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御 酒 の 話 34



つまらぬ酒  平手造酒  酒と酒器  酒のさかな  文壇酒徒番付で大関  新宿酒日記(3)  日本号、見られたような  四月十二日  地酒飲み  足相撲  チヨダ  手製の焼酎  〇煖酒  御酒くだされ候  コップ酒の切符  オトト  〇家光公寛大な事  ワシントニアン運動  醍醐の花見(現代語訳)  酒の肴は天ぷらそば  酒飲んでいつか挫折に慣れてくる  色調の問題  項荘と樊噲  ニューヨークの建物の四分の一  酒一斗貯へて在り春の宿  義経の首  カム  反応抑制課題テスト  二階火事  酒のない文化色々  果則上林苑之所献  何故、一流酒場にいくか  コンビニの軒先で飲食  彼にとっては、どぶろくはうまくない  アメリカの医師会の定義  本人は喋っていない  無礼講的色彩  長部日出雄の乱れ酒  灘への大波小波  仏説摩訶酒仏玅楽経(9)  酒、酒なるかな  さらし首  寝酒  曾我兄弟と和田義盛が会飲した時の杯  柄杓  桃さくら鯛より酒のさかなより  うまさけ  こんな女ではなかったのに  ウイスキーやジンなんていう女の飲むものは相手にしない  甘い酒を気楽に飲んだ方がいい  ○立直りの試合の話  酒は一種の心の臙脂である  濁酒三合を得たくて  ドライドランク  握力計  商標思想の発生  酒の勢いで書くんじゃない  滝の画に  ぼくはアル中ではありません  酔う  ドクターストップ  後悔先にたたず  飲み友達  中村勘三郎(なかむら・かんざぶろう)  参豫会議解体  童謡  酒に還ってきた  市川海老蔵(いちかわ・えびぞう)  酒は湿  春暁や昨夜の酒に悔いなきか  蟹の甲羅酒 蟹の甲  邢州、白磁の盞  酒乱ナンバーワン    酒を多く呑まぬ習慣をつけよ  居酒屋  酒の上だから勘弁しない  時間のようなものを飲んでるんだ  春之部  三月六日  無泡性酵母の分離  生まれ育った環境がよろしくない  新酒、鱸  それが今では、お酒なしの人生など考えられない  方言の酒色々(30)  飲み屋に受けたオン  吟醸酒の庫  なんぼなんでも  メグレ家の梅酒  下戸のことわざ(2)  塩漬けにする前のこのわた  55.怒りのうちに酒を飲み  てふ【蝶】  タリ  さけ[酒](名)  呑む智慧と芸術  「酒」という妙な物  ○酒箒廿九(2)  珍答案  客僧にはかに、女(おんな)に成し事  刀自必ずしも、主婦だと解するには及ばない  ○酒箒廿九(1)  さむしい洒落  ○月×日  両足を揃えてぴょんぴょん  <また飲めるようになった>どころではなく  いい気な酔っぱらいの親爺  新宿酒日記(2)  海鼠(なまこ)  青木周蔵はビールで日本酒を退治しようとした  二月十九日 火 十七夜  五十鈴  ただただ酔うため  前々日にまでさかのぼって禁酒  冷酒とジャミパン  連日はしご酒  戦時中の配給のお蔭  二日酔いの山登り  毎夜の私の儀式(2)  酒が純粋にしてくれる  ある日トツゼン  酒は売らせない  二十二杯目  張飛と張郃  クスリおたくか  ゲーテの詩  東豊国  清河の親子旅  話の面白くない時  文壇日記  サラ川(22)  早慶戦の晩  なりひさご  得意は酒の燗    赤きは酒の咎ぞ  鞋杯  776 漁家寒し  どこで切りだそうか  甘口もうまい。辛口はもっとうまいが。  那智氏  酒よく事を成し  老残の酒徒  春風馬堤曲  後世ボストン市に発展する集落  詩人嗜餅  フレンチパラドックス  炉びらきや雪中庵の霰酒  アメリカの自家醸造  デカンシヨ節  小僧とキツネ  先逢阮籍為郷導  K先生  93-もうはんぶん  原因は「お酒」  酒と漂泊  もうちょっとここにいろよ  赤垣と堀部  「ばら麹」の作りかた  仏説摩訶酒仏玅楽経(8)  夜は酒を飲むためにあけてあるんだ  寸古録の徳利  酒に交われば  失うた帳面を記憶力で書き復した人  呑ん平  奇抜な辞世の歌  笹酒のつどい  重衡千寿前の杯  深みの一変種  四十歳頃から再開  030★ホテイシメジ  内田頑石  ショボショボした米の方がいい  五段 ひとり酒  演奏会のあと  ハードボイルド風の吞み方  犯人は宇宙人だったのかも  酒入れば舌出ず  バーナードが行方不明  台所で酒飯を供して  酒をおぼえる  地口あんどん  久里浜アガリ  中世に於て一般に酒造に使用した壺の容量  ビールの次に知ったのが日本酒  稲荷新田六郎左衛門がやどにて  七十年間飲み続け  松蔭と正志斎  酒を飲んだあと  卑弥呼フレーバー  悲酒 二題  三十年間にざっと三十六石  自己規制  日本のお酒です  藤蔭静枝(ふじかげ・しずえ)  つきない徳利  「酒」について  酒食にふけり  ビヤホールで  殺し屋酵母  カルバドスにあこがれて  冬の夜や つい後をひく酒二合  方言の酒色々(29)  54.酔っぱらいはひっくり返ったときだけ心を入れ替える  酔っぱらい氏の行方  酒の力  昭和二十年一月三日  としだま【年玉】  熊楠の正月  新年・春  難破船での正月  小間物屋  旅人の歌  深夜の独酌による酒宴  てうし【銚子】  日本酒を二合ごちそう  伊丹の美酒を所望  真実のほうばかり向くよっぱらい  初めてのお酒  酒を損せしめ恨を晴さん  見たことがなかつた  よい酒、よい人、よい肴  居酒屋立身出世物語  唐衣橘洲(2)  TUBA  都々逸坊扇歌  酒は詩を釣る色を釣る  薬用として一日酒三斗  お嫁さんの家に突っ込む  戦争に行けば真人間になれる 一升壜とコップを三つ  田楽を酒の肴  冬至の夜  着流し姿の編集長  1%と3.8リットル    大田村御用留  小っちゃな盃  二十一 烟草  花萎酒  ソバ屋の酒  私の酒  十二月十八日、日、晴。  さか-ずき[杯・盃]  沢水の黄金  25.男を迷わすのは酒と女  千田是也(せんだ・これや)  方言の酒色々(28)  服薬後の衛生  てのないひと【手の無い人】  協会五号以前と六、七号




つまらぬ酒
私が酒を飲むようになったのは、中学の三年か四年頃、その名も腹立たしいやら恨めしいやらの大東亜戦争の最中で、同級生がつぎつぎに軍隊へ志願していった時代だった。芝高輪の泉岳寺のとなりの義士祭の歌などを歌っていた三流校で、陸士や海兵を志願したって合格しないから、みんな特幹か予科練である。今にして思えば自殺志願みたいなものだが、当時は愛国心というものがあって、親の嘆きもきかばこそ、オリンピックの旗ならぬ日の丸の旗をタスキがけにして、坊主あたまの小僧っ子がいそいそと死地へ赴いた。やがては私も志願したオッチョコチョイの一人だが、出征前夜には必ず送別会があった。送別会といっても、ヨーロッパへ行ってうまいことをやってこようという今どきの外遊とはわけがちがう。サヨナラの手を振ったら、二度と生きては会えぬ送別会で、祖国のためとおだてられ勝手に志願したものの、タスキ掛けの顔は一様にどこか落着かなかった。こうなったらドンチャン騒いで、酒の勢いで送ってしまう以外にない。闇酒を買い集めての酒盛りである。酔わなければ騒げないから、うまいも不味いもなくただひたすらに飲んだ。ほとんど体力の限り飲む。そして丼を叩いて歌いだす。踊り出す奴もでてくる。タスキ掛けの少年はそれを静かに見ている。"ああ、あの顔であの声で…""若い血潮の予科練の…"やけのやんぱちみたいだが、みんな一所懸命に歌っていた。軍歌というやつは、どういうものか哀調を帯びる。少年たちの口をついて出るのは、軍歌と、それからエロ歌ばかりだった。童貞のまま征って還らぬ友人がいる。出征前夜に女郎屋へ上り、もう思い残すことはないと宣言して征ったが、無事に生還した友人もいる。あの頃の、多くの顔が忘れられない。いけない、酒の話が湿っぽくなった。感傷的な酒は嫌いである。騒々しい酒も好まない。酒なんてつまらぬもので、つまらぬから飲み、そしてつまらぬと思い、またつまらぬと言いながら飲むのが私の酒のようだ。(酒・一九六六年六月号)追記 これを書いた頃はかなり飲んでいた。酒場で血を吐いて翌日入院ということもあったし、体が弱いくせに何軒も飲み歩いて、外へ出たら空が明るかったということも珍しくない。しかし現在は体力とともに酒量もすっかり衰えて、自分から飲みにゆくことはほとんどなくなっている。カストリ焼酎に浸っていた時代もあるが、やはり酒が好きだったわけではなかった。たぶん酔いたかっただけ、あるいは人が恋しかっただけかもしれない。(「昨日の花」 結城昌治) 


平手造酒(ひらてみき)
例の講談の笹川の岩瀬繁蔵、飯岡の石渡助五郎の出て来る「天保水滸(すいこ)伝」あの中の平手御酒(ひらてみき)。あれは無宿浪人平田深喜、三十七歳位という人間で、飯岡方第一回の襲撃で、自分だけたった一人、十一ヶ所も疵(きず)を負って笹川河岸の孟宗(もうそう)の竹藪(やぶ)の中に倒れていた。次の朝絶命したんだが、さて、人間その物は実在したとしても、平田の平手が果してどんなだったか。これはそちこち聞き回って見ても証拠話が更に耳に入らない。龍(たつ)の台(だい)というところの鈴木道場に一年ばかり居候(いそうろう)をしていた。だから剣術は満更素人ではないだろうが、千葉周作の門人だの、北辰一刀流の達人だのなんてえのは、やられた疵痕(あと)から見ただけでもどうも嘘のようである。-
「水滸伝」は安政六年四月十五日、六十八で没した飯岡の助五郎がまだ存命中に江戸からわざわざ神田伯龍子という講釈師(こうしやくし)をよんで、これへ話をさせたものだ。助五郎は目に一丁字もないから子分の野手の熊五郎というのが助五郎に聞き聞き朱を入れた。何しろ「英雄伝儀名録、飯岡助五郎一代記」とあって先ず「景図併出生之事」というのからはじまる。作者の伯龍子がとんでもない下手っ糞で話がいっこうに面白くない。そって(かえ)って殺された繁蔵へ同情が集って、いつの間にか助五郎は狡猾(こうかつ)な狸爺(たぬきじじい)の方へ持って行って終った。尤(もつと)もある程度はそれが真実だ。これへ出て来る拵えものの平手造酒。あのモデルは先の黒川伴六ではないかという話がある。どんな奴かわからない。そこで外の人間の成行きを持ち込んで来てうまく拵える。これは有りうる。(「よろず覚え帖」 子母澤寛) 


酒と酒器
ところで、どうも最近、私は酒癖が悪くなったようである。何人かの編集者にも言われたし、妻や息子たちにも注意されている。-
そこで、私は、ほがらかで、楽しい酒に戻るために、酒器に凝ることに決め、イギリス製のタンブラーを買った。(こういうのを、策に溺れるというのかしら)。広口の、ぶあついタンブラーで、周りに、切り子細工がほどこしてあって、渡り鳥の群れが刻み込まれている。うっかり、落としたら大変なので、丁寧にウィスキーをつぎ、湯をそそぎ、両手で持って、「いただきます」と頭を下げる。日本酒を飲むための徳利とぐい呑みは古備前で、吉川英治賞を受賞したとき、知り合いの美術賞から安く売ってもらった。完品ではないが、私は気にいっている。これも、割ってはいけないと思って、いままで使わなかった。この二つの酒器を使って、五日がたった。深夜の酒の量は減った。どうだ、減っただろうと妻に言うと、不思議そうに、「ほんとに減ったね」と答えた。「そやけど、まだ五日目やからね」「うん、そやなァ」「何か腹が立っても、お酒が入ってるときは、それを口にしないこと」「はい」「あした怒ろうと、自分に言い聞かすこと」「はい」私はうなだれ、母を思い出す。母を偲んで、今夜も、ほんの一、二杯…。(「生きものたちの部屋」 宮本輝) 


酒のさかな
食事の相客といふものは、懐石の場合など仲なか客の組合せに苦心するものだが、お酒の場合も、気があつた者同士でないと、その場の空気はみだされる。特別のさかなよりも、人間関係そのものがさかなになつたり、されたりといふことで、お酒をたのしむ方が多いからである。私は、ボストン郊外の、レキシントンといふ山手地にある子供の友達の別荘にいつたとき、誰もゐない屋敷の戸を開けてはひり、暗い夜の町を見下ろすサロンで、若夫婦が地下室から、酒は何がいいかときいて出したり、女子大学生ふたりが、甲斐甲斐しく飲みもの、食べものの世話をして、神父さまを中心に、思ひ思ひのお酒をたのしみ乍ら、ボストン・ポップスのだしものを話たり、腕時計の紐は、結局、スエードの黒が一番だといふことや、お金のかからない旅行法などに花を咲かせて陶然としたことを思ひ出す。…卓上にはポテト・チップス、クラッカアだけ、その夜のさかなは、大学のルームメートの母親である、日本からの客の私であつたのである。(「鶏の聲」 中里恒子)


文壇酒徒番付で大関
今度、文壇酒徒番付で、私が大関になっている。一部の編集氏が集まってつくった御遊びの番付だから、信憑性は薄いが、アルコールはきらいなほうではない。特に前歴が外科医のせいか、よほど強いと思っている人もいるらしい。だが、酒が強い弱いというのは、一体どういうことを言うのだろうか。ただ酔わないというだけなら、いわゆる気持を殺して呑めばかなりいけるし、長時間かけて、ものを食べながらやれば、そう酔うものではない。それに若さと、体力があれば呑む量だけは結構いく。量だけ呑んで、俺は強い、と威張りたいのならことは簡単である。だがせっかくの酒を、呑むだけで味が分らないというのでは、いかにもつまらない。酔いたいために呑むのであれば、焼酎か、睡眠薬でも呑んだほうが手っ取り早くて、安上がりである。(「雪の北国から」 渡辺淳一) 


新宿酒日記(3)
△月×日
朝日新聞の挿絵を毎日描いているが、相手の椎名誠が遅いので、毎日ハラハラである。原稿を読まなくては挿絵は始まらない。「バーロ手を抜くなよ」むなしいFAX原稿を読みながら、こうして酒の量だけ増えていく。(「沢野ひとしのふらふら日記」 沢野ひとし) 


日本号、見られたような
加藤清正の朝鮮での虎退治というのは、昔はあまりにも有名な話でして、朝鮮征伐の折に虎を退治したてンですが…。これには、ちょいと曰(いわ)くがありまして、ネ。加藤清正の同僚、つまり仲間に、秀吉の家来のお小姓で荒くれ男が七人いた。これが賤ヶ岳の合戦で手柄をたてた。かの有名な賤ヶ岳の七本槍。加藤虎之助、のちの清正。福島市松、のちの正則。あと、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、中桐且元、糟屋武則。この中の福島正則が功成り名遂げてお殿様に出世し、日本号という結構な槍をある手柄で秀吉公から拝領した。ある日、黒田家から使者が来た。これぞ黒田節の主人公、酒豪で聞えた母利(もり)太兵衛だ。"お前は先方に行っても酒を飲むな"と主人の黒田官兵衛にいわれて、"かしこまりました"と行ったのだが、"そちは酒豪と聞いている。ま、一杯飲めと大盃になみなみの酒。"私は酒が飲めません"と母利太兵衛。"いいから飲め"と正則だ。"よし、飲んだら褒美に好きなものをやろう"といわれ、無理矢理飲んだ大盃だ。たて続けに三杯、五杯。"よし、さすが母利太兵衛、好きなものをとらせよう"この言葉に太兵衛は、"壁にかかった名槍日本号を頂きたい"といった。"いや、これはならぬ"という正則に、"武士が一旦約束した上は…"と譲らない多兵衛。仕方なく、泣き泣き与えた正則だ。〽酒は飲め飲め、飲むならば、日の本一のこの槍を、飲みとる程に飲むならば、これぞ誠の黒田武士 と、歌に唄われた黒田節の一説だ。この母利太兵衛が朝鮮征伐の時、藪から出て来た大虎一頭。退治しようと、突きつけた日本号の槍のケラ首に喰いついて動かない。引けば飛びかかって来る虎に、通りかかった清正に"助けてくれ"という多兵衛。"助けてやるが、その槍をよこせ"と清正だ。"これは駄目だ""なら、よしな、虎に喰われろ、俺は知らねえ"仕方なく、泣く泣く太兵衛はこの槍を清正にとられたという一説もある。また、この時、母利太兵衛から槍を取り戻したのが豪傑後藤又兵衛であって、それがいろいろあって加藤家に入った。清正の虎退治はまた別の話である、という話もあるが…。とにかく、この名槍日本号は加藤家の家宝となった。世は変わって徳川の天下になった。加藤清正は徳川家のため、饅頭で毒殺され、その子の忠広が江戸に入ろうとすると、"入ることならぬ"と信州に蟄居を命ぜられた。これも豪傑の忠広。もう加藤家の命運もこれまでと、この日本号の槍を池上本門寺で二つに折った、という話もあるが、いずれにしても、これが日本号の数奇な運命であった…、という。九州の熊本博物館の日本号の説明は違いますが…。(「立川談志独り会第一巻 清正公酒屋」 立川談志) 福岡県博物館に、黒田家から寄贈されたそうです。 


四月十二日
十時。NETテレビへ。(六日の試写会のとき、故平林彪吾の息子のNET社員松本真から頼まれたのだ。)スタジオに行って、しまったと思う。醜態だと思う。もっと詳しく話を聞いておけばよかったと思う。スタジオに「ラモール」「エスポアール」「セレナーデ」を模した装置ができている。それにそれぞれ銀座のバーの常連が出て、銀座の今昔を語るという仕かけ。「ラモール」は東郷青児、石田博英、近藤日出造、「エスポアール」は今日出海、浦松佐美太郎、井上友一郎、「セレナーデ」は服部良一、横山隆一に私。戦前の古いバーの思い出を語りのが、私たちの担当。(「文壇日記」 高見順) 昭和37年です。 


地酒飲み
地酒でふだん一番よく飲んでいるのは、奥多摩の「澤ノ井」。御嶽駅前の玉川屋のそばを食べる前にまず一杯。帰りには一升下げて。奥多摩の酒では「嘉泉」も「多摩自慢」も飲む。秩父へ行くと「鬼面山」。これはバスの中で看板を見かけて、醸造元に飛び込んで二本買ってリュックにしょって帰った。櫛形山は雨が多かったので、赤石鉱泉や桃ノ木温泉で飲む地酒の類もひとしおうまい。名も「春鶯囀」と、花の山、櫛形を歩いて飲むにふさわしい。加賀白山の「菊姫」も前々からその名を聞いていて、金沢で買って、その夜の宿の中宮温泉に持ち込んで飲んだ。(白山や傾山以前に登ったのでまだ自戒なし)。「立山」「白馬錦」などは、まず山の名がついていることがうれしくなってしまう。「立山」は大日連峰を歩いたあとで、千寿ガ原の清流荘で、「白馬錦」は駅前の食堂で飲んで白馬との別れを惜しんだ。立山からと富山に下りた時、「成政」をみつけ、これも一升しょって帰った。そのほか、山歩きのあとの地酒で忘れられないのは、木曽御岳を濁川温泉に下りて飲んだ「七賢」。守門岳から浅草岳へ行く途中の酒屋で買った「白瀧」。浅草岳を下りて音松荘に泊まった時の「緑川」。木曽御岳山も浅草岳も台風の通過の豪雨の中。全身をびしょぬれになるまで叩かれたあとであったので、熱燗の地酒は格別においしく、咽喉から胃へと流れ、、翼ある天使がたいまつをかかげて体内に下り、私のために、命の蘇りを高らかに告げてくれてくれているようで、思わずありがた涙が眼ににじんだのである。高村智恵子の安達太良(あだたら)に登って下りて、千恵子のふるさと、二本松の「奥の松」。千恵子の心の泉から湧くかと思うばかりに、爽やかな澄んだ味がする。横倉山に登って、牧野富太郎さんの旧居のあとを訪れると、隣が「司牡丹」。牧野さんをしのんでコップで飲んだ。なお、酒は辛口が好き。近頃は女の酒呑みのために、甘口がふえているというけれど、甘いアルコールは味醂(みりん)のようでいただけない。(「野の花と人生の旅」 田中澄惠) 前々日にまでさかのぼって禁酒 


足相撲
私がZ・K氏を知つたのは、私がF雑誌の編輯に入つた前年の二月、談話原稿を貰ふために三宿を訪ねた日に始まつた。其日は紀元節で、見窄(みすぼ)らしい新開街の家々にも国旗が翻(ひるがへ)つて見えた。さうした商家の軒先に立つて私は番地を訪ねたりした。二軒長屋の西側の、壁は落ち障子は破れた二間きりの家の、四畳半の茶呑台(ちやぶだい)の前に坐つて、髭の伸びたロイド眼鏡のZ・K氏は、綿の食(は)み出た褞袍(どてら)を着て前踞(まへかゞ)みにごほん/\咳き乍ら、私の用談を聞いた。玄関の二畳には、小説で読まされて旧知の感のある、近所の酒屋の爺さんの好意からだと言ふ、銘酒山盛りの菰冠(こもかぶ)りが一本据ゑてあつて、赤ちやんをねんえこに負ぶつた夫人が、栓を抜いた筒口から酒をぢかに受けた燗徳利を鉄瓶につけ、小蕪(こかぶ)の漬物、焼海苔など肴(さかな)に酒となつた。やがて日が暮れ体中に酒の沁みるんを待って、いよいよこれから談話を始めようとする前、腹こしらへと言つて蕎麦(そば)を出されたが、私は半分ほど食べ残した。するとZ・K氏は真赤に怒つて、そんな礼儀を知らん人間に談話は出来んと言つて叱り出した。私は直様(すぐさま)丼(どんぶり)の蓋を取つておつゆ一滴余さず掻込んで誤つたが、Z・K氏の機嫌は直りさうもなく、明日出直して来いと私を突き返した。翌日も酒で夜を更かし、いざこれからはじめようとする所でZ・K氏は、まだ昨夜の君の無礼に対する癇癪玉のとばしりが頭に残つてをつてやれないから、もう一度来て見ろと言つた。仕方なく又次の日に行くと、今度は文句無しに喋舌(しやべ)つてくれた。(「足相撲」 嘉村磯多) 酔狂者の独白は、これが出典ですね。 


チヨダ
「日本酒を」と頼むと、「? あんなもの売ってるのかな?」「たぶんあるんじゃないかな、なんたってここカリフォルニアはアメリカのお米の産地ですからね。あったら買ってきてください。なかったらなんでもいいです」ってお願いしたら、本当にカリフォルニア米でできている地酒があった。その名も「チヨダ」、それを一升買ってきてくれた。「日本酒ってどう飲むんだ」ってケビンが聞くから「たしかアツカンといって、温めて、なにも薄めないでそのまま飲むんだよ」「なんで知ってるの?」「日本に留学(高校時代)してた頃、テレビの時代劇で見たことがある」「ジダイゲキ?」まあとにかく、そんなことどうでもいいや、はやくのもうぜ、ってやかんのなかにどっ、どっと日本酒をいれて、バーナーの上にのっけて温めた。お燗した酒をコップに注いで、「チアーズ(乾杯)」口元まで持っていくと鼻にアルコールがつんときてむせかえる。最初の一杯は二人とも鼻をつまみながら我慢して飲んだけど、しだいに酒が体にしみてきて、フワーとした気分になってきた。そうなるともう止まらない。気分がよくなり、二人でドンチャン騒ぎとあいなった。酒乱とまではいかないが、なんかハッピーな気分で、二人とも笑い上戸になっちゃって、くだらないことでも笑いが止まらない。騒ぎを聞きつけた寮のみんなが「なんだ、なんだ」と集まり、結局一緒に飲み出した。さらに日本人の留学生が部屋に隠し持っていた日本酒を持ち込むわ、バーボンは出るわの大騒ぎ。結局夕方から夜中の十二時ぐらいまで飲んでしまった。あんな気分になったのは初めてだから、なんか浮かれて、彼女にふられたことなんか飛んでいってしまった。次の日、朝起きると頭がくらくら、ガンガン痛い。十九歳にして受けた酒の洗礼に当然のことながらボクたちは後悔した。(「ダニエル先生ヤマガタ体験記」 ダニエル・カール) ふられたのはケビンだそうです。 


手製の焼酎
甘蔗(かんしょ)の含糖量だって一四パーセント前後のものでしかないから(長沢の分析では玉蜀黍(とうもろこし)の糖度は一〇から一二パーセント)、玉蜀黍の廃桿(はいかん)から水飴を作ることだって決して悪い仕事ではない。それもつくって見たが立派なものができる。さて私は甘い物にはあまり魅力を感じない方で、むしろ酒精の方に魅力を覚える。長沢君がまた同様で、酒さえあればいつもニコニコしているといった方である。「長沢君。これで焼酎を作って飲もうか」と水を向けたら長沢君は「さっそくやりましょう」とあいづちを打ってくれた。そこでさっそく翌日から作業に取りかかったのである。作業といっても簡単である。畑から玉蜀黍を刈りとって来て葉をむしりとって棒だけにする。それを庖丁で一寸くらいに切って臼で搗き砕いた。さて、それを一旦殺菌の目的で蒸して後、醗酵研究室から酵母をもらって来て振りかけた。そしてそのまま孵卵器(ふらんき)の中へ入れたのである。容器は蒸し鍋である。そのまた翌朝研究室に出勤するや否や鍋の蓋を取ってさっそくのぞいて見た。ナントもう馥郁(ふくいく)たる香がするではないか。念のためもう一日そのままにして置いた。そして全部を圧搾機にかけて搾り汁を蒸溜したのである。この蒸溜は夜にかかったが、私も長沢君も熱心なものである。七時頃になってようやく蒸溜がすんだ。一口飲んでみるとナカナカうまい。そこで実験台をとりかたづけて椅子を整理し、標本戸棚からこれも自家試製品の淡水魚の「デンブ」を取り出して蒸溜皿に盛った。酒の肴にしようという寸法である。この焼酎は案外うまかった。くせのない良い火酒とでもいおうか、二人は良い気分に酩酊した。酵母は糖蜜酵母で台湾中央試験場の百何号とかいう酵母であったが案外なものになった。この方法で酒精を製造するとなるとバカにできないのであって、一反歩(約九九一・七平方メートル)の玉蜀黍を栽培すれば、玉蜀黍を収穫した残りの茎から一反歩当りナント石油缶二缶の純酒精が採れる計算となるのである。合成酒にして一石二斗五升(約二二五リットル)になる。(「イモめし時代の雑記帳」 川上行蔵) 


〇煖酒
唐の白楽天が、題ダイス仙遊寺詩シに、林間リンカン煖アタゝメテ酒サケヲ焼ヤク紅葉コウエフヲ。朗詠にも載せて、人のしるところなり。酒をあたゝめ飲めること、むかしよりのならはしなれど、今世のごとく、四時ともに常にあたゝめたるにはあらず。延喜式内膳司の土熬る堝は、今のかん鍋にて、上古よりその器もあれど、煖酒は重陽の宴より、あたゝめて用ゆるよし、一条冬良公の御説のよし、温古目録に見えたり。徳元の初学抄に、扇は四時ともに用ゆるものなれど、夏の季なるよし、近ごろ酒も四時にあたゝめ飲めど、あたゝめ酒といへば、冬の季になるなりとあり。さて酒のかんに、今燗といふ字をかけるは俗字なり。酒をあたゝむること、冷と熱の間に温むるといふことにて、間を字音によびて、かんとはいへるなり。俗に偏に作りて燗とするなり。燗は字書によれば、音闌、爛と同じ。猶その例をいはゞ、俵は俵散とて、ちることなり。今は米苞の称としてたわらとよみ、鰹(けん)は鮦之大者(とうのおおいなるもの)とあり。今はかつをとよめるは、堅魚(かたうお)の二合にて、古は腊(ほじし)にしてのみ用ひたれば堅魚の義なり。これらの文字を、同文通考に国訓といへり。(「三養雑記」 山崎美成) 


御酒くだされ候
金沢で最初に小学校が始まった日、小学生たちは「学校にて生菓子をくだされ、昼頃より一同連れにて天満宮へ参拝。御酒くだされ候」(①明6・4・9)とある。当時は神道と入学式が組み合わされ、そのうえ小学生に酒(おみき)を飲ませる入学式であった。綱太郎は「翌日より日々入情いたし、休日のほか、いまだ一日も欠座も致さず、雨降りの節、草子・弁当を腰につけ、傘をさし」(①明6・4・9)て通学した。まさに優等生である。帰宅すると、家族中が学校の様子を尋ねた。「綱太郎どん」と呼ばれると、「ハイハイ」と返事をする、と答え、あまりの可愛さに直之を「一笑」させている。名前を呼ばれて「ハイ」という学校文化は明治当初からあったのである。(「武士の家計簿」 磯田道史) 


コップ酒の切符
都心のある駅に近く小ざっぱりした居酒屋があって、右手の入口でコップ酒の切符を買って入ると、ギッシリ詰めて八、九人並べるスタンドがある。パリのカフェーでは、この式のスタンドのほかに椅子席があって、そこへかけると別に椅子代をとられるのが定石だそうだが、そこの店はスタンドだけの横長で、椅子席どころか椅子もない。気のきいたおつまみ付きのコップ酒を、もう一杯おかわりになると、あらためて切符を買わなければならない。勤め帰りの客が多く、行儀がよい。立ち呑みだからとぐろをまいて隣の客に迷惑をかける隙はない。ああうまかったと、ほろ酔いでトコロテン式に帰って行く。たまたまフリの客が、おいトイレはどこだというと、あいすみませんが、どうぞ××駅がすぐそこですからと、威勢よく応答がある。客を回転させるため、酒を安く売るために、この店はトイレまではぶいているのである。極端な一例だが、売る方も呑む方も、うまいものを安くと頭を使う時がきた。あたり前すぎることが、ようやく通用するときがきた。(報知新聞・昭和四十九年四月八日) もちろん今はないでしょうが、何という店だったのでしょう。 


オトト
酒をオトトという幼児語は、東北から四国の端までに分布している。まず盛岡ではオットット、福岡県では会津および安達郡をはじめに、茨城、群馬、長野の三県にはオットがあり、静岡県ではオトットまたはオトト、飛騨でも近江でもそれがある以外に、なおオト・オット・オットットなどが行われている。実際に今でも酒を注いで貰う人たちが、こういう語を発しているのだから起こりは明白である。現在はそうたくさんついでくれるなの意味に、オットットを言う人もあるかしらぬが、もとは一ぱい注いでほしいが溢れるのは惜しいという心持ちであったらしく、それで『狂言記』などにはまたちょうどあるとも言っていた。ともかくもこの言い草が変わっていて、小さな者には面白かったのである。愛媛県の例を見ると、宇和島だけにはトトがあるが、他の各郡では皆トントもしくはトントンとなっている。たぶんはもうオットットなどと言わずに盃を受けることになっているので、元の意味が忘れられたのである。島根県の西部にはトートーという語があるが、これは同じ語の変化したものか、ただしはまた疾(と)く疾(と)くと勧めるのか、土地の人に聞いてみないと語感がはっきりしない。(「分類児童語彙」 柳田国男・丸山久子) 


〇家光公寛大な事
家光公御酒を被召上(めしあがる)時、銚子の中に有し蠅一つ御盃へ入れしかば、御酌の小姓衆其儘(そのまま)銚子を改め出けるに 酒役の者共は何とかと(家光が)御尋に付、殊の外迷惑仕(ことのほかめいわくつかまつり)、御咎(とがめ)の程を伺罷在候(うかがいまかりありそうろう)と申し上るに、定(さだめ)て其役人共に疎略は有べからず、勝手より持来る間に、酒の気を嗅(かぎ)て蠅の入しならむ彼等遠慮に不及(およばず)と被仰(おおされ)ける、(「翁草」 神沢杜口) 銚子に蠅が入っていたのは、お勝手で酒役が不注意だったからではなく、運搬途中に蠅が勝手に入ったのだろうから酒役に責任はないとかばったということです。ただそうすると、運搬した人の責任はどうなるのかと、かえって心配になりませんか。 


ワシントニアン運動
当時の禁酒運動の中でも影響力の強かったのが、ワシントニアン運動である。これは、一八四〇年、ボルティモアの居酒屋に集まった酒飲み六人がわが身を省みて禁酒の誓いを立てたことに端を発するが、それまでの禁酒運動とは違い、大量飲酒者自らが改心し禁酒運動に乗り出したことが画期的であって、たちまちのうちに仲間が増え、翌年には十万人、さらに二年後には五十万人に達したと言われている。運動自体は短命に終わったものの、今日世界中で活発な活動を続けている「アルコール依存症者匿名会(略称AA)の先駆けと見なしてよい。 彼らが自らの協会に初代大統領の名を冠したのは、ジョージ・ワシントンが英国王ジョージ三世の圧政からアメリカを独立へと導いたように、彼らを「アルコール王」の支配から解放してくれるという願いをこめた命名だった。(「酒場での十夜」 T・S・アーサー 解説 森岡裕一訳)  


醍醐の花見(現代語訳)
身分の高い人も低い人も、すべてなごやかとなって、ああ、今日のこの日が山に入らずにいてくれればよいものをと願いつつ、花に戯れ、水に心をすまして楽しむ心のうちは常にはないことであった。院(正親町上皇)におかれても、今日は風雨も心してやみ、のどかな花見をしているであろうと思し召して、広橋中納言を勅使としてつかわされたので、五摂家、五清華家の方方からも丁重な使者が来られた。お供に加わらぬ諸大名、文武諸官、京や堺の有力な人々などからは、さまざまな珍味佳肴が数知れず到来し、銘酒としては、加賀の菊酒、天野、平野、奈良の僧坊(そうぼう)酒(寺院で醸造する酒)、尾の道、児島、博多練貫(ねりぬき)酒、江川酒などが献上されて院の内外に満ちあふれた。まことに、門前市をなすとは、昔もこのようなことがあって、以来、言われるようになった言葉かと思われるのであった。岩山の陰にやや平になっていて、松、杉、椎(しい)、檜などの大木が数千本も茂り合って、日のさしこまぬ場所があった。新庄雑斎(ぞうさい)(直寿(なおなが))は、これはうってつけのところと喜んで茶屋をしつらえ、風雅な道具で秀吉公にお茶をさしあげたところ、一段とお喜びになった。(「太閤記」 小瀬甫庵 吉田豊訳) 


酒の肴は天ぷらそば
酒の肴はどのようなものを…と、雑誌の編集部などから電話で問われることがあるが、私には答えようがない。これと言って好みの肴はなく、なんでもよいからである。好き嫌いがないので、家で出されたものはすべてが肴であり、小料理屋に入ってもその日の気分で肴を注文する。強いて一つを…、と言われれば天ざる、または天ぷらそばと答える。そばがなぜ酒に合うのか不思議な取り合わせだが、実に合う。そばだけでは少々淋しいので、天ぷらを添えたものということになる。天ぷらそばなどという汁物がなぜいいのか、と言われるかも知れないが、汁からすくいあげる天ぷらやそばを食べ、そして衣などの浮いた汁を吸いながらちびりちびりやる酒は実にうまい。上質な蕎麦と天ぷらを出すそば屋で、一人静かに酒を飲むのが、私の性に合っている(「食食食」一九八三・冬=三七号)(「私の引出し」 吉村昭) 


酒飲んでいつか挫折に慣れてくる  佐藤隆貴
大きな事業の失敗などではあるまい。毎日毎日の自分に感じる小さな挫折感。それは、いつもの居酒屋でちょいと一杯か二杯ひっかければおさまる程度のものだろう。酒も癖になり、その原因の挫折にも慣れて、人は生きていくのだろう。(「川柳新子座」 時実新子) 


色調の問題
さういふ飲み方、又、食べ方に馴れた西洋人が少し日本酒のことも知るやうになつて、例へば、菊正宗、千福、白鹿、賀茂鶴といふ風に、日本酒もその醸造元によつて味がそれぞれ違ふのだから何故、西洋料理と同じやり方でこの料理にはこの銘柄の酒といふ具合に酒を変へて酒も料理も更に旨くする工夫をしないのかといふ種類の説を立てたりする。併しこれは当たつてゐない。西洋の酒でどんな料理にでも合ふのはシャンパンだけであるが、日本酒といふのはその点でも非常な工夫がしてあつて日本の料理である限りどんなものでも味さへよければそれで飲めるやうになつてゐる。つまり、菊正宗と千福の違ひといふ風なことは色調の問題であつて、途中で酒を変へれば、厳密に言へば、色調を乱すことになり、樽で来た極上の菊正宗で飲み始め、食べ始めたならば、終りまでその菊正宗で行くのでなければ折角の気分が壊される。(「酒、肴、酒」 吉田健一 「日本の名随筆26 肴」 池波正太郎編) 


項荘と樊噲
是(ここ)に於(おい)て、張良(ちようりやう)、軍門(ぐんもん)に至(いた)り、樊噲(はんかい)を見る。今日(こんにち)の事(こと)如何(いかん)、と。良(ちやう)曰(いは)く、甚(はなは)だ急(きふ )なり。今者(いま)項荘(かうそう)、剣(けん)を抜(ぬ)きて舞(ま)ふ。其(そ)の意(い)常(つね)に沛公(はいこう)に在(あ)るなり、と。噲(くわい)曰(いは)く、此(こ)れ迫れり。臣(しん)請(こ)ふ、入(い)りて之(これ)と命(めい)を同(おな)じうせん、と。噲(くわい)即(すなは)ち剣(けん)を帯(お)び盾(たて)を擁()ようし、軍門(ぐんもん)に入(い)る。交戟(こうげき)の衛士(えいし)、止(とど)めて内(い)れざらんと欲(ほつ)す。樊噲(はんくわい)、其(そ)の盾(たて)を側(そばだ)てて以(もつ)て撞(つ)く。衛士(えいし)地(ち)に仆(たふ)る。噲(くわい)、遂(つひ)に入(い)り、帷(とばり)を被(ひら)きて西(にし)に嚮(むか)つて立(た)ち、目を瞋(いか)らして項王(かうわう)を視る。頭髪(とうはつ)上(のぼ)り指(さ)し、目眦(もくせい)尽(ことごと)く裂(さ)く。項王(かうおう)、剣(けん)を按(あん)じて跽(き)して曰(いは)く、客(かく)は何為(なんす)る者ぞ、と。張良(ちやうりやう)曰(いは)く、沛公(はいこう)の参乗(さんじよう)樊噲(はんかい)といふ者(もの)なり、と。項王(かうわいママ)曰(いは)く、壮士(そうし)なり。之(これ)に巵酒(ししゆ)を賜へ、と。則(すなは)ち斗巵酒(とししゆ)を与(あた)ふ。噲(くわい)拝謝(はいしや)して起(た)ち、立(た)ちながらにして之(これ)を飲(の)む。項王(かうわう)曰(いわ)く、之(これ)を彘肩(ていけん)を賜(たま)へ、と。則(すなわ)ち一(いつ)の生彘肩(せいてんけん)を与ふ。樊噲(はんくわい)、其(そ)の盾(たて)を地(ち)に覆(たふ)し、彘肩(ていけん)を上(うへ)に加(くは)え、剣(けん)を抜(ぬ)き、切(き)つて之(これ)を啗(くら)ふ。項王(かうわう)曰(いは)く、壮士(そうし)なり。能(よ)く復(ま)た飲(の)まんか、と。樊噲(はんくわい)曰(いわ)く、死(し)すら且(か)つ避(さ)けず。巵酒(ししゆ)は安(いづ)くんぞ辞(じ)するに足(た)らん。夫(そ)れ秦王(しんわう)は、虎狼(ころう)の心(こころ)有(あ)り、人(ひと)を殺(ころ)すこと、挙(あ)ぐること能(あた)はざるが如(ごと)く、人を刑(けい)すること、勝(た)へざるを恐(おそ)るるが如(ごと)し。天下(てんか)皆(みな)之(これ)に叛(そむ)けり。懐王(くわいわう)諸将(しよしよう)と約(やく)して曰(いわ)く、先(ま)づ秦(しん)を破やぶりて咸陽(かんやう)に入(い)る者(もの)は之(これ)王(わう)とせん、と。今(いま)、沛公(はいこう)、先(ま)づ秦(しん)を破(やぶ)りて咸陽(かんやう)に入(い)る。毫毛(ごうまう)も敢(あへ)て近(ちか)づくる所(ところ)有(あ)らず。還(かへ)りて覇上(はじやう)に軍(ぐん)し、以(もつ)て大王(だいわう)の来(きた)るを待(ま)てり。故(ゆゑ)に将(しやう)を遣(や)りて関(くわん)を守(まも)れるは、他(た)の盗(たう)の出入(しゆつにふ)を非常(ひじやう)とに備(そな)へしなり。(「史記」 吉田賢抗) 


ニューヨークの建物の四分の一
一六四八年にはニュー・アムステルダム(ニューヨーク)の建物の四分の一近くが酒場になっていた。市当局自身がシュタット・ヘルベルク(市の宿)という正式の市営タヴァーンをもっていた。これは一六四二年に総執政官キーフト(ウイレム)の布告によって建設された頑丈な石造建築物である。それがのちに「シュタットホイス」すなわち市庁舎になったが、そうなってからも、内部の一隅に町の創設者たちが陶製のパイプをふかし、オランダ・ジンの杯(マグ)を前にしてくつろぐことができる酒場が保存してあった。(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳) 


春宿   酒一斗貯へて在り春の宿    至青
其角忌   其角忌の酒飲男やとひけり   活東
(「俳諧新潮」 尾崎紅葉選 「現代俳句集成」) 其角忌は4月2日だそうです。 誹諧新潮(1) (2)
 

義経の首
(文治五年)閏四月大
(源)義経、(藤原)泰衡(やすひら)に襲はれ自殺す
卅日 己未 今日陸奧国において、泰衡、源預州(義経)を襲ふ。これかつは勅諚に任せ、かつは二品の仰せによつてなり。奥州、民部(藤原)正輔基成朝臣の衣川(ころもがは)の館(たち)にあり。泰衡兵数百騎を従へ、その所に馳せ至りて合戦す。与州の家人等相防ぐといへども。ことごとくもつて敗績す。預州持仏堂に入り、まづ妻廿二歳。子女子四歳。を害し、次に自殺すと云々。-
奥州の飛脚、義経誅戮を報
(文治五年五月)廿二日 辛巳 申(さる)の刻、奥州の飛脚参着す。申して云はく、去月晦日(みそか)、民部(基成)少輔が館(たち)において与州を誅す。その頚(くび)追つて進ずるところなりと云々。すなはち事の由を奏達せられんがために、飛脚を京都に進ぜらる。御消息に曰はく、 去ぬる閏(うるう)四月晦日、前民部少輔基成が宿館奥州。において、義経を誅しをはんぬるの由、泰衡申し送り候ところなり。-
泰衡の使者、義経の首を持参す
(文治五年六月)十三日 辛丑 泰衡が使者新田冠者高平(衡イ)、預州の首を腰越(こしごえ)の浦に持参し、事の由を言上す。よつて実検を加へんがために、和田太郎義盛・梶原平三景時等をかの所に遣はす。おのおの甲直垂(よろひひたたれ)を著し、甲冑の郎従二十騎を相具す。件(くだん)の首は黒漆(こくしつ)の櫃に納(い)れ、美酒に浸(ひた)し、高平が僕従二人これを荷擔(かたん)す。昔蘇公(そこう)はみづからその糇(かて)を擔(にな)ふ。今高平は人をしてかの首を荷(にな)はしむ。観(み)る者皆双涙を拭ひ、両衫(りようさん)を湿(うるほ)すと云々。(「吾妻鏡」 監修 永原慶二 訳注 貴志正造)  


カム
一 酒ヲツクルヲバカムトモ云ふ、イカナル心ゾ。 [11醸]
  醸ノ字ハサケヲツク(造)ルナリ。ツクルトモ、カムトモヨム。昔ハ此ノ国ノ人、酒ヲツクルスベヲシラズ。クチ(口)ニ米ヲカ(噛)ミテ、水ニハキイレ/\シテ、日ヲヘ(経)テノチ熟スルトキ、コレヲ醴(レイ)ト云フ。ノチ(後)ノ人ウルハシクツクレドモ、昔ニナゾラヘテカムト云フ。大隅ノ国ニハ、一家ニ水ト米トヲマウ(設)ケテ、村ニツゲメグサセバ、男女一所ニアツマリテ、米ヲカミテサカフネ(酒船)ニハキイレテ、チリ/"\ニカヘリヌ。酒ノ香ノイデクルトキ、又アツマリテ、カミテハキイレシモノドモ、コレヲノム。名ヅケテクチカミノ酒ト云フト云云。風土記ニ見ミエタリ。コレモムカシ(昔)事ニヤ。サケヲアクルト云フ事アリ。釃ノ字ヲアクトヨムナリ。
注 一 字類抄中「醸酒 ツクリサケ」・下サ飲食はすべて酒の用語。 二 和名抄巻四飲食部薬酒類「醴コサケ」  三 ウルハシは総じて外見に整って好ましい感じをいうが、ここは、まともな造り方でといった意。 四 大隅国風土記(佚)の訳文と思われる。 五 和名鈔四「釃 醴酒 サケシタム、俗云阿久(アク) 下酒也」(「塵袋」 校注大西晴隆・木村紀子) 風土記(2) 糸引き納豆 


反応抑制課題テスト
被験者たちの血中アルコール濃度は、飲酒後三〇分で平均〇・七ミリグラム、七〇分~一〇〇分後に〇・六一ミリグラムでした。酒気帯びの状態をちょっと超えた、という段階で実験をしました。残念ながら一人は自覚していた以上にお酒に弱く、空腹ということもあったようですが、実験不可能としてリタイアすることになってしまいました。こうして反応抑制課題テストをしたところ、正答率は飲酒後九〇パーセント、飲酒後八八パーセントと、ほとんど変化しませんでした。ですが、判断するスピードは、飲酒後のほうが速くなっていました。つまり、より速く正解に到達していたのです。飲酒後には、脳活動が増加していることも確認できました。脳を計測したところ、脳の活動領域が飲酒前より多くなっていたのです。この結果、私たちは二つの結論に到達しました。 結論その一("底なし"泰羅の解釈)反応時間が速くなっていて、正答率はほとんど変わらないのだから、脳内の情報処理がよりスピーディーになっているのです。より多くの部分が活性化した脳は、情報処理能力を高めていたと考えられます。ほろ酔い状態になれば、判断が速くなる、情報処理能力が高まる、と考えられるのです。 結論その二("飲めない"川島の解釈)もう一つの解釈としては、お酒を飲んだ状態では、同じ課題に取り組むにしても、より多くの脳の領域を活性化しなくてはならなかった、と考えます。つまり脳全体の機能が低下したので、それをカバーするためにより多くの部分が活性化しなくてはならなかったのではないでしょうか。反応時間が速くなったのは、酔って抑制が外れたため、いわゆる酔った勢いで適当に判断したからだ、と言えなくもないのです。 どちらの結論が正解なのか、研究はまだ道半ばなので、いまのところは決着がついていません。(「記憶がなくなるまで飲んでも、なぜ家にたどり着けるのか?」 川島隆太・泰羅雅登) 


二階火事
例の『三十九階段』といふスパイ小説の作者である政治家、ジョン・バカンは、「彼は私の知る最良の話し手だが、会話を独り占めにするのではなく、討論全体を活気づけ高めて、ほかの人たちの最良のところを引出す人だつた」と評した。彼といつしよのときは、うまくしやべれたやうに感じるのださうです。こんな調子なので、某家の、二十人ばかりの晩餐会(ばんさんかい)に彼が出席してゐたときは、みんなの会話がじつに楽しかつたため、上の階が火事で、消防隊が来てホースで水をかけてゐることに誰も気がつかなかつた。それで従僕たちは、上の階からこぼれて来る水から身を守るためのバスタオルを、ポートワインといつしよに配つたんださうです。イギリス風の大味な誇張法ですが、でも、案外あり得ることかもしれない。上出来の閑談の席といふのは本当に楽しいものですからね。(「軽いつづら」 丸谷才一) イギリス首相だったバルフォアの話だそうです。 呆れ顔 


酒のない文化色々
酒のない文化は、世界のなかで多く見受けられる。イスラームの世界では、宗教的理由で音楽をもふくめて陶酔するものは禁じられてきた。また穀物を栽培していなかったイヌイット(エスキモー)の世界では、当然酒は存在しなかった。しかし毛皮取引業者が酒をもたらしたときに、この極北の人びとのあいだにアルコール依存症が数多く見られるようになったのは、よく知られている。また、インド亜大陸においては、酒に対して厳格であったし、また現在でも厳格である。インドでは、現在も各州にドライ・デーと呼ばれる禁酒日が設けられ、酒を飲んではいけない日が存在している。アメリカでも、一九一九年に禁酒法が制定された。ピューリタニズムに裏打ちされたこの禁酒法は、一九三三年に廃止されるまで、アル・カポネに代表されるギャングと連邦捜査官の激しい戦いを生んだが、密造酒を根絶やしにすることは、できなかった。(「韓国における嗜好品」 「嗜好品の文化人類学」 高田公理・栗田靖之・CDI) 


486果(くだもの)はすなはち一上林苑(しやうりんゑん)の献(たてまつ)るところ 含(ふく)めば自(おのずか)ら消(き)えぬべし 
酒はこれ下若村の伝ふるところ 傾(かたむ)くれば甚(はなは)だ美(び)なり 江(がう)
果則上林苑之所献 含自消 酒是下若村之所伝 傾甚美 江
文粋十一、内宴「晴るれば草樹の光を添ふ」詩序。- 一 漢武帝の開いた長安宮の名園。文選、上林賦や西京雑記一に名菓を多く産したことがみえる。 二 江南道の若狭の南を上若といい、村人が下若の水で酒を醸(かも)したという。 
▽果実のたぐいは上林苑に比すべき禁中の御園から献ったもの、口に含むと自然にとけうせる美果である。酒はかの中国の下若の名酒にも比すべき美酒、盃を傾けるとすばらしい味わいである。(「和漢朗詠集」 酒 川口久雄・志田延義校注) 


何故、一流酒場にいくか
ある週刊誌から、電話で、問い合わせがきた。設問は、「何故、一流酒場にいくか?」というのである。そこで私は答えた。「虚栄もあるが、やはり、一流意識というものは大切ですからね…」と。次は、「一カ月、どれくらい、お費(つか)いになるか」「月によって違うが、だいたい二、三十万ぐらいでしょう…」と言った。むろん、私の場合は、社用ではなく、個人の金だから、不謹慎だとは思ったが、嘘を言っても仕方がないから、そのまま答えて置いた。-
大衆とか、庶民とかは、忘れてならない言葉だが、しばしば、それは平易、平凡につながっている。安易な満足感でもある。闘いもないし、向上もない。遊びの場所を、遊びの場所と心得ているようでは、しょせん無駄な金だ。型式はどうであれ、男の歩いているところは、みんな闘いの道なのである。自分を磨く場所なのである。会社では得られない、家庭で得られないものを、そういう場所で、吸収しなければならない。現代とは何か。すくなくとも、そういう課題と取組む用意が、いつの場合にも、われわれになければならないはずだ。とすれば、そういうことを、少しでも余計に示唆してくれるような場所に、自分の身を置く必要がある。その意味で、私は、多少、毎夜のごとく、銀座の酒場をへめぐっているのである。言いわけではない。(「遊ばない人間(オトコ)に仕事ができるか」 田邊茂一) 


コンビニの軒先で飲食
韓国では、コンビニの軒先にビーチで広げるようなプラスチック製のテーブルとイスが出してあって、そこで飲食ができるようになっています。あれはなかなかいい。早い話、豆腐屋で豆腐を買って、その場で「ちょっと醤油くれる?」と言ってかけてもらって、酒屋で買った酒でちょっと一杯などということは、どこにいてもできる。それこそ、出前をやっている店なら、公園に出前も取れる。店で注文してお金を払っておけば、確実に持って来てくれる。居酒屋ではないところでも、いくらでも酒場にすることができる。それを私は恥ずかしいこととも、品性に欠けることだとも思わない。茶に「野点(のだて)」があるごとく、自由な野酒があってもおかしなことではない。それに近いことを昔から、花見の季節、花火の時季、そして祭の際に、人びとはみなやってきたのだから。どこにいても、気取らず、気負わず、しかし背筋を伸ばして凛として飲めば、それは美しいそれは美しい酒飲みではないだろうか。(「酒道入門」 島田雅彦) 


彼にとっては、どぶろくはうまくない
鶴見(俊輔) 柳田国男は兵庫の生まれだから、ちょうど東北と九州の真ん中ぐらいでしょう。柳田は官僚でいろいろな所をくまなく歩き、いろいろな所で飲んだんだと思うけれども、彼にとっては、どぶろくはうまくない。市販の酒のほうが安くてうまいのに、どうしてどぶろくを民衆は好んで飲むかという考えから、明治、大正期の世相を意味づけている。国家が介入してきて、自分たちの自由を全部奪ってしまうので、それに対する抵抗をどぶろくに託している。市販の酒より高くついて、うまくなくても、どぶろくを飲むというところに自由があるんだという解釈なんだけれども、柳田国男が兵庫の生まれで、東京の官僚であったということと、それは結びついているかもしれない。(「歳時記考」 長田弘・鶴見俊輔・なだいなだ・山田慶児) 


アメリカの医師会の定義
斎藤(茂太) ただ、問題のアルコール中毒の定義がわからないですけどね。
河野(裕明) 結局いま一番使われているのはアメリカの医師会の定義で、それは大体精神依存と身体依存と臓器毒性の三つをメジャーとして測っているんです。人間の場合、精神依存というのが出ればすでに冒されている。身体依存性というのはアクセレーターという形で出なくても精神依存性が出ていればアルコール患者として治療しなけりゃいけないという考え方が定着しつつあるわけです。もう一つ、このごろは臓器毒性-心臓、肝臓、膵臓などの-これが内科でトピックになって、世界中でアルコールの毒性学という形で一つの学問になりつつある。中枢神経はじめ各臓器に対しての毒性というのはプライマリーなんですね。今まで肝臓障害なんかをアルコール中毒の内科合併症と言ったんですが、現在では分裂病とか躁鬱病を合併症と言って、肝臓が悪いとかいうのは合併症じゃなくてアルコールそのものの毒性によると。アメリカの診断学では、アルコール性の肝炎があるとそれだけでアルコール中毒と診断しちゃう。ですから、内科が非常に広汎に…。また事実、アルコール問題はとても精神科医だけで扱える問題ではない。内科の開業医の方も戦列に捲き込まなければ絶対にできないですね。百五十万という数、厚生省は信じてくれないんですけど、内科の患者として扱われているのをこれから洗い出そうと僕は思っているんですよ。(「電車のある病院」 斎藤茂太) '79の出版です。 


本人は喋っていない
黒田清隆が妻を惨殺したとは、本人は喋っていないのである。-
翌明治十一年の早春の夜であった。黒田は酒に酔って帰宅した。彼は無類の酒好きで、酔うと人が変わった。何か気に入らないことがあると急に怒り出した。理性を失ったように憤怒する。もともとが腕力家である。怒りにまかせて腕をあげるのもたびたびであった。しかし酒がさめると別人のように温和善良になって酒の不始末を後悔するのである。その夜も彼はかなり酔っていた。妻のせいは寝たりおきたりの病身であった。二人の結婚は明治二年、清隆が二十九歳、せいは十四歳のときであった。黒田は鹿児島県下の下級武士の家に生れ、四石取りの藩士の生活は苦しく、棟割長屋の家壁は破れ隣の灯がもれるほど貧しかった。薩英戦争に参加してのち江戸に出て砲術を修め、その後西郷隆盛、大久保利通の下で、薩長連合の長州との連絡に当った。結婚する年には榎本武揚軍に対する追討参謀となり、その功によって永世禄七百石を賜った。それからかれこれ十年になろうという夫婦であったが、子供二人が夭逝、せいが肺病にかかったりと家の内は暗かった。そのためかどうか、黒田は閣議が終ると芝神明の花街にきまって立ち寄った。神明芸者は新橋より格が落ちる。金のためなら不見転(みずてん)もいとわぬ芸者が多かった。黒田がひいきにした房吉もその一人であった。せいは清隆の上士の娘である。すでに世は移り変わったといってもせいの頭にそのことがこびりついていた。病いと子供を死なせた悲しみとで彼女は依怙地になりがちだった。神経はいつも台風が来る日のように苛立っていた。「ひとの辛さに見向きもしないで自分ばかり遊び呆けて、なにさ、もとはといえば四石取りの貧乏侍のせがれじゃないか」とせいは胸の裡で三角波を立てていた。その夜、坊主頭で頬ひげを生やしたタコ入道のような夫が顔を酒でてらてらさせて帰って来たのを見た途端、せいは我慢できずに言い放った。「参議ともあろうお方が、いやしい芸者と。世間体ということもありましょうに」「なに」と黒田の顔がひきつって、あとは彼自身も何をしているのかわからない。ふと気づくと床の間の刀懸けの刀を手にしていた。「私を斬るのですか。斬れるものなら斬ってごらんなさい」「その言い種は何だ」という言うのと刀がひらめくのとが同時であった。せいの断末魔の叫びに使用人がかけつけると刀をさげた黒田が呆然として立ちすくんでいた。使用人には箝口令がしかれ、事件のもみ消しには大久保利通が当った。(「結婚百物語」 林えり子) 1878年(明治11年)3月28日のことだそうです。 黒田清隆の酒 


無礼講的色彩
(慶応三年三月)翌二十六日がオランダ。続いて二十七日がフランスだった。ロッシュは既に何度も慶喜に会っており、ローズ提督やスエンソンも初めてではないのだから、フランスの内謁は、ずいぶん打解けた感じになったようだ。幕府陸軍伝習の指導者として招かれ横浜で仕事を開始していたシャノワン教師団長、デシェルム騎兵大尉、ブリュネ砲兵大尉らが出席したのも、他国と違うフランスの特色だった。そういうことが重なって、宴会には無礼講的色彩が生まれたらしい。慶喜はあまり飲まなかったようだが、老中や若年寄は羽目を外して飲んだ。「大君のお気に入り、マツダイラ・ブゼンノカミという名の若い大名」というのは大喜多(おおきた)藩主で若年寄の松平豊前の守(ぶぜんのかみ)=大河内正質(まさただ)だと思われるのだが、彼はブリュネ砲兵大尉の金の飾りのついた長靴にすっかり惚れこみ、隣室に連れこんで自分に履かせてくれと頼んだ。ブリュネは長靴を進呈させられる。そのブリュネは絵の才能があって慶喜の横顔をスケッチする許可を得たため、この日の英雄だったとスエンソンは書く。(「幕末・京大坂 歴史の旅」 松浦玲) 


長部日出雄の乱れ酒
ところで、その酒乱の翌日はどうなるか、といえば、彼自身の短文によれば、目が覚めると、枕もとに「鬱(うつ)」の熊が座っている、という。そのあとは想像なのだが、大きな図体の獣にのしかかられるようになり、ふとんを引きかぶってさまざまなおもいを噛みしめながら、呻吟(しんぎん)するのであろう。それが彼の成長につながる。何ヵ月か前の昼ごろ、突然長部から電話がかかってきた。こんなことは珍しく、一年に一度あるかどうかである。いきなり、「いま酔っぱらってまーす」というので、自宅で朝酒をくらっているのだろうとおもい、「何時ごろから飲んでいるんだ」と、たずねると、長部が大声で誰かに聞いている。「おーい、おれはいつからここで飲んでいるんだ」これはかなりの程度になっているな、と分ったが、「ここで」という言い方は変である。自宅とはおもえない。「どこで飲んでるんだ」「新宿のおかまバーで、夜明しで飲んでるんです」「そいつは、ひどく高くとられるだろう」「いやいや、こういうところは、もうささやかな勘定で…。いま金を取られるところです。」などという会話をしていると、典型的なおかま声が受話器から洩(も)れひびいてきた。「なにしてんのよう、はやく払って、帰えんなさいよう」そんなところで、電話は切れたが、おかまが叫んでいるその勘定の額は、銀座で一時間くらい飲む十分の一ほどのものであった。やはり、裏町はよい。彼に、おかまバーの趣味がとくにあるわけではない。要するに裏町が好きなのである。私より十歳ほど年下なのに、今はなき赤線地帯についてもかなり精しい。(「街角の煙草屋までの旅」 吉行淳之介) 


灘への大波小波
たとえば、西の郷には神戸製鋼の巨大な製鋼工場があって、ここの煙突からは黄いろのや赤いのや、異様な、いがらっぽい化学煙がもうもうと吹きだして、灘の空をおおうのである。弱い酒によいはずがない。酒屋たちは困りはて、マユをしかめて、工場へ陳情にでかけ、鉄屋の愛郷心と愛酒ぐせに訴えかけた。これはどうやらこうやら効果があったらしく煙突に除塵装置をとりつけましょうということになった。その費用が一億であるとか、二億であるとか、なんでもそのようなケタ数の数字を聞かされた。これで一息ついていると、こんどは東の西宮に日本石油が進出し、巨大な石油コンビナートをブッ建てようとの、その西宮の心臓の"宮水"地帯がこれではワヤである。ここには各社の井戸があって、仕込水や割水には、昔からの"宮水"をトラックでわざわざ運んでいる。その水がすっからかんになってしまうではないか。灘の血がなくなってしまうぞ。えらいこっちゃ。さっそく市会に持ちこんで、抗議、論議、大奮闘した。その結果、ようやく怪物コンビナートは明石に去ることになったという。つまり、日本の"近代化"の大波小波のなかで灘もまた、もみにもまれて東奔西走しているわけだ。(「言葉の落葉」 開高健) 


仏説摩訶酒仏玅楽経(9)
往昔、我が師、酔郷道場に在りて、此の法を説くや、天龍八部、四面囲遶(いによう)し、為(ため)に三絃の天楽を奏し、或は新調の唄声を発す。陶陶焉(えん)たり翕翕(きゆうきゆう)焉(えん)たり。歓喜して已(や)まず。然れば則ち、我が師の正法眼蔵、是を舎(お)きて焉(いずく)にか求めん。若(も)し夫(そ)れ凡夫二乗の俗輩、苟(いやし)くも是の経を誹謗すること有らば、則ち其の無酒地獄に堕ちざる者、幾(ほとん)ど希(ま)れならん。 有髪沙門節之、和南し謹みて誌す 天保戊戌仲春翻刻

昔、我が師、釈尊が酔郷道場にあつてこの法を説くと、天龍八部が四方から師をお囲みし、師のために三味線による天楽を奏で、あるいは流行の新しい調子の梵歌を発した。その音楽は、うつとりと楽しく、なごやかで調和がとれていた。法を聞いた聴衆たちは、歓喜してやむことがなかつた。そうである以上、我が師の正法眼蔵は、この法以外にどこに求めようか。もし凡夫や小乗の俗物どもが、かりそめにもこの経をそしることがあれば、、無酒地獄へ墜ちない者はほとんど稀であろう。 有髪沙門節之、敬礼して謹んで誌す 天保九年(一八三八年)仲春翻刻(「仏説摩訶酒仏妙楽経謹解」 石井公成) これは今までとは違う版木のものだそうです。ちなみに、「劉伯倫や李太白 酒を飲まねば-」の部分は、「唎鄔波具唎牟耶離多伊波具。薩羯遠曩摩涅婆。-」といったふうになっています。 


酒、酒なるかな
会津藩に、弓術師範として召抱えられた糟谷左近は、広量なるばかりでなく、知謀もまた人に勝れていた。彼は千石を食(は)み、評判が高かった為に毀誉(きよ)が相半ばし、中には其の才を妬んで讒謗浮説(ざんぼうふせつ)を放つ者まであった。ある時、同藩士の某が、其の浮説を信じ、怒って彼の許を尋ね、決闘を申し込んだ。糟谷は其の事の全然無根である事を、一応陳弁したけれども対手は烈火のように憤激していたので、そんな弁解などに耳をかす余裕はなく、唯々勝負を決しようと逼った。彼も、では余儀なしとばかり、決闘を快く承諾し、さて、改まって対手に向って云った。「拙者は元来大の酒好きであるから、一命を賭して勝負を決する前、十分に飲りたい。貴殿とてもこの決闘を一刻も争うほど急ぐわけじゃあるまい。しばらく酒の時間のみ許されたい」と云って酒を呼んで盃をあげた。生死を前に悠々たるかな。後は多いに飲んだ。そして対手に訊ねた。「貴公は飲らんかね。-やる。こりゃ話せる」とばかり、大盃を対手に属した。それから対酌鯨飲、終に二人ともその場に酔い倒れてしまった。偖て、翌朝になり、酒も醒めれば、某の憤怒もまたその如く、決闘するという気も無い。即ち無礼を謝して、また酒、その後は刎頸の交を結んだという。(「日本逸話全集」 田中貢太郎) 

さらし首
鈴が森の処刑場のまえを、酒のにない売りがとおっていると、どこからか、名にしゃがれた声で、「おい、酒売り、酒売り」と呼ぶ。酒売りは薄気味がわるくなって、「ハイ、ハイ、どちらですか」「こっちだ、こっちだ!」よく見ると、さらし首のひとつが口をぱくぱくうごかしている。酒売りはぶるぶるふるえながら、「ヘイ、なにか御用で」「うん、酒を一杯のませろ」「ヘイ、ヘイ」茶碗に一杯、さらし首の口へつぎこんでやると、「もう一杯」というので、もう一杯つぎこんでやった。さらし首はすっかり上機嫌になって、「うーいっ。いい気持だ。ついでに、酒売り、おれのおでこをひとつぽーんとたたいてくれ!」(「江戸小咄大観」 田辺貞之助) 


寝酒
昔から寝つきが悪く、また眠っても夢ばかり見るのが私の癖だ。でも、それなりに安定していたので、大して気にしなかった。よく眠れぬ日が続くと、新宿へ出て四、五軒はしごをして帰る。するとぐっすり眠って寝不足のうめ合せができるのだ。ところが七十をすぎてから、少し調子が乱れてきた。飲み歩くとつい量をすごす上、年のせいで足許がふらつき、去年は二度も道でころげて危ない目にあった。一度などは行きつけのバアのコンクリートの階段からころげ落ちて、それでも少しも痛みを感じなかったが、タクシーに乗って運転手に言われてみると、頭からどくどくというほど血が流れているのだった。結局病院に行って、四針ぬってもらった。それで今年(昭和五十三年)の暮から、町へ出るのは少し控えて、寝酒をやることにした。-
夜の十一時前後になると、細君が銚子一本に、二、三種のつまみを添えてコタツに持ってきてくれる。それをこの頃はドレの聖書画集などを見ながら、ほんとに嘗めるように飲んでゆく。こういう画を見ると、キリスト教がいかに日本人に縁遠い、奇跡と呪いと戦争にみちたものだかがわかる。一本の酒をあけ終わると、少しポッとしてくるので、機を逸さず寝床にもぐる。そうして出来るだけ難しい本が催眠剤にはいいから、此の頃はまたグレンベックの『ゲルマン人の文化と宗教』というのをのぞいている。前に一応はのぞいた本だけれど、その力ある文章に強い魅力を感じるので。でも、二ページも読むと、たいていうまく眠れるのだが、お蔭で本の方は一向にはかどらない。(「春の夜の夢」 山室静) 


曾我兄弟と和田義盛が会飲した時の杯
曾我兄弟と和田義盛が大磯長者の家で会飲した時の杯が、鎌倉八幡宮に納めてある。総黒塗で木目を見せ波と兎を金銀で蒔絵し径四寸九分、深さ六分であるという。旧記によれば鎌倉雪ノ下大井氏所蔵、後鶴岡八幡宮に納むとあるが、故佐藤寿衛氏旧記そのままで和田杯と称するものを所蔵していた。(「日本の酒」 住江金之) 


柄杓
柄杓にこだわるが、更級日記のごくはじめの方に竹芝という寺の縁起が書いてあって、その辺りはもともと武蔵国の或る若い酒造りの住みかだったという。ところが火焚き屋の衛士に召され、仕方なく醸したままの酒瓶(さかがめ)を残して遙々都へ上った、が、故郷忘じがたく、まして酒のことは頭を離れない。彼は柄杓を浮かべた酒瓶を想って思わず口ずさみに、今も武蔵野を風が吹くにしたがい、あの柄杓は瓶の中を東に西にと浮かんでいるのか、あーあと嘆息する、のを、時の帝の姫宮に聴き咎められ、衛士の男は姫宮を抱いて東国へ走らねば済まないはめになる。些細なことにこだわるが、その部分更級日記では「ひたえのひさこの、南風吹けば北に靡き、北風吹けば南に靡き、西吹けば東に靡き、東吹けば西に靡く」と男に謡わせている。「ひたえのひさこ」は直柄の柄杓の意味だが、この通りに読めば柄杓は柄の部分を酒瓶の縁にさし懸けてはなく、酒に浸して浮かべてあると取るしかない。事実その方がいかにも無造作で面白く、そんな日夜酒に馴れた柄杓で、男は折に触れて自分が造る地酒の味を満喫したに違いない。それがまた酒の一等旨い呑み方なのに違いない。一献参るというが、汲むともいう。この、酒は汲むという語感に大事なのは柄杓であり、柄杓酒こそが枡酒や茶椀酒やコップ酒を遙かに遡った酒本来の吞み方だったことを私は疑わない。(「牛は牛づれ」 秦恒平) 


桃さくら鯛より酒のさかなより 見ところおおき日くらしの里 十返舎一九 
 西日暮里公園の解説板にありました。


うまさけ
とつくにのさけにまさりてひのもとのさけはかほりもあぢもさやけき
たまきはるいのちの限り究めはやいやはて知らぬうまさけのみち
めにみえぬちひさきもののちからもてこれのうまさけかますかみわざ
たまきはるいのちのかぎり恋しきはこのひと杯(つき)のものにぞありける(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎) 


こんな女ではなかったのに
いつからか、寝酒をやるようになってしまった。私は以前から、つきあいで一合や二合、飲むことはできたし、夏の暑いさかりの一杯のビールを、しみじみうまいと思うこともあったが、また酒の気なしで幾日過ごしても平気だった。つまり"酒飲み"ではなかったはずだ。それが、気がついてみると、さて寝ましょう、というとき、いそいそとコップを持ち出し、「今夜は肴はなににしるかな」などと、ひとり舌なめずりする有様。こんな女ではなかったのに、とガクゼンとし、たまにアルコールっ気なしで床についてみる。ところがいけません。眼が冴えて、いっこうに眠れない。それでもムリに眼をつむってガンバっていると、アラおそろしや魑魅魍魎(ちみもうりょう)のタグイが、暗闇の那珂に跳梁(ちょうりょう)する。私が意地悪した相手、ダマクラかした男、イビってやった女、アイツやコイツが、見るも恐ろしい形相で迫ってくる。私は輾転反側(てんてんはんそく)し、唸ったりののしったりした揚句、ため息をついて起き上り、酒瓶を探す。(「泣かない女」 安西篤子) 


ウイスキーやジンなんていう女の飲むものは相手にしない
たとえば、アメリカ通俗ハードボイルド作家のジョナサン・ラティーマーなど、チャンドラーやロース・マクと違って名前も知らない人が多いだろうが、彼の代表作『モルグの女』には凄まじい吞んべえが現れる。シカゴ<シティ・プレス>紙記者ジョンスンは、毎週倒れるまで呑んで給料をはたく男。彼が尻ポケットからひっぱりだす小瓶にはラベルがなく、白く濁った液体が入っている。死体置場(モルグ)に張りこんでいる時も、これをラッパ呑み。主人公の私立探偵ビル・クレインも相当の酒好きだが、この液体の正体を「アル的と水さ。ウイスキーやジンなんていう女の飲むものは相手にしないね」と教えられ、さすがにふうっと息を吐く。いいですか、ウイスキーやジンは女の飲むものなのよ。日本にゃ女が多いのねえ。あとは子供か病人ばかり。クレインの呑みっぷりは、一応正統派か。宿酔でシャワーを浴びる前に、まずウイスキーをストレートで一口ぐっとやる次にグラスに半分注いで水を入れ、炭酸水を混ぜて一杯にする。一口毎に一分程口に含んで、ゆっくりと味わう、これを大体三杯。(「酒の海に三百六十五日」 小泉喜美子 日本の名随筆「酔」) 


甘い酒を気楽に飲んだ方がいい
今は甘い酒が全盛であるという。みなさん、話をすれば辛い酒がいいとおっしゃいますけれど、実際に売れていくのは甘い酒なんですよ、と酒屋がいっているのを聞いたことがある。そういうものかもしれない。辛口だからうまい酒ということはないだろうが、たとえうまいとしても、甘い酒を気楽に飲んだ方がいい、という気持は自然であると思う。(「降りたことのない駅」 三木卓) 

○立直りの試合の話
木村(義雄)もはじめのうちは苦笑しながら「まだお前なんかに負けねえよ」とつぶやく程度であったが、升田は泥酔しているから非常にしつこい。いつまでもからむばかりでなく、その度が次第にひどくなるから、木村も次第にムキになった。彼は明日の対局を考えて酒をすごさぬように要心していたが、適度の酒ははいってるし、元々負けぎらいの男だから、ついには満面朱をそそいで「将棋は実力の勝負だ。腕でこい」「アッハッハ。なんぼでも、負かしたる。よう、勝てんやないか。オイ、木村。弱いもんや」「弱いのは、お前だ。オレがいくらボケたって、まだお前より弱かアねえや」「ホ。勝てたら、勝ってみい」「アア。勝ってみせるよ」だいたいこの宴会のはじまるに先立って、木村と升田の座を遠く離しておいた。云うまでもなく二人の仲が悪いから、酔っ払って事が起きては面倒だというので、木村が南正面なら升田は東正面に当る位置に、間に数名の人をはさんで遠く離れているばかりでなく、顔を見合うこともできないような位置に二人の席を定めておいた。いかにもキメのこまかい行き届いた神経のようであるが、ここがまた案外ゲリラ神経というのかも知れない。ゲリラや野武士が一番心配するのは酒席の喧嘩やそこから発した果し合いなぞかも知れず、紳士のタシナミにしてはいささか神経の行き届きすぎたウラミがあって、こういうところがいま考えると愛嬌あふれ、おかしくて仕様がない。それで事もなく宴会が終れば、それはむしろ甚だ人をバカにし人を軽く見たようなものであるが、幸いにも誰もバカにされずに、首尾一貫してゲリラの精神に添うことができた。めでたい話で、いかにも時代風俗であったと云えよう。二人は正面を向いたままでは相手の顔が見えないのだから、各々首をねじまげて遠く人々の頭ごしに睨み合って「オレが強い」「お前が弱いや」と、しまいには強い弱いと力一パイの声で喚き合うだけになってしまった。しかし、むろんゲリラの中に拙者の一人存在する限り、必ず喧嘩がはじまるかも知れないが、必ずまるく収まるのもフシギなもので、頃合いをはかって、二羽のシャモの喚き立つうちに、宴はめでたく終りとなった。さて我々は明日の対局場でもある旅館へおもむいて寝ることになったが、強い弱いで喚き合ってすぐ眠るわけにもいかないから、三人で碁を打つことになった。木村も升田も碁は腕自慢だし、私も文士のうちでは強い方だ。みんな同じぐらいの腕前で、強い弱いを碁に持って行って争うぶんには平穏である。碁を打つうちに升田の酔いもいくらかさめたし、碁は打ち分けに終ったように思う。そして和気アイアイのうちに碁を終り、十二時ごろ各自の寝室へひきとった。(「明日は天気になれ」 坂口安吾) 


*酒は一種の心の臙脂(えんじ)である。わたしたちの思想に、一瞬間化粧を施す。
-レニエ「どんく」
*酒は善きにつけ悪しきにつけ、バッカスが人間に授けた"秘密公開薬"である。
-編者
(「世界名言事典」 梶山健編) 


濁酒三合を得たくて
こんな話を聞いた。たばこ屋の娘で、小さく、愛くるしいのがゐた。男は、この娘のために、飲酒をやめようと決心した。娘は、男のその決意を聞き、「うれしい。」と呟(つぶや)いて、うつむいた。うれしさうであつた。「僕の意志の強さを信じて呉れるね?」男の声も真剣であつた。娘はだまつて、こつくり首肯(うなづ)いた。信じた様子であつた。男の意志は強くなかつた。その翌々日、すでに飲酒を為した。日暮れて、男は蹌踉(そうろう)、たばこ屋の店さきに立つた。「すみません」と小声で言つて、ぴよこんと頭をさげた。真実わるい、と思つてゐた。娘は、笑つていた。「こんどこそ、飲まないからね」「なにさ」娘は、無心に笑つてゐた。「かんにんして、ね」「だめよ、お酒飲みの真似なんかして」男の酔ひは一時にさめた。「ありがとう。もう飲まない」「たんと、たんと、からかいなさい」「おや、僕は、僕は、ほんたうに飲んでゐるのだよ」あらためて娘の瞳みを凝視した。「だつて」娘は、濁りなき笑顔で応じた。「誓つたのだもの。飲むわけないわ。つった。岡田時彦さんである。先年なくなつたが、ぢみな人であつた。あんな、せつなかつたこと、ございませんでした、としんみり述懐して、行儀よく紅茶を一口すゝつた。-
弱く、あさましき人の世の姿を、冷く三つ列記したが、さて、さういふ乃公(だいこう)自身は、どんなものであるか。これは、かの新人競作、幻灯のまちの、なでしこ、はまゆふ、椿、などの、ちょいと、ちょいとの手招きと変らぬ早春コント集の一篇たるべき運命の不文、知りつゝも濁酒三合を得たくて、ペン百貫の杖よりも重き思ひ、しのびつつ、やうやく六枚、あきらかにこれ、破廉恥の市井売文の徒(ともがら)、あさましとも、はづかしとも、ひとりでは大家のやうな気で居れど、誰も大家と見ぬぞ悲しき。一笑。(「あさましきもの」 太宰治) 


ドライドランク
西原 私を一番混乱させたのがそのドライドランクですよ。まったく、何カ月も飲んでなくても、飲んでるときと同じ性格の悪いことを私にだけするんだから。それじゃアル中じゃなくて、ものすごく性格の悪い人だと思うでしょ。酒飲んでても、銀座のホステスにはおべっかが使えるくせに、何カ月も飲んでなくても私にはまったくものすごく態度の悪い事ができる。
-ドライドランクについて具体的に説明してもらえます?
月乃 日本語にすれば「飲まない酔っぱらい」みたいな感じですね。依存症になるくらい長期間お酒を飲んでいると、やめてすぐ正気にもどるかというとなかなかそうはならないんですよね。飲んでなくても感情のコントロールが効かなかったり、鬱状態になったりとかそういう飲まない酔っぱらい状態のようなものがしばらく続く症状ですね。(「実録!アルコール白書」 西原理恵子・吾妻ひでお) 


握力計
最近、ぼくのところに、ぼくと同年の男がやって来た。酒は毎日八合くらい、朝から晩までちびりちびり飲んでいる。心配した奥さんが連れて来て、「先生、なんとか酒をあきらめさせてください」というわけだ。この男、ぼくと同年と思えぬぐらい、ぐっと老いこんでいる。しかし、自分では、まだ大丈夫、どこも悪いところはない、元気なもんです、とから元気かも知れないが、意気さかんだ。どこか悪いところを探して、本人にこんなに体をこわすようじゃ、と思わせるための作戦を開始したい。そこで、ぼくは彼に自分の手を握らせた。どうも握力が落ちているという感じがした。「握力計をとってくれ」とぼくは、看護婦に頼んだ。右手でそれを握らせてみる、十四。左手では、十三。「あんた、ほんとに、これで精いっぱいの力かね」ぼくはびっくりしてみせた。しかし、本人は、握力計で十四とか十三の数字がどれほどのものを意味しているかわからない。「あんたはぼくと同じ年だろう。ぼくの年でこんなじゃ、だめだね。女だってもっと力は出るよ」ぼくは握力計を男の奥さんに握らせてみた。「右で二十五だ。ほら、女だってこのくらいの力が出る。もともと、力が出ないなんていわせないよ。おくさんより力がないなんて」ぼくはそういったが、奥さんの方をよく見れば、これが堂々とした体格の持主で、亭主より力があって当り前のようである。これでは説得力がない。ぼくは同年の男性である自分の握力と比較させてみようと思った。「いいかね。あんたの年だったら、普通ならもっと力がなければならない。それが十四なんていうのは、酒のためだよ。絶対にそうだ。ぼくは君より瘠せている。腕だって細いさ。それでも君より力は出るよ。十四なんて、情けない数字じゃない」ぼくはおしゃべりしながら準備をした。そして、できるだけコントラストが明白になるために、四十ぐらいの数字を出してやろうと思った。「いいかね、よくごらんよ、君とぼくの力の差を」ぼくは自ら握力計を手にしたのである。ぼくの痩せ腕でも、彼の倍の力があることを見せれば、説得力も大きいというものだ。「さあ、よく見とけよ。いち、に、さん、うーん」仕事熱心なぼくは、出来るだけの力を、手といわず、腕といわず、肩から背中まで入れて、握力計を握りしめた。その瞬間、ポキというにぶい音が、ぼくの肩の奥でした。そのとたんに肩に激痛が走って、反射的に手がだらんとした。「うーん、いてててて」ぼくは思わず叫んだ。握力計は三十六を指して止まっていた。「ね、同じ年で、ぼくは三十六、あんたが十四。酒のむしばんだものがわかるだろう」と、患者にいった時には、ぼくの額には、あぶら汗がいっぱいだった。相手はニヤニヤしながら、ぼくの顔を見つめていた。そして、ようやく、「わかりました。そろそろ酒をやめようと思っていたんです」と答えてくれた。(「カルテの余白」 なだいなだ) 


商標思想の発生
以上の如く中世手工業部門にあって特異の発達を遂げた酒造業界は、他の手工業部門に先んじて商標思想を生むに至った。文明の頃大柳酒屋一類が自家用使用の柳樽に六星紋を使用し、他の酒屋の盗用を禁止したのはこれが一例である。商標思想の発生は屋号の成立より派生し来たったものであろうが、酒造業界に於て初めて商標の胚胎を見るに至ったのは、酒屋が卸売人的性格を具備し、その販売が小売酒屋の介在によって、間接的に延伸せられ、また地域的に拡大せられたため、自家の醸造酒なることを消費者に意識せしめ、もってその販路を維持拡大せんとしたことによるものと思う。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


酒の勢いで書くんじゃない
平野(威馬男) ただ、若い人たちが誤解すると困るんだな。ドラッグやお酒で、詩が生まれるなんて考えられると。松沢病院に、三カ月ほど、入っていた時にね、あらゆる患者、四十人から五十人に、絵を描いてもらったんです。みんな面白い絵を描いてくれたけど、それを見た院長さんがね、これは分裂症、これはナントカ病って、即座に言ってのけるんだ。絵によって、徴候が出る、一つのパターンが出るわけですよ。徹底的にひどい麻薬によって、幻想を追って書く。これは一つの病状の徴候であって、芸術作品ではない。芸術と病理のパターンとは区別しなきゃならない。たとえば、山下清氏の絵は進歩がない。五年も十年も。だから、お酒飲みの酩酊状態というのは、詩を書けないような酩酊ではなくてね。デリケートな言葉を生かす発明なんだから。同じものを二度も書いたら、たまんないですね。たまたま酒飲んだんであって、酒を飲まなきゃ書けないというのではなくて、お酒を飲んだ方が、もっとスムーズに、奔放なイマジネーションが出るし、潜在意識が上へ、ヒャーッと出てくるっていうもんだ。だから、酔いは決して、芸術作品をプラスにさせない。酔いを克服することによって、酔いながら書くことね。酒の勢いで書くんじゃない、酒の勢いを用いて書く…。
田村(隆一) だから、逆説的に言えば、醒めるために酔う場合がある。頭を醒ますためにね。ふだんの酒は、酔うために飲むんだけど、ボードレールの場合なんか、完全に自分の頭脳を醒ませるために用いたんだろう。人を騙すことなんだから、芸事(げいごと)というのは詩を書くというのはね。騙す側ですからね。アーティストというのは。騙す人間が最初に騙されちゃ。話にならない。(「砂上の会話 田村隆一対談」 田村隆一) 


滝の画に
酒かひに 李白や里へ ゆかれけん 三千尺の 長い滝のみ(放歌集)

和唐紙に物かけといふ人に
和唐紙に 物かく事は 御免酒に こはだのすしや 豆腐つみいれ(放歌集) 太田蜀山人 


ぼくはアル中ではありません
「男はなぜ酒を飲むのか」な、なぜってアナタ。いきなりそんなドキッとするようなこと言われたって、そりゃ困ります。弱ります。「男性はなぜ…」ま、つまり、男のその目的意識のなんたるか。ン、なかなかカッコイイ御質問ではあります。しかしながらこのニュアンス、ひょっとすると「アンタ、また飲んできたわね!!」ともとれるむきもあり、ならばこっちは先手を打って、ドーモスミマセンと早いところあやまっちゃおうか。かといって、きょう日流行(はやり)の、建て前と本音怪しげに使い分けて、しどろもどろのナゼナゼ論ぶったところで、所詮はモーローたる言い訳になってしまうのがオチで…。ああ、しかし、それにしてもこの鏡の中のぼくの顔。なんともシドイ顔ではありませんか。したたか飲んだ昨日の今日。ぼくはわが家の洗面所の鏡に向ってまたしても呟くのです。「スミマセン。もう飲みませんから…」事実、ぼくはそれからずーっと、一週間とか、十日とか、まるっきり一滴も飲まないのです。べつにそのために禁断症状があらわれるわけでもなく、あとはただただ仕事に打ち込むばかりでして…。いえ、信用しないかもしれませんが、本当なんです。要するに、ぼくはアル中ではありません。アル中は、酒っ気がきれるとやたらイライラしてきて、落着きがなくなり、指先がこうかすかにふるえたりして…。あ、ぼくのマンガの線もかすかにふるえてる感じですが、これは単なるクセでして、いうなれば貧乏ゆすりみたいなもんス。(「昭和ベエゴマ奇譚」 滝田ゆう) 


酔う
うらがえすポケットから
たばこや小銭がおちる
悪寒をささえていると
死んだ犬がはしってきて
わたしの吐瀉をなめる
なめられる足くびからわたしは消えなじめ
ごつんとみじかくなり
落下にともなう
がくがくの意識で
ああわたしには
わかったな
死んだ犬のむこうに立っているひと
見えないながくさりで
死んだ犬をあそばせているひと
わたしは手足をのばし
さむさのしみている土をだく すると
酔いのむこうから
毛むくじゃらな腕をさしのべてくるのだ
ともにのみつづけ
いまは
軒さきの
光の歯にかまれている
寸たらずの生きた人間の顔が(「現代詩文庫81 大野新」) 


ドクターストップ
ずいぶん前の話だが、吉田さん(茂=ワンマン・一八七八~一九六七)に召し上がるものでは、何がお好きですか」とうかがったとき、「うまいものが好きです」と答えられたことがあった。その時は、それほどにも思わなかったが、だんだん年をとるに従って、実に至言なるかなと思う。名は同じでも、うまいそれとまずいそれとでは霄壌(しようじよう)の差がある。そのころ、Royal Householdというウイスキーが輸入された。ごく普通の黒ビンに、何の飾りもない白いラベル。上のほうに金で、例の王室御用の紋章、すっきりしたものだ。ウイスキーの優品は、こうしたすっきりした容器のものに多いようだ。Dewar の上等Ne Plus Ultra然り、ジョニー・ウォーカーの上等Swing の古い壜然りである。「実に素晴らしいサケです。飲んでみますか?」とトニイ(新橋のバア・トニイの主人・松下安東仁氏)に言われて、飲んで見ると、なるほど芳醇という言葉そのままのような酒だ。吉田健一さんが、大変賞めて、「酒はブランデーが一番と思っていたが、ウイスキーにもこんないい酒があるのでは、これア考えを改めないといけない」と言っていたと聞いて、これをお土産にワンマンを訪ねてみようと思いついた。買ってくれるようにトニイに頼んでおいたが、どこにももうないという話。なにしろ、試験的にタッタ一ダース(二十四本)入れただけのを、方々のデパートに出して見たんだという話。そのうち、「白木屋に一本残ってました」とトニイが買って来てくれた。一万円だったと思う。ジョニ黒が七千円ぐらいだったから、たいそう高いものに思えた。むろん、あらわにではないが、「おやタッタの一本」といった表情が、これを受取った吉田邸の執事、安斎老の顔をかすめたように思えたので、「これは日本にタッタ一ケース入ったもののうちの一本で…」と説明に及んだ。吉田さんに酒を手土産にする人は、普通一本ということはあるまい。一ダースか少なくとも半ダースであろう。「たいそう貴重なウイスキーをいただいたそうで…」と吉田さんが丁寧に礼をおっしゃるので恐縮して、たった一ケース輸入されたものなることを説明し、「健一さんが、たいへんお誉めになり、酒ではブランデーが最高だと思っていたが、これでは考え直さなくては、とおっしゃったそうで…」と言いもあせらず、「あなたは、健一に酒が分るとでも言うんじゃないでしょうね」と言われた。鼻眼鏡の奥の眼を細くなさって…。(「豆腐屋の喇叭」 薄井恭一) 「吉田さんは、ほんとうは日本酒がお好きだったそうだが、日本酒には、ずっと早くからドクターストップがかかっていたようだ。」とのことです。 


後悔先にたたず
あるアイルランド人が、その朝見た夢の話をしていた。「わしは教皇様といっしょにいたんですよ。このあたりじゃちょっと見られぬりっぱな紳士でしたわい。教皇様がわしにたずねなさるだ。なにを飲むね-と。水で結構ですといおうとしたところ、棚にウィスキーとレモンと砂糖があったので、それじゃポンチでもいただきましょう、と申し上げた。冷たいのか、熱いのかと重ねての質問。熱いのに願います、閣下、と答えたもんだ。すると湯をとりに台所に行かれるんじゃないか。ところがもどられるまえに目がさめちまった。どうして冷たいのにしなかったかと、頭を痛めているんですよ」(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


飲み友達
ところが、飲むと食欲旺盛になるのが佐野洋さんで、それもどういうわけかまともな物は食べない。ナンキン豆なら、実を食べずに殻のほうを食べる。食べるというより、バリバリかじって飲みくだすと言ったほうがよさそうだ。紙のナプキンなどもうまそうに食べるし、麦藁のストローなんぞも大好物、日本料理のときは割箸をかじる。ひところの彼は鉛筆で原稿を書いていたが、書き減らす鉛筆の数よりかじってしまうほうが多く、胃腸によくないと気づいて、現在は万年筆に改めている。しかし、彼のいちばんの好物はビニールで、感触がまず快く、酒を飲んで昂揚するとつい手近にあるビニール製品を食べたくなるらしい。その被害はわが家のテーブル・クロスに及んでいるが、とにかくビニール製品なら風呂敷でも何でも結構、触っているうちに食欲がそそられ、少しずつちぎって食べてしまう。ビニールのベルトが流行った頃は、蕎麦みたいにベルトを飲みこんで出し入れしていたというから並みたいていの愛着ではない。まだ、人間を食べたくならぬだけマシというべきだろう。しかし酒を飲まないときの食欲は正常で、彼の家で晩飯をご馳走になったらおかずがビニールだったという話は聞かない。(「旦那の意見」 山口瞳) 



中村勘三郎(なかむら・かんざぶろう)
本名波野聖司。明治四十二年七月東京生れ。吉右衛門、時蔵の弟で、いわば純粋の播磨屋一門でいながら非常な菊五郎の崇拝者で、その長女と結婚。江戸中村座の座元名勘三郎を復活襲名以来、次代の菊五郎として急速にクローズアップされた。歌舞伎界近来の当り屋で、芸の成長と同時に人間的にもよくなったと専らの評判。アルコールには眼がない方で、その方の武勇伝も枚挙にいとまがない。(千代田区麹町一ノ七) 17代目だそうです。(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。 


参豫会議解体
将軍に随行する老中たちは喜ばなかった。薩摩主導は困るのである。勅書の草案を薩摩藩士高橋猪太郎が書いたとの噂まであった。去年は長州主導の攘夷即行論に翻弄され、今年は薩摩主導で攘夷を免除されては、幕府の立場がない。薩摩の言いなりにはならないと江戸で決めてきたという。加えて、参豫会議なるものが何とも我慢ならなかった。大名の隠居が主力の合議体が幕府の外側にできた。後見職や守護職が何とも我慢ならなかった。後見職や守護職が加わっているから「外」というよりも「上」の感じが強い。幕府機構の中に入れて老中の上に置こうとする動きもあった。そのような力で攘夷から解放されても、既存の幕閣としては嬉しくないのである。老中たちの意見を聞かされて一橋慶喜は困った。将軍の意向を確認してみると、老中と同じだという。慶喜は参豫会議を捨てて、将軍の意見に従うことにした。勅書への奉答書でわざと攘夷はもうしないということを強調して公卿側のクレームを誘いだし、朝廷と幕府の合意点を横浜鎖港方針堅持の線に引戻す。不満の参豫会議メンバーに対しては、酒に酔ったふりをして喧嘩をふっかけるという非常手段まで採ったのである。怒った山内容堂は参豫を辞任して帰国した。松平春嶽と伊達宗城は、なんとか慶喜を参豫会議発足時の、幕政を一新するという精神に立戻らせようと苦心するけれども、慶喜は乗らなかった。逆に公卿側に働きかけて参豫解任の方向に話を進め、(元治元年)三月十三日には残る全員が罷免された。参豫会議解体である。(「幕末・京大坂 歴史の旅」 松浦玲)
ここで慶喜が酒に酔って過激の論を吐いたというのは、先の簾前会議の場合と違って、諸記録が一致しており、晩年の慶喜も認めている。そうして、その状況をもっとも活き活きと写しているのが、事件の直後に慶喜の話を聞いたらしい原市之進の文章である。それによれば、中川宮が、覚えがないとか、昨日の朝議が偽りというわけではないとか、要領を得ぬ弁解をするので、慶喜は一喝した。"薩摩人の奸計はみんな知っているのに、あなた一人が騙されて信用しているから、こんな問題を起こしたのだ。これは天下の安危にかかわるので、あなたの返事によっては、「御一命頂戴、私も屠腹の決心で」刀を用意してきた。朝廷の意見がこうも変化し、勅書も人を欺く手段になっているようでは、誰が服従するものか。もう幕府の方で横浜鎖港を断乎やっていくから、それで満足だという天皇の意向が表明されるように周旋給わりたい"こう言い切ると、中川宮も島津久光ら三人も、「一言も無之(これなく)、面色如土(つちのごとし)」だった。慶喜は、今日は暴論のついでに、もう一つ暴論を申しあげると言って、島津久光、松平慶永、伊達宗城の三人の参与を指し、「此三人は天下の大愚物、天下之大奸物に御座候処、如何して宮は御信用被遊候哉(あそばされそうろうや)」。島津久光には、家計の面倒をみてもらっているので、仕方なく、くっついているのだろう。明日からは私が財政援助をしてあげるから私にくっつきなさい。「天下之後見職を三人之大愚物同様に御見透にては、実にさし支(つかえ)申候」と、啖呵を切って引揚げてきた。これは、酔余の言ということで、緩和されてはいるけれども、事実上の、参豫会議に対する決別宣言だと見てよかろう。(「徳川慶喜」 松浦玲) 


童謡
私はあらかじめあたえられたものではなく、自分の手を加えて完成したものだけが、自分のものなのだ、と思うようになり、贋作をつくっては、自分のノートにしまっておくようになった。ここでは、その中の一つの童謡を、紹介することにしよう。『赤い鳥』という唄である。 赤い鳥小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実をたべた赤い実をたべた というのを、私に教えてくれたのは、酒場のホステスのまゆみという女であった。私は、この唄を二、三度唄っているうちに、例の贋作病がむくむくと頭をもたげてくるのを、我慢することができなかった。赤い実というのは一体、何だろうか?この唄はもしかしたり社会主義革命の唄なのだろうか?それとも『朱に交われば赤くなる』といった程度の教訓の唄なのだろうか?それにしても、裏に何か物語をひめた唄であることは間違いない。私は、同じ節まわしで唄ってみた。 赤い鳥小鳥 なぜなぜ赤い お酒を飲んだ 男にふられてお酒を飲んだ これだけではどうも、もの足りない。そこでさらにつけ加えてみることにした。 赤い鳥小鳥 なぜなぜ赤い 返り血あびた 男を刺して返り血あびた すると、この童謡は何だかとても怖ろしい唄のような気がしはじめた。あどけない童謡の背後にも、ときどき殺人の物語がかくされていることがある-と私は思った。そして、この唄はもう唄うまい、と心にきめたのであった。(「青蛾館」 寺山修司) 


酒に還ってきた
若年の頃、欧米の文学を耽読(たんどく)し、日本の伝統など毀(こわ)してしまえ、といった時期があったが、私はけっきょく伝統に還(かえ)ってきた。これは酒についても言えることで、さまざまの洋酒をのみつくした後で、私は酒に還ってきた。米が豊作だときくと私の感情は豊かになる。酌めども尽きぬ深い味、そのまろやかさ、あの色と香、これは日本の風土をぬきにしては考えられない。青春時代の酒には尽きせぬ思いがのこっているが、よわい四十を過ぎたいまも、酒なくて何の人生ぞ、といった思いはある。としとともに無常のおもいは募る一方だが、酒が伴侶(はんりよ)である点は、今後もかわりそうもない。(「坂道と雲と」 立原正秋) 


市川海老蔵(いちかわ・えびぞう)
本名堀越治雄。明治四十二年一月東京生れ。女性ファンからエビさまの尊称を奉られた当代随一の美男役者。最近女中上りの妻女を世間に公表して賛否両論の渦中に立った。幸四郎、松緑と並ぶ『高麗屋三兄弟』の中では長男だけあってオットリしている。十代目団十郎襲名の噂も既に古いが、当人は至って呑気で、ファンの方がヤキモキしている。酒豪、釣を好み、休みの日は太公望をきめこむのがおさだまりらしい。(世田谷区野沢町一ノ二四四)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。11代目団十郎だそうです。 


酒は湿
例えば、ヘラクレイトスという人がいる。この人は本人自身のことばではないらしいが、「万物は流転する」と唱え、火を万物の元とみなした人だと哲学史の本に書いてある。だが、哲学史の教科書には書いてないことも、彼の語録には数多くある。たとえば、酒についてつぎのようにいっている。「大人でも酒に酔えば、どっちに行くのか分からず、よろめきながら、ひげも生えていない若者に手を引かれて歩く。それは魂を湿らせたからだ」酒は魂を湿らせるとはうまいことをいったものだ。万物の元は火だと説いたヘラクレイトスのことだから、乾いたものは高級で、湿ったものは低級だと考えるのはしぜんである。べつのところで、「乾燥した魂は、この上なく賢くて、また最もすぐれている」とも書いている。ではいったい<ヘラクレイトス自身は上戸(じようご)だったのか下戸(げこ)だったのか。それは興味ある問題である。ヘラクレイトスは、「エペソスの暗い人」といわれた人だから、くわしい伝記は不明だが、エペソス生まれの貴族で、郷里から追放されたことはじじつのようだ。だから、「エペソスの人間なんて、もう成人に達している者は、みんな首をくくって死んだほうがよい」などと憎まれ口を書き残している。彼は誇り高く、怒りっぽい人間だったというが、あまりかたいことをいわずに、酒でも飲んで、「魂を湿らせて」、うさばらしでもしたらよかったろうにと、気がもめてくる。ところが、ほかの個所ではちょっとおもしろいことをいっている。「魂にとって、湿ったものになることは快、もしくは死である」これは解釈のしようによっては、酒を飲むことは楽しみで、それで死んでも悔いはないという意味にもとれる。だとすると、ヘラクレイトス先生は、自己の哲学には忠実ではなく、上戸党だったのかもしれない。(「水源をめざして」 遠山啓) 中国の陰陽五行説で、酒は「火」に対応していたようですね。 


春暁や昨夜の酒に悔いなきか
伊志井は、この俳句のほかに、若いときから、酒を好んだ。ほかに、ほかに人がいれば陽気な酒で、相手によっては、ずいぶんとゴマスリ調の言辞を吐いた。どんなに強い相手でも、最後までつき合えるほど、強かった。無理な酒を承知で、飲むこともあって、それが「春暁や昨夜の酒に悔いなきか」という、自省的な風懐になっているのではないか。ほかに、人がいなくても飲んだ。終演後、予定もなく、家へ帰るだけという伊志井が、その帰りがけに、小料理屋に入ってくるのを見たことがある。肴を二、三品注文して、酒を三本ばかり、かなりのスピードで平らげた。「近ごろ、肝臓がおかしくなっちまって、適当にセーブしてるんだよ」といった。晩酌のつもりであったのだろうが、ひとり飲む酒としては、決して、少ないほうではない。それにそのスピードは、かなり早く、入ってきたと思ったら、たちまち、帰って行った。小気味いい酒である。(「ああ酒徒帰らず」 木村嵐) 伊志井寛の酒だそうです。 


蟹の甲羅酒 蟹の甲
むかし、あるところに、爺と婆とがあって、子供ァなかった。爺さまァ、小(ち)ャッこい蟹コをめけてきて、井戸の中えあづがって(養って)、へッぱ(大変)めごがって(可愛がって)いた。毎日、食うものを持って井戸端さ行っては、井戸端ただェで、 蟹(がに)コァ こずつの めんずるこ(意味不明) というと、小さな蟹コたちが、爺さまの腹の下さ集ばってきた。婆さまは、「爺さまァ蟹コのよた(ような)ものめごがって、どやす気だだか」といってそれを憎んだ。それで婆さまは、爺さまがよそへ行った留守の時、井戸端さ行って、井戸端たたいで、  蟹コァ こずつの めんずるこ てへたけァ、蟹コどァ爺さまかと思って集ばって来た。婆ァそれよ皆捕て食(く)てしまった。そして甲羅を溜端(流しの水ため)さ捨てておいた。そのうちに爺さまが戻って来て、井戸端をたたいて、 蟹コァ こずつの めんずるこ  てよばって見たども、蟹コどザ出はてこなかった。爺さまァひょんた(妙な)事だと思って、も一度呼ばって見た。したども蟹コどァ矢張り出て来なかった。そうしたら傍の木の上で、 みどこァ(身の所) ばばはら(婆腹) こーらは(甲羅) ためばた がーお がお とからすが鳴いた。妙なことだと思って、ため端さ行って見だけァ、蟹の甲羅ァずっぱど捨ててあった。そこ甲羅さ美しい水のよたものァ溜っている。爺さまは何だがと思って飲んでみたら酒だった。(三戸郡五戸町の話 採話・能田多代子)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


邢州、白磁の盞
同じ酒呑みにも徳利型の人と猪口型の人がある。一升瓶からの直か酌も辞さないが盃、猪口、ぐい呑みの方は気に入った品を使いたいと、たとえば私ならそう願う。で、差当ってその方から"酒情"をそそる名器を、となると第一番に指を折るのは中国は邢州、白磁の盞が一対東京国立博物館にあるのが想い出される。陸羽が『茶経』三巻を著した中で越州青磁と邢州白磁を茶碗に最適とほめているが、青磁には精緻な名品がのちに続出するけれど、白磁では茶碗ならぬこの邢州の白磁盞ほどの優作は類稀と言うよりない。白玉の底から淡く柔らかに匂う人肌の温かさもさりながら、コンピューターではじいてもこうまで端正な円形は算出できなかろうと思える口づくりと、抛物線状に花が咲いたような立ち上がりが、ひときわ美しい。添い寄る情味で掌にそっくり包まれてしまう感覚が、持った重さのそれとよく調和して、高貴な美少女をそっと抱き上げたような、凜々しく、甘い、感触なのだ。酒をそそいで琥珀の色香をこの盃ほど静かに浮かべうる美しいさかずきは二つとない、と、機会をえてたった一度この手に持たせて貰った博物館の好意を、今でも私は有難く思っている。(「勝る花なき」 秦恒平) 


酒乱ナンバーワン
神戸のバーのママやホステスが寄ると、いつも噂になる人があり、くだんの酒乱男、酒気のないときは、じつに温厚な紳士、君子であるが、いったん酩酊の度を越すと、豹変する。手に負えない。しかし乱暴しても物をこわす、というのではないそうである。ねちねちと、じつに腹のたつワルクチを面とむかっていうそうである。それをくわしーく、いえればいいのであるが、感心なことにどこのバーのママも、その内容までは営業上の秘密でばらさない。「ともかく、腹たつのよ」とあるママはいった。酔っぱらいを扱い慣れている人々を、かくも腹立たせるとは、この酒乱、天才とちゃうか。ママはがまんしていたが、酒乱がコップのビールを女の子にぶっかけたので、堪忍袋の緒が切れ、大ジョッキ一杯のビールをぶっかけてやったそう。くだんの酒乱のおかしい所は、それで以て立ち廻りにならず、「ああ、××の○○ちゃんやったら、こんなことはせえへんのになあ」と、嘆息しつつビールの泡をあたまからおとなしくかぶっているところである。「あら、それじゃ○○ちゃんとこへいらしたら?お送りしますわ」と、うまいこといって車で、次なるバー××へ送って、厄介払いするそうである。バー××では、大変なものが来た、とうんざりするが、商売だから接待してる。そのうち、またもや、酒乱氏は、人のいやがるワルクチをいい、店じゅう、カリカリとくる。エーイ、もうがまんが、というところで、酒乱氏が、ヨロヨロと立ち、「トイレやで」というのをむりに戸口までひっぱっていき、「あーら、もうおかえり。またいらしてェ。あーりがとうございましたァ」と、ママはじめ、店の女の子、よってたかって階段の上から突き落とすそうである。ひどいねえ。酒乱氏は、一階まで落ち、うんうん唸りながら怒りもせず、亦電話で、次のバー△△を呼びだし、「迎えに来てくれよ。助けにきてくれよ」という。バー△△では、そらッ、疫病神(やくびょうがみ)が来たッと思うが、しかたない、同じ災難なら早くすませて早く送り出しちゃおう、というので、これが迎えにいく、というんだ。結局、天下の酒乱ナンバーワンはこの男、ということになった。(「ラーメン煮えたもご存じない」 田辺聖子) 



同じ村年寄四郎兵衛は、むかし水鳥記にみえし名も四郎兵衛の孫なり。かの松原にて盃を墨にそめて酒合戦せし事を思ふ
四郎兵衛が くろく染たる 盃も ながれてはやき 春の水鳥(玉川余波) 太田蜀山人 慶安年間記事 ぢわうばう【地黄坊】 水鳥記序 


酒を多く呑まぬ習慣をつけよ
子孫、幼(いとけ)なき時より、かたくいましめて、酒を多く飲ましむべからず。の(飲)みならへば、下戸も上戸となりて、後年(ごねん)にいてりては、いよいよ多くのみ、ほしいままになりやすし。くせとなりては、一生あらたまらず。礼記(らいき)にも、「酒は以て老を養なふところなり、以て病ひを養ふところなり」といへり。尚書(しょうしょ)には、神を祭るにのみ、酒を用ゆべき由、をいへり。しかれば酒は、老人・病者の身をやしなひ、又、神前にそなへんれう(料)に、つくれるものなれば、年少の人の、ほしゐままにのむべき理(ことわり)にあらず。酒をむさぼる者は、人のよそ目も見ぐるしく、威儀をうしなひ、口のあやまりありて、徳行をそこなひ、時日(ひま)をついやし、財宝をうしなひ、名をけがし、家をやぶり、身をほろぼすも、多くは酒の失よりを(起)こる。又、酒をこのむ人は、必(ず)血気をやぶり、脾胃をそこなひ、病を生じて、命みじかし。故に長命なる人、多くは下戸也。たとひ、生まれつきて酒をこのむとも、わかき時よりつつしみて、多く飲むべからず。凡(およそ)上戸の過失は甚(だ)多し。酔(よい)に入りては、勤厚(ツツシミアツキ)なる人も狂人となり、云(いう)まじき事を云(いい)、なすまじき事をなし、ことばすくなき者も、言(ことば)多くなる。いましむべし。酒後のことば、つつしみて多くすべからず。又、酔中のいかりをつつしみ、酔中に、書状を人にをくるべからず。むべも、昔の人は、酒を名づけて、狂薬とは云へりけん。貧賤なる人は、酒をこのめば、必(ず)財をうしなひ、家をたもたず。富貴なる人も、酒にふければ、徳行みだれて、家をやぶる。たかきいやしき、そのわざはいは、のがれず。いましむべし。(「和俗童子訓」 貝原益軒) 


居酒屋
私が、四、五歳の時分からよくつれて行かれたのが、貧乏長屋の一軒に住む、まだチョンマゲを頭に残していた職人かたぎのおじいさんで、このおじいさんは一人で猪口を上げていたが、それをおごられたさに従いて行った。湯豆腐は、豆腐を大きく切ったままでサラにのせ、その上から大きく削ったカツブシをふんだんに掛けてあるが、子供の目に豪奢に見えた。浅草阿部川町に逢った「仁引」とか、「二引」といった居酒屋で、随分古い柱や鴨居ばかりが並ぶ居酒屋であった。私は音痴で、レコードの方は不案内だが、落語の金馬(先代)が世に残したレコードの「居酒屋」は、その描写、ふんい気が巧く出してあるところから、けだし社会描写のレコードとしても「名盤」というのに値するのだろうと思って、いまだにその一枚を大切にしている。「居酒屋」に就いて数千、数百の文字をつらねるよりも、この一枚のレコードが大正時代の遺物として歴史に残るか、と思ってである。(「下町今昔」 秋山安三郎) 著者は明治19年生まれだそうです。 


酒の上だから勘弁しない
私の父は大酒家の部類だったと思うのだが、酒の上のことだから勘弁しろ、ということを許さなかった。酒の上だから勘弁しない。酒中の失策を酒におしつけては、第一、酒が可哀相だ、という理屈であった。実はこの「酒が可哀相だ」ということばを、わたしはひそかに庭訓(ていきん)と心得て来たのだが、最近、酒の上だから、というのは、必ずしも、なんでもかんでも責任を押しつけてしまうのではないのではないか、と考えるようになった。-
そしてさらに、酒の上のことだから勘弁しろなどという弁解は許さない、という父の庭訓も、それは酒中の言動の全面的記憶喪失などということのない、酒の強さが前提になっていなければ、守り通せることではないのだと気が付いた。ましてや、酒が可哀相だ、などということは、そう誰にでも、安直に言うことの出来る言葉ではないのだと、しみじみと考えさせられた。酒中のことを完全に覚えていないということが、第一、酒に対して失礼だということになる。(「町っ子土地っ子銀座っ子」 池田弥三郎) 


時間のようなものを飲んでるんだ
今年の春さきのある夜、新宿の酒場で山本太郎と盃をかわしていた。お互い酒がまわってきた。するとあるとき、ふっと太郎さんが呟いた。「どうも、うまくてたまらないものを口に運んでるってのじゃないんだね、宋さんの酒は…。いったい何を飲んでるんだろう」オーム返しに、わたしは答えようとして、しかし口ごもった。「いや、その通り、じつはね…」続きの言葉は喉元まで出てきていた。「じつはね、夜のふけてゆく時間のようなものを飲んでるんだ、苦いよ」。しかし、これはキザというものではないか。それにこちらの胸のうちなんぞ、太郎さんは先刻お見通しである。「もっと酒という音楽にのって、愉快なデュエット、踊ろうじゃないの」。わが友人は、そういうことを別の言葉でいったまでのことである。わたしは盃のなかのものを飲みこんで、喉元まで出てきた言葉を押しもどした。そして、酒とおれとの奇妙なつきあいも思えばもう、半世紀をこえようとしているんだなあと、黙ったままでそんなことを考えた。(「悲しささえも星となる」 宋左近) 


春之部 
雛     白酒に酔ふて小さき吐息かな    烟村
     白酒に酔ふうれしさや雛の前     獅子
曲水  曲水や椿も流れ来たりけり      虚子
     曲水や草に置きたる小盃       同
     曲水の詩や盃におくれたる      子規
桃   旅にして昼餉の酒や桃の花     碧梧桐
     餅も売り酒も売るなり桃の花     紅緑
桜   酒強いて若衆を酔わす桜かな    四方太
     花に酒居つゞけの愚や二日酔    碧梧桐
     仰向いて落花の風や酔心      癖三酔
菜花  菜の花や暮なんとして酒屋まで   虚子(「春夏秋冬」 正岡子規、河東碧梧桐、高浜虚子共選 「現代俳句集成」) 


三月六日
横浜国立大学学芸学部(旧鎌倉師範)へ行く。頼まれた講演をする。文芸家協会理事会に出る。東急ホテルの菊池寛賞のパーティに出る。そしてまた飲みすぎ。パーティで会った矢口、巖谷、そして久しぶりの徳田の諸君と。「ボーザール」「ラモール」等…最後に新宿のゲイバー「福和」へ、朝四時まで。
三月七日
宿酔。一日寝ている。原稿を書かないので、原稿料がはいらず、骨董を売って、生活費に当てている。売文をやめて、いい仕事をしたいと思っているのに、飲んでばかりいる。(「文壇日記」 高見順)  昭和36年です。 


無泡性酵母の分離
発酵中の酒母やもろみの泡がモクモクと盛り上がることはすでに述べたが、一九一六年(大正五年)に、たまたま高泡のかからない異常もろみが発生した。当時、広島税務監督局に勤務していた高橋源治郎氏は、広島県の一酒造場で「その泡淡く、かつ低き一種独特の発酵状態を呈するもの偶々一仕込みに発生することあり」(日本醸造協会雑誌、一一巻、一五頁、一九一六年)、そこから珍しい無泡性酵母を分離した。また当時、醸造試験所技師の善田猶蔵氏埼玉県の一酒造場で一〇年来、泡がかからず「スズメ湧き」と称する発酵現象が続いていることを知り、そこから無泡性酵母を分離した。(醸造試験所報告、六五巻、一頁、一九一六年)。こうして、もろみに高泡がかかる、かからないは、酵母の性質によって決まることが明らかにされたのである。-<br>
これは画期的な発見であり、「坊主酵母(泡なし酵母)」を利用すれば、「泡消しの手数を省略できるとともに、同一容器で比較的多量の仕込みができる」として、彼らはその有用性を強調した。しかし実際には、坊主酵母はやがて忘れ去られ、保存さえもされなかったのである。当時は、高泡のかからないもろみは腐敗の前兆として、「夜も眠れない」ほど心配のたねだったからだろう。それだけでなく、当時は仕込み規模も小さく、労務事情もよかったので、坊主酵母を使用するメリットがなかったのだ。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


生まれ育った環境がよろしくない
初めて出逢ったのが、一体いつであったのか、ちょっとおもい出せないほど古い。なにしろ生まれ育った環境がよろしくない。飲み屋であった。つまり気がついてみたら、酒のにおいと酔客の真只中にいたというわけなのだ。古いアルバムをめくってみると、まだ学齢まえなのに、手拭いで頬かむりをして、ザルを持ってお座敷で泥鰌すくいを踊っている写真がある。子供のタイコである。また、小学校(当時は国民学校)の制服を着て、酔客のまえに坐り、縫いぐるみの熊を頭上にかかげて笑っている写真がある。きっとお客から、その熊の縫いぐるみを貰って喜んでみせているところなのだろう。熊を持って写っているのは、記念写真のように見える。あのころは飲み屋の座敷に写真屋を呼んで、記念写真を撮ってもらうという習慣があったんですね。物見遊山に行っているようなつもりにでもなっていたのだろうか。わたしの背後に並んでいる酔客と店の女の人たちは、笑ったり取澄した顔をしたりしているが、いちように赤い…ということは写真では黒い顔の鼻の頭に、白くクリームでもつけたような縦の線があるのは、写真屋の修正のあとに違いない。しかし、そのときはまだ酒を飲んでいたわけではない。子供のころのわたしは、自分でいうのもおかしいが、いまとは違って、まあかわいらしい顔をしていたから、店の女の人たちに煽(おだ)てられたりして、ときに客のいる座敷に呼ばれて顔を出し、愛敬を振撒いたりしていたのだろう。つまり何歳かまでは、酒席に嫌悪感を持たず、人間は酒を飲むと当然酔払うもの、とおもいこんでいたのだが、そのうちに戦局がきびしさを加えるにつれ、外で「カフェーの子」「カフェーの子」と呼ばれることは、単に職業的な差別以上の「非国民」といった意味も持ちはじめて、酒を飲むのは悪いことだ、と思うようになった。(「いつか見た夢」 長部日出雄) 長部日出雄の酒 


新酒、鱸
新酒 川風や新酒の酔のさめやすき        叟柳
    新酒飲んて(て)酔ふべくわれに頭痛あり  虚子
鱸  鱸提け(げ)て酒屋を敲く月夜かな      鳴月(「新俳句」 正岡子規閲 上原三川、直野玲瓏共編 「現代俳句集成」) 


それが今では、お酒なしの人生など考えられない
父はまったくの下戸で、正月のおとそ一杯で顔が真っ赤になった。だから私が、学生仲間で一番の飲ん兵衛と結婚したいと言い出した時、気の毒なくらい行く末を案じてくれた。東京で所帯を持つと、夫は連日、新宿や渋谷で飲み明かし、威張って午前様で帰宅した。夜中に貧乏な仲間を連れ帰ることもしばしばだった。六畳一間きりの長屋なので、みんなと押し入れの中にまで雑魚寝(ざこね)。加藤芳郎さんの弟の平八さんや、作家になった福本和也さんも常連だった。母が算段してくれたわずかな着物は、またたく間に残らず酒代に化けた。赤ん坊を抱えた私には、夫の酒がため息のもとだった。それが今では、お酒なしの人生など考えられないほどいける口になった。三十年も飲ん兵衛亭主に付き合ううちに、酒の味も飲み方も自分流にわきまえた。最初に飲まされた大阪蔦屋(つたや)のドブロクの印象は強烈だった。朝鮮人の密造部落で作った濁り酒の舌ざわりと、得体(えたい)の知れぬ臓物焼き[ホルモン]の異臭。後年には皇帝用の高貴な美酒を飲ませてもらったが、その印象は薄れても、あのドブロクだけは忘れない。(「抽出しの中から」 中村久子) 


方言の酒色々(30)
蒸溜されておけにたまった酒を別のおけにくみ取る しり 上げる
漁を終えて上陸した時に、船元で酒を酌み交わすこと おきあがり
徳利や瓶を直接口につけて酒を飲む かい 吹く
縁談がととのった後、男の方から女の方へ酒を瓶に三合入れて持って行くこと ちゃーわかし
鱈(たら)漁で大漁の時、祝いの酒や米を船主が船員に与えること いちまんいわい(日本方言大辞典 小学館) 


飲み屋に受けたオン
ご主人がお酒を飲んで遅く帰ると、夫婦ゲンカのタネになる、というのはよくある話です。私もその気持ちは大変よくわかるのですけれど、わが家では、飲み屋に受けたオン、数知れず、怒りかけると、それらのことが頭をかすめて、ついほこ先がにぶってしまってうまく行きません。たとえば、私たちは数ヶ月前、十年近く住んだアパートを引っ越しました。那覇市内では便利な地域で、ちょうどいいアパートをさがすのがむずかしいところです。ところが、夫の話を聞いて、たちまちの内によいアパートをさがして下さったのが、近くの飲み屋のマスターでした。このマスターは、よく食器のセットや食べ物などをわざわざもってきたりもして下さいます。そして引っ越しの日、車を借りてきて運転して下さったのが、これまた別の飲み屋のマスター。荷物運びをして下さったのが、その飲み屋で知り合った友人二人。私は、飲み屋のマスターにわが家で飲んでいただく、という光栄にめぐまれながら、飲み屋と共に歩んだ(?)私たちのこれまでを、改めてふりかえりました。(「沖縄反核イモ」 芝憲子) 


吟醸酒の庫
庫の戸ゆもろみの香りけざやかに梅さく庭にあふれいでつも
かぐはしき香り流るる酒庫(くら)のうち静かに湧けりこれのもろみは
冷え冷えと寒さ身にしむ庫のうち泡の消えゆく音かすかなり
泡蓋(あわぶた)を搔(か)けばさやけきうま酒の澄みとほりてぞ現はれにける
待ちえたる奇(くす)しき香りたちそめて吟醸の酒いま成らんとす(「採集の旅」 坂口謹一郎) 


なんぼなんでも
途端、扉が開き、友人が満面の微笑で現われた。「どないしたん」と、私。これがプレゼントです。と、一冊の本が差し出され、見ると開高健氏の本。タイトルは『それでも飲まずにいられない』ときた。外出許可を貰っての今日は外出だとのことである。更に友人は断酒会の手帳を私に見せたのである。手帳にはこう印刷されてあった。
心の誓い 一、私は断酒会に入会して酒を止めました。 一、これからはどんなことがあっても酒でうさを晴したり卑怯な真似はいたしません。 一、私は今後一切酒を飲みません。 一、多くの同志が酒を止めているのに私が止められない筈がありません。 一、私も完全に酒を止めることができます。 一、私は心の奥底から酒を断つことができます。 ・今日一日断酒を守ろう。 ・勇気と誇りを持って断酒をしよう。 ・今までの自分中心主義をすて家族や社会のために役立とう。 ・例会には必ず出席しよう。 ・同じような酒害に悩む人達を一人でも多く救おう! ○○断酒会○○支部 彼に聞くところによると、全日本断酒会連合会なるものがあり、大阪は、府断酒連合会、市断連とあり、それぞれの地域ごとに断酒会があるそうで、彼は、その例会に出席するために外出許可を貰って、例会に出席せず、我が酒場に直行したのであった。「なんぼなんでも」と絶句した私であったが、まあ一献とキツーイ水割りを差し出した。それは友の情であった。-
「これ以上飲んで酔うてしもうたら独房に入らなあかんのやで」と、水割りを二杯飲んで、ビールに切り替えた友人は「独房は畳の二人部屋やねん。一人が用足してる横で一人は飯食うてんねん、これほんまの糞リアリズムで、リアリストやねん」呵々大笑して帰って行った友よ、早く娑婆に戻ってこい。溺れ死んでもいいではないか大河の一滴として死のうではないか。(「サランへ・愛してます」 宗秋月) 


メグレ家の梅酒
先日、ひさしぶりに、いまは亡きジャン・ギャバン主演の映画を観た。<パリ連続殺人事件>という題の推理ものだが、これは、ジョルジュ・シムノンの小説「メグレ罠を張る」を映画化したもので、メグレ警視には勿論ジャン・ギャバンが扮している。一九五八年の製作というから三十年近くも前の古い映画だが、私はシムノンの小説も俳優のジャン・ギャバンも好きだから、前から公開を楽しみにしていて、いそいそと出かけた。映画は、期待通りによくできていて、ジャン・ギャバンのメグレ警視に堪能したのはいうまでもないが、ほかにもいくつか興味深い発見をして、楽しかった。字幕に、いきなり梅酒が出てきたときは、びっくりした。なんとなく、梅酒など飲むのは東洋人だけだろうと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。ある日、事件の鍵を握っていると見られる若い人妻が突然自宅を訪ねてきたとき、メグレはさりげなく、「なにか飲みたいな。そうだ、梅酒にしよう。あなたもいかがです。」と相手にすすめる。私は思わず、一緒に見ていた家内と顔を見合わせた。まさかフランス映画に梅酒が出てくるとは思わなかったし、私自身も、時々メグレとそっくりおなじことをいって客に自家製の梅酒を出したりするからである。メグレ家の梅酒は、地方にある夫人の実家から送ってもらったものらしいが、フランスの田舎ではどんなふうにして梅酒を作るのだろう。私のところでは、毎年、近所の梅林の持主から青梅を分けて貰い、母のやり方をそのまま踏襲して、焼酎と氷砂糖とで作っているが、フランスの田舎でも似たような作り方をするのだろうか。(「下駄の音」 三浦哲郎) 


下戸のことわざ(2)
下戸の逆恨み
 酒の飲めない人が、自分には盃が回ってこないと文句をいう。当然のことに対して不平をいう人をたとえていう。
下戸の酒怨み
 酒の飲めない人が酒をうらむ。お門違いなことをいう。
下戸の手強(てごわ)
 交渉事などで、酒の飲める人には、近づきのしるしに酒でも飲んでなごやかに話を進められるが、飲めない人にはそういうわけにもいかず苦労するということ。反対は「上戸の手弱(てよわ)」という。
下戸の干吸(ひす)い酒
 酒の飲めない人は少しずつ吸い取るように飲むので、案外たくさん飲んでいるものだということ。(「たべものことわざ辞典」 西谷裕子) 下戸のことわざ 


塩漬けにする前のこのわた
ふつう、海鼠は、二〇センチメートルくらいの生ものを買ってきて、家で酢のものをつくっていた。長時間酢漬けになって変色したものと違って、切口は、外側が青味を帯びた青磁色、内側はこれに白色が加わっている。酢の物をつくる時、まず腹部を縦に切り裂いて腸を取り出す。これが塩漬けにする前のこのわたで、お酒で洗って、庖丁で食べやすい寸法に切る。大人は酒の肴にする。子供達は、これを固めの白粥か、炊きたてのご飯にのせていただくという次第である。壜詰の、塩味のものすごいこのわたからは想像もつかないような、まるい、こくのある味で、鶉の卵など落とそうものなら、かえって風味が損なわれてしまう。殻つきの牡蠣を食べる時にも、まず鼻をつくのは潮の香りで、それが無ければ気の抜けたビールと同じようなものだが、海鼠のおなかから出てきたばかりのこのわたにも強い潮の香りがある。お酒を飲むわけでもないのに、私の好きなものといえば、酒の肴になるようなものが多いので、あれは本当は飲んべえなのにかくしているのではないかと疑われることがよくあるけれど、これは誤解で、こういうものが好きになったのは広島のせいだと心の内では喚いている。ただ、お刺身にいいものがあった時など、一口、二口、お酒をふくむと、ものの味がいっそうよくなるとは思っている。(「白粥と酒の肴」 竹内寛子 「日本の名随筆 肴」) 


55.怒りのうちに酒を飲み、悲しみのうちに沈黙する者は長生きしない
 酒は心の憂さを晴らし、怒りを鎮め、人となごやかに話せる雰囲気をつくり出すときにその効用があるとされる。自棄酒をあおり、鬱々として楽しまぬ人が早死にする例は多いようだ。 スロヴェニア(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


てふ【蝶】
④婚礼の銚子に付ける紙の男蝶女蝶。
婿上戸蝶の尻まで上げさせる 三つ組盃になみなみ
てふてふ【蝶蝶】
②婚礼の銚子の男蝶女蝶。
蝶々の酒を露ほど呑んでゐる 花嫁つゝましく(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


タリ
南インドに腰を落ち着けて農村地方を巡っている時、ギルという名の、人口三百人ばかりの小さな村の村長宅で、昼食をごちそうになったことがある。その時に酒が出た。インドでは、食卓に酒が出るのは極めて珍しいことなので、私は驚いた。口をつけると、ほのかな甘味は鼻口に立ち昇る。口に含むと液体は軽い。果物の饐(す)えたような味が、舌をわずかに刺す。それがアルコールを含んだ立派な酒であるとわかるのは、飲み干してのちに、口や舌や喉(のど)や遠く胃壁の方から揮発してくるわずかな酒気によってである。この酒はその程度に軽く、水のように流し込める。いかなる副食の味もそこなわない。酔いが心地よく、良い会話ができる。"いったいこの酒はどこで売っており、何から造るのか"と、ゴビカレー(カリフラワーのカレー)に舌鼓を打ちながら、村長モハムに聞いた。太鼓腹のモハムは、窓の外を指さす。窓の外に、あの幹に素焼の壺をぶらさげた、ナツメ椰子の木が立っている。食後、その壺の正体を見に行ったのだが、私は大いに驚いた。壺の中に、今しがた食卓で飲んだ液体と同じものが、たっぷりと入っているのである。村長モハムは驚いている私を喜びながら、"こりゃあ、もう二日は寝かしとかにゃ”と言った。この"タリ"という名の酒を造るのは、アホらしいほど手続きが簡単である。椰子の幹にくさび形の傷を入れる。その樹液を壺で受ける。そのまま寝かせて発酵を待つ。それだけだ。酒は造るのではなく、造られるのである。神の御意によって慈雨のごとく人知れず満ちる甘露を盗み飲みするのが大罪であるわけはなかろうと、都合の良い理屈を勝手につけ、旅の道すがら、タリを飲んで畦道(あぜみち)に眠りこけたことが幾たびかある。(「幻世」 藤原新也) 


さけ[酒](名)
日本酒。「にごり酒」は、こさないため白く濁っている酒。どぶろく。
身の底の底に灯がつく冬の酒 川上三太郎
飲んでほし やめても欲しい酒をつぎ 麻生 葭乃
にごり酒ひとりの夜が満ちてくる 西村 怒葉
人を恋う人が集まる冬の酒 渡邊 蓮夫
一合の酒万象は意の如し 野村 圭祐
来し方は落丁ばかり酒ばかり 佐藤 正敏
雨の酒逢いたい人はみな遠し 斎藤 大雄
左遷から地酒のうまさいうてくる 宮本 時彦
酒とろりポックリ寺はまだ遠い 佐藤 良子
男はんに生まれたかった夜の酒 宮地 幸子(「川柳表現辞典」 田村麦彦編著) 


呑む智慧と芸術
ただ、酒好きだからといって、酒をやたらに呑むというわけではない。酒好きはどうかするとアル中に通ずることになるが、アル中になったらもう酒のうまさはわからない。酒はうまくてこそ呑むのであり、ガブガブと呑むものではない。このうまいということは、酒そのものによることはもとよりであるが、それにもまして重要な要件は、その吞み方である。いささか大仰な表現をすれば、そこには呑む智慧と芸術とがなくてはならない。呑む芸術とは、端的に一字をもってすれば、「妙」ということである。この妙を極めてこそ酒のうまさが知られるのではなかろうか。妙を極めるというのは、何も難しいことではない。呑むものが、呑む酒と一体となることである。但しそこには智慧がないと出来ない。うまさはもとより味覚にあるが、味覚だけに頼るとこの一体の境地を知ることは出来ない。喉が乾いたら水を呑めばいいように、酒にしても飲みたくなったら飲めばいいものの、水を呑むのと酒を呑むとでは、そこに自ずから異なるものがなくてはならない。そこがなくてはならない理である。そしてその理が妙でなくてはならない。もっともこの妙をどう説明するかである。いわくいい難しである。(「風雅と遊心」 古田紹欽) 


「酒」という妙な物
七十年以上も生きていて、いろんな物を見たりしたものだが、まだ、わからないのは「酒」という妙な物の存在だ。「酒はいのちか、災難か?」と、相反する二つの価値存在だときめている。酒を飲む人には生命と同じようだった。昔、酒を呑むことを禁じられた酒ぐせの悪い親父に、家族の者が酒を止めさせた。その親父は首を吊って死んでしまったが、遺書に「酒なくて、なんのおのれが生命かな」と書いてあったそうだ。これはひとつの例で、この遺書の文句は誰かが作ったものらしい。どこの土地にも、同じことが、いくらでもあるそうだ。つまり、酒がなければ生きていることはできないということを代表する名文句ということになる。(「夢辞典」 深沢七郎) 深沢は酒を飲まないそうです。 


○酒箒廿九(2)
水滸伝[割注]魯智信大鬧(だいどう)五台山条。」 に、市稍尽頭(マチハヅレ)ノ一家挑(かか)ケ-二出(いだ)ス箇(ヒトツ)ノ草帚児ヲ来。智信走テ到リ那里(カンコ)ニ看ル時。却是箇(イツケン)ノ傍村ノ小酒店。また見ル籬笆(りゆう まがき)中。挑-著一箇草箒児ヲ。在ルニ露天裏ニ。清嘉録に、呉「兪欠(ゆ)」ニ云。冬醸(フユツクリ)名高十月白(サケノナ)。請(コ)フ看ヨ柴帚挂リテ当檐(のき)ニ。一時ノ佐酒(サカナ)論ズルニ風味ヲ。不愛セ団臍ヲ只愛ス尖ヲ。など見えたり。酒の異名を掃愁箒といへるは、東坡集の洞庭春色ノ詩に、応呼ブ釣ル詩ヲ鉤ヲ。亦号ス掃フ愁ヲ帚ト。集注に、李後主ノ中酒ノ詩。莫(なか)レ言フ(こと)滋味悪シト。一篲(ほうき)掃フ閑愁ヲ。とあるを出処とすべし。(「梅園日記」 北静廬 日本随筆大成) ○酒箒廿九(1) 


珍答案
とくに傑作ともいうべきもので、老中らも苦笑したであろうと思われる珍答案は、江戸新吉原遊女屋主人籐吉(四十二歳)の願書である。「なにげなく漁業をしている様子で異国船に近より、鶏や薪水や、そのほか外国人の望む漆器とか絵画などを贈って、仲よしのようになり、だんだん打ちくつろぎ、そのうちに外国船に乗りこみ、酒もりなどをはじめる。そうこうしている間に、酒によったふりをしてまず日本人同士でけんかをはじめる。そうすると外国人も、口を出し手を出すようになるだろう。それを合図に、軍艦の火薬庫に火をつけ、また鮪庖丁(まぐろほうちよう)で、かたっぱしから外国人を切りすてる。成功は間違いなしです」と述べ、願書とあるだけに、最後に次のような許可願いをつけることを忘れていない。「もし成功したならば、特別のほうびとして、吉原繁盛のために以後吉原町の一廓の四方門の通用および山谷堀割(ほりわり)などの、船宿経営を免許してほしい」(「日本の歴史 開国と攘夷」 小西四郎) ペリー来航時、阿部正弘が広く意見を求めた際に出された答申の一つだそうです。 


客僧にはかに、女(おんな)に成(なり)し事
智蔵坊、実(じつ)なる人なり。きよごん(虚言)にて、あるべからず、といふ処に。むらさき野(の) 大徳(とく)寺の正首座(しゆそ)、此事、東国(ごく)にて。きゝをよぶ、と、いふて、かたりて、いはく。下野の国より、僧二人。足利(あしかが)にゆきて、がくもんす。又、おなじき国の僧、文∟(頁替わりの記号)十二才長、と。いふ人一人。おなじく、がくもんす。ともに、数(す)年すぎて、故郷(こきやう)にかへる。又、十年をすぎて、前(まへ)の二僧、同道して。他(た)所にゆく。路し(路地)の小家(いへ)に、酒箒(ハうき)あり。二人よりて、濁醪(にごりさけ)をのむ。家主(いへぬし)内婦(ないふ)。二僧を、つく/\と、ミる。二僧、ひそかに、いはく。此内婦は、足利(あしかゞ)の。文(ぶん)長に、よく、にたりと、いふて。つく/\ミれば。内婦の、いはく。 二人の御坊は、見しり申候。われ/\をバ、御見しりあるましく候 と、いふ。二僧のいはく されば。此方も、見しりたるやうに、おほえ候。 と、いへば、内婦の、いハく。 我/\は、文長にて候 と、いふ。二僧をどろきて、いはく。 いかんと、したる事ぞ  と、いへば。内婦の、いはく。 ちかごろ、はづかしき事なれとも、かたり申候。足利より、かへりて。三十二のとし、裸(ら)∟十二才ウ(裏の略字)根(こん)はなハだ、かゆきゆへに。熱湯(あつゆ)をもつて。たづる事かぎりなし。はなはハだ、たづるとき、裸根陰嚢(らこんいんのう)ともに、きゑんにて候 と、おほせらる(「奇異雑談集」 編者 朝倉治彦、深沢秋男) 「江州(がうしゆう)枝村(えだむら)にて、客僧(きやくそう)にはかに、女(おんな)に成し事 并(ならびに) 智蔵坊(ちぞうバう)の事」という段です。 酒箒廿九(1) 


刀自必ずしも、主婦だと解するには及ばない

主婦のことを刀自(とし)と称するのは、古くからのことである。しかし、『日本書紀』の允恭(いんぎよう)天皇二年の条に、后妃の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)が、まだ母のもとにいたころの話として、ひとり遊んでいる姫にたいし、闘鶏(つげ)の国造が乗馬でまがきのそばを通ったとき「ちょっと、トジ(戸母と記す)や、その園の中のアララギを一本くれや」とかなり無礼なことばづかいでよびかけたという記事がある。母とともに住んでいた幼い姫にたいするよびかけに言ったトジであるから、主婦というわけでもなさそうである。同じ『書紀』の天智天皇九年の条に、法隆寺が一屋も余すところなく消失したあと童謡(わざうた)(政治風刺の流行歌)として、誰か女性の怨みごとが、この不思議な火災を招いたのだろうとする前提で、「玉手の家の 八重子(やえこ)の刀自」よ、出ていらっしゃい、橋のたもとで皆がたのしく遊ぶところに出ておいで、という歌があったことが見える。この「八重子の刀自」も、歌垣に誘い出される娘のことのように思われる。だから、刀自必ずしも、主婦だと解するには及ばない。そのトジということばが、後世に酒造りの杜氏(とうじ・とじ)に通じていくことが、家の女によって、その米噛みをもってする酒づくりの行われていたことを示すのだとされる。神に仕えまつる女には、若い娘の場合もあったし、老婆の場合もあった。それは、年齢には関係なく、要するに女性特有の生理的心理的性質から、神がかりの興奮状態に移りやすいことが、巫女としての適性であったからである。前に掲げた、神功皇后が気比の大神の前で「待酒」を醸したのも、客人の神を待ちまつる酒だったとしてよいだろうが、この皇后には、巫女的性能がかなりよく伝えられているのである。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎) 「物類称呼」の杜氏語源説 刀自の解説 女と酒 造酒司酒殿坐神 第六十段 


○酒箒廿九(1)
篠の葉、杉葉を、酒はやしといふと、(北村)季吟法印の山之井にあり。ふるくは酒帚といへり。奇異雑談集、[割注]客僧、女に成し事の条」 に、二僧同道して、他所にゆく。路地の小家に酒箒あり。二人よりて濁醪(だくろう)をのむ」 と見えたり。箒(ほうき)を出せるは、下学集に、掃愁帚(そうしゅうそう)ハ酒ノ異名也。とあるに拠(より)たるにや。唐土の酒店にても、帚を出せるは、宋の洪邁が容斎続筆に、今都城与ノ郡県。酒務及ビ 凡(およそ) 鬻(う)ル酒ヲ之肆(みせ)。皆掲ゲ大帘(はた)ヲ於外ニ。以テ青白ノ布数幅ヲ為ル之ヲ。徴者随フ其高卑小大ニ。村店或ハ挂(か)ケ瓶瓢ヲ。標ス箒「禾干」(かん わら)ヲ。楼鑰が北行日録に、十二月十六日丁酉。[割注]按に乾道五年なり。」 宿ス臨「シ名」鎮ニ。道傍ノ数処。売ルニ酒ヲ。皆掘ル(こと)地ヲ深濶(しんかつ)可三四尺。累(かさね)テ塊ヲ上風ニ以禦(ふせ)ク寒ヲ。一瓶貯ヘ酒ヲ。苕箒ヲ為望(カンバン)ト。石炭数塊。以テ備フ暖盪(カンスル)ニ。(「梅園日記」 北静廬 日本随筆大成) 


さむしい洒落
シャレとは、これまで述べてきたように、動詞シャル(サルの拗音化したもの)の名詞形である。サルは、戯(たわむ)れるという意味を除外しても、風雅である、世馴れている、あだめいているなどの意味分化が王朝時代すでに生じていたが、この内容を、近世町人の美意識によって着色したのが、いわゆるシャレであった。その本筋は、江戸期を通じて変わらなかった。鼻山人(びさんじん)の『傾城肝粒志(けいせいきもつぶし)』初編下巻(文政八年刊)には、『俺(おれ)なぞも苦しがりの時ァ思(おもい)入れ帯(ほぞ)を外(はず)して置いて(空腹にしておいて)、ぐっと一合遣(や)ると云ふ、淋(さみ)しい洒落(しやれ)もする奴(やつ)さ』といわせている。すき腹に冷酒を茶碗であおるのが「さむしい洒落」なのである。むしろ、それがシャレであるというのではなく、何をするにも、シャレを意識し、ブシャレ(やぼ・無粋)と評されまいと苦心しているわけである。(「日本語のしゃれ」 鈴木棠三) 


○月×日
シャンパンの栓がいい音をたてて飛んだ。海越のオフィスに直木賞受賞の吉報がもたらされたのである。NHKテレビのニュースの絵として私が最初に出たらしい。が、本人は知らない。夜中の一時すぎに電話が鳴った。講談社の川端幹三さんが出張先のスペインのバルセロナから祝いの電話をかけてくれたのである。あとで川端さんは、「あのとき飲んだ酒は本当にうまかった」と、いってくれた。-君今酔わずして、まさにいずくにか帰らんとする。 という李白の詩をおもいだした。私は酒壺の前を住みかとする李白のような人生の達人になれるはずがない。前にあるのは原稿用紙ばかりである。(「春秋の色」 宮城谷昌光) 


両足を揃えてぴょんぴょん
庄野(潤三)さんに最初のお酒を注ごうとすると、盃を持った庄野さんの手がこまかく顫(ふる)えていることがある。こんどは私が盃を持って、庄野さんのお酒を受けようとすると、庄野さんの徳利の口が、私の盃の縁にちいさな音をつづけざまに立てることがある。けれども、心配は要(い)らない。庄野さんは決してアル中患者なのではなくて、手がもう、さっきから痺(しび)れを切らしていたというふうに、勝手に顫えているのである。昔、といっても、いまから十何年か前のころ、庄野さんは酩酊(めいてい)するといきなり道端の街路樹によじ登って、「ウオー、おれはゴリラだぞ、ウオー。」と吠え立てながら、ざわざわと枝を揺すぶる癖があったそうだが、私は残念ながら、そんな庄野さんはいちどもこの目で見たことがない。何年か前、なにかの会の二次会で、どこかの街へタクシーで乗りつけたとき、先に降りた庄野さんが歩道の石畳の上で、いかにも嬉しそうに両足を揃えてぴょんぴょん跳んでいるのを見て、ちょっとびっくりしたことがあるが、そんなこともそれきりになってしまった。(「恩愛」 三浦哲郎) 


<また飲めるようになった>どころではなく
それから六年後、私は、軽井沢で、ある人から、名酒として名高い日本酒をもらった。また、あんなに苦しい思いをするのはこりごりだと思いながらも、私は、湯吞み茶碗に、ほんの少しついで、おそるおそる飲んでみた。顔は幾分赤くなったが(入院するまでの私は、酒を飲んで赤くなることはなかった)、息苦しくもならないし、心臓もドキドキしない。あれ?じゃあ、もう少し飲んでみるかと、私は、一合半ほど飲んだ。じつに、いい気分で、「おい、俺は、また飲めるようになったみたい」と妻に大声で叫んだ。しかし、不思議なことに<また飲めるようになった>どころではなく、もっともよく飲んだ大学生のころよりも、酒が強くなってしまったのである。(「生きものたちの部屋」 宮本輝) 結核で入院して禁酒してから飲めなくなってしまっていたのだそうですが、それが…。 


いい気な酔っぱらいの親爺
サクサクパクパク酒を飲みながら、しかし、つくづく思うのは、酒場というものは、いま少しなんとかならぬものかなあ、ということで、酒を飲む場合、もっと違うイメージで飲みたい、というか、このバーでも料亭でもなんでもそうなんだけれど、酒場の内装のデザインはだいたいがイメージとして夜でしょ?したがって例えばバーの場合だと、木と布ね。蝋燭(ろうそく)などのほの暖かいオレンジの光、座り心地のいい低いソファ。花の入った壺(つぼ)。ムードのある音楽が低く流れて。そんな中で、恋人たちは愛の言葉を囁(ささや)いている。紳士や淑女が低い姿勢で酒を飲んでいる。そして回る。なにが?そう、シャッポーが。って具合。まあ、それで満足な人も多いのだろう。はは、陳腐な奴等(やつら)だ。自分は自分のなかの非合理的なものをそうして嘘のムードでまやかすのでなく、むしろそれを照明するようなデザインの酒場がないものかと夢想する。すなわち、照明は、朝の八時の陽(ひ)の光。白いタイルと金属。すべてが合理的でぴかぴか。プラスチック樹脂製のカウンター前に腰掛けて、笑みを絶やさぬ無垢(むく)な少女の給仕で、ときおり意味不明の呻(うめ)き声をあげつつ杯を重ねる、といったような。自分は夢を実現するべく、アメリカ調のコーヒーショップに出掛けていき、コルク蓋(ぶた)のついた試験管に詰めたアイリッシュ・ウイスキーを店員に見つからぬように注意しつつ隠れ飲んでみた。銀色の調理器具に写った俺、いい気な酔っぱらいの親爺(おやじ)。(「爆発道祖神」 町田康) 


新宿酒日記(2)
△月×日
娘とは春以来、長いこと断絶状態にあったが、ある夜、しおらしい声で「ワニのマークが付いたポロシャツを買ってきて」と頭を下げてきた。「おーっ、何枚でも買ってやる」僕は陽気に言った。ポロシャツで仲直りできるなら安いものである。しかし、デパートの開いている時間は仕事でなかなか手が離せない。新宿に出るたびに「今日こそ」そうつぶやくのだが、夜になると酒に溺れてしまい、いまだに約束を果たしていない。夏が終わるまでに買ってあげよう。
△月×日
息子の背の高さがついに妻をこえた。毎月一センチぐらい伸びているようだ。酒に酔った父をいつか蹴飛ばす日がきっとくるだろう。息子の体を眺めるために親として行く末が不安になってくる。(「沢野ひとしのふらふら日記」 沢野ひとし) 


海鼠(なまこ)
これがおいしいのはやはり冬である。魚屋の店先にこいつが並ぶようになると、ああ冬がきた、と思う。よほど丁寧な魚屋でないかぎり、これをぶつぶつ切ってしまう。だから買ってきて自分で切るにこしたことはない。さわって硬いやつをえらぶ。死ぬ寸前のやつはやわらかいから。まず上下を切る。すると中から水がでてくる。背中が硬く腹の方がやわらかいから、つまり背中から庖丁を入れて真半分にする。わたをだし、なかについている黄色い線状のものを庖丁ではがす。これはこのわたとはちがう。このわたになるのはわたといっしょについてる。真半分にしたら、なるべくうすく刻む。刻んだら水にさらし、笊(ざる)にあげて冷蔵庫に入れておく。一時間もすれば水が切れる。浅葱(あさぎ)を刻み、酢、醤油をかけてまぜればいよい。大根おろしを加えてもよい。うすく刻んだのを冷蔵庫に入れておけば三日ぐらいは味が落ちない。(「鰺のたたき」 立原正秋 「日本の名随筆26 肴」 池波正太郎編) 


青木周蔵はビールで日本酒を退治しようとした
「ドイツ翁」とも「ドイツ化身」とも呼ばれるほどのドイツ心酔者は青木周蔵(一八四四-一九一四)のことである。青木は長州藩より医学修業のため三ヶ年のプロイセン留学を命じられ、明治元年(一八六八)長崎を出航した。二十四歳であった。明治四年、ベルリン公使館につとめ、のち三度、ドイツ公使になった。外国人との結婚が自由になったのは明治六年のことだが、青木は日本人の妻テルをすててドイツ女性エリザベット*と再婚した。ちなみに戦前の日本人外交官は外国人を妻とすることは原則としては許されないのが、暗黙のしきたりであったようだ。現在はむろん自由であるはず。明治の初めに妻をすてての国際結婚は破格のこと、かなりの抵抗があったと思われるが、青木はこれを押し切っている。青木には『青木周蔵自伝』(平凡社東洋文庫)があるが、そこには、こうした私的生活はきりすてられ、公的生活での弁明と自己正当化ばかりであまり面白いものではない。彼は明治二十二年、四十五歳で外務大臣になり、二度の外相を経験しているが、政治家としては無能である。日露戦争後の明治三十九年、アメリカ大使になっているが、突如解任もされている。晩年、枢密顧問官となったものの、政治家としては失敗のまま、大正三年七十歳で死去した。政治・軍事・医学の上での日本のドイツ化には成功したが、彼にはドイツは絶対という自己過信からの過ちもあった。その一例をあげる。「将来、日本人も麦酒を嗜むに至るべく、又麦酒は日本酒よりは滋養に富むを以て、其の醸造は国民健康上有益の事業たるのみならず、多分、アルコホール分を含有ぜる狂水、即ち日本酒を退治するも亦一の好方便たるやも知るべからず「(黒田開拓長官への手紙)と書いている。-
なお日本人によるビール醸造に着手したのは青木周蔵のすすめによる。明治六年(一八七三)越後の人中川清兵衛がベルリンのティーボーリ独逸ビール醸造会社に入社し、二年間修業した。(「ミュンヘン物語」 小松伸六) 鹿鳴館会合の小話 


二月十九日 火 十七夜(昭和21年)
昨夜は夜通し寒風吹きすさみて小屋を取り巻く物音の為おちおち眠られなかつた。今朝は風をさまり寒けれど穏やかな晴天なり。十七日の新聞に出た預金封鎖、新円発行等の措置により世間は大分混乱してゐるらしい。うちには関係無き事と考へたが新聞の色色の記事を読んでゐるうちに、どうかするといつ迄も預金を封鎖せられた儘で過ぎては困ると云ふ様な漠然とした不安感が起こる。世間の気持に誘はれるのである。しかし考へて見ると自分にとつてはそんな事は全く意味がない。封鎖の限度までの預金が無いからである。先日中お金が五六百円しかなくなり、大分心細く思ってゐたところへ、暮れの内の予告にてお正月用に配給してくれる筈であつたお酒一升と麦酒二本が未だその儘になつてゐたのが、そろそろ配給を始めるらしい気配であつて、よその地区では既に麦酒二本とお酒は予告の半分にて五合配給したとか、麹町ではお酒は五合になり麦酒が三本だとか云ふ噂を聞いた。待ち兼ねた事にてそれは難有いが、今度配給になつたら譲つて貰ふと云ふ約束がこの近所にて五軒ある。主としてお酒の方の話であつて、麦酒はどうなるか確かでないが、お酒一升二百五十円見当の話合がついてゐる。一升宛とすれば勿論噂の如く五合の配給になつても、うちにあるお金だけでは足りない。又約束してくれた五軒が五軒その場になつて約束して譲つてくれるか否かもわからないが、しかしさう云ふ話になつてゐるのだから譲つてくれても不思議ではないのだから、矢つ張りその払ひに足りるお金の用意は持つてゐなければならない。急に心配になつて手紙で中村に頼んだ。お酒の為の用意だけではなく外にもいる事があるに違ひないから、今度会つた時相談の上頼むとすれば二千円頼むつもりであつたが、今の差し当たりの様には千円でもいいと云つてやつた。十六日に中村が来て二千円よりもう一千ましておきましたと云つて三千円届けてくれた。そのお金と前の残りとで三千何百円か有るけれど、これからまだ旧いお金が使へる期間中にどんどん無くなるであらう。右のお酒の配給があればなほ更である。一人頭百円宛新円に取り換へると云ふので二百円、世帯主三百円、家族一人宛引き出せると云ふので四百円、〆て六百円、戦災者一人に就き千円宛出せるから二千円、総計二千六百円は自由に使ふ事が出来、又それ以上に預け残りとなる金は殆んど無ささうである。預金の封鎖がどんなに長期に亘らうともなんにも困る事はない。風馬牛である。難有いと思ふのは中村の計らひであつて、若し右の三千円が無かつたら、使つてもいいと云はれても使ふ金が無かつた。先づ使へる限度迄はどうにかお金があり、それ以上それから以後の事はどうなるのか知らないが、多分どうにかなるであらう。-(「百鬼園戦後日記」 内田百閒) 


五十鈴
新宿には、藤原審爾さんの"魔子もの"で有名な「魔子」の店があったよしず張りの飲み屋の一群のほかに、これも未だにしばしば話題に上るハーモニカ横丁の一画と、別格みたいにムーランルージュの近くに建っていた「五十鈴」があった。昭和二十一年には(戦前にもあったのだが戦災で焼けた)すでに新宿に帰って来た、というから、この店が戦後のあの辺の飲み屋の草分けであり、元締め格でもあったろうか。-
一人一人の思い出を書いていれば、これも限りないことだから、「五十鈴」のマダムの話を聞いてみよう。佐多稲子さんと若いころに丸善で一緒に女店員をしていたりしたこともあって、佐多さんがこの人の一生を「風になじんだ歌」という長篇に描いている人である。「みんな貧乏だったわねえ。木山(捷平)さんも上林(暁)さんも戸村(繁)さんも、それに川崎長太郎さんなんかも(小田原から)来たりしたわね。悪いけれど木山さんなんか、金回りのいい作家の間にはさまれるとちっちゃくなって、ちょこんと座っていた。だけど私はああいう人が好きだった。あの自分は共産の時分で、共産主義というようなイデオロギーではないが、金のある人にはもらうが、ない人にはもらわなかった。ひとりひとり入ってきて、しまいにはみな集まって一緒に飲んでいるでしょう。誰につけていいかわからなくなってしまう。一番喧嘩早かったのは井上友一郎さん。高見順さんなんかも怒りっぽかった。それにうちは徹夜でやっていたから、夜明けごろになると床の上にごろごろ寝ちゃう人でいっぱい。お便所に行くときなんか、ご免なさいね、って手を合わして、またいでいったりして…。それで一番がポッポと鳴ると、皆さん、さっと帰るの。石川淳さんなんか、あのころは黄色い兵隊服みたいなのを着ていたが、新宿の交番の前で寝ていたことがあった、それでお巡りさんが"お宅のお客さんじゃないですか"って連れて来たら、石川さんは"僕はオリコウさんだから、ちゃんと寝るところを知っている"って威張ってたわ」無頼派として考えられているが、学、和漢洋に渉る碩学である。僕などはよく、ボーナスやサラリーが入った上衣を、焼け跡に寝ていてどこかのチンピラに上衣もろとも持っていかれたりもしたものだが、交番の前で寝るのが一番安全、と知っていた石川さんは、確かに"お利口さん"だったかもしれない。ポッポと鳴るなら一番の汽車の汽笛の意味だろうが、床の上の討ち死に組はそんなことでは容易に目が覚めなかったはず。「五十鈴」ではこんなこともあった。中島健蔵さんと飲んでいたら、隣に居た若い男が突然「僕はガラスでも食べられるんだ」。そして、前にあるコップをガリガリとかじり始めた。当然、口から血が吹きだす。表に連れ出して僕がハンカチで口を拭いていてやったら、中島さんが追っかけて来て「そんな奴、放っておけ」と止める。人には優しい中島さんがなぜ止めるのか分からなかったが、後日、中島さんに会ったら「ガラスはほんとうは食べられるんだ。歯で細かく噛みくだいたら胃腸も傷つけないですむんだが、あいつ、酔ってるもんだから荒っぽくやっちゃったんだ」ヒューマニストの中島さんは、その酔っぱらいの無茶さがそのとき我慢がならなかったのだ、とやっとわかった。(「ある文芸記者の回想」 頼尊清隆)


ただただ酔うため
若年の頃より、わたしは酒を飲む。ただただ酔うため、である。種類も銘柄も問題でない。つまり、酒好きとはいえない。自宅にいれば、一滴も必要ではない。ただし、人と会えば必ず飲む。飲まなければ楽しくならない。こういう野暮を、世間では「書生酒」と名付ける。わたしは青っぽいのである。酒を選ばない人間が、盃を選ぶわけはない。酒のはいるものであれば、何でもよろしい。道具(?)に目をくれる必要がどこに有ろう…。ところが、五十代のはじめのあるとき、ふいに異変がおこった。にわかに骨董病にかかった。急性肝炎に似ている。処置に窮する。そして、盃に出会った。酒が好きで盃を手にするのではない。逆である。盃に魅かれた。そのために、まず酒を盃に、次にその酒をわたしの口に、そそぐのである。つまり、何よりさきに、酒を差しあげて盃に喜んでもらいたい。私のことなど二の次である。(「縄文まで」 宋左近) 亀ヶ岡式縄文盃、李朝初期白磁耳杯、宋砧青磁盃、根来桃山朱漆盃、江戸ガラス盃の五つが主要な出会いだそうです。 


前々日にまでさかのぼって禁酒
さて、そのお酒。私は山へ行く前々日頃から飲まない。山に登っている最中も、頂上に着いても飲まない。もっぱら、酒は山を下りてこそ飲むべかりけりである。前々日にまでさかのぼって禁酒を実行しているというのも、十数年前に、大分のひとたちと傾山に登る前に、生まれてはじめて焼酎というものを飲んだ。料亭で、着物姿のおねえさんがお次をどうぞとすすめてくれる。私は盃についで、なめるように飲むということはあまりせず、お酒はコップに入れて-ぐいのみでも小さい-ガブガブ飲む方なので、カボスを浮かべた小さなコップの焼酎など、一息か二息で飲んでしまい、たちまち六杯飲んで、やっと酔いが少しまわったような、いい気持になり、その夜はぐっすりと寝込んだ。その翌日の早立ちに、ちょっと酔いが残っているような気がしたが、大したことはあるまいと山道にかかって息切れがした。急坂を四つん這いになり、鞍部についてバタンと仰向けになり、もうあきまへん、皆さまどうぞお先にと白旗をかかげたのだが、折りからの秋も半ばのさわやかな風に吹かれているうちに、そこが山のありがたさで、すっかり心気爽快となった。たぶん、大汗をかいて水筒の水をぐいぐい飲んで、焼酎が抜けたのであろう。稜線を小走りに急いで仲間に追いついて、頂上の岩場に辿り着くことができた。以来、前日といわず、前々日も酒の類はいっさい飲まないようにしている。それまでは前夜も飲んでいたので、いつも山の登り口へかかって息が切れたのは、そのせいではなかったかと思う。(「野の花と人生の旅」 田中澄惠) 二日酔いの山登り 


冷酒とジャミパン
七時近くに着いた所で十五分の停車をした。バスの中は私一人になってしまった。あたりが静かになると胃の渇きが急に自覚される。つばをためて飲みこむと、食道のあたりで吸収されて、却って何もはいっていない胃の存在がはっきりしてくる。「白川郷にすべてを賭けよう」と観念して目をつぶった。「お客さん、唇が真青だけど寒いんでしょう。暖房なしの車にあたって運も悪かったよね。これを胃袋に入れてみたら少しはあったまると思うけれど…」目を細くあけてみると、制服の男の人がコップ一杯の水とパン一こを渡してくれた。「ありがとう。寒いしおなかがすいてね。どうもありがとう。遠慮なくいただくわ」まずコップの水を一口ゴクリ。食道と胃にピリリとしみる。水だと思ったらお酒だった。冷や酒だった。おいしい。何という美味さ!もう一口ゴクリ。薄暗い車内灯にかざしてみると、パンはジャムパン。いや、ジャミパンだった。小学生の頃、学校の通用門の前のパンやさんで買ったジャムの色が血のように赤いジャミパンだった。私の歯も舌も胃も興奮した。身にしみる味わいだった。(「いぶし銀のように」 秋山ちえ子) 


連日はしご酒
気がつくと毎晩飲んでいた。友人と会社を作ったので、出入りするアルバイト学生と親睦(しんぼく)をはかるためと称し、彼らを引き連れ、気がつくと連日はしご酒の日々。気の合った仲間とわいわいがやがや酒をのむのは愉しい。日頃おとなしい学生も酒が入ると大胆になり、思わぬ面を見て感心したり、中には恋の告白をするやつも現れたりして、まことに酒の場はにぎやかだ。そうか、高校生の時にはわからなかったが、大人たちは酒を飲んでいたのではなく、この気分を味わいたくて酒場に通っていたのかもしれない、とようやく気がついたのもこの頃だ。(「中年授業」 目黒考二) 


戦時中の配給のお蔭
初めて酒というものを飲んだのは、やはり旧制高校にはいった年だったろう。とすると十九歳だったわけで、まだ十七歳というクラス・メイトもいたはずだが、とにかく高校の白線帽をかぶっていれば酒も煙草も公認であり、ただそのことが嬉しくて飲んだ。だから悪酔いもしたが、酒を飲んで気持ちが悪くなったり吐いたりということは、たぶんその時期だけである。その時期だけというのは、少しして私は酒を飲まないか、あるいはほとんど飲まないかということになった。当時私はプロテスタントとして教会に通っていたが、そのことと全く関係なくはなかったようでもあり、酒をうまいと思わなかったということがそれに加わったようでもあり、たぶん大学の半ば頃までは、飲んではいたろうが、飲んだという記憶が残っていない程度に飲んでいた。それから戦争ということになって行って、どのあたりかから酒は配給ということになり、国民酒場というものができ、一人に日本酒が一本というのであったように思う。亡くなった演出家の山川幸世氏は大酒飲みだったが、私は酒場へお供を仰せつかり、二人分の二本を彼が一人で飲むのを、うらやましいとも思わず眺めていたのを覚えている。だが、一頃まではよく耳にしたが今は聞かれなくなったあのせりふ、「私が酒を飲みだしたのは戦時中の配給のお蔭ですよ」、これが私の場合にも当てはまるのであって、ただししかし、なぜ人は「配給のお蔭で」酒を飲むようになったのか。食糧事情が極端に悪かったから何でも口に入れた、ということもあったではあろうが、それよりも、惜しいから飲んじまえ、または飲まなきゃ損だというような心理がそこには働いていたように思われる。-
以来、稀に病気をしたとき以外は、酒を飲まない日というのは一日もなかったように思う。こんなうまいものに、こんなうまい具合に毎日つきあえるというのは、これもこの一点のみにおいてだが、前世でよほどいいことでもしたのだろうかと考える。(「議論しのこしたこと」 木下順二) 


二日酔いの山登り
記録をつくったのもこの二人と山登りに行ったときのことだ。山登りをする前日に、いつものように飲むかということになり、山小屋みたいな宿で軽くビールを飲みはじめたら、次ぎにお酒へと進み、お酒とくればもちろん地酒の「桜川」となり、飲んでいるうちになんだか急に盛り上がっちゃって、結局すごい勢いで飲みまくった。この日はなぜか体調もすこぶるよくて、桜川は三人で六升あけてしまい、その間に宿の主人が高山植物の花を使って実験的にリキュールをつくってみたということで飲ませていただいたりと(これがまたうまい!)、いやじつにバカな飲み方をした。女の子もいないのにバカ騒ぎをして、無茶な飲み方をしてなんにも考えてなかった証拠。若気の至り。いつ寝たのかもわからない状態であったが、せっかく山を登りに泊まりがけできたのだからと、次の日は予定どおり五時に起きてみたが、体調はいうまでもなくフラフラ。気持ちが悪い中、われわれ一行は頂上を目ざした。山は岩場が多く、山にはいつくばりながら、ゼイゼイあえいで登った。ふだんだったら十五分登って、五分休むというのが無理もなくいいペースなんだけれど、当然そのペースが守れるわけがなく、逆に五分登って、十五分休む、五分登って、十五分休むというペースになってしまった。二日酔いで頭がガンガン状態、オーッ、オーッて感じで、やっとのこと頂上に到着した。気持ちが悪く、「もうだめ」「オレも」っていい合いながら着いたとたんに、みんな一斉に眠り込んでしまった。(「ダニエル先生ヤマガタ体験記」 ダニエル・カール) 


毎夜の私の儀式(2)
この一杯を、とびきりおいしく飲むために、私は午後三時以降、お茶も飲まない。コーヒーも飲まない。水も飲まない。そして、料理。料理には、こだわる。器にもこだわる。それが昂じて、ついに私は、自分で自分の器を作るようになってしまった。いま、私の使う食器は、約半数が自作の物である。夜は、ご飯を食べない。汁も飲まない。お酒とおかずだけ。多少はダイエットのためでもあるが、おいしいお酒と料理があれば、私は充たされる。かといって、大量にお酒を飲むわけではない。東京では、備前のとっくり一本分。田舎では、九谷のとっくり一本か、あとはほんの少し足すていど。食事が済んだら、もう原稿は書かない。(このあと、原稿を書かなきゃ)と思いながらお酒を飲むなんて、不孝なことだと思っているからだ。どうしても書かなきゃいけない原稿は、ひと眠りして、朝の爽快な気分で書くべきだと思っている。(「五十代の幸福」 俵萌子) 毎夜の私の儀式 


酒が純粋にしてくれる
だいたい、僕は酒を飲むようになってから、人間として、前よりもよくなったと思っている。むろん酒の上の失敗談もすくなくないが、飲まないころに知らなかった自分のよさが、自分でいうのも異なものだが、発見されたと思っている。酒が純粋にしてくれるからだろう。(「酒との出会い」 戸板康二) 酒との出会い 


ある日トツゼン
その晩年には、文壇酒徒番附などで、張り出大関になり、そのことでごきげんになっていた十返(肇)が、戦前は一滴の酒も飲めなかったというのは、なんとしても不思議なことだ。そのことは、本人もフシギがっていたし、私にしても、結婚当初はたしかに一滴も飲まなかったし、また飲めなかった彼が、いつ、どこで、なんのキッカケで、あんな酒飲みになったのか、いまだによく分からないのだ。そもそもお酒というものは、そんなに、ある日トツゼンに飲めてしまって、その翌日もまたその翌々日も、グイグイと、あおるように飲めたりするものなのだろうか。それだけは、あまり酒の飲めない私には、なんとしても分からないのだが、十返の酒の飲み始めというのは、まさにそういう、ある日トツゼンに、そして翌日からはもうグイグイ、ガブガブというような、スサマジイともいえそうな飲み方であった。-
十返が酒について書いた随筆にはかならず、「私が酒を飲むようになったのは、結婚してからである。云々」と書き、「その当座女房は、『男のくせに酒の一杯も飲めないなんて、』と、さも私をケイベツしたような目なざしでながめるのだった。」という文章を筆にしている。さらには男兄弟ばかりのなかで育った私が、「少しは、つきあえるぐらい飲んだら…」というので、「一念発起して、飲みはじめた」と、自分が酒飲みになったのは、あくまでも女房の私のせいにしているのである。(「夫恋記」 十返千鶴子) 


酒は売らせない
「-今晩、ここで、シダーヴィルでは金輪際、酒は売らせないと決意しようではありませんか。そのような方策を支持する市民は多数派ではなかったでしょうか。そのような制限を課したからといって、誰の権利や利益を害したことになるのか。いったい、この村に病気の種を蒔く権利を誰が有するというのですか。そのような権利が黙認されたとしたら、そうする自由を行使することで、犠牲者のみならず、その権利を行使する者自身にとってもよくない結果となるのです。証拠が必要なら、幸せで優しかった粉屋のサイモン・スレイドと酒場の主人サイモン・スレイドを比べてみて下さい。隣人に害をなす自由によって彼が何を得たというのか。何もない。だから、神に誓って、酒の販売を終わらせましょう。そのため、ここに以下の決議を提案いたします。シダー・ヴィルの住民の合意に基づき、本日以降、村の中で酒類の販売を禁止する物とする。さらに『鎌と麦束亭』にある酒はすみやかに廃棄するものとし、万一、債権者に損害賠償を請求された場合に備え基金を設立するものとする。酒が販売されていたすべての場所を閉鎖するにあたり、法がすべての人民に認める財産権には留意するものとする。司法当局の合意のもと、シダーヴィルにある販売用のすべての酒を破棄することとするが、所有者にはその目的のため設立された基金から、それに値する金が支払われることとする」ひとり、ふたりの男たちは静かに、だが毅然とした反対を示さなかったから、決議案は拍手喝采のもとに通っていただろう。興奮した一座の者たちに対して、間違った手段でよい結果は得られないという冷静な議論が提起された。シダー・ヴィルには正当に選ばれた議員がおり、彼らだけが公的政策を決定する権限、すなわち個人がいかなる商売をしていいのかいけないのかを決める権限があった。その手続きを踏まえてきちんとことを運ばねばならない。このような事態のなりゆきに苛立つ声もあった。だが、理性と良識が最後には支配的となった。多少の修正を経て決議案は採択され、より過激な考えの者たちは、第二決議事項にあるとおり、その場にあった酒を廃棄することで憂さを晴らそうと、さっそく実行に及んだ。それから、人々は、心も軽く、村の将来に明るい希望を抱きながら、それぞれの家路へとついた。翌日、シダー・ヴィルから出る駅馬車に乗り込もうとした私の眼に、ひとりの男が、「鎌と麦束亭」の上に長年君臨していた古びて色あせた看板柱に、鋭い斧を打ち込む光景が飛び込んできた。そして、ちょうど御者が馬に合図の言葉をかけた瞬間、あまたの人間を破滅の道へと誘い入れてきた虚飾の印が音をたてながら地面へ砕け落ちたのであった。(「酒場での十夜」 T・S・アーサー 森岡裕一訳) ドライ派(禁酒派)の『アンクル・トムズ・ケビン』 


二十二杯目
先日、夕方から三十代の編集者とバーを四軒ハシゴした。十一時近くになって帰宅の刻限がきたと腰をあげようとしたら、編集者が私のコップに眼をむけながら、「それで水割り二十二杯目ですよ」と、言った。かれは興味半分に、私がウイスキーの水割りを何杯飲むか数えていたらしい。私は呆気にとられた。たしかに一軒の店で数回水割りのお替わりをしたが、はっきり数字を聞くと少々薄気味悪い。その間に、ビールの小瓶二本と白の葡萄酒をグラス一杯飲んでいる。これはまちがいなく明日は宿酔だと思って帰宅したが、翌朝はいつもの朝よりむしろ気分爽快で、ご飯も二膳食べた。(「私の引出し」 吉村昭) 


張飛と張郃
その次の日、今度は張飛が挑戦に出たが、張郃は出会おうとしない。張飛は兵士に命じ、ありとあらゆる悪態を並べさせたが、張郃の方でも山の上からやり返すばかりであった。張飛はあれこれ思いめぐらしたが、かくて退陣五十日余りに及んだので、張飛は山のこなたに堅固な陣を作り、日ごとに酒を飲み、酔っぱらったあげく、山から見えるところに坐りこみ、さんざんに敵の悪態をつくのであった。玄徳からは慰労の使いが来たが、張飛が一日ぢゅう酒を飲み暮らしている様子を見て、帰るとこの由を玄徳に報告した。玄徳はおどろいて、ただちに孔明のもとへ、このことを尋ねに来た。孔明は上機嫌で「さてはさようでござりましたか。軍中にはよい酒もありますまい。この成都には名酒が多うござるゆえ、五十の瓶(かめ)を三台の車に積み込み、陣中見舞として張将軍へ届けさせましょう」。玄徳「あの弟は酒ぐせが悪うて、しくじった事も多いに、軍師には何ゆえ酒を送るなどと申される」。孔明は笑いながら言った。「わが君には長い年月、翼徳(張飛)どのと兄弟じゃと仰せられておりますのに、人柄の御存じはございませぬか。翼徳どのは、なるほど堅意地(かたいじ)の生まれつき。さりながら、前かた蜀を征伐の折り、義によって厳顔(げんかん)を許されましたことは、武勇一遍のしかたにはござりませぬ。ただ今は張郃との対陣五十日に及び、酒に酔うては山の下で悪口し、傍若無人の有様と申すは、酒に心を失われたのではのうて、張郃を破らんための計略と覚えまする」。玄徳「いや、さようには申しても、かれにまかせておいては心もとない。魏延(ぎえん)を助けにやろう」。孔明は、魏延に酒の護送を命じ、車ごとに黄いろの旗を立てさせた。旗には大文字で「軍中公用の美酒」と書いてある。魏延は命令にしたがい、酒を護送して陣屋に向かい、張飛に会うと、主君より酒を下さる旨を伝えた。張飛はこの贈り物をありがたく受け取ると、魏延と雷同に言いつけ、おのおの一手の人馬をひきいて、左翼と右翼にそなえ、本陣に赤色の旗が立つのを合図に、一斉に出撃せよと言い、酒を陣中に並べたて、兵士たちには太鼓を打って楽しみながら飲めと命じたのである。此の事を忍びのものが報告したから、張郃は山の頂上にのぼって、様子いかにとうかがった。はるかに見やれば、はたして張飛は本陣の幕の下で酒を飲み、二人の兵卒がその前ですもうを取ってさわいでいる。張郃は「張飛めが、人をあなどるにも程がある」と言い、今夜、山をくだって張飛の陣へ夜襲をかけると命令をまわした。蒙頭と蕩石、二つの寨のものも、残らず打ち立って左右を固めることとなった。この夜、張郃は、ほの白い月光の中を側面から軍をひきいてくだり、まっしぐらに敵陣の前へ出た。灯火(ともしび)あかあかと輝き、陣中で酒を飲んでいる張飛のすがたが見える。張郃はまっさきに一声おめきさけぶと、太鼓を打ち鳴らし、まっすぐに本陣へ突き入った。と見れば、張飛は相い変わらずじっと坐ったままである。張郃が馬をおどらせ、その前まで来るや、ただ一やりに突き倒した、と思ったのは、わら人形であった。急いで馬を立て直そうとした時、幕のうしろに爆竹がつづけざまに鳴りひびくや、一人の大将が現れ、行く手に立ちふさがった。円い眼を見ひらき、雷(いかずち)のごとき声、これこそまことの張飛であった。(「三国志」 小川環樹・金田純一郎訳) 


クスリおたくか
「アルコールで入院するのは何回目だ」「初めてです」「じゃ、ラリ中のクスリおたくか」「何ですか、それは」「薬剤師の学校かなんかへ行ってことがあるのか」「いえ」「じゃ、抗不安剤のジアゼパムや、ニトラゼパムが睡眠導入剤だってことを、どうして知ってるんだ」「それは、つまり、勉強したからですよ。自分の病気について」「ほう」「アル中になりかけの頃から、いろんな本を読んだんですよ」「それだけアル中について知識をあさっておいて、アル中になったってのか」冷や汗が額から鼻先をつたって、膝の上のにぎりこぶしの上に続けざまに落ちた。赤河はその様子を、面白そうにながめていた。看護婦がもどってきた。「さて、ご所望のジアゼパムだ。あんたなら知ってるかもしれんな。クスリ好きのラリ中がメシがわりに射ったり食ったりしている鎮静剤だ。死んだプレスリーの体から、馬でも倒れるくらいの量が出てきたのが、このジアゼパムとコデインだ。アメリカのラリ中は、この錠剤をいろいろ混ぜて、茶漬けみたいにアルコールで流し込むんだ。みんなそうやって死んでったんだ。知ってるだろう」「知ってます」「ブライアン・ジョーンズも、ジミ・ヘンドリックスも、ジム・モリスンも、ジャニスもマーク・ボランも。人間の体をしている奴は、みんなみんな、アルコールとドラッグで死んでったんだ。そうだろ?」「そうです」「しぶとかったのは、キース・リチャーズとウィリアム・バロウズとギンズバーグだけだ。そうだろ?」「そうです」「そうやって死ぬとこまでまねしたいんだろ。え?ほら、これがジアゼパムだ」赤河はおれの腕にぶすっと注射器を突き立てて、ジアゼパムを注射した。「さ、これがニトラゼパムの錠剤だ。飲めよ、ほら。水で飲めないなら、ビール出してやろうか?」(「今夜、すべてのバーに」 中島らも)  「今夜、すべてのバーで」 


ゲーテの詩
ビールは僕らを楽します
僕らの本は塵(ごみ)だらけ
偉くするのはビールだけ
ビールは僕らを愛します
本は僕らを苦します
この詩を作ったのは、一体誰だと思いますか?あのゲーテなんです。「ギョッ!」 ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い ゲーテをギョエテ、と訳した人もおりました。ま、それはさておき、堅物(かたぶつ)の権化とも思われている、ドイツの世界的詩人かつ小説家であり、劇作家でもあった、あのゲーテさんが、ビールを讃美し、本を積んどく(読)してたなんてェことは、ちょいと信じられませんですな。(「志ん朝のあまから暦」 古今亭志ん朝) 


東豊国
迎えの自動車は町長専用です、とYさんは言った。私は、F町にどんなさけがあるのですかと尋ねてみた。朝起きたときは宿酔気味だったが、電車のなかでよく眠ったので、気分はよくなっていた。冷たい雨が降っているのがただ残念だった。東豊国という地酒があります、と眼鏡をかけた品のいいYさんが答えた。なかなかの紳士である。。じつは私のところで造っておりまして、とYさんは小さな声になった。F町では、Yさんの酒は、豊国で通っているという。そしてYさんはこの造り酒屋の五代目のご主人である。-<br>
講演のあとで、M村とT村の寺を訪ねて、墓参りをした。途中の道路はすべて舗装されていて、学校から帰る小学生たちはみんなトレーニング・パンツをはいていた。M村もT村も日本のどこでも見かける地方の風景と変わらなかったが、T村の竜台寺というお寺では、住職からお茶をご馳走になった。長火鉢に炭があかあかと燃えているのが珍しかった。夜はF町の主だった人たちが集まって、宴会になった。二人の兄も兄嫁も加わって、じつになごやかな宴になった。ここで、私ははじめて豊国をいただいた。かすかにあまくちのおいしい酒である。はじめにビールをすすめられたのだが、私は飲まなかった。ビールなら東京でも飲めるし、どこで飲んでもたぶん同じ味だろう。この地酒はその昔、おそらく明治のころに父が飲んでいたはずである。母は一口か二口味わったことがあるかもしれない。両親からはこの酒のことは聞かなかった。このあたりでしか飲まれていない酒である。(「グラスの中の街」 常盤新平) 常磐の故郷である、福島県古殿町竹貫にある豊国酒造のようですね。 


清河の親子旅
いま話を始めた安政二年から八年後の文久三年(一八六三)、浪士組を組織して京に上った清河は、江戸に戻って夷狄(いてき)と戦えという朝廷の指示を引出し、滞京十日余で浪士の大部分を率いてもとの道を引返した。清河に背いて京都に残ったのが、簡単に言えば新選組である。江戸に戻った清河は、彼を持て余した幕府の密命で、麻布一之橋に斬られた。だが今は、そういう血腥(ちなまぐさ)い話をしようというのではない。浪士組上京の八年前、のんびりと清河八郎が、京大坂を母と共に歩いた話である。八郎二十六歳、母は四十歳だった。出羽(でわ)国庄内藩支配地清川(山形県東田川郡)の裕福な造酒屋(つくりざかや)の長男だが、家業を継ぐのを嫌って江戸に飛出し、東條一堂・安積艮斎(あさかごんさい)の塾を経て昌平黌(しょうへいこう)に進学、安政元年には二十五歳の若さで神田三河町に塾を開く。その塾が同年末の江戸大火で類焼したので再起計画のため帰京し、母への孝養の旅行を思いついたのである。(「幕末・京大坂 歴史の旅」 松浦玲) 


話の面白くない時
中上(健次) 昨日は、何か俺、途中で頭にきてさ。夜の十時までは何も飲まず食わずでいた。その前の日は、人の追悼のために飲んだ。酒屋の息子が死んだんだよね、そのためにみんな集まって飲んで、無茶苦茶に飲んだんだ。それで昨日は本当に絶食して。で、十一時ぐらいまで我慢して酒場に行ったんだよ。突然頭にきて「飲んじゃえ」って。酒だけ飲んだ。
高平(哲郎) 頭にきて食うってことはない?
中上 うん、あるよ。酒とかは、"関係"のものだから。日本人の酒は。我々だってそうじゃないですか。飲むだけじゃないでしょう。すると、話を滑らかにするために飲むという…。
野田(秀樹) お祭りの後みたいな。
中上 そういうもんですよ。だから酒を飲みたいなあっていう時があるんだよね。それは話の面白くない時。飲めば、俺はもっと陽気な人間だし、サービスできるんだから、俺がやってやる、俺にまかせてちょうだい、ってなる(笑)。
野田 そういう時さ、飲む自分が卑怯だと思ったりしない?
中上 するよ。
高平 俺はそういうふうには思わないね。俺はすごく小心でかわいいやつだって(笑)。(「有名人」 中上健次・高平哲郎・野田秀樹) 中上は、食べものを総カロリーで帳尻合わせしていたそうです。 


文壇日記
二月六日
九時すぎ、約束により新橋駅正面へ。『現代』(『週刊現代』のこと。以下も同じ)唐沢(唐沢明義)君に会う。新橋で露天のおでん屋をやっている寺沢寅男君に会うため、その場所へ行くとまだ出ていない。十時まで、ちょっと飲もうと「狸小路」の飲み屋(店の名忘れた)をのぞくと、田辺茂一君がいる。鈴木貢君がいる。田辺君酩酊。十時半、店を出て、寅チャンの屋台へ行こうとすると、バー「ロマン」のマダム(『生命の樹』の「陽子」)に会い、つかまって、その店へ。田辺君、唐沢君も一緒。終電までそこで飲んでしまった。この意志薄弱!帰ると家に吉行淳之介君と宮城まり子君が来ていた。まりちゃんに小言を言って、泣かせてしまった。-
二月八日
吉川誠一君、妻とともに来る。三人で新橋のトラチャンの屋台に寄った。カンちゃん(小畑寛。雑務を手伝っている老書生)が赤い顔をして(大分のんだらしい)店から出てくるところだった。あ、いけねえ」と、カンちゃんは店へ戻った。おでんの鍋には、タネがいっぱい入れてあった。鍋は-昔はおでんの鍋と言ったら、アカかシンチュウ(?)だったが、ここのは瀬戸びきで、「写真の洗いナベじゃないかしら」と誠ちゃんが言った。「ガンモと焼きチクを貰おう」と私は言った。いずれも十円。焼きチクは原価一本十一円。それを二つに切った奴。タマゴは二つクシにさしてあって、二十五円。安い。安くないとダメだとトラちゃんは言う。酒は二種あったが、なかみは同じなのだ-とカンちゃんが、いつか言っていた。値段は違う。客ダネによって更に違う。
(「文壇日記」 高見順) 昭和35年です。 


サラ川(22)
バレンタインチョコは要(い)らない猪口(ちよこ)をくれ  還暦君
ネオン街よく行くうちの不審船               アローパパ
家計簿を裏で支(ささ)える発泡酒(はつぽうしゆ)     三猿心眼
飲みに来い酒とつまみはもってこい            人間失格
飲酒違反車が買える高い酒                桜川梅蝶(「サラ川」傑作選 山藤章二・尾藤三柳・第一生命 選) 


早慶戦の晩
(石原良純)その頃の慶大生は、普段から銀座でのんでいたんですか。
(小林亜星)まさか。やっぱり早慶戦の時だけさ。
 でしょ。地下鉄に乗ってノコノコ銀座に出向いても、入れる店は限られているんです。
 『ライオン』ビヤホールか。
 あそこは常番ですね。テーブルの上に立ち上がって、大ジョッキのイッキ飲み競争を、毎度、欠かさずやりました。でもね、二次会、三次会と安い飲み屋を探すのが大変なんです。結局、最後は、日比谷公園に集まってしまう。
 日比谷公園。
 ええ、そこで、担いできた一升瓶を回し飲みしながら、"明日の試合は頑張るぞ!"なんて気勢をあげながら、酔いつぶれていくんです。
 なるほど。
 急性アルコール中毒なんて言葉が、巷ではやり始めたころで、消防庁が"飲み過ぎて倒れた学生なんか運んでやらん"なんて意地悪言ってましたよ。
 そうだね。だいたい慶大生は春の早慶戦の晩、初めて大酒を飲むんだよ。僕も初めて飲み過ぎて倒れたのは、大学一年生の春の早慶戦だったなあ。
 僕は、軽度の急性アル中になりましたよ。吐き気けや頭痛は通り越しているんです。意識は妙にハッキリしているんだけれど、体が全然動かない。体温が下がっていくのを感じながら、飲み屋の床に転がっていました。寒くて、寒くて、"こりゃ寝たら死ぬな"と思いましたよ。
 冬山と同じですね。
 笑い事ではありませんよ。生死を賭けて、目だけギョロッと開けて震えてました。
 そうやって皆、酒の飲み方を覚えていくんだよ。
 でも、経験は生かされなかったなあ。それ以後も、毎度毎度、早慶戦の晩は飲み屋の床や道端に、ボロ屑のように倒れてましたからね。(「遊びに行(い)こうよコール」 石原良純) 


なりひさご
良寛よりちょっと後の人で、橘曙覧(たちばなあけみ)という歌人がいますが、明治時代になって、正岡子規の高い評価を得て、世に知られるようになりました。当時全盛の古今集的優美を追う歌ではなく、近代的リアリズムに近い歌風です。
とくとくと 垂りくる酒の なりひさご うれしき音を さするものかな
「なりひさご」は、「生瓠」と「鳴り瓠」を掛けています。酒というのはただガブガブ飲むものじゃない、この音を聞いてくれ、といっています。確かに、あの音を聞くのが、酒飲みにとっては最初の悦楽です。(「人生の果樹園にて」 大岡信) 


得意は酒の燗
宋の李参政相公鉉翁が女を雇入れようとして、「お前は何が出来るかい」と聞いたら、「はい、酒の燗をいたします」といふ。左右の者はくすくす笑つたが、物はためしだと遣らせてみたら、最初は大変熱く、次にはやゝ熱く、その次にはまた生ぬるにして出す。毎日繰返しても、その調子が少しも狂わない。公は喜んでこれを納れた。輟耕録の巻七にかやうな話が出てゐる。石田三成の少時の逸話を逆に行つたものである。三成の逸話は、幸田露伴博士に拠ると、仏典の中の話の焼直しだといふことであるが、仏典よりも右の輟耕録と関係があるのではないかと思はれる。(「びいどろ障子」 森銑三) 


赤きは酒の咎ぞ
室町時代の歌謡集『閑吟集(かんぎんしゆう)』には飲酒団欒の歌も多く含まれますが、その中にこんな歌もあります。
赤きは酒の咎(とが)ぞ 鬼と思(おぼ)しそよ 恐れ給はで相馴れ給はば 興(きよう)がる友と思(おぼ)すべし
「わたしはこんな赤鬼みたいな顔してますけど、悪いのは酒なんです。怖がらないで、親しくしてくだされば、面白い男だと思われますよ」。本来は謡曲の一節で、大江山の酒吞童子(しゆてんどうじ)が首をとりに来た源頼光に向かっていうせりふです。この部分だけ取り出して、宴席でうたわれれば、これは隣にいる美女に言い寄る歌になります。酒の歌にもう応用価値があるのです。上等な歌とはいえませんが、風変わりで、面白い内容です。(「人生の果樹園にて」 大岡信) 


鞋杯
水滸伝は元代の蘿貫中の著だが、蒙古から興った元と、満州から興った清の民族とが、纏足の女の足と靴に魅せられた性感は極めて異常で、それがここに言う「鞋杯」の奇習ともなったのである。最初に鞋杯の話をしてくれたのは、戦前東京外語の支那語科を出たO君で、卒業すると北京・天津を中心に綿糸の取引を営んでいた。亡くなる前もうわ言はすべて中国語だった。このOがある時、華僑の宴会では一流の妓に纏足の靴を脱がせて、それで酒を飲み交わす。それを「繍花鞋杯」とも、「妓鞋行酒」ともいうと話しはじめた。「すると、纏足のむれた臭いがするのではないか」と言うと、「それが上等の紹興酒に混って何ともいえない。その味が解ないと中国通でないし、華僑と商売もできない」と答えた。そしてOは、雇っていた満人の僕が、「ずいぶん小言もいわれるが、時どきオクサンの素足が見られるので、暇は取らない」と話していたそうだと笑った。私はうんざりしたり感心したりして聞いていたが、戦後はずっと忘れていた。それを近ごろ思い出して、Oの記念の北平歳時記や、その他の中国風物誌を調べてみたが載っていない。そこで、友人に諸橋大漢和を調べてもらったところ、「鞋杯」の項に詳しい引用と解説があって、さすがはと敬服した。次に主要な部分を引いてみる。 鞋杯。杯を女のくつにのせて酒を酌み交わす。元末に楊鉄崖が女の鞋を脱して盃を載せて酒を酌み交わし、之を金蓮盃といったのも此の類である。[觥(サカズキ)記注]双鳧抔、一名金蓮盃、即鞋杯也。王深甫有双鳧抔詩、則知、昔日狂客、亦以二為戯也。 次ぎに、「金蓮盃」を引くと、 [輟耕録]楊鉄崖耽好声色、毎四於筵間見歌児舞女有纏足繊小者則脱其鞋、載盞以行酒、謂之金蓮盃 とある。輟耕録は元末明初の学者・陶宗儀なので、「纏足繊小」の女には同じ時代の繙金蓮を想わせる。「金蓮」は後出。ところで私は初め鞋杯の話を聞いたときは、酒興に乗じて美女の靴にじかに酒を注ぎ飲み廻すものと早合点していたが、この文で洋盃に注いで靴に載せたものと判った。(「ロンドン怪盗伝」 野尻抱影) 


776 漁家(ぎよか)寒し酒に頭(かしら)の雪を焼(たく)*(安永四)
814 一瓢(いつぺう)のいんで寝よやれ鉢たゝき*(明和五)
注 814一瓢のいんで-顔回が貧賤の楽しみとした「一瓢ノ飲」と「去んで」を掛ける。 (「蕪村句集 冬之部」 尾形仂校注) 


どこで切りだそうか酒が利いてきた  伊藤岬
酒にはこういう効用もあるのね。しらふでは言えないし、酔い過ぎては「酒の上のこと」でご破算になったりするし。タイミングがむずかしい。さて、この句の話の内容は何だろうと野次馬根性がうごく。そこがこの句の狙いである。(「川柳新子座」 時実新子) 


甘口もうまい。辛口はもっとうまいが。
まったく銘柄を選ばないというのではないが、何でもいいといった飲み方である。戦争中、別名アタピン酒といわれていた合成酒などをありがたがって飲んだから、私はこんなふうになったのだろうか。私が酒を飲み始めたのは、中学を出て、二年浪人して、旧制高等学校に入ったころからである。つまり、昭和十五年ぐらいからである。そのころ私は、自分の限度を越して飲み、嘔吐し、ときには前後不覚になった。そういう飲み方をした。そのころまではまだ、ビールもあり、米からつくった日本酒もあった。悪酔いするのでアタピン酒と呼ばれた合成酒、つまりにせの日本酒が登場したのは、翌年私が京都の高等学校を退学して東京に来てからだったと思う。そして、その合成酒も入手できなくなった。食料も衣料も配給制になった。配給制から漏れた物品も、どんどんなくなって行った。私が京都から東京へ来たころ、米は配給であった。パンはそうではなかったが、アッという間もなくパン屋の店からパンがなくなった。酒も飲めなくなった。日中戦争が始まると帝国政府は、国民精神総動員令などというものをつくり、続けて国家総動員法をつくり、国民の精神と生活を独裁的に統御した。庶民が街で酒を飲むなんてことは、国民精神総動員が叫ばれている時節柄、かつ物資のない国柄では不可能になったのである。ある時期までは、十銭スタンドバーと呼ばれる立飲み屋があって、そこに行けば、電気ブランデーなどというやたらに強い酒を口にすることができたものだったが、そのうちに、電気ブランデーも、一人一杯しか売ってもらえなくなり、やがて全然売ってもらえなくなった。そういう時期に、味など二の次でガツガツ飲んだのが始まりだったからだろうか、私は、甘口の酒が多い、と嘆く気などにはなれないのである。甘口もうまい。辛口はもっとうまいが。(昭和五十八年七月)(「わたしの濹東綺譚」 古山高麗雄) 


那智氏
この那智氏が日本酒との親交を深めていく過程でもっとも衝撃的な出会いをしたのが、山形県村山市富並でつくられていた秘蔵酒『十四代』を飲んだ日だったといえるだろう。甲州屋にその酒は置いてなかったのだが、店の常連客鈴木和夫氏(手焼き煎餅『梅月道』主人)と偶然那智氏が居合わせたのである。鈴木氏に『十四代』をもらいそれを口に含んだ日の感動と驚きは、十三年前、田酒を飲んだ日より数段上だったかもしれないと那智氏は言う。創業以来、三百七十九年を酒づくりに費やしてきた高木酒造を、那智氏が訪ねることになるにはもう一つの偶然が重なった。高木酒造第十四代当主は高木尚(ひさし)氏。その当主の息子が東京の大学で醸造学を学び、卒業後に都内の酒飯会社で働き、やがて家業を継ぐべく日々を送っていることなど那智氏は知らなかったのである。新宿五丁目の伊勢丹デパート近くにあるクイーンズ・シェフに『十四代』があること自体が那智氏にとって驚きだった。撮影したフィルムの現像を頼むラボラトリイ(通称プロラボ)がすぐ近くにある縁で、那智氏は新宿五丁目の『十四代』をみつけた。さらに驚いたのは、その店で高木酒造の十五代目をやがて継ぐことになる高木顕統(あきつな)氏が酒飯業界の勉強のために働いていたことだった。(「平成酔虎伝」 木村幸治 「日本酒の愉しみ」 文藝春秋社編) 那智健二というカメラマンの話だそうです。 


酒よく事(こと)を成(な)し、酒よく事を敗(やぶ)る
物事の成功も失敗も酒の力によるところが大きいということ。「常言(ことわざ)にいふ、酒能成事(さけよくことをなし)、酒能敗事(さけよくことをやぶる)と」[読・忠臣水滸伝・前](「故事俗信ことわざ辞典」 尚学図書編) 


老残の酒徒
あれから十年以上が過ぎたわけだ。<生涯禁酒>を医者に宣告され、それでも五年ほどは禁酒を守り通した。しかし、寄る年波のせいか、だんだん人生が白ちゃけて見えはじめ、不機嫌さを他人にも見せるようになったので、ビールを少し飲むことにした。ところが、はじめはおそるおそる口にしていたのに、次第にビールの量もふえ、日本酒にも手を出すようになった。やがては酔っぱらって、飲み屋や酒席で歌までうたうようになった。それでもしばらくの間は、歌っているうちに息切れがし、腹にも力が入らない時期が続いた。歌いながらわたくしは、まだむかしの健康にもどっていないことを、息切れの程度で測定していた。それが二年ほど前から、幸か不幸か、酒にたいする警戒心が薄らぐに比例して、張り上げる蛮声にもむかしの力がもどっってきた。<悪魔の水>の恐さを忘れていた。一と月ほど前のことである。新著発刊の祝いをかねて、担当の編集者二人と銀座で飲んだ。二、三軒ハシゴしてから、カラオケのある店で美声を競うことになった。ふと気づくと、その店でわたくしは編集者の歌う「侍ニッポン」にあわせて、むかし自分で好き勝手に振付けた踊りを舞っていた。一座がヤンヤと沸いた。ところが踊っているうちに足がふらつき、あやうくひっくり返りそうになった。見物のほうはそれまでがわたくしの踊りだと思って、いっそう拍手を送ってきた。わたくしは辛うじて足を踏みしめて転倒をまぬがれたが、自分の足の萎え衰えたことを朦朧とした頭の中ではっきりと認識した。そして「老残の酒徒もそろそろ幕の引きどきだ」という思いがドッと押し寄せてきた。(「人生覗きからくり」 綱淵謙錠) 


春風馬堤曲(しゆんぷうばていきよく)
○一軒の茶見世の柳老(おい)にけり
○茶店(ちやみせ)の老婆子(ろうばす)儂(ワレ)を見て慇懃(いんぎん)に
無恙(ぶやう)を賀し且(かつ)儂(わ)が春衣を美(ほ)ム
○店中有二客 能解江南語
 酒銭擲三緡 迎我譲榻去
  店中に二客有リ 能(よ)ク解ス江南(かうなん)ノ語
  酒銭三緡(さんびん)ヲ擲(なげう)チ 我ヲ迎ヘ榻(たう)ヲ譲ツテ去ル
注 老婆子-お婆さん。俗語的な言いかた。 無恙-つつがないこと。 春衣-正月の晴れ着。 江南語-大阪の花街島の内の廓言葉(今いま八卦)。 三緡-緡は銭さし。一緡は百文。当時の酒価は一升約二百五十文(金曽木)。 榻-床几。(「蕪村俳句集」 尾形仂校注) 蕪村が幼時に目にした藪入りの田舎娘をモデルに、親里までの道行きを詩編にしたものだそうです。 


後世ボストン市に発展する集落
後世ボストン市に発展する集落に関しての最古の文献のいくつかが、一六二五年はすでにこの集落に酒を売る店が一軒あったとのべているが、普通はボストン最古の酒場といえば、誰しも一六三四年にはじまったコール・ハウスを思いうかべるであろう。酋長マイアントノマと二〇人のインディアン戦士を、土地を白人に明けわたす条約にサインさせようと酒攻めにしたのはこの店である。コール・ハウスはのちにジョン・ハンコックの店と名を改めた。この店の常連には、ワシントン、タレイラン、のちにフランス国王となるルイ・フィリップ、マディソン、ジェファソン、それからもちろん店の名前になったハンコック(ボストンの半植民地戦争の主導者)などがいた。もうひとつの古い有名な酒場は、一六三六年にマサチューセッツ州コンコード市(当時)の創設者の一人ウイラード大尉によって立てられた。市民は感謝の念をあらわすために、かれに「ワインと蒸溜酒類を売る」独占権を与えた。禁酒法運動の指導者フランシス・ウイラードはこの人の直系の子孫である。このことをもし大尉が知ったら、あいた口がふさがらないことであろう。(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳) 


詩人嗜餅  竹杖為軽
酒一斗 のみにし人の 物かはと かみなこしたる 餅は太白

うかむ瀬のたかとの(高殿)にて酒のみけるに人ゝ庭におりたちて蹴鞠(けまり)せしにまりのそれて川の中に落ければ 多田人成
うかむ瀬に しつ(沈)めるまりも すみた川 ありやなしやと 船頭にとふ(徳和歌後万載集) 


フレンチパラドックス
有名な「百薬之長」の例として、フレンチ・パラドックスが知られています。簡単に言えば、赤ワインの効用です。これは、乳脂肪摂取量が高くなればなるほど冠動脈疾患の発症率も増える傾向が各国の統計で明らかになっていますが、フランスだけ、その発症率がほかの国に比較して抑えられているように見えました。どうしてそうなのかわからなかったのですが、赤ワインの消費量を重ねてみると、うまく説明ができたのです。フランス人は、他国の人々に比べて飽和脂肪酸とコレステロールを多量摂取しているにもかかわらず、冠動脈疾患による死亡率が低かったのですね。その理由を探っていったら、赤ワインに含まれる抗酸化物質、血小板凝集抑制物質の影響が見出されたわけです。-
フレンチパラドックスは、お酒が健康に及ぼすいろいろなマイナス面の風説がある中で唯一(ゆいいつ)、お酒の効能がきわめて科学的に認められた例ですが、赤ワインだけに限る話です。ほかのお酒にはまったくこうした効能は認められません。(「記憶がなくなるまで飲んでも、なぜ家にたどり着けるのか?」 川島隆太・泰羅雅登) 


705 炉びらきや雪中庵(せつちゆうあん)の霰酒(あられざけ)(安永六)
注 705炉びらき-十月、地炉を開いて催す茶会。 雪中庵-嵐雪の庵号。 霰酒-奈良名産の混成酒。「雪中庵」の縁。

うかぶ瀬に遊びて、むかし栢筵(はくえん)が此所にての狂句を思い出(いで)て、其(その)風調に倣(なら)ふ
718 小春凪(こはるなぎ)真帆(まほ)も七合五勺(しちがうごしやく)かな*(安永四・一〇)
注 718うかぶ瀬-大坂高津新清水の隣の料亭。浮瀬という七合半入りの大盃を蔵した。 栢筵-二代目市川団十郎。 狂句-「高津より眺望して 高台にのぼりて見ればいろはに帆」(『摂陽奇観』二七) (「蕪村句集 冬之部」 尾形仂校注) 


アメリカの自家醸造
それにしても、アメリカには人種と同じくらいさまざまなお酒があった。商品として他人に売らない限り、自家醸造も許されていたから、大きな桶に石鹸のように泡を吹く、自家製のビールを振る舞われたこともあったし、私も人に教えられてお米とイーストで濁酒のようなものを造ったり、わが家の裏庭で摘んだハックルベリーを皮ごとつぶして発酵させ、果実酒を造って愉しんだりした。こんなことにうつつをぬかしてみたりしたのは、多分子供の頃、いたずら小僧のようにいろんな実験の大好きな父が大して飲めもしない癖に年中葡萄酒をつくって愉しんでいたのを見ていたからであろう。蒸留酒の製造は御法度ということになっていたが、密造も多かったようで、シカゴ近辺に住んでいたとき、「世界でいちばん美味しいブランデーはあそこのスイス村のブランデーだ」と教えてくれた友人もいた。(「生きもののはなし」 大庭みな子) 


デカンシヨ節
デカンシヨ節は丹波篠山の民謡である。「デカンシヨ」の由来は諸説あるが、一つは方言で「でござんしよ」の意。第二は「徹今宵(てつこんしよう)」(徹夜で飲み明かすといふ意)、第三は丹波から灘(なだ)へ酒造りに出かける杜氏(とうじ)たちの「出かせぎしよ」の意、などがあげられる。デカルト、カント、ショーペンハウエルの三人の名を連ねたというのはもちろんコジツケで、デカンシヨを歌ふ一高生たちが考へ出したもの。しかしここで注目すべきは、こんなところで出て来るショーペンハウエルは人気があるなあ、といふことである。カントにくらべてはもちろんショーペンハウエルは人気があるなあ、といふことである。カントにくらべてはもちろん、デカルトと比べても遙(はる)かに格の低い哲学者である彼が、前二者と並ぶ光栄を有するのは、何と言つても人気のおかげであつた。(「軽いつづら」 丸谷才一) デカンショ 


小僧とキツネ
むかし、村はずれの寺の和尚と小僧が二人で住んでいました。この寺の近くには広い野原があって、人をばかすことで有名なキツネが住んでいました。酒好きの和尚などは、よく法事の帰りに、このキツネにばかされるのでした。「和尚さん遅いなあ」小僧が心配して迎えにいくと、和尚は泥水につかりながら、「ああ、いい湯じゃあ」と上機嫌でいたり、馬糞をのせたわらじに向かって、「ありがたや、ありがたや」と拝んでいたりします。「まったく、和尚さんは、お酒を飲むとしょうがないなあ」そこで、小僧はある日のこと、「和尚さん、おいらこれからキツネをつかまえてきます」というと、麻袋をもって野原にでかけていきました。野原につくと小僧は大声でいいました。「和尚さあん、和尚さあん」すると、ひょっこり草かげから和尚があらわれました。「ほうい」小僧はいいました。「和尚さんたら、またお酒をのんだでしょ。そう思ったから、麻袋を用意してきましたよ」小僧は麻袋の口を大きく開けました。「和尚さんたら、いつもお酒を飲むと、麻袋に入る入るって、おいらを困らせるんだから。さ、入ってください。寺までお連れしますよ」すると和尚はしばらくキョロキョロとまわりを見回していましたが、やがて、「うむ、ごくろう、ごくろう。では、楽させてもらおうかの」といって、ごそごそと袋の中へもぐりこみました。小僧はすかざず袋の口を閉め、ひもでしばり、うんこらせとかついで寺に帰りました。「和尚さんキツネをつかまえてきましたよ」「なに、本当か」和尚は大喜びで、さっそく寺中の戸という戸をすべて閉め切りました。「どれどれ、わしをばかしおったキツネとはどんな顔か見てやろう」と、袋の口を開けると、とたん、キツネはバッ!と袋から飛び出しました。「ややっ、逃げたぞ!」二人はお堂の中をあちこち追い回しましたが、なかなかつかまりません。そのうち、ふいっとキツネの姿が見えなくなりました。「はて、どこにいった…」「あっ、和尚さん、ほらほら」「ややっ、お釈迦さまがふたつ。さてはキツネのやつ、ばけおったな。しかし、どっちが本物かさっぱりわからんわい」すると、小僧はすかさずいいました。「和尚さん、早くお経をあげてください。ほら、うちのお釈迦さまはお経をあげると、すぐこっくりこっくり首を振るでしょ。それが本物ですよ」「おうおうそうじゃったの」和尚はさっそくお経をとなえました。すると、片方のお釈迦さまが首をこっくりこっくり…「そうら、こっちだ!」キツネはたちまち取り押さえられました。「お許し下さい。もう人をばかしたりしません。お釈迦さまに誓って」こうして、小僧の知恵のおかげで、それからは野原でキツネにだまされる人はいなくなったということです。(参考/「仏教説話大系」すずき出版)(「小僧とキツネの知恵くらべ」 諸橋精光) 


487先(ま)づ阮籍(ぐゑんせき)に逢(あ)うて郷導(きやうだう)と為す 漸(やうや)くに劉伶(りうれい)に就(つ)いて土風(とふう)を問(と)ふ 酔郷(すいきやう)に入(い)る 橘相公(くゐつしやうこう)
先逢阮籍為郷導 漸就劉伶問土風 入酔郷 橘相公
私注 「入一酔郷一 贈納言橘在列」。作者は明らかでない。橘相公と注する本もあるが、在列も広相も後中書王が合わない。恐らく橘正通か。 一 竹林七賢の一、酒好きで琴の名手。 二 同じく七賢の一、酒好きで酒徳頌を作る。- 
▽酔っぱらいの天国に入るには、先ず阮籍先生にあってどうして行くか道案内をたのみたい、それから劉伶先生についてどんな模様か、その国の様子をたずねたい。(「和漢朗詠集」 酒 川口久雄・志田延義校注) 


K先生
「どくとるマンボウ」が出て、『夜と霧の隅で』で彼が芥川賞を受け、その令嬢と結婚式をあげた頃、悲しい哉、私は病床に伏す身であり慶応病院の一室で療養中でめでたい二つの式にも出席できなかった。私の隣室にはKという慶応の神経科の若い医師がやはり入院していたが、このK先生は自分は北杜夫とかつて同じ研究室にいたと言い、「あの人は、変わってましたなア」としみじみ呟いた。どう変わっているかと聞くと、北はここの研究室にいた頃から、もう一人の変わった男と二人で新宿で飲んでは伊勢丹の前で一人が逆立ちをしたり猿の真似をしたりすると、もう一人が通行人に手を差しのべて見物料を要求したというのである。(「北杜夫氏の巻」 遠藤周作) 


93-もうはんぶん もう半分
【プロット】永代橋のほとりに小さなしがない煮売酒屋がある。もともとはやらない店だが、今夜はことのほか不景気、早仕舞いにしようと思っているところへ、毎晩常連の老人がやって来た。店に似合いの、しがない行商の八百屋である。色浅黒く痩せこけていて、眼光は鋭く鼻は尖がり、頬骨が張って頭に白髪がボヤボヤ。老いの身に荷担ぎがこたえるのか、いつもボロボロに疲れ果て、腰が痛そうに見える。老人には妙な癖があった。酒の注文を茶碗一杯単位でなく、半分ずつするのである。同じ量、同じ料金であっても、一度の注文を二度にし、二度に注(つ)いでもらうことで、いくらでかでも余分に飲んだ気分になれるのだという。しがない稼業だから、いつも限られた量しか飲まないが、根っからの酒好きなのだろう。店にとっては商売だから、客がどんな飲み方をしようと構わないのだが、老人は客なのにオズオズと、「もう半分いただきたいのでございますが」…、もう半分、もう半分と哀願するように繰り返すのだった。(「ガイド落語名作100選」 京須偕光) この老人が、酔っ払って50両の大金を屋台に置き忘れたが、その金は老人の娘が我が身を廓に売って手に入れたもの-。怪談話です。 


原因は「お酒」
我が家では夫婦喧嘩も別れ話も、大方原因は「お酒」でした。おかげで家庭経済のことも、子供の教育も、女が居る、男ができた、などの喧嘩の種になった試しがありません。黒田の唯一の弟子と自称する詩人(三宅武治さん)が、最近『黒田三郎』と題する詩集を出版されましたが、全篇これ黒田をテーマにした詩ばかり。

本棚を指さし
「こことあそこの後に
ウィスキーを隠しておいたら
家内にみつかって
きのう
ぜーんぶ捨てられてしまいました」
師・黒田三郎は
ははははは
と力なく笑って
どうしようもないという顔をする(中略)-

この本には参りました。ユーモラスに黒田三郎とその家庭を炒ってみせていますがただ事実関係で異議を唱えさせて貰いたいのは、本棚のうしろに隠しておいたウイスキーを、女房にとりあげられた-は真っ赤な嘘、夫が隠したが最後、血眼になって捜しても、ただの一度も見つけ出せた試しがないのです。(「夫と酒瓶と私」 黒田光子) 


酒と漂泊
私の旅行の多くは目的のない独り旅だ。旅行好きのくせに不精者で、汽車の時刻表を調べたり、特急券を手に入れたり、宿の予約をしたりするのが面倒くさくて仕方がない。混雑しない鈍行列車に乗って、ただぼんやり窓外の景色を眺めているだけで満足する。私の旅の醍醐味は何といっても夕暮れであろう。暗くなると心細いから、暗くなる少し前に、ちょっとした町か、小都会で下車する。駅舎を出ると町に灯が入っている。田舎町といえども家路を急ぐ人たちの跫音があわただしい。霧のような感情が私をしめらしはじめる。やがて人恋しさにたまらなくなってくる。私は一杯飲み屋にかけこむ。(実はこれが、本当の目的で私は旅をするのだ。)いつぞやの冬、東北の旅をして夕暮れ新庄駅で降りた。みぞれが降っていた。最上川まで行くつもりだったが、直ぐ駅前の飲み屋に入った。熱燗を注文すると、待つ間もなく正味三合入りの大徳利がカウンターに置かれた。地酒が口から溢れかけている。満席近い客は何れも大徳利で威勢よくやっている。私は飲みながら分けもなく感激してしまった。(「新しい靴」 庄野英二) 


もうちょっとここにいろよ
酒場で飲んでいて、相手のことが気に入る、気に入らないというのは常にささやかなことです。理屈じゃない。なんとなく「こいつ、面白いんじゃないか」と感じさせる何かがあるとか、何も面白いことをいっていないけれど「もうちょっとここにいろよ」といいたくなるとか。それは、その人がそこにいることが一つの風景として面白いかどうかだ。酒場というのは、自分がそういう人間になれるかどうかが問われる場所なのです。(「酒道入門」 島田雅彦) 


赤垣と堀部
さて、我々のあつかう四十七士の中で売れてる大酒飲みを二人選べば、赤垣源蔵と堀部安兵衛を挙げる。ところが残念ながら余り伝説の如く呑んべでなかった…どころか赤垣さんに至っては大の下戸というから弱る。第一あれは赤垣でなく赤埴であると学者からお叱りを受ける。赤はにでなくアノ姓の場合にかぎり赤ばねと読むのが事実だとあってはなおややっこしい。兄塩山伊左衛門の許に貧乏徳利をぶらさげて別れを告げに行く…ところで源蔵の幕府へ上申した親類書には、妹は書いてあるが兄はない。妹婿の田村縫右衛門の所へ十二月十二日に暇乞いに行っている。田村の父が言っている言葉によると、「普段一滴も飲まぬ源蔵が珍しく盃に口をつけた」とあるから大の下戸であったことは間違いない。細川家にお預けの間、大石、原、磯谷なぞは酒を出されると喜んだ…と堀内という世話役が書いている。すると赤垣源蔵は饅頭を出されて喜んでいた連中の部であるとなるといささか色気がない。我々の方の文献?でいくと天保年間に一立斎文車という講釈師が作ったとあるが、恐らく赤埴の赤からうける感じで酒飲みに廻したのかも知れない。大高源吾の仮名書きの詫び証文が、「かんざけよかろうのりがやす」というので神崎与五郎則安にふりかえたというのも恐れ入るが…酒で見のがせないの堀部安兵衛武庸、下戸ではないが噂ほどの不謹慎な酒ではなかったようである。大真面目な急進派で、書も能くし剣にも秀れていた。(「義士と酒と蕎麦」 五代 一龍斎貞丈) 


「ばら麹(1)」の作りかた(作黄衣法)
六月中にコムギをよく洗って甕に入れ、水に浸し、酸味を呈するようになったものを濾して蒸す。蚕座にむしろを敷いたものの上に蒸したコムギを厚さ二寸ほどに並べ、以前に刈り取って準備しておいたオギ(2)の葉を薄く覆っておく。オギの葉がない場合には、オナモミの葉を刈り取り、雑草を除去し、水気や露を拭い、コムギが冷えるのを待って覆う。七日を経て「ばら麹」の色が十分についたならば、これを乾かす(3)。斉の人は「ばら麹」のなかのオナモミを除去するために風選するが、これは大きな誤りである。この麹を使用して食品を作る場合、菌糸の力に頼るのだが、風選で菌糸を吹き飛ばしてしまっては、良いものが作れるはずがない。
注 (1) ばら麹-「黄衣」。『要術』には「麦「麦完」」、「女麹」とも記述している。 (2) オギ-「上:艹、下:乱」。初生の荻をいう。オナモミ-と同様に、糸状菌の供給源である。- (3) コムギで麹を作ると、七日間で菌糸がコムギ粉のなかに十分に入りこみ、酵素は粒のなかに蓄積される。したがって、風選しても問題はないと思われる。著者の考えすぎであろう。(「斉民要術」 田中静一、小島麗逸、太田泰弘編訳) 酒造用以外の麹造りだそうです。 


仏説摩訶酒仏玅楽経(8)
酒仏 又 白(もう)シテ仏ニ 曰(いわく)。 酔郷ノ 功徳 其効験 既已(すで)ニ 如(ごとし)此(かく)ノ。 若(もし) 仏滅後。 或(あるいは) 至(いたる)トキ 無仏世界ニ。一切男女。 欲セバ得(えん)ト 我 酔郷之安楽ヲ。不問(とわず) 悪客 独醒。 賜灌芭葉ヲ。 我皆引導シ。 令(しめん) 著ケ 勝地ニ。 駆リ 苦寒ヲ得セ 陽和ヲ。若(もし) 不(ず)シテ爾(しか)セ 残ス 一人ヲ 者ナラバ。 我 不正覚ヲ。(「仏説摩訶酒仏玅楽経」 亀田鵬斎 新編稀書複製会叢書)
酒仏は、また仏に次のように申し上げた。「酔郷の功徳、その効能は、既にこの通りです。もし仏が滅度された後、あるいは仏がいない世界に至つた際、一切の男女が我が酔郷の安楽を得たいと願うなら、下戸、一人だけ酔わない奴、礼儀正しく飲む堅物、大杯で酒を強要する大酒飲みであろうとも、私が皆な導いて佳境に落ち着かせ、ひどい寒さを除いて穏やかな温かさを得させましよう。もしそうならず、一人でも残すようなことがあれば、私は正しい悟りを得ません」(「仏説摩訶酒仏妙楽経謹解」 石井公成) 


夜は酒を飲むためにあけてあるんだ
ぼくは原則として、夜は仕事をしないことにしている。夜は酒を飲むためにあけてあるんだ。そのかわり朝は早い。五時には起きる。朝食までに一仕事しないと、どうもその日は働いた気がしない。そういう日は事実、仕事もはかどらない。出が百姓だから。朝は朝星(あさぼし)といった気質が血の中に残っているのだ。朝五時に起きて仕事をはじめて、夕方の五時ぐらいまで、仕事机に向かっている。夕方の五時になると、その日の最初の酒を飲みはじめる。ウィスキーの水割りの場合が多いが、ときにワインだったり、ジン・ライムだったりする。そのまま夕食をはさんで飲みつづけて、十時には眠る-これが家にいる限り一年中かわらない。酒が体内に入らない日は、一年のうちに片手でかぞえるぐらいしかない。(「酒癖」 勝目梓) 


寸古録の徳利
私は寸古録の徳利を持っている。寸古録の徳利は珍しい。これは相彦という道具屋から買ったのであるが、ある日相彦がやって来て、あの寸古録の徳利をあの時の値段よりも高い値段でお売りになってはどうかと言う。じいさんなかなかうまいから、どうだとかこうだとか言うてしきりに勧める。しかし私は、そういうことは自分にはよくわからぬから、根岸の弟(克徳)に相談しておこうと答えた。すると三、四日してまた相彦がやって来て、徳利の話を始めるから、私はいきなり大きな声で、お前は馬越(恭平)に頼まれて来たのだろうと怒鳴り付けた。相彦肝を潰して、大周章(おおあわ)てで私の部屋を飛出し、家中まごついて逃げて行った。馬越は徳利が得意で、ずいぶんよいものを持っておった。私に寸古録の徳利を持っておられてははなはだまずい。これを私から取出そうとしたのである。机を向かい合って毎日一緒に仕事をしているのに、相彦を使ってそっと取り出そうとしたのである。翌日私は馬越に、君はひどいなあ、相彦に言い付けただろうと言うと、馬越はわあと言うて頭を抱えた。(「自叙益田孝翁伝」 長井実編) 後年大日本麦酒社長になる馬越は、益田の部下だったそうです。 


酒に交われば
後年、父と母が離婚してしまい、私は母方へ引きとられることになったが、それ以来、戦後に亡くなるまで父は再婚していない。老いてからの父は、よく、「女なんか、めんどうくさくて…」と、言っていたものだ。戦時中に、父と名古屋で会い、父のなじみの旅館へ行き、二人して二升ほどのんだことがある。父が苦心して手に入れた闇酒であったが、私が相当にのみこなすのを見て、父は、「これは、どうも…」おどろきもし、うれしがりもした。(「池波正太郎自選随筆集」 池波正太郎) 


失うた帳面を記憶力で書き復した人
このほかに水戸義公父子を離間せんと謀って、義公に手討にされた藤井紋大夫にも、同上の逸話あるを何かで読んだが、その書名を忘れた。天保八年の自序ある日尾荊山の『燕居雑話』一に、その幼時親交した老人の話に聞いたとて、むかし読書好きの法師が、酒屋で飲みがてら、側らにあった懸け帳を被閲したが、はるか後にかの酒屋類焼して懸け帳を亡失し、かの僧に語ると、僧しばし小首を傾け、やがて筆取って、おのれが見たほどの酒の貸し高を、一つも洩らさず書いて取らせた由を記しおれど、いつごろのことか、支那のことか日本のことか、明記していない。(「失うた帳面を記憶力で書き復した人」 南方熊楠) 


呑ん平
底抜けの呑ん平が、夕方、ふらりと近所へのみに出たっきり、夜なかになっても帰ってこない。そこで、女房が心配して、下男を呼び、「八助や、旦那がまたどこかにころがっているんだろうから、ちょっとそこらを見てきておくれ」「へい、かしこまりました」八助が近所をぐるぐるまわってみると、旦那は隣屋敷のどぶのなかにはまって、高いびき、だが、なにしろ極寒の時分なので、着物が氷にとじられて、どうしても引起せない。そこで、家へとってかえして、薪割をもってきて、氷をわりはじめると、旦那がねぼけ声で、「だれだ!この夜更けに戸をたたく奴は!」(「江戸小咄大観」 田辺貞之助) 


奇抜な辞世の歌
太平記小僧の名を以て知られた国学者中山信名(のぶな)[天明七年(一七八七)-天保七年(一八三六)]は、その強記と共に、生来の磊落者であった。彼は塙保己一の門に学び保己一の業を佐(たす)けたこと甚だ多く、またその著書も南山考、関城書考、常陸国誌等頗る多かったが併しまたよく遊んだ人である。和学講談所の属僚となり幕府の禄を食んでいたが、その得る処のものは、殆ど之を酒に換え、或いは花柳の巷に遊んで数日帰らないことも多かった。その為め屡々(しばしば)講談所の出勤を欠くことがあったが林述斎は、彼の才学を惜み、弥縫掩護(びほうえんご)して終に事なきを得せしめたのであった。その辞世の歌にいう。 酒ものみ浮れ女もかひ文もみつ 家を興しつ世に恨みなし と。これを以て見ても彼の人となりが充分窺い知られるであろう。(「日本逸話全集」 田中貢太郎) 


笹酒のつどい
新年の行事が一段落ついた一月二十三日に、奈良の大安寺では笹酒のつどいがある。と言っても、正しくは光仁天皇をまつる光仁会が修せられて、その法楽として、集まった人たちに笹酒が供されるのだ。奈良朝最後の光仁天皇は、六十二才でやっと皇位につくという不遇の天子だった。皇位をめぐって、天智系と天武系が血で血を洗う争いを繰り返していた時代には、血統の正しいすぐれた皇子たちは、謀反の罪をきせられて次々に処刑された。白壁王と呼ばれていた頃の光仁天皇は、その難を避けるため、酒におぼれて暮らしていた、と伝えられる。藤原一族に推されて皇位についた天皇は、在位わずかに十年で没したが、その一周忌が大安寺で行われたので、以来、この寺で光仁会が修せられるようになった。そして半生を酒と共にすごした天皇に捧げるために、笹酒の供養がはじめられたのだろう。境内の青竹を伐って長い酒筒をつくり、こぼれ松葉を焚いて酒を暖ため、笹の葉のついた節切りの青竹の盃に注いで飲むのだが、寒気のきびしい一月の野外で飲む笹酒の味は、はらわたにしみわたる思いがする。新年にふさわしく、すがすがしい青竹のかおりが口の中にひろがって、ふだんは日本酒が苦手なわたしも、つい盃を重ねてしまう。わたしには、日本酒の味がまだよく解らないのだけれども、松葉のたき火で飲む、あつかんの味は、酒好きにはたまらない魅力だろう。わたしが盃を重ねるのは、酒のせいというより、青竹の筒の中で鳴っている酒の音をききたいためだ。長い竹筒を傾けると、酒は珠が鳴っているような美しい音をたてながら、筒の底から流れ出てくる。(「笹酒」 三浦美佐子 「日本の名随筆 味」) 「ガン封じ」の笹酒 


重衡千寿前の杯
鎌倉教恩寺の宝物に(平)重衡(しげひら)千寿前(せんじゅのまえ)の杯がある。重衡が一ノ谷で捕われて鎌倉にきたとき、無聊(ぶりょう)を慰めるため千寿の前と伊王の前という二美人を遣わし、宴を開かせた。重衡は名だたる琵琶の名手で「灯は暗し数行虞氏が涙、夜深うして四面楚歌の声」と朗詠し、重衡の琵琶に千寿は琴を合奏し、伊王は舞った。そのときに使った杯だという。また鎌倉妙本寺にも重衡杯と称するものがある。小波に魚の蒔絵である。(「日本の酒」 住江金之) 


深みの一変種
「酒のどこがいいか」と問われたとき、孟嘉という人は「酒中に深味あり」と答えた由。この人は、陶淵明の外祖父で、気性の至極さっぱりした酒のみだったそうだ。道理で私は、あまりさっぱりした気性ではない。酒中にある深味を探れそうもない。淵明といえば「挽歌の詩」で、自身の死ぬときの様子を想像して、「但だ恨むらくは世に在りしときに酒を飲むことの足るを得ざりしを」と歌ったそうな。その恨むことの自分にいささかも無いことを、せめてもの慰めとするぐらいか、とあきらめてもみる。あきらめてもみるが、その一方、「えらい損をしてきたもんや」と思わんでもない。ところがこのごろになって、やっとビールの小瓶一本弱をあけられる程度に、どうにか修業が積めてきたのである。その分量で、精神も肉体もだらりんと、自堕落になり顔は真っ赫にふくれあがり、この世の義理、不義理からも放たれたさまに、思わずドタンとその場にひっくりかえる境地にまでは到達したのである。これが楽というものか、と自分に問うてみても、しかし、左様これこそ酒の楽也という声は聞こえぬのである。うまいという感覚もてんで無いのである。からだ全体が腫れぼったく、しんどうなって、どうにも大儀だから横になっただけのことで、とても「酒中の深み」に溺れての始末ではないのである。何か、落とし穴にでもはめられたような気分で、余り愉快という代物ではないが、考えように依っては、これも深みの一変種かも知れない。そう悟って、ドタンとひっくり返ることにしている。(「木洩れ日日拾い」 天野忠) 


四十歳頃から再開
夜は当時の悪いくせで、こたつで酒の騒ぎである。悪い友の中には、朝寝ている所へ酒徳利を持って飲ませて歩く者があって、その朝酒の味がうまかったこと、今に忘れられない。私の酒の覚え初めといったのは、こんなところである。
大学卒業後は、激しい研究の合間に雪山へ通ったのが因となって肺結核となり、酒を厳禁されて以来、スキーも酒もやまてしまったが、酒はそれから十数年して四十歳頃から再開することになった。(「愛酒楽酔」 坂口謹一郎) もういいだろうと飲んでみたが、酔っ払うことがなかったので再開したと言っていたと、誰かから聞いた記憶があります。 


030★ホテイシメジ
AMPULLOCLITOCYBE CLAVIPES CLUB FOOT(奇形の足) (PERSOON)REDHEAD ET AL.
ホテイシメジは広く分布し,よく発生する林地の種で,柄の基部が顕著に膨らんでいるおかげで,通常見わけられる.見た目はカヤタケ(Clitocybe)属に似ており,以前はその属に位置づけられていたが,最近のDNA研究によって近縁でないことが明らかになった.子実体は,中国,メキシコ,ウクライナなどさまざまな国で広く食べられているが,飲酒の前後数日以内に食べると中毒反応を引き起こす.その症状は,顔面紅潮,頻脈,めまい,ひどいときには虚脱状態などで,これはヒトヨタケ(Coprinopsis atraentaria)のcoprine(コプリン)が引き起こす症状と似ている.(「世界きのこ大図鑑」 ピーター・ロバーツ+シェリー・エヴァンズ 斉藤隆央訳) アルコール分解酵素の働きを阻害する物質をもっているのだそうです。異名はチョコタケです。

 
ホテイシメジ


内田頑石
かれの家は遠州の出であるが、父祖は早くから江戸に出て医業にたずさわっていた。頑石というのは号であって、本名は升、字を叔明と称した。生来無口で、その一日中ぼんやりと端座しているさまを見て、ばかか天才なのかどちらかだろうと評するものがあったが、学問をさせればあるいは才能も開けようと、伊藤仁斎の子竹里が江戸に来ていたので、これに師事させ、古学の勉強をさせた。ついに学名が天下に聞こえるようになり、田沼時代から門弟が多くなっていった。ところがかれは、頑固に結婚を拒み、また官に仕えることを辞し続け、他人から拘束されるような生活を絶対によしとしなかった。そして、むやみに酒を飲み、飲むほどに酔うほどに、世俗のみにくさ、卑しさを笑いとばして脱俗者として撤していった。『先哲叢談続編』に載る伝記によると、身近には酒の諸道具が必ずあり、「朝と無く、暮と無く、常に酒臭を帯ぶ」というありさまだった。かれは、酒の味は、これを飲むところの風土と、そこに住む人の気性に応じて異なるべきだと考えていた。かつて摂津の伊丹の醸造家にたのんで、「醇粋の酒」をつくらせ、取りよせた。「その気味、清酸辛苦で、それ以前の苦甘軟淡」なのと趣きを異にするものだったので、これこそ「憂を消し、鬱を散じ黄泉に透徹する」かっこうの酒だとし、まさに関東人に似合いだとたたえた。そしてこの種の酒をつくることを、江戸十里四方にすすめ、「泉川」と号銘してひろめたといわれる。「黄泉に透徹し、山川に暢潤する」よい酒だというわけで「泉川」と名づけたそうである。要するに辛口のきつい酒を称揚し、関東に標準の酒を自身それを求めたのみならず、これを広めたのである。『先哲叢談』では、「七十年来の飲客、泉川を愛せざるもの無し」とその評判の高かったことを認めている。頑石は、寛政の改革の進行期、晩年になっても、いよいよ酒量がふえるばかりで、周囲から諫められたりしたが、頑固にこれをはねのけ、自分のことを思うものは「壺を持し、樽を抱えて来れ」とうそぶくのみであった。そして自ら「酔郷の太守、或は酣楽の都督」と号したというほどの徹底ぶりであった。おれは酔っぱらいの元締めだぞという自覚をもっていたのである。寛政八(一七九六)年に六十歳で死んだ。(「酒が語る日本史」 和歌森太郎) 


ショボショボした米の方がいい
吟醸酒が葡萄酒の風合いに似通っていることはすでに述べたが、吟醸という言葉は大正年間にはもう定着していた由(よし)-。ところで、立山酒造社長のO君は私の学生時代からの友人であるが、そのO君のいうところでは、「吟醸に適するのは、普通の酒の場合とちがって、出来のいい年の米よりも、むしろ不作にちかい年のショボショボした米の方がいい」という。(「父の酒」 安岡章太郎) 


五段 ひとり酒
婆(ばばあ)の帰った後、ゆっくり呑み直す。酔いが廻るにつれ、気分がほんわかして、よくぞ出家し、ひとり暮らしをしているものよと、わが暮らし方の選択の正しさに満足する。酒は独酌に限る。自分の速度でゆっくりでも、たてつづけでも、その日の気分と体調で好きなように酌めるのがいい。人に酌をしさえすればいいという手合いは、酒の味の美味(うま)さを知らないやつらばかりなのだ。-
それにしてもどぶろくはうまい。俺は器に凝る方なので、出家しながら、まだ日常使う食器を無神経に選べない。茶碗も湯吞みも盃も、自分の趣味と美意識に適(かな)ったものでないと厭なのだ。どぶろくの時は、李朝の白磁の筒形の茶碗で呑んでいる。これは高師直(こうのもろなお)からのもの。狩衣(かりぎぬ)のことで相談に呼ばれた時、ついでのような形で、塩冶(えんや)判官の北の方に出す艶書の代筆をしてくれと頼まれた。奥からこの茶碗を持ってきて、これでどうだという。師直は俺が金では転ばないので、いつでも涎の垂れそうな美術品をちらつかせてはそれを代償に物を頼むのだ。何となくもの哀しい白磁の茶碗は、掌(たなごころ)にはさむとしみじみやさしく、唇をあてると、生娘の乳房のような肌ざわりがする。白い茶碗に白い濁り酒が実によくあう。それにしても、「源氏物語」では光源氏に余り酒を呑ませていないな。紫式部は酒の強そうな感じがするが下戸(げこ)だったのかしらん。ううい、今宵はちと、過ごしたようじゃて。(「寂聴つれづれ草」 瀬戸内寂聴) 


演奏会のあと
どこの国でも、演奏会のあとに、パーティーがある。たいていはブラック・タイ、つまりタキシードの元貴族や今成金どもがにこやかにロングドレスしゃなりしゃなりの大勢のバアさんたちと入りまじって、今終わったばかりの音楽会について、てんでピントはずれな会話を優雅におやりになっていらっしゃる。シャンペングラスの乾杯の音。葉巻のけむり。こういうハイ・ソサエティの集まりでも、指揮者と独奏者は堂々とビールを要求できるのである。これは常識。汗だらけで夢中になって演奏してきた人間に、シャンペンなんてノドがモコモコするモノが飲めるものか。ハイ・ソサエティどもも、このことはちゃんと知っていて、われわれはタキシードの満座の中で、尊敬のまなざしを一身にあびて、ビールをガブガブ、品なくやるのである。「まあおヒンの悪うござあますこと。ホホホ」なんて思うバアさんは、このパーティに誘われないのだ。(「ビールの話」 岩城宏之 日本の名随筆「酔」) 


ハードボイルド風の吞み方
ハードボイルド風の酒の吞み方を講義せよといわれてたって困ってしまう。何しろ、この間まで私自身、見事にハードボイルド風に酒を呑み続けたあげく、ついにダウンして入院し、ようやく一命をとりとめて娑婆に戻ってきたばかりなのだ。今はいわば保護観察中の前科一犯というところ。そんなのをつかまえてこんなことを書かせるとはなんと残酷な。私流のハードボイルド風の吞み方とはどういうものだったかと申しますと、とにかく三百六十五日、眠っている間以外はグラスを離さなかった。それがざっと三、四年続いた。別にアル中にもならず、仕事をし、本を読み、芝居も見、料理もしていた。これを続けていると女はやっぱり体力的に男に劣るから、アル中になる前に内臓がイカレてしまう。いや、日本人は男だって同じなのだ、アル中にもなれない、情けないと丸谷才一氏が書いていらしたっけ。(「酒の海に三百六十五日」 小泉喜美子 日本の名随筆「酔」) 


犯人は宇宙人だったのかも
私の友人の別荘が、信州穂高町にある。先年もそこにご厄介になったが、この近辺はしばしば別荘荒らしに襲われるらしい。もちろん、オフシーズンのころである。友人の別荘も例外ではなかった。しばらくぶりで休暇をすごそうと、友人が家の中に入ったところ、ドロボウに入られた形跡がある。しかし、調べてみたが、ほとんど盗まれたものはない。これが二十年ほども前であると、手当たり次第に持っていかれたものだが、さして金目のものもない別荘のことなので、あきらめて出ていったものと思われた。ところがそうではなかった。酒が何より好物の友人は、別荘といえども酒を欠かしたことがないのが自慢であった。東京からしこたま運んだ高級ウイスキーやブランデーなどを十数本押入の上の天袋にしまっておいた。やれやれと思った彼が、そのうちの一本を取り出そうとするとヤケに軽い。変だなと思って、調べてみると空っぽである。「オヤ、間違えて空ビンをしまってしまったのかナ」と隣の洋酒に手をのばすと、これまた空である。これはおかしい、と漸く気づいた友人が、次々にビンを取り出してみると、これが全部、空気しか入っていなかったのであった。以下は私と友人の会話である。「しかし、これだけのウイスキーやブランデーを、全部飲んだのかナ」「そうすると、やはり盗んだのかナ。しかし、中味だけ盗むというのもおかしいゾ」「うん、たしかにおかしい。大きな容器を持ってきて、ジャブジャブ入れて持っていくようなバカなことをするだろか」「ウイスキーとブランデー、ワインなど、一緒に入れたら、とんだカクテルだ。別々の容器に注いだとしても、高級酒として売るためには、ビンごと持っていかなければだめだネ」「結局、最もありうべき推理としては、酒好きのヤツが何人かで押入り、何日にもわたって盛大に酒盛りをしたということだろうか」「ウン、それはじゅうぶん考えられる。しかし、何だって、元通りキチンとビンだけしまって帰ったんだろう」「箱に入っていたものも、ちゃんと元に戻しているんだからね」結局、私たちの貧弱な推理能力では、ついに解けなかったナゾで合った。バッカスの神のごとき友人は、この妙チキリンなドロボウの仁義(?)に免じて、警察には届け出なかったそうである。あるいは、犯人は宇宙人だったのかもしれない。(「人生三段跳び」 清水英夫) 


*酒入れば舌出(い)ず、舌出ずる者は言失す、言失する者は身を棄つ。
-劉向撰「説苑」
*酒と美しい娘は二本の魔の糸。経験を積んだ鳥もこれにはまんまとひっかかる。
-リュッケルト「東方のバラ」
*酒と女と歌を愛さぬは生涯愚者でとおすもの。
-ルター「卓談」(「世界名言事典」 梶山健編) 


バーナードが行方不明
五キロ離れた隣家の主人バーナードが行方不明になったので捜してくれないか、とおかみさんが頼みに来た。インディアンが突然いなくなった時は酔っぱらって留置場に入っているか、酔って道端に眠りこみ凍死しているか、崖から落ちて死んでいるかのどれかである。その二、三日前、ぼくはベトナムの激戦地から帰って来たたナバホの青年と、帰還祝いの酒を飲み、その夜、彼がグランド・キャニオン近くの三〇〇メートルもの断崖から飲酒運転で車ごと落ちて死んだことを知らされ、非常に辛い思いをしていた。居留地の中の警察をまわると、三つ目の分署にバーナードがいた。罰金五〇ドルを払ってバーナードを身請けをする手続きをしていると、サイレントマンという名のナバホの刑事部長がやって来た。日本人は初めて見たと言い、まじまじぼくの顔を観察した後で、「ナバホと少しも変らん」と感心している。この部長は名前とは反対に大層賑やかな男でこの陽気さは多分メキシコ人の血が混じっているためと見た。自分の名刺に日本語でサインしてくれと言う。ついでに彼の名前を「沈黙男」と漢字で書いてやると大いに喜び、押し頂いて、女房に見せてやるのだと言った。部長が鼻歌まじりに案内した所は、地下の広い留置所で、彼の陽気な顔の向うから、鉄格子を両手で掴んでこちらを見ている数十人の囚人がいた。「今日はウィークデーで入りが少ないんだ。明日は週末だから、酔っぱらいが沢山来て忙しくなる。今週もきっと満員だぞ」サイレントマンは揉み手をして嬉しそうに言った「毎週、週末になると酔っぱらって日曜日はここで過ごすやつがいるよ」「じゃあ、教会みたいなもんだ」「賛美歌はないけどね」バーナードはニヤニヤしながら牢を出て来た。「ヤーテー(今日は)」とぼくは馬鹿丁寧にナバホ語で言った。「済まん。罰金が払えないのであと四、五日は泊められると思っていた。僕はもう酒は止めるよ」-
バーナードは近くの酒の密売屋から買ったウィスキーを飲み始めた。彼は昼間、禁酒を誓ったのにそれを破って飲んでいることを恥、どんどん飲んだのでたちまち酔っぱらい、酔っぱらったことを恥じて益々飲んだのでやがて砂の上にバタンと倒れ、そのまま眠ってしまった。(「ゆらゆらとユーコン」 野田知佑) 


台所で酒飯を供して
宝永六(一七〇九)年一月一六日、将軍綱吉の死亡直後、水戸領内に百姓総代として一村から三人ずつ、三〇〇〇人余が大挙江戸へ上り、今の東大農学部敷地、本郷駒込(ほんごうこまごめ)の水戸藩中邸へくりこんだ。そのうち三〇〇名は、登城中の藩主が後楽園のある小石川(こいしかわ)の上邸へ帰るのを待ちうけて水道橋に集まっていた。昼すぎ下城した藩主と世子とは、それと知ってあわてて道をかえ小石川橋から本邸へくりこもうとした。そうと見るや、百姓の一隊は水道橋をすてて小石川橋へかけつけた。藩主はそれを見て、「それ目付(めつけ)猪飼(いかい)、とめよ、とめよ」とよぶ。門内からも棒をもちだして百姓をさえぎり、藩主たちの駕籠(かご)は危うく邸内へすべりこんだ。百姓たちはあきらめていったん門外に土下座したが、やがて竹竿の先に訴状をさしてかけ出した。が、駕籠に追いつかず、空しくたち戻った。邸内からは小者が走り出て百姓たちを門内へ入れ、台所で酒飯を供して駒込の中邸へひきとらせた。本郷の加賀屋敷(今の東大赤門)前には、仲間の百姓が五〇〇人あまりも集まってガヤガヤいっていた。本邸で百姓総代のささげた直訴状は畳一枚ほどの大きさで、松波の罪を細大もらさず書きあげてあったが、家老はそれを収めた上、帰国旅費を与えた後、二、三日江戸見物をして帰れと百姓たちをなだめ、世間には農閑期を幸いに、国元の百姓どもが江戸見物に来たとふれて体裁をつくろった。-
ついに藩は最後の断を下し、松波父子処分の件を発表して農民を慰撫し、農事に出精せよと説いて郷土に送り返した。松波父子は捕らわれて獄死した。この騒動に農民側の犠牲を出さなかったのは、これがひとり農民のみの反抗でなく、内実農民と利害を共にした大多数藩士の隠然の支持によったからであるらしい。(「幕末の水戸藩」 山川菊栄) 松波は、財政救治策をうたって、私腹を肥やした、大山師だそうです。 


酒をおぼえる
同人誌を編集するかたわら、勤め先である北海道新聞の職場雑誌『輪』にも短編を書き続けた。うまく書けたかどうかなどはなどは二の次で、要するにやみくもに自分のもやもやした青春を原稿用紙へ吐き出していたのだ。たいして推敲(すいこう)もしなかった気がする。酒を飲む回数もしだいに多くなり、月一回の同人会には安い居酒屋で長時間飲んで喋りつづけた。だいたいは日本酒とビールばかりだったが、ある日、下宿の女友達と「ベア」という酒場で初めてウイスキィというものを飲んだ。シングルとかいうコップの底に一センチほど入っているものを二杯飲み、口や喉が焼けるような状態になったあと酔って椅子から落ちた。酒をたいしてうまいとも思わなかったが、同人誌の借金のことや昼間の大学へ行けなかったことや、遠くに女友達がいるのに下宿の女性とも飲み歩いている自分のだらしなさなどでヤケになっていた状態で、要するに酔えればよかったのだ。しかし初めてのウイスキィは、酔うというより胃のほうが一気に衝撃を受けたらしかった。ぼくは酒場の床に横たわって苦しみ、長いこと吐きつづけた。(「ただ坂道を歩きたくて」 小檜山博) 


地口あんどん


随分前(2005年)に撮影したものですが、浅草伝通院通りのおおもり衣裳前にあった「大竹のみ(大酒飲み)」という地口あんどんです。 


久里浜アガリ
吾妻 まあ、病院はいっぱいあるから平気だあ!って飲んでいる人はいっぱいいますけどね。日本だと久里浜病院っていうのが一番有名なんですね。最初のアルコール専門の精神科。久里浜にいたってなると、「おおー」ってみんなから言われるの。「すごい!」って「なだいなだ先生はいたか?」って(笑)。
西原 伊集院静先生も久里浜アガリです。鴨ちゃんに「お前は長谷川か?俺は久里浜だ!」って言ってました。
伊集院静 一九五〇年生まれ。広告代理店勤務から、作詞家、小説家に。二番目の妻・夏目雅子の死後、憤りと虚無感から酒とギャンブルにのめりこみ、アルコール依存症を発症。作詞家名は伊達歩、代表曲は『ギンギラギンにさりげなく』『愚か者』など。一九九二年『受け月』で直木賞受賞。同年篠ひろ子と再婚。エッセイ『大人の流儀』シリーズがベストセラーに。西原理恵子とコンビで『アホー鳥が行く』などがある。(「実録!アルコール白書」 西原理恵子・吾妻ひでお) 


中世に於て一般に酒造に使用した壺の容量
『尋憲記十』天正二年二月七日の条を見るに、
一酒造入事、白米四斗五升、カウシ三斗、水四斗五升入云々、寛舜也、
とあり、仕入量は計一石二斗を産出する。故にこの壺の容量は一石一斗より大なるものではなくてはならぬ。なお『多聞院日記』によってその一壺の醸造量を算出すれば左の如くである。-
永禄十一年正月酒 二石三斗  十二年正月酒 一石四斗五升  十二年夏酒 一石七斗三升
この産出数字は水の仕込量の記載を欠いたものもある。されば中世に於て一般に酒造に使用した壺の容量はこれらの産出数字より大なるを要す。故にこれらの文献より推測するに、壺の容量は二石乃至三石を限度としたものであったろう。(「中世酒造業の発達」 小野晃嗣) 


ビールの次に知ったのが日本酒
被害者意識が強い私は、いよいよお酒のある場所へ行くのが恐ろしく、引っ込み思案だったが、今から思うと身がまえ、受け入れなかった私が、第三者から見るとかなり嫌な女に見えたのだと察する。たしかにあの頃の私は、頑(かたく)なで内向的、自閉症ぎみで、酒席に合わない人間だった。ところが、人間いつ逆転するか分らない、と言うことを身を以て感じている昨今である。もともと拒絶した理由は、アルコールに弱い体質だったので、一口飲んでも金時(きんとき)の火事見舞いよろしく赤くなってしまい、人前に出せない顔となった。それがジャズダンスを踊るようになり、大汗かいたあとのビールが美味しいと思うようになり、フランス料理のワインが美味しいと思い、その上何より嫌悪していたお酒の席に行くことが、苦痛でなくなった。そればかりか時には、自分から進んで友達をビヤホールへ誘ったり、一人でもビールくらいは飲めるように進歩した。お酒が入った方がリラックス出来て、会話がスムーズに行くので、今では逆に飲めない人が面白くなくなった。ダンスの帰り道、友達と安くて美味しい料理を出してくれる居酒屋へ寄ることも多くなった。そんなことで、ビールの次に知ったのが日本酒である。たくさんは飲めないが、上等の樽酒の味と香りが好きで、燗酒より冷やのロックの方が良い。女流文学者会は下鴨茶寮で夏に行われることが多いのだが、出される酒はほとんどが日本酒。ひょうたん形のガラスの徳利で見た目も涼しく、酒が美味に思える。父は毎晩日本酒の熱燗で一升は飲んだが、奈良漬でもジンマシンが出る母の体質を受けたのは、損な役回りだった。三好達治さんに、練習すれば何事も乗り切れると言われ、三十年余り練習したが効果なく、ダンスの汗を流したあと脱水状態で飲んだ一杯のビールが、私の人生観を変えたのだった。口の重い私が、かなりの速度で話せるようになった上に、冗談も言えたり、座持ちの役も出来て、いままで見えなかったものが見えて来るのだった。(「出発に年齢はない」 萩原葉子) 平成12年の出版です。 


稲荷新田六郎左衛門がやどにて、つゞみの筒のかたちしたる盃台を出しければ
 酒の上 太平楽は いはずとて 万歳楽と うつ舌つゞみ(玉川余波)
滝水楼より使して江戸酒一樽を川崎宿まで送しをもて来るとて、青木氏のもとより
 樽さげて 来る身もさらに いとはまじ 御用の前の 御用なりせば
とありければ
 江戸からは 酒のかよひ路 とをけれど 御用のごとく まはる川崎(玉川余波) (太田蜀山人) 


七十年間飲み続け
父はいったい、いくつのころからお酒を飲んでいたのでしょうか、書き残したものを読むと、大学一年生のころは、もうりっぱな上戸だったようです。無二の親友だった佐藤春夫先生は下戸で、下戸の佐藤先生が父につきあって、お酒を飲んで酔っては、四つん這(ば)いになって草を食(は)むけだものの真似をした、なんていう歌も残っています。ですから十八、九歳のころから八十九歳で亡くなるまでの七十年間、お酒を飲み続けていたわけです。それでも肝臓も悪くなければ、糖尿病はむろん、成人病も全くなかったわけですから、どんなお酒の飲み方だったか、うかがい知れるでしょう。(「父の形見草-堀口大學と私」 堀口すみれ子) 


松蔭と正志斎
(嘉永5年1月)十二日、午後さきに面会の叶わなかった豊田天功を訪ねた。松蔭は日記に、「彦二郎は学問該博、議論痛快、人をして憮然たらしむ」(読み下し)と記している。この夜、根本・渡井両人の来訪を受け、談論思わず鶏鳴(けいめい 明け方)に達した。十三日、(会沢)正志斎(幕末水戸学原点の書尊王攘夷論「新論」の著者 「時務策」での"転向"前)と山国喜八郎を訪ねたが共に不在、そこで桑原幾太郎を訪ね面談、十四日には正志斎を訪問、「憩斎(会沢)今年七十一、矍鑠(かくしゃく)哉、此翁也」。十六日、三たび豊田を訪い、酒を酌み交わしながら懇談。翌日、六度目の正志斎訪問。松蔭の傾倒ぶりが窺われるが、老碩学の学問態度に感動した模様を「会沢を訪ふこと数次なるに、率(おおむ)ね酒を設く。水府の風、他邦の人に接するに欵待(かんたい)甚だ渥(あつ)く、勧然として欣(よろこ)びを交へ、心胸を吐露して隠匿する所なし。会々談論の聴くべきものあれば、必ず筆を把(と)りて之れを記す。是れ其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以(ゆえん)か。」(読み下し)と認めている。(「水戸市史」) 


酒を飲んだあと
これもまたいつの日からか、さだかにおぼえていないが、ともかくある日、酒を飲んだあと、パチンコに向かった。入ったり、入らなかったりは、いつもの通りだったが、酒の酔いが、ぼくに、パチンコ玉に号令をかけることを思いつかしたのだ。いや、思いつかしたのではなく、いつの間にか号令をかけていたというのが実情だが、ともかく、隣の人にきこえぬ程度の小声で、玉に向かって、「それ!なにやってんだ!ちゃんとやれい、ちゃんと!…そうらそれでいいよ!…ほらまたなまけるっ!つづけなきゃ、だめじゃねえか!…もうひとおし!それ、いけっ!」といった具合に、声援これつとめたのである。気違い沙汰だねえ、それは、と言う人は言わしておけばよい。ともかく現実にこうした号令をかけるや、パチンコ玉君、あわてふためき、時には横っとびにとんで、チュ-リップの花を、次々と開かすことは請け合いだから、吾と玉と一体に次つぎと開かすことはうけあいだからだ。我が玉と一体となりしためかなんて、おためごかしは言わぬ。実際に、酔い心地よき折、こうして盤にむかうや、セブンスターの十個や十五個は軽くわがものとなる。(「わが昭和の青春」 兵藤正之助) 


卑弥呼フレーバー
九州の知人から花の香りのする酒が送られてきた。六角形のピンクの小壜(こびん)に入った透明な液は、バラとも桃ともつかぬ芳香がただよって、口にする前からうっとりとした気分になる。こんなところまで香料の活躍する時代になったかと思ったが、香料は一切使用していないそうだ。使用していないというよりも、使用を禁止されている。酒は大蔵省の管轄下(かんかつか)にあり、酒税法によってその成分が制限されているから、勝手に新しい成分を添加できないというのであった。製造元としてはその制限枠の中で、時代に合った新製品を工夫せねばならないことになる。九州の花の酒は、酵母(こうぼ)菌に手を加えて生んだ新製品であった。つまり醗酵したら酒に花の香りがただようような酵母を使ったのである。法に抵触(ていしよく)せず、しかも新製品としてユニークな特徴を打ち出すための見事な対応というべきであろう。酵母を開発したのは佐賀県工業試験場だから、今度は各酒造メーカーがこれを利用して香りを競い合うことになるかもしれない。ご当地らしく、酵母は卑弥呼(ひみこ)フレーバーと命名してあった。「女のひとり酒のために」とメーカーでは言っているとのことだが、工業試験場では、深夜、ひとり暮らしの女が桃の香りをただよわせつつ盃(さかずき)を傾けている図を想像して、開発に精出したのであろうか。シングルライフの地位も向上したものだ。(「ひとりで暮らす、ひとりで生きる」 上坂冬子) 


悲酒 二題

旅に出て
やり切れなくて酒を飲んだ
やさしいはずの海
その海は天に向かってただ荒れ狂っていた
海がやさしいなどと
それはわたしの思いすごしだ
海の表情に理由などあるわけがない
それにくらべて
わたしには理由がありすぎる
ありすぎる理由を盃に充たして
夜半にふたたび酒を飲んだ

終日 国道20号線を桂川に沿って歩く
道は人の運命に似ている
ふと 谷へ
桑畑の中の細道をおりてみる
道は崖の手前で消える

眼下になつかしい水がある
そして対岸の丘に傾いた墓
墓は谷へ向ってずり落ちそうだ
平安なのか 歎いているのか
わたしにはよくわからない

傾いた部落に戻り
はれやかな銘にかざられた四合壜の
光のように透きとおってさびしい酒を飲んだ
(「現代詩文庫73諏訪優」) 


三十年間にざっと三十六石
酒歴は長いから(こないだちょっと計算したところ、三十年間にざっと三十六石ぐらい呑んでいる勘定になる)、買ったり貰ったりで酒器はずいぶんある。現在徳利が五、六本、盃とぐい呑みのたぐいが三〇個余りある。がらくた物ばかりだが、なかでもまあ人前に出せるのは、詩人で骨董の目利きの安藤次男から譲りうけた黒高麗の徳利と、ぐい呑み二、三個ぐらいのものであろう。高い金を出して買ったけれども使い勝手が悪いので箱に入れたままでほったらかしてあるのもあれば、わずか二百円で買った盃でも長年使いこんでいるうちにいい味になってきたのもある。が、概して、酒量の衰えとともに(現在は三、四日で一升くらい)、徳利も盃もこぶりのものがよくなってきた。いまわたしが愛用している盃は、本来は盃ではなく、カツオの塩からなぞを入れるつき出し用の器である。口の直径四・五センチ、高さ三・五センチ、有田焼で、青い何の図柄かよくわからない絵が描いてある。これは唐津にいったとき、中里太郎エ門さんに招待されていった市内の小料理屋で、つき出しにだされたものだった。一目見てほしくなり、その場で貰って来た。次の日は、呼子の魚屋河太郎にも案内された。朝とれたいきのいいイカが泳ぐ生簀(いけす)をかこんで座敷がある。群をなして泳ぐイカがときどきビュッと墨を吐いた。そのうまいイカの味とともに、この盃がある。(「生きたしるし」 中野孝次) 


自己規制
「どうして自分で制限するようにしないのだね?」と、医者が不節制な男に注意した。「びんに線をひいて、そこまではよいがそれ以上飲まぬ、ということにしたらどうかね」「いや実は私もそう思って実行しているのですが、線をひくところが遠いらしくて、その線まで達しないうちに酔っぱらってしまうのですよ」(「イギリスジョーク集」 船戸英夫訳編) 


日本のお酒です
友人が日本酒を頼むと、「お燗ですね」と一方的に答えながらもうヤカンを持ってくる。受皿つきのコップになみなみとあふれさせる。この日本酒はなんですか、と尋ねると、「日本酒です」と言う。いやあの。銘柄は…、とまた尋ねると、「日本のお酒です」と答えて、注ぎ終わったヤカンをもっていった。これも凄い。何だか銘柄なんか訊いて、恥ずかしくなった。焼鳥がうまいのだ。肉も吟味しているらしいがタレに年季が入っている。それに焼きかげんがいいのだろう。竹の太くて長い串で、先の焦げたのがたくさん缶に注して置いてある。一度で棄てたりせずに何度も使うらしい。その律儀な感じが好ましい。店の奥のガラス棚など、当然薄汚れてはいるのだが、ようく見ると整っている。よくよく見ると汚れてはいない。店内にぎっしりの男たちは、みんな常連のようだ。都庁やその他、この界隈の勤め人らしい。五人ほどの客がいっせいに帰ることになった。分厚い眼鏡のお母さんが計算をはじめる。コピーの裏の白いところで鉛筆で掛算をしている。息子が来て、違うよ、と口をとがらして、鉛筆で別の数字を書き加えている。電卓なら簡単なのに、その気配もない。ご会計も母と息子の喧嘩つきだ。最近の東京の飲食店では、よく東南アジアの人が働いている。日本人かな、と思うと日本人ではないのである。もうそれが当たり前だと思っていたが、久し振りに原日本人を見た、という感慨をもった。(「じろじろ日記」 赤瀬川原平) 有楽町ガード下にある親子喧嘩で有名な焼鳥店だそうです。 


藤蔭静枝(ふじかげ・しずえ)
本名内田八重。明治十三年新潟県新潟生れ。日本舞踊の現代化を計るため藤蔭会を起したのが大正六年で、今日まで新舞踊運動の先駆者。往事永井荷風との恋愛事件をひき起したのも有名。昭和四年に渡欧した。愛酒家で、いまなお晩酌を続けている。昨年東京新聞社舞踊賞を授与された。藤蔭流家元で、壮者をしのぐ元気。(港区麻布六本木一)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月発行です。 

つきない徳利    宝物
あるむかし、三人の息子をもった大きな財産家があった。兄貴はぱっとしないので、「誰でも好(え)い商売持って来た人ね、自分の財産を渡す」といって同じに金をくれて出してやった。二番目の弟は大工に入り、も一人は菓子屋にはいった。兄はその金を持ってずっと行くと、枯れたお宮で、神様が濡れていたので、「いやいや、神様なんぼ困ってるべな」と思って早速自分の金を出して、お宮を拵えてやった。そして行くと、屋根のない地蔵様が野ざらしになって雨に濡れている。「いやいや、なんぼ地蔵様でもこう雨ァ降ってれば」と思って地蔵様に傘をかけで行った。こうして三年暮らしてしまったが、家へ帰る時になって、兄は、「いやァ、我ああして拵えだお宮どうなったべな」と思って行って見ると、大した綺麗だ女が出て来て、「いやあの立派にお宮拵えてもらったけど、何も礼てねし、これァあのわの形見どして持って行ってくれ」といって小さな鏡を出して、「どごさ行っても、自分の家見たぐなったら、この鏡見ろ。そへば、どごねいでも自分の家ァうづるはんで」といってくれた。また行って「あの地蔵様どうしてらべな」と思って寄って見ると、地蔵様は縒(よ)りひもの付いた御神酒(おみき)徳利一つくれた。その徳利は、いくら酒をあげでも、あげでもなくならない徳利であった。兄が家へ帰って見ると、二番目の弟は大工の棟梁に、三番目は立派な菓子屋になって帰っていて、大した酒盛りをしていた。そこへ兄は帰って来ると、嬶が、「お前何覚(おべ)で来た」といっても「何(なん)も覚(おべ)で来(こ)ね」といった。兄の嬶は口惜しがって泣いた。兄は、「や、や、何(なんも泣がなくても好(え)ァね、我、大した宝もの貰って来たはで、親類の人みなよばれ」といいつけた。そこへ二番目の弟が来たので、「汝(な)、江戸見たぐねな」と鏡を出して見せた。弟は「なにこったもので見(め)るもんだば」といってその鏡をこわしてしまった。みんなで酒盛りをしたが、兄の出した徳利は、いくら酒をついでも、つきなかった。親だちが出て来て、「汝(な)、何おべで来た」 と兄にきくと、「盗人覚えで来た」といった。「そんだら、隣の家に馬三頭あるはで、三頭のうち一番奥の馬、盗んで来て見ろ」といった。隣の家では今晩盗みに来るというので、馬や番人を沢山つけていた。すると地蔵様のくれた縒り紐が、「我ごと碗に結んでむごうさ投げてやれ」と教えた。兄は紐を投げてやると、あっちへ行き、こっち行ぎして番人の眼さ赤い紙貼った。そうするとみんなで火事だといって騒いでいる間に、馬に紐を結えてあったので、兄は誰にも知れないうちに引出して来た。馬鹿でも兄貴は兄貴だと、その家の財産をつぐこのになったという。それでとっちばれっこ。(中津軽郡西目屋村の話 話・佐々木藤太 津軽百話)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


「酒」について
私の見るところ、君も酒の嫌いな方ではないらしい。だからこそ言っておきたいのだが、酒が好きで弱くないタイプは、どうしても飲みっぷりが良すぎるという傾きがある。とくに最初の一、二杯はピッチが速くなるものだが、家や気のおけない友人と飲むとき以外は、意識的にブレーキを踏み加減にすることだ。一気に飲んでもいいのは最初の一杯のビールだけだと、固く心に命じておくといい。それにガツガツと急ピッチで飲むのは見ていて卑しい。食事のし方にしても同じことが言えるが、物をたべているところを見ればその人の育ちについておおよその見当がつくもので、酒の飲みっぷりも品性がそのまま現れるから怖い。(「男とは何か」 諸井薫) 


酒食にふけり
凡(そ)子弟年わかきともがら、あしき友にまじはりて、心うつりゆけば、酒食にふけり、淫楽(いんがく)をこのみ、放逸にながれ、淫行をおこなひ、一かたに悪しき道におもむきて、よき事このまず。孝悌を行ひ、家業をつとめ、書をよみ、芸術をならふ事をきらひ、少(すこし)のつとめをもむつかしがりて、かしら(頭)いたく、気なやみなどをいひ、よろずのつとむべきわざをば、皆気つまるとてつとめず。父母は愛におぼれて、只、気ずい(随)にまかせて、放逸をゆるしぬれば、いよいよ其心ほしいままになりて、ならひて性となりぬれば、よき事をきらひ、むつかしがりて、気つまり病(やまい)をこるといひてつとめず。なかにも書をよむ事をふかくきらふ。凡(およ そ)気のつまるといふ事、皆よき事をきらひ、むつかしく思へるきずい(気随)よりおこるやまひ(病)なり。わがすきこのめる事には、ひねもす、よもすがら、心をつくし、力を用(もちい)ても気つまらず、囲碁をこのむもの、夜をうちあかしても、気つまらざるを以(て)しるべし。(「和俗童子訓」 貝原益軒) 


ビヤホールで
ウィークデイの、とある昼下がり。銀座の表通りに面したビヤホールの入る。天井の高いこの店には、古い建物特有の冷気が漂っていて、肌に心地よい。この時間帯は、客もまばらだ。大きなジョッキと小さなつまみをひとつずつ取って、「さて、世の中はどうなっておるのかいな?」と、窓の外の通りを忙しげに歩く人たちを眺めるのが、私のたまさかの至福の時である。 -よのなかみねるほどらくはなかりけり うきよのばかはおきてはたらく ま、こんな狂歌の世界にあい通ずる心境になれるとでもいえばよいのだろうか。二十代の終り頃にこの店の味を覚えてから、ずっとつづいている、私のささやかなぜいたくだ。昼間からビールを飲む。そのことがぜいたくではないのであって、なにやら猛然と人々の活気が渦まいている東京は銀座のまんまん中で、ひとりぽつねんと極度にエネルギーを落としていられる状態が、なんとも快適であり愉快なのである。(「ファックス深夜便」 清水哲男) 


殺し屋酵母
殺し屋酵母は、数の上では何百倍も多い協会酵母を、たちまちのうちに殺してしまうので、いったん酒母やもろみに侵入すると、協会酵母の繁殖はほとんど絶望的となる。その後、全国規模の調査を行ってみると、殺し屋酵母は各地の酒造場に広く分布していることがわかった。殺し屋酵母は、一九六三年にイギリスのマコーワーとペパンによってビール酵母のなかから発見され、キラー酵母(killer yeast)と名づけられた。その後、ワイン酵母、清酒酵母、パン酵母などからも、またサッカロミセス・セレビジエ以外の酵母からも続々と発見され、現在、十数種類のタイプに分類されている。キラー酵母はすべて、キラー因子を菌体外に生産して酵母を殺す。キラー因子はタンパク質からできており、そのほとんどは熱に弱いが、なかには一〇〇℃でも完全に失活しないものがある。しかし、キラー因子は酵母の仲間以外には作用しない。人畜にはまったく無害だから安心である。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


カルバドスにあこがれて
この映画が日本で封ぎられたのは、昭和二十七年頃ではなかったろうか。私はその前に翻訳書でこれを読んでいて、感動した。私もまだその頃は若かったのである。なかでも印象的なのは、男と女が「サリュート」と言って、カルバドスを呑む場面である。私はカルバドスというお酒を全く知らなかったから、本を読んでいると、その場面が幾度も出て来て、本当においしそうに思えた。私はカルバドスにあこがれている。一度呑んでみたいわぁ、などと、会社の地下のレストラン形式のクラブで話していたら、当時、「別冊文藝春秋」の編集長であった田川博一さんがそれを聞いていて、「なんだ、あんなもの林檎酒の一種に過ぎんじゃないか、銀座でも置いてある店があるよ」と、並木通りの、バーテンダー二人だけでやっているスタンドバアに連れて行ってくださった。カルバドスはアプル・ブランデーなのだけれど、いずれにしろブランデーなどという高級酒を呑んだことのない私は、おいしい、おいしいと言ってやたらに呑んでしまい、その前に、会社のレストランでウィスキーの下地が少し入ってもいたし、また背も高い背もたれのない椅子に掛けてスタンドで呑む姿勢に不慣れでもあり、少し酔っぱらって来たら、身体の重心が取れなくなって、丸椅子から後ろへひっくり返って床にのびてしまった。ロマンチシズムにあこがれて、見事に反ロマンチックなことをやらかしたわけであった。(「あざなえる縄」 岡富久子) 


冬の夜や つい後をひく酒二合 -
このごろ在宅の日のきまった飲み方は、内心待っている六時をすぎたころ、ワインを一杯だけ飲む。七時の夕食の時は、ビールの一番小さい瓶を、それも家の者に一杯ついで、肴をつまみに、飯の前の十数分をついやすわけだ。そのあと、夜十時に、テレビ朝日のニュースステーションを見ながら、一合の酒をちびちび十一時ごろまで飲むというのだから、酔い方もそんなに深くない。しかし冬のヨツなんか、一合では物足りないと思った時、もう一合を追加することも、ないとはいえない。(「俳句・私の一句」 戸板康二) 



方言の酒色々(29)
結婚後三日目に集落の主婦を呼び、嫁と姑が酒をふるまうこと ばばふるまい
就寝前に酒を飲むこと しきせ
節のまま切り取った孟宗竹で作った酒の容器 しーずつ
嫁や聟が婚家から実家の父母へ食膳と酒を贈ること おや の膳
嫁送りの客が帰る時、鯛の煮たのにめん類を掛け、それを肴に玄関で一升酒を強いる儀式 げんかさかずき(日本方言大辞典 小学館) 


54.酔っぱらいはひっくり返ったときだけ心を入れ替える
 酔っぱらいに心機一転や改心を望むことはむずかしい。スロヴェニア語の"心を入れ替える、改心する"の意のse preobrneは"自分の向きを変える"が原義であるので、酔っぱらいは物理的にひっくり返らないかぎり心の向きが変わらないことになる。その表現方法も面白い。 スロヴェニア(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


酔っぱらい氏の行方(ゆくえ)
酒に酔いつぶれてあとさきも分からなくなった人が広い野原を歩いていると考える。歩くかと思えば倒れ、また起(おき)上って歩きだしまた倒れる。今かりに歩き出してからdだけの距離を歩いてから倒れるとする…起き上ってみると今まで歩いていた方角がすっかり判らなくなって勝手な方向へ歩きまたdだけ歩いてまた倒れると仮定する。始め歩き出してからn遍(へん)目に倒れたところまでの距離はいくら?勿論この距離は色々で0からndまでの間のどんな距離にでもなり得ない訳は無いが、然しこのような場合が沢山あって、統計的に平均をとれる、おのずから定(きま)った平均の距離、即ち最も確からしい距離が定っている。その距離は√ndになることが数学から分る。酔っぱらいの歩く道のりを勘定すると云えば、余り物好きな閑人(ひまじん)の仕事のようであるが、この計算は物理学の理論に大切な応用がある。例えばガスや液体の中に浮かんでいる細(こま)かい粒のブラウン運動などを説明するときに要り用がある。このような粒はガスや液体の分子のぶっつかるために何の規則もなくあちらこちらと不規則に動いているようであるが、これがt秒の間に動く平均の距離は√tに比例するということが、同じ計算の応用で判り、この粒の動き方からして分子の数を計算することも出来る。(「酔っぱらいの行方」 寺田寅彦 鴻江洋明編) 


酒の力
小学四年生の正月、はじめて酔った。大人達が昼酒に酔って眠っているすきに、膳の上の酒をくすねて飲んだ。十五分もすると、妙に心ウキウキして外に出た。雪上がりの暖かい日で、雪の上に大の字に寝ころぶと、真青な空が広がり、太陽がまぶしかった。青空がクルクル回り、小一時間眠ってしまった。いい気持だった。その頃、学校から帰ると、台所へいって誰もいないのを見計らって、梅酒をウイスキーグラス一杯飲んでから遊びに出る習慣がついた。気の弱い私が近所の悪童に伍していけたのは、酒の力に負うところ大であった。成人してからも、当然酒はいつもついて回ることになる。暇さえあれば飲んでしまう。さすがに三十歳を過ぎてからは朝酒はしなくなった。朝酒はうますぎてつい飲み過ぎてしまうからだ。(「イヌねこ子ども物語り」 日下部康明) 


昭和二十年一月三日
昨二日午後一時、高松宮邸に年頭の記帳に参上したる所、事務官より、唯今帰邸被遊(あそばされ)たるを以て、拝謁すべしとのことなりしを以て、暫時(ざんじ)休憩室に御待ち申し上ぐ。殿下には旧臘(きゅうろう)御旅行中なりしを以て、拝謁かなわざりしことにつき御言葉あり。暫時政治の御話を申し上げ居る時、妃殿下出御被遊(しゅつぎょあそばされ)、隣室に御招き被遊、御祝酒を給わり、妃殿下御手づから雉酒(きじざけ 茶碗に雉肉二片あり)をなみなみと御注ぎ被遊、殿下は、「何も食べるものが無いから何か持って来い」と御命じ被遊、恐縮し居る中益々御酒を御簾め被為、下戸なる由言上して、御辞退申し上ぐ。妃殿下は、「こんなに強硬に断られたのは初めてだ」と御笑談等あり、「それではお菓子はどうだ」とて菓子を被下、「三つまで食べた人があるから遠慮なく食べなさい」とお薦め下さる等誠に恐縮せり。次いで再び隣室にて御雑談被遊、退下せんとするや妃殿下御自身、「是は昨日御所から拝領したものだから」とて御菓子を給わり、重ね重ねの光栄に感激して退下せり。あまり緊張せる為か。いつもならば顔に出る酒気も、茶碗大のものを頂戴せるに不拘、一向に出ることなくてすみぬ。御菓子を神前に供へ、家中に頒ちて拝領す。(「細川日記」 細川護貞) 


としだま【年玉】
正月の祝として贈答する品の称。年の初めのたま物と云ふ意であらう。「新千載集」に『諸人にたまものすらし立つ春の初めの今日の豊のあかりは』とある。この品物は贈るべき先方次第で多少の等異はあったが、先づばらばら扇、鼠半紙、塗箸、貝杓子等の至極粗末なものばかりであつた。
年玉をしたゝか余まし手を引かれ まだ半分も配らぬに
年玉を今日も擔いで戻るなり へべれけとなり
年玉そつくりようろよろ帰る 供に引かれて帰る(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


熊楠の正月
だが、世間はめでたいはずの正月も、紀州熊野の田辺にに住む、無頼派の博物学者、南方熊楠家では、その「めでたい」が禁句になっていた。正月用の餅やおせち料理はきちんとつくらせるのだが、「また一ついのちが縮んでいくのに、なにがめでたいものか」と熊楠はいう。ところが、そう口では言っても正月である。書斎にこもって粘菌(ねんきん)の研究に専念…というわけにはいかない。《一月一日 朝 川島氏鉄砲持ち来る。(略)多屋鉄次郎氏、大酔し来り乱言を吐きやまず、予、遁れてぬし惣にゆく》と、朝っぱらから喧嘩っ早い画家で猪狩りの名人、川島破裂が鉄砲を持って飛び込んできたり、飲み仲間の鉄次郎が泥酔してきたりで、熊楠も堪らず本町のぬし惣旅館へ逃げ出す。ところがこの夜、なにを思ったか熊楠は、行きつけの散髪屋に押しかけ、六十ちかい浪曲マニアの床粂を悩ませている。《夜、床粂に之(ゆき)、英語をおしゆ》明治三十八年正月の熊楠日記のなかで、学究らしい記述がみえるのはこの一行だけで、翌日からの熊楠の新年は酒と喧噪に明け暮れている。《一月二日 この日、旅順(りよじゆん)陥落の報はいる。夕、川島氏来る…》《一月三日 旅順陥落を祝い行列あり。午後、川島氏来る。共に飲む。夜に入り、ひし屋の小妓小照来り飲、牛肉酒八本 〆二円五十六銭、花代五十四銭、これより川島と目良三柳を訪い、川島がフスマに画(えがけ)る虎に付評議す》こうして四日、五日とぬし惣に泊りつづけ酒を飲み妓をよび、川島は得意の地ツキ踊りをしながら帰っていくが、その翌日、熊楠はまた、《湯川、田所氏と三人で俵屋へ行き酒二十六本、ビール四本、松子、加代、愛子、勝子〆ての払い十一円六十銭、田所酔興して湯川をののしる。(略)ガラス障子一枚割る》《一月九日 久保田、田所氏と三人、俵屋へ之、飲、愛子、かよ子来る。田所大酔、ひし屋へ小便しこみ、また花屋へきたり飲む》《夜、田所、湯川氏と俵屋に之、酒十八本、丼三、栄、松子、加代、いろは、〆五時間半、八円四十銭》熊楠が、破裂という物騒な画号をもつ川島から、彼が得意とする"怒濤逆巻く巌頭に立ち猛虎月に吼ゆる図"を見せられ、思わず、「なるほど、アクビをする虎か」と感心した途端、川島から、がん!と頭を殴られたというエピソードは、この一月三日のことなのであろう。(「サムライたちの自由時間」 神坂次郎) 


新年・春
〽松は目出度や お屠蘇の酔に
  千代の緑の 色を増す
〽屠蘇の機嫌に乙女も馴れて
  シルクハットと 羽根をつく
〽春の小川に 浮かべて見たや
  椿ではない 紅の猪口
(「都々逸坊扇歌」 常陸太田市秘書課広報係編集) 石川露香「俚言正調集成」 今様の都々逸のようです。 


難破船での正月
一同は、船の表へ出て元日の作法をし、下に降りてきて膳に向った。わずか残った酒で杯をあげ、さて膳に向うと、久方ぶりの米とはいえ薄い粥である。かえって万感が胸にこみあげ、互いに顔を見合わせたりうつむいたり、しばしは誰一人箸(はし)をつける者がいない。一人に二盛りずつの分量があったが、やがてがつがつと啜(すす)りこみわずかな時間で食べ終る者もあれば、まだ一盛りも食べ終らぬうち、碗をおいて嗚咽(おえつ)を洩(も)らす者もいる。それに釣られて他の者も泣きだし、齢のせいもあってひときわ衰弱した弥市老人などは、いつまでも鼻水をたらして泣き、乗船のときからなにかにつけ可愛がっていた三太郎に自分の碗を押しやり、「おまえ、食え」と涙まじりに言うさまに、今度は三太郎がひとしきり嗚咽する。このさまを無理に叱っていた善助も、今は自ら堪えかねて、一人船の表へ出て、ひそかに泣く始末であった。その夜、波は殊のほか穏やかで、満天に目のくらむほど星がきらめいていた。しかし一同は、逆に落命遠からずと思い定め、また嵐も起れば期(ご)に臨んで別れをなす暇(いとま)もあるまい、いま波の静かなるうちに別れをしてしまおうと、残った酒をすべて飲みくらった。これまで諍(いさか)いごとも少なくなかった者どもも、その一刻は和し、酒を酌しあって、互いに再生の縁を誓いあった。(「酔いどれ船 第一話 先祖の一人、三太郎の物語」 北杜夫) 難破船での正月です。 


小間物屋
「下戸の建てたる蔵はなしというとおり、上戸はたのしみが多いものだから、お前も少しは酒をのみならったがいいよ」「そんなら、お前は蔵を建てたか」「うん、建てたとも、建てたとも。池田屋の蔵も、伊丹屋の蔵も、みんなおれたちが骨を折って建てたんだ」「えい、減らず口ばかりたたきやがる。おれは酒をのまねえから、大晦日が楽だ。お前たちのように勘定とりに追っかけられねえでもすむ」「だがな、おれだって、蔵はまあ冗談だが、店は方々へ出したぞ」「なんの店だ」「小間物屋」(「江戸小咄大観」 田辺貞之助) 


旅人の歌
大伴旅人の歌などは、たんなる快楽主義のように聞こえるし、事実そうであったにちがいないが、同じ楽しむにしても、現代人のように楽しみを粗末にしたのではなかった。前述の歌は「酒を讃(ほ)むる歌十三首」の連作のなかの二首であるが、「夜光る玉といふとも酒飲みて情をやるにあに若かめやも」という作もあり、得がたい宝物より、酒とつきあうことに心身を傾けていたのである。自殺や事故のニュースが報道されるたびに、「命を大切にしろ」「命の尊さを思え」という掛け声だけはかまびすしいが、そのかまびすしさが静かに死を思うことから遠ざけている。今は命を大切にすることより、酒でも遊びでも恋愛でもよい、命がけでなにかを実行してみることだ。このときはじめて命の尊さと、この世のはかなさを実感するだろう。やたらに命を大切にしてみたところで、それは自分を甘やかしているだけで、得るものはなにもないと私は思っている。(「夕顔」 白洲正子) 旅人の歌は、「この世にし楽しくあらば来(こ)む世には 虫に鳥にもわれはなりむ 生ける者(ひと)つひにも死ぬるものにあれば この世にある間は楽しくあらな」です。 


深夜の独酌による酒宴
そんな連夜の酒を欠かすこともなく、ただただ馬齢を重ねてこられたというのも、よき酒友に恵まれていたからだと、つくづく思う。じっさいに、酒の席での語らいにまさる酒の肴はないので、親しい酒友の姿を求めて、夜な夜な酒場の扉を開く仕儀となっていたので。その酒場通いが、このところめっきり減った。劇場で、親しい酒友に出会いでもすれば、どちらからいいだすでもなく、自然タクシーに乗りこんで行きつけの店など訪れ、見てきたばかりの芝居のはなしなどを肴に、ついついグラスの杯を重ねるはめにはなるのだが、これがはなし相手が見つからなかったりすると、そのままわが家の方面にむかう電車の客になることが多くなったのである。別段、外に出なければならない用事があるわけでもないのに、灯点し頃ともなるとなんとなく家に居るわけにはいかないような気分に襲われていた何年か前が、まるで嘘のようだ。自分だけがそうなったのかと、いささか心配になって、まわりの酒のみ連中にきいてみたのだが、どうやらみんな外で飲む機会ががくんと減ったらしい。「くやしいけれど、年齢ンなったんだよ」と、しごく当たり前の、面白くもなんともない原因のなせるわざと結論が出たのだが、どこか釈然としない思いものこる。おもてで酒を飲まなくなったからといって、摂取するアルコールの量が減少したわけではない。わが家での酒宴が、それだけ増えるのがものの道理で、ほかに酒をたしなむ者のいない僕のばあい、家族の寝しずまった深夜に及ぶことが多い。台所で、ひとり静かにグラスを傾けるなど、そんな悪いものじゃなく、これはこれでこころゆくまで酒の味を楽しむことができる。よき語らいにまさる酒の肴はないと書いたが、深夜の独酌による酒宴に、語らいもなにもない。海外ミステリーや、エスピオナージが、語らいの代わりをしてくれる。間違っても、むずかしい専門書などを持ち出さないことが、こういう際のいちばんの心構えだ。肩の凝らないものに限るので、飽きたら途中でほうり出せばいいのだ。ただ、こんなとき老眼鏡を用いなければならないのがつらいところで、どう考えてみてもハードボイルドに老眼鏡は似合わない。(「門番氏の手紙」 矢野誠一) 


てうし【銚子】
下総国海上郡にある港町。犬吠岬の北側、利根川の川口南岸に在る。銚子は、実に勘当息子の配所であって、勘当された事を『銚子の月を見る』などゝ洒落れられた。
左遷の身だと銚子でまた洒落る 洒落も病
後の月盃のない銚子なり     配所の身の(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


日本酒を二合ごちそう
プレハブのドアを回そうとしたら、チャロがワンと怒ったように鳴いた。強風で毛が逆立っていて、いかにも寒そうだ。我がプレハブと犬小屋ではさほどの差異はないが、我が方には布団があり、多少寒さがしのげる。チャロが怒るのももっともで、チャロがいかにも可哀そうである。後ろめたく思った私は、思いついてチャロに日本酒を二合ごちそうして勘弁してもらうことにした。チャロはペロペロ休みなく一気に飲んでしまった。二十分もしたろうか、庭先からチャロの朗々とした歌声が聞こえてきた。ウォーン、ウォーンという先祖の狼もかくやあらんという鳴き声であった。真夜中までその歌声は続き、やがてピタリと止まった。酔っぱらって寝てしまったのだろうか。風邪をひかなければいいが…と思いながら、私もいつか眠ってしまった。翌晩私はまた日本酒を二合チャロに注いでやった。チャロは露骨に嫌な顔をして、いかにも義理で飲んでやるという格好で、五回ペロペロとなめ、後は口をつけなかった。翌々晩、もったいないので一合にしたが、チャロはもはや顔さえ向けなかった。最初の晩、二合の酒で悪酔いしてよほど懲りたにちがいない。豚の専門家によると、豚はその社会的地位により、上から順に寝る場所が決まっているのだそうだ。ある日、酒の大盤振舞があり、トップの豚が飲み過ぎたらしく、翌日からナンバースリーに落とされた。以後はその豚は酒を断ち、再びトップの座に返り咲いたという。最下層クラスの豚は酒を飲まない。飲む気力さえないのだと解釈された。酒に一番だらしないのは、その一ランク上の豚で、奴らはのべつ幕なし「酒なくてなんぞおのれが桜かな」とやっているのだそうだ。チャロの話といい、豚の話といい、酒に口汚い私には耳が痛い。(「イヌねこ子ども物語り」 日下部康明) 


伊丹の美酒を所望
公卿は約百三十家で、その家領は合計約四万石であった。近衛(このえ)家の二千八百石を最高に、鷹司(たかつかさ)家の千五百石、以下百石前後の者が多く、位は高いが実収はきわめて少なかった。昇殿をゆるされた公卿ですらそうであるから、それ以下の朝臣の生活は、まったく哀れなものであった。そこで小禄の者は、ひそかにカルタはり、古書の写本づくりなどの手内職をして、やっと生活を支えていたといわれる。孝明天皇の手紙の中に、刀剣のすきな天皇が、短刀二振(ふり)を買いたいが、どうも手もと不如意のおりから買いかねるとか、あるいは近衛家に対して毎度伊丹(いたみ)の美酒を所望して恐縮であるとか書かれているところからみて、その生活ぶりも推測される。天皇でさえそうであるから、まして小禄の公卿とか、地下人(じげにん 昇殿を許されない朝臣)などの生活がどんなに貧弱であったかが知られよう。(「日本の歴史 開国と攘夷」 小西四郎) 幕末の風景です。 


真実のほうばかり向くよっぱらい  天根夢草
酔言こそが本音ときく。よっぱらいには真実が見えるともきく。酔った人を、なあなあ扱いにする奴など何も知らないのだ。よっぱらいは、私の涙を拭いてくれたりする。
たましいを叱咤するとき酒が要る  安藤亮介
ここにも酒の役目があった。「しっかりせい」と自分を叱る時、たしかに酒が要るだろう。酒なしでたましいを立て直す人は大したものだと思う。たとえいっときの昂揚にしろ、叱咤酒はいい酒にちがいないだろう。(「川柳新子座」 時実新子) 


初めてのお酒
男性と初めて飲んだお酒は、ハイボールだった。小学校二年か三年の時である。一緒に飲んだお相手は、母の勤めていた目黒の倉庫会社の独身社員寮に住むAさんだった。Aさんは、食堂の炊事婦をしている母が休日出勤の日には、近所に散歩につれていってくれたりするそれは優しいお兄さんだった。或る冬のくもり空の日曜日、二人で目黒の自然教育園まででかけた。Aさんとの散歩では初めての遠征だった。私の赤いバスケットには、これから森にでかける赤ずきんちゃんのようにリンゴとパンが入っていた。どちらも母の持たせてくれたものだった。冬枯れの自然教育園の柵にもたれかかったりしているところをAさんに撮影されながら、赤いベレー帽の私はひどく緊張していた。Aさんと一緒にいて、こんなことは初めてだった。「治子ちゃんの顔が今日は大人の女の顔にみえるぞ」倉庫会社の正門がみえてきたところで、Aさんがいった。「大人の女の顔って、どんな顔?」と聞くと、Aさんはしばらく考え込んだ後でこういった。「一緒にお酒を飲んでもいい顔」そういわれて、「ハイボール」という聞きかじりのお酒の名前が浮かんだ。私はいつものおしゃまな女の子に戻ってAさんにいった。「それじゃ、今度ハイボールで乾杯しましょう。ママと一緒にね」「ママと一緒に」という言葉も、ごく自然にでてきたのである。「治子ちゃんは、ママが大好きなんだね。でも、いつ迄も一緒にいられないのだよ。ママは、百歳までも生きられない」食堂の入口の前での彼の言葉に、私は泣きだした。大好きな母は百歳まで生きられると、信じていたのである。「どうしたの?」泣きじゃくりながら入ってきた私を見て、白衣姿の母がいった。Aさんがわけを話した。母の同僚の若いK子さんが「Aさんそんなことをいっては駄目」といった。母は笑っていた。しばらくして、母とK子さんと四人で目黒駅前の権之助坂へでかけた。そこで、Aさんと私の仲直りのカンパイをしようということになたのである。ボーイさんが一人のトリス・バーの止まり木にちょこんと腰かけて、「ハイボール」と精一杯の大人の女の声でいった。Aさんも母もK子さんも同時に声を上げて笑った。小さなグラスに注がれたハイボールの味は、苦かった。(「二人の散歩道」 太田治子) 


酒を損せしめ恨を晴さん
豪家は鴻池屋善右衛門当時第一と称すれども、旧家に於ては天王寺や(屋)五兵衛に勝るものなし。天王寺屋は聖徳太子の頃より実子にて相続のよし、右故当地の町人子育無ものは、五兵衛に請て盃を貰へば、出生の小児必ず成長すといへり。また平野屋五兵衛抔(など)も旧家にて、此家に鴻池屋善右衛門先祖より出せし酒の通帳を所持すといへり。其のゆゑは善右衛門先祖いまだ貧賤にて、自身に濁り酒を荷ひ商ひし比、平野屋は出入の得意場故、酒の通ひを出し置きし事のよし、然るに善右衛門先祖工夫して、初て清酒を製し出せしより、江戸廻りも追々夥敷(おびただしき)事となり、終に三都第一の豪家となれりといふ。此清酒の製し方のこと、言伝へにては善右衛門先祖に遺憾あるものありて、其造る所の酒を損せしめ恨を晴さんと謀り、ある夜窃かに灰を酒樽の内へ投入置しに、翌日に至り其酒の濁り清て都(かつ)て味ひも美となれり。依て善右衛門先祖これにもとづきて、清酒の工夫をなし、夫より大に利を得て、終に豪富に至れりといふ。(「浪花の花」 久須美祐雋 日本随筆大成) これが有名なところのようです。 清酒という名称 


見たことがなかつた
叔父からの書状を受けとったう安(堀部安兵衛)さんは、さっそく得意の筆でスラスラと(少々読みやすくすると)、「拙者、叔父こと仔細()あって、本日高田の馬場に於て果合い致し候に付、見届けのため罷(まか)り越し候。無事に立帰り候わば、年来の御厚情其節御礼申し述ぶべく候」と書いて、壁にはりつけて家を出た。家をあとにした安さん、河田町から坂を駆け上がって若松町へ出る。ここから馬場下町までは一筋の下り坂となる。つまり、これ夏目坂である。そして馬場下町までくれば、高田馬場まではあと四、五百メートルの距離となる。ふっと息をついて傍らを見ると、一軒の酒屋がある、呑める口の安さんはずいと暖簾をくぐる。「酒をくれ。桝のままでいい」そしてグビグビグビ。喉の渇きをうるおして、また走り出す。ご存じのところか…。昔の新国劇の芝居だと、辰巳柳太郎が花道にかかるところで、グイと刀を抜いてプハァーと酒を霧にして吹きかける。あざやかな手練の名場面になるが。さて夏目坂がでたところで、漱石先生の登場と相なる。エッセイ「硝子戸の中」に、安兵衛のプハァーに関連して、馬場下町は八幡坂下にあった酒店小倉屋についてこんなことが書かれている。「堀部安兵衛が高田の馬場で敵を討つ時に、此処へ立ち寄つて、枡酒を飲んで行つたという履歴がある家柄であつた。私はその話を子供の時分から覚えてゐたが、ついぞ其所に仕舞つてあるといふ噂の安兵衛が口を着けた桝を見たことがなかつた」(「ぶらり日本史散策」 半藤一利) 安兵衛の五合升 


よい酒、よい人、よい肴
居酒屋研究会では良い居酒屋の条件として「よい酒、よい人、よい肴」をあげ、これを居酒屋三原則と称している。-
(よい酒)
一、酒の品揃えが一定しない店は信頼できる。その中に不動の一品があればおすすめだ。
一、保冷庫で管理していない店はさけよ。
一、燗はしない、という店は二流。何もわからずに熱燗にしてしまう店は三流。燗酒の技術でその店のグレードがわかる。
(よい肴)
一、手造りに意地とプライドを持つ店は期待してよい。
一、アイデア料理の並ぶところは避けた方がよい。オーソドックスな品に技術を見よ。
一、素材へのこだわり、産地直送とりよせは楽しめる。
一、ご飯、汁ものまで充実している店は他の品もレベルが高い。
(よい人)
一、大型店はつまらない。
一、主人は控え目な方が良い仕事をしている。
一、良心的なおすすめ酒のある店は良い。
一、地元で長く続いている店は間違いがない。(「いい居酒屋の見ぬき方」 太田和彦(居酒屋研究会) 「日本酒の愉しみ」 文藝春秋社編) 


居酒屋立身出世物語
一七世紀末から一八世紀はじめにかけ、詩人、外交官として活躍し、トーリー派政府の密使としてフランスに渡り、一〇年にわたるスペイン継承戦役を終結すべく、一七一三年のユトレヒト条約締結の前交渉を一手に引き受けて、これをみごとにやってのけた、マシュー・ブライアーの場合がそうである。幼いうちに父親を亡くしたブライアーは、学費がつづかず、せっかく入学したウェストミンスター校を退学して、ウェストミンスターのチャネル・ロウでドイツ・ワインの店を開いている伯父の厄介にならなければならなかった。この店はピープスも訪れたことがあるところで、その一六六〇年に日記には、「それからいとこのロジャー・ピープスといっしょに…ドイツ・ワイン屋のブライアーの店へいった。そこでワインを一、二パイントとアンチョヴィを一皿やって、彼の結婚祝いにワインを三、四ダース注文した」 とある。この伯父は、ブライアーが頭がよいばかりではなく計算も上手なので、これを助手に使って帳場に坐らせていたが、当時この店を贔屓にしていた第五代ドーセット伯爵リチャード・サックヴィルが、ある日友人を探してやってきた。そしてカウンターの向こうに坐っているブライアー少年が、ホラティウスの詩集を手にしているのを見て、話しかけ、その学力のほどを試そうと、頌詩(しようし)の一つを英訳させてみた。ブライアーは難なく其れをスラスラと韻文で訳してのけたので、びっくり仰天したドーセット伯は、それ以来会う人ごとに、この天才児のことを語った。かくしてこの店を訪れる紳士たちはみな、ブライヤー少年にオヴィディウスやホラティウスを訳させてみることを楽しみにした。その結果ドーセット伯は、ウェストミンスター寺院の司祭長とウェストミンスター校の副学長の二人の前で、ブライアー少年にもう一度学校へ戻るようすすめ、少年も伯父もともにその意欲十分だったので、学費は伯爵が負担し、衣服の方は伯父が面倒を見るということで、ブライアー少年は無事復学することができた。そしてこれが無駄でなかったことは、ブライアーのその後の経歴が証明している。(「イン イギリスの宿屋の話」 臼田昭) 


唐衣橘洲(2)
江戸時代には学者や文化人の中にも、大酒飲みが少なくない。狂歌作者の唐衣橘洲は田安家に仕える武士だったが、二十歳の頃から狂歌に親しみ、江戸狂歌の発展に寄与した人である。代表作は「世にたつは苦しかりけり腰屏風まがりなりには折りかがめども」。典雅にして端正な作風に似合わず、一晩に二升も三升も平らげるほどの大酒飲み。連夜の酒が祟って家計が逼迫すると、親から譲り受けた大切な土地を相場よりずいぶん安い値段で手放してしまった。酒も過ぎれば親不孝のもと。しかし、世間から注目されたいという野心はなく、同好の士と静かに狂歌を楽しみ、酒を飲んで暮らせればそれで満足という、飄々とした生活を送ったらしい。別号を酔竹園という。(「日本史酒豪列伝」 門田恭子 「日本酒の愉しみ」 文藝春秋社編) げに酒は 唐衣橘洲 


TUBA
ヤシ酒、という言葉をきいたことのない人は、まずあるまい。ミナミノシマへゆけば誰も、いちどはそのヤシ酒とやらを味わってみたいと憧れる。ところが、実際に呑んだ経験のある旅行者は意外と少ない。ほとんど自家用にしかつくらないのと、幾日もとり置いておくことが出来ないからで、グアムのホテルなどのメニューに<TUBA>とあっても、実際にはよほど幸運でないとまずお目にかかれない。チュパというのはチャモロ語で、ヤップでは<アチフ>というが、さらっとした呑みくちで、白く濁ったちょっと酸味のある酒だ。(「ヤップの島の物語」 大内青琥) 


都々逸坊扇歌
信夫恕軒(しのぶじょけん)の「都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)伝」には、
禿顱黧面(とくろりめん)、眼光射人
略渉書史、通人情、
性嗜酒好色、驕奢不留一銭(いっせんととどめず)、
(中略)
天下莫不知都々逸坊名(てんかどどいつぼうのなをしらざるなし)
嗚呼(ああ)偉男児也哉
とある。頭が禿(は)げ、顔は黒く、眼が光り輝いて異様な風貌であった。書籍を広く読みあさり、人情味があって、酒をたしなみ、色を好み、贅沢三昧(ぜいたくざんまい)、宵越しの金は持たないという気(き)っ風(ぷ)のよさであった。都々逸坊の名声を知らない者はなく、彼はまことに偉丈夫であったと賛辞を呈している。(「都々逸坊扇歌」 常陸太田市秘書課広報係編集) 


酒は詩(し)を釣(つ)る色(いろ)を釣(つ)る
飲酒は詩作の動機となり、また、色情をさそい出すものでもある。「心を花にそめなせば、あづまにすむも都人、酒は詩をつる、歌人はうたを鶴がをか」[浄・本領曾我・三](出典)「蘇軾-洞庭春色」の「応レ呼釣レ詩鉤」による語。→酒は憂いを払う玉箒。(「故事俗信ことわざ辞典」 尚学図書編) 


薬用として一日酒三斗
新保の附近としては開けた都会で、便利でもある敦賀へ、降参人八二三人が移されたのが元治元年一二月二四日。大雪で山国(兵部)、武田(耕雲斎)のような老人たちは徒歩困難と見て駕籠を雇った。全員を寺院三カ所に分宿させたが、捕虜というより客分の扱いで、身体の自由を拘束せず、食事は仕出し屋にうけ負わせ、士分には一汁三菜、士分以下には一汁二才のほか、薬用として一日酒三斗、その他は鼻紙、タバコ、衣類などを豊かに供給し、翌慶応三年元旦には、金沢から飛脚で届いた鏡餅や酒樽七荷、子供には饅頭(まんじゆう)を与えたという。子供は一五歳以下一〇人、二〇歳以下二四、五人交っていた。(「幕末の水戸藩」 山川菊栄) 加賀藩が対処した際の取り扱いだそうです。それが、幕軍総監に引き渡されると、水戸天狗党はニシン蔵に閉じ込められ、その多くが斬首になったそうです。 


お嫁さんの家に突っ込む  39歳 男性
当方の以前の勤め先の先輩の話です(許可済み)。酔って車を運転して自宅へ帰る途中、あと本当に自宅まで100メートルというところで、近所宅へ車ごと突っ込んじゃったのです。な、なんとその家は 明朝には娘さんの結婚式。先輩は一気に酔いがさめ、よく見ると玄関にはすでにいろいろと準備の品がたくさん。もう突っ込んだ勢いで散乱状態。そこのおばあさんは、何回も何回も「あすは孫の一生に一度の…」とず〜っとぼやきっぱなしで、お母さんと娘さんは泣くは、おやじは怒るわで大変だったそうです。騒ぎを聞きつけた先輩の実家や近所も交じり、すごい騒ぎになったそうです。翌朝、すごい惨状の家より娘さんは出ていったそうですが、泣いていたのは違う意味で泣いていたそうです。もう先輩は酔いがさめたとき、「死ぬかと思った」そうです。(「死ぬかと思った」 林雄司(Webやぎの目)編) 


戦争に行けば真人間になれる
平野(威馬男) 田村さんは、かなりお酒をやられるそうですが、いつ頃からですか。
田村(隆一) ぼくは、十七の時から飲みだして、二十歳の時は、ちょうど戦争でしょう。親は喜んでね。戦争に行けば真人間になれるって。(笑)実は、そこは海軍でねえ、シャバに酒がなくても、海軍にはストックしてあった。だから、ぼくは飲みっぱなしだったね。海軍にいると、民間より情報がよく入ってくる。で、戦争は二十年の九月一杯くらいしかもたない、どうせもたないなら、前借りして飲んじゃった方がいい。ぼくは、八月十五日はメチャクチャになるんだろう、と思っていた。で、自分は命はないだろうって考えてね。月給は百五十円くらいだった。で、五百円くらい前借りして飲んじゃった。
平野 で、いまは、どのくらい飲むんですか。アルコールを。
田村 いまは非常に弱くなったし、調子にのれば、ウイスキーの一本ぐらいじゃないかな。-(「砂上の会話 田村隆一対談」 田村隆一) 着流し姿の編集長 


一升壜とコップを三つ
そのうち里子は何を思いついたか階下へ下りて行って、一升壜とコップを三つ抱えて上がって来て、畳の上でトクトク注いでは、「さあ、お祝いの乾杯をしよう」としづ子に配り、そして壮太郎の枕もとにもやって来て、「ホラ、乾杯しよう」と、コップを突き出した。乾杯って、何の乾杯だ」「姉さんが無事に帰って来たお祝いの乾杯だってば」「ふん。なんで俺が。やりたきゃ、そっちで勝手にやりゃいいだろ」壮太郎は取り合わなかったが、そうすると今度は、「何さ、先の女房なのにそんなに冷たくしてさ。ふん、きっとそのうち、あたしにも冷たくするんだろ」と涙声になるので、結局はつき合わされる羽目になった。里子は慣れない酒をコップ一杯呑むと、ひとりで酔っぱらって、時間をわきまえずにでかい声で喋っては、おもしろそうにそっくり返って笑っていたが、三十分もすると「眠い、眠い」といい出して、その場にゴロンと横になった。「こんなとこで寝ちゃあ、風邪をひくよ」しづ子は妹分の尻を叩いて、壮太郎の隣まで連れて来て、ちゃんと布団に収めてやって、あいつはどこで寝るつもりかな、と、壮太郎が様子を見ていると、そのまま里子の布団に一緒に入って、ちゃっかりスーと寝てしまった。スースー、スースー、と替わりばんこに、二人の女が心地よさそうな寝息を立てるのを、耳のそばで聞きながら、壮太郎は寝返りを打った。こうなってはもう、悔しがるのもがっかりするのも自棄(やけ)になるのも、何もかも馬鹿馬鹿しく感じられたし、馬鹿馬鹿しいと思うこと自体、何だか馬鹿馬鹿しいような、そんな気がした。(「居酒屋ゆうれい」 山本昌代) しづ子が先妻で幽霊、里子は後妻です。 


田楽を酒の肴
江戸時代のはじめごろに朝廷では、煤払(すすはら)いの行われる日に田楽を酒の肴(さかな)にする例になっていた。もっと古い時代には、春日若宮の煤払いの時に、木の葉を集め、串刺しの豆腐を塩焼きにし、神社の関係者に御神酒(おみき)を出す風習があった。これを"春日田楽"と称したものである。どうやら田楽というものは、もとは公家の食生活から生まれたものらしい。これは一面において豆腐料理の発達の傾向を示すものでもあり、すこぶる興味深い。(「落語食物談義」 関山和夫) 


冬至の夜
宮島資夫(すけお)は社会主義者から禅僧に転じた人だ。その著『禅に生くる』はずいぶん多くの読者を得たようで、私の手もとにあるのは昭和九年一月の第六十四版(初版は昭和七年十一月)、巻末には『続篇・禅に生くる』の広告が「絶讃第十版」とうたって掲げてある。-
この本を読むと当時の禅寺の修業の厳しさに怖ろしくなってくるほどだが、その前に禅寺に入れてもらうのから、すさまじい。庭詰めといって、まず、まる二日間僧堂の玄関の敷台に両手をついて頭を下げ身動きせずにいなければならない。頭は腫れ、むくんだ足に草鞋の緒が食い込み、からだじゅうの骨は痛む。悪口雑言を浴びせられても、放りぱなしにされても、じっと耐えなければいけない。それが済んで僧堂へ入れてもらっても今度は三日間、一室で座禅をつづける無言の行が課せられ、その上で寺に入ることも許される。-
そのなかに、年にただ一回の「解放された無礼講の一夜」がある。冬至の初夜である。僧堂では新年も門外不出の行がつづけられるのだが冬至の夜だけは大いに羽目をはずす。精進物の御馳走をつくって、酒を飲んでさわぐのだという。日頃は私語を禁じられている雲水たちが、酒に酔って歌い踊り、裸踊りまでとびだして笑い声が僧堂をゆるがせる。そして翌朝からまた、苛酷な戒律の下の生活が一年後の冬至の夜までつづくのだ。(「出会う」 高田宏) 


着流し姿の編集長
なんと、田村(隆一)さんは着流し姿だったのである。いくら今から三十年前とは言え、着流し姿で出社する編集長がいようとは考えもしなかった。それもずいぶん長い間着古したものらしく、よれよれになった上に染みだらけで、ところどころは煙草の焦げ穴さえついているという代物である。そんな着流し姿で窓際のデスクにほお杖をつき、ぼんやり煙草をふかしている田村さんは鋭くもなければ、きびしくもなかった。なんとなくくたびれているように見えた。獲物に飛びかかろうとするシェパードみたいな俊敏な印象だったのだが、窓から射しこむ陽光に目を細め、疲れ切った表情を浮かべている田村さんは陽なたぼっこをしている毛のぬけた老犬のように見えた。「おはようございます」と私が挨拶すると、閉じた眼をゆるゆると開けて、もの憂げに私を見やった。「ああ、おはよう」とうなずき、さも眠そうに大あくびをひとつする。「きみは朝は平気か?おれは朝は苦手でねえ。なんだかぼんやりしている。とても使いものにはならんよ」「それにしちゃ早起きなんですねえ」私は編集長がこんなに早く来るんじゃ、部下の者はやりきれないなと思った。「実を言うと、田村さんは午頃に出勤するのかと思っていました」[いや、あまり寝ていないんだ。昨日はずっと呑みつづけだったからな」そう言われてみると、まだ酒の気が残っているらしく、田村さんのまわりから熟柿くさい匂いがぷうんとただよってくる。「どうせ、起きていたんだからと、酒場からそのまま社へ顔を出したものの眠くてたまらん。あとはよろしく頼むよ」入ったばかりで、あとはよろしくと言われてもどうしていいかわからず、まごまごしている私を尻目に、田村さんは編集室の奥にある三畳間へ入りこむと、分厚い英和辞典を枕にごろりと横になった。編集部員が揃っても、びくりともせず横たわったままである。編集部員の方も、そんな田村さんを放ったらかしのまま各自の仕事にかかる。私も仕事にかかろうと思ったが、なにせ、編集のことはズブの素人だから、なにから手をつけていいかわからない。先輩の田中潤二氏に教えてもらいながら、割りつけをはじめた。(「片翼だけの青春」 生島治郎) 新潮社入社初日だそうです。 


1%と3.8リットル
一七〇〇年までには、当時のどの植民地もまだ一〇〇年は経っておらず、白人移住者の数も一〇〇万人をはるかに下まわる程度にすぎなかったが、すでにそのうち約一万人ほどの人間が、おびただしい種類のアルコール飲料の製造、醸造、蒸溜をおこなっていた。酒類消費量は、女子供もふくめた人口一人当たり、年間、度の強い酒に換算して一〇ガロン(1ガロンは約3.8リットル)と推定された。(「大いなる酒場 ウエスタン文化史」 リチャード・アードーズ 平野秀秋訳) 


わが酒(2)
ビールも洋酒も旨いが、中でも日本酒が旨い。どちらが好みかといえば、辛口が好きだが、甘口だって飲めば旨い。旅先では、必ず地酒を飲む。そして、まずいと思ったためしがない。私は通ではないし、通ぶったことを言う人とは話が合わない。酒にしろ、料理にしろ、もちろん、口にするものには、美味なものがあり、美味でないものもあるが、美味なものはすべて美味、美味なものには等力をつけずに、ひたすら旨い旨いと口にし、不味いものは、黙って、我慢をして飲食するか、あるいは、黙って、口にしないか、というのが、私の流儀である。料理の場合は、初めての店に入って不味いものに出会うこともあり、同伴者が、不味い不味いと言い出すことがある。同伴者には、それを言うな、もし同伴者に、旨いと思って口にしている人がいたら、その人に失礼である。一人で行って、店に対して言うのならいいが、そうでないなら、黙って、喰わないでいることだ、というのがいい。それにしても、近ごろ、酒に関しては、いつも旨いと思うばかりで、不味いと思ったためしがない。代金の高い酒というのはあるが、不味い酒というものはない。(「旅にしあれば」 古山高麗雄) 


大田村御用留
一 銭巻蚯蚓(みみず)腹中の泥をさり数拾本煎し用ゆ 但し犀角(さいかく)御粉壱度ニ五分位用ゆみゝつ斗(ばかり)ニてもよろし
一 又汗を取候ニは深き桶に辛子御粉壱握も酒に入かき交て足をつけ夜具等冠居候(かぐりおりそうら)へは汗よく取るゝなり
一 又麦わら拾匁斗水三合ニて二合ニ煎つめ右之湯を度々呑時は熱不残(のこらず)取るゝなり 但し梅干ひとつ入煎候もよし 呑にくき時は不入(いれず)とも又よろし(「大田村御用留」 常陸太田市郷土資料館資料) 


小っちゃな盃
ピンクレディ、マダムキラー、サイドカー、ルシアンなんて強いのはダメだけれど、まあミリオンダラーならスプーンに三分の一くらいを一時間以上かけて飲むことはできる。しかし、ま、日本酒の献酬となればこれは全くお手上げで、こういう私を助けてくれたのが浅草の芸者さんである。彼女は六十歳前後かと思われる年齢で、新内と座談とがとびきり巧い。Hさんの新内を聞いたあと、よもやま話となると夜の更けるのも忘れるくらいだが、実はこのひと、客稼業なのに酒は飲めない。初対面のとき、蘭蝶を聞かせてくれたお礼に、さあ、と徳利をとり上げると、帯のあいだからさっと取り出して受けたのが何と直径二センチに満たぬ小っちゃな盃。これなら酒は飲めぬ、ことを言外に表明しているようなもので、注ぐほうも遠慮してほんの一しずく、盃の底に落とすことになる。Hさんは酒の飲めぬご同輩の私をあわれがり、その場でその盃を私にプレゼントしてくれた。以来私はバックの底にしのばせてどこへも持ち歩き、人からすすめられたときにはこれで受けることにしてある。(「女のあしおと」 宮尾登美子) 


二十一 烟草
烟草を止(や)めんとは思へども事能(あた)はずといふ人多し、酒を止めんと思へども止むる能はずといふ人も多し。皆已に克(か)ちつ能はざる愚しさを蔽(おほ)はんとて、烟草の力、酒の力を甚だ大なるもののやうに云ひなす1のみ。牢獄の内にありて烟草を止め酒を止むる能はざる人無し。
1 云ひなす 言い作る。いかにもそのようだという。0
[解説]前章の「烟草」から、禁煙、禁酒の話へと展開した章。禁酒、禁煙が実行できないという人は多い。彼らは、欲望に打ち勝つ克己心のなさをごまかそうとして、煙草や酒の方が、さも大きな力を持っているかのようにいいなす。獄中で禁煙、禁酒ができないという人はいないはずなのに。人々の、こうした本末転倒のこっけいさを指摘している。(「露伴随筆『潮待ち草』を読む」 池内輝雄・成瀬哲生) 


花萎酒
また、白秋は、「私は何時も桐の花が咲くと冷たい吹笛(フルート)の哀音を思ひ出す」といっている。これは分からぬでもなく、大木の頂きにさわさわと揺れている神秘な紫の花は、天来の妙音に耳をすませているような、近寄りがたい端正高雅なおもむきがある。それから桐の箪笥を連想する。中国では女の子が生まれると紹興酒の甕(かめ)を土中に埋(い)け、その子がお嫁入りするとき掘り出して祝宴の酒とするそうであるが、日本では桐の木を植えて、お嫁入道具の箪笥にする。女の子が夭折したときはどうするか。中国では酒の甕を掘り出してお葬式にのむ。その名も「花萎酒」というのだそう、日本ではどうするのだろうか、下駄にするのだろうか。(「芋たこ長電話」 田辺聖子) 


ソバ屋の酒
十年ほど前、月に一度、真昼十二時に、早稲田の仲間三人が銀座四丁目角で落ち合い、一日中呑むということを繰り返した。「ただなんとなく、集う」ためにである。集って酒を酌む、それが人生のいちばんの楽しみだとは、陶淵明の詩が繰り返して言うことだ。中野さんのエッセイ集『ひとり遊び』に「昭和五年生れ」という章がある。私は昭和五年生れである。<わが友人にはどういうわけか昭和五年生れが多い。ところが、これまたどういうわけかこの昭和五年生れたちは、一人として例外なしに遊びを知らない。碁、将棋、麻雀、花札、ポーカーといった遊びを知らないのである。(中略)この事実を発見したとき心底から驚いた。世の中に遊びを知らない人種がいるなんて信じられなかった>さよう、おっしゃるとおりである。私ばかりでなくわれわれは、遊びなんて知らない。酒を酌んで議論するのが、ただ一つの遊びである。だがお互いの人生の細部をあげつらって批評し合うので、すぐケンカになる。風流とは縁が遠い。それでも奇妙に楽しい。銀座の有名なソバ屋さんで呑んでから、浅草・上野の寿司屋うなぎ屋に移るのだが、これではおなかが重くなるし、残った時間を持て余す。そこで途中で近所の神社やお寺に出向くようになった。お寺の参道にはいろいろ酒店があったが、神社の周囲にはそれは乏しかった。あれで日本はなかなか微妙な区別をしているのだ、と改めて感じた。だがやがてそういう歩行もおっくうになった。そこで、ソバ屋で一杯呑み、そのあともう一度ソバ屋へ梯子し、上野公園などを散歩してから、さらに三度ソバ屋へいく、というようなことになった。ソバ屋の酒がわれわれの慰安所であった。他に往くところはない。ソバ屋の酒、あれは独特なものだ。ことに真昼間の徳利の燗酒にソバとなると、なにか個性的なものらしい。(「片耳の話」 秋山駿) 


私の酒
もともと十代から私の相手になってくれた女(ひと)たちは、みんな[くろうとさん]ばかりだし、いま四十をこえて若いころ知り合った子を思いうかべると、吉原だの名古屋の中村だの飛騨の高山だの岐阜だの、緒方のくるわの女たちばかりで…とにかく、いずれも私より年上のひとばかりである。そのころの女たちを[実説]で書くのは、まだ私の年齢では見っともないし、あまり気もすすまない。だが、私の小説の中には、その女たちとの関係が知らぬ間に出ており、年月をおいて読み返したとき、ぎょっとなることがある。私の酒の飲み方も、こうした女たちから教えられたものだ。どういう風に教えられたかというと、「お酒というものはねえ、うれしいときにのむもので、悲しいときや苦しいときにのむものじゃァないのよ」と、いうことであった。これは彼女たちの酒とは正反対のことなのだが、そんな教え方をされたのも、私が年少のためだったのだろう。そのとき、こうした[ねえさん]たちの言葉に、私が何といったかおぼえてはいないが、いまの私の酒は事実、その通りのものになってしまっている。戦後、はじめて、めんどうくさい恋愛のごときものも二、三したが、このときも苦い酒をのんだおぼえはない。のむほどに陽気になる酒だし、それはひとりきりで充分にもつ。好きな肴(さかな)さえあれば、ひとりきりで、「ああ、こりゃこりゃ…」になってしまうし、むしろ一人の方が気もおけず、たのしくのめる。今は毎夕二合。それをのんで、ちょっと寝て仕事。仕事が終わってウイスキーを少し…それで、おしまいである。(「わたしの旅」 池波正太郎) 家へお帰んなさい 


(昭和十三年)十二月十八日、日、晴。
日曜会忘年会。新橋浦霞、会費一円。稲垣足穂が酔っぱらって、ブルンブルンと飛行機のまねをしていた。着物は室尾犀星にもらったものを着ていた。僕は不愉快でならず帰ろうと思って階下で一杯のんだ。伴野、新田、倉橋と又二階に上って醜態、ザンキやる方なし。階下の飲み代一瀬君に借りて支払う。初め高見君が出してくれたが一瀬に借り替えた。中野までの終電でそれより徒歩で帰宅。
十二月二十六日、月、晴。
早稲田文学忘年会。新宿、丸ぎん、会費二円三十銭。集る人三十人。小田、田畑、光田と早く出て新宿の街に出る。最後に時間なくなりすし屋でのんでいる所へ、尾崎、逸見はいって来て、改造の高森と尾崎の口論あり。それより有楽町駅のおでん屋で朝までのみ、新宿かえり、へとへとになり朝帰宅。
十二月三十日、金、晴寒気烈し。
妻は朝から酒一本持ち借金の言いわけに駒村さん宅に行く。山口から送ってきたスルメを持って。来年はきっと支払いたい。夜質屋に行き利子支払う。三河屋にて五十銭飲む。十二月は酒、酒でおくってしまった。来年は仕事をするぞ。妻は医者の借金も支払った。新年の酒二本だけ註文した。(「酔いざめ日記」 木山捷平) 


さか-ずき[杯・盃]
(名)酒をついで飲む小さな器。「酒杯」「大杯」「猪口」ともいう。「返盃」はもらった盃を飲み干し相手に返すこと。なお、「献杯」「祝杯」「賞杯」または「金杯」「銀盃」などととも用いる。
盃を挙げて天下は廻り持ち     村田 周魚
盃は手にあり花は風に散る     鈴木 可香
ご返杯時の流れに逆わず      猿田 寒坊
盃を伏せて男の対話する       山本 翠公
盃に本音ころころこぼれ出す     小林由多香
さかずきに塔をうつして京の四季  田中 秀果
本音吐き合う盃が温まる       岡田 梨津
こんどいつ逢える盃注ぎこぼし    志水浩一郎
父よ起てまだ盃に酒がある      寺本 隆満(「川柳表現辞典」 田村麦彦編著) 


沢水の黄金
むかし、息子が婆様に「婆様、婆様、今日山さ一升持って行って楽しんで来るべし」といった。婆様は「あら、それ好(え)ごとだな」といって、息子にかだって(ついて)行った。二人で一升のんで婆様がトロトロと眠ると、息子が焚き物をのったど持って来て、焚きはじめ、また取りに行ってる間に、婆様は目をさまし、焼け殺されるのだと思って逃げて隠れた。息子は「おらえの婆様焼げ死んでまたべでば。わ家さ戻るべ」といって家へ帰った。婆様は道も分からないので、沢を下って行けば村があるだろうと思って、沢ばかり歩いているうちに日が暮れてしまった。すると沢の川の中にシカシカ光っているものがある。「あららァ、これァ何だもんだば、しかめぐ(光る)もだでァ」と、婆様は腰巻に包んで、沢を下ると村があった。婆様が村の酒屋の家さ行って、「今晩一晩、何とがして泊めでけれ」というと、「あ、泊れ泊れ」というので泊った。そして今日息子に山の中で焼き殺されるところであったことなど詳しくしらせて、腰巻に包んできた光るものを、「これお前(めェ)だの童(わらはんど)で、おもちゃに持だへでけれ」といって出した。出して見るとそれは昔の古い大判小判であった。「ああ、大判小判だんだ」と皆でびっくりした。婆様はこうしてその酒屋の家に居ることになった。二、三日たった日、「大き笊買(じゃるか)れへんが」と笊売りが来た。沢山の米を入れるによいと思ったので、「買(かえ)しでャ」と買った。婆様は笊売りの声が、息子に似ているので、酒屋のおが様に、「も一回来てもらってけれ」とたのんだ。そこで笊売りはまた来た。婆様は息子に、「おァい、お前(め)まだこちャ、笊売(う)ね来たな。我ば棄てに行ったばたて、我ァ、こさ来てらねェ」っていうと、息子は何もさべねで、涙さげで戻ったど、それでとっちばれでしでァ。(弘前市種市の話 話・太田サワ 津軽百話)(「青森県の昔話」 川合勇太郎) 


25.男を迷わすのは酒と女
 女の色香に迷い、酒で理性を失う男は世界のどこにでもいるであろう。わが国でも「世の中は酒と女が敵(かたき)なり」と言う。 スロヴェキア
53.酔っぱらいは三つの特性をもつ-賢い、強い、金持ちだ
 酔っぱらうとつい気が大きくなり、実際以上に自分を高く評価し、そのように振舞いたくなるもの。 スロヴェニア(「世界ことわざ大事典」 柴田・谷川・矢川) 


千田是也(せんだ・これや)
本名伊藤圀夫。明治三十七年東京の生れ。一中を経て早大独文聴講生となり、大正十三年が創立の築地小劇場へ研究生として入る。昭和二年渡独して表現主義の芝居の影響を受け、左翼演劇を身につけて昭和六年帰国。のち新築地劇団で指導的地位にあったが、築地時代に『ハムレット』や『ファウスト』のメフィストなど当り役で、真船登作『遁走譜』の演出で独自の地位を占めた。終戦後、劇団俳優座をおこして主催者となり、今春四月八千万円の近代的小劇場を完成。酒豪。舞踊家伊藤道郎、舞台装置家伊藤熹朔氏は千田の実兄。夫人は岸輝子。(港区麻布飯倉片町六ノ一七)(キング七月特大号付録「各界の人物新事典」) 昭和29年7月の発行です。 


方言の酒色々(28)
酢や酒などの元となるもの あひゃー
葬式で、出棺の折、通行人に門口などで酒や握り飯、餅などをふるまうこと せんぎょ/せんぎょー
葬式の後で会葬者などに出す酒や食事 きよめ
結婚祝いに酒を持って行くこと たるいれ
結婚式で、三三九度の盃を取り交わす時酒をつぐこと びんとぅい(日本方言大辞典 小学館) 


服薬後の衛生
凡(そ)薬を服して後は、久しく飲食すべからず。又、薬力のいまだにめぐらざる内に、酒食をいむ。又、薬をのんで、ねむり臥すべからず。ねむれば薬力めぐらず。滞りて害となる。必(ず)戒むべし。(「養生訓」 貝原益軒 石川謙校訂) 


てのないひと【手の無い人】
①破戒の為生れ替つて来る時の仏罰の事。飲酒戒を破った僧侶、又は破らせた者は、五百生の間手の無い人に生れ替つて来ると云ふのである。-
品川は手のない人に生れる気 品川は芝の僧の遊所
五百生手のない人に南女する 南女は品川女郎(「川柳大辞典」 大曲駒村編著) 


協会五号以前と六、七号
話は前後するが、昭和一〇年に秋田県の新政醸造元から「協会六号」が、そして昭和二一年には長野県の真澄醸造元から「協会七号」が分離されると、協会五号以前の協会酵母はまったく使われなくなった。協会六・七号は、以前のものより格段に優秀だったからだ。(「酒と酵母のはなし」 大内弘造) 


注・横書きなので、<またまた>といった畳語後半の繰り返し記号(く:くの字点)の表記ができませんので、2回繰り返して記しています。
 ・機種(環境)依存文字等は、?になってしまいますので、多くは「上:夭、下:口  の」のような表記にしています。
 ・旧字体の漢字は大体新字体にかえてあります。また、ふりがなは、かっこ書きにしています。
 ・ふりがなは適当に増減しています。

 ・資料のもつ歴史的意味を思いつつご覧になって下さい。