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御 酒 の 話 22




にらみ豆腐  食堂の床の下が酒倉  酒に溺れることのおもしろさ  篁村、ルソー  すし屋のにおい  酔歩蹣跚  落語二十四孝  淇園と大雅  天保元年庚寅  四月の半ば頃  農夫の話    むかしの若さ、いまいずこ  墨上春遊  つぼみ酒  四十歳の人  アルコール類の自動販売機が林立  帝国劇場  秋鯖や  鹿鳴  ヤシ酒(2)  八盃機嫌  だいじやまる【大蛇丸】  悪所よりの御帰り  二十枚の短冊  あらえっさっさの時代  西門行  酒の功徳  粕汁  クコ酒  ヒポクラテスほか  明和二年乙酉  酒不可飲  ひしお  正しい勤務後の過ごし方  或るおだやかな夜の自問自答  新宿の秋田  廻船問屋  ミニチュアビン  自家用酒  枝豆  ながいき  酒ビンの疑似容器  音二郎と貞奴  味酒を三輪の祝がいはふ杉  サヨリの磯蒸し  ドッグズ・ノーズ  近き頃世に行はるゝ物  チブク  風葉と草平  「煮る」か「焼く」か  井手金作  金メダル食堂  父親  「天盃頂戴」の酒名  調味料  砂文字  深夜の冷酒  芝居と酒を慎む  船渡聟  金馬の酒の覚えはじめ  この酒盃を  すべてをきわめて水にもどる  横綱と前頭五枚目  昔の禁酒  製造部部長  なぜ飲まなきゃならないの!?  餌香の市  小学校六年  善哉商光亭  川越亀屋の蒸し羊羹  近所こそいゝ迷惑  いやな体験  勘定の支払い  フィッツジェラルド夫妻  わたしゃ 売られて行くわいな  おあえ  甘口ぎらい  メソポタミアの蒸留酒  飲めんの勧化  怪しい目つき  鮎無双  桜花酒  航空燃料  インドで  病気  シロギス、メゴチ、アナゴの天ぷら  ベティ・フォード・センター  どん底  怒らせ上戸  発作とアルコール  市民的節制か封建的放縦か  二月二十六日(月)  あんパンの生地をつくる秘法  白酒高名豊島屋  杉享二  人事酒  武玉川(6)  悟堂  全部を当てて優勝  清酒に革命  断わり酒  七曜記憶法  美酒進呈候  大嘗の祭  円高と冷酒はあとで効く  酒宴の最中  何事も修行じゃ  ルーデンドルフ将軍  トンパチ  万病円  梅見の友  享和三年癸亥  半纏と前掛け  氷室  馬生さん  人の悪口  キラー酵母  大物主命、大己貴神、大国主  小さん師匠  山有樞  春日祭(2)  前割り  葡萄酒が一本  バー調査  オクテ  カリフォルニア大学デービス校  "妙薬酒"いろいろ  飲みの尻切れ襦袢  三種糟  おせえ、おあひ  「トゥンバン」、「ガドン」  国民酒場の情景  日野家の僕  風変わりな飲ん兵衛たち  効陶潜体詩  菱垣廻船から樽廻船へ  酒ほがい(7)  つけ  三遍に過ぐべからず  百閧フ最後の言葉  キンキの煮付け  足留にに盃ばかり出しておき  ふる郷ちかく酔うてゐる  酒の俳句  はんと辰野  酒問屋  南方の酒(広東)  白鹿  五十代を過ぎての深酒  高野長英の人相書  武玉川(5)  酒株  田村藍水、三好達治  だいこく  雪見酒    ビザンティウム  薩摩守忠度  一月十四日(火)  安政二年乙卯  タクシーの運転手さん  曽婆訶理  御酒でもあがって  魯山人のキリン好き  最終電車  カノン・デ・ロス・エンバドス条約の破棄  太宰帥大伴卿  紅葉、漱石  もっと飲ンデ、飲ンデ  ひねりぶみ  小網代カップ  起こしてください  高橋和巳の酒  情誼に厚い幽鬼(3)  泡なし酵母(2)  米市  長州再征のときの交渉  お膳に一本  樽平酒造の李朝磁器  情誼に厚い幽鬼(2)  春日祭  グリンチング  この道の達人  情誼に厚い幽鬼(1)  泣き酒と怒り酒  メインの前後  日本酒一辺倒  人車の引力語  六三除け  キブノリのクルミあえ  麹蓋  さかしお  蕉弁盃  白石先生手簡  看板  永仁の壺  ダシアイコウ  安政三年丙辰  '67年元日  吉野秀雄  奉献清酒菰樽  竹屋の渡し  新年  門松  浜焼の鯛一尾  酒に若かざる  満三歳の正月  一月一日(水)  盃に酒を注いでもらう役  気のきいた正月用のつまみもの  返句  筥崎宮玉せせり祭  小林一三  小西来山  劉生の乱酒  アラキ酒  欲と色と酒とを敵と知るべし  松竹の活動屋さん  酒屋の前  アメジスト  今川義元の「市場税免許」  雪見にころぶ  人間とは駄目なんだ  腹のシクシク  鳥獣魚虫の掟  酔いに乗ってこどもの上などいう  サキーラ  はち巻で女房へ願ふむかい酒  さけせん  杯に推参なし  亀田窮楽  イランにて  酒がぼくの文学なんだ  山本為三郎氏  掌上の露  ストリンドベリ、ミュッセ  古風な造り酒屋  小痴楽  稲荷様におまいりは  英国では  カラミ男    下り物現象  餅を喰い酒を呑みなば  鈴木三重吉、外村繁  飲酒といふ仕事  マッカーシー上院議員  酒の都々逸



にらみ豆腐
「ダメだよ、いつの間にかまた豆腐に手をつけちゃって。何度も言ってるけど、これは"にらみ豆腐"って言って見るだけなの。食べちゃダメ」相棒はいつも出てきて、すぐに手をつけてしまう。−
かつて中野にあった「やきとり八千代」の一杯一八〇円の清酒を二杯、できれば三杯飲んで、一本八〇円の焼き鳥を二本ほどつまむ。それでお勘定は二人で二〇〇〇円いかない。残ったお金で豆腐ひとつ注文し、至福の三杯のお酒の間を持たせるのだ。−
おかしなもので、目の前のつまみがなくなると、店側も客側もなんとなく注文しないとバツが悪いような雰囲気になり、そわそわしてくる。そのためにも手をつけないつまみを残しておくのが、少ない金額で酔える技だ。−
このにらみ豆腐という言葉は、酔っ払いながら生き、酔っ払いながら小説を書き、酔っ払いながら階段から落ちて死んだ、中島らも(一九五二〜二〇〇四)の言葉だ。(「酒場を愉しむ作法」 自由酒場倶楽部 吉田類監修) 


食堂の床の下が酒倉
私の父親は大酒飲みで、昼も夜も食事の時は必ず酒を飲んだ。食堂の床の下が酒倉になっていて、ビール、日本酒、ブランデーがぎっしり詰まっていた。当時の台湾は酒、煙草、塩、樟脳、阿片が専売になっていて、日本内地で民営になっていた酒造も、すべて専売局の管轄下にあった。多分、台湾製はあまり味がよくなかったのであろう。父親はビールはエビスビール、日本酒は月桂冠か楓白鹿、もしくは白鶴を愛飲していた。それらの空瓶が裏庭の塀沿いに高く積みあげられていた。(「食べて儲けて考えて」 邱永漢) 


酒に溺れることのおもしろさ
小山内薫を擁して、吉井勇、長田秀雄、木下杢太郎、楠山正雄らと、並木五瓶、鶴屋南北、河竹默阿彌の世話狂言を再検討するための「古劇研究会」をつくったことだけが、この年の仕事であった。「この間、前年、吉井勇によって紹介された岡村柿紅…当時、博文館の"演芸倶楽部"の主幹をしてゐた…の手引きで、新旧の役者、落語家、その他、いろんな芸能人に知合ひができ、やうやく、酒に溺れることのおもしろさを知つた。」この間、ある女と恋愛をした。酒に溺れたのも、女と恋に陥ったのも、自分のやりきれなさ、「目の前の暗さ」をまぎらわすためであった。二十六歳の万太郎は、たちまち遊里の巷にまきこまれていった。酒を「上:夭、下:口 の」むと、あとを引いた。二次会、三次会となり、「五尺二寸にして体重十九貫」の万太郎は、深更、無事に家に帰ることは殆どなかった。時に酔って我家へ帰って来ると、その途中、家の近くの交番へ入りこんで、巡査にくだをまき、しまいには仲良くなって、翌日、俳句を書いた短冊をとどけたりした。まったく、「ただ、もう、でたらめだつた。」そういう生活が二、三年つづいていた。そうした万太郎が、ようやく「末枯」を書いて、少しずつ立ちなおったのは、大正六年に入ってからであった。(「物語大正文壇史」 巖谷大四) 


篁村、ルソー
ある時饗庭篁村(あえばこうそん)が酔っ払って、溝に落ちた。一緒にいた友人が「さあ手を、手を」と手を差しのべると、篁村は「その手は桑名」と手を出さず、ますます深い方に入りこんでしまうのだった。
画家のルソーをおどかそうと、友人が酒蔵の酒樽のかげに骸骨を置き、糸で動かせるようにしておいた。ルソーが入って来ると、それを動かした。ところがルソーは全然こわがらず骸骨におじぎをして、「のどでもかわいているのかね」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


すし屋のにおい
それでも女客はいちばん後だ。差別は歴然としている。すし屋はおしろい、香水をつけて来る客が嫌いなのだ。すしがおしろい臭くなって食えなくなる。だから真っ先につけるのは酒を飲んでいる客。何もいわないのにエンガワやあわびのワタがひょいと出る。酒飲みの気持ちが手に取るようにわかるのである。ご本人が大酒飲みだからだろう。なんでも毎日三升ずつ空けるのだそうだ。朝方、築地の河岸に仕入れに行く。冬場でもすっ裸でまぐろをまるごと一尾かついで場内をのし歩きながら朝から一升。店に帰って下ごしらえをしながら茶椀酒でまた一升。客の相手をしながら閉店までにまた一升、話半分にしてもおそれいったウワバミ。池袋から西武線の椎名町に出る途中の、知っている人なら、あああそこかと相づちを打ってくれそうな、そのあそこの店の亭主の話である。店も店主もとっくになくなっているだろう。昭和三十四年といえばいまから四十年近く前、こちらは音羽にある出版社の下っぱ編集者で、その界隈の担当作家の原稿催促にまわっては、昼時になるとそのお店にシケ込むのである。どうかすると近所にお住まいの梅崎春生さんが、こちらに背を向けてひとちぽつねんと飲んでおられた。(「雨の日はソファで散歩」 種村季弘) 金寿司という店だったそうです。 


酔歩蹣跚
酒「上:夭、下:口 の」みには数学糞喰えであるが、数理科学となると、いくらか仲間づき合いができるから妙である。例えば統計理論でrandom walk の問題を「酔歩蹣跚(すいほまんさん)の問題」という。こういう粋(いき)な訳をされたのはどなたか知らないが、多分身に覚えのある方に違いない。(「逸遊雑記」 山内恭彦) 「次に現れる位置が確率的に無作為(ランダム)に決定される運動」のことだそうです。 


落語二十四孝
呉孟(ごもう)が母を蚊に食わせまいと体へ酒を吹いて蚊を集めたという咄を聞いて、二階の壁に酒を吹きつける。二階が酒臭いと蚊が二階へ全部上がりきったところで梯子を引く。これは間抜け落ちである。(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) 


淇園と大雅
本業ではないが、文・武・書・画から、仏典、医薬、音律…と、人の師表たるべき十六課に及んだという柳里恭(りゅうりきょう 柳沢淇園)は、大和の郡山藩の御家老職であった。客を好み、食客つねに数十人におよび、小藩ゆえ、家禄少なく、台所は火の車だった。一世の画家・池大雅が芳野の桜をみようとして、郡山を通ったとき、淇園の邸によると、しきりにとめる。『桜はここ三日、おくれては残念です』『いや、花神は年々、君をまっている。今春のみとは限らない。それよりも流霞浅酌歓酔十日と洒落ようじゃァないか』と、門を閉め、美女をはべらしてグビグビ…の連続。あまりのことに、ネをあげた大雅、塀をのり越えて、或る夜、とうとう逃げ出したというが、むかしのセンセには、酔ってクダラナイ訓示をするようなチャチなのとちがい、こんなふうに豪快なお方がいたようだ。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


天保元年[一八三〇]庚寅三月閏 十二月十日改元
○春の頃より始まりけん、伊勢太神宮おかげ参り流行し、次第に諸国におよぼし、江戸よりも参詣する者夥(おびただ)し(阿州の者参り始めしより四国一円になり、又京大坂に移り夫(それ)より諸国に及ぼせしとぞ。宝永の件(くだり)にいへる如く、道中施行の宿施行渡し有り、馬駕は美麗に飾りて、参詣の輩をのせ価を受けず、酒飯菓子等を餐し、金銭手拭其の余道中要用の品を与ふ。貧賤の者といへども、参宮の者へは礼を厚くしてこれをもてなす。宿々の繁昌言語の及ぶ所にあらずとなむ。十月の頃にして此のこと止む。此の時梓行せる「文政神異記」といへる冊子に詳(つまびら)かなり。京師の板にて春木榊亭といへる人の編なり)。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


四月の半ば頃
丸谷 汽車に乗って、景色が動くのを見ながら酒を飲む楽しみ、というのは吉田健一さんが何度の書いていますね。僕は、たとえば夕方の山を見ながら酒を飲む感じとかを書かせたら、彼以上にうまい人はいないと思うんです。さらに食堂車でビールを飲む感じ、これを彼以上に書くのは、ちょっと難しいんじゃないか。
山口 じゃあ今度挑戦してみます(笑)
丸谷 僕もちょっとやってみたけれど、なかなかうまくいかない。
山口 食堂車で、瓶ごとお燗するようなお酒がありますよね。あれの一級、しかもぬるいのを頼んで、窓際に置いて、少しずつ飲むというのはいい気持ちですね。新幹線は駄目です、あくまでも在来線です、とくに四月の半ば頃中央線に乗りますと、東京では桜は散っているのに、汽車が進むにつれてだんだん咲いてくる。あれ、いい感じですね。(「男の風俗・男の酒」 丸谷才一VS山口瞳) 


農夫の話
私は南フランスのバスク地方を歩いた時に出あった一人の農夫の話を思い出す。丘の中腹でブドー棚の手入れに余念のないこの老人をつかまえて、私はバスク地酒の高い香りと、とろりと溶ける甘味とをほめた。「ムシュー、日本に帰るとき、私はあのブドー酒をみやげに持ってゆきます」「ああ、マドモアゼル、あなたにゃ何もわかっていない」老人は意外に不機嫌だった。「この太陽の明るさ、潮風の快さ、この赤土、バスク人のつよい訛(なま)りと威勢のいいおしゃべり、テンポの速い音楽とおどり、しつこい料理の味、そういうものがみんな一しょになってわしらの酒をつくったのだ。この土地の食卓で、わしらと一しょにバスクを呼吸しながら飲まなくちゃ、わしらの酒は死んでしまうて」(「酒のシンボル」 犬養道子 「洋酒天国」 開健監修) 



総じて魚の内臓は、汚いものと思われがちですが、タイの内臓は実に見事な美しさで、特に桜の頃のタイは内臓までが充実して輝いて見え汚い感じはまったくありません。江戸中期の俳人、几董は料理にくわしい人らしく、「はらわたを牡丹と申せさくら鯛」と料理通らしい句を残したほどであります。肝臓を俗にキモと呼びますが、刻み生姜と一緒に煮付けてもよく、塩茹でにしてもおいしくいただけます。腸はよく洗って小口に切り、塩にまぶしておくと、塩辛として永く楽しめます。白子や真子の美味は、すでにご承知の如くでしょうが、真子を二つに開き、塩をたっぷりまぶして密封しておき、二十日後に清酒に浸して薄皮を離し、塩なれの具合を確かめて味わうと、天下の美味ここに有り−といったおいしい塩辛となります。(「味覚三昧」 辻嘉一) 


むかしの若さ、いまいず
一・八リットル入りのお酒の瓶を抱え込んだそのお人、早くも出来上がっているらしい。桜の木の下に敷かれたゴザの上にどっかと腰を据え、お仲間たちとさっそく、 春公園の花の宴、といきたいところですが、真上に咲く花なんか、一度たりとも見上げたためしがない。 めぐる盃歌入れて、ともうカラオケに夢中。 千鳥足にてよろめきし、むかしの若さ、いまいずこ…。(「志ん朝のあまから暦」 古今亭志ん朝・斎藤明) 


墨上春遊
黄昏(こうこん)転(うたた)覚ゆ薄寒の加わるを
酒を載せて又過ぐ江上の家
十里の珠簾二分の月
一湾の春水、満堤の花
たそがれどき、なんとなく寒さが募り、酒を携えて、また川べりの料亭へと上る。
十里の堤に立ち並ぶ青楼、空に満月、春の水は入江に満ち、桜の花は堤に満ちる。(石川忠久 訳)(「酒場を愉しむ作法」 自由酒場倶楽部 吉田類監修) 永井荷風の漢詩だそうです。 


つぼみ酒
早い話、鹿児島で酒をのんでも薩摩弁が聞けるわけではないが、土佐ではどこへ行っても高声の、あの明快で陽性きわまりない土佐弁がきけるのである。春の花の季節など酒徒を見てあるくだけでも、いま土佐にいる、という駘蕩(たいとう)たる気分にひたることができる。花にはすこし早いころ、お城にのぼったことがあった。つぼみはまだなお固いというのに「つぼみ酒じゃ」といってそこここでムシロを敷いた群が群れていた。そのなかにまだ苗木の桜があり、桜ともいえぬ段階であるのに、この苗木にすら、男がひとり、水筒を片寄せてしずしずと飲みすすんでいた。こういう風情(ふぜい)のおかしさ、楽しさは、もはや失った日本人をそこに見るようではないか。(「土佐の高知で」 司馬遼太郎) 


四十歳の人
昭和十年頃、四十歳の人が酒場へ入ってゆくと「オッ、老人が来た」という目で見られたもんだと『なぎの葉考』の野口冨士男さんが感慨深そうに語ったことがある。いくら時代が変わったといったって、その上に三十年をプラスするんですぜ。いい加減イヤになってしまう。(「江分利満氏の優雅なさよなら」 山口瞳) 


アルコール類の自動販売機が林立
「勝手なことを言って申し訳ないけど、三鷹に部屋を借りたんだよ。そこなら病院も近いし家賃も安いし、住まいと仕事部屋を兼ねてそこでひとりでやっていこうと思うんだ」三ヶ月間の断酒と規則正しい生活のために以前より瘠せた彼は、退院した午後、そう言い残して僕の前から去っていった。また一緒にやっていこうと何度も引き止めてはみたけれど無駄だった。入院中よりも外に出てからの過ごし方が重要であるアルコール依存症のことを考えれば、それも仕方がなかった。彼がこれから送る日常生活は、いつどこでもアルコール類が手に入る誘惑に満ち溢れている。ビールや日本酒をうまそうに飲み干す映像がテレビから大量に流れ、人々にアルコールを飲ませようというマインドコントロールが日常的に行われている。街角にはあちこちにアルコール類の自動販売機が林立している。こんな誘惑に満ち溢れている世界で、はたして彼は断酒生活が送れるのだろうか。一度飲めば、再び連続飲酒が始まり破滅的な結末になるのは目に見えている。(「修羅場のサイコロジー」 本橋信宏) 著者と仕事部屋を同じくした友人のことですが、著者自身は睡眠薬による薬物中毒になっていたそうです。 


帝国劇場
まづ大阪勢力が東京の芝居を買ひつぶすと共に、芝居茶屋は本家茶屋といふ名にかはり裁付袴を穿いてお客の世話をしてゐた出方は女出方にかはつて了つた。間もなく本家茶屋が直営案内所となつた時は女の出方がエプロン装の女給さんにかはつた。それでもまだその頃までは桟敷にも土間もお客は坐つて見物し、一家族の物見湯山らしくお弁当を食べたり、莨をのんだり酒を酌みかはしたりして一日一夜のお芝居見物をたのしんでゐた。お芝居のほうでも、場代の中に菓子と弁当とおすしをカスベと称して盛込みにした食事の提供をしたものだ。冬ともなれば、見物席の一間一間へあんかを入れてくれたりした。帝国劇場が出来ると共に、俄然、座席は椅子席にかはり、絵かんばんはとりのけられ、幟もなくなつて花輪といふ飾りものになり、場内に於て喫煙も飲食も一切御断わり申候といふことになり、役者のよび方も技芸委員とむつかしい肩書がついた。(「東京おぼえ帳」 平山蘆江) 


秋鯖や
労働省の調査では、中高年サラリーマンの三人に二人が「転勤はいや」と答えていた。
秋鯖や上司罵(ののしる)るために酔ふ 時彦
俳人協会理事長で、ある時期、サラリーマン俳句の時彦、といわれたこともある草間時彦氏のこの句は、別に人事異動を詠んだものではないけれど、憤懣(ふんまん)やるかたない異動の内示を受けた晩に、同僚とともに一杯飲み屋で、愚痴半分怒り半分の気焔(きえん)をあげている光景を想像しながら読むと、味わいもひとしおである。(「江國滋俳句館」 江國滋) 


鹿鳴
(詩経の)小雅の先頭にある「鹿鳴」は饗宴の楽歌として最も多く用ひられる詩である。
我れ旨酒有り、嘉賓ともつて燕(たの)しくあそばむ
我れ嘉賓あり 瑟を鼓し琴を鼓す 瑟を鼓し琴を鼓し 和楽したまたたのしむ
我れ旨酒あり 以て嘉賓の心を燕(やす)んじ楽しめむ。
これは第二章と三章にある句である。(「詩経随筆」 安藤圓秀) 


ヤシ酒(2)
ヤシ酒はヤシの実からつくると思っている人が多いようだが、そうではない。ココヤシの樹液からつくるのである。ココヤシの若い花枝がつぼみをつけると、夕方、その先を切り取り、ビールびんなどの空きびんに枝を差し込んでくくりつけておく。枝からしたたる樹液が、朝までにはびんにいっぱいになる。そのまま置いておくと、糖分が多いので発酵し、昼ごろには酒になっている。甘みと酸味のまじった白い酒だ。さわやかな口当たりで、カルピスに似た味がする。アルコールは三、四パーセントとビールていどだが、ほのかにヤシの木の香りがし、なかなかうまい。ヤシのあるところアフリカ中でつくられているが、初めて飲んだのはタンザニアの海岸地帯の農村だった。海辺の木陰で、ゆっくり打ち寄せるインド洋の波をながめ、ヤシの葉ずれの音を聞きながら飲んだヤシ酒の味は格別だった。しかしヤシ酒は、夕方まで置いておくと発酵しすぎて酸っぱくない。飲みごろは正午から午後二時ぐらいまでだ。そのため、飲んべえたちは昼から一杯始める。木陰の切り株に腰をおろし、びんから直接のラッパ飲みで、つまみは世間話である。「隣村のよりもこの村の方が味がいい」などといいながら、みんなどんどんおかわりをする。午後早いうちにすっかりできあがってしまう者もいる。仕事はどうなっているのかと聞くと、畑の世話は朝のうちにすませてしまったという。自分たちの分がとれるだけの小さな畑らしい。アフリカの海岸地帯の土地は肥えている。にもかかわらず農業が発達しないのは、このヤシ酒のせいだという意見もある。しかし、あの暑さの中で、昼から野良の出ろという方が酷だろう。(「アフリカを食べる」 松本仁一) ヤシ酒 


八盃機嫌
是は二二はゞかり、近頃恐れ多ヲート、、、 二三ちりますちります。亭主二四八盃とやらで昼程(ひるほど)から二五二たてお客を致しましたら、大きくたべ過ぎましたて。この御酒は口に合ひますか。今朝(こんてう)二六口をつけましたが二七十八両二歩がへで取(とり)ました。
注 二二 恐れ入ります。 二三 こぼれます。 二四 酒の酔いかげんを、その程度で一盃機嫌・二盃機嫌・五盃機嫌などといい、泥酔の状態を十盃機嫌という。亭主は客の相手を次々とするので、八盃機嫌になる、という意。 二五 二組。 二六 四斗樽に、のみ口をつけたが。 二七 この時代、酒一升は二百五十文から二百八十文ぐらいが普通。よって、この十八両二歩は、銭四千文=一両(約二万円)換算として、四斗樽六、七樽を問屋から買い入れた、の意となる。(「酩酊気質 小ごと上戸」 式亭三馬 神保五彌校注) 


だいじやまる【大蛇丸】
地黄坊樽次(じおうぼうたるつぐ)と酒戦した大蛇丸底深。実は池上太郎左衛門と云う人である。(ぢわうばう参照)
大蛇丸酒戦に敵をのたくらせ 蛇にのたくるは縁語
一升や二升は蚊だと大蛇丸 蛇が蚊を「上:夭、下:口 の」む
酒戦の敵を一ト「上:夭、下:口 の」みの大蛇丸 蛇に「上:夭、下:口 の」むの結び (「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


悪所よりの御帰り
(光圀が)ある曙(あけぼの)悪所(あくしょ)より只(ただ)御壱人御帰有しに、道行人とも先にあぶれ者有て刀を抜て人を追ふとて、皆逃走来る。公(光圀)ハさわぎ給はず、よしなき処へ行合たる物かな、されバとてセんかたなしとて近寄て見給ふに、若男の三尺ばかりの刀をぬきて振廻し居たり。さするに人を斬らむとにもあらず。酒狂にて刀を抜けるに、人々畏れて逃走るを面白がりて、いよいよ狂ける体なり。よくよく御覧有るに御出入申麾下衆(きかしゅう)の子也。それに候ハ誰某にてハなき歟(か)と被仰けれバ、さいふハ何者ぞと云。近く立寄有て御編笠をとり給へバ、則(すなはち)平伏す。早刀を納よと被レ仰けれバ、鞘(さや)へおさめぬ。よく酒に酔けるよな。供もなし、参れと被仰けれバ、畏(かしこまり)て御屋敷まで送り奉りけるとぞ。御直話。(『玄桐筆記』)(「水戸黄門の食卓」 小菅桂子) 江戸での十代の水戸光圀だそうです。 


二十枚の短冊
谷崎は、阪急の岡本というところにいた。私が出向いて果して書いてくれるかどうか、自信はなかったが、岡本の家を訪ねると、谷崎(潤一郎)は、がらんとした座敷でしゃもを食べながら、酒をのんでいた。傍らに日本髪の若い女人が坐って、酒をついだり、鍋をこしらえたりしていた。谷崎はじぶんが一口にのみ干しては、盃をわたしの前につき出し、酒を嗜まない私を困惑させた。鍋のしゃもは、醤油だけの味で、辛かった。私が、口ごもりながら、短冊のことを話しだすと、「売らないなら書く」と言った。売るかもしれないが、半歳は売らないと約束して、二十枚の短冊を渡すと、硯をはこばせて、即座にその二十枚を書いてくれた。二十枚の短冊を抱いて駅の踏切にさしかかったとき、馴れない酒の酔いが発して、線路の中ほどで歩けなくなって坐りこんだ。ここで坐っていたら轢かれると思って、地を這いながら、踏切を越え、やっとのおもいで大阪にかえった。柳屋には、半歳はうらずに暖めてくれと、谷崎との約束の条件を出したが、士魂商才などと言いながら彼は、その月のうちに、雑誌『柳屋』に広告してうり出してしまい、私は谷崎に顔むけできない仕儀になった。三百円に諸家の色紙類の金も加えて、三ヵ月滞在の旅館の代金をおおかた支払って余りが出たので、一足先に妻だけ長崎に送った。(「どくろ杯」 金子光晴) 


あらえっさっさの時代
(1978年)三月十九日(火)
サンデー毎日「MY・JOKE」入稿。高1コース連載第一回「デラックス狂想曲」入稿。旺文社「時」より、新宿ルポ依頼。及び六月末までに六十枚の短編という注文。引受ける。夜、眉村卓より電話。豊田有恒と三人「深海魚」で飲む。水割り四杯。さらに「青い部屋」へ。サンケイの岩崎氏、小説現代宍戸氏など来る。水割り七杯。
註・このころから、酒量を気にしはじめている。
三月二十日(水)
岡田真澄とサソリ座公演「夏」を新宿へ見に行く。主演の加賀まり子に紹介してもらう。彼女も「48億の妄想」を読んでいた。あと、真澄とシシリー亭へ。
三月二十一日(木)
サンケイ新聞岩崎氏より電話で、星新一「進化した猿たち」の書評の依頼あり。小説現代宍戸氏来宅。「懲戒の部屋」入稿。夜、河出書房久米氏と「青い部屋」で飲んでいると、星新一、小松左京、その他SF勢どやどやとあらわれる。生島治郎、高松女史も来る。全員高松女史の部屋へ押しかけ、ふた組にわかれて麻雀。
三月二十二日(金)
小説新潮の横山氏より、三十枚という依頼あり。小説新潮は没にしないので安心して書ける。資生堂PR誌より、一枚という依頼。夜、「時」の人たちと「ぽろん亭」で待ちあわせ。真鍋博も来る。写真を撮り、新宿探訪。「POP」「JAIL・HOUSE」「FLOWER・POWER」「吾兵衛」「UNGRA−TOP」「シシリー亭」を飲み歩く。
三月二十三日(土)
サンデー毎日のパーティに出席。終わってのち、村島健一、六浦光雄、永田力氏とタクシーに同乗、吉原へ。酔狂連の赤線忌に出席、どんちゃん騒ぎとなる。−(「腹立半分日記」 筒井康隆) 


西門行 城西門の歌 漢 無名氏
(三)美酒ヲ醸シ                 美酒を醸し
   肥牛ヲ炙(あぶ)り、            肥牛を炙り、
   心ノ懽(「りっしんべん+上:くさかんむり、中:口*2、下:隹 よろこ)ブ所を請呼シ  好いた仲間を請待し
   用(もつ)テ憂愁ヲ解ク可シ。       以て憂愁を解くべきだ。』
(四)人生 百ニ満タ不(ず)          人の一生は百にも足らぬのに
   常ニ千歳ノ憂を懐(いだ)く。       常に千歳の憂いを懐いてゐる。
   昼短ク 夜ノ長キヲ苦シム       昼は短く、生憎と夜は長い
   何ゾ燭ヲ秉(ト)ツて遊バ不(ざ)ル。   何うして燭(あかり)を ともして遊ばないのか』(「中華飲酒選」 青木正児訳著) 


酒の功徳
しかし私の口中もかなり痛められてゐて、食事時になると、ともすると泣き面にならうとする。殊に味覚が呆けてゐるらしく、殆ど味が判らないのは、閉口である。ところが、いかにも身勝手なやうではあるが、酒だけは依然としておいしくいただけるのは、自分ながら不思議である。先日も、N教授が言つた。「お酒など上つて、しみませんか」「ところが、因果なことに、何ともないのです」「いや、結構なことです」喉も絶えずいがらく、咳をする度に、あちことが痛む。しかし私は比較的のんきさうな顔をして、苦痛に耐へてゐる。決して私の痩我慢からではないとすれば、憂ひを払ふ玉箒ともいふではないか、やはり酒の功徳にでも帰すより外はないやうである。A教授が私の患部を押へながら、真剣な顔をして言ふ。「これで一応中止するか、更に押してかけるか、むつかしいところですが、思い切つて、もう二三回かけることにしませう」私はA教授に一礼して、放射線の診察室を出た。(「阿佐ヶ谷日記」 外村繁) 上顎癌だったそうです。 


粕汁
昆布出汁(だし)で酒の粕を漬けておき、一時間後にすり鉢でよくすり、さらに出汁を加えて、鍋で煮ます。中身に、揚げ豆腐、大根、人参、椎茸を細く切り、笹がき牛蒡を加えて粕汁へ入れ、淡口醤油で加減して煮立て、お椀へよそい入れ、みじん切りの芹をたっぷりかけていただきます。濃味を好まれる方には、塩鮭の頭を入れてもよいのですが、酒の粕を多く使った精進仕立てにかぎります。もし、物足りなく感じられたら、清酒をすこし加えると、ぐっと味が生き返ります。すり鉢ですって鍋に移した酒の粕へ、砂糖を多く、極小の塩で加減をして、小茶碗でによそい、おろし生姜を加えると、即席の甘酒代用が誕生します。(「味覚三昧」 辻嘉一) 


クコ酒
クコ酒は漢方薬としても利用されている。(水戸)光圀が中心になってまとめた『救民妙薬』という本がある。これは山村僻地にあ住む者、あるいは零細貧窮の人々を対象に、手近な材料で簡単にできる治療法を説いた領民のための家庭医学書である。そのなかで光圀は補薬(おぎないぐすり)として、クコ酒は「肝労面目青口苦(かんろうめんもくあおくちにがく)精神ほれぼれとなり、物をぢなどしてひとりふすことならず、或目不明(あるめあきらかならざる)者などにあたへてよし」とすすめている。クコ酒は「クコ一升、酒二升をよく煮てしぼり、其酒を用」いるとある。補薬というのは「漢方で体力を養ふを主眼として用ゐる薬」とあるから、さしずめ栄養剤の一種であろう。クコは若芽ばかりでなく、秋になると果実を、冬は根を採る。こちらは強壮・解熱の薬効ありとして大昔から知られている。(「水戸黄門の食卓」 小菅桂子) 


ヒポクラテスほか
ワインを飲め、病気は退散する(ヒポクラテス)。
酒は肉体とともに精神の恢復にあずかってちからがある(プラトン)。
酒は人を饒舌にし友をつくり、仇敵とすら和解させてしまう(ホラチウス、アリストテレス、キケロ、ブルターク)。
酒は悲しみを追い払い、歓喜の情を喚びおこす(モンテーニュ)。
折りあらば飲み、折りなくとも飲む(ドン・キホーテ)。
酒は大きな楽しみをあたえてくれる。そしてどんな楽しみでも。いやしくも楽しみと名のつくものはそれ自体一つの善なのだ(ドクター・ジョンソン)。(「飲んだくれてふる里」 小宮山昭一) 


明和二年[一七六五]乙酉(きのととり)
○三月七日 講釈師深井志道軒終(お)ふ。(名栄山、号無一堂と云ふ。もとは知足院の僧也。衒艶郎(かげま)に惑溺して材を失ひ、後、浅草花川戸戸沢長屋といふ所に住み、浅草寺境内に於いて軍書を講ず。其の間に戯言を交へ、聞く人をして絶倒せしむ。一座に僧と女あれば、必ず譏(そし)る事甚だし。日々多くの銭を得るといへども、すべて酒にかへて翌日の貯へをなさず。在世の日、自ら肖像を画きて梓に上(のぼ)せ、戯言を書きつけて人に与ふ。「元なし草」と云ふ草子一冊を著す。今年八十四歳にして終れり。−)(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


酒不可飲
日本橋区浜町一丁目十四番地の売薬商木原季四郎方にては予(かね)てより神田の津村にて製する酒不可飲(さけふかいん)といへる薬を取次売捌(うりさば)き居るに先頃より何者の悪戯にや先払郵便の書を投じ貴家にて売捌く酒不可飲といふは甚だ酒屋連の商売を妨害する者ゆゑ断然売捌きを廃すべしなど申し送る族(やから)ありしが、一昨廿三日又候(またぞろ)同家へ先払郵便の届きし故若(も)しや商売用かとも思ひ郵税を払ふて披封せしに
拝啓陳者(のぶれば)貴家にて売捌き被成(なされ)候作不可飲の義は酒営業者に於て妨害不少(すくなからず)候に付売捌方停止の旨度々申入候得共(えども)御聞入無之(これなき)に付此上は商売的の讐敵(あだがたき)なり依(よつ)て来る廿六日開府三百年祭の当日を幸ひ上野すりばち山に於て決闘可致(いたすべく)候間(あいだ)午前十時迄に相違無(さうゐなく)御出張有之度(これありたく)此段申入候也 本町三丁目十番地 廿二年八月廿三日 佐藤某 とありしには木原もさすが呆れかへりしが兎に角(とにかく)廿六日の十時迄には酒不可飲を得物(えもの)に携へて上野すり鉢山へ押出すとのこと =明治22.8.25(「朝日新聞の記事にみる 奇談珍談巷談[明治]」 朝日新聞社編) 


ひしお
ところでこの味噌と醤油の親もとらしいもろみのような醤(ひしお)は、一種の嘗物(なめもの)であったと想像される。植物性の醤の他に、今日の塩辛にあたるししびしおがあったこともその感を深くさせる。今日の総理大臣にあたる北条執権が、味噌を肴にして家臣と酒を飲んだほど、質素であったという鎌倉時代の話を、現代の味噌汁用の味噌と解釈するのは軽率で、当時の味噌は上代の醤の系統をひいて、より多く嘗物で、味噌をみそ汁用の調味料として、連想し易い現代の感覚とは、時代的なずれがあるかと思う。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 北条時頼の酒 


正しい勤務後の過ごし方
夜は、街に飲みに繰り出すか、フィットネスクラブで水泳に励む。週に二、三回は泳いでいるが、プールから上がると、一リットルのビールを飲み干す。飲み会に出れば、途中で引き上げようとする同僚たちに、「まだ飲み足りなぁ−い!」と叫ぶ。結局、朝までグラスを傾けることになるのだが、「もう帰っても仕方ないから、始発で会社に行っちゃおう」遅刻がないのも自慢である。そんな彼女の夜遊びを、良人は実は歓迎している。良人の趣味はファミコン。が、「わたしのいるときは、わたしと遊んで!」と、"妻在宅時ファミコン禁止令"を出されたため、Y子さんが飲んだくれている間も、けっこう楽しいのだ。ある日、やはり朝まで飲んでそのまま出社した彼女に、こんな話が伝わってきた。「あれじゃ、ダンナがかわいそう、と評判になっている」彼女の勤務先は、夫の会社の関連企業。「彼に迷惑がかかっては…しばらくお酒やめます」と誓いをたてた。その夜、「ごめんね、わたし反省してるの。今夜は思い存分、ファミコンしていいよ!」というと、夫は、「ほんとっ?」と叫び、目を輝かせてファミコンに飛びついた。深夜まで一人黙々と遊ぶ姿に安心して、自由気儘さも取り戻した。「夜遊びを嫌がってはいないんだ」こうして、美貌・酒豪・幸福の三拍子そろった人妻OLは、自分の生き方にますます自信を深めたのだった。(「デキゴトロジー」 週刊朝日風俗リサーチ特別局 編著) 


或るおだやかな夜の自問自答
「酔ひましたね」
「酔ひました」
「歩きませうか」
「歩きませう」
「飲みませうか」
「飲みませう」
「面白いですな」
「面白いですね」
「帰りませうか」
「帰りませう」
「休みませうか」
「休みませう」
「さよなら」
「さよなら」(「放浪行乞 山頭火百二十句」 金子兜太) 昭和11年に書かれた自由詩のようなものだそうです。 


新宿の秋田
「新宿の秋田、ご存じでしょう!あそこでね、今夜、さいごのサーヴィスがあるそうです。まいりましょう。」その前夜、東京に焼夷弾の大空襲があって、丸山君は、忠臣蔵の討入りのような、ものものしい刺子(さしこ)の火事場装束で、私を誘いにやって来た。ちょうどその時、伊馬春部(いべはるべ)君も、これが最後かも知れぬと拙宅へ鉄かぶとを背負って遊びにやって来ていて、私と伊馬君は、それは耳寄りな話、といさみ立って丸山君のお伴をした。その夜、秋田に於いて、常連が二十人ちかく、秋田のおかみは、来る客、来る客の目の前に、秋田産の美酒一升瓶一本ずつ、ぴたりぴたりと据えてくれた。あんな豪華な酒宴は無かった。一人が一升瓶一本ずつを擁して、それぞれ手酌で、大きいコップでぐいぐいと飲むのである。さかなも、大どんぶりに山盛りである。二十人ちかい常連は、それぞれ世に名も高い、といっても決して誇張でないくらいの、それこそ歴史的な酒豪ばかりであったようだが、しかし、なかなか飲みほせなかった様子であった。私はその頃は、既に、ひや酒でも何でも、大いに飲める野蛮人になりさがっていたのであるが、しかし、七合くらいで、もう苦しくなって、やめてしまった。秋田産のその美酒は、アルコール度もなかなか高いようであった。「岡島さんは、みえないようだね。」と、常連の中の誰かが言った。「いや、岡島さんの家はね、きのう空襲で丸焼けになったんです。」「それじゃあ、来られない。気の毒だねえ、せっかくのこんないいチャンス、…」などと言っているうちに、顔は煤だらけ、おそらしく汚い服装の中年のひとが、あたふたと店にはいって来て、これがその岡島さん。「わあ、よく来たものだ。」と皆々あきれ、かつは感嘆した。(「酒の追憶」 太宰治) この「秋田」と同じ店なのでしょうか。 


廻船問屋
諸国回船多しといへども、運賃をもつて漕するは、大阪より江戸に下るを第一とす。これまた大坂を本とし、江戸を末とし。その中に二種あり。酒樽を積むを樽船と云ふ。その他の諸賈物を積み漕すを菱垣廻船と云ふ。−(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 


ミニチュアビン
あるヒマラヤ遠征隊では、キャラバンのさいに、ウイスキーを全部ポリエチレンのビンにうつしかえてしまったそうだ。キャラバンが続くうちに、ポリエチレンの成分がアルコールに抽出され、とんでもない悪臭のするウイスキーになってしまい、とても飲めたものじゃなかったそうだ。ウイスキーは、重くとも取扱いに注意してビンのまま運ぶに限る。−
わたしがまず準備をしたのは、トリポリの町の酒屋にとびこんで、ウイスキーのミニチュアビンを買いあさることであった。ミニチュアビンだったら、口飲みができて手軽だし、第一、危険の分散になる。大ビンで一本割ってしまったら、被害は甚大であるが、一ダースのミニチュアビンが一度に割れるような事故は、先ず考えられない。また、飲む助のわたしのことである。大ビンから飲んだら、つい度をすごしてしまい、あとになってから酒がきれて、淋しい思いをしなくてはならない。一日にミニチュアビン何本という割当てを自分に課したらだいじょうぶだ。(「食生活を探検する」 石毛直道) 


自家用酒
明治三十二年までは、普通の家でも一定の免許料を払えば自家用酒をつくることができました。"「酉元 もと」麹税"というものがあり、販売用のこうじに酒税の半分を課税していたので、それを買ってきて自分で酒をつくって飲んでもよかったのです。もちろん、家庭ではどぶろくが主体でした。明治十三年、酒造家でなくても年間一石までは酒類を製造してもかまわないとし、さらに十五年には醸造高の制限のほか、免許税として一八銭を徴収することにしました。ころが、自家用酒製造者数が増え、酒類営業者の造石高が著しく減少。そこで、政府は財政上の必要から十九年七月、自家用酒の製造を禁じました。しかし、自家用としての濁酒の醸造は許可していました。明治三十二年、歳入増加をはかる目的で、造石税率を増加。その税源確保の妨げとなる自家用酒酒造を全面的に禁止。酒の税率は明治十一年の一石当たり一円から、二十八年の七円、三十八年の一七円と飛躍的にはねあがり、酒は国家におおいに貢献することとなりました。(「酒博士の本」 布川彌太郎) 


枝豆
枝豆をゆでて、実をさやからとり出し、薄皮をとってから、包丁で切ってすり鉢でつぶす。酒を少々入れ、水で少しうすめ、更に塩味をつけたのを、ぬたもちというが、東京あたりでは何処の家庭でもやるものではないようだ。よくつぶしたら、あたたかい白飯にかけて食うのだ。飯にかける前に、小鉢に入れて食卓に出しておいて、酒の肴にしてもよい。(「厨に近く」 小林勇) 


ながいき
「先生、私は長生きをしたいんです。ですから酒も「上:夭、下:口  の」みません」「「上:くさかんむり、下:良 たばこ」は」「「上:くさかんむり、下:良 たばこ」も一切やりません」「女は」「見るのみイヤです」「ほかに何か道楽は」「なんいもありません」「それじやァ、長生きすることはありませんな」(「笑いのタネ本」 宇野信夫) 


酒ビンの疑似容器
恐妻家が、妻に隠れて酒を飲むための酒ビンを、本の形をした容器の中にこっそり隠すなんてのはいじらしい。彼にしてみれば、ぬけめなくやったつもりなのではあろうが。しかし考えたものだねえ。容器の底を指で押すと、ビンの口だけが出てくる。とっさに指を引き抜けばストンと落ちこむので、見つかってもとっさにごまかせる。それに背文字の判決文集という文句が効いている。写真 イギリス特許14055(1885)(「珍々発明」 中山ビーチャム) 


音二郎と貞奴
「一本つけてくれ」突然、となりの座敷で男の声が聞こえた。びつくりするほど頑固な声なので貞奴はびつくりした。「少し酌をしてくれたまへ」女中にいひつけてゐるらしい。「何かお料理を持つてまゐりませう」如何にも気の荒さうな客なので女中は逃げにかかつた。聞いたやうな声だと貞奴は思つた。其中、隣室の客が二本目のお銚子を呼ぶと、貞奴もたまりかねて一本つけてもらふ事にした。こつちは女一人、となりは男ひとり、相当いける口なのでどうせ飲む酒なら一緒になりませうよと女の方から云つた。間仕切りをとりはらふと、どつちも知らぬ顔ではなかつた。男は当時有名になりかけた壮士俳優の川上音二郎である。「なアんだ君か」「えらいところを見つかつてお気の毒さま」「君だつて同じだらう」二人はどつと笑つた。貞奴の待つ相手は歌舞伎座の立女形(たておやま)中村福助、後に歌右衛門になつた人で、川上を待ちぼうけさせたのは同じよし町の芸者であることを貞奴はかねて知つていた。待ちぼうけ同士ではあり、酒の飲みつぶりも双方水際立つゐるので、忽ちの間に二人とも酔つて了ひ、人を待つてることなどけろりと忘れ、好い心持に寝そべつて了つた。「あたしたちを訪ねて来る人があつても、もうかへりましたと云つて頂戴」貞奴はあとで女中に云ひつけたが、まるで申しあはせたやうに二人の待ち人はとうとう来なかつた。「今度はいつ逢はう」一寝入りしてさめた川上が女に聞くと、「いつでもあなたの御都合で」女は不用意に答へて了つた。(「東京おぼえ帳」 平山露江) 


712味酒(うまさけ)を 三輪の祝(はふり)がいはふ杉 手触(てふ)れし罪か 君に逢ひがたき
味酒を−枕詞。神酒をミワというところから、三輪にかかる。 ○祝−職員令の義解に、祝は国司が神戸(かんべ 神領に属し、租・庸・調を神社に納めた民)の中からえらび太政官に申す。もし神戸に人が無ければ庶人から取るとあり、神主・禰宜につづいて神に仕える人。ここでは広く神職をいう。 ○いはふ杉−けがれを遠ざけて大切にしている杉。三輪山には有名な神杉があった。 [大意]三輪の祝らが大切に斎きまつっている杉に手を触れた罪なのでしょうか。君に逢うことのむずかしいのは。(「万葉集」 高木・五味・大野校注) 


サヨリの磯蒸し
サヨリと言えば、思い出はいっぱいある。ある時、どこであったか磯蒸しという野趣満点の味わい方をしたことがあった。三枚に下ろして淡塩を当て、竹の皮を敷いて蒸し上げたものにもみのりをかけたものであったが、これが淡白な中にも上品な奥味があって酒の肴には大結構であった。(「食あれば楽あり」 小泉武夫) 


ドッグズ・ノーズ
Dog's Nose ピルスナー・グラスにドライ・ジンを注ぎ、よく冷えたビールを加え、軽くステアします。 Dry gin 45ml, Beer 90ml ドライ・ジンにをビールで割っただけのこのシンプルなカクテルに、誰がドッグズ・ノーズ、つまり犬の鼻なんて愉快な命名をしたのでしょう。なんとなく、いつも酒で鼻がぬれているような「上:夭、下:口 の」んべえの顔が浮かんできます。それとはまた別に、他人の秘密を嗅ぎまわる、匂いに敏感なあまり感心しない鼻も連想させます。ビールで割られたジンは、どことなく軟らかく、ちょっと甘くなるようです。馴れると、口当りがいいので、結構グラスがすすんでしまいます。ビールを使うカクテルには、他にも面白いものがいくつかあります。ビールとトマト・ジュースで、レッド・アイ(赤い目)。ジンジャー・リキュールをビールで割れば、ストーン・ヘッド。固い石頭のことでしょうか。ビールを使うだけに、どれものど越しが爽快なカクテルです。(「酒場ボロンゴ」 オキ・シロー 解説部分) 


付録 近き頃世に行はるゝ物
△麺麭種類多し(パンは蛮語なるべし。然れども「米未 一字」又は「米反 一字」の字を仮用するも、簡にしてよし。西洋酒類ビール、ブランデン、オルトン、サンパン。○レモン水、ジンジンビア、麦酒、オイラン、薄荷水、あんず水、みかん水、其の外色々あり、茶店にも商ふ)(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


チブク
ケニアのビールは五銘柄あり、どれもけっこううまい。象のラベルの「タスカー」、キリマンジェロ山の万年雪がデザインされた「ホワイトキャップ」はともにピルスナー系の味で飲みやすい。緑色のびんに金色のキャップの「プレミアム」は、日本に輸入されているほどの品質だ。中びん一本が百円程度である。われわれにとっては手ごろな値段なのだが、月収一万円がいいところの庶民にとってはぜいたくな飲み物だ。市販ビールが飲めない人々は、かわりにチブクという密造酒を飲む。ヒエやアワ、トウモロコシなどの雑穀を発酵させたドブロクだ。白く濁っていて、酸っぱい。ナイロビ下町のスラム地区や農村などでは、かめに入れて裏庭に並べてあるので、とくどき飲む機会にめぐまれる。プラスチックのボウルにいっぱい、約二リットル入って三十円もしない。彼らはそれもビールと呼ぶ。しかし、冷えてはいないし、炭酸も入っていない。アルコールがビールほどもなく、穀物のかすが浮いているため、酔う前に腹がいっぱいになってしまうというしろものだ。(「アフリカを食べる」 松本仁一) 


風葉と草平
「これから、夏目(漱石)先生のところへ行くところで」と言うと、(小栗)風葉が、「是非一度夏目さんに紹介して貰いたい」と言った。「そんなら丁度今日がいいじゃないか。差支えなかったら、今すぐ参りましょう」と、(森田)草平が言うと、「差支えはないが、丁度夕飯時でもあるし…」と風葉はためらった。ではまず一緒に飯でも喰おうということになり、二人は榎町の鰻屋に入った。二人とも酒には目のない方だから、久し振りということもあって、二本が三本となり六本となり、相当に「上:夭、下:口  の」んだ。「上:夭、下:口  の」みすぎるとどちらもだらしがなくなる方である。いざ立ち上がろうとすると、足元が少しばかりおぼつかない。「やっぱり今日は大分酩酊したから、紹介してもらうのはこの次にしよう」「何、先生は少し位酩酊したからと言って、それを兎や角気にかけるような人ではない。折角だから今日にしましょう」草平がかかえるようにして二人は歩き出し、榎町から早稲田南町の夏目家へ向かった。夏目家の玄関を上ろうとした時、風葉がよろよろとよろめいて、上り框に倒れた。どうやら歩いているうちに一層酔いが廻ったようであった。勝手を知った草平が、風葉を抱きかかえ、漱石の書斎まで連れて行った。草平が、風葉を紹介しても、へべれけになった風葉はふんぞりかえっていた。漱石は不機嫌な顔をして、二人の様子をじっと見すえたまま、しばらくなにも言わなかった。あんなり何も言わないので、風葉が「いよオ、夏目君!」と、百年の知己のような顔をして、しゃべり出した。「天下語るに足るものは貴公と余あるのみじゃ」と言った。こういうせりふは漱石の最も忌み嫌うところであった。酔余のこととは言え、その日虫の居所の悪かった漱石は、ひどく腹を立てた。「馬鹿!」漱石は精一杯の声で怒鳴った。−
「私(森田草平)はぎょっとしてしまった。先生に叱られたからでも、怒鳴られたからでもない。それよりも、先生のその声が如何にも陰惨な、何とも形容の出来ない−もし云ふことを許されるならば、人間の声とは思はれないやうな、惻(いた)ましい声に聞えたからである。勿論二人ははふはふの態で引退つた。さすがに風葉氏も酒の酔ひが一遍に醒めてしまつたらしい。二人は何も云はずにそのまゝ別れてしまつた」(「物語大正文壇史」 巖谷大四) 

「煮る」か「焼く」か
これは水を使うか使わないか、すなわち「煮る」か「焼く」かに大別される。このほか、蒸す、燻製にする、フライにする、炒める、などがあるがここでは触れないでおく。オーストリアの肉料理が煮込みを中心に発達したことは、穀類や野菜を含めて、料理の核心がスープであった食生活の歴史を映している。そしてこのことが、赤ワインに対する要求を希薄にした理由なのである。同じことはドイツの食事にもいえる。肉と野菜のごった煮にパンという組み合せは、飲みものがなくてものどを通る。ソーセージとビールが、家庭の三度の食事とはなれ、ビアホールにみられる飲酒風俗を生む必然性がそこにあった。ウィーン郊外のホイリゲは、それがワインにおよんだ結果なのである。ソーセージやハム、ラディッシュ、酢漬けのキュウリなどをつまみに陽気に飲むホイリゲは、もはや食事の中に組み込まれた飲みものではない。堂々と酒であることを主張する姿なのだ。(「ブドウ畑と食卓のあいだ」 麻井宇介) 食事中に飲む水としてのワインの役割に関する文です。 


井手金作
明治の名轆轤(ろくろ)師として、いまでもよく有田で話の種になるのは井手金作である。俗に「ハデの金作」ともよばれ、たいへんな大酒のみで、毎日二升はかかしたことがないとのことである。大兵肥満の大男で、赤ら顔はあばただらけのじゃんこずらだったが、愛敬があって人から親しまれた。豪力無双で三尺の火鉢、径二尺五寸もある大水甕を楽々とひき、有田の香蘭社には金作がつくった高さ四尺の大壺がのこっている。石で大物をひくということはなかなかのことで、明治・大正・昭和を通じ、金作ほどの豪のものはいなかったそうである。仕事の荒いだけを「なた細工」というが、金作は大物つくりだが神経がこまかく、一面実に繊細なところがあった。金にもなったが金づかいが荒く、年中そこらに山のような借金があっても平気のへいざである。金が入ると二人引きの車で色街へ出かけて大尽遊びをした。奇智にとみ諧謔が巧みで、女たちをよろこばしてはたのしんでいたそうである。(「やきもの紀行」 小山冨士夫) 


金メダル食堂
「金メダル食堂」でホン・オの刺身を食べた私が、しばらくして直ぐこの生の刺身の美味しさというものに魅了されたのは、実は韓国名物の濁酒(どぶろく)、つまりマツカリ(ハングルも記載)のためであります。この酒は炊いたコメと麦曲子(ゴツチヤ 日本でいう麹)と水とで仕込んだ酒で、四〜五日間ほど発酵させてアルコール分五〜六%になったら、それを潰さずにそのまま飲む濁酒です。酵母でアルコール発酵をしただけでなく、乳酸菌も発酵して乳酸をつくりますから、酸っぱさも強い酒なのです。この酒を青磁の丼になみなみ入れまして、それをグイーと飲(や)りながらホン・オ料理を食べましたところ、あらあら不思議、あら不思議。ホン・オの強烈な臭気ときつい味はかなりおさまりまして、酒と肴の相性はまさに阿吽(あうん)の呼吸のように、ピタリと一致するのでありました。これはきっと、ホン・オのアルカリがマッカリの酸によって中和されるために起こる現象なのでしょうが、しかしこの辺りからも、「酒肴一体」という酒飲みの基本をしっかりと感じさせてくれるのですねぇ。さすがに、食の歴史と伝統の国かんこくですなぁ。(「中国怪食紀行」 小泉武夫) ホン・オは、韓国木浦(モッポ)で作られるエイ(ホン・オ)を密閉した甕に入れて発酵させた、とてくもなく臭いが「うまい」食べ物で、結婚式や葬式に食されるのだそうです。 


父親
父親は、一本の晩酌と、娘自慢を生甲斐にして生きている。それだけに、こんどの事件は、彼女としては知らせるのが死ぬようにつらいことだったにちがいない。しかし、一面からりとした性格の彼女は、そばで私がおもうほど、そのことについて愚痴らしいことはなにも言わなかった。手紙を見て郷里では仰天したらしく、すぐさま父親が上京するという電報が入った。ともかく酒責めにして盛りつぶし、四の五の言っているひまもないようにして帰してしまおうと、私たちは相談をきめた。−
私は、夕食に父親を、神楽坂の「レストラン・尾沢」につれていったが、翌日の昼は、じぶん一人で出かけていって、よほど気に入ったのか、おなじものを註文して食べてきた。学校ののこりの手続きは簡単にすんで、彼は、その日の夜行列車に、三日二晩の酒びたしのふらふらしたからだをのせてかえっていった。(「どくろ杯」 金子光晴) 


「天盃頂戴」の酒名
各町の運搬人足は天下祭同様のいでたちで、新製の幟(のぼり)、旗、造り物をかつぎ、鉦(かね)太鼓ではやしながら町内に戻った。−
この「天盃頂戴」さわぎは、灯の消えたような江戸の新しい曙光(しょこう)になり、多くの錦絵の絶好の題材となっている。錫の銚子は旧幕の「御能拝見」以来の伝統であり、これがなければ通用しなかったろう。なお酒の銘柄は正宗、丹頂、〆升(しめます)、祐乗、鶴寿、六の花、千両箱、嘉久「扇形の図」(かくせん)、正吉、名将、一品、両国橋、英勇、戊(つちのえ)、日本橋、寿海、大勝利、正光、岸のまつ、かくふく(□なかに福)、喜久泉、ますゞ勇、かざり海老、徳和か印の二四種。どれが特級か二級かわからないが、掻き集めるには苦労したことだろう。(「江戸っ子歳時記」 鈴木理生) 御酒頂戴(天盃頂戴)(1)  


調味料
清酒は飲んで楽しむだけではなく、調味料としても日本料理に大変役立っている結構なものです。お魚を煮つける折、清酒と少量の味醂、醤油の三つで加減をして、煮たったところへ、手早く並べ入れ、落し蓋をして煮るのが良いのですが、清酒を用いないで、水と砂糖と醤油で煮たのを比較すると、味わいに雲泥の差があります。また、つけやきや蒲焼のタレも、濃口醤油と清酒と味醂でお加減します。。幽庵焼というのも濃口醤油5,清酒3、味醂2の割合の汁へ魚肉を二十分間ほど漬け込んでおき、金串にさして焼きあげるのです。−
初冬から泥中へもぐり冬眠するスッポンは、通人にはマルと呼ばれ、その形とまろやかな美味をもてはやされますが、食べ良く切ったマルを、水7に清酒3の割合の汁に沈め、約十五分間煮ると、良質のマルでしたら、かならず軟かく煮え、それへ生姜汁をしぼり込むと、特有の泥臭さがどこかへ飛んでしまいます。さらに、タイ、オコゼ、アイナメなどに川魚のコイやフナでも、マルと同様の煮方をスッポン煮と呼び、まったりした汁になります。(「味覚三昧」 辻嘉一) 


砂文字
砂文字といふ大道芸は、江戸から東京へ持越したものの一つであらう。明治の初年に両国に出ていた老人は酒好きで、先づ徳利と盃、次いで亀が盃を銜へてゐるところ、寿の字を吹き出してゐるところなどを描き、それからいろいろな文字や絵になる。思ひがけぬところからはじめて、次第に形をなして行くところに興味があつたらしい。この老人は両国の雑踏を避けて、元柳橋や浜町あたりへ出たさうである。(「明治の話題」 柴田宵曲) 


深夜の冷酒
酒は近年専ら日本酒を嗜(たしな)んできた。しかもかなり大量に飲む。酔って一旦床に入り、真夜中にぽっかり目が醒める。さあそうすると再び寝つかれない。これをやると、翌日非常に気分が悪い。そうと知りつつ深夜の冷酒(ひやざけ)。やんぬる哉。上にも書いたが、大酒するせいか、年がら年中腹下しをしていて、一日に五回も六回も上厠(じょうし)する。待てしばしということがない。これがどうも実に不快で厄介なのである。一週間ほど前から、試みにウィスキーに切り換えてみたら、「駅長驚くこと莫(なか)れ」下痢がぴたりととまった。一日に一回乃至(ないし)は二回上厠すれば済むようになったのである。しかし私はウィスキーを好まない。日本酒の方が格段にうまい。それにウィスキーだと、肴に制約を受ける。塩鮭を肴に一杯というわけには行かないのである。(「蝶ネクタイとオムレツ」 高橋義孝) 


芝居と酒を慎む
「芝居と酒を慎むことについて、新しく厳かな誓いを立てた。それを文字どおり守る決心である。だからそれを書き控えておいた。」そして彼はこの誓いを毎日曜日朗読する。「朝のうち誓いを読み返した。前の日曜日には病気のためにできなかったのだが、それは忘れたのでもなければ、怠慢だった訳でもない。だから罰金を払わなくても、誓いを破ったことにはならないと思う。」こういう誓いは、新学期の勉強同様、最初だけはうまくゆく。「神に感謝を!酒を飲むのを止めて以来、体の具合はずっといいし、仕事にも熱心になり、金も使わなくなったし、つまらぬ付き合いで時間を損することもなくなった。」けれどしばらくすると、「止むを得ず酒を飲んだ。酒が切れて気分が悪かったのだ。あまり急に禁酒したため、多くの災いを身に招いていると思い当たる節がある。」そこでピープスは誓いを修整する。「役所へ帰って、次の聖霊降誕祭までは、どんなことがあっても、一度は食事に一杯以上の酒は飲まないと約束した。」それでもピープスの誓いの「文字どおり」の解釈に抜け穴を見つけてくる。ロンドン市長就任祝宴で、「酒が出て、他の連中は飲んだけれど、わたしはただヒポクラスを少し飲んだだけだ。これでは誓いを破ったことにはならない。ヒポクラスは現在わたしの判断し得る限りでは、まぜ合わせて作った飲料にすぎず、酒ではないからだ。もし間違っていたら、神よ、許し給え!でも間違ってはいないと希望するするし、そのはずもないと思っている。」辞書を引いてみると、ヒポクラスとはワインをベースに砂糖と香料を加えたもの、とある。ピープスの酒量は、「今日ワインをたった二杯のんだだけだが、一晩中頭が痛み、明くる日一日気分がすぐれなかった。」と書いてあるかと思うと、「食後五、六杯ワインを飲んで(新しい誓いを立てるまでは、これは自由なのだ)家に帰った」ともあるので、定かなことは分からないが、どうも根っからの酒好きではなかったようである。(「ピープス氏の秘められた日記」 臼田昭) 


船渡聟
聟 腰桶を手にさげて、つづいて船頭、棹を肩にして登場。聟は常座で名のり、船頭は棹を下に置いて脇座にすわる これは 人のいとしがる花婿でござる。今日は最上吉日でござるによって、舅の方(かた)へ聟入(むこいり)を致そうと存ずる。まず急いで参ろう。 歩き出し まことに、今日は祝儀のことでござるによって、ささえを持って参る。誰(た)そ 人を雇うて持たせて参ろうと存じてござるが、某が人を使わぬことは 舅殿も知っておらるるによって、苦しゅうないことでござる。−
聟 それはかたじけのうござる。さて また進じましょう。 船頭 受け取り いただきましょう。 聟 それはかたじけのうござる。さて また進じましょう。 船頭 受け取り いただきましょう。 聟 つぎまするぞ。ドブドブドブドブ、チョロチョロチョロチョロ。 つぐ 船頭 うけて ヤ、一八皆になりましたの。 聟 まことに 皆になりました。 船頭 さてさてこれは 気の毒なことを致いてござる。 聟 イヤイヤ苦しゅうござらぬ。向かいに二〇酒屋もござろうほどに、あれで詰めさせて参りましょう。−
注 二 携帯用の竹で作った酒筒。−この狂言では「ささえ」とは言っても、樽と同義である。 一八 「ミナ。ミナニ ナル。終りとなる。なくなる」(日葡)。 二〇 「サカヤ。酒を貯蔵する穴蔵。または居酒屋。酒を造り、売る家」(日葡)。
婿入のために舅の家に行こうと、聟が船に乗ったところ、船頭にねだられて、結局持参の祝儀酒を二人で空けてしまうという話です。 


金馬の酒の覚えはじめ
おかみさんが話してくれた金馬の酒の覚えはじめが、いかにも金馬らしい話でおもしろかった。金馬が十三のことだという。ただし十三というのは数えでの話で、いま流にいえば十一か二だ。父が危篤になった。金馬は経師屋(きょうじや)に奉公をしている時で、その経師屋へ俥屋(くるまや)が金馬を迎えに来た。主人の許しを受けて、父のもとへ急いだ。父がいま死ぬかも知れないと思うと、心がふるえた。こんなことではいけないと、腹にうんと力を入れたがふるえは止まらない。よし、酒を飲んでやれと俥を酒屋の前で停めさせた。俥屋は土産に酒でも買うのだろうと思って俥を停めると、俥から降りて行った十三歳の金馬が酒を注がしてそいつをぐうっと飲みほして、「さァ急いでくれ−」と、また俥へ乗り込んだので、なんとも大変な小僧だと舌を捲いたというのである。(「落語無頼語録」 大西信行) 


この酒盃を
いつか、あなたがお祖父(じい)さまやお父さまのことをお話しなさった中に、人間には与えられた運命があって、避けようとしても避けられない、聖書に「神よ、この酒盃(さかずき)をわが唇よりはなし給え」とキリストがいうところがあるが、恐らくその意味はキリストが人間の肉体を受けて生活している苦悩を示したものであろう。しかしキリストはわが酒盃を飲み乾すことによって十字架についた…平凡な人間にも一人一人飲み乾さなければならない自分の盃はあるのだ…私の記憶違いがあるかも知れませんが、たしかそういう意味のお話だったと思います。自分の盃に満たされた酒とは、多分どうしても自分が人生で果さなければ業(ごう)のようなものでしょう。私も今この秋月亭という母譲りの店を自分に与えられた盃だと思い込むことが出来たようです。盃の中が苦い、飲みにくい味だということもよく解っています。でも私は決してそれを吐き出すことはしないでしょう。御健康をお祈りいたします。そうして、百合子さんにもよろしく 里子 (「この酒盃を」 円地文子) 


すべてをきわめて水にもどる
日本酒、焼酎、麦酒、ウィスキー、コニャック、ぶどう酒、ウォッカ、ジン、シュナップス、エール、スタウト、何によらず、あらゆる酒は、もしそれぞれの熟成過程をせかされずにたっぷりおっとりと眠り、追求されたあとなら、製法が蒸溜だろうと醸造だろうと、飲んでピンとわかるのは、あらゆる飲料の父祖、あの水のようにさらさらスルスルとのどを通るものなのだということ。この一点ではあるまいか。のどにヤスリをかけずにツルツル落ちていく酒。いかに豊満華麗の香りと響きを負わされた、人と歳月の技の極地をいかにかさねた美酒であっても、その本質はあの水を理想としているらしいということ。これが近年、乱酔、めちゃ飲み、混沌、悪酔のあげく、ようやく察しがつくようになってきた。すべてを尽くして水にいたる。すべてをきわめて水にもどる。(「続・食べる」 開健) 


横綱と前頭五枚目
ぼくはこの、もう一人の寂しい男の顔をじつとみつめ、ははあ、これは栃の海だよと思つた。たしか引退の直前だつたと思ふ。そこでぼくは話しかけた。「横綱は酒は強いでせう」「いやわしは体が小さいからねえ。駄目です」栃の海はぼそぼそする声で答え、「大鵬関や柏戸関は強いねえ。ウィスキー二本あけるからねえ」「ほう、それで横綱は?」「わしは弱いから、一本飲めばもうそれでいいねえ」と日の下開山横綱はまじめな顔で言つた。と、ここまでは前置きで−文壇酒徒番附とやらの前頭五枚目に進んで茫然としてゐる。そしてまづ考へたことは、本物の横綱がウィスキー一本ないし二本をあけるとすれば、こっちの前頭五枚目はどれくらゐ飲めばいいのかということだつたが、もちろん、そんなややこしい計算はコンピューターにだつてできるはずがない。添へ物の敢闘賞は苦笑した。どうやらしよちゆう二日酔ひで苦しんでゐることがばれたらしい。(「低空飛行」 丸谷才一) 


昔の禁酒
此の節酒(moderation)の精神は(節酒と云へるかどうか疑問だが)、嘗て、トリーブズ(プロシアの都会)の大僧正(Bishop of Treves)が、会衆に対して行つた次の節酒説教の中でもよく覗はれる。『悔悟と贖罪という高い特権を付与されてゐるところの兄弟諸君よ、諸君は天の美禄を乱用することの罪悪であることをば感得してゐられる…貴い本には「ワインは人間のハートを喜ばせるものなり」(旧約・詩編・第百四篇・十四−十五節)と書かれてある。それ故に、ワインを程よく用ひることは吾々の義務であるといふことになるのである。さて、此所に御出席の殿方の聴衆諸君の中には、四本の葡萄酒で酔ひが頭へ廻るやうな弱虫は居らつしやらないと存じます。併しながら、若し五本目か六本目で以つて、自分の細君を知らなくなり、或は、自分の子供達を打つたり蹴つたりし、或は又、自分の親友を敵視したりするやうな方なら、此の飲み過ぎをお止めなさい。神様にも将又(はたまた)人間にも不愉快なことですから、又そんな行ひは、同輩の軽侮を招くばかりですから。』−
右のお説教で見る通り、昔の禁酒といふものは、今日の禁酒とは甚だしく意味の違ふものだつた。(「酒の書物」 山本千代喜) 


製造部部長
役の言い方も変わったわ。昔は「麹」なら「麹屋」、「酉元」(もと)なら「「酉元」屋」で通っていたが、おらとこの蔵では「麹」は「工事担当の係長」、「酉元」は「「酉元」担当の係長」、そんで、それぞれの下に「主任」がいるというがんで、昔の酒蔵の組織を会社風に言い直したような格好になっているわいね。「杜氏」も今は杜氏と言わんで「製造部部長」と言っている。杜氏の下にいた「頭」はどうかというと、「製造部次長」だわ。 (「杜氏 千年の夢」 越後「八海山」杜氏 高浜春男) 


なぜ飲まなきゃならないの!?
なぜ飲まなきゃならないの!?家内は結婚いらい、ひたすら同じ問いを発し続けている。当然ながら、わたしは答えることが出来ない。ときどき、なぜ飲まなきゃならないかを、真剣に考えているのだが…。こないだ酔った勢いで、銀座でいざこざを起し、留置場入りしたときも、家内はただひとこと、「なぜ飲まなきゃならないの!?」と問うだけだ。いきさつについて、多少なりとも質問するかと思ったら、いきなりコトの本質に迫った。まったくの話、飲まなきゃ失敗することもない。それで謹慎して、飲むのを休んでみたが、なにやら自分が死んでいるような気がする。自動車だって、停っているかぎり事故は起さない。停っていて、自動車といえるかどうか?同様に四十一歳の小説書きもまた、酒がなきゃ仕事が出来ない。(「なぜ飲まなきゃならないの!?」 佐木隆三 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


餌香の市
『日本書紀』(顕宗即位前紀)に、億計(おけ)王の室寿の歌の一節に、
旨酒(うまざけ) 餌香(えか)の市に 直(あたい)以て買はぬ…
とある。ここの手造りの酒は、あの世評に名高い河内の餌香の市で、幾ら値段を高くつけても金銭では買えないほどうまい酒である、という意味である。なお、旨酒の「旨」は修飾的な形容詞であるから、旨酒という特殊な種類の酒を意味しているわけではない。おそらく濁り酒であろう。この歌謡から五世紀末には、ずでに河内の餌香の市では手造りの旨酒が売られていたことが知られる。なお、この記事が酒の売買に関する初見である。(「日本の酒造りの歩み」 加藤百一) 


小学校六年
でも本当の酒を飲んで酔ったのは、小学校の六年の時であった。出征兵士が町内から出た。あたし達子供も、何となくコウフンした。夜になると町内の人が集まり、酒を飲んでモノをたべ、その召集令状を貰った青年の肩をたたいて、「めでたい、おめでとう、よかったナ、しっかりヤレ」と、口々に言う。その青年と母親は青い顔をして頭を下げ、「ありがとうございます。しっかりやって来ます」と答えていた。あたしは、それを子供心に不思議な光景として眺めた。その時、赤ら顔のおじいさんがあたしを見て、笑いながら、「オイ坊主、お前も一杯飲め」と盃を出した。出征軍人は、心配そうな顔をしてあたしを見ている。あたしは、「いただきます」とスーと飲んだ、何しろ離乳食の時よりなじんで驚きはない。ワアワア騒いでいた大人達が、いっせいにこちらを見た。出征軍人の母は、「およしなさい、駄目ですヨ」と、とめる。ほかの酔った大人達は、「オイオイ飲め、日本男児じゃないか」あたしは平気でだまって飲みほした。まわりの人達は一瞬の間シーンとなったが、いっせいに拍手をし、「その意気だ、その意気だ、もっとついでやれ」あたしの前には、また盃が来た。あたしは飲んだ。そしてまた来た。それも飲んだ。あたしは見えるものが全部ゆがんでいくので心細くなり、立ちあがろうとして、たおれた。−
「バカな事をするんじゃあない、酒なんていうものは二度と飲むんじゃあないぞ」と出征軍人は言った。その人の母も大きくうまずいて、あたしを見た。「ハイ、二度と飲みません」と言いながら、あたしは目を廻してしまった。(「出征軍人の言葉」 金原亭馬生 「酒との出逢い」 文藝春秋社編) 三歳 


善哉商光亭
南区順慶町井戸の辻南へ入る善哉商(ぜんざいや)光亭(本名江川半七廿四年)の主人は近傍で名有(なうて)の一癖人(いっぺきじん)にて見る人障(さは)る人毎に自主自由だとか民権だと歟(か)云ひて無闇矢鱈に尊大に構(かまへ)て居るにぞ早晩(いつしか)綽名(あだな)を彼に負(おは)し民権善哉商と云ひ囃せる事とはなりぬされば店の間(ま)には新卯(しんう)、東呉(とうご)、夜明壺(よあけつぼ)や自由亭等の通帳(かよひちょう)を掲げ置(おき)日々入り来る客に向ひ若(もし)一杯をきこし召さうと思ひ玉はば是に掛たる通(かよひ)の中何(いづ)れへなりとも好む処へ注文あらば即刻酒まれ肴まれお望次第に持参を致さん且亦(かつまた)下戸の輩(ともがら)には新に趣向せし名句合せばせを、嵐雪、其角、貞徳等の其句に依(よつ)て善哉を差上げんお気に入らずば品は我物御勝手次第に帰られよ売らぬ藻自由喰ずして帰るも貴方(あなた)の自主の権、抔(など)と横柄なる長口上に知らぬ輩は腹立て帰るも往々有る中に又一癖を好むなる客は却つて面白しとて毎日続々喰ひに来るので意外に繁昌すると云ふ何が儲(まう)けにならうやら=明14.2.23(「朝日新聞の記事に見る 奇談珍談巷談」 朝日新聞社編) 


川越亀屋の蒸し羊羹
そのときに『亀屋』の蒸し羊羹を教えられた。一本六百円。これが美味い。塩味であって、酒の肴にもなると言ったら、誰でも驚くだろう。しかし、十二月から二月一杯までしか売らない。(「うまいもの」 山口瞳) 


近所こそいゝ迷惑
『弱者』といふのは、丁度、一年前の夏、郷里へ遁走の前、例の大工の貸家で半月ほどもかゝつて、酒を飲んでは、夜も昼もなく、全く自分ながら半狂乱の態でHといふ青年に筆記して貰つたのだつた。自分は、日光で山登りや鱒釣りに用ひた靴やゲートルをつけて、二時三時の夜明けの時刻迄も短い廊下を跫音荒く踏み鳴らして往つた来たりしては、勿論、酒の勢いも手伝つてはゐたが、苦し紛れから、文字通りに叫び、唸り、吠え、−さういつた調子で、辛うじて五十枚といふところまで漕ぎつけることが出来たので、出来上つた時には、自分もH青年も、ほんとにヘトヘトに疲れてゐた。そんなことをしてまでも、自分は、その時分も、やはりあれだけの纏めたものを作らなければならない事情に迫られてゐたのだが、が、何しろ近所こそいゝ迷惑だつた。(「酔狂者の独白」 葛西善蔵) 酔狂者の独白 


いやな体験
ところが二〇〇八年に、この話の根幹を破壊する画期的な研究が発表されました。東京大学の松本則夫教授がネズミに行った実験結果です。飲酒時に何かを体験しても記憶に残りにくいことは、動物実験でも確認されていますし、私も哀しいほど実感しております。しかし、体験を思い出して再記憶するときにも、果たしてアルコールは記憶を邪魔しているのでしょうか。この検証のために行われた実験を紹介します。まず、ネズミを特定の箱に入れて電気ショックを与えます。翌日、その箱にネズミを入れると、ネズミは電気ショックを思い出して怯えて動かなくなります。その直後に泥酔レベルのアルコールを注射します。比較対象のネズミには、生理食塩水を同様に注射します。三日目に同じ箱に入れると、アルコールを注射したネズミのほうが長い時間怯えていたというのです。これは二週間後でも同様の結果でした。つまり、いやな体験を思い出した直後にアルコールを飲むとかえってその記憶が強く固定される、ということなのです。(「とりあえず、ビール!」 端田晶) 


勘定の支払い
劇作家、北条誠は川端の一番弟子。ある時、、鎌倉から上京した川端から、北条に突然、電話が入った。北条は原稿の閉め切りがせまっていた。「ぼく、来ましたよ。いま、新橋です。すぐにいらっしゃい」北条は面くらい、原稿の締め切りを理由に断ると、「あなたは、マジメすぎるからいけません。そんな仕事、放り出して、すぐいらっしゃい」 と怒られた。北条がしぶしぶ、タクシーを飛ばして行くと、川端はバーの勘定を支払いに上京してきたのだが、酔っていたので店の名前も、どこにあったかも忘れたので、一緒に探してほしい、と言う。北条はあきれ果てたものの、大先生のいうことなので泣く泣く、川端の記憶をたどりながらバーをはしごして回った。やっと、探し当てた頃には、二人ともヘベレケに酔っぱらっており、北条は一〇万円以上の持ち出しとなった。(「ニッポン偉人奇行録」 前坂俊之) 


フィッツジェラルド夫妻(スコット一八九六・九・二四〜一九四〇・一二・二一 ゼルダ一九〇〇・七・二四〜四八・三・一一)
ジャズエイジのベストカップルの栄光と悲惨
精神分裂症と診断されたゼルダは、残りの生涯のほとんどを精神病院で過ごすことになる。一方、フィッツジェラルドは、そんな妻を案じつつ日々を過ごした。−「私はゼルダの療養所に続く細い道にまだ希望を残している」と彼は書いている。フィッツジェラルドの小説は暗くなり、あまり人気がなくなった。この十年間に彼が書きあげた唯一の長編『夜はやさし』は、分裂症患者に恋をした精神医科の話だ。パーティ三昧の日々以来、大酒を飲むようになったフィッツジェラルドは、アルコール中毒になっていた。二回、自殺もはかった、多額の借金を抱え、一九三七年にハリウッドにシナリオライターとして招かれたものの、一年半後、契約は更新されなかった。フィッツジェラルドがゼルダを見舞うことはめったになかった。どちらの健康状態も悪化する一方だったからだ。(「有名人のご臨終さまざま」 マルコム・フォブス、ジェフ・ブロック 安次嶺佳子訳)


わたしゃ 売られて行くわいな
「お燗をつけなくていいんですか?」「かまわないだろう。その茶「上:夭、下:口 のみ」茶碗にでも、ついでやりなさい」 古谷(綱武)君は、ひどく傲然たるものである。私も向っ腹が立っていたので、黙ってぐいと飲んだ。私の記憶する限りに於ては、これが私の生れてはじめての、ひや酒を飲んだ経験であった。古谷君は懐手して、私の飲むのをじろじろ見て、そうして私の着物の品評をはじめた。「相変らず、いい下着を着ているな。しかし君は、わざと下着の見えるような着附けをしているけれども、それは邪道だぜ。」その下着は、故郷のお婆さんのおさがりだった。私は、いよいよ面白くない気持ちで、なおもがぶがぶ、生まれてまじめてのひや酒を手酌で飲んだ。一向に酔わない。「ひや酒ってのは、これや、水みたいなものじゃないか。ちっとも何とも無い。」「そうかね。いまに酔うさ。」たちまち、五ん合飲んでしまった。「帰ろう。」「そうか。送らないぜ。」私はひとり、古谷君の宅を出た。私は夜道を歩いて、ひどく悲しくなり、小さな声で、 わたしゃ 売られて行くわいな というお軽の唄をうたった。突如、実にまったく突如、酔いが発した。ひや酒は、たしかに、水では無かった。ひどく酔って、たちまち、私の頭上から巨大な竜巻が舞い上り、私の足は宙に浮き、ふわりふわりと雲霧の中を掻きわけて進むというあんばいで、そのうちに転倒し、 わたしゃ 売られて行くわいな と小声で呟(つぶや)き、起き上って、また転倒し、世界が自分を中心に目にもとまらぬ速さで回転し、 わたしゃ 売られて行くわいな その蚊の鳴くが如き、あわれにかぼそいわが歌声だけが、はるか雲煙のかなたから聞こえて来るような気持ちで、 わたしゃ 売られて行くわいな また転倒し、また起き上り、れいの「いい下着」も何も泥まみれ、下駄を見失い、足袋はだしのままで、電車に乗った。(「酒の追憶」 太宰治) 


おあえ
小泉 江戸時代には「おあえ」という職業があって、酒の席で、ものすごく酒の強い男が飲めない人に付いて影武者となって飲んだ。
杉浦 二人羽織みたいですね。
小泉 おあえがいない場合には、盃の中に親指をチョンと曲げて入れたらギブアップということで酒を注いではいけない。最初からそれをやった場合は、私は酒は飲めませんという意味。江戸の人には、盃一つにも約束事があったんです。だから映画でよく、「おぬしは俺の盃が受けられないのか」という場面があるでしょう。あれは嘘です。
杉浦 商人は、もう飲めないときには盃を傾けるんです。指は入れない。傾けると、本当にちょっとしか酒が入らないでしょ。(「発酵する夜」 小泉武夫) 杉浦日向子との対談です。 


甘口ぎらい
灘の酒にならって愛知県の酒もみんな甘くなってしまった。豊橋近辺で醸造される地酒も、地酒として売れず、大部分は灘の酒造会社に買われて灘の酒に変わるらしい。甘くつくってあるから、醸造元がどこであろうと、同じような味なのだ。大阪には灘の酒でも辛口のに出会うことがあるけれども、京都のよい宿屋では伏見の酒で、ことごとく極甘口なので、ただでさえ京都ぎらいのわたしをして、一段と京都を敬遠させることになる。(「カワハギの肝」 杉浦民平) 


メソポタミアの蒸留酒
エジプトでは、紀元前三〇〇〇年前、ビールの醸造法がメソポタミアから伝わった。ブドウ栽培については、紀元前三〇〇〇年頃までに東地中海沿岸に広まっていた。紀元前一三〇〇年頃、ラムセス二世の時代には王都に居酒屋があって、店内には椅子もあった。ビール、ワイン、なつめやしの蒸留酒を売っていた。ワインの壺にとめ蓋をして店外に置かれたという。ビールはすぐに腐ったのでルピナス(ハウチワマメ)を加えて保存した。エジプトでは、ビールは国民飲料といってよいほど飲まれた(Firebaugh,The Inns of Greece and Pome,p.4-6)。飲料というより、栄養源としての食物であったのだ。一方、前述したなつめやしの蒸留酒(ワインなどの醸造酒を高温で蒸気にし、それを今度は冷やしてふたたび液化してできた酒。ウイスキーや焼酎が代表)の存在は、すでにこの時期、人類が蒸溜技術をもっていたことを示している。スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』(一〇三頁)によれば、紀元前四〇〇〇〜紀元前三〇〇〇年頃の簡単な蒸留器が、メソポタミアの北部でみつかっているという。(「居酒屋の世界史」 下田淳) 


飲めんの勧化(かんげ)
「もう飲めない」ことをしゃれていった言葉。「御免の勧化」(金品の寄付を勧めること)をもじったもの。
「上:夭、下:口 のん」兵衛の節句働き
ふだんあまり仕事をしない「上:夭、下:口 のん」兵衛が、他人が休むときになって働くことをいう。「横着者の節句働き」「怠け者の節句働き」と同じ。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


怪しい目つき
早速酒になった。藤原(啓)氏も酒徒のようだった。息子の雄氏は明治大学でフランス文学をやったというが、今は父の下で陶芸家の修業をしている、時たま岡山へ出て父子で酒を飲む愉快な話をした。流石(さすが)に出される器は備前で、しかも主人の作ったものであった。私はさっきから藤原氏の手にあるぐい「上:夭、下:口 のみ」にしきりに眼がいって困っていた。とうとう我慢が出来なくなって、それで一杯飲ませてくれと所望した。主人は怪しい目つきだと思っていたといって、渡してくれた。それは藤原氏の作品で、深目の、持って心地よく、予想通り飲んで具合がよいものだった。主人がこの杯を長く愛用していることは、その色でもわかった。私は長い酒宴が終るまで、それを遂に放さなかった。大酔した私は嫌がる主人に強要して遂にわが有とした。今もそれを愛用している。(「厨に近く」 小林勇) 


鮎無双
「鮎無双」と名付けられた珍味がある。吉野川上流で漁れる鮎を、どういう方法でか堅く干し上げたものだ。ごく薄く切ったのが三切れしか出ないが、(ずうっとこれで酒を飲んでいたい…)と思わせるような滋味がそこに凝縮されている。越後村上名産の「鮭の酒びたし」。あれのいわば鮎版だ。(「うまいもの職人帖」 佐藤隆介) 高松のまいまい亭で味わったそうです。 


桜花酒
「夜に桜を見るとなんでいいんですか?」「知りたいのか」ぼんやりと私を見ながら、一方の腕を伸ばし天を指した。そしてまた一口酒を流し込んだ。なにやらいわくありげだ。「何のお仕事をされているんですか?」「酒の醸造だよ」彼は酒を飲み下すと、顔もあげずに答えた。話しながらも、彼の指先は絶え間なく地面の花びらをもてあそんでいた。「小さい頃からの夢があるんだ。桜酒をつくりたいってね。聞いたことあるかい?」「ないです」葡萄酒、桂花酒、米酒のたぐいは知っているが、桜花酒とは聞いたこともない。彼は続けた。「この夢は長年僕をさいなんでね。おかげで市役所も辞めて、ここ数年そればかりに心をくだいてきた。初めは大きな麻袋を担いで、桜の木の下へ行って花びらを拾った。桜が咲く数日のうちに百俵近くも担いで帰ったものだ。それから大きな木桶に入れ、麹や水なんかを加える。でもどうしたって、桜の味がでない。カサカサとした渋みしかない。桜の花じたい味はとても淡いので、ほとんど嗅覚を刺激するような面白みはない。そこでまたよくよく考えて、雨水に打たれたものか、霧に包まれた桜を使えばいいと思い当たった。まだ太陽に晒されない夜のうちに桜を拾えばいいわけだ。それからというもの、春が来れば毎日毎日、新聞やテレビの開花予想に釘付けで、雨が降ればすぐ出かけた。こうやって春中がんばったがやっぱりだめだ。桜の味は前よりは濃くなった。でも醗酵して酒を醸造するほどではないんだ」(「にっぽん虫の眼紀行」 毛丹青(マオタンチン)) 


航空燃料
中島(敦)さんは喘息に苦しみつつあの名作を書き、名作を書きつつ喘息で死んだという。ぼくもじつはそのころ喘息に苦しみ、喘息に苦しむあまり腹を立て、ぼくを愛し許してさえくれた女まで捨てた。父も喘息で死んだので、なかば遺伝だとあきらめていたが、だんだん焼酎を飲むようになり、戦争でその焼酎もなくなって、航空燃料のアルコールをやるようになってから、ウソのようになおってしまった。いまはせんかたないが、中島さん、『光と風と夢』の南洋庁に行って喘息をなおそうなどと思わず、どうして焼酎を飲まなかったのだ。どうして航空燃料のアルコールをやらなかったのだ。(「文壇意外史」 森敦) 


インドで
もしインドで酒が「上:夭、下:口 の」みたければ、まずは世界共通の高級ホテル。続いて高級レストランか中華料理店。ここではビールだけということもある。もう少しインド人と「上:夭、下:口 の」みたいなら男性専用のバーだろう。大都会中心だが国産の様々な酒が「上:夭、下:口 の」める。インド風のスナックを肴にし仕事帰りの先生や銀行員などと歓談するのも楽しい。次がビールバー。酒屋が経営してたりして値段も安め。ここから後は西ベンガル州ならバングラ(ベンガル)・ハウス。同名の州政府独占の低所得層向け焼酎屋。ストレートは避けてインド製ジンジャーエールのリムカや、インドからコカ・コーラを追放していた時期の代用品=カンパ・コーラといった清涼飲料で割るとよろしい。というか、生(き)では「上:夭、下:口 の」めた代物ではない。次が職業別バーというか、トラック野郎やリキシャ・マンなど同業の集う安酒屋。ここまでは少なくとも椅子が出てくる。これ以上安いものをというなら日暮れ時に椰子酒やどぶろく、アラックの一杯売りが出てくる。路上でしゃがんで「上:夭、下:口 の」むのもオツなもの。でもヤミ酒だけは絶対やめよう、メチルで眼散るでは洒落にならない。(「粋音酔音」 星川京児) 


病気
身体を壊したことは、肝硬変に一回なったぐらいかな。二十七歳とか二十八歳とか、芸人になって、やや売れだしたときになったんだけど、それでも病院抜け出して、生ビール飲んで帰ってきたら、病院からおんだされて。「二度と来んな!」って怒られて。ほいで「なんだよ、バカヤロー!」とか文句言ってたら、「飲んだって死にゃしねえや」とかなんとか周りが言うから、また本格的に飲みはじめちゃって。そっからは何十年、相変わらずなんでもねえんだ。−
だけど、そこで、急に漫才が当たっちゃったんだよね。今度は酒飲む暇なくなっちゃったんだよ。たまにしか飲めなくなったわけ。飲んでも、ホテルかなんかでちょっと飲んで、もう寝なきゃいけないじゃん。そうすっと肝臓も強くなっちゃうじゃない?だから、ある意味、忙しさで治っちゃったよ。でも、売れなきゃ売れないで、酒代がないって強くなったんだろうけどね。(「孤独」 北野武) 


シロギス、メゴチ、アナゴの天ぷら
シロギスの天ぷら
日本酒は醸造アルコールを使った大吟醸タイプで、アルコール度数15度前後の酒が合う。そして、この組み合わせは、秋のハゼの天ぷらやベラの仲間のキュウセンの天ぷらなどにも応用できる。
メゴチの天ぷら
日本酒ならば、純米酒の燗のようにふくよかな味わいを強調したタイプとも合わせられる。
アナゴの天ぷら
日本酒は、メゴチ同様、純米酒だが、精米歩合のより低いタイプがマッチしやすい。そして、江戸前天ぷらネタの高級魚であるギンポ(ギンポウ<銀宝>ともいう)の天ぷらもアナゴと同様の酒が合う。(「『和』の食卓に似合うお酒」 田崎真也) 


ベティ・フォード・センター
第三十八代アメリカ大統領、ジェラルド・R・フォードの妻であるベティ・フォードは、薬物とアルコールに溺れたが、治療を受けて回復し、アルコールと薬物依存症治療施設である「ベティ・フォード・センター」を設立した。体験談をまとめた『依存症から回復した大統領夫人』(日本語版は、水澤都加佐監訳 二宮千寿子訳 大和書房)は全米でベストセラーとなった。(「今日も飲み続けた私」 衿野未矢) 


どん底
それにしても、トリスバーの第一号店はいつ、どこで開店したのだろうか。私も編集委員をつとめた『サントリー百年誌』は「昭和二十五年、東京・池袋で久間瀬巳之助氏によって開店」としている。それは「どん底」というバーだった。大阪のお初天神前の「バー・デラックス」という説も信憑性があると思われたが、実証できる資料に乏しかった。久間瀬はバーテンダーからスタートした苦労人だったが、アイデアマンで、自分のバーを開店するにあたってウイスキーはトリスと決め、ストレートもハイボールもカクテルもツマミも含めて値段は明示し、女性を置かないことにした。これならサラリーマンが気軽に入れて、安く飲める。簡単なことのように思えるが、そのころの業界の常識からすれば、目から鱗が落ちるような出来事だった。(「『洋酒天国』とその時代」 小玉武) 


怒らせ上戸
戦争の直前だった。私は春公(この男は美校の木彫科を出たが、卒業制作に大佛次郎さんの愛猫を作ったきり絶えて仕事をしたことがなかった。禅に凝ったが悟りも開かなかった。飄々と飲んで生きているだけだった)と駅前の狭いおでん屋で飲んでいた。テーブル二つも置けば一杯になる狭さである。そこへ駆逐艦の艦長とかで、剣道四段柔道何段という男が、飲んでは私たちをじろじろと見ているのが私には薄気味悪かった。かねて酒癖が悪いと聞き及んでいたからだ。春公は子供のかぶる大黒帽をかぶり、勝手な放言をしていると艦長氏は、「おい、お前は絵師か、それとも艶歌師か」「当たらないね」「どうせ碌なものじゃあるまい。」「お前のようにカラ威張りする奴がいるから侮りを受けるんだよ」「なにッ!もう一度言ってみろ、ただじゃ置かんぞ」「軍人って奴は一度言ったんじゃわからんと見えるな」「貴様は文士だな。鎌倉には碌でもない文士が巣喰っているようだが、軍艦を持って来て一発撃ち込んでやらんと、目が覚めんわい」「鎌倉の海は遠浅だよ。ここへ軍艦を持って来るとは海軍海軍って、お前モグりだな」艦長氏は盃を投げ、皿を投げつけたが、あたらなかった。「そんな腕で大砲が射てるか」「うぬ」ふらふらと艦長は立ち上がった。春公は素早く逃げたが、裏口に出た。ここは路地である。「叩き殺してやる」艦長は酔っている上に興奮しているので、袋小路の隅に春公がうずくまっていることを知らぬ。「畜生、卑怯者…」艦長は外へ廻って探している間に、春公はのっそり出て来て、反対の方角へ帰っていった。長いつき合いの間この怒らせ上戸は危機に幾度か遭遇したが、いつも巧みに難を逃れ、畳の上で往生するまで飲み続け、気ままな一生を送った。(「私の人物案内」 今日出海) 


発作とアルコール
まあ、物はほどほどにということだが、彼くらいになるともはやノイローゼに近い。しかしそれでも自分の健康に無関心でいるよりはまだマシということか。もっとも彼の健康に関しては私はいささか責任が無いでもない。いつの頃からかゴルフをしている最中彼がしきりに胸の横側が痛いと訴えるようになった。彼のゴルフのスウィングは無類に型破りなので、胸の脇や肩が痛いのはその訳のわからぬスウィングのせいだ、酒を飲めば治るなどといってやり、彼もその気になって昼飯の時からがぶがぶ飲んでいたが、ある時ゴルフをしてもいないのにまた痛みがきてたまりかね集中検査をしてみたら心臓に後天的な欠陥が生じていて、その発作が試験的にアルコールを注入すると必ず起きると判明した。以来彼は私がいくら勧めても好きだった酒は飲まなくなりましたが。(「老いてこそ人生」 石原慎太郎) 彼とは、幻冬舎の見城徹だそうです。 


市民的節制か封建的放縦か
「最近すっかり浪費と快楽の癖がついたことを思い、心が痛む…神よ、どうか今から仕事熱心になれるよう、お恵みを垂れ給え。」だがこの発心も、翌日誘惑の前の日向の雪だるまのように溶けてしまう。「朝私璽局へ出かけたが、局長はご出勤でない。それからモリス艦長に出会い、彼の所望で内膳局司厨長セア氏を訪ね、朝食にうまい牛肉を一切れか二切れご馳走になった。次に酒蔵へ連れて行ってもらい、そこでまことに愉快にやり、ついつい度を過ごしてしまった−その間セア氏にはことのほかお世話になった。だが飲み過ぎたため、仕事などできる訳もなく、昼になって外出し、ウェストミンスター会館をしばらく冷やかした後、ソールズベリ・コートの芝居小屋に行った…つまらぬ芝居で演技もまずかったが、運よく、とても美人でとても上品な婦人の隣に坐れたので、大いに満足した。」(「ピープス氏の秘められた日記」 臼田昭) チャールズ二世による王政復古期における官僚生活の一端を示す記録のようです。 


二月二十六日(月)
三一書房へ行き、畠山さんとショート・ショート集の打合せ。タイトルは「にぎやかな未来」がよいだろうということになる。早川書房へ、短編集用の切抜きを持って行く。タイトル未定。高松女史、オール讀物に書く「筒井順慶」は、中編にして週刊文春に連載しろと電話してくる。しかし鈴木氏には、書くと約束してしまっている。あちらを立てればこちらが立たず、筒井順慶の心境。夜、星新一、小松左京、眉村卓他と「青い部屋」へ行き、戸川昌子も加え五時半ごろまでどんちゃん騒ぎ。
二月二十七日(火)
二日酔いで頭ふらふら。こんなことがいつまで続くのか。週刊誌や新聞からのコメントの電話、やたら多し。仕事できず。(「腹立半分日記」 筒井康隆) '68年だそうです。 


あんパンの生地をつくる秘法
昭和五三年二月二六日、朝日新聞の「新銀座八丁」のコラムに掲載されていた「あんパンの生地をつくる秘法」というのが目にとまった。 瀬戸焼の小壺がある。高さ二〇cmあまり、それに水洗いした生米を半分ほど入れる。一方で小さなおにぎりをつくる。中身を入れないただのおにぎりである。生米の真中に、これを埋め、つぼを三〇℃に保つ。二、三日で米が泡を吹く。布でこすと、黄色っぽい半透明の液体がコップ一杯ほどとれる。なめると少し酸っぱく渋い。この液体をもとにつくった発酵のタネ(菌)をふやして小麦粉に仕込む… このパン種のつくり方は、伝来の水「酉元 もと」そのものであった。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


白酒高名豊島屋
白酒屋の豊島屋ぐらいで史跡というのはおかしいと思う人があろうが、一日に江戸中の需要を売りつくしたという目覚ましい商売、今なら独禁法に引っかかりそうな商売であるが、さて、この店はどんな宣伝法で専売店になったのか、詳細は明らかでない。とにかく二月二十五日には雛祭用の白酒を売る。しかもこの一日だけしか売らない。江戸市内ばかりではない。近郊から買い手もたくさんに来るから、この店はまるでデモでも行なわれるような雑踏ぶりだ。怪我人も出ることがある。そこでこの店ではとくに医者を出張させて万一に備えている。単に怪我ばかりではあるまい。急病人も出ることがある。血圧の低い者はめまいを起こして引っくりかえる者も出て来る。多分狭心症になった者もあったのだろう。江戸名物を詠んだ「狂詩選」には「白酒高名豊島屋、気強色薄一家風。人々欲買多難買。売始売終半日中」とある。この日、豊島屋では店の前に矢来を作り、一方から入って、他方に出る仕組にしてあり、まず入口で切手を買って、出口で現品を引き取るというやり方である。一日の売上数千両というのだから物凄い売上であるが、銀行もない時代に売上金の安全はどう保ったか。−
では二月二十五日だけの商売で他の日はどうしていたかというと、平常の日は普通の酒店で、田楽を売っていただけが変わっているだけである。(「味の日本史」 多田鉄之助) 


杉享二
それに、阿部伊勢守が、蘭学者を雇いたいという。処が、その頃は、もう諸家にかかえられて、誰もいないと言うのでワシの処の塾頭の杉享二(こうじ)が、二十人扶持で抱えられた。杉は、長崎でアンマとりをしていたものだ。長崎の酒屋の孤児だ。江戸へ来て、学資がないというので、おれの所へ来たから、「おれは困るから、一分しかやれないよ」言うたら、「何でもいいから」と言うので、一分やって、塾頭をしていたのだ。それで、アンマの末だと言うて、人が嫌っていて、用いられなかったのが、二十人扶持になった。こっちよりは上サ。阿部[伊勢守]の方から、「お前に不自由をかけるが、お前さえ承知なら、明日から雇う」と言うて来たから、「よいも悪いもない、人の出世のことだから」と言って、直にやった。(「海舟座談」 岩本善治聞き書き) 杉は、統計院大書記官になった人だそうです。 


人事酒
丸谷 悪口酒とは違うんだけども、人事酒というのがあるんですって。これは大岡昇平さんに聞いた言葉なんです。大岡さんは、戦争中に神戸で会社員をなさってたでしょう。その時、事務系の会社員とは酒を飲まないで、技術系の会社員と飲んだそうです。というのは事務系の会社員は酒を飲みながら人事の話をする。それを人事酒と名付けて、これはいやなんだ、酒飲んだことにならないよ、と大岡さんが言ってました。この人事酒とはいうのはうまい命名でしょう。
山口 うまいですねえ。僕も営業部とか研究所の人と飲むのが好きだったなあ。(「男の風俗・男の酒」 丸谷才一VS山口瞳) 


武玉川(6)
酔ぬとハ言れぬ雛のあく(ぐ)らかな(雛祭りの白酒に酔ったとはいえない)
夫の盆へ残すさかつき 蝦明(妻が夫に少し酒を残しておく)
酒にするき気てぬるい「上:雨、中:−、下:号−口」(あまごい) 鸞台(酒を飲むための名目的雨乞い)
樽拾ひあやうい恋の邪广をする(酒屋の小僧が路地裏などで発見)
湯とうふの有ゆへ人の二日酔 紀文(つまみがよいとつい飲みすぎ)
盃に追廻さるゝ大おとこ(酒に弱い大男)(武玉川 山澤英雄校訂) 


悟堂
東京日日新聞が新鉄道唱歌を募集した。選者の北原白秋と野口雨情は、(中西)悟堂の旧知だったので、変名を用いて応募した。東海道線の部で一等に当選、賞金三百円をもらった。二百円は友人たちに分け、残りは友人たちと飲んでしまった。白秋は初めて小瑠璃の卵を見た時、その美しさに感動して泣いたという。悟堂は白秋の純粋さに感動した。ちなみに悟堂終焉の言葉は、「早く白秋に会いたい」だったという。悟堂が本格的に野鳥観察を始めたのは、三十歳頃である。野中の一軒家で、菜食一辺倒の生活をしつつ、虫や鳥に親しんだ。(「行蔵は我にあり」 出久根達郎) 

全部を当てて優勝
その吟醸酒ブームの少し前に、ブームの先駆けとして、吟醸酒の試飲会などがいたるところで行われた。あたしもそうした会によく招待され、出かけたことがある。試飲会では、二百種類並べられている吟醸酒を、端から端まで全て飲んでみようと無謀な挑戦をした。他の人たちが蛇の目と呼ばれる盃で試飲して、口に含んだ酒を吐き出す中、あたしはそんな勿体ないことはできないと、全部飲み干して歩いた。五十種類ほど飲んだところで、いい加減酔っ払ってしまった。そのとき司会者があたしの名前を告げた。どうやら、壇上で利き酒をしてもらおうという趣向らしい。酔った頭であたしは壇上に上った。他に二人、日本酒の権威の方と、外国のお客さんが一緒である。七種類の日本酒を利いて、眼の前に置かれている酒と同じ物を当てろという。他のふたりは真剣な顔で、色を見て匂いを嗅ぎ、口に含んで転がしているしてそれを吐き出す。あたしはここでも吐き出すことはせず、全部飲み干してしまった。そして審査結果発表。あたしは全部を当てて優勝。日本酒の権威は憮然とした顔であたしを見るが、そんな顔をしたって当たったものは仕方ない。他の場所でも何回か利き酒を行ったが、偶然にしてもよく当たるものである。しかし素面(しらふ)だと全く当たらない。なぜ?(「酒にまじわれば」 なぎら健壱) 


清酒に革命
一言で言えば、十年ほど前までは、清酒を飲んでいたのは一種の惰性に近いものがあったと思う。銘柄によって多少のうまさまずさはあったものの、どれも似たり寄ったりの味で、日本料理に適しているということで仕方なく飲んでいた、と言って過言ではない。−
ところが、十年ほど前から清酒に革命が起きたのである。それも地方の小規模の造り酒屋から起った。素人である私には、なにがなんだかわからなかったが、それまでの清酒とは全く異なった味のものがぞくぞくと現れはじめたのである。酒は辛口に限るなどと言われているが、甘口でもうまい酒はうまく、甘口、辛口とりまぜて美酒なるものが年々増してきている。これらのうまい酒を口にする度に、戦後、酒造家はなにをしていたのか、と恨みたくさえある。(「街のはなし」 吉村昭) 昭和の最後の頃ですね。 


断わり酒
自分の村の娘が、部落の外に恋人をもったり、部落の外に嫁入りをしたりするときに、村の若い衆は有形無形の制裁を加えたものです。たとえば部落の外からヨバイなどにくる青年を見つけると、田圃(たんぼ)の中に投げこまれるなどとはよく聞くことですが、正式に嫁入りするために部落から出ていくことになると、長崎県五島のように道普請(みちぶしん)の罰をあたえたり、福島県下のように、特別に断わり酒をせしめるという例はいくらもありました。(「陽気なニッポン人」 酒井卯作)  昭和40年の出版です。 


七曜記憶法
ところで評論家の戸塚文子さんからいただいた七曜記憶法はこうだ。 日本の武士は乃木サンデー 月桂冠は「上:夭、下:口 の」マンデー 火に水かけてチューズデー 木刀腰にサースデー 金魚もたまにはフライデー 土中に虫もサッタデー これはよく出来ているが、残念ながら水曜の分がない。いつか戸塚さんにお目にかかる機会があったら、水曜分をぜひ伺いたいものだと思っている。もっとも、平塚の日比三郎さんからは、 月曜日、日本将軍乃木サンデー 月曜日、月桂冠を望マンデー  火曜日、火に水をかければチューズデー 水曜日、水曜に松をウェンズデー 木曜日、木刀を腰にサースデー 金曜日、金曜のおかずはフライデー 土曜日、土曜のお客はごぶサタデー というのをいただいている。女学生時代の戸塚さんも「水曜に松をウェンズデー」とやっていらっしゃたのかもしれない。(「巷談辞典」 井上ひさし) 


美酒進呈候
「薩摩かすり大売出し−本日十四五六ノ三日間雨天順送正札ヨリ五歩値引キ御土産物ドッサリ且美酒進呈候(例年一割引ノ処本年ノ不景気ヲ景気能永当々々御愛顧被下候ハ一生懸命予テノ勉強故如此安値ハ無之ニ付本年ハ是ニテ御免)当「○十」ニ瓦斯(ガス)数百ヲ燈(とも)スナレバ右御見物旁々永当々々イラッシャイイラッシャイ 東京銀座三丁目十番地 なんでも交換弁理売買所 岩谷松平」(「道鏡と居酒屋」 倉本長治)岩屋天狗の岩谷松平が煙草以前におこなっていた商売の広告だそうです。 


大嘗(おほにへ)の祭
「高天(たかま)の原に神留(かみづま)ります(神として留まっておいでになる)、皇睦(すめむつ)神ろき・神ろみの命(みこと)もちて、天(あま)つ社(やしろ)・国つ社と敷きませる、皇神等(すめがみたち)の前に白(まふ)さく、今年十一月(しもつき)の中の卯(う)の日に、天(あま)つ御食(みけ)の長御食(ながみけ)の遠御食(とほみけ)と、皇御孫(すめみま)の命(天皇)の大嘗(おほにへ)聞しめさむための故に、皇神等あひうづのひまつりて、堅磐(かきは)に常磐(ときは)に斎(いは)ひまつり、茂(いか)し御代に幸(さき)はへまつらむによりてし、五千秋(ちあき)の百秋(いほあき)に平らけく安らけく聞しめして、豊の明りに明りまさむ皇御孫(すめみま)の命のうづの幣帛(みてぐら)(貴いたてまつりもの)を、明るたへ(織物)・照るたへ・和(にぎ)たへ・荒たへに備へまつりて、朝日の豊栄登(とよさかのぼ)りに称辞竟(たたへごとを)へまつ(たたえ言を申しあげる)らくを、諸聞しめせ」と宣(の)る。
注 一 その年の新穀をもって神を祭る祭。−ここは毎年行われるものをいう。 二 尊くして長久である御食事の意を、かさねことばで表現する。 三 共に賞美し申しあげて。 四 さかんな御代に栄えさせ申しあげるだろう。 五 永久にたいらかにめしあがって。 六 酒宴。酒などをめして赤らむこと。 七 赤くなっておいでなさるであろう。(「古事記 祝詞」 倉野憲司・武田祐吉校注) 大嘗祭ののりとだそうです。 


円高と冷酒はあとで効く
しかし、大幅なアンバランスを修整する道は、輸出の自主規制をやるか、為替相場を動かす以外にない。何十年も、輸出立国で貫いてきた日本が輸出の自主規制をタブーと考えるとすれば、あとは為替レートで調整するしかない。二百五十円を割った時も大変だったし、二百二十円を割ったときも大変だった、それが二百円を大きく割った途端に、百八十円になっても大丈夫と居直ってよいものだろうか。二百五十円でも損をすると言っていたのが、百八十円なら損をしないと言う道理があるのだろうか。この頃の経済論議をきいていると、泥酔寸前のセリフのようなところがある。あまり油断をしない方がいいのではないか。円高は冷や酒を飲むようなもので、あとでだんだん効いてくる。(「食べて儲けて考えて」 邱永漢) 


酒宴の最中
白洲正子は戦後まもなく、青山二郎に連れられて魯山人宅を訪ねた。適度に荒れているのがいい、と庭を評して、気に入られた。酒宴の最中、何が癇にさわったのか、突然、仁王立ちになり、「帰れ」とどなった。「帰る理由もない。いやよ。面白いから、まだいさして頂くわ」と言うと、「変な女だ」。拍子抜けしたようだった。それからは何事も無かったように、談笑を続けた。白洲の魯山人評。「はったり」「えばる」「欲が深い」「気の弱い、子供みたいな人」「虚栄心の強い」「有名人や金持ちの前には、友達も塵あくたの如く扱われる」(「行蔵は我にあり」 出久根達郎) 


何事も修行じゃ
火野は、学生時代には酒などただの一滴も口にしなかった、と当時からの学友はいう。それが大学を中退し、一度は文学廃業を宣言して故郷の若松へ帰って、玉井組の沖仲仕などとのつき合いが多くなってきた頃から酒の腕をあげていった。火野の父が、火野にいったことがある。「(酒は)出された杯は受けううならん。なんぼ受けても酔うてはならん。酔うても乱れてはならん。どんなに辛(えろ)うても、わが家の玄関をくぐるまでは、心の柱だけはキチッと立てておかんならんのです。何事も修行じゃ。修行せんことにゃ、男になれんですたい」火野の父、玉井金五郎は、石炭沖仲仕玉井組の親方だった。この金五郎と妻マンとの間の長男として生まれたのが、本名玉井勝則こと火野葦平である。『花と龍』が、この父と母をモデルに書かれたものであることはあまりにも有名である。(「作家と酒」 山本祥一郎) 


ルーデンドルフ将軍
第一次大戦中の一九一八年五月、エイン川での第三次会戦中に、エーリッヒ・ルーデンドルフ将軍率いるドイツ軍は、パリからわずか六〇キロのシャトー・ティエリのマルヌ川畔に到着していた。パリ侵攻を目の前にして、楽しみもなく何年も過ごしてきたドイツ兵たちは、満杯のワイン酒蔵の眠るフランスのシャンペン地帯に侵入した。酔いはあっという間に全軍に広がり、ドイツ軍憲兵までがこの饗宴に参加した。五月三〇日の朝、フィメ村では通りのあちこちに酔いつぶれた兵士がごろごろして、前線へ行くトラックも立往生するほどだった。二日酔いに苦しんだドイツ軍は前進もはかどらず、部隊によっては完全にストップしてしまった。この間に、米仏軍は防備体制を立て直して反撃を開始し、ルーデンドルフの攻撃を終わらせた。これは、第一次大戦でドイツ軍が勝利をつかむ最後のチャンスであった。(「世界おもしろ雑科2」 ウォーレス、ワルチンスキー他) 


トンパチ
我孫子から利根川をひとつ越すと、ここはもう茨城県で、上野から五十六分しかかからぬのだが、取手という町がある。昔は利根川の渡しがあって、水戸様の御本陣など残っている宿場町が、今は御大師の参詣人と鮒釣りの人以外には旅人の立寄らぬ所である。この町では酒屋が居酒屋で、コップ酒を飲ませ、これを「トンパチ」とよぶのである。酒屋の親爺の説によると『当八』の意で、一升の酒でコップに八杯しかとれぬ。つまり、一合以上なみなみとあって盛りがいいという意味だそうだ。コップ一杯十四銭から十八九銭のところを上下していて、仕入れの値段で毎日のように変わっている。ひどく律儀な値段であるが、東京から出掛けてくる僕の友達は大概眼をつぶったり息を殺したりして飲むような酒であった。僕は愛用していた。(「居酒屋の聖人」 坂口安吾 「日本の名随筆 酒場」) 


万病円
落語の種明かしをすると、ぼくの『居酒屋』も全部が創作ではない。『万病円』という古い落語がある。勤番侍が居酒屋へ入り、いろいろ理屈を並べて蟹と鮟鱇(あんこう)と鱈(たら)を食べて四文しかおかない。「これは何です」と聞くと、「蟹代鮟鱇代たらの四文だ」という。こんなクスグリは現代の人には何のことだかわからない。昔の裁判、公事事(くじごと)に代書屋みたいなところがあって、そこで頼むと紙と三文判を向うで持って、四文やればよいという説と、また読売り瓦版も、「紙代、はんこ代ただの四文」といって売りにきたという説がある。どちらにしても今のお客様にはわからない。わかってもおもしろくないので誰も演り手がなかった。そのクスグリを『ずっこけ』という咄の前へつけただけのことで、落ちの「番公鍋」だけが創作といえる。あまり自慢にもならないが、そんなことで長くもなりクスグリも多くなって、『ずっこけ』の前半だけを『居酒屋』と切り放して演れるようになった。(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) 


梅見の友
案外の梅は皇居東御苑の梅林坂で、その名も日本橋川の古名「平川(ひらかわ)」門から入って旧本丸に登る道に、上梅林坂と下梅林坂がある。坂上には平川天神を太田道灌が勧請し、後に天下祭の主神になった山王権現もあった。梅見の友は清酒「道灌」、その名のいわれは「滋賀にある蔵元の遠祖が道灌」だという。(「江戸っ子歳時記」 鈴木理生) 


享和三年[一八〇三]癸亥(みずのとい)正月閏
○今年二月中旬より、浅草田圃立花侯御下藩、鎮守太郎稲荷社利生あらたかなるよしにて、江戸並びに近在の老若参詣群集する事夥(おびただ)しく(余り群集しける故、後には朔日(さくじつ ついたち)、十五日、二十八日午(うま)の日開門也)、翌文化元年に至り弥(いよいよ)繁昌し、奉納物山の如く、道路には酒肆(しゅし 酒店)茶店を列(つら)ねて賑(にぎ)はひしが、一、二年にして自然に止みたり−。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


半纏と前掛け
蔵内で体を動かしていれば、何かの拍子に桶に体があたることもあるわけさ。それが呑口なら、栓がはずれて酒が流れ出すかもしれん。だすけ、栓がはずれたとしても、鉢巻きやや前掛けを絞って呑口へ突っ込んでやれば、酒を止められるわけだいね。また、酒蔵では熱いお湯も使う。間違って熱湯がかかっても、すぐに脱げる半纏や前掛けなら都合がいいわけさ。「粉菓子」や「下駄」もなくなったな。昔の酒蔵では「造り仕舞い」のような時には、綺麗に色を塗った粉菓子の鯛に、新品の半纏と前掛けが出たわね。半纏と前掛けは、どちらも蔵の名前が入っていてさ。今の作業着よりもずっと味があったわ。これはどこの蔵でもやっていた慣わしだったんでないかい。八海山の蔵でも昭和四十年頃までやってたと覚えているわ。また、新品の「下駄」も渡してくれた。造りが終わって家に帰る時には、その下駄を履いていく。(「杜氏 千年の夢」 越後「八海山」杜氏 高浜春男) 


氷室
大和国山辺(やまのべ)郡闘鶏(つげ 都祁)に氷室があった(天理市福住町松ヶ谷の氷室跡は霊亀年間以降、ここに移ったものとの推測もある<『角川日本地名大辞典』>)。氷室とは、冬に伐りだした氷を夏まで保存するため、山陰の窪地に小屋掛けして氷を貯える施設である。この都祁の氷室も夏に氷を利用するためのものであった。狩りの途中で氷室を目にした仁徳天皇の弟額田大中彦(ぬかたのおおなかつひこ)皇子が、供の者に氷の用途をたずねさせたところ、氷室の所有者、闘鶏稲置大山主(いなきおおやまぬし)は、「熱き月に当りて水酒に漬(ひた)して用(つか)ふ(暑いときには氷を酒に浸して飲みます)」と答える。つまりオンザロックである。(「食の万葉集」 廣野卓) 夏に涼を呼ぶ酒 


馬生さん
むかし、並木の藪で金原亭馬生さんに会ったことがある。店内は込んでいて、小上(こあが)りに三つある卓の前しか空席がなかったのだが、そこに馬生さんが坐っていた。馬生さんと私との間に会話はまったくなかったのだが、馬生さんが「ようがす。ここへお坐んなさい」と言っているように思われた。私は遠慮することなくそこに坐った。馬生さんはニコニコ笑っていてとても嬉しそうだった。彼は蕎麦は食べない。コップに注がれた冷や酒を飲むだけである。馬生さんはお代わりした。それが二杯目であるか三杯目であるか私にはわからない。私は、この人は、心底(しんそこ)酒が好きなんだなと思った。しかし、また同時に、こう思っていたことを付け加えないわけにはいかない。いくら酒が好きだからといって、昼間っから、こんなふうに飲んでいていいものだろうか。浅草演芸場へでも出るんだろうけれど芸人としてはいささか不謹慎ではあるまいか。馬生さんがニコニコ顔、私が仏頂面でもって対峙(たいじ)していたようだ。後になって古今亭志ん朝さんにこんなことを聞いた。「兄は食道癌になってから食べ物が喉を通らなくなったんです。酒は大丈夫でした。酒好きでしたが、ほとんど酒だけで生きていたようなものです。」私は、ああ悪いことをした。何も言ったわけではないけれど、チラッとでも不謹慎だなんて考えたのは申訳のないことだった、と思った。(「江分利満氏の優雅なさよなら」 山口瞳) 


人の悪口
が、これを裏返せば、一杯やりながら人の悪口を言ふにしても、その言ひ方に花がありさへすればいつこう差支へない、といふことだらう。問題は花の有無なので、それ以外のことではないのである。そして、さらにさかのぼつて論ずるならば、一体、人の悪口を言はないで酒を飲めるものかどうか、すこぶる疑はしい。これは別にわたし一人の趣味の問題ではなく、人間一般の嗜好の問題として言ふのだけれど、ちょうどカレーライスに福神漬が合ひ、トンカツに生キャベツが合ふやうに、酒には人物評論、と言つてもまあ褒めるのはせいぜい一分で、けなすのは残りの九分と言つた話しがぴつたりではないか。−
しかし、前にも述べたやうに、この人物月旦は、まづくすると、自分たちはこの上なく楽しいくせに、ほかの客の迷惑になる。ほかの客のゐない場合でも、バーテンが心中、苦々しい思ひを味はふ。そこで大事なのは、自分たちもけつこう楽しいくせにほかの客やバーテンにも迷惑にならない、あはよくばほかの客やバーテンにも楽しい、つまり花のある人物評論のやり方はどうすれば可能であるかといふことになるのだ。(「低空飛行」 丸谷才一) 


キラー酵母
どこの世界にも悪い奴がいるものだが、酵母の世界にも殺し屋がいて、キラー因子というハジキをもっている。ところがこのハジキには特性があって、自分の玉では決して自殺はできないし、防弾チョッキまで着ている奴までいる。このような酵母は、一九六三年にロンドン大学のベバン博士らがみつけたものである。この年は、思い起こせば私が泡なし酵母をみつけた年であり、変異酵母を使ってよそ者酵母が入ってきた事実やピンク酵母がもろみを占領することなどを報告していた年でもある。かえりみて頭が悪いというか、血のめぐりが悪いという好例と考えている次第。日本でこれを報告したのは白鹿、辰馬本家酒造KKの今村氏*である。同氏らは、取引きのある小メーカーがいつもくせのある酒をつくっており、いくら優良酵母の育成法を教えても、そのうちに同じ酒質にもどることをいぶかり、調査した。すると特有な酵母がおり、これが殺し屋であることをみつけた。
*今村武司、酵母における適応と制御、長谷川武治編、東京大学出版会(一九七七)
一方、醸造試験所でも手持ちの保存清酒酵母を調べたところ、四国地区から分離した酵母では何と三〇パーセントにも達するキラー酵母がいることがわかった。これは、昭和三七、八年頃まではキラー酵母がやたらにはびこっており、そこの家つき酵母になっていたと思われる。協会酵母の六号は、昭和七年に秋田県の新政酒造KKのもろみから、七号酵母は、昭和二〇年に長野県の宮坂醸造KKのもろみから分離したもので、この酵母が家つき酵母であったと考えられるから、当時の酒造家の酵母の違い、ひいては酒質の大きな差は推測に余りある。昭和五○年に醸造試験所で、全国の鑑定官室に協力を依頼して、もろみの野生酵母を調査したところ、一六四場中七八社にまだ野生酵母の侵入がみられ、そのうち九社に殺し屋が検出された。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


大物主命、大己貴神、大国主
大物主命(おおものぬしのみこと)はまたの名を「倭大物主櫛「瓦長」魂(くしみかたまの)命」とも言う。「大物主」は大地主の意味、「櫛」は「奇(くし)」=くすり=酒、「瓦長」は「瓮(みか)」=みわ=酒の容器、転じて酒の意である。したがって、大物主神は農耕神であり、酒の神、「味酒三輪」の社の祭神に似つかわしい神と言えよう。また、大神(おおみわ)神社のもう一人の祭神、少名毘古那(すくなひこな)神は『古事記』(「仲哀記」)に見える「酒楽歌」に「酒の司 常世に坐す石立たす 少那(すくな)御神の…」とあるので明らかに酒の神である。なお、いま一人の祭神、大己貴神(おおあなむち)は大国主とは同体、さらに大物主神とも同一神である。(「日本の酒造りの歩み」 加藤百一) 桜井市三輪町の大神(おおみわ)神社の祭神の解説です。 酒の神 


小さん師匠
「あのころね、小さん師匠の家へ行くでしょ、"おう、酒を飲もうか…""いただきます""きょうはひやで飲みな"師匠がね、湯「上:夭、下:口 の」みを前に置いて、酒瓶から酒をトクトクトクッと注いでくれる−いえ、ほんとうじゃない、そういう真似をするんですよ。師匠が。そいつをこっちがいただきますってんで…飲むン」うまそうに小金治は、ぼくの目の前で飲んで見せた。「またべつな日に行くでしょ。きょうは焼酎だ。いただきます−」またやって見せた。たしか冷酒を飲む飲み方とは違っていた。どこが…?「日本酒はね、おいしく飲むんですけれどね、焼酎は酔いたくって飲む。ここんところが違うんだって教わりました」にっこりと、目を細めて…小金治は遠い修行の日々、思い浮かべる顔になった。(「落語無頼語録」 大西信行) 桂小金治の思い出話だそうです。 


山有樞
人間は死んでしまへばそれまでだ。命のあるうちに楽しめるだけ楽しむがよいといふのがこの詩の内容ではあるが、其の底には忍び寄る死の影に怯びゆる弱い人間の退廃的な思念が流れゐる。この詩の末章に
山に漆有り 隰(さわ)に栗有り
子酒食有らば 何ぞ日々瑟を鼓し
且つ以て喜楽し 且つ以て日を永くせざる
宛として死せば 他人室に入らむ
とある。(「詩経随筆」 安藤圓秀) 詩経 風にあるそうです。 


春日祭(2)
春日祭(申祭 三月十三日)の前日、午(うま)の御酒式という祭事があり、本殿のじき前に神前に向いて約二十人の神職は一列に円座に坐り、かわらけに四献の白酒(しろき)を頂戴する。ただし第一献は手をさし伸ばして地面に流し地祇に捧げるのである。あとの三献は自らがいただく。年々歳々香りも味も異なり、その違いが実においしく楽しい。これは明日の春日祭に先立って神主が今年の酒を拝味する儀式である。さて翌日、九時から始まり十二時をまわる長時間の春日祭も滞りなく終わり、一時頃から勅使も同席されて直会(なおらい)に入る。先ず茶碗になみなみとおさがりの白酒がつがれる。御自由に沢山召上がれ。お膳の傍には野葛のつるをさげ緒とした缶(ほとぎ)という土器におみやげ用の白酒も入っている。(「酒雑事記」 青山茂 「酒殿の記」 春日大社宮司 花山院親忠) 


前割り
最近、焼酎を美味しく飲ませる飲食店で「前割り」が注目されています。割水してから何日か寝かせておくことで、水と焼酎がなじんでマイルドになり、旨味や甘味もしっかり引き出されます。いかもその場でお湯割りにするより、前割りをお燗するほうが香りも飛びません。この前割りも厳密には「みなし製造」に抵触するのですが、二〇〇八年の酒税法改正でようやく「適用除外の特例」として認められました。ああ、ひと安心。こんなことで法令違反を問われてはたまりません。しかし、これはあくまで「当該混和した営業場で飲用する」のが前提。店外に持ち出すことを予知して混和した場合は無免許製造になります。(「とりあえず、ビール!」 端田晶) 


葡萄酒が一本
池波 あんたパリに二年いた時、病気にならなかった?
風間 ウン、まァ、病気になんないって、そりゃ風邪ひいたり、腹こわしはしたけれど…。そうしたときの治療の仕方が独特で、なんか日本とちがいましたね。
池波 ああ、そうですか。
風間 第一おかゆ、ぼくら腹こわしてサ、こわしたからおかゆ煮て食おうかなんていったら、おかゆなんか、そんな物だめだって、食わしてくれない。
重金 肉食べろっていうんでしょ。生肉どんどん食べろって。
風間 そう、レアーのビフテキ食べろっていうんですよ…。とにかくもうおなかこわしたら生焼けの肉ですものね。それを「上:夭、下:口 の」み込んでもいいから食べろって。
池波 うーん。
風間 考え方がちがうんだな。酒一本つけるって、(笑声)手術なんかしたあとで、昨日、荻須高徳画伯から聴いたばかりの話だけど手術終わってサ、初めてスープ飲む時に葡萄酒が一本つきてきたんだって。(<シャンゼリゼのテラスで>「銀座百店」一九七七年八月号)(「舌の寄り道」 重金敦之) 


バー調査
全く客の来ない店がある。マダムが一人、客は私一人というときがある。こういう店は、だいたいわかっているので、二人が一人ずつに別れて調査する。知らない酒場に一人で入るのは、それだけで不気味である。池袋、五反田、大井町といったあたりは、当時は、私は怖かった。女は、どうしてこの店へ来たかと訊く。答えるわけにはいかない。誰に聞いてきたかと言う。答えられない。すると、女の方でも薄気味わるくなるらしい。無言で、はじめての店で、知らない女と一時間にわたってむかいあうのは難行である。女は、そのあたりのボスの情婦であるかもしれない。すると、私は敵方の密偵と見られているかもしれない。そうでなくても、トリスが何本、ソーダが何本と数えている目つきになっているのである。全く冷汗をかく。(「バー調査」 山口瞳) サントリー時代のバー調査だそうです。 


オクテ
僕は酒に関しては、わりとオクテである。初めてアルコールに童貞を捧げたのは、大学一年生の春のことだった。昭和二十六年の春の早慶戦に、慶応が優勝した。その応援の帰りに銀座へ出てビール、ハイボール等を飲んだのである。今、慶応の文学部の教授をしている、安東仲介等と一緒であった。皆んな、初めて飲んだ酒に、すっかり酔っぱらってしまい、優勝の勢いも手伝って、まことに意気軒昂たるものがあった。ライオン、バッカス、ピルゼン等をハシゴしたが、何処へ行っても先輩がいて、オゴッてくれたし、店の方でも、優勝の日は、ただで飲ましてくれたのである。仲介が、「アルトハイデルベルヒだな」等とノタマッタのを憶えているが、まさに、僕にとっては忘れられない、今になってみれば、甘く、物悲しくさえある、青春の日の一頁である。月並みな言い方だが、良き時代であったのだろう。(「僕と酒」 小林亜星 「酒恋うる話」 佐々木久子編) 


カリフォルニア大学デービス校
カリフォルニアワインといえば、安価なワインというイメージがあったのは事実だが、近ごろではちょっと様子がちがってきた。バラエタル・ワインと称して、品種名や産地名、生産年を明記した高級ワインの台頭が目ざまましい。その原動力となったのが、カリフォルニア大学デービス校の研究成果だ。バイオケミカル、土壌学、気象学など近代科学技術を駆使して、ワイン製造の総合研究に取り組んできた。産学協同というよりは、学問のほうが産業界をリードしているようなもので、近ごろではフランスのボルドー大学あたりからも留学生が後を絶たないといわれている。コンピューターを使い、スパークリングワインからシェリー、ポルト、ブランデーまで、製品の幅を広げている。ステンレスタンクの中で樽香を出すため、オークのチップを浸漬させるなどの裏ワザもあみ出した。一九九四年の五月にロンドンなど世界の三都市で行われたマスター・オブ・ワイン(ワイン修士)の試験で、三十六種のワインの目かくしテストがあった。最終選考に残った百五十人のうちの半分近くが、カリフォルニアのサンタバーバラ地区にあるオーボン・クリマ社の一九九一年ピノ・ノアール種のワインを、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネコンティと答えたそうだ。一躍、オーボン・クリマ社のワインは品切れになったというが、カリフォルニアワインの声価を高めることになった。(「舌の寄り道」 重金敦之) 


"妙薬酒"いろいろ
打撲傷(うちみ)妙薬 ウドンコ酒 玉蜀黍酒 古生姜酒
火傷酒 日本酒
切傷妙薬 蝮酒
毒虫妙薬 ハブ草酒
眩(めまい)妙薬 梔子(くちなし)酒 梅酒
魚骨妙薬 象牙酒
凍傷妙薬 枸杞(くこ)酒 乾柿酒
皹(あかぎれ)妙薬 杏仁酒 柚子酒
雀斑(そばかす)妙薬 冬瓜(とうがん)酒
風邪妙薬 金柑酒
肺病妙薬 軍鶏(しゃも)酒
神経痛妙薬 桂皮酒
中耳炎妙薬 (蝮の)ヌケガラ酒(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


酒飲みの尻切れ襦袢
 呑兵衛は酒代がかさんで、身なりにかまうゆとりがないこと。
酒は酒屋にあり、布子は質屋にあり
 酒は酒屋に行けばいくらでもあるが、酒の代金にするための布子はおっくに質屋に預け入れてあって、今は一文もない。「布子」は着物のこと。
即時一杯の酒
 死後の名誉より今すぐ一杯の酒をご馳走になるほうがよい。中国五世紀の逸話集『世説新語』による。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


三種糟
じつは同じ『延喜式』の「造酒司(さけのつかさ)」(巻四〇)に「三種糟(さんしゅそう)」という酒が登場する。この酒の造り方を調べてみると、なんと原料は「米、米蘖(よねのもやし)、小麦萌(こむぎもやし)、酒」と記されている。「米「上:くさかんむり、下:薛」」とは米麹のこと、「小麦萌」は小麦に芽を出させた小麦麦芽のことである。そしてその配合は「米五斗、米蘖一斗、小麦蘖一斗、酒五斗」とあり、水を使わず、水の代わりに酒を使い、そして糖化材には米麹と麦芽という東西二大糖化材を使っているところがたいへんにユニークな仕込み方法である。とにかく、この仕込み配合から見ると、得られた酒はきわめて濃い、トトリトロリとした粘度の高い酒であったろうと思われる。(「酒に謎あり」 小泉武夫) 


おせえ、おあひ
よしの サア 久しぶりで一五あげいせう。 
文理 まづ一六おせへにせう 
よしの そんなら九重さん、一七おあひをお頼み申しいす。 
九重 ひとつ一八たべいせうね。
注 一五 盃を 一六 押え。さされた盃をうけずに、さし手に返すこと。 一七 他の者の間で盃のやりとりがあるとき、間にはいって盃をうけること。 一六 たべる。酒を飲むこと。(「傾城買二筋道」 式亭三馬 中野三敏校注) 


「トゥンバン」、「ガドン」
そんな清酒にぴったりの、秋の夜長をしっとりと楽しもうと思われる向きに、お薦めの音楽をいくつか紹介。まずはインドネシアはスンダの古典音楽「トゥンバン」。これはもうほとんど邦楽。伴奏のカチャピはまるっきり筝(こと)だし、スリンは時に篠笛を思わせるし、歌が渋いところへもってきてソロッグなどという都節音階そっくりのものまで使われているのだ。邦楽もトゥンバンも知らない人に聴かせたらどちらも同じジャンルだと思うだろう。お隣の中部ジャワにある「ガドン」という小編成のガムランもいい。ルバブとグンデルの響きは一度はまったら抜けられない。特にフェンダーのエレクトリック・ピアノ、ローズをもっと柔らかくしたようなグンデルの音色は最高。バリのような鋭さがないぶん、室内楽的な味わいが強い。ガドンの意味は"おかず"のこと。肴と考えればすべて納得。音量は絞りめで、可能ならばちょいと離れた部屋で襖ごしというのが理想。地酒がいいといってもここはイスラーム、酒がないことになっている。だから清酒。「上:夭、下:口 の」み方としてはぬるめの燗で小さめの猪口で「上:夭、下:口 や」ってほしい。(「粋音酔音」 星川京児) 


国民酒場の情景
国民酒場の情景を描写すると、銀座界隈では、東宝劇場の地下、銀座七丁目のビヤホールなどが、きわ立って記憶にある。どこかに書き出してあるというより、口コミの早いこと!「今日は五時からだぜ、七丁目さ」などとわかると、どこの事務室も空っぽになる。続々と出征しても、どうしてまだこんなに残っているのかと、あきれるほどの人数である。会社員も徴用工も、一様にカーキ色の「国民服」に戦闘帽だから、外見では見わけがつかない。それが、歩道に四列縦隊に並んでいる。はじめは、「今日はここまでです」などと、定数が来ると、チョン切られ、大騒ぎとなったが、そのうちに、ここまでというところの人がプラカードを持たされると、あとはあきらめて、別の場所を探しに散らばったが、いつの間にか、買収が始まり、そのプラカードの位置がうしろの方にズレたりした。プラカードを持たされた人はジョッキ一杯か二杯の特配がつくようになると、買収に応ずる人もなくなって来た。中にはいると、左の掌のカタチだけの塩漬の菜ッパがお通しがわりにのせられる。椅子をとっぱらったビヤホールでの立飲みなんてものは、決して楽しいものとはいえなかった。ただやっとビールにありついた、という感じだった。街を歩いていると、休業しているそば屋が、国民酒場になっていて、いきなり、「本日ウイスキー特配」なんて書いてあるのにブツかり、大急ぎで並んだこともある。ウイスキーは、飛行船のラベルの張った瓶から注がれる時もあったし、初鷹とかいう名の軍用ウイスキーだ、という場合もあった。このほか、アルプス、ピース、キングなどの銘柄もあった。ウイスキー・グラス一杯で二円だったと思う。(「たべもの世相史・東京」 玉川一郎) 


日野家の僕
[五]日野一位資枝卿、ある闇夜に端居(はしゐ)せられて酒宴ありしとき、一僕に命ぜられて、鉄籠の柄付たる篝火(かがりび)を持て、遣水(やりみず)池水のあたり其所(そのところ)得たる辺に在(ある)べしとの旨なりしを、僕よく心得て、築山の茂みより篝火をさし出しければ、持(もて)る人の形は見へで、篝火のみぞ水に映じて頗(すこぶ)る興を添けり。良久(ややひさしく)して、其人もさぞ草臥(つかる)るらん迚(とて)、簀子(すのこ)近く呼寄られ、酒を給ひけるが、常に好める所なれば、辞せずして数盃を傾け、 風さはぎ村雲迷ふ夕(ゆうべ)にも わするゝ間なくわすられぬみき と打吟じて、其まゝ走り失せたりしかば、満坐殊に興じけるとなん。流石(さすが)日野家の僕にぞありける。−[林話](「甲子夜話」 松浦静山 中村・中野校訂)巻三十五 


風変わりな飲ん兵衛たち
イングランド南東部にある私の故郷の町には、風変わりな飲ん兵衛たちが並はずれて多いように思う。歩道上の渋滞緩和に役立つと本気で信じて、パブまで横歩きでやってくる男。(彼はまた、「夫婦の一心同体感」を育むため、奥さんと愛用している「背中合せズボン」というまだ市販にならない衣裳の発明者でもある)。彼はすごいスピードで怒り狂ったように飲み、気分がのると、お気に入りの、「鼻押し豆競争」に他の客たちを誘うのだ。まず豆を六個ほど横断歩道の端に置き、四んばいになって豆を鼻で押しながら横断歩道を渡るのである。車がクラクションを鳴らして立ち往生するのをよそに、競争はだれかが鼻をすりむきながらも勝利の喜びとともに向う側にたどりつくまでノロノロとつづく。別の友人でバーのスツールから床にバッタチと倒れ、死んだ振りをする芸を完成させたのがいたが、このいたずらへの彼の熱意も、ある日、ジンジャーワインと玉ねぎのピクルスのにおいをさせた、いささかケバケバしい御婦人が口うつしで「蘇生術」を試みようとして以来かなり減退したようだ。私自身の好きないたずらは豚の足を買って袖にかくし、見知らぬパブに入って友達に、一番尊大そうな客を選んで、紹介してもらうのである。豚の足と握手した瞬間の犠牲者の表情。こいつは危険を冒す値打ちはある。とどめは顔を近づけて「ブーッ」と鼻を鳴らすのである。(「パブの人間学」 ポブ・フレンド サントリー博物館文庫) 


効陶潜体詩 陶潜の体に効(なら)へる詩
(五)一酌 好容ヲ発シ            一盃酌めば顔に好い色が出る
再酌 愁眉ヲ開ク。              二盃酌めば愁ひの眉は開ける。
四五酌ヲ連延スレバ             続けざまに四五盃酌めば
酣暢 四肢ニ入ル。              酔が手足に廻って来る。』
忽然トシテ物我(ブツガ)ヲ遺(わす)ル   忽ちにして物も我も忘れて
誰カ復タ是非ヲ分タン。            是も非も分別がつかなくなる。
是時(このとき)連夕雨(あめふ)リ      このごろ毎夜降りつづきで
酩酊シテ知ル無キノ所。           酔つぱらつて何も分らなくなり、
人心苦(はなは)ダ「眞頁 てん」倒シ    心が無茶苦茶に「眞頁 てん」倒し
反(かへ)ツテ憂者ノ嗤(わらひ)ト為ル。  反つて憂(くや)んだ者から笑はれよう。』(「中華飲酒選」 青木正児訳著) 白楽天です。 


菱垣廻船から樽廻船へ
陸づけは大量輸送には不向きのうえに日数を要した。そこで、下り酒輸送は廻船に取って代わられ、それが主力となった。一六一九(元和五)年、堺の一商人が大坂の油、綿、醤油、酢、酒などを混載して江戸表へ直航したのが、菱垣廻船の最初といわれる。大坂の菱垣廻船問屋の成立は一六二七(寛永四)年であったが、小早(こばや)という船足の早い三〇〇〜四〇〇石積船が酒荷を主として江戸へ就航したのは寛文(一六六一〜一六七三)以後で、これが樽廻船の初めである。元禄頃は菱垣廻船の最盛期で、五〇〇石船の積荷の三分の一は諸白で、積載量は二〇〇〜三〇〇樽を数えた。また、江戸入津延船数の八〇パーセントまでが諸白を積んでいたという。なお、一七〇七(宝永四)年、西宮に下り酒を主とする酒積問屋が成立し、一七三〇(享保一五)年、菱垣廻船から酒荷専門の樽廻船が分離独立した。それ以降、船足が早く運賃の安い樽廻船が次第に菱垣廻船を圧倒していった。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


酒ほがい(7)
枯薔薇(かれさうび)落つるひびきにおどろきぬ夜半の酒場のしづかなる時(酒ほがい)
魂をさかなとなしてわれ飲まむ酒のかをりに死を思ひつつ(酒ほがい)
歓楽の墓のごとくにおもはるる酒場のうらの甕のからかな(酒ほがい)
酒の香に染(そ)みし心もよみがへるながきわかれの君と思へば(後の恋)
あはれにも宴()うたげ あらけてめづらしき異国の酒の香のみ残れる(PAN)
惑はしき酒のあぢはひわが友の詭弁のごとくおもしろきかな(PAN)(「酒ほがい」 吉井勇) 


つけ
つけもいろいろである。有るとき払いの催促なし、金の切れ目が縁の切れ目とばかり端数を残させる、そして「はい勘定酒」とくる。今はもう出す店はなくなった。(「飲んだくれてふる里」 小宮山昭一) 


三遍に過ぐべからず
家中禁酒申付くるには及ばず。三遍に過ぐべからず。過ぎ候所より本意を失い、疵(きず)なき者に疵で(い)で来、出世の妨げにも相成り、是非に及ばざる事なり。治世には酒をすすめず、乱酒に及ばざる様に、大病出で来候えば、何分にも存念ほど勤めならず、不忠の至り欝気(うっき)を散ぜんためには、三杯にて相済み候、養生の筋に相成り候事。(立花立斎家中掟書)(「飲食事辞典」 白石大二) 


百閧フ最後の言葉
百閧フ最後の言葉。自宅でいつものように百閧ヘ、横になったままストローでシャンペンを飲んだ。「多すぎるな、(おまえが)半分飲めよ」と夫人に言ったのが、最後の言葉となった。(「ニッポン偉人奇行録」 前坂俊之) 百閧フ逸話(2) 


キンキの煮付け
キンキは旨い汁が出る。だから、秋田名物のキンキン鍋のように鍋料理にも合う。この旨味の応用編として、キンキの煮付けを食べた後の頭の骨や背骨、鰭などを器に入れ、そこに熱燗を注ぎ、スープのように楽しむこともできる。こうなると、キンキの煮付けには、やっぱり日本酒がよく合う。山廃造りの純米酒のように旨味や酸味がしっかりしており、コクのあるタイプ。45度前後の燗がいい。(「『和』の食卓に似合うお酒」 田崎真也) 


足留(あしどめ)に盃ばかり出しておき ゆるりゆるりとゆるりゆるりと
急の来客に、酒も肴も調わない。とりえず盃だけを出して、「まァごゆっくりして行って下さい」と、足留めをしておいて、あわてて酒屋へ使いを出し、また、肴の用意を始める。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


ふる郷ちかく酔うてゐる
昭和五年十一月二十四日、北九州八幡まで歩いてきた。その前日は下関の俳句仲間、兼崎地橙孫(かねさきちとうそん)の家にいて、たらふく御馳走になっていい気持ちで深酔いしたらしい。放浪者に特有というべきか、山頭火には故郷に対する思いをこめた句が多い。山頭火四十九歳、この第二回行乞放浪もかなり疲れてきて、その分故郷への思いがふかまっていたようだ。産土のなすかしさと漠たる定着の思い、
よろよろ歩いて故郷の方へ
といった句をつくっていた。(「放浪行乞 山頭火百二十句」 金子兜太) 


酒の俳句
ある時は新酒に酔つて悔多き(漱石)
憂あり新酒の酔に托すべく
御名残の新酒とならば戴かん
飲む事一斗白菊折つて舞はん哉
憂ひあらば此酒に酔へ菊の主
黄菊白菊酒中の天地貧ならず
菊の香や晋の高士は酒が好き
兵ものに酒ふるまはん菊の花
 酒の名を凱旋という。
酒少し徳利の底に夜寒哉
酒少し参りて寝たる夜寒哉(「日本酒物語」 二戸儚秋) 


はんと辰野
或る時(武原)おはん女史と辰野(隆)先生と顔が合った。ちょうど先生はそろそろ酩酊の域にあった。大声で「金髪の女子(おみな)のかたえにあれば…」という仏蘭西(フランス)の古歌を歌っていた。この唄は兵隊か学生の酔余の合唱にふさわしい。酔わねば歌えぬ唄である。先生の酔眼にもはん女の粋姿は朧ろげにも映ったと見え、「君は誰だい?芸妓だろう」「へエ芸妓だす」「芸妓といえば酌婦売女の類いじゃないか」「何やて?先生か何か知らんけど、あんまり…それア言いすぎやおまへんか」はん女の方が啖呵を切ったが、例の泣き上戸で、「あんまりや、うち悔しいわ…」と泣き続け、大失言をした辰野先生も意識不明になりながら大粒の涙を流し、忘れたように「金髪のおみな」を繰り返している。夜が明け、日が照れば、先生は昨夜の失言を全く忘れ果て、「これだけの芸術家を僕が誹謗するわけがないじゃないか。もしそんな暴言を吐く奴があったら、よほどの阿呆か芸術を解さぬ無風流漢だ。僕ならそんな奴を膺懲(ようちょう)するね…」私の友人知己は大抵酒飲みだし、酒が好きというだけで、友だちになってしまった例もある。だが泣き上戸は以上の二人の他にない。(「私の人物案内」 今日出海) 


酒問屋
茅場町河岸、酒問屋 摂の伊丹・池田・灘辺より漕すを下り酒と云ふ。これを専らとし、また他製もあり。各巨戸なり。
南新川および南新堀、酒問屋 同前。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 


南方の酒(広東)
[増補]新州(今の広東省新興県)は美酒が多い。南方の酒は麹(かうじ)を用ゐない。米を搗いて粉にして、色々の草の葉と野葛(くず)の汁を以て捏ねて卵ほどの大きさにして、雑草の中に隠蔽して置くと、一月ほどして出来上る。此を用ゐて糯米(もちごめ)に合はせて酒を作る。故に多く飲むと、醒めてから猶ほ頭が熱く、づきづきする。毒草が有るからである。南方では既焼(火を入れた酒)を飲む。それは酒を甕(かめ)に満たし、其の上を泥で塗り固め、火を以て焼くと始めて熟する。でないと飲用に適しない。焼き上ると、すぐさま瓶に擔(にな)つて市場に運ぶが、泥の固めは其のまゝになつてゐるので、買ふ者は美悪を知ることが出来ない。そこで泥の上に箸の這入るほどの小さな穴を穿(あ)け、細い管を挿し込んでおく。買ふ者は管の上から吸うて酒味をためす。俗に之を滴淋(しずく たらし)と謂ふ。無頼(やくざ)の小民は無一文で市に入り、「彳扁」(あまね)く酒家に就いて滴淋し、皆「気に入らぬ」と言つて買はず、酔を取つて返る。(唐、房千里「投荒雑録」○「太平広記」巻二三三に引く) (「酒「眞頁」(しゅてん)補」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 


白鹿
唐の玄宗皇帝が、宮中の芙蓉園にいるとき、一頭の白鹿が迷い込んできた。かたわらで仕えていた仙人が「この白鹿は、漢の皇帝が宣春苑で飼われていたものだ」というので、角の生えぎわを調べてみると、「宣春苑中之白鹿」と彫られた銅牌が見つかったという故事がある。漢は、唐の時代からさかのぼって千年もまえに栄えた国で、鹿は千年の齢を経て、はじめて白鹿になると言い伝えられていた。古来、中国では白鹿は縁起のよい霊獣とされており、玄宗皇帝はその白鹿を愛育したといわれている。この故事にあやかって「白鹿」という酒銘をつけたが、1686年に酒造りを始めた辰馬本家酒造の辰馬吉左衛門である。彼は玄宗皇帝が白鹿を愛育したのと同じように、「酒は造るものではなく、育てるものだ」を信条とした。(「ヒット商品笑っちゃう事典」 モノマニア倶楽部[編]) 

五十代を過ぎての深酒
私は五十代を過ぎて深酒になり、いつまでも飲み続けてしまうクセがついてしまった。人がいるところでは悪酔いして迷惑をかけるかもしれないと、宴席ならば早めに離れて、一人で行きつけの鮨屋などへまいり、冬場なら特に魚がうまいから、いろいろと造ってもらってとことん飲む、そしてなかなか酔わないのである。噺家の酒盛りは二つに分かれ、おだん(ひいきのこと)をヨイショしてタダ酒をごちそうになり帰りに車代まで祝儀をねだるのと、自前で酒を飲み、懐具合に合わせてハシゴ酒をしていくばくかの稼ぎをいさぎよく使ってしまい、後悔の翌朝を迎えるものとがあるが、さしずめ私の飲み方は後者だ。−
平成十二年の五月、私は港区の慈恵医大病院で胃潰瘍の外科手術を受け、胃を三分の二切除されてしまった。日本酒なら毎日五合飲んでいた酒飲みの私だったが。一年後に、一日二合までなら何とかお許しをもらった。しかし熱燗一本でも酒がドン!と直腸に下りていってしまい、もうベロベロ。たいして飲めなくなってずいぶん経済的になった。([落語の隠し味] 林家木久蔵) 


高野長英の人相書
一 生国陸奥 一 歳(とし)四拾二三にてふけ候方 一 丈高く 一 太り候方 一 面長に面角張り候方 一 色白く 一 眉毛薄く 一 目尻下り黒目赤き方 一 鼻大きく高き方 一 口大きく唇厚き方 一 耳常態 一 額より小鬢にかけそばかす有之 一 髪厚く 但し最初は坊主に候へ共、六ヶ年程存牢(そんろう)致し居、当時野郎に相成居申すべき由 一 足に毛多く有之 一 歯並揃(そろ)ひ入歯の様に見え候 一 内鰐(わに)に歩行 一 大酒之由(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


武玉川(5)
雀へ酒のかゝる鳥さし (鷹のえさになる雀をもった鳥さしが酒を飲んでいる)
取持顔て(とりもちがおで)宴(うたげ)のめど (宴会の打ち上げを如才なく)
江戸の余波の山帰来「上:夭、下:口」(のむ) (サルトリイバラを煎じた梅毒薬をのむ)
銀のちろりの通ふ紅閨(こうけい) (贅沢な銀製のちろりが来る美人の寝室)
呑めと斗(ばかり)ハ主の和らき (飲めというばかりの主人の気遣い) 


酒株
明暦三年(一六五七)、江戸は大火に見舞われ、加えて凶作だったために、米価調整の必要上酒造の権利である"酒株"を制定して酒造石高を制限。元禄十年(一六九七)には五割の"酒屋運上"の制度がはじまり、文化、文政時代(一八〇四〜一八九七)には"冥加永"として課税を行いました。古株に対する冥加永は五〇〇石の株で、一年に三七五文(一分二朱)、新規株は一〇〇石で七五文(金三分)と決められ、明治維新まで続いています。(「酒博士の本」 布川彌太郎) 


田村藍水、三好達治
 田村藍水という幕府に仕えた医者はいかもの喰いだった。酒の肴に毒虫やろうそくをかじった。飯には灰をかけて食った。しかしタバコはのまないので、そのわけをある人がきくと、「タバコはげじげじとあわないのでな」
 三好達治は幼年学校・士官学校に学んだせいか、どんなに酔っていても、「ハイッ!」といつも良い返事をした。相手の方はこの返事をきくと酔いがさめて、厳粛な気分になるのだった。(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


だいこく
旦那寺の玄関で「たのみましょう」。返事がない。台所へ廻って覗くと和尚が鮹を料理している。又玄関へ廻って大声で「たのみましょう」小坊主がやっと出てきて、座敷へ通る。和尚も出て挨拶をして盃を出して二、三杯「上:夭、下:口 の」み、「何もお肴がないので−」「和尚さま、そうおっしゃいますな。お楽しみを存じております。これ程お心やすい私に、なぜお隠しなさいます」「ムム、御覧(ごろう)じたか。是非に及ばぬ。コレおふじ、お心やすいお方じゃ。出ておちかづきになりゃれ」 (「笑いのタネ本」 宇野信夫) 


雪見酒
雪の上酒のにほひのする街を歩む連集の旅役者めく
伊藤氏(両関の蔵元)の出迎えをうけて、その酒倉や「爛漫」の酒蔵を見学したあと、醸造元の旦那たち数名と町なかの料亭「嬉し乃」に入り、暖房の効いた広間に陣取って、熱燗で、その旦那たちと交歓。しょっつる鍋の湯気につつまれながら、やおら酒恋歌仙「春雪湯沢の巻」の興行に入った。旦那方にも加わってもらって七吟で行こうというので、宗匠零雨(俳人 宇田久)の句さばきよろしく、賑々(にぎにぎ)しく進行していったが、夜に入って外は激しい吹雪となった。「珍客を迎えて、雪も大歓迎しとります。どうかたんまり飲んで…」とすすめられるままに酒徒たちは、大いに杯をあげながら、めでたく一巻をまきあげた。 雪の夜の酒に歌仙を巻きあげて猛(たけ)る吹雪の音を聞きゐる。 そのあと吹雪の中を旅館に引きあげたのはもう十一時も過ぎたころであった。 昨夜(よべ)ひと夜積みたる雪を見つつ酌(く)む朝(あした)の酒のはらわたに沁む 痴れものの俳諧師たち朝酒にまたひと歌仙巻かんとぞいふ 味噌汁に干物そへたる朝餉(あさがれい)炬燵(こたつ)に食(は)みて再(また)寝せんとす 明くる朝、うとうととしていると電話がかかってきた。宗匠の室からである。いつまで寝とるのか。雪見の朝酒だ、というわけである。一夜積もった雪は腰を没するばかり、朝になって風も止んで薄日の下に燦々とかがやいている。もそもそとみんな集まってきて、まさに本番の雪見酒となった。昼過ぎてかつがつ車が通るというので横手に出た。 小正月明日にひかふる町並は成れるかまくら雪のおほひゆく 小正月のための重き荷をかつぎゆけり女らはたれもみな着ぶくれ 駅前の居酒屋に夜(よは)の汽車待つと鍋を囲みぬ酔い痴れながら (「飲食有情」 木俣修) 



長居の客を追い出すのに、箒(ほうき)を逆さにして立てておくという方法は、いまでもときどき用いられていますが、岐阜県吉城郡坂下村では、死人が硬直してしまって浄土縄がかからないときには、箒で死人を叩いてやるとよいといわれております。ですからどんなはげしい夫婦げんかになっても、箒で相手を叩くということだけは強く忌(い)まれていました。箒はまことに神秘な力が作用しているとみえて、酒を飲みすぎて意識が遠くなっている人には、箒を枕にして寝かせるとよいと伝えられています。下手な薬よりも、箒の方が効きめがあるという話です。その効きめは、出産という段になると大いにその力を発揮するわけですが、長野県上伊那郡赤穂町では、ふだんから箒はお産の神様だからといって、とくに婦人たちは祭りの日にはすすんで箒に燈明をあげ、また神酒を供えたりして、自分が出産することがあったら、安産できるように祈願をします。(「陽気なニッポン人」 酒井卯作) 昭和40年出版 


ビザンティウム
ギリシアの植民都市、ビザンティウム(後のコンスタンティノープル、現在のイスタンブール)は「上:夭、下:口 の」ん兵衛都市といわれた。ここで客はワインを原酒でがぶ飲みした。客の多くは水夫であった。水夫といっても、要するに水上運搬労働者である。奴隷か元奴隷であった。肉体労働者にとって酒は必要不可欠であった。ビザンティウムは港湾都市であった。ここからアテネの港に物資が運ばれ、だからアテネも居酒屋の巣窟となった。上流階級は居酒屋を嫌った。西紀一世紀のローマの文人ペトロニウス(六六年没)の『サテュリコン』のなかに、こんな一節がある。「神々も人間もこぞって最高の賢者と考えているあのソクラテスはいつもこう自慢していたものさ。『自分は飲食店の中をのぞきこんだことは一度もないし、(中略)たえず叡智と対話すること以上に大切なことは何もないのだ』と」(『サテュリコン』、二九八頁)。『サテュリコン』は小説なので、ソクラテス(紀元前四六九〜紀元前三九九年頃)が、飲食店(居酒屋)を覗いたことがないとほんとうに自慢したかどうかはわからない。ただ、アテネでは、アレオパゴス集会(貴族中心の市民集会)のメンバーが居酒屋に行くことを禁止したほどである。上流階級はぶどう園で醸造されたワインを奴隷に買いに行かせるか、あるいは客人は邸宅での宴会に呼ばれ、無償で接待された。それが当然なことであった。古代社会では、無償接待が当たり前で、金銭を取って飲食物を売る輩(やから)は軽蔑された社会であった。(「居酒屋の世界史」 下田淳)  酒の割り方(2) 


薩摩守忠度
一の谷の落城に、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)は、あまたの敵を切りぬけて逃げのび、ほっと一ト息月かげに、かなたを見れば酒屋あり、天のあたえと立ち寄って、「酒を所望」恰度(ちょうど)亭主はとりこみで、「勝手にあがれ」忠度自身、「上:夭、下:口 のみ」口をひねり、ちろりへついで燗をして、ぐっとひっかけ、「亭主、薩摩守とつけておけ」駈け出すところを袖をとって、「さてはただのみ卿にてましますか。しかし、ただのみ卿ともつけにくい」としかつめらしく、帳面にしるす。覗いてみれば、「「上:夭、下:口 の」み人知らず」 (「笑いのタネ本」 宇野信夫) 


一月十四日(火)
三日に出勤して以来初めての休み。十時に起き、本を読み、LPを聞いて過す。夜、サントリーの角を半分とシャンパン半分を飲み、風呂へ入って寝る。
一月十五日(水)
昨日上六より電話があり、四階の床工事、金がないので中止、六月まで延期とのこと。アベノ店と上六店の未収入金の調査にアベノ店へ行く。ほとんど解決。アベノ宣伝の堀内係長より六号ショーウィンドウのデザインの受註。帰社し、田坂氏に頼む。モリソン万年筆、八千円の赤字。博物館の追加工事は三千円の赤字。この前の八千円の黒字と差引いて五千円の黒字。五時、会社の慰安会にコマ劇場に行く。隣りの桟敷は大西課長の一族。母が課長に挨拶する。変なことを言わぬかとひやひやする。一級の三合瓶が出る。ひとりで全部「上:夭、下:口 の」んだが酔わなかった。(「腹立半分日記」筒井康隆) 


安政二年[一八五五]乙卯(きのとう)
○牛込若宮町清五郎が店をかりて、酒を商ふ(居酒屋といふものなり)遠州屋又蔵が娘さと、今年十五歳になりけるが、市谷田町一丁目なる手跡指南秀「木+暇−日 か」堂某がもとへ奉公住(ずみ)してありしに、春の頃より男子に変ず。骨格容貌も全くの男子と成り、里次郎と改む。△按ずるに変生男子の事、伴高渓(ばんこうけい)が「閑田耕筆」にも見え、又西土の書にも見えたり。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


タクシーの運転手さん
(土地の人から)著名な料理屋などを紹介され、辟易(へきえき)することもある。座敷に坐って次から次に出される料理に箸をのばし、酒を飲むのは私の好みではない。カウンターの前に坐って好みのものを注文し、杯をかたむけるのが好きなのである。−
無難であるのは、タクシーの運転手さんにきくことである。自分の好みを十分に話し、どこかいい店を教えて欲しいと聞くと、必ず親切に教えてくれる。酒を飲んだ客を絶えず乗せているので、客から話しもきいていて知識は豊富で、まずその店へ行って失望することはない。私の場合、二、三軒の店をきき、その中からえらんでいる。かくて私は、旅をしていい食物と酒にありつけるのである。(「街のはなし」 吉村昭) 


曽婆訶理
是を以ちて曽婆訶理(そばかり)に詔りたまひしく、「今日は此間(ここ)に留まりて、先づ大臣(おほおみ)の位を給ひて、明日(あす)上り幸(い)でまさむ。」とのりたまひて、其の山口(やまのくち)に留まりて、即ち仮宮を造りて、忽(には)かに豊楽(とよのあかり)為(し)たまひて、乃(すなは)ち其の隼人(はやと)に大臣の位を賜ひ、百官(もものつかさ)をして拝ましめたまふに、隼人歓喜(よろこ)びて、志遂げぬと以為(おも)ひき。爾(ここ)に其の隼人に詔りたまひしく、「今日大臣と同じ盞(つき)の酒を飲まむ。」とのりたまひて、共に飲みたまふ時に、面(おも)を隠す大鋺(おほまり)に、其の進むる酒を盛りき。是に王子(みこ)先に飲みたまひて、隼人後に飲みき。故、其の隼人飲む時に、大鋺面を覆(おほ)ひき。爾に席(むしろ)の下に置きし剣を取り出して、其の隼人の頸(くび)を斬りたまひて、乃ち明日上り幸(い)でましき。故、其地(そこ)を号(なづ)けて近飛鳥(ちかあすか)と謂(い)ふ。
一 大臣としての位置。位は官位の位ではない。 二 飲む時に顔を覆いかくすほどの大きな椀。(「古事記 祝詞」 倉野憲司・武田祐吉校注) 


御酒でもあがって
このあいだ、江戸時代の末の小説を読んでいたら、こんな文章にぶつかった。「浪人、米屋より、だんだん代金たまり、ついに大晦日という鐔際(つばぎわ)に到りしかば、催促の来ぬうちにと、しほしほとして米屋にいたり、物をもいわず、諸肌(もろはだ)ぬぎ、脇差(わきざし)を腹へ突き立なんとなすゆえ、亭主驚き、『まあまあお待ちなされませ、どうなすったのでございます』と刀をもぎとれば、浪人はらはらと涙を流し、『今まで露命をつなぎしは、いわずと知れし貴殿が大恩。なれど払わん金もなし。その申し訳けのこの切腹、止めずと殺して下されまし』と思い入ったるありさまに、亭主感心し『いやもうそういう思召(おぼしめし)なら、金子(きんす)はいつでもようございます。ああ、浪人なされても、さすがにお武家、まあそのように思召なされずと、御酒でもあがってお行きなされませ』といえば、浪人『いやいや、そうして居れませぬ。まだ方々へ腹を切りに廻らねばなりませぬ』…」(『文政版生鯖船』より)(「巷談辞典」 井上ひさし) 


魯山人のキリン好き
トルエドソン夫人は星ケ岡の料理が好きでよくたべにゆき、魯山人がキリン党でキリンしかのまないことを知っていた。ある日魯山人を招いて凝ったスウェーデン料理を御馳走されたとき、キリンの空瓶にアサヒかサッポロビールをつめて魯山人にすすめた。「このビールおいしいですか」といったら魯山人が「ビールはキリンにかぎる。これはおいしい」と答えたので「あなたビールの味がわからない。これはキリンではない」といって魯山人をいじめたという話がのこっている。(「徳利と酒盃」 小山冨士夫) トルエドソン夫人は、貧乏時代の荒川豊三に資金援助した人だそうです。 


最終電車
朦朧としながらも不思議と揺れ動き、しゃがんで動けなくなっている目を閉じた女性。圧し殺した声でゲームに興じる青年たち。そして向かいの死んだように眠りこける形相…なんと惨(みじ)めなことか。日本人の生活は非常に疲れる。まさか彼らは気づいていないわけではあるまい。私は終電の人々に「何で早く帰らないのか」と問いたい。この苦労から逃がれられればどれだけ良いことか。私は考えに考える。知らず知らずのうちに頭は回らなくなり、何も考えられなくなった。私はただわかっていた、自分の乗っているのは終電だと。しかしもうぼんやえりしてきた…。ようやく目が覚めたときには、私の乗った終電はほかのすべての乗客を降ろし、車庫に入ろうとしているのだった。(「にっぽん虫の眼紀行」 毛丹青(マオタンチン)) 


カノン・デ・ロス・エンバドス条約の破棄 一八八六
一八八六年三月二七日、メキシコのソノーラ郡のカノン・デ・ロス・エンバドスで、米国軍のジョージ・クルック将軍とチリカフア・アパッチの酋長ジェロニモは平和条約を協議した。ジェロニモの仲間は降伏し、アリゾナ州のサン・カルロス居留地へ戻るという内容であった。ところが不孝なことに、条約が結ばれたその晩、スイス系米国人の密売業者がアパッチに大量のウイスキーとメスカル酒を売りつけたのである。インディアンのつわものどもは酔っぱらうとともに、条約について思い直した。夜も更けてから、酔っぱらったジェロニモは白人に降伏するのをやめると宣言し、たった今署名したばかりの条約を破棄した。その夜、ジェロニモは二〇人の共を従えて消えさり、五か月後に追手につかまるまで、血みどろの戦いを続けた。(「世界おもしろ雑科2」 ウォーレス、ワルチンスキー他) 


太宰帥(だざいごんのそち)大伴(旅人)卿、大貳(だいに)丹比県守卿(たぢひのあがたもりのまへつきみ)の民部卿に選任するに贈る歌一首
君がため醸(か)みし待酒(まちざけ)安(やす)の野に独りや飲まぬ友無しにして
醸みし−酒はもと米などを噛んで作ったので、カムという。 ○待酒−接待に用意した酒。 ○安の野−福岡県朝倉郡夜須村。 [大意]あなたのために作った待酒を安の野で独り飲むことであろうか。(あなたが都に転任してしまったので)ただ一人で。(「万葉集」) 


紅葉、漱石
紅葉は酒内直寝(さけのうちのすぐね)の戯名があるくらゐで、猪口に三つ飲めばすぐに僵(たお)れると云つてゐる。本人の云ふが如くならば、明治の洒落の一つであつた猪口三党である。その点は漱石も大差はなかつたので、「吾輩は猫である」を通読しただけでも十分に看取せられるが、猫そのものは諸賢飲み残しのビールを飲んで甕の中で往生を遂げた。「二百十日」には阿蘇の近くで、「ビールは御坐りませんばつてん、恵比寿なら御坐ります」といふ下女が出て来る。「野分」の二青年は日比谷公園の西洋料理屋で樽ビールを飲む。洋酒の中の最も平凡なものだから、酒を嗜まぬ人の作品に、ビールが屡々出て来たところで格別不思議はない。(「明治の話題」 柴田宵曲) 


もっと飲ンデ、飲ンデ!
東京浅草のある小学校の校庭に、全校の児童が集まっての朝礼である。からっ風が身にしみる。さすがにどの子も背を丸くしてすくんでいる。でっぷりふとった赤ら顔の(鼻の頭が格別赤い)K訓導が、大分県から赴任して最初の週番として号令台に立った。開口一番、大声で活を入れた。「若いもんがなんだ、そのかっこうは。もっとノンデ、ノンデ!」どっと起こった笑いにまじって、こんな声がK先生の赤い耳にもはっきり聞きとれた。「この先生は朝からお酒のことばっかり言うわね。」この先生のお里は「伸びる」が昔ながらの四段活用である。<松田正義>(「お国ことばのユーモア」 柴田武編) 


ひねりぶみ
古代朝廷は、盛んに酒宴をもうけて廷臣を慰労している。廷臣といっても、この酒宴の席に座れるのは五位以上の官人であるから、現代では省庁の局長クラス、地方であれば知事クラスの官人が対象であった。やがて、これが形式化して宮中の行事になるといのだが、天武朝の酒宴はとくに頻繁である。というのも、国を二分した壬申の大乱によって、皇位についた天武天皇とすれば、まだ動揺する人心の掌握を図る必要があった。そのため、廷臣を集めては盛んに酒宴を開いたのであろう。人心の掌握といえば、天平二年(七三〇)一月十六日には、明らかに廷臣の気をひこうとする酒宴がもうけられている。まず酒宴の場所が皇后宮である。このような場所は一般の廷臣には無縁の宮域である。ここに五位以上の廷臣を集めて酒食を賜ったのである。そのうえ、短籍(ひねりぶみ)を引かせるというパフォーマンスをやってのけた。つまり、紙片に仁・義・礼・智・信の五文字を書いて籤(くじ)をつくり、当日の出席者に引かせたのである。もちろん空くじなしである。現れた文字によってあしぎぬ、絹糸、真綿、麻布、常布(じょうふ)などを引出ものとしてもち帰らせた。この演出は、藤原武智麻呂(むちまろ)や房前(ふささき)など藤原一族の発案であることは明らかである。このときの皇后は、はじめて臣下の藤原氏から冊立(さくりつ)された光明子である。この伝統に反する立皇には、皇族はじめ臣下からも反対者が少なくなかった。藤原氏とすれば、もやもやした批判の霧を払拭したかったのであろう。(「食の万葉集」 廣野卓) 


小網代カップ
話が飛びますが、以前私のヨットが負けを知らぬチャンピオンボートだった頃のある年、その年度最後の比較的短い小網代(こあじろ)カップの折に、もう年間通算の優勝も決まっていたし、楽勝のつもりで高をくくって前夜にがぶ飲みし、そのせいでろくな朝飯も食べずにレースに出かけ、案に背いて海が大時化し主帆(メインスル)まで破いての大苦戦で、私の方は前夜の酒がたたって珍しく吐き続けで、結果は三位と惨憺たる出来で帰投しました。翌々日には京都に行く用事があり、向こうでは有名な料亭への招待もあって、レース以来どうも胃の具合がすっきりしないまま普段通りに飲み食いして帰ってきたが、依然調子が良くない。長年の胃との付き合いから、どうもこの前のレースであれだけ吐き続けたのだから、多分どこかに小さな潰瘍でも出来たのだろうと思って小杉医師の所にいって胃の写真を撮ってみたら、私の予測通り胃の上部に小さく二筋の亀裂が見えました。「あれ、こんなところにですか」私がいったら先生が「そう、普通はこんなところに潰瘍は出来ません。でも話を聞けば一晩中吐いていたそうですから、無理して手ぬぐいを絞り続けたみたいに、めったにないところに負担がかかって潰瘍になっちゃったんですな」(「老いてこそ人生」 石原慎太郎)  


起こしてください
友人の話です。数々の酔っ払い伝説を持つ彼なので、周りも扱いには慣れたもの。泥酔して、歩道の脇の茂みに埋もれて寝てしまってまったく起きなかった時にも、同期たちは動かすのをすぐにあきらめ(彼は大男)、「7時40分になったら起こしてください」というメモを彼の脇に置いて帰りました。そして朝になり通行人が時間通りに起こしてくれたそうです。彼いわく、「東京も捨てたもんじゃないぞ」。そこに感心している場合じゃないのでは?(雅 35歳 女)(「酔って記憶をなくします」 石原たきび編)  


高橋和巳の酒
また別の編集者は、あるとき、高橋の作品がはじめてテレビ化されたものを、高橋と同席してそのテレビを見たところ、高橋は妙にてれくさがってとことんのもうといい出した。そして飲みはじめは、高橋の縄ばりである釜ケ崎の縄のれんのようなところからだった。そして興いたって生駒の山上の高橋の顔見知りの旅館へのり込んで、すでに寝込んでいる女将をたたき起こして、タクシーの料金を払わせた上で、「酒を飲ませろ」「お酌を呼べ」と大さわぎをやった。めちゃくちゃに飲んだ上で翌朝になると、酔いもさめてしょんぼりとして、女将に電車賃を借りて帰ったこともあった。さらにほかの編集者は、高橋から、会社へ戻らなくてもいい時間に来るように、といわれたので夕方の四時ころに自宅へ行くと、ビールからはじめて酒に移る。その酒も大徳利であった。「ぼくはそんなに強くないけれども、それでも電車のなくなるまでつき合う。しかし彼は、そのくらいじゃ、ぜんぜん平気。彼の酒の終りというのを見たり聞いたりしたことはないですね」と語るのは、『新潮』編集部の徳田義昭である。(「作家と酒」 山本祥一郎)  


情誼に厚い幽鬼(3)
「六郎、お飲みよ。悲しむんじゃない。急に逢えなくなるんだから、まったく悲しまずにはいられないが、しかし、業(ごう)が満ちて災(わざわい)から脱(のが)れるんだ、お祝いしなけりゃならないこと、悲しむのは道に違(たが)うよ」こうして、心おきなくともに酌んだ。「代わりはどんな人?」ときいてみると、「あなたは河のほとりでごらんになりますが、昼ごろ、河を渡って溺れる女がいます、それですよ」といった。やがて、村の鶏がときを告げるのが聞こえたので、涙をそそいで別れたのである。翌日、許は、その異変をみようと、河辺で敬(つつま)しくうかがっていた。果して、婦人が嬰児(みどりご)を抱いてやって来た、河まで来ると水にはまった。嬰児は岸にほうられ、手足をばたばたさせて泣いていた。婦人は、しばし浮きつ沈みつしていたが、にわかに濡れ鼠になって岸に這いあがり、草の上にしばらく休むと、そのまま嬰児を抱いて往ってしまった。婦人が溺れていた時、許はじっとしていられず、救(たす)けに駆け出して往こうとしたけれども、これが六郎の身代わりになるのだと思い返し、それでふみとどまって救けにゆかなかったのだった。六郎の言葉に効験(しるし)がなかったのを訝(いぶか)しく思った。日が暮れてから、いつものところで漁をしていると、青年がまたやって来て、「もう一度お目にかかれるようになりました。当分、お別れだなんていいませんよ」といった。わけをきくと、「女が身代わりになったんですが、わたしは抱いている子が可哀そうになりましてね。わたしひとりの代わりに、結局、二人の命をそこなうことになるからやめちまったんですよ。交代が何時になるかわかりませんが、多分、わたしたちのご縁がまだ尽きなかったんですね」「そいつは仁人の心だ。きっと上帝に通ずるだろう」 (「聊斎志異(りょうさいしい)」 蒲松齢 増田、松枝、常石訳) 王は天帝に認められ、土地神(うぶすながみ)となり、そこへ許が訪ねてゆく−といった展開です。  


泡なし酵母(2)
そうこうしているうちに、すばらしいアイディアが生れた。共同研究者の大内弘造博士が気泡で酵母細胞を選別する方法を考案したのである。例えば、協会七号の培養液を試験管にとり、これに通気し、泡をブクブクとたて外にこぼし、残液にいる酵母を培養する。もし泡なし酵母がいれば、残液に残っているはず、という想定である。このやり方を七、八回繰り返しているうちに通気しても泡がたたなくなり、泡なし酵母がつかまってきた。そして、今日実用されている優良清酒酵母のどれからも泡なし酵母がとれた。数億匹に一匹の割合で、高泡酵母の中に泡なし酵母が変異株として生れており、これをつかまえたわけである。−
一つうまくいくといろいろなアイディアが浮かぶもので、乳酸菌の凝集性を利用したり、セライトや表面活性剤でも選別された。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) ホノルル酒造の刺激 泡なし酵母  


米市
通行人甲 橋がかりへ行って イヤ申し申し、問うてござれば、米市御寮人のお里通いじゃと申しまする。それにつき私の存じまするは、米市御寮人は、かねがね承り及うだ美人でござるによって、出会うたこそさいわいなれ、これでお盃をいただこうではござらぬか。 通行人乙 これは一段と ナア、 皆に呼びかけ 通行人乙・一同 ようございましょう。 通行人甲 それならば そのよし申してみましょう。 通行人甲 それならば そのよし申してみましょう。 通行人乙・一同 ようござりましょう。
(「狂言集」 小山弘志校注) 年越しのためにもらった着物を、同じくもらった俵に掛けてかついで帰る途中、それを「俵藤太(たわらのとうた)殿のお娘子(むすめご)、米市御寮人(よねいちごりょうにん)」をおぶっているのだと、通行人に言ったためにこうなったそうです。 老武者  


長州再征のときの交渉
どうしてどうして、こンな騒ぎじゃアありゃしないよ。長州征伐に薩摩が反対した時は。大久保市蔵(利通)、岩下佐次右衛門、今一人の三人で、なかなか承知しないのサ。中にも、大久保は剛情で、征長のお請けをせぬのサ。その頃は、薩州は何だか山師のようで、何処でも信じはしないが、軍(いくさ)の入用のかかるのに困っているから、薩州に附いて出兵を断るものがあってはならぬという所から、ひどく弱ったのサ。会津はまた乱暴で、ひどく迫る。薩州を遠まきに巻いて、打殺してしまうという。紀州(侯)が惣督だから、一日も早く出兵すると言って、大層な評議で困っていたそうな。すると、将軍が、「勝安房を呼べ」とおっしゃったので、急に軍艦奉行に復して召されたのサ。−
すると[会津の]殿様は(松平容保)、毎日、酒を飲ませられて。妾の二人も当てがわれて、病気のようになって寝ているのサ。どうも、ひどいよ。殿様はもう分っているから、そンなひどい事をしないのだが、家来が聴かないというのサ。「もう、お前が来てくれればいいから、どうか家来の方に説得してくれ」と言うのサ。それで、みンなと舌戦すると言って、とうとうみンなたたきつけてしまった。それから、岩下の方へいってみると、大久保は、勝が来たというので、大阪へ往って、行き違いになったのサ。「モウ、あなたが来れば、どうでもいいから」と言って、ひどい折れようサ。それで「この書付はまずおれに預けてくれ、そのうちによくするから」と言うと、「イヤ、どうでもよい」というのサ。それで直きに片付けてしまった。それから、大阪に帰ると、なんぼなんでもたった一日で片付いたから、サア、疑い出したよ。なんでも、勝は何かたくらみがあるに違いないというのサ。慶喜などは、特に自筆で、書いてらぁナ。「勝は至って手広いから、何事か仕出かすかも知れません。御用が済んだら早く帰す方がいい」と言うのサ。(「海舟座談」 岩本善治聞き書き)  


お膳に一本
驚くべきことには、ある不屈の古強豪(ふるつはもの)は、人生の漏刻(ろうこく)将(まさ)に尽きんとする(Sands of life are running low)臨終に於いてさへも欲望だけはしつかりと握つてゐた。一人の酒豪の老スコツトランド人の農夫の危篤の病床へ、最後の安心を願ふために牧師が呼ばれた。此の篤信な病人は暫らく天国の歓喜に就て話を交はしてゐた。ふとベツトの中から 病人「其所(そこ 天国)にはウヰスキがあるでせうかねえ」 牧「いゝえ滅相な。ウヰスキ如きものはないであらうよ、そこではそんな物なしに暮らせるのだ」 病「なるほど、さうかもしれませんねえ」と半信半疑の相槌(あいづち)。 病「しかし、お膳に一本ついてた方が矢つ張りいゝですがねえ」(Humour,p.91 ) (「酒の書物」 山本千代喜) 


樽平酒造の李朝磁器
東北、北陸を歩いていると、骨董屋の店先に李朝の小物が並んでいるのが目につく。李朝を持っている人が多い。山形の<樽平酒造>に足を運んだとき、そこに李朝が多いのに驚いたことがある。あれはどこから運ばれて行ったのか。あれは日本海から運ばれていったのではなかろうか。越後や加賀や羽後の米、紅花は船で九州地方に積みだされていたはずである。有田や李朝が船で北陸、東北に運ばれたと考えても妥当である。(「雪舞い」 立原正秋) 


情誼に厚い幽鬼(2)
あくる日、許は魚を売って、余分に酒を買い、日が暮れてから河畔(かわべり)にやって来た。青年はもう先に来ていた。そこで楽しく酌みかわしたが、何杯か飲むと、許のために魚を追ってくれるのだった。こうして半歳ほどたったとき、青年がだしぬけにいった、「ご昵懇(じっこん)願ってから、肉親にもまさる親しい気持ちでおりましたが、お別れする時がきました」そのいいかたがひときわ悲しそうなので、おどろいてわけをきくと、いい出そうとして再三ためらった末、こういった。「これほどのあいだ柄、うちあけたっていまさらおどろかれもしますまい。それにもうお別れなんだから、はっきり言ったってかまわんでしょう。実はわたしは幽鬼なんです。元来酒が好きだったもので、したたか酔っぱらって、溺れ死んでしまい、もう何年もここにいるんです。以前、あなたの獲物だけが、ほかのひととたちより多かったのは、みんなわたしがこっそり魚を追って、お酒を供えてくださったことにお礼をしていたわけなんです。明日は業(ごう)が満ちて、代わりが来るはずですから、わたしは生まれに往きます。こうしてごいっしょにいられるのも今宵かぎり、ですから感なきを得ないのです」許は、聞いた当座(はな)こそ非常におどろいたものの、しかし長い間の馴染みなのでいっこう恐がらなかった。そしてやはりすすり泣きながら、酒を酌んだ。(「聊斎志異(りょうさいしい)」 蒲松齢 増田、松枝、常石訳) 中国清代の伝奇小説だそうです。 


春日祭
毎年三月十三日はゆかしき祭、春日祭である。この祭典が近づくにつれて、酒殿では、当日神様に差上げるための白酒(しろき)が盛んに発酵して、その芳醇な香が酒殿の外へも漂い、折から前庭に咲く梅が香と時を同じくして、早春を覚える。といって実情はそれほど風雅に長閑(のどか)なものではない。大祭礼を迎える緊張感が次第に社内外に高まり、宮内庁から装束が運ばれ人の出入りが激しくなり、叱咤の声も混って廊下を走るなどの騒がしさに包まれてゆく。酒殿は本社西回廊の西側に、南面して間口五間・奥行き四間の流れ造りで、桧皮葺(ひわだぶ)きの屋根の曲線と柱や貫(ぬき)の直線がよく調和して、しかも白壁なので、これらの線がくっきり浮かびあがる。この建物は貞観元年(八五九)に建立されたが、永徳二年(一三八二)の出火で焼失、その直後に復元されたから南北朝末期のもので、重要文化財の指定を受けている。この酒殿の内部は東西二室に仕切ってあって、東室の西北隅にさらに間仕切りがあり、そこの土間に大瓶が土中に埋まっている。この上の貫の所に神棚があって、酒弥豆男神(さかみずをのかみ)・酒弥豆女神(さかみずめのかみ)の二神を祀ってある。甕(かめ)の大きさは口径約五〇センチ、肩はさらにふくらみ、高さは七十五センチ、全面に薄目の釉薬がかかり、朝鮮産のものだと伝えている。(「酒雑事記」 青山茂 「酒殿の記」 春日大社宮司 花山院親忠) 御神酒醸造蔵 


グリンチング
この暗い、壮大なウィーンの森の中にグリンチングという小さな村がある。中世の頃から居酒屋だけでできた村である。村の中を歩いてみると、どの家もこの家も、みんな飲み屋である。観光客向きにいくらか飾られているけれど、あまり目につかない。むしろ昔からの田舎ぶりや、素朴だけがニセモノでなく目につくようなぐあいに飾られていて、森のつめたい夜気の青い香りをいっぱいに吸いこむ旅行者に無邪気さと楽しみと活力を吹きこんでくれるのである。一軒の飲み屋にもぐりこむ。厚い、節くれだったテーブルにもたれて白ぶどう酒を飲み、マスの揚げたのを食べていると、流しの楽士が入ってきた。(「ウィーンの森の居酒屋村」 開健 「日本の名随筆 酒場」) 今は観光地になってしまっているようです。 


この道の達人
酒が好きで酒で失敗すると思ったら、いきなり大酒を飲んで失敗をやらかすことだ。そうすれば、どんなに大酒を飲んで失敗をやらかしても、あいつに酒を飲ましちゃそうなるにきまっているじゃないかと、飲ましてやったほうが文句は言われて落ちになる。この道の達人はなんといっても檀一雄で、小笠原が横光家を訪ねたように、ぼくたちは深夜河上徹太郎さんの邸宅を襲って、遊ぶためのカネをもらったことがある。檀一雄はそれを思いだしては、さも愉快げに顎を上げてカラカラと笑い、「なにしろ、君は河上家の釣鐘をカーン、カーンと叩くんだからな」と、ひと事のように言うのである。(「文壇意外史」 森敦) 


情誼に厚い幽鬼(1)
許という者が、「さんずい+留」川(しせん 山東省)の北郊に家をかまえて、漁をなりわいにしていた。毎晩、酒を河のほとりにたずさえていって、飲みながら漁をしていたが、飲むときには地に酒をそそいで、「河に溺れた亡者も飲んでくれ」と祈るのを常としていた。ほかの者が漁をして獲物がないときでも、許だけは魚籠(びく)にいっぱいになるのだった。ある夕、ちょうど独りで酌んでいるところへ青年がやって来て、側(そば)をいったり来たりするので、その青年にも酒をすすめ、気前よくいっしょに飲んだが、とうとう夜っぴいて一尾の魚もとれず、非常にがっかりした。すると青年は起ち上がって、「下流(しも)であなたのために魚を追わせてもらいましょう」というなり、飄然といってしまった。そしてしばらくしてまたもどって来ると、「さァ、魚がうんと来ますよ」という。果して魚の水を飲む音が聞こえ、網をあげると、五、六尾もとれた。みな尺余のものなので、有頂天になり、何度も礼をいって帰るさ、魚を贈ろうとしたが、青年は受け取らない。「しじゅう結構なお酒をちょうだいしているんですから、こればっかりのことでどうしてお返しといえましょう。もしお見棄てにならないのでしたら、いつでもしますよ」というのだ。許が、「はじめていっしょに飲んだだけなのに、どうして『しじゅう』だなんておっしゃる?末永くつきあってくださるなら、もちろん願ってもないこと、ただお返しのできないのが恥ずかしい」といって、その苗字を聞くと、「姓は王、字(あざな)はありません。お目にかかった時は、王六郎(王家の排行が六番目の息子、の意)と呼んでください」といい、そのまま別れたのだった。(「聊斎志異(りょうさいしい)」 蒲松齢 増田、松枝、常石訳) 中国清代の伝奇小説だそうです。 


泣き酒と怒り酒
角田(光代) 他に醜態は、数限りないけど、でもそれはー…絡むとか泣くとか。昔はね。泣くときはね、なんっでも泣くんですよ。泣いたことあります?たくさん飲んでると、誰にも言われてないのに泣けてきて、泣くことが気持ちよくなって泣きじゃくってるの(笑)。
石田(千) 泣き上戸ですか。
角田 二〇代の初めはしょっちゅうやってた。気持ちがいいんですよ。次の日なんで泣いたのか憶えてないんだけれど、目がひっこんでるから「あ、泣いたな」って。
石田 私は怒るんです、酔うと。
角田 え、怒り酒!?
石田 突然怒りたくなるの。年に一回、絡み酒っていうんだと思うんだけど。
角田 ええっ(笑)。
角田 なにに怒ってるって意識はあるの?
石田 ないですね。いきなりけんかごしで行ってガッと怒ってムンとして帰る。あれはね、一年の煤払いみたいなもんですよ。ゼロにするための好意みたいな気がする。(「酔って言いたい夜もある」 角田光代) 


メインの前後
(メインの前)乙−ついにワインが運ばれてくる。決して強いワインではない。ソフィストにはほかの酒は飲ませられないような水っぽく酸っぱいやつだ。誰かが別に金を出すからほかの銘柄のワインをもってきてくれといおうものなら、はじめは聞えぬふりをしているが、その客をしめ殺しかねないような顔つきになる。重ねて頼むと「大勢の伯や辺境伯がここに泊ったが、うちのワインに文句をつけた人は一人もいないよ。お前さんの気にいらないなら、別の宿を探しな」という返事が返ってくる。−
(メインの後)乙−食事のときに誰かが「皿を片付けてくれ。もう誰も食べないから」といったら大変な不作法とされる。まるで水時計で計っているのではないかと思えるほど一定の時まで皆じっと坐っていなければならないのだ。やがてあの髭男か主人が出てくるが、衣服だけからではどちらも区別がつかないのだ。そして気にいったかどうか尋ねる。しばらくしてやや上等のワインが運ばれてくる。彼らはたっぷり飲むのを好む。どうしてかというと、一番たくさん飲んだ者も少ししか飲まなかった者と同じだけしか払わないからだ。
甲−この国の人の考え方は奇妙だな。
乙−ときには食事代として払う倍ものワインを飲む者もいる。ところで食事どきの話を終える前に、皆がワインで体がポカポカしてくると爆発する騒ぎと叫び声のことも話しておかなければね。要するに聾になるほどなのだ。(「居酒屋・旅籠」 阿部謹也 「日本の名随筆 酒場」) エラスムスの1523年版「対話集」にあるそうです。 


日本酒一辺倒
僕は日本酒一辺倒だ。これはオヤジゆずりでどうにもならぬ。もっとも酒との因縁はかなりオクテで、十九歳位からだ。それまではオヤジの酒好きに反抗して、高校(旧制)の寮に入ってからも「親のスネカジリが酒や煙草などのむな」と、いっぱしの説教などしていた。それが親類の酒つくりに下宿したとたん、美禄の味のとりことなり「コンナニウマイモノヲ、イママデ、ナンデオレハシラナンダ」と大後悔し、おくれをとりもどさんものと連日連夜痛飲し、一年落第してなお一向に悔やむ事がない程度までに心酔できるようになった。爾来(じらい)約三十年、ほとんど日本酒とつきあわぬ日は無いといっていいだろう。しかしわが周辺に、ぼちぼち胃や肝の臓をやられる仲間があらわれると、さすがののんきな僕も少しは醒めて、五臓六腑の検査などをやったりするが、あっけない位に何時も無罪放免である。そこでまたショーコリもなく酒への旅路がつづく、といったあんばいだ、とはいえ、以前のように一升あけて、「さて、これからいっちょうやるか」というような乱痴気酒はすくなくなった。(「地酒礼賛」 山本太郎 「酒恋うる話」 佐々木久子編) 山本鼎の長男だそうです。 


○人車(じんしや)の引力語(ひきごと)
▲−うし(牛)のせいと さけ(酒)のあたゝまりで さむさをわすれりやう はだをぬぎつゝ ぼうのはだぎを あらハしたるてい 図のごとし 五郎八ぢやわんで さしつおさえつ よほどどろんけん−「−モシ旦那おひさしぶりでございますと こゑをかけると ヲゝ八公ひさしぶりだの ときにいまから 大いそぎで川ばたまでやらねへかと いふから ね(値)もきめずにすぐにのせたハ そこで腕と車のつゞくだけ いそいだところ 昼めへに川ばたまで着(つく)と 大きにごくらう 思ひのほかはやかツたと 立前(たちめへ)に 酒手が弐朱ときたので 半日仕事に三分あまりヨ−」(「安愚楽鍋」 仮名垣魯文) 


六三除け
「六三」といっても若い人たちには、あんまり、ピンと来ないであろう。だが、むかしかたぎの人には、この「六三」には無関心ではいられないらしい。「六三」というのは。要するに"どうしたわけか癒らない病気"をいうのである。有力な新薬も服んでみたが、はかばかしくない。こういう病気は「六三」にかかっているというわけである。それには「六三除け」をしなくてはならない。「六三」にかかっているかどうかは、その病人のかぞえ年齢(どし)を九で除して、のこった数で知る。三十一歳ならば、三九、二十七を除して引けば、"四が肩に、六二脇、四腹、八つ股、一三足"というわけで、残った数がその場所に当っていれば「六三」にかかっているのである。−但し、男女によって肩、脇、足の左右がちがう。ところで、モンダイの「六三除け」だが、これは豆腐一丁をその人の年齢(とし)の数だけ"賽の目"に切り、酒一合、醤油少量をそえて神棚に供え、『五王ある中なる王にはびこられ、病いはとくに逃げ去りにけり』と、十遍となえ、柏手(かじわで)を四つ、九礼拝して酒三口、豆腐五ツ切れを醤油につけて食べ、残りを白紙に包んで海か河に流せばヨロシイという。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


キブノリのクルミあえ
一つ一つの説明では冗長すぎて、かえって印象が曖昧になるであろうから、はなはだ個性的にアッピールしてきたものを紹介すると、まずキブノリのクルミあえ。コリコリした歯ざわりにえもいわれぬ香りが鼻先をかすめ、ノド越しをなでる快さ。イケマスネ。するとご主人目を細くしてのたまう。月山の山菜料理は行者の修行生活と百姓の生きるチエから伝えられた神聖な食べものであるからして、羽化登仙してもらっては困る。つまり酒の肴にして食べるものではないとの主義を固守しているが、これはイケマスヨ、とニンマリ。堅いだけの人物ではないことを自ら証明されて、地酒の"大観"特級酒を運ばせた。このお酒、特級酒だけが辛口だそうで、キブノリのクルミあえは一段と風味をあげた次第である。行者ニンニクの酢醤油も当主のモットーに反して佳い肴である。(「味をつくる人たちの歌」 牧羊子) 山形県西川町間沢の出羽屋での話だそうです。キブノリ(木生海苔)は、サルオガセの一種のようです。 


麹蓋
麹蓋もうまくできているんだわ。昔の人はまったくよく考えたものだと思うわね。見たところは蓋もない平らな木の箱だ。だども、これがただの箱でないんだ。底に張ってある二枚の杉板は、何百年もたった大きな杉の木から取った杉板だ。この板は「柾目」になっている。しかもカンナはかけていない。木を割って板にしたものだ。また、少しザラザラしている方が空気が通って乾燥しやすい。麹蓋は何度も洗うものだから、だんだん、柾目の柔らかいところが磨り減ってきて、目がたっている。目と目の間が微妙にへこんでくるわけだ。麹を入れた麹蓋を振ると、そのへこんだところに米粒がひっかかって、ちょうどいい具合に米粒をあおれるわけだいね。また、底板の下に入っている桟(さん)は、上に膨らむような形になっていて、底板が上に反るようにしてある。だすけ、盛った麹が自然に膨らむようになっているわけさ。(「杜氏 千年の夢」 越後「八海山」杜氏 高浜春男) 


さかしお
柳原(敏雄) 味つけというものは、塩味が基本なんですが、「酒塩」というようなものもありますね。むかしの人は、酒で味をととのえたんで、酒のことを「さかしお」と呼んだ、というんですけれども、それとは別に、酒と塩を合わせますとね、やはり、かなりおいしい味になります。ですから、塩を入れた酒の中に材料をひたすんですね。たとえば甘鯛の酒蒸しといえば、塩あじをつけたお酒の中に甘鯛の切り身をひたして、それを蒸す。そうすると非常に香りのいい蒸し物ができるということなんですね。(「NHKことばの歳時記」 NHK編) 

蕉弁盃
浄乾花 弁「上:髟、下:休」(べんきゅうス 漆を塗ることのようです) 其背ニ。 極メテ堅牢、羽林白川侯創意、製造所ル恵。(「甲子夜話」 松浦静山 中村・中野校訂)巻三十一 蕉堂主人の筆記だそうです。芭蕉の花に漆をかけた盃のようですが、かなり大きなものなのではないでしょうか。 


白石先生手簡
「白石先生手簡」に、「若(も)し古語の例により候はば、凡(およ)そ飲食の物、呼んでケと申せしは、いかにも古事に見え候、食訓(よ)みてケとし候、是にて候ケといひ、キといふ一声の転に候へば、酒又飲むの最なる物によりてケといひ、又転じてキと申歟(か)、サケといふ是にて候、ミキとは古事記に悉く御酒の字よみてミキとし候」と見える。(「日本の酒造りの歩み」注 加藤百一) 


看板
私も段々と酒が強くなり仕事にも張りが出て来て、仕事が終わり次第夜な夜な酒を愛するようになっていた。当時は志賀靖郎先輩を筆頭に酒豪が揃っていて、早朝一番乗りの守衛さんが出勤すると、撮影所の門標がお産婆さんの看板に替わっていたり、会社内にて評判の悪いスタッフ、俳優の標札が替わっていたり、誰がいたずらをするのか風呂屋のノレンが酒屋にかかっていたり、歯医者の看板が下駄屋にかかっていたり、とにかく夜な夜な撮影所の近所で標札、看板事件が起きて遂に会社の入り口の掲示板に「この様な不届き者は、当社員にはいない」という撮影所長の訓示が出る程にいたずらが暫く続いた。もちろん私は、その様なグループの一員ではなかった。本当かな…。(「女 酒ぐれ 泥役者」 小林重四郎) 


永仁の壺
昭和三十四年、鎌倉時代の神酒器という、いわゆる「永仁の壺」が、国の重要文化財に指定された。ところが翌年、壺の作者は自分である、と告白し、世人を驚倒させたのが、唐九郎であった。研究者や陶磁器専門家の目さえ、くらませるほどの出来栄えであった。唐九郎が二十二年前に、鎌倉期の瀬戸焼き技法再現のために、焼いた物である。この成功は、唐九郎に自信を与えた。(「行蔵は我にあり」 出久根達郎) 神酒器はいわゆる瓶子だそうです。また、この時の文部技官・文化財専門審議会委員は小山冨士夫だそうです。 


ダシアイコウ
福島県耶麻郡では村人が物を出し合って一緒に飲食することをダシアイコウというが、招く招かれるではなくて出し合いの飲食のいろいろがある。たとえば村中の人が出し合ってする道普請の道作り祝、茶つみ終わりのカゴヤブリ(滋賀県栗太郡、野洲郡)、娘らがユイの苧うみを終わって催すオボケヤブリ(石川県若山村)などがそれで、青森県の野辺地地方では、秋の刈収めの祝が出し合いでヨサカモリといい、数日間女天下で飲み食いしてたのしむ。裏日本ではこういう出し合いの郡飲をカクセツといい、九州ではハギ又はヒカリという。メオイという語は和歌山県以西中国・四国地方に行なわれている。福井県吉田郡岡保村の百姓仲間の夏モリは盆の七日、冬モリは正月五日頃で区長の家に寄り合って村費用の割当・雑家の仲間入りなどをする酒盛りである。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 


安政三年[一八五六]丙辰(ひのえたつ)
○同(正月)十七日、書家生方鼎斎卒(五十八歳、酒狂人の為切害せらる)。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


'67年元日
夕日が沈む頃、アフリカ人の友人達が数人集まってきた。居候している家の庭にゴザをしき、日が沈むのを待って、日本料理の夕べがはじまった。まず、家主婦人のつくったウジを飲んでから、雑煮をたべはじめる。一同、木の枝をけずってつくってやったハシをおぼつかなげに使いながら一口たべては首をひねる。雑煮や昆布巻の味は、あまり舌にあわないようだった。砂糖が糸をひくほど甘く煮つけたニワトリは、好評ですぐなくなってしまった。それにもまして、皆によろこばれたのは、お屠蘇用のためにと、何カ月も前から誘惑をおしのけてとっておいた、三本の罐入りの日本酒であった。(「食生活を探検する」 石毛直道) タンザニアのダトーガ族の民俗調査をした、'67年元日の話だそうです。ウジは、モロコシ、キビ、キャッサバ、トウモロコシなどの粉を湯にといた重湯のようなもので、砂糖をたっぷりいれて飲むのだそうです。 


吉野秀雄
酒が好きで、やや酒乱の気味があった。横浜駅のホームに座り、「早く電車を持ってこい」と連れにわめいた。「貧しさの底にたまたま飲む酒は涙を垂れむばかりにうまし」。一生の大半を闘病で送った秀雄の晩年、またも不孝が襲う。「永病みの足立たぬわが目のまえにあるべきことか長男狂ふ」(「行蔵は我にあり」 出久根達郎) 吉野秀雄の酒 


奉献 清酒菰樽
明治神宮の御祭神明治天皇様は、明治の御代に我が国様々な産業を奨励し技術の振興に御心を注がれ日本の興隆と近代化を成し遂げられました。また、我が国の国母と慕われた昭憲皇太后様と友に両御祭神の広大無辺な御聖徳は国民ひとしく仰ぎ奉るところであります。ここに奉供されています菰樽は、ご縁を以て永年当神宮へ奉納を頂いております甲東会を始め、昭和三十八年に結成された明治神宮全国酒造敬神会より奉納されたものであります。ここに、奉献頂いた酒造各社に衷心より感謝申し上げますと共に、酒造業を始めとした我が国の伝統文化を担う諸産業が益々栄えますことをご祈念申し上げます。 明治神宮  甲東会は、東京に支社のある灘の酒蔵の会だそうです。'12年には、菰樽が165積まれていました。 


竹屋の渡し
幕末には諸大名の留守居役、金座銀座の役人、札指、御用達町人、本町筋の大店、大伝馬町の木綿店の旦那などの客筋が、毎年初春の乗初めに、各々が費用を出して賑わった。まず、元旦の朝、会所から十二艘の船に、酒肴を仕度して、山谷堀の芸者五十人を招いて、恵方(えほう)に向って漕ぎ出し、綾瀬の三叉(みつまた)まで上って、再び漕ぎ戻すのを吉例としていた。この日の祝儀は芸者が一朱、船頭は銭三百文として、十二軒の船宿では紙包みにして盆に盛って、勝手に持って行かせた。(「江戸街談」 岸井良衛) 隅田川を渡る、竹屋の渡しの話だそうです。 


新年
屠蘇つげよ 菊の御紋の うかむまで 本田あふい
齢高き 父より受くる 屠蘇の盃 福田蓼汀
馬を見て 年酒(ねんしゅ)の酔いの 発しけり 秋元不死男
山妻の うづらぶくれに 年酒かな 苅谷敬一
年酒して 獅子身中の虫 酔わす 飴山実(「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 山口青邨監修の「俳句歳時記」からだそうです。 


門松
ところで、門松は、元来、山へ行って松の木(前記の通り必ずしも松の木とは限らない)を伐り、それを家へ運んできて立てることに意義があった。山の松は、年神の依代(よりしろ)であり、それを伐ることによって神霊を分割し(これを「はやす」という)、家に運び帰り、屋敷内のもっとも清浄な場所に横たえ(これを休ませるという所がある)、神酒を供え、翌日にこれを立てた。門松は、このように、年神を迎える手段であった。それで、もとは「松迎え」を「正月迎え」といい、「お松さま」「お迎えもうす」などと尊敬の念をもって表現する所もあり、松すなわち正月さまと考え、伐ってきた松そのものを神聖視していた。(「くらしの条件」 中尾達郎) 


浜焼の鯛一尾
正月、何はなくとも浜焼の鯛一尾。これさえ尾道から取り寄せておけば、口うるさい酒敵を迎えて酌み交わすのに困らない。伝八笠から鯛を取り出し、バックのまま蒸し器で温める。鯛が大き過ぎて蒸し器に入らなければ、大鍋に湯をたぎらせ、頭、胴、尾と順にくぐらせればよい。尾頭つきの浜焼鯛を大皿にドンとのせれば、それだけで酒席が華やかになり、居並ぶ酒敵も目を輝かせて沈黙する。あらかじめ背びれに沿って包丁を入れておくと、箸で簡単に皮がめくれる。この皮を素揚げにしてビールのつまみにする。おめでたい月らしくこの鯛煎餅でシャンパンというのも悪くない。白い身は山葵醤油か生姜醤油で食べるが、これにはどうしても冷えた吟醸酒である。ひたすら奪い合うように、むしっては食べ、食べては飲みしていると、たちまち鯛は頭と中骨と、腹にぎっちり詰まっていた大量の昆布だけになる。(「うまいもの職人帖」 佐藤隆介) 尾道「ウオスエ浜焼屋」の鯛だそうです。 


酒に若かざる
頭がすっきりしたところで、のんべ向きのお正月の句はないかと思って、歳時記を繰っていたら、こんな句が目にとびこんできた。
屠蘇(とそ)臭くして酒に若(し)かざる夕かな 虚子
字あまりだし、句としてもそれほどの出来ではないけれど、酒飲みの気持ちを代弁してくれているようなところが気にいった。年頭祝儀の屠蘇にはちがいないが、あれはうまいものではない。もともと屠蘇延命散といって、だから所轄は、酒屋ではなくて薬屋である。そう思うと、ますます飲む気がしない。どうしたって「酒に若かざる」である。(「江國滋俳句館」 江國滋) 


満三歳の正月
記憶しているかぎりであいえば、最初に酒を飲んだのは満三歳の正月である。お屠蘇を一番小さな盃で飲んで、大層うまかったので中位の方の盃でも飲んで、その後で年始の客の膝に乗って日本酒を猪口に二杯飲み「おや、坊ちゃん大層な飲みっぷりだ」なぞと言われて良い気になって何やら踊ってみせている最中に真赤になってぶっ倒れた。しかし、それでも懲りたというわけでもなく、翌日もお屠蘇を盗み酒しているから、よほどアルコールが性に合っているらしい。(「三歳のお屠蘇」 景山民夫 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


一月一日(水)
サラリーマンになって初めての正月。今年からお年玉はない。と思っていたら親父が千円くれた。正隆に五百円、俊隆に五百円、之隆に三百円やる。マイナス三百円。朝、酒三合「上:夭、下:口 の」み、いったん寝て、夜また一合「上:夭、下:口 の」む。賀状の返事を書き、明け方四時頃まで弟三人と花札、ポーカーなど。
註・このころの千円は今の四、五千円に相当する。ぼくの当時の給料は七千円。
一月二日(木)
父と北村へ年賀に行く。約二合「上:夭、下:口 の」む。伯母に千円貰う。帰途、梅田へ出て父を「民芸」に案内し、カフェ・ア・ラ・クレームを飲む。マスターと絵の話などをずる。OS裏で父と別れ、ひとりパチンコをする。百円で四百円分勝つ。帰って弟たちとトランプを三時頃まで。(「腹立半分日記」筒井康隆) 


盃に酒を注いでもらう役
酔客たちが、南洋じゃ美人のうたをうたってよろよろしながら、やあ和ちゃんも踊ろう、なんぞと寄ってくるのをすりぬけるこつ、あれは六つ七つのころに覚えた。逃げながら、客に不快感をのこさないことが大事、と感じていた。盃に酒を注いでもらう役もそのころから身についた。そしてちょくちょく茶の間にとってかえし、酒のかんをみつつ、少し味わってみた。母も気づかなかった。なるほど酒はおいしいものだ、と、寄っている客達に同情して、座敷へ出ていったのを覚えている。客たちが引きあげると、父はにこにこして、お手伝いごくろうさんといって、すとんと眠る。母といっしょに皿や箸をさげつつ、またちょくちょく酒のぬすみのみをした。雀がちいさな頭をこくんとまげて、やきとりとなって皿に残っているのをつまんで食べた。(「ほろ酔いきげん」 森崎和江 「酒との出逢い」 文芸春秋編) お正月の風景だそうです。 


気のきいた正月用のつまみもの
《焼き葱》太めの白葱の白い部分だけを長さ約四センチに切り、金網にのせて転がしながら全体に軽く焦げがつくように焼く。焼き上がったら、表面の焦げた葉を一枚だけ剥ぎ取ると、その下は真っ白。食塩をパラパラッと振りかけて食べると、葱の刺激がやわらぎ、自然の甘さが舌に広がる。これは京都の『千花』という高級割烹のオリジナル−
《葱の風呂吹き》風呂吹きといえば、大根や蕪菁(かぶら)を輪切りにして茹で、練り味噌をかけて食べる料理。その大根や蕪菁のかわりに白葱を用い、長さ約四センチに切り、盆笊(ざる)などに並べて蒸し、熱いうちに練り味噌をかけたのもうまい。
《セロリの胡麻酢和え》ウイスキーなどを飲むときは、生のセロリに塩をつけてかじったりするが、日本酒ともなれば、そうはいかない。そこでセロリを胡麻酢で和えたところ、日本酒にもよう合うつまみになった。胡麻酢は、煎った白胡麻をよく擂り(めんどうなら瓶詰めの擂り胡麻を利用)、少量の出しを加えて擂りのばし、薄口醤油と少量の砂糖で調味し、最後に酢をポトリとたらして擂りまぜる。濃度はマヨネーズくらい。酸味は控えめのほうがうまい。セロリは、太い軸だけを用い、表側の筋を削ぎ取って二つに割り、やや厚めの斜め切りにする。これを笊(ざる)に入れ、熱湯を注ぎかけて冷水に放ち、よく水を切ってボウルに入れ、先の胡麻酢で和える。こうすると、日本酒には強すぎるセロリの香味も程よく薄まり、結構いける。(「本当は教えたくない味」 森須滋カ) 


返句
昨年の暮れから、今年の正月にかけては、石油危機、それに意地悪く冷い冬になった。病躯長身の私には、寒さが一入身に沁みる。
油きれて 霜の針さす 脛(すね)の骨
しかたないから、日向ぼっこしながら、内から暖める。幸い連日の好晴。
盃に 氷浮かべる 西高東低
盃の中身は、伏見の「月の桂」(濁酒)である。この酒、どぶろくの上等であろうが、オン・ザ・ロックスにして飲むと誠に口当たりがよい。この二句を年賀状のはしに書き添えて、二、三の方に贈ったら、早速返句(?)が届けられた。杉村武氏からは
あぶら切れて 骨こきこきと 寅の春
月の桂に 憂さ晴らさんか 三ケ日
芳賀徹君からは
初日うらら 油のきれし 虎眠る(「逸遊雑記」 山内恭彦) 


筥崎宮玉せせり祭
福岡市宮崎八幡の玉せせり祭は、正月三日に行われる。球は男玉・女玉の二つで、直径一尺ほどである。当日、玉洗いの式といって玉に神酒を注いで清め、ついで湯で洗い、藺(いぐさ)でみがき、油を塗って白紙で拭う。終わると神官が玉を捧げて、末社の玉取恵美寿神社に移る。広場には、競子(せりこ)である岡部・馬出両部落の青年たちが、裸・裸足で大勢つめかけている。神官は女玉を貝桶に納め、男玉を持ち出して、これを群集の中に投げ入れる。青年たちは玉を奪おうと、裸の体をぶっつけあって激しく争うが、玉には油が塗ってあるので、なかなかつかまえられない。世話方は熱戦の合間に「勇み水」といって群集に冷水をかけてやる。楼門の上には、両部落の氏子代表が、下からせり上げてくる玉を受け取ろうと身がまえている。なにかのはずみで、上の人の手に、玉が納まると勝ち、ということになっている。勝った部落は、その年豊作になると信じられており、また以前には、この時の勝負によって漁場網入れの権利をきめたということである。(「日本生活歳時記」 社会思想社編) 


小林一三
それらのうち、阪急電鉄宝塚線・箕面線の前身は、(明治)四十三年に開通した箕面有馬電気軌道の本線と支線。創始者は、後に政界・実業界で大成功した小林一三(いちぞう)である。明治六年一月三日、山梨県北巨摩郡の酒・絹問屋、小林甚八の長男として生まれた。名は生まれた月日にちなんだという。(「なにわ人物譜」 藤本篤) 


小西来山
俳諧の西山流の祖といわれる小西来山はのんでばかりいるので貧しいので、ある弟子が大晦日に正月の雑煮用の材料をとどけてくれた。彼はよろこんで、すぐそれをみな食べて「我春は 宵にしまふて のけにけり」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


劉生の乱酒
手紙が来た。春陽会をやって行くかと。私は三人集まるを会と云う。三人いればやって行くと答えた。(小杉)放庵ら同人達は三人に運営を任せた。三人とは木村荘八、石井鶴三と私である。(岸田)劉生は私がついて来るものと思っていたようである。草土社がある。それをつづけようと思っていた。劉生にしてみれば盟友に背かれたのである。私にとって劉生の存在は大きい。劉生がそれでえゆらぐとは思えなかった。私は劉生を下から見ている。上から劉生を見る力はなかった。劉生の放蕩生活にそれが拍車をかけたことになったかも知れない。今、おとなになってみればそう思うのだ。もちろん原因はそれだけではない。劉生の乱酒の噂は耳にはいった。私はその後、伊豆の友人のところへ行くとき、鎌倉へ帰る劉生と乗り合わせた。そのとき、酒を飲むことは頭を悪くするであろうと恐る恐る云ったら「頭なんか悪くなったってかまわない。」と云った。それからまた京都へ行ったとき、南禅寺草川町の劉生を訪ねたことがある。劉生は煎茶を自分でいれてくれた。そして「同じ釜の飯を食ったのだ。もう一度草土社をやろうではないか。」と云った。私はほろっとしたが、もう舟は岸を離れた。引き返すことは出来なかった。(「云わずもがなT」 中川一政) 


アラキ酒
アラキ酒は、ジャバ、セイロン、東南アジアなどで、ヤシの花梗の汁トディ(toddy)やサトウキビの糖蜜、米などを原料にしてつくったラック(rak)、ラッキ(rakki)といわれた蒸留酒のことである。アラキ酒の渡来にオランダ人が一役買っていたことは、『長崎オランダ商館の日記』(一六四一年六月条)とか、また『和漢三才図会』にあるので知られる。アルコール分の高いアラキ酒は、米の酒になれた江戸人には、確かに「気味甚辛烈」、「辛熱香烈」であった。アラキ酒は、焼酎とは別種の蒸留酒と見なされ、荒木、荒気、阿刺吉、阿刺木、阿羅岐、末奇(以上和書)、阿刺吉、阿刺基、阿里乞、軋頼機(以上漢籍)などの字が当てられていた。なお茴香(ういきょう)などを混ぜた異香をつけた二次的蒸留酒もアラキ酒と称した。これらは、健胃、去痰、駆風剤として、蘭法医からとくに貴重視された。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


欲と色と酒とを敵と知るべし
物欲と色欲と飲酒とは、身を滅ぼす敵のようなものであることをよく心得ていなければならない。太田南畝(一八二三年)の『半日閑話』に、「水戸黄門光圀卿壁書(へきしょ)」を掲げ、その第四に載せる。「壁書」は、壁などに掲げた武家の家訓。(「飲食事辞典」 白石大二) 


松竹の活動屋さん
撮影所(松竹)の裏通りに"たこ一(びん)"と称するおでん屋があって、そこがわれわれ悪童共の溜り場であった。夜な夜なそこに集まって、お互いに映画論等をぶってそれぞれのキャラクターを発揮して、その足で京極のカフェ(キャバレー)等へ足を延ばして飲み歩いたものだ。当時、河原町から京極辺りの飲み屋にとって日活、松竹の活動屋さんは大変なお客だった。それぞれが現金払いなぞとんでもなく皆お帳面で、活動役者が京都の繁華街では大手を振って歩いていた時代で、映画が斜陽化した現今では、映画人は京極通り等でまるで見当たらない。酔っ払って町をのし歩く活動屋の姿なぞ、一度で良いからお目にかかりたい。(「女 酒ぐれ 泥役者」 小林重四郎) 京都の昭和の初め頃のようです。 


酒屋の前
越後の志士で月形半平太のモデルとおもわれる本間精一郎が、裏切りの疑いでいわゆる人斬り以蔵(岡田以蔵)ら土州志士数人にとりかこまれ、激闘におよんだあとで、なにぶん露地がせまいため、たがいにふりまわす刀で町家の出格子に無数の切り込みができた。京都人の恐ろしさは、その刀痕を奇妙がるわけでもなく、またこれを観光のたねにするわけでもなく、その後百年、平然とこの借家に住みつづけてきていることである。この町では歴史の息がそれほどに長く、それほどに歴史が日常の中にあり、しかも人々は泰然自若として歴史の中で住みくらしている。本間は先斗町の「大駒」で飲み、芸妓ひとりをつれて出たときは小雨がふりはじめていた。先斗町のくらがりで土州人に襲われたとき、芸妓を逃がし、剣をぬいて闘いつつ三十九番露地まで走りぬけ、途中、剣がつばもとから折れ、木屋町の立誠小学校前の酒屋の前まできたとき力つきて斃れた。その酒屋までが、今も営業している。京都のおもしろさとは、こういうところにあるのではないか。(「京−維新こぼれ話」 司馬遼太郎) 


アメジスト
アメジストの語源は、ギリシャ語で否定を表す「a」と、酒を表す「methy」なのだそうです。したがって「酒の否定」という意味になるので、お酒に酔わないお守りになるそうです。(「とりあえず、ビール!」 端田晶) 


今川義元の「市場税免許」
ここに、西暦一五四二年、天文十一年の十二月十六日付の今川義元の「市場税免許」のお墨付がある。それには、こう記してあった。 義元花押 江尻商人宿ノ事 右毎月三度市(いち)開 上下商人で宿橋し 東西共守屋敷二百間 以前ニ免諸役斗次 同屋敷ノ内酒家ノ 諸役免許斗由如件 天文十一○ 十二月十六日−
要するに「その旅館に宿泊する上り商人、下り商人は、宿を中心として、東西にそれぞれ六百メートルずつ以内の敷地で"取引のために"市を開くことを許可するばかりか、開市税を徴収しない。そのうえ、その敷地の内でなら、バーやキャバレーがあっても、各種の税金を免除する。今川義元」というお墨付きである。これによってもわかるように、戦国時代にも、各地大名は、領主として、「市」から徴税したし、その「市」を毎月何回開くなどの許可もしていた。許可なしに「市」を開いたりしたのでは、重罰に処せられたのであろう。酒を飲ませる商売は、「市」とは別に大昔からあったことは本書でも紹介したところだが、そういう商売は、いつの世でも税金の対象としてとくにマークされてきたことが、この義元のお墨付きで理解される。(「道鏡と居酒屋」 倉本長治) 


雪見にころぶ
雪見はどうも向島のあたりにかぎるようで、いざさらば雪見にころぶところまで−という芭蕉の句もございます。雪見の客がふたり茶店の床几(しょうぎ)に腰をおろして、熱燗の雪見酒としゃれこんでいます。「おや、あれはなんだ、雪女郎じゃあねえか」「バカなことをいうな、あれは芸者だ、おめかしして、どこかへいくんだよ」「へえ、この雪に芸者が、なにしにどこへいくんだろうな」「知れたことよ、ころびにいくのだ」
これは明治二十二年に落語の三遊派が三遊塚建設のために集まったとき、円朝をかこんで小咄を作ったが、そのとき三遊亭清橘の作である。江戸小咄ではなく明治東京の小咄だが、芭蕉の句と、芸者の春を売ることの隠語の"ころぶ"をひっかけて、きれいにまとめてあるところは秀逸である。 (「小ばなし歳時記」 加太こうじ) 


人間とは
立川 だいたい酒をやめたりタバコをやめたりする奴は、最も意志の弱い奴だと僕は思います。酒はね、人間を駄目にするものじゃなくて、「人間とは駄目なんだ」ということを教えてくれるものなんです。(「発酵する夜」 小泉武夫) 立川談志との対談です。 


腹のシクシク
私は腹の具合が悪いのでまいったが、とにかく、ぶらぶら歩き出した。オペラ通りから、わけのわからない道を、時々ベンチにひと休みしては歩き、ゆっくりゆっくり行ったが、やはり腹の調子がおかしく、途中、小さなレストランでスープだけのみ、トイレを借りる始末であった。二時間ほどかかって、ようやく佐藤さんのアトリエにたどりついた。佐藤さんには、五年振り位で会ったのだが、顔が小さくなってしわだらけになり、すっかり老いが目立ったのには驚いた。しかし、佐藤さんの方から先に、「やあ、随分頭が薄くなったね」と言われたので、苦笑した。「今朝から腹の調子がおかしくて」と言うと、「そんなの、「上:夭、下:口 の」みゃなおるよ」と言って、ブランデーをグラスについですすめた。ええ、ままよと思い、ひといきに「上:夭、下:口 の」みほすと、それこそ五臓六腑にしみわたったが、効果デキメン、三十分も話をしているうちに、腹のシクシクが止まってしまった。正に"酒は百薬の長"である。(「酒、人、酒、旅」 巖谷大四) 初めてのパリで、画家の佐藤敬を訪ねた時のことだそうです。 


鳥獣魚虫の掟
世上困窮につき、今般鳥獣並虫のともがらへ、一統の簡略申付候。其外行作悪敷(あしき)品相(ひんそう)改申渡候。左の條々急度(きっと)相守申べき事。−
一 松虫鈴虫のともがら、籠(かご)のうちにて砂糖水を好み奢(おごり)のさたに候。向後は野山の通露ばかりにて精出なき申べき事。−
一 蜜蜂の小便高直(たかね)に売候よし、諸方の痛(いたみ)になりよろしからず候。向後は世間一統に、只米六升ほどの積を以(もって)相(あい)はからひ申べき事。−
一 鼠嫁入の躰ことごとしく相聞え候。廿日鼠(はつかねずみ)に五升樽もたせ候こと過分の至(いたりに)候。以後は提錫(ちょうしか、ちろりと読むのでしょう)にて相済(あいすま)し申べく候。振舞の上天井にて躍(おどり)など催さはがしく候、人々妨に相ならず候様、明き二階椽の下等にても、盆の中躍候ことくるしからず候。
一 猩々(しょうじょう)つねに大酒を好み、乱舞の楽奢のことに候、潯陽の江辺にて持出しぶるまひ向後一切無用たるべく候。拠(よんどころ)なき義にて会合これあり候とも、一種一献にかぎるべく候。尤(もっとも)酒は其摸寄(もより)の酒屋にて小買いたし申べき事。−
右の條々かたく相守り申べく候。忽に心得違これあるやからこれあるにおいては、急度咎(とが)申付べく候。品により蟻の町代組頭まで越度(おちど)たるべく候。
宝暦九卯七月(「鶉衣」 横井也有 石田元季校訂) 


酔いに乗ってこどもの上などいう
酔いが回って、酔うままに、こどもの事なんかをいう。酔余の話題がこどもの事に及ぶのは、昔から代わりがない。『後撰和歌集』に、<(略)賓(まろうど)、主(あるじ)[忠平]、酒あまたたびの後、酔(ゑ)ひに乗りて子どもの上など申しける次いでに、兼輔(かねすけ)朝臣(あそん) 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな>とある。(「飲食事辞典」 白石大二) 


サキーラ
▼アメリカのとある町の、とあるバーで不思議なカクテルに出会った。"サキーラ"。材料は正確には教えてもらえなかったが、テキーラとライムとそれに日本酒とのこと。味わってみるとこれがなかなか良きであった。なるほど、日本酒が世界の酒になるために足らないのは酸気だと、つねづね思っていたので、ライムがチラッと入るのは理にかなっている。(「あの味 この味 ふる里 隠れ味」 渡辺文雄編) 


はち巻で女房へ願ふむかい酒 そのはづのことそのはづのこと
どうも昨夜は、少し飲みすぎたらしい。二日酔いで頭がガンガン痛むのを鉢巻でおさえて、「これは、迎え酒でもやらないとどうにも我慢ならない」と、女房に一本頼みこむ亭主。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


さけせん
酒やめたならばなぜ持つそのコップ 樋口恵美 新入り
飲めるうちゃ元気の証拠ともう一杯 樹久田明輝 新入り
好きな酒飲めなくなっても死なぬ人 水野幸治 月番
飲んで死ぬ人死なぬ人…飲んで死なないのが一番幸せだが、周囲が困る。
ニュース見て馬鹿ばっかりとひとり酒 平手利松 新入り
そう、テレビは「電気馬鹿箱」です。つくるのも馬鹿なら、出るのも馬鹿。見るのも馬鹿なら、スポンサーも…すこし馬鹿。だから私なんか一日に四時間しかテレビを、消してない。(「ぼけせん川柳 喜怒哀ら句」 山藤章二) 


杯に推参なし
 「推参」は無礼の意。酒席で杯をすすめるのに、身分を気にして遠慮する必要はないということ。
杯に孑孑(ぼうふら)が湧く
 酒をついでもなかなか飲まない人に飲むことをすすめる言葉。
お情けより樽の酒
 《「おなさけ」の「さけ」を酒にかけて》同情より実質的なものを求めること。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


亀田窮楽
江戸中期の著名な書家亀田窮楽は、たいそうな変人で、また大の酒好きであった。あるとき彼に好きなものをあげるように言うと、「煙草、相撲、競馬、銭」と数えあげて、「酒は予が糧(かて)なれば計(かぞ)えず」と言った。ついでに嫌いなもののなかに「理屈」があった。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


イランにて
ところが民間は違う。イランに調査に赴いたとき、大使館では何の収穫もなしで諦めかけていたが、知人を通して某総合商社から連絡。我々のためにレセプション・ハウスで情報セッションを開いてくれるとのこと。各地から集まった駐在員による音楽情報はもちろんありがたかったが、なにより嬉しかったのは酒にありつけたこと。ビールこそ日付のない密輸物だったが、後はスコッチからワイン、もちろん日本酒までなんでもあり。加えてタイ人シェフによる中華から和食までという別世界。イスラーム革命下にあるこの国ではもちろん禁酒。一部の国では許される国際ホテルでの飲酒も御法度。大使館員もノンアルコール・ビールを「上:夭、下:口 の」んでいるのだから、「上:夭、下:口 の」んべえには地獄もようなところである。一部の少数民族にはワイン製造が許されているとも聞くし、アルメニア人地区も「上:夭、下:口 の」めるそうだが確かめていない。そんななか、酒を緊急手配してくれた某商社の人々には多大なる感謝を捧げたい。日本企業は凄い。数日前にもチャドルの下に化粧とマニキュアをしていた女性が公開処刑された、なんておぞましい情報を聞いたばかりなのにここは天国。おそるおそる「大丈夫ですか?」と尋ねてみたら、革命防衛隊をはじめ関係方面には手を打っているとの返事。第一送り迎えの運転手からしてそっての関係の人間だというから驚きだ。(「粋音酔音」 星川京児) 


酒がぼくの文学なんだ
最初の招集から解除になった(昭和)十八年の頃の梅崎(春生)の日記の上では、飲んだ酒についての記述がほとんどだ、と梅崎自身が書いている。「一週間の中五日は酒を飲んでいる。飲むだけでなくて、必ず酩酊している。酩酊せざるを得ないのは、時代のせいで鬱屈したものがあったからである。乏しい給料で、そんなに酩酊出来たというのも、数少ない良心的飲屋のおかげであり、そこで出した焼酎やどぶろくや泡盛のおかげである」(「悪酒の時代」)というような状態であれば、値段のわりには酔いの遅いビールや清酒は敬遠した。うまいドブロクを扱っている店があり、一人で一回に二本きりしか飲ませないとあって、時としては数百人が行列していたこともあった。そのドブロクの店の前に四回も順番を待って並ぶという、梅崎のこの辛抱強さはどうだ。(「作家と酒」 山本祥一郎) 


山本為三郎氏
何でも若い時から洋酒を研究して、よき年代のブドー酒なぞを取り寄せ、地下室に貯え始めたらしいが、私はその数本を、味わわせてもらったことがある。一番驚いたのは、シャンパンである。戦前からの貯蔵の一本を抜かれた時、私は何の期待も持たなかった。シャンパンなんて泡が立って、景気のいいうちに飲むべき酒と思っていたからだ。そしてグラスに注がれたのを見ると、すっかり気が抜けて、色も飴色に変わっていて、いかにもマズそうだった。ところが、一口飲んで見て驚いた。こんなウマい酒は、生まれてから飲んだことがないのである。それはシャンパンの味ではないが、さりとて白ブドー酒の古酒の味ともちがう。何とも言えぬ独特の気品ある味だった。こうしたシャンパンの飲み方があると知って、私は浅学を恥じた。故人はよほど洋酒のことを知っていたらしいが、自分は飲酒家ではなかった。酒の味はよくわかるらしいが、自分では飲まないのである。酒の好きな人に飲ませるのが、愉しみだったらしい。そういうことをハイカラというのである。(「食味歳時記」 獅子文六) 


掌上の露
右の如く温熱境に向ひ候得共(さうらへども)、時候当然の衣類なく、凌(しの)ぎ兼ね候より船長に相談し、荷物倉を開き手短に取出し得べき単物(ひとえもの)をひき出す者も有之(これあり)候処、豈(あに)計らん本邦出帆(しゅっぱん)の砌(みぎり)、池田筑前守伊丹製の一樽を携えへしに、船積の始めより下積に相成居、兼て時々飛脚船に乗替し為め、何(いず)れに在りしや今日迄知れざりしに、忽(たちま)ち此樽見当り、夜飯の節、数酌を皆々に賜はり、実に仙人掌上の露を嘗(なむ)る心地、加之(これにくはふる)に氷に卵を和し砂糖を加味せし珍物を玉盤に盛り出さし、一匙(ひとざじ)の甘味得も云はれず。(欧行記)
日本酒にアイスクリームが出て、食事に不自由せし一同が歓喜の情睹(み)るが如くである。しかし段々暑くなり食事が進まざる故、朝夕両度と定め、午後は日本流のおやつで茶菓といふことに極めた。(「幕末遣外使節物語」 尾佐竹猛) 攘夷論はなやかな時期、開港延引の無益な交渉に向かった池田筑後守一行の海路での逸話だそうです。 


ストリンドベリ、ミュッセ
 一八九三年ストリンドベリの「債権者」という劇がベルリンで上演された。劇は大好評で、友人たちは作者をさがし廻った。彼は最後の舞台稽古が終わると悲観し、まるで翼をもがれた鳥のような様子で近くの地下酒場に逃げこみ、ヤケ酒をのんでいたのであった。
 ミュッセはほとんど毎晩カフェ・ド・レジャンスで、看板になるまでねばり、我が家に帰るのだった。ある晩いつものようにパレ・ロワイヤル近くをふらふら歩いている友人にあった。「ミュッセ君どこへ」「ごらんの通り、自分を送って行くところさ」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


古風な造り酒屋
一生のうちで鮎を最も多量に食べたのは、長良川の宮内庁の御漁場へ、呼ばれた時だったろう。普通、長良川の鮎漁をする場所より、ずっと河上で、寂しい町の宿屋のようなところに、古風な造り酒屋があり、そこが、御漁場の事務所みたいなことを、やってた。私たちは、そこに一宿して、その家の田舎風な料理を、食べさせられた。七月初旬の夕闇が迫る頃に、近くの河原へ行って、鵜飼を見せられたが、見物人といって、私たちの外になく、鵜匠がホー、ホーといって、鵜を使う声が、岸近い山に反響した。鮎は、いくらでも、獲れたようだった。(「食味歳時記」 獅子文六) 二十六匹食べたそうです。 


小痴楽
昭和四十一年、「笑点」スタート当時の大喜利メンバーは、司会談志他、小痴楽、歌丸、円楽、こん平、金遊(後の小円遊)で、それぞれ個性があって面白かったが、中でも小痴楽の玄人うけする答えは光っていた。番組の人気が高まると同時に小痴楽の人気も上がった。贔屓客ができて酒席が多くなる。もともと好きな酒の量が一段と増えた。飲むのはビール一辺倒で、どのくらい飲んだかというと、談志の記憶では「俺の家に来て二ダース飲みやがった」そうな。友人たちの話だと、飲み屋ではいつも小ビンで、毎晩平均五十本は飲むとか。「ボディビール」と自称するビール腹を撫でながら、小痴楽はこう言っていた。「少しぐらい体が悪くてもビールを飲むと治っちゃう。早い話、俺にとっては薬なんだ。健康保険で売らねえかな」(「完本・突飛な芸人伝」 吉川潮) 


稲荷様におまいりは
ホロ酔いゾーンに入ってくると、おあとと交代が呑み助のたしなみである。多年の修行で自分の酔いかげんはちゃんとわかる。他人の酔いも、からだの揺らしぐあいでほぼわかり、鼻の赤らんだのが三人、コーラスのようにそろって右や左に揺れだすと、相当メートルが上がった証拠である。「稲荷様におまいりは?」当主のおさそいはメートルの切れ目。腰を上げる催促にも、おキツネ様は重宝である。−
わが居酒屋開眼のきっかけになり、ずいぶんとお世話になった居酒屋の老夫婦は、その点、みごとに対処していた。「後光がさしてますね」「今夜はいいことをどっさりなさいました」「お銚子の底をのぞいてましたヨ」「太閤さまの目つきです」「風を受けてお船の走りがよいよいうで」もう十分に酔っているから、みこしを上げて退散しろということ。にこやかな顔で、じっとこちらを見つめながらいった。(「今夜もひとり居酒屋」 池内紀) 


英国では
英国では、通勤列車の中でもかなり飲む。狭いビュッフェに詰め込まれながら、おっとりと構えた国営鉄道お抱えのバーテンに、われ先にと注文する。一時間も乗っていれば、ウイスキーのダブルが十杯、それに冷たいが結構なポークパイをひと切れ。それで目的地に着いたとき、もう二・三杯ひっかけると調子がでるというわけだ。英国人の男は必ず夫婦同伴で飲みに行く、という話を、あまり本気にしてはいけない。もちろん、そんなこともあるが、ふつうは週末に限られる。それ以外は、英国の飲ん兵衛たちは、まず男仲間一杯やりながらその日の出来事をしゃべり、千鳥足で奥方のところへ帰るのだ。酒を飲むとき話題にしてはならないことが三つ。女・政治・宗教がそれだ。英国人と日本人の飲み方で、一番目につく相違の一つは、英国人は昼食のときにかなり酒をやることである。私自身、コップ一杯の水しか出されない東京の昼食に慣れるのに、だいぶ時間がかかった。英国人の男はたいてい、夕方飲むときは、列車でも、近所のパブでも、早いピッチで猛烈にやるのだ。家では夕食の仕度が整い、奥方がいらいらしながら待っているのを百も承知しているから、絶えずやましげに時計のはりを見ながら…。(「パブの人間学」 ポブ・フレンド サントリー博物館文庫) '82年の発行です。 


カラミ男
酒を飲んで怒ったり、乱暴したりするのは上等な趣味とは言い兼ねる。けれども私たちの仲間は乱暴こそしないが、遠慮会釈なくカラむ習癖があった。その昔小林秀雄は「山繭(やままゆ)」という同人雑誌を出していた。同人の作品を無茶苦茶にこきおろし、居たたまらなくなって同人を止めてしまい、カラミ男だけが残ったという。カラミの三選手は遂に三人では雑誌が出来ず、廃刊にして、今度は飲み屋に集まるものにカラみ出した。私たちは山繭三人男といって恐慌を覚えたものである。曰く小林秀雄、青山二郎、永井龍男である。この三人が寄ると手がつけられなかった。カラみカラまれるのが文学修行、人生修行と心得たわけではないが、寄ると触るとカラんだものである。これを「揉む」と称して、「あいつを少し揉んでやろうじゃないか」と衆議一決したら、揉まれる奴は大抵くしゃくしゃになったものである。出雲橋際の「はせ川」によく寄り集まり、無遠慮にカラみ合った。死んだ横光(利一)さんもこの物凄いカラみ合いを見物に来られ、「揉んどるですか」と呆れて片隅に腰かけていたものだ。今ではお蔭で、人さまから悪口を浴びても痛痒を覚えぬまでにタフになった。カラみ上戸も若い自分は面白かった。真剣勝負のような殺気が籠って、うっかり酔ってはいられなかった。それからみれば皆んなおとなしくなったものだ。(「私の人物案内」 今日出海) 


調べてみるとじつは昔、灰は塩と同様に穢れを払うものともされ、汚物の上に灰をまいたり、出棺後に木灰をまいたりした。さらに、小正月の左義長(正月一五日および一八日に吉書を焼く儀式)の灰を家の周囲にまいて魔除けとしたり、その灰や炭をぬりあって健康や無病息災のまじないともした。護摩の灰もお守りにされたり、服用されたりする。『古事記』の神功皇后の新羅遠征の記事には、木灰を瓠(ひさご)に入れ多くの箸や葉盤(皿)とともに海に散らして航海の無事を祈ったともある。つまり灰は穢れを去るものであり、その意味で酒に灰が使われたのではないだろうか。(「酒に謎あり」 小泉武夫) 


下り物現象
それでは、なぜ、元禄の世にそれほどまでに上方の諸白つくりが活気を呈し発展したかといえば、それは泰平の世相もさることながら、江戸への下り物現象がその原因の一つであった。というのは、上方より政治的、社会的優位に立った江戸も、経済的、産業的文化的にははるかに後進地であった。この落差を埋めようとした江戸人の強い要求と、消費都市江戸のにおける物資の絶対的不足を満たすためには、上方を当てにするほかはなく、品質の優劣などはいっていられなかった。こうした理由から引き起こされたのが下り物現象であった。こうした観点からも、元禄の諸白を考えてみたい。この時代のもう一つの得意な点は、村方の農産加工物が流通経済の流れに乗って都市に運ばれ利益をもたらした結果、上層農民が富力を得たことである。農村における近世的酒屋の展開は、こうした点から把握されよう。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


餅を喰い酒を呑みなばいかならん唯見るさえも天の橋立
もちを食べたり酒を飲んだりして見たらどんなに美しく感じられることだろうか、ただ見るだけでも、美しく見える天の橋立は。日本三景の天の橋立はただ見るだけでも美しい、それをもちを食べたり酒を飲んだりして見たらどんなに美しく感じられることだろうか。松葉軒東井(しょうようけんとうせい)の『譬喩尽(たとえづくし)』(一七八六年)に掲げる。(「飲食事辞典」 白石大二) 

鈴木三重吉、外村繁
 鈴木三重吉はある宴席で例によって酔っ払い、二階から小便をした。それが下にいた軍人の眼にかかり、軍人は怒鳴り込んで来た。しかしなじみの芸者が「なに、水でござんすよ」と軍服をなめて、きれいにし、その場をとりつくろった。
 外村繁には四人の息子と娘が一人いた。「わあっ、ペンは一本、箸は二、七の十四本」というと、家人は「いえ箸は十三本です」「どうして、二、七…十四…」「だって、お父さんの一本は、もう杯に進化しちゃってるんですもの」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


飲酒といふ仕事
この点については、彼の友人ボスウエルはHypokondriacksの中に斯う書いてゐる。『私は飲酒を愛する。私は体質的に、酒に耽(ふけ)る癖がある、若し、理性と宗教とが私を制御してくれなかつたら、私も、多くの人々と同じに、バツカス(酒神)の二六時中絶えざる信者になつてゐたに相違ない。飲酒といふことは、ほんとうは、一つの仕事なのだ。多くの人々は少くない時間を飲酒といふ仕事に消費してゐるのだ。それゆゑ、飲酒といふ仕事を、最も合理的、且愉快に処理するといふことは、生き方の一つの大きな芸術(アート)なのである。若し、この世の中が、我々に不断に酒を飲ましてくれるやうに出来てゐて、以つて我々に永遠の愉悦と幸福を保証してくれるものとしたら、世の哲学者達があれ程にもあゝか、斯うかと、探し索めてゐるところの至善(summum bonum)といふものも、実は飲酒のことに外ならぬのだが』(Juniper著"The True Drunkard's Delight")(卅三ノ八)(「酒の書物」 山本千代喜) 


マッカーシー上院議員(一九〇八・一一・一四〜五七・五・二)
赤狩り議員のアル中死
マッカーシーは一九四六年にウィスコンシン州から選出された共和党の上院議員で、元来酒飲みであったが、有名になってますます酒量が増えるようになった。五二年、上院におけるマッカーシー主導の審問(共産主義者狩り) が頂点に達した頃、彼がアルコールに冒されているという噂が流れた。マッカーシーの演説はだらだらとまとまりがなく感情的で、一九五四年春に全国TV中継される陸軍対マッカーシー聴聞会で支離滅裂な話しぶりをさらし、ひどい恥をかくのだが、これ以前にもその度は増しつつあったのだ。上院が一九五四年末に彼の譴責を決定した後、マッカーシーは絶望と苦渋の日々を送るようになる。身分はまだ上院議員ではあったが、自宅でTVのメロドラマを見つつ酒に溺れる生活だった。
(「有名人のご臨終さまざま」 マルコム・フォブス、ジェフ・ブロック 安次嶺佳子訳) 


酒の都々逸
酒も飲まんせ一合や二合 おみき上がらぬ神はない
腹の立つ時ゃ茶碗で酒を 飲んで暫く寝りゃ治る
酒を飲む人蕾の花よ 今日もさけさけ明日も酒(「日本酒物語」 二戸儚秋)