウイスキーか。こういうことを言った人は、これまでいたんですか。
小泉 いやいや、先生が初めてでしょう。
東海林 小泉先生にお譲りしますよ。
小泉 では共同開発ということで(笑)。(「発酵する夜」 小泉武夫) 東海林さだおとの対談です。 湿地と乾地 


二代目愛造
二度目に死ねたのは二代目愛造も同じ。この人も大酒で発狂、隅田川に投身。これは助けられたが、直後に縊死で望みをとげた。(「芸人その世界」 永六輔) 愛造は浪曲師だそうです。 


あご
銀座のまんなかの百貨店に「あご」の「まるぼし」が出ていた。たずねてみたら、やはり私の郷里の平戸のものだった。名前を聞いてみると、これも飛魚(とびうお)でなくて平戸言葉の「あご」だった。「売れるかい?」と尋ねると、「わざわざ買いにいらっしゃる方だけです」と答えた。酒好きの友達に「あご」をやると、余程酒に合うとみえて、大変よろこばれた。私の友人で某新聞の幹部などは「あご」が来たと電話をかけると、社旗をたてた外車でとんで来て、五尾くらいの「あご」を宝石のように眼でなめずりながら、「夜になるのが待遠しいよ」よ言ってにこにこして帰って行った。「あご」と飛魚とはどうも私共には同じ魚と思えない。東京その他で食膳に出る飛魚は大きくてうまくない。平戸の「あご」は小柄(こがら)で何ともいえない風味がある。(「あご」 藤浦洸 文藝春秋巻頭随筆'66.9) 


画惨
ところで−雪辱(?)みごとなって、参議院議員として返り咲いた泉山氏が、またまた、酒の上でオカシクなった事件がある。二十八年十二月九日、東京千代田区神田須田町一、天麩羅店"天来"へ数名で飲みにいった泉山氏が、れいの「トラ大臣になるまで」に自署して、同店主・小沢仁氏に贈ったまではよかったが、筆のイキオイにのったのか、それとも酒のイキオイにのったのかは知らないが、壁にかかっていた寺島紫明画伯描く美人画「鷺娘」の軸にラクガキをして、使いものにならなくしてしまったと、翌二十九年二月二十七日、東京地裁に八万円の損害賠償で訴えられたというのがソレ。泉山氏は"画賛のつもりだった"というが、酔うとラクガキしたくなるヘキの人のために、壁間を解放している"ラクガキ酒場"なでならばともかく、やはり有名無名をとわず、美人画なぞにヤタラ筆はふるわないほうが無難というものであろう。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 酔虎伝 


屋ねから落た人と酒もり
 屋根からすべり落ちて気絶した者に気付けに酒をのませ、自分も相手をする。それを酒盛りとおかしき言った。
生酔の杖にして行向風(むかいかぜ)
 泥酔して足許がさだまらない。かなり強い向かい風で、歩きにくそうにみえるのだが、その風に抵抗し、体に力をこめてそれにむかってゆくようにして、よろけつつも歩いてゆく。車引きが棍棒ににつかまってそれを頼りにするのに似るのである。杖にして、が面白い。(「『武玉川』を楽しむ」 神田忙人) 


田子奄記
こゝに田子庵と号するいはれは、此家に愛翫せる鮑(あわび)貝の盃ありて、それを田子浦とよぶ故也。そはさらば難波にきこえたる浮瀬(うかむせ)屋の出店かといふ人も有りぬべし。そもや浦の名をとりて盃の名とし、亦盃の名をとりて奄の名とす。かく迄物を用ひたらんに、器財衣服の類ならば手数の入りて古びぬべきに、用ふる度に新なる田子の名こそめでたけれ。思ふにそれ坡翁が亭の名も、其時はさも有りつらん。欄によりて散る花を惜み、簾をかゝげて月待つ夕べは、喜ばぬ雨もあるべきに、此奄の名のそれに似ず、いふ度に名におふ佳境俤(おもかげ)に浮びて、常に雪月花の風情を添ふ。さてこそあるじ深く愛して、年立かへる屠蘇よりも、まず此物を手にふるれば、酔来る初夢にも其名のえにしあれば、などか一富士の嘉兆を見ずやはあるべき。(「鶉衣」 横井也有 石田元季校訂)田子の浦ゆうち出でて見ればま白にぞ富士の高嶺に雪は降りける 


酒とかけて(2)
 月見ととく 心は、酔い(宵)を楽しむ
 花瓶に赤インキを入れるととく 心は、赤鼻(赤花)になります
 風邪の治りかけととく 心はお燗(悪寒)がすくなくなりました
 投機筋ととく 心は宴会(円買い)の主役です
 武者小路実篤の心境ととく 心は日々是口実(好日 花咲けば飲み 人来れば飲む) 


山海漬け(新潟)
材料 大根 しろうり きゅうり 数の子 酒粕 塩
海と山をもつ新潟県にふさわしい保存食。材料の野菜類を細切りにして塩漬けにする。からしを入れて調味した酒粕に漬ける。ほぐした数の子やを加えることもある。
かぶらの長等(ながら)漬け(滋賀)
材料 近江かぶら ぬか 酒粕 塩
白く扁平な近江かぶらが材料。十二月霜の降りる前に収穫。塩漬けしたあと粕に漬ける。頃合を見て新しい粕に三度ほど漬けなおし、最後に本漬けにする。家庭では、塩漬けにしたかぶらをぬか漬けにし、多くは浅漬けで食べる。(「探訪ふるさとの味」 柏原破魔子) 


赤米
興味あるのは赤米で、「尾張国正税帳」(七三四(天平六)年十二月条)に、赤米二五九石(現行枡一五・五四トン)を大炊寮(おおいのつかさ)へ納入とある記事が所見資料である。また、平城京跡出土木簡から、播磨、丹後、但馬諸国から赤米貢進のことが知られる。大陸渡来の赤米は、悪条件下でも繁殖力が強く栽培しやすかったので、律令時代はかなりつくられていた。中国の杜甫や蘇東坡の詩に「紅蓮米 桃花米」とあるのが赤米で、酒づくりも使われた。(「日本の酒5000年」 加藤百一)


年わすれ劉伯倫はおぶはれて
前書に「のり物の中に眠りこけて」とある。忘年会でしたたか呑み電車の終点まで運ばれてしまったなんて記憶はどなたにもあろう。そのことを酒のみ其角が自嘲まじりに詠んだものとだれにもわかる。問題は劉伯倫とはそも何者か?寛政(十八世紀末)の呑んべい学者の亀田鵬斎の漢詩にもこの人が出てくる。「劉伯倫也李太白/酒乎飲禰婆只之人/酔酔酔酔酔也薩阿」すなわち[劉伯倫や李白だって/酒を呑まねばただの人/よいよいよいよい よいやさあ]と江戸時代には至極有名らしい酒呑みの名士なんである。調べたら、これが中国は魏・晋の時代(三世紀半ば)に生きた「竹林の七賢」の一人、劉怜(字を伯倫)のこととわかって、なーんだ!と相成った。身のたけ五尺足らずの醜男、されど気だては天下一品、常人なみの欲は一切もたず、精神の自由を求めてただ酒を呑む。『文選』に収録の遺文「酒徳頌」で世界の呑んべえの尊敬を集めている。(「其角俳句と江戸の春」 半藤一利) 


飲む前に晩飯を食ってしまう
夜酒を飲む前に、晩酌をすましておく。酒飲みの健康を害しない方法。横溝正史氏は、「わたしの健康法」で、<いつだったか、亡くなった作家、野村胡堂さんが"飲む前に晩メシを食ってしまえ"って教えてくれたんだ。はじめはまずくて飲めたもんじゃなかったが、いまはすっかりなれてしまったよ。いいことをいう人だな>と語っておられる(サンケイ新聞、一九七六年十二月十二日)(「飲食事辞典」 白石大二) 


ロハで大損
上総(かずさ)東金(とうがね)町の野中孝次郎といふ人は滑稽人と見え、去る五日東京へ来る道登戸(のぼりと)まで来ると車夫が車を勧めるので同人は鳥渡(ちょっと)しゃれて符牒(ふちょう)で一番困らせてやらんとロハで乗らうと言ひしに車夫は暫(しばら)く小首を傾けて居しが、旦那やりませうとて乗せ、馬加(まか)といふ処の立場茶屋まで来て休むと、車夫は孝次郎に向ひ先刻のロハは幾らの事ですと聞くゆゑ、ロハは只(ただ)といふ事だから銭はやらぬと戯れしに、車夫は本気に怒り、彼是(かれこれ)といひかけしところへ、丁度巡査が来られて立ち入り、次第を聞かれ、成程只といふ字を分かてばロハとも言ふべけれど、又よ(読)みやうで口(くち)ハというた時は捨ててもおかれまい、酒代を遣(つか)はすべしとの事故(ことゆえ)十銭をやると、車夫は外に一ぱいのませてくれろといふので、同人も酒好きなればつい二人でのみはじめ、其勘定が三十七銭とは余程高い車に乗りしとて ロハといふ 符牒で車は 只で乗れど 口ハ(くちは)とよまれ 酒手とらるる と狂歌をそへ同人より投書されしが、ずい分おかしい悶着といふべし。<明一三・一二・九、朝野>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編)