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御 酒 の 話 26




水戸家の煎酒  酔いどれ画家羨望  酔中作  戸外でやけ酒  私の主食  農村居酒屋の登場  酒を飲む、朝酒を飲む、晩酌、大酒を飲む、禁酒  上燗おでん  シュリン(酒林)  酒飲みの習性  たまのさかづき【玉の盃】  膝栗毛  大火以前の雷門附近  飲中八仙、飲儲、盞結、雨風どうらん  青ッきり、裏  ラジオ体操  サカバ  山簡倒載  チョット一杯  ドベ、トモゲ  九十九里浜の居酒屋  橋本夢道、プラトン、ダントン  夏の身は  月見寺(本行寺)  医者の薬瓶  一石八斗兵衛  岡山城主時代    猩々橋  ねずみ釣り  西行の頓作  もとびまち   レーヴェンフック  ビール飲むネズミ  過酒家  瀬戸の杯洗  酒は飲まぬが  名代のヨウカン  樽買ひ  日葡辞書の「Sasa-」単語  アルコールの消毒力  決闘  天明5年の江戸入津状況  中原高忠軍陣聞書  つかみ酒、はぶし酒  酒飲み色々  第五十三段  残杯冷炙、衆酔独醒、杯酒解怨  夏の酒(2)  さけのみ地蔵尊にあったもの  上演中止  コルクガシの樹皮  鰭酒  方言の酒色々(6)  小山酒造㈱と㈱小山本家  地蔵祭り  竪型精米機と日本酒の味  人の健康を祝って飲む  酒だる車  初代川柳の酒句(6)  カローラン、ゴールドスミス、伊藤仁斎  酒は自分が飲めば頭が痛み  力石群  母に教えられた酒「上:夭、下:口 の」みの心  ゑひてのち物をいはぬは  ひもじくなると食事  田出宇賀神社の祇園祭  ぼくの酒  味噌で飲む一杯酒に毒はなし  前身は闇市  特殊な生物  イリシン  井深少年  六人で小酒屋ほどは持て行き  毎晩一合  六十六段 このごろの冠は  誠鏡と醤油とレモン果汁  住江記念館(2)  三十二文のはぐっと上酒  蒲焼  番付批評  "小さなゴマすり運動"を提唱する  きめこむ、きょおすけ、きよわか、きんたろお  三十九 廻る盃  御酒之日記  道端の三輪車で暴走  角うち(2)  明治元年戊辰四月閏九月十六日改元  恐いものは何か  菖蒲を一寸か二寸  御成  一三一 鳥羽で咲く花ヤアレ  四方梅彦  「馬込日記」 谷中編  品評会と鑑評会  ウイスキー暴動  光圀の献立  「許可」の必要な酒造り  茶椀酒、酒の肴、酒のお初  四十二段 五月五日加茂のくらべ馬を  何かといえば「熱燗で一杯」  窓三貫  コロンビア大学の卒業証書  首狩り  マキァヴェッリの手紙  大河内家の雉酒   田舎かたぎ  デンピョウ水滸伝  家醸酒(カヤンジユ)  シロキ、ジングラ、ダリヤメ、テモヤシ  段掛け  日本酒中の香り成分と特徴  仏頂面  げに酒は  たひめん【鯛緬】  γ-GTP、GOT  正太夫と号し  滋養効果  一〇七 腹の立つとき  六月二十三日(土)  流れ盃  気違い水ももちろんノー  フナずし  文久三年癸亥  即座の能  光秀反状の事  場末酒場への旅  要調査  きき酒屋  天狗様の御指図  斗酒学士  高等遊民滝沢蘿文(2)  甘酒売り  けない酒,よれる,やな,うんすけ,いし  葉書を一枚  畏友森谷司郎  酒びたし  酒見神社、酒人神社  人相  身体的依存  六月九日の記  秀吉から贈られた酒肴  本と酒  鞣革ボトル  醴太郎、悦酒滲  弥太一、粉酒、頓酒、亥の子酒  日野原節三  コシ、ゴマズ、ゴング、シモツケ  第二十四段  エドワード・キンチ  武玉川(12)  季節違い  例刻  さけむに-にょらい  米三日分か四日分  梅宮神社  二十三 偏屈人  酒梅  百閒、ジョンソン  頭痛  貧乏神の遷宮  受洗する前  本郷た組の平三  生ビールを放酒  佐香神社  御台家の月見  高等遊民滝沢蘿文  夏の酒  濁酒は白酒、清酒は黒酒  金を出せ  方言の酒色々(5)  水筒にシャンペン   言えば言い得、飲めば飲み得  「嗜癖・習慣性」から「依存」へ   四十段 或人法然上人に  殺人カストリ  飲み屋は大酒飲みを恐れない  酒のさかなの実験  下手なドブロク風  酒で真の憂いは払えない 生島治郎のこと  東京大正博覧会出品之精華(4)  二 小盃  「青べか日記」の句  きょうの酒にはきょう酔うことよ  髭黒の高野の爺  新酒、間酒、寒前酒、寒酒、春酒  ギンダベラ  蛸の入道酒菜の朝臣八足  春の杯・春の盃  『京都土産』  朝起きると、横に女性が寝ていた  下戸ならぬこそ  方言の酒色々(4)  四天王首じつけんに角をもち  煙突と薪  日葡辞書の「Saca-」単語(4)  食道がん   飲めや歌へや  大原盃  質屋蔵  杯の底で金魚を飼ってはいけない  明智光秀信長公を弑する事  衣紋坂四斗樽ほどな日があたり  晩酌はどのくらい  大メーカーの技術者  屋形船の床下  天ぷらで酒  東京大学生徒暴行退学一件  酒は知己に遇って飲み  勤王ばあさん  ビールをお燗  日葡辞書の「Saca-」単語(3)  竹酔日  越後・近江出身者  チャンポン  きちがいみず、きっぱらい、ぎてきのしょおべん  焼酎、焼酎と味醂の混合酒、密造酒、白酒、濁酒、密造の濁酒  こん  第十七回摩阿陀會囘文  一生の顔を  酒豪  キス、キンゴメザケ、クロザケ、ケアコ、ケズリ  風流昔の花見  鯖の塩辛  私の酵母  すいくわ  日葡辞書の「Saca-」単語(2)  対照的  高歌放吟、深夜泥酔  宇佐八幡神社の神饌  ムーン・シャイン  反抗心と空腹  ラヂオあれこれ巷の話題  俺ではない  味の記憶はあんまりない  日葡辞書の「Saca-」単語(1)  ウエストポート  月見寺(本行寺)  ホット・ウイスキー  「酒」といえば日本酒のこと  豆屋  中酒  米俵、酒樽、味噌、醤油  雪の面白う降りたりし朝  矩を越えず  きす、きすくらい、きすぐれ、きすこおじょお他  自分の盃で飲む  朝酒三杯  月岑還暦  酒あっての友




水戸家の煎酒
煎酒は古くから膾、酢の物、刺身などに用いられた。現在刺身といえば醤油だが、刺身は煎酒という鰹節と梅干、それに酒を合わせて煮つめた調味料につけ、ワサビで食べるのが古典的な姿であった。当時のことゆえ煎酒はもちろん自家製である。したがって作り方はいろいろであった。『料理物語』の煎酒は「鰹だし一升に梅干し二十個ほど、古酒二升および水と溜り少々を加え、一升まで煮つめたものをさます」というものだが、水戸家の場合は「古酒一升(少し甘味なる濃き酒よし)、昆布二本(如何にも上々、但細に切る)、梅干二十(但小さくば廿五も入申候)、これに干瓢を昆布の半分、そこへ水一升入れて、よくかきまぜ炭火の上で徐々に沸かし、一升ほどに煮詰める。塩加減せよ」という次第であった。「早入酒」というのもある。これは古酒四盃(甘めの酒がよい)、醤油一盃、酢半分、これを炭火の上でひと煮立ちさせ、おろしてかきまわし、人肌に冷めたらまた煮立たせ、同じように冷まし、三回繰り返すと煎酒になるという。これは今でも立派に通用する調味料であるが、この煎酒、なぜか文化文政のころからそっぽをむかれ、いつの間にか姿を消してしまった。(「水戸黄門の食卓」 小菅桂子) 煎り酒は九二一が伝  煎り酒の作り方 


酔いどれ画家羨望
素面(シラフ)の時に描く絵は、実に写実画で、線の一本一本は、実に丁寧に描かれている。モチーフそのものに、これでもか、これでもかと近づいて行こうとする妥協を許さないデッサンが、そこに介在しているのである。その線のすべてが、彼の繊細な神経そのもののように思えて仕方がない。描いても描いても彼は自分を納得させることが出来ず、何度も何度も検討を重ねている。しかし、一旦アルコールが入ると、そのタッチは見事な変貌を見せる。理性で描いた絵が、突如感情をぶつけた大胆な作品となるのである。その明確な色調と、思いきった線の使い方は、意外性という力で私を圧倒させるのだ。私としては、酔いどれ画家の描く絵の方が、素面のそれよりも数倍好きだ。本人さえ何を思って描いたのかわからない神秘性が感じられるからである。もしかしたら彼は、写実で描いているつもりなのかもしれない。しかしそれは、完全な抽象画になってしまっている。ただ、私が家で油絵を描いていて、一つ困る事がある…。父は何だか弟子が出来たみたいで嬉しいらしく、頻繁に私の部屋に出入りするようになるのだ。ある時はボロボロにけなし、ある時は一目見てニッコリすると、さっさと出て行ってしまう。描きかけで、テレビ等を見ていると、「お前は、そんな事でいいのか?甘ったれるな!」と、釘を刺しにやってくる。私がお気に入りのウサギのぬいぐるみを描いていた時の事だ。ホンワリしたパステル調の色彩でまとめ、仕上がりも間近だった。日曜日の朝、最後の仕上げ…とばかりに、キャンパスに向かった私は、ただ茫然と、目の前の「他人の絵」を眺めていた。昨夜、父は酔っぱらって、私の作品にケチをつけにやって来ていた。しかし、私には私の主張といったものがあり、頑としてその絵を直さなかったのである。今、目の前のパステル調のウサギは、セザンヌ調の濃いブラウンに縁(フチ)どられ、全く父の画風に変貌している。酔っぱらって、彼が私の絵の上から描いたのは明かである。その日からなるべく、自分の作品はよそで描く事にしている…。(「愛すべき酔っぱらいに捧ぐ…」 森岡雅子) 


酔中作 酔中に作る 帳説
酔後 楽ミ極マリ無ク             酔うてから楽しみ極まり無く
弥(いよいよ)勝ル 未ダ酔ハザル時ニ。  未だ酔はぬ時より はるかに勝る。
動容 皆是レ舞                動く姿は皆舞ひであり
出語 総(すべ)テ詩ト成ル。         出す言葉は総て詩と成る。(「中華飲酒詩選」 青木正児) 


戸外でやけ酒
翌日岩波(茂雄)に呼びつけられて、君は昨晩山本さんの舞台で気になることがあるといったが、どこだと詰問調でやられた。私は苦笑したが許されず、紙に箇条書きしろと命令された。そこで私は仕方なく書いた。最初に挙げたのが、お吉が村人から「ラシャメン、ラシャメン」とののしられて腹を立てて、渡し場まで来る。そこでやけ酒を飲むのだが、徳利で持ってきた猪口で飲むのである。戸外でやけ酒なら、冷やで茶碗でなくては格好がつかない。しかし山本安英は、作者の山本(有三)先生がそうしてあるのだからといって、改めなかったときいた。(「厨に近く」 小林勇) 


私の主食
先代夫妻はその後、上野池之端の大観邸や伊豆山の別荘で先生とお目にかかり、じっこんにしていただくようになった。そして、意気投合した先代が、先生が一生召し上がるお酒はすべてさし上げます。と約束した。しかし、戦争中はその輸送に大弱り、当時の鉄道大臣、後藤慶太さんにたのみ、糸崎駅長から東京駅長へ、駅長手荷物ということで送ってもらったが、半数しか届かない。そのいわれを後藤さんにただすと、「半分は手数料として頂戴した」という。先生「酒は私の主食である、それを五割も手数料を取るとは…」。後藤さん「不可能を可能にするには、それぞれの所へのお礼がいる。五割の手数料は決して高いものではない」と答えたという。(「さけ風土記」 山田正一) 酔心と横山大観 


農村居酒屋の登場
それでは農村居酒屋の登場はいつごろなのだろうか。おもしろい資料が二つ見つかった。一つは、安政二年(一八五五年)に下沢村の茂十ら居酒屋仲間四人が、村役人(藩か旗本配下)宛に、酒は一人につき一合茶碗を超えては売らないこと、二、三人で飲み合う酒は村内の者、往来の旅人ともに一切売らないというお達しを今後遵守し、もしそれを破ったたら「居酒屋渡世相休可申候」(居酒屋商売休みます)というものである(『鹿沼市史 資料編 近世一』、四二五~四二六頁)。もう一つは、翌年の一八五六年、下南摩村の百姓造酒右衛門(みきえもん)が、関東取締出役(幕府の役人)宛に、酒の小売を禁じられたが、これでは生計が成り立たないから、「前々之通リ小売酒商へ仕候様被仰付被下置度組合一同偏ニ奉願上候」(従来通り居酒屋商売お認めくださいますよう組合一同ひとえに願い上げ)たものである(同、六九五頁)この二つの資料から何が読めるか。まず、居酒屋商売が、幕末期には藩や幕府の統制を受けつつも認められており、ただ時折、禁止の命令が出たのは、闇居酒屋が多くなって、村への貨幣・商品経済浸透の歯止めが利かなくなっていたこと。つぎに、前者の資料では下沢村の四人が居酒屋の仲間をつくるほど、村に居酒屋が多かったこと。後者の資料では「組合(五人組)一同」つまり村人が居酒屋の存続を希望していたことがわかる。さらに農民が副業として居酒屋を経営していたことも読み取れよう。(「居酒屋の世界史」 下田淳) 


酒を飲む、朝酒を飲む、晩酌、大酒を飲む、禁酒
【酒を飲む】(本)うちふろ」をたてる(仙台(浜荻))・くださる(出雲)。
【朝酒を飲む】(本)あさかわ」をこぐ(浜荻)。
【晩酌】(本)あがりざけ(新潟県岩船郡)・おしきせ(山梨・長野・岐阜・愛知・三重・和歌山・大阪府南河内郡・京都)・だいやめ(宮崎県都城・鹿児島)・だりやみ(長崎県五島・鹿児島県葦北郡・宮崎)・やつがい(大分)・(補)おしきせ・しきせ。
【大酒を飲む】(補)かすぃーん。
【禁酒】(本)がんし(茨城県稲敷郡・埼玉県幸手)。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録) 


上燗おでん
燗酒と菎蒻(こんにゃく)の田楽を売る。江戸は芋の田楽も売るなり。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 


シュリン(酒林)
酒屋の商号には『何々酒店』とか『何々屋酒店』とかいふのが普通であるが、高知市附近には『東村酒林』だの『合名会社常盤酒林』だのいふ商号がある。昭和七年四月末現在の全国酒造家人名録(東京醸造公論社発行『全国醸界名鑑』所載)に前記『合名会社常盤酒林』といふのが唯一つ載つている。(第百卅六図)高知市外朝倉村の東村鹿太郎氏も、屋号を『米屋』といふ外、『東村酒林』といふ名を樽、徳利、通帳などに用ひてゐたことを私は記憶している。(卅三ノ三)(「酒の書物」 山本千代喜) 


酒飲みの習性
遠藤(周作)の眼から、一般の酒飲みの習性をつぶさに観察してみるとき、これは式亭三馬の『例之酒癖一盃綺言』の八項目にピタリとはまるという。 一、わる口を吐いて嬉しがらす酒癖 二、酔いたる上にて愚痴ばかりいう酒癖 三、盃のやりとりのむずかしき酒癖 四、段々、気のつよくなる酒癖 五、おなじ事をくどくどいう酒癖 六、つれにこまらする酒癖 七、ひとりおもしろくなる酒癖 八、無益のことを争う酒癖 遠藤はこれを見ていると、いずれも自分の知人になにがしかあてはまると思い、要するに酒飲みは憎めない、ということになる。酒癖の悪いのには手こずるが、そのときは閉口しても、あとで当人が後悔し、弱っているさまを思うと、可笑しくなってくるというが、そういう気持ちの中には、幾分かの自嘲が入り混っていることはいうまでもない。(「作家と酒」 山本祥一郎) 


たまのさかづき【玉の盃】
色好まざる男』に云ふた語。「徒然草」から出た語で、同書に『よろずにいみじくとも、色このまざらん男は、いとさらさらしく、玉の巵の底なき心地ぞすべき』とある。
玉の盃底なきが真間へ行き 色好む者は吉原へ
兼好は玉の盃底があり 恋の代筆などす(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


膝栗毛
(十返舎)一九の『木曾街道膝栗毛』に、山寺の和尚が江戸の客のもてなしに、鹿の啼音(なくね)を聞かせようと招待したが、実は鹿の音を上手にやる男がいるので、それを山蔭(やまかげ)に隠して啼かせる趣向であった。ところが鹿先生酒に酔ってしまって、座敷へ酔倒れ、折角の趣向も滅茶になった滑稽がある。それと似た実地の話は、明治初年、芸州広島在の村に、ほととぎすの啼音をたくみにやる男がいたのを、村の物持(ものもち)が雇い、藩士を招待してほととぎすを聞かせた。「此処(ここ)のほととぎすは実に好く啼く。これは好い」と聴いている客は感心して庭へ下り、その声のする方へ行くと、ほととぎすは驚いて山の裾へ隠れようとする中に、踏外(ふみはず)して渓(たに)へ落ち「助けてくれ」と叫んだので、露顕したと言う。頭を打って「テッペン欠けたか」と啼いたかどうか。また村の人が吸筒(すいづつ)を持っていたのを、都帰りの僧が見て、その筒は京の公卿(くげ)が持って歩く小便の器だと言ったので、酒を飲んだ人々が胸をわるくする滑稽がある。(「明治のおもかげ」 鴬亭金升) 


大火以前の雷門附近
雷門に接近した並木には、門に向かって左側に「山屋」という有名な酒屋があった(麦酒(むぎさけ)、保命酒(ほめいしゅ)のような諸国の銘酒なども売っていた)。その隣りが遠山という薬種屋、その手前(南方へ)に二八そば(ニ八、十六文で普通のそば屋)ですが、名代の十一屋というのがある。それから駒形に接近した境界(さかい)にこれも有名だった伊阪(いざか)という金物屋がある(これは刃物が専門で、何時(いつ)でも職人が多く買い物に来ていた)。右側は奴(やっこ)の天麩羅といって天麩羅茶漬をやべさせて大いに繁昌をした店があり、直(す)隣りに「三太郎ぶし」といった店があった。これはお歯黒をつけるには必ず必要の五倍子の粉を売っていた店で、店の中央に石臼を据えて五倍子粉を磨(す)っている陰陽の生人形があって人目を惹いたもの、これは近年まで確かあったと覚えている。その手前に「清瀬」という料理屋があってなかなか繁昌しました。その横町が、ちっと不穏当なれど犬の糞横町…これも江戸名物の一つとも申すか…。-
それから並木から駒形へ来ると、名代の酒屋で内田というのがあった。土蔵が六戸前もあった。横町が内田横丁で、上野方面へ行くと本願寺の正面前へ出て菊屋橋通りとなる見当-
門(随神門 現在の二天門)を出ると直ぐ左に「大みつ」といった名代の酒屋があった。チロリで燗をして湯豆腐などで飲ませた。剣菱、七ツ梅などという酒があった。(「幕末維新懐古談」 高村光雲) 大火とは、光雲14歳の時にあった慶応元年暮れの火事だそうです。 


飲中八仙、飲儲、盞結、雨風どうらん
飲中八仙  中国唐代、詩と酒を愛した八人の詩人。賀知章、汝陽王、李適之、崔宗之、蘇晋、李白、張旭、焦遂の八人。
飲儲  酒の肴のこと。
盞結(うきゆ)い  酒を酌み交わして、誓い合うこと。
雨風どうらん  甘辛両刀づかいのこと。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


青ッきり、裏
そこであの女(こ)も、そばに有つた茶碗に、青ッきり一三息(いき)なしのグイ一四。-
酒も裏(り)におち、おもしろからず。-
注 一三 なみなみとついだ酒。 一四 一息に、ぐい飲み。 六 陰気になる。滅入る。(「化政期 落語本集 屠蘇喜言 猪牙舟が云ふ利口」 武藤禎夫校注) 


ラジオ体操
気持ちのいい8月のある日。何軒かの店をハシゴして、すっかりいい気分になった友人と私は、コンビニでウイスキーと氷とソーダを買い、通りかかった公園のベンチで星空を見上げながら楽しく酌み交わしました。この「星空ハイボール」は、店で飲むものより何だかおいしくて、いいペースで杯を重ね…。はっと気づくと世界はもう朝。そして、なんと我々がぐったりと寝ているベンチの前に大型のラジオが置かれていました。そして我々を包囲するように、30人ぐらいの老若男女。中には、夏休み中の小学生の姿も。「右回し!左回し!イチ、ニー、イチ、ニー!」。あっ、ラジオ体操だ!腕を振り、筋を伸ばし、深呼吸する健康的な60の瞳に囲まれて、下手なたくき寝入りを決め込むよりほかありませんでした。しどけなく乱れたスカートも、片方ぬげた靴もそのままで、ひたすら身を固くして時間が過ぎるのを待つという、非常に辛いひとときでした。(かくこ 30歳 女)(「ますます酔って記憶をなくします」 石原たきび編) 


サカバ
高知県では酒盛のことをサカバというが、その時の酒の肴は皿鉢に盛って出して、めいめいの小皿にとり分けるのを正式にしている。婚礼や船下しなど本式の酒盛にはみなこの作法で硯蓋や鉢台に海山の肴を盛り上げて、それからトリザカナ・ハナミザカナをする作法も決まっている。もとは同じ桶の酒を飲み合い、一つ器のもの同じ鍋のものを食べ合う所に酒盛の大事な意味があったもので、酒宴の料理に三つ物・五つ物などというきまりがあるのも酒盛は正式食事だからである。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 


山簡倒載(さんかんとうさい)
 大酒のみのたとえです。「倒載」は車に載せてきた酒を全部飲み尽くす意味です。
 晋代の将軍山簡は、高陽池のほとりで持参した酒を飲みつくし、酔っ払って帰ったといい、「日莫れて倒載して帰り、茗丁して知る所無し」と歌いはやされた故事からきています。(四字熟語辞典) 


チョット一杯
しかし、一つだけあげると、日本人が、"チョット一杯"というときに指を丸めて杯の格好をつくってあおってみせるようなしぐさをロシア人もしばしばやる。彼らの象徴は少し変っていて、首すじの顎のしたあたりをパチンと指ではじき、ニッと眼をつぶってみせるのである。作家というものは東へ行っても西へ行っても、どんな国のどんな町でも、きっと飲みスケときまっているものだということも、つくづくさとらされるものだが、ソヴィエトでも"ウォツカ!…"とつぶやいて、首をパチンとはじけばたいていのことはのみこんでもらえた。ニッと笑えば、"さァ、一杯やりましょうや"ということになったし、白眼をむけば、"昨夜飲みすぎました"ということになったし、飲んでいるさいちゅうにパチンとやれば"もうヘベレケです"ということになった。(「コンニチワ オサケ!」 開髙健) 


ドベ、トモゲ
ドベ 岩手県下閉伊郡大川村(現・岩泉町)の甘酒はドベといい、稗飯の残りに麹を入れたもので、幾分かアルコール分がある(民間伝承九ノ六・七)。同県遠野市では酒粕を水に溶かした飲料(遠野方言誌)。福岡県京都郡あたりでも甘酒をオドベイといい、土瓶に入れるからなどといっているのは当を得ていない。
トモゲ 岡山地方ではトモゲは麹の種のことだという。トモはこの種を米に混ぜるとみな麹に化するから、仲間にするという意味で、トモという語も同じであろうが、ゲという語がまだ判らない。あるいはコウジの旧語であろうか。以前の麹作りは今よりも一段と神秘なもので、たとえば壱岐島のテモヤシのごとく(民間伝承一ノ八)、家にそれぞれの口伝えがあって、空中の酵母の自然につくに任せていた。従っていわゆるトモゲの経験は、食物文化の一つの進歩であった(民間伝承八ノ八)。(「分類食物習俗語彙」 柳田國男) 


九十九里浜の居酒屋
したがって居酒屋は自宅に帰ってゆっくり晩酌のできない長屋、飯場ぐらしの、家をはなれた出稼労働者や人足などを得意とした。近世の都会や宿場や漁場の一部などで盛んになったものと考えられる。地曳網漁業が盛んに行なわれ多くの入稼漁夫(いりかせぎぎょふ)の集まった九十九里浜地帯(千葉県匝瑳(そうさ)郡尾垂惣領村他十二カ村)の居酒屋の発生状況をみると、正徳二年(一七一二)一軒、寛保三年(一七四三)一軒、安永年間(一七七〇代)三軒、天明年間(一七八〇代)三軒、寛政年間(一七九〇代)五軒、享和年間(一八〇一-〇三)一軒、文化年間(一八〇四-一七)八軒と増加して天保年間(一八三〇)は三十四軒を数えた。この居酒屋は九十九里浜以外にも広く発生したものとみられる。(「酒鑑」 芝田晩成) 


橋本夢道、プラトン、ダントン
かつて「蜜豆はギリシアの神も知らざりき」という俳句のコマーシャルがあったが、その作者俳人の橋本夢道は持物自慢で、酔うと出して見せるクセがあった。それをニガニガしく思っていた人が、ある時夢道が出すと、熱燗をかけたので、大さわぎ。
プラトンは酒の神様ディオニュソスのお祭の時は別だが、よっぱらうまで酒をのむことがなかった。そしてよっぱらっている人を見るといった。「君、鏡をのぞいてごらん。醜態からぬけだしたいと自分で思うだろう」
ダントンが快楽派で女も酒も好きなのに対して、同じ革命派でもロベスピエールは禁欲派で、よく道徳論をした。するとダントンはひやかして「ぼくが妻を相手に毎晩くりひろげる美徳より、しっかりしたものはないよ」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


夏の身はまだゑひながらさめぬるは腹のいづくに酒やどるらむ [酒百首]
夏の夜はまだよひながらあけぬるを雲のいづくに月やどるらむ(古今、深養父)を九音だけ変えたパロディのおもしろさである。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


月見寺(本行寺)
本行寺は、大永六年(一五二六)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永六年(一七〇九)、現在地に移転した。景勝の地であったことから通帳「月見寺」ともよばれていた。二十世の日桓(にちかん)上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交友があり、小林一茶はしばしば当時を訪れ、「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚忠(なおゆき)などの墓がある。戦国時代に太田道灌が斥候台(せっこうだい)を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延三年(一七五〇)建碑の道灌丘碑のみ残る。 荒川区教育委員会 本行寺は荒川区西日暮里3-1-3にあります。 


医者の薬瓶
酒との出逢ひ、つまり初対面だね、それがバカに早いんだ。嘘みたいな話だけど、小学校二、三年ごろ、出入りの酒屋の小僧さんに紹介されたのさ。なアに、そいつだって、せいぜい三つか四つ年上だったんだらうがね。お医者のくれる薬瓶、胴ツ腹に六回分の仕切り線のついているやつさ…なに、知らなくたつていいよ、そいつを渡して言ふには、「おうちの方には内緒で飲んでごらん。すてきにうまいんだから」つてね。見ると、無色透明の水さ。舐めてみたら、舌がピリッとしたけれど、甘くつておいしいんだ。あとでわかつたんだけど、薩摩ツぽのうちの父親(おやじ)が大好きで、バケツ一杯ぐらひ平らげる冷素麺の相の手に欠かせない、琉球の泡盛つてやつだつたんだとさ。そいつを、だれも見てないとこで、瓶の口からチビリチビリやりだして、二日目だつたかに、いきなり目をまはしてブツ倒れちやつたんだとさ。残つてゐた液体から足がついて、うちの注文を失敬した小僧さんは勿論のこと、私だつて目のくり玉が飛び出るほそ叱られちやつたよ。(「医者の薬瓶」 里見弴 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


一石八斗兵衛
○一二三四五六(ひふみよごろく)も同じ時、百貫満足兵衛(ひやつかんまんぞくびやうゑ)とゝに、毛利甲斐守内とあり。長坂血槍(ちやり)九郎、野呂山野孤六(のろやまやころく)、穴山宮内兵衛(あなやまくないびやうゑ)、一石八斗兵衛(いつこくはつとびやうゑ)、三分一所典膳(さんぶいつしょてんぜん)、草刈鎌由兵衛(くさかぎがまよしべゑ)、加賀自由之兵衛(かゞじいうのびやうゑ)の如きも、亦多からぬものなり。(「あられ酒」 斎藤緑雨) 「文化元年、御尋に付申上候とて、諸家より書きて差出したる姓名のおもしろき」だそうです。 


岡山城主時代
ちなみにこの宇喜多秀家、かつての岡山城主でありましたが、岡山の町を盛んにするため、また領内の生産統制の意味もあって、岡山以外での酒づくりを禁じたことがありました。その秀家が今や離れ小島での流人生活です。そのウサをはらすために、文字どおり、のどから手がでるほど酒が欲しかったとしても無理はありません。皮肉なことですね。(「NHKクイズ面白ゼミナール」 鈴木健二・番組制作グループ編) 三原酒 



まずレプチャ語から始めると、レプチャ人は、「粟、ヒエ、米、トウモロコシからつくった酒」を、すべてチ(ci)と呼んでいる。祖形のチ(ci)は『古事記』のマロ(酒)・ガ(酒)・チ(酒)つまり麻呂賀知の知である。チがキ(ki)になったのが、クロ(黒)・キ(酒)、シロ(白)・キ(酒)のキである。チを繰返したチ・チ(ci-ci)が、チ・チュ(ci-cu)から、キ・ス(ki-su)になったのが、大分、愛媛、長野でいう酒である。キ・スはまた久志のク・シ(ku-si)にもなった。八重山では神酒をグ・シ、宮古島ではグ・シー、奄美大島ではグ・セ(gu-se)といっていて、すべて同系である。(「日本語の祖先」 安田徳太郎) 日本語の起源がレプチャ語であるという安田説からの解説のようです。 


猩々橋
(水戸)護国神社前の沢渡川にかかるのは「猩々(しょうじょう)橋」。大鳥居前に小丘の丸山がある。光圀はここ(偕楽園)に高枕亭を設け、中国の詩人で酒と菊を愛した陶淵明の像を安置した淵明堂を建てた。堂には盛唐の詩人・李白と猩々と酒呑童子を描かせた。酒仙・光圀らしい猩々橋由来である。(「水府巷談」 網代茂) 水戸偕楽園に今この橋はないようで、猩々梅林にその名をとどめているようです。 


ねずみ釣り
ねずみは餌を自分の巣へ持って行こうと、両手で持っているらしい。頃合いを見はからってグイと合わせると、ぶるぶるとたしかな手応え。チュウチュウと見事に釣れたが、魚と違ってそのままおいたのでは、自分の手で鈎をはずしてしまうから、宙にぶら下げてぐるぐる廻している。針金製の鼠取りの罠の口を開けて置いて、その中へ鼠をいれてゆるめてやると奴さん自分で鈎をはずしてしまう。それから考えた。こ奴何んとか有効に使ってやろうと、前に使った膳の上の鈴を針金へ通して、鼠の足へクビレるほどに結びつけて天井へ逃がしてやった。あくる晩、夜席から帰って一杯やっていると、天井裏でチリチリとやっている。奴さんいるなと思ってこれを楽しみに飲んでいる。二三日の間は寝ながらも鼠の鈴の音が楽しみになっていたが、それからぱったりほかの鼠もでなくなった。私の考えでは、鈴のついた鼠が、他の鼠にボイコットされたかあるいは猫と間違えられてか、家に鼠が一匹もいなくなった。わが計略図に当った。(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) 


西行の頓作
西行法師、諸国修行の時、三保の松原のあたりにて、追剥(おいはぎ)二三人出て、西行を取まはし、「酒手を渡せ。さもなくば切殺さん」とせちがへども、西行少しも騒ぐ気色なく、「其方どもが刀にて、愚僧が身は切れまじ」と申さるれば、盗人聞て、「なぜに」といへば、「汝ら、この西行がふじみをしらぬか」。(軽口浮瓢箪巻五・西行の頓作・寛延四)(「元禄期 軽口本集 補注」 武藤禎夫校注) 富士見西行(旅装の西行が富士山を眺める後ろ姿を図柄にしたもの)の富士見を不死身とにかけた洒落だそうです。 


もとびまち
住込みがはじまってから最初の「酉元」(もと)が出来上がる日を待つという意味あいかの「「酉元」日待」(もとびまち)は、本仕込みにはいる前に行うお祝いの行事でもある。吉日を選び、神主さんを招いて蔵の裏庭に祀られている酒の神、松尾様に、蔵元、杜氏、蔵人一同そろって造りの安全成就を祈願する。三つの三宝に素焼きの器に入れた塩、米、酒と尾頭付きの鯛と大根、人参、さつま芋、昆布、椎茸、りんごを各々持って、松尾様の祠(ほこら)に供えるのが例年の習いだ。神主さんが一同を祓(はら)い、祝詞(のりと)を上げ、蔵元と杜氏が玉串を上げた後、蔵内の要所要所の御祓いをする。(「四季の酒蔵」 小山織) 


レーヴェンフック
それでも、最大二七〇倍まで拡大できたらしく、彼はそれを通してビールの濁り、雨あがりの水溜まり、はては歯垢まで手当りしだいに観察した。すると、想像さえできなかったミクロの世界がはじめて姿を現したのである。スイスイと顕微鏡の視野を横切る奇妙な動物(彼はそれを動物と考えた)。紐状、円形、鎖状などをした動物。それは、どれも聖書にない生物ばかりであった。「これは大変なことになった!」。あまりの衝撃に身震いしながら、レーヴェンフックは夢中で顕微鏡をのぞき込んだことだろう。彼はミクロの世界に登場した「極微動物(animalcies)」を丹念に描写し、ロンドン王立協会に送った。そのなかに酵母のスケッチを認めることができる。それは一六八〇年ころ、日本では五代将軍徳川綱吉が「生類憐れみの令」を発布していたころの話である。しかし、レーヴェンフックは酵母を発見しながら、それが酒をつくる神様の正体とはまったく気づかなかった。まだ、そこまで科学が進歩していなかったのである。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) レーウェンフック 


ビール飲むネズミ
「ネズミはビールが好きです。水と並べて置きますと、ビールのほうを飲むんです」と京大農学部教授(栄養化学)の伏木亨さん。-
それではと、銘柄名を隠して人間が飲み比べをすることにした。ネズミのように一晩じゅう飲むわけにはいかないが、できるだけ長時間、たくさん飲んで、うまいと思うのを選ぶ。「その結果は、さらに驚くべきものでした。選ばれたブランド群は、ネズミの好みとほぼ一致したのです」-
そこで先生ははたと膝を打った。「胃にとどまる時間が短くて、すぐ排泄される-そういうビールを人間もネズミも好むのではないか。そのほうが、動物の体にとって害が少ないからです」ビールの組成を見てみると、カリウム(K)が非常に多くて、ナトリウム(Na)が少ない。一方、人間ネズミの血液はNaが非常に多く、Kは少なくて、ビールと正反対になっている。「それで人間もネズミも、ビールを飲みすぎて血液中のKがふえるのが困るのです」Kが過剰になると、細胞の活動が阻害される。これは、動物の生命活動の本質にかかわる重要な問題だ。「ですから、早くKには尿と一緒に出ていてもらいたいのです」ビールは飲みたし命は惜しし。それゆえ人間もネズミも本能的に、排泄の早いビールを好むのではないだろうか。(「読むクスリ」 上前淳一郎) ネズミの好きなビール 


過酒家 ゐざかやに入る 王績
此ノ日長ク昏飲ス          終日目のくらむほど飲みつづけてゐるのは
性霊ヲ養フニ関スルニ非ズ。   精神修養と関係ない。
眼看ス人ノ尽ク酔フヲ        人々が皆酔うてゐるのを此の目で見ながら
何ゾ忍ビン独リ醒ルヲ為スニ。  どうして独り醒めてゐるに忍びよう。
注 ○性霊 霊性と云ふに同じ。人の霊秀なる天性である。「生を養ふ」とは、通俗的に言へば精神修養である。王績は老荘思想に浸った人であったから、其の謂ふ所は恐らく「淮南子」に「静漠恬淡ハ、性ヲ養フ所以ナリ とあるやうなことであらう。つまり性を養ふとは、漠然として静かに、淡然として恬(やすら)かにしていることである。此の意味よりすれば、勿論飲み過ぎは修養とはならぬであらう。(「中華飲酒詩選」 青木正児) 


瀬戸の杯洗
御新造様はまた御酒を少しは召上がるが、杯洗は錫流行(すずばやり)の時でしたが錫物はおきらい、『御酒の時に御膳や杯洗を運んで来るのに、瀬戸の杯洗へお猪口(ちょく)をうかせて、それがフツに触れつつチリンチリンと音のするのは至って陽気なもので、御酒の席らしくてよい』といわれました。(「今戸の寮」 篠田鉱造) 明治時代、三谷三九郎の寮に勤めた井沢まさという老女からの聞き書きだそうです。 


酒は飲まぬが
斎藤緑雨が書いたというので、最も知られているアフォリズムは、
筆は一本なり、箸は二本なり。衆寡敵せずと知るべし
というのである。
十返肇さんの評論集「筆一本」は、この警句に由来する。
別に緑雨作と知らずにあるのが二つある。
何だ坂こんな坂
酒は飲まぬが御酒ならいただく(「ちょっといい話」 戸板康二) 


名代のヨウカン
うちのカミさん(池波志乃)は、根が酒好きだから家でも甘い物は食べた事がない。名代のヨウカンの頂き物があっても、家中で何ヶ月間も放っておく、すると自然にヨウカンは角の方から徐々に白く砂糖でゴワゴワになる。それを向こう側が透けて見えるくらい薄く切り、冷や酒を飲みながら、オツだねと云っていた父親(金原亭馬生)の姿しか見ていない。(「食魔夫婦」 中尾彬) 


樽買ひ
酒醤等の空樽を専らとす。故に樽買ひと云ふ。買ひ集めて明樽問屋に売る。問屋より醤油[樽]は製造の家に売り、酒樽・明櫃等はその便に応じてこれを売る。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 


日葡辞書の「Sasa-」単語
Sasa.ササ(ささ) Sapqe(酒)に同じ.酒.これは婦人語である.
†Sasanomi.ササノミ(ささの実) saqeno casu(酒の粕)に同じ.酒を搾った後に残る搾り滓.これは卑俗な婦人の言葉である.
†Sasaye.ササエ(竹筒) 中に酒を入れて、旅をする時に携行する大きな筒. (「日葡辞書」 土田・森田・長南編訳) 


アルコールの消毒力
むかしは焼酎で傷口を洗ったこともあったこともあり、もっとも消毒力のアルコールは、水で七〇パーセント前後にうすめたエチルアルコールである。ふしぎなことに、一〇〇パーセントにちかいアルコールの消毒作用はかえって低い。だから、一〇〇パーセントのアルコールよりも、コニャックやウイスキーあるいはウォツカ、アブサンといったもののほうが消毒には役立つ。(「酒の人間学」 水野肇) 


決闘
決闘が最も盛んに流行した頃の慣例によると、決闘者は、その位置につく前に一寸息を入れ、その間に、セカンド(介添人)が差出すワインの杯を飲むのが慣例だった。そのワインには毒を入れてないといふことを明示する為に、先づ一方の杯にナミナミと注ぎ、次にその半分を相手の杯へ注ぎ分ける。斯(こ)うすると若(も)し毒が入つてゐたとしても、双方が同じ程度に酔ふのである。こんな習慣は、決闘が廃(すた)れると一緒に廃れて了つたが、杯を触れ合はせることや、触れ合はせる恰好をして高く差上げる習慣は今に残つてゐる-昔、何人をも信頼せず、自ら武装して万一に備へてゐた時代の沈黙の遺産として-。(The Wine & Ppirit Trade Record, July, 1926)(卅三ノ三)(「酒の書物」 山本千代喜) 


天明5年の江戸入津状況

郷別  入津樽数(樽)  比率 %
 今津  41,634  5.4
 灘目  318,903  41.2
 計  360,537  46.6
 西宮  74,154  9.6
 伊丹  112,660  14.5
 池田  18,219  2.3
 大坂  33,903  4.4
 伝法 20,748  2.7
 尼崎  6,682  0.9
 堺  11,797  1.5
 計  278,163  35.9
 尾張  50,673  6.5
 三河  55,927  7.2
 美濃  26,232  3.4
 その他  3,165  0.4
 計  135,997  17.5
 合計 774,697 100.0

(注)「江戸積樽数書上之写」(白嘉納家文書)より.(「灘の酒」 長倉保 日本産業史大系) 


中原高忠軍陣聞書
ここで戦陣の酒宴についてついてみると、応仁の乱ごろに侍所所司代を務めた近江京極氏の家老、多賀高忠が著した故実書といわれる『中原高忠軍陣聞書』は、陣酒の作法のことを細かく伝えている。
一、あはび五本の時は、昆布五切れ、勝栗七たるべし。あはび五本は御本意を達すると云心なり。又鮑(あはび)三本のときは昆布三、勝栗五たるべし。
一(中略)出る時は先づ一番に鮑の広き方のさきより、中程まで口をつけて、尾の先より広きかたへ少し食ひて、酒をのむべし。其次二献めに、かち栗を一つ食ひて酒をのむべき也。其次三献めに、昆布の両方のはしを切のけて、中を食ひて酒をのむべき也。毎度軍配の時は、あはび・かち栗・昆布・此三色たるべき也。我家にして軍配を祝ふには、主殿の九間にて南向て祝ふなり。家のつくりやうによりて南へ向きがたくば、東へも向べき也。東南は陽のかたなり。其謂なり。(下略)
このように、酒の飲み方にも、やかましいしきたりがあったことが知られる。(「酒宴のはじまり」 今谷明 「酒宴のかたち」玉村豊男編所収) 出陣の祝い 


つかみ酒、はぶし酒
つかみ酒【料理物語】-
つかみ酒 雉子のわたを、こきみそを少しくはへ、よくたゝきあはせ候て、一足のあしに一本づゝにくしをさし、かのたゝきたる物を、ゆびの中ヘいれあぶり候へば、よくにぎり申候、中もからりとあぶれたると見え候時、ゆびのきはよりきりて、又よくたゝき、又すこしいりて酒を入、間(燗)をして出し候。
はぶし酒【料理物語】
はぶし酒 きじのはの中のふしよりさきをこまかにたゝき、塩すこし入いりて、右のからみ(胡椒、山椒、薑椒)何にても入、さけをよきかんにして出し候也、身をくひ申時、しやうゆう少しくはへてよし。(「和漢酒文献類聚」 石橋四郎編) 鰭酒 


酒飲み色々
中でも藤原朝臣貞主という人は、どんな仕事でもバリバリこなす有能な役人で一目置かれていた存在でしたが、相当仕事が忙しく机の上には書類が山のようになっているときでもお酒を手放さなかったといいます。「酔うて後、いよいよ明」とありますから飲んだほうが明晰となったのでしょう。しかも70歳まで健康でいたといいますから羨ましいかぎりですね。また。平安初期の役人で唐との通訳として活躍した上毛野頴人(かみつけのえいと)という人は56歳で死ぬのですが、「晩年酒に沈みて終わる」とあります。藤原朝臣縵(あや)麻呂ごときは、性愚鈍、何のとりえもなく、父親の威光で職に就いたものの何もできず、ただ酒と色を好むだけ、つまり大政治家の息子で、コネで偉そうにしているものの、ただのプレイボーイという人もいたようです。今の世でもいますよね、こんな人。また、中には酒が上での言葉の失敗で処罰された例も出てきます。天平宝字7年(763)に礼部少輔従五位下中臣朝臣伊加麻呂、同息子真助、造東大寺判官正六位上葛井連根道の3人が酒を飲んだ席で時の権力者の悪口を言い放っていたところ、それを密告され、伊加麻呂は大隅守に左遷され、根道は隠岐に流され、真助は土佐に流されてしまったとあります。密告した二人は、共に無官でしたがその後、位を賜って役職に任じられています。酒の席の上とはいえ「口は災いの元」を地でいった話です。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


第五十三段
これも仁和寺(にんなじ)の法師、童(わらは)の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔(ゑ)ひて興(きよう)に入る余り、傍(かたはら)なる足鼎(あしがなへ)を取りて、頭(かしら)に被(かづ)きたれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞い出でたるに、満座興に入る事限りなし。しばしかなでて後、抜かんとするに、大方抜かれず。酒宴ことさめて、いかゞはせんと惑ひけり。-
かゝるほどに、ある者言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失(う)すとも、命ばかりは一九などか生きざらん。たゞ、力を立てて二〇引きに引き給へ」とて、二一藁しべを廻りにさし入れて、かねを隔てて、頚もちぎるばかり引きたるに、二二耳鼻欠けうげながら抜けにけり。二三からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。
注 一 稚児が僧となる別れというので。 二 芸をして楽しみ興ずる事。 三 面白さに心が浮き立つ余り。 四 そばにある、三本足のカナエ。室内装飾用のもの。 五 頭にかぶったところ、つかえるように感じたので、鼻を無理に平らにして。 六 舞った後で。 七 鼎から頭を抜こうとしたところ。「抜く」は、大きなものの一部を外に取り出す。頭から鼎を抜くのではない。 八 全然抜けない。 九 酒宴の興がさめて。 
一九 どうして助からないことがあろうか。 二〇 この本文は正徹本による。 二一 稲の藁の穂の芯。それを首の周囲にさしこんで、金属の鼎を首の肉から離して。 二二 耳と鼻がもぎ取れて、跡に穴があいたけれど。 二三 あぶない命を拾って。(「徒然草」 吉田兼好 西尾・安良岡校注) 


残杯冷炙、衆酔独醒、杯酒解怨
残杯冷炙
他人の飲み残した酒と、食べ残して冷えた肴のこと。また、冷遇されて、辱めを受けることのたとえをいう。
衆酔独醒
『史記』にある「衆人皆酔いて我独り醒む」の略。まわりの人々はみな酔ったように正道を踏みはずしているが、自分だけは醒めて正義を守っている、ということ。
杯酒解怨
杯を交わして飲んでいるうちにお互いのわだかまりが解けること。「杯酒に怨みを解く」とも読む。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


夏の酒(2)
1307酒のめば身をそこなふと知りつゝも酒のむ人も人のうちかも(左千夫歌集・<全集>)一九七七 伊藤左千夫
1308おとうとは酒のみながら祖父よりの遺伝のことをかたみにぞいふ(石泉)一九五一 斎藤茂吉
1309とろとろと琥珀の清水津の国の銘酒白鶴瓶(へい)あふれ出づ(海の声)一九〇八 若山牧水
1310酸くあまき甲斐の村々の酒を飲み富士のふもとの山越えありく(路上)一九一一 若山牧水 


さけのみ地蔵尊にあったもの
(京節)一、さけのみの じぞうぼさつのほつがんは 苦をば救いて 楽ぞあたえん
(木場節)二、おさなごが そでにすがりてねんずれば 利益あらたの 石のみほとけ
(遍照節)三、つみありて むつのちまたにさまよえる 人にかわらぬ ちかいとうとし
断酒祈願札三枚
酒のみじぞうのせわぼしゅう 青山さんが、ひとりで酒のみじぞうのおせわをしています。青山さんが、かぜをひいたりいんたいした時は、酒のみじぞうのおどうはしめたままになってしまいます。だから酒のみじぞうやおどうのおせわをしてくれる人をさがしています。
平成15年11月に行きました。この時は、渋谷区本町5-2-13に社がありましたが、今は渋谷区幡ヶ谷2-36-1の清岸寺へ遷座されたそうです。 酒呑地蔵 

上演中止
演劇改良に端を発し、脚本の検閲にもきびしさの増しているさなかの大正十二年(一九二三)七月二十七日夜、富山市の大正座で上演中の初代中村雁治郎一座による菊池寛作『籐十郎の恋』に、上演中止の処分がなされる事態(じけん)が発生した。午後八時をまわって、舞台(しばい)が第二場離れ座敷の場に移らんとしたとき、突如として臨管席の富山県警察石黒警部より「上演中止」の声があがり、風俗壊乱の理由をもとにこれ以後の場の上演を禁止するとの富山県警察部の命令を伝えた。この事態に、初日とあって満員(おおいり)の観客はいっせいに立ちあがり、口々に警官の非をならしながら舞台に殺到(おしよせ)、警官に罵声をあびせるなど大混乱を引きおこした。事態不穏(おだやかならず)とみた富山県警察は、多数(おおぜい)の警官を応援にかり出し、騒ぎつづける観客を静めて解散させた。出演中の俳優連(やくしゃたち)はいずれも亢奮さめやらぬ面持ちで、一同旅館に引きあげたが、知らせをうけた松竹(まつたけ)では、ただちに狂言(だしもの)のつき変え、興行打切りをふまえた善後策の検討にはいった。-
松竹では『籐十郎の恋』の脚本(ほん)の一部に改訂(なおし)を加えた上で、七月二十七日より巡業(たび)を再開したが、八月四日までのあいだに秋田、長野、大阪、福岡の各地で上演中止処分がなされている。その後の調査で、富山市大正座での紛争(もめごと)は、中止を命じた警官が酒に酔っていたのに、観客が非難をあびせたことに端を発していたことが判明している。(「大正百話」 矢野誠一) 


コルクガシの樹皮
若い樹から初めて皮を剥ぐのは、樹齢一五-二〇年の間であるが、これは処女(バーヂン)コルクといひ質が粗で、不均一質で、木質をしてゐるので、コルク栓にはならない。獣皮を鞣すに用ひたり、保温器製造用などに利用するだけである。その後、八年置き又十年置きに皮を剥ぐ。度び重なるにつれて、コルクの質は良くなる。剥がれながら樹は百五十年或はそれ以上繁茂する、第二回目に剥ぎ採つた皮は、第一回目に比べ、格段に良いのだけれど、壜の栓にするには厚さが足らぬので、徳利の栓bung for jarや、漁網の浮きなどに使ふ。第一級品たるの要素を備へて来るのは、樹齢四五十年に達してからである。この状態に達してからは、十年置き或は十二年置きに、規則正しく皮を剥ぐ。皮を剥ぐ仕事は、七、八月頃に行ふ。先ず樹の大枝の下に、輪状の二本の切り目をつけ、その二線の間へ竪に三本か四本の切り目をつけ、その刃物の柄が楔(くさび)状に作つてあつて、それを皮の下へ打込んで剥採る。(「酒の書物」 山本千代喜) 


鰭酒
鰭酒。昭和六一年(一九八六)か二年のことだった。『水明』という俳句誌の同人の方が『鰭酒』という名の句集を出版されたことがあった。私はそのとき初めて鰭酒が俳句の冬の季語になっていることを知った。私の飲食物のカードに書き込んだ記憶はないので、念のためさっそく私のためさっそく私のカードを調べてみたが、そのカードはなかった。しかし私は鰭酒というものがいる頃からあったものかに興味を持った。そこで角川書店の『大歳時記』を出して調べたところ、鰭酒が俳句の季語として採用されたのは大正三年(一九一四)発行の『新撰袖珍俳句季寄せ』が最初だが、それには季題だけで例句は掲載されていないと書いてあった。さらに読んでみると、その後大正一五年(一九二六)になって『纂修歳時記』が発行され、それに初めて「鰭酒をあふるに舌の爛れかな(榛山)」の例句が載っていると書いてあった。ついでに『日本国語大辞典』を引いてみたら大岡昇平の『花影』(一九五九)に鰭酒という言葉の出てくることが書いてあった。このようなわけで鰭酒というものは意外にも歴史は新しいものらしいのにいささか驚いているところである。そういえば江戸時代の料理書には変わった酒は一応紹介されていた。たとえば、つかみ酒、はちく酒、はぶし酒、何首烏酒、生姜酒等々は私のカードにも収録されている。それにもかかわらず鰭酒のカードのないのは、少なくとも江戸時代には鰭酒のなかったことを証明しているようなものである。以上のような次第で鰭酒の起源は明治時代としても、その終り頃のことらしい。何しろ俳句の「季寄せ」に鰭酒が記載されたのが前述の通り大正三年だから、その起源は推して知るべしである。(「完本 日本料理事物起源」 川上行蔵) 


方言の酒色々(6)
辛口の強い酒 おとこざけ/おにごのみ/おにころし/おにごろし/てっぺん/ひのくち/やれいたさけ
町内に出た神輿が神社に戻った時に出る酒 しゃいりざけ
忌中祓いに茶漬けの茶わんで出す酒 ちゃわんもり
花嫁の一行を出迎える際に、道を通る人に飲ませる酒 がんどざけ
決算期に支払いに来た人に飲ませる酒 かんじょーざけ/かんじょざけ(日本方言大辞典 小学館) 


小山酒造㈱と㈱小山本家
この蔵は私の曾祖父の初代小山新七が、明治十年(一八七七年)、二十八歳で生家の埼玉県大宮市指扇(さしおうぎ)の代々続く造り酒屋から独立して、"まるまる本物"という意をこめて命名した酒、「丸眞正宗」の造りをはじめて以来のものだ。蔵の建物の多くも、百二十年前のそのころのものである。曾祖父は、すでに廃業していた埼玉県の蔵を買い取り、東京都北区岩渕町のこの地にそのまま移築して創業した。曾祖父の生家は、現当主小山景一さん(昭和十二年生)で、七代目という蔵(小山本家酒造)である。現在は指扇の最先端の設備を整えた蔵で「都鷹」(越後杜氏)を造る他に、秋田や伏見、灘でも酒造りをおこなっている。景一さんに、系譜帳を見せてもらったことがある。本家に伝わる明治二十一年に過去帳から改められた和綴じの系譜帳によれば、私の曾祖父は指扇の蔵の三代目の次男であり、「嘉永元年七月二十日生、明治十年三月武蔵国豊島郡岩渕本宿ニ出店ス」と記されている。さらに曾祖父の先祖といえば、約二百年前、播州加古郡宮北村(現在の加古川市)からやってきた蔵人だった。農家に生まれた小山又兵衛は、灘の蔵へ蔵人として出稼ぎに出て腕を磨き、杜氏となったのだった。その後、杜氏又兵衛は気心の知れた練達の蔵人たちを引き連れて行李(こうり)を担ぎ、東海道をいちかばちかの勝負に出ようと下り、江戸を越えて埼玉県の浦和宿に蔵を借りて創業した。-
「当時、灘の技術で作った又兵衛の酒はこのへんでは群を抜いて旨かったのでしょう。飛ぶように売れたのだと思います。それで石数も増やしていったのでしょうね」と景一さん。(「四季の酒蔵」 小山織) 


地蔵祭り
月給とても潔く月末二十二日とか二十五日に出すのではない。小の月なら三十日、大の月なら三十一日の夜九時頃、支社からボロ円タクで会計が手提金庫を持って来ると、所員一同歓声をあげて一列順行、蜿蜒(えんえん)長蛇の列を作って迎える・太秦(うずまさ)の暗い夜道に老いも若きも、男も女も一列に並んで待っている。その間を提灯で一人一人首実検をして照らし歩き、請求書をつきつける借金取り、俳優から小遣いをせびる暴力団など、まことに珍風景を現出する。それでも今の映画会社のように空手形を出したり、契約金を半分に値切ったりはしなかった。皆楽しく貧乏し、インチキ、ハッタリも愛嬌があったように思う。-
酒が飲みたく、飲み代がないと、どこかから地蔵尊を持って来て、たちまちにして大道具に地蔵堂を作らせ、小道具にお供えや燈明をつけ、衣装屋に紋服を借りて地蔵祭りを始める。所長を始め我々も何がしかのお賽銭を三方にのせて、拝まされる。渾(渾大坊五郎)さんはお燈明をあげて、「おい今夜中に綺麗に片付けとけ」と叱言(こごと)をいう。翌日になれば跡形もなく地蔵堂は消え、参列者はたら腹飲み食いが出来るというものである。(「私の人物案内」 今日出海) 新興キネマに監督として参加した時代の話のようです。 


竪型精米機と日本酒の味
日本酒の味の大きな変革は、昭和五年ごろから導入された、竪型精米機によるものと私は思っている。この精米機によると精白度は思うがままで、今日の吟醸酒の出現も、この精米機があってこそだと言えよう。精白度がすすむにつれて、日本酒の味は洗練されて、上品で落ち着いた「うまみ」をただよわすようになった。(「日本酒」 秋山裕一) 


人の健康を祝って飲む
【解説】宴会のときに親しい者、上官の者、尊敬する者、崇拝する神、または列席の全員の健康やその会の発展を祝って乾盃することは、遠くエジプト時代から始まり、アッシリア、ヘブライ、ペルシアと受けつがれて、ギリシア、ローマに及び、現在にいたっている。ギリシアでは美の三女神のために三杯、詩の九女神のために九杯飲んだ。この習慣は教団でも行われたが、要するに飲ん兵の口実にほかならぬとして、絶えずこれを禁止していた。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助) 


酒だる車
そしてまもなく、麻布一本松町の酒商天野鉄次郎方に落ち着いた。-
同家での伝兵衛の仕事は醸造が主であったが、かたわら販売も行なった。その仕事は、にごり酒が入った荷おけをかついで売り歩くのである。-
そのころ、芝白金今里町には当時外務卿の寺島宗則が、高輪南町にはもと元老院議員後藤象二郎が住んでいた。伝兵衛は荷おけをかついで入ろうとしたところ、肥おけとまちがえられて、門番にひどく問責されていた。そこにちょうど後藤象二郎が現れ、「お前は何を売るものか。」と問うたので、伝兵衛は丁寧に「わたしはにごり酒を売るものです。」と答えた。伝兵衛の態度を一目見るなり、「よろしい。おれが一升かってやる。」と即座に買い求めてくれた。その翌日、伝兵衛は例によって寺島家に行き、続いて後藤家を訪れた。「お前のにごり酒はうまいから、毎日持って来い、と主人の言い付けである。」昨日とは打って変わった門番からの注文であった。それ以来、寺島・後藤両家だけでも、毎日にごり酒が一斗ずつ売れるようになった。このように酒が売れるようになると、伝兵衛はその運搬方法について考えてみた。酒おけをかつぎ歩くのは重いばかりでなく、敏しょうに活動ができない。これを何とかできないものか、と思案した。あれころ考えた末、大きなたるを横にして車に乗せ、そのたるに穴をあけせんをしてみる着想がうかんだ。この装置ならば、必要なだけそのせんを抜いて酒を注ぎ出すことができる。伝兵衛は早速これを造り、車を引き歩いた。その後東京ではみな、この装置の酒だる車をまねて造るようになったという。(「神谷伝兵衛」 鈴木光夫) 神谷伝兵衛20代前半のことのようです。 滋養効果 


初代川柳の酒句(6)
中川て生酔笠をやつと取 眠狐(中川の番所で名を問われて)
神酒をすゝめて手習子いとま乞 眠狐(寺子屋卒業の礼酒)
しいられて上戸山椒のほうにしやう 五扇(甘くない山椒入りを選ぶ)
けちな晩ン酒と夜食て一分なり 五楽(おいらんが来てくれない)
後の月さかつきのないてうし也 泉河(どら息子が勘当されて銚子へ)(初代川柳選句集上 千葉治校訂) 


カローラン、ゴールドスミス、伊藤仁斎
 アイルランドの詩人カローランはウイスキーが好物で、臨終の床でも飲みたがるので、家人がウイスキーを一ぱい渡したが、もう飲む力もなく、「ああ!親友に最後のキッスもできないのか!こうなればもう何の欲もない!」
 ゴールドスミスの「下宿代が払えず困っている」という手紙を見て、ジョンソンはとにかく一ギニー送って、ゴールドスミスを訪ねてみると、彼は酒を買って下宿のおかみと飲んでいた。そしてジョンソンに「あれっぽっちじゃ酒くらいしか買えないよ」
 延宝元年、京都で大火があった。伊藤仁斎の古義堂も焼けたときき、ある人が見舞いに行くと、近くの堀川に縁台を置いて、仁斎は酒を飲んでいた。「老人があわててケガをしてもと、何も持たずに早くからここに来ていました。あなたもおひとついかが?」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


酒は自分が飲めば頭が痛み、人が飲めば心が痛む[チベット]
 チベットは高地にあるので、酒を飲みすぎると頭が痛くなる。飲めば頭痛がし、人が飲んでいるのを見るとうらやましさや悔しさで心が痛む。飲んでも飲まなくても辛いことには変わりはない。
酒は飲んでもふん別な飲むな[ポルトガル](酒は飲むとも飲まれるな)
酒は貧乏人の外套[スウェーデン]
酒は水を加えれば味が落ち、水を加えなければ人が堕落する[スペイン](「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


力石群
この境内にある「力石」は、大正年間(一九一二~一九二六)、当時この道の力士として有名であった神田川徳蔵こと飯田徳蔵とその一家が使っていた力石の一部と伝える。なお、江戸後期に、素人の力持ち仲間で著名なものに、神田明神下の酒屋で内田屋金藏、神田鎌倉河岸豊島屋の徳治(次)郎の二人が共に大関格であったとの記録がある。(神田須田町柳森神社境内にある力石の解説文) 豊島屋も白酒で有名な酒屋(現在の豊島屋酒造㈱)のようです。また、金藏は外の神社にも力石を奉納しているようです。 


母に教えられた酒「上:夭、下:口 の」みの心
父が酒「上:夭、下:口 の」みだったので、子供の時分から、母があれこれと酒のさかなをつくるのを見て大きくなった。父は飲むのが好きな上に食いしん坊で、手の甲に塩があればいい、というほうではなかったので、母は随分苦労をしていた。酒「上:夭、下:口 の」みはどんなときにどんなものをよろこぶか、子供心に見ていたのだろう。父のきげんのいい時は、気に入りの酒のさかなを、ひと箸ずつ分けてくれたので、ごはんのおかずとはひと味違うそのおいしさを、舌で覚えてしまったということもある。酒のさかなは少しずつ。間違っても、山盛りに出してはいけないということも、このとき覚えた。出来たら、海のもの、畑のもの、舌ざわり歯ざわりも色どりも異なったものがならぶと、盃がすすむのも見ていた。あまり大御馳走でなく、ささやかなもので、季節のもの、ちょっと気の利いたものだと、酒「上:夭、下:口 の」みは嬉しくなるのも判った。血は争われないらしくうちの姉妹は、どちらかといえば「いける口」である。ビールにしろ冷酒にしろ、酒のさかなはハムやチーズよりも、昔、子供の時分に父の食卓にならんでいたようなものが、しんみりとしたいいお酒になる。昭和ひとけたの昔人間のせいか、女だてらに酒を飲む、という罪悪感がどこかにあるのか、どうも酒のさかなは安く、ささやかなほうが楽である。身体のためにもいいような気がする。(「かんたん酒の肴一、〇〇〇」56・10)(「女の人差し指」 向田邦子) 


ゑひてのち物をいはぬはくちなしのやまぶき色のさけやのむらむ [酒百首]
「酔ってもだまりこくっている人はくちなしに似た山吹の色の酒を飲むからだろう。」-くちなしは実が黄褐色の染料になるので、山吹といつも並称される。口が無いを物言わぬにかけたことはもちろんである。(「川柳集 狂歌集」 浜田義一郎評釈) 


ひもじくなると食事
(和田垣謙三)博士は『月桂冠』を好んで飲んでゐた時代があつた。博士や桂月先生達と高雄山に登つたときには、博士のさしづで一行を案内して往つた書肆が月桂冠を持つて往つたことを覚えてゐる。宴会の帰りに松本道別君達といつしよに伴れられ、小石川の台町にあつた博士の宅へ往つて、夜の明け方まで日本酒やウヰスキーの馳走になつたこともあつた。博士は酒を飲むに、且つ喫(の)み且つ食うやうなことはしなかつた。酒のときには酒ばかり飲み、ひもじくなると食事をした。日本料理の宴会などに往くと、食事がすんでゐない時には膳の物を皆喫つてしまつてから酒をはじめた。博士のその習慣を知らないで博士に随いて酒を飲みに往くと、調子が違つてちよと具合のわるいことがあつた。(「随筆 酒星」 田中貢太郎) 和田垣謙三の酒 


田出宇賀神社の祇園祭
七月一九日午前一〇時から例大祭がとり行われる。終了後、拝殿において直会(なおらい)となり、そこで党屋組以外の一般氏子、来賓にも神酒がふるまわれるのである。夕方になると、西町・上町・本町ごとに大屋台四台がくりだされ、各町をめぐりながら屋台上では田舎歌舞伎が上演される。翌二〇日。まず未明に翌年の党屋組が山に入り、楢(なら)の若木を伐りだして党屋本陣に運ぶ。これは、のちに神輿(みこし)を安置した際にその四方を飾るためである。そして、早朝には、前年の党屋組が神輿を境内にだしての神輿洗いが行われる。午前七時過ぎになると、七個の行器(ほかい)に神饌(三つの行器に赤飯、三つの角樽(つのだる)に神酒、魚台に鯖(さば)七尾)を盛り、党屋本陣から神社の拝殿まで運び入れる。これらの神饌は、いずれも両親の健在な男女が、男は裃姿で角樽を、女は未婚者は高島田に花嫁衣裳、既婚者は丸髷(まるまげ)に留袖(とめそで 紋付)といういでたちで赤飯を持つ。そのあとから当番党屋組の面々が続き、長い行列をつくって、神社までねり歩くのである。参道沿いは観光客であふれ、カメラのシャッターをきる音があちこちで聞こえる。この七行器行列は、この祭りのハイライトである。行列が神社に到着すると、神主の手で神酒・赤飯・鯖の順に神前に奉献される。そして、神事がとり行われ、その後ただちに直会となって、それらの神饌が参列者(党屋組)にふるまわれる。一般の参拝者(多くは観光客)には神酒がふるまわれている。この神酒は、神前に供えられたものではなく、あらかじめ別の容器に分けて確保していたものである。「こんなに大勢の人がこの祭りに集まるようになったのは最近のことなんですよ。テレビや雑誌に紹介されたからです。この祭りの期間だけです、田島がにぎわうのは…」(「酒の日本文化」 神崎宣武) 福島県南会津郡田島町にある田出宇賀(たでうが)神社の祇園祭における本祭りの神事だそうで、神酒の濁酒は七月九日から国権酒造の杜氏を中心にした党屋組の手伝いによって神社で醸されるそうです。 


ぼくの酒
ぼくの酒は十四歳の夏に始まる。空襲の日の朝、庭の穴に埋めた当時としての貴重品、主に食いものを、四日後に掘り出すと、中に梅酒、日本酒、ウイスキーがあった。梅酒はこだわりなく飲み、半月後、なにぶん遅配欠配続きでひもじいから、日本酒は米のエキス、何かの足しになるはずと、ちびりちびり、日に一升瓶半ばを空け、酔った覚えはない。(「アルコール依存症まで」 野坂昭如 「酒との出逢い」 文芸春秋編) 


味噌で飲む一杯酒に毒はなし
これも北条時頼の「肴は味噌でこと足りなむ」と同じで、味味噌は平凡だけれども、手間もかからないし、健康にも一番だという意味。-鈴木朖(あきら)が七十一歳のときに刊行した『養生要論』の中に出てくることばである。-
手味噌酒盛り
手作りの味噌で酒盛りすることで、素朴さのたとえに使われる。
味噌酒は元気をつける
燗酒にした酒に生味噌を溶かした一種の薬酒で冷え性や風邪の引きはじめ、あるいは疲労回復や妊産婦の体力強化などに用いされたもの。-
味噌は酒腹の妙薬
「酒腹」。つまり酒を飲みすぎて、胃や腸の調子がよくないときなど、炊きたてのご飯を生味噌で食べると落ちつくという意味。味噌は発酵食品であり、生きた微生物がたくさん繁殖しているが、乳酸菌や酵母など、その種類は百六十種にものぼりといわれている。加えて消化酵素もたくさん含まれており、非常に整腸効果が高い。(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 


前身は闇市
だが、たとえば七〇年代以前、電車の駅が粗末な木造や低層の建物だった頃には、構内にあるのは立ち食いそばぐらいがせいぜいで、しっかりした食事をしたり、一杯やりたいと思ったら、いったん駅から外に出なければならなかった。そのため腹を減らした電車の利用者は近くの細い路地に入り、気配のよい大衆食堂や中華料理や赤提灯を利用した。今ではあまり使われなくなったが、かつては「駅前食堂」や「駅前酒場」という屋号の店が、どの地域でもごく当たり前に営業していた。そうした駅周辺の飲食街が現在もそのまま残っているのが新宿駅西口の「思い出横丁」なのである。新宿駅だけではない。探せばほかにもある。-
こうした駅周辺のゴミゴミした飲み屋街の由来はだいたい決まっている。それらの前身は太平洋戦争終戦後に駅前に広がった闇市である。(「場末の酒場、ひとり飲み」 藤木TDC) 


特殊な生物
酒ができたのは地球上に酵母がいたからである。しかし、なぜ酵母だけが酒を醸すのだろうか。考えてみれば不思議である。地球上には百万種以上もの生物がおり、何十万種もの微生物が活動している。ブドウに棲みついている微生物にしても酵母だけではない。バクテリアやカビなどはその何千倍、何万倍も多く棲みついているだろう。とすれば、酒をつくる生物がほかにいてもよさそうではないか。だが、これまで酵母以外に酒らしい酒をつくる生物は知られていない。一〇〇万種もの生物がいるなかで、唯一酵母だけなのだ。つまり、酵母とはそれだけ特殊な生物なのである。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


イリシン
たとえば、イリシンは、もともとアワの収穫を祝う行事で、アミ族(台湾の高山族)の正月というべき最大の祭りである。集落ごとに日はちがうが、だいたい新暦にして七月から九月にかけて行なわれる。このイリシンの前奏行事として、男たちが総出で山狩りや川漁を行ない、そこで得た獣肉や魚は、収穫祭の馳走として供された。狩りや漁での功績によって分配量のちがいはあったが、原則として老若男女に平等に分配するのがこの行事の特色である。同じように、酒も、各戸で用意したものを、分配こそしないが、共同で飲むのである。最後には、若者たちが残っている家を探し歩いて飲み干していた。いまでこそ、収穫祭は、そうした附帯行事や儀礼的内容が省略され、歌や踊り主体のものとなっている。酒も市販のものを主に用意する。したがって、当然ながらその期間も短縮された。しかし、本来の収穫祭とは、あくまでも各家の酒造りにはじまり、それらをすべて飲み干したときに、はじめて終了したのである。むらの酒が一滴もなくなったらイリシンが終わり、となった。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 「酒造りから酒干しまでが祭り」であるという命題の例証として書かれています。 


井深少年
鶴ケ城は炎々と燃えさかっていた。井深少年は十二歳を理由に、白虎隊と一緒に腹を切ることは許されなかった。紅顔のほおを涙にぬらし、手を離せば駆けて行って腹を切る気配に、人々はこれを押しとどめるのに手を焼いた。やがて戦火も消えて十五歳の春、彼は単身江戸へ出、横浜あたりで毎夜、酒におぼれ悲嘆の涙をぬぐいながら、薩長の武士と見れば喧嘩を吹っかけ、相手を傷つけば、本人も血だらけで、ジョンソンという宣教師の外科医に転がりこんで手当てをうけた。しかしいっかな喧嘩のクセはやまず、身体中を傷だらけにして、とうとう最後にはジョンソンも始末に困る深手を負い、ヘボン医師のところへかつぎこまれるのである。治療を終えたヘボンは彼を教会に連れて行き、神の前で祈りをささげた。そして、おごそかに井深少年をさとした。「井深よ、お前の復讐する気持はよく分かります。しかし今は、あなたの腕で、力で、やる時ではありません。頭で、心で仇討ちをしなさい」この一言で少年はいたく打たれて、ピタリと喧嘩をやめ、ヘボンのもとで勉強することになった。(「あの日 あの夜」 森繁久彌) 少年は、明治学院をヘボンからひきついだ、井深梶之助だそうです。 


六人で小酒屋ほどは持て行き 宝十三満2
 前句 いやが上にもいやが上にも
おなじ六人でも、これは小さな酒屋ほど酒を持って行く。-答えは大江山へ酒「上:夭、下:口 てん」童子を退治に行く源頼光、一人武者藤原保昌と頼光四天王(碓井貞光・卜部季武・渡辺綱・坂田金時)の六人である。酒好きな酒「上:夭、下:口 てん」童子を酔いつぶすため、神変鬼毒酒を大量に持って行くのである。(「川柳集 狂歌集」 吉田精一評釈) 


毎晩一合
その父が心臓を患って酒がのめなくなった。医者は一合だけ許したところをみると、父が哀願したものであろう。こもかぶりは勿論なくなって、毎晩、一合の徳利をもって酒を買いにゆくのが私の役目になった。父は四十五歳、私は小学校四年生だった。ある日私は父がそれほどのみたがるお酒というものを一口ためして見たくなった。ちょっとすすって見ると、何やら渋いような味がする。もう一口すすってみると、何となく甘いような味がする。家へ帰るころは三分の一くらい減ってしまった。これは大変と井戸端で水を加えた。こんな事が四、五日続いたある日、ついに父は怒り出した。「おれが医者に許されたたった一合のめる貴い酒だのに、こんな薄いものを売るとはけしからん、行って文句を言って来い…」と、母を叱っているのだ。母は仕方なく酒屋へ出かけようとする。私は母のたもとをひかえて、自分の所行を告白した。母は驚いたらしいが、父には内証でそれからは一升瓶を買っておき、使いにゆかせるふりをして毎晩一合ずつのませていたようだ。(「しみる言葉」 阿木翁助) 


六十六段 このごろの冠(かぶり)は
この頃の盃の台は、むかしよりはるかに高くなりたるなり。古代の台持ちたる人は、内証の客に用るなり。
注 内証の 内わの。親しい。(「吉原徒然草」 結城屋来示 上野洋三校注) この徒然草のパロディーを書いた来示は、其角の弟子で吉原の楼主だった人だそうです。徒然草では「この比の冠は、昔よりはるかに高くなりたるなり。古代の冠桶を持ちたる人は、はたを継ぎて、今用ゐるなり。」(西尾・安良岡校注)とあります。 


誠鏡と醤油とレモン果汁
彼は一本の酒とたまり醤油、生醤油を持ってきた。酒は広島の『誠鏡』だ。榛葉には悪いが、私はこの地酒に対して、凡庸という印象しか持っていない。彼は、たまり醤油と生醤油をそれぞれ舐めてから酒を飲んでみろ、と私に言った-たまりとの組み合わせでは、驚いたことに酒にうまみが増して、腰も強くなっている。少なくとも私の知っている『誠鏡』ではない。杯が進みそうだ。さらに生醤油と組み合わせると、変な苦みが出てきた。平凡な味どころか、まずい酒になってしまう。今度はレモン果汁をそれぞれの醤油に垂らしてみる。それらを指先につけて口へ運び、酒を飲む。なるほど、これほどまでに味が変わるものなのか…榛葉はニコッとした。「やっぱり日本酒も食べ物に合わせてやらんと、かわいそうなんだよね」(「うまい日本酒はどこにある?」 増田晶文) 榛葉雅弥(しんばまさや)は、浜松市にある「入野酒販店」の主人だそうです。 


住江記念館(2)
実は七年前定年になる時も、一生楽に暮らせるように金を集めてくれる話があった。それも悪くはないが、札束を眺めてジッとしていると健康に悪いから、研究室を造ってくれと望んだら、三倍の金が集って一生ここにいるようにというので、学校内住江記念館というのが出来た。ここで気楽な研究を続けながら、時々来訪する卒業生相手に気焔をあげている。この記念館は自分の私有物ではないが、維持費もいらない、税金もいらないで一生使える。まことに都合のいい財物である。自分で貰う何百万かを断って、却って大きな得をした事になった。考えてみると、私には全国に散らばっている卒業生と共に税務署に知られない数億の潜在資産がある。(「酒のさかな」 住江金之) 醸造博物館 「酒のさかな」序 現在は、東京農業大学「食と農」の博物館の一部になっているようです。 



三十二文のはぐっと上酒
○酒はよいのがあるか 茶や「ハイ 忠「直段(ねだん)はいくらだ 茶や「一合廿四文と八文 忠「まだよいのがあるか 茶や「ハイ三十二文のはぐっと上酒でござります。云々
 酒の価、寛政十三年頃前記の如くなるを知る。予幼年の頃、万延文久の初(はじめ)頃、上酒一合四十文、次卅二文、廿八文にてありし。此年間凡(およそ)六十年、あまりに高くなりしにはあらず。年の割に高くならぬを覚ゆ。(「砂払(権蒟蒻左)」 山中共古 中野三敏校訂) 寛政十三年、十返舎一九『恵比良濃梅(えびらのうめ)』にあるそうです。後の注が山中です。 酒二百文 江戸の酒価 


蒲焼
蒲焼の出来るまでですか?まずうなぎを「裂き」ますね。御存じのように東は背開き、西は腹裂きです。二段刃を使うと肉が盛り上がります。それから「串打ち」ですが、これはヴェテランが親串を打ちます。左隅の竹串がそうです。しっかり打たないと身がこわれてしまいます。うちでは五本串です。次に皮の方から焼いて油を切るわけなんですが、これを「白どめ」といいます。身の方を焼きすぎたり、たりなかったりするとテリが出ません。ですから「焼き一生」というんです。蒲焼のにおいというのはこの時のもんです。これにたれをつければ関西風の蒲焼「きやき」になります。次に「蒸し」て油を落とします。このとき何回も湯を替えます。油で湯が白く濁るからです。約三十分蒸しましたら皮目の方から日本酒だけを三回刷毛(はけ)でつけます。これが「白焼」です。ええ、日本酒だけです。蒲焼は「たれ瓶(がめ)」に串のままつけて、三回ほど全体にまぶしながら焼くわけです。たれはうちの秘伝でして…そうですね、関ヶ原たまりとヤマサ醤油に九重味醂を使ってますが割合はちょっと…。ただ、一俵の炭がなくなるとたれになると昔から云われておりますが…。うちのうなぎの味は単純で辛いといわれますが食べた後さっぱりするんです。(「食魔夫婦」 中尾彬) 伊豆栄のうなぎだそうです。 


番付批評
鷲尾四郎が『東京新聞』(昭和三十一年一月十七日夕刊)の「大波小波」で、「文壇酒徒番付」を取り上げ、次のような批評を書いている。「○『酒』という雑誌にのつている『文壇酒徒番付』は初場所のおりから、話題にするにはちよつと面白い。○東の横綱は青野季吉老、西が井伏鱒二。これはどうもいただきかねる。むしろ張出大関になつている辰野隆、内田百閒、吹田順助の三人のうちからえらぶべきだつたろう。さて東の大関は尾崎士郎、西は保高徳蔵。尾崎士郎はまずいいとして、保高徳蔵はちよつと唐突ではないか。関脇は東が吉田健一、西は中野好夫で、吉田健一はいいが中野好夫先生には関脇を張るだけの酒量はあるまい。小結は東が小林秀雄、西が河盛好蔵。小林はむしろ関脇の吉田健一と入れかわるべきだ。小林に入れかわっても、吉田健坊なら文句はいうまい。河盛好蔵はしかしちとおかしい。前頭筆頭が東は中山義秀、西が浜本浩でこれはよろしい。○どん尻は東が伊藤整、西は十返肇だけれど、十返先生はこのごろ非常に手があがつているからどん尻では可愛想だ。田辺茂一のようなうるさいのが前頭十枚目もいけない。もつと上位に置くべきだろうし、檀一雄の九枚目も低すぎる。」(「『酒』と作家たち」 浦西和彦編 「解説 雑誌『酒』と佐々木久子」 浦西和彦) 


"小さなゴマすり運動"を提唱する
いやしくも、酒席につらなるからには、仕事の延長とおもうべし。時間外手当などは出ないが、ま、晩飯ぐらいは浮くだろうから、あきらめろ。それにしても、酒というやつは、クセモノである。飲むほどに、酔うほどに、本心が出てくる。いくらシッポを振っても、シッポだけ振っているのと、そうでないのとは、すぐにわかってしまう。俗に、尾を振るイヌはかわいい、というが、イヌは尾だけ振って鼻をすりよせてくるわけではない。カラダ全体で、飼い主の愛情を求めているのである。酒を飲んでゴマをするにも、誠心誠意すらなければ、なんの役にも立たない。すくなくとも、酒のうえですったゴマについては、責任をもつべきである。サラリーマン社会で「いや、あれは、酒のうえのあやまちでして…」などという言いわけが絶対に通らないように、課長は、きみがすったゴマを、飲んだ翌日も、翌々日も、きっと覚えている。会社を辞めるまで、覚えている。-
盗っ人に三分の利があるように、ゴマすりにも"三分の利"がある。率先してゴマすりを自認するのがテレくさいという向きには、まず手始めに「小さなゴマすり運動」でも起こすことをすすめたい。(「男の博物誌」 青木雨彦) 


きめこむ、きょおすけ、きよわか、きんたろお
きめこむ[極め込む](動詞) ③酒などを飲む。(俗語)(江戸)
きょおすけ[京助] 宴席で受けた盃を残らず飲み、すぐに返盃して満々と注ぐこと。→えどすけ。[←京から来る商船は上方の物産を満載して来て残らず陸揚げし、江戸の物産を満載して帰る](俗語)(江戸)
きよわか[清わか] 酒。(またぎ用語)(江戸)
きんたろお1[金太郎] ①赤顔の人。酒に酔って赤顔の人。「金太郎の火事見舞」(俗語)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


三十九 廻る盃
席上には新夫婦が媒酌人に拠(よ)りて来賓に紹介さるるあり、祝いの盃とて金蒔絵したる朱塗の盃が第一の上座より席順を追うて隣席へと廻り来(きた)る、下戸も上戸も恭(うやうや)しく三宝より取上げて盃を押戴き中なる酒を難有(ありがた)そうに啜(すす)りてまた三宝の上に置くとやがて盃は山住の前に来りぬ、三宝を片手に持ちて目八分に恭しく捧ぐるは吉原とやらんより雇い来れる芸妓某、銚子を持して酌に立つは同じ産地の雛酌(おしゃく)某、山住は盃を手に執らず「イヤ僕は飲まん、今日の賀儀を祝する心は飲むと飲まんに拠って変化せんけれども他人(ひと)の口舌に汚れた盃を僕の口に当てるのは快くない、僕の口へ当てた盃を他人の口へ入れさせるのも失礼と信ずる、そのまま次へ」と押し戻す、老伎も雛伎も肝を潰(つぶ)して次席なる鈴子嬢に盃を薦(すす)めたり、鈴子嬢も拒みたくはあれど女の身の力なくて他人の為す如く盃のみを押戴きぬ、数十人の口辺を掠(かす)め去りたる盃は最後に新夫婦の前に置かれ、新夫婦三拝九拝せんばかりに「諸君のお盃を難有く頂戴致します」と口儀を述べて慇懃(いんぎん)に飲みぬ、-(「酒道楽」 村井弦斎) 明治35年に報知新聞に連載された小説だそうです。この当時の結婚式儀礼のようですね。 


御酒之日記
日本最初の酒造技術書はおそらく『御酒之日記』だろう。本書はのちに秋田藩士となる佐竹氏がまだ常陸国佐竹郷に居住していた頃から佐竹家に伝えられている古文書の一部で、東京大学史料編纂所の小野晃嗣氏が『日本産業発達史の研究』(一九四一)中ではじめて紹介された。史料編纂所の所蔵本は永禄九年(一五六六)の筆写本で、原本の成立は文和四年(一三五五)、長享三年(一四八九)の二説があるが、いずれにせよ南北朝から室町時代にかけての酒造技術を知りうる、ほとんど唯一の手掛かりである。都で珍重された河内国天野山金剛寺の名酒「あまの」、菩提「酉元」(ぼだいもと)の名の起源となった奈良菩提山正暦寺の酒「菩提泉」、重陽の節句に用いる菊酒の製法を書いた「菊酒日記」が含まれ、また筑前博多の「ねりぬき」や「きかき」という酒の火入れ法なども簡潔に述べられている。酒の段掛けと火入れに関する恐らく本邦最初の記述があるが、冒頭に「能々(よくよく)口伝(くでん)、秘すべし、秘すべし」とあるように、あくまで秘伝として伝えられた。(「江戸の酒」 吉田元) 


道端の三輪車で暴走
学生時代のことです。その日も大学の近くの居酒屋で大量にアルコールを飲み、一人暮らししていた近くのマンションへ帰ろうとしていたところまでは記憶がありました。ふと気づくと、見知らぬ部屋の机でうつぶせに寝ていた私。正面には怖い男の人の顔。彼はなんとお巡りさんで、そこは大学近くのT塚署。いっきに青ざめました。私は何をしたの…!?聞けば、酔っ払った私は、道端にあった三輪車に乗って暴走したのだとか。しかも注意したお巡りさんに口答えをして、「妹の三輪車を使って何が悪いのか!」と言い張ったそうです。「妹はいくつだ?」「」4歳ですよ! 「干支は何か言ってみろ」「…」というやりとりがあったそうで。そのままT塚署にしょっぴかれたものの、すぶに爆睡してしまったそうです。自転車ならともかく、三輪車をパクってつかまるなんて、情けなさすぎます。あれ以来、三輪車を見るといやな気持になります。(れいこ 31歳 女)(「ますます酔って記憶をなくします」 石原たきび編) 


角うち(2)
逞しい北九州の男たちが渾身の力をこめて担ぎあげる山笠を、三日間にわたって追いかけるという取材の本番である。とにかく暑い。我慢できない。見れば、祭りに出ている人の中にも、途中でエアコンのきいた涼しい店へと入り、ビールなど飲んでいる人を見かける。となれば我々も飲みたいじゃないか。私は取材スタッフの表情を伺う。すると、Mさんと同じ編集委員の女性がよく練れた人で、「暑いですから休み休みやりましょう」と言って、飲みたい私とMさんをしばし解放してくれたりするのだ。では行こう!と私はさっそく飲める店を探し始めるが、Mさんは違う。銭湯を探し、地元であることから、たちどころに見つけてくれる。そして入浴。手間といえば、タオル一本貸してもらうことぐらいで、面倒なことは何もない。たっぷりかいた汗を流し、熱い湯で体を清め、少しばかり涼めば、文字通り生き返った気分。いよいよ飲みたい。北九州の素晴らしいところのひとつに、「角うち」がそこかしこあることが挙げられる。酒屋さんの店先で酒と簡単なつまみを買って飲むのが「角うち」である。銭湯から出て噴き出す汗を拭い、すばやく「角うち」を見つけて入る。大汗をかいたあとでビールをグイーンッと飲むのは体に良くない。私は通風もちである。しかし、そのようなことはどうでもよく、ビールを飲み、焼酎を飲む。このうまさと痛快さは比類なく、祭り取材の間にさらにもう一度ご機嫌な銭湯酒を楽しんだ。(「全然酔ってません」 大竹聡) 北九州市で行われる戸畑祇園大山笠という祭りだそうです。 角うち 


明治元年[一八六八]戊辰四月閏九月十六日改元
○同月(七月)の頃より、下谷御徒町、本所深川、番町の辺其の外に、小身の武士家禄奉還の儔(ともがら)、又は元御用達町人等、商売を始む。骨董屋分けて多し。或ひは貨食舗(りようりや)、酒肆(さかや)、茶店、汁粉、蕎麦、鮓(すし)、漬物、紙類、煙草、蝋燭(ろうそく)、乾魚、其の余色々の物を售(上:隹、下:口 あきな)ふ人多し。夫が中に、下谷おかち町殊(こと)に盛にして、招牌(かんばん)を掲げたるもあり(是を番付に著はし、角力にとりくみ或ひは世間の噂をして童謡(こうた)俗謡につゞりなし、梓に上せて街巷に鬻(ひさ)ぐもの甚だ多し)。しかれども、多くは商賈(しょうこ)の道に疎き輩なれば、贏余(あまり)を以て活計とするに足らず。間もなく閉店の人多かりし。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


恐いものは何か
ある時、源氏鶏太に、「恐いものは何か」と聞いたことがある。すると、「井伏(鱒二)さんと、女房」という答えが、笑いとともに返ってきた。「小説を書きはじめた頃、井伏さんのマネをした時期があった」と答えていた。井伏鱒二が中心になって、河盛好蔵、今日出海、永井龍男ら四人が、毎月一回会をやっている。会場である料亭の名前をとって「鷹乃羽会」という。この会は四人の外に、毎回ゲストを呼んでいる。ある日、源氏が呼ばれた。とにかく、恐い人の一人から呼ばれたのだ。緊張していたのだろう。巨匠揃いの「鷹乃羽会」には、一人として恐くない人はいないのだ。酔っぱらっていつものクセが出てしまった。キレイどころも揃っている。その一人の彼女のヒザ枕で眠ってしまったのだというのである。シツケの厳しい巨匠たちのお叱りをこうむったのは、勿論のことであった。(「ここだけの話」 山本容朗) 


菖蒲を一寸か二寸
七月七日に小豆を七粒「上:夭、下:口 の」めば、一年ぢゆう病気をしない、なんて言つてゐた。これはどうやらゼンザイではなささうだから、いかにも咽喉につかえさうで気がかりである。けれどもこつちは、七月七日の二つの七を一つの七で代表させてゐたからまだしもよかつた。この日に白髪を染めるといふのもあつて、これは蛍を十四匹(月日の二つの七を足したわけである)つかまへ、それで髪を染めると「黒ニ変ズ」とものの本に書いてある。しかしわれわれにとつていちばん役に立ちさうなのは、この日の正午、菖蒲を一寸か二寸、酒で流し込めば、「酒ヲ飲ンデ酔ハズ」といふ、『常氏日録』に見える処方である。もちろん、その一寸か二寸をまるごと嚥(の)み下すのではなからう。そんなことをしてはこなれが悪いから、きつと細かに刻んで醤油をかけ、味の素を振りかけて、それを肴に一杯やるのであらう。(「低空飛行」 丸谷才一) 


御成
御成(おんなり)とは武家棟梁の家督、室町時代であれば足利氏の家督者で、多くは将軍である室町殿が有力守護など重臣の邸を訪問する儀礼のことである。これは、養和二年(一一八二)五月三日、源頼朝が安達盛長の鎌倉甘縄邸を訪れたことにちなむとされる。仁木謙一氏の研究によれば、応永の(一三九四~一四二八)はじめ、すなわち一四世紀の末ごろ、四代将軍足利義持の管領邸御成が始まり、一五世紀に入って義満の死後、管領以外の守護邸への御成が定例になったという。正月中に有力守護邸へひとわたり巡歴することになるので、これをひとまとめに歳首御成と称した。-
将軍(室町殿)が臣下の邸に到着すると、中心的建物である公家邸の神殿にあたる主殿に座り、近臣が左右に並んで三献の酒宴が行われる。その際、三つめの盃は亭主の守護にたまわるのが例である。亭主は将軍の盃をいただくと、用意の白太刀を献上する。献上品には太刀と並んで、かならず馬が用意される。将軍はその名馬を妻戸(つまど)で一覧して一連の祝儀が完結する。以上を「式三献」という。しかし、これで、御成が終わるわけではなく、会所(かいしょ)に部屋を移して、いわゆる「振舞」が行われる。式三献が終了してのち、座を変えて酒宴を開くのは、平安朝の大饗の例にならったものである。酒は七献か九献がふつうで、酒のことを女房詞(ことば)で「くこん」というのは、標準的な賜盃が九献であることからきている。だが室町期の酒宴は豪奢に流れるいっぽうで、ときには十一献、十七献、二十一献の饗膳まであった。もちろん、このあいだに先述の猿楽が演じられ、主人の守護一族の披露、挨拶があり、正客の室町殿への進上物、正客に相伴(しょうばん)する有力者がいた場合、その相伴衆へも引出物が渡された。(「酒宴のはじまり」 今谷明 「酒宴のかたち」玉村豊男編所収) 


一三一 鳥羽で咲く花ヤアレ 女郎(じょろ)は大坂(おさか)の新町(しんまち)にヤアレヤレヤレ 酒は酒屋によい茶は茶屋にヤアレヤレヤレ
この歌は、七七五・七五という変則な詞型だが、実際は次のような二首の歌の順序をわざと変えてうたったものであろう。すなわち一つは三重県志摩郡安乗(あのり)地方「はしりがねの唄」の「鳥羽で咲く花 安乗でひらく とかく安乗は 花どころ」。一つは「酒は酒屋に、よい茶は茶屋に、女郎は大坂の新町に」。特に後者は、『はやり歌古今集』古今新左衛門直伝・木津ぶし、『落葉集』巻七・酒は酒屋、『若緑』巻四・二上り・なる川等に、下句「女郎は木辻の鳴川(なるかわ)に」、また『延享五』には下句「女郎は都の嶋原に」とあり、類歌が多い。「木辻の鳴川」は奈良の町名で、遊里として有名。京の嶋原も同じ。その他、福井県の三国節「酒は酒屋で、濃い茶は茶屋で、三国小女郎はは松が下」など、この替歌は各地に行われ、それぞれの遊里名をあてて歌う。「鳥羽で咲く花」は、伊勢の鳥羽港にいたハシリガネ(針仕兼の訛か)と称する船頭相手の娼婦をさすか。(「山家鳥虫歌 近世諸国民謡集」 浅野建二校注) 伊勢のものだそうです。 


四方梅彦
四方梅彦(よものうめひこ)-この人は柳亭種彦の門人で、河竹新七がいた頃新富座の狂言作者になった。神田明神下の四方という酒屋の主人であった。蜀山人が四方山人と称したのはこれに依ったのだそうだ。能狂言が上手で、孫の力を相手にしてよく狂言をやった。のっそりした人だから狂言には適していた。梅彦は檀林風の俳調をやって、その頃私の森下の庵(いおり)へ来て俳諧をつくった。(「梵雲庵雑話」 淡島寒月) 


「馬込日記」 谷中編
室生犀星が馬込谷中へ越してきたのは昭和三年のこと。近くの文士たちとの行き来が多くなり、特に朔太郎とは親しくなって、 11月25日「萩原と交際するごとに酒のみになること受け合いなり」と記しています。また、谷中は昔沼田だったので、健康上環境抜群というわけにはいかず、11月30日「朝子風邪気味、……夜、朝巳もまた咳をする」と、子供たちの健康を気づかっています。その上、この家は二回も泥棒に入られたことがあると聞いて、強力な番犬を飼うことにしました。12月14日「ブルドックは馬鹿のごとき面相なれど、記憶力深し」(大田区馬込文士村の案内板です) 


品評会と鑑評会
おおむね二月の終わりから三月の初めにかけて、新酒ができると間もなく、税務署単位の酒屋同士のきき酒会が始まる。次に県、さらに全国に一一ある国税局単位の鑑評会、最後に四月に入ってから国税庁醸造試験所における鑑評会で、新酒の全国一位が決まり終止符を打つ。秋、九~十一月ごろ清酒が十分に熟したところで、公の催しとして行われるコンクールを、特に品評会と呼ぶ。-
鑑評会の全国的な催しである醸造試験所主催のものは、明治四十四年に始まり、現在に及んでいる。全国品評会は日本醸造協会主催のものが、明治四十年から昭和十三年まで隔年(大正十二年は大地震のため中止順延)で行われ、戦争のため十六回(昭和十三年)で終わっている。別に日本酒造組合中央会主催のものが、昭和二十七年から隔年に行われたが、三十三年第四回で中止となっている。これは優等を定めるだけで、一、二の順位はつけていない。東京農業大学主催のものは、昭和三十六年に開始され、毎年開催されて現在に及んでいる(昭和四十五年は休止)。このほかに国税局や県主催のものがあり、それぞれ賞状を出している。昭和二十一年から二十六年までは、全国品評会に代わって、古酒の鑑評会が醸造試験所で行われた。(「さけ風土記」 山田正一) 


ウイスキー暴動
アメリカの独立戦争後、その膨大な出費を補うために政府は、1794年ウイスキーに課税をした。これに反抗して民衆がおこした暴動である。まもなく鎮圧されたが、不満な人達は西部に移住し、ケンタッキーでウイスキーづくりを始めた。(「洋酒天国」 開髙健監修) 


光圀の献立
<その三>
御料理
  なつとう汁 うどあへ物 あへまぜ あぶらふ
 後段
  御すい物色々 御さかな色々
御料理
  御汁 しめじ 大こん 牛房  御すあへ 岩たけいりざけあへ わりぐり しようが  あぶらふ いりざけ わさび  松たけ たうふ めうが  御茶
其後御詩歌あり、歌も少々ありし。
後段
うどんたうふ  すい物 みやうが しめじ  御さかな さかふ ごぼう でんがく いも  御汁  すいせん  御酒
御うたひなどありて、ご酒いつもよりよく召上がる也。
「あへまぜ」は『合類日用料理抄』によると、「干物色々削物にし精進物も取りまぜ、精進物のいり酒に水まぜ、酢を加へ、膾(なます)のごとくあへ申候、魚のいり酒より精進のいり酒まし申候。いり酒にすいきみあらば酢を加へ不申候」とある。「うどんたうふ」は豆腐を木綿袋に入れて絞り、すり鉢ですり、それを美濃紙へのばし、また美濃紙を重ねてのばし、それを茹でて細く切ったものである。また「さかふ」は麩を酒と醤油で煮たものという。(「水戸黄門の食卓」 小菅桂子) 


「許可」の必要な酒造り
つまり、濁酒、清酒、焼酎を造る場合は、いかに古来由緒ある神社や寺院の伝統行事であったとしても課税対象となるので、しかるべき公的認可を得なくてはならないのである。とくに、明治二九(一八九六)年に酒税法が制定されてからは、「酒類製造免許」が必要となった。全国には、神酒を自ら醸造して神事をとり行っている神社が四三社ある。平成元(一九八九)年末現在、神社本庁に登録されている神社総数は七万九或〇〇一社であるから、それは、わずか〇・〇五パーセントの割合にすぎないが、まことに興味深いことである。「神社と神酒製造」については、加藤百一氏(日本酒造史研究会)の諸論文に詳しい(『酒史研究2』に所収の「酒造り神事」、「飲酒文化」所収の「神事における酒」など)・それによると、神酒を製造するにあたっては、まず神社側から税務署長あてに、酒の種類・製造見込み数量・製造期間・製造期間・製造方法などについての申告をしなければならない。税務署ではそれを受け、酒税法四一条の規定により、政成酒の数量・アルコール分などを検定確認した上で、酒税を徴収することになる。さらに、酒造許可の条件として、製造の酒類は神社の祭祀用として使用するものに限ること、境内から持ちだしたり販売したりしないこと、製造数量は規定量(現行の認可限度は七キロリットル) を超えないことなど、いくつかの事項を神社側に確約させるのである。ちなみに、酒造許可を与えられている神社のうち、清酒の製造免許を有するのは出雲神社(島根県)・伊勢神宮(三重県)・莫越山(なこしやま)神社(千葉県)の三社にすぎず、他はいずれも税法上は「その他の雑酒」となっている。つまり大半は濁酒なのである。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 


茶椀酒、酒の肴、酒のお初
【茶椀酒】(本)おーでつ(長野県東筑摩郡)・かくうち・かくち(福岡県朝倉郡・熊本県南関)・かくまわし(佐賀)・ちょ-けんぽー(茨城県那珂郡)・てつ(長野)・てっぱ(長野・新潟県頸城地方)・てっぱち(てっぱ)(千葉県山武郡)・てっぽ(長野県東筑摩郡)・とんばち(茨城郡稲敷郡)・もっきり(東北地方・越後・茨城県多賀郡)・(補)てっぱつ・てんもく。
【酒の肴】(本)あて(三重県宇治山田)・くちとり(島根県邇摩郡)・さけのつまり(河中島(俚言増補))・しおけ(熊本県南関・鹿児島)・しばて(岩手県江刺郡)・せーんしゅーきー(南島喜界島)・つまり(長野)。
【酒のお初】(本)せーんぱとぅー(南島喜界島)。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録 


四十二段 五月(さつき)五日加茂のくらべ馬を
かゝる折に、桟敷(さじき)なる三階に後家らしき女の、らんかんに腰掛て口きゝながら、酔(ゑひ)て落ぬべき時、柱に取付(とりつく)事、度度也。是を見る人あざけりあさみて、「世のしれもの哉(かな)。かく人多き所にて酒に酔、とりみだしたるおふ(わう)ぢやくさよ」といふに、我(わが)心にふと思(おもひ)しかゝに、「我等も酒をこのみしが、酔たる時はあのごとくならん。夫(それ)をばしらで、酒を好みし事よ。今よりして思ひとまるべし」といひければ、前なる人ども、「誠にさにこそ候(さうらひ)けれ、尤(もつとも)愚かに候」と言て、皆うしろを見返りて、「爰(ここ)へ入(いら)せ給へ」とて所をわけて呼入(よびいれ)侍りにき。-(「吉原徒然草」 結城屋来示 上野洋三校注) この徒然草のパロディーを書いた来示は、其角の弟子で吉原の楼主だった人だそうです。徒然草では「かかる折に、向ひなる楝(あふち)の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。-」(西尾・安良岡校注)とあります。 


何かといえば「熱燗で一杯」
作家の鈴木三重吉は、酒の燗にやかましい人で、熱燗をもって来ると叱りつけたときいた。作家でも、山本有三は、自分は大して飲まないが、作中人物に酒を飲ませる場面はよく書いている。何という作品だったか忘れたし、今調べてみる興味もない。しかし主人公に何かといえば「熱燗で一杯」というせりふを口ばしらせる。その文脈からも見ると、山本有三は熱燗を大変いいものと思っているらしいのである。読んでいて私は胸糞が悪くなって本を放り出してしまった。(「厨に近く」 小林勇) 

窓三貫
往来へ突き出している窓を「窓三貫」と言った。今なら三百円と言うかも知れない。この窓のあるために、とかく小遣(こづか)いが要(い)るので、不経済だと言う訳。明治中期の頃、丸の内有楽町と銀座裏に住んでいたが、昼間から夜更けまで飲食の商人だけでも多くやって来て、ツイ呼びたくなる。夏は「甘酒甘い」「心太(ところてん)や寒天やア」「お汁粉ウ」(いしるウと言う)、「西瓜、西瓜」「氷、氷」秋から冬へかけて「お稲荷様ア」「蕎麦うアうい」(うどんと言うのか何だかわからぬ)、「茹(ゆ)で出しうどん」「大福あったかい」、いろいろの商人が来る。寒夜に好いのは「鍋やきうどん」で声をきくと喰いたくなる。上戸には「おでん燗酒」、後には支那ソバのラッパが幅を利かした。砂糖入りの金時や豆屋も来た。鍋焼は鍋から茶碗へあけるものもあるので鍋あけうどんだと笑った。雑煮もやっていた。菓子屋もあったが、大正以後は見かけなかった。(「明治のおもかげ」 鴬亭金升) 


コロンビア大学の卒業証書
その夜は、家じゅうのふすまを取り払い、大宴会が開かれた。羊の皮にラテン語で書かれたコロンビア大学の卒業証書を床の間に飾る。村の人たちは、それを珍しげに眺めた。喜三太(一の父)はきげんよく酔い、酒をつぎつぎに出させて、みなに飲ませた。、毎月の手紙によって、財産を作っての帰国でないことを知っている。来客たちに食べさせ飲ませ、にぎやかなお祭りに仕上げるのがいいと考えたからだ。 めでためでたの 若松様よ 枝もナーエ 栄ヨーイゆる 葉もしげ 繁るよナーエ 歌は夜おそくまでつづいた。つぎの朝、母は小声で聞いた。「近所の人にくばる、おみやげはないのかい」「それが、ないのです。あおの卒業証書と、健康なからだだけがみやげでづ」と答える星の内心は苦しかった。出発の時には、多くの人からせんべつをもらっている。みやげ物のあったほうがいいのはわかっているが、それを買う金さえない状態だったのだ。(「明治・父・アメリカ」 星新一) 著者の父、星一(はじめ)の伝記の一節です。星製薬、星薬科大学をおこした人物で、この頃(明治35年)は、ニューヨークで「日米週報」とともに、日本紹介の英語雑誌「ジャパン・アンド・アメリカ」を発行していたそうです。 


首狩り
どうしても首狩りせねばならぬ理由は、農作と関係がある。耕作の神を祭る粟祭りに首が必要で、首なしでは凶作になるという。それで毎年一度はかならず、青年が退去して首狩りに出動するのである。首をとって帰ると祭壇を設けて首を据え、珍味佳肴をそなえ、首に酒を飲ませる。「君はここにきてしあわせな人だ。かようにご馳走を食べ酒を、飲む、まことに幸福な人だ。来年はぜひもっと大勢の友人をつれてきたまえ」というのだそうである。まことにめいわくな話。「君のような首は太くてすわりがよい。生蕃にねらわれるぞ」とよくからかわれたものである。平地蕃では自社の者が高山蕃に首をとられたとき、報復の場合以外は首取りはやめた。しかし粟祭りには何としても首が必要で、猿を捕えて代用することになった。(「酒のさかな」 住江金之) 台湾の先住民の風習だそうですが、もちろん既になくなったものだそうです。 


マキァヴェッリの手紙
ルネサンス時代のイタリアの政治哲学者ニコロ・マキァヴェッリに、こんな手紙がある。ローマの法王庁にフィレンツェ共和国大使として派遣されていたフランチェスコ・ヴェットーリにあてたものである。政変に連座したため、フィレンツェ郊外の山荘に自発的にしても蟄居(ちつきよ)せざるをえなかったマキァヴェッリが、政府の中枢にいた以前とはうって変って単調な日常を、その親友に、ユーモアまじりに訴えた手紙だ。朝はダンテやオヴィディウスの詩の本を読みながら森で過ごし、帰途は居酒屋に立ち寄り、昼食時とて集まる旅人たちから世の中の出来事などを聴き、家に帰って家族と食事し、昼食後は再び家の前にあるその居酒屋にもどって、今度はカードに興ずる。農民たちが相手とて、蛮声は近くの村にまでとどくほどだ。このように述べた後、マキァヴェッリの手紙は、こう続く。「夜がくると、わたしは家にもどる。そして、書斎に入り、泥土で汚れた昼間の百姓の服を脱ぎ捨て。官服に着換えるのだ。こうして、礼をわきまえた衣服に身をととのえてから、、昔の人々の集まる、昔(いにしえ)の宮廷に参上する。彼らは、わたしを、愛情をこめて易しく迎え入れてくれる。そこでのわたしは、ためらうことなく彼らと、心ゆくまで語りあう。-(「サイレント・マジョリティ」 塩野七生) 


大河内家の雉酒
今度も(大河内)信敬の家で、露伴、寺田寅彦を客に迎えて、楽しい一夜を過ごした。その晩は客たちにとってもう一つめずらしいものが出た。「お雉(きじ)さま」といって、正月宮中で行われるという酒である。雉の羽ぶしの肉とか、よく使われる部分を薄く切って、こんがり焼き、コップに入れて、上から熱した酒を注ぐのである。酒が飲み頃になるまでに、雉からでた味や香りが酒と融合して、何ともいえぬ美しい色でよい味になる。ヒレ酒、コノワタ酒などに比べてはるかにうまく、上等である。露伴、寅彦、正敏という一世の達人高士が三人集ったのがだから話題の雅にして豊富なこと、想像出来るであろう。雉酒を露伴は五杯、日頃酒をほとんど飲まない寅彦もお代わりをした。(「厨に近く」 小林勇) 


田舎かたぎ
旦那、一僕(いちぼく)を連れ、吉野へ花を見物に行かれける。案内者をやとひ、先ず一目千本を見渡し、それより吉水院(よしみずいん)の庭を見物し、旦那、「ここにて酒を「上:夭、下:口 の」もふ」と言われければ、案内「ハイ、御酒をお上がりなさるなら、竹林寺の庭がよふございます。あの方(ほう)には、亭座敷(ちんざしき)もござります。先ず竹林寺へお越しなされませ」と申しければ、旦那、「いかにも、そふせふ」と行かれける。旦那、「これは見事な花じゃ」と、亭座敷にて、だんだんと酒も長じ、もはや暮れ方になり、入相の鐘が、ゴヲンゴヲンと鳴れば、下男「もし、『入相の鐘に花ぞ散りけり』と言ふ事は、昔から聞き及んでいますが、只今鐘は鳴りますれど、ねつから花が散りませぬナア」と言へば、案内「ハイ。入相の鐘で散るやうな、そんな素人(しろと)らしい花ではござりませぬ」。
注 一 田舎者特有の素朴で、粗野な気風や性格。 二 千本桜が一望できるという吉野山の名所。 三 後醍醐帝の行宮や秀吉の花見で名高い僧坊。 四 弘法大師ゆかりの竹林院。醍醐の三宝院と同趣の庭園で有名。 五 庭園にあるあずまや風建物内の座敷。 六 最高潮に達し。 七 日没を知らせるために撞く鐘。寺院で夕べの勤行に撞いた。 八 『新古今和歌集』巻二「山里の春の夕暮きてみれば入相の鐘に花ぞ散りける」の能因の和歌。 九 まったく。少しも。 一 有名な歌の通りに鐘の振動で散るのはまだ素人だと言いつくろった。(「化政期 落語本集 臍の宿かへ」 武藤禎夫校注) 


デンピョウ水滸伝
佐賀さんに聞いた例だが、A君のところの課長は、しょっちゅう銀座のバーへ行くそうである。接待だ。お得意先の接待もまた、仕事のうちだから、しかたがない。ところが、そのうちに、若いA君はマダムとグルになって、バーのツケをごまかしているのに気がついた。飲んだ勘定は、およそ二割ほど水増しされて、会社に請求されるのである。その水増し分が、課長のフトコロに入る。それからというもの、A君は、会社勤めがバカらしくてしょうがない、という。A君がチラッと水増しのことをにおわせると、課長は、あわててオゴッてくれるらしい。いい気なものだ。-
バーのマダムだって、おもいはおなじだろう。早い話が、水増しぶんが課長へのリベートである二割だけだとはいいきれまい。手の内はすっかり、見すかされているのである。(「男の博物誌」 青木雨彦) 


家醸酒(カヤンジユ)
居酒屋の成立という観点で見れば、高麗(九一八~一三九三年)の時代、仏教寺院では茶の栽培、麺の製造、そして醸造業を営んでいた。醸造のみならず、できた酒を販売してもいた。李氏朝鮮時代に仏教から儒教に国教が変わると、喫茶文化は廃れ、中国のような茶館を生むこともなかった。しかし酒は残った。民衆の酒は「マッコルリ」(濁酒)であった。現在は焼酒(ソジユ)、つまり焼酎がよく飲まれるが、これは元代に伝わり、昔は高級酒であった。マッコルリを濾過すると清酒(チヨンジユ 薬酒)となり、これも上流階級用であった(朝倉『世界の食文化韓国』六三~六四一七一頁、鄭『朝鮮半島の食と酒』、一二二~一二六、一七一~一八九頁、黄・石毛『韓国の食』、三一一~三一七頁)。しかし、なぜヨーロッパのように寺院などから居酒屋が成立しなかったのだろう。その原因は、「家醸酒(カヤンジユ)」に代表される自給自足の文化が長らく定着していたことにある。韓国は都ソウルなど少数の都市に貨幣・商品経済が存在したに過ぎなかった。大部分は自給自足の世界であった。食物・、衣類、味噌、醤油などの他、酒も自給自足であった。これを「家醸酒」という。酒造りは、家庭の主婦の重要な仕事であった(鄭『朝鮮半島の食と酒』、一八〇~一八一頁、中村『韓国の酒を飲んで韓国を知ろう』、一〇頁、李『韓国料理文化史』、三二頁、朝倉『「もの」から見た朝鮮民俗文化』、一六五頁)。(「居酒屋の世界史」 下田淳) 


シロキ、ジングラ、ダリヤメ、テモヤシ
シロキ 南島一帯では、祭の時に一般に神に供える御神酒は歯の綺麗なミヤラビ(処女)に噛まして作ったという。これをシロキとよび、麹で作ったものはやや色が黒いのでクロキとよんだ(続南方文化の探求)。
ジングラ 鹿児島県大島郡喜界町で、琉球産の泡盛酒をいう(喜界島方言集)
ダリヤメ 宮崎県児湯郡西米良村で晩酌のこと(山村調査記録)。
テモヤシ 長崎県壱岐島の酒屋には、それぞれ麹を作る法に古伝があり、テモヤシはそのうちの一つである。稲のモトバラ(穂孕み)頃の藁と、檞の葉とを蔭干しにしてから焼いて灰にし、それを蒸し米にまぶしてねかすという。この麹は毛の長いのを特色としたという。(「分類食物習俗語彙」 柳田國男) 


段掛け
河内国天野山(あまのさん)金剛寺の酒の製造法を伝える『御酒之日記』(成立は一三五五、一四八九年の二説がある)「あまの」の項には、すでに段掛けの記述があるが、回数は二回で、規模も小さい。戦国時代に奈良興福寺で書かれた『多門院日記』になると、掛けは三回だが、同一規模で掛けており、醪の総量も少ない。元禄年間の奈良流酒づくりは、四段、五段掛けと称し、掛けの回数が多くなるのが特徴である。現在でも「甘酒四段」などと称し、最後の四段目で糖化を促進し、甘い酒をつくる技術がある。(「江戸の酒」 吉田元) 


日本酒中の香り成分と特徴

 分類   香り成分  香り
 アルコール類   エチルアルコール  
 フェネチルアルコール  バラ様 
 カボニル化合物     アセトアルデヒド  木香様 
 イソバレルアルデヒド  △ナマヒネ香、ムレ香 
 ジアセチル  △ツワリ香
 フルフラール  △焦げ臭(渋味)
 揮発酸類  酢酸   △酸臭 
 エステル類    酢酸エチル  セメダイン様
 酢酸イソアミル  バナナ、リンゴ様
 カプロン酸エチル  洋梨様、やや脂肪様 
 硫黄化合物   ジメチルスルフィド  △海藻臭、古米酒臭 
 メチルメルカプタン  (△日光臭) 
 フラノン類  ソトロン  老香、焦げ臭 
 フェノール化合物   フェルラ酸  (保香効果)(熟成香) 
 バニリン  甘臭(熟成香) 

注:△は不良香(「日本酒」 秋山裕一) 


仏頂面
遠藤(周作)は、家ではおおかた晩酌を欠かさない。それも一人である。一人で飲みながら、人生は面白くないと仏頂面(ぶっちょうづら)をし、酒を飲み終わると食事をすませ、自分の部屋へ引きあげてから、何もかも面白くないとまた仏頂面をするそうな。こういう酒を飲んでいて、酒乱になる可能性というのはまことに少ないといわざるを得ない。飲み終わって飯を食うというのでは、はじめから大酒を飲む意志など毛頭ないわけで、酒乱になりようもない。それでは、遠藤の酒はまったく沈着冷静な酒かいえば、外へ出れば必ずしもそうとばかりいかないことには、当人も認めている。「酒のためにやった愚行は酒の酔いがさめると共に、身をさいなむ。私は自分がそれほど酒癖の悪いほうではないと思うが、酒癖の悪くない私でも思いだすと恥ずかしいようなことが幾つあるかわからない」(「酒」)(「作家と酒」 山本祥一郎) 


げに酒は
彼(太田蜀山人)の弟子には、有名な宿屋飯盛(やどやのめしもり)(石川雅望、一八〇四-三〇)がいる。この男も酒豪で、 げに酒は憂ひを払ふ箒とて たわごとも吐く青へども吐く と歌っているから相当なもんである。また蜀山人の友人に、唐衣橘洲(からごろもきっしゅう 一七四二-一八〇二)がいる。狂歌の祖ともいわれ、酒の方も、 とかく世は悦び鴉(からす)酒のんで 夜があけたかァ日がくれたかァ といった按配である。(「酒鑑」 芝田晩成) 


たひめん【鯛緬】
一種の料理。煮た鯛、及び其の汁と、茹でた索綿を一つ皿に盛り合はせたものである。「八笑人」に『これが即ち鯛緬でござります』とある。
はて珍しい鯛緬で飲める也 曾我の対面に掛く
頂きますべい鯛緬の御盃 同上
鯛緬でせり出しにする裏梯子 同上
鯛緬で一杯飲めと工藤いひ 同上(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


γ-GTP、GOT
ガンマ-ジー・ティー・ピー 正しくはガンマ・グルタミール・トランス・ペプチターゼという。正常値は男性48、女性30単位以下。抗てんかん剤や精神安定剤などを飲んでいると上昇することがある。しかしアルコール性肝炎のとき上がることが多いから異常値を見ると、この患者さんはかなりの酒「上:夭、下:口 の」みではないかと疑う。アルコール性肝炎では200単位前後まで上がる。それ以上であれば胆管がんなどを疑う。肝硬変では正常のことが多い。
GOT ジー・オー・ティー
肝臓、心臓に多く含まれる酵素。肝臓、心臓が壊れれば血液中に増えてくる。臨床検査で調べる酵素は山ほどあるが結局GOT、GTPなどが一番肝臓の病気の診断に使われる。詳しい検査方法がいろいろできても、これに代わる測定法はまだない。(「医者語・ナース語」 米山公啓) γ・GTP 


正太夫と号し
○煤掃なればと辞(いな)むをきかず、朝より妓楼に推登りて、畳十数枚積重ねたる上に大胡座(おおあぐら)をかき、こゝへ酒よこせ、肴よこせ、第一は女よこせと喚(わめ)き立つる人の、やはり正太夫と号し居たるよし、程経てわが知れる役者の話にきゝたり。(「あられ酒」 斎藤緑雨) 正太夫(緑雨)のニセモノがはやったようですね。 


滋養効果
横浜の外国人居留他には、フランス人の経営する混成酒醸造のフレッレ商会があった。この商会の醸造場で、たまたま一人の労働者の募集が行われていた。某運送店で働いていた関係で松太郎(幼名 神谷伝兵衛)は、これを耳にしたのである。そこで松太郎は、早速同商会を訪れ、醸造場労働者として雇い入れてもらったのである。ここに就職すると、彼は持前の性格で忠実に働いた。たちまち経営主のフランス人に認められ、わずかの間に特別のちょう愛を受けるまでにいたった。ところがある日突然腹部がはげしく痛む病気にかかり、医師にみてもらうと、「手術は難しい。ただ自然に回復する時期を待つほかはあるまい。」という診断であった。これを聞いた松太郎は大いに失望し、それ以後日々に衰弱して、ついに病状は命にかかわるまでの状態に陥った。経営主のフランス人は、これを知って松太郎を見舞い、持参したぶどう酒を飲ませた。松太郎がそれを一口飲むと、たちまち気分がさわやかとなり、病苦はやわらげられていくようであった。一本のぶどう酒を毎日少しずつ引き続き服用すると、次第に元気が出て、やがて病気はすっかり直ってしまった。この体験で、松太郎はぶどう酒のすごい滋養効果を身をもって知ったのである。そこで松太郎は、ぶどう酒についてよくよく考えてみた。このように滋養効果のあるぶどう酒は、一般に日本人には飲用されていない。それはほとんど外国からの輸入品で、きわめて高価だから入手が困難であるのだ。これからも輸入量は増えるであろうが、一般の日本人にはなかなか飲用が困難かも知れない。日本人のだれでもが飲めるようなぶどう酒の国内醸造が必要である。自分は八歳のとき日本酒の醸造家を志し、今日にいたっているが、現在は幸いにもフレッレ商会にあって混成酒醸造場に働いている。ここで日本酒から洋酒に転じそれを将来の本業にするのもよいのではないか。松太郎はこのように考え、将来の洋酒の国内醸造を決心したのである。(「神谷伝兵衛」 鈴木光夫) 明治6年頃のようです。神谷伝兵衛は牛久シャトーの創設者だそうです。 


一〇七 腹の立つとき裏に川欲しや 水に心をすゝぎたや
都々逸調の歌。例えば都々逸節の前身『音曲神戸節』に「腹の立つ時は喧嘩もするが、跡であやまる惚れ証拠」、都々逸に「腹の立つときゃ茶碗で、飲めぬ酒をばやけで飲む」など。類歌として『延享五』に「腹の立つ時背戸へ出て見やれ、紫竹(しちく)小竹の節ょ見やれ」。(「山家鳥虫歌 近世諸国民謡集」 浅野建二校注) 摂津のものだそうです。 


六月二十三日(土)
いゝ気持ちで起きる。今日の午食に食堂で小倉さんの送別会をやらうといふのは前からの計画であつたが、この頃の事とてたとひいくら金を出すとしても我々の力では何ともならない。それで賜はりの薩摩汁の外は*黄花のばらもんじん、クレソン位で侍従長の釣られた鮒とそれにお菓子を少々おねだりした所、お厚い思召で羊のシチューや蔓菜のお浸しを賜りお錫もあり小倉さんはもとより一同悉く満足する。丁度この頃B29に誘導されたP51が来て空襲警報になる。終つて二時より御田植、今年は労力不足の為か皆でお田全部を植ゑる。入浴。大夫の馬車で下る。小倉さんは御夕食の御相伴に召され、九時半に帰つて来る。食堂で一寸話して十時頃入床、煤煙を読み続ける。この頃蚊がゐてうるさくて仕様がない、なかなか寝られない。(「入江相政日記」) 昭和20年です。お錫が酒のことです。 


流れ盃
大阪府下の滝畑では年寄の年祝の時には、酒宴の最後に大盃に酒を盛って上席の老人に口をつけて貰い、列席者が次々に飲みまわして少しずつ飲み、一番末座の者が飲み乾して、これを流れ盃といい、お流れ頂戴するといった。要は同じ酒を同じ盃で飲んで、満座の人が同じ心に酔うための酒盛であるところから、物の豊かな太平の世にはいろいろ目出度い式方をあみ出して酒盛の儀礼の荘厳を加えたもので、上座からまわす下り盞(さん)、下座からまわす上り盞・ちがい盃・千鳥がけというのにもおのずから順序があって、雷盃・名ざしの盃はこの順序を背景にして相手方に特別な好意を示す盃である。(「食生活の歴史」 瀬川清子) 


気違い水ももちろんノー
ついでに言うならば、家庭で皆さまが日常使っておいでの言葉で、テレビではタブーのことばがあるということ。「気違いに刃もの」はダメ。気違い、ということばがいけないのです。気違い水(酒)ももちろんノー。「あの子はアカだよ」のアカもダメ。女中もダメ。土方もダメ。お手伝いさん、労務者と言わないといけないのです。(「女の人差し指」 向田邦子) 


フナずし
つきだしにフナずしが二切れ、皿にのってでる。大津のフナずしであろう。産卵期のゲンゴロウブナがむっちりとふとった腹をかかえて岸に寄ってくるのを網でとらえ、卵ごと漬けて、醗酵させたものである。内にはさほどの魅力がないけれど、まったりと醗酵のいきわたった卵には悩殺的な魔味がある。辛口のさらりと舌を洗う日本酒のサカナにしたらとめどなくなっちまうようなしろものである。しょっつる、くさや、塩辛、すべてタンパク質の分解をめざした逸品たちとおなじ、あの匂いがぷんと鼻にくる。(「新しい天体」 開髙健) 


文久三年[一八六三]癸亥(みずのとい)
○六月の頃より、渋谷村(宮益町裏)千代田稲荷社はやり出し、日毎に貴賤男女歩を運びしかば、此のあたりには酒肆(しゅし)茶店店を列(つら)ね、花を染めたる一様の暖簾をかけ、諸商人出て賑はひける。冬にいたり詣人やゝ減じたり。(「武江年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 千代田稲荷は現在道玄坂百軒店の通りにありますね。 


即座の能
今日は祖母(ばば)の命日と、夕めし過ぎて墓参りせしに、寺はいつよりさびしく、徒然(つれづれ)なるまま、とつておきを呼出し、酒盛りの最中なれば、住持うろたへ、女に大釜かづけ、隠しけるを、旦那、「何あそばします」といへば、「あまりさびしさに、道成寺をいたす」「こりやよからふ」と、一ぱい引かけ、「大蛇の出る間に大こく舞」と、はやされた。
注 一 秘蔵の人。梵妻。 二 被へ。頭にかぶす。 三 能の一。道成寺の鐘に隠れた安珍を大蛇と化した清姫がとり殺す筋。釜を被る場面を見立てた。 四 「出ぬ」の誤りか。 五 大黒天の扮装で毎年新作した祝いの詞を歌う門付の芸能。僧侶の女房の隠語「大黒」をかけた。(「元禄期 軽口本集 軽口御前男」 武藤禎夫校注) 住持の飲酒に対しては全くこだわっていませんね。 


○光秀反状の事
又信長ある時酒宴して、七盃入りのさかづきをもて光秀にし(強)ひらるゝ。光秀思ひもよらずと辞し申せば、信長脇指(わきざし)を抽(ぬき)、此白刃(しらは)をのむべきか、酒をのむべきか、と怒られしかば、酒のみてけり。其後稲葉伊予守家人(けにん)を明智多くの禄をあたへよび出せしを、稲葉求れどももどさず。信長もどせと下知(げち)せられしをも肯(うけが)はず。信長怒て明智が髪を捽(つか)み、ひきふせてせめらるゝ。-(「常山紀談」 湯浅常山) 光秀は下戸だったとか。 


場末酒場への旅
しかし三十代半ばを超えたあたりから、圧倒的に侘びしい雰囲気の店で飲むことが好きになった。おそらくそれは、人間関係や仕事に関してある程度本質のようなものが分かってきて、その限界も理解できるようになった時期ではないかと思う。日々の生活とは決して楽しいことばかりではないと諦観できた年齢であり、自分自身の人生の歴史について回顧し省察できる余裕ができた世代ではなかったか。-
人間関係や美酒佳肴に飽きたなら、流行や集団活動に背を向けて、誰もいない寂しい飲み屋の暖簾をエイヤッとくぐってみよう。ガラリと引き戸を開けてみよう。それもひとりで、そこには日常のしがらみに疲れた人間を癒す、魂の原風景があるはずである。場末酒場への旅は、自分を見つめ直す旅でもあるのだ。(「場末の酒場、ひとり飲み」 藤木TDC) 


要調査
放送でスポンサーは酒屋と聞いて、酒の出る話と思って『小言念仏』を演り始めたところが、「どじょうは酒で殺すとうまくなる。酒を入れてみな、苦しがっているだろう。なに平気で泳いでいる。それはその酒が水っぽいからだ」といって失敗した。その失敗をとりかえそうと思って金馬十八番の『居酒屋』を喋りだして、「この酒は酸っぱいな、甘口辛口は今ではずいぶん飲んだことがあるが、酸(す)ぱ口の酒は始めてだ」といって、その次からスポンサーが下りてしまった。まだこの話には続きがある。「この酒は灘ではあるめえ。なに上州から参ります。八木節みたいな酒だなあ」このクスグリがお客様には大受けであるが、上州酒造組合から抗議を申し込まれた。ぼくは今までずいぶんいろいろな酒屋で飲んだことがあるが、兜正宗なんという名前の酒があるとは思っていなかったので、それが偶然の廻り合わせか、そんな名前の酒があったのには驚いた。それから以後この『居酒屋』という落語をやるときは必ず全国酒造組合登録書というのを調べてからやることにしている。(「浮世断語」 三代目三遊亭金馬) 


きき酒屋
熟練者は一〇〇点を一七~二〇分で審査し終えるが、時間をはかってみたら、早いレコードで一一分半というのがあった。しばらく休息し、三〇~三五分を一区切りとして次の審査に移る。この間、お茶を飲み、塩せんべい、酸味の少ない果物(二十世紀なし、柿など)なま卵、ゆで卵、湯豆腐などを食べ、酔いをさまし、空腹をやわらげるなどして全部を終えるまで、昼食はとらない。近ごろはビタミン剤や強肝薬を事前に飲むこともある。朝十時に始めて四〇〇~七〇〇点を終えると、午後の一~二時となる。審査を終わった午後は碁、将棋をさしたりして、極力アルコールの体外放出を心がける。審査の精密さはどのくらいかというと、香りの種類によっては、一億分の一の量でも見いだし得るから、普通の化学反応で知られる二〇万分の一とか二万分の一とかいう度合いとはおよそケタが違う。洋の東西を問わず、酒の審査だけは機械などまどろこしい物は使えないし、的確さも十分である。きき酒に上達することは、極力その機会を持ち、速やかに酒の持つ、長所、欠点を知って記憶に残すことである。(「さけ風土記」 山田正一) 


天狗様の御指図
ちょうどあの頃(明治元年鳥羽伏見の戦争時分)私は大阪天満(てんま)の古着屋に奉公して居りました。天朝様の御威勢が盛んになって参り、幕府は傾いて来ました。古着でヨク売れましたのは錦の布(きれ)で、陣羽織にされたんだそうです。商人(あきんど)は商いも相応にありましたが、恐い世渡(よわたり)で、いつ戦争が持上るか知れません。コノ前歳(慶応三年の暮)イカイ事御札が降りまして、アレが誠に妙でした。夜になると颯々々と降ります降った商店(うち)では大層祝いまして、付景気にもせよ、御札のお庇(かげ)で繁昌する。天狗様の御指図だというので降らない店は悄然(しょげ)て、罰でも中(あた)ったような始末。スルと前晩(ゆうべ)降ったというので、俄に縮緬の揃いで、市中を練歩き、酒盛りをする、まるで夢中でした。古着屋(てまえども)では天狗を染めた模様物を用意しまして、来春になったら大した景気であろう、善かろうと思っていましたところ、一夜明けて春になった正月の九日、明日は十日えびすだという前日に、戦争(いくさ)が始まって、幕府は鳥羽、伏見の敗軍(まけいくさ)となって、薩、長、土が大阪へ繰込みました。(「幕末百話」 篠田鉱造) 


斗酒学士
◎作者の王績は隠遁者で、字は無功、東皐子(とうこうし)と号して、絳州(こうしゅう)龍門の人。隋の末に官吏となつたが、酒を嗜んで事務に任ぜず、退職して郷里に還つて田園生活をした。やがて唐朝となつて、高祖の武徳の初に前官を以て門下省に待詔せしめられた。慣例として官より酒を日に三升(我が三合余りか)を給せられることになつてゐた。或人が問ふ、待詔の役は楽しいですかと。答へて曰ふ、酒が恋しいのさと。上官が此の事を聞いて、日に一斗給することにしてやつた。そこで当時彼を「斗酒学士」と称したと云ふ。後に太楽署史の焦革と云ふものの家は醸造が善いと聞いて、求めてその助役となつた。すると間もなく焦革が死んだので、その妻が今まで通り酒を送つてくれた。一年余りして妻が又死んだので、績は失望して官を棄てて去つた。そして焦革の酒法を追求して経と為し、又酒を善く造つた者のことを集めて「酒譜」を作つた。太宗の貞観十八年(西紀六四四)卒す。詩文は東皐子集三巻が伝はつてゐる。(「中華飲酒選」 青木正児訳著) 王績の注です。 


高等遊民滝沢蘿文(2)
蘿文は明治二十四年(一八九一)八月十八日、洲崎へ移転していた弟の家で二十七歳で死去。死因は脚気衝心(かっけしょうしん)のためという。死の翌十九日、露伴は饗庭篁村、宮崎三昧、高橋太華ら根岸党の友人に宛て、「故滝沢氏の出棺は明日午前七時との由に付此段及御報知候也」と書き送り、蘿文を谷中玉林寺に葬る。碑を建て、文を三昧が作り、字を露伴が書いた。生前、露伴と蘿文は二人で酒をくみかわし、そのあとブランデーに移って、露伴は七杯でつもったが、蘿文は八杯目を干してケロリとしていたという。それがためブラ八という渾名もついた。蘿文は奇人といわれ、露伴はのちに「こうした人に生存を許した文壇の空気はよかった」と回想していたそうだ。塩谷氏は、その「上:夭、下:口 のん」気は天性のものではなく、元来は生まじめだったがのちに、「人を笑わせる人間として時分を作った」のではないかという。(「不思議の町 根津」 森まゆみ) 


甘酒売り
醴(あまざけ)売りなり。京坂は専ら夏夜のみこれを売る。専ら六文を一碗の価とす。江戸は四時ともにこれを売り、一碗八文とす。けだしその扮相相似たり。ただ江戸は真鍮釜を用ひ、あるひは鉄釜をも用ふ。鉄釜のものは、京坂と同じく筥中にあり。京坂必ず鉄釜を用ふ。故に釜皆筥中にあり。『塵塚談』に云ふ。醴売りは冬の物なりと思ひけるに、近比(ちかごろ)は四季ともに商ふことになれり。我等三十歳比までは、寒冬の夜のみ売り巡りけり。今は暑中往来を売りありき、かへつて夜は売る者少なし。浅草本願寺前の甘酒店は古きものにて、四季にうりける。その他に四季に商ふ所、江戸中に四、五軒もありしならん。(「近世風俗志」 喜田川守貞 宇佐見英機校訂) 


けない酒,よれる,やな,うんすけ,いし
【日常飲用の酒】(本)けない酒(佐渡・愛媛県新居郡)。
【酒の味が変る】(本)よれる(宮城県登米郡)。
【ぬり樽】*つくりざかや(三一二ペ)(本)やな(茨城県行方郡・長野県下伊那郡・静岡)。
【酒器】*とくり(本)うんすけ(山口県豊浦郡)・(補)せーち・たじ。
【酒を飲む茶碗】(本)いし(大阪)。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録) 


葉書を一枚
十数年前、請求書が一向に来ないバーに行った奥野信太郎さんが、「払って帰ろう」というと、「先生、いつでもいいんですよ、第一、いくらぐらいあったか、忘れちゃったわ」とマダムがいう。ぼくも、そばにいた。奥野さんは、「しかし、今日は払って行きます。ちょうど持ち合わせているから」といった。「そうですか」「おいくらになるの」マダムは帳面も見ないで、「六千八百三十五円になります」「ほう、だが五円というのは半端だね」「いつか先生、葉書を一枚、ここでお使いになりましたのよ」(「ちょっといい話」 戸板康二) 


畏友森谷司郎
「でも、この風じゃあ、吹っ飛んじゃうヨ」「だから、わからぬように、ロープで体をしばって誰かに持たせるから」下は逆巻く波濤、私は腰にロープを巻いてやおら立った。ともかく風が強い。これが波しぶきと細かい砂利とを吹き飛ばしてくる。その小さな粒が私の目に入り、私はしゃがんだ。さっそく高倉健さんが、目薬!と叫んで駆けつけ、ゴミはとれたが、なんだか大勢乗ると、この岩が割れて落ちるようで気が気じゃない。その夜は、宿で、ベロ酔いの監督(森谷司郎)に顔じゅうナメられ、昼のうっぷんも忘れはてた。が、なにしろこの竜飛岬という本州最北端は、日本海から太平洋へ回って吹く嵐に、昼といわず夜といわず家鳴り震動して、初めの二、三日は眠れなかった。しかしよくしたもので、風速二十メートルから時に三十メートルの風にあおられる岬の鼻のたった一軒の旅館も住めば都になった。夜は台風だけじゃない、一時二時まで、酔眼朦朧の監督にたたき起こされてオチオチ眠れない。その男がまた翌る日は、雪の中に私を二時間待たせるのだ。(「あの日 あの夜」 森繁久彌) 


酒びたし
或人「酒を飲まないと何も出来ぬ」と言って朝夕酒の気を離れぬほどの上戸であったが、横浜から汽船で神戸へ行って帰京した時、「今度の旅行は酒びたしになって実に懲(こ)り懲(ご)りした」と言う。「そんなに飲みすぎたのですか」と聞けば、「イイエ、遠州灘で荒れまして、隅にあった酒樽の「上:夭、下:口 のみ」口がぬけてゴロゴロ転がって来ましたので船室は酒の池になり、身体中酒浸しの苦しさと言うものはお話にならなかった」と語った。なるほど上戸でも閉口したろう。(「明治のおもかげ」 鴬亭金升) 


酒見神社、酒人神社
一宮市の酒見神社には、白酒・黒酒をつくったという酒甕や酒槽が現存し、岡崎市の酒人神社には酒づくりが行われていたという記録が残されています。いずれも、一千年以上も前のこと、尾張氏は、大和朝廷とかかわりが深かったため、古くから酒造技術が投入されていたもののようです。(「酒博士の本」 布川彌太郎)  「延喜式神名帳」の酒名神 


人相
ある人、人相を見てもらつた所が、「イヤ、お前は気の毒ながら、あしたの七つ時(どき)には、死なしやる相(そう)が見へます」と聞いて、肝をつぶし、そうそう内へ帰り、家内(かない)にもその事を言いきかせて、それぞれに遺言し、あくる日、朝から友達を集めて、酒さかなをいだし、「サテ、おれもけふ(今日)の七つ時には死にますから、これが暇乞(いとまご)ひだ」と、酒をすすめるうち、もふ時計がチンチンと四つを打つ。友達ども、「それは残り多い。しかし、あとは案じさしやるな。おいらがのみこんだ」と、さいつおさへつするうち、もふ九つ一〇。「サアもふ、ふたとき一一だ。にぎやかにして下され」といふうち、はや八つを打つ。亭主、「これは情けない。もふ、たつたひと時だ」と、かれこれするうち、また時計がチンチン。亭主「モウ七つか。これはたまらぬ」と、すぐにかけおち一二
注 五午後四時頃。 六家族。 七午前十時頃。 八引き受けた。 九盃をやったりもらったりして酒を「上:夭、下:口 の」む。 一〇昼間の十二時頃。 一一昔の時間区分で、一ト刻は今の二時間。 一二行き方知れずに逃げ出す。(「化政期 落語本集 臍くり金」 武藤禎夫校注) 


身体的依存
体内の血中アルコール濃度が日常より少し低くなってくると、頭痛がしたり、手足がこわばったりしはじめ、冷や汗が出る。最後にはけいれんや、譫妄(せんもう 手足のふるえ、幻覚など)が現れる。このような身体的苦痛がおそってくるので、アルコールがやめられないという状態を身体的依存といっている。これを図式で示せば、①アルコールの乱用(ある期間乱用をつづける)→②心理的依存(やめようと思ってもやめられない)→③身体的依存(頭痛、ふるえなど)→④慢性アルコール中毒、ということになる。(「酒の人間学」 水野肇) 


六月九日の記
『金入れを忘れたからおろしておくれ、』と云つた。次の清水谷停留所は私のおりる処だ。其の車掌も別に悪い顔もしなかつたが、『それでは名刺をいただきます、』と云ひだした。金入れを持たないほどであるのに名刺のあらう筈がない。『名刺も一切紙入に入れてあつたものだからね、』と云つたが、車掌はおいそれと承知しない、私はしかたなしに、『では清水谷停車場で払ふ、』と云つてゐるうちに、電車が清水谷の停留場に停まつた。私は困つてまごまごしてゐると、其の付近にゐたらしい、監督の帽子を著た男がひよいと出て来て、『何かね』と訊いた。車掌は、『此の方が電車賃を持つてゐないから、借りて払ふと云ふのです、』と云つた。乗客の顔も集つてくれば、もう一人二人傍へ立つた者の顔も見える。私は大にきまりが悪いので、電車からおりるなり、監督の左の腕をぐいとつまんで、『其処まで往かう、』と引つぱりながら、五六軒さきの小さなバーの門口へ往つた。其処には三四人の客がゐて、知りあひの女給の顔も二つある。私は気が強くなつた。『おい、七銭貸してくれ、』と云ふと、女給の一人が、『どうしたの、』と云つた。電車賃を払ふのだよ、と云ふと、女給は、『まあ、』と笑つて、エプロンのかくしから蟇口を出して、すぐ監督に渡して、『ずうずうしいは、ねえ、』と大声で笑ひだした。私の気も軽くなつた。『おい、ビールを一本持って来い、此の方にあげるのだ、』と云つて、ビールを持つて来さして、『職務中ですから、』と云つて帰らうとする監督を無理に傍の椅子にかけさせて一杯注いだ。監督はそこで一口つけて帰らうとするのを強いて乾さした。そして監督が出て往くと、『やれ、やれ、これで安心して飲めるぞ、』(「随筆 酒星」 田中貢太郎) 自宅で飲んで、さらに大町桂月の一周忌で酔っての帰りだそうです。 


秀吉から贈られた酒肴
清水宗治 浮世をば 今こそ渡れ 武士(もものふ)の 名を高松の 苔に残して
天正十年(一五八二年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉は三万の軍を率いて中国の雄、毛利氏と対峙し、現在岡山市にある備中高松城を囲んだ。毛利氏も援軍を繰り出し、戦況は膠着状態となったので秀吉は軍師・黒田官兵衛の献策により、戦史にも稀な水攻めを行った。城の周りに三キロにおよぶ土手を築いてぐるりと囲み、そこへ足守川の流れを変えて引き込んだ。時あたかも梅雨の頃で備中高松城は湖にぽつんと浮かんだ島のようになってしまった。そこで和睦の協議が行われ、「城兵五千人の命と引き換えに城主清水宗治の切腹で事を収める」こととなった。ちょうどこの頃、すなわち六月二日未明、京都では本能寺において信長が明智光秀に討たれ、その知らせが六月三日秀吉のもとに届き、秀吉は和睦条件をさらにゆるめて早期切腹、開城をせまった。そこで清水宗治はこの条件を承諾し、翌六月四日小舟に乗って湖中に漕ぎ出し、秀吉から贈られた酒肴で最後の酒宴を開き、両軍数万の兵士の見守る中、この辞世の句を口吟して切腹した。(「食文化・民俗・歴史散歩」 横田肇) 


本と酒
二十一、二歳のころ、新宿のムーランルージェという小劇場の文芸部に採用されて、私はようやく定収入のある身となったが、酒を飲み覚えて、生活はギリギリ一杯だった。従って、本を買う余裕はなく、酔がさめると、ガランとしたアパートの一室で、こんな生活をしていては、ろくな作者になれないと苦い反省が心を痛めた。ある日決心して、酒がのみたくなるとすぐ紀伊國屋へ行って本を買う事にした。月賦屋で買いいれた書棚に五冊六冊、一段二段と本の並んでゆくのを見る事は、まことに新鮮なよろこびだった。私は酒と別れた事を、ほんとによかったと思った。しかし三日坊主の私には、そうした状態は長く続かず、本をかいいれるかたわら、ツケで酒をのむようになった。当然月末になると、酒を売る店への支払いに追われざるを得ない。そうなるといけないもので、つい本の方は、しばらく見合わせという事になる。やがて、一年程すると、どうやら本も買え、酒ものめるという状態になった。(「しみる言葉」 阿木翁助) 


鞣革ボトル
(註二)。昔は、酒壜には、良く鞣(なめ)した皮(well-tanned hide)に勝るものは無かつたのだ。鞣革(なめしがわ)でblack jack だのbombardだの、いふものをを作つた。鞣革壜(レザーボトル)は、決して割れないし、裂けないし、水が滲(とほ)らないし、軽くて、而(しか)も殆(ほと)んど末代まで使へたものである。昔のイギリスの鞣革ボトルは、形状は種々あつたが、大樽型が最も多かつた。一枚の廣い革の片(きれ)の端を合せて背の方で綴ぢ合せ、中央に孔を開けてある。両端は平面の底革を綴ぢつけてある。往々、首の両側に孔を開けて、下げ緒(釣り手)やハンドルなどを取附けたのもあつた。-
口には、木の栓、角の栓、又は鞣革を巻いたものなどを栓に用ひた。(「酒の書物」 山本千代喜) 


醴太郎、悦酒滲
また、奈良時代の遺跡から掘り出された椀の裏に「醴太郎」と墨書きされたものがありました。これなどは「醴(こざけ)」(一夜酒…「延喜式」醴酒とは異なり「和名鈔」に「一日一宿酒也」とあり、今日の甘酒類と思われます)が大好きな人のニックネームか何かだったのでしょうか。ともあれ当時の飲兵衛さんが自分用の酒飲み容器、今でいうマイグラスに名前を書いていたのでしょう。ほかにも「悦酒滲」と書かれた土器も出土しています。「酒に滲る悦び」とは、飲兵衛ならではの言葉ではないでしょうか。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


弥太一、粉酒、頓酒、亥の子酒
弥太一
(弥太は六弥太の略で、豆腐の異名)煮売り酒屋で、豆腐と酒一合を注文する時の言葉。また、居酒屋、煮売酒屋の異名。
粉酒(こざけ)
濁酒系の古代の酒。米粉を原料にしたことから命名された。また、そば粉やくず粉を酒に浸してかわかし、携帯用にした粉末酒。
頓酒(とんしゅ)
短期間に造った酒。
亥の子酒
旧暦一〇月の初亥の日に行われるのが「亥の子祭り」で、この時飲む酒。この日は、亥の子餅を食べて万病を除く祈願をする。(「酔っぱらい大全」 たる味会編) 


日野原節三
日野原は人情を自然にやったのだし、彼のプリンシプルに従って行ったのだ。聞くところによると、御馳走政策というのも私ごとき薄志弱行で健康の脾弱なもののよくし能わざるところらしい。酒が好き、うまいものが好きは誰でも結構だと思うだろうが、毎日毎夜酒宴を開き、お盃を差し上げ、お流れを頂戴していては、身体が奈良漬けみたいにならぬのが不思議である。日野原は多忙な身ながら早昧に起き出て二マイル欠かさずマラソンをしたという。酒気を散じ、保健に留意し、さながら禁欲僧の勤行のように荒行を積んで、心身を爽快ににしては買収の宴席に侍ったのである。むしろ悲壮なまでに主義主張に殉じたというべきで、このストイックな精神は高く評価すべきかも知れぬ。酒と御馳走を見たら、うんざりしたろうし飲まぬ前からオクビが出たかも知れぬが、彼は平然としてイヤな酒席に列なったのである。マラソンぐらいではやり切れなくなって、日に三度入浴し、夏も毛糸のジャケットを着て、酒気を汗に流したという。嘘か本当かそこまでは知らぬ。これだけの男に目星をつけられれば、今時の高位高官ぐらいは赤子の手をねじるがごとくタワイがなかったろう。(「私の人物案内」 今日出海) 昭電疑獄の当事者日野原節三の評論です。 


コシ、ゴマズ、ゴング、シモツケ
コシ 鹿児島附近では黴も麹もともにコシといい、また、いろいろの皮膚の病にもコシ、コセカキ、コシキヤマイという語がある。麹を今の仮名遣いでコウジと書いているのは、最初からの名ではなかったかも知れない(民間伝承八ノ八)
ゴマズ 徳島県三好郡辻町(現・井川町)で仏事の酒をいう。忌み言葉であろう。
ゴング 伊豆の大島で濁酒をいう。「とかくひげにはつきたがる」などと歌にある。
シモケシ 茨城県多賀郡高岡村(現・高萩市)で一般に寒い時にすすめる酒をいう。もとは婿入りの時の酒のこと。(「分類食物習俗語彙」 柳田國男) 


第二十四段
すべて、神の社(やしろ)こそ、捨て難く、なまめかしきものやれや。もの古りたる森のけしきも五たゞならぬに、玉垣しわたして、榊(さかき)に六木綿(ゆふ)懸けたるなど、いみじからぬかは。殊にをかしきは、伊勢七・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰(きぶね)・吉田・大原野・松尾(まつのを)・梅宮。
注 五世の常ならず趣が深い上に。 六楮(こうぞ)の皮を剥いで、その繊維で作った布。榊の枝にかけて、神に奉献する幣帛とした。 七伊勢市の伊勢神宮。京都市の賀茂分雷神社・賀茂御祖(みおや)神社。奈良の春日神社。京都市の平野神社。大阪市の住吉神社。奈良県桜井市三輪町の大神(おおみわ)神社。京都の貴船神社。同、吉田神社。同大原野神社。同、松尾神社。同、梅宮神社。(「徒然草」 吉田兼好 西尾・安良岡校注) 酒関係では、三輪松尾梅宮三社が選ばれていますね。(ただし、この頃松尾神社は、多分酒の神としてはもてはやされていなかったでしょう。) 


エドワ-ド・キンチ
清酒が始めて分析されたのは、明治一〇-一一年、駒場農学校(東大農学部)英人教師エドワ-ド・キンチWdward Kinchによる。(「酒鑑」 芝田晩成) 


武玉川(12)
片口の雨を一杯くらいけり(片口の酒をぶかっけられる)
のし餅に成ルと酒屋も夜が明(酒屋は師走忙しいので夜の餅つき)
妻ハ小言て洗ふ生酔(泥だらけの酔っ払いを洗ってやる)
うき事てほんの上戸と成にけり(段々と上戸に)
夫の顔みて請(うけ)るさかつき(夫の顔色を見ながら酌を受ける妻でしょうか)(武玉川 山澤英雄校訂) 

季節違い
松林伯知に朝顔酒の事を伝えたるに、即日両国の定席なる福本に於て、夜桜にうかれ入りたる人の、きぬぎぬの別れに朝顔酒云々(しかじか)と弁じ居たるには、われも思はず失笑(ふきいだ)したり。さる小説家の桜の盛りに、裏の圃(はたけ)より蚕豆(そらまめ)採り来て云々(しかじか)と書けるもこのたぐひなるべし。(「あられ酒」 斎藤緑雨) 


例刻
○[東]コレ例刻(れいこく)ウぬしに渡さふ…つとめを出す。
 此例刻は揚代(あげだい)の極(きま)り勘定を払ふことなり。三村竹清氏の話に、今も伊勢津辺にて「例刻をやつてきた」といへば夕刻の極りにて酒を飲み来りしを云ふことゝ。今東京には例刻といふ通言伝はらず。地方に残り居ることか。(「砂払(権蒟蒻左)」 山中共古 中野三敏校訂) 安永八年、山手の馬鹿人『深川新話』にあるそうです。下の注の部分が、山中の文です。 


さけむに-にょらい【酒牟尼如来】
釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)のしゃれ。*歌舞伎・助六廓夜桜(1779)「七夕は一夜酒、重陽は菊の酒、仏法に至ってはさけむに如来ののたまはく」(「日本国語大辞典」 小学館) 


米三日分か四日分
Q 腹が減ったら戦ができぬ。まったくその通りで、戦うには十分の兵糧が必要でした。そこで雑兵たちには食糧つまりお米が支給されますが、一合戦に十日分くらいあればよいとされていたのに実際には三日分か四日分しか渡しませんでした。それは十日分を全部雑兵に渡してしまうと、彼らはある方法でそのお米を使ってしまうので、全部渡すのをやめたのです。さて、それではなぜ雑兵たちに全部渡すのをやめたのでしょう。 ①彼らは米を売ってお金にかえてしまったから。 ②御酒を作ってみんな飲んでしまったから。 ③くにの家族へその米を送ってやってしまったから。
A 正解は②番です。戦争が長引けば疲労や士気の衰えなどさまざまな要因が働いて、酒を飲める兵士たちが、酒で気をまぎらすことになるのも無理はありません。いちどに十日分も兵糧米を渡したりすれば、その大部分を酒にして飲んでしまうおそれがあります。そこで兵糧米の配給は、いちどに三、四日分に限定していました。こうすれば、たとえそれを酒にしてしまったとしても、二、三日絶食すればすむことで、それなら何とか持ちこたえることもできるだろうと考えたわけです。(「NHKクイズ面白ゼミナール」 鈴木健二・番組制作グループ編) 


梅宮神社
なお、京都の松尾神社の東方に、梅宮神社がある。その主祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)と木花開耶比売命(このはなさくやひめ)である(他に二柱の祭神がある)が、別称大山祇命は酒解(さけとき)の神、木花開耶比売命は酒解子の神として崇められている。神話の世界では、木花開耶比売命は、大山祇命の娘となっている。そして、天孫瓊瓊杵命(ににぎのみこと)に嫁ぎ、一夜で懐妊して彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)を出産する。そのとき、父大山祇命が祝いの酒を醸した-それがそのまま社伝として語り継がれているのである。また『日本書紀』では、木花開耶姫自らが狭名田(さなだ)の稲(米)を用いて天の甜酒(たむざけ)を醸した、と記されている。いずれにしても、松尾の酒よりは由緒が正統な酒神のように思えるが、なぜか民間の信仰ではさほどの広がりをもたなかった。そのあたりが、前述したようにかならずしも名(いわれ)と実(利益)が一致しない民間信仰のおもしろいところではある。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 神格変革 


二十三 偏屈人
酒宴今正に酣(たけなわ)なり、百川の禁酒を破りしは性来の好きなれば憂しと思わねど最初より酒盃を口にせざる下戸連の二客(かく)あり、いわゆる洋行帰りの偏屈家と称せられるものにや互に相顧(かえり)みて「オイ甘口君、実に退屈だな僕は日本へ帰朝して以来何が一番苦痛だと言たら交際上の義務で酒宴の席に引張り出されるのだネ、僕は家にいると毎日食事の時間を一定して晩食は必ず五時に済ませる、然るに今日の宴会は五時開会というから四時二十分に出てここへ五時十分前に着いたらまだ一人も来ておらん、幹事さえ五時三十分にやっと出て来た、六時頃からボツボツ人が聚(あつま)って来て、碁を打ったり将棋をさしたり、空しく時間を浪費すること二時間余、七時十五分に初めて膳が並んで、祝辞や演説に一時間を費したから僕らが箸を採ったのは八時過ぎさ、それからは他人が酒を飲んで馬鹿騒ぎをするのを見物すること二時間余だ、今モー十時過ぎになるけれどもまだ飯に有付(ありつ)かない、今頃から飯を食っても寝るまでに消化せんから明日まで持越す訳だ、何の因果でこんな迷惑な交際をしなければならんか、訳が分からんネー」と愚痴を言う、-(「酒道楽」 村井弦斎) 明治35年に報知新聞に連載された小説だそうです。 


酒梅
烈公(徳川斉昭 なりあき)は鹿島神社の神木として梅の木三株を植えた。社前に向かって右に酒の香をふくんだ『酒梅』という白梅一株、向かって左に『緋の司』(鹿児島梅ともいう)という紅梅一株と「鈴梅」という白梅一株を植えて歌を詠んでいる。(『酒梅』と『緋の司』は戦火によって枯木となる。(「水戸市弘道館鹿島神社 斉昭公(烈公)お手植え神木鈴梅 解説板」)  どんな梅なのでしょう。 


百閒、ジョンソン
 百閒は無類の酒好きで、晩酌には日本酒三、四合、それにビールとシャンパン、この三種類を必ず飲んだ。大学生の時代にはビールを六本続けて飲み、途中で小便には一度も立たないのが自慢だった。
 イギリスの文学者ジョンソンが乞食に金をやるのを見てある人が、「どうせ酒やタバコを買ってムダに使ってしまうのですよ」ジョンソン「だからこそやらなくちゃならないんだ。人間は誰だって、そのくらいのたのしみが必要だ」(「世界史こぼれ話」 三浦一郎) 


頭痛
ホットドッグ頭痛、って聞いたことがありますか。細長いパンを割ってソーセージをはさんだホットドッグが好きなアメリカ人に多い頭痛で、「たべてから一時間以内に、ずきん、ずきん、と脈を打つような片頭痛が起きます」と日本医科大学病院で頭痛外来を担当する第二内科助教授の手塚博幸さん。「原因は、ソーセージの腐敗防止に使われている亜硝酸ナトリウムだと考えられています」一般に頭痛は、血管の拡張が引き金になって起きる。お酒を飲んで頭が痛くなるのは、アルコールが血管を拡張させるたから。カゼを引いたときの頭痛は、熱で血管が拡張するためだ。「亜硝酸ナトリウムにも血管拡張作用があるのです。ただ、ソーセージに含まれているのは微量ですから、頭痛を起こすのは過敏な体質の人に限られるでしょうし、頬っておいてもじき治ります」(「読むクスリ」 上前淳一郎) 


貧乏神の遷宮
不定(ふじょう)なることは大よう違(たが)はずとは、世の常なり。さる浪人、方々とかせぎて、大方すみよればはずれ、あるひは障(さわ)りありてありつかず。とかくおれには貧乏神、八十末社まで取りつきたるにやと述懐し、うかうかと年月をおくり、さんざん尾羽うち枯れ、火を吹く力もなきやうになりければ、貧乏神出現していふやう、「今までは随分影身(かげみ)に添ひてゐたれども、もはやたたずみもならねば、他所へ社(やしろ)をかゆるぞ」とて、門口へ出て行く。浪人、ありがたしとよろこび、女房をよび、「もはや仕合せが直つたぞ。この紙子羽織を質に置いて、酒を買ふてこい。祝ひに飲まん」と言付くる時、貧乏神立帰り、「いやいや、それを見ては、今日はまだ去(い)なれぬ」といふた。のふ悲しや。(初音草噺大鑑巻七・貧乏神の遷宮・元禄十一)(「元禄期 軽口本集」 武藤禎夫校注) 


受洗する前
田中澄惠さんが、酒のことを随筆に書いていた。飲んでも、家の人にわからないようにした、時にはウソもついた。そう書いたあとに、「まだ、受洗する前だった」(「ちょっといい話」 戸板康二) 


本郷た組の平三
なんでも子供の時に家の前で、しきりと水をザッサと撒いていた途端に、通り合したのが松平右京様の士分(さむらい)でして、アナヤという間に、ザンブリ手桶の水を掛けてしまったのです。サアどうなることかと皆肝を冷してしまった。士分は見る見る顔の色を変えて、「不、不埒な奴だ。かりそめにも武士へ懸水(かけみず)をしたからには、刀の手前許して置かれぬッ。手打に致すッ」という剣幕なんですが、平三は子供ながら、「叔父さん。ナニも態(わざ)と懸けたんじゃアないから勘弁しておくんなさい。ツイ為(し)ちゃったんで、出逢頭(であいがしら)だ、ツイ夢中で為ちゃったんだよ」といえども聞入れぬ。曲り根性の士分ときたら見得(みえ)に大小へ手を掛ける奴ですが、どうしても許さぬと見た平三は、どうせ許されぬなら皆懸けちまえと観念するや、ドウと外の手桶一杯の水を士分の頭からブッ掛けて雲を霞と逃げ出した。士分は憤ったの怒らんのでないが、子供の逃げるのに逐付かれず、逐懸ける振をしていずれへか往ってしまった。で平三の名は揚がったくらいです。ソレから大きくなってからも、彰義隊の戦争の際に、山下の某商家の留守を申しつかった。大砲の響きや、銃丸(てつぽうだま)の飛交う間(なか)で、留守番をしていたが、戦争が見たいので、表へ出て見ると、ソコへ首と酒樽を持った抜刀の隊長がやって来て、「首を持ってくれそうして俺と一所(いっしょ)に来い」というので平三は愕(おどろ)いたが「俺(わつち)は首は忌(いや)だから、酒樽を持とう」と言って持って往くと、途中で酒樽を開いて酒を振舞った上、隊長はどこかへ往ってしまったとの話でした。普通の者じゃ出来る芸当ではない。(「幕末百話」 篠田鉱造) 


生ビールを放酒
▲横浜のキリンビール本工場に火がついた時、水がないのでポンプで生ビールを放酒(?)したが、やはり焼けてしまった。烏有氏は上戸じゃなかったとみえる。(東京日日新聞)(「明治奇聞」 宮武外骨) 


佐香神社
島根県には久斯之神(くしのかみ)を祀る佐香(さか)神社があります。この神社は出雲松尾神社とも呼ばれ、鳥居が二つあることでも知られています。ちなみにこの神様の名「久斯(クシ)」は酒の意味です。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 出雲市小境町108にある神社で、どぶろく醸造の免許を持っているそうです。 


御台家の月見
日本にも月を賞する事はずっと往古(むかし)にも行われたのであるが、近く江戸時代の月見のことを話そうものなら、自分の生まれた家などでは、八月十五夜も、九月十三夜も必ず行ったのである。両親がかような事を欠さずやられた所為でもあろうが、全体自分の家は祖父の代に旧幕の御台家を勤めたので、そういう格式のためでもあろうが、例年月見の節には親戚の者や出入の差配人(おおや)などが衣服を着かえて挨拶に来たもので、その人々には蛤(はまぐり)の吸物を添えた膳部を出して、酒を飲ましたものである。ついでにいうがこの御台家というのは幕府の献上物を載せる白木の台を作る御用達(ごようたし)なので、当時その株の価格が一万金もしたそうである。-
話は外(そ)れたが、月見の行事は古くから片月見は決してせぬという習慣で、十五夜十三夜もそれぞれ団子、栗、芋、枝豆などを取揃え、三宝(さんぼう)に神酒(みき)を添えて芒(すすき)に草花など挿し供えたものである。(「梵雲庵雑話」 淡島寒月) 


高等遊民滝沢蘿文
根津に今もある相模屋という酒屋が、昔、根津遊郭に酒を納めて栄え、八重垣町の通りに五間も間口のある大きな店を持っていた。相模屋の当主滝沢英一郎氏に話を聞く。「玉林寺のウチの墓に享保九年と刻んであるから、二百九十年くらい前からこの辺で酒屋をやっていたらしいね。過去帳に『永代供養料二十五両これを納む』と記されているからね。遊郭が洲崎に越したんで、根津はガタッと火が消えたようになったが、その前は賑やかだったそうだ。とはいえ、ちょっと町をはずれれば、狸の腹鼓が聞こえるほど場末だったらしい。うちの三代前の仁兵衛という人の銀板写真がありますよ。ほらチョンマゲでしょう。この人は越後の出で、うちに養子で入ったらしいね。その息子が滝沢慎八郎、雅号を蘿文。坊ちゃん育ちで筆が立つんで店なんかやらず、読売新聞の記者をしていた。『根津の三馬鹿』の一人といわれたほどの奇人で、ひょうきんで面白い人だったらしいよ。幸田露伴がそんなに売れないころの遊び仲間で、うちの店の二階を借りて二人で勉強したり、露伴が谷中天王寺に越してくると、すっかりそこに居ついちゃって、うちの女中が天王寺まで二人に昼の弁当を運んだというんだから。蘿文の娘ふじというのが明治十六年生れで私の母親でね、『五重塔』は露伴と蘿文の合作だなんて死ぬまで言ってたけど、どうだろうね。うちの母はずっと読売びいきだったよ。蘿文は明治二十四年、二十七歳で肺病で死んじゃった。母は『十(とお)になったら英語を教えてもらう約束だったのに』と残念がっていたよ。死んだとき持っていた本は、みんな露伴にやってしまったそうだ。母は十二歳で戸主としてお寺に百七十円を寄付したりしている。そして弥太郎という養子をとってうまれたのがこの私というわけだ」表通りの、震災でビクともしなかった立派な相模屋の店は、戦争中の強制疎開であっけなく壊された。相模屋はいまでは一本裏通りにある。(「不思議の町 根津」 森まゆみ) 


夏の酒
1304杯にさやけきかげの見えぬれば塵のおそり(おそれ)はあらじとを知れ(後拾遺集・神祇・一一六二)一〇八六 伊勢斎宮「女專」子(いせのいつきせんし)
1305笹のはの露ばかりだに垂乳根(たらちね 母)のいさめしものを酔(ゑひ)に酔(ゑひ)つつ(千々廼屋(ちぢのや)集・雑)一八五五 千種有功(ちぐさありこと)
1306おのが口におのが酒「上:夭、下:口 の」みのみすぐしあなゝ苦しところぶしうめく(左千夫歌集・<全集>)一九七七 伊藤左千夫(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


濁酒は白酒、清酒は黒酒
なお、一夜酒を神饌とする例は、よく知られるところでは奈良の春日大社の勅祭(三月一三日)のそれがある。そこで神饌とされる酒は、二種類ある。そのひとつは清酒で、これは、ホトギ(缶) といわれる土器に入れられている。もうひとつは濁酒(にごりざけ)で、これは、ワゲモノ(曲物)といわれる木器に入れられている。いずれも、口を白布で覆い、木綿で結わえて封をして神前に供される。とくに、この濁酒をここでは一宿酒と呼んでいるが、むろん一夜酒と同義語であろう。また、この場合の濁酒は、つまり「白酒(しろき)」である。そして清酒は「黒酒(くろき)」である(古くは、澄んだ水の色を黒と表現した)。なお、春日大社には日本で最古(鎌倉時代)といわれる酒殿があり、この濁酒は現在でもそこで醸される。そして古来、そこに住みついているカビが作用して独特の香味が生じる、といわれている。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 酒殿 春日祭 


金を出せ
丸岡明さんがべろべろに酔っ払って帰宅した。タクシー代もないので、車を門の前に乗りつけたら、夫人が出て来た。丸岡さんは。てれ隠しに、夫人に「ヤイ金を出せ」といった。ところが、家の中に、じつは強盗がはいっていて、金を渡すことになった、その瞬間にベルが鳴り、夫人が出て行ったのである。「金を出せ」という声を聞くと、その強盗、飛び上がって逃げ出した。(「ちょっといい話」 戸板康二) 


方言の酒色々(5)
吉凶のふるまいのある家へ客が着いた時にまず出す酒 あしあらい/わらじざけ
年始の客に出す酒 ねんしゅ/はるさかずき
死者を埋葬して帰った時に飲む酒 しょーござけ
死者を納棺する前に一同で飲み、死者の顔にも吹き掛けてやる酒 しまいざけ
労力の報酬の金、または酒 ごくろーまえ(日本方言大辞典 小学館 徳川宗賢監修) 


水筒にシャンペン
ボートに揺られながら、海上から眺めていると、見渡す秋晴れの風景は、あまりに牧歌的で平和に見えた。実際、四人とも、誰一人としてピストルを持参していなかった。無防備なのである。それだけ安心していた。ステッキが一本あったきりだ。リチャードソンなどは肩に水筒を吊るし、一杯どうです、と中味のシャンペンを「上:夭、下:口 のん」気仲間にすすめたくらいである。神奈川の船着き場に、馬を連れた別当が来ていた。マーシャルは馬を受け取りながら、そこで待機しているように、と二人の別当に命じた。いよいよ乗馬開始である。一行は一気に東海道へ駆け上ると、並木道を二列縦隊で進むことにした。リチャードソンがマーガレットと先頭を走り、マーシャルとクラークは後方に並んだ。ゆっくりと小走りに、一路、川崎をめざして出発した。先頭に進むリチャードソンとマーガレットは、日本の交通習慣について、なんら明確な知識を持っていなかった。本当なら横浜在住者のマーシャルかクラークが、日本事情にまだしも明るいわけだから、このとき先導役につくべきだった。そでだけ安心していたとも言える。「上:夭、下:口 のん」気なピクニック気分に浸るばかりで、事件の予測はできなかったようである。(「『幕末』に殺された男-生麦事件のリチャードソン」 宮澤眞一)) 


言えば言い得(どく)、飲めば飲み得
 言いたいのを我慢するより、言ったほうが得。また、酒も飲むとなればどんどん飲んだほうが得ということ。
一杯酒に国傾(かたぶ)く
 たった一杯の酒と思っても、続ければそのぜいたくがやがて国を滅ぼすことになる。また、賄賂や饗応が国を滅ぼすことのたとえ。(類句)小半ら酒(こなからざけ)に国が傾く。(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


「嗜癖・習慣性」から「依存」へ
アルコールや、一部の薬物を使っているうちに、最初に使った量では効果が現れなくなって使用量が増加し、その薬物使用を突然やめると、禁断症状がおそってきて、その薬物をどうしても使わずにはおれなくなって、結局使うという悪循環をくり返す。こういう現象に対して、今から一〇〇年近く前に「嗜癖(しへき)」という言葉がつくられた。このれ右代表が、アルコールとアヘンだった。嗜癖によく似た言葉に「習慣性」というのがある。習慣性というのは、その薬物を使いたいという欲求は出るが、強い意志をもってやめようと思えばやめることができる、というもの。使用量が増加するという傾向はなく、禁断症状も出ない。これには、バルビタール、覚醒剤などがあった。この嗜癖と習慣性という二つの概念で、精神に作用する薬を分類してきたが、この概念だけでは律し切れないことがわかってきた。たとえば、アンフェタミンは、禁断症状は出ないが、やめようと思ってもやめられないし、耐性もある。こういった薬物、コカイン、アンフェタミン、大麻、LSD、トルエンなどは、この二つの概念では説明できなくなってきた。そこで、一九六五年にW・H・O(世界保健機構)では、これまでの嗜癖や習慣性という概念に変わるものとして、「依存」という概念を使うことに決めた。この依存という概念は次のように規定されている。「生体と薬との相互作用の結果生じた精神的、ときには身体的をも含む状態であって、その薬の効果を欲するために、あるいはその薬がない場合におこってくる苦痛から逃れるために、その薬を継続的、あるいは周期的に使用したいという、おさえても、おさえきれない欲求がおきる。そして、そのために特殊な行為や心理的反応をあえて示すようになることが特徴である」このW・H・Oの決定以降、アルコールを依存症という角度からみていこうとする考え方が強くなってきている。(「酒の人間学」 水野肇) 


四十段 或人法然上人に
ある人、すいなる人に、「吉原にて酒にお(を)かされて酔(ゑひ)さぶらふこと、いかゞしてさめ侍(はべ)らん。」と申しければ、「よはぬ程のみ給へ」と答へられけり。いとたふとかりけり。また、「女郎は実(じつ)とおもへば実、不実と思へば不実なり」といはれけり。是も尊し。又、「疑ひながらもたのもしければ誠(まこと)有り」とも言(いは)れ鳧(けり)。又尊し。(「吉原徒然草」 結城屋来示 上野洋三校注) この徒然草のパロディーを書いた来示は、其角の弟子で吉原の楼主だった人だそうです。徒然草は 「或人、法然上人に、『念仏の時、睡にをかされて、行を怠り侍る事、いかゞして、この障りを止め侍らん』と申しければ、『目の醒めたらんほど、念仏し給へ』と答へられたりける、いと尊かりけり-」(西尾・安良岡校注) となっています。 


殺人カストリ
エノケン氏について、これはあまり明るい話ではないが、エピソードとして少しく記しておきたい。それは終戦直後、殺人カストリが横行していたころのこと、一夕、エノケン氏は俳優の月田一郎氏とともに某所でビールをしたたか飲んだ。そこまでは何ごともなかったが、ふたりとも大いに酔い、いい気持で帰ろうとしたとき、両人は誰かにめいめい一升瓶をもらったのである。帰途国電のなかでエノケン氏は、例の人情家ぶりを発揮して、乗客一同に振舞うつもりで一升瓶の口金を開けようとしたが、なかなか開かない。そのとき、傍らの取巻連中が「まアまア」と開ける手を止めて、その場はどうにか過ぎた。ところがあとでこれが名にし負う殺人カストリだと知らされて、大きい眼玉をむいて驚いたそうだ。エノケン氏はこうして危ない生命が助かったが、一方月田一郎氏は貰った晩のうち口を開けて痛飲して、そのまま斃れてしまった。人間の生命(いのち)は随分はかないものだが、一日のうち坐作進退のちょっとした違いで、人間の生涯にこんなにもヒラキができてくる。それにしても、ものがカストリでは、どうひいき目にみても、人間死所を得たとはいわれない。(「酒味快與」 堀川豊弘) 


飲み屋は大酒飲みを恐れない
95.飯屋は大食いを恐れないし、飲み屋は大酒飲みを恐れない 売飯的不怕大肚子漢、売酒的不怕海量
これにならって言えば、医者は病人を恐れないとなろうか。段少舫『呼延慶出世』第27回。前半だけを使うこともある。 中国-漢民族
97.酒と女は災難の仲立ち 酒色禍之媒
 酒と女が糸口となって、災難をまねくことも多い。明代の戯曲『双珠記』第14幕。『水滸伝』第21回には、「酒は性を乱し、色は人を迷わす」とある。 中国-漢民族
98.人の一生を葬り去るのも、また酒 断送一生惟有酒
 たしかに酒のために身をほろぼす人もいるのが、浮世というもの。『西遊記』第47回では、酒と女で相手をおとしいれようとするときに使う。(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


酒のさかなの実験
食塩は一杯飲屋などでは、つまみ塩を備えてあるくらいで、大体どの酒にも向くが、ウイスキーでは不味いという人が美味いという人より少し多く、白葡萄酒には向くが、赤葡萄酒には向かない。しょうちゅう党には喜ばれる。砂糖は酒と反対の立場で、酒飲みの嫌いなものと思っていたが、案外絶対に嫌がられもしない。酒の肴に酢の物は良く使われるが、ビール、日本酒、白葡萄酒などでは大体良いが、ウイスキー、赤葡萄酒、しょうちゅうなどでは、あまり評判が良くない。酒の肴に塩辛などは喜ばれる。塩辛のうま味はアミノ酸の旨味だから、味の素で旨味を代表して試験してみたところ、意外にもその酒にも落第、酒の肴にならぬという。辛味は唐がらしで代表して試験したが、なかなか成績が良い。ビールとか辛口の日本酒、しょうちゅうなどでは圧倒的に好成績。そういえば、上戸の中には唐がらしをかじりながら飲む人もあるのを思い出した。渋味はどうか、タンニン酸をうすくとかした寒天で試験したが、これはどの酒にも失敗、肴にはならなかった。苦味も全く駄目。ビールのほろ苦さなどは喜ばれるくせに、単味となると良いという人はいない。試みに甘味、旨味、塩味などさまざま組合せてみたが、どうしても駄目。(「酒のさかな」 住江金之) 「各味を舌に感ずる程度の濃度として、これを寒天に練りこんでゼリーとし、一センチ角にして口に入れることとした。酒はビール、日本酒(甘口、辛口)、ウイスキー、葡萄酒(白、赤)、しょうちゅうなど各種について、酒と肴の適合性を試験し、また上戸と下戸では好みも違うので、各十人内外ずつ分れて好みを見た」そうです。 


下手なドブロク風
以前、東京都下のある酒造場にお邪魔したとき、その蔵で口噛み酒を造ったという話を聞いたことがあります。それによれば、最初蒸米を噛み砕き、水(水温16℃)と1対1の割合で混ぜて蔵の片隅に放置しておいたところ、3~4日経ってもいっこうに発酵の兆しが見えないので、急遽(きゅうきょ)、生米を噛んで補給するとそれから3~4日して泡が立ち、発酵してきたそうです。酒の匂いもかすかに感じられ1週間ほどでアルコールが7度4分まで出たといいます。ビールより高い度数が出たわけです。出来たお酒は、その説明者によれば「下手なドブロク風」だったということです。なお、台湾では11%のアルコールが出たという記録が残っています。(「さまよえる日本酒」 高瀬斉) 


酒で真の憂いは払えない[チベット]
酒とタールとサウナがなければ死んだも同然[フィンランド]
酒飲みが清濁を選(よ)るか[韓国]
 酒飲みというのは酒の種類や良否など問わず、何でも飲む。それと同じで、心の広い人間は善人だろうと悪人だろうと来る者は拒まず、みな受け入れるということ。
酒飲みは飲むほどにのどが渇く[マケドニア]
 酒飲みというものは、飲めば飲むほどさらに酒を欲しがる。欲望には切りがないということ。(「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


生島治郎のこと
そのコラムは、彼が編集長を辞めるまでつづいたが、連載中、彼は、しきりにわたしを飲みに誘うのである。誘うとき、彼は、きまって小さい声で「いつも、きみには無理をしてもらっているから…」という。じつをいうと、彼はほとんど飲めない。学生時代に、ビールをコップ一杯飲んだだけで「わあ、一年ぶんも飲んじゃった」などと大さわぎし、ゲェゲェやったこともある。いつだったか、文壇の酒徒番付で小結かなにかになったことがあったが、あれは、わたしの記憶では、ろくに飲めもしないのにせっせとバーへ通うから、精勤賞の意味をこめて、といった注釈がついていたはずである。その彼に誘われ、わたしは、いい気持ちになって飲み歩いた。安い稿料の埋合せに、会社から交際費でも出ているのだろうぐらいにおもって、どこへでもノコノコついていった。それが、すべて彼のおごりだと知ったのは、彼が編集長を辞めてからである。考えてみれば、貧乏時代の彼に、友人を銀座に連れていくだけの小遣があるわけはなかった。彼は、ヨソの雑誌にせっせと雑文を売り、そのカネで、わたしをおごっていたのだ。(「男の博物誌」 青木雨彦) 


東京大正博覧会出品之精華(4)
『金婚正宗』『江戸の草分 白酒』『金泉味醂』 東京都神田区美土代町二ノ一 豊島屋本店 吉村政次郞君
『金婚正宗』は色沢他に比し稀薄、稍甘味を有し、香気佳良風味優秀絶佳にして滋養分に富み、飲用後精神爽快を覚え、若し飲用の度を超過するも毫も苦痛を感ぜず、是れ其独特の製法によるものにして、実に本酒の特徴とす。第五回内国勧業博覧会及び五二会、東京博覧会、横浜共進会に於て銀牌を受け、其他品評会、共進会に於て優等賞牌を受領し、殊に五二共進会に於ては当時東宮に在せし 今上陛下御買上げの光栄に浴せり、以て其品質の優秀なるを知る可し、前年の産額は一万一千余石にして販路は、内地各府県は勿論、遠く朝鮮、支那、欧米各国に及び好評嘖々たり。『江戸の草分白酒』は遠く慶長年間より醸造し来たれるもの、一種独特の製法になり、四季の飲用に適し殊に平素之を飲用するときは身体を強健にし精神を快活ならしめ、食物の消化を補ひ血液の循環を良好ならしめるの特徴あり、大正二年横浜貿易品共進会に於て銀牌を受領す、年産三百石にして販路金婚正宗と同じく豊島屋白酒の名天下に鳴る。『金泉味醂』亦最も美味にして滋養に富み、調味用として需要甚だ多し。豊島屋商店は徳川氏入府以前、慶長年間の創業に係り、今に至りて第十二代連綿たる東京最古の商店たり、旧幕時代には鎌倉河岸に一大店舗を有し、数丁に亘る倉庫を擁して諸侯用達を勤め、酒店使用人のみにて三百余人を算し、其売出し日の如きは江戸八百八町の顧客群集して龍閑橋より鎌倉河岸に亘る雑閙は今日に於て想像の外にあり、当時江戸名物の一に数へられ『江戸名所図絵(ママ)』は之を描きて当時の盛況を髣髴せしむ、維新の後廃藩と共に稼業頓に衰頽を来して現所に移転せしが、其老舗たる信用と、製品の佳良とは再び往事の盛観を呈せんとするの兆を示し、豊島屋白酒の名は更に金婚正宗を加へて天下に藉甚たり。(「東京大正博覧会出品之精華」 古林亀治郎 大正三年 「近代庶民生活誌」所収) 


二 小盃
束髪の妻君は渋々ながら一本の徳利に燗をつけて外に大(おおい)なるコップを二つ持出し「貴客方(あなたがた)にお約束します、これ一本ぎりで何と被仰(おつしやつ)てもモー決して差上げませんよ、そうして貴客方は悪い癖で一升も二升も召上がるのに大きなもので速く飲めば時間もかからないのを蜆貝(しじみつかい)のような小さな猪口(ちょく)でチビリチビリ何時(いつ)までも飲みなさるから時間ばかり無駄に費(つい)えて際限がありません、今年から酒を進(あ)げる時このコップと極めました、西洋流にコップでお飲みなさい」と小言だらだら二人の前へ突き付ける、主人の百川、酒に酔わぬ時は妻君の気焔に反抗する勇気なし「オヤオヤエライものを出しかけたなあ」と頭を掻いている、客の酒山が黙って承知せず「これはこれな驚いた、御妻君、君は酒中の消息を知らんから困る、酒という奴は大きなコップでグイグイ飲んだら少しも美味くない、小さな猪口を二度にも三度にも舐(なめ)るように飲むのが得も言われん楽みだ、仮令(たと)い一本の酒でもどうせ人に御馳走するなら美味しくして飲ませる方が有難味を感じるネ、-」(「酒道楽」 村井弦斎) 明治35年に報知新聞に連載された小説だそうです。 


「青べか日記」の句
瓜盗む人の噂や風冷ゆる
鯊(はぜ)登る川に燈籠流しけり
茄子はぜぬ病怠る嫁の眉
酒親し燈に来て鳴かぬ螽蟖(きりぎりす)
本売つて酒ととのへぬ秋の風(一三)(「青べか日記」 山本周五郎) 


きょうの酒にはきょう酔うことよ
「大聖さま(孫悟空)、大変です、大変です。門口に悪神(悟空の配下)が九人やって来て、天界から遣わされた天神だが、大聖を征伐しに来た、と申しております」悟空はちょうど、七十二洞の妖王、ならびに四健将とともに仙酒をくみかわしているところでしたが、この知らせを聞いても、おおっぴらに無視して、
「きょうの酒にはきょう酔うことよ
門(かど)の騒ぎに首つっこむな」
そのことばがまだ終わらぬうちに、妖怪の一群がまた飛び込んで来て、「悪神どもは、悪口雑言を浴びせながら、門口で戦いを挑んでおります」と言いましたが、悟空は笑って、
「ほっておけ、ほっておけ。
詩(うた)と酒とで楽しめきょうも
名を挙げようとするだけでない。」(「西遊記」 呉承恩 小野忍・訳) 天界でおおあばれしてきた孫悟空を処罰するために、天神がやってきました。 


髭黒(ひげくろ)の高野の爺(をぢ)は梅の根に野風呂を据ゑぬ酒を煮るべう 吉井勇
『短歌歳時記』より。宇治から川沿いに一里半ばかりはいった「かくれ里」の見事な梅林。艶隠者(やさいんじゃ)でも住みそうなその山中に、野風呂を据えて酒を煮る髭黒の爺さん。野風呂は野遊びなどで茶の湯をたてるために持って行く風炉。「髭黒」とは『源氏物語』から来た命名。(「句花歳時記 春」 山本健吉編著) 


新酒、間酒、寒前酒、寒酒、春酒
戦国時代末期、奈良興福寺の塔頭(たっちゅう)多門院(たもんいん)に残された記録を見ると、初秋から寒を経て翌年春までずっと酒をつくっている。江戸時代の初期も、旧暦八月(旧暦は新暦よりも約一カ月遅い)につくる最初の酒「新酒」(ふつう前年に収穫した古米でつくる)にはじまり、「間酒(あいしゅ)」「寒前酒(かんまえざけ)」「寒酒(かんしゅ)」「春酒(はるざけ)」に至るまで、真夏を除きほぼ一年中つくられていた。(「江戸の酒」 吉田元) 製造時期による清酒の名称 


ギンダベラ
魚を釣りながら野口君と私は、翌日清水湾の内になつた折戸湾の中で釣るギンダベラのことについて話した。ギンダベラは小さな銀色の鱗のない鮒のやうな小魚で、土佐ではニロギと云つていた。それは秋から冬のはじめにかけて浦戸港内で釣れるので、高知市付近では行楽の一つとなつてゐる。ニギロは酒徒にひどく珍重せされるのである。-
一時比まで釣つて皆で百尾あまりも釣つたので、午食にすることにし、焜炉(こんろ)に小鍋をかけてギンダベラを煮る一方で小さく切つて膾にした。ギンダベラは骨は硬いが酢につけるとひどくやはらかになる。焼いて油でいためて酢と醤油をかけたものは、珍中の珍たるを失はないが、すぐはできない。肴ができると私と野口君は酒、女達は飯にした。その日は風があつて海に風波があつた。三時比になつて一升壜の酒を二人でペロリと飲んでしまつた比に、迎への曳き舟が来たので曳かれて帰つた。(「随筆 酒星」 田中貢太郎) 


蛸の入道酒菜の朝臣八足
「酒菜」は肴のこと。肴がうまければ、酒の味もよくなる。肴にはいろいろあるが、タコはその最上の一つであることをいったもの。(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 


春の杯・春の盃
1388大御酒に酔ひたるあそが乗る駒を落ちのどよみに花散り乱る(左千夫歌集<全集>)一九七七 伊藤左千夫
1389酒飲むところなくて出でたる街裏のたがらしの群れの花盛りなり(氷魚)一九二〇 島木赤彦
1390かくまでも心のこるはなにならむ紅き薔薇(さうび)か酒か奏鳴曲(ソナタ)か(桐の花)一九一三 北原白秋
1391焼酎に蜂蜜を混ずればうまい酒となる、酒となる、春の外光(みなかみ)一九一三 若山牧水
1392爐辺の酒垣の馬酔木(あしび)の花もよしこよひも酔ひて安く眠らむ(風雪)一九四〇 吉井勇
1393われいまだかかる寂しき春に会はず乏しき酒も腸に染む(残夢)一九四八 吉井勇(「古今短歌歳時記」 鳥居正博) 


『京都土産』
「酒。洛中は古来地元産の酒だけで、伊丹、池田の酒を入れることを禁じたので、洛中では皆その味を知ることができなかったが、伊丹はもともと近衛家の御領地で、どのようにして周旋されたのか、この二十年来市中に入る事を得たのである。二十年以上前には伊丹は名はあっても、市中では本当の伊丹酒を販売する者はなかったのに、近年は近衛殿から一年に酒千石と決めて洛中の酒屋達に分割して払い下げられるようになった。それ以上は近衛殿の御屋敷に参ればいくらでも払い下げてもらえるので、最近ではどこでも伊丹酒の招牌(かんばん)を出している。この味は地元の酒とは段違いである。しかし、市中の売り物はどういうわけか江戸の伊丹酒にははるかに及ばない。-」
-京都向けの伊丹酒は品質の劣る二級品か、あるいは偽物だった可能性がある。(「江戸の酒」 吉田元) カッコ内は、元治元年(一八六四)に江戸の武士石川明徳(あきのり)が著した『京都土産』だそうです。 伊丹酒の京都進出  江戸時代のAOC 


朝起きると、横に女性が寝ていた
社内結婚をしたカップルのお祝いパーティーの日。おそらく、4次会ぐらいまで行き、社員みんなで大いに喜び、大いに酔っ払いました。泥酔した上司が店内で椅子を投げて大乱闘した後、階段から落ちて救急車で運ばれるというエピソードもありました。私自身もすっかり記憶をなくし、翌朝、自分の家のベッドで覚醒。でも、ふと横を見ると人が寝ています(足しか見えないが、これは女性)。記憶はないけれど、たぶん地方から出席した社員が泊まったんだろうなーと重いながら起床。すると寝ていた女性も起きてきました。が…、まったく見覚えがない人。完全に知らない人です。相手も軽くパニック状態で、「えっと、昨夜Nさん(救急車で運ばれた上司)大変でしたよね?」といってもさっぱり通じない。誰これ?すると、突然彼女が「わかった!隣の部屋だ!」。話しているうちに判明したのは、まず、私が泥酔して帰宅。部屋の鍵をかけ忘れてベッドに倒れ込む。その後、同じく泥酔した隣人女性がクラブから帰宅。が、泥酔して鍵を発見できず、何となく隣室のドアを開けたら開いたので、そのままベッドに雪崩(なだ)れ込んで就寝…という顛末(てんまつ)でした。(たっき 28歳 女)(「ますます酔って記憶をなくします」 石原たきび編) 


下戸ならぬこそ
ありたき事は、一六まことしき文の道、一七作文(さくもん)・和歌・管弦の道。また、一八有職(いうしよく)に一九公事(くじ)の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙(つたな)からず走り書き、声をかしくて二〇拍子とり、二一いたましうするものから、二二下戸ならぬこそ、男(をのこ)はよけれ。
注 一六正式な経書の学問。 一七漢詩を作ること。 一八朝廷の政務と諸儀式。 二〇「ヒャゥシ」(日ポ)。 二一迷惑そうに辞退しながら。 二二酒ぎらいのひと。(「徒然草 第一段」 吉田兼好 西尾・安良岡校注) 第一段末尾の有名なところですね。これが第一段にあるのですから、後の段も酒好きには期待できるということなのでしょう。ついでながら、第三段にも「色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉の巵(さかづき)の当(そこ)なき心地ぞすべき」もありますね。 


方言の酒色々(4)
甘口の酒 おなござけ
出立に臨んで飲む酒 はばきざけ/わらじざけ/わらんじざけ
他地方産の酒 くだりざけ
他所から来た若者が村に落ち着く時、若者組の仲間入りとして飲む酒 つぼざけ
出棺の日、読経中に会葬者一同に飲ます酒 でば の酒
汚(けが)れに触れた人に出す酒 てあらいざけ
仲人が相手方に持って行く酒 はなし の酒(日本方言大辞典 小学館 徳川宗賢監修) 


四天王首じつけんに角をもち 宝十三義4
源頼光(九四八 一〇二一)の家来、碓井定光(うすいさだみつ)・卜部季武(うらべのすえたけ)・渡辺綱(わたなべのつな)・坂田金時(さかたのきんとき)の四天王が、大江山の鬼退治のあとで首実検した時の光景。-ハンドルのような角があるので便利である。鬼の首領は酒「上:夭、下:口 てん」童子で、
酒くさい首をみやこへみやげにし 宝十三仁1
の句は毒酒をのませて退治したことと酒「上:夭、下:口 てん」童子の名をかけている。(「川柳集 狂歌集」 吉田精一評釈) 


煙突と薪
昔中国でのこと。ある人の家のかまどにまっすぐな煙突が立っていて、その下に薪(たきぎ)が積んであった。これを見た客が、「これでは火の粉が下に落ちて、火事になります。煙突が曲がったものに作りかえ、薪もほかへ移しなさい」と注意した。主人は従わず、そのままにしておいたところ、案の定しばらくして薪から火が出た。幸い村人たちが駆けつけて消し、大事にはいたらなかったので主人は喜び、牛を殺し酒を出して人びとにお礼をした。それを見た人が主人にいった。「前に客がした注意に従っていれば火事を出さずにすみ、牛をつぶしたり酒を買ったりする必要もなかったでしょう。ところがいま、煙突を曲げ、薪を移せ、と教えた者には何のお礼もなく、頭をこがし額に火傷(やけど)して消火にあたった人たちがもてなしを受けるとは」『十八史略』の中の、西漢ママ宣帝の項に出てくる話だ。(「読むクスリ」 上前淳一郎) 


日葡辞書の「Saca-」単語(4)
Sacate.さかて(酒直)
酒の代価として支払うもの(酒代).
Saca uoqe.サカヲケ(酒桶)
酒を入れてある容器で、桶、または、樽1) のようなもの. ※1)原文はbarça.[Taruの注]
Sacaya.サカヤ(酒屋)
酒蔵、または、居酒屋、また、酒を造ったり、売ったりする家.
Sacazzuqi.サカヅキ(盃・盞)
盃、またはコップ. ¶Sacazzuqiuo catamuquru.(盃を傾くる)すなわち、Nomu.(飲む)盃(Sacazzuqui)で酒を飲む.文書語.
Sacazzuqi ron.サカヅキロン(盃論)
最初に盃(Sacazzuqi)を取るのが誰になるかということで、時として起こる口論.(「邦訳日葡辞書」 土井・森田・長南 編訳) 


食道がん しょくどうがん
男性が女性の五倍。ヘビースモーカー、熱い食べ物が好きな人、アルコール多飲の人に多い。手術後五年生存率20%、一〇年生存率15%、早期食道がんは粘膜下までで、転移がないと五年生存率70%以上である。がんはすべてそうであるが早期発見が鍵。食べ物がのどに詰まるような感じがあればまず食道造影を。食道造影だけなら比較的簡単にできる。大病院より個人病院のほうがそういった検査はすぐできる。タバコは肺だけにに悪いのではない。今日から禁煙を。(「医者語・ナース語」 米山公啓)  


飲めや歌へや
ハリー彗星は十九日午前中に太陽面を通過し地球を其尾の中に包み大変化を起し或(あるい)は生存し居られぬやも知れざれば生前飲んだり唄つたりするに限るとて宇都宮市内には両三日前より頻(しきり)に花柳界に足を入れ浮かれ歩く愚者(ばかもの)ある為(ため)久しく打続ける花柳界の寂寞を破りて芸妓は有難きはうき星(ほうき星)様とて手を合せて拝み居れりとは阿呆(あほう)らしき事なり=明43.5.19(「朝日新聞の記事にみる 奇談珍談巷談[明治]」 朝日新聞社編) 


大原盃
此の国に大原盃(おはらさかづき)と云ふあり、-
東山殿時代此の盃出来、蒔絵小原木(おはらぎ)の模様ゆゑ大原と申すよし、夫(それ)より後色々形を変ずる。 小原木や召せ召せ黒木さゝを召せ 濃くも薄くも聞(きこ)し召せ聞し召せ 栗本駿河家に形有之(これあり)
校注 五 黒木の蒔絵などのしてある小形の盃。単にオハラとも。『類聚名物考』調度部十四・酒具「小原酒盃 をはらさかづき、京都将軍の時出来し物となり。二寸四分の平盃なり。黒木の蒔絵有る故にさいふといへり」。 六 室町時代中期。- 七 -ササは女房語で、酒の別称。大原女の売声をとったもので、「黒木」に「黒酒(くろき)」を掛け、勧盃(けんぱい)の歌に転用したものか。 八 「栗本」は室町時代の御用蒔絵師幸阿弥派から分かれ、幸阿弥六代長清の子栗本幸阿弥を祖とする栗本派のことか。-(「山家鳥虫歌 近世諸国民謡集」 浅野建二校注) 「黒木」は、「京都近郊の八瀬、大原で産出し、大(小)原女が京都に売りに来る、黒く蒸した薪」だそうです。 

質屋蔵
「なにをそんなにあやまってるんだい」「いえ、ええ、こねえだ、こちらで法事があったときなんでござんす、へい。あっしもお手つだいにあがりまして、で、まあ、そろそろお客さまがお帰りになるってんで、あっしが台所(でえどころ)へ行ってみるとね、こんな大きな片口に、酒がいっぺえ入ってやがんですよ。で、お清どんに、『こりゃあどうすんだい、燗にするのかい?』つったら、『方々集めたら、これだけになった』と、こう言うんですよ。『どうすんだい、こらあ』『さあねえ、捨てるのももったいないから、まあ、糠みそにでも入れちまおう』って、こう言うからね、そりゃ、もってねえてんですよ。『こういうご大家(たいけ)で召しあがる酒だから、きっといい酒にちげえねえ。それをむざむざ糠みそに入(え)れるのはもってえねえや、どうだい、おら寝酒に飲みてえんだが、もらってくわけにはいかねえか』と、こう言った。そしたら。まあ、『どうせ捨てるようなもんだから、よかったら持っといでよ』ってんで、もらって帰(けえ)りましてね。飲んだら、やっぱりうめえんですねえ。ありがてえてんでね、楽しみに飲んでましたら、三日ばかりでなくなっちまいましてね。と、かかあが、『どうするおまいさん、お酒がないが買ってこようか』ってえから、『冗談言っちゃあいけねえ』ってんだ、ねえ。『あんなうめえ酒飲んだあとで、そこいらの安酒が飲めるけえ…。ま、燗ざましでさえ、あれだけうめえんだから、たるから出したてをやった日(し)にゃ、たまんねえだろうな』って、こう言いますとね、かかあが、『じゃあ、もらってこようか』と、こう言うんですよ。『もらってこようかたってねえ、酒なんぞ、お店(たな)ァ行って、くださいったってくださるわけがねえ』と、こう言ったんです。『それはまあ、断われば、くださらないだろうが、黙ってもらってくればくださるんじゃねえか』こう言いますからね、『じゃあ、やってみるか』『おまいさん、なんでも、ものはためしだ』ってね…。で、まあ、一升ばかりいただいてきまして、やってみたら、やっぱしうめえんですねえ。ありがてえ、こいつあ寿命が延びるってんでねえ、楽しみにやってましたが、また五日ばかりでなくなりましてね。それからってものは、かああが行っちゃあ五合(ごんごう)。あっしが行っちゃあ、一升だともらってきたんですがね、そのうちに蔵のかたづけがありまして、へえ。あっしが、お手つだいにあがってすっかりかたづけて、ひょいと、すみのところを見ると、四斗樽が五つならんでる。-」(「古典落語 質屋敷 当代 三遊亭円弥」 落語協会編) 


杯の底で金魚を飼ってはいけない[台湾]
 台湾では、客に酒を飲ませるときはとことん酔いつぶれるまで飲ませるのがもてなし上手といわれる。少しでも杯に酒が残っていようものなら、そこで金魚を飼うつもりですかとばかりに、杯を飲み干すようにうながす。現在では健康にも悪く、粗野なこととしてあまり見かけなくなたっという。
杯のふちから秘密があふれる[独]
酒場で三代目は見たことがない[アイルランド](米屋と質屋は三代続かぬ)
酒があればみんな友達[エストニア]
酒か水か決めよう[ハンガリー]
 白か黒か決着をつけようというときにいうことば、「酒がなければ水を飲め」といえば、貧乏人は贅沢をするなということで、このことわざからもわかるように、ハンガリーでは酒と水は対極の価値観をもって考えられている。(「世界たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


○明智光秀信長公を弑(しい)する事
明智日向守(ひうがのかみ)光秀信長を弑せばやと思ふ事久し。天正十年六月朔日の夜、明智左馬守秀俊を寝所(しんじよ)によび入れ、かたへの人をしりぞけ、一大事有るなり。蚊帳の中へ入れ、といふ。秀俊頭(かしら)を蚊帳の中にさし入れて、何事にてか候、といふ。光秀、汝(なんじ)が首を得させよ、といへば、秀俊聞て、一人のみにて候か、と問ふ。光秀、三人の命もらひ、猶足(たら)ざる故なり、といふ。秀俊、いと易(やす)き事にて候。大事ことよく成るべし、といへば、光秀、いかにしりたるや、と問ふに、事新しき仰(おほせ)日比(ひごろ)の恨み思ひ合せて候、といへば、光秀、いま信長を討んと思ふなり。汝に偏(ひとへ)に頼み思ふぞよ。先(まづ)汝に語らむと思ひしに、中々諫争(いさめあらそ)ふべし。汝力を合せずば志遂がたからん。従はずば汝を斬んと思ひし、とて盃を出す。秀俊、先臣(しん)一人に語りたまふならば諫(いさめ)申すべし。はや他にも語りたまはんには駟(し)も不及(およばず)(一度口に出した言葉は世に早く伝わるということ)と申事候。泄(もれ)聞えて臍(ほぞ)をかむとも益なし。とく打立て給へ、とて夜半計(ばかり)に俄(にはか)に軍兵(ぐんぴやう)をおし出し、明れば二日の曙(あけぼの)に、信長の宿せられし本能寺をとりかこむ。(「常山紀談」 湯浅常山) 


衣紋坂四斗樽ほどな日があたり 柳拾七4
吉原の大門を出て、日本堤の道へとのぼる小さい坂が衣紋坂である。朝帰りの疲れた眼には、朝日が四斗樽のように大きく見え、まぶしくてたまらない。-少し後ろめたい朝帰りの感じをとらえた佳句である。早朝、隅田川のかなたから昇ったばかりの朝日の、大きなみずみずしい光、夜中の脂粉の移り香の残る男には、目もくらむばかりである。(「川柳集 狂歌集」 吉田精一評釈) 


晩酌はどのくらい
高橋 初手にこんなことを伺っちゃ失礼なんでございますが、晩酌はどのくらい召上がるんですか。
山本 自分一人ですとね、ビールの小瓶一本と、ウィスキーの水割りを三杯ぐらいです。まあ、気の合った友達と飲むと、きりがないんですが。-高橋先生は日本酒ですか。
高橋 ええ、色々並んでいても、つい、どうしてもお酒のほうに手が出てしまうんです。
山本 あなた、それは五十を越したらウィスキーにしなさい。醸造酒は制限すべきですよ、どうしてもフーゼル油が入っていますから。だからオシッコが臭くなるし、息が臭くなる。
高橋 それどころか、酔うとついコクテールとか雑物を飲んでしまうんです。山本さんとお会いするのは初めてだし、お話を伺うのも初めてなんですが、馬鹿にいい口跡(こうせき)でいらしゃいますね。(「現代養生訓」 対談 高橋義孝 山本周五郎) 


大メーカーの技術者
それと、(日本酒の)大メーカーの取材をしていて気になったのは、技術者と営業サイドの体温差だった。醸す側の人たちの熱意と研究、開発に対する姿勢には感銘に近いものを受けた。大メーカーの酒に対する批判は数多いが、間違いなくかれらも日本酒をアイする人たちだった。工業製品と工芸品の差はあれど、好いものを醸したいという想いは同じはずだ。しかし、営業陣と話していても小さな感興すら起きなかったことを記しておきたい。日本酒不振の原因と対策、現状認識、日本酒の未来…誰一人としてまともに答えられる人材がいなかった。これは実に残念なことだ。(「うまい日本酒はどこにある?」 増田晶文) 


屋形船の床下
一方、東山道を進んだ官軍は、四月に入って、江戸目前の板橋に到着した。ところが、これも金がなかった。そこで、さっそく江戸の三井本家へ連絡をとった。三井家の手代が呼ばれて、十万両の調達を命じられた。知らせを受けてすぐ三井の江戸店では、在り金をすべて掻き集めて一分銀ばかり二万五千両を、やっと用意することができた。しかし、それを板橋の官軍の本営まで届けるとなると危険このうえない。商人の荷物は、官軍への贈り物ではないかと幕府側に疑われ、見つかり次第没収され、そのうえ盗賊も出没しているので、油断できなかった。そこで、三井の手代二人は、出入りの船宿で、一隻の船と船頭を雇い、屋形船の床下に二万五千両分の一分銀を薦(こも)包みにして積み込み、船の上で接客用の酒、肴をそろえて、宴会をしながら、遊山船を装って運んだ。市中は戦争前夜の緊迫状態で、船の往来もほとんどなかった。そんなときに、三味線を弾きながら行ったのでは、目立ってしようがない。ちょうど隅田川を千住あたりまで出てくると、荷物を運んでいる船に出会った。すると向こうから「乗っている人数も、せいぜい四、五人しかいないのに、どうして船足がそんなに沈んでいるのか」と尋ねかけてきたので、思わず、肝を冷やした。もしここで訴えられたら、この二万五千両は没収され、しかも官軍はたちまち干上がってしまうことになるだろう。(「江戸幕末大不況の謎」 邦光史郎) 


天ぷらで酒
今日は非常な暴風だった。昼の内は汽船の航海が止った。水が増して葛西村では堤をひたした所がある。堀でも床下についた場所がある。川にはひどい波が立った。此方(こっち)の岸へもざぶりざぶりと打ちあげた。夕景から鎮まった。月が出て、微風もなく。川は鏡のように平らになって、全くの嵐の後の静けさだった。夜、稼ぎの原稿書いた。明日博文館へ持って行ってみる。うまく金になればよいが。今日は炭がないのでパンを喰べてすごした。少し寒い。今は十二時だ。高梨が今しがた訪ねてくれた。もう寝る。不平はない。酒が飲みたい。只それ丈だ。寝る。良い夢があるだろうか。(四、二一)
春荒れぬ貧の男の炊(た)く菜花(二一)
今日は東京へ行った。博文館では原稿を拒まれた。でも井口は親切にしてくれた。木挽町へも寄った。皆よくして呉れた。良い人達ばかりだ。「ヒ」と会った。「細君の妹の良人の弟が亡くなって」と笑っていた。天ぷらで酒を馳走になって別れた。帰ってから高梨を訪ねた。本当に皆良い人達ばかりだ。予も生活を革(あらた)めるだろう。また風が出た。良い月夜だ。(「青べか日記」 山本周五郎) 


東京大学生徒暴行退学一件
明治十六[一八八三]年十一月二日。東京大学[今の帝大]の学生百四十七名が、一時に退学の処分を受けた騒ぎがあった。その起こりは、前月二十七日に卒業式があって、北里柴三郎、伊藤悌二、片山清太郎、穂積八束、三宅雄二郎、坪内雄蔵[逍遙]、斯波淳六郎、磯部醇、関直彦などの諸名士もこの日卒業したのであったが他の学生連はその式場参観にも列せず、秋季運動会と称して上野公園内に集まり、それから日暮里の原で四斗樽数挺のかがみを抜いておのおの牛飲放歌し、夕刻の頃、一同打ちそろって大学の寄宿舎に帰り、賄方(まかないがた)を呼び「サー飯だ、早く出せ」と怒鳴ったが、賄方は「今日は午後の運動会というのだから、夕飯はいるまい」と思って、少しも準備していなかったので、酒気を帯びた学生一同は、それを機として乱暴を働き、ガラス窓に石を投じ、ハメ板を蹴破り、机を折り、額を踏み潰すなど、多勢で狼藉の限りを尽くしたのであった。
-穂積陳重先生のお話によると、常々、幹部の所置に憤懣を懐いていたのが勃発したのであるらしい。-
これに対し、文部省の退学処分令が出され、「不都合の所為これあり、退学せし候ところ、右は自今、文部省直轄官立学校および公立私立の学校へ入学禁止なり候-」
その中には、後に大審院判検事になった人、文部大臣になった人-、東京市長になった人-、銀行会社の重役、著名の弁護士、役人、新聞記者、著名の学者博士が少なくない。-
-この入学禁止布達は、その乱暴行為は黙過すべからずで処分を加えるが、有為の青年ども、他日再び復校せしめんとの下心、他の学校へ入学した者を取り戻すということはよくない、それよりか一時入学禁止の布達をしておいて、という主意であった。(「明治奇聞」 宮武外骨) 


酒は知己に遇って飲み
父は酒仙でもなく、巷間伝えられるほどのバッカスでもなかった。幼少期を過ごした筑後柳河沖ノ端の生家が、その没落するまでは酒造りを営んでいたので、父にとっては生来、喫酒はごく自然なことではあった。今でも、父の異母姉・加代の嫁いだ江崎家は、柳河に近い瀬高町で「菊美人」など芳醇な銘酒を醸造している。その幾棟もの酒倉は詩集『思ひ出』の「酒のかび」という詩を偲ばせる。酒を讃える詩歌も父には多い。けれども、家庭で晩酌をするといった習慣は全然、無かった。古来、「酒は知己に遇って飲み、詩は会人に向って吟ず」という。父の酒はもっぱら酒宴の和気藹々たる雰囲気を楽しむとか、知友門弟と交歓するとか、旅先で歓迎陣と和光同塵するとかが主であった。本格の詩歌の制作に熱中している間は、一週間も徹夜を続けても、一滴も口にしなかった。(「『酒』と作家たち」 浦西和彦編 「父・北原白秋の酒」 北原隆太郎) 


勤王ばあさん
松尾多勢子は、信州伊那谷の生まれで、同地の松尾淳斎の妻であったが、後に国学を学び、尊皇攘夷の思想を持つようになった。そして製糸や酒造業を営みながら、志士たちの面倒をよくみた。だから、後年、多勢子を、志士たちは「勤王ばあさん」と呼んで慕った。(「江戸幕末大不況の謎」 邦光史郎) 


ビールをお燗
野口君と飲むことを楽しみにしてゐた私は失望して、しかたなしに一人でやることにし、酒を持つて来さしたところでヒが来てゐてどうにも飲めない。私は辛口で癖のない酒なら何でもいいし、無論名によつて酒をのむ程幼稚でもなかつたが、あまりひどいので壜詰の白鷹でもないかと思つて買はしにやつたところで、それもないと云ふので、昔飲んだことを思ひだして、ビールをとりよせてお燗さして飲んでみたが、もとより旨いはずがないのですぐ飯にした。-
そこの旅館は主人が酒を飲まないので酒屋がいいかげんなのを持つて来てゐたことがわかつた。(「随筆 酒星」 田中貢太郎) 「ヒがくる」とは酒が火落ちして酸っぱくなっている状態のようです。 


日葡辞書の「Saca-」単語(3)
Sacamasu.サカマス(酒枡) Saqeno masu.(酒枡)
酒を量るのに使う木製の量器.
Sacamori.サカモリ(酒盛)
大勢の人々の遊興で、そこで大いに酒を飲むもの.¶Sakamoriyuo suru.(酒盛をする)大いに酒を飲む宴会、または、遊興を催す.
Sacamucai.サカムカイ(坂迎ひ)
陸路、あるいは、船でやって来る人を迎えるために贈る、酒などの飲食物.9
※1)´坂迎ひ`を当時´酒迎ひ`と解することがあったので、この説明もそれに関係があろう.酒迎さかむかひ(落葉集色葉字集)
Sacana.サカナ(肴)
肉や魚などのような食物.¶また、何であれ、酒を飲む時におかずとして食べる嗜好物.
Sacatçubo.サカツボ(酒壺)
酒の壺、あるいは、瓶.(「邦訳日葡辞書」 土井・森田・長南 編訳) 


竹酔日
いくらよい筍の出る孟宗藪だからと云っても、捨てて置けば瘠せてしまう。立派な筍を得るには、一方それだけ栽培の努力が、払わなければならないことは、いうまでもない。筍の親株、すなわち地下茎-鞭根という-を植え付ける時期は、古来から陰暦の五月十三日を竹酔日あるいは竹誕とも称して、よいとされ、この日に植えれば、必ず著(つ)くという。 ふらずとも竹植うる日は蓑と笠 芭蕉 雨雲や竹も酔日の人あつめ 其角 という古句が教えているように、竹は風がなく、今にも雨の降り出しそうな曇日和を選んで、植付けられるから、降りみ降らずみの竹酔日ごろが、一番適っている訳である。しかし専門家に云わせると、必ずしも梅雨ごろに限らなくとも、竹の活着は、寒地では三月より六月まで、暖国では九月より十月までがよいとの事である。また事実筍の栽培家は秋植えを採用して優秀な成果を収めつつある。(「俳諧 たべもの歳時記」 四方山径) 


越後・近江出身者
東京で風呂屋を営む人たちには越後出身者が多いが、関東地方とくに、埼玉、群馬県あたりの酒造家にも、越後の出身者が多い。これは酒造り工人の頭、杜氏が次第に産をなし、その地方に居ついたものであろう。関東から東海道筋、三重県あたりには、近江出身の醸造業者(清酒、醤油)が多い。これは、近江から会津に移封された主人、蒲生氏郷を慕って会津へ通った商人たちが、その道筋の要所々々に土着した。初めは年一回、夏期の一カ月ぐらい帰郷する番頭に任せて始めたものが、いまではその大半が主人ともども居ついてしまうようになった。概して前者は小庫、後者は大庫である。後者は俗に江州店(ごうしゅうだな)と呼ばれる。その出身地は滋賀県蒲生郡日野町を第一として近江八幡、長浜などに及ぶ。(「さけ風土記」 山田正一) 


チャンポン
チャンポンというのは、鉦と鼓の音のことだといわれます。鉦は、もともと仏教などで使われる道具の一つで、鼓は、能楽で使われます。鉦も鼓も、舞いとか踊りのオハヤシとして伴奏的に打つものですが、昔は、能楽が主として上流社会にもてはやされ、そのため鼓が上品な伴奏として考えられたのに対して、鉦は祭りバヤシなどに広く用いられて、大衆的なもの、つまりあまり上品でないものというふうに考えられていました。それで、鉦と鼓を交互に鳴らして伴奏に使うことは、突拍子もない型破りになるわけで、これからチャンポンといえば、性質のちがうものを交互に、あるいは一緒にまぜ合わせるというような意味になったといわれます。(「雑学おもしろ百科」 小松左京監修) 


きちがいみず、きっぱらい、ぎてきのしょおべん
きちがいみず[狂い水] 酒[飲むと気狂いのようになる](俗語)(明治)
きっぱらい 無銭飲食の一方法。《飲食店で飲食が終わった頃、仲間同士でけんかを始め、街路へとび出し、そのまま金を払わずに逃げる》[←かっぱらいに掛けて、きす(=酒)ぱらい](香具師・やし・てきや用語、不良言葉)(昭和)
ぎてき・の・しょおべん[欺的の小便](名詞)句 詐欺師が被害者の歓心を買うために酒を飲ませること[色の類似](香具師・やし・てきや用語、強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)(「隠語辞典」 梅垣実編) 


焼酎、焼酎と味醂の混合酒、密造酒、白酒、濁酒、密造の濁酒
【焼酎】(本)げんた(鹿児島県谷山)・せへ(奄美大島)。
【焼酎と味醂の混合酒】(本)やなぎかけ(岡山・徳島)。
【密造酒】(本)ごそー(佐渡島)・こもかぶり(青森・秋田)。
【白酒】(本)あまざけ(和歌山・徳島県美馬郡)・ねりざけ(香川県高松)。
【濁酒】(本)こも(秋田県鹿角郡)・ごんく(北海道(松前方言考)・伊豆大島)・ごんどかぶり(宮城県登米郡)・しろうま(岩手県中通地方・宮城県登米郡・埼玉県南埼玉郡)・てしゅ(石見)・どぶ(滋賀県蒲生郡・山口県阿武郡・大分県宇佐郡)・どぶざけ(新潟県岩船郡・福井県大飯郡・岐阜県養老郡・山口・長崎・熊本県天草島)・どんべ(青森県北上郡)・ふくろ(秋田県由利郡)・まついた(宮城県登米郡)・めぐりさけ(秋田・岩手県和賀郡)・(補)どぶさけ
【密造の濁酒】(本)おほ(南部)・かの(佐渡島)。(「全国方言辞典」 東條操編)(本):全国方言辞典収録、(補)同補遺収録 


こん
酒席での作法を『四季草』で詳しく解説しているので紹介してみよう。「一こんというのは、何にても肴(吸い物も肴なり)を出し、杯と銚子(ひさげも銚子に付いて出るなり)を出して、三度(三杯のことなり)すすめてから、その肴の膳もとり、杯と銚子も引く。これが一こんなり。次にまた肴を出し、杯と銚子を出して三度すすめ、膳と杯、銚子を引き下げる。これが二こんなり。幾度進めるとも、みな同じことなり。ただ、肴ばかり出すとはかぎらない。雑煮なども、初献にかならず出すなり。餅は酒の肴にならぬゆえ、”そえ肴”と名づけて、魚物を一色そえて出し、その肴で酒をすすめる。これ一こんなり。飯でも、まんじゅう、ようかん、そうめん、むし麦、らんめんなどの類でも、"そえ魚"を出して酒をすすめれば一献である。」このように献を重ねて、八献、九献とすすめる場合も少なくない。女房言葉では、酒のことを「九献」というが、ここから出た言葉と思われる。(「日本の粋を伝えることわざ」 永山久夫・川嶋宏) 


第十七回摩阿陀會(まあだかい)囘文
七七翁内田百閒先生 仰ぎみれば 巨いなる哉 とうとうたらり とうたらり さまは百まで わしや九十九まで 摩阿陀か摩阿陀かと 待ち奉るともがら 四方来賀 黄金の盃をあげて 喜壽萬歳を舞はん哉 ときは 五月二十九日 黄昏六時 ところは 東京ステーションホテル樓上 かねは 四阡圓 昭和四十一年五月吉日(「めぐる杯」 北村孟徳) まァだ、しずまずやア 「まあだだよ」という黒澤映画もありましたね。 


一生の顔を目出たくあかめ合(あい) 柳五42
結婚のしるしの三三九度の盃をかわすと、たがいにぽっと顔が赤くなる。まことに生涯の最良の日である。-酒のためか、羞らいのためか、いや、その両方であろう。
一生に一度男へなめてさし 柳一二1
かための盃の時だけは、まず女がのんでから男へ盃を廻す、のむと言うよりなめる程度である。 (「川柳集 狂歌集」 吉田精一評釈) 


酒豪
新川の問屋の番頭で名は忘れたが、一日に六升は欠さぬと言う酒豪があった。「あの人は酒問屋にいるから宜(い)いが酒を買って飲む人であったら身が持てまい」と噂された。毎朝起きると一升のみ、昼二升余も飲み、夜三升飲み、寝る時雑炊を一杯飲んで飯は喰わなかったが、六十近くまでいた。「あなたの上を越す人は聞きませんね」と言ったら、「イヤ、上には上のあるものです。程ケ谷(ほどがや)の近くで女で日に三升飲むお客があります。私より多く飲めるらしいが三升買うにも骨が折れると言っていました」と語った。新川には上戸が多かろうと思いの外下戸が多い、酒の美悪(よしあし)を「口利」(き)くのに上手な人は下戸であった。(「明治のおもかげ」 鴬亭金升) 


キス、キンゴメザケ、クロザケ、ケアコ、ケズリ
キス 愛媛県松山地方、長野県更級郡、千葉県安房郡などで酒のこと(山窩隠語集、更級郡方言集、上総国誌稿)。秋田方言の薬をキソリということと関係があろうか。
キンゴメザケ 山形県最上郡で新米で作った濁酒をいう。キンゴメはキゴメ(生米)から来ている語であろうか。
クロザケ 伊豆諸島の八丈島で濁酒のこと(八丈島)。
ケアコ 粥コ。青森県三戸郡五戸町地方で甘酒のこと。
ケズリ 酒のこと。江戸の番匠の間で用いられた。京都でもそういう者があったという(物類称呼四)。いずれもとはケンズイから来ている語であろう。関西地方で灸治するさい、酒食を饗するのをケンズイというし、山と地方では毎日の間食をいう所がある。(「分類食物習俗語彙」 柳田國男) 


風流昔の花見
西鶴の句に「平樽(ひらだる)や手なく生るゝ花見酒」というのがあります。花見酒といえば、元禄の頃は、平樽や手樽をかつぎ出したものです。平樽というのは手のつかない樽で、手樽というのは手のついたのをいいます。花見の場所で酒がだんだんまわって来ると、この手樽に女の着物を着せて、人形でもおどらせるように盛んにおどらせたものです。その頃、酒の最上は「花橘(はなたちばな)」で、これに次ぐのが「重衡(しげひら)」です。「重衡」というのは平重衡が南都を亡ぼしたのに因(ちな)んだ名前で、もとは「南都諸白」といわれたものです。当時の人は、盃にもずいぶん数寄をこらしたものです。著名なものは「七人猩々(しょうじょう)」、「武蔵野」、「不可」などがあります。「七人猩々」というのは七人(?)の猩々がおどっている蒔絵が施してあったから、そう呼ばれたもので、容量五升、「武蔵野」は一斗もはいるのですから驚くじゃありませんか、一斗もはいっていたのでは、いくら酒豪でももみつくせませんやね。武蔵野は広くて野をみつくせない、「武蔵野」という杯の名前には、ここにしゃれがあるのです。それから「不可」というのは「可」という字は、絶対に下に置かないものです、例えば「可上(あがるべし)」というようにですね。ところがです、この「不可」という杯には、底に穴が空いているのですからこの杯は「下におくべからず」です。(「梵雲庵雑話」 淡島寒月) 


鯖の塩辛
その昔、食料品店等で鬻(ひさ)いでいた壜詰の鯖の塩辛は、北陸や防長方面で製造されたものが多いが、就中(なかんずく)長門(山口県)は塩辛類の加工では著名なところで、ここの鯖の塩辛は、内臓だけでなく、魚肉も骨も切り砕いて、塩と麹とで漬けてある非常に風味に富んだもの、酒肴たるに止まらず、温かい御飯に添えても結構なたべものであった。麹さへ入手出来れば、甘仕込みの鯖の塩辛は、確かに一佳饌たるを辱しめぬ。 新酒よし鯖塩辛の甘き味 兀山(「俳諧 たべもの歳時記」 四方山径) 


私の酵母
月桂冠のような大規模な蔵では、複数の杜氏がいて、それぞれ製法や麹の違うやりかたで酒をつくっていた。「これでは安定した品質の酒なんて醸せるわけがありません。」そこで彼は、杜氏に黙って勝手に自分が開発した酵母を使用したのだった。「そらもう杜氏は怒って帰ると言いよるし、えらい騒ぎになってしまいました。けど二十日ほど経ってみたら、杜氏は黙ってしまいました。醪を搾ってみたら思いのほかいい酒ができたんです。そうしたら、あれほど頑固だった杜氏が、それから私の酵母を使ってくれるようになったんです」この話は後日譚もあって、月桂冠は栗山の麹を伏見の酒質向上のため他の蔵にも分けたそうだ。「あの事件のおかげで技師と杜氏の仲が急速に親しくなりました。杜氏が連綿と受け継いできた経験と勘を、科学の力で演繹して新しい酒づくりに役立てるようになったわけです」(「うまい日本酒はどこにある?」 増田晶文) 月桂冠の副社長だった栗山一秀の話だそうです。 


○すいくわ 吾友軒作
「これ、こなたもいつまでおらが内(うち)に、居候になる気だ。蘿宇(らう)のすげ替へ七に出せば、ようよう三十二文程とつてくる。いつそ茄子(なすび)でも売つたがよい」「イエイエ、肩が痛くつて、天秤棒はかつがれませぬ」「そんなら自身番のわきをかりて、夜すいくわ(西瓜)の断売り(たちうり)一〇を始めたがよい。さいわいと、ふだん来るぼてい一一に頼んで買出してもらひ。しかし、行灯(あんどん)の用意があるまい。赤紙一二を買つてきたがよい」「そんなら小僧どの、買つてきて下さい」「ハテ、それが貴様の無精(ぶしよう)だから、商ひができぬ」と叱られ、それから近所の酒屋へ行つて、「赤紙がござりますか」「アイ、紙も売りますが一三、此の間短冊一四に売つて、赤紙は切れました」「そんなら、青い紙でもよし」と買つて、行灯を張つて居る。「コレ、赤い紙で張らねば、断売りはいかぬものじや。うす赤いすいくわでも、行灯の光で赤く見へるはさ。貴様もよくよく馬鹿な人だ」「インエ、青い紙でもよしさ」「ソリヤア、なぜ」「ハテ、まるで売ります一五
注 七 蘿宇(煙管の吸い口と火皿をつなぐ竹の管)を新たにすげかえる行商。 八 ごく少ない代金。 九 江戸市中警護のため町内の一隅に設けた番所。 一〇 切り売り。必要なだけ裁ち切って売ること。 一一 棒手。天秤棒を担いで物を売り歩く人。「もらひ」は「もらえ」の訛り。 一二 「赤く熟した西瓜」と品質を保証し宣伝するため、行灯に張る赤い紙。 一三 酒屋で需要期には臨時に赤い紙を置いたか。 一四 七夕に飾る短冊用。疱瘡のまじないにも、赤紙を用いた。 一五 西瓜まるのままなら、皮は青だから青紙でいい。(「化政期 落語本集」 武藤禎夫校注) 


日葡辞書の「Saca-」単語(2)
Sacagame.サカガメ(酒甕)
酒を入れるのに使う壺.
Sacague.サカゲ(酒気)
酒をのんだことの知れる様子、あるいは残り気.¶Iccǒ sakaguenimo vorinai.(一向酒気にもおりない) Mon.(物語)私は決して酒を飲みもしなかったし、私には酒の気のしるしもあともない.
Sacagome.サカゴメ(酒米)
酒を造る米.
Sacagura.サカグラ(酒蔵)
酒を貯蔵する地下倉庫.
Sacagurui.サガグルイ(酒狂ひ)
すなわち、Suiqio.(酔狂) 人が酒に酔った上でする狂気じみた所行.(「邦訳日葡辞書」 土井・森田・長南 編訳) 酒蔵を地下倉庫としていますが、これは興味がもてますね。 


対照的
晩年、このご両人ともに作家、それも流行作家になり、同じ酒場で酒を飲み、同じゴルフ場でボールを打っている。二人の雰囲気は、和気あいあいといった按配なのだ。外から見ていると、まったく対照的である。井上靖はどんない酔ってもくずれないが、源氏鶏太は、酔うとすぐ横になってイビキをかいて眠ってしまう。観察する所によると、どうも源氏は井上靖の紳士酒に一目も、二目もおいているフシが見える。ともに、文壇酒徒番付で横綱になり、引退後は一代横綱の称号をおくられたほどだから、酒は強い。そのくせ少しも堅苦しくなく愉しい井上靖の酒。そんな酒に源氏は羨望しているのかも知れん。ある時、源氏鶏太がうれしそうに、「井上さんも、酔っぱらって、どうして帰ったかわからないことがあるんだって-」と、しゃべっていたことがあった。二人で一緒になり、その次の機会に「あれからどうしたんですか」と聞いたらしいのだ。(「ここだけの話」 山本容朗) 


高歌放吟、深夜泥酔
次に、旧制高校の謳歌は、エリート意識の現われであるとする批判についていえば、私は率直にいって、多分に聞くべきものがあると思う。公開の舞台で旧友肩を組んで乱舞する姿をテレビで見て、そのように感じ取る気持ちは肯(うなづ)けないでもない。ことに、近頃の"黒い霧"といわれた政治の暗黒面、あるいは、政治家の醜い派閥闘争を日常眼のあたりに見せつけられている彼等が、そのような批判の眼を持つことはむしろ健全さを示すものと考えられる。慥(たし)かにエリートという言葉が意味する特権階級意識が当時の高校生にあったことは否めない。街中を高歌放吟したり深夜泥酔して店の看板を取り替えたりした悪戯も、青年客気の至りと自他ともに許されたことはその現われともいうべきだろう。(「あゝ玉杯に花うけて」 扇谷正造編 「旧制と新制の青年像」 丸山誠治) 


宇佐八幡神社の神饌
祭典が済んでしばらくして、神主の一人が祓(はら)い幣(ぬさ)を襟(えり)に差しサカキ(榊)の一葉を口にくわえて(潔斎の姿勢を示す)、本殿に昇る。そのことに気づく人も少ない。その神主は、しばらくのあいだ本殿に籠(こも)り、酒(甘酒)を造るのである。これは、秘事とされているわけではないが、場所が場所だけに一般の人はのぞきにくい。しかし実際は、単純な方法がとられているのである。まず、神主は、祓いの祝詞(ことば)を奏し、口祝詞(くちのりと)をもって神事の本意を述べる。「掛巻(かけま)くも畏(かしこ)き宇佐八幡神社の大神の御前(みまえ)に、出雲の国楯縫(たてぬい)の郡(こおり)に鎮坐(しずまりま)す松尾(まつおの)大神を招き祀り、今般の酒醸(さけと)きの神事をとりおこなわんとするさまを平けく安けく聞こしめに給え。御前に供えまつる種々(くさぐさの)物のうちより、大神たちの御神徳(みたまのふゆ)ありし神飯(みけ)、神麹(みこうじ)を授け給わば、昔(いにしえ)の呪文(となえごと)もちて甘き神酒(みき)を醸(と)き満たさんとす。そのために、この御座(みざ)を潔斎清浄(しょうじょう)に祓い給え清め給え」そして、まず杓桶(小桶)をとる。以前は曲物(まげもの)であったが、いまは金属製の桶である。次に、飯を少量それに入れ、麹をふりかける・この間、役十数分、飯が冷えているので箸で丹念にかきまぜる必要がある。最後に、桶に奉書をかぶせ水引で封じ、あらためて三方に載せて神前に供えるのである。つまり、一夜酒(ひとよざけ)を造るのである。もちろん、その酒は、次の日の本祭典が終わったあとの宮座の直会(なおらい 一定数の祭員による宴)でひと口ずつ分け飲まれる(水でうすめて煮たてる)。(「酒の日本文化」 神崎宣武) 筆者の郷里である岡山県小田郡美星町にある宇佐八幡神社の宵宮(前夜祭)の記述です。 


ムーン・シャイン
アメリカでは。密造酒のことを、ムーン・シャインといっている。酒飲みは、とかく赤鼻になり勝ちである。アメリカの笑話に、赤鼻の人に、「お前の赤鼻は、サン・シャイン(日やけ)でなったのか」ときくと、「オーノー。ミステーク。俺のはムーン・シャイン(月やけ)で赤くなった」というのがある。話はこうである。この赤鼻の男は、密造酒の常習犯で山の中に密造し、夜な夜な山中にでかけていって酒を飲み、月影のもとで、いい気分になっていた。それで、ムーン・シャインだとすましこんでいたという次第…。(「酒鑑」 芝田晩成) 


反抗心と空腹
うちはいうことだけは小市民的だったから、外食をしてはいけないといわれてどんなに腹が減っても、それだけは守ってた。おふくろにいわれたんだったなあ。おふくろもね、戦後の苦労で、すぐ亡くなったんです。でね、その約束を初めて破った日に、栄養スープと焼酎(笑)。ちっとも美味かないんだよ。だけど腹が減っているからガーッとやって酔っぱらって、一時の空腹を麻痺させるわけだな。それでクセになった。学校に戻っても教室を抜け出して、焼酎を飲ませるバラックの中華料理屋で一杯やって帰ってくる(笑)。酒の勢いで先生とケンカしたり、煙草を覚えたのもその頃だな、洋モクの回しのみで、十五六の頃だね。未成年飲酒ではずいぶん捕まったなあ(笑)。それも酒でカタがつくんです。親父がね、一升瓶持って謝りに行くと許されちゃう。でも、その頃は楽しんで飲んでいるわけではなかったからね。一種の反抗心と、何よりお腹が空いていたってことだよね。(「雨の日はソファで散歩」 種村季弘) 


ラヂオあれこれ巷の話題
芝浦の某酒亭(あるのみや)でほろ酔いかげんの一紳士が電話をかけるべく受話器を耳にあてた。ところが混雑しているとみえて、誰やらが演説口調でしゃべりまっくている。いったん切ってしばらくしてまた耳に当てると、こんどは義太夫が聞こえる。「さて不思議なこともあるものだよ」と、連れの友人(ともだち)にはなすと、「そりゃ、君が酔っているからだ」と言ってはみたが、「どれどれ」とこんどはその友人(おとこ)の受話器をとると、なるほどきこえる、きこえる。さてあくる晩。別の客が電話をかけようとすると、こんどはなんとソプラノの独唱がきこえてくるではないか。はて面妖なと、酒亭(みせ)のほうで調べてみると、これは放送局が近いとあって、ラヂオが電話線を通してロハできけるものと判明した。料理屋とカフェーは、ラヂオさまさまと手をあわせ拝まんばかりの所と、目のかたきとばかりに恨むところと、どうやら二分されたかに見える。ラジオが終るとさっさと帰ってしまう客ばかりの所があるからだ。これがため「ラヂオ遊興(あそび)」なる新語ができた。無線は無銭に通ずるからだとは、いわずもがなである。(「大正百話」 矢野誠一)大正15年ラジオ放送開始頃の話だそうです。 


俺ではない
わが知合なる漢学者の、酒まゐりたりとていさゝかの事なれども、酔ふて途(みち)に羽織落したるを、通りかゝれる車夫の拾ひ上げて、貴方(あなた)のと差出せば、いや俺(わし)ではない、俺は自家(うち)からちやんと着て来た。(「あられ酒」 斎藤緑雨) 


味の記憶はあんまりない
そして次の日。私はやや二日酔い。電話でスガハラくんと仕事の話をしたあと、銀色「午前中は二日酔いだったわ」スガハラ「あのウコンを飲んでなかったら、たぶん死んでました」銀色「酒めぐりじゃなくて、食めぐりに立ち帰ろう」スガハラ「そうですね」銀色「また一から」ということで、今回は飲みすぎて食めぐりとしては失敗じゃないか…。お料理はおいしかった気はするけれど。味の記憶はあんまりない。とにかく、食めぐりに立ち帰ります。これからは、酒は最初の一杯のみ。…、いや、いかん!(「食をめぐる旅」 銀色夏生) 六本木マクシヴァンにてだそうです。 


日葡辞書の「Saca-」単語(1)
Sacabayaxi.サカバヤシ(酒林)
居酒屋の門口に取りつけるもので、木の枝を束ねて箒状に作ったもの.下(Ximo)ではFote(ほて)と言う。
Sacabixacu.サカビシャク(酒柄杓)
ココ椰子1)の形をした一種の容器で、柄がついており、酒を汲み取るのに使うもの. ※1)原文はCoco.[Fixacuの注]
Sacabueuro.サカブクロ(酒袋)
すでに酒になっている米[もろみ]を漉すための袋.
Sacabuguiǒ.サカブギャゥ(酒奉行)
酒の係り、すなわち、酒のことを司る人.
Sacabune.サカブネ(酒槽)
酒を造るもとになる米[もろみ]を入れて搾る大桶.(「邦訳日葡辞書」 土井・森田・長南 編訳) 


ウエストポート
一人の男が、オフィス仲間に、自分はどういうものか、つき合ってくれる素敵な女の子がいなくて…とこぼしていた。友人は提案した。「君、ちょうどあつらえ向きの方法があるぜ。夕方遅く、ウエストポートまでドライブするんだ。そこで汽車がはいって来るのを待っていたまえ。そこら辺にはたくさんのワイフたちが亭主連を車に乗せて帰ろうと待ちまかえてるがね。いつも必ず、一人か二人は、汽車に乗り遅れる亭主がいるもんだ。だから、その中の一人に、つき合ってくれっていってみろよ。ワイフのほうは亭主がヘマして現れないもンデ、カンカンになってるからサ。すぐ喜んで応じるぜ」この男は、こいつは素敵な考えだとばかり、次の日はさっそくコネチカットに向けて車を飛ばした。彼はすっかり興奮して、せっかちになっていた。それでスタンフォードまで来た時、彼は考えた。「なぜもっと先まで行かなくちゃならないんだ?ここの駅だっていいじゃないか、一つ運試しといこう」そこで彼は汽車を待った。そして男連が汽車を降りて、それぞれワイフの車で帰るのを見とどけた。後に一人のきれいな女が取り残された。彼は女に近づいていっしょに食事しませんかと誘い、彼女はたちまち同意した。彼らは食事を共にし、酒を飲み、踊りに興じた。そしてさらに、一、二杯の酒を楽しむために、女の家に行った。ことの成りゆきがそのまま自然に発展しようとした時、思いがけず夫がはいって来て、凄まじい勢いで妻を罵り始めた。突然、夫の注意は、裏口から逃げそこなって、まごまごしている男に向けられた。「チェッ!お前か、このコソ泥奴!」彼はどなった。「ウエストポートで、と教えたはずだ。スタンフォード、とはいわんぞ」(「笑談事典」 ベネット・サーフ) 


月見寺(本行寺)
本行寺は、大永六年(一五二六)、江戸城内平河口に建立された、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永六年(一七〇九)、現在地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。二十世の日桓(にちかん)上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交友があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。- 荒川区教育委員会 場所は東京都荒川区西日暮里3-1-3です。 


ホット・ウイスキー
ホット・ウイスキーです。ホット・トディーともいいます。好みの分量のウイスキーに、砂糖もお好きなだけ、中型タンブラーにいれ、熱湯を注いでステアします。レモンピールを浮かせ、スプーンを添えます。冬の夜はこれにかぎります。ナイトキャップで飲めばぐっすりねむれます。オシッコに起きないですみます。風邪をひいたときなど絶好の効果があります。なお風邪薬としてのウイスキーの効能は昔からいわれていますが、スコットランドの古諺(こげん)の「風邪をひいたらベッドの上で、カアチャンの顔が二重に見えるようになるまでウイスキーを飲みつづけなさい」などが有名です。(「洋酒天国」 開髙健監修) 


「酒」といえば日本酒のこと
池波先生が酒好きだったことは間違いない。十年の間随分一緒に旅もし、仕事の手伝いもさせてもらい、いろいろな店で食事を共にしたが、ただの一ぺんも酒なしで飯を食ったことはない。それも、そこに「酒」がある限りは「酒」だった。上に何もつけずに「酒」といえば日本酒のことに決まっていた。私自身は一年中冷や酒専門だが、池波正太郎はつねにきちんと燗をした酒が好きだった。ステーキハウスでも「酒」、洋食屋でも「酒」。中国料理を食いにいっても「酒」。鮨屋、てんぷら屋では、むろん、酒に決まっているが、「量」にうるさかった。「鮨屋は鮨を食うところ」「てんぷら屋はてんぷらを食べるところ」という主義で、「こういうところでグズグズ酒を飲んでちゃいけない」が口ぐせだった。さっさと鮨を食べ、出されるそばからてんぷらにかぶりつき、然る後に飲むべき場所へ移ってゆっくり飲め、というわけだ。蕎麦屋は最初から一杯やるつもりで入る。酒を飲まないぐらいなら蕎麦屋なんぞに入るなといっていた。焼海苔か焼味噌でたいてい二本。それからせいろ、または盛り。海苔のかかった「ざる」は決して食べなかった。しかし、目の前で私がざるを手繰っていても、だからといって文句をいうことはなかった。(「『酒』と作家たち」 浦西和彦編 「お銚子一本半-池波正太郎さんの思い出」 利根川裕) 


豆屋
路傍に小屋掛けをして旅人に茶・酒・飯などを売った掛け茶屋・出茶屋の家号。大田南畝(一八二三年)の『半日閑話』に、<童謡 このころより戌(いぬ)の春へかけて童謡。>として、<臍の下谷に出茶屋がござる、柿の暖簾(のれん)に豆屋と書きて、松茸売りならば入らしゃんせノウ。>とある。(「飲食事辞典」 白石大二) 


中酒
当時は、ご飯ひとつ食べるにもやっかいなしきたりがあった。その第一が、ご飯を食べてから酒を飲むという習慣である。江戸っ子が聞いたら塩を撒かれたであろうこのしきたりを「中酒(なかざけ)」といった。中酒は鎌倉時代から生まれている。しかし一番盛んだったのは室町時代で、それは江戸時代半ばまでつづいている。鎌倉時代は、まずはじめに水繊(すいせん)を肴に酒三献、次いでそうめんに茶のもてなしがあり、そして山海の珍味が並びご飯となる。ここまでなら現代とそう変わらない。ところがご飯が出たからといって、これで「お開き」というわけではない。ひと休みすると抹茶がでる。これからがいよいよ本番で、美肴をつまみながらおおいに酒を酌みかわすのである。ここにある水繊というのは今日でいうところの葛切で、葛粉を湯でこね、蕎麦切りのように細く切るので水繊といい、クチナシで黄に染めたものと、色をつけないのと二色を一緒に盛ったところがスイセンの花のようなので水仙とも呼んでいる。この水繊、一説には江戸時代初期には細く切ったのを水繊、蕎麦切りのように打って切ったのを葛切といって区別していたという。いずれにしても砂糖蜜をかけて食べる酒の肴にはまったく合わない代物であった。室町時代になると、酒はご飯がすまないと出てこなくなる。それも一定の決まりがあって、光圀のころ、江戸時代初期にはご飯が終わったあと、まず碗の蓋に、次に小椀、汁椀、最後は飯椀で酒が注がれたという。飯後はこれだけでも相当な量である。もちろんこの中酒の風習は日常的なものではない。軽い接待の場合も麺類や雑煮が出る。客はこれを最初に食べる。それから酒に移る。この時には添肴(そえざかな)が出される。それは焼き鳥であったり、刺身であったり、あるいは吸物や魚であった。一般には魚味が中心だったという。その食後に出す食べ物を後段(ごだん)といった。(「水戸黄門の食卓」 小菅桂子) 


米俵、酒樽、味噌、醤油
Q むかしの合戦では、戦場に行くのにも煮炊き用の薪を自分たちで運んでいきました。さて、いったい雑兵は一日分の薪をどれくらい背負ったと思いますか。
A 正解は三百グラム。薪二本といったところです。腹がへっては戦はできぬというたとえどおり、戦に兵糧は重要な意味をもっていますし、それらを煮炊きする燃料も当然大事な役割をになっているわけです。もし薪がなければ馬糞の乾いたものをその代わりにしたという話も伝わっています。さて戦場におもむくとき、どんなものを携えていったのでしょうか。武将の荷物の目録や軍記などによりますと、米俵、酒樽、味噌、醤油などの食糧品のほか、おの、鎌、ナタ、ノコギリのような数百丁の土建用具から、渋紙、細引、荒縄の類までじつに種々雑多、たいへんな分量の物を運んだようです。場合によっては武将のための組み立て式の小屋を持ち運ぶこともあったと伝えられています。(「NHKクイズ面白ゼミナール」 鈴木健二・番組制作グループ編) 


三十二段 雪の面白う降りたりし朝
雪のおもしろう降りたりし朝(あした)、人はいつゞけとさわぐに、土手を帰るとて供(とも)したる男の、雪のこと何共(なにとも)いはざりし。「此雪(このゆき)如何(いかが)見る」といへど、寒さに何と聞入(ききいる)べき。口惜き心也。「茶椀酒もはやさめ候か」といひたりしこそお(を)かしかりしか。今はほどへぬれど、かばかりのことも忘れがたし。
注 いつゞけ 遊里に連日続けて滞在すること。 土手 吉原土手。山谷から三ノ輪まで十三町。日本橋堤、また土手八丁とも。(「吉原徒然草」 結城屋来示 上野洋三校注) この徒然草のパロディーを書いた来示は、其角の弟子で吉原の楼主だった人だそうです。徒然草は「雪のおもしろう降りたりし朝、人のがり言ふべき事ありて、文をやるとて、雪のこと何とも言はざりし返事に、『この雪いかゞ見ると一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人の仰せらるゝ事、聞き入るべきかは。-』」(西尾・安良岡校注)となっています。 


矩を越えず
「どういうものか、亀井氏は、相手を有頂天にさせたり、熱狂させたりすることの少ない人で、私交のうえで矩(のり)を越えることを好まないせいか、淋しい孤立の印象があった」と記しているのは、『日本浪漫派』以来三十年のつき合いのあった檀一雄氏である。亀井さんは、酒の上でも、矩(のり)を越えなかった。少なくとも人前で矩を越えたふうを見せなかった。酒の勢いで談論風発、容赦ない人物評が飛びだす、といった光景を、私は一度も見たことがない。だから、派手な酒「上:夭、下:口 の」みではない。にぎやかな酒「上:夭、下:口 の」みでもない。そして、どれだけ酒の量が進んでも、態度様子は同じだった。ことによったら、べらぼうに強い酒「上:夭、下:口 の」みなのかもしれない。あるいはまた、もしかしたら、どうしても酒に酔いきれない体質なのかもしれない。私としては、亀井さんの酒の正体見たり、という場面に接したことがない。(「『酒』と作家たち」 浦西和彦編 「最後の鍋焼きうどん-亀井勝一郎先生のこと」 利根川裕) 


きす、きすくらい、きすぐれ、きすこおじょお他
きす1(語素)  酒に関係する語を造る。[好きの逆語。一説にキス(kiss)=ちびりちびり盃に唇をつけて飲む]→きすもつれ。きすぐれ。(香具師・やし・てきや用語)(明治)
きす2  ①酒。[←好きの逆語。一説にキス(kiss)=ちびりちびり盃に唇をつけて飲む] きす・お・けずる[きすを削る](動詞)句 酒を飲む。 きす・お・ひく[きすを挽く](動詞)句 酒を飲む。[←いた・お・けずる。いた・お・ひく]②居酒屋。安料理屋。(香具師・やし・てきや用語、強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)
きすくらい[きす食い]  酒のみ。「上:夭、下:口 の」んべえ。(香具師・やし・てきや用語、強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)
きすぐれ  酒によっぱらうこと。酔つぱらい。[←きす=酒。ぐれる=脱線する](香具師・やし・てきや用語、強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)
きすこおじょお[きす口上]  けんかを吹き掛けて酒にありつくこと。→きす1(香具師・やし・てきや用語、強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
きすごる(動詞)  くだを巻く。(香具師・やし・てきや用語、強盗・窃盗犯罪者用語)(昭和)
きすごろ  のんだくれ。(香具師・やし・てきや用語、強盗・窃盗犯罪者用語)(昭和)
きすすい[きす吸い]  酒をのむこと。(東北-強盗・窃盗犯罪者用語)(大正)
きすずれ[きす擦れ]  酔っぱらい。泥酔者。(香具師・やし・てきや用語、強盗・窃盗犯罪者用語)(昭和)
きすだら  酒の粕(強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)
きす・に・うれる[きすに熟れる](動詞)句  酒に酔う。酔っぱらう。[←うれる=赤くなる](香具師・やし・てきや用語、強盗・窃盗犯罪者用語)(明治)
きすば[きす場]  酒宴。宴会。(香具師・やし・てきや用語、強盗・窃盗犯罪者用語)(昭和)(「隠語辞典」 梅垣実編 


自分の盃で飲む
【意味】他人の真似をせずに、すべて自分の創意で事を行うのをいう。
【参考】ロマン詩人アルフレッド・ド・ミュッセの『盃と唇』の献辞に-(ぼくの盃は大きくはないが、ぼくは自分の盃で飲む)とある。この一行の前に「去年人はぼくがバイロンを真似ると評を立てたが、ぼくを知る君はそれが当たらぬことを知っている、ぼくは剽窃なるものを死の如くに嫌う」とある。(「フランス故事ことわざ辞典」 田辺貞之助) 


朝酒三杯お神酒のお下がり
 朝酒は神棚に供えた御神酒のお下がりとして、三杯までは許される。酒飲みは朝から酒を飲む口実である。
朝酒は後を引く
 朝飲む酒はおいしくて、やめられなくなるということ。
朝酒はじれのもと
 「じれ」は秋田地方などのことばで、悪口雑言のこと。朝っぱらから酒を飲めば、頭が正常に働かず、人の悪口をいったり、ばかなことをするのが落ちということ。
朝酒はその日のどら
 「どら」は福島地方のことばで、無駄遣いの意。朝から酒を飲めばその日の仕事に差し支える。朝酒は無駄遣いの最たるものであるということ。(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 


元治元年 月岑、還暦を迎える。
[一八六四]四月二十四日、三河町三丁目で酒に酔って暴れている小普請組の侍を取り押さえ、召捕る。(「武江年表 斎藤月岑関係略年表」 斎藤月岑 金子光晴校訂) 


94.酒あっての友、飯あっての夫婦   酒肉的朋友、米麺的夫妻
 飲み食いするものがあって、はじめて友人ができ、夫婦が成り立つ。「食うものもなくて、愛情なんて」と映画『黄色い大地』(1984年)に出てくる。 中国-漢民族(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川 




注・横書きなので、<またまた>といった畳語後半の繰り返し記号(く:くの字点)の表記ができませんので、2回繰り返して記しています。
 ・機種(環境)依存文字等は、?になってしまいますので、「上:夭、下:口  の」のような表記にしています。
 ・旧字体の漢字は大体新字体にかえてあります。また、ふりがなは、かっこ書きにしています。
 ・ふりがなは適当に増減しています。