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御 酒 の 話 20



深山の猿すべり  居酒屋  目鼻にしむる  長生き  甘味  「種おろし」  「良寛禅師奇話」  日葡辞書の酒  きせわた  きく  三歳  火除地での商業  おかんが目撃  梯子酒とて  エタノールとアセトアルデヒド  すずきやかれいの洗い  おせいさんグッズ  素袍落(2)  にうり屋で  僕の亡霊  麹菌は安全なカビ  古人の酒量  聖マーチン  花菱アチャコ  蓑と酒とが  阪妻  さすらいの記  四つ割  良心的  ギヤマンの盃  月形竜之介  道ぶるまい  集金  稲 為此春酒  おいしいお酒もたんとある  アンタブスの効果  酒精中毒者の死  藍の醗酵  半田大六  ヤン衆  アルケラオス、福田半香  アレキサンドロスの臨終  十二分の酔  雑聞  端緒  喧嘩酒  軍隊における生活習慣  半兵衛の家  此のお子はなどゝ  百一段  女房に成て  至道無難  脳内の「報酬系」のメカニズム  あきらめは  大佛さん  渋柿  飲む理由  ショウジョウバエ(3)  佇まいのいい店  柳酒屋  朝の思想  洛中洛外の酒屋  劇作家的論理  與某文  セイ  貴賎貧福の差別なきが如し  熱燗  なぜに酔いた  金は火で試み  川床  竹の酒  おやかたの  酒三則 その三  名酒蔵元 再建へ意気  気付の火酒  飢えと酔い  初代川柳の酒句(5)  詩経三百五篇  阿弥陀さまの後ろ  酒の狂歌  年間約千二百本  サリヴァン対キルレイン  霞網  グループワーク  ワインの中に真実あり  硯水  われ死なば  一斗、一石  鮭のかゆずし  茅原王  三年  看護婦室からクレーム  宗教上の祝祭日  かよい  オッペケペー節  サケ料理に合う酒  タレイラン  木久蔵とやすし  女房に成て  くらの戸と里風  カール大帝  一升瓶  白秋  酒三則 その二  飲中八仙歌  共に飲む  酒ほがい(4)  三ヵ月  ヤナギムシカレイの一夜干し  昭和二十八年あたり  宮城道雄、ヘミングウェー  村松梢風  伏屋重賢・素狄  魯酒薄くして邯鄲囲まる  相撲取り  村松剛のこと  酔っぱらいの法官  ダーツ  ビールは僕らを楽します  酒三則 その一  へうへうとして水を味ふ  それならば酒を飲め  加藤清正の酒樽  やす幸  酒問屋、酒運上  酒 さけ  二日酔いにいい  「居酒屋」  ナム・カーオ  日本酒に含まれる有機酸  ロマノフ、酒に倒さる  甑の出土  朝昼夕夜    酵母の酵素  六時の晩酌  毎晩ダブルヘッダー    免許停止と三万円の罰金  武玉川(2)  素麺屋素久の狂歌  三カ月の実刑  日本の酒  鴬飲み  割烹萬亀楼  兄弟  昭和十六年五月二十六日  三矢さん    杉の葉、櫟の木  [一一九]端午  桃太郎  滝野川元醸造試験所  お茶を飲むように  奇杯品目録  甕酒  宝暦十三年  富士正晴  誰をあるじ  サクラ  備前の徳利  醴酒若しくは濁醪  キャプテン・キッドの絞首刑  味の記憶(2)  あとの二食  地口、軽口、洒落言葉  「太陽雑誌名家投票に就て」  田の神  佐可都古  酔ってからの時間  菌塚  芝居見物  吉祥寺で起こして下さい  里風 と くらの戸  干しダラのコロッケ  十銭スタンド  群宴の体  送元二使安西  タヌ公の足あと  お酒はストローで  高温製麹  牡丹の花弁  酒の困れを為さず  とくり  小山冨士夫  犀角杯  ワインの代金  素袍落  動物とアルコール  出陣の宴  自分らしい心持  どんがら汁  椎茸のブランデー漬け  「恩賜」の酒器  ケハレの都市空間  強度の神経衰弱  せき込む  今日も事なし  とろっぺきになる  更けてゆくほど酒の味    ホジャとティムーム  茂吉・万太郎  本山荻舟  自販機  徹夜酒  深水  飯島八幡  森鹿三  昭和二十九年夏  スケ  飲酒、酩酊の隠語  海外料理用  常元載  ウガンダのバナナ酒  樽代(2)  一尽し  ほろ酔ひの足もとかろし  筑波山人  迎ひ酒の熱燗  田中先生  酒造組合が独自検査  濁酒に造る  酢と化けし  ほんとに酔っぱらっていた  院展の五十三次絵巻  鹿鳴の宴  アンサー  酔いどれねずみ  第八十二段  こうじの酵素  式三献の儀  平手御酒  連杯  お雛様  月の丸さもただ一夜  徳利搗き  取揚ばゞ  酔わぬ酒  「五月幟」  立ち飲みの店  穴八幡  酒だけは残った  上杉謙信と酒  宇宙第三世代  棒縛(2)  慶安年間記事  うらやましい  作家の手帖  ピーター聖者


深山の猿すべり
深山に猿すべりといふ木有 百日紅(さるすべり)に同して葉粗(ほゞ)厚く 四時不凋(しぼまず) 花さかず 此木を酒家にて榕木(しめぎ)とす 又寺院にて撞鐘(つきかね)の撞木に用ゆ 又百日紅は夏秋に花さき冬に到て葉凋む木也 同名にして少異也 (「物類称呼」 越谷吾山 東條操校訂) いわゆるサルスベリとは違うようですが、樹皮がむける樹種なのでしょうか。また、榕木とは、酒を搾る時に使われるものなのでしょうか。榕はアコウのことのようで、アコウは絞め殺しの木とも言われるようですが、それと関係あるのでしょうか。 


居酒屋
馬喰町で国の者に声をかけられた。「お前は新田(しんでん)の吾兵衛どんでねえか」「これは久しぶり。マア私の店へ寄って下さい」そういって伝馬町の方へ行き、とある居酒屋へ寄って、「この向うの両替屋がわしの店さ。店では気がつまろうから、ここで一杯のもうよ」「はてマアうったげた。吾兵衛どんもえれえ出世をしたもンだ」「しかし、お店のあるじになるのも苦しみさ。人を使うは使わるるで、大勢の家来共に詫(あや)まっていなけりやァ納まらぬものでねえ」そこへ向うの両替屋の丁稚がきて、「吾兵衛どん、ここにいたのかえ。麹町のお屋敷の使いはどうしたのだと番頭さんが怒っているよ。早く行かないとお払い箱だよ」と言い捨てて去る。あとに吾兵衛、さりげない顔で「この通り、あやまりづめさ」(「笑いのタネ本」 宇野信夫) 


目鼻にしむる
一、飲食する処には方三尺許(ばかり)の几(つくえ)を設け、腰掛を置き、几上には肉を盛りたる器皿を排列し、ハンの如きものをも器に盛り置き、食す。酒も瓶に盛り、酒器を以て傾け飲む。本邦の人の如く日に三度と云定りなく、度々飲食す。酒は至て猛烈にて色濃く、此方の人一口飲むときは目鼻にしむる程に覚ゆ。尤(もっとも)外に色薄き酒を玻「王梨」(璃)(ママ)瓶(はりびん)に貯へ置けるを、過半和して飲むときは此方の人にも口に適す。されども平日本邦の酒を二合も飲む程の分量の人、右の酒を二三盞も飲むときは、此方の酒三四合も飲みたる心持して大に酩酊すと云。(「甲子夜話」 松浦静山 中村・中野校訂)文政五年にイギリスの船が水を求めて浦賀に来航したときの記録だそうです。巻二十五。「諳厄利亜(あんげりあ)人言語之大概」という部分もあり、その中に 「酒 ランム」とありますので、上に酒というのは、ラム酒のことなのでしょう。 


長生き
昭和八年新春、三越で開かれた全国長者展で日本一の長寿者、岩手県下閉伊郡田老村の倉平はるさんは文化十二年四月生まれの百十九才であった。平素特別な長寿法もやらないが地酒を一合くらいずつ飲むといっていた。昭和二十九年五月、AP通信によると、アメリカのロスアンゼルスに住むサム・レムラという爺さんは五月十日に死んだが百十四才であった。この人も酒は飲みたいときに飲みたいだけ飲み、たばこは葉巻の灰を絶やしたことがなく、コーヒーは一日十五杯飲んだという。どうも長生きする人は気ままにしても長生きし、早死する人は用心しても短命らしい。(「酒雑事記」 青山茂) 


甘味
ところが古代人は、それまでの酒が甘い液果によってできるという重要な体験を身につけていたので、デンプン質の食べ物をゆっくりと噛んでいると、しだいに甘味を呈するようになるのを見逃しはしなかったのであろう。今なら唾液中の糖化酵素(アミラーゼ)によってデンプンが分解され、ブドウ糖ができて甘くなったのだと説明するところである。(「酒に謎あり」 小泉武夫) 


「種おろし」
○安永十年、俳人提亭の撰したる「種おろし」と云ふ句集に載る所の、其の時代のはやり物商物目録、左に略記す。−
△楊枝(ようじ)茶筅(ちゃせん)五倍子(ごばいし)酒中花(浅草境内柳屋其の外)。△料理茶屋(深川竹市、同洲崎升屋、塩浜大紋や、芝口春日野、深川八幡宮二軒茶屋)。△しつぽく(神田佐柄木町山藤、大橋新地楽庵)。△田楽(真崎の甲子屋)。△隅田川諸白(並木山屋)。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


「良寛禅師奇話」
1 師常ニ黙々トシテ動作閑雅ニシテ、余(あまり)有ルガ如シ。心広ケレバ体ユタカ也トハコノ言(こと)ナラン。
2 師常ニ酒ヲ好ム。シカリト云(いえ)ドモ、量ヲ超テ酔狂ニ至ルヲ見ズ。又、田父・野翁ヲ云ハズ、銭ヲ出シ合(あい)テ酒ヲ買呑(かいのむ)ヲ好む。汝一盃、吾一盃、其盃ノ数多少ナカラシム。
3 又、烟草ヲモ好ム。初ハ其(その)キセルタバコ入(いれ)等自ラ持事ナシ。人ノヲモチテ吸。後ニ自ラ持事アリ。(「新修 良寛」 東郷豊治) 良寛庇護者の一人であった解良叔問の子である解良栄重による良寛逸話集だそうです。 


日葡辞書の酒
Saqe.サケ(酒)
酒.¶Saqeuo nomasuru.(酒を飲まする)酒を飲ませる.¶Saqeuo susumuru.(酒を勧むる)酒を飲むようにすすめる.¶Saqeni yo.(酒に酔ふ)酒にほろ酔いする,または,深酔いする.¶Saqeni chozuru,l,fitaru.(酒に長ずる,または,浸る)酒に浸りつかっている.(「邦訳日葡辞書」 土井・森田・長南 編訳) イエズス会による1603年の刊行の辞書だそうです。「きく」の項に、利き酒の例示はありませんでした。ちなみに、「愛」という項もありませんでした。(「愛」にあたる語を「大切」としています。) 


きせわた
日本一の名盃とされているのは金沢の石黒伝六氏蔵の「きせわた」である。石黒氏の歿後、西川外吉氏に譲られたときいている。根津美術館にも「きせわた」の盃があるが、だいぶへだたりがあるようである。戦前、谷村敬介氏に案内され、なくなった石黒伝六氏の蒐集を拝見にいったことがある。その時「きせわた」でお酒をいただいたが、もうかれこれ二十年になるが、そのお酒のおいしかったことが未だに忘れられない。「きせわた」は朝鮮でつくられた刷毛目の一種だが、内面全体に、ふんわりとうすく白化粧が施してあり、綿をきせたような感じなのでこの銘がつけられているが、やわらかい、こまやかな、なんともいえない妙味のある盃である。私もこれ以上の盃を見たことがなく、おそらく天下一の盃であろう。(「徳利と酒盃」 小山冨士夫) 


きく
甥「近来、殊の外酒がはやりまするが、もしよう出来ましたならば、ちとひけん(取り持ち)して売って進じましようが、何とござろうぞ」 伯母「ヤレヤレそれはうれしや(中略)」 甥「されながら、よい酒か悪(あ)しい酒か、私の一つき(利)いてみずばなりますまい。一つきかせて下されい。」 当時、酒の品質はきき酒によって決定され、その結果いかんによって酒の値段が決められ、商いされていたことが、伯母、甥の会話から知られる。つぎの興味は、この狂言ではきき酒と飲酒行為とを明らかに使い分けしていることである。たとえば、 甥「私は(酒を)たべたいたべたいと存ずる所へ、つつかけて(一気に)飲うだれば、ただひ(冷)いやりとしたばかりで、風味が知れぬ。いま一つ飲うで、風味を覚よう。」などと語られているように、酒を「きく」と、酒を「たべる」、「飲む」とは明確に区別している。したがって、きき酒という言葉は、この女狂言が天正(一五七三〜一五九二)本所収であることから、遅くとも室町後期には酒屋の専門用語として使われていたことは、ます間違いないであろう。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 伯母が酒  


三歳
あたしは幼少の折、体が弱く、家は貧困であった。母が心配して何とか丈夫にしようと心をくだいた。そんな時、父(志ん生)がお客様から養命酒を貰った。「これァ身体にいいんだそうだ。これを飲ましてやったらどうだ。盃一ペエでいいんだそうだ」その時あたしは三歳であった。飲まされてくるしかった。でも不思議なうまさ、とでもいおいか、そんな味わいを幼な心におぼえている。つまりあたしは物心ついてすぐ酒を飲まされた。不思議な父親であり、母であった。(「出征軍人の言葉」 金原亭馬生 「酒との出逢い」 文藝春秋編) 



火除地での商業
『市中取締類集』によると、嘉永元(一八四八)年、このころ夏になると夕方より市中往来で縁台を据えて麦湯など商う者が多くなった、とある。とくに、上野広小路や芝浜松町、幸橋御内外などの火除地(ひよけち)では、女子を置いて酒をふるまう者があり、往来で踊り騒ぐ者もいる、ともいう。しかし、この件に関しては町奉行も、今年の夏はことさら暑いので涼しくなればそれも減るだろう、と不問に付しているのである。江戸の幕藩体制、二百数十年。いかにも長かった。その後期になると、あれほど厳重だった火除地での商業施設についても、取締りの手がかなりゆるくなっているのである。そして、両国広小路や上野広小路に代表される火除地の盛り場化が推しすすめられていったのである。それほどに、町人層の商売や遊興に対するエネルギーが旺盛であった、というべきかもしれない。(「盛り場の民俗史」 神崎宣武) 


おかんが目撃
酔って帰ってきて、扇風機に延々と話しかけていた事があります。扇風機の正面に座り、「いや、だからオマエは何で首を振ってるだけなわけ?」「縦に振るのは無理なん?」「熱い風は送れんの?」。実家なので、おかんが一部始終を見たいたらしいです。「長いボケやなぁ」と思ってずっと止めずに見てたとのこと。見られたのが肉親だけに、なかなかイツァい失敗でした。(YASS 28歳 男)(「酔って記憶をなくします」 石原たきび編) 


梯子酒とて飲むほどに登り詰めます
はしごを登るのには、次々と別の所に登って頂上まで行くように、次々と別の所で飲み継いで、酔っ払うまで飲み通して、倒れたりする。松葉軒東井(しょうようけんとうせい)の『譬喩尽(たとえづくし)』(一七八六年)に掲げる。(「飲食事辞典」 白石大二) 


エタノールとアセトアルデヒド
奥田拓道教授は血管の収縮に対する日本酒の影響の実験結果について、「お酒を急いで飲んだりすると、顔色が青くなり、逆にゆっくりくつろいで飲めば赤くなる。−アルコールは、アルコール脱水素酵素によってエタノール、次いでアセトアルデヒドに分解されるが、我々はネズミを使っておこなって実験から、エタノールが血管(とくに毛細血管)を収縮させ、逆にアセトアルデヒドが血管を拡張させる作用をもつことを確認した(図3)この血管収縮にはノルエピネフィリンというホルモンが関係しており、この作用をアセトアルデヒドが抑える。一気飲みすると顔色が青くなるのは、血中のエタノール濃度が高くなって血管が収縮するためであり、ゆっくり時間をかけて飲めば、アセトアルデヒドが収縮した血管を広げて顔色が赤くなる。したがって、酒を飲むときは、できるだけアセトアルデヒドができやすいような、エタノールの血管収縮作用を抑制する飲み方をすることが大切だ」と説明しています。(「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 


すずきやかれいの洗い
そこで私は普通の刺し身ほど厚くは切らぬが、極端に薄くしないで、よく洗うと、なるほど晒しくじらのようにちりちりとはならないが、体(てい)よくちりちりとなる。こうすることによって、中身はエキス抜きにはならないから、噛むと魚の好味が出て歯ごたえもあり至極うまい。それに、どうもああ薄いのは、ケチクサイというようなヒガミも手伝っていることに気がつく。世間なみにとらわれて長い間、私はこの料理法をやって来た。しかしこのごろ、別の考え方が起って来ている。それはどういうことかというと、近ごろ薄い作りでやってみると、必ずしも悪くない。なるほど薄いのは中身が足らず物足りない。味がないといえば味がない。けれども酷暑の刺身として、チビリチビリ酒でも飲む者には、ちょっと摘むにはいかにもさらっとして涼味がある。極薄の味のないところがかえってよいのではないか。中から味が出るとか出ないとかいうには及ばない。たださらっとした涼味だけでよいのではないか。そういう考えが起こって来ている。(「春夏秋冬料理王国」 北王子魯山人) 


おせいさんグッズ
<おせいさんグッズ、というもんも要(い)るの違いますか>と熊八つぁん。<ほら、昔、瀬戸内先生のハルミさかづき、いうのんあったん違いますか、ワシ、その話、なんかで読んだことありますが>ハイハイ、それは昔々遠藤周作先生のおかしい駄法螺(だぼら)ですよ。先生はいいたい放題の与太(よた)をとばして世人を面白がらせて下さる天才であったが、ことにも親友の瀬戸内寂聴さんに関してはおかしかった。まだ瀬戸内さんがお飾りをおろされず晴美さんでいらした頃で、遠藤さんいわく、徳島の瀬戸内さんの生家は何階建てかのビルで、観光バスがその前に停まり、ここが瀬戸内先生の生家です、というという(のち、この二つは与太でなく実現してしまった)。そこでは晴美徳利、晴美盃というのを売っており、双方とも酒をそそぐと、晴美さんのヌードがあらわれるという趣向。−などと遠藤さんがまことしやかに書かれたものだから瀬戸内仏壇店へ、ハルミさかづき、ハルミとっくりを下さいというお客さんがひっきりなしに訪れて困ったよし。<しかしおせいさんのヌードだ出てきたら酒がまずうなるし、な>と与太郎。<スヌーピーやなんかが浮き出る、っていうの、どお。ぬいぐるみはみなヌードだしさ>と中町ちゃん。(「小町・中町 浮世をいく」 田辺聖子) 


素袍落(すおうおとし)(2)
太郎冠者 イヤ申し、私もさもしい奉公は致せ、御酒の一つや二つたべたいと申して、追従など申す、太郎冠者ではござらぬ。真実 (いただいた酒を)誉めまする。 伯父 真実ならば喜ばしいことじゃ。さて、飲まぬか。 太 ハア たべましょうが、ちと上がすいて、気味がわるうござる。つぎ足いて下されい。 さし出す 伯 これはもっともじゃ。またつぐぞ。ソリャ ソリャ ソリャ。 つぐ 太 うけて オオ 笑って さてさて気味よいお酌じゃ。 伯 酒さえ見れば機嫌のよいやつじゃ。 太 たべまする。 伯 早う飲め。 飲むのを見て ハハア ちと飲みぶりが悪しゅうなった。 太 飲み終わって さてもさても、飲めば飲むほど結構な御酒じゃ。 伯父に向かって さて、いま一つたべとうござるが、ちと、こなたへあげましょう。 伯 そちも知るとおり みどもは飲まぬ。 太 なんじゃ 飲まぬ。 伯 なかなか。 太 イヤそれそれ こなたはお下戸でござった。御名代(ごみょうだい)に いま一ついただきましょう。 伯 酒は惜しまぬが、もはや過(す)ぎょうぞ。 太 イヤ申し、このような物で、五つや七つ飲うだと申して 過ぐることではござらぬ。ひらに つがせられい。 伯 それならば半盞(はんさん)ついでやろう。(「狂言集」 小山弘志校注) 伊勢参りのお供に行くというので、主の伯父からはなむけの盃を太郎冠者が貰っているところです。 


にうり屋でのませてかへす文使(ふみづかい) あぶなかりけりあぶなかりけり
遊女からの手紙を届けに来た文使い(-)に、家人の目を避けてそっと抜け出したものの、まさか立話しもならず、近くの煮売屋へちょっと入って、おいらんの事などを聞きながら軽く一杯飲ませ、労をねぎらって返す。 ○にうり屋=惣菜物をつまみながら、酒の飲める下級飲食店。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


僕の亡霊
「…そんな場合の予感はあるね。変にかう身体がぞくぞくして来るんで、『お出でなすったな』と思つてゐると、背後(うしろ)から左の肩越しに、白い霧のやうなものがすつと冷たく顔を掠めて通り過ぎるのだ。俺は膝頭がをがたがた慄(ふる)はしながら、『やつぱし苦いと見えてまた出やがつたよ』と、泣笑ひしたい気持ちで呟くだ。僕は僕の亡霊が、僕の虐待に堪へ兼ねては、時々本体から脱け出るものと信じてゐたんだからね」「さうですかねえ。…そんなこともあるんですかねえ…何しろ早く書くといゝですねえ」「さうだ。…僕もこれさへ書けたらねえ。何しろ僕もその時分はひどい生活をしてゐたんだからね。希望も信仰も、また人道とか愛とか云ふやうなことも解らなかつたし、せめてその亡霊にでも縋(すが)らうと思つたのだ。友達はそれは酒精中毒からの幻覚と云ふものだと云つたが、僕にはその幻覚でよかつたんさ。−」 (「贋物」 葛西善蔵) 葛西善蔵の酒 



麹菌は安全なカビ
アフラトキシンはアスペリギルス・フラブスというカビが造り、肝臓ガンを誘発する毒素です。英国でこのカビがはえた落花生を食べた七面鳥が大量に死亡し、問題になりました。そのとき、日本の清酒、味噌、醤油に使われている黄麹菌(アスペルギルス・オリゼー)が欧米では分類学上、アスペルギルス・フラブスの仲間とされていたため、日本で麹を使って造られる醸造食品は食品衛生上問題があるのではないかという疑念が生じました。そこで、アスペルギルス・フラブスの標準株をアメリカから取り寄せ、その形態、性質等を詳細に調べたところ、アスペルギルス・フラブスは分類学上、アスペルギルス・オリゼーと二つに分けられることがわかりました。また、市販種麹菌から分離し保存されていた黄麹菌千余株がアフラトキシンを造るかどうか調べた結果、黄麹菌はすべてアフラトキシンを造らないことがわかり、安全性が証明された。 (「酒を語る」 斎藤茂太・佐藤陽子・野白喜久雄・栗山一秀・濱本英輔) 「資料編」にあります。 


古人の酒量
[増補]漢の于定国は廷尉(裁判官)と為ったが、飲酒数石(セキ)に至つても乱れなかつた。冬月裁判をするに、酒を飲むと一層精明となつた。 ○鄭康成は飲酒一斛(コク)(二)。 ○盧植は能く一石(セキ)を飲んだ。 ○晋の周(ガイ)は一石飲んだ。 ○劉伶は一石五斗を解酲(むかへざけ)にした。 ○前燕の皇甫真は一石余りで乱れなかつた。 ○後漢の劉藻は一石で乱れなかつた。 ○南斉の沈文季は飲んで五斗に至り、妻の王錫女は飲酒亦三斗に至る。終日対酌して、而も政務を怠らなかつた。 ○梁のケ元起は飲んで一斛に至つて乱れなかつた。 ○北史に、柳謇之(けんし)は一石飲んで乱れなかつたと。 ○陳の後王は子弟と日に一石を飲んだ。 ○孔珪(けい)は飲酒七八斗であつた。(宋の趙崇絢の著 「「奚隹」肋」)
(二)一斛は十斗、石は斛と通用する。其の実量は時代によつて増減有り、一定せず。我国の量との比較も明確にし難い。(「酒「眞頁」(しゅてん)補」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 


聖マーチン
聖マーチンは酒場主人や酔つぱらひの弁護者とされてゐる。此の聖者は、騎馬の兵士がコート(上衣)を乞食に与へてゐる姿に描かれるのが常である。彼は異教者を両親として生れたが、ローマで改宗してキリスト教徒となり、西紀三七一年ツールのビシヨツプ(僧正)となり、四十年後、コードで歿した。彼の命日は十一月十一日で、その日は丁度、バツカスの祭日たるローマのVinaliaの日であった。彼が酒場や酩酊者の守護神である由来も、此の十一月十一日といふ日付から来たもので、全く偶然的である。Martin drunk(マーチン酔ひ)の語もそれから来た。−
マーチン酔の語は三義ある。1、本当に酔つぱらつてゐる。 2、酔つぱらひが、更に正気で飲み続けること。 3、単なる酔つぱらひの同義語。(Brewer7s Dictionary of Phase and Fable)(「酒の書物」 山本千代喜) 


花菱アチャコ
親父は酒がとても好きで酒豪といってもよく、宴席ではいくら飲んでも決して乱れることはなかったようですが、自宅の玄関に一歩足を踏み入れると、崩れるように倒れてしまうことがあったと母から聞きました。当時のお酒にまつわる話ですが、吉本興業の社長が「アチャコはお客さんのただ酒をよう飲んどるけど、上等の酒の味はわからんとちゃうか」と言いだし、南の高級お茶屋で親父にウイスキーの利き酒をさせることになりました。本物のオールドパーと、ビンはオールドパーで中身を国産のウイスキーに代えたものと、二通り用意して親父に飲ませたのです。親父はウイスキーの違いを即座に言い当て、そのオールドパー一本とビール五、六本を軽く飲みあけたと聞いております。(「血族が語る 昭和巨人伝」「花菱アチャコ」 藤木吾朗生) 



蓑(みの)と酒とが馬子の寝道具
馬子が寒さしのぎに酒をのみ、体に蓑をかけたまま寝た。我が家ではなく仕事に出た先のことであろう。寒い粗末な寝所である。(「『武玉川』を楽しむ」 神田忙人) 


阪妻
それがやがて阪妻時代到来、一世を風靡するようになると、一党をひきつれて祇園や宮川町で連日連夜の豪遊をやり、一斗四升を三日で平らげたという逸話まで残した。その遊ぴっぷりは前代未聞という痛快なもので、遊びの根城にしていた宮川町の大和屋から、新しい真っ赤な腰巻きを取り上げて、それに「チイタカ隊」と大書して、その旗を捧げた阪妻を先頭に、「チイタカタッタ、チイタカタッタ」と楽隊の声色入りで、十数名の監督、キャメラマン、裏方、ジャーナリ屋などが、数十本のジョニーの赤や黒を抱えこみ、東山のダンス・ホールへ繰り込んでは、更に祇園のお茶屋備前松へ、そして、またまた宮川町の大和屋へと、このコースを連日連夜ぶっ通し、落伍者が出れば、すぐに新手を補充し、当の阪妻はいつも酔ったふりはしていたが、本当に酔ったことはないという。そういえば、こんな話もある。酔余、芸妓舞妓を従えて新京極を漫歩していた時、路傍のみすぼらしい乞食の姿が彼の目に映った。彼はつかつかとその乞食の前に近ずくと、「父上…たえて久しき御対面」と地面に手をついて平伏し、恭々しく五十銭銀貨二枚をささげた、連れの芸妓や舞妓たちは笑いころげたというが、これには王者の孤独といったものさえ感じられる。(「京の酒」 八尋不二) 


さすらいの記
松尾芭蕉の「さすらいの記」は、
今日は人もなくさびしさに、むだ書きして遊ぶ。その詞…喪に居るものは悲しみをあるじとし、酒を飲むものは楽しみをあるじとし、憂ひに住する者は憂ひを主とし、徒然に住するものは徒然をあるじとす。
と、俳聖はその心を説き、「寂」の酒の透徹した生き方を示した。ここで言う「注2 寂」とは心の冬を意味するのではないだろうか。
注2 「寂」とは寂光浄土の意。(「清閑清酔」 吉野孝) 


四つ割
四斗樽を四つに割けた酒樽。瓶とちがって趣がある。 (「明治語録」 植原路郎) ようするに一斗樽ということなのでしょう。 


良心的
「よそで「上:夭、下:口 の」んじゃ駄目だよ。ありゃみんなメチルだから。うちのは安心。うちだけだよ、こんな良心的なのは」「そうかい−」といって「上:夭、下:口 の」んでいるうちに、「おや。−おや」「どうしたい」「なんだか、眼の玉がしびれてきたようだぜ。おやじ、これメチルだろう」「そうじゃない、大丈夫だよ」「大丈夫じゃないよ。眼が痛いぜ」「だから、ほんの少しだよ。痛いくらいなんだい。よその「上:夭、下:口 の」んだら眼がつぶれちゃうよ。うちのは苦労して、売ってんだから!」メチルアルコールで、眼が潰れたという例が枚挙にいとまなかった。バクダンという酒は、今考えるとおおかたがメチルだったのじゃなかろうか。眼が潰れるに至らないまでも、純粋の悪酒だったことはたしかで、私の知友も、戦後十年くらいで、なんとなくばたばたと倒れて死んでいった。多分悪酒が間接の因になっていたな。私などは運よく生き残った口だ。もっとも私は、バクダンより粕取りの方を愛用していた。「上:夭、下:口 の」み乾すとすぐに大通りを走った。すると一杯でもよく利く。(「喰いたい放題」 色川武大) 


ギヤマンの盃
頼山陽は、いつもギヤマンの盃を持って歩いていた。酒は伊丹の剣菱と男山だったが、それを飲むにも、あのグラスが無ければならないのである。彼は、酒の味だけでなく色をも愛したのである。よい酒の色は、水に映った残月のようだというのがその主張だ。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


月形竜之介
月形は忽然と逝った。彼の恩師のマキノ省三の銅像を太秦の東映前から、マキノゆかりの地、等持院へ、関牧翁管長の導師で移し、ほっと安心したものか、その直後だった。彼もまた酒豪だった。その独立プロ時代、彼に頼まれたシナリオを書き上げて持って行くと、まだ昼前だったが、彼は寿司屋で使うような大湯「上:夭、下:口 のみ」で飲んでいて、まあ一杯、と差し出した。私はお茶だと思ってガブリとやると、これが酒だった。ずっと後の「水戸黄門」などに出演した東映時代もまだ盛んなもので、こんな逸話がある。同じ東映のプロデューサー大森康正が大へんな飲み助で、ある夜、嵐電(今の京福電車)の線路上に大の字になって寝て、電車を止めてしまい、ブタ箱に放りこまれた。月形は早速手を廻して出してやったが、大森が礼を言いに来て玄関に立つと、「こら、風呂に入ってシラミを落としてこい」と怒鳴りつけた。そして入浴して改めて出直して来た大森を連れて宮川町へとくりこみ、そのまま三日三晩飲み続けたというのだ。(「京の酒」 八尋不二) 


道ぶるまい
婚姻になくてはならぬものは酒だが−土地土地によっては、それがいろいろの形で出て来る。"清内路(せいないじ)の道ぶるまい"もその一つ。信州伊那郡清内路では婚礼のよる、花嫁が盛装して花婿のところに行くとき、媒酌人はじめ縁者の者数人、いずれも屈竟な若者が五合から一升の徳利を提げ、盃数個をふところにして、花嫁の前後左右に付き添い、その家を出る。すると、村内の若者が、花嫁の道路に当る道筋に集って、一行の来るのを待ちうけているので、これにいちいち盃をさしてゆく。このため三、四丁のところでも一、二時間かかり、酒も一斗や二斗は費してしまう。−こうした奇風俗の、まだ遺っている土地もあるが、しだいになくなってゆくであろう。(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


集金
池袋辺りの酒場の女性が勝手に入ってきても怪しむ者はいなかった。受付というものがなかったから、きもの姿の酒場の女将なんかが、明けっぱなしの入口から入ってくる。「や、今日は集金?今晩あたり顔を出すよ」「集金日はまだですけどね、○○ちゃんに相談があって来たのよ。今晩、待ってるわよ」そんな立話をして、彼女は○○ちゃんの机の脇に坐り、ひそひそ話をしていたりする。仕事場と酒場が、明確に分離されていなかったのだ。月給日になると、何人もの女性があらわれた。もちろん集金である。飲み屋に借金の多い男は月給を手にすると用もないのに慌てて出かけたり、逃げ出しそこねて払わされそうになると、すまん、今日はこれだけで勘弁、と手を合わせていたりした。編集室に入るのを遠慮してエレベーター前にいる女性から、誰それを呼んできてとたのまれたりもする。呼びに行くと、いないと行ってくれと言う。「おかしいな。さっきまでいたんだけれどね」そんなふうな断わりを言うのだが、彼女の方でも居留守と察している。一種のゲームである。(「酒と酒場」 高田宏 「日本の名随筆 酒場」) 


稲 為此春酒
稲を刈り入れ、それを用ひて醸造する。春酒は毛伝に「春酒は凍醪(とうろう)なり」とある。醪は酒の別名で冬造るから凍醪といふのである。月令の注に「古は稲を穫て米麹に漬し、春に至つて酒を為る」とある。一体酒は黍や粱から造られるが、稲から出来るのを最上としてゐた。周礼の天官酒正に「三酒の物を弁ず」とある。酒とは事酒・昔酒・清酒をいふのであるが、こゝにいふ春酒は此の清酒に当るのである。(「詩経随筆」 安藤圓秀) 詩経国風にあるそうです。 


おいしいお酒もたんとある
「とうさん、かあさん、行かしゃんせ、うまい肴もたんとある。おいしいお酒もたんとある。えぞえぞ、えぞえぞ、えじゃないか」東本願寺の現如上人がえぞ(蝦夷)地開拓の一翼を担うべく、北陸から奥羽地方を巡錫して、皆に歌わせたものである。難しい理屈は必要ない。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


アンタブスの効果
それは突然やってきた。電流を通されたように私の上半身がとびはね、まったく不意につかれ、それでもさきほどのバケツを眼で求めたが、すでにおそく、鼻と口から、おびただしい液体を噴出し、床にぶちまけた。反吐などという生易しい言葉ではあらわせない。巨大な掌、あるいはすさまじい勢いでビールがとび出し、やがて粘液とかわり、尚もやまずに「エッ、エッ」と声までしぼり出される。ベットのふちを掴んで、さかさまに体をおとした私の顔は、殆ど床をなめるばかり、涙がにじみ何も見えない。すっかり力が抜けていたのだろう。私はズルズルこぼれおちそうになり、医師の手でベッドに戻されるしまつ。息が切れた、百米疾走の後のように呼吸が速い。喉の奥が激しく痛む。胃の反乱はいまだおさまらぬ。「水、水ください。」手をさし出すとひどくふるえている。医師の一人が脈拍をはかった。浴衣がはだけ、いたるところ汚物にまみれている。横たわると苦しい、起き上がる、唇から腹へよだれが糸を張る。どうきが激しい。耳のそばで太鼓をうたれているようだ。どういうわけか、ひょいっと甘いものを食べたくなる。初めのショックからここまで、二、三分だろうか。とにかく頭はさめている。アルコールは肉体だけに作用して、その意味では二日酔いの状態に近いといえた。しかし、私が殆ど毎晩のように経験したそれの、どれよりケタはずれにこれは手厳しい。(「酒をやめる理由はないヨ」 野坂昭如) アンタブスを服用した後、ビール約1本を飲んだ結果だそうです。 石灰窒素工場と酒 酒きらいになる薬 


酒精中毒者の死
あふむきに死んでゐる酒精中毒者(よつぱらひ)の、
まつしろい腹のへんから、
えたいのわからぬものが流れてゐる、
透明な青い血漿(けつしよう)と、
ゆがんだ多角形の心臓と、
腐ったはらわたと、らうまちすの爛(ただ)れた手くびと、
ぐにゃぐにゃした臓物と、
そこらいちめん、
地べたはぴかぴか光つてゐる、
草はするどくとがつてゐる、
すべてがらぢうむのやうに光つてゐる。
こんなさびしい風景の中にうきあがつて、
白つぽけた殺人者の顔が、
草のやうにびらびら笑つてゐる。(「萩原朔太郎詩集」 河上徹太郎編) 

藍の醗酵
藍染(あいぞめ)の原料である藍草の主産地、徳島県板野郡藍住町では、刈りとった葉をまず干してから藍寝床で醗酵させて「「上:くさかんむり、下:染」(すくも)」にする。この時の醗酵の加減で、出来上がる藍の良否に差がでることから、醗酵には神経をすり減らせて当たるという。一方、福岡県久留米絣(かすり)の藍染の秘法として行われる醗酵を行う微生物は酵母で、発酵中には炭酸ガスの発生によって盛んに泡を立てる。酵母が藍甕(あいがめ)のなかで醗酵する時、種々の生産物や酵素群が色彩の加減に微妙な効果をもたらすものと思われる。また醗酵中のものに酒を加えることもある。たとえば、久留米絣では発酵中の藍甕に日本酒を加えることや、藍住町では、藍を醗酵させた「「上:くさかんむり、下:染」(すくも)」で藍玉をつくり、これに極上の清酒三升を吹きかける。また沖縄県石垣市では、発酵中の藍に樫の木灰とアルコール四〇%の泡盛を混ぜ、微妙な色を調合する。このように染料に酒を加えるのは日本だけのことではなく、インド更紗ではヤシ酒を加えたり、アフリカではココナッツ酒を加えるなどの例もみられる。(「醗酵」 小泉武夫) 


半田大六
半田大六は村上の大洋酒造鰹務取締役製造部長という要職にある。この酒造場は戦時中に役人の命令で十数社の酒蔵が合併させられてできたもので、それぞれの蔵元が回り持ちで社長になるというしきたりをいまだに守っている。もともと酒屋だった半田家には、いまも古びた酒造施設の一式がそのまま遺っている。−
平田家では二月初めにもまた正月が来る。これは「女正月」といってちゃんと神棚も飾り、お歳夜の祝いごとも同様にする。しかし、大六さんはよく女正月を忘れてカツイに叱られる。このころから酒造りは「寒造り」の正念場を迎える。この年の越後大吟「鄙願」がどういう酒になるかは、まさにこの時季の平田大六にかかっているのだ。鄙願は「淡麗、水の如し」という酒境に達した稀代の名酒である。名実ともに日本一の酒、と私は思っている。(「うまいもの職人帖」 佐藤隆介) サケ料理に合う酒 


ヤン衆
余市から積丹半島の先端に向かって車を進めて行くと、今は、数隻の小舟が波に揺られながら、のんびりとウニを捕っているだけだという、至ってのどかな海景色に過ぎないが、四十数年前はここがあの勇猛な「ヤン衆」達の職場だったのである。「ニシンが来たゾー」海を見下ろす丘の上の見張り小屋から声がかかると、ソレーッとばかりにヤン衆達は舟を沖に繰り出す。沖に仕掛けられた刺し網や建て網(定置網)の中には溢れんばかりのニシンだ。大船頭の命令の下に、ヤン衆達は一斉に網を引く。大漁だ。意気揚々と浜に引き揚げてきたヤン衆達は、大漁を祝う酒盛りをはじめる。このヤン衆達の酒盛りというのは、大変なものだったらしい。なにしろ、日本全国から集まって来た猛者揃いだ。酒が入ると、ニシン漁以上の大騒ぎがはじまったという。ヤン衆一人に五人の芸者が付かなければ、そのヤン衆は一人前ではなかったそうである。(「好「食」一代男」 檀太郎) 


アルケラオス、福田半香
 マケドニア王アルケラオスはある宴会で客の一人に「その黄金の杯を下さい」とねだられた。王は奴隷にそれを渡し「向こうにいる悲劇詩人のエウリピデスにこれをやれ」といった。そして「君はたのんでももらえない人だ。エウリピデスはたのまれないでももらえる人だ」
 福田半香という画家がある日同門の岡本秋暉に酒の切手(商品券)を贈った。岡本はそれをつかおうと思ったが、酒屋の名のところがすれていて読めぬ。のち半香にあった時「あの酒屋はどこか」ときくと「私もあれをもらったのだが、酒屋の名が読めぬ。貴公なら読めると思って贈った」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


アレキサンドロスの臨終
前三二三年、アレクサンドロスとその軍隊はバビロンにいて、次の出征を始める準備をしていた。出発の三日前、宴会で酒飲み競争が行われた。アレクサンドロスはその席でワインを六リットルばかり飲んだと言われている。次の日には当然のことながら具合が悪くなったが、それはワインのせいばかりでなく、寒気にあたって風邪を引いたためでもあった。アレクサンドロスはベッドの中から、間近にせまった行軍の命令を下し続けたが、日に日に弱っていった。アレキサンドロスの死が免れないものであることが誰の目にも明らかになると、兵士たちは列をなして幕舎に見舞いにやって来た。アレキサンドロスは弱々しく頭を上げ、なんとかしてこれに応えようとした。酒飲み競争から十日もたたずに、征服者は死んだ。(「有名人のご臨終さまざま」 マルコム・フォーブス ジェフ・ブロック 安次嶺佳子訳) アレキサンドロス大王の「死の酒宴」 アレクサンドロス大王の酒  


十二分の酔
廣蔵が居間にては先(まづ)着岸の祝ひなりとて例(いつも)のごとく酒宴を催ふし歌ひつ舞つ大騒ぎ弥次郎喜多八の両人は取分(とりわけ)て飲むことに目のなき男ゆへ十二分の酔を発し調子にあハぬ声を出し 喜多「いやだいやだよ畑の芋ハかぶりふりふりなんとしょ子が出来るコイコイ 弥次「高い山から谷底見れバ瓜や茄子(なすび)の花盛りサゝやアとこせいよいやな 廣「コウお前達(まいたち)は飲んで騒ぐは(いゝ)がそんなに何かを踏とばして踊るハこまるぜ(「西洋道中膝栗毛」 仮名垣魯文) ロンドン万博見物に行き、ロンドンについて早速ホテルでの酒宴です。 


雑聞
○此祭により、町々家々より思々(おもいおもい)に、踊、或は出し(山車)、作り物等を出せしに、並木町の酒屋山屋半三郎は是等の事に及ばず。祭町一町毎に、薦(こも)かぶり樽五挺を遣(つかは)しけり。一八町に九十樽とぞ聞へし。又同町の若者には、八丈嶋織一端づゝ与へしと云。(「甲子夜話」 松浦静山 中村・中野校訂) 巻二十四。浅草寺三社権現祭礼の逸話だそうです。 


端緒
酒を初めて飲んだのは高校三年ぐらいかなあ。酒も煙草も同時だよね。酒とか煙草っていうのはワルがやるもんだっていう、ただそれだけの話でさあ。親父の日本酒、カプッと飲んで。でも、そんなときは別に美味いと思わなかったよね。ちゃんと飲めるようになったのは大学生になってからだよ。そのときは、ただなにこれ?と思っただけだったなあ。酒を美味いと思うようになったのは、やっぱり大学からだね。まずビールを美味いと思ったよね。大量にのんでたかって言われると、そんなにねえ、学生の頃って金ないじゃない?だから大量に飲むまで金が続かなかったんだけど、でも金がありゃ飲んでたよね。(「孤独」 北野武) 


喧嘩酒
独立行政法人酒類総合研究所の全国新酒鑑評会や関信越の酒類鑑評会に出品するのもこの酒だ。だすけ、別名、「喧嘩酒(けんかざけ)」とも言われているわ。蔵と蔵、杜氏と杜氏が喧嘩して勝ち負けを決める酒なわけさ。大吟醸酒は一年中で一番寒い時期に造るんだ。おらとこの蔵では、毎年、暮れのうちに仕込みタンク二本に仕込んで、その後、年があけて大寒の頃に、また四本仕込む。暮れのうちに仕込むのを「前吟」、大寒の頃に仕込むのを「本吟」と言っている。前吟で腕ならしをして、その年の米や麹、酵母を見極め、そのうえでかかるのが本吟だいね。(「杜氏 千年の夢」 越後「八海山」杜氏 高浜春男) 


軍隊における生活習慣
−ここでは、軍隊におけるさまざまな生活習慣が、退役軍人を通じて全国津々浦々に伝えられた、その文化伝播の影響を問題としたいのである。実際、軍隊に酒はつきものであった、といってよい。とくに、戦勝にわいた日清・日露戦のころは、軍での酒席はつきものであった。そのことを物語るのが、「出兵記念」とか「凱旋記念」とかの文字をあしらった徳利とか盃が全国的に数多く残存する事実である。また、第二次大戦のとき、南方戦線が拡大するのみあわせて酒造りの技術者を軍属として派遣した事実からも明らかである。ついでにいうと、高温多湿の東南アジアでは、醸造酒の清酒系は適さず、蒸留酒の焼酎を醸造して軍隊に供給したのである。そのために、沖縄から泡盛の職人だけでなく、仕込み甕をつくる壺屋の職人までがかりだされた。もちろん、当事者からもまだ聞きたしかめられる範囲の話である。したがって、軍隊における飲酒と宴会の習俗は、花街の発展とも無縁であったとは思えないのである。  戦さででて咲く主様(ぬしさま)が 今日も酒々、明日も酒々  軍人のお座敷は知らない、という桃太郎さんだが、それでもこんな俗曲が花柳界には伝わっていた、とこぶしをきかせて唄ってくれたものだる。(「盛り場の民俗史」 神崎宣武) 


半兵衛の家
半兵衛の家という話がある。良寛が解良(けら)家のある牧が花の部落へ托鉢に来て、かかりの農家の門に立つと、路傍(ろぼう)に遊んでいた子供らが、「その家は半兵衛の家じゃぞ」とはやす。かれは、瞬間ろうばいして、ぬき足でその前を立ち去り、隣の門に赴いて頌偈(じゅげ)を唱えかかると、ついて来た子供らが、「ここが半兵衛の家じゃぞ」とまたはやしたてる。ふたたび顔色を変えたかれは、さらに次の家、その次の家へと移って行くが、どこまでも子供らがつきて来て、その都度、半兵衛の家じゃと騒がれ、家の片側は畠、片側にしか家の並んでいないこの部落十数戸を、全部半兵衛の家にされて、なおかれは半兵衛がそんなに多くあるのを疑う様子を示さなかった。ことの起こりは、この部落の半兵衛という男が酒に酔うて、以前に良寛に喧嘩をしかけたことがあり、それでその名前が良寛には恐ろしかったのだという。『奇話』に載せている。(「新修 良寛」 東郷豊治) 


此のお子はなどゝ
此(こ)のお子はなどゝ遣り手(やりて)の丁度請け はなしこそすれはなしこそすれ
「このお子はお酒はダメですから、代りに私がいただきましょう」などと、遊女に代って盃になみなみと酒をついでまらう遣り手(-)。「丁度請け」というところに、欲ばりな遣り手らしさを表現した。座敷にちょっと挨拶に出た折などであろう。 ○丁度=盃なみなみと酒が注がれた様。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


百一段
むかし、左兵衛の督(かみ)なりける在原の行平といふありけり。その人の家によき酒ありと聞きて、上にありける左中弁藤原の良近(まさちか)といふをなむ、まらうどざねにて、その日はあるじまうけしたりける。なさけある人にて、かめに花をさせり。その花の中に、あやしき藤の花ありけり。花のしなひ、三尺六寸ばかりなむありける。それを題にてよむ。−
現代語訳
昔、左兵衛の督であった在原行平という人がいた。その人の家によい酒があると聞いて、殿上人であった藤原の良近という人を、主客ということにして、その日は饗応の支度をしたのだった。(行平は)風流のたしなみのある人で、瓶に花をさしてかざってあった。その花の中に、不思議にすばらしい藤の花があった。その垂れた花房は三尺六寸ばかりもあった。(そこで)その花を題にして(一同みな)歌を詠む。(「伊勢物語」 石田穣治訳注) 


女房に成て遠い酒もり
遊女あがりだろう。商人の妻などになり酒席とは縁遠くなった。それを物足りなく思う気持ちもあるかも知れないが、地味な暮らしに慣れてきたという落ち着きも感じられる。酒宴の多い遊女の生活は暗く辛いものであり、それを思いあわせての感慨がありそうである。女房に成て、はただ事実をのべただけの言葉であるが、酒と遠くなって女房らしくなりきれたという感じも含んでいそうに思われる。(「『武玉川』を楽しむ」 神田忙人) 


至道無難
無難(一六〇三−一六七六年)は美濃関ヶ原本陣に生れた。東海道の上り下りに愚堂東寔(ぐどうとうしゅく)がときどき泊る。無難はひそかに出家の志あれども、家庭の事情が許さない。そこで酒乱をよそおう。周囲の者を怒罵慢罵して手がつけられない。そういう場所に愚堂が来た。家の者が愚堂に意見を頼む。愚堂は酒席を設け、無難に対した。「汝、酒を飲み周囲の者大変迷惑している。しかし今夜はわしが相手をするから心ゆくまで飲め。そして大丈夫の志気があるというなら、これを最後の酒と思って酔いつくせ。」と云った。無難は「それは私の希むところです。老和尚よ、その言葉を忘れなさるな。」と云った。とうとう暁となって駕籠が来た。無難はそれを送って行く。家人が心配するから帰れと云っても帰らない。近江の正燈新寺へ来た時、愚堂の前にひざまずいて出家の時が来ましたと云った。四十七歳の時という。 生きながら死人(しびと)となりてなりはてて思ふがままに為すわざぞよき これが無難の覚悟であった。(「随筆八十八」 中川一政) 愚堂は臨済宗の高僧だそうです。 


脳内の「報酬系」のメカニズム
お酒を飲むと気持ちがよくなるのはなぜか?脳に通じる血管には、異物が侵入しないように「関門」となる脂肪の膜が設けられている。脂肪に溶けることができるアルコールは、この関門をすり抜けて脳内に入り込み、脳に薬理作用をもたらす。酔うと手先が怪しくなるなど、身体能力は抑制される一方で、妙に元気になったりするのを見てもわかるように、脳はアルコールに対して複雑な反応を示す。たとえば、脳の活動を穏やかにするのは、脳内物質であるGABAだ。アルコールはGABAの作用を増強する。動作が緩慢になり、判断力も低下するかわり、緊張感や不安感を和らげ、ストレス解消に役立つという「抗不安作用」がある。脳内に形成される「報酬系」も、酔いが心地よさをもたらすメカニズムに関係する。脳内で「快楽物質」とも呼ばれるドーパミンが分泌されると、脳内の受容体と結合し、快感を得ることができる。このシステムを「報酬系」と呼ぶ。苦痛を和らげる作用をもつセロトニン系、報酬に反応してその行動を継続しようとするノルアドレナリン系などの脳内物質も、人を酔わせるメカニズムにかかわりがあると言われている。(「今日も飲み続けた私」 衿野未矢) 


あきらめは
山口 この頃、扇子の絵柄がとても悪くなりましてね。いいのがなくなりましたよ。女の人のものでも。散々選んでも気に入らない。それでね、この頃は白扇を買ってきて自分で書いて、さしあげたり、使ったりしているんです。書く言葉は、もっぱら"諦めは天辺(てっぺん)の禿のみならず"(笑)。これ、山崎方代という歌人の"あきらめは天辺の禿のみならず屋台の隅で飲んでいる"という歌なんです。その後を取っちゃった。(「男の風俗・男の酒」 丸谷才一VS山口瞳) 


大佛さん
私はどんなきっかけだったか忘れたが、戦後はじめてクラブを握るという大佛さんをこのゴルフ場に誘い出した。ゴルフは戦前派だし、体も大柄なのでドライバーショットがよく飛んだ。ここのコースは谷越えの連続なので私はボールを谷へ落とすのが常であった。ゴルフがすんで一緒に鎌倉に帰ると、必ず若宮大路にある二の鳥居の「浅羽屋」へよっていっぱい飲むのが楽しみであった。当時私が驚いたのは大佛さんのビールの飲みっぷりで、毎度大瓶十本近くと、あとはブランデーを瓶の三分の一は飲んでいた。ゴルフのあとは酒がおいしいね、といつも上機嫌であった。大佛さんは酒を飲む時にはほとんど料理を食べられなかった。(「わが酒中交遊記」 那須良輔) 大佛次郎です。 


渋柿
幸徳秋水は、皮肉屋だったが、酒が入ると冗談を言い洒落もとばし別人のようになった。このため、平民社に集まる婦人連は、「渋柿」というニックネームを秋水につけた。その心は、酒が入ると甘くなる。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


飲む理由
もっと短く鮮やかにまとめているのが、イギリス・ビクトリア朝の文学者トマス・ラブ・ピーコックの一言。私はこっちのほうが好きです。「酒を飲む理由は一つは渇きを潤すため。もう一つは、渇きを事前に防ぐため」こういったレトリックは軽いエピソード向きなのか、いろいろな評伝やゴシップに散見されます。ナポレオンにはこんな言葉があるそうです。「勝者にはシャンパンを飲む価値がある。敗者にはシャンパンを飲む必要がある」恋多き女性と呼ばれたファッションの女王ココ・シャネルは、シャンパン好きが高じてこんな言葉を残しています。「私は二つのときにしかシャンパンを飲みません。ひとつは恋をしているとき。もうひとつは恋をしていないとき」−(「とりあえず、ビール!」 端田晶) 


ショウジョウバエ(3)
小泉 以前、酒には級別があったでしょう。日本酒の特級、一級、二級、というのをそれぞれ容器に入れておきますとショウジョウバエはまず特級に集まるんです。これは再現性がすごくある。必ず特級のところにやって来る。
日高 アルコール分の違いだけじゃないですよね。何がショウジョウバエを引きつけるのかな。
小泉 彼らはいい匂いのところに来るのだろうと。級別で一番違うのは、果物の匂いの量なんです。いわゆるエステル香です。エステル類が特級の酒には一番多い。次が一級で、二級酒はもうエステル類はあんまりないんです。
日高 なるほど。エステルだけに反応してるのがどうかはちょっとわかりませんけど、結局果物的な匂いの強いほうに来るわけだ。ウイスキーにはエステルはあるんですか。
小泉 結構あります。発酵して蒸溜しますと、それだけまたエステル成分は濃縮されますから。ただ、果物香のエステルはアルコールに酢酸がついているんですが、ウイスキーはエチルアルコールの脂肪酸がついているから、ショウショウバエはあまり寄ってこないんですね。
日高 いや、僕がウイスキーを飲むときにショウジョウバエがしょっちゅう来て、なかにはグラスの中に落っこちて溺れちゃうヤツもいる。
小泉 ズッコケるのがいるんですね(笑)。
日高 グラスの縁で、よく歩いているでしょう。
小泉 ええ、ずうずうしくそこで交尾しているのもいますものね。
日高 います、います。アルコールの匂いは卵を産む場所という信号なんだから、そこで交尾することは、一番しっかりしているわけですよ。(「発酵する夜」 小泉武夫) 日高敏隆との対談です。 ショウジョウバエ(2)  


佇まいのいい店
そして必ずと言っていいほど出る質問が、「知らない店に一見(いちげん)の客として入るとき、どういう基準でお店を選ばれますか?」というやつである。そこで言葉に窮してしまう。どういう基準と言われても別にたいした基準はない。「しいていうなら」と断っておいて、「佇(たたず)まいのいい店」と答える。さらに出る質問に「すがれた、年月を感じる店」と付け加える。なぜそうした店かと言うと、そうした店にはまず失敗がないからである。佇まいのいい店には積年のプライドがある。これまで商(や)ってくることができた何かがある。またそれを、お客さんが支えてきた。(「酒にまじわれば」 なぎら健壱) 


柳酒屋
七条町小袖屋は、応永十六年(一四〇九年 南北朝合併直後、室町中期)七条道場金光寺に対し、屋地・庵・土蔵を寄進している。また、同じ頃のこと、この同じ小袖屋かどうかわからぬが、同名の商店の主人小袖屋の経意というものが、日蓮宗の妙本寺の再興に、大富豪の柳酒屋の一千貫と並んで、三百貫の寄進をしている。−
室町末期から織田・豊臣期に天下の富豪と知られた者にはつぎのような名が見える。−[京都]茶屋清延 角倉了意 伏見屋某 小袖屋宗句 田中勝助 後藤四郎兵衛 柳酒屋法実 薬屋五郎右衛門−いずれも、数代にわたる家柄であるので、主人の名を異にして、史上に散見しているが、その時代の寺社・幕府・有力大名、信長や秀吉と組んで、海外貿易などに出資し、利益の配分にあずかった商人、あるいは金融・醸造等の業者であり、軍需品の供給者として戦史などに名をとどめているものの中から集めた。(「道鏡と居酒屋」 倉本長治) 


朝の思想
だから、仕事のことを考える人は朝の思想を尊重すべきである。クヨクヨするな、といってもすぐにシャンとできるわけではないが、クシャクシャクヨクヨする時は、酒でも飲むか、音楽でも聞いて早く寝てしまうことだ。夜中のテレビで、何のためにウイスキーをつぐ音をきかせているかというと、酒が飲みたくなる時刻だからである。そういう時は酒でも飲んで寝てしまえばよいのである。ただし、そういう私も、いつも安らかな夜をすごしているわけではない。怒って寝られない夜をすごした翌朝、改めて「朝は夜より賢い」ことを再確認しているだけのことにすぎない。だから、どうぞ今夜は早くお休みなさい。(「食べて儲けて考えて」 邱永漢) 


洛中洛外の酒屋
@鎌倉後期の京都は、王朝貴族の政治都市的性格が退化し、かつての散所者(さんじょもの)から傑出した町屋の人々が織りなす商業都市的性格を強く打ち出していた。幾度かの罹災と復興を繰り返しながら、中世的酒屋は室町、西洞院(にしのとういん)から東西に展開した。このことは、『東寺執行日記』に「近日京洛ノ俗、偏(ひとえ)ニ利潤ヲ専ニシ杜康(とこう)ノ業頗(すこぶる)繁多」(一三三〇(元徳二)年宣旨)とあるより知られる。「杜康」とは、昔、中国で酒をつくった人の名、転じて酒の異名である。したがって、杜康の業は酒屋を意味する。 A京都の酒屋が飛躍的に伸びたのは、南北朝が合体した一三九二(明徳三)年以降であった。 B北野神社西宮神人らが一四二五、一四二六(応永三二、三三)にわたり調査した「酒屋名簿」によると、北は嵯峨谷、東は粟田口の間に三四二軒を数えた。また、一四四一(嘉吉元)年幕府の調査では三三五軒といい、応仁の大乱勃発まで大した数的変動もなく酒屋は繁盛した。 C洛中の酒屋のうちもっとも著名なのは、五条坊門西洞院の柳酒屋であった。門前に大きな柳があったのでこの名が出たという。一三九三(明徳四)年、七二〇貫もの酒屋役(酒税)を納めた。これは、洛中洛外の酒屋約三四〇軒の年間課税のおよそ二四パーセントに相当した。このことだけでも、その繁昌ぶりが知られよう。柳酒屋についで、五条烏丸の梅酒屋が有名であった。一四七九(文明一一)年、将軍義尚(よしひさ)が梅酒屋へ臨場したことが『大乗院日記』から知られるが、ここの酒づくり関係の文献資料はいまだに見出されていない。嵯峨酒の名で知られた角倉(すみのくら)酒屋は洛西の天竜寺境内にあった。一四九〇(延徳二)年制定の「酒屋条目」の中に、「嵯峨谷酒家役事」とあるので知られる。近世初期、朱印船交易で活躍した角倉了以はこの酒屋の後裔である。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


劇作家的論理
ある時フランスの喜劇作家モリエールと晩餐をともにした友人達は、酒が廻るとともに死の賛美をはじめ、皆でセーヌ河に身投をして死のうということになった。劇作家はとめても無駄と見て「こんな壮挙を暗闇で観客なしに演ずるのはもったいないから、明るい時にしたまえ」といった。勿論朝日とともに一同の気持はすっかり変わっていた。(「ユーモア人生抄」 三浦一郎) 


與某文(ぼうにあたふるふみ)
好んで豪飲に耽る人あり、いかに思ひよることか有りけん、忽(たちま)ち八仙の仲まを遁(のが)れて、今よりはいたく酔はじと固く誓ひけるが、猶(なお)行末の乱れ我ながらうしろめたし、坐右に守るべき語を書きて得させよと謂ふ。我はもとより下戸なり、酔うて面白きやらん、止めてよきやらん、其心に関(あづ)からず。されども其責のいと切なればいなびがたくて、すゞろなる一句を筆す。
神もうけよ酒過さじとせし御祓(みそぎ)(「鶉衣」 横井也有 石田元季校訂) 


セイ
「カブってからどこかでセイでも引こうか」
「カブル」は打ち出し、はねる。「セイ」は清酒の頭だけ。「引こう」は飲む。(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) 


貴賎貧福の差別なきが如し
そして、「今の世、三都ともに士民奢侈を旨とし、特に食類に至りては、衣類等と異にして、貴賎貧福の差別なきが如し」(『守貞漫稿』)という観察が興味深い。つまり、当時の町人社会では料理屋での外食もかなり一般化していた、ということになる。ちなみに、料理茶屋では、規模の大小や格式の高低はあったものの、そこでだされる料理には格段の差はなかったようだ。「みそ吸物に口取肴、二つ物に刺身、すまし吸物(または茶椀もの)の酒肴のあと、一汁一、二菜がつき、食前食後の煎茶に上製の口取菓子をそえ、美なる浴室にてゆあみさせ、余り肴は笹折に納めて客の携え帰るに備」というのが一般的であったらしい。(「盛り場の民俗史」 神崎宣武) 


熱燗
それで、小料理屋でも蕎麦屋でも、お酒をくださいと言うと、「冷やですか熱燗ですか」と訊かれる。「お燗にしてください」「はい、熱燗ですね」って、お燗はイコール熱燗になってしまっている。いったい、あの人肌ってやつはどこへ行ってしまったんだろう。熱燗というのは安物の酒を誤魔化(ごまか)すためのものだと教えられたんだが…。(「江分利満氏の優雅なさよなら」 山口瞳) この頃(平成7年出版)からもう、「熱燗」になっていたようですね。 


なぜに酔(え)いた
どうして酔った、強いて飲ませたから。なぞ、心は、椎茸(しいたけ)。『後奈良院御撰何曽(ごならいんぎょせんなぞ)』(一五一六年)に、<なぜにゑひた しゐ(ひ)たけ>とある。「しゐ(ひ)たけ」は「強ひ飲(た)げ」。(「飲食事辞典」 白石大二) 


金は火で試み、人は酒で試みる
 金の品質は火で熱するとわかるように、人は酒を飲ませ酔わせることによってその本性がわかってくる。
酒には猛き鬼神もとらくる習い
 「猛き鬼神」のような強く、しっかりした者も、酒にはつい心がゆるんで失敗してしまうということ。「とらくる」は「蕩(とろ)く」が変化した語で、なごむ、心のしまりがなくなること。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


川床
京都の加茂川の夕涼みでも、とりわけよく知られておりますのが、川の流れの方向に近く、張り出して作った川床(かわゆか)。単に床(ゆか)ともいっておりますね。床(とこ)と呼ぶと、酩酊した人が、つい寝っころがってしまいそう。お茶屋さんの玄関から入り、座敷を通されて、皮床へ。ヘエ、涼しい風が吹いてきてええ気持ちどす。なんでも江戸時代の後期、四条河原を中心にしまして、上(かみ)は三条大橋から、下(しも)は松原辺りまで、陰暦六月七日の夜から十八日までの十二日間、料亭などが、加茂川の河原に桟敷(さじき)や床几(しょうぎ)などをこしらえて、夕涼みのお客さんたちと楽しんでもらっておりました。これがそもそも川床のはじまりだということですね。で、
涼み床(ゆか)下は川波上は酒
と、こうなるわけでございます。(「志ん朝のあまから暦」 古今亭志ん朝・斎藤明) 


竹の酒
国立民族博物館の『季刊民族学』を読んでいたら、酒をテーマにしたクイズで、筍から造る酒のことが出ていた。竹の新芽を切ってその断面から出る液を集めて造るとのことだが、タンザニアにあるそうだ。(「粋音酔音」 星川京児) 


おやかたの系図を聞けば樽ひろい はづかしひことはづかしひこと
今でこそ酒屋の親方として押しも押されぬ商売をしているが、そのルーツをたどってみると、初代は樽拾い(-)から身を起こして、今の身代を築きあげたということだ。酒屋の親方に「系図」などと大仰な表現をしたところが滑稽。 さる人の景図をきけばざうり取(柳三八)(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


酒三則 その三
勤(きん)の反(はん)を惰(だ)と為し、倹の反を奢(しゃ)と為す。余(よ)思うに、酒能(よ)く人をして奢を長ぜしむ。勤倹以て家を興す可(べ)ければ、則ち惰奢(だしゃ)以て家を亡(ほろぼ)すに足る。蓋(けだ)し酒之れが媒(なかだち)を為すなり。
[訳文]勤勉の反対が怠惰であり、倹約の反対が奢侈(又はぜいたく)である。私は思うに、酒は、人を怠惰にし、またおごりの心を長ぜしめるものであると。勤勉、節約が家運を興こさせることができ、怠惰、ぜいたくは家を亡(ほろぼ)すもとである。この後の場合、酒がこの仲介をするものである。(「言志四録」 佐藤一斎 川上正光訳注) 


名酒蔵元 再建へ意気
被災地の老舗酒蔵は津波で危機的な状況に立たされたが、再建に向けて懸命に立ち上がろうとしている。今年4月の「全国酒類コンクール」の2部門で1位に輝いた「浦霞」。その蔵元である宮城県塩釜市の「佐浦」は本社蔵に津波が流れ込み酒造りは中断しているが、被害の軽かった別の蔵で酒造りを再開。「浦霞らしい高い品質の商品を提供したい」と創業287年の意地を見せる。宮城県気仙沼市の「男山本店」は国の有形文化財の店舗が全壊した。九死に一生を得たのが酒蔵にあった酒の命であるもろみだ。店舗の代わりに酒蔵に事務所を構え、名酒「蒼天伝」などを全国に発送している。「応援したい」というエールと共に注文も増え、復興の確かな手応えを感じている。一方、町中心部が壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町。名酒「浜娘」で知られる「赤武酒造」も醸造工場は跡形もなく流され、従業員1人が亡くなった。古館秀峰社長(46)も自宅を流され友人宅に身を寄せながら、代用工場を探す日々。「何年かかっても生まれ育った土地で再興したい」廃墟からの再起を強く誓った。同県宮古市の地酒「千両男山」の蔵元「菱屋酒造店」は2階建て貯蔵庫兼倉庫が津波にのまれ、出荷直前の酒が入っていた貯蔵タンクの大半を流出。現在は、貯蔵室で辛くも無事だった瓶入り商品に復興を願うラベルをはって販売している。斉藤鉄郎専務は「酒造りの火は消さない」と159年の歴史を守る決意だ。(読売新聞 2011年5月24日) 


気付の火酒
小砲隊軍を左右前後に列す、而して騎馬隊、大砲隊、架橋隊、啓行隊、楽隊其前後にあり、毎隊色を以て分つ、冠服各殊也(ことなり)、或赤或黒、或白或黄青何れも美也、又我国にて称する陣羽織の如きを服するあり、裾開て短衲衣(たんなふい)の如くあり、架橋兵は車上に桟柱を載せ、啓行兵は斧鉞(ふえつ)を担ふ云々。大凡(おほよそ)小砲隊四千人、騎馬隊二千人、大砲車十六輌、総計七千五百人也と云ふ。是花旗国開闢(かいびゃく)以来の警衛と云ふ。故に観者の多き、数里の間雲霞(うんか)の如し、見るも愉快なり。(航米日記)
この列中に看護婦のあったのは一行の注目を引いた。
護衛軍ラフェーヱットの聯隊の女子の出現によつて彼等の好奇心は頗る励まされたり、而して彼等の賑かなる会話によりして彼等がかゝる珍しき有様(ありさま)を実認し得ざりし事明かなりき。此特殊的出来事は閲兵を閉ぢたり、使節は再び彼等の諸馬車に入りたり。(フランクレスリー)
兵卒のうちに小なる樽を背にかけて行く、二八の美人あり。(是は気付の火酒を持つ役なるよし)粧ひ飾りたるさま祭に等し。(村垣日記)(「幕末遣外使節物語」 尾佐竹猛) 遣米使節に対するニューヨークの歓迎行事の一幕だそうです。 


飢えと酔い
だが僕はいつものように高い板壁に凭(もた)れながら、ただひっそりしているだけなのだった。飢えもこのように重ければ、酒にでも酔っているような非現実な気分になってなかなか快いものだ。僕は飢えに陶然となりながら放心していた。(「深夜の酒宴」 椎名麟三) 


初代川柳の酒句(5)
赤松を ぶつさいて屠蘇 買に来る 泉河(金の工面)
日本の地へ ふみこむと 酒手也 船汀(日本堤)
のまひても 飲ンたて仕廻(しま)ふ 中直リ 竹露(下戸の仲直り?)
酒の直段(ねだん)に茶が売れる 美しさ 卜文(美女のいる水茶屋)
戻る猪牙 酒手を出して 聟ハ乗 魚交(聟の敵前逃亡)(初代川柳選句集上 千葉治校訂) 


詩経三百五篇
詩経経三百五篇の詩の中で、酒及び酒に関することの表はれているものは、風に九篇、小雅に二十六篇、大雅に十一篇、頌に八篇、総計五十四篇で、全体の六分の一強に当つてゐる。数量から見て決して少いとは言はれない。これを風雅頌各全篇に対する比率を見ると 風 一六〇篇の内九篇 小雅 七四篇の内二六篇 大雅 三一篇の内一一篇 頌 四〇篇の内八篇 であつて、之によつて見ると酒がうたわれてゐることの最も多いのは大雅で、小雅之に次ぎ、国風といふ順序になる。(「詩経随筆」 安藤圓秀) 


阿弥陀さまの後ろ
敗戦で、勤めていた会社は解散、しばらく兄の事業を手伝うため、田舎へ帰っていた。兄が隣村の山から石材を切り出す仕事を始めることになり、その準備のため単身出向き、軌道に乗るまで、その山の持ち主である寺に厄介になっていた。寺は古くて小さかったが、由緒あるお寺で、四十歳余りの、声の大きいのが自慢の住職、その奥さま、七十歳過ぎのお婆さま、の四人暮らしであった。ある日、奥さまは実家かどこかへお出かけで留守、夕食がすむとお嬢さんは自室へ、お婆さまも離れの隠居所へ引き取り、住職と火鉢を囲んで雑談していた。そのうち、住職が奥から提灯とアルミ鍋を持ってきて、ちょっと手伝ってくれと言う。何のことか分からなかったが、その古びた提灯に灯を入れ、住職の後について行った。住職は廊下づたいに暗い本堂に入って行った。本堂の真ん中には大きな阿弥陀さまが座っておられ、高い天井に薄暗い電灯が一つ、背面はまっ暗であった。住職は阿弥陀さまの後ろに回ると、須弥檀の扉を開けた。芳醇な酒の香りが鼻を打った。私はやっと事情が飲み込め、提灯をかざした。住職は、宝物を探し当てたように顔をほころばせ、柄杓で何杯か、できたてのどぶろくを鍋に移した。(「阿弥陀さまから頂いたお酒」 北原喜六 「多酒彩々」 サントリー不易流行研究所・編) 


酒の狂歌
我が孫のなめて離さぬ盃に 酒の血筋の糸をひく酒
春秋のきちがひ水のしるし哉 菊にも梅の樽びらきして
世の中の人の愁を猿田彦 神酒では鼻も酔はぬみやつこ
神仏の力たのみて我が禁酒 かためにも飲み破れにも飲み(「日本酒物語」 二戸儚秋) 


年間約千二百本
酒の酒類は過去二十年間、時おり日本酒も飲んだこともあるが、一貫してビイル一本やりできた。いまは酒場などでもほとんどが中ビンというやつだから、それで計算してみた。もちろん、ぼく自身が飲んだ本数だけである。まず自分の家で飲むぶんは、週に二日は外で飲むため家では週五日、年に約二百六十日、一日ビイル四本で、年間およそ千本。外で飲んだ百日のうちわけは、勤め先の仕事にかかわる客接待や取材で三十本。講演に行った折に飲んだのが苫小牧三回、札幌五回、仁木、岩見沢、旭川、北見、常呂など十五回で、一回平均七本で計百本。ルポルタアジュ取材で函館や網走などで十五本、忘年会、父母宅での年越し、正月三ヵ日の来客のあった日などに二十五本。−−
これらを合計してみると、家で飲んだぶんが千本、外で飲むぶんが九百本強、合計でおよそ千九百本という結果が出た。数字を出してみて、なんだたいしたことではないかと思ったことだった。ここ四年ぐらいがこの調子できたから七千六百本、それ以前の二十年間も年間約千二百本のペエスで飲んできたから…。(「乱酔記」 小檜山博) 


サリヴァン対キルレインのタイトルマッチ 一八八九
ベアナックル(素手)・ボクシングのヘビー級チャンピオン、ジョン・L・サリヴァン(シャンペン好きのアル中)とジェーク・キルレイン(同じく大酒飲み)のタイトル・マッチは、一八八九年七月八日、ミシシッピ州リッチバークで行われた。最初、サリヴァンのマネージャーはアルコールを禁じていた。しかし、疲労と三〇度を越す暑さに勝つため、サリヴァンは四三ラウンドが終わってからウイスキー入りの冷たい紅茶を飲むのを許された。が、ウイスキーは突然気分を悪くさせ、サリヴァンはリングの真ん中でもどしてしまった。一方、キルレインは三六ラウンド以降、タイム・キーパーのウィリアム・"バット"・マスターソンからラウンドごとにバーボンを一口ずつもらっていた。七五ラウンド終了後に負けが宣せられるまでに、キルレインはバーボン一本を空にしていた。(「世界おもしろ雑科2」 ウォーレス、ワルチンスキー他) 


霞網
道まで出迎えてくれた小屋のあるじは、暮れないまでにと張りめぐらした網のたたずまいを見せてくれた。立ち樹の空間をうまく利用して高さ五、六メートル、幅十メートル位の細糸で編んだ網がいくつも張り渡されていたが、鳥目ならぬ人間の目にも、まさに編目は霞んで見えた。小屋の中は地面に板を敷いてその上に蓆(むしろ)が敷かれていた。五十がらみのあるじ夫妻の他、二人、三人わかものがいて、ランプの灯の下で、その早暁捕ったという鶫(つぐみ)、蒿雀(あおじ)その他くさぐさの裸身の小鳥を炉に炙りながら地酒の杯をあげた。壺に長年たくわえて来たものだというたれに浸しては炙る鶫の脂は炭火にこげて、小屋はかぐわしいにおいと、煙に充たされていったが、三十歳そこそこの私はたじろぐこともなく、鶫にいどみ、杯を重ねた。夜がふけるにしたがって山気の寒さはきびしくなりまさっていったが、小屋の中を犯すことはなかった。−
東道をしてくれた知人は昼前、山を下る径で、さりげなく「魚の通路に網を張って魚を捕るのと同じ理法ですね。陸の漁場というわけですよ」といった。私はその論理にいささか救われたが、霞網には再びまみえたくないという思いが胸を去らなかった。(「飲食有情」 木俣修) 


グループワーク
グループワークとは、教官を中心とし、受刑者の再犯防止を目的とした交通安全教育で、相手の話を聞き、自己の意見を述べる等の相互作用によって、正しいものの考え方、見方を身につけ、法を守り人命の尊重を信条とする社会人の育成を期している。グループワークがある時は、作業を休んで参加する。グループワークで話す受刑者の話に、私は身震いしてしまった。それは、「酒酔い運転のために、二名死亡、二名重傷。それまでの幸福な家庭生活が一瞬にして悲劇のどん底に陥った。酒酔い運転のために自制心を失い、一時停止、安全確認をしなかったばかりに、今、つぐないの日々が始まったのだ」という実体験だ。「示談交渉も弁護士と被害者の親たちと行い、最終的な提示は、自分で決断する以外にない。強制保険、任意保険がきかず、賠償額は一人、三千万円ぐらい。親族から借り集めたが、あまりの額にほんの一部しか集まらない。全額などまとまるはずがなかった。残額は、受刑後働いて支払う約束で誠意を認めてもらい、示談は成立したが、何十年かかるのであろうか。民事裁判の訴状が、受刑中に届き、多額な保証金、それを考えるとこれから先どうしたらいいか、気が狂わんばかりだ。今はただ反省し、故人の冥福を祈る以外に何も考えたくない」(「飲酒運転で犯罪者になった」 川本浩司) 


ワインの中に真実あり
話を酒に戻すと、"イン・ヴィノ・ベリタス=In Vino Veritas"つまりざっと訳して「ワインの中に真実あり」という意味の文句を広めたものはデンマークの哲学者ゾーレン・キルケゴールだったことを指摘しなければならない。デンマークの古いことわざである「ウソをヒママかないのは酔っぱらった男と赤ん坊だけ」を、キルゲゴールの言葉と併せて考えれば、なぜデンマークに社会福祉が発達しているかがお分かりだろう。デンマーク人は酔っぱらうと初めて、あのアンデルセンの『裸の王様』に出てくる子供のように真実を話すのがふつうだ。しかし、たまたまそれが、自分のボスについてだったりすると、その男は失業保険を受け取る列に並ぶハメになる。日本ではそんな野蛮なことは起こらないのを知っている。みんなが、日本は酔っぱらいの天国だという。車を運転しているときは別として、酒のうえで言ったこと、したことはすべて許され、忘れてもらえる。(「デンマークの食卓文化」 ポール・E・S・ニールセン サントリー博物館文庫) 


硯水
宮廷では、古くからすでに朝夕二度の御膳(おもの)のほかに、朝食前に朝餉(あさがれい)を上がることが文献に見えるので、厳格には三度であった。『日本霊異記』上巻に、「二月三日のころに、設けし年米をつくるとき、その家室、稲舂女(いなつきめ)らに間食を充てむとして碓屋(からうすや)へ入る」とあり、当時、労働に服しているときに、朝夕の食事の間に支給される食事のあったことがうかがえる。後世はこれをケンズイ(硯水、間水などを当てる)と呼び、『延喜式』にも、酒を醸す日に稲舂女らに間水を支給することが見える。奈良県の山村の天川村などでは、今も山に持ってゆく昼弁当をケンズイといっている。古い語がそのまま残っているわけである。(「くらしの条件」 中尾達郎) けんずい  


われ死なば
われ死なば備前伊部の土となり 徳利となりて酒をいれたい
(伊部は岡山県和気郡の伊部焼のことで、あるところに酒好きの爺があり、辞世の歌を右のように読んで聴かせたところ、婆も負けずに次の狂歌を詠んだという。 われ死なば備前伊部の土となり 溲瓶(しびん)となりてちんぼ入れたい)(「日本酒のフォークロア」 川口謙二) 


一斗、一石
「上:髟、下:几」(コン)は斉の威王の時の人。身の長(たけ)七尺に満たず、滑稽多弁で、數々(しばしば)諸侯に使したが、未だ嘗て屈辱したことはなかつた。或時威王は酒を後宮に置き、「コン」を召して之に酒を賜ひ、「先生は幾何(どのくらゐ)飲んだら酔ふか」と問うた。対(こた)へて曰ふ「臣(わたし)は一斗飲んでも酔ひ、一石飲んでも酔ひます」と。威王が曰ふ「先生は一斗飲んでも酔ふのに、どうして一石も飲めるのか。其の説が聞きたいものだな」と。「コン」が曰ふ「酒を大王の前で賜ひ、執法(司法官)が傍らに居り、御史(検事)が後に居つて、「コン」が恐懼俯伏で飲むならば、一斗に過ぎずして、徑(ただち)に酔つてしまひます。若し大王御自身の大切なお客が有つて、「コン」は手を袖に引込め、かしこまつて御前にお相伴いたして、時々お流れを頂戴し、觴(さかずき)を奉(ささげ)御祝儀を申上げて數々起つたりするならば、飲むこと二斗に過ぎずして徑に酔つてしまひます。若し朋友や交遊(つきあひ)の久しく逢(あ)はなかつたものと、ひよつこり出逢つて、歓んで昔話や懐かしい思ひ出を語るならば、五六斗ばかりで徑に酔つてしまいます。若し同郷人の会合などで、男女が雑坐し、酒盛りが永く続き、六博(すごろく)や投壺(やなげ)の遊びに、組分けして勝負を競ひ、女の手を握つても罰せられず、顔をまともに見ても禁(とが)められず、前には耳環が堕ちてをり、後には簪(かんざし)が落ちてゐる。「コン」は竊(ひそ)かに此れを楽しみ、飲むこと八斗ばかりで、二三分どほり酔つて来ます。それから日が暮れて酒も段々減つて来て、樽を合はせ坐を近寄せて、男女が同じ席(しきもの)に坐り、草履や靴が入り乱れ、杯も盤(はち)も狼藉(とりちら)し、座敷の燭(あかり)も滅(き)え、主人は「コン」を留めて外の客を送り出し、羅襦(うはぎ)の襟(むね)もしどけなく、微かに香気が聞こえてくる。かかる時「コン」の心は最も歓しく、一石でも飲めます。だから、酒極まれば乱れ、楽しみ極まれば悲しむと申すので、万事尽く左様でござります」と。是は物事は極(つきつ)むれば衰へるといふことを言つて、それとなく諫めたのである。王が曰ふ「その通り」と。是より夜明かしで飲むことは罷(や)めた。[史記](「酒「眞頁」(しゅてん)補」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 


鮭のかゆずし
山形県庄内地方。山形県鶴岡の鮭ずし、鹿児島県の酒(さか)ずしとともに飯ずしの代表である。塩押しをした鮭の切り身を使い、良質の米を硬めに炊いたものに、麹・枝豆・カズノコ・切りコンブ等を入れて、笹の葉でおおって密封し、二週間ほど置いてから賞味する。新酒をたくさん使って作るところが特徴。(「弁天山美家古 これが江戸前寿司」 内田正) 


茅原王
『淳仁(じゅんにん)記』という記録が残っているが、その中には、反道鏡派と目される一人の青年皇族茅原王というのが、飲み屋でヤケ酒をあおるところがある。これは、大仏開眼−道鏡の時代に早くも奈良の町には飲食店が営業していたという大事な証拠なのである。宮中は乱れ、天皇は上皇のわがままを押えられず、忠臣は殺されたり流刑に処せられる。なんの罪もない皇族でも、反対派が担ぐかもしれないという人望家は、その人物の名声が高ければ高いほど遠方へ流される−べらぼうめ、こんな馬鹿なことがあってたまるか、と、多少気骨のある青年なら、毎日が面白くなかったろう。宮中に何らかの地位を持っていたろう茅原王は、勤めの帰り道などに、つい一杯ひっかけて心のうさを晴らしたかったのだった。ある時、それは天平宝宇五年(七六一)三月のことだった。奈良の八重桜も、そろそろ蕾をふくらましていたことだろう。茅原王は街の居酒屋で一杯、二杯と杯を重ねた。酒も売っているが、飲み屋でもあったろう。宮中の物事を定めた「延喜式」(九二七)は、この時代より、ずっと遅く完成したものだが、「宮中に仕える者、衛士や仕丁は坊(街)で物を売ったり買ったりしてはいけない。ただし、飲食だけはよろしい」とあるから、街には、その頃から飲食店はあった。飲んで飲んでくだをまいた。俺は名門忍壁親王の孫なんだ、なんで、あんな得体の知れぬ糞坊主の顎の先で使われなければなかないのか。何が法皇だ!とこの若い皇族は、親友の誰彼が島流しになったり、恵美押勝を中心に道鏡を倒せという声の高い折柄、自分自身が、いま何をなすべきかに迷っていたのだろう。可哀想な茅原王よ。彼は突然、腰の一刀を抜いて、ヤッとばかりに空を切ったか、飲み屋の葭簾にでも切りつけたのであろう。そのささいなできごとを理由に、この王と呼ばれる身分の多感な青年は「多「衣偏+執」島」というのに流罪にされた−と『淳仁記』に記録されているのである。(「道鏡と居酒屋」 倉本長治) 


三年
『談林十百韻』に、 塗垂(ぬりたれ)に妻もこもりてつつがなし 三年味噌の色深き中 などという付け合いもある。日本では三年という期間にある長さを感じていて、その年を経過したことを賞美する傾きがあるようだ。三年味噌のほかにも、三年酒、三年竹、三年茄子、三年物などがある。(「くらしの条件」 中尾達郎) 


看護婦室からクレーム
当時、私は香港からやってきて、まだ原稿を書きはじめたたばかりで、『濁水渓』という小説が檀さんの目にとまり、雑誌社に電話がかかって「単行本出版の世話をするから一度来てくれ」という話だったので、石神井のお宅までたずねて行ったところ、奥多摩へ行って留守だった。いつお帰りになるのですか、ときいたら、さあ、いつになるんでしょうね、と奥さんは煮えきらない返事をなさる。あとで考えてみると、これは無理もない話で、檀さんは出たとこ勝負、行ったきり雀、みたいな性格で、予定なんか立てて行動する人ではないのである。その檀さんが負傷した記事を新聞で見たので、私はあわてて病院に駈けつけた。病院というと、陰気な雰囲気を連想するが、驚いたことに檀さんの病室はお祭りかお祝いの会場みたいで、本人の寝ているそばに友人の坪井與さんや水田三郎さんが集まって、賑やかに酒を飲みかわしている。あんなり騒ぎすぎて、看護婦室からクレームがついた話を、また愉快そうに、大声で喋っているのである。(「食べて儲けて考えて」 邱永漢) 


宗教上の祝祭日
それでも、食べ過ぎ、飲み過ぎの傾向のあるデンマーク人は多い。そして健康と精神衛生に気を配る連中は、節度を強調する人々に共鳴する。例えば、最近「礼儀正しく酒を飲むことには、私も両手を挙げて賛成だ。だが礼儀正しい酔っぱらいなんてものはない」と述べたのは、スコットランドの国務次官ハリー・ユーイング氏である。西欧の眼で見れば、酔っぱらうというのは、たいていの場合、卑しむべき状態で、とても人前に出せたものではない。矛盾した話だが、酔っぱらいが大目に見てもらえるのは、宗教上の祝祭日だけ。そのときはビール工場なども、超過勤務をやって、お祝い用の強い特別な酒をつくる。だから、福音書の教えのことよりも、ご馳走や酒を頭に浮かべながら、祭日のくるのを楽しみにしているデンマーク人は多い。(「デンマークの食卓文化」 ポール・E・S・ニールセン サントリー博物館文庫) 


かよい
これも釣場の案内人に教えられたのだが、鮎の友釣りに囮鮎を入れる俗に「かよい」という竹筒を新らしい青竹の切り立てを使って、この中に三杯酢をつくっておき、釣り立ての生きている鮎をこの中に入れる。少しして取りだして、これを肴に一杯飲む。春先の投げ網の追い打ちに、その頃は、二寸くらいのヒラタ海老や白魚がまぎれて入る。これをコップに二杯酢をこしらえてその中へ入れる。始めは透き通って見えているのが、スリガラス色になりあけたところを引きだして一杯飲む。(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) 


オッペケペー節
権利幸福嫌いな人に自由湯をば飲ませたい。オッペケペ、オッペケペッポペッポッポ。かたい裃角とれて、マントズボンに人力車、いきな束髪ボンネット、貴女に紳士のいでたちで、うわべの飾りは立派だが、政治の思想が欠乏だ。天地の真理が分らない。心に自由のたねを蒔け、オッペケペ、オッペケペッポペッポッポ。見ともないから人まねお止(よ)し、生地で私は打通す。オッペケペ、オッペケペッポペッポッポ。亭主の職業は知らないが、お娘は当世の束髪で、言葉は開化の漢語にて、晦日の断り洋犬(かめ)抱いて、不似合いだ、およしなさい。何も知らずに知った顔、むやみに西洋鼻にかけ、日本酒なんぞは飲まれない。ビールにブランデー、ベルモット、腹にも馴れない洋食を、やたらに食うのも負けおしみ、ないしょで、そっと反吐ついて真面目な顔してコーヒ飲む。おかしいね。オッケペペッポペッポッポ。 (「明治語録」 植原路郎) 


サケ料理に合う酒
サケ料理に合う酒を探さなくてはならない。吉源の近くにある旧知の大洋盛(大洋酒造)、平田大六社長を訪ねる。ちょうど、酒造りが始まったところで、徹夜で精米機を動かしていた。とりあえず普通酒の生産に入り、年が明けてから吟醸酒に手をつけるのだそうだ。吉源で飲んだ酒は、ここの「紫雲大洋盛」。普通酒とはいっても、なんと精米が五五パーセントで、一・八リットル千七百五十円。残念ながら地元でしか手に入らない。大洋酒造が誇る大吟醸「越後流」の兄弟酒は新潟県内のある酒販売店がプライベートブランドとして、別の名前をつけ、自分の気に入った料理屋やお客にしか売らないというイヤミな商法を取っている。一歩の好事家がもちあげるため、熱狂的な支持者もいる。味はいいのだが、ネーミングのセンスなど、その商法は私好みではない。「越後流」の味は、淡麗にして、香りがひかえめな分、気品がある。飲んだあとのさわやかさがいいから、つい飲みすぎてしまう、とだけいっておく。(「舌の寄り道」 重金敦之) 鄙願のことのようです。 


タレイラン
青年時代、タレイランはマダム・ドゥ・フラオーという婦人ととかくの評があったので、縁切りのため米大陸への旅行をある人にすすめられた。ところがナイアガラ瀑布を見て不快を感じ、同行の友人と強いアルコールを飲んで気持ちを直そうとしたが、飲みすぎて頭がふらふらになってしまい、そのためうかつに募兵の申込書にサインしてしまった。この時はなんとか兵隊にとられずにすんだが、以後美食はしても酒類は控え目に飲むようになった。その後帰仏してオータンの大司教に進んだが、革命政府に参加したため、ローマ教皇の怒りにふれ、宗門を去って政治に専心した。やがてナポレオンに認められて一七九七年から一八〇七年まで外務大臣をつとめた。彼は政治、外交には軍需品より多くの美味を必要とすると皇帝に説いた。皇帝もそれを認めて、タレイランを活用したのである。(「食味ノオト」 山本直文)
 

木久蔵とやすし
ラーメン党は年々会員が増え発展しているが、ひとつだけネックがある。副会長があの横山やすしなのだ。木久蔵がテレビでやすしと共演して親しくなったのはもう十年以上も前のこと。ほどほどの付き合いでやめておけばよかったが、魔がさしたのか、一度自宅に招いてしまった。それからというもの、東京で飲んでいると電話してくる。夜中だろうが明け方だろうがお構いなしだ。「今、銀座で飲んでるんや。すぐ来んかい!」「もう遅いから」などといおうものなら大変。「アホ!ボケ!芸人に遅いもクソもあるかい。今、迎えに行くでェ」と怒鳴る。当時はまだ三鷹に住んでいたが、そこまでやすしはタクシーを飛ばして来た。「ワシや。やすしや!」と戸をドンドンたたく。出ようとするおかみさんを制して、木久蔵はじっと息をひそめている。「木久蔵!出て来さらせ!」やすしはあきらめない。そのうち家の周りを怒鳴り散らしながらグルグル回り出す。近所から「お宅の家の前に変な酔っ払いがいますけど、警察に知らせましょうか」などと電話があると、もう開けないわけにいかない。なにせ警察はやすしの天敵なのだ。電気をつけて玄関を開けると「アホ。おるんやったら、早く開けんかい」と怒られた。(「完本・突飛な芸人伝」 吉川潮)  


女房に成て遠い酒もり
遊女あがりだろう。商人の妻などになり酒席とは縁遠くなった。それを物足りなく思う気持ちもあるかも知れないが、地味な暮らしに慣れてきたという落ち着きも感じられる。酒宴の多い遊女の生活は暗く辛いものであり、それを思いあわせての感慨がありそうである。女房に成て、はただ事実をのべただけの言葉であるが、酒と遠くなって女房らしくなりきれたという感じも含んでいそうに思われる。 


くらの戸と里風
里 なじみか いろ 六二はつさ。おそれんすね。 モシ ちつとおくんなんし トふすまの間から茶づけ茶わんを出す くら 六二おへゝんなんしな ト酒をついでやる いろ 目をねむつてぐつとひつかけ、むねを、たゝく 里 六四かまぼこに、火ばしのやきがねをあてゝ、出してやる
注 六二 初。初会。 六三 おはいりなさい。 六四 酒の肴。こげ目をつけると香ばしくてうまい。(「傾城買四十八手」 山東京伝 中野三敏校注) 里は、客の里風、くらは、あいかた女郎のくらの戸です。いろは別の女郎、いろ糸です。 


カール大帝
ドイツでは古くから階級のへだてなく男女の別なく、自由に集まってビールをたしなむ風習が確立されていた。このため、カール大帝(742-814)は「飲んべい」に堕落していく国民をとりしまる目的で、原告や証人は酔っ払って法廷に現れることを禁じ、領主たちにも完全なしらふでないかぎり、裁きをする権限はないというお触れをだした。同時に、酔っ払いの兵士は猛省したのち、公に許しを嘆願するまでは水以外の飲み物をあたえてはならない、という禁令も添えられていたという。だがいずれの勅命もほとんど効をなさなかったようで、ついには酒に酔ったというだけの理由でフローリアン金貨一枚の罰金や、三日三晩の牢獄入りという厳しい罰が待ちうけた。それでも酔っ払いは後を絶たなかったというから、いまも昔も酒飲みを取り締まるのは至難の業であることがようわかるというものだ。(「世界地図から食の歴史を読む方法」 辻康夫) 

一升瓶
統制がはずされ、一升瓶がまたつくられるようになったのは昭和二十六年から。一升瓶にはビール瓶のように製造会社名とか銘柄が浮き出しになっていない無地だから、どこのも共通というのが特色である。だから、数年前のNHKの朝のテレビ小説で評判であった『おはなはん』の中で、軍人の家庭での酒宴(さかもり)のシーンで、ガラスの一升瓶がならんでいるのに対して、早速、街の考証家から、あの時にガラスの一升瓶はオカシイ。白鳥(はくちょう くびの長い白地の徳利)か、備前焼のいわゆる貧乏徳利を使っていたのを知らないのか、と、お叱りの手紙や電話が殺到したという。(「たべもの世相史・東京」 玉川一郎) 


白秋
(北原)白秋は詩人として絶頂期にあるときも、酔っ払うと、「僕は日本一の詩人だね、え、そうだね」と何度も念をおすので、門人たちは大いに閉口した。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


酒三則 その二
酒の用には二つあり。鬼神(きしん)は気有りて形(かたち)なし。故に気の精なるものを以て之を聚(あつ)む。老人は気衰う。故に亦気の精なる者を以て之を養う。少壮気盛なる人の若(ごと)きは、「禾氏」(まさ)に以て病を致すに足るのみ。
[訳文]酒の用い方には二つある。一つは神は気があって形体のないものであるから、酒を供えてお招きする。二つは老人は元気が衰えるから、酒によって元気を養うがよい。元気壮んな若者は、酒を飲むと病気を引きおこすだけだから飲まないほうがよい。(「言志四録」 佐藤一斎 川上正光訳注) 


飲中八仙歌
李白 一斗 詩百篇。               李白は一斗飲む中に百篇の詩を作った。
長安 市上 酒家ニ眠ムル           或時 長安の市中の酒店で酔うて眠つてゐると
天子 呼ビ来レドモ船ニ上(ノボ)ラ不(ズ)   天子の御召しが有つたが船に上れないで
自ラ称ス臣ハ是レ酒中ノ仙。          自ら称す、臣は酒の中の仙人でござりますると。
◎是は李白が天ぽ宝元年(四十二歳)から三年まで、翰林供奉として宮廷に出入りして、玄宗に寵せられた得意時代を詠じたものである。
(「中華飲酒選」 青木正児訳著) 杜甫による飲中八仙歌の一つだそうです。 


共に飲む
元来『共に飲む』ことを意味するシュンポシオンとは、古代ギリシャにおけるいわゆる『中世』の末葉(およそ紀元前八世紀の中頃)以来ギリシャ人の間で夕食に続いてもしくはこれとは独立に催された酒宴のことである。それは酒(ワイン)が出てから始まるのであるが、その酒は食事が終わってから飲む習慣であった。それはまた陽気な会合において寛いで気持ちよく飲むことである。このシュンポシオンのことが最初に文献に出ているのはテオグニス(二九八行)で、ピンダロスには幾度も出て来る。次にシュンポシオンがどういう風に行われたか、またその個々の習慣がどうであったかについてはプラトンならびにクセノフォンの『饗宴』やプルタルコスの『七賢人の饗宴』などを見れば大体は分かるのである。またシュンポシオンを開催する機会を与えたのは、主として婚礼、誕生、競技の勝利祝、友人の送別又は歓迎会等であった。総じてギリシャ人の間においてはホメロス時代以来飲み食いは単に肉体の栄養であるだけでなく、同時に精神の糧でもあるという考えが行われていた。(-)したがって食卓で討論が行われるようなことがあっても、それは決して不思議ではなかったのである。(「饗宴」 プラトン 久保勉訳) シンポジウム  神酒  酔ったのを見た者が無い  


酒ほがい(4)
我を見て酒のにほひすあな慵(もの)う疾(と)く往(い)ねと言ふ聖(ひじり)にも会ふ(酒ほがい)
かの君の涙の酒に酔ひけるよ人はしらじな酒のかなしみ(酒ほがい)
さかみづきさなよろぼひそ躓(つまづ)かば魂(たま)落さなむよろぼひそ(酒ほがい)
わが胸の鼓(つづみ)のひびきたうたらりたうたうたらり酔へば楽しき(酒ほがい)
かかる世に酒に酔はずて何よけむあはれ空しき恒河沙(ごうがしゃ)びとよ(酒ほがい)(「酒ほがい」 吉井勇) 


三ヵ月
あっという間に三ヵ月が過ぎた。酒はいっさい口にしていない。三ヵ月がんばった自分をほめてあげようと、ひさしぶりに寿司屋に入った。もちろん飲むのは"お茶"だけ。腹が減ると飲酒欲求がわいて出てくる。次から次へとにぎりを注文して、お腹いっぱいになったところ、大将が「よかったら、これどうぞ」と、小鉢に入った奈良漬けを出してくれた。好物の一つだったのだ、一気にかじった。すると、初めて気がついた。奈良漬けはなんと酒の香りとあじがするのだろうか。少し怖じ気づいたものの、すべて平らげてしまった。頭と体がぽうとしてくるのがわかる。抗酒剤に反応したのだろうか、ふと不安が頭をよぎる。勘定を済ませ、外に出ると、足が自然にコンビニに向かっていた。気がつくと手にウオッカを握っている。「うわっ」とびっくりすて、あわてて元に戻すも、「ノンアルコールビールならいいかも」三本手に取り、成分表を見ると”アルコール度〇・五パーセント”と書かれている。「平気さ、これくらい」さっそくコンビニの前で、一本目を一気に空けた。「あれれ」と思っていると少し酔っていうる自分に気づく。しかし、もう止まらない列車に乗ったようなもの。残り二本を一気飲みした。「あーあ、始まっちゃった」そう思っても後悔は全くなく、少し酔った気分は最高だった。帰り道、次のコンビニで大五郎カップ三本を買い近くのベンチに座りゴクゴクと飲る。二本目を飲み終えたときに抗酒剤をのんでいたことを思い出したが止まらない。続けざまに三本空にして、「さっ、家に帰ろうか」と立ち上がろうとするも腰に力が入らず立ち上がれない。薬が効いているのだ。(「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」 鴨志田穣) アルコール依存治療に、外来でクリニック通いをしたときのことだそうです。 


ヤナギムシカレイの一夜干し
それが、淡白さの中にある特有の旨味だとすると、このヤナギムシカレイには他の白身魚にはありえないほど豊かな旨味が含まれている。しかし、それは、キンメダイのように脂とともに感じられるコクのようなものではなく、"旨味"をしっかり感じさせながらも、同時に上品な余韻が残るというもの。この豊かさと上品さ、深みを同時に感じる一夜干しに合う酒のタイプは、日本酒ならば純米吟醸の低温で熟成させた古酒(長期熟成酒)。柔らかく滑らかでありながら、余韻は上品で、なおかつ、熟成によりほのかにナッツのような香りを感じる酒。このナッツ様の香りが一夜干しのカレイの身の焼けた風味と調和する。(「『和』の食卓に似合うお酒」 田崎真也) 


昭和二十八年あたり
話をもどして新米教師でも気安く飲めたやきとり屋台にしげく通い始めたのが昭和二十八年あたり。モツは皆一串一〇円、ただシロ(ダルム=胃腸)は初め七円、清酒七〇円、チュウ(焼酎)四〇円、山酒(どぶろく)四〇円。当時公務員の初任給が約八千円、高校教師になったばかりの私などもそんなものだった。ちなみに週刊朝日の値段史年表によるとその頃の東京でシャモのやきとり一本五〇円とある。その四、五本分で鶴岡では充分飲めたのである。(「飲んだくれてふる里」 小宮山昭一) 


宮城道雄、ヘミングウェー
 宮城道雄は内田百閧ニ飲むと、なにしろ酒豪が相手なので、失敗して小間物屋を開店することがたびたびあった。またしてもそんなことがあったある日の後に、検校(けんぎょう)は文人にあうと「先日はどうも、ゲロゲロ失礼致しました」
 酔っ払って、賭けごとをしているヘミングウェーを見たある婦人が「あなたともあろう人が…」とたしなめると、「奥さん、あなたはあまり美しくないですな」「まあ!あなたはよっぱらいです」「そうかもしれません。だが、わたしの方はあしたになればさめます」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


村松梢風
終戦後下戸が酒を飲むようになった。酒屋に酒のキレるのも無理はない。村松梢風も飲み出した。鬱然と長髪をなびかせて、小紋だか何だか知らないが、女みたいな着物を着てよく散歩をしている姿を見かけるが、彼が当代のダンディだそうだ。いわれてみればそんなところもある。この仙人だか通人だかも「酔心」を取り寄せて毎日飲んでいるという。酒の百薬の長たる所以を理解したのは同慶である。今まで下戸の標本みたいだった児島政二郎と川端康成も盃を手にするようになった。どのくらい上達したか調査していないが、少なくも川端さんが虎になったり、絡んだりする図は想像できない。ポッと頬を染める程度だろう。それなら長寿疑いなしである。(「私の人物案内」 今日出海) 


伏屋重賢・素狄
伏屋素狄(そてき)は、延享四年(一七四七)、河内日置荘西村(堺市)の豪農、吉村正常の三男として出生。幼名は久米松・嘉三・三十郎。十四歳のとき、和泉池田村万町(和泉市)の伏屋重賢が縁続きであったことから、その分家伏屋重寓の養子となった。通称は万町権之進。ついでながら、本家の伏屋重賢(しげたか)は酒造家だが、泉州に知られた文化の保護者。かつて僧契沖を邸内の養寿庵に迎えて、和漢書研究の場を与え、石橋直之を寄寓させて、『泉州志』の編集を援助した人である。(「なにわ人物譜」 藤本篤) 素狄は、実験生理学の祖といわれる人物だそうです。重賢は庄屋で、俳句もよくし、西山宗因が立ち寄ったそうです。 


魯酒薄くして邯鄲囲まる
【意味】魯の国の酒の質が悪かったことから、趙の都、邯鄲が包囲攻撃を受ける破目になったということで、全然無関係のことが原因になってとんでもない結果を生じることのたとえ。楚の宣王に諸侯が朝貢した時、魯の恭公は遅れたうえ、献上の酒が薄かったから、宣王の怒りを買い攻撃を受けた。当時、梁の恵王は趙を討ちたいと常に思っていたが、楚が趙を救援するおそれがあって実行できなかったが、楚が魯を討つのに忙しいのを見て取り、趙の都邯鄲を攻囲したという故事。また別の説では、楚王に諸侯が朝貢した際、魯も趙も酒を献じたが、魯の酒は薄く、趙の酒は濃かった。楚王は趙にまた酒を出すように求めたが、趙は出さなかったので、楚の役人は怒って、魯の薄い酒を差し出したから、楚王は趙の無礼を憤って邯鄲を包囲したのであるともいう。 (「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


相撲取り
「相撲取りは酒を、日本酒を飲まなくっちゃだめだ。日本酒を飲めば膚の色艶もよくなるし、そのほかいろいろと具合がいい」というのが二子山さんの持論らしいが、医学的に云ってこの説にどれほどの信憑性があるか、それは知らないが、そう信じて疑わない親方の姿勢には何かやはり一本筋が通ったものがある。つまり元若乃花、二子山親方は、自分の膚で、からだで会得したものでなければ信用しようとしないし、また自分のからだで会得したものには絶対の信頼を置いているのである。(「少し枯れた話」 高橋義孝) 


村松剛のこと
村松は色白で長身で貴族的な感じがした。無類に優しくて笑顔に愛敬があったが、根は癇性なのではなかったかと睨んでいる。この坊ちゃん育ちで、病弱で小心という印象を与える村松が、実は愛国者でタカ派で行動する評論家であって、しかも大酒「上:夭、下:口 の」みであったと言えば誰もがビックリするだとう。私は村松は純情でありすぎたのだと思っている。私の家は麻布にあって便利だったから村松は何度か立ち寄っている。私は貧乏していたが派手な家族だから酒を欠かさない。村松はウイスキーを生で飲むのを好んだ。昼でもウイスキーを出せば嬉しそうに飲む。見ていて気持ちのいいくらいに何杯でも飲む。海亀が上陸すると酒を飲ませて海に戻すという。私は妻に「あいつは海亀だから」と言っていた。村松は一年間に二百五十本のウイスキーを酒屋で買ったという。文壇や政界からの貰いものを想定すると一日一本は空けていたのではないか。私の周囲に豪酒家は多いが村松ほどの酒飲みを他に知らない。彼は横浜の山手町に住んでいて、イラストレーターで船好きの柳原良平と家が近い。二人で航海したとき、昼食に葡萄酒をワインリストの上から一本ずつ飲み、夜も二本オーダーして二人で空にした。それから船内のバーへ行って、となると壮絶きわまりない情景が浮かんでくる。村松はアルコール中毒だったが飲んで乱れることはなかった。(「江分利満氏の優雅なサヨナラ」 山口瞳) 


酔っぱらいの法官
故ホジャの住んでたスィヴリヒサルに、酔っぱらいの法官(カーディ)が居ったげな。夜となく、昼となく、我れを忘れるまで飲み呆(ほう)け、どこであろうと、臥(ね)っ転がって大鼾(いびき)じゃったげな。或る日、またまた、帽子(カヴク)、法衣(ジユッペ)をそこここに放り出して、畑の中で、酔っぱらって寝とったげな。その日、ホジャは、弟子のイマードと、散歩に出かけたげな。法官(カーディ)のこの様子(ざま)を見ると、その法衣(ジュツペ)を拾い、着て行ってしもうたげな。法官(カーディー)が我に帰ると、法衣(ジュツペ)が見当たらぬ。廷吏(したやく)に、 眼を見張り、耳を聳(そばだ)て、ようく探せい。見つけたら、誰であろうと捕まえろ。ここへ連れて来いっ! と言いつけたげな。廷吏(したやく)は、ホジャが着ているのを見て、法官(カーディ)所へ引っ張って来たげな。どうやら、時も時、法官(カーディ)は裁きの最中だったそうな。ホジャは戸口からはいるが早いか、まだ、法官(カーディ)が一ことも言わぬ先に、大声で、昨日、イマードともども、散歩に出ました。ところが、畑の中に、ターバンを巻いた男が、酔っぱらったらしく、臥とるじゃござんせんか。俺ゃぁ、其奴(そやつ)めの法衣(ジユツペ)を拾うて着ましたんで。これにゃぁ、証人もございます。持主を探して下さりゃぁお返しいたしましょう。とやり出したげな。法官(カーデイ)はどぎまぎ狼狽(うろた)えて、 いや、もう良え、もう良え。どこの放蕩者じゃろうかい。さあさ、あんたが着なされい。 と言うたげな。(「ナスレッディン・ホジャ物語」 護雅夫訳) 


ダーツ
日本の若者の間で最近ブームになりつつあるダーツ。このゲーム、もともとはイギリス人が始めたものだが、これといって格別頭をひねった末にできたスポーツではない。はじまりは17世紀の後半。イギリスの兵士たちのひまつぶしであった。当時のイギリスは植民地政策で幾多の戦を展開していたころだが、戦地の兵士たちはヒマな時間が意外と多い。そんな兵士のひとりが、武器の弓矢の矢を酒樽に投げてひまつぶしにしていた。これがやってみるとおもしろいということで、他の兵士や酒樽の側の居酒屋に集まる村人たちも参加するようになる。いつの時代にも知恵者がいるもので、酒樽を輪切りにして、その的に当てたほうがより面白くなると思いつき、現在のダーツの原形が完成した。今となっては、兵士や樽を輪切りにした者が誰であったかはわからないが、まさかイギリスだけで650万人以上ものダーツ人口をかかえる時代がこようとは、予想だにしなかったに違いない。(「ヒット商品笑っちゃう事典」 モノマニア倶楽部[編]) 


ビールは僕らを楽します
ビールは僕らを楽します
僕らの本は塵(ごみ)だらけ
ビールは僕を楽します
本は僕らを苦します
この詩を作ったのは、一体誰だと思いますか?あのゲーテなんです。(「志ん朝のあまから暦」 古今亭志ん朝・斎藤明) 


酒三則 その一
酒は穀気(こくき)の精なり。微(すこ)しく飲めば以て生を養う可し。過飲して狂「酉凶」(きょうく)に至るは、是れ薬に因(よ)って病を発するなり。人「くさかんむり+侵」(にんじん)、附子(ぶす)、巴豆(はず)、大黄の類の如きも、多く之を服すれば、必ず暝「日玄」(めいげん)を致す。酒を飲んで発狂するも亦(また)猶(な)お此(か)くのごとし。
[訳文]酒は穀物の気の精である。これを少し飲めば養生によい。飲み過ぎると、気違い沙汰を呈するようになるのは、薬によって発病するようなものだ。人参、附子、巴子、大黄の類も、多く服用すると、必ずめまいを生ずる。酒を飲んで発狂するのもこのたぐいである。(「言志四録」 佐藤一斎 川上正光訳注)  


へうへうとして水を味ふ
昭和三年の『層雲』発表句。むろん、第一回の行乞(ぎょうこつ)放浪の途次の句であり、『草木塔』収載句である。山頭火には、じつに水の句が多い。以前、酒と水の句に興味を覚えて、『草木塔』から書き抜いてみたことがあるが、水の句が六十二句、酒の句が七句あった。酒の句が少なく水の句が多いのはやはり酒飲みらしいと思うのだが。山頭火の場合、酒を飲んでいるときは、句をつくらないことが普通らしいし、酔いが醒めたときでも酒の句はなかなかできないものらしい。酒を飲む人は水(酔い醒めの水)が好きだ。それもビールのような水っぽい酒ではなく、昔のねっとりした酒、日本酒だからなおさらである。山頭火は日本酒と焼酎が特に好きだった。そして水をよく飲んでいる。山頭火の「水好き」にはもうひとつ理由がある。「歩く」ということ。歩くからのどが渇く。そんなしだいで、水の句が多いのは、いかにも酒好きの放浪者らしい姿なのだ。(「放浪行乞 山頭火百二十句」 金子兜太) 


それならば酒を飲め
「まあ、どう言うンスかな」と、当主の村上忠森氏はこの黒檀のように黒びかりする建造物のなかで、さりげなくいわれた。「世間の生活道具はどんどん進んでゆく。ここは停滞している、このため世間では七、八百年前に消えた道具類が、この村では明治まで使われていた、というだけのことかもしれませんスね」忠森氏は彫の深い知的な風貌のもちぬしで、このあたりの小学校の先生をしておられる。齢は五十一である。酒は飲む。いろりの端にすわり、ホダの炎を見つめながら晩(おそ)くまで飲む。冬季、雪にうずもれた生活に堪えてゆくには酒の酔いをかりる以外に手がない。いろり端に、セーターを着た二十二、三の青年がいて、はじめ東京からきたお客さんかと思ったが、忠森さんの長男の忠兵衛君だった。一時は東京に出て蒔絵を習っていたが、もどってきた。生涯をこの山中で送るつもりだという。「父が、ですね、酒は体の油だ、というんですよ。酒を飲まなくちゃいけない、というんです」と、忠兵衛君が、あとで言った。想像するに、家督を継ぐ長男に忠森さんが訓戒した言葉はそのひとことだったかもしれない。いろり端で酒を飲めば家を継ぐ気になる、酔えば山中に住むという志を持続させることができる、ということは倫理的な訓戒よりもはるかに切実で親切な教えといえるかもしれない。この上梨という字は平村(たいらむら)に属している。平村の人口は昭和四十年には四千人ちかくしたが、去年までの調べでは七百人離村した。「離村はしない」という若い忠兵衛君の決意に対して忠森さんは、−それならば酒を飲め。と五十年の智恵を授けたのである。(「街道を行く」 司馬遼太郎) 五箇山でのことだそうです。 


加藤清正の酒樽
加藤清正の酒樽というのが現存している。清正の旧臣遠坂家に伝わっていたもので、逗子の佐藤正彦氏が保存している。これは四角形の厚板の指樽(さしだる)で朱塗りで四方を大きな鉄釘で打ちつけてあり、一斗二升三合五勺の銘が刻んである。(「酒雑事記」 青山茂) 


やす幸
ところが、「やす幸」の先代は、どういう思いつきからか、鶏のガラも醤油も使わぬ独特のダシを創出した。昆布を弱火からじっくりと時間をかけて煮る。それが煮立ったところへ、血合いを取り除いた鰹節を入れ、サッと引上げる。それから酒、みりん、荒塩で味をととのえるという段取りで、だからおでんの仕上がりも、一般の屋台のおでんのようなベッコウ色にならない。「昔は、ガスなんか使いませんからね。薪(まき)です。子供のころ、学校から帰ると、よく薪割りをやらされました」と石原さんから昔話を聞かされた。そんな昔からずっとおでん屋稼業をつづけてきて、一番変ったと思うのは、女性客の増えたことだという。おでん燗酒は男の楽しみと言われていたのはもう昔で、今の「やす幸」の客の四割近くは女性なのだそうだ。そんな客種の変化に合わせて、ダシの味つけも、少し甘くするとか、動物性蛋白質を多めにするとかしないのか、としつこいようだが、二度、繰り返して私はたずねてみたのだが、「いえ、先代の時のまま、そのまんまです」と石原さんの答は変らなかった。その口調からも、かなり頑固な人とお見受けした。「焼酎やウイスキー、糖尿にいいとか二日酔いしなくてよいとかいって飲む人もいますが、あんなものは一時(いっとき)のものです。おでんは日本酒に限ります」という。その日本酒も、先代以来、「白鹿」ひとすじで通している。そんな話を聞かされたから、よほどの日本酒党かと思ったら、「実は、私は下戸でして…」(「美女・美食ばなし」 塩田丸男) 銀座のやす幸だそうです。 


酒問屋、酒運上
江戸商賈 工商ともに京阪より多しといへども、商法大坂のごとく大行なる者少なし。ただ酒問屋のみ大坂になき所なり。−
酒運上 課銭、俗に運上お云ふ。摂等より来る酒の課銭を収めしならん。元禄十一年、始めてこれを課し、宝永六年、これを止む。(慶応元年、復古す。一樽課銀六匁づゝ)−(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 


酒 さけ
○出羽にてoいさみと云(いふ) 和州大峰にてoごまのはいと云 今按(あんずる)に いさみといふは羽州羽黒山などの行者の隠語なるべしを 俗人もそれに傚(なら)ひて専(もつぱ)ラ いさみ といふ事にや成(なり)けん ごまのはい といへるも是にをなじ(同じ)かるべし 又畿内の番匠(ばんじやう 大工)の詞(ことば)に間水(けんずい)といふ 今は けづり ともいふ 江戸にても番匠は けづり と云 かゝるたぐひの隠し詞を 東国にて せんぼう と云 士農の上にはなくして巧商或ハ遊女野郎(やろう)の類ひ馬士(まご)竹輿舁(かごかき)に至るまで符帳詞あり 今爰(ここ)に略す 又西国にて けんずい と云は 灸治する節 酒食を饗するをいふ ○江戸にて三州酒などの味辛ク つよき酒を 鬼ころし と云 如此の類を美作にてoやれいた酒と云 野州日光にて 鬼ごのみ といふ 又駿河辺にてはoてつぺん といふなり (「物類称呼」 越谷吾山 東條操校訂) 異名  


二日酔いにいい
意外に効果があるのは、豆腐の入った味噌汁。あとは、早朝の豆腐屋に行って、冷えた豆乳をお求めて飲むことぐらい。
二日酔い女房さばいてふくさ味噌(すらない味噌)
うやまってから汁を喰らふのんだ朝
から汁とは豆腐の絞りかすの汁、つまりおから汁のこと。大豆が原料の味噌もから汁も二日酔いにいいと、古川柳は教えてくれている。([落語の隠し味] 林家木久蔵) 


「居酒屋」
大酒飲みの男が居酒屋で飲みはじめる。店の小僧に、何ができるか聞くと…「えーできますものは、汁(つゆ)、柱、鱈(たら)、鮟鱇のようなもの、鰤(ぶり)にお芋に酢章魚(すだこ)でございます。へえーい」との口上。客は小僧をからかって、「その、"ようなもの"を一人前くれ」と言ってみたり、「鮟鱇の隣で鉢巻きしてソロバン持ってる番頭を、番交鍋にしろ!」と困らせているうちに看板になる。さんざん酒を飲んでなかなか帰ろうとしないのに困っていると、ちょうど通りかかった友達が勘定を払い、やっと男を連れ出す。しかしぐでんぐでんに酔っ払っているので、ちゃんと歩けない。しかたなく、どてらの衿をつかんで家まで連れてゆくと、どてらだけで本人がいない。びっくりして引き返すと、往来で寝ているから、かついでようよう連れ戻すと、女房が言う。「へええ、あの人通りの多いところに落ちていましたか。…まァよく人に拾われませんでした」(「ずっこけ」、先代三遊亭金馬十八番「居酒屋」より) ([落語の隠し味] 林家木久蔵) 


ナム・カーオ
「ナム・カーオなら俺も飲むぞ」するとみんな、「うむ、ナム・カーオ、あれは確かにうまい!」と口々に言いだした。ナム・カーオとは、ラオ・カーオを蒸溜する前の酒らしい。そんなウマい酒なら、なにがなんでも飲んでみたい。私とM子は、またヨダレを垂らしてナム・カーオの到着を待った。一五分後、今度は五、六本のビンをかかえておじさんが帰ってきた。グラスにつぐと、酒粕の匂いがする白濁した酒である。いや、酒というよりこりゃ、カルピスだ。カルピスと甘酒をあわせたような飲物である。ううむ、これもうまい。アルコール度数は七度で、ビールより高いはずなのだが、ほとんどジュース感覚である。M子と、「これは冷やしたらうまいだろうなー」と言いあっていたら、チャングが氷を持って来た。グラスに氷を入れてガンガンつぐ。兄のポリスたちも交えて、みんなでカンパーイと酒盛りが始まってしまった。(「女二人東南アジア酔っぱらい旅」 江口まゆみ)タイ、スコータイのオールド・シティーでの体験だそうです。 ラオ・カーオ 


日本酒に含まれる有機酸
日本酒の味わいとは、他の酒には類のない繊細なものといわれています。この味わいの秘密は一〇〇を越える成分が微妙にからみあっているからです。有機酸一つとってみても四〇種以上あるといわれています。コハク酸、乳酸、リンゴ酸の三つの酸が全体の酸量の大部分を占めており、製造管理などの面では、コハク酸、乳酸の二つを指標としています。しかし、今後、新しいこうじ菌や酵母の開発、製造方法の改良などにより、この有機酸のバランスが変わってくることは十分考えられます。(「酒博士の本」 布川彌太郎) 


ロマノフ、酒に倒さる
ロシアは帝政の末期に、禁酒論者の大喝采をあびて、禁酒令を施行したが、それから幾等もたたないうちに革命が勃発し、帝政は崩壊し、ソビエットロシアになると、またもとの飲酒国に戻ってしまった。−ロマノフ、酒に倒さる」と、あるのんべいが批評したという話も伝わっている。(「酒談義」 辰野隆編) 


甑の出土
次に「大神の御粮(おもの)」が強飯であるとすれば、当然蒸し器を必要としたはずである。蒸し器そのものは縄文中期から使われていたが、甑(こしき)は水稲とともに渡来したと思われるので、遅くとも弥生前期から使われていたと推定される。ところが実際、甑の出土年代は弥生末期であることから強飯が普遍化したのは四世紀にはいってからということになる。とすれば、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ=木花開耶姫)が造った天甜酒(あまのたむさけ)は、甑で蒸した強飯ではなくて、おそらく後世カタカユと言われた炊干しの御飯で「かむだち」を造り、カタカユかあるいはカユとともに仕込んだものと思われる。(「日本の酒造りの歴史」 加藤百一) 


朝昼夕夜
また梅原(龍三郎)は煙草をずっと吸い続けもしたが、酒も愛した。朝はまず、気つけのウイスキーを一杯、昼食にはビール、ワイン、ウイスキー、夜は中国酒、日本酒、ブランデー。ウイスキーを注ぐ時は、ボトルを倒立させて、グラスに突き立てるのだと、高峰秀子は呆れている。更に食後にまたコニャックというのだ。ワインは赤がシャンベルタン、白はプィイ・フュイッセを好んだ。シャンパンも時々飲んだ。(「ぜいたく列伝」 戸板康二) 



前の詩で述べたやうに、息子の嫁になるべき女(宣姜)を横取りするやうな宣公は、これより先きもつとひどい無軌道ぶりを発揮してゐる。それは宣公の父の妾に夷姜といふ夫人があつたのを、父の死後自分の妾として公子(「イ及 きゅう」)を生ませたのである。ところが新しく宣姜を娶つた宣公は、宣姜ばかりを寵愛して、この夷姜に対しては冷酷な態度をとつたので、嫉妬憤懣の念に燃えた夷姜は、遂に首をくくつて自殺した。さて、既に壽と朔との二公子をもうけた宣姜にとつて見ると、自分の産んだ子に衛の国を継がせたい。それには「イ及」が邪魔になる。そこで讒言を構えて其の排除に努めた結果、宣公もその気になつて「イ及」を亡きものにする計画を立てた。それは「イ及」を使者として斉の国へ遣はすことにし、ひそかに夜盗に旨を含め、途中「上:くさかんむり、下:辛」といふ所に待ち伏せして殺してしまうといふ仕組みであつた。ところがこの計画を洩れ知つた壽(宣姜の子の兄の方)は、腹違ひの兄である「イ及」にひどく同情し、イ及に対して一刻も早く衛の国から逃げ去るやうに勧告した。然し純良な「イ及」は、左傳の言葉を借りると「父の命を棄つればいづくんぞ子を用ひん。父無き国あらば則ち可なり」で、壽の勧告に従はずどうでも斉へ行くといふ。壽は一計を案じ、いよいよ「イ及」の出発の時にあたり、袂別の酒宴を催し、さんざんんに「イ及」を酔はせて置いて其の隙に、「イ及」が使者の印に持つてゆくべき旌(はた)を載せて、「イ及」より先に出発した。義理ある兄を救ふために代つて自分が殺されようとしたのである。途中待ち伏せの夜盗どもは、「イ及」が来たとばかりに忽ち殺してしまつた。壽が自分の身代わりに出発したと気づいた「イ及」は直ぐ後を追ひかけた。左傳にある「「イ及」子至つて曰く、我をこれ求むるなり。これは何の罪かある。請ふ我を殺さんかと。また之を殺す、」といふ結果になった。(「詩経随筆」 安藤圓秀) 左傳は春秋左氏傳のことだそうです。 


酵母の酵素
現在では、これらの酵素の性質や役割が解明され、また酵素の生産技術も発達したため、こうじの一部を酵素剤でおき替えて優秀な酒をつくりだすことができるようになりました。それというのも、こうじのアミラーゼなどは外に放出される菌体外酵素であるところから、比較的容易に応用がきいたのです。これに反し、発酵を司る酵母チマーゼは菌体内酵素であり、しかも一二種類の酵素群からなっています。つまり、グルコースからアルコールができるまでには一二段階ものプロセスを経ています。理論的には、これらの酵素を酵母菌体からとりだして、それらをうまく組み合わせて酵素だけでアルコール発酵を行わせることも可能です。しかし、おそらく月ロケット打ち上げ以上の複雑なコンピューターシステムが必要になることでしょう。それを一挙にやってのける小さな酵母の持つ偉大さははかり知れません。(「酒博士の本」 布川彌太郎) 


六時の晩酌
(堀口)大学は一九歳、メキシコの公使館でサービスしてもらった肉や魚菜の料理、ワインがおいしく、それから三度の食事をたのしむようになったと告白している。かなりの年になっても、毎晩二時間近く、ゆっくり二合五勺の酒を手酌で飲み、膳の上にところせましと並び立てた夫人手づくりのおかずに箸を動かすのを至上の楽しみとしていた。しかし、間食は一切せず、六時の晩酌の酒の味のおもむきに万全を期した。日本酒をもっぱら日常用いたが、この酒は空腹でないとうまくないというのだ。−
長年黒松白鷹を愛用したが、味が平均化したので、静岡県島田の地酒を飲んだ。−
「週刊新潮」のレジャーの頁に、酒について書き、銀座二丁目にあった「おかざき」という飲み屋のために荷風が書いた「百年莫惜、千年酔一、盞能消、万古愁」という王次回の詩の額を、閉店の時もらい受け、居間の頭上に掲げていたと記し、「これが自分の酒の守り神」といっている。(「ぜいたく列伝」 戸板康二) 


毎晩ダブルヘッダー
ともあれ、そんなわけで、家で飲むお酒は一定していません。お魚のおいしそうなときは、日本酒をえらびますが、銘柄は菊正宗、白鶴、忠勇など灘のものが多いようです。どうやら社長さんと知り合いだと、そこの製品を信用するという、じつに単純な精神構造のせいでしょう。そんなわけで、ウイスキーもサントリーです。日本酒なら晩酌は一合半のお銚子二本、妻がちょっぴりいただきますから、私の量は三合足らずです。ウイスキーならシングルの水割り三杯。もちろんこれは標準で、気分のよいときはこれを越えます。夏はどうしてもビールにしてしまうことが多いのですが、たいてい一本にとどめます。じつは毎晩ダブルヘッダーになります。つまり寝酒をやるのです。量はしれていますが、ワインかブランデーをえらびます。枕もとに長時間置いたままにすることが多いので、ぬるくなってもかまわない酒にするわけです。(「毎晩ダブルヘッダー」 陳舜臣 「酒恋うる話」 佐々木久子編) 



面白いのはこの牢へそれぞれ例のツルと称する不思議な金の入ることで、安政の大獄で吉田松陰がこのツルを持たずに揚屋へ入って、いきなりひどい目を見て、翌日あわてて白井小助に手紙を出して金を取り寄せたところ、覿面(てきめん)にこれが利いて、すぐに牢内の役付になって、遂には添役に上り、大いに楽をしたのは有名な話である。−
女牢は牢屋敷内の西口にあって、これを「女部屋」といった。牢内では縮緬、繻子、羽二重などというものは法度(ほっと)であったが、これをただ「絹」と言えば許された。例えば黒繻子を黒絹という。どこの牢も欲しい物はツルさえあれば、殆んど何んでも手に入った。薬は勿論、菓子でも酒でも入ったという。張番へ頼んで置くと、張番は日中買っておいて、夜になってからそっと入れてくれる。その買物のアタマをはねることは勿論である。(「続ふところ手帖」 子母澤寛) 


免許停止と三万円の罰金
免停一ヵ月だった。その後は女友達が運転し、ぼくは乗せてもらった。しかし半年くらいたつとまた深夜、依って定員四人の車に女を六人も乗せ、新宿を走り回るようになった。路面電車の線路でも一時停車をしないこともあった。いつも、女を前にすると、頭がボオッとして調子にのるのだった。車にのめっていたというよりも、生きることにどうでもいい気分があったりして無茶をしていたように思う。ひどいはなしだった。やはり夜だった。勤め先の同僚である菊池と伊藤と飲んだ。酔っぱらったあと二人を乗せ、ぼうが運転して市ヶ谷の寮に向かった。同じ女友達から借りている車だった。道がわからず一方通行に入り込み、うろうろしていてパトカアにつかまった。風船をふくらませてみると規定量の倍以上ものアルコオルを飲んでいるということだった。一ヵ月の免許停止と三万円の罰金だった。ぼくの一ヵ月の給料が三万円のころだった。(「乱酔記」 小檜山博) 


武玉川(2)
火の入た酒出盛(でさかっ)てほとゝきす
心ある酒とハしらぬ従弟間(いとこなか)
酔狂の翌ハ浮世に突あたり
生酔の次第次第に丸く寝
夜ハしらしらと生残る下戸(武玉川(一) 山澤英雄校訂) 


素麺屋素久の狂歌
この素久さんも仙高ウんの崇拝者だけに仲々洒落気があった。ある時、博多水車橋の小平という居酒屋に行ってみると大黒柱に、「角打(かくうち)は銭から先へねがいます」と書いてはり出してあった。桝の角からグビリと一口飲んだ彼は、なみいるお客の前で、「角打は銭から先へ出せとこく、小平と云えど大平(横柄)なやつ」と大声で詠んで満座をドット笑わせたという。素久の墓は蓮池町善導寺にある。その石塔の裏の辞世に 「おもしろや瓢(ひさご)のうき世のみくらし無明の酔もさめはてにけり」(「仙黒S話」 石村善右) 素久は素麺屋富田久右衛門という博多商人で、孫に冨田渓仙という画家がいるそうです。 


三カ月の実刑
初めて入る雑居房がもの珍しく、部屋の隅に黙って座り込み周囲を見渡していた。そのうち年輩の一人が、「川本さん、そんな隅にいないで、こっちに来ないかい。何をして、うたれたんだい」と話しかけてきた。意外なほど気さくに声をかけられ私は少し気が安らいだ。このまま彼らと何の会話もなく、この小さな房で過ごすとしたら、いったいどうなるのだろうかと不安にかられていたのだ。「はい、道路交通法違反です」房の一同はみな驚いたような顔で私を見つめた。彼らは一瞬無言でいたが、「嘘だろう?」というような表情をした。「ここへ来たら、仲間じゃないか。本当のことを言えよ!」先ほどの気さくな言葉と打って変わって、今度はドスがきいていた。「本当です」「じゃ酒でも飲んで、二、三人殺(や)ったのかね」「いいえ」「じゃ、どうして懲役罪などうたれたんだ」彼らは、まったく私の言っていることを信じていないような様子であった。「実は、違反して免許取消中に、運転してしまって、最初は六カ月で執行猶予が三年ついたのですが、猶予中に再犯したものですから、三カ月の実刑が下されたのです」(「飲酒運転で犯罪者になった」 川本浩司) 


日本の酒
大きなエヒ型の北の島から。
開聞岳の見える海辺の村まで。
ニツポン全土に。ニツポンの酒はゆきわたる。
舌の上からまるまつておちる。
琥珀の液体の。
もやのやうな芳香と芳醇と。
よき哉。
讃ふべき哉。
古事記の人人。
その独自の発明の知恵。
その陶然と浩然と歌と踊りを。
現代の。そして未来の友よ。
賞めたたへよ。
美しいニツポンの。
ニツポンの酒を。(「口福無限」 草野心平) 


鴬飲み
鴬のみは【宗五大双紙】(上) 両人(二人)出て 十杯とく(早く)のみたるを勝と申候といへり これにては其(その)名義解(かい)しがたし 按(あんず)るに 【今川大双紙】(下) 梅の花の杯をのむやう 左のかたよりのみはじめ 下を中なる盃に入て その盞(さかずき)を本の所に置て皆順にのむべし さては後は中なるを飲なり 三つ星も左より「上:夭、下:口 のむ」なりといへり 是は盞に酒をつぎ丸く五つ中に一つ居(スエ)置ば その形梅花に似たり 三つ星もおなじ形によりていふなり 今も田舎には一とひろのみなどといふことある 即(すなはち)この遺風なり さて鴬のみは梅に鴬といふ縁にていふなるべし 鴬のみのかむは盃五ツづゝ二つ並ふることと思はる(「嬉遊笑覧」 喜多村信節) 下図参照 


割烹萬亀楼
創立 享保年間(約二百五十年前)
店名 萬亀楼
店名の由来 初代萬屋彌兵衛
 初め酒造業であったが、火災に遭い、料理業に転業した。初めは萬屋といっていたが、後に萬亀と称し、明治時代に萬亀楼となる。
創業者 萬屋亀七
特色 有職料理を中心にしている。京風懐石料理を主に調進している。料理流派の一つとして由緒ある生間(いかま)流の伝統を保持し、その式、(ママ)包丁は現在他では見られない。生間流は足利東山時代から存続する料理道の一派である。(「味の日本史」 多田鉄之助) 京都市上京区蛭子町にあるそうです。 


兄弟
兄弟喧嘩をしていると、となりの漢学先生がきて、「これ、亀松殿も、さてさて悪いことじゃ、喧嘩はせぬもの、兄弟は左右の手のごとしとあるではないか」「それなら、おれたちも手にちがいないか」「知れたこと、兄は右の手、弟は左の手とあります」「兄貴が右の手、おれは左の手かえ」「はてくどい、それにまちがいない」弟「道理で兄貴は下戸だが、おれは酒が好きだ」 (「小ばなし歳時記」 加太こうじ) 


昭和十六年五月二十六日
友あり雨をついて来るた。新宿に出て二人で酒六本、一人三本しか飲ませないことを知る。馴染客でないからである。帰って眠れぬまま聞く。−
これによって十六年五月の東京郊外の食糧事情が分かる。酒は三本に限る店がふえたが馴染客はこの限りでないことは五月三十一日同じ友達と小料理屋「多助」で酒を、バー「シラムレン」でウィスキーをしたたか飲んでいることによっても分かる。すでに十六年になっても食堂は何とか食わせようとしている。酒場は飲ませようとしている。驚くべきは「ピカデリー」が支店をだしたことである。ピカデリーというのは新宿御苑前の特殊喫茶で、武林無想庵の二度目の妻女が衣食のためにはじめた店である。縁あって私は「無想庵物語」を「諸君!」に連載していま終ったところである。昭和十五年に開店して酒はつてを求めて「酔心」をいれてもらっている。戦争景気で盛業中なのはいいが、新宿「末広亭」のそばに支店を出す勢いである。まだこのことが可能だったことはこれを示している。(「生きている人と死んだ人」 山本夏彦) 


三矢さん
この三矢さんは酒豪である。じつによく飲む。三矢さんに言はせると、図書館といふのは酒が強くなければ勤まらないものださうだけれど、その説の当否はともかく、なかなか強い。が、先年、三矢さんは体調を崩して、半年ほど酒を断つた。禁酒したけれど、あれこれつきあいは欠かせないから、会には出る。会に出て、お茶を飲みながら話をする。二次会でもその調子。このとき三矢さんは驚くべき大発見をしたさうです。いはく、「いやあ、あのときはびつくりした。酒飲みといふのはじつに下らない話ばかりしているもんだね。二時間も三時間も、愚にもつかないことばかりしやべつてる。ただ馬鹿ばかしいでけで、ちつともおもしろくない」「ほほう」とわたしがうなづくと、三矢さんはさらにつづけて、「ところがだよ、半年たつて、また酒を飲むやうになると、同じ連中の話がじつにおもしろいんだな」 (「犬だって散歩する」 丸谷才一) 三矢正旦は、丸谷の同級生だそうです。 



御仏に 昼備えけり 一夜酒(ひとよざけ) 与謝蕪村
夜のかなた 甘酒売りの 声あわれ 原石鼎
雨冷ゆる日の 甘酒を あつうせよ 高柳碧川
よき井戸を もてるこの家の 冷やし酒 青木月斗
冷酒や つくねんとして 酔ひにけり 石塚友二
田烏が 放鳥冷酒 免されよ 石川桂郎
冷酒や ひそかに不孝 讃えいし 手塚美佐
梅酒を かもすと妻は 梅落とす 山口青邨
たくはへて 自づと古りし 梅酒かな 松本たかし
夫婦の不和 梅酒の梅の うきあがり 森総彦
泡盛の 香をこそめづれ 小盃 田中田士英
焼酎や 東夷の裔の 胸毛濃く 池芹泉
深沈と 飲みて大暑の ビールかな 京極杜藻
ビール酌む 共に女の 幸知らず 風間ゆき
札幌の 星座美し 生ビール 潮原みつる (「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 山口青邨監修の「俳句歳時記」からだそうです。 


杉の葉、櫟の木
この八戸(はちのへ)地方で、杉の葉を酒の香りにつかうということについてはふるい伝説があります。継母(ままはは)にいじめれらた子供が、食事のたびに残った米飯を、そっと大木の洞(ほこら)の中に貯えておきました。だからそこで偶然に発見された酒は、杉の香りの混じったいいもので、それを十分に生かしてつくられたのが津軽の銘酒だそうです。たしかに杉の香りは品のいいものですが、島根県鹿足(かのあし)郡柿木村では、櫟(くぬぎ)の木の根元に石室をつくり、ここで酒をつくったといいます。これも八戸の酒つくりの論法でいけば、あたらしい木の香りを酒にまぜようとしたのかもしれません。ここでは、この石室の中にできた酒の多少によって、その年の農作物の豊凶を占ったそうです。(「陽気なニッポン人」 酒井卯作) 


[一一九]端午
浮世の光陰は日々に催(せま)り 
看るに忍びんや節序客中に回(かえ)るを 
殊方の古寺にて端午に逢い 
藤殿慇懃に薬杯を勧む(監護藤殿菖蒲酒を以てこれを勧む。)
三−菖蒲の根や葉を刻んで浸した酒で、端午の節句に飲むと邪気をはらうとされる。(「老松堂日本行録−朝鮮使節の見た中世日本−」 宋希m 村井章介校注) 


桃太郎
桃太郎が犬、雉子、猿の三人をつれて、鬼ヶ島へ行こうとして山中へさしかかると大蛇がぬるぬると出てきて、「わしもお供いたします」桃太郎、腰にさげた袋から、黍団子をとり出して、「一つやろう」と言うと、大蛇が苦い顔をして、「「上:天、下:口」(の)む口へ、だんごは御免だ」(「笑いのタネ本」 宇野信夫) 


滝野川元醸造試験所
斎藤 赤レンガは絶対残していただかないと。当時の酒造りの雰囲気が残っていますし、何といっても建築学のほうで貴重な遺産らしいですね。
野白 そうです。あれは、ドイツのビール工場を参考に妻木頼黄(工学博士)さんというその当時有名な大蔵技師が設計した建物です。(「酒を語る」 斎藤茂太・佐藤陽子・野白喜久雄・栗山一秀・濱本英輔) 北区滝野川にあった醸造試験所のことだそうです。 


お茶を飲むように
お酒はお茶を飲むように、死ぬまで飲んでました。身体を悪くしてからはコップ酒でしたので多少水をたして飲ましても気がつかないと思ってたんです。ところがある日、叔母さんが水を入れすぎて渡したんです。そうしたらおじいちゃんは「おい、今日のはちょっと薄めすぎだぞ」と文句を言ったんです。水で割っていたのを知って飲んでたんですね。父もかなり酒飲みでしたが、父(馬生)とおじいちゃんとは飲み方がかなり違っていました。父は一口飲んでは置いておくタイプでしたが、おじいちゃんはコップを手にしたら飲み干すまで手放さなかった。飲むテンポがあまりにも違っていておいしくないのか、二人でいっしょに飲んでる姿は見たことがありません。私など記憶にないときから酒を飲んでいたというか、私がムズかると膝にのっけて酒を飲ませ「ほらおとなしくなった、好きなんだよ」とやっていたようです。私はただ酔っ払って寝ただけなんですけどね。おじいちゃん一家が貧乏だった話はよく知られていますが、父に言わせるとおじいちゃんは祝儀でも入れば飲む、打つ、買うと自分の遊びに使ってしまい、貧乏してたのは家族だけだけだということになります。(「血族が語る 昭和巨人伝」「古今亭志ん生」 池波志乃) 


奇杯品目録
浮瀬  量七合半  わが恋は千尋の底のあハび貝 身をすてゝこそうかふせもあれ
          大海の月をのみほすこよひ哉(かな) 淡々
幾瀬  量一合半  くめやくめいくせもとより菊の水 奇淵
滝の音 量一合   たきの音ハ絶ず久しき浮せの 名こそながれて猶聞へけれ 白水
君が為 量二合半  紅楼客常満 琥珀杯中清 十五雲鬢女 為君自有情 敬宗
鳴門  量五合   此家の福になるとぞえびす講 呉雪
梅枝  量七合八勺 此やどのあかす霞をくみそへん さく梅が枝の色になるまで 善思
松風  量八合   松かぜの軒をめぐつて秋暮ぬ はせを
鶴   量六合半  つハものゝ交りせむとミこしぢの よろひかたよりきたる真鶴
妹背  量七合   むつまじき貝や屠蘇くむ朝より 飛良
春風  量五合   はれふくや海あたらしき春の風
亀   量一升   万代のよはひをこめし盃の 名ハ亀とこそいふべかりけれ 松隣
逢瀬  量三合   諸人のあふせかひある盃に ミだれぬほどのゑひをすゝめん 常徳
猩々  量六升五合 酒の名をひじりとぞきくのめやのめ なゝのかしこき人ハこれらそ 弄花軒
是を世に七人猩々と うかれける赤らかしらの花の友 むくら
云糸底一升入り
文政四年巳春改    難波浮瀬(「浮瀬 奇杯ものがたり」 坂田昭二) 料亭浮瀬の引札だそうです。猩々は木製の大盃で、あとは貝の盃のようです。 


甕酒
是(ここ)に二はしらの神有りき。兄は秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびをとこ)と号(なづ)け、弟は春山之霞壮夫(かすみをとこ)と名づけき。故(かれ)、其の兄、其の弟に謂(い)ひけらく、「吾(われ)伊豆志袁登売(いづしをとめ)を乞へども、得婚(えまぐは)ひせざりき。汝(な)は此の嬢子(をとめ)を得むや。」といへば、「易(やす)く得む。」と答へて曰(い)ひき。爾(ここ)に其の兄曰ふけらく、「若(も)し汝(なれ)、此の嬢子を得ること有らば、上下(かみしも)の衣服(きもの)を避(さ)り、身の高(たけ)を量(はか)りて甕酒(はらざけ)を醸(か)み、亦(また)山河の物を悉(ことごと)に備へ設けて、宇礼豆玖(うれづく)一一を為(せ)む。」
七 上の衣と下の袴(褌)を脱いで譲り。 八 自分の身長をはかってそれと同じ高さにの意。 九 甕(かめ)の形が恰(あたか)も腹がふくれたようになっているところから、甕のことを腹という。甕の中に造る酒の意。(臼で造る酒に対するか。)神代記一書に「醸酒八甕」「八甕酒」とあって、その甕にハラの旧訓があり、山城風土記の逸文には、明らかに「八腹酒」とある。また延喜式の祝詞に「御酒は甕(ミカ)の上高知り、甕の腹満て並べて」とあるのが参考となる。 一一 賭(かけ)。(「古事記 祝詞」 倉野憲司・武田祐吉校注) 横臼 


宝暦十三年[一七六三]癸羊(みずのとひつじ)
○六月 俳優、荻野八重桐船に乗り、中洲に遊び、酔興の余り蜆(しじみ)を取らんとて川に下り立ち、深みへ落ち入り溺死す。平賀鳩渓、「根なし草」といへる草子をつくり、其の事をのぶ。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂)鳩渓は平賀源内の号だそうです。 


富士正晴
嵐山の三友楼で仕事をしていた時のことである。朝、宿の女将が、「ゆんべ、十二時過ぎにお電話どしたけど、もうお寝(やす)みです、いうて断りました」という。聞くとその電話の主は、大分ごきげんの様子で、お名前は、と聞くと「ヤマの富士や」と言った、と言う。わたしはすぐピンときた。茨木の竹藪の中に住んでいて、達磨のように机に向って坐ったきり、テコでも動かない詩人でもあり、作家でもあり、画も描けば、エッセイもものにする富士正晴は、自分が出無精だから、やたらと電話を方々にかける。夜中の一時や二時でもおかまいなし、である。桑原武夫、吉川幸次郎の碩学から、八木一夫、多田道太郎あたりの同年配の友人まで、被害者はおびただしい。それでいて、当人は翌日になると、昨夜あれほど熱情をこめて滔々と、そして延々としゃべったことなどケロリと忘れているのである。人呼んで竹林の一賢という。この富士正晴がたまに京都の町へ現れると、京の学者先生や芸術家たちと飲んで歩く。飲んで歩くのだが、御本人は最初の一軒でもう酔ってしまって、あとは、その時、何をしゃべったか、どんな美人画居たか、ひとつもわからずに五軒も六軒も梯子して歩くのである。先日もさんざん飲んで歩いた後で、わたしにハガキをよこしたが、それには、−さるバーで、ふじさんに二、三軒連れて行って貰いました、という美人あり、又か、とギョッとして聞き返したところ、ふじはふじでも八尋不二さんだったらしい。 とあったが、これはどうも、富士の創作だろう。(「京の酒」 八尋不二) 


誰をあるじ
後年、すべての官職から開放された(榎本)武揚は、向島の邸の近くにある百花園を訪れるのを楽しみとしていた。あるとき百花園の庭にある、当時の有名な俳人の其角堂永機(きかくどうえいき)の「朧夜(おぼろよ)や誰れを主(あるじ)の隅田川」という句碑を眺めて、永機というやつはあまり上手じゃねえなア。わしならこう書く」というと、傍にあった短冊をとり、 朧夜や誰をあるじと言問(ことと)はゞ 鍋焼うどん おでん 燗酒 と書いて大笑した、と、これは武揚の没後、百花園主人の懐古談である。(「聞いて極楽」 綱淵謙錠) 


725 サクラ 酒呑めばくだ巻きそふな羅漢達
五百羅漢の表情を見ると、それぞれに個性が豊かで、かつ、一癖有りげであり、酔ったら管を巻く酒癖の悪そうな顔をしている。(「大阪宝暦折句秀詠」 鈴木勝忠) 


備前の徳利
やきものの徳利で古いのは備前である。備前の徳利には室町時代のものがある。室町時代の古備前の徳利を俗にらっきょう徳利とよび、今の徳利よりは大きく、ざっと一升近くは入るだろう。これがやや小形になったのは桃山時代からで、桃山時代の古備前のおあずけ徳利には、姿もよく、上がりもよく、たまらなくほしいと思うものがある。今でも趣味人が最も愛好するのは、古備前のおあずけ徳利である。もちろん、盃は人によって好みがさまざまのようだが、徳利は古備前がいちばんいいというのは定評になっている。古備前の徳利には百五十万、二百万という値のものがあるようだが、桃山時代でも江戸時代でも、徳利で特に高く評価されていたのはやはり備前の徳利のようである。桃山時代の備前の徳利には火襷(ひだすき)といって肌が灰白になり、ぱっと赤いこげがある華やかなものもあり、江戸になっての備前の徳利には猩々徳利、布袋徳利、かぶら徳利、鴨徳利、船徳利などいろいろな形がある。また幕末からは青備前の徳利も作られ、文化・文政ごろはこまかい糸目のある薄作りの徳利がつくられたこともあるが、こまかいことは述べる紙数がない。(「徳利と酒盃」 小山冨士夫) 


醴酒若しくは濁醪
「食物には、口好みに腸胃好まざる者(適さないもの)有り。腸胃好む者は皆養物(滋養になるもの)なり。宜しく択ぶ所を知るべし」と、口当りのよいものより、体に合うものを選ぶべきである。そして酒については、「老を養うに、酒を用うるは、醴酒(れいしゅ 甘口の酒)若(も)しくは濁醪(だくろう 濁り酒)を以て佳と為す。醇酒(じゅんしゅ 熟した味の濃い酒)は烈に過ぎて、老躯の宜しきに非ず」と、飲む酒にも気をつけるべきである。(「大江戸浮世事情」 秋山忠彌) 佐藤一斎の「言志四録」の中にあるそうです。 


キャプテン・キッドの絞首刑 一七〇一
キャプテン・ウィリアム・キッドは殺人と海賊行為の罪で死刑を宣告され、一七〇一年五月二三日、ロンドンのテムズ河岸の処刑場で絞首刑に処された。が、処刑そのものは大変な不首尾だった。大勢の見物人が海賊を賛えるバラードを歌い、ぐでんぐでんに酔っ払った死刑執行人はしたたか殴られて、立っていられなくなった。そのうち縄が切れて、キッドは地面に落っこちてしまった。処刑は二度目にやっと成功したが、担当役人はのちに、そのしくじりについて新聞でさんざん叩かれた。(「世界おもしろ雑科2」 ウォーレス、ワルチンスキー他) 


味の記憶(2)
日本へかえってくると舅から盃をもらうのが楽しみで、お芳さんがつくる、鯛の皮を酢の中で揉み出した、一寸にごった酢を二杯酢にしたのへ鯛の身を酢に浸しておいたのをそぎ身にして入れ、庭の南天の葉を飾りに挿した酢のものや、広島のかきの二杯酢に生姜の細かい角切りをちらしたものを又は鯛の刺身のはしのところを刻んで焼海苔のもんだものをまぶしたもの、なぞを肴に猪口に二杯位飲んでご機嫌だった。私がよろこんで飲むと舅は自分の前にだけある特別のお肴も一口二口分けてくれる。それは皮つきの鶏を蒸して裂いたものだった。その頃は猪口に二杯が限度だったが二十五歳の時、どうしたのか猪口に十五杯飲めた。その上なんともなかったので得意だったが癖になるといけないと思って飲めるということを確かめただけにしておいた。それがこの頃は又もとへ戻って、すぐに真紅になり、心臓が苦しくなるので、どこへ行ってもただ残念なばかりである。(「貧乏サヴァラン」 森茉莉) 


あとの二食
朝、昼、晩、と三食きちっと取り、朝飯は別として、あとの二食には、かならず葡萄酒を飲む。果物も野菜も、ふんだんに食べ、砂糖大根、米、きくぢさのサラダやあざみの白い根などを、とくに好んだ。もちろん、主菜は肉と魚で、魚を好むあたりは、いかにもイタリア人らしい。「さかなは良質であれば肉よりもすすんでたべる。焼いたかたい肉(《やわらかいものは》子牛、いのししのお乳の肉)がすきで、また、きわめて細身の包丁できざんだ肉を、焼いてかたくしたものを好んだ。火で焼いたものがすきだったのである。夕食には半リブラ(六オンス)の甘いぶどう酒とつくり立てのぶどう酒を、その倍以上の水でうすめて味わった。若いとしのてば肉、とりのレバー、塔にすんでいるハトのレバーがとりわけすきだった。血がおおいところはみなすきだ」(清瀬卓・澤井茂夫訳)(『自伝』 ジェラルモ・カルダーノ 「世界文学『食』紀行」 篠田一士) 


地口、軽口、洒落言葉
地口や、軽口や、洒落言葉にも、酒のことをかけたものが、ずいぶんとある。−
◇酒でしんけん(武田信玄にかけてある) ◇呑大酒三升五合(南無大師遍照金剛にかけてある) ◇一寸一杯献じ天皇(天智天皇にかけておる) ◇垣の外の四斗樽(柿本人麻呂にかけてある) ◇下戸に御飯(猫に小判) ◇時鳥(ほととぎす)きいてまいった茶碗酒(効くにかけてある) ◇そう呑んではヘドドギス(時鳥にかけてある) ◇花見猩々 子が酒盛(鋏、庖丁、小刀とぎ) ◇依而下(よってくだん)の坂の下(酔って九段−酔ったとき) ◇とかく浮世は色と酒(とかく−四角−四角ばるなにかけてある) ◇竹に雀は品よくとまる(竹−酒−酌をするときに用いる) ◇承知惚れた横恋慕(承知−銚子−酒をすすめるときに用いる) ◇二日酔いの酒(胸に残っている−心ひそかに考えている) ◇五合徳利(一升詰まらない−一生味気ないにいう)(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


「太陽雑誌名家投票に就て」
この投票の結果は、当選者に金杯を贈ることになつていた。漱石の一文を見た博文館からは、早速坪谷水哉(つぼやすいさい)がやつて来て、あなた(漱石)の説は拝見したが、此方の計画もある事だから、金盃だけは受けたらどうだろう、もし人が何とか云つたら、坪谷が来て無理に押し付けて行つたと答えれば差支えあるまい、と云つた。漱石はこの勧誘に対し、金盃だけはいけない、投票には反対だが金盃は貰ふといふことになると、私の主意が立たないから、と云つて謝絶した。その代り金盃を貰はぬ罰として、「朝日」に発表した文章も含めた「太陽雑誌名家投票に就て」を「太陽」に寄せた。これは投票の弊害に就いて、「朝日」に書いたよりも更に委曲を尽くしてゐる。博士を辞退するより二年前の話で、漱石が「太陽」に筆を執つたのはこの一回だけである。(「明治の話題」 柴田宵曲) 


田の神
このほかにも、田舎では、屋内に祀る神(屋敷神)がかなりある。その中には、田の神迎えなど一風変わった風習もある。稲の刈り上げを済ますと、主人が羽織、袴で盛装して、ある場所へ出かけて行き、そこにあたかも何ものかがいるように迎えて、家に連れ帰り、挨拶し、招じ入れ、風呂へ入れて洗い、着物を着せ、座敷へ案内して正座(しょうざ)に座らせ、酒を進める。実際には何もいないのだから、すべて身振りだけで、人がいるかのように取り扱うのである。翌朝帰る地方もあるが、多くは翌年の春、田の行事が始まるまでいてもらう。是は、先祖がやって来て、一年中、田の中に立っていた、その労をねぎらい、ご馳走して休んでもらうのだといっている。能登のアエノコト(コトは家庭の祭りをいう)はこの典型である。神が家の中に長く逗留することは、前記のように不都合であるが、この場合は田の神であって、田の仕事が済むと、田とは別の所に、たとえば、家の隅の納屋などに祀っておかねばならぬということだ。この神も家屋の神になる。この神を厠の神とするところもある。厠の神は美しい女神とも醜い男神ともいわれている。共通している点は盲目であるということだ。(「くらしの条件」 中尾達郎) 


佐可都古
「延喜式」践祚(せんそ)大嘗祭(おおなめさい)の条に造酒児(佐可都古 さかつこ)という職名がある。これによると、宮中での酒造法は大神(おおみわ)神社の酒造法とまったくおなじ形態である。佐可都古は、都の大領(たいりょう)または少領の未婚の娘のなかから、卜占によって選ばれた者が任命された。造酒に必要な雑用をこなす仕女(つかいめ)は「普女(なみめ)」との注記があるので、佐可都古は清浄無垢な乙女がとくに選ばれるのである。かみ酒が清純な乙女によって醸されるのも、その裏にはかむことの不潔さを、未通の乙女の清純さとすりかえようとする意図が見られる。「中臣(なかとみ)の寿詞(よごと)」(『祝詞』日本古典文学大系)には、神酒づくりにたずさわる多くの職名があげられる。酒米のとり入れは「稲(いな)の実の公(きみ)」の役、燃料調達は「薪採(かまぎこ)り」、黒酒(くろき)にもちいる灰づくりは「灰焼」の役目で、これらは男の仕事である。酒づくりの主役は「酒造児(さかつこ)」で、それの助手に「酒波(さかなみ)」があり、「粉走(こばしり)」が酒米の粉を除き、「相作(あいづく)り」が雑用をこなす。(「食の万葉集」 廣野卓) 


酔ってからの時間
酔えばだれしも脳の働きが鈍くなる。緩慢になる。素面(しらふ)のときには一分間に百の情報を脳味噌が受け入れているものなら、酔っぱらいは同じ時間のうちに五十か、三十か、二十くらいの情報しか取り入れられない。同じ情報量を処理するには酔ったときのほうがよほど時間がかかるにちがいない。酔ってからの時間がやけに短く感じられるのは、多分そのせいだろう。 (「酔い盗人」 阿刀田高) 「『酔い盗人』は、お酒を飲んでいると、時間が早く経過するように思えるのはなぜだろう、という疑問が、誰かに時間を盗まれているのではないか、という考えに発展したもの。そういえば酒場のママは、たいてい年齢よりずっと若く見える。他人の時間を盗んで使って、自分の時間の使用を後廻しにしているからではないか、なんて、奇想天外な視点である。」と、この小説の解説にあります。 


菌塚
発酵文化は目に見えぬ無数億のおびただしい微生物の犠牲により維持されているが、多くの人間はこれだけ素晴らしい恩恵を受けているのに、有用微生物に対して意外に無関心である。これを反省して、菌の尊さを讃えようと昭和五六年に、わが国の醗酵学者有志の手によって京都市左京区一乗寺寺之内町にある名刹曼殊院にこの菌塚が建立された。(「醗酵」 小泉武夫) 


芝居見物
江戸時代は芝居見物そのものが食事を楽しむ享楽的な場所であり、午前中から碗、刺し身、煮物などで酒を飲む。もちろん客席で、芝居を見ながらである。お昼になれば、芝居茶屋で本膳料理を食べるのもいれば、幕間に客席で弁当を取る人もいる。これが幕の内弁当で、ご飯を扁平に握って焼いたものが十個に玉子焼き、蒲鉾、焼き魚、コンニャク、干瓢(かんぴょう)の五種が六寸四方の重箱に詰められている。現代の弁当のご飯が俵の型に押されているのはその名残で、数も五個の二列と決まっている。黒胡麻がかけてあるのは焼き目の意味である。(「舌の寄り道」 重金敦之) 


吉祥寺で起こして下さい
ある夏の日のできごと。亀戸で終電まで飲んで「総武線→京浜東北線→大井町線→自由が丘」という経路で帰る予定でした。しかし、「お客さん!終電ですよ!」と叩き起こされたのが、午前2時近くの千葉駅。どうやら、「亀戸→中野→千葉」と来た模様。仕方がないので千葉駅で野宿して、始発の総武線快速に乗車しました。でも、次に気付いたのは逗子。遠っ!!さすがに酔いも醒めていたので、その後は座らないで帰ってきました。そういえば先日、首から「吉祥寺で起こして下さい」と書かれた段ボール紙をぶら下げて寝ている人を中央線の車内で見かけました。イイ友達ですね…。(トミさぶろー。 30歳 男)(「酔って記憶をなくします」 石原たきび編) 


里風 と くらの戸
 コウ ちつと酒としやれやう くら 酒をばよして七一ちやづんなんせばいゝ  やぼをいふぜ。 トウ その硯ぶたを見せや。金平ごぼうも久しいもんだ。此の七二鮹のあしくさつて居るぜ。七三栄螺(さゞゐ)のつぼへ赤辛螺(あかにし)を入てだすから七四おそれらァ。七五こんだの料理ばんはどふもけちをするぜ
七一 「茶づる」は茶づけ飯を食べること 七二 硯蓋。酒の肴などを盛る器物。 七三 殻だけ栄螺で中身は安物の赤辛螺を使う。 七四 恐れ入る。 七五 今度の。(「傾城買四十八手」 山東京伝 中野三敏校注) 里は、客の里風、くらは、あいかた女郎のくらの戸です。 


干しダラのコロッケ
さて、そのポルトガル人達が、居酒屋で、酒のサカナに一体何を喰べているだろう。第一に挙げなければならないのは、「パステージ・ド・バカヤオー(干しダラのコロッケ)」だ。干しダラを、一晩水に浸して、これをガラガラ、廻して、つぶし、馬鈴薯や、玉葱や、パセリ(アルファース)の葉と一緒に油揚げしたものだ。(「美味放浪記」 檀一雄) 


十銭スタンド
ウイスキーを二、三杯飲んで、私がションに行き、帰って来ると、二、三人いた他の客と高見君の間が険悪で、一触即発というところらしい。「玉さん、ダメだよ、こんなバチを連れて来ちゃァ」と、トトヤの三ちゃんという角刈りの、魚屋が言った。バチとは場違いのことである。この三ちゃんというのは、本業は魚屋の若い衆だが、もうひと皮むけばヤクザなのであった。ワケをきくと、高見君が、酔って植木の葉をむしったので、そこのおかみさんが止めたら、オレは浅草の青空組のダチだと高見君が言ったという。「新門(しんもん)の、といったって驚かねえおれっちに、青空組だなんて、おめえ、紙屑拾いじゃねえか。おまはんのダチは、何か感ちげえしてるらしいぜ」三チャンの目がすわっている。まァまァ、今度来た時に、挨拶するから、と、高見君をひっぱるようにして、早々に引き上げた。高見君は、昭和七年だったか八年の、左翼の大森銀行のギャング事件のシンパとして、嫌疑を受けたことがあり、その時留置場で、青空組とかいう連中と知り合ったことがあるので、ちょっと使ってみたんだという。「あんた、妙な人達とつきあいがありますね、元やってたんですか」と、神田駅に行く途中で高見君はいった。「冗談でしょう。元やったんでしょうって、あんた、こっちの隅でニヤニヤして飲んでたのは、あの辺一帯をシマにしているスリの親分ですぜ」と、いったら、目を丸くしていた。とにかく、そんな連中も、ウイスキーとか、ジンなどを啜(すす)っていたのが十銭スタンドであったのである。(「たべもの世相史・東京」 玉川一郎) 十銭スタンドは、昭和6、7年からはやりだした、すべて一杯十銭というスナックのようなもので、高見は、一緒にコロムビアに勤めていた高見順だそうです。 


群宴の体
[一〇]何れの飛脚か二人づれにて箱根を踰(こえ)けるとき、夜闌(たけなは)に及びひとしほ凄寥たる折から、山上遙(はるか)に人語の喧々(けんけん)たるを聞く。二人不審に思ひながら行くに、程なく山上の路傍、芝生の処に幕打廻し、数人群宴の体(てい)にて、或は放歌、弦声交(こもごも)起り、道路張幕の為に遮(さへぎ)られて行こと能(あた)はず。二人相言て曰。謁(えつ)を通じて可ならんと。因(より)て幕中に告ぐ。幕中の人応(こたへ)て云ふ。通行すべしと。二人即(すわはち)幕に入れば幕忽然(こつぜん)と消滅し、笑語歓声も絶て寂々たる深山の中なり。二人驚き走行くに、やゝありて弦歌人響故(もと)の如し。顧望すれば幕を設くること如レ初。二人は益々驚き、疾行飛が如くにしてやうやく人居の所に到りしと。これ世に所謂(いはゆる)天狗なるものか。(「甲子夜話」 松浦静山 中村・中野校訂) 


送元二使安西(元二が安西に使ひするを送る) 王維
渭(キ)城ノ朝雨 軽塵ヲ○(ウルホ 上:鍋蓋 中:巴 下:衣)ス  渭城の朝の雨は軽い塵を湿ほし
客舎 青青 柳色新タナリ                      宿屋は青青(あをあを)と柳が芽を吹いてゐる。
君ニ勧ム更ニ尽セヨ一杯ノ酒                    さあ君、もう一杯酒を飲みたまへ
西 陽関ヲ出ヅレバ故人無カラン。                西のかた陽関を出たら知り人は居ないよ。
(「中華飲酒選」 青木正児著) 


タヌ公の足あと
家の裏には狸がくる。夜更け、残飯をやっておくと、翌朝は綺麗になくなっている。以前、鮎酒の鮎を置いておくと、それを食べたらしいタヌ公の足あとが、少し乱れていたことがあった。飛騨高山のどぶろく祭で、狸と狐がどぶろくに酔って寝入っているのを発見されたニュースがあったから、ウチの村のタヌ公も酔って千鳥足で山へ帰ったのであろう。(「小町・中町 浮世をいく」 田辺聖子) 


お酒はストローで
酒を飲む時、ふつう唇はコップやおちょことくっついている。私の場合そこに「ストロー」という媒介物が必要になってくる。新歓コンパでも、最初はみんな物珍しいやらおっかなびっくりやらで、私に酒をすすめることをためらっていた。しかし、「下さい」と催促するとつぎつぎに注ぎにきてくれるようになった。みな酔いが回ってなんだかわからなくなったせいもあったのだろう。ストローで酒を飲む私に対する奇異感も薄れてしまったかもしれない。私自身本格的に酒を飲むのはこの時が初めてだった。飲めば飲むほど、体が熱くなり緊張がとれ、言葉がスムーズに出た。いい気持ちだった。その時点でやめておけばよかったのである。だが、あとでそう思うのも新入生に共通している。何よりも、やめようと思ってもやめられないのがコンパなのである。紙コップでビールを三十杯のみ、そのあと水割りを二、三杯飲んだ。意識がなくなっても、なぜかこの数だけははっきり記憶している。一次会が終わる時点で、もう周りがくるくる回っていた。車に乗せられ二次会の会場に向かったのだが、今までに体験したことがない異様な吐き気を感じた。車から出た瞬間吐き出した。そして意識を失っていた。気がついた時には自分のベットの上だった。頭痛と吐き気とたんこぶが残っていた。それ以来、「松兼の酒のストロー一気」が有名になって、コンパには欠かせない行事になってしまった。(「お酒はストローで」 松兼功) 著者は重度の脳性マヒだそうです。 


高温製麹
この麹の酵素力は、温度のあげ方で違ってくるのであって、表8-2に示したように、四〇℃を超えるような高温製麹をするとアミラーゼが強くなり、酒母麹に向いたものになる。一方、低温経過にするとプロテアーゼが強くなる。醤油麹にはこのやり方がとられている。(「酒づくりのはなし」 秋山裕一) 


牡丹の花弁
ひとを愛する時、「食べてしまいたい」という。ところで牡丹の花はたべて好ましいものだ。大輪の白い牡丹の散る前に、花弁だけとって熱湯の中をさっと通し、すぐ水に放す。冷えたら静かに出して、二、三枚ずつきれいに重ね、白磁か染付の皿に河豚(ふぐ)の刺身のように美しく並べる。紅い花弁を二つ三つ飾りにいれると美しい。少量の塩を入れた日本酒と、酢半々の二杯酢をつけて食う。(『厨に近く』)(「わが酒中交遊記」 那須良輔) 小林勇の文章にあるそうです。 


酒の困(みだ)れを為さず。
(子曰く、…)不酒困  (小罕)
酒を飲んでも乱行をするということはない。(「中国古典名言事典」 諸橋轍次) 論語小罕編にあるそうです。 


とくり
○下総にて oぽちといふ この国にて o酢ぽち、酒ぽちなとゝ云 ○江戸にてoゑだる とくりの家也 といふを 京及北越にて oたじといふ ○江戸にて云ぬりだるを 遠江にて oやなと云 又此国(遠江)にて酒を嗜む人の 女子を生む時は其名を やな とつくる人多し 柳樽の略語なるべし (「物類称呼」 越谷吾山 東條操校訂) 


小山冨士夫
−小山冨士夫は天真爛漫、天衣無縫の酒飲みであった。「キリスト教の家に生まれたので、若い時には酒をのむのは悪いことだと思っていた。禁酒運動をしたこともある。一ツ橋でボートの選手をしていた時もどれほどすすめられようがビールを飲まなかった。戦後、文部省の嘱託をしていたころ、同僚の出版記念があり、心を翻してはじめて酒というものを「上:天、下:口 の」んだ。酒が強くなったのはこの数年、役人を辞めて焼きものを作り出してからだ。集めたというよりは、いつのまにか縁あって集まった古いぐいのみは五十ほどあろう」とくに皿屋窯の斑唐津ぐいのみや飯胴甕の青唐津、そして絵唐津のぐいのみなどを愛用していた。(「酒豪の作る酒器」 黒田草臣 しぶや黒田陶苑) ぐいのみは、ぐい「上:天、下:口 のみ」が原文です。 


犀角杯
正倉院御物の中に犀角杯というのがある。高さ七寸六分五厘、直径五寸一分ある。中国では犀角杯は毒を消す効があるとされている。(「酒雑事記」 青山茂) 


ワインの代金
ひとりの客がカフェーにはいってテーブルにつくと、ボーイに向かい、 −ワインを一杯、辛口のやつ。 しかしボーイがワインをもってくると、すぐ客は思いなおしたように、 −わるいけど、ワインをペルノー酒にかえてくれないか? ボーイがいわれたとおりペルノー酒をもってくると、客はぐっと飲みほし、席を立って、口笛なんか吹きながら店を出て行った。ボーイはいそいで後を追い、店から五、六メートルのところで客に追いついき、 −もしもしお客さん、まだペルノー酒のお代をいただいていませんが… −だってきみ、あれはワインの代りにもらったんだよ。 −ええ、でも、ワインのお代もまだいただいてなかったんで… −あたりまえじゃないか。ワインは飲んでいないんだもの。 ボーイはちょっと考えていたが、やがて頭をかきながらポケットから金をとりだして、 −お客さんのおっしゃるとおりでした。ワイン代をお返しいたします。(「ふらんす小咄大全」 河盛好蔵訳編) 


素袍落(すおうおとし)
伯父 舞台後方へ行き、扇をひらき右手に持ち、腰桶の蓋を左手で持ち出て、脇座のあたりにすわり ヤイヤイ、これで一つ飲うで行け。 太郎冠者 これは例の大盃(おおさかずき)が出ましてござる。 伯 めでたい門出じゃによって、大盃を出いた。 太 かたじけのうござる。これへ下されい。 受け取り さてもさても いつ見ましても、なりのよいお盃でござる。お酌はこれへ下されい。 伯 みどもがついでとらしょう。 太 こなたのお酌で。 伯 なかなか。 太 それは一六慮外に存じまする。それならば、めでたい門出でござるによって、お酌で一ついただきましょうか。 伯 それがよかろう。つぐぞよ。ソリャ ソリャ ソリャ。 扇で酌をする 太 うけて オオ、一七ちょうどござる。 伯 一八一つあるは。 太 さらば一九下されまする。 両手に持って飲む 伯 それがよかろう。ヤイ太郎冠者、何とあるぞ。 太 飲み終えて なんでござる。 伯 その酒の風味は何とあるぞ。 太 ハアア 御酒の風味の。 伯 なかなか。 太 笑って 二一有様(ありよう)は最前から、一つ二二たべたい たべたいと存ずるところへ、二三つっかけてたべましたれば、ただ、二四ひいやりと致いたばかりで 風味が知れませぬ。いま一つたべて 風味を覚えましょう。
一六 恐縮に存じます。 一七 ぴったりと一ぱい。 一八 一ぱい。酒席のことば。 一九 いただきます。 二一 ありのままに申しますと。 二二 飲みたい。 二三 一気に。 二四 「ヒヤリト」。(「狂言集」 小山弘志校注) 伊勢参りのお供に行くというので、主の伯父からはなむけの盃を太郎冠者が貰っているところです。 素襖落 少し違います。 


動物とアルコール
酒を飲む(飲ませればの話だが)動物に有名なのは海ガメがある。正覚坊などが浜へ上ってくると、ところによっては漁師たちが縁起がいいからと、酒を一升ふるまって海へ帰してやる。酒ビンをカメの口へ押しこんで、ゴクゴクと飲ませるのだが、カメはこれをけろりと飲むのだから、酒は好きなのかもしれない。新宿に野獣の肉を食べさせる栃木屋さんという店がある。ここに、以前小さいときはテレビにも出演したという、ニホンツキノワグマが飼われていた。このクマ公、なかなかのビール党である。もともとは、やってくる客が飲ませたのが始まりかもしれないが、両手でビンをかかえてうまそうに、それこそラッパ呑みする。それが面白いので、客たちはさらに飲ませるのでかなりの酒豪になっていた。クマがビールを好むのは、どうも性質のようで、宝川温泉に飼われていたクマたちもよくビールを飲んでいた。あんなにがい液体をよく好むものだと思うが、クマは山菜−ことにフキノトウなどをよく食べるから、にがいという味には平気なのだろう。元上野動物園長の林さんが、この栃木屋のクマが、どれくらい酒豪かためしてやろうと、ビールビンに焼酎を入れて砂糖をまぜて与えたことがあった。クマはいつものビールと味がちがっているので変な顔をしたが、好物の砂糖で味つけがしてあったので、大喜びで飲んでしまった。ところが、さすがにきいたとみえて翌日までウンウンと唸って寝こみ、枕も上らぬ宿酔。店の人が呼んでも横になったきりだという。よほど悪酔にこりたと見えて、それからしばらくは客がビールビンをさし出すとくるりと尻を向けて拒否していたそうだが一と月としないでまた飲みはじめたという。(「動物とアルコール」 戸川幸夫 「酒恋うる話」 佐々木久子編) 


出陣の宴
戦陣の門出に行う酒宴は、その起源は鎌倉時代といわれるが確証はない。宴の作法は『古事類苑』所収の「当流節用料理大全」、「大草殿相伝之聞書」などによると、まず三方に三つ重組みの土器(かわらけ)を、その左手には三つ重の餅を置いて、式三献の手順で行われた。酒肴は打鮑(うちあわび)、搗栗(かちぐり)、昆布を、出陣のときは「かって、うって、よろこぶべし」と、帰陣のときは「うって、かって、よろこぶべし」と組み合わせた。面白いのは鮑で、出陣には敵を打ちのばすとして「打鮑」、凱旋では敵を打ちのばしたと「伸鮑」といった。いずれにしても出陣、凱旋に当っては、縁起言葉がことのほか尊ばれていたことが知られる。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 出陣の祝い  


自分らしい心持
『われ等が家に召使ふカツトラーと申す者、良い心持に酔ひかける頃(allmost drunk)、きつと、斯(こ)う云ひ出す癖がある−のウ、おのおの方、やつと是れで自分らしい心持になつたのウ−と。』(wee beginne to come to ourselves)
紀元一六四八-七九年。ジョン・ワード師(the Rev. John Ward)の日記より。Bibo, ergo sum.(吾れ飲む、故に吾れ有り)。
右はウヰリアム・ジュニパーの書いた『ほんとうの飲酒家の楽しみ』副題を飲酒哲学"Philosophy of Drinking"という本の巻頭の引用句です。(「酒の書物」 山本千代喜) 


どんがら汁
どんがら汁にするマダラは一月から二月上旬の寒の真っ盛りがまさに旬。鶴岡の各家庭は旬を逃してなるものかと目の色を変える。−
ところでどんがらとは胴とガラ、つまりアラ。またどんはガラの接頭語、強意の意も。或いは胴空とも。大体どんがら汁は白身は用いずアラとタツ(ダダミ、白子)とアブラワタ(肝臓)だけの味噌仕立て。なおタツは新味のうちの刺身が酒の肴に絶品。今とちがって他に具は入れない。入れるとしてもネギと岩ノリを浮かべるくらい。子供の頃は骨つきのハラセ(腹部)が一番身が多く、その内側にベッタリついている黒いカワを鱈のパンツだとはしゃいで食べたもの。(「飲んだくれてふるさと」 小宮山昭一) 


椎茸のブランデー漬け
ところでウチに帰ってみると旧天焼き場の材木にふっくらした椎茸がでていた。早速採って試みにブランデーにつけた。砂糖も少し入れた。それらを細切りにして酒の肴にしたが、面白い味になった。(「口福無限」 草野心平) 


「恩賜」の酒器
現在使っている酒器は、白一色の徳利と盃である。徳利は正一合入る。この白磁の酒器は、実は未知の方から贈られたものである。普通に売られている酒器は、妙に粋がって、ひと捻り捻ったものか、あるいはいわゆる民芸調のものかであって、使う気になれない。模様も何もない白一色の徳利と盃が欲しいと、何年か前に新聞か何かに書いたことがある。すると、しばらくして、九州の熊本の未知の方が、まさに私の望み通りの酒器を一揃、贈って下さった。実にありがたいことであった。爾来、私は夜毎の酒をこの「恩賜」の酒器で酌んでいる。ところが二本あった徳利のうち、その一本の頚を、家内が欠いてしまった。器を欠いたり割ったりしても、普通は対して苦にしないでいる家内も、これを大いに悔やんで今に至っている。しかし一本の徳利でも事は足りる。徳利も盃も大事にして使っている。(「少し枯れた話」 高橋義孝) 


ケハレの都市空間
「ケハレ」、としてみたらどうであろうか。けっしてこじつけた造語ではない。ちなみに、新村出編『広辞苑』(初版本)では、「けはれ(褻晴)−ふだんとはれと」と記されている。「公私」「内外」と表わすともいう。であるから、必ずしも「ケとハレ」と解釈せずともよかろう。ここは、ケともハレとも別の時空間、と読みとりたいのである。もっとも、この場合、公(ハレ)私(ケ)の字並びはどうしたことか、私公が妥当なのではないか、という疑問が残る。が、それはともかくとして、これまで民俗学のなかでこの事実がまったくといってよいほど注目されなかったのが不思議なほどである。かつて、日常の生活圏内で、ハレの行事日や休日以外に飲酒や歌舞に興じることは、それぞれが自粛すべきことであった。現在でも、労働の場所、時間ではそうであろう。だが、かつては、それがさらに広くタブー視されており、それを破るのは破廉恥なことであった。そして、小田晋が『日本の狂気誌』で指摘しているように、ケの時空間においてハレの時空間におけると同じような行動をする者は、「タブレビト」(狂人)とされたのだ。すると、ケハレとは、「タブレ」を許容する時空間−ということにもなろう。ただ、都市社会の中でも、ケハレの現象が顕著であるところとそうでないところとがある。盛り場こそは、まさにケとハレが渾然と一体化した「ケハレの都市空間」なのである。(「盛り場の民俗史」 神崎宣武) 


強度の神経衰弱
ここに至るまでの山頭火の経歴を簡単に述べておこう。山頭火は明治十五年(一八八二)、父・種田竹治郎、母・フサの長男として、山口県防府市八王子(当時は西佐波令村)に生まれた。本名正一。種田家は大種田と呼ばれるほどの大地主で、三年後には妹の静、その二年後には弟の二郎、そして、さらに七年後には異母弟の信一(五歳で没)が生まれている。夫・竹治郎の放蕩に絶望した実母のフサが、山頭火十一歳のときに井戸に投身自殺した。少年正一はその死体を見ていて、痛烈な痛手をこころに受けた。以後は祖母の手で育てられ、明治三十五年(一九〇二)二十一歳で早稲田大学文学部に入学したが、二年後に中途退学している。このあたりから屈折がはじまり、山頭火研究家の村上護氏によれば、退学の原因は強度の神経衰弱だったという。大酒を飲むようになっていた。その退学の年、父親の放蕩から種田家はついに破産してしまい、明治三十七年(一九〇四)に吉敷(よしき)郡大道村(現、防府市台道)に転居して、正一名義の酒造業を営むこととなったのである。父親の名では信用を得られなかったこともあって、山頭火の名義にしたのだろう。こうしてはじまった日常を端的に反映した不満足気な句(今日も事なし凩に酒量るのみ)が、この句なのだ。(「放浪行乞 山頭火百二十句」 金子兜太) 大正5年に、酒屋は倒産したそうです。 


せき込む
動物園の象の飼育係が園長の処へ相談に来た。「一匹の象が風邪気味で、ひどくせきこんでいるんですが」「ウィスキーを飲ましなさい」その翌朝、園長の処へ、また飼育係がやって来た。「まだ象の咳はなおらんかね?」「あの象の風邪はなおりましたが、今朝は全部の象が咳をしているんですが…」 (「ユーモア辞典」 秋田實編) 


今日も事なし凩(こがらし)に酒量(はか)るのみ
大正三年(一九一四、三十三歳)、『層雲』(荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)主宰の自由律俳句誌)に発表した句。山頭火は三十代に入ると、にわかに文章を書き、句をつくり、自由詩まで書きはじめて旺盛な表現意欲を示した。句は、はじめのころは五・七・五音の定型で、俳号を田螺公(でんしこう)と称し、近辺の弥生吟社の句会(第八回から椋鳥(むくどり)句会と改称)にしばしば出席している。文は、山頭火の筆名でツルゲーネフやモーパッサンなどの翻訳、アフォリズム、短文とおもうままに書き、郷土誌『青年』(防府市三田尻の青年雑誌社発行)に発表していた。三十二歳のとき、『層雲』に投句しはじめ、井泉水に師事。また自ら文芸雑誌『郷土』を創刊したが、それ以後は句も文も山頭火の号一本になった。山頭火が本気になって文学・俳句を考えるようになったこの時期を、「大道(だいどう)村時代」(明治三十七年〜大正五年)と呼ぶことにするが、表面は比較的落ち着いていた時代であり、冒頭の句もまたその落ち着いた様子を示している。今日も何事もなかったなあと、木枯らしの音を聞きながら、静かに酒を量っている。ただそれだけ−。淡々とした句だが、「酒量る」というなかには当時の山頭火の生活状態も反映している。山頭火が大道村で父親と一緒に酒造業を始めたのは二十三歳のときで、どうにか生活の安定を得、五年後には佐藤サキノと結婚、翌年には長男の健が誕生した。こうした安定状態のなかから生まれた句でありながら、「事なし」とか「量るのみ」とか言っているところになんとない不安、充足しない気分の翳りが感じられる。けっして山頭火は自分の現状に満足していたわけではなかったのだ。(「放浪行乞 山頭火百二十句」 金子兜太) 


とろっぺきになる
酒に酔っぱらう。ひどく酔う。松葉軒東井(しょうようけんとうせい)の『譬喩尽(たとえづくし)』(一七八六年)に、<登呂図兵幾(とろつぺき)になる>と掲げ、<酒に酔うなり。酩酊なり。>と注記する。−(「飲食事辞典」 白石大二) 


更けてゆくほど酒の味
語りあうほど人の味
惜しんでかえるあとの味
         英治
吉川英治先生の残されたこの言や佳し。酒徒の座右銘にと書き残しておくことにする。(「清閑清酔」 吉野孝) 


治聾酒の 酔うほどもなく さめにけり 村上鬼城
白酒の 紐のごとくに つがれけり 高浜虚子
白酒や なでてぬぐひし 注ぎ零し 阿波野青畝
処女みな 情け濃かれと 濃白酒 松本たかし
白酒や 玻璃さかづきの 花模様 篠田悌二郎(「日本酒鑑定官三十五年」 蓮尾徹夫) 山口青邨監修の「俳句歳時記」からだそうです。 


ホジャとティムーム
或る日、ホジャがティムームの前にいたら、一人の兵隊が引っ張られて来たげな。 此奴(こやつ)は酔っ払ってやがるんで。 と言うたげな。ティムールは怒って  此奴を三百撲(ぶ)てい! と言い付けたげな。ホジャはニヤリとしたげな。ティムールははこれを見ると、刑罰(しおき)が足らんのじゃと考えて、 五百撲てい! と言い直したげな。こんだ、ホジャは、アッハッハと笑うたげな。ティームールは、まだ足らんのかと思うて、 八百撲てい! と命じたげな。ホジャはとうとう辛抱しきれんで、腹を抱え、転げ廻って笑うたげな。ティムールはこれに、滅法怒りだし、 ホジャ、手前はなんて奴じゃ!ちったぁ恥かしゅうはないかっ!石臼ほどのでっかいターバンを巻きぁがって。儂(おれ)を茶化しゃがる。それに、儂ゃ、世界を震い上がらせ、我が手におさめたどえらい君主じゃぞ。その御前(おんまえ)じゃてぇことを忘れたなっ! と叱りとばしたげな。ホジャは、これに お説御もっとも、ことの大切さも知らんじゃぁござんせん。あんたがどんなに酷(ひど)い、また、一刻も憩(やす)まぬお人じゃてぇことも知ってます。笑うたぁ、そのためじゃないんで。あんたぁ、どだい、勘定が出来んのじゃございませんか。あんたが聖法(シヤリーア)の戒律(さだめ)を行う、てんで、やったこたぁ、子供だってしやしませんぜ。八百撲たれるのに堪(こた)えるにゃぁ、人間、肉と骨とじゃのうて、鉄から出来てなきゃいけませんわい。命令するなぁいと易いこと。じゃが喰らわされるなぁ、それほど易うはありませんぜ。 と答えたげな。そしてティムールを考え直させたげな。(「ナスレッディン・ホジャ物語」 護雅夫訳) 


茂吉・万太郎
栗山 茂吉先生の酒の歌は知らないのですけれども、吉井勇さんが、京都に住まわれるようになったとき、私は短歌もちょっとやっていたんですが、吉井勇さんから直接お聞きした歌の中で一番感動したのは、「我が胸の鼓のひびきたうたらり たうたうたらり酔えば愉しき」。この酒はワインでもビールでもない。やっぱり日本酒でないとこんな歌は詠めんと思うんですよね。これは、日本酒の酔い心地、陶然としたほろ酔い気分をよくあらわしていると思うんです。
斎藤 俳句では、私が大変お世話になった、久保田万太郎先生の句に「湯豆腐や 地薬の酒の一、二杯」というのがあるんです。
栗山 久保田万太郎先生はあまりお酒は飲めなかったようですね。
斎藤 だけれども、とてもいい句じゃない。「湯豆腐や−一、二杯」というところがいいんですよ。(「酒を語る」 斎藤茂太・佐藤陽子・野白喜久雄・栗山一秀・濱本英輔) 


本山荻舟
本山荻舟さんに最後にお目にかかったのは亡くなられる一と月前くらいの初秋の頃で、まだ残暑の厳しい時分だった。永眠されたのは三十三年十月十九日であった。遺書となった平凡社の「飲食事典」の原稿が、床の間に堆(うずたか)く積まれてあり、一升瓶を座右にして、コップで冷やをグイグイ呷(あお)られながら、長時間有益な話を聞かせて下さった。「私の饒舌は、いつもいわゆる一期(ご)一会(え)のつもりですから…」と冒頭に云われたお言葉が不思議に印象に残ったもので、訃報を手にして、さてこそ感慨深く思い合わされたことである。(「日本酒物語」 二戸儚秋) 


自販機
Aさんは、まったく自分の名前を出さない記事のようなものをときどき書いて、わずかに生活費にあてている。ある日、そういう仕事をした帰りに、少し疲れをおぼえて、通りがかりの酒屋の前にあった自動販売機でコップ酒を飲もうと思いたった。Aさんは、ほとんど酒を飲まないといってもいいくらいに、酒がよわい。硬貨をいれると、紙コップに熱い酒がそそがれてくる。それがコップに溢れるようになったが、まだ止まらずに酒が出てくる。おや、と思って、もうひとつ紙コップをおいてみた。いっぱいになった方のコップで、チビチビ飲みながら、横眼で見ていると、酒があいかわらず出てくる。新しい紙コップもいっぱいになったので、それをずらして、また新しい紙コップをおいてみた。酒はまだ止まらない。養老の滝のように際限なく出ているが、Aさんは弱っちゃった。とにかく一杯のコップ酒でも多すぎるくらいなのである。際限なく出てこられても、自分は飲めない。といって、そのまま放り出さしていくのももったいない。おりあしくあたりに人は居ない。Aさんは必死で通行人を呼びとめた。「これ飲みませんか」「−いや、あたしはいそぐから」「じゃ、歩きながら飲んでください。無料ですよ」「どうしたんです」「機械がこわれたらしい。いくらでもでできちゃうんです」それでその人も飲みはじめ、二、三人の人が立ちどまって飲んだ。そうやって、やっとその場をはなれて、国電の駅まで行き、自宅に帰ろうとして、自動販売機に硬貨をいれた。すると、今度は切符が出てこないのである。(「喰いたい放題」 色川武大) 文中「飲」の原文は、「上:天、下:口」です。 


徹夜酒
−部屋にこもる日が一週間もつづくと、私は徹夜酒がやりたくなってくる。こんな夜は、二時までなんて誓わない。でも、「おしげ」では、ママに「今度、田舎(静岡)へ帰ったらわさび漬け買ってきてよ」なんていって飲んでいる。この店のわさび漬けを食ったら外のものは口に入らないのだ。いつもは、この「おしげ」か、「郁」からスタートして、時間によって、「チャオ」をはさんだり、「偏見屋」を入れたりして、最後は「摩耶」になる。この店は、客がいれば朝の七時頃までやっている。しかし、十時頃から店をあけるのでどうしても最初の店というわけにはいかない。「鼠がゴキブリを食べちゃうのよ」、「バラも食べちゃうの」という女主人の話を聞きながら、私はビールかウイスキーを飲んでいる。話は鼠とゴキブリじゃ、色気のないことおびただしい。時々、彼女は野菜サラダをつくってくれるが、これはいける。「もう、ビール七本目よ」なんて言われると、そこからは水割りに切換える。かくて、朝がやってくるのである。(「新宿二丁目」 山本容朗 「日本の名随筆 酒場」) 


深水
「芸術にはここまでという天井はない。人がこの絵は最高だなどといったときには、最高のさらに上があることを常に考えなければいけないよ」と父はよく言っていました。それだけに絵に対する努力は大変なものでした。花柳界で遊ぶのが好きだった父がお酒やタバコをやらなかったのも絵のためです。お酒は飲みすぎると手が震えたりして絵に影響するからと一口も飲んだことがありませんし、タバコも絵筆をとるときに邪魔になると吸わなかったようです。(「血族が語る 昭和巨人伝」「伊藤深水」 朝丘雪路) 


飯島八幡
保木峠から一三キロほどゆくと、飯島という部落についた。ここに飯島八幡という社(やしろ)があり、和銅年間に宮居が設けられたというから、この村は八世紀以前にすでに有力な集落をなしていたことがわかる。神社にどぶろく祭りという奇祭がある。運よくその日にあたっていたから、薄暮の境内に入って、仮設の社務所でどぶろくを買った。一ぱい二百五十円である。きくと、どぶろくは杉の大きな桶に仕込むのだが、醸造の期間が気ぜわしく一ヵ月ほどの短さらしい。そのせいか、まだ十分に醸されておらず、あまりうまくなかった。それでも結構酔っぱらってくだを巻いている樵夫(きこり)などがいて、いかにも山中の祭礼らしかった。(「街道を行く」 司馬遼太郎) 岐阜県白川村では外に、白河八幡、鳩谷八幡でどぶろく祭りがおこなわれているようです。 


森鹿三
ひと昔の酒豪番付なら恐らく一方の横綱を張ったであろうが、流石(さすが)に最近は御年輩、まず年寄りか、勧進元というところか。京都大学の人文科学研究所の所長を三度も勤めた中国古代史の権威だが、わたしとは不思議な因縁がある。昭和十八年、大映という会社が出来ると、わたしはその初代社長になった菊池寛氏を口説いて、高杉晋作が上海に渡航した記録をもとにした日中合作映画を作ることを企画し、その資料を求めて、当時東方文化研究所といっていた今の人文を訪ねた。その時会ったのが、若い所員だった森鹿三である。その頃の森さんが、黒い髪を長く伸ばして、神経質な蒼い顔をした痩せた青年だったと言っても誰も信用しない。此の頃の森さんは肥りに肥り、もう是以上はいけません、というくらいに大きくなり、お蔭で貫禄は充分だが、最早往年の面影は偲ぶべくもない。わたしは、こんな愉快な、賑やかな酒飲みを見たことがない。酔いが廻って来ると、もうチットモじっとしていない。あの大きな体をふらりふらりと泳がせながら、顔見知りの出席者に片っぱしから飲ませて廻らないと気がすまないのである。最近は夫人同伴が多いが、これは、いつ御老体の森さんが飲み過ぎて破目を外すかも知れないので、監視人兼看護婦といったお役目からではないか、と推察している。(「京の酒」 八尋不二) 


昭和二十九年夏
そして昭和二十九年夏、自らすすんで精神病棟へ入った。満二十三歳。自由連想、催眠術によるテストもうけた。いずれもアンタブスの要なしといわれた。「君はアル中じゃないよ。マア、ウイスキーを毎日一本飲んで十年もしなきゃ、ホンモノにはなれないね。習慣でどうしても飲まないじゃいられないという人までをアル中といいはじめたら、晩酌の一本、二本を楽しむことだってそうなるし、君の場合も、ただ酒を上手に飲むコツを知らないだけさ。酒の楽しみを自分で放棄するなんぞ勿体ないじゃないか」(「酒をやめる理由はないヨ」 野坂昭如) 


スケ すけの局は下戸ならぬ御名 [続折句袋]
助の局は、川柳評では、助兵衛な奥女中をいうが、こちらは、盃を助る女房の名としてふさわしかろうと解する。これも上方的発想。(「大阪宝暦折句秀詠」 鈴木勝忠) 


飲酒、酩酊の隠語
−飲酒、酩酊の隠語はどうか?これもずいぶんとある。
うれる(酔ったさま。熟れるから出た) きすすい(飲酒のこと。きすは酒の隠語。きすを吸うで飲酒。東北地方の方言から) きすひく(右に同じ) きすけづる(飲酒) きすぐれ(酩酊。これは普及している) きすむかい(飲酒) きすもつれ(泥酔) きすにうれる(酩酊) けづる(飲酒) ごとう(飲酒) しびれ(酔態。痺れから出た) しもけし(飲酒) せいひく(飲酒) せくひき(飲酒) ちん(飲酒) ちが(飲酒) とみち(飲酒) はち(飲酒) ぱいいち(飲酒。一杯の反対から出ている) まんどりあし(泥酔。千鳥足に輪をかけて万鳥足という意) むねはらい(飲酒。胸のモヤモヤを払うといった意から出ている)(「酒の風俗誌」 加藤美希雄) 


海外料理用
と、同時に、海外に出かける際には、なるべく日本酒を携えて行くことにしている。勿論、みやげ用ということもあるけれど、大方の場合は料理用としてである。海外で長逗留する時には、どうしても食事が単調になりがちだ。毎日毎日、いくら評判のレストランや和食の店で食事をしても、自然と飽きがきてしまう。そこで、無理をしてでもキッチン付きの部屋を一つ用意して、スタッフのための料理作りを担当する。今は、どんな国を訪れても、材料に事欠かぬのだが、日本酒だけはむずかしい。日本から輸入されていたとしても、馬鹿高く、話にならないのである。たかだか、うどん一杯作るのに、その何十倍もする酒を買っていたのでは、収拾がつかなくなる。そんな時、手持ちの日本酒が、真価を発揮するといった塩梅だ。(「好「食」一代男」 檀太郎) 


常元載
常元載は酒を飲まない。同僚たちが色々之を強いると、「鼻が酒の気を聞いても酔つてしまふ」と云つて辞(ことわ)つた。すると其の中の一人が、術を用ゐて治してやると謂つて、針を取つて元載の鼻の尖(さき)を挑(ほじくつ)て小蛇のやうな一匹の青虫を出した。曰ふ「此が酒魔だ。酒を聞いて畏れるのだ。此を去(と)つたから、もう患(うれひ)はないよ」と。元載は是の日已に一斗を飲んだ。五日すると倍になつた。[玄山記](「酒「眞頁」(しゅてん)補」 明・夏樹芳・著 明・陳継儒・補 青木正児・訳) 


ウガンダのバナナ酒
ウガンダのパトロ族のバナナ酒。バナナ畑のなかに掘った直径一・八−二メートル、深さ六〇−八〇センチメートルの半球型の大きな穴に、未熟の青バナナを含めた原料バナナを投入し、その上をバナナの葉で覆う。この穴の中央には、直径三〇−四〇センチメートルほどの筒のような火鉢が付いており、仕込みの初日のみ、その火鉢のなかに焚き火の火を入れ、穴全体を暖める。二日目からは醗酵によってバナナの温度が上ってくるので、火鉢の火は入れず上をバナナの葉で覆った後、さらにその上に土をかぶせて四−五日間醗酵を続ける。こうすることにより、青バナナも完全に熟成して、原料全体の糖分を高めることになる。次にこれを掘り起こして糖化済みの皮をむき、それを今の糖化穴の脇に掘られた液化穴に入れる。この液化穴は、直径一・五メートル、深さ約二〇センチメートルで、穴の底にはバナナの葉や茎の皮が何重にも敷きつめられていて、汁が下に浸透しないように工夫されている。バナナの上に適当量の水が加えられた後、大人一人が入って足踏みによってこのバナナをドロドロに軟化させる。この時、「エソジョ」と呼ばれる草を加えるが、これは粉砕化を円滑にさせることと、この後に作業する粗濾過を円滑にさせること、そしてこの草が持つ芳香を酒に付与することが目的である。十分に足踏みされ、液化したバナナ果汁は柄杓で汲みだして、直径が三〇センチメートルもある大きな瓢箪でつくられた濾過器で濾過する。この瓢箪濾過器は、瓢箪の底を切り抜き、その底なし瓢箪のなかに繊維質の多い草を詰めて、それをフィルターの役目にしているものである。上からバナナ果汁を流すと、濾液は丸木船のような発酵槽に集められる。その汁の上を、バナナの葉で蓋をしておくと、直ちに酵母がアルコール発酵を起こして盛んに湧きだす。醗酵は二日間行い、バナナ一〇〇本からアルコール分三−四%のバナナ酒が一五〇リットルできる。(「醗酵」 小泉武夫) 


樽代(2)
また江戸にて始めて地借・店借し、あるひは他より移り住む時、その居宅に応じ金二朱あるひは一分、多きは金三、五両または十両も家主へ呈す。号(なづ)けて樽代と云ふ。酒料の意なり。これを与ふること、あらあらその宅に定制あるがごとし。京阪は酒一、二升の手形を与ふのみ。また五節ごとに居宅に応じ五、七十文、あるひは二朱、一分を家主に呈す。号けて節句銭と云ふ。京阪にさらにこれなし。右の樽代、節句せん、天保府命にこれを禁ずれども止まず。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 今でいう礼金といったところでしょうか。江戸の方が地価の高かったことがわかりますね。家主は、いわゆる大家で、自身も借家をしている長屋の管理人です。1両を100,000円とすると、二朱は12,500円、1分は25,000円ということになります。 樽代 これとは違いますね。 


一尽し
通「おもしれへおもしれへ一本足のたち廻り弥次さん何か一尽し(いちづくし)おはやし方ハねえかの
弥次「あるともあるとも一ハ万事のはじめにて抑(そもそも)王政御一新(ごいつしん)一合取ても士(さむらい)の一合「上:天、下:口 のん」でも生酔の一言半句が癪(しやく)のたね一天四海が妙法皆帰(かいき)一六休暇(どんたく)一汁一菜一生懸命一世一代一十百千越中ふんどし越前でれつく(男根)一字千金一点瑾(きず)なし一升袋ハ元より一升一杯機げんに意地張(いじはり)づくなり一徹短気に一人(いちにん)当千(たうせん)一本もないのか土器(かわらけ)もんだよ一仏一体一切衆生が一蓮托生一(いつ)かなきかねへ一々閉口一決(いつけつ)きまりて一同納得一文をしんで一百損する一類狐で姉(あねへ)がこんこん一応談判一念蛇になる一落(いちらく)かたりて一ぷくふかして一拳藤八(とうはち)一向むちゃくちゃ(「西洋道中膝栗毛」 仮名垣魯文) 


ほろ酔ひの足もとかろし春の風
杜若(かきつばた)われこの亭に酔ひにけり
酔ひ臥しのところはこゝか蓮の花
盃を干して眺むる秋日和
忌憚なく言えば、俳句の出来はそんなによいとは思えない。父の以南にはとてもかなわない。しかし、これらの句はどれを見ても、酒好きでなければ作れまいと評してよかろう。(「新修 良寛」 東郷豊治) 


筑波山人
荻生徂徠の門下の石中(筑波山人)は潔癖な人で、銭さしの紐を切るにも小刀を使い、銭が手に触れないように気をつけていた。しかし、銭で手を汚すのが嫌だといっても、それほどの銭もない万年貧乏だった。宴会の会費をどうするかというと、みんなが酔っぱらったところで誰かの持物を持って質屋に行き、会費を借りて払うのだ。(「日本史こぼれ話」 奈良本辰也ほか) 


迎ひ酒の熱燗
清「ホゝヲ何だ胡瓜の糠味噌かこいつア有難へ魚なんぞハ実に食(くひ)あきて居るから見るのも御免だが此節ハまだ料理屋でも刺身の相手ぐらゐにやつとだのに爰(ここ)の家(うち)ぢやアまう香物(かうかう)に遣(つか)ふ是だから気取りが宜(いゝ)と言(いつ)て誉(ほめ)られるのだなア 岩「その代(かは)り後(あと)ハ鶏卵(たまご)の雑炊(おじや)ばかり否(いや)なお茶屋で御座い升(ます)ねへ 清「何にしろマア御馳走になりやせうトお岩に酌を取らせ迎ひ酒の熱燗を苦い顔をして飲みながら 清「実に無理酒ハ身体(からだ)に当るよ家(うち)で彼様(かう)して飲むにかぎる 岩「実正(ほんとう)に余りたんとハお毒に成(なら)うかと思ひ升 清「酒をたんと飲む人ハ往昔(むかし)から長生をしねへと正札が付いて有るを意地の穢(きた)ねへものさなアと内を外なる行状(ぎゃうじゃう)を顔にも出さず忠(まめ)やかな其仕(し)こなし女房ながら気の毒に思ふゆゑ自然(おのずから)なる愛想も親しき中の礼儀なるべし(「春雨文庫」 村松春輔閲 和田定節著) 芸子に溺れていると周囲にみせて、勤王の活動をしている朝帰りの商人横田清兵衛に、女房お岩が迎え酒の酌をする場面です。明治11年刊のようです。 


田中先生
和雄さんも田中先生を尊敬しておられたわ。父親の浩一さんから「田中先生は松尾様(酒の神様)より偉いんだ」と聞かされて育ったということもあったんだろうが、田中先生が来る日は、先生の泊まる部屋には、朝から火鉢の炭を真っ赤に熾して、部屋を暖かくしておいて、いつ来られてもいいように支度したもんだわ。−
そういう時にはおらも必ず相手をさせられたが、これが辛くての。和雄さんも田中先生も酒が好きだんが、飲み方が違うんだわ。和雄さんは小さなお猪口なんかでは間に合わない方。田中先生は小さなお猪口でちびちびやるのが好きなほう。だすけ、いつでも、和雄さんが先に酔って寝てしまって、その後は、おらが先生のお相手をすることになるんさね。だども、先生は酒が強くてさ、いくら飲んでも寝ないんだわ。三時、四時まで飲んで、いろいろな話をするのさ。これが辛くての。おらは酒を造るほうは得意だんが、むほうは苦手と来ているんだ。(「杜氏 千年の夢」 越後「八海山」杜氏 高浜春男) 田中哲郎という国税庁鑑定官の先生をとのおつきあいだそうです。原文で、「飲」は「上:天、下口」です。 


酒造組合が独自検査
福島県産日本酒「放射性物質なし」 福島第一原発の事故による風評被害を防ごうと、四家(しけ)酒造店(いわき市)の「又兵衛」、渡辺酒造本店(郡山市)の「雪小町」、末広酒造(会津若松市)の「末広」について実施。東日本大震災の発生した3月11日より前の瓶詰めしたものと、11日以降に貯蔵タンクからしぼったものについて、無添加食品販売協同組合検査センター(東京都)が検査したところ、いずれからも放射性ヨウ素131、放射性セシウム134、放射性セシウム137は検出されなかった。今後は、酒造りに使う井戸水も検査し、一層の安全性をPRしていく。同組合の新城猪之吉会長(60)は「こんな時だからこそ自粛自粛と言わず、酒を飲んで英気を養ってほしい」と話していた。(読売新聞 '2011.4.9) 


濁酒に造る
そうじて伊豆諸島の食生活は、陸や海からさまざまな食品に恵まれているが米を主食として食し、味噌・醤油などの穀醤類を用いてきた幕府の役人たちの眼には、かなり貧しいものと映ったようである。『伊豆日記』の著者小寺応斎とともに、伊豆諸島巡検に随行した太田彦助の『廻島雑話』には「貧民の常食」として「あした草(明日葉)・薩摩芋・里芋」が挙げられている。しかし季節性があることから、これらは七、八月は大いに食するが、正月から二、三月までの冬が厳しく、二月末から明日葉が、四月上旬からは里芋が生えるので、これらを貯えておく必要があることを記している。もちろん、このうち薩摩芋は、次に見るような飢饉対策として享保以降に導入されたもので、それまでは明日葉と里芋が主要な食糧であったことになる。もちろんハレとケの観念はあったが、穀類の供給は乏しかった。同書は「正月といへとも、雑煮を食せす(ず)」として、豊かな者でも糯米(もちごめ)を七、八升搗いて供え餅などにして年神に献じ、残りを油で揚げて茶うけにするほか、濁酒に造ることもあるという。富者でもそうであるから、貧民は正月元日と年越・大晦日だけに米を食べるとしている。(「江戸の食生活」 原田信男) 


酢と化けし樽酒流す大暑かな 狐音
狐音とは、私の漫画の師である清水崑さんの俳号で、この句は『狐音句集』におさめられている。かつて漫画家を志した私は、昭和三十一年から三十五年までの四年間、鎌倉にお住まいの清水崑さん宅に、近くの下宿から通い続けたものである。三十五年夏、崑さんにすすめられ、私は芸人の道に入ることになった。三代目桂三木助門下で見習い前座となったが入門半年で師匠を失い、八代目林家正蔵に引き取られて、芸名林家木久蔵で再スタート、現在に至っている。昭和四十八年秋に真打ち昇進、新宿京王プラザホテルで披露の宴を開いた。その折、祝い酒にいただいたこもかぶりの酒樽を祝辞を述べてくださった崑さんのお宅へお届けした。しかし暑気のため中身がまいっていて、冒頭の句ができた次第。([落語の隠し味] 林家木久蔵) 


ほんとに酔っぱらっていた
私(菅原通済)は生れてはじめて映画というものに出演した。東宝の「風ふたたび」という作品だったが、その中で原節子さんとからんだ場面の酔っぱらいぶりが如何(いか)にもよろしいと、たまたま見学にこられた小津さんの目にとまった。たしか里見ク先生のお宅の園遊会で、どうです、私の映画に一度出ませんか、と野田高梧さんと一緒に例のニコニコ顔で話しかけられたのがきっかけである。(中略)私の酔いっぷり演技的にすぐれていたのではなく、「風ふたたび」のあの場面は、ほんとに酔っぱらっていたので、小津映画における私の出番が酒席の場面だけに限られることになったのは当然で、そのかわり私にだけはいつも本物の酒を出してくれた。(「わが酒中交遊記」 那須良輔) 菅原通済の「小津安二郎、人と仕事」からの引用だそうです。 


院展の五十三次絵巻
東海道の春をあさつてドエライ絵巻物をつくつたといふ例の四画伯の旅行に、表具師の銀さんがついて行つたさうな、とふのは大観(横山)にしろ観山(下村)にしろ一杯のむと、きつと喧嘩をはじめる。未醒(みせい 小杉放庵)や紫紅(今村)ノノンキ者ばかりではあふりたてはしても、仲裁なんぞは覚束ないといふので、どうしても銀さんが出る幕となつたんださうだ。<大四・四・八・東日>(「新聞資料 明治話題事典」 小野秀雄 編) 


鹿鳴の宴
【意味】席上で鹿鳴の詩をうたう宴会。@昔中国で州県の官吏登庸試験に合格して都に上る者を送った壮行の宴。Bよいきゃくを酒宴 鹿鳴=鹿鳴の詩。詩経の篇名。群臣嘉賓とともに宴してうたう詩。 (「故事ことわざ辞典」 鈴木棠三・広田栄太郎編) 


アンサー
狩猟頭のアンサーが犬を従えて林間を進むうちに、象に倒された椰子の木があった。樹幹には象の牙で突かれた孔ができており、そこから汁液が流れていた。アンサーはその汁液を口にすることを躊躇し、まず犬に飲ませて試験することにした。翌日、犬に何の変調もなかったので、アンサーは元の場所に行って汁液を飲んでみたが、はなはだ美味だったのでつい飲み過ぎて酔い倒れてしまった。翌日、目が覚めてからその汁液を持って王のもとに行き、その来歴、効果を話した。王は心配しながら飲んだところアンサーと同じように酔い倒れてしまった。人びとはアンサーが王を毒殺したものと考え、その弁解も聞かずに彼を撲り殺してしまった。やがて目覚めた王はその理由を聞き、怒って下手人を死刑に処するとともにその飲料を「アンサー」と名付け、狩猟頭の名誉を語り伝えることにしたのである。(「日本の酒の歴史」 加藤辨三郎編 山崎百治『東方発酵化学論攷』より) アフリカ、黄金海岸の伝説で、ウェルズが紹介しているそうです。(「酒鑑」) 


酔いどれねずみ
地下室の酒倉で、ひっくりかえったブランデーを一リットル以上もガブ飲みしたネズ公が千鳥足で、あっちへよろよろ、こっちへよろよろ歩いていたが、とつぜん大声をはりあげて、どなった。 −てやんでえ、おれをなんだと思ってやがんだ。猫でも鉄砲でももってこいてんだ!(「ふらんす小咄大全」 河盛好蔵訳編) 


第八十二段
御供(おとも)なる人、酒を持たせて、野より出(い)で来たり。この酒を飲みてむとて、よき所を求め行くに、天の河といふ所にいたりぬ。親王(みこ)に、馬の頭(かみ)、大御酒(おほみき)まゐる。親王ののたまひける。「交野(かたの)を狩りて、天の河のほとりにいたるを題にて、歌よみて、盃させ」とのたまうければ、かの馬の頭、よみて奉りける、
狩り暮らし たなばたつめに宿からむ 天の河原に われは来にけり
現代語訳
(そこへ)お供の人が、従者に酒を持たせて、野原のなかからあらわれた。この酒を飲んでしまおうということで、適した所をさがして行くと、天の河という所に到り着いたということを題として、歌を詠んで、(そうして)盃はさすがよい」とおっしゃったので、かの馬の頭が(次のような歌を)詠んでさしあげた、−(日が暮れるまで一日中狩して、今夜は織女に宿を借りることにしましょう。<気がついたら>その名も天の川という川原に私は来ていたのだった)(「伊勢物語」 石田穣治訳注) この頃は、歌に酒を読み込むことはなかったようですね。 


こうじの酵素
こうじの中には数多くの酵素が含まれていますが、清酒製造にとって重要なのは次の四つです。@α−アミラーゼ…デンプンに作用して図(略)のようにデンプン分子を大まかに切断してゆきます。この酵素が働くとデンプン液の粘度は急速に下がり、ヨードを入れると青くなるデンプン液の反応が速やかに消失します。最終的にはブドウ糖(図(略)の○ひとつ)が二つ結合した麦芽糖(○○)にまで分解します。Aグルコアミラーゼ…デンプン分子の端から、グルコース単位にせっせと切断します。B酸性プロテアーゼ…タンパク質に働き、これを大まかに切断して種種のペプチド(アミノ酸が数個結合したもの)を生じます。C酸性カルボシシダーゼ…主としてペプチドに作用して、端からアミノ酸を放出します。(「酒博士の本」 布川彌太郎) 


式三献の儀
酒宴が始まると、一献目の盃が主人と相伴役によってすすめられる。主人は正客に盃を献上し、相伴役はもっとも上座の客に献盃する。正客の盃は奧座(北側)の人々に、最上位の客は端座(南側)の人々に、盃を順に送って末座に及んだ。今日の酒宴で見られるように、各人の前に小盃を置くのは後代になってからのことで大盃を上座から下座へ順送りするのが正式の酒宴作法であった。実際、飲酒に際してはまず酒肴がすすめられ、つぎに盃に注がれた酒を飲む。これが初献である。つぎに、盃がまわってきたとき、別の酒肴で酒を飲む。二献目の盃事である。続いて三献目の盃事におよぶ。これが式三献の儀である。このような回し盃は数献、ときには十数献におよぶことがあった。式三献を正式の酒宴いわば宴座(えんのざ)とすれば、その後の数巡は二次会的な隠座(おんのざ)であった。このように平安の宮中儀礼に由来する式三献は、元服式、甲冑(かっちゅう)初着祝や政所(まんどころ)初めなど、武家社会の公式の酒宴儀礼として定着した。(「日本の酒5000年」 加藤百一) 


平手御酒
天保八、九年の頃、それ迄同国印旛郡豊住(とよずみ)村竜の台(りゅうのだい)の佐倉浪人鈴木それがしというものの剣術道場に食客をしていた無宿浪人平田深喜(みき)が丸腰の病みぼうけたしょんぼりとした姿で、この笹川へ繁蔵を頼って来た。これが巷説の平手御酒(ひらてみき)で、その頃三十一、二歳であった。剣道は大した腕ではなかった。それでも、賭場を利用して笹川の身内や、土地の人たちなどへ、一手二た手の指南をしたことは事実で、痩せて丈の高い平田が、胴を着けたままで、茂蔵の家の前でよく日向ぼっこをしていた姿を朧ろげに記憶していると林甚右衛門翁が話していた。平田深喜が平手御酒になったのは音便が通じるために後年誤られたもので、平田死後六年、嘉永三戌の八月十五日に平田の後生を弔って土地の名望家土屋半左衛門が須賀山西の内、真言宗延命寺の墓地に建てた高さ二尺幅八寸余の小さな墓には単に「平田氏之墓」とのみではあるけれど、平手でないことだけはわかる。−
この日、深喜は、白地の絣の単衣(ひとえ)に、小倉の袴をつけていた。これは林甚右衛門翁が、当時まだ七つ八つの子供だが、夜が明けて、喧嘩がすんでから、繁蔵の家の前にまだ虫の息で倒れていた深喜を、世話するものがないので、町代(村の世話役)の手で、一旦、繁蔵の賭場へ担ぎ込み、村の若い者が交代で看護をしている前後を、見物に行って、朧げに記憶しているとの話であった。(「続ふところ手帖」 子母澤寛) この出入りで、繁蔵側のただ一人の死者が平田だったそうです。 


連杯
なお、これまで述べてきたように、日本では結婚式の三三九度において平盃と長柄の銚子とか神酒徳利が用いられるが、Dの「特別な酒器の有無」をみるかぎり、こうした儀式用の専用酒器があるのは、このデータでは台湾山地だけである。台湾のパイワン族やアミ族は、先に述べたとおり連杯という特殊な酒器を有する。連杯は、明らかに「契りを交わす意味合いで用いる」のである。もっとも、この連杯の祖型は古代中国にある、という説がある。しかし、現在に通じるものではない。ここでの回答(中国)は、「古代は多種多様の酒器が使用されたが、近代ではほとんど残存しない」というもの。−
台湾のパイワン族社会では「連杯で飲むのは粟の酒もしくは米の酒で、それ以外の酒で飲むことは決してない」とする。こうした特別の酒の存在をありとしたのも、台湾山地だけである。そのほかでは、特別な酒の存在はなし、としたところが一五カ国、不明が三カ国、あとは回答なしであった。(「三三九度」 神崎宣武) TaKaRa酒生活文化研究所がまとめた、世界各国の飲酒スタイルについての調査データだそうです。 共飲盃 


お雛様
この親方と私の父は、鮓屋の親方と客を超えた親友であった。現在は店を改築してしまったが、当時はカウンターの一番奥に樽酒が据えてあり、そのすぐ脇が父の定席だった。「年に四百回は来てた」というほど通っていたが、元来体が弱く食が細かった父は何を注文するわけでもなく、細身のグラスで樽酒をちびりちびりと飲んでいた。親方は様子を見ながらほんの少しの肴と、「お雛様」と呼んでいた小さなにぎりを二つばかり出す。(「食物のある風景」 池波志乃) 浅草・美家古寿司先代と金原亭馬生だそうです。 


月の丸さもただ一夜
さて、かの酒屋の万屋の宗平さんは大の和尚の帰依者であって、店の暇の時には虚白庵を訪ねて法話を拝聴し、和尚から「六韜三略」の兵法などを教えて貰い、それを商売に応用して大きな資産を築いた。仙高ウんは時には、「宗平さんな、金さえ儲ければよか人じゃケンナー。」と彼に皮肉とも戒めともつかぬ言葉をなげた。宗平は、和尚が山芋が好きなので和尚に進呈し、そのかわりに画を描かせると云う中々算盤高い人だったらしい。和尚はその晩年宗平に対して次の戒めの句をお盆の底に揮毫して与えた。 おごるなよ月の丸さもたゞ一夜 仙菩薩 と、宗平は深くこの教訓を胸にたいし戸棚の上に掲げていた。(「仙黒S話」 石村善右) 


徳利搗き
大凶作の時などに、玄米を買って徳利でついて白米にし、できるぬかや粉米を適当に利用した。明治以降も、戦時中の配給米などについて、事情、目的は違うが、びんの中などで同様の事が行われた。勝海舟(一八九九年)の『氷川清話』に、<天保の大飢饉の時には、おれは毎日払暁に起きて、剣術の稽古に行く前に、徳利搗といふことをやつたョ。これは、徳利の中へ玄米五合ばかりを入れて、その口へはい(ひ)るほどに削つた樫の棒で、こつこと搗くのサ。おれは毎朝掌(て)に豆の出来るほど搗いてこれを篩(ふるい)でおろし、自から炊いて父母に供したこともあるョ。これは、白米が高くてとても買はれず、かつは玄米にすると、糠や粉米が出来るから、小身者ののみなすことだ。世間には、また、かういう風にした米の研げ汁を貰いに来る細民もあつたョ。しかし徳利搗にはおれも閉口したツケ。−>(「飲食事辞典」 白石大二) 


取揚(とりあげ)ばゞ(婆)みそづけ抔(など)で一つのみ いわゐ(祝い)こそすれいわゐこそすれ
出産も無事終って、大役を済ませた取揚婆々(産婆)はホッと一息。取り敢えず出産の祝いにと、酒が供される。あわただしい最中で、何の用意もなく、有りあわせの産婦用の食べ物である味噌漬けを肴に、祝杯と相成った−。 ○みそづけ=粥・湯漬け・味噌漬けなどが産婦の適食とされていた。「味噌漬けのなくなる比(ころ)は宮参り」(柳八六)という句もある。(「誹風柳多留三篇」 浜田義一郎−監修) 


酔わぬ酒
劉生は野暮である。肺病といわれ鵠沼に転地した頃から劉生の絵は売れるようになった。大阪の芝川照吉がパトロンであった。まずオルガンを二階の居間に据えた。教会で習ったのであろう。オルガンの音が好きなのでと云っていた。賛美歌をつくった。それから大島紬の着物羽織を着た。これは市中の成金が着るのもであった。或日、私に云った。「この間、銀座を歩いていたらバーナード・リーチが子供達に絣の着物をきせてぞろぞろ歩いていた。」リーチならそんな光景があるかも知れないと思うと「リーチきものの子沢山アハハ。」と云ったがこれなど上出来である。清宮彬が来ると漫才のようであった。御題話もするし長唄もうたう。ベルカント唱法の長唄だから師匠が何と云ったろう。しかし大声を出すことは鬱気を発散することだ。時に神妙な俳句を作る。 飯うつすにおひに秋を好みけり 鵠沼の海岸に毎日散歩に行った。私の足袋に穴があいた。そこで「足袋は道づれ」と云うと劉生が咄嗟に答えた。「酔わぬ酒」 しかし劉生はイキがると野暮になる。(「云わずもがなT」 中川一政) 酔いはない酒 


「五月幟(ごがつのぼり)」
長屋の熊さんに男の子が誕生、子どもの初節句の人形でも買ってやれと伯父さんから祝い金をもらう。熊さんが人形を買いに出かけると、魚勝の二階に街の連中が寄り集まっていて、「兄哥(あにき)、喧嘩の仲裁をしてくれ」と頼まれる。熊さん、人形のために預かったなけなしの金をはたいて酒と肴をふるまい、一杯やって手打ちにしてしまうが、そこに出てくるのが鰹の刺身。−
熊さん、へべれけになって家に帰ると二階で寝てしまい、節句の人形どころではない。情けなさに女房が泣いていると伯父さんがやってきて事情を聞き、小言を言う。この時の熊さんの言いわけが傑作だ。「うーい、伯父さん、人形は買いました」「どこにあるんだ!見に行くぞ!」「そうやって伯父さんが二階へおのぼりおのぼり。私が酔って赤い顔をしているから金太郎、名前は熊と申します、勝負断ち(菖蒲太刀)。こうして蒲団に包まれりゃ、まろび寝のわれは蒲団の柏餅、かわいと言うてさすり手もなしってのァどうです?」「うまいッ!何か祝ってやろう!」「あはははは、伯父さん、大きな声だ。さ、その声(鯉)を吹き流しにしよう!」(「落語の隠し味」 林家木久蔵) 落語「五月幟」だそうです。 


立ち飲みの店
では、立ち飲みがこれだけメジャーになったことには、一体どんな背景があるのでしょうか。利用する客の視点に立って、二つの理由を挙げてみたいと思います。まずは、何といっても立ち飲みの店が持っている独特の「気安さ」が、支持されている一番の理由でしょう。−
続けてもう一つの理由を考えてみます。立ち飲みの店をのぞいてみると、一人や二人の客はもちろんですが、グループで訪れている人が多いことが見て取れます・そのようにグループで来店する場合の動機としては、「みんなと会話ができる」ということがありそうです。例えば、十名で飲むというシーンを想像してみてください。普通の飲食店で席に着けば、全員で何かについて話をするということはなく、おそらく五名づつの二グループに会話はわかれてしまうでしょう。途中で席替えでもしない限り、全員と話をするのは難しいかもしれません。ところが、立ち飲みの店では自分の席、相手の席というものがありません。あの人と話をしたいと思えば、その人に近寄っていけばいいだけです。つまり、立ち飲みの店では気軽にメンバー全員と話ができるので、一緒に行った人とコミュニケーションが取りやすいのです。(「『お通し』はなぜ必ず出るのか」 子安大輔) 


穴八幡
早稲田中学校並びの角に、堀部安兵衛角打ち(枡呑み)の枡を所蔵している小倉屋酒店があり、坂下になっていて、その坂を上がった所が虫封じの護符で有名だった穴八幡で、酒封じの護符もあり、内緒で母が受けて来たら、一升酒の父が「なんとなく飲みたくない」といい出し、一か月くらいの間は酒を飲まなかったので、不思議な気がした覚えがある。(「日本酒物語」 二戸儚秋) 小倉屋 安兵衛の五合升 


酒だけは残った
夫はレッドパージを受けて一切の公職を離れ、家は農地解放に遭い、財産税のために何十軒もの家作を物納し、かなり大き人生の転換期を味わったことであろう。あるとき義母が私にしみじみとこう言った。「美津子さん、うちは何もかも取られてしもうたけど、酒だけは残ったからなァ…」私は実感には遠かったが、義母にしてみたら、今まで暖かく着ていた身ぐるみを剥がされた気分であったのだろう。(「わたしゃ、まぁ いいほうでさァ」 辻美津子) 岡山県「御前酒」蔵元の戦後だそうです。 


上杉謙信と酒
「武辺雑談」という古書によると謙信は酒好きであったが、その部下にも酒の好きな連中がたくさんいた。直江山城守、石坂検校(けんぎょう)などはその優たるもので、この人達を相手に謙信は毎日酒盛りをやっていた。しかし、謙信にしてもそう大酒を飲むのはよくない事を知っているので、初めは縁側に出て、酒を持ってこいと命じて小さい盃に注意して飲んでいるが、だんだんピッチが上がって来ると、いくら容器が小さくとも酒量は次第に増えて来る。−
前述の通り上杉謙信は春日山城中でトイレットに行く途中で倒れて死去したが、脳出血ではないかという推測ではあるが、では彼は酒が強かったかというと、そうでもないらしい。だが謙信を初めとして、その子景勝(かげかつ)、総大将の直江山城守も相当な飲み手であった。だが、謙信は誰かの文句ではないが、ゼイタクは敵だと言っていないが、日常の生活では質素の極みであったらしい。彼は、酒を飲むのに、いい肴を用意しないで、たいていは梅干しをなめながら飲んでいたという。(雑話藻塩草による)(「味の日本史」 多田鉄之助) 


宇宙第三世代
さて宇宙に旅したはるな二条は、前記の栽培実験のほかに、五ヵ月間保存するという実験にも使われました。保存された大麦種子は、九月二十九日に第十三次長期滞在クルーとともに地球に帰還し、翌二〇〇七年一月から地上で栽培されました。無事に宇宙第二世代となる種子が収穫できたのです。その第二世代の種子を再び群馬県の試験圃場で栽培して、第三世代の種子約四十五キロを収穫しました。これでやっと、実験室でビール醸造試験ができるレベルの量に増えたのです。その四十五キロの大麦が収穫されたのは二〇〇八年五月末でした。せっかくの宇宙麦だから子どもたちととも夢を共有しようと、試験圃場の近くの小学校の生徒に収穫を手伝ってもらいました。夢のある話題ですから、地元紙が取材に来てくれました。その報道が次の報道へとつながり、外電として世界に向けて発信されていく中で、話が大きくなって大事件を巻き起こしてしまったのです。そのニュースの見出しは「サッポロが宇宙でビールを作った」。驚いたのはNASAです。国際宇宙ステーションの中で勝手にビールを作っていたのか。ロシアのスペースとは言え、そんなことは聞いていない。やり過ぎだ。報道が不信感を生み、まさに一触即発の国際危機です。NASAからロシア科学アカデミー生物医学研究所に緊急質問が入りました。仰天した同研究所は岡山大学に連絡し、直接杉本准教授が電話で説明することによって、やっと一件落着したのです。こんな米露衝突の危機を乗り越えて、宇宙からの三世代目の大麦を使ったビール「サッポロスペースバーレイ」が完成しました。三百三十ミリリットル瓶入りが百本という稀少品です。(「とりあえず、ビール!」 端田晶) 


棒縛(2)
主 このころ、一ノ松で立ち ゆるりと用を弁じてござる。まず急いで戻ろう。 歩き出して さぞ 両人の者が、待ちかねているでござろう。 舞台口で 来るほどに戻り着いた。ヤ、また 酒盛の声が致す。さてさて憎いやつじゃ、何と致そう。イヤ、致しようがござる。 二人のうしろへ行き、立つ 次郎冠者 次第次第に面白うなるは。 太郎冠者 そのとおりじゃ。 次 さて、頼うだお方は、両人とも、きっといましめておいたとおぼしめして、ゆるりと慰(なぐそ)うで帰らせらるるであろう。 太 まことに、ゆるりと慰うで帰らせらるるであろう。 次 さてまたこれを、わごりょに飲ませておまそう。 太 また、飲ませてくるるか。 次 なかなか。 蓋を見て ヤ、これはいかなこと。 と正面を向く 太 何とした。 次 その盃のうちをお見やれ。 太 盃のうちが何とした。 次 まず お見やれ。 太 心得た。盃のうちが何とした。 蓋を見て ヤ、これはいかなこと。 と正面を向く 次 何と、頼うだ人のお姿ではないか。 太 まことに 頼うだ人のお姿じゃ。 次 何としてこの盃のうちへ映ったものであろうぞ。 次 イヤ、某(それがし)が思うは、頼うだ人は、しわい人じゃによって、両人ともいましめてはおいたれども、もし 留守に、酒を盗んで飲みはせぬか、とおぼしめす御執心(ごしゅうしん)が、この盃のうちへ映ったものであろう。 太 わごりょはよいところへ気がついた。さだめてそのようなことであろう。 次 これについて謡(うたい)がある。謡うたならば、そなたも合点(がてん)であろうほどに、あとを付けさしめ。 太 心得た。 次 月は一つ、 太 影は、 次 二つ、 次・太 みつ潮の夜の盃に、主(しゅう)を乗せて、主とも思わぬ内の者かな。 主 うしろから扇をふり上げて なんの内の者。 次 ソリャ帰らせられた。(「狂言集」 小山弘志校注) 留守に酒を飲まないようにと、後手縛と棒縛りにされた太郎冠者と次郎冠者だったが、悪知恵でまんまと酒を飲むことができたが、その最中に主が帰宅。 棒縛の大尾。 


慶安年間記事
酒戦といふ事行はる。慶安のはじめ大塚の地黄坊樽次(じおうぼうたるつぐ)、池上の大蛇丸底深(おろちまるそこぶか)などゝ仮名せし大酒の輩(やから)、党を結びて酒を「上:天、下:口 の」みし事あり。其顛末(てんまつ)を記したる「水鳥記」といへる冊子あり(此の書寛文三年に印行せり。池上氏所蔵蜂竜の盃は「奇跡考」に見えたり。又川崎稲荷新田底広が子孫、石渡孫左衛門が蔵せる七合入りの盃あり。中に猩々の舞の蒔絵(まきえ)あり)。 きん(上:竹、下:均)庭(「嬉遊笑覧」の著者)云ふ、「水鳥記」酒戦の事は考へあれども、事繁ければ録しがたし。蜂竜の盃、「奇跡考」に見えたりといへはいかにぞ。「奇跡考」の図は真物(ほんもの)にあらず、其の由は其の説にいへるをや。底広が子孫云々とある広字は深字の誤りなるべし。
延宝八年[一六八〇]
正月八日 茨木春朔卒す(地黄坊樽次と号し、大酒の輩をあつめて酒戦を催したる人なり。谷中妙林寺、小石川柳町祥雲寺に墓あり。「奇跡考」「江戸名所図会」に委し)。
延宝年間記事
○「水鳥記」二冊刊行(樽次底深が酒戦のことを書きたる草子なり)。)
安政六年[一八五九]己未(つちのとひつじ)
(慶安中、大師河原の池上某と酒戦の戯をなしける地黄坊樽次が墓は、卯年の地震に割りたるをつくりひ置きたるが、今度の火事には恙(つつが)なし)。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂 正編刊行嘉永3年) 三浦樽明の墓 ここでもう違っていますね。月岑は結構この酒戦に興味を持っていたようですね。慶安年間は、1648-1652です。 


うらやましい
井上ひさしさんの編んだ『ことば四十八手』のなかに『滑稽辞世三十六歌撰』といふのが収めてありますが、その三十六首を見てもよくわかります。たとえば−
中山平四郎 武士
酒も飲み浮女(うかれめ)も買ひ文も見つ家も興しつ世にうらみなし(「犬だって散歩する」 丸谷才一) 


作家の手帖
私は今では、完全に民衆の中の一人である。カアキ色のズボンをはいて、開襟シャツ、三鷹の町を産業戦士のむれにまじって、少しも目立つ事もなく歩いている。けれども、やっぱり、酒の店などに一歩足を踏み込むと駄目である。産業戦士たちは、焼酎でも何でも平気で飲むが、私は、なるべくならば、ビイルを飲みたい。産業戦士したちは元気がよい。「ビイルなんか飲んで上品がっていたって、仕様がないじゃねえか。」と、あきらかに私にあてつけて大声でいっている。少しもビイルが、うまくない。幼少の頃の曲馬団のテントの中の、あのわびしさが思い出される。私はただ君たちの友だとばかり思って生きて来たのに。(「作家の手帖」 太宰治) 昭和18年の作品だそうです。 


ピーター聖者
昔、何代目かのローマ法王が、昇天して天国の門口へ着いた。その門口で聖ピーターに出遭つた。しかるにピーター聖者は、この者が地上に於ける自分の後継者(ローマ法王)たることに気がつかなかつたので「お前は誰だ」と訊いた。『愚僧はローマ僧団長、兼、神の召使共の召使(ローマ法王の称号)Pontifex Maximus et Servus Servorum Deiでござる』『あゝ、さやうであつたか、しからば、あの鍵はそこに御持ちかな』と聖者が訊く。『あの鍵とは、「天国の鍵」(the key of Heaven)でござりますか』と、もう天国へ行けると思ひ、胸ときめかしながら念を押した。すると聖者は頭を横に振つた。『卿(おんみ)の鍵(酒蔵の鍵)でござる。拙衲(わし)の(ピータース・キー)ではござらぬ』そしてそつぽを向きながら斯(こ)うつけ加へた。『その鍵(酒蔵の鍵)では酒蔵の扉(と)より外は開かないからナ(it will only open cellar doors)』つまり(天国よりも酒倉へ入りなさい)といふ意味である。(juniper,p.179)(「酒の書物」 山本千代喜)